免許とウソと…

2014-1100348もうすぐソチオリンピックが始まります。

時差マイナス5時間ということで、あちらでは夕方でも日本では真夜中過ぎに行なわれる競技も多いと思われ、また寝不足になりそうな予感です。

地球という回転している天体に住んでいる以上、太陽の当たるところと当たらないところがあるのは当然であり、時差ができるのは仕方ないと重々承知はしているのです。

が、それなら「オリンピックタイム」なるものを設けて、これに合わせて各国ともオリンピック期間中だけ時間をこれに合わせて仕事も生活もする、とかやったらどうかと思うのですが、ダメでしょうか。

もっとも、オリンピックなどのスポーツ競技が好きな人ばかりではなく、ウチの息子君のようにまるで興味がない、といった朴念仁もいるので、さすがに地球人全員にこうした仕組みを強制するのは難しいでしょう。

スポーツをやらない人はこれに興味がなく、ほかの趣味にしたって自分がやったことのないものに愛着がわかないのは仕方のないこと。

幸い、嫁のタエさんはスポーツ観戦が大好きなので、今回も二人して夜なべでオリンピックを観戦することにしましょう。寝不足になって、日夜逆転状態が続くことは覚悟するしかありません……

ところで、この息子君が、一昨日からひょっこり我が家に帰ってきています。今は春休みで、この空いた時間を利用して、浜松にある自動車学校で合宿免許を取りたいというので、なけなしの金をはたいて、これをOKしたところ、晴れて先日の路上教習をパスしたのです。

合宿が終わったので、通っている千葉の大学に帰る途中、我が家に立ち寄ったというわけなのですが、今までクルマの話題を振ってもとくに関心をみせなかったところが、今回は道交法に関する話や、クルマの性能などの話で親子して盛り上がることができ、また新たなコミュニケーションの糸口を見つけた感があります。

それにしても、なぜ千葉から浜松なのよ、ということなのですが、これは最近は少子化で18歳人口減少したり、若者の車離れが顕著になっており、これに伴い、都市部を中心に各教習所間の競争が激化しているためのようです。

道路交通法によって公安委員会の指定を受けて営業する、いわゆる「指定自動車教習所」などを中心に、これまで「殿さま商売」的な営業を続けて、サービス業としての自覚が持てなかったこれらの教習所が、顧客に対する態度の悪さなどがツケとして回ってバタバタと倒産している、という背景があります。

こうした指定校以外の、いわゆる届出自動車教習所や指定外自動車教習所では、自らが検定や仮免許試験を実施が認められていないのに対し、指定校では公安に認められているため、自らが検定や仮免許試験を実施することができます。

受験生にとっては、いちいち運転免許試験場まで行って仮免許技能試験や仮免許学科試験、本免許技能試験を受ける必要がないため、免許を取るために大幅な時間節約になります。

しかし、そうしたサービスを自前でやることができるという「特典」の上にあぐらをかいてきた結果、熱心にサービス・接遇、料金のディスカウントに取り組んできた他の未指定の届出校や指定外教習所に客を盗られ、競争が激しくなってきました。

このため、地方部の不採算校では「合宿教習」を売りにして「短期間で免許が取れる」をうたい文句に、東京などの関東地方で免許を取りたがっている学生に積極的に声をかける、という作戦に出るところも多く、我が息子君もこれにひっかかった、というわけです。

多くの自動車教習所では普通自動車においては、おおよそ60時間程度の講習カリキュラムが組まれています。通常は、これらを自宅から日通いで数週間から数か月の期間で習得していくのですが、合宿免許では寮やホテル、旅館といった宿泊施設に泊まりこみながら教習を行うため、短期間で免許が取れる確率が高くなります。

集中して、免許取得に取り組むことで効率性が高まるためであり、ウチのような愚息であっても、15日間で路上試験をパスすることができました。ただ、地方で路上試験を受けたため、最終的な免許取得は、千葉に帰って地元の運転免許センターで最終筆記試験に受かってから、ということになるようです。

しかし、こうした指定校が行う合宿教習も、宿泊施設などの管理や仲介業者への手数料負担がこれを経営していく上で重くのしかかってきており、厳しい経営環境で回復の見込みが立たないこともあって廃業するところが2000年頃から目立ってきているということです。

それにしてもよく思うのですが、日本の運転免許取得は、どうしてこんなに難しいのでしょう。学科や路上に多大な時間をかけ、しかも「仮免許」なる段階を経て免許をとらねばならず、時間や段取りだけでなく、一般に教習所に通えば通常は、免許取得まで20万円ほども費用がかかります。

私も息子と同様に大学時代に免許を沼津で取得しましたが、その後アメリカへ留学していた折には、彼の地のライセンス取得に挑みました。しかし、「挑む」というほど難しいわけではなく、簡単な教習本を理解する程度の英語力があれば、だいたい誰でも免許を取得できます。

筆記試験は、多言語での試験問題が用意されており、最近は日本語で受験できる試験場もあるようです。合格に必要な視力も0.5以上とゆるく、取得年齢は州によって異なるのですが、ほとんどの州が16歳以上でOKです。

日本と異なり、助手席に指導者が乗車していれば、全く運転をしたことがない人が「練習中」と表示して路上で練習してよいところもあり、実技試験も日本よりかなり簡単です。

私はフロリダのゲインズビルというところで、この州の免許を取ったのですが、このときの路上試験の試験官は太った優しそうなオバサンでした。

数百メートルの距離の行き来と、各所のコーナーを回る程度の簡単ルートを走り、この間、ウィンカーの出し方やスピード制限の標識を遵守しているか、などのチェックがありますが、日本の路上試験のように、前を行く車との車間距離を開けなかっただけで試験に落ちた、といったような厳しさはありません。

おそらく、10分か15分ほどの路上試験だったと思いますが、あっけなく合格し、免許証もその日のうちに交付されたように記憶しています。

今はもうこのとき取得した免許は失効していますが、英語もかなり堪能になった現在は、再び同じチャレンジをしても簡単に取得できるでしょう。が、もしかしたら失効した免許を持参すれば、復活させてくれるかもしれません。

それほど、アメリカでは免許の取得が簡単ですが、これはやはり国土が広大で、その移動のためにはクルマが不可欠であり、免許は誰にでも取らせる、という方針があるからでしょう。

日本のように国土が狭く、クルマも人もひしめいているようなところでは、交通事故も起こりやすく、免許取得についても厳しくせざるを得ない、というのは分かる気もします。それにしても、免許取得に多額の費用のかかる現在の制度は、もう少しなんとかならんのかいな、と思います。

最近では、個人で免許取得のレッスンを格安にやってくれる人もいるようです。無論、未指定にはなりますが、費用が安く抑えられ、こうした人達に教習を頼む人も増えているようです。自動車教習所もこれを見習って、システムをさらに見直していってほしいものです。

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ところで、こうした日本の免許の取得が難しい難しいというのですが、自衛隊にも、軍の車を運転するために隊員を訓練する「自衛隊自動車訓練所」というのがあり、ここの試験はもっと難しく、厳しいそうです。

基本的に、自衛隊に入ると、誰もが大型自動車免許取得を推奨されるそうで、このため、一般人なら通常は、普通免許を取得してから大型免許取得へ進みますが、自衛隊の場合は普通免許等を持っていなくても、いきなり大型自動車免許の取得に進むことができます。

自衛隊自動車訓練所とは、そんな自衛官に大型免許を取らせるための自動車訓練施設であり、自衛隊の駐屯地または訓練場(演習場)内に開設されているため、無論、履修対象は自衛隊員や自衛官に限定されます。また、輸送科職種に配属された隊員にはここへの入校は必要不可欠とされているようです。

道路交通法においても、きちんとその存在が認められており、指定自動車教習所と同じ扱いを受けるのでこの訓練所には運転免許試験場があり、ここで学科試験などを受けることができます。また、免許取得費用は国費で賄われるため、自腹を切る必要はありません。

ただし、自衛隊に入ったら誰でもここへ入れるかというと、そうではなく、一定の審査基準を経てではないとここへは入れません。

例えば各部隊毎に、年間計画でここへ入校できる受入枠が決まっており、配属先部隊によって異なるようですが、職務上車両を取り扱う隊員であることは無論、2任期以上かつ継続的に部隊で勤務する意思を持つ者や、中隊長等の伝令業務を行った経験のある隊員などでなければ入校させてもらえないことも多いといいます。

さらに、民間の自動車学校と異なり、入所前には、運転適性検査があり、これを受験して運転適性が「適」または「準適」、かつ車両運行適性が5段階中「3」以上の者のみに入校が制限されるそうです。運転適性が「不適」や車両運行適性「1~2」の者は当然ながら事故を起こす危険性を考慮し入校は一切認められないという厳しさです。

民間では適性に関係なく免許取得が可能ですから、こうして入口で足切りが行なわれるのは自衛隊ならではのことです。

なぜここまで厳しくするのかは自明でしょう。自衛隊の車両というのは当然火器を搭載したものも多く、有事には公道を走らなければならない場合もあります。こうした特殊車両を扱うためには、それなりの技術が求められ、法規にも詳しくなくてはなりません。

卒業時には公安委員会試験合格基準をはるかに上回る運転技術を要求されるため、その技能訓練もかなり厳しいものだそうです。自衛隊車両による加害事故事案を発生させぬよう、その運転技術等に関しては指導員によるマンツーマン指導が行われ、徹底的に身体に運転技能がたたき込ます。

その基準について行けない者に関しては、同期学生の運転を同乗する形でよく観察を命ぜられて運転技術を向上するよう徹底的に訓練されるといい、このほか学科試験においても、厳しい指導がなされます。

仮運転免許取得の際の学科試験及び卒業時の免許センターにおいては、学科試験において一人も不合格者を出さない事を目的とするなどの高いハードルを掲げているそうで、試験受験基準はなんと100点満点が要求されます。

それよりも低い点数しか取れなかった者に対しては外出の制限と課業外の自己鍛錬を命ぜられるそうで、仮に試験センターにて不合格者が発生した場合は、当該学生だけでなく同期学生や次期入校者にもペナルティが科せられ、さらに指導が厳しくなるケースもあるということです。

富士の山麓には自衛隊の演習場があり、御殿場方面へ出かけると頻繁にこうした自衛隊自動車訓練所を卒業した自衛隊員が運転する車両に出くわします。公道をのろのろと走り、邪魔だな~といつも思うのですが、彼等にすれば、民間車両への加害事故を起こさないよう、細心の注意を払いながら運転をしているのです。

普通の公道だけでなく、災害時に土砂や流木、がれきで埋もれるような地域にも自衛隊車両は派遣されます。こうした危険地域においては、高い運転技量が求められるがゆえに厳しい運転教習がなされるのであり、一般の運転手よりもはるかに高い運転技術を持っている彼等には、もっと敬意を払ってしかるべきです。

なので、ノロいからといって、こうした自衛隊車両をあおったりするようなことはくれぐれもしないようにしましょう。

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ところで、この項を書くために各国の運転免許証の基準などをいろいろ調べていたら、面白いエピソードに出くわしました。

アイルランドでのお話なのですが、このアイルランドという国は、1990年代から「ケルトの虎」と呼ばれるほどの経済成長が進み、旧ソビエト連邦の崩壊が進む中、かつての東側諸国から多数の労働者を受け入れるようになりました。

ポーランドもそうした東側諸国の一員でしたが、あるときから、増える一方のポーランド移民の中で、「プラヴォ・ヤズディ」なる人物が、アイルランド国内において頻繁に道路交通違反をしている、という事実が浮かび上がってきました。

ヤズディはアイルランドの国内各地でスピード違反や駐車違反など、およそ50件の交通違反を繰り返していたといい、これに手を焼いていたアイルランド警察は当然のことながら、この人物の周辺を洗い出し始めました。

ところが、このプラヴォ・ヤズディなる人物は、取り締まりのたびに住所を変えていたといい、これを不審に思ったアイルランド警察は、この人物についてさらに詳しい調査を行いました。

その結果、意外な真実が明らかになりました。実は、Prawo Jazdy とはポーランド語で「運転免許証」という意味であることがわかったのです。

交通違反を犯したポーランド人運転手から提示された運転免許証はポーランド政府が発行したものでしたが、実はこの運転免許証の冒頭に書かれている「運転免許証」を意味する“ PRAWO JAZDY”を取り締まりにあたった警察官が運転手の名前と誤認していたことが判明したのでした。

つまり、交通違反事例として、50件近く検挙されていたポーランド人というのは、そのほとんどが、別人であり、同じ過ちを別々の警察官が繰り返し、その都度、プラヴォ・ヤズディなる人物が警察のコンピューターに登録されていた、というわけです。

事の真相を知ったアイルランド警察は、さすがにこれを恥ずかしいと思ったのか、警察の内部メモとしてまとめただけで、その事実を公表しませんでした。

そのメモには、2007年6月の日付が入っており、「プラヴォ・ヤズディという人物を創り上げてしまったことはきわめて恥ずべきことだ」と書かれていたそうです。

ところが、この「怪人物プラヴォ・ヤズディ」の一連の経緯をアイルランドのある新聞がどこからか聞きつけ、2009年2月にその誌上ですっぱ抜いたことから、このアイルランド警察の失態は世の人々に知られるところとなりました。

ここぞとばかりにその後他紙もこの事件に飛びつき、警察を揶揄しましたが、その中の記事のひとつには、「警察がたった2つのポーランド語の単語を知ってさえいれば、プラヴォ・ヤズディという悪名高いポーランド人ドライバーが出現することはなかっただろう」と書いてあったそうです。

このアイルランド警察の大失態は、2009年度のイグノーベル賞文学賞を受賞しました。

イグノーベル賞というのは、アメリカのサイエンス・ユーモア雑誌「風変わりな研究の年報(Annals of Improbable Research)が1991年に創設したもので、その共同スポンサーは、ハーバード・コンピューター協会、ハーバード・ラドクリフSF協会など、名門ハーバード大学卒業生の息のかかった面々です。

同賞には、工学賞、物理学賞、医学賞、心理学賞、化学賞、文学賞、経済学賞、学際研究賞、平和賞、生物学賞などの部門があり、毎年10月、風変わりな研究をおこなったり社会的事件などを起こした10の個人やグループに対し、時には笑いと賞賛を、時には皮肉を込めて各賞が授与されます。

このアイルランドの事件は、このとき「文学賞」としてアイルランド警察に授与されており、その受賞理由は、「アイルランド国内で頻繁に交通違反を繰り返した乱暴なドライバーであるプラヴォ・ヤズディに対して50回以上違反切符を書き続けたこと」に対してだったそうです。

その授賞式は毎年10月、ハーバード大学のサンダーズ・シアターで行われるそうで、ノーベル賞では式の初めにスウェーデン王室に敬意を払う儀式があるのに対して、このイグノーベル賞では、「スウェーデン風ミートボール」に敬意を払う儀式が行われるのだとか。いったいどんな儀式なのでしょう。

