伊豆と日向と

秋雨前線が停滞しているようです。

その北側にある冷たい気団に列島のほとんどがどっぷりとつかっているらしく、暖かなここ伊豆でも晩秋を通り越して冬のようです。

とはいえ、夏の暑さが大嫌いで、ついこのまえまでの暑気に辟易していた私にとってこの状態はパラダイスそのもので、毎日仕事が良くはかどります。

涼しくなり始めた10日前ほどから、ちょうどホームページの大幅な刷新の作業に着手し始めており、それに呼応するかのようなこの天候。おかげでブログのほうへの書き込みも滞ってしまっており、また嫌気がさして書くのをやめたか、とご心配の向きもあろうかと思います。

あるいは、術後の右手が悪化したか、と思われた方もいるかもしれませんが、逆に先週末にようやくギブスが取れ、何の制約もなくキーボードが打てるようになりました。これからは少しずつまた元のペースを取り戻していきたいと考えています。

で、ひさびさに何を書こうかと考えていたところ、宮崎の新燃岳が久々に噴火しました。

実はこのブログ、前回新燃岳が噴火したころに書き始めました。2011年(平成23年)のことですから、もう6年にもなります。

最初からお付き合いいただいている方がどのくらいいらっしゃるかはわかりませんが、長いあいだのご愛顧に感謝いたします。




ブログを始めた当時、そのころはまだ四谷にあった災害関連のNPO法人の仕事をしており、その関係で、噴火後の復興対策事業に携わり、およそ一ヵ月ほど宮崎市内に滞在していました。

県からの依頼で地元の方の生活をどう元に戻していくか、計画を練る、といった仕事内容でしたが、地元のことを何も知らないでは復興計画もクソもないということで、地元の地理や経済状況、観光や産業のことなどなど、つぶさに調べるために日々を過ごしました。

地元からの突き上げもあり、早急に対策案を提示する必要がある、といった社会背景もあって、かなり急がされました。市内の県庁のすぐ裏にあるホテルに缶詰めになり、何日も徹夜をして資料を集め、計画を練り上げていったことなどを思い出します。

宮崎県を訪れたのはこれが初めてではなく、中学生のときの修学旅行で来たのが最初です。次は、宮崎市郊外にあるフェニックス・シーガイア・リゾートで行われていた津波に関するシンポジウムで来たのが二度目、そして新燃岳の件のときが四度目になります。

三度目はというと、9年前にタエさんと結婚したのちのプチ新婚旅行で、北部にある高千穂峡を訪れたときのことです。そのほか鹿児島へ行く用事があったことも何度かあり、その度に県内各所や県境にあるえびの市や霧島、などといった場所を通過しています。

私は、一度でも行ったことがある、という条件でならば46都道府県すべてを訪れたことがあります。それでもほんの少し滞在しただけという県もいくつかあり、そんな中でも5回以上も訪れているというのは、それなりにご縁が深い場所ということがいえるのでしょう。

県木「フェニックス」に代表されるこの国は、南国情緒豊かな土地柄から、1960年代には日南地区を中心に新婚旅行のメッカでした。その温暖な気候ゆえ、プロ野球の各チームもシーズンオフのキャンプ地としてここを本拠地にしています。

古くは、「日向(ひゅうが)」と呼ばれ、古事記、に日本書紀では、「日向神話」と呼ばれる神話の舞台です。この中で、アマテラス大神の孫のニニギが高千穂に降臨した、とされており、これは初めて神様が日本という地に降り立ったということで「天孫降臨」として広く知られています。

ニニギ子のホオリと兄のホデリは、いわゆる山幸彦と海幸彦の伝説の兄弟であり、さらにホオリの子・ウガヤフキアエズは初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父であるとされます。

その後、神武天皇は日向から東征に赴くこととなります。日向を発ち、大和を征服して橿原宮で即位するまでを記した説話は、「神武東征」と呼ばれます。そして、畿内で新たなキングダムを築き上げたそれが現在の天皇家の始まりとされています。

一方、残された日向の国はというと、その後この地が日本の先行きを左右するような重要な役割を担うようなこともなく、また大きな戦乱すら起こらず、近代に至っています。

室町時代以降、日向国の守護職は島津氏が世襲するようになり、島津一族の内紛による小競り合いがあったりはしたものの、おおむね戦国時代までは比較的静かな時代が続きました。

戦国時代以降は、豊後の大友氏の当地への進出などで多少の混乱がありました。大小の勢力争いが続き、その中で伊東義祐に率いられた伊東氏が台頭しますが、最終的には、薩摩・大隅の統一を果たした島津氏が北上してこれを駆逐しました。1578年の耳川の戦いにおいて島津氏が大友氏に大勝してからは、島津氏が日向国一円を再支配するに至ります。

しかし、1587年には秀吉が九州征伐に乗り出します。これに島津氏は屈服し、薩摩・大隅地区に押し込まれてしまいます。統治していた日向国も、功のあった大名に分知され、江戸時代には大名は置かれず、天領と小藩に分割されました。延岡藩、高鍋藩、佐土原藩、飫肥藩などの小藩がそれです。

ただ、九州南部に押しやられた薩摩藩も日向の南部の諸県郡を領有することを許されましたから、宮崎県南部ではいまもどこか薩摩藩の気風が残っているようです。

とはいえ、一時は九州全体に名を馳せた島津家もその勢力をかなり萎縮させてしまいました。しかし、徳川の目が届かないその地の利を得て海外貿易を発展させ、徳川250年間に発展させたのは経済のみならず強大な軍事力でした。

その後の幕末においては、それをふんだんに使い、それまで鬱屈していたエネルギーを爆発させて、長州藩とともにこの国に一大転機をもたらしたことも誰しもが知る史実です。

ところで、この薩摩藩ともゆかりの深い日向国というのは、ここ伊豆ともかなり縁の深い土地柄です。というのも、戦国時代から安土桃山時代にかけての一時期、この地で勢力ふるった「日向伊東氏」というのは、ここ伊豆の伊東から出た豪族の末裔であるからです。

その発祥の地は、伊豆国田方郡伊東荘(現静岡県伊東市)です。平安時代末期から鎌倉時代にかけてこの地を本貫地としていた豪族・伊東氏が下向してできたのが、「日向伊東家」であり、日向で最大の勢力を持った時代の11代当主「伊東義祐」は、伊豆伊東家の始祖である「伊東家次」から数えれば第16代にあたります。

この伊東家次は、伊東姓を名乗る前は「工藤祐隆(すけたか)といい、平安の時代の名家、藤原南家の流れをくむ人物です。

この時代、隆盛を誇った藤原氏は日本各国に領地を持っており、伊豆もそのひとつでした。祐隆は、あるとき、四男にその領地である狩野荘(狩野川上流)の地を譲り、自身は伊豆東部の久須美荘を拠点としました。

この久須美というのは、現在の伊東・宇佐美・大見・河津などから成る伊豆島南部の諸地域のことであり、現在もこれらは地名として残り、「伊東」は現在でも最大の都市です。

この地で伊東氏の祖となり、伊東家次と名を変えた工藤祐隆ですが、嫡子である伊東祐家が早世するなど後継者に恵まれなかったため、妾の子やら養子などに次々と別の領地を与えました。これが内紛を呼び、「曾我兄弟の仇討ち」といった事件を引き起こします。

曾我兄弟というのは、伊東家傍流の家の嫡男だった子らのことで、所領争いで殺された父親の仇を討ったことで有名になりました。討たれたのは家次の孫にあたる工藤祐経という人物で、この兄弟が有名になったのは、父が殺されたあとに貧しい武士だった曽我家に引き取られ、艱難辛苦を嘗めたあと、ようやく仇をとったことが美談とされたためです。

このあたりの人間関係は複雑なので割愛しますが、伊東氏と日向国の関係は、この曽我兄弟に敵討ちされた工藤祐経の子の伊東祐時が、鎌倉幕府から日向の地頭職を与えられて庶家を下向させたことが始まります。

工藤祐経は頼朝に仕えて側近として重用され、伊東荘を安堵されていた人物で、曽我兄弟による敵討ちというセンセーショナルな事件があったあとも、その子孫は重用されました。

この祐時の日向下向もそのひとつであり、このほかにも伊豆伊東家の子孫の一派が尾張国に移り住んでおり、その子孫が織田信長や豊臣秀吉・秀頼に仕え、江戸時代には備中国で大名となっています。

日向国に移り住んだ伊東祐時の子孫は、やがて田島伊東氏、門川伊東氏、木脇伊東氏としてこの土地に土着し、土持氏など在地豪族との関係を深めながら、次第に東国武士の勢力を扶植していきました。

室町~戦国期を通じて、伊東氏は守護の島津氏と抗争を繰り返しながらも次第に版図を広げていき、寛正2年(1461年)には5代当主伊東祐堯が将軍・足利義政から内紛激しい島津氏に代わり守護の職務の代行を命じられています。

