神宮の森に

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2020年の東京オリンピック開催まで、今週末でちょうどあと5年になります。

7月24日開催、8月9日までの競技予定で、その開閉会式は現在建て替え工事が進行中の新国立競技場で行われるはずです。しかし当初予定されていた奇抜なデザインを巡っては、工費が莫大になることが明らかになり、先日見直しが決まったばかりです。果たして間に合うんかい、と心配されています。

が、大丈夫、日本のゼネコンの能力は高く、必ず間に合わせるでしょう。彼等は、某アジアの一党独裁国家や南米の三流国家のそれよりもはるかに高い技術力を持っています。

前回の東京オリンピックの際に新設された旧国立競技場は、どこが作ったか調べたところ、これは大成建設だったようで、14カ月という短工期でこの5万人収容の大スタジアムを完成させています。この時も日本中から寄せられる期待は大きく、現場には皇族としては初めて皇太子殿下(現・天皇陛下)が足を運ばれ、工事の様子を視察されたといいます。

では、今回見送られたデザインの施行予定業者はどこだったかといえば、特徴がある屋根は竹中工務店、8万人収容のスタンドは、これまた大成建設が受け持つ予定だったようです。見直しになり、これら各社との契約もちゃらになるでしょうが、今後どんなデザインになりどこが受け持つにせよ、これらトップクラスのゼネコンに任せておけば大丈夫でしょう。

ところでこの国立競技場ですが、実はこれは、国立霞ヶ丘競技場、秩父宮ラグビー場、国立代々木競技場、国立西が丘競技場(北区、現味の素フィールド・西が丘)の総称です。

が、一般に「国立競技場」と指す場合は、それらの中心にある国立霞ヶ丘陸上競技場を取り上げることが多くなっています。「霞ヶ丘」は、この一帯が霞ヶ丘町であることに由来します。新宿区の最南部に位置し、明治神宮外苑が町域の大部分を占め、外苑内の国立霞ヶ丘競技場のほか、明治神宮野球場、聖徳記念絵画館などが当町域に属します。

江戸時代には、この一帯は、千駄ヶ谷町、千駄ヶ谷甲賀町と呼ばれていました。この町名はいまもJR千駄ヶ谷駅に残っています。明治になって、千駄ヶ谷一丁目~三丁目となり、当町域は千駄ヶ谷一丁目になりました。また1878年(明治11年)の郡区町村編制法施行では四谷区に属していました(現在は新宿区と渋谷区にまたがる)。

この地に、霞岳・川向・甲賀という字がありました。1889年の東京市制施行に伴い、このうちの一つをとって四谷霞岳町となり、さらに1911年に四谷霞岳町から霞岳町に改称。そして、オリンピック後の2003年9月霞岳町のほぼ全域が「霞ヶ丘町」と改称されました。

「霞ヶ丘」と命名されたのは、無論、ここに霞ヶ丘国立競技場があったからにほかなりません。もともとは、霞岳町の一字をとって名付けられたものですが、オリンピックを機に「霞ヶ丘」のほうが表に出るようになり、それゆえに歴史ある古い名前のほうは消えてしまった格好です。

それにしてもなぜ、「丘」と名付けたかですが、想像するにこの地は、南側の原宿、北側の四谷、さらに東側の赤坂よりも相対的にやや高い位置にあるためでしょう。といっても標高は30mちょっとであり、これら周辺の地よりも10mほど高いだけです。

それにしても、「国立霞ヶ丘陸上競技場」とするといかにも長ったらしいので、以下ではこの呼称はやめ、「国立競技場」で統一して話を進めていきたいと思います。また、本来ならば「旧国立競技場」とすべきところですが、これも煩わしいのでやめにします。

この国立競技場は、いわずもがな東京オリンピックの顔として建設されたもので、解体以前にはオリンピックマークと「Tokyo 1964」 を合わせたエンブレムが付されていました。

競技としての国立競技場では、陸上、サッカー(決勝戦、3位決定戦)、馬術(大賞典障害飛越)が行われました。また、隣接する秩父宮ラグビー場でもサッカーが、代々木会場である、国立代々木競技場では、水泳、バスケットボール競技が開催されました。

国立競技場はオリンピック以後も、立地も良いことなどから各種競技の全国大会の決勝などに使用されることが多く、競技者からみれば、これらの施設は憧れの的でした。「聖地」とも呼ばれることも多く、ここでプレーした経験のある競技者といえば、各競技でかなりレベルの高い部類に入る選手といえます。

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その前身は「明治神宮外苑競技場」という競技場です。「青山練兵場」跡地に造成されたもので、1924年(大正13年)に完成しましたが、国立競技場を建設するために、1957年(昭和32年)に取り壊されました。

明治時代に練兵場として使われる前の江戸時代には、明治神宮外苑、青山霊園とも合わせてこの一帯は「青山氏」の大名屋敷敷地でした。青山氏は、徳川氏の家臣の一族で、江戸時代の譜代大名でたびたび幕府の要職にも就いた名門です。現在も残る「青山」の地名も、この青山氏の江戸屋敷があったことを由来としています。

青山通りの北面にその宗家があり、南面に分家の下屋敷があったといいますが、明治維新を経た明治19年に敷地跡の北側に青山練兵場が設けられました。しかし、明治天皇の崩御後、東京市では市内に明治天皇を祀る神宮を創建することを決定。代々木にその内苑、この青山練兵場に外苑がつくられることになっていました。

その外苑に競技場が建設されることになるきっかけは。1914年5月に当時の東京市長「阪谷芳郎」が、日本YMCAの代表団と会談したことでした。阪谷は、柔道家の嘉納治五郎大日本体育協会会長と共に彼等からアメリカのスポーツ振興の話を聞き、関心を抱きました。

このとき、阪谷は東京市内に欧米式の公園とそれに伴う本格的な競技場を建設するというアイデアを思いつき、それを外苑整備のプランと合わせることで現実化しようとしました。こうして、1915年に明治神宮外苑造営のために「明治神宮奉賛会」が結成された折、造営局にこの競技場の施工をも頼み込んで認められ、1922年11月に定礎式が行われました。

翌1923年9月1日の関東大震災によって工事は中断されましたが、なんとか完成にこぎつけました。総工費は当時の金額で726万円であったといいます。大正期の1円は現在のだいたい1000円超ですから、現代では75億円ほどもかかる大工事だったことになります。

こうして1924年10月25日に国立競技場の前身である明治神宮外苑競技場の竣工式が行われました。続いて、10月30日に第一回明治神宮競技大会が行われました。これは、「明治天皇の聖徳を憬仰(けいこう。偉大なものを敬い慕う)し、国民の身体鍛錬、精神の作興に資す」競技大会で、現在の国体のようなものです。

全部で36種類ほどの競技が行われましたが、これらの中には、現在ではもう見ることのできない銃剣道ほか、国防競技、戦場運動、行軍訓練、滑空訓練といったものもありました。

この大会は、1927年までは毎年、以後1939年の第十回大会までは隔年で行われました。1939年以降は厚生省の主催で「明治神宮国民体育大会」の名称で毎年行われるようになりましたが、1942年に「明治神宮国民錬成大会」の名称になったころ、太平洋戦争が勃発して大会は開かれなくなりました。

この明治神宮競技大会がまだ行われていたころの1936年には、IOC総会で1940年のオリンピックがアジアで初めて東京で行われることが決まりました。ところがメインスタジアムの場所をめぐって東京市と大日本体育協会などの思惑が交錯し、紛糾します。

東京市は現在の晴海付近を埋め立てる「埋立地案」、大日本体育協会は「明治神宮外苑競技場案」を推していました。

二者の意見はかみ合わず、その後、議論は二転三転しましたが、翌年の1937年になって、いったん「外苑競技場改修案」が決定しました。が、最終的にはこの案も覆って、ぜんぜん関係のない、別の場所である駒沢に新競技場を建設するということで決着しました。

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しかし、戦争の近づく国際情勢の中で1938年7月にオリンピック大会の返上が決定。欧州でも戦争が勃発したため、駒沢の新競技場の建設は無論のこと、この1940年の幻のオリンピック大会が行われることはありませんでした。その後、日本は1941年12月8日未明、アメリカに真珠湾攻撃をしかけ、太平洋戦争に突入。

当初は破竹の勢いで東南アジア諸国を制しましたが、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦いなどの敗戦により急速に勢いを弱め、連合国軍の猛烈なる反抗により、日本は次第に進出していた南国からの撤退を余儀なくされていきます。更にはマリアナ・パラオ諸島の戦いでも破れ、制空権を失うと、本土にもB-29などの爆撃が襲来するようになりました。

アジア・太平洋に及ぶ広大な戦線の維持や、急速な戦局悪化で戦死者数が増加したため、次第に兵力不足が顕著になっていった日本は、ついに「学徒出陣」にまで追い込まれます。

1943年10月21日には明治神宮外苑競技場で文部省の主催による「出陣学徒壮行会」が陸海軍省等の後援で行われ、強い雨の中で出陣学徒25000人が競技場内を行進しました。

学徒出陣の対象となったのは主に帝国大学令及び大学令による大学・高等学校令による高等学校・専門学校令による専門学校などの高等教育機関に在籍する文科系学生でした。彼らは各学校に籍を置いたまま休学とされ、徴兵検査を受け入隊しました。

なお、理科系学生は兵器開発など、戦争継続に不可欠として徴兵猶予が継続され、陸海軍の研究所などに勤労動員されました。ただし、農学部の一部学科(農業経済学科や農学科)は「文系」とみなされて徴兵対象となりました。また、教員養成系学校(師範学校)の理系学科に在籍する者も猶予の制度が継続されました。

この壮行会の様子は社団法人日本放送協会(NHK)が2時間半にわたり実況中継を行い、また映画「学徒出陣」が製作されるなど、劇場化され軍部の民衆扇動に使われました。秋の強い雨の中、観客席で見守る多くの人々の前で、東京帝国大学以下計77校の出陣学徒の入場行進が行われました。

東條首相による訓辞、東京帝国大学文学部学生の江橋慎四郎による答辞、海ゆかばの斉唱、などが行われ、最後に競技場から宮城まで行進して終わったとされます。出陣学徒は学校ごとに大隊を編成し、大隊名を記した小旗の付いた学校旗を掲げ、学生帽・学生服に巻脚絆をした姿で小銃を担い整列しました。

壮行会を終えた学生は徴兵検査を受け、1943年(昭和18年)末までに陸軍へ入営あるいは海軍へ入団しました。入営時に幹部候補生試験などを受け将校・下士官として出征した者も多く、こうしたエリートは、戦況が悪化する中でしばしば玉砕や沈没などによる全滅も起こった激戦地に配属されました。

このころ東南アジア各地の戦地では、慢性化した兵站・補給不足から生まれる栄養失調や疫病などで大量の戦死者を出していました。1944年(昭和19年)末から1945年(昭和20年)8月15日の敗戦にかけ、さらに戦局が悪化してくると特別攻撃隊に配属され戦死する学徒兵も多数現れました。戦後70年も経つのにその死者数は正確に把握されていません。

全国で学徒兵として出征した対象者の総数は日本政府による公式の数字が発表されておらず、大学や専門学校の資料も戦災や戦後の学制改革によって失われた例があるため、未だに不明な点が多いようです。出征者は約13万人という説もあるようですが推定の域を出ず、死者数に関してはその概数すら示す事が出来ないままです。

その多くが富裕層の出身であったといわれており、将来社会の支配層となる予定の男子でした。その学生たちが「生等もとより生還を期せず」(学徒代表・江橋慎四郎の答辞の一節)という言葉とともに戦場に向かった意味は大きく、学徒出陣式は、日本国民全体に総力戦への覚悟を迫る象徴的出来事となりました。

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1944年に入ると外苑競技場を含む外苑全体が軍の施設となり、1945年5月25日の東京大空襲では競技場も爆撃を受け、場内に大量に備蓄されていた薪炭が三日にわたって燃えつづけました。しかし、競技場そのものは大きな被害を受けず、戦後に持ち越されました。

終戦後、明治神宮外苑一帯がGHQに接収されると、外苑競技場も照明設備の設置などの改修を受け、「ナイル・キニック・スタジアム」という名称で呼ばれることになりました。

このナイル・キニックというのは、アイオワ州エイデル出身のアメリカンフットボール選手で、アイオワ大学在学中の1939年に、ハイズマン賞を受賞したことで有名になりました。この賞は大学フットボールの名選手で監督でもであったジョン・ハイズマンの名を冠した賞で、各年の大学アメフトリーグで最も活躍した選手に与えられるものです。

キニックの母方は独立戦争で活躍した将軍の子孫で、祖父はアイオワ州知事を2期務めており、エリート一家生まれといえます。両親とも教育熱心でクリスチャン・サイエンスを学んだキニックは自制心を持ち、高いモラルを身につけていたといわれます。

中学時代のころから既にバスケットボールの花形であり、高校3年の時、州のファーストチームメンバーに選ばれチームを州のトーナメントで3位まで導きました。大学でも優秀な学生であり、進学したアイオワ大学では、カレッジフットボールの最優秀アスリートに選出されました。そして、フットボールで最も名誉ある賞、ハイズマン賞も受賞しました。

4年次に彼はアイオワ大学の学生会長に選ばれ、卒業前にいくつかのプロチームから入団オファーを受けましたがこれをすべて断り、アイオワ大学のロースクールに進学。1年後に3番の席次となりました。ところが、1939年9月、ドイツ軍がポーランドへ侵攻し、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告して第二次世界大戦が勃発しました。

さらに1941年6月にドイツ軍はソビエト連邦に侵攻し、ドイツはイタリアおよび日本と日独伊三国軍事同盟を結成しました。この結果、英仏に加担して連合国側となったアメリカと日本の関係は急速に悪化。ロースクールに通い始めて1年ほど経過していた彼はこの年の8月、愛国心に目覚めたのか、海軍航空隊に入ることを決意しました。

1941年12月8日には日本が真珠湾攻撃を行ってアメリカ・イギリスに宣戦布告。このとき彼は両親への手紙に心境を書きつづっており、そこには「私が歴史上で賞賛したあらゆる男性は、彼の国の危険のとき軍へと喜び馳せ参じ、勇敢に勤めた」と書かれていました。

入隊後、彼は戦闘機のパイロットとしての訓練を受けましたが、一年ほど経った1943年6月2日、空母レキシントンからの発艦の訓練をしていた彼のグラマンF4Fワイルドキャットは、ベネズエラのパリア湾沿岸の海岸に墜落しました。

彼の乗機は燃料が漏れ出していたといわれ、このとき母艦は発艦する飛行機で混雑しており、飛行甲板に着艦することもできず1時間以上飛行を続けたあげくの緊急着水でした。すぐにレスキューが到達しましたが油しか発見されず、遺体は見つかりませんでした。

ハイズマン賞受賞者として最初の亡くなった人物となった彼はこの時24歳。死後、数え切れないほどの栄誉が与えられましたが、神宮外苑競技場を、ナイル・キニック・スタジアムと改称したのもその栄誉のひとつでした。

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しかし、お国のためにと多くの学生が学徒出陣したのがこの外苑競技場であったのに対し、戦争に勝ったアメリカがその競技場に名付けたのが、たった一人の学生のものであったということは、実に皮肉なことです。

ここから万単位の数の日本の学生が出征していき、その多くが失われたというのに、それに代わって、戦勝国で英雄視されていたとはいえ、実戦に一度も参加していない青年の名がこの競技場に冠せられたというのは、私としてはどこか納得がいかないものがあります。

あるいは米側もここで学徒出陣が行われたことを知っていたのかもしれず、わざと彼を選んだのかもしれません。それにしても、ここから死地へと旅立つ息子の姿を見つめていた親たちが、たった一人の米青年のためにこの改名が行われたことを知ったとき、その事実をどう受け止めたでしょうか。忸怩たる思いがあったのではないかと想像してしまいます。

この外苑競技場の進駐軍による接収は1952年まで続きましたが、その間も日本人の利用は行われており、1950年には日本で最初のサッカーのナイトゲームが行われました。また、1949年には第四回国民体育大会の陸上競技および閉会式が外苑競技場で行われています。

数々の名勝負の舞台となった外苑競技場の最後の熱戦ともいうべきものが、1953年3月7日および14日に行われたサッカー・スイスW杯の予選、日本対韓国の二試合でした。これは本来ホーム&アウェイでおこなうべき試合でしたが、韓国側の日本選手団の入国拒否という措置のために日本で行われたものです。

