マスカレード

2015-1090964最近、朝のジョギングの際に、ウォークマンに昔懐かしいカーペンターズの曲を入れて聴いています。

中でも、「マスカレード」というのが好きで、そのさわりだけ紹介すると、以下のような歌詞です。

Are we really happy
With this lonely game we play?
Looking for the right words to say

Searching but not finding
Understanding anywhere
We’re lost in this masquerade

“こんな寂しいゲームを続けていて、私たちは本当に幸せなの?
うまく伝えられるよう言葉を探してはいるけれど、見つけられずにいるわ。
ともかく、いま分かっているのは、二人がこの仮面舞踏会から抜け出せずにいるということ……“

この曲を作ったのは、レオン・ラッセル(Leon Russell)、というアメリカのシンガーソングライターで、ローリング・ストーンズら多くのアーティストのプロデュース作品のレコーディングに参加しています。カーペンターズには、他にも“A Song For You”という曲を提供しており、こちらも70年代にヒットしました。

実際の曲が聞きたい方は、You Tube にアクセスしてみてください。

原題は、“This Masquerade”となっています。Masque……というのは、いうまでもなくマスク(仮面)のことで、仮面舞踏会はヴェネツィアが発祥といわれます。

参加者が仮面などを身に着けて行われる舞踏会などのイベントです。元々中世後期のヨーロッパ宮廷において行われていた仮面舞踏会は、余興として寓話的で凝った衣裳をまとった人々が壮麗な行列を行う「仮装舞踏会」だったようです。

こうした仮装による舞踏会はブルゴーニュ公国の宮廷では特別の機会に行われるぜいたくな催しでした。のちに婚礼を祝う行進などでも行われるようになり、そのうち宮廷生活における派手な催しとして発展するころには、仮面をかぶって人々が踊る仮面舞踏会になりました。

ところが、そうした仮装舞踏会のなかで、一つの惨劇が起こります。百年戦争期のフランス国王シャルル6世の時代に起こった「燃ゆる人の舞踏会(Le Bal des ardents)」という事件で、これは、フランス王妃イザボー・ド・バヴィエールが侍女の一人の婚礼を祝して1393年1月28日に大規模な仮装舞踏会を開催したときに起こりました。

シャルル6世と5人の貴族は亜麻と松脂で体を覆い、毛むくじゃらの森の野蛮人に扮して互いを鎖で繋いで、野蛮人の踊り(Bal des sauvages)をしようとしました。このとき、たいまつに近づきすぎて衣裳が燃え上がり、シャルル6世は助かったものの4人が焼死するという事態になりました。

これより少し前、シャルル6世はすでにイングランド軍に対する敗戦で大きなショックを受けていましたが、この事件のあと、急速に精神を病むようになったといいます。

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これからおよそ400年ほどのち、エドガー・アラン・ポーは、この話をネタに「跳び蛙」という短編小説を書きました。以下のようなはなしです。

ある国に、ジョークが好きの国王がいました。ジョークが好きな人の多くは、たいがいがデブですが、王もそうであり、その取り巻きの七人の大臣もデブで、ジョークが大好きでした。このため、王宮には多くの道化がおり、その一人が「跳び蛙」と呼ばれる小人でした。

足に障害があるために歩くのは困難でしたが、手が異常に発達しており、木登りが得意でした。が、なにかと失敗が多く、いつも国王に叱られていました。跳び蛙は戦争で捕虜として囚われ、トリペッタというやはり小人の女性と共にこの国に連れてこられました。相棒のトリペッタは国王のお気に入りであり、何かと跳び蛙の失敗をかばってくれました。

あるとき、酒に酔った国王が跳び蛙に酒を強要する、という事件がありました。実は跳び蛙は一杯も飲めませんでしたが、国王は酒を飲むよう彼に命じ、その上何かジョークを言うよう迫りました。しかし、酒に酔って度を失った跳び蛙の口からとうとう王を喜ばせるようなジョークは出ることはありませんでした。

激怒した国王は、とりなそうとするトリペッタを殴打し、ワインを頭から被せ、跳び蛙ととともに部屋の外に叩き出しました。これを見た取り巻きの大臣たちは彼等をかばうどころか、それを見て一流のジョークとばかりに大笑いをしました。こうして、この一件はとりあえずこの場で収まりました。

しかし、このことはのちに恐ろしい惨劇を招くことになります。

時が経ち、やがて、マスカレード(仮面舞踏会)の夜がやってきました。このとき、真っ先に国王の仮装を提案したのは、跳び蛙でした。かならずウケます、と言いながら国王と七人の大臣に提案したその内容は、なんと、彼等にオランウータンの仮装をさせることでした。

この時代、動物園などはなく、オランウータンなどを見たことがある人はいようはずもなく、なるほどこれなら人々にウケそうでした。こうして、国王と大臣たちは、それぞれがタールを全身に塗りつけ、さらにその上にオランウータンの毛を模した麻糸を貼り付けました……

しかし、趣向は、それだけではありませんでした。なぜか、跳び蛙は、さらに国王たちを鎖でつなぎ、7人の大臣と王の合わせて8人を十字のかたちになるよう縛りつけ、自由に身動きが取れないようにしました。

こうして、オランウータンのいでたちをした国王たちが、鎖につながれて舞踏会の会場に入ってきました。が、それぞれが鎖で結ばれているため、うまく歩けず、場内に足を踏み入れたとたん足がもつれて、将棋倒しに倒れました。客たちは唖然としましたが、倒れたのが、王や大臣であることに気付くと、腹をかかえて大笑いしました。

ジョーク好きの国王や大臣たちは、期せずして起こったこの笑いに気をよくし、跳び蛙の提案したジョークは大成功だ、と思いました。そんな中、するすると天井から吊るされた大シャンデリアが彼等が座り込んだ床近くまで降りてきました。

すると、跳び蛙が、持ち前の運動神経を使ってシャンデリアに飛びつくと、その下に取り付けられていたフックを8人を繋いだ鎖の中心にひっかけたではありませんか。

跳び蛙はシャンデリアを飛び下り、暗闇に消えていきましたが、しばらくすると、そのシャンデリアは、今度は、8人の男たちもろとも天上に向かってあがり始めました。徐々に体が持ち上げられ、ついには足元が床から離れると、それまで笑っていた国王たちも、さすがにこれは異常な事態であると、気づきます。

そこへ、再び跳び蛙が現れ、がんじがらめになっていた8人が纏っていた麻糸にいきなり火をつけました。すぐに燃え上がった麻糸は、それを取り付けるために塗ってあったタールにまで延焼を始めます。

国王や大臣は大声でわめき散らし、悪態をつきますが、火は燃え広がるばかりで、やがて大きな火炎の中に彼等の声はかき消されていきました。この恐ろしい光景をみた来客たちは恐怖に打ち震えました。

こうして、国王の飛び蛙とトリペッタに対する非礼な行為と、それを黙視した七人の大臣たちに対する報復は終わりました。炎が燃え尽き、そこにある真っ黒な王たちの姿が見えてきたころ、客たちが我に返ると、そこにはもう跳び蛙とトリペッタの姿はありませんでした。その後、ふたりを見かけたものは誰もいませんでした……

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とまあ、なんとも恐ろしい話なのですが、アランポーはこうしたグリム童話張りのむごたらしい話を他にも結構いろいろ書いています。

この話のモデルとなった事件、「燃ゆる人の舞踏会」が評判?になったためかどうかはわかりませんが、その後仮面舞踏会はヨーロッパ各国で流行るようになり、とくに15世紀のルネサンス期のイタリアでは、参加者が仮装して出席する公的な祭典が催されるようになりました。イタリア語では仮面舞踏会は、マスケラータmascherataと呼ばれました。

一般的に上流階級の成員のために行われる凝った舞踏会で、特にヴェネツィアでは、仮面をかぶって行われる「ヴェネツィアのカーニバル」の伝統と結びついたため人気を博しました。そして、17世紀から18世紀には、このヴェネツィア式仮面舞踏会はヨーロッパ大陸全土の宮廷で行われるようになりました。

スイスの伯爵だったヨハン・ヤーコプ・ハイデガーは1710年にヴェネツィア式の仮面舞踏会をロンドンのヘイマーケット・オペラハウスで開催しましたが、これによりハイデガーは「スイスの伯爵」の名で有名人となりました。

こうして18世紀のイギリスで流行した仮面舞踏家は、その後北アメリカの植民地にまで飛び火し、ここでも大流行し、全世界的なブームとなりました。

一方で仮面舞踏会やこれを紹介したハイデガーに対して、道徳や倫理を麻痺させるという厳しい非難が各界から浴びせられ反対運動も起こりました。と同時に、あまりに人気を博しすぎたため、仮面舞踏会は風紀を乱す元凶であるとみなされるようになりました。

これはなぜかというと、このころの仮面舞踏会は招待客同士のゲームとして開催されることもありました。仮面をした客たちは正体が誰か分からないような服装をし、互いの正体を当てあうゲームを行いました。このゲームの影響で、人物の正体を混乱させるためによりユーモラスに工夫された仮面が登場するようになりました。

仮面をつけ、お互い身分素性がわからないまま交流するわけですから、当然舞踏会の中には卑しい身分の者が紛れ込んでいてもわからないわけです。当然、こうした身分の低い者と上流階級の者の間に恋愛沙汰が起こることもあり、ときには不倫や駆け落ちなどの事態にまで発展するようなこともりました。

また仮面舞踏会はしばしば悲劇の舞台にもなりました。スウェーデン国王グスタフ3世は1792年、仮面舞踏会の最中に彼の統治に不満を抱く貴族ヤコブ・ヨハン・アンカーストレムによってピストルで暗殺されています。この事件はのちに数々のオペラの題材になりました。

このため、ハンガリー王のマリア・テレジア(オーストリア系ハプスブルク家の男系の最後の君主)などのように禁止令を出す権力者も出るようになりました。この当時ロンドンでは、人気者だったハイデガーを風刺する版画なども出版さえるようになり、物書きたちも仮面舞踏会の存在に反対するようになりました。

小説「トム・ジョーンズ」で有名な18世紀イギリスの劇作家、ヘンリー・フィールディングなども、イギリス国内に反道徳性や「海外からの悪影響」を広めるものとして仮面舞踏会を批判しています。

彼らは権力者に対し仮面舞踏会反対の説得を行いました。がしかし、これを禁止するための手段の強制力は散漫なものにとどまりました。以後、17~18世紀ほどの隆盛は極めなくなりましたが、仮面舞踏会は今日も世界中で行われています。

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しかし、現在の仮面舞踏会は、パーティーの雰囲気作りが強調され、社交ダンスの部分はあまり強調されなくなっています。より砕けたハロウィンのような仮装パーティーに姿を変えつつあり、かつてのあやしい雰囲気の仮面舞踏会は少なくなりました。

現在にも残る伝統的な仮面舞踏会としては、ウィーン大学の同窓生らによる舞踏会「ルドルフィーナ」などがあるようです。出席するためには厳格なしきたりがあるそうで、女性は長い着用イブニングドレスを着用し、男性は燕尾服もしくはタキシードに黒ネクタイ、そして男女ともマスクで目を覆い隠します。

1899年にウィーン王宮が開かれたことを記念したカーニバルの日に行われるそうで、1907年に第一次世界大戦によって一時中断されたとき以外は、伝統を守って毎年必ず開催されてきたといいます。

こうした伝統行事以外で実際に今も仮面舞踏会が行われているかどうかは、上流階級の人々の話なので、卑賤な出の私にはよくわかりません。が、仮面舞踏会そのものは非常に絵になる催しであるため、昔から文学や音楽の題材となってきました。

音楽では上のレオン・ラッセルの曲をカーペンターズがカバーしたもの以外にも、多数の曲が存在します。また、数々の歌劇やオペラへも流用されています。このほか、日本では「マスカレード」のタイトルで、安全地帯の楽曲として存在し、ほかにもSHOW-YA、VOW WOW、庄野真代なども同名の曲を作って発表しています。

文学のほうでは、18世紀イギリスの上流階級を舞台にした多くのロマンス小説では、仮面舞踏会が舞台となったり、話を進める上での道具になったりします。日本でも横溝正史の金田一シリーズの一作に仮面舞踏会というのがあり、また赤川次郎のミステリ連作集(1992年)のタイトルにもあります。

上述のエドガー・アラン・ポーは、上の飛び蛙以外にも「赤死病の仮面」という仮面舞踏会を題材にした短編を書いています。こちらも少し紹介しておくと、これは以下のようなはなしです。

あるとき、ヨーロッパの小国で「赤死病」という疫病が猛威を振るっていました。激痛と眩暈を伴い、毛穴から大量に出血して死に至りますが、感染してから30 分以内に死んでしまうという恐ろしい疫病でした。

この国の王、プロスペロ公は、この病気が蔓延して領内の人口が半減すると、宮廷の騎士や貴婦人の中から健康で快活な人を千人ばかり選び、彼等を引き連れて城砦風に造られた僧院に引き籠もってしまいました。高く堅牢な壁が周囲を取り巻いており、壁にある幾つかの鉄の門も内側から厳重に塞がれ、出入りは完全に遮断されていました。

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籠城して半年ほどが経ったころ、プロスペロ公は、憂さ晴らしに仮面舞踏会を催すことにしました。会場は、7つの部屋が続いている場所でしたが、王には怪奇趣味があり、これらの部屋や不規則に配置され、互いに見通しがきかない、というものでした。

