次郎長と鉄舟 ~静岡市清水区

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1955年8月3日、集英社が、少女漫画雑誌「りぼん」を創刊しました。

「少女ブック」の妹雑誌および幼女向け総合月刊誌として創刊されたもので、その掲載内容は当初、グラビア・おしゃれや習い事についての読み物・少女漫画などで、定価は100円でした。

1958年ごろから、少女漫画の数が増えて純粋に少女漫画誌と呼べる内容になり、1960年代には「ドンキッコ」、「魔法使いサリー」、「秘密のアッコちゃん」がアニメ化され、テレビで放映されて大人気になりました。

また、1970年代末期から1980年代半ばにかけて、マンガ評論流行の影響もあり、本誌の特徴的な作風を「おとめちっく」と呼ぶ一種のブームが起こりました。当時の主要作家の1人、田渕由美子が早稲田大学に在学したことから、「早大おとめちっくくらぶ」をはじめ、東大ほか多数の高校・大学に同種のサークルが男子学生を中心に組織されました。

また、1970年代から付録の多様化が行われ、特に1975年以降は集英社専属のおとめちっく作家による付録が毎号付属し、またその付録自体のファンシーグッズ(装飾品や装身具)としてのセンスのよさが、この時期の高年齢層の読者の支持を集めました。

1977年には小学館から「ちゃお」が創刊されて人気を博し、「りぼん」、「なかよし」とともに、三代少女漫画雑誌(月刊誌)といわれるようになりました。「なかよし」は、りぼんよりも1年早い1954年に講談社が創刊したものです。

講談社はその後1962年にも週刊誌、「少女フレンド」を創刊して好評を博しましたが、これに続いて翌年の1963年には集英社も「マーガレット」を創刊してライバル誌となり、のちに小学館が1970年に「少女コミック」でこの市場に参入し、週刊誌の部門でも、この3社が競合するようになりました。

月刊誌、「りぼん」は1980年代後半から1990年代半ばにかけて部数が上昇し始め、1994年には少女漫画誌では史上最高の部数となる255万部を発行しました。しかし、その年から部数は徐々に減少し、2002年には発行部数で「ちゃお」に抜かれてしまいます。

2010年10月から2011年9月までの平均発行部数は20.9万部と、最盛期に比較して10分の1以下の数字にまで下がりましたが、今度は「なかよし」の発行部数が低下したため、現在では三大小中学生向け月刊誌中の最下位から脱しました。今月、創刊60周年を迎えることになります。

りぼんからアニメ化されたものは、上述の魔法使いサリーやひみつのアッ子ちゃんがありますが、比較的最近のものでは、1990年に「ちびまる子ちゃん」があり、フジテレビ系列ほか放映されて、国民的大ヒットとなりました。

本作品は、1974~5年の昭和50年代初期に、静岡県清水市(現、静岡市清水区)の入江地区で少女時代を過ごした、作者の「さくらももこ」の投影である小学校3年生の「ちびまる子ちゃん」が、家族、友達とともに繰り広げる日常生活を描いた、笑いあり、涙ありのコメディです。

初期は作者自身が体験した小学生時代の実話をもとにしたエッセイ風コミックでしたが、長期連載になるに従って作風が変化し、ほぼフィクションのみの話になっていきます。それに伴い、登場キャラクターも初期は比較的リアルな人物描写だったものが、次第にマンガチックにデフォルメして描かれるようになりました。

もともと実話がベースだったため、ギャグ漫画として独白風のツッコミが入っていることが本作の特徴の一つです。時に自虐的でもあります。さくらももこは、本名(旧姓)、三浦美紀といい、1965年5月8日生まれ。

清水市立入江小学校、同・第八中学校、静岡県立清水西高等学校卒業後、静岡英和女学院短期大学(現・静岡英和学院大学短期大学部)国文学科在学中に「りぼんオリジナル」冬の号(集英社)にて「教えてやるんだありがたく思え!(教師をテーマとしたオムニバス作品。「ちびまる子ちゃん」第1巻に掲載)でデビュー。

英和女学院短大卒業後、上京し「ぎょうせいに」入社しましたが、勤務中に居眠りするなどして上司から「会社を取るか漫画を取るかどちらか選べ」と迫られ「漫画家として生活していく」と回答したため、同年5月末にたった2か月の勤務で退職。同年8月、「りぼん」で「ちびまる子ちゃん」の連載開始。

漫画家のほかにも、エッセイストとしても活躍しており、独特の視点と語り口で人気です。初期エッセイ集三部作「もものかんづめ」「さるのこしかけ」「たいのおかしら」はいずれもミリオンセラーを記録しました。

子供の頃、「青島幸男みたいに偉くなりたい。歌を作りたい」と言ったといい、これに対して父のヒロシは、「青島幸男は国会議員だ。無理に決まっている」と一蹴しました。

その青島を目標としていたさくらが大人になり、漫画ちびまる子ちゃんを描くようになったわけですが、この作品の中でも、主人公であるまる子が青島の作詞したコミックソングに感銘を受け、「大人になったら青島幸男みたいな曲を作る!」と叫ぶシーンが出てきます。

そしてその夢を忘れなかったまる子=さくらが、のちに念願かなって作詞した曲が、大ヒット曲「おどるポンポコリン(BBキング)」だったといいます。

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このさくらが育った清水市は、静岡県中部にあります。現在の静岡市清水区の大半で、旧蒲原町および旧由比町を除いた部分に当たります。2003年4月の合体合併により、現在の静岡市の一部となりました。

日本平の東麓に位置し、古くから富士山を望む湊町です。天然の良港である折戸湾を持ち、古くから海運中継地として栄えてきました。東海道の宿場町でもありますが、近隣には、江尻・興津・由比・蒲原などの宿場もあります。

清水湊はこれらの中でも中心的な宿場であり、西国の赤穂の塩等を江戸へ送る中継基地としての役割を担うと共に、富士川舟運を通じた信濃・甲斐方面からの廻米輸送基地でもありました。

また、駿河をはじめ甲斐、信濃の江戸幕府領地からの年貢が富士川沿いの鰍沢河岸、岩淵河岸に集められ、ここから清水湊に送られ、大型船に積み替えられて江戸へ回送されていました。明治以降も続いて発展し、1899年には貿易港の指定を受ける一方、軍事拠点としても発展し、日本軽金属、東亜燃料、日立製作所等々の軍事工場が次々に進出しました。

1945年7月7日には、米軍による清水大空襲を受けました。同月30~31にも米軍駆逐艦からの艦砲射撃を受けて大きな被害を受け、死者・行方不明360名、重軽傷者445名、家屋被害8689棟に及びました。

しかし戦後は、戦時中に臨海部にあった大企業の技術を引き継ぐかたちで民生品製造工場が作られ、昭和20~30年代にはさらに各種工場が建設され、清水の工業生産高は一時県下一を誇りました。しかし、その後のサービス産業へのシフトなどの産業構造の変化によりその地位を失いました。現在の工業生産高は一時の底を脱し微増に転じているようです。

現在の清水の産業といえばやはり貿易であり、主要輸出品としては二輪自動車・自動車部品・機械類などのが多く、ボーキサイト(アルミの原鉱)・液化天然ガス等の輸入港として国際貿易港としては中枢国際港湾に次ぐ位置を占めます。また、清水港はマグロの水揚げ量日本一で知られています。

このほか、あまり知られていませんが、バラの生産量が多く、かつては日本一であった時期もあります。県内各都市がそうであるように、みかんや緑茶の生産も多いほうですが、漁業ではマグロ以外では駿河湾で獲れるシラスや桜えびなどの海産物が有名です。

江戸初期に、幕府は大坂や江戸の橋や河川、道路を整備して都市機能を持たせるともに、清水湊のような直轄港を整備して国内貿易の振興を図る政策を打ち出しました。が、やはりトップダウンだけでは無理があり、多くの牢人に労務管理として口入業を行わせました。

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このため清水湊のような大きな港町には多くの荷役人が集まってきましたが、これらの人夫の荷役作業の口入れなどで権力を高め、地元に君臨する任侠人を容認するような土壌が江戸時代を通じて育ちました。そうした「親分」の中でも、とくに幕末に力を伸ばしたのが、かの有名な清水次郎長です。

「海道一の親分」ともいわれ、大政、小政、森の石松など、「清水二十八人衆」という屈強な子分がいたとされます。

文政3年(1820年)、清水町美濃輪町(現清水区美濃町)の船持ち船頭・高木三右衛門(雲不見三右衛門)の次男に生まれました。幼少時の名は長五郎といい、母方の叔父にあたる米穀商の甲田屋の主、山本次郎八に実子がなかったため、甲田屋の養子となりました。

その幼少時代の仲間に「長」という子供がいたために、周囲が長五郎を次郎八の家の長五郎、略して次郎長と呼ぶようになり、自らも長じてからも次郎長で通すようになりました。

幕末のころの清水湊というのは、上述のとおり年貢米を江戸へ輸送する「廻米」でもっており、湊の廻船業者の多くは口銭徴収を副業とする口入屋でもありました。が、次郎長が養子にもらわれた山本家は、清水湊の中でも新開地に属する美濃輪町にあり、ここには牢人出の多い廻船業者と一線を画する新々の海運業者も多く、全うな商売をしていました。

養父の次郎八もそうでしたが、天保6年(1835年)に死去し、このときまだ若干15歳だった次郎吉が甲田屋の主人となりました。ところが次郎長は、このころからもう自在奔放なところがあり、妻帯して家業に従事する一方で、博奕に手を出し、頻繁に喧嘩を繰り返すようになりました。

長じてからもその素行は直らず、そして23歳になった年、喧嘩の果てについに人を斬って死なせてしまいます。このとき次郎長は、妻を離別して実姉夫婦に甲田屋の家産を譲り、弟分であった江尻大熊らとともに出奔し、無宿人となりました。そして、諸国を旅して修行を積み、交際を広げ成長した次郎長が清水湊に帰ってきたのは、27歳のときでした。

弘化4年(1847年)のことであり、このとき江尻大熊の妹おちょうを妻に迎え、ここに一家を構えました。このころには子分も何人かでき、清水一家の名前も少しは売れるようになっていましたが、長く清水を不在にしていたためにここを牛耳る博徒の勢力図も変わっており、彼等との抗争が次第に激しくなっていきます。

そんな中、またまた賭場でモメて人を斬り、逃亡の旅に出た次郎長は、今度はその後およそ10年に渡って地方を放浪します。そして、38歳になったころ、清水に残していた妻のおちょうが病気で亡くなったという報に接しました。

彼女の病死の知らせに、慌てて清水へ帰る途中、尾張知多亀崎乙川において彼を捕まえようとした十手持ちの保下田(ほげた)の久六を斬りました。その久六を斬った刀を、次郎長の名代で、四国の金毘羅さんに奉納に行ったのが、子分の森の石松でした。

無事に刀を奉納して帰る途中、石松は近江国の親分から、おちょうさんの香典にと渡された25両の大金を預かります。そして浜松まで戻ってきましたが、このとき石松が大金を持っている事を知った、戸田吉兵衛という博徒がその金を奪って、石松を殺してしまいます。

無論、次郎長はすぐに報復し、吉兵衛を斬りますが、さらにこの年には、菊川において下田金平という別の博徒と手打ちを行う、と言った具合で、これら一連の出来事は、すべて次郎長が清水に38歳で戻って3~4年のうちに起こっています。彼にとってはその生涯で一番激しい起伏のあった一時期です。

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さらに43歳になった文久4年(1864年)には豊川において、甲斐の「黒駒勝蔵」と激しいい戦いを演じました。のちに次郎長最大のライバルと言われる男です。

勝蔵は、甲斐国黒駒(現山梨県笛吹市御坂町上黒駒)の名主の次男として生まれた男で、25歳で渡世人となり、隣村の竹居村の中村安五郎(竹居安五郎)の子分となりました。40歳のとき、安五郎が役人に捕縛され獄死したあとは、その手下を黒駒一家としてまとめ、黒駒を拠点に甲州博徒の大親分として勇名を関八州に轟かせるようになります。

このころから勝蔵ら甲州博徒は、富士川舟運の権益を巡って、清水次郎長と対立するようになり、勝蔵は次郎長の勢力圏である駿河国、岩淵河岸や興津宿を襲撃しました。これを受けて勃発したのが、上述の抗争であり、文久4年(1864年)5月に起こりました。

博徒抗争史上かつてない殺戮戦だったといわれており、黒駒の勝蔵が三河の平井村(現・豊川市平井町)の雲風亀吉(平井亀吉)のところに滞在していること知った次郎長は、大政以下の中心的な子分を勝蔵、亀吉襲撃に送り込みました。

朝早く、豊川河口(現在の豊橋市梅藪町)の前芝海岸に舟で乗り付けた次郎長の襲撃隊は亀吉の自宅へ向かい、勝蔵たちが昼間から酒盛りをしている最中を襲いました。油断しているところを襲われた亀吉と子分たちは必死で応戦し、親分の勝蔵と亀吉を逃がすことはできましたが、子分5人は全員が討ち死にしました。

この時、酒盛りに一緒にいた亀吉の妾も一緒に殺されており、襲われた亀吉の自宅の座敷は、血だまりで染まっていたと言われています。勝蔵、亀吉の殺害には失敗しましたが、この一件により、次郎長一家の名前は東海道に鳴り響きました。

勝蔵はその後の幕末の動乱期の慶応4年(1868年)に黒駒一家を解散し、「小宮山勝蔵」の変名を用いて、「赤報隊」に入隊し、官軍として戦っています。赤報隊は、王政復古により官軍となった長州藩、薩摩藩を中心とする東山道鎮撫のための一部隊です。

勝蔵はここに入って戊辰戦争に参加しましたが、この赤報隊というのは勝蔵のような男を受け入れたことからもわかるように博徒や牢人を集めた烏合集団でした。旧幕府軍を挑発するために江戸の市街を焼き払ったり、伊勢長島藩主・増山正修から軍資金という名目で3000両を強奪するなど、必ずしも正義の軍であったとは言えない一面がありました。

このため、のちに「偽官軍」として新政府軍に処罰されるところとなり、このとき隊長であった元・下総相馬郡(現茨城県取手市)の郷士、相楽総三は処刑され、赤報隊は解散となりました。この後、勝蔵は京都で官軍の一部隊、徴兵七番隊(のち第一遊撃隊)に入隊し、「池田勝馬」の変名を名乗り、駿府、江戸、仙台と転戦しました。

戊辰戦争終結後、徴兵七番隊が解散されると明治3年(1870年)甲斐へ戻り、甲斐の黒川金山の採掘に携わりました。しかし、翌年脱隊の嫌疑で捕縛され入牢し、同年10月14日に山梨県甲府市酒折近くの山崎処刑場で斬首されました。

一説によれば、勝蔵は自分の功績に対して新政府に恩賞を求めたといい、これに対して新政府としては博徒を官職につける訳にもいかないので、過去の悪事を理由に勝蔵を捕え、処刑したといわれています。このように、次郎長の最大のライバルとされながらも、日ごろの素行の悪さや末路の悲惨さなどから、後世の評判は何かとかんばしくありません。

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一方ライバルの次郎長は、勝蔵が赤報隊に身を投じたのと同じ慶応4年(1868年)に、東征大総督府の駿府町差配役から清水湊の警固役を任命され、この役を7月まで務めました。

同年9月18日、旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いて品川沖から脱走した艦隊のうち、咸臨丸は暴風雨により房州沖で破船し、修理のため清水湊に停泊しました。ところが、その修理が遅れたために、新政府海軍に追いつかれて交戦に発展し、このとき見張りのため船に残っていた船員全員が死亡して海に放り込まれました。

彼等の遺体は、逆賊として清水港内に放置されていましたが、市民の誰もが新政府の威光を恐れて弔おうとしません。このとき、次郎長は小船を出して彼等を収容し、現在の清水港マリンパーク裏にあった向島の砂浜に埋葬して、ここに「壮士墓」を建立しました。

死体の収容作業を見ていた新政府軍は、その行為を咎めましたが、次郎長は一喝、「死者に官軍も賊軍もない」と言って突っぱねたといいます。この話を、新政府において後に静岡藩大参事となる、旧幕臣の山岡鉄舟がのちに聞き、次郎長の義侠心に深く感じ入ったといわれており、これが機縁となって次郎長は山岡と深い付き合いをするようになります。

以後、明治時代以降の次郎長といえば、数々の慈善事業をした篤志家として知られるようになります。1871年(明治4年)には旧久能山東照宮の神領である山林開墾を企図しますが、このときは地元の大谷村の村民の抵抗に遭い断念しています。が、それに懲りず、1874年(明治7年)には本格的に富士山南麓の開墾事業に着手。

このころまでには完全に博打を止めていた次郎長は、清水港の発展のためには茶の販路を拡大するのが重要であると着目し、蒸気船が入港できるように清水の外港を整備すべしと訴え、また自分でも横浜との定期航路線を営業する「静隆社」を設立しました。