勝てばW杯出場という試合でしたが、降雪後という劣悪なピッチ状況での試合は日本が長沼健のシュートで先制したものの、5対1で韓国の逆転勝ち。一週間後の第二試合は好天に恵まれたものの2対2の引き分けで戦後初の日韓対決を韓国が制し、W杯初出場を手にしました。

その後、第三回アジア競技大会の実施が東京で行われることが決まると、外苑競技場を取り壊して新たに国立競技場を建設することが決定。1956年には所管が明治神宮から文部省に譲渡され、翌年取り壊されて、33年に及んだその輝かしい歴史に幕を下ろしました。

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ちなみに、1952年のアメリカの接収の終了により、既にキニック・スタジアムの名称も取り下げられていましたが、その名は、彼の故郷のアイオワで復活しました。

彼の死後、彼の母校のフットボール場を彼の栄光を称えて改称しようとする運動が起き、1972年春、アイオアスタジアムは正式にキニック・スタジアムとなりました。現在、カレッジフットボールで唯一のハイズマン賞受賞者の名前をつけたスタジアムとなっています。

新しい国立競技場は1957年1月に起工され、アジア大会前の1958年3月に竣工し、その年には無事アジア大会が開催されました。このとき、のちの東京オリンピックで一躍脚光を浴びた「聖火台」も完成しており、この大会が初お披露目となりました。その製作を請け負ったのは、鋳物づくりの名工とうたわれた「鈴木萬之助」という職人さんです。

ところが、その湯入れ作業で爆発事故が起き、このショックと過労で8日後に鈴木萬之助は亡くなってしまいます。しかし息子の鈴木文吾が不眠不休で第二の聖火台を製作し、一ヶ月の作業の後、聖火台を完成させ、何とかアジア競技大会に間に合わせました。文吾は、もし自分まで失敗したら腹を切って死ぬつもりだったといいます。

この高さと直径2.1m、重さ2.6tの聖火台は文吾の手により父の製作者名が入れられて、国立競技場に鎮座していました。が、その解体に伴い、宮城県石巻市に貸し出され、新しい国立競技場が完成する2019年まで、石巻の復興のシンボルとして使われる予定です。先月末までに、市の運動公園に設置が完了し、聖火台に「復興の火」がともされています。

この点火式には、オリンピック組織委員長の森喜朗元首相など、およそ100人が出席しました。点火役は、アテネオリンピック、ハンマー投げの金メダリスト・室伏広治選手が務め、雨が降りしきる中、トーチを掲げ、火をともしました。なお、萬之助が最初に製作した聖火台も修繕をへて、今も作業場のあった川口市に置かれているといいます。

国立競技場が完成した1958年からは日本陸上競技選手権大会が開催されるようになり、2005年まで断続的に会場として利用されました。また翌1959年には、東京国体のメインスタジアムとして陸上競技がここで開催されました。

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その後1963年には東京オリンピックのメインスタジアムとして使用するためスタンドの増築が行われましたが、この増築を行ったのも大成建設で、この工事により座席数は約7万2千席となりました。

サッカーの競技場としては1968年から天皇杯全日本サッカー選手権大会が開催されるようになりました。翌1969年1月1日に初めて天皇杯決勝戦が実施され、以降「元日の決勝戦」が定着していました。

さらには、1976年度(昭和51年度)から全国高等学校サッカー選手権大会も開催されるようになり、上位進出を決めたチームのみが国立のピッチでプレーすることができるため「高校サッカーの聖地」とみなされるようになっていきました。

その後1970から80年代にはラグビーブームが訪れ、日本ラグビーフットボール選手権大会など多くの試合で満員の観衆を集め、特に早明戦では前売りチケットの入手困難のため徹夜による列並びが毎年恒例となっていました。また、長年サッカー世界選手権、トヨタ・カップの会場として用いられ、1991年には世界陸上競技選手権大会も開催されました。

このように国立競技場は日本を代表する大型スタジアムとして利用されてきたわけですが、同規模の5万人の観衆を収容できるスタジアムは甲子園球場を別にすれば長らく存在せず、1988年の東京ドーム、陸上競技場では1994年アジア競技大会開催に向け建設された1992年の広島広域公園陸上競技場(広島ビッグアーチ)の開場を待たねばなりませんでした。

独立行政法人日本スポーツ振興センター(JSC)が管理団体になってからは断続的に施設改修が行われており、また2000年代からは音楽コンサートなどの利用も進められました。2005年に単独のアーティストとしては初めてSMAPがコンサートに使用し、2007年にはDREAMS COME TRUEが審査をパスしコンサートを行っています。

その後も2008年の嵐、2012年の、L’Arc〜en〜Cielのコンサートが開催されています。また2014年にはポール・マッカートニーが日本国外のロック歌手単独で初となるコンサートが予定されていましたが、体調不良のため延期代替の分を含めた公演を中止しています。

コンサート以外のイベントとしては、2009年7月5日に石原裕次郎23回忌法要が開催されました。この法要では、トラック部分に總持寺の本堂を模した仮設の建物を用意し、主催した石原プロモーションの発表では約11万7000人のファンが訪れました。

そして、2013年9月にブエノスアイレスで開かれた第125次IOC総会で2020年のオリンピックが東京で開催されることに決定。これにより、国立競技場は建て替えられこととなり、2014年5月31日、「SAYONARA国立競技場FINAL “FOR THE FUTURE”」のピッチ開放をもって閉場となりました。このイベントの一部は、TBSで生中継されています。

そして、その解体が今年2月下旬から始まり、5月半ばに終わりました。この解体工事をめぐっては、当初は昨年7月に開始する予定でしたが、入札の不調などで解体業者の選定に難航。3度目の入札で競技場北側と南側の両工区の業者が決まり、時期が大幅に遅れました。

解体工事は南北二つに分かれており、北工区の入札価格は、関東建設興業の13億9400万円で、南工区はフジムラの15億4900万円で、合計29億4300万円となります。

その新競技場計画も二転三転し、先日首相が計画の白紙化を表明したばかりです。解体費用は必要経費だとして、ボツになったプランのデザインを行ったイラン人のザハ氏へ払った監修デザイン料と違約金は合計20億円だそうで、このあと大成建設などへの違約金も加えると、この解体工事費用を楽勝で超えそうです。

計画段階でこれだけの金をドブに捨てたことになります。また、旧競技場は一度7万席まで増設しましたが、その後ゆったりとした座席に変えたことなどから、5万席ほどに縮小されており、新競技場での収容人数は、その1.6倍の8万人になるようですが、この8万という数字はどこから出てきたのでしょうか。

現在、白紙撤回になっているため、当初予定されていたような開閉式の屋根を備えた全天候型のドーム型スタジアムになるかはまだわかりません。が、9レーンのトラックを敷設して国際基準を満たす、といったことや、コンサートや展覧会、ファッションショーなどの会場としての使用、大規模災害時の広域避難場所としての役割などは踏襲されるでしょう。

実は私はこの国立競技場のすぐ近くの会社に都合5年ほど勤めていたので、この新競技場の巨大さがだいたい想像できます。データをみると、旧競技場の建築面積は約3万7千m2だったのに対し、新競技場の予定面積はその倍以上の7万8千m2以上にもなります。

これを実現するとなると、旧来の国立競技場の敷地いっぱいいっぱいになることは間違いなく、現在西側を南北に走る外苑西通りのすぐ目の前に、この巨大競技場の大きな壁が立ちはだかることになります。新しいプランがこれをそのまま踏襲するかどうかはわかりませんが、座席数8万を予定しているとなると、そうそう大きくは変わらないでしょう。

従って、私としてはこれほどの巨大な施設であるがゆえの、どうしても景観阻害が気になるところです。国立競技場の敷地における建物規制は、以前は高さ20m、容積率200%でしたが、国立競技場の建て替え計画にともない、東京都都市計画審議会はこの敷地における規制を高さ75m、容積率250%に緩和しており、高さも気になります。

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そもそも、この明治神宮外苑周辺地区は、風致地区に指定されており、こうした建物の高さ、容積率の規制も景観を守るためのものでした。つまりこの規制緩和は、過去の歴史的経緯を無視した決定ということであり、景観を破壊する可能性ははなはだ大といえます。

旧国立競技場が1958年に建設された時は、神宮外苑の聖徳記念絵画館から見える景観に配慮して、絵画館側バックスタンドの高さを8mほどに抑えたといいます。また1964年の東京オリンピックではメインスタジアムとして使用するために、バックスタンドを増設しましたが、スタンドの一番高い部分は23mに過ぎませんでした。

ところが8万人収容の線に近づけようとするとスタンドを大きく張り出して拡張させることになり、かつ高さもかなり高くなります。プランにもよりますが、収容人数を考えると70m越えは確実と思われ、これほど巨大なスタンドは、苑内の敷地ほとんどの上に大きくおおいかぶさるようにしないと建設できないでしょう。

それほどこの敷地はせまいといえます。周辺には、その南側にある明治公園など面積が大きい広場が存在していますが、これも潰した上での建設であり、旧国立競技場のような余裕を持った配置は不可能です。また新競技場周辺の道路から見た歩行者目線では、競技場の全体像が分かりにくくなり、巨大な壁が目の前に迫りくるような圧迫感があるでしょう。

当初行われたデザインのコンペティションでは模型の提出は求められず、鳥瞰図のみで審査が行われたといい、このため、どう考えても周辺との調和、周りからの見え方などは考慮に入れられていないと考えられます。

さらに、廃案になった計画では、競技場周辺は人工地盤でかさ上げし、地盤の地下にスポーツ博物館や図書館などを整備する予定だったそうです。地上部分に当たる地盤の上側は、緑化して公園や通路にする予定だとか。しかし人工地盤では、樹木が根を張るには地中の深さなどが不十分で、持続的な生育は難しいとされています。

しかも、競技場の建て替え工事にともない、既存樹木の1500本余りが伐採されたようですが、移植される予定なのはわずか200本程だそうです。その中には天然記念物が含まれているといいますが、これらも本当に移植が可能なのかどうかも現時点においては不明です。

加えて、新国立競技場では、年間で、サッカー20試合、ラグビー5試合、陸上競技大会11回、コンサート12回を開催するタイトな計画目標としているといいます。が、五輪終了後、これほどの数のイベントの消化が果たして本当に実現できるのでしょうか。

たった一回のオリンピックと数少ない行事のために、ここまで景観や環境を破壊してまで巨大な施設を作る必要が本当にあるのか。また、元首相がのたまわった「たった2500億円」でどれだけ多くのスポーツ振興ができるのか、今一度よく考え直してほしいと思います。

そうそう、この国立競技場の前の外苑西通りには、私の大好きなラーメン屋、「ホープ軒」もあります。その濃厚なスープと絶妙に合う麺をすすりながら眺めていた神宮の森がもう見えなくなり、そこには無機質な巨大競技場の壁が広がることを考えるといたたまれなくなります。

新計画の策定者は、ぜひこのラーメン屋に立ち寄り、その美味を堪能しつつ、敷地を振り返ってこの計画の妥当性をいま一度よく考えていただきたいと思う次第です。

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硫黄島

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三連休であり、夏休みに入ったということもあって、伊豆は再びイモ洗いです。昨日は一週間ぶりの買い出しで山を下ったたのですが、伊豆縦貫道は大渋滞なのを見て、あわてて抜け道を通ってスーパーを目指しました。

連休最後の今日もきっと午後から長い長い渋滞の列ができるのでしょう。しかし、この連休を通じて伊豆の美しい海山に触れた人達はきっと満足して家路につくことでしょう。

今日は「海の日」ということでもあり、まさに海に親しむにはぴったりの日でもあります。1995年(平成7年)に制定されてからは、それまで7月にはなかった貴重な休日になりました。当初は20日に固定されていましたが、2003年(平成15年)からは、いわゆるハッピーマンデー制度により第3月曜日となったため、毎年三連休がとれるようになりました。

「祝日法」によれば、「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」日だそうです。世界の国々の中でこうした「海の日」を国民の祝日としている国は唯一日本だけだといいます。

祝日化される前は「海の記念日」とよばれていただけで、祝日ではありませんでした。1876年(明治9年)、明治天皇が北海道・東北地方巡幸をして、この日に無事に横浜港に帰着されたことにちなみます。この巡行では、それまでの軍艦ではなく一般の汽船「明治丸」によって航海がなされました。

明治丸は、灯台巡視船として使用されていた船です。明治初頭、洋式灯台の建設増加に伴って、その測量やメンテナンスのために灯台巡視船が必要となったため、日本政府がイギリスのグラスゴーにあるネピア造船所に発注した新鋭船です。天皇行幸に先立つ2年前の1874年進水し、「明治丸」と命名されました。

当時の日本国内における最優秀船であったため、通常の灯台見回り業務の他にも様々な活動を行い、日本の近現代史に業績を残しています。しかしその後老朽化が進み、1897年に海軍省から譲渡された「新発電丸」が後任に就くと退役。商船学校(現・東京海洋大学)に貸与され、係留練習船として操帆訓練などに用いられるようになりました。

1923年の関東大震災や1945年の東京大空襲の際には数千人の罹災者を収容しています。戦後、進駐してきた米軍に接収され、酒保になっていましたが、1951年に接収が解除されました。上甲板などの修理が行われましたが、それでも補修が追いつかず、1954年には練習船としての任務も解除されました。

その後も1975年頃までは結索実習などに船内が使われ、1978年には船として初めて国の重要文化財に指定されました。2009年1月まで一般に公開されていましたが、経年劣化により再度大規模修復が必要となり、次世代の海事産業を担う青少年への海事意識啓発活動を行う「明治丸海事ミュージアム事業」が企画され、その中で現在、浄財を募集中のようです。

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日本に回航された1876年には、ちょうどこのころ日本とイギリスとの間で小笠原諸島の領有問題が生じていました。このため同年11月、日本政府調査団を乗せて横浜港を出航し、24日に父島に入港しました。新鋭船であったため船足が速く、22日に同じく横浜を出航した英国軍艦「カーリュー」より2日早く着くことができました。

このため英国に先んじて父島の調査を進めることができたことが、日本の小笠原諸島領有の基礎を固める上で大いに有利になりました(少し前のブログ「小笠原」参照のこと)。

その後は灯台巡視が主な役割でしたが、就航から10年余りのちの1887年(明治20年)には、東京府知事を乗せて「硫黄列島」への探検航海に用いられました。このときの府知事は、元薩摩藩士でのちに老院議官に任じられた「高崎五六」で、この調査の目的は硫黄島を領土とできるかどうかを確かめることでした。

硫黄列島は、小笠原諸島に属する列島ですが、父島や母島などのいわゆる小笠原群島からは南に300kmほども離れています。東京とグアムの中間のあたり、北硫黄島、硫黄島、南硫黄島の3つからなるため、「列島」と呼ばれます。最近、突如海底から爆発隆起し、日々拡大を続けている西之島をこの列島に含めることもあります。

別名、「火山列島」ともいいます。その名の通り、この3つの島は深海底からそそり立つ海底火山のてっぺんにあり、最高は南硫黄島の海抜916mです。が、周辺の海底からの高さは富士山級の3000mもあり、かつその体積は富士山を凌ぎます。ただ、硫黄島には地熱現象と隆起現象が見られますが、北・南硫黄島の噴火記録はなく既に活火山ではありません。

紀元1世紀頃、北硫黄島に人が定住していたことが分かっていますが、文化の源流についてはミクロネシアなのか、それともアジア由来の縄文文化に属する人なのかなど、よく分かっていません。1543年にスペインのサン・フアン号により目撃され、北硫黄島、硫黄島、南硫黄島の三島を総称して「ロス・ボルカネス(火山諸島の意)」と名づけられました。

また、1779年にキャプテン・クックの部下であるゴアがディスカバリー号とレゾリューション号で近海に立ち寄り、硫黄島を目撃しています。高崎五六らの視察の翌年の1988年には、実業家の依岡省三が、同じ明治丸で硫黄列島や小笠原諸島を探査。当時領有権が確立していなかった硫黄列島を日本の領土に編入するよう政府へ献策、周旋に努めました。

依岡省三は、高知土佐の出身で、その祖先は長宗我部元親の重臣、依岡左京進という武将です。長宗我部家滅亡の後、その係累が藩主山内家に抜擢され、廃藩当時に至るまで累代家臣として仕えました。省三はすなわち、この土佐の名家、依岡家6代の孫にあたります。

