藪と野暮

2014-1120226小正月の15日が過ぎました。

関西方面では、松が明けるのはこの小正月が過ぎてかららしいので、正月は名実ともに昨日で終わり、今日から改めて仕事始め、という雰囲気の人も多いことでしょう。

この1月16日は、その昔は「籔入り」として奉公人にとっては、大事な日でした。江戸時代ころまでは、商家などに住み込みで働く丁稚や女中が数多くいましたが、一年のうち、この日と7月16日だけは、実家に帰ることが許されていました。

この藪入りの語源には諸説あり、はっきりしないようですが、藪の深い田舎に帰るからという説のほか、昔は実家へ帰ることを「宿入り」と言ったことから、これが訛って藪入りになったのではないかという説もあります。

ちなみに、大奥の女性たちが実家に帰ることは「宿下がり」と呼ばれていたそうで、これは年に二回に一日だけではなく、奉公勤続3年目ではじめて6日間、6年目からは12日間、9年目からは16日のあいだ、休みを貰って宿下がりが許されていました。

もっとも、季節は春先だけに限られていたそうで、また大奥の女中たちでも、実家に帰れるのは、「御次」と呼ばれる中堅クラス以下の女性たちだけでした。逆にこれより位が上の者たちは、より将軍に近い側近として、ほぼ終生を大奥で暮らしたため、実家に帰る機会というのはかなり少なかったようです。

ただ、「老女」と呼ばれるような、大奥でも侍女の筆頭格になると、町屋敷が与えられることもあったそうなので、こうした老女とその側近たちは、大奥を出てこうした屋敷で一生を終えるということもありました。

大奥の奥女中としては、当初は旗本や御家人などの武家出の女性が雇用されたようですが、時代が下ると、裕福な町人出の女性が「行儀見習い」目的に奉公に上がることが多かったそうです。このため、一定の期間を過ぎると、また元の町屋に返されて余生を過ごす、ということもあったようです。

いずれにせよ、こうした大奥に上がっていたのは、裕福な商家や金銭的に比較的余裕のあった武家の者だけであり、一般庶民がこうした場所に上がることはほぼありえない話でした。

貧しい農家や職人たちの子息は、余裕のある商家に方向に入って奉公働きさせられるのが普通であり、通常は10歳前後で商店に丁稚として住み込んで使い走りや雑役を始めます。

無論、丁稚は一人ではなく、大きな商家ではたくさんの丁稚を雇うことから、丁稚の中でも住み込み年数に差が出るのは当然であり、その経験年巣によって上下関係が出てきます。

丁稚の仕事は多岐に亘り、雑役のほかに蔵への品物の出し入れをはじめとする力仕事が多く、住み込みながら番頭や手代から礼儀作法や商人としての「いろは」を徹底的に叩き込まれます。また入り口付近に立って呼び込みや力仕事も任され、経験が浅いうちは、商品を扱わせてもらうといったことはまずありません。

しかし、こうして働かされるばかりではなく、丁稚奉公はこの時代には教育の場でもありました。

丁稚は、店が一日の仕事を終えたからといって終わりではなく、夕刻閉店した後には番頭や手代らから商人として必須条件である読み書きや算盤を教わっており、こうした素養をつけさせることで、雇った側も人材育成を図ることができ、ひいてはそれが店のためにもなっていったのです。

丁稚は、他店や客からは「丁稚どん」、あるいは「小僧」「坊主」などと呼び捨てにされることも多かったようですが、その後成長して能力のあると認められた者は、その後主人(だんさん)の裁量で手代となることもあります。

小僧から手代までおおむね10年かかるそうで、手代はその字の通り、主人や番頭の手足となって働きます。やがて更に才覚が認められれば、番頭を任されますが、この番等にも大商店などでは位があり、小番頭、中番頭、大番頭などに分けられていました。

大番頭ともなると、主人の代理として店向き差配や仕入方、出納や帳簿の整理、集会等の参列など支配人としての重要な業務を任されるようになるとともに、支店をまかされたり暖簾分けされて自分の商店を持つことが許されることもありました。

番頭となるのはおおむね30歳前後でしたが、しかしそこに到達するまでは厳しい生存競争に勝ち抜く必要があり、江戸期の三井家の例をあげると、丁稚で入って暖簾分けまで到達できる者は300人にひとりというかなり低い確率でした。

手代や番頭になれない者は元の農家に返されるか、はたまた別の商家で働かせてもらうかします。奉公換えは頻繁に行われていたようで、無論、元の商家の主人や番頭と気が合わない、といったこともあったでしょう。

一方では、とくに優秀な手代などが、大店へ引き抜かれるといったこともあり、この際には給金や賞金、つまり現代でいえばボーナスが増える、といったことが多く、このためこうした転職はしばしば行われたようです。

このあたり、現在の日本と何ら変わりがありません。

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こうした手代や番頭をめざして日々の業務を励む丁稚などの奉公人たちにとって、藪入りは、年にたった2度だけの貴重な休日であり、重大なイベントでした。

藪入りの習慣が都市の商家を中心に広まったのは江戸時代からですが、本来は奉公人ではなく、嫁取り婚において嫁が実家へと帰る日だったとされるそうです。しかし、都市化の進展に伴い商家の習慣へと転じ、関西地方ではや「6」のつく日に嫁が実家へ帰ることが許されていたことから、「六入り」と呼ばれていたそうです。

やがて、この嫁の里帰りは奉公人の習慣に変わっていきましたが、嫁の里帰りがひと月に何度でも可能であったのに対し、奉公人の藪入りの日がたった二日となったのは、無論、そんなに頻繁に返していたのでは、その店としても、本人としても経済的に負担だったためです。

藪入りの日となると、主人は奉公人たちにお仕着せの着物や履物を与え、小遣いを与え、さらに手土産を持たせて実家へと送り出したため、多くの丁稚を抱える商家では当然これは大きな出費となります。

丁稚たちが帰る実家でも、待ちかねた両親が待っており、親子水入らずで休日を楽しみますが、帰って来た子供たちに振る舞う食事などもこのときとばかりに豪華なものにします。しかし、こうした贅沢もまた、年二回程度なら許されるものの、頻繁に行うということになるとかなりの物入りになります。

このため、遠方から出てきた者はその旅費だけでも莫大になることなどから、実家へ帰ることができないものも多く、こうした丁稚たちは、もっぱらその日だけはお暇を貰い、商家のある地元で芝居見物や買い物などをして休日を楽しみました。

江戸時代の人達にとっては小正月である1月15日と、盆でもある7月15日はそれぞれ一年のうちでもとくに重要な祭日であり、その翌日が藪入りと定められたのは、丁稚たちが奉公先での行事を済ませた上で、実家でも行事に参加できるようにという意図だったと考えられます。

この習慣は、やがてこの藪入りが、地獄で閻魔大王が亡者を責めさいなむことをやめる「賽日(さいにち)」とも重ねられるようになり、人々はこの日だけは、普段は忌嫌っている閻魔様に参詣するようになりました。

一年のうち、正月16日と7月16日だけは、地獄の釜の蓋が開いて鬼も亡者も休むとされるとされ、これを「閻魔賽日」と呼んで、日各地の閻魔堂や十王堂で開帳が行われ、縁日がたつようになったのです。正月のこの日はとくに「初閻魔」とも呼ばれ、また「賽日」以外にも「十王詣」という呼び方もあったようです。

十王というのは、地獄にいて亡くなった人の罪を裁く10人の判官のことで、それぞれを閻魔と呼び、その筆頭を閻魔大王と呼んだりします。閻魔賽日には、こうした十王が描かれた地獄の図や地獄相変図を拝んだり、閻魔堂に参詣して過ごします。

ちなみに、これとは別の習慣ですが、浄土真宗門徒にとって1月16日は、「念仏の口開け」と呼び、この日に年が明けて初めて、仏様を祀って念仏をとなえます。

彼等の間では、正月の神様(年神様)は念仏が嫌いである、ということになっているそうで、前年の12月16日の「念仏の口止め」からこの日までの正月の間は念仏は唱えないこととされています。

なので、今日16日は正月の間封じられていた念仏がようやく再開できる日でもある、というわけです。閻魔大王を崇める賽日も、念仏の口開けも仏教の習慣なので、もともとは一緒のものだったものが、長い間に宗派の違いにより、こういう風に分化されたものかもしれません。

その後、明治維新が起き、太陰暦から太陽暦への改暦が行われた結果、藪入りが行われる日もまたそのまま新暦の日に移行して、現代に至っています。

明治期の文明開化後も商家の子息を丁稚奉公に出すといった労働スタイルにはそれほどの変化はなかったのですが、一方では産業化の進展に伴い労働者の数が増大したため、藪入りはさらに大きな行事となっていきました。

藪入りの日は浅草などの繁華街は奉公人たちでにぎわったため、この当時に流行し始めた活動写真にも多くの人が足を運ぶようになりました。

今日のように、映画が大きな文化として日本で認められるようになったのには、この藪入りの行事が明治時代以降も引き続いて盛大に行われたことが大きかったようです。

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その後、第二次世界大戦が勃発している間はさすがにこの藪入りも大々的に祝われるということはなくなりましたが、戦後になると、労働基準法の強化などにより労働スタイルも一変します。

GHQの指導などもあり、アメリカスタイルと同じく日曜日を休日とすることが奨励されるようになり、このため、年に二回の休暇である藪入りはすたれていきました。

人々は週に一回の休みを取ることで更に多くの休みを取ることが義務付けられるようになり、このころにもまだ大阪などを中心に残っていた丁稚奉公人たちもまた週末には休めるようになりました。

さらに、正月休み・盆休みを許す会社も増えたことから、やがて、かつてあった藪入りはこの正月休みに統合されるところとなりました。

現在でも、正月や盆には、帰省することを何にも不思議と思っていない人が多いと思いますが、これはかつての藪入りの伝統が、現在の正月休み、盆休みと合体した結果です。本来は、休みを取るだけで済みそうなものをわざわざ、旅費をはたいて実家に帰るのは、藪入りの名残、というわけです。

このように、藪入りは、かつての奉公人たちにとっては年に2度だけの貴重な休日であり、重大なイベントであったため、これにちなんだ小説や俳句などが、江戸期以降、たくさんつくられました。

落語にも「藪入り」というのがあり、これは、「衆道」をテーマにしたその名も「お釜さま」という噺を、明治末期から大正にかけて活躍した、初代の「柳家小せん」が改作したものです。

そのあらすじをざっと書くと、住み込みで奉公をする子供が一日だけ親元へ帰ることが許される藪入りの日のこと、門前で立派に挨拶をする様子を見て、我が子の成長ぶりに両親は感涙します。

そして苦労してきた息子をまずは湯屋へ汗を流しに行かせると、子供が紙入れを忘れているのを母親が気付き、その妙な膨らみに違和感を覚えます。中を見ると、15両もの大金が入っており、奉公先の小遣いにしてはあまりにも高額なため夫婦は息子が何か悪事に手を染めたのではという疑念を抱きます。

とりあえず我が子の帰りを落ち着いて待とうということになりますが、その日に限って息子は帰りが遅く、苛立ちを募らせた喧嘩っ早い職人肌の父親は、帰ってきた息子を有無を言わさず殴り飛ばして、なんで悪事になんか手を染めたんだと問いただしました。

すると、この息子は、その15両は悪事で手にした金ではないと答えます。母親がじゃあどうやって手にした金なのかと聞くと、なんでも息子の話によれば、巷で流行るペストの予防のためにお役所が懸賞金を出して子供にねずみ取りをさせ、彼が捕えた一匹のネズミがその懸賞に当たり、その賞金を手にしたといいます。