受賞者の旅費、滞在費は自己負担で、式のスピーチでは聴衆から笑いをとることが要求されるそうですが、この2009年の授賞式にアイルランド警察が恥を忍んで出席し、笑いをとったかどかまでは、わかりません。

このほか、このスピーチにおいては、制限時間が来るとぬいぐるみを抱えた8歳の少女が登場し「もうやめて、私は退屈なの」と連呼しますが、この少女を贈り物で買収することによってスピーチを続けることが許されるそうです。

どこまでも人を食ったような授賞式の内容ですが、こうしたユーモアというよりも、馬鹿さ加減はアメリカ人特有のもので、彼等はとかくこういうアホなことをやりたがります。

私もアメリカ留学時代、アメリカ人のパーティに呼ばれて行ったとき、女性のパンティを頭から逆さにかぶって陽気に踊る複数の男子学生に出くわし唖然としましたが、彼等はともかく、こういうアホなことが大好きです。

この授賞式のフィナーレでは、舞台に向かって観客が紙飛行機を投げつけるそうで、多くの紙飛行機がさながら紙ふぶきのように飛び続けるといいます。しかも、その後始末の掃除のためのモップ係はハーバード大学の物理学教授が例年勤めているとか。

ところが、2005年に限っては、この掃除は別の人がやったそうで、それは、このモップ係のロイ・グラウバー教授が、この年にノーベル物理学賞を受賞し、そちらの式典に出席していたためです。

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このように、ノーベル賞をパロディ化したイグノーベル賞ですが、その授与には実際のノーベル賞科学者のような学識の高い人も大勢参加するなど、ある面、非常にまじめな賞です。

脚光の当たりにくい分野の地道な研究に人々の注目を集めさせ、科学の面白さを再認識させてくれるという点が評価されている一方で、だがしかし、賞の性質上、この受賞を不名誉と考える人も多いようです。

イギリス政府のある主任科学者などは、「大衆がまじめな科学研究を笑いものにする恐れがある」と、イグノーベル賞の運営者に対しイギリス人研究者に今後賞を贈らないよう要請したといいますが、この主張に対し、イギリスの科学者の多くからは反発・反論が起こったそうです。

このイギリス政府の要請にも関わらず、要請が行われた1995年以後もイギリス人にはイグノーベル賞が贈られ続けているということで、なんとも懲りないことではあります。

日本人も多数受賞していて、1992年に医学賞として「足の匂いの原因となる化学物質の特定」という研究に対して授与されたのを皮切りに、毎年のように日本人研究者・科学者の中からイグノーベル賞受賞者が出ています。

記憶に新しいところでは、2002年に、犬語翻訳機「バウリンガル」の開発によって、「ヒトとイヌに平和と調和をもたらした業績に対して」ということで、玩具メーカーのタカラなどに、平和賞が贈られています。

このほか、2005年には、「34年間、自分の食事を撮影し、食べた物が脳の働きや体調に与える影響を分析したこと」に対して「栄養学賞」が、今度の都知事選に出馬している「ドクター中松」氏に贈られています。

このほか、ウシの排泄物からバニラの香り成分「バニリン」を抽出した研究(2007年化学賞)とか、自身の話した言葉をほんの少し遅れて聞かせることでその人の発話を妨害する装置、「スピーチジャマー」(SpeechJammer)を発明したことに対して(2012年音響賞)とか、人を笑わせるものが続出しています。

昨年の2013年は、「たまねぎに多く含まれているアミノ酸を反応させると、涙を誘う「催涙物質」が作られ、目を刺激し、涙が自然と出てくる仕組みになっている研究、が認められ、ハウス食品ほか東大・京大教授に化学賞が贈られました。

また、「心臓移植をしたマウスにオペラの「椿姫」を聴かせたところ、モーツァルトなどの音楽を聴かせたマウスよりも拒絶反応が抑えられ生存期間が延びたという研究に医学賞が、順天堂大学教授らに贈られています。

今年のイグノーベル賞としては、私的には、先日聾唖者を偽って作曲も他者が行ったことが暴露された作曲家さんに「音楽賞」を差し上げたいと思うのですが、どうでしょう。

1994年には、「地震はナマズが尾を振ることで起こるという説の検証」を7年間にわたって研究していたとして、日本の気象庁が「物理学賞」を受賞しましたが、のちにこれはウソだということがわかり、イグノーベル賞は取り消される、という「事件」が発生しました。

ナマズによる地震予知を、地震の専門家である、気象庁が本気になって検証している、というところが評価されたのでしょうが、これについては、実際には、東京都水産試験場が1976年~1992年にわたって「ナマズの観察により地震予知をする」研究を実際に行っていたものでした。

気象庁が行っていた研究だとの誤報がアメリカ側にまことしやかに伝えられていたためのようです。

作曲家Sさんの件も誤報である、と信じたいところですが、事態は悪い方向へと向かっているようです。まさか本当に、イグノーベル賞を受賞するとは思えませんが、多くの人々を感動させた名曲に関わった人、ということである程度評価してもいいのでは、と擁護する向きもあるようです。

文字を書くことが困難、あるいは翻訳作業などが必要な外国出身者が本を出版する際、事実上の代筆担当者として口述筆記のために、ゴーストライターが起用される事もあるそうです。

が、音楽はごまかしがききません。ぜひ、真実を明らかにしてもらい、必要があるならば、受けるべき罰を受けて欲しいと思います。

エッ?このブログも、実は誰かにゴーストライターを依頼しているんじゃないかって?

それはありません。細々とつつましやかに暮らしている伊豆のヒゲオヤジが毎回苦労して書いているものです。けっしてイグノーベル賞に推挙するなどという暴挙に出ないよう、お気をつけいただきたいと思います。

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見ちゃいや~ん

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なかなかセンセーショナル?なタイトルなので、芦屋もついに発狂したかとお喜びの向きもあるでしょうが、今日は、「見られると困る」人もいるだろう、という話を少ししましょう。

さきごろ、札幌で小学生の女の子がちょっとした買い物に出かけた後に行方不明となるという事件が起きましたね。

大勢の警察を動員しての大捜査となりましたが、結局、近所に住む若い男性が拉致したことが判明してお縄となり、女の子も無事に帰ってきて、めでたしめでたしでした。

犯人はどんなヤツなのかみんな知りたがるでしょうが、まだ犯行内容も確定していないためか、顔写真も公開されていないようです。が、おそらくもう今頃はネット上ではスクープ写真などが出回っているのかもしれません。

それを調べてまでこの犯人の顔ををみたいとは思いませんが、それにしても昨今のインターネットはすごいなぁとつくづく思ってしまいます。

何でもかんでもちょっと調べると大量の情報が出てくる。これは素晴らしいことではありますが、時にしてこうした過剰の情報提供は、プライバシーの侵害にもつながりかねません。

プライバシーといえば、最近、防犯カメラなどへ写りこむ映像を無断使用したことなどによる人権侵害権などのトラブルが激増しているとの新聞やテレビの報道を良く目にします。

この札幌の事件も、被害にあった女の子と犯人の男性が一緒に歩いているところを捉えた防犯カメラ映像が、逮捕のきっかけになったといいますが、その画像に写りこんでいた関係ない人もかなりいたのではないでしょうか。

とはいえ、防犯カメラがあることで、多くの犯罪が未然に防ぐことができ、また所在不明の犯人の特定につながるといったことが最近増えています。

おととしの夏に起こったパソコン遠隔操作事件においても、江の島で犯人らしき人物が防犯カメラにネコにエサをやっていた映像が映っていたことが検挙につながりました。

この事件の内容は、もう忘れている人も多いかもしれませんが、犯人がインターネットの電子掲示板を介して、他者のパソコンを遠隔操作し、これを踏み台として襲撃や殺人などの犯罪予告を行ったというもので、近年増加しているといわれる「サイバー犯罪」の典型として注目されました。

このとき捕まった犯人は、その後何回か起訴されていますが、未だこのサイバー罪を犯したことを認めていないようです。その後捜査はどう進展しているのでしょうか。

この事件でも活躍したのもまた「防犯カメラ」でしたが、これはそもそも日本の各都道府県警は、繁華街等の防犯対策の一環として、繁華街、街頭、街路周辺に監視カメラを設置しているものです。

一般にも、防犯を主な目的として、商店や銀行など金融機関、公的機関の天井などに仕掛けられているものがありますが、これは本来「防犯カメラ」ではなく、「監視カメラ」と呼ばれるべきものです。

警察が設置している防犯カメラは、正式には「街頭防犯カメラシステム」と呼ばれ、2012年現在時点では、全国に791台あることが公表されていますから、現在では更に増えていることでしょう。

2002年に警視庁が東京都新宿区の歌舞伎町に50台設置したのがこの増加の呼び水になりました。繁華街と呼ばれる地域や、人の密集する地域、駐車違反多発地域を中心に設置されているそうで、札幌の事件の解決につながったのも、この防犯カメラの一台です。

このほか、公的な場所で設置されている監視カメラの代表としては、鉄道各社のものがあり、JRなどでも、最近、東海道・山陽新幹線で営業運転を開始したN700系電車の全乗降口と運転室出入口にも監視カメラを設置しており、防犯を強く意識した監視カメラの設置を進めています。

他の鉄道会社においても、テロ対策や各駅の状況の確認を目的に多く設置されているそうですが、首都圏の各鉄道会社は監視カメラを運用する規則を公表しておらず、プライバシーの観点からもこの規則を開示すべきであるとする声があがっているようです。

このほかにも、成田国際空港と関西国際空港に「顔認識システム」付きの監視カメラが設置されていて、その他、工場の製造ライン監視、原子力発電所、火力発電所、研究所などで人が入れない場所の異常監視を行われているほか、ダム、河川、火山などの状況の監視・記録にも使用されています。

ご存知、「ライブカメラ」とも呼ばれるものもあり、これは広域を監視し、テレビ局、インターネットなどで公開できる画像をリアルタイムに撮影して公開しているものです。ネットを介し距離に関係なく遠方の監視も行えるわけで、その場所にいなくても各地の現時点の様子が手に取るようにわかるので、旅行先の天気を知りたいときなども便利です。

私も富士山の画像が見えるライブカメラのURLをいくつか登録していて、時々眺めて楽しんでいます。とくにここ伊豆からは富士山の様子が見えないときでも、近くに設置してあるライブカメラには写っていることがあり、あぁ今日も富士山が見えた~と喜ぶほどの富士フェチでもあります。

一般的な監視カメラとしては、上述のような小売店や銀行など金融機関と言ったもの以外にも、工場や会社などへの侵入者や不審者の監視・記録目的のものもあります。先日の冷凍食品への農薬混入事件でも、従業員の背任行為を抑止する目的で取り付けられた監視カメラが威力を発揮しました。

こうした施設内だけでなく、市街や盛り場の道路などに監視カメラが取り付けられることも増加しつつあり、また、カメラの価格降下に伴い、自宅駐車場などに盗難防止目的として安価な監視カメラを設置する個人宅も増えているようです。

こうした、カメラがいったい、どのくらい国内にあるかは、正確にはわかっていないようです。が、公式な統計ではありませんが、だいたい国内に300万台以上あるといわれているようです。

諸外国と比べてみると、やはり世界最大の監視カメラ大国はイギリスです。イギリス全土に設置されている監視カメラの数が420万台だそうで、イギリス以外の西ヨーロッパ諸国の監視カメラが、それ全部を合わせても650万であることを考えると格段です。

アメリカでは、だいたい全国で200万台ぐらいのようです。国土が広いので、とうてい全部をカバーしきれません。おそらくはニューヨークとかロサンゼルスといった大都市に集中しているのでしょう。

このほか、日本を除き、中国も含めたアジア諸国ではだいたい合計数が300万ほど、オーストラリア、アフリカ、中東の監視カメラの合計数が200万といいますから、いかにイギリスの420万台が突出しているかが分かります。

イギリスで2005年7月に起きたバス、地下鉄を標的とした爆弾テロにおいて犯人の検挙が迅速に行われたのも、監視カメラの記録に負うところが大きいと見られているようです。

このイギリスと比較すれば、日本の300万という数字はやや少なめですが、なかなか、というかかなり健闘しているといっていいのではないでしょうか。

この監視カメラの効用ですが、「監視している」ことによる犯罪抑止効果を求めるケースと、「犯罪が起きたときの証拠確保」を目的とする場合とに分かれる、ということはよく言われることです。

前者の場合は目立つ場所に設置され、後者の場合には目立たない場所に設置されます。しかし、この2つの効果を同時に追求することはできません。

なぜなら、犯罪行為を抑止するために監視カメラを設置するのであれば、設置してあることを目立たせなければいけません。しかしそうすると犯罪者はカメラの存在に気付き、犯行に及ばないので証拠記録が撮影できなくなってしまうからです。

したがって、場所・状況に応じて、「犯罪行為の抑止」と「犯罪行為の証拠の記録」を使い分ける必要が生じます。これにまた、「プライバシー侵害」というややこしい話が絡まってきて、監視カメラの設置場所の選定はなかなか難しいようです。

このため、プライバシーの侵害だという批判を回避するために監視カメラを設置していることを「監視カメラ作動中」といった看板などで告知している場合もあるようです。

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一般人が設置した監視カメラで撮影された映像は、犯罪捜査において、警察からその画像の提供を依頼されることも多々あります。最近の監視カメラには、たいてい画像保存用のメモリカードなどのインターフェースがあり簡単に外部に出力できるようになっており、再生しながらビデオテープにダビングすることも可能です。

こうしたカメラ映像が、犯罪捜査に使われて功を奏した例としては、オウム真理教元幹部の逮捕が有名です。元幹部の行動をたどるため警視庁が分析した監視カメラは、駅や金融機関、スーパー、コンビニなどの約1000台に上ったといい、映像を次々と公開したことから、市民から多くの情報が寄せられ、これが検挙につながりました。

監視カメラの設置は、こうした大きな事件が起きると、直後に設置が増える傾向があるそうです。ただ、増える一方であるこうした監視カメラの数千万枚の画像から一瞬で特定の人物を検索する、といった技術の開発はなかなか難しいようで、映像の解析技術は進んではいるのですが、その実用化にはまだまだ時間がかかるということです。

それにしても、最近は、ちょっと町に出て、ふと見上げたその視線の先に、防犯カメラやら監視カメラを見かけることが多くなりました。

私の場合、顔の下半分が黒いもので覆われている(俗には髭と呼ばれている)ので、防犯カメラに撮影されたら、もう逃げようがありません。

そのあやしげな風貌と立ち振る舞いが撮影されたら、どんな犯罪を犯しても30分もたたないうちに逮捕されてしまうに違いありません。もっとも、これまでネズミ一匹殺したことはありません。大嫌いなゴキなら数万くらいは殺害してますが……。

