天海が造った江戸

2015-1140266

もうそろそろ、8月も終わりですが、旧暦の8月1日のことを、八朔(はっさく)といいます。これは「八月の朔日」の略で、朔とはすなわち新月のときです。

地球から見て月と太陽が同じ方向となり、月から反射した太陽光が地球にほとんど届かないことから、月は真っ暗になります。旧暦では、この朔日を月の始まる日を「1日」としました。また、この月の始まりは「月立ち(つきたち)」ともいい、これが転じて「ついたち」と言うようになったようです。

このため、朔日のことも「ついたち」と訓読みし、「朔」だけでも「ついたち」と読む場合もあります。

しかし、新暦になった現在では、この朔日は、8月1日ではなく、およそ1ヵ月遅れになります。また、毎年同じ日ではなく、だいたい8月25日ごろから9月23日ごろまでを移動します。

ちょうど今ごろであり、そろそろ稲穂が出るころなので、農民の間で初穂を恩人などに贈る風習が古くからありました。このことから、「田の実の節句」ともいうそうで、この「たのみ」を「頼み」にかけ、武家や公家の間では、日頃お世話になっている(頼み合っている)人に、その恩を感謝する意味で贈り物をしていたそうです。

現在ではそういう風習はありませんが、旧暦の7月15日、すなわちお盆のころにも、お世話になった人々に贈り物をする習慣があり、これを「お中元」と呼びました。こちらは現在でも風習として残っています。

果物のハッサクも、旧暦の8月1日ごろに食べられるようになるため、この名が付きました。しかし、「ハッサク」という名前がついたのは明治の初めのころだそうで、その後1910年(明治43年)、柑橘学の世界的権威W.T.スウィングル博士が、当時因島に現存した約60種類のかんきつ類を調査に来日したとき、「ハッサク」の優秀性を認識したといいます。

これにより、一躍「ハッサク」栽培の機運が高まっていき、1925年(大正14年)には、島内の田熊という場所に出荷組合が設立され、「ハッサク」の販路拡大が図られていきました。現在、島内の浄土寺という寺にはハッサクの原木の切り株が保存され、境内にはハッサク顕彰碑「八朔発祥の地」が建てられているそうです。

しかし、実際にはこの時期のハッサクの実はまだ小さくて食用には適しません。現在では12月~2月ごろに収穫され、1、2ヶ月ほど冷暗所で熟成させ酸味を落ち着かせたのち、出荷されるので、どちらかといえば春の風物詩です。

ところで、徳川家康が江戸城に初めて入場したのは、天正18年8月1日の八朔の日です。これは新暦では1590年8月30日になります。はじめて公式に江戸城に入城したとされることから、江戸幕府はこの日を正月に次ぐ祝日としており、その名残で明治改暦以降も、新暦8月1日や月遅れで9月1日にお祭りが行われるところがあります。

熊本県上益城郡山都町の浜町では、野山の自然素材を豊富に使った巨大な「造り物」が名物の「八朔祭」が、毎年、旧暦8月1日の平均に近い、9月第1土曜日日曜日の2日間にわたって開催されています。山梨県都留市でも9月1日に八朔祭りが行われます。

このほか、京都市東山区の祇園一帯など花街では、新暦8月1日に芸妓や舞妓がお茶屋や芸事の師匠宅へあいさつに回るのが伝統行事になっており、福岡県遠賀郡芦屋町でも同日に「八朔の節句」というお祭りが、また香川県丸亀市では、男児の健やかな成長を祈り、その地方で獲れた米の粉で「八朔だんご馬」を作る風習があります。

この8月1日の家康の江戸入りを企画したのは、南光坊天海、という天台宗の僧であったとも言われています。というか、江戸の町そのものの設計をしたのも天海であったとされており、徳川家康の側近として、江戸幕府初期の朝廷政策・宗教政策に深く関与したことで知られています。

2015-1120533

生年ははっきりしていませんが、100歳以上の長命であったことは確かであったようです。1616年の家康の没後、1632年に日光東照宮で行われた法要のときに天海は97歳であったとされることから、これが正しいとすると、生年は天文5年(1536年)と推定され、没年は107歳(数え年108歳)となります。

戦国時代に奥州で伊達氏と並び称される有力大名であった、会津の蘆名氏の一族として生まれたとする説がありますが、定説といえるものはいまだにありません。京都龍興寺にて随風と号して出家した後、14歳で下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して天台宗を学び近江国の比叡山延暦寺や三井寺、大和国の興福寺などで学を深めました。

元亀2年(1571年)、織田信長により比叡山が焼き打ちに合うと武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住。その後、会津蘆名盛氏の招聘を受けて黒川城(若松城)の稲荷堂に住し、さらに上野国の長楽寺を経て天正16年(1588年)に武蔵国にあった天台宗の寺、無量寿寺北院(現在の埼玉県川越市。後の喜多院)に移り、天海を号したとされます。

無量寿寺は平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、のちに伏見天皇が尊海僧正に命じ関東における天台宗の本山とした寺です。江戸時代に造られた「日本三大羅漢」の1つ・五百羅漢で有名な寺で、ここに鎮座する538体もの石仏群は壮観です。

天海としての足跡が明瞭となるのは、この無量寿寺北院に来てからです。東京の浅草寺の史料には、北条攻めの際、天海は浅草寺の住職忠豪とともに家康の陣幕にいたという記録があるそうです。このことからも、このころからもう天海は家康の側におり、関東に拠点があったことが推察できます。

前住職の豪海の後を受けて、天海が無量寿寺北院の住職となったのは慶長4年(1599年)のことです。その後、天海は家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担うようになります。慶長12年(1607年)に比叡山探題(叡山政務について裁決を行う重要職)を命ぜられ、延暦寺東塔の傍の南光坊に住んで延暦寺再興に関わりました。

比叡山は、1571年(元亀2年)に織田信長による焼き討ちに遭い、荒廃したままになっていましたが、これを再建したのは天海です。天海はその功績を讃えられて、この年朝廷より権僧正(ごんのそうじょう)の僧位を受けました。これは僧官の職としては、大僧正、僧正に次ぐ、ナンバー3の地位です。

その後長らく無料寺住職を勤めましたが、慶長17年(1612年)には、寺号を喜多院と改め、古くなっていた寺を再建し、改めて伏見天皇以来、権威の落ちていた関東天台宗の本山であることを宣言しました。

慶長18年(1613年)には家康より日光連山の主峰・日光三山を神体山として祀る日光二荒山神社貫主を拝命しました。のちに、家康が死去したあと彼を祀る東照社(日光東照宮)が江戸幕府によって日光山に創建されると、当社もまた、江戸幕府のみならず朝廷や諸大名、さらに民衆からも厚い崇敬を受けました。

二荒山神社は、江戸時代までは、神領約70郷という広大な社地を有していました。今日でも日光三山を含む日光連山8峰(男体山・女峰山・太郎山・奥白根山・前白根山・大真名子山・小真名子山・赤薙山)や華厳滝、いろは坂などを境内に含み、その広さは3,400haという、伊勢神宮に次ぐ面積を有しています。

2015-1120553

天海はこのころ、豊臣家が滅亡した、大坂の陣の発端となった「方広寺鐘銘事件」にも深く関わったとされています。豊臣家が再建していた京都の方広寺大仏殿にあった梵鐘に「国家安康」の文字があった、という例のヤツで、家康はこれを自分を呪詛するものだとして、豊臣家追討の口実を得ました。

元和2年(1616年)、危篤となった家康は神号や葬儀に関する遺言を同年7月に大僧正となった天海らに託しました。家康死後には神号を巡り、外交僧として江戸幕府の政策に関与していた僧の、以心崇伝(いしんすうでん)や、家康の側近中の側近、本多正純らと争いました。

祟伝は、その権勢の大きさと、強引とも思える政治手法により、世人から「黒衣の宰相」あるいは「天魔外道」と評されるほどで、上の方広寺の鐘銘事件において、「国家安康」「君臣豊楽」で家康を呪い豊臣家の繁栄を願う謀略が隠されていると難癖を付けた張本人は崇伝とされています。

このとき、天海は「権現」として山王一実神道で祭ることを主張し、崇伝は家康の神号を「明神」として吉田神道で祭るべきだと主張しました。2代将軍・徳川秀忠の諮問に対し、天海は、豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られた後の豊臣氏滅亡を考えると、明神は不吉であると提言したことで家康の神号は「東照大権現」と決定されました。

こうして、家康の遺体は静岡の久能山から日光山に改葬されました。この論争に敗れたかたちの祟伝は、家康没後は後ろ盾をも失い、その後天海にその地位を奪われるところとなりました。

天海はその後も後3代将軍・徳川家光に仕え、寛永元年(1624年)には上野の寛永寺を創建しました。ここは徳川将軍家の祈祷所・菩提寺ともなり、現在に至るまで徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠っています。17世紀半ばからは皇族が歴代住職を務め、日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇るようになりました。

2015-1130671

天海は、この3代の将軍の擁護下で、江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想したことで知られています。また、それより以前の慶長8年(1603年)には、関ケ原の戦いに勝利した家康は、幕府を開くにあたり、天海の助言を参考にしながら、江戸の地を選びました。

家康の命により伊豆から下総まで関東の地相を調べ、古代中国の陰陽五行説にある「四神相応」の考えをもとに、江戸が幕府の本拠地に適していると結論を下したとされています。「四神相応」とは、東に川が流れ、西に低い山や道が走り、南に湖や海があり、北に高い山がある土地は栄えると考えられたものです。

天海は、東に隅田川、西に東海道、北に富士山、南に江戸湾があったことから、江戸が四神相応にかなうと考えました。

ところが、ご周知のとおり、富士山は実際には「北」にはなく、真北から112度もずれた西の方向にあります。しかし、天海は、富士山をあえて北とみたてて、江戸を四神相応にかなうとみなしたといい、家康及びその側近もこのねじ曲げた説を受け入れたといいますから不思議です。

これについては、理由はよくわかりませんが、東の隅田川、西の東海道、南の江戸湾は天海の言うとおりであり、人望もあった天海の言うことをここは聞いておこう、と家康以下が思ったのかもしれません。

このため、現在も残る、江戸城の大手門(大手町のものではなく、本丸のあった皇居内にあるほうで非公開)は、西向きに造られていますが、これも富士山を「北」とみなしたためだとされます。

また、天海は、江戸にある上野、本郷、小石川、牛込、麹町、麻布、白金の7つの台地の突端の延長線が交わる地に、江戸城の本丸を置くよう助言したとされます。

これは、東京の地理をよく知っている人にはわかるのですが、その他の地方の人にはわかりにくいでしょう。要はこれらの土地の中心に江戸城(現在の皇居)がある、という位置関係で、この当時には確かにこれらの地は台地上にありました。

「台地の突端の延長線が交わる」かどうかは、古地図を見ないとはっきりはわかりませんが、ともかく、天海は、彼が持っていた陰陽道の知識により、これによってこれらの場所の中心に周辺の気が集まることを狙ったとされています。

江戸城の場所が決定した後は、藤堂高虎らが中心となって江戸城と堀の設計が行われましたが、その設計・施工にあたっても、天海は、思想・宗教的な面からそれらに関わっていました。

2015-1130689

例えば、天海は、江戸城の平面配置を「渦郭式」という形式の構造にしました。「渦郭」とは渦巻き状構造のことで、要はカタツムリの殻のように、城を取り囲む掘を螺旋状の「の」の字型に掘ることを推奨しました。

城を中心に時計回りで町が拡大していくことを意図したとされ、これは敵を城に近づけにくくする、火災発生時に類焼が広がるのを防ぐ、物資を船で運搬しやすくする、堀の工事により得た土砂を海岸の埋め立てに利用する、などのメリットがあったとされます。

攻城に対する効果はともかく、火災に対しては果たして本当にそうした効果があったのかどうかはわかりません。江戸はその後何度も大火に見舞われているところをみると、この点については該当しないような気がします。

が、交通の便に関しては一理あります。東京へ行ったことがある人は分かると思いますが、皇居周辺にはあちらこちらに大きな掘があって、部分部分ではどうつながっているのかはよくわかりませんが、地図をみると皇居を中心として、渦巻き状にこれらが配置されているのがなんとなくわかります。

ここを船を使って移動したとすれば、なるほど便利だったかな、と思わせるレイアウトではあります。

また、これだけ巨大な堀を掘削すればかなりの土砂が出ただろうと推察され、これをこの当時はまだほとんどが海であった江戸の町を埋め立てるのに使うというのは、かなり合理的なアイデアです。

天海はまた、江戸城の北東と南西の方角にある「鬼門」・「裏鬼門」を重視して、鬼門を鎮護するための工夫を凝らしたとされます。すなわち、江戸城の北東に置かれたのが、上述の寛永寺であり、ここを徳川家代々の墓所とするとともに、自らが住職を務め、鬼門を封じる「主」となりました。

寛永寺の寺号「東叡山」は東の比叡山を意味しますが、比叡山は同じく京都の北東方面の鬼門に位置します。天海は、平安京の鬼門を守った比叡山の延暦寺に倣って、寛永寺をここに建てたわけです。

また、その南側に、近江の琵琶湖を思わせる不忍池を築き、琵琶湖の竹生島に倣って、池の中之島に弁財天を祀るなどしたと言われています。琵琶湖は比叡山の東側に位置し、まったく位置関係は異なりますが、できるだけ寛永寺が、比叡山と同じ役割を果たすよう、その環境を真似たのだと、言われています。

このほか、天海は、寛永4年(1627年)には、寛永寺の隣に上野東照宮を建立し、家康を祀り、もともと現在の東京都千代田区大手町付近にあった神田神社(神田明神)を現在の湯島に移し、幕府の祈願所とした浅草寺で家康を東照大権現として祀るなど、徹底的に江戸城の北東方面に神社仏閣を置いて、鬼門鎮護を厚くしました。

また、江戸城の南西(裏鬼門)についても、その方角にある増上寺に2代将軍である徳川秀忠を葬ったうえで徳川家の菩提寺とし、さらに、同じ方角に、近江の日吉大社(琵琶湖の西にある)から分祀した日枝神社を建立するなどして、鎮護を意図したといわれています。

神田明神の神田祭、浅草寺の三社祭、日枝神社の山王祭は、江戸の三大祭ですが、これらの祭りは、天海により企画されたもので、これは江戸城の鬼門と裏鬼門を浄める意味づけもあったようです。

2015-1130693

現在の地図をみても、江戸城の位置は、寛永寺・神田明神のある上野と、増上寺のある浜松町付近を結ぶ直線の真ん中にあります。また、浅草にある浅草寺と、赤坂にある日枝神社を結ぶ直線は、この直線より10度ほど時計回りに角度が振れていますが、同じくその間には皇居(江戸城)が位置しています。

天海が江戸城の鬼門・裏鬼門の鎮護を非常に重視し、これら北東と西南を結ぶ二本のライン上に神社仏閣を設けたのだ、ということがいわれています。

さらに天海は、江戸を鎮護するため、陰陽道以外の方法も利用し、主要な街道と上述のらせん状の堀とが交差する地点の城門と見張所に、平将門を祀った神社や塚を設置したとされています。例えば、将門の首塚は奥州道に通じる大手門側、これは皇居東側、東京駅丸の内口にほど近い三井物産ビルの横にあります。

上述の神田明神には将門の胴を祀られており、これは江戸城の北東に位置し、上州道に通じる位置にあります。また、将門の手を祀る鳥越神社は総武本線、浅草橋駅の北側にありますが、ここは江戸城の東北東の方向にあり、かつて奥州道に通じる浅草橋門という門がありました。

さらに、将門の足を祀るといわれる、九段下の築土神社(津久土八幡神社)、これは江戸城の北側にあり、ここには中山道に通じる牛込門がありました。そして、将門の鎧を祀る鐙神社は甲州道に通じる四谷門(江戸城西側)に、将門の兜を祀る兜神社は東海道に通じる虎ノ門(同西側)に置かれたとされます。

