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精霊のころ

2014-47557月も終わりに近づいていますが、暑さがハンパではなく、夏が苦手な私は、いっそのこと7月とともにまとめて8月も終わってくれないか、と期待したりもしています。

が、かつて東京に住んでいたころのことを思えば、この程度の暑さは許容範囲です。昼間でもクーラーなしで仕事が十分できますし、夜ともなれば、扇風機のお世話にもならなくても済む時さえあります。

それにしても、喉元過ぎれば熱さを忘れる、とはよく言ったもので、これは、元々は、熱いものも、飲みこんでしまえばその熱さを忘れてしまう、という意味です。「暑さ」ではなく「熱さ」なわけですが、間違って「暑さ」だと思っている人も多いでしょう。

これはそもそも、苦しい経験も、過ぎ去ってしまえばその苦しさを忘れてしまう、あるいは苦しいときに助けてもらっても、楽になってしまえばその恩義を忘れてしまうという意味で使われることわざです。

そういえば、あのとき色々助けてもらったよな~という人はゴマンといますが、そうした人達へのお礼や恩返しもできずのままにいることを、こうしたときにふと思い出したりもします。

中にはお礼もできないままに亡くなってしまった人達もいて、恩義を返したくても返せないという状況に陥っています。こうした人達へは、もうすぐやってくるお盆のときにでも、お線香の一本もあげて、長年のご無沙汰をわびるとともに、かつての好意に感謝の念を示すのが一番なのでしょう。

お盆といえば、先祖の霊を祀るためのものであって、親戚縁者ではない人のために祈るものではないと思っているひとも多いかもしれませんが、そうではありません。恩義を与えてくれた人達というのは、おそらく何等かの形で前世から自分と関わってきた人達だと思います。

あるいは前世では親戚や縁者だったかもしれず、もしかしたら肉親だった場合もあります。たとえそうでなくても、魂レベルでは同じグループに属している人である可能性が高く、だとすれば、身内同様の人です。なので、お盆にこうした人達の供養を行うことはごく自然のことだと思います。

また、お盆というのは、そもそも「施餓鬼」のための風習として発祥したものです。これは、訓読すれば「餓鬼に施す」と読め、仏教用語であり、死後に餓鬼道、つまり地獄に堕ちた人のために食べ物を布施し、その霊を供養する儀礼を指します。

お釈迦様の十大弟子で神通第一と称され「目連尊者」という人が、神通力によって亡くなった母の行方を探すと、餓鬼道に落ち、肉は痩せ衰え骨ばかりで地獄のような苦しみを得ていたのを発見しました。

目連は神通力で母を供養しようとしましたが食べ物はおろか、水も燃えてしまい飲食できません。そこで目連尊者はお釈迦様に何とか母を救う手だてがないかたずねたところ、お釈迦様は「お前の母の罪はとても重い。生前は人に施さず自分勝手だったので餓鬼道に落ちたのだ。」といいました。

そして、「多くの僧が九十日間の雨季の修行を終える七月十五日に、餓鬼道に落ちた人々のためにご馳走を用意して経を読誦し、心から供養しなさい。」と言い、目連が早速その通りにすると、目連の母親は餓鬼の苦しみから救われました。

これがお盆の起源とされている故事です。さらに、餓鬼道にいる人々に飲食を施せば、その行為を行った人の寿命はのび、またいろいろな苦難も脱することができるとされ、これ以降、多くの寺院においてお盆の時期に施餓鬼が行われるようになったといわれます。

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従って、お盆のというのは、そもそも自分の先祖や親族のためだけをお祀りするといったエゴイスティックなものではなく、地獄に陥った亡者に代表されるような、あの世で苦しんでいる人を救うための行事です。

このため、当初はお盆といえば、餓鬼棚と呼ばれる棚を作り、先祖だけでなく道ばたに倒れた人などの霊も慰めるための風習だったようです。しかし、こうした風習が常識とされ、そのまま残っている地方もある反面、施餓鬼の風習が全くなくなったり、時代とともに先祖供養だけに変容していった地方もあり、全国的にみると、後者のほうが多いわけです。

棚を作って供養する、という行為自体も様々に変化しており、地方によっては、故人の霊魂がこの世とあの世を行き来するための乗り物として、「精霊馬」(しょうりょううま)と呼ばれるきゅうりやナスで作る動物を用意することがあります。

4本の麻幹あるいはマッチ棒、折った割り箸などを足に見立てて差し込み、馬、牛として仏壇まわりや精霊棚に供物とともに配すもので、きゅうりは足の速い馬に見立てられ、あの世から早く家に戻ってくるようにするためのものです。

また、ナスは歩みの遅い牛に見立てられ、この世からあの世に帰るのが少しでも遅くなるように、また、供物を牛に乗せてあの世へ持ち帰ってもらうとの願いがそれぞれ込められています。

このほか、おそらくもっともポピュラーなものは、「盆提灯」であり、お盆の時期になると、仏壇や門前にこの提灯を飾りますが、こちらもまたご先祖が自宅に帰ってきたときに、その場所を見つけやすいように、という配慮から出たもののようです。

お供え物も地方によって違いがあり、甲信越や東海地方では仏前に安倍川餅、北信州ではおやきをお供えする風習があります。長野県や新潟県の一部地域では、送り火、迎え火の時に独特の歌を口ずさむ習慣があるなど、受け継がれた地方独自の風習が見受けられます。

川に灯籠や船を流す、というもの悲しげな風習に変わった地方も多くあります。木組に和紙を貼り付けた灯篭を流す「灯篭流し」を行う地域はかなり多いようです。船のほうはどちらかといえば特殊な部類に入り、盛岡市などのように供物を乗せた数m程度の小舟に火をつけて流す「舟っこ流し」が行われる場合あります。

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灯籠と小船を合体させた「精霊流し」で有名なのが長崎です。長崎市を始め、長崎県内各地でお盆に行われる伝統行事で、隣の佐賀県の佐賀市や、熊本県の熊本市、御船町などにも同様の風習が見られます。

初盆を迎えた故人の家族らが、盆提灯や造花などで飾られた精霊船(しょうろうぶね)と呼ばれる船に故人の霊を乗せて運ぶというものです。初盆でない場合は精霊船は作らず、藁を束ねた小さな菰(こも)に花や果物などの供物を包んで流すそうです。

が、最近は環境への配慮から、海までは流さず、「流し場」と呼ばれる終着点までしか流dさないところも多く、海上に浮かべる場合でも必ず回収するようです。

また、私はこれを最初から川に流すのかと思っていたのですが、そうではなく、川に流す前に一度街を練り歩き、それから花火や爆竹を鳴らしまくった後に川に流すところが多いそうです。長崎県の、島原市、西海市、松浦市、五島市などもそのようで、現在でも川面や海上にこうした精霊船浮かべる風習があります。

ただし、長崎市では、江戸時代以前は実際に川から海へと流されていたようですが、1871年(明治4年)からは禁止されました。おそらくは火事予防のためだと思われますが、このため、市民が精霊船を持って行く場所として、「流し場」と呼ばれる場所を設け、ここを終着点として、人々は手でこの船を運ぶようになりました。

従って、この精霊船は水に浮かぶような構造にはなっておらず、大型のものは車輪をつけて「曳いて」運ぶそうです。長崎市民は、この精霊船に相当なお金をかけるそうで、これは東北などで盛んな「山車」を連想させる華美なものです。

この長崎市の精霊船は大きく2つに分けることができ、それは個人で造る精霊船と、「もやい船」と呼ばれる自治会など地縁組織が合同で出す船です。個人で精霊船を流すのが一般的になったのは、戦後のことだそうで、昭和30年代以前は「もやい船」が主流であり、個人で船を1艘造るのは、富裕層に限られていました。

しかし、最近はわりと安価に精霊船を作れるようになったことから個人でも作る人が増えました。昔から個人船、もやい船に限らず、「大きな船」「立派な船」を出すことが、ステータスと考えている人も多く、とくに「もやい船」に関しては、これを保有する自治会の「意地」に基づいて、その豪華さを競う傾向にあるようです。

こうした自治会で流す船のほかに、病院や葬祭業者が音頭を取り、流す船もあるそうで、このほか、人だけでなく、ペットのために流す個人船もあるといいます。

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この長崎市の精霊流しは毎年8月15日の夕刻から開催されます。午後5時頃から10時過ぎまでかかることも珍しくないため、多くの船は明かりが灯るように制作されています。
船の大きさは様々で、全長1~2メートル程度のものから、長いものでは船を何連も連ね20~50メートルに達するものまであります。

小型な船や一部の船では積まれる提灯にロウソクを用いるようですが、最近は振動により引火する危険があるため、電球を用いることも多いようです。また、数十メートルの大型な船では、発電機を搭載する大がかりな物もあるそうで、材質は木製のものが多いようですが、特に決まりはなく、チガヤや強化段ボールなどが利用される場合もあるようです。

また個人船には舳先に家紋や苗字が書かれ、もやい船の場合は町名が書かれています。「艦橋」に当たる部分には位牌と遺影、供花が飾られ、盆提灯で照らされ、仏画や「南無阿弥陀仏」の名号を書いた帆がつけられることもあります。

個人や自治会を象徴するためぶら下げられる「印灯篭」にもそれぞれ工夫が加えられ、もやい船の場合はその町のシンボル的なものがデザインされ、亀山社中跡がある自治会は坂本龍馬を描いているそうです。個人船の場合は家紋や故人の人柄を示すものが描かれ、将棋が好きだった人は将棋の駒、幼児の場合は好きだったアニメキャラなどが描かれます。

近年ではこうした印灯篭の「遊び心」が船本体にも影響を及ぼし、船の形をなしていない「変わり精霊船」も数多く見られるそうで、例えば故人がヨット好きだった場合はヨット型、バスの運転士の場合は、「西方浄土行」と書かれた方向幕を掲げたバス型である、などです。

長崎市の「流し場」は市内各地にあるようですが、代表的な流し場である長崎市の大波止には、大型の精霊船を解体する重機の用意まであるといいます。

流し場までの列は家紋入りの提灯を持った喪主や、町の提灯を持った責任者を先頭に、長い竿の先に趣向を凝らした灯篭をつけた「印灯篭」と呼ばれる目印を持った若者、鉦、その後に、揃いの白の法被で決めた大人が数人がかりで担ぐ精霊船が続きます。しかし「担ぐ」といっても船の下に車輪をつけたものが多く、実際には「曳く」ことが多いようです。

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昔から貿易港として栄え、中国なども多く入り込んでいた長崎らしく、この流し場までの精霊船の運搬は、爆竹の破裂音・鉦の音・掛け声が交錯する喧騒の中で行われます。この流し場までの道行で鳴らされる爆竹は、中国では「魔除け」の意味もあり、かつては精霊船が通る道を清めるための意味もあったようです。

ただ、近年ではその意味は薄れ、中国で問題になっている春節の爆竹と同様に、「とにかく派手に鳴らせばよい」という傾向が強まっているようで、数百個の爆竹を入れたダンボール箱に一度に点火して火柱が上がったりする等、危険な点火行為が問題視されているそうです。

時には観覧者を直撃することが多くあるため、ロケット花火の使用は禁止されていますが、お祭りごとの好きな長崎市民のことでもあり、度を過ぎることもあるため、大型の精霊船などでは事前に花火の取り扱い講習を受けさせ、「花火取扱責任者」を置くことなどが警察から指導される場合もあるようです。

長崎市には「長崎くんち」というお祭りがあり、この精霊船の造りはくんちの出し物の一つである曳物にも似ています。曳物は山車を引き回すことがパフォーマンスで行われており、精霊流しの際もそれを真似て精霊船を引き回すことが一部で行われています。

しかし、どこの地方でもこうしたお祭りの派手は行事はあまり好ましい行為と見られておらず、警察も精霊船を回す行為を取り巻くように見守っているといい、危険な行為に対しては制止を行うこともあるそうです・

この長崎市の精霊流しは、10月に行われる長崎くんちとともに、市民にとっては一大イベントであり、精霊流しが行なわれる時間帯は、長崎市中心部を始めとする各所で交通規制が行われ、バスや路面電車は経路を変更するまでして開催されます。

流し場に到着した精霊船は、家族、親類らにより、盆提灯や遺影、位牌など、家に持ち帰る品々が取り外され、船の担ぎ(曳き)手の合掌の中、その場で解体されますが、もやい船などは自治体が精霊船の処分を行います。