この監視カメラの設置に関して、プライバシーの問題に係るとして何等かの規制があるのかと調べてみたところ、とくに法律上の明確な決まりはないようです。

正当な目的や必要性があって公共性の高い場所に設置されるものであれば、大きな問題はないと一般にも受け止められているようです。ただ、常に特定の民家の玄関が映り込んでいるような場合は、問題になる可能性があり、裁判沙汰になったこと事件も多数あるようです。

裁判の判例のひとつとしては、ある町の人が隣に住む家の住人が自宅の敷地内に勝手にゴミを投げ入れて困っていたそうで、これが迷惑だというわけでこの隣人の方向へ監視カメラを向けてゴミの投げ入れの監視を行いました。

そうしたところ、逆にこの隣人から訴えられ、裁判の結果、この隣人へのプライバシーの侵害が認められて、カメラを設置した人への慰謝料の支払いが命じられた、ということです。

防犯カメラを設置するルールがないまま、数だけがどんどん増えている点については、かなり前から問題視されており、どこにカメラがあり、誰が管理していているのかよくわからないことも多く、苦情を言いたくてもどこへ訴えればよいのかわからないケースがほとんどです。

設置の基準を定め、映像の目的外使用を禁止するなどの統一的なルールづくりを急ぐ必要があると思われますが、今のところ、与野党ともそういった些細なことよりも、秘密保護法案の推進といった大局のほうを重視しているようです。

とはいえ、商店街など公共の場への監視カメラの設置を巡っては、肖像権・プライバシーとの関連や、監視されているという、あのイヤーなイメージから来る拒否感などが一般市民から度々指摘されており、これを受けて、法的規制として、2003年7月に「行政機関等による監視カメラの設置等の適正化に関する法律」案が出されました。

この法律案は、一応第156回通常国会で受理はされ、衆議院に提出されたものの、外国から武力衝突や侵略を受けた場合などに際し、自衛隊の行動を規定する、いわゆる「有事法制」などの審議のほうが優先され、結局審議未了で廃案になっています。

しかし、その後も監視カメラの設置に対する根強い反対意見が強く、このため東京都の杉並区のようにカメラの設置に独自の基準を定めたところもあります。しかし、全国的、統一的な基準は現在においても存在しないようです。

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プライバシーの侵害といえば、警察が日本各地の幹線道路に設置している「Nシステム」と呼ばれる「自動車ナンバー自動読取装置」についても非難の声があがっています。

これは、道路に設置し通過する車輌のナンバープレート画像を監視カメラで撮影記録し、その映像からナンバーを識別するシステムです。空港などで旅行者の顔を撮影し犯罪者の顔写真データベースと自動照合をする「顔認識システム」と合わせて、実用化されており、既に各地で稼働しています。

もともとは増え続ける交通事情に対応し、車両全体を警察により監視する必要性があるとの判断により、科学警察研究所が1980年代後半にNECと合同で開発したものです。

Nシステムにおいては、この装置が設置してある場所を通過した2輪を除く車両すべての記録が可能であり、犯罪捜査などでの必要性が生じれば、この記録を警察が保有する犯罪履歴のある手配車リストなどと瞬時に照会することができます。

設置されているのは、主要国道・高速道などの重要道路のほか、県境の周辺道路、都道府県庁・原子力発電所・空港・自衛隊・在日米軍など軍事施設、および一部の火力発電所などの重要施設の周辺などです。

こうした場所を手配車両が通過した場合、この車両と判明と同時に車種・所有者・メーカーなどがすぐに取り出され、警察無線に「N号ヒット」と一斉指令が流れるということで、この情報は付近を巡回中のパトカーや捜査車両にも通知されます。

警察官らは、知らされた情報からターゲットの車輌を確認して追尾、そして不審なクルマはあえなく御用、という手順となります。盗難され手配車両になったクルマの特定や被疑者が乗った車の追跡などに用いられるとともに、重大事件発生時などは不審車両の洗い出しに使われます。

かつては、オウム真理教などの宗教関連施設の周辺にも設置され、施設を出はいりする車の特定からこの事件を解決に導いたほか、富士フイルム専務殺人事件(1994年2月)、福岡美容師バラバラ殺人事件(1994年3月)、つくば母子殺人事件(1994年11月)、埼玉愛犬家連続殺人事件(1995年1月)などでも活躍しました。

このNシステムは、高速道の料金所にも設置されていて、料金所を通過する車両のナンバーを撮影できます。最近では、小型の同じ装置を地方道などの電柱に設置しており、これまでは犯人が裏道を走って逃げた場合に失敗していた追跡をこれによって補うといったことまでやっているようです。

改めて日本のケーサツってすごいなぁと思うのですが、こうした最先端機器の導入もあってか、世界でも一、二位を争うほど、有能だという評価もあるようです。

ところが、このNシステムでは通過する車両そのものを特殊カメラで無差別に撮影し、同時に運転者、同乗者も撮影されるため、プライバシーなどの人権侵害の問題があるとして批判する向きもあります。

1999年9月には、新潟県中越地方の某警察署課長(当時40)が女性警察官との交際を巡り辞職しましたが、新潟県警察がこの課長の自家用車の動きをNシステムで追跡していた事が新潟日報のスクープで明らかになる、といった事件がありました。

非番の公務員の動向監視に用いられた、といことで職権乱用だということでマスコミらが激しく非難しましたが、これは表に出た氷山の一角にすぎない、ともいわれています。警察では日常的に所属する警察官、警察職員の私的な動向監視のためにNシステムを使用しているのではないか、という噂もあるようです。

2006年には、愛媛県警察の捜査員が使用していたパソコンが、コンピュータウイルスに感染し、Nシステムが設置されている愛媛、香川、徳島の国道及び高速道路を通過した車のナンバープレート情報と通過日時が記録されたファイルが、他の捜査情報と共にインターネット上へ流出する、といった事件も発生しています。

このとき、流出した情報は約10日分であり、車両台数にして10万台超とされているそうです。

2006年に、愛人と一緒にしまなみ海道を運転していたあなた、世間にその関係を知られていませんか?

2014-1120838

この警察が設置している道路交通取り締まり装置としては、ほかに「オービス(ORBIS)」と呼ばれる悪名高きものもあります。「自動速度違反取締装置」が正式名称であり、「オービス」というのは実は商品名です。

アメリカのボーイング社で開発され、この名前が付けられましたが、これはラテン語で「眼」を意味します。オービスという名前が浸透してしまったので、誰もがこの名前で呼ぶようになり、ボーイング社以外の製品を含めてこの取締機全般の通称として使われるようになりましたが、私は、「自動ネズミ捕り機」と呼んで、蔑んでいます。

ご存知のとおり、全国の幹線道路や、高速道路、事故多発区間、速度超過違反が多発している道路などに設置されており、制限速度を大幅に超過して走行している車両を検知すると、当該車両の速度を記録し、ナンバープレートおよび運転者の撮影を行う、というものです。

基本的には一般道路では30km/h以上、高速道路では40km/h以上の速度超過で撮影されていますが、各都道府県の公安警察によってはこの数字をいじくっているところもあるようなので、制限速度80キロの高速を、120キロで走るのはOkだと思っている人がいたら注意が必要です。

が、全国津々浦々を走り回った経験がある私も、120キロ以下で検挙された経験はないので、多分、大丈夫なのでしょう。大きな声では言えませんが、最近では120キロ以上をちょっと超えたくらいでもそれほど神経質にならなくても大丈夫のようです。

このオービスが作動した場合には、撮影の瞬間に、多くは赤色または白色のストロボが発光するそうです。取締機によって撮影されると、数日から遅くとも30日以内に警察から当該車両の所有者に出頭通知が送付されるということですが、なにぶん経験がないので(ホントです)、出頭してどんな仕打ちを受けるのかはよく知りません。

が、拘留されてカツ丼を目の前に置かれ、それをエサに自白を強要される、といったことはないでしょう。たぶん。

取締機を設置している道路には、設置していることを警告する看板が設置箇所の約1~3km前に「速度自動取締路線」といった表示がされています。

これを見て、そんな看板を金を出して作る暇があったら、警察官が自分で取り締まれよ、といつも思うのですが、私と同様にこの「自動取締」という言葉に反発する人は多いようです。

が、この看板が設置されている本当の理由は、被写体の肖像権に配慮するためです。

オービスでは、違反検知とともに運転者の撮影がなされますが、こうした写真を犯罪の証拠とするためには「事前告知」と「犯罪行為の瞬間の撮影」が必要であることが、過去の裁判における判例で示されためです。

例え速度違反者といえども、警察による容貌の無断撮影はプライバシー権(肖像権)の侵害である可能性がある、というわけで、オービスでは助手席に同乗している者の写真も撮影されるため、違反行為とは全く無関係な第三者のプライバシー権も侵害される可能性があります。

違反通知が来たので、奥さんと一緒に警察に出頭してその写真を見せてもらったら、実は別の女性とドライブしたときのものだった、なんて悲劇も起こりうるわけです。

無論、この装置では取締機が反応した現場に警察官はいません。違反者は後日呼び出しを受けて、警察署に出頭したときに初めて弁明の機会が与えられることになりますが、スピード違反を直接警察官に視認されて捕まったときと比べて、被疑者の防禦権が著しく制限されます。

防禦権とは、起訴前段階における不当な扱いを避けるため、冤罪防止や権利侵害防止のために黙秘権が認められる権利であり、逆に「供述の自由」が認められる、といったことです。オービスに引っかかって出頭を命じられたとき、既にオービス撮影による厳然たる証拠写真があるために、この権利を主張しにくくなるのです。

要は、ロボットにすぎないオービスで撮影されたら、あんたは無罪だと主張する権利はないよ、と同じことだというわけで、オービスが導入された当時、このことは大きな社会的反響、というか反発を呼びました。

このため、「違反者、同乗者のプライバシー権の侵害である」という点について、1969年に最高裁までこの問題が争われましたが、結果としてこの装置は合法と認められるとともに、以後、一貫して取締機による撮影は違憲ではないとされ、その後もプライバシー権侵害を認定した判例はありません。

私としては、こんなロボットが人を裁くようなシステムはさっさと廃棄してしまえ、と思うのですが、このオービスの設置により、むちゃくちゃな運転をするドライバーが抑制されているといった面も否定できません。

ただ、2013年現在での過去5年間では、このオービスによるスピード違反者の検挙数は20%以上減少しているそうです。フィルムを使用した旧式のシステムのまま改良が行われていないケースや、高額な修理予算が捻出できずに故障したまま放置されているケースがあるためだそうです。

それ見たことか、そんなオンボロ機械に人を取り締まるのは言外だ、と私などは大喜びしたいところですが、検挙数が減っているのは必ずしもオービスの劣化によるものだけでなく、オービスの設置場所を知らせるカーナビアプリの普及なども寄与しているようです。

いっそのこと、オービスを検知すると、自動的にスピードを落としてくれるような装置を各自動車メーカーも作ればいいのに。

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ところで、この「プライバシーの権利」というものに関して日本で最初に裁判が行われたのは、1964年(昭和39年)に最高裁で判決の出た、「宴のあと」裁判が最初だったそうです。

「宴のあと」というのは、かの有名な三島由紀夫の小説のタイトルで、この小説のモデルとなった、元外務大臣で東京都知事候補だった、有田八郎氏が自分のプライバシーを侵すものであるとして、三島と出版社である新潮社を相手取って起こした裁判でした。

三島は、芸術的表現の自由が原告のプライバシーに優先すると主張しましたが、最高裁判事は「言論、表現の自由は絶対的なものではなく、他の名誉、信用、プライバシー等の法益を侵害しないかぎりにおいてその自由が保障されているものである」との判断を示し、三島側に80万円の損害賠償の支払いを命じました。

三島側はこの判決を不服として控訴しましたが、結局この翌年に有田氏が死去したため、その2年後に三島側と有田氏の遺族との間に和解が成立し、この事件は決着しました。しかし、三島自身もその4年後の1970年(昭和45年)に割腹自殺を遂げています。

文学作品に関するプライバシー権を巡る事例は、このあとも後を絶たず、このほかの有名なところでは、柳美里の処女小説、「石に泳ぐ魚」が、この作品のモデルとなった韓国人女性から出版差止めを求める裁判を起こされました。

モデルとなった当時大学院生の女性は作品を読み、自分の国籍、出身大学、専攻、家族の経歴や職業などがそのまま描写され、自身の顔の腫瘍を陰惨な表現で描写されたことなどに反発してこの裁判を起こしました。裁判の結果、その主張が認められ、裁判所は出版社の新潮社と柳に対して、慰謝料の支払いを命じました(平成14年判決)。

こうした文学作品をめぐるプライバシー侵害問題にあたっては、「文学における表現の自由」をめぐってさまざまな論議が起き、マスコミ・論壇・文学界から大きな注目を集めています。

文学だけでなく、雑誌や週刊誌などの自由表現についても、過去に何度となくメディアに大きく取り上げられた事件があり、一番よく取沙汰されるのは、やはり「フライデー襲撃事件」でしょう。

1986年(昭和61年)12月に、タレントのビートたけしさんが、その子分らともにに、写真週刊誌 「フライデー」の編集部を襲撃した事件で、おそらく知らない人はいないくらい、有名な話です。

事の発端は、この当時39歳だったたけしさんが、親密交際していた専門学校生の女性(当時21歳)に対して、フライデーの契約記者が、彼女が通う学校の校門付近でたけしとの関係を聞こうと声をかけたことでした。

ところが、それを女性が避けて立ち去ろうとしたため、記者が彼女の手を掴んで引っ張るなどの乱暴な行為に及んだといい、これに怒ったたけしさんが、講談社に電話をかけ、強引な取材に抗議したうえ、さらには「犯行」に及んだというものです。

たけしさんらは住居侵入・器物損壊・暴行の容疑で、大塚警察署によって現行犯逮捕され、襲撃されたフライデーは事件後「言論・出版の自由を脅かす暴挙に対して、断固たる態度で臨む」との声明を発表するとともに、記者会見で負傷した様子などを公開しました。

結局、この事件は裁判にまで進展し、東京地裁で翌年6月にたけしさん側へは、懲役6ヶ月、執行猶予2年の判決が下され、裁判は確定しました。

あわれたけしさんは、執行猶予判決が確定するまでの約8か月間謹慎することとなりましたが、当時たけしと交際していたといわれた女子大生に暴行で告訴された記者のほうも、罰金10万円の判決を受けたということです。

この話は余りにも有名なので、これ以上説明する必要はないでしょうが、このフライデー事件以後も、同じジャンルの写真週刊誌である、「FOCUS(新潮社)」や「FLASH(光文社)」、「Emma(文藝春秋)」、「TOUCH(小学館)」なといった写真週刊誌などが、同様の事件を繰り返してきました。が、現在も生き残っているのはフライデーだけのようです。

