Go for broke!

サーファー04
先日のこと、テレ東の「なんでも鑑定団」の録画をみていたら、その日の出張鑑定は、山口県の周防大島であり、鑑定が始まる前にこの島の遊び場や名産なども披露していました。

仕事やプライベートでも何度か行ったことがある場所で、あー懐かしい、とついつい見入っておりましたが、考えてみると役場のある島の中心などには行ったことがあるものの、東西に長く伸びたこの島のはじっこまでは一度も行ったことがありません。

ひょろ長いこの島の東端はどこになるんだろうな~と思って調べていたところ、この島には色々と面白い場所があることに気がつきました。

そのひとつは、島の南部にある橘ウインドパークで、これは「スポーツ合宿」を目的として整備された場所で、年間を通じて県内外の学校のスポーツクラブの学生たちが合宿目的でよく訪れる場所のようです。

「ウインドパーク」の名の由来は、施設背後にある嵩山からのハンググライダー、パラグライダーのランディング場としても使用できるためであり、こちらのほうを趣味とする人達もまたここをよく訪れ、いつも賑わっているようです。

また、島の東端には「陸奥記念館」なるものがあって、これは旧日本海軍の戦艦陸奥が1943年(昭和18年)6月8日に、この島の沖合3kmで爆沈したときに引き上げられた遺物を展示する博物館です。

戦艦陸奥は建造時、世界最強の戦艦として41cm主砲を装備し、連合艦隊の旗艦としても活躍しましたが、戦局に寄与することなく、謎の爆発を起こして沈没しましたが、船体の損傷が著しかったために浮上させての修理は行われませんでした。

戦後の1970年から1978年にかけて船体の約75%が引き上げられ、多くの遺物・遺品、遺骨も引き上げられた際、主だったものがこの記念館に寄付されて展示されているようで、周防大島が所属する東和町が事業主体として、この博物館を1994年(平成6年)に完成させました。

この沈没では、乗員1,474人のうち助かったのは353人で、死者のほとんどは溺死でなく爆死だったといいますから、相当大きな爆発が起こったようですが、現在もこの爆沈の原因は謎とされています。

爆発事故直後に査問委員会が編成され、事故原因の調査が行われたそうですが、その検討の結果、自然発火とは考えにくく、直前に「陸奥」で窃盗事件が頻発しており、その容疑者に対する査問が行われる寸前であったことから、人為的な爆発である可能性が高いとされているようです。

1970年(昭和45年)9月13日発行の朝日新聞は四番砲塔内より犯人と推定される遺骨が発見されたと報じており、この説は一般にも知られるようになりました。しかし、真相は未だに明確になっておらず、この謎めいた「陸奥」の最期は、数々のフィクションの題材にもなりました。

これらのフィクション作品が明かした爆発の原因は、スパイの破壊工作や装備していた砲弾の自然発火による暴発などがあり、また上記時人為的爆発の背景としては、乗員のいじめによる自殺や一下士官による放火などが挙げられているようです。

この周防大島の西部にはまた、「日本ハワイ移民資料館」というものがあります。

江戸時代中期以降人口増加が著しかった周防大島では、島の限られた土地では生活ができず、伝統的に大工・石工・船乗りなどになって、島の外へ出稼ぎに出ることが行われていました。

ちょうどこのころ、遠く離れた太平洋のど真ん中にあるハワイでは、ハワイ王国のカアフマヌという女性摂政によって、キリスト教を中心とした欧米文化を取り入れようとする動きが活発化し、彼女に取り入った白人たちが発言力を増すようになりました。

このため、それまではネイティブハワイアンの食料としてのみ栽培されていたサトウキビを白人のための輸出用資源として大規模生産を行おうとする動きが強くなり、1850年に外国人による土地私有が認められるようになると、白人の投資家たちの手によってハワイ各地にサトウキビ農場が設立され、一大産業へと急成長しました。

増加する農場に対し、ハワイ王国内のハワイ人のみでは労働力を確保することが困難となり、国外の労働力を輸入する方策が模索されはじめ、中国より多くの契約労働者がハワイへ来島しました。が、彼等の定着率は悪く、独自に別の商売を始めたりするなどしたことにより彼らに対する風当たりが強くなりました。

この結果、ハワイ政府は中国人移民の数を制限し、他の国から労働力を輸入するようになり、このとき、日本もその対象の一国として交渉が持たれました。

このころの日本は明治維新へと向かう混迷期にありましたが、ハワイ王国の国王、カメハメハ5世は、在日ハワイ領事として横浜に滞在していたユージン・ヴァン・リードに日本人労働者の招致について、日本政府と交渉するよう指示しました。

しかしその後日本側政府が明治政府へと入れ替わり、明治政府はハワイ王国が条約未済国であることを理由に、徳川幕府との交渉内容を全て無効化しました。

ところが、この時すでに移民たちの渡航準備を終えていたヴァン・リードは、1868年(明治元年)、サイオト号で153名の日本人を無許可でホノルルへ送り出し、こうして送られた初の日本人労働者は「元年者」と呼ばれました。

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その後、1885年(明治18年)1月、日布移民条約が正式に結ばれ、ハワイへの移民が公式に許可されるようになり、政府の斡旋した移民は「官約移民」と呼ばれました。

第1回の移民募集には、予定人数の600人をはるかに超えた28,000人以上の応募があり、この中から選ばれた944人を乗せた「シティー・オブ・トーキョー号」は、1885年(明治18年)2月8日、2週間にわたる船旅を終えホノルルに到着しました。

数日間検疫などのため移民局の収容所で過ごした移民たちは、3年間の契約労働に従事するため、ハワイ島16ヶ所、マウイ島6ヶ所、カウアイ島6ヶ所、オアフ島1ヶ所、ラナイ島1ヶ所、計30ヶ所のサトウキビ耕地に分かれていきました。

この第1回のハワイへの移民募集の話は、周防大島でも持ち上がりました。ちょうどこのころは全国的な不況に自然災害が加わり、周防大島でも人々は餓死寸前まで追い込まれていました。

こうした事情を知る山口県は、大島郡からの募集に特に力を入れ、郡役所、村役場も大いに努力を傾け、住民にとっても、ハワイへの移住は耳よりな話でした。その結果第1回の官約移民では大島出身者が全体の約3分の1を占め、官約移民時代を通して約3,900人が周防大島からハワイに渡ることになりました。

のちの官約移民年度別統計によれば、1885年(明治18年)~1894年(明治27年)の10年間で26回に亘り移民を送り出しており、全国で29,084人の移民のうち、うち山口県10,424人で大島郡からは、3,914人もの方がハワイへ渡っています。

都道府県別では、広島県(11,122人)、山口県(10,424人)、熊本県(4,247人)、福岡県(2,180人)、新潟県(514人)の順であり、広島と山口県民が群を抜いています。

私がハワイにいたころにも、こうした日系移民の子孫の多くの方々と知り合いになりましたが、確かに広島や山口の人が多く、広島弁で話ができてしまったのを覚えています。

こうして、かつては、「芋喰い島」と呼ばれていたほど貧しかった大島は、「移民の島」として知られるようになり、現在でも、周防大島の住民は、ハワイに親戚を持つ者が数多くいます。

しかし、官約移民としてハワイに渡った人々の暮らしはけっして楽にはなりませんでした。当初は「3年間で400円稼げる(現レートで800万円)」といったことを謳い文句に盛大に募集が行われましたが、その実態は人身売買に近く、半ば奴隷と同じでした。

労働は過酷で、現場監督(ルナ)の鞭で殴る等の酷使や虐待が行われ、1日10時間の労働で、休みは週1日、給与は月額10ドルから諸経費を差し引かれた金額でした。これは労働者が契約を満了することを義務付けられたハワイの法律、通称、「主人と召使法」に起因するところが大きかったようです。

仕事を中途で辞めることが法的に認められていなかっただけでなく、安い賃金でこき使われた移民たちの生活は塗炭の苦しみを舐めるようなものでした。

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こうした移民たちの苦しみは、1900年のアメリカ合衆国によるハワイ併合まで続きました。この併合により、すべてのハワイ共和国の国民はアメリカ合衆国の国民となり、先住ハワイ人には市民権があたえられました。

しかしまだ東洋人の権利は制限されており、とくに中国人に対しては、アメリカ本土で安い賃金で働いて増え続ける中国人労働者を敵視する風潮が強くなり、「中国人排斥法」が成立したため、この法律はハワイにも適用され、このときから中国人の移住が事実上不可能となりました。

一方、日本移民との既存の労働契約は併合により無効化され、契約移民としてハワイに多数定住していた日本人労働者は、それまでの過酷な契約から解放されました。その結果、多数の日系人はアメリカ本土に渡航し、1908年までに3万を超える人びとが本土へ移住したといわれています。

しかし、これは結果的にアメリカ本土では中国人に次ぐ日本人に対する排斥運動を招く契機となり、1906年にはサンフランシスコで日本人学童隔離問題などが生じるまでになりました。この隔離命令はセオドア・ルーズベルト大統領によって翌1907年に撤回されましたたが、その条件としてハワイ経由での日本人の米本土移民は禁止されるに至りました。

とはいえ、それまでの過程で数多くの日本人がハワイとアメリカ本土に移住し、これがのちのアメリカにおける日系社会を作っていくことになります。ハワイにおいても、その後定住した日本人移民の子孫が増加したことから、全人口における日本人移民と日系人の割合は年々増加を続けました。

その後勃発した第二次世界大戦下では、アメリカ本土の日本人移民と日系アメリカ人がアメリカ政府により強制収容されました。しかし、ハワイにおいては日系人人口があまりにも多く、その全てを収容することが事実上不可能である上、もし日系人を強制収用するとハワイの経済が立ち行かなくなると推測されました。

このことから、アメリカへの帰属心が弱く、しかも影響力が強いと目された一部の日系人しか強制収容の対象となりませんでした。

しかし、アメリカ本土の日系人については、黄色人種に対する人種差別的感情も背景に彼等が反乱を起こすのではないかと不安視され、1942年2月以降に、アメリカ西海岸に居住していた日系人と日本人移民約12万人は、ほとんどの財産を没収された上で全米に散らばる強制収容所に強制収容されました。

これに対し、海を隔てた日本では、政府がこのアメリカでの日系人の強制収容を「白人の横暴の実例」として喧伝し、市民のアメリカへの反抗心を煽る材料としました。これに呼応して「アジアの白人支配からの打倒」を謳う声は日本国内だけでなく、このころ日本が支配していたアジア諸国にも広がる気配でした。

これを知ったアメリカも、この声を無視できなくなり、これに反駁する必要に迫られたとき思いついたのが、日系人による戦闘部隊の編制でした。日本人の血を引いた彼等を正規のアメリカ兵として採用することは、アメリカ国内の各地で収容されてくすぶっている日系人たちを慰撫することにもつながると考えられました。

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こうした中で、「アメリカ人」として高い士気を持った日系人から編成された「第100歩兵大隊」が生まれました。1942年6月に、在ハワイの日系二世の陸軍将兵約1,400名が「ハワイ緊急大隊」に編成され、ウィスコンシン州に送られました。

同地のキャンプ・マッコイで部隊は再編され、軍事訓練においてひときわ優秀な成績をあげ、やがてこの部隊は「第100歩兵大隊(100th infantry battalion)」と命名されるに至ります。

大隊長以下3人の幹部は白人でしたが、その他の士官と兵員は日系人で占められていました。部隊は更に訓練を重ね、1943年1月にはミシシッピ州のキャンプ・シェルビーに移駐しますが、ここではこれ以前から既に3,500人の日系人がアメリカ軍でさまざまな任務に当たっていたといいます。

1943年1月28日、日系人によるさらに大きな部隊の編制が発表され、これは連隊規模のものとなることが決定されました。強制収容所内などにおいて志願兵の募集が始められ、部隊名も「第442連隊」と決まりました。

この連隊は、基本的には歩兵連隊でしたが、歩兵を中核に砲兵大隊、工兵中隊を加えた独立戦闘可能な連隊戦闘団として編成されることとなりました。この連隊には、ハワイからは以前から大学勝利奉仕団で活躍していた者を含む2,600人、アメリカ本土の強制収容所からは800人の日系志願兵が入隊します。

本土の強制収容所からの入隊者が少なかったのは、各強制収容所内における親日派・親米派の対立や境遇が影響していためでしたが、強制収容が行われなかったハワイでは事情が異なり、募集定員1,500人の6倍以上が志願したといい、このため定員がさらに1,000人増やされました。

編成当初、背景事情の違いから本土出身者とハワイ出身者の対立は深刻で、ハワイ出身者は本土出身者を「コトンク(空っぽ頭)」、自分たちを「ブッダヘッド(釈迦の頭、刈上げ髪を揶揄した言葉)」と呼んで互いに反目し合い、これに本土で編成された第100歩兵大隊の兵士も加わってよく暴力沙汰も発生したといいます。

このためアメリカ軍上層部は、双方の対立を解消すべくハワイ出身者に本土の強制収容所を見学させることにしました。そしてアメリカ本土の日系人強制収容所を訪れることになったハワイの日系人たちは、有刺鉄線が張り巡らされ、常に監視員が銃を構えているという、刑務所同然の収容所の現状を目の当たりにして、愕然とします。

いかに本土出身者が辛い状況に置かれているかを知りようになり、これは本土からの同胞の立場に対して深い理解を得ることにつながり、やがて両者の対立は解消されていきました。