その解体の際に出るゴミの量はハンパではないため、長崎市では、精霊流しがの後の一定期間、一般家庭からの粗大ごみの搬入が停止されるそうです。

それほど、長崎市の人にとっては大変重要な行事です。1945年(昭和20年)8月9日の長崎市への原子爆弾投下の際には、多くの人が被爆からわずか6日後に行われるはずであった精霊流しを思い、死んでしまったら誰が自分の精霊船を出してくれるのだろうかと気に懸けながら亡くなっていったといいます。

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ところで、精霊流しといえばやはり、長崎出身の歌手「さだまさし」さんが作詞・作曲し、1974年(昭和49年)にリリースして大ヒットした、「精霊流し」を思い浮かべる人多いでしょう。

この曲は、さださん自身が、従兄の死に際して行われた精霊流しを題材にして創ったそうです。また、さださんは、2009年(平成21年)の暮れに父親を89歳で亡くしており、翌2010年(平成22年)に親族で精霊船を出した際には地元の各テレビ局が取材しネットワークを通じて全国に配信され、沿道からも多くの人がこの船を見送ったといいます。

が、実際の精霊流しは上述のようにかなり派手派手しいものです。このため、精霊流しを目的に長崎を訪れた観光客が実際の精霊流しを目の当たりにして、あまりの賑やかさに「歌と違う!」と驚くこともしばしばあるといいます。

実は私もそうだったのですが、精霊流しといえばかなりしめやかなイメージを持っており、これはさださんの作ったこの歌があまりにも悲しげなメロディーと詩であるためです。

「約束通りにあなたの愛したレコードも一緒に流しましょう。そしてあなたの船のあとをついていきましょう。」という歌詞はいかにも精霊船が静かに川を流れていくあとを家族たちがしめやかについて行く姿を連想しますが、長崎では実際には川には流しません。それどころか、この船のあとを爆竹を鳴らし、歓声をあげながら賑やかについて行くわけです。

ただ、よーく注意してみると、この歌の歌詞の中には確かに、「精霊流しが華やかに」と書かれており、この曲が納められたグレープのファーストアルバム「わすれもの」の中でも。この「精霊流し」のイントロ・アウトロ部分には、かなりの歓声や鉦の音、爆竹の音が入っています。

私もこのアルバムを持っていたのですが、その昔処分してしまいました。が、たしかにそうしたアウトロ部分があったことを覚えています。それにしても、さださんの曲がこれだけヒットしたために、実際の長崎の精霊流しをしめやかなものであると勘違いしている人がどれだけいることでしょうか。

また、全国的には精霊流しよりも灯籠流しをやるところの方が多く、実際の精霊流しを知らない人が精霊流しを灯籠流しと勘違いしたというケースも多いようです。灯籠流しもまた、死者の魂を弔って灯籠やお盆の供え物を海や川に流す行事ですが、そもそもはお盆の行事である「送り火」の一種です。

雛祭りの原型とされる流し雛の行事との類似性が指摘されており、これこそしめやかな「精霊流し」にふさわしいお盆の行事といえるでしょう。新潟県の長岡市の「柿川灯籠流し」や京都嵐山の灯籠流しがよくメディアにもとりあげられるようですが、長崎と同じく原爆の被害を受けた、広島市の原爆被爆者慰霊灯篭流しも有名です。

8月6日の平和記念式典後の夕刻から市内を流れる元安川で行われるこの灯篭流しは、昭和22年(1947)に始まったそうですが、実は広島に十数年住んでいたことのある私も一度も見たことがありません。

灯台もと暗しとはよく言いますが、地元の祭りというものは案外とそういうところがあります。ここ伊豆でも、ふもとの修禅寺温泉街で行われるお盆行事にも行ったことがありません。

一般的にお盆は8月13日から15日ですが、修善寺ではその昔養蚕がさかんで、この時期が蚕が大きく育った絹を生産するための繁忙期にあたっていたそうで、このため、この時期を避け、前倒しで8月1日から3日がお盆になっています。

修禅寺の境内にやぐらが立ち、たくさんの提灯の灯りが灯り、盆踊りの音楽に合わせて太鼓の音が響き渡るとともに、花火大会も催されるということで、地元の人たちはもちろん、観光客で大賑わいだということで、この盆踊りには。修禅寺のお坊さんも参加して一緒に踊るということです。

さすがに、わたしは盆踊りは参加しないと思いますが、夏祭りの雰囲気を味わうためにも今年は一度出かけていってみようかな、などと思いはじめているところです。

みなさんの町の夏祭りもそろそろスタートしていることかと思います。私のように灯台もと暗しとならないよう、ぜひ一度はそうしたお祭りに参加してみてください。

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ホンダが空を飛ぶ日

2014-4282ちょうどひと月ほど前の、2014年6月27日、本田技研工業こと、ホンダから「ホンダジェット」の量産1号機が初飛行に成功したとの発表がありました。

ホンダは、1962年(昭和37年)に、創業者の本田宗一郎が航空機事業への参入を宣言し、1986年(昭和61年)から、その研究のために「和光基礎技術研究センター」を開設してからは、本格的に航空機研究を開始し始めました。

1989年(平成元年)からは、アメリカのミシシッピ州立大学ラスペット飛行研究所と提携し、小型実験機MH02を開発。1993年(平成5年)に他社製エンジンを搭載してではありますが、初飛行に成功しています。

こうして基礎技術を固めたのち、エンジンを含めすべて自社製のビジネスジェット機の開発に乗りだし、これを「HondaJet」と名付けました。その初号機、アメリカにおける登録番号N420HA)は、2003年(平成15年)12月にノースカロライナ州グリーンズボロのピードモント・トライアド国際空港にて飛行を行い、このフライトも成功裏に終わりました。

この成功により、ホンダはその後、機体構造もジェットエンジンも自社製という世界的にも珍しい構成で本格的な小型ジェット機の量産に乗り出すようになります。

それから11年余りの年月が過ぎ、ようやく量産機の初飛行に成功したわけですが、当初その飛行は、2009年初旬の予定であり、2年余り遅れたことになります。2010年末にデリバリー開始を予定していましたが、本格的な販売開始は、来年1~3月期になるようです。すでに2012年10月には量産ラインでの組み立てが開始されているそうです。

この機体は、まだ開発途上にあった2007年10月、「エンジンを翼の上に設置する独創的な空力設計」によって、日本のグッドデザイン賞金賞を受賞しています。これは、その造形がこれまでの航空力学の常識を大きく覆しながら優美な美しさを兼ね備えた点が評価されたためです。

さらに2012年9月には、アメリカ航空宇宙学会より「エアクラフトデザインアワード2012」も受賞しており、世界に冠たる航空機産業の雄であるアメリカに評価されたということは、いかにそのデザインが秀逸であるかの証明といえるでしょう。

その航続距離は2185キロ、巡航速度は時速778キロで、ライバル機とくらべても速度と燃費が約15%優れ、室内は約20%広いにもかかわらず、価格は450万ドル(約4億7000万円)に据え置かれ、この価格は他社とほぼ同じだといいます。

ここまで性能が突出した一番の理由は、この飛行機の製造販売を行うために設立されたホンダ・エアクラフトカンパニー・インコーポレーテッドの藤野道格社長が発案した特徴的なデザインによるところが大きいようです。

機体後部の左右に取り付けていたエンジンを、主翼上部に載せるような形で取り付けたことで、高速飛行時の空気抵抗を抑え、燃費向上と速度増加の効果を生み出しました。またエンジンを機体から切り離すことで余分な構造が不要となり、室内も大幅に広くなっています。

今後、ホンダにはこの航空機事業を、自動車、バイクに次ぐ3本目の柱とする狙いがあるといいます。しかし、自動車やバイクの販売はそこそこ好調であるのに、なぜいまさら飛行機なのか、ですが、このホンダのジェット機参入には、しっかりと戦略に裏打ちされた勝算があります。

経営学者マイケル・ポーターの「参入障壁の理論」というものがありますが、この理論は、新規参入しやすい業界は、それだけライバルの会社の数が増えるため、業界内の競争は激しく、利益を上げるのは容易ではなくなる、というものです。

しかし、逆に新規参入しにくい業界に参入するまでは大変ですが、一旦参入してしまえばライバルが少なく、比較的安定した利益をあげることができます。

ジェット機業界もまた、高い技術力が必要であるがゆえに新規参入が難しい業界の代表例ですが、優れた技術力を持ってすれば、楽々とその業界におけるトップの座を占めることができる可能性が高いというわけです。

今は亡きホンダの創業者、本田宗一郎はそれを見越していたに違いありません。しかし、そもそも彼は少年のころから飛行機が好きだったようで、実はホンダのオートバイのエンブレムであるウイングマークは、創業者の本田宗一郎が抱いていた、「いつかは空へ羽ばたきたい」という願いを込めて採用されたものです。

それほど宗一郎の空への憧れは強かったといえ、ホンダの航空機事業への参入は自然な成り行きといえます。が、その実現には、彼が航空機産業への参入を告げてからは52年もの年月を必要とし、また彼の亡くなった1991年からも既に23年も経っています。

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本田宗一郎は1906年(明治39年)11月17日、静岡県磐田郡光明村(現在の浜松市天竜区)で鍛冶屋をしていた本田儀平と妻みかの長男として生まれました。地元浜松の光明村立山東尋常小学校(現在の浜松市立光明小学校)に入学し、その在校中に自動車を初めて見たといい、本田少年の目はその不思議な乗り物にくぎ付けになりました。

また、自動車だけでなく、こうした乗り物が大好きな少年で、遠く離れた浜松町の和地山練兵場というところまで自転車をこいでいき、ここから飛び立つ、軍用飛行機を見るのが好きで、またここで生まれて初めて曲芸飛行を見ました。

本田少年は小柄であり、大人用の自転車のサドルに座るとペダルまで届かず、このため、この自転車による遠出は、三角漕ぎだったといいます。

15歳で高等小学校を卒業したあとは、東京の本郷にある自動車修理工場「アート商会」(現在のアート金属工業)に入社。入社とは聞こえがいいですが、これは事実上、この当時めずらしくもなかった「丁稚奉公」でした。このため半年間は、社長の子供の子守りばかりさせられました。

アート商会に6年勤務後1928年(昭和3年)、21歳になった宗一郎は、のれん分けの形で浜松市にアート商会の支店を設立させてもらい独立。このころ、こうしたのれん分けをアート商会社長の榊原郁三から許されたのは、宗一郎ただ一人だったといいます。

かくして小さいながらも、自動車修理工場の主となった宗一郎ですが、日々油にまみれてもくもくとクルマを修理するだけの生活にやがて限界を感じるようになります。もっと技術力を高めたい、そんな思いから、27歳のとき、旧制 浜松高等工業学校(現 静岡大学工学部)聴講生となり、ここで一から金属工学や機械工学を学び直し始めます。

そこで得た技術は無論、商売にも生かされましたが、彼はそれに増して自動車がさらに好きになり、自分でレース車を整備するようになります。1936年(昭和11年)に行われた第1回全国自動車競走大会、のちの多摩川スピードウェイでは、弟の弁二とともに自らも出場していますが、事故により負傷、リタイアを喫したりしています。

そんなかんなで、自動車修理業の傍ら、レースがあれば、仕事の合間をみて参加するような日々を続けていましたが、本業のほうは順調で、自動車修理事業はさらに拡大していき、浜松の小さな修理工場が、ついには、「東海精機重工業株式会社」という重厚な名前まで持つ会社へと発展していきました。

ちなみに、この会社は、現在も東海精機株式会社として継続しており、ホンダのグループ会社としても重要な地位を占めています。こうして小さいながらも株式会社の社長に就任した宗一郎は、さらに会社を発展させるべく、エンジンに欠くべからざる部品としてピストンリングに目を付け、その改良に乗りだしました。

しかし、ここでも技術の壁につきあたり、経験からだけではどうにもならない学問的な素養の重要性を思い知らされます。このため、宗一郎は再び、浜松高等工業学校に戻り、再度機械科の聴講生となり、ここで更に3年間を金属工学の研究に費やしました。