このほかにも県令・大迫貞清の奨めによって静岡の刑務所にいた囚徒を督励して現在の富士市大渕の開墾に携わったり、私塾の英語教育を熱心に後援しました。また、明治に入ってから駿府では旧幕臣が新政府に対する恨みを込めてテロ行為を行う、といった事件が相次ぎましたが、次郎長は地元で血を流させないため双方の調整役を買ったりしています。

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ところが、明治17年(1884年)に、突如次郎長は「賭博犯処分規則」により静岡県警察本所に逮捕され、同年4月には懲罰7年・過料金400円に処せられ、井宮監獄(静岡市葵区井宮町)に服役しました。しかし、このときの静岡県令(のちの知事)で、旧幕臣の関口隆吉など尽力により、翌年には刑期の満了を待たずに仮釈放になりました。

その後も次郎長の慈善事業は続き、明治19年(1886年)には、済衆医院という病院を土佐出身の医師らの援助で清水に開設しているほか、富士山南麓開墾官有地払い下げを受け、その開発を横浜の実業家、高島嘉右衛門に依頼しています。

1888年(明治21年)7月19日には深い親交のあった山岡鉄舟が死去し、谷中全生庵で行われた葬儀には清水一家で参列しています。が、自身もその5年後の明治26年(1893年)、風邪をこじらせ死去。享年74(満73歳没)。

戒名は碩量軒雄山義海居士。その墓は、清水区南岡町の梅蔭禅寺にあり、ここには妻のおちょう、大政、小政の墓もあり、次郎長の銅像もつくられています。ちなみにこのおちょうは二代目であり、幕末の動乱の中で精鋭隊(慶喜護衛隊、後の新番組)の隊士に殺害されています。

この新番組の隊長格だったのが山岡鉄舟であり、次郎長と親交があった山岡が統じる隊のメンバーがなぜ次郎長の妻を殺害したのかは謎ですが、おそらくは幕臣である山岡と博徒の次郎長が親しくするのをよく思わない隊士も多かったのではないかと推察されます。

この山岡と次郎長の関係ですが、駿州政財界の御意見番といわれ、元県議会議長を務めた村本喜代作は、1956年に遠州新聞社から「遠州侠客伝」という次郎長の伝記を出しており、この中で、次郎長は鉄舟との出会いがなかったらここまで大物にはなれなかっただろうと書いています。

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山岡鉄舟は、天保7年(1836年)、江戸の幕臣の絵に生まれ、明治政府では、静岡藩権大参事、茨城県参事、伊万里県権令、侍従、宮内大丞、宮内少輔を歴任しました。

勝海舟、高橋泥舟とともに「幕末の三舟」と称され、人物として評価の高かった人です。剣・禅・書の達人としても知られ、身長6尺2寸(188センチ)、体重28貫(105キロ)と大柄な体格で、家が武芸を重んじる家だったため、幼少から神陰流、樫原流槍術、北辰一刀流を学んで武術に天賦の才能を示し、維新後、一刀正伝無刀流の開祖となりました。

幕末には、清河八郎とともに新選組・新徴組の前身にあたる浪士組を結成。江戸無血開城を決定した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、官軍の駐留する駿府(現静岡市)で単身で西郷と面会。この時鉄舟は、同じ幕臣の勝海舟から託されていた手紙を西郷に渡し、徳川慶喜の意向を述べ、朝廷に取り計らうよう頼みました。

この際、西郷から5つの条件を提示されますが、それは、江戸城を明け渡す、城中の兵を向島に移す、兵器をすべて差し出す、軍艦をすべて引き渡す、将軍慶喜は備前藩にあずける、という厳しいものでした。鉄舟はそのうちの4つの条件を飲みましたが、このうち最後の条件だけを拒んだところ、西郷はこれは朝命であると凄みました。

これに対し、鉄舟は、もし島津侯が同じ立場であったなら、あなたはこの条件を受け入れないはずであると反論したところ、西郷はこの論理をもっともだとして認め、これによって江戸無血開城がすみやかにおこなわれるところとなりました。

明治維新後は、徳川家達に従い、駿府に下り、静岡藩藩政補翼となりました。このとき知り合ったのが清水次郎長であり、咸臨丸の一件を聞いてからは意気投合するようになり、彼と共同で幕臣の救済事業である牧之原開墾などにも取り組みました。

西郷のたっての依頼により、明治5年(1872年)に宮中に出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕えました。その侍従時代には、深酒をして相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年(1873年)に皇居仮宮殿が炎上した際、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたなど、剛直なエピソードが知られています。

宮内大丞、宮内少輔を歴任しましたが、明治21年(1888年)7月19日9時15分、皇居に向かって結跏趺坐のまま絶命。死因は胃癌でした。享年53。墓は、東京谷中の臨済宗国泰寺派の寺院、全生庵にあります。没後に勲二等旭日重光章を追贈されました。

その行動力は、西郷隆盛をして「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と賞賛させました。明治政府への致仕後、勲三等に叙せられましたが、これを拒否しており、このときのエピソードが残っています。

勲章を持参した井上馨に対し、「お前さんが勲一等で、おれに勲三等を持って来るのは少し間違ってるじゃないか。(中略)維新のしめくくりは、西郷とおれの二人で当たったのだ。おれから見れば、お前さんなんかふんどしかつぎじゃねえか」と啖呵を切ったそうです。

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第二次世界大戦後の極東国際軍事裁判で、東郷茂徳と広田弘毅のアメリカ側弁護人を務めた「ジョージ山岡」は曾孫にあたります。

ジョージは、静岡県出身の父・鈴木音高のもと、5男1女の長男としてワシントン州シアトルで生まれました。父の音高は、日本では自由民権運動の活動家の中でも過激派として知られており、静岡事件では中心人物として無期懲役を宣告され、北海道で10年間服役した後、1897年にアメリカへ渡ったという経歴があります。

この静岡事件というのは、自由民権運動の名のもとに、明治政府を顛覆しようとする旧幕臣らが起こした事件です。中心人物は、山岡音高と、中野次郎三郎でした。中野はもと丹波亀岡藩(京都府)の藩士で、明治15年静岡の遠陽自由党の常議員となりました。岳南自由党の党員であった山岡音高とは自由民権運動を通じて知り合い、事に及びました。

彼等ははじめ、容易に藩閥政府を顛覆し得ると楽観していましたが、が、各地での試みが失敗するのを見て、挙兵では目的達成は困難であると考えるようになります。このため、少数の者による大臣などの要人の暗殺によって、その目的を実現しようということになりましたが、そのためには先立つものが必要だということになりました。

このため1886年(明治19年)、浜松の金指町にあった銀行に押し入り、ここから逃げようとしたところ、追跡してきた警察の剣道師範を待ち伏せのうえ殺害してしまいます。一味はその犯行が発覚しないのをいいことに、さらに翌年7月に箱根で行われる予定の箱根離宮落成式で大臣を殺害し、天皇を擁立しようという計画を立てました。

爆弾まで作って準備したといいますが、官と通じていた仲間の密告によって事前に発覚、首謀者善意が捕縛されました。罪名は主として強盗であり、1887年(明治20年)に判決言い渡しがあり、首魁2人は徒刑14年、幹部12人は徒刑12年、ほか11人は懲役または禁錮に処せられました。徒刑とは、男は島流し+労役、女は内地で労役に就かせたものです。

しかし、10年後の1897年(明治30年)、英照皇太后死去に際しての大赦減刑に浴し、生存者は大部分、出獄することができ、その後、山岡は単身、アメリカ、南カリフォルニアに移民として渡りました。

1938年に発刊された「在米静岡県人寫真帖」には、初期の移民が紹介されており、この中に山岡音高は「1897年渡米」とされ、ほかに9名ほどの日本人名が記載されています。男性名ばかりですが、多分ほかに女性もいたことでしょう。

1898年(明治31年)には、山岡はシアトルへ移住し、ここで友人二人と合資会社を設立して、日本品の貿易の傍ら鉄道人夫の請負を始めて、成功しました。この当時は、日本人蔑視がはなはだしかったことから、山岡もともに渡米した女性と結婚したと思われます。

そして、1903年(明治36年)にジョージが生まれ、のちにワシントン大学へ進学しました。大学では、法律学を専攻する傍ら、日本人学生会の理事を務めるなどの英才でした。1924年にはインディアナポリスで開催された世界学生大会に、ワシントン大学から選ばれた日系人学生2人のうちの1人として参加しています。

この頃から当時の二世の中でも、将来のシアトル日系人社会における指導者の一人として見なされるようになりましたが、周囲の期待とは裏腹に、山岡はワシントン大学卒業と同時に、首都ワシントンD.C.にあるジョージタウン大学ロー・スクールに進学します。

在学中には、ジョージタウン・ロー・レビューのビジネス・マネージャーを務め、1928年に法務博士号を取得。卒業後は同年から翌1929年まで在米日本総領事館顧問、1929年から1930年にかけてはロンドン海軍軍縮会議日本代表団顧問を務めたほか、1931年にはニューヨーク州で日系人として初めて弁護士登録を受けました。

同年、ニューヨークの法律事務所でアソシエイトとしての活動を開始し、1940年には同事務所のパートナーに昇格ました。東部に移住した結果として、山岡は開戦後も、日系人の強制収容に巻き込まれることもなく、法律家としての活動を続けることができました。

戦後に東京裁判が行われた際は、日英両語に堪能というだけでなく、その能力と識見の高さを評価され、A級戦犯の弁護人として日本に赴くこととなり、ジョージ・F・ブルーエットやウィリアム・ローガンなどと並んで弁護団の要としての役割を果たしました。

帰国後も、弁護士として日米関係の構築に努め続け、1968年に日本政府から瑞宝章を授与されました。1981年11月19日にニューヨークのマンハッタンでタクシーに乗り込もうとした途中、その場で心臓発作により78歳で死去しました。

東京裁判においては、東郷茂徳と広田弘毅の弁護人を務めました。東郷茂徳は、開戦時の外相だったがために戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没。広田弘毅は、戦後の極東軍事裁判で文官としては唯一のA級戦犯として有罪判決を受け死刑となりました。

日本が無条件降伏した日が近づいています。今年は戦後70年。暑い一日になりそうです。

2015-1710

誕生日

2015-4582

今日、7月31日は「ブルームーン」です。

これは、「ひと月に2回満月がやってくる」というものであり、今日はその2番目です。

月の満ち欠けは約29.5日周期。基本的に1カ月に1回しか満月にはなりませんが、誤差による月の周期のずれにより、数年に1度ブルームーンとなります。残念ながら、必ずしも青く輝く月が見えるわけではないそうですが、ブルームーンといえば、アメリカの有名クラフトビールがあります。

なので、今宵は彼女と二人で、ブルームーンビールを飲みながらブルームーンを眺めたりすると、よりロマンチックな気分になれるかもです。ちなみに、2015年7月は、2日と31日が満月。前回は2009年12月2日と31日。次回は2018年1月2日と31日です。

実は、今日は亡くなった先妻の誕生日でもあります。生きていれば満51。若くして逝ってしまってから、今年でもう11年、来年でひとまわり12年です。

人生のサイクルは12年くらいで1周することが多いとよく言われます。干支もまた12年で繰り返します。これはこのスパンで人生のアップダウンが繰り返すということを昔の人が身をもって感じ、生み出した暦なのではないかと思います。

この干支と関連づけて生み出された占いが四柱推命であり、これを簡略化したものが、六星占術だと聞いたことがあります。ほかに12年サイクルの「春夏秋冬暦占い」というのもあるそうです。

確かに自分の人生を振り返ってみても、ほぼ12年のリズムがあるように思えます。先妻が亡くなったのは、私にすれば、六星占術でいうちょうど12年サイクルの最後にあたる「減退」の年であり、いわゆる「大殺界」のおわりでした。

占いの好きな方はよくご存知でしょうが、この大殺界というのは、12年サイクルの人生のうちの最後の3年間にあたる期間で、運気の流れが良くないとされる時期です。それぞれ、陰影・停止・減退と呼称され、何を始めるにも何をやるにもよくないとされ、これらの年には特に注意して慎重に行動するべきである、といわれます。

今年の私はこの大殺界のどまん中、「停止」であり、すべてが空回りに終わり、八方塞がりの状態とされます。仕事も大きな成果は期待できず、過去の遺産を食い潰して生きていくことになるそうで、この時期は何もせず、ただおとなしく耐え忍ぶしかない、といいます。

ま、あたっていなくもありませんが、それほど現状がひどいというわけでもありません。が、すべてが順風満帆かといえば、そうでもなく、確かに物事が滞り気味です。

振り返って12年前の今頃を思い出すと、このころは現在よりもはるかに状況は悪く、確か先妻の病気が発覚したころでした。仕事も手につかず、辛い日々でした。そして、翌年の大殺界最後の年で「減退」でしたが、この年は身内や知人の不幸が相つぐ、とされます。そして、まさにその通りとなりました。

従って、私としてはこの大殺界なるものを肯定したい側なのですが、だからといってこれを人に押し付けようとは思いません。生活のリズムは人それぞれであり、従って人生のリズムも色々あるはずです。何も12年サイクル説を頭から信じる必要はないと思います。

ただ、悪い事があるかもしれないよ、ということは心に留め置き、一応心構えだけはしておいたほうがいいのかも。何ごとも起こらずに大殺界が終わればそれはめでたしめでたしで、何も心構えせず、もう少し気を付けておけばよかったと、後で後悔するよりはマシでしょう。

長く生きていると不思議なもので、その昔は感じとることができなかったような時間の流れのようなものが読めるようになってきます。人生経験が豊富になったためもあるでしょうが、もしかしたら次にはこうしたことが起こるかもしれない、と思い、予防線を張っていたら案の定、その通りになった、ということが最近よくあります。

上の四柱推命や六星占術のような占いはそうした「宇宙の理」のようなものを、長い間に人々が感じ取り、それをわかりやすく説明したものなのかもしれず、案外と人は知ってか知らずしてか、そのルールにのっとって生きているものなのかもしれません。

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ルールといえば、誕生日というのもひとつの決まりごとです。ただ、もともとそうしたものが定められていたのではなく、人類が生活するために「暦」というものを発明してから発生したものです。従って大自然の中にもともと定まっているものではなく、春に生まれようが冬に生まれようが、その生まれた日がその後の人生に影響を与えはしません。

しかし、地球を含めた惑星系は、規則正しく太陽のまわりを周回しながら、それぞれが影響しあっているのではないか、そしてそれは人の生にも影響を与えているのではないか、と昔の人は考えました。潮の満ち引きが月によって引き起こされるように、確かに星と人の間には何か定まった物理関係がありそうです。

そこで生まれたのが西洋・東洋の占星術であり、これらは生まれた人の誕生日とその日の惑星の運行状況から運命を占います。六星占術しかり、四柱推命しかりであり、このため、その占いに従えば、誕生日の同じ人の人生は自分の人生と同じ、ということになります。

しかし100%同じか、といえば、まず生まれた場所が違います。その地理的な位置関係の違いは、惑星の運行からの占い結果にも影響を与えそうです。加えて、育った環境も異なり、生まれ持った能力も後天的に与えられる教育に大きく左右されます。

従って、同じ誕生日だからといってまるで同じ人生にはならない、というのがこれらの占いを信じる人達の主張です。確かに一理あります。また、生まれた年が違えば、星の運行の状況は違います。従って、もし人の一生が星々の影響を受けるのなら、誕生日が同じでもまったく同じ人生になるとはいえません。

ただ、同じ誕生日に生まれた人のその時の天上の太陽の位置は同じです。誕生日の「日」とは太陽のことです。つまり、我々が住んでいる地球が一年365日をかけてこの太陽の周りを回ることを基準として、この「日」というものを決めているわけです。従って、同じ誕生日の人は、生まれたときの黄道上の太陽の位置が全く同じ人ということになります。

だとすれば、我々のすぐ近くにある数ある星の中でも最も巨大なこの恒星からの恩恵の度合いはほぼ同じということになり、ゆえに同じ日に生まれた人の太陽から受ける影響はほぼ同じではないか、とする説はある程度の説得力をもちそうです。

太陽の影響によって生まれた時に与えられた基礎的な性格が同じだとすれば、相似的な人生を歩むのではないか、その一生に類似点が出てきてもよさそうだ、ということはなんとなくいえそうです。

それでなくても、同じ誕生日の人というのは、なにかと親近感を感じるものです。そこで、私と同じ誕生日の人にどんな人がいるか、ウィキペディアで調べてみました。

私は3月3日の雛祭り生まれですが、同じ誕生日を持つ人としては、有名なところでは、電話機の発明者であるアレクサンダー・グラハム・ベル(1847~1922年)、小説家の正宗白鳥(1879~1962年)、第81代内閣総理大臣、村山富市(1924年~)などがいます。

他にもっと若い世代では、元サッカー選手のジーコ、アナウンサー徳光和夫、タレントの栗田貫一、マッハ文朱、坂口杏里(女優、坂口良子の娘)なんて方々も誕生日が同じです。

