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夢の途中 6 浜松

こうしたことを書いていると、大学時代のことで書くことというのはそれこそ山ほどあることに改めて気づく。その後の人生を考えても、これほど密度が濃かった時間はない。多くのことを経験し、いろんなことを吸収した。

今考えても、現在の自分を形成する骨格は、ほとんどこのころにかたち創られたといってもいい。

その延長上にある大学卒業後のこともそろそろ書いていきたい気分もある。しかし、自伝であるこの稿においては、もう少しどうしても書いておかなければならないことがいくつかある。

焼津時代の後半、そろそろ二年生になって数か月が経とうとしていた。このころまでには下宿生活にも慣れ、家族と離れて暮らしているといった悲哀はまったく感じなくなっていた。多くの友達にも恵まれて毎日が楽しく、大学のカリキュラムにも余裕があったため、ストレスなく過ごせていた。

学校まで約30分の登山活動もまた、体を鍛えるにも効果的で、大学受験の前後、精神的にも肉体的にも疲弊していたことが嘘たったかのように健康を取り戻していた。おそらく中学校時代以来だろう、穏やかな気持ちで毎日を送っていた。

「ヤニの部屋」ではさらに入場者が増え、下宿の内外からいろいろなタイプの人間が集まるようになっていた。出身地はもとより、性格も好みもそれぞれ違っていたが、共通しているのはみんなエネルギーを持て余している、という点だった。

その余った力を勉強に向ければよさそうなものだが、学校をさぼって焼津の町をぶらつく者、アルバイトに没頭する者、パチンコなどのギャンブルに手を出す奴もいた。良し悪しは別として何か新しいことにみんな飢えていたことは確かだ。それほどこの片田舎の学生生活は退屈だった。

私もそのひとりだった。勉強はそれほど必死にならなくても、悠々と人の前に出ることができる。高校時代に熱中した写真活動も復活し、アルバイトで稼いだ金で新しいカメラを買ったりしたが、当時ほどの情熱は戻ってこず、時折撮影に出る程度だった。

同じ寮で、栃木出身の伊藤君という友達がいた。同じ学科であることから学校で一緒にいることが多かったが、寮へ帰ってからのプライべートの時間も共有できる友人だった。彼もまたカメラが趣味だということが仲良くなったきっかけだが、その彼からはほかのことでも影響を受けた。

ジャズフュージョンが好きで、その関連でオーディオ機器にも詳しい。その彼に触発されて、あまり高くない程度のオーディオを私も買ったりした。FMラジオをエアチェックしたテープをたくさん持っていたので、借りて聞いているうちに私も虜になり、自分でもエアチェックをするようになった。

アースウィンド&ファイヤーやシャカタク、チック・コリアやカシオペアといった、この時代を一世風靡したフュージョンの名曲の多くは現在までも聞き続けている。

しかし、カメラにせよ音楽にせよ、所詮は個人趣味だ。一日中没頭できるほど時間を潰せるわけではなく、第一、ひとりの世界に閉じこもるのは不健康だ。私を含め「ヤニの部屋」に集まる面々のあり余ったエネルギーを発散させるため、また自分のためにも何か新しいことを始められないか、と考え始めていた。

あるとき、ヤニの部屋の住人のうち、とりわけそうした新しいことを好みそうな者数人が集まって私と雑談をしていた。そのとき誰が言ったのか、あるいは私が言ったのか忘れたが、「射撃って難しいんだろうか」という話題になった。

なぜ射撃なのか、ほかにも面白そうなことはあったかもしれないが、その話題にみんなが飛びつき、それで新しいサークルを作るのも面白いかも、と口々に言い出した。確かに学内にはいろいろな部活があるが、射撃部はない。それにしてもいかにも危なそうな飛び道具を使ったクラブ活動がはたして実現するものなのかどうか。

何の情報もないため、その場では何の結論もでなかったが、とりあえず俺が調べてみるよと自分が請け合い、その後焼津市内の書店や市立図書館などで情報を集め始めた。

すると、いろいろなことがわかってきた。まず、射撃にもいろいろあるが、オリンピック競技に採用されているようなポピュラーなものは、大きくわけて散弾を使うクレー射撃と精密射撃を行うライフル射撃の二つだ。

クレー射撃は散弾を広範囲に飛ばすために強い火力が必要で、火薬が不可欠だ。一方、ライフル射撃には火薬を使うジャンルと、火薬を使わないふたつの分野がある。

火薬を使うライフルは国内では所有が厳しく制限されているが、火薬を使わないタイプはエアライフルという。すなわち空気銃であり、それほど規制も厳しくない。筆記試験を受けて受かれば、申請して銃を持つことも夢ではない。

このころ、ヤニの部屋に入り浸っていた外部からの訪問者の一人に、里田君という人物がいた。市内にある水産会社の社長の息子で、市内に一人でアパートを借り、そこから車で学校まで通学している。いわゆるボンボンだ。

父の会社を継ぐために必要な水産の知識を得ることが目的で入学し、ここでは養殖学科に所属していた。同じくヤニ部屋には養殖学科に所属する人間が何人か出入りしており、彼らがここに来る呼び水になったようだ。

おっとりした性格でいつもニコニコしていたが、意外と行動派で、この射撃部創設の話を聞くと、眼を輝かせて自分も仲間に入れろという。父が社長だけあって顔が広いらしく、射撃部を作るためのアドバイスをしてくれる人間を探してみる、と言い出した。

ヤニ部屋の面々の中でもこの話をしているのはごく数人だ。まだ部を作ろうといった具体的なプランは何も出ていない段階だったが、その申し出によって話はとんとん拍子に進み始めた。

孤独癖があるくせに、人を集めて意見をまとめる、ということは妙に得意だった私は、ここで中心的な役割を担うようになっていく。

最初のメンバーはこの里田含めて4~5人だったが、寮内外に声をかけるとたちまち10人以上に膨れ上がった。部活動として認められる人数は8人ほどだったから、既に人数的には十分である。

ただ、大学側にその設立を認めてもらうためには予算計画や、設立趣意書、規約や練習計画といった多くの書類を作成しなければならない。顧問の先生やコーチといった指導者も誰かに乞わねばならず、部活動を開始するための手続きは結構面倒なものであった。

そうした書類関係の作成、手続きは結局ほとんどすべてを私がやり、大学との交渉、指導者の要請など渉外的な事柄は里田がやった。部活動の方針を決めるため、頻繁にグループディスカッションを開いたが、その中である時、ところで部長は誰にするか、という提議が出た。

一同が一斉に私のほうを向いた。

が、このとき私はそれを是としなかった。理由はいくつかあったが、ひとつは中学時代の経験から、リーダーというのは傍が考える以上のプレッシャーがかかる役割だということを実感していたからだ。高校時代にも写真部で責任ある立場にされかかったことがあるが断ったことは前にも書いた。

生来、リーダーというよりもサブリーダーのほうが性に合っていると思っており、あるいは補佐役として指導者をサポートする側のほうが向いていると考えていた。このため、このときもリーダーよりも、サブリーダーの立場を選んだ。

これはこのあと、私の人生におけるポリシーのようになっていった。人の上に立つのを嫌い、いつも目立たないようにふるまうのが常となった。陰で人を操るフィクサーのような存在ともいえ、悪ぶるところのある私にはぴったりだ。

サブリーダーを選んだのには、別の理由もあった。リーダーになれば、四六時中人に指示を出さなければならず、いつも取り巻きに囲まれ、人と繋がっていなければならない。リーダーは孤独だ、ということがよく言われるが、それは心理的な面を指しているのであって、物理的に孤独はありえない。当然、一人が好きな私には向かない。

サポート役なら、組織員に直接命令を下す必要はない。ある程度のコミュニケーションがとれればいい。人との付き合いはなんとなればリーダーに押し付ければ済むわけで、私のように自己完結を好み、単独行動が好きな人間にはサブリーダーのほうが向いている。

もっともリーダーほどではないにせよ調整能力は必要だ。チーム全員の動向をある程度把握できる能力がなければならず、孤独でいつも押し黙っているようでは務まらない。チームのムードメーカー的な役割が求められる。

その点、私は場の雰囲気というのを読むのが得意で、全体の話をそれとなく自分が望む方向に持っていける、という特技を持っていた。これは、子供のころから培われてきた「オヤジ殺し」の才能の進化形ともいえる。

一方では優柔不断だから決断力はなく、リーダーには向いていない。このため、その役割は里田にやらせることにし、私は副部長、ということで皆を納得させ、そのとおり学校に申告することになった。




こうして、数か月後、わが射撃部は正式に学校側に認められた。年間の活動費用をもらえるようになり、またトレーニングをするにあたり、学内の設備はどんなものを使っても良い、との許可を得た。ただ、まだ部室は与えられず、着替えなどは空いている教室を使うよう指示された。

この射撃部創設にあたっては、実は警察公安からの調査が入っていた、ということを後から知った。広島に住まう両親の元にある日、警察がやってきたといい、その目的はリーダー格である私が怪しい人物であるかどうかを確認したい、ということだったようだ。

これには面食らったが、考えてもみれば、部として成立すれば、そのメンバー十数人が一同に人を殺傷する能力がある道具を手にすることになる。もしその集団が狂気的なものであった場合、社会的な脅威になるわけであり、警察にすれば、そうなる前にその組織化を阻止しなければならない。

無論、我々は銃を手にした過激組織になろうとしていたわけではない。当然、調査の結果、何も危ない奴らではない、ということになったのだろう、結局のところ、何のお咎めもなかった。

おそらく学校へも警察から問い合わせがあったのだろうと思うが、その際、私が作成した創設趣意書などの書類も提出されたに違いない。こうした書類の作成には細心の注意を払ったつもりであったが、その結果として部の創設が認められたのだと思うと、うれしかった。

それにしても、何も知らない両親はさぞかし驚いただろう。わが息子はいったい何をやらかしたのか、と思ったに違いない。私自身まさか、広島の実家にまで警察が行くとは考えていなかったので、何も告げていなかったのだが、のちに二人から警察による突然の訪問のことを聞いて、少し心が痛んだ。

こうした小さなトラブルはあったものの、無事に射撃部の活動が大学からも公安からも認められた格好だが、まだまだ問題は山積みだった。その最大の問題は、射撃部といっても我々誰しもが射撃などやったことはなく、また銃そのものも手にしたことない、ということであった。

部として活動していくためには、どうしてもその専門家による指導が必要だった。そうした指導者としては学内の人間、できれば教職にある人が望ましかったが、こんな片田舎の大学のキャンパスにそんな都合のいい人がいるわけがない。

しかし学外からコーチを招いている他の部活もあり、とくに教職にある人なら問題ないようだったので、これについては、かねてより里田が接触していた静岡市内の高専の先生を招聘することにし、大学に申し出て了承を得た。

ところが、この先生はただものではなかった。自らも射撃の選手をしており、エア射撃の一つのジャンル、エアピストルの名手だった。国体にも参加したことがある本物だ。一見、やわな体のように見えるが、運動神経は抜群で体がものすごくしなやかだった。

のちにこの先生に教わったところによると、射撃には筋肉は禁物なのだそうで、あまり隆々となると撃てなくなるという。むしろ柔軟性が必要だということで、しなやかな体を作るためにはやはりトレーニングは欠かせない。

その後、我々が画策した射撃部は学校側に正式意に認められ、かくしてこの顧問兼、トレーナーの先生を筆頭に部活動が始まった。基本的には毎日トレーニングを行うが、2日に一度ほどのペースで先生にも来てもらい、実践的な指導をしてもらうことになった。

日々のトレーニングの内容としてはランニングを基本とし、これに柔軟運動が加わる。腹筋背筋を鍛えるための前屈背屈運動に加え、腕立て伏せや片足座屈などを組み合わせたもので、複雑なものはない。ただ、単純であるということは実はハードである、ということを後で思い知った。

とくにきつかったのはランニングで、もともと山中にあるこの大学では、ほとんど平場はない。一周400mほどの小さなグラウンドを出ればあとは山道ばかりで、片道1キロもこれを登れば脈拍は最高レベルに達する。

さらにそのあとに柔軟運動が待っている。一番ヘビーなのが、片足座屈であり、これは片足だけで立ち、どこにも手をつかず、その軸足一本だけを曲げ伸ばして上体を持ち上げまた下げる、というものだ。実際にやってみていただきたい。かなり足を鍛えないとできない。

コーチの先生はこれを楽々とやっていたが、最初からできる者は私を含めて数人しかいなかった。ちなみにのちに私はこれを一人で練習し、最終的には両片足ともに20回は楽にできるようになった。また、ランニングについても、一番先に順応し、長い坂道を一番で駆け上がるのはいつも私だった。

それまでは体育系のサークルに入ったことは一度もなく、自分の体力がどのくらいあるのか考えてもみなかった。ところが、意外に順応できていることに驚いた。やればできるじゃん、ということで、それまでにも増してトレーニングに励むようになった。

まがりなりにもサブリーダーである。自分自身が率先してをやらねば示しがつかない、ということもある。そういう気分が、トレーニングにはっぱをかけた、ということもあっただろう。

が、考えてみれば小中高と学校に歩いて通ったように、もともと自分の体をいじめ、鍛えることには前向きだった。このときもこの苦行に、次第に快感を覚えるようになっていった。

通学のようにただ単に歩くということではなく、射撃というひとつのスポーツを通じて、体を鍛えるということに目覚めたわけで、学業以外のことで意欲的に自分の能力を伸ばすようになっていったことは新鮮だった。

それまでの人生ではありえなかったことであり、自分にはまた別の能力があり、それが開花し始めたのだ、と考えるとそれは驚きでもあった。人間とはいったいどれほど潜在的な能力を持っているのだろう。

ところが、私以外の面々もそうだったかといえば、必ずしもそうとはいえない。入部した部員は、私も含めてそれまでは日頃帰宅部を決め込んでいた元オタク少年ばかりである。他の運動部と比較しても遜色ないほどの練習量に根をあげる奴が次々とでてくるようになり、日々の練習を休むやつも目立ってきた。

それは、小中学校時代、理由をつけては水泳の時間をさぼっていたかつての自分をみているようでもあった。ただ、脱落者は出なかった。というか、出さなかった。特段罰則などは設けなかったためであり、休みたい奴は休め、という方針だった。

だがしかし、射撃に限らずなんでもそうだが、訓練を積まなければうまくなるはずはない。練習をさぼった者は、その後実際に銃を手にしても一向に上達しなかった。

トレーニングではこれ以外にも、銃を構えたときの姿勢制御の練習、といったこともやった。いわゆる、シャドートレーニングで、このときはまだ銃は手にしていなかったので、銃と同じ長さ、重さの棒などを使う。

棒を目の前で構え、上半身をやや後ろに倒しながら腰は前のほうに突き出す、いわゆる「立射」の構えをこのとき初めて学んだ。この構えでは、ほぼSの字に体を折り曲げ、そのまま長時間立ち続けなければならない。なるほど体が柔軟でなければだめだ、というあたりまえのことが、この練習でわかった。

実際の銃を手にし、実弾を打てるようになったのは、トレーニングを始めるようになってから三ヵ月ほども経ったあとだった。既に正式に部活動が学校から認められていたが、まだ実際の射撃はしておらず、もうすぐ2年生の夏休みを迎えようとしていた。

射撃の場合、その道具である銃は他のスポーツのようにレンタルというわけにはいかない。その所持は許可制であるためであり、自前で買って用意し、警察署でそのナンバーなどを登録する必要がある。その費用について、私自身は春休みの間いつものように測量のアルバイトをしており、銃を買うために十分な額を用意できていた。

しかし、さらに購入の前には公安が主催する「猟銃等講習会」という講習を受けなければならない。講習の終わりには、考査があり、合格の場合修了証が交付され、これをもって初めて銃を持つことが許される。

試験そのものはさほど難しくない。銃刀法に関する法律文を熟読して中身を理解し、30問ほどの答案用紙に〇☓をつけていくだけの簡単なものだ。ところが、あろうことか私はこの試験に落ちた。他のメンバーは全員がパスしたのに、である。

原因はあまりにも簡単なテストなので油断をしたことと、あらかじめ法令を十分に読みこなすなどの準備を怠ったことにある。が、サブリーダーが銃を持つ資格がない、というのではさすがに皆に示しがつかない。幸い、一回限りの試験ではなかったため、もう一度受験しなおして合格し事なきを得たが、冷や汗ものだった。

こうしてようやくほんもの銃を手にする日が来た。購入したのは東京、恵比寿にある「タクト」という銃砲店だ。静岡にも銃砲店はあるが、こうした競技専門の銃を扱っているところはひとつもない。

また競技専門の銃はそのほとんどが輸入品だ。国産もあるが、精度が低いとされ、国際大会などでは見向きもされない。外国製の銃のなかでも最高級といわれたのが、ファインベルグバウというドイツ製である。ほかにワルサーなど、ピストルで有名なメーカー品もあるが、多くの競技者がファインベルグバウを使っていた。