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しかし本業を忘れていたわけではありません。このころ、のれん分けされていた修理工場は従業員に譲渡しましたが、東海精機重工業のほうの経営には更に専念するようになっていました。が、1942年(昭和17年)にトヨタが東海精機重工業に出資し始めると、思うところがあり自ら専務に退きます。

そんな中、1945年(昭和20年)に発生した三河地震により東海精機重工業浜松工場が倒壊。これを機に所有していた東海精機重工業の全株を一気に豊田自動織機に売却して退社。宗一郎は、「人間休業」と称して1年間の休養に入ります。

そして、翌1946年(昭和21年)10月、39歳となった宗一郎は、浜松市に「本田技術研究所」を設立、所長に就任します。現在まで続く、大会社ホンダの誕生です。

この研究所は、2年後には「本田技研工業株式会社」として株式化し、資本金100万、従業員20人でスタート。ここで宗一郎は、かねてからの念願だった二輪車の研究を始めました。東海精機重工業の専務に退いたのは、この二輪車の開発を自らの手で成し遂げたい、と考えたためでした。

結局、この二輪車製造販売は大成功に終わり、ここで培った技術をもとにさらに取り組んだ四輪事業もまた大きな成果を収め、ご存知のとおり、ホンダはトヨタ、日産に続く、大自動車メーカーとして発展していきました。

1983年(昭和58年)、76歳になった宗一郎は、取締役も退き、終身最高顧問となりました。それまでの功績を認められ、1989年(平成元年)には、アメリカの自動車殿堂(Automotive Hall of Fame)入りを果たします。アジア人としては初の快挙でした。

しかし、1991年(平成3年) 8月5日、東京・順天堂大学医学部附属順天堂医院で肝不全のため死去。84歳没。

終戦直後は何も事業をせず、土地や株を売却した資金で合成酒を作ったり製塩機を作って海水から塩を作って米と交換したりして遊んでいた時代があったといいます。しかしこの時期に、苦労して買い出しをしていた妻の自転車に「エンジンをつけたら買い出しが楽になる」と思いついたのが、オートバイ研究だったそうです。

また「会社は個人の持ち物ではない」という考えをもっておりけっして、身内を入社させなかったといい、社名に自分の姓を付したことを一生後悔していたそうです。

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経営難に陥ったときにマン島TTレースやF1などの世界のビッグレースに参戦することを宣言し、従業員の士気高揚を図ることで経営を立て直したということもありましたが、ともかく従業員思いの経営者としても知られており、彼等からは親しみをこめて「オヤジ」と呼ばれていました。

が、一方で共に仕事をした従業員は共通して「オヤジさんは怖かった」ともいい、作業中に中途半端な仕事をしたときなどは怒声と同時に容赦なく工具で頭を殴ったり、実験室で算出されたデータを滔滔と読み上げる社員に業を煮やし「実際に走行させたデータを持ってこい」と激怒して灰皿で殴るなどしていたそうです。

しかし、殴られたはずの者よりも、殴った宗一郎の方が泣いていたということも多かったという話も残っており、怒る際、「よくお前が可愛いから怒るというが、俺はお前が本当に憎いから怒ってんだ」と言ったといいます。

心に思っていることを素直に言葉でうまく表現することのできないタイプだったようで、口ではそういいながら、こよなく社員を愛していた証拠に、社長退職後には全国のHONDAディーラー店を御礼参りをした、というエピソードも残っています。

特定産業振興臨時措置法案をめぐり、他者との合併などを官側から強制されそうになったときも、普通の社長なら今後のことも考えて役人と適当なところで妥協するでしょうが、宗一郎は会社と従業員を守るために徹底的に官僚と戦いました。

特定産業振興臨時措置法案というのは、貿易自由化や資本自由化という外資参入の危機感から、通商産業省が推し進めた国内産業向けの合理化構想の法案です。

背景にあったのは、このころ国家が企業を統治する形で成功していたフランスの「混合経済」の成功であり、これを見た日本の官僚が、これをお手本にした「新産業秩序」をうたい、企業の大規模化のために政府が民間の構造改革に介入する推進策を、1962年(昭和37年)に提唱しました。

これに対し、この当時の経団連会長 石坂泰三が、「形を変えた官僚統制」だと強く反発、また合併・集中の促進よりも、「独禁法緩和が先」だとし、宗一郎もこれに同調しました。他者と合併させられるのは大迷惑だ、それよりももっと規制を緩和して各社に儲けさせたほうがよほど構造改革になりうる、というのが宗一郎の主張でした。

この法案は、1963年(昭和38年)に、自動車産業ほか、鉄鋼業・石油化学を特定産業に指定し、合併ないし整理統合、設備投資を進めることを骨子として閣議決定され国会に提出されましたが、宗一郎ら経済界の雄たちの総反発の意を汲んだ他議員らに反対され、審議未了のまま廃案に追い込まれました。

が、この政策が成功していたら、今ある、トヨタ、日産、ホンダなどの今の日本を牽引する大企業が一本化され、官僚の言いなりの国策会社になっていたかもしれません。

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技術者としての宗一郎は、純粋そのものでした。その最晩年の皇居での勲一等瑞宝章親授式へ出席の際などには、「技術者の正装とは真っ白なツナギだ」と言いその服装で出席しようとしたといい、さすがに周囲に止められ最終的には社員が持っていた燕尾服で出席しました。

が、かつての部下の目からは技術の面ではたいしたことはなかった、と酷評されることも多く、エンジン技術者で、元ホンダF1チームの監督中村良夫氏も、宗一郎が革新的な製品開発を推し進めたことは評価する一方で、「人間としては尊敬できるが技術者としては尊敬できない」と評しています。

東海精機時代には、学校にまで戻って金属工学を学び直した宗一郎ですが、後年になればなるほど理工学的な無理解を押し通そうとすることが多くなり、そういった衝突から会社を辞める技術者も多かった、と伝えられています。

1960年代後半から、空冷エンジンに固執する本田に対して若手技術者が反発するケースが増え、久米是志(後の3代目社長)のように出社を拒否する者も出るほどでした。

このころのホンダの市販車には、ホンダ・1300やホンダ・145などがあり、レーシングカーにもホンダ・RA302といった車種がありましたが、これらはみんな宗一郎の主張する空冷エンジンを搭載していました。

水冷よりも空冷のほうが、よりシンプルでパワフルだというのが宗一郎の主張であり、この「信念」に基づき、ホンダではこうしたクラスとしては、この当時他社と比較しても珍しくなっていた空冷エンジンを用いていました。

しかしホンダのこの空冷エンジンは、一般的な空冷エンジンに比べてより複雑な構造を持っており、このため重量増とコスト高が問題として生じるようになり、このため、本来であれば簡単構造、軽量、低コストといった空冷エンジン本来の長所が薄れる結果となっていきました。

この結果、主力車ホンダ1300の総生産台数は3年強の間に約10万6千台にとどまり、このうち日本国外へ輸出されたのは1053台にとどまりました。時代が少々違うので、参考になりにくい面もありますが、現在のホンダの主力車種フィットの年間販売台数はおよそ約20万台であり、これと比較しても3年で10万台というのはいかにも少なすぎます。

この時期、こうした宗一郎の独断による失敗によって、「このままでは会社が倒産する」と危惧されるまでにもなりましたが、そんなときでも、宗一郎は「俺が作った会社だから俺が潰すのも勝手」と反論するなど開発に関わる人物や技術者との関係は日に日悪化していきした。

やがて若手技術者らから不満を直訴される事態にまで至り、最終的に側近に「あなたは社長なのか、それとも一技術者なのか」と迫られた宗一郎は、この勧告は技術者として引導を渡されたにも等しいことをようやく悟り、引退を決意しました。

後にこの引退を進めた周囲の人間は「親父さんがあと3年居座っていたら、ホンダは潰れていただろう」と評しましたが、と同時に「あそこで身を引いたのは親父さんの偉いところ」とも述べています。

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そんな宗一郎も社長業を離れると、実に庶民的な人だったようです。無類の鮎の友釣り好きで年に1度は多数の客を自宅に招き鮎を放った小川で「鮎釣りパーティー」を行っていたといいます。また、大の別荘嫌いで「1年の内に1週間から10日しか住まない所に金をかけるなんて実にバカらしい」と言い、生涯別訴は所有しませんでした。

しかし、一方では高級品が大好きだったそうで、時計などはブランド品の良いものを好んでいたといいます。しかし、これには理由があり、高級品だけを使うのは「一流であるためには一流であるものを知っておく必要がある」という独自論からきたものでした。

実際に「ベンツのクオリティ並の軽自動車を作る」といった事も提言し、アコードとメルセデスベンツの乗り心地を技術者にドライブさせ比較検証する、といったことも実践していたといいます。

バイクやクルマを売る、ということに自分なりの哲学を持っていた人でもありました。たとえば、1970年代後半から1990年代にかけて、いわゆる「三ない運動」がおこり、高校生によるオートバイならびに自動車の免許取得や車両購入、運転を禁止するため、「免許を取らせない」「買わせない」「運転させない」というスローガンが掲げられました。

多くの高校では、このスローガンが校則に組み込まれ、各校単位でPTAが主体になってこれが実施されました。

この時代、ほかにも、非核三原則として、核兵器を「作らない」「持たない」「持ち込ませない」。公職選挙法で禁止されている寄付行為に関して「贈らない」「求めない」「受け取らない」、暴力団を「利用しない」「金を出さない」「恐れない」、飲酒運転防止のため「乗らない」「飲まない」「飲ませない」などが流行り、一種社会現象のようになっていました。

これに対し宗一郎は、「高校生から教育の名の下にバイクを取り上げるのではなく、バイクに乗る際のルールや危険性を十分に教えていくのが学校教育ではないのか」と公の場で発言したといい、長いものに巻かれろ的なこうした国民大合唱の三ない運動一般に対しても、冷ややかな態度を示し、終始批判的なスタンスを取り続けました。

こうした彼独特の哲学は、彼の死後多くの本にまとめられ、いわゆる「ビジネス書」として広く読まれていますが、彼が生前放ったこうした言葉の中には、昨今の韓国や中国に聞かせてやりたいようなものも含まれています。

作家・経済評論家の邱永漢が、ホンダの海外の工場で一番うまくいっているところと一番具合が悪かったところを宗一郎に聞いたところ、彼は「良いのは台湾、悪のは韓国」とだけ答えました。

その理由を邸がさらに問うと「台湾に行くと台湾の人がみんな私に「こうやって自分たちが仕事をやれるのは本田さんのお陰です」と言ってものすごく丁重に扱うのです」と答えました。自動車やオートバイの技術を持っていなかった台湾に技術を伝えた本田に対して“台湾人は”ちゃんと相応の感謝をしていたというわけです。

一方、韓国の工場が悪かった理由は、「向こうへ行ってオートバイを作るのを教えた。それで一通りできるようになったら、株を全部買いますから帰ってくれと言われた」でした。そして、さらに宗一郎は「そんな株いらねえよ、売っちまえ」とその韓国企業の株の売却を社員に命じたといいます。

逝去の2日前、さち夫人に「自分を背負って歩いてくれ」と言い、夫人は点滴の管をぶら下げた宗一郎を背負い病室の中を歩きました。そして「満足だった」という言葉を遺し、そのまま逝ったといいます。弔問時に遺族からそのエピソードを聞き、親友だったソニーの井深大は「これが本田宗一郎の本質であったか」と述べ涙したといいます。

長年、ホンダという大会社を背負ってきた宗一郎は人に背負われたことはなく、その一生の最後の時だけでも誰かに背負われてみたい、最後の時ぐらい、気弱な自分を許してもいいだろう、と考えたのでしょう。

この井深大とは、共に技術者出身であったこともあり、強いシンパシーを感じた二人は、ごく自然に親友となっていったようです。そして、「互いの頼み事は断らない」などのルールを決め、互いに文化事業などの役員を推薦し合って務めたといい、また、互いに手紙をやり取りしあうことも忘れなかったそうです。

ある時に普段は手紙は直筆であることの多かった井深が「ワープロで手紙を送って、彼を驚かそう」と手紙を打ち、送ろうとしていたその矢先に宗一郎は帰らぬ人となった、というエピソードが残っています。