部屋の窓は縦長で幅の狭いゴシック風。ステンドグラスが嵌めてあり、窓ガラスの色は、各部屋の装飾の基調色に合わせて、東の部屋から順に、青、紫、緑、オレンジ、白、スミレ色となっていました。ただ、西端にある一番奥の7 番目の部屋だけは黒ビロードのタペストリー、黒いカーペットと黒づくしでした。

窓ガラスの色も他の部屋とは異なり、緋色、つまり濃い血の色でした。各部屋の内部には、おびただしい金色に輝く装飾品があちこち飾られていました。が、ランプや燭台の類は一つもなく、各部屋に沿ってめぐる回廊の壁に開けられた窓には篝火が焚かれており、その灯りがステンドグラス越しに室内を照らしていて、妖しげな雰囲気を醸し出していました。

舞踏会集まった人々の仮装も、公の趣向に合わせてグロテスなもので、きらびやかではあるもののけばけばしいもの、美しいけれども奇異な形をしているもの、といった具合であり、中にはいかにも嫌悪感を覚えるような不気味なものもありました。

こうして仮面舞踏会が始まりましたが、黒の間にあった黒檀の大きな柱時計が真夜中の十二時を告げ始めた時、人々は初めて見慣れない人物が紛れ込んでいることに気がつきます。背が高く、痩せこけて全身真っ赤ないでたちのこの人物はワルツを踊る人びとの間を、まるでゆっくりと幽霊のような足取りで歩き回っていました。

その不気味な姿を見たプロスペロ公は激怒し、捕らえて仮面をはぎ取れと周りの者に命じますが、恐怖のあまり誰もその赤づくめの人物に近づこうとしません。そうした周囲の様子をみてとったその人物は、今度はその歩調を威厳に満ちたものに代え、青の間から紫の間、緑の間、オレンジの間、白の間、菫色の間へと進んで行きます。

怒ったプロスペロ公はこれを走って追いかけ、黒の間まで行って人物追いつき、肩をつかんで振り向かせます。対峙する二人。短剣がキラリときらめいたと思った瞬間、黒いカーペットの上になだれ落ちるように、倒れ込んだのはプロスペロ公でした。

人々が黒の間になだれ込んだときには、王は既に息絶えており、彼等は仮装の人物につかみかかって仮面と扮装を引きはがしました。ところが、その仮面の下には何一つなく、空っぽの黒い闇があるだけでした。

今や、「赤死病」が侵入してきたことは誰の目にも明らかでした。宴に集まった人びとは一人また一人と血濡れながら床にくずれ落ち、絶望に駆られながらそのまま息絶えていきました。

やがて黒檀の時計も動きを止め、篝火の焔も消えました。あとは暗黒と荒廃と「赤死病」が、この国のあらゆるものの上に無限に覆うばかりとなりました……

この「赤死病の仮面」は1842年に「グレアムズ・レディース・アンド・ジェントルマンズマガジン」とう雑誌に掲載されました。初出時のタイトルは「The Mask of the Red Death」であり、「ある幻想」という副題が付けられていました。

その後1845年の「ブロードウェイ・ジャーナ」7月号に改訂版が掲載されており、このときにタイトルの「Mask」が「Masque」に変更され、「仮面舞踏会」が強調される形となりました。

この話の一般的な解釈としては、7つの部屋はそれぞれ人の心が持つ様々な性質であり、「死」を表象する七つ目の部屋を受け入れるまでの段階を表しているといわれます。また、時計と血は死が不可避であることを示し、作品全体としては死から逃れようとする試みの空しさを表している、と専門家さん言っているようです。

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黒澤明監督は、この作品をベースに、1977年ソ連で撮影するための映画シナリオ「黒き死の仮面」執筆しています。ただ、舞台は中世ロシアで、黒死病(ペスト)に変えられており、また結局撮影は実現しませんでした。このシナリオは「黒き死の仮面」というタイトルで岩波書店から出版されているそうです。

架空の病である「赤死病」(The Red Death)は、黒死病(The Black Death)から取ったのではないか、といわれているようです。が、ポーはこの話の着想を1832年のコレラ流行の際に実際にフランスで開かれた舞踏会から得た、と言っています。1831年にはポーの故郷のボルティモアでもコレラの流行がありました。

このエドガー・アラン・ポーは、1809年マサチューセッツ州ボストンに生まれ、生後すぐに両親を失って商人アラン家に引き取られ、幼少期の一時期をロンドンで過ごしました。その後一家は、帰国してボルティモアに居を構え、彼はヴァージニア大学に進みます。

しかし、放蕩から退学を余儀なくされ、その後陸軍入隊、士官学校を経て作家として活動を始めました。以後、ニューヨークやリッチモンドなど、さまざまな地で様々な雑誌で編集者として勤めながら、ゴシック風の恐怖小説「アッシャー家の崩壊」「黒猫」などを執筆しました。

また、初の推理小説と言われる「モルグ街の殺人」、暗号小説の草分け「黄金虫」など多数の短編作品を発表、また1845年の詩「大鴉」でも評判を取りました。

1833年、ジャーナリズムの活発な郷里のボルティモアを生涯の生活の場としようと心に定め、ここで当時13歳だった従妹ヴァージニア・クレムと結婚しました。が、その後はあまりヒット作に恵まれず、1847年に貧苦の中で結核によって彼女を失いました。

しかし、1849年、ポーはかつての仕事の場であったリッチモンドで、青年時代の恋人で未亡人となっていたエルマイラ・ロイスターと再会し、再三の求婚の後に彼女と婚約しました。新居もリッチモンドになる予定でした。ところが、その年の10月7日、結婚を控えたポーは謎めいた死を遂げてしまいます。

その死に先立つ9月。結婚式を控えたポーは自分の選集の出版準備を始めており、そのために知り合いの編集者の協力を得ようと、久しぶりに700キロ離れたニューヨークに行くことにしました。そして27日にリッチモンドを出、48時間の船旅のあとに、ニューヨークまでの中間地点、郷里のボルティモアに着くと、ポーはなぜかそこに数日滞在しました。

ちょうどメリーランド州議会選挙のまっただ中であり、10月3日が投票日に当たっていました。このため、ポーはライアン区第4投票所にあたる「グース・サージャンツ酒場」に向かいました。

ところが、なぜかこの酒場でポーはかなりの酒を飲み、泥酔状態に陥りました。店の者が介抱してくれてもよさそうなものですが、行きつけの店でなかったため、よそ者と思われて放置されたのでしょう。そこにたまたま旧知の文学者が現れ、発見されたポーはただちにワシントン・カレッジ病院に担ぎ込まれました。

しかし、4日間の危篤状態が続いたのち、1849年10月7日早朝5時に帰らぬ人となりました。その間ポーは理路整然とした会話ができる状態でなく、なぜそのような場所で、そのような状態に陥っていたのかは誰にもわからないままとなりました。

その上奇妙なことに、ポーは発見されたとき他人の服を着せられており、また死の前夜には「レイノルズ」という名を繰り返し呼んでいたといいます。しかし、それが誰を指しているのかも分かりませんでした。一説にはポーの最後の言葉は「主よ、私の哀れな魂を救いたまえ」(”Lord help my poor soul”)であったといいます。

その後ポーは郷里であるメリーランド州ボルティモアの墓地に埋葬されました。新聞各紙はポーの死を「脳溢血」や「脳炎」のためと報道しましたが、これは当時、アルコールなどのような外聞の悪い死因を婉曲に伝えるためにしばしば用いられた言葉でもありました。

このときの死亡証明書を含め、ポーの診断書は現在ではすべて紛失してしまっており、実際の死因は特定されていません。

このため、ポーの死の真相は謎のままですが、彼の死後20年ほど経ったころに、ポーはクーピング(cooping)の被害にあったのではないか、とう仮説が立てられました。これは、 選挙の立候補者に雇われたならず者が、旅行者や乞食などに無理矢理酒を飲ませるなどした上で投票所に連れて行き、場合によっては数度投票させることです。

当時は、投票にあたっては、有権者の身元確認がしっかりと行なわれていなかったこともあり、こうしたクーピングがまかり通っていたようです。そして、ポーもこれの犠牲になったのだとする説が現在でも広く信じられています。

が、それ以外にも、アルコール中毒による振戦譫妄、心臓病、てんかん、梅毒、髄膜炎、コレラ、狂犬病などが死因として推測されているようですが、いかんせん真実は闇の中です。

ちなみに、「赤死病の仮面」の日本語訳は、創元推理文庫により1974年「ポオ全集III」の中に収められているようです(松村達雄訳)。また、2009年に出された新潮文庫にも「ポー短編集 1 ゴシック編」というのがあり、この中に「赤き死の仮面」のタイトルで納められているそうです(巽孝之訳)

新刊本があるかどうかはわかりませんが、ブックオフあたりに行ったら見つけられるかもしれません。その他のポーの作品も魅力的です。明日からの連休中、どこへも行かない、という方、探してみてはいかがでしょうか。

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たかいところ

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昨日の朝、ジョギングをしていると、どこからか、キンモクセイの香りがしました。

この季節初めてのことです。どこからだろう、と走りながら探してみましたが、居場所はわからずじまい。しかし、今年もまた涼やかな季節がすぐそこまで来ていることは確実であり、なにやらうれしくなってしまいました。

一年で一番いつの季節が好きかと聞かれれば、紛うことなく、秋と答えます。夏が一番きらいで、何もかもピンと張りつめた感じのある冬が次に好き、とはっきりしています。

春もいいのですが、これから秋が来て、冬を迎えるという時期というのは私にとっては一年間で一番心を豊かにしてくれる時期です。

が、食べ物がおいしくなる時期なので、デブにならないよう気をつけるようにしなければなりません。

とはいえ、私はどちらかといえば夏に太って、冬になると痩せるタイプのようです。理由はよくわかりませんが、冬のほうが体内脂肪がよく燃えるからなのかな~と勝手に思っています。確かにクソ寒いときに、一日外でウォーキングをして帰ると、体重が1~2キロも減っていることがあります。

ウソだろう、といわれるかもしれませんが本当です。かつて、真冬に北海道の道東で魚の調査をしていたとき、零下10数度の中で一日現場にいたところ、やたらに腹が減るのに気がつきました。寒さ対策のために脂肪を燃やしているため、その不足分を補うようにと、体が調整しようとするためでしょう。

ちなみにこの調査は数日間続きましたが、後日東京へ帰ってから体重を計ったところ、2キロほど痩せていました。寒いからと、ラーメンだの海鮮丼だの、かなりたらふく食べ続けたにもかかわらず、です。

南極とかの極寒の地で働いている人は、毎日6000kcalは食べないといけないそうです。スゴイ量ですが、これほどカロリーとらないと死んでしまうといいます。食用油でさえ甘く感じるのだそうで、こうした場所に住めば、かなりのダイエットになりそうです。

無論、日本にはこれほど寒いところはさほど多くありません。最北の地である稚内における年間平均気温は6.6℃、最低気温の記録のある旭川でも6.7℃。こうした北海道の地を除けば、一番寒いのは、富士山の山頂のようで、ここの年間平均気温はナント、氷点下6.4度です。

山頂(3370m)と麓の河口湖(860m)では冬季には平均で17.6℃もの差があります。平地でこれと同じくらいの寒さの土地を探すと、シベリアの北極圏付近の地域が相当するようです。

できればダイエットも兼ねて住んでみたいところですが、さすがに世界遺産でもある富士山の山頂に家を建てることはできそうもありません。が、日本以外なら、気温はともかく、同じ標高、ということなら土地を買って住めそうな場所はありそうです。

どこがあるかな~と調べてみましたが、無論のこと、日本にはあるわけはありません。やはり高所に町がある、というのは南米になるようで、世界で一番高い場所にある町は、ペルーのラ・リンコナダだそうです。

アンデス山脈に古くからある金鉱山にキャンプとして誕生し、40年上に渡って成長した大きな都市。5万人を超える人々が5100mの高地に住んでおり「世界で一番高い都市」の標識が存在しています。

金鉱山がほぼ全ての経済を支えているこの街ですが、インフラストが整っておらず、水道やガスの配管はなく、鉱山からの水銀汚染に悩まされています。にもかかわらず、人口は過去10年で約230%上昇しています。ラ・リンコナダに住む人々のほとんどは鉱山の労働者であり、仕事を求めてこの高所へやってくるのです。

このほか、同じ南米のボリビアには、エル・アルトという町があり標高は4150m。ボリビアで最も大きく、そして最も急成長している都市の一つです。人口は110万人を超え、実質的首都担っている都市ラ・パスの衛星都市として機能しています。

標高差が700mあるすり鉢状の地形をしたラ・パスの底辺部には高所得者や住んでおり、すり鉢の縁の部分には低所得者が住んでいます。そして、そのすり鉢の縁部分に広がるエル・アルトは、ボリビア各地からやって来た貧しい貧困層の人々が移住してきたことにより人口が拡大しました。

また、同じくボリビアのポトシは、標高4090m。1545年に鉱山の町として設立され、すぐに人口24万に超えるアメリカ大陸有数の都市へ成長を遂げています。スペイン統治時代には、ここにあるセロ・リコ銀山で4万5000トンの銀を産出し、数百メートルの山が低くなるほどだったと言われています。

同じく南米のペルーのリアカという町も標高3825mあります。毛織物や羊毛取引の中心地として発達した町です。市内はインカ・マンコ・カパック国際空港や世界有数の高所を走るペルー南部鉄道が発着する駅がある交通拠点となっており、ペルーの首都リマや県都プーノ、および隣県の県都であるクスコや隣国ボリビアと結ばれています。

