ホーキング博士の遺品

ホーキング博士が亡くなりました。

スティーヴン・ウィリアム・ホーキングは、1942年1月8日、イギリス生まれの理論物理学者であり、一般相対性理論と関わる分野で理論的研究を前進させ、1963年にブラックホールの特異点定理を発表して世界的に有名になりました。

1970年代には、宇宙創成直後に小さなブラックホールが多数発生した、とする説や、ブラックホールは素粒子を放出することによってその勢力を弱め、やがて爆発により消滅する、とする理論(ホーキング放射)を発表し、これがその後「量子宇宙論」という分野を形作るところとなり、現代宇宙論に多大な影響を与えた人物です。

20歳前、学生のころに筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症し、余命5年程度と宣告されました。しかし、途中で進行が急に弱まり、発症から50年以上にわたり研究活動を続けました。晩年は意思伝達のために重度障害者用意思伝達装置を使い、コンピュータプログラムによる合成音声でスピーチや会話を行っていました。

その生涯

父親はオックスフォード大学で医学を学び、母親も同大学でPPE(哲学・政治・経済の学際領域)を学んだ才媛です。第二次世界大戦中、両親が暮らしていたロンドンは爆撃を受けており、母が疎開していたオックスフォードで彼が誕生しました。ほかにフィリッパ、メアリーという二人の妹と、エドワードという、養子縁組による兄弟がいます。

両親は子供たちの教育に力を入れており、とくに父のフランクはスティーヴンを評価の高いWestminster Schoolに入れたがっていました。しかし、家計の状況は苦しく、奨学金無しで通わすのは困難であったため、地元の標準的な学校に通うところとなりました。

しかし、このことが彼にとってはよかったようです。幼少期はむしろのびのびとした教育環境で過ごすことができ、仲の良い友人たちとボードゲームをしたり、花火を作ったり、模型飛行機やボートで遊ぶ、といったことなどが情操面ではプラスに働き、その後の優れた人格の形成に寄与したと考えられます。

宗教的な色合いの強い学校でもなかったことから、キリスト教など特定の宗教に偏った考え方を持つこともなく、また、友達とはオカルト的なことも平気で話し合うことができました。超常現象についても興味があったといい、こうした方面から次第に科学に興味が向いていったようです。

16歳のころには、学校の数学教師の助けも借りつつ、親しい仲間たちと、時計部品、電話交換機、中古部品などを使って計算機を作りあげたといい、こうしたことから、学校では「アインシュタイン」というあだ名で呼ばれていたそうです。

しかし、成績はそれほどでもなかったようで、ただ、理数系の分野では優れており、恩師に勧められて大学で数学を学ぼうと決意しました。とはいえ、自らも医者だった父は、数学専攻で卒業した人には職が少ない、という理由から、彼に医学を学ぶことを勧めました。

父のフランクはまた、自分の出身校であるオックスフォード大学で息子が学ぶことを望んでいました。結局、医学部には入りませんでしたが、1959年10月に17歳で、オックスフォード大に奨学生として入学。当時同校には希望していた数学科がなかったため、ここで物理と化学を学ぶことになりました。

幼少のころの学力はそれほど秀でたものではなかったものの、彼の学才はこのころから飛躍的に伸び始めます。入学したのちに学んだ物理化学の領域は、彼にとって退屈なほど簡単だったようで、彼に言わせれば、「ばからしいほど簡単」でした。

その一方で、第二学年、第三学年と学年が進むにつれ、学生生活も謳歌するようになります。クラシック音楽を通じて多くの友人を得るとともに、サイエンス・フィクションに興味を抱いている者たちのグループとも交流するようになりました。

さらにスポーツでもボート部に参加するようになり、ボート部では、コックス(舵手)役を務めていたといいます。

こうした学業だけでなく、いわば「遊び」の部分にも慣れ親しんだところが、子供のころから英才教育によって育てられた温室育ちの秀才とは異なるところです。幼少期にごく普通の学校でのびのびと過ごし、充実した大学生活も満喫できた、といったことは、その後、世界的に知られるようになる天才の人格形成に大いに役立ったと考えられます。




この学生時代、彼はまた数々の恋愛経験をしたようです。なかでも同じ大学で文学を学んでいたジェーン・ワイルドと懇意になり、その後二人は結婚することとなります。

オックスフォード卒業後は、21歳でケンブリッジ大学大学院、応用数学・理論物理学科に入学。ところが、このころ、 検査で「筋萎縮性側索硬化症(ALS)」と診断されます。しかし、恋人だったジェーンの献身的な助けもあり、なんとかこの困難な時期を乗り切りました。

体が次第に自由に動かなくなり、医者からは余命わずかとされますが、親の反対を押し切り、二人は結婚します。やがて男児が生まれ、ブラックホールに関する博士論文を教授たちから絶賛されるに至ります。

このあたりのことは、2014年にイギリスで製作された伝記映画、「博士と彼女のセオリー」の中にも詳しく描かれているので、ご興味のある方はビデオレンタル店で借りて鑑賞してみてください。

その後、24歳でケンブリッジ大学トリニティー校で博士号を取得。「特異点定理」「ブラックホールの蒸発理論」などの発表などで高い評価を得て、ロンドン王立協会フェローに選出されたほか、1975年には、業績を讃えられ、ローマ教皇庁から「ピウス11世メダル」を授与されるなどの栄誉を得ています。

1977年、35歳のときにケンブリッジ大学の教授職を得て以降は、一般人向けに現代の理論的宇宙論を平易に解説する「サイエンス・ライター」としての才能も開花しました。その著作群は日本をはじめ、各国で翻訳され、「ホーキング、宇宙を語る : ビッグバンからブラックホール」は、世界的なベストセラーにもなりました。

しかし、そんなさなか、公演の最中に倒れ、死か気管切開かと医者に迫られ、声が出なくなる後者を選択。以後、「スペリングボード」を使う生活を強いられるようになりますが、有能な看護師を雇い、他者とコミュニケーションがとれるようになるまで回復しました。

その後、埋め込みの音声合成器を使いながら自ら音声を発することができるようになりますが、それまでの声が出ない生活において彼を支えたこの看護師こそ、その後彼の二番目の妻となった、エレイン・マンソンでした。

以後、昨日の逝去まで、難病を抱えている人物とは思えないほどの活動的な日々を送っています。2001年には来日し、東京大学安田講堂にて一般講演を行っているほか、2007年には、アメリカでゼロ・グラビティー社の専用機「G-フォースワン」に搭乗。車いすから離れた無重力体験まで経験しています。

2009年、ケンブリッジ大学の教員退職規定により9月の学年末に大学を退任しますが、その後も同大学に留まり、応用数学と理論物理学部の研究責任者を務め、研究活動を続けていましたが、昨日、ついに76歳で亡くなりました。20過ぎのころに、医者からは余命5年と言われたのに関わらず、その後50年以上を生きたことになります。


名言の数々

ホーキング博士は、その生前、数々の名言を残したことでも知られ、多くの人を勇気づけました。

人生訓も多く、例えば、次のようなものがあります。

・人生は、できることに集中することであり、できないことを悔やむことではない。
・自らの行動の価値を最大化するため努力すべきである。
・期待値が「ゼロ」まで下がれば、自分に今あるものすべてに間違いなく感謝の念が湧くはずだ。
・人は、人生が公平ではないことを悟れるくらいに成長しなくてはならない。そしてただ、自分の置かれた状況のなかで、最善をつくすべきである。

ネットを探ればそれこそ山ほど博士の「名言集」が出てくると思いますが、そうした中で、私がとくにいいな、と思うのは次の一節です。

一つ目は、足元を見るのではなく星を見上げること。
二つ目は、絶対に仕事をあきらめないこと。仕事は目的と意義を与えてくれる。それが無くなると人生は空っぽだ。
三つ目は、もし幸運にも愛を見つけることができたら、それはまれなことであることを忘れず、捨ててはいけない。

父親としてどんなアドバイスを子どもたちに伝えていますか?という質問に対して答えたものだそうですが、どうでしょう。厳しい人生を歩む上で、一般の人々にも響く言葉だと思いませんか?


私生活

ホーキング博士は、私生活では、前妻のジェーン・ワイルドとの間に、3人の娘・息子を授かっています。が、26年間連れ添った後、1991年に離婚。上述のとおり、その4年後の1995年に看護師のエレイン・メイソンと再婚したものの、2011年に再び離婚しています。

最初の妻との離婚のころから有名になり出したようですが、地位、名声、富などを一気に手に入れたことで生活が変わってしまったことが離婚に至った大きな理由とも言われているようです。

再婚相手であるエレイン・メイソンさんは、博士のために特注のパソコンを作ってくれた人の元妻だったといい、おそらくはその試用の際の立会などで知り合い、そのまま看護して雇い入れたあと、恋愛関係に発展したのでしょう。

ただ、博士の別の元看護師によると、メイソンは 「支配的で計算高く横暴」 な性格だったといい、あるときから、周囲の人間が博士の体に説明のつかない痣や傷があるのに気づくようになったといいます。

何が起こっているのかを博士に問いただしますが、博士もメイソンも虐待を一切否定。警察にも届けたものの、博士が断固として協力を拒んだため捜査もできなかったといい、そのまま2007年に離婚。

そんな彼があるとき、インタビューで、「1日のうちで最も多く考えていることは何ですか?」と、聞かれたそうです。おそらくインタビューワーは、何か難しい話を期待していたのでしょうが、返ってきた答えはというと、「女性のことだ。彼女というのは、実にナゾに満ちてる存在なんだ」というものだったそうです。

世界的に高名な科学者、天才と言われた人でありながら、私生活、とくに女性面ではいろいろ悩み多き人であったようです。




スピリチュアルに対する見解

一方、この世界的な科学者が神や宗教、あるいは、スピリチュアル的なことに関して、どう考えていたか、についても興味があるところです。このうち神については、若い頃には次のように発言していました。

・宇宙がどうして存在するのか知りたい、なぜ無より偉大なものがあるのかが知りたい。
・宇宙に始まりがある限り、宇宙には創造主がいると想定することができる。
・神の概念に触れずに宇宙のはじまりを論ずるのは難しい。
・神は存在するかもしれない。とはいえ、創造主ぬきでも、科学で宇宙を説明することができる。

世界的ベストセラーとなった「ホーキング、宇宙を語る(1988)」においても、「神というアイデアは、宇宙に対する科学理解と必ずしも相いれないものではない」と記しており、彼の中では神そのものを否定する気持ちはなかったようです。しかし、その四半世紀後、彼の神に対する態度は著しく厳しいものになりました。