逝去時にも社葬は行わせなかったといい、その理由は「自動車会社の自分が葬式を出して、大渋滞を起こしちゃ申し訳ない」という彼の遺言からでした。

そんな、宗一郎が夢見ていた航空機産業への参入ですが、生きている間にはついに自社製の飛行機を飛ばすことができなかったものの、彼が夢にまで見たホンダジェットの量産機はついに空を飛びました。やがてはホンダのエンブレムである“H”を付けたのホンダジェットが日本や海外の空を飛び回るようになるでしょう。

もうすぐこの伊豆の空をも飛び交う時代がくるでしょうが、私もまた、その飛行機に一度乗ってみたいものです。

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リプレイ

H&M今月のはじめに、夫婦二人でトム・クルーズ主演の最新SF映画、「オールユーニードイズキル」を見に行ってきました。

「オールユーニードイズキル(All you need is kill.)」という題名から、原作は欧米人が書いたのかと思いきや、これは日本人の桜坂洋さんという作家さんの作品だそうです。映画館でみつけた宣伝用のビラにも「日本原作」とあり、副題は「戦う、死ぬ、目覚める」となっていて、なかなかうまいキャッチコピーです。

ただ、映画の邦題は小説のタイトルと同じ「オール・ユー・ニード・イズ・キル」となっていますが、英語圏でのタイトルは「Edge of Tomorrow」と変えられています。これは、All you need is kill.ではどうもこの映画のコンテンツがあちらの人には理解されがたいと判断されたためのようです。

この桜坂洋という作家さんは、元システムエンジニアだったそうで、ゲームを含むコンピュータ全般が趣味であり、コンピュータ・オタク文化にも造詣が深いということですが、失礼ながら、お写真を拝見すると、少々オタクっぽく見えなくもありません。

2004年発表の短篇「さいたまチェーンソー少女」で第16回SFマガジン読者賞を受賞後、2008年にも短篇「ナイト・オブ・ザ・ホーリーシット」で第20回SFマガジン読者賞を受賞するなど、いかにもゲームの題材になりそうな作品が多く、新進気鋭の作家として最近かなり注目されているようです。

かの日本SF界の巨匠、筒井康隆さんなどからも高い評価を受けており、筒井さんの最近作である「ダンシング・ヴァニティ」などの評論も書いているほか、「All You Need Is Kill」のような少年少女向きとも受け取れるような作品の発表の後は、一般文芸誌や純文学誌での執筆もこなされるようになりました。

この作品の英語に翻訳されたものを、スパイ映画の「ボーンシリーズ」などの人気作品を手掛けたダグ・リーマンが読んだところ、その内容に惚れ込み、早々に松坂氏にその映画化権の供与をオファーしたといい、この監督さんの作品にはほかに、ブラッド・ピットとアンジェリーナ・ジョリーが主演した「Mr.&Mrs.スミス」などもあります。

松坂さんは、まさかハリウッドのそんなすごい監督さんから自分の作品を使いたいといった申し出が来るなどとは夢にも思っていなかったそうで、最初にこの話が来たときには、何かの冗談だろうと思ったと言います。

出演はトム・クルーズですが、脇役として、「プラダを着た悪魔」や「ヴィクトリア女王 世紀の愛」に出演して高い演技力が評価されたエミリー・ブラントが加わって、より深みのある映画に仕上がっています。

7月4日より公開されたばかりで、まだまだ上映が続いているようなので、みなさんもSFがお好きなら、ぜひ見に行ってください。

桜坂洋による原作では、この物語の部隊は、東京の遥か南方のコトイウシという架空の島ですが、映画版では主にロンドン、パリ、フランス沿岸部などのヨーロッパに変更されています。また主人公も原作では当然日本人ですが、映画版ではアメリカ人のトムクルーズとイギリス人のエミリー・ブラントに変更されています。

そのストーリーも少々変更されているようですが、ネタバレにならない程度に披露すると、まず舞台は近未来になります。地球は謎の侵略者「ギタイ」の度重なる襲撃により、壊滅状態に陥っており、地球防衛軍は辛うじて彼らの侵略を食い止めていましたが、敵の強大な戦力になす術も無く、戦死者は増える一方でした。

トム・クルーズ演ずる、ウィリアム・ケイジ少佐は、この戦争の宣伝担当のひ弱な事務官でしたが、ある日突然、この侵略戦争の最前線に送り込まれます。日ごろから体を鍛えているわけでもなく、最新式の兵器も使いこなせないケイジ少佐は、敵に何一つのダメージも与えられず、あっけなく戦場で戦死してしまいます。

ところが、次の瞬間、彼は戦地に赴く前の時間に戻っており、再び前回と同じ飛行機に乗り、同じ戦場に行って、同じような死に方をします。そして次から次へと同じように死から生へと時間が巻き戻され、その都度何度も死にますが、回数を重ねるごとにうまく死から逃れる方法を模索するようになり、次第に死に至るまでの時間も長くなっていきます。

いわゆる「学習効果」を得るわけですが、それでもその後も何度か戦死し、また前の時間に戻ってしまう出来事が繰り返されるにつれ、やがて彼は自分が何等かの理由でタイムループに巻き込まれてしまっていることに気付きます。ちょうどそんなとき、自らも同じタイムループに巻き込まれていたとする特殊部隊の軍人リタ・ヴラタスキが現れます。

このヴラタスキを演じるのがエミリー・ブラントで、ケイジ少佐は彼女と戦うにつれ、さらに戦闘技術を向上させていきます。こうして二人は終わりの無い戦いを繰り返す中、自分たちがタイムループに巻き込まれた理由をみつけ、少しずつ敵を倒す糸口をつかんでいくのですが……

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とまあこんな具合で、この先を書くと大ブーイングになりそうなので、これ以上はもう書きませんが、何度も死と生を繰り返すという物語は、いわゆる「ループもの」のひとつです。主としてタイムトラベルを題材としたSFで扱われることが多く、物語の中で登場人物が同じ人生の時間を何度も何度も繰り返すような設定を持つ作品のことをさします。

時間旅行が主題であることから、「時間もの」ともいわれ、結構昔からある物語の類型のひとつです。こうしたテーマは「ジュブナイル」と呼ばれるティーンエイジャーを対象とした小説分野を初めとし、最近の日本のオタク文化ではよく扱われる題材となってきています。

半永久的に反復される時間から何らかの方法で脱出することが目標となるものが多いことから、様々なゲームとしても扱われることが多いようで、ゲーム大好きの松坂洋さんがこの作品を作ったのも、自分でこうしたゲームがやってみたかったからだそうです。

このように過去の自分に戻って人生を再挑戦するという類型の物語がSF小説の一つのサブジャンルとして確立したのは、1987年発表のケン・グリムウッドの小説「リプレイ」が世界的なヒット作となって以降といわれています。

実は私も20代の後半にこの小説の翻訳版を新潮文庫で買って読んだことがあり、その面白さんに夜が更けるのも忘れて没頭したのを覚えています。たしか、二度ほど読み返した覚えがあり、各回とも一気読みできるほど面白い話でした。

こちらも、あらすじを簡単に述べておきましょう。

経済的に成功していないラジオ局のディレクターがある日突然、43歳の若さで心臓発作によって死んでしまいます。ところが、次に目を覚ますと18歳の時分に戻っており、不思議には思ったものの、せっかく再び与えられた人生だからと、もう一度その人生をやり直すことにします。

しかし、この新しい人生で彼は「過去の失敗」と「未来の記憶」を存分に利用して数々の成功をおさめ、人生をさんざんに謳歌します。しかし、結局は前と同じ年頃になると死を迎え、再び若い時に戻されて人生のやり直しを強制再開させられます。

これが何度も繰り返される、つまり「リプレイ」される人生において、次第に彼は自暴自棄と諦観に囚われるようになりますが、そんな中、同じようにリプレイを繰り返す女性と巡り合い、改めて人生に向かい合うようになります。

しかし、やがてリプレイ期間が次第に短くなり、いつかは究極の絶対死が訪れることを彼は知ります。永遠の命を得たいと考えつつも、やがては絶対死を迎えることを知った彼は、同じ運命を辿ろうとしている彼女に対して……

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……という話なのですが、どうでしょう。面白そうだと思いませんか。この「リプレイ」という作品は、1987年にアメリカで出版されるやいなやかなりの反響を呼び、1988年度の世界幻想文学大賞を受賞しました。

作者のケン・グリムウッドは、1944年アラバマ州に生まれで、フロリダ州ペンサコーラで育ち、大学では心理学を学び、ロサンゼルスのラジオ局で編集者として勤務する傍ら小説を書き始め、1976年に作家としてデビューしました。

専業作家となったのは「リプレイ」で成功を収めてからですが、その後も映画化の話も持ち上がるような秀逸な作品をいくつも執筆しました。が、2003年にカリフォルニア州サンタバーバラの自宅で、心臓発作によりわずか59歳の若さで亡くなりました。

死の直前までグリムウッドは「リプレイ」の続編に取り組んでいたといいますが、それにしてもその亡くなり方が、代表作「リプレイ」の主人公と同じ心臓発作だったというのは、人生は本当に奇なるものです。

グリムウッドは、この「記憶を持ったまま人生をやり直す」という発想を、ゲーテの「ファウスト」に影響を受けて生み出したようです。実際、「リプレイ」の作中においても「グレッチェン」という名前の娘が登場しますが、これはファウストの恋人の名前であり、作品内は他にもいくつか似たような人物設定が見受けられます。

ゲーテの「ファウスト」のほうは、その死後にまた人生をやり直すといったループは見られませんが、若返って人生をやり直す、という設定になっており、グリムウッドはこれを題材に、もし、ファウストが更に何度も人生を繰り返したらどうなるだろうか、との着想を得てこの物語を作ったのでしょう。

実に面白い発想であり、この着想は見事に功を奏して「リプレイ」はベストセラーとなりましたが、以後、他の作家もこれを真似するようになり、「若返りと人生のやり直し」という設定は、やがて時間を扱うSF作品の中ではごく普通に使われるようになっていきました。

ただ、類似する筋立ての作品は「リプレイ」以前にもあり、自分の人生の過去に戻って別の世界を疑似体験するというアイディアは1946年公開のアメリカ映画「素晴らしき哉、人生!」ですでにみられ、また日本でも1965年発表の筒井康隆の小説「しゃっくり」ではループ期間が10分間と短いものの世界が一定期間を反復し続ける設定がなされています。

こうした「ループもの」がよく使われるようになった背景には、近年においては時計が生活の隅々にまで普及したために人々が常に時間を意識するようになったことに加え、テレビ番組や映画などのように、始まりと終りがはっきりとしている定型放送が洪水のように流されるようになったことなどが関係ありそうです。

しかもこうした物語は、ビデオやDVDの普及によって簡単に録画再生できるようになっており、どんな人生の一シーンでも「計測可能」かつ「再生可能」ということが人々に強く意識されるようになってきました。

物語の類型化というのはそれ以前からもありましたが、近年時間というものがより身近になったことで、こうした類型化と時間の要素が結びつき、「ループもの」が流行るようになったのでしょう。

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とはいえ、ループものには、いくつかのパターンがあり、これらを俯瞰すると、幾つかの分類ができるようであり、主として以下のような4種類に分類できそうです。

1.主人公がループをネガティブに受け止め、苦難する姿を描くパターン
主人公は理不尽な形で閉ざされた時間の中に取り残され、リセットされてしまう努力や蓄積を苦痛と受け止め、先に進めないことに対する絶望や恐怖を味わうというもの。ホラーや悲恋モノが多い。

2.主人公がループをポジティブに受け止め、成長する姿を描くパターン
主人公はループする時間の中で成功や失敗を繰り返しつつ、自省しながら成長し、自己実現を成し遂げようとする。当初は理不尽な状況に苦しむが、やがて改心や精神的な成長を経てループから脱出する。逆に成長できずに破滅するというパターンもありうる。

3.主人公がループを特定の問題の解決に用いるというパターン
主人公はループの中で解決しなければならない具体的かつ単純な目標や心残りを抱えており、繰り返される状況の中で試行錯誤を繰り返したり、解決のための鍛錬を行ったりする。問題を解決できない停滞感と、それを解決した時の爽快感が描かれ、その双方の過程を経てループの元凶となっている根本的な問題が解決されてループが終了する。

4.主人公がループする状況そのものを楽しむというパターン
輝かしい人生の至福な時間がループされ、主人公はそれを肯定的に受け止めて享受する。この場合のループは問題解決の手段ではなく、目的そのものである。ループを繰り返している原因や脱出方法には恋愛感情が関係してくるパターンも多く見られる。