シルスターニ遺跡(インカ時代の遺跡)やララヤ峠(標高4335mにある絶景の地)といった観光地も近く、街は風の強い高原地帯に位置しているため、アメリカのシカゴと同様に、「風の街(The Windy City)」の愛称があります。プーノ県の経済の中心で、域内での投資が集中し、貧困の緩和や収入の増加が見られるそうです。

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これ以外の高所にある町というのは、あとは中国になります。チベットにあるシガツェ(日喀則)の標高は3840m。人口約10万人のこの町は、チベット高原で2番目に大きな都市であり、中国最高の都市でもあります。これは後述のチベットの中心地、ラサよりも西に200kmほど離れた町です。

ダライ・ラマ2世の出身地でありチベット仏教第二の指導者「パンチェン・ラマ」が住まう「タシルンポ寺」があり、チベット仏教の中心的な役割を持つ町のひとつです。

このほか同じチベットには、標高は富士山よりもわずかに低く3700mですが、ラサ(拉薩)という町があります。ここもまた、高原の町です。ヒマラヤ山脈に囲まれたチベット高原のほぼ中央部の小さな盆地に位置し、「吐蕃(とばん)王国」の時代に設立した古都です。

この吐蕃という王国は、現在のチベットの前身です。7世紀前半に君臨した第33代ソンツェン・ガンポにという王様によって統一され、上のシガツェ(日喀則)が都として定められました。643年には文成公主という唐の皇女がチベットの王(ツェンポという)の妃として迎えられました。この「公主」というのは、中国の王室の女性に対する称号です。

要は政略結婚です。吐蕃は唐に対し公主を迎えたいと申し出ましたが、吐蕃の東側にあり、唐に取入っていた吐谷渾(つよくごん)という国の妨害にあって実現しませんでした。そこで、ツンツェン・ガンポ王は638年に吐谷渾へ兵を送って攻撃し、その上で唐に降嫁を迫りました。これにより唐が妥協し、文成公主を吐蕃の王女として送ることになりました。

現在チベットは、中華人民共和国の「民族自治行政体」、つまり「チベット自治区」として一応自治は認められているものの、中国に併合されている形となっていますが、中国との慣れ合いはこの吐蕃の時代から始まった、ということになります。

9世紀の吐蕃の崩壊以後、チベットの政治的中心は、サキャパ政権のサキャ、パクモドゥパ政権のツェタン、リンプンパ政権・デシー・ツァンパ政権のシカ・サムドゥプツェなど、時期ごとの覇者たちの所在地を転々としました。が、宗教的中心地としての地位は不動でした。

1642年には、この地にダライ・ラマ政権が誕生します。このダライ・ラマ政権の発足により、ラサは再びチベット全域の政治的、経済的、文化的中枢の地位を獲得しただけでなく、チベット人、モンゴル人、満州人などから構成されるチベット仏教文化圏の中心ともなりました。

当初歴代ダライ・ラマの居館があったデプン寺というお寺のある、ガンデンポタンにその中枢が置かれ、行政府の呼称はこれにちなんで「ガンテンポタン」とされました。政権の拠点としてポタラ宮殿の建設が1645年より開始され、1660年に完成しましたが、ポタラ宮殿への移転後も、行政府の「ガンデンポタン」という呼称は継承されました。

なお、このポタラ宮殿は、1994年、周辺の遺跡と合わせてラサのポタラ宮の歴史的遺跡群として、ユネスコ世界遺産(文化遺産)として登録されています。

しかし、1960年、チベットは中国政府により併合され、古都ラサと郊外、ウー地方北部諸県を領域とする一帯は、すべて中国の呼称である、「ラサ市(拉薩市)になりました。中華人民共和国の「西蔵自治区」の中央部に位置し、同自治区を構成する「地級市」のひとつであるため、ラサ市の正式名称は、「地級市拉薩市」になります。

その後は中国の統治下で、リンコルの西縁をはさんでマルポリ・チャクポリの周辺に新市街が開発され、ここに数多くの中国人が入植するようになります。

当然、旧来のチベット人たちとの軋轢が生じ、これはその後「チベット問題」として発展します。チベットに対する中華人民共和国の支配・統治にともなって生じる各種の問題であり、特にチベット人による独立運動への弾圧、弾圧にともなう中国軍によるチベット人の大量虐殺や人権侵害が大きな争点となっています。

宗教を徹底的に抑圧されただけでなく、鬼畜のようなやり方で多くの同胞を殺害されたチベット族の中国に対する憎悪は今も根強く残っており、テロ事件も時々起っています。ラサを中心とするチベット自治区では、現在でもダライ・ラマ14世の写真を所持してはいけないなど宗教活動が制限されているそうです。

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ラサの市域はチベットの古都ラサとその郊外からなる「城関区」と、その周辺の7ゾン(県)で構成されています。自治区人民政府は、この城関区内に設置されています。総面積3万平方キロ、市区面積523平方キロ。人口37.3万人、非農業人口14万人を抱える大都市です。チベット族が87%を占めます。

上述のとおり、ラサは古くからチベットの政治的、文化的中枢であり、チベット仏教文化圏の中枢都市です。チベット語「ラ(lha)」は神、または仏、あるいは王を意味し、「サ(sa)」は土地を意味します。すなわち「神の地」であり、一年を通じ晴天が多い事から「太陽のラサ」とも呼ばれます。

このラサを中心とする、チベットの国土は東西に細長く、しばしばその形はチベット人の人々からは「うつぶせた羅刹女(らせつじょ)」とされてきました。チベットが開化し、仏教が定着するためにはこの羅刹女をまず調伏される必要があったとされ、ラサが建設された地域一帯には湖が多く、ここは「羅刹女の心臓」と呼ばれていました。

伝説によれば、古代チベットでは、この羅刹女によってその国土が牛耳られていましたが、これをソンツェン・ガンポ王が退治し、吐蕃王国が始まった、というわけです。

羅刹女と聞いて、何かで読んだな~という人も多いでしょう。これはご存知、「孫悟空」の中に出てくる鬼女のことです。羅刹とは鬼神の総称であり、羅刹鬼(らせつき)・速疾鬼(そくしつき)・可畏(かい)とも訳されます。

また日本に伝来した仏教には、「羅刹天」という神がおり、これはこの羅刹女が起源とされます。仏教においては、破壊と滅亡を司る神であり、また、地獄の獄卒(地獄卒)のことを指すときもあります。

四天王の一である多聞天(毘沙門天)に夜叉と共に仕えており、仏教普及後は、夜叉と同様に毘沙門天の眷属として仏法守護の役目を担わされるようになります。仏法を守る「十二天」の一人として西南を守護し、手にした剣で煩悩を断つといわれます。

絵柄としては、図像は鎧を身につけ左手を剣印の印契を結び、右手に刀を持つ姿で描かれ、全身黒色で、髪の毛だけが赤い鬼とされます。中国(チベット)では、羅刹女とよく対比されて描かれることも多く、羅刹の女は美しいとされるのに対し、羅刹の男は醜い姿をしています。

日本に伝わった以降も、よく絵にされることが多く、10世紀の延暦寺の僧、源信が著した「往生要集」に描かれている羅刹もまた、亡者を責める地獄の怪物として描かれています。

ただ、鬼女である羅刹女のほうは、日本には定着しませんでした。日本に仏教とともに入ってきた羅刹は羅刹天、つまり男性の羅刹となり、十二天のひとりとして崇められるようになります。

が、インドには伝わり、ヒンドゥー教に登場する鬼神、「ラークシャサ」はこの羅刹女が変化したものであり、バラモン・ヒンズー教では人を惑わし食らう魔物として描かれることが多いようです。

一方、その後中国で製作された西遊記においては、羅刹女はその登場人物として名を知られるようになりました。オリジナルの西遊記では、「鉄扇公主(てっせんこうしゅ)」と呼ばれ、宝貝である扇「芭蕉扇」をもったキャラクターです。

日本でもこの物語は広く紹介され、このため現在の日本で「羅刹女」の名を知る人が多いのはこのためです。が、もともと「羅刹女」は「女の羅刹天」のことであり、中国ではこうは呼ばれません。普通は「鉄扇仙」の名で呼ばれます。

一方、チベットでは羅刹女といえば、上述のとおり、その国の発祥の元にもなった伝説の登場人物でもあり、のちに中国で語られるようになった西遊記の鉄扇仙とは区別しているようです。

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西遊記によれば、鉄扇公主は大きな鉄扇で雨を降らしていたといいます。火焔山より西南に千四五百里もの先にある翠雲山の芭蕉洞に住み、火焔山の燃え盛る炎を消すことが出来る秘宝・芭蕉扇を持つ地仙・羅刹女は鉄扇公主とも呼ばれています。

羅刹女は牛魔王の妻とされます。牛魔王が愛人の玉面公主(正体は玉のような顔をしたタヌキ)を作って芭蕉洞へ帰って来ないため不機嫌を募らせていたところに、孫悟空が芭蕉洞を訪ね、火焔山の炎を消すために芭蕉扇を借りたいと頼み込みました。

この芭蕉扇は、ひとたび仰げば風を呼び、ふたたび仰げば雲を呼び、みっつ仰げば雨が降ります。さらに立て続けに49回仰ぐと、どんな火でも消し止める霊水が雨として降り注ぐというスグレものでした。

ところが鉄扇公主にとって孫悟空は息子である紅孩児の仇でした。これより少し前、三蔵一行を見つけた紅孩児は、木に自らを吊るし彼らに助けを呼び、自分は賊に一家を襲われここに置き去りにされたと泣きながら訴えました。

しかし、一目で妖怪だと見抜いた孫悟空は無視して通り過ぎようと三蔵法師に言いましたが、哀れに思った三蔵は一緒に連れて行くよう命じます。悟空は隙を見て妖怪を殺そうとします。が、先手を取った紅孩児は三蔵をさらい飛び去ってしまいました。

悟空は猪八戒とともに紅孩児の住まう火雲洞に向かいますが、その彼等の前に紅孩児は、五行(木・火・土・金・水の)をなぞらえた5台の火車を率いて現れ、火攻めで二人を追い払ってしまいます。

火なら水に弱いだろうと、悟空は竜王たちに頼み天から水を降らせますが、まったく効果は無く、そればかりか火から逃げて水に飛び込んだところ仮死状態となってしまいます。

これをみた八戒は、得意の「按摩禅法」を悟空にほどこし、これで息を吹き返した悟空は、今度は牛魔王に化けて堂々と乗り込みに行きます。が、ここで行われた禅問答では、頭の悪い悟空は紅孩児の生年月日を答えることができず、再び逃げ帰るはめになります。

そこで、今度は観世音菩薩に力を借りに行くと、わざと負けて自分のところにおびき寄せるように言われます。こうして、再び紅孩児に戦いを挑んだ悟空は、菩薩に言われたとおり、負けたふりをして逃げ帰ります。

紅孩児は、逃げる悟空を追って補陀落山(ふだらくやま、観音菩薩の住処)まで来ますが、観音様の住処にまで入り込んで、得意になった紅孩児は、目の前にある蓮台に戯れに座りました。すると、突如として蓮台は刀で作られた台に変わり、その刃は紅孩児の両腿に食い込みました。

これはあらかじめ観音が36の天罡刀(てんごうとう)を使って作った罠でした。まったく身動きできなくなった妖怪は頭、両手、両足に金箍をはめられ取り押さえられ、ついには改心し仏門に入りました。

紅孩児を退治した悟空は、その後、芭蕉扇を貸してもらおうと鉄扇公主の館までやってきたわけですが、上のような事情から、息子の紅孩児の仇を見た鉄扇公主は、烈火の如く怒り狂い、二振りの青峰の宝剣をもって襲い掛かりました。

こうして、孫悟空と鉄扇公主の一騎打ちはその日の夕方まで繰り広げられましたが、悟空よりも齢をとった鉄扇公主にはやがて疲労の色が濃くなり、形勢不利と見た彼女は、ついに伝家の宝刀、芭蕉扇を使って悟空をあおぎ吹き飛ばしてしまいます。

悟空が一晩かかって吹き飛ばされた先は、かつて黄風大王の件で世話になった霊吉菩薩の住む小須弥山でした。黄風大王というのは、元は霊山で得度した茶色毛の貂鼠(テン)でしたが、転じて黄砂を引き起こす魔王となりました。

これ以前、三蔵法師一行が以前この黄風大王の住処を通りがかったとき、法師が大王にさらわれるという事件があり、このとき助けてくれたのが霊吉菩薩でした。

霊吉菩薩が、釈迦如来から授かった飛龍寳杖(ほうじょう)という杖を投げつけると、八爪を持つ金龍があらわれて、黄風大王を捕らえました。こうして菩薩は正体のテンの姿を現した黄風大王をかつて暮らしていた霊山へと連れていってくれたのでした。

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小須弥山にまで吹き飛ばされた悟空は、こうして再び霊吉菩薩に再会することとなりましたが、これぞ巡りあわせと、このとき再び助けを請います。悟空から事情を聞いた霊吉菩薩は、今度はやはり釈迦如来から授かった、風鎮めの秘薬「定風丹」を彼に与えます。

再び芭蕉洞に取って返した悟空は昨日と同じように鉄扇公主を呼び出し、両者は再び一騎打ちを始めました。

やがてひるんだ彼女は芭蕉扇で悟空をあおぎますが、定風丹のおかげで、少しも飛ばされる気配がありません。せせら笑う悟空を気味悪がった公主は芭蕉洞に逃げ帰り、堅く扉を閉めてしまいました。疲れて喉に渇きを覚えた彼女は、侍女に命じて茶を持ってこさせます。