2010年の「ホーキング、宇宙と人間を語る」では、「宇宙の創造に神の力は必要ない。宇宙創造の理論において、もはや神の居場所はない。」と述べており、「物理学における一連の進展により、そう確信するに至った」、とも語っています。

その晩年、こうも語りました。

「わたしはこの49年間、死と隣り合わせに生きてきた。死を恐れてはいないが、死に急いでもいない。やりたいことがまだたくさんあるからね」
「死は脳というコンピュータが機能を停止したに過ぎない。天国も死後の世界もない。それは闇を恐れる人のおとぎ話だ」

こうした発言から、晩年の彼は死後の世界を信じておらず、おそらくは、スピリチュアル、といったことに対しても、否定的だったと推測されます。

一方では、人間そのものも「不完全なもの」という考えがあったようで、「不完全さがなければ、あなたも私も存在しないだろう」という、意味深な言葉を残しています。不完全だからこそ、この世に生まれてきて、それを是正することこそが人生だ、と言いたかったのでしょうか。だとすれば、なにかしらスピリチュアル的な発言ではあります。

さらに、「人工知能」については、昨今将来人間の脅威になるとして、次のような言葉を残しています。

「すでにわれわれが手にしている初期形態の人工知能は、非常に有用であることが分かっている。しかし、私の考えでは、完全な人工知能が開発されれば、人類は終焉を迎える可能性がある(2014年、英BBC放送とのインタビューから)。」

いずれ、人工知能によって人類が脅かされる時代が来ることを示唆するものであり、この発言は、人工知能の開発による危機の訪れを世界に警鐘するもの、として一時期大きな話題になったことは記憶に新しいところです。

そんなホーキング博士もついに亡くなってしまいました。

彼が否定するあの世において、眼下の我々を眺めながら、生前の自分のこうした発言をどう考えているでしょう。あるいは、これはあの世ではない、おまえたちの想像の中にあるお伽噺だ、と未だに考えているのでしょうか。


後を継ぐ者

ところで、そのホーキング博士が生前、その能力を高く評価した、新進気鋭の理論物理学者がいました。

リサ・ランドール(Lisa Randall、1962年6月18日 )さんといい、アメリカ合衆国の理論物理学者で、専門は、素粒子物理学、宇宙論です。2001年、ハーバード大学から終身在職権を与えられ、現在もハーバード大学物理学教授であり、プリンストン大学物理学部で終身在職権(tenure)をもつ最初の女性教授となりました。

また、マサチューセッツ工科大学およびハーバード大学においても理論物理学者として終身在職権をもつ初の女性教授であり、1999年、ラマン・サンドラム博士とともに発表した「warped extra dimensions(ワープした余剰次元)」により、物理学会で一躍注目を集めるようになりました。

2002年 – 欧州原子核研究機構(略称:CERN)で行われた、CERN理論物理学研究会では、生前のスティーブン・ホーキング博士から隣の席を薦められており、こうしたことから、博士も彼女の業績を高く評価していたことがわかります。

2007年には、米「タイム誌」により、「世界で最も影響力のある100人」の一人に選出されており、同年には日本も訪れています。このときは、脳科学者・茂木健一郎さんとも対談しており、この対談を兼ねて、東京大学・小柴ホールで来日記念講演を行いました。

このリサ・ランドールが着目されているのは、高次元世界(5次元、6次元など)の存在を理論的に提唱し、物理学の世界に革新をもたらしたとされる点です。タイムスリップの話でよく出てくる4次元空間を超えてそのさらに上の次元があるとしたものであり、これはいわゆる「あの世」と直結するものではないか、とする議論が沸き起こっています。

恐竜の絶滅に関して、「ダークマター」の力が関与していたのではないか、とする説も展開しており、その可能性について論じる新著「ダークマターと恐竜絶滅(NHK出版)」なども話題となっています。、ホーキング博士以外では、昨今、大きく着目されている人物であり、今後ともにその言動に目が離せない人物となっていくでしょう、

2016年の7月に、超常現象などのニュースを配信するネットサイト、「トカナ(運営会社は出版社のサイゾー)」が、来日中のランドール博士への独占インタビューを敢行しています。

このインタビューでは、ダークマターをはじめとする最新の研究成果からAIなどの近未来技術などのインタビューのほか、幽霊や超能力といった超常現象、果ては人間の愛と心、そして博士の私生活のことなどが語られたようですが、ネットではその一部が公開されているようです。

この中で、記者の「意識や愛の感覚といった事象は、時空を超えて伝わるものでしょうか?」という質問に対して、ランドール博士は、

「例えば音楽について考えたとき、音が科学的にどのように伝わるのか、そのとき脳がどのように反応するかは科学的に解明されている。しかし、それは音楽そのものを理解するということではなく、音楽の本質はそれ以上のものである。抽象的な物事というのは、より高い階層に存在しているのでは。」

「(中略)高い階層にある抽象的な事象が時空を超えて伝わるか、といった物事の仕組みを解釈するには、さまざまな観点があるとしか言えない。」

と答えています。「時空を超えるものであるかどうか?」という問いに対して、それを否定こそはしていませんが、明確な回答もなく、さまざまな観点がある、としています。ただ、「高い階層」というのは、あるいはあの世の存在を意味する発言かもしれません。

さらに、「幽霊や超能力といったものは科学的に分析可能なのでしょうか?」という質問に対しては、

「それは現実を超越したものであり、今の我々の科学では検証しようがない。しかしそれを言い換えれば、今後の進展によっては検証可能な余地が残されていると考えられるのかもしれない。」

以上のように、さまざま観点がある、検証可能な余地が残されている、といった回答は、将来的に解明される可能性もある、という可能性を示したものでもあり、彼女自身がその残りの人生で明らかにしていきたい、という意欲を示したものでもあります。

さらに、今後、そうした未知の世界を解き明かす可能性があるとされる「ダークマター」については、

「ダークマターの研究は、少しずつ進んできてはきているものの、まだその特質さえよくわかっていない。未だに網羅しきれていない可能性もあり、これまでまとめてきた結果や現存するデータをどのように解釈するかという点を突き詰めていきたい。」

といったふうに応えています。

ダークマターこそ、今後、スピリチュアルの不思議を解き明かす鍵になっていくようです。21世紀最高の頭脳を持つと言われたホーキング博士亡きあと、彼をしのぐ理論を打ち立て、ぜひとも「あの世」の原理を見極めていただきたいものです。




カーリングの科学

冬季オリンピックが終わって、ひと段落しました。まだ、パラリンピックが開催されている最中ですが、それも今週末で終わってしまうようで、さみしい限りです。

それにしても、銅メダルを獲得したカーリング女子の活躍には日本中が沸きましたね。北海道、常呂町の「LS北見」の美人カーラーたちの、最後まであきらめない精神にはおおいに学ぶべきところがありました。

この常呂町がどこだったかな、と改めて地図をみたところ、道東第二の町、網走のやや北西部になります。

その昔、仕事で何度か網走には行ったことがあるものの、日帰りも多く、この町まで足を延ばすことはありませんでした。もっとも、プライベートでは、すぐ近くにある能取湖やサロマ湖に出かけたころもあり、亡き家内とも旅行したことのある場所でもあったことなどを、今思い出しました。

LS北見のLSは、「ロコ・ソラーレ」だそうで、何の意味かなと思あったら、これは常呂町の「常呂」から来ており、常呂の町に育った「常呂っ子」と、「ローカル」から「ロコ」 、そして、 イタリア語で太陽を意味する「ソラーレ」を組み合わせたそうです。

地元常呂から太陽のように輝きを持ったチームになるよう、「太陽の常呂っ子」という意味を込めて名付けた、とチームのオフィシャルサイトにも書いてありました。

ただ、日本カーリング選手権大会など日本カーリング協会(JCA)主管の国内試合では、LS北見として登録されていて、「ロコ・ソラーレ」をチーム名として使用できないのだとか。これは、JCA競技者ユニフォームの規定によるものなのだそうです。

今回のメダル獲得でLS北見の名が世界中の轟いたかと思いますが、その名前の由来も覚えておいてあげてください。

ところで、現在行われているパラリンピックでは、カーリングはないのかな、と調べてみたところ、残念ながら、パラリンピックの正式種目、「車いすカーリング」に関しては、チームJAPANは予選で敗退したため、選手団を送り出すことができなかったようです。

2016年11月4日〜11月10日に行われた、世界車いすBカーリング大会 2016(フィンランド)で、グループリーグ4位、16チーム中全体第8位となった時点で、平昌パラ出場の夢は断たれてしまいました。

この車いすカーリング、ルールは健常者大会とだいたい同じですが、1試合8エンド制であるという点が違います。このほか、1チーム4人で戦うところは同じですが、チームは男女混合で編成されなければならないそうです。

また、ストーンを投げる際、低い姿勢でも投げやすいようにデリバリースティックを用いるのが特徴です。これは杖のようなもので、利き手でもって車イスに座ったまま、杖の先にあるストーンを押し出すようにして使います。

この車いすカーリングと同様に、男女混合で行われるのが、平昌オリンピックから正式種目となったミックスダブルスです。残念ながら、今大会では日本はエントリーがありませんでしたが、アメリカやロシア、カナダ、ノルウェー、韓国 フィンランド、中国、スイスが出場し、決勝戦では、カナダが10-3でスイスを破って金メダルを取りました。

日本の男女混合チームの活躍を見ることができなかったのは残念なのですが、昨夜のニュースでは、平昌五輪で銅メダルを獲得したLS北見と男子のSC軽井沢クラブの選手が、チーム再結成をするそうで、この先開催される大会を前に記者会見の様子を報道していました。

ついこのあいだまでオリンピックで活躍していた美女美男の組み合わせであり、これをテレビで見ながら、タエさんと、まるで結婚発表の記者会見みたいだね、と話していました。それぞれ近いお年頃のようなので、もしかしたらもしかするかも、とミーハーに期待したりもしています。

このミックスダブルスですが、2人のプレーヤー(男性1人と女性1人)から構成されるという点が、通常のプレーと異なりますが、得点方法は、通常のカーリングと同じです。

ただ、ゲームは8エンドから成る、といったところが異なり、これは上の車いすカーリングと同じです。このほかの違いは、各チームの持ち時間は8エンドゲームをプレーするのに48分と短く、各チームは1エンドにつき5個のストーンをデリバリーする、といったところも違います。通常のプレーは、8個でしたよね。