これに驚いた父親は、我が子が悪事に走ってなかったことを知ると共に、我が子の強運を褒め讃えます。

そして、最後に「これもご主人への忠(チュウ)のおかげだ」と父親が言い放つというところがオチとしてつき、この噺は終わります。

こうしたあらすじだけ書くと、面白くもなんともないのですが、柳家小せんなどの本番では、藪入りの前日、我が子の帰りを待ちきれない父親が、息子のためにどう考えても一日で子供が食えるとは考えられないほどの分量のご飯をこしらえようと妻に提案する、といったエピソードがユーモラスに交えられているそうです。

典型的な人情噺でもあり、親子の会話からほろりとさせられるシーンもあるそうで、なかなか抒情豊かな噺のようです。

ところが、この噺の元となった、「お釜様」のほうは、いわゆる「艶笑噺」といわれるものです。元は、江戸の小伝馬町にあった呉服屋「島屋」で、番頭がある丁稚に「性的な虐待」をした末に気絶させてしまったという事実が原題になっています。

このような事件は当時珍しくなかったそうです。この事件が表沙汰になったことにより、この落語が創作されましたが、この噺では、上述の「藪の入り」では息子がねずみ取りの懸賞金で金を得たと告白する部分において、「盗んだんじゃねえ」という息子が、番頭との「関係」を説明する、というところがオチになっているそうです。

おそらく番頭との性的な関係を面白おかしく言って笑わせる、という工夫なのでしょうが、現在でもこうした関係を笑えるか、というと、逆に笑えるどころか客席はシーンとしてしまうかもしれません。

そもそも、こうしたいわゆる「衆道」は、平安時代に僧侶や公家の間で流行した「男色」が、中世室町時代に武士の間でも盛んになったことに起源を発します。

「衆道」の言葉がいつから使われるようになったかは不明ですが、そもそもは武士の「主従関係」の価値観が男色と融合したとされています。この当時の武家社会の男色は、それまでの公家の美少年趣味とは異なり、女人禁制の戦場で武将に仕える一般の少年を「お小姓」として連れて行くことも多く、これが始まりだとされています。

女性の代わりにこうした男性が主人の相手をすることも普通であったそうで、そうした話を聞くと、私などはぞ~っとしてしまうのですが、そちら方面がお好きな方は興味深々かもしれません。

さらに時代が下って、江戸幕府の時代になってもこの風習は生き残り、幕府の公式令條においても「衆道」という言葉が使われるほどであり、江戸時代初期から中期にかけては上から下までごくごくあたりまえの習慣だったようです。

江戸中期に、武士道の指導書として書かれた「葉隠」にでさえ、武士道における男色の心得が説かれているそうで、「互いに想う相手は一生にただひとりだけ」「相手を何度も取り替えるなどは言語道断」「そのためには5年は付き合ってみて、よく相手の人間性を見極めるべき」などと書いてあるそうです。

さらには、相手が人間として信用できないような浮気者だったら、付き合う価値がないので断固として別れるべきだとまで書かれてあり、怒鳴りつけてもまとわりついてくるようであれば、「切り捨つべし」とまで言い切っているとか。

さらに「葉隠」では武士における衆道は、命がけのものが最高のこととされているそうで、ここいらあたりにこの風習がかつての武士の主従関係に起因する、一種の崇高な風習であったことが見てとれます。

江戸期以前の食うか食われるかといった戦国の世でにおいては、お互いに体を許し合えるような間柄でなくては、安心して命を預けることはできない、ということはあったでしょうから、こうした風習が尊ばれるのもあながち不思議ではありません。

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ところが、江戸中期から後期に入ると、こうした武家社会における男色は、それまでの主従関係に加え「同輩関係」の男色も見られるようになっていきました。必ずしも従前のような君臣的上下関係ではなく、念者(年長者)と若衆(年少者)という兄弟分的な同性愛が起こるようになっていったのです。

とはいえ、誰でもいいというわけではなく、この「若衆」と呼ばれる男性の多くは、平安の昔に立ち返って、やはり「美貌」を持っている少年でなければなくなりました。そこいらにいる不細工で小生意気な洟垂れ小僧では念者に愛されることはなく、今でいえばジャニーズ事務所にいるような美少年たちだけが対象になっていたのです。

ただ、この風習が全国的なものであったかというとそうでもないようで、諸藩においては家臣の衆道を厳しく取り締まるところもあったようです。

特に、姫路藩では家中での衆道を厳しく禁じていたそうで、江戸初期の同藩の藩主、池田光政などはこの藩規に違反した家臣を追放に処しています。

この理由はよくわかりませんが、こうした江戸太平の時代になると、主従として命を共にするために男色を奨励するというよりも、むしろそうした身を許した人間が政道に立ち入ることで藩政が乱れることを嫌ったためでしょう。

しかし、江戸を初めとし、その他の藩でもその後も衆道はさかんであり続けました。

元禄時代の将軍だった徳川綱吉もまた、男色に傾倒し、12歳年下の柳沢吉保を少年時より寵愛していたという話があり、この柳沢保はその後も寵臣として綱吉に愛され続けた結果、その権力を維持できたのだという説もあります。元禄文化は、衆道文化の一面もある、という人さえいるようです。

ところが、元禄以降になると、前述のように兄弟分的な男色関係のほうが大事にされるような風潮が出てくるようになり、相手の美少年との関係を大切にしたいがあまり、刃傷事件などのトラブルも頻発するようになりました。

このため、江戸時代後半になると、衆道は風紀を乱すものとして問題視されるようになり、次第に目立たなくなっていきました。しかし、目立たなくなっていただけで、陰ではやはり従前どおりの普通の風習であり続けたようです。

とはいえ、上杉謙信を藩祖に持ち、質実剛健の藩風を持つ米沢藩の上杉家などのように、男色や衆道に対しては厳重な取り締まりを命じるような藩もありました。

それでも、衆道は武士道の精神と深く関わってできた習慣ということもあり、こうした男同士の情愛は様々な形で続き、とくに南国にあって、江戸の風習が届きにくい薩摩藩などでは、むしろ衰えることもなく、幕末維新の時代まで続きました。

新撰組局長の近藤勇が、新撰組発祥の地のひとつとしても知られる武蔵多摩郡立川郷(現東京都)の人で、のちに神奈川県議会議員などを勤めた中島次郎兵衛に宛てた書簡にも、局内で「しきりに男色が流行している」と記されているそうです。

衆道が盛んだった薩摩からは、明治維新後、数多くの人材が政府に出仕しましたが、とくに帝国海軍においても陸の長州、海の薩摩、と言われるほど数多くの薩摩出身の軍人が台頭しました。こうした薩摩が造った海軍では、明治時代の後半頃まで衆道の影響が強く残っていたといいます。

その後、いわゆる「衆道」が完全が消滅したのは大正年間の頃だとされています。が、本当に「消滅」したのかどうか、といわれれば、答えはグレーでしょう。

もっとも「衆道」と、単なる「男色」は別者と考えることができ、江戸期以前の武士道に端を発して流行した同性愛の形はおそらくは現在のものとはかなり違うのではないかと考えられます。が、そこのところのビミョーな部分は私には理解のしようもありません。

とはいえ、少年愛は、古来から世界中のあらゆる社会で存在したと考えられ、古代ギリシャでは「社会制度」でもあったそうで、日本と同じく、戦士社会においては年長の戦士と若い戦士のあいだを結びつけ、互いの信頼関係を築くために重要視されていたそうです。

時代が変われども、人間の基本的な性癖などはかわるべくもなく、あいもかわらず世界中で戦争が勃発していることを考えると、こうした「社会制度」もまた、表に出ないまでも各国では潜在的に行われていると考えても不思議はありません。

ギリシャや日本だけでなく、トルコでもその昔は、男色が一般に受け入れられており、オスマン帝国のスルタン(イスラム世界における君主)は、そのハレムに幾多の美少年と美女を囲っていて、最盛期にはその数は1000人を越えたという記録があります。

そのオスマン帝国の重要な拠点でもあった、ソチで、いよいよ冬季オリンピックが始まります。2月7日からだそうで、もうあとその開催まで3週間を切りました。

無論、現在はロシアの領土となっているソチで、同性愛者が多いといった話は聞いたことがありません。が、スポーツ選手の間では、わりと同性愛者が多いと聞いたことがあります。これは、やはりスポーツ社会もまた、「戦士社会」とみなせることと無関係ではないでしょう。

先日の9日には、サッカー元ドイツ代表として、2004年から2010年にかけて52試合に出場した有名な選手が、同国代表経験者としては初めて、同性愛者であることをカミングアウトしたばかりであり、こうした例はほかにもたくさんあるに違いありません。

私としてはまったくその気はありません。が、だからといって、同性愛はまかりならん、不道徳だ、などという野暮なことを言うつもりもありません。

スピリチュアル的に考えた上では、同性愛についても否定するものではありません。男も女も同じ魂である以上、性別とは無関係にこれが時に愛し合い、時に敵として合い交えることは普通にあることだと、受け止めています。

今後繰り広げられるソチでの多くの戦いにおいても、それが変わることはないでしょう。厳寒の地での魂と魂のぶつかり合い、早くみてみたいものです。

2014-1120234石廊崎神社にて

どぶ

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先日、いつも見ているNHKの火野正平さんの旅番組を見ていたら、その日の訪問地は、横須賀市内のある病院でした。

40年ほど前に、その病院の眼科で目の治療をしていた女性が、目の訓練にと、病室から見ていた神社の階段が何段あったか見てきてほしいという依頼内容でしたが、残念ながらその女性はその後失明されたそうです。

その病院も神社も現存し、無事火野さんはお役目を果たすことができたのでしたが、そこへ行く途中、火野さんが、横須賀市内の「どぶ板通り」なる商店街を通っていました。

私はまだここへは行ったことがありません。あぁこれがあの噂のどぶ板通りかぁと、じっくり見ようと思ったのですが、火野さんはすぐに通り過ぎてしまったので、詳細には見れませんでした。

ここ伊豆からもそう遠くはないので、今度ぜひ一度行ってみようと思うのですが、せっかくだからその由来なども調べてみようとパソコンを立ち上げると、このどぶ板通りというのは、神奈川県横須賀市中心部にあり、どうやらその長さも300m程度の短い通りのようです。

戦前、この通りには道の中央に、いわゆる「どぶ川」が流れていましたが、人やクルマの通行の邪魔になるため、近くにあった海軍工廠が厚い鉄板を提供し、このどぶ川に蓋をしたことから「どぶ板通り」と呼ばれるようになったそうです。

戦後は、このドブ川やこれを覆っていた鉄板ともに撤去されて下水道が造られ、その上の道路の舗装もきれいになって、その周りには150軒ほどの商店・飲食店ができるようになっています。通称「どぶ板通り商店街」と呼ばれていますが、「本町商店会」というれっきとした正式名称があるとか。

このどぶ板通りを持つ横須賀は、明治時代から第二次世界大戦終了時までは大日本帝国海軍横須賀鎮守府の門前町として栄え、戦後は進駐軍・在日アメリカ軍横須賀海軍施設の兵隊で賑わいました。

その結果、米兵向けの土産物店、肖像画店、バーや飲食店、テーラーショップなどが栄えるようになりましたが、ベトナム戦争以後は、こうした店は数を減らし、2000年代には日本人向けの店などが台頭するようになっていったようです。

現在では、アパレルショップ・美容院・アクセサリショップなども栄え、「スカジャン」と呼ばれる横須賀ならではのジャンパー専門店が立ち並び、昔の名残りでミリタリーショップなどもあり、こうした店には横須賀港に多数係留されている自衛隊の艦船を見に来た観光客なども立ち寄り、人気があるようです。

かつて米兵が闊歩した経緯と、最近のこうした日本の文化が融合した独特の雰囲気を持っているとのことで、商店街としては更に観光客を呼び込もうと、通りの路面に横須賀に縁がある有名人の手形を埋め込む活動なども行っているそうです。

この「どぶ」の語源ですが、「土(泥)腐」、すなわち腐ったヘドロという説や、「泥深」、深い泥地、などがあるようですが、定説はなく、一説では「濁醪(どぶろく)」の「どぶ」ではないかともいわれています。

