千夜一夜

11月も半ばを超えようとしています。

メディアからはあちこちの紅葉の進み具合が寄せられてきますが、ここ伊豆ではまだそれほど赤くなっていないようです。

先日、紅葉を撮影しようと天城峠下の滑沢渓谷へ出かけたところ、ほとんどのモミジがまだ濃い緑色をしていました。

色づき始めるまでには… そう、あとまだ10日以上はかかるのではないでしょうか。

秋に葉を赤や黄色に染めるのはだいたい広葉樹です。その色づきの具合は、冷え込みと太陽光に関係しており、朝晩の冷え込み、日中の日差しが強くなると紅葉が始まります。

夏の間、葉に溜め込まれた養分はこの時期、幹の方に移動し、次の春に向けて樹木本体の成長に備えます。そして、葉と枝の間には「離層」ができ、水や栄養分の行き来がなくなり、「落葉」の準備ができます。

このとき、カエデなど赤く色づく植物は、葉に取り残された栄養分が光に反応して赤い色素(アントシアニン)を作ります。これが紅葉の仕組みです。ところが、夏の間、晴天が続く年には鮮やかな赤に染まりますが、曇りや雨の日が続くと、色づきが悪くなります。栄養素のアントシアニンが蓄積されないためです。

今年の夏は長いあいだ不順が続いていました。関東では1ヶ月以上晴れ間が出ない時期もあったようですが、ここ伊豆はそれほどでもないにせよ、やはり晴天は少なかったようです。なので、今年はあまりきれいな紅葉は期待できないかな、と思ったりもしています。

とはいえ、今朝のように冷え込みが激しいと、あぁこれでまた天城や湯ヶ島の紅葉が一段と進むだろう、とついつい思いが馳せます。フォトジェニックな光景があそこにもここにもあるに違いない、と想像すると、家にいるのがもったいなく、落ち着きがなくなります。

私にとっては一年間で最も活動的な時期かもしれません。気温も適度で、それほど着込むこともなく、精力的に野外活動が楽しめます。紅葉だけでなく、朝晩の空模様や山生の様子も美しく、どうしてもカメラを持ち出す機会が増えます。結果として、シャッターを切る回数も増え、かくしてサーバーのストレージはどんどんと減っていきます…

このように日中の活動が活発なせいもあり、夜はこれがまたよく眠れます。布団に入るのが心地よく、夜中にトイレにいかなければ、いくつもいくつも夢を見ます。

今朝方も妙な夢をみました。昔の上司やら亡くなった父やらが登場し、何やら複雑な人間関係の中でありえないことが次々起こる、といった夢でした。もっとも、本人にはなにやら意味深な夢であったように思えても、人に話すとふーん、そうなの、で終わってしまいそうな類のものです。

こうした脈略のない夢は誰しもが見ると思います。それを取りまとめたようなものも古今東西ゴマンとありますが、たいていは陳腐なものになりがちです。しかし、その中でも群を抜いて完成度の高い印象があるもののひとつに「千夜一夜物語」があります。

イスラム世界における説話集で、「アラビアンナイト」の名称でも広く知られています。アラビア語の題名は「アルフ・ライラ・ワ・ライラ」といい、alfが「千」、laylahが「夜」、waは接続詞「と」で、その直訳は「千夜と一夜」になります。

3~7世紀に勃興したサーサーン朝時代に、ペルシャ・インド・ギリシャなど各地の民話が集められたものが元になっています。サーサーン朝というのは、現在のインド西部、アフガニスタンからエジプトに至る、いわゆる中東といわれる地域であり、通称として「ササーン朝ペルシャ」とも呼ばれる王国です。

その後、8世紀後半に、新都バクダッドがイスラーム帝国の中心都市として整備され始めた以降、千夜一夜物語はアラビア語に翻訳され、9世紀にはその原型ができたとされます。

この写本を、ルイ14世に仕えていたフランスの東洋学者アントワーヌ・ガランが、アラビア語から仏語に翻訳しました。そして1704年に「千一夜」として出版したのがきっかけにヨーロッパ中にブームが起きました。

以降、世界中で翻訳されて広まることとなりますが、日本では、1875年(明治8年)に初翻訳され、「千夜一夜物語」「アラビアンナイト」の呼称が定着しました。以来英語・フランス語などのさまざまなバージョンからの重訳が行われました。




日本ではこのなかでも有名な説話が児童文学に翻案されて親しまれました。そして「千夜一夜物語」という呼称よりも、よろエキゾチックな「アラビアン・ナイト」の名のほうが親しまれるようになりました。

ペルシャの王に対して、その妻が毎夜物語を語る形式を採るこの話は、千夜一夜の名の通り、1001話あるかといえば、そうではありません。アントワーヌ・ガランが翻訳に使用した「千一夜」のアラビア語の写本は282話しかなく、また結末はなかったそうです。

しかし出版以降、「千一夜」を目標に、ガランを含む多くのヨーロッパ人によって次々と話が追加されました。その中には、アラジンと魔法のランプ、シンドバッドの冒険、アリババと40人の盗賊、空飛ぶ絨毯などなど、ディズニー映画の原題になったものが多数含まれています。しかしこれらは元のアラビア語の原本からかなり歪曲されています。

とくにその結末には、いくつもの創作の手が加えられたものが多く、出版社によってその脚色内容もかなり異なっているようです。

ただ、1984年に、「千一夜物語研究」で有名なムフシン・マフディーが発表した「初期アラビア語版による千一夜」は、本来の「千一夜」に一番近いものだとされているようです。イラク系アメリカ人だった彼は、先祖であるアラビア人の歴史、文学、哲学に精通し、それを正確に後世に伝えようとしました。

マフディーなどが編纂した、こうしたオリジナルに近い千夜一夜物語は、ペルシャ・インド・ギリシャなど様々な地域の物語を含み、当時の歴史家の書いた歴史書とは異なり、中世のイスラム世界の一般庶民の生活を知る一級の資料でもあります。

その理由は、冒険商人たちをモデルにした架空の人物らが主人公として登場する一方で、ササン朝ペルシャ以降で最も隆盛を誇ったアッバース朝(中東地域を支配したイスラム帝国第2の世襲王朝・750年 – 1517年)の王、その妃などの実在の人物が登場するためです。

なかでも、アッバース朝・第5代カリフ(イスラーム国家の指導者、最高権威者の称号)、ハールーン・アッ=ラシード(763~809)は、全盛期のアッバース朝に君臨した偉大なる帝王として語り継がれている人物です。

彼は、796年には宮廷をユーフラテス川中流のラッカに移転させ、治世の残りをラッカに築いた宮殿で過ごしました。

ラッカといえば、イスラム国が占領した拠点として世界中に知られるようになりましたが、当時も農業の中心・交通の要所で、シリア・エジプトやペルシャ・中央アジア方面の軍の指揮に適した軍事上の要衝であり、東ローマ帝国の国境に近い戦闘の最前線でもありました。

ハールーンは797年、803年、806年と3度にわたって行われた東ローマ帝国に対する親征でいずれも勝利を収め、アッバース朝の勢力は最盛期を迎えました。文化の面では学芸を奨励し、イスラム文化の黄金時代の土台が築かれたことで知られています。

それほど隆盛を誇った時代の王であったこともあり、千夜一夜物語の第9話にも、ハールーンが実名出てきます。しかし、千夜一夜物語は、別のサーサーン朝の王、“シャフリヤール”と呼ばれる架空の王の逸話から始まります。

そんな千夜一夜物語はいわゆる「枠物語」の手法で描かれており、これは、大枠の話の中に、より小さな物語を埋め込んだ入れ子構造の物語のことです。

導入的な物語を「枠」として使うことによって、ばらばらの短編群を繋いだりそれらが物語られる場の状況を語ったりするような物語技法です。こうしたフォーマットはさまざまな語り手が自分の好きな話あるいは知っている話を語り、一方で語りたくないものは語らず、他の場所から聞いた話を付け加えることもできるという融通性を持っています。

作者が以前から温めていたストーリーを短編にして、長い物語の中に組み込むのにも都合のいい形式でもあり、サーサーン朝時代に、アラブの各地から集められた民話を編集するのにも都合のよい形式であったわけです。



さて、その「枠」にあたる冒頭の話はこんな風に始まります。

昔々、ササン朝ペルシャに“シャフリヤール”という王がいました。王は東にあるインドや中国も攻略し、ここを手中に治めるほどの勢力を誇っており、その弟の“シャハザマーン”は主にペルシャ北部の都市サマルカンドを治めていました。

この二人は仲の良いことで知られ、あるとき兄のシャフリヤールはむしょうに弟に会いたくなり、サマルカンドに使いをやって、自分の都に呼びよせました。

この呼びかけに答え、喜んで兄のもとに向け出発しようとしたシャハザマーンですが、その出がけに兄への贈り物を忘れた事に気付きます。急いで宮殿へ取って返し、贈り物が置いてある部屋に向かおうとしたところ、思いがけなく、彼の妃が一人の奴隷と浮気の最中であるところを目撃します。

激高した彼は、思わず腰に差していた刀で、行為の最中である妃と奴隷を刺し殺そうとしますが、思いとどまり、心を落ち着け直してから再び兄の国への訪問をつづけました。しかし、その道中、妃への憎しみとそれを殺めようとしたこと、あるいはそれを果たせなかったことなどなどの想いにさいなまされ、ひどく塞いでしまいます。

