6月の果て

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6月も今日明日で終わりです。

日本の神道では、年末12月の大晦日に「大祓」の儀式を行いますが、それと同じく6月の終わりにもこの儀式を行います。

いわゆる「お祓い」は浄化の儀式として宮中や神社で日常的に行われるものですが、特に天下万民の罪穢を祓うという意味で行われるのがこの大祓であり、すでに起きてしまった災厄をリセットして今後の国体の鎮守を図る意味のほか、国家共同体の構成員全員の安泰を願うための儀式です。

その昔は、参集者に向かって「祝詞をよく聞け」と呼びかけこれに「おう」と応呼するのに始まり、天孫降臨からの日本神話、罪穢の種類の列挙、そしてその祓い方と、その後祓戸大神によりどのように罪穢が消えていくかを言い聞かせる内容となっていたようです。

朱雀門の前でこれが行われました。平城京や平安京といった条坊都市の宮城(大内裏)において南面する正門です。焼失して無くなっていましたが、1964年の平城宮跡の発掘調査で確認されたのち、復元の話が持ち上がり、実行に移された結果、1998年に竣工しています。フジテレビのドラマ「鹿男あをによし」の撮影に使用されました。

平安の時代には、この朱雀門前の広場に親王、大臣(おおおみ)ほか京(みやこ)にいる官僚が集って大祓詞を読み上げ、国民の罪や穢れを祓いました。しかし応仁の乱で京都市街が荒廃すると、門前でのこのような儀式は廃絶してしまいました。

以降、神仏習合の影響もあって民間で行われることはほとんどなく、一部の神社に限り、「夏越神事」「六月祓」と呼ばれて細々と執り行われていました。

ところが、明治4年(1871年)、明治天皇は宮中三殿賢所の前庭にて大祓を400年ぶりに復活させ、翌明治5年に太政官布告を出して旧儀の再興を命じました。この太政官布告では、大祓の復活と同時に「夏越神事」「六月祓」の呼称を禁止し、この結果、民間の神社でもこの行事を「大祓い」と呼ぶようになりました。

しかし、戦後になってからは「夏越神事」「六月祓」の呼称も復活し、現在に至っています。わりとちゃんとした神社ではだいたい6月末にはこの行事をやるようです。

多くの神社では「夏越えの祓い」と称して「茅の輪潜り(ちのわくぐり)」が行われます。参道の鳥居や笹の葉を建てて注連縄を張った結界内に茅で編んだ直系数mほどの輪を建て、ここを氏子が正面から最初に左回り、次に右回りと8の字を描いて計3回くぐることで、半年間に溜まった病と穢れを落とし残りの半年を無事に過ごせることを願うというものです。

また、多くの神社では、陰陽道で用いられた呪詛を起源とする、人形代(ひとかたしろ)という白い和紙で作った人形に息を吹きかけ、体の調子の悪いところを撫でて穢れを遷し、その後に川や海に流す、ということが行われています。

この「流す」行為は、後に願掛と結びつき、同時期に行われる七夕祭と結びついて短冊を流す地域もあるようです。また、これを「食に」代えて邪気を祓うところも多く、京都ではこの夏越祓に「水無月」という和菓子を食べる習慣があります。

水無月は白のういろう生地に小豆を乗せ、三角形に包丁された菓子で、水無月の上部にある小豆は悪霊祓いの意味があり、三角の形は暑気を払う氷を表していると云われています。

この邪気払いの食習慣にあやかってか、最近、農水省の外郭団体が米食を保全・推進することを目的にした、「夏越ごはん」という行事食を広めようとしているようです。赤や緑の旬の夏野菜を使った丸いかき揚げをのせた丼飯です。

「粟」や邪気を祓う「豆」などが入った五穀ごはんに百邪を防ぐといわれる旬のしょうがを効かせたたれをかけ、かき揚げを載せるというもので、なかなか食欲を誘います。今後もしかしたらブームになるかもしれません。お宅でも試してはいかがでしょうか。

さて、明日は大祓いの日ということなのですが、今年前半を振り返ってみると、何かとそうした邪気が多い半年だったように思います。中国長江のフェリー転覆を初めとしてやたらに乗り物の事故が多く、とくに航空機にまつわる事故や事件が多かったように思います。

少し整理してみると、まず、2月4日には、乗客乗員58名を乗せた台湾の復興航空・ATR 72が台北市の松山空港を離陸後エンジン故障を起こし、緊急事態を知らせる信号を出した後、高速道路上をかすめて空港近くの川に墜落。乗客乗員58人中43人が死亡しました。

原因究明の結果はまだ発表されていないようであり、最終的な事故報告書の公表は12月ころになるようですが、現地報道によれば原因はおおむね2つあり、片側エンジンの故障および、パイロットがその警告音を聞いた際に正常側エンジンを停止させる操作を行ったオペレーションミスの、両面ではないかということです。

次いで、この事故から一週間ほど経った2月12日に、今度は日本の宮崎県えびの市で海上自衛隊OH-6DAヘリコプターが墜落。訓練機であり、機長かつ教官、と同乗者の三等海佐、学生の二等海曹3名が殉職しました。学生の航法訓練のため、薩摩半島を経由しながら北上していた時の事故であり、天候不良が原因と考えられているようです。

さらに3月5日。アメリカニューヨーク市のラガーディア空港で、アトランタ発のデルタ航空1086便が着陸に失敗し、滑走路端のフェンスを突き破り、28人が負傷。「デルタ航空1086便着陸失敗事故」と名付けられました。

この4日後の3月9日に、今度は南米、アルゼンチン北西部ラリオハ州で、フランスのテレビ局TF1のリアリティー番組撮影中だったヘリコプター2機が空中衝突。この事故では、ロンドンオリンピック 競泳金メダリストと、北京オリンピックボクシング銅メダリストらを含むフランス人の乗客8人とアルゼンチン人操縦士2人の計10名が死亡しました。

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そして、3月24日。今年前半いろいろあった事故の中では最大級にセンセーショナルな事故といえる、「ジャーマンウイングス9525便墜落事故」が起きました。

スペイン・バルセロナから独・デュッセルドルフに向けて飛行していたドイツの格安航空会社・ジャーマンウイングスの定期便が起こした事故であり、フランス南東部のアルプス山脈の標高2,000メートル付近の山に激突しました。

事故の原因は、その後解析された飛行中の通信記録やその後発見されたボイスレコーダー、フライトレコーダーなどの分析から、副操縦士による自殺だった可能性が高いことが分かりました。この事故では日本人も2人が犠牲になったこともあり、その後日本でも、操縦室内に2人以上が常駐することを暫定的に義務付けられるようになりました。

3月29日。カナダ、トロント発ハリファックス行きのエア・カナダ624便がハリファックス国際空港での着陸に失敗し、大破。23名の乗客とパイロットの2名も病院に搬送されましたが、いずれも命に別条はありませんでした。原因は機体の降着装置(車輪)が地上のアンテナに衝突したことでした。

4月14日。今度は日本の広島空港に着陸しようとしたアシアナ航空162便エアバスA320が着陸後に滑走路から外れ停止する事故が発生、22人がけがをしました。

事故原因のひとつは、事故直前に気象が局地的に急変したためと考えられていますが、それにも関わらず危険を回避した形跡がなく、事故は機長が「最終判断」を誤ったとの見方が強まりつつあるようです。

そして、今月に入っての6月3日、離陸のため那覇空港の滑走路で加速を始めた全日空機の前方上空を、航空自衛隊のヘリコプターが管制官の指示を受けずに横切るという事故がありました。全日空機は離陸を中止して滑走路上で停止。その直後、日本トランスオーシャン(JTA)航空機が同じ滑走路に着陸して止まりました。

両機は400~500メートルまで接近していたといい、JTA機が着陸やり直しを求めた管制官の指示に反した可能性があり、あわや大参事に発展する可能性もあるニアミスでした。

管制官は滑走路に全日空機がとどまっていたためJTA機にやり直しを指示したとしていますが、パイロットは「指示は、着陸後に受信した」としており、この交信に航空自衛隊のヘリコプターからの通信が混線したのではないか、といったこともいわれているようです。

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以上、今年前半の飛行機に関する事故をざっと見てきましたが、なるほど、今年は本気で大祓いをやったほうがいいわい、と思うようなものばかりです。しかし大祓いは日本の慣行なので、これを世界規模でやるべきかもしれません。

それにしても今年前半だけで既に8件が発生しており、これは直近では、2009年の年間航空機事故数12に迫る勢いです。この年も異常に航空機事故が多かった年ですが、そのうちのひとつは、1月15日に起こった、USエアウェイズ1549便不時着水事故です。

ニューヨーク発シャーロット経由シアトル行きのUSエアウェイズ1549便が、ニューヨーク市マンハッタン区付近のハドソン川に不時着水した航空事故ですが、乗員・乗客全員が助かったことから、「ハドソン川の奇跡」と呼ばれました。

また、6月1日には、エールフランス447便、エアバスA330-200が大西洋上に墜落し、乗客乗員228名全員が死亡しました。生存者はその後も発見されず、全員が犠牲になったとされ、エールフランスの75年の歴史において最悪の事故になりました。

このA330は、傑作機といわれています。従来機であるA300に比べて大幅に胴体径を大きくした関係で、無駄な空間が少なく客室やカーゴも広々としているとともに省燃費、かつハイテクを使った制御面での高い安全性をも確保しました。

ボーイングはこれを真似てB757の胴体を太くしてB767を作りましたが、結局世界的には500機程度しか売れませんでした。これに対し、A330はその派生機も含めて、2015年3月末時点で合わせて132の顧客から1501機を受注し、1174機が引き渡し済みであり、ベストセラー機といってもいいでしょう。

その人気の理由のひとつは安全性の高さでもありますが、そんな機体がなぜ墜落したのかについて、仏航空事故調査局(BEA)は、対気速度計(ピトー管)が凍結で作動せず、自動操縦が解除。操縦士が機首を上げすぎて失速、副操縦士が操縦桿を引き続けたため、機首下げによる速度回復ができず、腹打ち状態で海面に墜落した、としました。

ピトー管の故障は確かに機体の不具合ではあったわけですが、墜落に至るような致命的なものではなく、結局はこれと操縦士の不手際が重なったことが原因であり、このため、この事故調査報告書の公表はむしろ、A330の安全性が再確認された結果となりました。

A330が関係した主な航空事故・事件はこれまで、このエアフランス機の事故を含めて20件ありますが、そのうちの2件のハイジャックであり、残りの8件は、パイロットのミスです。また447便の事故が発生するまで全損した死亡事故は1機にすぎず、それも1994年の試験飛行中の機体発生したものであり、運行中に大破した機体はこれが唯一でした。

ただ、2008年10月7日に発生した、カンタス航空のA330-300が乱気流に巻き込まれて乗客・乗員に重傷者が発生した事件では、こうした気象変動に対する機体制御を行うコンピュータに問題があったことなどがわかっています。

また、2010年4月13日には、インドネシアのスラバヤから香港へ向かっていたキャセイパシフィック航空のA330-300が、左右のエンジン出力が制御できなくなり、通常の着陸速度を上回る高速で着陸したのも、コンピュータトラブルと考えられています。

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ただ、こうした不具合はほとんど現在までに修正されていると考えられ、2010年以降、甚大な事故は起きていません。

このA330を製造している、エアバス社という会社は、1960年代から続く、アメリカ企業の世界的な旅客機の独占に対して危機感を抱いた欧州連合によって、1970年12月にフランスのアエロスパシアルと西ドイツDASAが共同出資し設立された会社です。

エアバスとは、広胴型機の隆盛の初期「バスのように気軽に利用できる飛行機の時代をいう」航空用語を、そのまま社名にしたものです。

アメリカのボーイングなどと比べ新興の会社であるため、機体に先進的な設計思想や技術を取り入れ斬新な機体設計が行われています。 エアバスA320に民間旅客機初となるデジタルフライ・バイ・ワイヤやグラスコックピット、サイドスティックによる機体操縦を導入したほか、機体に新素材を導入するなど次々と新機軸を採用しました。

その結果、機体の扱い易さや燃費性能を向上させる事に成功し、これが80年代後半からの同社の躍進に繋がりました。現在、西側諸国で大型旅客機を製造しているのはボーイング、エアバスの二大メーカーだけであり、抜きつ抜かれつの熾烈な競争を繰り広げています。

ところで、このジェット旅客機という乗り物を世界で初めて実用化したのはどこの国かといえば、これはイギリスです。同国のデ・ハビランド社であり、その旅客機の名前は、デ・ハビランド ・コメットといいました。

「コメット」の名称はレース用飛行機、デ・ハビランド DH.88に続いて同社としては二代目です。このレース機は空力的に洗練された単葉双発・流線型の全木製機で、最大時速200マイル(約322 km/h)以上、航続距離2,600マイル(約4,184 km)以上という要求性能を満たすために、さまざまな新機構が備えられていました。

一方、後にDH.106 コメットと呼ばれる機体はこのDH.88の機能を踏襲しつつ、超高速で大西洋横断飛行可能な「ジェット郵便輸送機」として計画されていました。郵便物は軽荷重ですみ、旅客機に比べて安全面での制約も厳しくないので、開発のハードルは旅客機より低くすみます。

しかし、同国初のジェット戦闘機の開発に成功していたデ・ハビランド社には老舗航空会社としてのプライドがありました。このため大型の「ジェット旅客機」という新ジャンルに挑むことを表明。さらに政府からの支援も受け、軍需省から2機、英国海外航空(BOAC)から7機の仮発注を受け、国家プロジェクトとして1946年9月に開発が始動しました。

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こうして新開発の超々ジュラルミン薄肉モノコック構造による徹底した軽量化と、表皮の平滑化が図られたコメット試作初号機が完成しました。そのテストが行われた1949年7月27日は、ジェフリー・デハビランド社長自身の57歳の誕生日でした。

この初号機は当時の最新鋭機であるダグラス DC-7よりもスピードが速く、アメリカのライバル達はいずれも巡航速度500km/h台以下のレシプロ機であり、ジェット機であるコメットの実用性は他の追随を引き離した独走状態でした。

この初飛行は成功し、その後テスト飛行が本格化され、主脚が大型のタイヤ1個から現代の大型旅客機でもよくみられる4個のものに変更されるなど、就航を見すえて様々な改良が施されました。そして、1951年1月9日にはコメットの最初の量産型が英国海外航空に納入されるに至ります。

速度・高度共に前人未到の領域を飛ぶ初のジェット旅客機には、地上支援体制を始め運航システムのほとんどすべてを新規開発する必要があり、イギリス空軍、英国海外航空と協働の上、航路開拓も含めて2年間の入念な準備期間が置かれ、その間2機の試作機は世界各地に飛来し、先々で羨望を浴びました。

1952年5月2日に、満を持した初の商用運航がコメットによってヒースロー~ヨハネスブルグ間で行われ、所要時間を一気に半減させてみせました。ただし、コメットの乗客数は、ダグラスDC-6やロッキード・コンステレーション等の従来のプロペラ機と同等かそれ未満で、航続距離も同様であり、太平洋はおろか大西洋横断路線の無着陸横断も不可能でした。

とはいえ、従来の2倍の速度だけでなく定時発着率の良さに対する評価は高く、さらに天候の影響を受けにくい高高度を飛行することや、ピストンエンジンと違い振動も少ないなど快適性もレシプロ機の比ではない事が明らかになり、英国海外航空のみが就航させていた初年度だけで3万人が搭乗する人気を博しました。

翌1953年にはファーンボロー国際航空ショーで超低空90度バンク(ローリング)ターンを決めて見せるなど、機動面での性能の高さも評判であり、このほか、エリザベス王太后らを乗せた招待飛行を行うなど、イギリス航空界はその存在を存分にアピールしました。