いずれにせよ、濁った液体を指す総称のようで、「どぶ汁」という用語もあります。これは、茨城県から福島県南部の太平洋沿岸地域に伝わる漁師料理で、つまりは「あんこう鍋」のことです。

水は使わずに、大根などの野菜や味噌と鍋を持ち込むだけで作れることが船上での調理に好都合で、何より栄養価が高かったために地元の漁師さん達に愛された調理法が、郷土料理になっていったものです。

このどぶ汁もまた、あん肝から出る肝油で汁がオレンジ色に濁り、酒のどぶろくの様に見えることから、こう呼ばれるようになったという説があります。また、どぶとは「全て」という意味があり、あんこうの全てを入れる事から「どぶ汁」というとの説もあるようです。

このどぶろく(濁酒、濁醪)とは、発酵させただけの白く濁った酒で、もろみ酒、濁り酒ともいいます。炊いた米に、米こうじや酒粕に残る酵母などを加えて発酵させることによって造られ、日本酒(清酒)の原型でもあります。

では、「どぶろく」の語源は何かというと、これは平安時代以前から米で作る醪(もろみ)の混じった状態の濁酒のことを濁醪(だくらう)と呼んでいたのが訛って、こうなったのではないかと言われています。

3世紀後半に記された中国の「魏志倭人伝」には既に、倭人は酒をたしなむといった記述があるそうで、このことからどぶろくの起源はかなり長く、米作の発祥とほぼ同じ時期に発明されたのではないかといわれています。

どぶろくは米から作ります。日本では古来より、収穫された米を神に捧げる習慣があり、このどぶろくも合わせて供えることで、来期の豊穣を祈願したようで、こうした風習は現代でも日本各地の神社で残っています。

その製法は比較的簡単で、以下のとおりです。

1.まず、よく研いだ白米を水に浸し、少量の飯を布袋に包み同じ容器に浸した上、1日1回この浸けた袋を揉む。
2.この袋を3日程度置き、甘酸っぱい香りがしてきたら、水(菩提酛)と米を分け、米を蒸す。蒸した米を30度程度に冷やしてから米麹を混ぜ、取り置いた菩提酛と水を加える。そして、1日1回かき混ぜ、再び2日程度置く。
3.白米を蒸し、30度程度に冷やしてから麹と水を混ぜ、加える。翌日にも同様のものを仕込み、これらを毎日1回づつかき混ぜ、1、2週間発酵させて出来上がり。

この工程で出来上がったものが、どぶろくですが、さらに布巾などでこれを漉したものは、多少濁ってはいますが、いわゆる「日本酒」に近いものになり、酒造法上も、これを「清酒」とみなしています。

このように、どぶろくは、その気になれば一般の家庭でも製造することができますが、日本では酒の密造は法律で禁じられているため、無免許製造した場合、処罰されます。その製造には各種の申告義務を課されます。なので、このブログを読んだからと言って、さぁ作ってみよう、とはいきませんからご注意ください。

どぶろくを作ることが違法行為(酒税法違反)となったのは明治時代以降のことであり、このころから、「どぶろく」といえば「密造酒」の別名のようにして用いられるようになりました。別名「どぶ」や「白馬(しろうま)」、「溷六(ずぶろく)」とも呼ばれ、とくにこの「ずぶろく」とは、泥酔状態にある酔っ払いのことを指します。

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違法とはいえ、このようにどぶろくは簡単にできてしまうので、明治以前には各家庭、農家などでもごく普通に作られていた「家庭酒」でした。

しかし明治年間に入った1940年以後、酒造税が制定され、やがてどぶろくの自家醸造も禁止されるようになりました。禁止された理由は、どうやら日清・日露戦争にあるようです。

この戦争では戦争に勝つために官民が協力しあい、多額の金がその装備に投入されましたが、このための大増税も行われ、このころの高額納税者であった酒などの醸造業者にも多額の税が課せられました。

明治時代においては酒造税は政府の主要な税収源であり、酒税は国の税収の3分の1に達し、国税3税のひとつといわれており、明治政府は戦争に勝つためにその徴収を更に強化したのです。

これに対して、従来からの高税に悩んでいた醸造業者たちもさすがに悲鳴を上げ、その負担に耐え切れないと政府を糾弾する声が高くなりました。

このため政府としては、彼等の懐柔策として醸造業者を保護する、という名目で、それまでは自由に一般人が造ることができたどぶろくにも増税をするようになりました。

一種の酒造業者保護策というわけですが、こうしてそれまで誰でも自由に製造できたどぶろくを作るのにも許可がいるようになり、その税率も高かったため、誰もどぶろくを作らなくなっていきました。

その後、大正、昭和、平成に至るまでもこのどぶろくに対する課税は続いており、現在に至っています。しかし、実際には上述のようにその製法は比較的簡単であり、家庭内で隠れて作ろうと思えばできてしまいます。

家庭で違法に作る酒は、当然「密造酒」となるわけですが、実際にはその摘発は簡単ではありません。

明治大正期には、米どころと呼ばれる北陸やその他の穀倉地帯では、酒を取り扱う商店等の少ない辺縁の農村などで、相当量のどぶろくが違法に作られ消費されていたようで、現在も地方へ行くと日常的にどぶろくを作っている農家があるのではないかといわれています。

1984年には、こうしたどぶろくの愛好家の一人が、酒税法違反容疑で起訴され、控訴上告した通称「どぶろく裁判」も行われました。

この被告人は、前田俊彦さんといい、日本共産党に所属する社会運動家でした。市民運動関係者から、「前田のじいさん」と、慕われていたそうで、戦前の1932年には、治安維持法・陸軍刑法違反で検挙された経歴があります。

このときは懲役7年の実刑判決を受け、出身地である福岡の刑務所に抑留されています。戦後は、祖父が初代村長をつとめた京都郡延永村(現・行橋市延永)に移り、木工所を開業。1947年に日本共産党を離党すると、この延永村の村長に当選しています。

村長を辞したあとは、農業のかたわら種々の仕事に携わりながら、文芸活動なども行っていましたが、1970年代に入って勃発したいわゆる「成田紛争」に首を突っ込み始め、1977年には千葉県成田市三里塚に移住。

新東京国際空港建設反対の立場を明確にして、「三里塚空港廃港宣言の会」代表に選ばれ、1983年の第13回参議院議員選挙の、比例代表区にも無党派市民連合から立候補しました。しかし落選。

このころから正々堂々どぶろくを活動方たちにふるまっていたようですが、これがバレて検察に告発されて行われたのが、上述の1985年の「どぶろく裁判」です。

この裁判の結果は、1986年の3月に千葉地方裁判所で下され、結果として前田さんは罰金30万円の有罪判決を受けました。控訴するも棄却され、1989年12月には最高裁判所にて上告棄却の判決が確定しました。

しかし、前田さんは、この裁判を通じて、食文化の一つであるどぶろくを、憲法で保障された人権における幸福追求の権利であると主張し、自家生産・自家消費・自家醸造の是非を問いました。

また、酒税法で設けられた様々な制限が、大量生産が可能な設備を保有できる大資本による酒類製造のみを優遇し、小規模の酒類製造業が育たないようにしているとも主張し、明治期以来の悪しき税制を破棄すべきだと訴えました。ちなみに、この前田さんは、この判決の4年後の1993年に自宅の火災により焼死しています。83歳でした。

このどぶろく裁判における最高裁判所の判決は「製造理由の如何を問わず、自家生産の禁止は、税収確保の見地より行政の裁量内にある」というもので、国が酒税をとることは明らかに合法である、という内容でした。

しかし、この判決はかねてよりどぶろくの自由化を求めていた人々には不評であり、逆に前田氏などの主張は共感を呼び、官側にも賛同する意見が相次いだといいます。元国税庁醸造研究所や東京国税局鑑定官を務めた穂積忠彦氏も、「酒つくり自由化宣言」という本まで出版し、酒税法は時代遅れの悪法であると主張しました。

このほかにも日本大学法学部教授の甲斐素直氏などが、「自分の造った酒を自由に飲む権利」は精神的自由権に属するものであると主張。またどぶろく裁判の最高裁判例が「租税」を根拠としたことについては次のように反論しました・

いわく、「明治30年時点で酒税は国の税収の3分の1に達するほどの比重を持っていたが、近年では1兆円程度で推移し総税収の1〜2%の比重しかなく、酒税法を取り巻く環境は急速に変化しつつあり、そうした中で、自己消費目的の酒作りを、依然として明治時代の発想のままに規制する根拠が存在するのかは、大いに疑問とされるようになってきている」。

また、「審査基準として明白性基準を採用した状況下においても、純然たる自己消費目的の酒造りが、国の税収を大きく左右するような可能性は全く失われた今日、明白に違憲とみなすことは十分に可能と言うべきであろう」とも甲斐教授は述べています。

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一方、酒税法が定める酒類製造業・酒類販売業における免許制度についても日本国憲法22条の「職業選択の自由の観点」からも批判する向きも多くなっています。

1998年に最高裁判所で下された別の裁判の判決でも、最高裁は、酒税法に規定されている「酒類製造免許」について、「原則的規定を機械的に適用さえすれば足りるものではなく、事案に応じて、各種例外的取扱いの採用をも積極的に考慮し、弾力的にこれを運用するよう努めるべきである」としています。

ようするに、酒の製造免許を、これを既得権益的に持ってきた酒造業者だけに持たせるのではなく、一般市民にも持たせることができるようにもっと国は努力しなさい、というわけであり、どぶろくの製造そのものは違法であるけれども、もう少しその規制のタガを緩めても良いのではないか、と裁判所もやんわりと国に指摘したわけです。

そもそも、酒造をこうした醸造業者にだけ作らせているのは、上述のように明治期の戦争に端を発した税制上だけの理由からだけです。

我々も納めている所得税などは申告税制になっていますが、家庭内酒造についても申告して納税さえすれば自由に認めるべきであるという意見もあり、税金を納めさえすれば、国に文句を言われる筋はありません。

税金を納めずに、脱税酒を造っている輩の摘発を強化すれば済む話であり、それをやらずにいるのは国の怠慢です。家庭酒造りを申告制にして、自由化すれば、地方の活性化につながると考える人も多く、酒造メーカーだけに既得権益与える醸造業者の保護政策は撤廃すべきだ、とする意見には賛同する人も多いのでしょうか。

こうした時代背景を受け、最近は地域産品としてのどぶろくを製造する地域が日本各地に増えてきています。どぶろく作りを実際に「地域振興」に生かそうと、2002年に実施された行政構造改革では、「構造改革特別区域」が設けられ、同特別区内でのどぶろく製造が認められるようになりました。

こうした特区内では、飲食店や民宿等で、その場で消費される場合に限り、販売も許可されるようになり、これは通称「どぶろく特区」と呼ばれています。ただし、同特別区外へ持ち出すことになる「みやげ物としての販売」に関しては、酒税法が適用されるため、酒類販売の許可および納税が必要となります。

この行政構造改革においては、酒税法において最低醸造量として定められていた年間6キロリットル(一升瓶にして約3326本)という制限も撤廃されました。しかし、アルコール度数の検査等については、どぶろく特区といえども酒税法で定められてる検査方法などでチェックされ、その内容はあまり変わっていません。

どぶろくを作ることができるのも、申請によって特区と認められた自治体だけであり、その申請の際の手続きも煩雑で手間がかかりすぎるという意見も多く、どぶろくの解放、ひいては家庭内での自家醸造の自由化には程遠い内容です。

しかし、それでも、町おこし、村おこしになるのなら、ということで特区への申請を行い、どぶろく作りに参画する自治体は全国にあまたあり、北海道から宮崎まで、現在全部で22もの市町村で「地場産どぶろく」が造られています。

