アイスランドのはなし

iceland2今日は、アイスランドの独立記念日だそうです。

1944年のこの日に共和国として発足しました。ヴァイキングが創った国でしたが、13世紀以降、隣国のノルウェー及びデンマークの支配下に置かれていました。が、19世紀に入って独立運動が展開され、結果として、1874年に自治法が制定されました。

そして、1918年にデンマーク国王の主権下ではありますが、立憲君主国、アイスランド王国として独立を果たしました。

その後の第二次世界大戦においては、中立を宣言し、戦火に巻き込まれないことを方針とし、国を守る武装勢力としては軍隊を作らず、国家警察の拡充で対応しました。とはいえ、この時点で国家警察は60名にすぎませんでした。そんな中、大戦中の1940年4月、かつての宗主国デンマークがナチス・ドイツの侵攻作戦により占領されます。

このため、翌5月には、イギリス軍が中立であったアイスランド侵攻を行い、全土が占領されました。これは北大西洋の通商路保護のため、ドイツ軍の先手を打って、要衝の地であるアイスランドを確保するもの措置でした。その後、6月からはアメリカ合衆国が代わって占領を継続しました。しかし、二次大戦が終わると、連合国軍は撤退しました。

こうして、1944年6月17日には、アイスランドは、主権を持っていたデンマークからも完全分離・独立を宣言し、新生「アイスランド共和国」として、初代大統領にスヴェイン・ビョルンソンが選出されました。以後、現代に至ります。

現在では「もっとも汚職が少ない国」と言われている国です。国家元首である大統領は国民から直接選挙されますが、政治的な実権はなく、象徴的な地位を占めるに留まります。政治的な実権が無いため政党の推薦を受けず、政治的な公約も掲げられません。少し性格は違いますが、日本の象徴天皇のような存在といえなくもありません。任期は4年。

1980年には、ヴィグディス・フィンボガドゥティルが直接選挙によって選出された世界初の女性大統領となりました。現在は、2012年6月30日に行われた大統領選挙の結果、5回目の当選を果したオラフル・ラグナル・グリムソン氏が大統領です。

政治権限はありませんが、2008年以降にヨーロッパを襲った金融危機では、同国銀行口座に金を預けていたイギリス人やオランダ人の預金を国税を使って守る、という政府が提示した法律案を拒否し、2度にわたって署名せず、人気を集めました。

アイスランドは、その昔の米ソの冷戦の時代にアメリカ合衆国と国防協定を締結してアメリカ空軍基地を設置し、この基地は「アイスランド防衛隊」とも呼ばれ、冷戦下の重要な戦略拠点になっていました。

しかし、冷戦終結から10数年を経た2006年、アメリカの「地球規模の戦力再編成の一環」による米軍の完全撤収が両国で合意に至り、約1200名の将兵とF-15戦闘機4機が段階的に撤収、ケフラヴィーク米軍基地が閉鎖されました。

以後、現在も国土防衛は、警察隊と沿岸警備隊だけがこれを担っています。従って、NATOの加盟国ではあるものの、自国軍は所持しておらず、世界でも希少な「軍隊を保有していない国家」です。歴史上、一度も軍隊を保有したことがないことになります。

ただ、まったく武力を保持していない訳ではなく、沿岸警備隊がある程度の兵器を持っています。イギリス軍と交戦した事もあり、自国の国益のためには躊躇なく武力行使できます。「軍隊ではない」自衛隊を保有している、日本とどこか似ています。

また、一応、「アイスランド防衛庁」というものがありますが、これは外務省の傘下におかれてている防空レーダーシステムを司る機関で、領空の監視を行っているだけです。

このほか、同じく外務省に属する、「アイスランド危機対応部隊」があります。こちらは国外に平和維持目的で派遣する部隊で、警察や沿岸警備隊、その他の部署から選ばれ、ノルウェー陸軍において軍事訓練を受けて派遣されます。部隊規模は80名程度で、今までにコソボ、アフガニスタン、スリランカなどに派遣されました。

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アイスランド沿岸警備隊の船

このように大規模な軍隊は保持していません。が、持っていないのではなく、持てない、というのが本音でしょう。実は、アイスランドの人口は30万人強しかありません。この人口規模では、軍隊を持てないのは当然ですし、持ったとしても運営は大変です。ちなみに、日本の自衛隊は、陸海空に統合幕僚監部を加えて22万人ちょっとの隊員がいます。

1億3000万人をこれで割ると、国民590人あたりに隊員ひとり、という計算になりますが、同じ比率で計算すると、アイスランドに必要な人員は500人ちょっとです。仮にこの規模のものを持っていたとしても、軍隊とはいえないでしょう。従って日本とは比較の対象になりません。

が、島国という点では日本と同じです。グリーンランドの南東方、ブリテン諸島やデンマークの自治領であるフェロー諸島の北西に位置します。アイスランド島が主な領土であり、イギリスとのタラ戦争の舞台にもなった漁業基地であるヴェストマン諸島、北極圏上にあるグリムセイ島などの周辺の島嶼(とうしょ)も領有します。

高緯度にあるためメルカトル図法の地図では広大な島のように描かれますが、実際の面積はフィリピンのルソン島や、大韓民国とほぼ同じです。グレートブリテン島の約半分、または日本の北海道と四国を合わせた程度の面積です。

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白い部分は氷河 右下(南東部)にあるのは、最大規模のヴァトナヨークトル氷河

火山島でもあります。多くの火山が存在し、温泉も存在しており、豊富な地熱を発電などに利用しています。一方で、噴火による災害も多く、2010年には、南西部のエイヤフィヤトラヨークトル氷河の火山が噴火し、欧州を中心に世界中で航空機の運用に大きな影響を与えたことは記憶に新しいところです。

首都はこちらも南西部に位置するレイキャヴィークです。人口約12万人ですが、周囲の市を含めた首都圏全体で約18万人です。アイスランドの全人口の約6割がこの一帯に集中しています。低い所得税率、ヨーロッパとアメリカの中間という地理条件、充実したインフラストラクチャー網を活かして外国資本の積極誘致を行っています。

市内の暖房・給湯システムは地熱の熱エネルギーのみで維持されており、自然エネルギーとの共存が図られています。他にも燃料電池自動車に水素を供給する水素ステーションを建設し、それを利用した路線バスを世界で初めて運行するなど、クリーンエネルギー政策の点では世界をリードしています。

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 レイキャヴィークの町並

アイスランドは、このレイキャヴィークを中心とした金融立国であり、国家経済全体が金融に強く依存しています。このため、世界金融危機の影響を強く受けて2008年に債務不履行となりました。

しかしその後、自国通貨、アイスランド・クローナが暴落したため輸出額が増加し、かえって景気が回復することになりました。2012年度以降、2~3%台の経済成長を達成し、経済危機の直後には8%を超えていた失業率も4%台で推移しています。

産業のほうをみてみましょう。火山性の土壌であるため、大地は肥沃とは言えません。また、かつて大規模な森林の乱伐が行われたこともあり、現在の森林面積は国土の0.3%しかありません。従って天然資源は乏しく、塩が唯一産出する鉱物資源です。木材がとれないので、非常に高価な輸入材に代わってコンクリートがほとんどの建築に利用されています。

なお、農業生産も行われてはいるもののほとんどが輸入に頼っています。行われている農業も牧畜が主であり、ウール製品の評判は世界的にも高いようです。一方では、漁獲資源が豊富で、漁業が古くから盛んです。アイスランド本島付近周辺は、暖流の北大西洋海流と北極方向からの寒流がぶつかり潮目を形成しており、世界有数の漁場となっています。

このため漁業は、古くからアイスランドの基幹産業であり、漁業が雇用の8%をまかなっています。当然漁獲量は多いわけですが、近年はタラなどの漁獲量が減少しているため市場に出回る魚の価格は上昇を続けています。アロンガ・ハドック・カレイ・ヒラメなどが獲れます。日本は大量のカラフトシシャモを輸入しています。

漁業国であることも日本と似ていますが、このほかにも捕鯨賛成国である点も同じです。かつて国際捕鯨委員会を脱退したこともありましたが、現在では再加盟しています。その後、「調査捕鯨」の名目で細々と捕鯨を行っていましたが、2006年には業を煮やしたのか商業捕鯨の再開に踏み切っており、ヨーロッパ諸国から非難されています。

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アイスランドの捕鯨船

もっと産業を振興させたいという観点からEUへの加盟も模索しています。が、漁業資源に頼っていることから、加盟により漁業統制を失うことを懸念しています。かつてEU加盟国から熱烈なラブコールがあったのにもかかわらずこれを拒否しました。一方では、捕鯨国であることがEU加盟国の反発を招き、加盟が流れたという見方もあるようです。

前述のとおり、2008年の金融危機で自国貨幣である、アイスランド・クローナの暴落しました。この国は小国であるため、複数の政府閣僚らは、自国だけではこれへの対処が困難との見解を示し、2009年7月、アイスランドは再びEUに加盟申請をしました。

この当時の政府は約3年での加盟を目指す、としていましたが、先の3月、現在の政府は、正式に欧州連合(EU)への加盟申請を取り下げると発表しました。自由化を求めEUへの加入を促進しようとしていた与党の社会民主同盟が2年前の選挙で敗れ、それまでは野党だった、中道右派連立政権が政権を取り、彼らが掲げていた公約に従った格好です。

EUへの加入が取沙汰されるくらいであり、意外にも工業国であり、先進国といえるでしょう。その原動力となっているのが、国内のおよそ4分の1の電力(約24%)をまかなっている地熱発電です。

地熱発電の割合が多いのは、アイスランド本島が大西洋中央海嶺上にあり、日本と同じく火山活動が活発で、地熱発電の熱源には事欠かないためです。さらに、特に島の南部は西岸海洋性気候に属するために年間を通じて降雨があるので水力も使いやすく、このため、残りの76%の電力は水力発電によるものです。

1990年代後半からはこうした豊富な電力を使いアルミニウムの精錬事業も活発になりました。アルミを溶かすためには大量の電力を必要とします。このほかにも一般家庭の電力やシャワーを温めるエネルギーを全て地熱発電でまかなったり、発電所の温排水をパイプラインで引き込んでそのままお湯として利用できたりする家や施設もあります。

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レイキャヴィーク郊外にある地熱発電所

アイスランド本島には多くの温泉が存在しますが、この温泉を活用した暖房設備などが整備されたり、お茶を沸かすにも温泉が使用されたりします。このように、化石燃料を使うことが少なくなっているため、首都レイキャヴィークは世界的にも「空気のきれいな都市」とされています。

1980年代からは、さらに再生可能エネルギー発電への切り替えを推し進めており、エネルギー政策先進国として世界から注目を浴びています。現在では国内の電力供給のすべてが水力、もしくは地熱から得ており、火力・原子力発電所は一切ありません。このあたりが日本とは一味違うところです。日本ももっと自然エネルギを活用すればいいのに……

アイスランドは、今後さらに2050年までには化石燃料に頼らない水素エネルギー社会を確立することを目指しており、既に実施されている燃料電池自動車のバスの運行、水素ガス供給ステーションの建設をさらに加速させる計画だということです。

このほか、近年では工業の多様化に取り組んでおり、ソフトウェア産業やバイオテクノロジーの開発にも努めており、とくに医薬品の輸出が盛んです。

観光も拡大し続けており、豊かな自然を生かした、エコツーリズム、ホエールウオッチングなどが国内で流行しているだけでなく、海外の人々をも魅了しています。2003年には日本からチャーターでの直行便が就航され、年間日本人観光客数は就航前の約3倍になったというデータもあります。現在は円安なので少し下火になっているかもしれませんが。

ただ、アイスランド国内の道路整備状況はお世辞にも良好とはいえず、これが少々観光開発のネックになっています。これは、都市のほとんどがアイスランド本島の海岸近くに存在しているためであり、島の中央部は舗装路もない無人地帯です。

しかも、道路網は総延長13000kmほどもありますが、うち35%しか舗装されていません。ただし、国道1号線(リングロード)が一部未舗装ではあるものの、アイスランド本島を一周しており、その総延長は約1,400kmです。また、氷河に閉ざされている内陸部にも国道26号および35号が貫通しており、4WDクルージング愛好者のメッカとなっています。

自動車以外の交通手段としては、アイスランド国内には鉄道はなく、あとは飛行機です。物価が高い傾向にあるアイスランドですが、航空運賃は安く設定されています。レイキャヴィークのすぐ西側にはレイキャヴィーク空港があり、本島を含め周辺の島などの空港を合わせると、全部で20ほどの空港があり、ケプラヴィーク国際空港もあります。

観光の拠点としてはこのほか、ヘクラ山を含む多くの火山が活動し、多くの間欠泉や温泉が見られます。間欠泉の中で最大のものがゲイシール間欠泉で、その名前が英語で間欠泉を意味する単語geyserの語源になりました。

ただ、ゲイシールは、最近は不定期な噴出になってしまっています。一方、ゲイシール間欠泉から数百メートル程しか離れていないストロックル間欠泉は、ほぼ5~10分おきに噴出し、沸騰した熱湯を20メートル上空まで吹き上げており、こちらのほうが人気あるようです。

また、レイキャヴィークの南西約40kmに世界最大の露天風呂「ブルーラグーン」もあります。最近、よくメディアで取り上げられていて話題になっています。自然に湧出する温泉ではなく、隣接する地熱発電所が汲み上げた地下熱水の排水を再利用した施設です。アイスランド国内はもとより欧米各国からも多くの人が訪れます。

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ストロックル間欠泉

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ブルーラグーン

さらに「氷河」も観光のウリです。アイスランドの地表の約11%を覆っており、その多くの氷河は火山を覆うようにして存在しています。このため、氷河の下で火山活動が起きると、溶けた水が氷河湖決壊洪水を引き起こします。1996年には、ヴァトナヨークトル氷河の地下の火山が噴火し、一帯が氾濫し、国道1号線 (リングロード) の数か所を破壊しました。

氾濫後、氷河の流れに取り残された高さ10メートルの氷山もいくつか見られたそうです。が、こうしたことがいつも起るわけではなく、そのダイナミックな景色をみようと世界中から多くの人が訪れます。

中でも最大のヴァトナヨークトル氷河は面積が8,100km²で単独でも国土の8%以上を占めています。沿岸は入り江や湾やフィヨルドで深く入り組んでおり、西部のフィヨルド地帯は観光客に大人気です。

さらに、アイスランドのオーロラ観察のメッカでもあります。レイキャビクから少し離れただけで見ることができる場所場があるそうで、民家もまばらで夜は真っ暗なため、観察にはもってこいです。オーロラの見える他の地域、アラスカやフィンランド北部などでは、冬の夜にはマイナス20~30度にもなるそうですが、レイキャビク近郊では最も寒くてマイナス2度くらいなので日本の冬とそれほど変わりはありません。

なので、特別な装備もなくオーロラが観察でき、かつ少々条件が悪くともそれなりに観察できるのも特徴だそうで、確実にオーロラを見たいという人はアイスランドに行くべきでしょう。

このようにアイスランドは、観光地としても見どころ満載で、しかも治安も世界一いいといいます。日本はだいたいいつも第5位くらいですが、それより更に安全ということこになります。しかし旅行において注意すべきは、現金決済が著しく少なく、クレジットカードしか使えないことです。これは、この国ではクレジット機能付きIDカードやインターネットバンキングなどが普及しているためです。

その背景には1980年代に経済の中心が漁業で、水産物の価格に振り回され、物価がインフレーションとなったことがあります。このため、決済が不足気味の現金から小切手やクレジットカードへ切り替わっていきました。日本では現金のほうが主であり、クレジットカードのほうがあまり使えません。真逆です。

その日本との貿易ですが、アイスランドの貿易全体に占める日本との貿易の割合は微々たるものです。そのうち、日本への輸出のは水産物が主で、逆に輸入は自動車の他に、地熱発電用の蒸気タービンなどです。

一方、アイスランドの主な貿易相手国は、輸出国が、イギリス、ドイツ、オランダ、アメリカであり、輸入元は、 ドイツ、アメリカ、スウェーデン、デンマークなどです。主な輸出品目には金額ベースで6割以上を占める魚と魚の加工品、次いで2割を占めるアルミニウムの地金及びアルミニウム製の製品です。

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アイスランドの氷河

さて、このアイスランドという国を形作ってきた「アイスランド人」という人種についても少しみていきましょう。文化的には北欧圏に属し、特に宗主国であったノルウェーとデンマークの影響が強く、このためこれらの国にルーツを持つ人も多いようです。

しかし、主としてケルト系のアイルランド人が開拓を行った歴史もあり、血統や言語にはその影響が最も色濃く残されているようです。そのためスカンジナビア諸国とは似て非なる独特の文化を持ちます。

また、独立後から冷戦の間はアメリカ軍が駐留していたため、その影響も大きいようです。地理的に孤立していることもあり、ここ100年の人口推移はわずかな移民と世代交代による増加があるのみであり、そうした意味では、純粋な和民族が大多数の日本と似ています。

