潜水艦のはなし

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今見ている歴史年表には、1776年9月7日、アメリカの潜水艇「タートル」がイギリスの戦列艦「イーグル」を攻撃した、とあります。

世界初の潜水艦と呼ばれるものは、これよりも156年前の1620年にイギリス海軍が開発したもので、櫂(かい)による人力推進という原始的なものだったうえに、実戦投入はされませんでした。

従って、戦争に用いられる戦闘艦、という意味では、事実上、このタートル(Turtle)なる潜水艦が、世界で初めての潜水艦と言ってよいでしょう。開発したのは、コネチカット州出身の、デヴィッド・ブッシュネルという人で、アメリカ独立戦争ごろに活躍した発明家です。

イェール大学在学中、火薬が水中でも爆発することを証明し、また、世界初の時限爆弾を作ったことでも知られています。1776年夏、その爆弾を使い、ニューヨーク港を封鎖していたイギリスの艦船の船体に穴を開けて爆弾を仕掛けようと考えましたが、その実行のために開発したのがこの潜水艦です。

現在2ドル札の裏面に使われている「アメリカ独立宣言「など歴史的場面を描いたことで有名な画家、ジョン・トランブルが、ジョージ・ワシントンにこのブッシュネルを推薦したと伝えられています。ワシントンは、このころまだ北軍の将軍でしたが、ご存知のとおり、のちの初代大統領です。

トランブルは、このころ、ブッシュネルの住むコネチカット州の知事を務めており、若き発明家としての彼の名声を聞き知っていたのでしょう。ワシントンは半信半疑ながらも、トランブルが勧めるまま、その「機械」の開発に資金と支援を提供しました。

ブッシュネルは提供された資金をもとに、全長2.4m、全高1.8m、全幅0.9mで、2枚の木製外殻にタールを塗り、鋼鉄製の帯で補強した潜水艇を完成させ、カメを思わせるその形状からこれを「タートル」と名付けました。

そして、この潜水艇を使って、イギリス軍の艦船に悟られないように近づき、船の船体に穴を開け、そこに59kgの火薬を詰めた樽を埋め込み、時限信管で爆発させることを想定しました。実戦に投入する前の試験は、兄弟エズラ・ブッシュネルがコネチカット川の水中で行ったとされます。

現代の潜水艦と基本原理は同じで、船底のタンクに水を引き込むことで潜水し、手動ポンプを回して排水することで浮上します。また、史上初めてスクリューで推進する方式を採用した船でもありました。さらに、91kgの鉛を装備しており、それを放つことで瞬間的に浮力を増すことができました。

ただ、哀しいかな、まだこの潜水艦もまた、動力は人力であり、しかも1人乗りでした。しかし、艇内の空気で約30分潜水でき、荒れていなければ1時間に5kmほど進むことができたといいます。

上部に6つの小さく分厚いガラス窓があり、そこからしか自然光が入ってきません。このため、ブッシュネルは艇内をもっと明るくしたいと考え、はじめロウソクを使おうと考えました。しかし、ロウソクに火が灯ると限られた酸素の消費が早まることがわかりました。

そこで、同じく発明家で科学者として名声を博していた、ベンジャミン・フランクリンに助けを求めました。ご存知のとおり、凧を用いた実験で、雷が電気であることを明らかにした人物です。

この実験はその後避雷針の発明に結びつきましたが、フランクリンはこのほかにも、フランクリンストーブとして知られる燃焼効率の良いストーブなども開発しており、この時代のいわばエネルギー工学のエキスパートでした。

ブッシュネルからの相談を受けると、早速対処方法を考えましたが、その結果として、羅針盤と測深計を生物発光の燐光で照らすアイデアを思いつきました。その光は夜間の照明としては十分でした。しかし、予想していたよりもかなり薄暗かったといい、これは、船体が海水で冷やされるため、発光生物の代謝が低く抑えられたからです。

とまれ、タートルは一応の完成を見たことから、実戦に投入されることになりました。このころのアメリカは、イギリスからの独立戦争の真っただ中であり、イギリス軍はニューヨーク占領のために大陸軍をロングアイランドの戦いで破り、マンハッタン島に後退した総司令官ワシントン率いる大陸軍を追ってイースト川を渡ろうとしていました。

イースト川に浮かぶイギリス海軍艦隊は多数におよび、大陸軍に激しい艦砲射撃を浴びせかけ、上陸点を守っていた経験の足りないアメリカ側民兵はこれにおののき、逃亡しました。キップス湾と呼ばれる湾の海側から抵抗もなく上陸に成功し、この作戦はイギリス軍の決定的な成功に終わりました。

このため、この戦いは後世で「キップス湾の戦い」と呼ばれています。この戦いのさなかの1776年9月7日夜、キップス湾での戦闘を支援するため、タートル潜水艇はマンハッタンの真南にあるガバナーズ島に係留されていたハウ将軍の旗艦イーグルを攻撃しました。

この新鋭艦の操縦者に選ばれたのは、一兵卒でしたが、大陸軍の中でも勇猛果敢な人物として知られていた、エズラ・リーという男でした。しかし、この作戦は、失敗でした。リーは、目標とするイーグルの船腹にまで到達することには成功しましたが、その胴体に穴をあけることができませんでした。

一説によれば、銅版で船体が覆われていたためにリーが船体に穴を開けられなかったのではないかとされています。が、薄い銅版にドリルで穴を開けられなかったはずはなく、おそらくは、リーがタートル号の操縦に不慣れであり、揺れる波中で、船体の1カ所に集中してドリルを回し続けられなかったのではないか、ということが言われています。

このイーグルが停泊していたガバナーズ島近辺というのは、ハドソン川とイースト川が合流する位置にあり、流れが強く複雑です。このため、タートル号がこの場所に係留された船を攻撃できるとしたら、上げ潮と川の流れが釣り合った短時間だけだったと考えられます。おそらくはその持ち時間の中で穴をあけられなかったのでしょう。

また、イーグルを攻撃するためには、タートル号は潮流を横切る形で同船に近づく必要があり、人力が推進装置であるこの船を操船するエズラ・リーは、イーグルに接近したころにはかなり疲れきっていたと考えられます。

さらに悪い事に、リーの乗るタートル号は、その退却時にイギリス側に発見されてしまいます。このためイギリス軍の兵士がボートで追いかけてきましたが、彼は咄嗟の判断で、火薬を詰めた樽を放ちました。これを見た、イギリス側は何かの計略ではないかとひるみ、その隙にリーはなんとか逃れることができたといいます。

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しかし、この失敗にもめげず、リーは翌年の1777年、ふたたびタートル号に乗り、出撃しました。このときは、ナイアンティック湾に係留していたイギリスのフリゲート艦 HMS ケルベロスを浮遊機雷で攻撃しようとしました。今回の試みはある程度成功し、その爆発によって、同艦には数名の船員の死傷者がでました。

が、やはり船体に損傷を与えることはできませんでした。ただ、潜水艦として相手に攻撃を加えて成功した最初の例であり、その後世界中で運用されるようになるこの乗り物の歴史においては特筆すべきことでしょう。

その後、タートル号は、リー以外の搭乗員によって運用され、何度か出撃したようですが、最後は、ニュージャージー州フォートリーでイギリス側に発見され、沈められたと伝えられています。

ちなみにその後のリーは、独立戦争の緒戦のいくつかで戦いましたが、最後はニュージャージー州で戦われた、トレントンの戦いにおいて銃弾に倒れ、出身地のコネチカットにある、ダック墓地に埋葬されています。

数年後、この水没したタートルは、大陸軍によって回収されました。この事実はブッシュネルが、第3代アメリカ合衆国大統領トーマス・ジェファーソンへ宛てた手紙の中に記されているそうです。また、ブッシュネルはそれを解体し、おおまかな図面を残しました。

この図面を用い、1976年のアメリカ建国200周年においては、200周年記念事業として、このタートル号のレプリカが製作されました。コネチカット州知事、エラ・グラッソらによって進水式が行われ、コネチカット川で潜水試験も行われたそうです。

この複製品は現在、「コネチカットリバー博物館」に納められており、このほかにも地元の高校生が実動する複製を作ったものがあるそうです。

このタートル号が実戦投入されてから、以後およそ240年、潜水艦は目覚ましい発展を遂げました。耐圧構造の船体を持ち、潜航可能な軍艦は、現在でも潜水艦と呼ばれていますが、同様の構造の船でも、民間の海底探査船や水中遊覧用船などは潜水艇、潜水船などと呼ばれ、深海探査や救助用として別のかたちの発展を遂げました。

一方の軍用の潜水艦においては、その後同じアメリカでの南北戦争では、南軍が人力推進型の「ハンリー潜水艦」というものを開発しました。この船は、1864年に、サウスカロライナ州チャールストン港外で、同港を封鎖中の北軍木造蒸気帆船「フーサトニック」を外装水雷により撃沈しており、これは史上初となる潜水艇による敵艦撃沈記録でした。

また、同じ年、世界で初めて動力を使用した潜水艦が開発されました。フランス海軍の「プロンジュール」であり、これは12.5バールに加圧された圧縮空気をタンクに貯蔵し、これを利用するレシプロ式の空気エンジンで推進しました。80馬力を発揮し、4ノットの速度で5海里 (約9 km)航行できました。

最大潜行深度は10m、武装は衝角と電気発火式の外装水雷であり、さらに12人の乗員が脱出できるように、8×1mのサイズの小さな救命艇が装備されるという本格的なものでした。実戦には投入されませんでしたが、1867年のパリ万国博覧会にプロンジュールの模型が展示され、それを見たジュール・ヴェルヌが書いたのが有名なSF「海底二万里」です。

次いで、1867年には、スペインの技術者、ナルシス・ムントリオルがスペイン海軍の援助を受けて、潜水艦「イクティネオII」を非大気依存推進させることに世界で初めて成功しました。

非大気依存推進とは、ディーゼル機関などの内燃機関の作動に必要な大気中の酸素を取り込むために、浮上もしくはシュノーケル航走をせずに潜水艦を潜航させることを可能にする技術の総称です。ただし、いわゆる原子力潜水艦などの核動力を含まず、蓄電池や化学反応などによって内燃機関を補助・補完する技術を指します。

「イクティネオII」では、2基のエンジンを搭載していました。水上航行用の1基目は従来通りに石炭を使用しましたが、水中航行用の2基目は燃焼ではなく亜鉛53%・二酸化マンガン16%・塩素酸カリウム31%を混合させた化学燃料棒を化学反応させる事で、エンジンを回しました。これにより必要熱とともに、副産物として酸素も発生できました。

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このエンジンの仕組みを調べてみましたが、よくわかりません。おそらくは化学反応で発生した熱で水を熱して気化させ、蒸気エンジンとしたものだと思われます。なお、酸素が発生することから、これにより乗組員の生命維持機能を持たせることもでき、20人もの搭乗員を乗せて、8時間以上も潜航航行できたといいます。

しかし、化学反応によって得られる程度の熱では、十分な推力は得られなかったとみえ、このため水中での推進力は、昔ながらの人力が併用されていました。それゆえ、水中での最大速力はわずか、2ノット(時速3.7km)でした。

とはいえ、いまから150年ほども前のこの時代に、世界に先駆けて非大気依存推進させることに成功したということは偉業といえます。1867年といえば、日本ではこの年、ようやく大政奉還が実現した年です。このため、実用的な潜水艦を発明したのはアメリカですが、本格的な潜水艦を世界に先駆けて発明したのはスペイン、とはよく言われることです。

その後、1888年には、フランス海軍が世界最初の電気推進の潜水艦「ジムノート(Gymnote)」を開発し、非大気依存推進の潜水艦の開発はさらに加速しました。

さらに、1900年になって、近代潜水艦の父と呼ばれた、スコットランド出身でのちにアメリカに帰化した造船技師、ジョン・フィリップ・ホランドによって設計された潜水艦「ホーランド号(水中排水量74t)」は、最初の近代的潜水艦として評価の高いものでした。

主機のガソリンエンジンと電動機の直結方式(ハイブリット)であり、内燃機関によって推進する近代潜水艦の元祖として知られます。また、「ホランド級潜水」として、アメリカのみならず、カナダ、イギリス、イタリア、オーストリア=ハンガリー帝国、オランダ、ノルウェー、ロシア帝国、そして日本までもがその模倣船を造りました。

ちなみに、この当時の大日本帝国海軍にとっては、初めての潜水艦がこのホランド級でした。アメリカで製造されたバラバラの部品を日本に輸送して完成させるという、いわゆるノックダウン方式で組み立てられ、「第一型潜水艦」とよばれ、都合5隻が建造されました。

純国産とされるものは、その2年後の1906年に起工されたもので、六隻目なので、「第六型潜水艦」と呼ばれました。アメリカから製造権を購入して建造されたもので、ホランドの設計に基づき、川崎造船所で2隻が建造されました。

コピーながら日本で初めての潜水艦建造でしたが、船体はホランド型よりも小型となっています。日露戦争には間に合いませんでしたが、第一次世界大戦後まで、主に練習艦として運用が継続されており、優秀な艦でした。

ちなみに、その後大日本帝国海軍は潜水艦を艦隊決戦における敵艦隊攻撃用に投入することを意図し、大型の「大海型潜水艦」と「巡洋潜水艦」の二系列を中心に建造しました。巡洋潜水艦は水上機を搭載したのが特徴で、航続力と索敵力に優れた偵察型でした。対して海大型は、水上速力と雷撃力に優れた攻撃型でした。

しかし太平洋戦争では、開戦前に想定されていた艦隊決戦は起こらず、目立った活躍はありませんでした。インド洋での通商破壊や、南方への輸送任務などに投入されましたが、米海軍艦艇の優秀な対潜兵器の前に多くが撃沈されていきました。

その日本と同盟国であったドイツは、第一次大戦期から開発していたUボートで世界の海を席巻し、これは名作とうたわれました。

第一次大戦では約300隻が建造され、商船約5,300隻を撃沈する戦果を上げました。また、第二次大戦では、1,131隻が建造され、終戦までに商船約3,000隻、空母2隻、戦艦2隻を撃沈する戦果をあげました。しかし、その引き換えに849隻のUボートが失われました。

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これに対し、連合国側のアメリカ海軍もドイツ同様、潜水艦を対日通商破壊に投入しました。高性能なレーダーやソナーなどにより、電子兵装の劣る日本艦船を次々と撃沈していきましたが、その活躍により日本商船隊は壊滅し、対日戦勝利に大きく貢献しました。

そのアメリカ海軍は、戦後10年を経て1955年に、世界初の原子力潜水艦、「ノーチラス」(排水量3,180t)を完成させました。原子炉と蒸気タービンを採用した、史上初の潜水艦であり、水中速力20ノットを誇り、潜航可能時間はなんと3ヶ月と驚異的なものでした。

この原子力主機登場により、その後、潜水艦の水中速力と水中航続力は大きく増大するとともに、戦闘能力も飛躍的な向上を遂げました。原子力潜水艦が大型水上艦艇を撃沈した例は、1982年のフォークランド紛争時に、イギリス海軍の「コンカラー」がアルゼンチン海軍の巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」を雷撃によって撃沈した事例が最初です。

「コンカラー」は「ヘネラル・ベルグラーノ」を24時間以上つけ回しましたが、全く気付かれなかったといい、この戦いにより、それまで水上艦に対し圧倒的に不利と思われていた原潜の有効性が証明されました。

世界初の原子力潜水艦ノーチラスの就航はまた、潜水艦の種類の分化にも寄与しました。とくに核を搭載する潜水艦は、米ソ冷戦時代に著しく進化し、弾道ミサイル潜水艦や巡航ミサイル潜水艦は、時代の花形となりました。

これらのほとんどは、原子力潜水艦です。長期間、敵国領海深くに潜み、いざとなれば核を放って相手の息を止める、というこの潜水艦建造技術は、アメリカのお家芸ともいえるものであり、ソ連がその技術を追いかけました。が、現在では米露以外でも、イギリス、フランス、中国、インドがそれぞれ建造に成功し、実戦配備しています。

そのほか、原子力潜水艦を保有しない国では攻撃型潜水艦、沿岸型潜水艦などが造られるようになりました。

沿岸型潜水艦というのは、哨戒型潜水艦とも呼ばれるものです。小型で航続力に乏しく、自国周辺海域での哨戒任務に使用されます。第二次大戦時までは、中型・小型の沿岸型潜水艦が多数建造されました。

しかし対潜兵器の進化した現代では、大洋の真っただ中である、「公海」で作戦行動するのは浅航行を必要としない原子力潜水艦が主力となり、これらの沿岸型潜水艦はなりをひそめました。

ただ、冷戦終結後にはソ連海軍を引き継いだロシア海軍の潜水艦部隊は財政状況が悪化し著しく不活発となったため、米海軍における原潜についても、従来の敵潜水艦や敵水上艦艇への攻撃及び味方機動空母の護衛のような任務は大幅に軽減されるようになりました。