同じく太陽を基調に占いの原理を定めている西洋占星術では、それぞれ同じ「魚座」ということになります。「水」の星座であるため、流れて形を変えていく水のように気分が変わりやすい反面、なににつけても柔軟性があり、感受性が強くて、詩情豊かとされます。

2~3のウェブ占いによれば、この中でも、3月3日生まれは、「多才で想像力に富み、鋭い感性と理解力に恵まれている」といった長所がある一方で、「決断力に欠け、飽きっぽい、情に流されやすい」どの短所があるといいます。

そういわれてみればそのようなそうでないような。上であげた有名人にも当てはまるような気もしますが、身近な人ではないので判然としません。ただ、このほかの3月3日生まれの人のリストを眺めていたところ、有名か無名かは別として、やたらに画家や漫画家・作家、俳優や脚本家、映画俳優といった芸術関係に携わる人が多いのに気がつきました。

私自身も写真家のはしくれです。「想像力に富み、鋭い感性と理解力に恵まれている」ということは芸術家に不可欠な才能であり、案外とこの占いは当たっているのかもしれません。

また、やたらにAV女優とされる人も多く、数えてみると9人もいました。一応「女優」であることから芸術性も求められるのかもしれませんが、「情に流されやすい」ところと関係があるのかもしれません。

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ちなみに、亡くなった先妻の誕生日は今日、7月31日ですが、この日もやけに女優・俳優になった人が多い年です。名のあるところでは、石立鉄男、和泉雅子、岡崎友紀、ウェズリー・スナイプスと言った人達ですが、数えると声優も含めてなんと、15人もいました。

先ほどと同じく、ウェブの占い結果をみてみると、7月31日生まれは、独立心が強い野心家で、創造力があり、独創的、粘り強いなどの性格を持つとされ、これは確かに一般的に俳優の素質として必要な性格といわれているものと一致します。

実は、亡くなった家内も高校時代には演劇部に入っており、高校を卒業して亡くなるまでも大の演劇ファンでした。私も何度もいろんな演劇に連れ出されましたが、懐かしい思い出です。亡くなるまで、いろんなドラマの脚本をネットで集める、ということに執着していたようで、その名残が私のパソコンに今も残っています。

このほか、俳優ではありませんが、数々のミュージカルに出演した、元歌手でアイドルの本田美奈子さんも同じ誕生日で獅子座生まれです。家内と非常に共通点の多い人で、生まれたのも同じ東京で、年齢は家内より3つ下ですが同年代といえます。亡くなったのも本田さんが2005年、家内が2004年と前後しており、いずれも都内の病院です。

やせて華奢な体つきなどもそっくりで、気のせいか顔つきも似ているような気がします。死因も、種別は違えど癌だったというのにも奇縁を感じます(本田さんは白血病という血液の癌、家内は子宮頸がん)。

選んだ職種も育った環境も違ったわけですが、誕生日以外では生まれも育ちも東京、という一致点があります。しかも演劇という共通項もあり、性格も似ているようです。母親思いで、気さくな人柄というところは共通しており、本田さんと生前親交のあった関係者は「決して人の悪口を言わない人だった」と口を揃えますが、わが妻も同じでした。

人との絆を大切にする人であったともいい、家内も住んでいた家の周辺住人との絆を大切にし、ずいぶんと可愛がられていました。唯一本田さんとの違いは、彼女は私と結婚して一児を設けましたが、本田さんは生涯子供を持つことはありませんでした。が、とても子供好きであったことが知られています。

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私のひとりよがりかもしれませんが、これほど共通点が多い人もめずらしく、もしかしたら「類魂」とよばれる二人だったかな、と思ったりもします。

これは、輪廻転生の概念のひとつで、あちらの世界ではそれぞれの霊魂は特定のグループに属し、そこで人生経験を共有し霊的進化の道を進むという考え方です。 英語のgroup soulの訳語で、カタカナ書きでグループ・ソウルとも書かれます。

グループ・ソウルを「類魂」と訳したのは、横須賀の海軍機関学校の英語教官であった浅野和三郎だといわれており、この人は、心霊研究家として有名な人でした。

ケンブリッジ大学で講師を続けながら、心霊研究をしていた「フレデリック・マイヤース」という人がいましたが、この人が、その死後、霊媒士のジェラルディン・カミンズという人にグループ・ソウルの詳しいことを伝えたとされます。

カミンズは、これを故マイヤースによる「霊界通信」としてとりまとめて発表しました。そして、このカミンズの著書にあったgroup soulを浅野が「類魂」と翻訳したものです。

浅野和三郎は、東京帝国大学英文学科を卒業後、海軍機関学校で英語教官をしていましたが、1915年(大正4年)の春、三男が原因不明の熱病になった際に、三峰山という女行者から平癒するだろう、と言われてその通りになりました。このことから、心霊研究に傾倒するようになり、海軍軍機関学校を退官し、実践的な心霊研究をするようになりました。

この話は長くなるので端折りますが、その後国際的にも活躍し、国内でも心霊主義(スピリチュアリズム)の啓蒙活動を行い、名古屋・大阪・東京に「心霊科学協会」を設立しており、日本の心霊学研究の草分けとされる人です。ちなみに、浅野が海軍機関学校を退官したあとに、嘱託教員として英語教師を引き受けたのが芥川龍之介です。

一方、マイヤースのほうですが、こちらも心霊研究科として名を馳せた人であり、このひとも大学を退官までして、精力的に心霊研究を行ったことで知られ、その学術的水準の高さを評価されていた人です。

彼が創案した「超常 supernormal」「テレパシー telepathy」などの用語は現在も使われており、単にオカルト的な興味からではなく、科学的なアプローチから心霊現象を解き明かそうとしました。霊によるものとされる現象について、厳密な科学的調査や実験を行ったことでも知られています。

このマイヤースが死後、霊媒士のカミンズに伝えたという「類魂説」によれば、魂というものは、一つの例外もなくあるグループ・ソウルに所属しており、そこから枝分かれして、地上に行って肉体を持つ人間の中に入り、そこで成長します。

その成長を通じて様々な経験を積み、死後、再びグループに戻って、その経験を他の魂にも伝え、それによってグループ・ソウル全体もまた霊的な成長を遂げることができます。

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また、彼によれば、グループ内の魂同士の親和性は家族以上のものであり、その一つが地上で生きている間は、グループ全体で当人の霊的成長を支えるといいます。そして、その支えてくれる一部のソウルはともに地上に降り、その人間の成長を助けます。そしてこれこそが、「守護霊」です。

マイヤースは、この類魂説を、生前から唱えていたという意見もありますが、これらの研究を死後に深め、発展させたものであるとされています。一方でその生前には、潜在意識とテレパシーによって心霊現象を説明しようとし、識閾下の部分での相互のコミュニケーションが存在するに違いないと考え、テレパシーなどの研究を行っていました。

「識閾(しきいき)」というのは「意識と無意識の間」のことで、「識閾下(しきいきか)」というのは要するに「半無意識」のことです。

マイヤースの生前の学説では、個々の精神的存在は思念のグループを構成し、この中で「半無意識に」互いに影響を与え合うとしていましたが、死後の彼のメッセージでは、よく似た霊魂が霊界には複数存在し、これらが集合体を形成する、と発展しました。

そしてこの集合体は自分と一心同体ともいえるほどの存在であり、それらをまとめてグループ・ソウル、と呼びました。趣味、性格、嗜好、見た目など、全てが一致する霊の集団であり、霊格にもよりますが、それ以外にも生前に培われた経験や記憶、磨かれた才能、感情までも共有することが出来る、ともしています。

この理論に従えば、同じグループ・ソウルから出て、地上に降り立つ霊がひとつではなく、複数である、ということもありうるはずであり、そのうちの例えば2つの霊をまとった人間が、まったくよく似ている、ということはありうるわけです。従って、私の家内と本田美奈子さんがグループ・ソウルであった、ということもありえるかもしれません。

もう亡くなりましたが、俳優であると同時に心霊研究家でもあった、丹波哲郎さんは、このグループ・ソウルこと、類魂のことを分かりやすいように「蜂の巣」にたとえています。

蜂の巣は、中に20匹・100匹・1000匹など色々な数の蜂が住んみ、大きさも色々ですが、同じように魂の集まりも大小様々です。例えば1000匹で構成さる蜂の巣があったとして、そのうちの1匹は巣の外で花がどこにあるか、蜜がどこにあるかを探して巣に戻ります。

巣に戻った蜂は、他の999匹の蜂にその情報を伝えますが、この1匹の蜂が経験した知恵は、これにより巣の中のすべての蜂が等しく持っていることになります。同様に、グループ・ソウルの中から「分霊」されて外へ出て行った霊は、地上に降りて生まれ変わります。

それが私たちです。やがて幼稚園から小中学校へと進み、ある者は高校・大学を出て、就職したあと社会で揉まれて歳をとります。

やがて死に行きますが、そのとき魂は再びグループ・ソウルに戻り、その生から死までのすべての経験をグループに伝えます。こうして類魂は全体的にまたひとつ成長します。全体が一つの魂によって学び、再び外に出た分霊が戻っては全体の精神的成長を助けます。

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このほか、心霊研究者たちがよく例えるのは、この類婚こと、グループ・ソウルはコップの中の水と同じだ、ということです。もしコップの中に落とした一滴の水に色を付けていたとすれば、その水はやがてコップの中で溶け出し、水の全体に広がっていきます。最初は色がはっきり見えていますが、そのうち浸透が進み、全体が均一になります。

傍目には無色透明に見えますが、このとき実際には全体がその一滴の水によってほんのり色づいており、正確な色量テストをしてみれば、そのほんの少量の水が全体を変えたことがわかるはずです。これが、すなわち類婚の概念というわけです。

丹波さんが挙げたもう一つの例では、この類婚の考え方は五本の指と同じです。この5本は全部自分の手です。そして、全て掌でつながっています。そして親指・人差し指・その他、それぞれはそれぞれの個性を持っています。

しかし一人の人間の血液や神経は共通です。小指が痛めば親指も痛みます。それぞれの指は別々ですが、掌でつながっています。これが「類魂」であり、一つの魂が苦しめば全体も苦しみます。一人で外へ出た魂が苦しんでいるとき、グループ・ソウルも苦しくなるので、彼を助けようとします。あるいは助けるために生まれつき彼に保護者をつけます。

これが、守護霊です。必ずしもグループ・ソウルの一員とは限らない、という説もあるようですが、同一人物を助ける守護霊同士はつながっているのが普通で、同じソウルグループから派遣される、とする説が有力です。

しかし、守護霊の役割は人を守る・助けるというよりも、生を受けた人の霊的目的を達成の手助けをすることとされます。従って、目的を達するために必要と判断されれば、生者にとって一見不幸・不運とされる出来事や不遇な環境を用意することさえあるといいます。

つまりは、かわいい子には旅をさせよ、というわけであり、「人の一生は重き荷を負うて遠き道を往くが如し(家康)」といった経験を通じて、グループ全体の質の向上が図られるわけです。

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上述の浅野和三郎も当然、この類魂の概念を知っていました。しかし、霊媒による交霊会を何度も重ねるうちに、単純な再生説にしばし疑問を抱くようになります。

それは、もし招霊した霊がすでにこの世に再生していれば、降霊会での招霊には応じないはずだ、ということです。にも関わらず、彼が招霊した魂はことごとく会に降りてきて、やってこない霊は一人も存在しませんでした。

そこで記録をとってみたところ、300人の招霊で呼び出しできなかったのは2人であり、うち1人は菅原道真でした。もう一人は誰か不明ですが、いずれにせよ300分の2は低確率です。そして彼は菅原道真が招霊できなかったのはその霊格が高すぎたためと考えました。

これにより浅野は、日本の神道にある「分霊」の概念を採用し、新しく生まれた魂は、前世の魂の分霊であると考えるようになりました。そして、「前世の魂の未浄化な部分が第二の自我として分裂し次の魂を生む」という、「創造的再生説」を1930年に心霊雑誌「心霊と人生」において発表しました。

これをもう少し詳しく説明すると、類魂はリーダー格である「本霊」を中心に、数十から数千にもおよぶ分霊が集まっているとされます。分霊である魂が死後、ある一定の期間をすぎると、類魂と魂を一つにし、類魂との共同生活が始まります。

類魂の中に魂を溶け込んでもその霊魂としての個性は残り、消滅することはありません。すなわち、ある意味では類魂=自分であるわけです。そして類魂に属する霊たちには二つの意識があり、その一つは類魂全体の意識であり、これは分霊全員がもつ共通した意識です。そしてもう一つはそれぞれの霊の個性としての意識です。

そして時に、その一つの分霊が、類魂全部を進化させるため人間界に再生するわけですが、この際、グループには共通の意識を持つ「分霊」が多数居残っており、そのどれかを降霊会で呼び出してもこれに応じるため、人間界に再生している分霊とダブルことはないわけです。

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この類婚を形成するそれぞれの分霊は、「本霊」に導かれます。これは類魂のリーダー的な役割をはたす霊で、それぞれの分霊よりも高度な霊です。この本霊は分霊へ生命を吹き込んで多数の魂を養っているとされ、「中心霊」ともいいます。

これについて、前述のマイヤースは、死後の霊界通信で、こうした本霊が存在するのは神が存在するとされる最高界である第七界の「超越界」より一つ下の、第六界「光明界」だと伝えてきました。

また、前述のとおり、分霊が死亡し、魂が類魂の中に溶け込むと、分霊が生前に体験した記憶や経験がグループ全体で共有されること、さらに分霊が類魂の存在を知るのは第四界の「色彩界」からだという情報ももたらしました。

さらに上の界である第五界の「光焔界」に上ると類魂の目的を知るとされます。そこからもうひとつ上の位に上がり、第六界の「光明界」に行く霊が本霊になり、グループ・ソウルを率いる立場になる、ということのようです。

このように、マイヤーズ通信では、霊界を七つの階層(意識レベル)から成るとしています。それを列挙すると次のようになります。

1.物質界 (the Plane of Matter)
2.冥府、ないし中間境 (Hades or the Intermediate State)
3.幻想界 (the Plane of Illusion)
4.色彩界ないし形相界 (the Plane of Colour or the Plane of Eidos)
5.火焔界 (the Plane of Flame)
6.光明界 (the Plane of Light))
7.超越界(彼岸) (Out Yonder, Timelessness)

我々の住んでいるこの世界は1.の「物質界」です。こうした世界は地球だけではなく他にもたくさんありますが、物質の振動数が異なるため、われわれの肉眼や機械的観測では捉えることができない、と言われています。そして「死」によって物質界を離れた魂は、2.の「冥府」を通過し、3.幻想界に赴くとされています。

死と同時に、魂は肉体より分離し、より精妙な霊的身体をまとって、「他界」に移行していきますが、冥府はそのスタート地点であり、さらに上へ行くための準備を行う段階ということのようです。が、そこでの過ごし方は、その魂の状態や死の状況などによって様々に違うということです。が、いずれにせよこのプロセスは一時的なもののようです。

そしてさらに進化向上を果たしたい魂は、色彩界、火焔界……と昇っていくわけです。ただし、ここでは七つの階層とされていますが、各階層から階層へ行く際には、その過渡的段階である「中間的境域」にとどまることもあるということで、各層はさらに細かい層に別れていて、魂のレベル毎にその各層に属するともいわれます。

また、7.の「超越界(彼岸)」は、「宇宙の外」とも表現される神の領域ですから、一般的に「霊界」とされるのは、幻想界、色彩界、火焔界、光明界の四つということになります。

なお、分霊の霊格は同一とする説と、それぞれ違いがあるという説もあるようですが、前述のように幻想界が更に細分化されているとするなら、その霊格に違いがあっても不思議ではないでしょう。

分霊が地上の物質界に降りてくると、同じグループ・ソウルから「守護霊」がともに派遣されてきて我々を助けてくれわけですが、この守護霊がどの階層から派遣されてくるかについても、ケースバイケースのようです。

霊格の高い霊が派遣されてくる場合もあり、比較的低い次元の霊がやってくる場合もあります。そのこと自体にも分霊を鍛える意味があるのでしょう。しかし、特別な場合をのぞき、同じ類魂から選ばれるとされ、別の類婚からやってくることはありません。

また、この類魂説では、生まれ変わりが必要な時期になれば、本霊から分霊に再び地上に生まれ変わるように促されるといいます。といっても強制的に再生させられるのではなく、再生するかどうかの選択は本人にさせます。

このとき、促されるままに魂の完成のために不足している経験を補うために、地上に再生する魂もありますが、さらに高度な精神生活を求めて形相界・色彩界へ上がる分霊もあるようです。本霊に許されればですが。

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再生した際、幼少時から様々な才能を見せる人間は、類婚としての経験が豊富であるといわれます。なお、この再生には全再生と部分再生があり、これは霊的な成長に応じて決められます。全再生とはまだ魂として未熟な霊が個性を保ったまま、地上に生まれることです。未熟者なので再生回数は多くても8回、大抵4回ほどで人間生活を卒業するそうです。

