それでも喰いますか?


さて、午年です。

なんで、「牛」という文字のてっぺんがない文字を「ウマ」と読ませるのかなと、調べてみると、これはもともと牛とは関係なく、「忤」、すなわち「きね」から来ているそうで、長い間に左側のりっしんべんが取れて使われるようになったためのようです。

じゃあなんで、きねなのよ、ということですが、きねなんて最近の日本では餅つきのときぐらいしかほとんど見たことがない、という人も多いでしょう。

その形は、上下に対称であり、持ちやすいように真ん中あたりがえぐれています。砂時計と似た形、といったほうがわかりやすいかもしれません。

現在の十二進法では、一日の前半を「午」の文字を使って「午前」と書き、後半は、「午後」です。そのちょうど中間は「正午」といいますが、お察しのとおり、つまりこれは杵の真ん中という意味です。

一日の経過をさす用語として、日常品で左右対称のものを探したところ、その昔はどこの家庭にもあった杵が選ばれたということのようですが、これが奇しくも時を測る用具である砂時計と同じ形であった、というのは面白いところです。

ではこの「午」をなぜウマと読むか、です。

この「午」には、別途「つきあたる」「さからう」の意味があります。草木の成長が極限を過ぎ、衰えの兆しを見せ始めた状態を表しています。

従って、午年というのは、十二年周期の干支のちょうど真ん中を過ぎて、物事が成熟期に入ったころ、という意味があり、これは上で書いた一日の中間を正午と呼ぶのと同じ感覚です。一日の中でもお昼ごろというのは、朝起きてひと仕事して、一段落する時間帯でもあります。

従って今年のウマ年というのは、何事につけ、一休み、小休止をするのにはもってこいの一年、ということになります。

じゃあなんで、午を「ウマ」と読ませるのよ、ということなのですが、これは十二支を覚え易くするために、鼠、牛、寅……から始まる12の動物名を決めたとき、たまたまこの「午」の年に「ウマ」を割りあてただけです。

とはいえ、誰がこの干支の動物を決めたのかはわかりませんし、また、なぜウマでなければならなかったのかは定かではないそうです。

従って、「午」と書いて「ネコ」でもよかったわけです。兎、龍、蛇ときて、猫、羊、猿、鳥……でもゴロは合っています。なので、ペットとしてイヌの双璧にあるネコを採用し、今年からはウマ年あらためて、ネコ年にしても良いわけです。

ネコ好きの私は大賛成なのですが、みなさんはいがかでしょうか。

が、今からではカレンダーを差し替えるわけもいかず、第一、既に来てしまっている年賀状にもほとんどがすべてに馬の絵が描いてあるのでこれを消すわけにもいきません。

なので、今年に限っては我慢することにしましょう。が、十二年後には「午年を猫年にする党」を結成して国会議員に立候補しようと思いますので、皆さまのご支援をぜひ頂きたいと思います。

それにしても、現代社会においては、このウマという動物ほど、我々が普段目にしないものはないのではないでしょうか。

北海道あたりでは別ですが、都内でウマを見るということは、皇居の馬車を曳くウマが、外国人の来賓を迎えるときに登場するのを目にするぐらいのもので、あとは、わざわざ大井競馬場にでも出向かなければ見ることはできません。

それを言えばトラなども同じで、こちらは絶滅危惧種なので最近では動物園でも見ることはできませんし、龍に至っては想像上の動物なので、見たことがある、という人がいたとしたら精神病院行きが関の山です。

考えてみれば十二支の動物のうち、普段目にすることが多いのはイヌとトリぐらいのもので、ほとんどが都会では見なくなった動物ばかりです。ネズミなんて最近は目にしたこともありません。

ウマもまたそれほどではないにせよ、あまり現代人が普段目にするものではないのは確かであり、たまにダービーなどがあれば、ニュースでその勝敗が放映されることはあるので目にはしますが、普通に外で見る機会はまずないでしょう。

従って、今年が午年だからといわれても、午年生まれの人には大変恐縮なのですが、だからなんなのよ、という気持ちになるのは私だけでしょうか。

去年のヘビ年は、蛇はお金儲けの神様なので、今年こそは金持ちになれるかも、という期待感があるものの、今年のウマ年に至っては、ものごとが「ウマく行く」などというダジャレぐらいしか思い浮かびません。

このウマというヤツは、紀元前4000年ごろに、ロバとともに家畜化され、どうやら労働力として使われ、場合によっては食用にされていたようです。

ところが、紀元前3500年ごろに、メソポタミア文明で「車」が発明されてからは、これを曳くための「馬車」が発明され、さらに紀元前2000年ごろにスポークが発明されて車輪が軽く頑丈になり、馬車を疾走させることができるようになってからは瞬く間に世界中に馬車を走らせる「馬力」として普及していきました。

やがて、ヨーロッパや北アフリカ、地中海世界といった西洋社会から黄河流域の中国までの東洋においても広く使われるようになりました。

これらの地域に栄えた古代文明の都市国家群では、馬車は陸上輸送の要であるだけではなく、「戦車」として軍隊の主力となり、また、ウマの普及は、これを利用して耕作を行う「馬耕」という農法を生むきっかけにもなりました。

その後、長きに渡り、ウマは主には戦争や農業の道具として飼われ続けてきましたが、20世紀に至り、2度の大戦を経て軍事革新が進むとともに、農業機械の発達によって馬の重要性は急速に失われていきました。

従って、軍隊、警察において使われていたウマなども、儀典の場で活躍しているだけとなっています。しかし、競馬や乗馬などの娯楽、スポーツを楽しむ手段としてはいまだ親しまれており、世界では現在も数多くの馬が飼育されています。

とはいいながら、日本ではやはり馴染の少ない動物のひとつであることには違いなく、終戦直後の昭和25年(1950年)に飼育されていたウマは農用馬だけで100万頭を超していましたが、農業の機械化に伴って需要は急減していき、昭和40年代初頭には30万頭に、昭和50年(1975年)には僅か42000頭まで減りました。

平成13年(2001年)の統計では、国内で生産されるウマは約10万頭で、そのうち約6万頭が競走馬で、農用馬は18000頭にすぎません。

また、日本が原産の日本在来馬はわずか8種に過ぎないそうで、平成17年(2005年)現在ではこれらすべてを合わせても約2000頭のみだそうです。

このように、日本では普段ほとんど我々が目にすることのない動物になってしまった感がありますが、こと食べモノとしては、「馬肉」としての愛好家も多いようです。ちなみに日本では食肉用に肥育されるウマは、別名「肥育馬」ともいい、ウシやブタと同じく農業生産物とみなされています。

ところが、ヨーロッパなどの西洋人の間では、ウマは歴史的に農耕や馬車の牽引、乗用に使用され、家畜であると共に狩猟や戦場における足ともなり、人々とともに生きてきたという経緯があり、このことから、肉食に供することに嫌悪感や抵抗感を持つ人も多いようです。

とくにアメリカ、イギリスでは馬肉食をタブー視する傾向が強く、ウマを食う日本人の習慣は、動物愛護の観点からはトンデモナイということで毛嫌いされています。

と、いいながらも実はイギリスでは、食用馬肉の屠畜と消費は法律で禁じられていません。18世紀から19世紀にかけてはペットフード用の肉を扱う猫肉屋が馬肉も用いていたそうで、複雑に入り組んだヨーロッパの食品流通経路により、イギリスの食卓にも長年、馬肉が使用されてきていたという経緯があります。

ところが、昨年2013年の1月、アイルランドの食品基準監督当局により、イギリス・アイルランドの大手スーパーマーケットで販売されている牛肉に、最大で100%の馬肉が使用されているという食品偽装事件が発覚したそうです。

この事件は、イギリスでは一大スキャンダルとなり、今なおヨーロッパ全体でこのニュースが話題になっているそうです。

おそらくアメリカではそういうことはないと思うのですが、そもそも英語で「馬を食べる」“eat a horse”という比喩は、「ウマを丸々一頭食べられるほど空腹である」という意味で、それほど欧米人の間でも馬肉を食らうことは普通であったわけです。

そこで前々から気になっていたのですが、競馬や乗馬で使われていたウマの末路はいったいどうなっているのでしょうか。とくに北海道に行くとよくわかるのですが、道南から道東へ行くとここもあそこもというぐらいに競走馬を飼っている牧場がありますが、あの全部が全部、競走馬になるとはとても思えません。

これらの一部は駿馬となり、ダービーなどにも出るのでしょうが、あとは種馬や労働力として使われる以外、その行く末はどうなっているのだろう、と北海道へ行くたびに気になっていました。

そこで、ちょっと調べてみたのですが、いわゆる「競馬雑誌」と言われるものを見ると、その中には競走馬の「異動欄」というのがあるのだとか。ここには現役を引退する馬の異動先が記されていて、例えば地方競馬への場合、引退後のその移籍先や種牡馬・繁殖入りの他に乗馬になるなどの「用途変更」の内容が記載されているそうです。

ところが、この「用途変更」欄には移籍先や種牡馬・繁殖入りなどと記載されているだけでなく、単に「用途変更」とだけ書かれてその内容が記載されていないものが多いそうで、この「用途変更」という名称だけで、姿を消す馬が相当数いるということです。

そして、これは必ずしも明らかにはなっていませんが、その「用途」の中には食用もあるといわれているようです。実際に、過去に廃止された、山形県上山市にあった上山競馬場や、大分県中津市の中津競馬場に在籍していた競走馬の末路は食肉処分だったことが明らかにされているそうです。

また、北海道で行われている「ばんえい競馬」では、競走に出るための能力試験を突破できなかったり、あるいは満足な競走成績が残せなかったりした競走馬が食肉向けに転用されており、公式サイトでも包み隠すことなくそのことが解説されているそうです。

一般の地方競馬では、こうした能試で運命が分けられるということはないようですが、ばんえいの場合はこうした能試の結果がいわば「生死を分ける」ため、馬主もさることながら、ウマたちも生き残りをかけて必死で実戦を戦うそうです。

このように自分たちのために頑張ってくれているウマたちをかわいそうに思うためか、日本の乗馬及び競馬に携わる人の中には馬肉を食べる事を忌避する人達が少なからずいるといいます。

そりゃーそうでしょう。毎日ブラッシングをかけて可愛がっていた愛馬を次の日に食するというのは、なかなかできることではないでしょう。

しかし、それでもレースに出ることもなく、老いていくウマたちを多数飼っていくことは牧場などの経営をも圧迫するわけで、泣く泣くなのかどうかはわかりませんが、北海道や各競馬場にいるウマさんたちの哀れな行く末のほとんどは、食肉というのが悲しい現実のようです。

そもそも、日本では、獣肉食が宗教上の禁忌とされ、食用の家畜を飼う文化が九州の一部などを除いて、ウマをウマく頂くというのは、一般的ではなかったようです。

しかし、江戸時代の日本本土では、廃用となった役用家畜の肉を食すことは半ば非公然的ではありますが、貴重な獣肉食の機会でもあり、一部の地方では馬肉は400年以上も前から重要な蛋白源として重用されてきたそうです。

その後、明治維新が起こり、日本人は馬肉以外にも牛肉や豚肉などを普通に食するようになりました。ところが、この牛豚肉は当初かなり高価なものだったため、従来からあった馬肉を牛肉の増量材として用い、馬肉と牛肉を混ぜたものが加工食品として販売されるようになりました。

その名残から、現在のように牛豚肉が安価に入手できるようになってからも馬肉を食べる習慣が続いており、主には、熊本県、長野県伊那地方、山梨県、福島県会津地方、山形県置賜地方、青森県南部地方などで郷土料理として定着するようになりました。