このように、天海は、将門の地霊を、江戸の町と街道との出入口に祀ることで、街道から邪気が入り込むのを防ぐよう狙ったとされています。

こうした施設の配置、および江戸城の工事は、だいたい寛永17年(1640年)ごろまでには終わったようですが、その途中で他の設計者が亡くなっていった中で、天海はなお生きており、江戸の都市計画の初期から完成まで、50年近く関わったようです。

前半生に関する史料がほとんど無いものの、天海はこのように当時としてはかなりの長寿であり、かつ幕府からだけでなく、朝廷からも江戸の基礎を創った人物と目され、大師号を贈られるほどの高僧になりました。高徳な僧に朝廷から勅賜の形で贈られる尊称の一種で、いわば現在の国民栄誉賞のようなものであり、貰った人は多くありません。

このようにエラくなって人には良くありがちな悪い評判もなく、人々に尊敬されていたようです。

その晩年には、罪を受けた者の特赦を願い出ることもしばしばであり、紫衣事件では、大久保忠隣・福島正則・徳川忠長など赦免を願い出ています。紫衣事件というのは、幕府は公家諸法度を定めて朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じたていたのに対し、これを無視して、受け取ったというものです。

紫衣とは、紫色の法衣や袈裟をいい、古くから宗派を問わず高徳の僧・尼、後には武士が朝廷から賜りました。僧・尼の尊さを表す物であると同時に、朝廷にとっては収入源の一つでもあっため、幕府が禁じても跡を絶たず、上述の三人も受けとってしまった、というわけです。

結局上の三人はこの事件を発端として改易、もしくは蟄居となって失脚しましたが、天海はこうした大事件においても幕府との間に立ってモノ申せる高僧とみなされて、頼りにされていたようです。

2015-1130712

ちなみに、この事件以降、こうした大きな事件が起こるたびに、その幕府への特赦を願い出るのは、上野東叡山寛永寺の貫主、という慣習ができたといわれています。上述のとおり、寛永寺の初代住職は天海ですが、その後は、全て宮家出身者または皇子が就任するようになりました。

これは、敵対勢力が京都の天皇を擁して倒幕運動を起こした場合、徳川氏が朝敵とされるのを防ぐため、独自に擁立できる皇統を関東に置いておくという江戸幕府の戦略でした。こうすれば、朝廷対朝敵(幕府)の図式を、単なる朝廷の内部抗争と位置づけることができるからであり、実際に幕末には東武皇帝(東武天皇)の即位として利用しています。

このため、幕府御家人が何かをしでかしたときも、ここに頼み込めば朝廷を利用して何かととりなしをしてもらえる、という風潮ができあがったわけですが、その発端をつくったのが、人徳もあり、寛容な人物であった天海というわけです。

上述の紫衣事件では、「タクアン」にその名を残す、名僧、沢庵宗彭(そうほう)も助けています。沢庵も紫衣事件に連座しましたが、のちに、徳川秀忠の死により大赦令が出され、このとき、天海らの尽力により許されました。沢庵はその後、三代将軍、家光の寵愛を受けて復活し、江戸時代を代表する禅僧として知られるようになります。

沢庵が、家光に近侍するようになるのは、寛永13年(1636年)のことですから、このころ天海は既に100歳を超えていたことなります。それから7年後の寛永20年(1643年)に108歳で没したとされ、その5年後に、朝廷より「慈眼」という大師号を追贈されました。

墓所は栃木県日光市にある輪王寺内、および川越市の喜多院にあります(いずれも慈眼堂と称される、国の重要文化財)。また、大津市坂本にある慈眼堂も天海の廟所とされています(滋賀県指定文化財)。

機知に富んだ人物であり、当意即妙な言動で周囲の人々を感銘させました。そのため様々な逸話がありますが、そのひとつには、天海は天文23年(1554年)に信濃国で行われた川中島の戦いを山の上から見物したというのがあります。

この時、天海は武田信玄と上杉謙信が直に太刀打ちするのを見たといわれ、後に「あれは影武者だった」と語った、といいます。また、天海が名古屋で病気になった際、江戸から医者が向かいましたが、箱根で医者の行列が持つ松明の火が大雨で消えてしまいました。すると無数の狐が現れ、狐火をともして道を照らしたといわれています。

さらにある時、将軍・家光から柿を拝領しましたが、天海はこれを食べると種をていねいに包んで懐に入れました。家光がどうするのかと聞くと「持って帰って植えます」と答えました。「百歳になろうという老人が無駄なことを」と家光がからかうと、「天下を治めようという人がそのように性急ではいけません」と答えました。

数年後、家光に天海から柿が献上されましたが、家光がどこの柿かと聞くと「先年拝領しました柿の種が実をつけました」と答えたといいます。

2015-1150971

このほか、本能寺の変で織田信長を討ち、山崎の戦いの後土民の落ち武者狩りに遭い自刃したとされる明智光秀は、実は天海だとする説があります。天海の墓所のひとつである、日光の輪王寺があるすぐ近くの中禅寺湖の付近の場所が、「明智平」という場所であることが根拠に挙げられることが多いようです。

天海がこの地名を付けたとも言われており、「ここを明智平と名付けよう」と身近な者に言ったところ、「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いた、というウソのような話が、日光の諸寺神社に伝わっているとのことです。

また、日光東照宮陽明門にある随身像の袴や多くの建物に光秀の家紋である桔梗紋がかたどられている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あることを根拠に挙げる人もいるようです。

この説は明治時代の作家、須藤光暉が唱えだしたもので、明智光秀の子孫と称する「明智滝朗」が流布したことから広く知られるようになりました。明智滝朗は、太平洋戦争後、占領軍より追放処分を受け、その無念と無聊を埋めるために光秀研究に没頭したようです。その結果を「光秀行状記」として、1966年に中部経済新聞社から出版しています。

光秀伝承の地をくまなく訪ねて現地取材を行ったそうで、天海僧正について様々な史料の記事をもとに詳しく書いており、両者の筆跡の写真も載せて、同一人物であった可能性に言及しています。ただし、同一人物と決めつけたわけではなく、子孫として「そうあって欲しい」という内容になっていたものが、のちに一人歩きするようになったようです。

天海と光秀が同一人物だと享年は116になり、天海を光秀とするのは年齢的にやや無理がありますが、両者は比較的近い関係にあるという主張が現在も引き続きなされているようです。

テレビ番組で行われた天海と光秀の書状の筆跡鑑定によれば、天海と光秀は別人とされましたが、類似した文字が幾つかあったそうで、2人は親子のような近親者と推定できるといいます。

このことから、本能寺の変で先鋒を務め、山崎の戦いの敗戦後に琵琶湖の湖上を馬で越えて逃亡し、琵琶湖西岸の坂本城で自害したとされた、光秀の従弟とされる明智光春ではないか、という説も出てきました。

このとき光春は実は坂本城の近くの盛安寺(天台真盛宗)で僧衣に着替えて落ち延びたという伝説があり、同じ天台宗で、琵琶湖の東側にある西教寺には、光春の遺品とされる鞍や鎧兜の遺品が伝わっています。

このほか、徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀、徳川家綱の綱は光秀の父の明智光綱、徳川家継の継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測があるほか、光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っている、という事実もあるようです。

さらに、学僧であるはずの南光坊天海が関が原戦屏風に家康本陣に軍師として描かれており、その時着たとされる鎧が残っていること、光秀の家老・斎藤利三の娘・於福(後の春日局)が3代将軍徳川家光の乳母になり、天海に会った時に「お久しぶりです」と声をかけた、という逸話が残っていることなども根拠としてあげられています。

童謡かごめかごめの歌詞の中に、天海と光秀の関係を示す暗号が隠されている、という都市伝説のような話もあります。

これは、この歌の中に出てくる「鶴と亀」とは、日光東照宮御宝塔(御墓所)の側近くに置かれている「鶴」と「亀」のことであり、敦賀(鶴賀)と亀岡を統治していた明智光秀が建てた、とするものです。

また、「鶴(飛ぶ=天)」と「亀(泳ぐ=海)」であり、つまりこの墓は、徳川家康の側近の天海が建造したものであり、これを根拠に彼は明智光秀と同一人物だ、というわけです。

さらに、「鶴と亀が滑った」であり、長寿の象徴の2つが滑るということは、罪人の命運が尽きること(=処刑されること)を表している、というわけで、本来は処刑されるはずだった光秀が長生きをし、最後に果てたことを意味するのだ、といいます。

はてさて、人の想像力というのは、限りないものではあります。

2015-1150996

生没同日

2015-1070647

先日、画家の柳原良平さんが亡くなりました。

トリスウイスキーのラベルでおなじみの、「アンクルトリス」の産みの親として有名ですが、無類の船好きとしても知られ、日本では知られていない船も含め、多数の船舶をイラストつきの情報で紹介しました。

1971年、至誠堂より「柳原良平の船の本を出版。同シリーズは第4冊まで出版され、これらの書籍は、現代日本における船舶趣味・クルーズ趣味などへの源流となりました。過去には、「帆船日本丸記念財団」の理事も務めていたそうです。

その海好きを反映してか、横浜港にもほど近い横浜市中区に在住で、亡くなったのも横浜市内の病院でした。

横浜市の再開発・埋立地区である「みなとみらい21」という街の名称は一般公募により選ばれたものですが、市の一次選考では落選、二次選考委員であった柳原さんが「横浜といえば港町である」として強く推したことで再度発掘され、最終決選投票で選出されるに至ったという逸話があります。

が、生まれたのは東京で、学校は京都の市立美術大学。卒業後、海運会社専属の画家を目指しましたが、日本にはそのような職がなく、壽屋(現・サントリー)に入社。同社宣伝部で開高健、山口瞳とともにトリスウイスキーのCMを制作しました。

このとき描いたCMキャラクターのアンクルトリスが人気となり毎日産業デザイン賞、電通賞などを受賞。その後、サントリーが制作した洋酒天国に掲載したイラストも人気を呼びました。のちに、作家となった山口瞳氏の著書のカバー絵や挿絵の多くを担当したほか、山口の小説を映画化した「江分利満氏の優雅な生活」でもアニメーションを担当しました。

1959年のサントリー退社後は、船や港をテーマにした作品や文章を数多く発表しましたが、その数年後からは漫画家としても活躍し、読売新聞の夕刊で1962年からほぼ4年間、4コマ漫画「今日も一日」を連載しました。このほか、公明党の機関紙・公明新聞にも4コマ漫画「良ちゃん」を連載していました。

しかし、柳原さんといえば、やはり船のイラスト、というイメージが強く、数々の船の絵を世に送ったことから、商船三井、佐渡汽船、太平洋フェリー、東海汽船などなど日本を代表するような海運各社から名誉船長の称号を贈られています。

特に東海汽船では高速船「アルバトロス」のデザインを担当し、さらに超高速ジェット船「セブンアイランド(愛・虹・夢)」の命名並びにデザインを担当しています。また、商船三井では同社のコンテナの「ありげーたー」マークをデザインしており、同社のWEBサイトのトップページにも柳原のイラストが使用されています。

亡くなったのは8月17日で、実は「生没同日」です。生まれた日と亡くなった日が同じということで、ときどきこういう人がいます。

多くの人にとって、誕生日は1年の中でも特別な日であり、そんな日に死ねるというのは本望だ、と思う人も多いでしょう。ところが、死因・性別に関わらず、実は死ぬ確率が高い日だという、調査結果があるようです。

調査を行ったのはスイスのチューリッヒ大学の研究者で、40年分のスイス国内約240万人のデータから、この結果が導きだされました。それによれば、「誕生日では他の日に比べて死亡率が13.8%も高かったそうで、男女間格差はなかったようです。なお、1歳未満は解析対象から除外されていました。

また、年齢別の解析からは男女とも60歳以上でのみ誕生日での死亡率が高くなる(11~18%上昇)が見られたといいます。

2015-1070675

別の統計データでは、生没同日の人の死因を調べたところ、女性では脳卒中が一番多く、男性は自殺・事故が一番多いのだそうで、その割合は、誕生日の4日前から上がっていくとのことです。

有名な、アメリカのオーラリーディング・ヒーラー、レバナ・シェル・ブドラ氏(女性)によれば、たいていの人は、誕生日の前後1週間ほどはちょっとバランスを崩した感じになるそうです。

自分でも自覚している人が多いようですが、周囲の人々を観察しているととくにそれは分かりやすいそうで、彼女によれば、これは、人が「新しい自分」になるためにシフトしなければならない期間だからだそうです。

つまり、スピリチュアル的にみれば、誕生日は魂レベルでの自分自身の変わり目だということであり、意識的にしろ、無意識にしろ、自分自身が成長、変容するために不安定になるようです。

上の統計では、年齢が上のほうが誕生日に近いときに死ぬ確率が高くなるといいますから、年を取ればとるほど、そうした不安定さは増す、ということなのでしょうか。

またスピリチュアルにおいても、「冬至」や「夏至」といった暦の上でも大きな季節変化がある時期には、魂も大きくゆさぶられる、ということがいわれているようです。今年の「秋分の日」は9月23日ですから、そのころじっくりと自分を観察してみて、大きな変化があるかどうか確認してみてはいかがでしょうか。

ところで、柳原さんと同じように生没同日だった人にどんな人がいるだろうか調べてみました。すると、有名なところでは、古くは、坂本竜馬、加藤清正、ダヴィンチ、ミケランジェロとともにルネサンスを代表する画家のラファエロ・サンティなどがおり、近代では女優のイングリッド・バーグマンもそうです。

ただし、坂本竜馬と加藤清正の生没日は旧暦のものであり、現在の暦の上では微妙にずれています。竜馬は、天保6年11月15日生まれで、慶応3年の同日に暗殺されて死んでいますが、現行のグレゴリオ暦では、1836年1月3日生まれで、死没は、1867年12月10日になります。

また、清正も永禄5年6月24日生まれで、死没は慶長16年の同日ですが、現行暦では、1562年7月25日生まれの、1611年8月2日没です。従って、上述のように誕生日の一週間前くらいから影響が出てくる、という説には合致しないことになります。

ラファエロについては、現行暦通りですから、これに該当します。では、最近の日本人でグレゴリオ暦によっても生没同日の人にどんな人がいるかといえば、上述の柳原さん以外で有名なのは、例えば、映画監督の小津安二郎(1903年12月12日→1963年同日)、俳優の船越英二(1923年3月17日→2007年同日)、などがいます。

小津監督は癌で、船越さんは、脳梗塞で倒れ、2日後に死去しており、いずれも病没であることから、上の説は成り立ちそうです。

2015-1070682

では、自殺はどうかといえば、その当時の政府が社会主義者、無政府主義者を調査摘発した大逆事件で摘発された、高木顕明という僧侶が、1914年6月24日に50歳で亡くなっており、これは秋田刑務所での獄中自殺でした。このほか、今年の7月29日に50歳で亡くなった、ミュージカル演出家の吉川徹さんも、自殺でした。

しかし、日本の有名人の中で、その他自殺で生没同日という例はあまりなく、ほかには、2008年9月29日に58歳で命を絶った、ホッカイドウ競馬の元調教師(元騎手)の佐々木一夫という人がいるくらいです。

また、外国人でも自殺で亡くなった人というのはほとんど見当たらず、事故死はそれなりにあるものの、多くは寿命を全うしての病没が多いようです。従って、必ずしも誕生日になるとナーバスになり、死にたくなるか、というとそうではなく、むしろ体のほうがその死期を悟り、それに合わせて準備をし始めるのではないか、というのが私の見解です。

ましてや坂本竜馬のように暗殺によって死ぬ、というのはまったくもって自分の意思とは関係ないところの死であり、誕生日ナーバス説の適用にはなりません。

ただ、事故はどうかといえば、これはどこか自分に油断があったからそうなったのだ、と考えることもでき、その油断は体調の不調から来る、ということはいえるかもしれません。それなら、暗殺による死もそれを予兆できたかもしれないのに、やはり油断がそうさせたのだ、という説もありえそうです。

とはいえ、人によってはこうした突然の死もあるでしょうし、長らく患った末の死もありで、人さまざまです。いずれにせよ、生まれた日と同じ日にあの世に行く、というのは、きっと人それぞれの理由があってのことであり、何等かの意味があってのことなのでしょう。

