災害のデジャブ

2014-1140723昨日発生したチリでの地震による津波は、今朝方日本の太平洋沿岸の各地に到達したようですが、あまり大きなものにはならなかったようで、海に近いところに住んでいる方々はほっとされたことでしょう。

ここ伊豆にも注意報が出されているようですが、今のところこちらにも大きな津波が観測されたというニュースはないようです。

一番最近で、伊豆に大きな津波被害があったのはいつのことだろう、と改めて調べてみたところ、これは1854年12月(嘉永7年)のことだったようです。

12月23日(嘉永7年11月4日)にまず、「安政東海地震」が発生し、駿河湾から遠州灘を震源とするこのM8.4の地震によって、伊豆では沼津で被害が大きく、ここから伊勢湾にかけて死者2,000~3,000人の人的被害を出しました。

ところが、この翌日の2月24日(嘉永7年11月5日)にも、今度は「安政南海地震」が起きました。安政東海地震のわずか32時間後のことで、この地震は紀伊半島南東沖一帯を震源とし、同じくM8.4という規模でした。

この地震では、和歌山の串本で津波高さ15mを記録し、これによって死者数千人となりましたが、その被害は紀伊半島から四国、九州のみならず大坂市内にまでおよびました。伊豆でもとくに下田での被害が大きかったようです。

この二つの地震には時間差はあるものの、「東海・東南海・南海連動型地震」としてひとつにとりまとめて扱われることもあり、最近気象庁や地震予知連絡会議が想定した地震津波のモデル地震のひとつでもあります。

これらの地震は嘉永年間末に起きたわけですが、この天変地異や前年の黒船来航を期に、改元されて「安政」と改められました。なので、嘉永年間に起きた地震津波ではあるのですが、歴史年表上では安政元年(1854年)であることから安政を冠して安政東海地震・安政南海地震と呼ばれているわけです。

ところが、この年の地震はこれだけでは終わらず、更に安政南海地震の2日後には豊予海峡でM 7.4の豊予海峡地震が発生しています。また翌年には安政江戸地震(M 6.9~7.4)も起きており、おそらくは安政東海・南海地震の余震と考えるべきでしょう。

さらに最初の東海地震に先立つ8か月ほど前の5月(嘉永7年4月)には、京都の女院御所より出火があり、京都御所・仙洞御所が全焼したほか、今出川通・浄福寺通・烏丸通・椹木町通に囲まれた地域を広範囲に焼く大火となるなどの災害もあって、まさにこの年は日本にとっては大厄災の年でした。

こうした一連の地震はひとくくりにして「安政の大地震」とも呼ばれることも多く、また最初の東海・南海地震が起きた年がトラ年だったために、「寅の大変」とも呼ばれました。

今年もしこれと同じような大災害が起きたら、ウマ年なので、「午の大変」ということになるのですが、寅と違っておとなしい動物だけにいまひとつインパクトがありません。3年前の東日本大震災があった年に至っては、ウサギ年だったわけであり、これは「兎の大変」ということになり、もっと間が抜けています。

ところで、この大地震が起きた1854年という年がどういう年だったかといえば、その前年のペリー来航に次いで1月にはプチャーチンが軍艦4隻を率いて長崎に入港しており、2月には、ペリーが軍艦7隻を率いて江戸湾に再来航して、その翌月に日米和親条約が結ばれるなど、非常にあわただしい年でした。

4月には、吉田松陰が下田で黒船へ密航を試み幕吏に捕われるという事件がおき、5月には下田・箱館の開港を布告、10月になって今度はイギリスとの間に日英和親条約締結が結ばれるなど、近代日本における外交元年の年でもありました。

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その直後の12月に発生した2つの巨大地震は、四国の高知にも被害をもたらし、このときの土佐での死者は、372名と集計・報告されています。坂本龍馬はちょうど土佐に滞在していたらしく、その後日本の外交問題にも深くかかわることになるこの人物もこの大震災にさぞかし肝をつぶしたことでしょう。

明けて翌年1855年(安政元年~2年)には、先述のとおり、M7クラスの安政江戸地震がおき、この地震では津波は発生しなかったものの、大都市江戸の被害は甚大でした。

とりわけ日比谷から西の丸下、大手町、神田神保町といった谷地を埋め立てた地域では、大名屋敷が全壊するなど被害が大きく、小石川の水戸藩藩邸が倒壊して、水戸藩主の徳川斉昭の腹心で、水戸の両田と言われた戸田忠太夫、藤田東湖らが死亡しました。

また斉昭の婿である盛岡藩藩主南部利剛も負傷し、これら一連の指導者を失った水戸藩ではその後内部抗争が激化し、これがその後安政7年(1860年)におきた桜田門外の変へとつながっていきました。

