火吹き達磨

村田蔵六は、長州藩ではその風貌から「火吹き達磨」のあだ名を付けられていました。この名は周布政之助が付けたとも、高杉晋作が付けたとも言われています。 

高杉晋作は言わずと知れた時代の風雲児。しかし、周布政之助は知らない人が多いと思うので、少し説明しておくと、長州藩「大組」という藩内門閥士族、つまり代々重役を担うエリート家の出です。24歳の若さで、藩の蔵元検使暫役、29歳で政務役に抜擢され、村田清風の後継とみなされました。

村田清風は、下関海峡を通行する西国諸大名の船に新たに税を課すなどの手腕で藩の財政改革を成し遂げた人物で、老齢のために幕末の動乱期前に死没(1855年、73歳没)しましたが、長州がこの時期、幕府に抗うだけの備えを蓄えることができていたのは、彼のおかげであるといっても過言ではないでしょう。

周布は、この村田を尊敬し、これを継いで藩財政の立て直しに力を注ぎましたが、若い頃から議論好きで、嚶鳴社という研究会を主唱し、尊王攘夷思想を持つ仲間をまとめて、「正義派」のリーダーと目されるようになりました。正義派とは尊王攘夷を旨とする輩の集まりで、これに対して幕府に恭順しようとする保守派は、俗論派と呼ばれました。

正義派・俗論派の呼称は、のちにこの周布に擁護される形で討幕を進めていった高杉晋作がつけたものですが、正義派は改革派である晋作らの立場を正論化するためのネーミングです。敵対する俗論派を保守佐幕と決めつけ、なかば彼らを煽る形で藩論を自分たちの都合のよいように形成しようとしました。

清風の改革の時代から、一貫して反対派であった同じく藩の重役「椋梨藤太」が、この俗論派のリーダーであり、保守佐幕の彼らは、ことごとく周布らと対立し、一時期強い権力を掌握して正義派の面々を弾圧しました。

椋梨家は、長州を組成した毛利・小早川家に早くから追従した武家で、代々重臣として登用されてきた家系ですが、この時期は方向性を誤りました。改革の急先鋒となった周布らの行動を理解できず、時代に埋もれていきます。

対する周布家もまた重役を担う家系であり、歴代の当主が家老職を務めてきました。政之助は、父と長兄が相次いで歿したことによる末期養子(家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子)であったため、家禄を68石に減ぜられ、わずか生後6ヵ月で家督を相続しました。

若い頃から血気盛んな人物として知られ、愚直ともいえる一途な性格から多くの舌禍事件を起こしてたびたび逼塞処分を受けました。椋梨ら保守派とも幾度かの抗争を行い、その都度失脚しますが、持ち前のふんばりで何度も返り咲き、松陰門下の高杉晋作、久坂玄瑞ら、若い藩士たちのよき理解者として、長州藩を尊皇攘夷の雄藩へ押し上げていきました。

藩エリートに生まれたという点では高杉も周布とよく似ています。出自も家格は大組士で、長州では名門で知られる家系でした。父の小忠太は、直目付・学習館御用掛に任じられて長州藩と朝廷・幕府の交渉役を務めたことで知られる人物です。晋作はその跡を継ぎ、将来を嘱望されていましたが、父親にはむかうように討幕へと突き進みました。

この周布政之助は1823年生まれ、高杉晋作は1839年生まれです。境遇や性格が似ていたせいか、16歳も年が違うこの後輩を周布はかわいがりました。一方の村田蔵六は1824年生まれですから、周布と同年齢です。このことから、年少である高杉晋作が年上の蔵六を指して、「火吹き達磨」のあだ名をつけたとするのは少々無理があるかもしれません。

むしろ同年代で、豪放磊落な性格だった周布が遊び心でつけたのではないでしょうか。酒癖が悪かったともいわれますから、何かの酒の席で、村医者あがりの蔵六を多少蔑む意味もあって、こう呼んだのではないかと思われます。




ところで、この「火吹き達磨」とは、いったいなんなのでしょうか。

筆者が調べてみたところ、これは「火吹き玉」とも呼ばれ、昭和初期まで広く一般に使われていたものです。中が空洞の卵型をした金属球で、だいたい銅でつくられています。一か所に孔が明けられた不思議な道具です。

江戸時代のいつのころかわかりませんが、発明されて各家庭で広く普及しましたが、明治大正と各家々から囲炉裏が姿を消して行くに連れて、姿を消して行ってしまいました。使い方としてはまず、これを囲炉裏の炭(熾(おき)火)のそばへ置きます。しばらくすると、中の空気は約2倍に膨張して、一か所に明けられた孔から噴き出していきます。

空気の噴出が落ち着いたところで、火箸で玉をつまみ上げて、水を張った桶の中へ放り込みます。すると、玉の中の膨張していた空気は冷やされて、体積が半分くらいに減ります。その減った分だけ、火吹き達磨の中へ水が吸い込まれます。

そしてこの水をたっぷり吸い込んだ玉を再び火鉢の中の熾火のそばに置きます。しばらくすると、熾火の熱で中の水が沸騰するため、今度は空いた穴の口から勢いよく水蒸気が噴き出ます。

この水蒸気が炭と衝突すると、「水性ガス反応」が起こります。化学式で書くと、水素(H2)と一酸化炭素(CO)が合わさる形です。そして熾火の火が引火すると、このガスは勢い良く燃えあがります。

火吹き玉からの水蒸気の噴出が少なくなってくると、ふたたび火箸でこれをつまみ水の中へ、そしてまた熾火のそばへ……とこれを繰り返します。通常、炭は固形物であるため、なかなか燃え上がりませんが、こうすることで、短時間に強い火力を得ます。これにより、急速に暖をとることができます。

炭は何もしなければ時間をかけてゆっくりと燃え尽きていきますが、こうして人為的に燃やしてやれば瞬間的な暖がとれるわけです。昔人の知恵といえるでしょう。

この金属製の玉には、職人の遊び心でいろいろな彫金が施されていたようです。そのひとつが「達磨」であり、長州ではこれが定番だったので「火吹き達磨」と言う呼び名が定着したようです。

別に金属製である必要はなく、陶器などでも作られていたようですが、耐久性や熱伝導率のために銅製のものが多かったようです。また達磨だけでなく、大黒様の形や鍵、薬缶といったいろいろなものがありました。コレクションにすると将来的に高値がつくお宝になるかもしれません。骨董店で探してみてください。

で、この火吹き達磨に蔵六が似ているということなのですが、生前、彼と面識があり、明治いなって歴史家になった元水戸藩士の鈴木大という人の表現では「人となり、短驅黎面(小柄で色黒)にして、大頭、広額、長眼、大耳、鼻梁高く、双眉濃く、髷を頭頂にいだき、常に粗服半袴をまとい」とあります。

額が広くて、ゲジゲジ眉、しかも身なりには構わない、というところが最大の特徴のようで、維新後に来日したお雇い外国人の一人、エドアルド・キヨッソーネによって描かれた肖像画でも、異様に大きな額の村田蔵六が描かれています。死後に関係者の証言や意見をもとに彼が描いたものですが、元となる写真は発見されていません。

一方、靖国神社に蔵六の銅像がありますが、これもキヨッソーネの肖像画を元に制作されたようです。ただ、こちらは額の大きさはそれほどではなく、眉毛が妙に強調されており、これまた別人のようです。

袴を身につけ、左手に双眼鏡を持っていますが、これは「上野の彰義隊を攻める折に、江戸城富士見櫓から北東を凝視している姿をモデルにした」とされます。

蔵六には琴子という配偶者がいましたが、二人の間に子はなく、養子をとっています。このため実子から村田蔵六という人物の容貌を推し量ることもできないわけで、現時点ではキヨッソーネが書いた肖像画が唯一彼の顔を知る手立てということになります。



ちなみに、このエドアルド・キヨッソーネとはイタリアの版画家・画家で、明治時代に来日しお雇い外国人となった人物です。

イタリアのアレンツァーノ(ジェノヴァ県)の美術学校で銅版画の彫刻技術を学び、22歳で卒業、特別賞を受賞し教授となったのち、紙幣造りに興味を持ちイタリア王国国立銀行に就職し同国の紙幣を製造に関わっていました。

来日した理由は、大隈重信が提示した破格の条件(月約1千万)を提示したこともありましたが、当時写真製版技術の発達が進んでおり、彼が得意とする銅版画の技術を生かせる場を求めていたためでもありました。また明治政府にとっても偽造されない精巧な紙幣の製造が課題であり、国産化を目指しその技術指導の出来る人材を求めていたためでした。

来日後、当時の大蔵省紙幣局を指導。印紙や政府証券の原版を作成し、日本の紙幣・切手印刷の基礎を築きました。また若い世代に絵画の手ほどきなどもしており、近代日本の美術教育にも尽力したことで知られます。奉職中の16年間に、キヨッソーネが版を彫った郵便切手、印紙、銀行券、証券、国債などは500点を超えるといいます。

1888年には宮内省の依頼で明治天皇の御真影を製作し、同省から破格の慰労金2500円を授与されました。また村田蔵六以外にも、数多くの元勲や皇族の肖像画も残しています。ただ、面識がない人物を描いたことも少なくなく、西郷隆盛の肖像を描いたのも彼です。

良く知られているゲジゲジ眉で丸坊主、という例の西郷の顔は、彼が想像で描いたもので、実際の西郷はもっと細身だったのではないか、という説もあるようです。案外と、今年の大河ドラマの主人公役、鈴木亮平さんくらいの体格だったのでないでしょうか。

村田蔵六もそうですが、西郷もまた生前の写真が残っていなかったため、西郷の縁者でもあった初代印刷局長・得能良介からアドバイスを受けて描いたとされています。ただ、西郷の場合は、実弟の西郷従道と従兄弟の大山巌がこの当時まだ存命であり、彼らをモデルにイメージを作り上げることが可能でした。

このほか、キヨッソーネは、新紙幣の藤原鎌足や和気清麻呂といった古人を描きましたが、前者を描く際には元総理の松方正義、後者の時は木戸孝允をモデルにしたとされます。なお、有名な明治天皇の肖像も彼の手によるものです。皆が良く知るこの肖像は、実際とはかなり異なっており、写真も残っていますが、実際はよりいかつい顔をされています。

キヨッソーネは、雇用期間が終了した1891年(明治24年)には、それまでの功績を認められ、現在価値にしておよそ6~7千万円の退職金(現在に換算)と、年額約3千万円近い終身年金をもらい、さらに勲三等瑞宝章を政府から与えられています。

これらの莫大な収入の殆どは、日本の美術品や工芸品を購入するのに当てたほか、寄付したといいます。また、彼が収集した美術品は、浮世絵版画3,269点、銅器1,529点、鍔1,442点をはじめとして15,000点余りに上りますが、これら収集品は死後イタリアに送られ、現在はジェノヴァ市立のキオッソーネ東洋美術館に収蔵されています。

キヨッソーネは最期まで日本に留まり、1898年に65歳のとき、東京・麹町の自宅で没、青山霊園に葬られました。独身を通したため、遺言で残された遺産は、すべて残された召使に分配されたそうです。

さて、火吹き達磨の話やらキヨッソーネの話で前段が長くなりました、村田蔵六の話に戻りましょう。

前項では、村田蔵六が江戸から長州藩に戻り、軍事や外交における顧問として重用されるようになるまでについて書いてきました。

ここから長州藩は、討幕に向かい、それこそ火達磨のようになっていくわけですが、対する幕府も長州征討の体制を整え、残る力を絞り出してその火を消そうと躍起になっていきます。

前項でも書きましたが、長州藩としては、激動する情勢に備えて、それまで日本海側の萩においていた藩の中枢を、より山陽筋に近い山口に移し、ここに軍事拠点を作ろうとしていました。これが明治維新からわずか5年前の、1863年(文久3年)のことです。

この年は、尊王攘夷運動が最大にして最後の盛り上がりをみせた年でした。京都には各地から尊攘派志士が集結し、「天誅」と称して反対派に対する暗殺・脅迫行為が繰り返されました。朝廷内においても三条実美や姉小路公知ら尊攘派が朝議を左右するようになり、国事参政と国事寄人の二職が設けられると、二人がこれに登用され実権を握ります。

これに出仕する長州藩士、久坂玄瑞らも朝廷に影響力を持つようになり、諸藩に抜きんでて尊王攘夷を推し進めようとしました。そうした情勢のもと、何者かが足利三代の将軍像の首を切り取る、といった事件が起こり、時の天皇である孝明天皇も、攘夷祈願のために賀茂神社や石清水八幡宮に行幸する、といった反幕と攘夷への動きが加速します。

ついには、孝明天皇が将軍徳川家茂を宮中に呼び出し、参内した家茂に対し、この年の5月10日を攘夷決行の日とすることを約束させるに至ります。そして、当日になると長州藩はこの定約通り、下関海峡を通る外国船を次々と砲撃。列強もこれに反撃しました。