自分を振り返ってみるに、やはり誕生日に死ねる、というのはある種の達成感のようなものを感じるのではないか、と思います。毎日一生懸命生きて、次の年の誕生日を迎えたときには、やった!なんとか一年を切り抜けたぞ、と思うことも多く、そうした節目の日にみまかるのはやはり本望だと思えるのではないでしょうか。

韓国において、「韓国孤児の母」と呼ばれて崇敬されている日本人、「田内千鶴子」もまた自分の誕生日にそれまでの人生を満足し、死を迎えた一人だったでしょう。

1938年、日本統治時代の朝鮮の全羅南道木浦市(ぜんらなんどうモッポ)で、キリスト教伝道師尹致浩(ユン・チホ)と結婚し、夫と共に、孤児救済のために「共生園」という孤児院で働くようになりました。朝鮮戦争で夫が行方不明になった後も孤児救済のために尽くし、3000人の孤児を守り育て、1963年に大韓民国文化勲章国民賞を受賞しました。

1968年(昭和43年)10月31日の誕生日に56歳で亡くなりましたが、このとき木浦市で行われた市民葬では、3万人が出席したといいます。

2015-1070654

千鶴子は、1912年(大正元年)高知県高知市若松で生まれました。

彼女が母に連れられ、郷里の高地を後にして当時の日本の植民地、全羅南道の木浦に渡ったのは7歳のときでした。千鶴子の父・徳治は朝鮮総督府に勤務する公務員でしたが、彼女が女学校を卒業し、木浦のキリスト教会で奉仕活動を始めた18歳のとき病死し、残された母は助産婦をしながら、千鶴子を育てました。

その後、20歳で木浦にある女子学校の音楽教師に就任。24歳のとき、音楽指導の恩師に呼ばれ、「生きがいのある仕事をしないか」と言われ、そのとき紹介されたのが、孤児院の共生園での仕事でした。

しかし、訪れてみた共生園は想像をはるかに超えるほどみすぼらしい施設でした。孤児院とは名ばかりで、壁もふすまもない建物の中に、30畳ほどの部屋が一つあるだけで、そこに50人ほどの子供がおり、園長がひとりで皆の世話をしていました。

この園長こそが尹致浩であり、孤児院の周りに住む人々からは「乞食大将」と呼ばれていたといいます。ここで千鶴子は無償で働くことにし、子供たちに歌を教え始めました。

2年後、二人は結婚しました。周囲の日本人たちは、韓国人と結婚した彼女に嫌悪感をあらわにしましたが、本人は結婚とは人と人がするもの、あの世では日本人も韓国人も関係ない、とまったく意に介さなかったといいます。1940年には、長女 清美(ユン・チュンミ)が誕生し、2年後の42年には、長男 基(ユン・キ)が誕生し、賑やかになりました。

しかし、電気もガスもない中、多くの孤児たちを支える毎日は、一般世間で言う新婚生活とはおよそ似つかわないものでした。子供たちは、裸足で施設を出入りし、夜は雑魚寝状態。多くは貧しい家の出であることもあり、躾の行き届かない者も多く、まずは顔や手の洗い方から教えなくてならず、食事前の挨拶もままならない状態でした。

やがて終戦。多くの日本人は帰国しましたが、韓国人と結婚した千鶴子は悩んだ末、残留を決めます。しかし、韓国では、日本の敗戦によって日本人と朝鮮人の立場が逆転しており、それまで鬱積していた民族感情が一気に吹き出していました。このため、彼女が日本人であることがわかると、彼等は彼女に対して敵意をむき出しにしました。

そうした敵意はやがて弾圧に変わりました。共生園がある村でも、村人たちが密かに集まり、彼等に危害を加える計画を練り始めましたが、そんな中、不安に震える千鶴子を見た子供たちは「お母さんが日本人だからといって、僕たちのお母さんには違いない。絶対僕たちが守るから。」と励ましてくれました。

やがて手に石や棒を持って施設の前で警護をする園児も現れ、実際に村人がやってくると、「僕たちのお父さんとお母さんに手を出すな、帰れ!」と楯になって二人を守りました。千鶴子はそんな子供たちを抱きしめながら、この子供たちのために一生を捧げる決意を新たにしたと言います。

2015-1000796

そんななか、1947年には次女 香美(ユン・ヒャンミ)が、49年には次男 栄華 (ユン・ヨンワ)が出生しました。やがて1950年6月には朝鮮動乱が勃発。

南北の軍事バランスは、ソ連および1949年に建国されたばかりの隣国中華人民共和国の支援を受けた北側が優勢で、武力による朝鮮半島の統一支配を目指す北朝鮮は1950年6月、国境の38度線を越え軍事侵攻に踏み切りました。

侵攻を受けた韓国側には進駐していたアメリカ軍を中心に、イギリスやフィリピン、オーストラリア、ベルギーやタイ王国などの国連加盟国で構成された国連軍が参戦し、一方の北朝鮮側には中国人民義勇軍(実態は人民解放軍)が加わり、直接参戦しないソ連は武器調達や訓練などのかたちで支援し、アメリカとソ連による代理戦争の様相を呈しました。

数年のうちには、南進してきた共産軍が韓国全土を制圧するようになり、やがて共産軍は木浦市内にも入ってくるようになりました。不穏な空気が漂いはじめましたが、そんな中、共産党寄りの村人が中心になって集まり、人民裁判を始めました。

やり玉に挙がったのが伊と千鶴子の二人で、会議の結果、二人は人民から金銭を搾取して園の運営を続けている、とのでっち上げの容疑が持ち上がり、裁判では二人に反逆者のレッテルが張られました。また、日本人を妻としている伊は、親日反逆者だとして処刑すべきだとする決議もなされました。

しかし、役場に勤める一人の役人の弁護により、夫の伊だけは人民委員長を承諾すればその罪を許そうということになりました。伊は子どもたちに危害を加えないことを条件に、それを引き受けますが、その最初の仕事は共産党の敵、日本人である妻を裁くことでした。

委員長に就任した伊は自らその裁判官としての弁論を始め、その中で、「私は日本人でありながら、私と結婚して献身的に孤児たちのために尽してきた彼女を尊敬している。もし彼女が日本人であるという理由だけで死刑にするのであれば、彼女を殺す前にまず私に死刑を与えてほしい。」と締めくくりました。

この演説には村人の誰もが感動し、ぱらぱらという拍手が起こるとすぐにそれは歓声を伴った大拍手に変わっていきました。こうして共生園は安泰のまま経営を続けることが許されました。さらにその2カ月後の1953年7月27日には、北と南で休戦協定が結ばれ、共産軍は北へ退却していきました。

ところが、人民委員長になった伊は、その後、大韓民国政府が樹立すると、共産軍に協力したというスパイ容疑で逮捕されてしまいます。3ヶ月ほど拘束されましたが、その後知り合いの軍人の尽力により解放されます。しかし、拘置所を出た2日後に、光州市(全羅街道)に食糧調達に行く、といって園を出たまま、行方不明になってしまいました。

2015-1070679

このころ、長引いた共産軍との戦いの余波で木浦市内には食べものがほとんど流通しておらず、園の食糧事情も最悪でした。このころまでには戦争の影響もあって園児たちは80人にまで膨れあがっており、食べ盛りの彼等を養うことは並大抵ではありませんでした。

伊園長はそれを何とかしようと出かけたのでしたが、彼を失った後には千鶴子に彼等全員の運命が託されました。泣きたい気持ちを抑え、孤児たちのために町へ出ては、必死に物乞いをしましたが、すべての子供たちを食べさせ、支えるには限界があります。

悩んだ末、彼女は一つの決断をします。それは、ある程度年長になった子供たちには自活を求める、ということでした。子供たちを講堂に集め、10歳になった子供たちには、物乞いでもガム売りでも、なんでもいいから外へ出て、自分が行き延びる努力をしろ、と諭すように呼びかけました。

このとき園児たちは泣きながら千鶴子の元へ集まり、千鶴子もまた彼等を抱きよせて共に泣いたといい、このとき講堂の床には溜まった涙で水たまりができていたといいます。

その日から、千鶴子もまた子供たちとリヤカーを引いて町に出るようになり、残飯でも道草でも食べられものは何でも集めて回りました。ときには物乞いをし、子供たちを叱咤して四方に走らせ、なりふりかまわず生きるための糧を探しました。

こうして1953年は暮れていき、新しい年が明けました。その正月の朝、思いがけないことがありました。年長の子供たちが、どこからか、ほかほかのもち米を取り出し、幼い子供たちに配り始めたではありませんか。

どこからか盗んできたのかと驚いた千鶴子が彼等を問いただすと、その米は、実は彼らが年末までに食べるものも食べずに働いて得た金で買ったものでした。千鶴子はのちに、「あのごはんの味を私は一生忘れられない、と語っていたといいます。

その後も苦しい生活は続きました。夫が行方不明になって以来、園を預かり多くの子供たちを育てるというあまりの重圧に、なんどか逃げ出してしまいたいと思い、また子供たちを伴って死を選ぼうと考えたことも一度や二度ではありませんでした。

2015-1000818

しかし、そんなときいつも彼女を支えてくれたのが子供たちでした。嫌な顔もせずにいつものようにリヤカーを引いて町中を漁り回り、ときには頭を地面に押し付けて物乞いをし、海に出かけては釣りをして帰ってくる彼等は次第にたくましく成長していきました。

彼女はまた、夫の帰りを信じていました。苦しい生活に押しつぶされそうになる心情を支えていたのは、彼がいつか帰ってくる、という奇蹟であり、周囲の子供たちにも常々、「園長が帰ってくるまで辛抱しようね」と呼びかけていました。

ときには籠一杯の魚介類を持ち帰り、明るい笑顔で「お母さん、これでしばらくはごはんの心配をしなくて済むね」と言う彼等の顔を見るたびに、彼女は「私はひとりじゃない、彼等と共に生きている」と実感できたといいます。

1961年には、乳児院の認可を政府から受けることもでき、少ないながらも補助金も出るようになりました。また、園児の中には成長して働きに出るようになるものもあり、彼等の仕送りによる収入もあって、少しずつ暮らし向きも上向いてきました。しかし、出ていくものもあれば入ってくる孤児もありで、施設は相変わらず貧しいままでした。

やがて月日は流れ、夫の伊が失踪してから12年の年月が流れました。1963年8月15日、田内千鶴子は、韓国政府より「文化勳章国民章」を受章しました。「田内千鶴子は私たちの子供を守って育ててくれた人類愛の人だから」という朴正煕大統領の強い後押しがあっての受賞であり、無論日本人初の文化勲章の受賞でした。

そのお祝いの席で千鶴子は、「夫が帰る時までと思い、園を守ってきただけ。苦労は子供たちがしました」と、答えています。

翌年の1964年には、「共生園水仙花合唱団」が創立されました。音楽教師だった千鶴子のアイデアで発足したもので、以後、共生園ではいつも、子どもたちの元気な歌声が響くようになりました。

しかし1965年、彼女は病に倒れます。肺癌でした。摘出手術が必要となりましたが、このときも園の出身者が彼女を助けました。苦しい生活の中から金を持ち寄り、彼女の手術代に当てました。

高熱に苦しみ、医者から入院を勧められましたが、耳を貸そうとはせず、以後3年間を園で過ごしました。たとえ金があっても、共生園の子供たちの生活費や教育費に支障がでてはならない、との考えからでした。

この年、彼女は 「第1回 木浦市 市民賞」を受賞し、さらに2年後の1967年、母国日本の政府からも「紫綬褒章」が彼女に与えられました。この間、手術も受け、しばらくは良好だったものの、やがて癌が再発します。園児たちに頼むからと諭されてついに入院しましたが、日に日に衰弱し、視力障害も発生しました。

1968年10月末に医者に頼みこんで共生園へ帰宅。せめて子供たちに囲まれて死にたいという希望からでした。

千鶴子は、病状が悪化するにつれ日本語を喋るようになり、死の床で、長男の尹基に「梅干しが食べたい」と言ったといいます。キムチを食べ、ハングルを使って生きてきた母の最後の言葉に尹基は大きなショックを受けたといい、このことが後に、「キムチと梅干が食べられる」在日韓国老人ホ-ムを作るきっかけとなりました。

10月31日。この日は彼女の56歳の誕生日であり、園内はそのお祝いの準備で賑わっていたといいます。園内の講堂にベッドのまま運び込まれた千鶴子に対し、病が治るようにとの祈念の礼拝がなされることになりました。が、牧師が眠り続ける彼女の頭に手を置いたとき、まるでその時を待っていたかのように、彼女の息は止まったといいます。

11月2日には、木浦死で市民葬が営まれました。彼女が入った棺にはおよそ20人の園出身者たちがへばりつくように寄り添い、その後霊柩車に乗せられ、長らく親しんだ共生園を後にしました。葬儀会場となった駅前広場には、およそ3万人の人々で埋め尽くされたといいます。

2015-1070686

56歳で亡くなるまでに3千名余りの韓国孤児を育て上げ、その民族を越えた人間愛は、その後「韓国孤児の母」と敬われるようになりました。その後彼女の遺志を継ぎ、共生福祉財団が発足。現在、韓国では、共生園系列の9施設において、約450名の子どもや障害者が温かいケアの下で生活を送っています。

孤児たちを助け続けたいという千鶴子の思いはまた、長男の尹基(ユン・キ)に引き継がれ、日本では彼が理事長となって在日韓国老人ホームを作る会、社会福祉法人「こころの家族」が発足。祖国を離れたお年寄りにふるさとのぬくもりを感じせる老人ホームを建設するという、画期的な試みは今も続けられています。

今年3月には港区赤坂のサントリーホール大ホールで、韓国出身のピアニスト・白建宇(クンウー・パイク)のピアノリサイタルも行われ、リサイタルには尹基も参加しました。日韓国交正常化50周年を記念する、という意味もあるリサイタルでもありました。

田内千鶴子の生涯は映画にもなり、1995年に「愛の黙示録」として公開され、その名を広く知られることになりました。また、千鶴子の生まれ故郷である高知県にはその偉業を称える記念碑が建てられました。

日本で生まれ、韓国で亡くなったため、生没同日ではありますが、同じ国で亡くなる、ということは実現しなかったことになります。その死に瀕しては、さぞかし日本への郷愁の思いに駆られたことと想像されます。

生没同日で没した人の多くも生まれ育った土地で死ぬ、というケースは少ないと思いますが、誕生日に死に、しかもそこが生まれた場所であったとするならば、原点回帰を果たせたという意味ではパーフェクトです。最高の形といえるかもしれません。

私自身もまだ生まれた愛媛の生地・大洲を見ていません。誕生日に死ねるかどうかはわかりませんが、せめてその前に一度はここを見てみたいと思います。

みなさんはいかがでしょうか。もうすぐ誕生日を迎えるという方、原点確認の意味で、生まれ育った場所をもう一度見ておいてはいかがでしょうか?