ところが、孫悟空が1匹の虫に化けてお茶に飛び込み、そうとは知らずにお茶を飲んだ鉄扇公主の胃の中で暴れ回ったため鉄扇公主は腹痛に苦しみ、遂にたまりかねて孫悟空に芭蕉扇を渡すと約束します。ところが、実はこの芭蕉扇は偽物でした。

さっそく悟空はそれを持って火焔山に向かいますが、偽物であったため逆に火の勢いは強まり、全身に炎を浴び両股の毛まで焦げてしまいます。ほうほうの態で引き返してきた彼の前に火焔山の土地神が現れ、鉄扇公主の夫の牛魔王に芭蕉扇の攻略法を教えてもらうよう頼んではどうか、と勧めました。

しかし悟空が牛魔王を訪ねたとき、それを出迎えた愛人の玉面公主のタヌキ面を見た孫悟空は、タヌキのくせに俺の接待をするのか、と横柄な物言いをします。この無礼な態度に玉面公主は怒って牛魔王に告げ口をしたため、牛魔王も「俺の妾に無礼を働くとは」と怒り出してしまいます。

この後、彼らの間で芭蕉扇をめぐって化けくらべや騙しあいなど、延々と戦いや駆け引きが繰り広げられますが、やがて哪吒太子(なたたいし、天帝の部下の子供)たち天将の加勢もあって牛魔王が捕らえられました。夫が捕えられた鉄扇公主もついには観念し、悟空に本物の芭蕉扇を渡し、自らも正しい道に入るべく修行を積むために地上を去りました。

その後西遊記の後に記された「後西遊記」では、羅刹女は翠雲山で仙人として描かれており、また羅刹鬼国では羅刹仙として羅刹行宮に祀られるようになりました。そして、この羅刹鬼国こそがチベットということになります。

西遊記の中でもこのエピソードは人気が高く、中国では1941年にこのエピソードを基にしたアニメーション映画「西遊記 鉄扇公主の巻」が製作されているほか、1966年には香港で映画「鉄扇公主」が作られています。しかし、その鉄扇公主の国こそが、自分たちが蹂躙しているチベットのことだと、どれだけ現在の中国人が知っているでしょうか。

もうすぐ連休です。羅刹仙となった羅刹女が、その鉄扇で、秋の日に雨を降らさないことを祈るばかりです。

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イルカいるか?

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例年だと、まだまだ残暑が続くころですが、今年は先日の台風の影響なのか、比較的涼しい日が続いています。

この山の上では日中の最高気温も25℃を下回ることもあり、夜間気温は20℃近くになります。そろそろ秋の花のヒガンバナの季節かな、と気を付けてみているのですが、まだ咲いているところはないようで、おそらくは今週末の連休明けくらいから咲き始めるのでしょう。

「花と葉が同時に出ることはない」という特徴から、「葉見ず花見ず」とも言われるそうです。韓国では、ナツズイセン(夏水仙)という似たような花がありますが、こちらも花と葉が同時に出ないことから「葉は花を思い、花は葉を思う」という意味で「相思華」と呼びます。このため、同じ特徴をもつ彼岸花も「相思花」と呼ぶこともあるようです。

学名のLycoris(リコリス)は、ギリシャ神話の女神・海の精であるネレイドの一人、 Lycorias からとられました。ギリシア神話に登場する海に棲む女神で、姉妹の数は50人とも、100人ともいわれます。エーゲ海の海底にある銀の洞窟で父ネーレウスとともに暮らし、イルカやヒッポカンポスなどの海獣の背に乗って海を移動するとされます。

ヒッポカムポスというのは、半馬半魚の海馬です。前半分は馬の姿ですが、たてがみが数本に割れて鰭状になり、また前脚に水掻きがついて、胴体の後半分が魚の尾になっています。ノルウェーとイギリスの間の海に棲んでいて、ポセイドーンの乗る戦車を牽くことで知られています。

このリコリスの姉妹の一人に、アムピトリーテーというネレイドがおり、これは海神ポセイドーンのお妃さまです。ポセイドーンとの間に、トリートーン、ロデー、ベンテシキューメーを生みました。このうち、トリートーンは上半身が人間、下半身がイルカ(または魚)の姿をした海神で、手塚治虫の漫画「海のトリトン」のモデルです。

アムピトリーテーは美しい海の女神でしたが、大波を引き起こしたり、巨大な怪魚や海獣を数多く飼っていたり、強力な力を秘めていました。

ポセイドーンは彼女に求婚しますが、アムピトリーテーは野卑な彼を嫌い、その追跡の手から逃れるべく海の西端のナクソス島に住むアトラースのもとに逃げ、彼の館に住んでいた彼女の姉妹のネレイドたちによって匿われました。

すると、ポセイドーンはイルカたちにアムピトリーテーを探させました。イルカたちは方々を探しましたが、あるとき、アムピトリーテーは姉妹たちとともにナクソス島で賑やかに踊っていたところを、一頭のイルカによって発見されてしまします。このイルカは強引に彼女を連れ帰ることなく、逆に彼女を説得してポセイドーンの元へと連れて帰ります。

アムピトリーテーは、ポセイドーンの再三の求婚に最初は抵抗していましたが、最後にポセイドーンが最も気に入っていたイルカをプレゼントしてやろう、と言われると、婚姻を承諾しました。いつの時代にもプレゼント作戦は功を奏すことが多いものです。

こうして、ポセイドーンは願いかない、晴れてアムピトリーテーと結婚することができることになったわけですが、彼はこのとき、イルカの功績を讃え、代表してその一頭を宇宙に上げました。そして、これが現在我々が空を見上げると見ることのできる、いるか座です。

天の川の近くにある星座で、全体的に暗いものの、かなり星々が密集している星座であるため、天の川が見える程度に環境が良ければ見つけやすい星座です。

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ところで、イルカと言えば、最近、世界動物園水族館協会(WAZA)が「残酷だ」と問題視している「イルカ追い込み漁」を巡り、議論が巻き起こっています。

イルカ追い込み漁は、捕鯨の手法の一つで、クジラを対象とした追い込み漁です。いわゆるイルカと呼ばれるような小型の歯クジラに対して主に使われ、船と魚網で大海に至る抜け道を塞ぎ、入り江や浜辺に追い込んで捕獲する漁法です。

日本では、縄文時代の遺跡から鯨類の骨が発見されており、一部では大量のイルカの骨が集中的に出土していることなどから、この時代既に追い込み漁が行われていたと推測されています。捕獲された小型鯨類は主に鯨肉・イルカ肉として食用にされるほか、一部は水族館などイルカショーなどの展示や研究用に使われます。

2009年(平成21年)に和歌山県太地町の追い込み漁に対しての批判的な映画「ザ・コーヴ」が公開され、太地町で行われる追い込み漁は国内外で広く知られる事になりました。

しかし、日本ではイルカ追い込み漁は政府によって認められている漁法です。小型鯨類の捕獲に関して、現在の日本では農林水産大臣の許可の下で捕鯨砲を使って行われる「小型捕鯨業」と、都道府県知事の許可の下行われる「いるか漁業」がありますが、「追込網漁業」は、銛を使って行われる「突棒漁業」と共に「いるか漁業」を構成します。

残酷とはいいますが、「追込網漁業」は網の中にイルカを追いこんでいくだけなので、相手を大きく傷つけることはありません。

静岡県と和歌山県で知事により許可されていますが、静岡県では2004年(平成16年)にハンドウイルカ9頭を捕獲して以降捕獲実績がなく、現在追い込み漁が行われているのは和歌山県太地町の「太地いさな組合」によるもののみとなっていまする。

「いさな」というのはクジラの古語で、8世紀の奈良時代には文献上に捕鯨を意味する「いさなとり」の枕詞が既に出現しています。

2015年、WAZA は、和歌山県太地町で行う追い込み漁から小型鯨類を取得したことを理由に、日本動物園水族館協会(JAZA)を会員資格停止の処分としました。これに対して、水族館などイルカショーを行う機関や研究者は猛反発。

というのも、イルカを飼育している日本の多くの水族館や博物館などのほとんどは、この追込み漁のイルカを購入しているためです。JAZAがその元締めであり、各機関へのイルカの斡旋を行っていました。

このあおりを受け、イルカを飼う水族館でつくる日本動物園水族館協会JAZA傘下組織の「鯨類会議」も解散することになりましたが、この処置に反発する複数の水族館により新団体が設立される騒ぎに。

以後も、和歌山県太地町から追い込み漁によるイルカの購入を続けることを見すえ、一部の水族館はJAZA脱退を明言しており、この問題はかなり長引きそうです。映画で有名になった和歌山の太地町にある、「太地町立くじらの博物館」も、イルカの入手を継続するためいち早くJAZAを退会しています。

太地町の漁場協同組合も引き続き、追い込み漁を続けていくことになりそうです。しかし、それにしてもなぜそれほどまでにイルカを捕獲することにこだわるのでしょうか。

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日本の場合、戦前や戦後の食糧難の時代、クジラと同じくイルカも、貴重な蛋白源でした。今でも、比較的イルカがよく観察されるところでは食用にする習慣が残っているところもあり、例えば静岡県の東部地域や、駿河湾で水揚げされた魚貝類が流通する内陸部の山梨県でも一部イルカ食が行われます。

和歌山県でも古くからイルカ食文化があり、追い込み漁で仕留めたイルカの肉を町中の魚屋やスーパーマーケットなどで日常的に販売しています。岩手県や秋田などの東北の県、北海道などでも一部の地域で食するようです。

その可否については、ここであえて深い議論をするつもりはありませんが、現在は食糧不足だった戦後に比べれば、食べるものはたくさんある時代であり、その中であえてイルカを食する必要もないように思います。伝統の漁法、というところにこだわりがあるのでしょうが、それなら、捕獲したらリリースする、とかいう方法もあるでしょう。

また、反捕鯨団体「シー・シェパード」などの構成員による追込漁の網の切断や、古式捕鯨のモニュメントの破壊、といった過激な行動は許しがたいものがありますが、イルカ漁が野蛮であるとする彼等の主張にも一理あるように思います。

2010年にシー・シェパードと太地町と彼等との話し合いがもたれたようですが、その中で彼等の代表のひとりが、「伝統と文化に対しては理解している。長く続いているからいいというものではなく、もう続けてはいけないものがあることも理解しなければならない。奴隷制度のように、時がくれば終わらせなければならないものがある。」と語ったといいます。

この主張はわからないでもありません。イルカが北欧や日本などの海産国で食用として利用されるのとは異なり、現在ではイルカを中心にした産業が成立しているケースは世界的に見ても少なく、フェロー諸島、南太平洋の島国や日本の一部の地域、カナダのイヌイット地域などで肉が食用に供されているに過ぎません。

よそがやめたから、自分たちもというのでは自主性がないといわれるかもしれませんが、世界的にみても大儀のない食習慣の継続は、今後日本が世界にリスペクトしてもらえるような国になっていく上においては、良い面はあまりないように思います。そろそろやめ時かもです。

それにしても、間近で見るイルカはかわいいものです。水族館において展示飼育されるのはバンドウイルカなどのイルカが多いようですが、シロイルカという種類はとりわけ人懐っこく、エンゼルリングなどを吐きだすその姿は、子供たちにも大人気です。

一方では、訓練されたイルカたちは、海面上へのジャンプや立ち泳ぎ等によるアクションもこなし、彼等はイルカショーでも大人気です。一般には観客席に囲まれたプールでトレーナーが手で合図を出し、イルカが様々な得意技を披露します。現在ではイルカショーという呼び名を用いずに「イルカパフォーマンス」などの呼び名を使う施設も多いようです。

イルカは頭が良く、アクションもそれに大きく支えられており、ショーの中でゲームなどをやってイルカの知能を解説する水族館もあります。また、一部の博物館(水族館)などでは、その多彩なアクション(演技)をもってイルカの高い知能や運動能力を説明する、科学的な啓蒙を伴う場合もあります。

好奇心が旺盛とともに遊びが大好きなので、トレーニングの際においては、餌と笛で馴致しつつも、基本的にはイルカ自身が楽しんでパフォーマンスを行なう様にし向けているといいます。

本人(本海豚)たちが楽しんでいやっているのだから、見ている方も楽しいわけです。このため、水族館でやっている数あるアトラクションでも一番人気が高く、イルカショーを目玉とするところも多いようです。

動物療法(アニマルセラピー)として、イルカと触れ合うことで心が休まることなど、精神的な疾病の治療にも利用されることもあります。水族館での生活に適応できた個体は長生きし繁殖まで行うことができ、一部の施設では三世代繁殖の成功もしています。

最近近畿大学がマグロの完全養殖に成功しましたが、イルカ追い込み漁などに頼らず、イルカをたくさん繁殖させる方法を見つける、というのも今後のまた別の選択肢です。

ところで、この頭のいいイルカを使って、アメリカやソ連は、「軍用イルカ」を開発している、といわれます。軍事用途のために訓練を受けたイルカで、既に機雷を発見したり、水難救助の補助者として実際に使われているそうです。

アメリカ海軍のサンディエゴ基地(カリフォルニア州)では、「米海軍海洋哺乳類プログラム」という軍用イルカ養成プログラムを持っており、計画に基づいてメキシコ湾でイルカを捕獲しています。これによって養成された軍用イルカは、1990年代の湾岸戦争、2003年のイラク戦争においては実戦で使用されました。

退職した米国提督のティム・キーティングという人は、引退後にメディアからのインタビューを受けた際、2012年1月にイランがホルムズ海峡を封鎖したとき、この軍事イルカを用いて機雷を見つけることに成功した、と語りました。