とくに「馬刺し」や「桜鍋」用に用いられる生鮮肉は、滋養のある食べ物として現在の日本では広く普及するようになりました。

しかも、今では上述のような競走馬流れのウマなどだけでも足りなくなり、カナダやアメリカなどの北米産や若干の欧州産なども混入されているということです。

とくに熊本県の郷土料理でもある「馬刺し」の消費量は、年間約2万3000トンにも及ぶそうで、現代の日本で流通している馬刺し用肉の多くは輸入物、あるいは生体を輸入して国内肥育したものであり、純国産はわずかだそうです。

こうした馬肉の輸入は、オーストラリア、アルゼンチン、ブラジル、カナダ、アメリカからがほとんどであり、現在そのシェア60%がオーストラリアからの輸入です。

このほか、世界では、およそ主要14カ国で毎年70万トンが生産されており、ウマは世界中で食されています。その生産国は上位から中国、メキシコ、カザフスタン、イタリア、アフガニスタン、モンゴルとなっていることから、主には日本を含むアジア諸国と南米などで食べられているようです。

このうち、日本に入ってくるもののほとんどは馬刺しになるようです。その総需要量のほとんどは外国産で賄われるため、つまり競走馬流れの馬肉というのは全体のうちのほんのわずかの分量になるようです。

従って、普段われわれが口にする馬刺しがダービー流れの競走馬や北海道で悠々と草を食む馬さんたちである確率はかなり低そうです。

そう考えると、馬肉を食らうときの罪悪感は少し和らぐかもしれませんが、外国産にせよ国産にせよ、ウマであることにはかわりはありません。

また、馬肉は安価な食肉として、ソーセージやランチョンミートのつなぎなどの加工食品原料として使われているほか、ペットフード原料にも利用されることもあるそうなので、知らず知らずにウマを食べているかもしれず、もしかしたら、ウチのテンちゃんもウマを食っているのかも。

なので、今年は午年だから馬肉を食べるのはやめようかしら、と思っている人がいたとしたら、食品に表示されている内容表示には気を付けたほうが良いかもしれません。

とはいえ、馬肉は、他の畜肉と比較すると栄養価が高く、滋養強壮、薬膳料理ともされているようです。牛豚鶏などの畜種より、低カロリー、低脂肪、低コレステロール、低飽和脂肪酸、高たんぱく質なだけではなく、アミノ酸も20種類ほども豊富に含まれています。

さらに、ミネラルは牛肉や豚肉の3倍のカルシウム、鉄分はほうれん草・ひじきより多く、豚肉の4倍・鶏肉の10倍も含まれており、ビタミン類も豚肉の3倍、牛肉の20倍も多く、しかも、牛肉の3倍以上のグリコーゲンを含んでいます。

なので、今年こそ元気をつけたい、健康になって何事もウマく事を運びたい、という人はむしろ積極的にウマを食ったほうが良いのかもしれません。

さて、あなたはどうしますか。午年にウマを食って元気になるか、ウマを食うのはやめて動物保護に徹底するか。

私ですか?わたしは、やっぱり馬肉を喰らい、元気になってペガサスのごとく空を飛翔したいと思っています。が、そうウマくいくでしょうか……

骨折りもうけ?

あけましておめでとうございます。

今年はじめての書き込み、ということなのですが、本当は元旦から書き出そうと思っていたのですが、年末に思いもかけないトラブルがあり、今日になってしまいました。

トラブルというのは、自分自身に起こった出来事ではなく、昨年末に山口から我が家にやってきた母の身に起こったことです。

年末年始を温泉のある我が家で過ごしたいということで、ちょうど時を同じくして千葉の大学に通っていた息子君も帰ってきた昨年末の夕方のこと。私は麓のホームセンターで灯油を買って帰ってきてリビングに入ったところ、この母が床に足を投げ出して座っているではありませんか。

???どうしたの?と聞いたところ、タエさん曰く、母が突然イスから落ちたというではありませんか。見ると確かに床座りしている母の背後には、IKEAで買ったリクライニングチェアがあります。

息子君の話とも併せてこの原因を総合すると、どうやら母が息子君のケータイをのぞきこもうとして、このチェアに半座りになっていたところ、バランスを崩して椅子からずり落ちたらしい。このとき腰をしたたかに床に打ちつけたようで、その直後に私がちょうど帰ってきた、ということのようでした。

本人はわりとケロッとしており、しばらくこうしていたら大丈夫といい、また彼女のいうとおり、その後しばらくすると、杖は必要でしたが、何とか食卓のイスの上にも座ることもできました。

ところが、その後そのイスから再度自分で立つのもままならないという状況だということがわかり、とても一人で歩くことはできないようです。温泉に入れば楽になるかと勧めてみたものの、どうやら本人はそれどころではないようで、トイレにも私が抱えて連れて行く始末。

結局、その夜はそのまま寝せることにしましたが、とりあえずは、ちょっとの移動もかなり辛そうなので、寝所までは連れて行かず、リビングにあったソファで寝せることにしました。

が、さすがに尋常ではない様子だったので、翌朝起き出すと、まずはすぐにと救急病院を消防署などに問い合わせることに。早速タエさんが電話をしてみたところ、すぐ近くにある中伊豆温泉病院というところが今月の担当と知わかったため、続いてここにも電話をしました。

すると、丁寧な受け答えの男性が出て、確かに当方が今月の担当医ではあるのだが、症状からして、骨折している可能性もあるので、万一その場合には、当方では手術の用意がない、もっと大きな病院へ連れて行ったほうが良いのではないかという提案が。

そして、紹介されたのが、伊豆でも一番大きな病院として知られる順天堂大学病院(伊豆の国市)です。伊豆でも一番大きな病院ですが、静岡県内でも屈指の大病院であり、救急搬送のためのヘリポートがあるのは、ここと静岡市内のもうひとつだけとか。

我が家からはクルマで20分ほどの距離にあり、普段からよくこの前を通るのですが、幸い我々夫婦はまだこの病院のお世話になるような大事に出くわしたことはありません。

骨折??といぶかしみながらも、とりあえずここに電話をして症状を伝えたところ、すぐに連れてこいとの応答があり、早速母を車までおんぶして、連れて行き、なんとか救急搬送口まで運び込むことができました。

ちなみに母は、身長は150cmちょっとしかないのですが、寄る年波もあって運動不足もたたってやや小太りであり、私ひとりで彼女を背負って歩く際にも下手をすればよろけそうになるほど重かったのですが、タエさんの助けもあって、なんとか無事に病院に連れて行くことができたのです。

こうして、この長~い病院での一日が始まりました。その後、レントゲン検査、血液検査、CTスキャンなど数々の検査が行われましたが、すべての検査結果が出たのが11時過ぎごろだったでしょうか。

最初に見たててくれた先生のお話では、右足と左足の長さが微妙に違うのが気になる、とのことで、これを聞いた私は、多分捻挫か骨がずれた程度のものだろうと思っていたのです。

が、結果としてはやはり骨折ということで、レントゲン写真を見せていただいたものには、大腿骨の上部のほうに、綺麗に一本の筋が入っているではありませんか。

その後、整形外科の別の先生から詳しいお話があり、こうした骨折の場合、できるだけ早く手術を行う必要がある、と言われ、改めてびっくり!それもそのはず、病院入りしてまだたったの数時間しか経っていないのに、緊急手術だと言われて目を白黒させたのは、私だけではなく、タエさんもであり、怪我をした母本人にいたっては、ぽかんと口を開けていました。

手術内容は、骨折箇所を切開して、折れた部分に骨と骨をつなぐ、チタン製の板を入れ、さらに補強のために同じくチタン製のボルトを埋め込むというもの。

手術そのものは単純なのですが、いざ手術をするとなると、親族の同意書だの、輸血になった場合の合意だの、術後の入院の手続きなどなど、おそらく10枚以上の書類にサインをし、はんこを押さねばなりません。

かつて、先妻が入院したときもこうしたわずらわしい手続きがあったのですが、しかし日を置いて徐々にであり、今回は緊急手術ということなので、一時間ほどでこれだけの書類を処理しなけらばならなかったわけですが、こんなことは始めての経験です。

こうして、手術が始まったのが、お昼過ぎの午後1時前とのこと。全身麻酔+局部麻酔の二つの麻酔が必要という、大がかりなもので、手術時間も2時間ほどかかり、3時過ぎにようやく無事終わったということを先生から聞かされ、ホッ。

それから一時間ほどして麻酔から目が覚めた母本人と対面しましたが、彼女自身の口から出た、何が何だかよくわからん、は我々もその言葉にのしをつけて返してやりたいぐらいでした。

かくして、この年末年始は、そそっかしい母のアクシデントとともに始まり、入院と手術、その後の彼女を見舞うための病院通いというおまけがつくものとなり、今日もまた、これから面会に出かける予定となっている、というわけです。

病院の話では、母は二週間で退院できるようですが、その後リハビリテーションのできる病院へ転院し、ここでのリハビリ後に、我が家でのトレーニングも加えてなんとか一人で歩けるようになるのには約二か月ぐらいかかる見通しとのこと。

母自身は、正月明けには帰山する予定だったようですが、本人も我々も思わぬこととはいえ、伊豆へ長滞在となりそうです。

が、我が家は温泉も出ることでもあり、退院後のリハビリにはちょうどよく、また、父が亡くなって以降、長年一人暮らしの長かった母に親孝行する時間としてもちょうど良い、ということで、私としては、彼女を襲った不幸をかわいそうと思いながらも、不埒ではありますが、半分は喜んでいる、というのが本音でもあります。

そんなわけで、波乱万丈で始まった2014年ですが、考えてみれば母の骨折が起こったのは昨年のこと。厄は既に昨年捨て去り、今年はすべて回復していく方向にある、と考えれば、なるほどまたとない縁起の良い、一年のスタートと言えるかもしれません。

それを裏付けるように、昨日、おとといと出かけた初詣で引いたおみくじも、私が引いたのは、末吉と吉。これからだんだんと良くなっていくだろう、というお見立てでした。

なので、今年はこれからどんどん良いことが増えてくる、と信じ、今年一年を頑張っていきたいと思います。

「骨折り損」ではなく、「骨折り儲け」だったと、あとで笑っていられるような一年になることを祈りつつ、今日のこの項を終わりにしたいと思います。

さて、みなさんの年末年始はいかがだったでしょうか。

タブー


今年もあとたった2日となりました。

こんな時になんなのですが、このブログなどでもたびたび使ってきた写真を販売するネットショップを立ち上げました。

Psycross DEPO という名前で、上のメニューバーからもアクセスできます。A4、A3の高品質プリントの領布を中心に販売活動を行っていきます。大儲けをするつもりはなく、ボチボチやっていくつもりでおりますので、ご愛顧いただければと思います。

来年からは額縁入りの完成品の販売も開始する予定です。なお、年明けは、1月6日より初売りです。

ところで、このPsycrossというのは、ギリシャ語のPshyche(プシュケー)とCross(クロス)を合わせて作った私の造語です。

「プシュケ」ーとは、古代ギリシャで、もともとは息(呼吸)を意味していましたが、長い間にはこれが転じて「生きること」すなわち、命や心、魂という意味として使われるようになりました。

ギリシャ哲学ではかなり広範囲の意味を持つ言葉として使われたようです。この当時の古い文献では、一つの箇所ではこのプシュケーが「命」という意味で使われているのに対し、別の場所では「心」あるいは「魂」という意味で使われたり、さらに別の文脈ではどちらとも解釈可能、ということもあるそうです。

ソクラテスは、プシュケーを知と徳を意味する言葉とし、またソクラテスの弟子のプラトンは、滅びる宿命にある人間に宿る「知」を司るものこそがプシュケーであり、プシュケーは不滅であると述べており、ここには輪廻転生の思想が見て取れます。

また、アリストテレスもプシュケーとは命の本質である「自己目的機能」であり、そして命を突き動かす「起動因」であるとし、人間が生きるために不可欠な能力の総合体である、といった意味のことを言っています。