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こうして結束を固めた日系人部隊のモットーは“Go for broke!”でした。

これは「当たって砕けろ!」の意味であり、また、「撃ちてし止まん」、「死力を尽くせ」といった意味もありましたが、ハワイアンの訛った英語(ピジン英語という)ではこれは元々ギャンブル用語でした。有り金すべてをつぎ込むことを意味しており、ハワイの移民プランテーションでは賭博が盛んに行われていたことに由来します。

が、日系人としての彼等の心はやはり日本的であり、当たって砕けろ!の精神の上で訓練を重ねていき、やがて戦場へ送ることのできるレベルに達しました。しかし、日系人である彼等をさすがに直接日本人と闘わせるのは酷、ということで、ヨーロッパ戦線への投入が検討されます。

敵国系の市民から編成された部隊ではありますが、図らずもこうして手塩にかけて育てた精鋭部隊をむやみやたらに戦線に投入しては、他の白人部隊の「弾除け」にされるのでは、という危惧をアメリカ軍の上層部も持っていたようです。

このため、彼等はヨーロッパには送られたもののなかなか戦闘には投入されず、1943年8月に北アフリカのオランに到着した第100歩兵大隊も、その配備先は未定のままでした。

しかし、士気の高い彼等は自らの希望によって、9月22日に第34師団第133連隊に編入され、イタリアのサレルノに上陸し、その一週間後にはドイツ国防軍と遭遇し、初の戦死者を出しました。

そして、1944年1月から2月にかけては、ドイツ軍の防衛線「グスタフ・ライン」の攻防において激戦を繰り広げ、5月には、ローマ南方の防衛線「カエサル・ライン」を突破するなど活躍を重ねていきます。

ローマへの進撃の途上で激戦地モンテ・カッシーノでの戦闘にも従事し、このときには多大な犠牲を払いましたが、部隊はベネヴェントで減少した兵力の補充を受け、さらにローマを目指しました。

ところが、軍上層部の意向によりローマを目前にして突然停止命令が出されます。その直後に後続の白人部隊が1944年7月4日に入城し、ここに「ローマ解放」が宣言され、アメリカ軍部隊としてローマを解放するというその栄誉は彼等に奪われてしまいました。

しかも結局、日系人の彼等の部隊はローマに入ることすら許されず、ローマを迂回して北方への進撃を命じられるという仕打ちまで受けました。

ちょうどこのころ、第100歩兵大隊とは別にイタリアに到着していた第442連隊は第1大隊が解体されたため1個大隊欠けていた編成となっていました。このため、6月に第100歩兵大隊を第442連隊に編入し、こうして二つの部隊はベルベデーレ、ピサなどイタリア北部で合同して戦うことになりました。

1944年9月に部隊はフランスへ移動し、第36師団に編入されます。10月にはフランス東部アルザス地方の山岳地帯での戦闘に従事し、ブリュイエールの街を攻略するため、周囲の高地に陣取るドイツ軍と激戦を繰り広げた結果、町の攻略に成功します。

ブリュイエールでは、このときの日系人部隊の活躍を記念し、のちの戦後にこの町の通りのひとつに「第442連隊通り」という名称がつけられたほか、1994年にはかつての442連隊の退役兵たちが招かれて解放50周年記念式典が執り行われています。

その直後の10月24日、アメリカ第34師団141連隊第1大隊、通称「テキサス大隊」がボージュという場所でドイツ軍に包囲されるという事件が起こります。彼らは救出困難とされ、「失われた大隊」と呼ばれ始めていました。

このとき、その救出をルーズベルト大統領から直々に命じられたのが第442連隊戦闘団でした。部隊はブリュイエールの戦いが終わったばかりで疲労していましたが、休養が十分でないまま即日出動します。が、ボージュの森で待ち受けていたドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げることとなります。

激戦の結果、部隊はついにテキサス大隊を救出することに成功しましたが、このときこのテキサス大隊の211名を救出するために、戦闘団の216人が戦死し、600人以上が手足を失う等の痛手を負いました。

その救出の直後にこんな逸話が残っています。テキサス大隊を救出した442部隊の面々は彼等を見るやいなや抱き合って喜びましたが、大隊の指揮官であったバーンズ少佐はこのとき、軽い気持ちで「おまえたちはジャップ部隊だったのか」と言ってしまいます。

これを聞いた第442部隊のひとりの少尉が「俺たちはアメリカ陸軍442部隊だ。言い直せ!」と激怒して掴みかかったといい、このときこの少佐は自分の非を認め、相手に謝罪して敬礼し直したと伝えられています。

このほかにも、テキサス大隊救出作戦後、一カ月以上を経た第一次世界大戦休戦記念日(11月11日)に、ある白人少将が第442部隊の戦闘団のひとつの中隊を閲兵した際、この中隊の基本編成人員18名に対して8名しかいないのを見とがめ、「部隊全員を整列させろといったはずだ」と不機嫌に言い放ちました。

これに対して、連隊長代理の白人中佐が「目の前に並ぶ兵が全員です。残りは戦死か入院です。」と答えたといい、さらに連隊の詳しい状況報告を聞いたこの少将はショックの余り、その後連隊の面前で行うスピーチを満足に出来なかったといいます。

このときの報告内容は、第36師団編入時には約2,800名いた第442部隊兵員が1,400名ほどに減少していたことなどだったといい、さしもの少将も半数もの死傷者を失った部隊に対しての自分の横暴な態度を悔いたのでしょう。

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この戦闘は、後にアメリカ陸軍の十大戦闘に数えられるようになったといい、欧州戦線での戦いを終えた後、第442連隊戦闘団はその活動期間と規模に比してアメリカ陸軍史上でもっとも多くの勲章を受けた部隊となり、歴史に名前を残すことになりました。

この戦闘を終えた後、再編成を行った第442連隊戦闘団はイタリアに移動し、そこで終戦を迎えています。しかし、その隷下のうちの第522野戦砲兵大隊は、フランス戦後はドイツ国内へ侵攻し、ドイツ軍との戦闘のすえにミュンヘン近郊のダッハウ強制収容所の解放を行いました。

しかし日系人部隊が強制収容所を解放した事実は、つい最近の1992年まで公にされることはなかったといい、高い評価を得たとはいえ、戦後までその活躍をあまり広めたくなかったアメリカ軍上層部の意向がここに読み取れます。

しかし第442連隊は、特にその戦後の高い評価から、「パープルハート大隊」とまで呼ばれました。パープルハート章 (Purple Heart) は、アメリカ合衆国の戦傷章で、日本語では名誉負傷章、名誉戦傷章、名誉戦死傷章等とも表記されるものです。

戦闘団は総計で18,000近くの勲章や賞を受けており、中にはアメリカ合衆国で民間人に与えられる最高位の勲章である議会名誉黄金勲章も含まれています。が、これは、戦後すぐに与えられたものではなく、2010年10月5日、オバマ大統領により第100歩兵大隊と第442連隊戦闘団の功績に対し、授与されたものです。

戦後すぐに授与されたもので最高位は、アメリカ軍における最高の栄誉である名誉勲章(議会栄誉章)で、その数は21にものぼり、この中には数々の殊勲をあげ、1945年4月5日に友軍をまもるために、投げ込まれた手榴弾の上に自らの体を投げ出して戦死したサダオ・ムネモリ上等兵のものなどが含まれています。

第2次世界大戦におけるアメリカ軍全体での名誉勲章の授与数は464であり、そのうちの21の名誉勲章が442連隊に与えられているというのはすごいことです。

数字にすればわずか4.5%にすぎませんが、1500万人以上のアメリカ人が兵力として投入された第二次世界大戦において、わずか3000名ほどの部隊がこれだけの戦果をあげたというのは驚くべきことだといえるでしょう。

442連隊が強制収容所の被収容者を含む日系アメリカ人のみによって構成され、ヨーロッパ戦線で大戦時のアメリカ陸軍部隊として最高の殊勲を上げたことに対して、1946年にトルーマン大統領は、「諸君は敵のみならず偏見とも戦い勝利した。」と讃えています。

しかし勇戦もむなしく、戦後も日系人への人種差別に基づく偏見はなかなか変わらなかったようで、部隊の解散後、アメリカの故郷へ復員した兵士たちも、白人住民から「ジャップを許すな」「ジャップおことわり」といった敵視・蔑視に晒され、仕事につくこともできず財産や家も失われたままの状態に置かれることも多かったようです。

しかしやがて1960年代になると、アメリカ国内における人権意識、公民権運動の高まりの中で、日系人はにわかに「模範的マイノリティー」として賞賛されるようになります。

442連隊は1946年にいったん解体されましたが、1947年には予備役部隊として第442連隊が再編制され、ベトナム戦争が起こると、1968年には不足した州兵を補うために州兵団に編入さました。

その後、1969年に解体されましたが、連隊隷下部隊のうち第100歩兵大隊が予備役部隊として現存しており、この。部隊は本部をハワイのフォートシャフターに置き、基地をハワイ、アメリカ領サモア、サイパン、グアムなどに置いています。部隊は統合や再編制を繰り返していますが、現在も主力は日系人だといいます。

現在のアメリカ陸軍では、今でも442連隊戦闘団の歴史を学ぶ授業は必修課程となっているそうで、その名は永遠に語られていくでしょう。

さて、今日の話題のはじまりだった周防大島は実は、戦国期から江戸初期にかけて活躍した村上水軍とも関わりの深い島なのですが、今日はもうすでに長くなっているので、この話しについてはまた別の機会にすることにしましょう。

今日は雨も上がって、上天気になりました。そろそろ桜の満開の場所も増えてきているに違いありません。ネットで調べてちょっと散歩してくることにしましょう。

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目に青葉……

春の山々
目の前の公園にあるソメイヨシノが咲き始めました。気温もぐんぐんと上がって、昨日は用事があって訪れた麓の街などでは20度を超えていました。

もうすでに、新緑の季節は始まっているようで、庭の木々の多くは新芽をつけ、桜以外の草木もたくさんの蕾を蓄えて、より暖かくなる日を待っています。

改めてこの「新緑」という言葉の意味を辞書で引いてみると、「初夏の頃の木々の若葉のつややかなみどり」と書いてありました。無論、木の種類や場所、地域によって異なりますが、日本では一般的には毎年3月から6月からおきる現象です。

新緑は落葉樹だけではなく、常緑樹にも起こります。ただ、落葉樹のそれより約1ヶ月遅く迎えるようで、従って常緑樹と落葉樹の新緑が出そろう、4月下旬ぐらいがもっとも新緑の旬といえるでしょう。

お茶の葉も常緑樹で、5月あたりに出る新芽が原料であることは誰もが知っています。また、お茶といえば、静岡がその名産地としてもっともよく引き合いに出される栽培地です。が、静岡以西の地方でも、各地でお茶が生産されています。

ところが、このお茶は実は日本が原産ではない、という説もあるようです。日本の自生茶とも言われて来た「ヤマチャ」については、歴史的にも植物学的にも、日本特有の自生茶樹は認められないそうで、日本自生の在来種であるとする説には否定的な研究者が多いといいます。

じゃあどこが原産なのよ、ということなのですが、これは、中国の四川・雲南説(長江及びメコン川上流)、中国東部から東南部にかけてとの説の二つがあるようです。が、いずれにせよ中国が原産地とみなされているようです。

しかし、このお茶の樹からお茶を作って飲む、「喫茶」の風習が始まったのはいつかということになると、その歴史はかなり古いことは明らかですが、はっきりとした時期まで遡ることはできないようです。ただ、原産地の一つといわれる四川地方で最も早く普及し、長江沿いに、茶樹栽培に適した江南地方に広がったと考えられています。

しかし、「茶」という字が成立し全国的に通用するようになったのは唐代になってからであり、それまでは「荼(と)」、「茗(めい)」、「荈(せん)」、「檟(か)」といった文字が当てられていました。

茶がいつ中国から日本に伝わったのかについても明らかではないようです。が、最近の研究によればすでに奈良時代に伝来していた可能性が強いといわれており、古代に伝わった茶は纏茶(てんちゃ)であったと考えられるそうです。纏茶とは、半発酵したお茶のことであり、つまり今のウーロン茶と呼ばれるタイプのお茶です。

平安時代初期に、空海や最澄も持ち帰り栽培したという記録があり、「日本後紀」には、弘仁6年(815年)、嵯峨天皇が近江を行幸されたとき、梵釈寺(滋賀県大津市)の永忠という僧が茶を煎じて献上したと記されているそうです。永忠は唐に35年間もの間留学したあと、805年に帰国しており、この時茶樹の種子あるいは苗を持ち帰ったと見られます。

しかし、遣唐使が廃止されてからは、唐風のしきたりが衰えた結果、茶もすたれていき、およそ200年ほどの間はお茶を飲むという習慣は日本人の間ではありませんでした。

茶の再興は、鎌倉時代初期の僧で、臨済宗の開祖である栄西が1191年に新たに宋(南宋)から種子や苗木を持ち帰ってからです。栄西は、1187年から5年間の2回目の渡宋中、素朴を尊ぶ禅寺での抹茶の飲み方を会得して帰ったと考えられています。

この二番目のブームでは、お茶は当初は薬としての用法が主であったようです。戦場などでは、武士たちが現在の何倍も濃い濃度の抹茶を飲んで眠気を覚ましていたようですが、その後一般的にも栽培が普及すると、庶民にも嗜好品として飲まれるようになっていきました。