江戸市中における死者は初回の幕府による公式調査では4,394人、10月中旬の2回目の調査では4741人であり、倒壊家屋14346戸とされていますが、これに寺社領、より広い居住地を有し特に被害が甚大であった武家屋敷を含めると、おそらくは死者は1万人くらいであっただろうと推定されています。

江戸城でも、幕閣らの屋敷が大被害を受け、将軍家定は一時的に吹上御庭に避難しました。幕府は前年の安政東海・南海地震で被災した各藩に対する復興資金の貸付、復旧事業の出費に加えて、この地震による旗本・御家人、さらに被災者への支援、江戸市中の復興に多額の出費を強いられました。

その結果、幕末の多難な時局におけるその財政を著しく悪化させることとなり、これが幕府の弱体化につながり、西国の強藩の台頭を促し、これが維新への機運をあおりました。つまりは、安政の大震災は、その後の日本の運命を大きく変えたと言っても過言ではありません。

その後の大正期の1923年(大正12年)におきた関東大震災もまた、日本の運命を変えた災害でした。

既に第一次世界大戦期のブームによる反動で戦後恐慌に陥っていたところへ、震災は更に追い討ちをかけることになり、多くの事業所が壊滅したことから失業者が激増し、その結果として昭和金融恐慌が起こりました。

昭和恐慌下で地方・農村部の疲弊が進みましたが、政治腐敗のはびこる国内の政党政治はこれら諸問題へ十分な対処を行うことができず、国民の信用を失いました。

その結果、軍部の台頭を招き、1932年には海軍将校らが犬養毅首相を射殺した五・一五事件や1936年に皇道派の青年将校が斎藤実内大臣と高橋蔵相を射殺した二・二六事件が相次いで起こり、政党内閣はついに終焉にいたります。

軍部主導での日本の満州への進出はここでの利権拡大を良しとしない列強国との対立を招き、日本は1933年には国際連盟を脱退、その後のアメリカへの戦線布告、太平洋戦争への泥沼とつながっていきました。

このように、近代といわれる時代に入って起きた大きな震災は必ずその後の日本の運命を変えています。ちなみに、東・南海地震(安政大震災)のあった1854年から、その後の関東大震災までは69年間であり、関東大震災から東日本大震災までの期間は88年です。

こうしたことから、もし仮におよそ70~90年くらいで歴史が変わるという法則があるのだとすれば、そろそろ日本も歴史的な大革新の時代に入るということも考えられなくはありません。

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その昔、TBSの正月番組で「関口宏の“歴史は繰り返す”」というのが毎年放送されていましたが、この番組の内容は歴史の中に「デジャブ」を見出し、過去と現在の類似する現象を対比して、未来の動向を探る、というものでした。

デジャブ(既視感)とは、実際は一度も体験したことがないのに、すでにどこかで体験したことのように感じることです。一般的な既視感は、その体験を「よく知っている」という感覚だけでなく、「確かに見た覚えがあるが、いつ、どこでのことか思い出せない」というような違和感を伴う場合が多いものです。

歴史の中にそれを見出すというのは、ようするにそれがいつどこでのことかよく思い出せないほど昔の出来事の中から、そうしたことを発掘していくことなのでしょう。

今から88年も前の関東大震災のころの記憶を持っている人は今の日本ではほとんどいないでしょうから、もしこの時代にその記憶を見出すとすればこれはまさにデジャブです。

が、案外と関東大震災後に起こったことが、今回の東日本大震災後に起こりつつあることに類似していることも多いかもしれず、それを比較検証して、今後の方向性を見出す、ということはわりと理にかなっているように思います。

現在の安倍政権の右傾化なども、関東大震災後の軍部の台頭と似ているといえなくもありませんし、関東大震災で概して被害の大きかった東京市・横浜市の市街地からは人口が流出し、郊外への移住者が相次いだことは、今回の地震で東北の人々の他地域への流動と重なるところがあります。

また関東大震災では、公共交通機関が破壊され自動車の交通機関としての価値が認識されたことにより1923年(大正12年)に13000台ほどだった自動車保有台数が震災後激増し、1924年(大正13年)には24000台に、1926年(大正15年)には4000台にまで増えました。

が、今回の地震ではクルマによる避難の脆弱性や津波に押し流されるその無力な姿が浮き彫りになり、逆に一層クルマ離れに拍車をかけるのでは、という気がします。

このほか関東大震災では、谷崎潤一郎など関東の文化人が関西に大勢移住して阪神間モダニズムに影響を与えたり、震災によって職を失った東京の天ぷら職人が日本各地に移住したことで江戸前天ぷらが全国に広まったといいます。