一方、部分再生とは、魂が十分に成長し物質的な執着がある程度なくなっている場合です。霊性が十分に発達した霊は、カルマを若い類婚(分霊)に託し、彼等を地上に派遣して、自身は守護霊として当人の成長を見守ります。

このカルマは守護霊のものでもあるので、従ってややこしい話ですが、こうした半再生の場合、守護霊は物質界における分霊の一部でもある、ということになります。

一方カルマを託され、半再生した分霊は、そのカルマを解消するため、再び物質界で修業をし、その一生を終えると再びその修行の成果を類魂に返し、さらに必要ならば同じ分霊、あるいは別の分霊として何回でも再生を繰り返します。

この生まれ変わり回数に関しては諸説あります。350回くらいという説もあり、千回以上という説もあります。古い霊では3万回もの生まれ変わりをしている霊もあるとのことです。

しかし、生まれ変わる回数という議論は、意味がないことだと私は思います。なぜなら、生まれ変わる理由は類魂の成長のためであり、たった一回の生まれ変わりでも3万回の生まれ変わったのと同じくらい大きく類魂が成長するならば、それだけで意味が大きいからです。生まれ変わりの質の問題であって、数ではないわけです。

なお、1920年にイギリス人青年モーリス・バーバネルを霊媒として多くの霊界事情を語ったとされている高級霊、シルバーバーチは、この再生の問題を「再生の原理を全面的に理解するには大変な年月と体験が必要です」とも語っており、霊界においても輪廻転生の本質を理解することは重要であり、長い時間と経験が必要なこととされているようです。

この再生においては、ごく稀にですが、2つ以上の分霊が同時に肉体に宿るときがあるといいます。この場合をツインソウルもしくは双子霊とよびます。双子霊は同じ星に生まれる場合もありますが、別々の星で誕生する場合もあるといいます。

スピリチュアルカウンセラーの江原啓之さんによればノーベル物理学賞を受賞したキュリー夫妻は双子霊だったそうです。ちなみにマリー・キュリーは心霊現象研究協会(通称SPR)のメンバーでもあり、夫妻2人は、英国心霊主義協会の作家コナン・ドイルや物理学者ウイリアム・クルックスらとともに、しばしば降霊術の会に参加していたようです。

肉体的な違いはあるものの、元が同じ霊なので趣味や霊性がぴたりと一致するといいます。夫妻も、1894年春に初対面であったとき、マリーはピエールに自分と共通するところを多く感じたといい、そしてピエールも同じように感じていたと後に語っています。そしてその後の人生でお互いを高め合い、見事ノーベル賞を獲得しました。

このように、ごくごく稀に、地上で出会う幸運に巡り会えば、それは正に地上で天国にいるような感覚になり、その後も二人一緒に霊的進化を続けるといいます。

従って、我が妻と本田美奈子さんもツインソウルだったのかもしれません。この世では残念ながら巡りあうことはできませんでしたが、おそらくあの世で再会し、今はともに進化しつ続けているのでしょう。

実は、動物霊にも類魂は存在するといいます。動物霊は人間の類魂と違い、類魂の中にいったん溶け込むと個の霊としての意識がなくなり、類魂としての意識のみ残るとされます。

個の意識は消失するそうですが、ペットとして飼われていたときにその動物へ人が注いだ愛情は類魂全体に貢献し、より霊的な進化を促すとも。ただし、類魂と魂を一つにした動物霊たちが引き続き生まれ変わって、動物界に戻るかどうかは不明です。

が、私は、動物も再生を繰り返し、その霊性を高めていつかは人間になるに違いないと思っています。

ウチのペットのテンちゃんに注ぐ愛情もいつかは、ソウルグループ全体へ貢献するものだと考えるならば、それは決して無駄なものではないわけです。いつか何万年か何十万年かさきに人間として進化した彼女に会ってみたいもの。

その彼女はきっと亡くなった妻のように素晴らしい人物に違いありません。

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神津島発 上野村 ~伊豆諸島

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およそ1200年ほど前の今日、伊豆諸島のひとつである神津島(こうづしま)の「天上山」が噴火したそうです。

神津島は伊豆諸島の有人島としては最も西にある島で、この島の中央にあるこの火山の噴火は、838年(承和5年)であったことが、「続日本後紀」などに記録されています。

何分古い記録なので、どの程度の噴火だったのか定かではありません。が、島にはこのときの噴火でできた火口原があり、ここに、「表砂漠」「裏砂漠」と呼ばれる砂地があることから、これらの地域をえぐり取るような大噴火だったことが想像できます。島を南東部から遠目に見れば、そのいかにも火山らしい険しい地形がみてとれます。

頂上が平坦で高度もあまり高くないにもかかわらず、本州では2000m級の高山に生育しているような高山植物も見られる山だそうです。最高地点は、火口原西の、外輪山上の571.5mで、この東に2つの展望地があり、その内のひとつは、新東京百景に指定されています。

展望地からは、伊豆大島、利島、新島、式根島、三宅島、御蔵島などが見渡せ、また、山の別の場所からは、伊豆半島も望むことができるといいます。

神津島は、この天上山(標高571m)を中心とした北部と秩父山のある南部とに大きく分けられており、地図ではひょうたんをさかさまにした形に見えます。

御蔵島や青ヶ島など、他の伊豆諸島には断崖絶壁に囲まれた島が多い中、神津島は比較的平坦で砂浜海岸が多く、また近海を黒潮が流れているため夏は涼しく、冬も温暖で、一年を通じてしのぎやすい気候です。このため古くから人が居住してきました。

島では、「黒曜石」が産出します。後期旧石器時代から矢じりや槍の穂先などの製造を目的として採取され、ここに住む人々によって大量に本州に送られたと考えられています。神津島産と思われるこれら黒曜石製の武具の出土流布範囲は広く、東は東京都、西は静岡県西部、さらに内陸部の山梨県北杜市にまで達し、半径約180kmまで拡がっています。

これはすなわち、旧石器時代の人々が船を使っていたことを示す貴重な間接証拠でもあり、その採掘は縄文時代まで続いたと考えられています。

神話によれば伊豆の島々を造った神様が集まるところということから「神集島」の名が生まれ、それが転訛して神津島と呼ばれるようになりました。また、天上山では出来上がった伊豆七島の神々が集まり、水の分配の会議が行われたという「水配り伝説」もあります。

840年(承和7年)の記録では「伊豆国上津嶋」とされており、この頃から定住者がいたことうかがわれます。人口は約2千人で、約900世帯がここに暮らしています。村内の道路は入り組んでいますが、ほとんど前浜の道路にアクセスしており、迷うことはありません。

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この道路は「都道」です。すなわちここは東京都です。保育園、小・中学校が1校づつあるほか、都立高等学校まであります。このほか、開発総合センター、多目的広場、運動公園、郷土資料館があり、想像以上に文化的なのは、ここが東京都だからにほかなりません。

しかし、産業としては、漁業、農業、観光が主であり、田舎そのものです。こうした離島ではどこもそうですが、とくに漁業が盛んです。キンメダイ、イセエビ、赤イカ、タカベなどの魚種が採れ、ほかにとこぶしやあわびなどの貝類、天草、イギスなどの海藻類など季節ごとに多くの海の幸が採れます。

また、農業では、あしたばやレザーファン、パッションフルーツなどが代表作物です。観光業も島の重要産業であり、年間約4万人の観光客が島を訪れます。その昔、30~40年前は、夏になると大勢の若者がここを訪れるため、ナンパの島としても有名でした。

このころは、ディスコも2~3件あり、夜になるとメインストリートは人混みで、満足に歩けない状況でした。その頃デザインTシャツの店があり前日の夜に注文すれば翌日の午前中には完成していたといい、夜はナンパ、喧嘩などで賑わい、日中の前浜はレジャーシートも満足に敷けない位に人、人、人で、ごった返していました。

しかし、最近では沖縄やグアムへ行く旅費が安くなっていることもあり、旅客は年々減少しています。客が減ると、自然に船の便数も減り、前は夏季になると東京からの直行便がありましたが、現在では大島・利島・新島・式根島を経由する便に変更されています。

江戸時代は流刑地だったため、一般船舶の寄港は許されない、という過酷な歴史を持ちます。江戸初期、キリシタンの「ジュリアおたあ」が流罪になり、ここで没したという伝説があり、島内に墓所とされるものがあります。また、「ジュリア祭」が毎年行われています。

ジュリアおたあは朝鮮人女性です。生没年は不明ですが、安土桃山時代、秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)の際に日本に連行され、キリスト教に改宗して小西家の猶子となりました。

出自は戦乱の中で戦死または自害した朝鮮人の娘とも、人質として捕虜となった李氏朝鮮の官僚の娘ともいわれますが、実名や家系などの仔細は不明です。「ジュリア」は洗礼名、「おたあ」は日本名を示します。

文禄の役で平壌近郊で日本軍に捕縛・連行されてのち、キリシタン大名の小西行長に身柄を引き渡され、小西夫妻のもとで育てられました。行長夫人の教育のもと、とりわけ小西家の元来の家業と関わりの深い薬草の知識に造詣を深めたといわれます。

のちに関ヶ原の戦いで敗れた行長が処刑され小西家が没落すると、彼女の才気を見初めた家康によって駿府城の大奥に召し上げられ、家康付きの侍女として側近く仕え、寵愛を受けました。昼に一日の仕事を終えてから夜に祈祷し聖書を読み、他の侍女や家臣たちをキリスト教信仰に導いたとされます。

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しかし、家康は慶長17年(1612年)に禁教令を発布。このときおたあは、棄教の要求を拒否した上、家康の正式な側室への抜擢に難色を示しました。このため、駿府より追放され、伊豆諸島の八丈島(もしくは新島)、神津島へと相次いで流罪となったとされます。

3度も遠島処分にされたのは、家康のほうに未練があり、駿府へ戻して更生させようとしたためと考えられます。しかしそのつど家康を拒んだのでしょう。家康にすれば愛し憎しで複雑な思いだったでしょうが、女心とはそんなものです。嫌いなものはキライ、スケベジジイには死んでも恭順するものか、ということだったでしょうか。

また、新島時代には駿府時代の侍女とともに流されましたが、ここで彼女たちと一種の修道生活に入ろうとした、とも伝えられます。引き離されて神津島に流されたのは、新たに徒党を組んでキリスト教を布教されてはたまらん、と幕府が思ったのでしょう。

しかし、おたあ自身は、どの地においても信仰を捨てませんでした。見捨てられた弱者や病人の保護や、自暴自棄になった若い流人への感化など、島民の日常生活に献身的に尽くしたとされます。その後島民を教化し、多くのキリシタン信仰を獲得したとも言われます。

が、現在の神津島にはカトリックの教会どころか信者もいません。このため、その最後は神津島ではなかったのではないかという人もいます。1622年2月15日付「日本発信」のフランシスコ・パチェコ神父の書簡に、おたあは神津島を出て大坂に移住し神父の援助を受けている旨の文書があり、のちに長崎に移ったとも記されています。

しかし、1950年代に神津島の郷土史家・山下彦一郎により、島にある由来不明の供養塔がおたあの墓であると主張したことから、神津島で没したとする説が出ました。

以来同島では毎年5月に、日韓のクリスチャンを中心として、おたあの慰霊祭が行なわれ、1972年には韓国のカトリック殉教地、切頭山に神津島の村長と村議会議員らがおたあの墓の土を埋葬し、石碑を建てました。

切頭山は19世紀末に起こったカトリック教徒の大量虐殺事件で殺害された信者の殉教地です。信者の首を切って頭を漢江に投げ捨てたという話からこう呼ばれるようになりました。

ただ、その後、上述の「日本発信」が発見されて、おたあが大阪長崎に行ったという説が有力視されるようになったため石碑は撤去され、真相が完全に明らかになるまで切頭山にある殉教博物館内で保管されているということです。

なお、駿府時代におたあは灯篭を作らせ瞑想していたと言い伝えられており、その「キリシタン灯篭」は、現在は、静岡市葵区常磐町(旧下魚町)にある宝台院に移されています。

この寺は、駿府公園南約500mを東西に走る東海道線の脇にあります。家康の側室で2代将軍となった秀忠の生母西郷局の菩提寺で、幕末の江戸開城後に、慶喜が水戸・弘道館からここへ移り、謹慎していたことでも知られています。また、日露戦争時には、ロシア兵の捕虜収容所でした。

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このジュリアおたあの悲劇は、日本の伝統芸能を基盤とした演目に特色がある、劇団わらび座(秋田県仙北市)のミュージカルとして公演されているようです。この劇団は、ジェームス三木、内舘牧子、ラッキィ池田など外部の著名なクリエーターからも協力を得て、オリジナルミュージカルの制作に取り組んでおり、東北では人気があるようです。

今年は、先月末に仙台市の若林区文化センターで公演があったようですが、劇団HPをみたところ、次の公演予定はまだ決まっていないのか、表示がありませんでした。ご興味のある方は劇団のほうに問い合わせてみてください。

その昔、サザンオールスターズも「夢に消えたジュリア」というシングルを出しています。2004年にリリースされたもので、タイトルはピンク・フロイドの「夢に消えるジュリア(Julia Dream)」のもじりです。

1960年代後半から70年代前半に一世を風靡したGSや歌謡曲を強く意識した曲になっていますが、実は桑田さん自身はこの物語の存在を全く知らずにこの曲を作ったといいます。

歌詞の内容はタイトルの通り伝説になった人物“ジュリア”を描いたものですが、歌詞を書いている途中に、非常に似たような伝説「神津島のジュリア・おたあ伝説」が存在することを知り、大変驚いた、と多数の雑誌のインタビューなどで語っています。

その詩は、「燃えろ夏の十字架南の空高く 夜の闇を照らす星座は涙のシャンデリア まるで虹のように夢に消えたジュリア…」といった具合でおたあとは何の関係もない内容です。が、十字架のほかにも「ロザリオ」などキリシタンをイメージした単語が多く登場します。

繰り返すようですが、桑田さんはこの曲を作るまでおたあ伝説のことを知らなかったといいますから、亡くなったおたあが彼にこの曲を作るようにささやいたのかもしれません。

日本航空JALの「FLY! JAL!」キャンペーンのCMソングにもなり、CMではPVの映像がそのまま使われました。テレビでJALのタイアップが終わった後も、JALがスポンサーである「JET STREAM」のラジオCMで2年近くOAされていたそうです。

私はこの歌を知らなかったので、You-Tubeで探して聴いたところ、なかなかいい曲です。今度ダウンロードしてジョギング中のBGMにしてみたいと思います。また、曲を聞きながら、晩年を長崎で過ごしたというおたあにも思いを馳せてみたいと思います。

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ところで、JALといえば、日本航空123便の墜落事故が、1985年(昭和60年)に起こってから今年でちょうど30年になります。

同年8月12日月曜日18時56分に、羽田発伊丹行の定期123便ボーイング747SR-100、通称ジャンボジェット、機体記号JA8119、製造番号20783が、群馬県多野郡上野村の山中の尾根に墜落した航空事故です。

通称「御巣鷹の尾根」といいますが、厳密には御巣鷹山の尾根ではなく、上野村楢原の「高天原山の尾根」になります。この呼び名は、この当時の「黒沢丈夫」上野村村長によって墜落事故直後に使われ始めました。事故当時、墜落現場の詳細特定が難航する中、上空からの報道映像を見た黒沢村長が、記憶に残るその尾根形状からこう呼び始めたものです。

黒沢は「御巣鷹の尾根」の名称で、救助関係者に道案内をするよう、村下の消防団員に命じたといいますが、彼等もまたこれをすんなり受け入れました。すなわち事故現場の尾根は、黒沢のみならず村民の多くが「御巣鷹山」であると思っていたことになります。

しかし、御巣鷹山の本名、高天原山の地名もこの当時の国土地理院の地図に記載がなかったそうで、それほどこの墜落現場が名もない、とてつもない僻地だったことがわかります。

ただ、「御巣鷹山」だけではピンポイントの誘導ができないため、黒沢はさらにテレビ映像を分析して、「神流川源流の国有植林地」と判断しました。地元では「スゲノ沢」と呼ばれる場所で、土地勘のある消防団員や猟友会に機動隊をここに誘導するよう要請しました。

現場までは上野村の中心からは30km程も離れており、しかもその道程は熊笹の生い茂る30度の急斜面です。猟友会副会長らが案内する機動隊が沢近辺に来たときはすっかり夜が明けていました。更に進むと午前7時ごろ、北西方向に煙が上がっているのが見えました。

急斜面を登ると、V字形に山が削られ、飛行機の主翼が落ちている尾根がはっきり見えました。7時34分のことで、副会長はこのとき、「墜落現場は、スゲノ沢の索道土場の上の中尾根だ」と叫びました。

こうして正確な場所が特定されたことからすぐに連絡が捜査本部に飛び、墜落からおよそ14時間が過ぎた午前8時半に、長野県警機動隊員2名がヘリコプターから現場付近にラペリング降下し、その後陸上自衛隊第1空挺団員も現場に降下して救難活動を開始しました。