いわゆる「下関戦争」と呼ばれるこの戦争は、この年・文久3年(1863年)の5月と翌年、文久4年(1864年)の7月の二回にわたって起こり、イギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強四国の艦隊と交戦しました。

長州藩は馬関海峡とも呼ばれる下関海峡に砲台を整備し、藩兵および浪士隊からなる兵1000程、帆走軍艦2隻(丙辰丸、庚申丸)、蒸気軍艦2隻(壬戌丸、癸亥丸:いずれも元イギリス製商船に砲を搭載)を配備して海峡封鎖の態勢を取り、列強艦隊が海峡を通過すると砲撃を加えました。

これに対して、列強艦隊は17隻で艦隊を形成して応戦し、その内訳はイギリス軍艦9隻、フランス軍艦3隻、オランダ軍艦4隻、アメリカ仮装軍艦1隻からなり、総員は約5,000の兵力でした。

列強艦隊側は、緒戦でオランダ東洋艦隊所属のメデューサ号が大破するなどの被害を出しましたが、結果としてほとんどが無傷で、一方の長州側は帆船・庚申丸、蒸気艦壬戌丸が沈没、蒸気艦・癸亥丸が大破して壊滅し、アメリカ・フランス艦隊による砲撃によって、下関砲台のほとんどが破壊されました。

この長州藩の暴走に驚いた幕府は、7月8日、外国船への砲撃は慎むよう通告し、16日には詰問使を軍艦「朝陽丸」で派遣し、無断での外国船砲撃について長州藩を詰問しました。ところが長州は悪びれるどころか、アメリカ軍との交戦で失った長州艦の代用として朝陽丸の提供を要求し、拒まれるとこれを強制的に拿捕。さらに詰問士らを殺害しました。

他方、戦闘で惨敗を喫した長州藩は、独自に講和使節を列強艦隊に送り、その使者に高杉晋作を任じます。この時、高杉は脱藩の罪で監禁されていましたが、火急のときということで許され、家老宍戸備前の養子「宍戸刑部」と偽って、列強艦隊旗艦のユーライアラス号に乗り込んで談判に臨みました。

このとき、高杉と同行していたのが、ほかならぬ村田蔵六であり、これを機会に彼の名が頻繁に歴史書に出てくることになります。前項で書きましたが、蔵六は、4年前の1860年(万延元年)、長州藩士に取りたてられ、馬廻士に准ずる待遇を受けていました。また下関戦争当時は、手当防禦事務用掛という軍事面での事務掛の仕事をしていました。

8月14日には、その語学力を買われ、四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外人応接掛に任命され、列強との交渉のために下関に出張しており、18日には講和が成立しました。

結果として、長州藩は、下関海峡の外国船の通航の自由、石炭・食物・水など外国船の必要品の売り渡し、悪天候時の船員の下関上陸の許可、下関砲台の撤去、賠償金300万ドルの支払い、などの5条件を受け入れましたが、ただし、賠償金については長州藩ではなく幕府に請求することになりました。

これは、巨額すぎて長州藩では支払い不能だ、と高杉らが主張したこともありますが、そもそも将軍家茂が先に朝廷に攘夷を約束した、ということもあり、長州藩にしてみれば今回の外国船への攻撃は幕府が諸藩に通達した命令に従ったまでのこと、と押し通しました。

この調停の際にどのように蔵六が活躍したのかはよくわかりませんが、おらくは軍事通として、砲台の処理手続きや諸外国が必要とする軍艦運用のための必需品目のリストアップ、あるいは賠償金の国際レートの計算といった実務をこなしていたのではないでしょうか。

その功績が認められ、26日の外国艦隊退去後すぐの29日には、政務座役事務掛に任命されており、続いて12月9日には、藩校、明倫館から分離され、洋学校として設立された「博習堂」の教授に任命されています。

博習堂は事実上、兵学校であり、蔵六はその後、表だってはここの教授役をしながら、軍備関係の充実に取り組むようになります。しかし、うなぎのぼりに増えていく軍費を調達するのは容易ではなく、そこで彼が取り組んだのは「密貿易」でした。

このころはまだ幕府が治世をしていた時代であり、鎖国の中、諸外国と貿易をするのは当然、重罪です。が、蔵六は幕府には隠密に事を進め、とくにアメリカやフランスと接触して、大量の武器を輸入していたようです。輸入した武器は自藩で使うのは無論のこと、他藩へ流用してその利鞘を稼いでいた形跡も残っています。

先の下関戦争で唯一生き残ったのは、旧式の蒸気軍艦・壬戌(じんじゅつ)丸のみですが、この船のボイラーを打ち抜いて沈める、といった乱暴なこともやっています。幕府にはスクラップになったと報告して、フランス商人に引き取らせ、売金にさらに16万両上積みをして36丁もの大砲を装備した新型軍艦を購入したことなどが最近の研究でわかっています。

この壬戌丸はその後、航行可能にして上海に曳航されています。これら一連の裏工作を行ったのがアメリカだったといわれ、その後も、モニター号(Monitor)などの戦艦を何度も下関に派遣して長州に武器弾薬を供給しており、この事実は横浜に居る外国人の間で良く知られたことだったといわれています。

この壬戌丸売買の際には、蔵六自身が密かに上海に渡航していたとされる証拠も見つかっており、たとえばその売買記録の中に彼の記名と押印が残されているといいます。




とまれ、こうした列強艦隊の攻撃によって長州藩は手痛い敗北を蒙り、欧米の軍事力の手強さを思い知らされるとともに、逆に彼らの手を借りなければ討幕果たせない、いや、むしろうまく利用しよう、と考えるようになっていきます。

下関戦争は軍備の充実の重要さを藩士たちに思い知らせ、その装備に大転換をもたらす大きなきっかけにもなりましたが、戦闘任務達成のために部隊・物資を効果的に配置・移動して戦闘力を運用する、といった戦術の重要性をも知らしめました。

例えば、下関海峡は両側とも険しい山になっていますが、この戦争では、その地の利を活かすことなく、長州は破れました。

15箇所あった長州藩の砲台は何れも海岸に近い低地に構築され、正面の敵にのみ対応するようになっており、このため複数の砲台が連携しての「十字射撃」はできず、加えて列強の砲弾がその上の崖に命中すると岩の破片が砲台に降り注ぎ、慌てふためく、といったこともありました。

また、この戦争で列強艦隊が用いた大砲は砲身内に螺旋を施した、いわゆるライフル砲であり、極めて高い命中精度があったのに対し、長州藩の大砲は砲腔も同時に鋳造する旧式のものであり、射程も威力も大きな差がありました。

そして、そもそもが力で圧倒的な差異のある列強と戦争を行うための国際的な根回しや、戦後の処理といったことも含めた戦略についても、その未熟さが露呈しました。戦術面でも戦略面でも長州軍のそれは古いばかりではなく、行き当たりばったりのものであることがわかり、幕府と戦うためには、これを近代化する必要性を痛感させられました。

さらには、上陸した諸外国の陸戦隊に長州藩兵が切り込みをかけるようなケースも殆ど無く、戦後長州藩では「侍は案外役に立たない」との認識が生まれます。

戦前、長州藩領内では頻繁に一揆が発生するような状況にあり、下関戦争が勃発したとき、一部の百姓たちは自発的に外国軍隊に協力し、活躍したといわれます。そして、これを見ていた高杉晋作は、彼らは案外と戦争に使える、と考えるようになります。

そして、士分以外の農民、町人から広く募兵することを藩に上申するとともに、下級武士と農民、町人からなる部隊を結成することを思いつき、これを「奇兵隊」と称しました。また、膺懲隊、八幡隊、遊撃隊などの同様に身分が低いものから形成される諸隊も結成されました。

この身分を超えた戦闘部隊の結成を高杉に進言したのが蔵六である、という証拠は何もありません。が、もともとは士分になく、百姓に近い身分で医業を営んでいた蔵六のアイデアを高杉が採用したと考えたとしてもおかしくはありません。

その証拠に、村田蔵六はこの奇兵隊を中心とした混成部隊を軸に、長州藩軍の体制を整えていきます。それはまた、維新後の日本陸軍や海軍へと受け継がれていきました。

こうして、下関戦争を契機に、村田蔵六を軍事顧問に据え、軍備増強を進めていった長州藩ですが、蔵六が列強との交渉のために下関に出張し、列強との講和が成立した8月18日には、会津藩と薩摩藩が結託して長州藩を京都から追い出す、という、いわゆる「八月十八日の政変」が勃発します。

時の天皇、孝明天皇は、熱心な攘夷主義者ではあったものの、下関戦争を引き起こした長州のような急進派の横暴を快く思っておらず、攘夷の実施についても幕府や幕府の息のかかかった諸藩が行うべきものと考えていました。

ところが、宮中では、三条実美らの急進派が権力を握っており、「公武合体派」でもあった孝明天皇は、彼らを排除する勢力として島津藩に期待していました。公武合体とは、朝廷(公)の伝統的権威と、幕府及び諸藩(武)を結びつけて幕藩体制の再編強化をはかろうとする政策ですが、その幕府側の中心は会津藩でした。

会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派はかねてより中川宮朝彦親王を領袖とし、彼の下に朝廷における尊攘派を一掃する計画を画策しており、8月15日に中川宮が参内して天皇を説得、17日に天皇から密命が下ります。

この令により、京都守護職、松平容保(会津藩主)は自藩の兵1500名を動員し、これに薩摩藩兵150名を加えた部隊は、18日未明に、御所九門の前に分散して警備に立ちました。勅令の主旨は尊攘派公家や長州藩主毛利敬親・定広父子の処罰等であり、これにより、長州藩はそれまでの担当だった堺町御門の警備を免ぜられ、京都を追われることとなります。

こうして翌19日、長州藩兵千余人は失脚した三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基・錦小路頼徳・澤宣嘉の公家7人とともに、京から長州へと下りました。世に言う「七卿落ち」です。

この政変によって、長州藩は朝廷における政治的な主導権を失い、御所内での急進的な攘夷路線は後退しました。しかし、朝廷はなおも攘夷を主張し続け、翌年の1864年(元治元年)には、時代に逆行する横浜港の鎖港の方針を幕府の合意のもと決定しました。

しかし幕府内の対立もあって港の封鎖は実行されず、3月にはその履行を求めて水戸藩尊攘派が蜂起する(天狗党の乱)などの騒動が頻発します。こうした情勢のなか、各地の尊攘派の間では、長州藩の京都政局復帰を望む声が高まることとなりました。

長州藩内においても、事態打開のため京都に乗り込み、武力を背景に長州の無実を訴ようとする進発論が論じられましたが、桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作、久坂玄瑞らは慎重な姿勢を取るべきと主張しました。

ところが、この年の6月5日、池田屋事件で新選組に藩士を殺された変報が長州にもたらされると、藩論は一気に進発論に傾いていきました。慎重派の周布政之助、高杉晋作らは藩論の沈静化に努めますが、福原元僴や益田親施、国司親相の三家老等の積極派は、「藩主の冤罪を帝に訴える」ことを名目に挙兵を決意。

この進発論を支持し、実践部隊を動かしたのが来島又兵衛、真木保臣(和泉)らの重臣であり、これに長州藩に賛同する諸藩の浪士を含めた約1400名の長州藩兵が、19日、御所の西辺である蛤御門(京都市上京区)付近で蜂起します。そして会津・桑名藩兵と衝突、ここに、いわゆる「蛤御門の変」の戦闘が勃発しました。

一時、長州藩兵は、京都御所内に侵入しますが、薩摩藩兵が援軍に駆けつけると形勢が逆転して敗退し、狙撃を受けた来島又兵衛は自決。このとき、松下村塾で高杉晋作とともに松陰に将来を嘱望されていた、久坂玄瑞も朝廷への嘆願を要請するためこの戦闘に参加していましたが、侵入した関白・鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)の邸宅で自害しました。

帰趨が決した後、落ち延びる長州勢は長州藩屋敷に火を放ち逃走。一方の会津勢も長州藩士の隠れ家一帯を攻撃。戦闘そのものは一日で終わったものの、この二箇所から上がった火を火元とする大火「どんどん焼け」により京都市街は21日朝にかけて延焼し、北は一条通から南は七条の東本願寺に至る広い範囲の街区や社寺が焼失しました。

生き残った兵らはめいめいに落ち延び、負傷者を籠で送るなどしながら、大阪や播磨方面に撤退。主戦派であった真木和泉も敗残兵と共に天王山に辿り着き、ここに立て籠もりますが、21日に会津藩と新撰組に攻め立てられると、皆で小屋に立て籠もり火薬に火を放って爆死しました。