が、この当時はまだお茶の作法などという風流なものはなく、後の煎茶などの製法もまだ発達していませんでした。

この時期には、中国に習い、貴族社会の平安時代の遊びとしてお茶の味をききくらべる「闘茶」などが行われることもありました。が、次第に「飲茶勝負」と呼ばれるような賭博性のあるものに変わっていき、これを批判する風潮も出てきたことから次第にこの風習もすたれていきました。

菜の花とアロエ

その後、日本茶道の祖ともいわれる、臨済宗の僧・南浦紹明が中国より茶道具などと共に茶会などの作法を伝え、これが次第に、日本特有の場の華やかさよりも主人と客の精神的交流を重視した独自の「茶の湯」へと発展していきます。

当初は武士など支配階級で行われた茶の湯ですが、江戸時代に入ると庶民にも広がりをみせるようになっていきます。煎茶が広く飲まれるようになったのもこの時期であり、茶の湯は明治時代に茶道と改称され、ついには女性の礼儀作法の嗜みとなるまでに一般化していきました。

茶は江戸時代前期では贅沢品であったため、一般庶民が飲むことは戒められていたようですが、いわゆる「金になる」作物であるため、生産者が増え、次第に普及していきました。しかし、この当時は「金肥」といわれた干鰯や油粕のような高窒素肥料がないと良いお茶ができないため、これを購入するためには大きな負担が強いられました。

しかし、そのために生産地としての農村へは貨幣が流通しやすくなり、これが江戸時代の貨幣経済浸透を促しました。

明治時代になって西洋文明が入ってくるとともに、紅茶が持ち込まれ、従来の緑茶とともに普及していくこととなり、お茶のバリエーションは更に増えていきました。70年代には、このころが人気絶頂期だったのピンク・レディーが減量のためにウーロン茶を飲んでいるとされたことから、半発酵茶の烏龍茶が注目を集めるようになります。

こうして紅茶に加えて烏龍茶という新たなカテゴリーを加え、日本のお茶文化はさらに広がりを見せていきます。やがて缶入り烏龍茶の好評を受けて飲料メーカーは缶・ペットボトル入りの紅茶・日本茶を開発し、ひとつの市場を形成するに至りました。

またその後も定常的に新しい茶製品が開発されています。茶葉を使用しない嗜好性飲料も総じて「茶」と呼ばれるようになり、こういったチャノキ以外の植物の葉や茎、果実、花びらなどを乾燥させたものを煎じて使用するお茶は、中国語では「茶外茶」と呼び、本来の茶を「茶葉茶」と呼んで区別しています。

麦茶、ハトムギ茶、そば茶、杜仲茶、ドクダミ茶などがそれであり、ほかにも熊笹茶、竹茶、ハブ茶、甜茶、コーヒー生豆茶、紫蘇茶、マタタビ茶などなど、数え上げるとキリがないほど多くの茶外茶があります。

一方、古来からあった茶道のほうは、その苦しい礼儀作法が敬遠される傾向が強まり、一般的な嗜みから、趣味人の芸道としての存在に回帰しつつあります。その一方で、茶道を気軽に日常に取り入れる動きが根強く存在し、文化誌、婦人誌では、日本を含めた様々な茶の紹介、正式・略式・個人式の茶会の記事も繰り返し紹介されはじめています。

ここ静岡は、そうした茶文化を支えるお茶の名産地であり、お茶といえば静岡茶といわれるほどのブランド力を持ちます。静岡でもとくに牧之原台地とその周辺地域がその最大の生産地ですが、無論、そのほかの地域でも作られており、これらを合わせた県全体の生産量は国内第一位です。

東海道新幹線や東名高速道路などを利用して東京から名古屋、大阪などに移動する場合、静岡県内のあちこちの茶産地を通過することになり、周囲を茶畑に囲まれた光景に出会うことになりますが、眼前に広がる茶の新緑の色は本当に目に安らぎを与えてくれます。

静寂

ところで、この「緑色」という色はどういうふうに定義されているかをご存知でしょうか。寒色の一つで、黄色と青の中間色、光の三原色の一つであるということぐらいは誰でも知っていますが、その定義となると誰もすぐには答えられないでしょう。

この緑の定義は、1931年に「国際照明委員会」という国際組織が決めたものがあり、この組織が546.1nmの波長の光を緑と規定したのが始まりです。しかし、一般的には500-570nmの波長の色相の色はおおよそ緑であると人の目は認識するようです。

ただ、「緑」と一口にいっても、これに相当する色はかなり広範に及び、「柳色」や「モスグリーン」などと固有の色名が付いている緑色もあり、またより黄色に近い色は黄緑と称され、より青に近い色は青緑として総称されることも多いものです。

さらに、この緑の感じ方には国際的な違いもあるようで、英語のグリーン(green)をはじめ欧米人が緑と称する色は、日本人にとっての緑よりも明るく鮮やかな色である傾向があるそうです。

日本国内では、緑は漢字で碧や翠とも表記されますが、この場合のみどりは、どちらかといえば青みの強い色を表すことが多く、比較的藍緑色に近い色合いです。この翠は本来、カワセミの羽根の色をさす名前です。

また、詩的な、あるいは文語的な表現として、海の深く青い色を緑ということもあり、ときに艶やかな黒髪の色を表すのに、「緑」を使うこともあります。

この「みどり」という語の歴史をみてみると、このことばが登場するのは平安時代になってからだそうです。これは本来「瑞々しさ」を表す意味であったらしく、それが転じて新芽の色を示すようになったといわれています。

英語のグリーンも「草」(grass)や「育つ」(grow)と語源を同じくするといわれ、この点は日本と同じで、世界的にも緑は人が新鮮さのイメージを喚起する色というわけです。
ところで、日本のJIS規格では、グリーンと緑は別々の色ということになっています。「マンセル値」という色を指定する工業規格があり、緑のそれは「2.5G 6.5/10」であるのに対して、グリーンのマンセル値は「2.5G 5.5/10」です。

実際に目でみてみるとその違いがわかるのですが、緑のほうがグリーンよりもやや明るく、これは上で述べたように、欧米人が英語のグリーン(green)とする色が日本人が緑とする色よりも明るく鮮やかな色であるのとは逆になっています。

マンセル値というのは、アメリカの画家、美術教育者であったアルバート・マンセル という人が、色の名前の付け方が曖昧で誤解を招きやすいことから、合理的に表現したいと考え、造り出した指標です。

マンセルは、1898年に研究を始め、1905年にその成果として「色彩の表記“Color Notation”」という本を著し、これを1943年にアメリカ光学会 (OSA) が視感評価実験によって修正したものが、現在のマンセル表色系の基礎となっています。

しかし、その指標に基づいて、上記のグリーンと緑のマンセル値を決めたのは、日本の工業学会であり、その指導をしたのは日本のお役人です。つまりその役人の好みによって、緑のほうをグリーンよりも明るい色にした、ということになるようです。

日本庭園B

ま、どっちでもいいような話ではあるのですが、古代日本語の固有の色名は、アカ・クロ・シロ・アヲの四語のみだったのを考えると、このように単に緑といっても、いろんなものが混在する現在というのは、それだけ文明が発達したという証しでもあります。

しかし、現在のように緑が色名として明確に扱われてこなかった昔は、実際には緑であるものも「青」によって表現されることも多く、例えば、「青々とした葉っぱ」「青野菜」なども実は緑色だったりしました。

信号機の「青信号」も「青」と表現されますが、もともとは緑色です。これはこの制度が最初に導入されたとき、その当時の新聞が「青は進め」と間違って発表してしまったからだそうです。古い信号機では本当に緑色でしたが、最近は「青緑色」に近い色だそうで、これは色弱などの色覚異常がある人を考慮したためです。

このほか、「青二才」ももともとは、果実の熟し具合からの転用で「幼い」「若い」「未熟である」ことを英語では “green”、ポルトガル語でも “verde” と緑色をさす語で表しています。これらの言語が日本に入ってきたとき、これを翻訳する際、「青い」と表現してしまったことに由来します。

このように、緑色と青色を明確に切り分けなかったために、非常にややこしいことになっている国は日本だけではないようで、とくに東アジアの漢字文化圏や、東南アジア、インド、アフリカ、マヤ語など中南米の言語にも同様の傾向があるそうです。

緑色(green)と青色(blue)を合体してグルー(grue)という語を使用する国さえあるそうで、この言語は「グルー言語」ともよばれるそうです。この言語では黒色とも区別されず、いわば「暗い色」として表されることがあり、これは特に赤道直下の言語に多いといいます。

しかし、よくよく考えてみれば、日本でもそうですが、ほかの国においても、昔はこうした色の分け方に物理学的な根拠があったわけではなく、最終的にはそれぞれの文化によって色の命名が決められてきたわけです。

しかし、グルー言語の研究者のなかには、これらの言葉が熱帯をはじめ比較的温暖な地域に多いのは、野外活動により浴びる紫外線が多く、このため網膜を保護するために水晶体が黄変するようになり、加齢とともにその傾向が更に増すことが原因だとする説を唱える人もいるようです。

目のレンズが黄ばむため、青色のような短波長の感度が低下するときには、緑と青の違いがわからなくなるため、というわけです。従って欧米と日本では色の感じ方が違うというのも、こうした気候の違いによるものだと、考えることもできるようです。

欧米では日照量が少ないため、体内で生成されるメラニン色素が少なく、このため青い目や緑の目の人が多くなりますが、この目の光彩の色の加減も緑色の見え方と関係があるようです。

もみじばな

もっともこうした住んでいる地域による違いだけでなく、一般に高齢者などは、白内障などによる視界の黄変化により白と黄色、青と黒、緑と青などの区別が困難となるといいます。従って、私もまた、もう少し歳を重ねると、緑を緑青と感じるようになっていくのかもしれません。

これからの季節、緑色が黄身がかってみえるようになる、というのは哀しい気がしますが、それを今年もまた元気に見て感じることができることは幸せです。これからも毎年みずみずしい新緑のシャワーを浴びることができることに感謝しつつ、齢を重ねていくことにしましょう。

ちなみに、この緑色は目に優しい、良いものだと、認識されていますが、実はこれには医学的な根拠はなく俗説だそうです。

人は無機質な室内よりも、圧倒的に自然の多い窓の外を見たほうがリラックスできます。このため知らず知らずのうちに、そちらのほうを見ることも多くなりますが、単に緊張をほぐすということだけでなく、遠くの景色を見ることは、目にも良いわけです。

その外の自然の中には、当然多くの緑が含まれることから、緑色をみると目に良いといわれるようになったわけですが、実際には別に緑でなければならない理由はなく、目のレンズを鍛えるために遠くを見るならば、その景色は茶色でも青でもいいわけです。

が、それにしても緑色というのは本当にいい色だと思います。私は緑の中でも透明感のある鮮やかな緑色のエメラルドグリーンが大好きです。

そのエメラルドグリーン色をした、山口の長門の海岸へ今年は久々に行ってみたい気がするのですが、実現するでしょうか。

ここ伊豆でも、南伊豆ではエメラルドグリーンの海があちこちにあるようなので、もし山口に帰れなければ、ここへ行ってみたいと思います。

さて、みなさんのお好きな緑は何緑でしょうか?

春の森

三田尻のこと

2014-1140274目の前にある公園の河津桜はほぼ満開で、その隣にあるソメイヨシノの蕾もだいぶ膨らんできたようです。

東京都心の開花予想はこの週中くらいのようですから、だとすると、この高台の開花も来週ぐらいでしょうか。

去年、御殿場にある高原リゾート、 時之栖に行ったときに、通りすがりの方に園内のスタッフが説明していましたが、昨年はウソという鳥が大量に発生して、ここの蕾を食べてしまったとかで、そのせいで例年よりも少し桜がしょぼかったようです。

我が家の目の前にあるこのソメイヨシノもまた昨年はあまり花をつけませんでしたが、もしかしたら伊豆全体で去年はこれと同じような状態が起こっていたのかもしれません。

調べてみると、このウソという鳥は、漢字では「鷽」と書くようです。その和名の由来は口笛を意味する古語「うそ」から来ており、「フィー、フィー」または「ヒーホー」と口笛のような鳴き声を発することから名付けられたそうです。

細く、悲しげな調子を帯びた鳴き声は古くから愛され、江戸時代には「弾琴鳥」や「うそひめ」と呼ばれることもあったようで、この「弾琴」は、囀る時に、左右の脚を交互に持ち上げることからきているそうです。

ヨーロッパからアジアの北部、つまり中国などに広く分布しており、冬になると北方に生息していた個体が「冬鳥」として日本などに飛来し、秋から春にかけて滞在します。従って、大陸からやってきたという点ではPM2.5と同であり、やっかいもの、という印象です。

春にやってきては、木の実や芽を食べますが、このころちょうど蕾がいっぱいつく、サクラ、ウメ、モモなどの蕾だけでなく、花までむしゃむしゃと食べてしまします。

全長は15~16 cmほどで、体はスズメよりやや大きく、頭の上と尾、翼の大部分は黒色、背中は灰青色。くちばしは太く短く黒い。雄の頬、喉は淡桃色をしています。雌にはこの淡桃色の部分はないため、雄は照鷽(てりうそ)、雌は雨鷽(あめうそ)と呼ばれるそうです。