その後、前述の11代当主、伊東義祐の時代にはその全盛時代を迎えます。義祐の父、伊東尹祐父子ともども、足利将軍家より、偏諱(いみな)を受けており、義祐の「義」の字は将軍足利義晴の一字をもらったものであり、また父の尹祐(ただすけ)の「尹」の字は、足利義尹から受けたものです。

日本では室町時代あたりから元服の際に烏帽子親から一字貰うなど、主従関係の証などとして主君から家臣に一文字与えることが盛んに行われており、これを「偏諱を与える」いいます。その意味はつまり「一字拝領」です。主君の偏諱を賜ること=名誉あることであり、その後の時代では頂いた字を名前の上につけるのが通例になりました。

将軍の名を頂くほど権勢を誇った、というわけですが、伊東義祐は続いて、飫肥の島津豊州家と抗争、これを圧倒して、佐土原城を本拠に四十八の支城(伊東四十八城)を国内に擁し、位階は歴代最高位たる従三位に昇るなど最盛期を築き上げました。

しかし、義祐は晩年から、奢侈と中央から取り入れた京風文化に溺れて次第に政務に関心を示さなくなり、元亀3年(1572年)、木崎原の戦いで島津義弘に敗北したことを契機に、伊東氏は衰退し始めます。

天正5年(1577年)、島津氏の反攻に耐えられなくなった義祐は日向を追われて、その後は瀬戸内などを流浪した末に堺にて死去したといいます。




こうして伊東氏は一時的に没落しましたが、義祐の三男・伊東祐兵は中央に逃れて羽柴秀吉の家臣となり、天正15年(1587年)の九州平定で先導役を務め上げた功績を認められ、日向に大名として復活を成し遂げています。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、祐兵は病の身であったため、家臣を代理として東軍に送っています。その功績により所領を安堵され、以後、伊東氏は江戸時代を通じて廃藩置県まで「飫肥藩」として存続することとなりました。

この伊東氏の一族からは、「天正遣欧少年使節団」の主席正使としてローマに赴き、教皇(グレゴリウス13世)に拝謁した「伊東祐益」こと「伊東マンショ」といった有名人物も出ています。

伊東マンショは、伊東義祐の娘と伊東家の家臣の間に生まれた子です。伊東氏が島津氏の侵攻を受け、伊東氏の支城の綾城が落城した際、当時8歳だったマンショは家臣に背負われ豊後国に落ち延びました。そしてこの地でキリスト教と出会い、その縁で、肥前日野江藩初代藩主でキリシタン大名だった有馬晴信のセミナリヨに入りました。

そのころ、巡察師として日本を訪れたアレッサンドロ・ヴァリニャーノは、財政難に陥っていた日本の布教事業の立て直しと、次代を担う邦人司祭育成のため、キリシタン大名の名代となる使節をローマに派遣しようと考えました。

そこでセミナリヨで学んでいたマンショを含む4人の少年たち(13~14歳)に白羽の矢が立てられ、中でも利発だったマンショは、豊後の国(現大分県)のキリシタン大名、大友宗麟の名代として選ばれました。そして足かけ6年の長い旅が始まりました。この時代、交通手段は当然船しかなく、行きは2年少々、帰りも1年半の時間を擁しています。

そしておよそ2年弱のこの使節団の滞在によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になります。また、彼らの持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われており、こうした「日本初」の史実の積み重ねにより、「天正遣欧少年使節団」の名が後世に語り継がれているわけです。

日本に戻ってきたマンショは秀吉に気に入られ、仕官を勧めたといいますが、司祭になることを決めていたためそれを断り、その後マカオのコレジオに移り、ここで司祭に叙階されています(慶長13年(1608年))。

帰国後は小倉を拠点に活動していましたが、しかし時代は関ヶ原(1600年)を経て徳川の時代であり、領主・細川忠興によって追放され、中津へ移り、さらに追われて長崎へ移りました。長崎のコレジオでキリスト教を説いていましたが、慶長17年(1612年)11月13日に病死。43歳くらいだったと考えられています。

このほか、日向伊東家は、日清戦争時に初代連合艦隊司令長官を務めた元帥海軍大将・伊東祐亨(すけゆき)を輩出しています。

日清戦争における清国の北洋水師(中国北洋艦隊)との間に黄海上で明治27年(1894年)9月17日に行われた黄海海戦では、戦前の予想を覆し、清国側の大型主力艦を撃破して日本を勝利に導いた立役者とされる人物です。

この当時の清国艦隊はアジア最大といわれ、たとえば日本側の旗艦「松島」の4217tに対し、清国側の旗艦「定遠」は7220tと、倍近い差があり、その後日露戦争の日本海海戦で強国ロシアを撃破する「大日本帝国海軍」の整備もまだこのころは途中の段階でした。

黄海海戦の話は始めると長くなるので割愛するとして、このとき敗色濃厚な北洋艦隊提督の丁汝昌は降伏を決め、明治28年(1895年)2月13日に威海衛で降伏。丁汝昌自身はその前日、服毒死を遂げました。

このとき、伊東祐亨は、没収した艦船の中から商船「康済号」を外し、丁重に丁汝昌の遺体を本国に送還させており、このことが「武士道」としてタイムズ誌で報道され、世界をその礼節で驚嘆せしめました。

戦後は子爵に叙せられ 軍令部長を務めたあと、海軍大将にまで進みました。また日露戦争では軍令部長として大本営に勤め、明治38年(1905年)の終戦の後は元帥に任じられています。

政治権力には一切の興味を示さず、軍人としての生涯を全うしたことで知られるこの人物もまた、飫肥藩主伊東氏に連なる名門の出身です。鹿児島城下清水馬場町に薩摩藩士の四男として生まれ、長じてからは江戸幕府の洋学教育研究機関、開成所でイギリスの学問を学びました。

当時、イギリスは世界でも有数の海軍力を擁していたため、このとき、祐亨は海軍に興味を持ったと言われていますが、その後薩英戦争に遭遇。欧米の圧倒的な海軍力を目の当たりにし、日本の海軍もかくあるべきと悟ったといわれます。

戊辰戦争では旧幕府海軍との戦いで活躍し、明治維新後海軍に入り、明治10年(1877年)には「日進」の艦長に補せられたのを皮切りに「龍驤」、「扶桑」、「比叡」の艦長を歴任します。

イギリスで建造中であった「浪速」回航委員長となり、その就役後は艦長に任じられたあとは、海軍少将、海軍中将と進み、明治27年(1894年)の日清戦争に際して連合艦隊司令長官を拝命しました。

幕末には、勝海舟の神戸海軍操練所では塾頭の坂本龍馬、陸奥宗光らと共に航海術を学んでいます。

この時代、江川英龍のもとでは砲術を学んでいます。伊豆の一代官でありながら、洋学とりわけ近代的な沿岸防備の手法に強い関心を抱いたこの人物は、その後世界遺産、反射炉を築き、日本に西洋砲術を普及させ、江戸幕府に海防の建言を行い、勘定吟味役まで異例の昇進を重ね、最後には幕閣入を果たしました。

伊豆の江川英龍と日向伊東家出身の伊東祐亨。こんなところでも伊豆と日向の国との接点があったのだな、と改めて思う次第。

ひょんなことから伊豆に住まう私が宮崎県と妙に縁があるのもそんな関係性と似ているのかな、と思ったりしています…




タコ

10月になりました。

英語での月名、Octoberは、ラテン語表記に同じで、これはラテン語で「第8の」という意味の “octo” に由来しています。われわれの暦では10番目の月ですが、紀元前46年まで使われていたローマ暦では、3月が年始であり、3月から数えて8番目の月、ということになります。

同じく、11月のNovemberのnovemは「第9の」の意味で、12月Decemberのdecemは「第10の」の意味になります。

タコを意味するオクトパス octopus のocto もラテン語から来ています。無論、タコの足が8本であることから来たネーミングです。

このタコの足ですが、実は足ではなく、学術書などでは「腕(触腕)」と表現され英語でも arm です。

また、見た目で頭部に見える丸く大きな部位は実際には「胴部」であり、本当の頭は触腕の基部に位置して眼や口器が集まっている部分です。

従って、一般的なタコの挿絵では、この短い胴体の下に足が生えているように描かれますが、実際にはタコには足はなく、これを逆さにして「頭から手が生えている」、と見立てるのが正しい表現です。

しかし、人間と同じくこの手を足とみなす習慣が長く続いたこともあり、同じ構造を持つイカの仲間とともにこれは足だと言われることが多く、学術的な分類でも「頭足類」の名で呼ばれます。




その柔軟な体のほとんどは筋肉であり、全身がバネのような存在です。体の中で固い部分は眼球の間に存在する脳を包む軟骨とクチバシのみであり、このため極めて狭い空間を通り抜ける事ができます。間口の非常に狭いタコツボに納まることができるのはこのためです。