これらのどぶろく特区となっている市町村の多くは、主に祭などのいわゆる行事に使う目的で製造している地域が多いようですが、山形県飯豊町のように特定の箇所でどぶろくを常飲できる地域も少ないようです。

が、いずれもどぶろく作りの最大の目的は地域振興であり、その地域の特色を生かしたネーミングと味が勝負の鍵を握っており、各地でどぶろくを通じて都市と農山漁村の交流を活発にする方策と地域の活発化の模索が続いています。

このほか、全国の特定酒類の製造者及び関係者等が一堂に会し、各特区認定のどぶろくの製造状況や活用方法、地域への波及効果等について意見・情報交換を行う、「全国どぶろく研究大会」が、2006年(平成18年)から毎年一回開催されています。

第2回大会からは、「どぶろくコンテスト」も同時開催されているそうで、「濃醇の部」、「淡麗の部」の二つの部門で審査表彰が行われているそうです。

酒好きの私もその表彰されたことのあるどぶろくを一度飲んでみたいと思うのですが、残念ながら、当静岡県には、ひとつもどぶろく特区はないようです。

なので、この地でどぶろくが飲めるようになるためには、ぜひ酒税法を改定していただき、合法的に自家製どぶろくを作れるようにしてほしいものです。今後、何がしかの選挙がある際には、そうした悪法の撤廃を声高にかかげる政治家にぜひとも一票を投じたいものです。

選挙といえば、「ドブ板選挙」と呼ばれるものがあります。

現在、公職選挙法では戸別訪問を禁止しているため、小規模施設での集会や、徒歩で街頭を回り通行人に握手を求めることくらいしかできませんが、かつての選挙活動では、候補者や運動員が有権者に会うために民家を一軒一軒廻った際、各家の前に張り巡らされた側溝(ドブ)を塞ぐ板を渡り、家人に会って支持を訴えたことが「ドブ板選挙」の由来です。

そうしたドブすらも、最近は下水道の発達によってほとんど見られなくなってしまいましたが、古来からあるどぶろくは今も健在です。

ぜひ、どぶろく大好きな政治家さんが増え、庶民の手にどぶろくを取り戻して欲しいと思います。

ちなみに、どぶろくは、加熱殺菌処理されていない生酒であるため、保存は難しいとされ、もろみを濾した後は冷蔵して早めに消費しないと、雑菌が繁殖するなどすぐ飲用に適さない状態になると言われています。

できたて、しぼりたての生のどぶろく、皆さんも自分で作ってご家庭で飲んでみたいと思いませんか?

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成人考

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一昨日のこと、山の上にあるこの別荘地内には、うっすらですが、雪が積もりました。初雪です。

麓の修禅寺温泉街や長岡へ出かけたときは、雪らしいものはなかったようですから、やはり200mの標高差がなせる技でしょう。外に出て遠くの天城山を眺めると、やはり山肌のあちこちに雪が見え、ここよりも更に厳しい寒さがうかがえます。

年が明けて1月、2月になると途端にこうした雪や雨の日が多くなります。寒さも増し、それまで毎日のように明るい冬の陽がさしていたものが、どんよりとした日も多くなり、時にドカ雪が降ったりもします。

しかし、先日母の見舞いの際に立ち寄った長岡の狩野川沿いの河川公園では、はやスイセンが咲き誇っており、菜の花も満開でした。我が家の庭のウメにも蕾が点々とあちこちに見受けられ、開花の準備に滞りはなさそうです。

春になったな~と本当に感じられるのはまだまだ先のことでしょうが、厳しい寒さの中とはいえ、こうした春の息吹を感じられる季節になったのだな、と改めて思う次第です。

明日は成人の日だそうで、若い人達にとっても、これからの季節は希望に満ちた日々に違いありません。かくいう、ウチの息子君も、今年成人式を迎えます。今年は先妻が亡くなってからちょうど10年目になりますが、あれからもうそんなに経ったかと思うと同時に、子供の成長がいかに速いかを驚かざるを得ません。

この成人ですが、日本では20歳ですが、世界的にみると18歳としている国が圧倒的に多く、さらには、北朝鮮のように17歳、キルギス、ネパールでは16歳とさらに低い年齢を成人としている国もあるようです。

プエルトリコとハイチに至っては14歳だそうで、これは日本ではまだ中学1、2年の年齢です。

じゃあ、成年とは何なのよ、ということなのですが、法的には、「単独で法律行為が行えるようになる年齢」ということになっているようです。

が、一般社会においては、身体的、精神的に十分に成熟する年齢を指すことが多く、日本以外の諸外国で18歳としている国が多いのはそのためでしょう。18歳ともなれば、とくに身体能力に関しては、成人以上の力を発揮する人達もいて、スポーツの世界大会などに出場するような選手の中には、14~15歳といったさらに若い人もいます。

じゃあオリンピックはどうなのかな、と思って調べてみたところ、一般的には年齢制限がないそうです。

しかし、スケート競技については、オリンピック大会前の7月1日に満15歳以上であることが出場要件であり、また体操競技では、男子16歳以上、女子15歳以上、新体操は16歳以上である必要があります。また、水泳の飛び込みにも15歳以上の制限があるそうです。

従って、基本的には国際競技とみなされるようなスポーツには年齢制限がないとはいえ、こうした例を見る限りにおいては、肉体的には、14~15歳くらいを成人とみなす、というのが普通のことのようです。

が、この年齢が精神的にはどうかということになると、うーんと考えてしまいます。14、15歳といえば思春期に入ったばかりのころのことであり、とても安定した精神状態にあるとはいえない年齢です。

また、日本では、飲酒、喫煙は20歳以上となっていますが、これは14、15歳といった弱年齢では酒やタバコは脳の発達には有害であるとする医学的な根拠もあるためであり、ひいては精神的なダメージを与えると考えられているからです。

ただ、一方では選挙権など公法に関わる行為については、こうした若年層にも認めることで、国や地域の一員であるという自覚を促す上で有効ということで、未成年者にも投票権を認める事例が増えています。

さすがに14、15歳で参政権というのは難しいだろうと思ったのですが、長野県平谷村では、2003年5月に中学生が住民投票に参加した例があり、また2002年9月に秋田県岩城町が実施した住民投票では、史上初めて未成年者を含む18歳以上の人が投票しました。

また、天皇家については、天皇、皇太子、皇太孫だけは、18歳で成年とするということが、皇室典範で定められているほか、結婚についてはご存知のとおり、男女とも18歳から認められています。つまり、子をなす生殖能力としてもそれが完熟するのは18歳ぐらいだろう、と考えられているからでしょう。

このように考えてくると、「成年はいくつか」あるいは「いくつであるべきか」という質問に対しては、おおむね18歳くらいが妥当ではないか、と多くの人が考えるのではないでしょうか。

そもそも、成年が20歳というのはどういう法律によるものかといえば、これは明治期に定められた「民法」に定められているそうです。第4条に「年齢二十歳をもって、成年とする。」という規定があります。

「20歳」という年齢については、この当時の徴兵制度や課税の基準年齢であったことに由来します。20歳ともなれば、戦争にやっても十分自分の能力で戦えるし、また働きに出て十分な稼ぎも得ることができ、税金も納めることができるだろう、という判断のようです。

しかし、この民法が定められる前の日本では、15歳程度を「元服」の年齢とし、これを成年としていました。また、日本以外の諸外国では逆に21歳から25歳が成年と見なされていたそうで、この両方の習慣との衡平を図るために、20歳という年齢が定められたという説もあるようです。

ところが、そもそも、戦後に作られた現在の日本国憲法では、憲法の改正手続きについて規定している「国民投票法」で、投票権は18歳以上の日本国民が持つことができると定められているそうです。これはつまり、憲法上も18歳が成年と認めているということにほかなりませんが、このことは意外にあまり知られていません。

しかし、1950年に、主として衆議院議員や参議院議員などを選ぶ国政選挙への投票を規定する、いわゆる「公職選挙法」では、18歳以上の者が国政選挙に参加できるようになるまでは、「暫定的に20歳以上とする」と規定されることになってしまいました。

この理由はよくわかりませんが、おそらく国会議員を選出するような重要な選挙において、20歳未満のような若輩者には選挙権を持たせるべきではない、との意見が席巻したか、GHQあたりが何等かの理由で選挙権を18歳とするのは時期尚早と判断したのかもしれません。

あるいは明治期に定められた民法の規定を遵守すべきとされたのかもしれず、いずれにせよ、このときには成年の年齢が20歳のまま据え置かれたため、これは結局現在まで変更されないままということになっています。

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しかし、明治維新から既に150年が経とうとしているのにこの規定はいくらなんでも古すぎます。

そもそも現行憲法で定めてあるのに、いつまでも20歳まで選挙権がないままにしておくのは問題があるだろうということで、このため、法務省は諮問機関の法制審議会に「民法成年年齢部会」という委員会を作りました。

そしてこの部会の最終答申としては、「民法及び公職選挙法は18歳に引き下げるのが適当」とする最終報告書をまとめ、これは一般にも2009年7月に公表されました。

今は政権を失ってかつてのような元気が見られない民主党も、これに先立つ2002年に、衆議院に成年年齢を18歳に引き下げること、18歳選挙権を実現すること、少年法の適用年齢を18歳未満に引き下げることの三点を盛り込んだ「成年年齢の引下げ等に関する法律案」を提出しています。

同党によると、成年年齢等の引き下げは「政治における市民参加の拡大を図ると同時に、若者の社会参加を促進する第一歩」となると言っていたようです。

また「18歳は経済的自立が可能な年齢であり、現に結婚や深夜労働・危険有害業務への従事、普通免許の取得、働いている場合は納税者であること等、社会生活の重要な部面で成人としての扱いを受けている」こと、「世界のすう勢も18歳以上を成人としていること」に対応するものであるとも表明しており、全くその通りだと思います。

しかし、実際に、法律上での成年が、憲法ともギャップのない18歳まで引き下げられるためには、これに関する法令を200本以上も改正する必要があるとのことで、今後日本で永年が20歳となるまでには、まだまだかなりの時間がかかりそうです。

一方では、現行の成年は20歳とする法律では、酒煙草のような健康を害する嗜好品から子供を守るためには有効と考えられます。また公営ギャンブルなどのように賭博性の強いものに巻き込まれることを防ぐという意味でもこうした年齢制限は必要でしょう。

しかし、最近何かと話題になっている、性同一性障害を持つ子供の性別の訂正は、民法に基づき20歳の成年にならないとできなくなっているそうです。

これまではこうした問題を抱える人達は世間にそのことを知られるのを嫌がり、あまり表面化していませんでしたが、最近の調査では、こうした障害を持つ人は、全国で4万6千人ほどもいるということです。

ところが、最近はこうした障害を克服して異性としての自分を見つめ直す人が増えており、とくにテレビなどで有名タレントさんが実はそうであったことなどをカミングアウトした結果などが共感を呼び、堂々と障害があることを公表する人も多くなってきています。

しかし、現行の法律では、20歳以上でないと性別の訂正ができません。このためこれを18歳以上で可能にしてほしい、という切なる願いは増えています。

本来ならばもっと子供のころから異性であると認めてほしいという人も多いのでしょうが、まだその判断のできかねる15~16歳とはいわないから、せめて18歳くらいにはしてほしい、というわけです。

また、現行の法律では、満18歳以上20歳未満の者が自由にローン契約をすることができないそうで、このほか、この年齢で養子縁組をしたりすることはできなくなっています。

つまり、18歳では親の了承がなければカード決済などでローンを設定できないということであり、また子供ができないことを理由に恵まれない子供を引き取って養子にしたいと考えている若い夫婦の希望をも削いでいることになります。

成年を引き下げることは、税法上の未成年者控除や刑法上の未成年者保護の点で問題があるとする、慎重な意見もあるようですが、一方では高齢化が進む日本では、もっと若い世代に参政権を与えて、政治の世界に息吹を吹き込むべきだという意見のほうがもっと多いようです。

