その名はありか?

2015-2024

今年の梅雨は長引きそうな感じがします。

東海地方の梅雨明けの平年値は、7月21日ごろで、去年はどんぴしゃこの日でした。しかし一昨年は七夕の7月7日、4年前の2011年も7月8日ごろでしたから、今週末あたり明けてもよさそうなものです。

が、日本近海には台風が3つも来ており、その関係もあってまだまだ梅雨はあとをひきそうです。今年は台風の襲来が早く、そもそも3月の時点で台風が4つ発生しており、さらに、4月上旬に台風5号が、5月に6・7号、6月に8号がそれぞれ発生するなど平年の台風発生数の3倍近いペースで推移しています。

気象の専門家は、フィリピンの東の海で海面水温が平年より1度前後高いために台風が発生しやすくなっているとみているようで、5・6月の時点でこのように台風が多く発生する年は、一年を通しても数が増える傾向があるので注意が必要だ、と呼び掛けています。

ご存知のとおり、日本では、台風が発生した順に台風番号を付けています。気象庁が毎年1月1日を区切りとして番号を振りはじめ、当年12月31日までに発生した台風がその年の連番台風です。翌年1月1日以降に発生した台風については、前年の12月31日までに発生した台風がまだ残っている場合でもリセットして1号から付番することになっています。

これとは別に、2000年からは北西太平洋領域に発生する台風については、「アジア名」がつけられるようになり、台風の国際的な呼称として使用されています。これは、米国とアジア各国で構成された台風委員会によって定められたもので、全部で140個あります。

1番目の「ダムレイ」に始まり、140番目の「サオラー」まで使用されるワンセットからなっており、このリストはアメリカ海洋大気庁NOAAの大西洋海洋気象研究所(AOML)のサイトなどで見ることができます。最後まで行くと最初に戻ります。2012年の台風第10号より3周目に入っており、現在日本近海に来ている台風は、以下のようになります。

9号 →76番目 国際名 Cham-hom(チャンホン:木の名前) 命名国ラオス
10号 →77番目 国際名 Linfa(リンファ:蓮の意) 命名国 マカオ
11号 →78番目 Nangka(ナンカー:果物の名前)命名国 マレーシア

次に発生するであろう、79番目の台風12号は、ミクロネシアが命名したSoudelor(ソウデロア)だそうで、これは「伝説上の酋長」だそうです。このように、○○号といった、味気ない連番ではなく、意味のある愛称で台風を呼ぶというのは、親しみやすくてなかなか良いアイデアかもしれません。

ただ、日本人には馴染のない言葉ばかりであり、ナンカーとか言われても、そりゃあいったい、「何か~」と言われるのがオチです。が、この140個の中には日本が命名したものもあり、例えば今年6月に発生した台風8号は、75番目で、「クジラ」でした。

日本の命名はなぜかすべて星座の名前であり、ほかには、テンビン(5番目)、ヤギ(19番目)、ウサギ(33番目)、カジキ(47番目)、カンムリ(61番目)、コップ(89番目)、コンパス(103番目)、トカゲ(117番目)、ワシ(131番目)など全部で10個があります。

チャンホンだのリンファだのよりも、これならば多少親しみは沸きます。ただ、どういった基準でこの星座名を選んだのかよくわかりません。またヤギやウサギはともかく、コップやコンパスがやってきた、といわれてもピンときません。ほかにもっといい名前はなかったのでしょうか。選んだのは気象庁の職員でしょうが、少々センスが疑われます。

ただ、これらのアジア名も未来永劫続く、というわけでもなく、台風が甚大な被害をもたらした場合には、加盟国の要請に基づく台風委員会の決定によって名称が変更されることがあります。

たとえば、2002年に朝鮮半島に大きな被害を与えた台風15号のアジア名Rusa(シカ)は、次回はNuri(オウム)に変更になることが決まっています。また、2003年にRusaと同様に朝鮮半島に大きな被害を与えた台風14号のアジア名Maemi(セミ)も、次回はMujigae(虹)に変更になることが決まっています。

また、甚大な被害以外の理由でも、発音が誤解を生む可能性がある場合や宗教上の問題で反対する国がある場合などには変更が可能になるそうです。

ほかにも、加盟国が思い直して再提出した場合でも再審議になるようで、実際、台風の被害が甚大だったという理由だけではなく、その他の理由での変更も含めて、これまで10個が既に変更されています。なので、日本でも上の星座名がヘンだ、と国民が拒否すれば、替えてもらえる可能性があります。

どうせなら、偉人の名前とか、もっと親しみやすい名前を付けてもらいたいと思います。ユーミン、タモリとかでもいいし、なでしこ、サムライでもいいでしょう。ただ、個人的にはモエモエとかゴレライとかいうのはやめて欲しいと思いますが……

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なお、東経180度以東で発生したハリケーン等の熱帯低気圧が東経180度以西に進んで台風となったものには、アジア名は命名されず、発生地点で命名された名称がそのまま使用されます。アメリカ合衆国では、このハリケーンにA、B、C順にあらかじめ用意してある名前を付けています。

戦後まだ日本がアメリカの統治下にあったころには、まだ日本も台風に英名をつけて呼んでいました。また、大きな被害を出したカスリーン台風やジェーン台風に代表されるようなハリケーンについては、上述のアジア名と同じく、未来永劫名前リストから削除され、「引退」とするよう決められました。

次回以降から別の国際名が使用されるようになっており、カスリーンとジェーンはもう使われていません。ほかにも2004年にカリブ海の国々やアメリカ合衆国に顕著な影響を与えたハリケーン、アイバン(Ivan)は、この年で「引退」し、次回の2010年にはイゴール(Igor)という国際名が使用されることが決まっています。

ただ、このように大きな被害を出さない場合は、変更手続きがなければいつまでたっても同じ名前が繰り返されることになるわけで、たとえば、アーレーン(Arlene)というハリケーンの国際名は過去に9回も使用されています。が、これまで大きな被害がないため現在のところは「引退」扱いとなっていません。

また、日本に深刻な被害をもたらした、1959年の伊勢湾台風(昭和34年台風第15号)の国際名はベラ(Vera)ですが、これは変更の手続きがされていないため「引退」扱いになっておらず、以降も何度か使用されています。

アメリカは1999年までは北西太平洋領域に発生する台風にも英語名をつけていました。このため、この伊勢湾台風も、東経162度20分に位置するエニウェトク環礁で発生しているのに英名のハリケーン名Veraをつけました。

アメリカは、西太平洋にはサイパンやグアムという自国領土を持っているため、ここに影響があるためでもあるでしょう。ただ、伊勢湾台風はこれらの島々には被害を及ぼさず、実際に顕著な影響があったのは日本だけだったため、変更の手続がなされなかったようです。

現在、アメリカはハリケーンの命名法には男女の名前を用いていますが、かつては女性名のみをつかっていました。このため、日本に襲来する台風にハリケーン名をつけていた当時の命名もすべて女性名であり、上述のカスリーン台風、ジェーン台風が女性名なのはそのためです。1953年の台風2号(ジュディ台風)まで女性名が使用されていました。

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このようにハリケーンを女性名で呼ぶ慣行は、ジョージ・リッピー・スチュワートという小説家の1941年の小説「Storm」において、その主人公が「マリア」というハリケーンであったことに由来します。1940年代から気象学者たちがハリケーン名に女性名をつけるようになりました。

ただし、当初は女性名を正式に使うように決めたのはアメリカ海軍だけで、これは1945年から始められました。これに対してアメリカ気象局(現・アメリカ国立気象局)が女性名をつけるようになったのは1953年からです。

その後この命名法は男女同権に反しており性差別につながるなどとして、世界気象機関(WMO)から改善の要求があり、1979年に男女の名前を交互につける方法に改められました。

なお、アメリカは国土が広く、太平洋と大西洋の両方に面しています。このため、それぞれの海域で別々に命名リストが用意されており、さらに太平洋で発生したものが越境して大西洋に行った場合にはそちらの命名法に従う、といったかなり細かなルールが定められています。

また、北太平洋中部や東部で発生したハリケーンが一定の強度を保ったまま180度以西に到達した場合は台風となりますが、国際名としては発生当時のハリケーンのものがそのまま使用されます。

たとえば、1986年に太平洋北東部で発生したジョーゼット(Georgette)はその国際名を持ちつつ台風11号となりました。また1997年に太平洋北中部で発生したオリワ(Oliwa)は台風19号となりました。

このように台風やハリケーンの命名には細かい国際的な規定が定められているわけですが、これはこうした自然現象を擬人化する、という昔ながらの人類の風習といえます。人間以外のものを人物に例えてその性質・特徴を与えることでそれをより身近に感じることができます。その歴史はかなり古く、古代ギリシャの擬人法(Prosopopoeia)にまで遡ります。

我々普段の生活でも、「鉛筆が手から飛んだ」、「木が飛び跳ねた」、「凶悪な嵐が」などなど幅広く使われ、詩やその他の芸術ではもっと込み入った表現がよく使われます。

一方では、その逆に人の名前に人間以外のものの名を与えて呼ぶ、ということも古くから行われています。擬人化の反対語はないようですが具象化とでもいうのでしょうか。人の名前に花や木の名前、その他自然現象の名を使うことは多く、地名由来のものも多くは自然の具象化です。これについては枚挙のいとまがなく、それだけで本が書けてしまいます。

人の名前のつけかたのルールについても、国々によって異なり、これにもひとくくりには語れません。が、人名をめぐる習慣や制度は一般的に、文化的・社会的事象と結び付いている傾向にあり、個人・家族・帰属についての価値観に左右されることが多いようです。

日本の場合は、民法により氏+名という組み合わせとすることが決められています。明治維新によって新政府が近代国家として国民を直接把握する体制となると、新たに戸籍を編纂し、旧来の氏(姓)と家名(苗字)の別、および旧来の名前に相当する「諱」と「通称」の別を廃して、全ての人が国民としての姓名を公式に名乗るようになりました。

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このうちの名字(姓)は、江戸時代には支配階級である武士や、武士名を名乗ることを許された者のみが持つ特権的な表徴でした。百姓や町人身分の者は姓がありませんでしたが、村や町の自治領内では個々の「家」に属しており、これらの自治体名を自分の姓にして届け出た人も多かったようです。このとき今まで自由だった改名の習慣も禁止されました。

一方の名前のほうは、それまでと変わりなく、明治以降の日本人の戸籍人名は、氏は家名や所属自治体の系譜を受け継いでいますが、名は「諱(いみな」」と「通称」の双方の系譜を引きつぎました。

諱は、本来は、「忌み名」とも書き、古代に貴人や死者を本名で呼ぶことを避ける習慣があったことからこう呼んだのですが、時代が下がると、転じて人の本名(名)のことを指すようになったものです。

身分の高い者だけが使っていい名前であり、これ以外に目下の者が使う「字(あざな)」というのがあり、これと「通称」はほぼ同格です。分かりやすい例で言うと、野口英世の英世は諱の系列であり、夏目漱石の本名、房之介は通称系列ということになります。

さらに時代が下ると、この諱系列と通称系列はもうごったごたになり、現在ではどちらがどちらと区別できないようになりました。

現在では、この名の付け方に法的な制限はないため、漢字表記と読み仮名に全く関連がないものや当て字なども許容されます。たとえば「風」と書いて「ういんど」、太陽と書いて「サン」などというのもありなわけであり、このためそのネーミングを巡っては、最近、日本では奇妙な名前もよくみられるようになりましたす。

「キラキラネーム」なるものがそれで、これは自分の子供に他人とは絶対異なる、変わった名前をつけようとする若い世代の間での流行です。こうしたネーミングを別の呼び方では、DQNネーム(ドキュンネーム)ということもあり、これは、「戸籍上の人名」、つまり「本名」に対して、一般常識に著しく反する「珍しい名前」をつけることを意味します。

DQNとは、もともとは、蔑称・誹謗中傷の意味であり、どちらかといえば蔑視的あるいは自虐的に用いられていた、インターネットスラングです。2000年代以降に急増したといわれており、最近では「キラキラ」のほうが一般的になってきました。

「変名」や「ペンネーム」ではなく、これが本名として使われるところが衝撃的であり、「キラキラネーム」の発祥は、一説にはベネッセコーポレーション発行の育児雑誌だといわれているようです。「たまごクラブ」「ひよこクラブ」がそれで、かつてその増刊号に「名づけ特集」というものがあり、ここから出てきたということが言われているようです。

一部の「命名研究家」は(ほんとうにそういう専門分野があるのかどうか知りませんが)、「DQNドキュンネーム」「キラキラネーム」よりも、「珍奇ネーム」という呼称のほうが妥当だと主張しているようですが、いずれにせよ、「ヘンな名前」であるには違いありません。

ただ、最近の流行かといえばそうでもなく、こうしたキラキラネームは昔からときたまみられました。例えば、落語の「寿限無」に代表されるように、この噺の主人公である赤ん坊に付けられる「名前」は、次のような長いものです。

寿限無、寿限無
五劫の擦り切れ
海砂利水魚の
水行末 雲来末 風来末
食う寝る処に住む処
藪ら柑子の藪柑子
パイポパイポ パイポのシューリンガン
シューリンガンのグーリンダイ
グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの
長久命の長助

「長い」ということがひとつの特徴であるわけですが、無論、このまま役所へ登録した人がいるわけではなく、現在本名として戸籍登録されているものでもここまで長いものはありません。実在が確認されている日本人の人名としては、奈良県在住の男性が名字・名前含めて漢字で11文字という例があるようです。

この寿限無という小噺の発祥がいつかは知りませんが、それにしてもかなり古いようで、少なくとも明治時代には遡るようです。従ってかなり昔から、こうしたヘンは名前を考案しようという風潮はあったのでしょう。江戸時代の国学者、本居宣長はその随筆「玉勝間(たまがつま)」において、子供に珍しい名前がつけられる現象に言及しています。

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江戸時代以前にもヘンな名前がつけられた事例があります。たとえば織田信長の嫡男、信忠の幼名は、その名も「奇妙丸」でした。また、次男、信雄の幼名は茶筅丸(ちゃせんまる)、信高→小洞(ごぼう)と言った具合であり、信吉→酌(しゃく)などは母のお鍋の方の「鍋」になぞらえて付けられたといいます。

また、秀吉も我が子秀頼の幼名に「拾い」(拾丸)とつけています。これはなかなか子供に恵まれなかった秀吉がこれは「拾いものだ」と思った、という説と魔除けの意味合いを持たせたという説のふたつがあるようです。

その昔は、名前自体に「捨て子」「拾い子」を表することは多かったといい、安土桃山時代以前から、「捨て子は強い子に育つ」という言い伝えがあって、わざわざ生まれた子供を路傍に捨て、それを誰か知り合いに拾ってもらって届けてもらう、という風習があったようです。

戦前には、日本でも地方へ行くとこの風習は残っていたところが多く、どこだか忘れましたが、その捨て場所もYの字になっている三叉路の真ん中、と決められていた田舎もあるようです。Yの字の真ん中とはすなわち、子宮のある場所、という意味です。

このように子供の名前にヘンな名前をつける、というのは最近に限ったことではないわけですが、その時代時代の常識・トレンドも時代とともにそのネーミング方法も変化してきています。

現在のキラキラネームがタブーかといえばそんなことはありませんが、DQN(ドキュン)ネームと評されるようなものについては、一般には「一般常識に著しく反する」名前とみなされることが多いようです。

どのような名前や読みが「DQNネーム」にあたるのかは各個人の主観により、人によっても定義は異なりますが、多くの人がみて聞いて首をかしげるようなものはやはりDQNなのでしょう。

たとえば、アニメ全盛の中で育った親たちの中には、光宙(ぴかちゅう)、姫星(きてぃ)、今鹿(なうしか)、黄熊(ぷう)といった名前をつける人がいるようですが、この程度ならば一般常識を逸脱しているかどうかは判断が難しいところです。