それでも兄の国に辿りつき、そこで兄一家から歓待を受ける間、ようやくその傷心が癒えようとしたころ、兄は所要あって、しばらく外出すると知らされます。兄の留守の間、なすこともなく漫然と過ごしていましたが、そんな中、シャハザマーンは今度は、兄の妃が二十人もの男奴隷と関係を持っていることを知ります。

さらには二十人の女奴隷も含めて淫靡な行為をしている現場を実際に目撃し、痴態の限りを尽くす彼らを見て呆然とします。

しかし逆に、自分に起きた出来事はこれに較べればまだましだ、と思い直し、しだいに元気を取り戻します。そんな折、兄のシャハリヤールが帰ってきますが、妙に元気になったように見える彼を見て、不審に思います。

折を見ては理由を聞き出そうとしますが、兄想いの弟はなかなか口を割りません。そこで酒を飲ませ、リラックスさせたところで、ようやく理由を聞き出すことができました。しかし、事実を知って驚きを隠せないシャハリヤール。それでもまさかと思い、妻の寝所に忍び込みますが、さらに自分の目でそれを見るところとなり、改めて妻の不貞を知ります。

状況を弟に話すと、弟も涙を流しながら、自分の身の上に起こったことを話し始めました。二人とも同じ境遇にあることを知り、共感した彼は、何もかもいやになり、流浪の旅に出よう、と弟に持ちかけ、彼もこれに同意します。

こうしてあてどもない旅に出た二人ですが、くる日もくる日も歩き続け、ある日海辺に出ました。そこにあった一本の木の下で休もうと、横になったとき、ターバンを頭に巻き、大きな刀を腰にさした大男が遠くからやってくるのが見えました。

その風体を見た二人は、これはきっと危ないヤツに違いない、と急いで木に登って見ていると、男はどんどんと近づいてきました。しかし、彼らには気が付かず、木の下の日陰に長々と絨毯をひくと、そこで彼らと同じように横になって眠る用意を始めたではありませんか。

実は彼、この地に棲む「魔神」でしたが、昼寝をするにあたって、頭の上のターバンの中から櫃(ひつ)をポンッと取り出しました。するとその中から非常に美しい乙女が飛び出てきて、慣れた様子で彼の前でひざまづきました。

魔神はうれしそうに、その膝枕のうえで魔神は眠り始め、すぐに大きないびきをかきはじめました。そのとき、乙女がふと目をあげると、そこに二人の男がいるのに気づきます。ニヤリと笑った彼女は、魔神の頭を敷いていた絨毯の上に移し、彼らに小さな声で呼びかけました。

「ねえそこにいるお兄さんたち、ちょっと私といいことしない?」と、見た目とは大違いのその呼びかけに二人は戸惑いますが、その次に彼女がしらっと言った言葉にさらに驚愕します。

それは、もし私と ”しなければ” 魔神を起こしておまえたちを殺させる、というもので、怯えた二人は彼女の言うとおりにせざるを得ませんでした。

しばらくして、コトが済んだ乙女は、満足したかのように今度は、自分の身の上話を始めました。それははじめ、自分は婚礼の夜に魔神にさらわれてきて今に至る、といったことでしたが、続けて彼女が言った内容は驚くべきものでした。

それは、これまで魔神が眠っている隙に彼女が570人の男たちと性交した、ということ、彼女が「それ」をしたいと思えばどんな者もそれにあらがえなくなること、なんとなれば何者であろうが、彼女の思い通りになってきたこと、といったことでした。

目の前にいる見目麗しい美女が、自分たちがこれまで経験してきた以上の淫乱な行為をしてきたことを聞かされたふたり。そして、こんな恐ろしい魔神でさえ自分達よりもさらに酷い不貞に遭っていることに驚嘆し、改めて自分たちはまだましだ、と思い直します。



こうして、いよいよ女性不信を募らせた二人はそれぞれの都へ帰っていきました。

そして、宮殿に戻った兄のシャハリヤールが最初にやったことはといえば… 妃、そして彼女と痴態を繰り広げていた男女の奴隷達をひっとらえ、彼らすべての首を刎ねさせることでした。

そして大臣に毎晩一人の処女を連れて来るよう命じ、その夜から処女と寝ては翌朝になると殺す、ということを繰り返すようになりました。こうして、バクダッド中のあちこちから処女が集められ、王の伽をするようになりましたが、3年もすると、もうこの都から若い娘は姿を消してしまいます。

しかし、それでも王は大臣に処女を連れて来いと命じ、さもなければお前の首を刎ねる、と言い出したので、大臣はすっかり頭を抱え込んでしまいした。

この大臣には娘が二人いましたが、恐怖にさいなまされ、悩み、やつれていく父を見て、姉娘のシェヘラザードは一計を思いつきます。

彼女は、自分を王に娶合わせるよう父に進言。驚く父でしたが、なんとかなる、と彼をなだめながら言うので、大臣もしぶしぶそれを認めます。

こうして、王のもとに参上したシェヘラザードですが、その伺候にあたっては、妹のドニアザードを呼び寄せておく、という下準備をしていました。

そしてその夜がやってきました。シェヘラザードは自ら王と一晩を共にするため、王の閨(ねや)に行きますが、床に入る前に、最愛の妹ドニアザードへ別れを告げたい、と王に頼み込みます。このため、ドニアザードもまた閨にやってくることになりましたが、実は、シェヘラザードは、妹にある依頼していました。




こうして、古今の物語に通じているシャハラザードは国中の娘達の命を救うため、自らの命を賭けて王と妹を相手に夜通し語り始めました。千夜一夜の始まりです。

実は、シェヘラザードが妹のドニアザードにしていた依頼とは、物語を語るのが得意なシェヘラザードが小話を終えるたびに、合いの手を入れてくれ、ということでした。行為のあと、王は横になってシェヘラザードの最初の話に聞き入りましたが、話が終わると、すぐにシェヘラザードの首を切ろうとします。

そこへ、居合わせた妹のドニアザードが、すかさず「お姉さまのお話はなんて味わい深いのでしょう!」と口を挟みました。そして次の話をするよう姉に促したので、王もしぶしぶ刀から手を放し、じゃあ次のを聞いてからにしようか、と思い直しました。

こうして、朝がくるまで何度も何度も話が終わるたびにドニアザードの手助けが続き、そうこうするうちには、窓の外はすっかりと明るくなりました。そこでようやくシェヘラザードは口をつぐみ、そして、慎み深く王に対して言いました。「明日お話しするお話は今宵のものより、もっと心躍りましょう。」

これを聞いた王もまた満足し、新しい話を望んでシェヘラザードを次の夜まで生かしておくこととしました。こうして、何夜も何夜も同じような心躍る夜が過ぎていきました。

そして、千とひとつの夜が明けるころまでには、王とシェヘラザードの間には三人の子ができていました。

王妃となったシェヘラザードによって、王は説話を楽しむことができ、後継者まで得ました。しかし、それだけではなく、慎み深く思慮深いシェエラザードから、仁徳と寛容さとは何であるかを教えられ、王としてふさわしい風格を身に付けていたのでした… 続く(かも)




星の瞬くころに

11月になり、気温もかなり下がってきました。

ついこの間まで、やかましく鳴いていた虫の声もしなくなり、夜更けに外へ出ると、そのかわりのように賑やかにきらめく星々がみえます。

星のまたたきのことを“シンチレーション”と呼びます。子供の頃に読んだ科学読本か何かで知りました。

「星像のゆらぎ」を意味する天文用語で、天体観測記録をつける際に、5段階や10段階評価でこれを併記します。客観的評価点で記し、たとえば、3/5や2/10といった風に書きます。

評価が高いほど数字は大きくなり、これすなわち、揺らぎが少ない、という意味です。天体観測をする場合は、当然数字が低く、揺らぎが少ない方が良いとされます。

シンチレーションが少ないことを、別の言い方でシーイング(seeing)が良いと言い、その逆はシーイングが悪い、といったふうに表現します。

意外なのですが、どんよりとした空のほうが、シーイングが良く、これは大気が安定しており、気流が穏やかなので揺らぎは少なくなるためです。従って、春霞や梅雨の時期は晴れさえすればよいシーイングが得られます。

逆に、冬空のように透明度が高いとシーイングが悪くなります。前項と逆のパターンで、「雲がない」=「上空で強い風が吹いている」ということになり、大気が安定しないためです。冬のよく晴れた日はきれいな空ではあるのですが、シーイングは軒並み悪く天体観測には厳しい条件です。また、冬によく星が瞬くのはこのためでもあります。

シンチレーションの主な原因は、大気の揺らぎなどによる空気の屈折率の微小な変化によるものです。近いものは望遠鏡内部の対流や人の体温による対流から、遠いものはジェット気流に至るまで、至る所に発生原因が潜んでおり、予測しにくいことから、望遠鏡の地上からの観測精度の限界のボトルネックになっています。




現在ではこれを克服するために、大きな望遠鏡などには「補償光学系」と呼ばれる技術が開発され、導入されています。これは、大気の揺らぎ等によって生じる星像の乱れ、シンチレーションをセンサーで捉え、電子制御回路を使って、揺らぎを抑えるべく望遠鏡の鏡を直接変形させる技術です。

我々アマチュアが使うような天体望遠鏡の鏡は固定されていますが、国立天文台の「すばる望遠鏡」のようなクラスになると、最新のエレクトロニクス技術に基づく、32ものセンサーが取り付けられており、屈撓(くっとう)性のある可変形鏡を用いたリアルタイム・補償光を行うことができます。

