戦後日本のパラダイムシフト

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明日15日は終戦記念日です。

日本政府は、海外で戦争に従事した引揚者に対して、給付金の対象となる期間を定める関係から、昭和42年(1967年)より8月15日を「終戦日」としており、1965年(昭和40年)からは政府主催で毎年この日に「全国戦没者追悼式」を行うようになりました。

ただし、これより以前にも散発的に追悼式典は行われており、一番最初の追悼式典は1952年(昭和27年)5月2日に、新宿御苑で政府主催で昭和天皇・香淳皇后の臨席のもとで行われています。また、1959年(昭和34年)3月28日には、千鳥ヶ淵戦没者墓苑で、その竣工式と併せて厚生省の主催で実施2回目の式典が行われました。

その後、閣議決定で毎年追悼式典が行われることが決まり、1963年(昭和38年)には8月15日に初めて式典が行われました。この第3回式典の会場は、日比谷公会堂でした。また、翌年の1964年(昭和39年)8月15日には今度は靖国神社で第4回式典が開催されました。

現在のように日本武道館で行われるようになったのは、翌1965年(昭和40年)8月15日の第5回式典からであり、以後、毎年この日に武道館で式典が行われています。追悼の対象は二次大戦で戦死した旧日本軍軍人・軍属約230万人と、空襲や原子爆弾投下等で死亡した一般市民約80万人です。

毎年、この式典の式場正面には「全国戦没者之霊」と書かれた白木の柱が置かれ、これがテレビで放映されるのが印象的です。一般にもこの日が、終戦記念日や終戦の日と称され、政治団体・NPO等による平和集会が開かれます。

しかし、日本において第二次世界大戦(太平洋戦争(大東亜戦争))が「終結した」とされる日については8月15日以外にも諸説あり、主なものは以下のとおりです。

1945年(昭和20年)8月14日:日本政府が、ポツダム宣言の受諾を連合国各国に通告した日。
1945年(昭和20年)8月15日:玉音放送(昭和天皇による終戦の詔書の朗読放送)により、日本の降伏が国民に公表された日。
1945年(昭和20年)9月2日:日本政府が、ポツダム宣言の履行等を定めた降伏文書(休戦協定)に調印した日。
1952年(昭和27年)4月28日:日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)の発効により、国際法上、連合国各国(ソ連等共産主義諸国を除く)と日本の戦争状態が終結した日(ただし、連合国による条約“締結日”は、1951年9月8日)。

4月28日については、サンフランシスコ平和条約が発効して日本が完全な独立を回復した日であることから、「主権回復の日」や「サンフランシスコ条約発効記念日」とも呼ばれています。

また、国内新聞各社はかつて、東京湾東部(中の瀬水道中央部、千葉県寄りの海域)に停泊する米戦艦、ミズーリ号の甲板上でポツダム宣言受諾の調印式が行われた9月2日を、「降伏の日」や「降伏記念日」、「敗戦記念日」と呼んでいました。

しかし、上述のとおり昭和42年(1967年)に「引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律」が定められてからは、法律的には8月15日を「終戦日」と呼ぶようになりました。

以後、小学生用社会科教科書や中学生社会科教科書(歴史分野)の多くも、「終戦の日」を8月14日か8月15日と記すようになり、9月2日については単にミズーリ号上での降伏文書調印式に触れるだけで、「降伏記念日」には言及しないことも多くなりました。

またサンフランシスコ講和条約については、締結日の1951年9月8日について言及している教科書が多いものの、実際の日本での発効日、1952年4月28日については、記載されることが少なくなっています。

ところが、高等学校日本史教科書の多くは、9月2日を「終戦の日」として記載するものが多くなっており、その一方で、8月14日は「ポツダム宣言受諾が決定され連合国側に通知した日」、8月15日は「戦争が終結することをラジオ放送で国民に知らせた日」とより具体的に記されています。が、この日は「終戦の日」とは記していない場合が多いようです。

これはおそらく、小中学生には終戦の日の議論は難しすぎるので、お盆期間でもある8月15日を終戦の日として印象付けたほうがより理解が深まる、と考えたからだと思われ、一方、高校では、戦争終結日に対して、より突っ込んだ議論をさせたい、あるいは戦争についてより深い理解ができる年齢に達している、と考えたためではないかと思われます。

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このように、一口に終戦の日、といっても解釈はまちまちです。が、最大公約数的には、1952年のサンフランシスコ平和条約が発効した日、4月28日が戦争に対して一応の区切りがついた日と考えることができるでしょう。日本が国際社会に復帰した日でもあり、すなわち「日本の主権回復の日」であるわけです。

戦争の相手国であった「連合国各国」と日本国との平和条約が発効した日でもあり、この日を境にGHQの占領も終わりました。その正式名称もGeneral Headquarters, the Supreme Commander for the Allied Powers (GHQ/SCAP) であり、これは、「“連合国”最高司令官総司令部」と日本語訳されます。

しかし、「連合国」とはいえ、複数の国が駐留していたわけではなく、連合国軍の1国にすぎないアメリカ陸軍の太平洋陸軍総司令官・ダグラス・マッカーサー元帥が連合国軍最高司令官 (SCAP)として就任し、その総司令部が東京に設置されていました。

4月28日以降、便宜上このGHQとしてのアメリカ軍部隊は去り、日本とアメリカの間で締結された「安全保障条約」に基づき「在日米軍」に衣替えしました。つまり、そうした意味では、この日以降日本の「戦後」が始まったといえます。

それでは、この年1952年(昭和27年)の4月以降、日本にはどんなことが起こったでしょうか。

「血のメーデー事件」は、この年の5月1日(木曜日)に東京の皇居外苑で発生した、学生を中心としたデモ隊と警察部隊とが衝突した騒乱事件です。この事件は全学連と左翼系青年団体員らの一部左翼団体が暴力革命準備の実践の一環として行われたものと見られており、この学生運動では戦後初の死者を出しため、「血の」と称されました。

GHQによる占領が解除されて3日後の1952年(昭和27年)5月1日、第23回メーデーとなったこの日の中央メーデーは、警察予備隊についての「再軍備反対」とともに、「人民広場(皇居前広場)の開放」を決議していました。

この日、行進を行ったデモ隊の内、日比谷公園で解散したデモ隊の一部はその中の全学連と左翼系青年団体員に先導され、朝鮮人、日雇い労務者らの市民およそ2,500名がスクラムを組んで日比谷公園正門から出て、交差点における警察官の阻止を突破して北に向いました。

その途中では外国人(駐留米国軍人)の自動車十数台に投石して窓ガラスを次々に破壊しながら無許可デモ行進を続け、馬場先門を警備中の約30名の警察官による警戒線も突破して使用許可を受けていなかった皇居前広場になだれ込みました。これに対し警視庁は各方面予備隊に出動を命じました。

乱入したデモ隊は二重橋前付近で警備していた警察官約250名に対し指揮者の号令で一斉に投石したり、所持していた棍棒、竹槍で執拗な攻撃を繰り返して警察官1名を内堀に突き落とし、他の多くの警察官も負傷する状態に至り警察部隊は止むを得ず後退を始めました。

応援の予備隊が到着して警察側の総数は約2,500名となりましたが、一方のデモ隊も数を増して約6,000名となった上、組織的な攻撃も激しくなります。警察部隊は催涙弾を使用しましたが効果は上がらず、警察官の負傷者が増加したため、身体・生命の危険を避ける目的で止むを得ず拳銃を発砲し、ようやくデモ隊は後退を始めました。

この間にもデモ隊は警察官3名を捕え、棍棒で殴打して重傷を負わせ外堀に突き落とし、這い上がろうとする彼らの頭上に投石しました。同時に別のデモ隊は外国人自動車等に棍棒、石ころを投げ、駐車中の外国人自動車十数台を転覆させて火を放ち、炎上させました。デモ隊と警察部隊の双方は激しく衝突して流血の惨事となりました。

その結果、デモ隊側は死者1名、重軽傷者約200名、警察側は重軽傷者約750名(重傷者約80名が全治三週間以上、軽傷者約670名。さらに1956年1月に頭部打撲の後遺症で法政大学学生1名が死亡)、外国人の負傷者は11名に及びました。

この事件では、デモ隊からは1232名が逮捕され、うち261名が騒擾罪の適用を受け起訴され、うち16名が暴力行為等の有罪判決を受けました。

さらにこのあとの5月9日には、警官隊、早大の警官パトロール抗議集会に突入して学生ら100人以上負傷した「早大事件」が起こっており、この血のメーデー事件の余波と考えられています。

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年表をみると、この1952年にはこの後も、5月26日に高田事件(愛知県名古屋市瑞穂区)、5月30日・大梶南事件(宮城県仙台市の大梶南地区)、6月5日・万来町事件(山口県宇部市)、6月24日・吹田事件(大阪府吹田市・豊中市)、同日・枚方事件(大阪府枚方市)、7月6日・大須事件(に愛知県名古屋市中区大須)と次々に事件が起こっています。

実はこれらはすべて在日コリアンがらみの争乱事件です。

この背景には、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発したことがあります。この戦争では、当初戦況はソビエト連邦が支援する北朝鮮が優位でしたが、韓国軍とそれを支援するアメリカ軍やイギリス軍などを中心とした国連軍による仁川上陸作戦で戦局が一変し、逆に韓国優位となり、韓国軍と国連軍の一部は鴨緑江に到達しました。

ところが、今度は急遽参戦した中国人民志願軍によって38度線に押し戻され、一進一退の膠着状態が続くようになりました。当時の日本は、連合国軍の占領下にあり、朝鮮戦争に国連軍の1国として参戦していたアメリカ軍は日本を兵站基地として朝鮮半島への軍事作戦を展開していました。

またアメリカ政府は、日本政府に対し飛行場の利用や軍需物資の調達、兵士の日本での訓練を要請しました。首相の吉田茂は「これに協力することはきわめて当然」と述べ、積極的にアメリカへの支援を開始しました。

こうした動きに対して、北朝鮮系の在日朝鮮人は、北朝鮮軍を支援すべく、日本各地で反米・反戦運動を起こすようになりました。但し、その後次々と起った事件の首謀者がすべてが朝鮮人というわけではなく、また必ずしも北朝鮮支持者というわけでもありませんが、こうして次々と争乱が起こった背景には朝鮮戦争への日本の間接的な参加がありました。

また、この当時、武装闘争路線を掲げていた日本共産党は、こうした在日朝鮮人の動きに同調しており、この二者がこうした争乱においてタッグを組むことも多くありました。

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これら一連の事件の中でも最大規模だったのが、「吹田事件」です。この舞台となった大阪大学豊中キャンパス周辺にはアメリカ軍の刀根山キャンプがあり、アメリカ軍兵士が駐留していていました。また吹田市では国鉄吹田操車場から連日、国連軍への支援物資を乗せた貨物列車が編成されていました。

1952年6月24日夕方、阪大豊中キャンパスで「伊丹基地粉砕・反戦独立の夕」が大阪府学生自治会連合によって開催され、学生、労働者、農民、女性、在日朝鮮人など約1000人(参加者数には800人から3000人まで諸説ある)が参加しました。

集会では「朝鮮戦争の即時休戦、軍事基地反対、アメリカ軍帰れ、軍事輸送と軍需産業再開反対、再軍備徴兵反対、破防法反対」などのアピールが採択され、集会終了後、国連軍用貨物列車の輸送拠点となっていた吹田操車場までデモを行うことになりました。

このデモ隊は、翌25日未明から西国街道経由で箕面へ向かい、吹田に南下する「山越部隊」と阪急宝塚本線石橋駅から臨時列車を動かし、服部駅から吹田に向かう「電車部隊」に分かれて行動しましたが、このうちの山越部隊が、途中にあった笹川良一宅に「ファシスト打倒」と称して投石したり、国鉄労働組合の中野新太郎邸の障子を破ったりしました。

一方、電車部隊は大阪大学近くの石橋駅に入りました、最終電車が発車した後だったため、駅長に臨時列車の発車を強要しました。駅長はやむなく運賃徴収の上、臨時列車を発車させることになり、電車部隊は梅田駅と石橋駅の間の服部駅で全員が下車し、旧伊丹街道の裏道経由でデモを行い、午前5時ごろ山越部隊との合流を果たしました。

合流後、デモ隊は南下し摂津市千里丘の須佐之男命神社に到着。神社前には吹田市警察や国家地方警察の警官隊が警備線を張っていましたが、この時にデモ隊が暴徒と化して突進し、暴力で警備線を突破しました。

デモ隊はさらに暴徒化し、京都方面に向かっていた在大津南西司令官カーター・W・クラーク陸軍准将の車に石や硫酸ビンを投げ、クラーク准将は顔に全治2週間の傷を負いました。また午前7時ごろ茨木市警察の軽装甲機動車にむかって、7・8名のデモ参加者が石や火炎瓶を投げ、転げ落ちた警官が火傷や打撲傷を負いました。

この後も、デモ隊は道路沿いにある駐在所や派出所に投石などし、その後デモ隊は西口改札から吹田駅に入り、同駅で流れ解散となりました。ところが、解散したデモ参加者らが大阪行き8時7分発の列車に乗車しようとしたところへ30人の警察官が追いつき、解散した(元)デモ隊と衝突しました。

これによりホームは大混乱となり、デモ参加者や一般乗客に負傷者が出ました。この際に警官が発砲しデモ隊の4人が重傷を負いました。のちに列車内で撃たれたデモ参加者は吹田市を相手として賠償請求訴訟を起こし、裁判所は警察官の職権乱用を認め、吹田市もこれを承認しています。

この事件における裁判では、吹田事件弁護団は後に保守系の吹田市長となった山本治雄を主任弁護士として結成され、弁護団には国会議員をしていた弁護士の加藤充や亀田得治らも加わり、国会でも吹田事件を取り上げて警察などによる「弾圧」の不当性を訴えました。

この結果、1963年6月の第一審判決で裁判所は騒擾罪の成立を認めませんでした。検察は111人の被告人のうち47人を起訴していましたが、その後行われた1968年7月の第二審判決でも一部の被告人が威力業務妨害罪で有罪となっただけで、騒擾罪の無罪は変わりませんでした。

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さらに、1952年7月6に起こった「大須事件」は、先の「血のメーデー事件」とこの「吹田事件」と並んで「三大騒擾事件」とされています。愛知県名古屋市中区大須で発生した公安事件で、中華人民共和国の北京で日中貿易協定の調印式に臨んだ日本社会党の「帆足計」と改進党の「宮越喜助」の両代議士が帰国し、この日に名古屋駅に到着した際に起こりました。

両代議士の歓迎のために約1000人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行しましたが、これは名古屋市警察によってすぐに解散させられました。しかし、その際12人が検挙され、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚しました。

このため、翌日の1952年7月7日(月曜日)に、名古屋市警察は警備体制を強化し、全警察官を待機させました。午後2時頃から、会場の大須球場(名古屋スポーツセンターの敷地にかつて存在した球場)に日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする群衆が集まり始め、午後6時40分頃に歓迎集会が挙行されました。

集会は夜の午後9時50分まで行われ、これが終わると、名古屋大学の学生がアジ演説を始め、その煽動によって約1000人がスクラムを組みながら球場正門を出て無届デモを始めました。警察の放送車が解散するよう何度も警告すると、果たしてデモ隊は放送車に向かって(予定通り)火炎瓶を投げ込み炎上させました。

警察は暴徒を鎮圧すべく直ちに現場に直行しましたが、デモ隊は四方に分散して波状的に火炎瓶攻撃を行うなど大須地区は大混乱に陥りました。また、大須のデモ隊とは別に、アメリカ軍の駐車場に停めてあった乗用車を燃やしたり、中税務署に火炎瓶を投下する別働隊の事件も発生しています。

この事件で、警察官70人、消防士2人、一般人4人が負傷し、デモ隊側は1人が死亡、19人が負傷しました。名古屋市警察は捜査を開始、最終的に269人(その内、半数以上が在日朝鮮人)を検挙しました。捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である「祖国防衛隊」とも連携しながら実行に移されたことが判明しました。

名古屋地方検察庁は騒乱罪等を適用し、152人を起訴し、裁判は当初の予想よりも長期化しましたが、1978年9月、最高裁判所は上告を棄却し、有罪が確定しました。

なお、これに先立つ6月2日には、「菅生事件」が起こっていますが、この事件には朝鮮人は関与していません。大分県直入郡菅生村(現在の竹田市菅生)で起こった、公安警察による日本共産党を弾圧するための自作自演の駐在所爆破事件とされます。