2015-1070706

世紀の恋……の行方

2015-2015

私の郷里、山口の下関に、「藤原義江記念館」というのがあります。

と、いいながら一度も行ったことがありません。が、下関にある、ということは前々から知っていて、いったいどういう人物だったのだろう、と先日ふと思い出し調べてみると、戦前から戦後にかけて活躍した世界的オペラ歌手だそうです。

あのド田舎の山口からオペラ歌手?と意外なかんじがしたのですが、調べてみると、生まれたのは下関ではなく大阪で、その後東京へ移り、学校教育もここで受けたようです。

生年は、1898年(明治31年)。父母は、下関市で「ホーム・リンガー商会」を営んでいたスコットランド人の貿易商、ネール・ブロディ・リードと、同地で活動していた琵琶芸者、坂田キクです。リードは28歳、キクは23歳のときの子です。

この大阪での出生地は、母キクの実家であったようです。詳しい事情はよくわかりませんが、このとき2人の間は既に壊れており、義江が生まれる前に既に離婚していたようです。この離婚に際して、キクはリードから手切れ金あるいは認知料の類をまったく受け取らなかったといいますから、高潔な性格だったのでしょう。

その後、芸者を続けながら義江を育てますが、巡業が多かったことから九州各地を転々としていました。義江はハーフということになりますが、父がスコットランド人だったことから日本国籍はありませんでした。

しかし、7歳のころ、母が世話になっていた、現在の大分県杵築市の芸者置屋業、藤原徳三郎に認知してもらうことで「藤原」という姓を得、ここではじめて日本国籍を得るところとなりました。そして、通常より1年遅れで杵築尋常小学校に入学。その後、キクは、大阪市北新地へ移釣ることになり、義江も母につき従いました。

大阪では祖父の家に寄宿しつつ、学校にも通わず、給仕、丁稚などの薄給仕事に明け暮れましたが、時代はまだ明治であり、一見混血児とわかる容姿は周囲の人々から、奇異の目を浴びせられることも少なくなく、彼はその逆境を、耐えて生きました。

ところが、義江が11歳の時、祖父の家が火事で焼けてしまいます。母に頼ることもできず、ついに思い余った義江は、下関のリードを頼ることにします。はじめて対面した父リードは、思いのほか慈悲深い人物であり、この息子に養育費を出すことを申し出ました。

こうして、義江は東京の暁星小学校に転入。この小学校は今も麹町にあり、1888年に開校した私立校ですが、現在もそうですが、全国でも珍しい、男子児童のみからなる小学校で、創立以来、多くの著名な卒業生を輩出し、全国屈指のフランス系カトリックの名門として知られています。

従って、ここに入れたということはこの父親はそれなりに裕福だったことがうかがえます。リードはこのころ、自らがホーム・リンガー商会を運営することは止め、東京にあった「瓜生商会」という商社の社員になっていましたが、やり手だったのでしょう。

この暁星小へは、社長の瓜生寅の好意でここから通うことになりますが、その後、中学に進むと、明治学院中等部、早稲田実業学校、京北中学など私立学校を転々としました。

同じ学校に落着けなかったのは素行不良が原因でしたが、その理由としては、この歳まで未就学だったことと、両親の愛情が欠落していたことなどが考えられます。親から与えられた金はすぐに遊興に使い込む、悪友をたむろして町を練り歩く、女性関係でも奔放だったようで、このためどこの学校へ移っても不良生徒とみなされました。

後の彼の人生における金銭浪費癖と、乱れた女性遍歴は、このころから既に育まれていたわけです。

2015-2032

ところが、そんな彼にも転機が訪れます。このころ、人気女優・松井須磨子や大衆演劇の人気役者・沢田正二郎らが演じる芸術座の演劇が大人気となり、ツルゲーネフの「その前夜(1916年)や、1917年(大正6年)のトルストイの「生ける屍」は、連日の公演が満席になるなど、好評を博していました。

また、トルストイの「復活」の劇中歌として松井の歌う「カチューシャの唄」のレコードは2万枚の売り上げを記録しました。蓄音機の普及が進んでおらず数千枚売れればヒットという時代にあって、これはスゴイことです。

18歳になった義江もまた、この芸術座の公演を見てすっかりと魅せられ、自らも役者になろうと志を立てます。折から新国劇を創始した沢田に入団を認められ、「戸山英二郎」なる芸名を沢田に与えられた彼は、さっそく端役を務めるようになりました。

「戸山英二郎」という芸名は、姓の戸山のほうは当時住んでいた「戸山が原(現新宿区内)」から、名の「英」は父リードの故国イギリス(スコットランド)から取ったものでした。

しかし新国劇の演目はいわゆるチャンバラ物であり、ハーフである彼が持つその西洋風の容貌にはぴったりの役は回ってこず、「戸山英二郎」に活躍の場はありませんでした。新国劇が、洋モノを公演するようになるのは、1926年(大正15年)の白野弁十郎(シラノ・デ・ベルジュラックの翻案)以降であり、この頃の彼には出番はありませんでした。

そこで義江はさらに転身を図ります。ちょうどこのころ、イタリアの、ジョヴァンニ・ヴィットーリオ・ローシーが擁するローシー歌劇団の日本公演を見た義江は、この「オペラ」という日本ではまだ新ジャンルと目されていた分野に強く惹かれました。

悩んだ末、沢田に詫びをいれた義江は、新国劇を抜け、浅草の弱小オペラ一座「アサヒ歌劇団」に入団。これは、浅草三友館で旗揚げし、日本もの歌劇を売り物として、その後の「浅草オペラ」の全盛時代を作り上げる草分け的な歌劇団でした。のちに東京少女歌劇団と改称し、その後名古屋を本拠地に活動ましたが、昭和に入ってから消滅したようです。

「少女歌劇」が売りでしたが、この間には男性も加わったこともあり、藤原義江のオペラ初舞台もここでした。江利チエミの母で女優の谷崎歳子などもここで活躍していました。

1918年(大正7年)には、同じ浅草オペラで人気を博していた根岸歌劇団(金龍館)に移籍。その後の「浅草オペラ」の黄金期における立役者になっていきます。関東大震災までの大正年間東京の浅草で上演され、一大ブームを起こしたオペラで、第一次世界大戦後の好況を背景に、国内におけるオペラ及び西洋音楽の大衆化に大きな役割を果たしました。

この根岸歌劇団は、同じビル内に軽演劇の常磐座、オペラの金龍館、映画の東京倶楽部の3つを運営しており、3館共通入場券という形式が一般に受け、このころ帝国劇場などでした上演されておらず、高級な芸術とみなされていたオペラの大衆化を実現したことで知られています。

しかし、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で金龍館もろとも浅草が廃墟になったため、翌年に解散。出身者がつぎつぎ劇団を立ち上げましたが、往時のようにはうまくいかず、1925年、再開された浅草劇場での「オペラの怪人」を最後に姿を消し、と当時に浅草オペラも過去のものとなりました。

義江は音楽教育を受けておらず、読譜もままなりませんでしたが、日本人離れした容貌と舞台栄えする大きな体躯もあり、また一座のプリマ・ドンナ的存在、6歳年上(実際は3歳年上)の安藤文子の溺愛も得て常に引き立てられていきました。

数々の舞台を経て、また安藤の熱心な指導もあり藤原の歌唱力は急速に向上しましたが、この安藤はやがて義江の最初の戸籍上の妻ともなりました。安藤文子は1895(明治28)年、東京府東京市生まれで、かつて文京区小石川にあった淑徳高等女学校(現淑徳中・高等学校)を卒業後、東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)声楽家を修了。

2015-2163

その後上述のイタリア人演出家ローシー氏に師事し、赤坂ローヤル館にて初舞台を踏みました。その後は浅草の東京歌劇座に参加し、七声歌劇団・新星歌劇団を経て、根岸歌劇団の歌姫として上演先の浅草・金龍館で人気を博しました。

この頃は「浅草オペラ」の黄金期であり、彼女の当時の人気ぶりはすごかったようです。「ペラゴロ」と呼ばれる浅草オペラの熱狂的なファンの支持を受け、当時の様々なオペラ関連の書評も絶賛したといいます。また、大正12年に発行された「今古大番付」では、「歌劇俳優大番付」における「小結」とされており、のちに「横綱」にもなっています。

しかし、その後、関東大震災で浅草オペラが衰退して以降は、表舞台からかき消すよう姿を消しており、「伝説のソプラノ歌手」の名を遺したまま、いつどこで亡くなったかもわかっていないようです。

安藤は義江より3歳年上の姉さん女房だったようで、傍目にも美男美女のこの二人は周囲の羨望の的でした。ところが入籍して間もないころ、義江は知人のすすめで彼女を残し、ヨーロッパに単身留学してしまいます。

義江はその3年後にいったん帰国しますが、その年の11月頃に夫婦関係は解消されていたようです。また二人の間には男児(洋太郎)を設けましたが、早世してしまっています。

こうして、義江は1920年(大正9年)3月、マルセイユ経由でイタリア・ミラノへ声楽研鑽に旅立ちました。学資金はちょうどこの頃門司市で没した父リードの巨額の遺産であり、妊娠した妻・文子を残しての出発でした。

ミラノで初めて本場のオペラ公演を聴いた義江は、浅草オペラとの懸隔を実感し、その後自らの喉を鍛えるべく研鑽します。しかし、生来の浪費癖は治まらず資金は枯渇したため、このころ世界的なオペラ歌手とされていた三浦環(たまき)の紹介で声楽教師につくこともありました。

三浦は、プッチーニの「蝶々夫人」で一世を風靡したオペラ歌手で、主人公の「蝶々さん」と重ね合わされて、国際的に有名でした。1915年の英国デビューの成功を受けて、ヨーロッパ各国の歌劇場を客演しており、義江とはこのときに知り合ったようです。

義江はその三浦の哨戒を受けて1921年(大正10年)頃にはロンドンに渡り、当地で知り合った吉田茂(当時は駐英一等書記官)の引き立てもあり、日本歌唱のリサイタルを開くなどするようになりました。義江が日英混血であるということから両国親善の象徴的存在に仕立てるのが吉田の狙いだったとの説もあります。

2015-2175

ロンドンでは同じく滞在していた作家・島田清次郎と悪友だったといいます。島田は、石川県石川郡美川町(現白山市)の生まれで、義江より一つ上。金沢商業学校本科を校内弁論大会で校長を非難し停学処分となった上に、学費未納で退学となり、のちに上京。

黒岩涙香の新聞社「萬朝報(よろずちょうほう)」の懸賞小説に当選すると、めきめきと作家としての才能を発揮し、1918年夏から書き始めた自伝的小説「地上」が菊池寛に高く評価されました。

「地上」はその後5部作まで書かれましたが、いずれも大ベストセラーなり、重版につぐ重版と、巨万の印税が入るようになって島田の身なりも生活も豪奢となり、月々千円を使ったといわれるほどの「大正成金」ぶりでした。

この成功に気をよくした島田は「精神界の帝王」と自らを評しましたが、日本だけでなく、朝鮮、中国、海外からの熱烈な読者も多く、実力者でもありました。その後、社会主義運動・理想社会思想に傾倒し、ソビエト的な理想社会主義を掲げ全国をアジテーションして周る活動を行うようになります。

しかし、社会改革という高邁な理想を掲げる反面、現実面での私生活は荒れており、放縦、放恣な生活や奔放な女性関係に人々は眉をひそめ、虚栄、傲慢さが関係者から嫌われるようになると、次第に文壇で孤立していきました。そんな中、ある出版社からの勧めで船でアメリカ、ヨーロッパをまわる旅に出発し、ロンドンで義江に出会ったのでした。

島田は、そのロンドンで開かれた第一回国際ペンクラブ大会に出席し、初の日本人会員に推されました。詳しい記録は残っていませんが、その財力にモノを言わせて義江とはこのロンドン滞在中に豪遊したことは想像に難くなく、金と女にだらしない、という共通点を持つこの二人はなるほど似たもの同士でした。

島田はその後、海軍少将舟木錬太郎の娘で、文学者舟木重雄、舟木重信の妹(のちに中野要子の名でプロレタリア演劇女優)の婦女子誘拐、監禁・陵辱・強姦を行ったとされて起訴されました。この事件は大きくマスコミに取り上げられ、裁判での多額の弁護料の支払も重なり、物心ともに一気に凋落することとなり、文壇から姿を消しました。

その後も奇行が多く、巣鴨駅付近、白山通り路上を血まみれの浴衣姿で知人宅へ向かっていたところを警察に検束され、警視庁による精神鑑定の結果、統合失調症と診断され、巣鴨庚申塚の保養院に収容されました。その後、結核と栄養失調に苦しみながらも執筆を継続。1930年(昭和5年)に肺結核で死去しました。享年31の若さでした。

一方、ロンドン残った義江も、日本人、欧州人を問わず異性関係のスキャンダルは絶えず、やがて、「日本人会から追放」される形でニューヨークへ流れました。米国でも一定の人気を博しましたが、朝日新聞社の原田譲治により、「吾等のテナー・藤原義江」との記事が書かれ、その朝日新聞の肝いりで凱旋公演を行うために1923年(大正12年)帰国します。

同年3月にシアトルを出航した乗船の「加賀丸」が洋上にある間、朝日新聞はこの「吾等のテナー・藤原義江」なる全9回もの虚実織り交ぜた記事を連載しました。そのおかげもあり、4月に義江を乗せた加賀丸が接岸した横浜埠頭は大勢のファンであふれかえっていました。

5月には、神田YMCAで東京朝日新聞社主催による「帰朝第1回独唱会」を開催して大成功を納めます。このころから、「吾等のテナー」の名が定着するようになり、各地でリサイタルを行い好評を博しますが、ちょうどこのころ、東京・京橋の開業医、宮下左右輔の妻、宮下アキとのスキャンダルが大事に発展。

このアキは、福澤諭吉の実姉・婉の長男で、三井財閥の番頭、中上川(なかみがわ)彦次郎と妾・つねとの間の子でした。妾の子とはいえ、女子学習院出身のお嬢様であり、16歳のとき、一度の見合いもなく15歳年上の医博・宮下左右輔(みやした・そうすけ)と強制的に結婚させられていました。

2015-2182

こともあろうに義江はこの名家の医学博士夫人と懇ろになったわけですが、アキとの関係が新聞にスッパ抜かれてスキャンダルになると、その騒ぎを逃れようとして、1930年までの間に外遊、帰国を繰り返しました。

ハワイ、アメリカ西海岸など日系人の多い土地のリサイタルで稼いでは、アキからの情熱的な手紙を受け帰国する、といった具合であり、この間、1928年にアキが離婚した上、義江を追ってイタリアのミラノに移住する、といったこともありました。当時、義江との恋愛は「世紀の恋」と謳われました。

この間、1926年(大正15年/昭和元年)に義江は、ニューヨークでビクター社初の日本人「赤盤」歌手として吹き込みを行っています。

赤盤とは、静電気防止剤を混入した赤いカラーSPレコードのことで、著名演奏家の録音を特別扱いして通常の黒色ラベルではなく赤茶色のラベルで特別盤としていたものです。販売価格も高めに設定されており、これはLPレコード発売後も継続され、”Red Seal” の愛称で親しまれました。

1930年(昭和5年)に結婚。「藤原あき」となり、義江との間には一子(男子・義昭)をもうけました。この年、義江は、ヴェルディ「椿姫」のアルフレード役で、かねてよりの憧れであった本格的なオペラ出演をはじめて果たしました。このときの指揮者は、山田耕作で、このオペラは、この当時としては異例な原語上演だったようです。

そしてその直後、藤原は初めて真剣な音楽研鑽のために再渡航します。今回は新妻・あきも伴っての留学であり、1931年からはイタリアの地方小歌劇場を転々とし、着実にレパートリー拡大を行いました。また妻・あきもこうした地方公演について回り、化粧、衣装、道具など様々な舞台裏の約束事を身に付けました。

これが後の「藤原歌劇団」の結成時にも役立ったといいます。1931年(昭和6年)にはパリのオペラ=コミック座のオーディションにも合格、プッチーニ「ラ・ボエーム」のロドルフォ役で舞台にも立っています。

1932年(昭和7年)に帰国。この頃、義江は帝国陸軍の関東軍の依頼により、軍歌「討匪行(とうひこう)」の作曲および歌唱を行っており、前線兵士の慰安公演のために満州へ渡ったりもしています。

1934年(昭和9年)6月、義江は日比谷公会堂にてプッチーニ「ラ・ボエーム」の公演を行いますが、この公演は「東京オペラ・カムパニー」と銘打ってのものであり、これが藤原歌劇団の出発点となりました。

この歌劇団の旗揚げには、ホテルオークラ、川奈ホテル、赤倉観光ホテルをはじめとする、ホテル経営によって巨万の富を手に入れ、「ホテル王」と呼ばれた「大倉喜七郎」などがパトロンとしてつき、彼等の援助で運営がなされました。興行的にはたいした実入りはありませんでしたが、音楽的には評論家からある程度の評価は受けたようです。

その後同カムパニー名義で、続けざまにビゼー「カルメン」、ヴェルディ「リゴレット」などが公演されましたが、このリゴレットでは、マッダレーナ役で後の大女優、杉村春子が出演しています。