陸路では10時頃までに消防団員約30人がスゲノ沢を遡りました。現場に到着すると上空にはヘリが旋回しており、周囲には遺体と機材が散乱していました。カラマツやクマザサがうっそうと生え、昼でも薄暗い沢筋なのに、そこだけ明るく日が差していたといいます。

やがて、群馬県警機動隊、警視庁機動隊、陸上自衛隊、多野藤岡広域消防本部藤岡消防署の救助隊らも現場に到着し、ようやく本格的な救難活動が開始されました。午前11時前後に、4名の生存者が長野県警機動隊、上野村消防団などによって相次いで発見されました。

生存者4人は後部座席にいた乗客でした。いずれも重傷を負っており、陸自のヘリで上野村臨時ヘリポートまで搬送され、2人は東京消防庁のヘリに移し換えられて藤岡市内の病院に運ばれました。

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その後、死亡者数520名の最終的な身元確認作業の終了までには、約4カ月の時間と膨大な人員を要しました。最終的に確認できなかった遺体片は、同年12月に群馬県前橋市の群馬県民会館で執り行われた合同慰霊祭で出棺式が行われ、火葬に付された後に上野村中心部の「慰霊の園」へ納骨埋葬されました。

現在、墜落現場には、財団法人慰霊の園によって御巣鷹山慰霊碑(昇魂之碑)が建立されて維持されており、毎年ここで慰霊祭が執り行われます。今年は30年目の節目ということもあり、例年以上に手厚い法要が営まれることでしょう。

ところで、この日航機墜落直後に、迅速な対応を講じ、事故処理にも尽力した黒沢村長は、実は元海軍士官で、自身、戦闘機を操るパイロットだったことは意外に知られていません。

1913年(大正2年)、上野村の酒造業を営む家に生まれました。父もまた後に上野村村長となっています。県立富岡中学校を経て1932年(昭和7年)に海軍兵学校に第63期生として入隊。ここを卒業する際の遠洋航海では、アメリカ・ニューヨークまで行っています。

まさか後年この国と戦争を始めるとは思っていなかった黒沢はこのとき、日米の国力の差に圧倒されアメリカの生活の豊かさを嫌というほど思い知ったといいます。帰国後、巡洋艦「那智」・駆逐艦「夕霧」乗組を経て、1937年(昭和12年)9月に第29期飛行学生として霞ヶ浦海軍航空隊に転じました。

航空隊を志願した動機は、兵学校時代の成績の悪さを反省し、さぼれない環境に身を置きたかったからだと言います。1938年(昭和13年)、大分県の佐伯海軍航空隊に移り戦闘機乗りとしての訓練を受けたのち、第12航空隊に配属され中国湖北省の漢口に着任しました。

既に前年の1937年(昭和12年)7月に日本軍と中国国民党軍が衝突する、盧溝橋事件が勃発して、日中戦争が始まっていました。黒沢らは九六式艦上戦闘機(96艦戦)に爆弾を積んで、中国軍の北省西部の拠点、宜昌(ぎしょう)などへの爆撃に従事しました。

1939年(昭和14年)、霞ヶ浦空の教官として内地に帰還しましたが、11月に訓練中の事故で入院。翌年、新設された「元山海軍航空隊(現在の北朝鮮・元山(ウォンサン)が拠点)」へ分隊長として転任し、1941年(昭和16年)4月には再び漢口へと進出。

この時の装備戦闘機も96艦戦でしたが、既に旧式戦闘機であり、同じ漢口にあった最新型の零式艦上戦闘機の活躍を横目に、上空哨戒などの任務を黙々とこなしました。この年、9月に元山空戦闘機隊は、鹿児島の鹿屋で編成されたばかりの第3航空隊に編入されました。

その後さらに第3航空隊(通称3空)は台湾の高雄へ本拠を移しましたが、黒沢らはここで、対米英戦を控えて96艦戦の航続距離を延ばすなどの訓練を行いました。

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1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃により、太平洋戦争開戦。3空は同日から4度に亘ってフィリピン・ルソン島の米軍基地に大きな空襲を行い、在比米軍の航空勢力を壊滅させました。さらに戦局の進展に伴い、フィリピンのミンダナオ島ダバオ、インドネシアのセレベス島メナド、同ボルネオ島バリクパパンへと進出しました。

その後3空はインドネシアのケンダリーやバリクパパン、アンボンを拠点に、同国各地の残敵掃討・船団護衛に従事。さらに南下して、オーストラリア領、チモール島クーパンに進出し、翌年1942年の3月には、西オーストラリアのブルームへ攻撃を加えたのを皮切りにオーストラリア本土への本格的な空襲を行い始めました。

ところが、黒沢はこの頃、漢口で罹患していたアミーバ赤痢を悪化させていました。体調が悪い状態で戦闘機隊の指揮を取り続けていましたが、それも限界となり、秋には内地帰還となりました。しかし、診察の結果入院するほどではないと判断されたことから、10月には長崎県東彼杵郡大村町の大村海軍航空隊に飛行隊長にとして赴任しました。

しかし、体調は万全ではなかったことから、年末には同じ県内で医療施設の整った佐世保に移動し、ここの佐世保海軍航空隊飛行隊長として勤務しながら病院に通いました。翌年9月までには、病も癒え、千葉の館山で新設された第381海軍航空隊の飛行隊長として赴任。

381空では副長・飛行長が欠員で、黒沢が1人3役をこなすことになりました。新型戦闘機「雷電」が装備されており、南方油田の防空任務に就く予定でしたが、雷電はまだ完成したばかりの機体で、故障も多く数も揃わないため、やむなく零戦で順次進出しました。

しかし、黒沢が日本で療養している間に、かなり戦況は日本に不利な具合に進展しており、このころまでには揃えることのできる零戦の数も限られていました。1944年(昭和19年)1月、黒沢はなんとか揃えたその残存勢力を率いてバリクパパンに進出しますが、このとき381空に担当しろとあてがわれた地域は、蘭印全域の広大な地域でした。

この「蘭印」というのは、かつてオランダが宗主国として支配した東南アジア島嶼部であり、ほぼ今日のインドネシア領土と等しい東西2200km、南北1000kmにも及ぶ範囲です。

しかし、油田が多いために比較的燃料は潤沢で、訓練用に豊富に使えたために搭乗員の練度は高く、彼等を各基地に分散派遣して任務にあたらせました。しかしこの年後半には連合軍の攻勢が激しくなり、9月にはインドネシア中央部のモロタイ島に上陸し始めました。

連合国は、ここに飛行場を完成させ、日本軍が拠点とするボルネオ島・バリクパパンを攻撃圏内に収めました。そして、B-24によって大規模な空襲を頻繁に加えるようになりました。これに対して、黒沢の指揮下にあった381空はソロモン諸島など東部を管轄としていた331空(大分佐伯が本部)と合わせ、邀撃戦で敵爆撃隊に大きな損害を与えました。

豊富なガソリンを使って猛訓練を積んだ経験がものを言った格好でしたが、もっとも連合国軍が5回に亘って行って空爆のうちの3回目以降の空襲では、敵も戦闘機を随伴させるようになり、このためその後の戦果は減って味方の被撃墜機が増えました。

それでも5回の空戦で連合国側の損害はB-24が19機・戦闘機6機であり、381・331空の戦死者が18名であったことから、黒沢らの日本海軍航空隊はかなり善戦したと言えます。

上空での空戦を目撃した地上部隊からは、戦闘機隊の戦果を讃える電文が多く打たれ、士気高揚にも貢献しました。しかし、隣のフィリピンでは敵が優位なまま戦況は進んでおり、戦闘の激化により、331・381空を「S戦闘機隊」として臨時編成することとなり、黒沢はこれを統合する飛行機隊指揮官となりました。

そして、フィリピン・ルソン島への進出が命ぜられ、黒沢率いる23機がマニラの北西約60kmの地点のクラーク空軍基地に派遣される予定でした。これは日本が緒戦で米軍から奪取した基地です。ところが、このころ機体が払底していた大西瀧治郎中将指揮の第一航空艦隊によって、黒沢はこのなけなしの飛行機全機を取り上げられてしまいます。

第一航空艦隊は、海軍の空母艦隊ですが、マリアナ沖海戦で壊滅的な打撃を受けており、これを立て直すために就任した大西中傷は、「神風特別攻撃隊」を編成するために、S戦闘機隊の航空機を要望したのでした。後の10月末に行われたレイテ海戦こと、フィリピン海戦においては、これらの特攻によって敵空母を撃沈し初戦果をあげ活路を開きました。

しかし、与えた損害をはるかに上回る損害を日本海軍は被り、空母4隻、戦艦3隻、重巡6隻他多数の艦艇を失い、本土にあって燃料のない残存艦艇と、燃料はあっても本格的な修理改装のできない南方艦隊とに分断され、組織的攻撃能力を失いました。

乗機を失った黒沢ら23名は、しかたなく一式陸上攻撃機(一式陸攻)に乗って内地へ渡り、新しい零戦を受領して11月初めにフィリピンに帰りましたが、レイテで敗戦を喫した日本には残機は少なく、このときもせっかく持ち帰った零戦全機を取り上げられてしまいます。

上級司令部に出向き、黒沢が談判を行いましたが埒はあかず、結局S戦闘機隊をまたも内地に戻し、戦闘機受領後にバリクパパンの原隊に戻ってくるよう逆に説得されてしまいます。しかたなく黒沢らはこのときもまた一式陸攻で内地に戻りましたが、このときにはもう国内の航空機の生産能力はガタ落ちになっており、ほとんど機体は揃いませんでした。

なんとか4機だけを受領した時点で黒沢が先発隊としてバリクパパンに戻りましたが、燃料補給に立ち寄ったクラークで3たび飛行機を取り上げられてしまいます。この頃はもう南方戦線における日本軍は末期状態といえ、フィリピン戦線の過酷な戦況を知っている黒沢は、完全に断ることもできず、3機を引き渡して、1機のみでバリクパパンに戻りました。

原隊に復帰した黒沢は、このとき381空飛行長に昇格しました。その後381空在籍のまま、南西方面戦闘機隊統合指揮官兼任を命ぜられ、シンガポールに移って指揮をとることになりました。しかし、その後保有機わずか1機のS戦闘機隊にも内地転進命令が出され、これに伴い黒沢も内地に戻り、今度は第5航空艦隊の第72航空戦隊作戦参謀となりました。

第5航空艦隊は、2月に新編されたばかりの艦隊で、本土防衛のため九州を中心に展開し、沖縄への積極迎撃・艦船や機動部隊への攻撃・特攻及び本土防空を担当していました。が、艦隊とは名ばかりで保有船舶はなく、残存航空部隊の寄せ集め部隊でした。

終戦の詔勅(玉音放送)が流されたた直後に、宇垣纏(まとめ)長官が独断でその一部の部隊に特攻を命じたことでも知られています。特攻隊は合計11機(3機不時着)で、沖縄沖に向かって大分基地から離陸し、16名が犠牲になりました。自らもこのとき艦爆「彗星」に乗って出撃し、「敵空母見ユ」「ワレ必中突入ス」の無電を最後に突撃死したとされます。

黒沢が任官した72航戦はこのうちの西日本の戦闘機隊、203空・332空・343空・352空を統括する航空戦隊と位置付けられていましたが、すでに沖縄戦は終盤に差し掛かっており、日本の制空権は事実上連合軍側のものになっていました。

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8月15日、終戦。黒沢は九州で戦後処理にあたり、10月からは前橋で海軍の人事部員に転任となって地元群馬県軍人の復員業務につきました。10月末に海軍が解体した後もこの仕事を続け、退官して上野村に帰ったのは1946年(昭和21年)9月のことでした。

しかしこうしてようやく戻った上野村で、黒沢は村人から戦犯呼ばわりされ、冷たく扱われたといいます。このため最初は妻子を前橋に残し、一人で農民生活を始めました。9年後の1955年(昭和30年)、群馬県議会議員選挙に立候補しましたが、落選。しかし、この選挙以降、周りの人たちの相談を受けるようになりました。

そして、1965年(昭和40年)、上野村村長に就任。しかし、すぐに複数の問題に直面します。それは丼勘定による村財政の赤字であり、急激な過疎化でした。また、村民が、県内の甘楽冨岡(かんらとみおか)などで「破廉恥な行為」をやったという記事が相次いで2件ほど新聞に載る、といったこともありました。

このため、黒沢は村人の不評を買いながらも緊縮財政を押し通し、道徳教育に力を入れました。産業振興にも力を入れ、イノブタ畜産・味噌造り・木工業などを次々に起こしました。そんな中起こったのが、1985年(昭和60年)の日本航空123便墜落事故でした。

村は、救援の自衛隊・機動隊および報道陣を受け入れ、現地に消防団員を派遣しましたが、これを指揮した黒沢村長の働きは、迅速適切で見事なものであったと評価されています。

当時身元確認の責任者であった県警のある警察官は、黒沢の有事に際しての落ち着いた対応や日航と遺族の双方に信頼される人柄について言及し、遺族に対する優しい心遣いには、戦争で露と消えた部下や戦友をどこか被害者にかぶらせているのでは、と記しました。

この警察官は飯塚訓(さとし)さんといい、その後退職して、ベストセラー「墜落遺体――御巣鷹山の日航機123便(講談社)」「墜落の村(河出書房)」などを出しています。

その後、上野村では御巣鷹の尾根に「昇魂之碑」を建立して霊地として守り、犠牲者の遺骨が埋葬された村内の墓所「慰霊の園」では毎年、慰霊祭が行われています。

黒沢はその後平成7年から4年間、全国町村会会長として全国地方自治の牽引役を務めるなど幅広く活躍しました。そして平成17年、91歳の時に墜落事故の犠牲者慰霊事業への参加が困難になったことを理由に、10期40年務めた村長の職から引退しました。この当時日本最高齢の首長となっていました。

2011年(平成23年)12月22日、富岡市内の病院で肺炎のため死去。97歳没。その翌日23日は誕生日であり、98歳になる直前でした。

誕生日といい、亡くなった日付といい、さらには墜落した日航機も123便であり、123の3つの数字に縁がある人でした。事故が起こる前からこのことに当たる運命だったのかもしれません。

黒沢さん自身も文才のある方で、著書、関連本がいくつあり、以下のようなものです。これから迎えるみなさんの夏休みに読んでみてはいかがでしょうか。

「過疎に挑む~わが山村哲学(清文社、1983年)」
「道を求めて~憂国の七つの提言(シグマユニオン、2001年)」
「わが道これを貫く(上毛新聞社出版局、2005年)」
「誇りについて~上野村長黒澤丈夫の遺訓(上毛新聞社出版局、2013年)」

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テストパイロット

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先日、宇宙飛行士の油井亀美也さんが乗った、ボストーク宇宙船による打ち上げミッションが成功しました。

「中年の星」とメディアが報じていたので、何歳になられるのかなと調べてみたところ、なるほど45歳。しかし、中年中年と言いますが、このくらいの年齢というのは、おそらく一番人生で体力があるころです。私もそうでした。

人によるかもしれませんが、人生経験もかなりあって知識もあり、何でもやれる、という気分に満ち溢れているころともいえます。張り切ってこれらから始まるであろう長丁場の宇宙滞在を頑張っていただきたいと思います。

油井さんは長野県 南佐久郡 川上村出身。子供のころから自然科学に興味があり、その中でも特に天文学に興味があったそうですが、ここは全国でも晴天率が高く、星空の本当にきれいなところです。国立の野辺山天文台もあることで知られています。

美しい夜空を見ながら育った子供のころから宇宙飛行士になることが夢だったといい、小学校の卒業文集には「いつか火星に行く」と書いたそうです。

45歳になったとはいえ、元パイロットという文字通り体を張った仕事を長く続けておられた方でもあり、気力・体力ともに十二分に保ったままで臨んだこのミッションは、おそらく楽しくてしかたがないのではないでしょうか。

しかし、話によれば一時は宇宙飛行士の夢は完全にあきらめていたそうで、改めてそれを本気で考えるようになったのは、航空自衛隊に入隊してパイロットになるための訓練を受けていたころだそうです。

宇宙飛行士になるまでのその道のりは長いものでした。自衛官としてのキャリアは、1992年(平成4年)に防衛大学校理工学専攻を卒業してからです。パイロットとしての飛行任務は、F-15戦闘機でのものが多かったようですが、その後テストパイロットとしても活躍したのち、現役を退き航空幕僚監部の防衛課に勤務していました。

航空幕僚監部というのは、諸外国空軍の「参謀本部」に相当する部署であり、いざ戦争になった場合には、航空自衛隊の戦術・戦略を立案する部署です。まさに航空自衛隊の頭脳を司る部署であり、「空幕」といえば空自のエリートの集まる特別な機関です。

ちなみに、航空幕僚監部の長は「航空幕僚長」であり、これは外国軍の空軍参謀総長に相当し、航空防衛行政に関する最高の専門的助言者として防衛大臣を補佐する立場にある人です。

