ウソかまことか

2014-1120714
ちかごろの新聞やニュースでは、中国や韓国との関係悪化といった国際問題がよく話題になっていますが、国内に目を向けると、やたらに殺傷事件が多く、このほか詐欺や語りといった事件が連日のように報道されていて、なんだかずいぶんとすさんだ感じがします。

詐欺といえば、オレオレ詐欺は以前にも増して増加しているそうですが、最近はこうした詐欺と殺傷事件が相乗りしたような事件も増えていて、先日、柏で起きた連続殺傷事件も犯人がまるで一般人のようにメディアの取材に登場し、スター気取りで犯行の様子を話していたことなどが報道されていました。

また、ちょっと前には耳が聞こえない作曲家さんの大ボラがバレ、本人は記者会見を開いて謝罪していますが、本当のことを言っているかどうか疑わしく、これまでも彼の虚言に振り回された人々に対しての詐欺罪の適用も取沙汰されているようです。

今朝のニュースでも、理化学研究所の女性研究員が海外科学雑誌に発表した革命的な人工細胞に関する論文が、実は捏造ではないかとの内外からの指摘を受けており、こちらはその内容が本物であるかどうかは別として、その発表の仕方に対して科学者としての礼節が問われる事態に至っています。

作曲坂さんの件でもまさかウソではないよな~と信じたい、信じようと思っていたところに、続けざまにこうした事件が重ねて起きると、なんだか人間不信になってしまいそうです。この女性科学者さんも、もしかしたら……と疑心暗鬼になっているのは、私だけではないでしょう。

日本人はよくウソに騙されやすい、といわれるようですが、その理由についてネットで調べてみると、実にたくさんの意見が見受けられます。

日本人の均質性を取り上げる人がいて、これは日本人が同一人種のために、みんな同じになりたがる、だからウソをついてでも標準に合わせようとする、とか、日和見&集団主義の集団であるため、「嘘も方便」ということになり、なにごとにつけても表面的に上手くいく事が優先される、といった意見があるようです。

また、物理化学などの科学の世界では合理性を追求してハイレベルの成果を残してきたにも関わらず、「和」を重んじる国民性のため、社会制度のほうの合理性は追及してこなかったため、合理性のない虚実も簡単に信じ込む癖がついたのだということを唱える人もいます。

さらには、他国の侵略を受けたことがなく、他国、他民族との交渉などもほとんどしてこなかった歴史が、多少のウソがまかり通るような風潮をつくったという意見、いや欧米のように信用を得るためのコストを払ってこなかったことが原因という意見もあったりして、日本人は騙されやすい、と言われるという点については、実に多様な見解があるようです。

おそらくはどれもが一理あるのでしょうが、日本社会は性善説,外国は性悪説ということもよくわれるようであり、上の数々の意見も、「性善説」というキーワードをもとに考える説明できるような気もします。何ごとにつけ、日本人は、この世に悪人というものはいない、ということを信じたがる、善良な国民性を持っている、というわけです。

性善説については、いまさら説明する必要もないでしょうが、人間の本性は基本的に善であるとする倫理学・道徳学的な説であり、もともと中国の思想家が唱えた説です。孟子や朱子が、人の「性」は善であっても放っておけば悪を行うようになってしまうため、「聖人の教え」や「礼」などによることが必要である、と説いたことに由来します。

じゃあなんで、日本人は性善説を信じるようになったのか、ということですが、これについても議論を始めると、キリがありません。が、やはり、他国の侵略を受けたことがない、同一の民族国家であり、しかも島国のために、誰もが悪人だと思いはじめたらやっていけない、というところがあったのでしょう。

日本の法律には性善説を前提で作られたものが多いと言われているそうで、社会制度そのものが性善説に基づいて成り立っているからこそ、長い不況で社会が疲弊している現在、詐欺まがいの事件がやたらに起こるのかもしれません。

騙すほうも、騙されるほうも「こんな善良な我々が悪いことをするはずがない」という社会通念に乗っかっているということなのでしょう。

では、法律の上での詐欺というのはどういう定義になっているのかな、と調べてみると、民法96条には、「他人を欺罔(ぎもう)して錯誤に陥れること」と書いてあります。錯誤って何なのよ、ということですが、これは法律用語としては、「人の主観的な認識と客観的な事実との間に齟齬を生じている状態」のことをさすようです。

ようするに信じた何かについて、客観的・冷静にみれば誰もがウソであると思えることが詐欺に相当する、ということのようです。

2014-1120730

では、その法律に抵触するような詐欺行為というものに、どんなものがあるのかな、と調べてみたところ、まぁ、あるわあるわ、そのリストと説明書きを作っただけで、ちょっとした論文が書けてしまいそうです。例をあげましょう。

●主に企業がターゲットとなるもの
→取り込み詐欺、籠脱け詐欺、融資詐欺(貸します詐欺)、小切手詐欺、保険金詐欺、鉄砲取引

●主に個人がターゲットとなるもの
→食い逃げ、オークション詐欺、チャリンカー詐欺(オークションにおける自転車操業)、ペニーオークション詐欺(サクラによる価格つり上げなど)、代金引換郵便詐欺、リフォーム詐欺(建築行為は完成するまでは作業所であり、不動産にならない)、コピー商品(模造品)販売、貴金属や宝石の模造、模造骨董品、贋作(美術品、絵画)、偽造食品、荒唐無稽品販売(竜の骨、楊貴妃の使った匙など)、

●人心掌握(人の情、信仰心や欲望、コンプレックスや社会上の信頼関係に付け入る)
→募金詐欺、寸借詐欺、結婚詐欺、美人局(つつもたせ)、泣き落とし、霊感商法、包茎手術詐欺、資格商法

●単純な錯誤から始まる詐欺(単純な思い込みや思い違い(錯誤)がきっかけで術中には→まっていく詐欺。瞞す側が身分を偽る、あるいは瞞される側の誤解や不明を利用する)
かたり詐欺(成り済まし詐欺)、振り込め詐欺(オレオレ詐欺、架空請求詐欺、融資保証金詐欺、還付金詐欺など)、ワンクリック契約

●有価証券、出資法、手数料、不動産に関する詐欺
→生命保険犯罪(保険金詐欺など)、チケット詐欺、クレジットカード詐欺、フィッシング詐欺、投資詐欺、起業詐欺、419事件・ナイジェリアの手紙(先進国など豊かな国に住む人から、手紙やファクシミリ、電子メールを利用して金を騙し取ろうとする詐欺)、還付金残高確認証、通貨債権回収詐欺(例:イラク・ディナール)、ポンジ・スキーム(配当金詐欺の一種)

ほかにもまだまだあるようですが、これだけあると、騙されやすい国民性というよりも、騙すのが得意な国民なのではないか、と思ってしまいます。が、無論、これらの中には諸外国の詐欺をマネして国内で流行るようになったものもあるわけで、これすべてが日本独特の詐欺というわけではなさそうです。

とはいえ、日本特有のものも当然あり、このほか、賭博行為も、詐欺罪が適用されるものが多いようです。

これらには、いかさま賭博、馬券予想会社、コーチ屋(非公認の予想屋など)、ノミ屋(私設投票券販売など)、攻略法詐欺、打ち子(パチンコ・パチスロの台から玉やメダルを抜く)、ノミ行為(税金の特別徴収制度を利用した企業による税金搾取)、などがあります。

ノミ屋やノミ行為の「ノミ」というのは、例えばノミ屋は客からの申込金を受け、客の予想が的中すれば払戻金を交付しますが、外れた場合は申込金を利益として「呑み込む」というところから来ているようです。

また、上に列記した中で、わかりにくいものに美人局(つつもたせ)というがあります。

最近ではあまり使わないので、聞いたことがないかもしれませんが、これは夫婦が共謀し行う恐喝または詐欺行為で、例えば妻が「かも」になる男性を誘って姦通し、行為の最中または終わった瞬間に夫が現れて、妻を犯したことに因縁をつけ、法外な金銭を脅し取る、といった詐欺です。

また、妻でなく、他の女で同等行為をする場合もあり、出会い系サイトやツーショットダイヤルなどで知り合った女に部屋に誘われ衣服を脱ぎ、いざ性行為などを行おうとしたときに女の仲間の男が登場して「おれの女に何をする」というのが典型的なパターンです。

あるいは、屈強な男に囲まれ金品を巻き上げられるということもあり、また呼び出されてラブホテルに入っていく所を写真に撮られ、後日家族や会社に曝露すると脅迫してくるケースもあります。

「美人局」の語源ですが、これはもともと中国の元のころからの文献に見られる犯罪名です。中国の元の時代、娼婦を妾と偽って人に押し付ける犯罪の名称で、日本にこの言葉が入ってきてからは、これに「つつもたせ」の当て字が与えられました。

しかし、日本に入ってきてからは、この「つつもたせ」の意味は、いかさま賭博の用語に変わりました。

もともとは、胴元の都合のいい目が出るような仕掛けがしてあるさいころを使った賭博のことを指していましたが、やがて二束三文の安物を高く売りつける行為をさすようになり、さらには法外な料金で売春させることもそう呼ぶようになったといわれています。

なぜ「つつもたせ」なのか、ですが、この「つつ」とは暴力団の使う女性器の隠語であるともいい、これを持った女性を標的とする男性と一時的に同伴させて良い思いをさせる、つまり良い女のあそこを「持たせた」あとで恐喝することから「筒持たせ」転じて「つつもたせ」となったというわけです。

2014-1120722

それにしても、悪いヤツらは、よくまぁこれだけの詐欺の手口を考えるものだと呆れてしまうのですが、その手口を考える「詐欺師」にもまたいろいろあります。

この詐欺師とは、言うまでもなく、詐欺を巧みに行う者を指すわけですが、その定義としては、例えば、ある役割を演じ他人にその人格、職業を信じ込ませ、信頼関係や信仰心、恐怖心や権威等にて被害者を洗脳または精神的に縛ることにより疑う余地を与えず、心理的な駆け引きにより金品を騙し取る、といったところです。

被害者が被害にあったと認識出来ないこともあり、または、信じたいという気持ちが強く、この詐欺師の犯罪を立件するのは非常に難しいといわれ、また、騙される側が信仰心や恋愛感情をコントロールされて洗脳された場合、精神的にも健康上においても二次的なダメージを被るといったこともあります。

詐欺師の分類としては、手配師、ポン引き、ペテン師、山師、詐話師、いかさま師、ゴト師、などがあります。いずれも「師」の称号がつくぐらいですから、それぞれ相当な手練れの詐欺師といえます。

簡単に説明しておくと、まず手配師とは、人材の周旋によりその手数料をとる詐欺師で、斡旋した人の技術や知識、経験を偽り、派遣先から不当な利益を得る者をさします。

例としては、複数の職人が協力して完成する和箪笥、山車、神輿、家屋などを請負い、実際には履行せず、職人に対する手付けや、材料費の購入資金を搾取します。

ポン引きというのは、繁華街などで、風営法上の料理店などを紹介し手数料を得る者で、店を紹介する際、その店とは何の関係もないのに善意を装って紹介して金をとるケースや、店とグルになっていて、客にウソの料金を言ってその店に呼び込み、高額の金を要求するといったケースなどがあります。

このポン引きの語源は、茶の湯が流行るようになるよりもはるか昔の鎌倉時代に日本でよく行合われていた、「闘茶」の行事から来ていると言われています。その名の通り、お茶の味を本物か偽物かをききわける技を競うもので、この当時、最高級とされていた宇治茶を「本」とし、その他の安いお茶を「非」として、それぞれを効きくらべます。

当初は単純なお遊びだったようですが、そのうち金をかけて勝負が行われるようになり、次第に賭博性が強くなっていったことから、後世になってこの古事にちなんで、客引き詐欺のことを「ポン引き」というようになったようです。

ペテン師、というのは誰もが知っているでしょうが、その語源はというと、中国語の「繃子(ペンツ)」だそうです。中国でもある地方の方言・俗語だったようで、詐欺・詐欺師を意味しましたが、日本に伝わってからは、「ペテン」というふうにまず音が変わり、またその意味も「悪知恵が利く」というふうになっていきました。

現在では、ペテン師というと、「知恵が回る」ヤツという風に解釈され、「ペテンにかかる」というと、策略かかってしまう、という意味になります。頭脳犯であり、ある意味「役者」であって、口先やもっともらしい理屈を使い、損得の価値観を操って被害者に利益があるように錯誤させ、金品を騙し取る者をさします。

山師。これは、本来は鉱物資源や水資源などを産出する山岳を探し出し、莫大な利益を得ることに賭ける事を生業にする人のことをさしました。これが転じて「一山当てる、山を賭ける」など低確率であるが当たれば利益の多い事に賭ける事をする者を指すようになりました。

大きな利益になる嘘のはなしを持ちかけ、資金提供や出資を持ちかけ、金品を騙し取る者を山師といいます。

詐話師は、作り話を主体にした詐欺師のことです。関西で「鹿追」と呼ばれる詐欺の手口がありましたが、これ関東に伝わって「詐話師」と呼ばれるようになったもので、現在でいう「劇団型犯罪」に相当するものです。

被害者を陥れる優れた筋書きを作り、一般にはこれに基づいて複数の詐話師が動き、大がかりな詐欺を行います。犯罪小説でよく出てくる手口です。

いかさま師とは、古くは手品師と同義語であり、文字通り仕掛けやカラクリのある道具を使う詐欺師のことを指します。昭和初期ごろに流行った「がまの油売り」などがそれです。日本刀で腕をちょっと切って血がでたところへ、ガマの油を塗るとたちまち傷が消えさります。

実際には刃の部分は切れなくした刀を使い、そのエッジに朱を塗っておく、というのがタネであり、いかにも(如何にも)本物のように見せて客寄せをし、物品を販売する輩のことを「如何様(いかさま)」と呼ぶようになり、これがそのままこの詐欺師の呼称となりました。

ゴト師。これは、パチンコのゴト師が一番知られているでしょう。ちょっと前まではパチンコ台の釘を不正に動かしたりする人のことを言いましたが、最近ではパチスロに変わったため、不正な電気信号を送って機械を操作したり、出玉やスロットの確率を制御するICチップ(ROM)を交換するなどの行為を行う人のことを指します。

「仕事師」が語源とされており、古くは仕事を企画立案し推し進めるリーダー的な職人のことをこう呼びました。が、転じて悪巧みをする者といった隠語となり、主に賭博場(鉄火場)において丁半博打での細工したサイコロや札や麻雀賭博での牌のすり替え、積み替えなどで勝負を自在に操り、気付かれぬよう金品を騙し取る者をさすようになりました。

2014-1120761

古今東西、こうした詐欺師はゴマントと排出されており、詐欺師という職業は、世界でも最も古い職業のひとつにあげられているようです。

過去において最も有名な詐欺師って誰だろう、と調べてみたところ、これについては、実にたくさんの候補者がいて、これが一番、というのはなかなか選び難いのですが、なかでも有名な一人として、アメリカに「チャールズ・ポンジ」という詐欺師がいました。

日本のネズミ講などを含む、特定多数に出資を求める詐欺の総称である「ポンジ・スキーム」という言葉の由来として名を残した人です。

1903年にイタリアからの移民としてアメリカに渡りましたが、このとき、海外で購入する国際返信切手券による切手の交換レートと実際の外貨交換レートに差があり、これから利ざやを得ることができることに目をつけました。

この利回りは実際には大したものではありませんでしたが、ポンジは40%の利回りが得られるとの触れ込みで出資者を募り、ニューイングランドを中心に数千人から数百万ドルもの大金を集めました。

その手口としては、「あなたのお金を株取引などの資金運用して増やし、増えた分を「配当」としてあなたに支払う」などと謳って、出資金を集めるのですが、そのお金は実は全く運用されません。ところが出資者にはある程度の「配当」を渡し、さもまともな資金運用をしているかのように装います。

こうして、配当があるということで評判を呼んで、出資者の人数はどんどん増えていきますが、システム全体では実はどこでも利益を生んでいません。配当を垂れ流しにしているだけで、実際には負債が増え続ける仕組みであり、やがて最後には必ず配当金が工面できなくなり、このスキームは破綻します。

そして、後から参加した出資者にとっては、配当がどんどん少なくなっていき、つまりは出資金を回収できなくなるということが起き、どんどん損害は大きくなっていきます。そして、最後の出資者に至っては、配当金は一回も受け取れず出資金がまるまる消えて戻ってこなくなる、という大損害になるわけです。

日本では上述の「出資金詐欺」という投資詐欺の一種に分類されるもので、「ネズミ講」と同じしくみです。

ポンジーのこの犯罪は、後の調査で、出資者すべてを破綻させることが前提の大規模な詐欺であることが判明。集めた金を持ってどこかへトンズラする予定だったようですが、最後の一人に至る直前に発覚し、詐欺罪で有罪となり刑務所に収容されました。

その後ポンジは、出所したようですが、その後も数度の詐欺を働き、実質的にアメリカ市民権を剥奪されると、1934年出身国のイタリアに戻り、さらに第二次世界大戦が勃発するとブラジルに渡り、その後は心臓発作や脳障害、視力障害などに苦しみ、晩年はほとんど失明同然だったそうです。

1949年、貧しいままリオデジャネイロ市内の慈善病院で67歳で没したといい、「悪銭身につかず」はやはり本当のようです。

このほか、詐欺師として有名な人に、「フランク・アバグネイル」という人もいます。1980年に出版した自伝の“Catch Me if You Can”が、2002年に映画化され、ディカプリオさまとトム・ハンクスが共演して話題作となったので、知っている人も多いでしょう。