国立天文台などの研究チームが2012年に初めてすばる望遠鏡でこの高性能補償光学装置による可視光線での観測に成功し、従来よりさらに高い観測精度を得ることに成功しました。

国立天文台はさらにその後、人工星(レーザーガイド星)を使った更に高精度な補償光学系を開発しました。

従来の補償光学装置では、観測対象となる天体の近くに明るい星がある場合、それを基準(ガイド星)として大気の揺らぎを計測し、これをシステムにフィードバックすることによって鏡を変形させて観測精度を向上させます。

しかし、観測対象としたい天体のほど近くにそうした明るいガイド星があることはむしろ少なく、そこで、レーザーを用いて人工的にガイド星の代用にできる光点を生成します。これがレーザーガイド星です。具体的には夜空に向けて、強力なレーザーを照射して人工星を創出します。

人工星を創りだす???と疑問の向きも多いでしょうが、そのしくみはこうです。

地球の表面から高度90~100kmには「ナトリウム層」と呼ばれる層があります。この層は5 km ほどの厚みを持ち、主に地球に降り注いだ隕石が蒸発したことによって生成されています。

細かい化学的説明は省くとして、いわば大気圏内に隕石が蒸発してできた霞のような層です。ここに、強力なレーザー光を当てると、この層が約12等星相当の光を放ちます。こうしてできた人工星を補償光学のために使う、というわけです。



こうした最新の技術による新型補償光学装置を使ったすばる望遠鏡による観測は、2006年10月にファーストライト(初観測)に成功し、以来、素晴らしい成果をあげ続けています。

2014年11月には、我が国の観測史上、最も遠い宇宙をこれまでにない感度で探査し、ビッグバンからわずか7億年後 (131億光年先) の宇宙にある銀河を7個も発見するという快挙を成し遂げました。

このすばる望遠鏡は、アメリカ・ハワイ島のマウナ・ケア山山頂(標高4,205m)にあります。1999年1月がファーストライトで、建設が始まった1991年に望遠鏡の愛称の公募が行われ「すばる」の名が選ばれました。

主鏡に直径8.2m、有効直径(実際に使われる部分の直径)は8.2mもあり、当時世界最大の一枚鏡をもつ反射望遠鏡でした。残念ながら、その後大きさではその後、アメリカリゾナ州南東部のグラハム山の標高10,700フィート(3260メートル)に抜かれています。

この望遠鏡は、「双眼望遠鏡」であり、すばる望遠鏡と同じ大きさの8.4m鏡を2枚使ったもので、合成した有効直径は11.8mとされます。またスペイン領ラ・パルマ島のロケ・デ・ロス・ムチャーチョス天文台にあるカナリア大望遠鏡も分割鏡で、合わせた有効直径10.4mとなり、すばるより大きいとされます。

しかし、すばる望遠鏡は、単眼鏡の天体望遠鏡としては現在でも世界最大です。またハワイ以西のアジアでもこれより大きな望遠鏡はなく、「世界最大級」であることには間違いありません。

日本の国立天文台がマウナケア山頂にすばる望遠鏡を設置したのは、ここが天候が安定し、空気が澄んでいるためです。現在、日本だけでなく、世界11ヶ国の研究機関が合計13基の天文台(マウナケア天文台群)を設置しています。しかし、ハワイ原住民との取り決めから、13基以上の天文台を建設しないことになっています。

数多くの天文台を創ることで、希少な自然が破壊されることを恐れてのことです。近年マウナ・ケアへの望遠鏡の建設は法的および政治的な論争の種となっており、地元の先住民と環境活動グループはさらなる望遠鏡の建設に反対しています。環境ダメージを引き起こし偉大な文化的重要性を持つこの地を汚すことになる可能性があることが理由です。

このため、現状では、各国との取り決めにより、今後新たに天文台を建設する場合は、既存のものを取り壊すか新たな了承を取り付ける必要があります。地元ハワイの住民はその自然環境や歴史性の維持を求めているわけですが、各国もそれに答えています。

神話によると、マウナ・ケアの山頂は雪の女神ポリアフと多くの他の神々の住まう地であるといいます。ここは祈り、埋葬、子供の清め、および伝統的天(宗教的)体観測にも重要な場所です。

それに加えて、山頂地域は固有種の昆虫、ウェキウ・バグ の棲息地であり、開発による影響が議論されています。この虫は、カメムシの一種らしく、上昇気流によって山頂へと飛ばされてきた昆虫を食べるという、かなり特殊な生物のようです。

このマウナ・ケア山はハワイ島を形成する5つの火山のうちの1つです。ハワイ語でマウナ・ケアとは「白い山」の意であり、冬になると山頂が雪に覆われることから名づけられました。

マウナ・ケアの山頂は更新世(約258万年前から約1万年前までの期間)の氷期のあいだ巨大な氷帽によって完全に覆われていました。

山頂には過去30万年間に少なくとも4回の氷河エピソードがあったことを示す証拠が残されていますが、更新世というのは、アフリカなどでようやくヒト属が原人として進化した時代であり、無論この時代にハワイ島に人類はまだいません。




その後ハワイの住民となった人々は、19世紀にアメリカの宣教師がアルファベットを伝えるまで、文字を持たない文化を形成していました。このため、「いつ彼らがハワイ人になったか?」という問いに応える歴史文書は存在していません。

しかし、言語学的な推測、ハワイ島をはじめとする島々の熔岩に描かれたペトログリフ(岩面彫刻、岩石線画)などの研究から、最初にハワイへやってきたのは南太平洋に住んでいたポリネシア人であると考えられており、同じ地域に住む、マオリやタヒチ人と同じ起源にさかのぼることができそうです。

その年代については諸説があり、遺跡の放射性炭素年代測定にもとづき紀元前500年前後から8~9世紀頃までと、時間的にはかなり幅広い説があります。

ハワイ島南東部のカウ地区には、長さ13 km、幅18 m、深さ18 mの深い裂け目があり、グレート・クラックと呼ばれています。噴火によって形成された割れ目ですが、ここには、道、岩壁、および、考古学遺跡が見つかっています。おそらくは、この割れ目を利用した居住区があったのでしょう。

住んでいた住民は、南太平洋にあるマルケサス諸島、あるいはタヒチといったところから航海カヌーでハワイ島に移り住み、こうしたところを住居として選んだと考えられます。

ハワイには、「クムリポ」と呼ばれる神話が残されています。ハワイ王国の王家に代々伝えられてきた創世神話で、クムリポとは「起源」を意味するハワイ語です。18世紀の初頭に時の王子の誕生を祝って編纂されたとされ、日本における古事記にも相当する壮大な叙事詩だそうです。

宇宙の起源から歴代の王の業績に至るまでが16パート2102行にわたる散文で語り継がれており、文字を持たなかったハワイではこれら全てが口承によって秘密裡に伝えられてきました。ハワイ王国第7代カラカウア王が崩御前年の1889年に公表され、妹のリリウオカラニ女王が退位後の1897年に英訳することにより、世界的に有名となりました。

この神話クムリポからも考古学的な考察と検討が行われており、こうした伝承神話や言語学的見地、歴史遺構やなどからの類推により、ハワイにやってきたポリネシア人はカタマランやアウトリガーカヌーを操り、900年ごろに定着したのではないか、といわれています。

900年というと、日本ではこの時代の天皇は醍醐天皇であり、901年(昌泰4年)に、菅原道真が大宰府に左遷されています(昌泰の変)。余談ですが、遣唐使は寛平6年(894年)にこの菅原道真の建議により停止されました。それまで遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の伝播に大いに貢献していました。

日本では国際化に歯止めがかかった時代に、海の向こうのハワイでは、海外との交流がより促進されていた、という真逆の流れがあったところに歴史の面白さを感じます。

このポリネシア人たちの航海が本当に可能だったのかどうかについて、1976年から検証航海が行われました。「ホクレア号」といい、17人の男女が乗り込んだ丸木舟は、マウイ島を出発し、31日目にタヒチに到着、1978年にはタヒチからマウイ島への航海も成功させ、ポリネシア人たちの太平洋の航海が不可能ではないことを証明しました。

しかし、なぜ彼らが移動する必要があったのかについては、ハワイの神話やペトログリフを紐解いてみても遠方への航海や交流を暗示するものはあっても、その明確な記述はありません。それまで居住していたポリネシアの島々が手狭になった、飢饉になった、他の島との戦で追放された、などなどいろんな仮説が打ち立てられていますが根拠はありません。

ただ、彼らはハワイ諸島へ定住するため、タヒチ島間を断続的に往復し、タロイモ、ココナッツ、バナナといった植物や、豚、犬、鶏といった動物をハワイ諸島へ運び込んだことはわかっており、この「大航海」は14世紀頃まで続きました。

フラをはじめとする古きハワイの文化も、この交流の過程でもたらされたと考えられています。フラ(hula)とはフラダンスに代表されるハワイの伝統的な歌舞音曲のことで、厳密にはダンスだけでなく、演奏、詠唱、歌唱の全てが含まれます。フラは総合芸術であると同時に宗教的な行為でもあり、日本の能楽と似ています。

ハワイでは、12世紀頃に族長(アリイ)による土地の支配と統制がはじまりました。その後成立する「ハワイ王国」の前の段階の階級社会です。アリイを頂点とし、そのサポートを神官(カフナ)が行いました。そして、その下に職人や庶民(マカアイナナ)、奴隷(カウバ)がといった階級の人々で構成される社会が誕生しました