ここでどんな任務をこなしていたのかは推して量るべきしょうが、黙々と日本の防衛に関する作戦策定の任務をこなしていくなか、たまたま、レンタルビデオ店で借りた映画が、「ライトスタッフ」でした。アメリカの戦闘機乗りが宇宙を目指した映画であり、これを見た油井さんは一念発起。

39歳のとき、国内で10年ぶりに実施された宇宙飛行士候補の選抜試験を受け、競争率500倍の難関を見事突破し、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の次期宇宙飛行士訓練生に選抜されました。

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このときの航空自衛隊を役職は、「二等空佐」であり、これは昔の空軍中佐にあたる立場です。現在の自衛隊階級から言えば、空将(大将)、空将補(小将)、1等空佐(大佐)に次ぐ、4番目の位となります(ちなみに、現自衛隊では中将に相当する位はない)。かなりエライ人と言っていいと思います。

その職をなげうち、2009年3月、空自を退職。JAXA第31期宇宙飛行士訓練生となりました。自衛官出身の初の宇宙飛行士訓練生であると同時に、元パイロットとしても初めての宇宙飛行士予備軍となりました。

さっそく実際に宇宙へ向かうための実践的訓練のため、アメリカのNASAに派遣されることになりますが、このNASAでの訓練では他の14人の候補生と一緒でした。彼らが訓練を始めた2009年には、NASAはオリオン宇宙船を使い、有人月探査をめざす「コンステレーション計画」を進めていた時期でしたが訓練中にこの計画はキャンセルされました。

クラスには、彼と同じように米軍のテストパイロットが3人いましたが、彼等は国際宇宙ステーション滞在後にオリオン宇宙船の開発にも携わり、実際にそれが飛ぶときは自分たち自身が操縦できるはずだ、と考えていました。しかし、この計画の中止を聞いて大きなショックを受け、油井さんもそのつもりだっただけに心底がっかりしたといいます。

計画の中止は無論、予算不足からでしたが、しかし油井さんは気持ちを切り替え、まだ変更の余地があるかもしれない、きっとこの知識を使う機会があると高いモチベーションを維持して訓練を続けました。

NASAでの訓練は、被教育者に対して教官の数が多いことで有名で、世界最高の知識と技量をもつ数百人もの専門家が、14人の候補者に対して「立派な宇宙飛行士にしてやる」という意気込みで訓練にあたるといい、油井さんも「世界最高の訓練」と実感したといいます。

「求められる資質や訓練のプロセス」などがテストパイロットと共通点が多く、彼にとっても馴染みやすい訓練だったようです。状況判断がまず重要で、次に重視されるのがSFRM(Space Flight Resource Management)だそうで、これは宇宙飛行士の能力をリソース(資源)と捉え、メンバーの資源を最大限に出しチームでミッションを達成することです。

このSFRMについては心理学者や元パイロットなどの専門家が宇宙や飛行機での失敗事例、成功事例について講義した後に、簡単なボードゲームで実習したりするそうです。このとき宇宙飛行士に認定された日本人宇宙飛行士は、油井さんのほかに大西卓哉さん、金井宣茂さんがおり、全部で3人です。

金井さんは遅れて訓練に参加しましたが驚異的な粘りを見せて彼等に追いついたといい、切磋琢磨してお互いを磨き合ったこの3人は、のちにNASAからも高い評価を受けたといいます。

訓練は、パイロットとして馴染みのある訓練も多かったものの、苦労したのは船外活動と語学だったそうです。船外活動訓練は約6時間、無重力を模擬したプールの中で模擬宇宙服を着用し、スーツ内外の気圧差でパンパンになったグローブで移動・作業する、というもので強い腕力と握力が必要です。

40近い彼には体力的に相当きつかったようで、疲れると判断能力も落ちて他の人が何をやっているかもわからなったそうです。しかし、NASAやJAXAの先輩宇宙飛行士に相談したら最初は誰でもそうだよと慰められたといいます。

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また、語学については、最初は英語のジョークが分からず笑えなかったのがショックだったそうです。そんなとき、米軍パイロット出身の仲間が冗談の意味を教えてくれたといい、自分はライバル意識で臨んでいたのに、困ったとき手をさしのべてくれる彼らの素晴らしさにふれ、心からの友達になったといいます。

それ以来、何とかとけ込んで仲間として団結したいとき、笑いが基本かなと思うようになったそうです。自衛隊でのミッションは、笑いというより怒鳴り声が飛ぶ世界のため、その違いに内心驚いたともいいます。

こうして、2012年6月、フロリダ州海底でのNASA極限環境ミッション運用訓練が終了すると、同年10月、国際宇宙ステーション(ISS)第44次/第45次長期滞在員に任命されました。2015年5月、この月の月末に予定されていた打ち上げに向けて、ガガーリン宇宙飛行士訓練センターで行われた最終試験にも合格。

しかし、これに先立つ4月末には、ロシアのプログレス補給船に制御不能となる事故が起きました。打ち上げ予定のソユーズ宇宙船には、一部で共通の機構部品が使われていたため、事故の原因究明作業に時間を要するため、打ち上げは延期。しかし、6月になって、ロシア連邦宇宙局は、延期となっていたソユーズ宇宙船の打ち上げ決定を発表しました。

こうして、先の7月23日、日本時間6時2分、予定通りバイコヌール宇宙基地からに打ちあげられたソユーズ宇宙船は、約6時間後、無事に国際宇宙ステーションとドッキングに成功しました。

年末までの約5ヶ月間、日本の実験棟「きぼう」に滞在し、8月に打ち上げ予定の、宇宙ステーション補給機「こうのとり」5号機での実験や、ISS各システムの運用、宇宙環境を利用したその他の科学実験などを行うといいます。今後またそうした実験の様子がテレビなどのメディアでも報道され、我々を楽しませてくれることでしょう。

ところで、この油井さんが航空自衛隊でやっていた「テストパイロット」ですが、これは、新型あるいは改造した航空の実験操縦を行い、その結果を測定分析して、設計や性能を評価するまでの一連の作業をこなす飛行士のことです。

軍事組織だけでなく、民間企業に所属していることが多いわけですが、だからといって「テストパイロット」という資格や肩書があるわけでもなく、通常のパイロットの一人であることには変わりありません。しかし、「テスト」の意味するところはかなりシビアです。

とくに、民間のテストパイロットと異なり、軍用機のテストパイロットというものは、危険きわまりないものです。1950年代には、およそ1週間に1人の割合でこうした軍用テストパイロットが死亡していたといいます。ただ、1960年代以降、航空機技術の成熟、地上テストの向上、シミュレーションの導入などによって危険は急速に減少しました。

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最近では実験機のテストを無人で行うことが多くなってきているようです。がしかし最終的には人が操縦するものの安全性を確認する必要があり、そのテストを行う者もやはり人でなくてはなりません。安全かどうかを確認するということは、安全性が不確かな飛行機に乗るということであり、当然こうした実験機の操縦は不安定なものにならざるを得ません。

従って、いつ死ぬかもわからない、というフライトを平気でできるためには、それなりのタフな精神力を持っている必要があり、かつ陽気で恐れを知らないような人物でないと務まりません。さらに、テストパイロットの資格を得るためには次のような能力が求められるといいます。

・非常に特殊な方法や条件で飛行を行い、テスト飛行をやり遂げることができる精神力。
・各テストの結果を入念かつ、正確な文書にすることができる高い文筆力。
・テスト計画の意味、中身を理解できる総合判断能力があること。
・航空機に対する卓越した感覚を持ち、微細な挙動を正確に感じ取ることができる繊細さ。
・咄嗟のトラブルに迅速に対処できる、問題解決能力。
・同時に進行している複数の事象に対処することができる、マルチ性。

このほかにも、軍隊の飛行機の性能テストを行うためには、航空工学についての卓越した知識も必要とされます。国内外で、いわゆる戦闘機乗りといわれるような人達が乗る戦闘機は、いまや電子機器の塊といっても過言ではなく、コンピュータを主体とする制御装置である、いわゆる「アビオニクス」についても高度の知識が必要とされます。

すなわち、パイロットしての資質以上に、エンジニアとしての資質も必要とされるわけで、加えて飛行計画を理解する戦略的、戦術的な能力や、疑問点を解明するための高度な判断能力、分析技術が求められます。加えて、一般のエアラインのパイロットには必要のない運動神経や反射神経も求められます。

いざ戦闘となれば、ジェット戦闘機には最大で12Gもの荷重がかかるため、その中で意識を保ちつつ機体操作を続けねばならず、また離陸やランディング等のマニエューバーに関しも高い運動神経と身体感覚が必要です。実際、戦闘機に乗るというのはスポーツを行う感覚に近いものだとその昔、元自衛隊のパイロットだった同僚から聞いたことがあります。

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しかも、テストパイロットともなれば、徹底的に正確で職業的な飛行が求められ、スリルや興奮を求める冒険的なパイロット達には向いていない仕事です。しかし、1950年代のアメリカのパイロットで、後に宇宙飛行士になったような人の中には冒険心にあふれ、そうした危険な飛行をむしろ好んでやる人が多かったといいます。

とくに、ウィドウ・メーカー(widow maker)と呼ばれるようなじゃじゃ馬航空機では、事故が多いものですが、彼等はこれを「乗りこなす」ことに意欲を燃やしました。このため当然その飛行試験で命を落とす者も多くありました。Widowとは、未亡人のことであり、つまりウィドウ・メーカーとは「後家づくり」「未亡人製造機」ということになります。

構造的・運用的欠陥に関わらず死亡事故率が高いとの評判が高く「ウィドウ・メーカー」と呼ばれた米軍航空機には、ベトナム戦争で数多く投入されたF-104 スターファイター迎撃戦闘機やF-8クルセイダー 艦上戦闘機などのほか、イギリス空軍の開発した垂直離発着機ハリアーなどがあり、最近ではオスプレイなどもウィドウ・メーカーとよくいわれます。

世界最古のテストパイロット学校は、イギリス南部のサウサンプトンにもほど近いボスコムダウン国防省施設内にある航空機のテストサイトで、これは現在、大英帝国テストパイロット学校と呼ばれています。アメリカでは、エドワーズ空軍基地に空軍のテストパイロット学校があるほか、メリーランド州に海軍のテストパイロット学校があります。

日本では学校はないようですが、いくつかの航空基地内にテストパイロットの訓練コースがあるようで、油井さんはこのうち自衛隊で最も厳しい訓練を行うという岐阜基地を選びました。パイロットの中でも特に優秀な者が選抜されてくる場所であり、厳しい学科と実機訓練を繰り返し、ようやく資格を得たといいます。

こうしたテストパイロットたちは、優秀な飛行機乗りたちばかりであるため、多くの伝説を残していますが、その中には「世界初」の快挙を成し遂げた人達もいます。例えば、アメリカ空軍のチャールズ・E・”チャック”・イェーガー少将は、有人実験機、X-1で初めて音速の壁を突破しました。

また、二次世界大戦において夜間迎撃戦闘機で活躍したイギリス空軍のエースパイロット、ジョン・カニンガムは、世界初のジェット旅客機であるデハビランド コメットのテスト飛行を行いました。また、ドイツのハンナ・ライチュは、世界初の実用ヘリFw61やジェット戦闘機Me262、有人V1ロケットなど先進的な機体のテストパイロットを勤めました。

のちに宇宙飛行士になったテストパイロットも多く、有名なところでは、アポロ11号で人類として初めて月に降り立ったニール・アームストロングは、高高度極超音速実験機X-15のテストパイロットでした。

また、後年上院議員にもなったジョン・グレンは、艦上戦闘機F8Uに乗って初めて超音速でアメリカ大陸を横断後に宇宙飛行士に転向しており、マーキュリー計画でアメリカ初の地球周回軌道飛行にも成功しています。

女性初のスペースシャトルパイロット、アイリーン・コリンズもまた、米空軍のテストパイロット学校を卒業後に宇宙飛行士に転向しており、コロンビアの空中分解事故以降最初のフライトで、日本人宇宙飛行士野口聡一が搭乗したディスカバリー号によるミッションSTS-114では女性としては世界初となる宇宙船船長を務めあげました。

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日本にも伝説的なテストパイロットがいます。黒江保彦といい、元日本陸軍の戦闘機乗りで、陸軍飛行第64戦隊の撃墜王として有名で、米軍からは、通称「魔のクロエ」と呼ばれ、その撃墜数30とも38とも言われます。

開戦当時は傑作とうたわれつつも末期には弱武装、低速と言われるようになった陸軍の戦闘機「隼」でドイツ空軍も苦戦したP-51やモスキートを撃墜したことでも知られています。

また、戦時中に鹵獲したアメリカ軍機で各種試験飛行を行うテストパイロットとしても名を馳せました。テストパイロットとしての能力も高く、ユニットの特性や出力バランス等を明確に数値化して表現出来るため、技術者たちからも大いに信頼されたといいます。

この鹵獲(ろかく)とは、戦地で敵の装備品や兵器を奪って自国軍の兵器として使うことです。古くは、日清戦争で清から鹵獲した甲鉄砲塔艦「鎮遠」を連合艦隊に編入して日本海海戦に臨んだほか、この日本海海戦でもロシア帝国海軍ボロジノ級戦艦の三番艦「アリヨール」を鹵獲し、のちに戦艦「石見」として転用しています。

このほか、二次大戦でも、フィリピン戦線でアメリカの戦闘機、カーチスP-40E 4機を鹵獲して臨時の防空戦闘隊を編成したほか、アメリカ陸軍のM3軽戦車を鹵獲し、ビルマ戦線などに投入しています。

黒江保彦の場合は、鹵獲したP-51ムスタング戦闘機にテストパイロットとして搭乗し、仮想敵機として日本各地で模擬空中戦を行ったりしていました。面白い話があり、あるとき、B-29が偵察飛行に飛来した際に黒江はこの鹵獲したP-51に搭乗して飛び上がり、このB-29に怪しまれずに接近したそうです。撃墜はできなかったようですが。

このように多くの逸話の残る人です。薩摩っぽで、1918年(大正7年)、薩摩半島の中北部にかつてあった伊集院町で生まれました。父は黒江敬吉といい、やはり軍人で陸軍少佐でした。伊集院中学を経て陸軍士官学校に入り、1938年(昭和13年)、20歳でここを卒業後、陸軍航空兵として少尉任官しました。

さらに明野陸軍飛行学校で戦技教育を受けたあと、同年飛行第59戦隊に配属され、日中戦争(支那事変・日華事変)中の漢口飛行場に着任し、さらに航法訓練、編隊飛行、単機戦闘、射撃訓練などの訓練を受けました。

1939年(昭和14年)のノモンハン事件の勃発により、所属する第59戦隊は満蒙(現中国・モンゴル)国境の採塩所飛行場に移動。黒江は、ここでソ連労農赤軍機を相手に初めて実戦を経験しました。ノモンハン事件停戦の日の9月15日には、ソ連領内タムスクの爆撃に参加し、はじめてソ連機I-15を2機撃墜。

停戦後は漢口へ帰還し、広東、海南島近海、南寧奥地などを転戦しましたが、2年後には、内地の陸軍航空士官学校教官として着任。このとき大尉に進級しました。その後、陸軍航空審査部に転任となり、部編成の独立飛行第47中隊(通称かわせみ部隊)に編入された彼は、ここで後に二式単座戦闘機「鍾馗」となる試作重戦闘機「キ44」に巡り合います。

この鍾馗(しょうき)さまは、それまでに開発された他の日本戦闘機とは異なり、旋回性能よりも速度を優先させており、大きさの割には優れた上昇力、加速力、急降下性能を備えた優秀な迎撃機でした。が、反面、戦闘機としては旋回性能が低く、操縦の容易な従来の軽戦での格闘戦に慣れた通常のパイロットには嫌われる傾向にありました。

離着陸の難しさ、航続距離の不足なども嫌われる理由でしたが、設計に携わった糸川英夫技師は、「一式戦闘機「隼」は時宜を得て有名になったが、自分で最高の傑作だと思っているのは、それの次に設計した「鍾馗」戦闘機である」と戦後の著書に記しており、黒江もこの戦闘機を気に入っていたようです。

どうやら玄人受けする飛行機だったようで、黒江にしてみれば、テストパイロットとして搭乗した初の戦闘機でもあり、思い入れもあったのでしょう。彼はこの機を駆使し、現在の伊勢市小俣町にあった陸軍明野飛行学校や海軍の横須賀航空隊に出かけては戦技を磨きつつ、戦闘の研究を重ねました。

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同年12月太平洋戦争開戦に向けて独立飛行第47中隊は南方戦線に移動。翌1942年(昭和17年)1月から戦闘に参加し、シンガポール攻略で「鍾馗」による撃墜第1号の戦果をあげ、その後タイ、ビルマへ順次前進し、先輩の神保大尉や部下たちとともに戦いました。