こうしてみてくると、今回我々が映画でみたオールニードイズキルは、2.でもあり、3.でもあるというかんじであり、そう考えると、あるいは2.と3.は同パターンとしてくくるべきなのかもしれません。

ところで、通常、こうした「タイムトラベル」の話を違和感なく完成させるためには、現在過去未来に同じ自分がいる、といった、いわゆる「タイムパラドックス」の問題をクリアーしなくてはなりません。

例えば、物理的なタイムトラベルにおける過去への時間跳躍では、自分の肉体ごと過去の世界に移動することになるため、過去の自分に遭遇することもありうるわけで、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」がそうであるように、タイムパラドックスそのものが作品の中心テーマのひとつとして扱われる作品も多いようです。

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ところが、「リプレイ」のように自分の意識だけが過去の自分に戻る、あるいは世界全体が過去のある時点に戻ると設定されている作品では、自分自身との遭遇は起こらず、時間跳躍している本人の視点から考えれば、過去改変に伴うタイムパラドックス、例えば「親殺し」といったパラドックスは発生しません。

肉体の移動を伴わずに過去への一方通行的な時間遡行を繰り返すという点がこの「ループもの」の優れたところで、読み手にとってあまり深く考えさえることなく、タイムトラベルを成立させることができる、という点もまた近年こうしたループものが流行る要因なのでしょう。

ところが、最近の作品は更に複雑怪奇になってきており、従来は単純に過去に戻って人生をやり直すというシンプルな構造であったものが、最近は物語の中で時間と世界の仕組みが複雑に変化するものが多くなっており、オールニードイズキルでは、この中に「宇宙人の襲来」を加えてより複雑にしており、それゆえに娯楽性をも高めています。

こうした手法は、数多くのループものを見て目が肥えてきた映画ファンや、あるいはこうしたループものに飽きてきた層の目にも新鮮に映ります。確かに今回この映画を見た私としても評価点は高く、見終わったあとの満足感が従来のものとは明らかに違います。

が、それだけに、更にこれを進化させたループものを作ろうとすると、もうさすがに新しい発想はないだろう、これ以上大きな期待を持てるものはできないだろう、とこれ以上のものは望めないがゆえのフラストレーションを感じてしまいそうです。

従って、これをさらに超えようとすると、従来の「人生をやり直す」という形のループものではなく、もっと別の形のループものが求められてきます。更に新しい視点からのSF映画が求められているといえ、文明の発達もさることながら、SF映画においても今後もさらにその内容に大きな変革が加えられなければその味来はないでしょう。

そこで、この「ループ」というモノに関して、他にどんな発想があるかを整理してみることにすると、一般に、「ループ」に関連する概念としては、次のようなものがあるようです。

1.パラレルワールド
多重世界(ラメラスケイプ)、あるいは並行世界(パラレルワールド)と言われるもので、「世界は可能性のあるだけ存在する」、つまり、自分たちが住む世界と、別の世界はお互いに干渉できないまま常に並存していて、自分たちの世界と似通った世界は俯瞰できるものの、相関していない他の世界は観測できない、というもの。

2.終わりなき日常
多くの人が人生のよりどころとなるような価値観を見失っている現代社会では、物質的には豊かになっても個人が「自分自身の物語」を見出すのが困難になっている。なにげない日常生活まるでループしているかのように見え、人生もまたまるで同じループを繰り返しているというふうに感じる。夢に見た「輝かしい未来」はやってこないという感覚……。

3.メビウスの帯
メビウスの帯は単に循環するだけでなく、局所的には表と裏の面があるのに、全体としては1つの面としてつながっている、という位相構造に特徴がある。循環や繰り返しを想起させることから、創作においてはループ構造を持つプロットや登場人物が過去や未来のある時点で原点に戻るという形が考えられる。

4.永劫回帰
宇宙を構成する物質とその組み合わせは有限であるが、時間は無限とするもの。宇宙的視野から見た現実世界は限られたパターンの中で同じ歴史を永遠にループしている。ループものと違うのは、ループを繰り返しても過去と寸分違わぬ歴史を繰り返すだけで、過去から記憶を持ち越したり過去を学んで成長したり、失敗のやり直しはできない。

ハト

どうでしょう。1.については、既にこうした発想の映画が作られ始めていて、余り目新しさはないかもしれませんが、2.の「終わりなき日常」はSFというよりも、心理描写の世界のようでもあり、わりと新しい感覚です。

日常で「デジャブ」を感じるように、もしかしたら自分の人生は同じことを繰り返しているだけにすぎないのではないか、という虚脱感や恐怖感をうまく表現すると、斬新な作品になりそうな気がします。

3.4.については、目新しいようですが、視点を変えれば従来のループものの一種と考えることもできます。結局はそのループから抜け出せない、という点においては同じであり、そう考えると、やはり新しいループものを創作していくという相当難しそうです。

とはいえ、いずれも現実的にはありえない世界観であり、いずれもがいかに読み手に「もしかしたら……」と思わせることができるかどうかが最大のポイントであり、結局はそうした独創的な作品を生み出せるかどうかは、作り手の発想力次第ということになりそうです。今後さらに奇抜なアイデアを出せる作家さんが出てくるのを期待しましょう。

なお、ここには入ってはいませんが、輪廻転生もまた、こうしたテーマになり得る「ループもの」です。しかも、ある意味、究極のループものといえるかもしれません。

言うまでもなく、輪廻転生とは死んであの世に還った霊魂が、この世に何度も生まれ変わってくることをさしますが、「輪廻」と「転生」の二つの概念は重なるところも多く、「輪廻転生」の一語で語られる場合も多いようです。

ループものと明らかに違うのは、肉体・記憶・人格などの同一性が保たれない点です。ただ、キリスト教などにおける「復活」の概念は「一度限りの転生」であり、肉体や記憶は一度で消え去りますが、「人格」だけは生前のまま次に転生するとされているようです。

この世に帰ってくる形態の範囲の違いによって使い分けられることが多く、「輪廻」は動物などの形で転生する場合も含み、「転生」の一語のみの場合は人間の形に限った輪廻転生を指して使われます。

また、人間は人間にしか転生しないといいますが、過去に生きていた人物が別人となって現代に現れるというのはフィクションとしても魅力的なテーマであり、転生という概念を取り入れた作品は過去にも数多く作られています。

このような創作物では、記憶や能力の一部を受け継いでいるという形で描かれることが多いようですが、ある日突然ある一時期の過去生を思い出す、といった形で描かれることもあります。が、何もこれは何も創作の話ばかりではなく、現実的にもありうることです。

現に私も過去生のいくつかを思い出しており、それはスパイであったり、金貸しであったり、船大工であったりと様々です。細かいことは思い出しませんが、もしそれらをすべて思い出して「ループもの」を創作できたら、さぞかし面白いものができるのではないかと夢想したりもする次第です。

さて、今日の話はなにやら夢物語のようになってきたので、そろそろやめにします。

東海地方も梅雨が明けました。寝苦しい夜の日も多くなると思われ、そうした夜にはうなされ、その中で過去生を思い出す、といったことも多くなるかもしれません。が、それはそれで何かの役に立つかもしれません。

もし過去生を思い出したら……それを必ず書き留めておき、今後の人生に役立てましょう。過去と現在はつながっています。そして未来へも。過去生の経験は現世で役にたち、現生での出来事はやがて次の人生での糧となっていきます。そして人間は未来永劫、成長していくわけです。

私は、次に生まれ代わるとするとどんな人物になっているでしょうか。そしてみなさんは?

夏の日の夢は続きます……

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私は元やもめ

挑戦最近、「かもめのジョナサン完成版」を五木寛之さんが出された、とニュースで報道されているのを耳にしました。ところが、ん?完成版?「かもめのジョナサン」って完結していなかったっけ?と疑問に思ったのでちょっと調べてみました。

「かもめのジョナサン」は原題が、“Jonathan Livingston Seagull”で、これはアメリカの作家、リチャード・バックの小説です。

このリチャード・バックは、イリノイ州生まれの1936年生まれですから、今年でもう78歳にもなります。もともとは飛行家で、飛行機に関するルポルタージュを書いていたようですが、その後1970年に「かもめのジョナサン」を発表しました。

この本は、当初はほとんど評判にならなかったようですが、2年後の1972年に突如ベストセラーのトップに躍り出、各国語に翻訳され、世界中で大ヒット作となりました。

一般的には「寓話」と目されています。寓話って何なのよ、ということですが、これは動物、静物、自然現象などの人間以外の者を擬人化して登場させ、比喩によって人間の生活を揶揄したり、逆に人生の素晴らしさを諭す、といった具合に仕立てる物語です。

寓話として最もポピュラーなものはイソップ物語であり、日本では宮沢賢治の作品が有名です。リチャード・バックのこの作品では、カモメが主人公であり、ラッセル・マンソンという写真家さんによる実際のカモメの写真が随所に挿入され、かつての日本版でもこの写真がそのまま使われて出版され、私もしゃれているなと思って買った覚えがあります。

この話の主人公のカモメは、「カモメ界」にあっては異端児と呼ぶべき存在として描かれており、これがこの当時からアメリカで流行り始めていた「ヒッピー文化」ともあいまって、口コミで徐々に広がりヒットしました。

このヒッピー(Hippie)というのは、言葉では知っていても、どういうものかをはっきりと知っている人は少ないかもしれません。が、その定義も割と曖昧なようできちんと説明はしがたいところはありますが、基本的には、伝統・制度などの既成の価値観に縛られた人間生活を否定することを信条とした人々のことを指します。

アウトロー(outlaw)とも似てはいますが、アウトローとは、犯罪等により法の保護を受けられなくなった人物をさします。ヒッピーもまた、ドラッグをやったりする人、というイメージがあり、必ずしもクリーンな印象ばかりではありませんが、犯罪者ばかりでもなく、彼等は単に文明以前の「野生生活」への回帰を提唱しているだけで、そのために悪いことをしてまで自分の我を通したい、というつもりはない人々です。

1960年代後半に、おもにアメリカの若者の間で生まれたムーブメントで、基本的に「自然と愛と平和とセックスと自由を愛する」ということがモットーでした。この当時から泥沼化していたベトナム戦争への反対勢力とも結びつき、「正義無きベトナム戦争」への反対運動の急先鋒としての役割も担いました。

愛と平和を訴え、徴兵を拒否し、派兵に反発した若者の多くは、自分をヒッピーと称し、人間として自由に生きるというスタイルは、戦時下にあって厭戦ムードの強かった全米中に浸透しました。

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しかし、ヒッピーのイメージが良くないのは、その初期の時代に、薬物に頼って高揚感や覚醒や悟りを得ようとした若者が多く出たためです。アメリカだけでなく世界各地にコミューンと呼ばれるヒッピー共同体が発生しましたが、これらはドラッグの溜り場と揶揄されました。

「ビートルズ」はこうした若者たちにも熱狂的に支持されたロックバンドであり、ではビートルズもヒッピーかといえば、これは正しくはありません。が、ジョージ・ハリスンはヒッピーらと交流を持っていました。ただ、ドラッグ・カルチャーに対しては否定的な見解を持っていたようで、ヒッピーとみるとしてもその正当派と考えるべきでしょう。

また、ジョージ・ハリスンは、ヒッピーとの交流の中で、インドの瞑想に深く関る様になっており、この当時ヒッピーと呼ばれていた多くの若者もまたインド巡礼にあこがれを持っていました。

しかし一部のヒッピーたちは、ただ単に宗教的意義を深めるにとどまらず、マリファナやLSDを使用した精神解放等を強く求めるようになっていったため、後年にはヒッピー全体が社会的にかなり抑圧されるべき存在になっていきました。

とはいえ、こうしたヒッピーたちもベトナム戦争の終結と薬物に対する取り締まりにより、1970年代前半頃から、徐々に衰えていくようになり、やがて衰退しました。従って、「かもめのジョナサン」はその衰退期の直前のヒッピー全盛の時代に刊行されたことになります。

ヒッピーたちは、伝統的な社会や制度を否定し、個人の魂の解放を訴えました。その気分はまさに「かもめのジョナサン」に描かれている主人公の心理そのものであり、このこともあって、多くのヒッピーがこの物語を支持しました。