アリイはヘルメットを被り、羽編みのマントを身に付け、マナという特別な力を持つとされ、絶対的な権力を持っていました。

また、最下級の奴隷、カウバは共同生活の規律を乱す犯罪者がそれとされますが、主には他の土地の捕虜によって構成される階級で、顔に入墨を彫られ、他階級との交わりが禁じられていました。時にはカフナの行うまじないごとの生贄とされることもあったといいます。

そうした中、1778年、イギリスの海洋探検家ジェームズ・クックによって、1月18日にオアフ島が、1月20日にカウアイ島が「発見」され、ワイメア・ベイにレゾリューション号、ディスカバリー号を投錨し、ヨーロッパ人としてハワイ諸島への初上陸を果たしました。

クックは、上官の海軍本部長サンドウィッチ伯爵の名から、サンドウィッチ諸島と命名します。しかし、クックがサンドウィッチ諸島と名づける以前より、現地ハワイ人の間では既にハワイという名称が定着していました。

この頃のハワイ諸島には大族長(アリイ・ヌイ)による島単位での統治が行われており、ハワイ島ではカラニオプウという大族長が、それ以外の島をマウイ島の大族長カヘキリが支配していました。

大族長は世襲制であったため、ハワイ島では、1782年にカラニオプウが没すると息子のキワラオが王位を継承しました。軍隊の指揮で頭角を現しつつあったカラニオプウの甥にあたるのが、かの有名なカメハメハです。彼はこのとき戦争の神(クカイリモク)という称号を授かり、コハラおよびコナの領地を譲り受けました。

これに立腹した大族長カヘキリの息子、キワラオはカメハメハに戦争をしかけましたが、ハワイ島、西海岸のケアラケクア湾付近で行われた「モクオハイの戦闘」で負傷し、逆にカメハメハによるハワイ島統一が成されました。1790年のことです。



クックたちが、ハワイを訪れたのは、ちょうどこうした部族紛争が勃発していた最中でした。

突然の見たこともない大きな船の到来と、そこに佇む異様な衣を纏う乗組員に先住民は驚きおののきました。ハワイ島の王であったカラニオプウはクックをロノ(ハワイ人の宗教に出てくる4大神のひとりで、農耕と平和の神)の化身と錯誤し、ヘイアウの奥に鎮座する祭壇へ案内し、神と崇めました。

クックは、それまでにも他の探検先で先住民に神と間違えられる、といったことを何度も経験しており、わざわざ先住民らが望みそうな振る舞いを演じてみせたといいます。

ちょうどこのときは、ハワイ住民にとっての新年で、それから4か月間の収穫を祝い、休息の期間とされる「マカヒキ」の期間でした。このため、先住民らにより豊穣の神ロノを讃えるその祭が執り行われ、クックらにも酒池肉林のもてなしが行われました。

長い航海で女に飢えていた乗組員らは現地の若い先住民の女を侍らせ、約3週間宴に興じたといいます。その後クック一行は必要な物資を積み込み、北洋へと出航しましたが、カワイハイ沖で遭遇した暴風雨にレゾリューション号のメインマストが破損したため、再度ハワイ島へ戻り修繕にあたろうとしました。

このときもクックたちは彼らに手厚いもてなしを要求します。しかし、先住民らは「クックはあまりにも人間的な肉欲を持っている」「ロノ神の乗る船があのように傷つくものだろうか」といった疑念を持ち始めます。こうして、先住民らの中でもこうして懐疑的で過激な者たちは結託し、険悪な様相でディスカバリー号のボートを奪い取ろうとしました。

こうした動きに恐れをなしたクックは、大族長のカラニオプウを人質として拘束するという暴挙に出ます。この諍い(いさかい)はついに、乱闘へ発展し、1779年2月14日、クックはついに4名の水兵と共に殺害されるに至ります。ディスカバリー号を率いていた腹心チャールズ・クラークは、大急ぎで船の修復を終え、イギリスへと舵を取りました。

ところが、このクラークもその航海中、結核で死亡したため(8月)、その後は英国海軍の将校、ジョン・ゴアが指揮を取り、イギリスに帰還。海軍本部、英国王立協会にクックの死、北方海路探索の失敗、そしてサンドウィッチ諸島の発見を報告し、欧米にその存在を知らしめました。

その後もハワイ王国は、カメハメハ大王の元に隆盛を極めますが、カメハメハが1819年に他界すると、長男のリホリホが王位を継承しました。しかし、生前、彼の執政能力に不安を感じていたカメハメハは摂政(クヒナ・ヌイ)の地位を新設しており、その地位についた神官とリホリホの間で対立が続き、ハワイ王国は波乱の時代を迎えます。

そんな中、1820年アメリカ海外伝道評議会が派遣した聖職者ハイラム・ビンガム、アーサー・サーストンらを乗せたタディアス号がニューイングランドより、ハワイ島北西部のコハラに到着。そこで彼らが見とがめたのは、ハワイ先住民たちのモラルの低さでした。

男はマロと呼ばれるふんどしのような帯のみを身につけ、女は草で作った腰みのだけを身に付け、フラダンスという扇情的な踊りを踊り、生まれた幼児を平気で間引く彼らの文化は、欧米の聖職者からみれば無知で野蛮、非人道的なものであると理解するに十分でした。

こうした風紀と社会秩序の乱れを回復すべく、ビンガムを主導として宣教師らはプロテスタンティズムによる社会統制を試みました。こうしたアメリカ人宣教師らの影響は次第にハワイ諸島全体の教育、政治、経済の各分野へ広がっていきました。

その後、こうしたアメリカ文化は徐々にハワイ王国に浸透していくと同時に、アメリカ人の支配的な体制が強まっていきます。1893年にはついにハワイ王国の終結及び暫定政府の樹立が宣言されますが、その5年後の1898年にはついにハワイ併合が実現。それまでの暫定政府だったハワイ共和国はアメリカ合衆国へ併合されました。

一方、このアメリカ合衆国の併合により、既存の労働契約が無効化され、契約移民としてハワイに多数居着いていた日本人労働者はその過酷な労働契約から解放されました。彼らは洪水のようにアメリカ本土への渡航をはじめ、1908年までに、3万人強の日本人がアメリカへ移住したとされています。

のちに、こうした日本人移民が問題視され、アメリカでの排日移民運動へと繋がっていきます。1907年には転航禁止令が布かれ、翌1908年には日米間で行政処置としてアメリカ行き日本人労働者の渡航制限を設ける日米紳士協約が交わされました。

ハワイをアメリカの領土の一部から、明確な州として確立させようという動きは、ハワイ王国、カメハメハ3世時代から何度も持ち上がった案件でしたが、それが実現するのは、第二次大戦後の1959年のことです。
それまでに至る間に発生した日本軍による真珠湾攻撃や、その前後の日系ハワイ人の動向についても興味深い事実がたくさんあるのですが、今日はもうこのくらいで。

実はハワイ諸島は、太平洋プレートが北西方向へ、100万年間に51kmという速度で移動しあおり、今も少しずつ日本に近づいています。

なかなかハワイを訪れる機会がありませんが、彼の国のほうから近づいてきてくれているのはありがたいこと。生きているうちの再会を果たしたいものです。

もっともあと何百万年生きられるかはわかりませんが…

潜在意識とは何か

先だってのブログでは、私の過去生の一部と思われる記憶について書きました。

今日は、その記憶を呼び覚ます手助けをしてくれるという、潜在意識について、少し考えてみたいと思います。

そもそも意識とは何か。近代に成立した科学の研究対象としては、曖昧であり、かつ定量的把握も困難とされてきました。心理学においても、意識の定義はきちんとされておらず、心や魂の概念と同様、今日でもその存在を科学的に把握するのは難しいとされています。

しかし、科学的対象として客観的把握が困難であるとしても、「意識を意識している」人にとっては、その存在は自明です。誰かにあなたは意識していますか?と聞かれれば、聞かれていること自体を意識しているのであり、心の概念と同じように意識の概念は確かに存在しているようです。少なくとも「意識が無い」とは考える人はいないはずです。

哲学の分野では長い間、意識と自我は同一視されてきました。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」と言いました。

自分を含めた世界の全てが虚偽だとしても、まさにそのように疑っている意識作用が確実であるならば、そのように意識している「我」だけはまちがいなくそこに存在している、という意味です。

「自分は本当は存在しないのではないか?」と疑っている自分自身の存在は否定できません。“自分はなぜここにあるのか”と考える事自体が自分が存在する証明でもあります。

ひとくちに意識といっても、人間は様々なものを意識しますが、目前で、「意識している」というものは、実は広義の「記憶」でもあります。こうした記憶の再生は、通常、言葉や知識といった形で再現されますが、視覚や聴覚で彩られた「過去の情景」といったかたちで思い出されることもあります。




ところが、こうした記憶は「意識しない」でも日常的に再現されています。複雑な手順を必要とする作業でも、その一々の手順を意識しないで、機械的に遂行することが可能です。

例えば、複雑な漢字を書く場合、どの線を引いて、次はどの線をどこにどう書き加えてなどと、一々記憶を辿って書いている訳ではありません。つまり、「記憶を想起しているという意識」なしで、非常に多くのことを我々はできているわけです。