このようにその姿はみやびなのですが、上述のとおり春先に公園のソメイヨシノや果樹園のウメやモモの蕾を摘み取ってしまうため、公園管理者や果樹農家から害鳥扱いされることも多いようです。

しかし、繁殖期に昆虫のガの幼虫やクモなどを食べ、材木に付く虫を食べる益鳥でもあり、「鷽」という字が学の旧字「學」に似ていることから、太宰府天満宮や亀戸天神社では「天神様の使い」とされ、鷽を模した木彫りの人形「木鷽」が土産の定番となっています。

この木鷽を使った「鷽替え神事」も菅原道真を祀った大きな神社の定番です。鷽(ウソ)が嘘(うそ)に通じることから、前年にあった災厄・凶事などを嘘とし、本年は吉となることを祈念して行われる神事で、太宰府天満宮、亀戸天神社、大阪天満宮、道明寺天満宮などが有名です。

木彫りの鷽の木像である木うそを「替えましょ、替えましょ」の掛け声とともに交換しあうそうで、亀戸天神社では前年神社から受けた削り掛けの木うそを新しいものと交換します。多くの神社では正月に行われ、太宰府天満宮では1月7日の酉の刻、亀戸天神社では1月24日、25日に行われます。

この天満宮は、言うまでもなく、菅原道真を祀った神社です。政治的不遇を被った道真の怒りを静めるために神格化し祀られるようになった御霊信仰の代表的事例であり、道真を「天神」として祀る信仰を天神信仰といいます。

道真が亡くなった後、平安京で雷などの天変が相次ぎ、清涼殿への落雷で大納言の藤原清貫が亡くなったことから、道真は雷の神である天神(火雷天神)と同一視されるようになりました。

「天満」の名は、道真が死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来たといわれ、「道真の怨霊が雷神となり、それが天に満ちた」ことがその由来です。道真が優れた学者であったことから天神は「学問の神様」ともされ、多くの受験生が合格祈願に詣でます。

道真が梅を愛し、庭の梅の木に「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ」と和歌を詠み、その梅が大宰府に移動したという飛梅伝説ができたことから、梅を象徴として神紋に梅鉢紋などが多く使用されています。

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各地の天満宮のうち、特に道真と関係が深かった福岡の太宰府と京都の北野の二つがその二大双璧です。北野天満宮は道真が好んだという右近の馬場に朝廷が道真の怨霊を鎮めるために造営され、太宰府天満宮は道真の墓所・廟に造営されたものであり、この両社が信仰の中心的役割を果たしています。

この二つに加え、大阪府の北区にある大阪天満宮、もしくは山口県防府の防府天満宮などを加えて日本三大天神と呼ばれます。

この防府天満宮には、私が子供だったころによく遊びに行きました。道真が亡くなった翌年である延喜2年(904年)に創建され、神社では「日本最初に創建された天神様」であることを誇っているようです。

なぜ、防府なのか、ですが、これは道真が宮中での権力争いで失墜し、九州の大宰府に流されていく道筋での宿泊地の一つが防府とされているためです。

防府市は、この天満宮を中心に栄えてきた都市であり、市外からの来訪者も多く、正月の3が日には約30万人の人出を記録したこともあります。有名な祭りとしては2月の牛替神事と11月の御神幸祭が挙げられます。

この御神幸祭は別名裸坊祭(はだかぼうまつり)ともいい、御網代(おあじろ)という巨大な荷車を白装束の氏子たちが引っ張って、行きは表参道の大階段を下り、帰りは表参道の階段を上っていくという勇壮なものです。

が、御網代の重さは1トンほどもあり、この神社の階段はかなり急なので危険なことこの上なく、毎年怪我人が絶えません。また牛替神事で使われる牛車もかなり大きなもので、天神様の乗られるこのきらびやかな牛車を引く牛を取り替える、という神事です。

その他、8月3日から5日までは、道真の生誕を祝う御誕辰祭が行われ、夜には1000本あまりの蝋燭に火を灯した万灯祭献灯で表参道が飾られるほか、最終日には防府天満宮夏祭り大花火大会も行われます。

この防府天満宮は、春には太宰府天満宮などと同様、梅の花が咲き誇り、境内中が本当に良い香りにつつまれます。私は、子供のころにここによくいき、境内脇の茶店でお団子をほおばりながら、梅見をするのが大好きでした。

境内の西側には、春風楼と名付けられた楼閣式の参籠所があります。当初は、長州藩第10代藩主の毛利斉熙が、文政5年(1822年)から五重塔の建立に着手しましたが、天保2年(1831年)に不慮の支障によって工事は中断、幕末の動乱などが妨げとなって五重塔は完成しませんでした。

しかし、明治になって、当時着工されていた組物を使って建築が続けられ、明治6年(1873年)に塔ではなく楼閣として完成しました。この春風楼からは防府市街地が一望でき、風向きによっては潮風がここまで上がってきて、この防府という町が海沿い近くに造られた町であることを感じさせてくれます。

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その歴史は古く、飛鳥時代に、聖徳太子の弟の来目皇子が亡くなり、「周防娑婆で殯(もがり)を行った」。との記事が「日本書紀」に見られます。奈良時代には、周防国の国府や国分寺が設置され、以来、周防の国の中心都市として発展することになります。

その昔は、「三田尻」と呼ばれていました。1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、毛利氏は、その所領の内、本拠であった安芸国を取り上げられ、新たな居城を築く必要に迫られました。この時に毛利氏当主・毛利輝元は、周防国山口・周防国三田尻・長門国萩の三都市に城を築くべく、徳川家康に許可を求めした。

しかし、徳川家康は毛利氏封じ込めの意図もあり、大内氏以来の周防国の中心であった山口、瀬戸内海に面した天然の良港であった三田尻への築城を認めず、萩城の築城だけを許可し、結果、毛利氏は山陰に押し込められることになりました。

しかし、三田尻は天然の良港であったため、戦国時代に瀬戸内海で活躍した毛利水軍、村上水軍が「御船手組」に組織改編されて、元の本拠地であった下松よりこの三田尻に移り住むようになりました。

御船手組の根拠地となったことで、船を格納し海城の性格を持つ「御船倉」の建造や町割りなど、三田尻の整備が進められましたが、この当時の御船手組が居住した「警固町」や、水夫や船大工が居住した「新丁方」といった当時の地名は現在も残っています。

江戸時代初期には、海路で参勤交代へ向かう出発地となり、1654年(承応3年)に毛利綱広が日本海側の萩と瀬戸内海を結ぶ道路である「萩往還」を造った際にも、「三田尻御茶屋」が建設されるなど、大いに栄えました。茶屋と呼んでいましたが、これは幕府をたぶかるためであり、天守などはないものの、事実上はお城に近い建築物でした。

その後、参勤交代は幕府の命によって海路から陸路に変更されてしまったため、三田尻の役割は限定的なものとなってしまいましたが、それでも長州藩7代藩主毛利重就は、隠居後にこの三田尻御茶屋に住むなど、引き続きこの町は毛利版の要衝として重視されました。

江戸時代末期にもその重要性は変わらず、坂本龍馬が土佐藩を脱藩して、下関に向かう際には盟友の沢村惣之丞と三田尻に立ち寄っています。また、幕府に対抗すべく、御船倉も海軍局と名前を変え、欧米より伝わった近代航海術の教練や造船技術の教育も行われるようになりました。

薩摩藩・会津藩などの公武合体派が画策したクーデターによって、長州が支援していた三条実美ら七人の公家たちが京都から追放された、いわゆる「七卿落ち」の際には、三田尻御茶屋はその滞在所として使用されました。

このとき三条らは三田尻御茶屋の大観楼棟に約2ヶ月滞在して、その時に敬親や高杉晋作らと面会しています。さらに、敷地の北側に招賢閣が建てられ、三条らの会議場所となりまし。招賢閣には幕末の志士達が足繁く立ち寄りましたが、翌1864年(元治元年)の禁門の変の後には廃止され、さらに明治維新後に解体されました。

一方で、三田尻御茶屋そのものは明治時代以降も毛利家の別邸として使用され続け、1916年(大正5年)に、公爵毛利家の新たな本邸が防府市多々良に完成しこれを多々良邸と呼ぶのに対して、三田尻茶屋は三田尻邸とも呼ばれるようになりました。

1939年(昭和14年)に、毛利家から防府市に寄付され、その改築で防府の産業振興に尽力した7代藩主毛利重就の法名から「英雲荘」と名付けられるようになります。

太平洋戦争終結後は、進駐軍将兵らの集会所となり、大観楼棟1階をダンスホールとするため、畳を取り外して絨毯敷きにするなどの大改築が行われました。その後、市の公民館などとして使われてきましたが、1989年(平成元年)9月3日には、萩往還関連遺跡三田尻御茶屋旧構内として、国の史跡に指定されました。

そして、1996年(平成8年)に修復保存作業が始まり、各棟を往年の姿に復元し、2011年(平成23年)9月より一般に公開されています。

防府天満宮といい、この英雲閣といい、町の名前があまり知られていないのにも関わらず、意外と見どころの多いこの防府ですが、三田尻が防府と改名されたのは、1902年の佐波村と三田尻村との対等合併のときからです。その後、中関町・華城村・牟礼村などの周辺の町村を合併し、現在の防府市となったのは1936年(昭和11年)のこと。

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その後は、水資源の豊富な近隣の塩田跡に工場群が進出するのにあわせ、工場生産品を輸出する港湾として設備の拡充が続けられ、特に、自動車メーカーのマツダが主力工場の一つを防府市に設置したことから町は大きく発展していきました。

旧三田尻港は、三田尻中関港と改名されて重要港湾に指定され、防府はマツダの城下町として、また自動車の輸出港の街として発展を続けています。

このマツダは、その昔は非常に業績不振で、一時はアメリカのフォードの参加に入りましたが、2007年の世界金融危機により業績が悪化したフォードは、2008年11月に保有していたマツダ株式の大半を資金調達のために売却しました。

さらに2010年には追加売却が行われたことでマツダは会計上フォードの関連会社ではなくなり、実質的にフォードグループから独立しました。その後は、2011年のSKYACTIV TECHNOLOGY導入以降、世界的に「売り方革新」と呼ばれる販売改革を進めており、これがなかなか好調のようです。

このSKYACTIVというのをマツダが最近テレビコマーシャルで盛んに宣伝していますが、これは特定の一つの技術ではなく、一連の複数の技術により車の燃費をアップさせる技術のようです。

従来の自動車開発ではエンジン、トランスミッション、プラットフォームといった主要なコンポーネントの設計時期が異なるため、個々の理想的な構造・設計を純粋に追求することが困難でした。が、この技術の導入によって、自動車を構成する要素技術を包括的かつ同時に刷新することで車両全体の最適化が図れるようになりました。

マツダは、スカイアクティブ・テクノロジーを採用した商品は製作誤差による性能の個体差を極小化することで、カタログ通りのスペックを全数保証するポリシーを貫いており、こうした取り組みは、ユーザーにも高く評価されており、これが最近のマツダが好調な理由のようです。

私は広島育ちで、当然のことのように広島カープのファンなのですが、このカープのメインスポンサーであるマツダの車には実は一度も乗ったことがありません(レンタカーは別ですが)。

その理由はとくにないのですが、一昔前のマツダ車というと、妙にペラペラな印象があり、内装もいまひとつパッとしないもので、その上に業績悪化でフォード傘下に入ってしまってからは、「優秀な国産車」を製造するメーカーとしての認識が薄れていったことなどがあげられるでしょうか。

が、最近のマツダ車をみていると、デザインもよく、技術力も安定していきているようなので、次にクルマを買い変えるときにはひとつ、検討してみようかと思ったりもしています。

さて、今日はのらりくらりと、思いつくまま書いてきましたが、外を見ると今日も富士山がくっきりと見える上天気で、このままブログを書いているのはもったいない気がしてきたので、ここいらでやめにしたいと思います。

この天気もしばらくは続きそうです。そろそろ桜をどこに見にいくかも決めなければなりません。みなさんはいかがでしょう。もう今年の花見はどこにするか、お決めになったでしょうか?

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春よホイ!