こうしたプシュケーというものを日本語で表現するのは非常にやっかいなのですが、これを仮に「魂」と訳すとするとすれば、Psycross(サイクロス)とは、こうした魂(プシュケー)と魂が交叉する(クロスする)場、という意味になります。

人は一人では生きていけないもので、人との交流なくして人生はない、という意味を込めて私が造語したものなのですが、これを使うようになって、もう2年ほどにもなります。

が、いまだに色褪せない新鮮な響きがあるなと感じており、自分としてはなかなかいい造語だなと思っています(自画自賛)。みなさんの印象はいかがでしょうか

幸いこのブログは、ご好評いただいているようで、日々ほぼ900人近い方がご訪問くださっていて、日によっては1000人以上のアクセスがあるようです。

ブログという一つの場にこれだけの方が集ってくださるというのは、ある意味では、魂と魂のクロスする場になりつつある、ということでもあります。

サイクロスの名に恥じない場所になりつつあるな、と手ごたえを感じつつあるとともに、伊豆に移住してきて、毎日のらりくらりとこうしたものを書かせてもらえている環境にいるということは、大変ありがたいことと感謝しております。

今後ともできうる限り続けていきたいと思いますので、ご愛読いただければと思います。

さて、このプシュケーは、哲学的な用語ではありますが、ギリシア神話に登場する人物の名前でもあります。

このプシュケーは、もともとは神様ではなく、人間の娘で、ギリシャ時代のある国の3人いた王女の一人でした。

この三人の王女はいずれも美しく、中でも末のプシュケーの美しさは美の女神、ヴィーナスへ捧げられるべき人々の敬意をもこちらへ集めてしまうほどだったといいます。

北空の星座に「や座」というのがありますが、この星座は、これは当たった者は誰もが恋の虜になってしまうという、愛の神エロースの「矢」にちなんでつけられたものです。

エロースは人間の王女プシュケーに嫉妬し、矢を放とうとしますが、いざ矢を射ようとしたとき、ついついプシュケーに見とれてしまいます。そして、そのあまりの美しさのために手元が狂ってしまい、放った矢は誤って自分に刺さり、このため、自らプシュケーに恋をしてしまって、一生、その虜になってしまったといわれています。

ちなみに、このエロースは、原語のギリシャ語では「クピードー」であり、これは英語ではCupidと書き、日本語読みでは、「キューピッド」として知られています。

ヴィーナスもまた、美の女神であり、天界の男神たちの憧れの存在でしたが、ある日このプシュケーの噂を聞きつけ、それによれば彼女は自分よりも美しいというではありませんか。

まさか人間の女に負けることなどとは思いもよらないヴィーナスでしたが、自分よりも美しいなどという評判を黙っているわけにもいかず、息子であるエロースにその愛の弓矢を使ってプシュケーに卑しい男と恋をさせるよう命じました。

悪戯好きの愛の神として知られるエロースは、喜んでこの母の命令に従いますが、上で書いたとおり、誤って自分を傷つけてしまい、逆にプシュケーへの愛の虜となってしまいます。

ちょうどこのころ、プシュケーの両親である、王様とお妃は、年ごろになったというのにプシュケーに求婚者が現れないことを憂いていました。そんな中のある日、二人は突然、太陽神アポロの神託を受けます。

その神託とは、娘を遠くに見える山の頂上に置き、「全世界を飛び回り神々や冥府でさえも恐れる蝮のような悪人」と結婚させよ、という恐ろしいものでした。

悲しむ王様とお妃でしたが、プシュケーは健気にもこの神託に従うことを決意します。そして、高台にある城のある岸壁から、遥かかなたに見えるその山に向かって身を投げました。

すわまっさかさまに落ちていくかと思われたプシュケーでしたが、その時、北風の神であるゼピュロスが飛んできてプシュケーを抱きかかえると、そのままその遠く離れた山の頂まで連れて行きました。

ゼピュロスがプシュケーを連れて行った山の上は、地の果てかと思われましたが、実はこの世のものとは思えない素晴らしい宮殿がある美しい場所でした。

おそるおそる宮殿の中に足を踏み入れたプシュケーの耳に最初に飛び込んできたのは、地の底に鳴り響くような恐ろしげな男の声でした。声の持ち主は姿を見せませんでしたが、宮殿の中にまで轟くこの見えない声をよく聞くと、どうやらここにあるものはすべてプシュケーのものだといっているようです。

プシュケーが周囲を見渡すと、驚いたことに食事や寝所もすべて豪華なものが準備されており、美しい衣装や豪華な装飾品も用意されていて、それらを手にとって見とれているうちに、何やら心地よい音楽も聞こえてきました。

こうしてプシュケーは、アポロからあてがわれた夫は、ほんとうは「神々や冥府でさえも恐れる蝮のような悪人」ではないのではないか、と考えるようになりました。

しかし、この夫はその後もやはり姿を見せようとはしません。その日の夜遅くなっても、現れませんでしたが、眠くなったプシュケーが床に入ろうと寝所に向かったそのときです。何やら、寝所の向こうの暗闇から人気がし、その姿をはっきりと見ることはできませんでしたが、どうやら彼女が横になろうとした床の上にその人物も身を横たえたようでした。

しかし、あいかわらずその夫は自分のほうに顔をみせることはなく、プシュケーは身じろぎもせず夫からのリアクションを待っていましたが、そのうちついつい眠くなり、すっかり寝入ってしまいました。

そして目が覚めると朝でしたが、すぐ側にいたはずの夫は姿を消していました。こうして、この最初の日と同じような毎日が過ぎていきました。相変わらず夫は日中には姿を現さず、夜になって寝るころには現れるのですが、決して顔をみせようとはしません。

しかし、プシュケーも次第にこの奇妙な生活に慣れ、宮殿での生活を楽しむゆとりも出てきました。が、それしてもこの宮殿内には姿をみせようとしない夫以外の誰もおらず、日々を重ねていくにつれ、やがてプシュケーは遠く離れた故郷に暮らしている家族が恋しくなってしまいました。

そして、ある日の夜、いつものように寝所に入って来た夫に思い切って声をかけ、泣きながら、国にいる姉妹たちを呼び寄せてほしい、と懇願します。見えない夫は、渋っているようでしたが、やがて「わかった」とひとことだけ言葉を放ちました。

翌朝のこと、プシュケーが起き出すと、そこには懐かしい二人の姉の姿がありました。二人は眠っている間に連れてこられたようで、どうしてここにいるのかわからない、といったふうな顔をしていましたが、プシュケーの姿を見ると、三人は抱き合ってこの再会を喜びあいました。

ところが、この姉二人は、プシュケーのこの宮殿での豪華な暮らしぶりを見て、だんだんと嫉妬心が沸いてきました。そして、プシュケーから姿を見せない夫の話を聞くと、その夫は、きっと大蛇に違いない、プシュケーを太らせてから食うつもりではないかと言いました。

これを聞いたプシュケーは青ざめましたが、二人の姉はここぞとばかりに、さらに、喰われてしまう前に、夫が寝ている隙に剃刀で殺してはどうかと提案します。

こうしてその日の夜、プシュケーは寝ている夫を殺すべく、夫が寝所に入ったのを見計らって、ロウソクを持って近づきます。そして思い切ってその暗闇に沈む寝顔にロウソクの炎を近づけると、そこにはなんと凛とした若くて美しい男神の姿が照らし出されたではありませんか。

驚いたプシュケーは、あわててロウソクを落としてしまいましたが、そのロウソクから滴り落ちたロウが、エロースの顔にかかってしまい、さらにその火は毛布に燃え移ってエロースは大やけどを負ってしまいます。

妻の背信に気付いたエロースは、大声でプシュケーをののしり、怒った彼はその場を飛び去ってアポロのいる天界へ帰って行ってしまいました。

蛇だと思っていた夫が思いがけず美神だと知り、ようやく姉達の姦計に気づいたプシュケーでしたがもう後の祭りです。

しかし、自分をだました姉達のことを許すことはできませんでした。そして姉たちのところへ行き、エロースは自分を見限って天界へ帰ってしまったが、今度は姉達と再び結婚するために帰ってくるだろう、と嘘を教えました。

こうして、三人は、いったん国の両親のもとに帰りました。そして、城に帰った姉二人が両親にも妹の嘘を教えると、喜んだ王様と妃は、早速、妹と同じく断崖から飛び降りるよう二人に勧めました。

プシュケーの時には、風の神のゼピュロスが迎えに来たことを見ていた二人は、今回も彼が助けてくれるだろうと、さっそく、断崖から身を躍らせました。ところが、空を舞う二人に風が起きることはなく、二人は崖からまっさかさまに落ちて、ばらばらに砕け散ってしまいました。

一方、天界に帰ったエロースを見たヴィーナスは、息子からこの醜聞を聞いて激怒しました。そして、「自らの接吻を与える」という懸賞までかけて、息子を裏切ったプシュケーを捕らえようとしました。

美の神、ヴィーナスが自分を捕えようと怒っているという噂は、すぐにプシュケー達の住む国にも伝わりました。プシュケーは、このため地の神である、ケレースに助けを求めましたが、ケレースからは「ヴィーナスとは長い付き合いだから」といってとりなしを拒否されてしまいます。

そこで今度は母性の神である、ユーノーに助けを求めたプシュケーでしたが、ユーノーもまた、「逃亡した奴婢をかくまってはならないことになっている」という天界の掟を理由にこれを拒否しました。

こうして、行場を失ったプシュケーはやがて絶望し、観念してヴィーナスのもとに出頭することにしました。

素直に自分の元にやってきたプシュケーでしたが、ヴィーナスの怒りはそれだけでは収まらず、プシュケーを捕らえて折檻します。しかも、地上に帰って、私のこれからいうことを実行したら赦してやる、と多くの無理難題を押し付けました。

その一つは、地上にある大量の穀物にすべて名前をつけて、選別せよ、というものでした。しかし、これを命じられたときには、どこからともなく蟻がやってきて穀物の選別を手助けしてくれ、なんとかこの難題をクリアーすることができました。

また、あるときには、凶暴な金の羊の毛を取ってくるよう命じられたプシュケーでしたが、このときにも、河辺の葦が羊毛の取り方を助言してくれて、凶暴な羊をなだめることができ、無事、金の羊毛を持ち帰ることができました。

しかし、それでもヴィーナスは赦してくれず、今度は竜の棲む泉から水を汲んでくるようにプシュケーに命じました。ところが、このときもまた、ユーノーの夫で天空神であった、ユーピテルに助けられ、無事に水を汲んで帰ってくることができました。

このユーピテルは、かつてエロースに可愛がられていた神様の一人でした。

実はエロースは一度はプシュケーの行為を怒ったものの、あまりにもヴィーナスから難題を押し付けられるプシュケーを見てかわいそうになり、ユーピテルを大鷲の姿に変え、このときも竜の棲む池から水を汲みださせてくれたのでした。

こうして、今回もプシュケーは、ヴィーナスの難題を乗り越えることができました。

いくら難題を押し付けてもクリアーしてしまうプシュケーを見て業を煮やしたヴィーナスは、更なる難題をふっかけようと考えます。そして、今度は息子エロースの火傷の介抱のせいで自分の美貌が衰えた、とプシュケーに偽り、今度は、美貌を補うために冥府の女王プロセルピナに「美」をわけてもらってくるよう命じました。

しかし、この際もプシュケーに同情するエロースを初めとする神々のとりなしを得て、首尾よくプロセルピナから「美」が入っているという箱を貰うことができました。

しかし、ヴィーナスからあまりにも数々の難題を押し付けられたったプシュケーは、このときにはもうへとへとに疲れ切っていました。このため自分自身の容色もかなり衰えているのではないかと落ち込み、再びエロースの愛を失ってしまうのではないかと不安になりました。