しかしながら、冷戦終結と入れ替わり世界では地域紛争が頻発するようになり、アメリカの攻撃型原潜には別な任務が求められるようになりました。巡航ミサイルを装備するようになり、これを艦首の垂直発射システムから水中発射し、敵の重要目標へ対地攻撃します。

また、敵対国の沿岸に隠密に侵入して、偵察や情報収集活動を行ったり特殊部隊の投入や回収を行うことが可能な艦内構造に変化し、さらに敵潜水艦の発見追尾などの任務も担うようになりました。現在では索敵が原子力潜水艦の一番の任務であるといえます。

このため、仮に通常動力型の潜水艦が外洋で作戦行動をしても、こうした原子力潜水艦に容易に位置を察知され「無力化」されてしまいます。それゆえ、基本的に通常潜水艦は自国近海での哨戒任務にしか使用できず、このため、その多くは「沿岸哨戒型潜水艦」と呼ばれることも多くなっています。

しかし、沿岸といっても、自国の海岸線から200海里(370.4km)の範囲内である、排他的経済水域などのやや広い範囲で活動する潜水艦は、「攻撃型潜水艦」と呼ばれます。魚雷や機雷などを主兵装とし、領海に侵入してきた敵の水上艦艇や潜水艦などの攻撃を任務とする潜水艦です。略称は、米英海軍および海上自衛隊ではSSと呼ばれます。

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一方、原子力推進式のものも攻撃型潜水艦といえますが、この場合は核動力 (Nuclear) を表すNを付けてSSNになります。しかし、一般的に原子力推進のものは「攻撃型原子力潜水艦」と呼び、それ以外の推進力を持つ潜水艦は、単に「攻撃型潜水艦」と呼ぶようです。

かつての非原子力型の攻撃型潜水艦は、水上艦艇に比べ最高速力や防御力、電子装備、水中航続距離などの基本的能力が劣り、巡洋艦や駆逐艦とまともに戦闘するためには少々非力でした。このため、主に待ち伏せ攻撃、港湾での情報収集、特殊部隊投入、物資輸送、通商破壊などの対貨客船任務、などの任務に投入されました。

しかし第二次大戦以降、魚雷やソナー、各種電子機器、通信装置の性能が向上し、さらに原子力潜水艦で培われた技術を流用することでその攻撃性は画期的に向上し、現在では強力な戦闘力を持つ最強の軍艦として、かつての戦艦に匹敵する地位を獲得しました。

また、攻撃型潜水艦は敵水上艦船だけでなく敵潜水艦も攻撃目標とするようになりました。隠密性の高い潜水艦を探知し攻撃するのは、やはり同じ潜水艦のほうが有利だからであり、このため敵の戦略ミサイル潜水艦を攻撃する任務や、自国の艦隊を敵の攻撃型潜水艦から護衛する任務を与えられるようにもなりました。

このため、上述のとおり、日本が保有している潜水艦は、「沿岸哨戒型潜水艦」ともいえるわけですが、外洋に出て敵を威嚇または攻撃できる十分な能力持っていることから、「攻撃型潜水艦」といっていいでしょう。自民党はこの呼び方を嫌がるでしょうが。

日本では、海上自衛隊自衛艦隊に所属する、「潜水艦隊」を保有しており、潜水艦隊の司令部は神奈川県横須賀市に置かれています。ここをヘッドとして、呉基地の第1潜水隊群、横須賀基地の第2潜水隊群が主力です。このほか、潜水艦教育訓練隊、第1潜水訓練練習隊、横須賀潜水艦教育訓練分遣隊があります。

潜水艦隊には、現在、16隻の作戦用潜水艦、2隻の訓練用潜水艦の計18隻の潜水艦があります。呉市にある第1潜水隊群が10隻、横須賀市の第2潜水隊群が8隻を保有しています。

第1と第2潜水隊群は、もともと並列で運用されていました。が、それでは有事に指揮系統がバラバラになりかねないとの危惧があり、昭和55年の法律改定により、潜水艦群の作戦運用は、横須賀の本部で一元化され、「潜水艦隊」として統一されることになりました。

これら一連の潜水艦群の中でも最新型のものは、「そうりゅう型潜水艦」です。海上自衛隊初の非大気依存推進(AIP)潜水艦であり、13中期防の4年度目にあたる平成16年度(2004年度)予算より取得を開始した潜水艦(SS)であることから、16SSとも呼ばれています。

最近、ニュースでオーストラリア海軍への技術供与が可能かどうか、が話題になっているのはこの艦です。

オーストラリアは、世界一のウラン埋蔵量を持っており、世界有数のウラン輸出国ですが、国内に原子力発電所はひとつもありません。放射性廃棄物の処分に有効な手立てがないことなどを理由に、国民の多くが原発に対してノーといっているためです。

また、火力発電の燃料でもある石炭も世界有数の埋蔵量を誇ることから、エネルギー安全保障の観点から原子力政策を打ち出すことが困難な状況です。そうしたこともあって、原子力潜水艦についても根強い反対意見があり、オーストリア海軍は、コリンズ級という潜水艦を6隻ほど持っていますが、すべて通常動力型潜水艦です。

ただ、このコリンズ級潜水艦は、ほとんどが1996~2003年に建造されたもので、少々老朽化しており、加えて、最近中国海軍のアジアにおける活動の活発化を鑑みて、コリンズ級潜水艦の代替として4,000トンクラスの大型潜水艦の導入を計画するようになりました。

ドイツの216型潜水艦の他にスペイン、フランスの潜水艦の調査が行われていましたが、2011年に日本が武器輸出三原則政策を緩和したため、そうりゅう型も検討対象に加えられた、というわけです。

ただ、オーストラリアのアボット政権は、公約で次期潜水艦を国内で建造すると表明しており、そうりゅう型の完成型を輸入することは、この公約に反することになります。このため、オーストラリア内で反発が強まる恐れがあり、また、日本政府にも、機密性の高い潜水艦を他国に輸出することに慎重論があります。

しかし、アボット首相は国内での潜水艦の建造が国内経済へ与える効果については懐疑的であるともいわれ、あくまで軍事的な観点から判断するとしています。なお、日本の潜水艦は、インドも高い関心を持っており、その他の国からも高い評価を得ていることから、HⅡロケットと同様に、潜水艦技術を輸出する時代が来るかもしれません。

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原子力潜水艦より劣るのでは、というのが一般的な見方ですが、原子力潜水艦の欠点は、電動機推進時(エンジンは停止)のディーゼル・エレクトリック方式の潜水艦に比べ、静粛性が劣ることです。原子力機関では、高速回転する蒸気タービンの軸出力で低回転のスクリューを回すため、ギヤで減速装置を回しますが、これが大きな騒音発生源となります。

これは沿岸に潜んで敵を待ち伏せる、という目的のためにはネックとなります。オーストラリア海軍もまた日本と同じように、公海にまで出て他国潜水艦を探査したり、攻撃を加えるような必要性はあまりないため、従来型の通常動力潜水艦で十分、というわけです。

こうしたことを受け、昨年の2014年10月には、オーストラリアのジョンストン国防相が、江渡聡徳防衛大臣との会談で、オーストラリアが計画する潜水艦建造への協力を正式に要請しました。まだ、実際に技術供与が行われるかは五分五分のようですが、中国の海洋進出が進む西太平洋の現在の状況をみると、可能性はあるのではないでしょうか。

この「そうりゅう」の能力ですが、高速力を発揮する際には、従来通りのディーゼル・エレクトリック方式が用いられますが、哨戒や索敵、あるいは情報収集といった静粛行動の際には、「スターリングAIPシステム」という特殊なエンジンを駆動します。

いわゆる「スターリングエンジン」というヤツで、非常に複雑なシステムです。が、熱効率が高く排ガスを出さず、かつ静粛性が高いのが特徴です。ただ、出力が低いので低速(4~5ノット=7.4~9.3km/h)です。が、航続性能は著しく高く、詳細データは公表されていませんが、このエンジンで電気を作り、3週間程度の水中行動ができるといわれています。

また、最高潜航深度は5~600mとも700mを超えるとも言われており、いずれにせよ潜航能力に関しては間違いなく、世界トップクラスのようです。アメリカもこの深度を潜れる原潜を数隻持っていますが、試験段階のようで、量産型原潜の潜航深度は4~500m程度にすぎません。

また、自衛隊に実戦配備されている89式長魚雷という「深深度魚雷」は、静粛性を重視し、長距離航走を可能としています。速度は55ノット(約100㎞/h)と劣るものの、射程は約40㎞と通常魚雷の約4倍、特筆すべきは最大潜航深度900mでも発射できることです。

もっとも、魚雷を射出するためにはその深度まで潜らなければなりませんが、実際そこまで潜航できるかどうかは、日本だけでなく、各国とも最高位の軍事機密です。

一方、アメリカでは、Mk50魚雷と呼ばれる深深度魚雷が最高深度を持っているようですが、それでも580メートルにすぎず、かつ高価です。加えてアメリカは近年、深深度に潜行する潜水艦よりも、浅深度における潜水艦を主要な脅威とみなすようになり、こうした高価・複雑な深深度向け魚雷の採用には積極的ではありません。

敵を攻撃するためには、ミサイルのほうが有利と考えているのもその理由のようです。ミサイル発射の時は安全深度まで浮上しなければならず、さもなければ射出時に不具合が起きたり、射出できても水圧により圧壊の可能性があるそうです。

従って、アメリカの原潜の多くは、潜航深度4~500mといわれており、原潜本体においても、近年ではこれより深く潜れるものは税金の無駄遣いとして敬遠されているようです。こうしたことから、アメリカが潜水艦に求める性能は、浅い海を長く潜れて広い範囲を行動でき、かつ高い攻撃能力を持つこと、ということになります。

これに対して、日本の攻撃型原潜に求められるのは、深い海をそこそこの時間潜航できて、かつできるだけ敵に悟られないように相手を追い詰めて仕留める、という点であり、このため「深さ」という点においてこだわりがあるようです。従って、この点については、そうりゅう型は世界のトップクラス、といえそうです。

さらには、情報処理システムも最高レベルのものが導入されています。これこそトップシークレットのようなので、詳しくはわかりませんが(私に詳細な知識がないこともありますが)、武器管制システムおよび魚雷発射指揮システムは、二重の光ファイバーによるLANによって構築されています。

そして、これらのネットワーク化システムによって生成された情報を意思決定に反映するためのインタフェースも充実しています。例えば、センサー情報や航海情報などの情報表示装置なども迅速性、広域性が確保されているといいます。

さらに、他の艦とのネットワーク構築も進んでおり、そうりゅう型の7番艦で最新鋭の「じんりゅう」からは新たなXバンド衛星通信装置が装備されたようです。

Xバンド通信は8GHz以上の高周波数帯域を使う通信のことで、携帯電話通信や地上デジタル放送などよりもはるかに高い周波数で通信するため、従来の衛星通信と比較して、気象などの影響を受けにくい、高速・安定通信が可能である、といった特徴があります。

ただ、聞きかじった範囲では、潜水艦の耳ともいえるソナーシステムについては、基本的にはアメリカ海軍の開発した技術を模倣している、といった状況のようです。世界最高レベルではあるものの、能力的に以前のものからさほど進歩していないようであり、将来へ向けての新技術への挑戦が必要、といったことが取沙汰されているようです。

とはいえ、かつての造船大国日本として培った最高の技術が蓄積された潜水艦であり、それをオーストラリアのような他国に売っていいかどうか、という議論はまだまだ続きそうです。

なお、最新鋭艦のじんりゅうの建造費は545億8千万円だそうです。先日公表された新国立競技場の建設費用が、1550億円ですから、これ一隻でその費用の3分の1が賄うことができます。

国威高揚のための国際大会も、国を守るための装備もどちらも大事です。が、1000兆円を超える借金でいまや国民1人あたりの負担額は830万円にもなっており、はたしてそんなムダ遣いばかりしていていいのか、と少々複雑です。

今の日本にとって、本当に必要なものに対する精査が必要になってきている時代のように思えます。

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あさが来る

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私が日常で手放せないもののひとつに、「リップクリーム」があります。

どうも唇が渇きやすいたちのようで、年から年中、冬でも夏でもいつも胸ポケットに1本入れていて、カサカサ感があると、ついつい手がでます。

今もその一本が手元にありますが、商品名は「メンターム薬用スティック」とあります。製造会社は「近江兄弟社」となっていますが、そういえば、メンターム意外に、「メンソレータム」というのもあったよな、とふと思い出しました。

違いはなんだろう、と調べてみると、「メンソレータム」のほうは、ロート製薬のものだそうです。ところが、この「メンソレータム」も、元々は近江兄弟社が世に出したものだったということがわかりました。

最初に作った近江兄弟社のほうが、その後業績不振に陥り、販売権を手放したものをロート製薬が買取りました。が、その後兄弟社が自主再建の足がかりをつかみ、残っていたメンソレータムの製造設備などを活用して新たに製造・販売した塗り薬が、「メンターム」です。

しかし、主原料・効能、容器のデザインはほぼ同じです。メンソレータムの名前の由来は、メンソールとワセリン(ペトレータム)を組み合わせたもので、この名前はロート製薬が商標登録してあったものを入手したため、再起した近江兄弟社側は使えず、やむなく「メンターム」の名で売り出したものです。

それにしても、両方とも似たようなリップであり、濃い緑色の表装です。が、中身をよく見ると、メンソレータムが黄色ワセリンを使っていて少し黄ばんでいるのに対し、メンタームは白ワセリンを使用しているため白く、色合いは若干異なります。

また、メンソレータムのマスコットは、「リトルナースちゃん(小さな看護婦さん)」であるのに対し、メンタームのほうは、「メンタームキッド」です。

リトルナースは、元々、米国メンソレータム社が雑誌広告と金属容器に一時期使用していたキャラクターで、モデルはかつて天才子役として世界的に人気のあった女優シャーリー・テンプルではないかとの説があります。

近江兄弟社の前身である「ヴォーリズ合名会社」が、明治時代にこのアメリカのメンソレータム社から販売権を譲り受け、日本国内向けに販売、その後、製造も手がけるようになったときに、このリトルナースの商標権も買取りました。その後、若干の修正を加えており、このときオリジナルは右向きの顔で描かれていたものを、日本版では左向きにしました。

一方、メンタームのキャラクター、メンタームキッドはギリシャ神話の医術神アポロンをモデルとして描かれました。さすがに同じナースちゃんではまずいと思ったのでしょう、女の子に対抗して男の子をイメージキャラクターにしたわけです。

この近江兄弟社というのは、滋賀県近江八幡市に本社を置く医薬品メーカーです。明治38年(1905年)に滋賀県八幡商業学校に赴任してきた建築家、ウィリアム・メレル・ヴォーリズが、造った会社です。

ヴォーリズは明治40年(1907年)に教師として来日しましたが、布教もその来日の目的のひとつであり、八幡基督教青年会館という布教所を建設してバイブル・クラスを開設しました。

ところが、この八幡というところは、豊臣秀次(秀吉の姉である瑞竜院日秀の長男)が建造した八幡城を中心に楽市楽座で栄えた町で、特権商人組織、いわゆる「近江商人」の発祥地でもある保守的な町でした。

その排他的な気風は明治になってもかわっておらず、このため、ヴォーリズは、町民の反感を買うようになり、やがて無理やり教師を解職させられてしまいます。しかたなく翌年には京都に移動し、ここにあった京都YMCA内にヴォーリズ建築事務所を開き、学校、教会、病院などの設計・建築を行うようになりました。

明治43年(1910年)には、宣教活動の為に確固とした経済的基盤を築こうとし、信徒の協力を得て創った会社が「ヴォーリズ合名会社」になります。大正9年(1920年)には株式会社に改変し、「近江セールズ株式会社」となり、さらにその後改名して「近江兄弟社」となりました。

主力商品は、アメリカ合衆国の「メンソレータム社」の製品であり、同社から日本での製造・販売・商標権やマスコットのリトルナースちゃんの使用権を得て、日本国内での製造販売を手がけるようになりました。しかし、創業者のヴォーリズの亡きあと、原材料費の高騰に加えて他社の競合品に食われました。

そればかりか、土地ブームにあやかって滋賀県内の別荘地分譲に手を出したために経営が苦しくなり、自主再建を断念し、1974年には会社更生法を申請し事実上の倒産。同時にメンソレータムの販売権もアメリカの本社へ返上しました。その翌年の1975年にメンソレータムの販売権はロート製薬が取得。

さらに1988年にはメンソレータム社本体もロート製薬に買収されました。一方の近江兄弟社は、その後大鵬薬品工業(現在は大塚HDの傘下)の資本参加で再興をはかることになりましたが、米メンソレータム社からは商品供給を断られたことから、主力商品を失った同社の再建は絶望視されるようになりました。

メンソレータム社が協力をしぶったのは、近江兄弟社の経営破たんをもたらして以来の経営陣のふがいなさに不信感を抱いていたことなどが原因だと取沙汰されています。

このため、メンソレータムの製造設備を利用してオリジナルの類似製品を販売するにあたり、メンソレータムの略称として従前より商標登録してあった「メンターム」を商品名として用いることにしました。おそらく、日本人には「メンソレータム」は発音しにくいと考え、略称として別途用意していたものでしょう。

