スッチー vs CA

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先週末の金曜日から昨日まで、夫婦で広島へ行っていました。

姉の末っ子の姪が結婚をするというので、その式に出席するためでしたが、ひさびさの旅行らしい旅行だったので、二人して大興奮だったのは言うまでもありません。

その結婚式の様子や、この旅行での出来事の数々についてはまた詳しく書き記すとして、今回のこの旅ではまた、ひさびさに飛行機に乗りました。

往復とも広島空港発着の最新式の787であり、かねてよりバッテリーの発火問題などで色々トラブルのあった機体であったことなどは、このブログでもかつて書きました。

が、そんな心配などみじんもないほど安定した飛びっぷりで、帰りに羽田に降りる際には、気象条件が少々悪く、結構揺れたのですが、急激に変わる気流の変化を軽く受け流しながら降下し、綺麗な三点着陸を果たしました。

無論、操縦するパイロットさんの技量にもよるのでしょうが、やはり最新鋭の機体をコントロールする装置などのたまものなのではないか、と思ったりもしたものです。

ここしばらく、おそらく3年以上飛行機には乗っていなかったのですが、往復の機内でのサービスは、従前と変わらず行き届いたもので、スチュワーデスさんの対応にもまた、日本ならではの「お・も・て・な・し」の精神は健在で、細かいところにも注意が行き届く、気持ちが良いものでした。

……と書いてきたところで、最近はこの「スチュワーデス」というのはあまり一般的な用語ではないのだな、と気づきました。

かつての日本の航空会社では、船舶の男性司厨員に由来する「スチュワード」と女性スタッフの「スチュワーデス」を客室乗務員の名称として採用して用いるようになったもののようですが、最近ではこの呼び方はなりをひそめ、「CA(Cabin Attendant)」「キャビンアテンダント」と呼ぶことのほうが多いようです。

実はこれは正式な英語ではなく、TVドラマなどの影響で作られた和製英語である、というのは意外と知られていません。正しい英語としては「フライトアテンダント」(Flight Attendant)、もしくは「キャビンクルー」(Cabin Crew)が正解です。

なんでもかんでも横文字にしたがり、それをカタカナで使っているうちに標準語になってしまうというのは日本ではありがちなことですが、それにつけても、CAのことを正しい英語であると主張してやまない輩もいたりして、そういう人に限って英語は得意でないことが多かったりします。

そもそも何でも、アルファベットを並べて説明したがる日本の風潮を私はかねてから苦々しく思っていて、BGMとかCADなどの分かりやすいものはまぁ許せるとして、LTEとか、IPとかいった本来は難解なコンピュータ用語までをも、意味もわからずにしたり顔で使っている人をみると、なにやら妙に腹がたってきます。

意味がわからない用語をそのまま略して使うのではなく、きちんと日本語に直してから略すなり流行させるなりすればいいのに、と思うのですが、その手間暇を省いて広めておいて、みんな分かったような顔をする風潮はそろそろやめればいいのにと、思うのですが、みなさんはいかがでしょう。

ま、それはともかく、この女性客室乗務員のことをスチュワーデスと呼ぶのは、かつては普通のことであり、これに対して「スチュワード」のほうは、男性乗務員がほとんどいないこともあり、あまり一般的な用語としては広まりませんでした。

むしろ、スチュワードと同じ意味の「パーサー」などと呼ばれる機会のほうが多く、男性乗務員というと、こちらのほうが正しいと思っている人さえいるのではないでしょうか。

女性乗務員の呼称としては、スチュワーデス以外にも、「エアホステス」「エアガール」などというのもあったようですが、ホステスのほうは、水商売のマダムみたいに聞こえるし、エアガールというと妙に軽々しいかんじもするためか、やはり「スチュワーデス」と呼ばれることのほうが多かったようです。

ところが、このスチュワーデスという呼び方は、日本では1990年代以降急速にされなくなり、今ではほとんどお蔵入り状態です。

調べてみると、これは1980年代以降、アメリカにおける「ポリティカル・コレクトネス」という風潮が出てくるようになり、この社会現象が日本へも伝播し、浸透したためのようです。

ポリティカル・コレクトネス(political correctness)というのは、それまでごく普通に使われていた用語に、社会的な差別・偏見が含まれていることが「発見」された場合、これを修正、すなわちCorrectしようとする動きであり、修正というよりも、むしろそういう言葉を見つけ出して、なくしてしまおう、とする社会的な動きです。

ご存知、人種のるつぼと呼ばれるアメリカでは、職業や性別、年齢・婚姻状況といった基本的な人的違いはもとより、文化・人種・民族・宗教などなどの各分野において多様な性格を帯びる人々が暮らしており、これに加えて、近年福祉国家としての発展を続ける中、ハンディキャップなどに基づく差別・偏見などに関する数々の問題も浮上してきています。

ポリティカル・コレクトネスは、こうしたアメリカに生じた差別や偏見を防ぐ目的で、言葉の表現や概念を変えていこうと起こった運動であり、とくに1980年代に入ってから、「用語における差別・偏見を取り除くために政治的な観点から見て正しい用語を使おう」という動きが活発になり、広く認知されるようになっていきました。

「偏った用語を追放し、中立的な表現を使用しよう」というわけであり、言葉を是正することによって、国家内の差別是正全体をめざそうという動きでもあります。法制化されたわけではありませんが、社会的な風潮として、いまやアメリカ各地で浸透しています。

また、こうした運動はアメリカ国内だけにとどまらず、ヨーロッパにも飛び火し、ひいては西側諸国の一員である日本でも流行するようになった、というわけです。

無論、もともとはアルファベットを用いる英語などの言葉を母国語とする欧米各国で起こったことだったわけですが、上述のとおり、なんでもかんでも外来語をカタカナに書き換えて、あるいはその手間を惜しんで略語のまま使うことが大好きな日本人の間でも近年急速に広まっていきました。

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この運動は(そもそも「運動」といえるかどうかもあやしいところですが)、社会的な差別・偏見が含まれていない公平な表現・用語を推奨しています。適切な表現が存在しない場合は、新語が造られることもあり、上述のスチュワーデスが、キャビンアテンダントなどという和製英語に置き換えられたのは、その好例といえます。

このとき、そもそもの「客室乗務員」を表す英語である、「Flight Attendant(フライトアテンダント)」という単語をなぜそのまま使わなかったのかよくわかりませんが、1990年代にはその業績も好調であった、日本航空がまず、1996年9月末日で「スチュワーデス」という呼称を廃止しました。

廃止した理由は、それまでの経緯から、スチュワーデス=女性という構図があまりにも定着してしまっており、女性特有の職業である、との世間からの印象を払しょくしたかっためでしょう。「偏った用語を追放し、中立的な表現を使用する」というポリティカル・コレクトネスがここでも適用されたわけです。

そして、「アテンダント」(AT)と呼ぶように改めたことから、この上に「キャビン」を冠して、いつしかキャビンアテンダントと呼ばれるようになっていったようです。

ちなみに、同時期にANA(全日本空輸)もまた、「スカイサービスアテンダント」呼ぶように改めたようですが、正式名称はそうであっても、やはり巷では「キャビンアテンダント」と呼ぶ人のほうが多くなってしまい、いつのまにやら社内外においてもCAのほうが通りがいい、ということになってしまっているようです。

とはいいながら、スチュワーデスと呼ばれた時代があまりにも長かったため、その後も日本ではこうした大手の航空会社自身が「スチュワーデス○○」などの言葉を女性の客室乗務員に対する用語として様々な形で使い続けており、マスコミなどでも多用されていて、スチュワーデス、という呼称がまったく消え去った、というわけではないようです。

略語で「スチュワーデス」さんのことを「スッチー」さんと呼ぶ人も多く、私自身もこの呼称の愛用者でもあります。

にもかかわらず、いまや「スチュワーデス」という用語は、キャビンアテンダントに駆逐されようとしており、この誰もが英語と信じて疑わない和製英語が、新聞や雑誌をはじめ、いたるところに氾濫しています。

こうしたポリティカル・コレクトネスの当初のアメリカにおける代表的なものとしてあげられるのが、英語の敬称において男性を指す「Mr.」や「Woman」などの性別に関するものです。

例えば英語では、Mr.が婚・既婚を問わないのに対し、女性の場合は未婚の場合は「Miss(ミス)」、既婚の場合は「Mrs.(ミセス)」と区別されますが、これを女性差別だとする観点から、未婚・既婚を問わない「Ms.(ミズ)」という表現に置き換えられるようになりました。

そもそもこの「Ms.」というのは、「mister」の女性形で、未婚・既婚を問わない語として17世紀頃に使用されていました。が、その後、女性を丁重に扱う場合には「Miss」「Mrs.」と区別したほうがいい、という風潮のほうが強くなっていたことから消え去っていたものが、奇しくもポリティカル・コレクトネスによって復活する、ということになったのです。

このように、言語において男性と女性の別を設けるのは女性蔑視にあたり、差別だとする風潮は、それまでは、伝統的に男性であることを示唆する)「~man」がつく「職業名」についても、女性差別的であり、ポリティカル・コレクトネスに反するものとされるようになり、manに代わって、「~person」などが使われるようになりました。

一例としては、「議長」を表す、chairmanが、chairpersonに、また、「警察官(policeman)」がpolice officerに、「消防官(fireman)が、fire fighterに、といった具合です。

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この風潮は、日本にも及んでおり、例えばこれまでは、実業家のことを「ビジネスマン(businessman)」と呼んでいたものが、最近では「ビジネスパーソン(businessperson)」
と呼ばれることが多くなっているのに気が付いている人も多いでしょう。

同様に、重要人物のことをその昔は、「key man」と読んでいたものが、最近ではポリティカル・コレクトネスの影響を受けて、「キーパーソン(key person)」と呼ぶ機会が増えています。

最近の日本の例では、このほかにも「専業主婦」などの例のように、女性であることが当然と決め付けるような表現も問題となっているそうで、じゃぁなんて呼ぶのよ、ということなのですが、「お籠りバーさん」でもまずいし、「子守オヤジ」もいけないとすれば、「専業家庭人」とでも呼べというのでしょうか。

このほか、アメリカにおけるポリティカル・コレクトネスは、人種・民族用語においてもその修正を迫りました。

黒人を指す「Black(ブラック)」がアフリカ系アメリカ人を意味する「African American(アフリカン・アメリカン)」に置き換えられたことは多くの人がご存知でしょう。とはいえ、肌が黒いからアフリカ系だとは限らず、またアフリカ出身だから黒人だとも限らないわけです。

また、African Americanは、「アフリカ系アメリカ人」を指し、これはアメリカに奴隷として連れてこられて以降の歴史が長い人種を意味します。が、一方では、奴隷制度が存在しない近年の移民で、そもそも英語を母語とせず、アフリカ以外の国から移住してきた者も、「アフリカ系アメリカ人」と呼べるか、というとそうではありません。

例えば、フランスで生まれて育ち、言語もフランス語の黒人もいるわけであり、これらを含めて一括して、アフリカン・アメリカンと呼ぶのには無理があり、こうした人達の中にはこう呼ばれるのを嫌がる人も少なからずいるようです。

また、人種の壁をなくそうと、アメリカの先住民族をさす「Indian(インディアン)」と呼ぶのをやめようという動きもあります。

インディアンというのは、もともとインド人という意味ですが、コロンブスがアメリカ中部のカリブ諸島に到達した時に、ここをインド周辺の島々であると誤認し、先住民をインド人の意味である「インディオス」と呼んだために、以降アメリカ先住民の大半をインディアンと呼ぶようになったものです。

が、インド人であるにせよ、アメリカ先住民であるにせよ、インディアンという呼び方は人種差別を思い浮かばせる、ということで、最近では「Native American(ネイティブ・アメリカン)」という表現に置き換えられており、またカナダでは「First Nation(ファースト・ネーション)」と呼ばれています。