また、震災をきっかけに関東と関西で料理人の行き来が起こって関西風のおでん種が関東に伝わったりと、震災は文化面でも様々な影響を与えました。

案外と今回の地震によって日本の文化もかわりつつあるのかもしれません。しかも良い方向に。そのトレンドをうまく見いだせれば良い商売にもつながっていくかもしれません。

みなさんもここはひとつ、震災によるマイナスな部分だけを見つめるのではなく、震災によって変わりつつあるプラスの部分をみつめてみてはいかがでしょうか。

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金利とギャンブル

2014-11405544月になった昨日、退院してきたばかりの母も伴って買い物に出かけましたが、何か買おうとするたびに、??と思ってしまうのは、えっ、これってこんなに高かったけ?ということ。

たかが3%の値上げなのに、こんなにも値段が違うのか、とついつい思ってしまうのですが、おそらく前回消費税が3%から5%に上がったときも同じように感じていたはずであり、それが長らくの間に不思議とは思わなくなったことを考えれば、この税率の改正にもやがて慣らされていくのでしょう。

が、いずれはまたさらにこの消費税も上がるところとなり、2015年の10月からは今度はなんと10%になるということで、今回の増税はその前哨戦にすぎません。

10%ともなると、購入金額は対象とする商品の正味の金額の1割であり、ついつい、昔流行った高利貸しの金利である「トイチ」を思い浮かべてしまいます。

無論、利率は全く異なり、これは借入金利が「十日で一割の金利」の略で、年利365%の金利です。100万円を借りていると10日目に10万円の利子が発生し、このまま返済を行わずに20日目になると前回の10万円の利子にトイチの利子がさらについて121万円になります。

30日目には利子に利子がついて133万円になり、この調子で返済しないままでいると40日目には146万円、50日目161万円、と続いて行き、360日目には3091万円に達します

しかも、実際の借入に際しては、借入時に第一回目の支払利子を差し引いた形で支払われるので、100万円の借金契約を結んだ場合でも、90万円しか支払われません。これはすなわち100万円が欲しい場合には、112万円を借り入れたこととなります。

現在では利息制限法というのがあり、金融業では29.2%で、それ以外は109.5%が金利の限度となっているため、正式にはこうしたトイチによる融資をすることはできません。が、いわゆるヤミ金と呼ばれる違法金融業者は現在もいて、このトイチほどはひどくはないでしょうが、今もかなりの高金利での融資が実際に行われているようです。

自己破産したり、病気で仕事ができないなどの理由でやむを得ず闇金融に手を出す人々がいつの時代にも必ず一定数おり、闇金融側からするといい餌食となっている現状は今も続いています。このほかにも、客と業者ではなく、個人から個人への融資の形をとって貸し付けるといったケースも後をたたず、文字通りの「闇の世界」になっています。

最近あまりみかけなくなった、「質屋」ですが、ここでは現在でも法的にも利息制限法を超える109.5%の利息が認められているそうで、質屋として名目上許可を得るという「偽装質屋」も問題となっているそうです。

三年前の2010年(平成22年)には、出資法が改正され、利息制限法に定める上限金利は超えるものの出資法に定める上限金利には満たない、いわゆるグレーゾーン金利で融資を行っていた消費者金融(サラ金・高利貸し)業者の多くがこれによって大打撃を受けました。

おかげであのうっとうしい、初めてのア●●とか、ほのぼのレ××といったコマーシャルが街頭やテレビから姿を消し、ずいぶんと平穏になったかんじがします。

しかし、質屋を装った闇金融などはまだ摘発の対象となっておらず、こうした事態を抜本的に打開しようと活動を始めた自治体というのは、まだ岩手県と鹿児島県の2県ぐらいしかないそうです。

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実は、こうした闇金融とパチンコ業界は密接な関係があるようで、このグレーゾーン金利の撤廃がなされて以降、パチンコ業者の倒産件数が増えたそうです。この規制強化によって、賭博性の高い機器を交換する際の費用を消費者金融業者から調達することが困難になったことが原因のようです。

法改正の前には、地方都市の繁華街中心部や駅前などの一等地では消費者金融業者の看板が普通の看板を席巻し、どの街に行っても大手業者の巨大な看板が占拠しているといったことがよくあり、それぞれの街の持つ独自の景観が破壊されるということがありました。

それが最近はほとんどなくなりましたが、あいかわらずパチンコ屋は日本中にいまだあって、画一的で没個性的な街並みがつくられる原因のひとつとなっています。町の景観だけでなく、テレビのメディアにも頻繁に登場し、静岡県などではコン●●●●と称するパチンコ屋の宣伝がテレビ番組の合間を縫ってうんざりするほど流れています。

不況によって広告収入が減っているテレビ業界にとってはお得意さんなのでしょうが、消費者金融がはびこっていたころとどこか似ています。早々に自粛して、こうしたコマーシャルを流すのを撤廃したテレビ局は大いに世の人々に賞賛されると思うのですが、いかがなものでしょう。