米海軍が、上の和歌山県太地漁港からハナゴンドウを買ったこともあるそうで、1989年、日本の和歌山県太地町から、2頭のハナゴンドウがアメリカ海軍に買い付けられたことが、報道されました。ただ、このイルカはカリフォルニアの方ではなく、ハワイのパールハーバー海軍基地へ送られたようです。

ソ連海軍もまた、かつては軍用イルカの開発に注目していたといわれます。黒海にあるセヴァストポリ基地において、海洋哺乳類の軍事利用を目的とした研究をやっていたようです。しかし、1990年代初頭にそのプログラムは中止されたといいます。

理由はよくわかりませんが、アメリカと違って、軍用には適さないと考えたからかもしれません。その後このソビエト海軍によって訓練された軍用イルカたちは、2000年にイランに売却された、という新聞報道もあったようですが、イランはこれを何に使ったのでしょうか。

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この軍用イルカなるものが本当に存在するのかどうかは、アメリカもロシアも軍事機密なので詳しいことは明かしていません。が、メディアにおいてしばしば取り上げられる小話として、アメリカ海軍が軍用イルカに機雷を装着させ、神風攻撃のように、敵の戦闘員もしくは民間人を殺害させる計画を有しているのではないかという噂もあます。

自爆攻撃による潜水艦の破壊、毒矢の装備、ソナー撹乱機器の装着、イルカ同士の戦闘さえも計画されているとされるようですが、少なくとも米海軍ではこのような計画を否定しており、その証拠も存在しないようです。

そもそもソナーの撹乱機器装着に至っては、イルカ自体が反響定位を行い、反射音により物体の位置や距離を測定する為、感覚が狂ってしまう恐れもあります。

しかし、アメリカ海軍は、防衛、地雷検知、新しい潜水艦や新しい水中兵器を開発するために、イルカやアシカの能力を研究しようとしているといわれており、1960年にプログラムを開始し、彼等の能力の何が有効であるかの数々のテストを行ったことが公表されています。

イルカやアシカを含め、19以上の種もの哺乳類が試験されたといい、他にサメや鳥も試されたといいます。最終的には、バンドウイルカとカリフォルニアアシカは海軍が、彼等の目的のためには最良であることが示されました。

とくにバンドウイルカの能力は、水中の地雷を見つけるのに最適であり、その高度に進化したバイオソナーの能力を遺憾なく発揮できるといいます。また、アシカの能力は、敵の潜水艦を発見する上において、非の打ちどころのないものであることがわかったそうです。

軍事機密といいながらも、米国海軍は、現在もこのプログラムを継続しており、その研究内容はある程度公開されています。2007年度には、海底における遺失物の捜索や地雷探知を目的とした海洋哺乳類のトレーニングプログラムが組まれ、この海洋哺乳類の研究のために、1400万$もの予算をつけ、75頭のイルカに訓練を行っています。

このとき、これらの特別な訓練を受けたイルカはまた、外洋において多くの命を救うための、良きライフセーバーであることも確認されたそうです。

この訓練及び研究に供されるイルカやアシカの世話は、専任の獣医師や、技術者、および高度な訓練を受けた海洋生物学者が行っているといい、こうした医師やスタッフは、彼等が最良のケアが受けられるように、24時間待機しているそうです。

現在においても、健康イルカやアシカを維持し、日常の身体検査、栄養を監督するとともに、大規模なデータの収集と管理を行っています。これらイルカやアシカの訓練は、5チームに分けられており、そのうちの3チームの任務は、海難救助、海底資源探査、および遺失物回収に特化しているそうです。

最終的には、いざ有事の際には、これらの各チームを動員し、72時間以内に目標とする場所に辿りつけるよう、訓練がなされています。イルカは水中鉱山や敵の潜水艦の存在を発見し、その結果を調教師たちに報告するように訓練されているそうです。

その訓練の様子は、まるで警察犬や狩猟犬の訓練のようだといい、正しい成果をあげるたびに好物の魚などを報酬として与えられるともいいます。が、イルカのほうが犬よりもはるかに知能が高いため、その訓練の内容についても、犬のそれらと比べものにならないほど、高度なものだそうです。

近いうちに、津波や船舶の沈没等の海難事故によって、行方不明者が出たとき、イルカが彼等を見つけてくれるような時代がくるのかも。

また、先の水害においても、まだ見つかっていな多数の犠牲者がいるようですが、海の生物であるイルカの登用は無理としても、似たような高度な知能を持った水棲生物に捜索を行わせる、といった時代も来るかもしれません。

それにつけても、もう9月も中旬…… 今年もまだまだ台風がやってくるのでしょうか……

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ダイヤモンドと日本刀

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1792年 9月11日。 「ブルーダイヤモンド」と呼ばれる巨大なダイヤモンドが、フランス王室の宝玉庫から盗まれました。

6人の窃盗団が王室の宝玉庫に侵入し、ブルーダイヤモンドを含む宝石類を強奪。当時はフランス革命のさなかで、国王一家は囚われて幽閉されていました。

その後、このダイヤモンドの行方はわからなくなりましたが、窃盗団の一人、士官候補生の「ギヨ」という男が、後にさまざまな宝石類を、フランスのル・アーヴルやロンドンの宝石商などに売りつけようとしていたことが警察のその後の調査でわかりました。

1796年に宝石を売った、とする記録が残っているようですが、ただ、文献として残っていたカラット数などから、これはブルーダイヤではなかったと判明しています。

時を隔てて2000年代に入り、アメリカのスミソニアン協会、そしてフランス国立自然史博物館の両機関が、イギリスのダイヤモンド商、ダニエル・エリアーソンが、あるダイヤモンドを1812年ころに所有していた、という事実を確認しました。

そしてこのダイヤこそが「ブルーダイヤモンド」から再カットされたものであることも判明し、これが今日もアメリカ国立自然史博物館に所蔵されている「ホープダイヤモンド(Hope Diamond)」の原型であることがわかりました。アメリカ国立自然史博物館とは、スミソニアン協会の運営する博物館群のひとつです。

エリアーソンがこのダイヤを保有していたことが確認された年が、ちょうど最初の窃盗から20年後のタイミングであったことから、これを犯罪の時効との関連を見る向きもあり、彼が何等かの形でこの盗難に関わっていたのではないか、とする向きもあります。おそらくは、盗品であることを隠すためにオリジナルを再カットしたのでしょう。

なぜ、イギリスにあったものがアメリカにあるかといえば、アメリカの銀行家、ヘンリー・フィリップ・ホープという人物が1830年頃、このダイヤモンドを、ロンドンの競売で1万8000ポンドで落札した」ためです。「ホープ」ダイヤモンドの名は、彼がこれを所有したことからきています

オリジナルのネーミング通り、青い色をしたダイヤモンドです。45.50カラットもあり、ホープダイヤモンドとなった現在では、その周りに16個、鎖に45個のダイヤをはめ込まれ、白金製のペンダントとなっています。

紫外線を当てると、1分以上に渡って赤い燐光を発します。紫外線を当てて発光するダイヤモンドは珍しくはなく、およそ1/3は紫外線を当てると発光するといいます。しかし、赤く、しかも1分以上も光り続けるというのは極めて珍しく、現在のところその原理は解明されていません。

青い色の原因は、不純物として含まれるホウ素が原因であることが解析の結果判明しました。ダイヤモンドが生成される地下深くでは、ホウ素はほとんど存在しないとされています。このため、なぜ、ダイヤモンドの生成時にホウ素が含まれたのか?についても謎となっています。

そもそも、このダイヤは、9世紀頃、インド南部のデカン高原にあるコーラルという町を流れる川で、農夫により発見された、とされます。その後、紆余曲折を経て、1660年に、フランス人ジャン=バティスト・タヴェルニエという人物がこれを購入しましたが、このときの記録で112と3/16カラットあったことがわかっています。

実は、このダイヤ、この当初から、持ち主を次々と破滅させながら、人手を転々としていく、いわゆる「呪いの宝石」として有名でした。その理由は、このダイヤはその後、ヒンドゥー教寺院に置かれた女神像に使われていたものが、あるとき盗難に遭ったことに由来がある、とされます。

この彫像は、「シータ像」と呼ばれて信者たちの崇拝を集めていましたが、その目の部分の片方に嵌められていたのが、このダイヤでした。そして、盗まれたと気づいた僧侶は、それを盗んだであろう、あらゆる持ち主に呪いをかけました。その結果、以後の持ち主は次々と死んでいったとされます。

その後、ペルシア王朝の時代には、ペルシア軍がインド侵攻した際、地元の農夫が軍の司令官が国王に献上したことで、ダイヤはペルシアに渡ります。このとき献上した農夫はペルシア軍に殺害されたといい、一方ダイヤを手にした司令官は、親族のミスが理由で処刑されたといいます。その後このダイヤを取り上げた国王は謀反で殺されました。

その後1660年になって、これを手に入れたのが、上述のタヴェルニエです。彼自身も「直後に熱病で死んだ」あるいは「狼に食べられて死んだ」ことになっていますが、実はそのような事実はなく、84歳まで生きながらえ、死因は老衰であったようです。

しかし、タヴェルニエ以後もさらに複数の持ち主が亡くなったことから、この「呪いの伝説」はエスカレートしていくようになります。

1668年、フランス王ルイ14世がタヴェルニエからダイヤを購入。このとき、大胆なカッティングがなされ、およそ半分の67と1/8カラットの宝石となり、「王冠の青」あるいは「フランスの青(フレンチ・ブルー)」「ブルーダイヤモンド」と呼ばれました。このダイヤは王の儀典用スカーフに付けられたといいます。

ルイ14世がカットさせたことで半分になったため、「本当はもう1個あるのではないか」と噂されています。しかし、そのもう片方の行方は知れません。しかし、半分になったとはいえ、67カラットものダイヤモンドはそうそうあるわけではありません。

このころから、この呪いがかけられたというダイヤは次第にその魔力を発揮し始めます。まず、タヴェルニエ宝石を入手した頃からフランスの衰退の一端の兆しが現れ始めました。彼からダイヤを購入したルイ14世の治世以降のフランス経済は停滞し始め、その後の1787~1799年に生じたフランス革命の原因となりました。

さらに、このルイ14世からダイヤを相続したルイ15世は天然痘で死亡しました。そして次にダイヤの持ち主となったルイ16世と王妃マリー・アントワネットは、そろってフランス革命で処刑されています。ちなみにマリー・アントワネットの寵臣ランバル公妃は、このダイヤを度々借りていたそうです。ランバル公妃は革命軍によって惨殺されました。

その後、冒頭で記したとおり、1792年に王室の宝玉庫からイギリスの窃盗団によって盗み出され、フランスからイギリスに渡ります。彼等は出所を不明にするためこれを再カッティングさせた後、アムステルダムの宝石店に売り飛ばしました。

ところが、この宝石商の息子がダイヤを横領し、宝石商はそのショックで死亡。このといき、盗んだ息子も父の死を苦にして自殺したとされます。その後これを同じダイヤモンド商、ダニエル・エリアーソンが入手した、といわれますが、このショック死した宝石商こそ、エリアーソンだ、とする説もあるようです。

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そして、エリアーソン親子の死後、ロンドンの競売にかけたものを、ホープが入手した、ということになります。ところが、その後このホープ家も崩壊します。

この「呪いの伝説」は、そもそも、このホープ家が没落後の1909年にロンドン・タイムズの6月25日号において、パリの通信員が「悲惨な最期を遂げた」とする架空の所有者を多数含んだ記事を寄せたのが最初であるとされます。しかし、日付だけは確かのようですが、その中身がウソではどこまで信じていいいのかわかりません。

さらにこれらの伝説を拡大する役割を果たしたのが、フランシス・ホープと離婚したメイ・ヨーヘでした。彼女は離婚後に新しく愛人を作りましたが、やがて別離しました。ところが、ダイヤをこの愛人に奪われたと主張したり、自分の不運がダイヤのせいだと決めつけました。実際にはダイヤを所有していないにもかかわらず、です。

しかし、不思議なことに、その愛人と再びよりを戻して結婚、再度離婚しており、ようは巷によくある「お騒がせ屋」の類の女性だったようです。この2度目の離婚後、メイは「ダイヤモンドの謎」という15章からなる本を他の執筆者の助けを借りて書き上げ、その中にさらに架空の登場人物を加えました。

ついには彼女は自分の書いた本をベースにした映画を作らせ、それにフランシス・ホープ夫人役で主演し、ここでも話の誇張と人物の追加をしています。メイは映画の宣伝と自分のイメージアップのためにホープダイヤの模造品を身につけていたといいます。

1896年に、フランシス・ホープ破産。ホープダイヤの売却を迫られ、メイもそれを手助けしたとされます。ダイヤは1902年頃に2万9000ポンドでロンドンの宝石商アドルフ・ウィルが買い取り、アメリカのダイヤモンド商サイモン・フランケルに売却します。フランケルはダイヤをニューヨークに持ち込み、14万1032ドル相当と評価されました。

1908年、今度はフランケルが、ダイヤをパリのソロモン・ハビブに売却。実業家だったようですが、その後呪いの影響か、事業に失敗し、1909年に債務弁済のため、ダイヤを再びオークションに出します。このときは、約8万ドルでパリの宝石商ローズナウがホープダイヤを落札。

さらにローズナウは、1910年、ダイヤを王の宝石商と呼ばれていた、ピエール・カルティエに55万フランで売却します。たった2年でおよそ7倍の額に膨れ上がったダイヤをカルティエはさらに宝石を装飾し直し、1911年、アメリカの社交界の名士エヴェリン・ウォルシュ・マクリーンという女性に売却しました。

