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魚さかな魚……

今日は梅雨だというのにスカッ晴れで、良い天気です。雲の間からときおり姿を見せる富士山は、さすがにもう雪がほとんどなくなっています。先日の山開き以降、既にたくさんの人が今年の富士山を楽しまれたと思いますが、今日登られる方はまた格別の景色をご覧になれることでしょう。

こういう晴れてすがすがしいお天気のときには、昔仕事でよく行った、北海道のことを良く思い出されます。北海道の各所にあるダムや堰に、サケやマスなどが上りやすくするために、「魚道」というものが設置されているのですが、仕事というのは、その魚道を作った効果が本当にあるかどうかを調査し、確認するというもの。

「魚道」というのは、あまり聞きなれない言葉だと思いますが、どういうものか簡単に言いますと、ダムや堰などの障害物があると魚がその上流へ行けないので、階段状の魚の通り道を作ってあげて、そこへ魚を誘導して、上流へ導くというもの。いろんな形のものがあり、上らせてあげる魚の種類別に同じ魚道内にも複数の構造の魚道を作ったりもします。

もともとは、サケなどのように、川の上流で卵を産んで、海に下ってから大きく成長、再び川をさかのぼって産卵を繰り返すような魚、「回遊魚」といいますが、この回遊魚のために開発されたもの。川の中にダムや堰を作ると、上流に遡って産卵ができなくなり、そのため海へ下って捕獲できる回遊魚が減ってしまうことから、主に水産資源の保護、ということで魚道が作られるようになりました。

もともとは、アメリカで開発されたもので、かの国が電力発電のほとんどをダムによってまかなっていた時代に、ダムを作ったことでサケの捕獲量が激減。水産業者が国を訴えるような出来事もあり、これに答えたのがアメリカの陸軍工兵隊。日本ではこういう研究は、国土交通省の研究機関でやるのですが、アメリカの場合、陸軍に設置された「陸軍工兵隊」という研究組織があり、ここが土木や建築の基礎研究をしています。

戦争をするためには、まず川や海、山などの自然条件を知り、それを自在に操らなければいくさにならない、という主旨で作られたこの研究所。へんな名前ですが、アメリカでは最も古くて権威のある研究所で、現在日本で使われている土木技術の多くはこの研究所で作られたものと言っても過言ではありません。

日本の場合、島国なので、戦争をするためには、まず船を作ればいい、ということで、最初、陸軍より海軍の育成に力を入れたといいますが、広大な土地を持つアメリカでは、南北戦争の時代から陸での戦闘に重点が置かれており、戦争のために橋を作ったり、道路を作るためには土木技術の研究が不可欠だったというわけです。

私の記憶違いでなければ、この陸軍工兵隊が最初に作った魚道は、アメリカのワシントン州のコロンビア川上流に作られたもの。コロンビア川では、サケやマスなどのサケ科の大形魚類が、毎年、数百万尾も遡上するため、上流へのダムの設置によって、沿岸の水産資源の枯渇を招くおそれがあります。

このため、ワシントン州と陸軍工兵隊、および国の環境保全にかかるセクションが共同で、魚道開発を行い、現在では、河口から700kmまでにある8つのダムに魚道が作られ、それぞれのダムの魚道で毎年、数十万尾のサケマスの通過が確認されているということです。

ひとくちに、魚道を作る、といえば簡単そうなのですが、これらのダムの高さはみんな、20~30mもの高さのある巨大なもの。この高さを、たとえばサケやマスのような大型の魚に上らせるためには、ひとつひとつの階段の高さも抑え、距離を長くする必要があります。そのためには、ダムや堰の設計の段階から、魚道との位置関係や構造についてあらかじめ検討しておく必要があり、その設計のためには、ときに模型を作って実験まで行います。

問題は、相手が生物だということ。せっかく模型を作っても、その模型で魚が上ったとしても、実際の川では上らない可能性もあるため、設計者たちはその構造を決めるのに大変な苦労をします。また、実際に出来上がったあとも、魚がほんとうに上ってくれるかどうかを確認する必要があり、上ってくれなければせっかく作った魚道を改良することだって必要になるのです。

忘れてはならないのは、魚道は魚を上らせるだけの構造物ではなく、魚を下らせることも必要です。せっかく上流に上って卵を産んでくれても、卵からふ化した魚が、安全に海までたどり着いてくれないと、魚道を作った意味がなくなってしまうからです。

ダムや堰の魚道で一番問題になるのは、魚がまず、その入口を見つけられるかどうか、ということ。ダムの下流では、ダム本体から大量の放流水が出ている場合が多いので、多くの魚はこちらへ行ってしまいます。それを避け、魚たちに魚道の入口を見つけてもらうためには、魚道の入口からもできるだけたくさんの水を流して、魚に気付かせる必要があります。しかし、魚道からたくさんの水を流し過ぎると、せっかく貯めたダムの水がムダになってしまいます。

このため、少ない水量で、できるだけ魚に気付いてもらえるような強い流れを魚道の入口付近で作ってやる必要があるのです。魚道から出るこのみずみちのことを、「呼び水」といいます。その名の通り、魚を呼ぶための水です。

ところで、私は、前述した、コロンビア川の上流へその昔、魚道の視察調査に行ったことがあります。コロンビア川上流の小さな堰に、魚を魚道の入口に見つけやすくするために面白い装置が設置してある、という情報があったからです。その装置とは、堰の真下にあるコンクリートの中に、川幅全体にわたって、電線を遠し、水中に微弱な電流を流すというもの。サケやマスはこの電流をいやがり、川の中で、電流が唯一通されていない、魚道の入口に誘導されるという仕組みです。

ワシントン州のシアトルから、この施設をみるために、クルマで6時間もかかって行ったことが思い出されます。視察したその堰の下流の入口には、北米特有の真っ赤な色をしたベニマスやシロザケがたくさん集まっていて、なかなかの壮観でした。日本では法律的な問題もあるようで、こういう施設は作られていませんが、さすがアメリカ、先進的なことをやってくれるわい、とその時思ったものです。

さて、このように、魚道の入口は、魚道から流の早い水を出したり、魚がいやがるものをうまく使って誘導することで、魚がそれに気付いてくれることが多いのですが、実は、問題は、上流のダム湖のほうが大きいのです。

考えてもみてください。ダムや堰の上流にできた、広大な湖。この中で、どうやって魚が魚道の入口を見つけられるのでしょうか。

一般にダムの上流の湖では、水の流れは、ダム湖の水の放流口や発電をするダムの場合は、発電用の取水口の付近に集中します。このため、川を下ろうとする魚はどうしても、この放流口や取水口付近に集まってしまい、最悪は、この放流口から落下して死んでしまったり、発電用取水口に飲み込まれ、タービンでずたずたになってしまうという可能性もあるのです。

このため、放流口や取水口には魚が迷いこまないように網を設けたり、魚がいやがるような突起物を設けたりと、いろいろな工夫をします。ただ、それだけでは魚が必ずしも魚道を通ってくれるとは限らないので、さらにいろいろな工夫をします。

一般に魚道は、ダムの片側の一番陸に近いところに設置されます。多くの魚は、川岸に豊富にいる昆虫などを食べているため、川岸に沿って移動するためです。が、それだけでは、魚道の入口に魚が行ってくれるとは限らないので、魚道をダムの片側だけでなく、両側につけたり、魚道の入口がわかるように、魚道の入口付近だけ強い流が発生したりするように工夫します。場合によっては、魚道の入口を魚道の入口を水面から、ダムの底まで、いくつも造ったりまでするのです。