そうした輸入品を扱っている業者は日本全国でも少なく、調べたところ静岡から一番近い店がそのタクトだった。恵比寿の駅を降り、商店街が立ち並ぶ通りにその店はあった。4~5人がまとまって上京し、銃を受け取ることにした。あらかじめ注文してあったので、あとは代金を払い持ち帰るだけである。

店に入り、店主からいろいろ説明を受けたあと、注文していた銃を受け取ったが、初めて手にするそれに手が震えた。まがりなりにも本物だ。扱いを間違うと、人を殺傷する凶器になるし、他人に盗まれては大変なことになる。

このため、自宅に持ち帰っても、鍵付きの金属製のロッカーを用意して自分以外の人間がそれを開けないよう、厳重に管理することが求められる。

そもそも銃というものの原理はすべて同じで、吹き矢と変わりない。鉄で作った筒に弾を込め、入り口から圧縮した空気を送り込み、出口から射出する。その空気を送り出す原動力を圧搾機に求めたのが空気銃であり、爆薬による発動力に求めたのが火薬銃ということになる。

ところが、空気銃の場合、「空気」という日本語に惑わされ、威力がない、と思っている人が多い。しかしそれは違う。圧縮した空気により筒から射出される弾の速度は、小型拳銃に匹敵する。当たりどころが悪ければ死に至らしめる凶器であり、それを持つことには重大な責任が伴う。空気銃=殺傷能力がない、という理解・認識自体が間違っているのだ。

戦前、日本では誰しもがこの空気銃を持つことができた。が、それは家の周りにいる小鳥などの小動物を捕獲するため、あるいはイノシシや鹿などの作物を荒らす害獣を脅かすためのものであり、威力も精度もたいしたものではなかった。いわゆる「鉄砲」の域を出るものではない。

現在のエアライフルと比べれば雲泥の差がある。ライフルとは「旋状」の意味であり、近代的な銃の中には弾を射出する筒の中にらせん状の溝が彫ってある。これにより発射する弾丸を回転させ、進む方向を安定させることができるとともに、対象物に当たったときにはその衝撃を大きくする効果がある。

標的に正確に当てる銃を作るためには、このライフル加工が必然であるとともに、ほかにも極めて高度な加工技術が必要である。高い圧力がかかる銃の強度を高めるための精錬技術、弾を込め発射するまでの複雑な連動機構、正確な射的を可能にするための照準装置などがそれである。

隣接する国同士が争う期間が長かった欧米では、火薬が発明されて以降、それを最大限に活用する技術として銃の製造がさかんになった。日本にも輸入された火縄銃のような原始的な銃に始まり、その技術はいくつかの大きな戦争を経て洗練され、現在のようなものになっていった。

一方、一次・二次世界大戦のようなグローバルな争いがなくなった近代以降は、大容量の火薬に大きな弾丸といったオーバースペックな銃は必ずしも必要なくなった。比較的治安の良い国や地域が増え、日常的な防衛のためには最小限の威力を持った銃があればいい、ということになった。

さまざまな試行の結果、弾丸を射出する原動力も必ずしも火薬である必要はない、という結論に達し、エアライフルのようなエコノミックな銃が生まれた。

一方、いざ戦争が始まったときのためには、射撃技術を保ち続けることが必要である。その必然性から日々の射撃練習が行われるようになり、射撃に巧みな者同士を競わせるなかからスポーツ射撃というジャンルが生まれた。火薬を使わないエアライフルは万人に受け入れられやすく、平和的なスポーツ競技の道具としてはぴったりだ。

この点、かつて同様に戦争の武器であったアーチェリーや槍投げなどと同じである。射撃と同様にスポーツ競技として生き残り、オリンピック競技として親しまれている。

戦争の名残といえば、マラソンもかつては伝令が前線からの報告をもたらすために走ったことが起源だといわれているようだ。馬術競技もそもそもは騎馬に代表される馬を利用した軍備にその発祥がみられる。

それほど遠くない将来、戦争そのものもスポーツ化されるのではないかという説まである。eスポーツなる、わけのわからないようなものまでがスポーツとして認められようとしている。かつては射撃がスポーツになるなど誰もが予想しなかったのと同様、想像を超えるスポーツが未来には登場しているかもしれない。



さて、念願の銃を手に入れた面々は静岡に帰った。

その後は、皆もくもくと練習に励み、とくに私はそれに熱中した。

スポーツ射撃においては立射が基本だ。このほか、膝射、伏射があって、立射と合わせ3種混合で行う複合競技と、立射だけ、あるいは伏射だけの単独競技がある。最近はエアピストルやビームライフルと言ったものも導入されていて、これらを組み合わせた複合競技もあるようだが、私の時代にはそれだけだった。

立射だけの競技の場合、60発を撃つ。また立膝伏の3種競技の場合は、それぞれ20発づつを撃ち、合計60発で命中率を競う。安定が悪いのは、立射、膝射、伏射の順であり、立ったまま競技を続けなければならない立射が一番難しい。

実際に銃を構えてみるとその難しさがわかる。まずは、なかなか狙いが定まらない。重い銃を支える体のバランスがうまくとれないこともあるが、そもそも10m先にある的が小さすぎるのである。たかが10mと思うかもしれないが、その距離は100mほどにも感じる。

標的の直径は45.5mm、同心円状になっていて一番外側が1点、中に向かって5mmづつ減じるたびに加算され、最終的に中心が10点となるが、その部分のテンはわずか0.5mmしかない。その部分にかすめさえすれば10点満点だが、実際やってみてほしい。ちょっと練習したくらいでは、まずは当たらない。

一度や二度では照準が決まらず、3度4度と繰り返し、ときには一発撃つのに5回も6回もかかることもある。その都度、銃をいったん降ろし、また持ち上げる。ずっと持ち続けるよりもそのほうが楽なのだ。

もっとも、時間制限があり、60発競技ならば1時間15分と決められているから、延々と上げ下げを続けることはできない。限られた時間に重量物を急いで上げ下げするといことは、それなりに瞬発力もいるということであり、著しく体力を損耗する。

エアライフル競技に使う銃の重さの上限は5.5キロと決められているが、ほぼほとんどの銃がこのMAX重量だ。これを持ち上げ下げるという行為、すなわちこれは同じ重さのバーベルを同じ回数上げ下げするのと等しい。いや、体を妙な具合に折り曲げて行う動作だから、単純に重量物を上げ下げするよりかなりきつい。

仮に一発撃つのに3回照準をやり直したとすると、60発打つためにはその動作を180回繰り返すことになる。

立射の練習時、60発ワンサイクルの実射を、最低でも3サイクルくらいは行う。180×3=540回もの銃の上げ下ろしをすることになるから、練習が終わることにはへとへとになる。射撃がうまくなるためにはかなりの体力が要る、ということがおわかりだろう。加えて体の柔軟性を高めることが重要であることは先にも述べた。

日頃の練習では一番命中率の悪いこの立射競技を中心に行う。膝射と伏射は、当たってあたり前の世界なので、ほとんど練習しなかったが、いざ試合ともなるとこの姿勢での射撃も行うことになるため、そのいずれもが練習できる場所が必要となる。

練習を行えるのは公的に認められた射撃場だけである。焼津校舎の中にはもちろんないが、近くにも実射を行える射撃場はなかったため、富士市にある岩本山射撃場まで出かけていた。

いつも車を持っている連中が同伴してくれるとは限らず、そもそも運転手も練習を行うわけだから帰りの運転が大変だ。というわけで、たいていは片道1時間ほどをかけて焼津駅から電車でそこへ通っていた。当然のことながら、練習に出かけた面々は疲れ果て、帰りの車両の中では泥のように眠っていた。

ただこれは我々が二年生までのことで、三年生になって浜松校舎に移ったあとは、焼津キャンパスのすぐ近くに射撃場ができ、こちらへ通った。その場所は、丸子(まりこ)といい、安部川の右岸側にある。広重の浮世絵にも出てくる、かつての丸子宿であり、とろろ飯で有名だ。現在もとろろを食べさせる店があり、この当時もあった。

この丸子射撃場には、週末になると必ず訪れ、日がな一日練習に明け暮れたものだ。授業が午前中しかないときに練習に来ることも多く、浜松時代の私は射撃の虫になっていた。

立射600点満点を目指す中、練習ではあるが、私が達成したスコアは最高で590点台で、常時580点台後半をキープしていた。これは国体レベルの選手が出すほどのスコアだ。他の部員はといえば、よくても560点程度だったから、手前味噌ながら私の技量は頭抜けていた。

ところが、残る学生時代の時間は少なく、こうしたスコアを出せるようになったころには、卒業論文の仕上げや就職活動が待っていた。射撃に割く時間は減らさざるを得ず、次第に射撃場からは足が遠のいていった。

もっと射撃をやりたかったが、学業に忙殺され、結局試合にも出ず、私の射撃生活は終わった。その後社会に出てからは、今度は仕事のほうで忙しく、射撃を再開する機会は永遠に失われた。

もし、もう一年ほどあれば、もっと射撃の腕を上げていたと思うし、公的な大会などにも出場できたに違いない。もっとも、練習で高いスコアを出せても試合になればそうはいかないことは知っている。射撃もスポーツであり、その厳しさは知っているつもりだ。しかしそうだとしても、結局一度も競技に出ることができなかったことが悔やまれる。

が、それはそれでよかったのだと思う。そのことによって、その後また違う道を歩むことができたのだから。また、いつの日か生まれ変わって別の人生を歩むとき、このことをもし思い出したなら、再び射撃にチャレンジしてみたいものである。




射撃の話はこれくらいにしておこう。

その記述に熱が入り、また、そのなりゆきで、いきなり大学生活の終わりのところまで飛んでしまったが、ここからは、3年次から移り住んだ浜松の町でのことについて少し書いていこう。

焼津での2年間は、終わってみればそれまでの人生での中で一番中身の濃く、かつ長く感じた一時期だった。それに比べ、浜松に移ってからの時の流れは矢のように速い。

3年次になって移動した浜松キャンパスは、浜松駅から南へ6kmほど離れた海岸沿いにあった。駅前にもたくさんのアパートがあったが、できれば海の近くがいいと思い、大学にもほど近い、遠州大砂丘とも呼ばれる中田島砂丘のすぐ近くに選んだ。

2軒長屋の片側で、もう一方には何かの職人さんの一家が住まわっていた。古い建物だったが、バストイレ・キッチン付きで生まれて初めて誰にも干渉されない空間を手に入れることができ、喜びはひとしおだった。

無論、親からの仕送りだけでは十分とはいえず、いろいろアルバイトをやって稼いだ金で家賃を補充した。家具などには一切金をかけず、ベッドなどは酒屋でビール瓶の空き箱をもらってきて敷きならべ、その上に布団を引いて代用した。

大学3年になってからの大学の授業は専門科目が多くなり、格段に難しくなった。それでも時節あるテストなどでは集中力を途切らすことなく加点を重ね、1・2年次に獲得した成績の上にさらにA評価を重ねていった。最終目標である首席での卒業は、不可能ではないと思った。

4年生になり、卒業論文を書くためにそろそろ所属するゼミを決めろと大学側が言ってきた。だが、正直なところ卒論などどうでもよく、そのゼミを主宰する先生のほうに興味があった。

というのも、卒業後の就職先はその先生のコネによって決まる、ということが大っぴらに言われていたからである。実際、東京にある大企業とつながりがある先生のゼミ出の学生は、その企業へ就職する確率が高く、逆にコネのない先生のゼミに入ると、静岡の地元企業ぐらいにしか入れない、という事実があった。

当然、就職の良いゼミの先生は人気が高い。中でも福田耕三先生という海洋構造物が専門の先生のところに入ると、よい就職先を紹介してくれると評判だった。このため福田ゼミへ入ることを希望する学生は多く、最終的にはくじ引きで決められた。

そのくじに当選し、福田ゼミに入ることに成功したときは小躍りした。だが、姑息ながら、そこから先、いかに先生に気に入られるかが問題だった。

無論、金銭や贈り物の贈与で関心を買うことはできない。勉学で認められる以外に道はないとわかっていたから、ゼミに入って先生が提示したテーマの中でも一番難しそうなものを選んだ。

海の上に浮かぶ大型構造物にかかる「波漂流力」という特殊な力を実験的に計測し、考察する、という内容で、構造物としては、巨大な石油タンクのようなものが想定されていた。私以外に二人が手をあげたが、そのひとりは焼津時代に同じ寮にいて仲良くなった伊藤君、もう一人は3年次になって親しくなった坂井君という人物だった。

この研究テーマは先生にとっても重要だったらしく、ほかに大学院生が一人ついた。日本人ではなくインド人で、アタルさんという。この研究テーマで博士論文をとり、祖国へ帰って大手の企業に勤めたい、という希望があることをのちに聞いた。

ところがこの研究テーマを選んだのは失敗だった。というのも、学校側から与えられる研究費用は微々たるもので、実験に使う模型を購入する金がない。それをすべて自分たちで自作しなければならないことが後で判明したからである。

さすがに困り、先生になんとかしてください、と泣きついたが、そこはなんとかうまくやれ、と逆にやり込められてしまった。仕方なく、学校の近くにある造船所などを回って頭を下げて安い材料を仕入れ、4人がかりで苦労して手作りでそのモデルを作り上げた。が、そのためだけに優に半年はかかった。

が、出来上がった模型を実験水槽に浮かべ、計測装置からデータが無事に取れた時の喜びはひとしおだった。生まれて初めて自分たちの手だけで行った研究が成果をあげたことに対しては、大きな満足感が得られた。

この実験の成功は無論、先生への印象もよくした。その後先生と何かと会話をするようになり、プライベートなことも話すようになった。先生は元、海上保安庁に勤めていたことがあり、私の父が建設省で公務員であることを知ると、さらに親近感をもったようだ。何かと広島の両親のことも聞いてくださるようになった。

逆に先生のことも聞かせてもらうこともあり、神奈川の大和にあるご自宅の様子なども話してくれた。お嬢さんが一人おり、ペットとしてポメラニアンを飼っている、といったことも聞かされた。ポメ、と呼んでいるとおっしゃっていたが、少々お堅いイメージのある先生の一面を見た気がして、親しみがより沸いた。

我々の研究が着々と進む中、4年になって半年もしないうちに最後の授業が終わった。早めに終わったのは、あとの時間は卒論に注力せよ、ということである。すべての学内試験結果が出たあと、土木工学科、約200名の成績発表があった。

結果として、私の順位は3番だった。目指していた首席の座は射止めることはできなかったが、多くの学生を率いてひとつの組織を立ち上げ、それを運営するという忙しさの中で、この成績を得た、というのは手前味噌ながら人に自慢できることだ、と思った。

首席は、土質が専門の先生のゼミに入っていた、あまり付き合いのない学生だった。一方、驚いたのは、私と一緒に卒業論文に取り組んでいた伊藤君が2番だったことだ。

前から成績が良いことは知っていたし、趣味の面でもいろいろ教わった。お互い切磋琢磨して勉強をしあった仲だからうれしく思ったが、まさか自分よりも上とは知らず、複雑な心境ではあった。

こうして、首席で卒業するという、入学当初に掲げた目標に向かっての私のレースは終わった。目標は達成できなかったものの、成績表にはずらりとAが並んでおり、もし大学院を希望したとしても、問題はなく入れただろう。

とはいえ、さらに進学の道を選ぶつもりはなかった。高い学費を出してくれた両親にこれ以上甘えるわけにはいかなかったし、4年間、十分に勉強したわけであり、もういいや感があった。今は勉強を続けるよりも実社会に出て経験を積むべきだ。就職活動こそが次の目標だ、そう思った。

このころ、卒業後に入る企業への就職活動が認められているのは10月くらいからで、現在よりかなり遅かった。成績発表が終わり、卒業論文の発表があるまでの約3ヵ月ほどがその期間となるが、我々の福田研究室でも、ゼミ生それぞれが先生の情報をもとに、就職先を模索し始めた。

ある日のこと、授業が終わり、同じ卒論をやっていた伊藤、坂井の両君とゼミ室で雑談をしていたところ、突然、福田先生が現れた。こんな時間に何のご用かとおもったら、開口一番、よい就職先があるが、君たちのうち誰かひとり応募してみないか、という。

詳しく聞いてみるとその会社は、大手の建設コンサルタントだという。先生はそこの取締役と昔から懇意であり、その関係もあって福田ゼミからは毎年一人枠で、その会社への採用があるということだった。

思わず三人とも顔を見合わせたが、中でも一番成績のよかった伊藤君にやはり優先順位があるだろう、と思った。ところが彼は、私の顔をみるばかりで沈黙している。坂井は、というと、どうせ俺には関係ないさ、というかんじでこちらも黙っている。えっ、それじゃぁ俺?と驚いていると、伊藤君がかすかにうなずくではないか。

