FATE


今年ももうあと10日あまりとなりました。

昨日、おとといと降った雨は東京では雪にならなかったようですが、多摩の山奥や山中湖といった山間部では結構降ったようで、ここから双眼鏡で見ると、箱根駒ヶ岳も真っ白です。

無論、富士山も装い新たに化粧直しといったかんじで、まさに冬富士です。

今降った雪のどのくらいが来年まで根雪になるのかわかりませんが、昨年ここへ引っ越してきて以降、観察している限りでは、その多くは6月いっぱいぐらいで融けてしまうようです。

それから新たな冠雪があるのが、早ければ9月中旬、今年は10月末でしたから、合計するとだいたい8~9ヶ月は、雪を頭に頂く富士を眺めることができることになります。

全く雪のない富士もそれなりに美しいものですが、やはり富士には雪が良く似合います。太平洋高気圧が関東や伊豆を覆い、好天が続くこれからしばらくの間は、この景色をほぼ毎日見ることができることは、本当に幸せなことです。

ところで、年も押し迫ってきたこともあり、来年はいったいどんなことが予定されているのだろう、と調べてみることにしました。来年のことを話題にすると鬼が笑うといいますが、下品な鬼さんには腹をかかえて笑い死んでいただきましょう。

そうすると、世界的な話題としては、メジャーなところでは、以下のようなものがあるようです。

2月7日〜23日:ソチオリンピック
3月7日〜3月16日:ソチパラリンピック
6月12日〜7月13日:2014 FIFAワールドカップブラジル大会
9月19日〜10月4日:第17回アジア競技大会(韓国・仁川)
11月4日:アメリカ合衆国中間選挙投票日
12月:アフガニスタンからアメリカ含むNATOなど他国の治安部隊が2014年末までに全て撤退し、同国政府・軍に治安権限を移譲。
12月:FIFAクラブワールドカップモロッコ2014

その多くがあらかじめ予定が組まれているスポーツや政治・軍事がらみのことであり、世の中を秩序立てて進行させるためには予定をはっきりさせる必要があるのは当たり前といえばあたりまえです。

このほか、惑星や彗星などの天体の動きもあらかじめ予測できるものも多いため、来年起こるとされる現象がたくさん公表されています。

例えば、10月19日には、サイディング・スプリング彗星というのが、火星に極めて接近するといわれています。NASAはその衝突確率を0.17%(600分の1)以下と見込んでおり、その後のデータ解析により、衝突可能性をゼロに出来ると見ているようです。

しかし、衝突しない場合でも、火星軌道まで接近すれば彗星としての活動が活発になることが予想され、火星探査機によってこの彗星の状態を観測・撮影できる可能性があります。そしてこうした観測から、この彗星がどこから来たのか、成分は何かなどを調べることができ、ここから宇宙誕生の謎の一部が解明できる可能性があるということです。

もっともこれは、遠い火星のことですから、地球に住む我々の生活にはほとんど関係ありません。ところが、地球にぶつかる隕石となれば話は別です。

今年の2月15日、ロシア連邦のチェリャビンスク州付近で発生した隕石の落下では、飛来した隕石が大気圏を超音速で通過し、更に大気との圧力に耐え切れず分裂するという現象がおこりました。

そして、これによって発生したソニックブームは、落下地点に大きな被害を引き起こし、4つの都市において、8000棟近い建物の窓ガラスが割れたりドアが吹き飛ぶなどの被害が発生しました。

死者こそありませんでしたが、飛び散ったガラスなどで負傷する人が多数出るとともに、建物被害にあった商業施設や公共施設は長らく閉鎖を余儀なくされました。

被害総額は約10億ルーブル(約30億円)に及んだそうで、これは、自然災害による被害額としては少ないほうでしょうが、それでも今年8月に打ち上げられたJAXAの新型ロケット・イプシロンの打ち上げ費用とほぼ同じです。

これ以上大きなものがやってきたら、当然もっと大きな被害が出るでしょうから、今後ともできるものなら大きな隕石は降ってきてほしくないものです。

ところが、来年は、小惑星 “2003 QQ47″なるものが、地球に接近するそうです。NASAが今年の8月に自身のウェブサイトで明らかにした情報に基づき、CNNなどのメディアが、「2014年3月21日に地球に衝突する確率は90万9千分の1」などと報じ、一時大きな話題になりました。

しかしNASAはその翌月には同じページで「その後の調査の結果衝突の危険性なし」などと訂正文を加え、同時にNASAが地球に影響を及ぼす可能性のある天体のIMPACT RISKのリストからも”2003 QQ47″を削除しており、どうやら来年、地球消滅の憂き目を我々が味わう危険はなさそうです。

以上は海外の話題です。来年の予定を、上のようなスポーツや政治・軍事がらみのものをのぞいて、さらに日本に限定してみてみると、日程がはっきりしているメジャーな事項としては次のようなことがあるようです。

1月5日:NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」放送開始。
1月16日:オウム真理教事件の平田信被告の裁判員裁判の初公判。
2月1日:両国国技館で元大関雅山の引退相撲・断髪式.。
2月(日付未定):東京都知事選(12/19猪瀬知事引退表明を受けて)。
2月28日:ダイヤルQ2がサービス終了(NTTによる情報料代理徴収サービス)。
3月7日:近鉄・阿部野橋ターミナルビル(あべのハルカス)が大阪市阿倍野区に完成予定。地上60階、高さ300mの日本一高いビルとなる。
3月31日:
・TOKYO FMはじめJFN各局で行っていた文字多重放送「見えるラジオ」がサービス終了予定。
・NHK連続テレビ小説第90作品「花子とアン」放送開始。
・フジテレビ「森田一義アワー 笑っていいとも!」放送終了。
・JRの寝台特急「あけぼの」が廃止、東北地方を起点に運行する寝台特急が全て消滅。
4月1日:消費税が8%に増税される。生活保護法改正、手続き・不正受給等の厳格化。
4月9日:Windows XPがサポート期間の終了を予定。
4月(日付未定):三陸鉄道北リアス線・南リアス線が全線で運行を再開予定。岩泉線廃止。
5月12日:改良5000円札を発行開始(ホログラム変更)。
5月(日付未定):江差線(木古内 – 江差間)廃止。
7月(日付未定):国立競技場の解体工事が着工する予定。新競技場は2019年3月の完成予定。
9月29日:NHK連続テレビ小説「マッサン」放送開始。
10月12日~10月22日:長崎がんばらんば国体(長崎県・諫早市)
12月29日:秋篠宮家佳子内親王が成人になる。

総じて小粒の話題が多いような気がしますが、私的に楽しみなのは、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の開始と、残念なのは、タモリさんの「笑っていいとも!」の終了でしょうか。5月の改良5000円札を発行というのも気になるところです。

つい昨日、辞職を表明した猪瀬都知事の後任が誰になるかについても、元都民としては興味津々ですが、来たる2020年のオリンピックで東京の姿が紹介されるまでに、世界に誇れるような街づくりをしてくれる人の登場を願いたいところです。

このほか、月も日付も未定のものとしては、以下のようなものがあります。

・北陸新幹線の長野駅〜金沢駅間が年度内に開業。
・リニア中央新幹線が2014年度中に着工予定。
・東北縦貫線(愛称:上野東京ライン)が年度内に開業予定。
・品川駅〜田町駅に、JR山手線としては、約40年ぶりとなる新駅建設の着工予定。
・新橋・虎ノ門区間(地下トンネル)が春に開通予定。関連して虎ノ門ヒルズが完成予定。
・普天間飛行場がキャンプ・シュワブ沖へ移転し、海兵関係者1万7千人以上がグアムへ。
・JAXAと欧州宇宙機関の共同開発による水星探査機「ベピ・コロンボ」が打ち上げ予定。
・小惑星探査機「はやぶさ2」が打ち上げ予定。
・防衛省が開発を進めている「心神(国産戦闘機)」の試作機が年度中に完工予定。
・舞鶴若狭自動車道が全線開通。
・新東名高速道路の浜松いなさジャンクションから豊田東ジャンクションが開通。
・首都圏中央連絡自動車道の桶川IC、境IC-水海道IC間開通予定。
・常磐自動車道が本年度以降に全線開通。
・Jリーグ ディビジョン3(J3)が開幕。
・首都高速道路中央環状品川線が開通。

交通関連のものが多いようですが、中でも大きいのは、「上野東京ライン」と呼ばれる東北縦貫線の開業でしょう。これによって上野駅発着の宇都宮線(東北本線)、高崎線、常磐線(常磐快速線)の列車が東京駅まで乗り入れ、東海道本線との相互直通運転が可能になります。

可能性は少ないでしょうが、この開通により東北本線始発の岩手県の盛岡から大阪や神戸まで直通の特急列車を走らせることも可能になるわけで、そうでなくてもこれまで東京駅でみることのできなかった常磐線や高崎線の電車が東京駅で見れるようになることは、鉄道ファンにとってはたまらない出来事に違いありません。

防衛相の「心神」というのは、将来の国産戦闘機に適用できる先進的な要素技術を実証するために開発されるステルス研究機で、既に2012年3月から、三菱重工業・飛島工場(愛知県飛島村)で試作機の組み立てが開始されています。

一応来年完成予定ということなのですが、開発にてこずっているようで、本当に来年完成できるかどか難しいという観測もあるようです。

純国産技術で開発する戦闘機ということのようなのですが、どうもアメリカあたりから少し技術供与があるのではないかという気がしています。が、詳しい話はまた今度調べてこのブログでも書いてみましょう。

とまあ、来年実施または実現など予定が決まっているものはそれとして、現実には予想もつかないこともいろいろ起こるでしょう。

今年もまたしかりです。予想だにもしなかったことも多々起こりましたが、私的には7月末の山口・島根県地方の集中豪雨被害と、10月中旬の伊豆大島での土砂災害が強く印象に残りました。いずれも身近な土地で起こった出来事ということもありますが。

年末ぎりぎりの12月になって起こる突発的な大事件というのもあります。おととし2012年の12月2日に中央自動車道の笹子トンネルで、コンクリート製の天井板落下事故が起き、走行中の車複数台が巻き込まれて多数の死傷者が出たことが思い起こされます。

今年も、昨日の朝、京都で餃子販売を主とする有名チェーン店の社長さんが銃殺されるというショッキングな事件が起こりました。2011年の12月17日にも、これは日本ではありませんが、北朝鮮の最高指導者金正日総書記が死去しています。

なにやら12月というのは、日本にとって大きな事件が起こりやすい、何かめぐりあわせのようなものがあるのかもしれません。

これから年末にかけては、こうした今年起こった重大事件などが、10大ニュースとかいったタイトルで、テレビ局各局から放映されることでしょう。いつもながらこうした際には亡くなった有名人の名前なども流され、こうしたものを見ながら、明日は我が身か、と感じるような年齢に私もなりました。

自分の寿命があとどのくらいあるか、などというのは想像もつきませんが、それを言えば、来年起こることに関しても、ここまで書いてきたように既知のことや予定が決まっていることは別として、何が起こる、いつ起こるかを知るには、あとは予言や占いに頼るしかありません。

予言に関していえば、過去から現在に至るまでいろいろなものがありますが、日本で有名になったのは、やはり「ノストラダムスの大予言」でしょう。

このタイトルで、1973年に祥伝社から発行された五島勉の著書は、「1999年7の月に人類が滅亡する」というのがウリで、公害問題などで将来に対する不安を抱えていた当時の日本でベストセラーとなりました。

しかし、実際にはそんなことは起こらず、このため2000年以後には日本でのノストラダムス関連書の刊行は激減しました。が、その二年後の2001年9月にアメリカ同時多発テロ事件が起こった際には、「あれこそが恐怖の大王だったのではないか?」と、アメリカなどでブームになり、日本でもインターネット上などでは一時的に盛り上がりを見せたようです。

しかし、予言の賞味期限が切れて10年以上も経った今後は、この予言も過去のものになっていくでしょう。

私自身は霊的な能力というか、我々の理解を超えたような能力を持った人がいて、こうした人達が未来を予測できる、というのは、ありえることだと信じてはいます。が、では、いったいどの人の言うことが本当かどうかというのを見極める能力はありません。

なので、テレビやインターネットで流される各種の予言というものを、頭から信じ込むということはしないようにしています。とはいえ、こうした報道が繰り返し繰り返しなされると、不思議なものでだんだんと本当かな~と思うようになってきます。

「自己成就予言」という言葉がありますが、これは予言をした者もしくはそれを受け止めた人が、予言の後でそれに沿った行動を取る事により、あたかもその予言が的中したかのように思い込むことです。

例えば、ある人が「血液型占いは正しい」のではないか、という思い込みをしたとします。

すると、この人はいつもも見ている隣人で、同じ血液型、例えばA型の人をみて、神経質な人とそうでない人の両方がいることを認識しているにも関わらず、血液型占いでA型の人は神経質だ、と書いてあったのを覚えていて、無意識的にA型で神経質な人のことだけを選択的に記憶していってしまいます。

その結果、「やはり、身近な人にもよく当てはまっているから、血液型占いは正しい」という期待通りの結果を自分で生み出してしまうという現象などが「自己成就予言」に当たります。

こうしたことは多くの人が経験することではないでしょうか。

占いに関しても、「バーナム効果」というものがあり、これは、誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述を、自分だけに当てはまる正確なものだと捉えてしまう心理学の現象です。

例えば次の文章を読んで自分にあてはまるかどうか試してみてください。

・あなたは他人から好かれたい、賞賛してほしいと思っており、それにかかわらず自己を批判する傾向にあります。
・また、あなたは弱みを持っているときでも、それを普段は克服することができます。
・あなたは使われず生かしきれていない才能をかなり持っています。
・外見的には規律正しく自制的ですが、内心ではくよくよしたり不安になる傾向があります。
・正しい判断や正しい行動をしたのかどうか真剣な疑問を持つときがあります。
・あなたはある程度の変化や多様性を好み、制約や限界に直面したときには不満を抱きます。
・そのうえ、あなたは独自の考えを持っていることを誇りに思い、十分な根拠もない他人の意見を聞き入れることはありません。
・しかし、あなたは他人に自分のことをさらけ出しすぎるのも賢明でないことにも気付いています。
・あなたは外向的・社交的で愛想がよいときもありますが、その一方で内向的で用心深く遠慮がちなときもあります。
・あなたの願望にはやや非現実的な傾向のものもあります。

どうでしょうか。あなたの性格としてかなりあてはまる、と感じたのではないでしょうか。

しかし、実はこれはアメリカの心理学者のバートラム・フォアという人が、星座占いの各星座に書いてある性格分析の文章を組み合わせて作文したものです。

フォアは学生たちに分析がどれだけ自分にあてはまっているかを0(まったく異なる)から5(非常に正確)の段階でそれぞれに評価させたそうで、このときの平均点はなんと4.26だったといいます。

このことから、フォアは、次のような条件を満たす時、被験者はテストの内容により高い評価を与える傾向がある事を明らかにしました。

・被験者がその分析は自分にだけに適合すると信じている
・被験者が評価者の権威を信じている
・分析が前向きな内容ばかりである

そしてこうした被験者が占いを信じてしまう状態を「バーナム効果」と呼んだわけですが、これはそもそもこれ以前に、P・T・バーナムという「ほら話」が得意なアメリカ人の有名な興行師が “we’ve got something for everyone”(誰にでも(ほら話を信じさせるためには)要点というものがある)と語ったことにちなんだものです。

誰にでも該当するような曖昧で一般的な性格をあらわす記述を、自分だけに当てはまる正確なものだと捉えてしまう心理学の現象であり、上述のバートラム・フォアの名をとってフォアラー効果(Forer effect)とも呼ぶようです。

このほか、目の前にいる占い師さんに何かを占ってもらう場合、この占い師さんが「優れた興行師」である場合、外観を観察したり何気ない会話を交わしたりするだけであなたのことを言い当てることができる場合があります。

これを「コールド・リーディング」といい、詐欺師・占い師・霊能者(もどき)などが、相手に自分の言うことを信じさせる時に用いる話術のひとつです。相手に「わたしはあなたよりもあなたのことをよく知っている」と信じさせる話術であり、「コールド」とは「事前の準備なしで」、「リーディング」とは「相手の心を読みとる」という意味です。

どうやって相手の心を読み取るかといえば、例えばその技法とてしては、「対象者の協力を引き出す(リーディングを始める前に、読み取る相手との会話から情報を引き出す)」、対象者に質問する(相手をよく観察しながら質問し、回答から踏み込んた推測を行う)、対象者の反応をさぐる(具体性のない推測を言って、相手の反応を見る)などがあります。

こうして相手の様子をみながら、さらに情報を引き出し、さらにリーディングを行う相手に関する情報の精度を高めていきますが、占われる相手としては何もしゃべっていないつもりなのに、自分の奥深くまで全てが言い当てられてしまった気分に陥っていきます。

こうなればしめたもので、相手はリーディングを行う人に対して「将来に関する占い」、「心霊による伝言」、「未来に関する予言」、「霊力のある商品の購入の薦め」といった不確かな結論まで信じさせてしまうのです。

なにやら昨今の「オレオレ詐欺」と似たようなところもありますが、その技術自体はセールスマンによる営業、警察官などの尋問、催眠療法家によるセラピー、筆跡学や筆跡診断、恋愛などに幅広く応用できるものであり、必ずしも悪の技術とは言えません。

たとえ相手に対する事前情報が全くなくても、コールドリーダーは相手の外観に対する注意深い観察と、コールド・リーディング特有の話術によって、いくらでも相手の情報を掴むことができます。

ただし、対象者への観察力や会話の説得力、相手に与える安心感・信頼感は当然必要であり、こうした高い技術を得るには、やはり場数を踏んだ経験がモノをいいます。

一方では、探偵を使ってた素行調査をしたり、占いの待合室で助手が世間話をしたりして事前に詳細に相手のプロフィールなどを調べておいた上で、あたかも本当に占いや霊感、超能力などで相手の心を読んだと見せかけるという手法もあり、こちらは、コールド・リーディングに対して、「ホット・リーディング」と呼ばれます。

テレビなどで「超能力者」を称する登場人物が、様々な事実を言い当てる際には、こうしたホット・リーディングとコールド・リーディングの技法を組み合わせて使っていることが多いともいわれています。

もともと占いや予言といったものは、はっきりとした科学的な根拠があると認められたことはありません。にもかかわらず、それでも占いを信じる者は少なくないため、占いはしばしばビジネスとして扱われます。