こうして、長州藩はおよそ自爆ともいえる行為によって、より中央から遠ざかっていきましたが、これだけでは終わらず、やがては幕府軍による「長州征伐」によって、藩存続の最大の危機に陥ることになります。



この時期、既に長州藩の軍備の責任者になっていた蔵六がこうした攘夷について、どう考えていたのか、についてはほとんど資料がありません。が、親交のあった福沢諭吉が自伝の中で、師である緒方洪庵について書いているものの中にヒントがあるようです。

洪庵は、文久2年(1862年)、幕府の度重なる要請により、奥医師兼西洋医学所頭取として大阪を出て、江戸に出仕していますが、その翌年の1863年に享年54で死去しています。福沢は、洪庵が運営していた大阪の適塾に入門しており、先輩塾生だった蔵六とは面識がありました(蔵六より11歳年少で、入門も蔵六より9年あと)。

福沢の自伝によれば、その洪庵の通夜が東京であったとき蔵六と再会し、このとき彼が先の下関戦争について触れ、「あんな奴原にわがままをされてたまるものか。これを打ち払うのが当然だ。どこまでもやるのだ。」云々の発言をしたと書いており、蔵六がこれほどの過激な攘夷論を吐いたことに驚いています。

これについて福沢は、「自身防御のために攘夷の仮面をかぶっていたのか、本当に攘夷主義になったのか分かりませぬが……」とも記しています。蔵六自身も後年、この当時は攘夷論者であったことを知人にほのめかしています。

鋳銭司村の藪医者から、藩の軍事顧問的な存在に成りあがったばかりのこの頃の蔵六もまた、沸騰する藩内の攘夷論に飲み込まれ、あるいは酔ったような状態になっていたのかもしれません。

とまれ、この時期の蔵六はまだ時代の表にはほとんど出ず、藩初の洋学校である、博習堂で若い藩士へ黙々と軍学を教授していました。このころの蔵六は40歳前後。東京で暗殺されるのは、このときからあとわずか5年余りのことです(…続く)。

蔵六


あけましておめでとうございます。

伊豆では、大晦日の夜から少し雨が降りましたが、元旦には上がり、ここ数日は素晴らしい富士の姿を見ることができます。

そうした新春の爽快な空気の中、今年も気負うことなくボチボチとこのブログを書いて行こうと思います。お気が向いたら、ご笑覧ください。




さて、今年は明治維新150周年ということで、先日帰省した山口では、あちこちの街灯などにこれを祝うペナントがぶら下げてありました。

あらためて、この「維新」の意味を調べてみたところ、江戸幕府に対する倒幕運動から、明治政府による天皇親政体制の転換へと、それに伴う一連の改革全体を指すようです。

その範囲は、法制から、身分制、金融、産業、経済、文化、教育、宗教などなどの広範囲に及ぶため、いったいいつ維新が始まり、どこで終わったかについては必ずしも明確にはできないようです。

西南戦争の終結(明治10年、1877年)までという説や、内閣制度の発足(明治18年、1885年)、立憲体制の確立(明治22年、1889年)までとするなど諸説あるようですが、やはり区切りとしては、年号改元に当たる明治元年旧9月8日(1868年10月23日)をもって、維新となすことが多いようです。

山口の維新150年もこれに基づいており、維新の原動となった人物を数多く輩出した萩市では、今年の10月に向けて各種の記念シンポジウムや講演会、パレードなどが行われるようです。

私も長州人の血を引く一人として何か記念すべきことしたいな、と思うのですが、なにぶん貧乏暮らしゆえに寄付は無理としても、やはりすべきは、このブログで維新の立役者となった長州人について書き残しておくことかな、などと思っていたりしています。

が、膨大な人材を輩出した国のこと、いったい誰のことを書いていくかな、と考えたときになすべきことは、やはり好きな人物、興味のある人のことを取り上げることでしょう。

カッコよさという点においては、若き血を散らした高杉晋作や久坂玄瑞といった松下村塾の面々が思い浮かぶのですが、こういった松陰門下の面々とは距離を置き、独自のビジョンを持って時代を突き進んだ人物として興味をそそられるのが、村田蔵六こと大村益次郎です。

実は私の祖父が婿入りする前の本名が村田といい、名前も七蔵ということもあり、昔から親近感を持っていた人物です。山口にはこの村田姓はわりと多いようで、とくに現在の山口市を中心とした、「周防(すおう)」と呼ばれた地域にこの姓の家が多いようです。

一方、長州藩にはもうひとつ、その西と北側に広がる「長門」というエリアがあり、この中の「萩」がかつての長州全体の首府で、藩庁もここに置かれていました。

多くの志士たちもこの萩の町から排出されていますが、その原動力となったのが、当時の幕府にとっては危険思想の持ち主とされていた吉田松陰の私塾、松下村塾です。ここで学んだ多くの藩士がさまざまな分野で活躍、これが倒幕運動につながっていきます。

その活動がだんだんと過激になるにつれて、もともと討幕には消極的であった藩侯以下の指導者たちもこれに巻き込まれるようになり、激動する情勢に備えて、ついには藩の中心をより山陽筋に近い場所に移すことを決めます。

こうして1863年(文久3年)4月に、長州藩は山口に新たな藩庁を築き、ここを「山口政事堂」と称するようになりました。

藩主毛利敬親候は、歴代の藩主が暮らした萩城からこの山口に入りますが、このときまだ表だって幕府に楯突こうとは考えておらず、山口移住と新館の造営の申請書を恐るおそる江戸に提出して「山口藩」と改名する旨了承を得ています。

しかし拠点をより軍隊を動かしやすい山陽側に移したということは、無論討幕の伏線であり、このころから政治だけでなく軍事のそれを萩から山口へ動かすようになっていきます。



村田蔵六が生まれた、周防国吉敷郡鋳銭司というのは、この山口から山を一つ越えた南側にあり、瀬戸内の海にほど近い場所にあります。

現在は国道2号が地域を貫き、山陽自動車道山口南インターチェンジが設けられたことから、交通の要衝の一つとなり、物流拠点として複数の運送会社等の営業拠点が置かれているような場所ですが、おそらく江戸時代には大きな特徴のない寒村だったかと思われます。

ただ、平安時代には貨幣を造る役所が置かれており、「鋳銭司」の地名はここから来ています。また、長沢池という比較的大きな灌漑用水池があり、これは、慶安4年(1651年)頃築かれたとされ、鋳銭司村をはじめ、名田島村、台道村といった周囲の田畑に堤水を供給していました。

たとえ他村が干ばつにみまわれても、長沢堤を利用する村々は干ばつを免れたといいます。また海が近いことから、このあたりの農家では塩田を持っているところが多く、このことから寒村とはいえ、村人の暮らしぶりは比較的豊かだったと推定されます。

父は村田孝益いう村医者で、妻うめの長男として生まれ、蔵六は幼いころから青年期までを「宗太郎(惣太郎とも)」という名で育てられました。

物心つくまでには、父の跡を継いで村医になるつもりだったようですが、はるか北にある萩で討幕を叫んでいた連中が、萩から山口への藩庁の移転とともに大挙して山口に移り住むようになり、鋳銭司を含む山陽側はがぜん騒がしくなってきました。

鋳銭司村の東には、三田尻港(現在の防府市・三田尻中関港)があり、江戸時代初期にここは、海路で参勤交代へ向かう出発地となりました。1654年(承応3年)に毛利綱広が萩往還を造った際に、公邸である三田尻御茶屋を築造すると、以後大いに栄えましたが、後に参勤交代が海路から陸路に変更されるに及び、その役割は限定的なものとなりました。

それでも、7代藩主毛利重就は、隠居後にこの三田尻御茶屋に住むなど、三田尻は要衝として重視され、幕末に至るまでもその重要性は変わらず、坂本龍馬が土佐藩を脱藩して、下関に向かう際にはここに立ち寄っています。また、綱広が建造した御船倉も海軍局と名前を変え、欧米より伝わった近代航海術の教練や造船技術の教育も行われていました。

北には藩庁のある山口、東にはこの軍事的要衝である三田尻港を控えるという立地の鋳銭司村は何かと国内政治や江戸向きの話は入って来やすい土地柄であり、それまでは政治とは無関係な辺地であったこの村にも、時代の変化は次第に大きなものとして押し寄せてくるようになります。

単に村医を目指していた村田蔵六もまた、頻繁に江戸や京、そして山口藩庁のきな臭い噂を耳にするようになり、やがてはこのままこの僻地に埋もれていてはならぬ、と思うようになったのでしょう。このころまだ20そこそこだった彼もまた、世に出ることを考えるようになります。

ちょうどこのころ三田尻で、シーボルトの弟子のひとり、梅田幽斎という人物が塾を開き始めたと聞き、ここに頼み込んで医学や蘭学を学ぶようになりました。ちなみに、三田尻から鋳銭司までは直線で10kmほどですから、歩いて通うことも可能だったでしょう。

もとも秀逸な頭脳を持っていた彼はすぐに梅田の知識レベルを凌駕するほどになったようですが、蘭学以外の学問にも親しむべきだという梅田の意見を入れ、翌年には豊後国日田に向かい、国学者の広瀬淡窓の私塾咸宜園に入り、漢籍、算術、習字など学びました。

その後帰郷していったんは梅田門下に復帰しますが、このときもう既に山口では学ぶことはないと感じたのでしょう、弘化3年(1846年)、22歳のときに大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶようになります。

洪庵は牛痘種痘を日本に初めて導入したことで知られる蘭学者で、おそらくはこの時代、国内においては最先端の医療技術を持ち、蘭学においても最高知識をもっていた人物だったかと思われます。彼が運営する「適塾」には全国から秀才が集まっていましたが、宗太郎と呼ばれていた蔵六はその後わずか2年ほどでこの学舎の塾頭まで進んでいます。

適塾時代の彼を知る者の伝えるところによれば、「精根を尽くして学び、孜々(シシ)として時に夜を徹して書を読むことを怠らず」とあるほど猛勉強をし、暇さえあれば解剖の本を読み、動物をとらえれば解剖を行うなど研究熱心であったといいます。

また、塾頭になってからは、綿密に考えて講義をすることで定評があり、熟生には評判もよく、学外では遊びをしない品行方正な人格であったとされます。

とくに秀でていたのは語学力だったといわれ、このほかにも医学、化学に関しても豊富な知識を得ていた彼を凌駕するほどの人間は、この時すでに関西にはいなかったと思われます。が、この人が面白いのは、それほど秀でた才能を持ちながらそれを生かそうとせず、その後適塾を辞して、片田舎の鋳銭司へ帰ってしまっていることです。

父親に帰国して医業を継ぐようにと請われたためであり、この要請に素直に納得して27歳で帰郷し、四辻という街道筋で開業しました。そして父の跡を継ぎ、村医となって村田良庵と名乗るようになり、隣村の農家・高樹半兵衛の娘・琴子と結婚しました。




ちなみにこの四辻というところは現在でも民家が散在するような田園地帯で、現在でもこんなところで商売が成立するんかい、といった場所です。無論、藩庁にいる長州藩の上層部の人間も、こんな僻地にしかもそれほどすごい人物がいるということを誰もが気付くこともなく、話題にもあがりませんでした。

江戸時代の町医というのは、供を連れて歩く徒歩医者と、奉行から許可を得て駕篭を使用する駕篭医者がありましたが、地方の村医者の場合はどちらでもないことがほとんどで、蔵六も一人歩いて診療に行っていたことでしょう。しかし、この時代、医者になりたければ誰でも開業できたこともあり、医療はそれほど信頼されていませんでした。

誰でも医者になれるとしても、腕のいい医者に患者が集まり、腕の悪い医者には患者が集まりません。医術の心得がない医者には患者が集まりませんが、宗太郎(蔵六)の場合、医術の心得があるにも関わらず、その偏屈な性格のために誰も診療に訪れませんでした。

無論、近くの三田尻からも患者が来るわけもありません。ましてや藩庁のある山口では誰一人その存在を知らなかったでしょう。ところが、江戸の適塾で塾頭まで勤めていたこの人物のことは他藩の秀才たちは皆知っていました。四辻で村医者を開業して2年ほど経ったころ、突然、伊予宇和藩島からおよびがかかります。

宇和島藩は、初代仙台藩主伊達政宗の長男である、伊達秀宗が徳川秀忠より伊予宇和島藩10万石を与えられ、慶長20年(1615年)に宇和島城に入城したことから成立した藩です。歴代の藩主には有能な人物が多く、第7代藩主、宗紀の代には、奢侈の禁止や文学の奨励、産業の振興と統制、人材の育成などを中心とした大胆な藩政改革が行われました。

ただ、宗紀は長男と次男を早くに失い継嗣がなかったため、江戸の伊達家の親類筋にあたる旗本山口家から養子を迎え入れ、第八代藩主になったのが宗城です。宗城は前藩主からの殖産興業を引き継ぎ、さらに西欧化を推し進めて富国強兵政策をとり、シーボルトの鳴滝塾で医学・蘭学を学び、その抜きん出た学力から塾頭となった高野長英を登用しました。