河津にて11春です。

春は、寒い冬から気温が上がり始め、朝晩はまだまだ肌寒さは残るものの、次第に日中は暖かくなる時期であり、秋と並んで一年の中では最も気候の良い穏やかな季節とも言われます。

雪や氷が溶け、植物が芽を出す時期でもあります。日が長くなり、地中の虫が動き始めます。寒さが次第に緩み、草木が萌え芽ぐみ、花々がつぼみをつけ、満開になります。桜が咲き、そして散り、次第に木々の緑が濃さを増し、徐々に暑い日が増えてきます。

日本では毎年3月が年度替わりとされ、さまざまな区切りとなります。テレビ・ラジオではその番組の内容が改編されることも多く、また法律・制度が実施されたり、市や町などの行政区画が変更されたり合併なども行われ、居住環境が変わることもあります。

学校では卒業式、入学が行われ、会社では入社式、人事異動があって、出会いと別れの季節でもあります。花見などはこれに重ねて扱われ、それゆえに桜が咲き、散るとうれしかなしい気分になります。

サマータイムが実施される国では、春の半ば頃から時計を1時間進めることとなり、サマータイムの言葉が指すとおり、夏の前哨戦でもあります。陽射しが長くなり、冬の寒さが和らぐことによって、一般に生物の活動が活発になります。

また、豪雪地帯では雪解けが起こり、ここから排出される雪解け水は貴重な水資源となります。と同時にこの水は日本においては農耕、とりわけ米作には欠かせないものとなります。

その一方で、この雪解けは雪崩や融雪洪水をもたらす場合もあり、この他、発達した低気圧が太平洋側を通り気温が低いと太平洋側に春の大雪をもたらすこともあり、この低気圧が日本海側を通ると春一番と呼ばれる南風が吹くことでも知られています。

正月を「新春」といいますが、これは旧暦では一月が春とされていたためです。このため、春という言葉には「物事の始まり、新年の始まり」の意味を持たせる場合があります。

西洋でも春を意味する、イタリア語の「プリマヴェーラ(Primavera)」やフランス語の「プランタン(Printemps 」には、「第一の」を意味する接頭語「プリ(pri-)」を冠しており、元々の意味は、「第1の季節」です。これは農耕暦であるローマ暦において、寒い冬が終わり農耕を開始できる最初の季節として、春を年のはじめとしたことに由来します。

また、ヨーロッパや中東では、春が到来すると、冬の寒さと長い夜による過酷で抑圧された生活から解放されまる。このことから、春の語は「雪どけ」などと同様に「抑圧からの解放、自由の空気の到来」の比喩として使用されます。プラハの春、アラブの春がその良い例です。

また、春から初夏にかけての季節を木の芽時とも言い、「暖かくなるとおかしな行動をとる人が増える」とも言われ、そのような行動をとるものは俗に「春な人」「頭が春な人」と呼ばれることがあります。いろいろヘンなことばかり思い悩む若い頃のことを、思春期とも呼びます。

不思議の国のアリスには、「三月ウサギ」は、自宅の前で「狂ったお茶会」を開いており、お茶会に加わったアリスをおかしな言動で翻弄する頭のヘンなウサギとして登場します。

春はまた、性的活動が盛んになるものとされています。春(しゅん)と言った場合には、いかがわしいことや性的なことを示すことばとして使うことが多く、たとえば春画・売買春があります。

爪木崎に咲く

春は生物の動き始める時期でもあります。温度が上がり、日差しが強くなり、植物の活動が始まる時期です。春に芽を出すため、柔らかな植物や花が多いことから、またそれを食べる昆虫などの活動も盛んとなり、これを餌とする多くの鳥もこの季節に繁殖を行います。

それに伴って鳥がさえずるので、野外はにぎやかになります。ツバメなど、南方から渡ってくる鳥もあり、ほ乳類の育児もこの時期に行われる例が多いようです。

ただ、猛禽類や大型肉食獣の場合、冬から育児を始めることが多く、これは子供がやや大きくなって食欲が増した時期が春となるよう、小型動物の育児や繁殖の時期と餌の多い春が重なるように適応して進化してきたためです。

日本では主要作物であるイネの植え付け準備に当たる時期でもあります。初冬から水田ではレンゲが緑肥として栽培され、田起こし、苗代作りなどが続きます。田植えは初夏の行事と思っている人も多いでしょうが、本州では早いところでは四月に始まります。

梅・桜・桃は、春の花の代表であり、それぞれを対象として花見が行われます。日本においてはとくに桜の開花が文化と密接な関わりをもち、桜の開花宣言が地域ごとに出されます。桜前線が北上するころには、菜の花も咲き乱れ、桜と菜の花の取り合わせは代表的な春の畑の風景です

もうひとつ、春の代表花としては、フクジュソウがあります。この花は、どちらかといえばもう少し早く、冬と位置づけていい時期に咲きます。が、一般にはこれも新春の花と認識されているようです。

春はまた、新芽の伸び始める季節でもあり、また、園芸植物では球根系のチューリップ・ヒヤシンス・アネモネなどの春の花が咲き誇ります。ただ、これらの花は、春の代表と認識されてはいるものの、実際の開花時期は地域によって異なり、特に寒冷地ではそれはかなり遅くなります。

このほかにも、ミズバショウは「夏の思い出」に唄われるため、夏の花と思っている人が多いようですが、実際には水場所が咲く尾瀬などでは、この花が咲く季節は春早に当たります。

また、寒い地方では、これらの春の花の開花は、単に遅くなるだけでなく、その期間が圧縮されます。例えば梅、桃、桜は本州南部では2月、3月、4月と順に咲いていきますが、東北地方ではほぼ同時に咲きます。

アロエ

ところで、チューリップやヒヤシンス、アネモネといった花は、ヨーロッパが原産であり、これらは彼の地では、「スプリング・エフェメラル」とされてきました。

ヨーロッパでも、多くの植物はこの時期から葉を伸ばし、栄養を蓄えてから繁殖を始めますが、特に春にだけに限って爆発的に発生するこうした植物や昆虫類を総称してスプリング・エフェメラルと呼んでいます。

ヨーロッパ原産の植物だけでなく、たとえば早春の花として有名な日本原産のカタクリは、地中深くに球根を持って越冬します。地上に顔を出すのは本州中北部では3月、北海道では4月で、これはほぼ雪解けの時期に当たります。つまり雪解け直後に地上に顔を出し、すぐに花を咲かせるのです。

花はすぐに終わり、本格的な春がくるころには葉のみとなり、葉も6月ころには黄色くなって枯れ、それ以降は地中の球根のみとなってそのまま越冬します。その地上に姿を見せる期間はわずか2ヶ月ほどです。

このカタクリのように、春先に花を咲かせ、夏までの間に光合成を行って地下の栄養貯蔵器官や種子に栄養素を蓄え、その後は春まで地中の地下茎や球根の姿で過ごす、という生活史を持つ植物は意外に多いものです。

とくに落葉樹林の林床ではこうした植物はよく見られ、そのためそのような森林の林床は、春先にとてもにぎやかになりますが、このような一群の植物をスプリング・エフェメラルと呼ぶのです。

スプリング・エフェメラルと呼ばれる植物は、いずれも小柄な草本であり、地下に根茎や球根を持っているほか、花が大きく、華やかな色彩を持つものが多いのが特徴です。小柄であることは、まだまだ寒い時期に高く伸びては寒気に耐え難いためであり、背を伸ばすよりは花に多くの栄養を割いた結果とも考えられています。

また、気温も低く、光も強くない春先に素早く成長し、まず花をつけるために地下に根茎や球根を持つことが必要になり、この根や球根が大きいものはそのためです。

スプリング・エフェメラルはまた、温帯の落葉広葉樹林に適応した植物でもあります。冬に落葉した森林では、早春にはまだ葉が出ていないため、林床は日差しが十分に入ります。この明るい場所で花を咲かせることこそがこの種の植物の最大の特徴です。

やがて樹木に新芽が出て、若葉が広がり始めると、次第に林内は暗くなりますが、それでも夏まではやや明るい状態です。つまり、この種の植物は、この光が十分にある間に、それを受けて光合成を行い、その栄養を地下に蓄えることができるわけです。

したがって、これらの植物は森林内に生育しているものの、性質としては日向の植物です。日本の場合、落葉広葉樹林帯に当たるのは、本州中部以北、あるいはそれ以南であれば標高の高い地域です。

特に、里山はそれらが比較的よく出現すると言われています。人為的な撹乱を連続的にうけた樹林帯であり、スプリング・エフェメラルは人が落葉樹林帯を作ったからこそ、ここに誕生した植物ということになります。

ムラサキナバナ

約1万年前の最終氷期が終わるころ、このころの日本にいた旧石器時代人は、氷期の落葉広葉樹林の生態系に適応していました。ところが、氷期が終り、新しい照葉樹林の生態系が生まれると、これに適応して縄文人が生まれました。

この縄文人たちは、木の実や食用の葉など生活資源を獲得する上においては、落葉広葉樹林のほうが有利であることを知っており、これを維持するように仕向けたといわれており、このために、森林の一部に一定の手入れを続けて、今日の照葉樹林地帯における里山や草原の原型を作り出しました。

つまり、現在の日本の照葉樹林地帯で普通に見られるスプリング・エフェメラルは、縄文人による生態系操作によって生み出された常緑樹帯によって間氷期を生き延びて現在に至っているということになるのです。

それにしても、なぜスプリング・エフェメラルは、背が高くなることよりも花を咲かせることを優先させるのでしょう。

その理由は、これらの植物が「虫媒花」としての性質を持っているからだといわれています。「虫媒」というのは、春の早い時期に活動を始める少数の昆虫がその花粉を運ぶ媒介役を担うことをさします。

つまり、多くのスプリング・エフェメラルが、ほかの植物体に比べて大柄な花をつけるのは、春先にはまだ活動が鈍く、それほど数の多くないこの昆虫の目を引くためです。

このような花の受粉を担っている昆虫としては、北方系の昆虫であるマルハナバチや、低温環境下でも活発に活動できるハナアブ科のハエ類などが多いそうです。例えばカタクリやエゾエンゴサクの花は、マルハナバチに受粉を依存しており、フクジュソウの黄色の皿状の花は、とくにハナアブ類に適応した花の形をしていることなどがわかっています。

なお、ギフチョウやウスバアゲハなど、春先のみ成虫が出現する昆虫のことをもスプリング・エフェメラルということがあり、とくにこの語で呼ばれるのは、華やかなチョウなどが多いようです。

例えば、ギフチョウの場合、春先に羽化した成虫は、すぐに卵を産み、卵はすぐに孵化して、食草をどんどん食って成長します。夏には蛹になって、そのまま春まで、落ち葉の下で休眠します。つまり、その生活史は植物のスプリング・エフェメラルそのものです。

スプリング・エフェメラルとして、日本産で代表的な植物としては、以下のようなものがあります。

キンポウゲ科
キクザキイチゲ、ユキワリイチゲ、アズマイチゲ、イチリンソウ、ニリンソウなどのイチ

リンソウ属
フクジュソウ、セツブンソウ

ケシ科
エゾエンゴサク、ヤマエンゴサク、ムラサキケマン

ユリ科
カタクリ、ショウジョウバカマ、ヒロハノアマナ、バイモ属(コバイモ類)

ウメ07

ところで、このスプリング・エフェメラルは、英語では“Spring ephemeral“と書きます。直訳すると「春の儚いもの」「春の短い命」というような意味で、「春の妖精」とも呼ばれます。

この妖精を逆に英語に直訳すると、“fairy”となります。西洋の伝説・物語などで見られる、自然物の精霊であり、中国では、もともと妖怪や魔物を指して使われていました。

西洋では神話や伝説によく登場します。超自然的な存在、人間と神の中間的な存在の総称であり、人とも神とも違う性格と行動は、しばしば「気まぐれ」と形容されます。その語源は、ラテン語で運命を意味する「Fata」に由来します。元々天使でしたが、天使の座から「降格」された存在であったとも言われています。

イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランド、ノルマンディー地方などの神話・伝承の精霊や超常的な存在を指しますが、日本では、この妖精のことを「こびと」や妖怪と呼び、時に龍や、仙女なども妖精としてきました。

ゲルマン神話のエルフ、メソポタミア地域のリリス、インドおよび東南アジアのナーガなども妖精の一種です。

これらは人間に好意的なもの、妻や夫として振る舞うものなども多いようですが、一方では人にいたずらしたり、だましたり、命を奪おうとするもの、障害として立ちはだかるもの、運命を告げるものなど、必ずしも人に幸せをもたらすものではありません。

伝承とはいえ、実際にいるはずだ、とする人は古今東西後を絶たず、その昔、イギリスでは「コティングリー妖精事件」とうのがありました。20世紀の初め、イギリスのブラッドフォード近くのコティングリー村に住む10代の姉妹が撮ったという妖精の写真の真偽をめぐって起きた論争や騒動のことです。

写真に写った妖精は、小さい人の姿で、1920年代の髪型をし、非常に薄いガウンをはおり、背中には大きな羽がありましたが、作り物ではないかという指摘が当初からありました。

しかしその後70年以上を経たのち、この写真は、子供向けの絵本の絵を模写して切り抜いて撮影したものであったことを老婆となったこの姉妹が告白したことから、この写真は捏造であったことが発覚しました。

しかしながらその当時は、多くの人が妖精の実在する証拠としてこの写真を例にあげたそうで、その中には、シャーロック・ホームズ・シリーズの作者として有名なアーサー・コナン・ドイルもいたそうです。

このコティングリー事件によって妖精は人が創作したものと一般に認識されるようになりましたが、一方ではこの事件を受けて、妖精といえば、この写真のように羽をもつ非常に小さな人型の姿で絵や物語の中で登場することが多くなりました。

恋人岬の菜花02

以後、同様に「小さい妖精」としての類型としてさまざまな名前や姿形で、世界中の異なる地方、民族の伝承にあらわれるようになっていきます。

しかし、もともとのフェアリーの起源としては、土着の神などが、異教の神が入ってきたために神格を剥奪されたものであったり、社会的に差別・追放された人々を説明するための表現、しつけのための脅しや芸術作品の中の創作、などでした。

ただ、これらの創作物でも小さい姿に描かれるということは昔からあったようであり、このほか「遠い場所に行ってしまう」という話も多く、これは意識の中で小さくなってしまった存在であるということを表しています。