一方、何かを思い出そうと強く意識していても、確かに知っているはずなのに、どうしても思い出せないというようなケースが存在します。

このとき、記憶を再生しようとする努力が「意識に昇っている」状態といえるわけですが、この思い出そうと努力してなんとか得ることができた記憶、というものは、思い出そうと想起するまでは、どこにも存在しなかったはずです。では、いったいそのような記憶はどこにあったのでしょうか。

無論、大脳の神経細胞の構造関係のパターンのなかに存在していたのであり、そのような記憶は、「現在の意識領域」の外、「前意識」と呼ばれる領域にあったとされます。

この前意識とは、フロイトの精神分析に由来する深層心理学の概念です。通常は意識に昇りませんが、努力すれば意識化できる記憶等が、貯蔵されていると考えられる領域にあるものです。そこに存在すると考えられる記憶や感情、構造は、通常、意識に昇ることはありません。

何かを「意識している」、または、何かに「気づく」とは、対象が、「意識の領域」に入って来ること、意識に昇って来ることを意味するとも言えます。一方では通常は意識に昇らない記憶があり、これは別の領域にある、ということです。

つまりは、「意識の領域」とは別に「意識の外にある領域」が存在することになり、このような「心の領域」の特定部分を、「前意識の領域」と呼んでいます。

この前意識のことを別の呼び方では「無意識」とも呼びます。

日常的に流れて行く生活のなかで我々が意識する対象は、現前にある感覚・意味・感情といったものですが、その一方では、前述の漢字を書く場合の例の通り、「意識しない」で、機械的に遂行するような行為は「気づくことなく」想起されている記憶に基づくものであり、それはこの無意識から出てきています。

人間は一生のなかで、膨大な量の記憶を大脳の生理学的な機構に刻みます。そのなかで、再度、記憶として意識に再生されるものもありますがが、大部分の記憶は、再生されないで、大脳の記憶の貯蔵機構のなかで維持されています。

このような膨大な記憶は、個々ばらばらに孤島の集団のように存在しているのではありません。「連想」が記憶の想起を促進することから明らかなように、感覚的あるいは意味的・感情的に、連関構造やグループ構造を持っています。

そして、このような構造のなかで記憶に刻まれ、いつ何時呼びさまされても準備ができている限りは、いかなる記憶であっても、再生、想起される可能性は完全なゼロではないことになります。

ところが、実際には、人の一生にあって二度と「意識の領域」に昇って来ない記憶というものは多数存在します。そして、その量は膨大です。再度、想起される可能性がゼロではないにしても、一生涯で、二度と想起されないこのようなこうした記憶は、「意識の外の領域」、「無意識の領域」の中に死ぬまで眠ったままです。

もっとも「意識の外」と言っても、科学的には大脳の神経細胞ネットワークのどこかに刻まれているのであり、ここに、そうした膨大な記憶がストックされているものと考えられます。ただ、貯蔵されているだけで、一生使わないものも多数あるのは間違いありません。



さて、ここで「意識」の意味を再度考えてみるとしましょう。それが対象とするものは、目の前にある感覚・意味・感情などの記憶だけではありません。人の頭の中には、その人生で得た経験や学習によって得た記憶がありますが、それ以外にも、生得的または先天的に備えていたとしか考えられない「知識」や「構造」が存在すると考えられます。

その一つの例は、「言語」です。現在の知見では、人間以外の動物ではそれを自由に使うことができません。人間にしか完全には駆使できないものでもあります。世界的に有名なアメリカの哲学者であり、言語学者のノーム・チョムスキーは、人間の大脳には、先天的に言語を構成する能力あるいは構造が備わっている、と唱えました。

これを「生成文法」といいます。

子供は成長過程で、たくさんの単語を記憶します。この単語は、単語が現れる文章文脈と共に記憶されます。ここで着目すべきは、子供たちは、単語とともにそれまで聞いたことがなく、記憶には存在しないはずの「文章」を、いつのまにやら「言葉」として話すという点です。

「記憶したことのない文章」を子供が話すということは、それは記憶ではないのであり、それではどこからこのような文章が湧出するのか、という点にチョムスキーは着目しました。その結果、それは「意識でない領域」、または「無意識」から湧出するのだと彼は考えました。

そしてこれを「生成文法」と称しましたが、チョムスキーの考えたこの普遍文法の構造は、無意識の領域に存在する「整序構造」であるとされます。

これはつまり、子供たちが言語を生成する過程、「言語の流れの生成」は、意識の外、すなわち意識の深層、無意識の領域で、順序立てて整理されている、ということです。

そしてチョムスキーは、人の脳には誰もがこうした言語に関する先天的な構造性があり、それが無意識とか深層意識の中に格納されたまま、世代から世代へと伝えられる、と唱えました。

これが生成文法です。意識の外の領域、すなわち無意識の領域にこうした生成文法を司る記憶や知識や構造が存在し、このような記憶や構造が、意識の内容やそれを意識する人の人生のありように影響を及ぼしているという事実は、今日では仮説ではなく、科学的に実証されている事実でもあります。

さらに、精神分裂病(統合失調症)などの研究より深層心理学の理論を構想したカール・グスタフ・ユングは、「無意識」の中には、個人の心を越えた、民族や文化や、あるいは人類全体の歴史に関係するような情報や構造が含まれているのではないか、と考えました。

ユングは、このような無意識の領域を「集合的無意識」と名づけ、その内容は、決して意識化されないものだ、としました。世代が変わっても伝えられる長期的記憶でもありますが、通常は使われることはありません。ただ、人間の大脳には、それを格納する先天的構造が存在する、と考えました。

ユングによれば、それはある種「神話」なようなものであり、それは人類の太古の歴史や種族の記憶に遡って形成されてきたものだ、といいます。

こうした集合的意識のことを、ユングが提唱した分析心理学(ユング心理学)では「元型 」と呼びます。元型は、夜見る夢のイメージや象徴を生み出す源であり、集合的無意識のなかで形成されます。無意識における力動の作用点でもあり、意識と自我に対し心的エネルギーを介して作用する、ともいわれます。

力動(りきどう)とは、正しくは精神力動といい、「心の営み」を生み出す力と力が織りなし、より強固な心を形成していく動きのことをいいます。どのような人でも、葛藤や否認・矛盾など、いくつものネガッちな心の動きを何重にもかさねながら、毎日の生活を精神的に生きています。

たとえば、あなたが、あまりにも雑多なことを考えなければならない状態に置かれており、そのために頭がいっぱいになり、身動きが取れなくなっているとしましょう。まず一歩を踏み出そうと思っても、どこへ向かって歩き始めればわからない、できることならひきこもりになってしまいたい、そんな状態です。

そのとき、外部からあなたを見ている人は、あなたは引っ込み思案でひきこもっているばかりいて、動かない暇な人だと考えるかもしれません。しかし、実はあなたは頭の中、すなわち心の中は忙しく回転しています。

これは、例えればパソコンのCPUが稼働率100%となり、画面がフリーズしているような状態です。このような状態は、たとえば「社会的には忙しくないかもしれないが、力動的には忙しい」と表現できます。

そして、「元型 」こそがその力動を推進しているのであって、意識と自我に対し心的エネルギーを作用させている大元です。




だんだんと難しい話になってきましたが、こうした高次の精神機能に関係する構造こそが、言語能力です。心の葛藤や矛盾を制し、人とのコミュニケーションをとるためには言葉が必要であり、「集合的意識」としてあなたの頭の中に太古の昔から継承されてきたものです。

現在我々が使っている言語はもともと本能数種類の元型から分化したと考えられており、互いに関連のある言語を歴史的に遡っていくとある時点でひとつの言語となります。そしてその言語のことを祖語 (Proto-language)といいます。

とはいえ、現時点では、祖語と呼ばれる言語がいつどのように生まれたのか、生まれたのが地球上の一ヶ所か複数ヶ所かはわかっておらず、生物学的な観点からその起源を探ろうという試みもあるものの、成功していません。

ただ、他の動物にはみられず、人間だけ獲得した能力であり、こうした言語もまた、「高度な無意識」の中で培養されてきたものと考えられています。

しかしそれにしても、こうした祖語にせよ元型にせよ、いったいどうやって我々の体に継承されてきたのでしょうか。

これについては、「遺伝」によるもの、という説もありますが、肉体的なそれならともかく、こうした精神的なものが遺伝によってはたして世代を超えて継承されるものなのかどうかということについては、今日でも科学的にもはっきりとした結論は出ていません。

しかし、スピリチュアル的な観点からは、それは「転生」の中で受け継がれてきたもの、という立場をとります。いわゆる「生まれ変わり」であり、これは「現世で生命体が死を迎え、直後ないしは他界での一時的な逗留を経て、再び新しい肉体を持って現世に再生すること」と定義されます。

そしてこのとき、肉体は新しく生まれ変わるものの、記憶や知識などについては、前の世代から受け継いだものがそのまま継承される、とされます。

このことはヒンドゥー教や仏教では「輪廻」といいます。この輪廻には、人間だけでなく、動物を含めた広い範囲で転生する、つまり人間から他の動物へ、またその逆もあり、と主張する説と、近代神智学が唱えるように人間は人間にしか転生しないという説があります。

が、いずれにせよ、人間は、その転生の過程において、太古からの知識を受け継ぎます。そしてこのように代々受け継がれてきた記憶や知識、そしてその中に含まれる無意識の構造のことを、スピリチュアリズムでは、「潜在意識」と呼ぶことが多いようです。