そして、プロセルピナからはヴィーナスに渡すまでは、けっして箱を開けないよう警告されていたにもかかわらず、これを開けてしまいました。

実は、これはプロセルピナの姦計で、この箱の中には「冥府の眠り」が入っていました。プロセルピナは、地上と天上の人々の尊敬を集めているヴィーナスをかねてからねたんでおり、彼女を眠らせて、その地位を奪おうと考えていたのでした。

そんなことを何もしらないプシュケーが、箱を空けてしまったものですから、彼女は、すぐに深い眠りに入ってしまい、冥府のプロセルピナのところへ連れ込まれてしまいそうになりました。

そのとき、傷の癒えたエロースが現れ、昏倒している妻の周囲から彼女を奈落の底に貶めようとしている「眠り」をかき集めてもとの箱に納めることができ、プシュケーを目覚めさせて、なんとか事なきを得ました。

そして、再びユーピテルを呼び、なんとかヴィーナスの魔の手からプシュケーを助ける方法がないかを相談しました。一度はプシュケーを助けたユーピテルでしたが、さすがの彼もヴィーナスは恐ろしい存在であり、協力を渋ります。

しかし、ユーピテルにも弱点があり、それは三度の飯よりも、「女」が好きなことでした。エロースはこの稀代の女たらしであるユーピテルにいい女を見つけたら紹介してやるから、と言い聞かせ、ユーピテルもこれを聞くと目を輝かせてプシュケーを助けることに同意しました。

しかし、それにしてもどうやってヴィーナスを出しぬくか、を色々考えたユーピテルですが、はたと妙案を思いつきます。それは、プシュケーに神の酒であり、不老不死の霊薬でもある「ネクタール」を飲ませることでした。

ネクタールは「愛」の飲み物であり、これを飲むと、人間も神々の仲間入りをさせることができると言い伝えられていました。これをプシュケーに飲ませ、神にしてしまえば、エロースとの結婚ももう身分違いの結婚とはいえず、これを知ったヴィーナスもいじめをやめるに違いない、と思ったのです。

こうして、プシュケーはネクタールを飲み、かくて「魂」は「愛」に満たされることになりました。こうして、エロースと幸せな結婚生活を手に入れたプシュケーは、エロースとの間に「ウォルプタース」という名の子を設けました、

そして、このウォルプタースこそが、人間に持たらされる「喜び」になったと伝えられています。

しかし、この喜びは、時に「悦楽」ともなり、その後永遠に人々を苦しめる根源にもなっていきました……

————————————————————

─── いかがだったでしょうか。なかなか斬新な物語であり、私もあまり耳にしたことのない話だったので、面白く感じました。

ところで、こういう話は、いわゆるひとつの「見るなのタブー」といわれるものです。

世界各地の神話や民話に見られるモチーフの一つであり、何かをしている所を「見てはいけない」とタブーが課せられたにも拘らず、それを見てしまったために悲劇や離別またはに恐ろしい目に遭うというパターンに陥る、という話です。

プシュケーの場合は、見てはいけないといわれた夫のエロースを好奇心で見てしまうことから、ヴィーナスにつけ狙われるようになりました。

心理学的にはこの様に見てはいけないと言われると余計に見たくなってしまう心理的欲求を「カリギュラ効果」と呼ぶそうで、これは一般には「タブー」ともいわれます。

こうしたギリシア神話だけでなく、日本神話にも多くみられ、その代表的なものは「鶴の恩返し」でしょうか。この場合、恩返しのために身の羽根を抜いて反物を織っていた鶴が、機を織るところを見てはいけないと釘をさしたにも関わらず、老夫妻がこれを見てしまい、夫婦と鶴の別離という悲劇が生まれます。

異類の者と結婚をした人間が、見るなのタブーを犯して異類の者の本当の姿を見てしまい、それが元で離別するという話は、メルシナタイプ(メリュジーヌ・モチーフ)とも呼ばれています。

メリジューヌというのは、フランスの伝説であり、頭部と胴体は中世の衣装をまとった美女の姿をしていますがが、下半身は水蛇の姿をしている怪物です。実はある王国の姫君なのですが、呪いをかけられ、週に一度この姿に変えられてしまう、といったストーリーで、こちらもその姿をみると災いがおこる、という話のようです。

こちらも面白そうなのでもう少し紹介したいところですが、長くなりそうなので、今日はやめておきます。

上述のようなギリシャ神話の中にもこうした「見るなのタブー」は多く、「パンドラの箱」などもその典型です。ただし、原作は「箱」ではなく、「壺」だったようです。

人間に火を使うことをもたらしたプロメーテウスを懲らしめるために、ゼウスはあえて彼の弟であるエピメーテウスの元に、「パンドラ」という女性に壺を持たせ、彼女とともに贈ります。

その時、「この壺だけは決して開けるな」と言い含めていたにもかかわらず、エピメーテウスと結婚したパンドラは、ふとしたときに「この壺は何かしら」と気になり、壺を開けてしまいます。

そして、そこからは、恨み、ねたみ、病気、猜疑心、不安、憎しみ、悪徳など負の感情が溢れ出て、世界中に広まってしまいます。慌てたパンドラはその箱を閉めようとしますがもう後の祭りで、もう既にたった一つのものしか残っていませんでした。

そして、その最後に残ったものこそが、「希望」でした。こうして、これ以来、人類は様々な災厄に見舞われながらも希望だけは失わず生きていくことになった、というオチがつきます。

このほかにも、竪琴の名手オルフェウスが、毒蛇に咬まれて死んだ妻エウリュディケーを生き返らせようと決意して冥界へ行く、という話も「見るなのタブー」として有名です。

オルフェウスは、冥王ハーデースと交渉を試みた末に「地上に戻るまでは決して後ろを振り向いてはいけない。成し遂げたら妻を返そう」と約束させることに成功します。しかし、エウリュディケーが本当に後ろにいるか不安だった彼は、もう少しで地上にたどり着くという所で後ろを振り向いてしまい、エウリュディケーは冥界に引き戻されてしまいます。

この話も有名なので、皆さんご存知だと思いますが、この話には後日談があり、それは、オルペウスは絶望しながら地上をさまよい歩いた末、悲惨な死を遂げてしまうというものです。が、その結果として再び冥界に行くことができ、オルペウスはエウリュディケーと一緒になることができました。まあハッピーエンドといえばハッピーエンドでしょう。

この話にそっくりなのが、日本神話のイザナミとイザナギの話ですが、こちらはハッピーエンドとはいえません。

亡くなった妻のイザナミを追って黄泉の国を訪れたイザナギは、中を見るなとイザナミに言われたにもかかわらず、自らの櫛に火をつけ、これを灯りにしてその正体を見てしまいます。自身の朽ち果てた姿を見られたイザナミは怒り、逃げるイザナギを追いかけますが、黄泉の国の入り口からは外に出れず、ここで二人は離婚してしまう、という話です。

現代でも、ある夜化粧を落としてすっぴんになった嫁の姿を見て「ギャー」と驚き、その結果離婚に至ったといった話は多い?ようですが、あなたのお宅はいかがでしょうか。

このほか、スサノオノミコトの話も有名です。これは、高天原を追放されたスサノオといが。下界へ下る途中でオオゲツヒメの饗応を受けますが、オオゲツヒメが料理を用意している所を覗き見てしまい、そこでオオゲツヒメが口や尻から食物を取り出していたことを知ります。

怒ったスサノオは、オオゲツヒメを斬り殺してしまう、という話ですが、このケースでは、とくに見ることを禁止はされていないものを勝手にみてしまったわけであり、必ずしも見るなのタブーとはいえないかもしれません。が、その変形であるということはいえそうです。

ほかにも日本神話の中には、いまや民話になってしまったものも多くありますが、これとよく似た民話で、山幸彦で有名な「ホオリ」という神様の話もあります。

これはオホリが天上界から下界へ降りる段で、妻となるトヨタマビメに子を産む所を見るなと言われたにもかかわらず、産屋を覗き見てしまい、妻が八尋の和邇というサメに姿を変えているのを目撃してしまうというものです。

これが元で、トヨタマビメは子を産んだ後、海の中へ帰って行ってしまい、このときに産まれた子がウガヤフキアエズで、その子が天皇家の始祖、神武天皇であるというお話なのですが、そうすると、今の天皇家はサメの子孫かい、という話になり、はなはだ不敬な民話でもあります。

さらには、日本書紀にも、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめ)という女の神様の話があります。この話では、倭迹迹日百襲姫命が大物主(おおものぬし)という男神と結婚しますが、大物主が夜にしか現れないので、姿を見たいと大物主に懇願すると、彼は姿を見ても驚かないようにと言います。

翌朝、蛇に姿を変えて、ちんまりと小さな櫛箱に入っていた大物主を見た倭迹迹日百襲姫命は、びっくりするどころか、大笑いしてしまいます。そしてこれを見た大物主は、それみたことか、わしに恥をかかせたなと怒って山に帰ってしまいます。

この話にはおそろしいオチがあり、これを悔いた倭迹迹日百襲姫命は自らの行いを恥じて女性器を箸で刺して自害したそうです。日本神話の場合、このように結構グロイものも多いようです。

このほか、日本の民話としては、上述の鶴の恩返しのほか、蛤女房、浦島太郎、見るなの座敷、舌切り雀、安達ヶ原の鬼婆、などなど、たくさんの見るなのタブーがあります。

それをひとつひとつ紹介しているとキリがないので、そろそろやめにし、来年の夢でもみる準備をすることにしましょう。

しかし、来年起こることを知りたいのはやまやまですが、見るなのタブーを犯すととんでもない災難がやってくるかもしれません。

夢でも知りたい未来は初夢にとっておくこととして、年末には何も夢見ず、酒を飲んでぐっすり眠ることにしましょう。

みなさんの年末はいかが進行中でしょうか。おそらくは大方の人が大掃除を終え、お節料理の準備に忙しいことでしょう。年末年始はおいしいものをいっぱい食べて英気を養ってください。

良いお年を迎えられるよう、祈っております。

その後


クリスマスも終わり、大晦日へのカウントダウンが始まりました。

そろそろ今年一年を振り返るころかな、と今年起こった出来事などが記載されているWEBページを眺めていたのですが、いやはや今年も色々ありました。

それを全部ここで挙げることはできませんが、例えば気象に関していえば、今年はかなり異常でした。

夏には高知県四万十市でこれまでの国内最高気温を更新し41.0°Cを記録、また気象庁の927観測点のうち143箇所でもこれまでの最高気温を更新するなど、各地で記録的な猛暑となりました。

一方、オホーツク海高気圧の影響により東北地方では梅雨明けが遅れ、また関東地方では早期に梅雨が明けたものの7月後半には一時的に低温傾向(戻り梅雨)となるなど時期により気温の差が激しくなりました。

また、多雨や少雨といった地域の差が見られたり、局地的な豪雨が発生するなど地域による偏りも大きかったようです。気象庁では今夏の特徴として、東南アジア周辺の海面水温が高かったことによって明らかに「異常気象」であったとの見解を示しています。

さらには、8月には気象庁は、13年ぶりの黒潮大蛇行を発表しています。これが影響したのか、9月に入ると大気の状態が不安定となったことにより、竜巻による被害が北関東で続発したのは記憶に新しいところです。

そして、そのあとの短い秋とこの寒い冬。これから年末にかけて大寒波がきそうな気配であり、来年にかけてどのくらい雪が降るのか見当もつきません。来年はいったいどんな異常気象が起こるのでしょう。

今年始まった、綾瀬はるかさん主演の2013年NHK大河ドラマ「八重の桜」の視聴率も気になったので調べてみると、全50話の平均は14.6%と低調で、大河ドラマ第52作目でしたが、「平清盛」(2012年)の12・0%、「花の乱」(1994年)の14.1%、「竜馬がゆく」(1968年)14.5%に続く、過去4番目の低さでした。