こうした週刊誌におけるプライバシーの侵害については、イギリスのダイアナ妃が生前、「パパラッチ」につきまとわれ、その死についても、彼等が何らかの形で関係していたのではないか、と噂されたりしています。

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プライバシー侵害問題は、インターネットにおいても問題視されており、インターネットの発祥の地、アメリカやカナダなどの北米においても、大きな社会問題になっています。

その中でも、「スター・ウォーズ・キッド」事件という話は有名です。

これは、カナダのある少年に付いたあだ名であり、事件というのは、2003年5月、少年の自分自身を録画したビデオクリップが、予期せずオンラインに流出し、インターネット上の様々なコミュニティで取り上げられるようになったというものです。

「スター・ウォーズ・キッド」ないしは「ジェダイ・キッド」として知られるようになり、インターネット上で通算10億回以上再生されたといいます。

一見、何が問題なのか、と思うのですが、実はこの件があまりにも反響が大きすぎたせいで、当事者の少年は街を歩けば全く見知らぬ人からも「あの有名で愉快なビデオの少年」として声を掛けられるようになり、その結果不登校となりました。

この結果、これがいわゆる「ネットいじめ」のはじまりであるといわれるようになったもので、現在もネットにおけるいじめ、というとこれが最初のケースとして取り上げられることが多いようです。

少年は、最初このビデオクリップを自撮りしたといいます。ゴルフボールの回収に用いる棒をあたかも映画の「スター・ウォーズ」のキャラクターであるダース・モールのように振り回す自身の姿を、ビデオに撮影・録画したといい、彼にしてみれば、極めて私的なお遊びのつもりでした。

ところが、この録画した映像は、少年の通う高等学校の撮影室で撮影されたものであり、この録画映像を彼は、おそらく誰も気にしないだろうと考えて消去しなかったため、そのまま残り、このビデオテープは数ヶ月間忘れ去られていました。

ところが、少年がこのことを彼の数人の友人に話したため、彼等はもしかしたらこれは愉快な悪ふざけになるかもしれないと考え、このビデオテープを探しだし、映像ファイルとしてパソコンに取り込み、自分たちのウェブサイトに掲載したのです。

この結果、この動画ファイルの映像は2週間もしないうちに、数百万回ダウンロードされ、やがてこれを見た別の誰かが、スター・ウォーズの音楽と文章、少年の振り回す棒にライトセイバーの光と効果音などもつけた改変バージョンを流すようになりました。

この改変された映像を更に、ゲーム系サイトや技術系サイト、スター・ウォーズ関連サイトなどが提供し始め、これにより口コミもあって映像はますますダウンロードされていきました。程なく、世界中で人々がオリジナルの映像ファイルを取得し、これの更なる改変版までもが作成されるまでになりました。

これらの改変版では、コメディー的な演出ないし映画のパロディ要素のため、音楽や視覚効果や効果音などの付加、他の著名な映画もしくは映像との合成などまで行なわれたといいます。

あげくのはてには、彼の「活躍」に一方的ながらも好意をもった人達のなかから、彼を「スター・ウォーズ エピソード3・シスの復讐」にゲスト出演させよう」という嘆願書を集める者まで現れました。

17万8千を超える電子著名が集まったといい、この署名のことは、実際にジョージ・ルーカスの耳にまで入りました。しかし、ルーカスは逆に彼の状況に同情し、映画ではそうした出演は行われなかったそうです。

報道によれば、この当時、少年は相当に当惑したそうで、このため学校にすら行けなくなってしまいましたが、彼にしてみれば、ほんの遊びで撮影したビデオが他人に見られ、ましてやそれが全世界で反響を呼んでいるなどとは想像も出来なかったのです。

ただ、このビデオはインターネット上のコミュニティでは概ね好感を持って迎えら、悪意を持って彼を批判するような動きはなかったようです。

しかし、この事件はやがてプライバシーの問題としてメディアに取り上げられるようになり、ニューヨーク・タイムズやCBSニュース、BBCニュースなどの主要ニュースメディアで報道されるようになりました。

さらに拡大していく騒ぎのため、少年は治療とカウンセリングを受けなければならなくなり、一時は鬱状態に陥り、小児精神科病棟に入院するまでになったそうです。

こうして、2003年7月、少年の家族は同窓生3人の家族に対して25万カナダドルの訴訟を起こしました。

その訴訟文には、被告3人の友人たちは不法に映像を取得し、少年の同意なしにそれをインターネット上に流出させ、この映像の為に少年は同窓生のみならず一般社会からの嘲笑や迷惑を被られたとの主張が書かれていました。が、結局これらの元同窓生の家族と少年お家族の間で示談が成立し、裁判は行われなかったそうです。

その後の彼はいじめを克服し、この事件をきっかけとして弁護士を目指すようになり、地元カナダの大学で法律学を学んだそうで、おそらく現在ではそこを卒業して、司法試験を受ける勉強をしているのではないでしょうか。

こうしたインターネット上のプライバシーの問題は、日本においても最近しばしば物議をかもしだしています。

その昔、「カレログ」と呼ばれるスマホソフトの普及によるプライバシーの損害問題が大きくクローズアップされましたが、これを覚えている人も多いでしょう。

カレログとは、観察対象者の男性が所有しているスマートフォンの情報を、女性会員に通知するというアプリケーションで、会員になった女性はパソコンのウェブサイトを使って、観察対象者である男性の現在地情報を詳しく知ることができる、というものです。

観察する相手男性のスマホのバッテリー残量、アプリケーションの一覧までリアルタイムで閲覧する事ができるそうで、「プラチナ会員」になると、観察対象者である男性の通話記録まで閲覧できるというものでした。

説明するまでもないでしょうが、「カレログ」の「カレ」とは交際相手の男性のことであり、ログは、記録(=log)のことです。

ところが、このサービスでは、性別を判定する機能はついておらず(あたりまえのことですが)、このため男性が女性を観察対象にして使用することも可能であり、また同性同士で使うことも可能です。

本来は、カレログの利用者が対象となる相手から許可をとった上で、彼のスマホにアプリをダウンロードしてもらって利用することが定められています。

しかし、実際には彼の許可を得ずとも、こっそりと彼のスマホにダウンロードすることも物理的に可能なわけであり、このため、本人には知らせずにこっそりと彼の行動をストーキングすることもできます。

無論、男性と女性の立場逆転、あるいは男性対男性にも可能なわけで、ストーカー行為や嫌がらせをやりたい人にとっては、もってこいのアプリということになります。

このアプリは、結局大きな社会問題に発展するまでもなく、2012年10月をもってサービス終了となりましたが、一時はかなりの人気となり、しかも未成年者の間でも流行ったため、風俗を乱すということで、この当時かなり批判的な意見も続出しました。

現在は、その後継アプリとして同じ会社が「カレピコ」というのをリリースしていますが、この新サービスではこの当時の批判を配慮して、かなり機能を限定させているようです。

常に位置情報を記録し、PCから一方的に利用者を監視していた「カレログ」と比較すると、端末利用者の同意のもとでインストール・利用されることが前提となり、アプリをインストールしたスマホ同士で利用するよう改められているということです。その仕組みはよくわかりませんが、相手に無断でインストールということはできなくなっているようです。

しかし、予め指定した場所に近づくと、パートナーに通知される仕組みなどが付加されているといい、これはつまり、浮気してしまった過去の記録を残すのではなく、浮気しそうな場所に近づかせないようにする、いわば浮気の「未然防止」装置としての機能を持っていることになります。

この新システムは、従来のカレログに比べてよりポジティブな方向性へと変化したと評判だそうで、また、片方からの一方的な監視ではなく、お互いの信頼を確かめる機能を加えられているということで、こうした面でも健全化しているようです。

私はスマホを使っていないのでよくはわかりませんが、昔のカレログよりかなりよくなったと評価され、受け入れる人も増えているといいます。

特定の場所に近づくと通知するという機能を使えば、たとえば、子供の学校や塾に設定しておけば、無事に着いたかどうかがわかりますし、その場所を駅などに設定しておけば、旦那の晩ご飯を作るタイミングが見計らえる、などの建設的な目的にも使えます。

一見、ストーカー行為の防止にも使えるのではないか、と考えてしまうのですが、よく考えてみるとストーカーをしている相手にその同意が得られるわけはありません。

けれども、ホントは嫌いなヤツなんだけだけど、友達同士という関係はよくあったりします。そんなときにはカレピコを入れて、その友達が近くに来たら逃げ回る、と言ったこともできるかも。が、もっとも相手が同じようにこちらを感知していたら逃げることはできませんが……

とはいえ、他にもいろんな使い道が考えられ、なかなか侮れないサービスに進化してきたといえるのではないでしょうか。

奥様や彼女から逃げたいあなた、その使い道を検討してみてはいかがでしょうか。

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鬼は奥

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節分です。

節分とは「季節を分ける」ことを意味し、特に「立春」である毎年2月4日ごろの前日を指します。立春というのは、旧暦で設定されていた一年二十四節気の季節ごよみの初日でもあります。つまりその前日ということは、季節上での「大晦日」を意味します。

季節の変わり目には邪気(鬼)が生じると考えられていますが、この節分は一年が始まる前の大みそかであり、年が明けて明るい太陽が出る前に悪さをいっぱいしておこうと、とくに鬼がワイワイ出てきます。それを追い払うための悪霊払いの行事こそが、節分の豆まきです。

「福は内、鬼は外」と声を出しながら福豆(炒り大豆)を撒いて、年齢の数だけ食べます。もしくはそれよりもう1つ多く豆を食べるとより厄除になるといいます。が、私的にはこの歳になると豆を五十数個食べるのはさすがにきついものがあります。

これから更に齢を重ねていくと、さらに増えるわけであり、それを考えると憂鬱になります。この先60、70になっていくオヤジにそれだけの豆を食わせるのは、ほとんど老人虐待です。100歳まで生きたらどうするのでしょう。

節分には、邪気除けのために柊鰯(ひいらぎいわし)などを飾るところもあります。関西では、柊鰯とはいわず、いかがし(焼嗅)、やっかがし、やいくさし、やきさし、ともいうようです。

この形態は、地方や神社などによって異なります。一般には柊の小枝と焼いた鰯の頭、あるいはそれを門口に挿します。柊の葉の棘が鬼の目を刺すので門口から鬼が入れず、また塩鰯を焼く臭気と煙で鬼が近寄らないと言います。鰯の臭いで鬼を誘い、柊の葉の棘が鬼の目をさすのだと言う人もいます。

福島県から関東一円にかけては、今でもこの風習が見られるようですが、私が育った広島や山口ではあまり一般的な風習ではないようです。ほとんど見たことがありません。東京近郊では、柊と鰯の頭にさらに鞘を取り去った大豆の枝である「豆柄(まめがら)」が加わるそうです。

畿内では節分にこのいわしを直接食べるそうで、これは「節分いわし」と呼ばれているようです。

このように一口に節分といっても、いろいろな風習があるわけです。

節分のルーツは、「追儺(ついな)」と呼ばれる中国の行事が日本に輸入されたものだといわれています。平安時代ごろから、宮廷の年中行事となり、最初は旧暦の大晦日に行われていたようです。追儺は、「鬼儺」とも表記されます。これは「鬼遣らい(おにやらい)」の意味であり、鬼を追い払うことです。

平安時代には、方相氏(ほうそうし)と呼ばれる鬼を払う役目を負う大舎人(おおとねり)という役人と、この方相氏の脇にサポーターとして侲子(しんし)と呼ばれる役人らが控え、総勢20人ほどで、大内裏の中を掛け声をかけつつ走り回ったそうです。

方相氏は袍(ほう)と呼ばれる儀礼服を着て、金色の目が4っ付いた面をつけて、右手には矛、左手に大きな楯をもち、大内裏を走り回りました。駆け回る方相氏を鬼たちから守る目的で、宮中の公卿たちが清涼殿の階(きざはし)から弓矢を射る仕儀もあったといい、また他の殿上人らが、でんでん太鼓を叩いて厄を払うという、勇壮なものだったようです。

ただ、この時代にはまだ、豆を撒くという習慣はなかったようです。

撒いたのは最初は豆ではなく、桃だったようです。追儺の発祥地である中国において桃は神仙に力を与える樹木であり、桃の実は「仙果」と呼ばれて、昔から邪気を祓い不老長寿を与える食べものとされていました。

また、桃で作られた弓矢を射ることは悪鬼除けとなり、桃の枝を畑に挿すことは虫除けのまじないになるとされ、これらの風習が日本に伝えられました。

「古事記」には、伊弉諸尊(いざなぎのみこと)が桃を投げつけることによって鬼女、黄泉醜女(よもつしこめ)を退散させたことが書かれており、イザナギノミコトはその功を称え、桃に大神実命(おおかむづみのみこと)の名を与えたといいます。

つまり、日本に伝来したころには、桃を投げつけることが鬼退治に効果があると信じられていたわけです。

「桃太郎」はこの古事記の話から派生した民話であり、ご存知のとおり桃から生まれた男児が長じて鬼を退治する話です。また3月3日の桃の節句は、桃の加護によって女児の健やかな成長を祈る行事でもあります。室町時代ころには、この桃の枝には邪気を祓う力があるとして「桃の枝」信仰も生まれました。

イザナギノミコトが鬼女にぶつけた桃がいつのまにやら豆に変わったのは、桃という果物がこの当時も貴重品だったからでしょう。時代が下るにつれ、桃がもったいないので、これを炒った豆で代用し、鬼を追い払う行事となっていきました。

上で書いたような宮中行事は、やがて庶民に採り入れられるようになり、二十四節気の暦が定着するようになってからは、節分に行われるように変わっていきました。

と同時に、当日の夕暮れ、柊の枝に鰯の頭を刺した柊鰯を、魔除けとして戸口に立てておくという風習も現れ、さらに一般家庭だけでなく寺社でも豆撒きをしたりするようになりました。

第59代天皇の宇多天皇が在位した9世紀後半(867~931年)には、鞍馬山の鬼が京に降り来て都を荒らすのを、祈祷をして鬼の穴を封じようとしたという記録が残っています。三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れた、といわれており、このころにはもう既に、大豆による豆まきは一般化していたようです。

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やがて豆などの穀物には、「生命力と魔除けの呪力が備わっている」とされ、信仰の対象にもなっていきました。豆は「魔目(豆)」とも書くことができ、これを魔物の目に投げつけて滅することは「魔滅」にも通じるということから、この時代の魔物の代表格であった「鬼」がその対象となりました。

しかし、実際には鬼は目に見えません。このため鬼の形をした作り物やお面をかぶった人物に豆をぶつけることでこれに代え、こうした行事を行うことで邪気を追い払い、一年の無病息災を願うようになっていったのです。

が、鬼は外、福は内、という例の掛け声が使われるようになったのは、ずっとあとのことで、南北朝時代のころのことだったようです。瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)という室町時代中期の臨済宗のお坊さんが書いた「臥雲日件録」の中に「散熬豆因唱鬼外福内」という表現がみられるそうです。