さらに、とくに北米などでは、多様な宗教に配慮をしようという動きもあり、例えばクリスマスはキリスト教の行事であるため、公的な場所・機関、大手企業では他の宗教のことも考慮して「メリー・クリスマス」と言わずに、最近では「ハッピー・ホリデーズ」と呼ぶようです。

ホリデーズとしたのは、日本ではクリスマスは休日ではありませんが、アメリカなどでは、クリスマスは休日であることが多いためです。このほか「クリスマスカード」も「グリーティングカード」に置き換えられており、これはSeason’s Greetingつまり、「季節のご挨拶」の意味であって、これなら宗教臭さは消え去ります。

2004年に、ブッシュアメリカ合衆国大統領が年末のあいさつをしたときにも、「メリー・クリスマス」ではなく、「ハッピー・ホリデーズ」と述べたそうで、このほかヨーロッパにおいても、イタリアなどでは小学校の年末の演劇会において、例年恒例であったキリスト生誕劇を止めて、「赤ずきん」などに演目を変えるところが増えているとか。

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とはいえ、欧米ではこうした宗教におけるポリティカル・コレクトネスは、伝統や文化の否定にもつながる、ということで、反対意見もあり、論争となっているそうです。

また、フランス語やスペイン語では、男性名詞や女性名詞などのように、その言語における名詞や動詞、形容詞で男性形と女性形を分けており、言語において性別による差別の是正という点に関しては、あまりポリティカル・コレクトネスは進んでいないといいます。

アメリカなどでも、マンホールを意味する語を「manhole」から「personhole」と言い換えるのはさすがに行き過ぎとの批判も存在し、また日本においても、これは「言葉狩り」ではないかという人もいて、表現の規制につながる物であるとの批判があり、こうした表現の書き換えは、表層を変えるだけで何の本質的な意義がないとの批判も存在する声も多いようです。

たとえば、固有名詞として国民の間で広く定着している、「ウルトラマン」や「スーパーマン」、「スパイダーマン」を、ウルトラパーソンやスーパーパーソン、スパイダーパーソンと言いかえるか、といえば、誰もが嫌な顔をするでしょう。

アンパンマンに至っては、「アンパンパーソン」と言い換えたら、「わかんなーい」と多くの幼稚園児たちが大泣きするにちがいありません。大和ハウスのダイワマンをダイワパーソン、と言い換えたら、ファンからは大ブーイングがおこりそうです。

そもそも、この「ポリティカル・コレクトネス」という言葉は、アメリカ合衆国における政治の世界で、保守派などがその巻き返しにより、「人権政策」を掲げ、これに関する政策を選挙戦における目玉としようとしたところから出てきたようです。

「ポリティカル(political)」は、「政治の」、「政治に関する」の意であり、このことからもこれが政治用語だとわかります。わざわざ政治用語であることをわからせるために、その「まんま」の表現を冠したところを評して、「見てくれ」を狙った薄っぺらい政策であるとあからさまに批判する向きも当初からあったようです。

かくして、そんなことも露しらず、単に欧米で流行っているからという希薄な根拠の中において、日本においてもポリティカル・コレクトネスは浸透するようになり、発祥から20年以上経過した現在でもいまだその「発見」と「駆逐」は進行中です。

例えば、ちょっと前から「看護婦」は女性蔑視だということで、男性の看護士も含む「看護師」に改められ、「保健婦」は「保健師」、「助産婦」は「助産師」となりました

かつては、保母さんと言っていたものが、最近は男性も多いことから、「保育士」と呼ばれるようになり、こうした幼児教育施設や病院関連の福祉施設では世相を反映したポリティカル・コレクトネスが続々と進んでいます。

が、これらについてはこれまで女性の独断場と思われていた職場への男性の進出が相次いできているためか、あるいはその逆もあって、特に否定的な声はないようです。

ちなみに、この助産師に関しては、「師」といいながら、今でも、法律的には、資格付与対象は女性だけに限られています。が、将来的には、生まれてくる子供を取り上げる男性助産師も増えてくることになるかもしれません。

ところが、同じ福祉や医療の世界では、かつて「障害者」と呼んでいたのを、最近は「障がい者」とわざわざひらがなで書くことが奨励されています。ここまでくると少々やりすぎではないの、という気もしますが、これは「害」の字が周囲に害を与えるという印象を回避するためだということです。

こうした福祉用語以外にも、医学用語として「痴呆症」と呼んでいたものが最近は、「認知症」に、また、精神分裂病は「統合失調症」、らい病(癩病)は「ハンセン病」と呼ばれるようになっています。

痴呆というのは確かに多少悪意のある表現であると誰もが認めるところでしょうが、それでもバカやアホに比べれば格段に格調高い表現であり、また「癩」というのは、その症状から来ており、「鱗状の~」とか、「かさぶた状の」という意味であって、患部の状況を適切に表した非常にわかりやすい用語ではあります。

ところが、この病気に罹患したその外見を忌み嫌い隔離しようとした時代があったことからこれを反省し、この用語を使うのをやめよう、ということになったようですが、日本語の表現方法としてはかなり巧みな部類に入るものである、と言わざるを得ません。

精神分裂病もまたしかりです。精神がズタズタに引き裂かれるといえば、どういう状態かはすぐにわかるわけであり、実際に発症した方々の周囲では反論もあるでしょうが、なかなかうまい表現だと私は思います。

また、日本でも人種差別用語として多くのことばが改められてきています。かつての「土人」は、「先住民」に、トルコ風呂は「ソープランド」に改められ、肌色は、現在では「ぺールオレンジ」もしくは、「うすだいだい」と呼ばせるようです。

土人というのは、そもそも北海道におけるアイヌのことを指していたそうで、アイヌを先祖とする人々への蔑視だということで廃止されたもので、トルコ風呂もトルコの人達に配慮された結果廃止されました。

「肌色」については、従来からクレヨンやクレパスの色として慣れ親まれてきたものですが、これもネグロイドの肌は褐色で、白人の肌は白であることから、こうした言葉を使うことが人種差別につながる、ということのようです。

が、肌色の「肌」という言葉から、黒人や白人を連想する日本人がいったいどれだけいるというのでしょうか。

かつて、日本で「ちびくろサンボ」という大変抒情豊かな童話絵本がありましたがこれも「くろ」が黒人蔑視にあたるとして、出版社の自主規制により廃刊となり、いまやどこの本屋へ行ってもみられなくなってしまいました。これは必ずしもポリティカル・コレクトネスとはいえないかもしれませんが、その風潮の延長の上で起こったできごとです。

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さらには、日本でも性別によるポリティカル・コレクトネスが進んでいます。

学校などで名前を呼ぶとき、その昔は男子に「~君」、女子に「~さん」を用いていたのを、最近では男女とも「~さん」と呼ぶことが奨励されているそうで、実際に教育の現場で実践している学校も多いそうです。

ところが、慶応義塾大学の関連教育期間では、男女とも「~君」で呼び合うそうで、これは「先生」は創設者福澤諭吉だけという考え方から、教授を含む教師陣も含めすべて平等に先生以外の呼び方、つまり君付けで呼び合う、という風習があったことからきているそうです。

もともとは先生同士がお互いを呼び合う際に用いていたようですが、次第に生徒を呼ぶときにも君づけで呼ぶようになっていったようです。こうした伝統はやがて慶応以外の他校にも及び、現在でも各地の教育現場で生徒を女性であっても~君と呼ぶ先生がいるのはこのためです。

が、これは男女を平等に扱う風習としては数少ない例外であって、実際には現在でも、~さん、~君で男女を使い分けることが一般的です。しかし最近は、とくに指導がなくても、男子生徒のことを「~さん」と杓子定規に呼ぶ先生が増えているそうで、私などは、こうした話を聞くと、なんだか学校現場も殺伐としてきたな、という印象を覚えます。

逆に一般的な職場では、男性だけを君と呼ばず、女性をも君付けで呼ぶところも多くなっているという話も聞きます。また従来は女性を呼ぶ際には、その昔は愛情をこめて「~ちゃん」と下の名前で呼んでいましたが、現在ではこれも差別的だということで、苗字だけで~君と呼ぶようにと、わざわざお達しまで出している会社も多いとか。

男女の別を何をそこまで無理してなくす必要があるのかと私は思うのですが、みなさんの職場や学校ではいかがでしょうか。

このほか先ほどの障害者の呼び方にも関連しますが、最近は「ブラインドタッチ」のことを、「タッチタイピング」と呼ばなければならないそうで、これは、無論「ブラインド」が「盲目」」を意味し、視覚障碍者を差別することにつながるから、ということのようです。

盲目といえば、生物名でも、それまでは「メクラウナギ」と呼んでいたものを最近では、「ヌタウナギ」と呼ぶそうで、このほかにも、イザリウオをカエルアンコウ(いざりとは足の不自由な人のこと)、オシザメをチヒロザメ、セムシウナギをヤバネウナギ、バカジャコをリュウキュウキビナゴへ、といった改名がみられます。

こうした、ポリティカル・コレクトネスについては、行き過ぎたものもあるようですが、必ずしもそのすべてが批判されるようなものではありません。

改名、変名がすべて改悪というわけではなく、認知症、統合失調症などは言葉を変えた事により当事者や家族の気持ちが多少なりとも楽になったという人も多いようで、とくに病気が傷害といった医療の分野などで差別されていた人達が、こうしたポリティカル・コレクトネスの普及によって救われた、という例が多いようです。

しかし、このように言葉を変える事による心理的影響は無視できず、行き過ぎは表現の自由を束縛するものであるとして、批判する人もまた多数います。

表現者が自ら斟酌して自らの表現に制限を課すことを「自主規制」と呼びますが、こうした面でのポリティカル・コレクトネスが進行しすぎ、日常慣例化すると、これはやがて「タブー」になっていきます。

とくに芸術の世界においては、不特定多数の大衆を対象とした表現をなすことが多いことから、文芸などにおいては著者や出版社が、音楽の世界においては作曲家や作詞家、レコード会社、放送局などが主体的に判断して言葉の置きかえや著作物の発表を取り止めることなども往々にしてあります。

日本のテレビやラジオなどの放送局では、身体的障害を表現する用語を「放送禁止用語」などとして「○○が不自由な人」と言い換えるのが一般的ですが、これを例えば、過去に出版された文学作品においても適用しようとすれば、それは文学ではなくなってしまう可能性があります。

行き過ぎたものは、「言葉狩り」にほかならず、今日では、このような文学作品には、末尾などに「差別用語とされる語も含むが、当時の状況を鑑みまた芸術作品であることに配慮して原文のままとした」などと記されることも多くなっています。

受け手の立場や考え方などにより、不適切とも適切ともなるひとつひとつの表現を直接の表現者ではない第三者が判断して規制することは非常に難しいことです。

例えば「漫画」では、「ユーモア」と「毒」が作品の味付けに不可欠といわれていますが、差別表現で問題を起こした作品の「ユーモア」や「毒」は許されないもので、ときにそのような作品に限って発行部数が大きい場合も多く、こうした場合にはその社会的影響は非常に大きなものになります。

したがって、言葉の表現者には、才能やセンスがあることも重要ですが、その表現には「人権感覚」が強く求められなくてはなりません。

しかし、人権感覚はその専門家を称する運動団体の関係者ですら、差別のカテゴリーが異なると「自信がない」と述懐するほど難しい問題であり、出版業界などでもこうした人権感覚を養うためには、何十年もの経験が必要だという人もいます。

いわんや研鑽しても、その能力を培うことができない人も多いそうで、各出版社ともそうした人を養成するために、社内啓発に努力していますが、なかなかそういう能力は簡単には身につかないようです。

ましてや、国民の多くが接するような学術用語や、医学用語、福祉用語といった、難しい分野の用語を、こうした感覚が希薄な役人たちが司り、「勝手に改変しようとしている」とまで言い切るのは少々行きすぎかもしれませんが、彼等の造った新用語が必ずしも意味があるものばかりとはいえません。