そして1975年9月から、新たに主力商品として「メンターム」の製造を始め、自社の主力ブランドとして育て、今に至っている、というわけです。

ちなみに、近江兄弟社の「兄弟」とは、創業者のヴォーリスが、人類が皆兄弟のように助け合ってほしいとするキリスト教精神から名づけたものだそうです。その後同社が八幡市に根付いて同市を代表するような会社になってからはクリスチャンが増えました。

その関係からか、近江八幡の市民には、メンソレータムを選ぶかメンタームを選ぶか、としたときに、メンタームを選ぶ人が多いそうです。また、地元企業でもあることから、地域の患者さんからも、名指しの指定が多いそうで、このため、薬局などでも近江兄弟社のものを揃えている店が多いといいます。

かといってロート製薬のメンソレータムもある程度販売されており、近江兄弟社の本拠地にあっては、そこそこ健闘している、といえるでしょう。

なお、かつてはメンタームは医薬品、メンソレータムは医薬部外品とされていましたが、今日ではいずれも医薬品(主に第3類医薬品)とされる製品があるそうです。ただし、両者とも医薬部外品のものも販売しており、今、私の手元にある近江兄弟社のリップを確認すると、これも医薬部外品でした。効能として、どこがどう違うのかよくわりませんが。

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ところで、このメンソレータムを日本に普及させた、ウィリアム・メレル・ヴォーリズというのはどういう人かといえば、まず、生まれは、1880年10月28日、アメリカのど真ん中、カンザス州のレブンワースという町で生を受けました。

上述のとおり、は教師として来日し、八幡に居を構えて布教をしようとしましたが、うまくいかず、京都に移って、数多くの西洋建築を手懸けるようになりました。ヴォーリズ合名会社(のちの近江兄弟社)の創立はその副業に過ぎず、本来目的の布教においては、YMCA活動を中心とし、また「近江ミッション」というキリスト教伝道団体を設立しました。

信徒の立場で熱心にプロテスタントの伝道に従事しました。もっとも、「宣教師」と紹介されることが多いものの、プロの牧師ではなく、単に「伝道者」であったとされます。しかし、讃美歌などの作詞作曲を手がけ、ハモンドオルガンを日本に紹介するなど、音楽についての造詣も深かったといわれています。

建築のほうの知識は、コロラド州・コロラドスプリングスにある歴史的な有名校、コロラド・カレッジに進学したときに得たもので、来日後の1908年(明治41年)、京都で設立した建築設計監督事務所で活動を始め、以来、学校、教会、YMCA、病院、百貨店、住宅など、多種多様な建築に関わりました。

しかし、その後京都から、滋賀県八幡(現:近江八幡市)を拠点を移し、上のメンソレータムなどの販売といった実業家としての側面も見せたことから、地元では「青い目の近江商人」と称されるまでになりました。

太平洋戦争時には、スパイ容疑をかけられてしまい、夫人とともに自身の別荘のあった軽井沢でひっそりと暮らしていたといいます。しかし、太平洋戦争終戦後は自由に行動できるようになり、このとき、連合国軍総司令官ダグラス・マッカーサーと、戦後すぐに入閣して国務大臣になった近衛文麿との仲介役を果たしました。

そのおかげで、天皇ご自身は戦犯として裁かれなかったといわれており、「天皇を守ったアメリカ人」とも称されます。ちなみに近衛自身は、戦争中末期に、天皇に対して「近衛上奏文」を上奏するなど、戦争の早期終結を唱えたにもかかわらず、戦争を始めた張本人とみなされてA級戦犯となり、裁判中に服毒自殺をしています。

ヴォーリズは、71歳のとき、こうしたそれまでの功績から、藍綬褒章を受章しており、また、81歳のときには、建築業界における功績から黄綬褒章を受章しています。さらに、78歳になった1958年には、近江八幡市における名誉市民第1号に選ばれていました。

しかし、その前年の1957年には、くも膜下出血のため、軽井沢で倒れ、療養生活に入っており、この受賞と黄綬褒章の受章は病床でのことでした。1964年、近江八幡市内の自邸2階の自室において永眠。83歳でした。この自宅は、現在「ヴォーリズ記念館(一柳記念館)」として公開されています。

その葬儀は、近江八幡市民葬および近江兄弟社葬の合同葬として執り行われ、遺骨は近江ミッションの納骨堂である恒春園(近江八幡市北之庄町)に収められています。没後、正五位に叙され、勲三等瑞宝章も受章。近年、彼の残した建築物が再評価され、昨年2014年には、神戸女学院大学の建物群がヴォーリズ建築として初の重要文化財に指定されました。

彼が亡くなった自邸が、「一柳記念館」と呼ばれるのは、彼の日本名が、一柳米来留(ひとつやなぎ めれる)というものだからです。無論、この「めれる」というのはミドルネームからとったものです「米来留」とは米国より来りて留まるという洒落でもあったようです。

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一方、一柳という姓は、1941年(昭和16年)に日本に帰化したのち、華族の一柳末徳子爵の令嬢、満喜子と結婚したことに由来します。

この一柳満喜子夫人は、ヴォーリスより4つ年下の1884年(明治17年)生まれ。兵庫県加東郡小野町(現・兵庫県小野市)の元播磨小野藩主、一柳末徳の三女として誕生しました。末徳は、維新後、貴族院議員、子爵となっており、いわゆる華族にあたります。

神戸女学院音楽部卒。その後渡米し、途中に立ち寄ったハワイでは、このころまだメカニック芸術大学と呼ばれていたハワイ大学の学長の勧めもあり、米本土での留学先をペンシルベニア州の名門校、ブリン・マー大学(Bryn Mawr College)に定めました。

彼女がここを選んだのは、日本で最初の女子留学生、津田梅子や大山捨松が卒業後、アメリカの大学ではこうした東洋女性を受け入れようとするところも多くなり、この大学もそのための奨学金制度を持っていたためでした。

ブリン・マー大学在学中は、その大山捨松が下宿していた家の娘で、その後アメリカでも有名な女性教育家となっていた、アリス・ベーコンの教育実践活動にも参加しました(アリスベーコンと大山捨松の関係は、「巌と捨松」を参照)。また、留学中の1910年、26歳のとき、ブリン・マー長老教会で洗礼を受け、その後は敬虔なクリスチャンになりました。

しかし、元々彼女の母親もクリスチャンであり、満喜子自身が通っていた築地の櫻井女学校(現・女子学院)はミッション系の学校でした。この母は栄子といい、満喜子の幼いころ亡くなりましたが、日本で最初に洗礼を受けた華族夫人の一人で、日本基督教・婦人矯風会が太政官に訴えた「一夫一婦制運動」などに賛同するなど、先駆的な女性でした。

また、父で元播磨小野藩主、一柳末徳も上京して慶応義塾に学んだあと、ヘボン式ローマ字で有名な、ジェームス・ヘボンや、開成学校(後の東大)などの設立に関わったヘルマン・フルベッキ(オランダ人、のち米国に帰化)などから、西洋事情の教えを受けました。このときキリスト教にも関心を抱いていたことが、娘の栄子にも伝染したのでしょう。

満喜子が帰国した1919年(大正8年)、鴻池善右衛門と並ぶ大坂の豪商であった加島屋(明治後、広岡家と改姓)に婿養子として入っていた、兄の一柳恵三(婿養子となり広岡恵三)は、その自宅の新築設計に建築家ヴォーリズを指名。ちょうどその設計の相談のために、ヴォーリスを招いていたところ、満喜子と運命的な出会いを果たしました。

恵三の母、広岡浅子の後押しもあってやがて二人は結婚。ヴォーリズの主宰する近江ミッションに加わり、その後の生涯を近江八幡で生涯を過ごし、この間、その語学力を生かして、夫とともに数多くの海外の宣教団体との交流をしました。

そうした団体員の一人で、満喜子に直接取材し、この頃の事を書いた、米国の女流作家グレース・ニース・フレッチャーの「Bridge of Love」は、戦後のアメリカでベストセラーになりました。また、満喜子は、当時皇太子だった少年時代の明仁親王(今上天皇)の家庭教師をしたことで知られる、エリザベス・ヴァイニング夫人とも交流がありました。

彼女が地元の未就学児童を対象として始めた「プレイ・グラウンド」という集いはその後、「清友幼稚園」に発展、今日の「近江兄弟学園」へと発展しています。滋賀県近江八幡市にある、近江兄弟社グループの学校法人で、幼稚園・保育園(認可外)・小学校・中学校・高等学校があります。

満喜子は、1969年(昭和44年)、ヴォーリズが逝去して5年後に85歳で永眠。夫の眠る北之庄町の恒春園にともに葬られました。 夫婦の間に子供はありませんでした。

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ところで、ヴォーリズがかつて自宅の設計を行ったことのある、一柳満喜子と兄の広岡恵三(一柳恵三)母、広岡浅子(あさ子)は、実は、この秋から始まる、NHKの朝ドラ、「あさが来た」のヒロインのモデルとなった人物です。

こちらもお嬢さん育ちで、その出自は、あの天下の「三井家」です。1849年(嘉永2年)、山城国京都(現・京都府京都市)・油小路通出水の小石川三井家六代当主・三井高益の四女として生まれました。

幼名は照(てる)。幼い頃より裁縫や茶の湯、生け花、琴の稽古などよりも、四書五経の素読など学問に強い興味を持ちましたが、「女に教育は不要」という当時の商家の慣習は固く、家人から読書を禁じられていたといいます。

17歳で、上述の大坂の豪商、加島屋の第8代、加島屋久右衛門正饒の次男・広岡信五郎と結婚。のちに間にできた娘、亀子の婿として迎えたのが、広岡恵三ということになります。
ややこしいので、略図化してみると、以下のようになります。

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この加島屋への嫁入りは、あさ(後にあさ子)がまだ2歳のときに決まっていたようで、小石川三井家から、加島屋広岡家には、それまで既にあさ子の母と祖母の2人が嫁いでおり、あさ子で三代続けて、という重縁だったようです。

時代は、動乱期であり、大政奉還が行われて幕府の威信が失墜すると、三井家や加島家など全国の大両替商などが大名へ貸し付けていた900万両(およそ1兆2千億円相当)という金は返済されず、証文は紙切れ同然になりました。

このため、大阪においても、天王寺屋、和泉屋、平野屋、茨城屋大名といった主だった豪商たちは次々に潰れていくという時代であり、三井家や加島家も同様に存亡の危機に立たされていました。

あさ子の夫となった信五郎は、優しい性格の男でしたが、世間知らずの坊ちゃん育ちであり、「わしゃ金儲けにはむかん」と仕事は手代に任せっぱなしで、三味線などの風雅に興じているような人物だったようです。

加島屋の危機をみかねたあさ子は、簿記や算術などを独学するようになり、融資先である諸藩の屋敷に出向いては、逃げまわる悪家老や重役方を追まわし、少しでも返済してくれるように頼みました。が、武士は崇高、男尊女卑の時代であり、町人ふぜいの若い女が武士に向かって何をいうか、と逆ギレされる始末。

しかし、幼いころから漢学になどにも興味を持ち、元々学問が好きだった彼女は、漢学や経学、儒学までも独学でマスターし、その後は、逃げ回る役人を捕まえては、物事の道理から武士道まで徹底的に論破しては、納得いく答えが返ってこないと、「恥を知りなさい」と責め立てたといいます。

そして、明治維新。20歳になったあさ子は、家運の傾いた加島屋を救うために、みずから実業界に身を投じることを決めます。そして、このころようやく事の重大さに気が付いた、夫の信五郎、加島屋当主である第9代広岡久右衛門正秋(信五郎の弟)、と共に、加島屋の立て直しに奔走するようになります。

これを助けたのが実家の三井家でした。実父の三井高益は、新政府が中央主権化をめざして、東京に遷都すると先読みし、経済もやがては東京に移っていくと考えて、東京に本店を移しました。やがてその読みは的中し、東京が新時代の中心になっていく中、政府要人に取り入り、政府ご用達の金融業者となりました。

1872年(明治5年)には家業のひとつであった、呉服業を分割して金融業の三井組を設立し、1893年(明治26年)に「三井家同族会」と「三井元方」を設立して、その後の「三井財閥」の礎をつくりました。

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一方、娘が嫁いだ加島屋に対しても、事業を整理することを勧め、自らと同じ銀行業を始めることを進言します。こうして、加島屋にものちに加島銀行(現・三菱東京UFJ銀行など)となる金融部門が設立されました。

久右衛門はほかにも、大阪株式取引所の理事などを受けて、業界での発言力を増しましたが、こうした業界への働きかけや、銀行業の実質的経営を行っていたのは、あさ子でした。しかし、あいかわらず、女性が相手にされない時代であったため、表向きは夫や久右衛門を社長として立てていました。

1884年(明治17年)、35歳になったあさ子は、このころから、知人から九州の廃れた炭鉱の視察を頼まれたことをきっかけに、炭鉱事業にも参画するようになります。このころの炭鉱というのは、荒くれ者の住処のようなところがあり、気の強いあさ子も、さすがにたじろいだといいますが、持ち前の負けん気でこの話も快諾。

買収した、筑豊の潤野炭鉱(福岡県飯塚市、後の製鐵所二瀬炭鉱)には自ら乗り込んで、居並ぶ男たちを前に檄を飛ばしたといい、その際、万が一のためにと、拳銃2丁を携行していたといいます。懐にそのピストルを抱きつつ、坑夫らとともに寝起きしたとも伝えられており、時には現場視察のため、滴の落ちる真っ暗な坑道にも足を踏み入れたそうです。

最初は、若い女が何を言うかと馬鹿にしていた男たちも、そうした姿を見るにつけ、やがて彼女に帰依するようになり、最後には「姐御」と慕われるまでになりました。しかし、単に男たちを睥睨(へいげい)していただけでなく、彼等の労働条件や待遇を改善し、かつ大胆な投資によって次第に事業を軌道に乗せて行きました。

1888年(明治21年)には、それまで加島屋の一金融部門にすぎなかったものを切り離して「加島銀行」として独立させるとともに、その後も1902年(明治35年)に大同生命創業に参画するなど(いずれも夫の信五郎が社長)、加島屋は近代的な金融企業として、大阪の有力な財閥となっていきました。

また、1899年(明治32年)には、 尼崎の有志と大阪財界の出資により有限責任尼崎紡績会社を創立。1904年(明治37年)には、「尼崎紡績株式会社」と改称しますが、これがのちの「ユニチカ」の前身になります。

この時代、もうひとつ女性社長によって切り盛りされていた会社に「鈴木商店」がありますが、これは夫を亡くしてその経営を引き継いだ「鈴木よね」によって運営されていた会社であり、のちの総合商社「双日」のルーツになります。

この鈴木よねと、同じく銀行業で名を馳せた、峰島喜代子(尾張屋銀行)、広岡あさ子は、明治期における三大女性実業家と称されています。

あさ子はまた、幼いころに自ら学ぶことを禁じられていたということに対する反動からか、女性も十分な教育を受けるべき、ということに対しても熱い思いを持っていました。

1896年(明治29年)、大阪府豊中にある、ミッション系の学校、梅花女学校の校長であった成瀬仁蔵の訪問を受け、このとき贈呈された彼の著書、「女子教育論」がその教育熱に火をつけました。幼い頃に学問を禁じられた体験を持つあさ子は、成瀬の説く女子高等教育機関設立の考えに大いに共鳴し、自ら納得のいく教育機関を創生することを決意します。

成瀬と行動を共にして政財界の有力者に呼びかけ、金銭の寄付のみならず、法制面からも学校創立の協力をしてくれるように要請。また、実家の三井家一門にも働きかけた結果、三井家から目白台の土地を寄付させるに至ります。こうして、1901年(明治34年)に生まれたのが、日本女子大学校(現 日本女子大学)です。

初代校長は、無論、成瀬仁蔵であり、現在では、「ぽんじょ」、日女(にちじょ)、「目白のじょしだい」と呼ばれて親しまれるこの学校は、日本で初めての組織的な女子高等教育機関として生まれ、その後日本の女性教育において、多大な影響を与えていきました。

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1904年(明治37年)、あさ子55歳のとき、夫の信五郎が死去。あさ子より5歳年上のこの夫の享年はちょうど60歳でした。これを機に、あさ子は、事業を女婿の広岡恵三(大同生命第2代社長)に譲り、社会貢献事業に専念するようになります。

ちょうどこの年に始まった日露戦争では、愛国婦人会に参加し、中心的人物として活動。60歳のときに胸部に腫瘍手術から無事生還できたことをきっかけに、回復後の1911年(明治44年)日本組合基督教会の指導者、宮川経輝によって受洗。婦人運動や廃娼運動にも参加し、当時発行が相次ぐ女性雑誌に多数の論説を寄せ、女性奮起の機運に火をつけました。

また、「女性の第二の天性は猜忌、嫉妬、偏狭、虚栄、わがまま、愚痴であり、西洋婦人は宗教により霊的修養をしている」とし、宮川による「心霊の覚醒」や自らの宗教的信条を記した「一週一信」を出版して日本のキリスト教化に励みました。