ただし、関西地区は13.7%でしたが、ドラマの前半の舞台となった福島地区などでは23・2%と比較的高く、東北では健闘したようです。

初回21.4%でスタートし、第5話までは18%を超えていたようですが、第6話頃から一気に15%台に落ち、第10話には12.6%で初めて15%を割り込みました。その後も11%台から16%の間を行ったり来たりでしたが、裏番組で放送されたプロ野球・日本シリーズの影響もあり、第44話ではなんと10.0%と最低を記録。

とくに後半戦は、戊辰戦争も終わって、主な話題が同志社大学の創設という地味なテーマも祟って、どんどんと視聴率を下げたようです。

久々の幕末モノということで、期待もし、我々夫婦としても最後まで見守ってはいたものの、やはり後半戦は、あまり面白くなかった……かな。それにしても、綾瀬はるかさん、熱演お疲れ様でした。次回、また別の大河ドラマでの活躍を期待しましょう。

こうした話題以外にも、今年起こった事件の中には遠い過去の出来事のように忘れていたことなども多々ありました。

その後どうなったのかな、と気にはなっていたものの、メディアなどの報道がトーンダウンしていったため、結局どうなったのかが分からずじまいになっていたものも多くあります。

例えば、ボーイング787のバッテリー問題もそのひとつです。

2013年1月7日の現地時間午前10時半頃、成田国際空港からのフライトを終えボストン・ローガン国際空港で駐機中のJAL008便の機体内部の電池から発火しました。

また、2013年1月16日午前8時25分頃、山口宇部空港発東京国際空港行きANA692便も香川県上空10000メートルを飛行中に、操縦席の計器に「機体前方の電気室で煙が感知された」との不具合のメッセージが表示されるとともに異臭もしたため、運航乗務員が緊急着陸を決断、午前8時47分に高松空港に緊急着陸しました。

ANA692便は、緊急着陸後に誘導路で脱出シューターを利用し緊急脱出をしたため、5人のけが人がでましたが、日本の運輸安全委員会はこの緊急着陸を重大インシデントとして調査を行いました。

アメリカ連邦航空局 (FAA) は、ANA機の事故を受けて耐空性改善命令を発行してアメリカ国籍の同型機に対し運航の一時停止を命じ、世界各国の航空当局に対し同様の措置をとるように求めました。このため、世界各国で運航中の787すべてが一時運航停止となりました。

先のJAL008便の事案では乗客172人、乗員11人の計183人は既に全員降機しており、人的被害はありませんでした。

しかし、事故発生場所は787を製造販売するボーイング社のおひざ元のアメリカ国内、FAAの管轄空港内であり、このため国家運輸安全委員会 (NTSB) までもが乗りだし、事故調査にあたっています。当事者のボーイング社もまた、FAAと共同で包括調査するなど、原因究明に躍起になりました。

これら一連の事故により、787の機体を数多く保有するANAとJALは、所有するすべてのボーイング787の飛行を自主的に一時停止しました。FAAは、ANAの事故を受け、1月16日に耐空性改善命令 (Airworthiness Directives:AD) を発行。

この処置を受け、日本の国土交通省もボーイング787の運航停止を命じる耐空性改善通報を出すと発表し、この処置に世界各国の航空当局も追随したことから、この当時世界各国で運航中であった8社50機の機体すべてが再開見通しのたたない無期延期の運航停止となりました。

ボーイング社もこの措置を受け、各社に予定していた787型機の納入すべてを一時停止することを決定しました。なおFAAが大型旅客機の運航停止を指示したのは1979年に発生したアメリカン航空191便墜落事故によるDC-10以来のことです。

787運行停止の措置は、同機材で運航していた路線だけでなく、これ以外の路線にも影響を与えました。787を使用していた路線を他種の機材で補充しながら運航するために他路線でも欠航、時刻・機材の変更が多発したためです。

また、787を新規就航させる予定だった路線の開設の延期も発生し、経営計画の大幅な変更や修正を強いられたため、数社の航空会社がボーイングに対して補償の権利行使を実行しました。しかし、補償額は莫大に及ぶため、ボーイング社との折り合いはまだついていないようです。

その後、NTSBが詳細な調査をおこなった結果、ボストンJAL機出火の事故原因としては、8個の電池セルの中の6番目がショートして「熱暴走」を起こし、他の電池セルに波及したとする経過報告が2月に発表されました。

ところがなんとこのバッテリーは日本の電池メーカーである、ジーエス・ユアサ コーポレーション(GSユアサ)が製造し、フランスのタレス・グループを通じて供給されたリチウムイオン電池で、最先端技術によるものでした。

このため、この発表以後、多くのメディアでGSユアサが事故の原因であったかのような報道がなされましたが、実際は周辺制御装置の異常など、複合的な問題も考えられ、ショートの原因は必ずしもバッテリーとは言い切れませんでした。

そもそも、問題となっているリチウムイオン二次電池は、一般家庭で使用される乾電池などとは違い、それ単体では使用ができず、使用するには電圧等を制御する制御システムが必須なためです。こうした制御システムは、GSユアサではなく、別会社が供給していました。

また、ボーイングは運行再開前にGSユアサ製バッテリーの使用を継続する事を発表しており、こうしたことからもGSユアサのバッテリー自体に問題があった可能性は低いと考えられ、日本を代表するメーカーの事故への関与という汚名は返上されました。

その後ボーイング社は、熱対策を行った新バッテリーユニットの再開発にとりくみ、FAA に申請した結果、3月中旬には、FAAはこの新バッテリーユニットの認証計画と新バッテリーに改修されたボーイング787の試験飛行を承認しました。

しかし、NTSBが主張している「熱暴走」については依然不安を残したままで、787の提供者であるボーイング社のチーフ・プロジェクト・エンジニアであり、副社長でもあるマイク・シネット氏すらも、「熱暴走の定義は人により異なるが、われわれは熱や圧力、炎が機体を危険にさらす状態にあると考えている」と熱暴走の実在を否定していません。

ところが一方では、「ボストン・ローガン空港も高松空港もそのレベルではなく、バッテリーに過充電も見られなかった」とも述べ、今回の事故が「熱暴走」を起因とするものであることを暗に否定しています。

ボーイング側の説明は更に二転三転します。同じ席で顧客の航空会社向けには、機体への重大な影響があるものを「熱暴走」と説明していたのです。このように、ボーイングの開発担当者もまたこの「熱暴走」なるものの見解を巡って、それがどういう原因で生じるかを把握しきっていないのは明らかであり、この現象に相当振り回されている様子がうかがえます。

しかし結局ボーイング社は、懸案となっているバッテリーの1つのセルから2つのセルへ波及するとされる、一般的には「熱暴走」という現象の科学的な意味は「認識している」ものの、一般顧客向けへの説明としては、これは「熱暴走とは異なる」と釈明し、最終的には「熱暴走なし」の独自見解は変えませんでした。

しかし、無論こうしたあいまいな見解を誰しもが鵜呑みにするわけはなく、その後も本当の原因究明をめぐっての追及の声はしばらくの間やむことはなかったようです。

そんな中、ボーイング社はバッテリー発火対策として、三段階での対策を提示しました。すなわち、バッテリーのセル単位での発生防止、不具合が生じた際の拡散防止、機体への影響防止、の3つです。

とくに最初のセル単位での発生防止においては、ショートにつながる結露など、原因として考えられる 約80項目を4グループに分け、セルとバッテリーは設計や製造工程や製造時テストを見直し、セルは絶縁テープで囲み使用される絶縁体も耐熱性や絶縁性を改良し、隣り合うセルでショートが起きないよう、徹底した対策を施しました。

また、充電器も電圧を見直し、充電時の上限を低く設定してバッテリーへの負荷を減らし、下限を高めて過放電を防止するとともに、新たにバッテリーを収めるエンクロージャー(ケース)と排気システムを採用。出火要因を排除し、仮に出火した場合でも燃焼が続かない環境を維持できる構造にしました。

さらには、バッテリーから電解液が漏れたり熱や圧力が発生した場合はエンクロージャー内にとどめ、煙や異臭は機外に放出するそれぞれの対策も施しました。

ボーイング社によれば、新型バッテリーではこれまでに予想されたもののおよそ三倍の圧力に耐えられるようになったといい、この性能を確認するため、エンクロージャー自体の耐圧試験を6万時間以上をも行ったといいます。

こうした対策強化を受け、FAAはボーイング社が提示していた改修した新バッテリーシステムの認証計画と試験飛行を3月25日に承認。これを受けて、同日と4月5日にも、新バッテリーシステムに改修した新しい機体で試験飛行を行い、新バッテリーシステムのデータを収集し、設計通りに機能するかを検証しました。

FAAはこれら検証を受けてボーイング社が提案した運航再開に向けたシステムの改修を承認。同年4月26日に新バッテリーユニットへの改修を行った「新ボーイング787」の運航再開を許可するAD(耐空性改善命令)の更新発行を行いました。

ボーイングとしては、FAAからAD(耐空性改善命令)が発行されたことを受け、バッテリー改修のための技術者のチームを全世界に派遣し、バッテリー改修を787のすべてに施しました。また、各運航航空会社に問題箇所の指摘とその解決作業手順や整備などの変更を指示する改修指示書も発行しました。

787はヨーロッパの航空各社に納入予定であるため、このアメリカでの決定を受け、欧州航空安全機関(EASA)もまた4月23日に運航再開に向けたシステムの改修を承認しました。

とはいえ、国家運輸安全委員会、NTSBはこの決定に先立つ4月23・24日の二日間、同型機のリチウムイオン電池に関する公聴会を開催するなどしており、この運航再開承認後も同組織としてはバッテリー火災の原因究明の姿勢を崩していません。

この辺が、アメリカの偉いところだと思います。日本では運輸省にあたるFAAが承認したからといって追及の手を緩めず、学識経験者で組織されて強い権限を持つNTSBなどが引き続き目を光らせ、交通のような重要インフラの安全に関しては万全を期す、という考え方が徹底しており、日本もこうした点などをまだまだ見習うべきでしょう。

もっとも日本も最近はこうした委員会の発言力がかなり強くなってきてはいますが、福島第一原発の事故究明にあたっての事故調査・検証委員会や原子力規制委員会の対応については、他の学識経験者から厳しい意見があいつぐなど、原子力の安全を監視する番人としての立場は盤石ではないことを示しています。

一方の日本の国土交通省航空局の対応ですが、このNTSBの公聴会でも一応、新しいバッテリーシステムについては大きな異論が出なかったことを受け、この翌日には、正式に国土交通省として耐空性改善通報(Technical Circular Directive:TCD)を発行し、これによって「新バッテリーユニット」は正式に受け入れられ、787の運航再開は承認されました。

しかし、日本独自の対策として、新たに以下を運行各社に要請しました。

・各機体改修後の確認飛行(全機を対象に各一回実施)
・バッテリーに対する安全性の確認(飛行中のバッテリー電圧監視を全機対象に飛行開始後継続的に実施、使用したバッテリーのサンプリング検査を継続的に実施)
・運航乗務員の慣熟飛行を全運航乗務員を対象に実施
・同型機の安全、運航に関する情報開示をあわせて実施

これは、787の製造元でない日本としては最善の措置を取りたかったということでしょう。

そもそもこの事故が日本製のバッテリーから発生したものの、バッテリーにまつわる運営システムの改良はアメリカ側に委ねざるを得ず、手も足も出ないので、せめてこうした運行手順だけはしっかり守らせて、日本からは新たな責任問題を出させないよう国内の航空会社にくぎを刺したわけです。