無論、実在の人物で、信用詐欺、小切手詐欺、身分詐称、脱出などの数々の犯罪歴で知られ、その犯罪の実施過程で、航空機パイロット、医師、連邦刑務局職員、弁護士など少なくとも8回の身分詐称を行なったことが明らかとなり有名になりました。

逮捕されてからも、21歳になるまでに警察の拘留から2回逃れ、うち1度は空港誘導路から、もう1度は連邦刑務所から脱出して話題を呼びましたが、その後刑務所に収監されたのちは真面目にここで過ごし、5年で出所しています。

ところが、その出所後、かつての詐欺師としての技を見込まれて連邦政府に雇われるようになり、現在も連邦捜査局アカデミーや現場事務所でコンサルタントや講師をしており、このほかにも金融詐欺のコンサルタント会社を経営するなど、その波乱万丈の生涯はまるで映画の世界そのものです。

歴代の詐欺師の中では詐取した金額こそ突出してはいないものの、16歳という若さで活動を始めたことや、その手口の大胆さ・鮮やかさによって米国内で広く知られるようになり、彼のひきおこした詐欺事件の数々はTV番組などで繰り返し放映されています。

2014-1120769

1948年のニューヨークの裕福な家に生まれ、16歳までブロンクスヴィルで過ごしましたが、その後両親が離婚しました。このため父との二人暮らしになりましたが、初めての彼の詐欺の被害者はこの父親であったといいます。

父親は、アルバイトに通勤するためのガソリンを自分で購入できるようにと、クレジットカードを彼に渡していましたが、このカードを使ってガソリンスタンドでタイヤやバッテリーなど車関係の物を一度買い、それらを返品してデート費用として使うための現金に換えていたのです。

その額は数千ドルにも及んだといい、これに味をしめた彼は、以後、巧妙な手口で詐欺師として「成長」していきました。初期の頃は、残高のない自分の口座から小切手を切るという信用詐欺を行なっており、これは銀行から請求が来るまでの最初の数回しか通用せず、他の銀行での口座開設を繰り返すというものでした。

この詐欺を繰り返すためには、何人もの「自分」が必要となるため、やがては身分証明書を偽造するようになり、そのうちには、銀行を騙すために小切手のほぼ完璧な複製作成を開発するとともに、偽の勘定残高による前貸しなどにまで手を染めていきました。

そして、空白の預金伝票に自分の口座番号を印刷し、銀行で本物の伝票に紛れ込ませる手口で、自分の口座に入金があるように仕向ける、といった手品まがいのことまでするようになります。

やがては、ターゲットを銀行以外にも代え、対象をユナイテッド航空やザ・ハーツ・コーポレーションのような航空会社やレンタカー会社にも伸ばしていきます。

これらの会社では、日々の売上金を袋に入れてドロップ・ボックスに預けることを知った彼は、地元の衣装店で警備員の服装を手に入れ、「“業務停止中”につき、警備員に預けてください」と書かれた看板を用意し金銭を騙し取りました。が、よくよく考えればドロップ・ボックスのような単純なものが「業務を停止」するわけはありません。

こうした単純で大胆な手口は徐々にエスカレートしていき、このころまだ16歳になったにすぎない彼は、生き抜く術を模索する中、やがては、パイロット・医師・弁護士といった社会的信用力を持った人々に着目するようになります。

以来、実際には在籍したこともない、エンブリー・リドル航空大学、ハーバード・メディカルスクール、ハーバード・ロー・スクールなどを卒業したと偽り、約5年間にわたって、こうした職業人になりすまし、詐欺を重ねていきました。

このころ、少なくとも8つの偽名を駆使していたといい、当時のレートで250万ドル以上に相当する不渡り小切手を26カ国で乱発する犯行を重ねていました。

無料で世界中を飛び回りたい、という理由からパイロットに成りすましたときには、パンアメリカン航空の従業員と偽り、制服をなくしたと電話をし、偽の身分証明書を提示してその制服を手に入れ、連邦航空局のパイロットの身分証明書も偽造しました。

こうして、16歳から18歳の間に250回以上1,000,000マイル(1,600,000 km)のフライトを経験し、26カ国を訪れたといい、この間、正規のパイロットとして無料でホテルに泊まり、飲食物なども全て会社持ちであったそうです。

高度30,000 ft(9,100 m)を飛ぶ飛行機のパイロットのふりをしていたときには、実際に操縦を任されそうになったこともあったそうで、このときは自動操縦が可能だったために、実際に操縦しようと思えばそれもできたといいます。

が、このときのことを彼は後年語っていますが、「自分を含めて140名の命を預かっていることをとてもよく理解していた」といい、資格もないのに操縦することについては罪悪感を感じ、このときは理由を取り繕って操縦を固辞したそうです。

2014-1120795

このほかにもコロンビア大学卒と偽り、ブリガム・ヤング大学でフランク・アダムスの偽名で教員助手として1学期間社会学を教えていたほか、医師としては、偽名でジョージア州の病院で小児科のチーフ・レジデントとして11ヶ月間身分を偽って働いていました。

このときは、ニューオーリンズで同じアパートに住む本物の医師と友達になり、地元の病院の欠員補助で研修医の指導者となっていましたが、指導者は実際の医療行為をしないため、彼にとっては簡単ななりすましでした。

夜間のシフトで担当となった場合でも、骨折の手当てなどは研修医に任せるなどして切り抜けたため、偽りの仕事は割とうまくいっていました。

ただ、酸素欠乏で瀕死の幼児を目の前にした時、看護士が言った「ブルーベビー」の意味がわからず正体がばれそうになったこともありました。パイロットのときもそうでしたが、こうした生と死の境界に直面した時の自分の無力さには気付いており、人を命の危険に陥らせるような行為は決して行わない、と決めていました。

このため、この事件があったあと、すぐに病院を去ったといい、やはりこうした犯罪行為を重ねていることには良心の呵責を感じていたのでしょう。

彼はよくハーバード大学法学部卒と偽っていましたが、実は実際にもルイジアナ州の司法試験に合格しており、その資格を使ってルイジアナ州司法長官の事務所の職を得たこともあったといいます。

彼が司法試験を受けようと思ったきっかけは、パイロットのふりをしていたころに知り合った、女性の客室乗務員との交際でした。彼はこのとき彼女に対して、今は休職してハーバード・ロー・スクールに通っている、と偽っていました。

これを聞いた彼女が彼に紹介したのが、一人の男性弁護士であり、この男はアバグネイルに対して、アメリカではこれから弁護士がもっと必要とされている、と熱い思いを語ったといいます。

これに触発されたのか、アバグネイルはハーバード法学部卒の偽の成績証明書を作り、これを使って司法書士試験を受けようと決意します。そして試験のために懸命に勉強した結果、初回の2回では落ちたものの、3回目の受験で見事に司法試験に合格しました。

当時ルイジアナでは合格するまで何度も受験することができたといい、これが幸いしたとはいえ、弁護士資格を取れるほど頭のいい人であったことは間違いないでしょう。

こうして試験に合格し、ルイジアナ州の事務所で真面目に働く口をみつけたアバグネイルでしたが、しかしこの事務所の同僚に本物のハーバード卒業生がおり、彼にハーバードでのことをしつこく色々聞かれました。が、当然答えられなかったため、疑いを持ったこの男は彼の経歴について調べ始めました。

これに気付いた彼は、8ヶ月後、辞職して行方をくらまします。そして、1969年、例によってパイロットとしてフランスでエール・フランス機に乗った際、手配者のポスターに気が付いた搭乗員がアバグネイルを確認して通報、ついに、フランス警察に12カ国で行なわれた詐欺容疑で逮捕されました。21歳の時のことでした。

2014-1120806

その後すぐに裁判が行われ、1年の求刑に対して6ヶ月間の実刑判決を受け、フランスペルピニャンの刑務所で服役を始めました。収監された暗い独房は、小さくてトイレ、マットレスもなく、ブランケット、食事、水は厳しく制限されていたといいます。

このときの彼の罪は詐欺罪でしたが、その後、偽造罪にも問われ、その他の有罪判決も受けたため、刑務所でさらに6ヶ月服役することになり、さらに各国で罪を犯していたため、続いてはイタリアで裁判を受けることになりました。

イタリアでの裁判の結果、アバグネイルは母国のアメリカへの移送され、ここで12年の禁固刑を受けることになりましたが、その途中で一度脱走に成功しています。

ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港の誘導路に入るところで、それまで乗ってきたイギリスの航空機ビッカース VC-10から逃走しており、闇に紛れて近くのフェンスを乗り越え、タクシーでグランド・セントラル駅に向かい、ブロンクス区に寄って服を変え、2万ドルを預けていたモントリオール銀行の貸金庫の鍵を手にしました。

そして、アメリカと犯罪者引渡条約のないブラジルのサンパウロに向かうためモントリオール・ピエール・エリオット・トルドー国際空港に向かいましたが、チケット・カウンターに並んでいる際にカナダ騎馬警察に捕まりアメリカ国境警備隊に引き渡されました。

こうして、ジョージア州アトランタの連邦拘置所に入れられたアバグネイルですが、今度は1971年4月、ここからの二度目の逃走に成功しています。

この逃走の発端はまったくおそまつな刑務所側のミスだったようで、彼の自伝によると、彼はこのとき連邦の覆面捜査官と誤認され、他の受刑者よりも食べ物の面などで優遇されるという特権を持って収監されることとなりました。

このころ彼には、ジーン・セブリングという女性の友人がいました。

巧妙な手口で彼女を連邦捜査官であると刑務所側に信じ込ませ、自らも覆面捜査官で通していた彼は、「連邦拘置所の防火対策のための打ち合わせ」という理由で、監視なしで拘置所外の車で彼女と面会することを許されます。そしてそのまま偽装を気付かれることなく車は急発進してあえなく脱出に成功。

彼女は彼をアトランタのバス停で降ろし、彼はそこからグレイハウンドでニューヨークへ至り、さらに電車でワシントンD.C.へ到着しましたが、そこではホテルのフロント係に発見されて逮捕されそうになります。

しかし、連邦捜査官の振りをして逃がれ、なおもブラジルへの逃亡を計画しますが、その数週間後、気付かないうちに覆面パトカーの脇を通るという単純ミスを犯し、手配写真に気が付いたこのニューヨーク市警察官によって取り押さえられました。

こうして、彼は再びバージニア州ピーターズバーグの連邦拘置所に拘禁され、ここで12年間の刑に服することになりました。しかし、その後は模範囚で過ごしたため、5年余りを過ごしたあと、週に一度、無給で連邦政府の詐欺罪の調査を助けるようになります。

やがて、塀の外でもその連邦政府事務所での仕事を続けることを条件として仮出所を認められた彼は、出所後はコック、スーパー店員、映画映写技師など様々な職を転々としました。

しかし、犯罪歴を隠していたためそれが発覚するたびに解雇され続けていたといい、これに嫌気がさした彼は一念発起し、銀行に自分を売り込むことにします。

そして地元のある銀行で、過去に行なった小切手詐欺など銀行を騙す様々な手口を銀行職員に紹介した上、もし彼の話が役に立たないのであれば金銭は受け取らない、逆に役立つと思ったら彼に500ドルを支払いさらに他の銀行に彼を紹介してほしい、と言ったところ、この銀行はこれを条件とする契約に承諾しました。

こうして彼はその後の人生をセキュリティ・コンサルタントとして、合法的な職業人生を送るようになりました。その後も、オクラホマ州タルサを拠点に、企業向けの詐欺対策をアドバイスする会社、「アバグネイル・アンド・アソシエイツ」を創立しました。

また連邦捜査局と提携し、全米の連邦捜査局アカデミーや現場事務所でコンサルタントや講師を行うようになり、彼のウェブサイトによると、現在14,000以上もの機関が詐欺予防プログラムを受けているといいます。

2012年には、アメリカ合衆国上院で、メディケア・カードなど個々を識別する社会保障番号を使用する場が多いこと、高齢者が詐欺に遭い易いことなどの証言を行うなどの活躍を重ねており、現在は結婚し、設けた3人の息子のうちの1人は現在連邦捜査局に勤めているといいます。

2014-1120820

ところが、です。

このアバグネイルの犯罪歴の信憑性は自伝の「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」公開前から疑問視されていたといいます。

「サンフランシスコ・クロニクル」というサンフランシスコの新聞の記者が、彼がそれまで行った講演や自伝で、なりすましたことがあると語った(あるいは書いた)、銀行、学校、病院などその他の機関で彼が使用したという偽名を調べたところ、そういう名前は一切存在した証拠が出てこなかったというのです。

この彼の自伝は、実は彼の単独作品ではなく、スタン・レディングという人との共著でしたが、その大部分はこのレディング氏が書いたのではないかといわれています。

アバグネイル自身も「私は共著者と4回ほどしか話し合わなかった。彼はとても良く書いていたと思うが、いくつかの話については脚色や誇張が過ぎたと思う。これは彼の執筆スタイルであり、編集者が求めていたことである。彼は物語を書いたのであって、私の伝記を書いたのではない」と語っています。

だとすると、延々と書いてきた上のような話も実は虚実だったのか、ということになってきます。波乱万丈なるその人生ストーリーすらも、また詐欺であったのかもしれず、もし本当だとすると、今の彼の現在の地位もまた虚実であり、アメリカは国家をあげて現在も彼に騙されていることになります。

どこまでが本当でどこがウソなのかまったくわからなくなってしまう、こうした話を聞くと、希代の詐欺師というものは、あるいはこういう人を指すのかもしれないと思えてきます。そう考えてくると、最近日本で流行っているオレオレ詐欺や、作曲家や科学者としての詐称などは、ほんのかわいいいもの、と思えてくるから不思議です。

嘘をつく人の言うことが信用できるかどう、というのは、ときにややこしい問題を生みます。

その昔、ギリシャの哲学者でクレタ島出身のエピメニデスという人が「クレタ人はいつも嘘をつく」と言ったそうです。

しかし、クレタ人が本当にいつも嘘をつくなら、クレタ人である彼のこの言葉も嘘となってしまう、ということになり、この逸話は「エピメニデスのパラドックス」として有名です。

同様な例は他にも数多くあり、例えば次のような小話もあります。

地球を侵略してきた火星人への対応に苦慮した学者が、ふと「彼らは嘘をつけないのではないか」という仮定を思いつき、これをもとに彼等を追い出す対策をたてようとします。が、そこに出てきた火星人が言いました。「俺たちは嘘がつける。さあ、これをどう考える?」

ウソがつけるというのがウソならば、ウソがつけるといった彼等は確かに嘘つきであり、彼らがウソとつけないという仮定は崩れます。しかしそれでは彼らを追い出す方策は立てられません。

一方、ウソがつける、というのを本当だと信じるとすると、彼等はウソがつけるということになり、こちらでも彼らを追い出すことはできない、というわけで、結局は火星人の勝ち、というわけです。

ほかにもこういうのがあります。

「道が天国行きと地獄行きに分かれている。もちろん天国に行きたいが、どちらかはわからない。分かれ道には正直者と嘘つきがいて、どちらかに1回だけ質問が可能。さて、何と尋ねればいいか」

正直ものがどちらかが分かっていればこのクイズの答えは簡単なのですが、このケースではどちらが嘘つきかはわかりません。

もし嘘つきにどちらかと聞いた場合には、彼がこっちが天国だよといった場合にはウソの可能性があります。しかし、もしかしたら嘘つきと思っていた人は正直者かもしれず、考えれば考えるほどその質問内容には迷ってしまいます。

さて、あなたならなんと質問しますか?

アバグネイルならきっとこう聞くに違いありません。

教えてくれたら天国に連れて行ってやる。さあ一緒に天国に行きたいのはどっちだい?