比較的長寿な点も似ており、平均寿命は男性78.0歳、女性81.4歳であり、世界第8位。男女の平均寿命の差が小さいことが特徴であり、このほか男女平等の度合の調査で、アイスランドは5年連続世界一です。また2010年より、同性婚が認められるようになりました。

アイスランド人の名前は姓がないという特徴を持ちます。名前は「ファーストネーム+父称」で構成され、アイスランドの電話帳はファーストネーム順に編集されています。男性の場合「父親の名の属格+ソン(-son)」、女性の場合「父親の名の属格+ドッティル(-dóttir)」となり、それぞれ「~の息子」「~の娘」という意味になります。

アイスランド出身の著名な歌手、ビョークの本名「ビョーク・グズムンズドッティル」は「グズムンドゥルの娘ビョーク」という意味になります。

識字率は99%以上と高水準です。冬場は極夜となることなどから、外出は少なくなり、家にこもり読書にふける人々が増えます。このため、1人あたりの書籍の発行部数は世界的に見てもかなり多いといいます。

多くの人々が文学や詩に親しむ環境にあり、人口数十万の国ながら多くの文学者や音楽家を輩出しています。近年は上述のビョークのほか、シガー・ロス、ムームらアイスランド出身の音楽アーティストたちが世界的に人気を集めています。

アイスランド語が公用語です。一方で、英語とデンマーク語を小学校から習うため、国民の大半はトライリンガルです。このアイスランド語はドイツ語、オランダ語、英語などと同じゲルマン語の一種です。アイスランド語は、アイスランド(氷島)に由来して、「氷島語」略して「氷語」とも言ったりします。

ただ、9世紀にノルウェーから移住したヴァイキングがもたらしたものであり、他の北ゲルマン語(デンマーク語・ノルウェー語・スウェーデン語)の中ではノルウェー語と一番近いようです。ただし、使用範囲はアイスランドのみで使用人口は約30万人にすぎず、一億3千万の日本とは比較になりません。

アイスランドに初めて入植し、ここで越冬したのはヴァイキングの「インゴールヴル・アルナルソン」だと言われています。一方の、 現在の国名「アイスランド」はアルナルソンよりもやや古い9世紀ころ、ノルウェー人の「フローキ・ビリガルズソン」という人物が、沿海に流氷が浮んでいるのを見て名付けたと言われています。

それまで島は完全な無人島でした。紀元前300年頃に古代ギリシア人によって発見されていたという記録があります。

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インゴールヴル・アルナルソン

中世アイスランドの書物、「植民の書」によれば、793年、ヴァイキング時代がはじまったとされます。ヴァイキングたちは自国のことを「ウルティマ・トゥーレ」と呼んでいましたが、ヨーロッパ人は、アイスランドやグリーンランドのような地域は漠然と「極地」、「北の果て」と呼び、ほとんど存在すら忘れ去られていました。

その後、9世紀末から10世紀にかけて、ノルウェー人とスコットランドおよびアイルランド(現イギリス)のケルト人らがフェロー諸島を経由して移住し、定住し始めました。新しい国を目指した移民たちは王による統治ではなく、民主的な合議による自治を目指しました。これが930年に発足した世界最古の民主議会「アルシング」です。

アイスランド人が今も、国家の誇りとしている議会であり、これについては後述します。このアルシングによる統治が続いた約300年の間、アイスランド人は更なる新天地を目指したといわれています。

そして、アメリカ大陸を発見したのも彼等だといわれています。コロンブスではなく、アイスランド人の「レイフ・エリクソン」と呼ばれる人物だというのが現在では定説です。これはコロンブスによる「発見」よりおよそ500年も前のことでした。

レイフ・エリクソンは、970年頃に生まれ、1020年頃に没したとされます。彼もまたヴァイキングであり、スカンディナヴィアおよびバルト海沿岸に原住した北方系ゲルマン人です。ちなみにヴァイキングは、別名ノルマン人ともいわれます。

レイフは、グリーンランドを発見し、最初の定住を試みたといわれる父、エイリークの長男としてアイスランドで生まれ、グリーンランドで育ちました。

「サーガ」と呼ばれる古文書によれば、若い頃に祖父の故郷ノルウェーに渡って滞在し、ノルウェー王との会見からキリスト教に改宗、ここで学んだこの宗教を持ち帰ってグリーンランドに教会を建てました。おそらく、アイスランドでも布教に取り組んだでしょう。

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「サーガ」 1350年頃に書かれたとされている。

この頃アイスランドからグリーンランドへの航海の途中で西に流された者がおり、その人物から「西」に木材が多くより豊かな島があるらしいとの噂が流れました。これを信じたレイフは、997年に探検航海に出ます。この漂流者のルートをたどって西に赴くと、最初に岩に覆われた陸地があり、彼らはこれを「岩の国(ヘルランド)」と名づけました。

次に南下したレイフらは木に覆われた陸地を見つけ、こちらは「森の国(マルクランド)」と名づけました。さらに海を南に下った彼らは、小麦の自生する豊かな国へとたどり着いき、今度はここを「ブドウの国(ヴィンランド)」と名づけました。そしてここに前線基地を置き、一旦グリーンランドに帰りました。西暦1000年のことであったといいます。

このブドウの国、ヴィンランドでは、川にはサケが遡上し、定住するのに好適な土地であるように思われたので、まもなく数百人の入植者がグリーンランドからヴィンランドに向かいました。しかし、レイフたちが「スクレリング」と呼んだ先住民との関係もあってヴィンランドの入植地は長続きせず、やがて放棄されてしまいました。

グリーンランドに帰ったレイフ自身は父の後を継ぎ、西海岸にあった入植地の有力者としてその後の人生を送ったようです。

その後、彼らの到達した国々のことは、上述の「サーガ」に書かれ、後世に伝えられました。ただ、文書に書かれただけで地図はなく、正確な場所がどこかよくわからなくなってしまいました。しかし、その後の研究により、レイフらが最初にたどりついたヘルランドはグリーンランドの西、つまりカナダのバフィン島であったことなどがわかってきました。

また、そこからは南に向かったということは、森の国、マルクランドとはカナダ最東部の、ラブラドル半島にあたると考えられます。そうすると、ブドウの国とされたヴィンランドはどこか、です。ブドウがあったということから類推すると、その植生北限はずっと南にあるはずなので、北アメリカのかなり南のほうであったと学者たちは考えました。

おそらくは、ニューヨーク州からメイン州あたりまでの範囲、おそらくはニューイングランドあたりであったろうと推定され、これが、アメリカ大陸を発見したのがレイフらだったという説が提唱される理由です。

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アイスランドと、グリーンランド、北米との位置関係(メルカトル図法のため、実寸ではない)

そして、その後、実際にヴァイキングの定住地跡と思われる遺跡が、カナダ北東部のラブラドル半島の東にある、ニューファンドランド島から見つかりました。現在ではこの島こそが、ヴィンランドであったとする意見がほぼ定説となっています。

ニューファンドランド島北西部のランス・オー・メドー村で発見されたこの遺跡は、もともとこうした9~10世紀に造られたものではないかといわれていました。1960年代以降、ここで次々に、ヴァイキングの女性が使う糸車や鍛冶屋の跡、イングランド製のボタンなどが発見され、これらの分析からヴァイキングの遺跡であることが明らかになりました。

ランス・オ・メドーの入植地は少なくとも8つの建物からなっており、鍛冶と溶鉱炉、船作りを支えた製材所なども見つかっており、現在では「ランス・オー・メドー国立歴史公園」として世界遺産に登録されています。

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世界遺産 ランス・オー・メドー

ここでの発掘で得られた遺物のミトコンドリアDNAの解析ではさらに、アイスランド人のDNAが発見されています。ミトコンドリアDNAは母から子へのみ受け継がれるため、アイスランド人がアメリカ大陸に上陸した際に彼らに従った女性のミトコンドリアDNAが、彼女たちの子孫に受け継がれていたものと考えられるそうです。

従って、クリストファー・コロンブスの大航海時代における「発見」に先立つこと500年前にすでにアメリカに上陸していたヨーロッパ人がおり、それがレイフ・エリクソンらヴァイキングであったということはほぼ定説として学者たちに受け入れられています。

ただし、レイフらヴァイキングたちが発見した新しい陸地を「新大陸」という概念で捉えたかといえば、これについては疑問符がつきます。また、当時は地理上の発見を行ったものが主権を宣言する慣行もなかった上、定住化も失敗に終わったためアイスランド人による領有もなされませんでした。

従って、彼らが新しい大地に到達したという情報は、ヨーロッパ諸国で広く共有されることはありませんでした。で、あるがゆえに、それを知らないコロンブスらが新大陸を求めて船出したのは当然、ということになります。そのため、レイフ・エリクソンを「アメリカ大陸の発見者」と表だって扱うことはあまりないのが現状です。

さて、話をアイスランドの本国に戻しましょう。アイスランドでは、ノルウェー人やケルト人らの移民によって入植が進んでいき、「アルシング」という統合議会ができた、と上で書きました。

このアルシングは、当初「シング(民会)」と呼ばれており、しかし全島共通の法律や規則というものはなく、それぞれの出身国の法律が各々の定住地域で用いられていました。

しかし、やがて本島各所での交易が発展するにつれて、それぞれ法律がバラバラでは不便という声も高まり、全島共通の意見調整機関の創設の必要性が声高く叫ばれるようになっていきました。そして、930年に定住地域ごとの「シング」の代表が集まり、レイキャビクの近くの丘ではじめて開催されたのが、「アルシング」です。

ただ、このアルシングが発足したてのころは、まだ立法と司法の機能を有していただけで、行政は各定住地域の自治に任されていました。そんな中、ちょうど西暦1000年に、アルシングの場で古い信仰を守る人々とキリスト教への改宗を主張する人々との間で激しい論争が巻き起こりました。

1000年頃のアイスランドは、北欧神話の神々への信仰を守ろうとする人々と、ノルウェー王オーラヴ1世の強い求めに従ってキリスト教へ改宗しようとする人々が増え、この2派が激しく対立するようになっていました。このためこの年に開かれたアルシングの場でも激しい論争が交わされ、互いに武器に手をかけて戦いを始めかねない雰囲気となりました。

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 かつてのアルシングの様子(19世紀の絵)

まさにそのとき、会場の近くにある2つの火口で同時に火山活動が始まり、溶岩流が農家や神殿を襲っているという報告が届きました。このうちの1つが、現在も活発な火山活動を続けている「ヘトリスヘイジ」です。山ではなく、台地上の地形ですが、現在でも活動は活発で、多くの穿孔から水蒸気が立っています(が、1000年以降噴火はしていない)。

火山灰の降る中、アルシングに集まった人々はこの噴火は古い神々の怒りの表れだと口々に言い合いました。そんな彼等に対し、キリスト教徒の代表、スノリ・トールグリムソンは、「たしかに、かつてのアイスランドは古来からの神々怒りによる火山活動でできた。だとするならば、今、神々は、何に対して怒っているのだ。」と人々に問いかけました。

これに対してキリスト教派の人々は口々に、昔ながらの古い考え方に怒っているのだ、と声を高めましたが、一方の北欧古来の宗教を守るべきとする人々は、いや邪宗のキリスト教に神が怒っているのだ、と言い始めたことから、国を二分しかねない状況となっていきました。そして、それぞれ別の法を宣言しようとする事態にまで至ります。

このとき、アイスランドの東地区の有力者であった「シーダのハル」という人物が、アルシングの立法の宣言者(現在で言うところの法務大臣)、「ソルゲイル」に銀貨60枚を贈り、2派それぞれが容認できる妥協点を宣言してほしいと依頼します。

このソルゲイルという人は、聖職者でありゴジ族という部族の族長でした。人々の篤い信頼を受けて法の宣言者となっていたのでしたが、彼はこの依頼を受け、仮小屋で一昼夜毛布の下で無言の瞑想を続けました。そして熟考した結果、翌朝、「法律の岩」とされる場所で、平和を維持する唯一の方法は同じ法律と同じ宗教を皆が守ることだと宣言します。

この「法律の岩(ログベルグ)」とは、アルシングが開催されていたとされる岩山であり、人々はそれまでもここに集い、会議や議会演説などが行ってきていました。

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アルシングの議席跡とされる場所

彼はここで、その妥協案としての結論を読み上げる前に、まず、全土に対する1つの法を定めることでこの問題を解決することを、集まった人々に約束させました。そしてその上で、「皆キリスト教に改宗せよ、洗礼を受けていなければこれを受けよ」と宣言しました。

ただし、古来の宗教の信者は、非公式に自分たちの宗教を信仰できることとしました。また、3つの妥協点を示しました。それはすなわち、生まれたばかりの子供の遺棄、馬肉食、異教の犠牲祭を許可することでした。ただ、これはキリスト教徒にとってはあまりにも野蛮な儀式であったため、数年後、これらの容認はすべて廃止されました。

こうして、その後アイスランドの国教はキリスト教となりました。この採決の後、ソルゲイル自身もキリスト教徒になり、彼がそれまで祀っていた北欧古来の神像も、偶像であるとして、滝に放り込みました。そして、この滝こそ、現在、ゴーザフォス(「神の滝」の意)、または「ゴジの滝」として知られる、アイスランドにおける最も壮観な滝の1つです。

アイスランドの北中央部のミーヴァトン地区に位置し、その上流のスキャゥルファンダフリョゥト川の水が、30m以上の幅で高さ12mの位置から流れ落ちています。

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ゴーザフォス

以後、新しい国は王による統治ではなく、民主的な合議である民主議会「アルシング」による統治が長く続きました。その後、1262年、ノルウェーによる植民地化によりアルシングは事実上機能を停止し、さらには1380年に支配権がデンマークに移り、異国民による長い支配が続きました。

この間、アルシングも形式上存続していましたが、アイスランドの自国からの独立を恐れるデンマーク国王、クリスチャン7世によって1800年には禁止されました。しかし、19世紀になるとさらに独立志向が強くなり、アルシングは1847年に復活します。

その後、第一次世界大戦によってヨーロッパに戦火が渦巻き、相対的にデンマークの国力が落ちたため、アイスランドは完全自治を回復し、アルシングは議会政府として機能するようになりました。そして、第二次世界大戦でデンマークがナチス・ドイツに占領されたことでアイスランドは解き放たれ、1944年に独立を宣言し、現在に至っています。

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現在のアルシング会議場

現在、アイスランド国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が1件、自然遺産が1件存在します。文化遺産のほうは、スルツェイ島といい、アイスランドの南にある無人島です。1963年に海底火山の噴火により出現しました。日本の西之島と並んで、海底火山の噴火から新島を形成した典型例として有名です。

陸上、淡水、沿岸および海洋生態系などの動植物群集の進化の過程が、生態学的、生物学的に貴重なものだとされて、文化遺産に決定したものです。

一方、ユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録されている「シンクヴェトリル」は、アイスランドの国立公園地域です。場所は、40キロ南西にレイキャヴィーク、45キロ西にアクラーネスが位置する、という位置関係です。

アイスランドは、そのほぼ中央部に南北に地表に乗り上げた海嶺が走っており、これは世界でもめずらしい場所です。海嶺とは、通常は海の底数キロメートルにある海底山脈で、海嶺部分で大陸プレート下のマントルが上昇し、左右に分かれて水平に進んでいる場所です。一般に「ホットスポット」と呼ばれています。

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 アイスランドの大地の割れ目

ユーラシアプレートと北アメリカプレートに引っ張られてできた「割れ目」であり、西部は西に、東部は東に引っ張られる形で、国土が年に2〜3cmほど広がり続けており、この割れ目に沿った各地で「ギャオ」と呼ばれる独特な岩肌の大地の裂け目が見られます。そして、シンクヴェトリルは、その割れ目の中では最大規模のものです。

実はここが、930年、ノルウェーからの移住者によって、アルシングが開催された場所です。アルシングの開かれた場所の後ろには高い崖がそびえており、また岩に囲まれていることで遠くまで声が届くことからこの地でアルシングが開かれたとみられています。

シンクヴェトリルとは「議会平原」という意味です。そして、かつてアルシングが開催された場所に、現在は国旗が掲揚されています。2004年には世界遺産に登録されました。登録基準の一つは、「現存するまたは消滅した文化的伝統または文明の、唯一のまたは少なくとも稀な証拠」だそうです。

アイスランド観光の際は、ぜひここを訪れることをお忘れなく。

はぁ、疲れた……

Thingvellir

 世界遺産 シンクヴェトリル

ろくろ

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今日は、源義経の命日です。

今から826年の前のことで、西暦では1189年(文治5年閏)、旧暦の4月30日です。

藤原三代と呼ばれた、奥州藤原氏の三代目、藤原秀衡は、頼朝の迫害を受けて東北に逃げて北義経を匿っていましたが、関東以西を制覇した頼朝の勢力が奥州に及ぶことを知ると、逆に義経を将軍に立てて鎌倉に対抗しようとしました。

が、その矢先の文治3年(1187年)に病没しました。これを知った頼朝は、東北攻略の好機と考え、秀衡の後を継いだ藤原泰衡に、義経を捕縛するよう朝廷を通じて強く圧力をかけました。泰衡は、奥州藤原三代と言われた、曾祖父・清衡、祖父・基衡、父・秀衡に比べて凡庸な武将で、偉大な秀衡の不肖の息子として後世の評判も良くありません。