一方、「かもめのジョナサン」を信奉する者の仲には、伝統的キリスト教的価値観を否定する者もおり、彼等は東洋の前衛的な思想・宗教を積極的に取入れようとしますが、これが行き過ぎてその系統を引くカルト宗教が多数創設され、社会問題化しました。

日本においても、オウム真理教の幹部として数々の犯罪を犯した、村井秀夫が「かもめのジョナサン」の心境になったといってオウム真理教に入信したという話は有名です。

ただ、こうした悪いイメージばかりが先行するものの、ヒッピーのモットーはそもそも、”Back to nature” であり、文明を否定して自然に回帰することこそが本質です。このため、ヒッピーが廃れてしまった現在においても、多くの自然保護活動家の中にはこの系統を引く者も少なくないようです。

また、日本においては、ドラッグの規制が厳しく、アメリカ型のヒッピーというものはあまり普及しませんでした。日本には、オリジナルのヒッピー以外に、ぶらぶらしている人のことを「フーテン」と呼ぶ文化があり、ヒッピーのこともまたフーテンと呼ぶ向きもありました。

無論、アメリカのような悪いイメージではなく、松竹映画「男はつらいよ」シリーズにおいて渥美清が演じた主人公のような自由奔放な人々のことをこう呼んだのであり、アメリカのヒッピーとは一線を画していました。

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「かもめのジョナサン」は、アメリカでは1973年にはこれを原作とする映画が制作され、日本でもこの翌年の1974年にこの映画が公開されました。映画としてはあまりヒットしなかったようですが、この時点で、アメリカでのその原作本の出版数は1500万部を超え、それまでの断トツ一位の「風と共に去りぬ」をも抜き去りました。

日本でも新潮社より五木寛之の訳が出版され、120万部のベストセラーとなりましたが、このときに出版されたものは、全3部構成でした。ところが、リチャード・バックの原作本は、本来は全部で4部構成の作品でした。

リチャードが何らかの理由により第4部を封印して世に出していたもので、その理由は明らかにされていませんが、その第4部の部分に何か気に入らない部分があったとか、いずれはその部分を元に続編を出そうとしていたとか色々な説があるようです。

ところが、リチャードは、2012年の8月、自家用の飛行機を操縦してワシントン州のサンフアン島を飛行中、自機を電線に引っかけてしまい、飛行機は大破し、瀕死の重傷を負います。

このとき、76歳になっていたリチャードは、その後余儀なくされた入院生活の中でいろいろ想う所があったらしく、2014年2月にこの幻の第4部を含めた完全版を電子書籍形式で発表しました。

その理由は明らかにされていません。が、リチャード・バックは、「ジョナサン」ののちに、「イリュージョン」という小説を出版していて、私も読んではいないのですが、別の方のブログによれば、これは「現代のスピリチュアル本や自己啓発書をも凌駕する、示唆に富んだファンタジックな啓示書」だということです。

村上龍が翻訳し、2009年に集英社から出版されたようですが、そのストーリーは、町をまわっては、人を乗せて遊覧飛行するジプシー飛行機乗りの前に、自ら救世主を辞めた人物が現れ、飛行機乗りは好奇心から自分も救世主になる勉強を始める、といった話のようです。

人間の限界、生き方について語るこの本は、「かもめのジョナサン」よりもわかりやすく、ユーモアたっぷりに書かれているそうで、リチャードは過去に出版した「ジョナサン」もまた「人生訓」としてその封印されていた部分を解き放ち、これをもって老い先短い最後の花道を飾るものとしたかったのかもしれません。

また、「ジョナサン」を読まれた多くの人はその内容にスピリチュアル的なものを感じとるでしょう。もしかしたらリチャード自身もこうしたスピリチュアル的なことに造詣が深く、あるいは、飛行機事故による怪我の療養中に、あちらの世界から何等かの啓示があったのかもしれません。が、これはもう私の推測の域を出ません。

カモメD

この初版本の「かもめのジョナサン」のストーリーは概略すると以下のようです。

カモメのジョナサン・リヴィングストンは、食べることよりも空を飛ぶことに生き甲斐を感じるカモメでした。同じ群れにいる他のカモメが食べ物を漁っている間も、より速く飛ぶ方法を研究しており、飛ぶことは自由になることであり、それこそが真の生きる意味だとジョナサンは考えていました。

そんなジョナサンはやがて、規律を乱すとして群れを追放されてしまいます。しかし、ひとりになっても飛行術の修業に明け暮れていましたが、ある時、まばゆいほどの輝きを放つ二羽のカモメがジョナサンの前に現れます。そして彼らはジョナサンを「もっと高いところ」へと連れて行きました。そして、そこは実は天国でした。

この天国でジョナサンは、さらに進化し、これまでとは全く違う飛行法を学び、そして終には瞬間移動もできるようになります。こうして天国で真実を見出したジョナサンは、ふと思います。「地上にいるカモメに自分の知った真実を伝えられないだろうか」。そして、それこそが自らの「愛の証」だと考えるようになります。

こうして天国から帰ってきたジョナサンは、若いカモメと一緒に飛び、彼等に飛ぶこと意味を教えるようになります。そして教えられることはすべて教えたと考えた時点で、フレッチャーというカモメを後継者に任命します。そして、自らは仲間の元を去り、どこか別の場所を目指して、永遠の旅を続けていきます……。

この物語においては、とくに後半あたりからその内容がかなりオカルトめいてきます。ジョナサンが通常のカモメの飛行能力を遥かに超えた能力を身につけるあたりがそれで、これはもうすでに通常の鳥が空を飛ぶという次元を超えています。

実はこのほかにも、岩盤に激突したカモメを生き返らせる、といった「超常現象」が物語の中に登場しますが、仲間のカモメへの飛行法の伝授と言い、こうした死者復活の描写といい、どうも新興宗教の布教を連想させます。

このほか、ジョナサンが下界に戻るプロセスも単純には描かれておらず、やや込み入った経緯を経て地上に帰るという書き方をしており、こういうところなどは禅の影響を受けているのではないかと指摘する人もいます。

中国が発祥の「禅」においては、悟りにいたる道筋を牛に例え、そのステップを「十牛図」として著わしたものがその修業の中でよく使われますが、リチャード・バックはこの十牛図を見てこの部分を書いたに違いないと解釈する人もいるようです。

カモメC

問題の、この新しく加わった第4章ですが、ここには上のストーリーでジョナサンが仲間の元を去っていったあと、残されたカモメたちの間では、その教えだけが受け継がれる中で、ジョナサンの存在が伝説化され、神格化されていく様子が描かれているそうです。

教えが徐々に形骸化していく中で、新たな若いカモメが再び飛行実験を始めていく、といったことが書かれているらしいのですが、私もまだ読んでいないので、詳しいことはわかりません。

が、1970年代にヒットして、世界中に大きな影響を与えたこの作品の完結版が、今後どういう影響を与えていくことになるのか、はたまたまったく何の影響も及ぼさないのかは興味のあるところであり、今後も注意深くその後をみていきたいところです。

ところで、カモメ次いでに、思い出したのが、かつて「私はカモメ」と言った世界初の女性宇宙飛行士、ロシアのワレンチナ・テレシコワのことです。村井秀夫は「かもめのジョナサン」の心境になってオウム真理教に入信しましたが、テレシコワはどんな心境でこのセリフを吐いたのでしょうか。

しらべてみたところ、この「私はカモメ」は、ロシア語では、”Я чайка”と書き、これは「ヤー・チャイカ」と読みます。チャイカがカモメのことで、これにヤーをつけると、「こちら、チャイカ」という意味になります。

現在もそうですが、旧ソ連では、宇宙活動中の全ての飛行士が個人識別用のコールサインを付与され、テレシコワには「チャイカ」、すなわち「カモメ」という呼称が与えられました。

つまり、打ち上げ後のごく普通の事務的な応答が、女性宇宙飛行士の宇宙で発した最初の言葉とみなされた、ということになります。が、さらに調べてみると、このセリフは、テレシコワが乗り込んでいた宇宙船にかなり深刻な問題が発生したときに、彼女が繰り返し口に出したものだということがわかりました。

ワレンチナ・テレシコワは、1937年(昭和12年)にソビエト西部のヤロスラヴリ州の小さな村、マスレンニコフに生まれました。学校を卒業後、通信制教育で学んだ後、織物工場で勤務しましたが、職場では旧ソ連共産党青年組織のリーダーを務めていました。

また22歳のころから地元の航空クラブでスカイダイビングを行っていたそうで、その後の宇宙飛行士の素養もこの織物工場時代に得たもののようです。30歳のとき、ソビエト初、また世界初となるはずの女性宇宙飛行士の候補に選抜され、400人を超える候補の中から選抜された5人の1人となります。

カモメB

しかし、旧ソ連では敵対するアメリカをはじめとする西側諸国にこうした事前段階での情報が漏れるのを恐れ、テレシコワに宇宙飛行士に選抜されたことを、家族にさえ打ち明けることを禁じていました。このため、彼女の家族がこの偉業を知ったのは、政府が全世界に向けて宇宙飛行を行った事を発表してからだったそうです。

宇宙飛行士に選ばれたのち、およそ一年の訓練期間を終えた彼女は、1963年6月16日、ボストーク6号に単独搭乗して70時間50分で地球を48周する軌道飛行を行い、史上初の女性宇宙飛行士となり、また初の非軍人宇宙飛行士となりました。

そもそものボストーク6号の打ち上げの目的は、宇宙飛行中の女性の体の反応のデータを集めるのが目的でした。しかし、彼女もまたこの飛行中、それまでの男性宇宙飛行士と同じように飛行記録をつけ、写真を撮り、宇宙船を操縦して「宇宙科学者」としての役割をこなしました。

彼女が撮影した宇宙の日の出の写真は、後に大気中のエアロゾル層を調査するために大変重要なものになったといい、彼女に対する評価は、単に宇宙に行って帰って来ただけという「運転士」としての行為だけでなされるものではありません。

ところが、順調にミッションをこなしていたとされるこの飛行は、実は彼女にとってはかなり過酷なものであったらしいことが、最近明らかにされています。実は、テレシコワはこの飛行中、宇宙酔いや酷い月経などに苦しめられ、この積み重ねにより更にはヒステリー状態になり、無線を通じて地上に助けを求め、叱られるまで泣き続けたといいます。

一時はパニック状態になり、心神喪失状態に陥ったとも言われており、その原因となったのは、彼女が乗船していたボストーク6号の軌道への打上げプログラムに間違いがあったことでした。

プログラムにバグがあっため、打ちあげられたロケットは遠くまで飛びすぎ、これによって彼女が乗っていた船は本来とは異なる軌道上に投入されたのです。場合によっては、戻ってこれない危険性もあり、初日に早くもそれに気付いたテレシコワは、それを素早く理解し、地球に報告しました。

このため、地上側もこのミスに気づき、帰還のためのプログラムを修正し始めましたが、テレシコワにはいつまでたってもその成果が報告されませんでした。帰還間際になって、ようやく指示が届き、彼女はようやく軌道の修正を始めますが、宇宙船をうまく誘導することができません。

しかも、降下が始まる直前には突然通信も途絶えてしまい、パニック状態となった彼女は、意識朦朧となってヘルメットの中で嘔吐を続け、このとき、通信マイクに向けて連呼したのが、「私はカモメ」、「私はカモメ」でした。つまり、こちらテレシコワ、応答どうぞ、応答どうぞ、と地上に向けて助けを求め続けていたのです。

ところが、彼女がパニくって通信を始めたとき、実は通信装置は正常に戻っていました。ただ、彼女はあまりにもパニック状態になっていたため、このとき地球の管制センターとの連絡ための通信チャンネルを間違えてセッティングしてしまいました。

このため、彼女が発した「ヤーチャイカ」の連呼は管制室には届きませんでしたが、この違うチャンネルで発せられた電波は、意外な人々にキャッチされました。

それが、地球のあちこちに基地局を持っていたアマチュア無線家たちであり、かれらは、ロシア語の辞書を引き、このヤーチャイカの意味を「私はカモメ」であることを知ります。そして、彼等はこれを聞いて、世界初の女性飛行士となったテレシコワが歓喜のあまりにこれを連呼しているのと勘違いしてしまいます。