蔵六の採用を宗紀に上申したのは、同じくシーボルトの門人の二宮敬作です。二宮は日本初の女医(産科医)となったシーボルトの娘・楠本イネを養育したことでも知られる人物です。この年(嘉永6年(1853年))は、アメリカ合衆国のペリー提督率いる黒船が来航した年であり、時代は風雲急を告げ、洋学者の知識が求められる時代となっていました。

おそらくは二宮はシーボルト門下の他の蘭学者から、大阪の適塾にすごいヤツがいる、と宗太郎の才能を聞き知っていたのでしょう。藩侯からの了承を得ると、宇和島に招き入れ、一級の蘭学者として扱うようになります。

しかし当初、宇和島藩の役人たちは、村田の待遇を2人扶持・年給10両という低い禄高に決めたといいます。役人たちにしてみれば、汚い身なりで現れた宗太郎に対して、むしろ親切心をもってこの禄を決めたようですが、このことを江戸出張から帰ってきた藩侯に二宮が注進すると、宗城は怒り、役人たちを叱責したといいます。

すぐに給料は上士格並みの100石取に改められたといい、その後、宗太郎の才能はこの宇和島藩でいかんなく発揮されていきます。

西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、宇和島城北部に樺崎砲台を築いたほか、長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行い、その結果として洋式軍艦の雛形の製造にも成功します。そうした成果も認められたこともあり、この頃、村田蔵六と改名します。

「蔵六」とは、頭としっぽ、そして四肢を甲羅の中に仕舞いこんでいる「亀」の意で、亀は酒を好む、といわれることにちなみ、大酒家の自身をなぞらえたのだといいます。ずいぶんと泥臭いネーミングであり、このあたりに、自分を大きく見せようとしない謙虚な、というよりも自嘲気味の彼の性格が見て取れます。

その後、宇和島での忙しい生活は3年ほども続き、安政3年(1856年)の初夏ごろ、蔵六と名を改めた宗太郎は、藩主伊達宗城の参勤に従って、再び江戸に出ます。

この二度目の江戸滞在における彼の仕事は、宇和島藩時代に比べれば割と暇だったようで、このため私塾「鳩居堂」を麹町に開塾して蘭学・兵学・医学を教えはじめました。

また、宇和島藩御雇の身分のまま、幕府の蕃書調所教授方手伝となり、外交文書、洋書翻訳のほか兵学講義、オランダ語講義などを行い、月米20人扶持・年給20両を支給されるようになりました。20両は現在の価値にして400万円ほどで、20人扶持は35両に相当しますから、総額では1000万円を超える収入のある高給取りだったといえます。

その後35歳になるまでにはその名声はさらに高まり、やがては築地の幕府の講武所教授となり、最新の兵学書の翻訳と講義を行うようになります。その後討幕に動くこの人物がこの時代、幕府の御用で潤っていたというのは不思議なかんじがします。

この翻訳は幕府からも高く評価され、安政5年(1858年)には、銀15枚の褒章を受けています。ちょうどこのころ、長州藩上屋敷において開催された蘭書会読会に参加し、兵学書の講義を行いますが、ここから蔵六の運命が一変していきます。

この会読会に参加してひとりに、桂小五郎(のちの木戸孝允)がおり、桂は、村田が同じ長州人だと知って驚きます。同郷にこれほどの才能を持った人物がいるとはつゆとも知らず、しかもその人物が幕府からも重用されているのを知った桂は、この才能を藩のためにぜがひでも持ち帰らねばと考えました。

ここもまた村田の面白いところであり、桂から長州のために働いて欲しいと乞われると、二つ返事でこれを了承し、高額で雇われていた幕府からはさっさと暇をもらって、宇和島藩の御用も辞退しているところです。

生きているころの村田蔵六という人と知り合った人々の話などから、この時なぜ彼が長州帰りを了承したかが推論できます。

村田蔵六という人は、細かいことによく気が付く学究肌である一方で、挨拶もろくにしない、偏屈な人間といわれていました。しかし、根は非常に真っ直ぐで、自分が信頼するに足ると感じた人間にはすべてを委ねてまかせてしまう、というところがあったようです。

また自分の才能を開花させるためにはどんな努力も惜しまないタイプの努力家でもあり、その才能を認めてくれる人間にはとことんついていく、といった気風があったように思われます。

師である緒方洪庵も高い人格を持った人物であったと伝えられており、温厚でおよそ人を怒ったことがない反面、学習態度には厳格な姿勢で臨み、しばしば塾生を叱責しました。ただ決して声を荒らげるのでなく笑顔で教え諭すやり方で、これはかえって塾生を緊張させ「先生の微笑んだ時のほうが怖い」と塾生に言わしめるほど効き目があったといいます。

そうした洪庵を尊敬し、師と仰いで努力し続けただ蔵六に対し、また洪庵も塾頭という立場を与えて報いました。



一方、桂小五郎という人も周囲の人間に慕われていました。立場に拘らずに周囲への気配りを忘れない人だったといい、偉くなっても格式張らずに目下の人を遇することでよく知られていました。

のちに山形有朋の側近として活躍し内務大臣なども務めた、元米沢藩士の平田東助がまだ20代の一書生にすぎなかった若い頃、ある朝に木戸が訪ねて来ました。このころの木戸は既に討幕藩である長州藩のリーダーと目される重要人物でした。

そのとき取り次いだ下足を信じることが出来ず、「そんな訳があるか。お使いだろう」と言ったところ、その者が「いや木戸公ご本人です」と言い張るので、半信半疑で覗いてみたら本当に木戸本人でした。慌てた平田ですが、家が狭くて応接間がなかったため、とっさに寝ていた布団を庭に放り捨てて、寝間に木戸を迎え入れたという逸話が残っています。

こういうふうに後輩や若い書生を訪問する木戸に、逆に後輩たちが困惑させられた、という話も数多く残っており、村田もまたそんな実直な木戸の魅力によって落とされたのでしょう。

とはいえ高禄を捨ててまで長州に戻ったというのは、それなりに郷里に愛着を持っていたのかもしれず、あるいは、自分が長州藩の最前線に立って導き、この国をなんとかせねば、といった大志をもっていたのかもしれません。

しかしそういう情熱を秘めた熱い人間であることを思わせないほどに、あまり多くを語らない人物であったようで、また生活は質素であったといい、芸者遊びや料亭も行かず、酒を好む以外は楽しみはなかったといいます。

若いころに幕府の蕃書調所時代の大村は贅沢をしていた時期もあったようですが、長州に帰って以降は極めて質素で、維新後に兵部大輔の高位になった後も、側近だった曾我祐準(後陸軍中将)に「強記博聞、おのれを持することが極て質素でありました」と言わしめました(注:「強記博聞」は、広く物事を聞き知り、それらをよく記憶していること、の意)。

学究肌で趣味らしい趣味もありませんでしたが、豆腐を食べながら酒を飲むのが大好きだったそうです。また骨董品を買うことを楽しみにしており、掛け軸が好きでしたが、1両以上のものは決して買うことがなかったといいます。

つまりは人並み以上の「欲」というものがほとんどない人だったようで、金というものも必要分だけあれば生きていける、といったふうに考えていたのではないでしょうか。

類い稀な語学力と、医学、化学などの知識があればもっと立身できたでしょうが、自分からは望まず、与えられた立場に文句も言わない蔵六が、瞬く間に昇進するのをみても周囲の反発は少なかったようです。しかし、医師としての素質はまったくといっていいほどありませんでした。

上でも書きましたが、蔵六がまだ村医をやっているころの評判は散々でした。この時代の村医者というのは、愛想で食っていくような人気商売で、多少薬草の知識があれば医者を名乗れる時代であり、気に入らなければそっぽを向かれ、別の医者に向かわれました。

それにしても鋳銭司村は僻地であり、三田尻や山口といった町に出れば医者には事欠かかないということもあり、またこの時代、西洋医学を学んだからといって、あんな毛唐の術なんか使えるもんか、和医者のほうがいいに決まっている、といった風潮がありました。

さらに蔵六は礼儀作法などというものほど無用なものはない、と考えていたようなきらいがあります。時候のあいさつをされても「夏は暑いのが当たり前です」「寒中とはこういうものです」と答えるような無愛想さで、治療も上手でなく評判は極めて悪く、訪れる患者はめったにいなかったといいます。

江戸の「鳩居堂」時代の塾生も、学識は尊敬するが「先生は藪」と陰口を叩いていたといいます。あるとき、塾生の一人が目を患った時も「決して薬をつけてはならぬ、薬はつけるものではない。ただれたら水で洗い夜中に書見することはならぬ」と診断し、塾生たちに「先生は医者のくせに医術というものを知らない」と笑われたといいます。

そんな蔵六でしたが、桂に勧誘されたのを機に万延元年(1860年)、正式に長州藩からの要請を受け、江戸在住のまま同藩士となりました。この時代、医者は士分ではありませんでしたから、正式に苗字帯刀を許されたことになります。扶持は年米25俵を支給されたといいますから、長州藩もそれなりに彼の価値を認めたということでしょう。

塾の場所も麻布の長州藩中屋敷に移り、以後、藩のために一心に働くようになりますが、江戸に滞在していたこの時期はまだヘボンのもとで英語、数学を学ぶとともに、箕作阮甫、大槻俊斎、桂川甫周、福澤諭吉、大鳥圭介といった蘭学者・洋学者と交わり、彼らとの情報交換を通じて内外の情勢を知ることに勤めました。

その後長州に帰り、萩にあった西洋兵学研究所である博習堂の学習カリキュラムの改訂に従事するとともに、下関周辺の海防調査も行うようにもなります。

手当防御事務用掛(防衛担当)に任命され、30歳で兵学校教授役となり、藩の山口明倫館での西洋兵学の講義を行い、鉄煩御用取調方として製鉄所建設に取りかかるなど、藩内に充満せる攘夷の動きに合わせるかのように軍備関係の仕事に邁進しはじめました。

一方では語学力を買われ、四国艦隊下関砲撃事件の後始末のため外人応接掛に任命されて下関に出張しているほか、外国艦隊退去後、政務座役事務掛として軍事関係に復帰して、長州藩の軍事外交におけるトップとしての道を歩み始めました。

しかしこのころ江戸では、次々と軍備を増強する長州藩の動向に、幕府が神経をとがらせ始めており、やがて訪れる長州征討へ向けての布石が着々と進められていました(この項続く…)。




インフルエンザの候

今年ももうあとわずかです。

先日、広島であった姪の結婚式から舞い戻ったばかりの私は、燃え尽き症候群気味で、もう何もやる気がせず、いつもならとっくに済ませている年賀状書きも年明けに回そうか、などと考えている始末です。

そんなこんなで、昨日もぼんやりとしていたら、夕方になって、同じ挙式に出席していた姉から、インフルエンザにかかったという知らせが入ってきました。なんでも、同じく出席していた親戚の何人かや新郎の職場の人たちも罹患したとのことで、どうやら、くだんの結婚式場での感染が疑われているようです。

そちらは大丈夫?ということなのですが、幸い、私自身はケロッとしており、悪いのはいつものように頭だけです。が、この年末の忙しい時期に姉も含め、かかった人たちはどんな思いをしているだろう、と他人事ながら気遣っている次第です。

このインフルエンザ、いわゆる「急性感染症」と言われるヤツです。

感染症とは、寄生虫、細菌、真菌、ウィルスなどの感染により、人間を含む生物全般の「宿主」に生じる症状です。結果生じるのは、無論、「望まれざる反応」であり、この世に存在する病いのほとんどがこうした病原体によって発症するわけで、つまりは「病気」の総元締めといってもいいでしょう。

この中でも、ウィルスのひとつである「インフルエンザウィルス」によって引き起こされるのが、インフルエンザですが、略してインフルと言ったりもします。

「インフルエンザ」の語源は、16世紀のイタリアにあるそうです。当時は感染症が伝染性の病原体によって起きるという概念が確立しておらず、何らかの原因で汚れた空気によって発生するという考え方が主流だったようです。

冬になると毎年のように流行が発生しますが、春を迎える頃になると終息することから、当時の占星術師らは天体の運行や寒気などの影響によって発生するものと考え、この流行性感冒の病名を、「影響」を意味するイタリア語で“influenza”と名付けました。

これが18世紀にイギリスで流行した際に日常的語彙に持ち込まれ、世界的に使用されるようになりました。ただし、現在日本語となっている「インフルエンザ」はイタリア語での読みと違うようで、イタリア語での正しい読みは「インフルエンツァ」に近い語感のようです。