さらにヒースロー~日本の羽田間や、ヒースロー~シンガポールという長距離路線にも定期就航するようになりました。

日本は第二次大戦争中にジェット機の試作と量産開始にまで成功したものの、占領下で航空機開発の一切を禁じられ、ジェット時代が到来したというのに、なす術もなくいました。このため、このコメットの銀翼と快音を見聞して日本の元航空技術者たちは、大いに悔しがったといます。

コメットはやがて順次航路を全世界に拡大するようにもなり、懸念された燃費も低廉なジェット燃料と高い満席率で相殺できることがわかり、就航当初の様子見気分は払拭されました。

世界中の長距離国際線の運航会社から50機以上のバックオーダーを抱え、さらに大西洋横断飛行用に航続距離延長と機体の延長が施されることとなったコメットは量産体制に入り、パンアメリカン航空などのアメリカの航空会社からの発注を受けるなど、前途洋々でした。

ところが、就航からたった1年の間に、2機のコメットが離着陸時に事故を起こしました。最初の事故は、1952年10月26日の雨の夕方、ロンドン発ヨハネスブルグ行のコメット9番機で、夜間雨のチャンピーノ空港を離陸滑走中に失速し、これに驚いた機長が離陸断念したものの止まり切れず、滑走路を逸脱し土盛り部分で停止したというものでした。

続いて翌1953年3月3日にも、カナダ太平洋航空へ引き渡しで移動中の機体が離陸滑走中失速し、空港外にあった橋梁に主輪が引っ掛かり、川の土手に激突し爆発炎上。この事故では乗員5名と、同乗していたデ・ハビランド社の技術者6名全員が犠牲になりました。

いずれの事故も高速機特有の挙動に不慣れなパイロットの誤操縦によるものと判断されましたが、マニュアルが改訂され運用法が変更された他、この「失速」の原因の究明が行われ、性能向上のための改良が施されようとしていました。

そんな中の1953年5月2日、BOAC(英国海外航空)783 便がシンガポールからロンドンに向かう途中、経由地のインド・カルカッタのダムダム空港から、次の経由地ニューデリーに向けて夕刻に離陸したのち、6分後の通信を最後に、強い雷雲に突入して機体が空中分解し、カルカッタの北西約 38km の西ベンガル地方ジャガロゴリ近郊に墜落しました。

機体は 20km 四方に散乱し、乗員6名乗客37名全員が死亡したものと推定され、商用路線に就航中のジェット旅客機として初の有責死亡事故になりました。しかし、事故はこれだけで終わらず、次いで、1954年1月10日、BOAC のシンガポール発ロンドン行781便も離陸から20分程で、地中海のエルバ島付近で墜落。

爆発の後バラバラになった残骸が炎や煙に包まれて海上に落下していき、乗員6名と乗客29名全員が即死。さらには1954年4月8日、BOAC から南アフリカ航空にリースされていた コメット9号機が、ナポリ南東のストロンボリ島付近50km沖合のティレニア海上空を巡航中に空中爆発し、乗員7名と乗客14名の21名全員が行方不明になりました。

このコメット9号機の飛行時間は2,704時間で、1952年の製造から2年しか経過しておらず、飛行回数も僅か900回程度でした。

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こうした一連の連続事故で、コメット自体に重大な問題があることはもはや明白になりました。英政府はこの南アフリカ航空の事故翌日の4月9日中にコメットの耐空証明を再び取り消し、こうして世界中で運用されていたコメットはすべて再び本国へ召還回送され、その後二度と路線に復帰することはありませんでした。

原因究明のためには、こうして墜落した機体の回収が必須でした。最初に事故を起こした783便は150mという比較的浅い海底に沈んでいため、機体の回収に成功。しかし南アフリカ航空201便はサルベージが技術的に不可能と判断され、エルバ島付近に墜落した残る781便のサルベージに全力を注ぐことになりました。

機体の残骸引き上げ作業には、イギリス海軍の潜水夫が動員されましたが、当時の技術では水深100mが限界であったため、それ以上の海底に沈んだ残骸を網でさらうために、イタリアの民間トロール船もチャーターされました。

捜索範囲は19km四方に広がっていましたが、ソナーを使用して海底を探査し、音波の反応があった箇所にマーカーブイを投下し、後に水中カメラなどによって正体が確かめる、という地道な作業を続け、四方にちらばっていたコメットの残骸は次々と回収されていきました。

その中でも8月12日に回収されたADF(自動方向探知器)アンテナがあった胴体天井外壁の残骸が、その後事故原因を追求する上で最も重要なものとなりました。

その後の回収された残骸の分析の結果、一連のコメット墜落事故は燃料の爆発やテロによるものではなく、針で刺された風船が破裂したのと同様の、与圧機体の内外気圧差による爆発的な空中分解が起きたことが基本原因である、と推測されました。

与圧による荷重が、それまでのレシプロないしターボプロップ式与圧旅客機では、運用差圧は大きくても0.4気圧であったのに対し、コメットでは高空飛行を考慮して、0.58気圧と大きく設定されていました。0.58気圧という差圧において、1平方メートルあたりの面積にかかる圧力は6トンにも及びます。

つまり、毎日運航される旅客機においては、1飛行ごとに6トンの圧力がかけられ、緩められることの繰り返しという状態になります。また、飛行機の主要な構造材料であるアルミニウム合金は、自動車や船に多用される鉄鋼と比較すると、部品の取付け孔などの切り欠きや作業時の傷などに敏感に反応し、疲労強度が低下するという欠点があります。

もちろん、コメットの設計者がその点を見落としていたわけではなく、0.58気圧という運用差圧に対し、安全率として1.5倍、金属疲労を考慮した割増係数1.33をかけた1.995倍の安全率、即ち2倍程度の安全率で設計していました。

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デ・ハビランド DH.106 コメット

そこでRAE(イギリス王立航空研究所)では、コメット1機が完全に入る水槽を作り、英国海外航空で運用されていた実機を廃用した疲労試験を行うことになりました。現在でこそ常識となっているこの疲労試験ですが、当時としては前例のない大規模な試験でした。

水槽内・機内にも水を満たし、水を増減して加圧・減圧することで、1回の飛行で加わる荷重を再現します。試験設備では3時間の飛行に相当する荷重を、10分で再現可能なように設計されていましたが、それでも1日150回程度の再現が限界でした。

また当時はこの種の再現試験を自動的に制御・記録するコンピュータの類が存在せず、監視係や作業員を交代しながら、24時間毎日連続して試験を行います。こうして再現実験が始まり、それは最長で5ヶ月かかる見込みでしたが、試験開始後2週間半が経過した1954年6月24日、1830回目の加圧において、試験機の客室窓の隅から亀裂が発生しました。

この亀裂は、急速に前後方向に進み、前後のフレーム(構造部材)に達すると、今度は上下方向、即ち、機体を輪切りにする方向へと進んでいきました。これは5万4000回までは耐えられるという予測とは大きくかけ離れた、短い疲労寿命でした。

これほどまでに短い寿命であれば、南アフリカ航空201便が飛行回数900回で空中分解したことも不思議ではないといえます。試験開始前、設計者や技術者は、この試験によってコメットの安全性が改めて証明されると考えていましたが、実験結果は開発時点の試験と大きくかけ離れた金属疲労の速さを明らかにしてしまいました。

しかも回収された781便の残骸のうち、胴体天井にあったADFアンテナ取り付けのための開口部の隅の亀裂に、実際に疲労破壊の痕跡が発見されたことで、事故原因はやはり金属疲労による破壊の可能性が非常に高くなり、楽観的な事前予測は完全に打ち砕かれました。

1954年10月に2件のコメット墜落事故の法的審問が開始され、1955年2月に事故は機体欠陥による金属疲労が原因とする事故調査報告が発表され、ここにコメットは、欠陥機であったと宣告されました。

全てのコメットは永久飛行停止を宣言され、英国海外航空で運用されていたコメットは各種の試験が行われた後に廃棄処分になりました。また、フランスで運用されていたコメットも、パリのル・ブルジェ空港に集められた上で1960年代ごろに解体されました。

デ・ハビランド社はこの一連の事故によって業績が悪化し、1959年に同じイギリスの航空機メーカーのホーカー・シドレー社(現・BAEシステムズ)に吸収合併され消滅しました。

ボーイング社が行っている航空事故の継続調査によると、1996年から2005年までに起こった民間航空機全損事故183件のうち、原因が判明している134件についての内訳は以下の通りとなっています。

55% – 操縦ミス
17% – 機械的故障
13% – 天候
7% – その他
5% – 不適切な航空管制
3% – 不適切な機体整備

操縦ミスは依然として航空事故原因のほぼ半数を占めていますが、この数字は1988年~97年期には70%もあり、過去20年間に着実に改善されてきたことが分かります。しかし、近代に至ってもそれ以外の機械的故障が17%もあるというのは、驚きの数字ではあります。

機械的故障が、即墜落につながるというものではありませんが、航空機事故の再発防止のためには、少なくとも機体に発生するこうした不具合の徹底した原因究明と、除去は欠かせません。機体は絶対安全で壊れない、としたうえで、あとは人為や天候によるものが多少ある、とされるならば、少しは安心して乗れようというものです。

とはいえ、アメリカの国家運輸安全委員会 (NTSB) の行った調査によると、航空機に乗って死亡事故に遭遇する確率は0.0009%であるといいます。アメリカ国内の航空会社だけを対象とした調査ではさらに低く0.000034%となります。

アメリカ国内において自動車に乗って死亡事故に遭遇する確率は0.03%なので、その33分の1以下の確率ということになり、これは8200年間毎日無作為に選んだ航空機に乗って一度事故に遭うか遭わないかという確率です。これが「航空機は最も安全な交通手段」という説の根拠となっています。

しかし、現実に今年もまた多くの事故が起こっており、現在もその原因究明が行われている事故があります。航空事故はさまざまな要因が複合して事故に至るものであり、事故によっては数年の歳月と巨額の資金を費やしてまで「なぜ」が追及されます。

今年も後半にそうした、「なぜ」が追及される機会がこれ以上増えないことを祈りたいと思います。

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1300年以上前の今日、修験道の開祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)が伊豆大島に流罪されたといいます。

飛鳥時代から奈良時代にかけての699年(文武天皇3年)のことであり、その理由は、天皇に対して謀叛を企んでいると弟子に讒訴されたためでした。

役行者は別名「役小角(えんのおず)」とも言い、修験道者ですが、呪術者でもあり、実在の人物だと伝えられています。

現在は「やく」「えき」と読むこの「役」をなぜ「えん」と呼ぶのか調べてみましたが、よくわかりません。中国地方では峠のことを、「たお」と呼ぶことがあり、この苗字を持っている人もたくさんいます。役氏は現在の京都の賀茂を本拠とする賀茂氏から出た氏族だということなので、この地方の方言から出てきたのかもしれません、

また、「役」は、律令制度下では歳役(さいえき)・雑徭(ぞうよう)をさす語であり、これはようするに雑役のことです。「役」は当初「えだち」と発音していたようですが、やがては「えの」となり、「役」の字そのものが労役を提供する意味となり、職業として律令として制度化されるようになったと考えられています。

やがて、これからこうした下働きをする人々を「役民(えのたみ)」と呼び、この役民を統括する役人の職名は、「役君(えのきみ)」と呼ぶようになりました。

役小角の先祖は、代々役民を管掌する役君を世襲する一族であったために、「役」の字をもって名跡としたといわれています。なので、「えのきみ」の「えの」が長い間に「えん」と読むように変わっていったのではないか、というのが私の推測です。

役小角は、そんな賀茂の役君を司る家柄に、舒明天皇6年(634年)に生まれたとされます。生家のあった場所もある程度わかっており、大和国葛城上郡茅原だそうで、これは現在の奈良市の南に位置する、御所市茅原になります。そして生誕の地とされる場所には、吉祥草寺というお寺が建立されています。

17歳の時に奈良の元興寺で孔雀明王の呪術を学びました。南都七大寺の1つに数えられる寺院で、奈良時代には近隣の東大寺、興福寺と並ぶ大寺院でした。

孔雀明王の呪法というのは、孔雀は害虫やコブラなどの毒蛇を食べることから、そこから出てきた法術のようです。毒を持つ生物を食べる=人間の煩悩の象徴である三毒(貪り・嗔り・痴行)を喰らう、すなわち「魔を喰らう」という意味の「除魔法」が確立されました。また雨を予知する祈雨法(雨乞い)などもその術のひとつです。

孔雀明王像は、このクジャクを具象化した仏像であり、「人々の災厄や苦痛を取り除く功徳」があるとされて信仰の対象となっており、これを御本尊とする元興寺で役小角はこの呪術を学んだのでしょう。

また、弘法大師を祖とする真言密教においては、この孔雀経法による祈願は鎮護国家の大法とされ最も重要視されたものでした。従って役小角がこれを学んだということは、将来的にも王道を行く青年と目されていたのでしょう。

その後、現在の金剛山である、大和葛城山で山岳修行を行い、熊野の山にも分け入って大峰の山々で修行を重ね、さらに吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築いたとされます。金剛大権現とは、「権(仮・かり)の姿で現れた神仏」という意味で、仏、菩薩、諸尊、諸天善神、天神地祇すべての力を包括している神様です。

それを体得したということは、すなわち神仏並の力を得たということになります。しかし、そういう力を得た、と口で言っただけでは信用されないため、役小角はその力をわかりやすく人々に説明するために「金剛蔵王大権現像」を作りました。そしてこの像はそれ以後、修験道の御本尊とされるようになり、各地で同様の像がつくられるようになりました。

激しい忿怒相で、怒髪天を衝き、右手と右脚を高く上げ、左手は腰に当てるのを通例とします。代表作として、鳥取県・三仏寺奥院の本尊像(平安時代、重文)などがあります。

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こうして奥義を会得した役小角は、20代の頃その術を用いて、藤原鎌足の病気を治癒したという伝説もあります。また、その名が高まるとともに、弟子もたくさんでき、その中には、のちに国家の医療・呪禁を司る典薬寮の長官である「典薬頭」に任ぜられた韓国広足(からくにのひろたり)がいました。

広足は小角を師と仰いでその呪術を学び、その術を持って宮内省に属する医療・調薬を担当する典薬寮のトップにまでなりました。が、後に役小角の才能をねたんで、天皇に人々を言葉で惑わしていると讒言しました。また、天皇に対して謀反の心があると告げ口したとも言われ、これによって役小角は伊豆大島に流罪となりました。

しかし、2年後の大宝元年(701年)には大赦があり、郷里の大和茅原に帰りましたが、その年に、現在の大阪府豊能地域に位置する天上ヶ岳において修業をしている際に、享年68で亡くなったと伝えられています。

その死後、中世、特に室町時代に入ると、金峰山、熊野山などの諸山では、役小角の伝承を含んだ縁起や教義書が成立し、「役行者本記」という小角の伝記まで現れました。こうした書物の刊行と併せて種々の絵巻や役行者を象った彫像や画像も制作されるようになり、今日に伝わっています。

役小角は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたといいます。伊豆大島に流されていたとき、島では人々は口々に「小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせている」と噂しました。また、鬼神たちが命令に従わないときには呪で縛ったという噂も立ちました。

その死後100年以上経ったあとの弘仁年間(822年とされる)に書かれた「日本霊異記」という随筆では、役小角は、仏法を厚くうやまった優婆塞(うばそく、僧ではない在家の信者)として現れます。

この中でも役小角は孔雀王呪経の呪法を修めたとされており、鬼神を自在に操りつつ、雲に乗って仙人と遊んでいた、と書かれています。そんな中のある時、役小角は、ちょいとした遊び心で、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとし、その一人である「一言主」も徴用しました。

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一言主(ひとことぬし)は、能の演目「葛城」では、女神とされています。460年(雄略天皇4年)ころの記録では、雄略天皇が葛城山へ鹿狩りをしに行ったとき、紅紐の付いた青摺の衣をまとうという、天皇にも勝ると劣らない恰好で向かいの尾根を歩いている一言主をみつけた、とされます。