現行の強い安倍政権は、アベノミクスによる成功を治めつつあるようで景気は回復する方向にあるようですが、一方では外交や特定秘密保護法の立法を強行し、情報靖国問題などでも強気な姿勢を崩しておらず批判を浴びています。

これを機に、こうした成年年齢の引き下げなどの国民の多く望んでいるであろう法令の検討なども行い、人気を回復させるのはけっして悪い選択ではないと思うのですが、そのあたりのこと、どう考えているのでしょうか。

その昔、江戸時代より行われていた「元服」の儀式は、およそ数え年で12~16歳の男子が行うものでした。元服すると、氏神の社前で大人の服に改め、角髪(みずら)と呼ばれる子供の髪型を改めて髷を結い、前髪を剃って月代にした上で、その頭に冠をつけてもらうという儀式を行ったそうです。

実は女性にも元服があったそうで、ただしこれは結婚と同時に行う儀式でした。女性の場合の元服は、地味な着物を着て、日本髪の髪形を時代劇などでよく見るあの「丸髷」などにしました。江戸時代には、髪型と化粧をみると、未婚か既婚かわかったそうで、未婚の女性は島田髷で、既婚女性は丸髷でした。

また、結婚=元服以降は、元服前より更に厚化粧になりお歯黒を付けてもらった上で、眉を剃って引眉をしました。

未婚の場合でも。18~20歳くらいでこの元服の儀式をしたそうですが、江戸時代には18歳を過ぎるともう婚期遅れとみなされる風潮があったため、たいていこれより低い年齢で元服だったようです。

こうした昔ながらの元服を現在に復活させろ、とまでは言いませんが、その昔は多くの日本人は18歳未満で既に大人とみなされ、それなりに大人としての自覚を持っていたはずであり、とくに男性はその傾向が強かったようです。

その証拠に幕末の志士たちの多くは20歳未満の若い人達でした。元服前の幼髪を切り落とし、各地の戦乱に飛び込んでいった若者が多数いた時代であり、そうした若い原動力が、時代を動かし、明治維新を成し遂げました。

日露戦争で連合艦隊を勝利に導いた東郷平八郎は、わずか14歳で薩摩藩士として薩英戦争に従軍しており、同じく日露戦争で、第3軍司令官(大将)に親補されて旅順攻囲戦を指揮した乃木希典は、16歳で長州藩士として奇兵隊に入り、幕府軍と戦っています。

のちの陸軍大将で陸軍参謀本部次長として203高地の攻略を指揮した児玉源太郎もまた、16歳で下士官として箱館戦争に参加した後、陸軍に入隊しており、明治期に功をなしたとされる軍人の多くは元服間もないころから維新の矢の下をかいくぐっています。

そうしたことに思いを馳せると、現在のように成年が20歳というのは若者に大人になるという自覚を持たせる上でもあまりにも遅すぎるようにさえ思えてしまいます。

16.7、8歳というと、何かと子供扱いされる年齢ですが、その一方で最近のように未成年者の犯罪がやたらに目立つのは、まだ大人になっていないから、何でも許されるという甘えから来ているような気もします。

早い時期に自覚を持たせ、社会の秩序維持においても、社会的貢献においても若年層に期待すべき時代が来ていると、私は思うのですが、みなさんはいかがでしょうか。

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注射はお好き?

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先日の日経新聞の夕刊に、アメリカの化学・電気素材メーカーであるスリーエム(3M)や日本の日東電工などの医療機器メーカーなどが相次いで痛みの少ない注射技術を実用化しようとしている、という記事が掲載されていました。

「マイクロニードル」と呼ばれる微細な針を皮膚に貼る方式などを用いるそうで、これによって痛みをほとんど感じることなく薬を体内に注入できるとのことです。

日本のような高齢化社会においては、体力のないお年寄りにはとくに歓迎されるでしょうし、幼児なども摂取しやすくなるため、こうした体への負担が軽くなる注射の需要は今後ともかなり拡大していきそうです。

この「注射器」ですが、これが最初に誕生したのは、1853年のことで、日本では嘉永6年、ペリー提督らの黒船が浦賀へ来航するという事件があった年です。

これを発明したのは、スコットランドの医師、アレキサンダー・ウッドとフランスの医師、チャールズ・ガブリエル・プラパーズだといわれています。

当時作られた注射器は「皮下用シリンジ」と言われるもので、皮下注射専用だったようです。筒は鋼鉄製で、注射器を中から押し出すシリンダーにはゴムが取り付けられていました。その後、1897年ころにはフランスで、現在のようなガラス製の注射器が販売されるようになります。

やがて、糖尿病患者にとっての特効薬として知られるインスリンが発見されたことから、この薬の体内投与のために爆発的に注射器が使われるようになり、その後薬液を直接静脈内に投与する静脈内注射もさかんに行われるようになりました。

静脈内注射は、皮下注射のように容量の制限もなく、効果の発現も早いほか、栄養素の投与などを目的とする「輸液」の投入にも有利です。

注射は、直接的に人間の体内に薬剤を投入することができます。経口投与や皮膚・粘膜への塗布、ないし吸引などよりも直接的に患部に薬剤を投入できるため、効果が出始めるまでの時間が短く済みます。

また吸収経路で他の物質に変質してしまいやすいような種類の薬剤でも患部近くに投与できるため、より確実な薬剤の投与方法といえます。このような効率的な器具が発明されたということは、医学史上においてもとりわけ重要な出来事だったといえるでしょう。

ところで、大相撲では、「注射」といえば、「八百長」を意味するそうです。これは、「打てばすぐ効く」つまり、「頼めばすぐに勝てる」というところから来たようです。

八百長は、無論相撲だけでなく、他のスポーツ競技などでも、昔からさかんに行われています。

一方が前もって負ける約束をしておいて、うわべだけの勝負をすることをさし、選手に金品などをあたえ、便宜を図って行われる場合や、選手およびその家族や関係者を脅してわざと敗退を強要するなどその形態はさまざまです。

ちなみに大相撲では八百長が「注射」であるのに対して、真剣勝負は「ガチンコ」というそうです。

それではこの「八百長」という言葉はどこから来ているのでしょう。

これは、明治時代の八百屋の店主で「長兵衛」という人物に由来しています。八百屋の長兵衛は通称を「八百長(やおちょう)」と呼ばれており、大相撲の年寄であった伊勢ノ海五太夫という元相撲取りと囲碁仲間でした。

囲碁の実力は長兵衛が優っていたようですが、相撲部屋へ野菜なども卸していたことから、自分の店の商品を買ってもらうために、時折わざと負けたりして伊勢ノ海五太夫の機嫌をとることが頻繁になっていました。

ところが、ある日のこと、両国にある回向院近くである碁会所が開かれたとき、そのオープニングセレモニーの来賓に長兵衛も招かれました。招待客にはほかにも第20世本因坊の本因坊秀元が招かれており、自然な成り行きから長兵衛はこの秀元と勝負をすることとになります。

いつもは伊勢ノ海親方に負けてばかりいた長兵衛でしたが、もともとはかなりの腕前だったようです。そしてここぞとばかりにその実力をみせようと、この勝負に真剣に望んだところ、本因坊を相手に見事な勝負を見せたそうで、どちらが勝ったのかはよくわかりませんが、結果としてこの勝負はほぼ互角だったようです。

ところがこの真剣勝負のため、伊勢ノ海親方を含む周囲には長兵衛の本当の実力が知れわたるところとなりました。こうして、これ以来、真剣に争っているようにみせながら、事前に示し合わせた通りに勝負をつけることを「八百長」と呼ぶようになった、というわけです。

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この「八百長」の「八百」とは、もともと「沢山」と言う意味です。数多くの物を扱うところからきており、このため、たくさんの野菜を扱う青果店も「八百物屋(やおものや)」と呼ばれるようになり、あるいは「八百屋店(やおやだな・やおやみせ)」などと様々な呼び方で呼ばれるようになりました。

しかし、後には現在のように一様に八百屋(やおや)と呼ばれるようになりました。一説によれば、江戸時代には「青果物」を扱う店ということで「青屋(あおや)」と言う呼び方もあったようで、これが時代が下るにつれてなまり、「やおや」になったともいわれています。

さて、江戸時代の八百屋といえば、「八百屋お七」という物語が思い浮かびます。

井原西鶴の「好色五人女」に取り上げられたことで広く知られるようになり、文学や歌舞伎、文楽など様々な文芸・演芸において多様な趣向の凝らされた諸作品の主人公となりました。

実在の人物で、生年は不明ですが、寛文8年(1668年)ころに生まれたとされ、天和3年(1683年)に没していますから、この生年が正しいとすれば、15歳の少女期に亡くなったことになります。

天和3年というと、1603年の開幕から60年あまりであり、江戸時代前期のことです。お七の生涯については伝記・作品によって諸説あるようですが、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処されたとされています。

比較的信憑性が高いとされる書物によれば、お七の家は彼女が処刑される前年の天和2年の大火で焼け出され、このためお七は親とともに駒込にあった正仙院というお寺に避難しました。

寺での避難生活のなかで、お七はこの寺の小姓である、生田庄之介という若者と恋仲になります。しかし、やがて店が建て直され、お七一家は寺を引き払いましたたが、お七の庄之介への想いは募るばかりです。

そこでもう一度自宅が燃えれば、また庄之介がいる寺で暮らすことができると考え、庄之介に会いたい一心で自宅に放火してしまいます。

このとき火はすぐに消し止められ小火(ぼや)にとどまったようです。しかし、江戸の町にはこの当時頻繁に火事が起こっており、いったん火が出ると、木造の平屋の多かった江戸の町は広い範囲が焼け野原になることが常でした。

このため、火を出した大元の家には厳しい処罰が下されることが多く、ましてやこれが付け火となると、死罪はまず免れませんでした。案の定、お七もまた放火の罪で捕縛され、哀れわずか15歳の少女は、鈴ヶ森刑場で火あぶりの刑で処刑されました。

現在ならさしずめ、少年刑務所入りして更生を待つというところなのでしょうが、この時代はまだ戦国時代からそう時間が経っているわけではなく、動乱の時代の余韻が残るこのころの刑罰はこうした残酷性を伴うものでした。

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この鈴ヶ森刑場というのは、現在の東京都品川区南大井に存在した刑場です。江戸時代には、江戸の北の入口である日光街道に設置されていた「小塚原刑場」と、西の入口である甲州街道沿いに設置されていた八王子市の「大和田刑場」とともに、江戸3大刑場といわれていました。

現在の南大井も海がすぐ近くですが、江戸初期にはまだ江戸の町のほとんどが芦原の中に浮かんでいるような状態で、ここそこに海水が入っており、この場所もまた海岸線沿いにありました。

この海沿いにあった1本の老松にちなんで、この地はもともと「一本松」と呼ばれていました。ところが、この近くにある鈴ヶ森八幡(現磐井神社)の社に振ったりすると音がする「鈴石(酸化鉄の一種)」という貴石が安置してあったため、いつの頃からか「鈴ヶ森」と呼ばれるようになりました。

この場所は東海道のすぐ側でもありました。この東海道の名残でもある第一京浜(国道15号)の傍らにあり、この道路に隣接する大経寺というお寺の境内にその刑場跡が残っています。その跡地は自由に見学できるそうで、当時ほどの広さはないようですが、現在も井戸や、火炙用の鉄柱や磔用の木柱を立てた礎石などが残されているとのことです。

また、この鈴ヶ森は東海道の出発点ともいえる場所近くにありました。西国から来た旅客にとっては江戸の入り口とも言える場所であり、かなり目立つ場所といえ、ここにこうした刑場が建設されたのには理由がありました。

刑場開設当初の江戸初期には、戦国の時代が終りを告げたことから食い詰める武士が増え、このため浪人が増加し、この浪人による犯罪件数も急増していました。江戸幕府としては、急速に悪化する江戸の治安を守るため、とくに浪人たちに警告を与える意味でこうした目立つ場所に刑場を設置したのです。