キリスト教を基盤に世界中の女性が言語や文化の壁を越えて力を合わせ、女性の社会参画を進めることを目的とした、YWCAの活動も積極的に行い、日本YWCA中央委員、大阪YWCA創立準備委員長などを務めています。

ちなみに、前述のヴォーリズが建築事務所を創ったのは京都YMCA内です。婿として迎えた一柳恵三の妹、満喜子と結婚したヴォーリズとも親しくしていたためです。

日本女子大学設立後も浅子の女子教育に対する情熱は衰えることがなく、1914年(大正3年)から死の前年までの毎夏、避暑地として別荘を建設した御殿場・二の岡で若い女性を集めた合宿勉強会を主宰。このときの参加者には若き日の市川房枝や村岡花子らがいました。

花岡は、「赤毛のアン」の翻訳者として知られ、あさ子と同じく、NHKの朝ドラ「花子とアン」のヒロインのモデルとなった人物です(「ルーシーと花子」参照)。

1919年(大正8年)、東京にて死去。「私は遺言はしない。普段言っていることが、皆遺言です」と、遺言を残さなかったと言われます。生前から「子孫には、不動産で資産を残してやりたい」と各地に別邸・別荘を積極的に建築していそうです。浅子の功績を称え、日本女子大学では同年6月28日に全校を挙げて追悼会を開催しました。

今月末から始まるNHKの朝ドラ、「あさが来た」のモデルは、言うまでもなくこの広岡あさ子です。その生涯を描いた古川智映子の「小説 土佐堀川」を原案とし、NHKのみならず民放ドラマの作家として人気のある、大森美香が脚本を手掛けます。代表作は、映画化もされた「ネコナデ」でしょうか。

ヒロイン、今井あさ役は、最近人気急上昇中の波瑠(はる)さんで、そのエキゾチックな顔立ちから、ハーフに間違われるときもあるそうですが、純粋な日本人です。このヒロインの人選は「マッサン」と同様に、公募オーディションで行われ、応募2590人の中から彼女が選ばれたそうです。

夫の白岡新次郎こと、広岡信五郎役は、玉木宏さんで、新次郎の父、白岡正吉(加島屋久右衛門)役は、近藤正臣さんだそうです。満喜子やヴォーリスまで登場するのかどうかはまだわかりませんが、実話の人物・企業・団体名などを改名して大幅に脚色してはいるものの、フィクションとして制作されるそうなので、可能性はあるかと思います。

既に、6月から、NHKの大阪局でスタジオ撮影がスタートしており、このとき、朝ドラ史上最も裕福な家に生まれた設定のヒロイン「あさ」の実家・今井家の豪華セットが公開されたそうです。

タイトルの「あさが来た」は、「あさ(朝)が来ると新しい世界が始まる、そんな社会を明るくするようなドラマにしたい」という思いが込められているそうです。

この秋以降、毎日待ち遠しい「朝」になることを期待したいと思います。

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激突!

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9月になりました。

旧暦9月を「長月」と呼びますが、その由来は、「夜長月」の略だとする説が最も有力だそうです。

確かに日が短くなり、長い夜を過ごすようになります。あれほど燦燦と照らしていた太陽の陽射しも柔らかくなり、気温も下がってきて過ごしやすくなります。今年の夏は例年よりも暑かったこともあり、この冷んやりとした空気は何にも増してありがたく思えます。

が、9月は秋雨の季節でもあります。ここ数日は、列島は大荒れで、昨日も下関沖でいたましい事故がありました。これからは台風も訪れやすくなり、天候不順な日が続く可能性もあるようです。暑いのはきらいだけれども、雨の日が続くのも嫌という人も多いでしょう。

その昔、太田裕美さんの「九月の雨」という歌がありました。1977年9月に発売された、9枚目のシングルで、彼女にとっては「木綿のハンカチーフ」「赤いハイヒール」に次ぐ3番目のヒット曲となりました。私が大学生のころに流行った曲で、このころは太田さんの歌は若い人に大人気でした。

私も太田さんの歌が好きで、よく聞いていました。が、学生でお金がなかったこともあり、レコードは買えず、ラジオの特集番組をエアチェックして、録音して聞く、ということをやっていました。この「エアチェック」という言葉も既に死語になりつつありますが……

この歌は、同年末の「第28回NHK紅白歌合戦」でも披露されました。太田さんは2回目の出場で、この時はキャンディーズ、山口百恵、しばたはつみ、桜田淳子がそれぞれ傘を差しながらバックダンサーを務めていたそうです。

このときの放送はまだモノラル音声放送だったそうですが、これはこの回が最後で、翌年からはステレオ放送になりました。両軍司会は4年連続で佐良直美・山川静夫が担当。4年連続同一コンビは史上唯一であり、また、この回を含めて佐良さんの紅組司会通算5回は、黒柳徹子さんに並び史上最多記録だそうです。

紅白でのキャンディーズとピンク・レディーの同年出演が唯一実現した回でもありました。キャンディーズはこの歌合戦よりも少し前に既に「普通の女の子に戻りたい」と解散を宣言しており、翌年4月4日、後楽園球場でのコンサートをもって解散したため、これが現役最後の紅白出演でした。

また、ピンク・レディーも今回が解散前唯一の紅白出場であり、以後、出場はなく、1981年3月31日に解散しました。ただし、その後4度再結成をしており、これにより再出場を何度か果たしています。

紅組のトリは、八代亜紀、白組トリおよび大トリは五木ひろしでした。優勝は白組。優勝旗授与は審査員の市川染五郎(現:松本幸四郎)が行いました。優勝旗を受け取った山川は佐良に対し、「佐良さん、これで来年は安心してお嫁に行ってください」と言ったそうです。

4年続いた佐良・山川のコンビによる両軍司会は今回が最後となりました。ちなみに佐良さんはその後も結婚しておらず、現在も独身のようです。現在70歳。一方の山川さんは82歳になられましたが、ご健在のようです。月日の流れをかんじます。

この1977年という年は、実にいろいろな事件があった年でした。皮切りは、前年12月〜本年2月にかけて全国的に大雪となったことで、これは五二豪雪(昭和52年豪雪)と呼ばれました。また、1月には青酸コーラ無差別殺人事件が発生、2月には、東京駅八重洲地下街で毒入りチョコレートが放置され、以後も様々な毒物殺人未遂事件が続きました。

また、1月末にはロッキード事件丸紅ルート初公判、全日空ルート初公判が行われ、戦後最大の疑獄事件が暴かれ始めました。6月には和歌山県有田市で集団コレラが発生し、8月には、32年ぶりに有珠山が噴火活動を開始しました。

9月には日本赤軍によるダッカ日航機ハイジャック事件が発生。引き続き10月には長崎バスジャック事件が起きました。これに先立つ3月には、仙台空港行きの全日空機がハイジャックされる事件が続けて2件発生(犯人はそれぞれ別)しており、これらを教訓に、11月にはハイジャック防止法が成立しました。

同じ11月には、プロ野球ドラフト会議でクラウンライターが法政大学の江川卓を指名するも、江川本人が拒否して、その後巨人軍に入団するといういわゆる江川事件も起きています。このほか、9~10月には、「芸能界マリファナ汚染事件」があり、研ナオコ、内藤やす子、にしきのあきら、美川憲一、井上陽水、上田正樹らが逮捕されています。

新潟市で横田めぐみさんが、下校途中に北朝鮮の工作員に拉致されたのも、この年の11月であり、いかにも事件満載の年でした。しかし、国内では大きな事故は発生しておらず、強いていえば、お隣の韓国で11月に大規模な列車爆発事故があったくらいです。これは現在の益山市の裡里(イリ)駅で高性能爆薬が爆発したもので、死者59人を出しました。

海外ではこの年は事故の当たり年で、このほか1月にはオーストラリアでグランヴィル鉄道事故が発生、死者83名、重軽傷者210名以上の大惨事になったほか、11月にはポルトガル航空425便墜落事故が発生し、131人が死亡しています。

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しかし、その中でも最大のものは、3月27日、カナリア諸島でジャンボ機同士の衝突事故が発生し、乗客乗員583人が死亡した「テネリフェ空港ジャンボ機衝突事故」です。生存者は乗客54人と乗員7人にすぎず、死者数においては史上最悪の航空事故でした。死者数の多さなどから「テネリフェの悲劇、テネリフェの惨事」とも呼ばれています。

事故を起こした一機は、ロサンゼルス国際空港を離陸し、ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港に寄港したのち、テネリフェ空港(ロス・ロデオス空港)に着陸していたパンアメリカン(パンナム)航空1736便で、機体はボーイング747-100、クリッパー・ヴィクター号と命名されていました。

一方のKLMオランダ航空4805便はオランダからの保養客を乗せたチャーター機で、事故の4時間前にアムステルダムのスキポール国際空港を離陸し、同じくテネリフェ空港に着陸しました。機体は若干の形状は異なるものの同じく747で、型番はパンナム機の747-100よりも少し新しい747-200Bであり、こちらはライン号と命名されていました。

どちらの便も、最終目的地は大西洋のリゾート地であるグラン・カナリア島のグラン・カナリア空港(ラス・パルマス空港)であり、テネリフェ島はこの島からわずか100kmほど隔てた場所にあります。両島は、アフリカ北部のモロッコの西側およそ800km西の大西洋上にあり、スペイン領のカナリア諸島の一部を構成する島々です。

最終目的地はすぐそこにありましたが、パンナム機はそこへの最終的なアプローチをそろそろしようか、といったときに、ラス・パルマス空港で爆弾テロ事件が発生する可能性がある、との報に接しました。このため、同空港は臨時閉鎖されてしまいました。

しかし、その後空港閉鎖が長くは続かないだろうという見通し情報も入り、燃料も十分に残っていたため、着陸許可が出るまで旋回待機したいと申し出ました。しかし、結局、他の旅客機と同様に近くのテネリフェ島のテネリフェ空港に代替着陸するよう指示されました。KLM機も同様の理由でテネリフェへの臨時着陸を指示され、先に着陸していました。

テネリフェ空港は島中央部に位置するテイデ山の南麓に位置する、1941年開港の古い地方空港です。1本の滑走路(ランウェイ)と1本の平行誘導路(タクシーウェイ)および何本かの取付誘導路を持つだけの規模で、地上の航空機を監視する地上管制レーダーはありませんでした。

事故当日、空港は同じくテロ事件騒ぎで代替着陸を余儀なくされた旅客機でごったがえしていました。KLM機が着陸した時点で、エプロン(駐機場)のみならず、平行誘導路上にまで他の飛行機が駐機している状態だったので、管制官はKLM機に平行誘導路端部の離陸待機場所への駐機を命じました。

およそ30分後に着陸したパンナム機もこの離陸待機場所のKLM機後位に他の3機とともに駐機しました。このため、平行誘導路は4機が鈴なりになる恰好で塞がれており、このあと離陸する飛行機は、管制塔からの指示待ちで、順番に滑走路をタクシングして離陸開始位置まで移動する必要がありました。

パンナム機着陸のおよそ2時間後、ラス・パルマス空港に対するテロ予告は虚偽であることが明らかになったため、同空港の再開が告知されました。乗客を機外に降ろさず待機していたパンナム機は離陸位置へ移動する準備ができていましたが、その前には待ち順が先のKLM機がおり、これより先駆けすることは許されませんでした。

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しかもこのとき、KLM機は、給油をしようとしており、そのための燃料補給車が並行滑走路にいました。乗客を乗せていたパンナム機とは異なり、先に到着していたKLM機はこのとき既に一旦乗客を降ろしており、機長の「ファン・ザンテン」は、乗客の再招集にある程度の時間がかかることもあり、このテネリフェでの給油を決めたのでした。

しかし、ラス・パルマスは目と鼻の先であり、本来はこの時点で給油は必要ではありませんでした。テロ騒動があったために時間的な余裕ができたために給油をしたわけですが、このとき給油した燃料がのちに、2機が衝突する際に、大着火剤になろうとは機長は無論のこと、誰もが予想していませんでした。

給油が開始されたのは、ちょうどラス・パルマス空港再開の一報の5分ほど前であり、目前でそれを見ていたパンナム機はいつでも離陸できる状態にありました。いらいらしたパンナム機の機長は、無線で直接KLM機にどれくらい掛かるかを問い合わせましたが、同機からは詫びるでもなく「35分ほど」と回答されました。

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パンナム機のほうの機長は、ヴィクター・グラブスといいました。57歳のベテランパイロットでしたが、気が短い性格だったらしく、長引くKLM機の給油にしびれを切らし、何とかKLM機の横をすり抜けられないかと、副操縦士と機関士の2人を機外に降ろして翼端間の距離を実測させました。が、ギリギリで不可能だと知ります。

仕方なくパンナム機がKLM機の給油を待ちましたが、747よりも小さな他の3機は、いらつくパンナム機の機長の眼前で、KLM機の脇を楽々と通り過ぎて行き、離陸していきました。このほかにも他の平行滑走路で駐機していた航空機が次々と離陸し、10機以上がそれぞれの目的地に向かっていきました。

さんざん待たされたあげく、ようやく給油が終わったため、KLM機は先にエンジンを始動しタクシングを開始しました。16時58分、管制塔の指示に従い、KLM機は滑走路を逆走して端まで移動し、180度転回し、その位置で航空管制官からの管制承認(離陸許可)を待ちます。

ところが、これら一連の移動の最中、霧が発生し、1000フィート(300mほど)しか視界が利かなくなり、管制官は滑走路の状況を目視できなくなりました。

17時2分、一方のパンナム機はKLM機に続いて同じ滑走路をタクシングし始め、KLM機とは別の端の滑走路端まで行って停止。この時点で両機は、長い滑走路の端と端でお互いに対面する形になっていました。

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しかし、先に飛ぶ権利はKLMにあるため、管制塔がパンナム機に対して出した指示は、滑走路をさらに進んで途中の「3番目の出口(C3)」まで行き、滑走路を左に出て平行誘導路にいったん入り、そこでKLM機の離陸を待つように、というものでした。

ところが、このC3出口というのは、滑走路上をタクシングし始めたパンナム機にとっては、進行方向に向かって鋭角に開いた出口でした。C3出口に到達したパンナム機クルーはこの出口を出るためには左に135度も転回しなければならず、さらにもう一度平行誘導路から出て本滑走路に戻るためには再度右に135度転回しなければならないことに気付きました。

ようするに「N字」型のルートを巨大な747を移動させなくてはならず、通常はこのような大型機にこうした困難な進路指示は出されることはありません。ところが、この当時ボーイング747は最新鋭の大型機であり、地方の小さな空港の管制官はそういう新型機を見る機会も少なく、そうした知識はありませんでした。

一方のパンナムクルーにすれば、こうした小さな滑走路で747急転回をするのはかなり難しいというのは常識であり、このため管制官は、鋭角に曲がる必要のあるC3出口ではなく、45度の転回で済むC4出口で左へ曲がって、並行誘導路に出るように指示したのに違いないと思い込みました。

また、このとき管制官は、明確にC3出口と指定したのではなく、「3番目の出口」という言い方をしました。このとき、パンナム機はちょうどC1出口を越えたところにおり、このため、C1出口から数えて、C2、C3、C4と3つ目にあたるC4出口を指示されたものと、二重の思い込みをしました。

こうして、C3出口を通り過ぎ、C4出口に向けて滑走路を進み続けましたが、このとき、KLM機のファン・ザンテン機長はまさに、ブレーキを解除し離陸滑走を始めようとしていました。ところが、副操縦士が管制承認(離陸許可)が出ていないことに気づき、17時6分6秒、管制官に管制承認の確認を行いました。

これに対して、12秒後の17時6分18秒、管制官は「離陸を認める」と言った表現の管制承認を出しました。しかし、この「管制承認」というのはこの当時、管制官と交信しフライトプランの確認を行い、「離陸後に目的地までフライトプランどおりの航路を飛ぶための承認」を得るものにすぎませんでした。

あくまで「離陸のスタンバイ」であり、「離陸を始めてよい」という承認ではありませんが、管制官が承認の際に「離陸」という言葉を用いたためKLM機はこれを「離陸を始めてよい」という許可として受け取りました。

17時6分23秒、副操縦士はオランダ訛りの英語で「これから離陸する(We are at take off)」、もしくは、「離陸している(We are taking off)」と、どちらとも聞こえる回答をしました。管制塔はこの聞き取れないメッセージに混乱し、KLM機に「OK」のあと、約2秒無言後に、「待機せよ、あとで呼ぶ」とその場で待機するよう伝えました。

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実は、この「OK」とそれに続く2秒間の無言状態がその後大きな問題となりました。一方、並行誘導路に向かうべくC4出口を目指していたパンナム機は、同じく無線でこの両者のやりとりを聞いており、この会話に即座に不安を感じました。そして、「だめだ、こちらはまだ滑走路上をタクシング中」と無線でKLM機に警告しました。