私が北海道へ仕事で頻繁に行っていたころ、やはり多くのダムではこの問題に直面していました。サケの稚魚は、数センチと小さいので、ダムの放流口に迷いこみ落下しても大丈夫なことが多く、発電用取水口からタービンを通っても切り刻まれる確率は低いのですが、問題だったのは、サクラマスの稚魚のように比較的大きなもの。

十数センチもあるため、落下や発電用取水によって傷ついてしまう可能性はもちろん、体の表面の皮が薄く、すごくセンシティブな魚であるため、普通に川を下っていても傷ついてしまうこともあるほど。

これを無事に魚道に導くために、いろいろな室内実験や屋外実験をやりましたが、最終的には、サクラマスの稚魚は光に敏感だということがわかり、ダムの上流の入口に夜間、灯りをつけることでサクラマスの稚魚を誘導することに成功。その後もそのダムでは誘導灯をつけることを続けていると聞いています。

このサクラマスが川を下るのが、5~6月なのですが、北海道ではまだまだ寒いこの時期、ダムサイトにレンタカーを止めて、クルマの中で仮眠をとりながら、一晩中、魚道を下るサクラマスを試験的に捕獲し、カウントしていたことが思い出されます。

さて、アメリカの魚道は、サケやマスのような大型の魚を目的に開発されたものですが、日本の場合、ここが少し違ってきます。無論、サケやマスなどの大型魚類が上ってくるだ川も多いのですが、日本の場合は、アユやシシャモといった、小型の魚類の捕獲によって水産業が成り立っている川が多いのです。シシャモの場合は、比較的河口に近いところで産卵をするので、ダムからの水の放流によって、その産卵場が乱されないように気を配るか、場合によっては新たな人工産卵場を作ることで問題を解決することができます。

ところが、アユの場合は、サケやマスなどの遡上を目的とした大型魚道では、なかなか思うように上ってくれないのです。その理由は、アユは、急流の浅瀬を遡るという修正があるため。階段状にした緩い流れの魚道では、アユは階段下のプールでゆっくりとくつろいでしまい、上流に上ろうとしません。アユを積極的に上らせるためには、人工的に急な流れを作り、しかもその流が上流のダム湖まで連続して続くようにしなければならないのです。

このため、アメリカで使われていたようなゆるやかな流れの魚道ではなく、急な流れが断続的におきるような特殊な魚道が開発されました。こうした特殊な魚道の研究は、日本と同様に、比較的急な流れのあるヨーロッパでもさかんに研究され、これにアメリカも加わって、80~90年代にはいろんなものが開発されました。多くは、魚道の水の流の中に、飛び飛びに置かれた遮蔽物を置き、その遮蔽物の周囲で発生する急な流れをできるだけ、連続させていくというもの。ときには、コンクリートだけではなく、鉄製の遮蔽物が置かれるものもあります。

日本で独自に開発されたものもあり、そうした新型魚道が、いまやあちこちのダムや堰に設置され、そこをたくさんのアユたちが通って安全に上流に向かい、産卵を行っています。今度、川でダムや堰をみつけたら、ぜひ、そこに造られた魚道をみてください。いろんなタイプのものがあると思います。そこを上っていく魚をみつけたら、楽しいですよ!

ちなみに、ダムと堰の違いってご存知ですか? 実は日本では、ダムというのは、高さが9mを超えるものを指し、これ以下のものを堰と呼んでいます。テレビなどで、よくレポーターさんが、背の低い堰を指さしながら、「このダムが・・・」と説明されている光景をよく見ますが、それを見るたびに、ああ~違うんだよなーと思ってしまう私。ですから、みなさんも今度から、「ダム」と呼んでいるものがほんとにダムかどうか確認してみてください。

さて、今日は、その昔、北海道へよく行っていたという話から、魚道のお話へと飛躍してしまいましたが、いかがだったでしょうか。あまり一般の人には、なじみのないお話だと思うので、逆に面白いと思っていただけたなら幸いです。

たまには、このように昔とった杵柄シリーズも良いかもしれませんので、また面白そうな話を思い出したら書いてみましょう。

今日は、スカッ晴れの伊豆。少し外へでて、その空気を存分に楽しんでこようかと思っています。そういえば、狩野川には魚道、あったかしら……

軽野船 ~伊豆市

今日は、たなぼた……いや、たなばたです。今日の天気は曇りということなので、天の川もみえないかも。子供のころ、夜空を見上げていると、うすぼんやりと天の川が見えたのを覚えていますが、東京にいたころは、街の灯りやら大気の汚れやらで、見えたためしがありません。ここ、伊豆ではどのように見えるのか、梅雨が明けたらぜひ、試してみたいと思います。

さて、川といえば、狩野川です。昨日も、狩野川のそばにあった、狩野城について書きましたが、「狩野川」という名前は、この狩野城を作った狩野一族の名前にちなんだものだとばかり思っていました。

ところが、調べてみると、「狩野」という名前の由来は、どうやら狩野家の人々がそれを名乗ったからではないらしいことがわかりました。その由来には諸説があるようなのですが、日本書紀では、伊豆の国で船を造り、その名を「枯野」と称した、という記述があるそうで、それが軽野(カルヌ)に変わり、さらにカヌに変化。最終的に「狩野」になったという説が有力なのだそうです。

昨日書いたとおり、狩野一族の始祖の、為憲さんは、もとは藤原姓を名乗っており、最初は藤原為憲と名乗っていました。その孫の維景さんの代になって狩野姓を名乗り始めたのが1050年ころだそうで、だとすると、その頃にもう「狩野川」という名前が地元では定着していて、それを姓に使ったのではないかと思われます。

それはともかく、その語源になったという、「軽野」という名前がそのまま残っている神社がある、という記事をネットでみつけたので、地図で調べてみました。すると、修善寺の南西4kmほど離れた場所に、確かには、軽野神社というのがあります。

さらに、ネット情報によると、この神社はその昔、造船儀礼と深く関わっていた、というのですが、造船? こんな山奥で? と不思議に思ったので、ともかく行ってみようと思い立ちました。先日行った狩野城のすぐそばにあるようで、ここからクルマで行ってもすぐのところのようです。

別荘地の山を下り、伊豆市役所を過ぎ、時折みえる狩野川を左手にみながら、クルマを走らせることおよそ10分。「軽野神社」の看板が見えてきました。入口は狭かったのですが、敷地自体は、結構な広さがあり、神社の前には、村の公民館のようなものもあり、駐車スペースも十分にあります。クルマを降りて、鳥居の前で一礼。祭殿の前まで行き、お賽銭をし、いつものように、二礼二拍手。そして、この地に越してきたことのご挨拶と、今後の安泰を祈りました。

参拝を終え、振り返って改めて、境内をみまわしてみると、社殿の右奥のほうには古い祠やら、丸石をみっつほど重ねた塔のようなもの、左手奥には、ご神木ということで、楠木が植えられていました。ネット情報によれば、かつてこの地では、この楠木などを使って造船が行われたというのですが、このご神木は最近植えられたようで、それほど大きなものではありません。が、しかし、楠木がご神木ということは、やはりこの神社、造船と何かかかわりがあったのかもしれません。

この神社、標高70~80mくらいの高台にあって、境内の東側、500mほど離れたところには、狩野川がゆったりと流れているのが見えます。出来上がった船を目の前にして祝詞をあげるには、あまりにも狩野川から離れすぎているので、もしかしたら、その昔は、もっと川に近いところに神社があったのかもしれません。それにしても、こんなところでどんな船を作っていたんだろう…… と思いは古代の伊豆へ飛んでいきます。