この鈴ヶ森刑場での最初の処刑者は、江戸時代に入ってからの最初の本格的な反乱事件といわれる「慶安の変」の首謀者のひとり、「丸橋忠弥」であるとされています。

慶安の変というのは、慶安4年(1651年)に起こった事件で「由比正雪の乱」ともいわれています。主な首謀者は由井正雪と丸橋忠弥のほかの4名ほどでした。由井正雪は優秀な軍学者で、各地の大名家はもとより将軍家からも仕官の誘いが来るほどの人物でしたが、仕官には応じず、軍学塾である「張孔堂」を開いて多数の塾生を集めていました。

この頃、幕府では3代将軍徳川家光の下で厳しい武断政治が行なわれており、これによって関ヶ原の戦いや大坂の陣以来の多数の大名が減封・改易されたことにより、浪人の数が激増する結果となり、彼等の再仕官の道も厳しく、巷には多くの浪人があふれていました。

こうした浪人たちには自分たちを没落させた「御政道」に対して否定的な考えを持つ者も多く、生活苦から盗賊や追剥に身を落とす者も数多く存在していました。

これが大きな社会不安に繋がっており、正雪はそうした浪人の支持を集めていました。特に幕府への仕官を断ったことが彼らの共感を呼んだようで、こうして張孔堂には御政道を批判する多くの浪人が集まるようになりました。

こうした情勢の中、慶安4年(1651年)徳川家光が48歳で病死し、後を11歳の家綱が継ぎます。そしてこのとき、次期将軍が幼君であることを知った正雪は、これを契機として幕府転覆を計画します。

この計画は江戸を焼討し、その混乱で江戸城から出て来た老中以下の幕閣や旗本を討ち取るというものでした。同時に大坂でも同志を決起させ、その混乱に乗じて天皇を担ぎ出し、将軍を討ち取るための勅命を得る、という作戦でした。

しかし、仲間の密告により、計画は事前に露見し正雪ら首謀者は捕縛されます。正雪自身は江戸を出て大阪へ向かう途中の駿府で駿府町奉行所の捕り方に宿を囲まれ、自決を余儀なくされました。これよりのちに丸橋忠弥もまた、忠弥は町奉行によって寝込みを襲われ、切り殺されました。

しかし、丸橋忠弥の死体はこの後、鈴ヶ森の処刑場にわざわざ運び込まれ、改めて磔刑が実行されました。無論、幕府への反乱は重罪であることを人々に知らしめるセレモニーの意味でしたが、これがこの処刑場で行われた初めての公開処刑であったというわけです。

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この鈴ヶ森ではその後も、平井権八や天一坊、白子屋お熊(白木屋お駒)といったのちに歌舞伎や浄瑠璃で語られるようになる有名な人物がここで処刑されており、先の八百屋お七もその一人です。

平井権八というのは、因幡国鳥取藩士でしたが、数え18歳のときに、父の同僚を斬殺して、江戸へ逃亡。新吉原の遊女と昵懇となりますが、やがて困窮し、辻斬りを犯すようになります。結果として130人もの人を殺し、金品を奪ったとされています。

しかし、その後権八は悔い改め、目黒にあったとされる東昌寺という寺に匿われ、尺八を修め虚無僧になり、その後自首。しかし罪は赦されることなく、享年25歳で鈴ヶ森刑場で処刑されました。処刑方法は磔刑(たっけい)でした。

江戸の侠客、幡随院長兵衛との関係なども噂されたことなどから、その後その生涯が講談や浄瑠璃・歌舞伎で演じられ、近代では映画化もされ、これらの世界では、「白井権八」の名で著名になりました。

また、天一坊というのは、正式には「天一坊改行」といい、この時代の山伏です。紀州和歌山の生まれで、14歳のときに母が死に出家して山伏となり、改行と名乗り、このころから周囲に自分は「徳川吉宗」の御落胤だと言いふらすようになります。

吉宗はこのころはまだ将軍ではありませんでしたが、未来の公方様になるに違いないと嘱望されており、実際、その後紀州藩主から将軍になりました。

天一坊は、死んだ伯父から自分の素性が高いものであると聞かされたといい、将軍家の御落胤であると自分でも心からそう信じ込んでいた風があったといいます。

長じてからも自分は公方様の御落胤であると周囲に語り続け、30歳になる直前のころには、近々大名に取り立てられると信じ込むなど、その妄想はエスカレートしていきます。ところが、やがてこの広言を聞いた江戸市中の浪人たちが彼の言葉を信じて集まるようになり、騒ぎはだんだんと大きくなっていきました。

彼としてもこうした浪人たちに崇めたてられるのを喜び、彼等の来訪を来るにまかせるままだったといいます。

天一坊は集まった浪人たちに、「自分は公方様にお目通りして、お腰物を拝領した。現在上野の宮様におとりなしを頼んでいる」などと語っていたといい、彼等を集めて大名に取り立てられての際には、おのおのに役職を与えることなどまでも約束するようになっていきました。

ところが、これを不審に思った関東郡代が本人の周囲の人間や集まった浪人たちを取り調べたところ、当然のことながらそんな事実があろうはずもなく、まっかな偽りだと発覚。

そして公方様の御落胤を騙り、みだりに浪人を集めたとして捕らえられ、やがて死罪を申し渡された天一坊は、鈴ヶ森刑場で処刑され、獄門磔となりました。天一坊のもとに集まっていた浪人たちも遠島や江戸払いとなり、ほかに関係していた名主や地主も罰を受けて死罪になったといいます。

もうひとり、この鈴ヶ森で処刑された、白子屋お熊(白木屋お駒)というのは、日本橋新材木町の材木問屋「白子屋」という大店の娘でした。亭主は正三郎といい、妻・お常の間にできたのが、このお熊であり、ひとり娘でした。

やがて、長じて両親の勧めにより、大伝馬町の資産家の息子であった出来の良いまじめな若者・又四郎を婿に迎えます。しかし、お熊はこのまじめ一方の又四郎が気に入らず、結婚後も古参の下女・ひさに手引きをさせて浮気に走ります。

そのお相手は白子屋の番頭・忠八であり、お熊は忠八の母・お常と忠八の三人で共謀し、さらに下女・きくを使って主人の又四郎を殺そうとします。

ところが、これに失敗し、妻の不倫にも気づいた又四郎は奉行所にこの事件を訴えました。

判決の結果、お熊の罪は証明され、彼女は引き回しの上死罪を申し渡されました。共謀者のお常もまた引き回しの上島流しとなり、番頭の忠八は、引き回しの上晒し首、きくも死罪となりました。忠八との不倫をとりもったひさもまた引き回しの上死罪となりました。

しかし、訴えた夫の又四郎だけは、お咎めなしの判決でした。が、世間を騒がせたとして、幕府は白子屋の財産没収を命じ、これによって白子屋は没落してしまいました。

このお熊は、結婚前から日本橋中でも美貌で知られていました。このため、引廻しの際は評判の美貌の悪女を一目見ようと沿道に観衆が押し掛けたといいます。

このとき、裸馬に乗せられたお熊は観衆の期待に応えるかのように、白無垢の襦袢と中着の上に当時非常に高価であった黄八丈の小袖を重ね着していました。しかも、水晶の数珠を首に掛けた華やかな姿だったといい、引き回されている間中は、静かに経を唱えて落ち着いた様子であったと伝えらえています。

殺害が未遂に終わったとはいえ、主犯のお熊の美貌やこうした処刑時の派手なパフォーマンスなどから、この話はその後江戸中で大きな波紋を呼びました。

このために後世には格好の演劇・芸能の題材とされ、安永4年(1775年)に発表された人形浄瑠璃「恋娘昔八丈」では、白子屋が「白木屋」に変わり、名前もお熊が、「お駒」になって、「白木屋お駒」として世に知られるようになりました。

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このように、数々の有名人を処刑してきた鈴ヶ森刑場は、1651年(慶安4年)に開設されて以降、1871年(明治4年)に閉鎖されるまでの220年の間に10万人から20万人もの罪人が処刑されたと言われています。

上述のとおり、当時は東京湾沿いにあり、刑場近くには海があったことから、水磔による処刑も行われたとの記録も残されています。

以後、明治の初めごろまでにはまだ死刑と言えば斬首であり、この方法で普通に処刑が行われていましたが、その後は絞首刑が主流となり、現在に至っています。

しかし、江戸時代には絞首刑という刑罰は存在しませんでした。江戸時代の死刑は、前述してきたように一種類だけではなく、基本的には6種類ありました。罪人の罪の重さに応じて、死刑方法が選ばれ、これは下手人、磔刑、鋸挽き、火刑、死罪、獄門などです。

例えば、「下手人」、これは斬首の刑です。一瞬のうちに命を絶たれるために、本人には苦痛は少なく、現在からみると野蛮なようですが、この当時はこれでも比較的おだやかな処刑法といえました。

ところが、これが「死罪」となると、斬首のあとの試し斬りが追加されます。これも苦痛は少ないとはいえ、より「見せしめ」の効果がまします。

次いで、厳しい処刑法が「磔刑(たっけい)」であり、これは、町中を引きずりまわされたあと、十字架に体を縛りつけられ、左右から槍で突かれて絶命させられます。当然処刑される本人にとっては激しい苦しみとなり、周囲への見せしめ効果もより高まります。

次いで、もっとも残酷な処刑法として知られるのが「鋸挽(のこびき)」です。この処刑法では、罪人はまず、両肩だけを切りつけられ、血を流しながら鋸とともにさらされます。

その後、罪人は首だけ出して埋められたものを、そこを通る者が、思い思いに罪人の首を置いてある鋸で挽くというもので、これも極めて残忍なものです。最後は磔刑と同じく、町中を引きずりまわされたあと、磔にされ絶命させられました。

鋸引きは主として「主殺し」をした者に科せられたもので、これもかなり重い罪でした。このほか火つけも重罪であり、前述の八百屋お七のようにこの罪では火あぶりにされる「火刑」が普通でした。

最後の「獄門」というのは、打ち首の後、死体を試し斬りにし、刎ねた首を台に載せて3日間(2晩)見せしめとして晒しものにするというものです。梟首(きょうしゅ)、晒し首ともいい、付加刑として財産は没収され、死体の埋葬や弔いも許されないという、最も厳しい刑でした。が、処刑される本人の苦痛は、磔や火あぶりよりはましといえます。

ただし、これらの死刑は江戸中期以降の世の中が比較的平和になった時代の方法であり、これでもまだ穏やかなほうです。それ以前はさらに残酷な死刑が横行していました。たとえば、五右衛門風呂で有名な「釜入り」は、釜に油を入れて、この中に罪人を入れて下から熱するという残酷なものでした。

ほかにも、それぞれの足を二頭の牛に反対方向へ引かせて体を引き裂く「牛裂」、牛の代わりに車を使う「車裂」、ムシロで体を巻いて水中に投げ込み溺れさせる「簀巻(すまき)」などがありましたが、さすがにこうした中世の野蛮な処刑法は平和な江戸の世では受け入れがたい雰囲気があったのでしょう、やがて廃れていきました。

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現在、日本では死刑といえば絞首刑ですが、日本以外の死刑存置国の間では、このほか、銃殺刑、電気椅子、ガス殺、注射殺(毒殺)などが処刑法として採用されています。しかし、死刑廃止論の声が高まる中、比較的肉体的な苦痛の少ないと考えられる方法を採用される傾向にあり、各国とも文明化と共に死刑を制限する傾向が顕著です。

これらの近代的な処刑方法の中でも、薬殺刑は、比較的穏やかな処刑法の一つといえるでしょう。囚人に致死量の薬物を注射することによって執行される死刑ですが、古代には毒物を服用させて囚人を死に至らしめる刑罰もあったようです。