そのとおり、豆まきといえば掛け声は通常「鬼は外、福は内」です。しかし、地域や神社によってバリエーションがあり、鬼を祭神または神の使いとしている神社もあって、こうした神社では、「鬼は外」ではなく「鬼は内」と呼びかけるそうです。

また方避え(ほうたがえ)の寺社でも「鬼は内」というそうです。方違えとは、陰陽道に基づいて平安時代以降に行われていた風習のひとつで、方忌み(かたいみ)とも言い、外出の際などや家屋の新築の場合、政治を占う場合や、戦の開始などの際に、その方角の吉凶を占う行事です。

陰陽道にでは、方位神(ほういじん)という神様が設定されていて、その神のいる方位に対して事を起こすと吉凶の作用をもたらすと考えられていました。方位神は、それぞれの神に定められた規則に従って、季節が変わるごとに各方位を遊行します。

吉神のいる方角を吉方位といい、凶神のいる方角を凶方位といい、あちこち動き回るので、その都度、良い方向、悪い方向を占う必要があったのです。

占いの結果、出かけようとしていた方角が悪いといったん別の方向に出かけ、目的地の方角が悪い方角にならないようにします。また、帰宅の際などにも、目的地に特定の方位神がいる場合に、いったん別の方角へ行って一夜を明かし、翌日違う方角から目的地へ向かって禁忌の方角を避けるといったことまでやりました。

凶方位を犯すことによる災厄を避けるため、現在ではこの風習は寺院や神社で「方位除け(方除け)」の祈祷・祈願を行うだけとなり、実際に行先を変えることまでは行われなくなりました。

また、方位神を祀ってこの祈祷を専門に行うようになったのが「方避えの神社」です。方避け(ほうよけ)寺社とも呼ばれ、神社ばかりではなく寺の場合もあります。旅行に行く際には、こうした寺社にお参りして、悪方の災いを祓うわけです。

大阪の堺にある、方違神社(ほうちがいじんじゃ)はその中でも有名なもので、この地方では「ほうちがいさん」と称され、方違え、方災除けの神として親しまれています。社地は摂津、河内、和泉の境の三国山にあって、この三令制国のいずれにも属さない地に建設されています。

いずれの国にも属さないということはつまり、方位のない地であることを意味し、このため、古くから方位、地相、家相などの方災除けの神社として信仰を集めてきました。

現在でも、転勤、結婚などでの転宅や海外旅行などの際に祈願する参拝者が多く、自分の在所からでかけていく先の方位についてのお祓いをしてもらい、清めの御砂を頂いて、自分の家の四方に撒くそうです。

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節分にはこの「方位」にまつわる別の行事をやるところも多いようです。

大阪などの畿内などを中心に食べる、例の「恵方巻」というヤツもそのひとつです。

恵方巻は、巻き寿司を節分の夜にその年の恵方に向かって無言で、願い事を思い浮かべながら太巻きを丸かじり(丸かぶり)するのが習わしとされていて、同日にこの巻寿司を「太巻き」「丸かぶり寿司」、「恵方巻」などと呼んで食べるイベントが各地で行われます。

「目を閉じて」食べるのが一般的のようですが、一方では「笑いながら食べる」という人もいて、さまざまです。太巻きには7種類の具材を使うとされ、この7という数字は商売繁盛や無病息災を願って七福神に因んだものとされているようです。

7つの具材の中には野菜が入っていて、キュウリは青鬼、またニンジンやおぼろ、生姜を赤鬼に見立て、これを節分と関連づけて、鬼退治をするためにこれらを食べるようになったのだという説や、太巻きを鬼の金棒に見立てて、鬼退治だとする説もあるようです。

7種の素材も決まっているわけではないようで、代表例としては、かんぴょう・キュウリ・人参・シイタケ煮・伊達巻・ウナギ・桜でんぶ(おぼろ)などのようですが、他にも焼き紅鮭、カニ風味かまぼこ、高野豆腐、大葉、三つ葉、しょうが、菜の花、漬物などなどのバリエーションがあるようです。

もともとは近畿地方だけの風習だったようですが、食品業界の陰謀で日本各地に広がっていきました。大手のコンビニエンスストアなどがこのブームに便乗したことから、全国的なイベントとなっていきました。

最近では、菓子業界までがこれに便乗し、形が恵方巻に類似する円柱状のロールケーキなどの各種商品においてもあさましい販売促進活動が見られます。

恵方巻の起源・発祥は諸説存在しますが、はっきりとわかっていません。が、前述のように節分にかこつけて食べるようになったという説のほかに、豊臣秀吉の家臣・堀尾吉晴が偶々節分の前日に海苔巻きのような物を食べて出陣し、戦いに大勝利を収めたのがはじまりだ、といいうまことしやかな説もあるようです。

このほか江戸時代の終わり頃、大阪の商人たちの商売繁盛と厄払いの意味合いで、立春の前日の節分に「幸運巻寿司」の習慣が始まったとする説や、江戸時代末期から明治時代初期において、大阪の商人による商売繁盛の祈願事として始まったという説もあり、今日も大阪を中心としてさかんな行事であることから、これらの説が有力視されているようです。

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それにしてもなぜ、この太巻きのことを「恵方」巻きと呼ぶのでしょうか。

これは、陰陽道で、その年の福徳を司る神である「歳徳神(としとくじん」」に由来しているといわれています。古来、この神様のいらっしゃる方位を恵方(えほう、吉方、兄方)、または明の方(あきのかた)と言い、その方角に向かって事を行えば、万事に吉とされてきました。

かつては、初詣は自宅から見て恵方の方角の寺社に参る習慣があり、このことを「恵方詣り」とも呼んでいました。

神社などでよく売られている暦をめくると、最初のほうのページに、美しいお姫様の格好をした女神さまが描かれていることがありますが、これが歳徳神です。

この歳徳神の由来にも諸説あり、牛頭天王のお后であるという説がひとつ。また、牛頭天王は、時代が下ると須佐之男尊(スサノオノミコト)と一体視されるようになったことから、スサノオノミコトの妃の櫛稲田姫(クシナダヒメ)とも同一の神様だとも言われています。

このクシナダヒメは、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治する話の中に登場してきます。ヤマタノオロチに食べられてしまう8人の娘の中で最後に生き残った娘であり、ヤマタノオロチの生贄にされそうになっていたところを、スサノオにより姿を変えられて湯津爪櫛(ゆつつまぐし)という櫛に変身します。

そして櫛としてスサノオの髪に挿しこまれ、ヤマタノオロチ退治が終わるまでスサノオとその行動を共にすることになります。

スサノオはこの櫛を頭に挿してヤマタノオロチと戦いこれを退治することに成功しますが、実はスサノオはこの美しいクシナダヒメとの結婚を条件にヤマタノオロチの退治を申し出たのでした。神さまといども、報酬がなければ行動は起こさないというわけです。

めでたくオロチを退治したスサノオはヤマタノオロチを退治した後、櫛にされたクシナダヒメを、元通り美しい娘の姿に戻し、彼女はめでたくスサノオの妻となりました。スサノオはクシナダヒメと共に住む場所を探して、宮殿を建てたといわれており、この地が現在各地に残っている「須賀」という地名です。

この地名は、北海道から九州までいたるところにあります。あなたのお宅の近くにもあるのではないでしょうか。

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この吉方にいらっしゃるという歳徳神の位置もまた、その年の十干によって毎年変わります。

甲・己の年、つまり、西暦年の末尾が、4・9の年は、東北東やや右です。2014年の今年がそれです。このほか、0・5の年、つまり来年2015年は、西南西やや右、1・6、や3・8は南南東やや右で、昨年の2013年がこれでした。このほか、2・7では、北北西やや右となっています。

従って、今日恵方巻きを食べる人は、東北東の方を向いて願い事をしながら食べましょう。

とはいえ、節分との関係も薄そうな根拠のあいまいな風習です。あまり食品業界を儲けさせるイベントに巻き込まれないようにしましょう。

だいいち、太巻き丸々一本を一気食いするなんて、むちゃくちゃです。消化にも悪いし、お年寄りなどはのどに詰まらせてしまって、窒息死してしまうかもしれません。豆をたらふく食べさせられたあとにこの太巻きを食べたらもう何も食べれなくなってしまいます。

なので私的には、豆をまくで十分だと思っています。

このほか、節分における他の風習といえば、東京の浅草、京都の花街、大阪の北新地などでは、節分の日に、舞妓さんや芸妓さん、ホステスといった女性が、通常の芸妓衣装ではない、様々な扮装をするそうです。

「節分お化け」、あるいは単にお化けと呼ばれているようで、節分の夜に普段と違う服装で、社寺参拝を行います。東京では、台東区の吉原で毎年、「よしわら節分お化け」が行われるようです。

もともとは、節分の夜に、老婆が少女の髪型を「桃割」という形にしたり、少女ではなく成人女性の場合は髪型を島田結いにしたりする風習だったようです。このため「オバケ」とは「お化髪」が語源であるという説もあります。

これが変じて、異装することが流行るようになっていったようで、服装や風体を変えるだけでなく、違う年齢や違う性を名乗るなど「普段と違う姿」をすることによって、節分の夜に跋扈するとされる鬼をやり過ごしたのだといわれています。

節分である、立春前夜は、秋や冬といった暗い季節と春や夏などの明るい季節の変わり目です。 また冒頭でも述べたとおり、旧暦では節分は年の変わり目の前日でもあり、方位神が居場所を変えるなど、古い年から新しい年へと世界の秩序が大きく改組される不安定な時季でもあります。

この様な時季には現世と異世界を隔てる秩序も流動化し、年神のような福をもたらす存在が異世界からやってくる反面、鬼などの危害をもたらす存在もやってくるとされています。

このため節分には豆まきなどの追儺(ついな)儀式が行われていますが、「節分お化け」もまた、このときにやってくる鬼を姿を変えてやりすごそうとする儀式のひとつというわけです。

異装のまま寺社へ詣でて新年の平穏を祈るのですが、やはり民間信仰に属する儀式のため、節分お化けがいつごろどのように始まったかについて詳しくはわかっていないようです。が、京都を中心として江戸時代末期から盛んに行われていたとされており、上述の吉原以外では京都の一部の地域でもこの風習が残っているといいます。

こようにの節分お化けもやはり鬼にまつわる行事であり、節分にはやはり鬼はつきものです。

この「おに」の語は「おぬ(隠)」、つまり「いない」が転じたものだといわれており、元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味します。そこから人の力を超えたものの意となりました。

平安から中世の説話に登場する多くの鬼は怨霊の化身、人を食べる恐ろしい鬼であり、有名な鬼である大江山の酒呑童子は都から姫たちをさらって食べていました。「伊勢物語」には、夜中に女をつれて駆け落ちする侍が、その途中で鬼に連れの女を一口で食べられる話があり、ここから危難にあうことを「鬼一口」と呼ぶようになりました。

平安以降は、戦乱や災害、飢饉などの社会不安が頻発しましたが、そうした中では、人の死は当たり前でしたが、また行方不明になる人も多く、人々はこれを異界がこの世に現出して連れ去ったのだと解釈するようになりました。人の体が消えていくのは、この世に現れた鬼の仕業だと思うようになっていったのです。

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このように鬼は異界の来訪者であり、人を向こう側の世界に拉致する悪魔でしたが、一方では一寸法師や瘤取り爺さんなどの昔話にあるように福を残して去る神としての一面もあり、このため各地に鬼を祀る神社などが存在します。

一寸法師の話はだれでも知っているでしょう。が忘れている人も多いと思うので、あらすじを書き出してみましょう。

一寸法師は子供のない老夫婦が住吉神社の神様に祈った結果授かった子供でしたが、その大きさはわずか一寸(3cm)しかなく、何年たっても大きくなることはありませんでした。

ある日、一寸法師は武士になるために京へ行きたいとわがままを言い出し、おじいさんとおばあさんを困らせます。が、強引にも御椀を船に、箸を櫂にし、針を刀の代わりに、麦藁を鞘の代りに持って旅に出ます。そして京で大きな立派な家を見つけ、この家の主人を脅して働かせてもらうことにしました。

しかも、その家の娘とねんごろになり、この娘と宮参りの旅をしている時、鬼が娘をさらいに来たのを見た一寸法師はさすがにこの娘を守ろうとします。すると鬼は一口で一寸法師を飲み込んでしまいますが、一寸法師は乱暴にも鬼の腹の中を針で刺すと、鬼は痛いから止めてくれと降参し、一寸法師を吐き出すと山へ逃げてしまいます。

一寸法師は、鬼が落としていった打出の小槌を振って自分の体を大きくし、身長は六尺(メートル法で182cm)になり、めでたくこの娘と結婚しました。しかも米と金銀財宝を打ち出して、大金持ちになりました。

が、その後娘は一寸法師にいじめられた鬼をかわいそうに思い、介抱してやっているうちに不倫に陥り、鬼と共謀して一寸法師を元の小人に戻して追い出してしまいました。泣く泣く育ての親の老夫婦のもとに帰りましたが、二人は自分たちを捨てた一寸法師をシカとし、その後一寸法師は小さい姿のまま、悲しく生きていくことになりました……

多少脚本に偽りがありますが、まぁだいたいこんな話です。

一方の瘤取り爺さんのほうの話はというと、あるところに、頬に大きな瘤のある隣どうしの二人の翁がおり、片方は無欲で、もう片方は欲張りでした。

ある日の晩、無欲な翁が夜更けに鬼の宴会に出くわし、踊りを披露して接待したところ、鬼は翌晩も来て踊るように命じ、明日来れば返してやると翁の大きな瘤を、スポン、と傷も残さず取ってしまいました。

これを聞いた隣の欲張りな翁が、それなら自分の瘤も取ってもらおうと夜更けにその場所に出かけ、鬼の前で踊り出しますが、鬼が怖くて及び腰になり、踊りはしっちゃかめっちゃか。とうとう鬼は怒って隣の翁から取り上げた瘤を欲張り翁のあいた頬に押し付けくっつけると去ってしまった……という話。

無欲な翁は邪魔な瘤がなくなってその後幸せになりましたが、一方の重い瘤を二つもぶら下げることになった欲張り翁もまたその後、幸福な一生を送りました。

そのユニークな顔が大評判になり、あちらこちらから引っ張りだこになったあげく、鬼の前で踊ったという武勇伝が受け、時代を代表するヒーローとなり、都のたいそうな美人と結婚して幸せに一生を暮らしましたとさ……

こういう話を子供のころから繰り返し聞かされている?我々は、普通この鬼はおそろしい形相をした男の姿をしているとみんな思っています。

ところが、この鬼は、その形態の歴史を辿れば、初期の鬼というのは実はみんな女性の形だったといいます。

「源氏物語」にも鬼が登場しますが、その剣の巻には次のような話があります。

摂津源氏の源頼光の頼光四天王筆頭の渡辺綱(わたなべのつな)が夜中に戻橋のたもとを通りかかると、美しい女性がおり、夜も更けて恐ろしいので家まで送ってほしいと頼まれました。