比較的高い知能を持っており、一説には最も賢い無脊椎動物であるとされています。形を認識することや、問題を学習し解決することができます。例として、密閉されたねじぶた式のガラスびんに入った餌を視覚で認識し、ビンの蓋をねじって開け、中の餌を取ることができるそうです。

また、身を守るためには、保護色に変色し、地形に合わせて体形を変えますが、その色や形を2年ほど記憶できることが知られています。1998年には、インドネシア近海に棲息するメジロダコが、人間が割って捨てたココナッツの殻を組み合わせて防御に使っていることが確認されたといいます。

頭がいいといえば、サッカードイツ代表の試合の結果を予言し、国際的な名声を得たタコを思い出します。

かつてドイツ・オーバーハウゼンの水族館シー・ライフで飼育されていたマダコで、「パウル君」の名で親しまれ、2008年1月から 2010年10月まで3年弱を生きました。

サッカードイツ代表の国際試合の結果を予言し、EURO2008では全6試合のうち4試合を的中、W杯南アフリカ大会ではドイツ代表の7試合に決勝戦を加えた計8試合の勝敗を全て的中させたことで有名になりました。

ワールドカップ終了後、パウルの「予言」にあやかって「スポーツ試合の勝者当てアトラクション」が各国で行われ、タコだけでなくほかの動物を使うなどして様々な形で行なわれました。

日本でも2010年11月、Jリーグヤマザキナビスコカップ決勝戦・ジュビロ磐田対サンフレッチェ広島の「タコによる勝者当て」が行なわれました。このタコは東京湾の佐島沖で水揚げされたマダコ「築地の源さん」といい、Jリーグ関連会社に2000円で買い上げられました。

水槽に入った2つのチームのエンブレム入り蛸壺が水槽内に入れられると、源さんは広島側の蛸壺に入ってこのチームの勝利を予言しました。しかし結果は5-3(延長戦)で磐田が勝利したそうです。

関係者は「源さんは、その日のうちに海に帰った」と話していましたが、広島のファンによってゆでだこにされ、即その日に食されたことは想像に難くありません。

このタコ、日本だけでなく、世界中で美味な海産物として知られ、美味なタンパク質の供給源として、世界各地の沿岸地方で食用されています。

しかし、ヨーロッパ中北部では「悪魔の魚」とも呼ばれ、忌み嫌われてきました。ユダヤ教では食の規定カシュルートによって、タコは食べてはいけないとされる「鱗の無い魚」に該当します。イスラム教やキリスト教の一部の教派でも類似の規定によって、タコを食べることが禁忌に触れると考えられています。

また、タコは、年齢を測るすべがなく、いったい何歳なのかわかりません。上のパウル君は水槽で飼われていいたために年齢がわかりましたが、大海原に生息する野生のタコはいった何歳なのかわからないことが多く、年齢不詳の不気味さがあります。

なぜ年齢がわからないのか。これはタコでは耳石を用いた年齢推定が行えないためです。一部の種を除いて、どれくらい生きるのかはわかっていません。耳石(じせき)とは、脊椎動物の内耳にある炭酸カルシウムの結晶からなる組織で、魚の場合はその断面は木の年輪のような同心円状の輪紋構造がみられ、1日に1本が形成されます。

日輪(にちりん)と呼び、年齢推定を日単位で行うことができますが、タコの場合にはこれに相当するものがありません。従って、漁獲されたタコがいったい何歳なのかはわかりにくく、とくに長く生きたものの年齢は不詳です。

また、海の中では意外に荒くれ者です。稀にではありますが、大型のタコが小型のサメを捕食することがあり、また水族館では、ミズダコが同じ水槽で飼われていたアブラツノザメを攻撃し、死亡させた例もあります。

人間を見たことがない大型のタコは、潜水中の人を威嚇したり、ダイバーのレギュレーターに触腕をからませ、結果としてダイバーの呼吸を阻害することもあるそうです。

さらに、ほぼ全てのタコは毒を持っています。人間には無害のものが多いのですが、ヒョウモンダコという種類のタコは例外で、分泌腺内に寄生するバクテリアに由来するテトロドトキシンという猛毒を持っており、人間でも噛まれると命を落とすことがあります。解毒剤は見つかっていません。

その形態、生態はきわめて特徴的で、ユーモラスととらえることもできますが、海の中で体を伸縮させて泳いでいる姿はかなりブッキーです。外敵に襲われたとき、捕らえられた触腕を切り離して逃げることができるというのも、普通の魚にはできない芸当です。

切り離した触腕は再生しますが、切り口によって2本に分かれて生えることもあり、8本以上の触腕を持つタコも存在するといい、その姿はほとんどエイリアンです。

このように、海を代表する不気味さゆえか、ヨーロッパ、とくに北欧ではその昔、クラーケンKrakenというタコの化け物が出現して、海難を起こすとされていました。

語源は、crank であり、これは、捻じ曲がったもの、曲がりくねったもの、変わり者、つむじ曲がり、奇想のもの、を意味します。タコの持つ恐ろしげな湾曲性の腕を想起しての名付けられたのでしょう。

クラーケンは、タコ以外にも巨大なイカの姿で描かれることが多いようですが、ほかにも、シーサーペント(怪物としての大海蛇)やドラゴンの一種、エビ、ザリガニなどの甲殻類、クラゲやヒトデ等々、様々に描かれてきました。

姿がどのようであれ一貫して語られるのはその驚異的な大きさであり、「島と間違えて上陸した者がそのまま海に引きずり込まれるように消えてしまう」といった種類の伝承が数多く残っています。

古代から中世・近世を通じて海に生きる船乗りや漁師にとって海の怪は大きな脅威であり、怖れられる存在でした。

凪(なぎ)で船が進まず、やがて海面が泡立つなら、それはクラーケンの出現を覚悟すべき前触れである、とされました。姿を現したが最後、この怪物から逃れる事は叶いません。

船出したまま戻らなかった船の多くは、クラーケンの餌食になったものと信じられてきました。たとえマストによじ登ろうともデッキの底に隠れようとも、クラーケンは船を壊し転覆させ、海に落ちた人間を1人残らず喰らってしまうからです。



このクラーケン、日本にも似たような目撃談が多数あります。ただし、こちらは海坊主(うみぼうず)と呼ばれ、海に住む妖怪、海の怪異、とされてきました。

海に出没し、多くは夜間に現れ、それまでは穏やかだった海面が突然盛り上がり黒い坊主頭の巨人が現れて、船を破壊するとされます。大きさは多くは数メートルから数十メートルで、かなり巨大なものもあるとされますが、比較的小さなものもいるという伝承もあります。

1971年4月。宮城県牡鹿郡女川町の漁船・第28金比羅丸がニュージーランド方面でマグロ漁をしていたところ、巻き上げていた延縄が突然切れ、海から大きな生物状のものが現れ、船員たちは化け物といって大騒ぎになりました。

その「生物」は灰褐色で皺の多い体を持ち、目は直径15センチメートルほど、鼻はつぶれ、口は見えなかったといいます。半身が濁った海水の中に没していたために全身は確認できませんでしたが、尾をひいているようにも見えたといいます。漁師がモリで突く準備をしていたところ、その化物は海中へと消えてしまいました。

目撃談では水面から現れた半身は1.5メートルほどだったといい、全身はその倍以上の大きさと推測されます。本職の漁師たちが魚やクジラなどの生物を化物と誤認することはないと考えられることから、あれはいわゆる海坊主ではなかったか、と今でも言われているようです。

クラーケンとこの海坊主が同じである、といったことが証明されているわけではありませんし、そうした研究はないようです。ただ、最近その実在が確認されたダイオウイカの例もありますから、広い大海原にこうした未知の巨大生物が生息していないとは誰も否定できないでしょう。

とくに1000m以上の深海の生物では、未だ確認されていない種が多数おり、この深さまで人類が到達できる技術を持ったごく最近、ようやくその研究の端緒が開かれたといった段階のようです。

また、クラーケンや海坊主は、その伝承から“危険な存在”とされていますが、本当にそうなのかはまだわかりませんし、すべてがそうだというわけではないようです。

ニュージーランド近海で観察されたダイオウイカの調査からは、彼らが捕食する獲物は、オレンジラフィー(タイの一種)やホキといった魚や、アカイカ、深海棲のイカなどであることがわかっており、また人間を視認して襲うといった攻撃性は確認されていません。

この宮城沖に現れたという海坊主も特段危害を加えたというわけではないようであり、逆にあちらのほうが突然現れた人間にびっくりしたのかもしれません。

また、日本に大昔から伝わる伝承の中においては、海坊主はむしろ温和かつ無害に描かれることもあるようです。愛媛県宇和島市では海坊主を見ると長寿になるという伝承があり、幸福の使者とされています。