我々の誰もが持つ潜在意識は、完璧な記憶力を持っており、思考、感情、経験、そして蓄積された知識の倉庫である、といわれます。あらゆる生において、経験し知覚したものはすべて、心に刻まれます。

現在の行動や経験は、過去生の出来事とつながっており、それがなぜ引き起こされるのか、現在生にどのような影響を与えているかを理解するには、その過去生の記憶をひも解くことが重要だ、といわれるのはそのためです。

その昔、ある哲学者が「学習は、以前に獲得した知識を思い出すことから成る」と言ったそうです。

生きることの意味と目的を理解する方法を探るとき、人々はすべての真理は自分のうちにあるということを発見してきました。そして、世代が変わっても継承されるという、こうした自分たちが持っている特別な本質に気付き、やがてそれを「魂」と呼ぶようになりました。

その人生における経験を通して受け継がれる魂は不滅であり、我々の記憶や認識は時間を超えて続きます。こうした考え方に基づけば、死は終わりではなく、魂は何度も生まれ変わり、その都度、別のレベルの認識が生まれる、ということになります。

そして自分が人生の中で行ったことが、別の人生の中に反映され、そのたびに魂は成長していきます。

言い換えれば、魂はその成長のために知識や経験を増やし、その中で以前の人生の中でこうむった否定的な感情や行動を理解し、解決を得るために、何回も生まれ変わる、といえます。

そうした知識を得、魂を完成させてゆくにつれ、より高い意識と精神性の融合が得られる、というのがスピリチュアリズムの概念でもあります。

そして、生まれ変わるたびに継承され、その魂が成長するうえにおいて、常にその手助けをしてくれるのが、潜在意識といえます。

ではどうやったらその潜在意識に働きかけ、過去生を思い出すことができるのでしょうか。

一般的には退行睡眠など心理療法などによってでなければ難しいといわれますが、やりようによっては、日常の生活をしていてもいろいろ思い出せることも多いようです。

その方法論と意味については、また次回以降に書いてみたいと思います。



バルセロナの記憶

最近、テレビのニュースで、毎日のようにスペイン、カタルーニャ自治州の独立の問題が報じられています。

その首都、バルセロナには実は一度行ったことがあり、そのせいか、妙にこのことが気になってしかたがありません。

というか、何かこのことが他人事でないように思え、いてもたってもいられないような気持になるのはなぜでしょうか。

バルセロナを訪れたのは、ちょうど20年ほど前のこと。そのころ出向していた国交省の外郭団体の仕事で、スペインに2週間ばかり滞在しました。彼の国の水資源の事情を調査する、という目的でのことでしたが、過去にいろいろ行った国の中では最も印象に残った場所でした。

その際、3日間ほどバルセロナにも滞在したのですが、仕事の中休みか週末かだったかで、丸一日市内を散策する時間がとれ、サグラダファミリア教会をはじめ、ガウディゆかりの観光地をなど、市内の名所を散策しました。

モンジュイック公園もそのひとつで、ここには1992年バルセロナ・オリンピックのメイン会場となったスタジアムがあります。

大会のフィナーレのひとつ、五輪女子マラソン本番では、日本の代表選手、有森裕子が、29Km付近で3位集団から抜け出してスパート。レース終盤の35Km過ぎ、先頭を走っていたワレンティナ・エゴロワ(ロシア)に追いつき、その後エゴロワと二人で急な登り坂が続くモンジュイックの丘にて、約6キロに及ぶ激しい死闘を繰り広げました。

競技場へ入る直前でエゴロワに引き離され、8秒差で五輪優勝はなりませんでしたが、2位でゴールし、見事銀メダルを獲得しました。

このころは私もまだ若く、フルマラソンにも参加したこともあったので、この勝負には興味がありました。

二人の選手が激戦を繰り広げたという場所をぜひ見てみたいと思い、この場所を訪れたのですが、バルセロナの市街を抜け、外港に面したモンジュイックの丘に近づくにつれ、何やら懐かしいような複雑な思いが心をよぎりました。




モンジュイックは、バルセロナの南方のはずれにあります。すぐ東側にバルセロナ港があって、その昔はすぐ下の崖を障壁とする要害だったでしょう。海からやってくる外敵を見通せるような高台に位置します。

港から、そこへいく道の両側は街路樹に覆われており、坂を上りきった左手には、通称、エスタディ・デ・モンジュイック(Estadi de Montjuïc)と呼ばれるオリンピック当時のメインスタジアムが今もあります。

実はこの一帯は、それ以前の1929年に開催されたバルセロナ万国博覧会の際に整備されたものです。

最高点の標高、184.8mの丘の一部がオリンピック用に再開発されましたが、以前よりその中心地域はかなり整備されており、丘の斜面や、エスパーニャ広場から伸びる大通りの両側には、万博当時からの多様なパヴィリオンが建てられていて、現在に至るまで丘全体が公園として市民に親しまれています。

ただ、私がここを訪れた時は公園の中まで入って見学する十分な時間がなく、ミラマル通りと呼ばれる丘を東西に横断する通りを通過しただけでした。とはいえ、きれいに整備された通りの左右を垣間見ることができ、ぶらぶらと歩いて行っただけでも、オリンピックが開催されていた当時の雰囲気は感じることができました。

スポーツ公園だけに地元の人が数多く訪れてそれぞれの活動を楽しんでいましたが、歴史的な雰囲気のある風光明媚な場所でもあり、外国人の私にも心地良い空間でした。

東京でいえば、代々木公園、あるいは神宮前のような雰囲気の場所で、非常に明るく開放的な雰囲気のある場所なのですが、にもかかわらず、ここを訪れたときには、なぜか重い気持ちになりました。

もとより、バルセロナの市街にあったホテルを出入りすることからそうだったのですが、何かこの街には親近感があり、それは言うならば、かつてそこに住んでいたことがあるかのような不思議な感覚でした。

街を歩いていても違和感がなく、普通は、初めて行った外国の街には異国情緒のようなものが感じられるはずですが、それもあまりありませんでした。

バルセロナの市街から歩いてきて、モンジュイックの坂を上るところどころには展望台があり、そこからは港一帯を見渡せる場所もあります。防波堤に囲まれた内湾には、コンテナ船や貨物船が停泊し、倉庫が立ち並んでいます。その光景目にしたときにも、あぁここは見たことがある、と思ったのも意外でした。

このスペイン滞在時には、首都マドリードをはじめ、バレンシア、マラガといった他の街も訪れたのですが、同様に、どこへ行ってもどこか懐かしいという感覚があり、とくにグラナダを訪れたときには、なぜか心を揺さぶられるような強い思いがありました。

その当時にも、もしかしたら…という考えが頭にはありました。がしかし、そのことはあまり深く考えずに、というかあまり気にしないように今日まできたように思います。

ところが、最近カタルーニャ州独立の話がよく報道されるようになり、これを聞いてからは妙に心がざわついて仕方がありません。あのときの感情が一気によみがえり、いったいなんだったろうと、考えるにつけ、改めていろいろと調べてみる気になりました。

すると、モンジュイックの丘というのは、常に町を守るための戦略的要所とされてきた歴史があり、古来から頂上には要塞があったそうです。バルセロナ防衛のための重要な地点として、バルセロナ東部にあるシウタデリャ要塞とともに都市防衛の役割を担ってきたといい、20世紀後半まで続いたフランコ独裁時代までは政治犯の刑務所だったそうです。

刑務所で銃殺刑に処された者は山の南西部にあるムンジュイック墓地に埋葬されたといい、19世紀末から20世紀にかけ、山は多くの銃殺刑の舞台となりました。フランコ政権の打倒をめざし、カタルーニャ共和主義左翼(ERC)の指導者であったリュイス・クンパニィスもここで犠牲となっています。

戦前、フランコ政権は、ドイツのナチス党と連携しており、彼はナチス当局によって逮捕され、1940年9月にスペイン当局へ身柄を引き渡されたのでした。法的保証を欠いた軍事裁判の後、直ちにムンジュイック城に送られ、1940年10月15日にここで処刑されました。

彼は目隠しされるのを断り、「無実の人間を殺せ。カタルーニャのために!我々は苛まれても、再び打ち勝つのだ!」と、死ぬ前に言ったそうです。

遺体は、城近くの南西墓地に埋葬されましたが、その墓地はムンジュイックの丘の一角にあります。オリンピック会場となったメインスタジアムの正式名称は、エスタディ・オリンピック・リュイス・クンパニィスであり、これは、彼を記念して命名されたものです。

彼が処刑されたモンジュイック城は、現在も当時の面影を残したまま保存されているようですが、私がバルセロナに滞在していたときには残念ながらそうした事実も知らず、そこへ行くこともありませんでした。

もし訪問できていたなら、何かもっと別なふうに感じることもあったのかな、と思ったりもするのですが、すぐ近くにあるオリンピックメイン会場の入り口に立ったときだけでも、何か心の底から湧きあがってくるものがあったことを覚えています。

その当時の私といえば、スピリチュアル的なことには多少の関心はあったものの、知識はまるでなく、そうした感情を深く掘り下げて考えるようなことはありませんでした。

しかし、20年の月日を経て今思うのは、はやり彼の地は、かつてゆかりのあった土地だったのではないか、ということ。すなわち、住んでいたか、何等かの縁があったのではないか、ということです。