雄略天皇が名を問うと「吾は悪事も一言、善事も一言、言い離つ神。葛城の一言主の大神なり」と答えたといい、天皇は恐れ入り、弓や矢のほか、官吏たちの着ている衣服を脱がさせ、この「一言主神」に差し上げたといいます。

しかし、これより260年を経た720年に書かれた「日本書紀」では、雄略天皇が一言主神に出会う所までは同じですが、その後共に狩りをして楽しんだと書かれていて、天皇と対等の立場になっています。

さらに上の「日本霊異記」では、一言主は役行者に使役される神にまで地位が低下しているわけで、この時代にはもう神様視されていませんでした。

葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思いたった役小角は、一言主も動員してこれを実現しようとしましたが、彼女は自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働きませんでした。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てたといいます。

そして、この「日本霊異記」では、役小角を讒言した人物こそ、この一言主としています。実際には、上述のように男性の韓国広足が、謀叛を企んでいると讒訴した張本人のわけなのですが、100年を経たこの時代には役小角は神格化されおり、広足もまた神に祭り上げられましたが、その地位は低く、しかも女性化されたわけです。

この話においても、役行者は朝廷によって捕縛されます。ただ、彼の母親を人質にされたため、仕方なく捕縛されて伊豆大島へと流刑になったと変更されている点など、脚色も多くみられるようです。

このほかにも、伊豆大島に流された役小角は数々の奇蹟を起こしたとしており、たとえば昼間は伊豆大島におり、夜になると海を渡って富士山に行って修行した、と言った具合です。富士山麓の御殿場市にある青龍寺は、このとき海を渡ってやってきた役行者が建立した寺だといわれています。

「日本霊異記」の記述でもその後、役小角は赦されて大和に帰ります。が、このときも仙人になって伊豆大島から天に飛び去ったとされ、また小角を讒言した一言主は、仙人になった役小角の呪法で縛られ、長い間動けなくなったと記述されています。

その後1200年の時を超えた現在、葛城山麓の御所市にある「葛木一言主神社」が全国にあるこの一言主を奉る神社の総本社となっています。御所市は役小角の生地でもあります。地元では「いちごんさん」と呼ばれており、「一言」の願いであれば何でも聞き届ける神とされます。

逆に言えば「一言」より多くの願いを立てるなど、欲張ると願いを叶えてくれないということであり、これは一言主が無口な神様とされているためでしょう。「無言まいり」の神として信仰されており、これは今でも役小角によってかけられた呪いによって口を封じられているから、と解釈できます。

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一方の役小角の信仰の場としては、大阪府・奈良県・滋賀県・京都府・和歌山県・三重県に所在する36寺社に霊蹟札所があります。これらの寺社では「神変大菩薩」が役小角の尊称として使われ、寺院に祀られている役行者の像の名称として使われていたり、「南無神変大菩薩」と記した奉納のぼりなどが見られることがあります。

また、このほかの修験道系の寺院でも、役小角の肖像を描いた御札を頒布していることがあります。その多くは老人の姿をしており、岩座に座り、脛(すね)を露出させて、頭に頭巾を被り、一本歯の高下駄を履いて、右手に巻物、左手に錫杖を持ち、たいていその左右に役小角よりは一回り小さい小鬼、「前鬼」・「後鬼」を従えています。

前鬼・後鬼は夫婦の鬼で、前鬼が夫、後鬼が妻で名は「善童鬼」と「妙童鬼」ともいいます。役小角の弟子とされる「義覚」・「義玄」と同一視されることもあります。夫の前鬼は陰陽の陽を表す赤鬼で鉄斧を手にし、その名の通り役小角の前を進み道を切り開きます。

笈(おい:仏具や経巻、衣類などを入れて背負う道具)を背負っていることも多く、この赤鬼とされる義覚は、現在の奈良県吉野郡下北山村出身です。

一方の妻の後鬼は、陰を表す青鬼(青緑にも描かれる)で、理水(霊力のある水)が入った水瓶を手にし、種を入れた笈を背負っていることが多いようです。義玄は、現在の奈良県吉野郡天川村出身とされます。

前鬼と後鬼は阿吽の関係です。本来は、陰陽から考えても、前鬼が阿(口を開いている)で後鬼が吽(口を閉じている)ですが、逆とされることもあります。

実在の人物、義覚・義玄をモデルとしているわけですが、物語性を高めるために創作された話では、元は生駒山地に住み、人に災いをなしていた鬼とされます。そして、彼らを不動明王の秘法で捕縛したのが役小角であり、捉えられた山は鬼取山または鬼取嶽と呼ばれ、現在の生駒市鬼取町にあります。

また、静岡県小山町須走にも、役小角が前鬼と後鬼を調伏し従えたとする伝説があります。二人の鬼を捕まえた小角は彼等を改心させるために、彼らの5人の子供のうちの末子を生駒山の麓の鉄釜に隠したといいます。

そして、彼らに対し、「子供を殺された親の悲しみがわかるだろう」と訴えました。これによって2人は改心し、役小角に従うようになります。典型的な勧善懲悪ばなしです。さらには、このとき改心した二人の鬼に人間の名前が与えられた、ということになっており、実際には義覚・儀玄ですが、これが「義学」・「義賢」と改変されています。

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この話は、このように鬼が改心して人間になったあたりから、さらに何やら現世の現実的なものへと変わっていきます。

その後2人は、修験道の霊峰である大峰山麓、現在の下北山村前鬼に住んだとされ、この地には2人のものとされる墓もあります。また、この地で5人の子を作ったとされますが、これは上述の生駒山のエピソードと時間順序が矛盾します。

さらに、その後、前鬼は後に天狗となり、日本八大天狗や四十八天狗の一尊である大峰山前鬼坊(那智滝本前鬼坊)になったという話もあるようですが、一度鬼から人間になり、さらに天狗になるというのは、話の流れとしてはむちゃくちゃです。

前鬼と後鬼の5人の子は、五鬼または五坊と呼ばれました。名は真義、義継、義上、義達、義元。そして、これらの名は、役小角の弟子とされる義覚、義玄のほか、義真、寿玄、芳玄と合わせて、「五大弟子」とされる弟子たちと同一視されることもあります。

彼らは下北山村に修行者のための宿坊を開き、それぞれ行者坊、森本坊、中之坊、小仲坊、不動坊を屋号としました。またそれぞれ、五鬼継、五鬼熊、五鬼上(ごきじょう)、五鬼助、五鬼童の5家の祖となりました。これらは実在する家です。5家は互いに婚姻関係を持ちながら宿坊を続け、5家の男子は代々名前に「義」の文字を持しました。

ただし、明治初めの廃仏毀釈、特に1872年の修験道禁止令により修験道が衰退すると、五鬼熊、五鬼上、五鬼童の3家は廃業し里を出、その後、五鬼継家も廃業しました。小仲坊の五鬼助家のみが今も宿坊を開き、現在61代目の五鬼助義之さんが当主となっています。

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こうしてみてくると、日本における鬼の神話というのは人間といかに密接な関係を保ってきたかというのがよくわかります。鬼が改心して人間になり、また人間が化けたものが鬼でもあるわけで、日本では、鬼と人間は表裏一体のものとして扱われてきました。

民話や郷土信仰に登場する悪い物、恐ろしい物、強い物を象徴する存在であるわけですが、一方では、「鬼」という言葉には「強い」「悪い」「怖い」「ものすごい」という意味もあり、これは極めて人間的な表現です。

「おに」の語はおぬ(隠)が転じたもので、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものである、という話は有名です。そこから人の力を超えたものの意となり、後に、人に災いをもたらす伝説上のヒューマノイドのイメージが定着したと考えられています。

日本人が「鬼」を一般的に連想する姿は、頭に「角」(二本角と一本角のものに大別される)と巻き毛の頭髪を具え、口に「牙」を有し、指に鋭い「爪」が生え、虎の毛皮の褌を腰に纏い、表面に突起のある金棒を持った大男です。また、肌の色によって「赤鬼」「青鬼」「緑鬼」などと呼称されます。

この「角」は「牛の角」であり、「爪」は「虎の牙」です。そして牛とは、「丑」であり虎は「寅」です。すなわち、丑の方角と寅の方角を表したものであり、この二つは艮(うしとら)と呼び、陰陽道で言うところの「鬼門」です。方角としては北東と南西となりますが、こうした陰陽道の思想は、平安時代に確立したものです。

元々は死霊を意味する中国の風水における「鬼(キ)」が、6世紀後半に日本に入り、日本固有の「オニ」と重なり鬼になったのだといい、さらにこれが陰陽道と結びついて、丑寅の方角が鬼門とされるようになりました。

日本古来の「オニ」とは上述のように、隠(おぬ)から来ていますが、もともと見えないものという意味であり、古くは、「祖霊」あるいは、「地霊」とされる霊でした。見えないものほど人間にとっては恐ろしいものはなく、それゆえに崇め奉られてきたわけですが、その後信仰の対象とするようになると、まったく形がない、というのは困りものです。

そこで、最初は「目1つ」のもの、としてオニが表現されました。片目という神の印を帯びた神の眷属と考えたという説や、「一つ目」の山神と考えたという説もなどがありますが、いずれにせよ一つ目の鬼は、死霊と言うより民族的な神の姿を彷彿とさせます。

しかし時代が下ると、より邪悪なものに変わっていき、例えば日本書紀における鬼は、「邪しき神」とすべきところを、「邪しき鬼(もの)」と表現しており、得体の知れぬ「カミ」や邪(や)しき「モノ」が鬼としてみなされるようになりました。

「邪」は訓読みで、「よこしま」と読みますが、これは「横しま」とも書き、正しくないこと、横道にはずれていることを意味します。鬼とはよこしまな存在であり、道から外れた外道という意味になります。

つまり、鬼とは我々が住まう世界を離れた異界の存在であり、まつろわぬ反逆者であったり法を犯す反逆者が、人の世界から追放され、その異界に棲むようになって変化(へんげ)したものです。

そしてこの鬼のイメージは暗闇に潜む「カミ」、「モノ」といった当初の素朴なものから、想像力豊かな古代人によって変化し、夜叉、獄鬼、怪獣、そして妖怪などとも結びつき際限なく鬼のイメージは広がっていきました。

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現代では「鬼畜」という言葉をよく使いますが、この時代の鬼とはまさにそのイメージであり、多くの説話における鬼は、人を喰らうような凶暴なものです。平安のころの町の夜というのは、現代から想像するよりもはるかに漆黒の闇夜であり、その奥にどんなものが潜んでいるのだろう、という人々の恐怖が生み出した産物ともいえます。

しかし、人に化けて、人を襲う鬼の話が伝わる一方で、憎しみや嫉妬の念が満ちて人が鬼に変化したとする話もあり、人の怨霊が姿をなしたものと考えることも多くなりました。

憎しみや怨念から人を呪いで鬼にする、あるいは自らが鬼になるといった話も出てくるようになり、現在の頭に角が生えた鬼のイメージは、この呪いにかかったために人間が変化したものとして、12世紀末に確立したとされます。

例として能の「鉄輪」や「紅葉狩」は嫉妬心から鬼と化した女性の話です。そしてこれらの中から「般若の面」がつくられるようになりました。

一方、この日本の鬼の原型である、中国の「鬼(キ)」は、現在においても、死霊、死者の霊魂のままです。日本で言う「幽霊」の方がニュアンスとして近く、事実、中国語版ウィキペディアの記事での「鬼」は、日本語版の「幽霊」にリンクされています。日本にもこの思想が入っており、人が死ぬことを指して「鬼籍に入る」というのはそのためです。

中国では、この「鬼」と口にすること自体がタブーとされており、日本以上にこの幽霊を忌み嫌います。なので、中国人同士では婉曲して「好兄弟」という言葉を使います。ところが、他国の人種を蔑称する際などには、平気で「鬼子」と呼びます。

そして、最近日中関係がぎくしゃくしている中、中国人の多くは、日本人をこの最大級の蔑称である鬼を使って、「日本鬼子」と表現します。

「鬼子」とはもともと、中国の清代の短編小説集「聊斎志異」の表紙に使われた魔物になった「道士」に対して使う蔑称でした。道士とは、道教を信奉し、その教義にしたがった活動をする一種の僧侶ですが、香港や台湾のキョンシー映画では妖怪として紹介され、一躍存在が知られるようになりました。

実際の道士は、精進料理を食べ、修養を重んじ、護符を書いたり、道教儀礼を行うことを主な活動としており、こうした映画がその姿を正しく描いているかといえばそうではありません。が、魔物に変化した道士という架空の存在はやはり忌み嫌われた存在であり、それを中国を侵略した日本人と同一視しているわけです。

同様に忌み嫌う幽霊である、「鬼」の字を「日本鬼子」にあてたのはそのためですが、当初は中国を侵略する西洋人のことを「鬼子」と蔑称していました。モンゴロイドと大きく異なるコーカソイドの顔立ちが魔物に見えたからですが、時代が変わって、顔立ちが同じモンゴロイドの日本人もこう呼ぶようになりました。

そして、日清戦争以降は、「鬼子」はもっぱら日本人を指す言葉となりました。日本人への最大級の蔑称であり、無論現代の中国でも彼等のナショナリズム的な主張の際には頻繁に使われます。その昔はヨーロッパ人を指して「鬼子」と呼びましたが、現在では「鬼子」といえば大抵は日本人を指します。

ちなみに、「洋鬼子」や「西洋鬼子」といえば西洋人を指します。これと区別し、より明確に日本人を蔑視したいがために「日本鬼子」を使い、最近ではさらに日本人を卑下するためにこれに「小」の字をつけた「小日本鬼子」も使われます。

これまでは日本人もあまり気にしていなかったのですが、2010年の尖閣諸島中国漁船衝突事件を受け、中国で発生したデモによって日本でもその認知度が高まりました。中国の反日デモの際に掲げられるプラカードに「日本鬼子」や「小日本」と書かれているのを見たことがある人も多いと思います。

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このように中国では「日本鬼子」が乱発されているわけですが、ところが、多くの日本人にとっての鬼のイメージは、上述のように「幽霊」ではなく、凶暴な怪物のイメージです。

古くは中国と同じく忌み嫌う存在でしたが、江戸期以降は、おとぎ話や伝説に登場する親しみやすい妖怪として扱われることも多くなり、近年においてはさらに「鬼」=「力強さ」といった肯定的なイメージで捉えられることも多くなってきました。

「悪い」「怖い」というイメージよりも、「ものすごい」「強い」というイメージのほうが先に立つことも多く、「○○の鬼」といえばその道のエキスパートを指し、「鬼神のような」といえば、獅子奮迅の働きをする人のことを指したりもします。

節分の鬼や幼少期に読み聞かせられた昔話など、身近な生活の場にもしばしば登場する馴染みのある存在という側面もあり、「日本鬼子」といわれても、日本人にはいまひとつ彼等が訴えたいところの、侮蔑の意が伝わりません。

「悪鬼」や「鬼畜」と言われれば怒り出す日本人も多いでしょうが、単に「鬼」といわれてもピンとこず、むしろ褒められているのかしら、と誤解する向きもありそうなくらいです。

このため、「鬼子」の語に込められた侮蔑の意図は必ずしもストレートには受け止められておらず、彼らにとっては顔を真っ赤にして日本叩きをしているつもりなのでしょうが、当の日本人にはまったくこたえてない、というのが実情です。

しかも、これに対して日本の若者は、その字面に“萌え要素”を見出しました。いわゆる「オタク」と呼ばれる人々は、中国人が意図とした政治的な意味を突き抜け、「なんだか最近中国人がネット上で騒いでいるな」というわけで、この「鬼子」という言葉を「上書き保存」してしまおう、というプロジェクトを立ち上げました。

上書き保存とは、本来は文字やファイルを別のものに書き換えて、過去のデータを消去する意味ですが、彼等はこの「日本鬼子」という言葉を別なもので上書きしてネガティブな意味を払拭してしまおうと考えたわけです。