自宅へ帰ってからも、かなり気になったので、この神社について、もう少し詳しく調べてみることにしました。すると、この神社、創祀年代は不詳ということですが、古くから狩野郷全体の総鎮守とされていたのだそうです。「日本書紀」の記述では、「応神天皇五年(274年)十月、伊豆国に命じて船を造らせたところ、長さ十丈の船が出来た。試しに海に浮かべてみると、軽くて、走るように進んで行くので、これを「枯野」と名付けた。」という意味のことが書いてあるとか。

その昔、狩野川流域には楠の木が豊富にあったらしく、この木は、良質の船材にもなるのだそうです。なので、古くは、この軽野神社があったあたりに、楠などの木材の集積所と造船所があったのではないかという人もいるようです。この「枯野」を造った時も、きっとできあがった船を前にして、軽野神社で祭祀が行われたに違いありません。そして、神社自体ももっと川の近くにあったか、あるいは古くはこの神社のすぐ近くに狩野川が流れていたのではないかと思えてきました。

さらにいろいろ調べてみると、伊豆における古代の造船技術については、結構いろんな人が興味を持たれていることがわかりました。

そのうちのおひと方は、伊豆の東海岸の下田に近いところにある、縄文時代の遺跡で、「見高段間遺跡」というのを引き合いに出しておられ、この遺跡が、伊豆諸島のひとつ、神津島産の黒曜石の陸揚げ地と考えられてることから、ここに住んだ縄文時代人は、高い造船、また操船技術を有していたのではないかと推定していらっしゃいました。

神津島産の黒曜石の流通範囲は、関東の北部から伊勢湾にいたる、太平洋岸に広く広がっているそうで、この遺跡のある浜から神津島までですら、60kmもの直線距離があるとのこと。小さな船で流れの速い黒潮を突っ切るのは大変なことであり、かなり性能のよい船と高度な操船技術が必要だったのではないか、とおっしゃいます。

黒曜石のような硬い石を探し、採掘し、加工するという高い鉱物採集技術は、造船技術にも応用された可能性があり、そうした造船技術がその当時、伊豆の各地での船造りに使われていたのではないかと想像できるというのです。

そうした技術が、朝鮮半島から伝わってきたのではないか、という人もいます。軽野神社の「カル」や、カラ」というのは多くの場合朝鮮半島にあった古代国家の加羅、伽耶からきているのではないか、だとすると、その当時すでに高度な製鉄技術を持っていたという、伽耶の国から渡来集団が、伊豆にもいたのではないか、というのです。

伊豆の船大工の祖先が朝鮮人であったかどうかの真偽はともかく、縄文時代から伊豆は、造船がさかんな土地であったというのは定説のようです。当初は、枯野船と呼ばれる小さな船だったものが、やがては、外洋航海までできる、大船も建造されたとか。その名称が、「枯野」から「軽野」に変化するころには、全長30m、100t以上の巨船まで作られていたそうで、日本書記には、伊豆から難波まで回航され、応神天皇(270~330年に即位)が朝夕使う清水を汲むために使われたという記事があるそうです。

また、これよりもさらに古く、崇神天皇(紀元前97-29年に即位)に献上した巨船の建造地は、西伊豆町の仁科の入江なのだそうで、ここには、「鍛冶屋浜」の地名が残っていて、造船に携わった製鉄工が住んでいたのではないか、と推定されているそうです。

それにしても、狩野川で作られた古代の船って、どんなもんだろう、と気になるところです。これについても、いろいろ調べてみたところ、「軽野」や「枯野」は、世界で使われている「カヌー」の語源ではないかという説もあるようで、どうやら、当初はそれほど大きなものではなかったと思われます。

ある方は、そうした小型和船の原型が、島根県の松江市の美保神社の祭に使われる諸手船(もろたぶね)のようなものではなかったかとおっしゃっています。


(引用、http://egawatarouzaemon.sa-kon.net/page016.html)

この船、船首があまり尖っておらず、構造も竜骨や肋材もない単純なもので、喫水も浅そうです。これなら、現代の狩野川でも上流で作って、海まで持っていけそう。船体が大きくないので、漕ぎ手が8名もいれば、かなりのスピードが出せるということです。

しかし、これより大きな船を海まで持っていくのは大変そうです。全長30m、100tもあるような船はどう考えても狩野川を下れそうにありません。どうやって運んだのでしょうか。

これについて、「伊豆水軍」という本を書かれた、永岡治さんという方が、この本の中で、「現在の狩野川では考えにくいが、むかしは水量豊かで、川船が頻繁に上り下りし、筏流しが行われていた「川の道」であったと考えることもできる」、とおっしゃっています(長岡治著、「伊豆水軍」 静岡新聞社刊)。

また、縄文時代には、縄文海進といって、海水面が現在よりも2~3mほど高い時代があり、軽野神社のある、伊豆市松ヶ瀬という地区も海岸付近に立地していたのだそうです。伊豆の内陸部にはあちこちに遺跡があり、そうした遺跡からは海岸が近かったことをうかがわせる貝や魚の骨もみつかっているとか。

もっとも、縄文海進があったのは、6000年も前のことですから、その後の弥生時代を経て、天皇制が始まった時代まで軽野神社近くに海があったかどうかまではわかりません。

が、それにしても、狩野川自体は今と違った流路や深さであったとしても、存在していたことは確かなことで、長岡さんが書かれているとおり、軽野神社あたりで作られた船を筏に乗せて海まで運ぶことは、けっして不可能ではなかったかのではないかと思われるのです。

もっとも、狩野川を下って海まで持って行かなくても、伊豆のあちこちには似たような造船所がたくさんあったらしく、伊豆で作られた船は、「伊豆手船(いずてぶね)」と呼ばれて珍重され、遠くは北九州まで運ばれたそうです。

東国から徴集された縄文人が遠く北九州に送られ、外敵に備える防人(さきもり)として国境警備にあたった際に使ったのが伊豆手船なのだそうで、それほど優れた造船技術がここ伊豆で発祥し、やがてはより高度な技術として発展。それを支える職人集団をかかえた武士がやがて「伊豆水軍」を形成し、歴史の舞台に躍り出ていったのです。

昨日お話した北条早雲も、その活躍において伊豆水軍の力を利用しています。早雲が茶々丸を成敗したのち、韮山城に拠点を置き、狩野氏をはじめとする伊豆の諸豪族を平定していくと、伊豆半島の水軍、海賊もこぞって北条氏の傘下へ参じるようになります。

さらに、早雲は、小田原城の大森氏を滅ぼし三浦義同(道寸)とその嫡子義意の死守する新井城を落城させると、三浦同寸の配下にあった、旧三浦水軍の出口氏、亀崎氏、鈴木氏、下里氏・・・など各諸氏を吸収していきます。

戦国時代にあって、一時は関東地方最大の武将として君臨した北条早雲を支えていたのは、古代から船造りをしてその技術を蓄えてきた伊豆の船大工の職人集団とそれを抱える伊豆水軍だったのです……

…… いかだに組んだ太い丸太をほどく人々や、船を組み立てる職人、そして完成させたばかりの伊豆船を操って海へ向かう人たち。そして、港では、北条早雲が下知するたくさんの伊豆船が帆をあげて、出航していく姿…… 狩野川をぼんやり眺めていると、そんな古い時代の風景がみえてきそうです。