ジミー・ドーリットル陸軍中佐率いるB-25爆撃機16機は東京府東京市、神奈川県川崎市、横須賀市、愛知県名古屋市、三重県四日市市、兵庫県神戸市を爆撃した、いわゆる「ドーリットル空襲」があったのはこのころです。これを受け、外地にあった独立飛行第47中隊は内地へ移動。

このとき、黒江は現地に残り、同中隊を離れて、のちの映画や軍歌で名高い「加藤隼戦闘隊」の飛行第64戦隊へ転属となり、第3中隊長に任命されました。趣味は魚釣りで、この64戦隊配属時の当初は暇さえあれば釣りばかりしていたといいます。

隊が一躍有名になったのは1941年4月に着任した4代目隊長の加藤建夫の時で、「加藤隼戦闘隊」の愛称もこれによります。1942年の黒江の入隊後も、マレー半島、ジャワ、ビルマ方面でイギリス空軍には武勇を重ねましたが、劣勢の中国軍を支援したアメリカ空軍は無線による早期警戒システムを張るようになったため、部隊は大敗を重ねました。

同年5月22日、加藤は僚機と共に基地に襲来したブリストル・ブレニム爆撃機を追撃し撃墜するものの、尾部銃座の銃撃を受けて戦死(自爆)しました。加藤は死後2階級特進して少将となり、軍神として讃えられました。

加藤の戦死後、隊長は最後の宮辺英夫(第9代)まで5人いましたが、隊長とは別に隊を事実上取り仕切っていたのが黒江保彦でした。先任中隊長として戦隊長を補佐し続け、上述のとおり、同隊所属中、ビルマ戦線で非力な「隼」を操ってイギリスの高速戦闘機「モスキート」を撃墜するなど活躍をし、昭和19年(1944年)はじめまで所属しました。

大らかで明朗快活な上、気配りも出来る性格で、部隊運営能力も高く、部下に慕われましたが、部隊の士気高揚にも長けていたといいます。

1944年(昭和19年)1月、陸軍航空審査部に再び着任しますが、4月には、1か月間スマトラ島パレンバンへ出向し、油田防空担当の第3航空軍第9飛行師団戦闘機隊に特殊爆弾攻撃を伝習教育するなど、海外にもしばしば出張しました。国内でも東京府福生飛行場で各種試作戦闘機や武装の審査を担当しながら防空戦闘に出動しています。

鹵獲したアメリカ軍機で各種試験飛行を行なうテストパイロットも行うようになったのはこのころで、B-29が偵察飛行に飛来した際、鹵獲したP-51ムスタング戦闘機を飛ばして迎撃に向かい、仲間を驚かせたのもこの陸軍航空審査部勤務のときのことです。

黒江はこのP-51の性能を高く評価していました。米ノースアメリカン社により製造されたレシプロ単発単座戦闘機で、イギリスのロールス・ロイス マーリンエンジンを搭載したこの戦闘機は、大きな航続力、高高度性能、高い運動性と空中格闘能力を与えられて多くの戦功を残し、第二次世界大戦中、そして史上最高のレシプロ戦闘機とされています。

来るべき日本本土上空で、このおそるべきマスタングとの空戦を見越し、黒江は陸軍航空審査部による全国各地の防空戦闘機部隊を対象とした模擬空戦のアグレッサー(擬似敵役)を務めました。

その際、P-51の高性能さと黒江自身の持つ戦闘機操縦技量により訓練相手を圧倒する事もありましたが、新米パイロットが相手の際は自信喪失しないようにあえて手心を加えたといいます。しかし、模擬戦後相手に「あれでもP-51はまだ本気を出していない」などと苦言を呈し、若手に対して実際の戦闘はもっと厳しぞと釘を刺すことも忘れませんでした。

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しかし、1945年(昭和20年)夏、敗戦。黒江は陸軍の解体によりその秋に郷里の鹿児島へ帰りました。農業に従事し、田畑を耕し馬を飼っていましたが、食糧難時代で体も痩せ細っていきました。

闇商売、行商、サルベージ業など様々な商売を手がけて失敗が続き、莫大な借金を背負い、昭和27、28年ごろは精神的には平然を装っても日々の食べ物にこと欠くどん底状態に陥ります。

しかし、その後上京し、民間の富士航空を経て航空自衛隊に入隊。ジェット戦闘機の搭乗員として空を飛ぶ生活に戻ることができ、生き生きとした状態を取り戻しました。航空自衛隊では1年間イギリス空軍への留学に派遣され、必死に勉強したと伝えられ、帰国後はジェット戦闘機隊の指揮官などを経て、石川県小松基地の第6航空団司令に就任しました。

1965年(昭和40年)12月5日、旧軍の少将の地位に当たる空将補まで登りつめ、第6航空団司令在任中は、次世代の空将と目されていました。そんな中、悪天候の中を福井県の越前海岸に磯釣りに出かけ、高波に飲まれ水死しました。享年47歳。妻が止めたにもかかわらずの釣り行だったといいます。

12月7日の部隊葬では軍歌として知られる飛行第64戦隊歌で送られたそうです。彼自身も軍歌を歌うのが好きで、タバコの煙をふかして痛飲し、加藤隼戦闘隊の歌をよく歌ったと伝えられます。

才能のある文筆家の顔を持っており、自らも第64戦隊時代には同戦隊の第二部隊歌を作詞しました。戦後の著書も数ある陸海軍戦闘機操縦者らによる空戦戦記の中でも、とくに彼の記述は文学作品としても取り上げられるほど評価が高いようです。

100キロの大きな体躯に天衣無縫なおおらかさと、きめ細やかな感情と心配りの人だったといいます。明るく豪快ながら心配りある人柄は多くの部下に慕われた思ったことは即行動し、家族を驚かすことも多かったそうです。しかし、釣りが大好きで釣りに行くと決めたら他の意見をまったく聞かなくなる性分でもあり、最後はその性格が災いしました。

こうして天才テストパイロットはあちらの世に逝ってしまいましたが、現世における元天才パイロットはかくして宇宙ステーションに滞在し、新たな伝説を作ろうとしています。

奥さんと息子二人、娘一人の5人家族です。趣味はゲーム・映画鑑賞で、最近、アマチュア無線試験を受験し合格したとツイッター上で公表されています。

御出身の川上村は長野県の東南端に位置し、信濃川に至る千曲川源流の里です。四方を山々が連なり秩父多摩甲斐国立公園の一角を占める風光明媚な環境にあります。村の基幹産業は野菜産業であり、7月下旬から11月初旬にかけ、豊潤な大地と豊かな水に育まれ、美しいまでの高原野菜が生産されています。

日本有数の高原レタスの産地として知られており、油井さんのご実家もレタス農家だとか。その雄大なレタス畑の真上を今日も油井さんの乗る国際宇宙ステーションが飛んでいることでしょう。

おそらく宇宙ではレタスなどの新鮮野菜は食べられないでしょうが、5か月のミッションを終え、無事帰ってこられて、新鮮なレタスをたらふく食べていただきたいと思います。

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雷発ウナギ着

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平安時代の今日、京の都の清涼殿で大きな落雷事件があったとされます。

延長8年(930年)6月26日のことであり、現在の暦ではちょうど今日7月24日にあたります。清涼殿というのは、平安時代初期の天皇の御殿で、日常の政務のほか、四方拝・叙位・除目などの行事が行われていました。

この時代は醍醐天皇の治世です。藤原時平・菅原道真を左右大臣とし、政務を任せ、摂関を置かずに形式上は親政を行って数々の業績を収めました。後代になってこの治世は「延喜の治」として謳われ、そこそこ成功した治世だと評価されているようです。

が、醍醐天皇は、あるとき左大臣藤原時平の讒言を容れて菅原道真を大宰府に左遷しており、讒訴(ざんそ)を受け入れた暗君という評価もあり、その後道真が学問の神として人気が高くなったことと対比されて、悪役とみなされることも多い天皇です。

道真はその左遷の2年後に大宰府で没しましたが、死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなす荒神になったとされ、時代が下がると「天神」として信仰の対象となりました。ただ、この落雷は、道真が亡くなってから27年ほどあとに起った災害であり、まだこのころは天神信仰は興っていません。

このころ平安京周辺は干害に見舞われていました。このため、6月26日当日も雨乞の実施の是非について醍醐天皇がいる清涼殿において会議が開かれる予定でした。

ところが、午後1時頃より愛宕山上空から黒雲が垂れ込めはじめ、やがては平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎ始めました。そして、それからおよそ1時間半後に清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃しました。

この時、周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれ、公卿では大納言民部卿の「藤原清貫」が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死、右中弁内蔵頭の「平希世」も顔を焼かれて瀕死状態となりました。清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに外に運び出されましたが、希世も程なく死亡しました。

落雷は隣の紫宸殿にも走り、右兵衛の「佐美努忠包」が髪を、同じく「紀蔭連」が腹を、「安曇宗仁」が膝を焼かれて死亡、更に警備の近衛も2名死亡しました。清涼殿にいて難を逃れた公卿たちは大混乱に陥り、醍醐天皇も急遽清涼殿から常寧殿に避難しました。しかし、惨状を目の当たりにして体調を崩し、3ヶ月後に崩御することとなりました。

天皇の居所に落雷したということも衝撃的でしたが、死亡した藤原清貫がかつて大宰府に左遷された菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が広まりました。また、道真の怨霊が雷を操ったということとなり、道真が雷神になったという伝説が流布する契機にもなりました。

清涼殿落雷の事件から道真の怨霊は雷神と結びつけられるようになり、百年ほど大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れられるようになりました。そして、京都の北野に「北野天満宮」を建立してその本尊を「火雷天神」として、道真の祟りを鎮めようとしました。

この火雷天神は天から降りてきた雷神のひとつとされており、雷は雨とともに起こり、雨は農作物の成育に欠かせないものであることから、のちには「農耕の神」ともみなされるようになりました。

一方、元々日本各地には、この火雷天神との伝承とは別に「天神」と称する神様が祀られていました。本来、天神とは国津神(地上に宿る神)に対する天津神(天上に宿る神)のことであり、特定の神の名ではなく、「神様」の一般呼称でした。

が、判官贔屓によって道真がもてはやされるようになると、「火雷天神」の名前が際立つようになり、この天神と同一視されるようになりました。そして各地に祀られていた天神イコール火雷天神(道真)であるとされるようになり、統一されて「天神様」の呼称で呼ばれることが多くなりました。

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以降、こうして、「天神様」として信仰する「天神信仰」が全国に広まることになっていきます。同時に各地の神社で、本来の火雷天神の「本家」でもある北野天満宮や太宰府天満宮からの勧請も盛んに行われるようになりました。

この結果、神雷天神(道真)を祀る神社は莫大に増えていきました。が、元々のルーツがあいまいなので、これらは現在、天満宮・天満神社・北野神社・菅原神社・天神社などとバラバラな名称で呼ばれており、九州や西日本を中心に約一万社もあるといいます。

なお、これらが現在のように学問の神として信仰されるようになったのは、各地の神社が奉る火雷天神こと、菅原道真が生前優れた学者・詩人であったことからきています。

この菅原道真の一件が起こる前の古代の雷様は、民間信仰や神道におけるごくごく普通の「自然神」であったようです。山々や木々、川や海といった自然の一つ一つに宿るものであり、呼び方としても「雷様」だけでなく、「雷電様」「鳴神(なるかみ)」「雷公」とも呼ばれ、これらの呼称は「古事記」に記された神話の中でもたびたび出てきます。

そのひとつに、有名なイザナミとイザナギの話があります。

伊邪那美命(イザナミのみこと)は、伊邪那岐命(イザナギのみこと)との間にできた火の子供、火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ)を生んだ事で、女陰を焼いて死んでしまいます。イザナミはこの妻の死を悼み、これを追って黄泉の国に下ります。

このとき、地上へ帰ろうと呼びかけるイザナギに対してイザナミは、もうすでに黄泉の国の食物を口にしてしまったため、ここから出る事が出来ないと応じました。

しかし、のちに思い返し、自分を追って黄泉まで来たイザナギの願いを叶え、地上に戻るために、黄泉(よみ)の神に談判するとこれを許されました。そしてその準備のために、居所であった御殿に一旦戻ります。

ところが、その後ここから何時まで経って出てこないイザナミを見て、イザナギは彼女はもしかしたら心変わりをしたのかもしれないと、不安になり、「櫛の歯」に火を点けて彼女の御殿に忍び入ります。

そこでイザナギが見たものは、体に蛆がたかり、頭には大雷神、胸に火雷神、腹に黒雷神、女陰に咲(裂)雷神、左手に若雷神、右手に土雷神、左足に鳴雷神、右足に伏雷神の8柱の雷神(火雷大神)がそれぞれ「生えている」世にもおぞましいイザナミでした。

このイザナミの変わり果てた姿に恐れおののいたイザナギは、ほうほうの体で黄泉の国から逃げ出します。ところが、自分の醜い姿を見られたイザナミは、恥をかかされたと思い、黄泉の国の醜女、黄泉醜女(よもつしこめ)にイザナギを追わせました。

必死に逃げるイザナギはそれを振り払おうとしますが、イザナミはさらに今度は自分の体から8柱の雷神を引っこ抜き、これに黄泉の軍勢を率いて追わせました。

追いかけてくるこの八雷神と黄泉醜女を追い払うため、イザナギは、髪飾りから生まれた葡萄、櫛から生まれた筍、黄泉の境に生えていた桃の木の実を彼等に向けて投げ、ようやく難を振り切り、命からがら地上に帰りつきました。

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これが有名な「黄泉がえり」の神話です。のちに「蘇り」と書かれるようになり、死地から蘇生することを示す意味として使われるようになりました。

この黄泉がえりの話の中で、イザナミの体のあちこちから生えてくる雷神たちこそが、民間信仰の雷様のルートと考えらます。惧れと親しみをこめて「雷様」「雷電様」「鳴神」「雷公」などと呼ばれるようになっていくわけですが、これら一連の雷さまに共通するのは、天から落ちてきては、人の「ヘソをとる」という点です。

子供が夏に腹を出していると「かみなりさまがへそを取りにくるよ」と周りの大人から脅かされるアレです。それにしても、なぜ雷さまはへそ(臍)をとりがたるのか。

その理由を調べてみたところ、「雷さまにへそを取られる」や「雷が鳴ったらへそを隠せ」という俗説には昔の人の知恵が関係しているようであり、その一つは、身を低くすることで雷を回避できるというものです。

一般に雷は背の高いものに落ちるといわれており、雷が鳴っている時は体勢を低くして移動、あるいは地面に伏せていれば大丈夫、ということを昔の人は経験的に知っていた、というわけです。このため、かがんだり、伏せたりすることはつまりヘソを守ることでもあり、このことから雷さまがへそを取る、というようになったという説がひとつ。

また、雷が起こる原因のひとつは、夏などの気温が高い時期に、暖かい空気の中に突然寒冷前線などの影響で冷たい空気が入ることです。この急激な気象擾乱によって雲と地上との間の放電が起こります。このため雷が鳴るような状況になると、雷雨とともに急速に気温が下がります。

このとき、気温が下がることによって、お腹を出していた子供がお腹を冷やさないように、冷やさせないように、という教育上の理由から、おへそを隠すように、といわれるようになった、というのがもうひとつの説です。

寒冷前線が過前する前というのは、暖かい風が吹くので薄着したり、お腹を出すような格好になりやすいものですが、これも理にかなっています。昔は、医学が進歩していなかったので風邪をこじらせて生命にかかわる事が多かったので、腹を冷さないためにも雷が鳴るとヘソが取られると言って、子供を戒める必要があったというわけです。

さらに、昔の人は着物の帯に財布を入れていたため、中に硬貨が入っていた場合、ここに電気が集中してへそが焦げる、といったことも実際にあったようです。昭和20年代の群馬県のある新聞に「実際に雷にへそを取られた」という記事が出た事があるそうで、それによると雷に打たれた中年男性のへその部分に直径数センチの穴が開いたとのことです。

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なお、この雷さまから逃れるための古くからの言い伝えとしては、蚊帳に逃げ込む、もしくは「くばらくわばら」と唱えることとされます。

このくわばら、とは京中にある「桑原」のことであり、これは菅原道真の亡霊が雷さまとなり都に被害をもたらし際、道真の領地であった場所で、この桑原の地にだけは雷が落ちなかったと言う伝承からこういうおまじないを唱えることが流行るようになったものです。

このように雷は恐ろしいもの、と恐れられる一方で「風神雷神図」に代表されるように、昔から絵の題材にされ、巷では人気のある神様です。

この風神雷神図の雷さまは鬼の様態で、牛の角を持ち虎の革のふんどしを締め、太鼓(雷鼓)を打ち鳴らしています。滋賀県大津市に江戸時代初期から伝わる民俗絵画に、「大津絵」というのがありますが、このなかでは雷さまは雲の上から落としてしまったこの太鼓を鉤で釣り上げようとするなどユーモラスに描かれています。

また、この雷神の鬼のような姿は鬼門(艮=丑寅:うしとら)の連想から由来したものといわれており、雷が落ちる時、ウシとトラを掛け合わせたような「雷獣」という怪獣が落ちてくる姿を描いたともいわれています。