ウィルスによって引き起こされるので、原因は「細菌」とは違うわけです。細菌とウィルスは、実はまったく異なる生物なのですが、しばしば混同して理解されています。細菌によって引き起こされるものは、コレラ、ペスト、ジフテリア、赤痢、といったものです。

その原因となる細菌はウィルスよりも数10倍〜100倍くらいサイズが大きいのですが、違いはそれだけではなく、細菌は自分の力で増殖することができますが、ウィルスは人や動物の細胞の中に入らなければ増えることができません。例えば、水にぬれたスポンジの中で細菌は増えますが、ウィルスはしばらくすると消えてしまいます。

もうひとつの重要な違いは、ペニシリンなどの抗生物質は細菌を破壊することはできますが、ウィルスには全く効かないという点です。インフルエンザにかかると、よく、タミフルなどの薬を処方されますが、これはいわゆる「抗生物質」ではありません。

抗生物質とは、基本的には細菌を殺す薬であり、細菌ではないウィルスには効き目がありません。「抗ウィルス薬」と「抗生物質」が混同されることもありますが、これは誤りです。

インフルエンザの場合の抗ウィルス薬は完全にはウィルスを死滅させることはできません。ウィルスが人の身体の中で増えるのを抑制するだけで、症状を軽減することはできてもウィルスそのものを退治することはできません。従ってインフルにかかったら、基本的には自分の免疫(めんえき)力によって治すしかありません。

一方では、予防的措置として、インフルエンザワクチンというものがありますが、こちらも事前に摂取したからといって、ウィルスを破壊するものではありません。これも人間が元から持っている「免疫機構」を最大限に利用し、ウィルス自身から取り出した成分を体内に入れることで抗体を作らせ、重症化を防ぐ目的に使用されるものです。

なので、ワクチンを打ってもらっても、インフルにかかる場合はかかります。接種を行っても個人差や流行株とワクチン株との抗原性の違い等により、必ずしも十分な感染抑制効果が得られない場合があり、100%の防御効果はないのが実情です。なによりも摂取される側に十分な免疫があるか否かによってその効果は左右されます。

健康な成人でも、ワクチンにより免疫力を獲得できる割合は70%弱だそうです。ましてや体の弱い人はそれ以下の効果しかありません。なお、同時期に2度接種した場合、健康体であれば90%程度まで上昇するといわれているようです。

一方では、ワクチンの接種によって副作用が出る場合もあるようです。100万接種あたり1件程度は重篤な副作用の危険性があるそうで、とくに免疫が未発達な乳幼児では重い後遺症を残す場合があるといいます。そうしたことを認識した上で接種をうける必要があり、米家族医学会では「2歳以上で健康な小児」への接種を推奨しているといいます。

また、すでにインフルエンザに罹っている人に打ってもほとんど効果はないそうで、しかも明らかな発熱を呈しているような人に摂取するのも危険だといいます。このほか、循環器、肝臓、腎疾患などの基礎疾患を有するものや痙攣を起こしたことのある人、気管支喘息患者、免疫不全患者なども「要注意者」だとされます。

もっとも、かつてはこれらのような患者には予防接種を「してはならない」という考え方でしたが、最近では摂取すると「重症化するリスクが大きい」というふうに変わってきており、予防接種することによるメリットのほうがリスクよりも大きいと考えられているようです。



いかんせん、基礎疾患をもっていようがいなかろうが、ともかくその人の免疫力が落ちていたりする場合にはインフルにかかる可能性は高くなります。不幸にして感染した場合、ウィルスが体内に入ってから、通常の場合は2日〜3日後に発症することが多いようです。

ただし、潜伏期は10日間に及ぶことがあるそうなので、現在なんとも感じていない私も正月頃には発病する可能性がないとはいえません。子供は大人よりずっと感染を起こしやすいそうなので、同じ結婚式に出席していた親戚の子供たちの中には、そろそろ発症している子もいるかも。

感染者が他人へウィルスを伝播させる時期は、本人がウィルスにかかって発熱などの発症があった前日から、症状がおさまってのちのおよそ2日後までだそうです。つまり、インフルが治りきらない間は、誰にでも移す可能性があるということであり、十分にその可能性はあります。

では、インフルに感染後に治るまではどのくらいかというと、個人差もあるようですが、だいたい体の中からウィルスが排出されるのには2週間かかるそうで、プラス、症状が軽快してからも2日ほど経つまでは通勤や通学は控えた方がよいといいます。

ということは、くだんの結婚式に出席した人の場合、仮に今発症すれば、正月休みを終えるまでがだいたい2週間ですから、これにプラス2日間の余裕をみて、始業式・仕事はじめの日あたりをパスすればOKということになります。

既に発症している人はアンラッキーだったかもしれませんが、この年末年始をじっくり休みさえすればこの冬のインフルに対する免疫ができることになり、あとは安泰ということにもなるわけです。

もっとも、インフルエンザには主に3つの型があり、症状はそれぞれ違うそうで、回復までの時間にも差があるようです。3つの種類とは、A型、B型、C型の3種であり、今回の我々のものがどれかはわかりませんがん、日本などの温帯では、全ての年齢層に対して感染し、冬季に毎年のように流行します。

で、一番激しい症状を呈するのがA型といわれています。通常一度インフルエンザにかかると、回復の過程でそのウィルスに対する免疫が体内に作られますが、このA型はウィルスの形をどんどん変えて進化し続けるため、今までに獲得した免疫が機能しにくくなります。

ワクチンの予測も立てにくいインフルエンザウィルスであり、症状としては以下のようなものです。

・38℃を超える高熱
・肺炎などの深刻な呼吸器系の合併症
・食べ物や飲み物を飲み込むのが困難なほどの、のどの痛み
・関節痛、筋肉痛




一方、B型はA型よりも軽く、症状としては、「お腹の風邪」の症状に近く、下痢や腹部の痛みを訴える程度の事が多いようです。ただし、人によってはA型に近い激しいものになることもあるとか。かかってしまえばA型だろうがB型だろうが関係ないと思うかもしれませんが、症状の改善方法を探る上でもお医者さんの判断を得たほうがいいでしょう。

また、以前は数年単位で定期的に流行していたようですが、最近では毎年のように流行しており、注意が必要です。もっともA型のように日本全国で流行を起こすようなことはない、と考えられているようです。

最後のC型インフルエンザは、いったん免疫を獲得すると、終生その免疫が持続すると考えられているタイプです。従って、再びかかったとしてもインフルエンザだとは気づかず、ふつうの風邪と思ってしまうかもしれないといい、ほとんどの大人が免疫を持っているため感染しにくく、かかるのは4歳以下の幼児が多いそうです。

また、仮に感染してもインフルエンザとしてはかなり軽症で済むことが多く、症状は鼻水くらいでほかの症状はあらわれないことが多いといいます。

従って警戒すべきはやはりA型ということになりますが、今年はまだ始まったばかりであり、これから大流行になるかどうかは、なんともいえない、といった状況のようです。

通常、11月下旬から12月上旬頃に最初の発生、12月下旬に小ピークで、学校が冬休みの間は小康状態で、翌年の1-3月頃にその数が増加しピークを迎えて4-5月には流行は収まるパターンです。ただ、今年はニュースでも話題になったように、ワクチンの供与が遅れているようで、その影響が心配されます。

インフルの感染経路ですが、主に次の3つのルートで伝播するといわれています。

1.患者の粘液が、他人の目や鼻や口から直接に入る経路
2.患者の咳、くしゃみ、つば吐き出しなどにより発生した飛沫を吸い込む経路
3.ウィルスが付着した物や、握手のような直接的な接触により、手を通じ口からウィルスが侵入する経路

この中でも、2.の咳やくしゃみなどによる「飛沫感染」が一番多いといわれているようです。空気感染において、人が吸い込む飛沫の直径は0.5から5マイクロメートルです。1マイクロメートルは0.001 ミリメートルですから、その小ささがわかりますが、このたった1個の飛沫でも感染を引き起こし得るといいます。

1回のくしゃみにより、だいたい40,000個の飛沫が発生するそうですが、ただ、多くの飛沫は大きいので、空気中から速やかに取り除かれるそうです。とはいえ、その一個を運悪く吸い込むと発症する可能性が限りなく高くなるため、できるだけ人ごみで深呼吸をするのはやめたほうがよさそうです。

誰かが咳やくしゃみをすると、離れたところにいた別の人がこれを口や鼻などの呼吸器で吸い込み、感染するというケースが一番多いわけですが、先日テレビでやっていた実験をみると、だいたいくしゃみの場合の最大「飛翔距離」は3mくらいが限界のようです。

従って、できるだけ他人から3mほどは距離をとって生活する、というのが理想でしょうが、狭い日本においてそんなことができるわけはありません。第一、電車やバスなどの公共交通機関を使う上においてこの距離をとるというのは難しそうです。ただ、できるだけそうした混雑を避ける、という対処法はおおいにありです。

なお、飛沫中のウィルスが感染力を保つ期間は、湿度と紫外線強度により変化します。ウィルスは湿度が低く日光が弱いところが好きなので、こうした環境にあるところでは長く生き残ります。なので、できるだけ日の光を浴びて明るく、かつ湿度が多いところにいれば、飛沫によるウィルス感染を防げる可能性は高くなる、ということになります。

とくに室内においては、換気をこまめに行い、空気清浄機を動かすこともインフルエンザ対策として効果があるようです。インフルエンザウィルスは湿度50%以上に加湿された環境では急速に死滅するといい、このため部屋の湿度(50-60%)を保つことにより、ウィルスを追い出し飛沫感染の確率を大幅に減らすことが可能になります。




一方、3.の「接触感染」ですが、インフルエンザウィルスは、紙幣、ドアの取っ手、電灯のスイッチなどのほか、家庭にあるその他の物品上、何にでも存在できるため、こうしたものを触ることによって感染がおこります。

ただ、インフルエンザウィルスは、いわゆる「細胞内寄生体」なので「細胞外」では「短時間」しか存在できません。細胞から栄養を取って増殖する生物なので、栄養がない場所では生きられないのです。

物の表面においてウィルスが生存可能な期間は、条件によってかなり異なります。

プラスチックや金属のように、多孔質でない硬い物の表面でかつ、人が絶対に触らない無菌室内にある多孔質でない硬い物の表面で行った実験では、だいたいウィルスは1〜2日間しか生存できなかったそうです。また、こうした無菌室ではなく、我々が生活するような通常の環境において、人が絶対に触らない乾燥した紙では、約15分間だったそうです。

これはつまり、通常の環境では、インフルエンザウィルスといえども、他の細菌や微生物に「食われる」のかどうかわかりませんが、競合して負けてしまうからでしょう。

さらに、手などの皮膚の表面では、ウィルスは速やかに「断片化される」のだそうで、皮膚での生存時間はわずか5分間未満だといいます。ヒトの体の表面にはリボヌクレアーゼ(RNase)と呼ばれる酵素が存在しており、これがウィルスを撃退してくれるようです。

もっとも5分というのは結構長い時間です。ウィルスが付着したトイレのドアの取っ手を握り、そのあと用を足している間に鼻をかんだら、その際にウィルスが鼻の粘膜から進入した、といったケースなどが考えられ、ほかにも「5分以内の悲劇」はいくらでもありそうです。

ただ入ってくるのが口と鼻ということは、その予防においてマスクの着用はかなり有効と考えられます。とくに、飛沫感染防止に特に効果的だとされ、最近多くの医療機関でも防塵性の高い使い捨て型のマスクが利用されています。




ただし、正しい方法で装着し顔にフィットさせなければ有効な防塵性を発揮できないといい、間違ったマスクの使用は感染を拡大させる危険性すらあるといいます。

そのひとつが、使用後のマスクの処分です。予防にマスクを用いた場合は速やかに処分したほうがよく、感染者が使用した鼻紙やマスクは水分を含ませ密封し、廃棄する必要があります。

なお、衣類に唾液・くしゃみなどが付着したものが、直接皮膚に入っていって感染する、といったことは科学的には考えられないそうです。しかし、一応こまめに洗濯した方がよいそうで、同様に、使ったマスクは洗濯をすれば使えるようですが、エチルアルコールや漂白剤などで消毒してから使ったほうが無難です。

もっとも、マスクの着用によってインフルエンザを予防することは、日本で推奨されているほどには欧米では評価されていないのだとか。WHO(世界保健機関)でも推奨されていないそうで、これは十分な予防効果の証拠がまだ確認されていないためだといいます。

マスクは湿気を保つためと、感染者が感染を大きく広げないための手段として考えられている程度だといい、理論的にはウィルスを含む飛沫がマスクの編み目に捉えられると考えられますが、これについても十分な臨床結果を必要とする、と欧米のお医者さんは考えているようです。

また、意外なのですが、インフルエンザの予防効果としての「うがい」もまた、あまり効果がない予防法とされているようです。厚生労働省が作成している予防啓発ポスターには「うがい」の文字がないそうで、また、首相官邸ホームページにも「明確な根拠や科学的に証明されていない」旨が記述されているといいます。