このように、「ホープダイヤモンド」の語源となったホープ以後、エヴェリン・マクリーンの手に渡るまでのわずか9年間に、ホープ→ウィル→フランケル→ハビブ→ローズナウ→カルティエ→マクリーン、と6回も持ち主が変わっており、これがまた、それぞれの持ち主がその呪いを恐れて、転売を急いだのだ、ということもまことしやかに言われています。

エヴェリン・マクリーンは当初、投資目的のためにこれを買ったようですが、やがて社交の場でいつもこれを身にまとうようになります。また、ペットの犬の首輪にこのダイヤを付けていたこともあります。

また、エヴェリンは、このダイヤの由来を人に話す時、先のメイが映画ででっち上げた話に、ロマノフ朝第8代、ロシア女帝エカチェリーナ2世などの所有者の話を加えて面白おかしく脚色していたといいます。

しかし、1947年にエヴェリン・マクリーンは死去(61歳)。彼女は相続人に、自分の孫の将来を考えて、つまり呪いを恐れて、今後20年間このダイヤを売却しないよう遺言しました。

「呪いの伝説」ではその後、「マクリーンは教会で祈祷させたが一族全員が死に絶えた」とされますが、その孫が存命であることからもわかる通り事実ではありません。1949年、相続人はマクリーンの債務の弁済に、ホープダイヤを売却する許可を得て、ニューヨークのダイヤモンド商ハリー・ウィンストンに売却。

このウィンストンこそが、ダイヤを個人でもっていた最後の人物になります。彼は「宝石の宮廷」と名付けたアメリカ国内での巡回展や、各種チャリティーパーティーでホープダイヤを展示しましたが、売却はしませんでした。

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そして、1958年、ウィンストンはスミソニアン協会にホープダイヤを寄贈。こうしてダイヤはついに公的な施設で保管されることになりました。ダイヤを寄付したウィンストンは1978年に82歳で病没。彼自身は、まったく呪いを信じず、ジョークのネタにしていたといいます。また、以下のような逸話が残っています。

あるとき、ウィンストン夫妻は共に遠出をすることになりますが、所要で予定が狂い、妻のみが別の旅客機で移動することになりました。妻がキャンセルした席、つまりウィンストンの隣の座席に代わりに乗ってきた男は、安心したように隣のウィンストンに話しかけてきました。

「実は、私が乗った旅客機に、あのホープダイヤの持ち主であるハリー・ウィンストンの妻が乗り合わせていると聞いたのでね。慌てて便の変更をしたってわけですよ…いやまったく、この席がキャンセルで空いてくれて本当に良かった。これで安心ですな」

ウィンストンは笑って「それはそれは」と答え、ホープが入ったトランクを撫でたのみでしたが、飛行が終わり席を立つ際、名前を明かし相手を大変驚かせた、といいます。

その後、ダイヤを入手したスミソニアン協会が呪いで没落したか、といえばそんなことはありません。

しかし、アメリカ合衆国は、ダイヤがこの地に渡った1950年代の終わり以降、激しい人種差別によって揺れまくるとともに、泥沼のベトナム戦争に突入しました。その後も貿易赤字に苦しんだ後、単独主義によって世界から孤立傾向となり、9.11をきっかけにテロとの戦い、イラク侵略戦争などなど、現在に至るまで、不安定な時代を過ごしています。

もしかしたら、これはブルーダイヤモンドの呪いの結果なのかもしれません。

2009年、スミソニアン同協会は、国立自然史博物館創立50周年を記念して、一年間ホープダイヤをペンダントから外して単独で展示すると発表しました。その後は再びペンダント形に戻され、今もその展示場で人々の熱い視線を浴びているはずです。

なお、翌年の2010年には、フランス国立自然史博物館2007年にフランスで発見された鉛製の模型などを参考にして、ルイ14世時代の「フランスの青」としてカットしたとされるもののレプリカを模造ダイヤで復元すると発表。さらに200年以上前に盗難・破壊されたルイ15世の金羊毛騎士団用ペンダントも復元して、2013年にフランスで公開されました。

模倣したブルーダイヤとはいえ、フランスにも同じく不幸が訪れなければいいのですが……

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さて、以上は西洋での呪いの品の話です。似たような話は日本にもたくさんあり、その代表的なものとして、「妖刀村正」というのがあります。

村正というのは、戦国期から江戸時代初期にかけて、伊勢国桑名(現在の三重県桑名市)で活躍した刀工の名です。

美濃の国(現岐阜県)に在住の、赤坂左兵衛兼村という刀鍛冶の子とされます。関鍛冶の祖といわれる、赤坂千手院という鍛冶の子孫とも伝えられています。片手打ちの刀、脇差、寸延び短刀、槍など、戦国期の実用本位の刀剣の名作を数多く世に出しました。

妖刀といわれるゆえんは、徳川家康の祖父清康と父広忠は、共に家臣の謀反によって殺害されており、どちらの事件でもその凶器は村正の作刀であったといわれることにちなみます。また、家康の嫡男、信康が謀反の疑いで死罪となった際、介錯に使われた刀も村正の作であったといいます。

さらに関ヶ原の戦いの折、東軍の武将織田長孝が戸田勝成を討ち取るという功を挙げました。このとき、その槍を家康が見ていると、家臣が槍を取り落とし、家康は指を切りました。聞くとこの槍も村正で、家康は怒って立ち去り、長孝は槍を叩き折ったといいます。

これらの因縁から徳川家は村正を嫌悪するようになり、徳川家の村正は全て廃棄され、公にも忌避されるようになりました。民間に残った村正は隠され、時には銘をすりつぶして隠滅したとされます。

しかし、実は、以上の話は実は民間伝承に過ぎず、実際には、家康は村正のコレクターであり、没後、形見分けとして一族の主だった者に村正が渡されました。

これが徳川一門のステータスとなり、他家の者は恐れ多いとして村正の所有を遠慮するようになりましたが、後代になると遠慮の理由が曖昧となり、次第に「忌避」に変じていき、これが妖刀につながった、ということがいわれているようです。

ただ、この説にも疑義があり、家康がコレクターだった、とするにしては現存するものが少なすぎます。

家康の遺産相続の台帳である「駿府御分物帳」に村正の作は2振しか記されておらず、現在は尾張家の1振だけが徳川美術館に保存されています。なお、徳川美術館にあるものは、家康が所持していたものとされ、これは尾張徳川家に家康の形見として伝来したものです。

日本刀には、江戸以前のいわゆる「古刀」のほか、江戸期以降の新刀などがありますが、村正は、戦国時代頃の古刀である、「末古刀」であり、その中でも出色の出来といわれます。
江戸時代に入ってからも極めて人気が高かったといわれ、このことから、徳川美術館は徳川家が村正を嫌ったというのは「後世の創作」であると断言しています。

しかし、江戸末期の享和年間(1801~04年)の尾張家の刀剣保存記録には、この尾張家伝来の村正がすべて、健全な焼刃の作品であるにも関わらず、「疵物で潰し物となるべき」と残されています。この記録からも、時代が下がるにつれて、徳川家でも村正が忌避される傾向が強くなっていったことは想像できます。

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ただし、民間に伝わる「妖刀」としての村正伝説は、江戸の人々が歌舞伎などの寄席ものででっち上げていったものであり、あくまで創作と考えられます。

その嚆矢は、寛政9年(1797年)に初演された、初代並木五瓶作の歌舞伎「青楼詞合鏡」(さとことば あわせ かがみ)だとされます。この演目で初めて村正が「妖刀」として扱われ、妖刀伝説が巷間に普及していったと考えられています。

万延元年 (1860年)には「妖刀村正」に物語の重要な役どころを負わせた「黙阿弥」作の「八幡祭小望月賑」が初演され、大評判を博しました。また、幕末から維新の頃にかけて書かれた巷本、「名将言行録」には、「真田信繁(俗に幸村)は家康を滅ぼすことを念願としており、常に徳川家に仇なす村正を持っていた」という記述があります。

この本には、さらにそれを家康の孫である徳川光圀が「こうして常に主家のため心を尽くす彼こそがまことの忠臣である」と賞賛したという逸話が併記されています。これらのことから、村正が徳川将軍家に仇なす妖刀であるという伝説は、幕末の頃には巷に行きわたっていたことがわかります。

また、明治に入ってからも、明治21年(1888年)に、三代目河竹新七によって作られた「籠釣瓶花街酔醒」でも村正が登場します。以後、大正、昭和と似たようなものが繰り返し歌舞伎やら時には映画やテレビの題材として登場し、村正が「妖刀」である、という話は、完全に定着しました。

しかし、実際に妖刀とまで言われるほどの逸話があったのかどうかについては、さほどはっきりした史実はありません。

そもそも、そんな妖刀を作れるような村正とはどんな人物だったのか。上述のとおり、登場し伊勢国桑名出身とされ、戦国期から江戸初期にかけて活躍し、その活動拠点も伊勢であったといわれます。が、活動範囲については必ずしも定かではありません。

村正は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期に鎌倉で活動した刀工で、日本刀剣史上もっとも著名な刀工の一人、五郎入道正宗の弟子という俗説もありますが、これは事実無根で、江戸時代の講談、歌舞伎で創作された話です。そもそも正宗は鎌倉時代末期の人であり、村正は室町時代中期以降が活動時期です。

また、鎌倉とも縁は薄く、他国の刀工と同様に、室町末期に流行した美濃伝を取り入れ本国美濃の刀工の作と見える刃を焼いた作もあり、坂倉関の正吉・正利・正善など・「正」の字が村正に酷似するなど、主として関鍛冶たちとの技術的な交流をうかがわせます。

しかし、その作風を見ると、美濃だけではなく、隣国の大和(奈良)伝の作風、相州(神奈川・鎌倉)伝の3つの流派を組み合わせたものといわれ、また本来は、「数打ち」といわれる実用本位の粗製濫造品や「脇物」と呼ばれる郷土刀を鍛える刀工集団に所属していた、と見られているようです。

その行動範囲は伊勢から東海道に及びますが、「村正」の銘は、主として桑名の地で代々受け継がれ、江戸時代初期まで続きました。また、村正は一代で潰えたのではなく、同銘で少なくとも3代まで存在するというのが定説です。

村正以外にも、藤村、村重等、「村」を名乗る刀工、正真、正重など、「正」を名乗る刀工が千子村正派に存在します。江戸時代においては「千子正重」という刀鍛冶がその問跡を幕末まで残しています。

なお、この千子正重は、4代目以降、正重を廃して、「千子」と改称したと言われています。これは「正重」の中に徳川家が忌避する「正」の文字を大名や旗本が嫌い、帯刀を避けるようになったことが原因と考えられています。

さて、こうしたことから、村正は一人ではなく、「村正」という伊勢の鍛冶集団の一派であったことなどが、想像されますが、それでは、そんな彼等が造った刀について、本当に妖刀といわれるようになった史実があったのかどうか、です。

上述の、徳川家康の祖父清康と父広忠が、共に家臣の謀反によって殺害されて際に使われた凶器が村正であったということ、また、家康の嫡男信康が謀反の疑いで死罪となった際の刀も村正であったという民間伝承には、ある程度の根拠はあるようです。

家康の祖父松平清康が突如、家臣の阿部正豊に刺殺された短刀は実際にも村正であったようです。また、家康の父松平広忠が片目弥八によって殺害されたのも村正である、という事実は、「岡崎領主古記」という古文書にも書かれています。

さらに、家康の嫡子、松平信康が信長の厳命で切腹を申しつけられた時、介錯人を命ぜられたのは、服部正成という人物であり、彼が佩刀していたのも村正である、という確かな記録があるようです。

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ただし、これら一連の処刑の事実があったのは、江戸初期のころのことであり、それぞれの村正保持者に関する記録は江戸後期に書かれたものです。従って、これらの「事実」は、時代が進み、徳川家内部で村正が忌避される傾向が強くなって以降、創作された可能性が高いと考えられます。

また、家康の父の広忠の死因は多くの史料では病死とされており、謀叛による暗殺説は、上述の岡崎領主古記に書かれているだけで、他の文献では確認されていません。

それにつけても、徳川家ゆかりの不祥事には数多く村正が出てきます。家康夫人である築山御前を小藪村で野中重政が殺害して斬った刀も村正、元和元年五月七日、真田幸村が大坂夏の陣で徳川家康の本陣を急襲した時家康に投げつけたと云われる刀も村正という記録があるようです。

こうした史実はわりと、センセーショナルな出来事でもあり、その中で村正を登場させることで、よりこれらの事件を人々に印象付けようとしたとも考えられます。

このほかにも、文政6年(1823年)に起きた「千代田の刃傷」で用いられた脇差も村正という説と村正ではないという説があります。これは、文政6年(1823年)、松平外記忠寛によって引き起こされた刃傷事件です。

西の丸の御書院番の新参・松平外記忠寛は、古参の本多伊織、戸田彦之進および沼間左京の度重なる侮罵と専横とに、ついに鬱憤これを抑えることができず、この3人を殿中において斬り殺し、なお、間部源十郎および神尾五郎三郎の2人には傷を負わせ、自らは潔く自刃し果てました。

時の老中・水野忠成が厳重詮議をおこなった結果、殺害された3人の所領は没収され、神尾は改易を申し渡され、間部は隠居を仰せつけられました。 なお松平家は忠寛の子栄太郎が相続を許されました。