やがて、「2ちゃんねる」でスレッドが建ちはじめ、日本鬼子を美少女キャラクター化してネガティブな意味を払拭、上書きしてしまおうという草の根プロジェクト、「日本鬼子ぷろじぇくと」が立ち上がり、「日本鬼子」の萌え擬人化キャラクター化が進められるようになりました。

日本鬼子というキャラを作り、日本鬼子に別の意味、概念を作るというこの活動は一種のお祭りとなり、絵心のある多くのオタク絵師たちが、この「鬼子ちゃん」のイラストを描いて投稿するようになりました。こうして、誕生したのが、「日本鬼子=ひのもと おにこ」というキャラクターです。

その外見や性格付けも進んだことから、より具体的な萌キャラクター化がなされ、それは色白で長い黒髪を持ち、外観の年齢は、16〜18歳、紅葉柄の着物を着ており、角が生えているものの、穏やかな性格、といったものです。

こうして、日本のインターネット閲覧者上では、「日本鬼子」という中国の蔑称が「ひのもと おにこ」という1キャラクターとして捉えられるようになりました。

ただし、2ちゃんねるなどでは、暗黙のルールとして、彼等の間ではこの日本鬼子は単に「萌えキャラ」として扱うこととし、基本的には政治的に利用を禁じるよう、参加者に呼びかけたといい、これに反すると「粋じゃない」「野暮だ」として、排除されたといいます。

このように、「鬼子」といった言葉を使って、日本に対する批判を繰り返していた中国に対して、これを単なるジョーク混じりに意趣返しした日本の若者については、諸外国も注目しました。そして、台湾の東森新聞台(ETTV)のほか、イギリスの「タイムズ」紙などでニュースとして取り上げられると、国際的にも大きな話題となっていきました。

中国以外の国の人々には、「また日本がやらかしたか」といった程度の感触で受け止められたようで、タイムズの論評などでもおおむね好意的な評価だったようです。また、当事者の中国もこれには直球で攻撃することも出来ず、反応に困りながらも受け入れざるを得なかった様子です。

中国語メディアでは「萌萌男子 反抗中國」などと紹介されましたが、「萌萌男子」などの表現にその困惑ぶりがうかがわれます。また、その文面には振り上げた斧を下す場を失ったような雰囲気が漂っていたといい、侮蔑するための言葉が、日本国内では勝手に上書き保存されてしまったことを多くの中国人が知りました。

この成功?を喜んだ彼等はさらに「小日本(こひのもと)」という、ひのもと・おにこの妹分まで誕生させました。「こいのもと」ともいい、「=恋の素」という連想から、縁結びを行う鬼子の妹分と設定されていて、「こにぽん」とも呼ばれます。

現在も、2ちゃんねるのニュース速報板やPixivやTwitterなどでこの「ひのもと・おにこ」や「こにぽん」が使われているそうです。

ちなみに、ブームの走りとなった、「ひのもと・おにこ」の性格は、「大人しいけどキレると怖い」だそうで、目は切れ長で、普段は黒ですが怒ると赤になるといいます。鬼だけに角は二本あり、薙刀と、般若の面を持っています。

好きなものは、わんこそばと白米で、嫌いなものは「炒った豆」。そして、得意なことは「人の心に住まう鬼(心の鬼)を退治すること」だそうです。

もしかしたら、中国人の心の中に住まう鬼も退治してくれたのかもしれません。

2015-3765

不老不死考

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今日は、「林檎忌」だそうで、これは歌手の美空ひばりさんの忌日です。

ヒット曲「リンゴ追分」から来ており、また、「ひばり」という名前にちなみ、麦畑が鳥のヒバリの住処となることから「麦の日」とも呼ぶそうです。

美空ひばりさんは、1937年(昭和12年)の横浜市生まれ。昭和の歌謡界を代表する歌手・女優の1人であり、女性として初の国民栄誉賞を受賞しました。しかし、1989年、3月、「アレルギー性気管支炎の悪化」「難治性の咳」であると発表し、療養専念を理由に芸能活動の年内休止を発表しました。

このとき51歳でしたが、5月末には、「私自身の命ですから、私の中に一つでも悩みを引きずって歩んでいく訳には参りませんので、後悔のないように完璧に人生のこの道を歩みたいと願っているこの頃です」などと録音した肉声テープを披露。結果的にこれが、ファンに向けての最後のメッセージとなりました。

5月29日は病室で52歳の誕生日を迎えましたが、6月半ばには呼吸困難の重体に陥り、人工呼吸器がつけられました。最後の言葉は、順天堂病院の医師団に対して「よろしくお願いします。頑張ります。」だったそうです。そして1989年6月24日未明、肺炎の症状悪化による呼吸不全の併発により逝去されました。

実はこの6月24日という日にはもう一人の歌手が亡くなっており、このためひばりさんの林檎忌とは別に、「五月雨忌」という呼称があります。歌手でシンガーソングライターでもあった、「村下孝蔵」さんの命日です。ヒット曲「初恋」の歌詞に五月雨が出てくるのと、梅雨の別称でもあるこの雨の季節の中、亡くなったことにちなんでいます。

「初恋」「踊り子」「ゆうこ」「陽だまり」などのヒット曲がありますが、とくに「す・き・だ・よと言えずに、はぁつーこいわぁ~」というおなじみの「初恋」は今も多くの人が口ずさむ名曲であり、私も大好きな曲のひとつです。

1953年2月28日、熊本県の水俣市で生まれました。子供のころから水泳が得意だったため、水泳部の特待生として熊本市内の鎮西高等学校に入学。卒業後、得意の水泳で実業団・新日本製鐵八幡製鐵所入りました。

しかし、その後父親が広島の東洋工業に転職した関係もあって、彼も広島市に転居しました。好きだった音楽中心の生活を目指したためでもあり、日本デザイナー学院広島校インテリアデザイン科に入学し、ここを卒業すると、ヤマハ広島店に就職しました。

二年間ここで営業に励み、ピアノ購入契約などで実績を挙げ、1975年からはピアノ調律師として勤務する傍ら、ホテル法華クラブ広島のラウンジで弾き語りのアルバイト等の活動も行いつつ、地道に音楽活動を継続しました。

26歳のころ、知人のライブハウス店主から勧められ、当時のCBSソニー(現ソニー・ミュージックエンタテインメント)の全国オーディションに応募し、グランプリを獲得。これがきっかけで、遅咲きながら27歳にしてプロ歌手としてデビューすることになりました。

シングル「月あかり」でプロデビューしましたが、同期にはHOUND DOG、堀江淳らがいます。1981年発売の「春雨」は約3か月半、1982年発売の「ゆうこ」は約7か月半にわたってチャートインするなど歌手としてはまあまあの出発でした。

ちなみに、この「ゆうこ」のタイトルになっている女性は広島出身の前衛日本画家・船田玉樹(ぎょくじゅ)の娘さん優子で、村下さんの最初の妻です。彼女自身も芸術家(アコーディオニスト)であって、現在も活躍されています。村下さんとの間には一子(娘さん)があり、こちらも音楽関係の道に進まれたようです。

その最初の優子夫人や娘とまだ生活をともにしていた1983年、30歳にして発表した5枚目のシングル「初恋」は、オリコンチャートで最高3位を記録する大ヒットとなりました。

しかし、「初恋」発売の前後に、肝炎を患ってしまい、「初恋」がヒットしてもテレビ番組にはほとんど出演できませんでした。またこの曲がヒットしたことで多額の印税が入るようになったことに由来して、実の父母と奥さんとの間がぎくしゃくするようになったようです。

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こうした事情から生活の拠点を東京に移しましたが、1985年に正式に離婚、その後別の女性と再婚しました。が、奇しくもこの再婚相手も名前は違えど「裕子」さんです。

同年秋から全国ツアーを開始しますが、翌1985年に再び体調が悪化し、入退院を繰り返しました。その後数々の楽曲を生み出し、三田寛子や高田みづえ、伍代夏子といった歌手にも提供するなど活躍しましたが、自身はあまり大きなヒット曲に恵まれませんでした。

そして、1999年6月20日、駒込のスタジオでコンサートのリハーサル中に突然「気分が悪い」と体調不良を訴えます。当初は救急車も呼ばずスタッフ付添のもと自力で病院を訪ねたといい、その病院での診察で「高血圧性脳内出血」と判明。しかし時すでに遅く、その直後、意識不明の昏睡状態に陥り、僅か4日後の6月24日に亡くなりました。

46歳没。葬儀は2日後に東京で営まれましたが、再婚した裕子夫人(こちらものちに逝去)の希望により、出棺の際には彼が生前最も気に入っていた楽曲「ロマンスカー」がかけられました。7月には東京の渋谷公会堂でお別れ会が、8月には広島市内の寺院において音楽葬が営まれました。

村下さんは、かつて広島在住していたということで、まだ売れないころから広島のテレビ局・RCC中国放送に出演しており、このため現在でも6月の命日前後に「村下孝蔵を偲ぶ」といったタイトルで特別番組が毎年のように放送されているようです。

ちなみに、「初恋」がヒットしたとき、広島市の中心部・並木通りに「小さな屋根の下」という喫茶店を開いていました。この通りは私が通った高校にほど近く、その昔はさびれた問屋街でしたが、現在は多くのブティックが並ぶ、おされな若者の町に変身しています。

その通りの一角にあったこの店は、村下さん自身が1984年4月に、ファンたちが集まる店になれば、と夢見て作ったものでしたが、その後ヒット作にも恵まれ、東京に拠点を移すことを決めたため、その年の末に閉店したそうです。

1984年といえば、私は東京で働くようになっていましたが、ヨメのタエさんはも広島でコピーライターの仕事に精を出しており、職場も近かったのであるいは知っているかも知れないと思い、聞いてみました。が、覚えていないとのことでした。

が、その話の関連から、実は彼女は村下さんの前妻の優子さんの弟さんと中学で同級生であるという事実が発覚しました。さらにこの弟さんの奥さんとタエさんの親友の一人が同級生だそうで、何やら不思議なご縁があるようです。

私自身も広島育ちであり、広島ゆかり、ということで、この村下さんには親近感を覚えるわけです。が、ただそうしたことだけでなく、今日村下さんとひばりさんのことを取り上げたのは、二人ともミュージシャンであり、若くして亡くなり、しかも命日が同じということで、何か魂のつながりがあるのかな、とも思ったためです。

が、調べてみても、生前のプロフィールをみても共通点はないし、二人がどこかで接触があったという話はなさそうです。が、あえて共通点を見出だすならば、美空ひばりさんの死の原因になったのは、肝炎であり、村下さんもまた肝臓に問題を抱えていました。

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ひばりさんのほうは、その死の4年前から原因不明の腰痛を訴えていました。2年後の1987年(昭和62年)の全国ツアーのころには、足腰の激痛はついに耐えられない状態に陥っており、そして同年4月に公演先の福岡市で緊急入院。重度の慢性肝炎と診断されました。

彼女は、1980年代に入り、1981年には実母・喜美枝を68歳で亡くしました。さらには、父親として慕っていた暴力団・三代目山口組組長の田岡一雄も相次いで亡くしましたが、この田岡氏との関係から、生前の彼女には何かと「黒い噂」絶えませんでした。

その出会いのきっかけは、デビュー直後に神戸松竹劇場への出演に際して、この町に影響力を持っていた田岡と知り合ったことです。その後彼女のほうから父親のように慕うようになり、事実、その後は父親のいない彼女の親代わりになっていたと伝えられています。

その関係もあってか、実弟で歌手・俳優の「かとう哲也」は、その後、悪の道に入りました。賭博や拳銃不法所持、暴行などで逮捕されること数回、刑務所に入っていたこともあります。出獄後は任侠界と絶縁したとされていますが、三代目山口組系益田組の舎弟頭であることが発覚しています。しかし、この実弟も、1983年に亡くなりました。

その前年には大の親友だった江利チエミが45歳で急死しており、1984年には、これも親交のあった大川橋蔵も55歳で死去しています。さらには、ひばりさんのもう一人の弟、香山武彦も1986年に亡くなるなど、次々と知人や肉親を亡くすという悲運が続きました。

この弟の哲也が亡くなったあと、その実子である和也を1977年に養子として迎えていましたが、彼によれば、その後彼女は悲しみ・寂しさを癒やすために嗜んでいた酒とタバコの量は日に日に増していったといい、徐々に体を蝕んでいきました。

病気が発覚したあとは、約3か月半にわたり療養を余儀なくされました。が、実際の病名は発表されず、病状は深刻でしたが「肝硬変」であるという事実は隠し通していました。

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一方の村下さんのほうは、毎日散歩が趣味で、酒もたばこもやらなかったそうで、発病の原因はそうしたものではなかったようです。肝炎と一口にいいますが、いろんな種類のものがあり、ウイルス性肝炎もあれば、アルコール性肝炎、非アルコール性脂肪性肝炎、薬剤性肝炎、自己免疫性肝炎、原発性胆汁性肝硬変など、さまざまです。

彼の肝炎がどの肝炎だったのかは公表されていませんが、親しかった方のブログなどによれば、どうやらウィルス性のB型肝炎だったようです。突然の発症だったようですが、親由来のものなのか輸血等による水平感染かどうかはわかりません。一方、ひばりさんのものはやはりストレスによるアルコールやタバコの過剰摂取が原因ではなかったでしょうか。

従って、二人とも肝炎だったからといってその死の原因は同じとはいえません。しかし、癌にかかる人は一般に頑固だ、といわれるように、同じ部位に病巣を抱える人というのは何か性格的な共通点があるものなのかもしれず、スピリチュアル的な観点からは体の異変は何等かの霊的なものだとする考え方があります。

こうしたことについて多数の著書がある、リズ・ブルボーさんは、その一冊、「体の声を聞きなさい」の中で、「~炎症、~炎」とつく病気はすべて、怒りの感情に関係しており、肝臓は、怒りを抑制することでもっとも影響を受ける器官である、と書いています。

これをそのまま解釈すると、二人とも怒りを抑制することがあまり得意でないタイプの人だったのかもしれません。テレビ等で見た限りでは、確かにひばりさんは怒りを飲み込むタイプのような感じがします。次々と亡くなる身近な人たちへの絶望が怒りに変わったかもしれませんし、悪行に走った弟のことを常に苦々しく思っていたかもしれません。

村下さんのほうも温厚そうに見えますが、最初の奥さんと離婚していることなどから、そうした面があったのやもしれません。調べてみると実はこの離婚については、かなりのトラブルがあったようで、優子さんと村下さんの家族との間でいろいろ難しい問題があり、その問題が肝炎を悪化させたということはあったかもしれません。

かなりプライベートに立ち入る話しなので、詳しくは書きませんが、彼女がご自身のブログでカミングアウトされているのでそちらをご覧ください。「アコーディオニスト・ゆうこ」でヒットすると思います。が、ウィルス対策ソフトに敏感なサイトらしく、私がアクセスしたところ問題ありませんでしたが、ご自分の責任においてのアクセスをお願いします。

村下さんに関してさらに言えば、1992年発売のシングル「ロマンスカー」は「これが売れなきゃおかしい」という思いで制作、完成時に「やっと納得する作品が出来た!」と語っていたそうですが、渾身の作品であったにも関わらず全く売れませんでした。世間にはこれがわからないのか、という怒りに似た感情があったのでないでしょうか。

リズ・ブルボーさんは、相手に対して怒りが沸いてきたときは自分の態度に問題があるのではないかと考えてみよ、とも書いています。相手の反応に対し自動的に怒るのではなく、ひと呼吸おき、もしかすると自分に責任があるのではないだろうか、と考えてみるのです。

そして、自分のその感情の正体を見きわめ、それがどんな感情なのかを自覚することによって、原因は他人にあるのではない、ということを知ることができます。自覚した感情が憎しみに由来している場合でも、実はそれは自分自身の問題であることがわかってきます。