犯人として逮捕・起訴された5人の日本共産党関係者全員の無罪判決が確定した冤罪事件でしたが、この事件が起こった背景には、この年頻繁におきた多くの動乱に関与し、背後で操っていたのが日本共産党である、と警察がみなしていた、ということがあります。

日本共産党は党内の過激派である「所感派」が1950年に武装闘争方針を採り、農村に「山村工作隊」を組織。左右の対立が先鋭化する中、この6月の菅生事件までに白鳥事件(1月21日)、青梅事件(2月19日)、辰野事件(4月30日)などを発生させており、この当時は現在では考えられないほど「活動的」な党派でした。

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こうした動乱の歴史的な意味はさておき、このように、「日本の主権回復の日」である、4月28日以降の1952年は、大荒れで日々が過ぎゆく、といった感じであり、波乱に満ち満ちた「戦後」の始まりでした。しかし、こうした、騒ぎは7月以降は沈静化していきました。そして、1952年8月28日には第3次吉田内閣下での衆議院の解散が行われました。

これ以前の1946年には、GHQ統治下のもと、第1次吉田内閣が誕生しました。その後、第2次、第3次吉田内閣が発足しますが、1951年に、サンフランシスコ講和条約締結によってGHQの占領が終了すると、GHQによって公職追放されていた鳩山一郎らが追放を解除され、これによって鳩山を支持する鳩山系議員が吉田茂首相の辞任を要求しました。

このころから政局は混乱するようになり、吉田派の派内では「広川弘禅」と「増田甲子七」の派内抗争が発生。1952年7月、吉田は自由党幹事長ポストを、増田から自身の側近であった1年生議員の福永健司に指名し、議員総会において抜き打ちでその指名を敢行しようとします。ところが、反対派が激しく抵抗し失敗に終わります。

吉田は、このような事態を打開するために、8月28日に不意をつく形で解散を断行しました。この解散は、池田勇人蔵相、岡崎勝男外相、佐藤栄作郵政相、保利茂官房長官、党内の松野などを中心に側近集団のみで決定されました。

いわゆる「抜き打ち解散」であり、この解散は、自派では密かに選挙の準備を進めておき、準備の整っていない鳩山派に打撃を与えようという目的で行われたものでした。

このときの衆議院議長は、8月26日に議長に就任したばかりの大野伴睦でしたが、わずか2日後に衆議院解散が行われたため、在職期間わずか3日間で議長失職となりました。

大野は第一次吉田内閣発足のころから、吉田茂のお目付け役として幹事長に就任するなど党内の実力派でしたが、その後の10月の議長選挙で再選されたものの、今度は5ヵ月後に吉田によるバカヤロー解散が行われたため、このときも議長を長く務めることはありませんでした。

この解散を受けて、10月1日に第25回衆議院議員総選挙が行われ、466議席中、自由党吉田派199議席、自由党鳩山派35議席という結果となり、自由党そのものは大きく議席を減らしました。

そして、新たに発足したこの第4次吉田内閣による政府下で、10月25日、「ポツダム命令」が完全に廃止されました。

ポツダム命令とは、第二次世界大戦後、連合国軍の占領下にあった日本で、GHQ最高司令官の発する要求事項があった場合には、日本の法律よりも優先して、その要求事項が実施されるように、日本政府が便宜を図る、とされるものです。

一応、日本政府が命令する、という形をとりますが、日本の政府が定めた法律を飛び越して頭ごなしにGHQの命令がまかり通るよう、その要求事項を無条件に受け入れるよう定めたものであり、罰則も可でした。

ポツダム命令により定められた事項は多岐にわたりますが、占領初期にはこのポツダム命令は「非軍事化・民主化」政策の推進という役割を果たしました。

GHQは、昭和21年(1946年)にこのポツダム命令のひとつである、「公職追放令」を出しましたが、これにより戦争犯罪人、戦争協力者、大日本武徳会、大政翼賛会、護国同志会関係者がその職場を追われるとともに、戦前・戦中の有力企業や軍需産業の幹部なども対象となり、こうした財閥関係者には大きな打撃となりました。

その結果、1948年5月までに20万人以上が追放される結果となりました。また、公職追放によって政財界の重鎮が急遽引退し、中堅層に代替わりすること(当時、三等重役と呼ばれた)によって日本の中枢部が一気に若返りました。

しかし、この追放により各界の保守層の有力者の大半を追放した結果、学校やマスコミ、言論等の各界、特に啓蒙を担う業界で、労働組合員などいわゆる「左派」勢力や共産主義のシンパが大幅に伸長する遠因になるという、推進したGHQ、アメリカにとっては大きな誤算が発生してしまいます。

逆に、官僚に対する追放は不徹底で、裁判官などは旧来の保守人脈がかなりの程度温存され、特別高等警察の場合も、多くは公安警察として程なく復帰しました。また、政治家は衆議院議員の8割が追放されましたが、世襲候補や秘書など身内を身代わりで擁立し、議席を守ったケースも多くありました。

その後、二・一ゼネスト計画などの労働運動の激化、中国の国共内戦における中国共産党の勝利、朝鮮戦争などの社会情勢の変化が起こり、連合国軍最高司令官総司令部の占領政策が転換(いわゆる「逆コース」)され、追放指定者は日本共産党員や共産主義者とそのシンパへと変わりました。

逆の見方をすれば、公務員や民間企業において、「日本共産党員とその支持者」と判断された人びとが次々に退職させられた、ということになり、これを「レッドパージ」と呼びます。1万を超える人々が失職し、「赤狩り」とも呼ばれました。

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こうした労働運動や社会主義運動の取締りの役割を果たして行くようになったのがポツダム命令であり、「公職追放令」がこれに含まれていた他、「政治犯人等ノ資格回復ニ関スル件」や「団体等規正令」「占領目的阻害行為処罰令」などが含まれていました。

このポツダム命令は、上述のサンフランシスコ講和条約が発効する、4月28日には廃止される予定であり、GHQはその条約の発効が近づくと、行き過ぎた占領政策の見直しが図られました。

その一環として、1951年5月にマシュー・リッジウェイ司令官は、日本政府に対し公職追放の緩和・及び復帰に関する権限を認めました。これによって同年には25万人以上の追放解除が行われました。

そして、昭和27年(1952年)4月28日、ついにサンフランシスコ平和条約が発効(1952年)し、と同時にポツダム命令は廃止され、「公職に関する就職禁止、退職等に関する勅令等の廃止に関する法律」が発布されて、公職追放令も廃止されました。

上でこの年の5月以降の多くの争乱、動乱について長々と書き連ねましたが、これら動乱の発生は、こうした公職追放令や「団体等規正令」「占領目的阻害行為処罰令」などが廃止されてすぐから発生しており、ポツダム命令の廃止と無縁ではないことがわかります。

こうしたポツダム命令の多くは、サンフランシスコ講和条約の発効に伴って、「日本の主権回復」がなされた4月28日に廃止されましたが、ただし、その後の混乱を避けるため、必要なものは条約発効の日から「180日間限り」で廃止される、という決まりになっていました。

日本政府としても、こうしたGHQが定めたいくつかの命令は、その後も社会主義運動などを取り締まる上で便利だったため、この間に引き続き新たに代替の法律を制定したり、法律としての効力を有するように存続措置がとられました。

しかし、180日が過ぎた10月25日にその残ったポツダム命令も完全廃止されたことから、これにより、GHQからの縛りだ、という言い訳は通用しなくなり、これらの法律のゴリ押しはできにくくなりました。こうしてポツダム宣言という過去の亡霊の影響も受けることなく、日本は完全に自由になり、国際法的にも日本は完全独立した、というわけです。

従って、本当の意味での日本の終戦は、平和条約が発効してポツダム命令が完全廃止された、1952年10月25日である、ということがいえるのかもしれません。

ただし、このとき、ポツダム命令を完全に日本の法律・政令・省令に代えてしまったものの中には今も効力を持って存続しているものもあります。

・ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く大蔵省関係諸命令の措置に関する法律によるもの……
・ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件に基く運輸省関係諸命令の措置に関する法律によるもの……(その他多数)

といった「ポツダム宣言の……」という文々が含まれている法律がそれであり、法令番号は制定時のものがそのまま付されることになっています。

無論、日本国の法律としての効力を持っており、連合国から何ら干渉を受けることはないものですが、いまだにポツダム宣言の名残がここにある、というのは何やら悩ましい限りであり、日本の戦後はまだ続いているのか、と思わせるようでいやな感じです。

とはいえ、この10月25日をもってひとまず日本は、「いまだ戦時中」という呪縛からは完全に解き放たれることとなりました。

この年は動乱争乱のような暗い話題ばかりではなく、5月19日には、白井義男が日本人で初のボクシング世界チャンピオンになるなど明るい話題も増えました。

1月23日には、国会中継の放送がスタート、3月31日には日本文化放送協会(現在の文化放送)開局、4月1日には、硬貨式の公衆電話が登場、7月29日、日本のアマチュア無線が再開(全国の30人に戦後初のアマチュア無線局予備免許発給)など、国内の通信網がようやく正常化した感のある年でもあります。

また、4月18日・西ドイツの間に国交樹立、5月15日・イスラエルの間に国交樹立、7月19日~8月3日・日本代表がベルリンオリンピック以来16年ぶりにヘルシンキオリンピック(夏季大会)に参加、8月13・国際通貨基金 (IMF) に加盟、といったふうに徐々に日本の国際社会への復帰が始まった年でもあります。

その後1950年代は、冷戦構造の固定した時代として位置づけられるようになっていきます。旧枢軸国を含む西側諸国では、経済が急速に復興し、1920年代と同様の消費生活が行われるようになりましたが、これは日本も同じです。都市近郊には郊外住宅が発達し、政治的・文化的にはやや保守化し、一部の人権拡大の要求は軽視されました。

こうした保守的な傾向への反動として対抗文化としての若者文化が生まれ、1960年代の対抗文化の爆発的広がりに結びつきました。また、世界的にみれば、朝鮮戦争後の東西ブロックの緊張から、軍拡競争、宇宙開発競争、西側における赤狩り(マッカーシズム)が起こりました。そしてこの緊張は日本にもおよび、政治的な保守化につながっていきました。

1960年代は、日本ではいわゆる「高度成長期」となり、著しい高度経済成長を経験しました。以後、1970年代の「成長期」、1980年代の「最盛期」を踏まえ、1990年代ついにはバブルがはじけて、「衰退期」に入りました。その後2000年代は「成熟期」という見方もありますが、衰退期の延長とみなす人も多いようです。

2010年代をどう呼称するか、についてはまだその途上にあるため、なんともいえませんが、東日本大震災からの復興も含めて、早くもこの時代を「再生期」とする人も多いようです。が、これが正しいかどうかはまだわかりません。

ただ、日本の主権が回復し、戦後復興が始まった1950年代と今のこの2010年代が似ている、という人もおり、そうだとするならば、これからの日本は再び高度成長を遂げ、再び絶頂期を迎えることになります。

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パラダイムシフト(paradigm shift)というのがあります。その時代や分野において当然のことと考えられていた認識や思想、社会全体の価値観などが革命的にもしくは劇的に変化することを言います。こうした「再生」の時期にこうしたパラダイムシフトが起こると時代は面白くなるし、かつ起こりやすいともいわれるようです。

広義でのパラダイムシフトはこの過度な拡大解釈に基づいて都合よく用いられるため、厳密な定義は特になく「発想の転換」や「見方を変える」、「固定観念を捨てろ」、「常識を疑え」などから始まり「斬新なアイディアにより時代が大きく動くこと」まで、さまざまな意味で使われています。

人が物を見る時には、ある種のレンズのような物(パラダイム)が存在し、それが認識、理解、解釈、行動、態度を決めています。従って、そのパラダイムを転換させることにより、自分のあり方を大きく変えることができます。

「妻と義母」というだまし絵(隠し絵)を見たことがある人も多いでしょう。1枚の絵が、画面奥に顔を向けている若い女性、あるいは横顔を見せている老いた女性のどちらにも見えるというものです。19世紀からある古いもので作者は不詳ですが、これはパラダイムシフトの例として、良くとりあげられます。

このほかパラダイムシフトの例としては、「天動説」があげられます。旧パラダイム(天動説)が支配的な時代は、多くの人(科学者)がその前提の下に問題解決(研究)を行い、一定の成果を上げますが、その前提では解決できない例外的な問題(惑星の動きがおかしい)が登場します。

このような問題が累積すると、異端とされる考え方の中に問題解決のために有効なものが現れ、解決事例が増えていくことになります。そしてある時期に、新パラダイム(地動説)を拠り所にする人(科学者)の数が増えて、それを前提にした問題解決(研究)が多く行われるようになり、以後、歴史的にみても以上の動きが繰り返される、というものです。

こうしたパラダイムシフトの例としては、ほかにも相対性理論(アインシュタイン)があり、また進化論(ダーウィン)もそのひとつです。日本では、織豊政権・江戸幕府による、武士の在地領主から大名直属の軍団・官僚への転換が、過去における大きなパラダイムシフトだったといわれています。

大日本帝国憲法が日本国憲法に全面改訂されたことによる大日本帝国の体制消滅と日本国の成立も近代におけるパラダイムシフトです。また今日、これまで述べてきたような第二次世界大戦という経験とそれに伴う「終戦の日」にかかる様々な出来事も、歴史的なパラダイムシフトであったことは間違いないでしょう。

2010年代に、さらにどんなパラダイムシフトが現れるか楽しみではあります。が、同時に昨今の日本の右傾化をみていると、なにやら空恐ろしいかんじがしないでもありません。

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モリソン号事件とその余波

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1837年8月12日(天保8年7月12日)未明、アメリカ合衆国の商船、「モリソン(Morrison)号」が日本に近づきつつありました。

その後、浦賀沖に現れたこの船に対し、浦賀奉行は異国船打払令に基づき砲撃を行いました。この船には日本人漂流民の7人が乗っており、彼等の送還と引き換えに日本に通商・布教を要求しようと来航していたのでした。

そうした事実とともに、実はこのときモリソン号は非武装であり、しかも当時はイギリス軍艦と勘違いされていたことが1年後にオランダ商館を通じてわかり、このため国籍もわからずに幕府が断行したこの蛮行に対する論議が沸き起こるとともに、一部からは著しい批判が浴びせられるようになりました。

この事件は、のちにこうした幕府への批判をまとめた論文、「慎機論」を著した渡辺崋山、「戊戌夢物語」を著した高野長英らが、幕府の対外政策を批判したため逮捕されるという「蛮社の獄」につながっていきます。

江戸時代末期までには日本の船乗りが嵐にあい漂流して外国船に保護される事がしばしば起こっていましたが、この事件の渦中となった日本人7名もそのケースでした。彼らは遭難後の当初、外国船に救助された後マカオに送られましたが、同地在住のアメリカ人商人チャールズ・キングが、彼らを日本に送り届け引き替えに通商を開こうと企図しました。

この際に使用された船がモリソン号です。浦賀で打ち払われた同船は、その後薩摩に向かい、ここでは薩摩山川港に一旦上陸して城代家老の島津久風と交渉しました。が、漂流民はオランダ人に依嘱して送還すべきと拒絶され、薪水と食糧を与えられただけで船に帰されました。

しかし、さらに沖合に停泊しようとしたため、薩摩藩は空砲で威嚇射撃をしました。このため、キングらはついに日本との交渉を断念してマカオに帰港しました。

モリソン号は商船とはいえ元々は砲を搭載していました。しかし、浦賀や薩摩では平和裏に交渉を進めようとこの武装を撤去していました。そんなことも知らずに一方的な砲撃を行った日本側は打ち払いには成功したと思いこみましたが、一方でこの一件は日本の防備の脆弱性・警備体制の甘さもあらわにしました。

浦賀で打った大砲のほとんどはモリソン号には届かず、しかも指揮系統もバラバラで、突然現れた異国船に対して奉行所の面々はうろたえるばかりでした。この事情は薩摩も同じでしたが、薩摩藩はこれを良い経験として、その後沿岸防備にかなりの力を注ぐようになりました。