消費者金融のCMが姿を消したのは、日本弁護士連合会などがテレビCMの中止を求める意見書を政府に提出したからだそうです。

これを受けて、2005年(平成17年)ごろから、テレビ局側も午後5時~9時までは放送しないとする方針を決定し、「借りすぎにご注意」などの警告表現のないものは規定不適合とされ、放送が不可能になりました。

こうした規定によって長らく放送されていた業界間で内容が似通った「コミカルなストーリー」「ポジティブな演技」で一般受けを狙っていた大量のCMが姿を消し、これを機に自動契約機のCMも姿を消しました。

さらに、翌年の2006年(平成18年)からは午前7~9時、午後5~10時までといったゴールデンタイムでの放送ができなくなり、午後10時から深夜0時までの時間帯における放映数上限は50 本に制限され、しかも各社のCMをそれぞれ月間100本までに制限することになりました。

これによってあのうっとうしい消費者金融のCMはようやく姿を消したわけですが、同じような処置をパチンコのCMについてもぜひやってほしいと思います。

とはいえ、そうした表面上の対策をとったところで、闇の世界の業師たちの暗躍は消え去ることはけっしてないのでしょう。

いつの時代にも金利で暴利をむさぼる輩ははびこるものであり、金利を取る商売を禁止するとしたら、銀行などもすべて撤廃しなければなくなってしまいます。

が、モラル、というものがいつの世にもあってしかるべきであり、消費税のアップが次々と行われるこれから数年の間、そうした道徳的規範や倫理といったことが希薄になっていくことが心配です。

江戸時代の日本は、儒教のひとつである朱子学を中心に仏教や神道などの影響を強く受けての道徳が形成され、武士道では、「上を敬い、下を導く」といった上下関係を重んじる傾向が強く、また一般でも君に忠、親に孝の率先が美徳とされました。

明治以降、文明開化とともに、西洋の価値観が移入され、道徳も変容しましたが、明治政府が統一国家としての共有道徳を創生しようと努力した結果、現在においても多くの日本人が無意識にこの江戸時代の伝統道徳に従って行動しており、これこそが日本人の倫理観だといわれています。

「日本型管理社会」の形成の要因は、この道徳によるところが大きいわけであり、人格形成を重視することこそが、日本の道徳の特徴です。

そうした人格形成の重視傾向が損なわれているところが、ウソがまかり通る最近の殺伐とした世相を生み出しているともいえ、かつての消費者金融の蔓延、現在のようなギャンブル産業の繁栄もその延長にあるような気がします。

欧米の多くの心理学者や道徳哲学者は、道徳心が発露されるには他者への共感が必要であると主張しており、共感は、他者を同じ共同体の一員であるとみなすことによって起きます。

金利やギャンブルで人からお金を搾取する風潮が蔓延しているいまこそ、日本古来のこの道徳教育の復活と、この欧米の「思いやり思想」を合体させた新しい倫理観を築くべき時代が来ているのではないでしょうか。

2014-29

正のウソ負のウソ

2014-1140635
4月になりました。

今日4月1日はエイプリルフールとうことで、嘘をついてもよい、ということのようですが、正直者の私としては、ウソはつきたくありません……

……てなことを言っていること自体が既にウソなわけであり、生まれてこのかたいったいどのくらいこうしたウソを突き通してきただろうと思います。

がしかしおそらくウソをついたことがない人はいないのではないでしょうか。それくらいウソというのは生きていくために必要なものであり、「必要悪」でもあります。

フィクション作品では、読者や観客を楽しませるために作品に嘘が混ぜられていて、事実ばかりを組みあわせて作り上げた作品では、読者や観客になかなか楽しんでもらえません。

登場人物の人物像あるいはストーリー展開についてなにがしかの嘘を混ぜて作品に仕上げてゆく、というのは当たり前のことであり、NHKの大河ドラマなどでも、一応は史実に忠実にということで、時代考証がなされ大枠では史実から離れないように制作しようとしてはいますが、事実だけでドラマ作品を作っても全然面白くなくなってしまいます。

なので、台詞や殺陣や効果音等々等々、なにがしかの嘘をまぜて事実より強調したほうがかえって「リアル」に感じられる作品になるということで、いろいろアレンジされたものをある程度ウソとしりつつ、我々は楽しんでいます。

フィクション作品では事実と嘘の配分、「本当」と「嘘」の混ぜ加減が作家やクリエイターらの腕の見せ所であり、それゆえに、こうした芸術家さんたちはいかにウソをつくのが上手かによってその力量が試されるのでしょう。

このように、多くの人はある程度の言い訳や責任転嫁などの嘘は無意識的、日常的に行っており、これは学問的・精神医学的に言えば「正常」の範囲内です。

ただしそれも常識的な範囲を超えたり、統計的に見て一般的な範囲を逸脱するような程度になると、心理学・精神医学的には「虚言癖」や「作話症」などに分類されるようになります。