これがのちに、「私はカモメ」として陽気に振る舞うソビエトの女性宇宙飛行士、テレシコワの偶像を創る原因となりました。彼女にとっては、誇らしげに私はカモメ、と叫んでいたわけではなく、このヤーチャイカは、「お願いだから私を助けて」という悲痛な叫びだったというわけです。

その後、彼女もこの通信ミスに気付いて、地上とも連絡が取れるようになり、また制御プログラムのエラーも修正されて、彼女は無事に地球に帰還することができました。

ところが、彼女が着陸したのは西シベリア南部のアルタイ地方の西方の農場でした。ここにパラシュートで落下してきた彼女の船には、強い風が吹きつけ、テレシコワはもう少しで湖に落下するところでした。また、この時期のシベリアは、6月といえまだ極寒季を脱しておらず、早朝であったため現地の気温は氷点下でした。

しかも、着陸地点は、当初想定していた地点から数十キロも離れており、管制センターはこの着陸位置を把握できませんでした。こうして、テレシコワは救助隊が来るまでのこの間、不安が積もらせながら冷気の中で待ち続けることになり、ようやく救助隊に見出されたのは着陸完了から2時間も経ったあとでした。

カモメA

しかし、テレシコワは、こうした自分と当局の失態を、その後長いあいだ隠し続けました。が、ごく最近このことを明らかにし、このときのことを、自らこう語っています。

「……問題は、着陸ではなく、着陸したとき、彼は私に、そのことを他言しないように頼んできたことでした。私は誰にも話さないと約束しましたが、その後、秘密は他のところから明らかになってしまいました。私が約束を破ったのではありません。」

この「彼」とされるのが、ソビエト連邦の初期のロケット開発指導者セルゲイ・コロリョフで、のちに世界初の大陸間弾道ミサイル(ICBM)であるR-7を開発したことでも有名な人物です。

R-7は核弾頭をペイロードや宇宙船に替えて宇宙開発にも使用され、1957年に世界最初の人工衛星スプートニク1号を打ち上げ、テレシコワの快挙の2年前の1961年には世界初の有人宇宙飛行としてユーリイ・ガガーリンを宇宙に運びました。

このため、コロリョフアメリカのヴェルナー・フォン・ブラウンと並ぶ米ソ宇宙開発競争の双璧を成した人物と言われています。

このテレシコワの宇宙飛行において、彼女が相当なパニックを起こしたことはその後大きな問題として取り上げられました。このため、その後長らくソビエトでは、女性飛行士の採用が敬遠され、2人目の女性宇宙飛行士であるスベトラーナ・サビツカヤが飛行するのはさらにこの19年後のことでした。

その後、テレシコワは、ジュコフスキー空軍大学に入学し、32歳で宇宙工学の単位を得て卒業しました。さらに40歳で工学博士号を得ますが、一方では、ソ連邦最高会議の一員であるという側面も持ち、52歳までは同会議の常任幹部会の一員でした。

しかし、ソビエト崩壊後、1997年、60歳のときに大統領令により、空軍と宇宙飛行士隊から引退しました。プライベートでは、26歳のとき、同僚の宇宙飛行士であるアンドリアン・ニコラエフと結婚し、一人娘のエレナを産んでいます。しかし、この結婚は政治的な結婚であったらしく、45歳で離婚、後に再婚しています。

が、2人目の夫であるシャポシュニコフ博士は、彼女が62歳の時に死去しており、現在は独身です。3年前に実施されたロシアの下院選には、プーチン首相率いる政権与党統一ロシアから出馬・当選を果たしており、ソ連邦最高会議時代以来、久々に政界に復帰することとなりました。現在77歳の宇宙バーさんは今でもお元気のようです。

1965年10月には日本社会党の招待により、最初の夫ともに夫妻で来日していますが、このときはまだ、「かもめのジョナサン」は世に誕生していませんでした。

テレシコワが乗っていた、再突入時のカプセルは、50年以上を経た今もモスクワ近郊にあるエネルギア博物館に展示されているそうです。ボストーク計画の最後の飛行物となったこの機体は宇宙開発の黎明期を物語る貴重な遺物であり、いつかロシアに旅する機会があったら、実際にどんなものであるのか見てみたい気がします。

が、おそらくモスクワのような寒い場所にはカモメはいないと思います。しかし、もしたくさんいたら、そのうちの一羽はきっとカモメのジョナサンに違いありません。

では残りのカモメたちの名は?

そう、答えは「カモメのミナサン」です。

視線

蚊禁(カキーン)

2014-38987月も後半に入り、そろそろ夏本番の感があります。

梅雨明け宣言こそ出てはいませんが、ここ伊豆では連日良い天気が続き、山の上の我が家でも気温が30度を超えることもあり、庭仕事などしようものなら汗だくだくになります。

汗に加えて、この庭仕事を邪魔する最大の敵は「蚊」です。この別荘地にはなぜか藪蚊が多く、この時期に虫よけスプレーをしないで庭に出ようものなら、手やら足やらをしこたま刺されて真っ赤になり、かゆいことこの上ありません。

蚊によく刺されやすい血液型の人と、刺されにくい血液型の人があると言われます。一般的には、O型が刺されやすく、A型が刺されにくいとされているようですが、A型の私がこれだけ喰われるのですから、この説はウソに決まっています。

実際、蚊にさされやすいかどうかをABO式血液分類を基準にする科学的根拠はなく、蚊の吸血行動に影響を与えそうな血液型由来の物質も、現在のところ知られていないようです。これらのことから、現状では刺されやすい血液型と、刺されにくい血液型があるという説は、科学的に否定的な見方が強いようです。

逆に科学的に実証されているのは、蚊は二酸化炭素の密度が高いところや、周りより温度が高いところへ向かう習性があるということです。蚊は、血を吸おうとする生物の体温や匂いとその周りとの二酸化炭素の密度の違いなどで血を吸う相手を探しています。

なので、体温が高く、呼吸回数が多い、つまり新陳代謝が激しい人は特に刺されやすいということになります。また、普段は刺されにくい人でも、新陳代謝量が増える運動をした後や、ビールなどを飲んだ後は刺されやすくなります。これはお酒を飲むと、体内でのアルコールの分解により体から出る二酸化炭素量が増え、蚊に刺されやすくなるためです。

このほか、ヒトは加齢とともに可聴音の範囲が徐々に狭まり、蚊が出す高音域の羽音を聞き取ることができにくくなるそうです。“キーン” “ブーン”という音が聞き取りにくくなり、蚊が近づいているという認識ができず、刺されやすくなるといいます。

さらに、黒色の服は熱を吸収しやすいため、黒い服を着ていると刺されやすくなり、白色の服は熱を吸収しにくいので、刺されにくくなることがわかっています。しかし、じゃあ黒人や白人より蚊に刺されやすいのか、という疑問が生じます。これについても調べてみましたが、傾向としては一応あり、ということのようです。

もっとも、アフリカなどの暑いところに住む黒人は外部での生活にも慣れており、強靭な皮膚を持っていると思われるので、そもそもあまり蚊には刺されないのではないでしょうか。推測ですが。

また、人間以外の動物も蚊に血を吸われるそうですが、多くの動物は人間よりも毛が多いので、なかなか皮膚にまで達することはできにくいようです。しかし、皆無ではなく、飼い犬などでは、蚊を媒介してフィラリアという寄生虫が移るそうで、愛犬家の中には月1で予防薬を飲ませている人もいるそうです。

蚊は伝染病の有力な媒介者であり、このフィラリアのような線虫病原体のほか、マラリアなどの原生動物病原体、黄熱病、デング熱、脳炎、ウエストナイル熱、チクングニア熱などのウイルス病原体を媒介します。日本を含む東南アジアでは、主にコガタアカイエカが日本脳炎を媒介し、最近は地球温暖化の影響で発生範囲が広くなっているといいます。

媒介の対象となる生物はヒトを含む哺乳類以外には鳥類が多く、このほか爬虫類・両生類・魚類からも吸血する種類の蚊もいるそうです。

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この蚊は、全世界には35属、約2500種も存在するといいます。蚊の最も古い化石は、1億7,000万年前の中生代ジュラ紀の地層から発見されているそうで、つまりは人間が誕生する以前からこの地球にいる大先輩です。

だからといって尊敬の念をもって接しようとは思いもしませんし、だいいち頼みもしないのに接してくるような無礼な奴と親しくなんかしたくありません。むしろ、「人類の敵」として撲滅したいくらいです。が、そのためには相手を良く知る必要があります。

この蚊の体重はわずか2~2.5mgですが、飛行速度は約1.5~2.5km/hほどもあります。通常でも1秒間に520回以上羽ばたいて、結構機敏です。さすがに吸血後は体が重くなるため飛行速度は落ちますが、血を探して飛翔する距離は思いのほか広く、行動圏の広さは種によって様々ですがコガタアカイエカの通常の1日の行動範囲は1km程度といわれています。

しかし、中には1日で5kmのほどの距離を飛ぶ個体もあり、どうやって調査したのかわかりませんが、ある調査では和歌山県の潮岬南方500kmの海域において、本土から飛んで行ったと思われるコダカアカイエカが確認されたそうです。

これは風速を考慮すると高知県から24時間、あるいは静岡県から19時間で到達したと考えられるといいます。だとすると、風に運ばれたとはいえ、時速20キロにも及ぶ速度で移動したということになります。

それにしても、そもそもなんで、蚊が血を吸うのかですが、これは蚊のメスが卵を発達させるために必要なタンパク質を外部から調達したいがためなのだそうです。ただし、オスはメスと違い、血を吸うことはありません。

メスの蚊は、その吸血のために顎の部分が発達して長くなっており、その先端の鋸歯で相手の皮膚を切り開き、さらにその針のような長い顎を侵入させ、毛細血管を探り当てます。

その上で、吸血をさらに容易にするため、自らの体内で生成した特殊な「生理活性物質」を含む唾液を相手の血管に注入し、その上で吸血行為に入ります。この特殊な唾液は血液の中の血小板が凝固してしまうことを防ぎます。この抗凝固作用がないと、蚊が吸い上げた血液は自らの体内で固まってしまい、蚊自身が死んでしまうためです。

ところが、この蚊が出した唾液を、血液ごとすべて回収してくれればいいのですが、通常蚊に喰われた相手の体内にはこの唾液が少量残ります。そしてその相手がヒトである場合は、とくにこの唾液が人体にアレルギー反応を引き起こし、その結果として血管拡張などにより、いわゆる「痒み」を生じさせるのです。

この唾液は本来、吸引した血とともに蚊の体内に戻されます。従って、蚊に吸いたい放題吸わせてやり、ほとんどの唾液を血液とともに戻させてやれば、体内に残る唾液も少なくなります。従って、この場合の刺された箇所の痒みは、唾液が戻されなかった場合よりは軽度になります。

逆に、蚊に刺された瞬間と気づいてピシャっと叩き潰した場合は最悪です。唾液が注入されたばかりであった場合はそのほとんどが体内に残り、強い痒みを引き起こします。蚊を叩き潰すことは、注射と同じです。刺さっていた口器を通して蚊の体内からポンプのように唾液が押し込まれ、唾液が体内へ流れ込むことをより促進することになります。

ただし、これを叩くのではなく、指で弾き飛ばすようにすると、痒みを減らすことができるそうです。その場合、蚊を取り逃がすことになってしまいますが、痒みを減らすという意味ではこれは効果がありそうです。

不幸にも刺されてしまった場合。これはもうどうしようもなく、血液中の蚊の唾液を中和してくれるような薬剤はないそうです。従って、抗ヒスタミン成分を含んだ軟膏や液薬を塗布して炎症を抑えるだけ、という対処療法にならざるを得ません。

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刺されてしまう前の対処法としては、やはり蚊がまだボウフラのころに駆除するのが一番です。蚊の蛹はとくにオニボウフラ呼ばれ、これは漢字で「鬼孑孒」と書きます。これは胸から伸びた呼吸管が鬼の角のように見えることに由来します。この呼吸は胸の「ホルン」と呼ばれる器官を使って行います。

蚊の卵はヤブカ類では水際に、オオカ類やハマダラカ類では水面にばらばらに産み付けますが、イエカ類では水面に卵舟と呼ばれるボート状の卵塊を浮かべ、数日のうちに孵化します。