2014-1120824

ああ貞山堀

2014-1090643一昨日の3月11日は、東日本大震災の起こった日でしたが、この震災の日から奇しくも一年後の同じ日、我々二人はこの伊豆に引っ越してきました。

なので、伊豆暮らしも丸々二年ということになるわけで、もうそんなになるか……と、感慨深いものがあります。

引っ越してきた日が震災が起こった日だったので、とくに引越し祝いという気分にもなれず、荷物の片づけやらなにやらで疲れていたこともあって、その日は段ボール箱の山の片隅に布団を引いて眠りについたような記憶があります。

今も被災地で不自由な生活を送っておられる東北の方々も、まだそんな落ち着かない環境の中で暮らしておられるのかな、と思うと胸が痛みます。

伊豆での生活もそろそろ落ち着いてきた最近、遅ればせながら、そうした震災被災者の方々のために、何ができるだろう、何かしてあげたい、と考え始めている今日このごろです。

実は、この震災が起こる9~10年ほど前は、そのころ勤めていた会社の仕事で、仙台の名取川河口付近をたびたび訪れていたことがあります。

この川の河口左岸に、井戸浦という湿地帯があり、ここは、仙台地方でも屈指といわれるほど自然豊かな場所であり、絶滅危惧の植物や魚類が多数生育・生息し、その背後にあった松林にはオオタカが営巣するなど、ラムサール条約登録地にしてもいいのではないかと思われるくらいの良い場所でした。

残念ながら規模がそれほど大きくなかったので、そうした世界遺産的なモノへの登録の運動は起きませんでしたが、このように自然豊かな場所であることから、その環境を知る地元の人達からは、維持保存を求める声も高かったようです。

ところが、そのすぐ隣の名取川の河口に溜まる砂をうまく海へ流してやるための「導流堤」という施設を新築する計画が持ち上がったことから、この建設による井戸浦への環境影響評価が必要、ということになりました。

その当時、環境調査を専門にしていた私はその調査の責任者に指名され、かくして、その調査のために、この井戸浦に足しげく通うにようになりました。

この調査は、いわゆる「環境アセスメント」と呼ばれるもので、自然環境の保全ために、動物や植物の調査だけでなく、地形や地質、景観およびこの地で行われている野外レクリエーションなどの人為活動への影響まで含めた調査を網羅的に行いますが、調査内容が多岐にわたるため調査そのものだけでも単年度では終わらず、2年ほどかかったかと思います。

その準備やまとめの期間もあり、結局この地とのお付き合いはかなり長くなり、あしかけ4年ほどに及びました。

そのおかげで、仙台市内の事情はもとより、名取川の河口付近の地理地形には、かなり詳しくなり、今回の震災で被害の大きかった河口右岸の閖上地区などにも、調査の傍らよく足を延ばしました。

なので、名取川河口付近のこれらの地区が、後年のあの巨大な津波に飲み込まれる様をテレビで見たいたときには、あぁァあのときお弁当を食べていたあそこが、写真を撮っていたあそこが、オオタカの巣をみつけたあそこが……と、知っている場所が次々と海水に飲み込まれている様子をみて、茫然としたものでした。

今でも震災前のこの地区の美しい自然が脳裏に残っているのですが、震災津波以後のこの地の様子がテレビで映し出されるのを時々みかける限りでは、その当時の面影はほとんど残っていないようです。

実は、この井戸浦のすぐ裏手(陸側)には、貞山堀、という運河があります。江戸時代から明治時代にかけて数次の工事によって作られた複数の堀(運河)が連結して一続きになったもので、最初の堀が仙台藩伊達政宗の命により開削されたため、没後に貞山公と尊称された政宗公にちなんで、のちに貞山堀と呼ばれるようになりました。

この貞山堀もあの津波で埋もれてしまったのだろうか、と心配になり、合わせて井戸浦の様子も知りたくなったので、グーグルマップの衛星写真から、現在の様子を調べてみることにしました。

2014-1030373

すると……井戸浦も貞山堀も、上空からの写真を見る限りでは、健在ではありませんか!

ただ、井戸浦のすぐ裏手に青々と続いていた松林はきれいに姿を消し、貞山堀と仙台市内との間にあった集落の多くは、廃墟のようになっていました。また、航空写真ではよくわからないのですが、緑豊かだったはずのこの一帯は土砂で埋もれているようです。

グーグルマップでは、ストリートビューという機能があり、現場の写真なども見ることができるので、これを閲覧してみたところ、やはり付近一帯はかなりの土砂で埋もれているようでした。

貞山堀も一見健全のようには見えるのですが、堀の左右にあった石垣の護岸などが一部壊れているようであり、ここだけでなく貞山堀のほかの場所もきっと大きなダメージを受けているに違いありません。

この貞山堀は、旧北上川河口から松島湾を経由して阿武隈川河口まで、おおむね海岸線に並行して続いており、仙台湾の海岸線約130kmの内、約半分の約60kmに及ぶ日本最長の運河です。湾沿いに点在している湿地は、全体で日本の重要湿地500の1つに選定されており、井戸浦もそのひとつです。

この堀は仙台藩保有の、喫水が浅く乾舷の低い川船が、河口からそのまま海に乗り出す危険を避け、あるいはそのために荷を積み替える手間を省いて川船による物資輸送を円滑に行うために建設されました。

「貞山運河」と一括して呼ばれてはいますが、実際は、次のように3つの運河系から構成されています。

北上運河(一番北に位置する):13.9km。石井閘門(旧北上川との接点)から石巻湾の最南部に位置する鳴瀬川河口まで。明治時代開削。
東名運河:3.6km。鳴瀬川河口から松島湾まで。明治時代に開削。
貞山運河(一番南):31.5km。松島湾南西部に位置する塩釜港から、ずっと南下して阿武隈川河口まで。一番古く、江戸時代に開削。

この貞山堀が位置する、いわゆる「仙台湾」というのは、波の静かな石巻湾に端を発し、その西南部の松島湾と、さらにその南側の仙台港から井戸浦のある名取川河口を経由してさらに南下し、阿武隈川河口に至るまでの区間(これは一般的には「狭義の仙台湾」とされる)に分かれています。

江戸時代に最初に掘削されたのは、この波の荒い「狭義の仙台湾」の部分の海岸線の背後部分であり、井戸浦裏にある貞山堀は、上の三区分の三番目にあたり、一番古いもの、ということになります。

2014-1090652

その後、明治時代になってから、仙台北の石巻湾に注ぐ鳴瀬川河口に、新たな東北地方の拠点港として、「野蒜築港」が建設されることになり、これに伴って石巻港から松島湾までの部分も開削されて現在の姿になりました。

掘削されてからの貞山運河は、仙台の城下町からの物資運搬だけでなく、岩手県北上盆地・宮城県仙台平野・福島県中通りなどなどの広大な河川交通・物流に供するようになりましたが、とくに仙南平野においては、江戸時代初期の新田開発における灌漑用水路の排水路としても機能しました。

現在の貞山堀は物流に用いられていませんが、震災前までは、農業用水路、漁港の一部、シジミ漁・シラス漁などの漁場、釣りなどのレジャーにも用いられていました。運河沿いの一部には自転車専用道路が設置されており、サイクリングを楽しむことができるようになっていて、私も仕事の合間をみてよくここを散歩したものです。

名取川河口南の、閖上地区のさらに南側には仙台空港もあり、この当時将来発生が予測されていた宮城県沖地震(結果として東日本大震災となりましたが)が起こった場合に、空港から貞山運河を経由して仙台市内へ援助物資を運ぶことが出来るかどうかという期待がもたれ、このための調査・研究が行われたこともあります。

しかし東日本大震災では、この仙台空港そのものが水没するとともに、貞山運河の多くの部分が大津波によって分断・破壊されたようです。このため、現在、宮城県では地域の復興とも併せ、この運河の再生・復興ビジョンをも策定しているといいます。

現在の塩釜港の背後の地域には、古代には、陸奥国府である「多賀城」があり、この城下の外港として、まず塩竈津(現在の塩釜港)が発展しました。塩竈津は、松島湾内の南部に位置する現在の塩竈市にあり、歌枕となるのみならず、陸奥国一の宮・鹽竈神社などが置かれ、この地域の重要な港でした。

ところが、11世紀以後、この多賀城が、現在の多賀城市の西側に移され、鎌倉時代には定期市も開かれるようになって、かなり大きな街になっていきました。南北朝時代以降には上町、下町と呼ばれるような行政区分もでき、戦国時代になると多賀国府町(たがのこうまち)と呼ばれるようになり、塩釜港も町の発展に合わせて整備が進められていきました。

安土桃山時代になると、伊達政宗が現在の宮城県・大崎地方(仙台より50kmよりも北方)の岩出山城にその本拠を移しました。

このとき、政宗は、塩釜港と内水系とのネットワーク化を考え、仙台よりはるか南の阿武隈川河口から仙台北方に位置する松島湾の塩釜港に到るまでの仙台湾に沿った運河の開削に着手しました。これが一番最初に掘削された貞山堀となります。

この運河は、前述のとおりの「狭義の仙台湾」の部分に造られており、南部の阿武隈地方から川船のまま塩釜港に物資を運ぶことがを目的として、開削に開削を重ね、その工事期間は、1597年から1661年までのなんと61年間にもおよびました。この間に政宗は仙台城を建築し始め、1600年には岩出山城から出で、現在の仙台の街を開きました。

運河は、仙台城下を流れる広瀬川(下流は名取川)や七北田川などの河口近くでも交差しており、しかもその先は塩釜港に至るという位置関係で、このため仙台城下から名取川や七北田川を下って貞山堀に至る水路は城下町仙台の主要な交通ルートとなり、こことつながった塩釜港は仙台の表玄関として発展していくことになります。

帆船が用いられていた江戸時代の仙台藩内では、この塩釜港の他に、その北方に位置する北上川河口の石巻港、そして、南方に位置する阿武隈川河口の荒浜港を保有しており、この3つにおける交易は、伊達家に莫大な利益をもたらしました。

teizanbori

1626年、伊達家家臣の川村孫兵衛重吉によって北上川の改修が完了すると、仙台藩のみならず、岩手地方の南部藩領内の北上盆地各地からも北上川に米が川下げされ、川船によって北上川河口まで運ばれ、石巻港に集積されるようになりました。

このため、東北太平洋岸海運の拠点は、それまでの塩釜に代わって石巻となり、石巻港が仙台藩内の中心港となりました。

ところが、戊辰戦争の敗戦によって仙台藩が仙台周辺のみに減封されると、この石巻は明治政府によって横取りされ、「石巻県」として直轄地となりました。明治政府はさらにここに、「東山道鎮台」を設置し、石巻を東北地方全域を管轄する拠点とするようになります。

しかし、その後の廃藩置県によって、仙台藩が「仙台県」となって権限を与えられるようになり、石巻と同格の直轄地となると、この石巻の鎮台は仙台に移封され、以後、東北地方を広域管轄する国家の出先機関などはすべて仙台に集中するようになっていきました。

ただ、短い期間ではあったのですが、このように仙台が中心地となる前には、この地方の中心地は石巻だったということになるわけです。

とはいえ、幕末以降、汽船が運行されるようになってからは、沈降海岸で水深が深い松島湾内にあって、外洋に面している塩釜港の重要性のほうが再認識されるようになり、水深の浅い河口港である石巻は、軽視される傾向にありました。

従って、鎮台の移転だけでなく、石巻はいずれは衰微していくことになる運命にあったともいえます。

1876年(明治9年)の天皇巡幸の折、この石巻港から西側10kmほど離れた、松島湾の北に位置する鳴瀬川河口の右岸にある野蒜(のびる)地区に、東北地方の拠点としての新しい港の建設が持ち上がりました。

これが野蒜築港であり、現時の内務卿・大久保利通が当地を視察して建設が決定し、1878年(明治11年)、オランダ人技師ファン・ドールンの設計で、西洋式近代貿易港として着工されました。

計画は、鳴瀬川河口に内港を設け、奥松島の宮戸島の北東の潜ヶ浦(かつぎがうら)を外港とするもので、鳴瀬川河口に東西2本の防波堤が建設され、新鳴瀬川の新設、および、大規模な新市街地の造成がおこなわれました。

同時に、鳴瀬川から松島湾にいたる3.6kmの「東名運河」が開削され、鳴瀬川から北上川河口の石巻に到る13.9kmにおよぶ「北上運河」の開削も行われました。これによって、すでに江戸時代につくられた狭義の仙台湾の貞山運河と合わせ、北上川河口~松島湾~阿武隈川河口までの全長約60kmに及ぶ、日本で最長となる運河が完成することになりました。

この運河系により、野蒜築港を中心として、岩手県の北上川水系、宮城県の仙台平野の全ての水系、および、福島県の阿武隈川水系との川船ネットワークが完成し、仙台湾の多くの海港同士の物流も繋がる運びとなりました。

これらの水運ネットワークには、日本海側の山形県や秋田県に到る道路網計画とあわせて、日本の表玄関の役割を担うことが大いに期待されました。

ところが、この野蒜築港は、完成して間もない1884年(明治17年)、台風による波浪と増水により一夜にして突堤が破壊されてしまいます。これによって、船舶の入港が不可能になったことにより、完成からわずか2年で廃港の憂き目をみることになりました。

なぜこの手間暇かけて作った近代的な港を修復しなかったかはよくわかりませんが、そのすぐ近くにある塩釜港のほうを新たに整備する方が金がかからない、ということだったのだと思われます。

こうして、その後の宮城県の港湾整備は、明治から戦後にいたるまで塩釜港を中心に進んでいくことになります。やがて塩釜埠頭駅がつくられ、鉄道が港に乗り入れるようになると、塩釜港は物流の中心として栄えていきました。

現在においても、東北地方を代表する商社や流通業者は、隣の仙台港よりも塩竈を出自とするものが多いのはそのためです。

2014-1090674

しかし、塩釜港は、数多くの島が浮かぶ松島湾内にあるため、ここを通る航路が大型船の航行に不適当であること、また、港は松島丘陵と呼ばれる山に囲まれており、広い背後地が得られない、などの不利な点があり、重厚長大の臨海工業が盛んになっていく戦後においては、その将来性が危ぶまれていました。

こうして1960年(昭和35年)、塩釜港よりも20kmほども離れた東に位置する石巻港の西の浜辺に、掘り込み式人造港である「石巻工業港」が着工されました。苫小牧港や鹿島港と同様に、当時の池田勇人内閣が「所得倍増計画」を打ち出したことを背景に建設されることになった新港です。

さらには、ここから松島湾を挟んで、その南側の狭義の仙台湾一帯の北側の地区が1964年(昭和39年)に「新産業都市」の指定を受けました。これを受けて、この地にも新たな工業港として掘り込み式人造港が計画され、これが現在の「仙台新港(=仙台港)」になりました。

この仙台新港には、背後に仙台市という大都市を抱えていることに対する期待が寄せられ、商業港としての機能も付加することになり、こうして西の仙台新港と東の石巻工業港という二つの新しい港が誕生することとなりました。

1967年(昭和42年)には石巻新港が、1971年には仙台新港(以後、仙台港と呼ぶ)も開港し、この2港はやがて宮城県の臨海工業の集積地となっていきました。

ところが、仙台港が開港した年には、ニクソン・ショックと呼ばれるアメリカの大幅な経済政策の転換があり、これはドルショックとも呼ばれ、アメリカがドル紙幣と金の兌換を一時停止したことによって、世界経済は大混乱に陥りました。

また、1973年にはオイルショックも発生し、日本にも中東からの油が入ってこなくなったことから、それまでこの二つの新港周辺に次々と建設されていた石油化学コンビナートや関連工場は、その発展の方向性を見失ってしまい、工業港としての発展は頓挫することになりました。

このうちの仙台港は、北海道の苫小牧港や名古屋港とのフェリー航路、国内フィーダーなどによる商業港としての色合いが強くなりました。

「フィーダー」というのは、大型の船が寄港する主要港から小型船に積み替えて別便で運ぶことです。

例えば香港~横浜間を行き来している大型コンテナー船の貨物を、横浜で小型船に積み替えて仙台港に持っていくようなことを、「内航フィーダー船を使って貨物を横浜から仙台に運ぶ」という風に使いまわします。あまり聞き慣れないかもしれませんが、海運の世界ではよく使うので、覚えておかれると良いでしょう。

こうして仙台港はなんとか生き残るところとなり、すぐ隣にある塩釜港が持っていた物流機能もこの仙台港のほうに集中するようになっていき、1994年にはついに、塩釜港の鉄道貨物取扱いが終了に追い込まれました。

さらに仙台港への一極集中は加速し、1998年からは、横浜港本牧~仙台港間で仙台臨海鉄道・東北本線などを経由する20両編成の「よこはま号」と呼ばれる貨物列車(JR貨物)や、東京港と直結する貨物列車が運行されるようになり、仙台港は東京湾の補完機能を持つようになっていきます。

やがて仙台港は、国際貨物も集約される重要港湾となっていき、その過程で近代的なコンテナ流通にも対応するようになり、こうした機能を持たない塩釜港は物流機能を完全に失っていきました。現在の塩釜港は、ほぼ「漁港化」するまで衰退し、仙台港がこの地域一帯の物流拠点としてその中心的な役割を一手に担うようになりました。

2014-1090600

一方、仙台港とほぼ同時期に誕生した石巻工業港は、オイルショック後に製紙工場が立地するようになり、その後原料となる木材やパルプの輸入の増加があったことから息を吹き返し、港湾拡張が行われるようにまで回復しました。

また、仙台港と石巻工業港の両港は、三陸自動車道や国道45号で結ばれるようになり、その近代港としての機能が補完されるようになりました。

こうして現在にまで至るわけですが、両港は今も貞山運河によっても結ばれています。しかし、現在は物流のためには使われておらず、しかも先の震災において著しいダメージを受けていて、おそらくは船の行き来などはできないような状態ではないでしょうか。

この二つの港だけでなく、県内の港は地震・地盤沈下・津波・火災などにより、埠頭施設や背後の臨海工業商業地区は大きな被害を受けました。また、港湾従事者の犠牲や離散により港湾機能が著しく低下しているようです。

このため、とくに仙台港と塩釜港、石巻港、松島港という4つの港区を、「仙台塩釜港」という1つの港に統合されることが決まり、震災からの効率的な復旧・復興と将来的な発展を目指して現在、必死の改修作業が進められているということです。

この4つの港区は、すべて貞山堀で結ばれていて(総延長46.4km)、本来ならば小型船舶なら外洋に出ることなく相互の往来が可能であるはずです。が、運河の幅が狭いうえに、震災のがれきやら津波に運ばれてきた土砂の堆積よって船の航行に適した状態にはなさそうです。

もっとも、震災前にもこの運河を一気通貫で通るような流通ルート、もしくは観光ルートは確立されていません。が、これを有効利用して、観光資源にしようとか、いろいろな取り組みがあったと聞いています。

遠い将来かもしれませんが、これらの運河が復活して、流通だけでなく、レジャーなどにも使われるようになり、町の活力になっていくことを願ってやみません。

2014-1090678

以上が、貞山堀と仙台湾沿岸各所に設置された港の歴史です。

話しは少々変わりますが、冒頭で話をした、井戸浦付近の狭義の仙台湾では、仙台港付近の湊浜に加え、荒浜、ゆりあげビーチといった3ヶ所ほどのサーフスポットがあり、とくに仙台港付近の湊浜では、仙台港の防波堤が最も長く太平洋に突き出ているため、波が増幅されやすく大きな波ができるようです。