泰衡はこの再三の鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、閏4月30日、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成の衣川館に襲いました。

義経の郎党たちは防戦しましたが、ことごとく討たれ、館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てました。享年31でした。泰衡は同月、義経と通じていたとして、弟の藤原忠衡をも殺害しましたが、結局、自らも直後の奥州征伐で、鎌倉方に敗れ、藤原氏は滅亡しました。

伝承ではその後、義経の首は神奈川県の藤沢に葬られ祭神として白旗神社に祀られたとされます。藤沢に荘厳寺という寺があり、ここに位牌も納められています。また、胴体は宮城県の栗原市栗駒沼倉の判官森に埋葬されたと伝えられています。

義経の首は美酒に浸して黒漆塗りの櫃に収められ、泰衡の使者、新田冠者高平を使者として43日間かけ鎌倉に送られました。そして、文治5年(1189年)、鎌倉幕府の御家人でかつて義経と面識のあった、和田義盛らによって、鎌倉の腰越の浦で首実検が行われました。

この「首実検」の説明は不必要でしょうが、一応解説しておくと、これは、前近代、配下の武士が戦場で討ちとった敵方の首級の身元を大将が判定した儀式です。武士の論功行賞の判定材料となるとともに、申告した本人の戦功かどうかの詮議の場でもありました。

この「首」とは、本来、頭と胴体がつながっている部分のことをさします。「首」と表記されますが、本来の漢字は「頸」です。しかし、戦闘や刑罰において頸部を斬って頭を落とすことを、「斬首・馘首(かくしゅ)」といったことから、切り落とされた頭部も「首」と書くようにもなり、ここから「首実検」と呼ばれるようになりました。

大将や重臣が、討ち取ったと主張する者にその首を提出させ、相手の氏名や討ち取った経緯を、場合によっては証人を伴い確認した上で戦功として承認します。首級の確認は、寝返りした、または捕虜となった敵方に自らの敗北を確認させるために行われる場合もありました。

首実検というのは我々が考えている以上に厳粛なものだったようです。高級な武士になればなるほどその傾向は顕著でした。

実検の前には、武士の婦女子により首に死化粧が施されました。武士は戦場においては常に死を覚悟していたため、常に、自身の首は敵将に供せられることを意識し、常日頃から身だしなみに気を使いました。武士が薄化粧をしたり香を施すことは軟弱とは見なされていませんでした。

首実検に供される首の髪は普通時よりも高く結い上げ、元結いを結います。歯を染めてある首には、「かね」お歯黒をし直します。正式な首実検は通常、寺などの中門付近で行われることが多かったようです。中門とは、南に面した正門、南大門の更に内側にある門です。大将は中門より本堂側で首実検し、見せる者は中門外にいるのが作法とされていました。

穢れたものを門の中に入れないという配慮でしょう。大将や位の高い武士が謁見するような首実検では、装束もきちんと整えられました。烏帽子をかむり、鎧を着て太刀を佩き、鉢巻を締め、左手に弓をにぎり、右手に扇をもち、床机に敷皮をしかせて着座します。

首は、通常、首台には、角を切らないヒノキ製の折敷(おしき)を用います。8寸 (約 24cm) 四方のもので、この上に首を置きます。台の無い場合は鼻紙またはふつうの扇の裏を台として首を受けるようにします。

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実検にあたっては、検分役はまず、床机をはずし、立って右手を太刀の柄にかけすこし太刀を抜きかけます。そして左の目尻でただ一目見て、抜きかけの太刀をおさめ、弓を右手にとってつき、左手で扇を開きます。最初は、首をちらっと一目見るだけで、じっくりと二目とは見ないのが作法です。しかも真正面からは見ず、尻目にかける程度です。

次に、首が置いてある門前で、右手で髻(もとどり)をにぎって引き上げつつ、左手で台と一緒に首を持ち上げ、検分する門内に入り、そこに敷いてある、敷皮の上に持って行って両膝をついて座ります。次に首を置いた台を敷布の上に置き、左手の指であごをおさえ、右手で支えつつ持ち上げて、じっくり検分します。

最後に、首を共の者どもの方に向け、その横顔なども見せます、このとき、この共の者の一人が、首をあげた者の名を披露し、続いて首の持ち主の名字を発表します。実検がすめば、首を中門の外の台または首桶の蓋の上に置き、首を敵方に向け、ときの声をあげます。

大将首などの場合には、つづいて別の折敷に土器(かわらけ)を2つかさね、コンブを一切れ載せたものを用意します。

その折敷を首のある折敷のほうに寄せ、コンブを食べよ、というふうに儀式した後、重ねた土器の杯に左手で2度酒をつがせ、今度は、飲めよ、とうふうに勧めたあと、中身を飲み干し、傍にふせて置きます。再度、コンブを首の口のほうに寄せ、今度は下の杯に酒を2度いれて飲ませるふりをし、再び飲み干します。

この首実検の儀式から、その後日本食を用意するときには、コンブ1きれだけを用意することや、杯2つ重ねること、2献のむこと、左手で酌をすること、杯をうつぶせて置くことなどを忌みきらうようになったといわれます。

これが終ったら、最後に首を北の方へ捨てます。北は訓読みで、「にげる」とよむのだそうで、これにより悪霊を北へ逃がすという意味あるようです。首は、実検ののち、捨て去るか、獄門にかけることもあり、首桶にいれて敵方に送ることもあります。

なお、首が多い場合や身分の低い者の場合は、略式の首実検をします。この場合、具足を脱いだ共の者が、髻を右手にとり、首の面を大将の方に向け、すこし仰向けたり、横顔を見せたりするだけです。

戦死者の格式に応じて、出される供物も違います。大将の首には昆布や酒などが供えられますが、そうでない場合は略される場合も多いようです。また、「首実検」の呼称も、大将格の首であれば「首対面」、重臣級の首であれば「検知」などと称し、名称も変化します。

首を斬られた対象者は当然、即死します。人間のような高等な動物では実際にその体を養っているのは消化系や循環系などがある胴体です。が、神経系と内分泌系、およびその役割の中枢として脳が果たす役割は大きく、このため、頭部を胴部と切り離せば個体の生命は維持できません。

つまり、それらをつなぐ部分である首を切り離すことは、確実に個体の生命を失わせる行為です。確実に殺す方法としては首を切り落とすのがきわめて有効であり、「首を切る」は「命を奪う」とほぼ同意義と扱われます。

世界各地でも死刑の方法として首を切る例は多く、ギロチンはそのための専用機器です。日本の武士の伝統的自殺法である切腹も、実際には介錯と称して首を切る介添え役がついており、死に至らしめるためには実質的にはこちらが主です。腹を切る振りだけをする切腹も多かったそうで、この場合は介錯のみが行われました。

このように、胴体を失った首だけが生き残れるすべはありません。が、古来から切られた者に怨念がある場合は色々な怪異現象が起こるとされました。平将門の首は何ヶ月たっても腐らず、生きているかのように目を見開き、夜な夜な「斬られた私の五体はどこにあるのか。ここに来い。首をつないでもう一戦しよう。」と叫び続けたといいます。

また、将門のさらし首は関東を目指して空高く飛び去ったとも伝えられ、途中で力尽きて地上に落下したともいいます。このほか、江戸時代に津軽藩主・津軽寧親を襲ったテロ事件の首謀者、下斗米秀之進(しもとまいひでのしん)は、捉えられて獄門にかけられましたが、刑場に晒された首が数日に渡って大きな声で唸り続けたと言われます。

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首がもし生きていたら、という類の怪奇小説の類は海外でも多く、ロシア初の専業SF作家であり、「ソ連のヴェルヌ」と呼ばれる「アレクサンドル・ロマノヴィチ・ベリャーエフ」は、「ドウエル教授の首」というベストセラーを書きました。

ベリャーエフは、法律学校卒業後、弁護士をしつつ、新聞の編集長なども勤めていましたが、31歳のとき、突然に脊椎カリエスを発症し、翌年から6年間、首から下の自由をなくして寝たきりとなりました。その後回復しましたが、この病気がきっかけになって、1925年にこの処女作「ドウエル教授の首」が書かれました。

これがヒットしたことから、ベリャーエフは、42歳のとき勤めをやめて専業作家となり、その後も、生物を改造する科学を描いた「両棲人間」(1928)、発明と冒険の連作短編「ワグナー教授シリーズ」など、その作品群は主として海外で人気を博しました。

「ドウエル教授の首」は、私もこれを子供のころに読みました。ストーリーとしては、主人公の女医マリー・ローランが、決して秘密を漏らさないという条件で、ケルン教授の助手として雇われるところから始まります。そして教授の実験室内部で彼女が見たものは、まばたきしながらじっと彼女を見つめている、胴体から切り離された生首でした。

それは最近死んだばかりの高名な外科医ドウエル教授の首であり、その「首」の生命維持の仕事を命じられた彼女は、やがてケルン教授の研究の真相を知ることになる……といったはなしです。

高名なSFスリラー古典を書いた人物として世界的に知られています。が、当時のソ連の体制においては、批評家から荒唐無稽・非科学的だとされ良い扱いは受けなかったといいます。このため、ベリャーエフは、生涯健康にも経済状況にも恵まれず、1942年、ナチス・ドイツ占領下のプーシキン市で亡くなりました。

しかし彼の作品を知るナチスはなぜかその遺稿を欲したといい、それは隣家の屋根裏に隠されていたと言われています。どんな内容だったのかはよくわかりませんが、その死の原因についても諸説あり、ナチスが手を下したのではないかという説もあるようです。

このように首が胴体から離れているのに生きている、ということは怪奇であり、何かと話のタネになりやすいものです。日本でもかつて神戸市で発生した「酒鬼薔薇聖斗事件」は猟奇的なものだっただけに大騒ぎとなり、昨年の佐世保市でおきたの高校1年生殺害事件でも遺体が頭部が切断された状態で発見されたため、大きくマスコミ取り上げられました。

斬首が普通であった昔と違い、このように現代では首を切られるというのはおどろおどろしい、センセーショナルな事件としてとりあげられることが多いものです。

もっとも、首があったとしても、それがただ、回転するだけでも怖いものです。首は頭を自由な方向に動かせるために大きな可動範囲を持ちますが、ヒトは真後ろを向くことはできません。日常的に無理に首を曲げようとして苦心することが多いくらいなので、逆に、それが可能になったのを見ることは、それが異常なことであるのがすぐわかります。

フクロウ類の首はその可動性がさらに広くて、顔面を真後ろに向けることも、顔を上下さかさまに近い位置に曲げることもできますが、仮にこれを人ができたとしたら、いかにも不気味です。

このために、人は異常に首が回ることに恐怖や嫌悪を感じますが、映画「エクソシスト」ではそれを効果的に使いました。悪魔憑きの少女の首が真後ろを向くシーンを見て、卒倒しそうになった人は多いでしょう。

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古来から伝わる「ろくろっ首」というのもぶきみです。首が胴体から離れはしないものの、びよーんと伸びたのを想像するだに恐ろしいものです。哺乳類の頚骨の数では、フクロウのように首はくねることはできず、ましてやそれが伸びるとすれば、そいつは哺乳類とはみなしがたい生物です。

つまりは人ではなく、妖怪であるわけです。その語源は、ろくろを回して造る陶器の感触に似ているからという説、井戸水をくみ上げる時に使う滑車=轆轤にかかった縄に似ているためだという説があります。あるいは、傘の開閉に用いる仕掛け部分もろくろ、といい、これを上げるに従って傘の柄が長く見えることからこれが、語源とする説もあります。

大別して、首が伸びるものと、首が抜け頭部が自由に飛行するものの2種が存在します。

江戸時代、ある女中がろくろ首と疑われ、女中の主が彼女の寝ている様子を確かめたところ、胸のあたりから次第に水蒸気のようなものが立ち昇り、それが濃くなるとともに頭部が消え、見る間に首が伸び上がった姿となりました。ところが、驚いた主の気配に気づいたのか、女中が寝返りを打つと、首は元通りになっていたといいます。

この女中は普段は顔が青白い以外は、普通の人間と何ら変わりありませんでしたが、主はすぐにこの女中に暇を取らせました。彼女は、その後もどこもすぐに暇を出されるので、奉公先に縁がなかったといわれます。

また、江戸時代には、遊女が客と添い寝し、客の寝静まった頃合に、首をするすると伸ばして行燈の油を嘗めるといった怪談が流行し、ろくろ首はこうした女が化けたもの、または奇病として語られることが多かったようです。

一方、首が抜けるものの方が、ろくろ首の原型とされています。このタイプのろくろ首は、夜間に人間などを襲い、血を吸うなどの悪さをするとされます。古典における典型的なろくろ首の話は、夜中に首が抜け出た場面を他の誰かに目撃されるものです。

江戸時代、肥後国(現・熊本県)の絶岸和尚という人が、ある宿に泊まったところ、ここの女房の首が抜けて宙を舞い、次の日に元に戻ったという話があり、翌日和尚が確認すると、女の首の周りに筋があったといわれます。また香川県にも同様の話があり、首に輪のような痣のある女性はろくろ首だという伝承があるそうです。

このほか、江戸時代の随筆本には、吉野山の奥地にあった、その名も「轆轤首村」の住人は皆ろくろ首であり、子供の頃から首巻きを付けており、首巻きを取り去ると首の周りに筋があると記述されています。

さらには、常陸国である女性が難病に冒され、夫が行商人から「白犬の肝が特効薬になる」と聞いて、飼い犬を殺して肝を服用させると、妻は元気になりました。が、後に生まれた女児はろくろ首となり、あるときに首が抜け出て宙を舞っていたところ、どこからか白い犬が現れ、首は噛み殺されて死んでしまったという話も残されています。

このように、日本には、抜け首タイプのろくろ首の話が多いのですが、胴と頭は霊的な糸のようなもので繋がっているという伝承もあるようです。胴体から頭が離れたとき、この糸が細長く伸び、首に見間違えられた、というわけです。

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このほか、抜け首は魂が肉体から抜けたものとする説もあり、これは病気の一種であって「離魂病」とする説もあります。江戸期の話ではあるとき、こうした病気にかかった女の魂が睡眠中に身体から抜け出ました。そこへちょうど通りがかった男が、この女の抜け首をみつけ、刀を抜いて追いかけたところ、その首はある家へ逃げ込みました。

妖しいと思った男が様子をうかがっていると、家の中からは「恐い夢を見た。刀を持った男に追われて、家まで逃げ切って目が覚めた。」と声がしたといいます。別の話では、越前国(現・福井県)のある家に務めている下女の首が、眠っている間に抜け落ち、枕元に転がって動いていた、という話もあります。

これらのケースでは、首に見えたのは実は魂であり、それが首の形をとっていたのだと説明しており、こうした体外に出た魂が首の形になったものは、心霊科学でいうところの「エクトプラズム」に類するものだとする解釈もあります。

エクトプラズム(ectoplasm)とは、霊が体外に出て視覚化・実体化したものとされます。1913年にノーベル生理学・医学賞を受賞した、シャルル・ロベール・リシェが、1893年にギリシア語のecto(外の)とplasm(物質)を組み合わせてつくりだした造語です。

その後この造語は心霊主義で頻繁に用いられるようになり、霊能者の多くがこれを、「霊の姿を物質化、視覚化させたりする際に関与するとされる半物質、または、ある種のエネルギー状態のもの」と説明してます。

ここでいう「半物質」とは何ぞやということなのですが、無論現実の物質とは思えません。が、得たいの知れない何等かの霊的存在の構成要素らしく、また、「エネルギー」も、どういったものなのか、科学的には解明されていない、未知のものです。

自然科学におけるエネルギーは、ジュールやカロリーなどの単位を持ち、明確に測定可能です。しかし、スピリチュアル敵に語られる「エネルギー」は、「活力」に近いものだということで、自然科学の単位で定量できないとされます。

また、死を迎えた者の肉体からは出ないとされ、生きた人間だけが出せるとされます。エクトプラズムが体外に出る場合、霊能力がない人でないと見えない場合もあるとされていますが、一方では、目撃情報も多数あるようです。

視覚化される場合というのは、かなり「高密度」な場合で、この場合には白い、または半透明のスライム状の半物質となります。そして「霊能者の身体、特に口や鼻から出て、それをそこにいる霊が利用し物質化したり、様々な現象を起こす」と説明されています。

そのため、そこに居合わせた霊媒体質の生者のエクトプラズムを利用し、時には、ポルターガイスト現象の様に、物体を手を触れずに動かしたり、ラップ現象として、誰もいない所から音を鳴らしたりできるとされます。また、時にはそれを変化させることによって、生前に亡くなった人を視覚化させたり、時には物質化したりするといわれています。

それは、発光流動体であるとされ、あうる種の臭気をおびているという報告もあるようです。エクトプラズムは、万人が有しているともいわれています。唾液や爪や髪の毛に似た成分だそうですが、一部の霊能力を有した者しか体外に出すことができないようです。