しかし、こうした新たな運用規則が増えた国内航空各社はたまったものではありません。「運航乗務員の慣熟飛行」ってどうやって証明するんでしょうか。

ともかくもこうした国土交通所の指示を厳守することを条件に、早くも4月22日には再開待ちに待っていたANAが国内4(羽田、成田、岡山、松山)空港で、新バッテリーユニットへの改修を開始し、JALもまた羽田、成田2空港で改修を始めました。

しかし、一機当たりの改修には一週間前後もかかったため、日本国内の787の全改修が終了したのは、5月23日でした。また、日本以外の各国にあった50機の787の改修もまた、5月29日までには完了しました。

787の日本での最大の利用者であるANAには、同機種のパイロットが200名近く在籍していますが、1月に運航停止になって以降、その多くは自宅待機を余儀なくされ、定期的にシミュレーターで訓練を行うだけとなっていました。

この間、長いお休みによって実機による運航ができなかったことによる操縦技能の低下が懸念され、また休止期間が長引いたことで機長資格を失効するパイロットも複数出ることとなり、会社としては正式な商業運航再開までに別の機体を使って訓練飛行などを複数回行いました。無論乗客はいませんから、この飛行による費用はドブ捨てになります。

しかし、改修が終わったことから、まずは旅客定期便運航再開よりも前に貨物定期便を再開しようということになり、4月28日には、羽田発着で約2時間の貨物機の試験飛行が実施されました。

さらには5月16日には高松空港に緊急着陸したJA804Aが運輸安全委員会の調査なども経てバッテリー改修を行い、121日ぶりに羽田へ回航と確認飛行も実現。

同年5月23日に同社は商業運航再開を前倒しして、同年5月26日の臨時便より商業運航を再開しました。これをもって1月16日に耐空性改善命令が出て以降運休していた全787の飛行が再開されました。この間、実に4か月余りであり、ANAだけでも減便や路線の運休による減収はおよそ80億円にも達しました。

JALもまた、5月2日に羽田と成田の2空港で試験飛行を行ったのち、ボストン・ローガン国際空港で出火した機体は、バッテリーユニットを交換、確認飛行を実施した後5月19日に成田空港に回航され、約130日ぶりに日本へ帰着しました。6月1日からは羽田発シンガポール行きの035便を皮切りに順次商業運航を再開するとともに、現在もJALにおいては同型機は国際線専用で運航されています。

ただ、JALでは成田~デリー線の再開が7月12日となり、また成田~モスクワ線に関しても9月1日になるなど、完全に停止前の運航規模に復帰するまでは時間がかかりました。また、787の導入を機会に新設を延期していた成田~ヘルシンキ線の開設も7月1日からとなりました。

ボーイングは、ANAに納入する予定だった他の787の納入も、運航再開後に初めており、それまで遅れていた納入遅れを挽回しようと現在躍起になっていますが、いまのところ、予定されていた機体は納期が大幅に遅れたものの納入されるようです。

こうして、ようやく787の問題は解消されたかのように見えますが、新しい機体であるだけにまた別のトラブルが発生しないか心配です。誰しもがそうでしょう。

実際、上述のバッテリー問題解決後も、787のトラブルは続いているようです。

例えば今年の7月12日、エチオピア航空の機体でロンドン・ヒースロー国際空港に到着し全電源を落とした数時間後に火災が発生しました。

英国航空事故調査局(AAIB)(en)は、航空機用救命無線機(ELT)が出火原因となった可能性が高いとの報告書を公表し、FAAなど各国航空当局に対して耐空性が確認されるまでは問題のELTの電源を切る通達を出すよう勧告しています。

これを受けFAA、JCAB、EASAそれぞれの当局は当該ELTについて、点検又は取り下ろしのいずれかの措置を求める通告を発表しています。

また、記憶に新しいところでは、先月11月の23日、日本航空は国際線の一部路線において使用機材をボーイング787から別機種へ変更することを発表しました。これは、787と同じGEnx-2Bエンジンを搭載している他社のボーイング747-8型機が積乱雲が発生している空域を飛行した際に、一時的にエンジン推力が減少する事案が発生したためです。

実は、私事ですが、来年の1月に広島で姪の結婚式があり、これに我々夫婦も招待されていて、この際、飛行機で行こうと思っており、ANAを利用することになりそうです。

なので、その機材が787であるかどうかは一応チェックしておこうと思っているのですが、時間を押した旅行なので、予定によっては787を利用せざるを得ないかもしれません。

とはいえ、日本のメーカーも参画して開発したというこの最先端機に乗ってみたい気持ちもあり、そこのところは少々複雑です。

787については、以前もこのブログでそのスペックを紹介したことがあったのですが(1/22 「787」参照)、ここで、この世界最先端技術を使って開発されたといいう787についてもういちどおさらいしておきましょう。

ボーイング787は、別名ドリームライナー(Boeing 787 Dreamliner)といいます。アメリカ合衆国のボーイング社が開発・製造する次世代中型ジェット旅客機で、これまでの中堅機、ボーイング757・767・777などの後継となる飛行機です。

中型機としては航続距離が長く、今までは大型機でないと飛行できなかった距離もボーイング787シリーズを使うことにより直行が可能になり、これにより、需要があまり多くなく大型機では採算ベースに乗りにくい長距離航空路線の開設も可能となりました。

1995年に就航開始した777に次ぐ機種の開発を検討していたボーイングは、将来必要な旅客機は音速に近い速度(遷音速)で巡航できる高速機であると考え、2001年初めに250席前後の「ソニック・クルーザー」と呼ばれる俊足機を世に提案しました。

しかし、2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件後の航空業界の冷え込みの影響などから少しでも運航経費を抑えたいという航空会社各社の関心を得ることができず、2002年末にこのソニック・クルーザー開発を諦めて通常型の「7E7」の開発に着手しました。

この通常型7E7は、速度よりも効率を重視したボーイング767クラスの双発中型旅客機であり、2003年末には航空会社への販売が社内承認されました。

2004年4月、全日本空輸が50機発注したことによって開発がスタートし、呼称も787に改められました。その後、日本航空も発注したほか、ノースウエスト航空(現・デルタ航空)、コンチネンタル航空(現・ユナイテッド航空)など多数の大手航空会社が発注しています。

その最大の特徴は、特にターゲットとなる767より、航続距離や巡航速度は大幅に上回るとともに、燃費も向上している点です。炭素繊維を使用した炭素繊維強化プラスチック(カーボン)等の複合材料の使用比率が約50%であり、残り半分が複合材料に適さないエンジン等なので、実質機体は完全に複合材料化されたといえます。

この軽量化により、巡航速度はマッハ0.85となり、マッハ0.80の767、マッハ0.83程度のA330、A340より長距離路線での所要時間が短縮されることになりました。

航続距離は基本型の787-8(後述)での航続距離は最大で8,500海里(15,700km)、ロサンゼルスからロンドン、あるいはニューヨークから東京路線をカバーするのに十分であり、東京からヨハネスブルグへノンストップで飛ぶことも可能です。

従来機の767と比較すると燃費は20%向上しており、これは炭素繊維素材による空力改善と複合材の多用による軽量化・エンジンの燃費の改善、およびこれらの相乗効果によるものです。軽量化によって機内空間を増やすこともできるようになり、このため最大旅客数も若干増加させることができました。

実は、この787の製造ラインの3分の1以上を日本企業が担っています。日本企業の担当比率は合計で35%とアメリカ以外で最大かつ過去最大の割合であり(767は15%、777は20%を担当)、この35%という数字はボーイング社自身の担当割合と同じです。

ボーイング社外で製造された大型機体部品やエンジン等を最終組立工場に搬送するため、貨物型のボーイング747を改造した専用の輸送機が用いられており、日本では生産工場が名古屋近郊にある関係で中部国際空港に定期的に飛来しています。

日本企業の筆頭は、三菱重工業であり、同社は747計画時の2000年5月にボーイングとの包括提携を実現しており、機体製造における優位性を持っていました。

すでに1994年には787の重要部分の開発の日本担当が決定しており、三菱は海外企業として初めて主翼を担当しました。三菱が開発した炭素繊維複合材料は、この当時から開発が始まったF-2戦闘機のボーイング社との共同開発に際して初めて使用されたものです。

この時、アメリカ側も炭素系複合材の研究を行っていたものの、このF-2の協同開発から、ボーイング社が三菱側が開発した複合材の方が優秀であると評価したため、三菱が主翼の製造の権利を勝ち取ることになったものです。

三菱が主翼、川崎が前方胴体・主翼固定後縁・主脚格納庫、富士が中央翼・主脚格納庫の組立てと中央翼との結合を担当しており、エンジン開発でも、川崎重工とIHI、三菱(名誘)が参加しています。

機体重量比の半分以上に日本が得意分野とする炭素繊維複合材料が、1機あたり炭素繊維複合材料で35t以上、炭素繊維で23t以上をも採用されています。

こうした炭素繊維複合材料の製造は現在に日本の独断場であり、世界最大の炭素繊維メーカーである東レもまた、実質的にこの開発に加わることとなり、ボーイングと一次構造材料向けに2006年から2021年迄の16年間の長期供給契約に調印し、使用される炭素繊維材料の全量を供給していく予定です。

この787には、4種の派生機があります。

このうち、「787-3」は、航続距離約6500km、交通量が多い路線を的にした296座席(二列制)の短距離型であり、「787-8」は、座席数223座席(三列制)であり航続距離15700kmと787-3のほぼ倍です。787型機の基本型であり、最初に開発されたモデルでもあります。

このほか、胴体を延長させ、座席数259座席(三列制)の「787-9」というのがあり、「787-10」は、これをさらに胴体延長して、座席数290席に増やしたものです。これはエアバス社のA350-900に対抗するために計画されたモデルです

これら各派生機の受注状況は以下のようで、これからもわかるようにその主力は787-8と787-9となっています(2013年11月時点)。

787-3型機 : 0機
787-8型機 : 496機
787-9型機 : 396機
787-10型機 : 120機
787型機 全機種合計 1012機

各派生機とも、客室は従来より天井が20cm高くなっています。面積比で767の約1.2倍、777の約1.3倍にも及ぶとのことで、A350の1.65倍の大型の窓が採用され、窓側でなくとも外の景色を見ることができるといいます。

また窓にはシェードがなく、代わりにエレクトロクロミズムを使った電子カーテンを使用し、乗客各自が窓の透過光量を調節できるという斬新なものです。

さらに、客室内はLED光により、様々な電色が調整できるといい、トイレには、日本航空の主導で、TOTO株式会社、株式会社ジャムコ、ボーイング社との共同開発による、日本で一般に普及している温水洗浄便座がオプションとして採用され、ANAもこれを国際線用機に採用したそうです。

が、国内線には温泉洗浄便座は導入されていないようです。とまれ、飛行機や船が大好きな私としては、こうした数々の新しいシステムをこの目でみたくなりました。

先に述べたように、2013年の時点ではまだ、787の機体の信頼性が安定していないのも事実ですが、人はいつかはあの世にいくもの。生きているうちに、787に乗ってみるのも悪くはないな、と思い始めているところです。

ところで、ボーイングはこの787に飽き足らず、まだまだ新しい飛行機を開発しようとしているようです。

ボーイング・イエローストーン・プロジェクト(Boeing Yellowstone Project)というのがあり、これは、ボーイングが進めている、次世代旅客機の開発プロジェクトです。

現在までに、ボーイングY1・Y2・Y3と呼ばれる3機種の開発計画を発表しており、そのうちY2は787として実現しています。また、Y2(787)はそもそも757-300、767、777-200などの後継機となる200-300名程度を乗せる次世代中型旅客機を想定したものであり、エアバスではA350の開発でこれに対抗しています。

一方のボーイングY1は、ボーイング717、737NGシリーズ(737-600/700/800/900)、757-200などの後継機となる次世代小型旅客機で、100-200名程度を乗せる機体として開発中です。