その一方で、いったいどういう理由でそれよ、というのもあり、ビス湖(びすこ)美依羅(みいら)鳳晏(ぽあ)美望(にゃも)本気(まじ)などは、ちょっと首をかしげてしまいます。また、亜菜瑠(あなる)麻楽(まら)といった、本人たちはカッコいいと思ったのでしょうが、一歩間違うと下ネタになりかねないようなものもあります。

そのほかにもよく考えたほうがいいのでは、と思えるようなものも多数ありますが、その一方では、澄海(すかい)、七音(どれみ)、希星(きらら)といったなかなか良く考えたなというのもあり、親が子に求める個性の表現方法としてなかなか奥深いものを感じます。

古くは、文豪、森鴎外が世界に通用する名にしたいという思いから、孫や5人の子にドイツ語やフランス語に基づく命名をしたというのは有名な話です。

これは、真章(Max マックス)、富(Tom トム)、礼於(Leo レオ)、樊須(Hansハンス)、常治(George ジョージ)の5人ですが、現在のキラキラネームの元祖ともいえるようなネーミングであり、こちらもなかなか洒落ています。

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こうした名前は、変わってはいるものの、DQNネームと批判する人はいないでしょう。むしろこれからの日本文化の方向性を表しているようなネーミングだと思うわけですが、その一方で、一般常識を逸脱しているというよりは非常識な名前も増えているのは確かです。

ちょっと昔に世間を騒がせた「悪魔」といった名前などは、多くの人が眉をひそめまました。この「悪魔ちゃん命名騒動」は親側と戸籍を受理する側の昭島市との裁判沙汰にまでなり、家裁は「命名権の乱用で戸籍法違反であるが、手続き論的立場から受理を認める」として、親側の勝訴の判断を下しました。が、市側は東京高裁に即時抗告しました。

その後親側が類似の音の名前を届け出て、市がこれを受理したため、時抗告審は未決のまま終局となりましたが、以後こうした変わった名前が是か非かという議論は長く続きました。ある意味、現在のキラキラネームブームの火付け役となる事件だったかもしれません。

その後現在に至るまでに急激にキラキラネームあるいは、DQNネームが増殖したような印象がありますが、これらの中にも悪魔君と同じように裁判沙汰になったものがあり、侮辱・誹謗中傷であると認めた判例が既に数例あるということです。

その名を聞いて、人が精神的苦痛を感じるようなひどい名前である場合や、逆に本名があるのにその人を「DQNドキュンネーム」で連呼してその人の社会的評価を低下させるような場合には、一定の条件を満たせば傷害罪・侮辱罪・名誉毀損罪が成立します。

ただ、日本の戸籍法においては、子供の名前に使用できるのは「常用漢字」および「人名用漢字」としているだけで、戸籍では読み方にまで言及していないため、使用可能な漢字を用いる限り、どのような読みの名前であれ一応、法的に厳格な制限や問題はありません。

ただし、「親と同一の名前」を子につけようとしたケースでは、「難解、卑猥、使用の著しい不便、識別の困難」などの理由で命名することができない」として、役所側の出生届の不受理が認められた例があります。とくに日本では上述の悪魔君の判例以降、社会通念に照らして一般の常識から著しく逸脱した名前は、戸籍法上使用を許されなくなりました。

では、海外ではどうかといえば、たとえば、メキシコ北部ソノラ州の州法では、「侮辱的・差別的で意味が欠如」している、とされる61個の名前は「賛否あるが、子供をいじめから守るため」使えないそうです。

具体的にはYahoo!やバーガーキングなどの企業名や、ハリー・ポッターやジェームズ・ボンドなどの架空の人物、Jack the Ripper(切り裂きジャック)やkiller clown(殺人ピエロ)などの殺人鬼、アガリアレプトなどの悪魔、ヒトラーなど独裁者の名がそれです。

また、ニュージーランドでは子どもが公的な称号や階級を持っていると思われかねない名前(「キング(King)」や「デューク(Duke、公爵)」、「プリンセス(Princess)」など)が禁止されているほか、ルシファー(堕天使)やジャスティスといった名前は裁判で却下されています。ジャスティスは正義の意ですが、法廷用語ということで否定されたようです。

これに対して、スウェーデンのように、こうした命名への政府介入を規制した法律がある国もあり、命名規制そのものに反対する国はわりと多いようです。自由の国といわれるアメリカがそうであり、イギリスもそうです。名前についての規制をもたない国・州・自治体は大多数といえ、日本以外の国でも珍しい名前は増える傾向にあるようです。

なので、日本でもDQNなどと誹謗せずにもっと自由に名前をつけてもいいわけですが、しかし、親はよくてもヘンな名前を付けられた子供のほうはたまったものではありません。長じてから周りから奇異な目で見られ、ときにはいじめの対象にさえなったりもします。

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では、こうしたヘンな名前は変えられるのか?ということですが、結論からいうと、日本では、名前の変更届が認められているようです。

ただし、戸籍上の氏名のうち、「名」のほうだけで「姓」のほうはまず変えられません。よほどの理由がないと認められていないのが現状です。とても奇妙な姓や、難解でとても読むことができないために、社会的に支障が生じる場合や、長期間使っていた通称があり、戸籍上の氏(姓)では生活上支障が生じる場合などだけです。

名前の方も同様なのですが、姓の場合は、族全ての姓が変更となるため、家族全員の同意が必要となるのに対し、名前のほうは個人のものなので、比較的可能性はあるようです。

手続根拠は戸籍法に規定されており、「正当な事由」によって名を変更しようとする人は、家庭裁判所の許可を得れば名前を変えることができます。ただし、「正当な事由」があるかどうかは、当該事件について家庭裁判所の家事審判官(裁判官)が判定することになるので、なんでもかんでも改名がOKというわけにはいきません。

また、15歳以上であれば自分で申請可能ですが、15歳未満の場合は法定代理人(親権者等)が本人に代わって申立てを行う必要があります。

問題はこの「正当な事由」ですが、具体的には、例えば代々の当主が世襲名を名乗っている場合のこの世襲への改名があります。よくわかりませんが、世襲名に変えたほうが何等かのメリットがあるようです。納める税金が少なくなるのかもしれません。このほか、もとの名が神官や僧侶のものあった場合、還俗するといえば認められる場合があります。

さらに、出生届時の誤りや、姓と同じように難解や難読な名前である場合や親族や近隣に同姓同名がいて混乱をきたす場合などがあります。例えば、渡辺とか佐藤とか言った名前は非常に多いため、婚姻や養子縁組によって姓を改めた結果、配偶者や姻族、養家族と同姓同名になってしまった場合混乱を来たすため、改名が認められることが多いようです。

人名用漢字の追加により、「本来使用したかった文字」への変更もOKです。永年使用していた「通称」を戸籍上での本名にしたい、といった場合もあるでしょう。実例として「妹尾河童」さんは元の名は肇ですが、改名が認められました。参議院議員の「はたともこ」さんも元は漢字表記で「秦知子」でした。大川隆法も「中川隆」から改めた名前です。

このほか、帰化した際に日本風の名に改める必要がある場合、異性とまぎらわしい場合、性転換した場合で本人の外見と名前の性別が食い違って不便な場合などがあります。ただし、性同一性障害が理由で名の変更を申し立てる場合、医師が書いた診断書が必要です。

上の悪魔君のように、いじめや差別を助長する珍奇な名前、モンスターペアレントまたはそれに類する親類によって名付けられたDQNネーム、キラキラネームも認められる場合があります。親が好意でつけたとしても、それは「親権者がほしいままに個人的な好みを入れて恣意的に命名」した、と判断されるためです。

このほか、同姓同名の犯罪者がいて、差別や中傷などの風評被害を被っている場合は認められます。さらには、名前そのものに問題はないものの、過去の経緯から著しい精神的苦痛を想起し、日常生活に支障を及ぼすといった場合もあります。

たとえば幼少時に近親者から虐待を受けており、当時を思い出す戸籍名の使用が心的外傷に悪影響を与えるとか、親の愛人と同じ名だったことが結婚後にわかり、円満な家庭環境を害する恐れが強い場合などがそれです。

実際に改名を考えている場合は、まず、家庭裁判所の家事受付・家事相談窓口などと書かれた窓口に行き、事情を説明すれば、必要な資料等について助言してもらえるそうです。その後に申立書および添付資料を用意して申立てすればいいので、真剣に改名を考えている人はお近くの家庭裁判所を探した上で、まず相談してみてください。

ちなみに私自身は自分の名前を気に入っている、というほどではないにせよ、戸籍名を変えようとまで思ったことはありません。もっとも犯罪でも犯せば名前を変えてあちこち潜伏しなければならなくなるかもしれませんが、いまのところ、そういう悪いヤツとはみなされていないようです。

改名したければ、ペンネームを持つこともできるわけであり、これならばその気になれば何度でも変名ができます。キラキラでもDQNであっても自分の責任においてなら、自由なわけで、非常識なヤツ、というそしりを受けても堂々としていられるでしょう。

みなさんも、自分の名前が気に入らなかったら、ちょっとペンネームを考えてみてはどうでしょうか。

2015-2000

小笠原

2015-2656

今日は、日本に初めてペリーのアメリカ艦隊がやって来た日です。

いまから165年前の1853年7月8日(嘉永6年6月3日)午後5時に浦賀沖に現れ、停泊したその黒々とした船体は、それまでもたびたび日本近郊を訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものでした。

黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げており、その様子から、日本人はこれを「黒船」と呼びました。

浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピ」(同)、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(同)の4隻からなっていました。大砲は計73門あり、急な日本側からの襲撃を恐れ臨戦態勢をとりながら、上陸に備えて勝手に江戸湾の測量などを行い始めました。

さらに、アメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射しました。実はこの突然のように見える来航は、事前にオランダから日本側に通告がありました。このため、幕府は先刻承知済みであり、江戸の町民にその旨のお触れも出していました。

にもかかわらず、この黒船の最初の砲撃によって江戸は大混乱となりました。しかし慣れとは面白いものです。それがやがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んだと伝えられています。

これが、長い鎖国を経てアメリカという国と日本人が接した初めての出来事とされるわけですが、実は、このとき浦賀にやってきたペリー提督らは、その前に同じ日本である小笠原諸島に立ち寄り、ここを探検していた、という話はあまり表だって語られていません。

小笠原諸島は、「特別区」として東京都に編入されている島々で、東京都「小笠原村」とされている30余の島々を指します。東京の南南東約1,000km以上の太平洋上にある島々で最大のものは父島、母島などでこれらを含むものが「小笠原群島」として知られます。

ここで、小笠原の命名の由来について述べておくと、1593年(天正20年)に信濃小笠原氏の一族を自称する小笠原貞頼なる者が発見したという説があるようです。しかし出典が明確ではなく貞頼という人物の存在自体を否定する説もあります。

これを根拠に1727年(享保12年)、貞頼の子孫と称する浪人者の小笠原貞任が貞頼の探検事実の確認と島の領有権を求めて幕府に訴え出ました、これが始まりで、ここは小笠原島と呼ばれるようになります。

しかし最終的に貞任の訴えは却下され、探検の事実どころか先祖である貞頼の実在も否定されてしまい、貞任はその後領有どころか詐欺の罪に問われ、財産没収の上、重追放の処分を受けています。

この小笠原諸島というのは、小笠原群島だけではなく、ここから南西へ300kmほど離れた硫黄島なども含みます。太平洋戦争時にアメリカ軍との激戦地となった島であり、これは北硫黄島、南硫黄島と合わせて「硫黄列島」または「火山列島」とも呼ばれます。

その名の通り活発な火山活動によって出きた島々であり、また最近噴火して日々その領域を広げ続けて話題となっている「西之島」も小笠原諸島に含まれます。、さらに本州から1800kmも離れた日本最東端としても知られている「南鳥島」や「沖ノ鳥島」もまた小笠原諸島です。

このうちペリーらが探検をしたのは最大の父島です。ここに上陸する前には、琉球王国にも寄港しており、この浦賀来航よりもひと月以上前の5月26日に琉球王国の那覇沖に停泊しました。ペリー入国を拒否する琉球王国側を無視して、武装した兵員を率いて上陸し、市内を行進しながら首里城まで進軍し、開国を促す大統領親書を王国側に手渡しました。

王国側は困惑したものの、来客への慣例としてぺリーらに料理をふるまってもてなしをさしました。が、このとき、清からの使者に対するもてなしよりも下位の料理を出したそうで、そのことにより、暗黙の内にペリーへの拒否(親書の返答)を示していたといいます。

しかし、ペリーはそれに気が付きませんでした。琉球王国としては表面的には友好的に振舞い、まんまとペリーをあしらったつもりであり、このためその後の武力制圧を免れました。ただ、このように曖昧なままに終わらせてしまったため琉球王国はその後、アメリカが日本やアジア諸国へ進出するための前線基地として長い間利用されるハメになりました。

この琉球王国にペリーは艦隊の一部を那覇に駐屯させ、小笠原諸島を探検しました。現在は明らか日本の領土と世界から認識されているとはいえ、ここのころにはまだ領有のはっきりしていなかったこの島の領有の可否を判断しようとしたためです。

とはいえ、その探検はわずか4日ほどです。6月9日に琉球を出航、6月14日から6月18日にかけてのことであり、このとき父島の西側にある二見浦にペリーは上陸しました。2組の調査隊を出してこの島を探索し、その結果、このひとつの調査隊がカナカ人が島の数カ所に点住していることを発見しました。

カナカ人とは、マーシャル諸島、パラオ等の島々の住民であり、いわゆる太平洋南部のミクロネシアからやってきた移民であり、カナカは「黒い人」の意味です。さらに山稜を越えて島の南に降りていくと、ポリネシアのマルケサス諸島のヌクヒバ島出身者の居住者を発見し、さらにタヒチ出身の黄褐色肌の住人がおり、彼は英語を少し話しました。

2015-2602

ちなみにミクロネシアとポリネシアの違いですが、ミクロネシアは「小さな島々」という意味で、オセアニアの中で日本にもっとも近いところに位置する、どちらかといえば「西太平洋から南太平洋にかけてのエリア」で、グアム、サイパンなどのマリアナ諸島やマーシャル諸島、パラなどが含まれます。

一方、ポリネシアは、「多くの島々」という意味で、北半球に属するハワイ諸島のほか、南半球に散在しているトンガやサモア、タヒチ、クック諸島、イースター島、ニュージーランドなど、「中央太平洋から南太平洋にかけてのエリア」になります。

もうひとつ、我々には馴染の少ない言葉ですが、「メラネシア」というのもあり、これは「黒い島々」という意味で、オーストラリアの北東部の海域を指します。上述のふたつよりもエリアとしてはかなり限定的ですが、ここにはニューギニアや、ニューカレドニアなどの比較的大きな島々が含まれ、ソロモン諸島、ヴァヌアツ、フィジーもここに含まれます。

父島の南端でポリネシアからの移民をみつけたペリーの調査隊の一行は彼らが片言の英語を話すことを見て驚き、訝しみましたが、彼等は、さらに北部へ進んで調査を進めた結果、そこにと比較的大きな集落を発見。これは現在の扇浦付近と呼ばれる場所ですが、驚くべきことにそこには、ナサニエル・セイヴァリー(セボリー)というアメリカ人がいました。

実は、このセボリーはアメリカ東海岸のマサチューセッツに生まれで、長じてからハワイに移住しましたが、そののちここで太平洋の西のほうに未だアメリカ人が見知らぬ島があるという噂を耳にし、これがきっかけで小笠原へ入植したのでした。

このころ林子平という地理学者が「三国通覧図説」という地理本を出しており、その中に小笠原諸島についても記載がありました。これがオランダ交易の中でヨーロッパにもたらされ、翻訳されてボニン・アイランズ(Bonin Ilands)の名で知れ渡っていました。