このほか、チームの最初のストーンを投げるプレーヤーは、そのエンドの最後のストーンを投げなければならず、もう一人のチームメンバーは、そのエンドチームの2個目、3個目、4個目のストーンをデリバリーする、と言ったところも違います。ただ、最初のストーンを投げるプレーヤーは、エンドを終了すれば交代しても構わないそうです。

今日から始まるという、第11回全農ミックス日本ミックスダブルスカーリング選手権大会は、18日まで、青森市の「みちぎんドリームスタジアム」で開催されるようです。LS北見とSC軽井沢クラブの男女混合チームがどんな活躍をするのか、目が離せません。試合の放送がある地域ではぜひ鑑賞してみてください。

”カーリング” の物理学的性質

ところで、冬になるとにわかに注目を集めるこのカーリングですが、文字通り、観客の数や熱気が気温を高めて氷の状態を変化させます。会場によっては暖かい会場もあり、エアコンの状態なども異なるほか、アイスの状況も微妙に異なるようです。

従って、いかに氷の状態を読んで精確なショットを放てるかが勝負の分かれ道になりますが、一方では、放たれたストーンの行方を修正する“スウィープ“が重要になります。

このカーリングのストーンが氷上を滑る性質については、運動量保存など力学に基づくことは明らかです。ただ、回転によって曲がる(カールする)性質や、さらに氷との摩擦も大きなファクターであり、それらが組み合わさった結果として、いったいどういう現象が起こっているのか、については、実はまだ実際にはよくわかっていないのだそうです。

より詳しくストーンの動きを考察することは、氷上の摩擦に関する研究途上の科学でもあるといい、とくにストーンのカールと摩擦との関係は一般的な理論化ができない複雑な現象であり、まだ解明されていない部分があるといいます。

さらにはこれに加わるスウィーピングの効果など、実際のストーンの動きは実験と理論の両面から分析されなければならない課題であり、「カーリング」の語源ともなっているストーンの「カール」はそれ自体が、多くの物理学者に対して興味深い問いを投げかけています。

実際、カーリングの物理の実践的な分析も科学者を交えながら行われており、日本カーリング協会でも「研究を通じて選手の独創性や先見性を育て、新たな戦略に結びつけたい」として、2008年より氷やストーンの特性とストーンの動きとの研究を行っているといいます。

カーリングの強国、カナダでは2010年のバンクーバーオリンピックに向けてデリバリーのフォームやスウィーピングの科学的研究を極秘裏に行った結果、現在のように世界ランキング1位の座を獲得できました。今後日本チームがカーリングで強くなっていく上でもこうした科学的分析は欠かせないと考えられます。



ストーンの軌道が大きく曲がる(カールする)という性質は、カーリングのゲームを面白くさせている大きな要素でもあります。衝突の動きが初等的な力学で比較的よく記述されるのに対して、カールの物理的メカニズムは、氷の状態によって大きく変化します。

通常、こうした曲がりの大きさは、仮にスウィープをしない場合においても、元の軌道と比べてストーンの停止までに1メートル前後にも達することがあるそうです。

カーリングの競技場は、標準で長さ約44.5〜45.7メートル、幅約4.4〜5.0メートルのカーリング・シート(アイス・シートとも)と呼ばれる細長い長方形のリンクで行われますが、このシートは薄く氷が張られます。

できるだけ平坦に保つため、アイス・メーカーにより表面にペブル(pebble) と呼ばれる数ミリメートル程度の氷の突起が多数作られ、融けないように氷温は摂氏−5度程度に維持されます。

意外ですが、このぺブルがまったくないアイスの方が曲がりが大きいのだとか。摩擦も大きくなり遠くまで飛ばなくなるといい、ペブルを設けることの意味は、ストーンを滑りやすくするためのものではなく、逆に摩擦の低減に寄与していることがわかります。

また、これも意外なのですが、カーラーがストーンを投げるとき、軽く回転させて投げますが、この回転の速さ(物理学的には角速度という)はカールの効果に大きな影響は与えないのだそうで、その回転は曲がる方向を決めているにすぎないのだといいます。

さらに、早すぎる回転を与えると、ストーンはむしろ余りカールしなくなるのだといい、このため、通常、カーラーたちがストーンを投げる際、その回転の速さが、通常ハウスまで2~3回転程度となるよう、小さく保つようにするのだそうです。

このほか、カールの効果もハウスに近づきストーンの直進速度が小さくなってから顕著になることが知られており、試合を見ていると、最初はあまりまがっていなかったのに、ストーン同士のぶつかり合いになる直前になって急激にその進行方向が変化したりします。

このほか、通常の氷以外の盤面上でリング状の物体を回転させながら滑らせるとき、反時計回りで右に曲がるのに対し、氷上のカーリング・ストーンは逆に曲がることが知られています。例えば左回りの回転を与えながら投げると、氷以外の盤面、たとえば平なコンクリートの上では右に曲がりますが、氷上ではそのまま左に曲がります。

ご自宅の机の上などで、実験してみてもらうとわかるのですが、たとえば反対向きに伏せたグラスなどを同じように左回りに回転させながら滑らせてみると、グラスはカーリングのストーンとは逆向き、すなわちカールの方向は反時計回りで右となります。

これについては物理学的説明がついており、こうした場合の曲がりは、接触面の摩擦力が原因です。グラスの接触面前部における方が後部よりも押さえつける力が大きく、これに回転が加わるとき、接触面前部においては、進行方向右向きの摩擦力の方が後部の左向きの摩擦力より大きくなり、進行方向に向かって右向きの力が生まれるのです。

ところが、カーリング・ストーンの場合はこれとは逆になるため、いったい何故だ??ということが昔から議論になっており、その謎を説明するために1920年代ごろから、いろんな説が現れてきました。

そうした中で、もっともらしい説が出てきたのは、1980年代になってからのことであり、1981年に、カナダの学者で、ジョンストン (G.W. Johnston)という人が、ストーンが曲がる理由は、ストーンの前部で大きくなる摩擦熱によって氷が融け、摩擦係数が低くなるためではないか、としました。

同様に、カナダの物理学者で自身もカーラーでもあるマーク・シェゲルスキー (Mark R.A. Shegelski))という人も、この考え方を支持し、1996年、溶けた水の非常に薄い膜がストーンの接触面に形成されるのだと主張しました。

彼は、圧力の強い前面ではこの膜が厚くなるために、摩擦力を後部より小さくしているとするとし、またストーンが水の膜を引きずりやすい性質をもつ花崗岩で作られていることと関係があると考えました。

摩擦の方向は氷面に相対的な速度の方向ではなく、この引きずられた水の膜に相対的になっているとし、さらにストーンの停止間際では引きずられた膜が一周して前面がさらに厚くなり、一層曲がりやすくなると説明し、こうしたことから予測される性質の一部を実験でも証明しました。

一方では、摩擦によってできる氷の膜が影響しているのではない、という説もあります。ストーンの底面と摩耗によって氷が瞬間的に蒸発して気化熱を奪い、ストーン後部ではむしろ温度が低下して摩擦係数が大きくなるのだといいます。

摩擦による氷の溶融によって曲がり方が左右されるという点は大多数の学者の意見が同じであるものの、その原理についてはまだまだ論争があるわけです。

ごく最近の2012年のスウェーデンのニーベリ (Harald Nyberg) は、ストーンの接触点であるペブル上につけられた高さ0.01ミリメートルに満たない程度の多数のひっかき傷がストーンの軌道を変えているのだとしました。

この説では、進行しつつ回転するストーンは軌道に対して数度程度斜めになった微小な傷をペブルの先端に作ることが原因としています。ニーベリらはこうした傷を顕微鏡写真で調べるとともに、底を磨いて凹凸を少なくしたストーンではカールの効果が現れないことを実験的に示しています。

いずれにしても、ストーンがカールする量は、氷面のペブルの状態やコースの使用状況、氷面の温度、ストーンの速度などに応じて、ストーンとの間で、なにか敏感な変化を起こすために左右される、ということはだんだんと明らかになってきています。

これらがストーンの動きの状況に応じた鋭敏な変化をもたらしていることは確かですがそれをどう予測するかについては、競技者であるカーラーの氷の読みに対する経験とそれにもとづく判断がこの競技において最も重要な要素のひとつとなっていることは間違いありません。

また、これらのことから、投げた石は必ずといってもいいほど曲がる、ということは明らかであり、そのためにその軌道を修正するための「スウィーピング」が欠かせない、というのもこの競技を面白くしている要因です。

スウィーピングの意味

スウィーピングは、方向を微調整するだけでなく、自分のチームのストーンの距離を伸ばしたりするために、ストーンの進行方向の氷をブラシで掃く行為ですが、相手チームのストーンをスウィーピングですることもでき、その結果は、勝敗を左右することが多々あります。

ストーン前面の氷をこすることで、ストーンの摩擦を減少させ速度を保つことができるため、結果的に速度を保ったストーンは、大きくカールし出す地点も遅くなり、またハウス内では曲がったコースのままより先へと進めることができます。

こちらの原理のほうはある程度わかっていて、一般にこの摩擦の減少は、ブラシとペブルとの間の摩擦熱によってペブルの表面をわずかに溶かし、水の膜を形成しているためだと説明されます。

とはいえ、カナダのウェスタン・オンタリオ大学の研究者は、計測の結果温度上昇はわずかなものであり、実際には氷を溶かすのではなく、スウィーピングによって氷の微粒子が形成されてそれが潤滑剤として働いているのだとしています。

またスウィーピングには、ブラシをストーンの進路に対して斜めに置くとする昔ながらのやり方と、直角に置くとする最近のやり方があるそうです。が、前者が均一に氷を暖めるのに対し、後者はムラができ効率がよくないという説もあるようで、これについても競技者によって流儀が違うようです。

このほか、スウィーピングにおいて、遅くても力をかける方がよいか、力が弱くなっても素早くスウィープする方がよいかという2つの選択肢があります。これについては、ブラシの位置だけを考えた場合にはかける力を大きくする方がはるかに効率的です。

しかし、同じ氷を複数回ブラシがこするほうがさらに熱が発生するため、全体としてはハウスの近くでは素早くスウィープする方が効率的なのだそうです。ただしストーンが素早く動いている間は同じ場所をスウィープできないため、力をかけたスウィーピングの方が効率的であるといいます。

スウィープひとつをとってもかなり細かい技術が要るようですが、このスウィープについては、ストーンを投げる側とスウィープをする側の阿吽の呼吸もまた勝敗を左右するため、「掛け声」というのも非常に重要です。