西南戦争当時、13歳ながら同志を集めては、操銃の練習を行ったり、各地の志士を訪ね時勢を批評・批判したりするような活発な少年でした。鐘馗(しょうき)様のような形相で巨漢のためどこにおいても目立ちましたが、剛胆ながらも性格は細心であったといいます。

地元中学を中退したあと、高知県会の書記を勤めていましたが、県会書記を退いたのち、高知新聞に入って編集に従事。しかし、地方新聞に甘んじることなく立志を立てて上京し、時の逓信大臣、榎本武揚の知遇を得ました。

この時代の日本は、開国後の血気盛ん時期であり、いわゆる「北守南進」の気運が醸成しつつある、海外発展の準備時代でした。依岡は最も敏感にこの時代の動きを感受していた一人で、榎本が管轄する逓信省が明治丸という最新鋭船を所有していることを知ると、榎本に南方の島々の探検を懇願して認められ、この航海が実現しました。

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ちなみに、依岡はその後「日沙商会」という東南アジア諸国を相手とする貿易会社を創立しており、これは現在の総合商社、「双日」のルーツの一つでもある「鈴木商店」の後援を得ていた会社でもありました。

この当時、ボルネオ島の北部にイギリス人が建国した「サラワク王国」という国がありましたが、依岡はここの土地租借および開発の許可をイギリス人から受け、南方開発の足がかりを得、ここでゴム園経営にも着手しました。

1891年9月、依岡の努力もあり、硫黄列島は、勅令で正式に日本の所轄となりました。そして1893年からは硫黄島で硫黄の採掘を始めました。硫黄から製造される硫酸は化学工業上、最も重要な酸であり、一般的に酸として用いられるのは希硫酸、脱水剤や乾燥剤に用いられるのは濃硫酸です。

また、合成繊維、医薬品や農薬、抜染剤などの重要な原料であり、さまざまな分野で硫化物や各種の化合物が構成されています。黒色火薬の原料でもあり、こののち富国強兵で軍備増強にあたる明治の日本にとっては重要な産物でした。

依岡らの硫黄採掘事業に従事するため、多数の労働者が硫黄島に駐留してここを仕事場とするようになりましたが、これに付随して1899年には北硫黄島、1904年には硫黄島への一般住民の入植・定住が始まり、1940年に東京府小笠原支庁硫黄島村が設立されました。

依岡はその後明治31年(1898年)には無人島ミッドウェー島を踏査し、明治32年(1899年)、には南大東島を開拓し製糖業を創始。サラワク王国でのゴム園経営を成功させてさらに日沙商会を拡大しました。しかし、明治44年(1911年)にマラリアを発症して逝去。弟省輔が省三の遺志を継承してその後の日沙商会を経営しました。

日沙商会はその後の大戦の影響で40年に近い歴史の幕を閉じましたが、その一部の事業は「東洋ファイバー」という会社に受け継がれ、これは現在、北越紀州製紙㈱の子会社となり、現在、北越東洋ファイバーに名を変えているようです。

さて、依岡の開発により硫黄採掘により、一時は栄えた硫黄島ですが、太平洋戦争勃発が近くなると、この地は南方方面に睨みを利かせるための戦略上の重要度を増しました。このため日本軍は硫黄島の防備を強化し、1933年に滑走路を設置し、1937年にはそれを拡大整備して「千鳥飛行場」としました。さらに1941年からは砲台の設置工事が始まりました。

その後太平洋戦争が勃発しましたが、2年半後の1944年までに日本は太平洋の各地で敗戦を重ねてその戦力を失っていき、その結果、硫黄島でも同年6月15日にはアメリカ軍による空襲が始まりました。このため、北硫黄島と硫黄島の住民1,094名は7月16日までに全員本土に強制疎開させられました。

そして、1945年2月19日には、ついにアメリカ軍が、第4・5海兵師団を硫黄島に上陸します。戦闘は3月26日まで続きましたが、最終的にアメリカ軍が同島を占領しました。
このいわゆる「硫黄島の戦い」における両軍の損害は世界史に残るほどすさまじく、日本軍は栗林忠道陸軍大将以下約20000名が戦死し、1033名が負傷しました。

一方のアメリカ軍も約7000名が戦死し、約20000名が負傷したとされ、死傷者数ではアメリカ軍が日本軍を上回りました。陸上の戦闘においてアメリカ軍の死傷者数が日本軍のそれを上回った戦闘は太平洋戦争を通じて、ペリリュー島とこの硫黄島の戦いのみです。

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戦後、硫黄列島はアメリカの施政権下に置かれるところとなりましたが、1968年に小笠原諸島と共に日本に返還されました。しかしその後結成された小笠原諸島振興審議会が、1984に旧硫黄島島民の帰住は困難と日本政府に具申したことから、現在に至るまで島民の帰島は叶っていません。このとき旧島民には一人につき見舞金45万円が支給されただけでした。

さて、この硫黄島の戦いの経過をもう少し細かくみていきましょう。

アメリカ軍側の作戦名はデタッチメント作戦(Operation Detachment)といいました。1944年8月、グアムの戦いにおいてグアム島をほぼ制圧し終えた米軍は、これに続き、ルソン島か台湾への上陸の作戦計画を模索していました。

米海軍は、台湾攻略については補給能力の限界に達していたこともあり、日本本土へ直接攻撃をしかけるほうが有効であると判断をしていました。が、米陸軍の南西太平洋方面最高司令官ダグラス・マッカーサー大将が強く台湾攻略を主張していたため、統合参謀本部内では陸海両軍がその後の侵攻先を巡って真っ向から対立するところとなりました。

そんな中、陸軍航空軍司令ヘンリー・アーノルド大将が、より効果的な日本本土への戦略爆撃のためにはむしろ硫黄島を攻略するほうが有意義だと唱えました。その結果、両軍ともこれを認めるようになり、40日後に沖縄へ上陸することを前提として硫黄島への侵攻することがアメリカ軍全体の方針となりました。

米統合参謀本部は、被弾による損傷、故障、燃料不足によりマリアナまで帰着できない爆撃機の中間着陸場の確保、爆撃機を護衛する戦闘機の基地の確保、日本軍航空機の攻撃基地の撃滅と早期警報システムの破壊、などを目的として、硫黄島の占領を決定しました。

日本軍は1941年12月の開戦時、海軍根拠地隊約1200名、陸軍兵力約3800名を父島に配備し、硫黄島をこの部隊の管轄下に置いていました。さらに開戦後、南方方面と日本本土とを結ぶ航空経路の中継地点としての硫黄島の重要性が認識され、海軍が摺鉢山の北東約2kmの位置に千鳥飛行場を建設し、航空兵力1500名および航空機20機を配備しました。

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しかしその後戦況は日本軍不利のまま進行し、1944年2月にアメリカ軍によってマーシャル諸島が占領されると、ここを拠点としてトラック島などへも大規模空襲が行われるようになり、多数の艦艇や航空機を含む日本海軍の兵力の大部分が粉砕されました。

危機感を募らせた日本の大本営は、カロリン諸島からマリアナ諸島、小笠原諸島を結ぶ線を絶対国防圏として死守することを決定し、その防衛線の守備兵力として小畑英良陸軍中将が指揮する第31軍を編成しました。

配下の小笠原地区集団司令官には、太平洋戦争緒戦の南方作戦・香港攻略戦で第23軍参謀長として従軍、攻略戦後は留守近衛第2師団長として内地に留まっていた「栗林忠道」陸軍中将が任命され、硫黄島に着任しました。

これと同時に同島には3~4月に増援部隊が到着し、総兵力は5000名以上に達しました。また「市丸利之助」海軍少将が、これに先んじて硫黄島守備隊長として着任していました。

これに対して、1944年10月9日、アメリカ太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ海軍大将はデタッチメント作戦の準備を発令。

参加兵力は第5艦隊司令官レイモンド・スプルーアンス海軍大将指揮下の5個任務部隊であり、これらの部隊には戦艦を含む水上打撃部隊である第54任務部隊、高速戦艦2隻と空母12隻からなる第58任務部隊らが含まれていました。また、上陸部隊はシュミット少将指揮下の第5水陸両用軍団、総兵力61,000名でした。

1945年2月16日、アメリカ軍硫黄島派遣軍は硫黄島近海に集結し攻撃を開始します。新鋭戦艦3隻、旧式戦艦3隻、巡洋艦5隻よりなる砲撃部隊は、偵察機によって調べられた既知の陣地に砲撃を加え、撃破すれば海図に記載し、次の箇所を撃滅するというノルマンディー上陸作戦以来の方法で各受け持ち地区を砲撃しました。

これと同時に、護衛空母から艦載機が発艦し、弾着観測に続いて個別陣地の撃破を行ないましたが、通常弾はほとんど効果がないことがわかるとロケット弾を多用した攻撃に切り替えました。この攻撃に効果ありと判断した米軍は、続いて歩兵を乗せた12隻の上陸用舟艇を硫黄島東岸に移動させます。

すると、摺鉢山の日本海軍管轄の海岸砲がこれらの舟艇を砲撃し、9隻を行動不能にし、3隻が大破しました。ところが、この日本軍の攻撃は、米軍に重砲陣地の場所を知らせる結果となりました。これを知ったアメリカ軍は摺鉢山の海岸砲陣地に対して戦艦「ネバダ」より激しい艦砲射撃を行った結果、摺鉢山の主要な火砲はほぼ戦力を消失してしまいます。

この著しい成果を見たある海兵隊員が「俺達用の日本兵は残っているのか」と、戦友に尋ねたというエピソードが残っています。が、海上や偵察機からだけでは窺い知れない硫黄島要塞の恐ろしさを、この米兵はその後の上陸で身をもって知ることになります。

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19日、早朝より艦砲射撃が始まり、B-29爆撃機120機、その他B-24や海兵隊所属機を含む艦載機による銃爆撃が硫黄島の日本守備群を襲いました。しかし、効果は上がらなかったため、9時まで再度艦砲射撃を続けたのち、ついに第4、第5海兵師団の第1波が硫黄島東海岸に強硬上陸を開始を始めました。

水際での日本軍の抵抗は小火器や迫撃砲による散発的な射撃にとどまり、海兵隊はこの円滑な上陸に意外の感を受けつつ内陸へ前進しましたが、実は日本軍は地下坑道の中で艦砲射撃に耐え、機をうかがっていたのでした。そして午前10時過ぎ、敵を十分に近距離に引きつけた日本軍は一斉攻撃を開始、海兵隊の先頭へ集中攻撃を浴びせます。

やわらかい砂地に足を取られ、動きがままならない状態の所に攻撃を受けたため、たちまち第24、第25海兵連隊は25パーセントの死傷者を出し、M4 シャーマン中戦車は第1波で上陸した56両のうち28両が撃破されました。米軍がかつてこれほどの濃密な火力の集中を受けた戦場は南方作戦緒戦を除き、太平洋ではそれまで例がないものでした。

硫黄島の土壌は崩れやすい火山灰のため、しっかりした足場も無く、海兵隊は塹壕(蛸壺)を掘ることもできませんでした。また高波を受けて、上陸用舟艇や水陸両用車が転覆や衝突によって損傷し、各地に上陸した誘導隊の努力にもかかわらず、海岸には舟艇や車輌があふれて後続部隊の上陸を妨げました。

やっとの思いで揚陸した戦車も日本軍高射砲の水平射撃によって撃破され、19日だけで海兵隊は戦死548名、負傷1755名という著しい損害を受けます。しかし夕方までには海兵隊約3万人が上陸して海岸堡を築き、ごく少数ですが突進して西海岸に到達する将兵も現れました。

2月20日、この硫黄島の戦いで最激戦と言われた摺鉢山の戦いが始まりました。準備砲爆撃の後、上陸した第28海兵連隊が摺鉢山へ、他の3個海兵連隊が元山方面の主防衛線へ向けて前進しました。海兵隊は夕方までに千鳥飛行場を制圧し、この結果、摺鉢山と島の中央部、元山に位置していた小笠原兵団司令部との連絡線が遮断されました。

摺鉢山の日本軍は独立歩兵第312大隊および独立速射砲第10大隊などが守備にあたっており、その斜面は1mごとが戦闘の連続でした。砲撃は日本軍の地下陣地に対してはあまり効果がなく、海兵隊は火炎放射器と手榴弾でトーチカを処理しながら前進しました。その結果、一つ一つが消滅していき、その中で摺鉢山守備隊長の厚地兼彦陸軍大佐が戦死します。

21日、米軍は予備兵力の第3海兵師団をも上陸させますが、日本軍は、千葉県香取基地から出撃させた爆撃機・彗星12機、攻撃機・天山8機、直掩の零式艦上戦闘機12機の計32機からなる神風特別攻撃隊第二御盾隊によって敵艦隊へ攻撃を加えました。この特攻は日本本土から初めて出撃したもので、八丈島経由で硫黄島近海の米艦隊に突入したものです。

この結果、護衛空母「ビスマーク・シー」撃沈、正規空母「サラトガ」大破炎上、護衛空母「ルンガ・ポイント」と貨物船「ケーカック」損害などの戦果を挙げ、その後も、日本は陸軍航空部隊の四式重爆撃機「飛龍」や、海軍航空部隊の陸攻による上陸部隊および艦船への夜間爆撃を数回実施しました。

一方、陸上の米軍被害についても著しく、「硫黄島での損害推定は戦死644、負傷4108、行方不明560」と公表されると、米本国では硫黄島戦における苦戦が初めて衝撃的に受け止められ、ワシントンの一部新聞が毒ガス攻撃を仕掛けろ、と呼びかけるほどでした。

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22日、元山方面を攻撃していた第4海兵師団は損害の大きさに第3海兵師団と交代するほど摺鉢山の山麓では死闘が続いていました。米軍は火炎放射器で日本軍の坑道を焼き尽くし、火炎の届かない坑道に対しては黄燐発煙弾を投げ込んで煙で出入口の位置を確かめ、ブルドーザーで入口を塞いで削岩機で上部に穴を開けガソリンを流し込んで放火しました。

一方の日本軍ではこうした方法を「馬乗り攻撃」と呼んで恐れました。そして、23日午前10時15分、第5海兵師団は遂に摺鉢山頂上へ到達し、付近で拾った鉄パイプを旗竿代わりにして、28×54インチ(71cm×135cm)の星条旗を掲揚しました。

しかし、この旗は硫黄島攻略部隊に同行していたジェームズ・フォレスタル海軍長官が記念品として保存するように所望したため、揚陸艇の乗員が提供した5×8フィート(1.5×2.4m)と先の旗の2倍となる星条旗を改めて掲げ、入れ換えることになりました。

そして、午後12時15分にAP通信の写真家・ジョー・ローゼンタールが、「敵の重要地点を奪った海兵隊員達が戦闘の最中に危険を顧みず国旗を掲げた」まさにその瞬間を捉えたような印象を与える写真、つまり「後撮り写真」とあわせた3枚の写真を撮影しました。

この写真は同年ピューリッツァー賞(写真部門)を受賞しており、「硫黄島の星条旗(Raising the Flag on Iwo Jima)」として世に名高いものとなり、その後「アメリカ海兵隊は水陸両用作戦のプロである」という存在意義を広く世界へ向けて示すシンボルとなりました。

ところが、星条旗が摺鉢山頂上に揚がった日の翌朝、気が付くと山頂に日章旗が翻っていました。米軍は早速、日本兵がまだ潜んでいると思われる山頂周囲の壕や穴の中に、片っぱしから手榴弾を投げ入れて火炎放射器を使い、そして再び星条旗を掲げ直し、その日中はそのまま掲げられていました。

しかし、翌25日早朝には再び摺鉢山頂上では又も日の丸の旗が再びはためいており、これはその周辺にいまだに頑張っている日本兵がおり、日の丸を揚げるために夜中、密かに山頂へ来ている証しでした。旗は昨日の日章旗より少し小さい四角で、おそらく急拠作製した血染めの日の丸の旗ではないかと思われました。

ただ、その後の戦闘ではもう、摺鉢山頂上の旗が日章旗に代わることはありませんでした。硫黄島の戦いはいよいよ激しさを増していき、24日から26日にかけ、海兵隊は馬乗り攻撃を繰り返しながら元山飛行場へ向けて少しずつ着実に前進していましたが、摺鉢山を攻略したアメリカ軍は3個師団全力で島北部への攻撃に移りました。