ところが、このパンナム機からの無線送信は、上記2秒間の無言状態の直後に行なわれたため、ちょうど管制官が喋った「待機せよ、あとで呼ぶ」と完全にダブり、混信してしまいました。このため、KLM機では「OK」の一言だけが聞き取れ、管制官からの待機を促す指示は聞こえませんでした。

その後発見されたボイスレコーダにも、このときの通信には、混信を示すスキール音しか記録されていません。スキール音というのは、タイヤと舗装路が激しく擦れ合う、「キャー」や「ピャー」など悲鳴に似たような音であり、非常に大きく甲高い音です。

また、「OK」のあと、2秒間も無言状態が続いたことから、パンナム機は管制官からKLM機への送信は終わったと判断して、KLM機への警告のために送信ボタンを押したのでしたが、管制官のほうはこのときはまだKLM機に向けての指示のために送信ボタンを押したままでした。この結果、双方の発信が混信したわけです。

こうして、航空管制官、パンナム機、KLM機の三者ともこのとき、混信が生じたことに気付かきませんでした。これにより、パンナム機の側では、「自分たちの警告がKLM機とATCの双方に届いた」と考え、航空管制官の側では「KLM機は離陸位置で待機している」と考えました。

そして、KLM機のほうは、「OK」の一言だけが聞こえたため、「離陸許可が出た」と勘違いしました。というか、離陸OKと「確信」し、離陸推力を得るためにスロットルを全開にしました。ところが悪い事に、このとき霧のためKLM機のクルーはパンナムのB747がまだ滑走路上にいて自分たちの方向に向かって移動しているのが見えませんでした。

加えて管制塔からはどちらの機体も見ることができず、さらにこの空港では、滑走路に地上管制レーダーは設置されていいませんでした。これは、空港地表面の航空機や車両等の動きを監視するものです。非常に短い波長の電波を利用した高分解能レーダーで、レーダースクリーン上には航空機の形がはっきりと現れます。

低視界のときや夜間の管制業務に使用しますが、小さな地方空港にすぎない、テネリフェ空港にそんなものはありませんでした。ところが、衝突を回避するチャンスはもう一度ありました。上記交信のわずか3秒後に改めて航空管制官は、パンナム機に対し「(並行誘導路に移動して)滑走路を空けたら報告せよ」と伝えたのです。

これに対して、パンナム機も「OK、滑走路を空けたら報告する」と回答しましたが、このやりとりはKLM機にも明瞭に聞こえていました。これを聴いたKLMの機関士はパンナム機が滑走路にいるのではないかと懸念を示し、機長に「まだ滑走路上にいるのでは?」と聞きました。

これに対して機長は、KLM機長が「何だって?」と聞き返したため、KLM機関士は繰り返して「まだパンナム機が滑走路上にいるのでは?」と再度問いかけました。が、これに対して機長は、強い調子で「大丈夫さ!」と答えました。

ファン・ザンテン機長はKLMでも最上級の操縦士で、747操縦のチーフトレーナーでもあり、KLM所属のほとんどの747機長/副操縦士は彼から訓練を受けていました。事故当日の同機内の広告には彼の写真が掲載されていたほどで、機関士は彼の経験と権威の手前もあり、上司でもある彼に対してそれ以上重ねて口を挟むのをためらったと考えられます。

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こうして、悲劇は起こりました。このとき、KLM機に警告を与えたと思っていたパンナム機のコックピットでは、長らく待たされたあげくようやく解放されたグラブス機長が「こんなところとはさっさとおさらばしよう」と無駄口をたたいていました。

これに対して、機関士も「ええ、KLMは離陸を急いでいるんでしょうね」と言い、続けて「あれだけ我々を待たせたくせに、今度はあんなに大急ぎで飛ぼうとするなんて」といった会話がボイスレコーダーに残されていました。

17時6分45秒、ようやく滑走路のC4出口に差し掛かったところで、突然、パンナム機のグラブス機長が離陸しようとするKLM機の着陸灯が接近してくるのを視認し、こう叫びました。「そこを!あれを見ろ!畜生!…バカ野郎、来やがった!!」と同時に「よけろ!よけろ!よけろ!(Get off! Get off! Get off!)」と副操縦士。

衝突直前、パンナム機の操縦士たちは出力全開で急速に左ターンを切ろうとしましたが、あまりにも時間がなく機首を45度ほど曲げるのが精一杯でした。一方のKLM機は、この時既に「離陸決心速度」を超えており停止制動はできず、さりとて「機首引き起こし速度」には達していなかったため、衝突を避けようと強引に機首上げ操作を行いました。

17時6分48秒、滑走路に20 mにわたって機尾をこすりつけつつ、急上昇を試みますが、このとき、ファン・ザンテン機長は衝突の瞬間まで「上がれ!上がれ!上がれ!(Come on! Come on! Come on!)」と叫び続けました。

17時6分50秒、KLM機はわずかながら浮き上がりましたが、胴体下部は、滑走路上で斜め左へ転回中だったパンナム機の機体上部に接触し、そのまま覆いかぶさるような形で激突しました。

機首はパンナム機の上を超えたものの、機尾と降着装置はパンナム機の主翼の上にある胴体の右側上部に衝突し、右翼のエンジンはパンナム機の操縦席直後のファーストクラスのラウンジ部分を粉砕。一時は空中へ浮揚しましたが、パンナム機との衝突により第一エンジン(左翼外側)が外れました。

また、第二エンジン(左翼内側)もパンナム機の破片を大量に吸い込んだため、あっという間に操縦不能の状態に陥り失速し、衝突地点から150m程先で機体を裏返しになって墜落し、滑走路を300mほど滑ったあと、ほぼ満タンだった燃料に着火して爆発炎上しました。胴体上部を完全に粉砕されたパンナム機のほうも、その場で崩壊し、爆発しました。

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KLM機の乗客234人と乗員14人は胴体の変形が少なかったにも関わらず、脱出できず全員死亡。パンナム機は396人のうち335人(乗客326人と乗員9人)が死亡しました。死傷原因は、衝突時に漏れた燃料による爆発と炎、煙でした。このパンナム機の犠牲者には映画女優・イヴ・メイヤーが含まれていました。

メイヤーは、1950年代にピンナップモデルとして評判となり、プレイメイトとしてPLAYBOY誌の表紙を飾るほどの美人さんで、女優としては2本ほどの映画に出演しました。しかし、あまりヒット作に恵まれず、60年代から70年代には、映画プロデューサーとして活躍し、女性実業家として成功していました。が、この事故で命を落としました。

一方のパンナム機のほうには生存者がいました。グラブス機長、ロバート・ブラッグ副操縦士、ジョージ・ウォーンズ機関士のクルー3人も生き残り、彼等を含む乗客54人と乗員7人が生存者でした。機長らは救出されるまで、KLM機に対して激怒し、怒りのことばをぶつけ続けていたといいます。

爆発炎上したパンナム機でしたが、KLM機と衝突して機体が左右に引き裂かれた際、その衝突場所と反対側の機体左側と、コクピットのある機首部分は炎上しなかったため、この部分にいた乗員乗客は助かったのでした。

火災を免れた彼等は、機体にできた穴から滑走路上に逃げ出しましたが、その際、パンナム機から外れ落ちたエンジンがフルパワーの推力をほぼ保ったまま暴走し、同機からの脱出直後で滑走路にいた者の1人を直撃して死亡させました。

また、折しも濃い霧のため、消火に近づいた消防士たちは、燃えているKLM機にばかり気を取られ、霧に紛れたパンナム機の生存者に気づきませんでした。このために手当が遅れ、亡くなった犠牲者もいたようです。

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過去最悪の航空機事故となったこの大惨事後、KLM機の所属するオランダと、パンナムのアメリカ合衆国、そして空港管制塔を管理するスペインから派遣された70人以上の航空事故調査官および両機を運航していたパンナム、KLMの両航空会社が事故調査に入りました。

明らかになった事実は、事故当時パイロットや管制などの間に、誤解や誤った仮定があったことであり、生き残ったクルーへの聴取とボイスレコーダーの調査から、管制塔がKLM機は滑走路の端で静止して離陸許可を待っているとの確信を持っていた一方で、KLM機パイロットのほうでも離陸許可が出たと確信していたことなどが明らかになりました。

この結果として、スペインの調査団が出した結論では、KLM機に責任があるとされました。
しかし、オランダの調査団は、事故は複合要因によるものという結論を出したため、総合的な結論の公表は持ち越されました。

たしかに、事故原因は、さまざまな要因が複合的に重なりあった結果ともいえました。このため、オランダの航空当局は当初、KLM機のクルーの責任を認めようとしませんでしたが、最終的にはKLMが事故の責任を受け容れ、逸失利益に応じて遺族にそれぞれ、58,000ドルから600,000ドルを支払いました。

しかし、この事故を巡っては、このほかにも事故につながった可能性のあるさまざまな要因が憶測されており、そのひとつは、管制塔からの送信音声のバックにはサッカー試合のテレビ放送の音がはっきり混じっていた、というものです。

これは、スペイン側の事故調査報告書では一切触れられていませんが、オランダ側の事故調査報告書では指摘されていた事実です。すわわち、スペインの管制官は管制塔内で管制中にサッカー試合を視聴しただけでなく、サッカー試合に気を取られ管制がおろそかになった可能性があるわけです。

また、KLM機に乗っていて死亡したファン・ザンテン機長はKLMでも最上級の操縦士で、747操縦のチーフトレーナーでもあり、彼は6年間フライトシミュレーションで新人パイロットを訓練する担当者になっていました。この間は月平均21時間しか飛行しておらず、またこの日の飛行前12週間は1度も飛んでいないなど、現役バリバリではありませんでした。

このことから勘が鈍っていたのでは、という見方がある一方で、管制官を含み、機長や副操縦士、機関士を含むシミュレーターの中のすべての役割を行ってきた結果、全ての権限は彼の掌中にあると錯覚するようになり、管制官の指示を軽視したのではないか、と指摘する専門家もいます。

また、オランダは交通上の安全規制が厳しいことでよく知られており、クルーの勤務条件がきちんと守られていないと、法令に抵触するとして、航空会社が罰則を受けます。本来は安全確保のために労働時間の規制をしたわけですが、それがかえって足かせになってしまった可能性がある、ともいわれています。

これはどういうことかというと、このとき、悪化する気象条件(濃霧)は視界不良による滑走路閉鎖の可能性が高く、一刻も早く離陸しないとロス・ロデオス空港に留まらざるを得なくなっていました。上級パイロットとしてKLMの経営にも関わる立場にあった機長にとっては、勤務時間の超過は規則違反であり、看過できない立場にあったというわけです。

このため、急いで離陸してしまおうと、逸る気持ちがあったのではないかと言われており、また、こうした規則により離陸できないとなると、さらに誘導路への移動などで、パンナム機を待たせることになります。給油によりパンナム機を散々待たせたあげく、さらに待たせることにもなり、気の毒だと思ったのではないか、ということも指摘されています。

さらには、その際に乗客の宿泊代などのKLMの金銭負担が増える結果になることなどもあり、機長としては何が何でも離陸したかったのではないか、ということも言われています。

この事故の結果として、その後、飛行機そのものや国際航空規則に対し全面的な変更がなされました。世界中の航空に関する組織に対しては、聞き違いを防ぐために標準的な管制用語を使用し、共通の作業用語には英語を使うよう要請がなされるようになりました。

例えば、今回の事故で問題となった、離陸許可における「take-off」(離陸、テイクオフ)という用語は、実際の離陸許可を下ろす時にしか絶対に口にしてはならなくなりました。

また、「フライトプランの承認」にすぎない管制承認も、離陸許可と混同されるのを防ぐため、コクピット内でも管制塔でも「departure」(出発)という用語を使わなければならなくなりました。

さらに、指示の際に、「OK」(オーケー)や「Roger」(ラジャー)といった口語表現単独、あるいは「イエス」「ノー」単独で承認を行ってはならず、「Affirm」(肯定だ=イエス)「Negative」(違う=ノー)といった決められた用語を使用し、指示の核心部分を復唱(read back)させることで、相互に理解したことを示さなければならなくなりました。

加えて、またコックピット内の手続きや規則も変わり、上意下達よりも、相互の合意による意思決定が強調されるようになりました。クルーメンバー間の厳格な上下関係は、クルー間の意思疎通や情報交換を妨げヒューマンエラーを引き起こす要因になるとして、なくす方向に向かったわけです。

これは、現在の航空業界ではCRM(crew / cockpit resource management、人的資源の管理)として知られているもので、いまではすべての航空会社の基礎的な安全管理方式や訓練体系となっています。

その後、テネリフェ島では、島北部の空港のある地域には頻繁に危険な霧が発生することから、島南部に新たな空港が建設されることになりました。これがレイナ・ソフィア空港です。しかし、悲劇の現場となった旧テネリフェ空港(ロス・ロデオス空港)はカナリア諸島内部やスペイン本土からのフライト用に今も使用されています。

アムステルダムには犠牲者の墓地および記念碑が作られています。またカリフォルニア州オレンジ郡ウェストミンスターの墓地にも同様の記念碑があります。

2007年には、事故30年を機にオランダやアメリカなどに住む遺族や、事故当時の救急に当たった島の人々が合同で慰霊祭を開かれました。また、事故後25年が経った2002年には、テネリフェ空港を見下ろす北部の高台に、18mの高さを持つ国際慰霊碑(International tenerife monument)が建てられています。

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この場所からは、眼下に事故現場となった空港が見えるほか、遥かかなたには、青い青い大西洋が見えます。私もいつの日か、慰霊を兼ねてこの地を訪れてみたいものです。

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貧乏カネなし

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今日で8月も終わりです。

今年も残りあと4ヶ月か~と、ため息が出ますが、その理由はというと、今年の年頭に立てた目標がひとつも達成できていないこと。

そのひとつは、今年こそは久々に海外旅行へ行きたい、というものだったのですが、時間もなければ先立つものもなかなか厳しいものがあり、どうやら断念せざるを得ない状況のようです。

もし時間も金もあったらどこへ行くか?ですが、できれば行ったことがないところがいいでしょう。

私は南半球には行ったことがなく、オーストラリアなどは時差も少ないのでストレスも少なく済み、最近航空機運賃もこなれているようなので、いいかもしれません。が同じ南半球なら、ニュージーランドも魅力的です。

時差は+3時間とのことで、これなら激しい時差ボケでに襲われる心配はないでしょう。季節は日本と真逆なので、もし今行くとすれば、これからは春であり、なかなか良い季節です。

その領域は267,710㎢。これはイタリアや日本よりも僅かに狭く、イギリスよりも少し大きいくらいです。海岸線は15,134kmと島嶼部の多い日本の29,751kmに比べれば半分くらいですが、それでも広範囲にわたる海産資源に恵まれており、排他的経済水域は400万㎢以上に及び、これは世界第5位の広さを誇ります。

排他的経済水域とは、自国の海岸線から200海里(約370km)の範囲で、水産資源および鉱物資源などの非生物資源の探査と開発に関する権利が得られます。が、と同時に、海洋汚染防止の義務を負うことになります。日本は第6位ですが、ニュージーランドよりも狭いのは、おそらく彼の地が日本よりも飛び地の島を多く持っているためでしょう。

陸上で接した国境は無い、というところは日本と似ています。インド・オーストラリアプレートと、太平洋プレートのちょうど境に位置し、太平洋プレートがオーストラリアプレートのほうへ沈み込んでいるため地震が多く、火山活動が著しい、といった点も日本と似通っています。

9世紀頃、ポリネシア人開拓者が島々にやってきたのが人が住むようになった始まりといわれており、彼らの子孫は現存していてマオリ人と呼ばれます。ヨーロッパ人として初めてこれらの島を「発見」したのは、オランダ人のアベル・タスマンで、1642年12月に ヘームスケルク号とシーヒアン号で、南島と北島の西海岸に投錨。

彼は最初、この地は、かつてベルギー人の水夫ヤコブ・ル・メールが1616年に「発見」したチリの南の土地だと思い、スタテン島(Staaten Landt)と地図に記しました。しかし、27年後の1643年になって、オランダの探検家、ヘンドリック・ブラウエルによって改めて調査され、チリの南ではないと分かりました。

このとき、オランダの知識人はオランダのゼーラント州 (Zeeland) にちなみ、ラテン語で “Nova Zeelandia”(「新しい海の土地」の意)と名付けましたが、これが後にはオランダ“Nieuw Zeeland”となり、現在の“New Zealand”になりました。ちなみに、「海の土地」の意の英語は”Sealand”になりますが、国際的にも“Zeeland“が正式呼称です。

なお、ニュージーランド(以下NZの略称で記述)を再発見したヘンドリック・ブラウエルは、日本の平戸の第2代オランダ商館長(カピタン)でもあり、オランダ東インド会社総督でした。が、日本にはおよそ1年ほどしか滞在していません。

1769年、かの有名なキャプテン・クックこと、イギリス人探検家、ジェームズ・クックが、島全体および周辺の調査を行いました。この調査の結果、ヨーロッパ人の捕鯨遠征がここで行われるようになり、その後、イギリスを始めヨーロッパ各地からの移民流入が始まりました。