先日来世の中を賑やかせている作曲家さんはその最たるものであり、ウソかまことかが取沙汰されている理化学研の女性博士もまたこの分類に属すのかもしれません。

嘘をつく動機や技術、事実との関係などによって、嘘は正負、両方の効果を及ぼしますが、負のウソをついてはいけません。

得をしようとして数字をごまかすことを「サバを読む」と言いますが、これは鯖が大量に捕れすぎたとき、漁師や魚屋が腐る前に売りさばこうと、数もろくに数えなかったことに由来するといわれています。

自分の年齢について嘘を言うことは「年齢詐称」と言いますが、これは正負のどちらに属するかというと微妙なところです。が、テレビなどで大幅に年齢をごまかしていたタレントさんが、そのウソがばれたあげくに大バッシングを喰らったりすることなどがあるところをみると、年齢のサバ読みはやはりあまり良いことではないのでしょう。

ウソも、悪徳マルチ商法や悪徳キャッチセールスなどのように「詐欺」といわれるようなものになると、明らかにこれはマイナスのウソであり、被害者が生じることから法律によって罰せられます。

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そう考えてくると、そのウソが正負のどちらに属するかというのは、自分だけが悦に入っているうちはいいけれども、他人に何等かの被害を及ぼすものに至って、はじめて負のウソになると考えることができます。

一方では、欧米では、聞いたとたんに明らかにウソとわかるような話をして、それが嘘だと互いに十分に知っていることを確認しあって楽しむ、という風潮があるようで、これはまちがいなく正の範疇のウソでしょう。

私も留学時代にまるでホントのようなことをいう教授のウイットに富んだウソによく楽しまされました。こうした上手なウソを日本人もつけるようになるといいな~と思うのですが、生真面目な日本人には少しハードルが高いのかもしれません。

では、ヒト以外の動物は嘘をつくことがあるのでしょうか。

あります。ウソではなく、ホントにあるようで、例えば昆虫などが葉っぱやその他の自然物に化けてるいわゆる「擬態」は他のもののふりをして他の生き物をだますことです。

鳥類においても疑傷行動というのがあるそうで、これは例えば卵や雛をもつ親鳥が、近づいた外敵に対してけがをしているかのような動作をとり、注意を自分の方に向けつつ移動して、外敵を卵や雛から遠ざけてしまう行動です。シギ・チドリ類、カモ類、キジ類など,地上に巣をつくる鳥でよく見られるそうです。

チドリなどは、親鳥は外敵が近づくと、そのすぐ近くまで飛んでいき、背を向けると同時に翼を広げて地面をたたくような動作をします。そして中腰のまま、脚をひきずるようにして少しずつ外敵から遠ざかるといい、なかなかの演技派です。

ほ乳類でもイヌはウソをつくことがあるそうです。たとえば帰ってきた飼い主に対して、誤って吠えついてしまった犬が、主人の顔を認めた後に、隣家の犬に吠えかかったりすることがよくあるそうです。

これはイヌが「飼い主に吠えていたんじゃなく、隣のイヌに吠えていたんだ」というポーズを取っているのであり、自分の行動を取り繕う行為です。ウソというにはあまりにもかわいらしい行為ではありますが、一応はイヌのウソということでよく知られているようです。

ところが、ネコは嘘をつかないそうです。これはネコはイヌより知能が低いためではないかとされているようで、ようするにウソもつけないほどおバカだということです。

なので、ウチの愛猫のテンちゃんも、きっと嘘つきではないに違いありません。

が、すりすりと寄ってきて可愛いしぐさで鳴いた直後に、カツブシをねだり、それをせしめたあとにはフン!とばかりに居なくなったりするのを見ると、あれ?さっきのスリスリはポーズだったのかな?などと疑ってしまいます。

が、まあそれもよしとしましょう。仮にネコがウソをついていたとしても、その程度のウソならかわいいもので、招きネコになることはあっても、お金をだまし取るようなことはまずありませんから。

お金といえば、今日から消費税が上がります。今になって改めて昨日買い物に出かければよかったなーと思うのですが、後の祭りです。

が、消費税のことは忘れて今日は買い物にでましょう。昨日から咲き誇っている桜も呼んでいます。出不精の嫁を連れだすには、案外と桜はもう満開だ、散ってしまうぞ、とウソをつくのが一番かもしれません。

さて、みなさんが今日つくウソはどんなウソでしょう。

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サクラの国

池代川の桜06
あの嵐はなんだったのよ、というぐらい今日は上天気です。

昨日5分咲きだった目の前の公園にあるソメイヨシノは、今朝はもう7~8分咲きになっており、早くも見ごろです。狩野川沿いの修善寺駅裏にある桜並木も、昨日通りがかったときには6分くらいだったので、今日明日にもほぼ満開に近い状態になるでしょう。