後で聞いた話では、彼はこのとき別の企業への就職を視野に入れていたらしく、自力でそこに入社することを望んでいたようだ。

私自身も自分でいくつか候補として考えて始めている会社があったが、どれも強いモチベーションを持って入りたいと思ったものばかりではなかった。決め手がなく、どうしようかと思っていたところだ。

それなら、ということで福田先生のその申し出をありがたく受けることにしたわけだが、この時こそが、その後10年以上にも及ぶこの会社との腐れ縁が生じた瞬間だった。

のちにわかったことだが、大学と企業との間には、文書化されていない就職協定的なものがあるらしい。企業は人材が欲しいし、大学側も就職率が良いということになれば入学してくる学生も多くなるわけで、お互い持ちつ持たれつの関係だ。

その「協定」のパターンはいろいろ。企業出身の教師はその会社と太いパイプがあり、かつての古巣に自分の愛弟子を嫁がせる、という方向性がひとつ。また、企業から研究費の名目で資金を提供してもらっている教師は、資金源であるその企業と当然繋がりが強くなるため、自分の教え子をそこに送り込むことも多くなる。

このほか、単純に企業のトップと友達、というケースもある。かつての友人から乞われ、人材提供をするという場合もあり、私の場合はどうもそのパターンだったらしい。

後で聞いた話では、福田先生とその会社の取締役は、若かりし頃に海軍で一緒だったらしく、そのころからの友人だったということだ。最初に先生が紹介して入社した教え子が優秀で、その後もあたりはずれのない学生を提供し続けてくれていたので、今年もよろしく頼むよ、ということらしかった。



こうして、その年の秋の日のこと、私はその会社、ワールドビジョン・コンサルタンツ(WVC)を訪問した。会社訪問とはいいながら事実上面接である。緊張して何をしゃべったか、相手がどんな立場の人だったかも忘れてしまったが、お互い、好印象だったと思う。

面接を終えてそのすぐあとのこと、会社の裏手に小さな神社をみつけ、そこでささやかな合格祈願をした。鳥居をくぐって出たとき、のどが渇いたのでそばにあった自動販売機でジュースか何かを買ったところ、めずらしく「当たり」が出た。当たるともう1本タダで飲める、というやつだ。

こうしたくじに、めったに当たらない私にとってはめずらしいことで、こりゃー幸先がいいわい、きっと神様からの伝言だわ、と思ったものだ。

後日、形式ばかりの入社試験があり、その1週間ほどあとには早くも正式の採用通知が来た。先の自動販売機の予告はやはり本当だったか、と妙に納得した。

しかしこの会社への就職は、実は本来自分が思い描いた道とは違っていた。もともと何等かの海洋開発をやっている組織へ入ることが目標だったから、それとは少し違う方向性の会社を選んだことになった。

建設コンサルタントという分野は、一般にもなじみがないだろうが、この時の私も同じで、実は、そうした企業を選んだことについては、のちのちまでしこりが残った。海で仕事がしたい、という思いはこのときもまだ強かった。

しかしこの会社は主に海外での仕事が多く、海を渡っての向こうに活躍の場がある。面接時にもそう聞かされた。なので、いずれは海に関連した仕事もできるだろう、ということでなんとか自分を納得させた。

これ以外にも訪問した会社がふたつあり、ひとつは土木水理実験をやる会社で、もうひとつは大手ゼネコンの関連会社だった。いずれも会社規模は小さく、また海洋に関係ある仕事は少なそうだったので、合格通知が来た段階で、丁重にお断りした。

こうして、大学院への進学はやめ、他の会社の申し出も断り、何か退路を断つような形で就職先を決めたあと、卒業までにすることはあとひとつ、卒業論文を仕上げることだった。しかし、こちらも年内中には片がつき、卒業までには、数か月も時間が残った。

何をして過ごそうかなと思ったが、射撃についてはこのころもう熱が冷めており、また腕も相当鈍っているようだったので、もう一度熱中しようとは思わなかった。それよりももっと将来に役立つことをやろうと考え、就職先が海外系ということもあって、英語をもう一度勉強しなおそうと思った。

もともと英語は好きだった。中学校時代には塾通いもし、NHKの英会話番組も視聴するなどして習得に努めた。しかし高校時代のいわゆる受験英語で挫折した。リーディングが中心のその授業は面白みがなく、時折あるヒアリングの時間も苦痛だった。

その後留学もし、ある程度英語が自由に使えるようになった今考えると、こうした日本の学校の英語教育はどこか間違っているとしか言いようがない。

留学先のアメリカで、わずか半年で英語がある程度使えるようになってことなども加えて考えると、明らかに文部科学省は間違った指導方針を掲げていると思う。

もっとも文科省の影響が及ぶのは高校までであり、大学での英語教育はその学校側の裁量でどうとでもできる。より力を入れる大学もあるが、その一方で専門科目に専念させたい、という目的などから全く英語教育をやらないところもある。

私が卒業した南海大学も英語の授業はなかったが、世界に飛び立つ専門家を育てたいなら、なぜ英語の授業がなかったのだろう、と思う。英語科目がカリキュラムに取り込まれなかった理由は知る由もないが、これにより私はすっかり英語からは遠ざかることになっていた。

そうしたこともあり、ここへきて急速にまたそれを学びたいという意欲が出てきた。こため、何で調べて知ったのかよく覚えていないが、たぶん新聞の広告か何かだったろう。浜松の駅近くに評判のいい英会話学校があることを知り、早速通い始めた。

今でも持っているが、その学校で配られた「Thinking in English」という英語教材は、私の英語能力を高めるのに実に役に立った。高校でもこういった実のある英語教材を使えばいいのに、とその時も思ったものだ。

その英会話学校には、卒業までの3ヵ月ほど通っただけだったが、それなりに使える英語が身についたように思う。ただ、実際はそのあとの就職した会社ではほとんど使う機会がなかった。英語をシャワーのように浴びるようになるのは、それからさらに5年ほども経ったあとのことになる。

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本稿の内容はすべて事実に基づいたノン・フィクションです。ただし、登場する人物名は仮名とさせていただいています。また地名や組織名についても、一部は実在しない名称、または実在する別称に改変してあります。個々のプライバシーへの配慮からであり、また個人情報の保護のためでもあります。ご了承ください。

夢の途中 7 神宮前

4月になった。1日付で社員となり、港湾部という部署に配属された。文字通り港湾の施設、例えば港の防波堤とか船が接岸する護岸とかいったものを設計する部署だが、海岸の堤防の設計などもやっていた。

入社してすぐに与えられたのがその海岸堤防の基本的な設計の仕事で、それは古い堤防の高さを見直し、設計しなおす、というものだった。難しそうにみえるが、設計手順書のようなものがある。それに従って計算書に手入力していけば、初心者でも計算できる。

とはいえ、初めての仕事だったのでじっくり時間をかけて設計を行った。ありがたかったのは、そうしたことを初めてやる新入社員に対してその時間を十分に与えてくれたことであり、先輩社員たちのアドバイスも適切だったことだ。

入社したてのころは、慣れない社会人生活のこともあり、少々神経症気味だったが、1年も経たないうちに慣れ、その後さらに難しい設計も任されるようになっていった。

2年目に入るころ、山崎さんという5歳ほど年上の上司に付き、海岸の調査の仕事をやるようなった。その後長きにわたり、いろいろ指導してもらったが、妙に気が合い、プライベートでも付き合いがあった。食事を一緒にいったり、といった日常のことだけでなく、休みにはゴルフの打ちっぱなしなどにも連れて行ってもらったりした。

とはいえ悪い面での影響もあった。この先輩のおかげでタバコをやるようになったのだ。ストレスの解消にと最初は軽い気持ちで吸いはじめたのだが、そのうち一日に二箱も吸うヘビースモーカーになった。

休憩時間になると、山崎さんだけでなく、同じ職場の同僚とベランダに出て、タバコを吸いながら渋谷の街並みを見るのは良い気晴らしになった。時に、タバコを吸わない面々もそれに加わり、新宿の高層ビル街を眺めながらいろんな話をした。世間話が多かったが、社内の異性についての噂話などもある。独身者も多く、情報交換の面もあった。

社内には女性も比較的多く、各部署にはたいてい2~3人の正社員がおり、そのほかにアルバイトやトレーサーといった補助員の女性がやはり同数ほどいた。神宮前という場所柄、おしゃれな恰好をしたがる人もいたが、たいていは普通の服装をしており、まじめな人が多かったように思う。

狭い空間のことであるから、当然男女の間のことも数多くあった。が、それをここで書いていると他のことが書けなくなってしまうのでやめておこう。のちに一人の女性が私の運命を変える、とだけとりあえず書いておく。

仕事のほうでも、その後の運命を変える変化があった。ある時、山崎さんから、ある特殊な防波堤の設計を手ほどきしてもらった。

「離岸堤工法」といい、消波ブロックを3~4段積み重ねた短い防波堤を海岸線から、数十メートル離して置く。するとその背後には徐々に砂が溜まり始め、数か月後から1年も経つ頃には、海に向かって山型に飛び出した海岸線が形成される。

これを「トンボロ」という。そもそもは岸から離れた小島のすぐ後ろに砂州ができる現象を指す。島の後ろ側では波や潮の流れが弱まるため、そこに砂が溜まりやすくなる。語源は、ラテン語で「土手」を意味するから、その昔、ヨーロッパのどこかでこれを人工的に作り、その背後に砂を貯めることに成功したのだろう。

近年になってその土手を消波ブロックで作るようになった。積み上げただけで小島と同様の効果があり、そのすぐ後ろ側に砂が溜まることで、その部分の海岸線の浸食を防ぐことができる。このころ、海岸浸食が日本各地で問題になってきており、その対策のために最も有効な工法として日本中から注目を集めるようになっていた。

ちなみに、この消波ブロックのことを「テトラポッド」という人がいるが、これは商品名であって一般呼称ではない。「異形消波ブロック」または「消波ブロック」というのが正しく、公的な文書ではこちらを使う。

どの程度の砂が溜まるのかについては、この消波ブロックでできた離岸堤を置く場所によって決まる。岸から離しすぎると砂が溜まらないし、近づけすぎると溜まりすぎてすぐに離岸堤と陸が繋がってしまう。そうなるとそれ以上浜を沖に向けて肥やすことができなくなってしまう。

離岸堤のうしろにどの程度の砂がつくかについては、その海岸に押し寄せる波の平均的な高さや海底の地形にも左右される。海底の勾配がどのぐらいか、波の大きさはどのくらいか、といったことから始まり、さらにはそこを流れる砂粒の大きさがどの程度か、重さはどれくらいか、といったことにも左右される。

小さな砂粒なら波や潮によって流されやすいが、大きすぎると逆に移動しない。どの程度の大きさの波がくればその砂が動くのか、といったことも検討の対象となる。離岸堤を置く位置を決めるためには、その海岸にある、ありとあらゆる要素を検討しなければならないのだ。

さらにいえば離岸堤の長さをどの程度にするか、水面上どのくらい積み上げるか、複数を配置する場合は、離岸堤同士をどの程度離せばいいのか、といったことも背後に堆積する砂の量に関係してくる。単純にみえる工法だが、検討することはいくらでもあり、実に奥が深いのである。

この離岸堤の設計を含め、海岸の浸食の問題に対処する土木工学の分野を、とくに「海岸工学」と呼ぶ。

この当時まだ新しい学問体系だったが、「海岸」という言葉が入っているところに妙に心がときめいた。かつて高校生のころに「海洋開発」というキーワードにひらめきを感じた時とはまた違う心のざわめきだった。

その言葉との出会いがその後10年ほどに及ぶ長い学びの旅の始まりだとはこのときはまだ気づいていなかった。一生を左右するようなこととの遭遇というのは、そんなものなのだろう。漠然と頭の中に入ってくるだけで、形はまだ何もない。

ただ、離岸堤についての知識は既にあった。大学にいた当時、別の研究室に池上ゼミというのがあった。池上真(まこと)先生という人のゼミで、この先生は専門課程では構造力学を教えていた。実はこの離岸堤を日本で初めて発案して現場に導入したのがこの人だった。

元建設省の役人で、定年退官後に南海大学に入り教授となった。離岸堤の考案者ということで知名度は高く、大学4年になってゼミを選ぶとき、この先生の名前を知っていて、その研究室に入ることも考えた。

しかし、その当時は海洋開発のほうにより興味があり、福田先生の研究テーマのほうが魅力的に思えた。このため、結局池上研に足を向けることはなかった。ただ、池上先生の著書は授業でも使われ、一通り目を通していた。

就職後、この離岸堤に仕事をするようになってから、改めてその本を読み返すことになった。が、正直なところ、内容は高度ではなく、参考程度にしかならなかった。離岸堤そのものが新しい工法であり、池上先生もまた多くの知見を持っていなかったのである。

しかし、その本の中には他の重要情報が含まれていた。中でも離岸堤や海岸工学に関する多くの知見の多くは海外からのものであることを池上先生は示していた。実は離岸堤そのものも、最初の実践的利用は日本ではなく、アメリカであることなどもそこで知った。

もうひとつ、このころから海岸工学に関する論文集が毎年土木学会から出版されるようになっていた。「海岸工学講演会論文集」といい、私が入社したころの論文数は50にも満たないほどペラペラなものだった。現在は国内外から論文を集め、毎年500近い数の論文が集められている。

一方、この初期の論文集では投稿数が少なかったため、海外からの論文が目立った。なかでも、とくにアメリカ発のものが目を引いた。

カリフォルニアやフロリダ、ハワイやミシシッピーといったアメリカの各州がその舞台であり、離岸堤だけでなく突堤や養浜といった最新の海岸工学の知見がちりばめられていた。仕事の合間にそういう論文をながめつつ、いつかはそうした場所を訪れてみたい、と次第に思うようになっていった。

海岸工学の発祥の地こそアメリカ、という強烈な印象がこのころ私の頭の中に刷り込まれていったのである。

ただ、会社に入って4年目に入るとそれなりに忙しく、プライベートでそうした場所を訪れる時間も、具体的なプランを練る暇もなかった。個々の構造物の設計だけはなく計画的な仕事も任されるようになっており、長大な海岸全体の侵食対策を総合的に立案する仕事はそれなりに大変だ。

いくつもの大河川が流れ込んでいる海岸もあり、漁港や港湾がある海岸もある。河川から流れ出る砂の量や防波堤のような人工の構造物の設置状況によって、その海岸の浸食の状況は変わってくる。それらを総合的にみて対策を考えていかなければならないのである。

浸食の問題を抱えた海岸は全国にあったが、この当時、とくに浸食が深刻な海岸は北陸に多かった。このため、その方面へ頻繁に出かけたが、その後資格を取ったときに書いた論文の舞台となった海岸も富山だった。新潟や石川も多く、今でもときどきプライベートで近くを通ることがあるが、ついついそこへ立ち寄ってしまう。思い出深い地である。




思い出して懐かしいといえば、会社があった神宮前という場所もそうだった。神宮とは明治神宮を指す。その周囲には2020年のオリンピック開催の中心となる国立競技場や神宮球場、東京体育館といったスポーツ施設がたくさんある。

明治神宮に加えて、絵画館(聖徳記念絵画館)や日本青年館、津田塾大学といった文化施設もあり、周囲は公園化されていて、東京でも屈指の文化・スポーツ圏といえる。

会社の家屋自体もかつての東京オリンピックの際に選手宿舎として建てられたもので、三角形13階のちょっとしゃれた建物だった。上階に上がると、渋谷や新宿方面が一望に見え、すばらしい眺望が味わえる。

中央線千駄ヶ谷駅を出て南方の外苑前まで通る道をキラー通りといい、この通りに面していた。近くにはビクターのスタジオもあり、よく芸能人をみかけた。

そのすぐ西側には表参道があり、そこから足を延ばして5分も歩けば青山という立地だ。老若問わず、現在も人気の街である。表参道、外苑、原宿、神宮前、といったふうに切り離されて話題にあがることも多いが、私的には同じ町であり、それらを統一したこれらの環境が若き自分の青春の場だった。

おしゃれな街のおしゃれな会社ということで、アルバイトに来る面々の中にもちょいと時代の流行に敏感な連中が多かった。この当時「竹の子族」というド派手な衣装を着た種族が表参道に出没するようになっていた。休日になると歩行者天国となる路上で、ラジカセを囲みながら踊るのだが、そうした輩もうちにアルバイトに来ていた。

休日出勤中にそうした奴らに出くわすのだが、踊ったばかりの恰好でそのまま会社に来るわけだから、当然目立つ。こちらも休日だから私服が多かったが、それは普通のまじめなものであり、自分とのギャップに驚いたものだ。

もっとも、そうした輩に自分が影響されることはなかった。ただ、そうした流行に敏感な環境に合わせるかのように私もそれなりに着るものには気を使った。着の身着のままの今からは想像もできないほどのおしゃれだ。

ワイシャツにネクタイ姿という基本は崩さないまでも、カラーシャツを着て背広や靴、ネクタイにもこだわり、わりといいものをいつも着ていた。ワードローブという言葉を覚えたのもこのころである。