一方、風神雷神図において、対になる存在となる「風神」についても、古事記や日本書紀の時代からある古い伝承に基づく神様です。風の神、風伯とも呼ばれ、風を司る神です。風の精霊でもあり、古事記などに記された神話の中では、志那都比古神(しなつひこのかみ・シナツヒコ)が風神とされています。

上述のイザナギとイザナミの間に生まれた神であり、イザナミが朝霧を吹き払った息から級長戸辺命(しなとべのみこと)という神が生まれ、これがのちにシナツヒコに変わっていったようです。

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また、民間伝承における風神は妖怪でもあり、これは空気の流動が農作物や漁業への被害を与え、人間の体内に入って病気の原因となります。中世の信仰から生まれたもので、「カゼをひく」の「カゼ」を「風邪」と書くのはこのことが由来と言われています。

このため江戸時代には風邪の流行時に風の神を象った藁人形を「送れ送れ」と囃しながら町送りにし、野外に捨てたり川へ流したりしました。また、江戸時代の奇談集「絵本百物語」でも、風の神を「邪気」としており、これは風に乗ってあちこちをさまよう妖怪です。

物の隙間、暖かさと寒さの隙間を狙って入り込み、人を見れば口から黄色い息を吹きかけ、その息を浴びたものは病気になってしまうとされます。また「黄なる気をふくは黄は土にして湿気なり」と述べられており、これは中国黄土地帯から飛来する黄砂のことで、雨天の前兆、風による疫病発生を暗示しているものといわれます。

西日本各地では、屋外で急な病気や発熱に遭うことを「風にあう」といい、風を自然現象ではなく霊的なものとする民間信仰がみられます。平安時代の歌学書「袋草子」、鎌倉時代の説話集「十訓抄」にも、災害や病気をもたらす悪神としての風神を鎮めるための祭事があったことが述べられています。

俵屋宗達の「風神雷神図」では、鬼の姿を模し、大きな袋を持った姿で描かれ、これをふいごのようにして風を起こします。宗達の最高傑作と言われ、彼の作品と言えばまずこの絵が第一に挙げられる代表作です。宗達の名を知らずとも風神・雷神と言えばまずこの絵がイメージされる事も多く、日本の文化を代表するものといってもいいでしょう。

京都国立博物館蔵の国法です。製作年については17世紀前半の寛永年間、宗達最晩年の作とする説が有力です。画面の両端ぎりぎりに配された風神・雷神が特徴であり、これが画面全体の緊張感をもたらしており、その扇形の構図は扇絵を元にしていると言われます。

風袋を両手にもつ風神、天鼓をめぐらしたその雷神の姿は、上述の清涼殿落雷の一件を描いた、「北野天神縁起絵巻の「清涼殿落雷の場」の図などからの転用だといわれます。また、三十三間堂の風神・雷神像からの影響もしばしば指摘されていることころです。

しかし、宗達は元来赤で描かれる雷神の色を、風神との色味のバランスを取るため白に、青い体の風神を同じ理由で緑に変える等の工夫を凝らし、他人には真似できないような独創的な作品に仕上げています。金箔、銀泥と墨、顔料の質感が生かされ、宗達の優れた色彩感覚を伺わせるほか、両神の姿を強烈に印象付けています。

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2008年7月に行われた洞爺湖サミットでは、会議場にこの風神雷神図の複製が置かれたといいます。正式には第34回主要国首脳会議といい、2008年7月に北海道洞爺湖町のウィンザーホテルを会場にして行われ、通称「北海道洞爺湖サミット」と呼ばれました。

8か国の政府の長および欧州連合の欧州理事会議長と欧州委員会委員長が年1回集まり、国際的な経済、政治的課題について討議する会議です。

過去に日本では、5回開催されており、これは、1979年6月に東京で行われた第5回サミット、また、1986年5月の第12回(東京)、1993年7月の第19回(東京)、2000年7月の第26回(沖縄県名護市)、そして2008年の7月の第34回(北海道洞爺湖町)です。

2000年のサミットは、日本初の地方開催サミットであり、これは通称「九州・沖縄サミット」と呼ばれ、2008年の洞爺湖町サミットは、「北海道・洞爺湖サミット」でした。そして、来たる2016年には、三重県志摩市で、通称「伊勢志摩サミット」が行われることが先ほど発表されました。「第42回先進国首脳会議」が正式名称です。

実は、このサミットが日本で開催される年には、そのほとんどで衆議院において解散総選挙がおこなわれるため、ジンクスだといわれています。1979年東京の大平正芳総理のときが最初であり、また1986年東京の中曽根康弘総理もしかり、1993年東京の宮沢喜一総理、2000年沖縄の森喜朗総理のときも解散がありました。

ただ、2000年のサミットのように衆議院議員の任期満了がその年の9月までだったため、総理の意図に関係なく年頭から衆院選が確実視されていたケースもあります。また、2008年北海道の福田康夫総理の年には解散総選挙はおこなわれていません。

サミットの年に総選挙がおこなわれることが多い理由としては、国際的に注目を浴び、イメージが上昇したところで与党は選挙をやりたいと考えるから」というのがあるようです。一般的にサミット花道論といわれ、内閣総辞職や衆議院解散の時期を予測する有力な材料となっているといわれますが、来年はたして解散が行われる可能性があるでしょうか。

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この伊勢志摩サミットは、来年5月26~27日に日本の三重県志摩市の「阿児町神明賢島」で開催予定です。8都市がサミット開催候補地に立候補していましたが、安倍総理の各国への働きかけが功を奏し、先の6月に志摩市を開催地に選定したとの発表がありました。

志摩市が選定された理由として、会場となる賢島が離島であり、人の出入りが制限できることや陸伝いの攻撃を避けられること、三重県警察が伊勢神宮参拝時の要人警護の経験が豊富であることが挙げられており、警備面を重視した選定となったようです。

伊勢志摩での開催に際し、三重県選出の元厚労相・川崎二郎や民主党代表の岡田克也からは称賛や期待の声が寄せられました。岡田さんは四日市の出身であり、賢島にも近いことから、この地でも人気があるようです。

この賢島ですが、三重県志摩市の英虞湾内にある有人島であり、伊勢志摩観光の拠点です。
伊勢志摩は、三重県南東部にあたり、同県の5つの地域区分の1つである「南勢」とほぼ重複しますが、「伊勢志摩」の方がより親しまれて使われます。

ここを訪れる観光客は高度経済成長の時代に入るまで4~500万人で推移してきましたが、伊勢神宮の神宮式年遷宮のあった1973年には1200万人を突破、以降は1300~1400万人を維持するようになりました。

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賢島はその伊勢志摩の中にあって、英虞湾に属する島です。湾北部の「奥志摩」と呼ばれる地域の中に、さらに阿児町神明(しんめい)と呼ばれる地域があり、かつては神明浦(しめのうら)と呼ばれていました。賢島はここに含まれます。

1946年(昭和21年)にこの地域一帯が伊勢志摩国立公園が制定された際、外貨獲得のために洋風のホテルを作ろうという機運が盛り上がり、1951年(昭和26年)4月に25室50人収容の志摩観光ホテルが賢島に開業したのが、観光地としての始まりです。

2015年(平成27年)現在、ここに住民票を持つ人はたった126人。とはいえ、本州との間は10m未満であり、いつも観光客であふれかえっています。英虞湾に浮かぶ島で最大の面積があり、近鉄志摩線が本州から島内に入り込み、島中央部に終点賢島駅があります。

賢島に人が住み始めたのは讃岐岩製の矢じりが発見されたことから、縄文時代と考えられており、島内からは、古代の製塩跡も発見されています。しかし、後に無人島となり、島内は松林と水田が見られる程度でした。

江戸時代の指出帳には「かしこ山」とあります。当時の農民が干潮の時、本州から徒歩(古語では「かち」と言った)で島に渡れたため「かちこえ島」と呼ばれたものが、訛って「かしこ山」→「かしこ島」となったとされます。現在の漢字表記「賢島」に改められたのは、1929年(昭和4年)に志摩電気鉄道(現在の近鉄志摩線)が開通したときです。

鉄道開通と共に観光地としての開発が進み、近鉄による資本を中心として観光地化が進み、志摩マリンランド(水族館)などのレジャー施設ができるとともに、大手企業の保養施設も入るようになりました。現在では志摩地域の観光拠点として定着し、年間1260万人もの観光客が訪れています。

この賢島における観光開発は奥志摩観光の先駆けとなるものでしたが、同時にこの地は養殖真珠の発祥地でもあります。

養殖貝による真珠生産の歴史は古く、11世紀の中国などで既に行われていましたが、量産することは難しい状況でした。英虞湾でも奈良時代から阿古屋貝から採れる真珠を出荷していましたが、採取できる天然モノの数は限られていました。

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世界的にみても、20世紀初頭には、ヨーロッパ資本が真珠の価格をコントロールしたため、真珠はダイヤモンドより高価な宝石となっていきました。そんな最中、1905年に「御木本幸吉」が賢島の南部にある無人島、多徳島で養殖アコヤガイの半円真珠の生産に成功しました。

御木本幸吉はこの成功により、御木本真珠店(現・ミキモトを)創業しましたが、その後も真珠の養殖とそのブランド化などで富を成し、世界的にも「真珠王」と称された伝説の人物です。

生まれたのは、志摩国鳥羽浦の大里(現在の三重県鳥羽市)で、代々うどんの製造・販売を営む「阿波幸」の長男でした。正規の教育は受けていませんが、明治維新によって失業した士族から読み書きソロバン、読書などを習いました。

14歳で家業の傍ら青物の行商を始めます。大きな目標を掲げる事で自分自身に課題を与え自らを鼓舞するところがあり、明治9年の地租改正で納税が米納から金納に変わったのを機に米が商売の種になるとみて青物商から米穀商に転換しました。金納となり、納税者である農民は米価安に困窮したため、これを安く買い叩いて転売すれば利ざやが稼げます。

これによって財を得た幸吉は、1878年(明治11年)には20歳で家督を相続。御木本幸吉と改名すると、東京、横浜への旅により天然真珠など志摩の特産物が中国人向けの有力な貿易商品になりうることを確信、今度は海産物商人へと再転身しました。

海産物商人としての幸吉は自らアワビ、天然真珠、ナマコ、伊勢海老、牡蠣、天草、サザエ、ハマグリ、泡盛など種々雑多な商品を扱う一方、志摩物産の品評や海産物の改良などに携わり、地元の産業振興に尽力しました。そして志摩国海産物改良組合長、三重県勧業諮問委員、三重県商法会議員、などを歴任し、地元の名士になっていきました。

このころ、世界の装飾品市場では天然の真珠が高値で取引されており、海女が一粒の真珠を採ってくると高額の収入を得られることから、志摩ばかりでなく全国のアコヤ貝は乱獲により絶滅の危機に瀕していました。

この事態を憂慮した幸吉は、1888年(明治21年)、第2回全国水産品評会の為上京した折、主催者である大日本水産会の柳楢悦を訪ね指導を仰ぎます。柳は海軍軍人(当時海軍少将)でしたが、同時に数学者・測量学者でもあり、大日本水産会創立に尽力し、名誉会員に推されていました。

この柳の紹介で、幸吉は1890年(明治23年)、東京帝国大学の理学博士でカキ養殖や真珠養殖に造詣の深い「箕作佳吉」を訪ね、学理的には養殖が可能なことを教えられました。そしてその教えを元に同年9月11日に貝の養殖を開始しました。

このとき、彼が目をつけたのが、中国で開発された「仏像真珠(胡州珍珠)」という養殖技術であり、これは人工で作った珠を貝の中に入れるという方法でした。これによってできる真珠は球体ではなく、半球でしたが、その発展形としてやがては真円の真珠ができると彼は確信しました。

こうして幸吉は実験を開始します。実験を行ったのが、この当時、神明浦と呼ばれていた賢島のある阿児町神明と、ここから山ふたつを隔てて北側にある鳥羽市の相島(おじま)でした。これは現在一大観光地となっている、ミキモト真珠島の前の前の名前です。

しかし、前途多難で、アコヤ貝にどんな異物を貝に入れるか、貝は異物を吐き出さないか、貝は異物を何処に入れるか、その結果死なないか、貝そのものの最適な生育環境、赤潮による貝の絶滅への対応策等々、課題問題は山積みでした。

その他にも、海面及び水面下を利用する為の地元漁業者や漁業組合との交渉や役所との折衝などの問題があり、養殖真珠の技術を完成させるためには、大変な苦労があったと伝えられています。

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そうした問題を克服し、苦労の末、1893年(明治26年)7月11日、幸吉はついに実験中のアコヤ貝の中に半円真珠が付着している貝を発見。その3年後の1896年(明治29年)には、この半円真珠で特許を取得し、世界に先駆けその製造の独占権を得ます。

日本はその後1899年(明治32年)に工業所有権の保護に関する世界的条約である、パリ条約に加入しており、この特許は世界にも通用するものとなりました。

これを機に、幸吉は同年、東京・銀座裏の与左衛門町に御木本真珠店を開設。2年後の1901年(明治34年)には、銀座の表通り、元数寄屋町に御木本真珠店を移転したのち、銀座四丁目にも店進出、1916年(大正5年)には、上海支店を開設しました。ちなみに、真円真珠の生産に成功したのは、この合間の1905年(明治38年)のことでした。

後にイギリスで養殖貝による真珠が偽物だという吹聴があり、1924年(大正13年)にはパリで真珠裁判が行われましたが、天然と養殖貝による真珠には全く違いが無かったのでこの裁判で御木本真珠は全面勝訴しました。

幸吉はこれを皮切りに、海外への進出も加速させ、1927年(昭和2年)には、ニューヨーク支店開設、1928年(昭和3年)、ロンドンのリーゼント街に小売店開店、1929年(昭和4年)パリ支店開設、1931年(昭和6年)ロサンゼルス支店開設、1933年(昭和8年)、シカゴ支店開設と、次々とグローバルな出店攻勢を仕掛けていきました。

こうして養殖真珠が市場に出回るようになったため、真珠価格は暴落しました。かつては真珠は天然産にのみ限られ、世界の市場を独占していたのはアラビア湾奥、特にクウェート沿岸地域でしたが、この御木本真珠店の世界進出により、クウェートの真珠漁業は壊滅状態となりました。

別の収入源の確保に必死になったクウェート王家は、それまで拒んできた外資による石油探鉱を許可するようになり、まもなく大規模油田が相次いで発見されました。そして、これにより、20世紀は安価な石油の大量供給に立脚する「石油の世紀」となりました。

御木本真珠が世界のエネルギー地図が塗り替えたといっても過言ではなく、その後の世界経済は石油を中心に動いていくところとなり、やがてはその利権をめぐっての世界大戦の勃発にもつながりました。

そうした石油中心の経済は戦後の現在に至っても続いており、来年賢島で行われるであろうサミットにおいても、そしした石油の安定供給に関連した経済論議が中心になるに違いありません。そして、来年そのサミットが来年行われる地が、この世界地図を塗り替えた養殖真珠発祥の地でもある、というのも何か因縁深いものを感じます。

幸吉が生み出した養殖真珠の量産体制は中東諸国の経済を破壊し、そのことが世界のエネルギー地図を塗り替えたわけですが、幸吉はそれを知ってか知らずか、概してそうしたことに無関心であり、生涯、真珠を宝石市場の中心に位置させることだけに努力を傾注した人でした。

1954年(昭和29年)9月21日、老衰のため96歳で死去。看病の為に住み込みで身の回りの世話をした女医の話によれば、真珠王と言われるにしては、あまりにも質素な食事をしていたとのことで、平素の暮らしぶりもいたってシンプルだったようです。

ただ、幸吉は生前、月に1回、ミキモトの従業員と鰻丼を食す「どんぶり会」を開き、意見交換を行っていたそうです。商売が「ウナギ登り」にという意味と、真珠の天敵であるウナギを食べてしまうという意図があったようです。

幸吉が英虞湾の多徳島に養殖場を造るために鳥羽から向かう道中で、昼食のために必ず立ち寄ったというこのウナギ料理店、「川うめ」は、鳥羽から賢島へ向かう国道167号沿いの、磯部町迫間に現存します。

店主に羽織を贈るなど贔屓にしていたといい、店主と幸吉は親しい間柄となり、毎月25日には磯部の名所である伊雑宮・和合山・天の岩戸の3か所を巡る「三宮参り」をしたそうです。

この店には、現在、「川うめ丼」という看板メニューがあり、これは今の店主が、1980年代から1990年代頃に創作した鰻丼とのことです。ウナギにネギと海苔を添え、ワサビを溶いたタレをかけてご飯とともに食べるというもので、後にシソの葉が追加され、2009年現在はサラダ、肝吸いとともに供されるといいます。

想像しただけでヨダレが出そうです。みなさんもこれからサミットでさらに脚光を浴びるであろう賢島へ行ったらぜひ立ち寄り、食してみてはいかがでしょうか。

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