ヨーロッパ人の起源といわれるケルト族の神話や伝説にはいろいろな種類の「小人」が登場します。ドワーフ、レプラコーン、ゴブリン、メネフネの名で呼ばれた神話上の生き物も同じように「小人」と呼ばれ、アイルランドではシー(Sidhe)、スコットランドではディナ・シー(Daoine Sith)として知られています。

日本でも古来から、「妖怪」とされるものが妖精と同一視されてきましたが、最近では、「小さいおじさん」がひとつのブームです。その名の通り、中年男性風の姿の小人がいるという伝説であり、2009年頃から話題となり始めたようです。

目撃談によれば、「小さいおじさん」の身長は8センチメートルから20センチメートル程度で、窓に貼りついていたとか、浴室にいたなどの目撃例があり、道端で空き缶を運んでいた、公園の木の上にいた、などいろんな話があります。

ウェブサイトでも「小さいおじさん」に関する掲示板や投稿コーナーが設置されていて大人気ですが、もともとは、2009年にテレビ番組「やりすぎコージー」(テレビ東京)で元お笑いタレントだった人が、「関東中央の神社の参拝者に妖精がついてくる」と話したことが発端となったようです。

その後この神社は、実は東京都の中央に位置する神社である杉並区の大宮八幡宮ではないかとする噂が独り歩きし始め、番組放映直後の3月の連休には、この神社に例年の倍以上の参拝者が殺到したといい、現在でも参拝者が多いといいます。

2010年にはキャラクターグッズとして、携帯ストラップ「幸せをよぶ小さいおじさん」が発売され、小さいおじさんを目撃すると小さな幸せがある、見た後は成功するなどと宣伝されたことなどもブームに火をつけ、2011年には、「昭和47年(1972年)に秋田県で撮影された」とする写真も公開されました。

この写真には、身長15センチメートルほどの小人らしきものが写りこんでおり、「小さいおじさん」の写真として、妖怪研究家・山口敏太郎の解説とともに新聞紙上で報道されました。そうしたこともあり、その後目撃談があいつぎ、とくにミュージシャンやグラビアアイドルなど、芸能人による目撃談が数多く語られるようになりました。

コブシと月

その正体が何かについては、妖精、河童、妖怪、幽霊、宇宙人といったさまざまな説がありますが、実際には肉体および精神的な疲労などを原因とする幻覚ではないかと指摘する人もいます。

認知症の一種によるものだとする説もあり、これは「レビー小体型認知症」というれっきとした名前のある病気です。特徴的な症状として、覚醒レベルでの具体的で詳細な内容の幻視・幻覚などで、本症に出現する幻視は非常にリアルであるとされ、患者本人は具体的に「そこに~●●がいる」などと訴えます。

ところが、この病気にかかると視覚的に物事を捉えることが難しくなります。「認知症」としているのはこのためですが、アルツハイマー型認知症と違い、図形描写が早期に障害されることが多いそうで、これらの症状は、後頭葉の障害によって出現するものと考えられるそうです。

科学の信奉者がこのように否定的な見解を示す一方では、北海道などでコロポックルなど小人の伝説も実際に伝わっているため、一概に幻覚や病気説によってこれらの小人を否定することはできないとの意見も多いようです。

私自身は肯定も否定もしませんが、実際に見たことはありません。が、霊能者の方に背後霊のひとりとして、コロボックルがついていると言われたことがあります。かつて、北海道への出張が多かったころについて来たのでしょうか。

この小さいおじさんが妖精であるかどうかは別として、ともかくも、見える人には人型のものとして見えるようです。しかしその一方で、人の姿を取らないフェアリーも少なくないようで、ヨーロッパで旅人を惑わすウィル・オ・ウィスプという妖精は人の形をしていません。

日本でいう鬼火、人魂であり、白い光を放ち浮遊する球体、あるいは火の玉として現れ、イグニス・ファトゥス(愚者火)とも呼ばれます。他にも別名が多数あり、地域や国によって様々な呼称があるようです。

夜の湖沼付近や墓場などに出没したり、近くを通る旅人の前に現れ、道に迷わせたり、底なし沼に誘い込ませるなど危険な道へと誘うとされます。その正体は、生前罪を犯した為に昇天しきれず現世を彷徨う魂、洗礼を受けずに死んだ子供の魂、拠りどころを求めて彷徨っている死者の魂、ゴブリン達や妖精の変身した姿など様々なことが言われています。

ウィル・オ・ウィスプ“will-o’-the-wisp”とは、「一掴みの藁のウィリアム(松明持ちのウィリアム)」の意味で、これは死後の国へ向かわずに現世を彷徨い続ける、ウィル(ウィリアム)という名の男の魂だといいます。

生前は極悪人で、遺恨により殺された後、霊界で聖ペテロに地獄行きを言い渡されそうになった所を、この聖人を言葉巧みに彼を説得し、再び人間界に生まれ変わりました。

しかし、第二の人生もウィルは悪行三昧で、また死んだとき死者の門の前で、聖ペテロに「お前はもはや天国へ行くことも、地獄へ行くこともまかりならん」と言われ、煉獄の中を漂うことになります。

それを見て哀れんだ悪魔が、地獄の劫火から、轟々と燃える石炭を一つ、ウィルに明かりとして渡しました。この時からウィルが持ち歩く明々と燃える石炭の光が、人々には鬼火として見えるようになり、恐れられるようになっていったということです。

実際にこの鬼火はよくヨーロッパでは見られるそうで、これは「球電現象」と呼ばれています。

その実態は、稲妻の一種、あるいは湖沼や地中から噴き出すリン化合物やメタンガスなどに引火したものであるといわれているようですが、これは日本における人魂も同じで、墓場で埋められた死者から発生したガスが原因で発光するのだとする説もあるようです。

ボケA

ヨーロッパにおけるこうしたウィル・オ・ウィスプは人形にはならない一方で、家畜や身近な動物の姿をとることもあるそうです。

クー・シーというイヌの妖精は、外見以外は通常の犬に近い性質を持ちます。コナン・ドイルの「バスカヴィル家の犬」やハリー・ポッターシリーズに、墓守あるいは死に結びつけられる「黒妖犬」として登場するものなどがそれです。

騎馬民族の多いヨーロッパでは馬もまた、妖精として登場することが多く、その激しい気性は、御しがたい川の激流に結びつけられ川馬ケルピーや人を乗せて死ぬまで走る夜の白馬などとして登場します。

このほか猫は妖精的な生き物とされ、魔女の使い魔、魔女の集会に集まると考えられたり、そのものが妖精ケット・シーとされます。“Cait Sith”と書き、アイルランドの伝説に登場する妖精猫のことで、ケットは「猫」、シーは「妖精」です。

ケット・シーは人語をしゃべり二本足で歩くそうで、しかも王制を布いて生活しているそうです。また二カ国の言葉を操るケット・シーもいるそうで、かなり頭のいい奴らだということがわかります。

犬くらいの大きさがある黒猫で胸に大きな白い模様があると描写されることも多いようですが、虎猫や白猫、ぶち猫など様々な姿で描かれることもあり、必ずしもクロネコというわけでもなさそうです。

アネモネ

こんな話があります。

ひとりの農民が満月の夜帰宅の途に着いていました。

すると、村境のある橋の上に猫がたくさん集まっていたので、奇妙に思った男は、好奇心からこっそりとその様子をうかがってみることにしました。

すると、猫たちが葬式のような行事を行っているようであり、さらに耳をそばだててみると、なんと人間の言葉でしゃべっているではありませんか。男は仰天し、さらに猫たちの声を聴いていると、どうやら猫たちは「猫の王様が死んだ」と騒いでいるようです。

その後も意味不明な会話をしていましたが、しばらくするとその話も一段落したのか、一匹残らずどこかへ逃げ去ってしまいました。

男が家にたどり着いたのはその夜もうかなり遅い時間だったので、その日はそのまま寝てしまいました。翌朝、その不思議な出来事のことを思い返した男は、気持ちを抑えきれずにその話を妻に話し始めました。すると、暖炉のそばで眠り込んでいた愛猫が、突然飛び起き、そして、こう叫びました。

「何だって!? それならぼくが次の王様だ!!」

猫は叫ぶと煙突から風のように外に飛び出して行き、二度と帰ってはこなかったそうです。

…… さて、ウチのテンちゃんは妖精でしょうか。

ネコ万歳!

原爆ドーム

2014-1120862しばらく仕事が忙しく、めずらしくブログの間が空いてしまいました。

この間、桜の開花がかなり進んだようで、山の上の我が家の周辺でも河津桜がほぼ満開です。もうそんな季節になったかと改めて思う次第ですが、では、今年になって何があったかなと思い返してみると、ほとんど何も思い出しません。

それでも、今年は2月にオリンピックがあり、その観戦で明け暮れたことは思い出したのですが、では1月に何があったかな~と思い返してみると何も出てこず、あわててかつてのブログを読み返してみると、あー、そうだったと思いだしたのが、月末に行ったプチ旅行でした。

姪の結婚式があり、二泊三日の短い日程で広島へ出かけたのですが、そのことを皮切りに、その旅行の準備で忙しかったことや、直前に母の入院先が手術をした病院から別のリハビリ専門の病院へ移ったことなど、芋づる式に思い出しました。

この広島では、広島駅近くの京橋川のほとりにあるビジネスホテルに宿泊したのですが、ここから市内の中心部である八丁堀までは歩いても十数分と近く、また、20分ほども歩けば、世界遺産の原爆ドームのある平和記念公園までも行けてしまいます。

高校時代までこの地で過ごした私にとっては、この平和記念公園は思い出がいっぱい詰まった場所なのですが、この旅行でもそうした昔のことが懐かしくなり、姪の結婚式がある日曜日の朝、早起きして、ここまで散歩に行ってきました。

お天気も良く、ちょうど原爆ドームに到着したころには、朝日もかなり高く昇り、オレンジ色の光を浴びたドームは妙に神々しく思え、原爆投下という悲惨な出来事を象徴する建物であることを忘れてしまうほどで、思わず見入ってしまいました。

場所としては、原子爆弾投下の目標となった相生橋の東詰にあたり、南には元安川を挟んで広島平和記念公園が広がっています。北は相生通りを挟んで広島商工会議所ビル、旧広島市民球場跡地と向き合う、といった位置関係で、東側約200メートルの位置には、爆心地とされ、現在も開業している島外科病院があります。

元は広島県物産陳列館として開館し、原爆投下当時は広島県産業奨励館と呼ばれていました。

その建築の経緯ですが、これは広島が明治時代には、「軍都」と呼ばれるほど大規模な軍隊を置いていたことと関係があります。

日清戦争時代には一時的ではありますが、大本営がおかれたこともあり、これを契機として、町としても急速に発展していきました。このため、その経済規模の拡大とともに、広島県産の製品の販路開拓とうことが声高に叫ばれるようになり、その拠点として計画されたのが「広島県物産陳列館」でした。

1910年(明治43年)に広島県会で建設が決定され、5年後の1915年(大正4年)に竣工しました。ドームの一番高いところまでの高さは約25mもあり、ネオ・バロック的な骨格にドイツ・オーストリア様式の細部装飾を持つ建物であり、建築の段階から大勢の市民が見物に来るほど耳目を集める建築物でした。

完成後は数々の物産展が開かれ、1921年に広島県立商品陳列所と改称した後も、第4回全国菓子飴大品評会の会場になるなど、中国地方における経済の中心都市である広島のシンボル的な存在となっていきました。

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1933年には更に、「広島県産業奨励館」という名称に改称され、この頃には盛んに美術展が開催され、広島の文化拠点としても大きく貢献するようになりました。しかし、戦争が長引く中、1944年3月にはその業務を停止し、内務省の土木事務所や県地方木材会社の事務所として使われるなど、行政機関・統制組合の事務所として使用されるようになります。

1945年8月6日午前8時15分17秒、アメリカ軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ」が、建物の西隣に位置する相生橋を投下目標として原子爆弾を投下しました。投下43秒後、爆弾は建物の東150メートル・上空約600メートルの地点(現島外科内科付近)で炸裂します。

原爆炸裂後、建物は0.2秒で通常の日光による照射エネルギーの数千倍という熱線に包まれ、地表温度は3,000℃に達しました。0.8秒後には前面に衝撃波を伴う秒速440メートル以上の爆風が襲い、産業奨励館は350万パスカルという爆風圧(1平方メートルあたりの加重35トン)にさらされました。

このため建物は原爆炸裂後1秒以内に3階建ての本体部分がほぼ全壊しましたが、中央のドーム部分だけは全壊を免れ、なんとか残存できました。しかし、しばらくはまだ窓枠などが炎上せずに残っていたものの、やがて可燃物に火がつき建物は全焼して、ついに煉瓦や鉄骨などを残すだけとなりました。

ドーム部分が全壊しなかった理由としては、衝撃波を受けた方向がほぼ直上からであったこと、窓が多かったことにより、爆風が窓から吹き抜け、ドーム内部の空気圧が外気より高くならない条件が整ったことなどが理由としてあげられています。

また、ドーム部分だけは建物本体部分と異なり、屋根の構成材が銅板であったことや、銅は鉄に比べて融点が低いため、爆風到達前の熱線により屋根が融解し、爆風が通過しやすくなったことも、その生き残りに寄与したようです。

このとき、広島市内は文字通りの焼け野原となりましたが、とくに爆心地付近での残存建築は少なく、この焼け残ったドーム部分は、爆心地付近では最も背の高い被爆建造物となりました。