これらのスポットは、仙台空港からもほど近いためか、関東方面からも多くのサーファーが訪れていたようで、以前、私がこの地域に調査に通っていたころにも、たくさんのサーファーが波乗りを楽しんでいるのを目にしました。

このうちのひとつ、ゆりあげビーチは、名取川河口の南に近年開設された海水浴場であり、河口の南側に防波堤があり、北寄りからの波が押し寄せることの多いこの海岸を穏やかにしてくれています。

以前は、どこの浜辺にも車で進入可能であったため、ここを拠点にしてこの海岸の近くでもサーフィンを楽しむ若者がたくさん見られたのですが、現在ではおそらくその姿もみることができないでしょう。

一方の仙台港の湊浜ではかつてプトライアスロンの国際大会が毎年開かれており、またプロのサーフィン大会が毎年開催されていました。

このゆりあげビーチでもアマチュアのサーフィン大会がよく開催されていたようです。が、それもおそらくは震災以後長らく開催されていないのではないでしょうか。

この一帯では季節によっては潮干狩りを楽しめる場所があったような記憶があり、夏には普通の海水浴客や釣り客も数多く訪れていました。井戸浦でも糸を垂れている地域住民をよく見ました。が、確か地元の漁協が漁業権を設定しており、勝手に釣りはできないはずでしたが……

仙台湾の外海のほうは、カレイ、マアナゴ、アカガイ、ホッキガイ、ウニ、カキなど豊富な魚介類が採れることで有名な豊饒の海でしたが、今はどうなっていることでしょう。少なくとも養殖のほうは回復傾向にあるようで、松島湾のマガキの養殖や、仙台湾のノリの養殖は、最近になってようやく復活したと、先日のニュースで報じていました。

たくさんの鯨類がこの海を訪れることでも有名で、春から夏にかけてザトウクジラやシャチなど数多くの種類が現れており、湾内ではミンククジラなら普通にみることができたようですが、そのクジラたちは戻ってきているのでしょうか。こちらも気になります。

長らくこうした海を見に戻っていませんが、伊豆での生活が落ち着いた今、時間が許せばまたあそこへ行ってみたいと思います。

とはいえ、変わり果てた井戸浦や貞山堀を見るのは忍びない気持ちもあります。が、もしその復興計画などが持ち上がるようであれば、そうしたことに関わることが、私にできるこの地への恩返しのような気がしています……

人にも海にも港にも、一刻も早い復興が訪れることを願ってやみません。

2014-1090627

クジラは歌う

2014-1070280今日は、童謡詩人、金子みすゞの命日だそうです。

北原白秋と並んで大正期を代表する童謡詩人と称された、かの西条八十からも「若き童謡詩人中の巨星」と称えられるほどの実力者でしたが、1930年(昭和5年)の今日、26歳でその短い生涯を終えました。

大正末期から昭和初期にかけて、512編もの詩を綴りましたが、このように専門家の評価は高かったにもかかわらず、当初はあまり世間一般には知られていませんでした。

ところが、2000年代のはじめに、ラジオ大阪の携帯サイトで金子みすゞの詩を朗読するプログラムが公開され、またTBSラジオのミニ番組「童謡詩人・金子みすゞ」でも詩作の朗読が放送されたことなどから、徐々に人気が出るようになりました。

その後、東日本大震災後に、テレビ各局がCMを自粛するようになった折、その差し替えのために放送された公共広告機構のCMで、みすゞの作品の一つである「こだまでしょうか」が取り上げられたことにより一挙にブレイク。

「金子みすゞ童謡集“こだまでしょうか”」などが急遽電子書籍化されたほか、この「こだまでしょうか」をモチーフに、その独特の語調をパロディにした作品などもインターネット上で流行り、その名前が広く知られるようになりました。

この影響もあって、山口県の長門市仙崎にある「金子みすゞ記念館」の入場者数も急増、2011年には累計入場者数が100万人を突破しました。

このみすゞが生まれた仙崎という町は、日本海に面した青海島と本土の間に形成された砂嘴の上に成り立った港町で、魚類の大消費地である下関や福岡にも近いことから、日本海側屈指の漁港として成長しました。

蒲鉾の産地としても知られ、面積14平方キロメートルほどの青海島はその北岸が日本海の荒波を受け、奇岩が並び立つ景勝地であり、「海上アルプス」とも称され、山口県を代表する観光地でもあります。

私も子供のころから何度となく訪れ、その絶景を見るのが好きでしたが、長じてからは、この仙崎漁港のお土産物屋で売っている豊富な魚介類目当てに、よくここへ行ったものです。が、最近の不況でこの土産物屋の数がずいぶん減ったと聞いており、少々心配しています。

みすゞが生まれたのは、1903年(明治36年)4月11日のことでしたが、彼女が生まれてすぐに、父は下関の本屋の支店の店長として中国(当時は清国)の営口に赴任し、彼女が3歳のときにこの地で不慮の死をとげています。

彼女には弟が一人いましたが、幼くして母の妹(みすゞにとっては叔母)の嫁ぎ先である下関の上山家という家に養子に出されています。ところが、この叔母もまたその後亡くなり、この弟の養父が一人者となったことから、同じく寡婦であったみすゞの母と再婚。

このため、みすゞも下関の上山家に移り住むようになり、みすゞとこの弟とは姉弟でありながら、しかも義理の姉弟というややこしい関係となりました。

みすゞは23歳のとき、この養父(叔父でもある)の経営する本屋(上山文英堂という名前)の番頭格の男性と結婚して、二人してこの養父の家で住むようになり、やがて娘を1人授かります。

同じく同居していた弟とは、実はみすゞは不仲だったといい、このため彼をかわいがっていた叔父から次第に冷遇されるようになります。結婚相手とも折り合いが悪かったようで、このためこの旦那は不倫に走るようになります。これが謹厳実直だった叔父にバレ、激怒した彼は、夫婦を上山文英堂から追い出しました。

みすゞは夫に従ってこの家を出たものの、自暴自棄になったこの旦那の放蕩は収まりません。そうしたすさんだ環境のなか、もともと、文学的な才能があったみすゞは、気分転換にと雑誌などに詩の投稿を始めました。が、偏屈な夫は家業をないがしろにして遊んでいる、とこれを喜ばず、彼女の投稿活動や詩人仲間との交流まで禁じました。

しかも、女遊びの末に、淋病に感染し、あろうことかこれをみすゞに移してしまいます。こうした夫のしうちにも我慢に我慢を重ねていたみすゞでしたが、ついに耐え切れなくなり、1930年(昭和5年)2月にこの夫との離別を決めます。

周囲のとりなしによって正式に離婚は決まったものの、しかし夫はこれを拒否したため、手続き上は成立していないまま、彼女は家を出ようとします。このときみすゞは、せめて娘を手元で育てたいと夫に要求し、夫もこれを一度は受け入れました。

ところがすぐに考えを翻し、娘の親権を強硬に要求するようになります。離婚もできず、娘も取り返すことのできない中、苦悩の日々を過ごしたみすゞは、ついに同年3月10日、夫に対して娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を遺して服毒自殺。その26年の短い生涯を閉じました。

代表作には、「わたしと小鳥とすず(自分のことを「すず」と呼んでいた)や「積もった雪」、「大漁」などがありますが、その死後、これらの誌は長らく忘れられており、1984年になってようやく岩波文庫「日本童謡集」の中に「大漁」が取り上げられました。

この作品は、これを読んだこの当時の流行詩人たちに高く評価されました。そのおかげで、亡くなった実家などから次々と遺稿が発掘され、遺稿集としてとりまとめられるようになり、巷でも次第に人気が高まっていきました。

やがて大学の国語の入試問題にも彼女の誌が出題されるようになり、こうした小ブレイクを受けて、地元の仙崎でもみすゞの再評価が行われることとなり、みすゞの生誕100年目にあたる2003年4月11日には生家跡に金子みすゞ記念館が開館。ここでは、みすゞが少女期を過ごした家を復元すると共に、直筆の詩作のメモなどが展示されています。

この記念館は本当に小さなもので、大きな看板は出ているのですが、地味なのですぐ前を通っても気が付かないことがあります。が、これだけを目当てに仙崎にやってくる観光客も多いようで、私も夏休みなどに、大勢の学生が押しかけていたのをみかけたことがあります。

この仙崎という街ですが、古くは、捕鯨が盛んだった時代があり、仙崎漁港の入口には、鯨を形どったオブジェなども飾られています。また、多くの鯨を殺したことへの償いと畏敬の念を込めて、「鯨墓」なるものも建立されています。また鯨の魂を慰める「鯨法会」という地域の慣わしもあって、地元のお寺さんを読んで、毎年法要が行われています。

2014-1070284

みすゞもまた、鯨の供養のためにと、「鯨法会」という作品を書いており、自然とともに生き、小さないのちを慈しむ思い、いのちなきものへの優しいまなざしが、金子みすゞの作品の特徴です。

この「鯨法会」というのを紹介しておきましょう。

鯨法会は春のくれ、
海にとびうおとれるころ。

はまのお寺が鳴るかねが、
ゆれて水面(みのも)をわたるとき、

村のりょうしがはおり着て、
はまのお寺へいそぐとき、

おきでくじらの子がひとり、
その鳴るかねをききながら、

死んだ父さま、母さまを、
こいし、こいしとないてます。

海のおもてを、かねの音は、
海のどこまで、ひびくやら。

このみすゞも謡ったクジラの子は、捕鯨によって親を奪われ、一人ぼっちになったのでしょう。現在でこそ調査捕鯨しか行われていませんが、その昔は、日本全国あちこちの海で大規模な漁が行われ、こうした親を失った子クジラがたくさんいたことと思われます。

8世紀の奈良時代には文献上に捕鯨を意味する「いさなとり」の枕詞が出現しており、初期には「突き捕り式」と称する銛を用いた捕鯨法でしたが、これが16世紀には捕鯨専用の銛を使うようになっていきました。

江戸時代に入った17世紀初頭には、水軍から派生した専門的な捕鯨集団「鯨組」が各地に出現します。

17世紀後半には、網を用いてクジラを拘束してから銛で仕留める「網捕り式」と呼ばれる技術が鯨組により開発されました。

初期のころのクジラの捕獲対象は、西洋と同様にセミクジラやコククジラでしたが、この網捕り式捕鯨の開発後は、死亡すると水に沈んでしまうために捕獲が難しかったナガスクジラ科のクジラまでも対象とできるようになりました。

やがて「鯨組」という漁師軍団が形成されるようになり、彼らは捕獲から解体、鯨油抽出・鯨肉塩漬けなどの商品加工までを行う数千人規模の巨大な組織となり、多大な利益をもたらすことから各地方で厚遇され、藩からの支援も受ける団体も多かったようです。

捕獲された鯨からは、鯨油が生産されて農業資材や灯油などとして全国に流通したほか、ヒゲも様々な工芸品の材料として使用され、さらに、鯨肉は食糧としても利用されており、中でも保存性の高い皮脂や鰭の塩漬けは広範囲に流通しました。

西海捕鯨における最大の捕鯨基地であった平戸藩生月島の益富組においては、全盛期に200隻余りの船と3000人ほどの水主(加子)を用い、享保から幕末にかけての130年間における漁獲量は2万1700頭にも及んだという記録もあります。

また文政期に高野長英がシーボルトへと提出した書類によると、西海捕鯨全体では年間300頭あまりを捕獲し、一頭あたりの利益は4千両にもなりました。ただし、このような多数の労働者を必要とする鯨組による古式捕鯨は、巨大組織であるがゆえに経営維持が難しい面もあり、ときには経営難から解散に至る例もあったようです。

2014-1070289

日本の古式捕鯨は、好不調の波もありつつ19世紀前半にはピークを迎えましたが、やがて徐々に衰退していき、明治時代末には近代的なノルウェー式の捕鯨に取って代わられました。

現在でも、商業捕鯨を操業するノルウェーや調査捕鯨を実施している日本、先住民が捕鯨をおこなっているアメリカ合衆国やカナダなど、一部の国や地域では捕鯨が継続されています。

が、ご存知のとおり、捕鯨継続の是非に関しては議論があり、絶滅を招くおそれがあるという以外にも、非常に知能が高い哺乳類であるから、という理由から反対論が優勢な状況です。

一説によるとクジラはイヌやネコよりも賢いといわれており、そんな知能の高い生物を食物として人間が狩ってもいいのか、というわけです。

クジラの種類の中でも比較的小型(成体の体長が4m前後以下)の種類をイルカと呼ぶことが多いようです。この区分は明確ではないようですが、いずれにせよ、クジラもイルカも非常に高い知能を持っているといわれています。

とくにイルカは体重に占める脳の割合(脳化指数)がヒトに次いで大きいことから、その知性の潜在的可能性が古くから指摘されており、世界的にも数多くの研究者の研究対象になり、世間一般からも興味の対象とされてきました。

イルカが高い周波数をもったパルス音を発して、物体に反射した音からその物体の特徴を知る能力を持つことはよく知られています。

更にその特徴を他の個体にパルス音で伝えたりと、コミュニケーション能力は高い一方で、人間のようないじめも同類に行うこともわかっており、魚などを集団で噛み付き弱らせ弄んだ挙句食べずに捨てる、小さな同種のイルカや弱ったものを集団で噛み付くなどして、殺すなど集団的な暴行行為も行うといいます。

実は、クジラもまた、歌を歌って、他のクジラとコミュニケーションをとっているといわれています。

歌といっても、一連の雄たけびのような「音」です。クジラ類すべてが発するというわけではなく、特定の種に属するクジラ(代表的には、ザトウクジラ)などが発する、反復的でパターンが予測可能な音で、その発声が人間の歌唱を想起させるためによく「歌」に例えられます。

音(声)を発生するのに使われるメカニズムは、クジラの種類により異なっていますが、コミュニケーション目的のために発しているらしいという点では共通しており、このあたりは必ずしもコミュニケーション目的でもなくやたらに吠えまくる陸上の哺乳動物と異なります。

クジラのコミュニティの維持にはこのような音と、これを聞き取る感覚が不可欠だと言われています。また、水中では光の吸収が大きいため視界が悪く、空気中に較べると、水中では分子の拡散速度が相対的に遅く、嗅覚が有効に働かないことも、こうした歌を歌う理由だと考えられています。

水中での音の速度は、海水面上において大気中の速度のおよそ4倍と速いため、泳ぐ、跳ねるといった動作を視認して意思を伝えたり、匂いで味方を確認したりするよりも、音でコミュニケーションをとるほうが効率的というわけです。

クジラだけでなく、海の哺乳動物たちの多くは、コミュニケーションや摂食において聴覚に非常に依存しています。このため、世界中の海洋で起こっている、船舶航行や軍事用のアクティブソナーや海洋地震による環境雑音の増加は、海洋哺乳動物に対し悪影響を与えつつあるとする意見もあり、環境保護論者や鯨学者たちの関心を集めているそうです。

2014-1070292

このクジラの声ですが、我々人間は、喉頭を通して空気を単純に外に押し出すことで声を発します。ところが、クジラの場合は、喉頭内にある声帯がこの連続的な息の流れを、いくつかの空気の塊に分解しながら外に押し出し、また必要に応じて声帯を開閉するといった複雑なコントロールができます。

こうして発せられた空気の塊は、咽喉部、舌、唇によって、さらに意図する音へと整形され、クジラの体外へと飛び出していきます。

従って、人間が出す声と異なり、クジラが出す声は非常に複雑なものとなり、一度聴いたら容易に忘れることのできない深い響きのあるものになります。とくにザトウクジラやある種のシロナガスクジラのものは、耳の奥底に響くような種類の音だといいます。

もっとも、彼らが一年中この声を発しているかというとそうでもないようで、クジラがこうした非常に複雑な歌を歌うのは、主として雌雄選択のための発情期だけのことが多いようです。

一方、トウクジラやシロナガスクジラ以外の、他のクジラが発する声はもっと単純で、こちらは一年を通して発せられます。シャチ(オルカ)を含む、歯を持つ大多数のイルカなどが発する声は、物体の大きさや性質をきわめて正確に探知する目的の「エコーロケーション」であるといわれています。

これは、一種の超音速の音波の放出で、水中での深度や、前方にある大きな障害物などは、この発せられた超音波で探知できます。これを発して対象物から跳ね返ってくる音波でそれが何かを確認するわけで、このあたりはコウモリが超音波を発して暗闇でもぶつからずに飛べるのと同じ原理です。

こうした小型のクジラ類もコウモリと同じで、水中環境における視界の悪さから、水中で容易に伝達し得るエコロケーションという音波を使って、その遊泳を補助しているのだと考えられています。

一方で、クジラの中でもかなり大型であるザトウクジラや、シロナガスクジラの声はこのエコロケーションではなく、上述のとおり、様々な周波数で複雑かつ反復的な音を発します。

海洋生物学者として有名な、フィリップ・クラファムは、この歌を、「動物界におけるおそらくもっとも複雑な歌」と形容し、クジラを歌の名手だと語っています。

とくに雄のザトウクジラは、交配期において非常に複雑な歌を歌うことで知られており、この歌の目的は、お相手の雌を探すときに、その性的選択を補助するためであろうと推測されています。