翌天保9年(1838年)7月、長崎のオランダ商館がこのモリソン号渡来のいきさつについて報告しました。これにより初めて幕府は、モリソン号が漂流民を送り届けに来たこと及び通商を求めてきていたことを知りました。また、その後、モリソン号はイギリス船ではなく、アメリカの船だということも知りました。

老中水野忠邦はこの報告書を幕閣の諮問にかけましたが、7~8月に提出された諸役人の表情結果は、「通商は論外」というものであり、その旨が長崎奉行に通達されました。

また、この幕議の決定は、モリソン号再来の可能性はとりあえず無視し漂流民はオランダ船による送還のみ認めるというものでした。が、なぜか、評定所の議論のうち、もっとも強硬であり却下された、漂流民の送還は一切ままならぬ、しかも外国船は徹底的に打ち払うべき、という意見のみが表に流れました。

この知らせを聞いた、渡辺崋山・高野長英・松本斗機蔵をはじめとする尚歯会には、漂流民送還の意図は伝わらず、また幕府の意向は異国船の国籍を無視した分別のない打ち払いにあると誤解してしまいました。

尚歯会(しょうしかい)とは、江戸時代後期に蘭学者、儒学者など幅広い分野の学者・技術者・官僚などが集まって発足した会です。構成員は高野長英、小関三英、渡辺崋山、江川英龍、川路聖謨などで、シーボルトに学んだ鳴滝塾の卒業生や江戸で吉田長淑に学んだ者などが中心となって結成されたものでした。

尚歯会で議論される内容は当時の蘭学の主流であった医学・語学・数学・天文学にとどまらず、政治・経済・国防など多岐にわたりました。一時は老中・水野忠邦もこの集団に注目し、西洋対策に知恵を借りようと試みていました。

この報せを聞いたこの尚歯会の主要メンバーのうち、高野長英は、打ち払いに婉曲に反対する書を匿名で書きあげ発表しましたが、これが「戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)」です。また、渡辺崋山も「慎機論」を書き、幕府の海防政策を批判しました。

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しかし、これが幕府内の蘭学を嫌う保守勢力の中心であった鳥居耀蔵を刺激しました。鳥居は、老中である水野忠邦の天保の改革の下、目付や南町奉行として市中の取締りに当たっており、蘭学者の渋川敬直、漢学者の後藤三右衛門と共に水野の三羽烏と呼ばれていました。

これより1年ほど前、鳥居は、江戸湾測量を巡って尚歯会メンバーであった幕臣で伊豆韮山代官、江川英龍と対立し、このことを遺恨に生来の保守的な思考も加わって蘭学者を嫌悪するようになっていました。そして、これが翌年の蛮社の獄で渡辺崋山や高野長英ら蘭学者を弾圧する遠因となりました。

鳥居が水野から拝領していた業務、「目付」とは、現在でいえば秘密警察のような職分も含んでおり、彼は高野が匿名で書いた「戊戌夢物語」の作者の探索を始めるとともに、「慎機論」渡辺崋山の近辺について内偵を始めました。

一連の調査の結果、鳥居は「夢物語」は高野長英の翻訳書を元に崋山が執筆したものであろうと判断するとともに、さらに崋山がこのころ小笠原諸島に渡り、単独でアメリカに渡ろうとしている旨の告発状を書き上げ、水野に提出しました。

このころ、小笠原諸島にはイギリス船が上陸してこの島の領有を宣言しており、これが伝わった江戸では蘭学者たちの間で話題となっていました。が、無論のこと崋山には渡島の計画などはなく、これは鳥井のでっちあげでした。

これによって、小笠原渡航計画に携わったとする高野長英と渡辺崋山以下の12名のメンバーに出頭命令が下されました。このうちの尚歯会のメンバー、小関三英(出羽国庄内出身、幕府天文方翻訳係)は、ちょうどこのころキリストの伝記を翻訳していたこともあり、その罪をも問われると思い込み、自宅で自殺しました。

高野長英は一時身を隠していましたが、のちに自首して出ました。これにより、尚歯会メンバー11名全員が逮捕され、長英ほか10名は小伝馬町の獄に入れられ、崋山は禁固(蟄居)となりました。のちにこのうち4人が吟味中に獄死。拷問を受けて死んだとみられます。

その後崋山は、翌年に母国の三河国田原藩(現在の愛知県田原市東部)に護送され、当地で暮らし始めましたが、生活の困窮・藩内の反崋山派の策動・彼らが流した藩主問責の風説などの要因が重なり、蛮社の獄から2年半後の天保12年(1841年)に自刃しました。享年49。

長英は判決から4年半後の弘化元年(1844年)6月30日、牢に放火して脱獄しました。脱獄後の経路は詳しくは不明ながらも硝酸で顔を焼いて人相を変え、蘭書翻訳を続けながら全国中を逃亡しました。が、脱獄から6年後の嘉永3年(1850年)、江戸の自宅にいるところを奉行所の捕吏らに急襲され、殺害されました。享年47。

こうして長英の死をもって蛮社の獄は終結しましたが、そのわずか3年後の1853年に、アメリカ合衆国が派遣したペリー提督率いる4隻の黒船が浦賀沖に来航し、これを契機に幕末の動乱が始まりました。

いわばこの蛮社の獄は、その前哨戦ともいえるものです。幕府を批判してなすすべもなく死した彼等は哀れでしたが、その行為はその後弱体化していくことになる幕府に対して最初に与えられたインパクトといえるものであり、その後この事件をきっかけに多くの志士が生まれていったことを考えると、けっして犬死にではなかった、といえるでしょう。

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このように、モリソン号事件というのは、日本が幕末の動乱に入っていくためのちょうど入口付近で起きた事件といえ、その歴史的な意義は大きいものでした。

ところで、このモリソン号に乗船していた7人の日本人漂流民とは誰かと言えば、これは尾張国から江戸に向けて出航し、途中遠州沖で暴風に遭い難破した宝順丸に乗っていて助かった音吉・岩吉・久吉の3名と、天草を出航し長崎へ向かう途中嵐に遭った船員、庄蔵・寿三郎・熊太郎・力松の4名でした。

後者の4人は、肥後国玉名郡坂下の出身で、天保5年(1834年)に庄蔵の船で天草を出航し長崎へ向かう途中、嵐に遭ってルソン島へ漂流しました。

その後現地で保護を受けて、天保8年(1837年)スペイン船でマカオに移り、ここで同じくアメリカ船に漂流していたところを救われた音吉ら3名と合流しました。そして彼等とともに帰国するためにアメリカ商船のモリソン号で浦賀へ向かいました。

が、前述のとおり、異国船打払令によって撤退を余儀なくされた上、続く薩摩でも幕府が受け入れを拒否したため、結局帰国は叶わず、その後4人はマカオで余生を送り、嘉永ころ(1848年から1854年)までには没したようです。

一方、音吉ら3人が乗っていた宝順丸は、庄蔵らより2年早い、1832年(天保3年)10月、米や陶器を積み、船頭樋口重右衛門以下13名を乗せて尾張国知多郡小野浦から鳥羽経由で江戸に向かっていました。

が、途中遠州沖で暴風に遭い難破・漂流しました。14ヶ月の間、太平洋を彷徨った末、ようやく陸地に漂着したときには、残りの乗組員は壊血病などで亡くなり、生存者は3名になっていました。

彼等が漂着したのは、アメリカ太平洋岸、ワシントン州、シアトルの西にあるオリンピック半島の先端にある、フラッタリー岬付近でした。彼らを助けたのは、現地のアメリカ・インディアン、マカー族でしたが、しかし、インディアンたちは彼らを善意で助けたわけではなく、後に奴隷としてこき使いました。

さらにはイギリス船に売り飛ばし、代わりに金物を得ました。このイギリス船は最初、現・米国オレゴン州中西部にあった、「アストリア砦」に彼等3人を送りつけました。アストリア砦は1811年に北西部毛皮貿易の主要拠点として設置されたもので、事実上、これがアメリカ合衆国にとって最初の太平洋沿岸部入植地となりました。

アストリア砦は「アストリア」という町の中心でもあり、その後アメリカ合衆国がアメリカ大陸の開拓における領土権を確立していく上でここは極めて重要な拠点となりました。

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ここに送られた音吉ら3人は、少年時代のラナルド・マクドナルドと出会っています。少々脱線しますが、このマクドナルドについては、幕末日本において日本人がいかに英語を習得したか、ということと関係が深いので、少し触れておきましょう。

彼は、毛皮商だったスコットランド人のアーチボルド・マクドナルドと、当地の原住民であるアメリカインディアンチヌーク族の部族長の娘の間に生まれた混血で、母親の父と父親は、採掘業で協力関係にあり、ともに成功を収めていました。

開拓時代であったこのころのアメリカでは、事業をうまく進めるために、土地所有者である原住民の有力者と婚姻関係になることはしばしば行われていました。このころラナルドはエジンバラ大学卒の父親から基礎教育を受けていましたが、このとき漂流民の音吉らと出会い、インディアンの親戚に自分達のルーツは彼等と同じ日本人だと教えられました。

無論、たわいもないジョークでしたが、これを信じたマクドナルドは日本にあこがれるようになります。1834年にレッドリバー(現・カナダのマニトバ州南部のウィニペグ)のミッション系の寄宿舎学校に入り、4年間学んだあと、父の手配でオンタリオ州で銀行員の見習いになりました。

が、ここでの学風が肌に合わず出奔。あこがれていた日本行きを企て、1845年、ニューヨークで捕鯨船プリマス号の船員となりました。

日本行きを決心した理由を本人はのちに、いくつか書き記していますが、自分の肌が有色であり、そのため差別を経験していたこと、容貌が日本人と似ていたことから日本語や日本の事情を学びたかったこと、鎖国によって謎の王国とされていた日本の神秘のベールが冒険心を掻き立てたことなどを挙げています。

また、インディアンの血が理由で好きな女性との結婚がかなわなかった失恋事件もきっかけとしており、さらに西洋人の血の入った自らを、権力を持ち植民地主義に走る支配層側、日本人をアメリカにおけるインディアンのような存在ととらえ、日本に行けば、自分のような多少の教育のある人間なら、それなりの地位が得られるだろうとも考えていました。

捕鯨船員になったラナルドは、船が日本近海に来た1848年6月、単身ボートで日本に上陸を試みました。他の船員らは、日本は鎖国をしており、密入国は死刑になると説得しましたが、マクドナルドは応じませんでした。船長は、マクドナルドが後に不名誉な扱いをされないよう、下船用ボートを譲り、正規の下船証明も与えてくれました。

彼が最初に上陸したのは北海道の焼尻島でした。ここで二夜を明かしましたが、無人島だと思いこみ、再度船をこいで利尻島に上陸します。このとき、不法入国では処刑されてしまうかもしれない、とも思いましたが、漂流者なら悪くても本国送還だろうと考え、ボートをわざと転覆させて漂流者を装ったといいます。

そして、ここに住んでいたアイヌ人と10日ほど暮らした後、日本人に発見され、密入国の疑いで宗谷に、次いで松前に送られました。

そこから長崎に送られ、1849年4月にアメリカ軍艦プレブル号で本国に帰還するまでの約7ヶ月間、崇福寺という寺の末寺で、長崎諏訪神社近くの大悲庵(現在は跡地のみ)に収監されて過ごしました。

この間、マクドナルドが日本文化に関心を持ち、聞き覚えた日本語を使うなど多少学問もあることを知った長崎奉行は、オランダ語通詞14名を彼につけて英語を学ばせることにしました。

この14名の通詞たちは、のちペリーの艦隊が来航したとき、通訳をつとめる「森山多吉郎」を筆頭に、その後の幕末の動乱で活躍しました。それまではオランダ語などを経由せず、直接的に英語を教える教師はいなかったので、このマクドナルドこそが、ネイティブ・スピーカーとしては日本で最初の英語教師だった、ということになります。

教えた期間はわずかでしたが、生徒のなかでもひときわ熱心であったのは、英語がもともと話せ、通訳も務めていた森山多吉郎(のちに森山栄之助と改名)であり、素養があったために覚えもはやく、おどろくほどの習得能力を示したといいます。

日本の英語教育は幕府が長崎通詞6名に命じた1809年より始まっていましたが、その知識はオランダ経由のものであったことから多分にオランダ訛りが強いものでした。マクドナルドの指導法は最初に自身が単語を読み上げた後に生徒達に発音させ、それが正しい発音であるかどうかを伝えるというシンプルなものでした。

マクドナルドもまた覚えた500の日本語の単語をメモして残しており、周囲の日本人の殆どが長崎出身ということもあって、それらの単語の綴りは長崎弁が基本となっています。また、彼は日本人生徒がLとRの区別に苦労していることに関しても言及しています。

マクドナルドは、翌年4月、長崎に入港していたアメリカ船プレブル号に引き渡され、そのままアメリカに戻りました。日本における彼の態度は恭順そのものであったため、独房での監禁生活ではあったものの、日本人による彼の扱いは終始丁寧でした。また、マクドナルドも死ぬまで日本には好意的だったといいます。

帰国後は日本の情報を米国に伝えました。日本が未開社会ではなく高度な文明社会であることを伝え、のちのアメリカの対日政策の方針に影響を与えました。日本ではただの英語教師としてしか記憶されていませんが、現在のアメリカでは、日米関係における歴史上の重要人物として、研究書や関連書籍が多く公刊されています。

その後、日本から帰国したのちは、活躍の場を求めてインドやオーストラリアで働き、アフリカ、ヨーロッパへも航海しました。父親が亡くなったあと、1853年に地元に帰り、兄弟らとビジネスをしました。晩年はオールド・フォート・コルヴィル(現・アメリカワシントン州)のインディアン居留地で暮らし、姪に看取られ亡くなりました。享年70歳。

死の間際の最後の言葉は、「さようなら my dear さようなら」であったといい、この「SAYONARA」の文字は、マクドナルドの墓碑にも文の一部として刻まれました。ワシントン州フェリー郡のインディアン墓地に埋葬されています。

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さて、途中からマクドナルドの話に行ってしまいましたが、少し元に戻しましょう。アストリア砦を訪れ、まだ幼かったマクドナルドに出会った音吉ら3人は、その後、アメリカからイギリス・ロンドンへ連れて行かれました。しかし、なぜロンドンだったのか?