まだまだたくさんの歴史秘話がありそうな伊豆。こんどはどこへ行ったら面白そうな話があるでしょうか。

狩野城 ~伊豆市

先日、蛭ヶ小島へ行った帰り、ふと思い立って、こちらも気になっていた、「狩野城」の城跡へ行ってきました。伊豆市役所から136号線を南下して、3kmほど行った山間にあり、狩野川からは1kmほどのところです。場所としては、本柿木というところにあることから、古くは本柿木城とも呼ばれたとか。この地が、狩野一族の発祥地とされています。

狩野城は、西暦1100年前後の平安時代に狩野氏の始祖、狩野維景により造られたと考えられています。250年の間狩野氏はこの城を本拠地に中伊豆地方に勢力を振いました。維景から数えて5代目の狩野茂光は「保元の乱」に、源頼朝のお父さん、源義朝の助っ人として加勢しており、以後、一族は源氏に重く用いられました。狩野氏は源氏の興隆と共に栄え、執権北条氏の時代とその後の室町時代まで生き続けますが、伊勢新九郎(北条早雲)によって攻撃され、1497年に敗れて狩野城を開城。その後、北条氏に仕えるようになりますが、小田原に移封された後、豊臣家との戦いに敗れ、北条氏とともに滅亡しています。

以下、もう少し詳しく、狩野氏の盛衰について、記述していこうと思います。

藤原鎌足の十代あとの孫、藤原為憲は940年(天慶3年)、平将門の乱に討伐の功があり、賞せられて駿河守に任じられました。その孫の維景は任を辞して、狩野郷日向堀内(現伊豆市日向、市役所より2kmほど南)に来住し、初めて狩野を姓としました。これが、1050年ごろだとされています。

ところが、日向は地勢平坦で要害に乏しいこと場所だったので、その後、現在狩野城史跡のある本柿木城山の地を選んで城砦を築き、堀を廻らし、天嶮の地形を巧みに利用しここに移り住みました。

維景の子、維職の時代には、伊豆押領使に補せられ、勢力は狩野、伊東、宇佐美、河津の各所から、伊豆諸島にまで及びました。

その頃、源為朝という男が、鎮西を名目に九州で暴れ、鎮西八郎と称していました。保元の乱では父・為義とともに崇徳上皇方に属して奮戦するのですが、敗れてしまい、伊豆大島へ流されます。しかし、そこでも暴れて国司に従わず、伊豆諸島を事実上支配するようになったので、ついに業を煮やした後白河上皇が追討命令を出しました。

これに応じたのが狩野家の5代目、狩野介茂光。茂光は、近隣の武将(伊東、北条、宇佐美、加藤、新田、天野など)を従え、この為朝征伐に出向きます。激戦の末、為朝は破れ、自害します(1177年)が、このときの切腹が、史上最初の例なのだそうです。

この為朝征伐は、狩野介茂光の名前を天下に轟かせ、伊豆における狩野氏の存在を不動のものにしました。全国に八家しかない「介」という称号を用いていたことからも伊豆及び伊豆諸島のことごとくを領地として治めていた狩野氏の権力が絶大であったことがわかります。

それから3年後の、1180年。昨日お話したように、伊豆韮山の蛭ヶ小島に流されていた源義朝の子頼朝が、源氏再興を願い、山木判官兼隆を襲撃、ここに平氏追討の火ぶたが切って落とされます。茂光もこれに加勢し、ともに戦うことに意を決します。それから、六日後、頼朝征伐に平氏の軍勢三千騎が出向き、石橋山(神奈川県小田原市)で戦闘が始まりました。

ところが、この初戦で頼朝は負けてしまいます。自身は船で房州へ逃げ延び、共に戦った狩野茂光は戦死してしまいます。しかし、その後、頼朝は関東の武将を集め軍団を建て直し、富士川の戦い、一ノ谷の戦い、屋島の戦い、壇ノ浦の戦いに平氏を破り、奥州の藤原氏を倒して全国を支配、1192年鎌倉幕府を開きました。

頼朝に信頼されていた狩野一族は、その後も源氏に組みしていきます。茂光の子の、狩野宗茂は、一ノ谷戦いで捕虜にした平氏の総大将、平重衡を頼朝に請われて預かっています。頼朝が、いかに狩野氏を信頼していたかという証です。その後も、狩野氏武将は頼朝に従って各地に転戦し、武功をたて重く用いられました。茂光の子、親光は奥州藤原氏攻めの総大将として参戦しているものの戦死しています。しかし、親光の子、親成(狩野家七代にあたる)が引き続き、鎌倉幕府に仕え、以後、狩野城を拡充しつつ、伊豆中部に勢力を張っていくようになります。

以後、鎌倉時代、室町時代と、狩野氏一族は伊豆の領主として君臨し、始祖の維景から数えると、約450年余りにわたり、その繁栄を築くことになりました。しかし、1497年(明応6年)、伊勢新九郎(後の北条早雲)によって本拠である狩野城を明け渡すことになります。1491年(延徳3年)、伊勢新九郎(北条早雲)は伊豆を侵略し、狩野軍は敗れ開城。狩野一族を攻め、伊豆下田の関戸吉信を滅ぼし伊豆を平定した北条は小田原城を本拠地として関東一円に勢力を伸ばすようになるのです。

この、伊勢新九郎こと、北条早雲のことについて、少し詳し書きます。

伊勢新九郎は、駿河の国の今川家に取り入って、姻戚関係となり、徐々に今川家の武将としての地位を向上させた人です。もとはただの素浪人だったといいますが、最後には駿河の室町幕府の将軍家、足利家の内紛に乗じて伊豆で基盤を築き、徐々に伊豆だけでなく、関東一円に足場を築いていった武将です。1495年には大森氏から小田原城を奪って本拠地を移し、1516年には、三浦半島の新井城で三浦義同を滅ぼして、相模国(現在の神奈川県)全土を征服するようになり、戦国時代における関東地方最大の勢力にまでのし上がります。

この伊勢新九郎、のちに北条氏を名乗るようになりますが、代々鎌倉幕府の執権をつとめた北条氏の後裔ではないことから、後代の史家が両者を区別するため伊勢平氏の北条氏には「後」をつけて「後北条氏」と呼ぶようになったといいます。また居城のあった小田原の地名から小田原北条氏とも呼ばれるそうです。

この、北条早雲が、伊豆を領地とするようになったいきさつをもう少し詳しく書くと、以下のようになります。

ことの発端は、1483年に起こった享徳の乱といわれる争いです。室町幕府の8代将軍、足利義政の時に起こったこの内乱は、鎌倉の政府出先機関の長官(鎌倉公方)、足利成氏がその補佐役(関東管領)の上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、両家だけでなく、幕府も巻き込んだ争いが、関東地方一円に拡大します。この騒動が、のちの戦国時代の幕開けの遠因になります。

享徳の乱では、幕府は、関東管領の上杉氏に有利な裁定を下しますが、これに対して足利成氏は反発し、更なる武力行動に出ようとします。しかし、将軍の命を受けた駿河の国の今川氏が成氏の本拠の鎌倉を攻めて占領。成氏はいったん、古河城(現茨城県古河市)まで逃れますが、その後も関東管領上杉氏と激しく戦い、徐々に勢力を盛り返し、鎌倉を奪還。

このころ、北条早雲は、そのお姉さんの北川殿と今川家当主の今川義忠が結婚したことで、今川氏とは姻戚関係になっており、このころから、今川家の武将として活躍するようになっていきます。