綱はこんな夜中に女が一人でいるとは怪しいと思いながらも、それを引き受け馬に乗せました。すると女はたちまち鬼に姿を変え、綱の髪をつかんで愛宕山の方向へ飛んで行きました。が、抗う綱は鬼の腕を太刀で切り落として、なんとか逃げることができました。

……という話なのですが、この話には続きがあり、この鬼は、切られた自分の腕を取り返すために女に化け渡辺綱のところへ来て「息子の片腕があるだろう」と言い、それを取り出して見せようとして出してきた綱から腕をいきなり奪い取り、元の鬼の姿に戻って逃げ去る、ということになっています(こちらはホントです)。

この話からもわかるように、そもそもの昔には、鬼は女性とみなされていました。女の本質は鬼であるといわれており、戦乱の多かった昔に自分の子供を戦争で傷つけたものに対する母親の憎悪が鬼という存在に変化したものだといわれています。

最後のほう、昔話をおちゃらけて改変してしまったので、信じていただけないかもしれまんが、これもまたホントの話です。

鬼嫁、鬼婆、鬼女などなど、鬼にまつわるものはだいたいみんな女性です。そこに鬼の怖さの合理性がかいま見えてくるのです。やはり鬼はこわい。女はこわい。嫁もこわい。

なので、これを読んでいるお父さん、節分の夜に鬼の面をかぶって逃げ回るのはやめにして、今夜からは鬼役はお母さんに任せましょう。

それなら面はいらないって?それは私には肯定も否定もできません。

2014-1130336広島城にて

セブン

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1月も今日で終わりです。

昨年末の母の骨折に始まり、せわしなく始まった新年でしたが、さらにその後の母のリハビリ病院への転院、別荘地内の新年会へのはじめての出席、そして先日の広島での姪の結婚式への出席と、例年になくめまぐるしい年の始まりでもありました。

いずれのイベントでも、新たな出会いがあり、これだけ年のはじめから人との交流があることも珍しく、どうやら今年はそういう巡り合いの一年になりそうな予感です。

先日、広島に行った折には、いつもカウンセリングをして頂く霊能者のSさんにもお会いし、今後のことを見立てていただいたのですが、そのとき彼女に言われたことも印象的でした。

曰く、「自分のやりたいことを実現していくためには、人に会う機会を増やしていくべきであり、少なくとも「7人」の人に会った方が良い。自分の夢を実現するためには、7人の人に会え、といわれている。出会いによって自分を成功させるために会うべき人の数は、確率論的にも平均「7人」である」、と。

伊豆へ帰ってきてからもこの言葉が気になっていて、いったい「7人」の根拠は何だろうと思ったので調べてみたのですが、Sさんが「いわれている」とおっしゃるほどの根拠らしいものはみつかりませんでした。

ただ、仏教では、人が死ぬと、初七日以降の一週間ごとに、「7人の仏様」に出会ったあと、成仏する、という考えかたがあり、この7週間がすなわち「四十九日」ということになっています。

この間出会う仏様とは、初七日忌の「不動明王様」を始めとして、以下のようになっているようです。

初七日忌・不動明王(ふどうみょうおう)
二七日(二週)・釈迦如来(しゃかにょらい)
三七日(三週)・文殊(もんじゅ)菩薩
四七日(四週)・普賢(ふげん)菩薩
五七日(五週)・地蔵(じぞう)菩薩
六七日(六週)・弥勒(みろく)菩薩
七七日(四十九日)・薬師(やくし)如来

最初の初七日忌に出会うという、不動明王は、憤怒の表情とその劫火で、人の悪い心を蹴散らし焼き尽くすと言われています。が、人が亡くなって最初に会った際に、「よろしくおねがいします」とご挨拶すれば、そのお顔が優しくなると言われているそうです。

また、二週目の釈迦如来は、言わずと知れた2600年前にインドに生まれ、仏教を創始し広めたお釈迦さまのことです。

我々と同様にこの世で苦しみ、また悲惨な状況をたくさん見て、何とか人々を救いたいと願って修行した末に、悟りを開いた方で、人を苦しめるものには、怒りや悲しみや不安など色々ありますが、その感情も究極的には「愛」の変形したものであることを教えてくれます。

三週目の文殊菩薩、これは智慧の仏様として知られ、「三人寄らば文殊の知恵」という言葉があるほど、頭脳明晰な仏様です。計算能力や豊富な知識は無論、人として大切なこと、この宇宙の法則など、とても学校では教わることのできない大切なことを教えてくれます。そして、我々が及びもつかないような高い知識、高次の意識を学ばせてくれます。

四週目、普賢菩薩 。これは、上の文殊菩薩様の弟さんにあたる仏様です。文殊の知恵に対して、行願(ぎょうがん)を与えてくれるといわれます。慈悲深い仏さまで、行願とは、つまり私たちの願いのことです。「何になりたいの?」と問いかけてくれ、この仏様に出会うと、これに答える形で願望達成能力も一段と高まります。

五週目の地蔵菩薩。これは、「お地蔵さま」の名で親しまれている仏様です。あちらにいらっしゃる仏さまの中でも、とくに子供たちの世話を担当している仏さまです。いわば保育園の園長、あるいは担任の先生のような存在です。

ここを通過する幼くして亡くなった子供や、いわゆる「水子」などを励ますとともに、大人で亡くなった人にも「教育」を授けてさらに上に登っていくことを助けてくれます。

六週目、弥勒菩薩。これは、京都・広隆寺と奈良・中宮寺に同名の菩薩像があり、これをイメージする人も多いでしょう。「未来を守る」仏さまで、将来の人類救済のためにこの世に出現されると予言されています。古い習慣を打破し、新しい可能性に導いてくれ、すべてのことは、次の瞬間には変わり、すべては変化する、ということを教えてくれます。

最後の四十九日目に登場するのが、薬師如来です。この仏様は、左手に薬の壷を持つ「お薬師さま」です。病気平癒の力を持つ如来様で、飛鳥時代から広く人々の信仰を集め、 大医王仏(だいいおうぶつ)とも呼ばれています。 奈良・薬師寺のご本尊さまとしても有名です。無論、薬の神様で、ここからあの世に旅立つ魂に薬を授けてくださいます。

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仏教では、以上の7人の仏様に出会った後、人の魂は「精霊」となり、仏の世界の一員としても認められて、あちらの世界で永住ができる、ということになっているようです。

無論、私は仏教徒ではありませんから、これを信じているわけではありませんが、Sさんがおっしゃった、これから出会うべき7人とは、まさにこうした能力を持った人かもしれない、と思いめぐらしたりしています。

悪しき心を正し、愛と智恵と慈悲、そして教育を与え、未来を指示し、最後にこの世を渡っていくために必要な「薬」を与えてくれる、そういう人達に会いなさい、というわけです。確かにそういった人達に出会うことができれば、どんなことでも成功できるに違いありません。

人の心には「仏性」がある、とよく言われますが、7人の人に出会いなさい、というのはその7人を通じて、その心の中にある7人の仏様に出会いなさい、という教えかもしれません。

このほか、7人といってまっさきに思い浮かぶのが、黒澤明監督の映画作品、「七人の侍」でしょう。東宝が1954年(昭和29年)封切り公開した時代劇で、白黒ではありますが、207分にも及ぶ超大作で、1957年の第29回アカデミー賞で美術賞(白黒部門)と、衣裳デザイン賞を受賞しています。

日本よりも海外での評価の高い作品で、アメリカの西部劇である「荒野の七人」は、実はこの黒澤監督のオリジナル作品の権利許諾を得た正式リメイク作品でもあることはかなり有名です。

このほかにもその後のアメリカでは、この映画に触発されて「地獄の7人」「黄金の七人」「宇宙の7人」などなどの諸作品が作られており、中国でも「セブンソード」といった作品があります。

日本でも望月三起也作の漫画、「ワイルド7」がこの映画に着想を得た作品として知られ、このほかにもタイトルに「7」の数字は出てこないものの、登場人物が7人といった作品多数あります。70年代に放映されたテレビ漫画の「ガンバの冒険」などがそれであり、そういえば、「男女7人夏物語」なんてトレンディドラマも流行りましたっけ。

腕利きの7人の個性的なプロフェッショナルが、弱者を守る、秘宝を盗むなどの目的のために結集して戦う、というこの映画のプロットは、こうした「7人モノ」の映画・ドラマの原点とも言われており、また本作を通じて侍の精神や武士道の考え方なども海外に影響を与えています。

「スター・ウォーズ」のジェダイの騎士は七人の侍のキャラクターを元に創作されたとこれを製作したジョージ・ルーカスは述べているそうです。

それにしても、黒澤映画ではなぜ7人ではならなかったのか、について調べてみたのですが、黒澤監督もこれについてはとくに明らかにしていないようです。

ただ、故井上ひさしさんとの対談で、どうやったらこのような絶妙なシナリオが書けるのか問われたのに対して、この脚本の根底にあるのはトルストイの「戦争と平和」である、その中からいろいろなことを学んでいる、と黒澤監督は答えたそうです。

「戦争と平和」というのは、19世紀前半のロシアを舞台に、この時代に起こったナポレオンによるロシア遠征と、これに続き起こったロシアとフランスをはじめとするヨーロッパ諸国との戦いなどの歴史的背景を精緻に描写しながら、1805年から1813年にかけての、あるロシア貴族の3つの一族の興亡を扱ったものです。

主人公とその恋人の恋と新しい時代への目覚めを中心におきつつも、その周辺に彼等にまつわる多数の登場人物を置いたいわゆる「群像小説」であり、この戦争の時代に没落していったロシア貴族から、大地の上で強く生き続けるロシアの農民の生き様までを力強く書きあげ、世界の文学史に残る名作といわれています。

その主要な登場人物は14~15人に及び、到底7人というキャラクターには絞り込めないと思われるのですが、黒澤監督はその非凡な才能を生かし、不要なものを切り取るとともに重要なテーマを生かし、より分かりやすい時代劇へと変貌させていったのでしょう。

「戦争と平和」は、その表題に由来して不条理に思える戦争と紛争、そこに巻き込まれた人々の問題を考えるときに、この「戦争と平和」という表現がしばしば引用されてきましたが、7人の侍もまた、戦国時代を背景に生きぬく侍や百姓などの人物像を見事に表現しきり、以後の日本映画に影響を大きな影響を与え、最高傑作といわれるまでになりました。

こうしたことも考え合わせると、あらためて7人という数字は、人の生きざまを表わすには適度な数字だと思えてきます。先の仏教の例もしかりであり、ラッキー7ともいわれるほど、7という数字は縁起が良い数字とされており、7人に会え、とおっしゃったSさんの御教示は、なるほど正しいのかも、と一層思えてきました。

ところで、7といえば、ひところに「7つの習慣」というビジネス書が出版されて、ヒットしました。原題は、“The 7 Habits of Highly Effective People”であり、著者は、スティーブン・R・コヴィーというアメリカの経営コンサルタントです。

ハーバード・ビジネス・スクールでMBA取得後、ブリガムヤング大学にて博士号取得。 ブリガムヤング大学で教鞭をとり、経営管理と組織行動学の教授を務めたあと、コンサルタントとして世間一般人も指導するようになりましたが、イギリスの「エコノミスト」誌によれば、今、世界で最も大きな影響力を持つ経営コンサルタントと評されているそうです。

「7つの習慣」の原著の初版は1989年ですが、日本では1996年に翻訳版が出版されました。累計130万部を売り上げベストセラーとなり、また日本語を含む44ヶ国語に翻訳され、全世界では2000万部の大大ベストセラーとなっています。

フランスの有名経済紙、「フォーブス」が2002年に「もっとも影響を与えたマネジメント部門の書籍」のトップ10に選んでおり、日本のビジネス誌「プレジデント」でも2008年に「どの本&著者が一番役立つか」という特集をしたときに1位に選んでいます。

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実は私はまだこれを読んでいないのですが、このブログを書いている部屋の書棚には、ちゃんと一冊あり、「そのうち読もう本」の一つになっています。

読んでもいないのに、ここで紹介するのもなんですが、今日のテーマである「7」にちなんで、ついでに紹介しておくこととしましょう。コヴィー博士の提唱する7つの習慣とは以下です。

第一の習慣・主体性を発揮する (Habit 1 Be Proactive)
第二の習慣・目的を持って始める (Habit 2 Begin with the End in Mind)
第三の習慣・重要事項を優先する (Habit 3 Put First Things First)
第四の習慣・Win-Winを考える (Habit 4 Think Win/Win)
第五の習慣・理解してから理解される (Habit 5 Seek First to Understand, Then to Be Understood)
第六の習慣・相乗効果を発揮する (Habit 6 Synergize)
第七の習慣・刃を研ぐ (Habit 7 Sharpen the Saw)

この7つの習慣をひとつひとつ説明している暇はないのですが、ふと気が付くと、さきほど紹介した仏教で説いている、死後に出会うという7人の仏様のキャラクターと、この7つの習慣が類似しているような気がしてきました。

第一の習慣である、「主体性を発揮する」というのは、自分の身に起こることに対して自分がどういう態度を示し行動するか、自らで決める、ということであり、問題解決において強い意志を持って、心の中の悪心を蹴散らしながら進む、とういことで不動明王に通じるものがあります。

また、第二の習慣、「目的をもって始める」は、人生の最後のイメージ、光景、パラダイムを持って今日を始めることであり、これはお釈迦様が率先して我々に教えてくれたことにほかなりません。

第三の習慣、「重要事項を優先する」、これもまた文殊菩薩が与えてくれる計算能力や豊富な知識を持てば、目標を具現化でき、自由意志を発揮し、毎日の瞬間瞬間において目標を実行することができるようになるわけです。

第四の習慣である「Win-Winを考える」もまたしかり。Win-Winの原則を支える5つの柱「人格」「関係」「合意」「システム」「プロセス」は、何になりたいの?と語りかけてくれる普賢菩薩が与えてくれる行願の智恵にほかなりません。

第五の習慣、「理解してから理解される」とは、相手を理解するように努め、その後で、自分を理解してもらうようにすることです。これは人と人との触れ合う場、言い換えれば教育の場などで与えられるべき智恵です。教育を司るお地蔵さんと相通じるものがあります。

第六の習慣、「相乗効果を発揮する」。相乗効果とは、全体の合計が各部分の和よりも大きくなるということです。

自分と他人との意見に相違が生じた時に、自分の意見を通すのでなく、他人の意見に折れるのでもなく、第三案を探し出す、ということです。これは古い習慣を打破し、新しい可能性を導きだす、ということでもあり、その方法を教えてくれる弥勒菩薩にも通じます。