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霊能力を持つ者のうち、意識的にエクトプラズムを体外に出すことができる人は、その放出の最中に、強い刺激を受けると、肉体的なインパクト受けるともいわれています。

強い光を当てたり、手を触れたりすると、エクトプラズムを出している本人の肉体が強烈なダメージを受けることもあるといわれ、これはおそらく脱皮中の昆虫が強い刺激を受けることでその脱皮ができなくなってしまう、といったことと似ているのでしょう。皮膚がまだ固まっていないのに、急激な温度変化があったりすると死んでしまいます。

このため、通常、心霊実験中には、会場を暗い状態に保つことが必須といわれます。しかし、こうして暗い場所で行われるために、心霊現象に懐疑的な立場の者に、トリックや奇術に違いないと、決めつけたりさせることにもつながりやすくなり、心霊現象にさらなる疑いを持たせる結果ともなっています。

この暗い場所での降霊実験の際、押し入ってきた懐疑論者によって、霊能者がショックを受け、実際に亡くなったというケースもあります。

ヴィクトリア・ヘレン・ダンカン(Victoria Helen Duncan)という女性で、この人は、1897年スコットランドに生まれ、1956年に58歳のとき、この事故で亡くなりました。貧しい家具職人の家に生まれ、幼い頃から霊能力があったとされます。夫ヘンリーは家具職人でしたが、第一次世界大戦で負傷して後遺症が残ったため、家計は苦しかったようです。

多産で12人の子供を産みましたが、うち成人したのは6人だけでした。この子らを養うため、昼間は工場で働き、夜に家事と霊媒をこなしました。しかし、霊媒で得たわずかな収入も、ヘレン同様貧しい友人や隣人からのなけなしの寄付がほとんどだったといいます。しかもヘレンは、その金の一部を近くの病院の貧しい患者に贈っていたといいます。

彼女の霊媒能力はほとんど全領域に渡ったといいますが、特にエクトプラズマを出すことができることで有名でした。出現させた霊は、全身が完全であり、歩いたり会話したり触れたりすることができたといいます。英国内の何百もの交霊会に出席し、それらの会での霊媒の努めにより、多くの家族を失った人々に希望を与えたといいます。

しかし、世間の目はこうした異端者に厳しく、1933年、ヘレンは住んでいたエディンバラで、最初の逮捕を経験します。彼女には、アルバートという指導霊がおり、彼はかねてからこのことを警告していたといいますが、結局は阻止できなかったといいます。こうしたこともあり、ヘレン一家は軍港がある英国南部の町、ポーツマスに移り住みました。

第二次世界大戦が始まってからのちの、1941年、ヘレンはある降霊会で、一隻の軍艦が沈没した、と集まった人々に告げました。その軍艦とは、イギリス海軍が建造した戦艦で、バーラム号といい、1941年11月25日にドイツの潜水艦の攻撃を受け撃沈され、搭乗していた約1184名中861名の人命が失われました。

イギリス政府は戦時下でもあり、このダメージを国民に知らせるのをためらい、その事実を公表をしていませんでした。その後1943年にヘレンは別の交霊会を開きますが、このときはバーラム号の沈没時に死んだ水夫の霊が現れ、同船が沈んだことを告げました。このときもまだ、政府からの発表はなく、公式発表はその3ヶ月後だったといいます。

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このことは、世間を驚かせましたが、なぜそうした軍事秘密を知っているのかと、逆に警察をひきつけることになりました。その翌年、ポーツマスで開かれていたヘレンらの交霊会に、突然警笛とともに警官と海軍中尉が踏み込みます。このとき警官はヘレンが出そうとひていたエクトプラズムを掴もうとしましたが、瞬時に消えてしまったといいます。

このため、彼等は何等かのインチキの証拠を得ようと、エクトプラズムを「演出」した白い布を求めて部屋を探索しましたが、結局なにも出てきませんでした。しかし、ヘレンと3人の出席者は逮捕され、下位裁判所で放浪罪に問われました。仕事ができるのにブラブラしている人に適用される罪であり、現在の日本なら、浮浪者に適用されるようなものです。

この彼女の逮捕は仲間のスピリチュアリストたちに衝撃を与えました。優秀な霊媒が窮地に陥ったことを知った彼等は急いで資金をつのり、証人と証言を集め、新聞でキャンペーンを張り、その後開かれた裁判では41人の証人がヘレンの霊媒能力について証言しました。

例えば、キャスリーン・マクニールというグラスゴーの鍛冶屋の妻は、数時間前に妹が死亡したのを知らずに交霊会に出席し、ヘレンの指導霊アルバートがそれを知らせたことを証言しました。またその後の交霊会では祖父が現れ、6フィートくらいまで近づいた彼は、生前のように間違いなく片目だったことなども話しました。

シェイクスピアの研究者で知られるアルフレッド・ドッドも、彼女との交霊会で現れた祖父について証言し、生前同様背が高く、太って、浅黒い顔をし、スモーキングキャップを被り、独特の前髪をしていたと話しました。この祖父の霊は、ドッドの友人に向き直り、自分の顔をよく観察して、後日、自分の肖像画とよく比較するよう頼んだといいます。

さらに、別の女性は、「エクトプラズムを布と間違えるのは子供くらい」だと証言したほか、20年以上も心霊現象の調査をしてきた新聞記者は、ヘレンの交霊会で物質化したコナン・ドイルに会ったと証言しました。特徴のある丸顔、口ひげ、ガラガラ声などは、生前の彼と間違えようがなかったといいます。

ヘレン側弁護人は、こうした証言に加え、実際に交霊会を開けば、詐欺ではないことが実証できると主張しましたが、却下され、結局ヘレンは、「魔法行為禁止法」違反で有罪となりました。弁護団は続いて、上院と最高裁判所に上告しましたが、これも棄却されました。

後に、このヘレンの逮捕は、1944年6月6日のノルマンディー上陸作戦の漏洩を恐れた軍部が、ヘレンにその予言をさせたくなく、冤罪に陥れたのではないかと言われました。ヘレンの有罪判決があったのはその数ヵ月前のことでした。

ヘレンは、罪を認めて5シリング払えばすぐに釈放されるところでしたが、これを拒否したためホロウェー刑務所に戻され、9ヶ月間投獄されました。しかし看守たちはヘレンに体罰を加えることを拒否し、独房の鍵も一度もかけなかったといわれています。ヘレンは刑務所内でも変わらずに霊媒行為を行い、看守も囚人もヘレンの独房を訪ねたそうです。

また面会者も多く、首相ウィンストン・チャーチルもそうした訪問者の一人です。チャーチルは古代宗教のドルイド信者であり、また第六感によって命拾いした経験がいくつもあったため、スピリチュアリズムには理解があったといいます。

ボーア戦争の時には捕虜となりましたが脱走し、自動書記によって半径30マイル以内でたった一軒だけ存在した親英派の家を見つけ、そこで命を救われた経験があるそうです。このため、ヘレンが逮捕されたときから、激しく怒っており、内務大臣に宛てた手紙に「こういう時代遅れのたわけた裁判云々」という記述が残っています。

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しかし、ノルマンディー上陸作戦が迫っており、首相の怒りも脇に押しやられてしまった格好です。彼女の能力を信じているだけに、彼もまた作戦の漏洩を恐れた一人だったというわけです。しかし、彼女との面会では「魔法行為禁止法」廃止など様々な約束をしてヘレンを慰めたといわれています。

そのノルマンディー作戦の成功後の、1944年9月22日、交霊会に二度と出席しないと宣誓した後にヘレンは釈放されました。しかし間もなく霊界からの強い要望で、第二次世界大戦で家族を失い悲しみの中にある多くの人々のために霊媒としての活動を再開しました。

1951年にはチャーチルが首相に再選され、「魔法行為禁止法」は廃止。「霊媒虚偽行為取締法」が制定されました。これは、降霊術を偽装して、金をだまし取ろうとする輩がはびこるのを禁止する法律でした。

また1954年にスピリチュアリズムは宗教として国会で公認されました。スピリチュアリストたちは詐欺師が駆逐されることを歓迎し、また警官がまじめな霊媒の邪魔をすることがなくなるのを喜んでいたといいます。

ところが、1956年11月、ノッティンガムで開かれたヘレンの交霊会を、再び警官たちが急襲しました。これは「霊媒虚偽行為取締法」違反を疑った警官たちが捜査令状もなしに行ったものでした。踏み込んだ警官たちは、このときも付け髭や仮面や屍衣を出せと叫びましたが、やはり何も見つけられませんでした。

踏み込んだ警官らは、このとき霊媒中のヘレンを掴んでフラッシュ撮影をしたといい、この行為により、ヘレンはショックを受け、意識不明の重体に陥りました。すぐに医師が呼ばれましたが、この時の診断では、胃のあたりに2箇所、2度の火傷を負っていることが判明したといいます。

ヘレン・ダンカンはそのあと病院に搬送されましたが、5週間後に他界しました。59歳でした。26年後の、1982年、霊媒リータ・グールドの交霊会にヘレンが現れ、直接談話によって娘のジーナと会話を交わしたといわれています。その後もヘレンは何度も戻ってきては交霊会に臨んだといわれています。

あなたもいつかはあちらの世界でヘレンに会えるでしょう。

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手話のはなし

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少し前に、俳優の今井雅之さんが亡くなったという訃報が入ってきました。

1961年(昭和36年)生まれといいますから、我々と同世代です。割と脇役の多かった俳優さんですが、ほのぼのながらきらり、といったかんじの演技が印象的で、なかなか良い役者さんだったと思います。

役者さんとしてのアワードはたくさんはありませんが、1996年には、映画「静かな生活」のストーカー役で日本アカデミー賞優秀助演男優賞受賞しています。

2014年末に腸閉塞のために体調を崩し医師から「余命3日」を宣告され緊急手術を行い、術後には回復した事をブログで報告。翌年4月には、ブログにて、大腸癌であることを公表し、主演舞台「THE WINDS OF GOD」を降板することを発表しました。

また、その月末には記者会見を開き、3月から入院中で、抗がん剤治療をしており、「ステージ4」の末期ガンであることを明かしました。長らく健康診断を受けていなかったこともあり、発見時には既に手の施しようのないほど病状が悪化していたそうです。その後、5月28日午前3時、入院先の病院で家族に看取られながら死去しました。54歳没。

訃報を受けて、生前の多数の共演者や仕事での関係者から、本人の公式サイトやSNS、事務所を通しての声明などを通して、その死を悼むコメントが発表されました。葬儀では生前の仕事での関係者から多数の献花がなされました。

その中に、元歌手で女優の酒井法子さんもおり、後日、今井雅之さんについて所属事務所を通じてコメントを発表しました。その中で彼女は「今井さんは唯一、私をほめてくださる大事な人だった」と述べるとともに、「最後まで役者として、男として強く戦い抜いた姿に心からの拍手を贈らせてください」と結んでいます。

ご存知の通り、彼女は覚醒剤を所持・使用したとして、当時の夫と共に、覚せい剤取締法違反で東京地方裁判所から有罪判決を受けています。その後懲役1年6か月、執行猶予3年の有罪判決を受け、検察側・弁護側とも控訴せず刑が確定していました。

その復帰舞台となったのは、2012年12月の「碧空の狂詩曲~お市の方外伝~」でしたが、この舞台で今井さんと共演しました。今井さんは酒井さん演じるお市の2番目の夫となる柴田勝家役を演じたといいます。

これが縁で、その後今井さんが脚本、演出を手がけ、14年3月上演予定だった「手をつないでかえろうよ―シャングリラの向こうで」では酒井がメーンキャストとして出演する、と今井さん自らがブログで発表していました。しかし、その後、酒井が出演を“ドタキャン”し、トラブルに発展したそうです。

以後、芸能界復帰の声が聞こえてこないのは、このときのトラブルが尾を引いているのかもしれません。

その酒井さんが、1995年に出演した、日本テレビ系列のテレビドラマに「星の金貨」というのがありました。

この当時かなり話題になった番組で、主人公は耳と口が不自由ながら、北海道、道東の美幌の診療所に看護見習いとして住み込みで働いている、という設定でした。元々捨て子で、まだ赤ん坊の時に捨てられて以来、育て親が買ってくれたブランコで親を待ち続けている、という不幸な生い立ちの女性の人生を描いたものでした。

そんな彼女が勤めていた診療所に赴任してきたのが、大沢たかおさんが演じる医者です。物語は、その後彼女がこの医師に次第に惹かれていって……というふうに展開していきます。

ごくありふれたラブストーリーと言っては失礼かもしれませんが、このドラマを通じて「手話」の存在が広く知られるようになったことで、話題になりました。

この番組以降、「君の手がささやいている」「愛していると言ってくれ」「オレンジデイズ」など、手話話者が登場する手話ドラマが増えていっており、手話というものが広く日本人に知られるようになるきっかけを作った番組ともいえそうです。

現在では手話はさらに普及し、ニュースなどでも手話を取り入れるテレビ局も多くなりました。レジャー施設などでも手話ができる人を置くところも多くなり、東京ディズニーシーでは、ショーの中にパフォーマンスの形で手話を取り入れることがあるといいます。

歌手が自分の持ち歌の中で歌唱しながら手話を同時に行う例も増えましたが、これは酒井さん自身が「星の金貨」の主題歌を歌うとき行ったのが、嚆矢だといわれます。以後、高橋ジョージさんが「ロード」を歌うときに手話を使ったり、夏川りみさんなども手話を使って歌を披露しており、彼等を通じてさらに手話の存在が知られるようになりました。

現在ではかなり手話が浸透してきた、という印象があり、最近では手話を学びたいという人も増えてきているようです。富士通は1995年にパソコンで手話を勉強できるWindows対応のCD-ROMソフト「君の手がささやいている」を発売しており、現在でもこれは「新・君の手がささやいている」に刷新されて継続販売されています。

最初のものは、黒柳徹子さんが理事長の社会福祉法人トット基金の付帯劇団である日本ろう者劇団が監修し、女優の西村知美が友情出演していたそうです。

最近ではさらに手話を「言語」として承認しようという機運が高まっているともいわれますが、世界的にみると、2006年に採択された国連障害者権利条約には既に手話が「言語である」とはっきりと明記されています。

また、ニュージーランドでは手話が公用語として認められているほか、フィンランドでは手話を使用する権利を憲法で保障するなど、手話を一つの言語として認める動きは、世界的には日本よりもかなり早くから広がってきています。

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その歴史を見ると、手話の起源は、18世紀以前のヨーロッパで、聴覚障害者の身近な人たちの間で使われていた「ホームサイン」だといわれているようです。しかし、ごく少数の人数間で意思疎通をはかっていた程度であり、また、この当時の聴覚障害者グループは、ばらばらに分散して孤立していました。

が、そこへ、1760年、フランスの思想家で教育者だった、ド・レペ神父が世界初の聾唖学校であるパリ聾唖学校を設立しました。レペ神父はここで聾者集団に読み書きを教えることで聴覚者との意思の疎通を可能にする数々の工夫をこらしましたが、これほどの規模のろう者集団が形成されたのは世界で初めてであったといわれています。

これがきっかけとなり、パリ他の世界の大都市でも同様の集団(学校)が結成されるようになり、彼らは、各々持っていたホームサインを統合し、発展させて、それぞれのグループ内の手話を創り上げていきました。

また、パリ聾唖学校で計画的に開発された手話は、他国へも影響を与え、その後ヨーロッパ各地に波及していき、各国独自の手話が創り上げられるようになっていきました。しかし、逆にこのことで手話は世界統一されることなく、英語のような世界共通の言語として発展することはありませんでした。

一方、日本はというと、1862年、江戸幕府に派遣された第一次遣欧使節一行が、このころもう既に確立していた、ヨーロッパの聾学校や盲学校を視察しています。また、日本で最初の聾学校は、古河太四郎が1878年に設立した京都盲唖院です。ここに31名の聾唖生徒が入学し、「日本手話」の原型が誕生しました。

古河太四郎は1875年、彼が寺子屋の教師だった時代に、聾唖の生徒が日常的に使用していた手話に着目し、体系的な機能を持つ言語としての教授用の手話を考察しました。この際に考案された指文字のような表現方法を取る「手勢(しかた)法」が現在、標準手話として使われることの多い「日本手話」の原型となりました。

このとき、創立された京都盲唖院は、後の京都府立盲学校・京都府立聾学校に発展し、近代日本での視覚障害教育・聴覚障害教育の黎明期をリードしました。彼の没後30年に当たる1937年にはヘレン・ケラーが、彼の創設した聾唖学校を訪問しています。

この京都盲唖院の設立のころから、世界的にも同様の聾唖学校が増えていきましたが、やがてこれらの聾学校では、手話で教育する方式とは別に、口話法という、聾児に発音を教え、相手の口の形を読み取らせる教育方式も出てくるようになりました。

当時の時代背景としては、現在のような障害者雇用促進法といったものがなく、たとえ、ろう学校で読み書きがちゃんと出来るようになったとしても、卒業生後に就職しようとすると、雇い主は、中々雇用しようとはしなかったようです。ろう者への偏見や、筆談でしかコミュニケーションが取れないような人の採用を躊躇したためです。