1830年代前半に、ロンドンに植民地会社が組織されると、移民はさらに増加しました。1840年、イギリスは、先住民族マオリとの間にワイタンギ条約を締結し、イギリス直轄植民地としました。

このワイタンギ条約というのは、当時武力衝突が絶えなかった先住民族マオリ族とイギリス王権との間で締結された条約ですが、その内容は、マオリ族は英国女王の臣民となり主権を英国王に譲る、マオリの土地保有権は保障されるが全てイギリス政府へのみ売却される、マオリは英国民としての権利を認められる、という一見穏やかなものでした。

しかしながら条約を英文からマオリ語に翻訳した際の訳文に問題があり、21世紀に入った今日においても、マオリ族の権利の問題として議論が絶えません。例えば「主権」を表すマオリ語が存在しなかったため、新しい造語を創りましたが、これは英語では「支配」に近いものでした。

このため、マオリ側の認識は「全ての土地は自分達のもの」というものであるのに対し、白人側は「NZはイギリスの植民地である」と考えていました。このため、1860年代には、入植者とマオリ族との間で土地所有をめぐり緊張が高まり、1843年と1872年の二度に渡って戦争が勃発しました。

この反乱はのち鎮圧されたものの、NZ政府はその後100年にわたってこの問題を放置しましした。1975年になってようやく、「ワイタンギ審判所」が創立され、ワイタンギ条約で認められた権利について、再度審議が開始された結果、一部強奪された土地を返還する、ということが決まり、また英語だけだった公用語にマオリ語を加えられることになりました。

現在NZの人口はお445万人ですが、マオリ族の人口は約79万人であり、これはおよそ18%にもおよび決して無視できない勢力です。

2015-1943

その後19世紀後半になると工業化が進み、1907年9月26日、イギリス連邦内の自治領となり、事実上独立しました。第一次世界大戦では志願兵によるオーストラリア・NZ軍団 (ANZAC) を結成して「ガリポリの戦い」に参加し、激戦を経験しました。

これは、連合国軍が同盟国側のオスマン帝国の首都イスタンブル占領を目指し、エーゲ海東のガリポリ半島(現トルコ領ゲリボル半島)に対して行った上陸作戦での戦いであり、NZ人では戦死者2,701人を出しました(オーストラリア軍は 戦死8,709人)。ちなみに、この作戦でのANZACの海上護衛を、両国と地理的に近い日本海軍が引き受けていました。

また、この当時オーストラリアやNZには兵器を製造できるだけの工業力がなく、多くを輸入に頼っており、「ジャパニーズ迫撃砲」と呼ばれた軽迫撃砲のような日本製兵器が多く使われたといいます。

この戦いで、主力のイギリス軍は戦死者21,255人、フランス共和国軍は約10,000人の死者を出したのに対し、オスマン帝国軍は86,692人もの死者を出すなど著しい人的損傷を出しました。が、結果としてはこの戦いは侵攻してきた連合国軍の敗退に終わり、その結果第一次大戦はかなり長引きました。

オスマン帝国は長年「ヨーロッパの病人」と呼ばれてきたように19世紀以来列強に連敗を重ねてきていましたが、この戦いでは奮戦して英連邦軍とフランス軍を撃退したことは諸外国に驚きを与え、トルコ人には熱狂をもって受け取られました。

その後、1931年にイギリス議会は、ウェストミンスター憲章を定め、NZ自治領の独立を認めましたが、ニュージーランド議会が独立を決断したのは第二次世界大戦を挟んだ1947年11月のことでした。

第二次世界大戦でもNZは連合国側に立って参戦しましたが、この戦争はイギリスやフランスなどの主要国に深刻な損害をもたらしたのに対し、NZはほとんど無傷でした。このため戦後ニュージーランドは、かつての宗主国、イギリスに対して特恵待遇で生産物を供給する対策を打ち出しました。

この結果、国内で生産される産出品目はすべてイギリスが買い上げてくれる、という構造が成り立ち、安定市場の確保に成功します。バター、チーズ、食肉、羊毛などの主要な輸出品は90%以上がイギリスへ輸出され、その割合は輸出品全体で見ても半分以上を占めるに至りました。

こうして、ニュージーランド経済はイギリス市場に依存することで大躍進を遂げ、1960年代には経済成長率、国民所得が先進諸国の最高水準に接近するなど、栄華を極めました。その後もイギリスを主な貿易相手国とする農産物輸出国として発展し、世界に先駆け高福祉国家となりました。

しかし、1970年代にイギリスがECの一員としてヨーロッパ市場と結びつきが強まり、ニュージーランドは伝統的農産物市場を失い経済状況は悪化し、さらに、オイルショックが追い打ちをかけました。国民党政権は農業補助政策を維持する一方、鉱工業開発政策を開始するなど財政政策を行いましたが、いずれも失敗し、財政状態はさらに悪化。

1984年、労働党のデビッド・ロンギが政権を勝ち取り、政権主導の改革を押し進めた結果、ロンギ首相とダグラス財務大臣の改革は、ロジャーノミクスと呼ばれる経済改革につながりました。この改革では21の国営企業(電信電話、鉄道、航空、発電、国有林、金融など)が民営化され、その多くが外国資本に売却されました。

大学や国立研究所は法人化され、実質無料であった学費は大幅に値上げされるなど、従来の保護政策は撤廃されました。が、同時に規制が緩和され、外資に門戸を開き、許認可を極力なくし、官僚の数は半減されました。これらの改革はライバルの国民党が政権を奪還しても受け継がれ、ニュージーランドはきわめて規制の少ない国になりました。

反面、一連の改革は医療崩壊等様々なデメリットも招きました。1990年代後半からは、とりわけ環境問題、自然保護政策に重点を置き、クルマ社会に変わって外資に売却した鉄道会社を再購入するなど地球温暖化対策に積極的な姿勢を示しています。

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「ニュージーランド軍」として陸海空三軍を持っています。直接的な脅威を受ける国家がないため、冷戦終結後は陸軍を主体とした3軍を再編し、本土防衛のほか、国際連合の平和維持活動 (PKO) を重点活動としており、この点も日本と似ています。また、オーストラリア、アメリカなどと共に、ANZUS条約に入っています。

“ANZUS” の “A” はオーストラリア、“NZ” はニュージーランド、“US” はアメリカです。軍事同盟であり、太平洋の安全保障が目的ですが、南太平洋非核地帯条約に参加し、核兵器搭載艦艇の寄港を拒否しているためNZの加盟は有名無実となっています。

イラク戦争には反対し派兵しませんでしたが、対テロ戦争の一環でアフガニスタンやインド洋に兵力を派遣しており、核に対する拒否反応も含めてこうした軍事面でも日本によく似ています。

その日本とニュージーランドの間の関係は悪くなく、第二次世界大戦後は、日本とNZとはお互いに主要な貿易相手国です。また、2011年2月に発生したクライストチャーチの大地震と、同年3月に発生した東日本大震災のときには、互い救援活動を支援しあいました。

が、国民一人あたり所得は日本より低く(約270万円)、失業率こそ6%(2010年1-3月期)と比較的低く押さえられているものの、就労者は全人口の約50%(日本は約65%)です。所得・消費税率(15%)が高く、一方では贈与相続税が低く(最高税率が基礎控除後で25%)、社会保障は移住者に対しても充実しています。

政策面では人種・性別・障害などへの差別撤廃に積極的で福祉も充実しており、気候もいいし、住みやすい、ということでアジアなどの諸外国からの移住者が増えているようです。しかしこうしたニューカマーへの優遇政策は地元住民の反発や偏見を助長している、という側面があるようです。

また、日本人を含めてアジア人にとっては安全な国だというイメージが先行しがちですが、路上者を襲撃する粗暴事件や凶悪事件が多数発生しており、移住ではなく、たとえ旅行といえども油断は禁物です。

その観光も重要な産業であり、海外からの観光客による外貨獲得は国内総生産(GDP) の9%を占めます。広大な自然地形とロード・オブ・ザ・リングに代表される映画、環境産業が観光客の増加に貢献。また国内各地でエコツーリズムを開催するなど観光政策と自然保護政策の両立を目指しています。

年間260万人以上もの旅行者が訪れます。国別統計ではオーストラリアが最も多く45%を占め、次いでイギリス、アメリカ、中国で、日本は5番目の年間約6.5万人です。

政府観光局はアジア、北米、ヨーロッパで広範囲な観光誘致活動を行っています。日本からは、成田空港や関西空港からニュージーランド航空が直行便を運行しているほか、シドニー、シンガポール、香港、バンコクなどから経由便を利用して入国できます。

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ところで、NZには、「タウマタファカタンギハンガコアウアウオタマテアトゥリプカカピキマウンガホロヌクポカイフェヌアキタナタフ」という世界一長い地名を持つ場所があります。

(英語表記では:
Tetaumatawhakatangihangakoauaotamateaurehaeaturipukapihimaungahoronukupokaiwhenuaakitanarahu)

ニュージーランド・北島の東海岸にある、ホークス・ベイ地方南部にあるマンガオラパ という町の近くにある高さ305mの丘の名であり、あまりにも長すぎるので、会話等では「タウマタ」(Taumata)と略されます。公式の場では略されますが、それでも「タウマタファカタンギハンガコアウアウオタマテアポカイフェヌアキタナタフ」となります。

上述の英語表記92文字は、世界一長い地名としてギネスブックに記載されています。その意味は「タマテアという、大きな膝を持ち、山々を登り、陸地を飲み込むように旅歩く男が、愛する者のために鼻笛を吹いた頂」だそうです。

こういうのを「長大語」といい、一種の「言葉遊び」ともいえます。言葉の持つ音の響きやリズムを楽しんだり、同音異義語を連想する面白さや可笑しさを楽しむ遊びです。日本語にもあります。複雑な象形文字の名残である表意文字の漢字を使うと比較的短くなりますが、表音文字であるかな文字にすると、いかにも長くなります。

植物では、アマモの別名をリュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ(竜宮の乙姫の元結の切り外し)というのがあり、現在標準的としては使われていませんが、最も長い和名とされます。また魚類ではミツクリエナガチョウチンアンコウ(箕作柄長提灯鮟鱇)は、最も長い和名を持つ魚です。

かつてあった「テロ対策特別措置法」の正式名称は「平成十三年九月十一日のアメリカ合衆国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国際連合憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して我が国が実施する措置及び関連する国際連合決議等に基づく人道的措置に関する特別措置法」で、戦後の法律では一番長いものでした。

2001年9月11日に発生した「アメリカ同時多発テロ事件」を受けて制定されたもので、2年間の時限立法であったので今ではもう有効ではありません。さすがに、おふざけでこうした長い名前にしたわけではないでしょうが、他にも寿限無を代表とする落語などの芸能の演目に残る古典的なものもあり、日本人はこうした長い呼称を好む傾向にあるようです。

何かと話題にもなるので、わざわざ長いものを作る例は後を絶たず、そのほかにも、地名や人名、会社名などの有名なものにはマスメディアで発表・流布されたりもします。

日本で一番長い会社名は、「株式会社あなたの幸せが私の幸せ世の為人の為人類幸福繋がり創造即ち我らの使命なり今まさに変革の時ここに熱き魂と愛と情鉄の勇気と利他の精神を持つ者が結集せり日々感謝喜び笑顔繋がりを確かな一歩とし地球の永続を約束する公益の志溢れる我らの足跡に歴史の花が咲くいざゆかん浪漫輝く航海へ」です。

また、テレビ番組名で一番が長いのは、1989年4月に放送された「さんま・一機のその地方でしか見られない面白そうな番組を全国のみんなで楽しく見ちゃおうとする番組を5回もやっちゃったけどもう一度ふり返りながらやっぱり楽しく見ちゃっておしゃべりしちゃう大総集編的な番組」です。

さらに、AKB48が2013年に発表してシングルの表題曲名は、「鈴懸の木の道で「君の微笑みを夢に見る」と言ってしまったら僕たちの関係はどう変わってしまうのか、僕なりに何日か考えた上でのやや気恥ずかしい結論のようなもの」です。

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こうした例を挙げるだけでかなりの紙面を使ってしまうので、もうやめましょう。

最近では言葉遊びとして、「ことわざパロディ」というのがあり、これは、ことわざをもじって、面白く、可笑しくしたものです。例えば、「腐ったら生ゴミ(腐っても鯛)」「犬も歩けば猫も歩く(犬も歩けば棒に当たる)」「親しき仲にも借用書(親しき仲にも礼儀あり)」「花より現金(花より団子)」「寄らば大企業(寄らば大樹の陰)」などです。

有名なのには、貧乏金なし(貧乏暇なし)などがあり、このほか、「ちりも積もればじゃまとなる(ちりも積もれば山となる)」椅子の上にも怨念(石の上にも三年)」「可愛いのなら無理をさせるな(可愛い子には旅をさせよ)」「人を憎んで罪を憎まず(罪を憎んで人を憎まず)」などなどです。「急所ね?ココを噛むぅ?(窮鼠猫を噛む)」というのもあります。

これに近いのが「空耳」というヤツで、これはテレ朝の深夜・バラエティ番組「タモリ倶楽部」において、長年に渡り放送されているミニコーナーで披露されています。視聴者から「日本語以外で歌われているが、あたかも日本語のように聞こえる歌詞(空耳)」の投稿を募り、制作サイドでつけたイメージ映像を交えて紹介するというものです。

このほか「倒語」は、言葉を逆の順序で読むというヤツで、逆読み、または逆さ読みとも言います。てぶくろ→ろくぶて、などが代表で、ナオン = 女、マイウー = うまい、クリソツ = そっくり、ポコチン = ちんぽこ、パイオツ = おっぱい、パツキン = 金髪、グラサン = サングラス、などがありますが、これらはもう日常語という感じもします。

古典的なものとしては、「しりとり」がまずそうですし、このほか回文(例:またたび浴びたタマ)、語呂合わせ(例:14106=愛してる)、早口言葉(骨粗鬆症訴訟勝訴)、駄洒落(トイレにいっといれ)などがあります。

「地口」というダジャレの一種もあって、これは「舌切り雀」をもじって、「着たきり娘」、「うまかった(馬勝った)、牛負けた」、「アイムソーリーヒゲソリー、髭を剃るならカミソリー」、「驚き、桃の木、山椒の木、狸に電気に蓄音機」といったヤツで、発音が似た単語を用いるため、駄洒落よりも創造性に富み、作成するのも比較的容易で人気があります。

このほか、あたり前田のクラッカー(「当たり前だ」と「前田のクラッカー」)、そうはいかのキンタマ(「そうは行かない」と「烏賊の金玉」)、その手は桑名の焼き蛤(「その手は喰わない」と「桑名名物の焼き蛤」)、というのも有名なところです。

「ぎなた読み」というのもあり、これは、「弁慶が、なぎなたを持って」と読むべきところを「弁慶がな、ぎなたを持って」と読むように句切りを誤って読むことで、弁慶読みともいいます。他の例では、「倒産か、辛かったな(父さんカツラ買ったな)」というのもあります。

昔ながらの「どれにしようかな(どちらにしようかな)」も言葉遊びのひとつで、これは地方によってパターンが違う、というところに特徴があります。例えば、私が育った広島では、「どちらにしようかな 天の神様の言う通り、かっかのかっかの柿の種 ねんねのねんねのねずみとり りんごのりんごのりんご取り」と言った具合です。

ところが、地方によっては全然違っていて、東北の宮城県などでは、「どれにしようかな 天の神様のいう通り あべべのべ あーめんそーめん中華そば 赤豆白豆なんの豆」ですが、京都や奈良では、「どちらにしようかな 天の神様の言う通り 柿の種の言う通り プッとこいてプッとこいてプップップ」と変わります。

これが九州へ行くと、福岡や大分では「どれにしようかな 天の神様の言う通り けっけのけーのおーまーけーつーき」だそうで、鹿児島に至っては、「どちらにしようかな 天の神様の言う通り 桜島ドッカーン」だそうで、全然違います。

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言葉遊びも、さらに高度のものになると、古典的なところでは、「無理問答」があり、これは問う側が「○○なのに××とはこれいかに」という形式のお題を出し、答える側は「△△なのに□□と呼ぶが如し」と答えるものです。

例えば、問い「存在するのに犬(居ぬ)とはこれいかに」答え「近寄ってきても猿(去る)と呼ぶが如し」、問い「1台のトラックについていても荷台(2台)とはこれいかに」答え「2台のトラックがぶつかっても重大(10台)事故と呼ぶが如し」と言った具合で、当意即妙に答えられるかどうか、がミソとなり、なかなか頭を使います。

「○○とかけて××と解く。その心は□□」という、「なぞかけ」もかなり頭を使うもので、一時期、即興なぞかけが得意な「ねづっち」さんで有名になりました。無理問答やこのなぞかけは寄席の大喜利でもよく使われるネタで、テレビの「笑点」でもおなじみです。