将軍義政は成氏に代る鎌倉公方として異母兄の「政知」を送りこむのですがが、成氏方の力が強く、鎌倉に入ることもできず、伊豆の北条氏宅を本拠にするようになります。やがてそのまま居座り、事実上伊豆を支配する代官として、韮山に居を構え、堀越公方と呼ばれるようになります。ところが、1483年(文明14年)に、成氏と上杉氏との和睦が成立。政知の存在は宙に浮いてしまい、室町幕府の一介の出先機関、韮山堀越御所の主として、伊豆一国のみを支配する存在となってしまうのです。

この政知には茶々丸という息子がいましたが、正室円の満院との間には、潤童子と清晃という二人の子をもうけていました。清晃は出家して京にいたのですが、政知は勢力挽回のためにこの清晃を将軍に擁立しようと図っていました。

しかし、政知は1491年(延徳3年)に死んでしまいます。すると、その子のひとり、茶々丸がお母さんの円満院と潤童子を殺害して強引に跡目を継ぐという事件をひき起こします。

そして、次の事件がおこります。1493年(明応2年)、このころの関東管領で、事実上の最高実力者、「細川政元」が10代将軍義の材(後に義稙)を追放してしまうのです。世にいう、明応の政変です。細川政元は、政知のもうひとりの息子、清晃を室町将軍に擁立し、清晃は還俗して足利義遐を名乗る(後に義澄)ようになります。

こうして、権力の座についた、義遐にようやく母と兄を殺した茶々丸を討つチャンスが訪れます。そして、その敵討ちを、そのころ、今川家の有力武将になっていた、北条早雲へ命じるのです。伊豆の国への進出を狙っていた早雲は、早速この命を受けます。公に伊豆へ侵攻するとための、大義名分を得たわけです。そして、伊豆韮山の堀越御所の主である、茶々丸への攻撃を開始します。この事件は「伊豆討入り」というのだそうで、ここに、東国における戦国時代が始まったといわれています。

後世の軍記物には、この伊豆討入りに際して、早雲が修善寺に湯治と称して自ら密偵となり伊豆の世情を調べたという伝承があるそうです。早雲の手勢200人と今川氏親(義忠と北川殿の息子、早雲の甥にあたる)に頼んで借りた300人の合わせて500人が、10艘の船に乗って清水浦(清水港)を出港。駿河湾を渡って西伊豆の海岸に上陸すると、一挙に堀越御所を急襲して火を放ちます。茶々丸は山中に逃げますが、最後には自害に追い込まれてその一生を終えます。

こうして、早雲は伊豆国の韮山城(現伊豆の国市)を新たな居城として、伊豆国の統治を始めます。その統治は、平民には優しいものだったそうで、兵の乱暴狼藉を厳重に禁止し、病人を看護するなど善政を施たため、茶々丸の悪政に苦しんでいた伊豆の武士や領民はたちまち早雲に従ったそうです。

しかし、堀越御所を奪還したとはいえ、まだ伊豆には狩野家や、伊東家、宇佐美家、関戸家などの有力武将が君臨していました。

冒頭でも述べたように、狩野家は元をたどれば、藤原家の分流として平安時代から伊豆に土着した貴族出身の武士です。狩野家と伊東家、宇佐美家は同族であり、関東を実質的に支配する上杉氏との関係を強めながら、このころ、早雲・今川連合と激しいつばぜり合いを続けていました。

ところが、堀越御所騒動のあった、明応2年には、早くも宇佐美氏が早雲に滅ぼされ、その2年後の1495年(明応4年)には、伊東家が狩野氏を裏切り、早雲側に降ることを決断します。それでも、伊豆出身の武士のなかでの盟主を自称する狩野一族は、その誇りをかけて頑強に早雲軍に抵抗を続けます。

早雲は、狩野家の本拠地である狩野城(別名柿木城)や修善寺の柏窪城を攻めますが、なかなか狩野氏を降伏させるには至りません。その後も何度か狩野家と早雲との激闘がありますが、現在の伊豆市から伊東にかけて繰り広げられた数多くの戦闘にようやく決着がついたのは1497年(明応6年)の12月ごろだそうです。4年の間、修善寺から伊東辺で繰り広げられた一進一退の攻防戦に力尽き、狩野家当主の狩野道一は自刃して果て、狩野城が陥落してついに長い闘いが終了します。

さらに早雲は、翌年の1498年(明応7年)に、伊豆における最後の抵抗勢力、関戸吉信の深根城(下田市)を落とします。こうして5年がかりの北条早雲の伊豆平定がようやく終わりをつげるのです。

狩野城は落城しましたが、この後、狩野氏は滅亡したのではなく、早雲の温情を受け、一族は小田原へ移封(国替え)されます。このあたりの経緯はよくわからないのですが、伊豆の民からその善政をもって歓迎されていた早雲のことですから、最後まで誇りを捨てずに戦った狩野一族を、敵ながらあっぱれと思ったのではないかと私は推測します。

その後の狩野一族ですが、1534年(天文3年)には狩野左衛門尉という人が、北条氏に仕え、鎌倉の鶴岡八幡宮の「鶴岡惣奉行衆」という大役につき、1550年(天文19年)頃までには、一族郎党全員の小田原城下移住が完了したようです。

そしてその後、40年あまりにわたって、北条氏を支える重要な一派となっていきます。1559年に編集された、「小田原衆所領役帳」という北条氏の記録には、多くの狩野氏一族の名前が記載されているそうです。このほか、1582年に北条氏の北関東への進出にともないはその一族が上野の国の津久田城、長井城の城番に抜擢されるなど、次第に北条氏の中でも重要な役を担うようになっていったことがうかがわれます。

しかし、安土桃山時代の1590年、北条氏が豊臣郡との戦いで敗れ降伏するとともに、狩野家も降伏。戦国武将としての狩野家はここで歴史から消え去っていきます。

ところが、これにさかのぼることおよそ150年ほど前の、1434年(永享6年)。狩野家の一族に狩野景信という人が誕生していました。絵師として名をはせた日本画の主流、狩野派の元祖といわれる人です。狩野景信は、時の将軍、足利義教に見出され京に上り、画壇にさっそうと登場。将軍の前で富士の絵を描いたといいます。その子元信は画界に狩野派と称する流派を打ち立て、その後も日本の画壇において一世を風靡するようになります。

その後も、室町幕府の御用絵師となった狩野正信を祖として、元信・永徳・山楽・探幽・・・など名前を挙げきれないほどの多くの名人を輩出しており、江戸時代まで、約4世紀にわたって日本の画壇をリードし、そこから多くの画家が育っていきました。近世以降も日本の画家の多くが狩野派の影響を受け、狩野派の影響から出発したということで、琳派の尾形光琳、写生派の円山応挙なども初期には狩野派に学んでいるそうです。

武士としての狩野家は途絶えましたが、その一族の血は、その絢爛たる画風と共に、今に輝いているのです。

…… 今日は、今日も、ですが、歴史シリーズになってしまいました。いっそのことですから、今週は全部歴史ものにしようかな、などと考えています。みなさんのご興味が続けばいいのですが……

八重姫 ~旧長岡町(伊豆の国市)


一昨日は九州地方や中国地方で大雨が降ったようですが、ここ伊豆でも結構降りました。造成したばかりの庭はどうかしら、と心配したのですが、表土が少し流れただけで事なきを得ました。