このため、耳の聞こえないろう者といえども、喉に障害はないはずであり、しゃべらせる事により社会に受け入れられる生徒を育てられないだろうかと考えた先生がおり、欧米では、話している人の唇を見る事により、話し言葉を読み取り その口形をまねして、本人にも声を出させる、すなわち読唇術(正式には視話法)の研究が盛んであることを知ります。

その手法を日本にも取り入れようとしたのが口話法です。早速海外の文献をとりよせ、生徒に口話法をマスターさせ、唇を見る事により相手の話す内容を読み取るようにさせたところ、かなり正確にしゃべる生徒もでてきたことから話題となり、昭和の始めの聾学校では一気にこの口話法が普及して行きました。

このため、全国的にもろう教育といえば「口話法」という風潮ができ、手話法による教育を施すろう学校は極端に減っていきました。この風潮は日本だけでなく、世界を見ても同じ様な流れでした。しかし、手話法が駆逐されたわけではなく、それなりのメリットも多かったことから、両者は、はっきりとした2つの流派に分かれていきました。

が、この2つの異なる教育方法については、その優劣を巡っては議論が続くようになり、やがてその論争はエスカレートし、長期化しました。

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ところが、1880年ミラノで開かれた国際聾唖教育会議では、口話法の優位性が宣言され、これを契機に、手話法は次第に口話法の陰の立場に追いやられていきました。

手話法が採用されず口話法が採用された背景には、聾唖者であってもまず、健常者と同じく音声言語を獲得する努力をすべきだという一方的な思い入れがあったと思われ、またこのころから第一次大戦などの戦乱の時代に入って来たことから、2つの言語の存在は混乱を招くばかりであり、早急に言語の統一を図るべきという思惑が絡んでいたと考えられます。

この宣言の結果は、やがて日本にも伝えられ、日本でも口話法が主流になっていくことになります。この結果、手話は国際的にも認められていないとう偏見を持たれるようになり、教育の場でも社会でも認められない、という風潮が強くなりました。

この結果として、聾学校内でも教えられることが少なくなりましたが、しかし聾唖者の間では便利な意思通話砲として通っており、教師の見ていないところで先輩から後輩へ伝承されていき、社会内では聾唖者が集まる場でひそかに使われていました。

ちなみに聾唖(ろうあ)の「聾(ろう)」は耳が聞こえない、「唖(あ)」は、しゃべれない事を意味します。昔は、音声を機械で創ることが不可能だったため、「耳が聞こえない」=「しゃべれない」という命題が成り立っていました。しかし、現在は口話法や高性能の補聴器・早期訓練などによって、訓練すればある程度は「しゃべれる」ようになりました。

また、その後の手話の普及により、しゃべれる(意思疎通が図れる)ということが広く認知されるようになったため、聾唖の唖をつけるのをやめて、「ろう」という言い方が一般的になりました。全日本ろうあ連盟の名称は、「ろうあ」という言い方が一般的だった時代の名残です。なので、以下では「ろう者」で統一して書いていきます。

そのろう者が「しゃべれる」ようになる強力なツールとしての手話が日の目を見るようになるのは、1960年代に入ってからのことです。

1960年に、アメリカ合衆国ワシントンD.C.のギャローデット大学の言語学者、ウィリアム・ストーキー(William Stokoe)が、「手話の構造」を発表したのがきっかけと言われており、このときの講話内容は、手話は劣った言語ではなく、音声言語と変わらない、独自の文法を持つ優れた独立言語であるというものでした。

この発表は大きな反響を呼び、これをきっかけにして1970年代以降、手話を言語学としての研究対象とする学者が世界中で増えました。とくに、この時期に自然発生した「ニカラグア手話」は最も新しく発生した「言語」と高く評価されています。

また、同時期に、当時の聴覚補償技術の限界もあり、口話法での教育の行き詰まりも各地で報告されるようになっており、こうして手話は、口話法以上に有効なツールであることが認められるようになり、現在に至っては、言語学者の間で「手話が言語である」というのは常識になっています。

さらには、北欧では、「バイリンガルろう教育」というものが発明され、手話法の見直しの機運が高まりました。これは何かというと、重度聴覚障害児に対し、手話と「書記言語」の2つの言語を習得させ、それによって教科学力を効果的に獲得させることを理念とする教育法です。

書記言語というのは、要するに、「書き言葉」のことであり、言葉を話せない人に紙に書かれた文字を読ませ、同時にその発音を覚え込ませて相手に意思を伝えるものであり、相手の口の形を読み取らせる口話法にかなり近いものです。

健常者は耳で聞いた言葉を口ですぐに話せますが、耳が聞こえない人は、文字でまずこれを確認し、健常者にその音が正しいかどうかを教えてもらって初めて使うことができます。また喋れない人は、文字を読み取るか耳で聞いて理解した内容を、この書き言葉で意思を伝えます。耳も聞こえない、喋れない人でも文字を介在して意思を伝えることができます。

これに手話を加えることで、本人たちの理解もさらに深まり、かつ健常者との会話もスムースになるというわけであり、手話法も取り入れつつ、この書記言語を重視するということは、広義の口話法の要素も取り入れたものであり、いわば手話法と口話法のハイブリッド言語と言えます。二つを併用することで、より深い学習効果が期待できます。

最近の日本においては「話し言葉」として、「日本手話」を身につけさせ、その後「書き言葉」として書記日本語を教えるという形を取るところが多いそうで、現在のろう教育機関では程度はあれど、こうした形でバイリンガル教育を取り入れるところが増えているといいます。

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こうして手話は、次第に復権を果たしていきましたが、ところで、手話は世界共通かというと、上述のように各国それぞれに手話が発展してきた経緯から、その答えはノーです。

アメリカの ASL(American Sign Language、冠詞は各国の略称、以下SLの注釈略)、イギリスのBSL・フランスのLSF等のように原則的に各国で異なります。また、その地域で使われる音声言語と手話との間には関係がありません。例えば、アメリカとイギリスは音声言語の英語を共有しますが、手話のASLとBSLは全く異なるものです。

ところが、アイルランド手話がASL系でアメリカに近く、アフリカの手話の多くもASL系です。このほか、フランスでは英語を用いないのにもかかわらずLSFはアメリカのASLに比較的近いと言われます。

さらにカナダのフランス語圏ではLSFでなくLSQという別の言語であり、このように各国バラバラなのは、こうした手話の先進地域で手話や手話による聾教育を学んだ人物が、別の地域で手話や手話による聾教育を広めたためです。

例えばアメリカのASLがLSFに近いのは、そもそもアメリカで手話による聾教育を広めたトマス・ホプキンス・ギャローデットという人が、フランスで手話や聾教育を学んだからです。同様にアフリカの手話にASL系が多いのは、アメリカで聾教育を学んだ人物がアフリカで活動した結果です。

ただし、このように各国バラバラだと、国際会議を行う場合などには不便なので、「国際手話」というものがあり、世界聾連盟主催の国際会議、国際大会など、国際的な場ではこの国際手話が使われます。ただ、実際の国際交流の場ではアメリカのASLが一番広まっているといいます。

その理由は、世界の手話に影響を及ぼした、上述のギャローデット大学がアメリカに所在しているためであり、かつ「世界の警察」としてアメリカの影響力が大きく、また世界中からアメリカに留学生が集まるためです。

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一方、日本の手話はどうかというと、日本では、ろう者同士、またはろう者と聴者の間で生まれ、広がった「日本手話(Japanese Sign Language, JSL)」のほか、日本語と手話の語をほぼ一対一に対応させた「日本語対応手話」というのがあり、これは日本語の文法や語順に手話単語を当てはめた比較的単純な手話です。

健常者には何が違うのかわかりにくいのですが、その違いは日本手話はクレオール言語と呼ばれる一種で、日本語対応手話は、ピジン語の一種だということです。

クレオール言語とは、意思疎通ができない異なる言語の商人らなどの間で自然に作り上げられた言語(ピジン語)が、その話者達の子供達の世代で母語として話されるようになった言語です。上述のように、日本でも明治期以降、自然発生的に使われるようになり、最も普及している言語です。

一方、ピジン語とは、もともと現地人と貿易商人などの外国語を話す人々との間で異言語間の意思疎通のために自然に作られた混合言語で、例えば、“Long time no see.”は、「お久しぶり」といった意味ですが、明らかに英語の構造を持っていません。しかし、それなりに意味が伝わります。

こうしたピジン語では文法の発達が不十分で発音・語彙も個人差が大きく複雑な意思疎通が難しいとうい問題点があります。しかし、その一方で覚えやすいというメリットがあります。一方のクレオール語は、ピジン語の要素をさらに淘汰し、発達・統一させたものであるため、複雑な意思疎通が可能になりますが、習得には時間がかかります。

日本語対応手話はピジン語であり、基本文法が日本語のため、日本語文法どおりそのまま手話単語に並べるような感じになります。そして、日本手話独特のように手指動作以外に顔の部位等を使うといった、非手指動作はほとんど使用しません。従って、日本手話と比べると意思疎通に時間がかかります。

ただし、日本手話よりも覚えやすいのは確かです。しかし、より複雑な動作を伴う日本語文法が身に付いている人達にとっては少々物足りないかんじになります。日本語対応手話は使いにくいという人も多く、このため日本手話使用者の中には日本語対応手話を蔑視して「シムコム」「手指日本語」等と呼び、あんなもの手話では無いという人もいるようです。

とはいえ、両者とも一長一短があり、どちらがいいともいえません。このため、その両者の中間的な「中間手話」というのがあるそうです。が、日本語対応手話とこの中間手話の区別は曖昧であり、また両者とも確固たる文法を持っていないのがネックであり、実際の運用面でも両者がある程度混在しているというのが現状のようです。

このほか日本手話でも、地域によって一部の手話単語が異なるそうで、たとえば「名前」を示す手話単語は、東日本と西日本で異なるそうです。とくに、日本手話では地域方言の他に個人方言も多く観察されるといいます。

いまのところ公式な場で使われることが多いのは、「日本手話」のようです。なお、法律的には、手話は2011年まで、法律上は言語として認められておらず、このため、公立のろう学校でも、積極的に教授されているところは多くありませんでした。

このためもあり、上述のとおり、多くのろう学校ではむしろ、「口話法」が主流となっていたわけです。が、口話法は習得が難しいと指摘する専門家が少なくなく、このため、手話を言語として認める法律を制定しようという動きがあり、2011年(平成23年)に、「言語」と規定された「改正障害者基本法案」が参議院本会議で全会一致で可決、成立しました。

この法改正により、日本で初めて手話の言語性を認める法律ができたことから、教育機関でも手話を取り入れるところが増え、2013年(平成25年)には全国で初めて鳥取県が手話は言語であることを明確に記した手話言語条例を制定しています。このほか昨年11月には近畿の自治体では初めて、兵庫県加東市で手話言語条例が可決されました。

ただ、現状においては、いまだに口話法を主としているろう学校もあり、さらに口話法とも手話法ともはっきりとは決めていない教育機関もまだ多いようです。日本のろう教育はまだまだ進化の余地がある、ということでもあり、ろう者のための文化形成はいまようやくはじまったばかり、という感があります。

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アメリカでは、上述のギャローデット大学のストーキー博士の発表以降、ろう者のための文化、すなわち「ろう文化(Deaf Culture)」という考え形成されるようになり、この中で、手話はろう者の言語であるということを、ろう者自身が強く認識していくようになっていったといいます。

このろう文化とは、手話を基礎とし、聴覚でなく視覚、触覚を重視する生活文化を指します。ろう者は意思の疎通において聴覚でなく視覚・触覚だけに頼ります。これによって独特の文化が生み出されます。

最も基礎となるのが聴覚でなく視覚を基礎とする手話言語であり、近くにいる他人を呼ぶときは手を振るか、軽く肩か腕をたたく、また、遠くにいる他人に注意を喚起するときは、声でなく壁や床を叩いて振動を起こさせる、或いは電灯を点滅して操作するなどなど、視覚、触覚がフルに駆使されます。

このほか、飲食店等で店員を呼ぶ際には大きな音で手を叩くか、手をあげて大きく振る、話す時はアイ・コンタクトを重視すると言った点などが、ろう文化の特徴です。騒音の激しい街中でも手話による会話が可能である、などの健常者より優れた点を挙げる人もいるようです。

こうした一連の意志疎通法を包括したものがアメリカの「ろう文化」と呼ばれるようになっており、「ろう者とは、こうした異なるコミュニケーション手段を持つ少数民族である」、といったアピールがなされるようになってきている、といいます。

とはいえ、一方でろう文化はろう者の政治的団結を目的とした集団意識との側面もあり、それが場合によっては聴者に対する対抗意識として現れるため、政治利用されることもあるようです。

日本でも早晩、こうした「日本ろう文化」が形成されていくのかもしれません。が、政治利用されないよう、注意が必要です。

なお、日本に日本手話・日本語対応手話・中間手話が存在するように、英語対応手話であるASLを標準とする、アメリカにも英語手話および、英語対応手話との中間手話が存在しており、それぞれ無視できない数の使用者を持っているといいます。

マサチューセッツ州にあるマーサズ・ヴィニヤード島にはヴィニヤード手話と呼ばれる、独自の手話があるそうで、この島は米本土に近いものの、以前はなんらかの理由で本土との交流が少なく、半ば隔離され閉塞された環境だったため、近親婚が行われ、元来からの聴覚障害遺伝子が拡大し聾者が多く出生しました。

これに伴って独自の発展をとげたのがこの島独自の手話であり、ここでは家族、親族の中に必ずろう者がいるという特殊な社会的条件から、聴者も流暢に手話を使い、しばしば音声語と手話は併用されており、彼らにとって手話は特別な物ではないそうです。

ある研究者が歴史的調査のためにここを訪れ、「当時その話をしてくれたのは聞こえる人でしたか?聞こえない人でしたか?」と質問したところ、当人達は相手がろう者か聞こえる者だったかさえ思い出すことができなかったといいます。それほど、昔から普通に手話が普及していたというわけです。

彼らにとって「聞こえないこと」は偏見や差別の原因とはならなかったというわけであり、ろう者はコミュニティーの一員として確固とした立場を保っており、市長や社長に就任する者もいたといいます。

こうした独自の手話が自然発生した例には、ほかにもニカラグアの全寮制ろう学校で誕生したニカラグア手話があります。上述のとおり、完成度の高いものとして評価が高いようです。

また、ろう者が非常に高い割合で生まれる村落で自然発生したイスラエル南部のネゲブ砂漠にあるアル=サイード村の、アル=サイード・ベドウィン手話や、ガーナ東部のアカン族の村、アダモロベで使われている、アダモロベ手話などがあります。

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このほか、必ずしもろう者とはかぎらない手話としては、潜水士が水中で信号を送るための「水中手話」もあるほか、アメリカインディアンは、他の部族あるいは白人とコミュニケーションする時に手話を使っていました。これは手話というよりも手話単語だけであり、いわば「対応手話」に近いタイプと考えられます。

中世の修道院では、「沈黙の戒律」というのがあったため静寂が重視され、その間、修道士は手話や指文字で会話をしていました。しかし手話による雑談に夢中になりすぎる傾向にあったため、しまいにはこの手話も禁止になってしまう場合があったといいます。

さらに赤ちゃんと親がコミュニケーションするための、ベビーサインと呼ばれる手話も存在するといわれています。ただ、言語学的にはベビーサインは手話とは異なるという報告もあり、どのような効果や影響があるのかはまだ研究途上のようです。

それでは、この赤ちゃん以上に、知能の高いサルとの手話による会話は可能でしょうか。

実は可能です。例があります。1971年7月4日、アメリカのサンフランシスコ動物園で生まれた、「ココ(koko)」はメスのローランドゴリラであり、世界で初めてアメリカ手話言語を使い人間との会話に成功したゴリラであるとされます。

身長175㎝。体重127kgで、本名はハナビコといい、これは日本語の「花火子」から来ており、これはココの誕生日のアメリカ独立記念日にあがる花火からつけられた名前だそうです。

生後3ヶ月で病気にかかっている時に、発達心理学の研究者のフランシーヌ・パターソンと出会い、手話を教わりました。2012年現在、使うことの出来る手話は2000語以上になり、今や嘘やジョークを言う事もあるといいます。

ココについてのエピソードについて、特に有名なものとして、ボールという名の子猫との話があります。飼育係のパターソンがココに絵本を読み聞かせていた所、ココは絵本に出てきた猫を気に入り、誕生日プレゼントに猫をおねだりしました。 そこでおもちゃの猫を与えましたがが、ココが気に入ることはなかったそうです。

母親としての本能に目覚めたようで、やがて手話でも、赤ちゃんがほしい、と伝えるようになり、ゴリラの縫ぐるみを与えると、まるでわが子のようにオッパイを飲ませる仕草さえ見せるようになったそうです。