落語の演目のひとつに「山号寺号(さんごうじごう)」というのがありますが、これも高度な言葉遊びのひとつです。寄席の大喜利における古典的な出題としても知られるもので、古くは、上方落語の初代「露の五郎兵衛」が1707年(宝永4年)に出版した笑話本の中に出てきます。

あらすじとしては、ある商家の若旦那が、なじみの幇間・一八と出会い、一八が「どこへ行くんですか」とたずねると、若旦那は「浅草の観音様だ」と答えます。「ああ、金龍山浅草寺ですか」と一八。

「俺が行くのは浅草だよ」と言う若旦那に、「ですから、あそこは本当は金龍山浅草寺というんです。お寺には「なになに山なになに寺」という正しい呼び名があり、この山号と寺号を合わせた「山号寺号」というのが、どこにでもあるんでさぁ」と一八が続けます。

それを聞いた若旦那は「どんなところにも山号寺号があるんだな」と念を押して、「この場にもあるか。もしあったら金をたんとやる」と一八に迫ります。これを聞いた一八は頓智をきかせ、「あそこでおばさんが縁側を拭いてますね」と言い、おばさんが拭いているから「おかみさん拭きそうじ」と言うんでさぁと答えます。

さらに、乳母(おんば)さんが子供を抱いているから、「乳母さん子を大事」などと、次々に「山号寺号」を披露していく、といったもので、いかに洒落た山号寺号が即答できるかどうか、がミソです。

この演目での題材は他の落語家によってはかなり改変されてきており、例えば近代のものでは、自動車屋さんガレージ、時計屋さん今何時、肉屋さんソーセージ、清子さん水前寺、お医者さんイボ痔といった具合です。

この話のオチでは、この即応当意の切り返しによっ一八に所持金をほとんど巻き上げられてしまった若旦那が、「今度は私がやろう」と言うなり、金で満杯になった一八の財布を取り上げてふところに入れ、「一目散随徳寺(いちもくさん ずいとくじ)」と言って逃げる、というものです。

「随徳寺」とは、「跡をずいとくらます」ことを意味する古い「地口(上参照)」のことで、逃げられた一八は、「南無三、し損じ」、と言って噺が終わります。

……ということで、そろそろ今日の項も「一目散随徳寺」させていただきやしょう。

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ネガティブ

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プロ野球も、残る試合は各球団とも30試合を切り、終盤たけなわ、といったところです。

今年はセリーグがどのチームもいまひとつピリッとせず、星を潰し合っていて、そこがまた面白いのですが、わがひいきチームのカープは、まぁ優勝は無理としても、果たしてクライマックスシリーズ進出に向けて、3位以内に入れるでしょうか。

私はスポーツの中では一番野球が好きですが、とはいえ、最近は野球を見るためにわざわざ球場に足を向けるようなこともなくなり、たいていはテレビで観戦しています。おそらく最後に行ったのは、広島カープが優勝した年の1986年だったと思います。最終戦の横浜戦であり、目の前で阿南監督が胴上げするのを見ることができたのは、良い思い出です。

カープはその後1991年にも優勝していますが、それ以来リーグ制覇から、遠ざかっており、今年は黒田や新井が帰ってきたので、さぞかし奮起してくれるだろうと期待していたのですが、打撃陣がいまイチで、なかなか勝率5割に達しません。

それにつけても、最近増えているという「カープ女子」。あれはいったいどういう現象なのだろうと、前から気になっていたので調べてみたところ、きっかけは、2009年に、新本拠地マツダスタジアムのオープンに合わせ、球団が女性ファンの取り込みを強化するために、多彩なグッズ販売などを行ったことだったようです。

その後、11年頃から、当時「カープガールズ」と呼ばれていた女性ファンが増えていることがスポーツ新聞などで報じられ始め、13年に放送されたNHKの「ニュースウオッチ9」の特集で「カープ女子」が特に関東圏で増えていると紹介され、それを契機としてこの言葉が広まり定着していったそうです。

昨年の5月に、球団は「関東カープ女子 野球観戦ツアー」を実施したところ、約150人もの女性が参加したそうで、いまやカープ女子はさらに増殖中のようです。こうした女性ファンが増えた背景には、球団の施策に加え、なんといっても、イケメンが多いことも関係しているでしょう。

菊池や丸、堂林といった男前に加え、ご存知マエケンこと前田健太や野村祐輔、田中広輔などなど、これほどイケメンが集まったのは、球団創設以来のことかもしれません。チームカラーが女性が好む赤であることも関係があるようで、もともと団結力が強いカープファンの仲間として一体感を味わえることも魅力のようです。

しかし、カープに限らず、その他のファンにも熱狂的な人達は多く、中でもやはり有名なのは阪神ファンでしょうか。一説によれば、日本には2000万人以上の阪神ファンが存在するといい、巨人ファンを抜いて両リーグ最多である、といわれているようです。

カープファン以上に、阪神ファンは阪神タイガースに対し強い一体感を持っているとも言われ、球団に対する愛着やファン同士の連帯感が強いことで有名です。巨人の元エースで阪神のコーチも務めた西本聖は、「巨人ファンにとって巨人は趣味の一つ。阪神ファンにとって阪神は生活の一部」と評したそうです。

また、大阪育ちで熱狂的な阪神ファンとして知られる、経済評論家の國定浩一氏は「阪神ファンにとって球場での応援は「観戦」ではなく「参戦」である」とのたまわっているそうです。國定さんの、テレビ出演時の阪神タイガースのロゴをあしらったスーツやネクタイは有名で、なかでも、「阪神優勝」のスーツの裏地は特に有名です。

しかし、その応援は熱狂的になりすぎ、それが高じると対戦相手ファンや選手に対する過激な行動に出ることも少なくないといわれ、ときには、プレーの妨害や、グラウンド内への乱入などが新聞報道されたりもします。

古くは、1973年(昭和48年)10月22日甲子園での対巨人最終戦。勝った方が優勝という試合で、阪神が0-9と大敗。不甲斐ない試合に激高したファンがグラウンドになだれ込み巨人の選手らに暴行を働き、テレビ局の機材を徹底的に破壊。これにより巨人監督の川上哲治の胴上げは中止となり、兵庫県警察の機動隊員が出動する騒ぎとなりました。

また、1985年(昭和60年)10月16日の対ヤクルト戦(神宮)で引き分け、阪神がリーグ優勝を決めたのち、大阪市の繁華街ミナミにある戎橋から多数の阪神ファンが道頓堀川に飛び込んだ話も有名です。この事件以降も阪神が優勝争いや優勝するたびに同じように戎橋から飛び込む行為が発生しています。

さらに、一部の阪神ファンが戎橋近くのケンタッキーフライドチキン道頓堀店に設置されていたカーネル・サンダース像をこの年のMVP・ランディ・バースに見立て胴上げし、道頓堀川に投げ込みました。ちなみに、その後阪神は長らく低迷しましたが、この不調を「カーネル・サンダースの呪い」などと呼ぶジョークが、その後ファンの間で流行しました。

こうした野球ファンによる熱狂騒ぎは何も阪神ファンだけではなく、他チームの一部の熱狂的ファンが大なり小なり起こしており、また、昭和や平成に入ってからのことでだけでなく、明治時代にもかなり過激な騒ぎが多数起っています。

ただし、この時代にはプロ野球はまだ盛んではなく、現在のような職業野球の球団群の人気が出るようになったのは、大正時代以降のことです。それ以前の明治末期に人気があったのは、学生野球であり、その人気は現在のプロ野球以上にすさまじいものでした。

1906年(明治39年)秋の早慶戦は、第1戦が10月末に早大戸塚グラウンドで開かれ、慶應が2:1で勝利。続く第2戦は慶大三田グラウンドで早稲田が3:0で雪辱。そして第3戦は10日後に開催予定でしたが、両校のファンがエキサイトしすぎて双方に脅迫状が届く事態となり、無期延期となりました。

その後、対戦相手を失った早慶両校は渡米したり、逆にアメリカ合衆国からチームを招聘したりするようになっていきます。選手はちやほやされるようになり、味を占めた選手の中には野球を続けるためわざと留年したあげく新任教師より年上という者まで現れました。

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さらに他の学校でも野球は大人気でしたが、行き過ぎた応援が徐々に問題視されるようになり、野球禁止を掲げる学校まででてきたため、賛否両論が巻き起こりました。そんな中で、1911年(明治44年)に朝日新聞(当時の東京朝日新聞)が紙面で「野球害毒論」という野球に対するネガティブ・キャンペーンを展開しました。

1911年(明治44年)8月29日から9月22日までの間に、「野球と其害毒」と題した記事を22回にわたって掲載しましたが、これは著名人の野球を批判する談話、全国の中学校校長を対象に実施されたアンケートの結果などで構成されていました。中でも、当時第一高等学校(現在の東京大学教養学部)の校長だった、新渡戸稲造の談話の内容はこうでした。

「野球という遊戯は悪くいえば巾着切りの遊戯、対手を常にペテンに掛けよう、計略に陥れよう、ベースを盗もうなどと眼を四方八方に配り神経を鋭くしてやる遊びである。故に米人には適するが、英人やドイツ人には決してできない。野球は賤技なり、剛勇の気なし」

また、学習院の院長であった乃木希典大将も、「対外試合のごときは勝負に熱中したり、余り長い時間を費やすなど弊害を伴う」と批判し、金子魁一東京大学医科整形医局長も、「連日の疲労は堆積し、一校の名誉の為に是非勝たなければならぬと云う重い責任の感が日夜選手の脳を圧迫し甚だしく頭に影響するは看易い理である」と医学的に否定しました。

また、松見文平順天中学校校長も、「手の甲へ強い球を受けるため、その振動が脳に伝わって脳の作用を遅鈍にさせる」と医学的な面からの弊害があるとしました。

このほか、磯部検三日本医学校幹事は、「あんなにまでして(渡米試合のこと)野球をやらなければ教育ができぬというなれば、早稲田、慶應義塾はぶっつぶして政府に請願し、適当なる教育機関を起こして貰うがいい。早稲田、慶應の野球万能論のごときは、あたかも妓夫や楼主が廃娼論に反対するがごときもので一顧の価値がない」と一刀両断。

さらに、川田正澂府立第一中校長に至っては、「野球の弊害四ヵ条。一、学生の大切な時間を浪費せしめる。二、疲労の結果勉強を怠る。三、慰労会等の名目の下に牛肉屋、西洋料理等へ上がって堕落の方へ近づいていく。四、体育としても野球は不完全なもので、主に右手で球を投げ、右手に力を入れて球を打つが故に右手のみ発達する」とまで言いました。

このように教育者や医学者といった、この当時の人々に大きな影響を与える立場の人たちがこぞって東京朝日新聞に「野球と其害毒」を展開したことで、この問題のなりゆきは、世間にも注目されました。が、結局こうしたネガティブ・キャンペーンの実施にもかかわらず、野球人気は一向に衰える気配はありませんでした。

そればかりか、東京日日新聞等の他紙は、野球害毒論に反対する論陣を真っ向から張り、たとえば読売新聞は、1911年(明治44年)9月に「野球問題演説会」を開催し、安部磯雄(早大野球部創設者。日本における野球の発展に貢献し「日本野球の父」と呼ばれる)や押川春浪(人気SF作家。弟が早大野球部キャプテン)らが野球擁護の熱弁をふるいました。

しかし、もともと東京朝日新聞がこうしたキャンペーンを張ったのは、ライバルの大阪毎日新聞(現毎日新聞)の東京進出が原因とされ、同社が自らの存在をアピールするため、当時国民的人気を誇っていた野球を利用したのでは、ともいわれています。実際、「野球と其害毒」が連載されたこの年、大阪毎日は東京日日を買収して東京進出を果たしています。

なお、大阪朝日新聞は、このキャンペーンに関してはとくに否定的な記事は掲載せず、逆に、キャンペーン終了直後には野球に好意的な特集記事を組みました。さらに「野球と其害毒」連載から4年後の1915年(大正4年)、大阪朝日新聞は社会部長長谷川如是閑主導の下、全国中等学校野球大会(現全国高等学校野球選手権大会)を実施しました。

当時の社説には「攻防の備え整然として、一糸乱れず、腕力脚力の全運動に加うるに、作戦計画に知能を絞り、間一髪の機知を要するとともに、最も慎重なる警戒を要し、而も加うるに協力的努力を養わしむるは、吾人ベースボール競技をもってその最たるものと為す」と、野球に対して好意的なコメントが出されました。

その後も野球人気は衰えず、現在に至っています。ただ、1991年には、この当時まだ朝日新聞記者だった、ジャーナリストの本多勝一が「野球と其害毒」の記事に倣って、「新版“野球とその害毒”」を、朝日の週刊誌「朝日ジャーナル」に連載しました。

実は、本多さんは、野球嫌いで知られており、朝日新聞社では新人は必ずやらされる高校野球の取材も、「野球は嫌いだ。甲子園は愚劣だ」と言い続け、ついにその機会は無かったといいます。その後この記事は単行本にもなり、その中でも野球害毒論を加筆しています。

本多さんは、野球の守備位置による運動量の差、とくに投手の運動量が圧倒的に多いことなどを挙げ、「野球は二流スポーツ」と断じました。また、高校野球の過密スケジュールによる選手の酷使についても取り上げていました。

プロ野球も嫌悪しており、特に江川事件などを理由にアンチ巨人派であり、またアンチ西武です。その理由はよくわかりませんが、西武鉄道の元親会社「コクド」のオーナーの堤義明氏が、インサイダー取引疑惑で有罪判決を受けたことがあるからでしょう。

また、広島ファンの筑紫哲也が巨人の金満補強を嘆いて「週刊金曜日」に「野球自体への興味が薄れつつある」と書くと、こう感想を述べたそうです。

「結構なことだなあ。巨人がもっともっと大選手をかき集めて、毎年ひとり勝ちになって、巨人ファン以外はだれも職業野球になど関心を失って、球場が赤字つづきになる。すばらしいことではなかろうか。不正が敗北するわけだから。どうか巨人「軍」よ、来年も再来年も勝ちつづけてくれ。」

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このように、新聞や雑誌などにおいて、特定の人物・団体をおとしめ、ひいては別の人物・団体に利益をもたらす、ネガティブ・キャンペーンは、元々は、誹謗中傷により対立候補をおとしめる選挙戦術の一つでした。

相手の政策上の欠点や人格上の問題点を批判して信頼を失わせる選挙戦術で用いられたこの手法は、最近ではあらゆる分野で使われるようになり、マスメディアを中心により人物や組織などに対してあら探しをして攻撃が行われます。

しかし、根拠の無い中傷である場合も多く、事実を基にした歪曲もネガティブ・キャンペーンの範疇に含まれます。それでも相手の信用を失わせることで、自分を相対的に高めることができる有効な手立てといえ、手段を選ばない、ダーティな戦略とみなされつつも利用されることが多くなっています。

あえて自分にとって不利になる話題を取り上げて、自分への注目を集めるタイプのネガティブ・キャンペーンが打たれることもあり、これはたとえ悪いことでも話題を作りさえすれば、世間に存在を認めてもらえる、という考えからきています。

ただ、ネガティブ・キャンペーンそのものは非合法行為ではありません。環境に即した形で効果的に行えば、大きな成果をあげることができるため、米国では大統領選挙でも盛んに相手陣営に対してネガティブ・キャンペーンを張り、成果を上げた例が多数あります。

中でも有名なのは、「ひなぎくと少女」というキャンペーンで、これは、1964年のアメリカ大統領選挙で使われた有名なCMです。この時の選挙は、民主党の現職のリンドン・ジョンソン、対する共和党はバリー・ゴールドウォーターによる争いでした。

ゴールドウォーターは過激な言動で知られる政治家であり、「ベトナムの密林を焼き払うためには、核兵器の使用もためらってはならない」とまで発言しており、このため、ゴールドウォーターが大統領になったら核戦争が始まるのではないかという危惧を抱く有権者も多かったようです。

これをゴールドウォーター陣営は逆に利用し、「あなたも心の底では、彼が正しいと思っているはずです」等といったテレビCMを放送するなどの戦術で、彼のイメージアップに成功していました。

これに対応を迫られた民主党のジョンソン陣営が放ったのが、「少女とひなぎく」というキャンペーンCMでした(ウィキペディアには「汚いひなぎく」と紹介されていますが、原題は、”Daisy Girl”あるいは、”Peace, Little Girl”であり、明らかにこれは意訳しすぎです。ウィキペディアにはこうした意図的な改変、あるいは誤訳がかなり多いので注意が要です)。

ジョンソン陣営が流したCMは、幼い少女が「1、2、3、…」と、ひなぎくの花を数えているシーンに始まり、それにかぶさるように「…3、2、1、0」とカウントダウンする男性の声とともに、少女の背後で轟音とともに立ち上るキノコ雲が立ち上がるというものです。

そして続くナレーションは、「これは大変な問題です。子供たちが生きる世界を作るか、それとも闇に沈むか。それは選挙にかかっています。互いに愛し合わなければ、私たちは死に絶えます。11月の選挙では必ず投票に行ってください。そして、ジョンソンに投票を。くれぐれも自宅にいる、などという危険を犯さないで下さい。」というものでした。