ただ、この歌が雌を争う雄同士の競争が目的の振る舞いなのか、あるいは雄から雌への「恋の駆け引きによる戯れ」のようなものか、はたまた、雄どうしで集って対象とする雌が誰のものかを決めようとしているのかなど、いずれが目的であるのかについてはまだよくわかっていないようです。

こうしたクジラの歌の研究としては、1971年のアメリカの生物学者、ロジャー・ペインとスコット・マクヴェイらのものが有名であり、その研究結果によれば、クジラの歌にはある種の「メロディー」があり、これは明瞭に区別される階層構造によって構成されているそうです。

このクジラの歌の基本単位(時として、「楽音」と呼ばれる)は、数秒間ほど継続する中断のない単一の発声で、20ヘルツから10キロヘルツまでの周波数で変動します。人間は、だいたい、20ヘルツから20キロヘルツの音を聞くことができますから、こうしたクジラの歌のほとんどを聞くことができます。

2014-1070294

この歌はまた、周波数変調が可能だそうで、すなわち、音が高くなったり低くなったり、同じ周波数に留まったりし、また音量も変化します。

その歌の多くは、4個または6個のサブフレーズから成るセットで成り立っているそうで、10秒ほど続くサブフレーズ2つでひとつのフレーズが構成されています。この一つのフレーズを歌うのには2分から4分かかるといい、そしてこのフレーズは何度となく繰り返されます。

ひとつのフレーズは「テーマ」とも呼ばれており、テーマの集まりが、すなわちワンセットの歌です。この歌は普通は長くても20分ほどで終わるそうですが、更に繰り返され、何時間にも渡って続き、数日にも及ぶこともあるといいます。

どんな歌なのか私も実際の録音をすべて聞いたことがあるわけではないのですが、科学映画などでクジラの生態を紹介しているものを見たときに聞いたものは、独特な悲しげな歌でした。みなさんもそうしたクジラの歌の片鱗をどこかで聞いたことがあるのでないでしょうか。

直接的にこの歌を聞いた人の話では、この歌はまるで深い階層構造のようになっているそうで、それはまるで、ロシア式入れ子人形、マトリョーシカに例えられるそうです。

こうした幻想的な音の階層がどういうふうに形成されるのか、については多くの科学者を魅了するテーマだということで、バイオリンのような楽器を製造する人たちにとっても非常に興味深い対象だといいます。

更に、これらのクジラの歌は、時間と共にゆるやかに進化するそうです。例えば、一ヶ月に渡る時間の経過と共に「アップスウィープ」するそうで、これは「周波数における増大」を意味します。

つまり低音から高音へとだんだんとシフトしていくわけで、特定の音程で始まった一単位の歌が、ゆるやかに高音化していき、かなり高い定周波の音にまでなることもあります。また、別の一単位の歌では、一貫して音量だけが大きくなっていく場合もあるといいます。

こうしたクジラの歌の変化は、その変化ペースが、また変化するそうです。何年かもの間に、急速に歌の内容が変化することがあり、また別の数年のあいだは、ほとんど変動が記録されない、といった具合です。

さらに、この歌の内容は、クジラの生息密度によっても違いがあるそうで、テリトリーが込み合った地域に生息するクジラが歌う歌には、わずかなヴァリエーションしかなく、類似した歌を歌う傾向がある一方で、テリトリーに重複のない地域のクジラは、まったく異なる非常にたくさんのユニットの歌を歌うといいます。

さらに、こうした歌は、変化していったとしても、古いパターンがもう一度立ち現れることは稀だそうです。クジラの歌を19年にわたって分析した研究結果では、同じパターンの歌が若干出現する程度で、同じフレーズを組み合わせた歌が再現されたことは一度もなかったといいます。

このクジラの歌は、求愛行為のためのものではないかとする説がある一方で、いやそうではない、必ずしも生殖活動のためだけではない、とする学者もいます。

例えばザトウクジラは、フィーディング・コール(feeding call)と呼ばれる音を発します。これは、前述の歌とは明らかに異なるもので、定周波数に近い、長い音(声)であり、5~10秒程度持続します。

ザトウクジラは一般に、群として集まることで、協調して摂食します。魚群の下側で遊泳し、全員が、魚の群を突き抜けて垂直に上方に突進し、一緒に水から飛び出ます。この突進の前に、このフィーディング・コールを発するといい、このことから、摂餌行動と何等かの関係が深いと考えられています。

クジラに追いかけられる魚のほうは、この声が何を意味するのかを知っているようで、このフィーディング・コールを録音した音を再生してニシンの群れに発しところ、実際にはクジラがいないのにもかかわらず、この音に反応して、ニシンたちは、コール音を避けるように移動したといいます。

このように、クジラが発する音が、求愛のためであるにせよ、摂餌のためであるにせよ、それがクジラ類の進化とその生息環境の安寧において、とくに重要な役割を果たしていることは容易に想像できます。

一方で、クジラが生息する海という環境は、空気の中で暮らしている我々の世界と異なり、非常に幻想的なものなのかもしれず、こうした美しい環境がクジラをして魅力的な歌を歌わせているのだ、というロマンチスト的な考え方をする研究者もいるようです。

ただ、クジラの歌を擬人化したり、神格化することについては、生物学的には無意味だとし、クジラの音(歌)の役割について過度に美化する必要はない、という指摘も多いようです。

とはいえ、クジラやイルカの知能の高さを考えると、喜々としてその美しい世界の素晴らしさを歌っているのだと考えたくなるのも無理はありません。できることなら、私もそう考えたいところです。

2014-1070279

一方では、生物学者たちの中には、まったく別の観点からクジラの声(音)の意味・内容を研究している人たちもいます。それは例えば、クジラの声がどこから発せられ、どこまで届くのか、といった音響学的な観点からの研究です。

その正確な発生位置を探知するため、わざわざ潜水艦を追跡するための水中聴音器(hydrophone)まで使って、クジラの声が、大洋を横断してどれだけ遠くからもたらされたか、といったことを調査している研究者までいるそうです。

実はこうした水中聴音器を使って収集されたデータというのは、潜水艦など駆逐艦といった軍の艦船によって集められた膨大なものが存在し、こうした軍事データのおよそ30年分ほどを使って行われた研究もあります。

コーネル大学のクリストファー・クラークという研究者は、こうした研究から、クジラの声は、なんと3,000km遠方まで到達することを明らかにしています。

さらにクジラの歌についても研究した結果、クジラが交配のために歌った歌の追跡によって、クジラが恋の季節にどこを回遊したかがわかったといい、さらに研究を進めることで、これまで生態のよくわかっていない種類のクジラの回遊経路を辿ることも可能になるのではないかと、結論づけています。

さて、もうすぐ東日本大震災から3年が経ちます。先日のNHKのサイエンス番組では、この震災後、太平洋側の海底にある地震の巣のあちこちに地震計を設置していることなどを放送していました。

たくさんの地震計の設置により、地震や津波の早期発見につなげようとする試みのようですが、もしかしたら、この遠くまで伝わるというクジラの声を分析結果もまた、もしかしたら将来的には地震の予知につながるのかもしれません。

イヌの声を翻訳する機械で、バウリンガルというのがあるそうですが、鯨の声を翻訳する、ホエールリンガル、いや「ホエリンガル」、というのを開発する、というのはいいアイデアかもしれません。地震のことだけでなく、鯨がどんな会話をしているかは興味深いところです。

もしかしたら、日本の近海を泳ぐクジラは、お互いに地震情報を共有しているかもしれず、また、福島沖を泳いでいるクジラは、あそこはやばいぞ、行かない方がいいぞ、と言っているかもしれません。

あるいは伊豆の海はえーぞ。あそこは餌がいっぱいあって暖かい、とか噂をしているのかもしれません。

伊豆諸島の御蔵島沖などでは、とりわけクジラがよく見れるそうです。今年こそは、そのホエールウォッチングに出かけてみたいものです。できれば、ホエリンガルを持って……

2014-1000568

サクラチル……

2014-1040268今日の伊豆はまた冬に逆戻りで、朝からなんとまた雪が降っています。

高地にある我が家ではこの前の大雪で積もった雪もまだ完全には融けておらず、もう3月にもなるのにこの雪で、一体ここは本当に伊豆なのか、と思ってしまうのですが、ここでの暮らしがまだ2年にしかならない我々にはこれが異常な状況なのかどうかもよくわかりません。

が、ここでの暮らしの長いご近所さんから伺った限りでは、今年の冬は少々例年とは違うようで、そうした異常気象に引っ越してきてごくわずかの時間の間に遭遇するというのも、きっと何か意味があるのでしょう。

一方、ここはこんなお天気なのに、テレビでは河津の早咲きのサクラがほぼ満開だと告げています。去年は、晴れた日を選んで二人して出かけたのですが、今年は先週急に入った仕事が忙しくて、もう見に行けないかもしれません。

ただ、フツーのサクラはまだまだこれからなので、そちらを楽しみにすることにしましょう。とはいえ、この寒さでは大幅に開花が遅れるのではないでしょうか。

この桜ですが、春を象徴する花として日本人には一番なじみが深いもので、俳句でも「花」といえば桜のことを指すのだそうです。春一番の梅に次いで、春本番を告げる役割を果たし、その開花予報、開花速報は多くのメディアをも賑わします。

話題・関心の対象としては他の植物を圧倒し、入学式や卒業式などの、例年3・4月に行われる式典を演出する花でもあるため、とくに強い印象を与えます。

色々なアンケート調査でも、好きな花として桜をあげる人が断トツに多いそうで、また、咲くときだけでなく、散って行くその姿にはかなさや潔よさ(いさぎよさ)を感じる人も多く、最も日本人の心の琴線に働きかける花といえるでしょう。

この桜の散りゆくさまの、はかなく、わびしいかんじは、古くから「諸行無常」といった感覚にたとえられており、ぱっと咲き、さっと散る姿ははかない人生を投影する対象でもあります。

江戸時代の国学者、本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠み、桜は「もののあはれ」などと基調とする日本人の精神そのものだと言っています。

一方の「潔よさ」については、江戸時代以降しばしば武士道のたとえにされ、潔いことこそが、武士の模範と見たてられてきました。

無論、江戸時代には、武士だけでなく農民や町民もいたわけですが、士農工商の頂点に立つ侍が尊ぶ花なのだから右へ倣え、というわけでもなかったのでしょうが、その気分が伝染したのか、彼等もまた桜が大好きで、農地や町屋のあちこちに桜を植えてきました。

その「気分」は、明治時代以降も受け継がれ、五千円札にその肖像が使われた新渡戸稲造も著書の「武士道」」で、武士道=日本の象徴たる桜の花、とわざわざ冒頭に書き記しているそうです。

さらにこの気分は、明治、大正、昭和と続いた日本陸海軍にも受け継がれ、この武士道を軍の規律の中心においた旧日本軍でも、潔く散る桜を自己犠牲のシンボルとして多用しました。

太平洋戦争末期に開発された、日本初のロケット戦闘機であり、かつ特攻兵器であった「桜花」に与えられたこの桜の意味は「華と散る」であり、戦死や殉職の暗喩です。

この殉職とは、一般に、特定の業務に従事する職員が、職務・業務中の事故が原因で死亡することを指します。先の太平洋戦争では、軍務こそがこの業務であり、そこで死ぬことは大変な名誉とされ、率先して散ることが美徳とされました。

とくに、日本軍においては、功績顕著な戦死者を階級の上で昇進させ、その死を称えました。この昇進のことを、とくに「特別昇進」と呼び、以後「特進」と略して使うようになりました。また、明治以降の日本では、こうした特進に値する殉職者はとくに、「軍神」として崇めたてられるような風潮も出てきました。

軍神と称された軍人としての代表としては、日露戦争における日本海海戦での大勝利を挙げた連合艦隊司令長官の東郷平八郎がもっとも有名ですが、このほかにも旅順港攻略で功績があったとされる乃木希典大将もまた、軍神とされています。

2014-1040273

「軍神」というのは、当初は公式のものではなく、主にマスコミが用いていた尊称です。

しかし、昭和13年5月17日に、それまで30回以上の戦闘に参加してきた西住小次郎中尉が、流れ弾に当たって戦死して以降、軍が公式に指定するようになりました。軍神に指定された軍人の生家には「軍神の家」という表札が掲げられるようになり、「軍神」の尊称を受け著名な存在になっていきました。

この西住中尉の話は、菊池寛が小説化し、「西住戦車長伝」のタイトルで東京日日新聞・大阪毎日新聞に連載され大好評となり、1940年(昭和15年)には松竹により映画化され、上原謙が西住役として主演しています。

軍から公式に「軍神」として指定されたのは西住中尉が初めてであり、以後、日本陸海軍においては、「死して国を守った」彼等を神として尊敬するよう強要するようになっていきます。精神的な指導が行なわれるようになり、皇室に忠誠を尽くした彼等を日本史上の人物であるとして神格化していきました。

ちなみに、この西住小次郎中尉も死後、大尉に昇進しています。この軍神が正式な称号とされるより更に以前、功績があった死者を「特進」させるという風習が根付いたのは、日露戦争において軍神とされた広瀬武夫海軍少佐が最初です。

実は、日本では元々戦死者を特進させる習慣は無かったそうですが、日露戦争において軍神とされた広瀬武夫海軍少佐、橘周太陸軍少佐などが、死後それぞれ中佐に一階級特進したのがその嚆矢となりました。

広瀬少佐のことはご存知の方も多いと思います。日露戦争中の旅順港閉塞作戦において、閉塞船福井丸を指揮していた広瀬武夫は、敵弾飛び来る中で行方不明となった部下の海軍一等兵曹を探して退避が遅れ、ロシア海軍の砲弾の直撃を受けて戦死しました。

決死的任務を敢行し、また自らの危険を顧みず部下の生命を案じて戦死を遂げたことから、歿後すぐに「軍神」とされ、郷里の大分県竹田には、広瀬神社まで建立されました。広瀬少佐はのちにこの功績が称えられ、「中佐」に昇進しています。

一方の橘周太少佐のことは、あまり知らない人も多いでしょうが、この人は海軍ではなく、陸軍の人です。

日露戦争中の遼陽会戦において、歩兵第34連隊第1大隊長を務めていましたが、首山堡という敵の堅固な要塞の攻略に当り、最前線で指揮を執り全身に傷を負いながら、一歩も引くことなく壮烈な戦死を遂げたことで有名になりました。この人もまた郷里の雲仙に橘神社という神社が建てられ、やはりその死後、中佐に昇進しています。

その後も戦争が起こるたびに、こうした「軍神」や「特進」の風習は続いていき、昭和に入ってからの第一次上海事変時には、「爆弾三勇士」と呼ばれた三人の軍人が出ました。

爆弾三勇士というのは、中国の国民革命軍が上海郊外に築いた陣地の鉄条網に対して、突撃路を築くため、点火した破壊筒をもって敵陣に突入爆破し、自らも爆死した、久留米の独立工兵第18大隊の3名の兵士のことで、彼等もまた、死後に特進されて、一等兵から伍長へと昇進しました。

ところが、一等兵から上等兵を飛び越して、伍長へ「二階級特進」というのはそれまで例がなく、これが初めてのことでした。それ以降、旧日本軍においては、功績抜群の戦死者は全軍布告の上、二階級も階級が上がる、というのが慣例になっていきました。

戦後の現在になってからも、自衛官、警察官、海上保安官、といった職務階級が明確な職業においはて、殉職に伴って在職階級から二段階昇進させる制度は、慣行として残っています。

名誉・叙勲・その他の遺族に対する補償も特進した階級に基づきなされ、この結果「二階級特進」は、しばしば単なる「殉職」とは別のより位の高い称号とみなれることも多いようです。当然のことではありますが、死亡退職金や遺族年金は、特進後の階級を基準とするため、遺族はより多くの手当を受けることができるようになります。

ただし、現在では、自衛官の場合は「昇進」という言葉は使っておらず、「昇任」であり、こうした殉職の場合には、「特別昇任」として1階級だけの昇任が普通だそうで、戦前のような二階級特進(特昇)はごくまれのようです。

ま、これは大きな戦役がないからであり、あまりあってほしくないことですが、今度もし日本が戦争に巻き込まれるようなことがあれば、こうした戦争での二階級特進はありえるかもしれません。

2014-1040294

ところで、残念ながらというか、幸いにも、というべきなのかもしれませんが、私の親族には、戦前、戦後ともこうした二階級特進を受けるような、殉職者はいません。

が、私の母方の祖父は、長年の日本海軍の艦隊勤務で功績があったとされて、勲章を貰っています。勲章といってもそれほど階位の高いものではありませんでしたが、本人は無論のこと、祖母もこれを大変誇りにしていたようで、その勲章は今も郷里の山口の桐ダンスの中に大切に保管してあったかと思います。

ただ、この祖父は、第二次世界大戦では参役していません。第一次大戦直後ころに入隊し、その後長らく艦隊勤務を続けていましたが、戦争が始まる直前に予備役として最前線を退いていました。

とはいえ、軍務についたのはかなり長かったようで、その中には、長門や扶桑といったそのころの日本を代表する大型軍艦での勤務もあったようです。その勤務態度は結構高く評価されていたようで、その軍務の傍ら、官費で海軍の「潜水学校」へも行かせてもらっています。

「海軍潜水学校」は、大日本帝国海軍における潜水艦乗組員を養成する教育機関のことで、水上艦や潜水艦の勤務経験を積んだ士官・下士官・兵が入校し、潜水艦の運用に必要な知識と技能を修得させた学校です。

他の術科学校が横須賀鎮守府の管轄であるのに対し、潜水校は呉鎮守府の管轄となっていて、山口出身であった祖父もまた、比較的郷里に近いこの広島の地で潜水艦についての知識を習得したようです。