多くの場合は公認されていますが、占いの提供のされ方としては、テレビ・雑誌や本の他に、占い師が直接目の前で占う対面鑑定、電話で占う電話鑑定のほか、最近では携帯やパソコンでインターネットを利用したチャット鑑定まであり、ネット業界の進展により占いコンテンツの提供も増えてきているようです。

以上は必ずしも悪いこととはいえません。しかし、中にはこれらをエスカレートさせて悪徳商法に利用する者までおり、こうなるともはや詐欺です。最近ではインターネットを使った霊感商法も現れてきているようなので、何事につけ、のめり込みは禁物です。

私自身も星占いをなんとなく信じていて、テレビや雑誌で自分の星座の運勢が出ていたりすると、やはり気になります。

信じていようが信じていまいが、どうなるかわからない未来について、こうなります、と言われれば、そうかな~そうかもしれないし、ウソかもしれないが、一応気をつけるだけ気をつけておこうか、という気になってしまうのが不思議です。が、これは誰しもがそうなのではないでしょうか。

人は、よく「運」を口にします。運とは、その人の意思や努力ではどうしようもない巡り合わせを指します。今日のブログのタイトル、“FATE”は、「運命」という意味です。

運が良いとは到底実現しそうもないことを、偶然実現させてしまうことなどを指し、運が悪いとは、例えば楽しみにしていた旅行の当日に、発病してしまうことなどを指します。

占いや、神社・寺院のおみくじは、この運を予言する力があるとされ、勝負事などで運が良いことは「付き」(つき、ツキ)、「付いている」などともいいます。

こうした運やツキを信じる人というのは、よい言い方をすれば、自分の心の落ち着かせ方を知っている人であり、こうした占いによって、確率的な危険性を適切に回避しようと考える前向きな人であり、あるものごとを上手く成就させようとする才能を持った人、と考えることもできます。

しかし、こうした視点はあくまで結果論による定義であり、運のよい人が先験的にその「運のよさ」を判別しているかといったら必ずしもそうとは限りません。

ただ、何事かをなす場合、うまくやる人とうまく出来ない人がいるのは確かであり、その理由がよく説明できないために、占いなどの表現を応用して、あの人は「運が良い」「運が悪い」などといいます。

また、客観的に見て明らかに自分の能力をして「うまくいった」と感じられる手法や手段があり、逆に「うまくいかなかった」と感じる手法・手段も存在し、これらは実力で勝ち取ったもの、あるいは実力が伴わなかったために出た結果であり、運とは感じません。

が、なんとなくうまくいった、なぜだか失敗した、などのいずれとも判然としないものは「運」で語られることが多いものです。

何が言いたいかというと、人というものは自分の人生において、科学的に説明できないもの、自分自身でも判断できないものは、何かにつけてこれを「運」として語りたがる、ということです。

これは別にいいとか悪いとかの白黒がつけられる問題ではありません。

ただ、自分が判断できない何ものかによってその事象が形づけられ、それこそが「運命」だと考えることで、自分の本当の実力を深く考えずに済む、これによってあいまいさを回避できるため、自分自身が納得できてスッキリできる、あとでくよくよ考えずに済む、といった心理的な効果があるのは確かです。

このため、やはり、運命というのはある、と肯定的な人は多いでしょう。人の人生は生まれたときから、運に支配されていると言う人もおり、生年月日、出生地、性別、血液型、容姿などは運により決定づけられると考える人も多いでしょう。

しかし客観的にみれば、やはりこうした話には曖昧さがつきまといます。真剣に考えてみれば、決定論的に人間の一生の運勢が出生時に決まっているのか、それとも生まれた時に大体の運勢は決まっていて細部で運勢が上下するのか、はたまた運勢が決定されるメカニズムの問題などなど、多数の疑問点が生じてきます。

また、運には「流れ」があるとする主張があります。つまり、運が良くなると良い傾向が続き、運が悪くなると悪い傾向が続くとする主張です。麻雀などのギャンブルで多用される考え方です。

これを錯覚の一種であるとする主張もあります。人間は錯覚によってランダムな現象からも一定の法則を見いだしてしまうことがあります。例えばカジノにおいて賭け事をするとき、これに「運気」といったものがあるかといえば、冷徹な統計学処理をしてもそんなものは見いだすことはできません。ギャンブルはあくまでランダム現象です。

もしこうした運の流れを事前に知ることができるとすれば、それは人知を超えたものであり、そうしたことができると主張する人は稀有な存在であるといえ、当然のように人々はそのような人に惹きつけられます。しかしよくよく考えてみれば、そうした人に運命を占ってもらった結果が実際に起こったとしても、これを裏付ける確証は一切無いわけです。

しかし、それでもそうした人の予知や予言を信じてしまうのは何故なのでしょうか。逆説的には、自分にはそうした能力がない、ないからこそ信じてみたい、それに自分を賭けてみたい、とどこか思う部分があるからなのでしょう。

意志の力や祈りで運を変更できるとする主張も多く、信じさえすれば救われる、と考える人も多いと思います。一見、妄信的な考え方のようにも見えますが、意志の力や祈りなどで運を変更できれば良いとする気持ちは多くの人間が持っている感情であり、なかなかこれを捨て去ることはできないでしょう。

しかし、浄土真宗ではこうした占いは無益な迷信として一切否定されているそうです。また、旧約聖書でも占いは、邪悪な行いとして退けられています。こうした宗教の信仰者の中には、占いをニューエイジ思想や心霊主義とともに非難の対象にしていることも少なくないようです。

占いや予言を信じるのをやめ、こうした宗教を信じるほうが確かな将来がみえるのかもしれませんし、案外と占い頼りの人生よりもずっと楽になれるのかもしれません。

かといって、私自身は宗教に走るつもりはありませんし、占いを否定するものでもありません。

科学や人知によって我々が推し量れないものがあるのは確かであり、それを「運」という言葉で片付けていいかどかうかは別として、それを占いや予言という形で、我々の分かりやすい世界に「降ろしてくる」と考えれば、その形態はどんなものであっても良いと考えています。

来年の運勢を占おうとしているあなた、年末のこの時期、ここはひとつその方法が本当に自分の運を知る正しい行為かどうか、自分にふさわしいかどうかを一度検証してみてはいかがでしょうか。

TOKYO STATION


その昔、日本橋に本社のある会社に10年ほど勤めていたため、ここから各地方へ出張に行く際、最寄駅である東京駅をよく使いました。

丸の内や八重洲といった近代的なオフィス街の真っただ中にあって、その重厚感のある歴史を感じさせる煉瓦造りは、文字通り東京のシンボルであり、ここを通過するたびに、自分が生粋の東京人であるかのような錯覚を覚えさせてくれる建物でもありました。

その東京駅が、新築・落成したのは、1914年(大正3年)の今日12月18日です。

これに遡ること25年前の1889年(明治22年)には官設鉄道の新橋駅と神戸間の東海道線が全線開通していましたが、その後、この新橋駅と私鉄・日本鉄道の上野駅を結ぶ高架鉄道の建設の話が持ち上がり、1896年(明治29年)の第9回帝国議会では、この新線の途中に東京市を代表するような「中央停車場」を建設することが可決されました。

この中央停車場は皇居(宮城)の正面の原野に設定され、「東京駅」と名付けられました。

高架路線と駅の施工は大林組が担当することも決まりましたが、その後日清戦争と日露戦争が勃発したため、本格的な建設工事が始まったのは1908年(明治41年)のことであり、これから12年後の大正3年にこの高架路線は開通しました。開通・開業は東京駅の落成の二日後の12月20日のことでした。

5年後の1919年(大正8年)3月1日には、この東京駅に中央本線の乗り入れが実現し、その後も1925年(大正14年)11月1日の東北本線の乗り入れ、1929年(昭和4年)12月16日には東側の八重洲口が開設するなど、東京駅は日本の首都の中心的存在としてさらに発展していきました。

しかし、太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)5月25日、アメリカ軍による東京大空襲では丸の内本屋の降車口に焼夷弾が着弾、大火災を引き起こしました。これによりレンガ造壁とコンクリート造床の構造体は残りましたが、鉄骨造の屋根は焼け落ち、内装も大半が失われてしまいます。

屋根の大半が崩れ落ち、内装もほとんどが炭化してボロボロとなり、鉄骨と煉瓦だけの醜い姿になった東京駅でしたが、同年8月に太平洋戦争が終わると、占領軍の要求もあってその直後から修復体制が整えられ、早くも年末から1947年(昭和22年)にかけて修復工事が始められ、その結果、ほぼ現在の外観になりました。

しかし、焼失の著しかった3階部分内外壁は取り除いて2階建てに変更するなどの大変更が加えられ、南北両ドームも元々は丸型だったものが台形に変更されるなど、修復された東京駅はオリジナルの景観とはかなり違ったものとなりました。

できるだけ早期に本格的な建て直しをするつもりで「4、5年もてば良い」とされた修復工事でしたが、当時の鉄道省の建築家たち、あるいは当初から東京駅の建設に関わってきた大林組の面々は、進駐軍によって工事を急がされる中においても、できるだけ日本の中央駅として恥ずかしくないデザインによる修復をしたという逸話が伝えられています。

こうした努力により、軒蛇腹・パラペット・壁面・柱型・窓枠などの細かい部分は、2階建てになっても忠実に復元され、南北ドーム内のホール天井はローマのパンテオンを模したモダンなデザインに変更されるなど、新旧を取り混ぜた新しい東京駅の復活は、焼け野原であった東京に一条の光を差し込むものでした。

3年後の1948年(昭和23年)にはモダンデザイン建築の八重洲駅舎も竣工しましたが、翌1949年(昭和24年)に失火で焼失してしまい、1954年(昭和29年)に建て替えられました。

ちなみに、1929年(昭和4年)に開設した八重洲口の前面には、この当時まだ江戸城の外堀が残っており、これを渡るための「八重洲橋」が建設され、この橋に接続してその正面入り口が開設されました。

終戦後もまだ八重洲側にはこの外堀が残されていましたが、戦災の残骸整理を行うために付近の住民が無秩序に外堀に瓦礫を捨て始めたことから、東京都で急遽瓦礫捨て場を指定してその範囲での外堀の埋立を行うことになりました。

大戦前には外堀の埋立ができれば理想的な駅舎および駅前広場を建設できるが到底許可が得られない、と関係者を嘆息させていたのですが、こうして合法的に外堀の埋立ができることになり、1947年(昭和22年)11月にはこの埋め立て工事が完成しました。

さらにこの埋め立て工事によって新たに得られた用地を八重洲駅舎や線路の増設に利用できるように鉄道側から東京都に対して申し入れがなされた結果、ここに今のような大丸などのデパートができるとともに、この用地は後に新幹線にも役立てられることになりました。

1964年(昭和39年)10月1日には、この東海道新幹線が開業し、1972年(昭和47年)7月15日には総武地下ホーム、1990年(平成2年)3月10日には京葉地下ホームがそれぞれ営業を開始、1991年(平成3年)6月20日には東北新幹線が当駅に乗り入れるなど、東京駅はさらにその機能を拡大していきました。

しかし、東京駅は一歩屋根裏などに足を踏み入れるとアメリカ軍の焼夷弾などに焼かれた鉄骨や壁材がそのまま残っており、これと新しい部材をつなぎ合わせてようやく形を保っているような箇所も多く、外観こそ昔の面影を保っていましたが、中身はボロボロでした。

このため、その後、何度も全面的な建て替え計画が持ち上がりましたが、その都度見送られ、長らく先延ばしされ続けていました。

ところが、1999年(平成11年)から2000年(平成12年)にかけて、500億円ほどもかかるとされていた復原工事の費用を丸の内地区の高層ビルへの容積率の移転という形で捻出することができる運びとなり、この結果、ようやく創建当初の形態に復原する方針がまとめられようになりました。

これはどういうことかというと、もともと東京駅のある土地には東京駅の高さである2階建て以上の高層建築物を建てることができます。つまりその分の容積率が余っている、という状況です。この容積率をそのまま目の前の丸の内地区を保有している三菱地所に譲渡してしまえば、その譲渡価格として東京駅の建築費用を賄うことができます。

丸の内側ではもっとたくさんの部屋数のあるビルを建てたいけれども、建築基準法の縛りがあって建てられない、けれどこれをJRから「買い取る」という形でより大きなビルが建てられるし、JR側もこれで東京駅の改修費用がまかなうことができ、お互いハッピーハッピーというわけです。

無論、一般にはそんなことは認められませんが、こと東京の中心である一等地でのことでもあり、東京に新たな新名所を作ることは地元にとっても国にとっても利益になる、ということで特例が認められたということのようです。

三菱はこの特例を用い、東京駅の南側に新たに地上34階、塔屋3階、地下4階. 高さ, 最高軒高157m、の「丸の内パークビルディング」を建設するとともに、明治期に三菱財閥の「本丸」として建設された近代的オフィスビル「三菱一号館」を復元し、ここを美術館としてオープンさせました。

こうして、丸の内地区の高層ビル建て替え事業と並行して、東京駅の復原工事が行われることとなり、復原工事自体は、2007年(平成19年)5月30日に起工され、2012年(平成24年)10月1日に完成しました。合わせて、東京駅の南側には復元された三菱一号館も2010年に完成しており、現在の東京駅丸の内口周辺は明治時代さながらのレトロな雰囲気を醸し出しています。

ところで、この東京駅は、実は東海道線の始発駅としてではなく、本州中部の内陸側を経由する中山道を通る鉄道の始点駅として計画されていたということをご存知でしょうか。

意外に知られていない事実ですが、東京駅の場所そのものも、そもそもはこの中山道に鉄道を引くための中継地として選定されたものでした。

東京の鉄道網の始まりは、1872年10月14日(旧暦明治5年9月12日)の日本の鉄道開業に際して新橋~横浜間が開通したことに始まります。

その後東京と関西を結ぶ鉄道の建設が検討されましたが、政府は国土開発の観点から、既に開けている東海道よりも内陸の発展を促進する目的で中山道がよいと考え、軍部も敵の軍艦による攻撃を受けやすい海岸沿いを避けられる内陸路線の建設に同調したことから、一旦は中山道経由の鉄道建設が決定されました。

この建設にあたり、日本政府は当初、国営を原則としていましたが、西南戦争による政府の財政悪化もあり、民間に建設を認める方向に方針転換しました。これを受けて発足した最初の私鉄が「日本鉄道」で、これがのちに国営化される日本国有鉄道(現JR)です。

こうして、日本最初の民間会社による鉄道建設区間として中山道鉄道の一部を構成する東京~高崎間の路線が建設されましたが、民間とは名ばかりで、路線の建設や運営には政府及び官設鉄道が関わっており、建設路線の決定も国策的要素が優先されたり、国有地無償貸与、建設国営など実質上は「半官半民」の会社でした

この鉄道建設に際しては、官設鉄道との連絡から品川を起点とすることも有力視されていましたが、距離がやや長くなり東京西部の丘陵地帯を通過する工事に時間がかかると見込まれたこともあり、とりあえず上野駅を起点とする方針となって、日本鉄道により1883年(明治16年)7月28日に上野~熊谷間が開通しました。

しかしその後、中山道経由の鉄道の建設の困難さが明らかになりました。中山道は、「木曾街道」や「木曽路」の異称を持つほど、山深い場所を通る街道であり、ここを鉄道を通すためには、数多くのトンネルの建設が必要なだけでなく、多くの渓谷を横断するための多数の橋梁も必要であり、それらの建設費用は莫大になることが予想されたのです。

このため、1886年(明治19年)に政府は方針を転換し、官営路線として東海道経由で東西連絡鉄道を建設することを決めました。

これを受け、当初は中山道経由の東西連絡鉄道に対する支線の位置づけであった新橋~横浜間の鉄道から延長する工事が始められ、1889年(明治22年)7月1日に現在の東海道本線である新橋~神戸間の国有鉄道が全通しました。

一方の日本鉄道は同じ1889年の9月1日に青森までの東北本線を全通させ、さらに1898年(明治31年)8月23日には常磐線も全通しました。また上野と秋葉原を結ぶ貨物線も1890年(明治23年)11月1日に開通しました。

このころまでには、「東京市」と呼ばれていた東京には人だけでなく、かなりのモノが集中するようになっており、道路交通網も発達し、道路だけでなく運河が縦横無尽に走るようになり、また上下水道、港などの都市施設も新設されてきたため、これらの計画についてまとめて議論して、各省庁・機関・地元との調整を行おうとする動きが出てきました。

これを「市区改正」と呼びます。現在の都市計画に相当する言葉で、東京においては第8代東京府知事の芳川顕正が、日本全体のことを考えた道路や鉄道網を構想し、1884年(明治17年)に内務省に対して市区改正意見書を提出しました。

この意見書には、「鉄道ハ新橋上野両停車場ノ線路ヲ接続セシメ、鍛冶橋内及万世橋ノ北ニ停車場ヲ設置スヘキモノトス」と書かれており、ここで東京駅の大まかな場所が初めて示されました。

この鍛冶橋に設置を提案された停車場が後の東京駅につながることになっていきます。また新橋と上野の間には繁華街が広がっていたため、ここに鉄道を通すためには「高架鉄道」が提案され、鍛冶橋付近に中央停車場を設置し旅客用の高架ホームを設けること、地平には貨物取扱設備を設けることなどの原案が固まりました。

こうして中央停車場が計画されたのが、皇居の前にあたる丸の内であり、当時の町名では「永楽町」と呼ばれていました。江戸時代には武家屋敷の建ち並んでいた一帯で、明治維新後には陸軍の兵営や練兵場、警視庁や裁判所などの政府関連施設が並んでいた場所です。

この当時ここは、皇居前とはいえ、繁華街にもほど近く、しかも監獄も置かれているなど、東京の場末と言ってもよい場所でした。しかし、西南戦争後、国内は安定してきており、明治政府が皇居の目前で警備を行う必要性も薄れてきたことから、兵営を郊外に移転させてこれらの土地の再開発が検討されることになり、丸の内の広大な敷地が三菱財閥に払い下げられて欧米様式のオフィス街の建設が開始されました。

こうして丸の内界隈は、明治末までに煉瓦造りのオフィスビルができあがって「一丁倫敦」と呼ばれました。その部分だけロンドンのようであるという意味です。しかしこの一帯以外の場所は依然として未開発で、岩崎弥太郎の弟、岩崎崎弥之助が購入した荒涼たるこの野原は「三菱ヶ原」と呼ばれていました。