先述の障害者の「害」を変えるなどというのは、明らかに行き過ぎです。「障害」というのはれっきとした由緒正しい日本語であり、わざわざ変える必要はないと思います。

このように、なんでもかんでも、時代に合わないから、差別だからという主張のみでいつのまにやらどんどん変えていってしまっている最近の風潮には少々苦言を呈したいと思います。

従来からある言葉の意味をかみしめ、その文化的な意義も確かめながら本当に必要なものだけを変えていかなければ、こうした風潮は文化の退潮にもつながっていくのではないかと思います。

なので、スチュワーデスはそのままでよく、キャビンアテンダントなどという、わけのわからない用語に変更する必要はないのです。

いまあなたが使っている言葉が、本当に意味がある言葉なのか、また意味が分かって使っているのかどうか、今一度、考えてみてください。

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ゴールドラッシュ

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今日は、「ゴールドラッシュの日」だそうです。

1848年1月24日に、アメリカの農場主ジョン・サッターの使用人、ジェームズ・マーシャルという人物が、サクラメント東方のアメリカン川の川底で金の粒を発見しました。

マーシャルはこれを元手に農業経営の拡大を考え、当初は秘密にしていたのですが、噂はすぐに広まりました。これにより、文字通り「新天地」となったカリフォルニアには金鉱脈目当ての山師や開拓者が押し寄せることとなりました。

「ゴールドラッシュ」の始まりです。

当時の金鉱はほぼ露天掘りに近く、誰もが金を採取できたといいます。極論すればスコップ一本あればだれでもが金を掘り当てることができる可能性があったのです。

こうして一獲千金を求めて集まった人達が急増したのが1949年だったことから、後年、カリフォルニア州に集合した彼等は、「フォーティーナイナーズ(”forty-niner”(49ers)」と呼ばれるようになりました。

彼らの多くは、アメリカ東部から噂を聞きつけて西部へやってきた人達でした。

そのルートとしては、船で多額の通行料を払ってパナマ地峡を経由するほか、南アメリカの大陸南端まで回り込み、大きく迂回して西海岸へアプローチを試みるのが主流でしたが、中には、幌馬車で熱間の大陸を横断して、カリフォルニアへ辿り着くつわものもいました。

しかし、パナマ以外のルートはかなり厳しい旅程であり、旅行途中で病死した者も多かったようですが、1849年の一年間だけでも8万を超す人々がカリフォルニアに到来しました。

この当時の記録をみると、これらの移住者には農民、労働者、商人、乞食などが多く、さらには牧師までもが含まれ、こうした人達がこぞって一攫千金を夢見てカリフォルニアへなだれ込んだのです。

こうした金目当ての移動は、アメリカ国内にとどまりませんでした。

1840年からのアヘン戦争によって清国がイギリスによって開国させられるとともに、香港がイギリスに割譲され、マカオもポルトガルの支配下になったことなどから、香港・マカオが帰属していた中国の広東省などでは多数の中国人難民が発生しました。

喰えない彼等は、このためゴールドラッシュの話を聞きつけると、こぞってアメリカへ渡るようになり、かれらもまた山や鉄道建設現場で働くようになったため、カリフォルニアでは、その後広東人を主体とする「チャイナタウン」が形成されるようになりました。

さらには、ヨーロッパでは1848年にフランスで2月革命、ドイツで3月革命などが相次いで起きました。これらは統合して「1848年革命」と呼ばれ、これによりヨーロッパの政情は著しく不安定になっていきました。

その余波で、ヨーロッパからアメリカへ移住する人も急増し、これが、いわゆる「ウィーン体制」の崩壊を招きました。

ウィーン体制というのは、1814~1815年に君制を敷くヨーロッパ各国がウィーンに集まって締結した国際協定です。

この協定では、各国に君臨する君主の利益が優先されたため、自由主義・国民主義運動が抑圧されるという側面はありましたが、これによって君主制を主張するヨーロッパ各国の協調が図られることになり、歴史的にみてもかなり長い安定をヨーロッパにもたらしました。

ところが、このヨーロッパにおいても、ゴールドラッシュの噂がもたらされ、多数の住民がアメリカを目指すようになりました。このことは、以後のヨーロッパ政情不安を招く結果となりましたが、その原因は多数の住民たちが渡米することにより、居住人口が減ったことにあります。

住民がいなくなるということは、君主国家としては、税金を貢いでくれる対象がいなくなるということでもあります。この結果、多数の民衆の存在の上に成り立っていた君主国家は衰退の道を歩んでいくこととなったのです。

この環境変化において、それまではなりをひそめていた自由主義・国民主義運動が活発となり、これが各地で革命を引き起こす要因になり、ウィーン体制の崩壊へと突き進んでいきました。

こうしたヨーロッパでの変化は、アメリカ国内においても時代の変革を促す作用を与えました。とくにカリフォルニアにおいては、フォーティナイナーズへの期待は大きくなり続け、人口が急増したことにより、ここを「州」へと昇格させることを求める声が高くなっていきました。

こうして、カリフォルニア州は1850年9月9日に連邦議会により公式に州昇格が認められましたが、この結果はまた南部と北部の対立に拍車をかけることとなり、その後の南北戦争のきっかけになりました。

カリフォルニアが州に昇格したときは、いわゆる「自由州」と呼ばれる奴隷を認めない諸州の一員として連邦に加入しており、この自由州というのは、いわゆる後年の「北部州」つまり北軍に属する州です。

奴隷制度を維持することを希望していた南部の「奴隷所有州」は、カリフォルニアを北部州に属する州として認めるかわりに、南部から逃げ出して北部諸州に逃げ込む奴隷を厳しく取り締まる「奴隷逃亡取締法」の施行を北部の自由州に認めさせました。

この当時、南部の諸州からは激しい労働から逃れるために脱走を図る黒人も多く、彼等の多くは、奴隷制を廃止しようとしていた北部州に逃げ込んでいました。

この法律はこうして南部州から逃げ出して北部に入った奴隷を南部に返還することを北部州に約束させるというもので、これとひきかえにカリフォルニアの州昇格を南部諸州が認める、というものであったことから、「1850年の妥協」ともいわれました。

しかし、この妥協は南北戦争の勃発のきっかけとなりました。

この後、カリフォルニアの州昇格に続いて、ニューメキシコ準州、ユタ準州についても州に昇格することが検討されるようになったのですが、このときには、住民自らが奴隷州か自由州かを決定すること(人民主権)が決められました。

ところが、この「1850年の妥協」によってカリフォルニア州が自由州に所属したことから、カリフォルニアにほど近い、ニューメキシコやユタでもこれに影響されて自由州になることを選ぶ人が多いことが予想されました。

もしこの二州が自由州になれば、これは連邦議会においてもこれらの自由州からの選出議員を増やす結果となります。当然、奴隷州からの選出議員は少数派になっていく可能性が高く、自州の議会での発言力の低下を懸念した南部諸州に危機感を抱かせる結果となっていきました。

そしてやがてはこうした情勢が、南北二つの陣営の間で銃器を手にしての争いに発展していったというわけです。

夕暮れの光景B

このように、ゴールドラッシュは、このようにアメリカのその後の歴史を書き換えるほど大きなきっかけとなりました。

州に昇格したカリフォルニアでは、1852年にはその人口が20万人にまで膨れあがり、さらに西部の開拓が急進展することになりましたが、これは、彼等にとっては「開拓」である一方で、もともとの原住民であった多くのインディアン部族に対しては「侵略」でもあり、白人の台頭はインディアンを駆逐する一種の「民族浄化」でもありました。

白人は自分たちの居住地を増やす度に、インディアンを皆殺しにしてこれを手に入れ、この結果、インディアンの一部族であるヤナ族などは、金鉱目当てに入植した白人たちによって根絶やしにされ、絶滅させられてしまっています。

その後もネイティブ・アメリカン(アメリカ・インディアン)への圧迫はつづき、現在ではアメリカ社会においてはかなりの少数派に追いやられてしまっています。また、自由州として黒人も開放されましたが、かつての奴隷であった彼等が政治などの社会的上部に登場するのは、かなり後年になってからのことでした。

こうして、カリフォルニアは現在のように、白人がマジョリティの社会へと変貌していきましたが、ゴールドラッシュによって一攫千金を狙った彼らが、すべて成功したかといえば、必ずしもそうではありません。

彼等の給料は確かに高額でした。アメリカ国内の一般労働者の日給が1ドル程度だった当時にあって毎日10~20ドルを稼ぎ出したとさえいわれていますが、しかし、フォーティナイナーズで成功した人はほとんどいなかったといわれ、むしろ多くは破綻したとされています。

その理由は、一度にあまりにも多くの人々が殺到して生活物資の供給不足を招きインフレーションが起こったためでした。小麦価格は40倍になり、土地価格では16ドルだったところが4万5000ドルにまで跳ね上がったところもあったそうです。これではいくら賃金が高くても逆に食べていくことはできなくなります。

ところが、こうした金にむらがる亡者よりも、成功者はむしろ、こうしたフォーティナイナーズの周辺で生まれました。

このうち最も有名なのがリーバイス創業者のリーバイ・ストラウスです。彼は、金を掘っていると従来のズボンではすぐ破れて困るということに着目し、キャンバス生地を元に銅リベットでポケットの両端を補強したワークパンツ、すなわち「ジーンズ」を発明しました。ご存知、現在でも世界中の人が愛用するズボンです。

彼はまたテントや荷馬車の幌を作るためにキャンバス帆布を準備し、採鉱者達に販売することで財をなしました。

また、サム・ブラナンという人は、金採掘に必要な道具を独占することで巨利を得ました。さらに、ヘンリー・ウェルズとウィリアム・ファーゴは、輸送手段や金融サービスを提供して利益を上げました。これがウェルズ・ファーゴの始まりです。

ウェルズ・ファーゴなどというと、何の会社だかよく知らない人が多いでしょうが、「アメリカンエキスプレス」を発行している会社だといえば、あぁあれか、と思い当たる人も多いでしょう。

アメリカだけでなく、カナダ、北マリアナ諸島、西インド諸島においても現地法人を持ち、2005年時点で、営業網は6,250店舗、顧客は2,300万人を数える世界的な金融機関です。

リーランド・スタンフォードもまたその成功者の一人です。彼は、ニューヨークからサクラメントへ移住し、ゴールドラッシュ時の雑貨商として事業を繁栄させ、この成功をもとにさらにセントラルパシフィック鉄道を創設し大陸横断鉄道時代に貢献しました。

また、愛息の死を痛み、その名前を永遠に残すためパロアルトの牧場に設立されたものがリーランド・スタンフォード・ジュニア大学、通称スタンフォード大学です。

カリフォルニア州のシリコンバレー中央のスタンフォードに本部を置く私立大学であり、世界屈指の名門校としてその名を轟かせるとともに、「西のハーバード」とも呼ばれています。

さらには、フォーティナイナーズの多くはヨーロッパからの移民だったことから、ブドウ栽培とワイン醸造の知識をもつ者も多く、彼等の中には、ワイン醸造によって財を成した人も多く、こうした多くのワイナリーの中から、名産品としてのカリフォルニアワインが生まれました。

ゴールドラッシュは、南北戦争の要因にもなっただけでなく、このようにカリフォルニアを中心とする西海岸で多くの成功者を生み、この地における経済発展にも大きく寄与したのです。

土佐出身の漂流民であるジョン万次郎もまた、このゴールドラッシュにおいて、カリフォルニアにやってきていた、というのはあまり知られていない事実です。

ゴールドラッシュにやってきた唯一の日本人ではないかとも言われているようです。

ジョンマンについては、居酒屋チェーン店の名前にもなっているくらいですから、知らない人はいないほどだと思いますが、幕末の天保12年(1841年)、手伝いで漁に出て嵐に遭い、漁師仲間4人と共に遭難、5日半の漂流後奇跡的に伊豆諸島の無人島鳥島に漂着し、ここで、アメリカの捕鯨船に仲間と共に救助されます。