休日出勤では私服も許されていたことから、仕事のあと街に繰り出すことも考えて、それなりにファッションも楽しんだ。休日出勤はたいてい土曜日だから、その夕方からは同僚らと渋谷や新宿の街で飲み、何軒もはしごして朝方まで騒いでいるということもあった。

もっとも生来の孤独癖が首をもたげてきて、一人でぶらぶらと町を歩いて気晴らしする、ということも多かった。とはいえ、一人で飲み屋に入る勇気はなく、そうしたときは、好きな場所を歩き回ったあげく、たいていテアトル系の映画館に入る。

主として古い映画を扱っており、週末になると1000円ほど払えば一晩中映画を見ることができる。毎金・土曜日にそれぞれ4本ほどの映画を見、月通算で30本ほども鑑賞していたこともある。私の映画好きはこのころに始まったといえる。

「ぴあ」がこの当時の私の行動バイブルで、映画の上映情報はもとより、東京であるイベントのすべてがそこに書かれていた。高校時代から写真が好きだったこともあり、そこに掲載されている写真展にもよく出かけた。プロの写真家が撮り、プリント化した写真やはり質が格段に違う。かつての自分の写真の拙さを想いつつも、それらを堪能した。

こうしたフォトサロンがある場所は新宿に集中しており、渋谷以外で最も時間をつぶすことが多かったのがこの町だ。あまり忙しくないときは、平日仕事が終わってから、この新宿を目指して同僚や同期と飲みに行くこともあった。

この同期生─ 同年大学を卒業した新入社員は30人ほどおり、皆仲がよかった。とりわけ、会社に入ったころに住んでいた寮にいた面々とはその後も長く付き合いが続いた。

この寮のことを少し書いておこう。入社したその当初から、1年半ほどのお世話になった。小田急線の相模大野に位置し、駅から徒歩15分ほどの住宅街の中にある。

すぐ隣の駅が町田で、ここは今では関東屈指の繁華街となり、若者が集まる街として有名になっている。だが、この当時はまだ出来たてで、今ほど賑わっていなかった。というか駅のまわりには何もなく畑だらけだった。

入寮当時、一番古い人で10年ほども住んでいる人も数人いたが、それ以外に入社2~3年目までの若手5~6人とあとは新入社員で、それは私も含めて十数人いたかと思う。全部で20室くらいあったと思うからその約半分が新人だ。

大学、焼津時代の寮もそうだったが、この寮での共同生活もまたその後の人生に影響を与えた。もっとも大学の時と違って私生活の面ではなく、仕事でのことが多かった。同期の連中や先輩社員から聞かされる仕事の内容は、違う職場の内容、違う職種のことではあったが、参考になった。

それらと照らし合わせることで、自分の持ち分の仕事の会社での位置づけや重要度がわかり、また他の社員がどういう仕事のやり方をやっているかを自分の職場のものと比較できる。

それを参考にすることでまた工夫が生まれる。例えば、話を聞いた人同僚や先輩たちほぼ全員が夜遅くまで居残り残業をやり、そこで作った時間で落ち着いて仕事ができる、と語っていた。

しかし、私はこれはかえって効率が悪いと考えた。このため、できるだけ夜は早く帰るようにし、その代わりに朝できるだけ早く出社して仕事をするようになった。幸いなことにこの会社はフレックスタイムを導入しており、朝10時から午後3時のコアタイムに出社していれば、朝早くから何時に出社しても構わない。

それを幸いに、ほぼ毎日のペースで一番早く出社して仕事をするようになったが、思ったとおり朝のほうが効率が良い。仕事で消化できる量は午後やるよりも格段に多い上に、早く帰ることでプライベートの時間を作ることができる。

9時が普通のところをさらに早出して7時台に出社することも多く、このため同期の連中から「ニワトリ小僧」のあだ名がつけられた。

仕事に慣れるにつけ、私生活の面も充実してきた。とくに相模大野寮での生活は、同年代の会社同僚との共同生活であり、やはり楽しかった。帰寮してからその日あったことをしゃべりながら飲むビールはうまいものだ。週末には酒宴になることも多く、寮内だけでなく、駅前の飲み屋で宴会が始まることもある。

ただ、プライベートの確保という面では寮生活には問題も多く、一人になることが好きな私にとってはやや騒々しい環境だった。1年半ほど過ぎたころには、かなりの貯金もできたため、思い切って引っ越しをすることにした。

会社のある神宮前の最寄り駅のひとつに中央線の千駄ヶ谷駅がある。同じ引っ越すなら電車1本で通えるところが良いと考え、沿線をいろいろ探したところ、新宿から西へ5つ目、阿佐ヶ谷駅からほど近いところに一つのアパートをみつけた。

トイレは付いていたがバスはない。その代わりそのすぐ裏手に銭湯がある。仕事を終えて部屋に帰ると、すぐに洗面器とタオルを持って出かけ、隣の風呂屋ののれんをくぐると、わずか数分で湯舟に浸かることができた。

金はかかるが、無論、自分で風呂を立てる必要はない。静かな環境の上、近くには定食屋さんやスーパーなどもあり、一人暮らしには最適な環境といえた。駅近くにある商店街もこぎれいで、ウィンドウショッピングをするのも楽しい。しゃれた喫茶店もあり、休日にはよく入り浸った。

この界隈は戦前、「阿佐ヶ谷文士村」と呼ばれるほど多くの文士たちが好んで住んでいた。それも井伏鱒二や太宰治、川端康成、横光利や大宅壮といった錚々たる作家たちばかりであり、彼らは「阿佐ヶ谷会」と呼ばれる会合を催して交流を深めたという。

また阿佐ヶ谷には放駒部屋、花籠部屋といった相撲部屋が近くにあり、相撲取りをよく見かけた。喫茶店に入ってコーヒーを飲みながら、ふと後ろを振り返ると、大きな力士が小さなコーヒーカップを抱えている、といったこともよくあった。

こうしたことから、阿佐ヶ谷には、西東京におけるノスタルジックな街、文学の町、文化圏という印象があり、ここに住んでいる自分はかっこいい、ともよく思ったものである。



そんな街に引っ越したのは、かなり秋めいたころのことだった思う。住み慣れた寮の荷物をまとめ、寮母夫婦に別れを告げ、このころまだ大学のころから乗っていたジェミニに荷物を詰め込んで神奈川から東京へ向かった。

現在ならちょっとした引っ越しでも引越業者に頼むところだろうが、この当時は引っ越しと言えば自分でやるものだと思っていた。

しかし、独り身とはいえ、それなりの荷物はある。そこで、会社の同期数人に助っ人を頼んだ。ところが、荷物を下ろすだけの作業なので2人ほどもいれば済むものを、5人ほどもやってきた。私がどんなところに住み始めるのか興味がわいただろう。うち2人が女性で、そのうちの一人は同期入社の子で総務部に所属していた。

もうひとりは知らない女性で、聞くとこの春入社したばかりだという。国外事業部の総務担当だそうで、私の職場の一つ上の階で仕事をしているらしい。この日やってきた同期の男性社員の一人が吹聴し、引っ越しのあと打ち上げをやるから、という触れ込みで勝手に連れてきたようだ。無論、そんな話をした覚えはない。

その女性は3つ年上で、一目見たとき、そのまなざしの美しさにドキッとした。少し下ぶくれの唇がお愛嬌だったが、逆にそこがポイントとなってセクシーに見える。独特の透明感があったが、近寄りがたいというかんじでもない。

とりあえず引っ越しが終わり、部屋中に荷物が積み上げられている中、近所のスーパーで買ってきた酒とつまみで、打ち上げが始まった。みんな20代の若さであり、おバカな話題で盛り上がる中、くだんの美人も交えて会話が弾んでいく。

ひそかに観察していると、いわゆる天然で、周りの男性の失笑を買うことも多いが、それでいてケロッとしている。おバカを装っているな、と気づかせる部分もあったが、それができるほどの知性の持ち主であるらしい。

酔っているわけでもなさそうなのに、やたらに初対面の私に絡み、平気でため口をきく。とはいえ、嫌味のない程度で相手を持ち上げる術もわきまえていてなかなかの社交家だ。

明子さんといったが、名前のとおり明るい性格で、知らず知らずのうちにその笑顔に引き込まれ、「引っ越し祝い」と称したにわかパーティがたけなわになるころには、すっかり彼女の虜になっていた。

一目ぼれ、というのはこのことだろう。

宴会は、終電が終わってからも続いた。誰もが帰ろうとは言い出さず、2時を過ぎたころ、私が持ってきた数少ない布団をかぶってみんなで寝ようと誰かが言い出した。女性も二人いることだし、さすがにそれは無理だと抗議したが、当の本人たちは意外にも嫌そうでもなく、しかたがないな~と同意した。

その部屋は6畳一間しかなく、私が持ってきた荷物でいっぱいだ。そこに6人が寝るといってもほとんどくっつくような形でしか寝ることはできなかったが、みんなおかまいなく、それぞれのポジションを決め始めた。私はさすがに女性の隣はまずかろう、と思っていたところ、くだんの美女はさっさと私のそばに来て横になろうとする。

おいおい、と言おうとしたときはもう誰かが電気を消しはじめた。多少の荷物の運搬もして疲れ、アルコールも入っていたこともあり、おやすみーと別の誰かが宣言したあとはすぐに部屋は静かになった。

真っ暗闇の中、薄い布団にくるまりながら体が徐々に温まっていくが、それはすぐ隣に寝ている彼女の体温のせいでもあった。そのぬくもりを感じながら、次の朝を迎えたが、とうとうその夜は一睡もできなかった。

こうして私の新たな恋が始まった。

このころの私はもう初心そのものといった少年ではなく、異性に対して多少は自分のアピールをできるようになっていた。ここまでで詳しく書いてはいないが、大学時代の後半やその後の就職を通じていくつかの恋もし、いずれも実りはしなかったが、それらから何事かを学んでいた。

とはいえ、あまたの女性にアプローチしまくるプレイボーイのようにはいかない。あいかわらず相手に面と向かって自分の好意を直に伝えられるほど図太くはなかった。

それでも、それとなく意思を伝えて相手の感触を掴む、という技を覚える程度には進化していた。振られて落ち込む時間も短くなり、失恋に対しては免疫がある、と思い込んでいた。

なので、彼女に対しても、当たって砕けろ的なアプローチをしても傷つきはしないだろうと思った。そこで、あるとき酔った勢いで思い切って好意を伝えた。それがよかったのか、ストレートな答えは返ってこなかったが、だんだんと「よい感じ」にもなってきた。何度かデートに誘いだすことにも成功し、日がな一日一緒にいることもあった。

ところが年上の女性はしたたかだ。相手は私にのめりこむようなそぶりはみせず、本当に気があるのかないのかもわからない。

いや、本命でなかったのは確かだ。ある程度親しいにもかかわらず話ははずまない。二人だけの世界を構築する、という積極的な意思がみられないのだ。

彼女にすれば、釣りあげてしまった魚に餌をやる必要はない、というところだったろう。年下で頼りないし、新しく出会う他の男性と比べて値踏みをするほどのスリルも既にない。そこはわかっていたつもりだったが、彼女の魅力に振り回され続け、その後も悶々とした状況が長らく続いた。

そしてそのまま1年ほどが経った。同期の面々の結婚が相次ぐ中、あの引っ越し祝いのメンバーの何人かも結婚し、そのころは一緒に飲みに出かけることはほとんどなくなっていた。

彼女とは、相変わらずそこそこの付き合いもあり、ときには電話もした。夜遅く電話をしても切られるでもなく、楽しそうな話ぶりからも嫌われているというかんじはなかった。今思えばいいようにあしらわれていたのかもしれないが、お人よしの私は、きっと彼女は心の広い人に違いない、と思っていた。

あるとき、彼女から実は自分はクリスチャンだということを聞かされた。それも毎週教会に通うほど熱心な信者だという。彼女の博愛精神はそういうことだったかと、彼女の新たな側面を知って驚いた。

好きになった女性がクリスチャンとは思いもしなかったが、別の意味で興味がわいた。教会とはいったいどういうところなのだろう。これまでの人生では縁のない場所である。幼いころから山口のサビエル教会堂を知っていたが、中には入ったことがない。その教義には興味があり、教会とは何か知りたい、とかねてから思っていた。

そこで彼女に頼み込み、一度連れて行ってくれないか、と頼んだ。すると、断られるかと思いきや、意外にもあっさりと承諾してくれた。さっそくその週末、彼女が通っているという池袋の教会に連れて行ってくれるという。

「教会デート」のその日のことが思い起こされる。プロテスタントの教会だったので、教堂の中は質素そのものだ。祈りをささげる儀式に始まって聖書の朗読が続き、そのあと日本人牧師さんから「教え」が語られる。そして最後には葡萄酒とパンを授かる。

ミサが終わったあと、参列者やその牧師さんに紹介された。この集会に参加していたのは彼女を良く知る常連さんたちのようだったが、初めて参加する私を恋人だと思ったのだろう。歓迎してくれた。思わず舞い上がってしまったが、彼女は平気な顔をしていた。

彼女にすれば、また一人信者を獲得した、ということにすぎなかったのかもしれない。が、それでもよかった。実際、半分は教会活動に参加することが目的だったのだから。

二人で教会を後にしたが、それからさらに彼女を誘ったりといった無理強いはしなかった。天気の良い日曜の朝で、彼女と二人、肩を並べて秋の陽をあびながらほとんど無言で駅に向かって歩いて行った。

このとき彼女は何を思っていただろう、と今でも時々思う。女心は複雑だ。あのときもっと何かを話しかければ、また別の展開があったかもしれない、あるいは強引にどこかへ連れ出したら、案外とついてきてくれたかもしれない、などと妄想したりもした。

しかし、このとき私自身の心の中にも何か、よくわからない変化が生じかけていた。本能が告げていた。「こんなことをやっている場合じゃない…」




この教会デートを境に、彼女に対する思いが薄らいでいき、潮をひくように熱がさめていった。会社でも彼女を時節みかけたが、こちらからは積極的に声をかけなくなった。通勤途中で道すがら一緒になることもあったが、中身のない会話ばかりですぐに会社に着いた。

そのうち同じ通勤時間帯に彼女をみかけることがなくなったから、嫌われているのかな、となんとなく思った。それでもいいや、いまさら、と投げやりな気持ちで毎日を過ごした。

それからさらに1年ほどたった秋のころだったと思う。ある日のこと、彼女が結婚するという話が風の便りに伝わってきた。

私が26だったから、彼女はもうすぐ三十路だ。女性ならそろそろ本気で結婚を考えてもよい年ごろである。

久々に電話をかけてみた。すぐに電話口に出た彼女は前と少しも変わらず、昼寝でもしていたようなのんきな声が返ってきた。本当は、どんな奴と結婚するんだ、とすぐにでも聞きたかったがさすがにそれはできず、はやる心を抑えて、あたりさわりのない話題から入っていった。

最近はどうしていたこうしていた、という話のあとで、ところで…と切り出し、「結婚するんだって?」と問題の核心に触れた。

「そんなの嘘よ」という答えを期待していたが、しばらくの沈黙のあと、「誰から聞いたの?」という。

その問いには答えず、「もういい歳だからね」と茶化すと、素直に事実であることを認めた。さらに聞いていくと、相手は警察官、しかも刑事だという。

続けて聞きもしないのに、相手のことを話し出した。近所に泥棒が入り、そのことで聞き込みに来たその相手と親しくなった、といったことが馴れ初めだったようだ。そこからはじまり、強面で最初はヤクザかと思ったとか、ほかにもいろいろ聞かされたが、後ろのほうはほとんど聞いていなかった。

ほとんど上の空の会話の中で、いったいいつになったらこの電話を切ればいいんだろう、と思い始めたころ、ようやく彼女の長い話は終わった。

最後に何を彼女に言ったかはよく覚えていない。が、お幸せに、といったお追従だけは忘れなかった。やがて何もなかったかのように電話を切った。

受話器を置いたあと、しばし茫然とし、やがて泣きたい自分をそこにみつけた。泣きたくなかったが、そのあと、堰を切ったように涙が溢れ出てきた。酒を飲みながら一晩中やさぐれ、やがて冷たい畳の上で朝を迎えた。

終わっていたはずなのに、そんな感情の高ぶりを覚えたことに自分でも驚いた。やはりそれだけ彼女が好きだったのだろう。

やがて、朝霧が陽の中で消えていくように、彼女との思い出も薄れていった。社会人になってはじめて本気でのめり込んだ恋は終わった。

その後、何人かの恋人候補が現れた。しかしこちらの理由、あちらの理由もそれぞれあっただろうが、いずれも相容れぬまま本格的なものにはならず、月日が流れた。

入社して4年近くになろうとするころ、会社人としての私はほぼ独り立ちし、ほとんどの業務をひとりでこなせるようになっていた。お役人とも臆せず話をできるようになり、営業活動すらやっていた。後輩も何人かでき、逆に指導する立場にもなっていた。