しかし、この原野に中央停車場が建設されることになり、丸の内はこれにより初めて日本のビジネスセンターとしての道を歩み始めることになるのです。

1896年(明治29年)4月には高架線や中央停車場の工事を担当する部署として新永間建築事務所が発足しました。後のJR東日本東京工事事務所の前身組織です。また、高架線建設の技術指導を求めて、ドイツから建築技師の「フランツ・バルツァー」が新たに招聘され、1898年(明治31年)に着任しました。

新橋から上野を結ぶ間にある中央停車場までの市街地における長い区間の高架線という日本で前例のないプロジェクトの推進を、このころまだ技術水準の低かった日本人だけで遂行するのは容易ではなく、外国人技術者の支援を仰ぐことが必要だったのです。

バルツァーは日本人技術者を指導しながら高架線の設計を行い、彼の帰国後もこの指導を受けた日本人技術者が独自に設計した部分を含めると1904年(明治37年)までの8年もかかって設計が行われました。

バルツァーはさらに、東京全体の鉄道網を構想しました。これ以前にすでに東京を一周する環状鉄道の提案は出ていましたが、バルツァーはこれに加えて東へ延びる総武鉄道と西へ延びる甲武鉄道を連結して秋葉原で南北の縦貫線と十字に交差させ、この双方ともを中央停車場へ乗り入れるための短絡線を造るという全体構想を描きました。

東京に住んでいる人は、都内の路線図のうち、神田、秋葉原、お茶の水、東京の一角がかなりごちゃごちゃしており、どこでどの路線に乗りかえればどこにいけるのか、一度や二度は悩んだことがあると思いますが、これは、このバルツァーの仕業です。

結局彼のこの構想は、その後も長い間完成せず、1972年(昭和47年)の総武快速線東京駅乗り入れにより、細部は異なるものの結果的にほぼ実現しています。

一方でこのバルツァーは、中央停車場、つまり東京駅そのものの設計にも関与しましたが、このことも実はあまり知られていません。

この当時、駅部分の線路は盛土の上にあり、駅舎はその西側に設けられる計画となっており、日本建築に関心のあったバルツァーが提案した駅舎は、この盛土の斜面に部分的に切石を用い、煉瓦造としたもので、どちらかといえば昔風のお城のような雰囲気の和風の設計でした。

入母屋破風や唐破風を取り入れた屋根を載せるという構造で、バルツァー自身は、日本の文化を一顧だにせず洋風の建築様式の建物が無秩序に建てられていく東京の現状を兼ねてから苦々しく思っていたようで、日本の伝統的な城郭や寺社の建築様式を駅という新しい目的に利用することで一石を投じようと考えたようです。

こうしてバルツァーは中央停車場(東京駅)の具体的な設計にとりかかりましたが、このバルツァー提案の和風の駅舎案は、後に実際に東京駅舎の設計を担当することになる「辰野金吾」からは「赤毛の島田髷」と酷評されました。

辰野は、こうした日本建築物に西洋風の石や煉瓦を組み合わせること自体が容易ではなく、こうした和様折衷の建築物は、日本を訪れた西洋婦人が物珍しさから洋服を着ながら日本風に髪を結って日本の履物を履くようなものだとし、日本文化の消化が不十分であるとして、これを全面否定しました。

一方では、バルツァーの案ではまた、皇室用入口を駅の中央に配置することを提案していました。

これに対してこの配置は利用者に不便だとし、この案を疑問視する声もが上がっていましたが、皇室を中心とした国造りを進めていた政府の息のかかった鉄道作業局の上層部からは特に反論はなく、また設計を担当する辰野金吾がこれを名案として自分の設計に取り入れたことから、この皇室専用入口を中央に設けるという案は最終的には採用されました。

これに加えてプラットホームと通路の配置や駅構内の配線計画など、平面計画はアレンジを加えつつも基本的にバルツァー提案のものが受け継がれて実際に用いられることになりました。

しかし、バルツァーの提案した日本風の駅舎案は、ヨーロッパ崇拝の時代にあった当時の日本にあっては受け入れられるものではありませんでした。このため改めて駅舎についての設計が行われることになり、バルツァーに代わって辰野金吾に設計が依頼されることになったのです。

当時の建築界の権威であった辰野は、このころ日本中の西洋風建築物の設計を手掛けており、自らを権威と認め、日本銀行本店、中央停車場、国会議事堂の3つを手掛けることを目標としていたこともあり、その取り巻きの間でもまた辰野に依頼するのは当然とみなされる風潮があったようです。

辰野金吾は、1854年(嘉永7年)肥前国(現在の佐賀県)唐津藩の下級役人・姫松蔵右衛門の子として生まれました。姫松家は足軽よりも低い家格であったといい、金吾は次男であったため、14歳で養子に出され、叔父の辰野宗安の辰野家を継ぎました。

19歳のとき(明治6年)工部省工学寮(のち工部大学校、現在の東大工学部)に第一回生として入学。二年終了後に、工学寮で専門だった造船から造家(建築)に鞍替えし、ちょうどこのころ、来日して造家学教師に着任していたロンドン出身のジョサイア・コンドルの指導を受けるようになりました。

25歳のとき(明治12年)造家学科を首席で卒業。翌年英国留学に出発、コンドルの師であるバージェスの事務所やロンドン大学で学び、3年後に日本に帰国しています。

1884年(明治17年)、30歳のとき、コンドルと入れ替わるように、工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)教授に就任。

二年後には、帝国大学工科大学教授に任ぜられ、同時に造家学会(のちの日本建築学会)を設立し、33歳のとき、工手学校(現工学院大学)の設立にも参加しています。1898年(明治31年)帝国大学工科大学学長となりますが、48歳で辞職。

その後、友人たちと各種建築事務所を設立して民間への建築技術の伝道に注力するようになり、1903年(明治36年)葛西萬司と辰野葛西事務所を東京に開設、1905年(明治38年)片岡安と辰野片岡事務所を大阪に開設しています。

1910年(明治43年)国会議事堂(議院建築)の建設をめぐり、建築設計競技(コンペ)の開催を主張しましたがすぐには容れられず、その後辰野が没する前年の1918年(大正7年)になって新議事堂の意匠が一般公募されました。

この結果、1919年(大正8年)、応募作品118通中、一次選考・二次選考を通過した4図案の中から、宮内省技手の渡辺福三案が1等に選ばれ、この当選案を参考に大蔵省臨時議院建築局が国会議事堂の設計を行いました。しかし、結局このデザインも最終的には大幅に変更されたそうです。

ちなみに、この渡辺福三による議事堂図案というのをWEBで検索してみてみましたが、私は現在のようなゴツゴツした印象の国会議事堂よりも、こちらのほうが数倍デザイン的には優れていると思いました。いつの世も、役人というのは自分の都合ばかりで芸術作品をまったく異質のつまらないものにしてしまうものです。

その後、辰野金吾は、63歳になった晩年の1917年(明治6年)にも日本基督教団の著名な教会で、三浦友和と山口百恵が結婚式を挙げた教会として有名な霊南坂教会旧会堂の建設などにも携わり、国会議事堂の設計競技で審査員も務めましたが、1919年(大正8年)当時大流行したスペインかぜに罹患し死去しました。満64歳。

この若き日の辰野を指導したのが先述のジョサイア・コンドルですが、イギリスのロンドン出身の建築家であり、バルツァーと同じくお雇い外国人として来日し、政府関連の建物の設計を初めとして数多くの西洋建築物の設計を手がけました。

また工部大学校の教授として辰野ら創成期の日本人建築家を育成し、明治以後の日本建築界の基礎を築いた人物としても有名です。辰野と同じく、のちには民間で建築設計事務所を開設し、財界関係者らの邸宅をも数多く設計しました。

「コンドル」はオランダ風の読み方で、実際には「コンダー」の方が英語に近いようです。著書「造家必携」には「ジョサイヤ・コンドル」とあり、このため政府公文書では「コンダー」「コンドル」が混在していますが、当時は一般に「コンドル先生」で通っていたようです。

鹿鳴館を設計した人としても知られており、これは明治16年(1883)に日比谷に完成しました。

赤い絨毯、きらめくシャンデリアや西洋音楽、華やかな衣装をまとった紳士淑女が社交ダンスを踊った鹿鳴館は、ルネッサンス風の2階建てで、インドなど英国の植民地に多いバルコニー付きの建物で、良く手入れされた庭とセットになっていました。

ここでは夜な夜な盛大なパーティーが繰り広げられ、「鹿鳴館時代」という言葉を生むほど一世を風靡しました。

長州閥の雄であった井上馨や伊藤博文などの肝いりで建設された建物で、それまで諸外国と結ばれていた不平等条約を改正するために外国人をもてなそうと建設された「迎賓館」でもありましたが、やがて井上馨が失脚すると、鹿鳴館は一気にその役割を失い、わずか3年余で閉館の憂き目を見ました。

明治23年には宮内省に移管され、その後皇族が社交場として使用する「華族会館」となりましたが、やがて保険会社に売却され、昭和15年に解体されました。

この鹿鳴館を設計したコンドルは、1852年にロンドンのケンジントン区で生まれました。父は銀行員でしたが、若くして急逝したため、商業学校に通うようになりますが、やがて建築家を志すようになり、父の従兄でロンドン大学教授の建築事務所で働きながら、サウスケンシントン美術学校とロンドン大学の建築科を卒業しました。

21歳でロンドンの建築事務所に入所し、念願の建築家としての道を歩み始めましたが、その僅か二年後には「カントリーハウスの設計」で一流建築家への登竜門であるソーン賞を受賞。これを耳にした日本政府の外交官に見いだされ、日本政府と5年間の技術指導の契約を結びます。

こうして、1877年(明治10年)24歳で来日したコンドルは、そのころ発足したばかりの工部大学校・造家学教師として就任するとともに工部省営繕局顧問を兼任して日本の建築界に息を吹き込み始めました。

教鞭をとるかたわら数多くの洋館の設計に着手しており、こうした彼に接することのできた学生たちは、教室での勉強だけでなく実際の西洋建築の設計・施工に携わることが出来ることとなり、その後の日本の建築界の形成に大きな影響を及ぼしました。

また、コンドルはただ単に西洋建築を設計するのではなく、その土地の文化も採り入れた洋館の設計に努め、アラベスクなど東洋的なイメージも積極的に採り入れていれており、先の東京駅における和風の建築設計も、日本人が西洋一点ばりで見失おうとしていた本来の文化を見直させたいという一心からでした。

明治16年に教え子の辰野金吾が4年間の英国留学から帰ると、コンドルは工部大学校教授の座を譲り工部省に移りました。21年に退官して設計事務所を開設、三菱財閥の岩崎家の邸宅のほか、数多くの「明治の洋館」を設計しました。三菱の顧問にもなり、丸の内ニュータウンの建設も手掛け、その系譜は現在にまで至っています。

先の三菱一号館も、三菱の丸の内最初の洋風貸事務所建築としての「第1号館」として彼が手がけたものであり、イギリスの「クイーンアン(en)洋式」の外観を持つ煉瓦造の建築物として設計されました。

しかしコンドルの真価が発揮されたのはやはり工部大学校での教育・人材育成といわれています。

東京駅以外にも日本銀行本館などを設計した辰野金吾を初めとし、のちに赤坂の迎賓館を設計した片山東熊、慶応義塾大学図書館や長崎造船所の迎賓館「占勝閣」を手掛けた曾禰達蔵など、そうそうたる建築家群を育て上げ、日本の近代化に大きく貢献しました。

コンドル自身の作品としては、上述の鹿鳴館や三菱一号館以外にも上野博物館、ニコライ堂、横浜山手教会、三井家倶楽部、島津忠重邸(現清泉女子大学)、古河虎之助邸(現古河庭園)などなど、現在も我々が良く知る建築物が多数残っています。

しかし、関東大震災で焼失したものも多く、それらの中には、顧問を勤めた岩崎家ないしは三菱関係のものが多いようです。

コンドルの手がけた三菱の仕事は、とくに邸宅に名作が多く、岩崎家の深川別邸のほか、岩崎久彌邸、岩崎彌之助高輪別邸、同箱根湯本別邸、それに岩崎家霊廟など、現在残っているものだけでも枚挙にいとまがありません。

とくに、岩崎久彌邸は岩崎家の茅町本邸とも言われ、久彌が留学していた米国の東海岸すなわち「風と共に去りぬ」の舞台のイメージを盛り込んで木造に設計し直したものです。関東大震災にも東京空襲にも無事だった運の強い洋館であり、戦後は国の所有となり、現在は東京都の「旧岩崎邸庭園」として公開され、親しまれています。

工部大学校の建築の教官として明治10年に来日したコンドルは、日本での生活が長くなるにつれ日本文化に深く傾倒していきました。

1881年(明治14年)には、大学校教官、工部省顧問を務めながら、浮世絵画家の「河鍋暁斎」に入門し、毎週土曜日を稽古日と定め、熱心に暁斎の指導を受けました。のちに師匠にも認められる腕前となり、弟子入り後二年後には「暁英(きょうえい)」の雅号を名のることを許され、多くの作品を残しています。

1884年(明治17年)には、絵画共進会というコンテストで、「大兄皇子会鎌足図」、「雨中鷺」を出品、見事に入選しているほどです。これはちょうど、辰野金吾が帰国し、彼に工部大学校教授の職を譲ったころのことです。

日本文化の紹介本も多く、暁斎の没後イギリスで出版された“Paintings & Studies by Kawanabe Kyosai”は、暁斎を西洋人の間で広重・北斎並みの有名人にしたといいます。

このコンドルの師の河鍋暁斎は静岡ゆかりの人でもあります。父が幕臣であったため彼自身も江戸育ちでしたが、明治維新によって幕府が瓦解したため、1868年(明治元年)に、徳川家の転封とともに一時的にではありますが静岡へ移ってきています。

河鍋暁斎は、「ぎょうさい」とは読まず、本人も「狂斎」の号を使っていたことから、「きょうさい」と読みます。天保2年(1831年)生まれで、明治22年(1889年)に58歳で没しましたが、幕末から明治にかけて活躍し、最後の浮世絵師ともいわれた人です。

明治初期に投獄されたこともあるほどの反骨精神の持ち主で、多くの戯画や風刺画を残しており、狩野派の流れを受けていますが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ自らを「画鬼」とも号していました。

その筆力・写生力は群を抜いており、海外でも高く評価されており、遺作も多いことからテレ東の「なんでも鑑定団」などでも本物、偽物を問わずよく出てきます。

天保2年(1831年)、下総国古河(茨城県古河市)の生まれで、父は河鍋記右衛門といい、古河藩士で武士の出でしたが、江戸へ出て幕臣の火消同心の株を買って本郷お茶の水に住み、甲斐姓を名乗りました。このとき暁斎も江戸に出てきており、幼名は周三郎といいました。

二歳のとき、母につれられて親戚の家へ赴いたおり、初めて蛙の写生をしたといわれており、6歳のときには早くも浮世絵師歌川国芳に入門、8歳のとき、梅雨による出水時に神田川で拾った生首を精密に写し、周囲を吃驚させたといいます。

その後、複数の狩野派の絵師に師事してさらに腕を磨き、11歳で秋元藩の絵師坪山洞山の養子になって、坪山洞郁と称していましたが、21歳のころ、女遊びなどの遊興がたたって坪山家を離縁され、その後暫くは苦難の時代が続きました。

が、安政2年(1855年)に起こった江戸大地震の時に描いた鯰絵「お老なまず」が一躍有名になり、その後は、26歳で江戸琳派の絵師鈴木其一の次女お清と結婚、絵師として独立するとともに父の希望で河鍋姓を継ぐようになります。

安政5年(1858年)ごろから、狩野派を離れて「周麿」を称して本格的に浮世絵を描くようになり、さらに北斎の画風を学んで腕を磨きあげ、数多くの浮世絵を世に残しました。

明治18年(1885年)には44歳で仏門に入り、湯島の霊雲寺の法弟になって是空入道、如空居士と号しました。この後「狂斎画譜」「狂斎漫画」などを出版、漢画、狂画、浮世絵それぞれに腕を振るい、このころその号を「狂斎」と変更しました。

静岡へ移ってきたのは37歳のころで、この地でも戯画・風刺画で人気を博しましたが、仏門に入ったにも関わらず酒癖が悪くなり、自らを酒乱斎雷酔、酔雷坊と呼ぶほどでした。

明治3年ころには再び東京に戻ったようで、あるとき上野不忍池における書画会において新政府の役人を批判する戯画を描きましたが、政治批判をしたとして逮捕投獄されてしまいます。

「暁斎」の号を称すようになったのは、翌年の出獄後からのことであり、この「狂斎」から「暁斎」への改号は、改心というよりは愚かな挑発で二度と痛い目を見たくないという自分への警告の意図であったといわれています。

その後は改心したかのように書画に励むようになり、明治4年(1872年)には仮名垣魯文の「安愚楽鍋」「西洋道中膝栗毛」などの挿絵を描き、翌明治5年にはウィーン万国博覧会に大幟「神功皇后武内宿禰図」を送り、この絵は日本庭園入口に立てられる栄誉を得ました。

明治13年(1880年)には、新富座のために幅17m高さ4mの「妖怪引幕」をたった4時間で描いたことで有名となり、翌年の明治14年に第2回内国勧業博覧会に出品した「枯木寒鴉図」が「妙技二等」を受賞。暁斎はこの作品に100円という破格の値段をつけ、周囲から非難されると「これは烏の値段ではなく長年の苦学の価である」と答えたといいます。

明治17年(1884年)狩野洞春秀信が死去の際、狩野派の画法遵守を依頼されたため、改めて狩野永悳に入門し、狩野派最後の絵師を継承。さらに岡倉天心、フェノロサに東京美術学校の教授を依頼されましたが、果たせずに明治22年(1889年)、胃癌のため逝去。享年58でした。

墓所は谷中にある瑞輪寺で、その墓石は遺言により暁斎が好んだ蛙の形をしているそうです。

話が飛びましたが、話の飛びついでに、この暁斎に師事したコンドルは、同じお雇い外国人である、エルヴィン・フォン・ベルツとも親しかったようです。日本の近代医学の基礎作りに貢献したドイツ人医師で、明治35年には皇室侍医となり、天皇の保養地である沼津御用邸の建設にも関わり、沼津御用邸にもしばしば訪れていました。