でも、ふもとの狩野川や桂川は結構増水しただろうな、と思ったのでちょっと、見に行ってこようということで、修善寺の駅から歩いて5分ほどのところにある市役所まで行ってきました。狩野川のすぐそばにある、市役所脇の遊歩道からは、いつものように、滔々と流れる狩野川がみえます。確かに少し増流しているようですが、危険を感じるほどではないかんじ。しかし、田方消防署の方々4~5人が、水位を確認に来られていました。古くから水の事故の多い狩野川のこと、やはり増水が心配になられたのでしょう。

狩野川といえば、「狩野川台風」により大きな被害が大きかった場所として有名です。1958年(昭和33年)9月26日夜、関東地方に上陸した台風22号が伊豆半島を襲いおおきな被害を出しました。狩野川流域では、破堤15箇所、欠壊7箇所、氾濫面積3,000ha、死者・行方不明者853名に達したそうです。静岡県全体の死者行方不明者は1046人ですが、そのほとんどが伊豆半島の水害によるものでした。

この狩野川台風による被害状況については、その当時のことを調べるとまたいろいろな史実がでてきそうなので、日をあらためて書いてみることにします。

さて、この狩野川ですが、その豊富な水量と良好な水質により古くから繊維業、製紙業、醸造業などが発達してきたそうです。特に、天城山系の清流を利用したワサビ栽培は、全国一の生産額だそうで、紙も、ふもとの修善寺がそのメッカだったらしく、現在も和紙を作っている工場があります。

地形的には、伊豆半島の最高峰、天城山に端を発し北流、大仁や伊豆長岡、韮山などが位置する田方平野を蛇行しながら、沼津市付近で大きく向きを変えて駿河湾に注いでいる川です。太平洋側の大河川で、このように北流するものは狩野川だけなのだそうで、何事につけ、人とは違ったことをやるのが好きな、変わり者の私としては、妙に親近感を感じたりする……

その長さは、約46kmほどもあるそうですが、標高差が大きく流れが急なことや、下流部で蛇行することもあり、古くから洪水が多発しました。その昔は、洪水のたびに流路が変わったそうで、現在でも伊豆長岡町や韮山では網目状に古い河道が分布しているのがわかるとか。

当時は中州がいくつもできて島のようになり、「土手和田」、「和田島」や「蛭ヶ小島」などと呼ばれていたといいます。「田島」というのは、中州のことなのだそうで、「小島」というのも中州が島のように見えたからつけられた名前なのでしょう。

ところで、蛭ヶ小島といえば、平家によって流罪となった、源頼朝が居留したところとして知られています。伊豆へ引っ越してきたときから、どんなところなのだろう、と気になっていたので、お天気も回復しそうだし、狩野川の様子を見に行ったついで、ということで、午後から現地に行ってみることにしました。

行ってみると、予想どおり、というか、あまり期待していなかったのですが、「小島」などはなく、小さな茶屋と東屋を中心においた、周囲200m程の公園。伊豆の国市が管理しているらしく、なかなかきれいに整備されています。入口付近には、史跡であることを示す碑と、頼朝と政子が寄り添って、遠くを見つめる像があります。頼朝さん31歳。政子さん21歳のころだそうですが、もっと若いときに出会って結婚しているはずですから、結婚後、十何年も経ったころの像ということになります。

頼朝さんは、平家1159年(平治元年)、お父さんの義朝が平治の乱で敗れたため、平家に捕えられますが、清盛の継母の池禅尼(いけのぜんに)の命乞いで、翌1160年、ここ、「蛭ヶ島」へ流罪になったとされています。たった14歳だったそうです。おそらくは流人であったため、付き人なども一人いるかいないか、ぐらいではなかったかと思われます。

蛭ヶ「小島」ではなく、蛭ヶ島なのだそうで、平安時代には、このあたりの水田地帯一帯をそう呼んでいたのだとか。しかし、いろいろ調べてみると、歴史的には「伊豆国に配流」と記録されているだけらしく、「蛭ヶ島」というのも、後世の文書で史実に誰かが勝手につけ加えたという説があるようです。

発掘調査などでも、より古い、弥生・古墳時代の遺構や遺物が出てくるだけで、平安時代末期の遺構は確認されていないのだとか。鎌倉時代につくられたという歴史書、「吾妻鏡」で、頼朝さんの流刑地について「蛭島」と確かに書いてあるようですが、現在蛭ヶ小島と称されているところが、本当にその場所であるのかどうかはわからないのだそうです。

現在、蛭ヶ小島の遺跡として整備されている場所は、江戸時代に学者の秋山富南が「頼朝が配流となった蛭ヶ島はこの付近にあった」と推定し、江戸中期の1790年に、これを記念する碑を建てたんだとか。これが「蛭島碑記」という石でできた碑文で、確かに公園内にこの古い碑が建てられていました。

現地へ行ってわかったのですが、狩野川からはかなり離れた東側の山寄りに作られているこの公園、地質調査の結果から当時も付近を大きな河川が流れるということはないことが分かっているそうです。なので、頼朝さんが流された場所というのは、狩野川の中の中州ではなく、水田の多い湿地帯のなかに島状にあった「微高地」と考えるべきだという説が有力視されているようで、それならばなるほど、狩野川から離れたところにあるのもわかる気がします。

それにしても、この地が「蛭ヶ小島」じゃないのならば、実際にはどこだったの?という声が聞こえてきそうですが、実は、この近辺には、頼朝さんが後年奥さんにする北条政子さんの実家、北条家の一族の住まいがあちこちにあったようです。おそらくはそのうちの一軒が、頼朝さんを閉じ込めておくには都合がよい場所にあったのではないでしょうか。

頼朝さんはここで父義朝の菩提を弔いながら、約20年を過ごしたそうです。生活費はどうしたのかな~ と余計な心配をしたもんですが、これについては、もともと頼朝さんの乳母だった「比企尼(ひきのあま)」いう人が、旦那さんの比企掃部允(ひきかもんのじょう)とともに暮らしていた、武蔵国比企郡(今の埼玉中部だそうですが)から仕送りを続けていたのだとか。愛情深い乳母だったんですね。頼朝さんがその後挙兵できたのも、この夫婦の援助のおかげということになります。

さて、そういうわけで、流人といわれる身分ながらも、とりあえず食うのにも困らず、「伊豆ライフ」を満喫していた頼朝さんですが、罪人であることにはかわりなく、当然監視役がいました。この監視をしていたのが、在地豪族の伊東祐親(いとうすけちか)という人。ところが、あろうことか、頼朝さん、その娘の八重姫という女性と恋に落ちてしまいます。

八重姫さんは、伊東祐親の三女とも四女ともいわれるお姫様。その八重姫さんに頼朝さんが出会ったのは、頼朝さんがのちの奥さんの政子さんと出会う少し前の事、といいますから、蛭ヶ小島に流されてきてから1~2年後の15才か16才くらいのことだと思います。八重姫さんのお年はよくわかりませんが、同い年ぐらいだったのではないでしょうか。

祐親さんには、娘が4人ほどいたそうですが、八重姫さんの上のお姉さんたちは、みんな嫁いだあと。しかし、八重姫さんは独身だったので、それをいいことに、頼朝さんは八重姫さんのところへ、こっそりと通うようになります。そしてなんと、監視役の祐親さんが大番役で上洛している間に、男の子までもうけ、その子に「千鶴(せんずる)」という名を付けます。