彼等を救助したイギリス船は、ハドソン湾会社(Hudson’s Bay Company, HBC)という会社の持ち船で、この会社は、米大陸(特に現在のカナダ)におけるビーバーなどの毛皮交易のため1670年5月に設立されたイングランドの勅許会社・国策会社でした。現在もカナダで小売業を中心として存続しており、北米大陸最古の企業でもあります。

このハドソン湾会社のアストリア砦における責任者は、ジョン·マクローリンという人物でした。彼は、救助した3人の漂流者が日本との交易を実現させるために有効と考え、その計画をイギリス国王に了承してもらうため、3人をロンドンに行かせることにしたのです。

こうして3人の運命はさらに数奇なものとなっていきます。オレゴンを出航した彼等の乗船・イーグル号は、南米マゼラン海峡を通って大西洋に入り、ロンドンへ向かいました。この当時はまだ北米の北を回る北西航路は開拓されておらず、またパナマ運河も完成していなかったため(1914年完成)、これがヨーロッパへの一番の近道でした。

1835年初頭、数ヵ月もかかってロンドンに着いた彼らは、テムズ川で10日間の船上にとどまっていました。が、許されて1日ロンドン見学を行っており、彼らがロンドンの地に最初に上陸した日本人でした。

なお、日本人として最初に世界一周をした仙台藩の若宮丸の津太夫ら4人がロンドンに寄航していますが(享和3年(1803年))、このときは上陸は許されていなかったので、音吉ら3人が最初にイギリスへ上陸した日本人となります。

しかし、結局、英国政府はハドソン湾会社が提案する日本との交易計画を却下しました。理由はよくわかりませんが、イギリスはこのときより27年遡る1808年に長崎に侵入し、オランダ商館員2人を人質にとるなどのトラブルを起こしています。このころイギリスはナポレオン戦争の余波でオランダと交戦関係にあり、彼等の船を追ってのことでした。

いわゆる「フェートン号事件」という事件であり、この事件は結果だけを見れば日本側に人的・物的な被害はなく、人質にされたオランダ人も無事に解放されて事件は平穏に解決しました。しかし、その後日本は貝のように固く殻を閉じて外国船との交易を拒否し続けるようになり、一方のイギリスも、腫物に触るように日本には近づかなくなっていました。

このため、音吉ら3人の漂流者の扱いについても、イギリス政府は一切関与しないという方針がハドソン湾会社に伝えられたのでしょう。同社としても政府の指示に逆らうわけはいかず、これに従うことにしましたが、日本人漂流民については独自の判断で彼等を帰国させることにしました。

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こうしてゼネラル・パーマー号に乗船した音吉ら3人は、今度はアフリカ南端、喜望峰経由で極東に向かいました。1835年12月、パーマー号はマカオに着き、ここで一旦、ドイツ人宣教師チャールズ・ギュツラフに預けられましたが、このとき彼等はギュッラフと協力し、世界で最初の日本語訳聖書「ギュツラフ訳聖書」を完成させています。

ここでの生活は1年以上に及びましたが、1837年3月になって、薩摩の漂流民である庄蔵、寿三郎、熊太郎、力松ら4人もマカオに到着し、こうして異国で同胞たち7人が対面することになりました。

同年6月、7人を乗せたイギリス船ローリー号は、マカオを出発して那覇までやってきました。そしてここで彼らはモリソン号に移乗し、あらためて日本へ向かいました。7月30日、同船が三浦半島の城ヶ島の南方に達したとき、予期せぬ砲撃にさらされます。

前述のとおり、江戸幕府は異国船打払令を発令し、日本沿岸に接近する外国船は見つけ次第に砲撃して追い返すという強硬姿勢をとっており、モリソン号もイギリスの軍艦と誤認されて砲撃されました。またその後向かった薩摩山川港では、一旦夢にまで見た日本上陸を果たしましたが、その後幕府が受け入れを拒否したため、帰国は叶いませんでした。

結局モリソン号は、通商はもとより漂流民たちの返還もできず、マカオに戻りました。そして彼らは再びチャールズ・ギュッラフの元に預けられました。

その後、肥後の国出身の4人と、尾張国出身の岩吉・久吉の2人は、マカオで余生を送り、ここで没したようです。しかし、音吉だけは、その後上海へ渡り、阿片戦争に英国兵として従軍しました。その後、同じ上海でデント商会(清名:宝順洋行、英名:Dent & Beale Company)という貿易会社に勤めました。

同じ頃、同じデント商会に勤める英国人女性(名は不明)と最初の結婚をしています。この最初の妻との間には娘メアリーが生まれましたが、娘は4歳9ヶ月で他界、妻もその後、他界しています。このメアリーの墓は、晩年、音吉が住まいとしたシンガポールに残っています。

その後、音吉は、1849年(嘉永2年)に、イギリスの軍艦マリナー号で再び浦賀へ帰ってきました。しかし、日本は相変わらず鎖国中であったため入港できず、浦賀沖の測量だけをして帰国しています。この時、音吉は通訳として乗船していましたが、表向きは中国人「林阿多」と名乗っていました。

1853年には、アメリカのペリーらがはじめて上陸を果たし、黒船来航として騒がれました。このとき、ペリー艦隊には日本人漂流民(仙太郎ら11名、安芸国瀬戸田村(現広島県尾道市)の栄力丸船員)が乗船していましたが、このとき彼等もまた帰国はかなわず、その後上海に送られ、ここに住んでいた音吉の援助を受けています。

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その後、1854年9月にイギリス極東艦隊司令長官スターリングが長崎で日英交渉を開始したとき、音吉は、再度来日し通訳を務めました。また、この時に福沢諭吉などと出会っています。この時、音吉には長崎奉行から帰国の誘いがありましたが、既に上海で地盤を固めていた音吉は断っています。

その後、マレー人と再婚しましたが、彼女もまたデント商会の社員でした。この2度目の妻との間には、一男二女をもうけました。この頃、音吉の住む上海では、太平天国の乱などにより、混乱が始まりつつありました。このため、1862年(文久2年)、音吉は上海を離れてシンガポールへ移住しました。

このとき、このシンガポールで、かつてマクドナルドが英語を教えた森山栄之助らに会っています。幕府の文久遣欧使節通訳として同行していたもので、この使節団には福沢諭吉も参加しており、ひさびさの再会を果たしました。音吉はこのとき、清国の状況などを福沢たちに説明しており、これらの記録は福沢の著した「西航記」に残っています。

その後、1864年、音吉は日本人として初めてイギリスに帰化してジョン・マシュー・オトソンと名乗りました。1867年(慶応3年)、息子に自分の代わりに日本へ帰って欲しいとの遺言を残し、シンガポールで病死しました。享年49。日本の元号が「明治」になる1年前でした。

こうして日本の鎖国政策により祖国に戻ることを余儀なくされた音吉ですが、彼自身は、日本が武威をもって自らの政策を貫いた姿勢を支持しており、その後、ペリーによる黒船来航後、武力を背景にしてアメリカが開国を迫り、これを幕府が受け入れたときは、これを「外国に屈した」と感じて憤慨したといいます。

彼自身の帰国はかないませんでしたが、息子のジョン・W・オトソンは1879年(明治12年)に日本に帰り、横浜で日本人女性と入籍許可を得て結婚、「山本音吉」を名乗りました。

しかし、念願の帰化は出来なかったようです。その頃の日本は、近代国家を目指して法整備が急ピッチで進められていたものの、帰化や国籍に関する法律はまだ無かったためです。国籍法が出来るのは1899年(明治32年)のことです。山本音吉はその後、妻子と共に台湾へ渡り、1926年8月に台北で死去しています。

音吉のシンガポールでの埋葬は後に記録が確認されていますが、1970年に都市開発のため墓地全体が改葬されたことから、その後の捜索は難航しました。しかし2004年になってようやく墓が発見され、遺骨の発掘に成功します。

遺骨は荼毘に付されてシンガポール日本人墓地公園に安置され、一部が翌2005年に音吉顕彰会会長で美浜町長の斉藤宏一らの手によって、祖国日本に戻ることになりました。漂流から実に173年ぶりのことであり、この遺骨は現在、美浜町内にある音吉の家の墓に納められるとともに、「良参寺」という寺の宝順丸乗組員の墓に収められています。

ちなみに、音吉の最初の妻は、マカオで宣教活動をしていたスコットランド人であったといいます。また、2番目の妻は、上海で同僚だったドイツ人とマレー人の混血のシンガポール人でした。この後妻との間には息子と3人の娘がおり、このうちの一人の娘の子孫が美浜町で現在も旅館を経営しているそうです。

音吉の出身地である美浜町では、音吉の功績を広く世界に知らせ、町の活性化を図ろうとした町おこしが行われ、1961年には音吉、岩吉、久吉ら3人の頌徳記念碑が美浜町に立てられました。以来同町と日本聖書協会は毎年、聖書和訳頌徳碑記念式典を行っています。

同年行われた第1回目の式典には、当時のドイツ大使夫妻や愛知県知事、名古屋鉄道社長ら300人が参列しました。1992年には「にっぽん音吉トライアスロン in 知多美浜」が初開催され、音吉の顕彰事業が本格化しました。

音吉の人生を描いた音楽劇「にっぽん音吉物語」が翌年に同町で初公演され、以後シンガポールやアメリカ(ワシントン州、ハワイ州)、イギリス(ロンドン、バンガー)など音吉ゆかりの地でも公演されるといいます。

2012年には、音吉の生涯をモチーフにしたハリウッド映画が公開される、と発表されました。が、現在までのところ実現していないようです。

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巌と捨松

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暑い日が続きますが、そろそろピークは過ぎるのでは、と昨日のお昼の番組である気象予報士さんがおっしゃっていました。

今朝、ジョギングに出かけたら、今年の夏はじめて緑色の栗のイガが落ちており、秋が近い、というのは少々早すぎるのかもしれませんが、季節が確実に進んでいることを教えてくれます。

今週末からはお盆であり、これはいかにも夏最後のイベントという感じがします。最近は夏休みも早く切り上げて、8月24日頃までとする学校も出てきているようで、ここ伊豆でも、授業時間の確保などを目的に夏休みを短縮し、8月中に始業式を行う学校がほとんどのようです。

また、学校によっては夏休み中も夏期講習などの課外授業を行い、通常と同じように登校させるといったところもあるようで、休み期間は実質的に10~15日程度しかないという高校もあります。

それにひきかえ、日本の大学はなぜあんなに夏休みが多いのでしょうか。大学にもよりますが、おおむね7月末から始まり、9月末頃の2か月もあり、一般的に小学校・中学校・高等学校のそれよりもかなり長めに設定されています。

人生で一番学ばなければならない時期に、学生を遊ばせておくという理由がわかりません。先日、千葉の大学に通っている息子君が帰省してきましたが、彼も御多分にもれず、長い夏休みを送っているようです。

まさか、そのあとに続く長い社会生活のために滋養を養うため、というわけでもないでしょうが、少し制度を変えたほうがいいのでは、と私などは思います。

おそらくこの風習は、戦争に負けた日本が戦後、戦勝国であるアメリカの学校制度に習ったのではないか、と思われます。アメリカの学校では、小中高を問わず、学事年度が9月に始まるため、それまでのおそそ3か月間もの期間が夏休みの期間となります。

小中高では、宿題はありませんが、その代わりとして「サマースクール」を開講する学校や州があります。アメリカでは、人口の大半が農業に従事していた時代に、子供たちが収穫の手伝いをするために夏休みができました。

また、20世紀のはじめころのアメリカ人は「脳は筋肉でできている」とまじめに考えており、手足を酷使し過ぎると怪我につながるように、勉強のし過ぎは脳の発達に悪影響とみなされたため、夏休みが設けられたのだ、というウソのような話もあります。

ただし、大学はそこまで甘くありません。よく言われることですが、アメリカの大学は入るのは簡単でも出るのは大変で、大学在学中は必死で勉強しないと卒業できないことが多いようです。とくに修士課程ともなれば、必死の上にも決死で臨む心構えがないと、卒業させてもらえません。

私もハワイ大学で修士課程に進みましたが、在学中、休みがとれたのはほんの僅かであり、ほぼ毎日深夜まで図書館で勉強する毎日でした。しかしそこまで徹底的に勉強させられた成果はやがて必ず出ます。心底考える力がつくので、のちに社会に出てからも安易に人の考え方に追随したりはしなくなります。

アメリカ人で高等教育を受けた人は、それぞれがインディペンデント=個である、とよく言われるのはそういう教育を受けるからだと思います。日本の大学もこのアメリカの大学の良いところを見習い、夏休み期間の見直しも含めて、そろそろ教育制度を改革すべきだと思います。

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また、日本人はアメリカほかの外国へもっと行って勉強してくるべきだと思います。いわゆる「留学」であり、異文化の中で勉強するという経験は、国際性が身につくということだけでなく、いろんな国の人達との交流の中で改めて日本と日本人を見つめ直す、ということにも役立ちます。

私自身、フロリダ、ハワイとはしごして留学生活を都合4年半程も送りましたが、この間知り得た異文化情報は、現在も刻々と変わりつつある国際情勢を理解する上において非常に役立っています。もちろん本論の勉強においても深く考える力がついたと自負しており、鬼のように徹底的に鍛え上げてくれた当時の外国人教授たちには本当に感謝しています。

文科省データによると、2004年ごろのピーク時には8万人ほどもいた日本人留学生は減少の一方を辿り、最近は少し持ち直しているようですが、だいたい6万人くらいにとどまっているようです。

この原因についてよく耳にする言葉が「内向き志向」、すなわち現代の若者は海外に挑戦する意欲や度胸がないという主張です。「若者の消費離れ」と並び、自己投資・消費への意欲がない受け身な若者像の代名詞のように様々な場面で使われている言葉です。

しかし、調べてみたところ、この日本人留学生の減少のもう一つの要因は、アメリカを中心とした大学などの高等教育機関での学費が高騰しているため、ということもあるようです。

最近、アメリカの大学は急ピッチで学費を上げているということで、これはアメリカの経済景気がリーマンショック以降、落ち込んでいることと無縁ではありません。そのあおりを受けて大学などの期間も授業料や部屋代、食費などを値上げしたため、現在では公立の4年制大学に通う費用は4万ドルにも及ぶようです。

円安も進行しており、数年前に比べるとその負担増はかなり厳しいものがあります。昔はあちらでアルバイトをしながら卒業できたものが、現在ではローンを組まなければならないほどであり、留学費用を親に期待しているとすれば、このパトロンも頭が痛いところでしょう。

このため、最近では、これまでのアメリカ、イギリスへの留学から中国、台湾へ留学先を変える学生が増えているとのことで、英語ではなく中国語を学習しようというニーズが急速に増えているそうです。

これが悪い事か、といえばそんなことはなく、留学するという意味を考えたとき、外国人や異文化との交流に意義を置くとすれば、その価値は中国留学でも同じはずです。しかし、人種のるつぼといわれるようなアメリカへ行くのとは異なり、あちらで出会うのは中国人ばかりであり、そこはやはりその意味が半減します。

なので、日本と中国の関係が今あまりよくないということは脇においておくとして、やはり留学先は、単一民族ばかりが暮らしている国ではないほうが私はいいと思います。アメリカと同様にヨーロッパ諸国の大学にはかなり雑多な人種がたむろしているはずですから、こちらを選ぶという選択肢もあるのではないでしょうか。

ところで、「近代日本」といわれる幕末から明治にかけての時代の外国留学の嚆矢は何だろう、と調べてみると、これは1862年(文久2年)に江戸幕府が初めてオランダへ留学生を送ったときのことのようです。同年9月、榎本武揚、内田恒次郎・赤松則良・澤太郎左衛門・西周助ら15名が長崎を出航してオランダ留学へ向かいました。

その後、長州や薩摩などの諸藩も相競いあうようにして、英国やフランス、アメリカなどの各国へ若者たちを派遣しました。1866年には留学のための外国渡航が幕府によって許可されるに至り、これら幕末期の留学生は約150人に達しました。

明治時代に入ると、明治政府は近代化、欧米化を目指して富国強兵、殖産興業を掲げ、このなかで外国留学が重要な国策の一つとなりました。岩倉使節団の派遣では留学生が随行し、司法制度や行政制度、教育、文化、土木建築技術などが輸入され、海外から招聘した教授や技術者(お雇い外国人)によって紹介、普及されていきました。

それだけではなく、明治期以降、海外の優れた制度を輸入することや、海外の先進的な事例の調査、かつまた国際的な人脈形成、さらには国際的に通用する人材育成を目的として、官費留学が制度化されました。

無論、ある程度の財力を持つ人々やパトロンを得た者のなかには、私費留学によって海外での研鑽を選ぶ場合もみられました。明治年間のこうした官私費留学生は全体で約2万4,700人に達するとされ、また1875~1940年の間の文部省による官費留学生、在外研究員は合計で約3,200人を数えます。

年間2万5千人もの留学生が渡航していたというのは、日本全体の人口が3500万人程度にすぎなかったこの時代にあってはスゴイことです。いかにこの時代の日本人が、新しい国を創るための新知識を欲していたかがわかります。

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この間の著名な留学経験者としては、伊藤博文、井上馨、桂太郎、津田梅子、大山捨松、森鴎外、夏目漱石、中江兆民、小村壽太郎、東郷平八郎、高橋是清、三浦守治、高橋順太郎、湯川秀樹、朝永振一郎らがいます。

この中に女性が二人います。津田梅子と大山捨松であり、津田梅子のほうは津田塾大学の創設者として有名ですが、大山のほうは意外と知られていません。実はこの二人は、同じ時期にアメリカに留学しており、生涯を通じての友でした。

捨松は、安政7年(1860年)、会津若松の生まれで、父は会津藩の国家老・山川尚江重固でした。幼名は「さき」といい、彼女が生まれた時に父は既に亡く、幼少の頃は祖父の兵衛重英が、後には長兄の大蔵(後の陸軍少将、山川浩)が父親がわりとなりました。

知行1,000石の家老の家でなに不自由なく育ったさきの運命を変えたのは、会津戦争でした。慶応4年(1868年)8月、新政府軍が会津若松城に迫ると、数え8歳のさきは家族と共に籠城し、負傷兵の手当や炊き出しなどを手伝いました。

女たちは城内に着弾した焼玉の不発弾に一斉に駆け寄り、これに濡れた布団をかぶせて炸裂を防ぐ「焼玉押さえ」という危険な作業をしていましたが、さきはこれも手伝って大怪我をしています。このとき城にその大砲を雨霰のように撃ち込んでいた官軍の砲兵隊長が、のちに夫となる、薩摩藩出身の大山弥助(のちの大山巌)でした。