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しかしこのCMは、なんと9月7日の夜、たった一度だけ放映されただけでした。にもかかわらず、アメリカ国民の心に強い印象を残しました。

それというのも、当時のアメリカ国民にとっては、キューバ危機の記憶もまだ生々しい頃であり、幼い少女の背後でキノコ雲が上がるこのCMは、暗に「ゴールドウォーターが大統領になると必ず核戦争になる」とでも、言いたげでした。

このCMの放映を受け、ゴールドウォーター陣営は直ちに抗議をしました。しかし、CMの中ではひとことも「ゴールドウォーター」の名前は登場していませんでした。ただ、「核兵器の使用は必要なら是である」という日頃の彼の過激な言動は誰もがよく知っており、明らかに人々はこのCMで、核戦争=ゴールドウォーターというイメージを持ちました。

とはいえ、核戦争を想起させるこのCMには、放映直後からホワイトハウスに抗議の電話が殺到しました。また人々に恐怖をもたらしたとして批判されたため、放送を行なったテレビ局ではその後これを流すのを中止しました。しかし、そうしたCMが流されたことがその後ニュースやワイドショーで報道されたこともあり、大きな反響を巻きおこしました。

たまたま見ることができた人も細部まで正確に覚えていたわけではありませんでしたが、そうしたCMがあったことを多くの人がニュースなどで知るようになり、その後人々は何かとこのCMを話題にするようになりました。その過程で、さまざまな解釈や尾ひれが加えられたことは、ゴールドウォーターの共和党には大きな打撃になりました。

民主党陣営は、まさかこのCMがそれほど影響力を持つとは思っていいませんでしたが、予想以上の効果を有権者に与えたことを知ると喜びました。

ジョンソン自身も最初それが信じられず、「いったいどういうことなんだ?」と側近に聞いたといい、このときその一人が「あなたの言いたいことが有権者に伝わったということです」とひとことだけ言い、その答えにジョンソンは非常に満足したといいます。

その結果、大統領選挙の一般投票において、ジョンソンが獲得した票は61.1%。ゴールドウォーターの38.5%に、実に22.6ポイントもの差をつけて圧勝しました。

この例では、当初考えていたネガティブ・キャンペーンが思った以上に、というか思っていたのとは違う意味で成功した例ですが、その後、アメリカではさかんにこうしたキャンペーンが打たれるようになったのは言うまでもありません。

同様に日本でもネガティブ・キャンペーンがさかんに実施されるようになりました。有名な例としては、2007年7月に行われた第21回参議院議員通常選挙において、自民党が勝利し、安倍晋三第一次政権が誕生したときのはなしがあります。

その後安倍政権は、首相の体調不良によりわずか1年弱で終わることになりますが、その辞任時に、朝日新聞が張ったネガティブ・キャンペーンはかなり過激だったようです。

元々朝日新聞は左寄りの論評が多い左翼新聞だ、というのはよく言われることですが、昔から自民党の批判は確かに多く、東海新報(岩手県大船渡市、発行部数約14,000部)は、2007年9月の4日付の記事で、この当時の朝日の安倍政権に対するネガティブ・キャンペーンはすさまじかったと論評しています。

また、産経新聞ワシントン駐在編集特別委員兼論説委員でもある、ジャーナリストの古森義久氏もかつて、「全国紙がここまで特定の政治家や政権に非難を浴びせ、その打倒を図るという政治的キャンペーンは、日本のジャーナリズムの歴史にも異様な一章として特記されるかもしれない」と批判しています。

総理の就任時にも、社説で「不安いっぱいの船出」と書くなど、安倍政権対して批判的で、その後首相の体調不良がわかると盛んに「辞任の時期」を巡った報道を繰り返し、最終的に安倍さんが国会の所信表明演説直後の9月に辞任した時には、”責任を放棄した”の意で「アベする」と言った言葉が流行している、とまで報道しました。

これを書いた張本人は、同紙に寄稿していたコラムニストの石原壮一郎氏で、安倍晋三の首相辞任に際して「“アタシ、もうアベしちゃおうかな”という言葉があちこちで聞こえる。(中略)そんな大人げない流行語を首相が作ってしまったのがカナシイ」とやりました。

実際にはそれほど流行り言葉になったわけでもないようですが、それを天下の朝日新聞が堂々と流行語だと言い始めたことに反発したのか、これに対してネット上では逆に同紙を批判する動きが出るようになりました。

ネット上の掲示板やブログで「Googleで検索したが「アベする」という流行語はヒットしない」「捏造ではないのか?」「安倍・阿部等の姓をもった人に対していじめなどが起きかねない」との疑問が提示され、批判が続出しました。そしてついには、「アサヒる=捏造すること、事実でないことを事実のようにこしらえること」が以後流行するようになりました。

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このように、ネガティブ・キャンペーンを張った当人が批判の対象になり、批判された側に同情が集まって逆キャンペーンが張られるという、という逆転現象は他にもみられます。

2006年(平成18年)4月に実施された衆議院議員千葉7区補欠選挙において、民主党公認で立候補した太田和美に対して、週刊誌に取り上げられた前歴を自民党が取り上げ、「元キャバクラ嬢」とのネガティブ・キャンペーンを大々的に展開しました。しかし、太田氏は週刊誌記事の内容を認めつつも社会経験のために勤務していたと主張。

このころには、キャバクラ嬢という職業に対して否定的な印象を持つ人が年々少なくなってきていたこともあり、太田氏はこのネガティブ・キャンペーンを逆手にとり自身の庶民性と地域密着をアピールしました。

また、自民党公認候補だった齋藤健氏に対して逆に太田氏の支持者がネガティブ・キャンペーンを行うようになりました。さらに、齋藤氏は、官僚出身であるため自民寄りなのだといわれ、千葉で行われた選挙にもかかわらず埼玉出身だったことから、その土地に地縁、血縁の無い人間が立候補するいわゆる「落下傘候補」とみなされるようになりました。

結果として「水商売で働く女性を蔑視する高慢なエリート」とみなされるようになり、この選挙で齋藤健氏は当初有利といわれながら、太田氏に僅差で敗れました(得票率45.9%に対して45.4%)。

さらに、2008年の大阪府知事選においては、自民党府連推薦の橋下徹氏に対して、民主党推薦の熊谷貞俊陣営が、「こんな人を知事にしていいんですか?」とする批判ビラ300万枚を府内に撒きました。

一方では、共産党推薦の梅田章二陣営が橋下、熊谷両氏を「大型開発で府政を行き詰まらせたオール与党の推薦候補」と批判するビラ約400万枚を撒きました。このように日本では三者三つ巴でネガティブ・キャンペーンが張られる、といったことも珍しくありません。

国際的にネガティブ・キャンペーンが張られることもあり、2020年の夏季オリンピック開催地の決定に向けて日本が候補となった際に、韓国ではディスカウントジャパンとして「放射能がいっぱいで、危ない国・日本」といったキャンペーンが行われました。

開催地決定直前の2013年9月、韓国政府は福島第一原子力発電所の汚染水問題を理由に、福島県、宮城県などは汚染地域であるとして、日本からの水産物の全面禁輸措置を取りました。これも日本でのオリンピック招致を妨害しようとする工作だったといわれ、日本が落選するためのネガティブ・キャンペーンの一環であるとの見方が一般的でした。

東西冷戦時代は、さかんに東側と西側の「誹謗中傷」合戦が行われた。現在も北朝鮮は日本・アメリカ合衆国・大韓民国の政府を、中国は台湾を、台湾は中国を誹謗するネガティブ・キャンペーンを放送などで流しています。

ただ、これらの放送で「誹謗中傷」する対象はあくまでも相手側の政府であり、相手側の国民ではないわけで、相手国側の一般市民に対し、その政府がいかに非道であるかを伝え、体制変革を呼びかける、というスタンスです。とはいえ褒められた好意とはいえず、唯一こうした行為を行っていないのが、我が日本であることは誇りに思えます。

しかし、その日本においても、インターネットが普及した昨今では、ネガティブ・キャンペーンが飛び交い、誹謗中傷合戦が深刻化しているといいます。

ネット上での書き込みは、自分の意見を発することのハードルが他のメディアに比べ格段に低く、また対話する相手の生の感情を読み取る材料が少ないため、相手の事を配慮せず、安易に掲示板やホームページで書き込む人物が数多く存在します。しかし、これらは情報が誤りの場合はもとより、真実であっても名誉毀損が成立しかねない行動でもあります。

電子掲示板では、その場のエチケットを平然と無視して好き勝手な書き込みを行う者も存在し、時には事実無根のデマ、恐喝・犯罪・殺害予告まで書き込まれるため、名誉毀損の旨等で訴訟が多数起こっている他、業務妨害による逮捕者も出ています。

ネット上の誹謗中傷について日本の警察に寄せられた被害相談件数は、2001年には2267件、2006年にはその3.5倍の8037件に膨れ上がり、現在ではそうした被害はもっと多いでしょう。被害者の中には精神的苦痛で自殺・自殺未遂をする者もいるようですが、多くのケースでは発信者を特定できずにいるようです。

誹謗中傷に終わらず、「荒らし」に発展するものもあります。これは、ウェブサイト内の掲示板に無意味かつ長大な文字の羅列を何度も貼り付ける、掲示板の趣旨とはそぐわない内容の議論をいつまでも続ける、管理人やその他の利用者を中傷する、といった行為です。

その他の嫌がらせとしては、不正なプログラムの散布が挙げられます。その効果は千差万別で、中にはコンピュータに深刻な不具合をもたらすものもあります。メールボムという嫌がらせもあり、これはターゲットのメルアドを無断で出会い系サイトやメルマガに登録したり、ターゲットに大量のメールを送りつける嫌がらせです。

これらの行為は、特定の人物への私怨や嫌悪感から行われることもあれば、相手を選ばず面白半分で行われることもあり、ブログにおける炎上も嫌がらせの一つです。最近では、ネット右翼というのまであります。ネット上で右翼的発言をする人物で、略称はネトウヨ。

定義は様々で、保守的、国粋主義的な意見を発表する人々をネット右翼とする場合もあれば、自分たちの生活状況への落胆を外国人排斥へと繋げている青年をネット右翼と捉えているものもあり、くだんの朝日新聞は「自分と相いれない考えに、投稿や書き込みを繰り返す人々」をネット右翼と定義しました。

同紙によれば、彼らの意見が概ね右翼的であるためそう呼ばれているのだとしています。が、根拠があいまいですし、公論を吐くべき同社が右翼を定義するのがそもそもおかしいし、左翼が右翼のことを言えるのか、といった批判も聞こえてきそうです。

が、こうしたネットユーザーが「右傾化」する現象はたしかにあるようで、インターネットの大衆化によって、平等性や匿名性が高まり、発言の自由度が高まると、意思決定が極性化(極端化)しやすい、ということは言われているようです。

ただ、ネトウヨの顕在化は、反マスメディア、ある種の市民によるマスメディア監視と言えなくもないという意見もあり、ネトウヨ的なものがいるということは、日本のメディアの民主的な状況が保たれるということで、健全と言えなくもない、という人もいます。

原子力政策についてはネット右翼の相当部分は反原発派であるとしており、その根底には、エリートが支配している大ジャーナリズムこそが、マスコミであり、彼等は相対的に原発推進派である、という固定観念があるようです。そうしたマスコミへの反発から、ネトウヨたちは、彼等のことを「マスゴミ」と呼んでいるようです。

福島原発事故以後は、「山河を守れ」「国土を汚すな」といった脱原発の主張がこうしたネトウヨの間で広まっています。対する「保守言論層」の多くは核エネルギー政策について全廃慎重派ないしは継続推進派であり、ネット右翼の恰好の標的になっているようです。

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実際にどのくらいこうしたネトウヨ層があるのかわかっていませんが、一般的なネット利用者のうち、「韓国・中国の両者に親しみを感じない」が36.8%、「靖国公式参拝・憲法改正等に賛成」が6.4%、「政治・社会問題についてネット上で書きこみや議論をした」が15.2%であり、その全ての該当者を「ネット右翼層」とすればその比率は1.3%になるそうです。

1億3千万人がすべてネット利用をしているとは思いませんが、仮にその半数の6500万人だとすると、その総数は85万人にもなり、決して無視できない数字となります。また「ネット右翼の矛盾・憂国が招く亡国」の著者の一人でもある山本一郎氏(人気ブロガーとして著名なライター)は、予備軍も含めると最大120万人はいると推定しています。

堀江貴文氏は、自民党が徴兵制を検討していることについて自身のブログにて「憲法9条を持つ国として普通にあり得ないことだと思うが、ネトウヨが幅を利かせていて意外にも賛成派が多い」と、ネット右翼が一定の影響力を持っていることを示唆しています。

「親韓」だとして抗議された企業の売り上げは落ち、大量の電話による抗議に悩まされた企業もあり、その影響力は無視できないところまで拡大しているとも言われます。2014年東京都知事選挙において、立候補した元航空幕僚長の田母神俊雄氏が61万票もの票を集めえたのもネトウヨのおかげだと噂されています。

1980年代には明らかに差別用語であった「オタク」が世紀をまたぐ頃には市民権を得たように、「ネトウヨ」もいずれは市民権を得る時代に入っているのかもしれません。

かつて、東京都の副知事だった猪瀬直樹氏は、性的描写の漫画やアニメの販売を規制する青少年健全育成条例改正案を推進しており、そんな中、「ネトウヨは財政破綻した夕張を助けに行け。雪かきして来い。それならインタビューうけよう。」とツイートしたといいます。

なぜ夕張なのかよくわかりませんが、この時アダルト漫画家の浦嶋嶺至氏という人が、猪瀬氏秘書を通じて「雪かきしたら会う」との言質をとると、実際に夕張に行って独居老人宅の雪かきをしました。これは全国的に報じられ、数日後に対談が実現。面白いことにその後二人は意気投合し、互いのツイッターをフォローすると共にメル友になったそうです。

が、ご存知のとおり、その後知事に就任した同氏は医療団体の徳洲会から献金を貰ったとする疑惑で失脚しました。実はこれは、この事件をきっかけに敵に回したネトウヨたちが、この問題をリークした、ということが、まことしやかにささやかれているようです。

このように日本でのネトウヨはかなり活躍?していますが、中国や韓国、ドイツなどでもネトウヨは増殖中とのことで、こちらは必ずしも日本のためにばかりなるとはいえません。

韓国の民間組織「Voluntary Agency Network of Korea(VANK)」は、その活動内容から、ネット右翼として扱われており、会員数10万人を超え、政府からも支援金を得ています。

彼等は、竹島問題、日本海呼称問題、慰安婦問題などについて、世界中の公的機関、民間機関に自分たちの主張に沿った記述をさせるための宣伝・抗議活動をインターネット上で展開しており、日本の「ネット右翼」から敵視されているようです。

英国ではスコットランドの独立投票をめぐりサイバーナット(Cybernat)と呼ばれるスコットランド独立派のネトウヨが反対派をネット上で差別的に罵倒し、問題となりました。

スコットランド独立を訴えるスコットランド国民党党首のニコラ・スタージョンは2015年6月に声明文を発表し、「私たちの政治ディベートのレベルを、暴力的な脅しやミソジニー、ホモフォビア、性差別、レイシズム、障害者差別などの低みにまで下げることは是認できません」とサイバーナットを非難しました。

いまや、国を超えてネトウヨ対ネトウヨの構図ができつつあり、ネガティブ・キャンペーン、誹謗中傷合戦、荒らし行為の増殖はグローバルなトレンドになりつつあるようです。

が、とどのつまりは、「嫌がらせ」にすぎません。他者に精神的苦痛や物質的損失を与える結果となる行為であり、「言葉の暴力」でもあります。精神的暴力の一つであり、立場や力の差などにより反抗できない弱い相手に対し行われる肉体的・物理的な暴力同様、言葉であっても反抗する事ができない弱い相手に心因的・精神的な苦痛を与えます。

言い勝ったつもりでも言葉による暴力を振るった可能性は大であり、「力で勝てないから言葉で」「言葉で勝てないから力で」相手をねじ伏せただけのことです。

ただ、肉体的・物理的な暴力に対しては、防いだり反撃したりすることは社会的・法律的に広く認められていますが、言葉の暴力については、その存在と程度が明確には分かりづらいため、被暴力者がどう防御・対処すればいいのか判別出来ないことが難点です。

一方では、心理学・カウンセリングといった分野・制度や“言葉の暴力”という概念の社会への浸透にしたがって、心理的暴力も物理的暴力と同様に、その行使者は傷害の罪などに問われる場合もありうる時代になってきています。

2010年10月、東京労働局の、墨田区の向島労働基準監督署は、言葉の暴力による体調不良と自殺を労災と認定しました。これはパワハラにおける暴言が原因での自殺に対するジャッジメントだったようです。このように、最近は言葉の暴力を法律的に裁こうとする動きも加速しているようです。

ネガティブな波動を言葉で人に送ることはやめましょう。そして、このブログにもけっしてネガティブ・キャンペーンを張らないよう、お願いしたいと思います。

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