罪人と看守の娘が恋をする?14~5才で結婚?この辺の感覚がよくわからないのですが、この当時まだ、平安時代の末期のこと、男女の営みについては、周囲が見て見ぬふりをするような、かなりおおらかな風習だったのかもしれません。結婚も早かったみたいで、12、3才で夫婦になるというのも普通だったらしい。なので、まあ、許してやろう。ということで、先へ進みます。

二人の息子、千鶴が3歳になった時、ということは、頼朝さんが、17、8のころのことか。大番役を終えて京から戻った祐親は、この事実を知り、激怒します(そりゃーそうだわな)。そして、「源氏の流人を婿」と噂されて平家のお咎めがあった時はどうするのだ」と言い、郎党らに「その子供を伊豆の松河の奥にある白滝の底に沈めてこい」と命じます。郎党たちは、強くためらいますが、主君の命ということで、結局どうすることもできず、泣く泣く千鶴を滝に沈めてしまいます。

八重姫自身はというと、祐親(ひどいヤツなので、このへんから呼び捨てにすることにします)によって伊豆の小豪族で、「江間小四郎」という人のところに、むりやり嫁がされてしまいます。

頼朝さんは、深く嘆き悲しみ、祐親を討とうと思う気持ちも沸くのですが、そのころ既に、「平家打倒」を信念にしていたので、「小怨よりも大怨」と自分をなだめ、忍従の日々を過ごします。

そんな中、祐親がさらに頼朝を討つべく郎党を差し向けるのではないか、と知らせてきた人がいます。乳母の比企尼の三女を妻としていて、祐親の次男である伊東祐清という人です。

これを聞いた頼朝さん。祐清さんが成人のときに烏帽子親をしてくれたという、北条時政の邸に逃れることにします。時政の下で暮らすようになった頼朝は、やがてみなさんもご存知のとおり、時政の長女政子と結ばれることになるのです。

ところで、その後八重姫さんはどうなったか。江間小四郎さんのところへ嫁がされていましたが、頼朝さんへの未練を捨てきれず、とうとう数ヶ月で嫁ぎ先から実家へ出戻ってしまいます。そして、意を決し、侍女と共に頼朝が匿われているという時政の館へやってきます。しかし北条家の家人に、頼朝はもう政子と結婚した、と冷たく門前であしらわれ、追い返されてしまいます。

すでに嫁ぎ先も飛び出し、いまさら実家へ帰ることもできず、しかも頼るよすがの頼朝さんにも会うこともできず、八重姫は悲嘆にくれ、とうとう北条の館のすぐ近くを流れる狩野川の真珠ヶ淵というところから身を投げてしまいます。一緒に同行していた侍女たちもあとを追って自刃したということです……

八重姫は地元の人たちによって、現在、真珠院というお寺が建つあたりに供養されました。今でも真珠院では八重姫の祠があり、6人いたという、侍女の供養碑があるそうです。

と、いうことで、長くなってしまったので、この辺で終わりにしたいと思います。この真珠院は、この蛭ヶ小島の近くの山すそにあるようです。この近辺には、かつての北条氏の館の跡や、ゆかりのお寺、北条政子が産湯をつかった井戸とか、北条氏と頼朝さんゆかりの観光スポットがまとまってあるようです。今回は時間がなくって、蛭ヶ小島だけになりましたが、今度じっくり時間を作ってまた行ってみたいと思います。

今日は一日なんとか天気はもちそうです。庭いじりにはもってこいかも。梅雨が明けるまであとどれくらいでしょうか。だんだんと夏の強い日差しが恋しくなってきました……

日蓮 ~伊東市

 蓮着寺前の海岸

雑木、雑草を抜き、ようやく庭が作れる状態になってきたので、あちこちのホームセンターへ行っては、植木を買い込んできています。先日は、お隣との境界にキンモクセイを植えました。植樹は本当は、まだ寒い時期の2~3月のころがいいと聞きますが、強い日差しもなく、適度な湿度が保たれる梅雨時も、さほど悪くないのだとか。暑い夏が来てしまう前に、主だった庭木を植えてしまいたいところです。

どんな庭にしようかなあ、といろいろ考えてみているところなのですが、どうもイメージがわかん。しかし、手前に向かってやや斜面になっている庭なので、その高低差をうまく使うと良い庭になるのかも。先日行った富戸の四季の花公園も海に向かうなだらかな斜面をうまく使って公園づくりをしていましたっけ。

その四季の花公園をもう少し南に行ったところに、蓮着寺というお寺があります。公園からも遠目には見えたのですが、日蓮宗のお寺ということで、とくに興味もなかったので今回は訪問を見送りました。

ところが、先日、テレビ東京の「なんでも鑑定団」の録画を見ていたら、この中に日蓮上人の「坐像」なるものが登場。その中で伊豆へ流罪された、などと解説しているではありませんか。

こりゃあ、なんかそれについて調べてみい、ということなのかもしれないと思い、さっそく調べてみると、この蓮着寺、その昔、日蓮上人が鎌倉幕府ににらまれて、流罪になった地に建てられたのだそうです。日蓮さんといえば、日蓮宗(法華宗)の宗祖で、同時代の親鸞や法然と並び、現在でも偉人とされる宗教家のひとりです。現在では、330万人もの信徒がいるといわれる大宗教に成長した日蓮宗ですが、これを提唱した日蓮さんは、このとき、49歳。この当時としては結構高齢です。

で、なんでにらまれていたかというと、その当時の鎌倉幕府の執権、北条時頼に提出した、「立正安国論」なるものが、幕府批判ととられたため。

そういえば、中学校か高校のときに、「立正安国論」って出てきたよな~と思いつつさらに調べを進めると、日蓮さんは、この論文の中で、その当時のメジャー宗教であり、法然さんが提唱した浄土宗を非難したのだとか。このまま浄土宗などを放置すれば国内では内乱が起こり外国からは侵略を受けるとまで言い切り、逆に日蓮さんのとなえる法華経を中心とすれば国家も国民も安泰となる(立正安国)と主張したのです。

この論文は、浄土宗の門徒を怒らせ、僧ら数千人により居宅を焼き討ちされます。このときはなんとか難を逃れたものの、禅宗を信じていた北条時頼からも「政治批判」と見なされ、翌年に伊豆へ流罪となったというわけ。

流罪といえば、かの源頼朝も、伊豆へ流罪になったことがありますが、この時代、伊豆って政治犯を放逐するような場所だったんですね。

その伊豆に流罪となった日蓮さんが置き去りにされたのが、この蓮着寺近くの烏崎というところの海の上、「俎岩(まないたいわ)」というのだそうです。今もその岩は残っているらしく、ネットで見たのですが、人が一人立つのはちょっと無理かな、と思うほど小さく、しかもざんぶざんぶと波をかぶっています。その昔はまだ侵食されておらず、もっと大きかったのかもしれません。

しかし、そこをたまたま通った、漁師?の弥三郎という人の小舟が通りかかって、日蓮さんは助けられます。以後、この地方に拘留されることになりますが、一年九ヶ月後、幕府に許されて赦免となり、鎌倉へ帰っています。

で、この蓮着寺は、後年の室町時代、日蓮さんのお弟子さんが、宗祖の足跡をたどっていたところこの地をみつけ、地元の古老などの話を聞いて確認した上で、ここに寺を建てたのだとか。

お寺の敷地は21万坪もあって、天然の樹木に囲まれ、樹齢千年を超えるやまもも(揚梅木)の大木や樹齢百年の椿の木、薮椿の群生が有名なのだそうで、今度機会があったら行ってみようかどーです。