カーリングの試合を見ていると聞きなれない掛け声が飛び交っていますね。掛け声にはそれぞれ意味があり、イエス 、ヤー、イェップは、スウィーピングをしてという指示。ウォー、ノー、オフ、アップ、はスウィーピングをやめてという指示だそうです。

このほか、「ハード」は、もっと強く掃いてという指示。「ハリー」はもっと速く掃いてという指示。「クリーン」はストーンの前のゴミを取り除く意味で軽く掃いてという指示です。

これだけを覚えているだけでも、今後カーリングを見ていて楽しくなるかもしれません。
今日、ここで書いたことも、少し皆さんのテレビ鑑賞の際のお役に立てたなら、幸いです。

さて、3月も半ばに入ってきました。暖かい伊豆では、もうどこにも氷のかけらはなさそうですが、かくある私もテレビでカーリングの試合をみつけて、冬の名残を楽しむこととしましょう。




ゲージ戦争

伊豆はここ一週間ほど、ほとんど陽射しがなく、毎日雨か曇天です。

気温のほうも上がったり下がったりで、まさに三寒四温。この季節特有の気象状況が続いています。

そんな中、伊豆中の道路の多くが花街道になりつつあり、ピンクと白に彩られています。

白梅に紅梅、そしてピンクの河津桜という花々に囲まれて迎えるえー春というのは格別なものがあり、なかなか他の地方では味わえない風情でしょう。

つくづくこの地へ越してきてよかったなぁと思える時期ですが、花はこれだけでは終わらず、これからはさらにソメイヨシノにシャクナゲ、サツキツツジへと続いていきます。

わが家がある別荘地の隣にある「修善寺虹の郷」は、そうした伊豆の花の各季節ごとの移ろいをほぼすべて味わえる公園であり、ここへ来た時から、まるで裏庭のように使ってきました。

これといって大きな特徴のある公園ではないのですが、広々とした敷地内は、カナダ村、イギリス村、日本庭園、伊豆の村、といった趣向を凝らしたイベントのある各ゾーンに分かれており、それぞれの表情で季節を味あわせてくれます。

これらの間をつなぐのが、レトロを模したバスと、ミニチュア鉄道であり、広い園内を歩いて見学するのはちょっと辛い、というお年寄りや、子供たちに大人気です。

ミニチュアとはいえ、「ロムニー鉄道」という実際にイギリスを走っていたものを移入したもので、人が乗れます。ただ、レール幅が、たった381 mmしかなく、鉄道というよりはトロッコに乗っているかんじ。381mmは、ちょうど“15インチ“であることから、「15インチゲージ鉄道」と呼ばれます。

ゲージ(gage)とは、これすなわち鉄道の軌間(レール幅)のことであり、元は各種メーターや計量器、燃料などの残量を示していたものですが、鉄道でも列車の規模を示す表示として使われるようになり、定着しました。

たかが40cmに満たないレール幅であっても、鉄道というものは、その延線距離が延びれば伸びるほど大量の鉄材が必要になってくるもの。と同時に、その上を走る車両もこれに比例して数多く作らなければなりません。このため、これをどの程度の幅にするか、ということに関して、昔から激しい論争があり、企業間の争いなども生じました。

鉄道の発祥の地、イギリスでは、その昔、異なる軌間の鉄道の間で、列車をどうやって通すか、という問題が浮上し、軌間が異なると直通運転ができないという弊害が初めて顕在化しました。

1844年のことであり、イギリス南部のグロスターにおいて4フィート8.5インチ(1,372 mm)軌間と、7フィート4分の1インチ(2,140 mm)のそれぞれを走っていた車両をどう通すかで議論が発生しました。

この軌間をどちらに統一すべきか、という問題は、その後「ゲージ戦争(Battle of the gauges)」と呼ばれるまで激しい論争にまで発展することになりますが、翌年の1845年に決着を見ます。

英・王立委員会は広軌の7フィート4分の1インチ軌間の技術的な優位を認めつつも、それまでの敷設の歴史がやや長く、路線長の長い4フィート8.5インチ軌間に統一するのが好ましいと勧告しました。

こうして、翌1846年に制定された軌間法では、グレートブリテン島、すなわちイギリス全土において、今後新しく敷設される新規路線は、原則として4フィート8.5インチの軌間で建設されることになり、以後、これが「標準軌」としてイギリスのみならず、世界のスタンダードになりました。

それにしても、なぜ、4フィート8.5インチといった中途半端なサイズが導入されたかですが、その起源は、イングランド北東部の「キリングワース」という炭鉱で用いられていた馬車鉄道です。




1814年、ジョージ・スティーヴンソンがこの炭鉱鉄道のために、蒸気機関車を製造しましたが、以後、その他の炭鉱向けにも同様の機関車を製造するようになり、1823年にはロバート・スチーブンソン・アンド・カンパニーを設立し、次々と同じ軌間で走る蒸気機関車を設計するようになりました。

スティーブンソンは、各地の鉄道で同じ軌間を使ったほうが機関車や諸設備の量産に都合がよく、また将来これらの鉄道が相互に接続された時にも便利であると考えており、その考えは理にかなっていました。

政府としてもこの考えを受け入れ、1825年に公共用の鉄道としては初めて、イギリスの北東部に建設されストックトン・アンド・ダーリントン鉄道という路線でスティーヴンソンの蒸気機関車が使われました。

そして、さらにその5年後の1830年に、世界初の蒸気機関車による旅客用鉄道といわれある、リバプール・アンド・マンチェスター鉄道が開業したときも、スティーブンソンが提唱する軌間を持つ機関車が用いられました。

ところが、よくよく考えてみると、軌道が大きければより大きな列車が走らせることができるわけで、同じ時間で輸送できる人や物資は軌間が大きい方が多くなります。スティーヴンソンが採用した馬車由来の軌間を用いる必然性はなく、より広い軌間のほうがよいと考える技術者も当然多く、イザムバード・キングダム・ブルネルもその一人でした。

イザムバード・ブルネルは、世界初の河川の下を通るトンネルであるテムズトンネルの建設で有名になった技術者マーク・イザムバード・ブルネルの息子です。マーク・ブルネルはこれより前、世界初の地下鉄開発にも関わっていました。

その息子のイザムバードは、イギリスのポーツマスに生まれ。フランスで教育を受け、20歳で父親のテムズ川のトンネル工事に技師として加わりましたが、2年後出水事故で負傷したためその仕事から離れます。

27歳のとき、ロンドンとブリストルを繋ぐグレート・ウェスタン鉄道の技師となり、以後、橋梁、トンネル、駅舎などを設計し、施工を監督するようになり、次第に父以上の名声を博していきます。

彼は、自分が手掛けたこのグレート・ウェスタン鉄道における安定性と乗客の乗り心地の改善のためには、より広軌のほうが良い考え、7フィート4分の1インチを採用し、以後これは「ブルネル軌間」と呼ばれるようになりました。

今日、優秀なデザインの鉄道車両や鉄道施設などに贈呈される「ブルネル賞」は彼に由来します。ブルネルはまた、2002年、BBCが行った「100名の最も偉大な英国人」投票で第2位となっており、現在では鉄道を発明したとされるスティーヴンソンと同様に、イギリスを代表する技術者と目されています。

ブルネルは当初、自分が手掛けたグレート・ウェスタン鉄道が、スティーヴンソンの4フィート8.5インチ軌間の鉄道と接続する必要はないとして、異なる軌間でも特に問題はないと考えていたようです。しかし、鉄道の普及は彼が考えていた以上に著しく、結果、上のような「ゲージ戦争」が勃発しますが、王立委員会の裁定により、スティーヴンソンとの争いには敗れてしまいました。



ところが、鉄道の普及は、孤島であるイギリスだけでなく、大陸ヨーロッパでも加速しました。ヨーロッパ各国では、イギリスと比べ鉄道の建設や運営に政府の関与が強く、軌間の選択に関しても最初に政府が決定することが普通でした。

当然、輸送量の面で有利と考えられたブルネルの広軌を採用する国も多く、オランダ、バーデン大公国、ロシア帝国、スペイン、ポルトガルの各国ではそれぞれ広軌が採用されました。

広軌鉄道はまた、安定性や技術的には優れているという見解を持つ国も多く、オランダとバーデンでは後に周辺国に合わせて標準軌に改軌ましたが、ロシアとイベリア半島の軌間はそのまま現代に至っています。

ヨーロッパよりもはるかに国土の大きいアメリカ合衆国においても、これは同じでした。1830年代から40年代にかけて、民間の鉄道会社により多くの鉄道が開業しましたが、これらの鉄道は、港と内陸を結ぶことが主目的で相互の接続が軽視されたこともあり、ブルネイの広軌の他にも様々な広軌幅が採用されました。

例えば、1860年代頃までには、北東部では4フィート8.5インチの標準軌が多かったものの、南部では5フィート、ニュージャージー州とオハイオ州では4フィート10インチのように広軌が数多く導入されました。

しかしのちの1863年に、「大陸横断鉄道」が敷設されたときの軌間が、標準軌とされたことがきっかけとなり、以後、アメリカでも全国的に4フィート8.5インチに統一されるようになっていきました。

同じ北米大陸にあるカナダでも、当初の1851年には5フィート6インチの広軌を標準とする法律が制定されましたが、アメリカ合衆国との直通の必要から1870年に廃止され、4フィート8.5インチに改軌されました。このように、ヨーロッパやアメリカでの「標準軌道」は、時代の変遷とともに4フィート8.5インチということで、ほぼ定着するようになりした。

ところが、1872年に開業した日本の鉄道が採用したのは、3フィート6インチ(1,067 mm)という、いわゆる「狭軌」軌道でした。

冒頭でも述べたとおり、鉄道というものは、延長距離が延びれば伸びるほどコストがかかります。鉄製のレールだけでなく、枕木・砂利などの道床にかかるコストも最低限軌間分の幅は必要です。標準軌なら大量の鉄材と枕木が必要でも、狭軌ならそのコストを抑えることができます。

明治維新によって次々とヨーロッパの技術を導入し続けていたこのころの日本には経済的な余裕がなく、政府は、より低規格・低コストの路線を作ることを可能ならしめるためには、狭軌鉄道の方が都合がよいと考えました。

こうした事情は日本だけでなく、その他のアジア、アフリカ、ラテンアメリカなどの鉄道未開業地域においては同じであり、1860年代後半から1880年代にかけては、日本だけでなく、世界中で狭軌軌道の導入が相次ぎ、イギリス人を中心とする技術者の指導により、1067mmや1000mm、914mmなどの狭軌鉄道の建設が次々と行われました。