つまり、自分の感情の責任は100%自分にあります。そして、ブルボーさんはこれを「自己責任の法則」と呼んでいます。そうした法則があることを理解せず、抑圧された感情がからだの中で暴走し始めると、憎しみはどんどんとつのってきます。

やがては怒りに変わり、それが表現されずに抑圧された場合は、やがてそれは自身の内部を徹底的に痛めつけるようになり、細胞まで爆発させてしまいます。そして、その結果一番影響を受けるのが肝臓である、というわけです。

今日、この二人のことを取り上げたのは、そのことが書きたかったからでもあります。が、この話についてはここまでとしましょう。

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ところで、怒り・肝臓といえば、ギリシア神話で人間に火を与えたプロメーテウスは、全能の神、ゼウスの怒りを買い、カウカーソス山に磔にされ、毎日ハゲタカに肝臓をむさぼられるという罰を受けました。しかし、プロメーテウスも神であるため不死身であり、肝臓は翌日には再生してまた喰われることが永遠に続いたといいます。

もう少し詳しく書くと、ゼウスはあるとき下界を俯瞰して、そのころますます傲慢になってきていた人間を大洪水で滅ぼすために、まず人間と神を分けようと考えはじめました。プロメーテウスはこのとき、その役割を自分に任せて欲しいと懇願し了承を得ました。

そして、大きな牛を殺して二つに分け、一方は肉と内臓を食べられない皮に隠して胃袋に入れ、もう一方は骨の周りに脂身を巻きつけて美味しそうに見せました。そして彼はまずゼウスで試そうと、彼を呼ぶと、どちらかを選ぶよう求めました。

実はプロメーテウスはかねてから人間に好意的であり、人間を滅ぼそうとするゼウスの試みを頓挫させようと考えていました。このため、神々が美味しそうに見える脂身に巻かれた骨を選び、一方では胃袋を選んだ人間は強靭な肉や内臓を持った丈夫な体になるように計画していました。

しかしゼウスはこのプロメーテウスの計略を見抜いており、不死の神々にふさわしい腐る事のない骨を選びました。そして、胃袋のほうには魔法をかけ、こちらを選んだ人間の体を、死ねばすぐに腐ってなくなってしまうようにし向けました。

こうして胃袋を選んだ人間は、このときから死ぬと、肉や内臓のように腐りゆく運命を持つようになったといいます。ゼウスはさらに、ついでだからこの際もっと人類を懲らしめてやろうと、彼等から「火」をも取り上げようとしました。

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一方のプロメーテウスはこの後に及んでも人間を憐み、たとえ死にゆく運命になったとしても、火さえあれば、暖をとることもでき調理も出来るだろう、と考え、ヘーパイストスという雷と火の神から貰った火を人類に手渡しました。こうして火を使えるようになった人類はそれを使って鉄を作る技を身に着け、そこから生まれる文明をも手に入れました。

しかし、このプロメーテウスの行いにゼウスは怒り心頭!そして権力の神クラトスと暴力の神ビアーに命じてプロメーテウスをカウカーソス山の山頂に張り付けにさせ、生きながらにして毎日肝臓をハゲタカについばまれる責め苦を強いた、というわけです。

それにしても、プロメーテウスはなぜ死なず永遠に肝臓を再生し続けられたかといえば、それは彼もまた上述の骨と肉の二者択一において、ゼウスが永遠の命の象徴であるとした骨のほうを選択したためでもありました。

こういうふうに、死や短命にまつわる起源神話において、二者択一を迫られる話のことを、「バナナ型神話」といいます。

ギリシャ神話以外の東南アジアやニューギニアを中心に各地に見られる神話においては、重要なアイテムとして、共通してバナナが登場することから、これを研究していたスコットランドの社会人類学者ジェームズ・フレイザーが命名したものです。

これらの話では、だいたい神が人間に対して石とバナナを示し、どちらかを一つを選ぶように命じます。人間は食べられない石よりも、食べることのできるバナナを選びます。

硬く変質しない石は不老不死の象徴であり、ここで石を選んでいれば人間は不死になることができますが、バナナを選んでしまったためにバナナのように脆く腐りやすい体になって、人間は死ぬようになったとされます。

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日本神話にも似たような話があり、天孫降臨(神が地上におりて人間界を創る)の段において、降臨した天孫(天の神)ニニギに対し、国津神(地上の神)であるオオヤマツミは娘のイワナガヒメとその妹のコノハナノサクヤビメの二人の姉妹を嫁がせます。

しかしニニギは醜いイワナガヒメを帰してしまい、美しいコノハナノサクヤビメとのみ結婚してしまいます。しかし、実はイワナガヒメは「長寿の象徴」でした。彼女だけが送り帰されたために、その後地上に降りた天孫、すなわち「天皇」はその後不老不死ではなくなり、普通の人間と同じくいつかは死ぬことになりました。

この説話にはバナナは登場しませんが、二者択一において不死が選ばれなかったという点は似ており、バナナ型神話の変形と考えられています。また、同じような話しは沖縄にもあり、それは太古の昔、宮古島でのおはなしです。

ここにはじめて人間が住むようになった時のこと、月と太陽が人間に長命を与えようとしました。そして、節祭の新夜にアカリヤザガマという者使いにやり、変若水(シジミズ)と死水(シニミズ)を入れた桶を天秤に担いで下界に行かせました。そして、月と太陽の命は、「人間には変若水を、蛇には死水を与えよ」というものでした。

しかしアカリヤザガマは、下界に降りた際に尿意を催したため、我慢しきれなくなり、途中でその桶を下ろし、路端で小用を足しました。そこへたまたま運悪く蛇が現れてしまい、あろうことか桶をひっくり返して変若水を浴びてしまいました。このため、彼は仕方なく、命令とは逆に死水を人間に浴びせることにしました。

それ以来、蛇は脱皮して生まれかわる不死の体を得ましたが、その一方で人間は短命のうちに死ななければならない運命を背負うようになったということです。

さらには、旧約聖書の創世記にもこのバナナ型神話が出てきます。この話は多くの人が知っているでしょう。エデンの園の中央には神によって2本のリンゴの樹が植えられており、これはすなわち、その実を食すと永遠の命を得ることができる「生命の樹」と、知恵(善悪の知識)を得ることができる「知恵の樹」です。

アダムとイヴはエデンの園にあるこの果樹のうち、生命の樹のリンゴを食べることは許されていましたが、知恵の樹のリンゴを食べることを禁じられていました。ところが、イヴはヘビにそそのかされてこの実を食べ、あまりのおいしさに、アダムにも分け与えます。

こうして、人間は、善悪の知識を得る代わりに永遠の命を得る機会を失い、神によってエデンの園を追放されました。ヘビに二者択一を迫られたわけではありませんが、自ら二つある選択肢のうちの一つを選んだことで、永遠の不死を得る機会を失ってしまいました。

こういうバナナ型神話が世界中で見られるというのは、それはやはりそれだけ人間が永遠の不死を願ってきたからでしょう。中国では、伝統的な生命観の一つとされており、始皇帝は実際に不老不死の薬を求め、かえって死期を早めました。

この世で強大な権力を手に入れた始皇帝ですが、あるときから死期が近いことを悟り、死を恐れて、不老不死を手に入れようと部下達に不老不死の薬を作れと命じました。

そしてこの無謀な命令を受けて部下たちが作ったのが「辰砂(しんしゃ)」であり、これはすなわち水銀などを原料とした丸薬でした。これを飲んだ始皇帝はその猛毒によって熱い砂漠を移動する中死に、その死骸は猛烈な腐臭を放ったと伝えられています。

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その他にも不老不死を求める話は後述の通り世界各地にあり、その最古のものは、紀元前2000年頃メソポタミアの「ギルガメシュ叙事詩」です。この中で大洪水から箱舟を作って逃げることに成功したノアが不死の薬草のありかを知っていたとされる記述が出てきます。

このほか、ギリシア神話に登場するティーターンは不老不死の象徴とされ、腐食もせず永遠の強靭さを保つ物質、「チタン」はここから来ています。また北欧神話のアース神族もそうであるほか、インドにも、不死の飲み物「アムリタ」を巡って神と悪魔が争う、という話があります。

日本でも「竹取物語」で不老不死の秘薬が登場し、昔話でおなじみの「浦島太郎」にも、太郎が玉手箱を開けたあと、乙姫と再会を果たし、不死の命を得て神になり、共に永遠に生きた、というバージョンがあります。

無論、生物学的な観点からは、不老不死などはナンセンスです。我々多細胞生物は一定期間で子孫となる個体を作るという方式で生命を繋いでおり、再生能力の限界に伴い必然的に老化し、死に至ります。

ただ、ベニクラゲ、という世界中の暖かい海に生息するクラゲのように、いったん個体が老化したのちに若返りができる動物も極めて少ないものの存在しています。また、多細胞動物の一部の細胞を取り出して培養した場合はこの細胞が不死化する場合があります。人間においても癌化した細胞が「不死株」として培養され続けている例があります。

現代の医学においても老化の防止は重要な課題であり、「抗老化医学」という分野もあります。とはいえ、現状の医学のレベルにおいては、長年にわたって老化を押しとどめるすべはなく、人間において不老不死を成し遂げた者は誰もいません。

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ただ、「不症老」とされるものでは症例があり、例えば、アメリカのメリーランド州で、1993年に生まれた人は、2013年に20歳で亡くなるまで、ほとんど成長しなかったとされます。

名前は「ブルック・ミーガン・グリーンバーグ」といい、女性でした。年齢の増加にもかかわらず、身長は約30インチ(76センチメートル)、体重は約16ポンド(7.3キロ)を持続し、推定された精神年齢は1年9ヶ月でした。生まれた当初から体が弱く、原因不明の病気で緊急手術を繰り返し、5歳のときには昏睡状態になりました。

その後回復しましたが成長が止まったままで、成長ホルモン異常、遺伝子異常など色々言われた結果、原因がわからないまま「Xシンドローム」という新たな病名がつけられました。

話すことはできませんでしたが、ジェスチャーである程度のコミュニケーションはとれたようです。ただ、知能が低いため会話にならず、音を認識することもできなかったようです。骨は10歳の少女のもののようだったといい、8歳児に相当する乳歯を持っていました。

また、体の各部位がそれぞれ別の速度で成長しているような兆候が観察されたといいますが、それらが例えば、異なる速度で変化する遺伝子によるものなのかといった、医学的な確定には至らなかったそうです。不老不死の数少ない症例になるかもしれないとその後も様々な検査が行われたようですが、2013年10月24日に気管支炎で亡くなりました。

現時点において、ブルックと同じようにXシンドロームではないかとされ、研究対象になっている子供が世界中に少なくとも7人いることが、カリフォルニア大学ロサンゼルス校の研究者から明らかにされています。が、その成果については明らかになっていません。

このように、不老と呼ばれた人達でもそれを永遠に続けることはできません。しかし不可能だ、難しい、といわれつつも人々は不老不死を求めようとします。不死が無理なら、せめて不老を成し遂げたいと、何度も整形を繰り返し、薬物に頼る女性も少なくありません。

また男性であっても、敵を排除し、独裁を続ける権力者などの中には、自分の力を永遠に保つために不老不死を求める者がおり、上述の始皇帝は良い例です。

古来からの人間の悲しい性といえますが、不老不死が不可能と解っていつつ、少しでもその生命を薄く長く引き伸ばそうとするだけで、一日一日をいい加減に扱おうとするこうした人間の生き様を、東西の賢人達は批判的な目で見ています。

兼好法師は「徒然草」の中で、「人間はただ長寿を願い、利を求めてやむときがないが、老と死はすぐにやってくる」と書いており、名利におぼれて、死という人生の終点が近いことを考えようとしないことを批判しています。また、古代ローマの思索家セネカは「人生は短いのではない、人間がそれを短くしてしまっているのだ」と述べています。

一日一日を大切に生きていない、一日一日を活かしきっていない、という意味であり、毎日を「人生最後の一日」のように思いつつ、明日を頼りにして今日を失わないこと、そして「心の多忙から解放されること」をセネカは薦めています。

心が忙しすぎると、たとえ引退後に趣味三昧で多忙な生活を送っていても、心は感じるべきことを感じない、とも述べており、セネカはこれを「怠惰な多忙」と呼びました。また、「人間は考える葦である」という言葉で有名なパスカルは、この怠惰な多忙のことを、ディベルティスマン(divertissment)と呼びました。

本来は、楽しい、面白い、気持ちにしてくれる明るく軽妙で楽しい音楽でのことで、深刻さや暗い雰囲気は避けた曲風のことですが、パスカルの言うところの意味は、心を肝心でない事柄に向けて忙しくしてしまうことであり、日本語では一般的にこれは「気晴らし」と訳されるようです。

また、「人間は考える葦である」は、「葦のように人間はひ弱なものであるが、思考を行う点で他の動物とは異なっている」という意味のようです。ただの動物とは違うんだから、ちゃんと考えるべきことを考えろ、ということをパスカルは言いたかったのでしょう。

人の一生は考え続けることでもありますが、心を多忙にしすぎないこと、考えすぎないこと、そして、本当に必要なことだけに集中して考えながら毎日を大切に生きることが大事なようです。

自分のまわりに巻き起こった出来事にかまけて本当に自分に必要なことが考えられず、毎日怒りの連続であったことが、ひばりさんと村下さんの命を縮めたのかもしれません。

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かにかに

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今日は、なぜか「かにの日」だそうです。

五十音順で「か」の文字が6番目、「に」の文字が22番目に登場するため、今日6月22日をカニの日にしたのだとか。また、星占いでも、この日から「かに座」の誕生月とされており、ダブルの理由でそう決めたようです。

誰がそんなもん勝手に決めたんじゃ、ということですが、これは大阪の「かに道楽」という料理屋さんです。道頓堀にあり、看板のどデカイ蟹のオブジェで有名です。2003年の阪神タイガースが優勝した時、この道頓堀店舗の巨大カニに暴徒化したファンがよじ登り、目玉をもぎ取られて阪神タイガースの旗が刺される、という事件もありました。

また、店頭の巨大なカニの使用権を、「かに将軍グループ」(株・かに将軍)と裁判で争い、勝訴したことがあるなど、この巨大ガニはこれまでも何かと話題になることが多いブツです。この巨大なカニの足を、中にいる人が自転車を漕いで動かしているという、まことしやかな都市伝説もあります。

上述のとおり、1990年に毎年6月22日を「かにの日」と制定してからは、同社では毎年6月には「かにの日月間」と銘打ったキャンペーンを行っています。今年は、関西、浜松限定ですが、「カニの箱寿司」半額販売をやるそうです。ただし、今日から3日間だけです。関西、浜松にお住まいの方は急ぎましょう。

私も行きたいところですが、今から浜松に行くのはちょっとしんどいかな……このブログをかに道楽さんが読んでいたら、これだけ宣伝しているのだから、一折送ってもらえないでしょうか…

このかに道楽さんの看板になっているカニは何だろう、と知らべてみましたが、どうやらズワイガニのようです。山口県以北の日本海と、茨城県以北からカナダまでの北太平洋、オホーツク海、ベーリング海に広く分布する種で、おもな生息域は水深200~600メートルほどの深海です。

冬の味覚の王様といわれるほど人気が高い食材であり、関西地方では、旅行代理店などが温泉地と結びつけたツアーを商品として扱っています。北海道・北近畿・北陸・山陰にはズワイガニ需要によって発展した温泉地も多いようです。

また、ズワイガニと同じく人気があるのがタラバガニであり、こちらも日本海、オホーツク海、ベーリング海を含む北太平洋の水深30~350m程度の砂泥底で獲れます。駿河湾や徳島県沖の水深約850~1,100mの深海で捕獲されたという記録もあります。