近代装備を取り入れた官軍の圧倒的な戦力の前に、会津藩は抗戦むなしく降伏して改易となり、下北半島最北端の斗南藩に押し込まれました。実質石高は7,000石足らずしかなく、藩士達の新天地での生活は過酷を極めました。飢えと寒さで命を落とす者も出る中、山川家では末娘のさきを海を隔てた函館の知人の牧師のもとに里子に出します。

沢辺琢磨といい、日本ハリストス正教会初の正教徒にして最初の日本人司祭でした。この沢辺の紹介で、さらにさきは、フランス人の家庭に引き取ってもらうことになりました。そしてこのフランス人夫婦との生活はその後の彼女の人生に大きく影響を与えました。

その後明治維新が成立しますが、明治4年(1871年)、アメリカ視察旅行から帰国した北海道開拓使次官の黒田清隆は、数人の若者をアメリカに留学生として送ることを開拓使に提案します。

黒田は西部の荒野で男性と肩を並べて汗をかくアメリカ人女性にいたく感銘を受けたようで、留学生の募集には当初から女性を入れるよう指定していました。当初開拓使のものだったこの計画は、やがて政府主導による10年間の官費留学という大がかりなものとなり、この年出発することになっていた岩倉使節団に随行して渡米することが決まりました。

この留学生に選抜された若者の一人が、さきの次兄・山川健次郎です。健次郎をはじめとして、戊辰戦争で賊軍の名に甘んじた東北諸藩の上級士族たちは、この官費留学を名誉挽回の好機ととらえ、教養のある子弟を積極的にこれに応募させました。

その一方で、女子の応募者は皆無でした。女子に高等教育を受けさせることはもとより、そもそも10年間もの間うら若き乙女を単身異国の地に送り出すなどということは、とても考えられない時代だったためです。

しかし、さきは利発で、フランス人家庭での生活を通じて西洋式の生活習慣にもある程度慣れており、兄の健次郎を頼りにできるだろうという目論見もあって、山川家では彼女にも応募させることを決めます。開拓使は他藩からもなんとか4人の応募を取り付けました。

こうして、さきを含めて5人、全員が旧幕臣や賊軍の娘ばかりが横浜港から船上の人となりました。このとき、この先10年という長い歳月を見ず知らずの異国で過ごすことになる娘を不憫に思った母のえんは、「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いから「捨松」と改名させました。

ちなみに、捨松がアメリカに向けて船出した翌日、大山弥助改め大山巌も横浜港を発ってジュネーヴへ留学しています。

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渡米後、5人の女子留学生のうち、すでに思春期を過ぎていた年長の2人はほどなくホームシックにかかり、病気などを理由にその年のうちには帰国してしまいました。しかし逆に年少の捨松、永井しげ、津田うめの3人は異文化での暮らしにも無理なく順応していきました。

津田うめは、幕臣、津田仙・初子夫妻の次女として、江戸の牛込(現・新宿区南町)に生まれ、のちに津田塾の創設者として知られるようになります。また、永井しげは、佐渡奉行属役・益田孝義の四女として江戸本郷に生まれ、のちに幕府軍医・永井久太郎の養女となりました。この3人は後々までも親友として、また盟友として生涯交流を続けました。

捨松はコネチカット州ニューヘイブンの会衆派の牧師レオナード・ベーコン宅に寄宿し、そこで4年近くを一家の娘同様に過ごして英語を習得しましたが、このベーコン家の14人兄妹の末娘が、捨松の生涯の親友の一人となるアリス・ベーコンです。

この間ベーコン牧師よりキリスト教の洗礼を受けました。捨松はその後、地元ニューヘイブンのヒルハウス高校を経て、永井しげとともにニューヨーク州ポキプシーにあるヴァッサー大学に進学。

しげが専門科である音楽学校を選んだのに対し、この頃までに英語をほぼ完璧に習得していた捨松は通常科大学に入学しました。当時のヴァッサー大学は全寮制の女子大学であり、東洋人の留学生などはただでさえ珍しい時代、「焼玉押さえ」など武勇談にも事欠かないサムライの娘、「スティマツ」は、すぐに学内の人気者となりました。

大学2年生の時には学生会の学年会会長に選ばれ、また傑出した頭脳をもった学生のみが入会を許されるシェイクスピア研究会やフィラレシーズ会(フリーメーソンの研究会)にも入会しています。捨松の成績はいたって優秀で、得意科目は生物学でしたが、日本が置かれた国際情勢や内政上の課題にも明るかったといいます。

学年3番目の優秀な成績で卒業し、卒業式に際しては卒業生総代の一人に選ばれ、卒業論文「英国の対日外交政策」をもとにした講演を行いましたが、その内容は地元新聞に掲載されるほどの出来でした。このとき北海道開拓使はすでに廃止されることが決定しており、留学生には帰国命令が出ていましたが、捨松は滞在延長を申請、これを許可されました。

捨松はこの前年に設立されたアメリカ赤十字社に強い関心を寄せており、卒業後はさらにコネチカット看護婦養成学校に1年近く通い、上級看護婦の免許を取得しました。彼女が再び日本の地を踏んだのは明治15年(1882年)暮れ、出発から11年目のことでした。

新知識を身につけ、今後は日本における赤十字社の設立や女子教育の発展に専心しようと、意気揚々と帰国した捨松でしたが、幼いころからアメリカで過ごした11年間で彼女の言語もさることながら人格までもアメリカナイズされていました。かつての母国語はたどたどしいものになっており、漢字の読み書きとなるともうお手上げでした。

しかも、洋行帰りの捨松の受け皿となるような職場はまだ日本にはなく、頼みの北海道開拓使もすでになく、仕事を斡旋してくれるような者すらいない状態の中、孤立無援の捨松を人は物珍しげに見るだけでした。しかも既に23歳になっていた捨松は、当時の女性としてはすでに「婚期を逃した」娘でもありました。

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ちょうどその頃、後妻を捜していたのが参議陸軍卿・伯爵となっていた大山巌でした。大山は同郷の宮内大丞(明治天皇の側近)、吉井友実の長女・沢子と結婚して3人の娘を儲けていましたが、沢子は三女を出産後に産褥で亡くなっていました。大山の将来に期待をかけていた吉井は、婿の大山を我子同然に可愛がっており、後添いを探していたのでした。

当時の陸軍はフランス式からドイツ式兵制への過渡期であり、留学経験がありフランス語やドイツ語を流暢に話す大山は、陸軍卿として最適の人材でした。また、この時代の外交においては夫人同伴の夜会や舞踏会が重視されており、アメリカの名門大学を成績優秀で卒業し、やはりフランス語やドイツ語に堪能だった捨松は大山夫人としても最適でした。

大山は、吉井のお膳立てで捨松に会いますが、自他共に認める西洋かぶれだった彼は、パリのマドモアゼルをも彷彿とさせる18歳年下の捨松の洗練された美しさを見て、一目で恋に落ちました。

しかし、会津藩が出自の山川家にとって薩摩藩は仇敵であり、この縁談は難航しました。しかし大山は粘り、従弟で海軍中将の西郷従道に山川家の説得を依頼。

捨松の兄・浩が「山川家は賊軍の家臣ゆえ」に対して、従道は「大山も自分も逆賊(西郷隆盛)の身内」と切り返すなど、連日説得にあたるうちに、大山の誠意は山川家にも伝わり態度も軟化し、最終的には浩から「本人次第」という回答を引き出しました。

これを受けた捨松は「(大山)閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません」と、デートを提案し、大山もこれに応じたといい、デートを重ねるうちに捨松は大山の心の広さと茶目っ気のある人柄に惹かれていきました。そして交際を初めてわずか3ヵ月で、捨松は大山との結婚を決意。明治16年(1883年)2人の婚儀が厳かに行われました。

江戸幕府が安政5年(1858年)に米国など5ヵ国と結んだ通商条約は、日本側に極めて不利な不平等条約であり、この早期の条約改正を国是としていた明治政府は、諸外国との宴席外交を行うことを優先したため、鹿鳴館では連日のように夜会や舞踏会が開かれました。

大山はもとより、明治政府の高官たちもそうした諸外国の外交官たちとのパイプを構築するため、夜な夜な宴に加わりましたが、外交官たちはうわべでは宴を楽しみながらも、文書や日記などには日本人の「滑稽な踊り」の様子を詳細に記して彼らを嘲笑していました。

体格に合わない燕尾服や窮屈な夜会服に四苦八苦しながら、真剣な面持ちで覚えたてのぎごちないダンスに臨む日本政府の高官やその妻たちは滑稽そのものでしたが、その中で、一人水を得た魚のように生き生きとしていたのが捨松でした。

英・仏・独語を駆使して、時には冗談を織り交ぜながら諸外国の外交官たちと談笑する彼女の姿は美しく、12歳の時から身につけていた社交ダンスを軽やかこなし、当時の日本人女性には珍しい長身と、センスのいいドレスを身に纏ったそんな伯爵夫人のことを、人はやがて「鹿鳴館の花」と呼ぶようになりました。

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あるとき、有志共立東京病院(のちの東京慈恵会医科大学附属病院)を見学した捨松は、そこに看護婦の姿がなく、病人の世話をしているのは雑用係の男性が数名であることに衝撃を受けます。かつてアメリカで上級看護師の資格まで取り、看護学を学んでいた彼女は、さっそく院長の高木兼寛に自らの経験を語りました。

患者のためにも、そして女性のための職場を開拓するためにも、日本に看護婦養成学校が必要なことを説き、高木にその開設を提言しました。が、いかんせん財政難で実施が難しい状況であることを知ると、それならば、と捨松は明治17年(1884年)6月12日から3日間にわたって日本初のチャリティーバザー「鹿鳴館慈善会」を開きました。

品揃えから告知、そして販売にいたるまで、率先して並みいる政府高官の妻たちの陣頭指揮をとり、その結果3日間で予想を大幅に上回るおよそ8000円もの収益をあげました。これは現在に換算すると、およそ3000万円以上に相当します。

捨松はその金額全額が共立病院へ寄付して高木兼寛を感激させるとともに、この資金をもとに、2年後には日本初の看護婦学校・有志共立病院看護婦教育所が設立されました。一方このころ日本は日清・日露の両戦争に突入しており、夫の大山巌は参謀総長や満州軍総司令官として、国運を賭けた大勝負の戦略上の責任者という重責を担っていました。

捨松はその妻として、銃後で寄付金集めや婦人会活動に時間を割くかたわら、看護婦の資格を生かして日本赤十字社で戦傷者の看護もこなし、政府高官夫人たちを動員して包帯作りを行うなどの活動も行いました。また積極的にアメリカの新聞に投稿を行い、日本の置かれた立場や苦しい財政事情などを訴えました。

日本軍の総司令官の妻がヴァッサー大卒というモノ珍しさも手伝って、アメリカ人は捨松のこうした投稿を好意的に受け止め、これがアメリカ世論を親日的に導くことにも役立ちました。アメリカで集まった義援金はアリス・ベーコンによって直ちに捨松のもとに送金され、さまざまな慈善活動に活用されたといいます。

捨松は、日本の女子教育界にもその後大きな影響を与えました。結婚の翌年の明治17年(1884年)には、早くも伊藤博文の依頼により下田歌子とともに華族女学校(後の学習院女子中・高等科)の設立準備委員になり、津田梅子やアリス・ベーコンを米国から教師として招聘するなど、その整備に貢献しています。

その後、明治33年(1900年)に津田梅子が女子英学塾(後の津田塾大学)を設立すること、捨松は同じ留学生仲間の永井繁子(海軍大将・瓜生外吉と結婚して瓜生繁子)ともにこれを全面的に支援しました。アリスも日本に再招聘し、捨松も繁子もアリスもボランティアとして奉仕し、捨松は英学塾の顧問となり、後には理事や同窓会長を務めました。

生涯独身で、パトロンもいなかった津田が、民間の女子英学塾であれだけの成功を収めることが出来たのも、捨松らの多大な支援があったがことが大きな理由のひとつでした。

捨松は大山との間で2男1女に恵まれました。これに大山の3人の連れ子を合せた大家族です。賑やかな家庭は幸せでした。また、40代半ばまで跡継ぎに恵まれなかった巌に、2人の立派な男子をもたらしたことも誇りでした。巌は日清戦争後に元帥・侯爵、日露戦争後には元老・公爵となり、一層その地位を高めました。

それでいて政治には興味を示さず、何度総理候補に擬せられても断るほどで、そのため敵らしい敵もなく、誰からも慕われました。晩年は第一線を退いて内大臣として宮中にまわり、時間のあるときは東京の喧噪を離れて愛する那須で家族団欒を楽しみました。

その巌との間に設けた、長男の高は「陸軍では親の七光りと言われる」とあえて海軍を選んだ気骨ある青年でしたが、明治41年(1908年)、 海軍兵学校卒業直後の遠洋航海で乗り組んだ巡洋艦・松島が、寄港していた台湾の馬公軍港で原因不明の火薬庫爆発を起こし沈没、高は艦と運命を共にしました。

しかし、次男の柏はその後、近衛文麿の妹・武子を娶り、大正5年(1916年)には嫡孫梓が誕生しました。その直後より巌は体調を崩し療養生活に入りました。長年にわたる糖尿の既往症に胃病が追い討ちをかけており、内大臣在任のまま同年12月10日に死去。満75歳でした。

巌の国葬後、捨松は公の場にはほとんど姿を見せず、亡夫の冥福を祈りつつ静かな余生を過ごしていましたが、大正8年(1919年)に津田梅子が病に倒れて女子英学塾が混乱すると、捨松は自らが先頭に立ってその運営を取り仕切りました。

津田は病気療養のために退任することになり、捨松は紆余曲折を経て津田の後任を指名しましたが、新塾長の就任を見届けた翌日倒れてしまいます。当時世界各国で流行していたスペイン風邪に罹患したためでした。そのまま回復することなくほどなく死去。満58歳でした。

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大山巌・捨松夫妻はおしどり夫婦として有名でした。

ある時新聞記者から「閣下はやはり奥様の事を一番お好きでいらっしゃるのでしょうね」と下世話な質問を受けた捨松は、「違いますよ。一番お好きなのは児玉さん(=児玉源太郎)、二番目が私で、三番目がビーフステーキ。ステーキには勝てますけど、児玉さんには勝てませんの」と言いつつ、まんざらでもないところを見せています。

「いえいえそんなこと」などと言葉を濁さず、機智に富んだ会話で逆に質問者の愚問を際立たせてしまう話術も、当時の日本人にはなかなか真似のできないものでした。

巌は実際にビーフステーキが大好物で、フランスの赤ワインを愛しました。大食漢で、栄養価の高い食物を好んだため、従兄の西郷隆盛を彷彿とさせるような大柄な体格になり、体重が100kgに迫ることもあったといいます。捨松はアリスへの手紙の中で「彼はますます肥え太り、私はますます痩せ細っているの」と愚痴をこぼしています。

巌は欧州の生活文化をこよなく愛し、食事から衣服まで徹底した西洋かぶれでした。日清戦争後に新築した自邸はドイツの古城を模したもので近所を驚かせましたが、その出来はというとお世辞にも趣味の良いものとは言えず、訪れたアリス・ベーコンにも酷評される有様でしたが、当の巌は人から何といわれてもこの邸宅にご満悦でした。

しかし捨松は自分の経験から子供の将来を心配し、「あまりにも洋式生活に慣れてしまうと日本の風俗に馴染めないのでは」と、子供部屋だけは和室に変更させています。

一般の日本人から見れば浮いてしまう「西洋かぶれ」の巌と「アメリカ娘」の捨松でしたが、しかしそれ故にこの夫婦は深い理解に拠った堅い絆で結ばれていました。夫妻の遺骨は、2人が晩年に愛した栃木県那須野ののどかな田園の墓地に埋葬されています。

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恐竜のいた日

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9年前の2006年8月7日、兵庫県丹波市、山南町を流れる篠山川の河床において、白亜紀の恐竜のほぼ全身の化石が発見されました。

後に「丹波竜」と命名されるこの恐竜は、ティタノサウルス(Titanosaurus)類に属し、これは中生代白亜紀前期に生息していた「竜脚類恐竜」です。草食性で四足歩行の恐竜です。首と尾が長く、全長が1m程度のものから約40mの大型のものまでいました。しかし、体のわりには頭が小さいことが特徴です。

その名はギリシア神話の巨神、「ティーターン」に由来します。但し、竜脚類としては大型ではないそうです。

発見されたのは胴体後部の椎骨及び肋骨の部分骨格のみであり、詳しい形態は判明していません。近縁の属からの推定では、おそらくは体長12~19メートル程で四肢は短く、背中に皮骨からなる装甲を持っていたと推定されています。

のちに、兵庫県立「人と自然の博物館」は、この恐竜が新属新種と認められたと発表。学名はティタノサウルス類の「タンバティタニス・アミキティアエ」となりました。これは発見地の丹波と、ギリシア神話の巨人ティタニス、発見者2人の「友情」を意味するラテン語のアミキティアエを組み合わせたものです。

「丹波竜」の名もこの男性2人によってつけられました。当初、二人は他の例などを参考に地元の名を冠した「上滝竜(発見された字が上滝)」あるいは「山南竜」なども考えたそうです。が、丹波市民のみならず丹波地方全域まで含んだ多くの人々にも親しんでもらえるのではないかと思い直し、語呂のよさを考慮して最終的に「丹波竜」にしたといいます。

当初は個人での「丹波竜」の商標登録も考えたそうです。しかし、金儲けとの誤解を招いては不本意と考え、丹波市による申請として特許庁に、「丹波竜」の商標登録を出願したそうです。エライ!