ベルツは、来日後、長きに渡って日本人に医学を教え、医学界の発展に尽くし、その通算滞日年数は29年にも及びました。我が国に保養地(リゾート)の考え方を導入した人としても知られ、温泉療法や海水浴の有効性を主張していました。

草津温泉を発見し、このほかに箱根でも温泉開発の提案をしており、沼津だけでなく葉山などの御用邸の地の選定にも関わりを持ちました。

この沼津御用邸のことは、以前にも「御用邸」としてこのブログで取り上げましたので、興味のある方はご参照ください。

さて、コンドルの話に戻りますが、浮世絵画家、河鍋暁斎に入門したきっかけは、辰野金吾に工部大学校教授の職を譲り、自由に時間がとれるようになったためと思われます。

しかし、1886年(明治19年)には、帝国大学工科大学の講師に戻り咲いており、続いて官庁集中計画の一環で学生を引率しドイツ・イギリスへ出張するなど建築家としての活動をやめていたわけではありません。

さらにこの講師は、2年で辞任して自分の建築事務所を開設。このとき既に日本に来てから16年が経過しており、おそらく日本語もペラペラになっていたことでしょう。この事務所開設を機会に、1893年(明治26年)、花柳流の舞踊家、前波くめと結婚。コンドル41歳のときであり、この当時としてもかなりの晩婚といえます。

コンドルはこのころ、日本舞踊にものめり込んでいたようで、この愛妻くめとも日本舞踊を通じて知り合ったようで、彼女は河鍋暁斎とともに日本文化を学ぶ師匠でもありました。

くめは東京本郷の湯島天神町で安政3年(1856年)に生まれたという記録があるようなので、コンドルよりは4歳年下になります。

コンドルは、実は日本に来たてのころに、新橋芸者との間に女の子をなしており、くめと結婚したのを契機に、この子を引き取り、教育を施し育て上げました。この子はその後長じてからブリュッセルに留学し、帰国の船で知り合った外国人と結婚したようです。

コンドル夫妻が亡くなった時、この子はコンドルが収集していた暁斎の絵画を海外に持ち出したといい、現在河鍋暁斎の絵画や浮世絵が海外の美術館などにまとまってあるのはこのような理由からであるといいます。

コンドルはこの結婚の翌年に先述の三菱一号館を設計しており、このあと、引き続いて三菱二号館、三菱三号館を設計、その後も岩崎久弥茅町本邸、ドイツ公使館、松方正義邸、岩崎弥之助高輪邸(現・三菱開東閣)などなど多数の建築物を残しました。

その最後の作品は、1917年(大正6年)の古河虎之助邸であり、これは、東京都北区にある都立庭園である旧古河庭園にある大谷美術館として現在も使われています。現在は国有財産であり、国の名勝にも指定されているようです。

脳溢血により亡くなったのは、その3年後の大正9年(1920年)でしたが、これに先立つわずか11日前に愛妻のくめも亡くなっています。ふたりの亡きがらは仲良く文京区音羽の護国寺に葬られています。

東大の工学部の中庭には、その三年後の大正12年に建てられたコンドルの銅像が今も残されています。その長身の銅像の存在を知る学生は多いと思いますが、果たしてどんな人だったか関心を持つ者は少ないでしょう。

さて、今日は東京駅の話題を中心として明治期を中心に活躍したドイツ人建築家とその弟子である辰野金吾、そして彼等にまつわる人々の話題をお届けしました。

いつものように長くなりましたので、そろそろやめにしますが、お楽しみいただけたなら幸いです。

カキ喰えば……

先週末、広島に在住の姉夫婦から「カキ」が大量に送られてきました。

言うまでもなく、広島は全国でも有数のカキの名産地で、そのシェアは約50%をも占めます。これに次ぐのが、宮城県の約23%ですが、ご存知のように東北の津波の関係でここ数年少しく減産しているようです。

広島県は大規模業者が多いのに対し、宮城県は個人での生産が多く、牡蠣生産に携わる漁業関係者数は全国で一番多いそうで、こうした個人漁業者の被害は相当なものだったようです。が、ニュースなどでも伝えられている通り、この冬からはかなり持ち直してきて、今シーズンようやく出荷にこぎつけた生産者さんも多いとのことです。

カキは、いろんな書き方があります。牡蛎、牡蠣、硴などがそれで、日本では古くから、沿岸地域で食用のマガキやイワガキが採取されてきたほか、薬品や化粧品、建材(貝殻)としても利用されてきました。

が、食用にされない中型から小型の種も多く、どの種類も岩や他の貝の殻など硬質の基盤に着生するのが普通です。

英名では”oyster”です。こちらのほうは、日本語の「カキ」よりも広義に使われ、岩に着生する二枚貝のうち、形がやや不定形で表面が滑らかでないもの一般を指し、真珠の養殖に使われるアコヤガイ類やかなり縁遠い種類などもoysterと呼ばれることがあるようです。

このカキですが、一般に我々が知るカキというのは、かなりゴツゴツとした貝殻を持っていますが、この形というのは、波の当たり具合などの環境によっても形が変化します。このため、カキが定着する岩などの基盤に従って成長するため殻の形が一定せず、外見による分類が難しく、野外では属さえも判別できないこともあるそうです。

従って、学術上未だに分類が混乱しているものも少なからずあり、外見に惑わされない分子系統などを使った分類がなされつつあるそうですが、まだまだ完全なる生物学的な仕分けは終わっていないそうです。なので、生物学に興味のある方、その完成にチャレンジしてみてはどうでしょうか。

しかし、我々が食するカキは、たいていはこうした天然物ではなく、養殖です。その一般的な方法は、カキの幼生が浮遊し始める夏の初めに海中に吊るした「ホタテ」の貝殻に幼生を付着させるというものです。

後は餌が豊富な場所に放っておくだけで大きくなり、総じて天然物に比べて中身も大きくて味も良いものができあがります。

天然物のほうは、養殖ものと違って一旦岩などに付着すると、一生ほとんど動かないため、筋肉が退化し内臓がほとんどを占めています。日本テレビの科学番組「所さんの目がテン!」でハマグリの内臓を寄せ集めてカキフライもどきを作ったところ、20人中18人が騙されたという結果が出たそうです。

干潮時には水が無い場所に住む場合が多く、グリコーゲンを多く蓄えています。これにより、他の貝と違って水が無い所でも1週間は生きていられるといいます。グリコーゲンというのは、動物の体の中で、糖類などの成分を一時的に栄養として貯蔵しておくために形を変えたもので、動物デンプンとも呼ばれる栄養素です。

が、養殖のものはこうした内臓部分よりも筋肉のほうが大きく、プリッとしたふくらみの中に入った内臓とこの筋肉の取り合わせが、あの独特の食感を生み出します。

一番よく食べられるのが、マガキ(真牡蠣)で、日本でカキといえばこれを指します。本来は冬が旬ですが、最近では大型で夏でも生殖巣が発達しない「3倍体牡蠣」も開発され、市場に出ています。流通しているものの中には韓国からの輸入品も相当量あるようです。

このほか、イワガキ(岩牡蠣)が良く食べられますが、こちらはマガキと対照的に夏が旬であり、「夏ガキ」とも言われます。殻の色が茶色っぽく、マガキに比べて大きいものが流通します。天然物しかないと思っている人も多いようですが、こちらも養殖物が存在します。

このほか、有明海ではスミノエガキ(住之江牡蠣)というのがあるそうですが、他所へはほとんど出回らないようです。有明海ではこのほかにもシカメガキというのが産出されるそうで、これはほかにも熊本の八代海や福井県の久々子湖に分布します。

現在、アメリカの多くで食されているカキは、1946年頃に熊本県八代市の鏡町からアメリカに種ガキとして輸出されたものが広まったものだそうで、ワシントン州沿岸を中心に養殖されていて、その名も「クマモト」というそうです。

小振りながらクリーミーで濃い味が特徴です。昔フロリダの北部に住んでいたころ、オーランドやニューオリンズにも出かけましたが、ここで食べたのがこれだと思います。日本のマガキのような臭みがなく、レモン汁をかければ生でいくらでも食べれる、といったかんじで、大変おいしかったのを覚えています。

一方、欧州では、ヨーロッパヒラガキというヨーロッパ原産種があります。別名、ヨーロッパガキ、フランスガキともいい、その外観は輪郭が丸く平たいかんじで、ブロン、フラットとも呼ばれる高級食材です。

かつてのヨーロッパ、特にフランスでカキと言えばこのカキのことを指しましたが、1970年代以降、寄生虫などにより激減。このため需要をまかなうために日本産のマガキを輸入して養殖するようになり、それ以来フランスなどで流通するカキの相当部分は日本由来のマガキになりました。

日本ではかつて、宮城県気仙沼市の舞根(もうね)などでこのヨーロッパガキが僅かに養殖されていて、国内のフランス料理店に卸されていたようですが、こちらも先の大津波でカキ養殖施設が壊滅状態に陥りました。

この災害時には、フランスのカキ養殖業者達がかつて日本に助けてもらった恩返しとして、養殖施設の復旧に協力したそうですが、オリジナルのヨーロッパガキの生産が復旧したのかどうか心配です。

カキは、グリコーゲンのほか、必須アミノ酸をすべて含むタンパク質やカルシウム、亜鉛などのミネラル類をはじめ、さまざまな栄養素が多量に含まれるため、「海のミルク」とも呼ばれることはみなさんもよくご存知でしょう。

世界中で食され、長い歴史の中で人類が親しんできた貝の一つです。一般的に肉や魚介の生食を嫌う欧米食文化圏において、カキは例外的に生食文化が発達した食材であり、古代ローマ時代から珍重され、養殖も行われていました。

フランスでは、生ガキはオードブルとなっているほか、生ガキをメニューの中心に据える「オイスターバー」と呼ばれるレストランも多数存在します。ナポレオン、バルザック、ビスマルクといった歴史上の人物がカキの愛好家であったことはよく知られています。

日本では縄文時代ごろから食用されており、多くの貝塚からカキ殻が発見されています。その昔は日本ではカキよりもハマグリのほうがたくさん獲れたようですが、ハマグリは養殖ができないため現在は逆になってしまいました。

古来からの和名は「おかきのかい」あるいは「かき」であり、密集している貝を掻き取ることが語源と考えられているようです。

養殖の技術は、室町時代ごろに開発されたようで、大坂では明治時代まで広島から来る「牡蠣船」が土佐堀、堂島、道頓堀などで船上での行商を行い、晩秋の風物詩となっていたそうです。

かつては広島や東北などの産地から消費地まで輸送するのに時間がかかったため、日本ではカキの生食は産地以外では一般化せず、もっぱら酢締めや加熱調理で食されました。日本人では武田信玄や頼山陽などがカキの愛好家であったことが知られています。

ただし、現在我々は生ガキを普通に食しますが、昔の人は生でこれを食べることはしなかったようで、日本人がカキを生で食べるようになったのは、欧米の食文化が流入した明治時代以降のことです。

しかし、カキの食べ方は生食以外にも様々です。カキフライのような揚げものや、鍋物の具にして食べるほか、網焼きにしたりしてもおいしくいただけます。

網焼きや生食では身だけでなく汁もともに吸うのがツウです。

我々がスーパーなどで目にするものはき身のものが多いでしょうが、殻つきのカキでは、身が浸されている殻の中の海水を含む汁にも多くの栄養素やうまみがたっぷりと含まれていますから、殻つきが手にはいったら、その汁を余すことなく飲み干しましょう。

このほか、カキの貝殻は粉砕して薬にも使われます。これは牡蠣(ボレイ)といい、焼成し、「ボレイ」または「ボレイ末」とし漢方薬局などで売られています。「日本薬局方」にも記載されているれっきとした生薬であり、薬理作用として、血糖低下、免疫増強作用などの作用があるようです。

薬用以外にも天然炭酸カルシウムとして使われ、あるいは1000℃程度に焼成すると「牡蠣灰」というものができ、これは、消しゴムの添加剤などの工業用や食品添加物、砂糖精製用助剤などに利用されています。

このほか、カキは水中の懸濁態物質やプランクトンを取り込むため、カキを収穫することで、水中の栄養塩の回収につながります。特にカキは濾過量が他の2枚貝に比べて極めて多く、1時間に約10リットルの海水を濾過するといいます。 アサリは1時間に1リットルの海水を濾過するそうですから、その10倍です、

アメリカの首都ワシントンD.C.の東にあるチェサピーク湾では、カキを使ってオイスターガーデニングと呼ばれる水質浄化活動も行われているそうで、カキの擬糞はゴカイなどの底生生物の餌となり、底生生物は魚類の餌ともなり、豊かな生態系を作ります。

我々は、広島から送られてきたこのカキを、一昨日は生ガキで、昨日の夜はカキフライにしておいしくいただきました。

ところが、3日目の今日ともなると、そろそろ「あたる」のが気になってくるところです。

送ってくれた姉によれば、昨年の正月に彼女はカキにあたってしまい、上も下も大変だった(ここのところ表現が難しい)とのことで、我々も注意したいところです。

古来より食べられてきたカキですが、その一方で「あたる」食品としてもよく知られています。現代の日本国内で流通している生食用のカキは、極力食中毒を回避するために、一応生産・流通段階で対策がとられています。

とくに生食用として販売されるカキには加工基準が設けられており、カキそのものを対象として規格基準が設けられていて、さらには、保存基準、表示基準も規定されています。

具体的には、加工基準としては、食品衛生法により、大腸菌群最確数が一定以下の海域で採取されたもの、それ以外の海域で採取されたものであって、大腸菌群最確数が一定以下の海水、または塩分濃度3%の人工塩水を用い、かつ、当該海水若しくは人工塩水を随時換え、又は殺菌しながら浄化したもののどちらかであること、などが規定されています。

また、規格基準としては、細菌数(大腸菌)の数や腸炎ビブリオ菌などの数の制限値も決められていて、これらに加え地方によってはさらに厳しい指導基準を条例などで設けている場合もあるようです。

とくに生食用カキではこうした加工基準を満たすために、紫外線殺菌された海水中や人工海水などを充分に循環させた環境下にて絶食状態として数日間飼育されることも多いようです。

しかし、生食用のカキにこうした処理を施す場合、貝表面や貝内部に取り込まれた細菌の大部分は貝内から排出されてほぼ無菌状態にはなりますが、これとは引き替えに、カキの身が痩せてしまったり風味が損なわれたりする場合もあり、加熱処理用のものよりも味が劣ることも多いようです。

また、こうした処理をして出荷されても、生カキを買う側の保存状態がよくなく、このため微量に残っていた細菌やウィルスが繁殖して中毒に至る例もあるようです。

なので、「生食用」と書いてあるから安心せず、こうしたカキを買ってきた場合は、浸かっている塩水を交換する、日にちが経ったら加熱して使うなどして、できるだけ安全策をとられることをお勧めします。

このカキの食中毒症状を引き起こす原因としては貝毒、細菌(腸炎ビブリオ、大腸菌)とウィルスが良く知られており、とくにウィルスとしてはノロウィルスがよく知られています。どの原因も生育環境(海水)に由来するものであり、二枚貝特有の摂餌行動などによって貝内部、特に消化器官(中腸腺など)に取り込まれ濃縮されるものです。

従って、殺菌処理をしているからといって100%安全とは限りません。

「貝毒」というのは、あまり聞き慣れないかもしれませんが、貝が捕食する海水中の有毒プランクトンを蓄積したものです。

これにあたるというのは稀なケースのようですが、その対策としては一応、出荷の段階では、生育海水中の植物プランクトンの種類および貝に含まれる毒が定期的に検査されています。

有毒プランクトンの発生し易い時期は3月から5月なので、とくにこの時期には重点的に検査を行うとともに、濾過海水中で一定期間飼育することで、毒の量を規制値以下に減毒できるそうです。

残るは、細菌とウィルスですが、そもそもこのふたつはいったい何が違うのでしょうか。

細菌というのは、よく「ばい菌」とも言いますが、自分で細胞を持っています。人間に病気を引き起こす細菌は、人間の体の中に入ると、人間の細胞に取り付きます。細菌は、この細胞に取り付き、細胞の栄養を吸い取って、代わりに毒を出して細胞を殺してしまいます。栄養を吸い取った細菌は、自分が分裂して、仲間を増やしていきます。

一方、ウィルスは細菌よりずっと小さく、自分で細胞を持っていません。ほかの細胞に入り込まなければ生きていけないのです。ウィルスが人間の体に入ると、細胞の中に入り込み、その細胞に、自分のコピーを作らせます。

細胞の中で自分のコピーが大量に作られると、やがて細胞は破裂して死んでしまいます。破裂したとき、細胞の中から大量のウィルスが飛び出し、ほかの細胞に入り込みます。こうしてウィルスが大量に増えていくのです。

細菌の場合は自分の細胞を持っているので、細菌をやっつける薬を造ることができます。抗生物質といって、細菌の細胞を攻撃することができる薬です。ところがウィルスには細胞がありませんから、ウィルスをやっつけることは困難です。ウィルスを攻撃しようとすると、ウィルスが入り込んでいる人間の細胞を壊してしまう恐れがあるからです

カキにつく大腸菌のような一般的な細菌は海水中に常時一定数存在するものであり、ごく少量であれば食中毒症状を引き起こすことはありません。しかし、気候や水質、保存方法などによっては細菌が大量に増殖することもあり、生食する際には注意が必要です。

現代の日本国内の生食用カキの場合は、上述のように流通段階では十分な対策が取られているのでまず心配はいりませんが、問題なのはやはり購入者が間違った方法で保存することで、残った少量の細菌を増殖させてしまうような環境に放置することはやはり危険です。

腸炎ビブリオ菌のほうは、20℃付近でおよそ10分間に1回と活発に分裂・増殖しますが、15℃以下では増殖は抑制されます。また、経口摂取によって感染症状を引き起こす際には生菌100万個程度が必要であるとされています。

このことから、腸炎ビブリオ菌対策としては20℃以上の環境に数時間置かないようにすることが、食中毒対策として重要です。とくに夏場が旬のイワガキなどを、家庭で調理する際には十分に注意すべきでしょう。

70度以上1分間の加熱でほぼ死滅するとされているので、加熱処理すればこちらのほうは大丈夫です。ちなみに、大腸菌のほうも75度以上1分間の加熱でほぼ死滅するとされています。