かつての、いわゆる「蟹工船」が対象としていたカニであり、漁獲したものを海上で缶詰に加工していた時代がありました。しかし、乱獲によって生息数が減少しており、日本ではオスについては規制がありませんが、メスの採捕が禁止されています。ただし、販売についての規制は特になく、ロシアからの輸入品が「子持ちタラバ」として流通しています。

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このタラバガニによく似たものに、「アブラガニ」というのがあります。日本海、オホーツク海、ベーリング海沿岸域に分布し、タラバガニと同様に食用のために漁獲されますが、味はタラバガニよりやや劣るようです。

形もタラバガニとよく似ていることからしばしば混同されることもありますが、日本ではこのアブラガニを「タラバガニ」と表示して販売することは禁止されています。ところが、以前、といっても10年ほど前になりますが、札幌の二条市場で偽装販売が発覚したのに続き、広島のそごう百貨店でも偽装表示があったとして摘発がなされました。

このそごう広島店では、初夏の「北海道物産展」の折り込みチラシに、「日替わりご奉仕品」があたかもタラバガニであるかのように表示していましたが、実際にはアブラガニであった事実が発覚し、同社に加え、この商品に関わった流通業者ら3社に排除命令がでました。

これらの一連の報道をきっかけに、アブラガニの存在が広く知られるところとりました。これらの度重なる報道により逆に知名度が向上したためで、このため最近は値段も相応に安くなり、消費者による指名買いも増えているといいます。

このほか、日本近海の深い海で採れるカニには、タカアシガニがおり、生息域は岩手県沖から九州までの太平洋岸で、東シナ海、駿河湾、土佐湾です。こちらも水深150~800mほどの深海砂泥底に生息しますが、ズワイガニよりはやや浅い水深200-300mで獲れます。

こちらは、大きなオスが脚を広げると3mを超えるほどの大型のカニで、甲羅も最大で40cmほどもあるものもある世界最大のカニです。上のズワイガニが脚を広げたオスが70cmほどで、甲羅は14cmほどですから、3倍以上の大きさです。

ただ、何でもそうですが、こうした大きいものは大味であり、タカアシガニも肉が水っぽく大味と評価されがちです。それゆえ大正初期の頃から底引き網漁でタカアシガニが水揚げされるも見向きもされていませんでした。

しかし、最近ではこれが採れる駿河湾などでは地元の名物料理の一つになっています。巷説では、1960年(昭和35年)に、西伊豆の戸田村の地元旅館主人が「タカアシガニ料理」を始めたとされているようです。

戸田港から出た小型底引き網(トロール網)漁船が捕獲して持ち帰り、塩茹でや蒸しガニ等にしたものが、港のあちこちにある食堂で食べることができます。私はまだ試したことはありませんが、この間テレビで見たときは、一ぱいが3000円くらいでした。地元で採れたものであるから安いとは限らず、やはり結構高級な食材であるには違いありません。

このカニ、というヤツですが、このタカアシガニや熱帯から極地まで、世界中の海に様々な種類が生息し、一部は沿岸域の陸上や淡水域にも生息します。

砂浜や干潟に生息するシオマネキや、岩礁帯によくいる、イソガニ、イワガニなどは身近な存在であり、海水浴に行くとたいていこれらのカニに出くわします。ちょっかいを出して、ハサミに指を挟まれ、痛い思いをした人も多いでしょう。これらの種類はあまり食には適しませんが、イソガニやイワガニなどはスープのダシに使うことがあります。

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このほか、淡水域にいるカニの代表選手が、サワガニやモクズガニです。このうち、「沢蟹」は日本固有種で、青森県からトカラ列島までの広い範囲に分布しています。脚を含めた成蟹の幅は50~70mmほどで、体色は甲が黒褐色・脚が朱色のものが多いものの、青白いものや紫がかったものなども見られ、これらの体色は地域によって異なります。

和名どおり水がきれいな渓流・小川に多いので、水質が綺麗な水の指標生物ともなっています。同じく川に生息するモクズガニなどは幼生期を海で過ごさないと成長できませんが、サワガニの一生は川で生まれて川で終わります。

石の下に潜み、夜になると動きだしますが、雨の日などは日中でも行動します。また、雨の日には川から離れて出歩き、川近くの森林や路上にいることもあります。活動期は春から秋までで、冬は川の近くの岩陰などで冬眠します。食性は雑食性で、藻類や水生昆虫、陸生昆虫類、カタツムリ、ミミズなど何でも食べます。

海のカニと同様に、丸ごと唐揚げや佃煮にしてよく食べられます。和食の皿の彩りや酒肴などに用いられるため需要が多く、養殖もされています。このほか、子供にとってはとても身近で扱いやすいペットとなります。純淡水性で雑食性なので、低水温ときれいな水質を保つことができれば飼育も比較的簡単にできます。

一方、モクズガニのほうは、日本では小笠原を除く日本全国に生息し、そのほか、中国東岸部から東北部、朝鮮半島西岸を取り囲むように広範囲にわたって生息し、樺太やロシア沿海にも分布します。

川だけでなく、その周辺の水田、用水路などに生息しますが、一般的に、同じ川にすむサワガニよりは下流域に棲みます。乾いた陸上にあがることは少なく、淡水域にいる間は基本的に夜行性で、昼間は水中の石の下や石垣の隙間などに潜み、夜になると動きだします。

秋になると成体は雌雄とも川を下り、河川の感潮域の下流部から海岸域にかけての潮間帯で交尾を行い、産卵します。ここで孵化した幼生は0.4mmたらず。遊泳能力の乏しいプランクトン生活を送りますが、魚などに多くが捕食され、生き残るのはごくわずかです。

しかし生き残ったものは、浮力を調節し、垂直方向に移動することで潮流に乗り、広く海域を分散します。豊富なプランクトン等の栄養分を採って変態を繰り返して稚ガニとなり、しばらく成長したのち、甲幅5mm程度になると川へ入り、上流の淡水域へ遡上し始めます。

中には甲幅10mmほどになるものもおり、大型のものはかなり上流まで分布域を拡げます。このサイズになると垂直な壁もよじ登ることができ、このためあまり高くない堰程度であれば楽々乗り越えます。魚道の護岸壁をよじ登って移動している個体もよく目にします。

私も昔、魚類の調査をやっていたのでそうした光景をよく見ました。岐阜県に今渡ダムという堤高が34mもあるダムがありますが、ここの魚道を遡上しているのも見たことがあります。下流ではなく、上流のダム湖近くでの目撃であり、それもかなりの数でした。

いくつかの河川では漁業資源としてこのモクズガニを保護しているところもあるため、こうしたダムや堰では、魚道などにもカニが移動しやすいように、漁協や河川工事事務所が麻などでできた太い綱を水面近くに垂らしている場合もあります。

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しかし、苦労して川を上った個体もまた、淡水魚に捕食される可能性が高く、とくにニゴイなどは天敵です。時に胃袋をカニで満杯にするほど大量に捕食している場合もあります。しかし、こうした万難を排して移動を続けつつ大きくなり、変態後1年で甲幅10mm台、2年で20mm台に達し、多くは変態から2~3年経過したのち夏から秋に成体になります。

大人になったあとは、また産卵のために秋から冬にかけて川を下ります。しかし、現在の日本でダムや堰がない川はほとんどなく、この下りの旅でまた多くの成体が死にます。

滝や堰を下るカニには水に流されて落下するものも多く、落差の大きな堰やダム、堰の直下にコンクリート製のたたきがある川では、叩きつけられて死んでいるカニがみつかることもあります。しかし、なんとか河口域にたどり着くものも多く、9月から翌年6月にかけてのほぼ10ヶ月、雌は4~5ヶ月の間に3回の産卵を行います。

そして、繁殖期の終わりになると雌雄とも疲弊してすべて死滅し、河口付近では多数の死体が打ち上げられ、その死骸は海鳥にとってはよい餌となります。一度川をくだり繁殖に参加すると、雌雄とも繁殖期の終わりに死亡するため、二度と川に戻ることはありません。

寿命は産卵から数えると、多くは3年から5年程度と考えられています。こうしたモクズガニの生活史をみると、私などは、本当に涙がでてきそうです。子孫を作るために、遠路はるばる苦労して川を下り、また生まれ変わっては障害を越えて川を上り再度同じことを繰り返す、というのは何やら人間の輪廻を見ているような気になってきます。

……といいつつ、このモクズガニはこれまたおいしくいただけます。標準的には「藻屑蟹(モクズガニ)」ですが、千葉などではモクゾウガニと呼び、ここ伊豆では、ズガニと呼びます。このほか、長崎など九州ではツガニ、ツガネと呼び、他に徳島などでは、ヤマタロウ、カワガニ、ケガニ、ヒゲガニ、ガンチなどと言います。

広島では、なぜか「毛ガニ」と称してスーパーで売っている場合があり、北海道などから来るタラバガニなどは「花咲ガニ」などと称して区別しています。「モクズガニ」というのはおもに関東地方の呼び名であり、西日本ではツガニやズガニが多いようです。

これを食べる県と食べない県があるようですが、食する場合でも「地産地消」となる場合が多くあまり流通には乗りません。九州は消費の盛んな地域であり、漁獲量が多いようですが、やはり九州地方内で消費され、それ以外の場所へはあまり流れません。

関西でも比較的消費量が多く、これらの地方のモクズガニは、富山や福井から出荷されたものが多いようです。なお、四国では仁淀川や四万十川のものが有名です。取引きされる場合、多くはkgあたり1000円から2000円程度の卸値で扱われますが、関東や九州などの一部の地域では季節により3000円以上の高値が付くこともあります。

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伊豆では、「ズガニ料理」と称して、あちこちのレストランや割烹店で食べられます。茹でガニでが出てくる場合が多いようですが、すり潰して「がん汁」にしたものが人気があり、このほか鍋物として提供する場合や、うどんに入れて出されるケースも少なくありません。

モクズガニは、甲を開くと現れる「カニミソ」がウマいと評判であり、海産のカニと異なる独特の甘みの強いこのかにみそは、珍味です。卵巣の発達したメスは特に珍重されます。

このモクズガニの一種で、中国および朝鮮半島東岸部原産のイワガニ科のカニは、チュウゴクモクズガニといい、これは日本では一般に「上海蟹」の名で知られています。上海、香港などで、秋が旬とされる重要な食用種であり、最も有名な産地は、中国江蘇省蘇州市にある陽澄湖(ようちょうこ)です。

陽澄湖産のものは海外でも有名であり、高値で取り引きされるため、別の産地で育ったものを、陽澄湖の養殖池の水に浸けただけなどという偽物も出回ることがあります。本当に陽澄湖で育てたものには、はさみにタグを付けたり、甲羅にレーザー光線でマークを焼いたりして、区別をすることが行われています。

この本物には香港や台湾などから多数の予約が入っていて、主に輸出されるため、地元に出回る比率はかなり低いようです。日本国内にも生きたままで輸入されて流通しており、また山形県、秋田県等で養殖も行われています。日本産と比べても成長が早いといいます。

上海蟹の旬は、メスは10月、オスは11月で、10月ごろのメスは甲羅の中にオレンジ色の内子を持っており、これがほくほくしてウマイと評判です。藁で縛ったままの状態で蒸し、藁を切って食卓に出されます。そして、生姜の糸切りを入れた黒酢につけて食べます。

が、無論、本来の蟹肉の味を楽しみたければ、酢を付けずに食べれば良く、このほか、中国本土では、生で老酒(紹興酒)に薬味と一緒に漬けたものがガラス瓶に入れて密封し売られており、生の身に酒の味がしみこみ、なめらかな食感だそうです。

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この上海ガニについては、こういう伝説があります。

その昔、漢族の祖先は長江の南の地方に定住し、稲を植え、漁労をして、徐々に豊かな土地を切り開いていました。しかし、ここは土地が低いため、いったん雨が降れば水害が起きやすく、しかもこのあたりには、2本のはさみと8本の足を持つ「虫」がいて、水田に入り込んで、稲を喰ったり、はさみで人を傷つけた、といった悪戯をしていました。

このため、人々はこれを「夾人虫」(きょうじんちゅう)と呼んで、まるで虎や狼のように恐れていました。あるとき、この地方の王の大禹(だいう)は、巴解(はかい)という勇猛な男に河口に通ずる水路の工事を命じました。

工事が始まり、夜に火を焚くと、これを見た夾人虫の大集団が泡を吹きながら集まってきて、作業員達を襲いました。人とこの虫達との血生臭い戦いは一晩続いたといい、朝になって人々はようやく「夾人虫」を撃退しましたが、多くの作業員が殺されてしまいます。

これでは工事ができない、と困った巴解は、一計を案じ、堀を巡らせた城を築き、堀に湯を入れました。夜になると火を焚いて「夾人虫」をおびき寄せましたが、再びやってきた彼等は、巴解の思惑通り、湯の入った堀にどんどん落ちて死んでいくではありませんか。

次から次にやってくる夾人虫を相手に、どんどん堀に湯を足して殺してゆくと、彼等は次第に赤くなってきました。いい香りもするようになったため、巴解がその一匹を手に取り、甲羅を開いて食べると非常に美味だったので、他の仲間にも食べるように薦めました。

こうして、夾人虫を退治する方法を考えた巴解は、勇猛な男とあがめられ、夾人「虫」は巴「解」の足元にいる虫という意味で「蟹」と書かれ、カニと呼ばれるようになりました。

中國でも、カニというのはこのモクズガニのように身近な存在であるだけに、こうした民話が生まれたのでしょうが、日本でも、モクズガニに関してはいろんな伝承があります。たとえば、福岡県の大牟田市には、大蛇の生贄にされようとしたお姫様を大ツガネ(モクズガニ)がハサミを振って格闘の末、救ったという伝説があります。

ツガネのはさみで大蛇が3つに切られ3つの池となったとい、この地方の炭鉱、「三池炭鉱」の「三池」は、この3つに分かれた池に由来します。市の夏祭りには10メートル余りの大蛇(龍)の山車が出され、勇壮な大蛇の目玉争奪戦がくりひろげられます。

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このほか、「さるかに合戦」に登場するカニも、モクズガニです。どんな話だったかもう忘れている人も多いと思うので、一応あらすじを書いておきましょう。

ある日のこと、蟹がおにぎりを持って歩いていると、ずる賢い猿がそこらで拾った柿の種と交換しようと言ってきました。蟹は最初は嫌がりますが、種を植えれば成長して柿がたくさんなってずっと得すると猿が言ったので、おにぎりとその柿の種を交換しました。

蟹はさっそく家に帰って「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃ鋏でちょん切るぞ」と歌いながら種を植えると一気に成長して多くの実をつけました。そこへ再び猿がやって来て木に登れない蟹に代わって自分が取ってやろうと木に登りますが、ずる賢い猿は自分が食べるだけで蟹には全然とってやろうとしません。

蟹が早くくれと言うと猿は青くて硬い柿の実を蟹に投げつけました。このとき蟹は身籠っており、このショックで子供を産むとすぐに死んでしまいました。そのカニの子達は、長じて親がサルに殺されたことを知ると、親の敵を討とうと奮い立ちます。

そこへ、栗と臼と蜂と牛糞が助太刀をいたす、と現れたため、彼等と共に子カニ達は、猿への復讐の算段を始めます。そして猿の家に偵察に行き、栗は囲炉裏(いろり)の中に隠れ、蜂は水桶の中に隠れ、牛糞は土間に隠れ、臼は屋根に隠れることにしました。

そしてついにリベンジの機会はやってきます。その日は寒い日でした。寒がりのサルはブルブル震えながら帰ってきて囲炉裏で身体を暖めようとしましたが、そこへ栗が囲炉裏の灰の中から勢いよく飛び出し、体当たりをしたので、猿は大やけどを負います。

急いで水で冷やそうと水桶に近づきますが、こんどは桶に隠れていた蜂に刺され、驚いた猿は家から逃げようとします。が、今度は土間に「寝ていた」牛糞に足をとられ、滑って転倒、家の外へ倒れ込んだところを、今度は屋根から臼が落ちてきました。こうして猿はぺっちゃんこに潰れて死に、見事子供の蟹達は親の敵を討つことができました……。