日本軍は戦車第26連隊を投入しましたが、26日夕刻、ついに元山飛行場も陥落。この時点で日本軍の兵力は2分の1に減少、弾薬は3分の1に減少していましたが、その後も抵抗を続けました。

その後大規模な戦闘は行われることなく、こう着状態が続きますが、3月初めには米軍が占領した千鳥飛行場の機能がほとんど回復しました。そして4日、東京空襲で損傷したB-29爆撃機「ダイナ・マイト」号が、両軍砲火の中、緊急着陸に成功しました。これが、硫黄島に不時着した最初のB-29とされます。

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元山正面の日本軍陣地は千田少将の率いる混成第2旅団が守備していましたが、歩兵戦闘の専門家である千田少将の訓練のもとでここの守備隊は強兵に生まれ変わっており、その守りは堅く、アメリカ軍は「ミート・グラインダー」(肉挽き器)と呼んで恐れました。しかし、この混成第2旅団の戦闘力も限界に近づいていました。

5日、栗林中将は戦線縮小を決定し拠点を島の中央部から北部へ移します。これをみたアメリカ軍は、7日払暁、米第3海兵師団によって異例の払暁奇襲を断行。結果、中央突破に成功し、日本軍は島の北部と東部に分断されました。

これによってもはや打つ手はないと知った、栗林中将は最後の戦訓電報(戦闘状況を大本営に報告する一連の電報)を発します。その内容は、海軍側が水際防御と飛行場確保に終始こだわったことなどが敗戦につながった、などの批判が主でしたが、自らの非力を悔いた自省的な内容でもありました。

このころまでには、水の乏しい硫黄島で日本軍の飲用水は払底し、将兵は渇きに苦しみましたが、暗夜に雨水を求めて地下陣地を出た兵士の多くは戻ってきませんでした。3月14日、栗林中傷はついに、軍旗の奉焼を命じます。そして16日16時過ぎ、栗林は大本営へ最後の訣別電報を送りました。

南の孤島から発信されたこの訣別電報は、本土最北端である海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別通信所により傍受され、通信員が涙ながらに大本営へ転送したとされます。

17日、アメリカ軍は硫黄島最北端の北ノ鼻まで到達。この日、大本営よりその多大な功績を認められ、同日付けで特旨を以て日本陸海軍最年少の大将に昇進した栗林は、同日に最後の総攻撃を企図し、隷下各部隊へ最後の指令を送りました。いわゆる「玉砕」です。

25日深夜、木更津基地から6機の一式陸攻が離陸、うち根本正良中尉の一式陸攻のみが硫黄島に到達し、単機爆撃を行いましたが、これが硫黄島における日本軍最後の航空攻撃となりました。

26日、17日以来総攻撃の時機を待っていた栗林大将は最後の反攻を敢行。栗林大将以下、約400名の将兵がアメリカ軍陣地へ攻撃をかけました。攻撃を受けたアメリカ陸軍航空軍の野営地には整備員など戦闘の訓練を受けていない者が多く、当地は大混乱に陥り、53名が戦死、119名が重傷を負ったとされます。

硫黄島守備隊の最高指揮官である市丸利之助海軍少将は、遺書としてアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた「ルーズベルトニ与フル書」をしたため、これをハワイ生まれの日系二世三上弘文兵曹に英訳させ、アメリカ軍が将校の遺体を検査することを見越して懐中に抱いて最後の出撃に出ました。

その内容は、日米戦争の責任の一端をアメリカにあるとし、ファシズムの打倒を掲げる連合国の大義名分の矛盾を突くものであったといい、米海兵隊によれば、書簡(和文・英文)は硫黄島北部壕内で発見され、目論見どおりアメリカ軍の手に渡り、7月11日、アメリカで新聞に掲載されました。

一方、小笠原方面陸海軍最高指揮官として陸海軍計兵力21000名を統一して指揮下に置くことになった、栗林大将の最期の模様は正確には分かっていません。一説には、突撃時に敵迫撃砲弾の破片を大腿部に受け前線から避退、近くの洞窟で中根中佐らと自決したとされています。

海兵隊は栗林大将に敬意を表し遺体を見つけようとしましたが、栗林は軍服の襟章(階級章)や軍刀の刀緒、所持品など、佩用・所有者の階級や職が把握できる物を外して最後の総攻撃を率いていたため、見つけることはできなかったようです。

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これをもって、日本軍の組織的戦闘は終結しました。が、残存兵力によって局地的戦闘やゲリラによる遊撃戦が終戦まで続きました。

1944年3月15日、アメリカ軍は硫黄島の完全占領を発表しました。また3月21日、日本の大本営も硫黄島守備隊の玉砕を発表しました。「戦局ツヒニ最後ノ関頭ニ直面シ、17日夜半ヲ期シ最高指導官ヲ陣頭ニ皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ全員壮烈ナル総攻撃ヲ敢行ストノ打電アリ。通爾後通信絶ユ。コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」

硫黄島の戦いで、日本軍は守備兵力20933名のうち20129名(軍属82名を含む)が戦死しました。捕虜となった人数は3月末までに200名、終戦までにあわせて1023名にすぎませんでした。一方のアメリカ軍は戦死6821名、戦傷21865名の損害を受けました。

硫黄島の戦いは、太平洋戦争後期の島嶼防衛戦において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った稀有な戦闘であったと同時に、アメリカが第二次大戦で最も人的損害を被った戦闘のひとつとなりました。なお、2月23日に星条旗を摺鉢山に掲げた6名の海兵隊員のうち、生きて故国の地を踏むことが出来たのはわずか3名のみでした。

戦後、硫黄列島はアメリカの施政権下に置かれましたが、1968年に小笠原諸島と共に日本に返還されました。旧硫黄島島民の帰住は現在もかなっていませんが、戦没者の慰霊祭が現地で開催される際等には、旧島民や遺族、それに戦没者の遺族等の上陸が許可されています。

1985年(昭和60年)2月19日には、硫黄島において、日米双方の元軍人・退役軍人ら400名による合同慰霊祭が行われましたが、かつて敵として戦った双方の参加者たちは互いに歩み寄り、抱き合って涙を流したといいます。

戦後、米国より施政権返還後の硫黄島は、自衛隊管理の「硫黄島航空基地」が設置されました。島内全域がその基地の敷地とされているため、原則として基地に勤務する自衛隊員以外は島に立ち入ることが禁止されています。

火山活動による隆起が非常に激しいため(年間約25cm)、硫黄島に港を築港することができず、船積みのボートが着けられる程度の小さな桟橋しか存在しません。その関係で大型船舶は少し沖合いに停泊せざるを得ず、航空機で運べないような重量物は、おおすみ型輸送艦を使い、艦載のホバークラフトで海岸から少し内陸にある揚陸施設に揚陸させます。

硫黄島航空基地は、海上自衛隊が管理する飛行場を中心とした基地です。航空管制及び基地の施設管理等のための部隊(硫黄島航空基地隊)と、救難及び小笠原諸島の急患輸送のための部隊(73航空隊硫黄島分遣隊)が置かれています。また航空自衛隊も訓練機の飛行や後方支援部隊(硫黄島基地隊)を置いており、実験機や戦闘機の訓練を行っています。

周囲に有人島が存在しないため、米海軍の空母艦載機による艦載機離着陸訓練及び夜間離着陸訓練(タッチアンドゴー)が行われているほか、航空自衛隊の各種実験飛行や戦闘機の移動訓練といった、日本本土では実施不可能な用途に使用できる貴重な島です。日本で唯一、陸・海・空の3自衛隊の統合的作戦演習が可能な場所でもあります。

離島勤務となるため、隊員の多くは長期滞在になり、辛い任地のようです。が、もうひとつ彼等を苦しめるものがあり、それが、かつてここで失われた日本兵たちだといいます。

いわゆる「出る」島として自衛隊の中では有名な島だということで、この島で幽霊を見た経験をもつ隊員・職員は大勢いるようです。しかも現れる幽霊の数も多く、時には昼夜関係なく出てくるといい、硫黄島基地では、幽霊対策として毎日慰霊碑の前に設けてある盃に水を補充する規則となっているそうです。

宿舎でも寝る前には部屋の前に水を準備しておかないと、兵士の霊が水を求めて中へ入ってくるとのことで、海空自隊員の中には幽霊に悩まされノイローゼになり帰還させられる人もいるようです。

かつてこの島へ霊感の強い人が上陸しようとしたら死霊がその人のところに集まったらしく、その人は気が狂ったように自分で自分の顔や頭を殴り始めたといい、まわりの人があわてて船に連れ戻し、島から逃げて帰ったといった話もあります。

戦後70年、平和になった日本に彼等の霊をなんとか連れて帰ってあげたいものです。

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偶然 or 必然?

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年表をみると、今日7月17日は、645年(大化元年)に、日本初の元号「大化」が制定されたということで、歴史的には記念すべき日のようです。

また、思い起こせば、2011年には、FIFA女子ワールドカップ決勝戦で、なでしこJAPANがアメリカ代表をPK戦で破り、初優勝を飾った日でもあります。1971年には、この日、プロ野球のオールスターゲーム第1戦(西宮)で、全セ先発の阪神タイガース、江夏豊が9者連続奪三振を達成するなど、つまり、7月17日はスポーツの面でも記念すべき日です。

この試合では、最終的に全セが継投によるノーヒットノーランも達成するという偉業を成し遂げており、さらに同年、今井通子がグランド・ジョラス北壁に登頂して女性初のアルプス三大北壁登頂を達成しています。

このようによいことばかりが起こった日のように見えますが、実は同時にやたらに災害やら事故が多い「特異日」でもあります。

記憶に新しいところでは、昨年の2014年にはマレーシア航空17便が墜落しており、1996年にはトランスワールド航空800便墜落事故が起きています。マレーシア航空の事故では、乗員乗客298人全員が死亡し、トランスワールド航空機事故でも230人全員が亡くなりました。

さらには、1981年、ハイアットリージェンシー歩道橋落下事故というのがあり、これはアメリカミズーリ州カンザスシティのホテルで空中通路が落下し、144人が死亡したものです。

もっとさかのぼると、1953年には、日本で南紀豪雨があり、 翌18日にかけて紀州大水害が発生して、死者615人、行方不明者431人という大きな被害を出しました。

また災害や事故ではなく戦争ですが、1945年には、第二次世界大戦中に沼津大空襲があり、焼夷弾のよって焼け落ちた町では274人が死亡しました。さらに、1944年には、アメリカで、のちに「 ポートシカゴの惨事」と呼ばれる事故があり、この事故では、過去の今日という日に起きた人災の中では最大の死者数、320人を数えました。

この事故は、カリフォルニア州のポートシカゴ海軍兵器庫で、1944年7月17日に発生した壊滅的な爆発事故です。太平洋の戦域に向かう貨物船に積み込んでいた弾薬が大爆発して、320名の水兵と民間人が死亡し、390名が負傷しました。死傷者の大半は徴募されたアフリカ系アメリカ人の水兵でした。

これほど事故や災害が重なった日というのは、そうそうないでしょう。ラテン文化圏では17日は忌みの日であるといい、17をローマ数字に置き換えた「XVII」を分解して並べ変えると「VIXI」となり、この意味は「私は生きた」となり、つまり「私は死んでいる」ということになります。イタリアでもこの17は不吉な数字とされているようです。

また、イエス・キリストの最後の晩餐に出席した人数が13人であったことから、同様に13は忌み嫌われます。さらに、キリストが金曜日に磔刑に処せられたとされていることから、13日でしかも金曜日であるというのは、いかにも不吉であるとされるようになりました。

一説には、イヴによるアダムの誘惑も大洪水からノアが脱出したのもバベルの塔が壊されたのも13日の金曜日だと言われます。

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「23エニグマ」というのもあります。これは最近の出来事、日常生活の中、あるいはメディアの中において23は、頻繁に現れるというものです。エニグマとはラテン語で「なぞなぞ」、「パズル」等を意味する意味で、23エニグマとはつまり、「23の謎」といったほどの意味になるでしょうか。

具体例をいくつかあげると、例えば以下のようなものがあります。

・両親は、子供のDNAに、各々23本の染色体を寄与する
・ユリウス・カエサルは、暗殺された際に、23回突き刺された。
・テンプル騎士団には23人の総長が存在した。
・ジョン・F・ケネディは11月22日に暗殺され、暗殺者オズワルドは11月24日に殺害された。これらの中間の日付は23日である。
・シカゴ・ブルズ時代のマイケル・ジョーダンは、背番号23だった。またデビッド・ベッカムの、レアル・マドリードでの背番号は23番である。
・23番目のアルファベット「W」は、キーボード上の2と3の真下にある。
・フォルクスワーゲンのロゴ「VW」は、2と3を足したローマ数字の「V」と、23番目のアルファベット「W」を含んでいる。
・東京都区部は23の特別区から成り立っている。

他にもたくさんありますが、これくらいにしておきましょう。これからわかるように、カエサルが23回刺されたなど、ぶっそうなものもありますが、17や13のように必ずしも23という数字が不吉な数字というわけではありません。

それにしても、我々の日常には、こうした事故の多い日や、数字にまつわるような偶然が、いくつもあり、時にはそれらが特別かつ特殊な重要性を持っていて、どう考えても偶然ではないよな~というものがあります。

悪い時には悪いことが重なるとか、良いことは続けて起こる、といったふうに思うことは誰にでもありますが、その度にそれを偶然ではなく、必然なのだ、と何かと我々は思い込みたがります。

こういうのを、「アポフェニア(apophenia)」といいます。その意味は、無作為あるいは無意味な情報の中から、規則性や関連性を見出そうとする人間の知覚作用のことです。ドイツ人の心理学者クラウス・コンラッドが定義した用語です。

つまり、何の関連性もないのに、人は同じ日に悪いことが起こったり、同じ番号の出来事が続いたりすると、それを偶然と考えずに、何か規則性や関連性があるのではないか、と疑い始めるという心理です。

上述の23エニグマ、という言葉も、このアポフェニアによって生み出されたものだといわれており、これはアメリカのSF作家、ウィリアム・S・バロウズが命名したものです。

彼はある日、23年間にわたり無事故で同じ航路を運航していたフェリーが23日に沈没したことを知ります。また、このフェリーの船長はクラークといいましたが、その後にニューヨーク・マイアミ航路上の23便の墜落事故を耳にした時、その便のパイロットの名前もまたクラークであることを知りました。

これにより、バロウズは数字の23にまつわる出来事の発生率の記録を集め始め、その有効性を著作の中で言及しました。アポフェニア効果により、バロウズの頭の中には、23という数字が一連の事故と結びつけて浮上するようになり、それを偶然とは考えられなくなっていったというわけです。

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上述のように私がとありあげた、7月17日が「事故の特異日」だという考え方もまたアポフェニアといえるのかもしれませんが、こうした特異日は、政治史にもあります。ドイツでは過去に11月9日に何度も政治事件が起こっており、この日も特異日だといわれています。

11月9日にドイツで起きた大事件としては、以下のようなものがあります。

・ウイーン十月蜂起に参加の市民活動家・ロベルト・ブルームが処刑される(1848年)
・ドイツ革命勃発(1918年)
・ミュンヘン一揆の鎮圧(1923年)
・水晶の夜(1938年。ドイツ各地でユダヤ人に対する襲撃が行われる。)
・ドイツの学生運動APO大学民主化を求める(1967年)
・ベルリンの壁崩壊(1989年。ただし、誤報により「国境が開放される」と発表された)

同じ日には、フランスで1799年に、ナポレオンが軍事クーデターを起こし総裁政府を倒しています。また、日本でも1867年に大政奉還が起こっているほか、1964年に 池田勇人首相が病気により辞任し、第1次佐藤榮作内閣が発足しています。さらに1989年には中国の鄧小平が、引退しています。ドイツだけでなく、世界的な特異日なのかもしれません。

こうした特異日はなぜ起きるか、については、これまで主に気象学の分野でその研究が行われてきました。特異日とは、その前後の日と比べて偶然とは思われない程の高い確率で、ある事象が起こることで、世界的に認められた概念であり、英語では「シンギュラリティ」(singularity)と呼ばれます。

気象学的には特定の気象状態(天気、気温、日照時間など)が現れる日のことで、例えば、今月の7月17日は雨の特異日とされています。実はこの日は、石原裕次郎の命日に当たり森田正光が「裕次郎雨」と名づけた事でも知られています。