このほか、カキに赤痢菌がついているというレアケースもあるようですが、日本国内産についてはまず問題になることはないそうです。ただし、韓国では2001年にカキが原因で1,000人規模の罹患者を出したことがあるそうなので、スーパーで見かけてカキが韓国産であるかどうかは一応確認してから購入しましょう。

ただ、以前、韓国産のカキが日本国内において、国内産として産地偽装され流通されていることが発覚したこともあり、こうした場合の対処のしようはありません。が、一般にこうしたカキは安価であるはずなので、安すぎる生ガキを見たら注意しましょう。

一方、カキのウィルスと言えば、やはりノロウィルスです。2000年頃より急に増えてきており、こちらにかかった時の病状は細菌よりもはるかに過激です。

その感染力は85℃以上で1分間以上加熱されることにより破壊されると考えられていることから、ノロウィルスにかかりたくなかったら、中心部まで十分に加熱することがまず重要です。

2001~2003年の調査では、生食用カキの12.9%、加熱加工用カキの24.4%がノロウィルスで汚染されていたという統計もありますが、最近はかなり汚染防止対策が進んだことから少なくなっているようです。が、対策をとるに越したことはありません。

ところで、このウィルスというのはそもそも何者なのでしょうか。細菌との違いは上述の通りですが、改めてどういうものかと聞かれるてすぐ答えられる人は少ないのではないでしょうか。

そこで調べてみると、ウィルスというのは、「細胞を構成単位としないが、遺伝子を有し、他の生物の細胞を利用して増殖できる」という性質を持ち、一応、生物としての特徴を持っているものなのだそうです。

現在でも自然科学は生物・生命の定義を行うことができておらず、便宜的に、細胞を構成単位とし、代謝、増殖できるものを生物と呼んでおり、細胞をもたないウィルスは、非細胞性生物として位置づけられています。

生物であるようで生物でないので、生物というよりむしろ「生物学的存在」といわれることのほうが多いようで、とはいいながら、遺伝物質を持ち、生物の代謝系を利用して増殖するウィルスは生物と関連があることは明らかです。

感染することで宿主の恒常性に影響を及ぼし、病原体としてふるまうことも多く、ウィルスを対象として研究する分野はウィルス学と呼ばれる専門分野が確立されているほどです。

ウィルスが一般的な生物と大きく異なる点は、まず我々生物の体は細胞が構成されていますが、ウィルスは非細胞性で細胞質などは持たないことです。また、基本的にはタンパク質と核酸からなる粒子にすぎないというところも違います。

さらに大部分の生物は細胞内部にDNAとRNAの両方の核酸が存在しますが、ウィルス粒子内には基本的にどちらか片方だけしかありません。さらに他のほとんどの生物の細胞は2n乗で指数関数的に増殖していくのに対し、ウィルスは一段階づつしか増殖しません。またウィルス粒子が見かけ上消えてしまう暗黒期が存在する点も細胞と異なります。

このほか、ウィルスは単独では増殖できず、他の生物の細胞に寄生したときのみ増殖できるという特性があり、しかも自分自身でエネルギーを産生せず、宿主細胞の作るエネルギーを利用する非常にいやらしいヤツです。

その詳しい生物学的な説明は、専門家でもないのでこれ以上差し控えますが、ウィルスの増殖は以下のようなステップで行われます。

細胞表面への吸着 → 細胞内への侵入 → 脱殻(だっかく) → 部品の合成 → 部品の集合 → 感染細胞からの放出

感染細胞から放出されたらまた別の細胞を探して吸着・侵入・合成・集合・放出を繰り返して増えていきますが、その過程は一段階づつなので、細胞のように増殖し始めると止まらない、といった急激な変化はありません。

ただし、ウィルスによる感染は、宿主となった生物に細胞レベルや個体レベルでさまざまな影響を与えます。その多くの場合、ウィルスが病原体として作用し、宿主にダメージを与えるという非常にやっかいなものです。

しかも、ウィルスが感染して増殖すると、宿主細胞が本来自分自身のために産生・利用していたエネルギーや、アミノ酸などの栄養源がウィルスの粒子複製のために奪われ、いわば「ウィルスに乗っ取られた」状態になります。

これに対して宿主細胞はタンパク質や遺伝子の合成を全体的に抑制することで抵抗しようとしますが、一方でウィルスは自分の複製をより効率的に行うために、さまざまなウィルス遺伝子産物を利用して、宿主細胞の生理機能を制御しようとします。

またウィルスが自分自身のタンパク質を一時に大量合成することは細胞にとって生理的なストレスになり、また完成した粒子を放出するときには宿主の細胞膜や細胞壁を破壊する場合もあります。このような原因から、ウィルスが感染した細胞ではさまざまな生理的・形態的な変化が現れます。

その生理機能の変化によって、ウィルスが感染した細胞は色々な方向で変化していきますが、まず典型的なものとしてあげられるのは、ウィルス感染によって細胞が死んでしまうことです。

ウィルスが細胞内で大量に増殖すると、細胞本来の生理機能が破綻したり細胞膜や細胞壁の破壊が起きる結果として、多くの場合、宿主細胞は死を迎えます。これは生物にとっては致命的なことではありますが、一方では感染した細胞が自ら死ぬことで周囲の細胞にウィルスが広まることを防いでいると考えられています。

このほか、ウィルスがもたらす生物の生理的な機能の変化としては持続感染というのがあります。

これは、ウィルスによっては、短期間で大量のウィルスを作って直ちに宿主を殺すのではなく、むしろ宿主へのダメージが少なくなるよう少量のウィルスを長期間に亘って持続的に産生(持続感染)するものです。持続感染の中でも、特にウィルス複製が遅くて、ほとんど粒子の複製が起こっていない状態を潜伏感染と呼びます。

もうひとつが、細胞の不死化(細胞の老化)と「がん化」です。こうした生理変化をもたらすウイルスを腫瘍ウイルスあるいはがんウイルスと呼びます。

ウイルスが宿主細胞を不死化あるいはがん化させるメカニズムはまちまちです。が、ウィルスの種類によっては宿主のゲノムにウイルス遺伝子を組み込むものもあり、この場合にはがん抑制遺伝子が潰された結果、がん化する、つまり細胞は癌細胞に変化します。

ノロウィルスは、上記三つのうちの、一番最初の型のウィルスです。ヒトに経口感染して十二指腸から小腸上部で増殖します。このとき、毒素は分泌せずに十二指腸付近の小腸上皮細胞を脱落させ、伝染性の消化器感染症(感染性胃腸炎)を引き起こします。

死に至る重篤な例は稀ですが、苦痛が極めて大きく、稀に十二指腸潰瘍を併発することもあります。

我々の子供のころにはそんなものはなかったよな~と思ったら、それもそのはず、発見されたのは、1968年のことで、アメリカ合衆国オハイオ州ノーウォークの小学校において集団発生した急性胃腸炎患者の糞便から検出されたのが始めてだそうです。

この地名にちなみ、当初「ノーウォークウィルス (Norwalk virus)」と命名され、その後このウィルスによる胃腸炎・食中毒が世界各地で報告されようになりました。

その後、1977年になって、札幌で幼児に集団発生した胃腸炎からノーウォークウィルスとよく似た小型球形ウィルスが 病原体として発見され、これが「サッポロウィルス (Sapporo virus)」と名付けられました。

2002年にパリで行われた、第12回国際ウィルス学会では、それまで「ノーウォーク様ウィルス属」と呼ばれていたものを「ノロウィルス属 (Norovirus)」、「サッポロ様ウイルス属」と呼ばれたものを「サポウイルス属 (Sapovirus)」と区別して呼ばれるようになりました。

しかし、その後日本では後者よりも、前者のほうの発症率が高く、「ノロウィルス」がこの感染症の標準語のようになっていきました。

ところが、2011年に札幌で行われた、国際微生物学連合会議では、「ノロ(NORO)」姓の子供、つまり「野呂」などの子供たちがいじめやからかいを受けるおそれがある、という指摘があり、「ノロウイルス」名称について各国の専門家たちと深く議論を行いました。

その結果、「ノロウイルス」というのは属名であって、そのようなウイルス種名は存在しない、ゆえに正しい呼称(種名であるノーウォークウイルス)を使用すべきであるという声が多くあがりました。

こため、この会議ではノーウォークウイルスに起因する病気の発生に対して「ノロウイルス」という用語を使用しないよう、メディア、医療・保健の各機関、科学者団体に強く求める」という趣旨のプレスリリースを発表したのですが、それまでの慣行からか日本ではあいかわらずノロウィルスと呼ばれています。

日本ではかつて「お腹の風邪」と呼ばれていましたが、その症状は単なる風邪というよりかなり激烈であり、主な症状は突発的な激しい吐き気や嘔吐、下痢、腹痛、悪寒、38℃程度の発熱で、嘔吐の数時間前から胃に膨満感やもたれを感じる場合もあります。

1年以内に感染していない人や、先天的に免疫ができない人、抵抗力が弱い老人や子供などはウィルス感染を起こしやすく、激しい感染性胃腸炎を引き起します。

通常1~2日で治癒するようで、後遺症が残ることもありませんが、免疫力の低下した老人や乳幼児では長引くことがあり、死亡した例も報告されています。お年寄りなどではとくに、吐瀉物を喉に詰まらせることによる窒息などが多いようです。

ただし、感染しても発症しないまま終わる場合もあり、これを「不顕性感染」といい、その症状は普通の風邪とも似ています。吐き気や下痢などはなく、普通の風邪と同様の症状しか現れないのです。

このため、一般にノロウィルスの症状は「嘔吐、下痢、腹痛を伴う風邪」というふうに表現されることも多いようですが、これら普通のように見える風邪が実はノロウイルスによる感染症によるものである可能性も低くはないそうです。

従って、これらの人でもウイルスによる感染は成立しており、こうした風邪引きさんの吐しゃ物やくしゃみ、鼻水に触ったりするのは厳禁ですし、とくに糞便中にはかなり大量のウイルス粒子が排出されているため、その処理には厳重な注意が必要です。

このノロウィルスの治療ですが、特別な治療法は確立されていないそうで、かかってしまったら、仕方がない、というかんじのようです。ただし、激烈な症状はせいぜい数日、この間、苦しいけれども我慢しさえすれば回復は早いようです。

ただし、感染から発病までの潜伏期間は12時間~72時間(平均1~2日)だそうで、症状が収まった後も便からのウイルスの排出は1~3週間程度だとすると、一カ月間をこのウィルスとお友達にならなければならなくるわけです。しかもこの間、自分が感染源になることを考えれば、極力これにはかかりたくないものです。

場合によっては、7週間を越えての排出も報告されており、しかも11~3月の発症が多く報告されてはいるものの、年間を通じて発症もありうるということです。

2007年に報告された厚生労働省食中毒統計による食中毒報告患者数は、71%がノロウイルス属感染症ということで、かなりの高率です。

血液型で感染率に差があるそうで、当初、O型は罹患しやすくB型は罹患しにくいことなども報告されていたようですが、最近はウイルス株の各遺伝子型によって様々な血液型でのノロ感染が増えつつあるそうなので、A型だから大丈夫といったことはないようです。

ただし、ヒト以外では発症しないとされており、ノロにかかったからといって、愛猫や愛犬と離れて暮らさなければならない、というような悲哀はないようです。とはいっても、感染したからといって、腹いせにイヌネコの上にゲロしたりしないようにしましょう。

厚生労働省や保健所では、カキなどに代表される二枚貝は、食す際には内部まで十分に加熱調理するように、また調理の際に使用した器具の十分な洗浄を呼びかけていますが、生ものを食べることが大好きな日本人は、冬場のカキを何かにつけ食べたがります。

最近、ノロウィルスが流行している原因としては、感染者の排泄物に含まれるウィルスを下水処理場では十分に除去できないことから、排水が流入する養殖海域で養殖される貝類にノロウィルスが付着することなどが指摘されています。

こうしたことから、日本では報道のせいもありますが、「ノロウィルスと言えばカキ」という印象が広まり、特に2006年から2007年にかけてノロウィルス感染報道があるごとにカキの売上が減少しました。

一方、韓国などでは、下水汚泥や糞尿の海洋投棄が行われている例があるそうで、水域全体がウィルスにより汚染されている場合があり、2012年6月にはアメリカ合衆国の食品医薬品局が韓国から輸出するカキ、二枚貝、ムール貝の衛生基準が不十分であるとして市場からの回収要請を出しているほどです。

従って、日本でのノロウィルスの蔓延には、韓国から入ってきているカキによる感染の拡大もあるのかもしれません。

とまれ、生で食べる場合には日本産であれ韓国産であれ、ノロにかかる可能性は否定できません。塩水でのすすぎを欠かさないなど、十分な対策に気を付けましょう。

カキは、英名に「R」のつかない月、すなわちMay, June, July, Augustの5、6、7、8月は産卵期であり食用には適さないとされています。まだ今の時期は、そのグリコーゲン含量がどんどん増えている時期であり、まだまだカキのおいしい時が続きます。

冷蔵庫に残ったカキを今日は何にして食べようか、今考え中です。みなさんの今晩のお献立はなんでしょうか?もしかしたらカキなべ?それともカキの釜飯でしょうか。

美味しいカキの食べ方があったら、ぜひご一報ください。

病気とはなにか


最近、右目が妙に痛いなと思って鏡をみると、まぶたの内側になにやら黄色い粒のようなものが見えます。何かなと思っていたのですが、はじめは軽微だったものがだんだんひどくなってきて、赤く腫れるようになってきたのをみて、どうやらこれは「ものもらい」だと気が付きました。

私の郷里の山口や広島では、ものもらいのことを「めぼ」というのですが、関東やその他の地域では馴染みのない方言なので、ここでも「ものもらい」としておきましょう。

ここのところご無沙汰していた症状なのですが、こうした体の異変は、何等かのスピリチュアル的な意味を持つ、とよくいわれるので、これにもどういう意味があるのだろう、と調べてみることにしました。

そこで、タエさんの我が家のスピリチュアル文庫である、「なっちゃん文庫」を漁っていたら、「病気が教えてくれる病気の治し方(柏書房)」、という本が見つかりました。

「なっちゃん文庫」というのは、タエさんの亡きお母さんの残したスピリチュアル関係の書物で、我が家のリビングの壁一面に据えた本棚にある千数百冊にも及ぶ書庫です。

が、あとでタエさんに聞くと、この本は彼女が数年前に買い求めたもののようです。その当時彼女もまた何か体に異変があったのでしょう。我が家では夫婦して何かとこういうものに興味を持ちます。

トアヴァルト・デトレフゼンと、リューディガー・ダールケという二人のドイツ人の共著で、デトレフゼンのほうは、精神医学を学んだあとにリーインカーネーション・セラピーなるものを開発し、これをもとに特殊心理学研究所を設立した、と巻末のプロフィール紹介にありました。

また、ダールケのほうは、ミュンヘン大学で医学を学んだのち、精神療法士及び自然医学医師の資格を取得したお医者さんで、デトレフゼンと12年間共同研究を行った結果、この本を書いています。精神医学に関する医療センターを設立し、講演やセミナーを行うとともにこうした精神医学関連の多数の著書があるようです。

私のものもらいが、どういう意味かをこの本で読んだところ、腑に落ちるところがありましたが、それは後で披露するとして、この本を斜め読みしていったところ、非常に興味深いことが書いてあったので、今日はその中から抜粋しておおまかな内容を皆さんにもお伝えしようと思います。

原本をそのまま引用すると盗用になるのと、わかりにくい部分があるので、多少手を加えていますが、基本的には原文に忠実です。

まず、我々は、病気といえば「さまざまな病気」と病気を複数形で使うことが多いものです。しかし、これは病気という概念に対する誤解のもとになっています。病気とは本来単数形で使うべき言葉です。健康を複数で言わないのと同じです。

健康も病気も、人の心身状態をあらわす概念であり、体の部分や器官をさすものではありません。つまり、体は意識からの情報を受け取り、これを動かすだけであって、体自体が自分だけで病気だとか健康だとかを主張するといったことはありません。

体が主体として行為をすることがないのは、死体を考えればすぐにわかることです。生きた人間の体は、非物質的なもの、つまり意識(魂)と命(精神)のはたらきによって機能します。意識の出す情報が、体に伝えられて動かされ可視化されるわけです。

言い換えれば、意識が示す情報は、非物質的な独立した特性を持っており、体から生じるものに左右されません。体が存在しようがしまいが同じです。

生物の体に生じるできごとは、それに対応する情報が表出されたものです。人の体は限定された存在であるのに対して、意識は無限大です。従って、意識に対応する体の反応は、圧縮された「絵」といってもいいでしょう。

「絵」とは、ギリシャ語のeidolonに相当します。同じくギリシャ語の観念Idoleはさらにこれに近いかもしれません。鼓動と脈拍が一定のリズムに従う、体温が一定に保たれる、ホルモンが分泌される、抗原がつくられる、などの現象は、観念とはいえないものですが、いずれも物質レベルでは説明しがたいものです。

こうした現象(言いかえれば機能)は、意識から発する特定の情報に従って発現されています。そして、こうしたさまざまな体機能がいっしょにはたらいて「調和」していると感じられる状態が、「健康」です。

ある機能がうまくはたらかなくなると、全体の調和がくずれます。この状態を「病気」と呼んでいます。つまり、病気とは調和が乱れることです。それまで保たれていた秩序が崩れることと言ってもよいでしょう。

視点をさらに変えれば、健康とはバランスを生み出すことでもあります。調和の乱れは意識の情報レベルで起こるもので、これが体に現れるのです。言い換えれば、体は意識内の変化や動きを描写し、実現する場所であるともいえます。そのため、意識内でバランスがくずれると、それが症状となってからだにあらわれるのです。

体が病気である、というのは誤解を招きやすい表現です。病気なのは意識と体が一緒になった一個の人間全体です。悲劇が上演される場合、悲惨なのは、舞台ではなく、劇そのものである、というのと同じです。

ただし、病気は症状となって体に出ます。症状はさまざまですが、どれも病気が表出されたものです。病気はかならず人の意識の中で起こります。つまり、意識がなければ体が存在しないように、意識がなければ病気になることもありません。

従って、病気=「意識レベル」と症状=「体レベル」は別々の概念として区別すべきです。ここが今日のブログで述べたいことの最も大事な点であり、ひとつのポイントです。

これを理解することによって、体に起こるできごとを分析するという従来の馴染のある方法から、精神レベルを観察することで病気を治していくという新しい方法に移行することができます。