この当時日本は鎖国していたため、漂流者のうち年配の仲間は寄港先のハワイで降ろされましたが、ジョンだけは、船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られて、一緒にそのまま航海を続け、アメリカ東海岸に到着しました。

ジョン・マン(John Mung)という名前は、このとき救助された捕鯨船のジョン・ハウランド号にちなんでつけられたものです。アメリカ本土に渡ったジョンマンは、その後もホイットフィールド船長の養子となって一緒に暮らし、1843年(天保15年)にはオックスフォード学校を卒業。

その後バーレット・アカデミーという英語・数学・測量・航海術・造船技術などの実学中心の教育を行う私立学校に入学させてもらい、ここを卒業した後は再び捕鯨船に乗る道を選びました。

やがて船員達の投票により副船長に選ばれるほど頭角を現すようになり、1846年(弘化3年)から数年間は近代捕鯨の捕鯨船員として生活していましたが、1850年(嘉永3年)になって日本に帰ることを決意します。

ところが、日本へ帰る船をチャーターするためにはそれなりの資金が必要です。このため、ジョンマンは帰国の資金を得るために、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへ渡り、ここで一儲けしようと考えました。

サクラメント川を蒸気船で遡上し、鉄道で山へ向かい、数ヶ月間、金鉱で金を採掘する職に就いたといい、ここではおよそ600ドルの資金稼ぐことができました。

この金を使ってまずはホノルルに渡り、ここでかつての土佐からの漁師仲間とも再開し、共に日本へ向かうことを決めたジョンマンらは、上海行きの商船に漁師仲間と共に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」も載せて日本へ向け出航しました。

こうして、嘉永4年(1851年)2月2日、この当時薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で仲間と共に上陸を図って成功しましたが、直後に役人に拘束され、番所で尋問を受けたあとに薩摩本土に送られました。

その後薩摩藩の取調べを受けることになり、厳しい処罰を予想していたジョンマンでしたが、意外にも薩摩藩は万次郎一行を厚遇し、とくに開明家で西洋文物に興味のあった藩主・島津斉彬などは、殿さまが一般庶民が口を交わすことなど考えられないこの時代に、しきたりを無視して彼等に拝謁を許しています。

とくにアメリカ本土に渡り、米国の内情に詳しいジョンマンに対しては、海外の情勢や文化等について根掘り葉掘り質問したといい、さらには、部下の藩士に命じて、ジョンマンから洋式の造船術や航海術について学ばせています。

これらの情報により、その後薩摩藩は実際に、和洋折衷船ではありましたが、近代的な帆船を建造しています。さらに斉彬は万次郎の英語・造船知識に注目し、後には薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招くなど、とくにジョンマンをかわいがりました。

その後、ジョンマンは土佐藩の士分に取り立てられ、その名も中浜万次郎と名乗って、土佐藩の藩校「教授館」の教授に任命されます。

時代はこのころから急展開し始め、明治維新に向かって突入していく中での万次郎も大活躍していきますが、これについては多くの人が知るところでもありますから、ここでは割愛したいと思います。

維新後の明治3年(1870年)には、万次郎は、普仏戦争視察団として大山巌らと共に欧州へ派遣されており、その帰国途上、アメリカにも立ち寄り、恩人のホイットフィールドとも再会しています。この時の視察では、万次郎は帰国途上にハワイにも立寄っており、往時の旧知の人々とも再会を果たしたと伝えられています。

このとき、身に着けていた日本刀をホイットフィールドに贈ったそうで、この刀は後にアメリカの図書館に寄贈され、第二次世界大戦の最中にあっても展示されていました。が、後に何者かに盗難され行方不明になったそうで、現在はレプリカが展示されているとのことです。

明治31年(1898年)、万次郎は72歳で死去。現在は雑司ヶ谷霊園に葬られていますが、その墓石は東京大空襲で傷ついているそうです。

万次郎は、奢ることなく謙虚な人物であったと伝えられており、晩年には貧しい人には積極的に施しを行っていたといい、そのことを役人に咎められても続けていたといいます。

日本にいる万次郎の子孫は、アメリカのホイットフィールド船長の子孫と代々交流を続けており、また出身地の土佐清水市はアメリカでの滞在先となったニューベッドフォード、フェアヘーブンの両市と姉妹都市盟約を締結し、現在も街ぐるみでの交流が続けられています。

幕末に帰国して以来、アメリカの様々な文物を紹介し、これらは西洋知識を貪欲に吸収しようとしていた幕末の志士や知識人達に多大な影響を与え、明治維新の立役者として活躍したかの坂本龍馬もまた、万次郎から直接聞いた世界観に影響を受けたと言われています。

しかし、その万次郎も、ゴールドラッシュがなければ日本に帰ってくることはなかったかもしれません。

カリフォルニアに渡り、ここの金鉱山で働き、帰国のための資金を得られたからこそ、日本に帰ってくることができたわけです。

その彼が帰国後に日本の改革に与えた影響は大きく、そう考えると、アメリカで起こったゴールドラッシュは、近代日本の形成にも大きな影響を与えたといえます。

近年、再び日本は改革の時を迎えようとしています。そのために影響を与えるのは、果たしでどこのゴールドラッシュでしょうか。

山伏峠からの駿河湾

スイセン

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気がつくと、一月もはや下旬に差しかかろうとしています。

1月は行く、2月は逃げる、3月は去るといいますが、いつものことではありますが、なぜか年のはじまりは気ぜわしく過ぎていきます。

1月も終わりとなると、そろそろ下田の爪木崎で咲き誇っているはずのスイセンもそろそろ終わりに近づいているはずです。水仙の群生地であり、12月下旬から1月の終わりまでは、早い春を感じたい観光客で賑わいます。

爪木崎には昨年、一昨年と連続して見にいったのですが(爪木崎にて)、3年目となる今年は、昨年暮れに骨折で入院した母のことなどもあって何かと多忙であり、ちょっと今年は見送りかな、といった展望です。

このスイセンの原産地はスペイン、ポルトガルなどの地中海沿岸地域だそうで、日本には中国を経由して渡来したようです。本州以南の比較的暖かい海岸近くで野生化し、各地で群生が見られます。ここ下田のものは、海流に乗って漂着して形成された小群落を、下田の観光名所に、ということで地元の方たちがさらに手植えで増やしたもののようです。

スイセンは、チューリップやヒヤシンスなどと同様に典型的な球根植物で、日本の気候とも相性が良いらしく、植え放しでも勝手に増えます。このため、温暖な伊豆半島の各地には、わざわざ下田まで見に行かなくても、各家庭で植えられたスイセンをここそこで見ることができます。

スイセンの学名は、Narcissus といいますが、これは、ギリシャ神話に登場する美少年「ナルキッソス」に由来します。神話によれば、ナルキッソスは、その美しさゆえにいろんな相手から言い寄られたといいます。

森のニンフである、エーコーもその一人で、このエーコーというのは、元々「木霊(こだま)」という意味です。日本語では、エコーとも呼ばれ、こだま、もしくはやまびこ(山彦)のことでもあります。

山に向かって、「ヤッホー」と呼びかけると、「アッホー」と返してくるあれです。

このエーコーは、かつてゼウスの浮気相手であった友達の山のニンフたちを助けようと、ゼウスの妻のヘーラーに長話をもちかけ、ゼウスの気をそらそうとしたそうです。このためヘーラーの怒りを買ってしまい、彼女の呪いによって自分からは話かけることができなくなってしまいました。

誰かが話しかけてくれても、言葉を繰り返すことしかできないようにされてしまったエーコーですが、彼もまたナルキッソスに恋をしてしまいます。が、いかんせん話しかけることができないために相手にしてもらえません。

可愛そうなエーコーはナルキッソスに振り向いてもらえない屈辱とその恋の悲しみから次第に痩せ衰えていき、ついには肉体をなくして声だけの存在になり、やがて山のこだまと化していきました。

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一方のナルキッソスは、エーコーに対してもそうであったように、その美貌を鼻にかけ、言い寄る相手をことごとく高慢にはねつけたため、多くのニンフたちから恨みを買うようになりました。

このため、ニンフの中にはついには、彼に悪意を持つものが現れ、彼らに同調した復讐の女神ネメシスによっておそろしい呪いにかけられます。

その呪いとは、自分自身の姿を水に移した水鏡の映像に恋をしてしまうというものでした。

こうしてナルキッソスは、来る日も来る日も水面の中に写る自分の像をながめては、うっとりするようになりますが、その相手は、けっして彼の想いに応えることはなく、やがて彼は憔悴し、そのまま死んでしまいます。

このとき、ナルキッソスは水辺で水面に向かってうつむきながら死んだといい、その姿はのちにスイセンに変わりました。これが、このスイセンにまつわるギリシャ神話です。

スイセンの写真を撮ろうとしたことのある人はお気づきだと思いますが、スイセンというのはみんな下を向いてうつむきがちに咲きます。なので、しっかりとしたスイセンの写真を撮ろうとすれば、思いっきりローアングルで撮らないと、良い写真になりません。

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ところが、この水辺のスイセンの姿は、中国では仙人に見えたようで、それゆえに、スイセンは「水仙」と書きます。「仙人」の「仙」の字は、仙境にて暮らし、仙術をあやつり、不老不死を得た人を示しています。また、この仙人になるために修行をする人は「道士」と呼びます。

この仙境とは、天にも地にも水辺にもあるとされ、従って、天境にあって道を極めた道士を「天仙」、地で修業をした人を「地仙」といいます。加えて、「水仙」というのは水辺で不老不死の域に達した道士、ということになります。

一般に仙人といえば白髯を生やした老人というイメージがありますが、中国では若々しい容貌で語られる仙人もおり、また女性の仙人もいるそうです。

上述のとおり、厳しい修業を積んだ末、高い山の上や仙島、天上といった仙境に住めるようになりますが、一般にこの仙境とは俗界を離れた静かで清浄な所であり、こうした神仙が住むような理想的な地のことを、「桃源郷」と呼びます。

そこへ行きさえすれば、仙人同様になれる、という伝説もあり、中国の東のほうの海には、「蓬莱」、「方丈」、「瀛洲」の三つの仙人の島(三島)があるともいわれています。

とはいえ、行さえすれば仙人になれるという安直な考え方はタブーであり、やはり仙人になるためには、さまざまな修行を積まなくてはなりません。その修行法には、呼吸法や歩行法、食事の選び方、住居の定め方、房中術までさまざまな方法がありますが、不老不死などの霊効をもつ霊薬「仙丹(金丹)」を練ることも修業のひとつです。

仙丹を練るので、「煉丹術」ともいい、これは「錬金術」とも言われます。昔の中国では、錬金術で金を生み出すためには、水銀(丹)を原料としており、このため仙道の求道者である道士の中には、水銀中毒になる人も多かったそうです。唐の皇帝も仙人修業をしたといわれており、水銀中毒であったといわれています。

いずれにせよ、仙人になるためには、心身の清浄を常に保ち、気としての「精」を漏らすことは禁物です。この「精」を練り続けることで、やがてこれは「気」に変化し、やがてこれが「仙丹(仙薬)」に発展します。こうした仙丹を練り続け仙人になるための修行法は「仙道」と呼ばれます。

この、仙人が造り出した仙丹を秦の始皇帝は欲しがり、道士のひとりであった「徐福」という人に命じたため、彼は東海にあるという仙人の島(三島)を探しもとめて出航しました。このとき、徐福は日本に逢着したとも伝えられており、このため日本各地に徐福伝説が残っています。