その後もプッチーニ「トスカ」などで着実に舞台を重ねましたが、義江は主役を務めるばかりでなく、演出や装置、衣装まで手がけ、訳詞上演の際には、妻・あきがしばしば「柳園子」の筆名で参画しました。

正式に「藤原歌劇団」と銘打っての旗揚公演は1939年(昭和14年)3月26日から歌舞伎座で行われた「カルメン」であり、この公演は大成功を博しました。その後同年11月には欧米の歌劇場では常識の「椿姫」と「リゴレット」の交替上演、いわゆる「レパートリー上演」を成功させています。

2015-2261

指揮者としてはマンフレート・グルリットを得ました。この人は、ベルリンの富裕な家庭に生まれた音楽家で、一族は教育界や楽壇・画壇で活躍する名家であり、大叔父にピアニストで、ピアノ教材で有名な作曲家のコルネリウス・グルリットがいます。

1933年にユダヤ系にもかかわらずナチスに入党。4年後にユダヤ人であるために党員資格を剥奪されてナチス政権から逃亡。東京音楽学校からの打診に応じる形で来日し、中央交響楽団の常任指揮者を勤めるかたわら、東京音楽学校の非常勤講師の資格を得ました。

藤原歌劇団の常任指揮者に就任したのは1941年からで、戦中から戦後にかけて、数多くのオペラを指揮、その多くは日本初演でした。戦後はオペラ歌手の日高久子と結婚、グルリット・オペラ協会を発足させ、演奏活動のかたわら、英字紙に音楽評論の寄稿も行なったりもしていましたが、1957年に東京にて他界。享年81。日本洋楽会の功労者といわれます。

義江はその後、太平洋戦争中も1942年(昭和17年)11月にはヴァーグナー「ローエングリン」でも主役を務めるなど、藤原歌劇団の一枚看板としての地位を固めていくとともに、劇団も日本で最も高品質のオペラを上演できる劇団として発展していきました。

ちなみにこの「ローエリング」というのは、バイエルン王ルートヴィヒ2世が好んだことで知られるオペラです。初演は1850年にドイツ・ヴァイマル宮廷劇場で行われたという歴史あるもので、第1・3幕への各前奏曲や「婚礼の合唱(いわゆる結婚行進曲)」など、独立演奏される曲も人気の高いものが多く、質の高いオペラとして目されているものです。

しかし義江にとってはこれらの公演内容は満足できるものではなく、興行的にも必ずしも成功とはいえないものであり、また戦局が悪化するにつれてこうした洋モノの興業は認められなくなっていき(ローエリングの公演も同盟国ドイツのものであるため実現した)、劇団の継続にあたっては自宅のピアノを売却するなどの苦労もありました。

2015-2268

やがて終戦。義江と藤原歌劇団は、敗戦後半年も経ない1946年(昭和21年)1月には帝国劇場で「椿姫」舞台公演を再開しました。

同年秋には東京音楽学校の内紛により教授を辞した木下保(のち、日本を代表するテノール歌手と評される。勲三等瑞宝章受章。)が歌劇団に参加し、ここまで10年超にわたり全ての演目の主役テノールを藤原義江が務めるという状態からはようやく解放されました。

が、藤原が出演しないと途端にチケット売行きが落ちるという人気ぶりから、義江の過演状態は継続していました。しかし、声量・声質の衰えからもその公演過多ぶりは明らかだったといいます。

1948年(昭和23年)4月、「タンホイザー」ほか諸歌劇の上演により日本芸術院賞を受賞。1950年(昭和25年)に東京・赤坂にオーケストラ付の立稽古も可能な「歌劇研究所」を旧三井財閥の三井家11代当主、三井高公の資金援助により建設、やがて義江も同所に居住するようになります。研究所には一時近衛秀麿のABC交響楽団も練習場を置いていました。

1952年(昭和27年)にNHKの依頼を受け、外国音楽家招聘のため渡米した義江は、ニューヨーク・シティ・オペラに赴き、長らく日本で活動していた旧知のジョゼフ・ローゼンストックを訪ねました。ポーランドに生まれ、ドイツとアメリカ、そして1936年から10年間日本で活動した指揮者で、NHK交響楽団の基礎を創り上げたユダヤ系の指揮者です。

楽員からは「ローゼン」(戦前)「ロー爺」「ローやん」と呼ばれ親しまれていましたが、まだまだ半アマチュア気分が抜けていなかったN響の楽員に基本的な奏法を中心とする厳しいトレーニングを徹底的に課し、楽員をして「過酷」と言わしめつつ技力の大幅なアップに務めたことで知られています。

彼はドイツ人でしたが、ユダヤ系外国人であったため戦時中は活動休止に追い込まれ、目黒にあった指揮者用宿舎を引き払って、日本在住の敵性でない他の外国人らとともに軽井沢に移動。冬にはオーバーを何枚も着込んでも寒さから逃れられない厳しい生活を送り、そこで終戦を迎え、戦後はアメリカに移住していました。

義江は、ニューヨーク・シティ・オペラの「蝶々夫人」の上演レベルのあまりの低さに立腹し、同劇場の音楽監督をしていたローゼンストックにすべて日本人歌手が歌う公演をしたいのだが、と提案します。

その後、彼の助けも得て歌劇団の20名が参加したこのアメリカ公演は1952年から56年まで3回にわたって挙行されて成功し、三宅春恵(ソプラノ)の蝶々さんを始めとする歌唱陣は一定の評価を得ました。

しかし、金銭感覚に乏しい義江の運営する劇団にとって、この公演は莫大な資金負担となり、大借金を抱えて一転存続不能の危機に陥ります。しかし、高松宮宣仁親王の口利きで日本興業銀行から100万円(200万円とも)を融通してもらい、後には棒引きしてもらって、なんとかこの窮地を切り抜けました。

2015-2276

1953年(昭和28年)には治まることのない女性遍歴に愛想をつかした妻・あきと離婚。あきはその後、美容部長として資生堂に勤務しつつ、1955年にはNHKの人気番組「私の秘密」のレギュラー出演者となり、そこで聴取者の人気を博すようになります。

この当時の自民党のホープ、藤山愛一郎の父、藤山雷太は、あきの実父、中上川彦次郎の妻の妹と結婚しており、つまり、あきは藤山愛一郎の従姉妹という関係もあり、自民党がその人気に目をつけ、自党に入るようもちかけました。

そして、1962年の参院選に自民党公認で全国区から立候補。116万票の大量得票でトップ当選し、その後続々登場するタレント議員のはしりとなりました。自民党では藤山派に所属しましたが、任期半ばの1967年に癌のため死去しました。享年69歳。

一方の藤原義江はその11年後の1976年(昭和51年)に77歳にて没しました。上の歌劇研究所の失敗から、1958年には実質的に歌劇の舞台から引退していましたが、1964年(昭和39年)には最後の舞台に立っており、これは東宝ミュージカル「ノー・ストリングス」でした。

1970年には、「オランダおいね」という、TBSの「ポーラテレビ小説に出演しており、この作品で義江はシーボルトに扮し話題を呼びました。1970年3月30日から1970年9月26日まで放送されたこの連続テレビドラマは、最高視聴率19.7%とのことで、そこそこヒットしたようです。

ちなみに、シーボルトの娘として生まれた主人公楠本いねは、1968年に映画デビュー後映画、テレビに出演実績のある丘みつ子でした。

その後、あきより一歳年下の義江も、持病のパーキンソン病が進み、体のバランスが取れなくなっていきます。晩年は帝国ホテル社長、犬丸徹三の厚意で同ホテル内の専用室に居住し、ホテル内のレストランで食事をとる日々を過ごしたといいます。

あれほど華やかだった女出入りも途絶え、一人息子の義昭とも音信不通となり、独りぼっちになった義江を支えたのが、36年前に「リゴレット」で共演した三上孝子でした。

この三上孝子の出自はよくわかりませんが、実家は裕福なお嬢様育ちだったようです。かつての義江の愛人の一人だったと言われており、あき子が去って行った後、孝子は義江に寄り添い、スケジュール調整から来客の接待までを妻のようにこなしていたといいます。

孝子は、親からの遺産の広大な土地を売って半身不随の義江を入院させ、付添婦のように介護し、車椅子に乗せて散歩させたいたといいますが、1975年10月に疾がからみ呼吸困難になった義江は、救急車で日比谷病院にかつぎ込まれました。

翌1976年2月、義江が創った藤原歌劇団は観世栄夫の演出で「セビリアの理髪師」を上演していましたが、もう声のでない義江は、劇団員に対して最後のメッセージを書き送っています。

「僕はベッドの上であの時この時といろいろな人達の舞台を思い浮かべている。一寸、アリアの一節を頭の中でくり返して感無量である。当日の成功を祈っている。」

なお藤原歌劇団はその後、1981年(昭和56年)、日本オペラ協会と合併統合して財団法人日本オペラ振興会となりましたが、「藤原歌劇団」の名称は、西洋オペラの公演事業名として現在も使っているといいます。

そして、そのひと月後の3月22日、義江は77年の生涯を終えました。その後三上孝子は、単身ナポリ行きの飛行機に乗りました。このとき孝子は伊豆松崎の船大工に全長75cmほどの小舟を作らせたものを持参していました。

そして、「お骨はナポリの海に」という義江との約束を守り、彼女は遺骨と遺髪を納めた箱を舟に乗せ、サンタ・ルチアの浜辺から海に流したといいます。その海は、かつての妻、アキと共に過ごした思い出の場所でした。

2015-2279

放恣な人生を歩んだように見える藤原でしたが、その自伝などからは、実力もないまま「吾等のテナー」として祀り上げられてしまうことへの警戒心、本場のオペラを聴き知ってしまった者としてそれを日本に定着させたいとする強い願望が読み取れるといいます。

しかし、実力者でありながら、「センセイは学校の教師と医者だけで沢山だ」と言い、「先生」と呼ばれることを嫌っていたそうです。周囲からは、歌舞伎の若旦那などになぞらえて「旦那」と呼ばれていたといい、謙虚な性格でもあったようです。

父のネール・ブロディ・リードと下関で初めて対面した時、父からかけられた言葉は「サヨナラ」であったといいます。後に父はそれを悔いたそうですが、この事は義江の人生に小さからぬ影を落としたともいいます。

関門海峡を見下ろす小高い丘に、そのリードにまつわるモダンな洋館があります。緑に囲まれたこの場所にあるこの白亜の建物は「紅葉館」とも呼ばれ、ホーム・リンガー商会の2代目社長、シドニー・リンガーが、令息のための邸宅として建てたさせたものです。

リンガー家がこの屋敷を手放した戦後は英国領事の公邸としても使われていたといい、義江の死後2年経った1978(昭和53)年から、世界的オペラ歌手・藤原義江を記念する記念館となりました。

1936年(昭和11年)建立といいますから、義江が38歳のころに建てられたものであり、無論、義江自身が住んだことはありません。グーグルのストリートビューでみたところ、高台に建つその白い装飾性のない外観はいわゆる「モダニズム」を狙ったようです。

アパートに見えなくもありませんが、単純な中に飽きのこない優れた外観であり、印象に残る建物です。鉄筋コンクリート造り、3階建てのこの建物は登録有形文化財にもなっているといいます。館内には義江の遺品や写真などを展示。が、中の見学は予約が必要だそうです。

下関市阿弥陀寺町3-14にあります。これは海響館と呼ばれる人気水族館などの立ち寄り客でいつも賑わっている、「あるかぽーと」のすぐ近くにあります。お近くまで行ったら立ち寄ってみてください。私も帰郷する機会があれば、今度こそ行ってみたいと思います。

2015-2296

大爆発!

2015-1150183

先日、中国で大きな爆発事故がありました。

もう既に「2015年天津浜海新区倉庫爆発事故」という事故名もつけられているようで、その被害の甚大さから、歴史的な爆発事故として記録に残っていくことになりそうです。

爆発の中心は天津市浜海新区の港湾地区にある国際物流センター内にある危険物専用の倉庫らしく、発生したのは現地時間8月12日午後11時ごろ。当初、一帯に火災が発生したのを受け、消防員が駆け付けて消火活動にあたっていたところ、11時半ごろに2回にわたる大爆発が発生し、鎮火作業を行っていた消防隊員等17人が即死したといいます。

この際、周辺住民も爆発に巻き込まれ、現時点で170人以上の死者・行方不明者を出しているようです。爆発現場から半径2キロ圏内にある建物の窓ガラスが割れ、近くの「津浜軽軌」という鉄道の駅舎やコントロールセンターは爆発で大きく損傷したため、全線は運営停止になりました。

同地区は、天津港の中心となる巨大なコンテナターミナルがあるほか、精油所、石油化学コンビナート、製塩工場、造船基地などが集積する工業地帯です。1980年代の改革開放後、天津経済技術開発区(TEDA)など経済特区や工業団地が設けられ、外資系の工場やオフィスが進出する新たな都市となっており、日本企業も多数がここに進出していました。

それら複数の日本企業にもこの爆発が及んだようで、死傷者は出なかったようですが、今後の営業にも影響が出そうです。

2010年代にはこうした大爆発事故があいついでいます。2年前の4月17日にも、「テキサス州肥料工場爆発事故」というのがあり、アメリカ合衆国テキサス州マクレナン郡ウエストで大規模な爆発事故がありました。

化学肥料工場を操業していたウエスト・ファーティライザー社が起こした事故で、約270tの硝酸アンモニウムにインカしたと考えられ、工場には爆発防護壁を設けていなかったため、周辺の民家60-80棟が被害を受けたほか、死亡者15人、負傷者200人以上の被害を出しました。

また、記憶に新しいところでは、昨年2014年の8月1日に「高雄ガス爆発事故」というのがあり、これは台湾の高雄市で発生した大規模爆発事故です。現場道路の地下にはプラスチック原料となる可燃性のプロピレンガスのパイプラインが通っており、これが漏出したことにより発生し、死者32名、負傷者321名の損害を出しました。

中国では、今回の事故を起こす前にも大規模な事故が起こっており、これは「長征3Bロケット」の爆発によってもたらされたものです。1996年2月14日のことであり、中国の四川省涼山(リャンシャン)イ族自治州にある西昌衛星発射センターから打ち上げられた長征3Bロケットが、西昌市街に墜落・爆発しました。

この爆発では、ロケットに搭載されていた、強い腐食性を持つ非対称ジメチルヒドラジンが一帯に飛散し、西昌市街は壊滅。中国当局は、御多分に漏れず、現場を封鎖して証拠隠滅を図りましたが、すぐに世界の知るところとなりました。死者は公式発表によれば約500名とされていますが、実態はそれ以上だろうとされています。

こうしたロケットがらみの大爆発事故は、ロシアでも起こっており、これは「ニェジェーリンの大惨事」といい、1960年10月24日に発生しました。ロシア西部のバイコヌール宇宙基地でR-16大陸間弾道ミサイルの発射試験中にミサイルが爆発したもので、100名以上の死者を出したといい、一説には約200名が死亡したといいます。

この事故では、初代戦略ロケット軍司令官のミトロファン・ニェジェーリン砲兵元帥が死亡しており、爆発の炎は50km離れた地点からも観測できたと伝えられます。この当時はまだ共産党支配下のソ連邦時代だったため、この事故は政府によって秘匿され、1990年代になってようやく事故事実が公表されました。

ロシアではその9年後の、1969年7月4日にも「N-1ロケット爆発事故」が起こしており、こちらも同じバイコヌール宇宙基地で発生しました。打上げ試験が行われたN-1ロケット(総重量約2,750t)の2号機が発射台を離れた直後に爆発したものです。

死傷者数は明らかにされていません。事故の詳細が明らかにされていないのは、この時期にちょうどソ連とアメリカは熾烈な宇宙開発競争を行っており、ソ連側としては、この事故を表に出すことによって、自国の宇宙開発がお粗末なもの、という印象を世界に与えたくなかったからでしょう。

その競争相手のアメリカもまた宇宙開発においては数々の爆発事故を起こしています。その最たるものは、1986年1月28日におきた、チャレンジャー号爆発事故でしょう。スペース・シャトルチャレンジャー号が射ち上げから73秒後に分解し、7名の乗組員が犠牲になった事故です。