著名な例としては、古代ギリシャの哲学者ソクラテスが、民衆裁判所による判決でドクニンジンの服毒により薬殺刑(賜死(しし))に処された例があります。また旧朝鮮時代においては「賜薬」と呼ばれる薬殺による賜死がありました。

現在、世界で最も薬殺刑が行われているのは、アメリカ合衆国です。すべての州というわけではなく一部ですが、このほか、中国も1997年以降一部の州で薬殺刑を実施しており、グアテマラやタイでも行われています。

また台湾(中華民国)においては、臓器提供を希望する死刑囚は全身麻酔を施した上で、脳組織を銃撃で破壊し脳死状態に至らしめたうえで臓器を摘出されるといいますが、これも広い意味で薬殺刑の範疇に入るでしょう。

20世紀に入ってから薬殺刑の導入を最初に検討したのはイギリスでしたが、その後イギリスは死刑制度自体を廃止したため導入されていません。アメリカでも薬殺刑が唯一の法定刑とされる州と、選択することが出来る州とにわかれています。

薬殺刑においても、「注射器」が用いられます。といっても、一度に注射でコロリというわけではなく、刑の執行は段階を追って行われます。

まず、この刑に処せられる受刑者は、注射によって静脈にカテーテルを挿入されます。3種類程度の薬物を段階的に注射されることが多いようで、最初の一本で意識を失い、次の注射には筋弛緩剤が入っており、これで呼吸を止められます。そして最後のものは塩化カリウム溶液で、これによって心臓を止められて処刑が完了します。

死に至るまでの過程は心電図でモニターされており、通常7分で処刑が完了するといいます。これらの死刑執行を取り仕切るのは医師であり、大抵は医師同席で実施されます。執行される場も手術室のような部屋で行われるため、このため一見するとその死に際は綺麗であり安楽死にも見えるようなものだといいます。

ただし、医師同伴で実行されますが、カテーテルを挿入後、薬剤を投入するために、実際の注入スイッチを押すのは従来どおり刑務所職員です。この点が病院で行われる安楽死とは違います。

とはいえ、一見穏やかな処刑法であるため、尊厳なる死が迎えられるとして人権に配慮していると主張される反面、死刑反対論者からは、死刑制度を存続させるためにその方法をソフト化し、効率を高めるためだという批判もなされています。

また生命を助命する医師が死刑に参加することについて道徳面からの批判が強いほか、薬殺刑は残酷な刑罰と主張する者もおり裁判の争点ともなっているようです。

事実、稀に失敗することもあるそうで、アメリカでは2006年に処刑に失敗して当時55歳の死刑囚が34分間にわたり苦しんだことがあり、この事例では、内臓疾患のために薬物が効かなかったそうです。

この際は再度処刑されるための別の薬物が注入されて刑が執行されました。このほかにも肥満体のため静脈を医師がなかなか見つけることが出来ず、完了まで2時間以上もかかったという例もあるようです。

こうした事例などから薬殺刑は批判を集めるようになり、アメリカではそれまで薬殺刑を可としていたノースカロライナ州では2007年以降薬殺刑が事実上停止されています。

アメリカ医師会もその後の議論の結果から倫理規定で「医師は死刑執行に関わるべきでない」と決めており、現在でもこうした決定を受け、薬殺刑の可否についての論議が全米を通じて高まっているようです。

日本でも時折こうした死刑のあり方についての論議が出るようですが、死刑を存続するか止めるかという議論が主流をなしていて、死刑の方法に言及してまでの意見はあまり活発ではないようです。

が、時に苦痛を伴う絞首刑よりも、薬物刑のほうがより穏やかだ、とは誰しもが考えることであり、死刑の方法を見直そうと声を上げる団体なども出てきているようです。

ただ、いずれそういうことも議論になっていくことになるのかもしれませんが、現在ではやはり死刑ありきかどうか、またその死刑の執行を最終的に決断する法相の判断基準や時期などが争論の中心であり、死刑執行方法の見直しについてはまだまだ先になりそうな雰囲気です。

私自身は、死刑には反対です。一人の人間の生を別の人間が奪うというのは、生を奪われる人間の尊厳をも奪うことにつながると思います。例え死刑になるような極悪な人間であってもこうした命の尊厳は守られるべきだと思います。

また、こうした罪を犯した人間は生きていること自体が苦痛でもありますが、これは考えようによっては大きな学びの場でもあるはずです。その苦痛を一生味わうことで、自分がなしたことを反省し、その反省が次に魂が生まれ変わるときの教訓、糧となってその魂に刻まれていくはずです。

人は生まれてきた以上、生を持って何かを達成するため、あるいは何かを学ぶためにこの世に存在します。誰しもがその魂を磨くためにこの世に生まれてきますが、あの世ではあまりにもそれを希望する魂の数が多いため、生まれ変わり希望者であふれかえっている、ともいいます。

そうした中で、そのめったにない機会を与えられ、この世に落ちてきたわけですから、言い方を変えればそれは、選ばれし者ということになり、生を受けたということはそれだけでもかなり大きな意味を持っているはずです。

従ってたとえ罪を犯したとしてもそのことにも意味があり、その罪への反省のための時間が与えられる、ということこそがそうした犯罪者がこの世に生まれてきた意味だとすれば、その与えられた大きなチャンスを他人が奪って良い、という論理は成り立たない、私はそう考えています。

みなさんはいかがでしょうか。

さて、今日は注射に始まり、注射に終わりました。最初からこんな重いテーマになる予定ではなかったのですが、ついつい深入りしてしまいました。反省至極です。

明日からは三連休という方も多いでしょう。今年初の連休を取るにあたり、風邪気味という方も多いと思いますが、くれぐれもこじらせて、病院で注射を打ってもらうハメにならないよう、ご注意ください。

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2014年元旦 広瀬神社にて

ギャンブルはお好き?

さて、松が明けました。

この「松」は「松の内」から来ており、玄関などに松飾をしている期間です。

そんなこと知ってるよ~という人が大多数だと思いますが、この松の内は関東では7日ですが、大阪などの関西では、松の内といえば、元旦から1月15日の小正月までを指すそうです。従って全国的に松が明けるのは15日を過ぎてからということになるようです。

今日、1月8日は、平成という時代が始まった年でもあります。1989年(昭和64年)1月7日に昭和天皇が崩御して現在の今上天皇が即位しました。これを受け、元号法に基づきこの年は「平成元年」に改められ、1月8日に改元がなされました。

ということは、この年の元旦から1月7日までに生まれた人は、昭和64年生まれ、ということになるのか?という疑問ですが、色々調べてみましたが、平成元年生まれとしても昭和生まれとしてもどちらでもいいみたいです。厳密な法律上の手続きなど細かいことはよくわかりませんが……

この元号が変わる際の手続きの混乱から、「昭和64年」と記載された書類も多数あるようで、これは造幣局で製造している紙幣やコインなども同じくです。「昭和64年発行」とされるコインなども少なからずあるようで、500円玉では1604万枚も発行されており、一円玉に至っては1億1610万枚もあるとのことです。

ただし、全数としてはこの数は非常に少ないものです。例えば昭和63年の500円玉の発行枚数はおよそ12億枚ですから、この昭和64年と刻印された500円玉はそのうちのわずか1%超にすぎません。

なので、今すぐ財布を漁ってみてください。運よく昭和64年発行の500円玉が見つかったら今年はあなたの運勢はきっと最高潮に違いありません。

ちなみに5円玉は6733万2千枚、10円玉は7469万2千枚、50円と100円玉は63年内に発注が完遂されず、昭和64年の刻印のものは未発行だそうです。

ところで、この平成という時代は、戦後の高度経済成長期に流行語となった「昭和・元禄」にならって「平成・享保」とも称されることが多いようです。江戸時代の1716年(享保元年)から1736年(享保21年)の享保期の約20年間は、いわゆる「享保の改革」が行われた時代であり、かなりの政治改革が断行され、時代の転換期といわれました。

これと同じように、1990年(平成2年)からの約20年間はバブル崩壊に始まり、民主党による政権交代、現在のアベノミクスに至るまでの過渡期の時代であり、「調節の時代」と考える人も多いようです。

平成に入ってからは幕末のヒーローであった坂本龍馬が人気となり、また平成維新の会や大阪維新の会が設立されるなど維新思想がブームとなるなど、動乱の時代でもあり、幕末期から明治維新に続く明治時代に類似しているという意見もあるようです。

大正時代にも似ていると言われます。戦前の大日本帝国憲法下における2代目の大正天皇の在位期間は15年と短く、現在の今上天皇もはや26年の在位とはいえ、昭和天皇のようにあと数十年も在位されるとは到底思ません。大正時代は関東大震災が発生しており、平成には阪神大震災と東日本大震災が発生した点なども大正時代に類似しています。

さらには、平成時代は、戦前の大日本帝国時代の昭和にも似ていると言われます。この時代には世界恐慌後の大不況を経て第二次世界大戦が勃発しており、こうした大動乱期を経て戦後の昭和日本は急激に高度成長を果たしました。

こうしてみると、これからの日本は長い動乱の時代、調整の時代を経て、これからはようやく明るい展望が見える時代に入っていくような気がします。景気も回復しつつあるようで、日経株価が2万円に達するというのもまんざら夢ではなさそうです。

我々庶民にとっては、まだまだ給料が上がるとかいった身近な恩恵を受けとれていないといった感もありますが、今年の夏のボーナス頃までには本当に景気が良くなったと多くの人が思うようになっているのではないでしょうか。

大いに期待したいところではありますが、しかし今、現在の天皇が崩御されて、また新しい年号に変わる、というところにはあまり期待したくありません。多くの国民が好意を持ち、親しまれている今上天皇ご夫妻にはぜひ長生きしていただきたいところです。

さて、ところで今日1月8日は、「一か八か」とも読めるということで、「バクチ(博打)の日」ともされているようです。

この一か八かの語源・由来にはいくつかの説が有るようです。が、有力なのは、サイコロを使った丁半賭博の「丁(偶数)か半(奇数)か」で、最初は「丁か半か」と言っていたのが、次第に丁の漢字の上部と半の漢字の上部をとって「一か八か」と言うようになったという説です。

バクチのことを、一般には「賭博」といいますが、これは「賭事」と「博技」の合成語です。

博技の「博(ばく)」とはその昔、こう呼ばれたボードゲームがあり、これに金をなげうつことで勝敗を決めていましたが、やがて、「博を打つ」から「博打」と言う語ができ、これを職業にする人達が出てきました。

博打を運営する者を胴元と呼び、賭けた者に配分しない胴元の取り分を「寺銭」と呼び、サイコロを振る職業人を「博打うち」と呼ぶようになり、その技術を博技と呼ぶようになっていきました。

チンチロリンともいわれるこうした古びた丁半博打は、最近はさすがに行われなくなりました。しかし、賭博そのものは、パチンコや宝くじなどの公営ギャンブルに代表されるように公然と行われるものもあり、必ずしもこの世から否定されているものではありません。

しかし、相撲、サッカーといったスポーツの勝敗をネタに金をかけ合う非合法の賭博はあとを絶たず、春夏に行われる高校野球では、一般の会社や公務員の職場を舞台とした賭博摘発のニュースなども時に流れます。

賭け麻雀、賭けゴルフなどは金額も少ないためかあまり摘発されることはないようですが、スポーツの世界ではさらに意図的に賭博で勝たせるために「八百長試合」が行われることもあり、これに有名人なども絡んで、トップニュースになることもしばしばあります。

このほか、公営競技の結果と配当を利用して行われる、いわゆる「ノミ行為」などもあり、当然これらは法令によって禁止されている違法行為です。

最近では、日本国外にサーバを設置しつつ、日本語によるサービスを提供し日本国内からのアクセスを受け付ける「オンラインカジノ」も数多く登場しています。ただ、日本の刑法における国外犯規定との関係がグレーゾーンであるため、日本国内からオンラインカジノにアクセスした者が必ずしも摘発を受けるとはいえないようです。