気象特異日が起こる原因についてははっきりしませんが、幾つか仮説は立てられており、その一つは、季節変化により、大気の流れがある日突然変わるために特異日が生ずる、というものです。

ただ、長い間に特異日ではなくなってしまったのではないかと言われるものも多く、変動性があることが指摘されています。

例えば、晴れの特異日とされる文化の日(11月3日)は、戦前では確かに特異日でしたが、1950年代ごろからしばしば雨になりました。気象学関係者の間では特異日から外す意見もありましたが、最近はまた晴れることが多くなっています。

また台風の特異日である9月26日は、1950年代は極めて明瞭で、洞爺丸台風・狩野川台風・伊勢湾台風のような顕著なものだけでなく、台風の接近・上陸が多かった日ですが、1960年代からその傾向は弱まり始め、特異日の資格を失っています。こうした変動の理由も含めて、地球上における気象特異日の発生原因はまだはっきりしないのが現状です。

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一方では、地球上のこうした気象変動の原因を地球外に求める研究もあり、そのひとつが彗星です。彗星が太陽に接近して尾ができるのは、表面の物質が太陽の熱で気化し、太陽風や光圧で飛ばされるためですが、そのため彗星の通過した後には細かな宇宙塵の帯が残ります。

この彗星が地球の軌道を横切った場合、地球は毎年ほぼ同じ時期に彗星の残した塵の帯の中を通ることになります。そして、それは流星雨のような現象をもたらすと共に地球の天気現象にも影響するのではないか、そしてこれが特異日の原因となっているのではないかということが言われています。

先の東北大震災の前の3月7日~3月11日には、4日間も連続してそれぞれの彗星が近日点(軌道上で太陽に最も近くなる点)を通過する現象が発生しています。彗星が4日連続して太陽の近場を通過するというのは、やはり珍しい特異な現象だと思います。

この彗星の影響を受けてか、3月7日前から太陽の黒点数が100個を超え続けたといい、3月10日にはX級の太陽フレアが発生しました。そして、この30時間後に大震災が発生しています。

このことから、彗星が太陽の近日点を通過する時は、太陽活動を活発にするのではないか、ひいてはそれが地震を引き起こしたのではないか、といったことも取沙汰されているようです。

一方、彗星が飛び去った後に残された宇宙塵の中には、これまで人類が知りえない何等かの人体に与える成分が含まれているのではないか、という説もあり、事実、日本の古い文献にも、大きな彗星を目撃した後の現象に、疫病や飢饉が発生したことが書かれています。

さらにこうした物質はもしかしたら、我々の脳にも影響を与えているかもしれません。彗星が飛来したとき太陽黒点が増えることと関連して、我々の精神面にも影響を及ぼし、周期的に地球にやってくる彗星の場合、これが繰り返し起こる事故や政変の原因になる、といったことも考えられるかもしれません。

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気象学的な特異日に関しては、このように正しいかどうかは別として、地球内外の要因によって引き起こされるといった説明が試みられています。

一方で、事故や政変のような事象の特異日には、時空を飛び越えて関連づけられるような直接的な原因は考えにくく、これはやはり単なる偶然ではないのか、言われることが多いのも事実です。

サイコロの目が出る確率が6分の1であるのはよく知られますが、それは多くの試行を行った場合のことで、少数回では特定の目が続けて出たり、集中したりします。それと同じであり、せいぜい100年や200年のスパンでこれを特異日と呼ぶには、ちと過敏すぎやしないか、というわけです。

乱数表や、非常に優れた乱数であるとされる円周率でも、所々に特定の数が集中したり連続することが見られ、これを「群発生」と言いますが、特異日も、実は単なる群発生に過ぎないのではないか、と見ることもできます。

しかし、こうした確率論的な説明ですべての特異日を説明できるかといえば、そうでもなく、とくに過去における事例があまりにも多いものは、本当に統計的な考え方だけで片付けてしまっていいのか、という疑問が残ります。

ある人は、事件や事故、政変については、もしかしたら、何かすべて仕組まれた陰謀である、ということを言ったりもします。身のまわりに不思議な出来事が起こる。もしかしたら、それは偶然ではなくて、なにかの陰謀、企みではないだろうか、と考える人は割と多いのではないでしょうか。

事実、かなり古くから存在するフリーメーソンのような組織は世界で起こる多くの事件、事故、政治に関わってきたとされています。特定の個人ないし組織による秘密謀議で合意された筋書の通りに歴史は進行したし、進行するだろうとする「陰謀論」は、今も昔もあり、その首謀者は国家、警察、検察、あるいは大企業や多国籍企業などさまざまです。

場合によっては、巨大資本、マスコミ、宗教団体、エリートなどが一定の意図を持って一般人の見えないところで事象を操作し、または真実を衆目に触れないよう伏せているのではないか、と考えることもできます。

しかし、そうした大規模な操作をするためには、巨大な権力や政治力や財力が必要であり、そもそもなぜそんな操作が必要なのか、というところでこの議論は行き詰ってしまいそうです。

陰謀論の中には宇宙人や地底人の陰謀によるものといった荒唐無稽なものもあります。先日書いたブログ、「惑惑する…」でも書いたように、宇宙のかなたには地球人以上の知能を持った生命体がおり、彼らが地球人をマインド・コントロールしようとしている、と考えれば特異日の謎は解けそうな気もします。

が、仮にそういうことがあるとしても、彼らが何のために特異日を設定しようとしているのか不明です。現実論とはかなりかけ離れたところまで議論が行ってしまいそうなので、とりあえずこの話題からは少々離れましょう。

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特異日と関連づけてよく言われる事象に、「ジンクス(jinx)」と呼ばれるものもあります。「実際によく起こること」であり、「縁起の悪い言い伝え」であったりもして、さまざまなものがありますが、生活に密着した教訓・習慣・法則の一つです。

こちらも、科学的根拠に基づかず、経験に基づき唱えられる場合が多いため、迷信に陥っているものが少なくありません。しかし、近世になってから裏付けがとれたものもあり、全てが迷信とは言いきれるわけではありません。

ジンクスの語源は不鮮明ですが、ギリシア語のjynxは鳥の「アリスイ」のことで、これはキツツキの一種です。このアリスイは、自らの首を180度回転させ真後ろを向けられます。人間ではとてもできない芸当であり、このため不吉な鳥とされました。しばしば魔法と占いに用いられたことから、魔法のような出来事をジンクスと呼ぶようになったのでしょう。

ジンクスの代表例としては、上でも書いたキリストの巡教日、数字の13がありますが、東洋でも、4は「死」、9は「苦」に通じることから、縁起が悪いとしてホテルや病院の部屋番号や階層、鉄道車両の番号等で使用を避けることが多いものです。韓国でも病院やマンションで「4階」がなく、「F階」に代えられたりしています。

また、中国も勧告も日本同様に「死」を連想させる忌み数として避けることが多く、これは数字の4である中国語の「スー(si)」、韓国語の「サー(사、sa)」いずれもが「死」の発音が同じためです。このため、中国などでは麻雀のスーカンツ(四槓子)を、スーを発音しないよう、わざわざ「カンカンフー」と読み替えるそうです。

キリスト教圏では、「13」を不吉な番号としますが、「666」も悪魔の番号であるとして使いたがりません。このほか政治経済やスポーツ、ギャンブル、天候に至るまで数多くのジンクスが存在します。が、私にはどれもがどうもうさん臭く思えます。

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その中でも、頻度が多いなど、多少なりとも真実味のありそうな例をいくつかあげると、例えば知事経験者は他の都道府県の知事選に出馬しても勝てない、というのがあり、これは1947年に知事が公選制となり普通選挙で選出されるようになって以降、複数の都道府県で知事を歴任した人物はいないという事実です。

政治がらみではこのほか、選挙の月には宿泊施設の客が減る、というのがあり、これも理由はよくわかりませんが、ホテル・旅館業界では常識だそうです。このほか、家電量販店業界で、売上トップの座を明け渡した企業が再びトップに返り咲くことはない、というのも事実で、スポーツでは中日ドラゴンズが優勝すると政変が起きる、というのがあります。

1954年日本一時の造船疑獄による吉田内閣退陣、1974年優勝時の田中金脈問題による田中内閣退陣、1982年優勝時の鈴木内閣退陣、1988年優勝時のリクルート事件(翌年竹下内閣退陣,昭和天皇崩御)、1999年の(中日が優勝を決めた日に)東海村JCO臨界事故、2004年の新潟県中越地震などが、実際に起こっています。

さらに、「交響曲第9番」を作曲すると死ぬというのがあり、これは「第九の呪い」といい、ベートーベン他5人の有名作曲家が死んでいます。このほか、アメリカで“XXX0年”の選挙で選出されたアメリカ合衆国の大統領は、暗殺や病死などで任期を全う出来ない、というのがあり、こちらは「テカムセの呪い」です。

このように、確率論では説明できないような似たような出来事が過去には何度も繰り返し起こっており、我々の周囲にはとても偶然とは思えないような事象が渦巻いています。

特異日や陰謀論、ジンクスしかりなのですが、とはいえ、こうしたものをすべて十把ひとからげにまとめ上げるのは無理があります。が、あえて統括するならば、複数の似たような出来事が離れた場所で、しかも時間差をおいて、発生するということです。

しかし、時間差をおかずに、同時多発発生する、という事象も中にはあります。これは一種のシンクロニシティ(synchronicity)と思われます。「意味のある偶然の一致」のことで、日本語訳では「共時性(きょうじせい)」「同時性」「同時発生」とも言います

心理学者、カール・ユングによって提唱された概念で、何かの原因に基づいて事件や事象が起こる「因果性」の事象とは異なり、何の因果関係もなく、複数の出来事が離れた場所で、同時期に起こる、という原理です。

実際、何か意味やイメージにおいて類似性を備えた出来事群、何らかの一致する現象が、離れた場所で、ほぼ同時期に起きる、というのは我々の人生においてよく起こることです。

こうした複数で起こるこうした事象は、従来の「因果性」の説明方法ではうまく説明できない場合も多く、これを説明するために提示されたのがシンクロニシティです。

わかりにくいので例をあげると、会いたいと思っていた人にバッタリと出会う、タクシーをさがしていると目の前で客が降りる、欲しいと思っていたものを突然プレゼントされる、ダブルブッキングをした知人との約束をキャンセルしなければと思っていると、当の本人から予定の変更連絡が入る、といったことなどです。

このほか、何か非常に困難な問題に直面していて、情報が得られず困っている時、あるパーティーに出席したところ、たまたま隣の席に座った人がちょうど必要な情報を提供してくれた、とか、昔の同級生に連絡をとろうとしたけれども住所がわからず、混雑したエレベーターに乗り込んだところ、たまたまそこに彼女が立っていた、なんてのもあります。

ユングによる説明では、どうしてこういうことが起こるかといえば、これは人それぞれの意識同士は、実は「集合的無意識」であり、そもそも無意識に交流しているのだといいます。これはつまり、人の心は表面的には個別的であるかのように見えてはいても、実は潜在意識位の中で根本的には交流している、ということのようです。

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しかし、ユングの説では同時多発的なことを説明できるだけで、時間差を置いた、特異日、陰謀論、ジンクス、は説明できません。数十年、あるいは数百年を経てまでこうしたシンクロニシティが人々の間に共有され、特異日になるというのは考えにくいことです。

ところが、スピリチュアル的な観点からは、このシンクロニシティが起こるのは、直感や意識が次元や時空を超えているからだとされ、同時におこる物質的な因果ではなくて、時空を超えて意識や心が連動する因果だとされます。

自分が望んでいることを引き寄せたり、同時に同じような偶然が起こったりするのは潜在意識が現実的に体現しようと無意識に行動しているからだとし、無意識でも、確実にそれを引き起こす原因を意識レベルで発生させているともいいます。

次元や時空を超えるということは、つまりあちらの世界の人々の意識ともつながっているからだという人もいます。さらに自我というものが過去からの輪廻転生によって形成されているならば、過去にさかのぼり、あるいは未来に向かってそうした意識が共有された結果として、偶然の一致、いや必然が起こる、ということもいえるかもしれません。

一方、こうした時空や次元を超えた一致をあくまでも科学的に捉えようとして、仮説を立てる人もいます。イギリスの元ケンブリッジ大学フェロー、生物学者のルパート・シェルドレイクは、「シェルドレイクの仮説」という仮説を立てており、これは形態形成場仮説、モルフォジェネティク・フィールド仮説とも言います。

いかにも難しそうですが、この仮説は以下のような内容からなります。

・あらゆるシステムの形態は、過去に存在した同じような形態の影響を受けて、過去と同じような形態を継承する(時間的相関関係)。
・離れた場所に起こった一方の出来事が、他方の出来事に影響する(空間的相関関係)。
・形態のみならず、行動パターンも共鳴する。
・これらは「形の場」による「形の共鳴」と呼ばれるプロセスによって起こる。

といった単純なものであり、簡単に言えば、「直接的な接触が無くても、ある人や物に起きたことが他の人や物に伝播する」とする仮説です。

単純なだけに、この仮説を肯定する人々もいますが、一方で「事実上、超常現象や超能力に科学的と見える説明を与えるようなもので、疑似科学の1つ」と否定的な見解を示す人もいます。とくに、そもそも「形」とは何、「共鳴」とは何よ、というところに議論は集中しそうです。

これに対して、シェルドレイクは記憶や経験は、脳ではなく、種ごとサーバーのような場所に保存されており、脳は単なる受信機に過ぎず、記憶喪失の回復が起こるのもこれで説明が付く、と説明したそうです。

わかったようなわからんような説明なのですが、これをスピリチュアル的に解釈すれば、記憶や経験は、輪廻転生によって継承され、過去から未来へ受け継がれ、魂レベルではそれを他の魂と共有している。現世に生まれてきてそれを共有している複数の人々の間で、シンクロニシティが起こるのは、そのためである。すっきり説明がつきます。

ただ、このシェルドレイクの仮説も間違ったことを言っているわけではなく、スピリチュアル論を言い換えただけのような気もします。彼が言うところの受信機だのサーバーなどは存在せず、実は魂同士がその情報をやりとりしているだけです。

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しかし、このシェルドレイクの仮説を実験で立証しようとした人達もおり、「離れた場所に起こった一方の出来事が、他方の出来事に影響する」という「空間的相関関係」については、1983年にイギリスのテレビ局テームズ・テレビによって、公開実験が行われました。

まず、一種のだまし絵を2つ用意し、一方の解答は公開しないものとし、もう一方の解答はテレビによって視聴者200万人にもの多数の人々に公開しました。

その一方で、2つの問題のうち、テレビで「公開されなかった」問題は、この番組が放映されない遠隔地に住む住人1000人を対象として回答を得ました。その結果、テレビ公開の前の正解率は9.2%で、放映後には10.0%でした。

一方、テレビで「公開された」ほうの問題は、同じくこの番組が放映されない別の遠隔地に住む住人800人を対象として回答を得ました。その結果、テレビ公開前の正解率3.9%に対して、放映後は6.8%になりました。

つまりこれにより、この番組を見ることができないような遠隔地にいた住人において、「公開されなかった問題では正解率は余り変化しなかったが、公開された問題は大幅に正解率が上昇した」ことになります。

そして彼等はこの結果を、地理的な問題を克服し、テレビを見たその他の地域の人々の意識情報が、この番組を見ることのできなかった遠隔地の人々に伝播した、と解釈しました。

またこの結果は、テレビ放映とその後の回答率を得るためのアンケート調査の時間差なども考えれば、シェルドレイクのもう一つの仮説、「過去に存在した同じような形態の影響を受けて、過去と同じような形態を継承する(時間的相関関係)」をも実証したといえなくもありません。

アンケートの方法やらテレビ放映の方法、あるいは調査結果が確率論的にはたして本当に有為なものかどうかなど色々疑問はありますが、こうした結果をみると、人と人の間には直観やら意識やらが時間や場所を超えて「共鳴」する、という事実はあってもよさそうだ、という気になってきます。

実はこのシェルドレイクの仮説については、似たような実験が日本でも行われており、これは2000年11月11日に日本テレビで放映された、「世界を変える7つの実験」という番組の中で行われたものです。

飼い主とペットの双方をカメラで追跡するというもので、ペットは飼い主がいつ家路についたかを感知するかどかを確認する実験だったそうです。飼い主は仕事の関係で帰宅時間が不規則ですが、遠く離れた飼い主の自宅では、果たしてペットが玄関に移動して出迎えるなどの様子がみられたということです。