ところで、日蓮さんが伊豆へ流されたのは1261年ですが、その前年の1960年には、かのフビライ・ハンが即位して、モンゴル帝国を樹立しています。立正安国論で海外からの脅威を説いた日蓮さんですが、奇しくもその予言どおり、1267年には、高麗の使節団がモンゴル帝国、つまり、蒙古の新書を持って来日。その後も68、69、71年と続けざまに使節が来日して親書を日本側に渡しています。来日の目的は、名目上、通商ということだったようですが、実際には領土拡大のための侵攻のための布石でした。

1268年に蒙古の使節団が来たとき、日蓮さんは幕府に元寇の襲来の可能性があることを重ねて進言していますが、時の執権、北条政村はこれを無視。逆に幕府を批判したとして、1971年には今度は佐渡へ飛ばされます。

そして、1274年の秋、10月20日に福岡に大元(蒙古)と高麗の軍隊が進行、いわゆるひとつの「元寇」が勃発します。その後結構、激しい戦闘も行われた場所もあったようですが、蒙古軍はたった一日で撤退。その原因は台風だったのではないか、というのがもっぱらの通説ですが、蒙古軍の中の意見のくいちがいによるものだという説もあります。

実は、この蒙古が襲来したその年の春に日蓮さんは、放免されています。その理由は調べてみたけれどよくわからなかったのですが、時の執権が北条政村から時宗に代わっています。この時宗さん、蒙古からの使節団がたびたびやってくる頃に第8代の鎌倉幕府執権として就任していますが、なかなか優秀な人物だったらしく、使節団の要求も適当にあしらって追い返しています。

もっともそのせいで蒙古を怒らせたのでは、という説もあるようですが、後世の人物評価としては、その後二度にわたる、蒙古襲来を防いだ「英雄」というイメージが定着しているみたい。2001年には、狂言師の和泉元彌さん主演のNHK大河ドラマ「北条時宗」が放映されるなど、この時代のヒーローとみる向きもあるようです。

ちなみに、この大河ドラマで、第7代執権、北条政村役をやったのは、伊藤四郎さん。劇中では、食わせ者であり、のらりくらりとした人物として描かれていたそうです(私はこれを見ていません)。執権となった際には、老年になってからの就任であったために小躍りして喜んだとか、無能だったくせに、執権の座を失ったあとも、ちゃっかり時宗に連署として補佐役として君臨したとか、あまりいいイメージでは扱われていません。

実際にもそんな人物だったのかも。日蓮さんのような優秀な人を流罪にしたのも、なんとなくわかるような気がします。史実では、政村さんの生母は、かつて執権継承に我が子を食い込ませようと策謀した咎(とが)で北条政子によって追放されています。そんな母親を持つ息子ですから、あまり高級とはいえない人物だったのではないでしょうか。

ちなみに、この劇中での日蓮役はというと、奥田瑛二さんがやっています。実際にドラマをみていないので、どんなふうに演じたのかよくわかりませんが、奥田さんなら、新進気鋭の宗教家というイメージをうまく表現されていたのではないでしょうか。

さて、1274年の春に放免されて鎌倉へ帰った日蓮さんですが、その後、最も信頼していた弟子で、甲斐の国の地頭、「波木井実長」さんという人の領地に行きます。そして、その領地のひとつ、身延山を寄進され、ついに日蓮宗の総本山、身延山久遠寺を開山するのです。

この久遠寺のある、現山梨県身延町は、富士山のすぐ西側にあって、伊豆からもそう遠くないところです。私もかつて亡き妻と一緒に訪れたことがあるのですが、標高1153mの山の頂上にあるこのお寺へ行くには、ふもとから登山するか、もしくは、片道7分のロープウェイを利用するのですが、いずれにせよ大変です。ロープウェイを利用したとしても、半分は登山しなくてはならず、また、最後に本堂へ上がるには、急な石段を登らなくてはいけません。この石段、何段あったか覚えていませんが、100段以上はあったと思います。かなりの段数です。

実は、このとき、亡き妻のおなかには息子が宿っており、そのとき二人ともそのことを知りませんでした。そんな体なのに急な階段を上っても大丈夫だったくらいだから、丈夫な子供が生まれたんだ、とあとで二人で笑い合ったものですが、よくよく考えてみると冷や汗ものです。

1277年の9月のこと、この山頂にある久遠寺からの下山中、日蓮さんがお弟子一同に説法をしていたとき、「七面天女」が現れたという伝承が残されています。

七面天女とは、七面大明神が正式名称で、久遠寺の守護神として信仰され、日蓮宗が広まるにつれ、法華経を守護する神として各地の日蓮宗寺院で祀られるようになった神さまです。その七面天女が日蓮さんの目の前に現れたことの顛末というのは以下のとおり(ウィキペディアより引用。筆者により若干の編集)。

9月、身延山山頂から下山の道すがら、現在の妙石坊の高座石と呼ばれる大きな石に座り日蓮は、信者方に説法をしていました。その時、一人の妙齢の美しい娘が熱心に聴聞していたそうです。「このあたりでは見かけない人であるが、一体だれであろうか」と、一緒に供をしていた人達はいぶかしく思いました。

日蓮さんは、一同が不審に思っているのに気付いていましたが、読経や法話を拝聴するためにその若い娘が度々現れていたことも知っていました。そして、その娘に向かって、「そなたの姿を見て皆が不思議に思っています。あなたの本当の姿を皆に見せてあげなさい」と言いました。

すると、娘は笑みを湛え「お水を少し賜りとう存じます」と答えたので、日蓮さんは傍らにあった水差しの水を一滴、口に落としたそうです。すると、なんと今まで普通の姿をしていた娘が、たちまち緋色の鮮やかな紅龍の天女の姿に変じていったのです。

そして、「私は七面山に住む七面大明神です。身延山の裏鬼門をおさえて、身延一帯を守っております。末法の時代に、法華経を修め広める方々を末代まで守護し、その苦しみを除き心の安らぎと満足を与えます」と言い終えるや否や、七面山山頂の方へと天高く飛んで行きました。その場に居合わせた人々は、この光景を目の当たりにし随喜の涙を流して感激したということです。

無論、この出来事が本当かどうかはわかりませんが、それまで苦難の人生を歩んできた日蓮さんに対して、天が最後に与えたご褒美だったのかもしれません。

1982年の9月、日蓮さんは、病を得て、地頭の波木井実長さんの勧めで実長の領地である常陸国へ湯治に向かうため身延を下山します。10日後には、武蔵国の池上宗仲という人の館(現在の本行寺)へ到着。池上さんの館のある谷の背後の山上にお堂を開き、長栄山本門寺と命名します。

これが、日蓮さんが最後にやった仕事です。10月8日には、死を前に6人の弟子を後継者に定め、この弟子達は、のちに六老僧と呼ばれるようになります。
10月13日、旧暦ですから、現在の11月下旬の午前8時頃、池上邸にて入滅。享年61(満60歳)。

今日は、「歴史をひもとく」シリーズになってしまいましたが、改めて思うに、伊豆はどこへ行っても歴史のエピソードの宝庫です。自分でものめりこむほど面白い出来事に出合うとついつい、時間を忘れてそれを調べてみてしまったりします。それにお付き合いいただくみなさんも大変だと思いますが、お暇があればまた付き合ってやってください。

そうそう、この間ちょっと触れたペリーさんのお話も気になります。また今度改めてアップしましょう。