また北欧のクラーケンの排泄物は、この世のものとはいえないほど良い臭いを発するといい、これをもと餌となる魚をおびき寄せているともいわれています。

京都市中京区にある永福寺には蛸薬師(たこやくし)があります。そのいわれは、タコが人助けをしたというものです。

ある街中に棲む男が病の母を思って、母の好物のタコを戒律を破ってまで買ってきたところ、そのタコが池に飛び込んで光明を放ち、病がたちまち快癒したという言い伝えがあります。このお寺の前の通りの名前は「蛸薬師通」といい、この伝承由来のものです。

このほか、大阪府岸和田市には「蛸地蔵」と呼ばれるお地蔵さんがあり、こちらは岸和田城落城の危機に、大蛸に乗った地蔵の化身が城を救ったという伝説に基づいて祀られるようになったものです。

天正12年(1584年)、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が尾張へ向けて大坂城を出発しましたが、これはいわゆる「小牧・長久手の戦い」の前哨戦です。その隙を突いて、紀州征伐で敵対する根来衆・雑賀衆といった紀州の一向一揆の軍勢が、秀吉配下の中村一氏が寡兵で守る岸和田城へ攻め込み、大乱戦となりました。

数で圧倒する紀州勢の勢いが物凄く城が危うくなった時、蛸に乗った一人の法師が現れて、次々と紀州勢を薙ぎ倒したといいます。しかし、紀州勢が盛り返して、蛸法師を取り囲もうとした時、海辺より轟音をたてて幾千幾万の蛸の大群が現れ、紀州勢を殺害することなく退却させたそうです。

一氏は大いに喜び、この法師を探しましたが、結局分からなかったといいます。しかし、ある夜、法師が一氏の夢枕に立ちました。そして、自分は地蔵菩薩の化身であると告げたといいます。

実はこれより以前、岸和田城では、この地を戦乱から守るため、堀に地蔵菩薩を埋め、城の守りとして備えていたといいます。

このお告げのあったあと、これに気付いた一氏は、埋め隠し入れた地蔵菩薩像を出して祀ったといい、それゆえにこの地長く栄えました。その後、一般の人もその利益が受けられるようにと、日本一大きいといわれる地蔵堂に移され、現在に至っています。

現在もこの岸和田城は猪伏山と呼ばれた小高い丘の上にあります。本丸と二の丸を合せた形が、機の縦糸を巻く器具「縢」(ちきり)に似ていることから蟄亀利城と呼ばれ、後に千亀利城と呼ばれるようになりました。

この城にはまた、岸城神社という神社がありますが、この千亀利と「契り」とをかけて、今では縁結びの神社として知られているそうです。

桜の季節は花見の名所となり、大阪みどりの百選に選定されています。岸和田城そのものは、2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(161番)に選定されています。




龍宮

日本の政治が騒がしくなってきました。

毎日のように新しい政変劇を知らせるニュースを、日本中の人が固唾をのんで見ていることでしょう。

どうやら民進党という党はなくなるようで、新進集団に飲み込まれた上で無色になってしまう危機にあるようです。緑色のなかで目立つ色は赤ですが、はたしてそんな色に変われるのでしょうか。

それにしても、前からこの党の名が、ニンシン・ニンシンと聞こえてしかたがないのですが、わたしだけでしょうか。だとすれば、さしずめ今は、この党が新たに生まれ変わるべき時期に来ているということなのでしょう。

母は「キボウ」という名らしい。どんな子が生まれくるのかわかりませんが、とまれ無事に生まれて、新しい展開をこの国にもたらしてほしいものです。




ところで、妊娠といえば動物の大多数は、メスが妊娠します。性的二形、すなわち♂と♀の別を持つ種では、ほとんどの場合オスが精子を生産し、受精卵を宿すことはまれです。

ところが、オスのタツノオトシゴは、メスから卵をもらって妊娠を受け持ち、子供を「出産」します。

タツノオトシゴの♂の腹部には育児嚢(のう)という袋があります。メスはタマゴを排出する輸卵管をオスのこの育児袋の中に差し込んで産卵、受精します。やがて袋の中でふ化した子供でいっぱいになったオスのおなかは膨れ、ちょうど妊娠したような外見となります。

生まれた仔魚は孵化後もしばらくは袋の中で過ごしたのち稚魚になります。やがて袋の中からポンポンと勢いよく飛び出してめでたく「出産」となりますが、この時、オスは尾で海藻などに体を固定し、さながら陣痛のように体を震わせながら稚魚を産出します。けなげです。

この稚魚は全長数mmほどと小さいながらも既に親とほぼ同じ形をしており、海藻に尾を巻きつけるなど親と同じ行動をします。かわいらしいです。

普通の魚は横長の状態で泳ぎますが、タツノオトシゴは体を直立させて泳ぎ、常に頭部が前を向く姿勢で移動します。この姿が竜やウマの外見に通じることから「龍の落とし子」の名がつけられ、ほかに「海馬」、あるいは「龍宮の駒」ともよばれます。英語圏では龍はあまりなじみがない動物なので、”Seahorse” と呼ばれています。

この「龍宮の駒」の龍宮とは、言うまでもなく浦島太郎の伝説に出てくる龍宮城のことです。乙姫さまあるいは龍王が統治する世界として水中に存在するとされている宮殿ですが、その源流は中国の故事にあります。

中国において神仙たちの住む地とされた蓬莱(ほうらい)などの仙境は、海の果てにある島であると考えられていました。海中に存在するのでは、という想像からその中に「龍宮」といいう桃源郷がかたちづくられ、道教や説話文学などで語られました。これが中国から移入され、日本特有の龍宮伝説になったと考えられています。



また、中国中部、湖南省北東部には、中国の淡水湖としては鄱陽湖に次いで2番目に大きい湖、「洞庭湖(どうていこ)」というのがあります。この周囲に「龍女」の話が伝わっており、この伝説を下地に日本化された物語が「浦島太郎」である、というのが定説です。

龍女の話というのは、ある人物がいずれも溺れる少女を救い、その恩返しを受ける、というものです。水中の別世界に案内され、結婚に至り、日が過ぎて、故郷を懐かしみ、贈り物をもらい故郷へ帰るというよく似た展開になっています。

日本の浦島太郎の話では少女が亀に化け、玉手箱のくだりが付け加えられました。「古事記」や「日本書紀」のころのこの話にはまだ乙姫は登場せず、おそろしげな海神の住んで居る宮殿とされていましたが、「万葉集」あたりから見目麗しい乙姫様が浦島太郎を接待する、というふうに変わってきたようです。

万葉集の中では、この宮殿は綿津見神宮(わたつみのかみのみや)と表現されています。「わたつみ」とは「海神」とも書き、日本各地にこの神様を祀った場所があり、たとえば福島県二本松市(旧塩沢村)もそのひとつで、ここにはこんな話が残っています。

ある男が川で鍬を洗っていて、誤って水中に落とし、水底を探し回っていたら龍宮まで辿りついてしまいました。その龍宮にいたのはブスばかりでしたが、ただ1人美しい姫がいて、機織りをしていました。男はこの姫様が織った布でおしゃれな服を作ってもらい、数々の寵愛を受けますが、村が恋しくなり、3日目に帰郷します。

しかし、村では25年ほどの時が過ぎていました。知らない人ばかりなので龍宮へ帰りたいと思いましたが、交通手段がなく、泣く泣くそこで一生を終えました。ただ、死ぬ前に思い出の姫様を偲び、その記念として「機織御前の御社」を建てたといいます。

龍宮城にいたら一生幸せに暮らせたのに…

このほか、香川県三豊市にも龍宮伝説があり、ここでは市内の詫間町にある荘内半島沖にある、粟島(あわしま)に龍宮があったとされます。この半島一帯には、浦島太郎が生まれた場所とされる「生里」、玉手箱を開けた「箱」、箱から出た煙がかかった「紫雲出山」ほか浦島太郎伝説にちなむ地名が多く残っています。

この粟島には、浦島太郎の墓や太郎が助けた亀が祀られている「亀戎社(かめえびすしゃ)」もあり、龍宮へ連れて行ってくれた亀の遺骸が祀られているといいます。

このほかにも龍宮伝説が残っている場所は各地にあり、三重県志摩市の伊雑宮(いざわのみや)には、龍宮から戻った海女が持ち帰ったといわれる玉手箱が保管されているほか、長崎県対馬市には海神神社や和多都美神社など、海神系の神々を祀る古社が多く、古くから龍宮伝説が残っています。

この龍宮、実は地球外にもあります。

といっても、それほど大昔のものではなく、ごく最近発見されたもので、カタカナで“リュウグウ”と表記されます。

地球近傍小惑星の一つで。宇宙航空研究開発機構 (JAXA) が実施する小惑星探査プロジェクトはやぶさ2の目標天体です。1999年5月10日に、アメリカのニューメキシコ州ホワイトサンズに天文台を持つ、リンカーン研究所の自動観測プログラムLINEARによって発見されました。