産み付けられた卵や幼虫は「産卵誘因フェロモン」なるフェロモンを放出するそうで、卵や幼虫がいる水ほど他の蚊が産卵しやすいそうで、つまりは類は友を呼ぶということになります。従って、蚊の増殖を防ぎたかったら、まずは水溜まりを徹底的になくすことが必要です。

竹藪の中は蚊が多い場所としてよく知られていますが、これは竹は折れたり切り取られたところに雨水が溜まりやすいためで、蚊はこうしたところを好んで卵を産みます。我々が棲む別荘地内にもあちこちに竹藪があり、おそらくはこうしたところを中心にボウフラが発生しているのだと推測されます。

蚊は、一生のうちで、卵→幼虫→蛹→成虫と変態します。卵から蛹までの期間は種や温度によって変わり、イエカの場合は、だいたい20℃の環境では14日で成虫になります。25℃の環境では10日となり、つまり温度が高いと早く成虫になりやすくなります。

他の昆虫の蛹と同じく蛹になったら餌はとりません。が、蛹としては珍しく幼虫と同じくらい活発に動きます。蛹になる前の幼虫の時代をボウフラと呼びます。全身を使って棒を振るような泳ぎをすることから、「棒ふり」が転じてこう呼ぶようになったともいわれ、地方によってはボウフリとそのままで呼ぶところもあるようです。

ボウフラの呼吸管の近くには鰓のようなものがありますが、これは呼吸のためではなく、塩分の調節に使われると考えられているようです。つまり、海に近い海水が溜まったような場所でも育つことができるわけです。なかなか賢い奴です。

トウゴウヤブカにみられるように、海水が混じるため海浜部にある岩礁の窪みの、しばしば高い塩分濃度になる水たまりにも生息するものも知られています。

また、ボウフラは定期的に水面に浮上して空気呼吸をしつつ、水中や水底で摂食活動を行います。水中や水底の微生物の死骸や細菌類などを食べますが、大型の蚊の幼虫は他の蚊の幼虫をも捕食するそうです。

微生物の死骸や細菌がたくさんある場所というのは、一般には流れのない汚れた沼や池などのように、底に何等かの沈殿物があるところであり、ボウフラはこうした場所をとくに好みます。

ところが、ハマダラカの一部などで知られるようにきれいな水を好むものもおり、それ以外にも水たまりや水の入った容器の中など、わずかな水場でも生息するものがいます。このことからも、ともかく蚊を駆除したかったら、まずは家の周りの水溜まりという水溜まりを徹底的に排除することが肝要です。

ただ、逆にこうした水溜まりを人為的に多数作り、ここに積極的に卵を産ませた上で、ボウフラに育つ前に、それを捨てる、という行為を繰り返すことで、蚊の増殖を防ぐという方法もあるようです。これを町ぐるみでやった結果、蚊の数が激減した、という例もあります。

また、蚊に卵を産ませるトラップも売られているそうで、これは蓋の付いたバケツ状の罠で、この中に入れた水に蚊が卵を産みボウフラになりますが、成虫が出ていく出口がなく、蚊の繁殖行動が失敗に終わるというものです。

自作することもでき、ペット・ボトルなどが使えそうですが、実際にそうしたものの作り方がNHKでも紹介されたことがあるそうです。

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また、ボウフラは環境の変化には弱く、水質が変化したり、水がなくなったりすると死滅しやすいほか、流水には卵を産みつけません。従って、庭に池などを設けた場合は、ポンプなどを使って中の水を常に循環させると蚊が卵を産みにくくなります。水に銅ファイバー、繊維状のものを入れたら9割が羽化せずに死滅したという実験結果もあります。

ただ、渓流のよどみを主な生活場所とするような特殊な環境で成長する種類もおり、このほか樹木に着生した葉の間にたまった水、食虫植物の捕虫器内の水、波打際のカニの巣穴内などで成長する種類もいるといます。従って、ともかく蚊を駆除したかったら水という水をなくすということに尽きます。

このほか、ボウフラは空気を呼吸するのに尾端にある吸管を使用します。が、ハマダラカ類では呼吸管がないため、体を水面に平行に浮かべて、背面の気門を直接水面に接して呼吸します。

いずれにせよ、水面に出て空気を吸う必要があることから、例えば水面に油を浮かべれば空気が吸えなくなって死滅します。もっとも水溜まりに油を流すというのは、水を汚すことになりますし、あまり好んでやる人はいないかもしれませんが。

このように蚊の発生を防ぐためには、まずは卵を産み付ける水環境を徹底的に排除するか、あるいは改善することが必要です。が、我が家の周辺のような自然豊かな場所ではそういう場所を徹底的に潰す、といことは逆に自然破壊にもつながりかねません。

このため、蚊を食べる特別な動物を「天敵」として使うという手もあります。トンボやクモはよく知られた蚊の捕食者であり、積極的に蚊を食ってくれます。トンボの幼虫のヤゴは水中で蚊の幼虫を食べ、成虫のトンボは成虫の蚊を食べるので、トンボさんは人間の強い味方です。

トンボは昼行性の蚊も良く食べるそうで、たとえばヒトスジシマカなどにとってトンボは有力な捕食者となりえます。従って、お子さんの夏休みの宿題だからといってトンボを捕らせるのはやめにしましょう。

さらにボウフラは淡水に住む肉食性の小型魚類にとって格好の餌であり、古くから池にフナや鯉を入れるのは、蚊の幼虫を捕食させるためです。このほか、最近減っているといわれるメダカやウナギの稚魚などもボウフラを良く食べてくれます。

ところが、このメダカに代わって日本で爆発的に増えているのが、北アメリカ原産の「カダヤシ」です。メダカにもよく似ていますが、こちらもボウフラをよく食べてくれるそうなので、その増殖は痛し痒しといったところです。

一方、蚊を遺伝子操作で殺そうという試みも最近試されているそうです。イギリスのロンドン大などの研究チームが、蚊の遺伝子に、雌の蚊が生まれてくるのに必要なX染色体が正常に働かなくなる遺伝子を組み込んだところ、通常は生まれてくる蚊の雌雄比率が50%ずつなのに対し、遺伝子操作を行った場合は雄が95%を占めるようになりました。

また、遺伝子を組み換えた雄50匹と、通常の野生の雌50匹をケースに入れて飼育したところ、世代交代とともに雌の不足のため繁殖できなくなり、6世代以内に全滅したといいます。

研究チームは、「マラリアを撲滅する革新的な手段だ」と主張し、この成果が伝えられると、ツイッターや掲示板などでは「ゴキブリにも応用できないか」などと歓迎する声がみられました。ところが、しばらくすると、「蚊はいなくなってほしいけど別の生きものに影響がありそうだ」「いやな予感がする」といった、否定的な意見が出てくるようになりました。

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「蚊や幼虫のボウフラを食べる生物が困る」「小型の鳥類や昆虫類、魚類などが激減する」などという生態系への悪影響に対する懸念を示す投稿も多くなり、また「マラリアで死んでいた有害な獣類が大繁殖するかも」という指摘もありました。

かつて、人間に有害な種を絶滅させたことで、大きな弊害が出た例としては、中国の文化大革命における大躍進政策があります。この政策では、農作物を食い荒らすスズメを大量に殺すなどしましたが、結局、スズメに食べられていた害虫が大量発生して、農業生産に壊滅的被害が出ました。

遺伝子操作による蚊の発生の抑制について否定的な人の中には、雌の誕生を阻害する遺伝子が、マラリア原虫のような媒介生物経由で別の生物に取り込まれ、蚊以外の生物でも雄ばかりが増える可能性もある、と言う人もおり、遺伝子を操作する手法そのものの危険性が指摘されています。

一つの種だけを絶滅させることに対しても反対の声が多く、遺伝子操作をどうしてもやりたいなら、それならいっそこれを人間側で行い、蚊が吸いたくなくなるような血液にすればいい、という人までいるくらいです。

ただ、ハマダラカなどを媒介物とするマラリアなどの伝染病は、地球温暖化の関係からか世界中の熱帯・亜熱帯地域で増え続けており、1年間に3億人以上が感染し、年々150万人上が死亡していると推測されています。 

日本でもかつて土着マラリアが存在しましたが現在では絶滅しています。しかし海外から帰国した人が感染した例が年間100例以上あるといい、けっして対岸の火事というわけではありません。

温暖化や自然災害などにより環境が著しく変化した場合は蚊が増え、再び流行を起こす可能性もあることが専門家からもたびたび指摘されているところです。従って、すぐに実施に移すかどうかは別として、遺伝子操作のような対策は、日本においてもある程度は研究していく必要がありそうです。

もっとも、当面は日本でのマラリアの爆発的な蔓延はなく、蚊対策としては、上述のような大々的な駆逐まではせずとも、昔ながらの蚊取り線香がのような殺虫剤があればまァ、なんとか我慢できるか、というレベルでしょう。

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この蚊取り線香を発明したのは、和歌山県出身の上山英一郎という人です。主に明治を生きた人で、実家はミカン農家として有名な農家だったそうです。

慶應義塾(現・慶應義塾大学)へ入学中に、サンフランシスコで植物輸入会社を営んでいたアメリカ人が福澤諭吉の紹介状を携えて訪ねてくる、という出来事があり、このとき、上山はこの人物に竹、棕櫚、秋菊などの珍しい植物を進呈し、その見返りに除虫菊の種子を譲り受けました。

これをもとに除虫菊の栽培研究を開始し、その栽培技術を確立したのちは全国各地を講演して回り、この種の普及に努めるようになります。1890年(明治23年)、仏壇線香からヒントを得て、持続時間1時間程の棒状の蚊取り線香を考案、発売したところ、これが大ヒット。

しかし、持続時間が短かったことから悩んでいたところ、ある時、彼の奥さんのある経験から「渦巻き型にすればよいのでは」というアイデアを得てその改良に着手します。この奥さんは、倉の中でとぐろを巻く蛇を見て驚きますが、夫の元に駆けつけそのことを告げたのがその発想の元だったといいます。

このデザインにすると、燃焼時間が長くなり、かつ嵩張らずに蚊取りを作ることができます。渦巻きを解きほぐすとその全長は75cmにも達し、一度の点火で7時間使用できます。また、従来のような棒状のものでは何かに立てて使わなければならなかったものが、吊り下げた状態で使えるようになったため安全に取り扱えるようにもなりました。

ただ、生産方法に難があり、その改良に時間がかかり、実際に日本初の渦巻き型蚊取り線香「金鳥」が発売開始されたのは、1902年(明治35年)になってからでした。上山はそれまでの功績からその後、藍綬褒章、勲六等瑞宝章を受章し、死後もその遺徳を称えられ広島県の尾道市にある「除虫菊神社」の神として祀られているといいます。

なぜ広島なのかといえば、1886年(明治19年)英一郎が初めて除虫菊を植えたのがこの尾道市内であり、ここが日本の除虫菊の発祥の地のためです。第一次、二次の二つの世界大戦の戦間期には、この広島をはじめとし、和歌山、愛媛、香川、岡山、北海道などに生産が広がり、特に瀬戸内海沿岸各地の段々畑で多く栽培されました。

第二次世界大戦中までは日本が世界一の生産国でしたが、戦後は食料増産が必要となり栽培面積が激減しました。また、殺虫剤としてピレトリン類似化合物のピレスロイドという化合物が使われるようになると、日本では産業用としての栽培は行われなくなりました。

従って、現在我々が使っている蚊取り線香は、化学合成された殺虫成分が含まれているものであり、昔ながらの徐虫菊由来のものではありません。ただ、ケニアなどではいまだ殺虫剤の原料として除虫菊が栽培されてはいるそうです。

最近ではさらに電気蚊取り器が普及したため、この蚊取り線香そのものもあまり使う機会もなくなりました。が、やはり昔ながらのブタさん蚊取りは風情があり、ウチでもときおり使って、煙がたなびくそのさまを見てを楽しんだりもします。

さて、週末です。今週こそは、ほったらかしにして伸び放題になっている庭の槇の木の剪定や、ツツジの整枝を行おうと思っており、その際の蚊予防にはやはり蚊取り線香が活躍しそうです。

野外で庭仕事をしている際の強い味方であり、電気蚊取りが普及した現在でも蚊取り線香はやはり欠かせません。これからも大事な友として愛していきたいと思います。

2014-2802