他の術科学校とはまったく交流がない特殊な学校だったようで、これは何故かと言えば当時の潜水艦というのは、現在のジェット戦闘機なみの、トップシークレットの塊のような存在であり、その技術の流出を当時の海軍が極端に嫌っていたためです。

とはいえ、他の術科学校と同様に、普通科・高等科・専攻科・特修科の4コースが設定されており、のちに潜水艦長養成コースとして甲種が特設されました。また、すべてのコースが兵科と機関科の二本立てで実施されていました。

残念ながら、祖父からはどういうコースを履修していたのかは直接聞かされていませんが、射撃訓練をよくやらされたと語っていたので、おそらくは普通科の兵科ではなかったかと思われます。

ちなみに、この祖父はかなりの射撃の名手だったようで、この潜水学校当時なのかその後かはよくわかりませんが、何かの大会で優勝して、賞を貰っています。

戦後はその射撃の腕を生かし?、山口の山奥で、猪や兎の狩りによく出かけていたようで、幼い私は、そうした獲物を見るたびにキャッキャと喜んでいたと母が話してくれたことがありますが、無論、遠い昔の話で自分では覚えていません。

2014-1100182

ところで、この潜水学校を卒業後、祖父は予備役に入るまで潜水艦ばかりに乗るようになったようで、この潜水艦乗りとなった祖父よりもかなり先輩の潜水艦乗りで、やはり軍神とされた人物がいます。

大日本帝国海軍の佐久間勉という人で、1910年(明治43年)に、艦長を務めていた「第六潜水艇」という潜水艦の潜航訓練中にこの船が沈没した際の勇敢な行いが絶賛され、以後、軍神とされるようになりました。

この「事故」が起きたのは、1910年(明治43年)のことで、奇しくもその場所は、祖父の出身地と同じ山口県の新湊沖でした。

新湊というのは、錦帯橋で有名な岩国の近くにあった小さな港町だったようで、正確な位置を調べてみたのですが、よくわかりません。岩国沖は比較的推進の浅い海が広がっているため、まだ性能の低かったこの当時の潜水艇(潜水艦と呼ぶのもおこがましいほどの小船)はここら一帯でよく訓練をしていたのでしょう。

第六型潜水艇というのは、アメリカ合衆国の発明家ジョン・フィリップ・ホランドが開発に携わった潜水艇で、この当時日本に技術輸入されて建造され、「ホランド改型」と呼ばれていました。

ホランドの設計に基づき、川崎造船所で2隻が建造され、コピーながら日本で初めての潜水艦建造であり、竣工までに1年半がかかって、1909年(明治39年)に竣工しています。

原型のホランド型のコピーといわれ、船体はより小型で、たった76トンしかありませんでした。これは輸送船に運んで移動し、そこから運用する計画があったためといわれています。

1910年(明治43年)4月15日、第六潜水艇はガソリン潜航実験の訓練などを行うため岩国を出航し、広島湾へ向かいました。この訓練は、ガソリンエンジンの煙突を海面上に突き出して潜航運転するもので、原理としては現代のシュノーケルと同様です。

午前10時ごろから訓練を開始、10時45分ごろ、何らかの理由で煙突の長さ以上に艇体が潜航したために浸水が発生しました。ところが、浸水の際に作動するはずの閉鎖機構が故障しており、手動で閉鎖をしようと手間取っている間に17メートルの海底に着底してしまいます。

第六潜水艇は日ごろから長時間の潜航訓練を行っていたため、同伴していた母艦の歴山丸の船員も、当初は浮上してこないことを異常と思われなかったようです。また、後日の調査では、この母艦の見張り員は、異常と報告して実際には何も問題がなかった場合、佐久間少尉の怒りを買うのが怖くて報告しなかった、と陳述しました。

2014-1040300

この艦長の佐久間勉という人は、福井県三方郡八村(現・若狭町)の出身で、22歳でこの当時の海軍のエリート校、海軍兵学校を卒業していますが、この時の同期には後に内閣総理大臣を務めた米内光政がいました。

兵学校卒業後もわずか二年で海軍少尉となり、同日中に巡洋艦「吾妻」に乗り組んで日露戦争を迎え、日本海海戦時には巡洋艦「笠置」に乗り組んでいました。

日露戦争後は水雷術練習所で水雷術を学び、水雷母艦「韓崎」に乗り組んで勤務、さらに第1潜水艇隊艇長、第4号潜水艇長、第1艦隊参謀、「春風」駆逐艦長、巡洋艦「対馬」分隊長をそれぞれ歴任して経験を積み、1908年に29歳になったとき、第六潜水艇隊艇長を命ぜられました。

日本海海戦の経験者でもあり、この当時の海軍は、戦闘においては好戦的な姿勢を尊び「見敵必殺」を旨として積極的攻勢の風潮がありました。このため、一船の船長ともなると、部下を叱咤して命に従わせようとする者も多く、この佐久間船長もこわもてで通っていたようです。

佐久間少尉の怒りを買うのが怖かった、と陳述したこの見張も、さすが長時間の間浮上してこない潜水艇を以上と思い、上官に報告。これを受けて、歴山丸は呉在泊の艦船に、これは「遭難」である旨を伝達し、自らも救難作業を開始しました。

その結果、翌日の16日(17日説もあり)に第六潜水艇は引き揚げられ、内部調査が行われました。しかし、既に艇長佐久間勉少尉以下、乗組員14人は亡くなっており、うち12人は配置を守って死んでいましたが、残り2人は本来の部署にはいませんでした。

不審に思った調査員が詳しく艇内を探したところ、2人は、機関室でみつかり、そこにあったガソリンパイプの破損場所で最後まで破損の修理に尽力していたことがわかりました。

母艦の歴山丸の艦長は、この第六潜水艇の訓練においては、まだ性能の安定していない潜水艇でもあり、安全面の不安からガソリン潜航をはっきりと禁止していたといいます。

ところが、艇長であった佐久間少尉は、ガソリン潜航を母船に連絡せずに行っていたようで、その後事故調査委員会において、歴山丸の艦長は佐久間大尉が過度に煙突の自動閉鎖機構を信頼しており、このために禁令を無視したのではないか、と述べています。

この事故調査委員会ではまた、このときの潜航深度は10フィート(約3m)であったと記録しており、この深度は、シュノーケルの長さよりもかなり深い潜航深度でした。

このため、母艦からの伝令ミスによって、佐久間船長がこの深さまで潜ったのではないかという指摘もなされたようですが、この調査委員会では、実際にそのような命令ミスがあったのかどうかについては、明らかにしていません。

結局、母艦からの指示ミスだったのか、船長の独断により招いた事故であったのかはうやむやなまま、調査は打ち切られており、また母艦の見張り員が長時間の報告を怠った責任も問われず、この見張り員に対しても同情すべき点が多いとして処分は行われませんでした。

このように、この事故において、誰もが処分されなかった理由としては、亡くなった佐久間艇長以下の死に際を美化しようとした動きがあったことが想像されます。

2014-1040311

実は、佐久間少尉は、艇内にガスが充満し死期の迫る中、長文の遺書を残しており、その中で明治天皇に対する潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、事故原因の分析を記していました。

この遺書で佐久間勉少尉は、関係者への謝罪の言葉を述べるとともに、事故発生からの経緯を詳しく記し、死期迫段になってようやく自身の状態を書きながら絶命していました。

艇内にガスが充満して死期が迫る中、その遺書では、明治天皇に対して潜水艇の喪失と部下の死を謝罪し、続いてこの事故が潜水艇発展の妨げにならないことを願い、事故原因の分析を記した後、次のような遺言を書いています。

謹ンデ陛下ニ白ス 
我部下ノ遺族ヲシテ窮スルモノ無カラシメ給ハラン事ヲ
我念頭ニ懸ルモノ之レアルノミ

自分の部下たちが死んだのち、その遺族たちの生活が窮することないよう、ご配慮願う、今の私の頭にあるのはそれだけです、と天皇陛下に訴えたこの文章には、さすがに心を打たれるものがあります。

その後、「左ノ諸君ニ宜敷」と、この当時の海軍大臣である斎藤実を初めとする当時の上級幹部・知人の名を記し、12時30分の自身の状態を、そして「12時40分ナリ」と記して佐久間少尉は絶命しました。

佐久間少尉が記した遺書は39ページにも及ぶ長いものだったといい、これが沈没した潜水艇が引き上げられた後に発表された際には、当時の国内で大きな反響を呼びました。やがてこの話が海外に伝わると、諸外国でも大きな反響を呼び、アメリカなどでは、議会議事堂にこの遺書の写しが陳列されたほどでした。

この事故が起こった時より少し前には、イタリア海軍で同様な事故がありました。その後この潜水艇が引き上げられたときに行われた調査では、乗員の多くが脱出用のハッチに折り重なった状態で発見されました。

このとき出口付近で発見された水兵たちには、他人より先に脱出しようとして乱闘を起こしたような痕跡が発見され、その死の間際にかなりの醜態を晒していたことなどが明らかにされました。

このほかのヨーロッパ諸国の海軍でも似たような事故が起きており、これらのケースでも脱出しようとした乗組員が出入口に殺到し、乗組員同士で互いに殺し合うなどの悲惨な事態が発生したケースもありました。

こうした過去の事例を知っていた帝国海軍関係者は、この第六施潜水艇の事故においても、引き揚げられた潜水艇の中で、同様の醜態を晒していることを心配していたそうです。

が、蓋を開けてみると、出入口への殺到などは全く見られず、船員たちは全員が持ち場でそのまま息絶えており、持ち場を離れていた二人も、最期まであきらめずに潜水艇を修繕しようとして機関室で命を落としていたことがわかりました。

2014-1040343

さらに佐久間艇長が残した遺書の中には、冷静に判断した事故原因の説明だけでなく、帝国海軍の潜水艦開発に関する意見まであったといい、上述のような乗員遺族への配慮に関する事柄までしたためてあったわけです。

当然、帝国海軍としても、「潜水艦乗組員かくあるべし」と内部でほめたたえましたが、さらにはこれを喧伝すべく、この事件を広く公表しました。

おそらくはそうした中で、佐久間少尉は無論のこと、母艦の関係者の責任問題云々を表立たせるのは得策ではない、という意見が出されたことは想像にかたくなく、関係者の処分についても闇に葬るという操作が選択されたのでしょう。

こうして、佐久間船長以下は、軍神として扱われるようになり、修身の教科書(戦前の道徳教育に関する教科書)や軍歌としても広く取り上げられるようになっていきました。

海外などでも大いに喧伝された結果、各国から多数の弔電が届いたといい、前述のとおり、合衆国議事堂には遺書の写しが陳列されたほか、感動したセオドア・ルーズベルト大統領によって国立図書館の前に遺言を刻んだ銅版まで設置されました。

ちなみにこの銅版は、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発した後も撤去されなかったといいます。さらに、イギリス海軍においても、その王室海軍潜水史料館には佐久間少尉と第六潜水艇の説明があり、第二次世界大戦後の現在でも展示され続けているそうです。

ある駐日英国大使館付海軍武官は、戦前から戦後まで英国軍人に尊敬されている日本人として佐久間少尉を挙げており、戦後の日本人は「佐久間精神を忘れている」と、戦後1986年に岩国で行われた第六潜水艇の追悼式でスピーチしています。

この当時の修身の教科書でのこの話のタイトルは、「沈勇」だったそうで、これは沈没した船に乗船していた勇者というほどの意味でしょう。夏目漱石もまた、事故の同年に発表した「文芸とヒロイツク」という随筆で、佐久間の遺書とその死について言及しており、いかにこの当時の反響が大きかったかがうかがわれます。

今日でも佐久間少尉の出身地の福井県では、「遺徳顕彰祭」という追悼式が毎年行われているそうで、毎回、海上自衛隊音楽隊による演奏や、イギリス大使館付武官によるスピーチが行われています。

引き揚げられた第六潜水艇のその後ですが、その後修理が行われて使い続けられ、9年後の1919年(大正8年)には、第六潜水「艦」に改名されましたが、その翌年の1920年(大正9年)12月1日に除籍。

その後は、上述の私の祖父も通った呉の潜水学校で「六号艇神社」として保存されていたようですが、戦争に突入すると、物資不足のおりから船体は桟橋に供用されました。しかし、戦後の1945年の暮れ、進駐軍の命によって解体されたそうです。

その一部の部品は、いまだ海上自衛隊の潜水艦教育訓練隊潜水艦資料室で保存されているそうで、このほか、呉市内にある「鯛乃宮神社」には第六潜水艇殉難者之碑が残っており、ここでも毎年、事故のあった4月15日に追悼式が行われているそうです。

2014-1040358

殉職した佐久間少尉もまた、その死後、二階級特進で、大尉となりました。以後、戦中戦後に至るまで、殉職者の特進は、引き継がれ続けており、自衛隊員や海上保安官はいうまでもなく、警察官や消防職員はもとより、刑務官や入国警備官、税務署員に至るまで、殉職者には、昇進や特進が与えられています。

一般企業や工場においても、勤務・作業中の事故が原因で死亡した場合は殉職と呼び、この場合、「産業殉職者」として顕彰会が建つこともあります。また、その所属する組織から昇進や特進が与えられ、篤い遺族手当が報ぜられる場合もあるようです。

とはいえ、殉職には当然ながら、昇進や特進の処置がなされないものもあります。民間業者が行う土木工事などでは、殉職者が出ることは珍しくなく、青函トンネルで34名、黒部ダムでは171名、東海道新幹線建設に至っては、210名、などの多数の殉職者が出ていますが、その全員が昇進などの処遇を受けたというわけではありません。

また、一般のスポーツ選手が競技中の事故で死亡した場合や、サラリーマンが通勤途中に交通事故などで死亡した場合には通常は殉職扱いにはなりません。ただ、競輪や競馬、競艇といった公営スポーツの場合には、どんなケースがあるかは知りませんが、一応、殉職の規定があるそうです。

「病死」の場合も一般には、殉職扱いにはなりません。

しかし、広島市への原子爆弾投下で警察官と警察事務職員ら233人が即死し、その後も原爆症により病死する者が1946年までに119人いましたが、これらは殉職として扱われています。長崎も同様であり、広島の被爆から19年後の1964年には、原爆症で死亡した警察官が、一階級特進で警部になっています。

最近では、2003年11月29日、日本政府はイラクにおいてテロリストにより射殺された日本大使館の外交官(参事官、三等書記官の2名)に対して二階級特進に相当する職階の特進が行われ、このとき亡くなった参事官は、「大使」に昇格し、三等書記官は一等書記官になりました。

そもそも職務階級制度そのものが存在しない外交官では前例のない、異例なことだったそうですが、これは任地のカントリーリスクが際立って高い状況などを勘案してのものだったといいます。

あまりあってほしくないことではありますが、今後、自衛隊のPKO派遣などを始めとして、海外で活躍する日本人が増えるのに伴い、こうした人達が海外で殉職するケースも多くなっていくのかもしれません。

日本人としてのその散り際に似つかわしいのは、やはりなんといっても桜でしょう。

冒頭でも述べましたが、本居宣長は桜を「もののあはれ」などと基調とする日本人の精神具体的な例えとみなしました。

もののあはれ(物の哀れ)は、平安時代の王朝文学を知る上で重要な文学的・美的理念の一つとされ、折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁のことをさします。

もともとは、苦悩にみちた王朝女性の心から生まれた生活理想であり、美的理念でもありました。

本居宣長は「もののあはれをしる」ことは同時に人の心を知ることであると説き、これによって人間の心への深い洞察力を求めました。また、人間と、人間の住むこの現世との関連の意味を問いかけ、「もののあはれをしる」心そのものに、美を見出したのです。

2014-1100215

とはいえ、すぐに花が散ってしまう桜は、家が長続きしないという想像を抱かせるためか、江戸期以前の武家社会でも、意外と桜を家紋とした武家は少ないようです。しかも日本ではサクラは公式には国花ですらありません。

とはいいながら、事実上、国花のように扱われており、旧帝国海軍や警察官の徽章は、他国なら星形を使うべき所を桜花で表しています。現在の自衛隊においても、陸海空を問わず、階級章や旗で桜の花を使用した意匠は数多いようです。

1967年(昭和42年)以降、百円硬貨の表は桜のデザインであり、このほかにもポピュラー音楽、映画、ドラマ、ゲームなど、桜は様々な作品のモチーフや題材にもなっています。

特に春に発表されるポピュラー音楽では他に比べて桜を扱ったものが多く、これらの歌は「桜ソング」として知られています。個人的な好みで選ぶとすれば、以下のようなものがあるようです。

「桜坂」(福山雅治)
「SAKURAドロップス」(宇多田ヒカル)
「さくら(独唱)」(森山直太朗)
「さくらんぼ」(大塚愛)
「さくら」(ケツメイシ)
「桜」(コブクロ)
「桜色舞うころ」(中島美嘉)

さて、今年もこうした曲のメロディーが巷に流れ、桜が満開になる季節が近づいてきました。

財団法人「日本さくらの会」というのがあるそうで、この団体が決めた「さくらの日」は例年、3月27日だそうです。

去年は、伊東のさくらの里や、松崎の那賀川のサクラを見に行きましたが、今年はもっと別なところも訪問したいと思っています。

みなさんおお気に入りのサクラの名所はどこでしょうか。良いところがあれば、ぜひお教え願いたいものです。

最近、最新のブログについては、冒頭のタイトル右の吹きだし、及び最下段の ”leave a reply” からコメントの記入ができるようにしてありますので、よろしかったらご参加ください。