ライバル会社のエアバスもまた、A320シリーズの後継機として同規模のエアバスNSRを開発中であり、このクラスではこれよりやや小ぶりですが(乗客数70~100程度)、日本のMRJも加わってさらに競争は激化しようとしています。

787の開発で得られた新しい技術、例えば、複合材料製のより軽量で丈夫な胴体や主翼、より大きなバイパス比で燃費や静粛性が向上した新世代のターボファンエンジン、進化したコックピット、より快適な客室技術、などが盛り込まれた新設計の旅客機を目指していると思われますが、MRJのライバル機としてどのような姿で登場してくるか楽しみです。

ただ、787の開発の遅延による影響や、新世代のエンジンを開発するメーカーの都合もあり、開発は未だ本格化しておらず、ボーイングは2008年に、Y1の環境負荷低減の技術が未熟であるため、当分の間は基礎技術研究に注力し、現行の737を改良したシリーズの生産を継続する方針を発表しています。

一方のボーイングY3は、ボーイング777-300、747(ジャンボ)の後継機となる次世代大型旅客機であり、300-600名以上を乗せる最大クラスの機体として開発中のものです。

別途ボーイングが開発中のボーイング747-8(3クラスで450~500名程度)と重複しますが、A380に匹敵する、より大型の機体(500~600名程度)を開発したいということのようです。

が、その全貌を表すのはまだまだかなり先のようです。その理由はいろいろあるようですが、こうした巨大な飛行機を作るのはもうやめにして、中型で航続距離が長く、燃費の良い飛行機のほうが効率的とする考え方が、世界の航空機メーカーに定尺しつつある、ということが理由としてあるようです。

いずれにせよ、これらの新たな飛行機開発においても、日本はボーイング社のようなアメリカの航空機製造メーカーの重要なパートナーとして引き続き、協力体制を築いていくことになりそうです。

MRJの開発によって日本はアメリカの水準に追いついたともいわれますが、アメリカの航空機産業のその裏には日本以上に進んでいるロケット開発を初めとする宇宙産業の技術があり、これに日本はまだまだ追いついていないためです。アメリカと共同で飛行機やロケットを開発していくことで、これらのノウハウを更に吸収する必要があります。

このイエローストーン・プロジェクトを初めとする、次世代のボーイングの飛行機開発にあたっては、既に2012年6月に、日本における航空機製造主要パートナーである三菱重工、川崎重工、富士重工、および東京大学生産技術研究所と製造技術に関する共同研究を開始しており、この研究結果は、上述の787開発にも応用されてきました。

ボーイングと日本のこれらの機関や企業は、産学連携の新たな枠組みであるコンソーシアムの設立に向けた協議を実施する覚書も締結しており、研究開発作業は東大生研の教授陣が主導し、主にその技術スタッフが実務を担当することなども決まっています。

まずはチタニウム、アルミニウム、複合材の切削加工に関する新たな技術開発に取り組み、コンソーシアム設立後は製造技術に関わるより多様な研究開発を実施することで、上記のY1、Y3の開発につなげていく予定だといいます。

しかし、日本も独自の旅客機開発を進めており、上で取り上げたMRJもそのひとつです。このMRJは、今年の10月より、愛知県豊山町の小牧南工場で飛行試験機初号機の最終組み立てが開始されており、来年早々にも日本の空を飛びそうです。

現時点で、世界中の航空会社から330機もの注文が来ており、国内でも日本国政府が政府専用機として10機程度の発注を検討しているそうです。MRJはボーイング737より小型で、滑走路が1,500m以上あれば離着陸できる見通しのため、政府などが災害時に運用できる空港の選択肢が多くなることが期待されています。

さらに、日本初の小型ジェット、ホンダジェット(Honda jet)も商用化実現が近づいています。

つい先だっての12月13日、ホンダとGEの折半出資子会社であるGE Honda エアロエンジンズは、Honda jetに搭載されるエンジン「HF120」が、米国連邦航空局による連邦航空規則のPart33が定める型式認定を取得し、量産に向けたステージに入ったと発表しています。

さらに先週の20日にはHonda JetがFAAの型式証明取得に先立ち必要になる型式検査承認(TIA)を取得したことを発表、これによりデリバリー開始予定は、来年こそは難しいものの、2015年1 ~3月期となることは確実となりました。

来年以降の数年は、日本の航空機産業にとっては劇的な進化を遂げる時期になるかもしれません。期待しましょう。

伊豆と伊予 旧中伊豆町(伊豆市)

今日はクリスマスイブで、今年もあと残すところ1週間になりました。

昨年の今頃はどんなだったかな~と思い返しているのですが、まだまだ引越し後一年にも満たず、家の中もまだ混とんとしていて、正月をじっくり迎えるような心の余裕もあまりなかったように思います。

が、今はもう家の中も片付き、今年の大掃除もおおまかなところは終え、年賀状の印刷も済ませて、あとまだ少々やり残したことはあるものの、なんとか今年一年を静かに振り返る時間ぐらいはできそう、といった感じになっています。

この年末年始には、山口に在住の母がこちらで過ごしたいというのでこちらに来ますし、千葉にいる息子君も帰ってくるというので、昨年末のように二人(プラス・ネコ一匹)の静かなお正月ではなく、少しく賑やかなお正月になりそうです。

ただ、今年、もう80歳を超えるこの母は、少々左足が悪く、階段などの上がり降りが不便なので、一緒に連れ出して、あちこち歩かせるわけにはいかないのが残念です。これは特に怪我をしたとかいうわけではないのですが、若いころに勤めていた会社での長時間の立ち仕事がたたったのではないかと思われます。

なので、長距離を歩くようなところや、長い階段があるようなところはタブーであり、来年のお正月の初詣も、三島神社のような長い参道があるところはやめにしようかなと思っています。

こうしたことを、先日行った修禅寺駅前の散髪屋さんとお話をしていたところ、この散髪屋さんの一家が毎年初詣に行くのは、近くの「広瀬神社」だと教えてくれました。

この広瀬神社というのは、駿豆線で修善寺から二駅の「田京」という駅の南側に鎮座する神社で、延喜式神名帳では、「従一位」とある名社であり、その昔は、この地方一の大社として崇めたてられていました。

主祭神は、溝杙姫命(みぞくいひめ)であり、これは玉櫛媛(たまくしひめ)ともいい、事代主(ことしろぬし)という神様との間に産まれた子供の一人は、神武天皇の后になったと言い伝えられています。

社名の起こりは地名に基づくと思われ、その昔、河川が山間から急に平野に出たり、河川に支流が合流したりして川瀬が急に広くなったところを「広瀬」と呼んだことから、この場所もその当時はそうした場所であったようです。

古くはこの一帯は、狩野川の河水が社域のすぐ傍を流れるような場所だったといい、社域はさながら河水のなかに島のように浮んでいたそうで、伊豆国の主要なる河川であるこの狩野川の広い瀬に臨んで、古人がその河神を祀るために創建したようです。

干ばつのときにも水が枯れず雨天に氾濫を起こさず、順調なる水の供給を希い、年々の農作の豊穣を祈ったのがその起原だと考えられますが、社伝には、この神社はその昔伊豆最南端の下田の白浜からこの地に移ったと書いてあるそうです。

さらに、この地からさらに北部の三島市に遷祀したのが、現在の三島大社だと言われており、本当だとすると、三島大社よりもさらに歴史のある古刹ということになります。

その創建年月は、天平5年(733年)とも伝えられており、往古のその社殿は金銀をちりばめた壮大なものだったとか。禰宜が36人、供僧も6坊もいたそうで、この当時は社域も現在よりもずっと大きかったようです。

が、天正18年(1589年)の豊臣秀吉の小田原征伐の際、兵火により社殿、宝物源頼朝、北条時政等の社領寄進状も焼失し、かなりの所領を失いました。

しかしその後、伊豆国全州の勧進を以って再興され、次いで江戸時代になってからも修営がおこなわれました。江戸時代には、「福沢大明神」と呼ばれていたようで、その後「深沢明神」と改称されて呼ばれるようになり、明治6年の記録でも「深沢神社」となっています。

しかし、明治新政府による神仏分離と廃仏毀釈に伴い、明治28年に、現社号「広瀬神社」になりましたが、これはもともとこの呼称で呼ばれていたものに復称したということになります。

このように、色々調べてみると、かなり由緒正しい神社であり、しかも三島大社よりも創建が古いと聞いて驚いています。

今年の正月の初詣には三島大社に夫婦してお参りしたのですが、すぐ近くにこうした古式ゆかしい神社があるなら、母を連れて行くのもここがいいかな、と思うようになりました。

現在の広瀬神社は、こじんまりとした社殿を持ち、また小公園ほどの社域しかなく、参道もそれほど長くないため、足の悪い母を連れていくにはちょうど良いに違いありません。

我々が住む別荘地のすぐ麓の修禅寺温泉街にも日枝神社という古い神社があるのですが、ここへも参拝するとして、来年のお正月の初詣はこうした近隣の神社で済ますことにしたいと思います。

ところで、この広瀬神社は、この地へ来る前に下田の白浜にあったと書きましたが、その前には、三宅島にあったという説もあるようで、さらに調べてみるとこの三宅島にあったという神社は、天平年間(729~749年ころ)に、伊予国から遷祀されたという記録も残っているようです。

この伊予の国、すなわち現在の愛媛県でこの当時一番大きかった神社というのは、「大三島」という島にある「大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)」であり、分祀されたのもこの神社からだと思われます。

大三島というのは、広島県中央部の竹原市と愛媛県の今治市のちょうど中間あたりの海に浮かぶ島で、この「大山祇神社」というのは、先の三島市にある三島大社とともに全国にある「三島神社」の総本社として崇拝されている大神社です。

主祭神の大山祇神は三島大明神とも称され、大山祇神社から勧請したと伝えられ、「三島神社」と呼称される神社は、四国を中心に新潟県や北海道まで全国に広がります。

従って、かつて三宅島にあったとされる広瀬神社もまた、瀬戸内海から太平洋側を通ってこの地に分祀されたものと考えることができ、これが事実だとすると、愛媛県の大三島と三宅島、下田市、広瀬神社のある伊豆の国市は「三島」というキーワードでつながっていることになります。

おそらく、現在三島にある三島大社もまた、広瀬神社と呼ばれていたものがここへ移されるとき、このゆかりで「三島」大社と呼ばれるようになったのではないか、と私は考えているのですが、これを裏付ける資料を探してみたところ、そうしたものはとくにみあたりません。

なので、これはあくまで私の推測にすぎませんが、それにしても、私にとってはとくに奇縁だなと思うのは、実は私が生まれたのが愛媛県だからです。

生まれ故郷である愛媛から遷祀された神社が回りまわって現在住むこの伊豆の地にあるというのは、なにやら不思議なかんじがします。

ただ、私は、愛媛県内でも南予と呼ばれる大洲市生まれであり、この「大山祇神社」のある大三島ともそれほど遠くはないものの、3才になるかならないかのころに、父の仕事の関係で山口県に移っていますから、この大洲時代の記憶はまったくといってありません。

にもかかわらず、生まれたところのすぐ近くにある場所から移ってきた神社が現在住む場所からすぐの場所にあると聞くと、妙に郷愁じみたものが沸いてくるのが不思議です。

愛媛は、育った場所でこそありませんが、広島や山口に近く、松山などへは頻繁にフェリーも出ていて、子供のころからよく旅行で出かけたりしていたので、まんざら知らない土地でもありません。その昔、伊予三島市と呼ばれていた現在の四国中央市には、父方の祖父夫婦が住んでいたこともあり、この東予地方にも遊びに行ったことがあります。

……と書いて、この伊予三島市もまた「三島」であることに今気が付きました。三島神社の総本社である大山祇神社もまた、「大三島」に存在し、広瀬神社が移転した三島大社のある地もまた三島市内であり、どうやら今日のキーワードは、「三島」のようです。