丹波市は、1996年より人口が減少し、過疎化と高齢化が進む町であり、現在約72,000人の人口の65歳以上の高齢化率は2015年には3割を超える見通しです。この降って湧いたような恐竜発見のニュースは、この町に突然、恐竜ブームを巻き起こしましたが、この二人の勇断の結果、町おこしにもつながっていきました。

その後「恐竜ラーメン」「恐竜うどん」「化石巻(巻きずし)」「恐竜たまごっ茶」など恐竜にちなんだ商品が続々登場するようになり、周辺の土産物店や食堂のメニューなどにもその名が並びました。また、「丹波竜」の商標登録を済ませた丹波市は、「恐竜を活かしたまちづくり課」を発足。2007年5月1日からは「恐竜化石保護条例」を施行しました。

さらに、山南住民センター内 1階に、「丹波竜化石工房」を2007年12月に開設。これは、丹波竜のクリーニング作業を見学できる施設で、丹波竜の資料なども多数展示されています。第1次発掘調査で産出された化石のレプリカや、篠山層群より産出した恐竜化石を含む泥岩、生痕化石のほか、丹波竜の解説パネルなども展示されています。

恐竜といえば、福井県、というイメージが先行しますが、このように他の地方でも大発見がありさえすれば、町おこしにつながる、という好例として広く知られるようになりました。過疎化が進む地域で、こうした恐竜が出そうな地層があるところでは、そこをせっせせっせと掘ってみるというのも一つの手かもしれません。

それにしても、この恐竜というヤツですが、実物を見たことがあるわけでもないので、どうもピンとこず、なかなか想像もできません。大型の脊椎動物の一種である、ということぐらいしか知らず、それが大昔にこの地上を闊歩していた、といわれても、そんなオオトカゲが本当に動けるのか?と懐疑的になります。

ちょうど今週から「ジュラシック・ワールド」なる映画が封切りになっているようですが、こうしたCG・SFXを駆使した映像をみれば、より身近に感じられるかもしれません。が、いずれにせよ、本物をみないことには埒はあきません。映画のように残されたDNAが発見され、恐竜が再生される時代がくることを期待したいものです。

中生代三畳紀に現れ、中生代を通じて繁栄した、とされますが、中生代三畳紀っていったいいつよ、と調べてみると、だいたい2億年から2億500万年前のころのようです。サルを含む我々霊長類の進化の歴史は約8500万年前まで遡ることができるとされていることから、それよりさらにはるかに昔であり、これまた想像の域を超えています。

多様な形態と習性のものがおり、現在の陸上動物としては最大のゾウをはるかにしのぐ大型のものもありましたが、約6600万年前の白亜紀と新生代との境に多くが絶滅したとされます。絶滅の主要因に関する仮説には、大別して以下があります。

短時間で滅んだとする激変説(隕石衝突説・すい星遭遇説など)
長時間かかったとする漸減説(温度低下説・海退説・火山活動説など)

過去には、裸子植物から被子植物への植物相の変化により、草食恐竜の食物が無くなったという説のほか、伝染病説、原始的な哺乳類による恐竜の卵乱獲説など諸説がありましたが、これらは現在では否定されています。

というのも、これらの諸説では地球全体の恐竜すべてが絶滅した理由とするにはその影響度が限定すぎるからです。同様に長時間漸減説の海退説・火山活動説なども影響が及ぶ地域が限定され、温度低下説も地球全体を覆うほどの氷河期があったとは考えにくいとされます。

さらに短時間激変説における彗星衝突説では、主たる成分が氷である彗星衝突では地球に与えるインパクトが小さいと考えられ、恐竜絶滅を説明するには無理があります。

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従って現在では、残る巨大隕石の衝突による絶滅が確実視されています。1980年、アメリカ・カリフォルニア大学の地質学者、ウォルター・アルバレスとその父で物理学者のルイス・アルバレスは、世界的に分布が見られる白亜紀と新生代との境にできたと推定される粘土層に含まれるイリジウムの濃度が他の地層の数十倍であることをつきとめました。

これは約6600万年前に恐竜が絶滅したとされる時期と一致し、その境界はその後、白亜紀と新生代の英語表記の頭文字を取って、通称「K-T境界層」と呼ばれるようになりました。

アルバレス親子は、イリジウムが地球の地殻にはほとんど存在しないことから、これが隕石の衝突によってもたらされたものであると考え、恐竜大量絶滅の原因を隕石の衝突に求めました。

この説が登場すると、その後こうした衝突跡を探す研究者が増えました。1990年代初頭にアリゾナ大学の大学院生であったアラン・ラッセル・ヒルデブランド(現・カルガリー大学准教授)がハイチの山地で、K-T層に含まれ惑星衝突時の巨大津波で運ばれたと推定できる岩石を発見します。

これらの岩石は特にカリブ沿岸に集中しており、ヒルデブランドと彼の教官のボイントンはこの調査研究成果を出版しました。が、彼等はカリブ海でその肝心のクレーターを発見することはできませんでした。

この話に興味を持ったアメリカのヒューストン・クロニクルの記者カルロス・ビヤーズはヒルデブランドに連絡をとり、以前、グレン・ペンフィールドという研究者がユカタン半島で発見したというクレーターこそが、このK-T層を形成したときに出来た小惑星の衝突跡ではないかと思う、と話しました。

ペンフィールドは、ユカタン半島付近にある、メキシコ国営石油で油田発見のための地磁気の調査を行う技術者でした。1978年のこと、彼はユカタン半島付近のある地点で、磁気データがひとつの点を中心として綺麗な弧を描いていることに気付きます。

そこで、さらにその地域の重力分布データを調べ、地図上に落としていったところ、チクシュルーブという村を中心として重力分布が同心円状に描けることがわかりました。そして熟考を重ねた結果、これは宇宙から飛来した隕石によるクレーター跡ではないかと結論づけました。

さっそくこのことを発表しましたが、しかしこのときはこの研究成果は、大きな関心事になることはありませんでした。ヒルブランドから連絡があったのは、それにもめげず彼が調査を続けようとしていた矢先であり、彼等2人は早速連絡を取り合って共同で研究を進めることに同意しました。

そして油田から採取されたボーリングサンプルを再調査したところ、クレーターの形成年代がK-T境界と一致すること、周囲の岩に含まれる成分が隕石衝突によってしか作られない天然ガラスであるテクタイトという物質と一致することが判明し、「K-T境界で落下した巨大隕石によるクレーター」であると確認しました。

こうして、1991年、巨大隕石による衝突クレーターと見なされる「ユカタン半島北部に存在する直径約170kmの円形の磁気異常と重力異常構造」という論文が彼等によって発表され、世界中がこの発表に驚きました。

確認されたクレーターは現在のメキシコユカタン半島の北西端チクシュルーブにあったため、「チチュルブ・クレーター」と命名されました。直径は当初170kmとされていましたが、その後の調査で約200kmに及ぶことがわかり、深さは15~25kmであると見積もられました。

このクレーターの直径についてはその後1995年に直径約300kmという説も発表されましたが、現地での地震探査の結果、現時点では「直径200km」が妥当とされています。また、隕石落下地点は当時石灰岩層を有する浅海域だったと推定され、隕石落下により高さ300mに達する巨大な津波が北アメリカ大陸の沿岸に押し寄せたと推定されました。

そして、それまでは、イリジウムの起源を隕石説とは反対に地球内部に求め、火山活動が恐竜の大量絶滅の原因であるとする「火山説」も複数の研究者により唱えられていましたが、このチチュルブ・クレーターの発見により、これを形成した隕石の衝突が恐竜の大量絶滅を引き起こしたとする説のほうが有力であるとされるようになりました。

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この説では、地球規模の大火災で生態系が破壊され、衝突後に生じた塵埃が大気中に舞い、日光を遮断することで起きた急速な寒冷化が絶滅の原因であると主張されました。

宇宙から落下してくる隕石は、大気圏で表面温度が1万度近くまで熱せられます。高速の隕石は高度11000mより下の対流圏を1秒以下で通り過ぎるので、非常に大きな衝撃波を伴います。地上に衝突した直径10kmの隕石は地殻に数十kmもぐりこみながら運動エネルギーを解放して爆発します。

チクシュルーブ・クレーターを形成した小惑星の大きさは直径10~15km、衝突速度は約20km/s(時速72000km)、衝突エネルギーは、TNT換算3×109メガトンと計算されましたが、この量は冷戦時代にアメリカとソ連が持っていた核弾頭すべての爆発エネルギー104メガトンの1万倍以上に相当します。また、広島型原子爆弾の約10億倍とも言われます。

隕石爆発のエネルギーで衝突地点周辺の石灰岩を含む地殻が蒸発や飛散によって消失し、深さ40km、半径70~80kmのおわん型のクレーター(トランジェントクレーター)ができました。このときクレーター部分とその周辺の海水も同時に蒸発・飛散して無くなりました。

爆発の衝撃による爆風が北アメリカ大陸を襲い、マグニチュード11以上の大地震が起こりました。トランジェントクレーターの底には衝突の熱により溶解したものの、蒸発・飛散せずに残った岩石が溜まっており、やがて再凝結していきます。そして大きく開いたクレーター中心部は地下深部の高温の岩石が凸状に盛り上がってきて中央部が高くなります。

中心部の盛り上がりに対応して地下の岩盤の周辺部は低下し、地表ではトランジェントクレーターのおわん型の壁が崩落して外側に広がっていきます。これらの地殻変動によってトランジェントクレーター周辺の地殻は波うち同心円状の構造が形成され(トランジェントクレーターの形状は消えてしまう)、更に大きなクレーター構造となって残ります。

衝突時の半径が70~80kmだったのに対し、最終的にはこれが200kmにまで広がったのはこのためです。さらに、浅海に空いたこの巨大なクレーターに向かって海水が押し寄せるため、周辺海域では巨大な引き波が起こりました。

勢いよく押し寄せる海水はクレーターが一杯になっても止まらず、巨大な海水の盛り上がりを作った後、押し波となって逆に外側へ向かって流れ出し全世界へ広がりました。衝突地点に近い北アメリカ沿岸では300mの高さの津波となって押し寄せたと想定されます。

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さらに地面に衝突して爆発した隕石は全量が飛散し、衝突地点の岩石も衝撃のエネルギーで蒸発・溶解・粉砕されました。トランジェントクレーターでは、隕石質量の約2倍に相当する岩石が蒸発(ガス化)し、隕石質量の約15倍の融解した岩石と、隕石質量の約300倍に達する粉砕された岩石が飛び散ります。

蒸発した岩石には石灰岩(CaCO3)や石膏(CaSO4)が含まれており、これが大気中で分解して大量の二酸化炭素(CO2)と二酸化硫黄(SO2)が発生したと考えられます。融解した岩石は空中で冷えて凝固し微細なガラス状のマイクロテクタイトになります。

衝突地点から吹き上がった高温の噴出物は、クレーター周辺に落下して森林に火事を起こさせ、大量の煤を発生させます。衝突地点から放出された大量の塵や大規模火災による煤は空中に舞い上がり、太陽光が地上へ到達するのを妨げました。

隕石衝突で大気中に巻き上げられた塵や煤は、比較的大きなサイズのものは対流圏(高度約11000mまで)まで上昇し数か月後には地上に落下しますが、1000分の1mm以下の小さなサイズのものはその上の成層圏や中間圏まで上昇し、そこに数年から10年間とどまりました。

これらは太陽光線に対して不透明であり、隕石落下の直後には地上に届く太陽光の量を通常の100万分の一以下に減少させます。この極端な暗闇は対流圏に大量に噴き上げられた煤や塵が地上に落下するまで数か月続きましたが、その期間気温が著しく低下し、光不足で植物は光合成ができなくなりました。

北アメリカのK-T境界に相当する地層のハスやスイレンの化石から、隕石は6月頃に落下したこと(ジューン・インパクト)、落下直後には植物が凍結したことが分かりました。また、K-T境界前後の地層の花粉分析の結果、その花粉中に、ユリの花粉が多量に発見されており、これからも衝突時期はやはりユリの花の咲く6月だったと推定されています。

なお、K-T境界直後の海洋においても植物プランクトンの光合成が一時停止したことが判明しています。

一方、大気中に放出された二酸化硫黄は空中で酸化し硫酸となって酸性雨として地表に落下したり、一部は硫酸エアロゾルとなって空中にとどまりました。さらに高温の隕石や飛散物質が空気中の窒素を酸化させて窒素酸化物を生成し酸性雨を更に悪化させたことも想定されています。

先に述べた煤や塵と同様に、硫酸エアロゾルも地表に届く太陽光線を減少させる物質であり、これらの微粒子の影響による寒冷化は約10年間続いたと推定されます。これらの隕石衝突による地上の暗黒化・寒冷化を「衝突の冬」と呼びます。

しかし、その後寒冷化の影響がなくなった後、蒸発した石灰岩から放出された大量の二酸化炭素によって温暖化が進み、これは数十万年続いたのでは、ともいわれています。

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以上のように巨大隕石の衝突は衝突地点での破滅的な状況のみならず、数ヶ月から数ヶ年におよぶ地球全体における光合成の停止や低温、さらにその後10年も続いた環境の激変を生起させた結果、多くの生物種が滅びる原因となりました。

K-T境界以前の中生代は大型爬虫類の全盛時代でした。特に恐竜は三畳紀末から白亜紀の最後にかけて、主要な生物として地上に君臨しました。また、翼竜は三畳紀末に空中に進出し白亜紀前期終盤まで繁栄しました。彼等陸上を闊歩し、空を飛ぶ恐竜はこの隕石の衝突による環境変化による影響を最も強く受けたといえます。

一方の海中では三畳紀以来の魚竜はK-T境界事件の前には既に絶滅していましたが、首長竜や大型の海トカゲ(モササウルス類)などは白亜紀の最終段階まで生存していました。しかし、それもK-T境界を境にして消滅し、こうして海陸を問わず、これらの大型爬虫類の全てが絶滅しました。

生き残ったのは、爬虫類の系統では比較的小型のカメ、ヘビ、トカゲ及びワニなどに限られました。恐竜直系の子孫である鳥類も古鳥類がことごとく絶滅しましたが、現生鳥類につながる真鳥類が絶滅を免れています。海中ではアンモナイト類をはじめとする海生生物の約16%の科と47%の属が姿を消しました。

こうして地球上からほとんどの大型生物がいなくなった後、それらの生物が占めていたニッチは小型の哺乳類と鳥類によって置き換わり、現在の生態系が形成されました。植物については、海洋のプランクトンや植物類にも多数の絶滅種が出ました。たとえば、北アメリカの植物種の79%が絶滅しました。

一方では、K-T境界直後には、シダ類が異常に繁茂しました。シダ類は現在においても噴火による溶岩や火山灰によってすべての植物が消滅した荒地に最初に繁茂することが確認されています。このため、K-T境界後に広がった荒地をもこうしたシダ類が覆ったと想定されており、シダ類によるこうした顕著な植生変化は「シダスパイク」と呼ばれます。