あちこちのサクラが咲き始める今、急がないと「写期」を逸してしまうのでは…と少々焦り気味の今日このごろです。

このサクラですが、日本では平安時代の国風文化の影響以降、花の代名詞のようになり、春の花の中でも特別な位置を占めるようになりました。

国風文化というのは、10世紀の初め頃から11世紀の摂関政治期を中心とする我が国の文化で、中国の影響が強かった奈良時代の文化(唐風)に対して、これを国風文化と呼んでいます。

「和風(倭風)」という言葉もここから来ており、現在まで続く日本の文化の中にも、この流れを汲むものが多く、浄土教に代表される仏教や、かな文字の使用、古今和歌集などに代表される詩歌の流行などもこの時代に生み出されたものです。

竹取物語や伊勢物語、源氏物語や土佐日記、枕草子といった超有名な作品もすべてこの時代に作られていて、この国風文化の時代こそが、日本の原点といっても過言ではないでしょう。

これらの文学作品の中にも桜は頻繁に登場し、これ以降日本では、桜は花の代名詞のようになり、春の花の中でも特別な位置を占めるようになりました。

桜の花の下の宴会の花見は風物詩であり、各地に桜の名所が作られ、日本の年度は4月始まりであることや、学校に多くの場合サクラが植えられていることから、人生の転機を彩る花にもなっています。

池代川の桜07

ところが、サクラは公式には国花ではありません。100円玉にもその意匠があしらわれるなど、国花の一つであるかのように扱われていますが、実は日本の国花は菊です。菊は皇室の象徴としての意味が強く、幕末の王政復古以降、一貫して皇室の花=国の花とされてきました。

これに関連して、国歌である「君が代」についても、この「君」は一般的には天皇をさすのだと解釈する人も多く、日本では国花、国歌ともに王室礼賛をするためにこれを定めているとの見方は否定できません。

それが何がいけないんだと開き直る人もいれば、いやいやそういう風潮への蔓延が戦前の軍国主義への回帰につながるのだとする人もいて、公式の場での君が代の斉唱をも拒否する、といった事件もしょっちゅう起きています。

私自身は、別に国歌も国花もこれまで通りでいいじゃないか、とは思うのですが、君が代の歌詞にある、「君」である天皇の長寿を祝し、その御世に寄せる賛歌としての位置づけには若干の抵抗がなくはありません。

いっそのことこの古臭い歌をやめて、新しい歌を一般公募で決めてそれを新国歌とすればいいのに……とかも思ったりもするのですが、その反面、子供のころから国歌として慣れ親しんできたこの歌に愛着があるのも確かです。

結局のところ、国歌や国花を差し替えればそれで国が生まれ変わるというわけでもなく、長く伝統として保ってきたものは今後も保ち続けるでいいではないか、と思う次第です。

ところで、この国花ですが、ほかの国はどんな花を定めているのだろう、と気になったので調べてみると、まず日本と最も親しい国であるアメリカの国歌は、バラだそうです。

へー意外、というかんじなのですが、これが定められたのはごく最近であり、1985年に上院でこれを国花とする決議を可決したばかりであり、その翌年の1986年にこの当時のロナルド・レーガン大統領がホワイトハウスのローズガーデンでその法律に署名し、正式に公布されています。

アメリカ合衆国の第31代大統領でハーバート・フーバーという人がいますが、この人にちなんで「プレジデント・ハーバート・フーバー」という品種のバラがあり、これがこの国の国花としてよく引き合いにだされるようです。ちょっとオレンジがかった黄色いバラで、なるほど明るいイメージの好きなアメリカ人が好きそうな花ではあります。

もっともアメリカの場合は、それぞれの州で「州花」が定められていて、こちらのほうが重視されることも多いことから、バラが国花であることすらも知らない人も多いのではないでしょうか。

イラン、イラク、オマーン、キルギス、サウジアラビア、アルジェリア、モロッコ、ブルガリア、ポルトガル、ルクセンブルグ、セントルシア、ホンジュラス、エクアドルなども、それぞれ品種こそ違え、バラを国花にしており、バラは世界中で人気の花といえるでしょう。

池代川の桜09

実はイギリスも連合王国としての国花は、バラであり、こちらも、「クィーン・エリザベスII」に代表されるバラ品種などがあります。

お隣の中国はといえば、現在国花選定中だそうで、候補としては牡丹と梅のほか、日本と同じ菊や蓮、蘭が挙げられているそうです。

まさか現在のようにもめている最中に日本と同じ菊を選ぶとは思えませんが、過去に何度か国民投票を実施した際にはボタンとウメが常に1位、2位を占めていたといいますから、このどちらかになるのではないでしょうか。ちなみに台湾の国花は梅です。