ボニンとは、「無人」が訛ったもので、もともとは「無人島」として記されていたものですが、これをフランス人の東洋学者が翻訳したものです。無論、この当時日本は鎖国しており、近づくことはできませんでしたが、この本が広く紹介されるようになったことから、日本近海である小笠原諸島へは欧米の外国船がしばしば寄港するようになっていました。

そうしたヨーロッパ船の中に、イギリス海軍のブロッサム号という船がありました。ブロッサム号は、行方不明船となった自国船を探索するため、その船が消息を絶った日本近海にやってきていたのでしたが、1827年5月、この艦の艦長、フレデリック・ウィリアム・ビーチーは、琉球から東へ進路を取り、このボニン・アイランズをめざしました。

そして一行は6月8日に小笠原の島々を発見。翌9日に現在の父島二見港のある湾から島へ上陸してみると、前年行方不明となっていた捜索目的のイギリスの捕鯨船、ウィリアム号の乗組員2人、すなわち水夫長ウィットリエンと水夫ピーターセンに遭遇しました。

早速彼等にこれまでの事情を聞いたところ、彼らはその前年に湾内に停泊中に突風で難破し、その後寄港した、ティモール号という別の捕鯨船に仲間は救出されたことがわかりました。しかし、この2人は自らの意志で島に留まり暮らすことにしたと語りました。

このとき、ビーチーは2人に帰国を促したといいますが、このときにはまだ彼等にはその気がなかったようです。もう少しここで生活してみたいという彼等2人を残し、ビーチーらは島の領有宣言を記した銅板を木に打ち付けただけで、父島を出航しました。

この父島に残されたこの水夫2人は、翌1828年5月にここを訪れたロシアの調査船セニアビン号でその後帰国しています。このとき2人はこの無人島?での生活にほとほと疲れていたようで、同号が二見港に着くと促されるまま、ほうほうの体で島を後にしたようです。

一方、その後ホノルルに寄港したビーチーは、このボニン・アイランズのことをホノルルに入植したばかりのセボリーに話して聞かせました。これを聞いたセボリーが、在ホノルルのイギリス領事に相談した結果、ここへの入植計画がもちあがりました。

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こうして、天保元年(1830年)、イタリア出身のイギリス人と・マテオ・マザロを団長とするイギリス人2名、セボリーを含むアメリカ人2名、デンマーク人1名の5名と、ハワイ人男女25名がホノルルを出港し、6月26日に父島の扇浦に到着し、入植をはじめました。

その後、1835年に、マザロはハワイに一時帰国。イギリス領事に自分ら「小笠原移住民」の保護を請願していますが、このとき、この入植地には原住民はいなかったと報告しています。しかし、実際には上述のカナカ人やポリネシア系移民が多数居住していました。

マザロやセボリーらの入植後は、各国の捕鯨船が頻繁に寄港するようになり、彼等は物資や手紙のやりとりを託す連絡船として機能していました。このように、この当時の小笠原諸島は全くの孤島ではなく、英米と強いつながりを持っていました。

ところが、その後入植者の英米人のあいだで対立が起き、その中でマテオ・マザロは死に、もう1人のイギリス人リチャード・ミリチャンプはグアムへ去ると、アメリカ人、ナサニエル・セボリーが事実上の首長的地位につきました。

その後、1851年4月にイギリス軍艦エンタープライズ号が父島に寄港しましたが、このときの艦長の航海記には、セボリーはまだ健在であること、また入植後20数名の子どもが生まれ半数は死に、また成長後島を出て行った者もいると記されていました。

また島内には、捕鯨船から脱出したハワイ・オアフ島出身の使役船員たちが身を隠していたことや、その他の船が寄港した際にも、病気のため下船しそのまま島に住み着いた白人がいたことも書かれていました。

これらのことから、ここでの生活はかなり過酷なものであるにもかかわらず、アメリカ人やポリネシア人にとっては一種の「駆け込み寺」的な存在であったことがうかがわれます。

ちなみに、これに先立つ5年前の1847年には、ジョン万次郎が米捕鯨船に乗って小笠原に来航しています。彼はその6年前、手伝いで漁に出て嵐に遭い、仲間の漁師とともに伊豆諸島の鳥島に漂着し、そこで米捕鯨船ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助されました。

漂流者のうち年配の者達は寄港先のハワイで降りましたが、ジョン万だけが船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られて渡米し、教育を受けたあと、彼自身も船乗りを目指しました。学校を卒業後は捕鯨船に乗る道を選び、1846年(弘化3年)から捕鯨船員として生活していましたが、この父島への寄港はそのときのものです。

後年、今度は日本側官吏として小笠原にやってくることになりますが、それはこのときよりもさらに15年もあとのことになります。

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そして、1851年のこのエンタープライズ号の寄港から2年後の嘉永6年(1853年)5月、マシュー・ペリー提督率いる艦隊が小笠原を訪れました。彼等は、その後首長のセボリーとも親しくなり、いずれこの地をアメリカの植民地とする際には、その新政府の頭目に彼を据えようと考えたようです。

このときのペリーらの航海日誌には、父島には最年長のセボリーなどの欧米系白人のほかにミクロネシア系カナカ人やポリネシア系移民がおり、全体で39人の島民が住んでいると記されています。

その2カ月後の1853年7月8日(嘉永6年6月3日)、ペリーは浦賀に入港し、日本の開国へ向けて大統領の親書を幕府に手渡しました。翌年2月には7隻の軍艦を率いて再び横浜沖に迫り、早期の条約締結を求めた結果、3月に日米和親条約が締結されました。

さらに1858年7月に日米修好通商条約が締結されました。日本に関税自主権がないなど、この条約は日本にとっては不平等なものでしたが、こうしてともかく日米の交易が始まると、下田・箱館に加え、その後も神奈川、長崎、新潟などが次々と開港・開市されました。

そして、1861年12月(文久元年11月)、幕府は列国公使に小笠原の開拓を通告。翌年1月には、外国奉行水野忠徳と、ジョン万次郎を含む一行が咸臨丸に乗り込み、同船を含む4隻の艦隊で小笠原に派遣されました。その目的は「開拓調査」でした。

ジョン万次郎が選ばれたのは上述の通り小笠原付近に知識があったためであり、また当時ここに住んでいた英米人とも面識があったあめであり、しかも通訳としても有用だったためです。ちなみに万次郎はこの翌年に幕府の軍艦操練所教授となっており、帆船「一番丸」の船長に任命されると、同船で小笠原諸島近海に向い捕鯨を行っています。

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水野はこの小笠原での開拓調査に赴く前に、駐日イギリス公使やアメリカ合衆国公使に接触をしており、その目的は、アメリカやイギリスの小笠原領有の意思があるかどうかを内々に確認しておきたかったためでした。

これに対してアメリカ公使ハリスは、「本国政府へ報告し回答を待つ」と答えて即答を控え、ただ「小笠原島在住アメリカ人の既得権の保護を要請する」とだけ水野に伝えました。一方のイギリスの対応はというと、イギリス公使オールコックは、日本との貿易の伸長のみを主張し、領土に対する野心がないという態度をとりました。

その背景には、ちょうどそのころ、ロシア軍艦が対馬を占領する、という事件があったことが関係していました。この対馬占領のロシア側の意図は、極東での根拠地獲得、南海航路の確保だったといわれ、当時アジア一帯に広大な植民地を持っていたイギリスに先を超され、対馬を租借されるのを恐れていたためでした。

これに対してイギリスは、公使オールコックとイギリス海軍中将ホープが幕府に対し、イギリス艦隊の圧力によるロシア軍艦退去を提案。老中・安藤信正らと協議した結果、イギリス東洋艦隊の軍艦2隻を対馬に回航して示威行動を行い、ホープ中将はロシア側に対して厳重抗議を行いました。

その結果、ロシア領事ゴシケーヴィチは、イギリスの干渉を見て形勢不利と察し、対馬から退去しました。しかし、イギリス側にはこのように幕府に加担してロシアの侵略を阻止した手前、自分たちも小笠原を領有したい、とは言いだせない雰囲気がありました。さらにイギリスは「東禅寺事件」をめぐって、幕府と問題を抱えていました。

東禅寺事件というのは、攘夷派志士が高輪東禅寺に置かれていたイギリス公使館を襲撃した事件で、1861年と1862年の2回発生したものです。最初の事件は、文久元年(1861年)5月、水戸藩脱藩の攘夷派浪士14名がイギリス公使ラザフォード・オールコックらを襲撃した事件で、彼は危うく難を逃れましたが、書記官と長崎駐在領事が負傷しました。

事件後、オールコックは江戸幕府に対し厳重に抗議し、イギリス水兵の公使館駐屯の承認、日本側警備兵の増強、賠償金1万ドルの支払いという条件で事件は解決をみました。

水野忠徳がオールコックに小笠原の領有の意思を確認しようとしたのはちょうどこのタイミングでした。イギリスはこの東禅寺事件において日本との交渉を有利に進めようとする中で、下手に小笠原の問題を持ち出せば、交渉が難航する可能性があると考えたわけです。

こうして、水野は、イギリスに小笠原の領有の意思がないことを確認し、アメリカからは明確な回答がない状況下ではありましたが、咸臨丸で父島二見湾に入港しました。そして、ジョン万次郎を通訳として島の長であるアメリカ人、セボリーと会談しました。

この会談の中では、35年前にイギリス人ビーチーが、島の領有宣言を記した銅板を木に打ち付けた話なども出たようですが、水野は上述のとおり事前にイギリスに領有の意思がないことを確認しており、あえてその話は深入りしないようにし、セボリーらアメリカ人の現在の島での生活についての話題を中心にしました。

セボリーらもこの島での過酷な生活に辟易していたようで、自分たちの生活の将来に憂いたこともあり、この会談の結果、日本人らに島内の木々の伐採や野獣の狩猟を認めました。しかし、セボリーらも自らの生活に必要な分は自由に採ることを幕府側に認めさせるなど、双方にとってのハッピーハッピーの結論が強調されました。

一行は続いて母島にも向い、この合議の結果の通達を行っています。無論、この協議結果はアメリカ本国政府からの回答を得る前のことでした。が、日本側としては既に各国に小笠原開拓の意思を表明してしまっており、かつ現地の最高責任者セボリーも異議を唱えなかったことから、その後アメリカが小笠原領有を主張してくることはありませんでした。

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この翌年の文久2年(1862年)には、再び東禅寺において、警備の松本藩士伊藤軍兵衛がイギリス兵2人を斬殺する、という事件が起こりました(第二次東禅寺事件)。幕府は警備責任者を処罰し、松本藩主松平光則に差控を命じ、イギリスとの間で賠償金の支払い交渉を行いましたが、紛糾するうちにさらに次の事件、生麦事件が発生しました。

現・横浜市鶴見区生麦付近において、薩摩藩の島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件で、尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となりました。

このための賠償にあたっての日英交渉はこじれにこじれ、このためイギリスとの一戦が懸念されるようになると、翌年、小笠原では日本人全員に避難命令が出されました。

1863年(文久3年)6月、イギリス艦隊は鹿児島城下前之浜約1km沖に投錨。艦隊を訪れた薩摩藩の使者に対しイギリス側は生麦事件犯人の逮捕と処罰、および遺族への「妻子養育料」として2万5000ポンドを要します。が、薩摩藩は「生麦事件に関して責任はない」とする返答書をイギリス艦隊に提出したため、ついに「薩英戦争」が起こりました。

この戦闘において、イギリスは薩摩の軍事施設や城下へ甚大な被害を与えました。が、一方の英側も戦艦の大破1隻・中破2隻、死者13人を含む死傷者63人の被害を出し、弾薬や石炭燃料の消耗も激しかったことから薩摩を後にし逃げ帰るように横浜港に戻りました。

当時の世界最強のイギリス海軍が事実上勝利をあきらめ横浜に敗退したこの結果は、世界を驚かせ、当時のニューヨーク・タイムズ紙に「この戦争によって西洋人が学ぶべきことは、日本を侮るべきではないということだ」と言わしめました。

しかし結局、この戦争の後始末は当事者の薩摩ではなく幕府がやることになり、幕府は生麦事件の賠償金とともに1万ポンドを支払うこととなり、事件は解決を見ましたが、この賠償金の受領によってイギリスは小笠原への入植の理由づけを失いました。また小笠原への執着は損益の方が大であり、他の港での交易を優先すべきと判断するに至ります。

幕府もまたこのころから自国領土というものを強く意識するようになったようで、そのため小笠原も日本固有の領土、と諸外国に認めさせるため、その後も八丈島などから日本人入植者を次々とここへ送りこみ、開拓を進めました。これによりさらにイギリス人が入り込む余地は少なくなりましたが、この点はアメリカも同じでした。

ところが、明治になってこの小笠原問題は再燃します。イギリスはかつてビーチーが父島に領有の証しを残したことを理由に突如この島の領有を主張。このため、日本政府は1875年(明治8年)、この当時国内における最優秀船であった「明治丸」を父島へ派遣しました。

同年11月21日、明治丸は日本政府調査団を乗せて横浜港を出航し、24日に父島に入港しましたが、新鋭船であるため船足が速く、22日に同じく横浜を出航した英国軍艦「カーリュー」より2日早く着きました。このためイギリスよりも早く調査を進めることができ、このため、日本の小笠原諸島領有の基礎を固めることができたといわれています。

このとき、調査団はセボリーの息子ホーレス・セボリーやフランス人ルイ・ルサールを含む13戸68人(男性36人、女性32人)および日本人女性2名を父島で確認しています。
そして、翌1876年(明治9年)小笠原諸島を内務省所轄とし、日本の統治を正式に各国に通告し、ここに小笠原の日本領有は確定しました。

その後1882年(明治15年)には、居住していた20戸72人全員が、帰化して日本人となりました。ちなみに明治丸はその後、1887年(明治20年)にも東京府知事、高崎五六らを乗せた硫黄列島の視察調査にも従事しました。その結果、1891年(明治24年)にここも日本の所轄となり、1904年(明治37年)には硫黄島への入植・定住が始まりました。

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その後の第二次世界大戦中の小笠原諸島は、戦火が間近に迫っていると判断されたことから、1944年(昭和19年)に父島母島を中心とする住民7000人弱が本土へ強制疎開されました。が、残留者800人は余りはその後の戦闘に巻き込まれました。

父島は日本海軍が日露戦争後に着目し、貯炭場、無線通信所などを設置していましたが、その後陸軍築城部父島支部が設置され、砲台が築かれ1941年からは戦備に入りました。日米開戦後は陸海の各部隊が防備にあたるとともに、海軍航空隊が防備に当たっていました。

1944年、大本営はマリアナ諸島及びトラック島を始めとする南洋諸島の防備拡大を目的とした第31軍を編成、父島要塞司令部もこの指揮下に置かれ、同年5月、父島・母島・硫黄島の各守備隊を元に第109師団を編成、小笠原兵団栗林忠道兵団長の指揮下に入りました。

この頃から父島要塞への米軍の空襲が激化。特に1944年8月頃から開始されたスカベンジャー作戦では艦砲射撃も交えた猛攻撃が行われ、日本側は父島海軍航空隊がほぼ壊滅、濱江丸等の多数の艦艇を喪失しました。

しかし日本側の反撃も激しく、幾つかの米軍機が対空砲火で撃墜されており、その中には、後に第41代大統領となるジョージ・H・W・ブッシュ中尉の乗機も含まれていました。

その後の父島要塞には散発的に空襲が行われた程度で、母島共々大きな地上戦闘は発生しないまま終戦を迎える事となります。戦闘も食糧事情もそれほど厳しいものではありませんでしたが、これに対して、両国にとって最も戦略的に重要とされたのは硫黄島であり、ここでの戦いは熾烈でした。

日本側守備兵力20,933名のうち96%の20,129名が戦死或いは戦闘中の行方不明となり、第二次世界大戦中を通してノルマンディー上陸作戦を上回る各国最大の犠牲者を出しました。この硫黄島の事については、後日また日を改めて書いてみたいと思います。