その論拠としては、インフルエンザウィルスは口や喉の粘膜に付着してから細胞内に侵入するまで20分位しかかからないので20分毎にうがいを続けること自体が非現実的であることをあげています。つまり、外出先で感染した場合、20分以上の外出ならもう既に感染しているので、帰ってきてからのうがいは手遅れでナンセンス、ということのようです。

しかし、通常の風邪予防としては効果があるようで、京都大学のお医者さんグループが行った各種実験であり、「うがいをしない群」と「水うがい群」「ヨード液うがい群」に割り付けて実験した結果、「水うがい群」には統計的にみても予防効果が認められたといいます。

通常の風邪とインフルエンザと何が違うんじゃい、ということなのですが、通常の風邪もウィルスの侵入によるものである場合が多いものの、感染までの時間がインフルエンザウィルスよりも長い、ということなのでしょう。

インフルエンザには無効かもしれませんが、通常の風邪予防に効果があるのなら、やはりうがいはしておくに越したことはありません。うがいをすることにより、水の乱流によって通常のウィルスや、埃の中にありウィルスにかかりやすくなる物質が洗い流されること、水道水に含まれる塩素などの効果も期待できるといった見解もあるようです

なお、「ヨード液うがい群」ではむしろ風邪の発症確率が高いという結果が出たそうで、これはヨード液がのどに常在する細菌叢(さいきんそう:細菌の集合体)を壊して風邪ウィルスの侵入を許したり、のどの正常細胞を傷害したりする可能性があるからだとか。うがい薬にも効果があるものとないものがあるようなので、見極めが必要なようです。

ただ、インフルの予防という意味では、うがいなどよりも、体の免疫力を作るほうがより有効のようです。免疫力の低下は感染しやすい状態を作ってしまいますから、ふだんから偏らない十分な栄養や睡眠休息を十分とることが大事です。

体の免疫力を高めるということは、風邪やほかのウィルス感染に関しても非常に効果が高いといい、アメリカ臨床栄養ジャーナルに発表された対照試験の結果では、冬季に毎日基準値以上のビタミンを摂取した生徒群は、摂取しない生徒群に比較して、40%以上も季節性インフルエンザに罹患する率が低かったそうです。

このほかの予防対策としては、感染の可能性が考えられる場所に長時間いることを避ける、ということがやはり重要です。人ごみや感染者のいる場所を避ける、というのは良く言われることではありますが、再認識したほうがよさそうです。

また、うがいに加え、石鹸による手洗いの励行や、手で目や口を触らない、といったことは、やはり物理的な方法でウィルスへの接触や体内への進入を減らすことになります。無論、手袋やマスクの着用といったことも効果があるようです。

と、長々と書いてきましたが、この冬、インフルにかかるのを心配している方には少し早くに立ったでしょうか。

ところで、我々ヒトがかかるインフルエンザはペットもかかるのでしょうか。我が家には猫のテンちゃんがおり、彼女への影響も気になるところです。

調べてみると、人がかかるインフルエンザウィルスに犬や猫がかかる、ということはこれまでに確認されていないようです。

ちなみに「猫インフルエンザ」と呼ばれるものがあるようですが、これはインフルエンザウィルスによるものではなく、呼称は「インフルエンザ」となっていますが、これはヘルペスの一種だそうです。ネコヘルペスウィルスが原因で、症状が風邪に似ているので、本来「猫ヘルペス」とでも呼ぶべきものをこう誤称するようになったものだそうです。

猫特有のヘルペスなので、ヒトに移る可能性もないそうですが、ほかのウィルスの中には、その変異によって動物→ヒト、ヒト→ヒトへ感染することも懸念されているようで、「ヒト→ヒト」への伝染が確認されたものが、「新型インフルエンザ」と呼ばれるようです。

この中でもとくに心配されているのが「鳥インフルエンザ」で、今のところ一般の人に感染する危険性は極めて低いようですが、将来的には、ヒトインフルエンザウィルスと混じり合い、ヒトヒト感染する能力を持つ変異ウィルスが生まれる可能性も懸念されているようです。

無論、ヒト・トリを始めネコにも感染する可能性がないとはいえず、将来、それが爆発的感染(パンデミック)を引き起こす可能性もあるといいます。

せめてこの冬には、そんなおそろしい流行がこないことを祈りつつ、今日のところは筆を治めたいと思います。あるいは今年最後の書き込みになるかもしれません。

残るは数日となりました。インフルの発症がないことを祈りましょう。




冬至の前に

今年の冬至は12月22日だそうです。

これを聞くと、新年を迎えるまでもなく、これを機になにやら新しく年が改まるような気にもなってきます。なぜなら、この日を過ぎれば、ふたたび日は長くなり、これに合わせて一日一日と明るい気分が増えるような気がしてくるからです。

…と、個人的な感情はさておき、この日は、一年で一番太陽が出ている時間が短くなる日です。江戸時代(天明7年。1787年)に江戸で出版された「暦便覧」では、「日南の限りを行て、日の短きの至りなれば也」と説明しています。

太陽が一番南側の軌道を通るので、日がある時間も短くなるんだよ、と端的に説明したもので実にわかりやすい。

冬至以降、太陽はこれよりも北寄りの高い軌道を通ることになり、これにより天空を通る時間も長くなります。最も高い空を太陽が通る場合が「夏至」で、このときの日中の時間は15時間弱に対し、冬至では9時間20分ほどで、5時間半以上の開きがあります。

仮に日没後は何もできなくなるとすると、いかにこの5時間が貴重か、ということになります。無論、現代では電灯というものがあり、何もできなくなるということはありませんが、太古では現代に比べれば活動は大きく制限されたに間違いありません。

もともと人というのは日の出とともに起き、日没とともに寝るという、自然のリズムで生活してきました。

ただし、夜は全く活動しなかったわけでもありません。月が出ている夜は月明りのもと活動することができましたし、火を使うようになってからは、月が出ていない夜でも、何等かの活動ができたはずです。

しかし、それにしても、夜はやはり大半の人々にとっては自宅で静かに過ごす時間帯です。仕事や学校を終えた後が一日の始まりとばかりに、夜遊びにふける人もいるでしょうが、そうした人でも、たいていは夜も半ばを過ぎると睡眠をとる時間帯となります。

日本の場合、電灯など無い時代、夜はまさに闇の世界であり、人々の家のすぐそばまで異界の境は近づいている、とされました。夜はさまざまな魔物や妖怪が出没する時間帯であり、「日本書紀」には、夜は神がつくり、昼は人がつくった、とあります。夜は神の世界でしたから、祭りや神事の多くは、日没から暁にかけて行われたわけです。

この、「夜が怖い」は西洋も同じです。「ヨハネの黙示録」では、夜は、闇と同じく神の救済が届かない、悪の支配領域とされています。また、魔法や魔術は、夜間にその力が発揮されると考えられていることが多く、吸血鬼は夜に活動すると信じられています。また、狼男は満月の夜に狼に変身するという伝承があります。

ギリシア神話の世界では、夜は「ニュクス」という神に支配されていました。原初の時にカオスから生まれた偉大な女神であり、その力たるや神々の王ゼウスも恐れるほどだったといいます。

ニュクスは自分の兄弟にあたる地下の闇 「エレボス」と結婚し、昼の女神「ヘメラ」を産みました。母ニュクスと娘ヘメラは西の果てにある「夜の館」に住んでいますが、一方が帰ってくる時は他方は館から出てゆくので、二人はすれ違うたびに挨拶はかわすものの一緒にいることはけっしてありません。

ニュクスには、エレボスの種によらず、自分だけで子供を産むことができました。このため、数多くの子供たちがおり、そのうちのお気に入りのひとりは、どこにでもニュクスのお供としてついてくる眠りの神「ヒュプノス」でした。また、その双子の兄弟は死の神「タナトス」で、二人はニュクスの夜の館の隣に、ともに居を構えていました。

また、ニュクスの子には、女神「エリス」がおり、彼女から人間の死と苦しみの原因となるあらゆる災いが生まれることになりました。




と、このように夜を支配するものは西洋では「悪」ばかりです。こうした考え方は世界中にあります。日本でも「百鬼夜行」という言葉があるように、夜には、鬼や妖怪の群れ、および、彼らが徘徊し、闇の世界を支配すると考えられていました。

平安時代から室町時代にかけて成立したお伽噺の類ですが、多くの魑魅魍魎(ちみもうりょう)が音をたてながら火をともしてやってきます。さまざまな姿かたちの鬼が歩いている様子などは様々な物語で語られて恐れられ、百鬼夜行に出遭うと死んでしまうといわれていました。

暦のうえで百鬼夜行が出現する「百鬼夜行日」も決められていて、こうした日に貴族などは夜の外出を控えたといわれています。しかし、「カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」と呪文を唱えると、百鬼夜行の害を避けられるといわれていました。

平安時代後期の歌人、藤原清輔が著した歌論書「袋草紙」などにも同様の歌は記されており、同様に「かたしはや えかせせくりに くめるさけ てえひあしえひ われえひにけり」と書かれています。

意味不明の暗号のように聞こえますが、これは「難しはや、行か瀬に庫裏に貯める酒、手酔い足酔い、我し来にけり」と漢字交じりで書かれた和歌です。

「百鬼夜行の会に集まれなかったのは、行こうとしたら寺の庫裏に酒が隠されていたのを見つけたからだ。坊主の癖に酒を呑むとはけしからん。それならこの俺様が呑んでやろうということで、手足が動かなくなるくらい飲んで酔っ払ってしまったが、それでもようやくここにやってきたのだ」

という、ある鬼が、宴会に遅れてきた言い訳を歌ったものです。これを呪文のように唱えれば、鬼が仲間だと間違えて、見逃してくれる、ということだったのでしょう。

「宇治拾遺物語昔話」では、様々な様相の鬼たち百人ばかりが火をともしてがやがやと出現する場面がいくつも描写されており、その度に夜の宴が繰り広げられています。鬼というものはよほど酒が好きなのでしょう。

この「宇治拾遺物語昔話」とは、13世紀前半頃に成立した、中世日本の説話物語集です。ここには、このほか、おとぎ話として我々もよく知る、「こぶとりじいさん」の話も入っています。

百鬼夜行の末、出てきた鬼たちが、正直者と嘘つきの爺さんと繰り広げられる騒動を描いたものですが、もう子供のころのことだから忘れた、という人のために、簡単にあらすじを書いておくと、次のような内容です。

あるところに、頬に大きな瘤の二人の翁が隣どうしで住んでいました。片方は正直で温厚、もう片方は瘤をからかった子供を殴る、蹴るなど乱暴で意地悪でした。ある日の晩、正直な翁が夜更けに鬼の宴会に出くわし、踊りを披露すると鬼は、その踊りのうまさに感心して、やれ酒を飲め、ご馳走を食え、と勧めます。

あげくのはてには、翌晩も来て踊るように命じ、もし来なければ容赦はしない。明日絶対ここへ来ざるを得ないよう、預かっておいてやる、とばかりにと翁の大きな瘤を「すぽん」と傷も残さず取ってしまいました。

翌日、その話を正直爺さんから聞いた隣の意地悪な翁が、それなら自分の瘤も取ってもらおうと考えます。さっそく夜になって、その場所に出かけると、同じように鬼が宴会しています。意地悪翁は張り切って踊り始めますが、正直爺さんの踊りに比べて出鱈目で下手な踊りを披露したので、逆に鬼たちはかんかんに怒ってしまいます。

そして、「ええい、下手くそジジイ! こんな瘤は返してやる。もう二度と来るな」と言って昨日の翁から取り上げた瘤を、意地悪な翁のあいた頬にくっつけると「今日の宴会はもうやめだ」と興ざめして去ってしまいました。

こうして正直な翁は瘤がなくなって清々しますが、意地悪な翁は瘤が二つになり、その後歩くにもものを食べるのにも難儀しながら、一生を過ごしました…



という話ですが、思い出したでしょうか。

実はこの話、その後、日本だけでなく、世界的に広く分布したといいます。アジアでは中国やインドネシアその他で流布され、また、ヨーロッパや北アフリカなどでも広まりました。

しかし、日本に近い東洋では顔のこぶとして伝わりましたが、西洋や中東では背中のこぶとなって伝わりました。

たとえば、中東などのイスラム圏では、公衆浴場に悪魔が宴会をしていて、背中の瘤を取られる、というふうに変わっており、ここではさらに、鬼たちの二回目の宴会は葬式になっていて、そこでふざけた踊りに悪魔が怒り出す、といったふうに翻案されています。

このほか、ヨーロッパでは、有名なドイツのメルヘン集、グリム童話にも類話があります。「小人の贈り物」というタイトルで、これは、ふたりの職人が、旅の途中、丘の上で踊る小人の老人たちに出会うという話です。

