赤ヘル

広島カープが優勝しました。

夫婦そろって広島育ちのわれわれは、手放しで喜んだわけですが、地理的な問題もさることながら、なにか遠くで起こった出来事のようなかんじがしないでもありません。

かつて広島市民球場と呼ばれた本拠地は今はなくなって新球場になり、垢抜けなかった地方チームが今やセリーグ随一の集客数を誇る人気球団になっていることを思うと、何やら置いてけぼりにされたような、不思議な気分です。




それにしても、1949年創立、チーム結成1950年のこの球団の出だしは、まことに貧乏球団でした。

カープは当初、「広島野球倶楽部」として発足。設立資金は、広島県と広島、福山・呉など県内の各市で出すことにし、本拠地も自前のものではなく、戦前からある県営球場である広島総合球場でした。市中心部からやや離れた西区にあり、現在の新球場のように駅そばといった好立地にはありません。

フィールドは全面土で、外野も芝は敷かれておらず、観客席はバックネット裏に土盛りしたスタンドが少々ある程度で、残りの1塁側と3塁側のファウルグラウンド及び外野にロープを張り、その後ろを観客席としました。ナイター用の照明設備もなく、カメラマンブースもグラウンド内にあり、水はけも悪く設備は余りにも不充分でした。

核たる親会社がないため球団組織に関するバックアップも十分ではなく、1950年の12月5日に広島商工会議所で開かれた球団発会式の時点では、契約選手が1人もいませんでした。

球団創設者の一人である石本監督が元所属していた、大陽ロビンスの二軍から選手を調達してくる予定でしたが、その直前にロビンスが二軍選手の放出をストップしたからです。このころロビンスは松竹の傘下に入り、改称して松竹ロビンスになっており、選手の流出を止めたからです。

新生球団の幹部にはプロ野球に関わった者は皆無だったため、選手集めは監督・石本の人脈に頼る他なく、やむを得ず石本は既に引退した選手や以前の教え子まで声をかけ、コーチにすると口説いて元ロビンスの38歳、灰山元治を無理矢理入団させました。

また、投手では34歳の内藤幸三、野手では白石勝巳(32歳)、岩本章ら(29歳)など少々盛りを超えた選手を中心に23人を入団選手として発表しました。

球団名は、ブラックベア、レインボー、ピジョン、アトムズ、グリーンズ、カープを有力候補としましたが、鯉は出世魚であるし、鯉のぼりは躍進の姿、太田川は鯉の名産地で広島城が鯉城と呼ばれていること、広島県のチームなら「カープ」をおいて他になし、ということで「広島カープ」と名付けられました。

当初は「カープス」でしたが、Carpは単複同形という指摘を受け「カープ」に改名。現在のプロ野球12球団でチーム名が複数形のsで終わらない唯一のチームとなります。

ちなみに、他の候補名のうち、「グリーンズ」は1954年に結成された二軍の前身チーム(広島グリーンズ)に使用されました。また「アトムズ」はその後1966年から1973年にサンケイ(現ヤクルト)が採用しました。

広島に球団を作ろうという構想は、正力松太郎の2リーグ構想の前から広島財界人の中にあり、その理由は、広島は戦前から広島商や広陵高、呉港高といった名門校があり、鶴岡一人や白石勝巳、藤村富美男(それぞれ、南海、巨人、阪神で活躍)など、広島出身の名選手が輩出した野球どころという下地があったからです。

郷土の有力者である、中国新聞社東京支社長・河口豪、広島電鉄専務・伊藤信之、広島銀行副頭取・伊藤豊、広島県総務部長・河野義信の4名は顔を合わせるごとにプロ野球の話に終始。当時は被爆後の闇市時代が続き、青少年の心の荒廃が案じられる時代で、健全な娯楽を与えたい、それにはプロ野球が..という4人の意見が一致し、話が具現化しました。

選ばれた初代監督、石本秀一は明治30年広島市段原(現:南区的場町)の生まれで、このとき54歳。中等野球黎明期からプロ野球黎明期、戦前、戦後と長きにわたり指導を続け、カープを含む計プロ6球団の監督を務めるなど、プロアマを通じ日本野球史を代表する指導者の一人です。

カープ発足当時は、大陽ロビンスの監督でしたが、チームが新説されることを中国新聞の河口から聞いて知り、「郷里の球団で最後の花を咲かせたい」と自らを売り込みました。

「金はいらない。野球人生の最後を故郷広島の復興のために。」と勇んで挑んだものの、上のとおり、開幕3か月前に選手が1人も決まっていない、と知らされます。球団結成のために集められたスタッフは全員、野球はズブの素人であり、このため、自らの人脈をフルに活用しての選手獲得を試みました。

しかし、このころはちょうど、正力松太郎の2リーグ構想が現実のものとなったこともあって選手不足の状態にあり、名前の通った選手は内藤、白石、岩本くらいでした。

このため、やむなく入団テストを行い選手を集めましたが、使えそうな若者がいると親に反対させぬよう監禁してハンコを押すまで帰さなかったといいます。しかし、この入団テストは無駄ではなく、中には、身長167cmという野球選手としては小柄な体格ながら、のちに「小さな大投手」の異名を取った、長谷川良平などが含まれていました。



しかし、たいした算段もなく始めた球団運営はすぐに頓挫し、公式戦が始まると試合はともかく財政が火の車となり、練習は白石助監督に任せてここでも金策に奔走することになります。このため、石本は市役所前で演説、後援会の結成、試合後、夜選手を連れて講演会をやって金を集めたり、企業に協賛金のお願いに回りました。

試合が始まると塀を乗り越えてタダ見するお客を見張ったといい、選手への給料の支払いについても遅配は毎月のことでした。選手たちの生活は当然苦しく、キャバレーのステージに立って歌をうたい、生活費を稼ぐ者もいたといわれます。

1950年の初年度ではプロ経験者は1人、足りないメンバーは各地の鉄道局から寄せ集めましたが、ほぼノンプロの国鉄スワローズにも抜かれて最下位。なお、前年まで石本が指揮を執っていた松竹は大量補強により、記念すべきセ・リーグ初代チャンピオンに輝いています。ただし、このチームはその後大洋ホエールズと合併したため現存していません。

翌1951年、年明け早々、セリーグ連盟顧問に就任したばかりの鈴木龍二(大東京軍(現巨人軍)元球団代表)が、日刊スポーツ紙上で、二年目も資本の強化などの経営改善の見込みがないカープに対して、「広島は大洋の傘下に入ればいい」などと発言。

球団は前年からの経済的苦境を脱するため親会社を持とうとしていましたが、決まらないまま2月に入ると、遂に給料や合宿費の支払いができなくなり、ペナントレース前の3月に甲子園で開催予定であった準公式トーナメント大会の遠征費も捻出できないほど経済的に追い詰められていました。

助監督の白石は、「旅費がないなら甲子園まで歩いていこう。ワシについて来い。軍隊時代を思えばできないはずがない。」と意気盛んでしたが、公式戦開幕前に球団社長の檜山袖四郎(広島県議)以下がセリーグ連盟から呼び出され、「プロ野球は金が無いものがやるものではない、早急に身売りしろ」といった厳しい叱責を受けます。

その後連盟では、広島球団の経営が選手の月給すら定期に払えない限界状態に達していること、補強策が整っておらず前年同様に最下位が決定的であること、それらの問題を抱えたチームがセ・リーグの評判を落としかねないことを理由にカープの解散案を提議します。

議案は同年3月16日に開かれるセ・リーグ理事会で可決の見通しまで立っていました。これを受け、広島市の天城旅館で行われた球団の役員会では、当時下関市にチームがあった大洋との合併を決定。当日夜のNHKラジオ放送のニュースでは、「広島解散、大洋に吸収合併」と報じられるに至ります。

大洋ホエールズとの合併か、それとも解散かという瀬戸際の中、それでも球団職員たちはあらゆる企業に出資の伺いを立てます。まずは寿屋サントリーに相談を持ちかけますが断られ、続いて専売公社に話を持ち込みますがこれもダメ。最後にはアサヒビールに売り込み、重役会では球団買収が承認されたものの、社長の最終決裁で却下されてしまいました。

そこで、石本監督は、3月16日の中国新聞紙上で「いまこのカープをつぶせば日本に二度とこのような郷土チームの姿を見ることは出来ないだろう、私も大いに頑張る、県民もこのさい大いに協力してカープを育ててほしい。」と訴えます。さらに3月20日には広島県庁前で資金集めの後援会構想を発表。



ちょうどこのころ、NHKが報じた「カープ解散」を聞き、熱烈なカープファン8人が自然発生的に集いました。この8人は白石勝巳ら主力選手のサインや「必勝広島カープ」のメッセージが記されたバットを手に県庁、市役所、広島電鉄、商工会議所、中国新聞社へ乗り込み、熱い口調でカープへの支援を訴えました。

「ニュースを聞かれましたか。貴方の熱意不足で、我々が愛するカープが危機に瀕しています。早急に支援の手を差し伸べて下さい。」この無きファンの行動によりカープが市民から如何に愛されているかが示され、多くの広島の企業、広島市民・県民がカープ存続に対して惜しみないエールを送るようになります。