番組を見ていないのでよくわかりませんが、おそらくはこのペットというのは犬でしょう。つまり、人と人との間だけでなく、人とペットのような動物との間にも、共有している「集合的無意識」がある、ということになるのでしょう。飼い主と犬という深い関係であるがゆえに、さらにその意識のつながりは強いのかもしれません。

さて、長々と書いてきましたが、これ以上書いてもこの項の結論は出そうもありません。が、人知を超えたところにこの不思議な一致の答えはあるに違いなく、それを知るのはあるいはあの世に行ってからかもしれません。

そしてあちらの世界で過去に起こってきた数々の偶然の一致の理由をもし知ることができれば、それをこの世の人にも伝えたいと思います。が、案外とそうした情報が、故人になっている人達からすでに常々我々に伝えられているのかもしれません。

生きているうちには、それをもっと敏感にキャッチできるようになりたいと思いますが、果たして実現できるでしょうか。

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外国人居留地のこと

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今日は「大阪港開港記念日」だそうです。1868年のこの日、大阪のほぼ中心部を流れる安治川(あじがわ)の河口に大阪港が開港しました。

この安治川の河口には海港があり、6世紀頃には国際港として栄え、難波津(なにわづ)、住吉津(すみのえのつ)と呼ばれていました。しかし、上流から流れ出た土砂が港内に堆積したことで衰退してしまい、このため平安時代から鎌倉時代に港は安治川の北を流れる淀川の河口に移され、ここは渡辺津(わたなべのつ)と呼ばれようになりました。

この渡辺津は河港でした。「河港」の意味は、淀川を数km遡った場所にあったためです。安土桃山時代に、豊臣秀吉によって 大坂の町割が作られ都市の基盤が築かれ、江戸時代にかけては北前船や菱垣廻船などの寄航地として栄え、日本最大級の港となりました。

しかしながら、大坂市街はここからさらに数km遡る必要がありました。しかし、土砂の堆積で大型船はこれより奥へ進むことができず、ややむを得ず渡辺津から下流部の河口部や、淀川の分流である木津川の河口に停泊し、そこから運河などを使って大阪市内に小型船で貨物を運搬していました。

木津川と安治川は淀川から枝分かれした分流ですが、この当時は部分的には淀川本流でもあり、このため淀川に加えて大阪湾から大坂市中へ遡る航路として使われていました。が、これらの河川には大雨が降るたびに大量の土砂が流れ込み、そのために常に河川の改修や浚渫が必要であり、これは江戸時代を通じて行われました。

このため、1683年(天和3年)には土木・建築の請け負いで財を得ていた豪商、河村瑞賢が、淀川の中途から海へ向かって現在の安治川を開削。これによって、淀川にあった渡辺津へのバイパスができるようになりました。それまでは淀川の浅くなっていた部分を避け、曲がりくねった流路を辿っていたものが、最短で渡辺津へ行けるようになったわけです。

さらに1699年(元禄12年)には、木津川の流路も整えてスムーズにしたため、この安治川(バイパス)と木津川沿いは大阪における二大航路として繁栄するようになりました。

一方、これらの河川とは別に、大坂城の北付近で淀川に合流していた大和川という川がありました。この川は現在は堺にほど近い場所に河口がありますが、この当時は北へ向かって大阪市街を北上し、淀川へ土砂をもたらす大きな供給源でした。

その流域である大阪市街は、ひとたび氾濫すると河内低地が水没するなど甚大な被害を出していたため、これも1704年(宝永元年)に河内郡今米村の庄屋、中甚兵衛らの尽力によって、堺の北で大阪湾に出るよう付け替えられました。

これによって大和川は淀川水系から完全に切り離されるところとなり、土砂の流入は半減しました。しかし、それでも淀川水系では土砂で川が浅くなり続けたため、とくに安治川では再度大規模な浚渫が行われ、この時に出た土砂により、「天保山」が築かれました。

1831年(天保2年)から約2年間行われた浚渫工事であり、これは「天保の大川浚」とよばれました。大坂町人の熱の入れようは相当なもので、大坂町奉行指揮下に延べ10万人以上の労働力がつぎ込まれた浚渫工事は、工事自体がお祭り騒ぎだったと伝えられています。

すくいあげられた土砂を安治川河口に積み上げられてできた築山は十間(約20m)ほどの高さがあり、安治川入港の目印とする意図もありました。そのため当初は目印山と名づけられましたが、後に元号が天保になったときから天保山と称されるようになったものです。

この浚渫工事によって天保山の周囲に町が出現し、海岸べりに高灯籠(灯台)が設けられ、山には松や桜の木が植えられて茶店なども置かれ、大坂でも有数の行楽地となりました。当時の舟遊びをする人々の姿は歌川広重などによって浮世絵に描かれています。

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こうして安治川への大型船の入港が可能になったため、幕末の日米修好通商条約の締結を機に、安治川左岸の西区川口に大阪港が開港されたわけです。しかし、この港は安治川河口から6kmもさかのぼる地点に位置しており、加えて川の狭さと浅さのため、外国の大型船が入れません。このため国際港としての機能はその後次第に兵庫の神戸港へ移りました。

その後、1890年(明治23年)に大阪市民の有志らが発起人となって、天保山付近で新たに港を創る計画が持ちあがりました。築港調査の結果、大治川河口付近では、西風に起因する波に対処するため、河口を南北から挟み込むような大防波堤が構想されました。

こうして1897年(明治30年)、大阪市営のプロジェクトとして「大阪港第1次修築工事」の起工式が天保山で行われ、1903年(明治36年)には築港大桟橋が完成しました。が、思うように利用は伸びず、大型船の代わりに夕涼みと魚釣りの市民でにぎわう有様でした。

1916年(大正5年)、市の財政難と、西風にあおられ地盤も弱い河口付近の難工事により、築港事業は一時中断しましたが、第一次世界大戦景気で利用が増えたため、1918年(大正7年)から再着工され、32年もかかって1929年(昭和4年)に築港事業が完工しました。

しかし、その完工を見る前から大阪港は既に狭いと評されるようになっており、またも神戸港への遷移が目立ち始めたため、大阪市は、1927年(昭和2年)、港域を2.5倍にする築港計画を策定し、1928年(昭和3年)から「大阪港第2次修築工事」に着手していました。

その工事が完工する前の1939年(昭和14年)には貨物取扱量が日本最大となり、大阪港は神戸・横浜と並ぶ日本三大港湾の一つとなりました。この年には北港が完成し、続いて南港の建設に着手しましたが、第二次世界大戦激化のため工事は中断を余儀なくされます。

1945年(昭和20年)、大阪港一帯は米軍による大阪大空襲によって壊滅的な被害を受けました。また同年9月に発生した枕崎台風によって浸水被害が起こりました。そこで中断していた第2次修築工事を改め、大阪港に注ぐ河川を拡幅して内港を作り、その土砂で海抜0メートル以下の地区を全面的に盛り土するという「大阪港復興計画」が持ち上がります。

こうして、1947年(昭和22年)に「大阪港修築10ヶ年工事」が開始されました。その矢先に戦争末期にはB-29が湾内に大量に投下した機雷が発見されるなどのトラブルもありましたが、1948年(昭和23年)までには浚渫も進み、ようやく海外貿易が再開できるまでになりました。

こうして大阪港はその後順調に拡大し、1951年(昭和26年)には、重要港湾、続いて特定重要港湾に指定されました。さらに1967年(昭和42年)にはサンフランシスコ港と姉妹港提携をするなど次第に国際港としての知名度をあげました。

2004年(平成16年)にはスーパー中枢港湾の一つに指定され、2010年(平成22年)に国際戦略港湾の一つに指定されるなど、いまや日本を代表する国際港湾となっています。いまはもうどこからどこまでが大阪港かわからないほどの巨大な港となっていますが、その発端は、幕末に開港したほんの小さな河口港であったわけです。

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その港のあった、安治川左岸の西区川口には「外国人居留地」も設置されていました。これは、日本政府が外国人の居留及び交易区域として特に定めた一定地域であり、日米修好通商条約など欧米5ヶ国との条約により、開港場に設置することが決められ、条約改正により1899年(明治32年)に廃止されるまで存続したものです。

1868年の開港に先立つ半年前の1月には、既に外国人に商取引を認める「開市」がこの川口で施行されており、大阪開港の噂を聞いて多くの外国人がこの地にやってきていました。

開港と同時に外国人居留地と定められた川口町26区画の諸外国への競売が行われたところ、完売したといい、たちまちこの地は街路樹や街灯、洋館が並ぶ西洋の街へと整備されていきました。居留地に接する本田、富島、古川、梅本町も外国人雑居地となり、1886年には人気に応えて10区画の増設が行われました。

また、木津川対岸の江之子島にはドームのある洋風建築の府庁本庁舎(1874年竣工、1926年大手前へ移転)や大阪市役所(1889年竣工、1912年堂島浜へ移転)が建設されました。

1899年に居留地制度が廃止されまでの大正時代末までは、この周辺一帯は大阪の行政の中心であり大阪初の電信局、洋食店、中華料理店、カフェができ、様々な工業製品や嗜好品がここから大阪市内に広まるなど、文明開化・近代化の象徴でした。

ただ上述のとおり、この港は安治川河口から約6km上流に位置する河川港であるため水深が浅く、大型船舶が入港出来ません。このため、貿易港として継続的発展をなしとげることはできませんでした。外国人貿易商たちは良港を有する神戸外国人居留地へと移住していき、機内における国際貿易の拠点は次第に神戸へ移っていきました。

このため、川口においては貿易商に代わってキリスト教各派の宣教師が定住して教会堂を建てて布教を行うようになり、その一環として病院、学校を設立し経営を行いました。平安女学院、プール学院、大阪女学院、桃山学院、立教学院、大阪信愛女学院といった、現在までも続くミッションスクールや聖バルナバ病院等はこのころ創設されたものです。

しかし、それら施設も高度な社会基盤が整備されるに従い、大阪の上町エリア(天王寺・阿倍野等)へ次々と移転して川口は衰退への道を辿ることになりました。そして1899年の居留地廃止後は華僑が進出し、中国人街となりました。戦前の昭和時代前半にはその数は3,000人を超え、洋品店・理髪店・貿易業といった商売を行っていました。

ところが、日中戦争の激化などでその多くは帰国し、大阪大空襲で焼け野原となりました。戦後、これらの華僑は大阪市内各地に拡散し、川口は地味な倉庫街となりました。現在ではいくつかの古いコンクリート建築、赤煉瓦の三井倉庫、モダニズム建築の住友倉庫本社などが残っているものの、往時の繁栄の面影は残っていません。

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こうして衰退の一歩を辿った大阪居留地とは対照的に、1868年に開港した神戸の居留地は隆盛を極めました。神戸港は大型外国船が集まるようになり、1890年代には東洋最大の港へと拡大していました。しかしその外国人居留地は、大阪のように港に隣接していたわけではなく、開港場から3.5kmも東に離れた神戸村に造成されました。

外国人との紛争を避けるためであり、この地は東西が川、北を西国街道、南が海という立地で、外国人を隔離するという幕府の目的に適う地勢でした。イギリス人土木技師J.W.ハートが居留地の設計を行い、格子状街路、街路樹、公園、街灯、下水道などを整備、126区画割りが行われ、開港年の1868年に外国人に対して最初の敷地競売が実施されました。

大阪ともうひとつ違うのは、全区画が外国人所有の治外法権の土地であり、日本人の立入が厳しく制限され点で、事実上の「租界」でした。その後次々と街並みの整備が続き、この当時東洋で最も美しい居留地とされましたが、この整然とした街路は今もそのままです。

神戸居留地では外国人の自治組織である居留地会議がよく機能し、独自の警察隊もあったといい、居留地の北の生田神社の東には競馬場まで開設されていました。ただし、この競馬場は数年で廃止されたため現在では残っていません。

また、神戸市街地は1945年に大空襲を受けたため、市役所西側一帯にあった居留地時代の建物で残っているのは、旧居留地十五番館(旧米領事館、国の重要文化財)が唯一です。

現在多く残る古いビル建築は主に大正時代のものであり、居留地が手狭になったために移転されたものです。また、1880年頃から六甲山麓の北野町山本通付近に外国人住宅が多く建てられ、戦災を免れました。これが今日の神戸異人館になります(重要伝統的建造物)。

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この当時、この大阪(川口)、神戸以外にどこに居留地があったのかですが、これは東京の築地、横浜、そして長崎、新潟、函館です。これらのうち、最も開港が早かったのは長崎と横浜であり、とくに横浜の方は、他の居留地を含めて最大規模の居留地でした。

1859年7月4日に正式開港し、まず山下町を中心とする山下居留地が4年で完成しました。横浜居留地は幕府が勝手に造成したため当初は日本風の造りでしたが、1866年に”豚屋火事”という大火があり、このあとから洋風に改められるようになりました。

居留地は掘割で仕切られていて、入り口にある橋のたもとには関所が設置されていたので、関内居留地とも呼ばれました。この「関内」の地名は現在まで引き継がれています。その後外国人人口がさらに増加したので、1867年には南側に山手居留地も増設されましたが、ここは主に外国商社が立ち並ぶ商業区域となるとともに外国人住宅地として発展しました。

なお、現在観光コースになっている山手本通り沿いにある数棟の西洋館は、旧イギリス7番館(1922年)を除けば、すべて観光資源として昭和時代以降に建築されたものか他所から移築されたものです。

この当時、外国人の行動範囲はかなり制限されていましたが、中には幕府役人の制止を振り切って、東は多摩川、北は八王子、西は酒匂川にまで行く者もおり、幕末の攘夷運動がさかんになるにつれ、彼等にも危険が及びました。

1862年夏、川崎大師見物のため乗馬していた横浜居留地の英人男女4人が生麦村(現・横浜市鶴見区)で薩摩藩の大名行列に切りつけられるという、いわゆる「生麦事件」が起こり、幕府を震撼させるとともに、この事件はその後薩英戦争に発展しました。

横浜居留地周辺もまた、こうしたトラブルの起こりやすい危険区域といえ、攘夷浪人による外国人殺傷事件がしばしば起こる物騒な地域でした。このため、居留民保護のため1875年までは英仏軍隊も駐留していたほどで、これは「英仏横浜駐屯軍」と呼ばれました。

一方で、横浜は文明開化の中心地でもあり、1872年には、英人エドモンド・モレルの指導により新橋-横浜間に鉄道が開通しました。当時の横浜停車場(後に桜木町駅となる)は居留地を出てすぐの所であり、新橋停車場(後の汐留貨物駅)は築地居留地の外縁にありました。つまり、日本最初の一般営業鉄道は横浜居留地と築地居留地をつなぐものでした。

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一方、鎖国時代から貿易港として機能していた長崎港は、神戸より5年早い1854年に国際開放されました。この当時は来航する外国船に薪水を供給する程度でしたが、1859年から本格開放されるとグラバー邸を中心とする東山手・南山手(重要伝統的建造物群保存地区)の大浦一帯の海岸が埋め立てられて居留地が造成されました。

江戸時代から日本唯一の対外貿易港であったこの長崎の新居留地には、当初、多数の外国人が押しかけて繁栄しました。ただ、明治になるとはそれほど発達せず、むしろ上海を中心とする租界に在住した欧米人の保養地として賑わうようになりました。

居留地の海岸に近い方には貿易のための商館や倉庫が建造され、中程にはホテル、銀行、病院、娯楽施設が並び、眺望がよい東山手や南山手には洋風住宅・領事館が建てられました。また、近隣に雲仙を控えていたことも保養地としての魅力を増すこととなり、今日でもオランダ坂に代表される石畳の坂路や点在する洋館などに居留地時代の雰囲気を残します。

さて、このほかの居留地ですが、築地・新潟・函館といった居留地は、大阪と同様、大きな発展は遂げませんでした。築地居留地は、横浜を拠点とする外国商社が多かったこともあり、主にキリスト教宣教師の教会堂やミッションスクールが入っただけで、この地は青山学院や女子学院、立教学院、明治学院、女子聖学院、雙葉学園の発祥地となりました。

また、新潟は、江戸時代に北前船の寄港地として発展し1868年に開港したものの、外国人の来住が少ないため正式な居留地は設置せず、市街に雑居するだけでした。新潟港がその後貿易港として発展するのは、1929年には満州との航路が開設され、1931年の上越線全通で日本海対岸貿易の拠点港として本格的に機能し始めてからのことになります。