爆発によるものではありませんが、スペースシャトルは2003年2月1日にもコロンビア号空中分解事故を起こしており、同機は大気圏に再突入する際、テキサス州とルイジアナ州の上空で空中分解し、7名の宇宙飛行士が犠牲になっています。

ロケットの爆発事故としてはこのほか、2003年8月22日に発生した、ブラジルロケット爆発事故というのもあります。ブラジル宇宙機関のVLS-1ロケットがマラニョン州のアルカンタラ郡北部にあるアルカンタラ射場で爆発した事故です。

打ち上げ時ではなく、打ち上げを数日に控えての直前の整備中の出来事で、1段目が突然点火し、21人が死亡しました。轟音は付近の密林一帯に轟き、遠方からも煙が目撃されたといい、ブラジル独自設計したロケットの打ち上げとしては、3度目の大事故となりました。

2015-1160219

こうしたロケットがらみの大爆発事故というのは、さらに過去に遡るとさらにたくさんあるのですが、それはさておき、それでは日本で過去に起こった大爆発事故としてはどんなものがあるかといえば、戦前では、「禁野火薬庫爆発事件」という大きな事故がありました。

1939年3月1日のことで、大阪府枚方市禁野の陸軍禁野火薬庫で起こった爆発事故です。砲弾の解体作業中に発火、倉庫内の弾薬に引火し爆発したもので、近隣集落も飛散した砲弾等によって延焼し94名が死亡、602名が負傷しました。

また、戦中では、1943年6月8日に発生した、「戦艦陸奥爆沈事件」というのがあります。広島湾沖柱島泊地で、戦艦陸奥の錨地変更のための作業を行おうとしていたところ、突然に煙を噴きあげて爆発を起こし、一瞬にして沈没しました。この事故では、乗員1,121名が亡くなりました。

原因はわかっていませんが、自然発火とは考えにくく、直前に「陸奥」で窃盗事件が頻発しており、その容疑者に対する査問が行われる寸前であったことから、人為的な爆発である可能性が高いとされます。

戦後の1970年(昭和45年)になって朝日新聞が四番砲塔内より犯人と推定される遺骨が発見されたと報じ、この説は一般にも知られるようになりました。この時、窃盗の容疑を掛けられていた人物と同じ姓名が刻まれた印鑑が事故現場で発見されていたといいますが、何の目的で爆破を図ったかまではわかっていません。

スパイの破壊工作ではないか、いや砲弾の自然発火による暴発では、はたたま、乗員のいじめによる自殺や一下士官による放火ではなどの説がいろいろ持ち上げられ、フィクション作品の題材としても数多くとりあげられました。

戦艦「大和」もその沈没時に大爆発を起こしています。1945年4月7日のことであり、鹿児島県坊ノ岬沖合で空襲により大火災を起こし横転、弾薬庫内にあった多数の主砲弾が誘爆して轟沈しました。火柱が高さ6,000mまで立ち上り、鹿児島からも見ることができたといい、また近くを飛んでいた米軍機が爆風に巻き込まれて墜落したと言われています。

軍艦がらみではこのほか、「横浜港ドイツ軍艦爆発事件」というのが1942年11月30日に発生しています。ドイツのタンカー・ウッカーマルクが、船倉清掃作業中に火災を起こし、近くの停泊していたドイツの仮装巡洋艦トール他2隻を巻き込んで爆発したもので、ドイツ兵を中心に102名の犠牲者を出し、横浜港内の設備が甚大な被害を受けました。

さらに終戦直前の1945年4月23日には、「玉栄丸爆発事故」というのがありました。鳥取県西伯郡境町(現・境港市大正町)の岸壁で火薬を陸揚げ中だった旧日本軍の徴用船「玉栄丸・937トンが爆発したもので、その後の誘爆によって周辺の家屋431戸が倒壊焼失し、115人が死亡、309人が負傷しました。

陸揚げの途中での休憩中に上等兵が投げ捨てたタバコが、同船に積んでいた火薬に引火したのが原因とされます。

こうした戦争時に使用された砲弾・火薬がらみの爆発は、戦後すぐにも相次いでおり、1945年11月12日には、「二又トンネル爆発事故」という過去において最大級の事故が起きています。これは、福岡県添田町にあった日田彦山線未開通区間の二又トンネルに旧日本軍が保管していた約530tの弾薬が爆発したというものです。

進駐軍の監督下でこれを警察官と作業人夫が処分しようとしたところ火薬が大爆発を起こして山全体が吹き飛んでしまい、彼らは落ちてきた土砂の下に埋もれてしまいました。また、これによりトンネルの上の山が吹き飛ばされ、周辺住民147名が死亡、149名が負傷しました。

二又トンネルはこの爆発で丸山ごと吹き飛んだために消滅し、1956年に開通した鉄道は、切り通し(オープンカット)のようになった場所に線路が通されています。また二又トンネル跡から筑前岩屋駅側に下った箇所にある第4種踏切の正式名称は「爆発踏切」であり、遠目ながらこの踏切から切り通しになっている様子を見ることが出来ます。

2015-1160394

1948年8月6日には、「伊江島米軍弾薬輸送船爆発事故」というのも起きています。沖縄本島の本部半島から北西9kmの場所に位置する伊江島で起きた事故で、この当時同島はまだ米軍統括下にありました。5インチロケット砲弾約5,000発(125t)を積載した米軍の弾薬輸送船が接岸時に爆発したものです。

その日は夏休み中だったこと、たまたま地元の連絡船が入港していて多くの人が出迎えに来ていたことなどで、米軍事故調査委員会報告書によると死者には、地域住民を多数含む107人、負傷者70人であり、米軍統治下の沖縄で最大の犠牲者を出す事故となりました。

以後、長らくこうした戦時中に保持していた爆弾による爆発事故は生じていませんでしたが、1959年12月11日には、「第二京浜トラック爆発事故」というのが起こっており、これは、米軍の砲弾を解体して取り出したTNT火薬を積載していたトラックの1台が、砂利運搬トラックと正面衝突して、その衝撃で火薬が爆発した、というものです。

横浜市神奈川区子安台46の第二京浜国道上で、対向車線を走行中の砂利運搬トラックと正面衝突し、TNT火薬4トン(30kg積×134箱)が爆発し、双方の乗員4名が即死しました。砂利運搬トラックの運転手は、運転免許を取得したばかりの初心者で、この運転手が居眠りして対向車線にはみ出した所へ、火薬積載トラックが衝突したと推定されています。

戦後に起こった、旧日米両軍の保有火薬等による大規模な爆発は以上ですが、戦後日本が高度成長していく過程においては、このほかにも大きな爆発事故が起こっており、1955年2月4日には、「秋葉ダム・ダイナマイト爆発事故」というのが起こっています。

静岡県浜松市天竜区・天竜川本川中流部の秋葉ダム建設現場で、不発のまま放置されていた大量のダイナマイトが誘爆した事故です。ダム現場の爆破作業を行なったところ、それ以前の発破作業で不発のまま残っていた1.9トンのダイナマイトが誘爆し、約3,000立方メートルもの土砂が崩れて現場にいた19名の技術者と作業員が生き埋めとなり死亡しました。

こうした建設作業現場での事故はこのほかにも多数起っていますが、この事故はその中でも最大規模のものです。このほか、花火による爆発事故も多数生じており、そのうち最大規模のものは、1955年8月1日の「墨田区花火問屋爆発事故」です。東京都墨田区にある花火工場の倉庫で爆発事故。死者18名、重軽傷者80名以上を出しました。

2015-1160553

実はこの翌日にも大規模な爆発が起こっており、この年は大爆発の当たり年でした。これは、「日本カーリット工場爆発事故」といい、1955年8月2日におきました。神奈川県横浜市保土ケ谷区にある火薬工場において発生した爆発事故です。

日本カーリットというのは、電気系化学品のほか、自動車等に搭載される発炎筒や産業用の爆破材料を生産している会社であり、同社横浜工場の填薬室において、火薬の充填作業中に火薬の中に異物が混入していたことが原因で発生した摩擦により爆発が発生したものです。

この最初の爆発が引き金となり、同じ作業場にあった別の約600キロの火薬が誘爆して爆発、さらに作業所内を手押し車で搬送中だった400キロの火薬にも引火し爆発したと推察されており、この事故により3名が死亡(1名は即死、2名は病院搬送後に死亡)、重軽傷者19名を出しました。

前日に墨田区花火問屋爆発事故が発生したばかりのことでもあり、この当時、この二つの連続爆発事故は世間の注目を大いに集めました。

その後、前述の「第二京浜トラック爆発事故」が1959年に発生して以後、それほど大きな事故は起っていませんでしたが、大阪万博が開催された1970年には、同じ大阪で「天六ガス爆発事故」というのが発生しています。

万博が3月に開催された直後の4月8日のことであり、大阪市北区菅栄町(現・天神橋六丁目、通称天六)で、都市ガス爆発事故が発生しました。地下鉄谷町線天神橋筋六丁目駅の工事現場で発生したもので、この事故では、直前に地下に露出した都市ガス用中圧管と低圧管の水取器の継手部分が抜け、都市ガスが噴出していました。

たまたま通りかかった大阪ガスのパトロールカーが通報し、事故処理車が出動しましたが、現場付近でエンストを起こし、エンジン再始動のためにセルモーターを回したところ、その火花に漏れたガスが引火して炎上。この時、その事故現場の上にあった道路上の覆工板上に、騒ぎを聞きつけた野次馬と大阪ガスの職員、消防士、警察官など多数がいました。

この爆発とともに、その被覆工板もろとも上に乗っていた人間が吹き飛ばされ、死者79名、重軽傷者420名の大惨事となりました。この事故により、大阪万博で大阪ガスが開いていた「ガスパビリオン」は一時公開中止となり、また、当事故現場を含む大阪市営地下鉄谷町線の工事区間の開通はこの事故によって大幅に遅れ、1974年5月となりました。

2015-0761

この10年後の、1980年8月16日、今度は静岡でガス爆発事故が発生しました。「静岡駅前地下街爆発事故」といい、静岡駅北口の地下街で発生したメタンガスと都市ガスの2度におよぶガス爆発事故です。15人が死亡、223人が負傷しました。

実はこのとき、私は学生で隣町の清水市にいました。さすがに爆発音までは聞こえてきませんでしたが、このとき清水側からもたくさんの消防車が静岡ヘ向かったようで、町中がなにやら騒がしいので、なんだろう、と思いつつ、下宿へ帰ってからテレビをつけて、はじめて事件を知りました。

この爆発は、地下の湧水処理漕に溜まっていたメタンガスに何らかの火が引火したことが原因と考えられており、最初の爆発は小規模なものであり、火災の発生には至らなかったものの爆発により都市ガスのガス管が破損しました。

すぐに消防隊が駆けつけ、現場処理を行っていましたが、このとき消防士たちはガス濃度が高いことに気づき、すぐに地下街からの脱出を指示するとともに排気作業を開始しました。が間に合わず、午前9時56分に2回目の爆発が起こりました。

この2回目の爆発は大規模なもので、火元となった飲食店の直上にあった雑居ビルは爆発炎上し、このビルの向かいにあった西武百貨店(現・パルコ)や周囲に隣接する商店及び雑居ビルなど163店舗にガラスや壁面の破損などの大きな被害をもたらしました。

事故発生の当日はお盆や夏休み中の土曜日で買い物客も多かったことから数多くの通行人が現場に駆けつけ、写真撮影をする者、応急的な救助活動をする者などで現場はパニックとなりました。爆発がデパートの開店直前だったことも、負傷者が増えた要因になりました。

この事故以降、地下街に関する保安基準(都市ガスの遮断装置、消防設備など)が厳しくなり、地下街の新設も1986年の神奈川県川崎市の川崎アゼリアの開業までしばらく認められませんでした。宮城県仙台市でも一時地下街の開発が計画されていましたが、地下街に関する保安基準の厳格化により、計画は中止となっています。

事故後しばらく閉鎖されていた地下街は防災センターや消防設備を整備のうえ復旧しましたが、私は卒業前にこの真っ黒に焼け落ちた一角を訪れており、その惨状を目にしています。その後、この地下街は復旧して新しく「紺屋町地下街」と改称となり、事故現場の地上のビル群も建て変えられたりして、現在ではかなり事故当時の面影は薄らいでいます。

その後、日本では上述の保安基準以外にも安全基準がかなり見直されて、こうした大規模な爆発事故は起りにくくなりました。が、今回の中国、天津でおきた爆発事故などを見ると、彼の国の安全対策は現在の日本のレベルにはまだまだ達していないんだろうな、と思ったりします。

中国以外にもあまり先進国のメディアが報じないような大爆発が起こっているに違いなく、とくにインドやアフリカあたりでは、あちこちで何やらやらかしていそうです。

2015-0875

それでも、現在のように戦争が比較的少ない時代には、兵器がらみの大爆発といったものは少なくなっているといえ、その昔に比べればずいぶんと世界も安全になったほうだ、ということはいえるでしょう。

戦争がらみの大爆発というのは、過去にはかなり凄惨なものが多く、無論、我が国が受けた広島・長崎の原爆被害はその中でも最大のものですが、近代において、こうした核爆発によらない、戦争がらみで一番大きかった爆発は何か、というと、これは1856年に発生した、ロドス島騎士の宮殿爆発事故のようです。

ギリシャのロドス島において騎士団長の居城とされた宮殿に落雷、地下火薬庫が爆発したともので、詳しい記録はありませんが、4,000人が死亡したといわれます。

落雷による爆発事故はこれ以前にもあり、1578年10月12日に、「ペンテコステの大爆発」と呼ばれるものがあり、これは、ハンガリーの首都ブダペシュトにあったブダ城の倉庫に落雷したというもので、保管していた粉類が粉塵爆発し、おおよそ2,000人が死亡しました。

こうした1000人以上もの被害者を出した事故というのは、17~19世紀にかけては結構多発しており、1654年5月18日には、オランダのデルフト市で、「デルフト大爆発」というのがあり、火薬庫に蓄えられていた40tの火薬が爆発して、市街の大部分が破壊された上、約1,200人が死亡し、1,000人以上の負傷者が出ました。

また、1769年8月18日には「ブレシア・聖ナザロ教会爆発事故」というのがあり、これはイタリアのヴェネツィア近郊の都市ブレシアにある聖ナザロ教会に落雷、通廊に保管されていた80トンの火薬に引火して爆発したもので、都市の1/6が破壊され、3,000人の死者を出す大事故となりました。

20世紀に入ってからは、1917年12月6日に「ハリファックス大爆発」というのがあり、ます。これはカナダのハリファックス港での船同士が起因で、そのうち1隻はピクリン酸を主とする2,600tの爆発物を積んでおり、衝突の際に火災が起き、爆薬を積んだまま火のついた船が埠頭へと流れ着いて爆発しました。

1,600名が死亡、約9,000人が負傷し、ハリファックス中心街の大部分が壊滅しましたが、この事故を調査する過程において、その威力の大きさが「反射波」によるものであることがわかりました。

爆薬が空中で爆発した場合には、爆風の入射波が地面に当たって地上反射波と跳ね返りますが、この入射波と地上反射波が合わさることで、爆発の威力が倍加します。その後開発された、原子爆弾はこの効果を利用しており、上空で爆発させることによって威力を高める、という原理はこのハリファックスの爆発の調査結果から分かったとされています。

2015-5056

20世紀に入ってからはこのほか、過去における最大の犠牲者を出した「メシヌの戦い」における爆発というのがあります。1917年、第一次世界大戦中のことで、このときイギリス軍は、ベルギーのメシヌの尾根にあるドイツ軍根拠地への攻撃を計画していました。

当日6月7日、ドイツ軍根拠地の地下にトンネルを掘って埋設された19個の巨大な地雷、総計600tが爆破され、これによりドイツ兵約10,000名が死亡。爆発の音は遠くダブリンにまで響き、チューリッヒでも振動を感じたとされます。

しかも、このとき使用された火薬は全て爆発せず、その後1950年代に落雷により残った火薬の一部が爆発する事故が発生しました。現在でも不発の爆薬が現地の尾根に眠っていると思われています