青森県から鹿児島県に至るまで、日本各地に徐福に関する伝承が残されていて、これらの徐福ゆかりの地としては、佐賀県佐賀市、三重県熊野市波田須町、和歌山県新宮市、鹿児島県いちき串木野市、山梨県富士吉田市、東京都八丈島、宮崎県延岡市などが有名です。

中国の軍師として知られる呂尚や諸葛亮なども仙術修業をしていたと伝えられており、実際に修業を終え、仙術を会得していたといわれています。

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そういえば、軍師といえば、この1月から、NHKの今年の大河ドラマとして、「軍師官兵衛」が始まりました。

調略に優れ、豊臣秀吉の側近として他大名との交渉などに活躍した人物ですが、本名は黒田孝高(くろだよしたか)といい、晩年に出家したあとに称した号によって「黒田如水」の名でも知られています。

生涯50数度の戦さで一度も負けたことがないとも言われ、しかもそのほとんどは、槍や刀で相手を殺すのではなく、智力で相手を倒したといわれています。キリシタン大名でもあり、その子には、こちらも有名な黒田長政がいます。

ドラマのほうの主演は、V6のメンバーでもある岡田准一さんで、その甘いマスクによってお茶の間の話題を独占……かと思われたのですが、初回放送ではまだこの岡田さんが登場していないせいもあってか、視聴率はかなり低かったようです。

が、私はそれほど悪くなかったと思うのですが、視聴率が低かったのは、有名な人物でありながら、秀吉の陰に隠れてわりと地味な人物であるためかもしれません。とはいえ、2回目からは岡田さんが登場するとのことなので、また視聴率もあがってくるのではないでしょうか。

実は、私はこの2回目以降をビデオに撮り貯めたままで、まだ見ていません。なので、ここでそのコメントはまだできませんが、おいおい、その感想なども書いていきたいと思います。

官兵衛の隠居後の号である「如水」の由来については、この時代にポルトガルからやってきたカトリック司祭で、宣教師のルイス・フロイスは、多年にわたる戦争で得た功績が彼にはその晩年、水泡が消え去るようなものだと感じていたからではないか、と書き残しているそうです。

このほか、如水とは、「水のごとし」という意味ですが、晩年の彼の心境が水の如く、清らかさで柔軟なものであったからではないか、という説もあるようです。

キリスト教の始祖、モーゼの後継者であり、カナンの地を攻め取った旧約聖書の「ヨシュア」のポルトガル語読みは、ジョズエ(Josué)であり、如水というのもここから取ったのではないかという説もあります。

そのキリスト教を日本にもたらしたのもポルトガル人宣教師たちであり、今日の冒頭のテーマであったスイセンもまた、ポルトガルが原産地だというのも、何か因縁めいたものを感じます。

無論、黒田官兵衛がスイセンが好きだったとかいった話はないようですが、彼が晩年徳川家康から賜った福岡の能古島(のこのしま)という博多湾に浮かぶ島は、博多湾を背景に10万本の水仙が咲く、花の名所だそうです。案外とここのスイセンもまたポルトガルからもたらされたものなのかもしれません。

官兵衛は、その最晩年には再建に努めた太宰府天満宮内に草庵を構えて暮らしており、その後、慶長9年に、京都伏見の黒田藩邸で59歳で死去しています。

死の間際、自分の「神の子羊」の祈祷文およびロザリオを持ってくるよう命じ、それを胸の上に置き、遺言としてポルトガルからの宣教師たちに教会を建てるための寄付金を与えるように命じたそうです。

その後、その遺骸は博多に運ばれ、この地で宣教師たちによって博多郊外のキリシタン墓地に隣接する松林のやや高い所に埋葬されました。主だった家臣が棺を担い、棺の側には長政がつきそっていたそうで、ポルトガル人宣教師たちもまた祭服を着て参列したそうです。

墓穴は人が200も入るほどの大きなものだったといい、その中に宣教師たちが降りて儀式を行い、如水を埋葬しましたが、おそらくその棺の周りにはきっと、遅咲きのスイセンが添えられていたに違いありません……

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イドラ

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昨日の日曜日には、この別荘地における新年会があるというので、夫婦二人して出かけてきました。

ここへ引っ越してきて、これまでは出席したこともなく、三年目にして初めてのことだったのですが、なぜ急に出る気になったかといえば、この4月から同じ地区内の「区長」さんをやってほしいというご依頼があったからです。

大方の人もそうでしょうが、私ももともとそういったものを引き受けて、人さまの前面にしゃしゃり出るのはあまり好きなほうではなく、固辞したいところでした。

が、この地に長らく住んでいくからにはいつかは回ってくるだろうという予感は私も持っており、依頼があったとき、タエさんがさっさと引き受けてしまったこともあって、仕方ないな~という気分ながらもしぶしぶ引き受けることとし、その顔見せにということで、この新年会にも出席したのでした。

と、いうわけで、別荘地内にある「サンシャイン修禅寺」という古いホテルで日曜日のお昼から開催されたこの新年会に初めて出かけたのですが、会費が2500円というわりにはかなりのご馳走が出て、しかもお酒は飲み放題、またこれまで知らなかった別荘地内の人ともお知り合いになれて、結果的にはお得感があったことは否定できません。

ビンゴゲームやカラオケといったこういう会ではおなじみのイベントもあり、ビンゴはともかくカラオケはご愛嬌ではあったのですが、時間が経つにつれ、賑やかな会場の雰囲気に飲み込まれていき、ひさびさに心身ともに酔って楽しいひとときが過ごせました。

この会の向かいに座っていたご夫婦とも話がはずみ、このうちの奥様は長岡温泉でスナックを経営されているとのことで、お話も上手で、てっきり日本人かと思っていたら、タイのバンコク御出身として聞いてびっくり。

もうかれこれ日本在住も7年にもなるとのことで、日本語がお上手なのも納得できますが、お隣に座っていた優しそうな旦那さんのご指導もあってのことなのだろうな、と二人仲睦まじい様子を拝見して、心温まる思いもしました。

ところで、このご夫婦との会話の中で、お二人のお宅の庭先にムジナが出るという話が飛び出し、この話に喰いついたのがタエさんでした。

実はウチにもハクビシンが出るんですよ、というわけで、ちょうど二人とも、ケータイでこのムジナやら、ハクビシンやらと思われる対象動物を撮影していたので、お互い、その写真を見せあったのでしたが、このとき、この旦那さんが、タエさんがハクビシンだと主張するものは、実はムジナだと教えてくれました。

一方、ご主人のほうが見せてくれた写真は、明らかにタエさんが撮影したものと異なり、こちらのほうがハクビシンだといいます。確かに鼻の中央に白い縦じまがあり、なるほどこちらのほうが、ハクビシンのようです。

とすると、ご主人の主張する通り、タエさんが撮影したものは、ムジナということになるようなのですが、私的には、ムジナというと、タヌキの別名、あるいは架空の生物で、妖怪の一種というイメージでいたので、ムジナ???と疑問は深まるばかり。

御主人の説明によれば、ムジナとは、アナグマとも言うことであり、この認識は、タヌキの一種と思っていた私の記憶とも異なっています。

そこで、今日になってネットで調べてみたところ、ムジナとは、「貉」または「狢」と書き、これは、ご主人のおっしゃっていたとおり、アナグマのことを指すのだそうです。

ところが、地方によってはこのムジナのことをタヌキやハクビシンと言ったりする地方もあるようで、いろんな呼び方をされるこれらを総称して、ムジナという場合もあるようです。

このほかにも、ムジナのことを「マミ」と呼んだりする地方もあるそうで、こうした混乱は各地で非常に複雑な様相を呈しており、栃木県の一部のように、アナグマを「タヌキ」、タヌキを「ムジナ」と呼ぶ地域さえあって、何が何だかわからなくなっているようです。

そもそも、ムジナの「一候補」であるハクビシンという動物は、純国産種ではないようです。もともと、日本には生息しておらず、南方の台湾やフィリピンといったところから日本に入り込んできた帰化動物のようで、ちょっと前までは九州以外では確認さえされていいなかったようです。

が、日本の在来種でもあったという説もあって、こうした学術的な分類においてもはっきりしない生物であることも、その呼称がハクビシンと呼ばれたりムジナと呼ばれたりする混乱を招いている要因のようです。

かつては、こうした混乱が、裁判沙汰になった事件も存在しています。その名も「たぬき・むじな事件」と呼び、少々古いですが、これは1924年(大正13年)に栃木県で発生した事件です。

この被告人のオヤジさんはこの裁判があった年の2月に、猟犬を連れて鉄砲を持って栃木の山奥に狩りに入り、その日のうちに「ムジナ」2匹を洞窟の中に追い込み捕らえて持ち帰りました。

ところが、この持ち帰ったムジナを村の人に自慢していたところ、この行為が村の駐在所の警察官の知るところとなり、警察はこのムジナの捕獲行為が「タヌキ」を捕獲することを禁じた「狩猟法」に違反するとしてこのオヤジさんは逮捕されてしまいました。

もっともオヤジさんは、これを「ムジナ」であると主張してやまず、その後行われた下級審においても、このオヤジさんが捕えた動物が果たして、タヌキなのか、ムジナなのか、という点が論争になり、結果として検察側が「動物学においてタヌキとムジナは同一とされている」と主張したことが認められ、このオヤジには有罪判決が下りました。

ところが、被告人のオヤジ側は、自らの住む地域では、昔からタヌキとムジナは別の生物であると考えられているとし、無罪であることを主張して上告したため、この裁判は大審院の場で争われることとなりました。

結果として、この大審院裁判における判決では、タヌキとムジナは動物学的には同じと考えられているが、その事実は多くの国民一般に定着した認識ではなく、タヌキとムジナは別物だとするオヤジの認識は正しいとされ、「事実の錯誤」だったとして被告人を無罪としました。

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以後、この判決は、日本の刑法第38条での「事実の錯誤」に関する判例として現在でもよく引用されるようになり、この裁判はかなり有名な裁判となりましたが、同じような事件として同じ年に、「むささび・もま事件」というのが発生し、早速この裁判の判例が適用されました。

ムササビは、ある地方では「もま」と呼ばれており、この裁判でも、「もま」は「むささび」と同一のものであり、そのことを知らなかったのは「法律の不知」に当たるとして、被告人が狩猟法違反による有罪がどうかが争われました。

結果として、この裁判では被告人は「ムササビ」というものを知らなかっただけであり、このため、被告人がつかまえようとしていたのは、本人が「もま」と信じ込んでいたものであり、一般的にいわれている「ムササビ」ではなかった、という判決が下りました。

こうして、前述の「たぬき・むじな事件」と同じく、被告人は無罪となりましたが、前者では被告人は、タヌキが禁猟である事を認識していましたが、「ムジナ≠タヌキ」という確信があった上で、事実誤認をしていた結果起きた事件でした。

これに対して一方の後者でも、被告人はムササビというものが禁猟の対象になっているらしい、ということくらいは知っていましたが、自分が追い求めていたものが一般には「ムササビ」という呼称で呼ばれていたことを知らず、「もま≠ムササビ」という確信は持っていなかったという点が前者と異なります。

従って、これは事実誤認ではなく、単に知識に乏しく知らなかったためだ、ということになります。

とはいえ、「ムササビ」という言葉を知らなかったというのを「無知」であると言いきるのは行き過ぎで、この当時はまだテレビなども普及しておらず、山深い土地柄に住む猟師がこうした特定の地方でしか使われない「もま」ということばでしかこの動物を知らなかったのは仕方のないことでもあります。

いずれにせよ、こうした一つの対象物を全く別のものと認識している、といったことは我々の日常でもよくあることであり、例えばこのほかの例としては、「おにぎり」と「おむすび」の違い、というのがあります。

この両者は同じものだと思っている人も多いようですが、「おむすび」というのは、本来は宗教用語で、神の力を授かるために米を、山型をかたどったものを「神の形」とみなしたものです。これを奉納して、のちに山の恵みとして食べるようになったものあり、従って、「おむすび」は、「御結び」と書くのが正しいのです。