また、韓国の国花はムクゲだそうで、韓国の国章はこの花を基にデザインされているほか、国歌にもこの花の名が登場するようです。なるほど韓国らしいかんじがする花ですが、その北側の北朝鮮の国花もスモモだそうで、こちらもこの国に合うかんじがします。

このようにやはりその国に合った花が国花になる傾向があるようで、イタリアはデージー、オランダはチューリップ、スペイン・カーネーション、スイス・オーストリアはともにエーデルワイスが国花です。

このほか、宗教にちなんで国家が決められたのではないかと思われるのが、インドであり、国花は蓮だそうですが、とくに仏教とは関係のなさそうなエジプトもまたロータスが国花です。

エジプト以外のアフリカ各国の国花となると、我々の知らないような花ばかりであり、例えば、シエラレオネのギネアアブラヤシ、ジンバブエのグロリオサ・ロスチャイルディアナ、ナイジェリア・コスタス・スペクタビリス、などは名前を聞いただけではどんな花なのかさっぱり想像もできません。

ナミビアに至っては、ウェルウィッチアという舌をかみそうな名前の花が国花であり、これは邦訳すると、「奇想天外」という意味になるそうです。種子から発芽した個体が再び種子をつけるまでに、25年ほどかかると考えられていて、寿命は1,000年以上と言われているそうです。

世界的にも珍しい希少植物であることから、ナミビアでは厳重に管理されているそうですが、ちなみに、和名としては、サバクオモト(砂漠万年青)という名前が与えられています。

京都府立植物園など、国内の何ヶ所でも栽培されているそうですが、この京都府立植物園のものは、2004年8月に温室にあった鉢2株が盗まれたといいます。

池代川の桜14

ちなみに、日本と同じように桜を国花としている国はあるのかな、と調べてみたところ、今クリミア半島の帰属問題でロシアともめているウクライナの国花が日本のサクラとは品種は違いますが、「スミミザクラ」というサクラの一種です。

写真を見るかぎりでは日本のソメイヨシノよりも白っぽくまた小ぶりな花のようです。その果実は、日本のサクランボのように甘くなく、あまりにも酸っぱいため生食には不向きだそうですが、スープや豚肉料理などによく使われるそうです。

また、砂糖とともに調理することで、酸味を抑え香りや風味を引き出すことができるといい、このため、スミミザクラの果実のシロップもしくはスミミザクラの果実そのものを使ったジュースやリキュール、デザート、保存食もあるといいます。

以前、このブログで1917年にロシア革命が勃発したとき、ロシアに対抗するために極東に「緑ウクライナ」というウクライナ人による国が建国されかけて失敗した、と書きました。

このとき日本国内にもロシアと対抗するためこの緑ウクライナに同調する動きがありましたが、建国に失敗したため、この運動の中心だったたくさんの白系ロシア人が日本に亡命してきましたが、その中に大相撲の大鵬関のお父さんがいた、といったことも書きました。

そうした過去に思いを馳せつつ、そのウクライナ人たちの末裔たちが造った国の国花が我々の愛するのと同じサクラであると聞くと妙にこの国に親近感を感じてしまうのは、私だけでしょうか。

さて、今日は長らく骨折で入院していた母がリハビリ病院から退院することになっており、午後から彼女を迎えにいきます。

その途中にもあちこちでサクラが咲いているはずであり、長らく病室にいて四季の移ろいをみることができなかった母にそれを見せてやれるのがとても楽しみです。

おそらくは今週はあちこちでサクラが満開になることでしょう。退院した母を連れ、それをぜひ堪能したいと思います。

みなさんの街にもサクラがあふれていることでしょう。桜の季節はほんのわずかです。仕事や勉強ばかりしていないで、遊びにでかけましょう。

虹の里の桜D

雨の日に……

2014-1140530今日の伊豆は、朝から雨です。

しかも我が家は山の上にあるので、別荘地全体が雲に覆われ、外は霧のなかのようです。その霧に浮かびあがる5分咲きのサクラは墨絵のようで、これはこれでまた美しい。

私は今は絵はやらないのですが、中学生のころには美術部に入っていたこともあり、絵には昔から興味があり、たまに美術館などに行くとハマってしまい、出て来れなくなることもしばしばです。

が、いわゆる水墨画というのは、地味~なかんじがあって、とくに好き、というほどでもありません。

とはいえ、日本人はこうした単純な墨一色で表現され、ぼかしで濃淡・明暗を表す表現が大好きなようで、「なんでも鑑定団」などを見ていても有名な画家さんの絵になるとすごい金額で取引されるようです。

もともとは、中国で唐代後半に山水画の技法として成立し、宋代には、文人官僚の余技として水墨画の製作が行われていたようです。また、禅宗の普及に伴い、禅宗的な故事や人物画が水墨で制作されるようになり、明代には花卉、果物、野菜、魚などを描く水墨画が普及しました。