このころ気分を変えるために引っ越しをした。一年半ほど住んでいた阿佐ヶ谷のアパートを引き払い、田園都市線の鷺沼というところに越すことにしたのだ。同じ会社の先輩が結婚をし、手狭になったので、そのアパートを君に譲ろう、と言ってくれたのがきっかけだった。

そこはいいアパートだった。あいかわらず6畳一間の部屋だったが、リビングキッチンが広い。またトイレに加えて風呂が付いており、しかも目の前は武蔵野平野が広々と見渡せるという好物件だ。

前に住んでいた阿佐ヶ谷と同じく住宅街の中にあったが、こちらは郊外でもあり、うんと開けている。職場からはやや遠くなったが、駅周辺には何でもあり、生活に不自由はない。

会社からは1時間弱。比較的近いので、同僚が遊びに来ることもあり、訪れた彼らとつるんで遊びに出ることも多くなった。ようやく心の傷が癒え、また新たな生活がスタートした感があった。

一方では、彼女のことがきっかけとなり、そのころは自分一人でも教会へ通うようになっていた。近くにカソリック教会があるのをみつけ、そこへ通い始めた。プロテスタントとカソリックはお互い相いれない部分があり、教義も異なるが、「初心者」の私にとってはどちらでもよかった。

ともかくキリスト教とはなんぞや、というところに興味があった。教会にやってくる人たちとも仲良くなり、イエス様がどれほど素晴らしい人だったか、といった話にも抵抗なく耳を傾けるようになった。が、それよりも、日曜日の朝に開かれるミサの厳粛な空気が好きで、それからしばらく教会通いを続けた。イセ・キリスト教徒の誕生だ。

みずから聖書を買い求め、毎週ミサのあとにある聖書勉強会なるものにも欠かさず顔を出した。それまでの自分から考えられないほどの傾倒ぶりであり、一時期はいつ、洗礼を受けてクリスチャンになろうかと真剣に考えたほどだ。



こうした宗教活動に加え、仕事や生活も安定し、いまのところもうこれ以上必要なものはない、という状況だったが、心の中には満たされない、切り欠きのようなものがあった。失恋の痛手からまだ立ち直っていないこともあったが、もうひとつ長い間心に中にわだかまりとして残っていたことが、このころふたたび首をもたげてきていた。

それは、かつて大学受験に失敗し、思うような進路に自分が進めなかったという思いだった。もちろん進学した大学では良い成績を収め、そのご褒美のように得た就職先もまた人がうらやむようなところだ。給料はよく、おそらく同じ大学卒の同期の間ではトップクラスのサラリーをもらっていたのではないだろうか。

職場も円満で、仕事も面白く、これ以上何を望むのか、という環境だったが、自分的にはまったく満足していなかった。

そもそもこの会社に入った目的のひとつは、海外に行く、ということだった。そのために卒業前に英語学校に通い、入社してからも英語の勉強は続けていた。ところが、国内での業務経験が十分にないものは海外へは出さない、という会社の方針があり、所属していた部の上層部も、私を海外へ出すのは、まだ時期尚早と考えているらしい。

失恋の相手はまだ会社を辞めたわけではない。同じ社内にいればそれなりに気にもなる。そろそろ海外へ出してくれればいろいろ心境も変わるのに、と思い始めていたが、会社の方針は方針で変わりそうもない。

それなら自分で行くしかないな、と思い始めたのが入社して5年目の春のころだ。かつて失敗した大学受験でてきた心の溝を埋め、かつ海外へ出ることができる道といえばただひとつ、留学しかない。会社に入ってから技術を磨いてきた海岸工学の聖地といえばアメリカであり、そこへ乗り込むことこそが今後自分が進むべき道のように思えた。

早速、赤坂にあるフルブライト教育委員会を訪れた。これはアメリカの大学の情報提供機関である。戦後、日本がまだ貧しいころ、太っ腹なこの国は優秀な学生を自国へ招聘し、無償で学ばせることにした。

親米化が進めば、日本の統治もよりやりやすくなると考えたからだ。フルブライト奨学金制度というものが設けられ、これにより毎年選ばれた学生がこの制度を利用して留学するようになった。

無論その制度を利用できるのは選ばれたエリートばかりであり、私など足元にもおよばない。制度を利用しての留学は無理だが、ただ、フルブライトが提供しているアメリカの大学情報は誰でも自由に閲覧できる。インターネットなどまだない時代であり、その情報は貴重だった。

もっとも、フルブライトにあったものは、かなり昔のアメリカ各地の大学のパンフレッぐらいだ。新しい情報は少なかったから、それを補うため、あちこちの図書館に通っては現地情報を集めた。しかし、必要な情報を探し出すのは結構大変だった。このころまだまだ留学というのは一般的な時代とはいえず、アメリカの大学を紹介する冊子は日英文とも少ない。

それらの情報をかき集めて進学先を探り、実際に入学が可能かどうかは、直接問い合わることにした。候補をだんだんと絞りこんでいったが、第一希望として日本に近いアメリカ西海岸の大学を考えていた。しかし、自分が希望するようなカリキュラムを持っている大学は少なく、次々と候補からはずれていった。

留学をしようと思い立ったものの、このころの私の英語はまだ拙かった。おい、ちょっと待て、その程度の語学力で留学かよ、と人から言われそうなレベルだったが、なぜか決意だけは固かった。とはいえ、英語ができなければ話にはならないので、入学前に使える程度に英語がレベルアップできるシステムがある学校が良いと考えた。

そうした中で最終的に候補地として絞り込んだのが、フロリダだった。言うまでもなくアメリカ屈指のリゾート地であり、映画やドラマでもよく舞台となる常夏の別天地だ。

ここを選んだのには理由があった。リゾート地であるだけに、ビーチの保全は不可欠であり、そのための海岸保全の学問体系を構築している大学が多い。候補の大学としては、州立のフロリダ大学と私立のフロリダ工科大学、マイアミ大学などがあった。

このうち、フロリダ大学は、公立大学なので学費も比較的安い。ELI(English Learning Institute)も充実していて、学びやすい、と何かの記事で読んだ。大学直営の英語教育機関で、外国人の入学を認めている大学なら大抵どこにもあるが、フロリダ大学にもあることを確認し、ここに決めた。

無論、フロリダ大学本校への正規入学ではない。まずはELIで英語を学び、ある程度レベルが上がったら、本校のほうへ転入すればいい、と考えたが、無論そんなに簡単にいくわけがない。

このあたり、まだ20代の若さがあった。これぞと決めると、成功しようがすまいが、その方向にわき目をふらずにまっすぐにすすめるだけのバイタリティとエネルギーにあふれていた。

会社勤めをしてほぼ5年が経っていたから、貯金もそこそこある。退職金も出るだろうし、そのころ新車で買い、乗り回していたホンダのスポーツカーを売り飛ばせば、2年くらいの渡航費用はなんとかなる、と算段した。

会社に渡航を告げたのはまだ梅雨前のころだ。海外業務も多い会社なので、会社に籍を置きながら社員のままで留学した例も過去にはあったようだ。こうした場合の規定も設けられていて、2年以内ならば退社せずに社員のままそれを認める、という。

しかし、退職金を目当てにしていた私はそれを断った。2年以内で帰ってこれる自信はなく、少なくとも3年はかかると考えていたためだ。ただ、会社上層部には一応ネゴシエーションをし、もし無事に学位を取って帰ってきたら、再就職もOKだという了承を得ての出国だった。

7月。退職する直前に、同期入社の面々が歓送会を開いてくれた。うらやむもの、危ぶむもの、それぞれだったが、私の決意を知ると、皆それなりに応援してくれた。会が終わった後、みんなの寄せ書きが入った色紙を渡されたが、その中に見覚えのない名前とメッセージがあるのをみつけた。

最初は誰だろうかと思ったが、文字をみて彼女だとすぐにわかった。しかし、苗字は結婚前のものから変わり、別のものになっていた。あなたならできる、祈っています、といった簡単なメッセージだったが、それを見たとたんにまた熱い思いが込み上げてきた。

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本稿の内容はすべて事実に基づいたノン・フィクションです。ただし、登場する人物名は仮名とさせていただいています。また地名や組織名についても、一部は実在しない名称、または実在する別称に改変してあります。個々のプライバシーへの配慮からであり、また個人情報の保護のためでもあります。ご了承ください。

夢の途中 8 ゲインズビル

1986年8月下旬。私は、フロリダ州、ゲインズビル・リージョナル空港に降り立った。

エアコンの効いたロビーからガラスドアを開けて外に出ると、むっと熱い空気が体を包みこむ。日本の夏とは違う強烈な暑さだ。日差しが強く、むき出しの肌はすぐにチリチリと日焼けしてしまいそうだ。

到着したのは10時くらいであり、朝食をとるにも昼食をとるにも中途班半端であったため、食事はせずそのままタクシーを拾い、これから住むことになる大学近くのアパートを目指した。

その車中、改めてここまでの旅のことを想った。重いスーツケースを引きずり、生まれて初めて訪れた成田空港は思った以上に広かった。長い旅はそこから始まった。

成田も初めてだったが、そもそも海外旅行そのものが初体験だ。出国手続きや、税関申告のことなど事前にいろいろ勉強はしていたつもりだったが、聞くと見るとでは大違いで、ずいぶんと戸惑った。

現在もそうだろうが、この当時も日本国内からフロリダまでの直通便はほとんどない。このときの私も、まず西海岸のロサンゼルスへ飛び、そこから東部のアトランタへ、さらに乗り継いでようやくフロリダに到着した。

ロスまでのフライトが約10時間、アトランタまではさらに4時間、そこからさらに1時間半かかる。待ち時間も含めれば24時間を超え、足掛け2日間にもおよぶ長旅だ。移動だけでも疲れたが、慣れない英語で情報を見聞きしながらの道中の緊張は半端ではなかった。

寝不足も加わって疲労はピークに達していたが、アトランタから最終目的地まで乗ったレシプロ機では窓外の景色を見落とすまいと、ずっと起きていた。アトランタを飛び立った直後に見えていた街並みはすぐに消え、やがてジャングルや湿地帯の上を飛行機は飛び始めた。

ところどころに陸地があるだけの、見渡す限り沼ばかりの場所も多い。もしここで飛行機が落ちたらうようよいるワニの恰好の餌になるんだろうなーと悪い想像をした。その未開の地を窓から眺めながら、あーこりゃあ、もしかしてとんでもないところに来てしまったかもしれない、とも思った。

飛行機はやがて最終目的地のゲインズビルの街中に入っていく。高度が下がってくると、それまでの湿地帯ばかりだった風景が変わり、ジャングルの中に点々とする街並みが見えてきた。やたらに平屋が多く、またやけにオレンジ色の屋根が多いな、というのが第一印象だ。

後で知ったことだが、フロリダはどこの町も沼地や湿地を干拓してできたところが多く、いわば海に浮かんだ孤島のような場所ばかりである。島から島へ渡るには道路を通す必要があるが、それも干拓して作らなければならない。

このため地図をみると、点と点を結ぶ道路がまるで蜘蛛の巣のように通っている。文字通り「網」というのにふさわしい交通事情だ。

ただ、当初は道路以上に鉄道が発達していた。ゲインズビルは、南北戦争後、大西洋やメキシコ湾の港から鉄道が直結する町として発展した。柑橘類生産の中心として繁栄し、1905年にフロリダ大学がここにできると、上下水道や電力供給システムもが整備され、町としてさらに大きくなった。

とはいえ、現在の人口は12万人ほどで、フロリダ南部の主要都市、人口30万人のマイアミの半分以下だ。

空港で拾ったタクシーの車窓からぼんやりと外を眺めていると、灌木に囲まれた家々が次々と現れては消えていく。空からも見えたように二階建てはほとんどなく、平屋ばかりだ。もっと背の高い建物ばかりの街並を想像していたので、えらい田舎だなーという印象をもった。たいして変わり映えもしない景色をしげしげ見ているうちに目的地に着いた。

今回の留学における飛行機の手配や滞在先、入学手続き等は、北の丸のエージェントに一括して頼んであった。留学斡旋といえば今でこそ数多くの会社が手掛けているが、この当時、信頼できそうなのはここぐらいしかなかった。

毎朝新聞社が運営しており、英米への留学を主に扱っている。私の相談にも懇切に答えてくれ、留学先での生活にもいろいろアドバイスをくれた。

そこが手配してくれたのが、到着先のラ・マンチャ・アパートメントという下宿だ。ほとんど留学生ばかり、アメリカ人はほとんど住んでいないと聞かされていた。

ドキドキしながら、玄関をくぐると、若い女性が出てきたが、第一印象からして悪かった。整った顔立ちではあるが、つんけんしていて、東洋人だとわかるととたんに態度が横柄になった。あとでわかったことだが、南米から移住してきたヒスパニックの一家がここを経営しており、そこの娘らしい。

あんたの部屋はここよ、といわんばかりにあご先で部屋のある方向を指し、相手が理解していようがいまいがおかまいもなく、早口で説明を始めた。最後に注意書きの書いてあるらしいパンフレットをポイっと渡された。

部屋への案内もなにもない。仕方がないので勝手に部屋に行き、ようやく荷物を下ろしたが、そこで待っていたのは、アフリカ人と中近東から来たという留学生二人だった。

黒人のほうはソマリア、中近東のほうはヨルダンからとのことだ。生まれて初めて身近に接することになる外国人がはるか遠い、行ったこともない国から来たことに少々面食らった。

もっとも驚いたのはそのときだけで、そのあとから会う人会う人すべてがこれまで見たことも話したこともない人種ばかりであり、そのうち慣れてしまった。言葉が違うだけで、所詮は同じ人間だ、と思えるようになったのは大きな進歩だ。

外国人を見ただけでドギマギしてしまう人がいる。しかし「人種のるつぼ」の中に入ってしまえば、そんな外国人アレルギーなどは、すぐに消えてしまう、ということをこのころの実生活の中で知った。

ラ・マンチャ・アパートの部屋は思ったほど広くはなかった。しかし、バストイレ付きで、共同のキッチンやランドリーもあって、生活には不自由しなかった。暑い時期だったがエアコンも効いていてこちらも問題ない。

ルームメイトのうち、ヨルダン人のほうはいけすかないヤツだったが、ソマリア人のほうとはすぐに仲良くなり、夜になるとお互いのことをよく話した。化学専攻の大学院生でこれから博士課程で学ぶという。ソマリアといえば、その後の内戦によって国が荒廃し多くの難民が出たことで知られるが、この当時はまだ平穏な国だった。

家族のことや、母国のことなどをこのソマリア人の新しい友人と夜な夜な話した。外国人が友人?ということ自体が信じがたいことだった。話の中身は日本人相手でも話したことのないような内容で、それを英語でしゃべり、ちゃんとコミュニケーションがとれている、ということも驚きだった。

このソマリア人の彼とはその後アパートを移ったこともあり、疎遠となったが、初めて親しくなった外国人ということで今でも懐かしく思う。祖国が内戦で大変なことになっている中、今どうしているだろうか。




そんな日常会話を通じて、私の英語は格段に進歩していった。無論、英語学習の場は下宿先が主体ではなく、フロリダ大学の構内にあるELIだ。

このフロリダ大学は、1853年に創設された州立大学であり、フロリダ州で最古の歴史と最大規模を持つ。もともとは神学校として創設されたものだが、その後普通の大学に昇格し、1905年に現在の校名となった。

学生数は、学部生と大学院生を合わせて約5万人で、全米第2位という巨大な学び舎だ。100を超える専攻と16のカレッジを有し、ゲインズビルの人口12万人のうち、約4割がフロリダ大学の学生である。その運営費は約20億ドルと言われ、こちらは全米で8位だ。

レベルは高く、州立大学のランキングでは毎年、上位に名を連ねる名門大学である。卒業生には多数の上院議員、州知事、米国大使のほか、ノーベル賞受賞者もいる。2014年に青色発光ダイオードの研究でノーベル物理学賞を受賞した中村修二さんも、研究者としてこの大学に1年間籍を置いていた。

このほかワイモバイル創業者の千本倖生氏は、ここで電子工学の修士・博士(Ph.D.)の学位を取得しており、元プロゴルファーの東尾理子さんも、ここの心理学科を卒業している。アメリカ人の卒業生にも多くの有名人がいるが、日本人になじみのある人はそれほど多くない。「羊たちの沈黙」でアカデミー賞監督賞受賞したジョナサン・デミ監督ぐらいだろうか。

そのキャンパスは広大で、総面積は約810ha(8.1平方キロ)もあり、これは全米で3番の大きさを誇る。おそらく大小200以上の建物がある中には巨大なフットボールスタジアムも含まれ、ゲイターズ(Gators)と呼ばれるフットボールチームに対する市民や学生の熱狂ぶりは有名である。