最後の、第七の習慣、「刃を研ぐ 」。これは武装する、という意味ではなく、人の持つ4つの資源である、肉体、精神、知性、社会・情緒を維持、再新再生するという習慣です。具体的な例としては、運動(肉体)、価値観に対する決意(精神)、読書(知性)、公的成功(社会・情緒)などがあげられます。

これだけは、病気平癒の力を持つという薬師如来とはつながらないようにも思えますが、よくよく考えてみれば、薬というものは、肉体や精神、知性、情緒といたものを平癒するためのものです。ここでもやはり仏の教えと相通じるものがあるといえるのではないでしょうか。

以上は私の勝手な解釈にすぎず、多少無理があると思われる向きもあるかもしれません。が、改めて自分で書いたものをみる、私としては意外とすんなり受け入れられるものがあります。

もしかしたら、コヴィー博士もまた、仏教の教えからこの七つの習慣を導いたのでは、などと考えてしまいますが、それはさすがに勘ぐりすぎでしょう。

が、西も東も問わず、7という数字とそれにまつわる事象には、なにやら不思議なパワーが秘められている、と感じるのは私だけではないでしょう。

そういえば、キリスト教には「7つの大罪」というのもあります。傲慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲がそれですが、これをテーマとしたサスペンス映画で「セブン」というのもありました。

サスペンスというよりも猟奇殺人事件を扱ったホラーに近い内容ですが、これを製作したデヴィッド・フィンチャー監督もまた、その後世界中でもっとも有名な監督のひとりとなりました。が、この映画の内容は、七人の侍とは何の関係もありません。

さすがにこの七つの大罪と七人の仏様を結びつけるのは無理があるでしょうから、やめておきますが、案外とその解釈において仏様が消し去ってくださる罪として理解できるものなのかもしれません。

今度時間があったら、またその紐解きもやってみようかなと思いますが、今日のところは少々多忙なのでやめておきます。もしみなさんのほうで、時間がおありでしたら、ぜひやってみてください。

ちなみに、この7つの大罪に関連するのは、仏様ではなく、7人の悪魔です。かつてのブログ、「メランコリー」にも関連記事あるので、参照してみてください。

さて、2月になります。みなさんも7つの習慣を実行する準備はできましたでしょうか。

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ひろでん

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先週末からの2泊3日の広島旅行は、充実したものでした。

無論、姪の結婚式がメインイベントではあったのですが、行き帰りの久々の飛行機による移動は刺激に満ちたものであり、懐かしい面々との再会、お好み焼きや鮮魚といった広島ならではの食べ物もたらふく食べ、このほかにも久しく訪れていなかった市内各所をぶらつく時間もあって大満足でした。

結婚式当日の日曜日の朝にも、早起きして宿泊していたホテルから2kmほど離れた平和記念公園に出かけました。元安川のほとり沿いで、朝日を浴びて陰影のコントラストでたたずむ原爆ドームはこれまであまりみたことがなく新鮮な姿でした。

今回の旅行ではまた、何度か市内電車にも乗りました。

ご存知の方も多いとは思いますが、広島市内には路面電車がいまだに走っており、しかもその数、種類ともハンパではなく、「動く電車の博物館」と呼ばれています。

この路面電車を運営しているのが、地元の人からは通称「ひろでん(広電)」と呼ばれて親しまれている「広島電鉄」です。日本最大の路面電車事業者であり、中四国地方最大のバス事業者でもあって、電車事業・バス事業・不動産事業の三本が主要事業となっています。

設立当初は、「広島電気軌道株式会社」という名前でした。建設大手の大林組の傘下企業として発足し、同じく大林組が作った「広島瓦斯」はもともとその親会社でした。

この2社は「広島“瓦斯”電軌株式会社」として1つの会社だった時期もありますが、現在では全くの別会社であり、広島瓦斯も「広島ガス」となっています。広島では知る人ぞ知る大会社であり、いずれもが広島を代表する有名企業です。

「広島電気軌道株式会社」としての現在の広島電鉄は、1942年(昭和17年)4月10日に、この広島瓦斯から運輸事業を分離する、という形で設立されています。それ以前にこの広島瓦斯の一事業部門であった時代を含めると、その創立は1910年(明治43年)6月18日にまで遡ることになります。おそらくは広島でも最も古い企業のひとつといえるでしょう。

本社の所在地は中区の千田町というところで、市内の一番賑やかな繁華街ではありませんが、毛利輝元による広島城の築城以降に発達した城下町の中心部であり、広島のみならず、中国地方における中心業務地区 として機能してきた一角です。

1945年(昭和20年)の広島への原子爆弾投下からほんの一時期だけ、市西部の楽々園という場所に移転されていたこともありますが、現在は元に戻っています。

現在のように不動産事業も含めた多角経営を行っている広電の鉄道・軌道事業は、「電車事業本部」というところが担当しています。

さらにその下に電車企画部・電車営業部・電車技術部などがあり、軌道線6路線19.0kmと、鉄道線1路線16.1km、総延長35.1kmの路線を持ち、年間輸送人員は約5500万人で、軌道線と鉄道線を合わせた輸送人員と路線延長は、路面電車としては日本一です。

ちなみに、軌道線というのは、市内を縦横に走る広電のメインの路面電車線のことであり、鉄道線というのは広島市内から、市西部に位置する世界遺産の宮島方面へと向かう路線です。広島にはこの宮島の対岸に佐伯区という巨大なベッドタウンがあり、広島の人口1180万人のおよそ10%にあたる、約13万人がここに暮らしています。

この佐伯区に向かう宮島線は年間の乗客運搬数1719万人と軌道線である市内線での運搬数3780万人に比べてやや少なめですが、これでも地方の一私企業が運営する鉄道が運ぶ員数としてはかなり大きい方でしょう。

市内線と総称される軌道線のほぼ全線は、併用軌道でもあります。併用軌道とは、道路上に敷設された軌道のことで、「軌道」といえどもでは道路上でもあるため、その運行は軌道運転規則だけでなく道路交通法にも準拠して行われています。

広島へ出かけてここでレンタカーを借りたり、あるいは広島へ直接自家用車で乗り入れたことがある人はおわかりでしょうが、市内中心部を縦横に走るこの軌道線上の路面電車の数には本当に驚かされます。

また、どうやってこの路面電車を避けるべきなのか、その前を横切っていいものかどうかドギマギしながら運転をした、という経験をしたことのある人も多いでしょう。私も大学卒業後に免許を取って初めて自分の車で市内を走ったときは、ビビりまくった記憶があります。

この併用軌道上を走る路面電車が、通常の鉄道と違う点は、列車の長さは30m以下に制限されていること、最高速度は40km/h以下に制限されていることなどであり、また進行信号は黄色の矢印、停止信号は赤色×印などが別途用意されていて独特です。

しかし、基本的には道路交通法に従って走ることになっており、自動車用の信号機にも従わなければなりませんから、そうした前知識を持っていさえすれば、それほど恐れる必要もないでしょう。

この路面電車の運賃は、市内線が大人150円・小児80円の均一性ですが、上述の宮島線は区間制であり、運賃系統は別です。

乗車方法は「運賃後払い」方式で、降車時に現金や乗車カード等で運賃箱へ直接支払います。最近は、「PASPY」というICカードも導入されているそうですが、「レトロ電車」としてイベント用に運行されている古い車両にはICカードリーダーは配備されていないとのことで、注意が必要です。

各路線間で直通運転が行われており、合計1番から9番までの8つの運行系統があります。ちなみに、縁起が悪いということなのか、4号線は設定されていません。

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この市内を走る軌道線は、そもそも住民の増加による、広島城のお堀の汚水による伝染病問題を解決するために造られることになったという経緯があります。

日清戦争および日露戦争以降、広島市は爆発的に人口増加していき、その中で広島城の堀の悪臭が目立つようになり、そこで城下町時代の運河として使われていた西塔川や平田屋川といった河川とともに外堀も埋め立てられることになったのです。

この埋め立てを契機に4件の軌道建設申請が出され、審査の結果、大阪系資本の会社と東京系資本の会社の二社が残りましたが、最終的には大林芳五郎・片岡直輝らにより設立された大阪系資本の「広島電気軌道」が1910年(明治43年)に認可されました。

同年6月に資本金300万円で会社組織が立ち上げられましたが、上述のとおり、実際には発足当時には広島瓦斯の一部門としてスタートしています。

明治44年にはそのお堀の埋立も完了し、1912年(大正元年)11月に、現在の宇品線の一部となる広島駅前から紙屋町を経由して御幸橋に至る区間が完成。その後も市内に続々と延線を続け、大正4年ころには、「100形」と呼ばれる車両が50両ほども走るようになりました。

その後、前述のとおり、いったんは広島電気軌道として広島瓦斯から独立しましたが、1917年(大正6年)にはまた広島瓦斯と合併し、資本金600万円で「広島“瓦斯”電軌株式会社」になりました。

ただし、この合併は吸収合併ではなく対等のものでした。夏季に売り上げの多い電車部門と、冬季に売り上げの多いガス部門を統合させることにより、双方の経営体質を安定させるための合併であったそうです。

広島瓦斯電軌となってからは、大正から昭和のはじめまで、大阪市電などから数多くの車両を購入するとともに、次々と新型車両を導入していきました。

1929年(昭和4年)には、県によって市中心部の道路整備計画が建てられ、電車道の幅員も13間半(約24.5m)まで拡幅し、橋梁も道路・軌道併用橋として架け替えられたのを契機に、広島瓦斯電軌側も企業努力として軌道の複線化を行うなどして業務拡大し、私企業としての地位を高めていきました。

その後、1942年(昭和17年)になって、当時の国の政策により再度、運輸部門の分離が決められ臨時株主総会でこれを可決。こうして1942年(昭和17年)4月、広島瓦斯電軌の交通事業部門が分離して、現在の「広島電鉄」が誕生しました。

この頃までには、現在も広島市内を縦横に走る路線網がほぼでき上がっていたようです。また、ちょうどこの頃、保有する路面電車を動かすための集電装置についても大きな技術的な進歩があり、架線から電気を取り入れる「ビューゲル」という装置や、「パンタグラフ」が導入されました。

ビューゲルというのはあまり聞き慣れない用語だと思いますが、パンタグラフにも少々似たΩ型の装置で、古い映画などをみるとこれを屋根にとりつけてある路面電車が出てくることもあるので、見ればあーあれか、とお気づきの方も多いでしょう。

鉄道車両の屋根上に設置されて架線に「スライダーシュー」と呼ばれるすり板を圧接し、摺動させて集電する装置の一種です。

それまでは、トロリーポールと呼ばれる集電装置が使われていました。が、架線を押し上げる力の変動が大きく、質量が大きくて剛性も低いため、架線から外れてしまうこともしばしばあり、かつ火花が飛びやすいという欠点がありました。これがパンタグラフやビューゲルに置き換わることで、電車の運用性が大きく向上されることになりました。

1944年(昭和19年)8月までには、火花が飛びやすいトロリーポールのほぼすべてがビューゲルを置き換えられましたが、これは日本国内初のビューゲルの本格的実用化であったといわれています。

実はこのビューゲルの導入は、それまでのトロリーポールが火花を散らしやすく、これがこのころ既に始まっていた太平洋戦争の最中に飛来するアメリカ軍の標的になりやすかったために、急きょ導入が決められたものでした。

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そして、その実用化に成功した翌年の1945年(昭和20年)8月6日午前8時15分、人類史上初の原子爆弾が広島市に投下されました。

人類が経験したことのない未曾有の被害であり、この原爆投下で広電本社も半壊し、広島市内にあった広電の建物は1棟をのぞき50棟すべてが損壊しました。

当時は1241人の写真が在籍していましたが、このうちの185人が死亡、266人が負傷し、保有していた路面電車車両も、123両のうち108両が被災し、ほぼ壊滅状態となりました。

この原爆が投下された当時、広島市内の人口は約35万人と推定されていますが、その内訳は、居住一般市民約29万人、軍関係約4万人、市外から所用のため市内に入った者約2万人でした。広島は、明治の日清戦争時代に大本営が置かれたこともあり、「軍都」として発展してきた経緯もあり、軍事施設が多かったことも原爆投下の目標とされた理由でした。

この原爆投下により、爆心地から500メートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約90パーセントを越え、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、即死および即日死の死亡率が約60から70パーセントに及びました。

さらに生き残った者も7日目までに約半数が死亡、次の7日間でさらに25パーセントが死亡していきました。11月までの集計では、爆心地から500メートル以内での被爆者は98から99パーセントが死亡し、500メートルから1キロメートル以内での被爆者では、約90パーセントが死亡しました。

1945年(昭和20年)の8月から12月の間の被爆死亡者は、9万人ないし12万人と推定されています。

火災は市内中心部の半径2キロメートルに集中していた家屋密集地の全域に広がり、大火による大量の熱気は強い上昇気流を生じ、それは周辺部から中心への強風を生み出し、火災旋風を引き起こしました。

風速は次第に強くなり18メートル/秒に達し、さらに旋風が生じて市北部を吹き荒れ、火災は半径2キロメートル以内の全ての家屋、半径3キロメートル以内の9割の家屋を焼失させました。

こうした中で、爆心地から僅か700m付近で脱線し黒焦げ状態で発見された電車があり、これは通称「被爆電車」と呼ばれ、奇跡的に残ったことから、修理改造され今も現役使用されています。

これは、広島電鉄650形という電車で、このころの広電の電車は4輪固定の単車ばかりであった中にあって、エアブレーキ装備を装備し、固定車輪ではなく、走行中に車輪を左右に動かすことのできる「ボギー」と呼ばれる車両であり、この当時は大変近代的な車輌として迎えられたといわれています。

原子爆弾の投下により、この広電が保有していたこの650型も全車が焼損し、全半壊しましたが、このうちの4両が被爆翌年の1946年3月までに原形に近い形で復旧し、そのうちの2両は、いまだ朝夕のラッシュ時に使われ、「被爆電車」として親しまれているということです。

この原爆投下では、爆心地を通過していた広電の車両の一両が、炎上したまま遺骸を乗せて、慣性力で暫く走り続けていたことなどが目撃されており、この電車に乗っていた乗客は吊革を手で持った形のまま発見されています。また運転台でマスター・コントローラーを握ったまま死んだ女性運転士もいたそうです。

このころ、広電は、学校事業も営んでおり、「広島電鉄家政女学校」という学校を1943年(昭和18年)4月に開校しています。3年制の全寮制女学校であり、943年第1期生は72人で、この1945年に当時には309人が在学していました。実業校であり、卒業後は広島電鉄に就職することが義務付けられていたようです。

太平洋戦争中には、戦地へと動員されることも多くなった広電職員の代わりとして、ここの生徒が電車・バスの車掌および電車の運転業務を務めていたそうで、上述の電車内で亡くなったという運転手もまたここの生徒であったようです。