馬車由来の軌間より意図的に狭い軌間を使った初期の例としては、1836年開業のウェールズのフェステニオグ鉄道の1フィート11.5インチ(597mm)があります。

ただし当時はこうした狭軌鉄道では、小型の蒸気機関車を作るのは難しいという技術的な問題もあり、蒸気機関車を用いることはできませんでした。しかし、1860年ごろからは、狭軌でも実用的な蒸気機関車が製造可能になりました。

冒頭で紹介した、虹の郷のロムニー鉄道こと、ロムニー・ハイス&ディムチャーチ鉄道もそのひとつであり、1920年代に建設され、1927年7月16日に開業しました。全長23kmの路線にすぎませんが、15インチ鉄道の中では英国において最長の路線です。

「本格的な公共輸送を行う、正式営業の実用鉄道」としては、事実上世界で最も狭い軌間を使用するものであり、現在でも運行されています。観光鉄道としての色合いが強い路線ですが、観光客だけではなく、子供達の通学にも利用されています。

以上のように、ヨーロッパ諸国や北米では、標準軌が主流となりましたが、その中でもイギリスのように狭軌を残した国もあり、また日本やその他の国では狭軌のまま定着しました。その後20世紀を迎えるころまでには、新たに鉄道の軌間を選択する機会そのものが稀になったこともあり、やがてこうした軌間の優劣に関する議論は低調になりました。

しかし、20世紀初めごろになってから、南アフリカ、オーストラリア、アメリカ合衆国などで、狭軌鉄道を標準軌に、あるいは標準軌を広軌に改軌すべきであるという議論が起こり、日本においても「改軌論争」が起こりました。

日本で狭軌が採用された理由としては、上述のように経済性によるものでしたが、ほかにも「イギリスから植民地扱い」され、このころ彼の国の植民地で導入がさかんになった狭軌鉄道を押し付けられた、という説があります。大隈重信は、日本の鉄道の発祥時に、半ば適当に外国人の意見に押される形で軌間を1067mmと決定してしまったと述べています。

そのイギリスでは、本国においても、1860年代後半から1870年代初頭までは「新規路線に限らず既存路線も狭軌化した方が経済的、という意見が強くなり、既存の客車や貨車は大きすぎ重量過多なので、小型化した方がよいという意見が出始めていたといいます。

また、日本のように狭くて急峻な地形を持つところでは急曲線になることも多く、この場合「狭軌のほうが有利」とする意見がありました。

ところが、実際に敷設された日本の路線は急曲線どころかむしろ緩やかで、幹線鉄道である「甲線」の最小曲線半径は300m、より低規格の「乙・丙線」ですら250m・200mであり、同じ狭軌のノルウェーと南アフリカの最小半径が150mと100mなのに比べれば、かなり緩い曲線で線路が引かれました。

実際には標準軌に近い最小曲線で線路が引かれていたわけであり、それなら最初から狭軌にこだわる必要はなく、広軌(標準軌)にすればよかったじゃないか、という意見が出てきました。これも必然でしょう。

また、日露戦争後、日本は朝鮮を領土に含め(韓国併合)、満州に南満州鉄道の権益を有するようになりましたが、それまで朝鮮の主たる鉄道路線は標準軌であり、満州の鉄道は元々ロシア帝国が敷設した1524mmの広軌でした。

広大な中国大陸における軍事輸送のためには、広軌のほうが都合がよいとい意見も出始め、実際、満鉄(満州鉄道)の成立後、朝鮮・中国との一体輸送を行う必要から(大連~長春)は標準軌に改軌して旅客輸送が行われるようになりました。

1906年に成立した南満州鉄道の初代総裁には後藤新平が就任しましたが、後藤は、満州同様に日本本土の鉄道も標準軌に改軌する提案を打ち出し、1910年の鉄道会議で東海道本線・山陽本線などの主要14路線を1911年度からの13ヵ年で標準軌(当時はこれを「広軌」と呼んだ)に改築する案が可決されました。

これにより、東京の市街線や東海道・山陽本線で新たに建造される建造物は、標準軌規格で設計する通達が出されるに至ります。

ところが、これに対し、原敬率いる立憲政友会が横槍を入れました。政友会の基本方針は、低規格でもいいから全国に路線を張り巡らせようとする「建主改従」となっており、後藤の提案した「改主建従」と真っ向から対立していたわけですが、帝国議会で両者がぶつかり合った結果、改軌に対する予算は出さないことになってしまいました。

一方、後藤らの後押しによって、1911年4月にはより低予算での改軌と、改軌線区の拡大を目指すため「広軌鉄道改築準備委員会」が政府内に発足し、審議が行われ始めました。しかし同年8月、原敬が内閣鉄道院総裁(内務大臣兼務)に就任したため、広軌計画は中止になりました。

しかしさらに、大隈の後を次いで内閣を発足させた寺内正毅内閣の下で、後藤新平は、内務大臣となります。この内務大臣就任は、内閣鉄道院の総裁との兼任という形になったため、後藤はここぞ絶好の広軌化の機会と考えました。

このころ、内閣鉄道院の工作局長を務めていた島安次郎は、こうした政策論争とは無関係に、独自に改軌計画を練っていました。

島は、東京帝国大学機械工学科(現:東京大学工学部)を卒業後、関西鉄道に入社。高性能機関車「早風」を投入しスピードアップに成功すると共に、客車への等級別色帯の導入や夜間車内照明の導入などの旅客サービスの改善を進め、汽車課長にまで出世しており、広軌化こそがより利用者のサービスアップにつながると考えていました。

そして、この島こそが、のちに「新幹線の父」として、我が国初の標準軌の導入に成功する島秀雄の父です。

これを知った後藤はこの島に命じ、その改軌計画を具体的に策定させました。が、この計画は後援者をあまり得ることができず、大蔵大臣の原はおろか、首相・蔵相や軍部さえ賛成に回らず、計画は早々に頓挫しました。

さらに、1918年に起こった米騒動で寺内内閣が崩壊し、政友会の原敬が首相になると、鉄道大臣には腹心の床次竹二郎を就任させました。床次は早速広軌化計画を弾圧することにし、広軌論者で「改主建従」を標榜する者の多くを左遷しました。

1919年2月24日の貴族院特別委員会において、床次は広軌不要の答弁を下し、ここに日本国鉄の標準軌化計画は終焉を迎えました。日本電気鉄道のように、民間で独自に標準軌鉄道を敷設する動きもありましたが、実現したのは都市周辺の地方鉄道(新京阪鉄道、参宮急行電鉄、湘南電気鉄道など)だけであり、全国的な展開には至りませんでした。

以後、今日に至るまで、日本の鉄道は世界的にも珍しい「狭軌」が標準仕様となっています。

もっとも、狭軌仕様が広軌仕様よりも劣っている、という論理は今日では必ずしも正しいとはいえません。一般に、軌間が広いほど輸送力や最高速度など鉄道の能力は高まり、逆に狭いほど建設費は安くなるとされます。しかし、これらには様々な要因があり、単純に軌間のみで決まるわけではありません。

標準軌間と狭軌の間の差の約30cmを補う技術力は日本は持ち合わせており、現在ではその輸送力にはほとんど差はないといわれています。



また、蒸気機関車の用いられていた時代には、軌間の広いほうが機関車の性能が高いとされていましたが、動力が電力に変わった現代では、標準軌仕様の機関車と狭軌仕様の動力差は著しくないと考えられており、むしろパワーは上回っています。

原敬の主導によって標準軌構想は葬られ、狭軌がスタンダードになってしまった日本ですが、しかしその後、日本国有鉄道内部で、再び標準軌による路線を新設しようという動きが出てきました。それは、「改軌論争」といわれる、上の後藤と原の争いが起こったのち、日中戦争の始まった1938年のことです。

当時、戦争の影響で中国方面への輸送量が旅客・貨物ともに急増しており、特に東海道本線と山陽本線は国鉄全輸送の3割を占めるほどであったため、近いうちに対応ができなくなると予測されました。このため、両本線に並行して新しい幹線を敷いたらどうかという提案が出たのです。

これには軍部も積極的に賛成したため、計画が推し進められ、1939年に「鉄道幹線調査会」が発足し、ここの調査により標準軌ないしは狭軌により別線を東京~下関間に敷設することが決定しました。

これについては、従来路線(在来線)からの直通や部分使用が可能な利点を取り上げ、狭軌新線を敷く案も多勢でしたが、特別委員長に、前述した広軌論者の島安次郎が就任し、島が朝鮮や満州の標準軌路線と鉄道連絡船 (関釜連絡船)を挟んで車両航送ができることを理由に広軌化を推進したため、標準軌での敷設が決定しました。

この新線計画は内部においては「広軌幹線」や「新幹線」と呼ばれ、世間では新聞社が「弾丸のように速い」と報じたことから「弾丸列車」と言われるようになりました。1940年より建設に移され、日本坂トンネルや新丹那トンネルの工事が進められ、ここでの軌道は広軌となりました。

しかし戦況の悪化で、その推進は1943年に中断。さらに、文字通りの「牽引車」であった島が終戦直後の1946年に亡くなり、またしても日本での標準軌導入は頓挫します。

ところが戦後、日本各地で復興が進むにつれ、東海道本線の輸送力不足はいよいよ表面化し、弾丸列車計画のときと同様に、新線敷設の必要性を求める声が高くなってきました。

当初「東海道新線」と呼ばれたこの計画についても、単純に東海道本線を複々線化すればよいとか、狭軌新線にすべきだという案が出ていましたが、戦前に広軌化計画に携わった官僚の「十河信二」国鉄総裁に就任します。

この十河総裁の指導のもと、研究を進めた鉄道技術研究所のメンバーは、標準軌新線ならば東京~大阪間の3時間運転が可能と提言。1957年5月25日の山葉ホールにおける講演で発表されたこの研究結果は大きな反響を呼びました。

このとき、国鉄技術長に就任したのが、島安次郎の息子の島秀雄です。島は、戦前の1937年(昭和12年)、長期海外視察を行い、世界各国の鉄道事情を研究した結果、父も関わっていた「弾丸列車計画(新規広軌幹線敷設計画)」でも、電気動力を本命として計画を立案していました。

戦後ようやく父の悲願を達成する契機に恵まれた彼は、国鉄の優秀な技術者を集めてデータを作成し、これを十河に提出。この十河と島の二人三脚によって、ついに日本で初めて標準軌高規格新線での敷設が決定します。

この計画による「東海道新線」は、戦前の計画の遺構を活用して建設することになり、1964年に「東海道新幹線」として結実し、ようやく、日本において国鉄初となる標準軌路線が実現することになりました。