ひとりの職人が誘われて一緒に踊っていると、小人の老人にいきなり髪の毛とひげをそられ、あげくのはてに背中の瘤をもぎ取られ、バランスが悪くなるだろう、代わりに石炭を持って行けといわれます。翌朝、老人の目が覚めると、髪もひげも元通りでしたが、瘤はなくなっていました。そして驚いたことに、貰った石炭は純金にかわっていました。

これを聞いたもうひとりの職人は欲を出します。そして、最初の職人に聞いた場所に出かけていき、最初の職人と同様な扱いを受け、用意していた袋にはどっさり石炭を詰めこんで帰ってきます。しかしそれは朝になっても石炭のままで、そられた頭もつるつるのまま、しかも背中にあったこぶがもうひとつふえていた、という話です

ヨーロッパに伝わるこぶとりじいさんの話にはこのほか、最初の者がせっかく取ってもらった瘤を返される、といった変種も存在するようで、鬼と弱者というストーリーはそのままに、微妙に内容がすり替わったものが多いようです。

ところが、こうした海外に伝わるこぶとりじいさんの話は、日本の昔話と違い、鬼や悪魔、あるいは小人が「瘤は大切な物に違いない」と誤解する設定はないといいます。

宇治拾遺物語の話では、翁が「たゞ目はなをばめすともこのこぶはゆるし給候はん」と言っています。つまりは、「目や鼻ならば取ってもいいが、瘤だけは自分にとって大切なものであって、それだけは取らないでほしい」と懇願しています。

それに対し、鬼たちは「かうをしみ申物なり。たゞそれを取べし」とささやきあいます。これは、「これほど惜しむものならば(よほど福をもらすものであろう)、それを取ってしまえ」という意味になります。

これをどう解釈するか、ですが、日本やアジアの諸国では、中国の儒教が伝わった国が多く、儒教において「孝」は最も重要視された徳目の1つであり、古代より顕彰の対象とされました。

孝(こう)とは、子供が自身の親に忠実に従うことを示す道徳概念であり、親から貰った体はどんなものであっても、大事にしなければならない、ということを基本理念としています。そして、孝を守る振舞いである「親孝行」が高く評価され、これを実践する人を「孝子(こうし)」と呼びました。




西洋にはこうした概念はなく、だからといって自分の体を大事にしない、ということはないのでしょうが、中国や日本などのアジア諸国のように、たとえ瘤であっても親から貰った大事なもの、宝物として一生持って暮らすことを徳とする、という考え方は理解しがたいものだったのでしょう。

たとえ瘤とはいえ、自分の体の一部なのだから、どんなものでも大切にしたい、とする考え方は、東洋的なものといえ、こぶとりじいさんの話のエッセンスの部分は世界中広まりましたが、こうした細かい機微までは伝わらなかったのかもしれません。

もっとも、医学的にみると、こぶとりじいさんで描かれている「瘤」は一種の「腫瘍」であり、できるものなら鬼にでも取ってもらったほうがよさそうです。

頬にできる腫瘍ということは、「耳下腺」という唾液が出るリンパ系にできる「多形性腺腫」と解釈できるということで、正常な腺上皮細胞に変異が生じて腫瘍化したものだそうです。

ただ、こうした腫瘍は、いわゆる「良性腫瘍」であることがほとんどなので、「瘤」といわれるほど大きくなっても平気だそうで、腺癌などの悪性腫瘍であったならばここまで大きくなる前に他の臓器に転移してしまうといいます。

気になるならば、病院に行けば取ってもらえるそうで、また、仮に他人の瘤を鬼につけられたとしても、拒絶反応により日時が経過すればそのうち取れる可能性が高いといいます。

しかし、他人にとっては邪魔なものに見えても、自分にとっては大事なものである場合も多いのは確か。顔にあるほくろもえくぼもそのひとつであり、むしろ「愛嬌」とみなされる場合も多いわけであって、無理して取ることはないわけです。なにごとにつけても、自然が一番です。

ほくろに関していえば、さらに、おでこの真ん中や眉毛の中にあるものは、むしろ幸運の印なのだそうで、お金持ちになれるといいます。さらに耳たぶや耳の裏にあるホクロも金運だったり、仕事運が向上する証だといいます。

私には大きな瘤もほくろもありませんが、だからお金持ちにならないのかな~と思ったりもしますが、それはそれでまた別の話。甲斐性がないにすぎません。

さて、年も押し迫ってきました。今年も悪性腫瘍ができたり、悪い病気にもかからなかったのがせめてもの救い。来年も健康であるように祈りましょう。




サルバトール・ムンディ

「サルバトール・ムンディ」は、イタリアの美術家レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた油彩画で、青いローブをまとった人物の肖像画です。

英語表記は、“Salvator Mundi” で、これは 「世界の救世主」という意味のラテン語です。つまりはイエス・キリストを書いた絵になります。

ダ・ヴィンチの油彩画は現存数が少なく、発見されているだけでも十数点といわれています。描かれたのは1490年から1500年前後の間と推定され、フランスのルイ12世のために描かれたとみられます。後に、イギリス国王、チャールズ1世の手に渡りました

フランスから嫁いだ妻ヘンリエッタ・マリアが英国に持ち込み、寝室に飾っていたのではないか、と考えられています。しかし、チャールズ1世はイングランド内戦(清教徒革命)に破れて公開処刑されてしまいました。

王位とともに絵を引き継いだのが嫡男チャールズ2世(1630~1685)でした。その後バッキンガム公の庶子であるチャールズ・ヒューバート・シェッツフィードの手に渡り、1763年にオークションにかけられたあと、所在がわからなくなっていました。

1900年に久々にその姿を現しますが、この時すでにこの絵にかつての面影はありませんでした。キリストの顔や髪は大きく描き変えられて、弟子のひとり、ベルナルイディノ・ルイニの作品として、英国の絵画コレクター、フランシス・クック卿に売却されました。しかし、翌年にクック卿は亡くなってしまいます。

それからおよそ半世紀経った1958年、クック卿の子孫により、「サルバトール・ムンディ」は、サザビーズのオークションにかけられます。落札価格は45ポンド(現在のレートで約6000円)でした。しかし、落札者は不明で、弟子の絵という評価のまま、絵は再び姿を消します。

更におよそ半世紀を経てダ・ヴィンチが現れたのは2005年。今度はアメリカ・ニューヨークの競売で、アレックス・パリシュら複数の美術専門家が1万ドル足らずで落札し、ようやく本格的な修復と鑑定が始まりました。

修復は2007年からニューヨーク大学の修復師、ダイアン・モデスティーン(Dianne Dwyer Modestini)が手掛け、完成までに6年かかったといわれています。絵画修復に関して優れた技術を持っていたモデスティーンは、何世紀にもわたって塗り重ねられてきたやワニスや加筆された絵具を徐々に剥がしていきました。

それは神経をすり減らす作業でしたが、修復を始めた当初、彼女はこれはきっと偽物に違いない、と思っていたそうです。「サルバトール・ムンディ」が描かれたルネッサンス時代とその後には同じような絵画が、他のアーティストによって何度もコピーされていたからです。

しかし、修復が進むにつれ、彼女は、この絵が「非常に激しい」ものを持っていると感じるようになったといいます。そして、描いた人物の芸術性と天性に気付き、そこに修復師としての彼女がそれまでに経験したことのないような世界を感じるようになりました。

さらに修復が進むにつれ、もしかしたらこれはダ・ヴィンチの絵かも知れないと思いはじめ、もしそうだとするとこの絵の価値は計り知れないと思うようになると、修復を進める手が震えたといいます。




こうして修復が終わった絵は、専門家の鑑定でダ・ヴィンチの作品だと結論づけられました。

それにしても、なぜこの絵が本物とわかったのか。

ダ・ヴィンチは仕事がゆっくりで作品をなかなか完成させなかったそうです。その理由を、ロンドンのナショナルギャラリーで、同じダ・ヴィンチ作の「岩窟の聖母」の修復作業を行った修復家はこう語っています。

「ダ・ヴィンチは常に表現の可能性を探っていたため、彼の絵にはあちこちに修正の跡が見て取れる」

パリのルーブル美術館にある「モナ・リザ」のミステリアスな微笑みは、ダ・ヴィンチの優れた技術が生み出したものであり、色を薄く塗り重ねていく手法により幻想的な光を表現しています。これらダ・ヴィンチ特有の筆遣いは、ニューヨークで発見された「サルバトール・ムンディ」にも共通するものでした。

さらに赤外線を使った鑑定で、下絵に試行錯誤の跡が見つかり、作品が本物である可能性は決定づけられました。こうしてダ・ヴィンチの幻の名画として再びこの世によみがえることとなりました。

改めて絵をみてみると、ダ・ヴィンチの肖像画作品によく見られる細部まで描き込まれた手の描写が確認できます。また、何度も塗り重ねられたと思われる顔の輪郭などから、描かれたキリストの存在感を感じさせる作品となっています。

右手はキリスト教で祝福を与えるポーズで左手にはキリスト教で生命を表す水晶を持っています。これはキリストの再誕と復活を意味するものです。

しかし、本物の水晶を見たことがある人は、この絵に違和感を覚えます。なぜなら、通常このような水晶玉を持った場合、玉の中の光が屈折し映し出されたものは反転するはずで、このようなスカスカした透明の状態になるはずがないからです。

何やら単なる水の玉を持っていると思えるほどに水晶玉感はなく、違和感が残ります。科学に精通していたダ・ヴィンチがこのような表現をするとは思えない、という学者もおり、何等かのメッセージではないかとも言われています。が、その謎解きは始まったばかりです。

2011年、これを含めたダ・ヴィンチの作品11点がロンドンのナショナル・ギャラリーに集められた際に公開され、大きな注目を集めました。ここからその価値が年を追うごとに上がっていきます。

2013年に競売大手サザビーズのオークションでスイス人美術商イブ・ブービエに8000万ドル(約90億円)で落札された後、ロシア人の富豪でサッカー・フランス・リーグASモナコの会長を務めるドミトリー・リボロフレフ氏が1億2750万ドル(約140億円)で買い取りました。

90億円のものをそれ以上の額で転売したことになり、この買い取り額について、後にリボロフレフは詐欺として売り手のイブ・ブービエを訴えています。

そういいつつも、ドミトリー・リボロフレフは今年11月15日にクリスティーズのオークションにこれを出品しました。その結果、手数料を含めて4億5031万2500ドル(当時のレートで約508億円)で落札されました。買値の3倍以上であり、イブ・ブービエに対する訴訟はなんだったのか、と突っ込みたくなります。

この金額はパブロ・ピカソの「アルジェの女たち バージョンO(オー);ハーレムの女性たちを描いたフランスの画家ドラクロワ作品のオマージュで、「A」から「O」までの合計15作品の連作となる)の1億7940万ドル(約200億円)の2倍以上となり、これまでの美術品の落札価格としては史上最高額でした。



買い取ったのは、UAE(アラブ首長国連邦(首都アブダビ)の新しい美術館、ルーブル・アブダ。フランスのルーブル美術館で初となる海外別館で、2007年、フランス両国の政府間協定によって誕生しました。

協定は「ルーブル」の名前を30年間使用できること、常設コレクションの増加に伴い徐々に減少させるのなら、フランス機関の芸術作品を10年間借用することができること、また仮設展示については15年間にわたって協力する、といった内容でした。

「ヤシの木からの木漏れ日」をモチーフにしたこの美術館のデザインは、世界的なフランスの建築家によるもので、幾何学模様で装飾されたドーム型の建物は6000平方メートルあり、ギャラリー、展示場、幼児向けの子ども美術館、調査センター、レストラン、ブティック、カフェを備えており、ピカソやゴッホなどおよそ900点の作品が展示されています。

一般公開されたついこのあいだの11月11日には、多くの観光客が訪れ、用意された5,000枚のチケットは完売したといいます。展示作品は世界中の文明に由来するもので、その一部は、フランスの主要美術機関13カ所から借り受けた作品300点とともに展示されました。

この開館から約1ヶ月後の2017年12月9日、アブダビの文化観光局は、レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作「サルバトール・ムンディ」を獲得したと発表しました。現在、ダ・ヴィンチのもう1つの傑作でルーブル美術館から借り受けている「ミラノの貴婦人の肖像」とともに、「過去100年で最高級の美術的再発見」と銘打ち、展示されているようです。

美術館は、2017年12月21日開幕するオープン特別展の準備も進めています。展示会では重要な絵画、彫刻、装飾美術、その他の作品約150点が展示される予定ですが、その大半はルーブル美術館のコレクションで、ベルサイユ宮殿からのものもあるといいます。