演劇批評家に例えるなら、舞台装置、小道具、俳優などを分析したり、替えたりすることによって改善するのではなく、劇そのものを対象とするわけです。

人は、ある症状が体にあらわれると、多少の差はあれ、注意がそちらに向けられ、それまでの生の営みが中断されます。症状は、注意やエネルギーを引き寄せ、それまでの状態に疑問を投げかけるシグナルです。生の営みを中断されるのはわずらわしいので、邪魔者を追い払おうという願いが最優先になります。

邪魔されるのはいやなので、症状と闘います。この闘うということは、症状に取り組み、症状に気持ちを向けることです。つまり、このようにして症状はそれが存在する目的を達するわけです。

病気と症状のちがいをひとたび理解すれば、病気とつきあう基本的態度が変わっていくでしょう。症状を仇敵とみなしてやっつけるのはやめ、逆にパートナーとして、病気の状態から脱する手伝いをしてもらえばいいのです。

そうすれば症状は先生となって、自己を認識し、開発するのを助けてくれるようになります。ただし、この規則を軽視すると、症状は容赦なくあなたに襲いかかります。病気の目標はただひとつ、人を健康にすることです。

健康になるために欠けているものを示してくれるのが症状です。それを理解するためには「症状の言語」を知っていなければなりません。この言語は、「精神身体学」ともいえるもので、心と体の関係を熟知しています。これは、実は大昔からあるものですが、残念ながら時とともに我々の記憶からは忘れられてしまっています。

われわれは、この症状の言語を再習得しなければなりません。言語の深い意味に耳を傾ければ、症状の語ることが理解できるようになるでしょう。症状は緊密なパートナーであり、また自分の一部であるので、重要なことをたくさん教えてくれるのです。

しかし、その教えてくれた内容は、正直すぎて耐えがたいこともあるかもしれません。親友ならば言わないようなことも、症状はストレートに伝えるからです。症状の言語が忘れ去られてしまったのも、おそらくは率直すぎて疎まれたからに違いありません。

しかし、耳をふさいでも症状が消えるわけではありません。なんらかの形でわずらわされ続けることになります。逆に症状に耳を傾けてコミュニケーションをとれば、またとない先生になって健康に導いてくれ、自分に欠けているものは何か、知らせてくれるのです。

健康と病気の関係を理解する上で、もうひとつ重要なポイントがあります。

それは、「両極性」ということです。これは両極として対立し合いつつも、他を自己のあり方の条件とし合っている性質です。人間にとっては病気と健康は対極的なものであり、この二つの両極性は、人間存在の中心的テーマともいえます。

ところが、現代医学は病気を、「健康な状態」を乱す嫌なものとみなし、なるべく早く退治しようとするばかりか、病気をできるだけ予防して根絶しようと試みます。しかし、病気とは、ただ単に自然の機能が乱されたものではありません。

病気は、改革のための統合防御システムの一部であり、人間は病気をしめ出すことはできません。なぜなら、健康は対極にある病気を必要としているからです。

人は健康と病気という両極性の一部です。その限りにおいて、罪や病気や死にかかわりつづけることになります。大事なのは、ここでの罪というのは、罰という意味ではありません。この世に生まれてきたこと自体が罪であり、これは言い換えればカルマです。

カルマは「宿命」です。過去(世)での行為は、良い行為にせよ、悪い行為にせよ、いずれ必ず自分に返ってくるのです。人はその一生をこれと向き合って生きていかなくてはならないのです。

この基本的な事実を認めれば、マイナスなイメージはなくなります。が、その反対に、真実を知ろうとせずに、悪いと決めつけてやっつけようとすれば、病気は怖い敵となります。

自分に欠けているものを意識に取り込めば、症状はなくなります。治癒は、意識の拡張・成熟と結びついているため、症状の性質を知ることで、痛みやキズといった物質的存在のしがらみから自由になることができます。

また、必ずしも病気とは限らず、人は自分が嫌なモノ、拒んだものとは結局、最も深くかかわることになります。自分のなかに統合しなかった本質を外部に見いだすと、気になるものです。

そして選択された性質、つまり自分が好んだモノは、反対のものを外に追い払ってしまいます。追い出されたもの、つまり、自分の性質と認めたくないものは、「影」となります。そしてこの影こそが人を病気にするのです。




しかし、一方では影と出会わない限りは、健康になることができません。これが、病気と健康を理解する二番目の重要なポイントです。

病気の症状はすべて、物質化した影です。つまり、意識のなかで体験したくないものを症状で体験するわけです。意識のなかで特定の性質を拒むと、その性質は体におりて症状として出てきます。そのため、結局その性質を体験して実現することになります。

このようにして病気の症状が現れ、これを治癒していくことで人は健康になっていくのです。

つまりは、人は両極性を見極めながら生きている、ということなります。それらは実は対極にあるのではなく、一つのものの別のあらわれ方です。病気と健康はもともとは同じものですが、病気を知らせるために健康があり、このふたつが両極性として存在しているのです。

つまり病気から回復して健康になる「治癒」とは両極性の克服ともいえます。

この健康と病気は互いに依存しあっています。対極がたがいに依存しあっているということは、両極性には、ふたつの単一性が存在するということを意味します。しかし、片方の極、すなわち片方の単一性取り去れば、両極性というものは無くなってしまいます。

また、この二つの極は同時にひとつのものとして知覚することができません。病気と健康を同時に享受することには矛盾があります。このため、ふたつの極に分けて交互に知覚するほかなく、健康でいるか、病気でいるか、どちらかでいるという状態が普通です。

ここの議論は非常にわかりにくいでしょう。しかし、両極性の問題は人間存在の中心的なテーマなので、これを正しく理解することで、病気と健康という二極性も理解できてきます。

もっとわかりやすく説明しましょう。

人は、「自分」と言うことによって、自分でないものと自分のあいだに線を引いています。このために、両極性に縛られます。なぜなら、自我は人を、自我と他我、内と外、男と女、善と悪、正と誤、などに分裂した世界に結びつけているからです。

このため、単一性や完全性を感じたり想像したりすることができません。両極性に縛られた意識は、すべてをふたつの相反するものに分けます。ところが、反対の者同士は両立しないので、片方を肯定して、もう一つを否定することになります。

片方を否定するということは、片方を除外することを意味します。こうして人は確実に不健康になっていきます。なぜならこうしたものを退けて両極性に欠けた状態こそが病気だからです。欠けたもののない状態、つまり両極性が常に両立し、その両極をうまくコントロールしている状態が健康です。

病気とは何かを知りたいと思った時、新しい見地でこの問題にアプローチするためには、世界をこのように両極的に見ることがポイントになります。反対側の極も同時に見ることを学ぶのです。こうした二極性の観点から、病気と症状を解釈し、紐解いていけるわけです。

さて、ここで具体的な例をあげてみましょう。

例えば、感染症をとりあげてみましょう。感染症は、人体に最も頻繁にあらわれる病気です。急性の症状はだいたいが「炎症」で、風邪、肺炎、コレラ、天然痘などがあります。この「炎症」という言葉には、「燃え上がる火花」という意味が含まれており、英語では“inframmation“といいます。

この言葉は、かつてヨーロッパの歴史の中で起こった数多くの戦争を連想させます。未解決の紛争が燃え上がる、導火線に火がつけられ、燃え上がる松明が家々に投げ込まれる、などなど火種には事欠かないので、あちこちで暴発・爆発が起こります。

群衆が押し寄せ、堰き止められてたまったものが一挙に吐き出される……といった情景が目に浮かぶのではないでしょうか。

これは、戦争ばかりではなく、体にもみられることです。感染症にかかってできた小さな吹き出物や膿瘍から膿が出るのがそれです。これを精神レベルに置き換えると、人が爆発するという場合、これは膿瘍などでなく、心の中の葛藤から自由になろうとする、感情的な反応です。

葛藤に対して目を閉じて感じないようにすれば、葛藤は存在しないと思い込む傾向にある人が圧倒的に多いようです。子供が目を閉じれば怖いものはなくなると信じているのとなんら変わりありません。

ところが、見ようが見まいが葛藤は存在します。意識内の葛藤を認められず、少しずつ消化して解決していこうとしない場合、葛藤は体に降りて炎症となるのです。

感染症にかかったら、人生の葛藤で見落としたものがないか、避けている葛藤はないか、葛藤があるのに認めようとしない、それは何か、を自問してみましょう。

次の例としてアレルギーを考えてみることにしましょう。これは「抵抗」です。抵抗とはなかに入れないことであり、抵抗の対極は愛です。愛はさまざまな角度、さまざまなレベルで定義できますが、愛のあらゆる形はなかへ入れるという行為になります。受け入れるということです。

他方、アレルギーとは、異物に対する過剰反応のことです。体の免疫機構はアレルギー抗原に対して抗体を形成します。体内に侵入した危険な異物から体を守る大事なはたらきが、アレルギーの人の体はこれをやりすぎてしまいます。

アレルギーを持つ人は、武装を固めて、敵のイメージを新しい領域へと次第に広げていきます。ひとつ、またひとつと敵を増やしていき、敵に対抗するためには、まずます武装を強化します。武装を許可すれば、もちろん攻撃性が高くなります。

つまり、アレルギーとは、心から抑圧されて体におりてきた抵抗と攻撃性の高まりです。アレルギー体質の人は、自分のなかにある攻撃性に気付かないため、これを抑えることができないのです。

アレルギーが治るのは、敵に回した領域と意識的に取り組み、これを意識の中に取り入れて同化したときです。アレルギー患者は、敵と和解して愛することを学ぶべきなのです。

さて、今のような寒い時期は風邪をひきやすいので、次にこの風邪についても考えてみましょう。

風邪は呼吸器官を激しく消耗させます。風邪もインフルエンザも急性の炎症なので、体内で葛藤を消化しているわけです。従って、風邪をひいた場合は、精神レベルでこの炎症の起こっている場所や領域を調べればよいということになります。

風邪をひくのは、なにかが鼻もちならない危機的状況のときです。危機的状況といっても、命が危険にさらされるようなものではなく、日ごろよくある状況で、大騒ぎするほどではないけれど心の重荷になってしばらくそこから逃げたくなる、そんな状況をさします。

ただし、それを自分に認める心の準備がまだないので、体に症状として現れます。そして風邪をひくことによって意識せずにその隠された願いを実現することができます。

例えば風邪をひいて休むことができれば、誰もが状況を理解してくれます。風邪さえひきさえすえば、やっかいな状況から距離を置いて自分をいたわることができます。そして繊細な心を体レベルの症状で展開することができるのです。

頭が痛い、目に涙がたまる、体の節々が痛む、いらいらする。全般的に感じやすくなります。人から近寄られたり触れられたりするのを極端にいやがり、鼻がつまってコミュニケーションができなくなります。くしゃみによってさらに守りを固め。やがては喉が荒れて、コミュニケーションンの媒介としての言葉も制限されていく……

こうした風邪の症状に対応するためには、背負った問題を化膿した粘液として体外に出そうと試みればうまくいきます。これが功を奏してたくさんの問題から解放されれば、まず気が楽になります。あらゆる通り道をふさいでいるねばっこい粘液が再びさらさらと流し出す。こうして風邪は流動的になって、小さな進歩の訪れを告げます。

ある自然療法では、風邪は体から毒を洗い流す健康な洗浄作用とみなされています。精神レベルでも毒は問題であり、これが排出されることで、体も心も元気になって危機を脱するのです。

ただし風邪は誰でも何度もひきます。風邪をひかないでいられるのは次に何かが鼻持ちならなくなることが起きるまでのひとときです……

最後の例として、現在の私のテーマである、ものもらいについて考えてみましょう。これは、感覚器官である「目」の病気です。目や耳、口といった感覚器官は外と中をつなぐいわば入口です。この心の窓を通して結局は自分自身を見ることになります。私たちは感覚器官を通して外界を体験し、それが実際に存在すると信じています。

しかし、実はそんなものは存在しません。外界と自己は一体、ひとつのものです。と、一言でいってもわかりにくいので少しづつ説明していくことにしましょう。

例として鉄の棒をイメージしてみてください。黒い色を見、金属の冷たさを感じ、独特の臭いを嗅ぎ、触ると固いものです。

熱すると色が変わって赤く焼け、熱を発します。このとき叩けば変形します。これは何が起こったかといえば、鉄にエネルギーを加えたために、素粒子の動きが早まったためです。このために我々の感覚が変わり、「赤い」「熱い」「柔軟」と感じられるようになったのです。

つまり、素粒子の相互作用と振動数の変化を我々は感覚器官で感じ取っているわけです。素粒子は感覚器官の特定レセプターに届いて刺激を与えます。刺激は化学電気のインパルスを介して神経組織から脳へと伝わり、「赤い」「熱い」「においがある」などと表現され、脳の中で複雑な絵となります。

素粒子を感じ取ることで、複雑な感覚モデルがアウトプットされるわけです。ところが、こうした素粒子の情報が処理され、意識が複雑な絵が外界に存在することを認識すること自体が実は錯覚です

外にあるのは実は素粒子だけなのですが、悲しいかなこの素粒子というものを私たちは直接見ることができません。「感覚」は素粒子あってのものなのですが、これを直接感じ取ることはできないのです。つまり、まわりにあるのは我々が絵と思っている主観的な「像」でしかないわけです。

また、あなたの隣人(実はこれも本来は素粒子の塊ですが)が鉄の塊の状態を同じ言葉で形容すれば、自分と同じものを見ていると思ってしまいます。が、実際には二人の人間が同じものを見ているかどうかは判断できません。実は別々のものを見てそれぞれが鉄のようなものと認識しているだけかもしれないのです。

今見えている像は、確かに夢のように鮮やかですが、それも夢見ているだけで、ひとたび白昼夢から目覚めると、真実だと信じて疑わなかった世界ががらがらと崩れてなくなってしまうかもしれません。そして人はすべては真実を覆い隠す幻想だと知っておののきます……




この考え方に反論する人も多いでしょう。周囲の世界は、素粒子なるものとして現実に存在するではないか、という反論はあってしかりです。

しかし、よくよく考えればこの考え方もまたまやかしに過ぎません。素粒子レベルでは自我と他我、内と外の境というものは存在しないからです。ある素粒子が自分に属しているのか、それとも外界の一部かを知ることはできません。素粒子レベルではすべてがひとつで境界というものは存在しないのです。

つまり、我々が「自我」として認識しているものは、人(自分)が勝手につくった境界であり、意識内にしか存在しません。この自我を手放して、実はすべてがひとつという状態しかないことを認識すれば、この境界はなくなります。すなわち、「孤独」というものも存在しなくなります。

感覚器官は、心の窓です。この窓を通して自分自身を見るためのものであり、周囲の世界とか外界とか呼ぶものは、例えていえば自分の心を写す「鏡」です。この鏡のおかげで、自分自身を見つめ、認識することができます。映し出される像がない場合は、それを見せてくれます。見たいと思った自分を見せてくれるのです。

こう考えると、一見自己とは切り離された存在である「周囲の世界」は、自己認識を助けてくれるすぐれた補助材であることがわかります。そして、その補助材を見せてくれるものこそが、「感覚器官」なのです。

ところが、この鏡には自分の嫌な影の部分も映し出されるため、こうした像を見るのはからならずしも心地よいとはいえません。このため、時に外界を自分から切り離して、「これは自分とはまったく関係がないんだ」と言い切ろうとします。

これは大変危険なことです。自分の姿を外界に投影させておきながら、その映像は独立したものだと信じてしまう。このため、映像をふたたび受け止めようとしません。つまりは、自分のことを顧みなくなり、例えば他人の世話ばかりやこうとするようになります。自己というものの喪失です。この状態は病気であるといえます。

自己を認識するためには外界の投影が必要なはずですが、健康になるためには投影をふたたび自分の中に採りいれなくてはなりません。そしてこの行為こそが「感じ取る」ということです。

「感じ取る」ということは、真実を認識するということでもあります。感じ取ったもののなかに自分自身を見出せばいいのです。これを忘れると、心の窓、つまり感覚器官が徐々ににぶるので、感覚を内部に向けるほかなくなります。

感覚がきちんと機能しなくなると、内部に目を向け耳を傾けるようになります。いやでも自分自身を省みることになるのです。

自分と外界との境がわからなくなったら、感覚器官のチューンナップをしましょう。

自分を常にみつめ、内省がいつでもできるようにするためには瞑想法を試すという手もあります。手や目や耳や口を閉じ、相当する内部の感覚について沈思します。何度か練習しているうちに味覚や色や音となってあらわれます。そして「感じ取る」という感覚が戻ってくるでしょう。

さて、目です。目は感覚器官の代表ともいえるでしょう。印象を取り入れるとともに、感情や気分を伝える役割もはたします。そのため、私たちは相手の目から心を読み取ろうとします。目は心の鏡です。涙を出して心の状態を外に知らせることもあります。

目からその人の性格や個性を読み取ることもできます。目が内部のものを外に出す器官であることは、危険な目つき、人を惹きつける目つき、などからわかります。

視線を投げる、これは目が能動的になることも示します。目がないといえば、大好きという意味です。すなわち、夢中になると現実が見えなくなります。恋は盲目と言いますが、恋していると自分の姿が見えないものです。愛するものは目に入れてもいたくありません。

目の障害で多いのが近視と遠視です。近視は主観性を示します。何もかも自分のメガネを通してみる、つまり主観的に観るので、なにかが話題になるたびに自分のことを指摘されていると思ってしまいます。自分の鼻先しか見えず、自己を認識することができない状態に陥ります。

私たちは見たものを自分に結びつけて、そこから自分を知るように努めるべきですが、自分を見つめすぎ、主観性から脱却することができなければ逆効果になってしまいます。従って近視になった人は、客観性を養うことで再び視力が養われてくる……かもしれません。

しかし多くの人は、一生自分を客観視できず自分しか顧みないで過ごすため、視力が回復することはありません。

熟年の人は、たいてい遠視になります。この年齢になると人生経験に基づいて見識や遠望を磨いてきているはずです。が、それができていないから遠視になります。意固地になり、遠い将来を見据えることができなくなります。遠望を遠視という体レベルだけでしか体現できていないわけです。

このほか目の病気を持っている人は、次の質問に答えてみましょう。

見たくないものは何か?
主観性が強くて自己認識ができないのではないか?
できごとのなかに自分自身をみているか?
見たものを見解の形成に利用しているか?
ものごとの輪郭をはっきり見ることに不安を感じていないか?
ものごとをありのままに見ているか?
目を背けたいのは自分の姿のどの部分か?