もともとは、1999 JU3という発見年と記号だけを組み合わせた名称でした。が、一般に馴染みにくいためJAXAが名前を募集したところ、神話・伝説由来の名称案の中で多くの提案がありました。この中からJAXAが選定した”Ryugu”を、国際天文学連合に提出して了承を受け、最終決定しました。

通常、審査に3ヶ月程度かかるといいますが、この時は異例の速さで審査を終えたといいます。おそらくは最初の探査機、「はやぶさ」の成功が幅を利かせたのでしょう。

2015年10月5日、小惑星リストに“162173Ryugu”と掲載されました。JAXAは、「Ryugu」の選定について、「はやぶさ2」が持ち帰るであろう小惑星のかけらが入ったカプセルが、浦島太郎が持ち帰った「玉手箱」に例えられるから、と説明しています。

JAXAが最初の「はやぶさ」の探査対象だった小惑星のイトカワに次いで、このリュウグウを選定したのは、この小惑星もまたタイムカプセルのようなものだと考えたからです。原始の太陽系が形成されたころの有機物や含水鉱物を多数含んでいると考えられ、また、地球から比較的近い軌道要素を持っていたこともこの小惑星が選ばれた理由でした。




こうして「はやぶさ2」を積載したH-IIAロケット26号機は、2014年12月3日に種子島宇宙センター・ロケット発射場から無事に打ち上げられました。

この「はやぶさ2」には、有機物や水のある小惑星を探査して生命誕生の謎を解明する上での、より大きな科学的成果を上げることが期待されています。世界で初めて小惑星の物質を持ち帰ることに成功した「はやぶさ」がいわば「実験機」だったのに対し、初の「実用機」として開発されました。

基本設計は初代「はやぶさ」と同一ですが、その運用を通じて明らかになった問題点の数々を改良しています。

サンプル採取方式は「はやぶさ」と同じく「タッチダウン」方式ですが、事前に爆発によって衝突体を突入させて直径数メートルのクレーターを作る際ために飛ばす「弾丸」にはより強力なものが搭載されています。「はやぶさ」で発射された弾丸はわずか5gでしたが、今回は重さ 2 kg の純銅製の弾丸をリュウグウに衝突させ、クレーターを作ります。

このクレーター内または周辺で試料を採取することにより小惑星内部の調査が可能となりますが、採取した物質は、前回のハヤブサと同様、耐熱カプセルに収納されて地球に回収されます。

「はやぶさ」ではこの弾丸射出がうまくいかなかったばかりではなく、サンプルが採れたかどうかも確認できずに帰還する際にはありとあらゆる機器が故障しました。

いわば満身創痍、ほうほうの体で地球にかろうじて帰ってきましたが、この初代の轍をふまぬよう、「はやぶさ2」では、何としてもサンプルを確実に採取し、リターンさせることを目的に数々の改良が行われました。

ちなみに、初代「はやぶさ」においては着地探査ローバーとして「ミネルバ」が用意されていましたが、その着地も成功させることが出来ませんでした。今回の「はやぶさ2」ではこちらでも万全を期すため、着地探査ローバーの搭載数は、1基から3基に増加させています。

また、ドイツ航空宇宙センターとフランス国立宇宙研究センターが共同開発した着陸ローバー「マスコット」(MASCOT, Mobile Asteroid Surface Scout)と併せて投入、運用されますから、成功すれば合計4機ものローバーが龍宮城をはい回ることになります。




このほかはやぶさ2には姿勢制御用にリアクションホイール(RW)という機器が搭載されています。リアクションホイールを1台だけ回転させると、その角運動量により軸回りの姿勢の安定度を得ることができます(コマが回転していると回転軸が安定して倒れない原理)。

初代では信頼性強化の改造が裏目となり、3基中2基が運用不能となったこのリアクションホイールもかなり改造され、かつ3基から4基へと増加されています。また、今回はなるべく着陸時までは温存するため、できるだけ太陽光圧を利用するとともに可能な限り一基のリアクション・ホイールでの運用でリュウグウへの到達を目指す予定だといいます。

また、新たに高速通信が可能な平面アンテナを従来のアンテナに追加したことで、全般的な高速通信速度が可能となり、極限時の指令運用ができるようになりました。これにより、指令のデータが迅速に遅れるようになり、より速やかかつ正確なタッチダウンが行えるようになるはずです。

さらに、今回のミッションでは、イトカワでの3ヵ月に比べて6倍にあたる1年半を費やして調査することにしています。



目標小惑星である姿勢がほぼ垂直であったイトカワでは、だいたい12時間の自転毎に天体全面を観察できたのに比べて、リュウグウの場合はかなり観測がしずらいことが予想されています。リュウグウの自転速度は7時間半とイトカワに比べてかなり短く、何より自転軸が黄道面に対して横倒しに近くなっています。

つまり、炭火の上の焼き鳥のような状態で自転しているようなものであり、太陽からの光があたりにくく、観測効率が極めて悪くなることが予想されます。このため観測時間をできるだけ延ばし、観測データ不足を補おうというわけです。

「はやぶさ2」計画は、生命誕生の謎を解明するために実施されると上で書きましたが、とくに持ち帰ったサンプルの分析によっては、生命の起源についてのさらに新たな知見をもたらす可能性があります。

とくにアミノ酸の採取が期待されています。アミノ酸は、NASAが1999年に彗星探査を目的に打ち上げた探査機スターダストでも確認されており、同探査機が2006年に持ち帰った資料の中にも含まれていました。しかし、日本の「はやぶさ」と同様、得られた試料は極めて微量であったため、今回のミッションにより多くの期待がかかっています。

「はやぶさ2」が目指すリュウグウは、C型小惑星と呼ばれてており、炭素を多く含む「炭素質コンドライト隕石」と似た物質で出来ていると考えられる小惑星です。

この「炭素質コンドライト」の中には生命が誕生する際に必要となる有機物が含まれている可能性が高いといいます。地球近傍に存在するリュウグウのような小惑星が有機物を含むことが実証されれば、これらが隕石として地球に落ち生命の起源に寄与したという仮説が成立することになります。

2014年12月3日13時22分、はやぶさ2は、H-IIAロケット26号機により打ち上げられました。その後、イオンエンジンや通信系などの初期のチェックアウトをすべて順調に終了。2015年3月3日、巡航フェーズへ移行後、同年12月3日、地球スイングバイを実施、現在順調にリュウグウへ接近しています。

2018年夏、リュウグウに到着し、約18ヶ月間滞在する予定で、とりあえずは探査ローバーの着陸とサンプル採取の成功が期されています。その後、オリンピックが開催される2020年末、地球へ帰還する予定ですが、初号機「はやぶさ」のようなトラブルもなく、無事に帰ってくることが期待されます。

そのオリンピックのとき、小池さんははたして東京都知事のままでいるのでしょうか。

龍宮がらみでもうひとつ、「龍宮童子」という、人間の願いをかなえる力を持っている龍宮の子供についての昔話をしましょう。

年の瀬に正月用の松や薪などを売っていたおじいさんがいましたが、一向に品物が売れません。売れ残っても商売にならないため、ついには「龍宮にさしあげます」と言って海の中に叩き捨ててしまいました。ところが、帰ろうとするおじいさんに、もしもしと水中から声をかける者がいるではありませんか。

なんだろう、とおじいさんが水面に顔を近づけたとたん、いきなり水の中に引きずり込まれ、気が付くとそこは龍宮城でした。やがて乙姫様が現れ、松や薪をくれたお礼だといって、飲むや食え、歌えの大宴会。ひとしきりのもてなしを受けたあと一人の子供が贈られました。

これが龍宮童子です。帰宅後、その子供がおじいさんとおばあさんの願うものを次々と出してくれるため、二人はとても裕福になります。しかし、その童子は非常に汚かったため、ふたりは次第にその子を邪険にするようになり、最後には追い出してしまいます。

すると今まで出してくれた金品は全て失われてしまい、家はもとのように貧しくなってしまった、といいます。

一向に人気が出ないニンシン党はキボウの党にタダ同然で身売りをしました。ニンシン党は良く働き、多額のお金を貢いだために、キボウの党は裕福になり、ついに政権をとることができました。

しかしあまりにも内情がひどかったため、国民に見放され、最後には邪見にされて追い出されてしまい、両方ともまたもとの貧しい党に戻ってしまいました…

ということにならないよう、頑張ってほしいものです。




噴火と野次と…

気のせいか、今年は秋の進行が速いような気がします。

庭のヒガンバナも例年より早く開花したようで、いつもだと10月になってようやく、といったところが、今朝ほどの段階ではもうほぼ満開です。

ふもとのヒガンバナもさぞかし見頃だろうし、撮影に行きたいなと思っているのですが、いかんせん今年は手が…

カメラを構える利き腕がまだ十分に回復していないので、せっかくの季節なのに野外撮影もままならないわけですが、それでも身近なもので気になるものがあればなるべく撮影するようにしています。