つまりは「前世の記憶」、ということになります。




実はこのスペイン旅行では、ほかにアルハンブラ宮殿にも訪れ、そのお膝元のグラナダの街なども歩いたのですが、このときにはまた別の形の感情の起伏がありました。グラナダはスペインの南部にあり、バルセロナとは700km近く離れているのですが、その両方に縁があったとすればそれはどういうことなのでしょう。

自分自身でもまだよくわからないのですが、両者にそれぞれの記憶があるのであれば、その関連性から見えてくる過去生もあるのかもしれません。あるいは、それぞれの街でそれぞれ生まれ変わり、一回づつ別の人生を歩んだのかもしれません。

こうした、前世での記憶については懐疑的な人も多いでしょう。そもそも輪廻転生という考え方に否定的な人も多いわけですが、私自身は信じていて、このブログでも何度もそのことについて書いてきました。

そうした中で最近読んだ本に「前世発見法」という本があります。その著者、グロリア・チャドウィックさんはこう書いています。

「あなたの現生の経験や感情は、過去に原因があることが多い。現在に明らかな理由が見当たらず、特定の事柄になぜ強い感情を持つのだろうと不思議に思うことがあったら、何故かを探るため、過去性に目をむけるとよい。」

こうした不思議な経験は、過去生の出来事や感情の象徴であることがしばしばだといい、過去生の反映されたものは、我々の周りにたくさんあり、それを注意深く観察すれば、過去を見ることが可能になるといいます。

過去生を知ることは、現在経験していることの理由を知り、現生を生きている意味を理解するのに役立つともいわれています。そのすべてを知ることは容易ではありませんが、パズルの断片をつなぎ合わせていくと、過去から現在に至るまで、自分がどのように進化してきたか、どのように教訓を学んできたかが明らかになるともいわれているようです。

しかし、過去生を思い出そうとすると、たいていは感情の原因となっている出来事よりもむしろ、数ある記憶の中でもとくに感情のほうをまず思い出すことが多いようです。それは、過去生の記憶というものは、出来事よりもむしろ、感情によって分類されているためだそうです。

過去生を思い出そうとするとき、過去の経験に似た現世での状況が引き金となって、まずそのころの感情が呼び起されます。しかし、対応した事実関係の詳細は思いだされず、当時の感情にだけ感応するため不思議な感じを抱くようで、その現状にはそぐわない感情に戸惑いを覚えます。

過去生の記憶らしきものではあるように思えるものの、一瞬のイメージやひらめきの中に姿を現し始めた感情だけが表面にまず出てくるものらしく、心の中に、当時は認識していたであろう事実に関連する思いがいくつもいくつも現れて出てきます。

しかし、それを思い出したと思った瞬間に、消えてしまうことも多く、そうした状況を自分を自分でも理解できず、悩んでしまったりします。ときにむきになってそれを思い出そうとしますが、多くの場合は逃げて行ってしまいます。

このように、過去生のイメージがようやく出てきそう、と思ったとき、一瞬にしてそれが心に出たり入ったりする、といった経験をしたことがある人も多いのではないでしょうか。本当に過去生を思い出したいと思ったときなどには実にイライラさせられます。

しかし、このように、過去生の記憶が表面に出てくるか、忘却の中に吸い込まれてしまうかどちらかの間で揺れ動いているときには、焦るのは禁物だといいます。リラックスするしかなく、それが表面に浮き上がってくるのをじっと待つのがいいそうです。

これは言葉がのどまで出かかっているのに、それを口に出しては言えないときの状況に似ています。

こうしたときには、言葉を思い出そうとする努力をやめ、注意をよそへ向けます。すると、その言葉が思いがけなく出てきたりします。後で思い出すことにし、放っておくと表面に浮いてくることも多いようで、これは過去生を思い出すときにもあてはまるようです。

ただ、こうして過去生の記憶らしい断片を何とか思い出したとしても、逆にそれが現在の状況とは結びつかないように感じられることも多いでしょう。自分の理解にぴったりマッチし、現生に完璧にあてはまる、明確な過去生の記憶を見つけようとしているのに、潜在意識は本当の過去生を隠そうとしているのではないか、と思えるときさえあります。

しかし、これは間違いです。過去生を思い出すのに失敗したり、不完全な映像を見せられたりすると、それを疑ったりしがちですが、潜在意識とは実は過去生を思い出すためのガイドそのものであり、本来は自分自身の助けとなってくれる存在です。自身がそう望めばきっと助けてくれます。

ただ、潜在意識が介在しなくても、時に強烈な過去生のイメージが浮かんでくることがあります。

たいていの過去生の記憶は静かに遠慮がちに浮上してくるため、それと認識しづらいことが多いものですが、そのいくつかは時に激しく、認識の中になだれこむような衝撃を伴って浮上してきます。この場合、その衝撃はかなり激しいものである場合が多いようです。

普通の過去生の感情を思い出したときには、それが過去のものであると告げてくれるような特別な信号はありません。しかし、それに対して自分の感情が激しく反応するようなときには、それが過去生のものであると見分けることができ、明らかに現在の感情とは違うと、“感じられる”ものだといいます。

自分自身の深いところでそれと“分かり”、そうだったと“感じる”といい、それが真の過去生の記憶を表示しているしるしです。

そうした明らかな記憶が表面に浮かび上がるときというのは、過去生の出来事も思い出すか、再経験を伴うことも多いといい、そのイメージは明確に見える場合もあります。しかし、夢のように思える場合もあり、ときには感情ばかりが強くて“場面は感じない”こともあるようです。

今思うと、あのバルセロナでの私の体験もそうだったのかもしれません。



ただ、いったん過去生の出来事を再経験できるような状況になったときには、うまくいけば自分の周りの光景や音、状況といったものを見、聞き、触れ、味わい、場合によっては嗅意を感じることすらできるといいます。それはあたかも過去ではなく、現在に起こっているかのように感じることができるようです。

こういうふうに記憶が姿を現し始めたら、自分自身のやり方で静かにそれを再現するようにするといいそうです。急き立てたり強いたり、一生懸命やりすぎると記憶は遠ざかってしまいます。

残念ながら、あの時私は立ち止まろうとせず、その場を立ち去りましたが、もう少しじっくりと時間をかけてあの場所にいたなら、もう少し思い出せることもあったのではないか、と悔やんで見たりもします。

しかし、自己認識を覆すような大きな出来事を思い出さなくても、また、始まりである小さなヒントさえ思い出さなくてもがっかりする必要はありません。望みさえすれば、過去生の記憶は自分自身にあったやり方で自然に表れてくるといい、そしてそのガイドをしてくれるのが潜在意識です。

実は、過去生の記憶のほとんどは、すでに認識していることが多いといいます。にもかかわらず、意識して過去生と関連づけていないだけのことであって、潜在意識に働きかければそれはやがて静かに表れてくるようです。

前述した「前世発見法」にはその方法論もいろいろ書かれており、いずれまた紹介したいと思います。私も色々なことを試しているところであり、なんとなく思い出したこともあります。スペインにまつわるこれらの記憶についても、まとまったビジョンが出来上がれば、折々に書いていきたいと思います。

著者のグロリアさんはこうも書いています。

「あなたが過去生の記憶を探求し、経験するとき、あなた自身の中にある知識の世界を切り開いているのである。過去生を発見し、それが現在性に与えている影響を理解することによって、あなたの生命の中の意味を発見し、自分の運命を操ることができるだろう。」

20年前のあの日、あのとき立ち止まってじっくりと感情の奥底を見通せばもう少し今の人生に役立つことを思い出したかもしれませんが、それはそれ。あのときはまだその機会が熟していなかったということなのでしょう。

その後の長い年月を経て、テレビのニュースを見て再びあのころの感情を思い出したというのは、今再びそのチャンスが巡ってきた、今こそそれを役立てるべきときだ、と告げているのかもしれません。

スペイン人だった?ころの記憶を思い出すのにはまだまだ時間がかかりそうですが、記憶のパズルの断片と歴史を照らし合わせていくことで、やがてはより明確な前世の記憶がよみがえってくるのでしょう。

そのためには、あるいは再びスペインを訪れるのが一番いいのかもしれません。今年はもう既に無理なようですが、来年以降に期待しましょう。

明日からもう11月です。まずは、彼の国の秋はどんなだっただろう、と思い出してみることにしましょう。




時を想う

富士山の初冠雪は先日のことだったようですが、ほんの少し降っただけで、ここ中伊豆からの富士はその後、ほとんど夏山のままでした。

しかし、昨夜降った雪で、今朝はそのてっぺんにようやく白い帽子がかぶさりました。

冠雪としてはまだまだ少ないのですが、毎年、この初雪を見るたびに、あゝ今年もあとわずかだな、とついつい思ってしまいます。

カレンダーを見てもあと2か月ちょっと。実に短い期間ではあるのですが、とはいえ、なぜかこの時期の時の流れはふだんと違うようで、いつもの倍近い時間が流れているように感じます。

しかし、そもそも時間というものは人が勝手に創りだした尺度だといいます。

人はもともと何かの変化を、「なんとなく過ぎ行くもの」といったふうに感じていたようですが、これを「時」という概念では理解していませんでした。現代のように、すべてのものが数学的に説明される以前の時代のことであり、“単位”という概念も確立されていなかった時代には、時間というものも当然、存在しませんでした。

そこへきて、アイザック・ニュートンが、「過去から未来へとどの場所でも常に等しく進むもの」ということで時間を定義しました。その時代から「絶対時間」と呼ばれるものが我々の周りに存在するようになり、その「枠」の中で人は生き死んでいく、といわれるようになりました。