広く資金援助を呼びかけるために球場前には、いつしか“樽“が置かれるようになり、名も知れぬカープファンたちが旗を振って、存続のために寄付金を入れてくれるよう町ゆく人々に呼びかけ始めました。

これがかの有名な「樽募金」です。こうしたファンによる支援で球団経営は多少の改善を見せはじめ、球団合併・解散危機は回避されます。自ら立ち上がった、この「8人の侍」の逸話は、後年NHKのドキュメンタリー番組「プロジェクトX」でも取り上げられましたが、いずれも、市内の商店主や勤め人であった、ということしか判っていません。

しかし、球団の危機はまだまだ続きました。翌1952年には、開幕前、同年のシーズン勝率3割を切った球団には処罰を下すという取り決めがリーグの代表者会議でなされました。これには、奇数(7球団)による日程の組みにくさを解消するため、下位の球団を整理する意図が含まれており、設立より2年連続最下位だった弱小貧乏球団の広島潰しが狙いでした。

こうして迎えた1952年シーズンですが、この年のシーズンも選手層が薄く、当初は好成績を残すことはできませんでした。

開幕試合(3月21日)の松竹戦は3-1で勝利して幸先良いスタートを切ったものの、3月23日の同じく松竹戦から7連敗、5月15日の巨人戦から7連敗、さらに7月15日の大洋戦からは8連敗を喫して、7月27日の時点で13勝46敗2分(勝率.220)と最下位に沈みました。

しかし、そこから選手が奮起。残り試合を24勝34敗1分で乗り切り、シーズン勝率.316(37勝80敗3分)を達成、処罰を免れました。とくに長谷川良平と杉浦竜太郎の2人のエースピッチャーの活躍がすさまじく、チーム勝利数(37勝)の過半数(20勝)をこの二人で稼ぎました。

杉浦は防御率でセ・リーグ9位に入りましたが、これは球団として初のベスト10入りでした。チームとしても、前年の最下位(7位)から一つ繰り上がり、なんとか6位に食い込むことができました(最下位は松竹)。

こうして崩壊寸前の球団を立て直したカープですが、その陰には球団存続のために奔走したファンの影があり、またファンに支えられた選手たちも奮起しました。

なお、この年からフランチャイズ制が導入されており、勝敗に関係なく興行収入の6割が主催チームに入ることになりました。広島ではカープは圧倒的な人気を誇っていたため広島球場に足を運ぶファンは多く、球団収入の安定化に目途が立つことになりました。

しかし、その後もチームの低迷は続き、50年代~60年代にかけて3位以上のAクラスに入ったのは1968年だけ。翌年には再び最下位。巨人が9連覇をなしとげた1965年から1973年の間、広島は4度の最下位を経験しています。そして同じく最下位だった1974年から明けた1975年。球団初の外国人監督として、ジョー・ルーツが監督に就任します。

ルーツ監督は「集団は確固たる指導方針を持った強烈なリーダーによって変わる」ということを身を持って示し「球界の革命児」と呼ばれました。そして「野球に対する情熱を前面に出そう」というスローガンの元、前年まで3年連続最下位だったチームの帽子の色を、それまでの紺色から燃える闘志を表す赤色に変えました。

既にシーズン用のユニフォームは出来上がっており、この年は変更可能な帽子・ヘルメットの色だけ紺色から赤になりましたが、このルーツ監督こそが今日まで続く広島カープの代名詞「赤ヘル」の生みの親ということになります。

なお、当初はアンダーシャツやストッキング、ユニフォームのロゴまでも赤に変更する予定でしたが、予算の関係で見送られそれが実現するのは1977年からとなりました。

ルーツ監督は、全力を出し切ったハッスルプレーを求め、消極的なプレーには容赦しませんでした。一方で選手を集めた最初のミーティングで「君達一人一人の選手には、勝つことによって広島という地域社会を活性化させる社会的使命がある」と力説。

チーム編成においても一塁・衣笠を三塁手へコンバートし、日ハムから「闘将」大下剛史を獲得し主将を任せたほか、主力投手の大型トレードも断行。メジャーでは一般的だったスイッチヒッター転向を高橋慶彦に指令したほか、投手ローテーションの確立、スポーツドリンクのベンチ常備、進塁打のプラス査定は、彼が最初に導入したといわれます。

その大局的な考え方は阿南準郎、木下強三、藤井弘といった、後年カープ監督を務めた面々や各コーチ、選手らに大きな影響を与えました。

しかし日米の野球の違いなどで審判と事あるごとに衝突。開幕早々の対阪神戦において、掛布への投球がボールと判定されたことに激昂し審判に暴行、退場を命じられます。これを拒否しますが、重松良典球団代表が試合続行を支持。この球団の姿勢に不満を持ったルーツは3日後に監督辞任。翌月5月3日に古葉竹識がコーチから監督に昇格しました。

この年、広島は、大下や衣笠、山本浩二、水谷実雄、三村敏之、ホプキンス、シェーン、道原博幸、外木場義郎、佐伯和司、池谷公二郎、宮本幸信らの大活躍で、赤ヘル旋風」を巻き起こしました。そして、中日と阪神と熾烈な優勝争いの末、10月15日の巨人戦(後楽園)に勝利し、球団創設25年目にして悲願の初優勝を達成しました。

続く日本シリーズでは阪急ブレーブスと対戦するも4敗2分で敗退。しかし、この年に平和大通りで行われた優勝パレードではファン約30万人を集めました。また、この年の観客動員は120万人で、球団史上初めて100万人を突破しました。経営面では創設以来の累積赤字をこの年にはじめて解消しています。

すでに帰国していたルーツは、この優勝の際に国際電話をかけ、教え子たちの優勝を祝福するとともに、直後、日本を再び訪れ、広島ナインをねぎらっています。チームに革命をもたらしたものの、志半ばで日本を去りましたが、その後、広島は1986年までに5度のリーグ優勝、3度の日本一を果たすなど、黄金時代を迎えました。

ルーツのその後ですが、晩年は少年野球の指導に携わるなどしていました。しかし脳卒中と糖尿病を発症させてその闘病生活が続いていた中の、2008年10月20日に死去。満83歳没。奇しくも広島が本拠地として広島市民球場を使う最後の年のことでした。

冒頭で述べたとおり、カープは当初、「広島野球倶楽部」として県や市のほか地元の大手企業の出資で発足しました。しかし、チーム成績は振るわず、1955年には負債額も莫大なものとなり、もはや後援会でも手に負えなくなったと判断した広島財界は、負債を帳消しにするため同倶楽部を倒産させました。

そして新たに「株式会社広島カープ」を設立、初代社長に広島電鉄の伊藤信之が就任しましたが、1965年には近鉄バファローズとの合併計画が非公式に持たれました。仮に合併した場合は形式上カープが存続球団とする形で運営することが検討されていましたが、広島財界の雄、東洋工業の社長、松田恒次がこれを拒みました。

そして、1967年、東洋工業は株式会社広島カープを全面買収し、松田恒次自信が球団オーナーとなりました。




松田のオーナー就任の背後には熱烈なカープ愛があり、出資者間の主導権争いを収拾しチームの運営を安定させる意図があったといわれます。この当時、長期低迷するチーム成績に加え、新たに広島市民球場が落成したあとのフィーバーが落ち着いたことで年間観客動員数が激減しており、松田はこれを憂えたのでしょう。

松田自身は大阪生まれですが、大学卒業後26歳で帰郷。東洋工業創始者で広島生まれの父、松田重次郎が広島で経営する東洋コルク工業に32歳で入社して以来の「広島育ち」です。

こうしたこともあり、以後、広島カープと東洋工業は切っても切れない仲となります。しかし、東洋工業はあくまでもスポンサーの立場にとどまり球団経営への介入を控えました。これは1970年代後半に松田家がマツダの経営から離れ、さらにマツダがフォード傘下に入った1980年代以降も変わっていません。

松田は、球団オーナー就任当時、「しばらく面倒を見るが、決して私しない」「いずれは東洋の二文字は削って、真の野球会社として成功させる」と語っていました。

ここが東洋工業(現マツダ)のエラいところで、「市民球団」であるカープの経営に一出資者にすぎない企業が口出しすべきではない、というポリシーは今でも固く守られています。ただしオーナーには違いなく、チーム名にマツダの旧社名「東洋」を現在も残しています。

現在もマツダは筆頭株主として球団株式の34.2%を保有しており、球団運営会社はマツダグループに名を連ねています。またカープ選手のユニフォームの右袖やヘルメット、更にMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島のチケットにマツダの広告が出されています。

さらに2013年からは新型マツダ・アテンザに採用された新色「ソウルレッドプレミアムメタリック」がヘルメットカラーに採用されるなど「株式会社広島カープ」との深い関係は現在も続いています。

ちなみに、恒次の死後は息子の耕平が二代目オーナーとなり、1975年のカープをセ・リーグ初優勝へと導きました。現在もカープはマツダとその関連会社および松田家一族が株主となっており、孫の松田元(はじめ)が三代目オーナーに就任しています。

とはいえ、球団運営の独立性は今も貫かれています。経営状態そのものは、親会社の資金援助なしでは莫大な赤字を出すことが常態である日本のプロ野球球団の中にあって、その親会社が無い独立採算制でありながらも良好であり、1975年度から2013年度まで39期連続で黒字決算となっています。