原爆投下時には、この建物内で約30名の内務省職員がいましたが、爆発に伴う大量放射線被曝や熱線・爆風により全員即死したと推定されています。ただ、前夜宿直に当たっていた県地方木材会社の4名のうち1名だけが、原爆投下直前の8時前後に自転車で帰宅していて生存し、原爆投下当日の勤務者の中での唯一の生存者となりました。

その後、このドームを原爆の記憶としてとどめようという市民運動がおき、戦後の復興が進む中で、全半壊した被爆建造物の修復あるいは除去が進められました。

1955年(昭和30年)には「広島平和記念公園」が完成しましたが、この公園は、原爆ドームを起点とし、原爆死没者慰霊碑・広島平和記念資料館とを結ぶ軸を南北軸として設計され、原爆ドームをシンボルとして浮き立たせるものでした(原爆ドームは公園の北端にあたる)。

1995年3月、文部省(当時)は文化財保護法に基づく史跡名勝天然記念物指定基準を改正し、同年6月に原爆ドームを国の史跡に指定し、これをうけて、日本政府は同年9月に原爆ドームを世界遺産に推薦。1996年12月にメキシコのメリダ市で開催された世界遺産委員会会合で、正式に世界遺産としての登録が決まりました。

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この原爆ドームを巡っては、その前身である「広島県物産陳列館」の時代に、二人のヨーロッパ人が深くこれに関わっていたことは、有名です。

その一人は、ヤン・レッツェルという、チェコ人であり、この広島県物産陳列館の設計者です。1880年(明治13年)にオーストリア・ハンガリー帝国(現チェコ共和国)に生まれ、高等専門学校で建築を学び、1899年にパルドゥビツェの学校の土木課の助手の職を得ました。

1901年には奨学金を得、プラハの美術専門学校に入学し、チェコの近代建築の重鎮の一人であるヤン・コチェラ教授に師事。1904年に卒業し、プラハに今も現存する数々の建築物の設計を手掛けるようになり、25歳になったとき、エジプト・カイロの設計事務所に勤めはじめました。

その傍ら、ローマ、ミラノ、ヴェネツィアなどの名建築が数多いイタリアの各都市を訪れており、その一年後の1907年(明治40年)に来日。日本では横浜のゲオルグ・デ・ラランデというドイツ人の設計事務所で働くこととなりました。

その翌年に、事務所を主宰していたラランデが本国のドイツへ帰国したのに伴い、これまで勤務していた設計事務所から、ゲオルグの父親で、建築家のオイゲン・デ・ラランデが横浜に設立した新会社に移籍しました。

レッツェルは、東京支店マネージャーとして、当時の四谷区東信濃町にあったこの会社のある洋館に通うようになりますが。この洋館は、現在、府中市にある江戸東京たてもの園に、「デ・ラランデ邸」として、移築復元工事中だそうです。

しかし、ここでの勤めは長続きせず、1910年には友人ととともに独立し、自分の会社を設立。事務所を横浜と東京に置き、日本の政府筋や学校関係から15件以上の建物の設計を受注するようになり、広島県物産陳列館の設計もこのときに行ったようです。

その後も日本での事業は順調に推移していたようですが、1915年には第一次世界大戦およびその後の不景気のため、事務所を閉鎖しチェコスロバキアへ帰国。これでいったん日本との絆は絶たれたかのように見えましたが、1919年に、今度はチェコスロバキアの在日大使館の商務官に任命され、その翌年に再来日しました。

レッツェルは母国で、同じチェコの女性と結婚していましたが、この再度の来日の時には彼女も同伴していました。ところが、二人の間には子供ができなかったため、このとき日本人の5歳の女児を養子に迎えました。

本国の外交官として再来日したレッツェルの暮らしは順調かに見えましたが、1923年9月1日に関東大震災が勃発し、一家も被災してレッツェルは全財産を失います。かつて自らが設計した多くの建物も被災し、その多くが失われたことを目にして彼は失意のどん底に沈み、体調を崩したため、同年11月に療養のために一人帰国します。

しかし、本国でも体調は持ち直すことなく、そのまま入院生活に入り、2年後の1923年にプラハで死去。45歳でした。帰国後は、母国を捨てて日本へ行ったということで家族友人から見放されていたといい、遺体は公共墓地へ埋葬されるなど、寂しい末路だったようです。

レッツェルの建築家としての活動の大半は日本におけるものであり、チェコ本国では、彼の本国での経歴の短さから、ほとんど知られていないようです。

ところが、近年、世界遺産となった原爆ドームとの関連からようやく評価されるようになり、かつて彼が本国で設計した当時の作品が探されるようになったといい、2009年にもモラビア地方の町ブルノの墓地で神社の鳥居を模した墓石が見つかり、彼の初期のデザインであると判明したそうです。

レッツェルが設計を手がけた日本国内の建造物は、関東大震災のためにほとんど残っておらず、廃墟として姿を止めている広島県物産陳列館(原爆ドーム)がその中でも一番大きいもののようです。このほかには、こちらも関東大震災で倒壊した聖心女子学院校舎(1909年竣工)の正門のみが現存しています。

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さて、原子爆弾の投下によって廃墟と化し、原爆ドームとなった産業奨励館と深い関わりがあったもう一人の外国人とは、カール・ヨーゼフ・ヴィルヘルム・ユーハイムと言うドイツ人でした。

戦前の日本で活躍したドイツ出身の菓子職人、実業家であり、第一次世界大戦中に捕虜として連行された日本に留まり、現在も神戸市にある「株式会社ユーハイム」の前身である喫茶店「JUCHHEIM’S」を開店したことで知られ、日本で初めてバウムクーヘンを作り、マロングラッセを販売した人物としても知られています

その生涯をすべて語ると長くなりそうなので、少々割愛しながら話を進めるとしましょう。

1886年12月25日、ドイツで10人兄妹の末っ子として生まれ、国民学校卒業後に菓子店で修行をしつつ、夜間職業学校に通って菓子の製造技術学んだ彼はめきめきと菓子職人としての腕をあげました。

22歳のとき、菓子店協会の会長に勧められてドイツの租借地である中国の青島市で同じドイツ人が経営する喫茶店に就職します。まもなく、その店主が帰国しなくてはならない理由ができたことから、彼はその喫茶店を譲り受け、これを自分の名前「ユーハイム」の名で営業するようになりました。

この当時から、ユーハイムの作るバウムクーヘンは本場ドイツの味そのものだと外国人を中心に評判だったといい、店は大繁盛。しかし、28歳と年頃であった彼は、数年後結婚相手を探すためにいったん帰郷し、1914年春にエリーゼ・アーレンドルフと婚約。同年7月に青島市に戻ってきて彼女と式を挙げました。

ところが、挙式直後にドイツはフランスとロシアに宣戦布告し、第一次世界大戦に参戦することとなり、青島市はドイツに宣戦布告した日本軍の攻撃を受け、陥落。ユーハイムは非戦闘員であったにもかかわらず、日本軍の捕虜となり、大阪の西区にあった大阪俘虜収容所に収監されてしまいます。

このとき妻のエリーゼは青島市に残され、ユーハイムが連行されてすぐに長男カールフランツを出産していましたが、彼はこの第一子が生まれたことも知らず、妻の安否を心配しつつ悶々とした日々をここで送りました。

一年半ほどをここで過ごしたのち、ユーハイムは1917年2月、「インフルエンザの予防」という理由で、今度は他の捕虜とともに、広島県安芸郡仁保島村、すなわち現在の広島市の南側に浮かぶ、「似島(にのしま)」にある「似島検疫所」に移送されます。

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この似島検疫所というのは、日清戦争から帰還した兵士に対して伝染病の検疫・消毒を行うため、国内3ヵ所の検疫所の一つとして、1895年(明治28年)に設置されたもので、開設時の名称は「臨時陸軍似島検疫所」でした。

似島に検疫所が置かれたのは、当時、東京起点の鉄道網の西端が広島であり、出征兵士・輸送物資の玄関口となっていた宇品港(現・広島港)のすぐ沖合に似島が位置していたからです。

開所直後には北里柴三郎博士が新しい機器(蒸気式消毒罐)の実験のために訪れており、その後は膨大な捕虜の検疫を成功させ、この当時の児玉源太郎陸軍次官から高く評価されました。

日露戦争時の1905年(明治38年)には検疫所内にロシア人捕虜を収容する「露西亜俘虜収容所」が置かれたことがありましたが、この跡地に大阪からユーハイムを含むドイツ人捕虜545名が大阪から移送されてきたのです。

この似島検疫所内でユーハイムは、日本で初めてとなるバウムクーヘンを焼き上げており、これがバームクーヘンの日本における発祥地は広島であるといわれるゆえんです。

また、同じく捕虜として収容されたソーセージ職人のヘルマン・ウォルシュケもここで日本初といわれるソーセージを製造しており、解放後も日本に残ってソーセージ文化を広めました。彼は、1934年(昭和9年)阪神甲子園球場で行われた日米野球で日本で初めてホットドッグを販売しており、これも日本初のホットドックであるといわれています。

1919年(大正8年)には、このドイツ人捕虜チームと広島高等師範学校チームや広島県師範学校チームとでサッカーの試合が行われ、いずれも大差でドイツ人捕虜チームが勝利しており、これらドイツ人捕虜チームとの試合は、日本初のサッカー国際試合とも言われています。

このドイツ人選手達の技量はかなり高かったようで、その選手の一人は、ドイツ帰国後にサッカークラブを創設しており、このクラブからは、後にサッカーの元ドイツ代表、ギド・ブッフバルトなど数多くのプロ選手を排出しています。

また、このとき広島高師の主将を務めた田中敬孝は捕虜のサッカー技術の高さに驚き、試合後、軍の許可を得て捕虜からサッカーを教わっており、田中は翌年から広島一中の監督として指導しています。このため、似島はその後ある時期には「サッカーの島」と呼ばれるほどサッカーがさかんになり、ここからは多くのサッカー選手を輩出しています。

ちなみに、この広島一中というのは私の母校である、現在の広島県立国泰寺高校の前身であり、この当時もそうですが、現在も県下では屈指のサッカー強豪校として知られています。ここで二年間を共にした私のクラスメートの中の一人も、この似島出身で当時サッカー部に所属しており、50を過ぎた今でもなお、趣味としてサッカーを続けています。

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1945年(昭和20年)8月6日、広島市への原子爆弾投下の際には、この似島検疫所が被爆者救護のために重要な役割を果たしました。爆心地からは海を隔てて約9キロメートルのところに位置し、直接の被害は爆風により窓ガラスが割れた程度であった一方、広島市内の救護施設はまひ状態に陥ったため、船で続々と負傷者が搬入され応急処置を受けました。

短時間に多数の患者が殺到し、また重篤な罹災者も多いわりに薬品類や医療器具・人的資源が絶対的に不足していたために、検疫所で息を引き取る者も多く、運び込まれた時点で既に死亡しているケースも数多かったといいます。

検疫所での処置数は被爆後20日間で10,000人といわれ。遺体は最初は焼かれましたが、処理が間に合わないためにその後は単純埋葬とされました。身元不明の遺体も多く、一人ずつ墓を建てられないということで、後に千人塚が建立されています。

そんな似島検疫所に収監されていたユーハイムですが、彼が創ったバームクーヘンは、検疫所を運営する日本軍人の中でも有名となり、1919年3月4日には、似島検疫所のドイツ人捕虜が作った作品を広島県が主催して展示即売会を開催することになりました。

ユーハイムはバウムクーヘンだけでなく、ほかの菓子も作ることになりましたが、良い菓子を作るためには、これを焼き上げるための堅い樫の薪などを必要とし、その入手は難航したといいます。

しかし、苦労の末、ついに母国の味に近いバウムクーヘンを焼くことに成功。広島県物産陳列館(現在の原爆ドーム)で開催された「似島独逸俘虜技術工芸品展覧会」で製造販売を行うに至りました。その後、このバウムクーヘンが、日本で初めて作られたバウムクーヘンとして世に知られるようになります。

ただ、この時ユーハイムが作ったバームクーヘンは、まったくのオリジナルのドイツの味ではなかったそうで、その味は日本人向けにアレンジされていました。

ユーハイムは青島市が日本軍に占領された際の経験から、バターを多く使用した菓子が日本人に受け入れられないことを知っており、このバターを控えることにしたそうで、これが功を奏してユーハイムの作った菓子は好調な売れ行きをみせたといいます。

1918年、ドイツは連合国との間に休戦協定を結び、第一次世界大戦は事実上終戦を迎え、これにより、日本にいたドイツ人捕虜は解放されることになり、解放された者の大半はドイツへの帰国を希望しました。

ユーハイムもまた、無論妻子が待つ青島市に帰るつもりでしたが、当地でコレラが流行しているという報に接して泣く泣くこれを断念し、日本残留を決めます。しかし、その後妻子は無事であることがわかり、のちに青島市から日本に呼び寄せています。

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日本に残ることを決めたユーハイムはその後、明治屋の社長、磯野長蔵が銀座に開店した喫茶店「カフェー・ユーロップ」に採用され、製菓部主任の肩書が与えられます。やがて青島から妻子を呼び寄せ、この喫茶店の3階で暮らすことになったユーハイムの作る菓子は高い評価を得るようになっていきました。