このメシヌの戦いというのは、「パッシェンデール作戦」といわれる一連の作戦の序盤戦で実施されたものです。イギリスほか連合国とドイツとの間で行われ戦いであり、三ヶ月に渡る激戦の末、カナダ軍団が1917年11月6日にパッシェンデールという町を奪取して戦闘は終わりました。

「パッシェンデール作戦」といわれるのはこのためですが、この戦いを通じて膨大な人的損害が出たことから、「第一次世界大戦のパッシェンデール」と言えば、「初期の近代的戦争が見せた極端な残虐性」を象徴する言葉でもあります。

この戦いで、ドイツ軍は約270,000人を失い、イギリス帝国の各軍は計約300,000人を失いました。この中にはニュージーランド兵約3,596人、オーストラリア兵36,500人、カナダ兵16,000人が含まれます。

また、イギリス・ニュージーランド・オーストラリアで合わせて90,000人の遺体は身元を特定できず、また42,000人の遺体は遂に発見できませんでした。空撮写真の分析では1平方マイル(2.56 km²)当りの砲弾孔は約1,000,000個を数えたといわれ、その後の第二次世界大戦以前では最も凄惨な戦いでした。

このメシヌの戦いの爆発があったのと同じ年の12月に起こったのが、上述の「ハリファックス大爆発」であり、事故を起こしたフランス船籍の貨物船モンブランは、ハリファックス港でヨーロッパ戦線のための軍用火薬を積んで出航する直前でした。

第一次大戦はこの事故の3年前の1914年に勃発しており、ハリファックスは北アメリカからヨーロッパへの軍需品の積み出しが盛んに行われている港でした。自然の良港で冬も凍らず、しかもフランス、イギリスへ最短距離の位置にありました。

北アメリカ大陸からの軍需物資輸送船は、ここに集結し、ドイツ潜水艦対策のため船団を組んで大西洋を渡っていましたが、この時期のハリファックス港は常に混雑しており、外洋船、フェリー、艀、漁船が入り乱れ、港の管理が不十分であり、船舶の小さな衝突は頻繁に発生していました。

2015-0896

実は、この前年の1916年にも、同じ北米大陸、アメリカ合衆国ニュージャージー州ジャージーシティで大爆発が起こっています。ただし、こちらは事故ではなく、「爆破事件」であり、軍需物資が第一次世界大戦の連合国側諸国に輸送されるのを阻止するための、ドイツの諜報員によるアメリカ合衆国の弾薬供給に関する破壊活動でした。

ブラック・トム大爆発(Black Tom explosion)と呼ばれ、1916年7月30日に発生しました。「ブラック・トム」は当初リバティー島に隣接した、ニューヨーク港の島の名前です。島の名前は、かつてトムという名の浅黒い漁師が長年住んでいたという伝承に基づきます。

ここに1905~1916年に連邦政府のドックと倉庫、発着場を配置した1マイル(約1.61km)の桟橋ができましたが、ブラック・トムはアメリカ北東部で製造される軍需物資の主要な発着所でした。

桟橋や倉庫棟がほぼ完成した7月30日の夜の時点で、ここには200万ポンド(約900,000kg)の弾薬が発着所の貨車の中に保管され、ジョンソン17号はしけの上に10万ポンド(約45,000kg)のTNT火薬などが、イギリスとフランスへの出荷品として用意されていました。そして、それはテロリストにとっても魅力的な目標でした。

真夜中過ぎに、突如、複数の火の手が桟橋の上で上がりました。一部の守衛は爆発を恐れて逃げ出しましたが、残った者達は火災を食い止めようと踏み留まりました。そして、午前2時8分、最初の、そして最大の爆発が発生します。爆発による金属片は長距離まではじけ飛び、一部は自由の女神に達しました。

そして1マイル以上離れているジャージーシティの商業地区にも達し、地元紙ジャージージャーナルの時計台の時計を2時12分で止めました。地震波の規模はマグニチュード5.0~5.5を計測し。地震波は遠くフィラデルフィアまで達し、40km(25マイル)離れた地点の窓が割れたり、近隣のマンハッタン南西部では数千枚のガラスが割れました。

ジャージーシティの市役所の壁にはひびが入り、ブルックリン橋は衝撃で揺れ、その後も、小さな爆発が何時間にもわたり起こり続けました。この爆発により、負傷者は数百人を数え、7名が犠牲となったとされますが、正確な死者数は分かっていないようです。

2015-4022

その後の調査の結果、桟橋の守衛の内2人はドイツの諜報員であることが明らかなりましたが、この二人は既にアメリカを出国していました。また、この二人を操っていたのは、1915年までアメリカ大使館付き武官だった、フランツ・フォン・パーペンであることなどもわかりました。

パーペンは、武官としてアメリカに赴任すると、国内でさまざまな諜報活動に従事し、また兼轄国であるメキシコをドイツ寄りにすることに努めました。また、フランクリン・ルーズベルトやダグラス・マッカーサーといった、後年のアメリカ合衆国指導者の知遇を得ており、これがアメリカ国内での破壊活動をよりやりやすくしました。

結局、この事件との関わりは証明されないまま、1916年にサボタージュ活動や破壊工作活動に関与しているとされてアメリカ政府から国外追放処分を受けましたが、このとき帰国の際不用意に別送した荷物がイギリス海軍の臨検を受け、パーペンがアメリカ国内に構築したドイツの諜報網が暴露されました。

パーペンは、その後ドイツ帰国後に皇帝から鉄十字章を授与され、参謀本部に戻りオスマン帝国に派遣され、オスマン帝国軍大佐となりましたが、第一次世界大戦の敗北後は、政治家に転身しました。

その後、国家社会主義ドイツ労働者党、いわゆる「ナチ党」の党首アドルフ・ヒトラーと接近し、彼が首相になれるよう尽力するなどナチ党の権力掌握に大きな役割を果たしました。

1933年のヒトラー内閣成立では、ヒトラーに次ぐ副首相の座に就きましたが、「長いナイフの夜」事件で失脚し、その後はオーストリアやトルコでドイツ大使を務めました。大戦後、ニュルンベルク裁判で主要戦争犯罪人として起訴されましたが、無罪とされ、1969年満89歳で没しました。

パーペンが仕組んだとされるこのブラック・トム大爆爆発による被害総額は、2,000万ドル(現在価値で3億9,000万ドル相当)と推定されており、自由の女神の損害は100,000ドル(同約200万ドル相当)とされ、それにはスカートとトーチの損害も含みます。自由の女神の腕の部分はそれ以来ずっと開かずの間となっているそうです。

この百年間で米国本土へ仕掛けられた攻撃で、成功したとされるのは、このブラック・トム大爆発と、オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件、そして9.11アメリカ同時多発テロ事件の3つだけといわれています。

しかし、ブラック・トムと他の2件が異なるのは、テロリズムによるものではなく、主権国家の諜報員による破壊活動による仕業だったことです。だからといって許されるわけではありませんが、この爆破事件への関与も状況証拠しか集められなかったため、ニュルンベルク裁判でも立件対象にはならなかったようです。

日本においては、今も安保法案を巡って与野党の対立が続いていますが、仮にこうした悪法が通った場合、いずれまた日本も戦争への参加を余儀なくされ、その結果としてこうした事件に巻き込まれる、といったこともあるかもしれません。

そうならないことを祈るばかりです。

2015-6770

野火

2015-1140227

「野火」ということばがあります。

普段あまり使うことはありませんが、改めてどういう意味か調べてみたところ、一番多い説明が、春先に野原の枯れ草を焼く火、としており、これは「野焼き」ともいいます。

しかし、これは人間が意図的に火をつけるものであって、自然では様々な理由で野原などが燃えることがあり、いろいろなケースがありますが、落雷で火がつく場合、乾いた木などが風で動くことでこすれて火がつく場合、火山による場合などがあります。

昨日の8月16日、お盆最後の日の野火は、人が焚き付けるほうで、これは「送り火」と呼ばれます。この反対が迎え火であり、お盆に入った8月13日の夕刻に先祖の霊を迎え入れるために焚きます。

先祖をお送りするために焚く野火のことであり、川へ送る風習もあり、こちらは灯籠流しともいいます。最近は防火上の問題もあり、迎え火も送り火も盆提灯で行うようになりました。また、その盆提灯に灯す灯りも、少し前にはロウソクでしたが、その後電球に代わり、今ではLEDが多くなっています。

人が灯す野火の形も時代ともに変わってきたのだな、と改めて思うわけですが、しかし、自然発火の野火の存在は今も昔も変わりません。

狐火というのもあり、日本全域に伝わる怪火です。ヒトボス、火点し(ひともし)、燐火とも呼ばれます。火の気のないところに、提灯または松明のような怪火が一列になって現れ、ついたり消えたり、一度消えた火が別の場所に現れたりする、といわれるもので、正体を突き止めに行っても必ず途中で消えてしまうといいます。

また、現れる時期は春から秋にかけてで、特に蒸し暑い夏、どんよりとして天気の変わり目に現れやすいといいます。十個から数百個もの狐火が行列をなして現れることもあるといい、長野県では提灯のような火が一度にたくさん並んで点滅したのを見た、という目撃情報もあるようです。

その火のなす行列の長さは一里(約4km)にもわたることもあり、色は赤またはオレンジ色が多いとも、青みを帯びた火だともいろいろいわれます。具体的に現れた場所や状況が伝承されていることも多く、富山県砺波市では人気のない山複で目撃される一方で、石川県門前町(現・輪島市)のように逆に人前に現れ、追いかけてきたといいます。

このように人家が多いところに出てくる狐火は、道のない場所を照らすところが特徴で、それにより人の行先を惑わせるともいわれています。つまり、人を「化かす」というヤツで、その仕業は狐であると信じられたことから、狐火と言われるようになったのでしょう。

長野県はとくに狐火の伝承が多く、そのうちの飯田市では、そのようなときは足で狐火を蹴り上げると退散させることができる、ということが言われているようです。

狐といえばお稲荷さんなどの神社にもよく祀られています。出雲国(現・島根県)では、狐火に当たって高熱に侵されたとの伝承もあり、この狐火は「行逢神(いきあいがみ)」のようなものとする伝承もあります。これは不用意に遭うと祟りをおよぼす神霊のことです。

しかし、これもまた長野の伝説では、ある主従が城を建てる場所を探していたところ、白いキツネが狐火を灯して夜道を案内してくれ、城にふさわしい場所まで辿り着くことができたという話もあり、かならずしもワリィやつとばかりもいえないようです。

そういえば、お天気雨のことを「狐の嫁入り」と呼びますが、これも狐の悪さとはされるものの、おめでたい嫁入りの行事、ということで、一般には好意的に受け止められます。

キツネには不思議な力があるとされ、キツネの行列を人目につかせないようにするため、晴れていても雨を降らせると考えられてきました。また、めでたい日にもかかわらず涙をこぼす嫁もいたであろうことから、妙な天気である天気雨をこう呼んだともいわれます。

「晴れの日に滾々(コンコン)と降る」という意味の駄洒落であるという説もあり、昔の人は、晴れていても雨が降るという真逆の状態が混在することを、何かに化かされている、と感じたのでしょう。なお、地方によっては必ずしもお天気雨とは限らず、熊本では虹が出たとき、愛知では霰(あられ)が降ったときが狐の嫁入りだそうです。

2015-1140235

一方、昭和中期頃までは、上述の野火が、嫁入り行列の提灯の群れのようにも見えるので、こちらも、狐の嫁入りと言っていました。正岡子規も俳句で冬と狐火を詠っており、その出没時期は一般に冬とされています。しかし、夏の暑い時期や秋に出没した例も伝えられています。

「狐の嫁入り」としての野火の目撃例も多く、宝暦時代の越後国(現・新潟県)の地誌で4キロメートル近く並んで見えることを「狐の婚」と記述しているのを初めとし、同様の狐の嫁入り提灯の話が、東北から中国地方に至るまで各地にあります。

必ずしも「狐の嫁入り」という呼称ではなく、「狐の婚」のほか、埼玉県草加市や石川県能都町では、「狐の嫁取り」といい、静岡の沼津では、「狐の祝言」と呼ぶようです。

この狐の嫁入り提灯が多数目撃されたという昭和中期頃までの日本では、まだまだ結婚式場などというものは普及しておらず、夕刻に実家で待つ嫁を、嫁ぎ先の人間が提灯行列で迎えに行くのが普通でした。

その婚礼行列の連なる松明の様子に似ているため、キツネが婚礼のために灯す提灯と見なされようになった、というわけです。こうした行列では延々と提灯を持った人の行列が続きますから、いつまでたっても最後尾にいるはずの「嫁入り」が見えない、ということも往々にあり、そうしたことも狐が人を化かしているように思えたのでしょう。

こうした婚礼のクライマックスは神社で行われるのが普通です。従って、現代においても、この狐提灯にちなんだ神事や祭事が日本各地で散見されます。

現・東京都北区は、こうした狐火のメッカとされ、かつて江戸時代に、豊島村といわれていた豊島地区でも、暗闇に怪火が連続してゆらゆらと揺れるものが目撃されて「狐の嫁入り」と呼ばれており、同村に伝わる「豊島七不思議」の一つにも数えられています。

この豊島のすぐ近くにある、王子稲荷(北区岸町)は、お稲荷さんの頭領として知られると同時にとくに狐火の名所とされています。

かつて王子周辺が一面の田園地帯であった頃、路傍に一本の大きなエノキの木がありました。毎年大晦日の夜になると関八州(関東全域)のキツネたちがこの木の下に集まり、正装を整えると、官位を求めて王子稲荷へ参殿したといいます。

その際に見られる狐火の行列は壮観だったそうで、平安時代以降、近在の農民はその数を数えて翌年の豊凶を占ったと伝えられており、歌川広重の「名所江戸百景」の題材にもなっているほどです。このエノキは、明治時代に枯死したようですが、「装束稲荷神社」と呼ばれる小さな社が、旧王子二丁目電停の近傍に残っています。

地元では地域おこしの一環としてこの伝承を継承し、1993年より毎年大晦日の晩には、「王子狐の行列」と呼ばれるイベントを催しています。

このように、狐火、あるいは狐の嫁入りは、日本各地で目撃されてきましたが、こうした狐火については、実際の灯を誤って見たか、異常屈折の光を錯覚したものではないか、という意見も根強いようです。戦前の日本では「虫送り」といって、農作物を病害から守るため、田植えの後に松明を灯して田の畦道を歩き回る行事がありました。

狐の嫁入りは、田植えの後の夏に出現するという話も多く、また水田を潰すと見えなくなったという話が多いことから、この虫送りの灯を見誤ったのではないか、ということも言われています。

2015-1140234

このほかにも、各地の俗信や江戸時代の古書では、キツネの吐息が光っている、キツネが尾を打ち合わせて火を起こしている、キツネの持つ「狐火玉」と呼ばれる玉が光っているなどの色々な伝承があります。

その多くは現れたあと痕跡もなく消えてしまいます。ただ、何等かの痕跡を残す例もあり、これを根拠に物理的にありうる現象ではないか、とする説もあります。

「痕跡」としては例えば「糞」があります。埼玉県行田市では、谷郷の春日神社に狐の嫁入りがよく現れるといい、そのときには実際に道のあちこちにキツネの糞があったといい、狐火の原因の証明にはなりませんが、そこに狐が実際にいたことの証拠とされます。

また、岐阜県武儀郡洞戸村(現・関市)では、狐火が目撃されるとともに竹が燃えて裂けるような「音」が聞こえ、これが数日続いたといわれます。

寛保時代(1741~43年)の雑書「諸国里人談」では、元禄の初め頃、漁師が網で狐火を捕らえたところ、網に「狐火玉」がかかっていたといい、夜になると明るく光るので照明として重宝した、とあります。

ここまでくるとでっち上げとしか思えませんが、江戸初期の元禄時代(1688~1704年)の医薬本「本朝食鑑」には、より具体的にこの狐火の原因について触れています。

狐火は、英語では“fox fire”といいますが、「fox」には「朽ちる」「腐って変色する」という意味もあります。また、これが“fox fire”となると、その意味は「朽ちた木の火」、「朽木に付着している菌糸」、「キノコの根の光」を意味します。