広大な敷地内はまるで森のようでもあり、樹齢100年以上の巨大な樹木の間に教育施設が点在する。あちこちに池を中心にしたサンクチュアリが設えられており、学生や教師たちの心の安らぎの拠り所だ。秋になると、その間を縫うようにしてリスが走り回る。木々の枝を昇り降りするその姿を見ると癒された。

娯楽施設などもあり、ゴルフ場やボーリング場まである。道路は広く、4車線道路が普通だ。構内には専門の警官がいて、パトカーや白バイで巡回し、常時速度違反や駐車違反を取り締まっている。

この広大なキャンパスの一番北の端にELIはあった。マーサリーホール(Matherly Hall)と呼ばれるビルの中にあり、このビルはまた、リベラルアーツ(liberal arts and science:基礎教養学部)の本部になっていて、ELIはこの学部の一機関、という位置づけだ。

私の担任の先生は3人ほど。すべてが同学部の大学院生もしくはそれを専門とする先生だ。ELI全体では10人ほどの教師とスタッフがいたと思う。

ゲインズビルに着いて、1週間後には、このELIで初めての授業があった。ここのELIもそうだが、どこの大学のELIも自前のプログラムを持っている。基本的にその内容はグラマー(文法)、リーディング、ヒアリング、日常会話などで、科目自体は日本とほとんど変わらない。

しかし大学毎にそれぞれ独自の教え方を研究しており、フロリダ大学のものは他より優れている、と聞いていた。

あたりまえのことだが、教材は無論のことすべて英語であり、先生によるインストラクションも英語だ。時折催されるディベートもプレゼンテーションもすべて同じであり、まさに英語のシャワー漬けである。

放課後は、指定の教材をリスニング室に持って行って、ヘッドホンで聞く。内容はアメリカの歴史や偉人に関するもの、風土や観光に関するもの、と多彩だが、どれも外国人の興味を引きそうな内容が用意してあって、なかなか面白い。

歴史ものなら、たとえばアラビアのロレンス。映画で有名になったイギリス人だが、なぜアラビアに渡ったのかを私は知らなかった。教材を通じて知ったのは、オスマン帝国に支配されていたアラビア半島の開放のため、スパイとして潜入した、ということだった。

そうした偉人の生涯、あるいは地域の歴史などが簡潔にまとめてある教材を、テキストを読まずに耳だけを使って理解していくのだが、いくつかの章立てがしてある。

先に進むためにはそれをひとつひとつクリアーしていかなければならないのだが、内容もよく練ってあって、わかりやすい。どんな人物だったか、どんなことをしたのかを知りたいがゆえに必死になって理解しようとする。そのうちに、知らず知らずにヒアリング能力がアップしていく。

その他の教材についても、日本のものとは一味違うな、と思った。ネイティブな専門家が、英語を母国語としない外国人にいかにそれを理解させるか、といった計算をもとに作られている。

たとえば、リーディングであれば、何がポイントか、どこがわかりにくいか、といった本題が、学ぶ側に認識できるようになっており、それを確認し、クリアーしていくうちに、どんどんと英語力が深まっていくのが自分でもわかる。

また、どの先生も、いかにわかりやすい英語を自分でも使うか、というところに気を配っていて、難解なことはしゃべらない。英語というのは、実は単純な単語だけで意味が通じる、ということを身をもって教えてくれているわけで、生徒のほうもそれに倣ってわかりやすい英語を使うようになる。

日本の英語教育の場合、まずやたらと難しい単語や文法ばかりを先に習わせる。次いで、長文を読ませ、さらには無理やり英会話をさせようとするが、たいていの人は途中で挫折する。

一般に高すぎるレベルの教材を与えがちであり、そのことが原因でがんじがらめになり、読もうにも読めない、しゃべろうにもしゃべれない、というふうになってしまう人がいかに多いことか。

難しすぎない単語、シンプルな言い回し、基本的な文法、これを繰り返し覚え、理解する。それを自分でしゃべれるようになるだけでなく、人から聞いても理解できるよう、リスニングの練習を重ねる。そんな簡単なことだけで英語はうまくなる。シンプルイズベスト、これが英語習得の極意である。

そうしたコツのようなものが分かってからの私の英語能力は飛躍的に伸びた。3ヵ月もしないうちに、アメリカの学部入学に必要な最低レベル、TOEFLで500点をクリアーした。もとより日本で勉強してきた素養があったせいもあるが、これほど早くこのレベルに至るとは自分でも考えていなかった。

しかし、大学院への進学を目指していた私にとってはこの点数ではまだ不十分だった。最低でも550点を入学条件にする大学が多いことから、今少しここでの勉強を続ける必要があることは明らかだ。

とはいえ、ある程度のレベルに達したことから、あとは急に楽な気持ちになった。クラスの内外の人たちともよく会話をするようになり、友達は次々とできた。

私が所属していたクラスは雑多な人種の集まりで、アルゼンチン、コロンビア、プエルトリコなどの南米からが多かったが、ほかにもイラクやナイジェリアなど中近東やアフリカ諸国から、スイスなどのヨーロッパからの留学生もいた。

彼らとはクラスの中ではもちろんのこと、授業が終わってからもプライベートな話題で盛り上がり、すぐ仲良くなった。お互いが住んでいる国や環境のことだけでない。何を考えているのか相手のことをもっと知りたい、という原動力が人と人とを結びつける。好奇心こそ、言語を習得するコツだ、ということをこの異国の地に来て改めて学んだ気がする。

同じクラスで東洋人は私一人だけだったが、アジア系が少ないのはここのELI全体でいえることで、その理由はやはり母国から遠い、ということだったろう。地球の裏側から来るにはやはり時間も金もかかる。距離という点ではやはり南米が近いことから、ここからの留学生が最も多く、次いでアフリカ、ヨーロッパの順である。

もっともヨーロッパでは英語を習う環境が整っているため、わざわざアメリカまで英語を習いに来る人は少ない。とはいえ、半ば物見遊山で来る輩もいて、そういう連中の目的は英語習得というよりも観光である。

私のクラスにいたスイス人は若い女性だったが、面白い子で、いつもジョークで皆を笑わす人気者だった。この子も英語習得が目的というよりも、何か面白いことがありそう、といったノリでやってきたようなところがある。学校が終わるといつもどこかへ遊びに行っているようだった。

どこへ行っているかまでは詮索しなかったが、一度デートに誘われたこともある。もっともこのころの私にはそんな心の余裕はなく、丁重にお断りした。あとになって、仲良くしておけばよかったなーと後悔したが後の祭りだ。

いずれまたヨーロッパへ行く機会があったときにはお世話になったかもしれないのに、と思ったものだが、向こうも案外と同じような下心があったのかもしれない。



仲良くなった友達は外国人ばかりではない。数は多くなかったが日本人もいた。最初に接触があったのは、同じELIで学ぶ女性だった。江田幸代という名前だが、親しくなってからはサッちゃんと呼ぶようになった。

親しいといっても男女関係のそれではなく、同じ学校で英語を学ぶ友達の域を出ない。まったく意識しなかったわけではないが、なるべくそれは考えないようにしていた。このころの私は密かに自分に課していたことがあり、それは「女人禁制」ということだった。

かつて高校や大学時代、また就職してからも焦がれるような恋をしたが、その都度勉強や仕事が手につかなくなり、いつもみじめな終焉を迎えた。

今度の留学は、いわば一世一代の大勝負であり、女性「なんかに」うつつを抜かしている場合ではない、と思っていた。スイス人のクラスメートからのデートの誘いを断ったのもその思いからであり、サッちゃんとの間もそうした関係にならないよう気を付けていた。

ところが困ったことに、この子がまたなかなかチャーミングな女性だった。外国人にも人気で、一緒にいると行く先々で彼女へお声がかかる。その都度、おれは恋人じゃないよ、というフリをした。

彼女のプライベートな環境には頭を突っ込まないようにしていたが、気にはなっていた。言動からそれとなく異性関係を類推した。すると、やはり何人かの外国人とデートも重ねているようでもあり、そのうちの何人かとはかなり親しそうだ。

もっとも、デートという感覚自体が古い。最近の日本でも同じだろうが、知り合った男女が一緒にどこかへ出かけたとしてもそれをいちいちデートとは言わない。四六時中一緒にいて明らかにべたべたしているようなら、恋人同士といえるだろうが、少なくとも彼女にそういう相手はいないようだ。いわゆる八方美人というやつだ。

明るく奔放な性格だったので、ELIの中でも人気者だった。3つか4つ年下だったと思うが、年上の私をつかまえて「オジさん」と呼ばわっていた。あとで聞いた話では新宿に実家があり、かつてはOLをやっていたらしい。フロリダへ来たのは脱サラして新たな新開地を開きたい、といったところだったろう。

その後日本に帰ってからも時折近況報告をしあっていたが、最後に声を聴いたのは、ある日突然、電話連絡してきたときのことだった。このとき、東海岸にある大手の日本の銀行の支店に勤めることになった、と話していた。

意外にお固い職に就いたんだな、と驚いたが、それだけ適応力あったということなのだろう。結構遊び人だと思っていたのに、見直した。その後音信不通となってしまったが、今も元気でいるだろうか。

そのサッちゃんの紹介で、もう一人の日本人を知ったのはフロリダに来て2ヵ月ほども経ったころだったろうか。こちらは男性で、角田(つのだ)俊介といった。驚いたことに、私が入学しようとしていたフロリダ大学の海岸工学科の大学院生で、年も私とあまり違わないという。

きっかけは、サッちゃんと話している中、日本人留学生の中にあなたが志望している学科に入っている人がいる、と聞いたことだった。えっと思ったが、続けて彼女が、すぐ近くに住んでいるから紹介するわよ、という。

その日すぐにではなく、翌日か翌々日かだったと思う。彼のほうから私のアパートを訪ねてきた。少しやせ型で長髪、背は私よりも少し高いが長身というほどでもない。笑うと犬歯がむき出しになり、目じりが下がって愛嬌がある。

さっそく、私がフロリダに来た理由や、彼が所属する学科の話など、専門的なことの情報交換をして盛り上がった。以後、家族のことなどのプライベートなこともいろいろ話をしはじめ、すぐに打ち解けて仲良くなった。

一歳年下の彼は、横浜出身で、大学は商船大だったという。卒業後、大手の運輸会社に勤めていた父のつてで関係会社に入ったらしいが、そこを辞めてフロリダに来た。

住んでいるのは私のアパートからすぐのところで、歩いて5分もかからない。以後、頻繁にお互いの住処を行き来するようになったが、彼のアパートメントのほうが広かったせいもあり、こちらから出向いていくことのほうが多かった。

料理好きで、同じく何でも調理できた私とはその面でも気が合い、一緒にキッチンに並んでは、異国ではふだん味わえない料理をお互いが作りあう、ということが続いた。私がかつ丼を作れば、彼がラザニアを作って振る舞ってくれる、といった具合で、その場に共通の外国人の友達や、サッちゃんも加わることもあり、一気に友達の輪が広がっていった。

もともと一人でいることが多く、自分のテリトリーを広げることが苦手な私にとって彼は、その環境を押し広げてくれるありがたい存在だった。既に大学院2年目に入っており、同じ学科の友達も含め多くのアメリカ人の友達がいた。彼らのアパートであったパーティなどにも参加させてもらう、といったことも増えた。

私はその後、ラ・マンチャ・アパートを出て、別のもっと広いアパートに移り住んだ。そこで彼の友人たちを集め、自らが主宰するパーティを開いたこともある。

アメリカには「パーティ・アニマル」という人種がいる。週末になり、学業や仕事が休みになるとあちこちでパーティが開かれる。そうした集まりが本能的に好きでたまらない、というお気楽連中を指す。大学関係者の中にもそうした嗜好者がおり、どこかで何か集いがある、という情報を仕入れるとすぐに飛んでくる。

ようするに大学というところはたいして行くところがないのである。毎日難しい勉強や仕事ばかりしていては息が詰まってしまう。映画やゲーム、ビリヤードなどの娯楽にいそしむ人たちがいる一方で、そうした普通の遊びにはすぐに飽きてしまう人も多い。

大勢が集まる場はやはり楽しいし、ときには思いがけないハプニングもあったりする。人間関係が絡む場なので良いこと悪いこと色々だろう。が、お相手を見つけるチャンスでもありそうした出会い場を求めては、会場をはしごする。パーティを通じてストレスを発散する、という意味もあり、それがひとつの文化になっている国なのだ。

ゲインズビルにはおよそ10カ月ちょっといた。その後、アメリカ国内を旅行したりもしたから、このときの渡米での滞在はおよそ11カ月に及ぶ。

ここでの生活は、当初こそ先が思いやられたが、ある程度英語が身についてからは楽になった。ELIでの生活が終盤に近付いたころには、ひとりでレンタカーを借りて、あちこちを運転して回ったりもし、また友達同士、方々を旅行した。

友達というのはほぼすべて日本人である。フロリダ大学で学ぶ日本人の数は少ない。それすべてを私が知っている、というのは過言かもしれないが、全部集めても20人いるかいないかだったろう。知っている、というのは半ばあたっていたかもしれない。

僻地に行けば行くほど日本人は結束が強くなるようで、そうした数少ない日本人が集まる機会は割と多かった。そうした旅行も誰ともなく起案し、なんとなく出かける、ということが多かったが、あるとき、角田君と私、ほかに日本人女子学生3人を加えた5人で旅に出かけようということになった。

ゲインズビルから南下して、フロリダ最大の湖、オキチョビー湖を経由してマイアミ、そこから最南端のフロリダ・キーを目指した。しかし、学生ばかりだったので、みんな金がなく、車中泊を一度、またもう一泊は安宿の一部屋に5人が泊まる、という貧乏旅行だった。

男性二人に女性三人ということで、そこからさぞかしラブロマンスが生まれただろう、と読者は思われるだろう。が、そんな浮いた話はこの旅行ではまったくなかった。皆、初めて見るフロリダ南部の広大な光景に圧倒され、それどころではない、というところだったろう。

また別の機会には、別のメンバーと、フロリダ州を離れてはるか西方にあるルイジアナ州はニューオリンズを目指した。3月にマリデ・グラという大きなお祭りがあるということで、これも角田君の触れ込みで、ぜひ見に行こうということになった。そのときはインド人一人を含む、男性ばかり4人で出かけた。

ニューオリンズはその昔はフランス領だったこともあって、街の作りはほぼフランスと同じであり、哀愁のただよう町だった。一日中パレードが繰り広げられ、町中の人々が踊り狂う、というお祭りで、外国人もここに殺到する。

ジャズの町としても有名で、高名なミュージシャンを多数輩出している。私は一緒に行かなかったが、角田君は一人でジャズバーに出かけて生演奏を聴き、そうした有名人の一人と握手をしてもらった、と自慢していた。

フロリダ州内のそのほかの場所にも頻繁に出かけた。スペイン統治時代の古都、ジャクソンビルや、商工業地帯として発展したセントピーターズバーグ、タンパ、ディズニーランドで有名なオーランドなど、およそフロリダの主要都市はほとんどすべてをこのころ旅して回った。

セカンドセメスターが終わる4月末、私は何度目かのTOEFL試験で、540点ほどの点数を得た。目標の550にはもうすぐであり、この点数で受験をしても受け入れてくれる大学は多数あると判断できた。

当初はこのままここにいてフロリダ大学の本校に転入しようと考えていたが、問題がふたつほどあった。

ひとつは気候だ。その前の年、初めてフロリダの夏を経験したが、8月に渡米してからというもの10月のはじめごろまでずっと、ぐずぐずと天気が悪かった。加えて気温も異常に高くてまるで毎日が蒸し風呂状態だ。

学校やアパートに帰れば冷房は効いているものの、天気の悪い日が続けば気分も落ち込む。フロリダに来た当初、まだ英語もうまくしゃべれず、その上にこのうっとうしい夏を迎えたので、逃げ出したい気分に何度もなった。

ここにさらに長くいれば再び同じ季節が近づいてくる。それが嫌だった。卒業まであと何年もかかるとして、その間、この天気を何度も経験するのはたまらない。もともと広島育ちの私は暑さには強いほうだが、初めて経験するこのアメリカ南部の海洋性気候にはほとほと参り、もういいや、という気になっていた。

もうひとつは資金だ。当初、ELIでの勉強はそこそこで終え、スライド式に大学院に転入すれば、2年ほどは生活できるはずだった。そのあとは大学内で何らかのスカラーシップ(学究的な職に就いて奨学金をもらう制度)をもらえればなんとかなる、と考えていた。

しかし、ELIでの授業に金をつぎ込んだせいもあり、残った資金は、1年少々分しか残っていない。大学に入学するためには2年分ほどの自己資金が求められるため、このままでは入学できない。

選択肢としては、このままアメリカに残って何等かの職を見つける、というのがひとつ、もうひとつは一旦日本に帰って、再度体勢を整えるという選択だった。

前者は就労ビザの問題があり、なかなか簡単にはいきそうにない。それなら一度日本に帰り、アルバイトでもしながら金を稼ぎ、その間、志望校を再度選定しなおしたうえで、もう一度来米しよう、と心を定めた。