シダは浅海でも生育が可能ですが、K-T境界後のプランクトンがいなくなった海中で堆積した複数の地層からも大量のシダの化石が見つかっています。

このことは広範囲にわたる地上の植生の荒廃と海洋の絶滅が同時に生起したことを意味すします。しかし、シダ類の優占した期間は短く、最終的にK-T境界以前のレベルの多様性まで回復したのは約150万年後でした。

ただ、我々の先祖である哺乳類は生き延びました。哺乳類が隕石衝突を生き延びた理由については、確かなことはわかっていないものの、以下のような要因がその小さな身体が大災害を生き延びる上で有利に働いたというのが多くの研究者たち共通の認識です。

哺乳類は身体が小さいので、地下の穴に隠れることができたこと
哺乳類の食べ物がそれほど特殊化していなかったこと
哺乳類の繁殖のサイクルは早いため、環境の変化に素早く適応できたこと
哺乳類は胎盤を進化させていたため、弱い存在である子供を生存させることができたこと

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その哺乳類の一員である我々がこうした絶滅した恐竜のことを知るようになったのは、人類の歴史からみてもごくごく最近のことといえるでしょう。学術的な記録としては1677年、イギリス、オックスフォード大学のアシュモリアン博物館における、ロバート・プロット(Robert Plot)という学者による大腿骨の膝関節部分の記載が最初といわれています。

これはオックスフォード州中期ジュラ紀の地層より発掘されたもので、メガロサウルスという体長7~10mの恐竜のものと推測されます。「推測される」というのは、プロットは詳細なスケッチを残してはいるものの、標本は現存していないためです。

ただ、この時代にはまだ恐竜としては認識されておらず、プロット自身も自分が発見した化石をゾウのような大型の動物の骨と考えていたようです。

さらに時代が進み、1815年頃にはイギリスのウィリアム・バックランドという別の学者が新たな化石を入手しました。バックランドもまた、この化石がどのような動物に属するのか判断できませんでしたが、1818年にはフランスの博物学者・ジョルジュ・キュヴィエがバックランドの元を訪れ、この化石が大型の爬虫類のものであると指摘しました。

これに基づきバックランドは研究を進め、1824年には科学雑誌上で論文を発表し、断片的な下顎、いくつかの脊椎骨や腸骨、後肢の一部の化石を記載。これを「メガロサウルス」と命名しました。

1822年にはロンドン地質協会でギデオン・マンテルが、「植物食性と思われる動物の歯の化石」について発表を行いました。この化石については、同協会に所属していたバックランドや比較解剖学の大家であるジョルジュ・キュヴィエらは、メガロサウルスより小型のサイの歯かあるいは魚のものだろう、と評価しました。

しかし後年の精査により、彼らもこれが大型の爬虫類のものであると認め、1825年、マンテルはこの歯の持ち主の恐竜を「イグアノドン」と命名しました。そして1842年には、イギリスの生物学者でキュヴィエの後継者と目されていた、リチャード・オーウェンにより、はじめて”Dinosauria”(恐竜)の名称が用いられました。

オーウェンは、メガロサウルス、イグアノドン、ヒラエオサウルスを内包する、地上を闊歩するグループとしてこの恐竜の名を命名したのでしたが、その後1861年には、ドイツのゾルンホーフェンという場所で、Archaeopteryx(始祖鳥)の化石が初めて発見されました。

始祖鳥は、それまで鳥に特有とされていた羽毛を持ちながら、発達した歯や手指、長い尾を持つなど、爬虫類のような特徴を多く保持しており、このことから、1868年には、イギリスの生物学者、トマス・ハクスリーが、鳥の祖先は恐竜である、と指摘しました。

この主張は論争を呼び、その後も長く論議が続きましたが、1926年になって、デンマーク人の画家、ゲルハルト・ハイルマンにより、鳥はより恐竜ではなく、より祖先的な「主竜類」より分岐したとの主張が出されました。

ハイルマンは学者ではありませんでしたが、動物、とりわけ鳥類の細密な描写で定評があり、その描写力はかつて医学生だったときに学んだ解剖学的な見地から得られたものでした。この説は一時、よく受け入れられましたが、1969年にアメリカの古生物学者・ジョン・オストロムの主張によって再び鳥の先祖は恐竜だとする意見が増えてきました。

オストロムは、小型の獣脚類である「デイノニクス」を研究した結果、それまでの「大型でのろまな変温動物」という恐竜のイメージを、恒温性で活動的な動物へと大きく覆し、この結果、小型動物である鳥もまたその先祖は恐竜であるとの理論を展開しました。

その後、アメリカの古脊椎動物学者かつ系統学者である、ジャック・ゴーティエによる分岐学的手法の発達や、新たな祖先的鳥類やマニラプトラ類(恐竜に極めて近いとされる翼竜)をはじめとする化石の発見が相次ぎ、現時点では鳥の先祖は恐竜である、という説が大勢を占めています。

ただし、鳥類の前肢は翼ですが、恐竜から鳥の系統に近づくにつれ、五本指のうち第4・5指が退縮する、つまり第1・2・3指が残る傾向があるのに対し、現在の鳥の指は位置関係上、第2・3・4指であることが発生学的に観察されており、本当に鳥の先祖は恐竜なのか、という論争は今も続いています。

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なお、オストロムとその弟子ロバート・バッカーらによる、小型の恐竜は変温動物であったとする一連の研究は、ひとつの「パラダイムシフト」と目され、これらの研究成果の発表はのちに「恐竜ルネッサンス」とも呼ばれるようになりました。そしてこれ以降の1970年代には、恐竜の行動や生態、進化や系統に関する多種多様な研究が増えていきました。

2000年〜2003年、アメリカ・モンタナ州の約6800万年前の地層で見つかった恐竜化石から、ティラノサウルス・レックスの化石化していない軟組織が世界で初めて発見されました。

ほかにもカモノハシ竜のミイラ化石とされる「ダコタ(2000年に米・ノースダコタ州で発見)」など、軟組織が含まれているのではないかと考えられる化石が複数発見されるようになりました。

また、かつて恐竜はワニのような皮膚をもっていたという説も開陳されるようになり、実際に鱗が保存された化石も発見されています。近年ではとくに鳥類と恐竜との類縁関係が注目されるようになってきており、羽毛をもった化石も発見されたことから、ある種の鳥類のような色鮮やかな羽毛をもつ恐竜もいた可能性も取沙汰されています。

ただし、図鑑等で見られる恐竜の皮膚や羽毛の色模様等は全て現生爬虫類または鳥類から想像されたもので、実際の皮膚がどんな色だったかは、ほとんど不明です。皮膚自体が残った、ミイラ状態の化石も発掘されていますが、質感はともかく色や模様は化石として残らないからです。

また、これまで別属と考えられていた恐竜が、成長段階や雌雄の差なのではないかとする別の観点からの研究も相次いでおり、1970年代以降に起きた「恐竜ルネッサンス」は、現在もまだ継続しているようです。

しかし、恐竜が隕石の衝突によって絶滅したということはほぼ確実視されています。この事実を知ったアメリカの天文学者カール・セーガンは、「隕石衝突の爆発によって舞い上がった塵が地表の暗黒化と寒冷化を起こすのであれば、核戦争による核爆発でも同様のことが起こるのではないか」と言う点に着目して研究を開始しました。

いわゆる「核の冬理論」です。この理論は世界的な反響を呼び、国際学術連合環境科学委員会の主導で1985年から2年間、30カ国300人の科学者を動員して検討が行われました。

その検討結果では、冷戦下でアメリカやソ連が保有していた核弾頭全部(TNT換算104メガトン相当)が爆発した場合、爆発で舞い上がった塵や大規模火災で生成された煤の影響で地上に到達する太陽光の著しい減少と厳しい寒冷化が起こるとされました。

地上に届く太陽光は爆発の20日後で正常時の20%以下、60日経っても正常時の60%。
北半球中緯度地方の夏至の気温は平均で10-20℃低下。局所的には35℃ほど低下して、オゾン層は壊滅的に破壊されます。

現在、世界の核兵器は、実際に配備されているもののほか予備などを含む「軍用保有核」が約1万100発、退役して解体待ちのものを入れると、総数約1万6400発という推定であり、これだけの核兵器があれば、地球は何度でも死ぬことができます。

宇宙からの脅威はなくても、自らの過ちにより恐竜に続いて人類が絶滅する可能性は無限大ともいえ、そうした恐ろしい現実が訪れる日がくるようなことは、是が非でも避けたいところです。

昨日の広島の原爆の日に続き、明後日、9日には長崎原爆の日が訪れます。これら2都市と多くの命を核によって失い、唯一の被爆国となった日本に住む我々は、先頭に立って世界に核兵器廃絶を訴え続けていくべきでしょう。

原発再起動も絶対に反対です。これを推進する政権が一日も早く退陣することを祈ります。

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ビールと無縁仏

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暑い日が続きます。

国会では安保問題が白熱していますが、戦後70年目の今年の夏は特別に暑く熱く日本をヒートアップさせてやろうという、天の意思のような気もしないではありません。

こう暑いと、ついついビールなど冷たいものに手が伸びます。

伊豆でもあちこちにビールを飲ませてくれるところはあるようですが、ここに住んで3年半にもなるのに、いままでそうしたところへは行ったことがありません。しかし、海を見ながら飲むビールは格別でしょう。今度そういう機会があったら、またこのブログでもリポートしてみたいと思います。

ちなみに日本で最初のビヤホールは、大阪の「アサヒ軒」だそうです。その名の通り、現在のアサヒビールの前身の大阪麦酒株式会社が洋食と一緒にビールを提供するために開いたのが始まりです。1897年(明治30年)7月のことで、ここで売られていたのは「氷室生ビール」だそうで、いかにも涼しげです。

場所は、大阪市北区中之島の大江橋南詰ということで、これは大阪駅南側の四つ橋筋通り沿いのようです。続いてその2年後の1899年(明治32年)8月には、今度は日本麦酒醸造株式会社が、銀座8丁目に「ヱビス(恵比寿)ビヤホール」を開いて「サッポロビール」を売り出しました。「ビヤホール」の名称が店の名前に使われたのはこれが初めてです。

このヱビスビヤホールの後身が、洋食の全国チェーン「銀座ライオン」であり、同社ではこの日を記念して、「ビヤホールの日」としているようです。が、無論オフィシャルなものではありません。同店開店時には、ビール500mlが10銭で飲めたという記録があり、これは現在の価格にすると一杯400円くらいになるようです。

それほど高くない、と現在でも思える価格です。そのためか、この恵比寿ビヤホールは大いに繁盛したようです。なお、この当時のビヤホールは屋内にありましたが、現在のように半屋外型もしくは屋外型のいわゆる「ビヤガーデン」の嚆矢は、1875年(明治8年)横浜市山手で外国人が創業したものだといわれます。

このビヤガーデンでホールで出されていたビールが、現在もサッポロビールと双璧をなす、「キリンビール」であり、これを醸造していたのはノルウェー系アメリカ人の、ウィリアム・コープランドという人です。このコープランドの工場が「スプリング・バレー・ブルワリー」であり、ビヤガーデンはこの工場隣接の彼の自宅を改装したものでした。

当初は、日本人向けではなく、主に外国人居留者と外国船の船員向けの店だったようです。しかしその後は日本人にも提供するようになり、現在では一般的となった、工場で出来立てのビールを提供する飲食店「工場内ビアレストラン」のルーツとも言えます。

一方、日本で最初の「屋上ビアガーデン」は1953年に大阪市梅田でオープンした「ニユートーキヨー大阪第一生命ビル店」です。今ではではこうした屋外ビヤガーデンは夏の風物詩です。デパート、ホテルの屋上に多数のテーブル席をしつらえ、ビールなどを提供するビヤガーデンは全国的に普及しています。

中でも、北海道札幌市の大通公園では、毎年夏になると公園の大半がビアガーデンになり、札幌の夏を代表するイベントとなっています。幅65メートル、長さ数百メートルに渡る広大なビアガーデンは、日本国内では他に類を見ない大規模なものです。

ところで、このビールがそもそもいつのころから日本にあるかといえば、これは、1613年(慶長18年)にイギリスが長崎県の平戸に商館を設置した際、持ち込まれたのが最初のものだったようです。その後、1724年(享保9年)にオランダの商船使節団が江戸に入府した際には、8代将軍・徳川吉宗に献上された記録があります。

一方、日本国内初のビール醸造は、1812年に長崎の出島において、オランダ商館長のヘンドリック・ドゥーフによって行われたのが最初です。また、開国後の1869年(明治2年)には、横浜の外国人居留地、山手46番にドイツのヘフト・ブルワリーの醸造技師であったE・ウィーガントらによって、「ジャパン・ブルワリー」が設立されました。

のちに上述のキリンビールが大いに売れ、ビールが国内で普及するようになりますが、コープランドが設立した「スプリング・ヴァレー・ブルワリー」とウィーガントが設立した「ジャパン・ブルワリ」を、1907年(明治40年)に三菱財閥が合併させてできた日本国籍会社が、現在のキリンビールの前身、「麒麟麦酒」です。

日本人の手による初の醸造は、1853年に江戸の蘭学者の川本幸民が実験的に行ったのが最初です。しかし、産業化されたのは明治になってからであり、1869年(明治2年)に、当時の品川県知事であった古賀一平が土佐藩屋敷跡(現・品川区大井三丁目付近)にビール工場を建造し製造を開始したのが最初とされます。

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その後、1874年(明治7年)には甲府で野口正章により「三ツ鱗ビール(ミツウロコビール)」が設立され、1876年(明治9年)には北海道の札幌で官営ビール事業として、「開拓使麦酒醸造所」が村橋久成と中川清兵衛を中心に設立されました。この二人が翌年製造したのが「サッポロビール」であり、これが恵比寿ビヤホールで売られていたことは上述のとおりです。

「官営ビール」ということであり、二人とも役人ということになります。このビールの製造を通じて同じ職場に配属され、意気投合しますが、その後二人とも官を辞してそれぞれ全く別の余生を送っており、人それぞれ、生きる意味もそれぞれ、という感じがします。

中川清兵衛のほうは、弘化5年(1848年)、越後国三島郡与板(現新潟県長岡市与板町)の与板藩御用商人の長男として生まれました。本家の家業を継ぐべく英才教育を受けますが、17歳で郷里を離れ開港間もない横浜へ向かい、ドイツ商館に勤務するようになります。

程なく幕府の乱世の中、国禁を犯してイギリスへ渡航。ここで明治を迎え、その後ドイツへ移り、その地で長州出身の外交官、青木周蔵(のちの外務大臣、駐米大使)と出会い、青木の支援で、当時ベルリン最大のビール製販会社であったベルリンビール醸造会社ティボリ工場に入り、ここでビール醸造の修業をすることになります。

この当時はまだヨーロッパに日本人などほとんどいない時代であり、東洋人軽視・蔑視の厳しい職場環境の中でビール醸造の技術習得に心血を注ぎました。そしておよそ2年後の1875年(明治8年)5月、同社は中川の修業に対し、社長・工場長・技師長連名の、豪華な羊皮紙の修業証書を与えました。この証書はサッポロビール博物館に保存されています。

1875年に日本へ帰国。この当時はまだ開拓使が管轄していた札幌へ移り、開拓使麦酒醸造所の開業に技術者として採用されます。このときはじめて村橋久成と出会いました。

村橋久成(ひさなり)は、天保13年(1842年)生まれで、中川より6歳年下です。薩摩藩士で、薩摩藩第一次英国留学生の一人としてロンドンに留学し、戊辰戦争では砲兵隊を率いて東北戦争・箱館戦争に従軍しました。

維新後、薩摩に戻り、藩庁会計局出納方の出納責任者の補助などを務めていましたが、明治4年(1871年)、開拓使東京出張所に出仕。獣医師のお雇い外国人、エドウィン・ダンなどの指導下で、開拓使が東京府に設置した、農業に関する試験・普及機関である「東京官園(現在の青山学院大学周辺にあった)」を管理するようになりました。

明治6年(1873年)北海道の箱館に近い七重開墾場に赴き、測量と畑の区割りを行うようになり、翌年には屯田兵創設に伴う札幌周辺の琴似兵村入植地の調査、区割りに携わったあと、明治8年(1875年)に東京に戻り、開拓使が東京で建設を計画中の麦酒醸造所の建設責任者となりました。