この硫黄島での激しい戦いに物資や食料の抽出が行われた事もあり、父島では、残留島民のみならず守備兵も困窮と飢餓の中で苦しい自活を強いられました。が、空襲のみで地上戦はおきておらず、現地自活が営まれ、食糧事情は極端には悪くなく補給はある程度確立されていました。

そうした中で、「小笠原事件」と呼ばれる事件も起きています。日本の陸海軍高級幹部が、米軍捕虜8名を処刑し、うち5名の人肉を嗜食したとされる事件です。陸海軍幹部が酒宴の場にて敵愾心高揚・士気高揚を目的とし行ったものですが、人肉を食するほど食糧事情が悪化していたわけではない中での出来事であり、戦後大きな批判を呼びました。

1945年9月3日、米海軍駆逐艦ダンラップ艦上で小笠原の日本軍は降伏調印。父島は米海軍の占領下に置かれ、残存していた重火砲類は全て爆破処理にて無力化が行われました。10月には欧米系島民が日系島民に先んじて帰島を果たしましたが、占領下での困窮した生活の中、要塞跡内の兵器の残骸を屑鉄として回収し生計を立てる住民もいました。

戦後アメリカの統治下に置かれると、小笠原諸島は日本の施政権から切り離されました。そして欧米系島民のみが帰島を許されました。アメリカ統治時代は英語が公用語とされ、義務教育課程校の「ラドフォード提督初等学校」で英語による教育を受けました。

1956年に設立された9年制の学校で、「ラドフォード」は当時のアメリカ海軍第七艦隊司令官の名に由来します。職員は3人だけで、学習用語は英語で、軍人や欧米系島民の子弟がここで学びました。島内には高等学校は無かったので、進学希望者はグアム島の高校へ進学しましたが、のちの日本復帰後は、小笠原村立の小中学校になりました。

1967年(昭和42年)、小笠原諸島の日本への返還が決まり、1968年(昭和43年)6月26日には 協定が発効し、小笠原諸島は日本に返還されると同時に、東京都小笠原支庁設置。東京都小笠原村に属するようになりました。かつて小笠原支庁直轄だった硫黄列島および西之島もこのとき小笠原村の区域となりました。

日本への返還後は、戦前からの移住民に加え、新たに本土から移住してくる新島民とともに共存するようになりました。このほかの欧米系島民の出自は、米本土、ハワイ、イギリス、ポリネシアのほか、ドイツ、ポルトガル、デンマーク、フランス、など多種多様です。

しかしアメリカ統治下で英語教育を受けた世代は、日本語に馴染めず、アメリカ本国に移住した人達もいます。

残った多くの欧米系島民はその後姓を日本風に改めました。アメリカ系であるセイボリーは「瀬掘」あるいは「奥村」に、ワシントンは、「大平」・「木村」・「池田」・「松澤」、ウェッブは「上部」に、ギリーは「南」にといった具合であり、ほかにポルトガル系のゴンザレスは「岸」・「小笠原」になどに姓を変えています。

4~6世代目を迎えた現在、大多数は日本人との混血となっており、外見上は日本人とほとんど変わらない人も少なくないようですが、今でも小笠原の電話帳などでみられる、これらの姓は欧米系島民の入植者の子孫だそうです。

日本に帰化した後も、キリスト教を信仰するなど彼らの文化を維持し続けたものもおり、言語についても日本語の中に英語の語彙が混じる一種のピジン言語・クレオール言語化した「小笠原方言」が用いられています。

2011年(平成23年)、小笠原諸島は、ユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録。小笠原諸島は形成以来ずっと大陸から隔絶していたため、島の生物は独自の進化を遂げており、「東洋のガラパゴス」とも呼ばれるほど、貴重な動植物が多いのが特徴です。

先の大戦で日本は多くの者を失いましたが、幸いにもこの小笠原諸島は取り戻すことができました。日本の固有の領土として育んできたこの豊かな自然を未来永劫守っていきたいものです。

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大洲のこと

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先日、BS放送のあるテレビ局で、愛媛県の「大洲城」の特集をやっていました。

2004年(平成16年)9月1日、木造で天守が復元されたもので、日本100名城のひとつになっています。

大洲城は別名、大津城ともいうようで、大津とは大洲の旧称でもあります。この地に初めてこの城を築城したのは、鎌倉時代末期に守護として国入りした伊予宇都宮氏の「宇都宮豊房」で、元徳3年(1331年)のことであるといわれています。

城下は江戸時代の「大洲藩」の中心地であり、明治時代までは喜多郡という郡部に属する大洲町でしたが、昭和になって市政が布かれ、現在は「大洲市」となっています。

実は私の生誕地でもあります。50××年前、この城のある場所からそう遠くないところで生まれました。

この大洲の地は、伊予を南北につなぐ大洲街道・宇和島街道の結節点にあり、また東には四国山脈を抜けて土佐国に出る街道があり、すぐ西には大洲の外港とも言える八幡浜(現八幡浜市)があります。このように、ややひなびた立地ながらも交通の要衝といえる場所です。

大洲城は、宇都宮氏が創建した当初は、肱川と久米川の合流点にあたる地蔵ヶ岳に築城したことから地蔵ヶ岳城と呼ばれていました。

その築城にあたっては、川に面した高石垣の工事が難航したため、人柱を立てる事となったと伝えられます。くじによって「おひじ」という若い女性が選ばれ、彼女はやむなく生き埋めにされ人柱となりました。工事は無事完了し、おひじの最期の願いにより大洲城下に流れる川を肱川と名付け、大洲城を「比志城」と呼ぶようになったともいわれています。

豊房には子がなく、親戚筋の筑後宇都宮氏の「宇都宮宗泰」を養子に迎え、宇都宮氏はその後、国人として二百数十年間にわたって南伊予を中心に支配を行いました。が、永禄年間の末期に、長州の毛利氏の伊予出兵に屈服し、毛利の傘下に入りました。

さらには天正初年(1573年)に、宇都宮氏は土佐の長宗我部元親と通じた家臣の大野直之によって大洲城を追われました。しかしその大野直之も天正13年(1585年)には豊臣秀吉の意を受けた「小早川隆景」によって攻め滅ぼされました。

隆景が35万石で伊予に入封してのちは、大洲城は伊予小早川家の一支城となりました。ただし、小早川家による約2年の領有の間も、隆景の本拠地は山陽の三原のままであり、隆景自身がこの地に入ることはありませんでした。

その後、秀吉の古参の家臣で、秀吉親衛隊の黄母衣衆(きほろ衆)として仕えた「戸田勝隆」が四国全土を平定しました。このため、勝隆は天正15年(1587年)にその恩賞として秀吉から大洲7万石を与えられ、城主として大洲に入りました。

その4年後の天正19年(1591年)、今度は高野山で出家して隠居の形をとっていた「藤堂高虎」を秀吉が召還し、彼に大洲と隣国の伊予国板島(現在の宇和島市)7万石が与えられました。秀吉は高虎の武勇をこよなく愛しており、彼の将才を惜しんだための措置でしたが、これに答えるため高虎はわざわざ還俗して伊予に入りました。

文禄4年(1595年)のことであり、このとき、高虎によって大洲状は大規模に修築がなされ、近世城郭としての体裁を整えました。そして伊予大洲の政治と経済の中心地として城下町は繁栄していきました。

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しかし秀吉の死後、関ヶ原において高虎は徳川側につき、江戸期に入ってからは徳川家の重臣として仕え、江戸城改築などにも功を挙げました。

この功績のため、慶長13年(1608年)に、伊賀一国、並びに伊勢8郡22万石に加増移封され、津藩主となりました。秀吉同様、家康もまた、高虎の才と忠義を高く評価し、外様大名でありながら譜代大名格として重用しました。

高虎が津藩に移封となったため、城主が不在になった大洲城には、その翌年の慶長14年(1609年)に淡路の洲本から「脇坂安治」が入城しました。

この時すでに大洲城は高虎によってかなり近代的な城郭となっていましたが、これに仕上げの手を加えたのが脇坂安治であり、現在までに至る遺構はほぼこの時代に完成したと考えてよいようです。また、この脇坂安治の時代に城下の名前が、従来の「大津」から現在の「大洲」に城名が変更されました。

脇坂安治という人は、戦国時代には、はじめ浅井長政に仕えていましたが、天正元年(1573年)の浅井氏滅亡以後は織田家に属するようになり、明智光秀の与力として黒井城の戦いなどで功を立てました。黒井城は兵庫丹波の赤鬼といわれた赤井直正の居城であり、その堅城を攻め落とした功により、信長は丹波一国を光秀に与えました。

しかし、安治は光秀よりも秀吉のほうに将来性を見出していたのか、光秀の元を離れ、自ら頼み込んで秀吉の家臣となりました。その後は播磨国の三木城、神吉城攻めなどの諸戦に従軍して功を重ね、次第に秀吉の信頼を受けるようになります。

天正11年(1583年)、近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で行われた羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と柴田勝家との戦いで、福島正則や加藤清正らと共に活躍し、「賤ヶ岳の七本槍」の1人に数えられました。

戦功により山城国に3,000石を与えられ、さらに秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた「小牧・長久手の戦い」では伊賀上野城を攻略するなどの手柄をあげ、秀吉より摂津国能勢郡に1万石、大和国高取に2万石を与えられるとともに、淡路国洲本に3万石を与えられ、ここを本拠としました。

それほど秀吉には気に入られていたわけですが、彼の死後、関ヶ原の戦いで安治もまた、徳川方に寝返りました。藤堂高虎といい安治といい、秀吉の人望で固められていたはずの豊臣家がいかにもろかったかがわかります。あるいは家康も信望の人だったからかもしれません。

この関ヶ原では安治は小早川秀秋の裏切りを機に東軍に寝返り、大谷吉継隊を壊滅させ、石田三成の居城佐和山城攻めに加わるなど東軍の勝利に貢献しました。

しかし、戦前に通款を明らかにしていたため、裏切り者ではなく当初からの味方と見なされ、戦後に家康から所領を安堵されただけでなく、慶長14年(1609年)伊予大洲藩5万3,500石に加増移封されました。

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その後安治の子、脇坂安元は、その後勃発した大坂の役では徳川方の先鋒として活躍しました。大坂冬の陣が勃発すると、藤堂高虎指揮下で大阪城南部の生玉口を攻め、大坂夏の陣においては土井利勝と共に、夏の陣最後の戦いといわれる、「天王寺の戦い」で豊臣軍と対峙して勝利を収めました。

これにより同年、安治の隠居に伴い大洲5万3,500石を父から襲封し、大洲城2代目城主となりました。しかし、その統治はわずか8年ほどでした。元和3年(1617年)、伊予大洲藩は5万3,500石から、信濃飯田藩5万5000石に加増移封され、これに代わってこの年、伯耆米子から6万石で「加藤貞泰」が大洲城に入りました。

一方の脇坂元安は、伊予大洲藩5万3500石から、信濃飯田藩5万5000石に加増移封されました。以後、3代安政と共に55年間にわたって飯田の城下町を整備し、飯田城の掘割を完成させました。さらに街道の流通と伝馬を確立し、飯田十八町を完成させ、文化産業振興にも力を注ぐなど、飯田の発展に尽くしました。

なお、父の元安の父、安治は、この飯田への移封の際、大洲を去って京都西洞院に住み、剃髪して出家していましたが、寛永3年(1626年)に京都で死去。享年73でした。

脇坂家に代わって、大洲城の主となった加藤貞泰は、秀吉の家臣・加藤光泰の次男として誕生した人で、いわば豊臣家生え抜きの武将です。このため関ヶ原においては石田三成に従い、その要請を受けて尾張犬山城を守備していました。

が、序盤で東軍に寝返って徳川方の井伊直政の指揮下につき、美濃大垣城にて西軍と対峙しました。ここにも一人豊臣家を見限った家臣がいたことになります。本戦では島津義弘率いる島津軍と戦い、本戦後は豊後国臼杵藩の稲葉貞通と共に西軍の長束正家が守る水口岡山城(現・滋賀県甲賀市水口町)の攻略で功を挙げました。

このため、徳川家康より所領を安堵され美濃黒野藩主となり、黒野城と城下町の建設に努め、黒野に楽市などを造って発展させ、その後2万石を加増されて伯耆米子藩6万石の藩主となりました。

その後、大坂の陣でも徳川方として参戦して戦功を立てたため、伊予大洲藩を貰い受けたものです。しかし、貞泰はこの移封から6年後の元和9年(1623年)に44歳で死去し、跡を長男の泰興が継ぎました。以後江戸時代に入ってからは加藤氏が12代にわたって大洲藩主として君臨しました。

大洲藩は勤王の気風が強く、幕末は早くから勤王で藩論が一致していました。このため勤王藩として慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでも小藩ながら参陣して活躍し、そのままほぼ無傷で明治維新を迎えました。

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維新後の大洲城は、明治政府から出た廃城令によって城内のほとんどの建築物は破却されました。伊予には、藤堂高虎の時代に築かれた名城が多く、このうち宇和島城、松山城の天守閣が現存12天守として残っています。が、大洲城や今治城は棄却されました。

ただ、大洲城も、地元住民の活動によって本丸の天守・櫓などの一部が保存されました。が、天守は老朽化と構造上の欠陥もあり、明治21年(1888年)に解体されました。他の城よりも解体が遅れたのはその所有が個人のものだったためです。

従って現在ある天守は再建されたもので、大洲市市制施行50周年記念事業として施工され、平成16年(2004年)に竣工したものです。しかし他諸藩の天守のように、戦後再建されたもののほとんどが鉄筋コンクリートなのに対し、この大洲城は昔ながらの木造工法で復元されました。

明治時代に撮影された外観写真のほか、大洲藩作事棟梁の中村家に伝わる天守雛形(木組み模型)など内部構造を知ることができる資料が充実していたためであり、往時の姿をほぼ正確に復元できました。このように、多くの資料が残っていたことで再建が果たせた例というのは他にはほとんどなく、ラッキーとしか言いようがありません。

この再建にあたっては、天守の高さは石垣の上から19mあり、本来なら建築基準法で木造では認められない規模であったため、旧建設省や愛媛県は建設計画をなかなか認めなかったといいます。しかし2年近い熱心な大洲市の折衝を経て、ようやく保存建築物として建築基準法の適用除外が認められ、往年の複合連結式による天守群の復元に至りました。

天守の復元資金には、民間からの浄財が多く寄せられ、その寄付者の名簿は天守内にレリーフで残されています。この復元は高く評価され、国土交通省の外郭団体、国土技術研究センターから第七回国土技術開発賞を受賞しています。

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さて、せっかくですから、この大洲城を中心に発展してきた現在の大洲の町を改めて俯瞰してみたいと思います。

愛媛県の南予地方に位置し、「伊予の小京都」と呼ばれ、肱川の中下流域に造られた街です。肱川の源流部は標高1000mを越える地点もありますが、それ以外は500〜800mの比較的なだらかな山々が連なっており、それらの山間にある盆地です。

肱川はさらにその下流に向かっては谷を形成しつつ、長浜地域において伊予灘に注ぎ込みます。盆地であるため、霧が発生しやすく、肱川河口の長浜地区では、「肱川あらし」という現象が観察されます。

冬型の気圧配置が緩んだ日に、大洲盆地と伊予灘の気温差が原因で陸地において地表が放射冷却によって冷え込み、発生した霧が、一気に海側に流れ出します。河口付近まで両岸の山足が川の両岸に迫っていることもこの流出を助長しており、大規模な時は霧は沖合い数キロに達します。風速15km/h以上にも及ぶことから「あらし」と呼称されます。

市としての沿革は、1954年(昭和29年)9月1日、喜多郡大洲町を中心とする村々が合併し、市制施行して大洲市が誕生したことに始まります。2005年(平成17年)には、喜多郡長浜町・肱川町・河辺村と合併して新しい大洲市となり、現市域となりました。