特に2009年度はMAZDA Zoom-Zoom スタジアム広島開場初年という背景もあって、当期売上高が117億円余と過去最高を記録しました。それでいて、選手に対して支払う年俸は決して高いものではありません。年俸総額順位はプロ野球12球団中、2007年の10位を除き、近年は11位以下です。

93年オフに導入されたFA(フリーエージェント)制度、そしてドラフトにおける希望入団枠制度の導入により、カープにおいても選手年俸総額は上昇しつつあるようであり、ファンとしても、もっと大型選手を、と望みたいところです。が、長年「市民球団」として地道に経営を安定させ、堅実に選手を育ててきたその姿勢は今後も続けてほしいものです。




仮面の男

先日通り過ぎた台風18号が、おそらく今年最後の台風だろう、とお昼のワイドショー出演の気象予報士さんが言っておられました。

そう聞くと、あぁ今年もようやく夏が終わったな、と感じます。

既に富士山の山開きは終了。屋外プールもおそらくはもう営業しているところはないのではないでしょうか。缶ビールを手にすることも、だんだんと少なくなってきました。

アキアカネが飛び交うようになり、ヒガンバナが咲き始めるともう秋近し、というよりも秋そのものです。まだまだ紅葉には早いようですが、早晩、山も里も彩りの世界に入っていくことでしょう。

私個人としてのこの夏は、手の骨折入院があったこともあり、かなり変則的なものとなりました。約半月を人生初の入院で過ごし、盛夏のころをクーラーが効いた病室で過ごす、といった特殊な日々は、このあとも長いあいだ記憶に残ることでしょう。

牢獄に入った、というわけではありませんが、私生活の大半を他人と過ごし、日々かなりの自由が制限される、といったことを経験したのも始めてのことです。




ところで、牢獄といえば、なぜかフランスのバスティーユ牢獄が思い起こされます。中学校や高校の歴史の教科書に掲載されていた、民衆による「バスティーユ襲撃」の挿絵が印象的だったためですが、同じく覚えている方も多いでしょう。

もともとは要塞で、シャルル5世の治世下に建てられ、フランス革命前には政治犯や精神病者を収容した牢獄として使われていた建物です。フランス語では「バスティーユ」だけで要塞の意味があるそうです。

1789年7月14日にパリの民衆が、ここを襲撃した事件で有名であり、この「バスティーユ襲撃」は、フランス革命のはじまりとされ、世界史上もっとも有名な市民革命のひとつです。

フランス国内に3箇所あった国立刑務所の一つで、パリの東側を守る要塞として1370年に建設されました。中世のパリ市は全周を城壁で囲まれた城郭都市であり、バスティーユはその内郭の一つにあたります。約30mの垂直の城壁と8基の塔を有し、周囲を堀で囲まれ、入口は2箇所の跳ね橋だけでした。

その後の中世以降、パリは人口が増加して城壁の外にも市街地が広がり、大砲の時代となったこともあって、古い石造りの構造物であるバスティーユそのものが軍事的価値を持たなくなりました。

しかし、この侵入が困難で出入口が制限される構造は刑務所に向いていると判断されました。ここを国事犯の収容所としたのはルイ13世の宰相リシュリューであり、中央集権体制の確立と王権の強化に尽力し、後年の絶対王政の基礎を築いたことで知られます。

国王の権力をさらに固めるために、リシュリューは封建貴族層の影響力を抑制しようとし、国防用を除く全ての城塞の破却を命じました。これによって、国王に対する反乱に用いられたフランス貴族の防御拠点を奪い去るとともに、造反者は容赦なく拘束しました。これ以降バスティーユには主に謀反を起こそうとした高官たちが収容されるようになりました。

バスティーユには国王が自由に発行できる「勅命逮捕状」によって捕らえられた政治犯が多数入牢するようになりました。その後、ルイ13世が没する前にリシュリーも亡くなりましたが、臨終に際して聴罪司祭が「汝は汝の敵を愛しますか」と問うと、彼は「私には国家の敵より他に敵はなかった」と答えたといいます。

ルイ13世の没後は、わずか4歳のルイ14世が即位(在位1643~1715年)し、後継者としてマザラン枢機卿が宰相となりましたが、マザランは政策的にはリシュリューを継承し、後のルイ14世の絶対王政の地均しをしました。この時代はさらに民間人の弾圧も続き、バスティーユには王政を批判した学者なども収容されるようになりました。

またこの頃から収容者の名前を公表しなくなったため、市民たちにいろいろと邪推されるようになりました。囚人がバスティーユに連行される際、馬車の窓にはカーテンがかけられ外から覗くことは不可能であり、さらに出所する際には監獄内でのことは一切しゃべらないと宣誓させられました。

また牢獄内では名を名乗ることは禁じられ「○○号室の囚人」と呼ばれていました。こうしたことから、バスティーユは残虐非道な監獄と目されるようになりましたが、実際には囚人はかなり快適な環境で生活を送っていたようです。部屋は5m四方あり、天井までは8m、窓は7mの高さにあり、鉄格子がはまっているものの外の光は十分に入り込みました。

また囚人は、愛用の家具を持ち込むこともでき、専属のコックや使用人を雇うことすら可能だったといいます。食事も豪勢なものであり、昼食に3皿、夕食には5皿が出され、嫌いなものがあれば別のものを注文することができたそうです。

さらに、牢獄内ではどのような服装をしようが自由であり、好きな生地、好きなデザインで服をオーダーできました。図書館、遊戯室なども完備されており、監獄内の囚人が病気などになった場合は国王の侍医が診察しました。こうしたことから、他の監獄で病人が出たとき、病院ではなくバスティーユに搬送することさえあったそうです。

このように環境が整っているため、出所期限が訪れても出所しなかったり、何ら罪を犯したわけでもない者が債権者から逃れるために入所したこともあったといいます。そうした環境のよさもあってか、ここに収容された囚人の数はそれほど多いわけではありません。

1774年のルイ16世即位からバスティーユ襲撃の1789年まで、収容された人数の合計はわずか288人にすぎず、このうち12人が自ら望んで入所した囚人です。

江戸、小伝馬町の牢では、東京ドームの約5分の1の広さの敷地に、常時大体300~400人程度、天明の打ちこわしや、天保の改革の時には最大900名も収容されていたといいますから、人数比からいってもバスティーユの快適さが伺われます。

1776年から始まったバスティーユ牢獄の要塞司令官としての役割を担ったのは、ベルナール・ルネ・ジュールダン・ド・ローネー侯爵でしたが、1789年のバスティーユ襲撃の際、殺害されました。

激怒している群衆はバスティーユに押し入ると彼を襲い、生きながらナイフ、剣などでなますにしたといい、ローネーは「もう十分だ!殺してくれ!」と叫んだといいます。殺害後、彼の頭は肉屋によって切られ、矛先に差し込まれて見せしめにされた後、次の日セーヌ川に投げ込まれたといいます。

襲撃後、要塞は解体処分されましたが、解体作業中はその石材で作ったバスティーユ牢獄のミニチュアを土産物として売る業者が横行したといいます。1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊したあと、そこから出た資材を観光土産にして売る業者が出、いまだに続いているといいますから、民衆がたくましいのはいつの時代も同じです。

現在はバスティーユ広場となっており、広場中央には1830年7月革命の記念柱が立っていますが、ほかに近くの駅にこの要塞の壁の遺構の一部を見ることができます。また、バスティーユ広場より少し離れたセーヌ川沿いのスクウェア・アンリ=ガリに、丸型の基盤の遺構の一部が移され保存されています。

なお、バスティーユ広場に面しては、かつて郊外線のバスティーユ駅が設けられましたが、その後同線が廃止されたあとに解体され、1989年よりオペラ・バスティーユが建てられています。フランス革命200年を記念して建てられたもので、パリ国立オペラの公演会場の一つであり、オペラおよびバレエ、管弦楽の公演が行われています。

座席数は2703。舞台装置はコンピューター制御と外観、設備とも現代建築の粋を集めたものとなっており、外観はガラス張りのモダニズム様式の建物で内部は地上7階地下6階建てで、この新しいバスティーユはパリの新しい顔になりつつあるようです。

ところで、バスティーユ牢獄には数々の身元不明者が収容されていたことは前述のとおりですが、この中の有名人のひとりに、「鉄仮面」と呼ばれた人物がいました。

1703年までバスティーユ牢獄に収監されていた「ベールで顔を覆った囚人」で、現在に至るまでその正体については諸説紛々で、これをモチーフに作られた伝説や作品も多数流布しています。

この囚人は1669年に、現在はイタリア北部に位置する“ピネローロ”にあった、ピネローロ監獄から移されてきました。ルイ14世の大臣から直々にここの監獄長、サン・マールに預けられ、自らが世話をしていたといい、彼の転任と共にその囚人も移送され、サント=マルグリット島を経て、1698年にバスティーユ牢獄に移送されてきました。

中世のピネローロは交通の要衝の一つであり、イタリアとフランスの国境付近に位置するという軍事的な重要性ゆえに、軍学校の起源となる学校などが置かれていました。フランス王国領であった17世紀後半、ここにこの謎の多い囚人「鉄仮面」は収容されました。