そこで、ゴリラが別の動物をペットとして飼育することができるかどうか、という実験も兼ね、本物の生きた子猫を与えることになりました。3匹の子猫が候補となり、ココはその中の自分と同じようにしっぽのない1匹を選びました。このネコは、「ボール」と名付けられ、2匹の生活が始まりました。

当初飼育員達は、ココがボールを殺してしまう事を危惧していましたが、案に反してココはボールの体を舐めたり、抱きかかえたりして、愛情を注ぎ、まるでボールの事を育てているかのように見えました。

ところが、ある日、ボールはココのケージから脱出し、車にはねられて死んでしまいました。 飼育係がその事を手話でココに伝えた所、ココは少しの沈黙の後に「話したくない」と答えたといいます。

続けて彼女は手話でボールへの愛情や悲哀の言葉を繰返し、大きな声で泣き続けたともいい、この様子は映像としても残っており、ココの悲しむ様子もハッキリと確認できるそうです。

同時に彼女は「死」の概念も理解しており、手話で「ゴリラはいつ死ぬのか?」と問われると「年をとり、病気で」と回答し、「その時何を感じるのか?」という質問には「眠る」とだけ答えたそうです。そして、「死んだゴリラはどこへ行くのか」と聞くと、「苦労のない、穴に、さようなら」と答えたといいます。

その後、ココは、2000語をも理解するようになり、「嫉妬」や「恥」などもわかるようになりました、また千以上の手話も習得し、痛みを意味するジェスチャーと口を指さす仕草で「歯が痛い」と訴えて、虫歯の治療を受けたこともあるそうです。

その後、二匹の別の子猫を与えられ、現在もこの子たちと仲良く一緒に元気で暮らしているとのことです。

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君沢~ヴェルニー ~旧戸田村(沼津市)

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先日、ユネスコ諮問機関、イコモスによる明治日本の産業革命遺産の世界遺産への登録勧告が決定されました。

その一連の勧告遺産リストをぼんやりと見ていたら、韮山の反射炉などと共に、「恵美須ヶ鼻造船所」という遺跡があるのに気がつきました。

郷里の山口の史跡なのに知らないな~と思って、詳しく調べてみると、長州藩が洋式帆船を建造した造船所跡とのことで、2013年に国の史跡に指定されていました。松下村塾のある場所にもほど近い、萩市椿東というところにある、小さな半島の根元に造られた施設です。

この近くに、よく行くお気に入りのレストランがあり、何度がそこでは食事をしたのですが、そこから目と鼻の先にそんなものがあったとは、つゆほども気がつきませんでした。

この造船所では、ロシアの造船技術に基づいて、「丙辰丸」という帆船と、オランダの造船技術による同じく帆船の「庚申丸」が建造されました。同じ造船所内に異なる外国の造船技術が共存した唯一の西洋式造船所の遺構、ということが評価されたようです。

近代技術の導入期を知る貴重な遺産でもあり、2007年(平成19年)、経済産業省により、近代化産業遺産に認定されたのち、すぐ近くにある萩反射炉や松下村塾などと共に明治日本の産業革命遺産として登録勧告が実現しました。

ネットで実際の現状を調べてみると、石造の防波堤が現存しており、周囲は結構きれいに整備されているようです。現在でも小さな漁港がありますが、往時もこのあたり一帯は、「今浦波戸」という小湊だったようです。

この造船所の造成の背景には、アメリカ合衆国やイギリス、ロシア帝国などの西欧諸国の軍船の相次ぐ日本近海への出現があります。これらが江戸幕府や諸藩の脅威となると1853年、幕府は、安政の改革の一環として、それまで諸藩に対して大型軍艦の建造を禁止していた「大船建造禁止令」を撤回しました。

このとき、浦賀警備に当たっていた長州藩に対しても撤回がなされ、そればかりではなく、逆に大船の建造が要請されました。このとき、長州藩は、財政上の理由から消極姿勢を示しましたが、桂小五郎がやっぱ軍艦建造しておいたほうがいいよ、という意見書を藩に提出したことなどから、藩主の毛利敬親が洋式軍艦を建造することを決定。

このため、日本で初の本格的な洋式帆船である「君沢形スクーナー」を建造していた伊豆国戸田村に、萩の船大工の棟梁、「尾崎小右衛門」を派遣しました。このとき、尾崎は戸田村で「君沢型」スクーナーの建造にあたった経験のある高崎伝蔵ら連れて藩に戻り、翌1856年、彼等の協力の元に小畑浦の恵美須ヶ鼻に軍艦製造所を開設しました。

この「君沢型」というスクーナーについては、以前、このブログでも詳しく書きました。

キミサワ
ヘダ

ロシアの提督、プチャーチンが日露和親条約の交渉のために、1854年(安政元年)に来日した際、安政東海地震が発生し、寄港していた下田一帯も大きな被害を受け、乗船していたディアナ号でも津波により大破しました。

和親条約はその後無事締結されましたが、帰るための船を失っていたため、徳川幕府に泣きつきました。幕府も西洋軍艦なるものを作り、その技術を習得できればメリットは大きいと考えたことから、お互いの思惑が一致し、建造されることになったのが、この君沢型の原型となる、「ヘダ号」でした。

伊豆国の大工の棟梁たちがこれに参加し、完成したものはディアナ号よりもかなり小型でしたが、性能はすこぶる良かったとみえて、その後同型船が都合10隻ほども量産されました。「君沢型」と呼ばれるようになったのは、この当時の戸田村が「君沢郡」に属していたことに由来します。

このヘダ号及び君沢形の建造は、日本人にとって、洋式船の建造技術を実地で習得する重要な機会となり、その後この「君沢型」の名は、日本においては、同型船に限らずスクーナー全般をさす一般名詞としても用いられようになりました。

この君沢型を真似て萩の恵美須ヶ鼻で最初に作られた洋式帆船が、「丙辰丸」です。全長25m・排水量47トン、2本のマストの小型でスクーナーでしたが、一応、軍艦であるため、船首両舷に大砲1門ずつが据えられており、のちの第二次長州征討や戊辰戦争で実戦参加しています。

この完成に気をよくした長州藩は、さらにこのあと、船大工の藤井勝之進を長崎の海軍伝習所に派遣して、オランダの「コットル船」の建造技術を学ばせました。コットルというのはオランダ語で、英語では「カッター」になります。

1本マストの小型帆船のことで、軍用としては、この当時、哨戒・巡視船などに使われていましたが、武装する場合も多かったようです。この建造技術を長崎から持ち帰った藤井らが、1860年に完成させたのがこの造船所での2隻めとなる、「庚申丸」になります。

全長約43m・幅約8mと「丙辰丸」の2倍近い長さで、マストも1本多い3本で、武装は30斤砲6門を備えていました。のちに、長州藩が攘夷決行に踏み切り下関戦争が始まるとこれに参戦し、本艦からの砲弾1発をアメリカ軍艦「ワイオミング」に命中させ、アメリカ兵3人戦死・4人負傷という打撃を与えました。

また、第二次長州征討や後の戊辰戦争でも活躍し、鳥羽・伏見の戦い前に長州藩兵を輸送するなどの活動を行っています。

丙辰丸や庚申丸は無論木造船ですが、外側には敵の砲弾から身を守るための鉄板などが張られたほか、船内各所の補強には鉄も用いられました。これらの鉄は、この造船所からもほど近いところにあった、「大板山たたら製鉄所」で産出されたものが使われたということがわかっています。

日本の伝統的な製鉄法である、この大板山たたら製鉄は、その遺跡とともに、今回勧告が決まった明治日本の産業革命遺産の中に含まれています。「たたら」は「踏鞴」または、「鑪」とも書き、日本だけではなく世界各地でみられた初期の製鉄法です。

製鉄反応に必要な空気をおくりこむ送風装置の鞴(ふいご)がたたら(踏鞴)と呼ばれていたためつけられた名称で、日本では、この方法で砂鉄・岩鉄・餅鉄を原料に和鉄や和銑が製造されました。その技術がいわゆる「玉鋼」を生み出し、これが日本刀という世界に冠たる芸術品の生産を可能にしました。

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その後蒸気船が主流となり、これにはこのたたら製鉄所で作られた鉄を用いてもよかったわけですが、長州藩はそんなもん自前で作っている暇はない、と外国製蒸気船を購入する方針に変更してしまいました。このため、この製鉄所もあまりふるわなくなり、かつ恵美須ヶ鼻に軍艦製造所での艦船建造も行われなくなったため、両者とも閉鎖されました。

しかし、これら伊豆や長州で建造された君沢型スクーナーで培われた造船技術は、その後日本各地での洋式船建造の際にも大いに使われました。伊豆では、韮山代官の江川英敏(江川太郎左衛門)が幕府に命ぜられ、君沢形を小型化したスクーナー6隻を建造し、これを「韮山形」と命名しています。

また、1866年に幕府が竣工させた国産初の汽走軍艦である「千代田形」も帆装形式は君沢形同様のスクーナーであり、建造現場にも伊豆で君沢型を建造した関係者が多く参加しています。

その一人の、「上田寅吉」は元々伊豆の船大工であり、君沢型に関わったこれら市井の大工としてはその後もっとも出世した一人です。長崎海軍伝習所に入学し、1862年には榎本武揚らとオランダへ留学、帰国後、榎本と共に函館戦争に参加しました。

明治維新後はそれまでの実績が評価され、維新政府に出仕し、横須賀造船所の初代工長に任命されて、維新後初の国産軍艦「清輝」の建造を指揮しています。

一方、君沢型建造には武士も数多く関わっており、その中でも技術的に最も優れた技術を持っていたのも伊豆人で、「肥田浜五郎(為良)」という人でした。この伊豆の肥田氏というのは、後北条氏に仕えた家柄で、のち徳川家に鞍替えし、水戸徳川家の家老や高松藩家老を勤め、このことから、家人は江戸期を通じ、幕末までかなり幕府に重用されました。

浜五郎もその一人であり、若いころは、同じく幕府方の役人、韮山代官江川英龍のところで、手代見習として働いていました。その後、英龍にも認められて江戸遊学を許され、江戸では伊東玄朴に蘭学を学んだのち、長崎へ向かい、同じく幕府機関の海軍士官養成所である、長崎海軍伝習所に入りました。

長崎海軍伝習所の第二期生にあたり、ここでは機関学を学びました。その後、江戸築地の軍艦操練所が開設されたことから、長崎海軍伝習所は閉鎖されましたが、肥田はこの新設された軍艦操練所の機関学の教授になりました。勝海舟らが、1860年に咸臨丸でアメリカへ向かったときには、多くの教え子を引き連れ、太平洋往還を成功に導きました。

勝海舟は海軍卿だったくせに、まるっきり船がダメな人で、行きも帰りもゲロゲロと船酔いしていてずっと船倉で寝ていたといい、この役立たずの勝に代わり、肥田や測量方の小野友五郎(のちの東京天文台長、茨城県笠間出身)、運用方の浜口興右衛門(幕臣、のちの横須賀造船所造船科主幹)が操船の指揮をしていたといいます。

帰国後も幕府の海軍畑を歩み続け、軍艦操練所頭取手伝出役を経て、軍艦頭取出役となり、翌年には幕府軍艦としては最初となる蒸気軍艦、上述の千代田形の蒸気機関を設計。このほかにも海路上洛する徳川家茂の御座舟「翔鶴丸」の艦長を務めるなど次々と出世し、1864年(元治元年)には軍艦頭取となりました。

幕末には、幕府海軍の顔として君臨し、幕府軍艦、「富士山丸」の艦長を務め、戊辰戦争を戦いました。維新後、静岡に戻り、新設された静岡藩の海軍学校頭となりましたが、1869年(明治2年)新政府に呼び戻されて東京に戻り、民部省に出仕しました。

しかし、その後元の海軍畑に戻り、横須賀海軍造船所の所長になりました。この時代に岩倉具視の欧州使節団の一員として欧米各国を歴訪しています。はっきりとしたことはよくわかりませんが、おそらくは語学のほうも達者だったのではないでしょうか。

帰朝後も出世街道を登りつづけ、工部大丞、海軍大丞兼主船頭と進み1875年(明治7年)にはついに海軍少将となります。晩年には、宮内省の御料局長官なども勤めましたが、明治22年(1889年)、藤枝駅で走りはじめた列車に飛び乗ろうとして転落、死去しました。

当時の列車に便所がなかったので、駅で用を足した後、無理に汽車に戻ろうとしたそうです。同年中に列車内への便所の設置が始まっていますが、この事故がこれを後押ししたといわれています。

維新前の一時期、このころまだ建設途中だった横須賀造船所のための工作機械を購入のため、オランダやフランスに派遣されました。その際、幕末から明治にかけて日本で活躍したフランス人の技師、「レオンス・ヴェルニー」からかなり助けられたようです。

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このフランソワ・レオンス・ヴェルニー(Francois Leonce Verny)という名前を知っているという神奈川県民は多いでしょう。フランスからのお雇外国人のひとりで、1865年から1876年にかけて横須賀造兵廠、横須賀海軍施設ドックや灯台、その他横浜などの近代施設の建設を指導し、日本の近代化を支援したことで知られています。

横須賀・横浜のほかにも、アジア最大の造船能力を誇る長崎造船所の建設にも携わるなど、幕末の日本にはなくてはならない人材でした。

こうしたことから、レオンス・ヴェルニーは日本の近代化と日仏友好の象徴とされており、横須賀海軍基地に隣接する海辺には、ヴェルニーの名を冠した「ヴェルニー公園」が造営され、胸像も設置されています。

同公園内にはヴェルニーの業績を紹介するパネル等が展示された「ヴェルニー記念館」もあり、横須賀製鉄所建設に大きな貢献をした彼を偲んで毎年11月中旬の土曜には「ヴェルニー・小栗祭式典」が開かれています。

「小栗」というのは、小栗忠順(ただまさ)のことで、日米修好通商条約批准のため米艦ポーハタン号で渡米し、日本人で初めて地球を一周して帰国したことで知られる人物です。幕府の洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などの軍備を推進した中心人物でしたが、幕末に新政府軍に捕えられ斬首されました。

幕末の動乱の中では最も評価の高かった幕臣のひとりであり、大鳥圭介、大隈重信など明治の元勲はこぞって小栗を絶賛しています。また東郷平八郎は「日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗氏のお陰であることが大きい」と評しました。作家の司馬遼太郎さんは、小栗のことを「明治の父」とまで記しています。

幕末には、江戸幕府の財政再建や軍備の増強をフランス公使レオン・ロッシュに依頼しており、その関係もあってヴェルニーとも親交がありました。ヴェルニーとともに式典の対象となっているのはそのためのようですが、横須賀造船所、製鉄所の造営など横須賀の発展に寄与したためでもあります。

この小栗についてはまた別の機会にじっくり書いてみたいと思いますが、今日は、横須賀発展のもう一人の立役者、ヴェルニーのほうのことを少しく書いておきましょう。

1837年、フランス中部のオーブナ、というところで製紙工場を経営する父の元に生まれました。5男2女の兄弟の三男であり、就学年齢の8歳になるとこの町で神父が経営するコレージュ(日本の小6から中3に相当)に通ったあと、16歳でリヨンの名門校リセ・アンペリアルに入学。2学年次には数学で学年1位をとっており、成績はまずまずだったようです。

19歳でかねて志望していた、フランスの理工系エリート(テクノクラート)養成のための高等教育機関、エコール・ポリテクニークへ入学。トップクラス、というわけでもなく、そこそこの成績で卒業したようで、続いて海軍造船工学学校への入学を許されました。

卒業後、フランスの最西端、ブルターニュ半島の西端に位置するブレスト造兵廠に着任し、造船・製鉄・艦船修理など多岐にわたる業務に従事するようになります。

これより少し前、フランスは、清輸入量超過や外国人排斥に源を発して、清国との戦争、アヘン戦争、アロー戦争を引き続き起こしており、最終的に北京条約で終結し、清の半植民地化が決定的なものとなっていました。

1860年の北京条約の締結後も清では戦闘が続いていたため、フランス海軍は寧波(ニンポー)で造船所やドックを建設し、小型の砲艦を建造する事を決めました。このとき、その建造監督への就任の命が下ったのがブレスト造兵廠に入ったばかりのヴェルニーであり、彼はこれを受諾し、1862年に上海に向かいました。

寧波に着くと同地の副領事に任命され、造船所や倉庫、ドックを建設して1864年には予定の4隻の砲艦全てを竣工させるなど手柄をたてました。この功績により、翌年ヴェルニーは、レジオンドヌール勲章を受章しています。こうしたことをみると、学校の成績はたいしたことはないものの、実務には長けていた人であったことがわかります。

上述のとおり、この当時の江戸幕府は、小栗忠順などに命じて軍備の近代化を図ろうとしており、薩摩や長州が主としてイギリスに援助を求めたのに対抗して、フランスの協力による近代的な造兵廠の建設を決定しました。

そして、フランス側の担当者だった提督・バンジャマン・ジョレスにそれを伝えたところフランスはこれを快諾し、彼の命により、日本に派遣されてきたのがヴェルニーでした。フランスにすればこれを契機に幕末の動乱に介入し、あわよくば清国のように日本を植民地にしようと考えていたことは間違いないでしょう。