この事件は須藤南翠が小説化し、また歌舞伎狂言にもなったほどの事件ですが、それだけに物語の内容をより引き立たせるために、村正が用いられたと考えてもおかしくはありません。従って、これらの血なまぐさい事件で使われた刀が村正であるという論拠は乏しく、やはり妖刀としての村正はこうした文芸や技芸の中での創作でしょう。

歴史作家の、海音寺潮五郎は、吉川英治が「宮本武蔵」を連載しているときに散歩のついでに吉川邸に立ち寄り、先客であった岩崎航介という東大卒の鋼鉄の研究家から、以下のような話を聞いたとされ、海音寺はそのときのことをこう書き残しています。

「妖刀伝説は嘘。昔は交通の便も悪いので近在の刀鍛冶から買い求める。三河からすぐ近くの桑名で刀を打っていた村正から買うのは自然だし、ましてよく切れる刀ならなおさら。今の小説家は九州の武士に美濃鍛冶のものを差させたり、甲州の武士に波ノ平を差させたりしているが、そういうことは絶無ではないにせよ、まれであった」

すなわち、村正はよく切れるために、江戸時代にはかなりもてはやされ、ベストセラーだったというわけです。それゆえに、より売れるようにと逸話として妖刀の話を流行らせた、と考えることもできるでしょう。

ちなみに、海音寺と吉川が、このときこの研究家からもらった名刺を見ると住所は逗子でした。そして、それから数日経った日の宮本武蔵の新聞連載には、「厨子野耕介」という刀の研ぎ師が登場したそうです。

一方、村正は、妖刀どころか、徳川家と対立する立場の者には逆に縁起物の刀として珍重された、とする史実があるようです。

江戸初期の慶安4年(1651年)には、幕府転覆計画が露見して処刑された由井正雪がこの村正を所持していたことは、明らかである、とされます。また、幕末になると西郷隆盛を始め倒幕派の志士の多くが競って村正を求めたといいます。

そのため、明治以後市場には多数の村正のニセ物が出回ることになりました。もっとも、そのすぐ後に廃刀令が出たため、これらの偽物もやがて時代の中で消えていきましたが…

このほかの村正がもてはやされていたことがわかる根拠としては、「通航一覧」という歴史書内の記述があります。江戸初期の1634年(寛永11年)、訴出によって長崎奉行の竹中重義の女性問題が露見したとき、幕府におるこの竹中家の屋敷の捜査で、おびただしい金銀財宝とともに、幕府が厳しく所持を禁じていた多数の村正が発見されました。

24本も所蔵していたといい、この竹中重義は、幕府直轄の長崎奉行としては珍しく外様出身ということもあり、その後徳川家に切腹を命じられています。こうしたことからも、村正は江戸時代の初めごろからすでにコレクターの垂涎の的であったことがわかります。

私は素人なのでよくわかりませんが、村正級になると、現在においてもその刀剣としての美術的価値はかなり高いようです。正真の上出来の刀で800~900万円位もするといい、村正の銘はないものの、それと推定される短刀でも100万円以上するといいます。

切れ味もそれなりにスゴイらしく、村正作の一振と正宗作の一振の二本を川に突き立ててみたところ、上流から流れてきた葉っぱが、まるで吸い込まれるかの如く村正に近づき、刃に触れた瞬間真っ二つに切れたといいます。一方正宗には、どんなに葉っぱが流れてきても決して近寄ることはなかったといいます。

このほかにも、村正の斬れ味にまつわる逸話は数多いようですが、ある刀剣研磨師によれば、「村正を研いでいると裂手(刀身を握るための布)がザクザク斬れる」「研いでいる最中、他の刀だと斬れて血がでてから気がつくが、村正の場合、ピリッとした他にはない痛みが走る」のだそうです。

この「ピリッとした他にはない痛み」に関連するような記事が、その昔、科学雑誌「ニュートン」に掲載されました。

戦前、東北大学の物理学教授で金属工学の第一人者として知られていた本多光太郎が、試料を引き切る時の摩擦から刃物の切味を数値化する測定器を造ってみたところ、 皆が面白がって古今の名刀を研究室に持ち込みました。測定器の性能は概ね期待した通りでしたが、なぜか村正だけが測定するたびに数値が揺れて一定しなかったといいます。

この測定結果がどういう意味を持つのかはよくわかりませんが、単純によく切れる、というわけでなく、やはり「妖刀」と呼ばれるような何か電気特性のようなものを持っているのかもしれません。

ちなみに、この妖刀の不可思議な側面にあらためて感心した本多先生は、一言「これが本当の“ムラ”正だ」と論評した、といい、「あの生真面目な先生が冗談を言った」としばらく研究室で話題になったといいます。

それほど切れる刀なら、もし台所で使ったら、どんなことになるのだろう、などとついつい卑俗な想像をしてしまいます。生きた魚などは捌けばさぞかしスゴイ活造りができるだろうし、髪の毛ほどの太さの千切りキャベツなどもできてしまうのではないか、と思うのですが、悲しいかな、ウチには村正を買うほどのお金はありません。

お金持ちのあなた、お宅の台所用に一刀お買い求めいただき、結果をお教え願えませんでしょうか。

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人類 or 神?

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今日は、9月の9日。

ノストラダムスの終末の予言の日は、1999年9月9日とされていました。

ミシェル・ノストラダムス(Michal Nostradamus)は、1503年12月14日にフランス・プロヴァンスで生まれ、1566年7月2日に、62歳で亡くなった、ルネサンス期フランスの医師、占星術師、詩人です。また薬膳料理研究の著作も著しており、料理人、というか現在の薬剤師のようなこともしていたようです。

彼の「終末予言」は、著作である「ミシェル・ノストラダムス師の予言集」に収められていたものです。この予言は、「四行詩」の形で綴られていました。四行のみで作られた詩で、漢詩や日本の七言絶句のようなものです。

ところが、こうした言葉を集約した詩にはよくありがちなことで、その内容はいかにも抽象的かつ難解であったため、後世様々に解釈され、その「的中例」が信じられて広まりました。併せて、ノストラダムス自身の生涯にも多くの伝説が積み重ねられてゆき、結果として、信奉者たちにより「大予言者ノストラダムス」が祭り上げられることとなりました。

同時に、この予言は様々な論争を引き起こしてきましたが、日本におけるブームは、1973年に祥伝社から発行された五島勉の著書から起きました。

「フランスの医師・占星術師ノストラダムスが著した「予言集」について、彼の伝記や逸話を交えて解釈する」という体裁をとっていましたが、1999年7の月に人類が滅亡するという解釈を掲載したことにより、公害問題などで将来に対する不安を抱えていた当時の日本でベストセラーとなり、版に版を重ねた上に、都合10シリーズも関連本が出されました。

大ベストセラーになったこの本は、1980年代以降の新興宗教に少なからぬ影響を与えました。この時期の新興宗教には、自分たちの教祖様こそが、上記の世界を救う「別のもの」であると主張する教団が現れ、これらの影響がその後のオウム真理教による地下鉄サリン事件発生の遠因になったと指摘する人もいます。

また、キリスト教やユダヤ教の終末論とはかけ離れた終末思想を生み出し、深刻に受け止めた若い世代の読者が、世界や日本の未来のみならず自己の未来をも暗澹たるものと考えてしまい、刹那的な行動に走ったり、将来設計を怠るなどの問題も起きたといわれます。

しかし、26年後の1999年には結局何も起こりませんでした。大予言熱は冷め、巷ではあれはいったいなんだったんだ、というムードが漂いましたが、16年を経た現在でも、いやいやノスタルダムスの大予言はまだまだある、として2○×○年にさらに次の滅亡が起こる、などと言いふらし、柳の下の二番目のどじょうを狙う輩が跡を絶ちません。

そもそも、このノストラダムスという人物がどういう人だったか、ですが、もともとは平凡なユダヤ系フランス人の家系の商家に生まれ、自身も商売人だったようです。1503年に生を受けたのち、アヴィニョン大学で教養科目学んだあと、代々の商家を継ぐ予定でした。

しかし、学問に対するモチベーションが高かったのか、その後モンペリエ大学で医学を学ぶとともに薬剤師の資格を得ました。このとき博士号をとったという話もあるようですが、裏付ける資料はありません。卒業後も医師、というよりは薬剤師としての活動が多かったようです。

しかし、南仏でのペスト流行時には、積極的に治療にあたり、伝説では、この時に鼠がペストを媒介することを見抜き、鼠退治を命じたといいます。また、伝統的な治療である瀉血(人体の血液を外部に排出させる治療法)を否定し、かわりに酒や熱湯で住居や通りを清め、更にはキリスト教では忌避されていた火葬すらも指示したとされます。

後年それまでの経験などを踏まえて「化粧品とジャム論」などを著しました。これは、二部構成の小論集であり、第一論文は顔を麗々しく、一層美しいものにするための美顔料や香料の作り方が綴られ、第二論文では、蜂蜜、砂糖、濃縮ワインなどをたっぷり使ったジャムの作り方などの手ほどきを示すものでした。

「プロヴァンス州サロン・ド・クローに住む医学博士ミシェル・ド・ノートルダム師が新たに編纂し、公刊されたもの」と序文に記されており、人々は「医学博士」というこの紹介を信じました。このため、現在ではハウトゥー物と言われてもおかしくないようなこの本も、薬学本として喧伝されて人気を博し、16世紀の間に10回以上版を重ねたといいます。

47歳になった1550年頃からは、占星術師としての著述活動も始め、上の予言集などを著し、当時大いにもてはやされました。王妃カトリーヌ・ド・メディシスら王族や有力者の中にも彼の予言を評価する者たちが現れ、1564年には、国王シャルル9世から「常任侍医兼顧問」に任命されました。が、その2年後、病気により62歳で没しました。

くだんの「予言集」ですが、実は出版されたものは一冊ではなく、かなりの多数に及び、出版場所も、リヨン、マルセイユ、パリなど6都市に及びます。ただ、生前に刊行されていた予言集のメインタイトルは、いずれも「ミシェル・ノストラダムス師の予言集」であり、どうやら一番古いものは、1555年にリヨンで出版されたもののようです。

現存しているものは、3セクションからなり、最初のセクションは、百詩篇第7巻42番まで、2番目のセクションは、第10巻100番までで、第3セクションは補遺ほかです。

これ以後に発刊されたものは、更に内容が多岐にわたっており、これをノスタルダムスが実際に著作したのか、各出版社が勝手に補間したものかどうかはわかっていません。初版本とされるものすら、本当にノスタルダムスが著述したかどうかはわかっておらず、つまり、多くの「予言集」そのものが、捏造された可能性もあります。

いわゆる、ブームのようなものであり、このとき、その信奉者によって「伝説」になる部分がかなり脚色されたと考えられ、どこまでが本当にノスタルダムスの予言だったのかは、はっきりとはわからない、というのが実情のようです。

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その後、「ノストラダムスの大予言」に対する学術的な検証は長らくほとんど行われてきませんでしたが、現在では、こうした伝説を極力排除した彼の生涯を洗い出そうとする動きが出てきています。

彼が予言観や未来観を形成する上で強い影響を受けたと考えられる文献なども発掘されてきているといい、彼が一体何を言いたかったのか、実態は何者だったのか、などの真実が、徐々に明らかになっているといいます。

それらによれば、ノスタルダムスという人は、呪術者・占星術師といったダークサイドの面もある一方で、科学者として政治家として宮廷へ大きな影響を与える人物としての側面もあった、ということがだんだんとわかってきているようです。

さらに、そうした知見を踏まえた上で、ルネサンス期の一人の人文主義者としてのノストラダムス像の形成や、さらに、彼の著書の内容の「文学的」な面での再評価などが、少しずつ行われつつあるようです。

彼が創作した四行詩を、芸術的に評価しようという動きがあり、けっして予言などではなく、文芸ではなかったか、というわけで、そうした史実も知らずに、やたらに終末だ、この世の終わりだ、と騒ぎ立てるのはそろそろやめにすべきかと思います。

しかしながら、人類は昔から、ノスタルダムスの大予言のように、歴史には終わりがあり、それが歴史そのものの目的でもあるという考え方をしたがるようです。この考え方は実は世界中にあり、これらを総称して「終末論」といいます。

社会が政治的、経済的に不安定で人々が困窮に苦しむような時代に、その困窮の原因や帰趨を、神や絶対者の審判や未来での救済に求めようとするのは、どこの文化でも宗教一般に見られ、ユダヤ教からキリスト教、イスラム教、ゾロアスター教といった一神教においてのみならず、仏教などの宗教などにおいても同様の考え方があります。

しかし、この「終末」という基準を、個々人の死の意味ではなく、社会全体にとっての最後のとき、また民全体に対する最後の審判、あるいは「選ばれし者」のみが選別救済されるとき、と定義するならば、数多くある終末論は本質的には同一のものです。

ただ、歴史には終わりがあり、それが歴史そのものの目的でもあるという考え方であり、この「歴史」とは、地球上に住まう、我々人類ありきの定義です。ところが、宇宙というものは地球だけで成り立っているものではなく、未だ確認すらされていませんが、仮に宇宙人がいるとすれば、彼等にとっても歴史があり、また終末論があるはずです。

従って、未知の生命体も含めて宇宙全体の終焉を論じるのが、本来の終末論であるべきであり、そうした意味では過去に延々と論じられてきた地球だけの終末論は、派生的、部分的な論議にすぎません。

宇宙に関する十分な知見がなかったころは、人々は、こうした狭い範囲の終末論の中でだけ、踊らされていた、といっても過言ではないでしょう。

近代のように科学が発達した時代においては、人類は宇宙に飛び出して多くの知見を得、それがさらに宇宙物理学が発展させており、その中でこの世の終わりとはすなわち、「宇宙の終焉」である、と認識されるようになっています。