ところが、「おにぎり」というのは、これより更に時代が下ってからできた言葉で、「にぎりめし」から転じたものです。ご存知のとおり、おにぎりと称されるものは、三角のものもありますが、俵型のものもあり、まん丸のものもありで実に多様です。

つまり、「おにぎり」はどんな形でもいいわけですが、「おむすび」は三角形でないといけないわけです。従って、コンビニで売っている三角形の「御結び」を神様に感謝もせず、単に「おにぎり」だと思って食べている人は、山の神に祟られて腹痛を起こすかもしれませんから、注意が必要です。

この手の思い込み、思い違い、というのは他にもたくさんあって、我々が日常生活で普通に口にしている、「コンセントを差し込む」とうのも実は間違いで、「コンセントにプラグを差し込む」が正しい言い方です。

さらには、「どんぐりころころどんぐりこ♪」と歌っているものは、実は、「どんぐりころころどんぶりこ♪」が正解であり、ルパン三世のテーマ曲は「ルパンルパーン」ではなく、本当は「ルパンザサード」と、歌っています。

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このように、「思い込み」というのは、ある考え方に執着し、合理的な推定の域を超えて、固く真実だと信じこむことです。

自分では、常識であり、前例もあるからと、先入観・固定観念なども手伝って、信じ込んでいるため、いや実は違うんだと言って合理的な説得をしても信じてもらえない場合さえあります。

思い込みにも色々あって、個人的な問題であることも多いようですが、集団的な思い込みに発展するものも多く、17世紀のイギリスの哲学者、フランシス・ベーコンは、これを社会問題の一つだと捉えて重視し、これを「イドラ( idola )」呼びました。

イドラとは、ラテン語で「偶像」を意味し、英語のアイドル( idol )の語源でもあります。

人間の偏見や先入観、誤りなどの分類を試みたもので、ちなみに、この解釈にあたってベーコンが開発した分析方法は、「帰納法」とよばれています。

「帰納」とは、個別にバラバラだったり、特殊的な事例であったりする事例などから一般的・普遍的な規則・法則を見出そうとする推論方法のことであり、「帰納」の対義語は「演繹(えんえき)です。

帰納においては前提が真であるからといって結論が真であることは保証されませんが、演繹においては前提が真であれば結論も必然的に真になるという考え方です。このあたりのこと、高校の国語か社会、あるいは倫理だったか忘れましたが、何等かの授業で習ったはずですが、私もすっかり忘れていました。

政治家でもあったフランシス・ベーコンは、「知識は力なり」と語っていたそうで、自然の探求によって自然を克服し、人類に福祉をもたらすことを提案しました。

そして、その探求方法としては、法則から事実を予見するアリストテレス的な演繹法に対し、個々の実験や観察の結果得られた知見を整理・総合することで法則性を見出すという方法を提唱しました。これが「帰納法」です。

ベーコンは、一般論から個々の結論を引き出すアリストテレスの論理学はかえって飛躍をまねきやすいと批判し、知識とはむしろ、つねに経験からスタートし、慎重で段階的な論理的過程をたどることによって得られるものであると主張しました。

この両者の考え方の違いはこの時代には大きな論争になりましたが、その後、この帰納法は多くの学術分野で受け入れられていきました。

このように、結論を導く過程における観察と実験の重要性を説いたベーコンでしたが、その一方では実験・観察には誤解や先入観、あるいは偏見がつきまとうことも否定できないことを指摘し、このような、人間が錯誤に陥りやすい要因を分析し、あらかじめ錯誤をおかさないようと確立した理論が、「イドラ論」です。

このベーコンが主張したイドラは、大きく分けて、以下の4つがあります。

●自然性質によるイドラ(種族のイドラ)
「その根拠を人間性そのものに、人間という種族または類そのものにもっている」とするもので、人間の感覚における錯覚や人間の本性にもとづく偏見のことであり、人類一般に共通してある誤り。例としては、水平線・地平線上の太陽は大きく見えることや暗い場所では別のものに見誤ることなどがあげられる。

●個人経験によるイドラ(洞窟のイドラ)
「各人に固有の特殊な本性によることもあり、自分のうけた教育と他人との交わりによることもある」とするもので、狭い洞窟の中から世界を見ているかのような、各個人がもつ誤りのこと。それぞれの個人の性癖、習慣、教育や狭い経験などによってものの見方がゆがめられることを指す。「井の中の蛙(かわず)」はその典型。

●伝聞によるイドラ(市場のイドラ)
人類相互の接触と交際」から生ずるもので、言葉が思考に及ぼす影響から生じる偏見のこと。社会生活や他者との交わりから生じ、言葉の不正確ないし不適当な規定や使用によって引き起こされる偏見を指し、噂などはこれに含まれる。

●権威によるイドラ(劇場のイドラ)
哲学のさまざまな学説から、そしてまた証明のまちがった法則から人びとの心にはいってくるもので、思想家たちの思想や学説によって生じた誤り、ないし、権威や伝統を無批判に信じることから生じる偏見。思想家たちの舞台の上のドラマに眩惑され、事実を見誤ってしまう。

最後の権威によるイドラの例としては、中世において圧倒的な権威であったカトリック教会が唱えてきた天動説的な宇宙観が、ニコペルニクスやケプラー、ガリレオなどによる天文学上の諸発見によって覆されたことなどがあげられます。

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一方でベーコンは、人間の知性は、これらのイドラによって人は一旦こうだと思いこむと、すべてのことを、それに合致するようにつくりあげてしまう性向をもつと考えました。

例えば思いこみというものは、たとえその考えに反する事例が多くあらわれても、とかくそれらを無視ないしを軽視しがちです。このためベーコンは、この4つのイドラを取り除いて初めて、人は真理にたどり着け、本来の姿を取り戻すことができると説きました。

こうした考え方は、上述の帰納法にも生かされています。真実を追求していく過程で、人間の認識には限界があるため、様々な問題解決の過程において得られた結論においても、それが必ずしも真実ではないかもしれないことを推して知るべきである、と説いているわけです。

そして、これらのイドラにまどわされることなく、観察や経験によって得られる個々の事例を集めて選択・整理した上で、そこから一般的な法則を発見していくべきであるとし、経験論と合理論を統合することによって、科学は自然を支配することができる、としたのです。

さらに「人間の生活を新しい発見と資材によって豊かにすること」が人類発展の目的であるとし、このことの実現は個人的な才能によって担われるのではなく、人類すべての「共同作業」によって営まれるべきであるとベーコンは主張しました。

より具体的には、国家は科学研究を支援し、研究所や図書館など研究に必要な施設や研究者養成のための機関の設立をベーコンは説きました。この主張は、その後イギリスでは17世紀の王立協会や、科学アカデミーの設立によって実現し、それが世界中に伝搬して、その後の科学技術の発展に限りない影響を与えていきました。

一方では、この思い込みというものは、頑固であるとか、悪い意味で使われることが多いものですが、それをうまく使うことによって、目標達成の原動力にもなりえるものです。

周囲には無理だと言われながら、スポーツ選手がプロデビューを果たしたり、無謀と言われながら選挙への立候補を重ねて、ついに当選し、政治家デビューを果たすのも、往々にしてこうした思い込みあってこそであり、これがあってこそその成功を手中にすることができたのです。

人間は、対象とする存在の性質や優位性の有無などを判断する上において、その対象物に関する見かけや所属といった断片的な知識に惑わされがちです。

高学歴社会を経て大きな組織に所属し、高級なスーツを着ていれば、確かな人間と思われがちですが、実はその内面は腹黒い、詐欺師のような人間であったりします。

情報や自らの属する社会、宗教、文化などが有する価値観、あるいは個人の経験則を判断に、勝手にその対象物を自分なりの判断基準で裁いている場合も多いものです。

オウム真理教の教義に同調し、知らず知らずのうちに社会では犯罪とされる行為の数々に及んで行った多くの信者たちもまたしかりです。

実際の性質や実態を無視し、主観的・恣意的に選択された比較的単純な判断基準として用いることで生み出される事実上の根拠がない思考は、「思い込み」の域を逸脱して、「偏見」にさえつながっていくこともあり、これはさらには「差別」をも生み出していきます。

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多様な視点に欠ける一方的・単純なものの見方に立脚した思想、態度は、往々にして社会的な偏見を生み出すことも多く、かつての部落問題やハンセン病がそうであり、現在でも、精神障害者に対する偏見などがあります。

ちょっと前に、精神障害者の障害者手帳が問題になったこともありました。それまで精神障害者さんの福祉手帳のなどの表紙は、障害者手帳と書かれ、一見、何の障害の種類が分からないようになっていました。

ところが、2006年(平成18年)の申請分からは、写真を貼付されることになりました。以前は貼付されることはなかったのですが、これに対して一部の精神障害者団体が猛反発しました。何故かと言えば、写真を添付すれば明らかに他の一般の身体障害者手帳や療育手帳と違う、ということがわかってしまうためです。

この手帳を提示したり、さらには紛失したことで、差別等の不利益を得る可能性が大であるというわけであり、このため、その後は本人都合により写真貼付なしにすることが認められる都道府県も出てきました。

こうした精神障害者の不利益を守ろうと、精神障害者の家族によって組織された全国的な家族会があるそうで、この活動により、「きちがい」という用語は現在使われなくなりました。

事の発端は1974年に、毎日放送(現テレビ朝日系列)で放送された「新・荒野の素浪人」の中にこのことばが登場したためであり、これに反発した大阪府の精神障害者家族連合会が、患者にショックを与える等の医学的な根拠を理由に毎日放送に初めて抗議を行いました。

以後、同会ではその後もテレビ・ラジオを一日中モニターするようになったそうで、このことばが放送されるやいなや、NHK、民放を問わず大阪の各放送局に対し繰り返し抗議するなど、激しい行動を起こし始めました。

その結果、例えば毎日放送のようにスタジオに「きちがいというコトバは禁句」の掲示板を常設することになるテレビ局も現れ全国的にもこのことばは自粛されるようになっていきました。

そのほか、足が悪い人のことを「びっこ」とか「ちんば」と呼び、在日韓国人のことを「チョン」と呼ぶなどの差別用語が昔はありましたが、現在では放送禁止用語に指定され、ほぼ現在では死語となっています。

このように思い込みは、社会的な差別を生み出す根源になる場合も多く、これらはいわばその社会における「固定観念」が生み出すものでもあります。

固定観念は、固着観念ともいい、もともとは心理学用語です。人が何かの考え・観念を持つとき、その考えが明らかに過ちであるか、おかしい場合で、他の人が説明や説得を行っても、あるいは状況が変わって、おかしさが明らかになっても、当人がその考えを訂正することのないようになっていくことです。

精神病においては、「妄想型精神病」というのがあるそうで、固定観念はある種妄想にも似たようなところがあり、また呪術に基づく迷信や、思想や宗教、文化慣習から来る固有の信念なども、固定観念となっている場合があります。

知識やものごとの把握方法のコントロールが、政治的目的や文化的な背景から、意図的、あるいは無意識的に幼少期の頃から行われ、長い成長の過程を通じても継続的に行われることもあります。

太平洋戦争に突入していった日本は、国威高揚という名の軍国主義に基づく妄想を国民の間に固定観念として定着させてしまったために、この悲劇を起こしました。

このような間違った固定観念の蔓延は、あるものごとの見方や価値観が、その人の人格や社会的な存在と切り離せないぐらいに密接に絡み合ってくることによって起こります。

やがては認識の過ちを指摘する情報に触れても、容易に考えや価値観が変化せず、その固定観念を変えることなく、ついには国民の大多数がその妄想にふけるようになっていきます。一種の集団催眠のようなものです。

かつての日本だけでなく、国策として「共産主義」による思想教育が行われたソビエト連邦もまたこの固定観念の犠牲者であり、かの国がその後衰退を招いたのと同じく、現在の中国もまた、再び同じ過ちを犯そうとしているのではないか、という指摘があります。