日本には鎌倉時代にこの中国で普及した禅とともに伝わり、その多くは禅の思想を表すものでした。

瓢鮎図(ひょうねんず)という、国宝になっている水墨画がありますが、これは日本の初期水墨画を代表する画僧・「如拙」の作品で、題名の「鮎」は魚のアユではなく、ナマズの意です。

室町幕府将軍足利義持の命により、ひょうたんでナマズを押さえるという禅の公案を描いたもので、1415年(応永22年)以前の作で、京都市の退蔵院に所蔵されています。

美術の教科書などにはたいてい出てくるので、絵をみると、あーあれかと分かる人も多いと思いますが、どんな絵かというと、川の中を泳ぐナマズとヒョウタンを持ってそれを捕らえようとする一人の男を表している絵です。男はヒョウタンをしっかり抱え持っているようには見えず、危なっかしい手つきであり、とてもナマズはつかまりそうもありません。

で、この絵がなぜ禅宗的かというと、普通に考えれば、まるくてとっかかりのないヒョウタンなどでナマズを捕まえることはできません。が、これをどう考えるか、です。

もしかしたら、ヒョウタンに水を入れて叩きつければナマズが気絶するかもしれないし、ヒョウタンから出した水が呼び水になって寄って来たナマズを手でつかめるかもしれません。

あるいはその逆で、ナマズを捕まえるどころか、足を滑らせてヒョウタンを落っことし、仰向けに川へひっくり返って周囲の人に笑われるかもしれず、男はそれでヒョウタンでナマズを獲ることなど所詮は無理だと悟る、というのがオチなのかもしれません。

このように、寓意のある表現によって相手にその意味を深く考えさせるというのが、この絵の目的です。

こうしたものを禅宗では「公案」といい、これは禅の修行者が悟りを開くために、師匠から課題として与えられる問題のことです。

そのほとんどがこの絵と同様に無理難題なもので、普通の解釈では解けるわけはないので、「無理会話(むりえわ)」とも呼ばれています。一般にはアニメの一休さんで有名になった「禅問答」として知られているものです。

一見むちゃくちゃな問答のように思えますが、禅宗においては極めて真面目なもので、江戸時代以降の近世では一定の数の公案を解かないと住職になれないなど、僧侶の経験を表す基準として扱われました。

有名な公案としては、江戸中期の禅僧の白隠が創案した隻手音声(せきしゅおんじょう)というのがあり、これは白隠が修行者たちを前にしてこう言ったというものです。

「隻手声あり、その声を聞け」

これは、両手を打ち合わせると音がする。では片手ではどんな音がしたのか、それを報告しろ、というほどのもので、これに対してどう答えるかはなるほど難しそうです。

ほかにも、狗子仏性(くしぶっしょう)というのがあり、これは、一人の僧が趙州(じょうしゅう)という唐の時代の禅の高僧に問いかけたもので、これは、「犬にも仏性があるでしょうか?(狗子に還って仏性有りや無しや)」というものでした。

これに対して、趙州和尚はただ単に、「無」と答えたそうで、これだけだとなーんだ、全然面白くない、ということになります。が、これには別のバージョンがあって、それは「欲しい、惜しい、憎いなどの煩悩がある」と和尚が答えるというものでした。

これを聞いたこの僧が再び趙州和尚に対して、「仏性があるならなぜ犬は畜生の姿のままなのでしょうか?」と聞いたところ、趙州和尚は、「自他ともに仏性があることを知りながら、悪行を為すからだ(他の知って故らに犯すが為なり)」と答えたといいます。

意訳すると、実は仏の心ということをわかっているくせに、欲深いからイヌの姿をしているのだ、といったところでしょうか。

つまり、この「犬に仏性があるかないか」という問には、「無い」という答えと「有る」という二つの答えがあり、これをこの公案を与えられた修行者がどう解釈するか、というところがミソであり、そこをどう捉えるかを試しているわけです。

この公案は、禅問答の典型、東洋思想を代表的するものとして、世界の思想界に知られているそうです。確かにどちらの答えが正しいのかは、自分次第で変わってくる、といわれればなるほどそんな気もしてきます。

このように、禅では必ずしも答えがひとつではなく、いくつかあって、それが何であるかを自分で考えよ、というところがそもそもの思想の根本のようで、言われて見れば確かに物事にはいろんな見方があり、実際に試してみないとわからないことはたくさんあります。

なので、常に見方を変えて考える、というのは確かに大事なことのように思えます。

今見えている墨絵のような桜も、もっと近寄って観察してみるとまた違った美しさが出てくるのかもしれないと思い、ちょっと外へ出て、違うアングルから眺めてみました。

そして撮れたのが下の写真。どうでしょう。角度を違えるとまるで違ったものに見えますよね。

雨の日でしたが、ひょんなことこからまた一つ学んだ今日でした。

2014-1140546