台風等の来襲は少ないものの、肱川は下流で狭まっていることから、大洲盆地でボトルネックとなり、大雨が続くと増水しやすく、過去に何度も浸水被害に見舞われています。1943年(昭和18年)と1945年(昭和20年)の2度に渡って大暴風雨の被害を受け、肱川が氾濫して大洪水となりました。

このため、戦後になって治水のために肱川上流に造られたのが「鹿野川ダム」です。高さ61.0m、堤頂部の長さ167.9mの重力式コンクリートダムです。背後のダム湖の総貯水容量は48,200千m3で、愛媛県内に15ある多目的ダムの中で四国中央市にある富郷ダムに次いで2番目の総貯水容量を有するダムとなります。

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実は私の父はこのダムの建造に関わっていました。旧建設省の電気技師としての赴任であり、このダムの建造中に私が生まれました。父母と5歳上の姉が住んでいたのはこのダム付近の官舎だったようですが、私が生まれたのは下流の大洲市内にある病院だったようです。この場所は、現在消防署になっています。

私の生まれたあとも、主な買い物は市内中心部まで出てしていたようなので、私がまだ幼いころ、母はこれをしょって、市内中心をあちこちを出歩いたでしょう。グーグルのストリート・ビューなどを見ると、気のせいか懐かしいような気がします。ただ、生まれてすぐだったため、当然その記憶があるわけはありません。

ダムは昭和34年に完成しました。電気技師だった父は、その翌年に発電所が完成するのを見届け、完全な動作試験が終わるまでこの地でその仕事を続け、その後一家揃って次の赴任地である広島へ移住しました。

その後できた鹿野川ダム湖ではヘラブナが繁殖し、釣りのメッカとなりました。ちょっと昔、へら師で知らない人がいない程有名なダムだったといい、釣れたそのヘラブナの魚体は肩が張った上に肉厚で、今でもマニアの中では「鹿野川ダムのへらが日本一」と熱っぽく語られるといいます。またダム湖周辺は、県内有数の桜の名所だそうです。

この鹿野川ダムの完成によって、その後大洲市では目立った洪水は起きていません。が、その恩恵を受けて大きく発展したといった産業もなく、農業としては野菜、畜産(養豚)、かんきつ類が主で、第二次産業は、電機、製材業、歯ブラシ製造などです。

かつては、手すき和紙、木蝋(もくろう)、製糸業が盛んで、現在でも、和紙は大洲和紙として、蚕糸は良質の伊予生糸として知られています。第三次産業は観光や飲食業が主であり、県庁所在地の松山や今治などの県内中堅都市からも離れているため、その他の産業はというと、押して量るべきやです。

名産品として、「志ぐれ」があります。羊羹のような外郎のようなお菓子で、大洲市街以外に海辺の旧長浜町地域にも製造業者があり、長浜の方がどちらかというともちもちしているといいます。市内のお土産物屋でだいたいどこでも買い求めることができるようです。

このほか意外にもフグが名産だといいます。長浜沖で獲れ、昭和40年頃が最盛期でしたが、最近では漁獲高は激減しました。それでもふぐ漁専用の設備を持つ漁業者が10戸程度あるといいます。主として、広島、松山方面に出荷されますが、地元料理店にも卸されるため、長浜にはふぐ料理店も数店存在し、隠れた名物となっているそうです。

このほか、肱川の「鵜飼い」は有名です。「古事記」や「日本書紀」にも記述がある昔ながらの漁法で、鵜の食道で魚を一気に気絶させるため、傷がつかない新鮮なアユを食することができます。このため、鵜飼いで獲れたアユは天皇、貴族、大名などへの献上品とされていました。大洲藩でもこの鵜飼いで獲れたアユを上級武士が食していたようです。

明治以降は、漁法も近代化が進み一時は衰退していましたが、昭和32年に観光事業として復活。見物客は年を追うごとに増え、現在では水郷大洲市の夏の風物詩となっています。

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大洲城以外の観光スポットとしては、「お殿様公園」というのがあり、ここには国の重要文化財「大洲城三の丸南隅櫓」や国指定有形文化財「旧加藤家住宅主屋」があり、大洲城のある城山公園と結ぶ歴史公園として整備されています。

施設の整備に併せて、市民から愛称を公募し、歴史観を大切にしつつ親しみやすい名を、という観点から「お殿様公園」と命名されました。

さらに、市中心部、肱川沿いの臥龍淵に立つ臥龍山荘は、明治時代に4年の歳月をかけて建てられた数寄屋造の名建築です。このほか、肱川河口に全国的にも珍しい道路開閉橋、長浜大橋があります。1935年(昭和10年)に完成したもので稼働中のものとしては国内で唯一国登録有形文化財に指定されています。

この臥龍淵と大洲城を結んだ線の中間あたりに、「おおず赤煉瓦館」もあります。大洲は明治時代には養蚕・製糸の一大中心地として郡外からの繭も運び込まれるなど、養蚕・製糸業盛況でしたが、このために資金を提供するために開業したのが「大洲商業銀行」でした。

同銀行は主に繭を抵当として融資することが多かったことからその繭の保管も手掛けました。が、その保管場所が手狭となり、1898年(明治31年)本町の土地を購入し、倉庫と銀行本店などの一連の構造建築群が施工されたのが赤煉瓦館です。ただ、現在は銀行としては使われておらず、市が買収して観光情報の拠点としています。大洲市有形文化財指定。

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市内にはこのほか、長浜地区に古い庁舎があり、これは1936年(昭和11年)に建築された木造総2階建の旧長浜町庁舎で、入母屋造、瓦葺で昭和初期の洋風庁舎建築です。また、同じ長浜にある末永家住宅旧主屋は、1884年(明治17年)に建築された木造二階建であり、両者とも国登録有形文化財に指定されています。

このほか、長浜沖の伊予灘には青島という小島があります。もともとは無人島で、江戸初期に鰯の好漁場であることがわかり、漁師が住むようになりました。現在でも、一本釣、建網等の漁業が中心の島です。現在、漁師を含む50歳代から80歳代の島民が15名ほどいらっしゃるようですが、これに対して猫が100匹以上も生息している「猫の島」です。

島民の数が50名を割った10年ほど前から逆に猫の数が増え始めたといい、猫の生態を撮影した写真がブログなどに転載されたことで一躍注目を集めるようになり、猫好きの観光客が猫目当てに次々と訪れるようになりました。ただ、住民の半数は「猫嫌い」だそうで、「でも、なんとなく共存してきた」のだとか。

その他、大洲といえば、やはり「おはなはん」です。市中心部に「おはなはん通り」という通りも整備されており、なまこ壁の家や腰板張りの土蔵群などが並びます。1966年(昭和41年)から翌1967年(昭和42年)にかけて1年間放送されたNHK連続テレビ小説の第6作である「おはなはん」のロケ地でもあった場所です。

明治中期の愛媛県大洲市出身の茶目で明るい主人公・はなは、軍人とお見合いで結婚し子供も授かったが夫は病で他界してしまいます。女手一つで子供たちを育てながら、幾多の困難を乗り越えて成長していく、というストーリーです。

1966〜 67年の平均視聴率は45.8%、最高視聴率は56.4%もあり、また昭和41年5月に四国放送の行った徳島県内での調査では64.7%に上りました。

放映当時、その人気故に毎朝放映時間になると全国で水道の使用量が激減する、という現象まで全国で見られたといいます。食後の跡片づけの合間を縫って皆この番組を見たのでしょう。それほどの国民的人気ドラマでした。

また最近でも、朝日新聞のが行った「心に残る朝ドラヒロイン」アンケート(2010年9月)の結果では、本作の主演、樫山文枝が堂々の第1位になっています。

このドラマでは、夫の速水中尉は、高橋幸治が演じました。樫山さんは現在73歳ですが、ドラマでも時々出ているようです。しかし、現在80歳の高橋さんのほうは、90年代以降寡作となり現在はほぼ引退状態のようです。

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原作は、随筆家、「林謙一」によって書かれ、「婦人画報」、昭和37年4月号で発表された、「おはなはん一代記」です。モデルは林の母・「林ハナ」であり、旧姓は深尾といい、明治15年(1882年)に生まれ、昭和56年(1981年)に99歳という高齢で亡くなっています。

この原作は、「おはなはん」が放映される前の1962年11月2日に、同じNHKで単発ドラマ「おはなはん一代記」として一度放映されていました。「深尾ハナ」の名はテレビドラマでは「浅尾はな」と変更され、主演は森光子が演じ、林中尉は速水(はやみ)中尉と変更されて神山繁が演じました。第17回芸術祭奨励賞受賞をするなど評判の高い作品でした。

このドラマで森光子が主演を務めていたことから、その後の連続テレビ小説の方でも森が主演となる予定でした。が、撮影開始直前の1965年11月に急病(乳腺炎)により降板し、急遽白羽の矢が立ったのが樫山文枝でした。

この「おはな役」は彼女の当たり役となりましたが、以後のNHKの朝ドラでは、彼女のようにけっして美人ではない(?)ものの、お茶の間の誰にも愛される親しみやすいキャラクターが選ばれることが多くなりました。

実際の、深尾ハナも人々から「おはなはん」と親しみを込めて呼ばれていたようです。長じてから徳島市の旧・安宅村生まれで育ちの林三郎陸軍中尉(のちに大尉)と結婚し夫の赴任先である東京に上京し生活を始めました。

しかし、25歳のときに数え3つの長男と長女を残して夫が急死。以降女手一つでたくましく子供たちを育てて行く、といった人生はドラマそのままです。「おはなはん一代記」では、その彼女の生涯を忠実に追っていますが、ドラマ化されたときには、その舞台がハナが実際に生まれ育った徳島市の旧富田浦町から、宇和島に変更されていました。

徳島市で撮影しようにも、昭和20年7月の徳島大空襲により市街の大部分が焼失しており、明治時代の雰囲気が徳島市では再現できないという理由からでした。

さらに連続テレビ小説「おはなはん」でも、同じ理由でその舞台は大洲に変更されました。また、おはなはんの夫の速水中尉の実家も、実在の林三郎中尉の実家が徳島市内の安宅町というところであったにもかかわらず、ドラマでは鹿児島県の生まれと変更されました。

これらの変更は、公式にも「戦災で徳島の古い街並みがほとんど失われたため、古い街並みの残る大洲が選ばれた」とされていました。しかし、一説には撮影に際して徳島市が費用などの便宜に難色を示したからだともいわれています。

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ドラマの撮影が決定後、大洲市ではさっそく「おはなはん通り」を整備して観光に活用し、さらにドラマがヒットしたことから、その後も多くの観光客を呼び込むことに成功しました。一方、ロケ地とすることを断った一方の徳島市民および徳島県民は、このことをのちのちになって地団太を踏んで悔しがったといいます。

そのために当時の豊田徳島市長は、県民に尻をたたかれる形で、当時東京都信濃町に住んでいた林ハナさん宅を訪れ、徳島県への里帰りと県民への顔見せを直訴をするハメに追い込まれました。

このとき林家を訪れた徳島市長は、「この旧盆には市発展のためせめてお里に帰って県民にご尊顔を……ぜひ徳島にお帰りなして。県民が承知しまへんのや。」とやって、ハナさんに里帰りを懇願したといいます。

しかし、その後、ハナさんが徳島へところ帰ったという話はないようです。ただ、今でも徳島市内には、おはなはんゆかりの場所が残っているらしく、それを売りにした観光開発の動きがあるとのことです。

そのひとつは劇中の名場面とされるシーンであり、おはなはんが人力車に乗ってやってくる見合い相手の陸軍中尉を見つけようと、和服姿で自宅の木に登ったという場所です。

この木があったという屋敷はもうないとのことですが、この場所に銅像を建てようという話も持ち上がったとかで、そのほかにもおはなはんが通った母校なども残っているため、これらの場所も合わせて観光ルートを創ろうとかいった話が今もあるようです。

市のシンボルである眉山、徳島城跡以外では、名物の阿波踊りのほかもひとつ、パッとした観光資源のない徳島市としては(徳島の方スイマセン)、現在でも人気のあるおはなはんにどうしてもあやかりたい、ということなのでしょう。わからなくもありません。

一方の大洲のほうは、最近大洲城も再建されたことも手伝って、人気がさらに高まっているようです。上述のような観光スポットのほか、江戸及び明治の面影を残す町並みが数多く残っており、腰板張りの武家屋敷などは、同じく人気のある萩に通じるものもあり、小京都の風情を感じることができるといいます。

最近、大洲には「おはなはん通り」以外にも、「ポコペン横丁」なる昭和30年代のレトロ空間を整備して観光地としてアピールしているようで、中華そば、コロッケ、焼き鳥、ラムネ、おもちゃ、骨董品、昔遊び等のお店が軒を連ね、懐かしさが漂う場所のようです。

このほか、大洲市では上述の「肱川あらし」が起こる時期に発生しやすい「雲海」を売りにしています。

市内東の高台にある大洲市藤縄には「雲海展望公園」が整備されていて、ここからは10月~2月にかけて、天気のいい日の早朝に町内の小高い丘に登れば、この雲海を目にすることができるといいます。壮大にして神秘的な自然現象である雲海をぜひこの目で見てみたいもの。

実は私は生まれてこの方、一度もこの生地に里帰りしていません。今日この町のことを長々と書いてきたのも、そこに対するノスタルジックな感傷気分が多少あるからにほかなりません。

9年前に亡くなった父は、生前その生まれ故郷である満州の土地への里帰りを切望していましたが、晩年になってそれを実現しました。

父のその夢を実現した年齢にはまだほど遠いものの、私もだんだんとそれに近い年齢になりつつあり、やはり親子は似る、というか、人間は誰でも老いると、原点に戻りたくなるものなのでしょう。

大洲への帰還は、父が夢見た満州への里帰りほど難しくはないものの、今はまだ何かと多忙であり、行くとしても来年以降になりそうです。しかし、あれこれと言っているうちにすぐにでも還暦になってしまいそうです。せめて60の大台に乗るまでにはぜひ実現したいもの。

じゃあ、その還暦を迎えるのはいつなのよ、というご質問にはお答えせずに、今日の項は終わりにしたいと思います。

大洲を訪れるのはみなさんのほうが早いのかもしれません。

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マイルドてんてん

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最近、2005年に製造が中止になった、犬型ペットロボット「AIBO」に対する修理依頼が増えているといいます。

生産が中止になったあとも、ソニーは修理対応をしていましたが、それも2014年3月末で打ち切られたため、故障したAIBOの修理は困難となり、「死なないペットロボット」であったはずのAIBOに実質的な「死」が訪れることとなりました。

ところが、千葉県習志野市の電子機器修理会社がこのAIBOの修理を行ってくれるという口コミが広がり、修理依頼が殺到。

1999年に発売され、家庭向けロボットの先駆けとなったこのアイボの修理は、ソニーを退社したOBたちが立ち上げたこの会社にとっても初めてだったそうですが、社長は「やってみよう、道は必ずある」と引き受けたのが始まりだといいます。

ソニー時代のつてをたどって情報を集め、数カ月かかって何とか修理に成功。それが口コミなどで広がり、同社には全国からアイボの修理依頼が舞い込むようになり、これまで200体近くを修理しましたが、まだ260体余りが修理待ちの状況だそうです。

しかし、いずれ修理部品の枯渇は見えており、やがてこの会社での対応も行き詰ると考えられます。今年の2月には、飼い主によってAIBOの「合同葬儀」が執り行われたとい、これらのAIBOは、今後、故障した他のAIBOの「ドナー」となるといいます。

このアイボを創ったソニーは、トランジスタラジオ、トリニトロンカラーテレビ、ウォークマン…と数々のヒット家電を生み出してきた日本を代表する家電メーカーですが、ちょうどアイボの販売をやめた2005年ごろから元気がなくなりはじめました。