産業革命の時代を経て、人々は時間に追われるようになり、科学技術こそ発達しましたが、日々が「なんとなく」過ぎて行っていた時代に比べ、動物が本来持っている本能のような部分は薄れていきました。現代では、時計やカレンダーがないと生活できなくなり、人々は、永遠に不変の「時」というものに縛られて生きるようになってしまっています。




ところが、アルベルト・アインシュタインが発表した相対性理論によって、時間とは常に等しく過ぎるものではない、ということがだんだんとわかってきました。どこでも同じステップで刻んでいるはずの時間が、ある空間においてはゆがむこともある、といわれるようになっています。

彼が提唱した一般相対性理論では、「一般に重力ポテンシャルの低い位置での時間の進み方は、高い位置よりも遅れる」とされます。

例えば「惑星や恒星の表面では宇宙空間よりも時間の進み方が遅い」とされ、これすなわち、宇宙の中では場所によって時間の経過が変化しうる、ということになります。

また、一般相対性理論では、重力ポテンシャルが異なる場所や移動速度が異なる場所では時間の流れる速さは異なることが知られています。わかりやすい例としては、現実に地球上の時間の進み方と人工衛星での時間の進み方は異なるため、GPSでは時刻の補正を行って位置を測定しているそうです。

先日中性子星同士の衝突で確認されたという、重力波理論でも、質量があることによって、時空のゆがみが生じ、この時間変動が波動として光速で伝播する現象が確認されたといいます。

???なのですが、ようするに時間の変化は宇宙の各所で一定ではなく、非常に大きな重さがある物体に異変(たとえば二つの超重量物がぶつかる)が起こるとその周辺では重力波という現象が生じ、その伝播によって、それが通る場所では、時空、時間と空間で形成される世界がゆがめられる、ということのようです。

つまり、重力波が通るようなところでは我々が普通に感じている時間の流れが一定ではないということになります。

と、いうことは、私のように、年末になると時間の流れがゆるく感じられる、というのは私の周辺のどこかで、何等かの重い物体に異変が起こり、そのあとにできた時間のゆがみの中に置かれている?ということになるのでしょうか。

重い物体?と考えてみるのですが、よくわかりません。ただ、思い当たるとすれば、いわゆる「重い空気」というヤツ。年末近くになると「師走」といわれるほどに忙しくなりますが、皆が皆忙しくなると、そのせいで回りの空気が圧縮され、あるいは空気が重くなるのかもしれません。

とくに今年は人生初の骨折やら入院やらいろいろあり、加えて自治体活動などであちこちに引っ張り出されるとともに私的にも仕事の立ち上げて忙しい。文字通り「肩が重い」雰囲気になっていますが、その肩にのしかかっているのが、そうした「重い空気」なのでしょう。

か、あるいは私自身が、違う次元の世界に入りつつあるのかも。SF、あるいはオカルトの世界に入ってしまいそうですが、実は場所により時間の流れる速さは異なる、ということは古代から言われていて、例えば仏教の世界観では「天上界の1日は人間界の50年に当たる」そうです。

天上界なるものの存在を信じるや否やによりますが、天上界= 霊界ということならば、死んだあとに行くその世界の時間はゆったりと流れている、ともいわれます。行ったことがないので、というか、行ったことがあるのでしょうが覚えておらず、なんともいえないのですが、そう言われれば、なるほどそうなのかな、と思ったりもします。

このように考えてくると、時間の長さに変化を感じる、ということは、世界観とも深くかかわってくる問題でもあります。世界というのを、肉眼で感じないものも含めて意識する、ということになるからです。「世界」そのものの定義を我々が棲む場所だけでなく、天上界も含めて考えるならなら、なるほどその定義は変わってきそうです。

その世界と現世はつながっていると考えるか、あるいは自分が肉眼で感じているものだけに世界を限定してしまうのか、の違いは大きく、そのどちらを選択するかによって、時間という概念が根本的に変わるとともに、人生感は180度変わってくるでしょう。

つまり、スピリチュアルということを信じるか否かということは、その人の持つ時間の感覚すらも変えてしまう可能性があります。

わたしももうすぐ還暦のお声がかかりそうな年齢になってきました。最近齢を重ねることにあまり抵抗がなくなってきたのは、一生の時間は今生きている時間だけではない、死後の時間も永遠に続く、と思えるようになったからでもあります。時空を超えて永遠に生き続けるのなら、残る人生も少ない、といったことを憂う必要もないわけです。




もっとも、生きている間は、肉体というものをまとっているので、時間感覚はどうしてもそれに左右されます。

一般には、生物の個体の生理学的反応速度が異なれば、主観的な時間の速さは異なるともいわれているようで、例えば生物種間の時間感覚・体感時間は異なり、ゾウの時間とネズミの時間は違うようです。

わが家のペット、ネコのテンちゃんは現在8歳ですが、彼女の生きてきた時間感覚では我々の40年ほどを生きてきたのと同じなのであり、人間ならば少女ですが、ネコ界ではれっきとしたオバサンであるわけです。

このことはたぶん、男と女においてもあるのでしょう。男女で時間を感じる感覚が違うということはありえるのではないでしょうか。どちらが長く感じているか、と問われれば、それはまちがいなく女性のほうでしょう。女性のほうが寿命が長いのはそれと関係があるに違いありません。

また、人種や住んでいる場所によって肉体は変化しますから、当然国による時間の流れの違いもあるでしょう。

日本人とアメリカ人の時間感覚にズレがある、といわれればたしかにそんな気もしてきます。私は過去に通算で5年ほどアメリカにいましたが、彼らの時間の流れは日本人のそれとはまた違っているようです。

「昔話」を例にあげましょう。住んでいる世界で時間の経過が違う、という話として日本では浦島太郎の話が有名ですが、アメリカでは、リップ・ヴァン・ウィンクルという昔話があります。それはこんな話です。

アメリカ独立戦争から間もない時代。呑気者の木樵リップ・ヴァン・ウィンクルは口やかましい妻にいつもガミガミ怒鳴られながらも、周りのハドソン川とキャッツキル山地の自然を愛していました。

ある日、愛犬と共に猟へと出て行きましたが、深い森の奥の方に入り込んでしまいます。すると、リップの名を呼ぶ声が聞こえてきました。彼の名を呼んでいたのは、見知らぬ年老いた男であり、その男についていくと、山奥の広場のような場所にたどり着きました。

そこでは、不思議な男たちが九柱戯(ボウリングの原型のような玉転がしの遊び)に興じており、ウィンクルは彼らに誘われるままに、混じって愉快に酒盛りしますが、すぐに酔っ払ってしまってぐっすり眠り込んでしまいました。

ウィンクルが目覚めると、町の様子はすっかり変っており、親友はみな年を取ってしまい、アメリカは独立していました。そして妻は既に死去しており、恐妻から解放されたことを知ります。彼が一眠りしているうちに世間では20年もの年が過ぎ去ってしまっていたのでした…。

日本の浦島太郎と同じく時間をテーマにしたお伽噺ですが、日本の場合のそれは目覚めたあとには暗い未来しか残っていないのに対して、アメリカのはある意味明るい。あるひとときの時間変化によって、恐妻家が妻から解放され、しかも時代は開放的なものになっている、というのがオチであり、悲観的な日本人と楽観的なアメリカ人という構図が見えてきます。

そして、このあたりに日本とアメリカの時間感覚の違いが表れているような気がします。常に明るい未来がそこにある、と考えるのと、いつかは終わりその先はない、というのでは人生感や時間感覚が根本的に変わってくるのはあたりまえです。



こうした話は無論、夢物語です。ただ、最近では、実現可能な方法で主観的な時間を止めたり、生理的な反応を遅くするということも本気で研究されているようです。

医療現場における全身麻酔状態の発展形として、SFの分野などでは、「人工冬眠」「コールドスリープ」「冷凍保存」といった設定が見受けられますが、こちらはいずれ実現するのではないか、といわれています。

火星への探査機など遠い星への旅のために研究されている「人工冬眠」の技術はかなり進んでいて、あと10年も経てば、数十年、いや数百年の間眠ったあとに目覚める、といったこともできるようになるのでは、といわれているようです。

それが実現するような時代では、ある物体や場所など宇宙の一部分のみの時間を逆転することで、壊れた物を元に戻したり、死人をよみがえらせたり、無くしたものを取り戻したりできる、ということも可能になるのかも。

つまり、「時の矢」は未来に向かって解き放たれるだけのものではなく、過去へ向かっても進ませることができる、そんな時代です。

人は肉体に霊体が宿ったものだといいます。いずれ天上界と現生が合体するような時代がくれば、霊も人間も同じ感覚で時間を過ごすようなことになるのでしょう。そしてその世界では、肉体を持っていても過去へも未来へも自由に行けるに違いありません。もっとも、その場合、肉体とはタンパク質の塊ではなく、無色透明の素粒子を指すのかもしれませんが。

なにやら夢物語のようですが、広い宇宙のなか、それを実現している宇宙生命体もきっといることでしょう。

これから迎える年の瀬、はっと気が付いたら正月になっていた、というのはいやですが、仕事で忙しい時間のみをスルーできるのなら大歓迎です。同様に、私が大嫌いな夏の間だけは冬眠をし、秋になったら目覚める、というのもいいかもしれません。

夏なのに「冬眠」というのもヘンですが…。

さて、秋の夜長、皆さんも夢の中での時間旅行を楽しんでみてはいかがでしょう。