実際、広島電鉄家政女学校では、普通の学科の他に電車運行の授業もあり、入学1年目から車掌を務めた後、2年目には電車の運転業務も任されていたそうです。交替制で、午前授業/午後業務と午前業務/午後授業の2グループで運営されていたといいます。

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この学校は、市中心部からやや西にある皆実町というところにあり、これは現在の南区皆実町二丁目ゆめタウン広島北側の一角にあたります。

入学対象者は国民学校高等科を卒業した女子に限られ、「電車の運転を手伝えばミシンやタイプライターも教える」が募集の際の謳い文句だったそうで、女学校の卒業資格と運転業務による賃金がもらえ、しかも全寮制のため衣食住が約束されていることから、人気が高かったようです。

生徒のほとんどは県北や島根県・鳥取県の農山村部出身であり、こうした田舎から都会の広島へ出て、広電に就職できるというのは、彼女たちにとっては文字通りのドリームカムトゥルーだったでしょう。

しかし原子爆弾投下によりこの学校も被爆。校舎は爆心地から約2.1キロメートルに位置していたため、全焼を免れませんでした。在校生のほとんどは学生寮の食堂におり朝食途中のことだったようで、このとき教師1名および生徒30名が被爆死しました。この中には前述のように電車運営の業務中に死亡した生徒も含まれています。

無事だった生徒は姉妹校である市西部の鈴峯という高台にあった、実践女学校に避難しました。この実践女学校が救護所となったこともあり、生き残った生徒たちはここに市内からぞくぞくと押し寄せてくる負傷者の看護にも当たったといいます。

広電自体はその後、職員や軍関係者の懸命な復旧作業により、3日後の8月9日には己斐から西天満町間までの単線運転を再開し、この際、家政女学校の生徒も業務に復帰しました。復旧1番電車の車掌はここの生徒であるという記録も残っているそうです。

終戦後、被爆からの復興に加え同年9月枕崎台風による水害により、市内の天満川に架かる広島電鉄の軌道専用橋梁である「広電天満橋」が落橋するなどしたこともあり、路線復旧費用がかさんだため、なかなか家政女学校の校舎復旧の目処はたちませんでした。

またその後終戦を迎えて男性運転士が復員してきたこともあり、この結果広電は運営を続けることを断念し、こうして家政学校は廃校の憂き目を見ることとなりました。

生徒たちはその一報を避難していた実践女学校の講堂で聞いて茫然自失になったといい、級長が島崎藤村が創作した「椰子の実」を歌いだすと皆泣きじゃくったといいます。

この「椰子の実」の歌詞は次のようなものでした。

名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月
旧(もと)の木は生(お)いや茂れる 枝はなお影をやなせる
われもまた渚を枕 孤身(ひとりみ)の 浮寝の旅ぞ
実をとりて胸にあつれば 新たなり流離の憂
海の日の沈むを見れば 激(たぎ)り落つ異郷の涙
思いやる八重の汐々 いずれの日にか故国(くに)に帰らん

この歌は島根や鳥取の田舎から出てきた者が多かった彼女たちにとっては、心の拠り所のひとつとなる抒情詩だったようです。しかし、その翌日、生徒たちは実践女学校から離れ、散り散りになっていきました。

その後、1976年(昭和51年)には、「広島県動員学徒犠牲者の会」の運動により、被爆死した生徒および教師が「公務死」として厚生省に認められたそうで、現在、広島電鉄の本社内にその被爆死した生徒と教師の慰霊碑が設けられています。広島平和記念公園内にある「戦没学徒慰霊碑」にもここの名前である「広電家政」が刻まれているそうです。

当時、彼女たちが運転をしていた被爆電車は、前述のとおり今も朝夕のラッシュ時に使われていますが、保存されている他の一両については平和学習や原爆記念日などを中心に運行されているそうで、その中で家政女学校の話なども伝えられているということです。

このように原爆投下によって大きなダメージを受けた広電でしたが、宮島線は被爆翌日の7日には運行を始め、翌8日には全線で運行再開しました。

市内線についても、広電社員と軍の東京電信隊40名の協力により、電柱をトラックとロープを使って立て直したりしましたが、この作業を陸軍の船舶司令部に所属していた、通称「暁部隊」も手伝いました。

この暁部隊というのは、海上輸送など「海」にかかわることを担当していた陸軍の部隊であり、市の南部の広島港に隣接する宇品に司令部があり、その隊員の多くは少年兵たちでした。

彼らが所有していたマスト300本も活用され、さらに電線を引き直すなど行い、廿日市変電所から送電を行うことで、早くも8月9日には市西部の己斐から中央部の西天満町(現在の天満町)までの間で折り返し運転を再開することができるようになりました。

しかし、この復旧ではまだ、単線で運営が行われていました。しかもその時使われた車両は、2~3両にすぎなかったそうです。運行再開時に運賃が払えない乗客に無理に請求を行わなかったとも伝えられており、運行再開は途方にくれる市民を大いに勇気付けたとされています。

こうした努力により、終戦直前の8月14日までには、かなりの路線が復旧しました。戦後も復旧は進み、1952年(昭和27年)3月には、道路の付け替えで復旧が遅れていた白島線が復旧したことで、戦前までに運営していた路線のほぼ全部が復旧。

1951年(昭和26年)には800形と呼ばれる新型車両を10両導入したのを皮切りに、1953年(昭和28年)に5両、1955年(昭和30年)にも5両と次々に新型車両を導入してそのラインナップの充実が図られていきました。

また沿線整備も進められ、「楽々園」と呼ばれていた遊園地の内容も充実させて、市民の憩いの場として親しまれるようになりました。

宮島線の延長として、1958年(昭和33年)には、宮島松大観光船(現・宮島松大汽船)に出資して、宮島までのフェリー運営にも参画。その翌年の1959年(昭和34年)には、広島電鉄が大株主の広島観光開発が、「宮島ロープウエー」を開通させています。

ちなみに、この広電が開設した、楽々園は、この当時「電車で楽々行ける遊園地」というキャッチフレーズで広島の人に知られるようになり、1950年代に行われたテコ入れによって新しい遊具が増えると大レジャーランドとなり市民に親しまれました。

私の幼いころには、広島で遊園地といえばこの楽々園と乳製品を製造するチチヤスが運営していたチチヤスハイパークぐらいであり、安い入場料で日がな一日過ごすことのできるこの両者へ連れて行ってもらうのが楽しみで楽しみでしかたがありませんでした。

残念ながら、楽々園もチチヤスハイパークもその後集客数が減少していきました。楽々園のほうは1971年(昭和47年)に閉鎖され、現在はその跡地にショッピングセンターが建設されています。また、チチヤスハイパークのほうもその後中国新聞社に売却されてから規模を縮小され、現在はプールなどが運営されているだけということです。

が、「楽々園」の地名は閉園後も残され、現在でも広島近辺で単に「楽々園」といえば、この遊園地の跡地周辺であると般的には理解されているほど、広島の人には親しまれている場所です。

こうして戦後めざましい復活を果たした広電でしたが、昭和30~40年代には他の都市の路面電車と同様にモータリゼーションの進展に伴う渋滞の増加で定時運行ができなくなったことから利用客の減少により売り上げが減るようになりました。

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このため存廃問題に立たされるようになっいった広電ですが、ちょうどこのころ、広島市に地下鉄建設計画が持ち上がり、このために設立された会社に全株式を移行しようと検討された一時期もあったようです。

1963年(昭和38年)には、これまでにはありえないことであった軌道敷内への車両乗り入れが市から許可されるなど、邪魔者扱いを受けるようになったのもちょうどこのころのことです。

しかし、この地下鉄計画は、市中心部が太田川河口部の三角州にあって地下水脈や地質などの問題があるとされたため、結局この当時の技術では大規模な地下鉄建設は難しいと判断されて、見送られることとなりました。

この結果、広電の移設問題も廃止となりました。しかし経営悪化の問題解消の糸口はなかなかつかめず、このため、広電関係者が市や広島県警などにも働きかけて、当時路面電車が多数残っていたヨーロッパに調査団を派遣して共に調査をしようということになりました。

そして彼らがヨーロッパで見たものは、中心地の渋滞緩和のための方法としての新たな役割を任され、進化した新時代の路面電車の姿でした。

こうして1971年(昭和46年)、広電は「電車を守る」宣言を行い、路面電車存続へ方針転換します。そして路面電車の運営形態の見直しを進め、その結果、軌道廃止に伴う代替交通機関が決まらないまま廃止したならば、中心街のさらなる交通環境の悪化を引き起こすという結論に至ります。

こうした検討結果を市や警察にも知らせて彼らにも再度働きかけ、1963年(昭和38年)から8年もの間継続されていた軌道内への自動車進入を、1971年(昭和46年)には再びやめさせることに成功。

さらには、市内の全面駐車禁止、電車優先信号設置、右折レーン設置などの施策などを次々と実現させていきました。また、廃止された全国の鉄道事業者から車両の譲渡を受け、固定車両だった単車をボギー車に置き換えることで機動性を増し、さらには車両の大型化を図った上で、ワンマンカー化と高速化を推進しました。

こうした機構改正や合理化などを行い、1969年(昭和44年)には市中心部を走る白島線でワンマン運転を開始。1976年(昭和51年)に市内線は、ラッシュ時をのぞきほぼ全線でのワンマン運転化を実現。これが奏して経営は安定し、滅亡の危機にあった会社は復活しました。

さらに大阪市電から既に譲り受けていた750形や900形といった大型車両を核とし、1971年(昭和46年)にも神戸市電より比較的新しい車両を購入するなどによって、車両の大型化を進めていき、1973年から1974年にかけては、8両の車両を2両連結車に改造しました。

この750形電車というのは、1965年に大阪市電から譲り受けて登場させたもので、そもそも輸送力の小さい従来の単車を置き換え、大幅な輸送力増強を図るために導入されたものでした。

導入当時は広電の「標準色」としてのクリームとグリーンで彩色されていましたが、その後神戸市電や大阪市電から別の電車を導入した際、大阪市電色のクリームと茶色を経費節減から広電標準色に塗り替えずに使用しました。

この結果、複数色で種類の違う多数の電車が市内を走ることとなり、これが、観光客等の目にとまって「電車博物館」と呼ばれて好評を博す結果となりました。

つまり、この750形電車は、実質的に広電が「動く電車博物館」の異名を持つに至ったルーツといえる車輌になります。

「動く電車の博物館」や「路面電車の博物館」などと異名でファンから呼ばれるようになった当初は、広電はこの名称を嫌い、塗り替え色の公募を行ったそうですが、地元デザイン会議のメンバーの反対により、塗り替えを断念して現在に至っています。

塗り替えの手間が省けるようになった一方で、そのための費用を乗客へのサービスに転換し、方向幕の大型化、冷房改造などを積極的に行いました。

また、広電自らが開発導入した原型の電車にはには必ずしもこだわらず、他の街から購入した移籍車両の側面には、1979年(昭和54年)からは旧在籍事業者・移籍年を記載した「移籍プレート」を取り付けるほどになりました。

こうした、「路面電車の博物館」路線は、更に雑多な電車の導入へと拍車をかけていきました。日本国内だけでなく、外国からも車両の導入が行われるようになり、1977年(昭和52年)の開業65年時には、ドイツのドルトムント市の中古車両を導入が決定されました。

この電車は、1編成に付き車両購入費500万円・輸送費1500万円・改造費2500万円をかけて、1981年(昭和56年)に移籍を果たし、現在も広島市内を走り回っています。

このほかにも広島市とドイツのハノーバー市との姉妹都市提携を記念し、広島市が茶室を送った返礼として、1989年(平成元年)には、通称「ハノーバー電車」と呼ばれる車両も贈られました。1986年(昭和61年)には、逆に広電からサンフランシスコ市に500形の電車が寄贈されています。

外国からの電車導入はその後も続き、1988年(昭和63年)には、西ドイツから、「ピースバーン号」が導入され、その車体にはドイツの画家、ジョー・ブロッケルホフによりスプレー画が描かれ話題になりました。

その後、1980年(昭和55年)には、久方ぶりの新車になる3500形を導入。これは「軽快電車」と呼ばれる省エネタイプの車両で、このほかにも、廃車になった車両の中古モーターを利用した「セミ軽快電車」とよばれるものを次々と導入していきました。

1990年(平成2年)から広電は、欧州視察を行うなど、路面電車が急速に見直される中で新時代の公共交通機関を目指してLRT化に積極的に取り組んでいます。

LRTとは、ライトレールトランジット(Light rail transit, LRT)の略で、和訳としては「軽量軌道交通」になります。「1両ないし数両編成の列車が走行する、誰にも利便性が高く低コストで輸送能力の高い都市鉄道システム」の意であり、低コストな敷設で市の中心部と郊外を結び、高頻度な直通運行を行うことができるシステムです。

軽快電車をさらに進化させた、バリアフリー対応の超低床電車の導入も1990年代から検討しており、この結果、日本の気候に合った100%低床車両を実現したドイツシーメンス製のGREEN MOVER5000形も、1999年(平成11年)より導入されました。

この5000形は完成が遅れ船便で送った場合に、到着時期が政府の補助金給付期限を過ぎてしまうため、大型輸送機で空輸されており、このとき広島空港には多数の鉄道ファンと航空ファンが押しかけ、その様子が多くのマスコミから報道されました。ちなみにこの車両は、バリアフリー化推進功労者表彰・内閣官房長官賞を受賞しています。

しかしその後、広電としては、海外の車両を使うことで、車両を輸入することによる輸送費の増大を問題視するとともに、部品を輸入することでコストが高く時間がかかることや車両構造が日本での運用を考慮してないことなどの問題から、新たに海外からの輸入車両を増やすことは断念したようです。

そのかわりに、日本国産の低床車両の開発を開始しており、2004年(平成16年)には、国産初の100%超低床電車、「Green mover max 5100形」の運用が開始されました。また、既存の車両についても出入口に補助ステップ(踏み台)を設置するなど、高齢社会に相応しい公共交通機関を目指しています。

2013年1月発行の「路面鉄道年鑑2013」によれば、現時点での広電の在籍車両数は、299両におよび、このうち一両編成の「単行車」は13種68両、二両以上の「連接車」は10種62編成にもなります。このほか、上述の被爆電車を含む休車・保存車も3種20両ほど残されているようです。

広電は、2013年(平成25年)12月に、今年4月からの消費税増税に伴う運賃改訂を申請しており、これによれば、現在の市内線運賃は10円の値上げされ、160円になる予定です。

しかし、これだけたくさんの「生きた博物館」をこの値段でみれるなら安いと思いますし、しかも、これに乗って市内各地を見物できるというのは大変お得だと思います。

ちなみに、世界遺産である原爆ドーム前には、市内に9つある路線のうちの5つの路線が停車して、ここから数分の距離にあるドームを見に行くことができます。

原爆ドームをまだ見たことのないあなた、広島の動く博物館もまだ見ていないあなたも、ぜひ今年はこれを見に行ってほしいと思います。

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