10年ほど前に退社した社員によれば、「社内が、売り上げなどお金の話ばかりになってきた」といい、昔は「お客さんにどういうサプライズを与えるか」を絶えず考えている会社だったのに」とかつての勤めた会社の凋落ぶりを嘆いています。

このソニーと入れ替わるように飛躍したのが米アップル社であり、2007年にスマートフォン時代の幕開けとなる初代「iPhone(アイフォーン)」を発売し、現在も日本国内のスマホの約6割を占めるまで業績を伸ばしました。

ソニーは、革新的な企業というお株をアップルに奪われた格好であり、ここでようやく、一つの技術が一つのヒット商品を生み出せる時代ではないと気づいたようです。

また、優れたハード、ソフト、デバイスを結集させ、さらにそこに「魅力」を醸し出すなんらかの「スパイス」を添加することができた企業だけが生き残れると考えるようになったようです。

このため、約1年前に、新規事業の開発につなげる“オーディション制”を取り入れました。100人程度の参加を見込んだこのプロジェクトの説明会には1200人もの応募があったといいます。

現在では、3ヶ月月ごとに新たなアイデアを募集し、合格した案件も3ヵ月枚に進捗状況をチェックしているそうです。このプロジェクトとは別に、30代の社員が着想した「電子ブロック」も市販の準備に入っています。

「MESH」というLEDや加速度センサーなどを備えたブロックを組み立てるDIYキットだそうで、タブレット画面上でアイコンをリンクさせるだけで連携して動かすことができるといい、これを使えば、レゴのように簡単に電子機器を自作できるようです。

かつてプレイステーションやネット銀行を世に送り出した「革新力」が胎動し始めているのでは、と業界からは期待を込めたエールがソニーに送られています。日本を代表するメーカーとして、ソニーは好業績だけでなく、常に革新につながる何かを期待される宿命を負っているといえるでしょう。「攻め」に転じるのはこれからなのかもしれません。

それにしても、アイボという製品を世に出し、「ペットロボット」というジャンルを確立した功績は大きいといえます。それまでにも類似の商品がなかったわけではありませんが、受け身ではなく自律稼働する装置が家庭に持ち込まれ、これを「ペット」と称した点は革命的でした。

「電気製品の日本」「ロボット大国日本」のイメージを世界に向けて強く発信したという面も功績の一つだといえ、おそらくはエンターテイメント装置としては歴史に残る金字塔を打ち建てた、といっても過言ではないでしょう。

近年では、このAIBOに代わるロボットが次々に登場しており、一般家庭に愛玩品や娯楽品、果ては「家族」という位置付けで、家庭の構成員すべてに愛されるべき様々な家庭用ロボットが発売される時代に入ってきました。

これらは人間とコミュニケーションを取ったり、自由に動き回って目を和ませたり、更には「ロボットの居る生活」という「近未来的な暮らしをしたい」という欲求に応えているといえます。人間型も増えてはいますが、動物型の方が多く、これらは主に、「ペット」という性格付けが強いことから、人間型よりも多く市場投入される傾向にあるようです。

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この「家庭用ロボット」というヤツですが、本来はその動作を持って人の役に立つ事を求められる機械装置です。1960年代以降、SF小説や漫画・テレビアニメ・映画等でロボットが活躍する作品が増えるにつれ、こうしたロボットの動作している所を見たい・自宅に置きたいと考える人が増えました。

その潜在需要は次第に巨大な市場基盤を形成していき、1980年代から1990年代にかけては、潜在的な市場はさらに奥行を深め、人々をロボット展示のあるイベント会場や博物館に駆り立てました。しかし、制御するコンピュータの製造・運用コスト的な問題から、一般家庭に普及するにはあまりにも高価過ぎました。

また家庭進出を目指した先駆的製品では、高価な上に機能的には非常に限定された物で、使用するにはかなりの技術知識を要する物でもあることから、ほとんど普及する事はありませんでした。

その一方、「ロボットが欲しい」という欲求は衰える事は無く、ロボットと称した単なるラジコンやマイコン制御で簡単な動作を繰り返すおもちゃは数多く発売され、消費者の購買意欲を度々煽ってきました。

しかし、操作が複雑なわりには自動的に何かをやってくれる訳でもないこれら製品は、飽きられるのも早く、次々と新種の製品が出ては消えていきました。しかし新しいものがでるたびに、多くの購入希望者を出していたことは事実であり、「ロボット」という分野の市場を広めるという意味ではある程度の成功を収めたといえるでしょう。

そして、1990年代からは急速に、コンピュータの低価格化と高度・小型化が進みました。この中で1997年にAIBOが発表されるやいなや、なんだ、今はもう「本物のロボット」を“飼える”時代になっていたんだ、と人々は気づきました。

誰もがロボットを家に置く、ということは夢ではなく現実的な話だ、と誰もが思いはじめました。そして、個人的な玩具としてのロボットに寄せる期待は高まりに高まり、その期待の高さはAIBOの初売りの時に表出しました。

日本時間で1999年6月1日の午前9時にインターネット上でのみの販売で、一台25万円(動作を編集できる別売キットは5万円)もするこの製品は、計5,000台(日本国内3,000台・米国2,000台)が受付開始後たった20分で完売しました。

AIBOは、自分で判断して行動する他、持ち主が一緒に遊んだり、叩くなどの動作・声や音・光に反応する機能を持っており、これによって動作状況が変化するといった「動物的な反応」を主な機能にしていました。しかも各家庭のそれぞれ違う環境に応じてです。

言い換えればこれを「性格」とも考えることができ、そこが単なる機械ではなく、「ペット」として広く受け入れられた理由でしょう。それ以外にはちょっとしたゲーム的機能があるだけで、何等かの家事を分担させられるような、実用を目指した物ではなかったにもかかわらず、販売を開始した1999年以来、あわせて15万台以上を販売したといいます。

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この成功を受け、その後ソニー以外の会社もこうしたロボットの開発に取り組むようになりました。その多くはAIBOのように犬や猫など、ペットとして親しまれている動物の形状をしたもの、あるいは、何らかのキャラクターを模したものなどが多く、「顔(頭部)」・「2つの目」・「手や足といった棒状の機能部分」を持っているのが特徴です。

コミュニケーションを取る際に何らかの意思表示を音声以外で行うものも想定されており、最近は目が光ったり、口を開いたりと言った動作によって「表情」に相当する動作をさせるものも多いようです。

円滑なコミュニケーションを図る機能が想定されており、コンピューターと人間の間での情報をやりとりするためのインタフェースである、「ユーザーインターフェイス」は最近のロボットにとってなくてはならない機能です。

これにより、こうした愛玩ロボットの中にはメールをチェックしたり、扱い状況を計測することがきるようになったものもあります。例えば自分にタッチされた回数を記録し、これを独居老人の安否情報として看護施設に送信したりする、といった機能がそれです。

また、動物アレルギーの人でも、」いわゆる「癒し」とされるアニマルセラピー的な好作用をこうしたロボに求めることができます。さらには、これらの愛玩ロボに住宅内の防犯・防災機能を持たせようという製品の開発や研究が行わつつあり、センサーと連動した「防犯ロボット」などが一部では実用化されているようです。

しかし、防犯ロボットなどになると、これはもう動物ロボットの範疇を出るところとなり、相手を威嚇するという意味では少々迫力に欠けます。このため、犬猫よりもむしろヒト型の方が良いということで、人の姿をしたもの、ヒューマノイド型、アンドロイド型の家庭用防犯ロボットの開発も急ピッチで進められています。

そうした人型ロボットの最前線にあるのが、テレビコマーシャルへの出演でも有名な、ASIMO(本田技研工業)のほか、HRP-2/HRP-3(川田工業・産業技術総合研究所・川崎重工業)、SDR-4X/QRIO(ソニー)・PALRO(富士ソフト)といった、二足歩行可能な人型ロボットです。

オーケストラを指揮したり、TPR(トヨタ)等のトランペットを吹いたり、ドラムを叩いたりする物も登場しており、こうした企業が製作した人型ロボット以外にも、ROBO-ONEのように、個人が趣味で製作したロボットを募集して競技大会を開催する、といったことも行われるようになってきています。

二足歩行ロボットによる格闘競技を中心としたロボット競技大会であり、2002年の初開催依頼、年々参加者が増え、昨年9月に開催された第25回ではエントリー数113 台、予選参加101体の盛況を博しました。

2000年代に入り、ロボットブームが盛り上がった中で本大会は生まれたこともあり、第1回大会から広く注目を浴びることとなり、そして早くより広く一般に知られたことから、2足ロボット関連の製品などが数多く発売され、安価なロボットキットの普及にも貢献しました。

現在では長年にわたって高い知名度を持つ高専ロボコンに勝るとも劣らない知名度を持つ大会となっています。今後は、ロボット競技としては異例とも言える宇宙を舞台にした宇宙大会も計画されており、ここから新たな分野のロボット産業が生まれていく可能性もあります。

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これら人の形を目指したロボット開発は、古くからのSF作品で描かれた「人間社会に溶け込んで、人間と共同作業や共に生活するロボット」というイメージに沿ったものです。日本においては「鉄腕アトム」に触発されて二足歩行ロボット開発の道に進んだ、とする技術者も少なくありません。

前述のASIMOの開発陣のメンバーの多くはこの「鉄腕アトム」世代だそうで、その一方で、もう少し若い世代では「機動戦士ガンダム」に代表されるような巨大ロボットに触発されたという人も多いようです。このほか川崎重工のHRP-2/HRP-3は、「機動警察パトレイバー」で有名な出渕裕がデザインを担当したことでも有名です。

ちなみに、この「機動警察パトレイバー」は近未来の東京を中心とした地域を舞台としたアニメに登場する警察ロボットで、その姿を模したHRPは、映画の「ロボコップ」を彷彿とさせます。

これらの人型ロボットは、近年のコンピュータの高度化に伴い、施設案内業務等の仕事を実質的に任せることもできるほど高度なものも増えてきています。ASIMOは、イベント会場の客寄せにレンタルされるなど既に実用化されているといってよく、2002年にはニューヨーク証券取引所で、史上初めて「人間以外では初めて」取引開始の鐘を鳴らしました。

最近では日本科学未来館・ツインリンクもてぎ・鈴鹿サーキットホールメープル・Hondaウエルカムプラザ青山に常設され、訪れた人々の間を歩き回ったりもしています。

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このほか、最近ソフトバンクの宣伝でよく見るようになった、pepper(ペッパー)もほぼ実用化を達成した人型ロボットです。「感情認識ヒューマノイドロボット」とされ、これはフランスのアルデバランロボティクスと同社に出資するソフトバンク傘下のソフトバンクモバイルにより共同開発されました。

「感情エンジン」と「クラウドAI」を搭載した世界初の感情認識パーソナルロボットだということですが、ヒト型ロボットといいながら足がありません。これは、二足歩行機能とすると連続稼働12時間以上の実現が難しくなるためと、コストを削減するためであり、このため、販売価格は19万8000円(税抜)とかなり健闘しました。

これは1999年に発売されたAIBOが、動作編集キット込みで30万円もしたのと比べれば格安といえるでしょう。開発者向け初回生産300台が今年の2月27日に開始されましたが、ものの1分で売り切れになったといい、また先の6月20日に開始された一般向け販売1000台に関しても、受付開始1分で完売となりました。

現在、Pepperの生産体制では、月間で最大でも1000台が生産台数の限界とされているため、次回以降の販売についても1月当たり1000台程度になるとみられているようです。

既に2014年末からはネスレ日本のネスカフェにおいて、接客を開始しており、このほかカラオケ店JOYSOUND八丁堀店で夜間の接客が始まっていますが、こうして購入されたペッパーが町のあちこちで見られるようになる日もそう遠くないでしょう。

従来、家庭向けといわれるロボットは、自律的な動作しない「玩具」に分類される物多く、大半が動物型でしたが、人工知能の研究が深まるとともに、このペッパーのような人型タイプが増えていく傾向にあるようです。人類が四足で歩くサルから進化してきたように、ロボットも進化しているというわけです。

動物型と違って、「友達」感覚で対話が楽しめるのもこうした人型ロボットの特徴です。各種イベントで登場し、歩き回りながら、人間と「コミュニケーション」をとるものも多くなり、家庭用ロボというよりは「エンターテインメント・ロボット」と呼ばれることも多くなってきました。

従来の家電製品・玩具・家具・インテリア・情報機器(パソコン・テレビゲーム等)のいずれにも属さない、かなり新しいジャンルの工業製品であるといえます。Pepperに代表されるようにそれなりに価格も手ごろとなり、高価なわりには機能が低く、しかもただのペットにすぎなかったAIBOとはまた一味違う魅力があります。

しかし、こうした家庭で用いられるロボットでは、安全性が最優先となります。もし誤動作して家庭内の器物を損壊させたり、人だけでなく、それこそ本物のペットに怪我を負わせるなどした場合は、メーカー側の責任を問われる事にもなりかねません。

ただ、現在のエンターテインメント・ロボットでは、自意識が存在せず、動力もさほど強力ではないため、過度の気遣いは必要ないかもしれません。が、いずれはさらに高度化するに伴って、さらに高知能を持ち、かつ大型化、強力化される可能性もあります。

こうなると、古くからSFで問題視される「フランケンシュタイン・コンプレックス」の発端に成りかねないという意見もあります。これは、自律性を持つ人間の創造物に、人間が迫害されるかもしれないという懸念です。

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ただ、そこに至るまでにはまだまだ相当時間がかかるでしょう。現在開発が進められているエンターテインメント・ロボットでは、むしろそうした懸念よりも人間といかに自然なコミュニケーションを取れるようになるか、といった機能が重要視されており、ロボットを人間に近づけるためには、このことが最重要課題といわれています。

人間は感情の生き物であるわけですが、それら感情をロボットが感じ取り、適切な応答を返す事が求められているわけです。ということは楽しい愉快だといったことばかりではなく、悲しい寂しいといった感情のほか、「怒り」もその対象に含まれます。このため、その一端として「口喧嘩する事の出来るバーチャル・キャラクター」の研究も行われています。

が、現段階では予測された範囲内でしか対応できない事もあり、対話しているとわけのわからないことで怒りだすので、「別の意味で苛立つ」といった問題もあるようです。

ただ、将来的には声の抑揚だけではなく、表情や仕草でも感情を読み取り、予め適切であるとしてプログラムされた物であるにせよ、それに対して自身の感情を身振りでも表現する事の出来るような対話型ロボットが登場するのではないでしょうか。

この他にも、連続して動作させるために「空腹」を感じて自分で充電する機能や、学習した情報を適切に処理して行動に反映させていく機能、少々乱暴に扱われても自分で対処する機能も必要です。

さらには、屋内のどんな環境にも対応できる必要があります。そのロボットを置くためにわざわざ部屋の大改装が必要になる、といったものは困りものであり、引越ししたら使えなくなったというのも問題です。家屋内の何処のどんな環境でも対応できる、自在に環境に対応し得るだけの判断力も求められています。

そうした中においても人間との対話は不可欠であることから、上述のユーザーインターフェイスの開発はとくに重要です。言語によるコミュニケーションが想定される一方で、仕草や表情と言った、人間間で重視される非言語的なコミュニケーション手段も必要とされており、場合によっては「手話」ができるロボットも必要かもしれません。

しかし、その一部ではなまじ人間に似た外観を目指したために、いわゆる「不気味の谷現象」を起こすものもあり、この辺りの改良も視野に入れて研究が進んでいます。

不気味の谷現象というのは、はロボットや他の非人間的なものに対する人間の感情的反応です。一般に、外見と動作が「人間にきわめて近い」ロボットと「人間と全く同じ」ロボットは、見ればすぐにわかります。

その見る者の感情的な反応をポリグラフのようなもので測定してグラフ化した場合、著しく「感情が低下する」ケースがあり、これが「不気味の谷」です。

いわゆる「嫌悪感」というヤツで、人間とロボットが生産的に共同作業を行うためには、人間がロボットに対して親近感を持ちうることが不可欠ですが、この不気味の谷に陥った「人間に近い」ロボットは、人間にとってひどく「奇妙」に感じられ、親近感を持てません。