さて、私のものもらいは、どれに該当するのでしょうか。よくよく考えてみれば、ものもらいは、炎症のひとつでもあります、従って目の病気というよりも上述のように心に何等かの葛藤があるのかもしれない……と思ったらはっとするものがありました。

ただ、目にできた炎症ということで、上の中にも答えがあるのに違いありません。沈思してみると、この中にも該当がありそうです。がここではそれが何かは披露しません。私自身の問題ですから、自分でしか解決できないからです。

それでも知りたい?ご想像におまかせします。



さて、ここまで述べてきたように、あなたの病気の症状は、あなたが意識化していないことを意識化できるようにいつもさまざまなメッセージを送ってくれているものです。

現在、神経痛やアレルギー、皮膚等の各症状はほとんどといっていいほど原因がよくわかっていません。わたしたちが何より知りたいのは、こうした医学だけでは解明できていない病気の原因であり、なぜそうなったかではないでしょうか。

上であげた風邪の例でも実感できることです。なぜ、風邪をひいたのか、いつのまにやら咳き込んでいるが、どこでもらったかわからない。しかしよくよく考えてみると、風邪を引いた理由が分かるような気がする。何かの現実逃避をしたかったのかもしれない……

こうして考えてくると、からだのどこかに不調を感じているその時にはあまりにも自分自身の本当の声や感情を押し込んでいるため、自分でもわからなくなっていることが多いものです。が、その原因を精神レベルでよくよく考えて紐解いてみると、案外とその症状の改善につながっていく道筋が見つかるのではないでしょうか。

「もしあなたが健康を望むのなら、あなたは病気の原因を取り除くための心の準備ができていなくてはならない。その時、はじめて、私はあなたを助けることができる」というのはピポクラテスの言葉です。

古来、多くの賢人が、自身の顕在意識より体の方が正直であり、これが実は心の病いをも表しているという意味のことを述べています。

「心の準備ができていなくてはならない」というのも、深い意味がそこにはあるように思います。病気というのは、自分たちの心から来ているものだと気づくことで、それを治すための準備を行い、その上でじっくりとこれに取り組むことで、自分自身を助けることができるのです。

自己犠牲とてんでんこ


最近、テレビでは、頻繁に野党の再編に関するニュースが流れています。

中でも、みんなの党の分裂問題がよく取り上げられ、江田憲司前幹事長らと渡辺代表の不仲が報道され、ワイドショーなどではこの話題の裏面を面白おかしく流しています。

江田氏らは、離党届を提出し、年内に新党を結成する考えのようで、民主党、日本維新の会の一部議員とも連携を強めており、今回の新党結成が将来の野党再編につながる可能性もあるようです。

みんなの党を去るにあたって、江田氏は「みんなの党は結党の原点を忘れて変わり果てた。自民党にすり寄る動きも見られる。もはや将来はない」と渡辺喜美代表の党運営を痛烈に批判。

これに対して渡辺代表は都内で記者団に対し「江田氏の新党準備行為は反党行為だ。党を出ていっていただく」と強調。しかも江田氏の離党届を受理せず除籍とし、江田氏に同調する比例代表選出議員には議員辞職による議席返上を求める考えを示しました。

「みんな」というからには強い友情で結ばれ、固い結束を持って作られた党かと思っていましたが、これではみんなの党どころか、「オレオレの党」です。

ま、政党なんてものは昔から分裂と合体を繰り返して形を変える歴史を繰り返してきたわけなので、主義主張が異なれば袂を分かつこともあるでしょう。

ただ、それぞれ自分たちは正しいと思っているかもしれませんが、我々からみれば仲間割ればかりを繰り返しているだけに見え、肝心の政治が見えません。いつまでたっても自民党と対等に渡り合える安定した野党というものができないことに、国民が苛立ち、呆れかえっていることぐらいは気が付いて欲しいものです。

ところで、この「友情」とはどういう定義になっているのかな、とウィキペディアで調べてみたところ、これは「共感や信頼の情を抱き合って互いを肯定し合う人間関係、もしくはそういった感情のこと」と書いてありました。

友達同士の間に生まれる情愛のことで、しかしそれはすべての友達にあるものではなく、「自己犠牲」ができるほどの友達関係の中に存在する、とも書いてあります。

友情で結ばれた「友達」は互いの価値を認め合い、相手のために出来ることをしようとするものでしょう。友情は、互いの好感、信頼、価値評価に基づいて成り立っているもの、という定義は誰でも納得できるものはないでしょうか。

しかし、真の友情を育むことができる友達というのは、友達の中でも特に親しい人間でしかなく、しかも自分を犠牲にしてまでその友情を維持できるか、と考えると、なかなかそういう友達を得るのは容易ではありません。私にもそういう友達は数えるほどしかいません。いや、ひとりもいないかも。

じゃあ自己犠牲とはいったい何なのよ、ということなのですが、辞書を引いてみたところ、これは「目的達成のために自己の利益や時に生命までも捨てて挑んだり行動したりすること」だそうです。

一般に、何かを自分よりも優先させるという行為をする場合には、自分を捨て去る必要があります。しかし、それが簡単でないからこそ、自分を捨ててまで相手を助けるというその行動は感動され、時には賞賛されます。

こうした行為は人間だけでなく動物にもみることができるでしょう。動物の場合は特に親子愛が強いものが多く、子供が危機に瀕したとき、身を捨ててまでこれを助けようとします。

とくにゾウは仲間意識が強いことで有名で、たとえ親子でなくても助け合います。今年インドで群れの1頭が列車に轢かれて命を落とす事故が起きたとき、仲間のゾウ15頭が現場付近に居座り出し、身を挺して人間に怒りを見せる集団行動を見せたそうで、これにより鉄道や周辺の家に被害も出たそうです。

無論、こうした行為は古くから人間にもみられ、これによって人類の歴史の一部が形成されてきたと言っても過言でもなく、自己犠牲は宗教によっても高貴なものだと位置づけられてきました。

般若心経では自己犠牲とは自己を放棄することで、「自我を捨て、無我になる」すなわち自分以外のもの、普遍的世界だとしています。法華経でも自分の利益を犠牲にして他人の利益を図る「利他心」は当然の真理とし、これほど尊いものはないと教えられています。

また、ご存知キリスト教では、約2000年前、イエス・キリストが人類の罪を身代わりに受けるために十字架に架かったことから自己犠牲は愛だとされています。ヨハネ福音書にも「友の為に命を捨てる以上に大きな愛はない」と書いてあるとおりです。

ただ一方で自己犠牲は、「自分さえ我慢すれば良い」と同義だとも考えられ、これが過ぎると自己を壊してしまうといった面もあるでしょう。

自分を潰してしまってまで人に恩義を与えることができるか、と問われるとうーんと唸ってしまいますし、何やら自虐的な行為にも思えます。

人間だけでなく、動物は一般に、まず自己の生命が大事ですから、基本的に利己的なものであり、自己犠牲は誰しもができることではありません。それゆえに、一見、自己犠牲は、貴い行動であるように見えます。

しかし、貴いものであるとされる一方で、必ずしも他者のためにのみ行われる行為ではないという見方もあり、むしろ自分のために行う行為なのではないかという人もいます。

自己犠牲という行為に及ぶ場合、実は他人のために犠牲になっている自分が愛おしいというナルシスティックな自己満足、言い換えれば自己陶酔に浸っているという側面があるのではないでしょうか。

自己犠牲することは実は自分が愛しいという現れでもあり、それゆえに、普段は自己の利益ばかりを追求しているのに、一転そうした本能に反する行動にも踏み切ることで、むしろその行動に陶酔し、自分はエライ!と褒めてやることができるというわけです。

非常に矛盾しているというか、繊細なというか、解釈の難しい問題です。

それゆえか、この自己犠牲というテーマは芸術作品の対象として良くとりあげられ、古今多くの小説や戯曲、映像などが造られてきました。

文芸作品としては、これをテーマにした作品として、私的には山本周五郎、三浦綾子といった作家の作品がすぐに思い浮かびます。

山本周五郎では「樅の木は残った」が有名であり、三浦作品では、「塩狩峠」などがあります。ほかにも宮沢賢治の作品に、「よだかの星」「グスコーブドリの伝記」などがあります。

よだかの星というのは、「よだか(ヨタカ・夜鷹)」という種類の鳥が、自分が生きるためにたくさんの虫の命を食べるために奪っていることを嫌悪して、生きることに絶望する、という話です。

太陽へ向かって飛びながら、焼け死んでもいいからあなたの所へ行かせて下さいと願いますが、太陽には、お前は夜の鳥だから星に頼んでごらんと言われ、星々にその願いを叶えてもらおうとします。しかし、相手にされず、居場所を失い、命をかけて夜空を飛び続けたよだかは、いつしか青白く燃え上がる「よだかの星」となる……というストーリーです。

自分が死ぬことで多くの虫の命が救われるというところが、自己犠牲の象徴ということのようで、宮沢賢治が25歳のころに執筆し、賢治が37歳で亡くなった翌年の1934年(昭和9年)に発表されています。

また「グスコーブドリの伝記」というのも、イーハトーブ(宮沢の言う理想郷)の森に暮らす樵(きこり)の息子が、身を挺して火山噴火を食い止め、イーハトーブを飢饉から救う、というお話です。こちらは賢治の代表的な童話の一つであり、生前発表された数少ない童話の一つでもあります。

山本周五郎の「樅の木は残った」は、江戸時代前期に仙台藩伊達家で起こったお家騒動「伊達騒動」を題材にしています。この騒動によって徳川幕府から伊達藩をお取り潰しの憂き目になりそうになるところを、家老の一人が自らが悪人の汚名を着てこれを食い止める、という話です。

史実に基づいてはいるものの、現実にはなかった話も交えて山本周五郎がフィクションとして完成させた小説ですが、歴史物としては大ヒットし、1959年には毎日出版文化賞をも受賞しました。周五郎作品の中でも最も多く映像・舞台化されているひとつです。

一方の三浦綾子の塩狩峠もまた、多少の脚色をしていますが、こちらはほぼ史実を踏襲しています。小説の主人公の永野信夫は実在の人物でクリスチャンであり、本名は長野政雄といいました。国鉄の前身である鉄道院の職員だった人で、1909年(明治42年)2月28日、ここ塩狩峠に差し掛かった旅客列車にたまたま乗り合わせていました。

小説のほうでは、主人公がある女性と結納を交わす予定だった当日、名寄駅から鉄道で札幌へ向かう途中、塩狩峠の頂上にさしかかろうという時にこの事故が起こったことになっています。

おそらくは結納というのは話を盛り上げるための脚色で実際にはそうした事実はなく、しかしこのとき長野政雄がこの列車に乗っていたというのは事実で、この日、彼が乗る最後尾の車両の連結部が外れるという事故が起きました。

長野は乗客を守るため、咄嗟に列車を飛び下り、暴走する客車の前に身を挺して暴走を食い止め、彼の身を挺したこの行為によりこの列車に乗っていた他の乗客全員の命が救われました。

鉄道院職員だった彼のこの行為は、この当時大きな反響を呼び、事故死ではありましたが、長野はこれにより殉職扱いになりました。現在、塩狩峠の頂上付近にある塩狩駅近くには、顕彰碑が建てられており、また塩狩峠記念館、文学碑なども建てられています。

この小説は、1973年に松竹によって映画化もされています。さらには小説版の話を元に埼玉県が、これを簡約し、小学校の道徳の教科書に「かけがえのないきみだから」として掲載しており、美談として全国的にも著名になりました。

ちなみに、この塩狩峠は、当初は全国でも有数の難所の一つでしたが、後年改良され、現在では曲線、勾配とも緩やかな峠となっています。

こうした自己犠牲についての小説を書いた三人はそれぞれ、宗教活動に熱心でした。

宮沢賢治は法華経の信奉者であり、山本はキリスト教信者でしたし、三浦綾子もキリスト教信者であったことは有名です。夫の三浦光世も洗礼を受けており、アララギ派の歌人でした。

1999年(平成11年)に三浦綾子が亡くなったあと、その夫婦愛を綴った著作を出版しています(「妻と共に生きる(2000年)」「妻 三浦綾子と生きた四十年(2002年)」など)。

ちなみに、三浦綾子にとってはこの光世との結婚は二度目であり、先夫は肺結核で亡くなっています。ところが、この光世は先夫その容貌が非常に似ていたそうで、彼女が初めて光世と出会った時、死んだはずの前夫が生き返って目の前に現れたかと思うほど驚いたというエピソードが残っています。魂の上での出会いだったのでしょうか。

この塩狩峠と似たような話は、のちの昭和時代にも起こっています。長崎県西彼杵郡時津町(旧時津村)に地蔵菩薩が安置された「打坂地蔵尊」という場所がありました。ここでもやはり乗客・運転士の命を救い、殉職したバス車掌がいました。

1947年(昭和22年)年当時の打坂は現在より勾配がきつく、しかも片側が深い崖になっており、運転手からは「地獄坂」と恐れられた難所でした。

戦後すぐの当時のバスは現在のようなディーゼルエンジンではなく、木炭バスとよばれる木炭を代替燃料に使用したバスでした。走行中にエンジンが停止することも多かったので、坂道では乗客が降りてバスを押すこともあったといいます。

1947年(昭和22年)9月1日、大瀬戸(旧大瀬戸町)発長崎行きの路線バスのエンジンがこの場所で停止しました。運転手はブレーキをかけようとしましたが故障しており、そのままバスは坂を後退していきました。

バスを降りて止めるように指示された車掌は「鬼塚道男」といい、石を車止めにしようと試みたものの、加速がついており、多くの客がバスに乗っていたため、バスは石を乗り越えてしまい、崖まであとわずかというころまで迫りました。

その時、鬼塚車掌が自らバスと車輪の間に潜り込み、崖まであと数メートルというところで自分の体を輪止めにしてバスを止めました。乗客・運転士は全員無事でしたが、鬼塚車掌は搬送先の病院でわずか21歳というあまりに短い生涯を終えました。

現「さいかい交通」となった、長崎バスはこのときの鬼塚道男車掌を称え、27年後の74年(昭和49年)には事故現場付近に記念碑を建立しています。

さらに我々の記憶に新しいところでは、2000年(平成12年)に起こった鉄道事故でも運転手の自己犠牲が話題になりました。

12月17日13時ごろ、京福電気鉄道永平寺線の永平寺発東古市(現在の永平寺口駅)行き上り列車がブレーキ破損により分岐駅である終点の東古市駅に停車できず冒進し、越前本線の福井方面に分岐器を割り込んで進入しました。

この結果、越前本線の福井発勝山行き下り列車と正面衝突し、上り列車の運転士1名が死亡、両列車の乗客ら24名が重軽傷を負いました。

ブレーキ故障後、当該列車の佐々木忠夫運転士(当時57歳)は、無線でブレーキ故障・停止不能を連絡しつつ、乗客に車両後部へ避難し、空気抵抗を増して減速させるために出来るだけ多くの窓を開けるように指示しました。

このため、列車は減速には成功したものの、衝突は免れず、下り列車に激突して先頭車両は大破しました。しかし、ある程度スピードを落とすことができたため、客車への被害は軽微で済み、乗客には1人の死者も出ませんでした。しかし、佐々木運転士は退避可能であったにも関わらず、衝突する最後の瞬間まで運転席に留まり、殉職しました。

ごくごく最近でも、今年の10月、横浜市緑区のJR横浜線の踏切で、倒れていた男性74を助けようとした会社員の村田奈津恵さん40歳が電車にひかれて亡くなったことは記憶に新しいところです。

この献身的な行動は多くの反響を呼び、その勇気を称える声が日本中に湧き上がり、先月、安倍晋三首相は「勇気をたたえる」とした内容の書状を遺族に贈っており、これに先立ち県と横浜市も知事と市長の名で「感謝状」を贈っています。

このように自己犠牲の話となると、やたらに鉄道が目立つのですが、無論、鉄道だけのことではありません。

今年の9月には、台風で増水した淀川に転落した9歳の男児を救助した中国人留学生が警察から感謝状を贈られ、先月には首相官邸に招待されて総理から感謝状をもらっています。このように鉄道事故だけでなく、水の事故では、溺れようとする相手を助けるために、自らも海川に飛び込み、自らの命を落とすというケースが毎年のように起こります。

水難の話としては、有名な話で「稲むらの火」というのもあります。1854年(安政元年)の安政南海地震津波に際しての出来事をもとにした物語で、地震後の津波への警戒と早期避難の重要性、人命救助のための犠牲的精神の発揮を説いたものです。

小泉八雲の英語による作品を、翻訳・再話したものが1937年から10年間、国定国語教科書(国語読本)に掲載され、防災教材として知られるようになったもので、現在もリメイクされ教育界や防災関係者から高く評価されています。

もとになったのは紀伊国広村(現在の和歌山県有田郡広川町)での出来事で、主人公・五兵衛のモデルは濱口儀兵衛(梧陵)という実在の人物です。

濱口梧陵は、幕末の文政3年(1820年)に、紀伊国広村(現・和歌山県有田郡広川町)で紀州湯浅の醤油商人である濱口分家・七右衛門の長男として生まれました。のちの実業家・社会事業家・政治家であり、雅号として「梧陵」を名乗りました。

12歳で本家(濱口儀兵衛家)の養子となって、銚子に移り、その後、若くして江戸に上って見聞を広め、開国論者となっています。海外留学を志願していましたが、開国直前の江戸幕府の受け容れるところとならず、30歳で帰郷して数々の事業を営んで成功させました。

家業で醤油醸造業を営む「濱口儀兵衛家」においてもここの当主となり、七代目濱口儀兵衛を名乗りました。この濱口儀兵衛家は、現「ヤマサ醤油」であり、濱口儀兵衛はこの大会社の礎を築いた人でもあります。

成功後には、地元の子女の教育にも尽力しており、広川町では現在でも偉人として称えられています。嘉永5年(1852年)には、同業の濱口吉右衛門・岩崎重次郎とともに広村に稽古場「耐久舎」を立てており、これは現在の和歌山県立耐久高等学校となっています。