ちょうど同じころ、ドイツでビール製造技術を習得した中川清兵衛が北海道開拓使に雇われました。そして、北海道に自生していたホップを原料としたビールの醸造所を東京官園に建設するための計画を立案するよう彼に命じました。当初開拓使としては、東京官園で試験的にビールを醸造し、成功の後、北海道に醸造所を造る方針でした。

しかし、これに対して村橋は、北海道のほうがビール造りに気候が適しており、かつ麦酒醸造所は北海道の産業振興が目的であることなどを挙げ、最初から北海道に建設すべきであると主張しました。結果としてこの意見は通り、こうして札幌に麦酒醸造所が建設されることとなりました。

村下は明治9年(1876年)5月、麦酒醸造所のほか、葡萄酒醸造所と製糸所を建設するため、職人らとともに札幌へ出発。ここで本場ドイツでビール造りを学んだ中川と出会います。早速彼とも相談しつつ計画を練り、最終的に麦酒醸造所と葡萄酒醸造所を札幌の創成川の東、現在、サッポロファクトリーがあるところに建設することを決めました。

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こうして、同年9月、麦酒醸造所と葡萄酒醸造所が完成し、合わせて「開拓使麦酒醸造所」と呼ばれるようになります。この完成により、中川は日本初の国産ビール製造の技術開発者としてその名が知られるところとなり、札幌では大きな洋風の官舎に住み、開拓使から高給を支給され名士の一人となっていきました。

ヨーロッパ生活が長かったため生活も西洋風で、毎年春には札幌の著名人を招待し、自邸の庭でビールを振舞う園遊会を開く程であったといいます。

一方の村下は、醸造所完成の1ヶ月後には東京に戻り、ビールの受け入れ側に回るようになります。翌年夏、「冷製札幌麦酒」と名付けられた最初のサッポロビールが開拓使帆醸造所で出来上がり、東京に運ばれ上述の恵比須ビヤホールなどで売られて好評を得ました。

ビール事業は軌道に乗り、彼は2年後の明治11年(1878年)、札幌本庁へ呼び戻されて民事局副長となりました。民事局は登記や戸籍、土地家屋関する事項や民・商法などに関する案件を司る部門ですが、その副長というのは大きな出世であり、醸造所の成功により出世階段を彼が昇り始めた証しでもあります。

ところが、村橋は翌年、突如病気を発し、このため熱海で療養することとなり、そのまま東京在勤となりました。明治13年(1880年)には東京出張所勧業試験場長に任ぜられましたが、そこでかつて慣れ親しんだ職場の北海道開拓使が事業期間満了(明治15年)を目前にして、麦酒醸造所を民間に売却する動きが水面下で進められつつあることを知ります。

開拓使長官の黒田清隆の独断で、麦酒醸造所を含む開拓使官有物すべてを同郷薩摩の政商五代友厚らの関西貿易商会に安値・無利子で払下げるというものでしたが、この噂はリークされ世論の厳しい批判を浴びるところとなりました。いわゆる「開拓使官有物払下げ事件」といわれるものです。

この事件では払下げの規則を作った前大蔵卿の大隈重信が尻尾切りとして政府から追放されるなどの大きな政変が起きましたが、こうした動きに失望したのか、村橋は明治14年(1881年)、突然開拓使を辞職。北海道知内村に設立された牧畜会社の社長に就任しましたが、その後、家族も捨てて托鉢僧となり、行脚放浪の旅に出ました。

その後1882年(明治15年)に開拓使は廃止され農商務省へ移管、1886年(明治19年)に民間へ払い下げられ後に現在のサッポロビールとなりました。

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と同時に、当時44歳であった中川もまた追われる様にビール醸造の世界から去ります。その後まもなく、パスツールが酵母を発見し、ビール造りは転換期を迎えましたが、中川の退職の理由は、この時点で彼がドイツで習得した技術は古くなってしまったと考えたためでした。

開拓使に変わって新しく出来た道庁は、新しい技術を持ったボールマンという技師をドイツから招きましたが、彼は中川に新しい技術をまったく教えなかったといい、こうしたことが重なり、中川は居場所を失い、開拓使麦酒醸造所を辞めることになったといわれています。

やがて中川は家族を率いて小樽へ移住。現在の小樽運河沿いに船宿「中川旅館」を開業。船着場から近く桟橋が旅館前にある事から繁盛したといいます。

その後海上交通が不便な利尻島の窮状を見かねた中川は、工事資金を低金利で貸しオシドマリ港の防波堤や船着場の整備を支援して一定の成果を挙げました。が、工事費の大幅な膨張で提供した資金の配当金は元より、元金の返済も絶望的となってしまい、その結果1898年(明治31年)、繁盛していた旅館を手放し妻と二人で横浜へ移住しました。

1916年(大正5年)食道癌により死去、享年69。末期の水は生前の彼の希望通りサッポロビールで浸したといいます。

郷里である新潟の与板には、在は長岡市管理の駐輪場となっている生家である中川家跡地に彼の偉業を称えて「中川清兵衛生誕碑」が建立されているほか、彼にちなんだイベントとして毎年7月下旬に「中川清兵衛ビールフェスタ」が開催されています。

一方の村橋は、長年消息不明となった後、明治25年(1892年)9月末、神戸市葺合村六軒道の路上で、所持品もなく、木綿シャツ1枚とほとんど裸の状態で倒れているところを警邏中の巡査に発見されました。

名前を尋ねられ、一旦「鹿児島県大隅国日当山33番地、川畑栄蔵」と偽名を名乗った後、再度問われ、「鹿児島塩谷村、村橋久成。妻はしゅう、長男は定太郎。村橋周右衛門、新納主税という親戚がいる」と名乗り再び倒れました。施療院に運び込まれたものの、9月28日死去。享年50。死因は肺結核および心臓弁膜病でした。

現在のサッポロビールの礎を作った二人が、いずれもあまり幸せとはいえない末路を辿ったわけですが、このことについて、サッポロビールはそのホームページで、「物語サッポロビール」の著者で作家の田中和夫氏の談話を掲載しています。曰く、「激動の時代にあって、彼らは自分なりの美学をもち、夢をもち、それに向かって真摯に生きた」と。

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神戸で行き倒れた村橋は、その後神戸墓地に仮埋葬されました。が、神戸市役所で鹿児島に照会したものの該当者は無く、半月後の神戸又新日報に「行旅死亡人」の広告が載せられました。そしてこれを読んだ東京の新聞「日本」の記者が「英士の末路」と題して、村橋の死を報じたのをさらに、元開拓使長官で上司の黒田清隆が読み、村橋の死を知ります。

そして黒田は、神戸から遺体を東京に運び、自ら葬儀を行いましたが、その葬儀には黒田のほか、陸奥宗光外務大臣、仁礼景範海軍大臣など現役の大臣ほか、複数の県知事、多数の貴族員議員などが出席または香典を出したそうです。生前、いかに信望のある人物であったかがこの一事からもうかがわれます。その墓は、青山霊園にあります。

ところで、この「行旅(こうりょ)死亡人」とは何かというと、これは本人の氏名または本籍地・住所などが判明せず、かつ遺体の引き取り手が存在しない死者を指すものです。「行旅」とありますが、その定義から必ずしも旅行中の死者であるとは限りません。が、旅先で亡くなった人を扱うことが多いことから、こう称されるようになったものです。

行旅死亡人として認定されると、法律に基づいて死亡推定日時や発見された場所、所持品や外見などの特徴などが市町村長名義で、詳細に官報に公告して掲載されるもので、現在でも行われています。また、行旅死亡人となると地方自治体が遺体を火葬し遺骨として保存後、この官報の公告が行われ、引き取り手を待つ事となります。

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こういうふうに旅先で人が亡くなることを、「客死」ともいいます。旅先または「よその土地」で死ぬことであり、旅行や仕事などにより普段の生活を送っている場所から離れている場合など、普段のコミュニティと切り離された状態で死を迎えることであり、外国訪問先で死亡した場合も「客死」と表現されます。

客死は、旅先など急な環境の変化が、肉体にとって重荷(ストレス)となり、急に体調を崩してしまうために起こるものであり、長時間の移動による疲労により起こるといわれます。、また、同じ姿勢を維持し続けることによる疾患の発生、すなわち俗にいうエコノミークラス症候群のような「静脈血栓塞栓症」によって亡くなる場合も含まれます。

慣れない状況での交通事故や、旅先で犯罪(あるいはテロ)・大規模災害との遭遇なども原因です。客死すると、所持品からや当人が生前に伝えるなどした親族など連絡先に一報が入れられるのが通例ですが、当人が自らの出自を明らかにせず、所持品からも身元が判明しなかった場合など、連絡先が判らなくなってしまう場合に行旅死亡人と扱われます。

今日では輸送機関は世界規模で発達しているため、少なくとも身元がはっきりしている遺体を、当人の遺族が待つ地域へ輸送することは可能です。がしかし、現代よりももっと輸送が素朴な手段に頼っていた昔は、こういった客死による死者の輸送は困難を極めました。

塩漬けなど、当時としては可能な保存手段を用いて遺体を保存し、長い年月をかけて輸送する場合もあれば、やむを得ず当地に埋葬することもありました。また、一度は客死した土地に埋葬されながら、後年遺族が訃報を知り、その遺体(遺骨)を出向いて持ち帰ることもありました。

ただ、中には訪れた先を非常に気に入った結果として埋葬先に希望し、客死した地に埋葬されたケースも見られます。例えば日本ではお雇い外国人の内に故国に帰らず、日本国内に葬られた者の墓が青山霊園などに残されています。

一方、身元がはっきりしない場合、その昔遺体は皆、「無縁仏」として処分されました。供養する親族や縁者のいなくなった死者またはその霊魂、またはそれらを祭った仏像や石仏などを意味する用語ですが、現在の日本でもこの言葉はよく使われます。

現代の日本では一般に死者は火葬され、墓に葬られ、子供や兄弟など親類縁者によって供養されますが、代を重ねるに連れ、墓の承継者の消滅などによって無縁化する場合が出てきます。こうして埋葬者が無縁仏となった墓は大都市の霊園では約10%を超えるほどあるともいわれ、供養塔や無縁仏のみを集めた無縁墓地に合祀されたりします。

たとえ数代は供養する子孫が続いたとしても、縁者が遠方に移転したり、代が途切れたりする場合にもいずれは無縁仏と化します。確率論的には子々孫々まで供養される可能性の方がはるかに低く、全ての墓はいずれ無縁化する運命をたどります。

このように無縁墳墓は増え続ける可能性があることから、平成11年(1999年)から施行された法律では、墓地の管理者は、無縁墳墓に関する権利を有する者に対し、1年以内に申し出るべき旨を官報に掲載するとともに墓の見やすい場所に立札を立てるなどして公告し、期間中にその申し出がなかった場合には、無縁仏を容易に改葬できるようになりました。

また、一部にはどうせ無縁化するなら墓など作らず、自然葬や海洋散骨などの方法で、直接遺骨を海、山などの大自然の循環の中に返させようとする人々もあります。これは都市部における墓地不足のためでもありますが、墓園や宗教団体の商業主義に対する反感、宗教観の変化、核家族化、少子化による維持への不安も背景にあるものと考えられます。

また一方で、行政側が無縁仏の遺骨の置き場の確保に苦慮するようになり、一部自治体では遺骨を粉砕して無縁仏の減量化を図ったり、遺骨の保管年数を短縮したりするなどのケースも出てきています。

こうした無縁仏としての扱いは、何も日本に限ったことではなく、欧米にも無縁墓はあります。英語では「Pottersfield」と言い、軍籍の無縁墓では「無名戦士の墓」と呼ばれる共同墓があります。ローマ時代の採石場の後で、無縁仏六百万体が納骨されているカタコンブと呼ばれる地下墓地は有名です。

その昔、パリのセーヌ川で一人の少女の溺死体が見つかり、身元不明者として扱われたのち、こうした無縁墓に葬られました。ところが、このとき彼女のデスマスクが取られた、と信じられており、その後数多くの文芸作品の題材になり、このため1900年以降の芸術家の家では、この少女のデスマスクを壁に飾ることが流行になりました。

少女は、1880年代の終わりごろ、セーヌ川のルーブル河岸で遺体で見つかったとされます。その遺体には暴行の痕跡がなかったことから、自殺と考えられましたが、遺体が運ばれたパリの死体安置所の病理学者は、あまりの彼女の美貌に心打たれ、型工を呼んで石膏のデスマスクを取らせた、とされています。

何分古い話であり、果たして型工まで呼んで本当にデスマスクを取ったのかという疑問は当然わきます。また、この型工を取ったとされるモデル製造業者の末裔が、このデスマスクを見て死体から取ったものではないのでは、という疑義を呈しており、川から引き上げられた死体がこれほど明瞭な容貌を保っているということは通常ないと主張しました。

従って、本当にデスマスクなのかどうかすらもはっきりわからない伝承なわけですが、とまれ、このマスクは芸術関係者の間では人気となり、マスク表面の肌の引き締まり具合から推定するに、モデルである少女の年齢は16歳を越えることはないとされてきました。

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最初にデスマスクが作られたとされる1880年代以降、数多くの複製品が作られるようになり、そうした複製品は、あっという間にパリの前衛芸術家の間で、時代の先端を取り入れた内装品として使われるようになっていきました。

「異邦人」や「カリギュラ」などの作品で知られ、史上2番目の若さでノーベル文学賞を受賞した劇作家のアルベール・カミュなどもこのデスマスクを書斎に置いていた一人であり、ほかにも多くの芸術家が、彼女の謎めいた微笑に魅せられました。

作家ののみならず、彫刻家、画家など多くの芸術家たちがその不気味なまでに幸せそうな表情が物語るようになり、その微笑をモナリザの微笑にもなぞらえ、彼女の人生、死、そして何者であったのかについて、物語がまた物語を産んでいきました。

ある学者は、「この身元不明少女はその時代のエロティックな理想像になった」と語り、また別の作家は、身元不明少女を「彼女は繊細な蝶のようだ。のんきで爽やかで、生命のランプに向かってまっすぐ羽ばたいて飛び込み、そのきゃしゃな羽を焦がす。」などと美化しました。

このほか、ドイツの有名作家、ラインホルト・ムシュラーが1934年に出したベストセラー小説「未知数」では、デスマスクの少女を題材に、ある孤児だった女性が英国の外交官と恋に落ち、ロマンスの果てに捨てられてセーヌ川に身を投げるという感傷的な物語が語られました。この話は、1936年に同名タイトルで映画化されています。

そのほか小説としては、「主人公がデスマスクを凝視したあげく自身の娘の顔と信じこんで、幻覚と罪の意識から心臓発作を起こして死ぬ」といった、不気味な話を作った作家もいます。

近年になって、この身元不明の少女の顔は、欧米で心肺蘇生法の訓練用マネキン「レスキュー・アン」にも使われるようになりました。このマネキンは1958年にはじめて作られたものですが、その後1960年以降数多くの心肺蘇生法の講習会で使われるようになり、広く普及しました。このため、この顔は「史上もっともキスされた顔」と言われます。

無縁仏として単に葬られるだけでなく、死後も多くの人に生前の顔かたちが愛されたということは、亡くなった少女にとっても幸せなことでしょう。

デスマスクではありませんが、晩年不遇だった、村橋久成もまた、鹿児島と札幌にその銅像が建てられています。また、鹿児島中央駅前東口広場に薩摩藩英国留学生17名の像、「若き薩摩の群像」の一人としてその姿が残されています。さらに、札幌市にある北海道知事公館前庭に村橋の胸像「残響」が2005年に建てられています。

が、わたくし的には死して銅像を残すというのは、偉業を成し遂げた人を讃えるという意味では一定の理解はできるものの、やはり個人崇拝の対象やひいては神格化の対象にもなりうるのであまり良いことだとは思っていません。

宗教で言うところの偶像崇拝にもつながりかねませんし、ソ連のレーニン像、北朝鮮の金日成像や、2003年4月9日に撤去されたイラクのサッダーム・フセイン像など特に独裁的な国家の指導者に多く見られるものでもあります。

なので、セーヌ川の少女のように、自分の顔が芸術の対象になりうる、と自信がある人以外はデスマスクや銅像は造らない方がいいと思います。

それでも作って欲しい?そういうあなたは、まず鏡を見てじっくりと客観的判断をされることをお勧めします。

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