宇宙はビッグバンから始まったという仮説は、多くの科学者により合意を獲得しています。ところが、本当に宇宙に終焉があるのか、といえばこれについての議論は喧々諤々です。

その終焉は、宇宙の質量、エネルギー、宇宙の平均密度、宇宙の膨張率といった物理的性質に依存しているとされ、さまざまな科学理論により、さまざまな終焉が描かれており、存続期間も有限、無限の両方が提示されています。仮に無限、というのがその答えであったとすれば、そもそも宇宙の終焉などというものはない、ということになります。

が、現時点において、これは結論が出るような議論ではなく、いずれこの宇宙全体に存在する物質のうちの9割以上を占めるといわれるダークマターや、ブラックホールといわれるような未知の天体の正体などがはっきりとわかるときまで結論は持ち越されるでしょう。我々が生きている間は解き明かされない疑問なのかもしれません。

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一方、地球だけの議論に立ち返り、我々地球人の未来だけに限定すれば、科学が発達した現代における終末論はもっと別のビジョンがいろいろ存在しうるようです。

人類のその未来においては、人類の技術開発の歴史から推測され得る、しかも、正確かつ信頼できる未来モデルの「限界点」を見出すことができる、とされ、これが現代で言うところの真の終末論だ、とする学者も多いようです。

そのひとつを「技術的特異点」といいます。技術的特異点では、「強い人工知能」や人間の知能増幅が可能となったとき出現する、とされます。

未来研究家、これを「フューチャリスト」といいますが、彼等の研究によれば、特異点の後では科学技術の進歩を支配するのは人類ではなく強い人工知能や人類を超越した存在であり、従ってこれまでの人類の傾向に基づいた人類技術の進歩予測は通用しなくなるといいます。

この概念は、アメリカの数学者ヴァーナー・ヴィンジと同国の発明家で実業家でフューチャリストのレイ・カーツワイルにより初めて提示されました。

「これまでの進歩予測は通用しなくなる」、というのはどういうことかというと、彼らは、まず、ある方法によって、人類の科学技術の進展は、生物学的限界を超えて加速すると予言しています。その方法とは、「意識を解放する」ことであり、意識解放を実現する方法としては、人間の脳を直接コンピュータネットワークに接続することが考えられます。

たとえば、現在我々が日常行っているように、手元にあるパソコンを巨大なサーバや中央コンピュータに接続するのと同じように、我々の脳を巨大なネットワークにつなげます。つまり、人の脳の処理能力を、そのネットワークに委ねることが、意識解放につながる、という考え方です。

これによって、個々の計算能力が高まる、といったこともありますが、多くの人々のデータがネットワークで共有されることから、膨大な知識を共有することができるようになります。現在でも既にインターネットによって多くの知識が共有されていますが、「意識解放」のレベルはそれを遥かに超えるようです。

しかし、その一方では、その基本能力は現在の人類に比べて非常に優れたものになるため、現代の感覚ではもはや人間とは呼べないようなものになる可能性があります。

こうした手法によって、人間の身体と認知能力を進化させ、人間の状況を前例の無い形で向上させようという思想のことを、「トランスヒューマニズム」といいます。そして仮にこのような新しい人類ができあがったとすれば、それは人類の新しい進化系です。そして、その新しい人類のことを「ポストヒューマン」と呼びます。

ポストヒューマンとは、言い換えればAI(人工知能)でもあり、その「新しい人類」が形成する文化は、我々現生人類には理解できないものへと加速度的に変貌していく可能性があります。そして、それが実現する時代こそが、「技術的特異点」であり、科学上におけるひとつの到達点、終末である、というわけです。

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こうした特異点を肯定的に捉えその実現のために活動しようと考えている人は、この世界中にゴマンといます。AI研究者は無論のこと、脳科学者もそうであり、また殺人ロボットを開発して戦争に使おうとする軍事関係者もまたしかりです。

技術的特異点の概念を提唱したヴィンジは、こうして形成された超人間的な知能が、彼らを作成した人間よりも速く自らの精神を強化することができるであろうとしています。

「人より偉大な知能が進歩を先導する時、その進行はもっとずっと急速になるだろう」と彼は言い、自己を改良することができるほど優れた知性が形成されるまでの時間は意外に短く、かつ短時間に大幅な技術の進歩を生み出すだろう、と予測しています。

しかし、その一方で、特異点は危険で好ましくなくあってはならないと考える人々もおり、実際に特異点を発生させる方法や、特異点の影響、人類を危険な方向へ導くような特異点をどう避けるかなどが議論されています。

例えば、オーストラリアのAI研究者、フーゴ・デ・ガリスは、AIが人類を排除しようとした場合、人類はそれを止めるだけの力を持たないかもしれないといます。また、このほかよく言われる危険性は、分子ナノテクノロジーや遺伝子工学に関するものであり、これらの脅威は特異点支持者と批判者の両方にとって重要な問題でもあります。

これはどういうことかといえば、分子ナノテクノロジーとは、人間の器官の機能をコンピュータなどで読みとり、再設計したりするものですが、この他にも、遺伝子工学、精神薬理学、延命技術、ブレイン・マシン・インターフェース、進化した情報管理ツール、向知性薬、ウェアラブル・コンピューティングなどがあり、これらを包含する技術を指します。

多くの特異点論反対者はこれらのナノテクノロジーが、人に取って代わってしまう危険性を指摘しています。「ナノ」のことばが示すように、非常に微細な異分子が、人類が知らない間に、人体に侵入して人に成り代わってしまう、というわけで、いわばこれは、ウィルスが人の体に侵入し、本来の自然細胞に成り代わってしまうのと同じです。

このため、反対論者の多くは、人工知能の研究をナノテクノロジーよりも先行させるべきだと主張しています。人工知能の開発によって、ナノテクノロジーの暴走を抑止することができる可能性も高く、特異点に到達以前に、安全で制御可能なものとすることができる、というわけです。

分子レベルのナノテクノロジーの発達は、劇的に寿命を延ばす技術に発展する可能性があり、人体冷凍保存も含めてより進歩した未来の知能増進医療に進化する可能性があります。さらに増進した知能から得られる技術として不死や人体改造を受けられる可能性も出てきます。

が、暴走をして人類を滅ぼしてしまう可能性もあるわけでもあり、諸刃の剣の側面を持ちます。それだけに、その暴走を防止する上でも、人工知能の開発のほうを優先すべきだとする科学者達の考え方は理解できます。

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こうしたことから、特異点到達のための研究に積極的な組織は、おしなべて人工知能研究を優先する傾向にあるようです。

例えば、特異点研究の先鋒といわれる、カリフォルニア州のバークレーにある、Machine Intelligence Research Institute (MIRI、特異点研究所)は、2005年に出版した “Why Artificial Intelligence?” の中で、同様に人工知能研究をナノテクノロジー研究よりも優先すべきである、と書いています。

人工知能によって、人類を超える知性を創造する方法は、基本的には、人間の脳の知能増幅と人工知能の2つに分類されます。

しかし、その手法は様々であり、ナノテクノロジー以外にも、バイオテクノロジー、向知性薬(向精神薬の一種)、AIアシスタント、脳とコンピュータを直結するインターフェイス(ブレイン・マシン・インタフェース)、精神転送などがあります。

また、ニューヨーク在住の科学史家、ジョージ・ダイソンは、自著 Darwin Among the Machines の中で、十分に複雑なコンピュータネットワークが群知能を作り出すかもしれず、AI研究者達は、改良された計算資源により、将来的に知性を持つのに十分な大きさのニューラルネットワークを作成することを可能にするかもしれないという考えを示しました。

誰よ、という感じなのですが、ダイソンは、学術機関、企業、および技術の会議で広く講演するアメリカでは有名な作家です。コンピューティングの歴史に詳しく、アルゴリズムと知能の開発、通信システム、果ては宇宙探査、海洋開発に及ぶまで広い範囲の著述があります。

が、この創造物は、人類が進化したものではなく、あくまでコンピュータそのものの進化形であって、人類そのものの躍進とはいえませんから、ひとまず脇へ置いておきましょう。

こうした一連の特異点到達のための人工知能研究の中でも、とくに最先端を行っている、とよく言われるのが「精神転送」です。人工知能を作る別の手段として提案されているもので、新たな知性をプログラミングによって創造するのではなく、既存の人間の知性をデジタル化してコピーすることを意味します。

コピーをとる、ということはすなわちまったく同じものである、ということであり、つまりは人間の精神そのものです。従ってコンピュータの世界で実現するものだとしても、上記のような進化したコンピュータネットワークとは異なります。

人間の知性のコピー……それが果たして実現可能かどうか、これも気になりますが、この命題もひとまず脇に置いておきましょう。

技術的に可能かどうかは、将来に渡っての研究がどう進むかによっても違ってきますが、既に非常に単純な生物、例えばバクテリアのような単純なものの「志向性(知能ではなく)」のようなもののコピーは可能といわれており、人間の知性も将来に渡ってコピーできる時代が来るかもしれません。

ただ、精神転送の実現によって生まれた超人間的知性の中には、人類の生存や繁栄と共存できない目的をもつものもあるかもしれません。例えば、知性の発達とともに人間にはない感覚、感情、感性が生まれる可能性があります。

精神転送は、こうした「副産物」を生み出す可能性もあるわけですが、人工知能の信奉者たちは、特異点が潜在的に極めて危険であることを認めた上で、人間に対して好意的なAIを設計することでそのリスクを排除できる、と考えているようです。

アイザック・アシモフのロボット工学三原則は、人工知能搭載ロボットが人間を傷つけることを抑止しようという意図によるものでした(ただし、アシモフの小説では、この法則の抜け穴を扱うことが多いようですが)。同様にリスク排除のための、何らかの原則機構が新しい知性の中に埋め込まれるようになるのかもしれません。

こうした精神転送などによって実現した人工知能によるポストヒューマンは、「その基本能力は現在の人類に比べて非常に優れていて、現代の感覚ではもはや人間とは呼べない」ものと定義されます。ただ、現時点においては、まだ仮説上の「未来の種」にすぎません。

一方、ポストヒューマンは、過激な人間強化と自然な人類の進化の組合せによって「生み出される」と説明されることもありますが、この場合、このポストヒューマンと他の仮説上の人間ではない「新たな種」とは明らかに違います。例えば機械の塊である、いわゆるロボットであり、単に人間を「模した」にすぎないアンドロイドなどです。

その最大の相違点は、ポストヒューマン自身は、どんなに形を変えてもそもそも人間であり、新しく創造されたロボットやアンドロイドは人ではない、ということが、「厳然たる事実という仮定」です(へんな言い方ですが)。

その形態としては、人間と人工知能の共生、意識のアップロード、サイボーグなどいろいろ考えられますが、ある程度人の片りんを残していることが大前提です。

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と、いいながら、その一方では、ポストヒューマンは、現在の人間の尺度を遥かに超えた存在となる可能性もあることから、現在で言うところの、「神」のような存在になるとする考え方もあります。

ただしこれは、一部のサイエンス・フィクションにあるように、人間の能力のレベルが格段に上がる、といった単純な話ではなく、ポストヒューマンの知性や技術があまりにも高度で洗練されているため、将来的には、一般の人間が見てもその存在の意味すら理解できないだろうということです。

それはどんな形をしているかもわかりません。炎のようなものかもしれず、幽霊のようなものかもしれません。あるいは巨大な山のような形態をしているかもしれず、はたまた目に見えないものかもしれません。とどのつまりは、同じく目に見えない、実体のない、神様のようなものなのかも。

人工知能の技術を重ねに重ねて、ついに出来上がった新たなポストヒューマンは、実は神だった、というのは皮肉なことです。人類が進化したあげくに、神になる???などということが果たして実現するのでしょうか。もしかしたら本当に実現する話なのかもしれませんが、それならいったい神とは何なのかわからなくなってしまいます。

アメリカ合衆国の実験心理学者、認知心理学者で、ハーバード大学で心理学教授をつとめており、大衆向け科学書を数多く執筆している、スティーブン・ピンカーは、テセウスの船のパラドックスの例をあげて、こうしたポストヒューマンというものの存在に疑問を呈しました。

これは、ある物体(テセウスの船)の部品のひとつひとつを新しいモノに置き換えていき、最後に全ての構成要素(部品)が置き換えられたとき、それは最初の船と基本的に同じである(同一性=アイデンティティ)と言えるかどうか、という命題です。

そして、同様に、ピンカーによって提唱された仮説は以下のようなものです。

外科手術であなたのニューロンの1つを同等の入出力機能を持つマイクロチップと置き換えたとします。あなたは以前とまったく変わらないでしょう。そしてもう1つ、さらにもう1つと置換を続けていけば、あなたの脳はどんどんシリコンの塊りになっていきます。

各マイクロチップが正確にニューロンの機能を模倣するので、あなたの行動や記憶は以前と全く変わりません。はたして違いに気づくでしょうか? 死んでいるように感じるでしょうか? あなたのものではない意識が入り込んだように感じるでしょうか?

実はそうした技術は既に完成していて、あなたの周りに、もし「神がかった」人物がいるとしたら、その人は案外とこうして誕生した「神」なのかもしれません。あるいは、我々自身も既にもう、知らず知らずしてポストヒューマンとして暮らしていたりして。

どうでしょう。どうも最近頭が固くなっている、と感じているあなた。もしかしたら、置き換えられたシリコンの頭脳が劣化しつつあるのかもしれません。一度病院に行って検査をしてもらってください。

もっともその病院がどこにあるのかを探すのが大変でしょうが……

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