当時のバスティーユ牢獄の看守の記録によれば、「囚人は常にマスクで顔を覆われ、副監獄長直々に丁重に扱われていた」と記録しています。「鉄仮面」の名で呼ばれるようになったため、現在に至るまで鉄製の仮面を常に着用していると言うイメージになってしまっていますが、実際には布製のマスクだったといわれます。

また、日常の生活で常にマスク着用が義務付けられていたわけではなく、人と面会する時にだけ着用させられていただけでした。しかし、もし人前でマスクを取ろうとすれば、その場で殺害せよとの指示が出されていたといい、そのため、牢獄で世話をしていた者も囚人の素顔を知りませんでした。

囚人は1703年11月19日に死亡。「マルショワリー」という偽名で葬られ、衣類や身の回りの品などは全て破棄されたといいます。

この人物が誰であったかについては、当時からいろいろな憶測が飛び交いました。が、軍事要塞であるピネローロに幽閉されていたことから、この当時のフランス軍の元帥で、ルイ14世の腹違いの弟(または従兄弟とも)であった、フランソワ・ド・ヴァンドームではないか、といわれていたようです。

上述のとおり、1643年にルイ13世の死に伴い、ルイ14世がわずか4歳で即位、ジュール・マザランが宰相となりました。彼はリシュリーの時代から続く三十年戦争継続のための重税を課したため、貴族と民衆の反発を買いました。

三十年戦争とは、ヨーロッパ中心部で1618年から1648年に戦われた国際戦争で、当初はプロテスタントとカトリックとの対立のなか展開された宗教戦争でした。が、次第に宗教とは関係のない争いに突き進み、フランス王国ブルボン家およびネーデルラント連邦共和国と、スペイン・オーストリア両ハプスブルク家のヨーロッパにおける覇権をかけた戦いとなりました。

この戦争の中、フランス国内には徐々に革命の機運が高まるとともに王政も腐敗し始めていました。売官制が認められると、富裕層が法服貴族として増加し、彼らを中心に民衆とが蜂起。反乱軍はパリを包囲しました。このとき群衆は、王宮内の当時10歳のルイ14世の寝室まで侵入し、ルイ14世は寝たふりをして難を逃れたといいます。

反乱はその後鎮圧されましたが、ルイ14世の幼い時のこの体験が、後のヴェルサイユ遷都につながったといわれており、王政を揺るがす大事件でした。この乱では、パリの民衆がフロンド(fronde)と呼ばれる当時流行していた投石器を使ったことから「フロンドの乱」と呼ばれます。

この乱で群衆の先頭に立ち、活躍したのがヴァンドーム元帥でした。ヴァンドーム公と呼ばれた彼の父は反ルイ13世派であり、彼もまた反リシュリュー派に属し、フロンドの乱では最先端に立ちました。ただ、これから約20年後の1669年、クレタ島を防衛するため、フランス艦隊を率いてオスマン帝国と戦い、夜の戦闘中に討死したといわれています。

ただ、その死体は敵の手から取り返されることはなく、誰も確認できなかったため、それ以前にバスティーユに入牢していたのではないか、ということがいわれているようです。




このほか、フランスの哲学者で歴史家のヴォルテール(1694~1778)は、鉄仮面は、宰相マザランとルイ13世の妃、アンヌ・ドートリッシュの間にできた息子で、ルイ14世の庶兄であるとしました。この説によればマザランは不義を働いていたということになります。

後世、「モンテ・クリスト伯(巌窟王)」、「三銃士」の著者で知られる小説家、アレクサンドル・デュマは、この説を翻案し、鉄仮面をルイ14世の双子の兄にして小説を書いており、これが現在に至る「鉄仮面」の初出になります。

1998年・ランダル・ウォレス監督がメガホンをとった映画「仮面の男」では、レオナルド・ディカプリオ主演し、ここでもルイ14世の双子の弟が「仮面の男」として物語が進みます。

このほか囚人はルイ14世本人で、フランスを統治したこの王は宰相マザランによって扱いやすい替え玉と取り替えられたという話もあり、この話には、囚人が獄中で子供を作り、その子が後にコルシカ島へ行き、ナポレオンの先祖になるという尾ひれも付いています。

最近の説の中で一番信憑性が高いといわれているのが、仮面の男の正体は、宰相マザランの会計係であった、ユスターシュ・ドージェ、という人物だったという説です。

上で述べたとおり、マザランはアンヌ王妃の愛人だったという噂もあり、その立場を利用して権力と強大な富を築きしました。そのマザランの側用人だったとされるのがユスターシュであり、主人の不義や権力を得るまでのすべての裏を知っていた彼が「鉄仮面」として幽閉された、というのはある程度説得力のある話ではあります。

が、ルイ14世の兄弟や従兄弟であったという説も根強いのは確かです。高貴な血が流れていたのではないかという憶測とともに、囚人が被っていたという仮面のグロテスクなイメージから、様々な文学作品、映画に取り上げられており、本来の伝説からかけ離れて「鉄仮面の囚人」だけが一人歩きした三次派生とも言うべき作品も多く作られてきました。

日本でも、黒岩涙香による翻案小説「鉄仮面」が、1892年(明治25年)12月25日から1893年(明治26年)6月22日まで「萬朝報」に連載され、この涙香版は何度も単行本化されました。また江戸川乱歩も涙香版を小中学生向けにリライトしたものを出版(講談社版・1938年)して好評を博し、戦前戦後を通じて愛読されました。

その他、雑誌に掲載されたダイジェスト版や映画、漫画、紙芝居、ラジオドラマで、日本中に「鉄仮面」の名を知らしめました。ご興味のある方は、いろいろなバージョンがあるようですから、秋の夜長に一読して楽しまれるのもよいのではないでしょうか。

もっとも、映画や芝居などにおいて、最近はあまり新しいバージョンはなく、リバイバルばかりのようです。

ただ、太平洋を挟んだ日米の政治の舞台では新時代の鉄仮面が暗躍しているようです。「鉄面皮の男」の異名がつけられたこの両国のリーダーは、それぞれの国の民を欺き、混乱を助長しているといいます。はたしてその厚顔は長続きするでしょうか。



切り捨て御免

台風一過のもと、秋の深まりが加速しているかんじがします。

あちこちでヒガンバナが咲いたとの便りが聞こえてきていますが、わが家の庭の曼珠沙華もようやく芽を吹き始めていて、今週末にも第一花が咲くのではないでしょうか。

それにしても… 解散総選挙だそうです。こんな時期に…

野党側にすれば、これから、というときに出鼻をくじかれたかんじ、与党側にすればしてやったり、と思っているのかもしれませんが、相手の弱みにつけこんで、こういうやり方で強硬手段に出る、というのはあまり良い印象のものではありません。

後世でどういう名前の解散総選挙になるのかわかりませんが、「抜き打ち」解散というよりは、「不意打ち」のイメージが強く、人によっては、「だまし打ち」解散と呼ぶひともいるかもしれません。

日本人は、不意打ち、だまし討ちといったことが嫌いです。先の大戦の真珠湾攻撃は、相手への警告が手違いで遅くなった、という理由はあったにせよ、そうなってしまいました。アメリカ人から卑怯者のレッテルを張られ、そう言われるようになったことについては、いまだに「恥」と感じている日本人は多いのではないでしょうか。

同じ日本人で「恥」という言葉を理解しているなら、もう少しやり方があるのではないか、と思うわけですが、数に任せてやりたい放題をやっている政党には、「厚顔無恥」の意味も分からないに違いありません。

都民選では大打撃受け、一度は死んだふりをしていましたが、ここへきて「いないいないバア」とばかりに突然の侵攻。何の準備も整っていない野党にとっては「弱いものいじめ」にほかなりません。

日本人は、こうした弱い者いじめも大嫌いです。「判官びいき」のことばにあるように、弱い立場に置かれている者に対しては、ついつい同情を寄せてしまう傾向にあります。なので、今回の解散も、国民感情を考えれば必ずしも与党の思う通りにはいかないのではないか、と思ったりもします。

とはいえ、あまりにも弱すぎる野党ばかりで、ひいきにするにしても頼りなく、じゃあ、いったいどうすればいいのよ、といったかんじです。




それにしても、ここまでこう書いてきて、日本語の中に「○○討ち」とされる用語があまりにも多いのに少しびっくりしています。

ほかに、「上意討ち」というのもあります。主君本人、またはその部下が主君の命で不都合をしでかした家来を討つことで、この場合の家来には武士のみならず中間や下男下女などの武士以外の奉公人も含まれており、理論的には日雇いの奉公人も対象となりました。

主従関係に基づく、こうした無礼討ちでは、主人が有する家臣への懲罰権の行使と考えられたため、合法な行為とみなされました。正当防衛云々は関係なく、懲罰であるため、殺害自体の刑事責任も問われません。

ただし、家来に対する管理能力に問題があるとみなされ「家中不取締」として御役御免や閉門といった処分を受けることもありました。また懲罰であるため、とどめを刺すことも許されるなど、無礼な行為と判断し手討ちにすることは主人の家来に対する特権として認められていました。

また、江戸時代には、直接の尊属を殺害した者に対して私刑として復讐を行う「敵討ち(または仇討ち)」も認められていました。

殺人事件の加害者は、原則として公的権力(幕府・藩)が処罰することとなっていましたが、加害者が行方不明になり、公的権力が加害者を処罰できない場合には、公的権力が被害者の関係者に、加害者の処罰を委ねる形式をとることで、仇討ちが認められていました。