箱館も新潟と同様であり、1859年の正式開港以降、元町一帯が居留地と定められましたが、この居留地は、ほとんど有名無実で、実際には外国人は市街地に雑居していました。現在でも赤レンガの倉庫やカトリック教会、正教会の教会堂が少々残っている程度です。

ただ、この函館では、横浜・長崎とともに開港後まもなく、「ゴールド・ラッシュ」と呼ばれる奇妙な現象が起こりました。

世界的に金銀の比価は1:15であったのに、日本では1:5であり、つまり日本では金が安く、銀が異常に高い状態でした。このため、中国の条約港で流通している銀貨を日本に持ち込んで金に両替し、再び中国に持ち帰り銀に両替する外国商人が相次ぎ、彼等は一攫千金、濡れ手で粟で巨大な利益を得ました。

事態に気付いた江戸幕府が通貨制度の改革に乗り出す頃には既に大量の金が日本から流出し、江戸市中は猛烈なインフレーションに見舞われました。片や政治的緊張が続く幕末には、武器や軍艦が主要輸入品となり、逆に日本が輸出できるのは日本茶(グリーンティー)や生糸くらいしかないにもかかわらず、貿易赤字は金銀で決済するしかありません。

金銀は流出するわ、外貨は獲得できないわ、ということで窮地に陥った明治政府がそこで考えた政策こそが、富国強兵・殖産興業です。これにより、先頃世界遺産に認められた「明治日本の産業革命遺産」である、製鉄・鉄鉱、造船、石炭などの産業がこの時期著しく発達するところとなり、世界遺産登録済みの富岡製糸場などが建設されたのもこの時期です。

このころから日本人は海外に出て直接取引を行う「直貿易」を指向していくようになりましたが、貿易を通じて豊かになるきっかけを作ったのもこの外国人居留地が発端といえるわけです。

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開港場の居留地は、長く鎖国下にあった日本にとって西洋文明のショーウィンドーとなり、文明開化の拠点でもありました。西洋風の街並み、ホテル、教会堂、洋館はハイカラな文化の象徴となり、この居留地を中心として横浜、神戸の新しい市街地が形成され、浜っ子、神戸っ子のハイカラ文化が生み出されることになりました。

横浜・神戸・長崎では英字新聞も発行されていました。横浜居留地では、1862年から1887年まで25年にわたって「ジャパン・パンチ」という雑誌が発行されました。風刺漫画で有名な雑誌で、これは、「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」特派通信員として来日したチャールズ・ワーグマンが出版したものでした。

その記事には、テニスやラケットボール、クリケット、野球等の人気ぶりや、人口2千人ほどの居留地外国人の楽しみは根岸競馬場での競馬観戦であったことが書かれていました。

1861年から横浜居留地内で居留外国人によって西洋式の競馬が行われるようになり、1866年に根岸競馬場が建設された後は特に盛んとなりました。また、1868年から数年間、神戸居留地でも同様の競馬が行われていました。このような競馬を居留地競馬といい、採用された競技方式は、現在の日本競馬のルーツであるとされます。

多くのスポーツ競技もまた、この居留地から日本に伝わりました。また、日本の発達した軽業や手品は居留地の外国人を驚かせ、人気を集めました。サーカスのパフォーマーだったアメリカ人のリチャード・リズリーという男は、日本での乳製品販売に失敗して帰国する際、日本の人気軽業師や手品師の一座を引き連れ、欧米で興行し大成功を収めました。

このように多くの文明を日本にもたらした居留地外国人の中には、いわゆる「お雇い外国人」などもいました。「殖産興業」を目的として、明治政府や府県によって官庁や学校に招聘された人々です。

高い学歴を持ち、高度な知識を持っているがゆえに日本に招かれたわけですが、そのために欧米でも身分の高い人も多く、そのためもあって得る報酬も莫大なものでした。

太政大臣・三条実美の月俸が800円、右大臣・岩倉具視が600円であったこの時代に、彼等の報酬はこれと同等かあるいは、最高月俸は造幣寮支配人ウィリアム・キンダーのように1,045円を貰っていた人もいました。

平均でも月俸180円程度だったとされており、諸説ありますが、1円は現在の2万~2.5万円だとすると、これは月収360万~450万円ということになります。身分格差が著しい当時の国内賃金水準からしても、極めて高額であるといえます。

国際的に極度の円安状況だったこともありますが、当時の欧米からすれば日本は極東の辺境であり、外国人身辺の危険も少なくなかったことから、一流の技術や知識の専門家を招聘するためにはその身辺警護の費用もばかにならない、といったこともあったようです。

その一方で、お雇い外国人以外の一般住人の多くはそれほど高給取りではなく、また身分も低い者が多かったようです。居留地に暮らす外国人は多岐な人種に渡りましたが、多くは商人で、そのほとんどが35歳以下の男性が占めるなど、若い世代でした。

欧米では被差別対象者であったユダヤ人も商人に多かったといい、ラザフォード・オールコック駐日英国大使は、居留地の商人たちのことをヨーロッパのクズと呼び、クリストファー・ホジソン英国領事は、欲深なハゲタカ、世界各地からの破廉恥の見本と呼びました。

実際、文盲や教育程度の低い商人も多く、欧米各国から派遣されていたお雇い外国人たちや役人たちには、東洋に来るような人間は母国で失敗した者たちである、という偏見も持たれていたようです。こうした偏見は居留地の西洋人社会に広がっており、このため、階層化が進み、また出身国別に小さなコミュニティがいくつも作られました。

粗野な商人や新参者を除外するため、厳格な社交の作法や手順を設けて部外者を締め出そうとする動きもあったといいます。同じ商人でも、事務所を構えるような商人と商店の商人とは線引きされ、観劇のような楽しみの場でも、役人や牧師、老舗の商人といったエリートたちが集まる日と、その他一般人の日は分けられていたといいます。

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この一方で、こうした居留地には、その後中国人も多数住むようになりました。中国人もオランダ人同様、長崎唐人屋敷で長年日本貿易を行ってきた歴史があり、こうした居留地には融け込みやすいという事情がありました。横浜、神戸、長崎では瞬く間に居留地の中に中華街が形成されるようになり、これらはのちの日本三大中華街に発展しました。

なお、このうち、神戸の中華街は横浜や長崎のように街中ではなく、隣接地の元町に造られました。が、中国人の中でも富裕な貿易商は、山の手の北野町に居を構えました。現在この一帯にその当時の面影はありませんが、これら富裕層が崇めた「関帝廟(商売繁盛の神とされた関羽を祀る)」や、中国系の神戸中華同文学校がここにあるのはその名残です。

この神戸や長崎は中国本土からもほど近く、このため来日する外国商人は中国の開港場から来る者が多く、彼等の多くは中国人買弁(ばいべん)を通訳して同伴してきていました。買弁とは、欧米列強の対中進出や貿易を支援した中国人商人のことで、彼らの多くは外国語能力が高く、清朝政府と欧米商会をつなぐ人脈や政治的センスも重宝されていました。

日本人と中国人は漢字を使って筆談することもできるといったこともあり、次第に買弁達は列強の銀行マンや商社マンの商売において重用されるようになり、これが他の居留地でも中国人居留者が増えるきっかけとなりました。

その後日本と中国各地の開港場に定期船航路が開けると、中国人商人のいわゆる「華僑」が独自に進出してくるようになりました。神戸では元町に進出し、横浜に進出した華僑は、その大半が飲食業を営んだために、現在のような巨大な中華街が形成されました。長崎も同様です。

大阪の川口居留地周辺にも、居留地廃止後に華僑が進出しましたが、その後上述のような理由で港自体が一時期衰退したため、現在では数世帯の子孫を残すのみとなっています。

日本では、中華人民共和国または中華民国(台湾)の国籍を有する者は「華僑」であり、日本国籍を取得したものは「華人」とされます。なお、中華民国(台湾)の国籍者は在日台湾人と呼ばれてこれらと区別されることもあります。華僑は第二次世界大戦までその経済基盤からの本国への送金によって、中国や中華民国の国際収支の重要な要素でした。

華僑は当初マイノリティでしたが、やがて同郷者で形成されるコミュニティーと、これをもとにした同業者の集団を形成するようになっていきました。彼等は容易に相手を信頼しないかわり、一旦信頼したらとことん信頼するといわれ、友人を大切にするといいます。それが彼らの団結力の根源でした。

同業者の集団ができあがるのは、先行して商売を始めた経営者が、このようにして信頼できる同郷の人を雇い、やがては独立して同業を行う際にまた同郷人や信頼できる同国人を雇うことを繰り返したためでした。

経済的に実力をつけると政治面でも力をもつようになり、現地の経済・政治に大きな影響力を持つことが多くなります。現在の権力者としても、タイの王室・タクシン元首相及びその妹であるインラック首相(現公民権停止中)、コラソン・アキノ元フィリピン大統領、ミャンマーのネ・ウィン元首相、テイン・セイン大統領は華僑の血を引いています。

また、近代の日本にも多くの華僑が根付き、多方面で活躍が見られます。女優の鳳蘭、野球の王貞治、経済評論家の邱永漢(故人)、インスタントラーメンの発明者、安藤百福(故人)、囲碁の呉清源(故人)、小説家の陳舜臣(故人)、料理家の周富徳(故人)・富輝兄弟、歌手のジュディ・オング、アグネス・チャン、テレサ・テン(故人)などが有名です。

中国本土で生まれ、日本でビジネスをしている生粋の中国人と違い、彼等は生まれながらにして日本に溶け込んでおり、ほぼ日本人といってもいいわけです。が、同じ華僑でも以前から日本に長らく在住する中国人を老華僑、改革開放以後に移住した中国人を新華僑とも呼び、出身地域や価値観の相違から、この二つのグループ間には軋轢も生じています。

日本の対外国人政策や中国の政治事情の変化から、日本に移住するこうした新華僑は70年代後半から急増し、20年で4倍以上に増えたといい、かつての外国人居留地由来の老華僑は確実に圧迫されつつあるようです。

居留地そのものもなくなり、彼等と共存していた多くの欧米人も分散し、あるいは母国へ帰国してしまって彼等が残した痕跡もほとんどありません。が、最後の砦として横浜中華街、神戸南京町、長崎新地中華街の三大中華街が残されており、居留地時代の名残として受け継がれています。

現在日本には約69万人弱の在日中国人が住んでおり、これは役57万人の在日韓国・朝鮮人を軽く凌駕しています。東京では100人に1人は在日中国人であるとされています。それら中には、華人、新・老華僑、在日台湾人などが含まれているわけですが、とかく我々日本人は、彼等を十把ひとからげに「在日中国人」とまとめてしまう傾向にあります。

それぞれの歴史なり民族性を持っているわけですが、最近の中国との関係悪化により在日中国人というととかく色眼鏡で見がちであり、その違いを正しく認識すべきかと思います。

また、どういった卒爾であるにせよ、日本という国土と日本人という民族に適応し、ここに根付く知恵を持った人々といえ、彼等との交流はメリットが大きいに違いありません。在日韓国人、朝鮮人においてもしかりであり、共存共栄していくことが、この国の将来に渡ってのプラスになるのだ、と考えたいと思います。

……と〆の文章を書いていたら、夕方になってしまいました。中国の事を書いていたら、おいしいラーメンが食べたくなりました。そうそう、このラーメンというものも、居留地で誕生した中華街で食べられていた中国の麺料理をルーツとするものです。

当時は南京そば・支那そばなどと呼ばれていましたが、今や中華人民共和国や中華民国では日式拉麺、日本拉麺と呼ばれるほどの国民食です。

そのルーツは函館居留地の南京町の中華料理店で出された「南京そば」だそうです。現在の横浜中華街でもその最古のラーメンに近いものを出す店があるそうで、ラーメン党としてはぜひ食してみたいもの。さて、それにしてもこのクソ暑い中、そのラーメンを食べる気になるでしょうか。

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惑惑する…

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7月も中旬に近づいてきました。

学生さんはもうすぐ夏休みだ、ということでワクワクでしょうが、大人は暑い中あいかわらず仕事にいそしむ日々が続きます。

しかしその大人たちにも、お盆休みという長期休暇が待っており、夏の到来に心をときめかす人も多いに違いありません。

その夏はまだ梅雨が明けきっていないのでまだまだ本番というかんじはしませんが、気温だけは確実に上がってきていて、この山の上でも日中の最高気温が30℃近くになる日も多くなってきました。

そんな中、明日にはNASAの惑星探査機、New Horizonsが冥王星に最接近します。一時は通信途絶が発生し、回復後も一部の機器しか動作しない状態(セーフモード)に陥りましたが、その後の作業により復旧したようです。

既にハッブル宇宙望遠鏡を上回る解像度の写真などを送ってきており、巨大なクレータらしきものや、南半球には海?とおぼしきものの様子などがNASAのHPなどでみることができます。このあとどれほど鮮明な画像を見ることができるのか、また、この映像から何がわかるのかが非常に楽しみです。

その後ニュー・ホライズンズは、冥王星よりもさらに外の太陽系の果ての世界へ飛び出し、凍った小惑星が集まったカイパーベルトで何らかの天体を探査することになっています。その天体はまだ決まっていませんが、2020年頃、このカイパーベルトの探査がすべて完了した段階で、あるデータを送信することになりました。

人類からエイリアンたちへ向けたデジタル・メッセージであり、2014年にはこのメッセージの内容を検討する、「New Horizons Message Initiative(NHMI)」が既に結成されています。その結果策定されるメッセージは、ボイジャー1号とボイジャー2号に積み込まれた「ゴールデンレコード」に似たようなものになる可能性があるようです。

このゴールデンレコードには、アナログ録音と複数の画像が収められており、ボイジャーに積載されたものは、NASAの科学者ジョン・ロンバーグという人がデザインしたものです。そして、上のNHMIは彼が同趣旨のメッセージを搭載しようと呼びかけてできた組織です。

ニュー・ホライズンズは搭載している8GB相当のフラッシュメモリを使って冥王星を観測中ですが、このメモリには十分な記憶容量がないため、現段階ではこのメッセージを注入することはできません。が、カイパーベルトでの観測をすべて完了したら、このメモリをフル活用してメッセージが宇宙空間に向かって発せられるということです。

ニュー・ホライズンズはこのメッセージを放ったあと、太陽の影響圏の外にある未知の暗闇へとさらに延々と旅を続けていく予定です。このように太陽系外に出る人工構造物としては、パイオニア10号と11号、ボイジャー1号と2号に続いて5番目になります。

一番最初に太陽圏外へ飛び出したパイオニア10号は、後にボイジャー1号に抜かれるまでは、人類が製造した物体のなかで地球から最も離れた地点に到達しました。現在、地球から53光年離れたアルデバランの方向へ移動を続けていますが、もしアルデバランに到着するとしても、それまでに要する時間は約170万年と予測されています。

一方、より新しく打ちあげられ、より推進機能が増したボイジャー1号は、既にパイオニア10号を追い越しており、2015年1月現在、太陽から約195億3600万km(130.239AU)の距離にあります。が、これは1光年の0.2%の距離にすぎません。我々が生きている間にはわずか(と言ってもスゴイ距離ですが)1光年先より先の星にすら到達できないわけです。

ボイジャー1号に続いている2号も似たような状況のようです。従っていずれにせよ、ボイジャー1号、2号によって、その先の世界を人類は垣間見ることはできないでしょう。そしてこれに続く、ニュー・ホライズンズも同じでしょう。

しかしながら、1977年の打ち上げ当時470Wを供給していた原子力電池は、2008年の時点で285Wに落ちており、節電のため一部の観測装置の電源を順次切ってゆくことで、2025年頃までは地球との通信を維持するのに十分な電力を供給できると期待されており、さらに新たな知見が得られる可能性があります。

さらに最新型のニュー・ホライズンズの寿命はさらに長いはずであり、おそらくは今から30~40年以上先まで生きつづけるのではないでしょうか。そのとき私は生きていないでしょうが、これを読んでいる若い世代の方々は、現在よりもはるかに新しい宇宙観を得ているかもしれません。

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とはいえ、どんなに頑張ってみても、現在の人類によって実際に到達できるのは、せいぜい1光年以内の宇宙です。現在においては、高速を超えるような宇宙船はおろか、光速未満でも太陽系の外縁まで一年足らずで行けるような飛行船は実用化されていません。また、光の速度を超える、ということは、相対性理論によれば不可能ということになっています。