最も評価が高かったのはやはりバウムクーヘンで、その他にプラム・ケーキが品評会で外務大臣賞を獲得したこともあったそうです。「カフェー・ユーロップ」の常連客の中には、小説家の里見弴、二代目市川猿之助、有名女優の栗島すみ子などの著名人がいたといいます。

しかし、「カフェー・ユーロップ」は貸店舗であったため、1922年にはその契約期間が終わることとなります。ユーハイム夫妻が今後の身の振り方を考えていた最中、横浜市中区で経営しているレストランを売りたいと申し出たロシア人がおり、これを購入して店の名前を「E・ユーハイム」として再出発を図ります。

Eはエリーゼ(Elise)のEだったそうで、その名を冠した妻のエリーゼは結構なやり手で、近辺に手頃な価格で昼食を提供する店がないことに着目し、ドイツ風の軽食も出すことをユーハイムに提案。このアイディアが当たり、店は大いに繁盛しました。

しかし、こうして苦労して開店した店もまた1923年9月1日、関東大震災によって焼失してしまいます。ユーハイムは家族とともに神戸市垂水区の知人の家に身を寄せ、ここ神戸で再起を図ることにし、当初ホテルに勤務しようと考えていました。

ところがこのとき、ある人が当時の生田区(現在の中央区)三宮町にあった3階建ての洋館に店を構えるよう勧めてくれました。その洋館を視察したユーハイムはこれをとても気に入り、政府の救済基金から借りた3000円を元手にこの洋館の1階に喫茶店「JUCHHEIM’S」を開店しました。

当時神戸には外国人が経営する喫茶店がなく、この店はすぐに多くの外国人客でにぎわうようになり、開店から1年ほど経つと「JUCHHEIM’S」の菓子を仕入れて販売する店も出てくるようになるなど店の経営は順調に推移していきました。

近隣の洋菓子店がユーハイムのバウムクーヘンを模倣した商品を売り出すようになってからも人気が衰えることはなく、ユーハイムはバウムクーヘンのほか、日本で初めてのマロングラッセも販売しました。ここでの常連客にもまた、多くの有名人がおおり、多くの芸能・文化人や政治家、財界人が常に入り浸っていました。

谷崎潤一郎も「JUCHHEIM’S」をひいきにしていたといい、こうした多くの有名人を虜にした理由は、彼の徹底した味へのこだわりだったようです。このころ40歳目前で、働き盛りであったユーハイムは、厳格な職人気質だったそうで、売れ残りのケーキを窯で焼いて捨てるという習慣を持っていたといい、弟子に対してもかなり厳しかったそうです。

衛生面に気を配るよう厳しく指導し、自らも風呂には毎日入り、爪は3日に1度は切り、汚れのついた作業着は着ない、といった具合でした。これ以前に店主をしていた「カフェー・ユーロップ」に勤務していた時期でも、初任給が15円であったところ、風呂代と洗濯代を月に3円ずつを従業員に支給していたという逸話も残っています。

原料についてもこだわり、常に一流店が扱う品を仕入れたといい、国内で品質の良いものが手に入らないと見るやラム酒をジャマイカから、バターをオーストラリアから取り寄せるほど徹底していたそうです。こうして、次々と新たな工場を建てて事業を拡大し、JUCHHEIM’Sはさらに発展していきました。

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ところが、1937年夏、51歳になったユーハイムに、妻のエリーゼはその振る舞いに尋常でないものを感じます。そしてユーハイムを精神病院に入院させますがが、ユーハイム自身は自分が病気であるという認識がなく、病院からの脱走を繰り返すなど問題行動を繰り返したため、エリーゼは彼をドイツに帰国させて治療を受けさせることにしました。

数年後ユーハイムは病から回復し日本へ戻ったものの、明るかった性格は一変し、以前のように働くこともできなくなっていました。さらに店のほうも1941年に開戦した太平洋戦争の戦況が悪化するにつれ、物資の不足により菓子を作ろうにも作ることができなくなってきていました。

1944年には店舗の賃貸契約を打ち切り、工場だけを稼働させることにしましたが、1945年6月、空襲により工場は機能しなくなり、ユーハイムは家族とともに六甲山にある六甲山ホテルで静養することになりました。

しかし、終戦前日の8月14日午後6時、ユーハイムはホテルの部屋で椅子に座り、静かに亡くなりました。死の直前まで妻と語り合っていたといい、医師が書いた死亡診断書には、中風による病死と書かれていたそうです。

ユーハイムの死後、その親族(エリーゼと戦死した息子の妻子)はGHQの命令でドイツに強制送還されました。第二次世界大戦中にエリーゼがドイツ婦人会の副会長を務め、かつドイツへ帰国した経験があること、息子のカールフランツがドイツ軍に在籍(のちに戦闘で死亡)したことが問題視されたためです。

ところが終戦から3年経った1948年、かつて「JUCHHEIM’S」に勤務していた日本人の部下3人が同店の復興を目指して任意組合「ユーハイム商店」を設立。1950年には株式会社に改組し、1953年は、ドイツへ去ったエリーゼを呼び戻します。帰国直後から彼女は会長に就任し、1961年には社長に就任。

その後エリーゼは「死ぬまで日本にいる」と宣言し、ユーハイムを切り盛りして大きくしましたが、1971年5月、80歳のとき兵庫県神戸市で大往生を遂げました。兵庫県芦屋市の芦屋市霊園には愛する夫の墓があり、ここに彼女自身も入れられ、二人は今静かにここで眠っています。

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ところで、この菓子職人である、ユーハイムと、原爆ドームを設計したレッツェルは、一見何のつながりもなさそうですが、歴史とはまことに皮肉なエピソードを潜ませるもので、実は、この二人は奇妙な縁で結ばれていました。

その縁のひとつは、無論原爆ドームであるのですが、彼等二人は互いに面識はないものの、ユーハイムの妻のエリーゼと、レッツェルの師匠のラランデの妻はそれぞれの夫が亡くなったあと、知り合いになっていた、という事実があるようです。

レッツェルが初来日したときに、横浜で建築事務所を主宰していたゲオルグ・デ・ラランデという人物の建築事務所に勤めていたことは前述しました。

このオルグ・デ・ラランデは、その後朝鮮総督府の仕事のため京城(ソウル)へ出張中に肺炎で倒れ、日本に帰ってから亡くなりました。このラランデの妻は、エディといいましたが、彼が亡くなったことから、彼女もまたその後、子どもを連れて母国のドイツに帰国しました。

ところがその後彼の地で後の外務大臣となる外交官、東郷茂徳と知り合い、かつて日本に居住していたという縁から親しくなり、この東郷と再婚を果たしました。

東郷というと、元帥海軍大将の東郷平八郎を思い浮かべますが、血縁関係はなく、その先祖は朝鮮から渡ってきた陶工だそうです。外務省に入ってからは、欧亜局長や駐ドイツ大使及び駐ソ連大使を歴任し、東條内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたりましたが、日米開戦を回避できませんでした。

鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣、終戦工作に尽力しましたが、にもかかわらず戦後、開戦時の外相だったがために戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没しています。

この東郷茂徳の妻エディは、その後日本に帰化して「東郷エヂ」と名乗っていたようですが、その彼女が、ユーハイム再興に深くかかわっていたらしい、という事実がその後明らかになっています。

エディが死後に遺した日記には東郷茂徳とユーハイムとの関わりが記されていたそうで、その記述からは、どうやらユーハイムの再興においては、この東郷茂徳とその妻エディが深くかかわっていたらしいことが読み取れるそうです。

また、これを裏付けるように、ユーハイムの妻のエリーゼが1971年に六甲山の麓で他界したときに発見された遺品の中には、東郷茂徳の妻である東郷エヂが遺した日記もあったそうで、合わせて彼女の元夫のゲオルグ・デ・ラランデの記録ノートが発見されたそうです。

このことから、エディとエリーゼは親交があったことがうかがわれ、ラランデの弟子であったレッツェルとユーハイムはここでつながることになるのです。原爆ドームという遺物を介してだけでなく、この二人が間接的とはいえ交わっていたというのは、興味深い話です。

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さて、原爆の投下後、広島の復興は、一面の焼け野原にバラックの小屋が軒を連ねる光景から始まりました。その中でドーム状の鉄枠が残る産業奨励館廃墟はよく目立ち、サンフランシスコ講和条約により連合軍の占領が終わる1951年頃にはすでに、市民から「原爆ドーム」と呼ばれるようになっていました。

復興が進む中で、全半壊した被爆建造物の修復あるいは除去が進められましたが、原爆ドームの除去はひとまず留保され、1955年(昭和30年)には丹下健三の設計による「広島平和記念公園」が完成しました。

こうして、原爆ドームはこの公園の中心的存在となり、原子爆弾の惨禍を示すシンボルとして知られるようになりましたが、1960年代に入ると、年月を経て風化が進み、安全上危険であるという意見が起こります。

一部の市民からは「見るたびに原爆投下時の惨事を思い出すので、取り壊してほしい」という根強い意見があり、存廃の議論が活発になりました。

広島市当局は当初、「保存には経済的に負担が掛かる」「貴重な財源は、さしあたっての復興支援や都市基盤整備に重点的にあてるべきである」などの理由で原爆ドーム保存には消極的で、一時は取り壊される可能性が高まっていました。

ところが、この流れを変えたのは地元の女子高校生、「楮山ヒロ子」の日記でした。彼女は1歳のときにこの当時平塚町と呼ばれていた場所(現在は広島市中区)の自宅で被爆し、被爆による放射線障害が原因とみられる急性白血病のため15年後の1960年に16歳で亡くなりました。

「あの痛々しい産業奨励館だけが、いつまでも、おそるべき原爆のことを後世に訴えかけてくれるだろうか」等と書き遺し、この日記を読み感銘を受けた平和運動家の河本一郎や「広島折鶴の会」が中心となって保存を求める運動が始まり、1966年に広島市議会は永久保存することを決議するに至ります。

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翌年保存工事が完成し、その後風化を防ぐため定期的に補修工事をうけながら、現在まで保存活動が継続されています。当初は、広島市単体での保存・管理が続けられていましたが、被爆50年にあたる1995年に国の史跡に指定され、翌1996年12月5日には、ユネスコの世界遺産(文化遺産)への登録が決定されました。

原爆ドームの登録審議は、メキシコのメリダ市で開催された世界遺産委員会会合において行われましたが、このとき、アメリカ合衆国は原爆ドームの登録に強く反対し、調査報告書から、「世界で初めて使用された核兵器」との文言を削除させました。

アメリカ国民の中では「原爆使用は日本にポツダム宣言を受け入れさせた事で百万人のアメリカ軍将兵をダウンフォール作戦での戦没から救った」とする原爆投下を肯定的に捉える傾向が強かったためです。また、中国は、「日本の戦争加害を否定する人々に利用されるおそれがある」としてこのとき審議を棄権しています。

原爆ドームは単なる戦争遺跡というだけでなく、核兵器による破壊の悲惨さの象徴・人類全体への警鐘といったメッセージ性のある遺産、犠牲者の墓標という性格を持つため、保存に際しては「可能な限り、破壊された当時の状態を保つ」という特殊な必要性をはらんでいます。このため、世界遺産でありながら、負の遺産とも呼ばれています。

その保存作業は鉄骨による補強と樹脂注入による形状維持・保全が主であり、崩落や落下の危険性のある箇所はその度に取り除かれています。しかし、定期的な補修作業・点検や風化対策にもかかわらず経年による風化も確認されており、他の世界遺産で施されるような一般的な意味での修復や改修・保全とは別種の困難が伴います。

1967年にはかなり大規模な保存工事を実施しましたが、その後、市民の募金と広島市の公費によりと1989年に2度目の大規模な補修工事を実施し、この大補修以降も、3年に1度の割合で健全度調査が行われています。

広島はそれほど地震の多いところではないのですが、先週の14日にも四国や中国、九州にかけて強い地震があり、愛媛県西予市で震度5強、広島でも5弱を記録しており、2001年3月24日の芸予地震でも、広島市中区は震度5弱の揺れに遭遇しました。が、いずれの地震時にも目立った被害はありませんでした。

このように、広島もまたけっして地震とは無縁ではありません。このため、保存工事ではこうした大型地震に対しての耐震性も考慮されているといいます。しかし、耐震強度計算および工事計画はあくまでも理論上の数値に基づいているため、地震の規模や加重のかかり方が想定外の場合、崩落する危険性を常に抱えているといわれます。

2004年以降、この原爆ドームの保存にあたっては、その方針を検討する「平和記念施設のあり方懇談会」が開催されています。

この会では、保存に当たり、1.自然劣化に任せ保存の手を加えない、2.必要な劣化対策(雨水対策や地震対策)を行い現状のまま保存、3.鞘堂・覆屋の設置、4.博物館に移設、などの四つの案が提案されましたが、2006年にこの2番目の「必要な劣化対策を行い現状のまま保存」とする方針が確認されました。

とはいえ、完全な保存のままの維持には限界もあるであろうし、いつの日にか、この原爆ドームの姿が完全に失われることもあるでしょう。私の目の黒いうちにはないかもしれませんが、やがてその姿が崩れ去って無くなるころまでには、世界中の核兵器が根絶されていることを願ってやみません。

さて、今日も長くなりました。この項を書いている途中から無性にバームクーヘンが食べたくなりました。みなさんも、おいしいバームクーヘン、おひとついかがでしょうか。

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