この現象は、対象がある程度「人間に近く」なってくると、非人間的特徴の方が目立ってしまい、観察者に「奇妙」な感覚をいだかせるために起こります。一方、対象が実際の人間とかけ離れている場合、人間的特徴の方が目立ち認識しやすいため、親近感を得やすくなります。これはつまりは、マネキン、あるいは死体とゆるキャラの違いに似ています。

ヒューマノイドが多くの不自然な外観を見せるのは、病人や死体と共通するためであり、こうした場合にはロボットに対して同じような警戒感や嫌悪感を抱きます。しかも死体の場合、その気持ち悪さはわかりやすいものですが、ロボットの場合は、それがいったいなぜ気持ち悪いのか、明確な理由がわかりません。

ゆえに、実際の死体よりも不気味に感じることさえあり、動作の不自然さもまた、病気や神経症、精神障害などを思い起こさせ、時に不快な印象を与えます。ロボット開発における不気味の谷の最大の問題は、この不快だ、不気味だ、と思う感情をどうやったらV字回復できるかという点です。

というのも、本当に完全な人間に近づけば好感度が増すのか、それとも「人間と全く同じ」にすれば好感を持ってくれるのかがわからないのです。なぜかといえば、まず、これまではまだ「人間と全く同じ」ロボットが作られていないため、それがどの程度不快なものなのかが誰にも分かりません。

たとえ「人間と全く同じ」だとしても、ロボットだと聞いたとたんに、なーんだ、ロボットじゃん、と不快感を持つ可能性もあり、ロボットが完璧すぎることがその答えとはいえないわけです。また「限りなくロボットに近い」ものができたとしても、それはどこかやはり人間と違うものであり、いつかどこかで親近感を失う可能性があります。

こうした研究は進みつつあるようですが、いまだ確固たる結論が出ているわけではありません。ただ、最近はCGにより「人間臭さ」を表現する手法の研究が進んでおり、不気味の谷に落ちないように人に良い感情を抱かせるため、登場人物の人間的な特徴のどこを少なくすれば良いのか、といった知見がかなり蓄積されてきています。

3D技術を使ったバーチャルなキャラクター開発も進んでおり、近いうちにはこの不気味の谷問題にも解決の糸口が見つかるかもしれません。

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ところで、こうした人型ロボットではありませんが、最近、極めて「動物に近い」ロボットがアメリカで開発されて話題になっています。ビッグドッグ(BigDog)という愛称が付けられており、2005年にアメリカのボストン・ダイナミクス社とジェット推進研究所、ハーバード大学が開発した四足歩行ロボットです。

ビッグドッグは起伏の多い地形で歩兵に随伴出来る輸送用ロボットとして用いるため、米軍の国防高等研究計画局による資金提供で開発されたため、カテゴリーとしては「軍事ロボット」ということになります。

テレビのニュースでご覧になった方も多いかもしれませんが、その歩行の様子は幾つかの動画共有サイトに掲載されています。まるで向かい合った二人の人間が足踏みしているかの様な、機械とは思えぬ特徴的なロボットでそのユーモラスな動きが話題を呼んでいます。

荒い砂利道、雪上、砂浜、及び海の浅瀬などでも問題無く歩行でき、また、歩幅が非常に小さくはなるものの、急な勾配も登る事ができます。35度の傾斜を登る事も可能であり、かつて軍馬が担っていた勾配のある不整地での物資輸送を担うことが期待されています。

横から胴体部分を蹴られても倒れる事無く即座に姿勢を復元でき、氷上で足を滑らせても素早く体制を立て直す事で転倒にはいたらず、その姿勢制御技術の高さは見事です。転倒対策に半円のボディを採用し、転倒時は反動を利用して自力で起き上がることができるためです。

また、通常は左右の脚を互い違いに進ませて歩行しますが、馬のギャロップの様に疾走させ、ジャンプして障害物を飛び越えさせる実験も行われており、現時点では脚を素早く動かし時速8km(5マイル)の速さで走ることもできるようになりました。

荷物を積んだままの歩行もできます。車輪では走行不能な地形において、154kgの荷物を搭載したまま時速5.3kmでき、最近では180kgの荷物搭載で30km踏破する事が可能になったそうです。30kmというのは一回の燃料補給で走る事が出来る距離であり、燃料を足せばさらに長距離を歩く事ができます。

取り付けられた一本のアームでコンクリートブロックを掴み、それを放り投げることもでき、ブロックを投げる際、人間の運動選手が行う様に脚や胴体を総合的に使う事もできるようです。

さらには、GPS機能を使用し自動で目的地へ移動する事もでき、兵士を認識して追尾する機能も備えるといい、足には姿勢制御用の接地センサーを持ち、レーザージャイロとステレオビジョンで地面の傾きなどを把握できるともいいます。ここまでくるとまさにハイテク技術を駆使した大型ロボット犬です。

既に2012年からアメリカ海兵隊で運用試験が始まっており、音声指示が可能となっているほか、既に今年あたりから実運用開始が開始されたという情報も入ってきています。

15馬力の2ストローク単気筒ガソリンエンジンを搭載し、毎分9000回転で油圧ポンプを駆動することで作動します。これにより作られた油圧で各脚4本、合計16本の油圧アクチュエータを作動させ、スムーズな歩行を実現しているそうです。

「大きな犬」という名称ですが、サイズは子牛ほどもあり、全長約1m、高さ約70cm、重量約110kgもあります。Calf(子牛)のほうがより適切なネーミングのような気もしますが、これをビッグ・ドッグとあえて呼ぶのはアメリカ人なりのユーモアでしょう。

アメリカではこのロボットのような特殊用途のロボットも数々研究されているといい、二足歩行のPet-Proto、PETMANなどが存在します。Pet-Protoのほうは、上述のHRPに似ていますが、PETMANのほうは、まさに「ロボット兵士」と言った趣です。

このほかビッグドッグを小型化した、その名も「リトルドッグ」というものもあり、こちらも同様に不整地踏破性が強く、学習機能により的確な接地点を判断したり、姿勢制御や踏み外した時での復帰制御、踏む力の自動調整などに優れ、動作も高速です。

さらに小型化された高速移動を重視したタイプに「ワイルドキャット」と言うモデルも開発されているようですが、これこそネコというよりも、「ドッグ」と言った感じです。

ちかいうちに、さらに小型のネコ型高速ロボを開発して欲しもの。うちのテンちゃんを模した、「マイルドてんてん」というネーミングはどうでしょう。一緒に走れる日が来ることを夢見ましょう。

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後半戦の行方

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7月になりました。

後半戦の始まりです。

今日7月1日は、半年という区切りの初日であり、何かと新たにスタートさせたい、という向きも多いらしく、やたらと記念日が多い日でもあります。

いちいち取り上げるのも面倒くさいので、数だけ数えてみると、18~19ほどもあり、さらに、富士山の山開きや、暦の半夏生(はんげしょう)も入れると20を超えます。

これは雑節(二十四節気などの暦日のほかに、季節の移り変りを感じるために設けられた特別日)の1つで、半夏(烏柄杓)という薬草が生える頃だそうです。

また、その名もハンゲショウという、草の葉が名前の通り半分白くなる草をご存知の方も多いと思います。この草の葉が今頃からこのように半分「化粧」しているようになるためこの日を「はんげしょう」と呼ぶのだともいわれます。

この頃に降る雨を「半夏雨」(はんげあめ)と言い、大雨になることが多いようですが、農家にとっては大事な節目の日で、この日までに「畑仕事を終える」「水稲の田植えを終える」目安で田植えなどを終わらせ、この日から5日間は休みとするところも多いようです。

この日は天から毒気が降ると言われ、井戸に蓋をして毒気を防いだり、この日に採った野菜は食べてはいけないとされたりしたようです。また、三重県の熊野地方や志摩地方の沿岸部などでは、「ハンゲ」という妖怪が徘徊するとされ、これは7月になってもまだ田植えなどの農作業を行うことに対する戒めから来ているようです。

これらの言い伝えは、7月に入ると急激に気温が上がり、梅雨も明けて太陽が燦燦と注ぐようになれば、何かと体調も崩しやすい、といったところから来ているのでしょう。

この7月以降の後半戦にどんなイベントがあるかといえば、今年は、8月15日が土曜日なので、これに合わせてお盆休暇が取りやすくなります。また、翌月の9月19日(土)~23日(水)が、2009年以来の「シルバーウィーク」であり、5連休になります。さらに24日(木)、25日(金)を休めば9連休にもなります。

また、お盆といえば、やはり日本人としては、今年が第二次世界大戦・太平洋戦争終結から70年という節目の年であることも気になります。8月の終戦記念日には全国で大々的なイベントがいろいろ行われるでしょうし、被爆地である広島や長崎でもしかりです。

9月2日は、日本の降伏文書調印により太平洋戦争終戦した日でもあり、この日にもいろいろあるに違いありません。9月5日は、日露戦争における、日露の和解のための条約、日露講和条約ポーツマス条約が締結された日であり、今年はちょうど110年目にあたるため、こちらも何かとイベントが催されるでしょう。

さらに、12月8日は日韓国交正常化から50年という節目であり、これへ向けて日韓それぞれの思惑で物事が動いていくことでしょう。

それ以外は、というと、7月28日~8月8日まで、世界スカウト機構主催の第23回世界スカウトジャンボリーというものが、山口県のきらら浜で開催されるそうで、これは4年に一度のボーイスカウトの世界大会だそうです。

いったい何をやるのか、と調べてみたところ、スカウト一人ひとりが新しいアクティビティを体験したり、様々な冒険的アクティビティで肉体的、精神的課題に挑戦する、などだそうで、また、チームワークスキルを身につけることも目的とされているようです。

元々は参加国内だけの同一人種だけのチームワークを築けばそれで済むわけですが、世界大会ともなると国際的な協調性も必要になる、というわけです。また、様々な奉仕活動を行ったりもし、奉仕活動の内容は、森林の遊歩道整備や学校の修復、動物のための草のトンネル作りなど多種にわたるといいます。

今年の日本での大会は、約2週間に渡り全世界(世界スカウト機構加盟国)から約3万人の青少年が参加する予定だそうで、スローガンは「和: a Spirit of Unity.」。会場となる山口市きらら浜は広島市にも近いことから、「ピースプログラム」という平和のためのプログラムが設定される予定となっているそうです。

組織委員会総裁は、森喜朗元内閣総理大臣であり、他に顧問として、麻生太郎、羽田孜(ともに元内閣総理大臣)などがおり、また、「名誉会長」として地元の安倍晋三総理も参加するとのことです。

日本での世界スカウトジャンボリー開催は、1971年(昭和46年)に静岡県朝霧高原で開催された第13回世界ジャンボリー以来のことだといい、どんな盛り上がりになるのでしょうか。

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このほか、年内にはアラブ首長国連邦のドバイに建設中の、世界最大のテーマパークおよびエンターテインメント施設である「ドバイランド」が開園するそうで、これは約50億ドル(約5850億円)の投資で建設が開始されたもので、敷地の総面積は現在世界最大の面積を誇るテーマパーク、ウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートの2倍に相当します。

内部は遊園地やホテル、スキー場、映画館、オフィス街、博物館など様々な施設が建設されているそうで、短期目標としては1500万人の観光客を集めることにしているといいます。はたして日本人で行く人はいるんでしょうか?

このほか、中国でも上海ディズニーランドが年末ごろにオープン予定だといい、他にスポーツイベントとしては、「2017 ワールド・ベースボール・クラシック」の予選大会が年内中に開催される予定であり、またに8月22日バレーボールFIVBワールドカップ2015が日本で開催。9月に「ラグビーワールドカップ2015」がイングランドで開催されます。

直近では、7月5日に女子ワールドカップカナダ大会決勝があります。なでしこジャパンは優勝できるでしょうか。

さらに、いまから2週間後の7月14日には、 NASAが9年前の2006年に打ち上げた、人類初の冥王星無人探査機ニュー・ホライズンズが冥王星に最接近します。

もう既に今年の初めの1月には、冥王星の観測を開始しています。4月後半には、送られてくる画像の画質がハッブル宇宙望遠鏡による最良のものと同等になったそうで、6月に入ってからは全ての観測機器が常時観測体制に入っています。

ニュー・ホライズンズは、冥王星大気の組成と構造を調べる紫外線観測装置のほか、モノクロとカラーの可視光カメラである、マルチスペクトルカメラを搭載しており、このほか冥王星とカロンの大気の温度・圧力・密度・温度を測定する装置も備えています。カロンは直径が冥王星の半分以上ある冥王星最大の衛星です。

図体がでかいので、冥王星とともに共通重心の周りを公転しているのでは、といわれており、このため冥王星とカロンの重力による探査機のわずかな軌道変化を測定して、冥王星、カロンの正確な質量を求めることも予定しています。

2015年7月14日、11時47分に冥王星をフライバイ(接近通過)することが既に決まっており、このとき、冥王星と衛星カロンを撮影。最接近時の距離は13,695kmで、カロンの公転軌道の内側を通ります。このときの通過速度は14km/sで、これは時速に換算すると50km/hちょっとですから、かなりの低速です。

冥王星についての詳細はまだ不明の点が多く、これはニュー・ホライズンズのような探査機などが未だに接近観測を行ったことがないことや、冥王星が遠すぎるために地球から望遠鏡で詳細に観測することも難しいことによります。

ハッブル宇宙望遠鏡が撮影した画像からでも、表面の明暗や模様などがわずかに分かる程度であり、冥王星の表面の詳細な写真を直接的に得るのは不可能ですが、この接近が成功すれば、人類は初めてその詳細な素顔を目のあたりにすることになります。

ニュー・ホライズンズには、太陽風と冥王星の大気との相互作用を調べる装置や、冥王星から宇宙空間に逃げ出した大気物質を測定する特殊装置も搭載しています。これにより冥王星の組成もまたかなり明らかになる可能性があります。

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太陽系全体を通じて見ると、冥王星はどの惑星よりも小さく、圧倒的に質量が少ないのが特徴です。それだけではなく、地球の月と比較しても質量は0.2倍以下であり、冥王星よりも質量が大きい衛星が7つもあります。

このため、2006年8月14日からチェコのプラハで開かれた国際天文学連合 (IAU) 総会で惑星の定義を決めるための議論の結果、従来の「惑星」の枠から外され、単なる「準惑星」に格下げになっています。

これまで、世界中で太陽系の9つ目の惑星として長い間親しまれてきましたが、これにより惑星ではなくなりました。この星を1930年に発見したのはアメリカ人のクライド・トンボーであり、かつアメリカ人が発見した唯一の惑星でもあるため、冥王星は発見当初からアメリカ人の誇りとされてきました。

ディズニーのキャラクターとして親しまれているプルートは、冥王星が発見された年に誕生しており、冥王星(プルート)から名前が取られました。こうしたこともあり、多くのアメリカ人はこの准惑星への格下げに憤慨し、失望や落胆、不満の声が渦巻きました。

NASAの無人探査機等の研究開発及び運用に携わる研究所、ジェット推進研究所などがあるカリフォルニア州のパサデナでは、惑星に扮した8人の科学者が冥王星の入った棺と1,500人以上の会葬者を伴って街を練り歩いたといいます。

しかし、今回のニュー・ホライズンズの接近成功で、またアメリカ国内は沸くに違いありません。だからといって準惑星への格下げが取り下げになるわけではありませんが、その成功はそれなりにアメリカ人の自尊心をくすぐるでしょう。

2015年8月後半には、接近後の探査終了し、2016年4月後半で全てのデータを送信完了する予定のようですが、冥王星軌道を通過後、ニュー・ホライズンズはさらにエッジワース・カイパーベルト内の別の太陽系外縁天体を探査することを計画しています。