ただし、基本的には子が親の仇を討つなど、血縁関係がある親族のために行う復讐だけが認められていたわけであり、誰しもにリベンジが許されていたわけではありません。

こうした上意討ちや敵討ちは、武家社会の秩序を保ち、幕藩体制を維持するための観点から武士同士のいさかいを調停するために認められていたものです。しかし一方では、武士と武士だけでなく、武士と町民や農民などのトラブルが生じる場合もあり、こうした場合に許されていたものに、「切捨御免(きりすてごめん)」というのがあります。

苗字帯刀とともに武士に認められていた、階級を超えての殺人の特権であり、別名を「無礼討ち」ともいいます。ただし、「切捨御免」という言葉は近代になり、時代劇が流行るようになって、この中で使われるようになった用語です。史料においては「手討(ち)」「打捨」などと表現されていました。

武士が耐え難い「無礼」を受けた時は、相手の身分にかかわらず切っても処罰されないとされるもので、法律的には、江戸幕府が定めた「公事方御定書」の「第71条追加条」によって明記されていて、れっきとした合法行為です。

ただし、あくまでも正当防衛の一環であると認識されているため、上意討ちや敵討ちと違い、結果的に相手が死ぬことはあっても、とどめを刺さないのが通例でした。また無礼な行為とそれに対する切捨御免は連続している必要があり、以前行われた無礼を蒸し返しての切捨御免は処罰の対象となりました。

こちらも合法的な行為でしたが、その判定は極めて厳格だったそうで、実際に切り捨て御免を実施する場合には、命懸けでやる必要があったといいます。

と、いうのも、切り捨て御免を行使するためには、それなりのきちんとした理由がなければ許されない、とされており、れっきとした証拠がない限りは、逆に死刑となる可能性が大きかったためです。死刑までいかなくても、重い刑は必至であり、ましてや処罰を免れる例は極めてまれだったといいます。

そもそも切り捨て御免が行使される前提としては、武士である本人に対する相手の「無礼」な行為があることです。相手に対して失礼な態度を意味し、例えば目上あるいは年上の人に対して「お前」などといった言葉を使い、敬語を使わないなどがこれにあたります。

もっともこうした言動だけでなく、なんらかな無礼な「行為」の行使についても、「不法」「慮外」ととられるものについては対象となりました。ただ、その受け取り方については個人によって差異があったため、対象たりうるとされた「無礼」は、2段階に分類されて慎重に吟味されていました。

まず、第一段階としては、武士に対して故意に衝突、及び妨害行為があった場合で、これら一連の行為や言動が「無礼」「不法」「慮外」なものととらえられケースです。この段階では必ずしも手討ちには至るレベルとは限りませんが、武士に対してなんらかの「非礼」があったと認められる段階であり、後日それが認められた場合には何等かの処罰の対象になりました。

問題は第二段階目で、その行為が武士に対して著しい「名誉侵害」にあたると考えられ、かつその回復が不可能と判断された場合、および、その無礼が発言の身にとどまらず、何等かの生命を脅かす行為である場合には、「著しい無礼」と判断されました。すなわち相手からの「攻撃」があった場合であり、自身の身を守る「正当防衛」が成り立つ場合です。

この第二段階目に行った場合は、「切り捨て御免」となるわけですが、この後の行動にも規定があり、斬った後は速やかに役所に届出を行うことが義務付けられていたほか、その討ち捨てにどのような事情があったにせよ、人一人斬った責任の重みのため、20日以上に及ぶ自宅謹慎を申し付けられること、などでした。

また、斬った際の証拠品を検分のため一時押収されるとともに、無礼な行為とそれに対する正当性を立証する証人も必要とされました。

近年の時代劇では、武士が町民を切り捨ててそのままその場を立ち去る、といったシーンもよく放映されますが、実際にはそんな風に簡単には済まされません。法律的に「手討ち」の適用になる条件は極めて厳格であり、証人がいないなど、切捨御免として認定されない場合、その武士は処分を受けました。

この時代、武士の「切腹」は不始末が生じた場合にその責任をみずから判断し、自分自身で処置する覚悟を示すことで名誉を保つ社会的意味がありました。切り捨て御免の場合、最悪はその切腹も申し付けられず、斬首刑を受けるなど、「罪人」として扱われることもありました。

家の取り潰しと財産没収が行われる可能性も大いにあり、このため、本人謹慎中は家人及び郎党など家来・仲間が証人を血眼になって探したそうです。見つかりそうにない場合、評定の沙汰を待たずして自ら切腹する者が絶えなかったといいます。

もっともこれは首尾よく無礼討ちを完遂できた場合のことであって、時には手討ちを行おうとしたものの、相手に逃亡されて果たせなかった、といったこともありえます。

この場合、そうした「無礼討ち」を果たせないほど愚かなヤツ、とみなされ、相手に逃げられたことがつまびらかになった場合には、「武士の恥」といわんばかりに、不名誉とされ処罰の対象となることもあったそうです。

一方、上意討ち・無礼打ちを受ける側の方ですが、こちらも一方的にやられっぱなし、で放っておかれたわけではなかったようです。無礼を理不尽を感じた者は、両者にどのような身分差があっても、たとえ殺すことになっても刃向かうことが許されていました。

とくに、討たれる者が士分だった場合、必至で反撃しなければなりませんでした。何も抵抗せずにただ無礼打ちされた場合は、むしろ「不心得者である」とされてしまい、生き延びた場合でもお家の士分の剥奪、家財屋敷の没収など厳しい処分が待っていたからです。

無礼討ちをする相手に逃げられてもダメ、ただ単にやられっぱなしでもダメ、ということで、この当時の武士のトホホさがうかがわれますが、逆にいえばいかに武士の「名誉」が重んじられていたかがわかります。

このため、こと「切り捨て御免」といった事態に突入した場合には、無礼打ちする方も受ける方も必死になり、命懸けで臨まねばなりませんでした。いざそうしたトラブルが発生した場合には、武士の体面を賭けて、「真剣勝負」で臨むことが求められていました。

こうしたことから、無礼討ちをされる相手が帯刀していなかった場合などには、手討ちをする側も無腰の相手を切ったとしてお咎めを受けるケースがありました。このため、自分は太刀を持って優位に立った上で事に臨み、相手には脇差を持たせた上でけしかけ、刃向かわせてから即座に斬る、という場合もあったそうです。

ところが、相手がいつの場合も同じ武士とは限らないわけであり、こうした「武士道」を対手がいつも理解しているとは限りません。

記録に残っている中では、尾張藩家臣の“朋飼佐平治”なる武士が、雨傘を差して路上を歩いている際、ある町人と突き当たりました。佐平治が咎めたのにもかかわらず、この町人は無視してそのまま立ち去ろうとしたので、佐平治はそれを無礼とみなし町人を手討ちにしようとしました。

このとき、佐平治は無腰の町人を手討ちにするのを不本意と考え、自らの脇差を相手に渡して果たし合いの形式をとろうとしますが、あにはからんや、相手の町人はその脇差を持ったまま、遁走してしまいました。

そして、「あまれ(痴れ)、佐平治をふみたり(アホの佐平治を打ち負かしたのは俺だ)」、と触れ回ったといい、悪評を立てられた佐平治は、やむなく書き置きを残して出奔たといいます。しかしメンツをつぶされ、根にもっていたのでしょう。その後、このままでは捨て置かぬ、とこの町人の家を突き止め、女子供に至るまで撫で切りにしたといいます。

このほか、江戸時代には他領の領民に対して危害行為におよぶことはご法度でした。この時代、封建社会であったとはいえ、各大名がそれぞれの領地においてある程度独立した統治機構(藩)を形成しており、地方分権はある程度認められていました。

このことから、他領で切り捨て御免を行うことはたしなめられていました。仮に自分が属する藩以外の領地で切捨御免に及んだ場合、その切られた領民が属する藩主・領主への敵対的行為とされる恐れがあったためです。

これは幕府直轄地である江戸でも同じであり、江戸の町民に他藩の武士が危害を加えた場合は、江戸幕府への反逆行為とみなされる恐れがありました。

このため諸藩は江戸在勤者に対し、「町民と諍いを起こさずにくれぐれも自重すべき」旨の訓令をたびたび発していました。これを知っていた町民の中には、武士たちが簡単には斬れない事情を知り、粋をてらったり、度胸試しのために故意に武士を挑発する言動をする者もいたといいます。

ただ、芝居小屋・銭湯といった人が大勢集まる場所で切り合いをされてはたまったものではありません。このため、こうした無用のトラブルを避けるため、江戸中期以降には、武士と町民がかち合う可能性のあるようなこうした公共施設では、だいたいのところで、刀を預ける「刀架所」が下足所の横に設けられていました。

また諸大名家は江戸町奉行の与力・同心には毎年のように付け届けを行うことで、万一そうしたトラブルがあった場合でも握りつぶしてもらうよう配慮していました。このため、彼らは正規の俸禄の数倍に相当する実収入を得ていたといいます。



以上のように切捨御免は武士の特権として一般的に認められてはいたものの、気ままに実行出来るようなものではありませんでした。正当な行為とは認められず、逆に「違法」とされるリスクも高かったため、実際に切捨御免を行い、認められた事案はそれほど多くはないといいます。