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それはともかく、フランス政府から日本に最新技術を伝えてやってくれと言われ、技術者として自信をつけていたヴェルニーは、意気揚々と日本にやってきまし。1865年1月に江戸に到着すると、早速、江戸近辺に依頼された造兵廠の候補地を探し始めます。

造船所や製鉄所などの建設予定地としては、波浪の影響を受けにくい入り江であること、艦船の停泊に十分な広さと深さを備えていることなどが第一条件でしたが、その結果として選ばれたのが横須賀でした。

地図を見てもらえばすぐにわかるのですが、横須賀のある三浦半島というのは、東京湾の湾口を形成する半島であり、そのすぐ前を対岸の富津との間にある狭隘な浦賀水道が通り、そこを通る船舶をその位置から直接砲撃できるというメリットがまずあります。

かつて、幕臣の江川英龍が、三浦半島に砲台を築いて防衛線とすることを幕府に提言しましたが、このとき、幕府は台場を造ることに固執したため、それを見送りました。しかし東京湾奥部の台場よりも狭隘な浦賀水道に面するこの位置に第一防衛線を敷くことの方がメリットがあることは一目瞭然であり、ヴェルニーもそこに目をつけました。

加えて三浦半島の最上部の北側に位置することから台風などの影響も受けにくく、しかも前面の水深が深いために大型の艦船が停泊しやすいという特徴があります。このため、明治後には三浦半島は国防上の要衝地とされ、横須賀には横須賀鎮守府が設置され、日本海軍の本籍地となりました。

また、太平洋戦争の末期には、アメリカ軍の本土上陸に備えて沿岸陣地も築かれ、現在もアメリカ海軍第7艦隊横須賀海軍施設および海上自衛隊および陸上自衛隊などの基地が置かれています。

ヴェルニーは、中国の寧波でこうした海軍施設を建設した経験から、その当時の建設資料も持参してきており、これを参考にまず、造兵廠の建設原案を作成し、見積りとともに、駐日公使のレオン・ロッシュに提出しました。

その計画書には、4年間で製鉄所1ヶ所、艦船の修理所2ヶ所、造船所3ヶ所、武器庫および宿舎などを建設し、予算は総額240万ドルと記載されていました。これは現在価値にすると、1000億円くらいであり、かなり大きな規模であることがわかります。来たる東京オリンピックの予算は全施設で4000億円ですから、その4分の1です。

しかし、国内における動乱や相次ぐ列強からの強迫におびえていた幕府はこれを飲み、幕府に交渉を命じられていた、沼津藩主、水野忠誠と越前敦賀藩主、酒井忠毗が約定書に連署して建設が正式に決まりました。これを受け、ヴェルニーは、建設に必要な物品の購入やフランス人技術者を手配するため、一旦日本を発ちフランスに一時帰国しました。

おそらくこの同時期に、前述の幕臣、肥田浜五郎もオランダ・フランスに派遣され、ヴェルニーとともに、新造船所に必要な機材の調達をともに行ったものと考えられます。しかし肥田は帰国後この横須賀造兵廠の建設には関わらず、1868年(慶応4年)に軍艦役に就任し、のちに軍艦頭(司令長官)に昇進して戊辰戦争を戦っています。

一方のヴェルニーは、1866年3月にまず、建設にあたるフランス人技術者たちの住宅の建設を行うための担当者を先に日本に派遣しました。その後、資材を調達してヴェルニー自身もマルセイユを出発し、6月に再び横浜に到着しました。

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その後、横須賀ではフランス人達が驚くほどのスピードで造成が進められ、入り江が埋め立てられ山が切り崩されました。ヴェルニーは責任者として建設工事を統率し、40数名のフランス人技術者に指示を出していたといわれています。

こうしてフランス人住宅や警固の詰所、各種工場や馬小屋、日本人技術者養成のための技術学校などの各種施設が次々と建設されていきました。そんな中、ヴェルニーは、1867年3月に上海に渡り、上海領事だったモンモラン子爵の娘・マリーと4月22日に結婚式を挙げています。

ところが時代はそろそろ幕末の動乱の時期に入っていきます。1868年に戊辰戦争が勃発し、この年の3月には新政府軍が箱根まで進出してきたため、ヴェルニー達フランス人には、横浜居留地へ退去するよう指示が出ました。が、ヴェルニーは「たかが政治動乱のために、事業中断はできない」として通報艇を待機させながら横須賀にとどまりました。

ヴェルニーはフランス海軍に所属していましたが、軍人というよりは、技術者であり、どうも新政府軍と幕府軍の戦いを軽く見ていたようなきらいがあります。とまれ、結果的には建設中の施設が攻撃を受けるようなことはありませんでした。が、侵攻してきた新政府軍によって、ほとんど完成間近だった、横須賀製鉄所は接収されてしまいます。

この時点までに用した経費は予定の240万ドルに対して、150万ドル超にのぼっていました。予定通り完成させるためには、さらに80万ドル以上が必要でしたが、予算難の新政府はヴェルニーらお雇いフランス人の解雇と工事の中断を検討しました。しかし、結局、フランス公使・ウートレらの反対によって建設の継続が決まっています。

一方、明治新政府は、金がないないといいながらも、諸外国との貿易の拡大のためにも海運業の振興は不可欠と考えており、新たな港湾の開発などには金を惜しみませんでした。

それまでも幕府が締結した日米修好通商条約により、函館、横浜、新潟、神戸、長崎の5港が開港していましたが、明治時代を迎えると横浜や函館、小樽などの港町が急速に発展させ、兵庫津・大輪田泊の歴史を継承する神戸は、東洋最大の貿易港になりました。が、これらの港に入る外国船は口々に日本の海は灯台がないので危険だと言い張りました。

日本近海は暗礁も多い上、光達距離の短い灯明台や常夜灯の設置のみで航路標識の体系的な整備が行われていませんでした。そのため諸外国から「ダークシー」と呼ばれて恐れられていました。

このため、幕末の1866年に江戸幕府がアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ江戸条約、および1867年4月にイギリスと結んだ大坂約定で合計13の灯台を建設することが決まっていいましたが、明治維新による政権交代のため着工が遅れていました。

新政府になってからもその条約は有効であったことから、その設計・建設は明治政府が継承しましたが、新政府もまた貿易振興のために灯台は必要だと考えており、その建設は前向きでした。そしてこのとき、それを任されたのが、ヴェルニーや、リチャード・ヘンリー・ブラントンといったお雇い外国人でした。

ヴェルニーはこのとき、観音崎灯台の建設を新政府から依頼され、このため横須賀海軍工廠以外にも灯台建設に携わることになりました。こうして灯台用機械をフランスから取り寄せ、建設にとりかかったのが日本最初の洋式灯台である「観音崎灯台」です。

もっとも、ヴェルニー自身は直接手を下さず、灯台の建設はもっぱら専門家である、ルイ・フェリックス・フロランという専門家をフランスから招いて、彼に建設を命じました。観音崎灯台は、1869年(明治2年)2月11日に点灯しましたが、着工が開始された1868年(明治元年)11月1日が現在、「灯台記念日」となっています。

このほか、ヴェルニーは、東京周辺で観音埼灯台、野島埼灯台、品川灯台、城ヶ島灯台の建設にも関わりました。各灯台はその後、関東震災で壊れるなどしてヴェルニーの携わったそのままの姿は失われました。そのうち品川灯台だけは、この当時のものが博物館明治村に移築され現存しています。

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一方の横須賀製鉄所は1871年に完成し、この年、それまで幕府施設として既にあった「横須賀造船所」の名前を踏襲してその名に改名されました。そして、この年9月に、前述の肥田浜五郎が初代の横須賀造船所長として横須賀に赴任してきました。肥田とはかつてフランスでも一緒に機材の調達を行っており、浅からぬ縁があったといえます。

こうして新造船所で、ヴェルニーが指導して肥田が造船したのが、1872年に進水した「蒼龍」です。内海専用の御召艦として建造されたもので、198トンの木造外車汽船(帆走併用)でした。この船は、維新後初の国産艦といえるものですが、ヴェルニーの指導により完成したということで、その意味では純粋に国産技術で完成されたものとはいえませんでした。

しかし、その3年後1875年に進水した、「清輝」は、設計から施工まですべて日本人技術者の手によって完成したものであり、実質、明治維新後の初めての国産軍艦といえるものです。その進水式には明治天皇も臨席し、1878年(明治11年)から翌年にかけては、日本艦船として初めてヨーロッパへ遠征した、という記念すべき艦です。

このように、ヴェルニーが手がけた横須賀造船所のスタートは上々でしたが、ちょうどこの船の建造中のころから、ヴェルニーの高給は新政府にとってネックとなりつつありました。このため、明治政府はフランス公使・サン=カンタン伯爵と交渉して解任を取り付け、1876年にヴェルニーはお雇い外国人の職を正式に解嘱されました。

しかし、それまでの功績から、解任直前の1875年12月には、海軍中将の川村純義の斡旋で明治天皇の謁見を受けたほか、翌年1月の退任の際には、浜離宮内にあった迎賓館、延遼館(解体されて現存しない)で送別の宴が催されました。このときは、内大臣、三条実美も出席し、直々にヴェルニーに書棚と花瓶が贈られました。

そして、同年2月、それまでの12年間の滞在をまとめた報告書を政府に提出したのち、3月に家族とともに横浜港からフランスへ向けて帰国しました。

フランス帰国後は、海軍造船工学学校での教授職などを模索しましたが実現せず、ローヌ県の海軍工廠でしばらく監督業務を務めた後海軍を退職し、1876年からは、サン=テティエンヌ近郊の炭鉱の所長となりました。フランスの東部の都市でフランス最初の鉄道が開業した町と知られており、鉄道敷設の目的も鉱山で採掘された鉱石を輸送するためでした。

その後、サン=テティエンヌ商工会議所の幹事を務め、鉱山学校の設立などに携わるなど地域の振興にも努めていましたが、1895年に炭鉱の仕事を辞して、故郷のオーブナに戻り、かねてここに購入していた家で、1908年5月2日、肺炎のため死去しました。満70歳没。

日仏修好通商条約から数えて国交開始150周年となる2008年には、この年発売された日仏両国の代表的な人物の記念切手「幕末シリーズ」の10人のうちの一人に選ばれました。

なお、ヴェルニーと妻の間には、日本滞在中に生まれた1男2女がありましたが、彼らがその後日本に帰ってきたという記録はありません。が、2006年にヴェルニーのひ孫の、ジョージ・ヴェルニー(George Verny)が、横須賀を訪れ、曾祖父の築いた造船所跡地などを視察しています。

このとき、ひ孫のジョージは、父の威光を知るためには、ここへ来ることがどうしても必要だった、と述べ、帰国後その業績を6人の子供たちに語って聞かせる、という談話を残して帰国しています。

横須賀のヴェルニー公園の中央には、約2000本のバラが植栽されており、いまちょうど見ごろを迎えているころのはずです。一度訪れてみてはいかかでしょうか。

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神奈川県の丹沢の山麓に、相模川という大きな川が流れています。

実は、富士五湖の一つでもある山中湖が水源です。富士山北麓の水を集めながらまず北西に流れ、富士吉田、都留市を経て大月で流路を東に変えながら、神奈川県の相模湖と津久井湖に至ります。この2つのダム湖を経て、ゆるやかに進路を変え、厚木市からは、神奈川県中部を貫き平塚市・茅ヶ崎市あたりで相模湾に注ぎます。

その昔、この近くの多摩西部に住んでいたので、ここへはよく行きました。ひとりで散歩をすることも多く、その豊かな自然と風景は、煩雑で殺風景な日常の中にあって、いつも心を和ませてくれました。

まだ先妻が元気だったころには、小さかった息子を連れて3人でよく遊びに行きました。河原に出て、息子と一緒に水遊びをする傍ら、家内が河原で変わった形の石ころを探す、というのがお決まりのパターンで、その日にうちに帰ると、彼女が持ち帰ったヘンな形の石が家中にゴロゴロしていた、といったことが妙に懐かしく思い出されます。

この河原では、息子とともに「石切り」もよくやりました。私は子供のころからこれが得意で、アンダースローで投げると、10連発以上も跳ねさせることもごく普通でした。が、息子君のほうはあまり得意でないようで、何度教えてやってもなかなかうまくいかず、せいぜい5発どまりだったでしょうか。しまいにはいつもご機嫌を損ねていました。

数えてみると、あれから15年近くが経っており、こうしたことを、伊豆の空の下で思い出していることが不思議です。思えば遠くへきたもんだ……

この「石切り」を子供のころにやったことがある、という人は多いでしょう。「水切り」ともいい、水面に向かって回転をかけた石を投げて水面で石を跳ねさせる遊びです。その回数を競ったりすることもあります。ほかにも、石投げ、跳ね石、石飛ばし、飛び石、と呼んだりもします。

「ちょうま」と呼ぶこともあり、これは「跳馬」から来ているのでしょう。このほか、どこの地方か知りませんが、チャラ、チチッコ、ちょんぎり、ちょっぴん、というのもあるようです。

この水切りは簡単に誰にでも出来る遊びとして日本各地で行われており、競技大会などが行われることもあるようです。埼玉の熊谷市などには、同好会的な組織があるようです。ここには、すぐ近くに利根川があるためでしょう。

日本だけでなく、世界中で親しまれている遊びです。アメリカでの呼称はStone skippingであり、こちらでも競技会はさかんです。数々のギネス記録も出ており、2008年現在のギネス世界記録は、2013年9月6日にアメリカのクルト·シュタイナ(Kurt Steiner)が記録した88段のようです。

日本記録はよくわかりませんが、かつてプロ野球のロッテで活躍した、渡辺俊介選手が出した51段という記録があるようです。世界一低いと言われるアンダースローが特徴で、その昔は「ミスターサブマリン」とよばれていました。

現在は、米独立リーグのランカスター・バーンストーマーズに所属しているということなので、あちらでの大会に出て出した記録かもしれません。このほか、調べてみると石切りにハマっている人は結構多いようです。多くの人が同好会などのHPを立ち上げているので、ご興味のある方は参加してみてはどうでしょう。

超高速度カメラやコンピュータを使い、水切りを科学的に分析した結果によると、よく跳ねるための水面との角度は、前面が10°浮き上がった状態が最もよいのだとか。また、石自体が高速回転していることが大切で、回転が遅いと早く水没してしまうそうです。

また、石の形は、平型、かまぼこ型、レンズ型などがよいとのことで、計算上はレンズ型が最も適しているというデータもあるようです。近くに水辺があったら、そうした石を集めてトライしてみてください。

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この水切りの原理を、戦争兵器に応用したものがあります。「反跳爆弾」と呼ばれるもので、第二次世界大戦中にイギリスが開発した「ダムバスターズ」が有名です。「ダム」がついていることから、ダムを破壊するような特殊な爆弾であることは想像に難くありません。

チャスタイズ作戦(Operation Chastise)という、イギリス空軍による、ドイツ工業地帯のダムの破壊を目的として開発されました。第二次世界大戦中の1943年に実行されたこの作戦は成功し、作戦後、同中隊もまた「ダムバスターズ」として知られるようになりました。こちらは「ダム攻撃隊」といった意味です。

イギリス空軍は、第二次大戦前から、ドイツの水力発電ダムを攻撃することの重要性を認識していました。ドイツ西部のルール地方に、ルール工業地帯というのがあり、これは、ルール川下流域に広がる面積4,435平方キロのドイツでも最大級の大都市圏で、現在の人口はおよそ520万人です。かつては重工業地帯として、ドイツの産業を牽引した地方でした。

19世紀にルール地方各地で石炭が掘られるようになり、この石炭は主にコークスに加工され、そのコークスを利用して高炉で製鉄が行われ、さらに鋼や各種鉄製品に加工されました。ルール地方各地で、炭坑、コークス工場、製鉄所、さらには鉄を加工する工場が発展し、こうして、ドイツ屈指の重工業地域が形成されました。

しかし、その産業を支えるためには豊富な電力が必要となります。このため、ルール川上流には、エーデル・ダムなどの数々の巨大ダムが建設されました。ここにある水力発電施設を破壊すれば、ドイツの電力需要には大きな影響が及ぶに違いありません。

またダム本体を破壊して洪水を起こせば、下流の工業地帯、都市部を流れる運河へもこの水は流れ込み、大きな影響を及ぼすことが予想されます。

しかし、ドイツ側もこれらのダムの重要性はよくわかっており、連合国側にこれを破壊されないよう、ダム湖には、魚雷による攻撃を防ぐための魚雷防御網などがはりめぐらされていました。さらには、ダム上空には哨戒機を飛ばして敵の侵入を厳重に警戒しており、その破壊は容易ではないことが予想されました。

ただ、この防衛網にはひとつ弱点がありました。ドイツは、魚雷を警戒してダムのすぐ直上流には魚雷防御網を設置しましたが、ダムから遠く離れたさらに上流には鋲魚網はありません。この位置から魚雷を投入すれば、あるいはダムを破壊できるかもしれません。