エッジワース・カイパーベルトは、太陽系において、冥王星よりも内側にある海王星軌道にある、ドーナツ状の天体が密集した領域であり、長周期彗星や非周期彗星の起源と考えられています。

地球では、彗星からもたらされた物質などによって生物が誕生したという説があり、こうしたエッジワース・カイパーベルトにある天体を調べれば、地球において生命が誕生した起源となる水・一酸化炭素・二酸化炭素・メタンなどの物質が発見されるかもしれない、ということで期待されているわけです。

ただ、このブログを書いている時点では、目標となる天体はまだ公表されていないようです。NASAのHPもみてみましたが、はっきりしたことは書かれていませんでした。が、エッジワース・カイパーベルト内の太陽系外縁天体を観測は、2020年頃まで続けるということなので、一つだけではなくいくつもの天体を観測しようという気長な計画のようです。

その後は太陽系を脱出します。ニュー・ホライズンズには、星条旗、公募した43万人の名前が記録されたCD-ROM、史上初の民間宇宙船スペースシップワンの機体の一部だったカーボンファイバーの破片、冥王星を発見したクライド・トンボーの遺灰が搭載されているそうで、これらとともに永遠の宇宙の旅に出ることになります。

このトンボーのことや、冥王星のさらに詳しいことなどについては、以前書いたブログ、「幽王」でも書きました。これ以上は二番煎じになるのでもうやめましょう。

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このほかの、今年後半における宇宙イベントしては、12月上旬、日本の金星探査機「あかつき」が金星を周回する軌道への投入に再挑戦する予定です。2010年12月7日に金星の周回軌道に入る予定でしたが、軌道投入に失敗し、金星に近い軌道で太陽を周回していました。起死回生なるかどうかが注目の的です。

さらに、天然の天体ショーとして見ものなのは、8月13日 ペルセウス座流星群極大、10月22日~ オリオン座流星群極大、11月18日 しし座流星群極大、12月15日 ふたご座流星群、などです。

これらは例年の行事でもありますが、とくに今年の8月のペルセウス座流星群の極大は、月明かりがほとんどないため、好条件で観測できるということです。規模も大きくなかなか期待できそうです。蚊にさされないよう防備して、夏の夜の天体ショーを楽しみましょう。ちなみに残念ながら、今年はもう月や金星の「食」の類のものはないようです。

さらにエンターテイメントでいくと、宇宙モノではありませんが、今夏、映画ターミネーターシリーズ最新作「ジェネシス」が公開予定です。シリーズとしては第5作に相当し、三部作の第1弾となるようです。かつてT-800を演じたシュワちゃんが復帰するそうで、ターミネーターT-800は青年・中年・初老という3つのタイプが登場するといいます。

一方、宇宙モノとしては、往年の名作、「スター・ウォーズ」がこれまた3部作の第一弾として復活します。12月18日、「スター・ウォーズ・エピソード7/フォースの覚醒」として、全米と日本国内で同時公開予定だそうです。2005年公開の「スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐」以降の、なんと10年ぶりの復活です。

以下が過去の公開作品の一覧です。

「スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望」(1977年)
「スター・ウォーズ エピソード5/帝国の逆襲」(1980年)
「スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還」(1983年・旧邦題:「ジェダイの復讐」)
「スター・ウォーズ エピソード1/ファントム・メナス」(1999年)
「スター・ウォーズ エピソード2/クローンの攻撃」(2002年)
「スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐」(2005年)

なお、2008年公開のアニメ「スター・ウォーズ/クローン・ウォーズ」というのもありますが、これは番外編ということで、ここからは外してあります。

ご存知のとおり、本シリーズは、歴史物語(サーガ)の形式をとっており、1~3作目が終わるとそこから過去へ戻り、第4作目のファントム・メナスですべての物語の発端となるエピソードが綴られる形をとっています。

ややこしいのは、今回発表されるシリーズ7作目が、再度3作目の「ジェダイの帰還」の時代に戻り、その続編という形をとる、ということで、これまでの全作品を見て頭に入れておかないと、何がなんだかよくわからなくなる、ということになりかねません。

が、物語の中核はルーク・スカイウォーカーと、父のダース・ベイダーの宿命の対決です。そこを理解すれば全体像がわかり、新しい作品も楽しめるでしょう。今年公開される新作では、「ジェダイの帰還」でダース・ベイダーが、息子に討たれた後の宇宙世界の行方が描かれることになるはずです。

このあと、エピソード8、9と続く3部作の発端になる話が描かれるはずですが、ただし、いまのところ、エピソード6の「ジェダイの帰還」の約30年後から物語がスタートする、ということが発表されているだけです。このあといったいどういう展開になるのか、詳細についてはまったく発表されていません。

そもそも、このエピソード7~9というのは当初は計画されていなかったようで、エピソード6の「ジェダイの帰還」時に、ジョージ・ルーカスがインタビューされたときにその存在は否定され、公式見解でも6部作ということになっていました。

また、エピソード3の「シスの復讐」が2005年に公開されたとき、ルーカスフィルムは、これでスター・ウォーズはもう打ち止めだ、と宣言していました。

しかし、1作目にあたるエピソード4の「新たなる希望」が成功した後には、「9部作になる予定だ」と発表されていたそうです。そして、2012年10月、ルーカスフィルムがウォルト・ディズニー・カンパニーに買収されるとこの話が再燃し、これを機会に「エピソード7」の製作が決まったといいます。

2005年でシリーズが終了して以後もスター・ウォーズ人気は高く、再登場を願う声も多かったことを反映しての復活でしょう。が、無論、ディズニーとしては人気の高い同作品を復活させれば、良い興行収入が望めると踏んだのでしょう。根強いファンは多く、製作会社がどこであろうが、この復活は彼等にとって大歓迎でしょう。

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この話が決まる前から、スターウォーズについては、いわゆる「スピンオフ作品」が、コミック、アニメ、ゲーム等で発表されていました。スピンオフとは、本編から派生した作品のことで、いわば番外編とか外伝とされるものです。

スピンオフ作品としては、ルーカスフィルム自体が、「エピソード2/クローンの攻撃」と「エピソード3/シスの復讐」の間の物語として描いた上述のアニメ、「クローン・ウォーズ(2008年)をオフィシャル作品として製作公開しており、これ以外の巷のスピンオフ作品もルーカスは盗作だ、と文句を言うでもなく容認しています。

ただしルーカス本人は他人が作った「外伝」については全く関心がなく、ほとんどの作品を目を通してすらいないそうです。従って、ルーカスの影響がささやかれる新公開のエピソード7についても、これらのスピンオフ作品に題材をとった内容になる、ということはおそらくはないでしょう。

また、本作品ではルーカスはこれまでと違って総指揮をとっておらず、ディズニー支配下の今後の撮影にも口を差し挟まない、と言っているようです。ルーカスフィルムが買収されたことで内外の事情も変わってきており、ディズニーは儲かるならスピンオフ作品をどんどん出していく、という方針のようです。

このため、エピソード7に引き続き、たちまち来年すぐにでも別のスピンオフ作品が公開される予定だといいます。さらに2017年に公開予定の「エピソード8(仮称)」の翌年にもスピンオフ作品が予定されているといい、ファンにとってはこれから毎年のように新たな作品が見れる、ということでこれまた歓迎する向きも多いでしょう。

しかし、こうして今後は毎年のように同作品が「乱発」されることについては、これまでの作品に見られたような「緻密さ」「繊細さ」が失われるのではないか、とする声もあがっています。また今後は、シリーズの産みの親である、ジョージ・ルーカス自身も製作から遠のいていくことで作品の質が落ちていくことが心配されます。

ルーカスは、シリーズ5作目のエピソード5「帝国の逆襲」からは監督を後身の若手に譲り、自らは「総指揮」として、製作に関わってきました。が、今回の7作目からはこの総指揮の座も「ミッションインポッシブル・ゴーストプロトカル」や「スタートレック」シリーズの監督だったトミー・ハーパーに譲っています。

このハーパーという人がどういう人なのかについては、日本国内でもまだあまりレビューされていないのでよくわかりませんし、彼の力量もよくわかりません。今後シリーズがどういう方向に向かうのかもわかりませんが、いずれにせよ、ルーカスの手による過去の作品群に比べ、今後の作品はかなり性質が変わってくる、と考えていいでしょう。

「エピソード4」が制作された1970年代中盤というのは、ベトナム戦争終結等の社会風潮を受け、内省的なアメリカン・ニューシネマが代表の時代でした。

ベトナム戦争以前の「古きよきアメリカ」を描いた「アメリカン・グラフィティ」で一定の成功をおさめたルーカスは、かつてのアメリカ娯楽映画復権を意図し、古典コミック「フラッシュ・ゴードン」の映画化を企画しました。

しかし、様々な問題が絡みこの企画の実現が不可能となり、その設定を取り入れて自ら脚本を執筆したのが「スター・ウォーズ」でした。この作品は、現在の映画の主流ともなっている、「原作を持たない」画期的な、オリジナル企画作品でした。

それまで普通であった、文芸作品などの「原作からの映画化」という流れを逆転させ、オリジナルである映画からほかのメディアへ展開することで相乗効果を興し、これを商業的にも成功させて映画を世界的規模のビジネスに発展させた最初の成功例であったわけです。

そういう意味からすると、今回から新たに公開される作品は、既に「原作がある」ということにもなり、商業的にも目新しさはなく、古色感は否めません。新時代のスターウォーズを担う、総指揮・トミー・ハーパー&監督・J・J・エイブラムスのコンビが、そこをどう変えてシリーズに新たな息吹を吹き込んでいくかは、ある意味見ものです。

いままでのルーカス路線を踏襲しつつ、さらに徹底的に細部にこだわった造作をするのか、あるいはもっと別の大胆なしかけがあるのか、はたまた凡庸なリバイバル作品に終わってしまうのか、ファンとしては見極めたいところです。

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ジョージ・ルーカスは、スター・ウォーズの製作において、特撮映画の巨匠レイ・ハリーハウゼンに影響を受けたと語っています。「僕達のほとんどが子供の頃から彼の影響を受けてきた。その存在なくして「スター・ウォーズ」は生まれなかった。」と語っており、その影響が大きかったことを明らかにしています。

ハウゼンは、1950年代から1970年代に活躍し、多くの特撮SF・ファンタジー映画を手がけた人で、代表作として日本人にも馴染の深いのは、「シンバッド七回目の航海((1958年)や、「アルゴ探検隊の大冒険(1963年)」などです。

シンドバッドシリーズはこのほかにも「シンドバッド黄金の航海」(1973年)「シンドバッド虎の目大冒険(1977年)」などがあり、シンドバッド3部作と呼ばれています。最後の作品となったのは「タイタンの戦い(1981年)」で、これらの永年の功績により1992年にはアカデミー賞特別賞を受賞しています。2013年、92歳で死去しました。

ルーカスはこのほかにも、「普遍的な物語」を求めて、エドガー・バローズ、E・E・スミス、フランク・ハーバートなどのSF作品、グリム童話やC・S・ルイスなどのファンタジー、や各地の神話などを読み込んだといい、なかでも大きな影響を与えたのが、神話学者ジョセフ・キャンベルが神話の構造を分析した「千の顔をもつ英雄」だったそうです。

スターウォーズの中に出てくる、「フォース」の概念については、アメリカの作家・人類学者。カルロス・カスタネダの書から影響を受けたといいます。カスタネダは、「呪術師」に関する哲学的研究が多く、アメリカを中心に世界に広がったカウンターカルチャー全般、とりわけスピリチュアリズム、ニューエイジ運動に影響を与えた人として知られています。

作家のよしもとばなな、音楽家の細野晴臣もカスタネダの著作を愛読書として挙げていますが、一方ではルーカス自身は逆に日本人である黒澤明監督にも大きな影響を受けたと語っています。とくに、最初の作品、「エピソード4/新たなる希望」のストーリーは、黒澤作品である「隠し砦の三悪人」に大きな影響を受けていると言われています。

また、ダース・ベイダーのデザインには日本の鎧兜とかつてのドイツ軍のヘルメットを、アミダラ女王の服装や化粧などには日本をはじめ、アジア圏の着物や芸者の風貌も取り入れ、ジェダイ達の服装にも着物の影響が見られます。

本シリーズに登場する機械や建物は歴史感および生活感のある「汚れ(ウェザリング)」がほどこされており、これも黒沢作品に代表される日本の時代劇を研究し、そこにある「汚れ」を取り入れた結果だといいます。当の黒澤監督自身もそのことを知ってか知らずしてか、エピソード4を見て、「この映画は汚れがいいね」と評価したほどです。

過去のスター・ウォーズシリーズでは、このように徹底してリアリティーを追求しており、その手法はCG(コンピュータグラフィックス)が多く使われた新3部作(第4~6作)でも見ることができます。

いわんや、本シリーズを語る上で欠かせないのがこうしたSFX(特殊効果)です。SFXとは特撮を意味する英語 Special Effects の略語で、フィルム、ビデオ映像に対して美術、光学処理などにより特殊な視覚効果を施し、通常ではあり得ない映像を作り出す技術であり、CGも広義にはこれに含まれます。

1980年代以降は、CG映像を後から加工する技術が生まれ、それらはSFXに対してVFX(Visual Effects、視覚効果)と呼ばれています。映画業界ではSFXとVFXは別々のものとしてはっきりと区別していますが、一般には浸透しておらず混同されているようです。

ルーカスは自分のイメージを映像化するには従来の撮影技術では不足と感じ、自ら新たな特殊撮影専門の会社を設立しました。そしてこれこそが後にハリウッドSFXの代名詞的存在となった「インダストリアル・ライト&マジック(ILM)」です。

ILMのスタジオで製作された精密無比な小道具(プロップ)と、モーション・コントロール・カメラを多用した宇宙船の描写、ストップモーション・アニメーションによる四足歩行の巨大装甲車などの重量感ある動きは、SFオタク、軍事オタクを惹きつけてやみません。

また、光輝く剣ライトセーバーによる剣劇、特殊メイクによる様々なエイリアン(異星人)の表現など、従来の子供向けなチープなSF映画の常識を打ち破る斬新な映像は多くの「大人の」観客を熱狂させました。

ただ、ルーカス自身にとってはそれでも決して完全に満足できる出来ではなく、旧3部作(第1~3作)の完結後は映像技術的な限界を理由に長い空白が生じました。事実、1983年のエピソード6「ジェダイの復讐」と次回作の1999年のエピソード1「ファントム・メナス」の間には実に16年の月日が流れました。

しかし「ターミネーター2」、「ジュラシック・パーク」などの作品で培われたその後のILMのCG技術の進化によりその限界が払拭され、旧3部作「特別編」におけるトライアルを経て、全編に「CGキャラクターが躍動する」新3部作が製作されることとなったわけです。

今回から始まる新シリーズは、この新3部作の最後の作品が公開されて以後10年目の作品となり、「新々3部作」とでも呼ぶべきでしょうか。この間の技術の進歩は押して図るべきであり、最新作がどんなFSXをもって登場するのかは誰にも予測がつきません。たとえ、監督や総指揮がルーカスから変わっているとしても、そこは非常に楽しみです。

楽しみといえば、今回公開される作品では、ハンソロ役のハリソン・フォードの再出演が決まっていますが、これ以外にも、かつてレイア姫を演じたキャリー・フィッシャーや、ルーク・スカイウォーカー役のマーク・ハミルも出演するといいます。

チューバッカ役のピーター・メイヒューなども出演するそうですが、こちらはメイクでごまかせるとして、ハリソン・フォードは既に72歳、キャリー・フィッシャーは58歳、マーク・ハミルは63歳になっており、無論メイクでも昔の姿は取り戻せません。いったいどんなふうに登場させるのか興味津々です。

スター・ウォーズでは、これまで公開された全6作品全編において、登場人物の誰かが必ず「嫌な予感がする(I have a bad feeling about this.)」とつぶやきます。

はたしてその予感はあたるでしょうか。

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