そして、「本朝食鑑」には、この狐火の正体を「地中の朽ち木の菌糸が光を起こす」としており、英語の意味と同じになります。これは偶然の一致というよりも、おそらくは何等かの発光体を持つキノコが日米それぞれに存在していた(いる)ことをうかがわせます。

「ツキヨタケ」という、日本を中心として極東ロシアや中国東北部にも分布する発光キノコがあります。従来、発光性を有するのは、傘の裏側のひだのみだ、といわれてきましたが、近年の研究では、菌糸体についても肉眼的には検知できないほど微弱な光を発していることが判明しています。同様の発光キノコは北米にも多いようです。

また、「本朝食鑑」には、これ以外にも、キツネが人間の頭蓋骨やウマの骨で光を作っている、という記述が出てきます。

江戸後期の作家、高井蘭山や、随筆家・三好想山などの作家もまた、キツネがウマの骨を咥えて火を灯すと書いています。もっとも、この二人は高井は絵物語の読み本の作者、三好は奇談の収集家であり、多少興味本位で「本朝食鑑」の記述を改ざんした可能性があります。

また、明治時代に怪談話で一世を風靡した、東北の作家、杉村顕道が書いた奇談集「信州百物語」にも、ある者が狐火に近づくと、人骨を咥えているキツネがおり、キツネが去った後には人骨が青く光っていたとありますが、この話も本朝食鑑や、高井・三好らの作品を流用した可能性があります。

これらに比べて「本朝食鑑」は、日本の食物全般について、全12巻にわけて、品名を挙げ、その性質、能毒、滋味、食法その他を詳しく説明した博物書であり、傑作だと評価の高いもので、より信憑性があります。狐火の原因を発光キノコに求めているところなども科学的です。

2015-1140240

ただ、キツネが骨で光を作っている、というのがどういう根拠で出てきたのかはよくわかりません。が、この時代の人々のなかにも、狐火が発生する原因について、解明できないまでも、何等かの理由を探そうと努力していた人たちがいたわけです。

しかも、人の骨やウマの骨が光るというのは、まったく根拠のないことではありません。骨の中に含まれるリン(燐)は、夜間に光ることが知られています。後に東洋大学となる哲学館を設立した「井上円了」らは、この燐光を狐火と結び付け、リンが約60度で自然発火することが、狐火の正体だとする説を唱えました。

この人は、多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、また、迷信を打破する立場から妖怪を研究し「妖怪学講義」などを著したことで知られた人です。「お化け博士」、「妖怪博士」などと呼ばれました。

また燐は、農作物の生育にも必要不可欠なものであり、土中に多く含まれています。新潟や奈良県磯城郡などでは、狐の嫁入りなどの怪火の数が多い年は豊年、少ない年は不作といわれてきました。

その昔はリンの存在は知られていませんでしたが、こうした地方の人々は狐火の発光によって、知らず知らずにその年の土中に含まれるリンの量を把握していたことになります。

ただ、多くの伝承上の狐火は、キロメートル単位の距離を経ても見えるといわれており、発光キノコやこうしたリンの弱々しい光が狐火の正体とは考えにくい面もあります。

このため、狐火の正体を別の面から解明しようとする研究者もおり、最近では1977年に、日本民俗学会会員の角田義治という人が、山間部から平野部にかけての扇状地などに現れやすい光の異常屈折によって狐火がほぼ説明できる、と発表しました。

が、これに対しても異論は多数あるようです。ほかにも天然の石油の発火、球電現象などをその正体とする説もあるようですが、現在なお正体不明の部分が多く、狐火の正体を突き止めた人は未だいません。。

ところで、こうした狐火とは別に「鬼火」と呼ばれるものもあります。同じく、いわゆる「人魂」とされるもので、狐火と同じものだ、とする説もあるようですが、一般には鬼火とは別のものとして扱われています。

日本各地で目撃されたとする、空中を浮遊する正体不明の火の玉のことであり、一般に、人間や動物の死体から生じた霊、もしくは人間の怨念が火となって現れた姿である、と言われています。

アイルランドやスコットランドなどのイギリス地方では、ジャックランタンといった怪火が昔から目撃されており、この日本語訳としても「鬼火」の名が用いられることがあります。イギリス以外にも世界中で目撃されており、一般的にはウィルオウィスプ(will-o’-the-wisps)で知られています。

グニス・ファトゥス(愚者火)とも呼ばれ、他にも別名が多数あり、地域や国によって様々な呼称があります。こうした諸外国の鬼火は、夜の湖沼付近や墓場などに出没し、近くを通る旅人の前に現れ、道に迷わせたり、底なし沼に誘い込ませるなど危険な道へと誘うとされます。

そして、その正体は、生前罪を犯した為に昇天しきれず現世を彷徨う魂、洗礼を受けずに死んだ子供の魂、拠りどころを求めて彷徨っている死者の魂、ゴブリン達や妖精の変身した姿だ、などとされます。

2015-1140248

日本でも、亡霊や妖怪が出現するときに共に現れる怪火とされることが多いようです。江戸時代に記された「和漢三才図会」によれば、松明の火のような青い光であり、いくつにも散らばったり、いくつかの鬼火が集まったりし、生きている人間に近づいて精気を吸いとるとされます。これは、江戸時代中期に編纂された類書(百科事典)です。

同図会の挿絵からは、この鬼火の大きさは直径2~3センチメートルから20~30センチメートルほど、地面から1~2メートル離れた空中に浮遊する、と読み取れるといいます。が、あくまで想像の世界の絵なので、実際にその大きさや高さとは限りません。

江戸時代中期から後期にかけての、勘定奉行、南町奉行を歴任した「根岸鎮衛」というお役人がいましたが、この人が書いた随筆にも「鬼火の事」という記述があります。

ここでは、箱根の山の上に現れた鬼火が、二つにわかれて飛び回り、再び集まり、さらにいくつにも分かれたといった逸話が述べられています。箱根山上のものが見えるということは、大きさもかなりのものであるはずであり、また浮遊高さも1~2mで済むわけはありません。

そのほかにも、現在に至るまでいろいろな目撃情報があり、外見や特徴にはさまざまな説が唱えられています。が、その色は青だとされるものが多く、このほかでは、青白、赤、黄色などがあります。大きさも、ろうそくの炎程度の小さいものから、人間と同じ程度の大きさのもの、さらには数メートルもの大きさのものまでさまざまです。

上の根岸が目撃したように、1個か2個しか現れないこともあれば、一度に20個から30個も現れ、時には数え切れないほどの鬼火が一晩中、燃えたり消えたりを繰り返すこともあります。出没時期は、春から夏にかけての時期。雨の日に現れることが多く、水辺などの湿地帯、森や草原や墓場など、自然に囲まれている場所によく現れます。

が、まれに街中に現れることもあります。このため手で触れた「体験談」を語った伝承もあり、触れても火のような熱さを感じない、とする伝承もあれば、本物の火のように熱で物を焼いてしまったとするものもあります。

こうした鬼火と考えられている怪火には、地方によっても色々異なった形態がありますが、名前についてもいろいろです。

例えば高知では、遊火(あそびび)といい、高知市内の市や三谷山で、城下や海上に現れます。すぐ近くに現れたかと思えば、遠くへ飛び去ったり、また一つの炎がいくつにも分裂したかと思えば、再び一つにまとまったりしますが、特に人間に危害を及ぼすようなことはないので、遊び火というようです。

このほか、岐阜県揖斐郡揖斐川町では「風玉」といい、こちらは、暴風雨が生じた際、球状の火となって現れます。大きさは器物の盆程度で、明るい光を放つといい、明治30年の大風では、山からこの風玉が出没して何度も宙を漂っていたといいます。

京都には、「叢原火」、または「宗源火(そうげんび)」というのがあり、これはかつて壬生寺の地蔵堂で盗みを働いた僧侶が仏罰で鬼火になったものとされ、火の中には僧の苦悶の顔が浮かび上がったものだとされています。

同じく京都の、北桑田郡知井村(現・美山町、現・南丹市)には渡柄杓(わたりびしゃく)
という鬼火があり、これは山村に出没し、ふわふわと宙を漂う青白い火の玉です。柄杓のような形と伝えられていますが、実際に道具の柄杓に似ているわけではなく、火の玉が細長い尾を引く様子が柄杓に例えられているとされます。

このほか、沖縄のものは「火魂(ひだま)」といい、こちらは普段は台所の裏の火消壷に住んでいますが、時に鳥のような姿となって空を飛び回り、物に火をつけるとされます。

これらのほかにも、いげぼ(三重県度会郡)、小右衛門火、じゃんじゃん火、天火といった鬼火があり、「陰火」と「皿数え」は、ともに怪談話でよく語られる鬼火です。とくに皿数えは、「皿屋敷」のお菊の霊が井戸の中から陰火となって現れるもので、このとき現れたお菊さんは、例の「一枚足りな~い」という名ゼリフを吐きます。

2015-1140250

上の狐火は、発光キノコによるものではないか、あるいは燐光によるものではないか、など、その解明に向けて科学的なアプローチがされるのに対し、この鬼火のほうは、せいぜい江戸時代に川原付近で起きる光の屈折現象ではないか、とされるくらいであまり研究がされていないようです。

その最大の理由は、目撃証言の細部が一致していないためです。上述のとおり、地方地方によって呼び名も異なり、「鬼火」という総称もいくつかの種類の怪光現象を無理やりまとめあげるためにつけられたような印象があります。

ただ、雨の日によく現れる、とされることが多く、これから、狐火と同じく人や動物の骨が濡れることで内部にあるリンと化学反応を起こすのではないか、ということはよく言われます。紀元前の中国では、「人間や動物の血から燐や鬼火が出る」と語られていました。

ただし、当時の中国でいう「燐」は、ホタルの発光現象や、現在でいうところの摩擦電気も含まれており、必ずしも元素のリンを指す言葉ではないと思われます。

日本でも、前述の「和漢三才図会」の解説によれば、「鬼火」とは、「戦死した人間や馬、牛の血が地面に染み込み、長い年月の末に精霊へと変化したもの」と書かれています。

この「和漢三才図会」から1世紀後の明治21年には、新井周吉という作家が「不思議弁妄」という怪奇本を出し、この中で「埋葬された人の遺体の燐が鬼火となる」と書いたことから、近代日本でもこの説が一般化したようです。

この解釈は1920年代頃までには広く喧伝され、昭和以降の辞書でもそう記述されるようになり、多くの人が、人魂は人骨のリンが燃えている、と信じるようになりました。昭和30年代には、自称「発光生物学者」の「神田左京」という人が、この説にさらに解説を加えました。

リンは、1669年にドイツ人のヘニング・ブラントという錬金術師が、実験中に、尿を蒸発させた残留物から発見し田とされていますが、神田はその事実にも触れ、さらにリンに「燐」の字があてられのは、上述の中国での鬼火の故事に出てくる燐が、元素のリンと混同された結果だ、と説明しました。

これは全くそのとおりです。ただし、この神田氏は、鬼火とは、死体が分解される過程でリン酸中のリンが発光する現象である、とも説明しましたが、これには科学的な根拠はないようです。

ところが、この説には尾ひれがつき、いや、リン自体ではなくリン化水素のガス体が自然発火により燃えているという、まことしやかな説や、死体の分解に伴って発生するメタンが燃えているという説、同様に死体の分解で硫化水素が生じて鬼火の元になるとする説など、次々と新説が唱えられるようになりました。

2015-1140255

最近では、放電による一種のプラズマ現象によるものだとする学者もいて、雨の日に発生することが多いという、セントエルモの火と同じだと説明する学者もいます。これは、悪天候時などに船のマストの先端が発光する現象で、激しいときは指先や毛髪の先端が発光する。航空機の窓や機体表面にも発生することがあります。

セントエルモの火の名は、船乗りの守護聖人である聖エルモに由来します。その後の研究で、尖った物体の先端で静電気などがコロナ放電を発生させ、青白い発光現象を引き起こすことがわかっており、雷による強い電界が船のマストの先端(檣頭)を発光させたり、飛行船に溜まった静電気でも起こることが確認されています。

1750年、ベンジャミン・フランクリンが、この現象と同じように、雷の嵐の際に先のとがった鉄棒の先端が発光することを明らかにしており、物理学者の大槻義彦氏もまた、こうした怪火の原因がプラズマによるものとする説を唱えています。テレビなどのメディアで有名な先生で、超常現象なら何でもありえん、と否定することで有名な方です。

さらには、真闇中の遠くの光源は止まっていても暗示によって動いていると容易に錯覚する現象が絡んでいる可能性がある、と心理学的な観点からの原因を主張する学者もいます。

いずれの説も、確かに科学的なアプローチに基づいており、そういわれればなんとなくそういう気にもなってきますが、前述のように鬼火の伝承自体が様々であることから考えても、いろいろある鬼火の原因を十把一絡げにまとめてしまうこと自体に、無理があるようにも思われます。

また、鬼火と狐火は別物だとする意見があるのと同じく、鬼火と人魂は別物だとする意見もある一方で、じゃあ何がどう違うのよ、と聞かれて、はっきりそうだと言える人がいないのも現実です。こうした怪火、とされるものについての原因究明はさっぱり進んでいないのが現状といえるでしょう。

2015-1140284

九州には、不知火(しらぬい)という、こうした現象とはまた違った怪火の伝承があります。海岸から数キロメートルの沖に、始めは一つか二つ、「親火(おやび)」と呼ばれる火が出現し、それが左右に分かれて数を増やしていき、最終的には数百から数千もの火が横並びに並ぶといいます。

「日本書紀」に出てくる第12代天皇、景行天皇は、九州南部の先住民を征伐するために熊本を訪れた所、この不知火を目印にして船を進めたとされており、この地方の昔からの風物詩でもあります。

旧暦7~8月の晦日の風の弱い新月の夜などに、八代海や有明海に現れるといいます。その距離は4〜8キロメートルにも及ぶといい、また引潮が最大となる午前3時から前後2時間ほどが最も不知火の見える時間帯とされます。

水面近くからは見えず、海面から10メートルほどの高さの場所から確認できるそうですが、不知火に決して近づくことはできず、近づくと火が遠ざかって行くといわれ、かつては龍神の灯火といわれ、付近の漁村では不知火の見える日に漁に出ることを禁じていました。

実はこちらの怪火は、ある程度科学的には説明できるようになっていて、これは大気光学現象の一つとされています。江戸時代以前まで妖怪の仕業といわれていましたが、大正時代になってから科学的に解明しようという動きが始まり、その後、蜃気楼の一種であることが解明されました。

さらに、昭和時代に唱えられた説によれば、不知火の時期には一年の内で海水の温度が最も上昇すること、干潮で水位が6メートルも下降して干潟が出来ることや急激な放射冷却、八代海や有明海の地形といった条件が重なり、これに干潟の魚を獲りに出港した船の灯りが屈折して生じる、と詳しく解説されました。

つまり、不知火とは、気温の異なる大小の空気塊の複雑な分布の中を通り抜けてくる光が、屈折を繰り返し生ずる光学的現象であり、その光源は民家等の灯りや漁火などです。条件が揃えば、他の場所・他の日でも同様な現象が起こります。

その昔は、旧暦八朔のころ、現在では8月末から9月末にかけて、この地方では未明に広大なる干潟が現れました。

このとき、冷風と干潟の温風が渦巻きを作り、異常屈折現象を起こしますが、このとき沖合には夜間に出漁した漁船も多く、不知火の光源はこの漁火となりました。この漁火は燃える火のようになり、それが明滅離合して目の錯覚も手伝い、陸上からは怪火のように見えた、というわけです。

現在では干潟が埋め立てられたうえ、電灯の灯りで夜の闇が照らされるようになり、さらに海水が汚染されたことで、不知火を見ることは難しくなっているといいます。こうした怪火とされるものも環境の悪化によって次第に失われつつあるとすれば、少々悲しい気がします。

いつの日か人魂や狐火も見れなくならないよう、いつまでも美しい日本の自然を守っていきたいものです。

2015-1140291