例外としては、明和五年に岡山藩士が幕領内で起こした無礼を理由とした手討ちについて、幕府道中奉行は無礼討ちに当たると認定してお咎め無しと判断、そればかりでなく当該行為を「御賞美」しました。

この岡山藩は、どうもこうした無礼討ちには寛容だったようで、ほかにも証人の証言を元にして無礼があったと認定されれば、無礼討ちと認定され処罰されなかった事例があったということです。

また、徳島藩では“林吉右衛門”なる人物が藩の禁令だった夜間の相撲見物をしていた際に町人を無礼討ちしたことがありました。この件については、相撲見物の件を咎める一方で無礼討ちの件では林吉右衛門を咎めなかったといいます。

同じく徳島藩の”星合茂右衛門”が家臣と銭湯入浴に出かけた際に町人を無礼討ちした件でも、藩の禁令だった家臣の入浴については咎められましたが、無礼討ちの件は咎められなかったそうです。

こうした無礼討ちの事例は、旗本奴(やっこ)といわれるようなかぶき者(遊び人)があふれていた江戸初期に見られましたが、江戸中期に減りはじめ、後期には殆ど見られなくなっていきました。

とはいえ、江戸期を通じて参勤交代終始行われていたため、江戸市中を諸大名や旗本が行列を作って通る場合などには、武士と町人の間のトラブルとしてたびたびあったようです。

宝永6年、“戸田内蔵助”なる武士の一行が江戸木挽町を通過した際、町人が偶然に行列を横切ろうとしました。お供の者がそれを咎めると、町人は逆に悪口を言ってきたため、お供が町人を掴んで投げ飛ばしました。

しかし、町人はさらに悪口を言ってきたため、籠の中からそれを見ていた内蔵助は町人の切り捨てを命じ、町人は無礼討ちにされました。後日この事件を幕府に届け出ましたが。お咎めは無かったといいます。

もっとも、江戸後期になると、こうした通行中のトラブルも減っていきました。江戸市中での行列では通行人の妨げにならぬよう行列の途中で間隔をあけ、通行人の横断が許可されるようになったためで、また、人命に係わる職業である医者と産婆の場合は、「通り抜け御免」として行列を遮ることが許可されるようになりました。

このほか、実際には、刃傷沙汰や喧嘩によって死者が出た場合でも、手討ちや無礼討ちとして処理される、といったこともあったようです。

西洋では「決闘」による名誉回復がありましたが、日本では基本的には敵討ち以外の「私闘」は認められていなかったためです。切捨御免は、その抜け道として使われることもあり、記録に残っていない刃傷沙汰はかなりあったに違いありません。

振り返って現代。

今回の解散総選挙もまた、与党が野党にしかけた「私闘」の様相です。弱いものいじめではあることは明らかですが、合法的ではあるがゆえにお咎めはなく、やはり抜け道として使われているような気がします。

抜き打ち、不意打ちに対抗するには、やはり「返り討ち」しかないと思うのですが、我々国民にとってのそれが何なのか、どうすればいいのか、今はまだみえないようです。




原爆と水爆 ~忘備録

ここのところ、毎週のように北朝鮮がミサイルを打ち上げており、この暴走国家をどう裁いていくか各国の度量が試されている、といった状況です。

北朝鮮は、このミサイルとは別に、先日は過去最大級の核実験も行っており、開発に成功したとされているのが水素爆弾(hydrogen bomb)です。

わかった気にはなっているものの、いったいどういうものなのかは理解していなかったので、今日はひとつ、忘備録としてこれを整理してみることにしました。

そもそも原爆とは何が違うのか、という点ですが、ひとくちに言うと、原子爆弾は「核分裂」であり、水素爆弾は「核融合」です。

まず、核分裂のほうですが、物理学者であるアインシュタインは、相対性理論によって、物質はその質量分だけエネルギーを持っているという事実を明らかにしました。例えば広島に投下された原子爆弾に使われていたウラン235という物質は、中性子を強制的にあててやると複数に「分裂」し、そのときエネルギーを発する、という性質を持っています。

ここで中性子とは何か、ですが、地球上の物質の多くは細かく分けていくと分子になります。分子はその物質の化学的な性質を保った最小の単位で、原子の組合わせでできており、この原子は100種類以上あります。

原子は電子と原子核でできており、ほとんどの原子核は陽子と中性子でできています(水素原子のほとんどは陽子のみ)。陽子は正の電荷を持った素粒子で、中性子は電荷ゼロ(中性)の素粒子です。ややこしいですが、ここまでを単純にまとめると、

分子→原子→(電子+原子核(→(陽子+中性子))

いうことになります。

ここで、原子核を構成する陽子、中性子の組み合わせは多数あるため、いろいろな原子ができますが、この原子核の種類を「核種」といいます。核種によってはその量子力学的バランスの不釣り合いから、「放射線(α線、β線、γ線など)」を放出するものがあります。

この放出を「放射性崩壊」と呼び崩壊現象を起こして他の核種に変化します。そしてこのような放射線を放出して放射性崩壊を起こす性質のことを放射能 (radioactivity) と呼びます。

一般的には放射線のことを放射能と呼ぶことが多いわけですが、もともとは「放射する能力」のことを指しているわけです。

ここで、「崩壊」と「分裂」の違いですが、この2つは似てはいますが別の現象です。「分裂」は原子核がその不安定さゆえに「割れる」ことで、中性子を当てるなどして無理やり分裂させることです。

一方、「崩壊」は原子核がその不安定さゆえに「欠ける」ことで、何もしないでも普通自然に起こる現象です。そして崩壊の段階でα、β、γなどの放射線が、「欠けた原子核の片割れ」として放出されます。

さて、通常の物質陽子と中性子は互いにπ(パイ)中間子を交換しながら安定な結合をしています(このパイ中間子こそが、当時大阪大学の講師であった湯川秀樹が、その存在を予言し、のちに確認されたものです)。が、他の物質に比べて不安定な放射性物質であるウランなどではここに余分な中性子を当てるとさらに不安定になって分裂が促進されます。

いくつかあるウランの種類はみんな不安定ですが、そのひとつ、ウラン235はそれがとくに著しい、つまり分裂速度が速く、原子核が中性子を吸収すると2つに分裂し、また、この際に2個ないし3個の中性子を出し、それによってさらに反応が続く…といったふうに加速していきます。

ちなみにウランは、地球上では安定して存在し続けられない元素であることが知られており、だんだんとエネルギー、つまり放射能を放出しながら崩壊して小さくなっていきます。その時間を半減期といいますが、ウラン238の半減期は約44億6800万年もあるのに対し、ウラン235の半減期は約7億380万年です。

このように半減期の長い放射能性物質はウランに限らず、ほかにもいくつか地球上に存在していますが、ウランの場合、現在の地球に天然に存在しているのは、ウラン238(地球上のウランの約99.274%を占める)、ウラン235(同0.7204%)、ウラン234(0.0054%)の3種だけです。

ウランと同じくよく耳にするのがプルトニウムですが、ウラン鉱石中にわずかに含まれており、天然ではウラン以上に希少です。原発の原子炉において、ウランが崩壊する過程でプルトニウムができるので、まあ言ってみれば姉妹の放射性物質といっていいでしょう。

ウラン238、238、234などはこれらは原子番号は等しいものの、質量数が異なる原子なので、「同位体」といいます。また、プルトニウムもプルトニウム239、プルトニウム241その他いくつかの同位体が存在しています。ちなみにプルトニウムはウランよりもかなり不安定な物質のため、原爆の開発の段階で危険とみなされてあまり利用されなくなりました。

強制的に当てた中性子を吸収し、分裂後に生成された物質をすべて足し合わせたウランの質量は、当初よりごくわずかに軽くなっています。足し合わせたのになぜ軽くなるか、ですが、その質量分が実はエネルギーとして外部に放出されているわけです。

通常は長~い時間をかけて「崩壊」しながら放出されるわけですが、無理やり「分裂」というやり方で放出を促進すると、このわずかな差分が、瞬時に途方もないエネルギーとして外部に放出されることになります。これを応用したものが、これすなわち原子爆弾です。

ウランやプルトニウムの分裂が瞬間的に進むように設計したものですが、分裂の速度があまりにも速いので結果として「爆発」という現象になります。

ちなみに、こうしたウランやプルトニウムは微量なエネルギーを何億年もかけて放出しますが、このエネルギーを生活に必要な程度に、かつ人類の時間感覚に合うようなスパンでゆっくり取り出すように設計されたのが、「原子力発電所」ということになります。



核分裂を利用した原爆の説明、ここまではよろしいでしょうか。

さて一方の水素爆弾のほうです。冒頭で述べたとおり、原子爆弾のような核分裂反応ではなく「核融合」反応を用います。

この核融合に用いる原子はウランではなく、「水素」です。水素をある条件で4つ組み合わせるとヘリウムという物質に変化しますが、水素4つの質量とヘリウムの質量を比較すると、足し合わせたのにも関わらず、ごくわずかにヘリウムの方が軽くなっています。このときわずかな質量変化ではありますが、膨大なエネルギーが出ます。