その後、山陽新幹線・東北新幹線・上越新幹線と、順次新幹線の延伸が進みましたが、これは、従来の狭軌鉄道とは別に、標準軌鉄道の敷設を優先する「改主建従」といえるものでもありました。

その後、この標準軌の新幹線路線と、従来の狭軌路線の相互に乗り入れる、「ミニ新幹線」も導入されるようになりました。新幹線の建設は莫大な費用を要することから、費用を抑制する方法として考え出されたものです。

ただ、これは、在来線を単に新幹線と同じ標準軌へ改軌し、車両も在来線規格、複電圧対応として、新幹線と標準軌に改軌した在来線の間で直通運転(新在直通という)を行うものでした。

しかしこの方法の導入によって直通運転が可能となったために、双方からの乗換えが解消され、所要時間も従来の軌道を使用していたのに比べればある程度短縮されるようになりました。

とはいえ、新幹線が走らない区間との分断が新たに生じ、速度も新幹線ほど早くない(現状では在来線区間は130km/h)ということもあり、全国的な普及には至っていません。いまのところ、1992年に開業した山形新幹線(東北新幹線と奥羽本線)と、1997年に秋田新幹線(東北新幹線と田沢湖線、奥羽本線)だけが実現しています。

1998年、運輸省~国土交通省の施策により、新幹線と在来線との間で改軌を要さずに直通運転ができる軌間可変電車(フリーゲージトレイン、ゲージチェンジトレイン)の開発が開始されており、これによってミニ新幹線が抱えているような改軌に関する諸問題の解決が図られることが期待されています。

いずれ、リニア新幹線の開通に加えて、こうした新しい世代の鉄道が開通する時代がくるに違いありません。その新しい鉄道は、従来の「ゲージ論争」を超えたものになるはずであり、やがては世界に名だたる国産技術になっていくことでしょう。

ただ、伊豆・修善寺虹の郷のロムニー鉄道はそんな中でも、今後とも狭軌鉄道のまま、もくもくと煙を出しながら運行されていくことでしょう。

三寒四温の中、春がもうすぐやってきそうです。ぜひ、このレトロなロムニーに乗るために伊豆までお越しください。

修善寺と芥川

修善寺梅林の梅が見ごろです。

毎年、地元の観光協会が「梅まつり」と称するイベントを開催するのですが、それが昨日の日曜日まででした。

本来は、梅が満開になるこれからの開催、としたかったのでしょうが、今年の寒さで開花が大幅に遅れた結果、祭りと花の見ごろが合わない、という結果になったようです。

まつりは終わったとはいえ、まだまだ梅の開花そのものは続くでしょうし、おそらくは今週末くらいまでは楽しめるのではないでしょうか。

伊豆市観光協会のHPを確認したところ、このように現在もまだ見頃が続いているため 飲食店組合組合の露店3軒ほどが、3月11日(日)まで営業予定だそうです。これから伊豆方面へ出かけられる方は、ぜひお立ち寄りください。

この修善寺梅林ですが、麓の温泉街から車で5分ほどの山の上にあります。樹齢100年を越える古木や樹齢30年程度の若木を合わせて、20種、約1000本の紅白梅が植えられています。山腹にあることから、富士山も望むことができ、伊豆にあってはめずらしく富士と梅の両方が鑑賞できるスポットになります。

樹齢100年以上の古木がある、ということは、おそらく明治の終わりか、大正の初めごろに開園したのではないでしょうか。1924年(大正13年)には、伊豆箱根鉄道駿豆線が、大仁駅から修善寺駅までの延伸が完了しており、おそらくはこれに合わせ、より観光客を増やすために梅林などを整備したのではないかと、推測します。

この翌年の大正14年には、芥川龍之介が修善寺温泉を訪れ、長期滞在しています。おそらくこのとき、梅林もできていたのではないかと思われますが、ただ、残念ながら、見ごろが終わった4月に入ってからの来訪でした。



4月10日から約1カ月、今も温泉街に君臨する老舗旅館、「新井旅館」に滞在した芥川龍之介は、絵入りの手紙を奥さんと伯母宛てに送っており、そこにはこう書かれていたそうです。

「…をばさん、おばあさん、ちょいと二、三日お出でなさい。ここのお湯は(手描きのスケッチが入る)言う風になっていて水族館みたいだ。これだけでも一見の価値あり。(大正14年4月29日付)」

芥川が「水族館みたい」と例えた風呂は、この新井旅館の名物風呂で、風呂場の下方の窓越しに池の中が覗ける造りになっており、人の気配を感じると鯉が窓辺まで寄ってくるしかけで、珍しモノ好きだった彼はこれに興奮したようです。

ところが、実は芥川は、大の風呂嫌いだったそうです。作家の中野重治が、彼の死後に追悼文を書いており、そこには「この人は湯になどはいらぬのか、じつにきたない手をしていた。顔なども洗わなかったのかもしれない」とあります。

その風呂嫌いな彼が人に勧めるほど、彼はこの「水族館風呂」に惹かれたのでしょう。毎日のように入っていたようです。多忙のため体調不良に悩みながらも、こうして入浴も楽しみながら、滞在中に短編「温泉だより」「新曲修善寺」などを書き上げています。風呂は昭和9年に改築されましたが、同じ景色が今もこの旅館では体験できるとか。

芥川は、短編小説を書き、数多くの傑作を残しました。しかし、その一方で長編を「物にすることはできなかった」という評価があるようで、そういわれてみれば、彼の小説で長いものを読んだ記憶がありません。

生活と芸術は相反するものだと考え、生活と芸術を切り離すという理想のもとに作品を執筆したともいわれています。修善寺を訪れたのも、田端にあった自宅での生活から仕事を切り離したかったからかもしれません。

芥川は1927年(昭和2年)に35歳で亡くなっており、この修善寺訪問はそのわずか2年前のことでした。

死の前年の1926年(大正15年)ころから、胃潰瘍・神経衰弱・不眠症が高じ再び湯河原で療養。さらには鵠沼(神奈川県藤沢市)に移動して、ここの旅館東屋に滞在して妻子を呼び寄せるなど、各地を転々としています。

このころからもう既に自殺を考えていたのか、自分のこれまでの人生を見直したり、生死に関する作品が多く見られるようになりました。彼の初期のころの作品より、こうした晩年のものの方を高く評価する見解もあるようです。

1927年(昭和2年)1月、義兄の西川豊(次姉の夫)が放火と保険金詐欺の嫌疑をかけられて鉄道自殺するという事件がありました。このため芥川は、西川の遺した借金や家族の面倒を見なければならなかったといい、このころから心労が重なっていったようです。

さらには、この年の4月上旬、芥川の秘書を勤めていた女性(平松麻素子)と帝国ホテルで心中未遂事件を起こした、という話もあるようです。が、後年、松本清張は、事実はこれとは異なり、女は芥川と帝国ホテルで心中する約束をしたものの、直前になって約束を破ったため心中には至らなかった、としています。

いずれにせよ、このころ既に尋常な心境ではなかったのでしょう。7月24日未明、「続西方の人」を書き上げた後、斎藤茂吉からもらっていた致死量の睡眠薬を飲んで自殺しました。ただ、服用した薬には異説があり、青酸カリによる服毒自殺ではなかったか、とする説もあるようです。

亡くなった日の朝、文夫人は「お父さん、良かったですね」と彼に語りかけたという話もあるようで、奥さんは彼の苦しみを知っていたのでしょう。

遺書として、妻・文に宛てた手紙や親しかった菊池寛などに宛てた手紙があります。その中で自殺の動機として記した「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」との言葉は、今日一般的にも有名です。

伊豆において彼が残した痕跡というものは特にないようです。新井旅館では、「月の棟」という、現在登録有形文化財にもなっている、棟の一室に籠もり執筆に明け暮れたといいます。

お泊りの際は拝観を申し出てはいかがでしょう。結構高級旅館ですが…

白瀬

テレビにくぎ付けの半月ほどが過ぎました。ここへきてようやく一段落した感があります。

がしかし、オリンピック・ロスに見舞われている人も多いのではないでしょうか。

メダル13個獲得という日本人選手たちの大活躍は歴史に残るものであり、全期間を通じてこれほど盛り上がった冬季オリンピックはないわけですが、それだけに、終わったあとの脱力感は否めません。

それはそれとして、私的には、今回のオリンピックの日本でのNHKをはじめとする各テレビ局の放映に関しては、少々食い足りない感じが残っています。

というのは、私がかつてやっていた射撃にまつわる、バイアスロンに関する放映がまったくといっていいほどなかったこと。また、ボブスレーやリュージュ、スケルトンといった、橇(そり)競技に関しても、こちらもほとんど放映されませんでした。

日本人の参加選手が少なかったということもあるのでしょうが、こうした近代競技もまた、冬のオリンピックの花であり、もう少し放送枠を持って欲しかったな、と思ったりするわけです。

そこで、今日はソリにまつわる話を少し書いて行こうかな、と思います。

もともとソリとは、雪上の「運搬具」でした。雪上の運搬具・交通機械として、雪上で荷重を広い面積に分散させて沈下を防ぎ、けん引力と運動速度が得られるような構造である必要があります。そこから数多くの種類のソリが発明されましたが、オリンピック競技に使われるソリも無論、その延長上にあります。

ただし、ソリは自力では動くことや方向を転換することができません。動かすためには動力が必要であり、その牽引者ごとに、人引そり、イヌぞり、馬そりなど各種の形態があります。

このうち、イヌぞりに関しては、19世紀から20世紀の初頭にかけて、主にイギリスの探検隊により、極地方の探索に用いられることでその実力が認められるようになりました。アムンセンの他、多くの探検隊が使い、スノーモービルに取って代わられるまで、極地方の主要な交通手段でもありました。

アムンゼンのことを知っている人は多いでしょう。ロアール・アムンセン(Roald Engelbregt Gravning Amundsen)はノルウェー人。1872年7月16日に生まれ、1928年に56歳でなくなりました。日本では「ロアルト・アムンセン」、「ロアルド・アムンゼン」などとも表記されます。

極地に挑んだ探検家として知られるこの人物は、イギリス海軍大佐のロバート・スコットと人類初の南極点到達を競い、1911年12月14日には人類史上初めて南極点への到達に成功しました。また、1926年には飛行船で北極点へ到達し、同行者のオスカー・ウィスチングと共に人類史上初めて両極点への到達を果たした人物となりました