この話は、江戸時代に創作されたようですが、昭和末期以降も「おとぎばなし」の定番としてもてはやされました。が、原作では猿は死ぬことになっているのにこれらの近代の作では、蟹や猿は怪我をする程度で、猿は反省して平和にくらすと改作されていました。

これは「敵討ちは残酷で子供の教育上問題がある」という意見のためだったようです。また牛糞は「汚い」「衛生的でない」ということで登場しない場合もあるようで、私も子供のころに読んだ話にはこのクソの話は書いてありませんでした。

このように原作の改変版は多く、1887年(明治20年)に教科書に掲載された「さるかに合戦」では、クリではなく卵が登場、爆発することでサルを攻撃しているそうで、また牛糞の代わりに昆布が仲間に加わってサルを滑って転ばせる役割を果たしています。

このほかにも地域によってタイトルや登場キャラクター、細部の内容などは違った部分は持ちつつも似たような話が各地に伝わっており、たとえば関西地域ではクソの代わりに油が登場するバージョンもあるといいます。

こうした改変は時代背景と、地方性によって当然あってしかるべきものです。しかし、原作の「敵討ち」の精神を勝手に捻じ曲げるのはけしからん、と思う人も多いようで、明治・大正期を代表する小説家である芥川龍之介は、蟹達が親の敵の猿を討った後、逮捕されて死刑に処せられるという、その名も「猿蟹合戦」という短編小説を書いています。

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日本では、その昔、明治の初期ごろまでは「敵討(仇討ち)」、あるいは「お礼参り」が認められていました。直接の尊属を殺害した相手に「私刑」が許されるというもので、江戸期前から既に慣行としてあり、江戸期には警察権の範囲として制度化されていたほどです。

代表的な敵討ちといえばやはり、赤穂浪士の討ち入りであり、このほか曾我兄弟の仇討ち、高田馬場の仇討ちなど、討手は、武士はいうまでもなく、町人、農民にまで及びました。

しかし明治になると司法卿の江藤新平らによる司法制度の整備が行われ、1873年(明治6年)、明治政府は「敵討禁止令」を発布し、敵討は禁止されました。現在では報復行為を国が代行するかわりに国民から報復権を取り上げています。

国による報復の究極は死刑ですが、仮にこれもなくなるとすれば、被害者遺族の報復権が不当に制限されるという意見もあり、これが死刑撤廃の大きな壁になっている理由です。
一方で、殺人など凶悪犯罪の加害者が法により保護されるのに、被害者側に報復が認められないのはおかしいと考え、昔のように報復を認め合法化すべきという意見もあります。

が、近代法制度では、「私刑」は認められていません。相手を誤認して無関係の第三者を殺傷したり、報復の連鎖を招く危険があるといった反対意見が多いためであり、現在も広い論議には至っていません。

また実際に私刑に及んだケースというのは少なく、1984年の大阪産業大学付属高校同級生殺害事件、1985年の豊田商事会長刺殺事件、2006年の山形一家3人殺傷事件等数件です。

しかし、表出した私刑の数は少ないものの、実際には昔より深刻になっているのではないかと言われています。インターネット時代になってからは報復もより陰湿になってきており、学校や職場でのいじめに対して「逆ギレ」してブログを炎上させたり、執拗なメールを送りつけたりといった、ストーカーまがいの行為に出る輩も増えているようです。

最近は、「復讐代行」を行うサイトまであるようで、依頼者から報酬を受け取り、その依頼者が恨みを持っている標的の人に対する復讐を請け負うといいます。

実際に検索してみれば復讐代行を行う業者が大量にあるようで、彼等は復讐対象者に対して無言電話をかけたり、大量の出前をしたり、ポストに異物を入れたりするなどの嫌がらせを繰り返して精神的に追い込み、対象者の家族や勤務先に中傷メールを送ります。

最近ではさらにその技術?も進化し、その復讐方法も、電磁波攻撃・音声送信 思考盗聴などなど高度化しているといいます。しかし、こうした代行業者に依頼をする人物が実際に対象者から不利益を受けているとは限らず、単なる逆恨みによる場合も多いようです。

「目には目を、歯には歯を」で有名な、古代メソポタミアの「ハンムラビ法典」は報復を奨励したものではなく、無制限報復が一般的だった原始社会で報復行為を制限する目的のために造られた法典だといいます。

現在ではインターネットによる報復が無制限になっている時代といえ、こうした新たなハンムラビ法典の導入が望まれています。

そんなせちがない世の中にあっても、カニ達は今日もせっせ、せっせと子育てのために川を上り下りしています。海や川で魚に食べられても、鳥に襲われても敵討ちに走ることなく日々をたんたんと過ごします。

「蟹の死にばさみ」ということわざがあります。カニがいったん物を挟むと、爪がもげても放さないことから、欲深さや執念の深さを例えたものですが、人への恨みはまさにこの死にばさみです。

「うろたえる蟹穴に入らず」というのもあります。穴もぐりの名人といわれるカニも、慌てふためくと、自分の穴がどこにあるのかわからなくなる、という意です。冷静に物事に対処しないと、適切な判断や行動が出来ず失敗するという意味でもあり、人を憎いと思ったときには、この言葉をかみしめ、冷静に考えましょう。

そうしていれば、いつかは「後這う蟹が餅を拾う」になります。いつも鵜の目鷹の目でせかせかしていなくても、思わぬ幸運に行き当たることもある、という意味です。人のあらさがしばかりせず、あっさり日々を過ごしていれば、そのうち良いことが訪れるでしょう。

そして、「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」を実践しましょう。蟹は自分の甲羅の大きさに合わせて穴を掘るものであり、人は自分の力量や身分に応じた言動をするものだということであり、人はそれ相応の願望を持つべきです。

さて、蟹が口の中でぶつぶつ泡を立てるように、いつまでもくどくどと呟いてばかりはやめましょう。まるで「蟹の念仏」です。それでも呟きたかったら……

そろそろツイッターでも始めましょうか。

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島根の宝

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今日は、元総理の、竹下登さんの命日だそうです。

2000年(平成12年)の6月19日に、76歳で亡くなりました。

リクルート事件で総理の座を追われたあとも、政界のドンとして長らく君臨していましたが、1999年(平成11年)4月から体調不良のため北里研究所病院に入院、表舞台にでることは少なくなりました。

その後も容態は次第に悪化し、4月に竹下が創立した経世会を継承する小渕派の領袖でもあった、小渕恵三首相が倒れたとの一報を聞いたこともあり、自らも政界を引退することを決意します。そして2000年(平成12年)5月、記者会見が開かれ、病床で録音した竹下の引退宣言の肉声テープを、小渕派の最高幹部たちが公表しました。

この引退表明後は議員でなくなったことで気力が失われたのか急激に弱っていったといいます。そして、第42回総選挙期間中の6月19日、北里研究所病院にて膵臓癌で亡くなりました。発表では脊椎変形症による呼吸不全のため死去でした。葬儀は、6月21日に築地本願寺で密葬で行われました。

昭和から平成になったときの首相であることは有名で、昭和最後の大物と言われました。奇しくも大正から昭和になったときの首相、若槻禮次郎もまた島根県出身者でした。

総理在任中のおもな施策としては、なんといっても、野党や世論に強硬な反対意見が多かった税制改革関連法案を強行採決で可決し、日本初の付加価値税である消費税を導入したことでしょう。また、日米貿易摩擦の懸案の一つだった牛肉・オレンジについて、日米間の協議による輸入自由化も彼の代で実現したことでした。

この消費税については、現在においてもその可否を巡って論争が続いていますが、その当時も大きな争点でした。1988年(昭和63年)、この消費税導入が可決されるとリクルート事件の影響もあって、竹下は国民から厳しい批判を浴び、内閣支持率は史上最低に落ち込みました。

しかし彼は、「消費税を導入したことは後世の歴史家が評価してくれる」と語りました。実際現在においても、竹下内閣の最大の功績は大平、中曽根両内閣が実現できなかった消費税導入を実現したことだ、という人も多いようです。

さらに竹下総理の施策として良くも悪くも歴史に残ることになったのは、全国の市町村に対し1988年(昭和63年)から1989年(平成元年)にかけて地方交付税として一律1億円を支給する「ふるさと創生事業」です。

1億円を受け取った各自治体は、地域の活性化などを目的に観光整備などへ積極的に投資し、経済の活性化を促進しましたが、一方では無計画に箱物やモニュメントの建設・製作に費やしたりと、無駄遣いの典型としてよく揶揄されました。バブル経済の中で行われた事業であり、税金のバラ撒きとして、後世の評判もあまり高くありません。

ちなみに、竹下を輩出した島根県における、ふるさと創生事業は、彼の生地でもある、飯石郡掛合町の道の駅、「掛合の里」でした。ほかに、益田市は雪舟筆「益田兼堯像」を購入。合わせて益田市立「雪舟の郷記念館」の開館にも使われました。

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竹下登は1924年(大正13年)2月26日、この島根県飯石郡掛合村に父・竹下勇造、母・唯子の長男として生まれました。掛合村はその後町になり、現在、平成の大合併により現在、「雲南市」となっています。竹下家は300年つづいた旧家で、江戸時代には大地主であった、「田部家」の傘下で庄屋を務めた家柄です。

その関係から、慶応2年(1866年)酒造りの権利である「酒座」を同家から譲り受けました。そして、幕末の1866年から代々造り酒の醸造元を営むようになりました。この酒屋は「かけや酒蔵」といいましたが、現在では名前を「竹下本店」と変え、現在も続いています。この当時、登は竹下家12代当主でした。

田部家は「日本三大山林王」とも呼ばれ、往時の財力は、島根を支配するとまで称されていました。ここに仕える戦前の竹下家は「田部家の“中番頭”」クラスではあったものの、掛合地区では圧倒的な権勢を誇っていました。

戦後の農地解放で、竹下家が手放した農地と山林は、「掛合町誌」によれば合計約五百六十九反(十七万七百坪)に上っており、これは、掛合地区で3番目に多く農地と山林を手放した地主でした。

祖父・儀造は島根県人竹下荘太郎の三男にして明治10年(1877年)に生れたのち、このかけや酒蔵を継ぎました。長じてからは掛合村の戸長をも勤めるとともに、明治22年(1889年)から大正14年(1925年)まで掛合村の村会議員でもあり、戦前は島根県の多額納税者でした。

儀造には男子がなかったことから、出雲市今市町出身の印刷工場経営主、武永貞一の弟である、登の父の勇造が竹下家の養子に入りました。儀造の跡を継いで、掛合村の名誉村長を務めるとともに、昭和17年(1942年)には島根県議会議員となりました。

しかし、戦争に協力的であったとして戦後公職追放になり、戦後の農地解放で竹下家はかなりダメージを受けました。が、それなりの財力は維持しており、田部家の援助もあって、戦後も勇造は掛合町の教育委員長を17年にわたって務めるなど、地元の名士として君臨し続けました。

そして登が、1924年(大正13年)2月26日に生まれました。早稲田大学商学部を卒業すると、郷里・島根に帰り地元掛合中学校の代用教員をしていましたが、かたわら、青年団活動に身を投じるようになり、35歳のとき、田部家第23代当主の長右衛門の強い支援を得て政界へ進出。

島根県議会議員2期を経て、島根県全県区から第28回衆議院議員総選挙に34歳で立候補し、1958年(昭和33年)に初当選。同じく初当選を飾った金丸信、安倍晋太郎とは終生深い信頼関係を築きました。

その後も衆議院議員総選挙で、連続14回当選し、1964年(昭和39年)に佐藤内閣が誕生すると、内閣官房長官に就任した橋本の推薦で内閣官房副長官となり、次代を担うニューリーダーとして次第に頭角をあらわすようになります。

1971年(昭和46年)、就任当時歴代最年少となる47歳で第3次佐藤内閣の内閣官房長官として初入閣。田中内閣でもふたたび内閣官房長官となります。その後も三木内閣で建設大臣、第2次大平内閣で大蔵大臣を歴任しました。

派閥領袖の元首相・田中角栄に反旗をひるがえすかたちで、金丸らの協力を得て田中派内に勉強会「創政会」を結成。その後田中の威光が弱まった結果、中間派を取り込んだ竹下は1987年(昭和62年)、「経世会」(竹下派)として正式に独立。

この年の11月に、中曽根康弘首相の裁定により安倍晋太郎、宮澤喜一の2人をおさえ第12代自民党総裁となり、第74代内閣総理大臣に就任しました。首相としては初の地方議会議員出身者であり、同時に初の自民党生え抜きの総理の誕生でした。

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総理となったあとも、引き続き田部家と関係を保ちつつ地元への影響力を持ち、祖父から三代に続く地域における認知度の高さもあって、島根県は「竹下王国」とまで比喩されるようになりました。

激しい党内抗争を間近で見てきた経験から、政権発足にあたって「総主流派体制」を標榜、総裁選を争った安倍を幹事長、宮澤を副総理・蔵相に起用するなど各派閥から比較的均等に人材を起用しました。加えて自派の強固な支えもあって盤石な政権基盤を持っており、竹下政権は長期政権になるとの見方が一般的でした。

しかし、消費税導入では支持率を落としながらも何とか乗り切ったものの、1988年(昭和63年)に発覚したリクルート事件が予想外の広がりを見せ、政治不信が高まりました。竹下自身の疑惑も追及され、秘書で竹下の金庫番といわれた青木伊平が1989年(平成元年)4月26日に自殺しています。

こうした状況のなか内閣支持率調査で3.9%という数字も現われ、他の調査でも7%程度の数字まで落ち込むまでに至ります。財界からも日産自動車会長の石原俊氏らが公然と竹下の退陣をせまり、ついに1989年(平成元年)6月3日に内閣総辞職に追い込まれました。

首相辞職後も表向きは「玉拾いに徹する」といいつつも、政界に強い影響力を持ち、宇野宗佑、海部俊樹、宮澤喜一という歴代の内閣誕生に関与しました。

しかし、その後1992年(平成4年)に東京佐川急便事件が発覚。佐川からの5億円闇献金事件の責任を負って金丸信が議員辞職、竹下派会長辞任に追いこまれると、後継会長に小渕恵三を推す派閥オーナーの竹下と、羽田孜を推す会長代行の小沢一郎の主導権争いは激しくなりました。

竹下は中立を守っていた参議院竹下派に対する多数派工作などをおこない、小渕を強引なかたちで後継会長にすえました。これに反発した小沢、羽田らが新派閥・改革フォーラム21を結成、竹下派は分裂状態となり、この派閥は翌年自民党から離脱し、新生党となりました。

1993年(平成5年)7月の総選挙で自民党は過半数割れし、新生党、社会党、日本新党など非自民8党連立による細川内閣が誕生。自民党は1994年(平成6年)の社会党との連立による村山内閣発足を機に政権に復帰。

村山内閣誕生に竹下も深く関与したことからふたたび隠然たる影響力を持つようになり、村山内閣後は竹下派出身者による橋本内閣、小渕内閣を実現させました。しかしこのころから体調を崩すことも多くなり、上述のとおり、それから6年後に亡くなりました。

その後の自民党の没落、民主党の躍進と凋落、そして現在の安倍政権の活躍(暴走?)に至るまでの経緯はみなさんのご記憶にも新しいでしょうから割愛します。

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リクルート事件の件があるので何かと黒いイメージがあるのですが、意外に面白い人だったようです。現民主党衆議院議員の辻元清美氏は、これまでで一番おもしろいと思った政治家は誰かと問われ、真っ先に竹下の名前をあげています。

佐藤政権時代、ズンドコ節の替え歌を作ったそうです。「講和の条約吉田で暮れて 日ソ協定鳩山さんで 今じゃ佐藤で沖縄返還 10年たったら竹下さん トコズンドコ ズンドコ」というのをよく宴席で歌っていたそうで、これがその後田中政権になったときは、佐藤の部分が「今じゃ角さんで列島の改造だ」になったといいます。