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しかし、ダム湖というのは、そこに流入する河川の水深は上流になればなるほど、浅くなります。ある程度の深度が必要となる魚雷はこうした浅い水深では放てません。

また、ダムを破壊するためには大量の爆薬が必要となり、そのためには魚雷は重くならざるを得ません。上流遠くからダムを破壊するとなるとこの重い爆弾を遠距離飛ばす必要があり、しかも高い命中精度が求められます。

そこで考え出されたのが、跳水爆弾(反跳爆弾)です。これに先立つ19世紀の英国海軍は、砲弾が水面で跳躍することで射程が伸びることを知り、この技術を港湾防御用の砲などに利用し、近づく敵艦への攻撃用に用いていました。

また、17世紀に活躍したフランスの建築家で要塞攻略の名手としても知られた軍人、セバスティアン・ル・プレストルは、要塞を攻めるために、「跳飛射撃」を活用していました。これは、砲弾を地面で跳弾させ多数の敵を殺傷する射撃法です。

イギリスのギリスの科学者で技術者の「バーンズ・ウォリス」は、これらにヒントを得て反跳爆弾を思いつき、1942年に、「球体爆弾-水面魚雷(Spherical Bomb-Surface Torpedo)」という論文を発表しました。

ウォリスはイギリス、ダービーシャー州で1887年に医師の息子として生まれました。最初、海洋エンジニアリング会社で最初に勤務しましたが、のちに飛行機技術者に転向し、航空機等の重工業メーカー、ビッカース社で、飛行船や航空機の設計を担うようになりました。

第二次世界大戦が始まった1939年ころは、ビッカース航空部に所属して、アシスタントチーフデザイナーとして活躍していましたが、上述の水面魚雷は、軍部からの依頼を受け、特別業務として研究していたものです。

その後、この論文を読んだ軍が再度、これをドイツのダム攻撃使えないかと打診してきたことから、論文内容を再検討し直しました。そして軍上層部に出された報告書が、「ダムに対する爆撃(Air Attack on Dams)」であり、これが認められ、この計画はビッカース社の主導で進められることが決定しました。

ウォーリスの本業は、航空機の設計士であり、このとき「ビッカース・ウォーリス」という爆撃機を開発していましたが、社命によりその業務の傍ら、こうしてダムに対するこの爆弾の開発に着手することになります。

研究を始めた当初、ウォーリスは10トンの爆弾を高度40,000フィート(約12,192m)から投下するつもりでした。が、この当時その重量の爆弾を搭載できる爆撃機はありませんでした。

さらに、上述のとおり、主要なドイツのダムは、魚雷による攻撃を防ぐために魚雷防御網によって守られていました。そこでウォーリスは、ダムの上流に近い水面からドラム缶型の爆弾を落とし、これを水面を水切りの原理によって飛び跳ねさせた後にダムに着弾させることを思いつきます。

しかし、重い爆弾を水切りのように水面を跳ねさせながら射程を延伸し、魚雷防御網を飛び越えつつ、ピンポイントでダム付近で爆発させるということは簡単ではありません。しかもダムを破壊するためには、水上ではなく水中で爆発させることが必要でした。

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このころまでにドイツ軍は、フランスを含むヨーロッパ東部のほとんどすべてと、スカンジナビア半島を掌握し、ソ連にまで侵攻しようとしており、連合国側でドイツの直接的な侵攻を受けていないのは、唯一イギリスとアイスランドだけ、といったふうで、戦況は待ったなしでした。

イギリス空軍は、この劣勢を挽回するべく、なんとか痛烈な打撃をドイツ軍に与えたいと考え、早期のこの爆弾の完成を願いました。このため、ビッカース社にその開発を急ぐよう催促しました。社のほうもその期待を一身に受け、ウォーリスを中心に不眠不休でその開発を急ぎます。

そしてようやく完成させたのが、「ヴィッカーズ・タイプ464」でした。コードネーム、アップキープ(Upkeep)、正式名称「Upkeep store」と呼ばれるこの爆弾は、水圧感応型信管によって水深30フィート(9.1m)で爆発するようにセットされ、水圧感応型信管が作動しなかった場合に備えて、化学式時限信管も取り付けられました。

爆弾の形状は、長さ60インチ(152cm)、直径56インチ(142cm)の円筒状で、爆撃機からの投下前に毎分500回転のバックスピンがかけられる電動装置も同時に開発されました。

この高速で回転する爆弾を、60フィート(18m)という超低高度から放り投げ、その初速386〜402km/hで落ちた爆弾は、水面に達すると、その上を跳ねながら魚雷防御網を飛び越え、距離4~500ヤード(365〜457m)先のダム手前に到達します。

爆弾重量は9,250ポンド(4,200kg)あり、そこに詰められた「トーペックス」という火薬は、イギリス王立兵器工廠で魚雷、爆雷用として開発された高性能爆薬であり、とくに水面下での破壊力に定評がありました。

Bouncing_bomb_dam

爆弾は、機体の下部に2本の支柱で取り付け、投下時に補助電動機によって回転させます。これをダム上流に近づき、上空18mから時速390kmで放り投げて目標に着弾させるのですが、予定通りにスキップさせるためには、熟練した搭乗員が必要になります。

しかも敵の不意を突くためには、闇夜に乗じての攻撃が望ましく、こうした攻撃の成功率を高めるためには、夜間低空飛行訓練による高い錬度が求められました。しかし、ほかにも2つの技術的問題の解決が必要となりました。

一つ目は、機体と標的との正確な距離を知ることでした。ダムというものには、たいてい湖面の監視のための塔があります。

このため、その塔と照準装置の角度を調節することにより、爆弾投下のタイミングを計ることができると考えられ、このため目標とするダム毎にその塔の位置情報が秘密裡に集められ、投擲場所に関する細かい侵入位置、角度などが計算されました。

2つ目の問題は、機体の正確な高度を知るのが、当時の高度計では困難なことでした。そこで、機首と胴体にそれぞれスポットライトを取り付け、2本の光線が機体の下18mで交わるようしました。照射光を水面で重なり合わせることによって、機体高度を知ることができます。

こうして、搭乗予定員たちは、イギリス中央部のレスターシャー州やダービーシャー州に数多くあるダム湖上空で、これらの課題を咀嚼すべく、猛烈な投擲訓練を行いました。その結果、投擲された爆弾の命中精度は格段に上がりました。軍上層部もこれを高く評価し、こうして新型爆弾を用いた実際の攻撃が決定されました。

そして、その実施は、ダムの水位が一番高い5月に予定されました。この任務を担う部隊は新たに構成され、イギリス空軍第5爆撃機集団という名称が与えられました。当初「X中隊」と呼ばれ、170以上の戦歴をもつガイ・ギブソン中佐が隊長となり、当初、21人の搭乗員があちこちの爆撃機集団から中隊に選ばれました。

この計画における標的としては、ルール工業地帯における最大級のダムである、重力式ダムのメーネ・ダムとエーデル・ダム、そしてロックフィルのゾルペ・ダムなどが選ばれました。そして目標がはっきりと定まるとさらに追加の搭乗員が選ばれ、最終的には130人を超える乗員が集められました。

中隊は3つの梯団に分けられ、このうちの第1波の第1梯団が主力で、メーネ・ダムへの攻撃のほか、残りの爆弾でエーデル・ダムを攻撃します。また、第2梯団はゾルペ・ダムを攻撃。第3編隊は予備兵力として、2時間遅れて離陸し、その他のルール川上流にある、エンペネ、シュウェルム、ディエムなどの小さなダムを破壊することが決まりました。

使用する爆撃機は、アブロ社が開発した4基のエンジンをもつ「アブロ ランカスタ」で、これはイギリス空軍以外でも、カナダなど他の連合国でも使用された主力重爆撃機です。特にドイツに対する夜間の戦略爆撃で活躍しました。爆弾を搭載するために背部銃塔などの武装は撤去されたほか、爆弾倉扉は取り外されるなどの軽量化が図られました。

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爆弾はこの年、1942年5月13日に中隊に届けられました。天候報告の後、パイロット、爆撃手及び航法士には正式に最終目標が知らされました。中隊は、第1梯団として9機、第2梯団に5機、第3梯団に5機でそれぞれ構成されました。

また作戦室は、爆撃機の母港である、グレートブリテン島東部、リンカンシャー州にあるグランサムの第5爆撃機集団の飛行場本部に設置されました。

こうして、5月13日夕刻、グランサムを飛び立った中隊はドイツ軍のレーダー探知を避けるため、海上を70フィートから120フィート(21~37m)という超低空飛行で飛び続け、ドイツを目指しました。

ヨーロッパ大陸上空に到達後は、中隊を3つに分け、第1梯団は遠回りしてドイツ西北のオランダ側から近づき、ドイツが設置した高射砲を避けるとともに、敵の空軍基地をできるだけ避けつつ、着実にルール地方に向かいました。

一方、第2梯団もこれとは違ったルートでオランダ国内に入り、同国最大の内湾、エイセル湖付近で、先に行っていた第1波と合流しようとしました。ところが、第2梯団は、オランダ上空到達直後、ドイツ軍に発見され、手荒い高射砲の洗礼を受けます。

このため飛行高度が下げて対応しようとしたことから、爆弾を水中に落としてしまう機や、海岸線到達後に墜落する機が相次ぎ、結局、第2梯団内で、オランダ上空からドイツ国内の侵入に成功したのは5機のうち、1機だけでした。しかし、航続の第3梯団5機は敵の高射砲網をくぐり抜け、ドイツへの潜入に成功しました。

こうして、第1波の第一梯団は、オランダ上空で1機を失ったものの、残りの全8機が第1目標のメーネ・ダム上空に殺到しました。そして、まずはそのうち、1機が投擲に成功。ところが、次の一機が放った爆弾は、胸壁を飛び越して発電施設を爆砕してしまった上、自らも対空砲火を受け墜落。

しかし、さらに3機目が投下した爆弾は無事着水し、あと、4機目、5機目も投擲に成功しました。これらの一連の攻撃のうち、2発が見事にころがるようにダム湖上をスキップし、メーネ・ダムの中央部を直撃したため、ダムは轟音を立てて決壊しました。

第一梯団の残る4機も、続いて次の攻撃目標であるエーデル・ダムへ向かいます。しかし、このとき、エーデル・ダム周辺は深い霧に覆われており、接近は困難でした。このため、最初に爆弾を投下された爆弾は、ダムの真上に落ちてしまいました。

しかし、その後2機が上流側からの投下に成功し、そのうち1発がヒットし、これにより、エーデル・ダムも崩壊されました。

一方、オランダ上空でドイツ軍の高射砲により大きな被害を受けた第2梯団のうち、生き残った一機は、単独でゾルペ・ダム上空に到着します。そして、爆弾の投下に成功しますが、ダムの破壊には失敗しました。

さらには、残る第3梯団が現場に到着しましたが、その途中までに2機がオランダとドイツ国境付近やドイツ上空で撃墜され、さらにもう1機は濃霧のために方向を見失い、現場に到着できませんでした。しかし、残る2機がさらに濃くなった霧の中でも爆弾を投下することに成功。ただ、これもダムの破壊には至りませんでした。

結局、このダム攻撃に向かった19機のうち、爆弾の投下までこぎつけたのは半数以上の11機にのぼりましたが、うち4機はダム湖以外の場所に投下してしまいました。しかし、少なくとも7機はダム湖への投下に成功しました。

とはいえ、そのうち、ダムを直撃し、壊滅的なダメージを与えたのはメーネ・ダム、エーデル・ダムへのそれぞれ1発づつにすぎず、ダムの破壊に成功したとはいえ、イギリス空軍の勝利はかなり危ういものだったといえます。

また、目標へ到達して爆弾を投下したものの、帰りのフライトで撃墜された機も3機あり、結局、この作戦により、搭乗員133名中53名が死亡し、3名が脱出して捕虜となりました。

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しかし、その尊い犠牲により、この作戦により決壊したダムからは、3億3千万トンに達する水が下流のルール峡谷一帯に流れ出し、ダム下流域80kmにわたって被害を及ぼす水害を引き起こしました。

ルール川の下流の渓谷を毎時15マイル(毎時24キロ)で襲ったこの洪水は、いくつかの鉱山を浸水させたほか、114の軍需工場と971の家屋を崩壊させ、25の道路や鉄道、橋梁を冠水させました。

破壊された2つのダムの発電所からは5100キロワット相当の電力が失われ、ドイツの軍用発電設備にも大きな影響を与えたほか、その後2週間に渡って地域の工場や多くの家庭での電力損失をもたらしました。さらにこの地域が石炭生産地であったことから、その生産量はこの時期40万トンも減ったとされます。

人的被害としては、エーデル・ダム下流で、少なくとも1,650人が死亡したほか、メーネダム下流でも1,026もの遺体が発見されたと記録されています。下流にあったネーハイムという町には、ソ連から強制労働で連れてこられた女性のうち、800人以上が亡くなったという記録もあり、ドイツ人以外の外国人の被害も少なくなかったようです。

この攻撃の成功が、その後のドイツとの戦争に与えた影響については諸説あり、その後ドイツがソ連に侵攻したあとスターリングラードで大敗を喫したり、イタリア戦線での後退を余儀なくされていった遠因を作った、とする説などもあるようです。

また、イギリス軍はダムが破壊された写真を街中で貼り出して反ドイツのプロパガンダとして使っており、こうした心理面での影響も大きかったのではないかとされています。

しかし、ドイツ側の記録によれば、その後の復旧により、すぐに電力は回復し、フル稼働で電力を生産できるようになった結果、ルール地方の工業生産にはほとんど影響がなかったと発表しています。

戦時のことでもあり、これらが事実かどうかはわかりませんが、流域住民が大きな被害を被ったことはドイツ国内でも知れ渡っていたであろうし、イギリスが目論んだように、その成功を喧伝することによって多くのドイツ国民が戦意を喪失するなどの効果はある程度あったと考えられます。

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帰還した兵下たちのうち、33名の搭乗員はその翌月の6月に、バッキンガム宮殿勲章を授けられ、また、隊長ガイ・ギブソンはビクトリア十字勲章を授与されています。また、中隊にもバッジが与えられ、これには決壊したダムの意匠の上にフランス語で、「Après moi le déluge大洪水よ、我に続け(ルイ15世の言葉)」と記されていました。

当初X中隊と呼ばれたこの飛行中隊は、その後「第617飛行中隊」の正式名称が与えられ、その後も爆撃のスペシャリスト集団として維持されることとなりました。

反跳爆弾を開発したウォーリスは、その後さらにトールボーイ、グランドスラムといった大型爆弾を完成させており、同中隊はその後、これらを終戦までドイツやイタリアに落とし続けました。現在も第617飛行中隊は現役部隊として活躍中です。

しかし、反跳爆弾については、その後太平洋において日本の艦船に対して使用しようという計画があったものの、結局、その後日本が無条件降伏を受け入れたことから使用されることはありませんでした。

チャスイタイズ作戦の終了後、全てのアップキープ爆弾は処分され、コンクリートが詰められた爆弾は試験や爆撃訓練に用いられた後、ほとんどが廃棄され、ごく少数が展示のために残されているだけです。なお、ニューヨーク近くのヨークシャー航空博物館には、反跳爆弾とそれを放出するカタパルトを含むレプリカの展示物があるとのことです。

チャスイタイズ作戦の存在についても、戦後、長らく国家機密となっていましたが、イギリス公文書の「30年規則」が終了した1974年1月に公開されました。

一方、これを開発したバーンズ・ウォリスは、戦後、1954年に王立協会のフェローとなり、1968年にナイト爵に叙されるなど、チャスタイズ作戦の功績も含めてそれ以後の業績も高く評価されました。

1960年代には、潜水艦を貨物船と利用し、海上の気象条件に左右されることなく、石油などの物資を輸送する、といった奇抜なアイデアの計画などにも携わりましたが、これは実現しませんでした。

さらに民間に下り、1971年まで英国航空機製造会社で航空研究開発を主導しましたが、ここでは超音速機の開発などにも携わりました。退職後の1979年10月30日に92歳で死去。

ウォリスと妻のモリーは従妹同士だったと伝えられています。ファミリーパーティで二人が出会ったとき、彼女は17歳、彼は35でした。彼女の父親は当初、彼等の交際を禁じましたがやがて許し、彼女が20歳の誕生日に二人は結婚しました。

以後、彼が亡くなるまで54年間仲良く連れ添いましたが、モリーのほうが早く亡くなりました。今2人は、イングランド中西部、バーミンガム近郊のセントローレンス教会の墓地に仲良く眠っています。彼の墓碑銘には、ラテン語で、“Severed from the earth with fleeting wing”と書かれています。

これをどう解釈するかですが、fleeting は、儚い、あるいは、いつしか過ぎ行く、といった意味ですから、wing、翼を自分になぞらえたものと考えれば、「はかなき人生とともに、大地を離れる」と言った意味にでもなるでしょうか。90年以上も生きたのに……

なお、イギリス軍によって破壊された、エーデルダム・メーネダムは、終戦後、西ドイツ政府によって再建され、東西ドイツが統一された現在も現役で供用されています。

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