実は、「洗脳」というのは、中国においてかつて施された思想教育の中から出てきた用語だそうです。

もともとは、多くの主義主張に基づく政党がたくさんあった中国ですが、中国共産党が台頭した結果、彼等を共産主義に帰依させる目的で教育が行われるようになり、共産主義者にさせることを「洗脳」と呼びました。

ところが、その後太平洋戦争後に起こった朝鮮戦争時に、捕えた捕虜米兵に対して共産主義を信じることを迫った際にも、この行為を中国共産党が「洗脳」と呼ぶようになりました。

この結果、当時の捕虜米兵が次々と共産主義者であることを宣言するようになり、アメリカではこのことは関係者に大きな衝撃を与えましたが、この洗脳は英語でも“brainwashing”とそのまま訳され、主義主張が違う者の考え方を変えさせることを指す、世界的な標準語となっていきました。

かつて、中国共産党が、捕虜米兵を洗脳する際には、薬物を使用した例もあったといい、こうしたことから、洗脳といえば、何かと暗い、悪いイメージが現在でも伴います。

思想教育はどこの国でも行っていることでありアメリカをはじめとする西欧諸国も例外ではありません。しかし、情報や知識を国家が統制し、このことによって一党が国民の生活や思想を蹂躙しているような中国や北朝鮮のような国は、世界中から批判を浴びています。

とはいいつつ、アメリカ合衆国においても、 “アメリカは世界で最も自由な国である”というのは、文化的な思想教育になっており、いわば固定観念化している思想といえます。

また、日本においても、“日本は平和国家である”との固定観念が発達していますが、安倍政権による国粋主義の考え方が蔓延していく中、「積極的平和主義」の名のもとに、またかつてのような軍国主義に戻ってしまうのではないかという懸念も起こっています。

今の日本人はこの国が神の国である、という固定観念をもう一度見直し、その中のイドラを検証し、果たして「権威によるイドラ」ではないかをもう一度問い直し、日本人にとっての真に神とは何なのか、をもう一度考えなおしてみる必要があるのではないでしょうか。

さて、みなさんはいかがでしょう。ひとつやふたつのイドラ、持っていらっしゃるのではないでしょうか。

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振袖のはなし

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今日の伊豆は、午前中は雪がちらつく模様、との天気予報でした。

が、今のところは薄日が差しており、雪が降りそうなかんじはしません。去年の今ごろは、かなりまとまった雪が降ったような記憶があり、そろそろではないかとは思うのですが、降るなら降るで、ドバ~っとふらんか~いと天に向かって吠えてはみるものの、白い雲の中から少し見える青空からは何の返事もありません……

連日こう寒いと、ストーブや電熱器が手放せません。最近石油が高いので、我が家ではできるだけ灯油には頼らないように心掛けており、石油ストーブなどで急速に部屋を暖めておいて、あとは小さな電気式のもので、ちまちま暖をつなぐ、というケチくさい対策をとったりしています。

家の中も寒いのですが、当然のことながら、外も寒く、庭の掃き掃除などをしていると、貯めた落ち葉に火をつけて焚火をしたくなります。が、最近は焚火は火事につながるからと、消防署などから厳しい御法度の通達が来る時代であり、ホームセンターなどに行っても、その昔はたくさん置いてあった、ゴミ焼却機などひとつも置いてありません。

それはそれでわかるのですが、多くの自治体がゴミ処理の問題で悩んでいる現在、少しくらいの焚火は大目にみて欲しいと思うのですが、みなさんはどうされているのでしょうか。

ところで、現在、日本における火災の原因で最も多いものは放火だそうです。ここ数年はほぼ毎年のようにトップに挙がっているそうですが、江戸時代にも放火が多かったそうで、今日、1月18日から20日にかけても、「明暦の大火」という大火事がありました。

旧暦のことでもあるので、現在の暦に直すと、火事が発生したのは江戸初期の明暦3年(1657年)の3月2日から4日にかけてのことです。この明暦の火災による被害は延焼面積・死者共に江戸時代最大であり、江戸の三大火の筆頭としても挙げられます。

ほかの二つは、江戸中期の明和の大火(明和9年(1772年)と、幕末の文化の大火(文化3年(1806年)です。

これらの大火と比較しても明暦の大火が大きな大火となった要因のひとつは、江戸独特な気象条件である、冬の季節風です。北または北西方向からの、極めて乾燥した強風(からっ風)が吹くため、江戸の火事のうち大火となったものの多くは、冬から春にかけて雨が降らず、北西風や北風が吹き続け乾燥したときに発生しています。

ほか二つの大火、明和の大火も新暦の4月1日に、文化の大火は4月22日に起こっており、明暦より一カ月以上遅い時期ですが、このころにはまだ関東では冬の季節風が吹きやすい状態にあります。

こうしたことから、幕府が江戸初期に創設した4組の定火消(幕府直轄で旗本が担当した)の火消屋敷は、すべて江戸城の北西方面に置かれていたそうで、この配置は、冬の北西風による、江戸城への延焼防止として備えられたものでした。

また、関東南部は、地形の関係から、春から秋にかけて日本海低気圧が通過する際に、中部山岳の雨陰に入り、フェーン現象が発生して、ほとんど降水のないまま、高温で乾燥した強い南または南西の風が吹くことがあります。とりわけ春先の強い南風もまた、しばしば大火の原因となってきたようです。

この明暦の大火で江戸の町は、外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失しました。死者の数については諸説あるようですが、3万から10万人と推定されており、江戸城天守はこれ以後、再建されていません。

火災としては東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものといわれており、世界的にもロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えられるほどのすさまじいものでした。

この明暦の大火は、別名、丸山火事、振袖火事とも呼ばれています。

この大火では火元が1箇所ではなく、本郷・小石川・麹町の3箇所から連続的に発生したことが分かっており、最初の火災は、未の刻(14時頃)、本郷丸山の本妙寺から発生したとされており、これがこの火事が丸山火事といわれる理由です。

この最初の火災は神田、京橋方面に燃え広がり、隅田川対岸にまで及び、現在も江東区にある霊巌寺には、炎に追い詰められた1万人近くが避難しましたが、類焼はここにもおよび、多数の市民が死亡。さらに浅草橋では脱獄の誤報を信じた役人が門を閉ざしたため、逃げ場を失った2万人以上が犠牲となっています。

しかし、被害はこれだけでは終わらず、ひとつ目の本郷の火災が終息しようとしているところへ小石川、麹町などで次々に火災が発生し、結果的に江戸市街の6割、家康開府以来から続く古い密集した市街地においてはほぼそのすべてが焼き尽くされました。

この最初に本郷で起こった火災は実は放火によるものではないか、とする説もあるようです。

幕府が江戸の都市改造を実行するために放火したのではないか、という奇説もあるようで、この説では、この当時の江戸は急速な発展で都市機能が限界に達しており、もはや軍事優先の都市計画ではどうにもならないところまで来ていたことが原因としています。

この当時、江戸幕府は、江戸の町を都市改造しようと考えていましたが、地方から流入する多数の住民は増え続け、これらの住民の説得をして立ち退きさせるためには莫大な補償が必要となっており、都市改造の大きな障壁となっていました。

そこで大火を起こして江戸市街を焼け野原にしてしまえば都市改造が一気にやれるようになると幕府が考えたのだというのがこの説であり、前述のとおり、この時期の江戸はたいてい北西の風が吹くため、放火計画も立てやすかったと考えられます。

実際に大火後の江戸ではかなり大規模な都市改造が行われており、これがこの説が唱えられるようになった理由のようです。がしかし、一方ではこの火災により江戸幕府の本丸である江戸城までもが消失しており、このことから、この幕府放火説は疑わしいと考える人も多いようです。

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この火事は、本郷にあった、老中の阿部忠秋の屋敷が火元であったとする説もあります。しかし、老中の屋敷が火元ということが世に知れ渡ると、幕府の威信が失墜してしまいます。このため、幕府の要請によりこの阿部邸に隣接した本妙寺が火元ということにしたという話もあり、これを「本妙寺火元引受説」といいます。

この話には根拠があり、実はこれだけの大火のあとも、火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにあっていないことがあげられています。処罰を受けなかったどころか、大火後にこのお寺は、以前にも増して大きな寺院となっており、さらに大正時代にいたるまで阿部家から毎年多額の供養料が納められていたことなどがわかっています。

本妙寺側もこの説を否定しておらず、江戸幕府崩壊後の明治期以降にはもう時効だろうということで、むしろこの説を主張しているそうで、案外と出火元が老中の安倍家であったというのは真実なのかもしれません。

一方、出火したのが、安倍家であろうが、本妙寺であろうが、そもそもこの出火原因は不審火ではなかったかという説は現在に至るまで根強く、これが、この火事が「振袖火事」とも呼ばれる所以です。

不審火の意味は、必ずしも放火とは限りません。出火理由の原因究明をつとめても、結果が出ない場合、これは不審火と呼ばれます。明暦の大火もまた、結局原因がはっきりせず、振袖火事というあいまいな名前がつけられて現代に至っています。

この説は多少伝説めいています。

話しの発端は、この出火元といわれる本妙寺に、いつも墓参りに行っていた、ウメノという女性に始まります。このウメノがある日のこと、いつものように親戚の墓のある本妙寺に墓参りへ行ったその帰りのこと、上野のお山で一人の美しい美少年を見かけます。

この美少年はどこかのお寺の小姓だったようですが、その美しい横顔を見たウメノはその瞬間に少年に一目ぼれしてしまいます。この小姓は、きらびやかな振袖を着ており、それからというもの、ウメノの脳裏からはこの振袖を着た小姓のことが離れず、日々魂を抜かれたようになっていきました。

しかし、もう一度会いたいと何度か上野に足を向けたものの、その小姓には出会うことができず、思い悩んだウメノは、やてその小姓が着ていた振袖の紋や柄行と同じ振袖をこしらえ、これを着て二人が夫婦(めおと)になった妄想にふけるようになります。

来る日も来る日もその遊びに明け暮れたウメノは、次々に振袖の衣装を変え、その紋も桔梗紋、柄行は荒磯の波模様に菊の花をあしらってなどなどとエスカレートしていきました。しかし、何度上野へ行けども妄想すれども小姓はついに現れず、やがてウメノはその恋の病に臥せったまま、わずか17歳という若さで亡くなりました。

承応4年1月18日(1655年2月22日)がその命日という記録が残っており、ウメノの葬儀が行われたのも彼女と縁が深かった本妙寺であったとされ、実在の人物だったことをうかがわせます。ただ、ウメノが墓参していた親戚は確かにこの寺の門徒でしたが、ウメノの家はこの寺の宗派である「法華宗陣門流」に帰依していなかったようです。

この流派は日蓮を宗祖としており、日蓮は、「不受不施義(ふじゅふせぎ)」を思想としていました。不受とは法華信者以外の布施を受けないこと、また、不施とは法華信者以外の供養を施さないことです。

このため、寺では葬儀が済むと、この不受不施のしきたりによって、異教徒であるウメノ
の振袖は供養せず、質屋へ売り払ってしましました。

やがてこの振袖は、別のキノのという女性の手に渡りました。ところが、このキノもまた、ウメノと同じ17歳で、翌明暦2年の同じ月の(1656年2月11日)に死亡しました。

こうしてウメノからキノに渡った振袖は再び質屋を経て、次いでイクという女性のもとに渡りました。が、なんとこのイクも、同じように翌年に亡くなりました。

亡くなったのは、明暦3年1月18日(1657年2月28日)であり、日付こそ違いましたが、イクもまた、2月に17歳で亡くなるという偶然としては、ありえないような死でした。