とくにきれいな夕焼けが窓から見えると、手が痛いのにカメラを抱えてついついシャッターを切ってしまいます。

この季節には夕焼がきれいになります。季節が冬に近づくにつれて、空気が乾燥し、空気中に水分が少なくなってくることが理由です。

太陽光線が大気中の微粒子にぶつかると、“散乱”と呼ばれる現象が起こり、一部の波長が四方八方に散らばります。“レーリー散乱”という、とは先日も書きました。

大気中の成分の主なものは酸素と窒素ですが、これらは極めて微小で、太陽光の波長の1000分の1ほどしかありません。従って、色の中でも波長の短い青と紫から先に、これらの粒子にあたって散乱していきます。昼間、空が青く見えるのはこのためです。



一方、赤や橙色といった波長の長い色はほとんど散乱しません。唯一太陽の部分だけが赤色に見えるはずですが、光り輝く太陽は眩しすぎてこれを直視できる人は普通いません。このため日中、赤や橙色は際立たないというわけです。

ところが、日没時には、太陽が真上にある日中に比べて、相対的に太陽までの距離が長くなります。必然的に太陽光が目に届くまでには時間がかかり、かつ通過する大気層も多くなります。このため、波長の短い青は、我々の目に届くころにはほとんどが散乱してしまって見えなくなってしまいます。

代わって、波長の長い赤や橙色は散乱しにくいため残り、我々の目には届きやすくなります。厚い大気に遮られて明るさもぐっと弱められるため、赤い太陽はより見えやすくなる、というわけです。

しかし、春から夏にかけては、大気中に水分が多く、この赤や橙色も吸収してしまいます。結果として、夕方でも青でもない赤でもないどんよりとした灰色の空になりがちであり、このため、夕日もあまりきれいな色になりません。

ところが、秋や冬の時期、大気が乾燥するようになると、赤や橙色を吸収する水分が少なくなります。赤や橙色はより目に届きやすくなり、よりクリアで綺麗な夕日や夕焼けがみえることになります。つまり、この時期、夕焼けが美しく見えるというのは、大量の澄んだ空気がある、ということになります。

それが大量に西側にあり、それが翌日こちらにやってくる場合、「晴れる」可能性が高くなります。秋晴れの前日に夕焼けが多いのはこのためです。

もっとも、いかに赤く見えるか、ということについては、大気中に含まれる塵も影響しているようで、大量のちりが大気中にある場合には、赤や橙色の光がそれにあたって散乱しやすくなるため、より鮮やかな夕焼けになる、ということがいわれているようです。

1883年、世界中で鮮やかな夕焼けが確認されましたが、これはこの年に噴火したインドネシアのクラカタウ火山の噴火により大気中に障害物が撒き散らされたため、といわれています。同じ現象は1991年に起こった今世紀最大規模の噴火、フィリピンのピナトゥボ火山噴火のときにも確認されています。

日本でも夕焼けが多かったという声が多かったようですが、とくにアメリカ西海岸においても同様の現象が観測されているといいます。もっとも火山噴火の影響の場合は朝夕関係ないはずなので、必ずしも夕焼けばかりではなく、朝焼けも多かったのではないかと推察されますが…

ところで、火山といえば、2014年9月27日に御嶽山が7年ぶりに噴火しました。山頂付近にいた登山客が巻き込まれて死者58名、行方不明者5名という被害をもたらしたこの噴火からちょうど3年が経ちます。

あれからもう3年も経ったか、と唖然とする一方で、当時見たニュース映像などが脳裏によみがえってきたりして、改めて火山噴火は恐ろしい、と思う次第。

ネットに、この当日に登山中だった人たちのツイッターが残っていたので見てみたところ、「御嶽山、噴火しました ((( ;゚Д゚)))」といったのんびりとしたものから、時間が経つにつれて緊迫感が増し、“やばいなんだこれなんだこれ”、“火山弾降ってきた”、“これどうすんだ…避難小屋から出れない…“というふうに刻々と変化。

“噴火がとまらねぇ #” “今は火山灰で体真っ白になって、外は真っ暗で明かりないとなにも見えない…”

この人たちは、本当に助かったのだろうか、と思わせる投稿の数々で、あらためて、SNSというのはスゴイなーと、感心してしまいます。

臨場感あふれる実況をマスコミの人ではなく、普通の人がやってできる、というところが、こうしたSNSのスゴさですが、ツイートだけでなく、写真や映像まで配信されているものもあり、あぁ時代はここまで来たか、とさらに感心するしだいです。

1991年に雲仙普賢岳が噴火した際には、まだこうしたSNSはなく、代わって多くのマスコミがこうした映像を流していましたが、そのマスコミ等報道関係者を中心として43名の死者・行方不明者の犠牲を出しました。

こうした災害報道の在り方については当時からいろいろ問題視されていて、火山噴火だけでなく、土砂災害や地震災害の取材、台風などの現地レポートなどについても、取材しているマスコミ自らが危険にさらされていることを顧みない、という批判が相次いでいます。

非日常的事象に対して関心が向くのは人間の本能であり、仕方がないというべきかもしれませんが、いわゆる「野次馬」とは、こうした人間本来の本能が行動となって現れた現象です。

野次馬的興味をきっかけに一転して、事件が解決したとかいったことも、ときたまあったかもしれません。しかし、本質的に、野次馬行為は社会に対して肯定的事象をもたらすものではありません。事件や事故の現場に集まることで、救援者や問題解決にあたっている責任者の業務に支障を来たすことのほうが多いようです。

最近ではマスコミだけでなく、一般人が大規模な火災現場や事故現場などに自動車で乗りつけたりするケースも多く見られます。消防車や救急車の到着が遅れる、野次馬の整理や誘導に警察官の人員を割かれる、被害者の肖像権を無視した興味本位の撮影が行われるなどといった害も少なからず発生していて、以前にも増して社会問題となっています。

この「野次馬」ですが、語源は「親父馬(おやじうま)」で、文字どおり「歳を取った馬」を意味します。本来は歳を取った馬や御しがたい馬を指すことばですが、いつの頃からか「おやじ-うま」が「やじ-うま」へと転訛しました。

歳を取った馬は先頭に立たず若い馬の後をただ着いていくだけであることから転じて、自分とは直接関係の無い他人の出来事を無責任騒ぎ立てる人や、物見高く集まって囃し立てる、面白半分に騒ぎ立てる人を指し示す意味で使われるようになりました。

野次馬行為に及ぶような心根(こころね)を「野次馬根性」と言い、また、「野次る」という表現もあり、これは「野次馬」が動詞化されたもので、「やじを飛ばす」も同様です。



野球やサッカーなどのスポーツでのファンによる野次はつきものですが、政治の世界においても野次は日常的に飛ばされています。

言論を生業とする政治家ならではの絶妙な応酬を評価するものとして、野次は「議会の華」という言葉があるくらいで、むしろ野次を肯定的にとらえる向きもあります。

1920年(大正9年)の第43回帝国議会で、原敬内閣の大蔵大臣、「高橋是清」は海軍予算を説明していました。「陸海軍共に難きを忍んで長期の計画と致し、陸軍は10年、海軍は8年の…」と言いかけましたが、このときに、三木武吉(みきぶきち・後年の三木武夫元総理とは別人)が「だるまは9年!」とヤジを飛ばした、といいます。

これは、高橋大臣のあだ名が「だるま」であり、中国少林寺の高僧、達磨大師壁に向かって九年間座禅し、悟りを開いた、という故事にかけたものです。そう言われてもピンとこず、たいして面白くないように感じますが、現場に居合わせた彼らは、なかなか機知に富んだギャグとして受け取ったようです。

このときの議会場は爆笑に包まれ、高橋も演説を中断して、ひな壇にいた原敬総理を振り返って「やるじゃないか」と言いたげに苦笑いしたといいます。普段から謹厳なことで知られる加藤高明や濱口雄幸(いずれも後年の総理経験者)までが、議席で笑い声をあげたといいます。

この三木さんは、別名「ヤジ将軍」といわれるほど野次の名人だったそうで、別の逸話もあります。

当時の原内閣のある閣僚が、何の抑揚もないお経のような調子で、提出法案の趣旨説明をだらだらとしていたところ、一区切りついたところで一声、「次のお焼香の方、どうぞ」とやったそうです。議場は爆笑に包まれたといい、こうした絶妙なヤジの入れ方は絶妙でした。

このほか、吉田茂首相の演説にもよくヤジが飛んだといいますが、あるとき、衆院本会議で演説中に野党議員から「それでよく総理が務まるなあ」といヤジが飛びました。これに対して、すかさず与党席から応酬で飛んできたヤジが「お前でさえ代議士が務まるようなもんだ」、でこちらも一同大爆笑に終わったということです。