はじめての渡米から10カ月近くになろうとしていた6月、私は帰国の準備を始めた。

しかし、往路とそのまま同じ経路で帰るつもりはなかった。どうせなら、このアメリカという国をとことん見て帰ろう、という気になり、そこで思いついたのが、アムトラックだった。

アメリカの主要都市間を結んでいる鉄道のことで、これを使えば、ほぼ全米の主だった都市へ行ける。例えば、アメリカを横断したければ、首都ワシントンを発し、中東部のシカゴ、オマハ、ラスベガスなどを経て、サンディエゴやロサンゼルスなどの西海岸の町に至ることができる。

こうした便利な鉄道ができたのは比較的最近で、1970年代のことである。もともと、アメリカには、国有鉄道が存在した時代がなく、全土の鉄道ネットワークは私鉄の集合体であった。第二次世界大戦後、航空や自動車輸送の台頭により、アメリカの鉄道旅客輸送量は減少の一途をたどっていたが、その傾向は1960年代に加速した。

この時期、多くの鉄道会社が旅客営業の廃止に踏み切り、残存するわずかな旅客列車についてもその存続が危ぶまれるようになった。こうしたことから、鉄道旅客輸送を維持するために、各地域の鉄道会社の旅客輸送部門を統合した全国一元的な組織として設立されたのがアムトラックである。

形態としては、「アムトラック」という一つの鉄道会社が、全米にある鉄道各社の線路を借り、そこに自前の旅客列車を運行する形になっている。アムトラック自身も線路は保有しているが、それはアメリカ東北部などのごく一部の運行区にすぎない。

その運航路線は、50種類近くもあるが、アメリカ大陸を横断する路線として有名なのが「カリフォルニアゼファー」と呼ばれる路線で、これはイリノイ州のシカゴとサンフランシスコ・ベイエリアを結ぶ長距離列車である。3,924km (2,438マイル)の行程を車中2泊3日、50時間以上かけて走るこの列車は、沿線の景色の良さで知られる。

始点はシカゴであるが、フロリダにも近いアトランタからワシントンD.C.へ、さらにD.C.からシカゴまで行くアムトラック路線と組み合わせると、ほぼ私の望み通りの旅行ができそうだ。途中、3~4度の乗り継ぎをする必要があるが、このとき途中下車で、次の列車の出発時間まで余裕があれば、それぞれの都市の見学ができる。

さっそくこのプランを実行に移すべく、大学近くの旅行代理店に出かけて、チケットを求めたが、たしか1000ドルくらいだったと思う。アムトラックの乗車運賃のほか、西海岸に着いてからの数泊のホテル代も含めてこの値段であり、円に換算して10万円ちょっとでこの大旅行ができるというのは安いものだ。

旅の始点はアトランタだった。ゲインズビルからここまで飛行機もあったが、どうせなら地上を走っていきたいと思い、電車の便を探していたら、ちょうど角田君が今だったら試験の合間だから一緒に行ってもいい、という。

このときまでに8カ月以上の付き合いとなり、いまやツーといえばカーというほど仲良くなっていた彼との旅は、フロリダ最後の旅としても最高のものに思えた。

かくして私は、彼の黄土色のカローラバン(私はこれを「うんこ色のカローラ」と呼んでいた)に乗って、遠路はるばるの帰国の旅についた。このころ私は既にアメリカの免許も取得していたが、運転は彼がやってくれた。

およそ700km、行程6時間ほどの旅は瞬く間に終わった。朝早く出たので、少し遅めの昼飯を二人で食い、アトランタの街中を散策して回った。このころのこの町はまだその後オリンピック景気にわくほど賑わっておらず、新興都市というかんじだった。地下を走る地下鉄も真新しく、アメリカで初めて乗る地下鉄ということで、ふたりではしゃいで乗った。

ワシントンDC行きのアムトラックは、その夕刻アトランタ中央ステーションを出発する予定だった。駅の外に車を止め、角田君に別れを告げた。これが最後じゃないよな、とお互いに確認しあったが、そのとおり、彼とはその後何十年来の友人となり、現在に至っている。

その後、私が途中下車したのは、ワシントンD.C.とシカゴで、最終降車駅はサンディエゴだった。

なかでもD.C.はアメリカの首都であり、そこを訪れることができたことは今でもよい思い出となっている。ホワイトハウスは無論のこと、リンカーン記念館、スミソニアン博物館など、主要な建築物を見て歩いたが、直にアメリカという国を感じることができた。

シカゴも印象的だった。かつてギャングが徘徊した町は近代的なビル群で構成される瀟洒(しょうしゃ)な街に生まれ変わっており、こちらもアメリカを代表する都市だ。あまりゆっくり見て過ごす時間はなかったので、シカゴ近代美術館など主要な観光地を足早に回った。

その後、コロラド州のデンバーを経て、西海岸のロッキー山脈を越え、ラスベガスを経てサンディエゴに至る。東から西へとゆっくりと走る列車の車窓から飽きもせず荒々しい大地を眺めつつ、その雄大さを満喫した。とくに名高いロッキー山脈を越えたときには、ああとうとう俺もアメリカ大陸を横断したか、と感慨に浸ったものである。

終点のサンディエゴからはレンタカーを借りた。実は再度渡米するときは、できればアメリカ西海岸の大学に入りたいと思い、候補としてあげていた大学のいくつかを検分して帰るつもりだった。

このときは、カリフォルニア大学のサンディエゴ校と、サンタ・バーバラ校を見て帰った。どちらもすばらしい環境だったが、のちに希望する学科がなく、入学には適さない学校だとわかった。

このときは3泊ほどして、西海岸の各都市の観光もした。ロサンゼルスは観光地として目立ったものがない。そんなことはないだろう、ディズニーランドがあると言う人もいるだろうが、一人で行く場所でもない。強いていえばハリウッドがあるが、あまり興味はなかった。

そのほか特段見たい場所もなく、このため、日がな一日車を飛ばしてあちこち走り回っただけで終わった。

一方、そのあと足を延ばしたサンフランシスコは見どころ満載で、名高いゴールデンブリッジのほか、急坂を上がり下がりする例の路面電車も間近で見た。今回の旅で一番印象に残った町だったが、残念ながら旅の終わりに近づいており、ここでもあまり時間は取れなかった。

かなり疲れも出ていたが、最後にサンフランシスコからはさらにハワイ、ホノルルにも立ち寄った。後年、ここに足掛け4年ほどもいることになるわけだが、このときも滞在時間が短く、ほとんど外出できなかった。パールハーバーだけは行ったが、あまり強い印象は残らなかった。

このときはもう一刻も早く日本に帰りたいと思っていたから、ハワイは単なる通過地点にすぎなかった。

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本稿の内容はすべて事実に基づいたノン・フィクションです。ただし、登場する人物名は仮名とさせていただいています。また地名や組織名についても、一部は実在しない名称、または実在する別称に改変してあります。個々のプライバシーへの配慮からであり、また個人情報の保護のためでもあります。ご了承ください。

夢の途中 9 ホノルル

1987年7月上旬、私はふたたび日本の地を踏んだ。

約11ヵ月間のアメリカ本土での生活は中身が濃く、長く感じた。おそらく、これからの一生の中でも忘れえない時間になっていくのだろう。

成田から東京へ出てからは、新幹線でそのまま広島に向かった。そのころもう東京に拠点はなく、アパートもすでに引き払っていて泊まるところはない。広島の両親は、長年住み慣れた東雲の官舎を出て、かつて住んでいた堀越にもほど近い府中というところに一軒家を購入して住んでいた。

姉は遠の昔、私が高校のころに結婚して両親の元を離れている。私も広島を出て行ったから、長らく二人は東雲の官舎で生活していた。そのままそのそこに住み着いてもよさそうなものだが、父の定年がそろそろ近づいており、いつまでもそこにいるわけにはいかない。それなら、ということで、当初はどこかアパートでも探して住もうか、という話になったらしい。

ところが、これに母が反対した。どうせなら小さくてもいいから家を買おう、と言い出した。これに対して何事につけても保守的で消極的な父はなかなかうんと言わない。そうこうしているうちに、母が昔住んでいたところに小さな立て売りが出ている、という話を聞きつけてきた。

「昔住んでいた」というところにどこまで父が食いついたのかわからないが、ともかく熱心な母の勧めによってようやく腰を上げ、かつて住んでいた堀越の隣町にあたるその場所の家を買った。

退職金の一部をつぎ込み10年ほどのローンを組んだ。大借金に違いはなかったが、私が大学を卒業したあとのことでもあり、夫婦ふたりなら返せるだろう、と父も腹を決めたようだ。

1階に1DKと4畳半、2階に6畳間が二間、といういかにもこの夫婦らしい、こじんまりとした家だった。眺めもたいしてよくはない。ひしめきあった住宅街の中にあり、隣の家との間も一間ほどしかない。ただ交通の便はよく、歩いて数分のところからバスに乗れ、広島中心部までは10分ほどで行ける。

退職後の父は、市内にある電気関係のコンサルタント会社に再就職した。建設省OBの巣窟のようなところで、いわゆる天下りである。どこかの営業所長の肩書をもらったようだが、仕事が面白かったかどうかはあまり聞かなかった。とはいえ、すぐやめる、と言い出すでもなく、その後長く続けていたところをみると割となじんでいたのだろう。

そこへ私が帰ってきた。高校を卒業し、広島を出て行ってから10年ぶりの息子の帰郷に夫婦は戸惑ったことだろう。が、ありがたいことに文句も言わず、二階の一室を提供してくれた。そして、そこが私の“次”への前戦基地となった。

日本へわざわざ帰ってきたのは、留学資金の補填のためでもあったから、帰って来てすぐに父にアルバイト先を頼んだ。学生だったころのように測量会社を紹介されるのはさすがにきついと思ったが、そのあたりは父もわきまえていて、広島駅近くの建設コンサルタントに臨時職員の仕事を見つけてきてくれた。

ちょうど港湾の設計部門でアルバイトを募集していたとのことで、さっそく翌週からそこへ働きに出るようになった。WVC時代のように正社員でない分、気も楽で、仕事の内容も設計補助ということで、私にすれば簡単な部類に入る仕事内容だ。

が、できる、と思わせると大変なことになると思い、能ある鷹は…を決め込んで、爪はなるべく見せないように仕事をした。家賃を払う必要もなく、実家なので食費もかからない。両親には申し訳なかったが、貰った給料は家に入れるでもなく、すべて貯金に回した。

このため、その後およそ半年ちょっと勤務することで、次なる留学のための資金は十二分に蓄えることができた。おりしも円高となり、1ドルが100円ほどにもなったためだ。ほんの少し前までは100円台後半だったから、1.5倍以上貯金が増えたことになる。フロリダ時代、アメリカに残るか帰国するか悩んだが、結果は吉と出た格好だ。

幸い、この会社に勤めていた間は繁忙期ではなかったため、仕事はそれほど忙しくなく、休日もカレンダー通り休める。こうして空けた時間を、留学先情報の入手に使い、また入学願書の書き方の勉強などもやった。次の年の春が終わるころには、最終的な願書提出先を決め、入学案内を送ってもらえるよう、各大学に依頼文書を書いた。

この当時はまだパソコンなどは普及しておらず、八丁堀にある骨董店で値ごろなタイプライターを手に入れた。生まれて初めて使うものだったが、慣れればそれなりに早く打てるようになるものだ。一字一句間違えないように入力していく作業は大変だったが、それはそれで楽しく思えるほどに上達した。

頭で考えた英文が活字になって紙に打ち出されていくのを見るのは楽しい。日本語なら手書きでしかできないことができる、ということに驚いたりもする。後年、パソコンが普及し、ブラインドタッチを覚えてから文章を書くのが好きになったが、そのころの私は英語ですでにそれを体感していた。

このころ私が入学願書を取り寄せた大学は多岐に及ぶ。できるだけ多くの選択肢の中から希望校を選ぼうと思ったからだ。

西海岸ではワシントン大学、オレゴン大学、カリフォルニア大学サンディエゴ校、同サンタバーバラ校、かつていたフロリダではフロリダ大学をはじめ、マイアミ大学やフロリダ工科大学、東海岸ではデラウェア大学であり、このほか南部のテキサス工科大学やハワイ大学のものもあった。

いずれも海洋学、もしくは海洋工学で有名な学校ばかりであり、州立大学を中心に選んだ。無論、理由は学費が安いためである。マイアミ大学とフロリダ工科大学は私立であり、もとより眼中にはなかったが、どんなカリキュラムがあるのか州立大学と比較してみたいと思い、パンフレットを入手した。

自分が希望するカリキュラムがあるかどうかがわからない大学もあり、それを問い合わせるために手紙も書いた。カリフォルニア大学のサンタバーバラ校もそのひとつだったが、そうした問い合わせに対して、担当の教授から懇切丁寧な手紙をもらったときは感激した。

自分の学校にはそうしたカリキュラムはないが、紹介する別の大学を当ってみてはどうか、という内容のその手紙をみて、見ず知らずの外国人に対してもこうした情報を出してくれるアメリカという国の学際機関の懐の深さを感じた。その後実際に留学したあとも、そうしたこの国の奥の深さを何度も味わうことになった。

こうした選別のあと、最終的には、ワシントン大学、デラウェア大学、テキサス工科大学、ハワイ大学の4校を選び、願書を提出した。東海岸に、西海岸、南部に太平洋上、とバラバラだが、これらの大学を選んだのには理由がある。海岸工学に関するしっかりとしたカリキュラムが組まれており、十分な知識が得られると判断できたからだ。

こうした願書には、大学時代の成績証明書に加えて、推薦状をつける必要がある。通常二通必要であり、学部卒の場合はその大学の教員、職場経験がある場合にはそこの上司のものをもらうのが一般的だ。大学のほうは、福田先生にお願いすることにした。一方務めた正規社員として勤めた会社は一社しかない。その会社、WVCの誰からもらわなければならない。

WVCを退職する直前、運輸省を退職してきた人が、前職と入れ替わって部長に就任していた。短い間のお付き合いだったが、それなりのコンセンサスはとれる間柄になっていたのでこの方に推薦状を依頼することにした。英語も堪能な方だったので、文面もお任せしたところ、立派な推薦状を書いてくださった。

もうひとり、福田先生のほうは英文はお得意ではなかったため、文案を自分で作り、それを見てもらった上でサインしてもらい、推薦状を準備した。

かくしてすべての書類が整い、5月半ばには発送した。早ければ6月に入ってからすぐにも返事がくるだろう。

このころの私は次のステップに対して意欲的だった。中学時代に勉学に目覚めたこと、また大学時代にはスポーツに目覚めたのとはまた違った形の自己改造に臨もうとしており、今回は勉強だけでなく、体をも鍛えなおそうと考えた。

もともと大学時代に射撃に燃え、基礎体力はつけていた。しかし就職後は忙しさにかまけて運動はおろそかになっており、先輩に勧められて始めたタバコの害もあって、体力はかなり落ちていた。

しかし今回のチャレンジは、今までとは違う、と何かが教えていた。ただ普通に臨んだだけでは失敗する。頭の中だけではなく、体全体を鍛えようと考えたのは、もしかしたら背後にいる誰かが後押しをしたのかもしれない。

幸い、アルバイトは忙しくなく、毎日早朝にランニングをしてもそれほど疲れなかった。十分な学資がたまり、バイトを辞めたあとは十分な時間にも恵まれたため、徹底的に自分をいじめた。朝夕5kmほどのランニングを課すとともに、腹筋背筋100回、腕立て50回づつを2セッション、その他の柔軟運動も加えて、毎日を過ごした。

おかげで2ヵ月もたたないうちに、腹部にはみごとなシックスパックができた。後にも先にもこれほど体づくりが進んだ時期もなかっただろう。

そうした中、先に提出した願書の結果が次々と帰ってきた。最初に返ってきたのはワシントン大学だった。そこには、学力は十分だが、英語能力が足りないので入学は許可できない、と書いてあった。やっぱりな、と思ったが案の定そのあと返事が来たテキサス工科大学も同様の内容だった。

ところが、その後続けてきた2通は二つとも合格だった。ハワイ大学とデラウェア大学である。いずれも英語力がやや不足しているため、入学前にELIで英語をシェイプアップすることが前提条件となっていたが、入学を認める、という内容に変わりはなかった。

この時はさすがにうれしかった。フロリダまで行って英語の習得に勤めたこと、日本に帰ってきて出直したことなど、それまでやってきたことが間違ってはいなかったという思いがこみ上げてきて泣けた。

だがしかし、まだ入学が決まっただけである。アメリカの大学は日本のそれと違い、入るのは簡単だが出るのが難しい、ということはよく言われることだ。その先のことが思いやられ、逆に不安にはなったが、ともかく扉が開いたことは間違いない。あとは努力していくだけだ。