ところが、イクの葬儀において、この振袖を売った質屋が供養に出かけてきたことから、この質屋を通じて元の振袖の持ち主をイクの家族が知るところとなり、さらにその前の持ち主も判明したために、彼等の娘たちがすべて同じ月に亡くなっていた事実が浮上します。

イクの家族は質屋を通じて、ウメノとキノの家族を見つけだし、彼等もその奇縁に驚嘆します。やがて三家は相談し、不受不施義を流儀とする本妙寺に赴いて、異教徒の振り袖ではあるけれどもと頼み込んでそのしきたりを曲げてもらい、この寺で、三人の娘が袖を通した振袖の供養をしてもらうことになりました

こうして、この振袖を前にして、本妙寺の和尚による厨での読経が始まり、やがて和尚は、ころあいを見計らってこの振袖を火の中に投げ込みました。その瞬間、突如つむじ風が舞い起こり、振袖はこの風に煽られて運ばれ本堂に飛び込みました。

この結果、振袖の炎は近くのものに燃え移り、瞬く間に本堂全体を包む猛火となり、やがてそれが、周囲に燃え広がって江戸中が大火となっていきました……

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以上の話からは、出火原因は放火というよりも、失火に近いといえるようです。真実のところはいずえにせよよくわかりませんが、この話はその後江戸期を通じて語り継がれ、明治期になって矢田挿雲(やだそううん)という、金沢出身の小説家がその事実関係を細かく取材して出版しました。

この矢田挿雲の代表作は「太閤記」であり、これは大正から昭和にかけて人気を博し、のちには映画化やテレビ化もされています。この矢田が記した三人の少女の話は、その後、このブログでも過去に何度か取り上げた、かの小泉八雲も興味を持ったようです。しかし、作品化はなされず、また登場人物は異なる内容のメモのようなものを残しているといいます。

これがこの明暦の大火が別名、振袖火事とも呼ばれるゆえんですが、誰しもが疑問を持つような伝説の域を出ず、三人の少女が亡くなった月が同じ2月だったというのも創作の臭いがします。三人の誕生日がほぼ10日づつずれているのにもなにやら意図が感じられます。

従って、この明暦の大火の火元というのはやはり、前述のとおり老中安倍家ではなかったかと私は思いますし、おそらく多くの人がそう考えるのではないでしょうか。

しかしこの火事の原因が放火であるとしても、その真犯人が幕府であるわけはありません。幕府がその重職である家老の家に付け火するというのは考えにくいことです。

付け火だったとしても結局その犯人は特定されず、その捜査の過程で、上のような振袖火事の噂が流れ、まことしやかに人々の間に広まっていった中で、「振袖火事」のような俗名も出てきたと考えられます。

結果として、この大火では出火元として本妙寺が形ばかりの処罰を受けましたが、ほかに誰も罪をかぶるものは出ませんでした。

江戸の町では冒頭でも述べたように放火による火事が多く、江戸中期の享保8年(1723年)から翌9年の2年間の記録だけでも、放火犯が102人も捕らえられています。その内訳としては、非人が41人・無宿者が22人となっており、下層民が多く含まれていたことが特徴です。

こうした社会の下層にいる住人による放火が多かった理由としては、江戸の物価の高さや、保証人がなく奉公に出られないなど、困窮し江戸で生活していけなくなったものが多かったことがあげられます。彼等にとっては、火事で焼け出されたとしても、失うものが少なく、自暴自棄の中でそうした行為に及ぶことはしばしばあったと考えられます。

その放火の動機ですが、やはりまずあげられるのは、風の強い日に火を放ち、火事の騒ぎに紛れて盗みを働くことを目的とした火事場泥棒です。奉公人による主人への不満や報復・男女関係による怨恨や脅迫など、人間関係に起因する放火も多く、中には商売敵の店へ放火する者もいました。

子どもの火遊びも多く、「ふと火をつけたくなった」というある子供の供述も記録として残っており、このころの江戸の下級庶民のすさんだ心がうかがわれます。

しかし、江戸の火事は、いったん火事が起きれば、大工・左官・鳶職人などの建築に従事するものは復興作業により仕事が増えるため、むしろ火事の発生や拡大を喜ぶものもいました。

火消人足の中にも、本業である鳶の仕事を増やすため・消火活動を衆目に見せるためなどの理由で、付け火をしたのではないかと思われるふしのある火災もあるそうです。これには幕府も手を焼いたようで、時には町触で警告し、捕らえた火消人足を死罪にした例もあったといいます。

日本では、放火は古来より重罪として処されてきましたが、とくに江戸幕府は放火に対しては、火焙りをはじめとする厳罰で対処してその抑制を図りました。

しかし、いわゆる「失火」については、死罪などに至る厳しい処分を科すことがなかったそうで、火元となっても、武士の場合は屋敷内で消し止めれば罪には問われず、町人の場合も小火であれば同様でした。

失火による火事が大火に発展した場合には、火元の者を死罪・遠島などの厳罰とすることも検討されたそうですが、失火は誰でも起こす可能性があることや、老中の評議において、こうした大火があった場合、その発生を許した責任をとって老中自身が切腹する覚悟があるのかという指摘などがあり、結局、採用されなかったそうです。

この辺、自信が責任をとるのがいやなので、法令の中身をあいまいに操作して自分には火の粉が降りかからないようにした上で法令を通した、某巨大政党発案のスパイ法案などともどこか似ています。

とはいえ、失火と言えども罪がまったく課されなかったわけではなく、例えば、武士の場合は、失火により屋敷外へ延焼を許した場合には大目付への進退伺いを提出することが義務付けられ、失火も3回ともなると、江戸の外縁部に屋敷換えとなるなどの処分が下されました。

町人・寺社の失火の場合、小間10間(約18メートル)以上の焼失の場合は、10~30日の「押込」と定められていたほか、将軍の御成日に失火した場合は罪が重くなり、小間10間以上の焼失で火元は「手鎖」50日となりました。

また、延焼範囲が広く3町(約327メートル)以上に達した場合は火元以外にも罪が及び、火元の家主などは30日の押込、五人組などの近隣の者も協同責任ということで20日の押込となるなどの処罰がありました。

ただし、寺社の失火に対しては、上述の本妙寺の例などにもみられるように、幕府もその権威を考慮し、火元となってもその罪は7日の「遠慮」のみでした。これは軽い謹慎刑で、自宅での籠居(ろうきょ)が命じられたものの、夜間のひそかな外出は黙認されるというものでした。

しかし、失火ではなく、放火である場合、捕らえられた犯人は、見せしめとして市中引き回しのうえで火焙りにされました。先だってのブログでとりあげた八百屋お七もまた、若干15歳でその若い命を散らしました(注射はお好き?)。

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火事にまつわる罪といえば、上述の明暦の大火で面白い話がもうひとつあります。この大火の際、江戸でも最大級の牢屋であった小伝馬町の牢屋にも火の魔の手が及びました。このときの小伝馬町の牢屋奉行は、石出帯刀吉深という人物でした。

この石出帯刀という人は、歌人・連歌師としても知られており、当時の江戸の四大連歌師の一人に挙げられていたほか、国学者としても著名な人であり、同時に慈悲深い奉行として慕われていたようです。

この明暦の大火のときにも、迫りくる炎の中、普通なら焼死から免れない立場にある罪人達を哀れみ、大火から逃げおおせた暁には必ず戻ってくるように申し伝えた上で、罪人達を一時的に開放しました。

こうした処断は、それまでは法制化されておらず、仮にこうした牢が災害に見舞われる可能性がある場合でも大目付などの許可を得なければ囚人の解放は許されません。が、そんな許可を貰っている暇はなく、このため、帯刀はこの開放措置を独断で実行しました。

このとき、解放された罪人達は涙を流して帯刀に感謝したといい、その後、大火が静まったあと、実際に全員が約束通り戻ってきたそうです。

本来こうした独断を行った者に対しては処分が下されるところですが、帯刀は戻ってきた罪人達を大変に義理深い者達であると評価し、事の一部始終を老中に報告した上で、自分の行為を正当なものだと主張し、逆に彼等の死罪も含めた罪一等を減ずるように上申しました。

この結果、実際に減刑が行われるところとなり、以後の江戸時代においては、こうした緊急時の「切り放ち」が制度化され普通に行われるようになっていったということです。

一昨年の2月に、中米のホンジュラス中部コマヤグアの刑務所でも火災がありましたが、このときはこうした「切り放ち」は行われず、無残にも受刑者ら359人が死亡した、という事件がありましたが、このニュースを覚えている人も多いのではないでしょうか。

大正13年に発生した関東大震災では、巣鴨刑務所の外壁が9カ所に渡って倒壊し、震災と火災におびえた囚人が一斉に怒声をあげはじめ、競うように安普請の検身所の壁を突き破り、屋根をはがしはじめたそうです。

刑務所側では全員が脱獄の気配濃厚と判断し、抜剣・発砲で騒ぎを収拾したといい、これによって事なきを得たようですが、この暴動の様子が刑務所外に漏れ伝わり、「巣鴨刑務所から囚人が集団脱走し、婦女強姦と略奪を繰り返している」という流言が流布したそうです。

現在でもあながち起こらないとはいえない事件ですが、実際に発生したとしたら、現在の日本の法務省や警察はどのように対応するでしょうか。さすがに切り放ちは難しいでしょうが、かといって銃や剣で恫喝するということも状況としては困難でしょう。そうした場合の対処法は検討されているのでしょうか。

それはともかく、こうした明暦の大火のような災害が発生すると、焼失した江戸の町は、その再建に莫大な資材と費用を必要としました。

このため、大火が起きると江戸をはじめ全国の物価や景気が影響を受けたといい、このあたりのことを書いていると、昨日が19年目の記念日であった阪神淡路大震災のその後のことなども思い浮かびます。一昨年に発生した東日本大震災もまたしかりです。

明暦の大火の後は、江戸市中の物価が高騰したそうで、米をはじめとする食料品、家屋再建のため必要とされた建築資材などは何倍もの価格となりました。焼失した江戸市中の再建に伴って膨大な仕事量が発生し、職人や奉公人の賃金が高騰したり、家屋の不足により賃料が上昇するなど、大火が江戸の物価に与える影響は大きかったようです。

大火の後では江戸から各地への買い付け注文が増加するため、江戸市中のみならず全国の景気に影響を与え、需要の増加に便乗した値上げも行なわれました。明暦の大火後に材木を大量に買い付け、建築作業を請け負って莫大な利益をあげた河村瑞賢のように、大火を契機として富を築く商人もあらわれました。

東日本大震災以降も我々の生活はその余波を受けて、かなり変わりつつあります。大災害のあとには、景気が良くなるという説と悪くなるとする説の両派があるようですが、このように見解が分かれるのは無論、ではいったい大災害がなければどうだったのかという現実を検証できず、これとの比較検討が難しいことが原因です。

「たられば」が検証出来たら、タイムマシンなどというSFは生まれなかったでしょう。

ただ、大災害に見舞われた国が、長期的に高い経済成長を達成するという人もおり、これは災害によってインフラ資源の破壊とともに、それまでの社会の仕組みの創造的破壊と改変のプロセスが急速に促進されるからだという説です。

確かに、東日本大震災を通じて、日本のエネルギー行政や環境は変化せざる得ない状況にあり、とくに東北地方のこれからのグランドビジョンは大きく変わっていくことでしょう。

これらをきっかけとして、全国的にももっとたくさんの環境の変化があると考えられますが、こうした新たな環境の変化や課題に順応する知恵が逆に日本人の中に芽生えて、さらなる経済発展をするということは大いにありえるのではないでしょうか。

明暦の大火を初めとする江戸の大火の数々は、江戸幕府の力を衰退させ、その結果が明治維新へとつながっていきました。阪神淡路大震災、東日本大震災という未曽有の大災害を、20年という短いに期間に経験した我々もまた、その経験をもとに前向きに知恵を絞って、それらの環境の変化をチャンスに変換できるようになりたいものです。

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