戦争真っただ中の昭和19年4月に早稲田大学商学部に入学していますが、宮澤喜一が竹下に対して「(戦争中でもあり、)あなたの頃の早稲田は無試験だったんですってねえ」などと言ったのに対して反応し、温厚な竹下も「あれは許せないよ」とその後かなり長く怒っていたといいます。

もっとも、その話を聞いた竹下の子分で、のちに初代内閣安全保障室長となる佐々淳行が、「でも早稲田でも試験くらいあったんでしょう?」と尋ねたところ、竹下は「それがね、無試験だったんだよ」と答えたそうです。

総理に就任し帰宅した時の一声は「アイムソーリ、ボクソーリ」で、この台詞がお気に入りだったといいます。ジャーナリストの後藤謙次によれば、孫のDAIGOが髪を青く染めたとき、竹下は「おい後藤、ロックってのは髪を青くしなきゃできないのか」とたずねたともいいます。

国会答弁などでは、はきはきと発言するが文章全体の意味がつかめないという、「言語明瞭・意味不明」な竹下語を駆使し、野党に言質をあたえることがありませんでした。「気配り・目配り・金配りで総理になった」といわれる人間関係の達人であり、与野党・財界・官界に幅広い人脈を持ち、どこにも敵をつくらない人物でした。

絶対に人の悪口をいわないことで有名でした。リクルート事件もあって首相在任中は週刊誌を中心に金権政治批判を受けていましたが、週刊誌を告訴するよう迫った側近に対し、「権力者というものはそういうことをすべきではない」と側近をたしなめたそうです。

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他人を絶対怒らないことでも有名でした。これについては例外があり、それは一度だけ妻に向かってどなり散らかしたことでした。

竹下は、早稲田大学商学部に入学直前の3月、素封家の娘・竹内政江と最初の結婚(学生結婚)をしましたが、第二次世界大戦で軍隊に入ると同時に、陸軍特別操縦見習士官の第四期生に志願し、飛行第244戦隊に在隊していました。

この時、基地を訪ねてきた妻・政江を痛罵しました。軍人の職場に何しに来たのか、といったことだったようで、自分に厳しい性格ゆえのことだったでしょうか。しかしこのときあることを相談に来ていた政江はショックを受け、島根に帰った後自殺してしまいました。そして、このことがトラウマとなり、竹下は以後他人を叱れなくなったのだといいます。

この妻の死には、父・勇造が関係しているようです。彼はこのころ、島根県議会議員となり、忙しい日々を送っていましたが、その中で最初の妻、唯子を失っています。その寂しさからか、何かと政江に“干渉”したといいます。

竹下後援会の「きさらぎ会」の元幹部によれば、「勇造さんは、敗戦を意識して自暴自棄になっていたのかもしれないが、その執拗な“干渉”は、毎夜のように政江さんを悩ましていました」と語っています。これにより、政江は、ノイローゼ状態となり、睡眠薬を手放せなくなっていたともいます。

上述のとおり、竹下家は江戸時代から続く、酒造元であり、勇造はそこに婿養子として入り11代目になったわけですが、竹下家関係者は勇造について「勇造さんは、いまでいう“逆玉”ですわ。家つきの娘と結婚して、気楽な生活を楽しんでました。家業の酒造りは、奥さんと番頭さんにまかせっきりでした。」と述べています。

詳しいことはよくわかりませんが、家業は妻と番頭に任せ、外では議員として日本が戦争に勝つためには何かしなければ、ともがいていたのでしょう。しかし、それができるのも妻の内助の功があってのことであり、彼女の死をもってそれを悟り、悔いたのかもしれません。

よほどこの妻の死がこたえたのでしょう。息子の嫁の政江に何かと干渉したのは、何か亡き妻への償いを、の気持ちもあったのかもしれません。が、逆にそれが災いしました。

父の勇造はその後再婚しましたが、登もまた再婚しました。しかし、男子には恵まれず、三女に恵まれたものの、いずれも政治家とは結婚していません。

ただ、次女のまる子が、福岡県出身の政治家秘書で、新聞記者である内藤武宣と結婚しました。そして、生まれたのが、内藤大湖こと、タレントのDAIGOになります。また、長女の栄子は、「影木栄貴」として、漫画家、イラストレーターとして活躍しています。

なお、内藤武宣氏は現在もう77歳であり、政界進出はないでしょう。従って、DAIGOが政治家にでもならない限りは、竹下の直系の子孫で政治家になるものはいません。ただし、登の異母弟(勇造の後妻、恕子の子)の、竹下亘(わたる)は、NHK記者から登の秘書となり、登の引退後、地盤を継ぎ政治家となりました。

衆議院議員を6期務め、復興大臣(第3・4代)のほか、環境大臣政務官、財務副大臣、自由民主党組織運動本部本部長などを歴任しています。ただ、子供さんはいらっしゃらないので、やはり期待すべきはDAIGO君ということになるでしょうか。

竹下登に関するエピソードはこれくらいにしましょう。

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ところで、竹下登の出身地、島根と言えば、最近松江城が国宝になり、話題になりました。江戸時代には堀尾吉晴が出雲・隠岐24万石で入封し、松江城を築きました。松江藩はその後京極氏を経て、徳川家康嫡男の流れを汲む結城松平氏の松平直政が入国し、幕末に至っています。

豊臣政権時代、出雲は中国地方西部を領する毛利氏の支配下で、一族の吉川広家がかつて尼子氏の居城だった月山富田城(現安来市)を政庁として出雲一国を経営していました。

関ヶ原の戦いの後、毛利氏は周防・長門2国に減封となり、吉川広家も岩国に移されました。これにより遠江国浜松で12万石を領していた堀尾忠氏が、この前年に隠居して越前国にいた父・堀尾吉晴とともに、あらためて出雲・隠岐2国24万石で入部、ここに出雲富田藩が立藩しました。

ところが、忠氏は27歳で早世、後を継いだ忠晴はまだ5歳の幼児だったことから、祖父・吉晴がその後見として事実上の藩主に返り咲きました。吉晴は月山富田城が山城で不便を感じたため、慶長12年(1607年)から足かけ5年をかけて築城したのが、松江城です。

城の完成とともに城下町の建設をも行いました。慶長16年(1611年)に吉晴は松江城に移り、ここに松江藩が成立しました。が、吉晴はこれを見届けるとすぐに、死去しました。一説によれば築城にあたり、人柱を使った祟りだともいわれています。

天守台の石垣を築くことができず、何度も崩れ落ちました。そこで、人柱がなければ工事は完成しないと、工夫らの間からの声があがりました。このため、盆踊りを開催し、その中で最も美しく、もっとも踊りの上手な少女が生け贄にされました。娘は踊りの最中にさらわれ、事情もわからず埋め殺されたといいます。

こうして石垣は見事にでき上がり城も無事落成しましたが、直後に城主の吉晴子が急死し、その後を継いだ忠晴にも子供ができず、改易となりました。人々は娘の無念のたたりであると恐れたため、天守は荒れて放置されたといいます。

その後、松平氏の入城まで天守からはすすり泣きが聞こえたという城の伝説が残っています。また、「城が揺れる」とのうわさも流れ、その後しばらくは、城下では盆踊りをしなかったと伝えられています。

さらに人柱の話としては、別の話もあります。天守台下の北東部石垣が何度も崩落するため困っていたところ、堀尾吉晴の旧友という虚無僧が現れて、崩落部分を掘れといいました。すると槍の刺さった髑髏が出てきました。虚無僧はこれを祈祷し平癒を得ようとしましたが、まだ危ういところがある、といい、しかも「祈祷では無理だ」といいます。

人々が、どうすればいいのかたずねると、「私の息子を仕官させてくるのであれば、私が人柱になろう」といいます。人々は困惑しますが、結局は言われたとおり虚無僧に人柱になってもらい、工事を再開させることができた、といいます。

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いずれにしても、その結果なのか、堀尾吉晴は、城の完成後に急死し、忠晴は男子に恵まれなかったため、彼の死とともに掘尾家は無嗣改易となります。そして堀尾の家は滅びましたが、一族が築いた松江は以後も山陰の政治経済の中心として栄えることとなりました。

堀尾氏に代わって寛永11年(1634年)若狭国小浜藩より京極忠高が入部しました。京極氏は戦国時代に守護代の尼子氏に支配権を奪われる以前の出雲守護であり、故地に復帰したことになります。しかしこれも祟りなのか、わずか3年後忠高も死去しました。しかも子がおらず、死に臨み甥の高和を養子に立てましたが認められず、再び改易となりました。

翌寛永15年(1638年)、結城秀康の三男・松平直政が18万6千石で信濃国松本藩より転封しました。以後、出雲一国は越前松平家の領するところとなります。また松平家はこのころまでに公儀御料となっていた隠岐1万4千石も預かることになりました。こうして、ようやく祟りはなくなったかに見え、その後松江藩は幕末まで平穏に続いていきます。

しかし当初、藩の財政は年貢米による収入のみでは立ち行かず、入部当初から苦しい状況が続きました。このため松平家は、早くから専売制を敷き、木蝋・朝鮮人参・木綿そして鉄の生産を統制しました。特にこの地は古くから砂鉄から鉄を生産することが盛んであり、その後たたら製鉄が主要産業になっていきました。

その後出た7代・松平治郷(はるさと)は特に有名な藩主です。先代・宗衍の代より藩政改革に着手していた家老・朝日丹波を引き続き起用して財政再建を推進した結果、寛政年間(1789~1801年)には8万両もの蓄財が出来るまでになりました。

治郷は藩財政の好転を期に、かねてからの趣味であった茶道に傾倒して「不昧流」を創設しました。また茶道との絡みで、松江の町はこの頃より京都・奈良・金沢と並び和菓子の一大名所となりました。茶や和菓子のみに留まらず、松江及び出雲地方では今日でも治郷が好んだ庭園や工芸品などが「不昧公好み」と呼ばれ、一つの銘柄と化しているほどです。

幕末の松江藩は政治姿勢が曖昧で、大政奉還・王政復古後も幕府方・新政府方どっちつかずだったために、新政府の不信を買いました。しかし結局は新政府に恭順することとなり、慶応4年(1868年)に始まった戊辰戦争では京都の守備につきました。松江藩は明治4年(1871年)の廃藩置県により松江県となり、その後島根県に編入されました。

藩はなくなりましたが、松江城は残りました。しかし、1871年(明治4年)、廃藩置県により、廃城の命が出ます。このため、1873年(明治6年)、天守以外の建造物は、4円から5円(当時の価格)で払い下げられすべて撤去されました。

天守も180円で売却されることとなりましたが、出雲郡の豪農が同額の金を国に納めることを申し出たため、買い戻され保存されることになります。こうして、1889年(明治22年)、当時の島根県知事、籠手田安定によって「松江城天守閣景観維持会」が組織されました。

1934年(昭和9年)、国の史跡に指定され、翌1935年(昭和10年)には、天守が国宝保存法に基づく国宝に指定されました。が、戦後の1950年(昭和25年)に新たに施行された文化財保護法施行では重要文化財に格下げになりました。1955年(昭和30年)まで、天守の解体修理が行われましたが、その費用は当時約5300万円でした。

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この松江城は、松江市街の北部に位置します。南に流れる京橋川を外堀とする輪郭連郭複合式平山城です。宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれ、日本三大湖城の一つでもあります。城の周りを囲む堀川は宍道湖とつながっており薄い塩水(汽水域)です。

全国に創建時の姿を残している天守はわずか12。そのうちの一つである松江城の天守は、1階の床面積が姫路城に次ぐ2番目の規模で、高さは姫路城、松本城に次ぎ3番目です。

私も何度か訪れたことがあります。美しい佇まいの城です。千鳥が羽を広げたように見える見事な三角屋根の破風を持つことから「千鳥城」とも呼ばれます。その構造は、本丸を中心に据え、東に中郭、北に北出丸、西に後郭、東から南にかけ外郭、西から南にかけ二の丸が囲み、二の丸の南には一段低く三の丸が配されています。

天守の意匠は下見板張りで桃山文化様式です。石垣は「牛蒡積み」といわれる崩壊しない城石垣特有の技術が使われています。人柱が埋められたとされるくだんの石垣です。この上に立つ本丸の高さは、地上より約30メートル(天守台上は22.4メートル)あります。

外観は4重ですが、内部は地下の穴倉を含む5階であり、天守の南にも地下1階を持つ平屋の付櫓が付いています。地下の井戸は城郭建築では唯一の現存例です。2階に1階屋根を貫くかたちで開口した石落しが8箇所あることを特徴としています。

最上階の天守閣は内部に取り込まれた廻縁高欄があり、雨戸を取り付けています。その上に載る鯱(しゃちほこ)は、木製の銅板張で現存天守の中では最大の高さ約2m。現在の鯱は昭和の修理の際に作り直された物で、旧鯱は保管展示されています。

創建者の堀尾吉晴が5年の歳月をかけて松江城を築いたのは、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利してから間もなくのことです。戦乱が収まったとはいえない時期だったため、城の随所に軍事的工夫が見られます。そのひとつが、3階に設けられた屋根に通じる扉です。

敵を足止めするため、隠し部屋があるかのように見せかけたのではないかとの推測もありますが、実際のところの用途は不明です。

このほかの外溝としては、本丸一ノ門や三の丸と二の丸を結ぶ廊下門、二の丸下段の北惣門橋などが復元されており、行ってみないとわかりにくいことではありますが、天守だけでなく、城全体が再建・保全されているだけに見どころ満載のようです。

2009年に設立された「松江城を国宝にする市民の会」は、国宝化を求める約12万8000人分の署名を文化庁に提出するなどの活動を続けてきていました。今回国法に指定された理由は、四重五階のその荘重雄大な天守が近世城郭最盛期を代表する建築であると考えられること、および2階分の通し柱を用いた特徴的で優れた構造を持っていることなどでした。

しかし、なんといっても今回国宝指定の答申の決め手となったのは、築城年を記した「祈祷(きとう)札」の発見でした。2012年、天守からすぐ南の松江神社において、松江市史編纂事業の基礎調査を行っていた市職員らが偶然これを発見。

この祈祷札は、完成時に地鎮のため張られたもので、1937年以降所在不明となっていましたが、松江市はこれに懸賞金500万円をかけて捜しており、ついに発見したものです。しかし、札が見つかった松江神社は懸賞金の受け取りを辞退しています。

慶長16年(1611年)の完成年が墨書されており、この年の正月に松江城で祈祷がなされたことがわかり、つまり少なくともこの年には松江城が完成していたことが明らかになり、その歴史400年以上に及ぶことがわかりました。

さらに天守を調査した結果、地階の2本の通し柱に札を釘で打ち付けた跡が見つかり、札のあった正確な設置場所も判明しました。まちづくり文化財課は「登閣者に築城時の松江城の姿を見てもらいたい」と話していますが、お札自体は、文字が消えている部分が多く、市は赤外線調査で明らかになったこの文面を復元するかどうか、検討中です。

しかし市は既に、6月定例市議会に提出する一般会計補正予算案に、大きさ70~80cmのレプリカの制作費約135万円を盛り込みました。無論、観光の目玉にするためです。さらに松江市では大手門復元に向けて懸賞金を掛けて図面や古写真などの史料を探しているといいます。

城跡は現在、松江城山公園として利用されています。日本さくら名所100選や都市景観100選に選ばれています。天守は山陰地方の現存例としては唯一であり、ここからは宍道湖を眺望できます。この他、遊覧船で堀を周回し観光する「堀川めぐり」があります。

3箇所から乗船でき、2つのコースがあり、3.7kmを約50分間で遊覧します。さらに、松江城を中心に周辺を回る5コースがあります。ぜひ松江を訪れてこれに乗船し、その美しい城の姿を満喫していただきたいと思います。

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