この当時の国会答弁はわりとのほほんとしたところがあったようです。ヤジは国会の潤滑油でもあり、「こいつ、やるな」と議場全体がニヤリとすれば、中だるみした国会に活が入り、会議は進み、ということがよくあった、といわれています。



ところが、最近の国会の野次はどちらかといえばシリアス、あるいはダイレクトなものが多く、あまり面白くありません。

その中でも比較的面白いものとしてはこんなものがあります。

1990年、自民党の大野明・運輸大臣がリニアモーターカーの実験線について説明していると、「迂回するな」というヤジが響きました。大野大臣の父、伴睦は自民党の初代副総裁であり、政治力で東海道新幹線のルートを変更させ、「岐阜羽島」駅を設置させたことで有名です。

このヤジに対して大野明代議士は、少しも騒がず、「迂回(鵜飼)は長良川だけです」と答えたといい、妙意即答のこの答弁に拍手が沸き起こったといいます。

しかしこうしたヤジがいつも会場を和ませるとは限りません。アメリカでは、発したヤジが「不適切である」として、懲戒や謝罪に追い込まれることもよくあるようです。

2009年9月9日、共和党議員ジョー・ウィルソンは、アメリカ合衆国議会上下両院合同会議で医療保険改革について演説中のアメリカ合衆国大統領バラク・オバマに対して、「嘘つき!”You lie!”」)とヤジを飛ばしました。

オバマ大統領のプランの効果に疑問を呈した発言だったようですが、議会開催中に「嘘つき」というのは穏やかではありません。案の定、同国下院は9月15日、ウィルソンに対する譴責(けんせき)決議を賛成240、反対179の賛成多数で採択しました。ちなみにこの医療保険改革こそが、現在トランプ大統領が廃案にしようとしている、「オバマケア」です。

日本でもこうしたヤジが議員の進退に影響を与えた例があり、1978年(昭和53年)2月、衆議院予算委員会において、自由民主党の浜田幸一衆議院議員が日本社会党の安宅常彦議員を「強姦野郎!」と野次りました。

平時から過激な発言の多い浜田議員のことでもあり、社会党は当初、浜田を懲罰委員会にかけると息巻いていましたが、当の安宅が提訴を取り下げてほしいと言ってきました。党が詳しく事情を聞くと、確かに女性問題があり、もみ消しのために内閣官房長官田中六助に金の工面を依頼していた事実が発覚しました。

このため安宅常彦議員は結局、社会党から公認を受けられず、その後政界を引退することになったといいます。思い起こせば、浜田さんの発言や行動というのは何も考えていないハチャメチャなもののようで、実はその裏に確固たる理由がある、ということはよくありました。

さらに記憶の新しいところでは、2014年(平成26年)6月18日に、東京都議会本会議において、塩村文夏都議が浴びた「セクハラ野次」です。

塩村議員の演説中に「自分が早く結婚したらいいじゃないか」「産めないのか」といったセクハラ野次が発せられ、欧米メディアが取り上げるまでの大きな問題となりました。ご記憶の人も多いでしょう。

発言者のうち一人が特定され謝罪し、この件は落着したようですが、何とも品のない、かつウィットのかけらもないヤジです。

マスコミが報じなければなかなか我々も耳にすることのないこうしたヤジですが、たまに報道されたりする場合に聞くヤジには、どうも程度の低いものが多いような気がします。戦前の三木さんのような機知に富んだヤジならもっと聞いてみたい気がしますが…

さて…

御嶽山噴火から3年、そしてこのセクハラ野次からも早3年… 初の女性都知事・小池百合子氏が率いる「都民ファーストの会」は都議会に君臨し、女性議員の立ち位置も変わってきているようです。

その「都民ファーストの会」は「希望の党」に発展しました。次回の国政選挙で、日本の政治にはたして大噴火はあるでしょうか。




サムシング・ブルー


先日、NHKの朝のニュースで、「幸せを呼ぶハチ」の話題を流していました。

高知に北川村という村があります。県南東部、室戸岬にほど近い村で、県庁所在地の高知市や北部の徳島市から遠く離れ、高齢化と過疎化に悩んでいるといいます。

その山村が村興しとして、2000年に開園したのが、「モネの庭マルモッタン」。フランス、画家モネの花園にちなんだもので、フランス。・ジヴェルニーにある実際のモネの庭を北川村の自然を生かし再現したものです。

フランスにも行き、実際のモネの庭の管理責任者にも指導を得ながら再現を試みたそうで、「光の庭」、「水の庭」、「花に庭」の三つがあります。もともとの土地は、柚子ワインを生産するワイナリー誘致のためのものだったそうで、バブルの崩壊により用途が未定となっていたものだとか。

苦労してモネの庭を再現した甲斐あり、テレビで見る限りはモネの絵そのもののように見えました。開園以来100万人以上の人たちが訪ねるようになったそうですが、さらに、最近は見つけたら幸せになれる「青いハチ」も見られるようになり、話題になっているといいます。




体は黒色で、鮮やかな青緑色の斑紋があるのが特徴。青い色であることから「幸せを呼ぶハチ」と呼ばれており、これは絶滅危惧種に指定されている「ルリモンハナバチ」という種です。ナミルリモンハナバチともいい、7月から9月ごろまで楽しめるといいます。

一応、全国に生息している、といわれているようですが、大分など一部の県では絶滅危惧種に指定されています。どちらかといえば中四国・九州での目撃談が多く、四国でもここのように一部の地域でみられるようです。

ケブカハナバチという別のハチの巣をみつけて産卵し、幼虫はこのハチが餌として確保したものを食べて成長します。労働寄生といい、特殊な生態なゆえに、数が少ないのでしょう。

「モネの庭マルモッタン」でも希少ゆえに見ると幸せになれる、といつしか言われるようになり、全国から独身者が集まるようになったといい、ホームページなどでもアピールし、さらなる集客を図っていく予定だそうです。

ルリモンハナバチ

青色をした虫ではこのほか、「幸運の蝶」としてよく知られる、オオルリアゲハがおり、こちらは通称「ユリシス」の名で親しまれています。オーストラリアやソロモン諸島で見られ、「見ると幸せになれる」「1日の内に3回見るとお金持ちになれる」「肩など体にとまると、より大きな幸福が訪れる」というジンクスが伝えられています。

わりと大型の蝶で14cmほどもあるといい、飛ぶとき表の翅は光を反射し、その光は数百メートル先にも届くといいます。残念ながら日本では見られないようですが、別の蝶で、アオスジアゲハという種がおり、これは街中でも普通に見ることができます。青い筋が特徴のアゲハチョウなので、街を歩くときは気を付けて探してみてください。

ユリシスアオスジアゲハ

このほか、幸せを呼ぶ青といえば、「青い鳥」の物語があります。2人兄妹のチルチルとミチルが、夢の中で過去や未来の国に幸福の象徴である青い鳥を探しに行きますが、結局のところそれは自分達に最も手近なところにある、鳥籠の中にあったという物語で、聞いたことがある人も多いでしょう。

こちらはベルギーの詩人、劇作家、随筆家のモーリス・メーテルリンク作の童話劇で、無声映画時代から何度も映画化されているほか、演劇やテレビドラマなどでも良く取り上げられるモチーフです。

その昔、ザ・タイガースのシングル曲に「青い鳥」というのがありましたが、講談社の児童書シリーズにも同様のものがあるほか、劇団名や学校などの教育機関で使っているところも多く、日本人は青い鳥が好きなようです。実際、日本にはオオルリやコルリ、ルリビタキやカワセミといった青い鳥が多く、幸せが棲む国なのかもしれません。

このように、「青」という色は昔から幸せの色とされることが多いようですが、「あお」と訓じられる漢字として蒼および碧もあり、伝統的には藍(あい)や縹(はなだ)もあります。縹は聞きなれないかもしれませんが、ツユクサを表すことばで、露草の花弁から搾り取った汁を染料として染めていた色をさします。

一口に青といっても、ほかにもいろいろなものがあり、たとえば、水色・空色と呼ばれるような明度が高く彩度の低いもの、淡い色合いのものもあれば、紺色や藍色、群青色などの明度が低く、濃い色合いのものなどもあります。

我々が一番良く目にするのが晴れた空の青色ですが、こちらも太陽や雲との兼ね合いでさまざまな色の変化を見せます。青く見えるのは、光の波長より小さな空気分子が短い波長をより多く散乱するためで、これを「レイリー散乱」といいます。

1904年の ノーベル物理学賞受賞者、レイリー卿は、イギリスの物理学者で光の散乱の研究から空が青くなる理由を見つけ出しました。日中は太陽の光のうち波長の短い青色が多く散乱されてわれわれの目に届くため青く見える、といった原理はその後光学計測にも用いられるようになり、光工学の上で大きな発展をもたらしました。