この濱口梧陵をモデルとして小泉八雲によって創作された物語、「稲むらの火」のほうは、実際の話を加工し、多少脚色してあります。

原作のストーリーとしては、村の高台に住む庄屋の「浜口五兵衛」が、地震の揺れを感じたあと、海水が沖合へ退いていくのを見て津波の来襲に気付きます。祭りの準備に心奪われている村人たちに危険を知らせるため、五兵衛は自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に松明で火をつけました。

火事と見て、消火のために高台に集まった村人たちの眼下で、津波は猛威を振るいますが、五兵衛の機転と犠牲的精神によって村人たちはみな津波から守られた、というものです。

小泉八雲は、この小説の英語表題を “A Living God ” としており、彼としての原題の意味は「西洋と日本との神の考え方の違いについて」であり、必ずしも自己犠牲がテーマではありません。人並はずれた偉業を行ったことによって「生き神様」として慕われている濱口梧陵を通して日本人の神に対する考え方を表現したかったようです。

この小説を書こうとした小泉八雲は、作中にも触れられている明治三陸地震津波における紀伊国広村(広川町)の惨状をたまたま聞き、この作品を執筆したと推測されています。

津波の描写に関する部分は、又聞きによって書かれたためか、地震の揺れ方や津波の襲来回数など、史実と異なる部分も多いそうで、また小泉作品では「地震から復興を遂げたのち、五兵衛が存命中にもかかわらず神社が建てられた」とされていますが、これも誤りのようです。

このように「稲むらの火」は濱口儀兵衛(梧陵)の史実に基づいてはいるものの、実際とは異なる部分が多いようで、その後これをもとに翻訳した小学校向けの教本本(国定教科書)もこうした間違いをあえて踏襲したようです。

史実と物語の違いは教本としての採用時にも認識されていたようですが、五兵衛の犠牲的精神という主題と、小泉・中井による文章表現の美しさから、安政南海地震津波の記録としての正確性よりも教材としての感銘が優先されたようです。

英語で書かれた小泉八雲の原本をこうした小学生向けに最初に再話・編集したのは、地元広川長の小学校の先生だった、「中井常蔵」という人です。

昭和の初めに文部省が、小学校の国語の教科書に載せる文章を初めて民間から公募した際、この募集を知った中井は、郷土の偉人、浜口儀兵衛の事績を八雲の作品をもとにして、短く、小学生でも分かるように再話したものを書き上げました。

そして、文部省応募したところ、採用され国語読本として長い間読まれるようになったもので、現在は学校だけでなく、地方行政においても防災教材として配布されています。市町村の役場に置かれているパンフレットに漫画入りで掲載されているこの物語を手に取って見たことがある方も多いのではないでしょうか。

小泉八雲の原作を忠実に踏襲したこの作品はまた、実在の人物だった濱口儀兵衛(梧陵)の人物像や実際に取った行動とも異なる部分も多く、そうした相違点は、ストーリーの根本に関わる部分にも存在します。

例えば農村の高台に住む年老いた村長とされている五兵衛に対して、史実の儀兵衛はこの当時既に地元では指導的な商人と目されてはいましたが、まだ若干35歳に過ぎず、住んでいた家は海岸近くではなく、町中にありました。また、儀兵衛が燃やしたのは稲穂のついた稲の束ではなく、脱穀を終えた藁の山でした。

こうした、藁山のことを紀伊地方では「稲むら」と呼ぶことがあるといい、これが「稲むらの火」のネーミングの由来ですが、実際には脱穀処理済の藁にすぎず、これに火をつけたというのが事実のようです。

また、儀兵衛が火を付けたのは津波を予知してではなく、津波が来襲してからであり、暗闇の中で村人に安全な避難路を示すためだったそうです。従って、刈りいれたばかりの稲穂に火をつけてまで村人を救ったというのは、多分に脚色された美談といえ、実際に自分の利益を失ってまでみせた犠牲的行為だったとはいいきれません。

にもかかわらず、濱口梧陵が地元の人に「生き神様」として慕われているのは、被災後も将来再び同様の災害が起こることを慮り、私財を投じてここに防潮堤を築造した点です。これにより広川町の中心部では、昭和の東南海地震・南海地震による津波に際しても被害を免れました。このことは「稲むらの火」には描かれていません。

この広村堤防と呼ばれる堤防は和歌山県有田郡広川町に現存し、国の史跡に指定されるとともに防潮堤としても機能しています。

広川町は、紀伊半島南西部に位置し、太平洋に面しているばかりではなく、湯浅湾の最奥部に位置するため、古くから津波で甚大な被害を何度も受けてきた場所です。

この対策として、室町時代に、ここを治める豪族の畠山氏が堤防を築きいたりもしましたが、その後、安政元年11月5日(1854年12月24日)には、いわゆる「安政の大地震(安政南海地震)」が勃発し、広村(現広川町)の339戸に大きな被害をもたらしました。

津波襲来後、村内は大混乱に陥ったようですが、このとき濱口梧陵は大量の藁の山に火をつけ、これを目印として避難路を住民に示し、襲来する津波二波、三波から村人を救いました。

これにより、このときの村の被害は、流出家屋125戸、半壊家屋56戸でしたが、死者に関しては、安政の大地震時の被害を大きく下回る30人に抑えることができました。

その後、地震から教訓を得た梧陵は、同志と大堤防の築造を計画し、安政5年(1858年)に約3年10か月もの歳月を費やした大堤防広村堤防を完成させました。堤防の完成と同時に植えた黒松とハゼノキの防潮林は、昭和21年(1946年)の昭和南海地震の際には、津波を食い止め、集落を守るという重要な役割を果たしました。

こうした功績を称え、昭和8年(1933年)には、広村堤防の傍に濱口梧陵の偉業と徳を讃える「感恩碑」が立てられ、以後、毎年11月に碑の前で津浪祭が行われているそうです。畠山氏の築いた古い堤防もまた広村堤防とともに保存され、コンクリートで補強されて現在も津波防災対策に活用されています。

このように、脚色されたストーリーではありますが「稲むらの火」においてもまた、自己犠牲が、多くの人を救ったとされています。しかし、一昨年に起こった東日本大震災に伴う津波災害のような、1000年に一度と言われるような大規模な天災においては、必ずしもこうした自己犠牲だけでは多くの命を救えませんでした。

「津波てんでんこ」ということばがあります。1990年(平成2年)に岩手県下閉伊郡田老町(現・宮古市)にて開催された第1回「全国沿岸市町村津波サミット」において、津波災害史研究家である山下文男らによるパネルディスカッションにおいて生まれた標語で、「命てんでんこ」という呼び方もあるようです。

山下文男(二年前の2011年に死去)は、日本の津波災害史研究家として知られていた人ですが、もともとは、日本共産党の中央委員会の文化部長も務めた人です。

晩年になってからは政党活動を引退して防災対策の活動などに身を投じるようになり、著書の「津波ものがたり」では「日本自然災害学会賞」功績賞を受賞し、このほか「平成15年度防災功労者表彰」なども受けています。

岩手県気仙郡綾里村(現大船渡市三陸町綾里)出身で、1896年の明治三陸津波では祖母ら親族3人を含む一族9人が溺死。彼が9歳のときの1933年にも昭和三陸津波に遭い、高台に登って難を逃れた経験を持ち、この時期の昭和東北大飢饉も体験している人です。

「てんでんこ」は、この地方で「各自」「めいめい」を意味する名詞「てんでん」に、東北方言などで見られる縮小辞「こ」が付いた言葉で、すなわち、「津波てんでんこ」「命てんでんこ」を直訳すると、それぞれ「津波はめいめい」「命は各自」という意味になります。

このため、「津波てんでんこ」「命てんでんこ」を防災教訓の用語として解釈すると、それぞれ「津波が来たら、取る物も取り敢えず、肉親にも構わずに、各自てんでんばらばらに一人で高台へと逃げろ」「自分の命は自分で守れ」ということにもなります。

津波などの災害の多いこの地方では、古くから「自分自身は助かり他人を助けられなかったとしてもそれを非難しない」という不文律があったといい、この「てんでんこ」には災害後のサバイバーズ・ギルトをケアする効果や人間関係の修復の意味をも言外に含まれれていると考えられます。

サバイバーズ・ギルト(Survivor’s guilt)というのは、戦争や災害、事故、事件、虐待などに遭いながら、奇跡的に生還を遂げた人が、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感のことです。

津波などの突然の災害では、自分が逃げるのが精いっぱいで、他人を助けることができず、このため事後深い罪悪感を感じる人が多いものです。

この「てんでんこ」という言葉は、非常に語呂よい響きを伴うこともあり、人によってはその意味を誤解し、他人にかまわず逃げろという、やや利己主義的な用語と受け取られてしまうという危惧もあります。

しかし、元々この言葉を防災の標語として提唱した山下文男氏は、この言葉には「自分の命は自分で守る」ことだけでなく、「自分たちの地域は自分たちで守る」という意味が込められていると主張しました。

緊急時に災害弱者(子ども・老人)を手助けする方法などは、地域であらかじめの話し合って決めておくよう提案し、そうした事前の準備の励行も含めて「てんでんこ」という言葉を流行らせようとしたのです。

つまり、この標語の意味は「他人を置き去りにしてでも逃げよう」ということではなく、あらかじめ互いの行動をきちんと話し合っておくことで、離れ離れになった家族を探したり、とっさの判断に迷ったりして逃げ遅れるのを防ぐことを第一に考えよう、ということになります。

山下がこの言葉の理解を広めようとしたきっかけとしては、1993年の奥尻島での津波における近藤家母子の悲劇があり、これを自身による公演やその著作でしばしばとりあげ、津波被害の象徴的な例として挙げています。

この事例は、手をつないで避難していた母子3名が、途中で祖母の家に立ち寄ったため、わずかな時間差で命を落としたというものです。しかも、このときこの祖母がすでに避難していたのにも関わらず、それを知らずに3人は尊い命を落としたのでした。

山下は、母がわが子を連れ立って逃げたにもかかわらず、その際に祖母を救おうとして命を失ったという痛ましいこの話から、人の命を救うということの意味の重要性、むずかしさをつくづく考えさせられたと述懐しています。

こうして生まれた「津波てんでんこ」は、災害時の行動スキームを事前に地域で共有することを唱えた防災思想です。

「ばらばらに自分だけでも逃げる」という行為は、その意志を共有することで互いを探して共倒れすることを防ぐための約束事でもあります。これは、自分が助かれば他人はどうなっても良いとする利己主義とはまったく異なる発想です。

自己犠牲のもとに人を救うことはできる。しかし、それで自分が死んでしまっては意味がない。こうした大災害時には、人には構わず、まず逃げる。そうした考えをあらかじめ共有しておくことによって、自己犠牲によるよりももっと多くの人を救うことができる、という呼びかけでもありました。

やがてこの山下が提唱したこの標語は、防災の意識を高めるものとして使われるようになり、1990年以降は、東北地方では多くの人が意識するようになっていきました。

1990年に岩手県田老町で開催された「全国沿岸市町村津波サミット(第一回)」において山下氏はこの用語に関連して、さらに次のような自分の家族に関するエピソードを語っています。

山下が9歳のころ(1933年)の昭和三陸津波で発生しましたが、このとき彼の父や兄弟は末っ子の彼をひとり置き去りにして逃げたそうです。山下の母は、後年、このときの父親の非情さを度々なじり、これに対して山下の父はその度ごとに、「なに!てんでんこだ」と反論したといいます。

彼によれば、この当時はまだ皆々が自分で逃げるという意味での「てんでんこ」という言葉は広くは浸透していませんでしたが、このころ既に山下家では、有事の際にはそれぞれが勝手に逃げる、という行為を表すことばとしてこれを合言葉にしていたそうです。

この三陸津波の際、山下の友人の多くもまた同じように置き去りにされたそうで、このころ山下家だけでなく、彼らが住まう集落内でも「てんでんこ」ということばはありませんでしたが、「津波のときにはまず各々が逃げることが大切」という行動規範は浸透していたといいます。

このため、山下の父もまた「こういうときは、みんなバラバラに逃げるものだ」ということを「てんでんこ」と表現したのですが、さすがに奥さんには幼い子供を置いて逃げた父親のこの行為を受け入れがたかったのでしょう。

あるいは、山下の母は他の場所から嫁いできたため、こうした考え方を受けいれることができるには、少々日が浅かったのかもしれません。

その後、このように山下が各種の公演やサミットで語ったエピソードが徐々に注目されるようになり、彼の講演への参加者や地震・津波災害に関する有識者らとのやりとりのなかで、「津波てんでんこ」は人々の間に次第に浸透していきました。

ちなみにこの頃の有識者とは、広井脩、阿部勝征、津村建四朗、伊藤和明、渡部偉夫といった地震や津波などの災害対策に造詣の深い専門家たちです。

広井脩元東大教授は既に亡くなっていますが、阿部勝征さんは大規模な地震災害が起こるたびにNHKなどに引っ張り出されており、私がかつて所属していたことのあるNPO法人の副理事長でもあります。広井教授は、生前ここの理事長でもあり、災害情報学においてはこの道の権威でもありました。

こうしてその後は、北海道南西沖地震(1993年)や北海道十勝沖地震(2003年)などで津波の被害が出るたびに、「津波てんでんこの話が被災地にもっと普及していれば……」とマスメディアに標語が取り上げられることも多くなっていきました。

2003年9月27日の朝日新聞の社説には、「三陸沖やチリの地震で津波の被害に何度もあっている三陸地方には、津波てんでんこという言い伝えがある」書かれ、このためその後、この言葉はいかにも古い言い伝えであるというふうに人々が印象を持つようになってしまいました。が、無論これは誤解です。

とまれ、これが幸いし、朝日新聞のような全国紙でも取り上げられるようになったことから、その後この言葉は、東北地方を中心とした各地の小中学校などで、「古くから伝わる標語」として使われるようになっていきました。

2011年の東日本大震災で「釜石の奇跡」と呼ばれる事例では、この「津波てんでんこ」を標語に防災訓練を受けていた岩手県釜石市内の小中学生らのうち、当日学校に登校していた生徒全員が生存し、話題となりました。

このときこの学校のサッカー部に所属していた小中学生を中心としたグループは、地震の直後から教師の指示を待たずに避難を開始し、「津波が来るぞ、逃げるぞ」と周囲に知らせながら、保育園児のベビーカーを押し、お年寄りの手を引いて高台に向かって走り続け、全員無事に避難することができたといいます。

この市内における小中学校の防災教育を指導し、「釜石の奇跡」の立役者となったのが、群馬大学の工学部社会環境デザイン工学専攻の片田敏孝教授です。

その後のインタビューなどで片田教授自身もまた「津波てんでんこ」が古い伝承だと述べており、勘違いしていたようですが、これはおそらく山下氏の著作は読んでいなかったためと思われます。

が、「てんでんこ」が古い標語であるかどうかはあまり問題ではなく、この「津波てんでんこ」の考え方と片田教授の考え方が一致していたという点のほうが重要です。

片田教授は、小中学校の生徒を指導する際、具体的には、みずから状況判断して逃げること、災害弱者を助ける立場の者はあらかじめ明らかにしておくこと、家族はそれぞれ逃げると信じて行動することなどを指導しており、「てんでんこ」が持つ本来の意図とかなり近い考え方をもって防災教育を実践していました。

この片田敏孝教授は、防災研究者として関係者の中で最近めきめきと頭角を現してきている学者さんです。群馬大学工学教授として、主には自然災害に対する防災研究、とりわけ、津波災害におけるハザードマップの作成など自然災害のシミュレーションや、災害時の情報伝達などの研究を専門とされています。

特に、最近は「避難勧告を出しても避難しない人たち」に対する対策の立案研究にも取り組んでおり、岩手県釜石市の防災・危機管理アドバイザーでもあります。

私も防災関係の仕事をときたまやっていることから、論文をいくつか読ませていただいているのですが、その内容は機知・示唆に富み、行政の間違いもビシビシと指摘し、民間の災害防災に対する甘さについても苦言を呈するなど、両方からも定評があります。私のような凡才が言うのもなんですが、優れた学者さんだとだと思います。

ただ、「てんでんこ」を提唱した山下氏と片田教授の両者の考え方には、若干の相違点があります。それは、率先して逃げる行為の捉え方です。

山下は、率先して逃げる者が避難を促すというポジティブな面を捉えてはいますが、まず一人逃げるという行為は、最善の災害対策を考えた際にはやむをえない部分もあるものの「哀しい教え」であると評価していたようです。

しかし、片田教授はこの点については容赦なく、何が何でも避難が優先というポジティブな捉え方を徹底しています。

現実にはほとんどの津波警報が杞憂に終わる中、率先して逃げた者が「臆病者」というレッテルを受けやすいことを踏まえ、「それでも最初に誰かが逃げることで他者も続き、救われる命があるので、後ろ指さされる可能性を知りながら率先して逃げる者こそ本当に勇気がある者だ」という立場で生徒たちを指導しています。

釜石の奇跡においても、最初に率先して逃げ出したサッカー部の生徒を大きく評価しており、片田教授から「津波てんでんこ」学んでいたがゆえに、即座に避難行動に移る上での心理的ハードルが低かったのではないかとし、今後ともこうしたハードルを日常的に取り除いていく工夫が必要だと述べています。

この点が、一人で逃げることは「哀しい行為」と評価した山下とは異なる点です。しかし、山下氏もかつて父親に先に逃げられて取り残された悲しい経験をしており、てんでんこ自体もその経験をもとに編み出した標語です。「哀しい」とはあくまで感想であり、そうした感情は抑えても、やはりまずは逃げ出すことが第一、と考えていたに違いありません。

いずれにせよ、こうして2011年の東日本大震災の「釜石の奇跡」をきっかけに再びこの「津波てんでんこ」という言葉がマスメディアに評価されるようになってきており、防災教育の標語として全国的に普及していこうとしています。

ただ、その道のりは、まだ過渡的であり、当事者の三陸地域の人々においてすら本来の意味とは違った「利己主義的な発想」との誤解が蔓延している状況があるようです。いずれはこうした考えを払しょくし、全国的な広がりを持った標語として定着させていくべきでしょう。

多くの命を救いたいと考えるのは皆同じです。が、自分の命もまたその大勢の命の中のひとつであるということを忘れてはいけません。大声で叫びながら自らが率先して逃げる。そのことで自分も救われ、他も救われるという考え方が標準となれば、自らも楽だし、サバイバーズ・ギルトもなくなっていくのではないでしょうか。

さて、皆さんは、どうお考えでしょうか。