こうしてみると、公営ギャンブルに違法ギャンブルを加えると、これをやっている人はかなりの人数に上ると考えられ、日本はもしかしたらギャンブル天国のような状況にあるのではないか、と思えます。

ギャンブルなしでは生きていけなくなった人のことを「ギャンブル依存症者」と呼び、これは、進行性で完治することはないともいわれており、れっきとした精神病だそうです。

ギャンブルをしたいという衝動を制御することができず、自己の生活基盤、価値観、仕事や学業、家族や友人などの人間関係を犠牲にしてもギャンブルを続けてしまいます。

当然金銭面でも苦しくなり、社会生活上の問題が生じているにもかかわらずやめられず、そのあげくにはヤミ金融等に手をだし、暴力団になどに付け込まれて一生をフイにしてしまう人も多くないようです。

日本では2007年に、厚生労働省がギャンブル依存症に関する調査を開始しており、2009年に発表されたその研究調査結果によると、日本の成人男性の9.6%、同じく女性の1.6%、全体平均で5.6%がギャンブル依存症であるという驚くべき結果が出ています。

これはアメリカの0.6%、マカオの1.78%などと比較して極めて高い数値であると言え、2009年の国勢調査推計による成人人口から推定すると、男性はでは483万人、女性は76万人、合わせて559万人がギャンブル依存症となるという計算になります。

このギャンブル依存症は、かつては長らく意思薄弱・性格未熟など本人の資質の問題とされてきましたが、1970年代以降、精神疾患として認識する動きが広がっているそうです。

しかし、病院に行って依存症であると認定されたとしても、その治療には数年を要し、長期間ギャンブルを絶つことに成功した後でも再びギャンブルに手を出すとたちまち症状が再発するという特徴もあります。このため、ギャンブル依存症は治らない「不治の病」ともいわれます。

治癒したといえるためには、まずはギャンブルを完全に絶つ必要がありますが、まずこれからして大変です。ギャンブルから引き離すと、発汗、手の震え、不眠、幻視などの離脱症状を起こす人や、ストレスで食べ物の摂取量が増加する人も多いといわれ、アルコールや覚醒剤に手を出す人もいます。

こうしたギャンブル依存者を我々が見ると、ギャンブルが楽しくてやめられないと思いがちですが、実際には「やめなければ」という思いや借金に対するプレッシャーなど苦しさを感じつつギャンブルをしている場合がほとんどだそうです。

不快な感情やストレスから逃れようとしてギャンブルをした結果苦しさを味わい、さらにストレスを感じてギャンブルに走る「負のスパイラル」が存在するとも指摘されており、これはやはりどう考えても「病気」です。

自分がギャンブル依存症であるかどうかをチェックするためには、例えば、次のような設問に答えてみてください。

1.ギャンブルのことを考えて仕事が手につかなくなることがある。
2.自由なお金があると、まず第一にギャンブルのことが頭に浮かぶ。
3.ギャンブルに行けないことでイライラしたり、怒りっぽくなることがある。
4.一文無しになるまでギャンブルをし続けることがある。
5.ギャンブルを減らそう、やめようと努力してみたが、結局ダメだった。
6.家族に嘘を言って、ギャンブルをやることがしばしばある。
7.ギャンブル場に、知り合いや友人はいない方がいい。
8.20万円以上の借金を5回以上したことがある、あるいは総額50万円以上の借金をしたことがあるのにギャンブルを続けている。
9.支払予定の金を流用したり、財産を勝手に換金してギャンブルに当て込んだことがある。
10.家族に泣かれたり、固く約束させられたりしたことが2度以上ある。

以上の設問のうち、5項目以上に該当する場合、ギャンブル依存症と診断されるそうですが、どうでしょう。あなたはギャンブル依存症ではありませんでしたか? 5つはないとしても、3~4は該当があり、ドキッとした人も多いのではないでしょうか。

これは、アメリカの精神医学会が定めたもので、「精神障害の診断と統計の手引き」というガイドブックに掲載され、世界各国で用いられたものが日本版として修正されたものです。ほかにもいろんなチェックのためのテストがあるようですので、ご心配なら他のテストも試してみてください。

このギャンブル依存症の治療法ですが、まず、治療をするほど悪化する前にまずはその予防法を覚えておくことです。

ある精神科医の先生によれば、例えば、ギャンブルに使う金を小遣いをベースとした範囲にとどめ、レジャーの範囲を逸脱しないようにする、ギャンブルで大きく負けたとしても、借金をして負けを取り戻そうとしないことなどが肝要だといいます。

また、特定のギャンブルへの固執といったレパートリーの狭小化が依存症を招くといわれているため、ギャンブル以外のレジャーを増やすなどのストレス発散の方法のレパートリーを増やすことも必要です。

さらには、現在の自分の仕事や立場、人間関係に関する不満を考え、その上で目標とする将来像を描き、実現に向けて努力することが大事で、そもそも、何故自分はギャンブルをやっているのか、その目的を自問してみることが重要だといいます。

しかし、不幸にしてギャンブル依存症になってしまった場合。これは結構破滅的です。

ギャンブル依存症には、長期間ギャンブルを絶った後でもギャンブルをするとたちまち症状が再発するという特徴があり、このため、ギャンブル依存症の治療においては「適度にギャンブルを楽しめるようになる」といった治癒・回復は起こりえないといいます。

言葉はあまり良くありませんが、つまりバカは死ななきゃ治らない、ということです。

とはいえ、それでも社会復帰するためには、何とかこの症状から脱出しなければなりませんし、ギャンブルを完全に絶ち、その上で人生を再構築し充実した生活を送りたいものです。

不治の病といいますが、まったく治療法がないわけではなく、そのための治療には数年もの長時間を要しますが、現在のところ、その治療法として有力といわれているのが、「心理療法」です。

いわゆる専門家によるカウンセリングであり、ただし、心理療法を行う場合、1対1のカウンセリングはあまり効果がなく、集団精神療法を行うことが望ましいそうで、ギャンブル依存症を治療するには集団精神療法を週に1、2回、最低でも2年間継続する必要があるということです。

こうした集団精神療法は、日本でも病院やギャンブル依存者の自助グループ、回復施設で行われているそうですが、病院については、ギャンブル依存症の治療に取り組んでいる医師は決して多くないといいます。

ギャンブル依存症になる原因としては、心理的要因、環境的要因のほか、遺伝的要因なども取沙汰されているようです。いずれも定説はないようですが、心理的要因で言うと、ギャンブルは勝ちたいという欲求に基づいて行われるということがよく言われます。

当初は1回の勝ちによって欲求が充足されますが、ギャンブルを繰り返すうちに1回の成功体験では欲求が充足されず、たとえ勝ったとしても更なる勝ちを求めて儲けを次のギャンブルに投入することになります。

負けた場合には不快感が生まれ、それを埋めるために次のギャンブルにのめり込むことになります。これを「充足パラドックス」といいます。ギャンブル依存者は充足パラドックスに陥り、勝ち負けに関係なくギャンブルを繰り返すようになるわけです。

このほか、心理的にギャンブルをやめようとしない原因としては、負けが続く中でたまに勝ちを経験するとその経験に執着し、負けが続いていても「負けが続いているのでそろそろ勝つだろう」あるいは「次は絶対に勝てる」という心理状態に陥り、過去の成功パターンを繰り返そうとすることなどがあげられます。

ほかにも日常の生活で何等かのフラストレーションを抱えていて、そのはけ口としてギャンブルを選ぶ場合や、家庭環境のほか交友関係、近隣住民が持つ価値観、信仰する宗教などの環境が変化し、しかもそれが悪化の場合、これから逃れようとするあまりにストレス発散の手段としてギャンブルを選ぶということが言われています。

遺伝的には、ギャンブル依存症は精神疾患とみなされているため、その発症に遺伝的要素が関与するとみる向きもあるようです。ギャンブル依存者の血縁関係をみると、ギャンブル好きや大酒飲みが存在することが多く、ギャンブル依存者の親の20%から30%、兄弟姉妹の14%がギャンブル依存症もしくはその予備軍であるという調査結果もあるそうです。

ただし親子ともにギャンブル依存症であるとしても、たとえば幼少期にしばしば親に連れられて競馬場やパチンコ店といったギャンブル場に足を踏み入れたためギャンブル場の敷居が低くなったというような、遺伝的以外の家庭環境などの要因が関与している可能性も考えられるといいます。

また、ギャンブル依存症の場合発症に遺伝的要因が関係しているとしてもひとつの遺伝子によって発症が決定されるということはなく、複数の遺伝子が作用していると考えられているそうで、必ずしも遺伝によりギャンブル依存症になるとは考えにくにようです。

が、まあ遺伝でないにせよ、心理的要因や環境的要因によってギャンブル依存症になってしまう前に、まずは前述のような予防法でもって、病気を未然に防ぐことが大切です。

ギャンブル依存症は、依存者自身のみならず周囲にいる人間への影響も大きく、周囲の人間が傷つく度合いにおいて、ギャンブル依存症を超える病気はないともいわれます。とりわけ家族については、患者本人とは別にケアを行うことが必要とされることも多いようです。

加えて、その本人が行っているギャンブルが違法性が高いものであれば、より悲劇性は増します。

日本の法律では、「刑法」に「賭博及び富くじに関する罪」というものが明記されていて、いわゆる「賭博」と呼ばれるギャンブルを行った者は、「五十万円以下の罰金又は科料に処する」とされており、また常習的にて賭博をしたことが確認された場合には、三年以下の懲役に処するという、結構厳しい罰が与えられます。

ギャンブル依存者は様々な手段を使ってギャンブルの資金を工面しようとしますが、資金を得るために犯罪に走るケースも少なくなく、アメリカ合衆国での調査によると、退役軍人病院においてギャンブル依存症の治療を受けた人の46%に逮捕歴があったそうです。また、同国の一般受刑者の3割がギャンブル依存症という調査結果もあります。

借金の額が大きくなると保険金殺人など暴力を伴った重大犯罪に走るケースもあり、花粉症になればくしゃみが出るのと同様、依存症が進行する中でギャンブル依存者は道徳性を失い、嘘をついたり犯罪に走る者が現れるようになるといいます。

ギャンブル依存者が走りやすい犯罪の一つに詐欺があり、先のアメリアの例では、ギャンブル依存者の自助グループ「ギャンブラーズ・アノニマス」の会員の実に47%が事故などのでっち上げや故意に事故を起こすなどの保険金詐欺に走っていたという統計があるようです。

そのように考えてくると、最近日本で急増しているオレオレ詐欺を筆頭とする数々の詐欺事件もまた、こうしたギャンブル依存症の人達が起こしている犯罪ではないかと疑ってしまいます。

上述のように他国と比べても高い比率のギャンブル依存症患者を抱える我が国の病巣の原因は、実はギャンブルなのかもしれません。

日々流れる宝くじやパチンコのコマーシャル、競馬、競艇、ケイリンといった「スポーツ」を標榜する公営ギャンブルなどはもう少し自粛してしかるべきではないかと思う次第です。

とくに静岡県では、○○○○○と称するパチンコ店のコマーシャルが頻繁に流れてうんざりしていますが、全国チェーンのかの有名パチンコ店のコマーシャル、あの下卑た内容ももう少し見直していただきたいと切に願う限りです。

私としては、まったくギャンブルというものをやりません。パチンコはもちろん、宝くじだって買ったことがありません。なので、ギャンブル依存症ではないと胸を張って言えるのですが、遊びのない、面白味のないヤツと言われても、犯罪に走るよりはかなりの程度でマシと考えています。

さて、みなさんはいかがでしょうか。上の依存症のテストをチェックして、5つ以上の該当があったあなた、ギャンブル依存症予備軍として、今からでもその予防を始めてください。