スコットのほうもまた、南極探検家としても知られ、1912年に南極点到達を果たしましたが、帰途遭難し、死亡しました。しかし、アムンゼンに遅れること1ヶ月後に南極点に到達し、英国国旗を立てることができました。

映画などでは劇的効果を高めるため、南極点到達直前に、スコット隊がアムンセン隊に先を越されたように描写されることが多いようです。しかし、スコットたちはそれよりかなり前にアムンセン隊のそりの滑走痕を視認しており、遅くともアムンセンの南極点到着よりおよそ一か月前の1月16日には彼らに先を越されたことを認識していました。

失望に覆われたパーティーは、それでも南極を目指し、二番手とはいえ、見事悲願を達成したわけですが、その背景には、大英帝国という国家を背負っていた、という事情がありました。祖国の栄光を世界に知らしめるという重い責任を感じて頑張ったにもかかわらず、彼らはその帰途全員が死亡しました。




スコット隊がロアール・アムンセン隊に敗れ、遭難死した理由については、その当時から数多くの人が分析を行っており、以下のような分析結果が残っています。

・アムンセン隊は犬ぞりとスキーによる移動で極点に到達したが、スコット隊は主力として馬を用い、これによる曳行がことごとく失敗した。寒冷な気候に強い品種の馬を用意していたものの、体重が重いため雪に足をとられたり、クレバスに転落した馬も多く、また生存できる耐寒温度を遥かに下回っており、馬は体力の低下とともに次々に死んでいった。

・アムンセン隊では現地に棲息する海獣を狩るなどして携行食糧を少なめに抑えたが、スコット隊は全ての食料を持ち運んだ。特に馬のための干草類は現地では全く入手できるものではない上、馬の体力消耗で思いのほか早く尽きてしまった。

・アムンセン隊が南極点到達を最優先していたのに対し、スコットは地質調査などの学術調査も重視しており、戦力を分散させる結果となった。アムンセン隊は南極点への最短距離にあたるクジラ湾より出発したが、スコット隊は学術的調査の継続のため、より遠いマクマード湾より出発せざるを得なかった。

・スコット隊の最終メンバーは、43歳のスコットを筆頭として30代が中心であり、30歳未満の若い隊員はバウアーズ1人だけであった。

スコット隊が南極に着いたとき、彼らはアムンセン隊が残した手紙を発見しています。アムンセン隊もまた、無事に帰還できるかどうかの自身がなく、自分たちも全員遭難死した場合に備え、自分たち以外の到達者に初到達証明書を持ち帰ってもらうため、手紙を残していたのでした。

しかし、手紙を持ち帰ろうとしたスコット隊は、その後悪天候のせいもあって全滅しました。ただ、のちに彼らの遺体が発見されたときにこの手紙も発見され、アムンセン隊の南極点先達が証明されました。またこの時発見された手紙は大事に梱包されており、これは、「自らの敗北証明を持ち帰ろうとした行為」としてスコット隊の名声を高めました。

この手紙とともに、スコット本人の遺書も発見されました。スコットの遺族・隊員の遺族ら計12通にしたためられた手紙には、隊員の働きを称える文章がつづられており、遺族への保護を訴えるとともに、キャサリン夫人に対しては、相応しい男性と出会えば再婚を勧めるという、涙を誘う内容が書かれていたそうです。

その後、無事に帰還するとともに、人類初の南極点を果たしたアムンセンは、独立間もないノルウェーにおいては、国民のナショナリズムを喚起し、国民的英雄となりました。

多くの講演活動をこなし、探検旅行の費用の負債を返済するとともに、アメリカにおいても英雄としてたたえられ、自国よりも多くの時間をアメリカで過ごしました。しかし、自国の悲劇の英雄、スコットをひいきにするイギリスでは冷たく扱われたといいます。

アムンセンは南極からの帰還後も、ドルニエ・ワール飛行艇や飛行船ノルゲ号によって北極点通過を行い、人類初の両極点到達を果たすなど、精力的に活動しました。1927年には報知新聞の招待で日本にも来ています。

しかし晩年は必ずしも恵まれた人生とはいえませんでした。その理由は、新発明である飛行機や飛行艇を探検に使うことに熱心であっため、その購入や探検費用に莫大な金を費やしたからです。講演収入を使い果たし、ついには破産の憂き目にもあいました。

1928年、北極を飛行機で探検中に偶然、近くで同じく北極を探検していたイタリア探検隊の遭難の報がもたらされました。隊長は、イタリア王国の探検家ウンベルト・ノビレで、ファシスト政権からの国家援助によって新たな飛行船を設計、完成した飛行船イタリア号で二度目の北極探検を実行中でした。

ところが、極点到達後の5月25日、飛行船は極氷の中に墜落して、ゴンドラ部分と気嚢部分が分離してしまった。ノビレら生存者は脱落したゴンドラ部分にいましたが、気嚢部分に残っていた隊員達は行方不明になりました。生存者たちは飛行船の無線機でSOSを発信、さらにテントを赤く染めて目印とし、救助を待ちました。

これに対して、アムンセンは、ノビレ隊の捜索に「ラタム 47」という飛行艇で救出に向かいましたが、その途中、ノルウェー沖で消息を絶ちました。その後、ノルウェー北部トロムスの海岸線付近で、ラタム 47のフロートとガソリンタンクのみが発見されましたが、結局本人の遺体は確認されませんでした。行方不明になったとき、56歳でした。

その後、70年以上の時を経て、2004年と2009年にノルウェー海軍が自律型無人潜水機で再度捜索を行いましたが、現在まで機体および遺体の発見には至っていません。ちなみに、ノビレは、ノルウェー空軍のテストパイロット、エイナー・ルンドボルイによってその後無事に救出されています。

アムンセンは、南極点到達以外にも、北西航路横断の成功や磁北極地域の探険などの数々の業績を残しており、今もノルウェー国民に語り継がれる英雄です。



実は、このアムンセンとスコットとほぼ同時に南極に挑んでいた日本人がいました。南極観測船「白瀬」で知られる、白瀬 矗(しらせ のぶ)です。

アムンセンの南極到達に先立つ1日前の明治45年(1912年)1月16日に、開南丸で南極大陸に達しましたが、さらにその翌日にスコットが南極点に到達しており、結局、二人とは違って、南極点に到達するという偉業は成し遂げることができませんでした。

白瀬隊が接岸した湾を彼らは、「開南湾」と命名しましたが、上陸して探検を開始するには不向きであったため、再び開南丸で移動、すぐ近くのクジラ湾に向かい、ここから再上陸し、1月20日に極地に向け出発しました。しかし、このときにはもう既に南極点到達を断念しており、探検の目的を南極の学術調査とともに領土を確保することに変更しています。

なお、白瀬隊は、南極点初到達から帰還するロアール・アムンセンの探検隊を収容するために来航していたフラム号とクジラ湾で遭遇しており、限られた形ながらスウェーデン隊と接触しています。

ちなみに、このクジラ湾というのは、南極大陸の一番下(南極なので「南部」とは書けない)に大きく口を広げた「ロス海」にあり、湾の名称はイギリスの探検家、アーネスト・シャクルトンが1908年にニムロッド号でここを探検し、多数のクジラを観察したことにちなみます。また、白瀬矗も海面を埋め尽くすシロナガスクジラの様子を記録しています。

クジラ湾から南極点を目指した白瀬ら27人の隊員の簡素な装備は、イギリス隊やノルウェー隊に比べるとはるかに貧相なものだったといわれています。このため、前進は困難を極め、28日には既に帰路の食料もままならないほど消耗してしまっており、南緯80度5分・西経165度37分の地点に到着したところで、それ以上の前進を断念しました。

彼等はこの場所一帯を「大和雪原」と命名し、隊員全員で万歳三唱。同地には「南極探検同情者芳名簿」を埋めました。さらに、日章旗を掲げ、「日本の領土として占領する」として、先占による領有を宣言しました。

その後、昭和に至るまでこの地は日本の領土とされてきましたが、第二次世界大戦の敗戦時に、日本はこの領有主張を放棄。しかし、この地点は棚氷(たなごおり)であり、陸上から連結して洋上にあるだけの氷の地であって、領有可能な陸地ではないことが後に判明しています。

この白瀬矗という人物ですが、この時代の世界各国の探検家の多くが軍人であったように、彼もまた大日本帝国陸軍の元軍人でした。

文久元年6月13日(1861年7月20日)、出羽国由利郡金浦村(現在の秋田県にかほ市)に長男として生まれました。父・知道は、浄蓮寺という寺の住職でした。

南極探検以後になって出版した自伝によると、幼年時代の彼はかなりのわんぱくだったようで、自らも、「狐の尻尾を折る」「狼退治」「千石船を素潜りで潜ろうとして死にかける」「150人と血闘」などと書いており、子供のころから冒険好きだったようです。

8歳の頃に、平田篤胤の高弟ともいわれる医師で蘭学者の「佐々木節斎」という人物の寺子屋に入り、ここで佐々木から読み書きソロバンや四書五経を習います。佐々木は、このころ白瀬に、コロンブスやマゼランの地理探検、そしてジョン・フランクリン隊の遭難(フランクリン遠征)などの話を聞かせたといいます。




11歳になったころ、同じ佐々木より北極の話を聞いた白瀬は、このときから探検家を志すようになります。これに対して佐々木は、どうしても探検家になりたいなら、と前置きして、次の5つの戒めを教えました。それは…

酒を飲まない
煙草を吸わない
茶を飲まない
湯を飲まない
寒中でも火にあたらない

というものでした。実際、白瀬はこの戒めを18歳頃から守るようになり、生涯この戒めを守り続けたとされます。

20歳になった彼は、陸軍に入隊し、のち陸軍輜重兵伍長として仙台に赴任します。翌年、宇都宮で行われた大演習に騎兵として参加し、のちの陸軍大将、児玉源太郎と知り合っています。 明治20年(1887年)には仙台市二日町の海産問屋の娘、やすと結婚。 陸軍輜重兵曹長、下副官と昇進し明治26年(1893年)、32歳で予備役となりました。

予備役となる二年前、29歳になったとき、仙台で児玉源太郎に面会を申し入れており、このときはじめて、北極探検の思いを児玉に伝えました。児玉は「書生論的空理空論だ」と突き放しましたが、そう断じた上でなお、「北極探検を志すなら、まず樺太や千島の探検をするように」と薦めました。

この児玉の助言に従い、白瀬は千島探検を志すようになります。明治26年(1893年)、幸田露伴の兄である「郡司成忠」大尉が率いる千島探検隊(千島報效義会)に加わり、初めて本格的な探検を経験します。