この大山祇神社には、残念ながら長じてからも行ったことがありません。なので、どんな場所かは想像するしかないのですが、瀬戸内海に浮かぶ大三島西岸、神体山とする鷲ヶ頭山(標高436.5m)西麓という風光明媚な場所に鎮座し、写真を見る限りはかなり壮大な神社のようです。

このあたりは、温暖な場所であり、みかんの産地として有名ですが、尾道~今治間を結ぶ近年本四連絡架橋として「しまなみ街道」がこの島を通っており、アクセスもしやすいようです。

広瀬神社にもゆかりの神社ということで、こちらについても少し調べてみたところ、ここはどうやら古来から、山の神・海の神・戦いの神として崇拝を集めていた神社のようです。

歴代の朝廷や武将から尊崇を集め、源氏・平氏をはじめ多くの武将が武具を奉納して武運長久を祈ったため、国宝・重要文化財の指定をうけた日本の甲冑の約4割がこの神社に集中して保存してあるといいます。

このほか、社殿・武具等の文化財として国宝8件を保有し、国の重要文化財に至っては76件をも有し、昭和天皇の海洋生物研究のための御採取船「葉山丸」を永久保存するために建設された「大三島海事博物館」などが大山祇神社に併設されているそうです。

ただ、昭和天皇=太平洋戦争といった関連の海事資料が提供されている、というわけではないようです。が、この大山祇神社そのものがもともと戦いの神様ということで、初代総理大臣の伊藤博文や、旧帝国海軍連合艦隊司令長官・山本五十六をはじめとして、政治や軍事の第一人者たちの多くが参拝のためにこの地を訪れています。

近年になっても、海上自衛隊・海上保安庁の幹部などの参拝があるといい、さながら軍事における「メッカ」とも言うべき場所として崇められているようです。

江戸時代以前の戦国時代・安土桃山時代には、このあたりには瀬戸内最大規模の「河野水軍」と呼ばれる武士集団があり、かの有名な村上水軍も形式的にはこの河野氏の配下である河野水軍に属していたそうです。

が、村上水軍のほうは、独自での活動も活発であり、必ずしも従属関係にはなかったようです。

村上水軍の勢力拠点は芸予諸島を中心とした海域であり、後に大まかに能島村上家、来島村上家、因島村上家の三家へ分かれました。彼らの多くは真言宗徒であり、京都などに数多く菩提寺が残されており、伊予国に本拠を持つ河野水軍と異なり、どちらかといえば畿内にその近親者が多かったようです。

とまれ、村上水軍も河野水軍も、伊予の水軍のほとんどが大三島の大山祇神社を崇拝し、祀りを執り行うことが習いであったといい、大山祇神社を中心としてこの地の海賊たちは結束を固めていたことは想像に難くありません。

この河野水軍の一派に、大祝(おおほうり)氏という一族がありました。伊予河野氏の一門であり、やはり大三島を拠点としていたようです。大祝氏は代々神職として大山祇神社を勤めており、このため戦場に立つことはあまり多くなかったようですが、それでも戦が起きた場合は一族の者を陣代として派遣していました。

ちょうどこのころは、戦国時代であり、周防(現山口県)の大内氏が中国地方や九州地方で勢力を拡大しているなか、河野氏や大祝氏の勢力下である瀬戸内海でもその勢力は拡大の一途を辿っていました。

とくに大内家16代当主の大内義隆が家督を継いだころには、大内家は周防をはじめ、長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領するなど、名実共に西国随一の戦国大名となっており、大内家は全盛期を迎えていました。

当然、瀬戸内海を牛耳っていた河野氏とも争うようになり、大内義隆は、1534年(天文3年)、伊予にも侵攻してきましたが、このときは、大祝氏の「大祝安舎(やすいえ)」が陣代として出陣し、この大内軍を撃退しました。

この大祝安舎は、大山祇神社(愛媛県大三島)の大宮司・大祝安用(おおほうりやすもち)の長男であり、安用にはこのほか安房(やすふさ)という弟と、鶴(つる)という妹がいました。

この鶴姫は、長じてからは伊予きっての美しさだと評判になるほどの美人だったそうですが、その一方では男顔負けの武勇でも知られていました。

1541年(天文10年)にも、大内氏配下の水軍の将・白井房胤らが侵攻すると、このころ神職となった兄・安舎に代わって安房が陣代となりました。安房は主家である河野氏や来島水軍とも連合してこれを迎撃、大内軍を撤退させることはできたものの、このとき無念の討死を遂げてしまいます。

大内氏のこの地への執着は大きく、その後も同年10月に再び伊予へ侵攻してきました。このとき、亡き兄の安房に代わって陣代として出陣したのが、ほかならぬこの若干16歳の鶴姫であったといいます。

そして、この戦においても、彼女の指揮により河野水軍連合は大内氏を打ち破り、水軍の将・小原隆言を見事に討ち取りました。

実は、鶴姫は、このころ同じ河野衆で、越智安成という若者と恋中にありました。二人は、将来を誓い合っていたといいますが、越智家は大祝氏の配下にある家柄であり、安成にとっては鶴姫は主筋の娘という関係でした。

二人は幼馴染であったようで、同じく水軍の家に生まれたこともあり、子供のころから揃って文武に励み、鶴姫が長じてから安成はその右腕として仕えていたようです。

二年後の1543年(天文12年)6月、2度の敗北に業を煮やした大内義隆は、配下の陶隆房の水軍を河野氏の勢力域に派遣。再び大三島を攻略して、瀬戸内海の覇権の確立を目論もうとします。

このとき派遣されてきた大内水軍は、前回・前々回の規模を大きく上回るものであり、河野氏と大祝氏などその一門は全力でこれを迎え撃ちますが、その矢先、安成が討死してしまいます。

右腕であり、恋人でもあった越智安成を失った鶴姫は、怒りと悲しみから復讐を誓い、残存の兵力を集結させて最後の反撃を行います。この戦いは夜戦だったと思われ、不意を突かれた大内軍は壊走し、からくも鶴姫らは勝利を収めることができました。

しかし鶴姫は、この戦が終わったあとで失った兄や恋人のことを想い、18歳で入水自殺してしまいました。

この話は「鶴姫伝説」として現在まで伝えられて残っているのですが、あまりにもよくできた話なので、ウソ話かな~と思ったら、ちゃんと鶴姫が残した辞世の句というのがあるそうで、それは、

「わが恋は 三島の浦の うつせ貝 むなしくなりて 名をぞわづらふ」

というのだそうです。

鶴姫が着用したとされる胴丸も大山祇神社に保存されており、一般公開されていて見ることができるそうです。これは、「紺糸裾素懸威胴丸」といい、胸部が大きく膨らんでいて、逆に腰部が細くくびれていることから、現存している中では唯一の女性用の胴丸と確認されているといいます。

1959年に重要文化財に指定されており、本当に鶴姫が使用したかどうかの記録は残っていないものの、歴史作家の三島安精という人が、自著「つる姫さま(海と女と鎧)」において、これを鶴姫が使用したと推定したことから、彼女着用のものと言われるようになったようです。

郷土史家の喜連川豪規(きれがわひでき)という人も、「鎧が生んだお姫さま」という随筆を残しており、このお話を元に、NHKの「歴史秘話ヒストリア」が、2011年6月8日放送でこの鶴姫伝説を紹介しています。

500年以上も前のお話なので、真実かどうかはわかりませんが、現在でも大三島では鶴姫のこの一生を題材にした「鶴姫祭り」を毎年開催しているとのことです。大三島の高台の城跡近くには、地元の人が「おつるさん」と呼んでいる小さな祠があるとのことで、もしかしたら、これは本当に鶴姫のお墓なのかもしれません。

ちなみに、この鶴姫の話は、「鶴姫伝奇」として、日本テレビが1993年に「時代劇スペシャル」として製作、放映されており、このときの鶴姫役は、後藤久美子さんだったそうです。

その後大祝家の一族がどのような末路を辿っていったかはわかりませんが、大祝家が仕えていた河野家は、大内氏の魔の手から逃れ、戦国時代をなんとか生き抜こうとしています。

しかし、永禄11年(1568年)に河野家を継いだ「河野道直」の時代には、河野氏はすでに衰退しきっており、家中は、近隣の大名で敵対する大友氏や一条氏、長宗我部氏に内通した者たちの乱に苦しんでいたようです。

この河野通直という武将は、若年で頭領になりましたが、人徳厚く、多くの美談を持つ人物で知られています。反乱を繰り返していた家臣の一人に大野直之という人物がいましたが、通直に成敗されて降伏後その人柄に心従し、その後改心して、忠実な部下になったということです。

その後、豊臣秀吉による四国攻めが始まると、若き頭領を頂く河野家内では小田原評定の如く進退意見がまとまらず、一同は湯築城内(愛媛県松山市道後町の県立道後公園内にある河野氏の城跡)に篭城します。しかし、秀吉配下の、小早川隆景の勧めもあって約1ヶ月後、小早川勢に降伏。

この際、河野通直は城内にいた子供45人の助命嘆願のため自ら先頭に立って、隆景に謁見したといい、この逸話は、湯築城跡の石碑に刻まれて残されているそうです。

このとき通直は命こそ助けられましたが、所領は没収され、ここに伊予の大名として君臨した名家である河野氏は滅亡してしまいました。

かつて河野水軍と行動を共にすることの多かった村上水軍もまた、その後水軍としての役割を終えていきました。

来島村上氏は早くから豊臣秀吉についたため独立大名とされましたが、他の二家は能島村上氏が小早川氏、因島村上氏は毛利氏の家臣となりました。

1588年(天正16年)年に豊臣秀吉が海賊停止令を出すと、これら村上水軍の家々は従来のような活動が不可能となり、海賊衆としての活動から撤退を余儀なくされるようになります。

因島村上氏はそのまま毛利家の家臣となり、江戸期には長州藩の船手組となって周防国三田尻を根拠地としましたが、平穏な江戸時代にあっては水軍として使われることはありませんでした。

能島村上氏もまた毛利家から周防大島を与えられて臣従し、江戸期には因島村上氏とともに長州藩船手組となりました。豊臣の家臣となった来島村上氏はその後、江戸期には豊後国の玖珠郡に転封され、「森藩」となりましたが、こちらはこれによって完全に海から遠ざけられ、水軍として組織されることは二度とありませんでした。

こうして、水軍というものは時代の中から忘れ去られていきましたが、この村上水軍を吸収した長州藩は、その後明治維新における立役者となり、その後創設された帝国海軍でも長州人は登用されやすく、そうした中にこうした村上水軍の流れを汲む者も少なからずいたようです。

また、日本海海戦でロシアのバルチック艦隊を打ち破った連合艦隊の参謀、秋山真之はこの伊予の国の松山出身であり、バルチック艦隊を打ち破るための戦法の多くをこの村上水軍が残した戦術書から仕入れたといわれています。

こうした優れた戦法を編み出したかつての水軍の武将たちが崇めた、大三島の大山祇神社は、今も政治や軍事の第一人者たちのメッカであり続けており、現在も多くの関係者の参拝が絶えません。

そしてこの大山祇神社の系譜につながる、広瀬神社にお参りする日も、あと一週間ほどのちになりました。

残る一週間にはまだまだやること満載ですが、それをスッキリ終えて、気持ちよく新年を迎えたいもの。

来年は、午年ということなので、広瀬神社へ行ったらお馬さんのように疾走できるようお願いしたいと思います。間違っても「失踪」にならないよう、心して新しい一年を過ごしたいと思うのですが、そう「ウマ」くいくでしょうか。

皆さんはもう初詣の行先は決まりましたか? もしかしたら、あなたの行く先もまた大山祇神社つながりかもしれません。ぜひ一度調べてみてください。