中性子を吸収したのに軽くなり、このとき大きなエネルギーが出す、といったところが核分裂と似ています。しかし、核分裂のように原子を「分裂」させるのではなく、逆に複数の物質を併せて「融合」させ、質量の差分をエネルギーとして取り出すのが核融合反応です。似たところはあるものの、その原理はまったく逆の発想から来ています。

このアイデアの発見は、そもそもは、「なぜ、太陽は何十億年も輝き続けられるのか?」という疑問から始まりました。「決して物が燃えているのではない、物が燃えているのであれば、数十年で燃え尽きるはずだ」という疑問から始まり、「太陽の中心部では、水素同士が融合してエネルギーを発しているにちがいない」という結論にたどりつきました。

そして研究が進み、太陽は基本的にその構成要素の73%を占める水素と水素同士を結合(融合)させ、その結果として膨大なエネルギーを生み出しているということがわかりました。

上で少し触れましたが、水素の原子核は中性子を持っておらず、陽子のみからなる原子核11個と電子1個からできており、非常に単純な構造であるとともに、この世で最も軽い元素です。

もっとも、水素のなかには、中性子が1個存在する「重水素」と、2個存在する「三重水素」という同位体があり、水爆の原料にはこの重水素や三重水素、あるいはリチウムなどを用います。が、説明がややこしくなるので、ここではこれらを説明しません。



で、何が言いたいかと言えば、水素原子は1個の陽子しか持っていない単純構造のため、原子核どうしが引き付けあう力(核力という)が元素の中では最も小さく、融合し易い元素です。宇宙が誕生した時は水素しかなく、そのうち水素が核融合して陽子2個のヘリウムが誕生したと言われていますが、その単純さがこの世界を生み出したわけです。

ここで疑問が生じます。それだけ融合し易い元素なら、地球上にある水素は絶えず融合して、いつもエネルギーを出せるようになるじゃないか、と誰もが思うでしょう。が、そうはなりません。水素核が融合するためには大きな条件が必要であり、それは「熱」と「圧力」です。

水素核を融合させるには、水素ガスの温度を1億℃以上、または圧力を地球の大気圧の1千億倍にしなければならないといわれています。これに比べれば鉄が溶ける温度はわずか 1500~1600度であり、通常の火薬を爆発させても1億℃というような超高温にはなりません。1億℃といえば、溶鉱炉の温度の6万倍もの温度になります。

そんな超高温は、普通では考えられないし、地球上の自然ではつくることもできませんから、水素核は融合することはない。従って、水素核が融合してエネルギーを放出する、といったことは、我々の周囲で日常的には起こらないのです。ちなみに宇宙の始まりのビッグバンの時には信じられない規模の高温高圧があり、大量の物質融合が進んだとされます。

この宇宙の形成過程においては、時間が経つにつれて、ほとんど一様に分布している物質の中でわずかに密度の高い部分が重力によってそばの物質を引き寄せてより高い密度に成長し、ガス雲や恒星、銀河、その他の今日見られる天文学的な構造を形作りました。

そしてその名残のひとつが太陽です。太陽の中心部には、この高温・高圧があります。太陽は地球よりも遥かに大きな星であり、その中心部ではとてつもなく大きな圧力が生じています。圧力が大きくなれば温度が上がるのはごく自然のことです。太陽の中心部では水素核を融合させるだけの温度と圧力があり、ゆえに核融合反応が生じているのです。

で、地球上で核融合を起こさせるためにはどうすればいいか。それなら太陽と同じような条件で高温高圧の状態を作り出せばいい、ということになります。ただ、普通のやり方ではそんな非日常の状態を生み出すことはできません。

もうおわかりでしょうが、そこで使用されるのが、「原子爆弾」です。水素核を融合させるために、原子爆弾の核分裂反応から生じる高温・高圧を利用します。

まず、原子爆弾を爆発(核分裂)させ、その爆発によって生じる高温と高圧によって水素が核融合を起こすほどのエネルギーが発生します。そして次々と水素核の核融合の連鎖反応を生じさせることによって、大きなエネルギーを生み出すのです。

つまり、核分裂爆弾が水素爆弾の起爆装置になっており、水爆とは原子爆弾を起爆装置とした複合爆弾ということになります。

ただ、そうしたアイデアは同じであるものの、各国で作っている水爆の構造形式は違っていると考えられています。ただ、それがどの程度違うのかはよくわかっていません。なぜかといえば、水爆の構造は重要な軍事機密であるため公式には公表されていないためです。

とはいえ、各国ともこうした爆弾に詳しい軍事アナリストがいて、その機密をある程度は解き明かしているようです。それによれば、どの水爆も、構造的には、3段階のプロセスを経て、最大限の力を出させようとするようになっているらしいことがわかっています。

まずは、一端が丸い円筒形や回転楕円体をした二つの容器が用意されます。ひとつの容器の中には核分裂速度の速いウラン235を用いた核分裂爆弾、つまり原子爆弾が置かれ、もう一方の容器の外層には核分裂反応の弱いウラン238などが使用されます。

そしてその内部には、核融合物質としての重水素化リチウム、更なる熱源として中心にはプルトニウム239などが置かれ、水素爆弾の核とされます。まるで具が二重三重に入ったおにぎりのような重厚さです。

この二つの容器はくっつけて瓢箪型のような形状にされる場合もあるし、また別の形になっている場合もあるようです。最近テレビで公開された北朝鮮のものは前者のもののようです。こうした形にされるのは円筒形であるミサイルに搭載しやすいからであり、ミサイルでない場合は別の形状でも良いわけです。

実際の核爆発においては、第1段階で、原子爆弾が起爆され、その核反応により放出された強力なX線とガンマ線、中性子線が直接に、または弾殻の球面に反射して爆発が起こります。第2段階ではこれに誘発された水素融合によって中心部で水素爆発が起き、最後の第3段階で、一番起爆しずらい外郭のウラン238の核爆発が起こります。

合計3回の爆発が生じることになりますが、これら3回の爆発は1秒の何万分の一という瞬時に発生しますから、ほとんど同時に爆発することになり、原爆の数百から数千倍もの破壊力を持ちます。

ウランなどを使った核分裂反応は物理的特性上、爆発力に上限がありますが、水爆の場合には、おにぎりの具である反応物質を、大量に投入すればするだけ、大きな核融合を誘発でき爆発力を増やすことができます。このため、広島、長崎に投下された原爆の何百倍、何千倍もの爆発力を持つ爆弾も理論的には製造可能となります。

もっとも、ここまではできるだけ説明を簡単にするために述べた構造であって、核融合反応を起こすための仕組みは原子爆弾よりも難易度が高く、はるかに複雑です。今回の北朝鮮の実験が本当に水爆なのかはまだ不透明ですが、もし事実であれば、彼の国の核開発技術はアメリカなど核先進国のものにかなり近い段階に進んだとみてよいでしょう。

こうした核実験は、1945年から約半世紀の間に2379回も各国で行われており、その内大気圏内は502回です。大気圏や水中核実験は環境への放射能汚染が著しいため最近は行われていません。

1998年にパキスタンが行った地下核実験(原爆)以降は、北朝鮮以外の国で実験を行った国はありません(アメリカは“Zマシン”という室内核融合実験装置で2010年に実験を行ったとされる)が、その北朝鮮による実験は今回のもので8回目にもなります。

回数を重ねるごとに規模が大きくなってきており、完成度も高まっているのではないかと指摘されているようですが、はたしてこれで最後かどうかといえば、現時点では判断できる材料は何もないようです。

地下核実験の場合、核爆発が完全に地中で収束した場合には、放射性降下物は殆ど発生しません。しかし爆発によって地面に穴が空いてしまった場合には、そこから大量の放射性物質が噴出してしまう可能性もあります。

技術レベルが未知な国がやる核実験でその可能性がないとはいえず、万が一そうした事態になれば、ほぼ隣国といえる我が国においては深刻な事態が発生しないとは限りません。

国連ならびに関連諸国の共闘により、今後実験を行わせない方向性に持っていくことが最善であることは言うまでもありません。



養老の日に向けて

台風が接近中とのことで、せっかくの三連休の先行きを心配している人も多いでしょう。

ところで何の休日だったかなと?? と改めてカレンダーを見てみると敬老の日…

まてよ、15日じゃなかったけかな、と思って調べてみたところ、2003年(平成15年)から9月第3月曜日になったようです。

2001年(平成13年)に成立した祝日法改正、いわゆるハッピーマンデー制度の実施によるもので、もう10年以上もそうなっているのに気が付かないとはボケたもんだな~と思うわけです。

が、会社勤めをやめてからは、毎日遊んでいるというわけではありませんが、時間感覚的には日々が休日のようなものなので、言い訳にはなりませんが、これまではあまり意識してこなかったわけでもあります。



ただ、初年度の2003年の9月第3月曜日が偶然9月15日であったため、9月15日以外の日付になったのは、2004年(平成16年)の9月20日が最初だそうです。で、今年は18日。

私のように覚えが悪い人間がいることなどを考えると、毎年、日にちが変わるのは、敬老会の予定を組んだりするうえでいろいろ問題があったりするのではないかな、と思ったりもします。

するとやはり、導入当初はいろいろあったようで、敬老の日を第3月曜日に移すにあたっては、財団法人全国老人クラブ連合会(全老連)が反対を表明したそうです。長年親しんできた日にちを変更されるというのは心理的にも抵抗があるし、正月や端午の節句のような正式な?休日に比べて格下げになったような気分もあるからでしょう。