探検隊は悪戦苦闘の末、千島に到着しましたが、その前の暴風雨で19名もの死者を出しており、列島に到着したときは20人弱になっていました。このうちの9名を捨子古丹島(しゃすこたんとう)に、幌筵島(ぱらむしるとう)に1名の隊員を越冬隊として残し、白瀬・郡司ら7名は同年8月31日に最終目的地である占守島(しゅむしゅとう)に到着しました。

この探検隊の目的の一つは、探検だけでなく、冬季に以下に長期間こうした極寒の地で滞在できるか、であり、このころ北方からの脅威になりつつあったロシアへの備えの意味も含めた実験的な遠征でした。このため、彼らはそのまま同島で、2年にわたって過ごし、2度の越冬を経験しました。

しかし、その2年目の越冬は過酷なものとなり、白瀬を含む4人が壊血病に罹り、最終的には白瀬以外の3人が死亡しました。壊血病に罹らなかった2人のうち1人もノイローゼとなり、白瀬も病気による体力の低下から食料の調達が不可能となり、やむなく愛犬を射殺してその肉を食べることで飢えを凌いだほどでした。

白瀬らは明治28年(1895年)8月になって救助されますが、これほどひどい目にあっても極地探検を夢見ており、自分が初めての北極点到達者になると周囲に宣言していたといいます。しかし、明治42年(1909年)、アメリカの探検家・ロバート・ピアリーの北極点踏破のニュースを聞いたときには、傍目で見ていても痛ましいほど失望・落胆したといます。

そこで気持ちを切り替えた白瀬は、北極探検を断念し、その目標を南極点へと変更することにします。ところがその後、イギリスの探検家、アーネスト・シャクルトンが南緯88度23分に到達したことを知ると、白瀬はさらに意気消沈しました。

しかし、まだ極点が極められたわけではなく、さらにその後、同じイギリスのロバート・スコットが南極探検に挑むことが知らされると白瀬は発奮し、即座に競争を決意します。

スコットの遠征にあたっては、イギリスの王立地理学会がその支援をすることが決まっていました。科学調査とともに南極点到達を目標にしており、白瀬が得た情報では、ほかには南極点を目指す探検隊はいないと思われました。

実際にはこのとき、アムンセンが南極遠征の計画を練っていたわけですが、そうした情報はまだ入っておらず、このため、白瀬は自分のライバルはスコットだけ、と思い込んでいました。ライバルが一組だけなら、勝算がある、と考えたのでしょう。

明治43年(1910年)、白瀬は南極探検の費用補助を帝国議会に建議(「南極探検ニ要スル経費下付請願」)します。その結果、この建議は、衆議院は満場一致で可決したものの、政府はその成功を危ぶんでいました。結局、3万円の援助を決定したものも、それ以上の補助金は出さない、ということに決まりました。

この南極遠征にあたっては、少なくとも渡航費用14万円がかかると予想されており、これは現在の金額に換算すると5億円以上にもなります。

その足りない分は国民の義援金に依るところとなりましたが、到底十分な資金を得ることができず、このため、積載量が僅かに204トンという、中古の木造帆漁船を買い取り、これを母船として遠征に乗り出すしかありませんでした。

装備に金もかけられないため、中古の蒸気機関を取り付けるなどの改造を施しましたが、エンジン出力はわずか 18馬力で、これはだいたい現在の125ccのスクーターバイクに相当し、出入港の補助にしか使えないものでした。現在の同じ大きさの船は200~2,000馬力くらいのエンジンを装備しており、これで南極探検に臨むのは無謀ともいえるほどでした。

名前だけは東郷平八郎によって「開南丸」と命名されるなど、一応の体裁を整えましたが、船以外の装備も惨憺たるもので、極地での輸送力として用意できたのは29頭の犬だけでした。同じく南極を目指していたスコットが、モーター雪上車 3台に加え、馬(ポニー) 19頭、犬 33頭を用意して南極に臨んだのに比べるとその貧相さがわかります。



明治43年(1910年)11月29日、開南丸は芝浦埠頭を出港しますが、まるで彼らの先行きを暗示するかのように、この航海中に殆どの犬が原因不明の死を遂げました。

のちにこれは、寄生虫症と判明しますが、南極探検に欠かせない犬を失った彼らは、それを補充するため、行先を南極からニュージーランドへ変更することを余儀なくされます。結局、補充の犬の補てんには数ヶ月がかかり、年明けて、翌明治44年(1911年)2月11日に、ようやくウェリントン港から南極に向けて出港しました。

しかし、すでに南極では夏が終わろうとしており、氷に阻まれて船が立往生する危険が増したため、再度Uターンして、5月1日にシドニーへ入港。度重なる遠征の延期によって資金繰りに困った彼らは、シドニー在住の日系人などから新たに募金を募りました。

その結果集まった資金は十分とはいえるものではありませんでしたが、最低限の物資だけは整え、再度南極へ挑戦します。しかし、その出発はさらに遅れ、結局、南極に到着したのは、年が明けて明治45年(1912年)1月16日のことでした。

このとき、時すでに遅しで、上述のとおり、アムンセンに続いてスコットらが南極点到達を果たしていました。しかし、もしその前年に南極への上陸を果たしていたら、彼らに先んじて南極点にかなり近づくことはできていたかもしれません。

しかし、彼らの装備の貧弱さを思えば、仮に南極点へ向かうことができたとしても、途中で遭難したであろうことは容易に予想され、実際に白瀬らがクジラ湾から上陸したあと、進むことができたのは大和雪原までで、その先の遠征は断念せざるを得ませんでした。

実は、白瀬隊においては装備の不備以外にも、白瀬と他のメンバーとの間で著しい不和があり、とくに書記長の多田恵一、船長の野村直吉などの間でたびたび諍いがあったことが伝えられています。シドニーで滞在していたときには、隊員による白瀬の毒殺未遂事件が起きたとさえ言われており、おそらくは十分でない資金が原因だったのでしょう。

こうして、白瀬らは、2月4日に南極を離れるところとなり、ウェリントン経由で日本に戻ることを決めましたが、いざ南極を離れようとすると海は大荒れとなり、連れてきた樺太犬21頭を置き去りにせざるを得なくなりました。

このことは、のちに波紋を呼びます。参加していた樺太出身のアイヌの隊員2名(山辺安之助と花守信吉)は犬を大事にするアイヌの掟を破ったとして、帰郷後に民族裁判にかけられて有罪を宣告されています。ただ、南極に残された樺太犬のうち、6頭はその後、スコットの捜索に訪れたイギリス隊によって保護され、生還することができました。

こうして、南極点を制覇できなかった白瀬でしたが、この南極遠征は、多くの日本人に感銘を与えました。

南極へ出発する当初、日本国中で「小さな漁船で南極へ向かうのは無謀」などと散々な罵声や嘲笑があったものの、白瀬ら全員が帰国した際は日本中が歓喜に沸きました。約5万人の市民が開南丸の帰還を歓迎し、夜には早大生を中核とした学生約5,000人が提灯行列を行ったといわれます。

皇太子との謁見や各地での歓迎式典が開かれたほか、学術的資料としても、彼らが持ち帰った南極の気象や動植物の記録は重宝がられました。また、ペンギンの胃から出てきた140個あまりの石もまたその後詳しい分析が行われ、貴重なものであることが証明されました。

しかし、帰国後、白瀬本人には、さらに過酷な運命が待っていました。後援会が資金を遊興飲食費に当てていたことがわかり、4万円(現在の1億5千万円)の借金を背負ったのです。隊員の給料すら支払えなかった彼は、自宅、家財道具、軍服と軍刀を売却して、その後、転居につぐ転居を重ねる人生を送ることになります。

このとき白瀬50歳。莫大な借金を返済するために選んだ道は、南極探検の講演を行い、聴衆から講演料を得て、借金の返済にあてることでした。幸い、彼らの南極遠征は写真と動画によって記録されており、白瀬はそうした実写フィルムを抱え、娘と共に日本はもちろん台湾、満州、朝鮮半島を講演して回り、渡航の借金の弁済に努めました。

その後20年余りがすぎました。昭和11年(1936年)、白瀬が75歳のとき、東京科学博物館(現・国立科学博物館)で「南極の科学」展が開かれることになりました。このときも白瀬にもお声がかかり、その講演で出席したほか、同12年(1938年)には国から「大隈湾」「開南湾」命名による感謝状が手渡されました。

おそらく彼が、公の前に出たのはこれが最後だったでしょう。それから10年後の昭和21年(1946年)9月4日、愛知県西加茂郡挙母町(現・豊田市)で白瀬は亡くなりました。

享年85の生涯を全うした時、彼が住んでいたのは、次女が間借りしていた魚料理の仕出屋の一室だったといい、死因は腸閉塞でした。

その葬儀にあたっては、その部屋の床の間にみかん箱が置かれて祭壇とし、上にカボチャ二つとナス数個、乾きうどん一把が添えられただけだったといいます。弔問するものも少なかったといいます。それもそのはず、近隣住民のほとんどが、ここに住んでいたのが、あの南極探検をやった白瀬矗だということを知らなかったためです。

白瀬の死後も彼の遺骸を引き取る遺族はなかったといいます。おそらくは部屋を貸していた次女もまた、その日の暮らしを案じるような有様だったのでしょう。結局、その窮状を見かねた近くの寺の住職が引き取り、弔ったと伝えられています。

この寺は、名古屋市中川区吉良町にある、浄覚寺という寺で、白瀬の墓もここにあります。墓には「大和雪原開拓者之墓」の墓碑が彫られ、またその前面には南極大陸の地図が彫られているそうです。

名古屋で葬られた白瀬はおそらく、生地である秋田に帰りたかったでしょうが、その彼の故郷の秋田県“にかほ市”にはその後、「白瀬南極探検隊記念館」が建てられました。また、「秋田ふるさと村」(横手市)のマスコットキャラクターである、秋田犬の「ノブ君」の名前は白瀬に由来します。

さらに、彼の死後、ロス棚氷の東岸は、昭和36年(1961年)にニュージーランドの南極地名委員会によって「白瀬海岸」と命名されました。また、南極観測船「しらせ」の艦名は彼にちなんでいます。

昭和45年(1970年)に日本女性として初の小型ヨットによる世界一周を果たした白瀬京子は、白瀬の弟の孫にあたります。「白瀬南極探検隊記念館」の初代館長に就任しましたが、1990年の開館直前に死去。54歳でした。彼女の遺作には、「雪原へゆく 私の白瀬矗(秋田書房、1986)」があります。