同理論によると、物体の相対論的質量は速度が上がるに従って増加し、光速において無限大となります。このため、単純に加速を続けても光速に達することも、光速を越えることもできないでしょう。従って超光速航法と呼ばれるようなものは、現時点ではSFだけに見られる架空の航法ということになります。

仮にそういうことができるようになる技術が開発されるとしても、現在の人類が持っている英知では飛躍的な進歩は得られないと考えられ、それは人類以外の知的生命体によってのみ得られる知恵によるものかもしれません。

現在も世界中で見られるUFOはそうした知的生命体が操っている宇宙船ではないか、とする観測は根強く、そうした宇宙人のうち、地球人に協力的な連中の助けを得られればもしかしたら人類も宇宙へ飛び出すことができるかも。

が、いきなり宇宙人との接触云々よりも前に、まず地球外に生命体がいるのかいないのかという議論自体が結論を得ていません。このため各国ともせっせとなけなしの金をはたいてはロケットを飛ばし、月や火星、その他の惑星に生命がいないかどうかを躍起になって探しているわけです。

しかし、地球外生命の存在と地球外知的生命の存在とはまったく別の次元の論議であり、太陽系内で地球外生命が発見されても、必ずしもそれが宇宙人の存在にはつながると言えないわけであり、そのあたりはもどかしい限りです。

なので、これまでも再三にわたって、「スクープ」と称して宇宙人の写真が新聞や雑誌に掲載されたりといったフライングが数多くみられ、さらにはどこかの国の軍部が秘密裡に既に「捕獲」された宇宙人を解剖して、知見を得ている、といった未確認情報が流れたりします。

しかし、これまでそうしたものを正式に公表した国というものはありません。もし本当に宇宙人の肉体を保管しているならば、公にすればいいのに、それをしない、されていない、というのはやはりそんなものは存在しない、と考えるのが妥当でしょう。

もしそうした事実があるのなら隠す必要はなく、公にして人類共通の英知とすればいいわけであり、隠匿する必要性はないわけです。仮にアメリカやロシアなどの大国が何等かの軍事的な意図でそれを秘匿していたとしても、それ以外の国でそうした事実を知り得た国がまったくこれまでにない、ということがあるわけがありません。

従って、現時点では、人類は宇宙外生命体との直接的なコンタクト(手と手を触れ合うという意味で)を持っていない、と判断することができるでしょう。そのため、宇宙人がどんななりと形をしているのか、想像するしか仕方がありません。

これについては、知的生命体を含む高等生物は、地球と似た環境で発生する可能性が高いとする観点や、似た能力を持つ生物は同じような姿になるとする収斂進化の観点から、ヒトとよく似た姿の宇宙人が想像されることは多いものです。が、そもそも宇宙人が地球人と同じように肉体を持っているとは限りません。

意識や精神など霊的な存在のみ、または電気などのエネルギー信号のみで構成された、実体の存在しない生命である可能性だってあるわけであり、それならば、これまで人類が一度も宇宙人なるものとの接触を果たしていない理由もわかります。

地球とまったく異なる異星の環境で進化を遂げた異星人は、我々の想像を絶する異質な形態をしているとも考えられわけで、それどころか我々の知る「生命」に当てはまらない存在である可能性すらあるわけです。

この観点から見るなら、今までに月や火星などで行われた生命探査も不十分であり、かつ、現在の技術・知識はあくまで「常識内のもの」であるとも言えるわけであり、宇宙人なるものがみつからないのもあたりまえです。

仮に我々が「宇宙人」と想像しているものと、「幽霊」と考えているものは同じであると考えてみましょう。すると、その幽霊と話すことができるのは、いわゆる霊感のある人であり、一般的には「霊媒師」と言われる人たちです。

この宇宙人である幽霊と通信ができる人がいたとしたら、その人こそが「宇宙霊媒師」であり、その人を通じて宇宙人からのメッセージを受け取ることができるかもしれません。実際、こうした地球外の実体のない知的生命体とチャネリングによる接触をした、としてその内容を公開している人もいます。

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有名なのは、アメリカのバーバラ・マーシニアック(Barbara Marciniak)やダリル・アンカ(Darryl Anka)といった人たちで、このうち、マーシニアックのほうは、今から20年前の1994年に「プレアデス・かく語りき(邦題)」という本を出しています。

日本をはじめ20か国語に翻訳され、アメリカ国内では50万部を売り上げたベストセラーです。「プレアデス人」なる宇宙人とのチャネリングによって受け取ったメッセージが綴られている本で、将来やってくる地球の変化のために、この地球にまかれた「種」である我々地球人の役割について語られています。

実はタエさんが、この本に以前にも読んでいます。最近最近再び読み返したらハマってしまったようで、昔よくわからなかったことが今ならよくわかる、とのたまわっており、料理をしながら私にその内容を話してくれたりします。

私自身、読んだことがあるわけでもないので、ここでその内容を紹介するわけにもいきません。ただ、ちらちらと中身を読むと、日本人に対するかなり具体的なメッセージもあり、それはかなり興味をそそられます。例えば、次のようなメッセージがあります。

「地球人類を目覚めさせるために、どうしても必要な試練があるとしたら、それは日本人に与えられる。何故なら、その危難を)乗り越えられると信頼されているから。乗り越える力を見せることによって、他の民族の手本となれるから。他の民族を、目覚めさせられるから。」

これは先に日本で起こった、3.11大震災のことではないか、ということで愛読者の間で話題になっているようです。震災によって手痛い被害を被ったのはそれなりに意味があり、今後日本はこれを教訓にして、世界を引っ張っていくリーダーになる、といったことが書かれているようです。こちらについてはこの本を読破したらまた紹介しましょう。

もうひとりのダリル・アンカのほうは、「バシャール」という、こちらも邦訳がある本を出していて、これは1987年に初版が発売され、1990年までに3巻が出ています。が、現在は絶版になっていて巷には出回っていません。ただ、うちにあるスピリチュアル・ライブラリー「なっちゃん文庫」には完備されています。

その内容ですが、「バシャール」とよばれる精神的宇宙生命体とのチャネリングによる接触によって得られた情報が書かれています。こちらも私は完読していないのですが、この原本もちら見した上で、ウィキペディアほかを参考に、少し整理してみましょう。

それによれば、このバシャールは、オリオン座近くの惑星「エササニ」に住んでいて、個人ではなく複数の意識が合わさったような存在だということです。エササニは物理的には不可視であり、エササニ星人はテレパシーで意思疎通するため言葉や名前も存在しないといい、バシャールという名前は本名ではなく、チャネラーのダリルが命名した名前です。

その内容を俯瞰すると、かなり哲学的な内容を含みます。例えば、時間や時間の連続性といったものは人間が作り出した概念(思い込み)であって、過去や未来などあらゆる時間が「いま、ここ」に同時に存在しているといいます。

このほかの基本的なメッセージをいくつか拾うと、我々は「物理的な現実を体験している非物質的な意識」であるということ、自分で選択をして今この時、地球に存在しているということ、人生の一番の目的は、「最大限に本来の自分になること」です。

そして「毎瞬毎瞬を可能な限り充分に生きること」が我々にとっては一番大事である、といった具合でその思想が展開されていきます。

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このように、かなりスピリチュアリズムに通ずる内容でもあります。我々は永遠の存在であり、形を変えることはありますが、存在することを止めることは出来ない、といったことも書かれており、これは輪廻転生に相通じる考え方です。

このバシャールによるメッセージでは、さらに過ぎたる2012年がかなり重要な年であったことについて言及しています。この年には大きな変化が3つあったとしており、その1つはエネルギーの変化であり、もう1つはオープン・コンタクト、そしてもう1つはパラレル・アースへの分化だそうです。

「パラレル・アース(またはパラレル・ワールド)」とは、ある時点で地球が枝分かれすることによって、「波動の高い地球」と「波動の低い地球」とに世界が分かれることを言います。

例えば、2008年に行われたアメリカの大統領選では、結果として民主党のオバマ氏が勝利して現在に至っていますが、実際の宇宙空間には、共和党のマケイン氏が勝利した場合の現在とオバマ氏が大統領である現在がどちらもパラレルに存在している、らしいです。

我々の知る世界は民主党のオバマ氏の世界ですが、民主党からは、過去、ベトナム戦争に消極的だったケネディ氏が出ているように、近年では、極力、戦争を最小限に留めてきた政党であるという印象があります。どちらかというと、(ヨーロッパに基盤を持つ)ロスチャイルドやユダヤ金融資本との繋がりが強い政党であると言われています。

よって、現在我々が垣間見ている、オバマ氏が大統領を務めている現在の地球世界は、より高い波動のパラレル・ワールドに入った、としておきましょう。

一方、共和党は、かつてのブッシュ親子大統領の基盤政党であり、ロックフェラー、ネオコン、軍産複合体など、軍閥と深い関わりがある政党として知られます。共和党政権下では、過去、アフガン・イラク戦争などを起こしていることからも分かる通り、民主党に比べて、より波動が低い政党であると言えるかもしれません。

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従って、現世界がパラレルワールドのうちの良い世界、言い換えれば高い波動の世界に住んでいるとすれば、この世界は良い方向に進んでいると考えることもできます。現在我々が住むこの世界にはこうした「覚醒した」人々が増えつつあるといい、地球上でこのように目覚めた人の数が増えてくれば、今後はより高い波動の地球を体験することになります。

バシャールによれば、2012年の冬至の日を境にして、こうしたよりよい波動に目覚めた人の数が14万4000人の臨界数に達し、2013年には30万人、2014年には90万人になっているはずだといい、この数はさらに等比級数的に増えていくそうです。

そして我々が住むこの波動が高い世界では、この後さらにポジティブな集合的エネルギーが加速されて行き、様々な社会的・政治的・経済的変化を促すことになるそうです。

しかし、ポジティブな世界ではポジティブなことだけが起きますが、片やネガティブな世界ではネガティブなことだけが起きるようになります。

ネガティブな一方の極の世界は、完全な破壊、破滅を将来的に体験することになるといい、そしてその世界は核戦争で自らを滅ぼしてしまい、バシャール達が呼びかけても誰の返事もない、とても「静かな世界」になるということです。

一方のオープン・コンタクトというのは、2012年には、地球が宇宙の他の文明に対して置かれていた隔離状態が終わる、という意味だそうです。しかし、だからといって、ただちに宇宙船の大量着陸があちらこちらで起きる訳ではありません。

が、宇宙文明の側からすれば「地球に手を付けてはいけない」というルールは無くなるのだそうで、この時点以降、宇宙文明との交流の決断は、すべて私たちの手に委ねられることになるといいます。

そして2015年迄にあるいは2015年から2017年迄の間に、地球外生命が存在するという事実が明らかになり、大きな衝撃を与えることになるともいいます。

次第にUFOの目撃が増え、2015年以降は個人的なコンタクトや、小グループによるコンタクトが増加するともいい、 最終的に2025年から2033年に掛けて、公的なオープンコンタクトが起きるだろうとしています。

地球と最初にオープン・コンタクトをする地球外生命体の文明の名前まで言及しており、これは「ヤイエル“Yahyel”」という文明なのだとか。ヤイエルの宇宙船はこれまでも目撃されており、例えば、1997年にアメリカで1万人以上が目撃したと言われる「フェニックスの光事件」で目撃されたものはそれだといいます。

これは、1997年3月13日にメキシコのソノラ州やアメリカのフェニックスを中心としたアリゾナ州の上空で、夜間に長時間に渡って目撃された謎の複数の光点物体です。多数の住民によってUFOが目撃され、メディアに取り上げられて大きな話題を呼びました。

事件後にアメリカ空軍による演習によって発生した光であると公表され、光の正体は照明弾だと説明されました。しかし、専門家がこの画像分析を行った結果、照明弾とは異なるものであるという結果を得たといわれており、これを受けて現在でもこれはUFOだったと主張する人々が少なからず存在します。

バシャールは、このフェニックスの光とおなじようなものが、次に目撃される可能性が高いのは2011年、または2013年だろうとしていたようです。が、はたして実際に目撃されていたのでしょうか。UFOの目撃談はたくさんあるので、同定は難しそうです。

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いずれにせよ、今後はこうしたオープン・コンタクトが増えるそうで、このヤイエルなる文明とのコンタクトのあと、バシャール達の文明と人類とのコンタクトは、その次の次である3番目になるといいます。

このように、2012年は気づくか気付かないは別として、人類にとって大きな変化があった年のようであり、それ以降、ポジティブなエネルギーが加速してきたといいます。

我々日本人にとっての大きな変革は2011年の大震災でしたが、その翌年がその年である、というのは、この年に、震災を受けて多くの人が復興に立ち上がった、という事実と無関係ではないかもしれません。

その一方で、パラレル・アースへの分化が進んだため、加速するエネルギーは困難や苦悩といった面におけるネガティブな面も拡大したといいます。これも日本にあてはめて考えるならば、震災による被害者の中には、障害や憂苦を抱え込む人々が増えたという事実があります。多くの人がチャンスと受け止めて新たな改革に取り組んだのと対照的です。

このため、人によっては逆にブレイク・ダウンしてしまう人もいるといいます。しかし、ポジティブに生きようとする人はさらにエネルギーを得て成長できます。ポジティブな人ほど、本来の自分を表現することを大事にして生きようとする人々であり、「ワクワクする気持ち」を持つことが、こうしたポジティブ人間になる秘訣だといいます。

現在、我々をとります地球には様々な観念、様々な波長がありますが、それらの中から自分に合った波長をどうやって取り込むか、についてが、この「ワクワク感」を得るためのカギになるそうです。

2012年を境に、そうした各個人の波長に基づいてパラレル・アースへの分化が加速しているといい、さらに今年、2015年はそれがさらに加速するといいます。そして2025年~2035年には、それぞれの個人の持つ波長それぞれは遠く離れてしまい、最終的には自分の波長以外の人の波長を体験することは不可能になるといいます。

具体的には、自分と異なる波長の人間とは離別する、死別する等して、様々な方法でそれらの人間が周囲から消えていなくなってしまいます。

そして、ポジティブな世界とネガティブな世界は完全に分離します。ポジティブな世界ではポジティブなことだけが、ネガティブな世界ではネガティブなことだけが起きるようになります。どちらの世界に属するかは、その人が持っている波長がポジティブであるか、ネガティブであるかに拠ります……

実は、こうしたパラレル・アースは、この宇宙に無限に存在するといいます。そしてそれぞれの世界で人類とは違う宇宙人たちが生活しています。我々が住む世界にも宇宙人が存在し、私たち自身もその宇宙人のひとりです。

しかし、自分が住む世界がどのパラレル・アースへ移行するか、できるかは、2010年から、今年2015年までの5年間の過ごし方が最も重要となるそうです。過去5年間を振り返ってみましょう。どんな5年間だったでしょうか……

これまで述べてきたとおり、バシャールによれば、パラレル・アースのポジティブな一方の極に住む住人は、やがて宇宙文明の一員として迎えられますが、ネガティブな一方の極に住まう人々は、完全な破壊、破滅を体験することになります。

荒唐無稽と思うかもしれませんが、最近の最新の宇宙理論によれば、宇宙は膨張しつつも、いくつものパラレルワールドを実際に創りながら拡大していっている可能性が高いとされているようです。だとすれば、我々が住んでいるすぐ裏側にそうしたネガティブな世界があってもおかしくはないかもしれません。

あなたの周りからいつの間にかいなくなった隣人はもしかしたら、そのネガティブワールドの住人になってしまっているかもしれません。あなた自身も永遠に宇宙人からも相手にされないような世界に住むハメにならないよう、できるだけポジティブマインドを持って生きることを心がけましょう。

バシャールはまた、我々が想像出来るものは、どんなものでも体験することが出来る、と言っています。また、そうした豊かな人生経験は、自分の一番強い観念、感情そして行動の相互作用を通じて「引き寄せる」ものだといいます。

さらに、そうして引き寄せた人生において感じる、「ワクワクする感情」とは、自分たちの「真実」、言い換えれば真我、すなわち核となる「本来の自分のあり方」と共鳴する波動が、物理次元に翻訳されたものだということです。

つまりワクワクすることが、自分自身の発見にもつながるというわけです。今日から早速、自分のワクワクは何かを探し、それを見つけたらそのワクワクに従って生きてみることにしましょう!

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