2014-1040423

うっ、暗いな

2014-1140045ちょっと前のオリンピックが始まったころのブログで、ロシアの「黒海艦隊」のことを書きました(ロシアは女尊?)。

その昔、ソ連邦が崩壊してウクライナが独立したとき、この黒海艦隊の母港であるのセヴァストポリ軍港もまたウクライナの領地内になり、ロシアは困ってしまったという話でした。

結局、二国間で協議が進められた結果、艦隊の分割と基地の使用権に関する協定が結ばれ、黒海艦隊の駐留も可能となり、ロシア海軍はウクライナ領に基地を残すことに成功しました。

ところが、先日のソチオリンピックが終わるか終らないかのうちに、このウクライナで政変が起こり、この借地艦隊の行方もわからなくなってきました。

オリンピックまではウクライナは親露派の地域党党首、ヤヌコーヴィチ氏に率いられており、おそらくはこの海艦隊の残存は安泰だろう的なことを書きましたが、そのヤヌコーヴィチ氏が失脚してしまったことから、ロシア軍の軍事介入が始まり、ずいぶんとキナ臭いことになっています。

おそらくは、ロシアはこのままに居座り、事実上ここはロシア領となっていくのでしょう。ウクライナの新政権を支持する西側諸国が何と言おうと、ロシアが長年実効支配してきた歴史を持ち、軍事的にも最も重要視しているこの場所を手放すはずはありません。

それにしても、このウクライナという国ですが、今回の政変によってニュースで取り上げられることも多くなり、また先日のソチオリンピックで黒海周辺のことなども何かとクローズアップされたことから、ヨーロッパのどこにあるのか、という点についてはようやく理解できるようになってきたという人も多いことでしょう。

位置的には、東ヨーロッパにあたり、その東にはロシア連邦、西にハンガリーやポーランド、スロバキア、ルーマニア、モルドバ、北にベラルーシなどの東欧諸国が居並び、南に黒海を挟んでトルコが位置しています。

歴史的・文化的にもやはり中央・東ヨーロッパの国々の関係が深く、その前身のキエフ大公国が13世紀にモンゴル帝国に滅ぼされた後は独自の国家を持たず、ウクライナ国内の王族諸侯は、近隣のリトアニア大公国やポーランド王国に属していました。

17世紀から18世紀の間に入ってからは、ウクライナ人とコサック騎馬民族の共同体としての国家が興亡しましたが、そのすぐ後には強国のロシア帝国の支配下に入り、以後、ロシアとは切っても切れない縁となってしまいました。

第一次世界大戦後に一度独立を宣言したこともあったのですが、その後勃発したロシア内戦によってロシア国内を赤軍が席巻して勢力を伸ばしたことから、ウクライナもまたソビエト連邦内の構成国となりました。しかし、1991年のソ連崩壊に伴い、ようやく独立が実現しました。

そうした政変に次ぐ政変が起こり続ける中も、ウクライナは、16世紀以来「ヨーロッパの穀倉」地帯として知られるようになるとともに、19世紀以後は東ヨーロッパの産業の中心地帯として大きく発展しました。天然資源に恵まれ、鉄鉱石や石炭など資源立地指向の鉄鋼業を中心として重化学工業が発達したことがその要因です。

ちなみに、最近のニュースで話題にならないのが不思議なのですが、原発事故を起こしたチェルノブイリ発電所は、旧ソ連の手によってこのウクライナ領内に建設されています。先進的な工業力を保つためには多大な電力が必要であり、この原発も必要不可欠なものとして建設された経緯があります。

しかし、この原子力発電所事故が起きたあと、さすがのウクライナも1990年には一度原発を全廃しました。が、1993年より原発を再び稼働させ、現代でも原子力発電は世界的にみても盛んな国のひとつになっています。

日本とは一見あまり縁がなさそうに見える国ですが、大きな原発事故を起こした国同士、という点では共通点があります。また、第二次世界大戦の末期、ウクライナののヤルタで行われたヤルタ会談は、その後の日本の行方を大きく左右しました。

これは、1945年2月4日~11日にのヤルタ近郊で行われたアメリカ、イギリス、ソビエト連邦による首脳会談です。

第二次世界大戦が佳境に入る中、このヤルタ会談でソ連による対日参戦が決定づけられ、国際連合の設立について協議されたほか、ドイツおよび中部・東部ヨーロッパにおける米ソの利害を調整することで大戦後の国際秩序を規定し、東西冷戦の端緒ともなりました。

ちなみにこの新たな世界秩序は、後年「ヤルタ体制」と呼ばれています。

このヤルタのあるクリミア半島は、1991年のソ連の崩壊後、独立したウクライナの一部となりました。が、ウクライナの中にあっても、1992年5月5日、は独立を宣言し、ウクライナ内の自治区となり、「クリミア自治共和国」が成立しています。

しかし、ニュースでも頻繁に報じられているとおり、その後、この共和国の主な都市である、シンフェロポリ、ケルチ、バフチサライのほか、このヤルタでも共和国内の多数派住民であるロシア人とウクライナ政府との間での衝突の危機が心配されています。

しかも上述のとおり、ロシアの軍事介入によって一方的にロシア領土に取り込まれてしまいそうな雰囲気であり、ウクライナによる統治は風前のともしびといったところです。

この「ヤルタ」の語源は、古代ギリシア語で「岸辺」を意味するそうです。東ヨーロッパに領土を拡げつつあったギリシャ人の船乗りたちが、安全な岸を求めてさまよっていたところたまたまみつけ、町を築いたといわれています。

南に黒海と接し、森林に取り囲まれており、温暖な地中海性気候であり、オリンピックが行われたソチ同様、現在は黒海沿岸では屈指の保養地として知られています。

このクリミア半島は、第二次大戦では、ソビエト連邦の大祖国戦争における激戦の部隊となりました。セヴァストポリでは、侵攻して来たドイツ軍との間に大規模な戦闘が起き、これはセヴァストポリの戦いと呼ばれています(1941年12月17日~1942年7月4日)。

その後ここは、タタール族の人々(クリミア・タタール人)の人が居住地としていましたが、1944年、対独協力を恐れたスターリン政権によって彼等は強制的に中央アジアに移住させられ、代わりにロシア系住民が多数派になりました。こうしてはロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の一部として統治されるようになります。

その翌年の、1945年1月には、連合国の主要3カ国首脳による先述のヤルタ会談が行われましたが、このころソ連軍はポーランドをも占領して、ドイツ国境付近に達しつつあり、西部戦線においてはアメリカ・イギリス等の連合軍がライン川に迫る情勢でした。

会談の結果、第二次世界大戦後の処理についてイギリス・アメリカ・フランスの三国はヤルタ協定を結び、ソ連を含めた4カ国によるドイツの分割統治やポーランドの国境策定、エストニア、ラトビア、リトアニアのバルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理が取り決められました。

併せてアメリカとソ連の間でヤルタ秘密協定を締結し、ドイツ敗戦後90日後のソ連の対日参戦および千島列島、樺太などの日本領土の処遇も決定され、現在までも続く我が国の北方領土問題の端緒となったというわけです。

この会談ではまた、特に日本に関して、アメリカのルーズベルト、ソ連のスターリン、およびイギリスのチャーチルとの間で交わされた秘密協定、いわゆる極東密約(ヤルタ協定)が結ばれました。

1944年12月14日にスターリンはアメリカの駐ソ大使W・アヴェレル・ハリマンに対して樺太(サハリン)南部や千島列島などの領有を要求しており、ルーズベルトはこれらの要求に応じる形で日ソ中立条約の一方的破棄、すなわちソ連の対日参戦を促しました。

この秘密協定は、当然のことながら日本には知らされておらず、この直後に突然の嵐のように参戦してきたソ連軍に日本は大混乱に陥りました。

この協定では、ソ連の強い影響下にあった外モンゴル(モンゴル人民共和国)の現状を維持することのほか、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すこと、満州の港湾と鉄道におけるソ連の権益を確保することなども取り決められました。

またこれを条件に、ソ連はドイツ降伏後2ヶ月または3ヶ月を経て対日参戦する、という具体的な日程までも決められました。

実は、太平洋戦争以前から、アメリカはソ連に対して対日参戦要請をしており、日米開戦翌日(アメリカ時間)の1941年12月8日には、早くもソ連の駐米大使マクシム・リトヴィノフに対して、ルーズベルト大統領とハル国務長官からその要請文書が出されていました。

ただ、このときはソ連のモロトフ外相からリトヴィノフを通じてアメリカ側に対して返答があり、その中には、独ソ戦へ集中したいという意向と日ソ中立条約の制約から現在では日本への宣戦布告は不可能と書かれていたといい、この中立条約のおかげで、日本はその命を長らえることができました。

しかしその10日後にはスターリンはイギリスのイーデン外相に対し、将来日本に対する戦争に参加するであろうと表明しており、先々での日本侵攻をほのめかしています。

その後、スターリンが具体的な時期を明らかにして対日参戦の意思を示したのは1943年10月のモスクワでの連合国外相会談の際だったといい、アメリカのハル国務長官に対して「連合国のドイツへの勝利後に対日戦争に参加する」と述べたことをハルやスターリンの通訳が証言しています。

ヤルタ協定におけるソ連の対日戦への参戦の決定は、このようにかなり前から引かれていた伏線の上においてその実現が予定されていたことではあったのです。

2014-1140059

こうしてドイツが無条件降伏した1945年5月8日の約3ヵ月後の8月9日、協定に従ってソ連は日本に宣戦布告し満州に侵入、ほかにも樺太や千島列島等を占領しました。

これは、ソ連の参戦を全く予想していなかった日本軍には晴天の霹靂の出来事でした。しかも、この宣戦布告は、日本がポツダム宣言受諾を連合国側に通告した前日のことでした(ポツダム受諾は8月10日)。

戦争末期のきわめて微妙なタイミングであり、このためソ連はほんの短い期間しか闘わなかったのに、その後この小さな戦果に対して、日本は樺太や北方4島などの貴重な領土を手放すという、結果としてソ連には極めて有利な内容になりました。

結局、日本はポツダム宣言受諾してしまったために、その後9月2日の降伏文書調印までほとんどこのソ連の参戦に対して何もできず、このため数多くの日本人がソ連軍の攻撃によって死亡し、また生き残った人の多くが捕虜としてシベリアに送られるという悲劇がおこりました。

ちなみに私の父もこの卑怯な侵攻によって、新兵として出陣していた当時の満州で捕虜となり、その後シベリアで3年間もの間、抑留生活を送るハメになりました。その父が無事に帰ってきてくれたからこそ、現在の私がいて、これを書いているわけです。

生き残った日本人の中でも、このソ連の日本北方進出によってその人生を狂わせられた人は多く、ソ連が樺太をはじめとする旧日本の北方領土に押し寄せてきたほんの短い時間の間に、祖国を追われ、日本に逃げ帰った人は多数におよびます。

当時、南樺太にはおよそ40万人以上の日本の民間人が居住しており、ソ連軍侵攻後に北海道方面への緊急疎開が行われました。自力脱出者を含めて10万人が島外避難に成功しましたが、避難船3隻がソ連軍に攻撃されて約1,700名が死亡したほか、陸上でもソ連軍の無差別攻撃がしばしば行われ、約2,000人の民間人が死亡しました。

そんな中、からくも母親とこの地を脱出し、のちに戦後の相撲界を代表する力士となったひとりの人物がいました。

「大鵬幸喜」がその人であり、「巨人、大鵬、卵焼き」のキャッチフレーズでも有名となり、日本人なら知らないひとはいないであろうといわれるほどのあの大横綱です。

大鵬がこの南樺太で産声をあげたのは、1940年(昭和15年)5月29日 のことでした。本名は納谷幸喜(なやこうき)といいましたが、その後一時期は母親の再婚によって住吉幸喜(すみよしこうき)と名乗っていた時代もあります。

のちに第48代横綱となって以降は、長年の王者として相撲界に君臨し、生涯戦歴は872勝182敗136休(87場所)を誇り、幕内戦歴746勝144敗136休(69場所)という驚異的な数字をあげたほか、幕内最高優勝32回を誇りました。

その引退相撲は1971年(昭和46年)10月2日に蔵前国技館で行われ、太刀持ちに玉の海、露払いに北の富士と、両横綱を従えて最後の横綱土俵入りが披露されました。

引退後は大鵬部屋を創立し、関脇巨砲丈士・幕内嗣子鵬慶昌たちを育成し、定年後、部屋は娘婿の貴闘力忠茂(現役時代は二子山部屋所属)に譲りました。部屋名は「大鵬」が一代年寄であったので、もともと所有していた「大嶽」部屋となりました。

しかし、覚えている方も多いと思いますが、この貴闘力は賭博問題で2010年(平成22年)7月4日に解雇となってしまい、その後は大鵬の直弟子の大竜忠博(最高位は十両)が部屋を継ぐことになりました。

2005年(平成17年)には日本相撲協会を65歳の定年で退職し、9年近く空席だった相撲博物館館長に就任しました。協会在籍中には理事長や執行部在任経験がなく、先に定年退職していた理事長経験者の佐田の山晋松と豊山勝男が健在にも拘わらず館長職に就いたのは異例の抜擢と言われています。

しかし、そのわずか3年後の2008年(平成20年)には、相撲協会理事会で体調不良を理由に相撲博物館館長を辞任することが承認されています。同年暮れには、日本相撲協会の仕事納めの日に相撲博物館館長職を退き、このとき、「たまには国技館に足を運んで(相撲を)ゆっくり見たい」と語ったそうです。

2009年(平成21年)10月には、相撲界から初となる2009年(平成21年度)文化功労者に選出されました。これを受けた大鵬は記者会見では、「私一人だけの力でなく、皆さんが力添えしてくれたからこそ。大きな賞を戴けて本当に有難いことです」と喜びを語りましたが、このことばからもわかるように、謙虚そのものの人でした。

それから4年後の昨年、1月19日、心室頻拍のため、東京都新宿区の慶應義塾大学病院で死去。72歳でした。死去の数日前までは日刊スポーツの相撲面「土評」の解説コラムを書いたそうです。

大鵬の通夜は1月30日、葬儀・告別式は1月31日にいずれも青山葬儀所で営まれ、この争議には王貞治のほか黒柳徹子、第69代横綱・白鵬翔らが弔辞を読みました。

没後、更に多年に亘る相撲界での功績やその活躍が社会に与えた影響などが評価され、日本政府から没日の1月19日付で正四位並びに旭日重光章が追贈されました。また、2月には、日本政府が正式に国民栄誉賞を贈ることを発表。同年2月25日に遺族(夫人)と白鵬らが出席して故人として国民栄誉賞が授与されています。

この年の2013年3月場所千秋楽、平成の大横綱・白鵬が大鵬と双葉山の8回を上回る、史上最多の9回目の幕内全勝優勝を達成。

その全勝インタビューの際、白鵬自らが、「先場所やりたい事があったんです。今大阪の皆さんと一緒に、亡き大鵬さんにこの優勝を捧げて黙とうしたいと思います。皆さん起立お願いします」と発言し、春場所の観客と共に昭和の大横綱・大鵬へ1分間の黙祷を行いました。

白鵬は大鵬を「三人の父(生みの親・育ての親=師匠・角界の父=大鵬)」の一人と呼んで敬慕していたそうで、大鵬が亡くなる二日前にも見舞いに訪れていたといいます。

2014-1140068

ところで、この大鵬ですが、実はそのお父さんが、ロシア革命後に樺太へ亡命してきた白系ロシア人であったということは意外と知られていない事実のようです。

父は、ウクライナ人の元コサック騎兵隊将校であり、その名はマルキャン・ボリシコといい、大鵬はその三男として、樺太の敷香町(現・ロシアサハリン州ポロナイスク)に生まれました。

しかし、この父のマルキャンはその後、外国人居留地に強制収容されたため、幼い大鵬は母親の手だけで育てられることになりました。父とはこのとき生き別れとなり、その後の消息は分からなくなっていました。

ところが、まだ大鵬が生きていたころの2001年になって、樺太の日本研究家によって樺太の文書や関係者の証言が確認され、マルキャンのその後の生涯が明らかになりました。

サハリン州連邦保安局や州古文書館の資料によると、マルキャンは1885年か1888年、ウクライナ東部のハルキウ州ザチピーロフカ地区ルノフシナ村に生まれ、ロシア帝国による極東移住の呼びかけに応じた農民の両親とともに、樺太に入植しました。

1917年にロシア革命が起こると、北樺太はアレクサンドル・クラスノシチョーコフの極東共和国に組み込まれました。その後、極東共和国が消滅し北樺太の社会主義化が進むと、1925年マルキャンは単身で日本治政下の南樺太の大泊(現:コルサコフ)へ移ってきます。

1928年、大鵬の母親である、洋裁店勤務の納谷キヨ(後志管内神恵内村出身)と知り合い、結婚。翌年から敷香で牧場経営を始めます。マルキャンは多くの日本人・ロシア人を雇い、肉や乳製品を卸して成功し、南樺太では知られた名士にまで上り詰めたといいます。

この当時の南樺太には日露戦争以来、白系とされたウクライナ系・ポーランド系の住民が居住していました。ところが、このころから日本とソ連の関係が悪化してきたため、日本政府はこれらの住民を美喜内村の外国人居留地に強制収容しました。