無論、この特別展の展示物よりも常設展示場にある「サルバトール・ムンディ」のほうが人気が集まるに違いありません。

それにしても、この絵がいつ描かれたか、なぜこうした絵になったのかについては、専門家も首をかしげているようです。それをひも解くためにも、少し、レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯を辿ってみましょう。

ダ・ヴィンチは1452年4月15日に、ヴィンチに生まれました。イタリア北西部、トスカーナ地方を流れ地中海に注ぐアルノ川下流に位置する村で、フィレンツェ共和国に属していました。

当時フィレンツェはメジチ家が実質的な支配者として君臨し、その財力でボッティチェリ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ヴァザーリ、ブロンツィーノ、アッローリなどの多数の芸術家をパトロンとして支援していました。

ダ・ヴィンチの幼少期についてはほとんど伝わっていません。生まれてから5年をヴィンチの村落で母親とともに暮らし、5才からは父親、祖父母、叔父フランチェスコと、ヴィンチの都市部で過ごしたことぐらいしかわかっていません。

1466年に、14歳だったダ・ヴィンチは「フィレンツェでもっとも優れた」工房のひとつを主宰していた芸術家「ヴェロッキオ」に弟子入りしました。そしてこの工房で、理論面、技術面ともに目覚しい才能を見せはじめます。

彼の才能は、ドローイング、絵画、彫刻といった芸術分野だけでなく、設計分野、化学、冶金学、金属加工、石膏鋳型鋳造、皮細工、機械工学、木工など、様々な分野に及んでいました。そして、20歳になる1472年までに、聖ルカ組合からマスター(親方)の資格を得ています。

ダ・ヴィンチが所属していた聖ルカ組合は、芸術だけでなくまた医学も対象としたギルドでした。その後、父親セル・ピエロが自宅にダ・ヴィンチに工房を与えてヴェロッキオから独立させましたが、彼はヴェロッキオとの協業関係を継続していきました。

しかし1478年、26歳になった彼は、ヴェロッキオとの共同制作を中止します。そしてフィレンツェの父親の家からも出て行ったと思われます。この年、最初の独立した絵画制作の依頼を受けました。ヴェッキオ宮殿サン・ベルナルド礼拝堂の祭壇画の制作で、さらにサン・ドナート・スコペート修道院からも、「東方三博士の礼拝」の制作依頼も受けます。

しかしながら、礼拝堂祭壇画は未完成のまま放置されました。「東方三博士の礼拝」もダ・ヴィンチがミラノ公国へと向かったために制作が中断され、未完成に終わっています。

その後、1482年から1499年まで、ダ・ヴィンチは「ミラノ公国」で活動しました。フィレンツェのさらに北部に位置し、現在のスイスとの国境にあった国で、フィレンツェとは同盟関係にありました。

現在ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する「岩窟の聖母」は、1483年にこのミラノにおいて、「無原罪の御宿り信心会」からの依頼でダ・ヴィンチが描いたものです。また、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院のかの有名な壁画「最後の晩餐(作画1495-1498年と推定)」も、このミラノ公国滞在時に描かれた作品として知られています。

ダ・ヴィンチはミラノ公ルドヴィーコから、様々な企画を命じられていました。特別な日に使用する山車とパレードの準備、ミラノ大聖堂円屋根の設計、スフォルツァ家の初代ミラノ公フランチェスコ・スフォルツァの巨大な騎馬像の制作などなどです。

1502年にダ・ヴィンチはイタリア北部の海岸沿いにある街、チェゼーナを訪れました。ローマ教皇アレクサンデル6世の息子チェーザレ・ボルジアが治めていた街で、ここで軍事技術者として働くようになり、チェーザレとともにイタリア中を行脚しました。

また、チェーザレの命令で、要塞を建築するイーモラの開発計画となる地図を制作しました。当時の地図は極めて希少であるだけでなく、その制作に当たってはダ・ヴィンチのまったく新しい概念が導入されていたといいます。しかしこの滞在は短く、その翌年ころには再びフィレンツェに戻り、1508年に芸術家ギルド「聖ルカ組合」に再加入しています。

チェゼーナでの滞在は短かいものでしたが、この間、かの有名な「モナ・リザ」も描かれたと考えられています。おそらくその制作を開始したのは1503年か1504年と推定されており、しかし、この作品もまた未完成のまま終わったのではないか、とする説が根強くあります。

ダ・ヴィンチと同時代人のジョルジョ・ヴァザーリは「ダ・ヴィンチはモナ・リザ制作に4年を費やしたが、結局未完に終わった」と記しているほか、後年の鑑定家なども晩年の彼はただの1作も完成させることができなかったのではないか、としています。




「サルバトール・ムンディ(救世主)」が描かれたのも、この時期か、あるいは、これより以前、フィレンツェを出たのちミラノへと向かい、またイタリア中を行脚していた間かと思われます。1490年から1500年前後ということになり、多くの鑑定家がそう考えているようですが、「モナ・リザ」のように作成年が絞り込まれているわけではありません。

それにしてもこの絵、不思議な絵です。言うまでもなく男性であるキリスト像を描いているわけですが、どこか中性的であり違和感がある。女性と言われればそんな気もしてくるようであり、どこかホモセクシュアルの臭いを感じるのは私だけでないでしょう。

実は、ダ・ヴィンチはそうだったのではないか、とする憶測もあり、そうした噂が出るのは、1476年のフィレンツェの裁判記録があり、そこに、彼が他3名の青年とともに同性愛の容疑をかけられたが放免された、と記されているからです。

この青年たちが誰だったのか、どういう人物だったのかは詳しくはわかりません。が、ダ・ヴィンチは若い頃から多くの若者に囲まれており、数人の内弟子を持っていたことが知られています。そしてその一人が「小悪魔」を意味する「サライ」という通称で知られるジャン・ジャコモ・カプロッティです。

サライがダ・ヴィンチの邸宅に住み込みの徒弟としてダ・ヴィンチに入門したのは10歳のときで、1490年のことでした。画家としてはアンドレア・サライ (Andrea Salai) いう名前で活動し、その後、ダ・ヴィンチが死去する直前まで生活を共にしました。

サライは1480年にピエトロ・ディ・ジョヴァンニの息子として生まれました。ピエトロは、ミランのポルタ・ヴェルチェッリーナ近郊に、ダ・ヴィンチが所有していたワイン畑で働いていた人物です。

その縁があってダ・ヴィンチに入門したと考えられていますがが、素行が悪く、その後1年足らずでダ・ヴィンチの金銭や貴重品を少なくとも5度にわたって盗んだといわれています。

サライはこれらの盗品を高価な衣装の購入に充てるだけでなく、日ごろから素行が悪かったようで、ダ・ヴィンチは彼の不品行を「盗人、嘘吐き、強情、大食漢」とののしっていたといいます。しかしながらダ・ヴィンチはサライをこの上なく甘やかし、その後30年にわたって自身の邸宅に住まわせています。

アンドレア・サライという名で多くの絵画を描くことができたのもそのおかげであり、実際、ダ・ヴィンチはサライに対し、自分が持っている多大なスキルを教えたようです。

ところが、その関係は単なる師弟のそれを超えていたのではないか、とする説があります。その一つの傍証として、ダ・ヴィンチと同じルネッサンス期のイタリア人芸術家、美術史家ジョルジョ・ヴァザーリが、その著書でサライについて「優雅で美しい若者で、ダ・ヴィンチは(サライの)巻き毛を非常に好んでいた」と記していることなどがあげられます。

また、ダ・ヴィンチは、ロンバルディアの貴族の子弟フランチェスコ・メルツィという若者も弟子にしています。メルツィはその後、ダ・ヴィンチの秘書兼主席助手のような存在となりますが、ヴァザーリはメルツィについても「当時のダ・ヴィンチがもっとも愛した美しい若者」と記しています。



しかし、交友関係以外のこうしたダ・ヴィンチの私生活に関しての資料は少なく、謎に包まれています。そのためもあり、ダ・ヴィンチの性的嗜好は、さまざまな当てこすり、研究、憶測の的になっています。

最初にダ・ヴィンチの性的嗜好が話題になったのは彼の死後50年ほども経った、16世紀半ばのことでした。その後19世紀、20世紀にもこの話題が取り上げられており、中でも有名なのは、心理学で有名なジークムント・フロイト(1856-1839)が唱えた説です。

それによれば、ダ・ヴィンチともっとも親密な関係を築いたのは、弟子のサライとメルツィのふたりです。フロイトによれば、とくにメルツィとは親密で、ダ・ヴィンチの死を知らせる書簡をダ・ヴィンチの兄弟に送ったのも彼です。その書簡にはダ・ヴィンチがいかに自分たちを情熱的に愛したかということが書かれていたといいます。

上のとおり、1476年のフィレンツェの裁判記録に、当時24歳だったダ・ヴィンチ他3名の青年が、同性愛の容疑をかけられたという記録がありますが、実はこの3人の正体とは「男娼」ではなかったか、とする説も、こうした中から出てきました。支払か何かをめぐり、ダ・ヴィンチと彼らが揉め事を起こして記録に残ったのではないかとする説です。

この件でダ・ヴィンチは証拠不十分で放免されていますが、その後容疑者である青年の一人の素性が明らかになりました。フィレンツェの支配者でメディチ家の実力者、そしてダ・ヴィンチを庇護していたロレンツォ・デ・メディチの縁者であるということが判明し、このことから、メディチ家が圧力をかけて無罪とさせたのではないかといわれています。

こうしたことから、ダ・ヴィンチに同性愛者の傾向があったのではないか、とする説は根強く、「サルバトール・ムンディ」以外にも、「洗礼者ヨハネ」や「バッカス」といった絵画作品、その他多くのドローイングに両性具有的な性愛表現が見られるとする研究者もいます。

とまれ憶測にすぎません。たとえそうだったとしても、ダ・ヴィンチの数々の功績を汚すものではありません。

その晩年の1513年9月から1516年にかけて、ダ・ヴィンチはイタリア中部、ヴァチカンのベルヴェデーレ宮殿で多くのときを過ごしています。

さらにこののち、フランソワ1世によってフランスに招かれ、王の居城アンボワーズ城近くのクロ・リュセ城(通称クルーの館)を邸宅として与えられました。ダ・ヴィンチは死去するまでの最晩年の3年間を、弟子のミラノ貴族フランチェスコ・メルツィら弟子や友人たちとともにここで過ごしました。

そして1519年5月2日にダ・ヴィンチはで死去しました。67歳没。フランソワ1世とは最後まで緊密な関係を築いたと考えられており、ヴァザーリも彼がフランソワ1世の腕の中で息を引き取ったと記しています。

ダ・ヴィンチは最後の数日間を司祭と過ごして告解を行い、臨終の秘蹟を受け、敬虔深いクリスチャンとして最後を遂げたようです。ヴァザーリはまた、ダ・ヴィンチの遺言に従って、60名の貧者が彼の葬列に参加したと書いています。

ダ・ヴィンチの主たる相続人兼遺言執行者は一番弟子のフランチェスコ・メルツィでした。彼は金銭的遺産だけでなく、絵画、道具、蔵書、私物なども相続しました。ダ・ヴィンチはまた、自身の兄弟たちには土地を与え、給仕係の女性には毛皮の縁飾りがついた最高級の黒いマントを遺したといいます。

彼の遺体は、ロワール川を見渡す岬に建アンボワーズ城のサン=ユベール礼拝堂に埋葬されました。アンボワーズ城は、シャルル7世、ルイ11世、シャルル8世、フランソワ1世らヴァロワ朝の国王が過ごした城です。フランソワ1世がレオナルド・ダ・ヴィンチを呼び寄せたクロ・リュセ城はすぐ近くにあります。

ダ・ヴィンチが亡くなったあと、メルツィはイタリアに戻って結婚し、8人の子供を設けましたが、1570年ころに70代後半で亡くなったとされています。彼はダ・ヴィンチが残した絵のうち、未完成のまま残っていたものを補修もしくは加筆し、完成させたともいわれています。

また、もう一人の愛弟子、サライはダ・ヴィンチの生前の1518年に彼のもとを去り、フランスを後にしました。ミラノに戻ったサライは、父ピエトロが働いていたダ・ヴィンチ所有のワイン畑で芸術活動を続けました。その翌年の1519年にダ・ヴィンチが死去したときに、このワイン畑の半分を遺言によってサライが相続しています。

また、サライは遺産としてワイン畑だけではなく「モナ・リザ」など複数の絵画作品も同時に相続したと考えられています。サライが相続したこれらの絵画作品の多くは、後に彼を看取ったとされるフランス王フランソワ1世の所有となりました。その中に「サルバトール・ムンディ」もあったに違いありません。

サライは1523年6月14日に、43歳でビアンカ・コロディローリ・ダンノと結婚しました。しかし、結婚した翌年に決闘で負った矢傷がもとで死去し、1524年3月10日にミラノで埋葬されています。