それにしてもなぜこの日が敬老の日なのか?といえば、これは、1947年(昭和22年)9月15日に兵庫県多可郡野間谷村(現在の多可町八千代区)で、村主催の「敬老会」を開催したのが始まりなのだとか。

これは、この当時、野間谷村の村長であった「門脇政夫(故人 2010年逝去)」という方が「老人を大切にし、年寄りの知恵を借りて村作りをしよう」という趣旨から開いたもので、9月15日という日取りは、農閑期にあたり気候も良い9月中旬ということで決められたのだそうです。

2013年からのハッピーマンデー法によるこの祝日の変更に関しては、当時存命であった、この門脇政夫さんも日付の変更について遺憾の意を表明したそうです。

休日への昇格?にあたってはいろいろなご苦労がおありだったようで、なんでもかんでもパッパぱっぱと変えてしまうお役人のやり方には反発もあったでしょう。

この9月15日という日を門脇政夫さんらが決めたのは、上述のように農閑期で気候がいいことなどに加え、「養老」にまつわる話なども参考にしたといいます。

岐阜県養老郡養老町に「養老の滝」というのがあります。落差32m、幅4mの滝、「日本の滝百選」や「名水百選」に選定されています。ここに「養老の滝伝説」というのがあり、これは、古今著聞集に記載されているもので、「養老孝子伝説」ともいいます。

“親孝行の伝説”とされる故事で、その昔、美濃の国に、源丞内(げんじょうない)という貧しい若者がいました。丞内は、毎日老父を家に残しては、山へ薪を拾いに行き、それを売って日々の糧を得ていましたが、時には父親のために酒を買うこともありました。

老父は、目が不自由で日々酒だけが楽しみでしたが、ただ、さすがに毎日高価な酒を与えるというわけにはいきません。そんなある日、丞内は薪ひろいに疲れてしまい、山の中で転んで眠ってしまいました。そうしたところ、夢うつつのなか、プーンといい匂いがします。

はっと気が付いて目を覚ますと、小さな泉があり、そこからはなんと、香り高い酒がこんこんと湧き出ているではありませんか!源丞内は喜んで、瓢箪にその酒を汲み、持ち帰って老父に与えました。すると、みるみるうちに老父の目が見えるようになりました。

源丞内はほかの村人にも酒を分け与えましたが、不自由な体を直すということで有名になり、泉の酒を売ってお金持ちにもなりました。

この「養老の酒」の噂は、この当時の帝の耳にまで達し、帝は親孝行の丞内をほめたたえるとともに、源丞内を取り立て、美濃の守に任じたとのこと…めでたしめでたし。



このはなしは、夢物語、というばかりではなく、実際、霊亀3年(717年)9月に滝を訪れた元正天皇(680~748)は、この泉を訪れています。飲んで、そのおいしさに驚嘆し、「醴泉は、美泉なり。もって老を養うべし。蓋(けだ)し水の精なればなり」と称賛したそうです。

まるで水の精が創ったような銘水だ、これを民に知らしめ、老を養わせるとしよう、というわけで、元正天皇はそれだけではなく、「天下に大赦して、霊亀三年を改め養老元年と成すべし」との詔を出し、この年から年号を「養老」に改元しました。また、元号が変わったこの年には、全国の高齢者に賜品まで下したといいます。

このほか、聖徳太子が四天王寺に悲田院を建立した日が593年9月15日だった、という話もあり、これが養老の日と結びついたという説もあります。四天王寺は、大阪市天王寺区にあるお寺さんで、寺院蘇我馬子の法興寺(飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のもの。国宝、重要文化財で埋め尽くされているような寺です。

悲田院(ひでんいん)は、四箇院(しこいん)の一つとして建てられたものです。四箇院とは悲田院に敬田院(きょうでんいん)、施薬院(せやくいん)、療病院(りょうびょういん)合せたもので、これは現在の医科学大学のようなものです。

非田院とは、身よりのないお年寄りなどを受け入れる施設、療田院とは、今日の病院と同じ病気を治療するところ、施薬院とは、薬を調合して施薬する薬剤師のいる場所、敬田院とは、仏教の経典を学ぶ寺院で、つまり現在の大学のような場所です。

現在の四天王寺には悲田院のあとは残っていないようですが、四天王寺のある大阪市天王寺区内には、悲田院町(JR・地下鉄天王寺駅近辺)があり、地名としては残っています。このほか京都市東山区の泉涌寺の塔頭の一つとして悲田院があります。

上の門脇政夫さんも、敬老の日を決めるとき、養老の滝伝説だけでなく、この四天王寺の話なども知っていたようです。

その当時のもう少し詳しい経緯について書くと、そもそも1948年7月に制定された「国民の祝日に関する法律」においては、こどもの日、成人の日は定められてはいたものの、老人のための祝日は定められていませんでした。

このため門脇さんは、自らが提唱して開催されるようになった敬老会のうち、1948年9月15日に開催された第2回「敬老会」において、9月15日を「としよりの日」として村独自の祝日とすることを提唱しました。ちなみに、このときの門脇村長は、37歳であり、やり手バリバリの活動家だったようです。

その後、県内市町村にも祝日制定を働き掛けたところ、その趣旨への賛同が広がっていき、1950年(昭和25年)には、ついに兵庫県が「としよりの日」を制定するに至ります。1951年(昭和26年)には中央社会福祉協議会(現全国社会福祉協議会)が9月15日を「としよりの日」と定め、9月15日から21日までの1週間を運動週間としました。

こうした動きを受け、国も動きます。1963年(昭和38年)には、「老人福祉法」が制定され、ここに、9月15日が老人の日、9月15日から21日までが老人週間として定められ、翌1964年(昭和39年)から実施されるようになりました。

さらに1966年(昭和41年)に国民の祝日に関する法律が改正されて国民の祝日「敬老の日」に制定されるとともに、老人福祉法でも「老人の日」が「敬老の日」に改められました。

以来、2012年までのおよそ半世紀にわたって9月15日が敬老の日であったわけですが、その「伝統」もいまやなくなり、毎週9月第三月曜日がこの日、と定められるようになったわけです。

もっとも、伝統という意味では、9月には、重陽(ちょうよう)という五節句の一つがあります。旧暦9月9日のことで、現在では10月にあたり菊が咲く季節であることから、菊の節句とも呼ばれ、邪気を払い長寿を願う日でした。菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしたといい、酒という点では上の養老伝説ともつながります。

現在では、他の節句と比べてあまり実施されていませんが、このことからもやはり9月10月というのは老いをいたわるにはちょうど良い季節のようです。

アメリカでも、9月の第一月曜日の次の日曜日がNational Grandparents Day(祖父母の日)とされているほか、エストニアでは9月の第2日曜日、ドイツでは10月の第2日曜日、イタリア10月2日といった具合です。

韓国でも10月2日が「老人の日」として記念日になっているほか、10月は「敬老の月」として記念月間に指定されています。重陽の習慣の輸入元、中国でも旧暦9月9日を「高齢者の日」と定めています。

さらに国際連合は、高齢者の権利や高齢者の虐待撤廃などの意識向上を目的として、1990年12月に毎年10月1日を「国際高齢者デー」とすることを採択し、1991年から国際デーとして運用しています。



日本の高齢者も毎年のよう増え続けており、高齢者人口は3186万人で過去最多総人口に占める割合は25.0%で過去最高となり、4人に1人が高齢者 65歳以上の高齢者という時代になっています。

100歳以上の人のことを、「センテナリアン」といいます。日本はアメリカ合衆国に次いで2番目に数が多く、推計51000人超もセンテナリアンがいるそうです。

国際連合は2009年、世界中に推計45万5000人のセンテナリアンがいると発表しており、まさに地球はセンテナリアン時代に突入しようとしているようです。

敬老の日を提唱した門脇さんは、1967年(昭和42年)から1979年(昭和54年)まで3期12年にわたり兵庫県議会議員を務め、自民党県議団幹事長、農林常任委員会委員長などを務めました。

2010年2月19日、急性呼吸不全により98歳で亡くなりましたから、もう2年長く生きていただいたなら、センテナリアンでした。

日本では、100歳の百寿を迎えた人には銀杯と共に総理大臣から祝状が送られ、長寿と生涯の繁栄を祝されるといい、アメリカ合衆国では、伝統的に大統領が手紙を送り、長寿のお祝いとしています。

このほかスウェーデンでは国王又は女王から電報が届くといい、多くの文化において、100歳の誕生日に贈り物を進呈するなど、何らかの祝賀を行う国は多いようです。

なので、ご近所にもし今度の敬老の日にセンテナリアンになる方がいらっしゃったら、銀杯とはいいませんが、せめてお祝いのお酒など差し上げてみてはいかがでしょうか。先手なり?あーん?と誤解されるかもしれませんが、喜ばれること必至です。

それにしても高齢化社会の中、我々もまたその予備軍ではあることには違いありません。高齢者予備軍のボクやワタシ、そして何も人生でいいことがなかったと思っているあなた。そんなことはありません。

長く生きていさえすれば、やがて国から表彰されるのです。センテナリアンを目指してお互い頑張りましょう。