このとき、マルキャンも一人居留地に移され、これによって大鵬やその母と引き裂かれ、生き別れになったというわけです。大鵬と母はその後、太平洋戦争末期のソ連参戦によって、樺太撤退を余儀なくされ、1945年8月に船で北海道へ引き揚げ、こうしてマルキャンとその家族との連絡は完全に絶たれました。

その後、ソ連の日本侵攻によって、日本からは自由の身となったマルキャンですが、1949年には、今度は反ソ宣伝を理由にソ連政府から自由剥奪の刑に処せられました。しかし1954年には、恩赦を認められ、サハリン州立博物館の守衛などを務めて余生を過ごしたといいます。

しかし、1960年11月15日、肺炎のためユジノサハリンスク(豊原市)で死去。奇しくもこの日は、息子イヴァーン、つまり大鵬が、入幕6場所目の関脇の地位において、このとき行われた11月場所で初優勝した日でもあったといいます。

2001年(平成13年)に、こうした大鵬の父親であるマルキャン・ボリシコの劇的な生涯が明らかになって以後は、サハリン州の日本研究家の働きかけもあって、ウクライナのハリキフ市には大鵬記念館が建設されました。

その後大鵬自身もこうした事実を知り、ハリキフで相撲大会を企画するようになり、ロシアを挟んで日本とウクライナの国際交流の主役として脚光を浴びるようになりました。

やがてその交流はロシア連邦にも及び、2002年(平成14年)には北オセチア共和国出身のボラーゾフ兄弟を日本に招き、兄のソスランを「露鵬幸生」として自分の部屋に入門させました。また、弟のバトラズは「白露山佑太」として二十山部屋に入門させ、後に北の湖部屋へ転籍しています。

大鵬はこのソスランの四股名に自分の「鵬」を与え、名前にも本名の「幸」の字を入れるほどの入れ込みようでした。この期待に応えた露鵬は、大鵬が定年退職した2006年(平成18年)3月場所で小結まで昇進しました。

しかし、2008年(平成20年)にドーピング検査で大麻の陽性反応が出たことで弟と共に日本相撲協会を解雇されたことは記憶に新しいところです。

さて、少し話を戻しますが、この大鵬の出身地である南樺太の敷香町は当時日本領でした。
出生の直後にソ連軍が南樺太へ侵攻してきたのに伴い、この樺太を脱出しなければならなくなったというのは、前述のとおりです。

この母親と共に樺太を脱出したとき乗った船は、小笠原丸といい、樺太からの最後の引き揚げ船でした。

母は、最初は小樽に向かう予定だったといいますが、慣れない船旅によって船酔いし、それまでの疲労も重なって体調不良を起こし、稚内で途中下船を余儀なくされました。

しかし、もしこのときこの母親が体調不良を起こさなければ、その後の大横綱の誕生はなかったでしょう。なぜなら、小笠原丸はその後、留萌沖で国籍不明の潜水艦から魚雷攻撃を受けて沈没しており、大鵬親子はその前に下船していたため辛くもこの難から逃れることができたのでした。

この小笠原丸とは、逓信省の海底電纜敷設船で、初の国産敷設船です。1400トンだったといいますから、私が大学時代に乗っていた実習船と同じくらいの小船で、引き上げ船に用いるほどの大きな船ではありません。

東京から小笠原諸島経由でグアムに接続する太平洋横断海底ケーブルの敷設を主目的に建造されたため「小笠原」と名付けられましたが、終戦の日を過ぎた1945年8月22日に遭難し、このとき、この船に乗船していた600名以上が命を落としました。

1400トンで、600名というのは、これでも結構な詰め込みといわざるをえず、おそらくはソ連軍が侵攻してくる逼迫した状況の中で、できるだけ多くの人を助けたいと関係者が考えたのでしょう。

この小笠原丸の沈没は、いわゆる「三船殉難事件」のひとつです。小笠原丸が沈没したのと同日には、北海道留萌沖の海上で他にも、第二号新興丸、泰東丸の二隻がソ連軍の潜水艦と思われる潜水艦からの攻撃を受け、三隻とも沈没して1700名以上が犠牲となり、これを総称して「三船殉難事件」と呼びました。

小笠原丸は、海底ケーブル敷設船として計画され、三菱重工業長崎造船所で建造された本船は、日本初の国産海底ケーブル敷設船でした。竣工は1906年(明治39年)であり、長年海底ケーブルの新規敷設や修理に従事しましたが、そんな中、1910年(明治43年)6月4日には、長崎県池島付近で遭難したロシア船を救助しています。

このときは、この船に同乗していたシャム王族一行および乗員100名を救出したといいますが、この時救った相手のロシアから、その後よもや攻撃を受けることになろうとは、このとき誰もが予想だにしなかったでしょう。

1945年8月15日の日本のポツダム宣言受諾発表時にも、同年6月から始まった北海道と樺太の間のケーブル敷設に従事していたといいますが、同日稚内港で終戦を迎えた小笠原丸は、樺太所在の逓信局長から急きょ、逓信省関係者の引揚げを要請され、8月17日に稚内を出航し大泊港へ向いました。

樺太では8月15日以降もソ連軍の侵攻による樺太の戦いが続いており、混乱状態にあったといい、18日には、殺到する引揚者のうち老人・子供・女性約1500人を大泊から稚内に運ぶことに成功しました。600人でも多いくらいですから、その倍の1500人いうともう、ギュウギュウ詰めだったことでしょう。

しかし、さらに20日にも再度大泊へ回航し、同じく約1500人の引揚者を稚内に運んでいます。ところが、引き続いて8月21日、乗組員86名、警備隊員13名、稚内で下船しなかった引揚者約600人の合計約700人を乗せ小樽港へ向けて出航していたとき、22日の午前4時20分頃、増毛沖5海里にて国籍不明の潜水艦から小笠原丸は雷撃を受けます。

この時の航海で大鵬親子も乗船していましたが、上述のとおり、母親の体調不良で途中下船したため難を逃れました。

このとき小笠原丸は、沈没しかけている中を、更に浮上した潜水艦の銃撃を受けたといい、この非道な攻撃を加えたことをソ連側は認めていませんが、ソビエト連邦のL-12またはL-19という潜水艦ではなかったかとする説が有力です。

一部の乗員が救命ボートで増毛町の海岸にたどり着き救援を求め救助活動が行われましたが、ほとんどの乗船者が船と共に海中に没し、合計638名(乗組員57名、引揚者581名)が犠牲となりました。生存者はわずか62名であったそうです。

2014-1140093

しかし、からくもこの小笠原丸の沈没から逃れ、下船した親子は、つてを頼って道東の川上郡弟子屈町の川湯温泉にたどり着き、大鵬少年はこの地で成長しました。

父親はウクライナ人で母親が日本人というハーフではありましたが、母親似であったため、大鵬にはロシア人の面影はありません。名前も母方の姓を名乗り、納谷幸喜としましたが、この「幸喜」というのは、彼が生まれた年が「皇紀」2600年であり、これにちなんだそうです。

ただ、父親から与えられたイヴァーンというウクライナ語名も持っており、その後生涯において使われることはありませんでしたが、彼自身はこの名にひそかな誇りを持っていたようです。

北海道での生活は母子家庭だったことから大変貧しく、そのためか、後年母親は再婚しており、このとき住吉姓に改姓しました。その再婚相手の職業が教師だったことから学校を毎年異動していたこともあり、しばらくは北海道各地を転々としていたといいます。

あまりの貧しさから大鵬自身が家計を助けるために納豆を売り歩いていた話は有名です。しかしその後、大鵬が10歳の時に母がこの再婚相手とも離婚したため、大鵬は納谷姓に戻りました。

中学校卒業後は一般の同世代の若者と同じように、中卒金の卵として北海道弟子屈高等学校の定時制に通いながら林野庁関係の仕事をしていました。

ところが、大柄のロシア人の血をひいていたためか、生まれつきの体格がよくスポーツ万能だったといい、1956年(昭和31年)に二所ノ関一行が訓子府へ巡業に来たとき親方に見いだされ、説得されて高校を中途退学し、大相撲の世界に飛び込むことになりました。

実はこの入門に母親は反対だったといいますが、親子で相撲部屋を見学した時に所属力士の礼儀正しさを見た叔父が感心し、彼が母親を説得してこの入門を実現させたという逸話が残っています。

相撲の世界に飛び込んだ大鵬は、1956年9月場所に初土俵を踏んでいます。序ノ口時代から大幅な勝ち越しで順調に番付を上げていき1958年3月場所では早くも三段目で優勝、1959年3月場所で6勝2敗と勝ち越して十両昇進を決めました。初土俵から幕下時代までは本名の「納谷」で土俵に上がっていたといいます。

1959年(昭和34年)に新十両昇進が決まると、四股名を付けてもらえることになりました。その四股名は故郷・北海道に因んだ物を付けるのかと思っていたところ、二所ノ関からは「もっといい名前がある。『タイホウ』だ」と言われたといいます。

「どんな字を書くんですか? 撃つ大砲ですか?」と質問すると、「それは“オオヅツ”と読むんだ」と大笑いされたそうです。

この時に「大鵬」の字とその意味を問うたところ、親方は、大鵬の意味は、中国の古典にある「翼を広げると三千里、ひと飛びで九万里の天空へ飛翔する」と言われる伝説上の巨大な鳥に由来するのだと、教えてくれました。

そして、その鳳のごとく、大鵬はメキメキと頭角を現していきます。1960年(昭和35年)1月場所で新入幕を果たすと、初日から11連勝。新入幕初日から11連勝は千代の山雅信の13連勝に次ぐ昭和以降2位、一場所でのものとしては昭和以降で最多となりました。また12勝3敗の好成績を挙げ敢闘賞を獲得。

つづく5月場所は11勝4敗で二度目の敢闘賞。7月場所で新小結に昇進すると、この場所でも11勝4敗、9月場所では20歳3ヶ月の史上最年少(当時)で新関脇となっています。11月場所では13勝2敗の成績を挙げ、これも当時の史上最年少となる20歳5ヶ月で幕内最高優勝を達成し、場所後やはり史上最年少で大関へ昇進しました。

新大関となった1961年1月場所は10勝5敗に終わりましたが、翌3月場所からほぼ毎場所優勝争いにからみ、7月場所では柏戸と朝潮の難敵ふたりを連破して13勝2敗、大関としての初優勝を果たしました。9月場所では12勝3敗、柏戸と平幕の明武谷との優勝決定戦を制して連続優勝、場所後柏戸とともに横綱に同時昇進を果たしています。

この大鵬21歳3ヶ月、柏戸22歳9ヶ月での横綱昇進は、ともにそれまでの最年少記録だった照國萬藏の23歳3ヶ月を更新するものでした。

それ以後の活躍は、紙面がもったいないので、割愛させていただきますが、幕内最高優勝32回は、未だ誰にも破られていない不朽の金字塔です。

大鵬は、現役時代より慈善活動にも熱心で、「大鵬慈善ゆかた」などを販売して、その収益を寄付していたといいます。1967年(昭和42年)から1968年(昭和43年)まで連続して老人ホーム・養護施設へテレビを寄贈し、翌1969年(昭和44年)から2009年(平成21年)まで、日本赤十字社に「大鵬号」と命名した血液運搬車を贈っています。

血液運搬車の寄贈台数は1969年(昭和44年)から1976年(昭和51年)までと1979年(昭和54年)から2001年(平成13年)まで毎年2台ずつで、2002年(平成14年)から2009年(平成21年)まで毎年1台ずつでした。

2009年(平成21年)9月に70台目となったとき、この数が自身の年齢と同数となったことを理由として、その贈呈を終えたところでこの事前活動も終えたといいます。が、その後も何かにつけて、慈善活動にいそしみました。

こうしたことから、「人格者」としてもその名を世に知られるようになった大鵬は、1982年(昭和57年)には「世界人道者賞」も受賞しています。この賞は日本では余り知られていませんが、ローマ法王などが受賞した世界的に重要な賞です。

相撲人としての人気や知名度は、当時の子供の好きな物を並べた「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉からもわかります。

ただ、人気だけでなく、その強さと出世の早さゆえ、「相撲の天才」ともよく呼ばれました。ただ、本人は「人より努力をしたから強くなった」としてそう呼ばれることを嫌っていたそうです。

実際、大鵬の素質に惚れ込んだ二所ノ関の徹底的指導によって鍛え上げられましたが、その指導内容は四股500回、鉄砲2000回、瀧見山延雄による激しいぶつかり稽古というスパルタぶりだったそうで、これに耐えながら大横綱になっていく過程においては、人には到底想像できないような努力もあったことは確かでしょう。

少年時代を過ごした北海道弟子屈町の川湯温泉の温泉街には、1984年(昭和59年)に開館した大鵬相撲記念館があり、大鵬が実際に使用した化粧廻しや優勝トロフィーなどのゆかりの資料の展示されています。

このほか、名勝負・名場面などの栄光の記録と生い立ちから最晩年に至るまでの歩みを綴ったドキュメンタリー映像を上映するコーナーもあるそうです。今度、道東へ行く機会があれば、ぜひ立ち寄ってみたいものです。

2014-1140111

ところで、前述のとおり大鵬の父親はウクライナ出身でしたが、彼はまた、いわゆる白系ロシア人でした。革命後、日本領南樺太に亡命した旧ロシア帝国国民の白系ロシア人は多く、その内訳には、民族的なロシア人の他にかなり多くの非ロシア人、つまりポーランド人や大鵬の父親のようなウクライナ人が含まれていました。

ただ、旧ロシア帝国からの亡命者を総称して白系「ロシア人」と称しているだけで、本来のロシア民族・スラヴ人種ではなく、中でも、ソヴィエト政府による弾圧のひどかったウクライナ系やポーランド系のほか、ユダヤ人の国外亡命者はとくに多かったといいます。

また、ボルシェビキの赤に対しての「白=反革命」というのも共産主義者側からつけられた彼等へのレッテルであり、偏見という見方もあるようです。

しかし、現在の日本ではこのような白系ロシア人の子孫による利益団体は作られていません。第二次世界大戦後のソ連軍の占領によって第三国に再移住し、こうしたかつての亡命者は極端に少数になったためです。

利益団体はもとより、まとまった社会的集団としても日本には存在しておらず、日本国内の少数民族問題として取り上げられることもなく、白系ロシア人の血を引く日本人の数もごく少数に限られています。従って、大鵬のような人の存在は非常に稀有といえます。

しかし、ロシア正教徒としてのロシア人は現在でも多数日本に在住します。彼等は必ずしも白系ロシア人ではなく、あくまでロシア正教会関係者としての亡命者であり、ソ連が無神論を掲げて反ソ的とみなした宗教組織を弾圧したため、国外に逃れてきた宗教者です。

彼等の多くは、もともとのロシア正教徒の系譜を継ぐものですが、時代が下るにつれ、日本で新たに構築された日本の正教会に所属するようになった者も少なくなく、また日本人と結婚することで、その数を維持しています。

現在もなお神戸ハリストス正教会やニコライ堂など、日本の幾つかの正教会内において、一定の亡命者の子孫からなるコミュニティを形成しています。ただ、民族的には非ロシア人、たとえばグルジア人系等のような人たちが多数派であり、白系ロシア人は多くありません。

大鵬の父親のような多数の白系ロシア人の多くは、戦後、満州国やその周辺地域へ亡命したといいます。太平洋戦争末期には、その中から対ソ謀略専門の「満州国軍浅野部隊」が編成されていたという記録も残っています。

実は、さらにこれより以前、極東では反ソ連派ウクライナ人により「緑ウクライナ」という国が建国されたこともあります。

ウクライナ語で、緑の楔(くさび)とも呼ばれ、アムール川から太平洋岸までのロシア極東におけるウクライナ人の植民地の名称でした。

1917年のロシア革命以降、極東ウクライナ共和国がウクライナ人によってロシア極東に建国されることが計画されました。ボルシェビキの極東共和国が1920年4月6日に設置されると、ウクライナ人が多数であった極東はこの国家を脱して緑ウクライナと呼ばれる国家の建設を試みました。が、この運動はソ連の勃興によりすぐに失敗しています。

しかし、さらにのちの第二次世界大戦中においては、これらの残党であるウクライナ系ロシア人が、反ソヴィエト系のロシア人と結束し、一大組織として、「満州国白系ロシア人事務局」を結成し、日本の関東軍や満州国軍に協力しようとする動きがあり、これが上述の満州国軍浅野部隊などのような具体的な形になったようです。

が、浅野という人物がどんな人だったのか、調べてみましたが、よくわかりません。おそらくは満州国陸軍の諜報担当の有力将校だったのでしょう。

彼等は、樺太などから逃れてきた白系ロシア人と協同してソ連に抗戦する計画を立案したこともあったといいますが、その後、核となるべき大日本帝国の敗戦により反ソ共同戦線は潰え、ここで緑ウクライナの系譜もまた途完全に絶えてしまいました。

もしこの共闘が成功し、ソ連を撃退してこの極東の緑ウクライナが残っていたら、現在黒海でくりひろげられているロシア対ウクライナの綱引きにも参加していたかもしれません。

当然、日本とこの緑ウクライナとの国交は引き続いていたはずであり、それはソ連=ロシアに対抗しうる、極東における一大勢力になっていたに違いありません。

歴史に「もしも」はないとよくいいますが、もしそうであったなら、日本とウクライナが結託して東ヨーロッパでもその勢力を伸ばし、極東でも中国やアメリカと敵対していたかもしれません。

我々の知らない、パラレルワールドではもしかしたらそうなっているかもしれませんが、そういう妄想をあれこれしているうちに、紙面もかなりの長大になってきました。今日のところはこれで終わりにしましょう。

2014-1140121