通常海は青いものと思われていますが、こうして目にする青さのほとんどは、青空が映っているからであり、他の状況では海はさまざまな色に変わります。晴れた日に屋上などから斜めに俯瞰して見た海の色は、真上からみた海などに比べてずっと青く見えたりしますが、これも光の散乱の程度による違いです。

一方、水中ではすべてのものが青に見えます。これは水は長波長の可視光をより多く吸収するためです。このため、ある程度の深さに生息するサンゴ礁のような白いものでも、反射光に青が多く含まれるため青みがかって見えます。



こうした空や海というのは、ある意味、地上とは全く別の世界です。そこで見える青色は、洋の東西を問わず、古代から日常とは異なった別世界の色とされる傾向があります。非日常的な世界であり、死後の世界を連想させるためか、忌避されることさえあり、ときに死体の色を連想させます。

また、人類は長いあいだ、この青色を自分たちで作り出すことができなかったため、謎の多い色、とされてきたむきもあります。石器時代を通じ、青は作り出すことも難しく、青く染色されるものはほとんどありませんでした。

火を燃やし後にできる炭の色である黒はどこにでもあり、また光を最も反射する白、鮮やかさな花の色である赤の3つの基本色は古代社会からありました。しかし、青はその他の色に甘んじ、色の分類的機能に加わることもほとんどありませんでした。

古代ギリシャでは色相を積極的に表す語彙そのものが少なく、青色を表すためには2つの言葉、キュアノス (kyanos)とグラウコス(glaukos)が用いられました。

また、この二つの意味の差は曖昧でした。前者のキュアノスは、実はシアン(cyan) の語源です。鉱物のラピスラズリの深い青色をさして用いられたもので、「青」というよりも明度の低い暗さを意味し、現代的な感覚では黒色、紫色、茶色をも表しました。

紀元前8世紀末、ギリシャの吟遊詩人、ホメロスはその深みを神秘的なものや、恐ろしげなもの、または珍しいものを形容するのに、このキュアノスを好んで使用しています。

一方、グラウコスは瞳や深い海の形容として用いられましたが、キュアノスも似たような暗い色のイメージです。が、こちらはどちらかとえいば、緑色、灰色、ときに黄色や茶色に近いイメージで、とはいえ、こちらも本来の青色というよりも、むしろ彩度の低い、濁った青色を意味していました。

緑内障を表す英語グローコーマ(glaucoma) の語源はこのグラウコスであり、どす黒い青く変色した目の色をイメージしたもののようです。多くの場合、失明の危機をもたらす緑内障などの疾患をわずらったくすんだ人の瞳の色を表すのに用いられていました。

古代ローマでも青はあまり注目されず、青とされるラテン語のカエルレウス(caeruleus) は現在で言うところの、蝋(ロウ)の色、あるいは緑色、黒色を表していました。初期のころの蝋は現在のような動物由来の黄色みがかったものではなく、植物由来の緑色がかったものが多かったためのようです。

このように、青色というとどちらかという暗いイメージがあった古代では、青色は忌避すべき色でした。ローマでは青は喪服の色ですらあり、仇敵であるケルト人やゲルマン人などの野蛮さを象徴する憎むべき、もしくは回避すべき色でした。

青い瞳を持つことは醜さのひとつのようにみなされ、帝政期ローマの政治家・タキトゥスは、前ローマ時代にブリテン島に定住していたケルト系の土着民族、ブリトン人の軍隊を「幽霊の軍隊」と呼びました。彼らが青く体を染めていたためです。

また、古代ローマの博物学者、大プリニウスはこのブリトン人の女性が体を青く染める風習を持っていることを「忌まわしい儀式」と批判しています。

現在のみならず、古代ギリシャ、古代ローマにおいても雨後に虹はみられましたが、彼らも虹の色をさまざまに分類したにもかかわらず、そこに青が加えられることはなかったといいます。

こうしたヨーロッパだけでなく、中国でも青は人のものではないという意味合いがありました。中国中部、豊都(ほうと)にあったとされる「鬼城」の門は、道教であの世とこの世を結ぶ門であるとされる青色に塗られており、手を触れると死期が近づくといわれていたそうです。

もっとも、これ以外の国の民族では、藍で青く染めることが日常的に行われ、青ないし緑は神秘さや異世界の色を表すことも多かったようです。とくに中東やエジプトでは魔除けの色であり、また死者を守る葬儀や名誉の死と結びついた「尊厳色」でもありました。

現在の中近東、メソポタミア地方の古代都市バビロンにあった、イシュタル門は世界7不思議の一つとして数えられていました。青い彩釉煉瓦で彩られていたからです。また、インドで最も偉大な詩人とされるカーリダーサは、シヴァ神の肌の色を青と表しました。

このほか、旧約聖書では神の足元もしくは玉座には常に青いサファイアがあったとされており、青は高貴な人物の象徴として使われていたようです。




このように中東やエジプトでは青は貴重な色とされていたのに対し、ヨーロッパでは暗く陰気な色として扱われ、こうした傾向は12世紀ごろまで続きました。

あれほど文明が発達していたのに、青空の色の原因については究明されることすらありませんでしたが、それが急に説明されるべきものと考えられるようになったのは「12世紀ルネサンス」以降でのことです。

ルネサンスの勃興期である12世紀は、西欧世界がイスラム文明と接触・遭遇し多時代です。その成果を取り入れ、消化し、その後の知的離陸の基盤とした大変革期であり、それまでのキリスト教とゲルマン文化の結びついた中世文化が大きく変化し発展しました。

イスラム圏との接触からキリスト教的世界観にも変化がもたらされ、芸術、思想上の大転換が起こり、その後の14世紀の本格的ルネサンスの先駆となりました。

このため、ヨーロッパではそれまでの控えめな地位にあった「青」は、数十年のうちに最も美しい色だとされるまでになる大変化を遂げます。この時期、絵画の中の聖母マリアの服装は喪に服す暗い青や黒から明るい青へと変化し、マリア崇敬とともに青の地位も向上していくことになりました。

聖母マリアのシンボルカラーである青は、すなわち純潔をあらわすようになり、なにかひとつ青いもの(Something Blue)をつけていれば幸せになれる、とまで言われるようになりました。

このサムシング・ブルーは目立たない場所につけるのが良いとされており、白いガーターに青いリボン飾りをつけたものを用意するのが一般的であるとされました。また、「二人の誠実な誓い」という意味としても使われるようになり、結婚式の花嫁が身に着けるものとされるようになりました。

この風習は現在まで受け継がれています。結婚式の当日に「なにか新しいもの」「なにか借りたもの」「なにか古いもの」のほかに、「なにか青いもの」を加えた4つを取り入れることで、永遠の幸せが続く、といわれるようになったのがそれです。

結婚式における欧米の長年の慣習が日本にも輸入されたもので、最近ブライダル業者がさかんにこれを喧伝しています。

由来はよくわかっていませんが、元はマザーグースの次の詩ではなかったか、といわれているようです。

「なにかひとつ古いもの~なにかひとつ新しいもの~なにかひとつ借りたもの、なにかひとつ青いもの~、そして靴の中には6ペンス銀貨を」

マザー・グース (Mother Goose) は、英米を中心に親しまれている英語の伝承童謡で600から1000以上の種類があり、17世紀の大英帝国の植民地化政策によって世界中に広まったものです。日本でも大正時代に北原白秋が紹介してことで、広まりました。

こうしたこともあり、最近は結婚式では、青いものを用意する、というのが流行っているようです。そのひとつとして、「幸福の青いチョコレート」を配ることも多くなり、とくに“ケルノン ダルドワーズ”は大人気で、「福のチョコレート」の販売は毎年、No.1の人気を誇っています。

フランス西部・ロワール地方の小さな街、アンジェの老舗ショコラトリー“ラ・プティ・マルキーズ”が生んだ名物チョコで、国際菓子展で最高のブルーリボン賞を獲得というお墨付きをとっています。

このほか、岩手県一関市の世嬉の一酒蔵が販売している“サムシングブルー”も最近有名になりつつあり、こちらは青い色のビールです。藻の色素を原料に用いたそうで、味もフルーティーで女性にも飲みやすく、2016年には、「おとりよせ大賞」に輝いたとか。

このほか、最近は遺伝子組み換えによって「青いイチゴ」というのもあるそうです。寒さに強いイチゴを作ろうとしたら、偶然にできてしまったといい、こちらは氷点下の過酷な気候を耐え抜くことが出来るため、冷凍庫に入れてもペーストっぽくならないようです。

これからの寒い季節に結婚式を迎えるあなた。青いビールで乾杯し、青いイチゴの載ったウェディングケーキでファーストバイト、引き出物には青いチョコを…というのはいかがでしょうか。

とまれ、青いビールを飲みすぎて青ざめないよう、くれぐれもご注意を。