最終的にどちらの大学を選ぶかについては、しばらく悩んだ。デラウェアといえばニューヨークにもほど近く、アメリカの文化を肌で感じ学び取ってくるには絶好の土地柄だ。一方のハワイも恵まれた気候と東西の文化の融合地点であり、何か面白そうなことがたくさん待っていそうだった。

かなり迷ったが結論として選んだのはハワイだった。かつてアメリカ西海岸の大学への進学を夢見ていたころがあり、ハワイはそこにも近い。いずれはそのチャンスも訪れるかもしれない、と考えたからだった。一方のデラウェアは、東海岸にあり日本からはあまりにも遠い。興味がないわけではなかったが、寒いイメージもあり、少し気が引けた。

後年、この時の選択が果たして正しかったかどうかについて、よく考えさせられた。人生にもしも、は禁物だとよく言われるが、このときデラウェアに行っていたらまた違った人生があっただろう。

一つの生で二つの人生を歩むことはできない。が、もしもう一度生まれ変わって同じ選択を迫られ、この時と同じ状況に置かれたらデラウェアを選ぶかもしれない。その理由は、その後のハワイでの勉強は想像以上に厳しいものだったからだ。

アメリカの大学でセメスター制をとる大学とクウォーター制をとる大学のふたつがある。前者は、一年を3つに分け、それぞれの時期に入学するが、後者は年に4つの学期がある。先のワシントン大学などがそれである。

どちらが良いとか悪いとかはいえない。それぞれの大学の特色に応じたカリキュラムの一環である。ただ、セメスター制にするか、クウォーター制にするかどうかの選択は、どうも大学がある場所の気候などにも左右されるらしい。

北部にある大学などでは、寒い時期には入学者が少ない。このため、クウォーター制にすれば学期を細かく刻むことで入学者が増える可能性がある。なぜなら学期が多いといういことはその間の休みも多くなるからだ。地方から来ている学生にとっては帰郷の回数が増える。留学生にとってはあまりメリットはないが、地元の学生にはありがたい仕組みだ。

ハワイは言うまでもなく常夏の国である。一年を通して気候は安定しているから、そうした調整はする必要はない。また、相対的に島外の遠方からやってくる学生が多いから、クウォーターはむしろ有難迷惑だ。

いずれの制度にせよ、アメリカの大学の一年は9月に始まるところが多い。ということは8月に多くの学生が卒業していくということになる。かくいう私の入学も9月であり、ホノルルにやってきたのは、その学生大移動の時期と重なった。このため、アパートなどの多くの下宿先ががら空きになり、選びやすくなる。

今回の留学先のハワイは日本にも近いということもあり、フロリダに行ったときほど多くの荷物を用意する必要はなかった。気候も良いため冬ものはほとんど必要ないし、日本人が多い場所だから、食べたくなったときのためにと日本食を用意する必要もない。このため、最初に比べて荷造りはずいぶん簡単に済んだ。

ただ、今回はふと思い立って一台の軽量なスポーツサイクルを預け入れ荷物で持って行った。これが、のちには大活躍することになる。

再び広島を離れる日が来た。前回と同じように母が広島駅まで見送りに来たが、お互い、前のようにはもう泣かなかった。高校を卒業して静岡へ向かったあの日から、ちょうど10年。母はもう54歳になっていた。

いつもその年齢より若々しく見えるその顔に向かって笑顔で手を振りながら、新幹線ホームで別れを告げて、東京へ向かった。今回も成田からのフライトである。東京では、父の友人である小山さんの国分寺のお宅に一泊お世話になった。

大学を出て就職をして以降、いつも家に呼ばれ、ごちそうになっているお宅だ。父の満州時代の友達で幼馴染である。でっぷりと太って布袋様のような顔をしている。私のように若い連中を家に呼んでは話をさせ、それを酒のつまみにしているような人で、ともかく面倒見がいい。

私も慕っていて、人生の節目節目には必ずお宅に伺い、あれこれとご高説を賜るのが好きだった。かつて小学校時代に近所の鉄工所の社長さんに車で学校まで送ってもらっていた時代から培ってきた「オヤジ殺し」がここでも生きていた。

ただ、特段気に入られようとしているつもりはなく、時に私のほうからも毒舌を吐くのだが、そこをまた面白がられた。忙しかったりしてしばらく疎遠にしていると、向こうから電話がかかってくる。毎回夜遅くまでしこたま飲ませてもらい、一泊して自分のアパートへ帰っていく、ということを何回繰り返しただろうか。ともかくいろいろお世話になった。

このときも出発前にお世話になり、翌朝発つ前には餞別までいただいた。恐縮していると、お礼は帰ってからの土産話でいい、といつものように豪快に笑った。その姿を今も懐かしく思い出す。このときから7年ほど経ってから亡くなったが、70歳前だっただろう。若くして亡くなったのはあの酒のせいかな、と今も思う。




1988年(昭和63年)8月。私は再びアメリカの地に立った。

もっとも前回のように、広大な広さを持つアメリカ本土ではなく、太平洋に浮かぶ、ちっぽけな島である。

ハワイ諸島─ ハワイ州の州都、ホノルルは、ハワイ王朝ができて以来220年の歴史を持つ。人口約40万人と言われるが、一時滞在の観光客やアメリカ国籍を持たない外国人居留者を加えれば、おそらく、常時50万人に近い人口になるだろう。

なぜこの地を選ぶことになったのか、今考えても運命の不思議さを想うが、その後この地で起こった数々のことを想えば、来るべくしてやってきた時間だったようにも思える。人は自分の人生のスケジュールを生まれる前に組み立ててから、この世にやってくるという。

その自分で用意した試練と喜びをこのあと、嫌というほど味わうことになるわけだが、ホノルル空港に降り立った時の私はまだそのことを知らない。

ハワイまでのフライトはだいたい8時間前後。アメリカ本土、ロサンゼルスへは10時間ほどだから、さほど違わない。太平洋のど真ん中にあるような印象があるが、思った以上にアメリカ本土に近いのだ。

とはいえ、朝飛べば夕方には到着できるということで、アジア人には人気が高い。とりわけ日本人渡航者が多いのは、その昔ハワイ州が多くの日本人を移民として迎え入れていたことと関係がある。現在でも日系人が多く住み、日本人観光客の来訪を支えている。

日本人や日系人が多いということから、私自身にも安心感があった。最初にフロリダに行った時に比べれば緊張感も少なく、また前回立ち寄ったことのある土地だったから不安は少ない。

ただ、前回のように事前に住まいをエージェントに頼んだり、といった事前準備はしていない。すべてはぶっつけ本番だ。下宿先は自前で探さねばならず、その他生活に関することの準備はすべて自分でやらなければならない。

その分、先が思いやれたが、なんとかなるさ、と開き直った。その昔、フロリダに初めて行った頃に比べれば、格段に英語がうまく話せるようになっていた、ということがその気分を後押ししていた。

ホノルルに着いてから一週間ほどはホテルに滞在した。住処を定めるまでには、それぐらいはかかるだろうと、それだけは事前に予約しておいた。アラワイ運河に面した宿で眺めはよくなかったが、ワイキキの町にほど近く、大学もすぐそばで、入学前に周囲の環境をいろいろ見聞きするにはちょうど良い立地だ。

ハワイ大学は、このアラワイ運河の北側に広がる斜面にしつらえられた大学で、一番上まで行くとホノルルの町や海が見渡せるほど山の手になる。眺めのよい校舎が多く、私の入学を認めてくれたOcean Engineering のメインオフィスのあるビルも高台にあった。

鉄筋コンクリート造りの近代的なビルで、その4階にある事務室に顔を出すと、ナタリー・タナカ、という年配の日系人秘書が対応してくれた。おそらく50代後半だろう。面倒見のいい女性で、その後卒業するまで何かとお世話になった。日本人や日系人多いホノルルだが、この学科に入学する日本人学生は少なく、私でまだ3人目か4人目のはずだった。

Ocean Engineering のスタッフにはほかにも日系人がおり、彼らにもその後いろいろと親切にしてもらうことになる。

まだ下宿先を決めていない、とナタリーにいうと、候補先のアパートのリストをくれたが、どこがいいとか、ここへ行けとかいったアドバイスまではくれなかった。ただ、大学院の学生向けのアパートばかりということで数は少なく、そのひとつひとつを明日から当たってみよう、と思った。

帰り際、ナタリーが、あっそうそう、ここへ電話してみて、と一つの番号をくれた。誰ですか?と聞くと、同じOcean Engineeringに在籍しているカズヒロという人だという。同じ学科に日本人がいるという話は聞いていなかったので寝耳に水だったが、ホテルに帰ってさっそく電話をしてみた。

口頭、何の御用ですかと聞くと、もう下宿先は決めたのか、と逆に質問された。いえまだです、と答えると、明日うちのアパートに来いという。どうも下宿先を紹介してくれるらしかったが、いきなりのことで驚いていると、いろいろ教えてやるからともかく来いという。

その日はもう夕方近くになっていたため、では明日お伺いしますと答え、住所を聞き、訪問時間を決めて電話を切った。これが右田さんとの初めての出会いであった。この人もまたその後私の人生に大きく関わってくるのだが、このときはまだこれから起こるそうしたことも予想すらできなかった。

翌日教えられた住所のアパートを、指定された時間に訪ねた。Kalo Terrace という下宿で、コンクリート造り2階建ての建物だ。20部屋ほどがあり、すべての部屋が大学院生向けだという。あとで紹介してもらった大家は日系人女性で、片言の日本語を話した。

右田さんの部屋は2階にあった。中に招き入れてもらうと広いリビングルームがあり、中には4部屋の個人スペースがある。いわゆるシェアハウスというもので、アメリカの大学ではよく見られるスタイルだ。

リビングキッチンでコーヒーか何かを入れてもらったと思う。大学がまだ始まっていなかったためか、ルームメイトはおらず、相手は右田さんひとりだった。まずはお互いの自己紹介から始めたが、彼は右田昭雄といい、私より5歳年上だった。

驚いたのは私と同じく建設コンサルタントに勤めていた経験があることだった。WVCほど大手ではなかったが、ライバル会社のひとつだ。失礼になると思い、こちらからはなぜ会社を辞めたのか、なぜ留学したのか、といった細かいところは詳しく聞かなかったが、要は私と違って待遇があまりよくなかったから、といったことのようだった。

面倒見のいいひとで、というか少々おせっかいなところもあり、頼みもしないのに、今後私がどうすればいいか、といったことについて一通りのレクチャーをしてくれた。

まずは住むところは迷わずここにすること、英語学校(ELI)は怠けずきちんと行き、早めに終わらせること、学科のカリキュラムはあれこれで、あの先生はどういう性格でこの先生はこう、といった具合だ。次から次へと説明されたが、最初に説明された下宿のことだけで頭がいっぱいになり、ほとんど頭に入ってこない。

この右田さん、その後日本に帰ってからは都立大学に努め、教授になる人だが、このころからもう人に教える、ということが好きな人だった。ともかく人に対してアドバイスをすることが自分の義務と思い、信条としているようなところがある。

私が入学したOcean Engineeringで既に修士号を取り、その後博士課程に入って2年目とのことで、私のことはどうやら他の先生方から聞き、入学してくる前から手ぐすねを引いて待っていたらしい。

その後も卒業する直前まで、学業のみならずプライベートなことについてもいろいろ教わり、お世話になった。さらにはその後日本に帰ってからも仕事の面でいろいろとアドバイスをいただいた。恩人といってもいいだろう。ただ、このころはまだ恩人というよりも面倒見のいい先輩、くらいに思っていた。

下宿の問題については、結局彼の言う通り、Kalo Terraceに住まうことにし、解決した。本当は自分でもっといろいろ探してみるつもりだったが、時間の無駄だ、学業優先ならここにしろ、学校も近くて便利だと諭された。その後実際に住んでみて、それを検証することになったが、彼の判断は正しかったことが証明された。

ところが、ここに住むにあたってはちょっとしたトラブルがあった。右田さんから勧められたあと、早速アパートメント側に申し入れをした結果、入寮資格としては問題なしと言われ、了解をもらった。で、どこが空いているのか、と大家に尋ねたところ、いますぐなら一階にひとつあるという。

ただ、その部屋には前のセメスターが終わってもまだ居座っているアメリカ人学生が住んでいるらしい。早速その部屋を訪問するとその白人男性が出てきた。何やらいらいらしているような感じだったが、構わず、いつ出ていくのか、と聞いたがはっきりしない。

何か事情があって、しばらくホノルルにいなければならないらしい。いつまでも出ていかないのは、おそらくホテルに泊まると金がかかるからだろう。数日置いて、また出かけて行ったが、今度は、直接本人には聞かず、大家にどうなったか聞きにいった。

すると、彼女も手を焼いているふうで、申し渡した期日になっても立ち退く様子がない、と逆にボヤかれた。

しかたがないので、ついには、再度自ら交渉に行くことにした。部屋をノックするとくだんの男が出てきたので、さっそく、いつになったら出ていくんだ、と聞いたところ、いきなり相手がブチ切れて口論になった。

私の英語もまだ拙いところがあるので、喧嘩といってもほとんどキャッチボールになっていなかったが、お前に言われる筋はない、とか指図される必要はない、とか相手の言っている意味はだいたいわかる。

これに対し、こちらも自分が知っている少ないボキャブラを駆使して応戦し、相手を非難した。生まれてはじめて英語でネイティブスピーカーと口論をしたわけで、あー俺もついに英語で喧嘩ができるまでになったか、とあとで感心した。

とはいえ、英語だろうが日本語であろうが喧嘩のときに使うことばは意味不明なものが多い。感情のもつれからくる争いであるからボキャブラリーはほとんど意味をなさない。喧嘩という感情のぶつかり合いは万国共通なのだということを悟り、妙に納得した一幕だった。

とはいえ、結局埒はあかず、入居問題は宙に浮かんだ格好となったが、はてと困ってしまった。いつまでたっても出ていかない相手と同じで、自分自身もホテル住まいばかりでは金がかかってしょうがない。

そこへ思いもかけずに救世主が現れた。その次にアパートを訪れた際、同じ一階に住むアメリカ人で、ジェームスという白人男性が、私に声をかけてきたのだ。のちに比較言語学か何かを専攻しているという話を聞いたが、眼鏡をかけてひょろ長く、人好きそうな顔をした好青年だった。

日本人でも一目見るなり、お互いウマが合うということが分かる人間が時たまいる。この時のジェームスがそうであり、事情を話すと、なんだそんなことか、それなら俺が住んでいるところに一つ空きができたから、お前が入ればいい、といとも簡単にいう。

見ず知らずの外国人、しかも日本人にいきなり声掛けをして、自分の仲間になれ、というに等しく、一瞬とまどったが、それなら、ということでともかく部屋を見せてもらうことにした。

このアパートには一つのパーティションに4人が入る個室がある、ということは前に述べた。あとの二人はどんな奴だろうと思ったら、同じく言語学科で学ぶケニーという白人男性と、もうひとりも同じ学科でラルフという人物で、彼も白人だった。

二人ともちょうど部屋にいて、私の事情を知ると、おー大歓迎だ、ここへ入れは入れという。思いがけない事の展開にさらに戸惑ったが、いずれにせよ大家に話をしないと、と断りを入れ、一旦その場を去ることにした。

大家はこの部屋に空きが出ることを把握していなかったらしかったが、そのあとジェームスが口添えをしてくれていたらしく、それなら、ということでそのあとすぐにOKが出た。

最近よく思うが、人生においてはその時に本当に必要な出来事がまるで魔法のように起こる。このときも、もし最初に交渉していた部屋がすぐに空いていたら、この3人と出会うことはなかっただろう。その後約1年を通して彼らと共同生活をしたが、アメリカ人とはかくある人種かということを、彼らによって学ばせてもらったような気がする。

そうした経験から思うに、アメリカ人とは要するに直情的なのである。自分たちが正しいと思うことは、万難を排してでも推し進めようとする。さきの居座りアメリカ人が自分の我を通そうとしたのもそれだが、別の人物が助け舟を出してくれたのも、正しいことは押し通そうとする心からだ。直情的というのは、別の言い方をすれば「おせっかい」である。

かつて幕末に日本が鎖国を解いて開国したときのアメリカ人がそれだ。半ば強引にそれを押し切ったのは、自国の覇権をアジアにまで及ぼしたかったという理由以外にも、日本近海での捕鯨活動において必要な燃料や食料・水などを調達したかったからと言われている。

しかし、これまでのままでは日本は孤立してしまうぞ、他の国と付き合うほうがメリットは多いぞ、と幕府には諭したようで、こちらも半ば本音だったかもしれない。いわば老婆心から出たことだ。

結果として、そのおかげで日本という国は大いに発展したわけだが、ほかのどの国もなしとげなかったことをアメリカが率先してやった、というこの歴史的事実をこのとき思い出すとともに、アメリカ人の本質を見たような気がした。

とまれ、こうして、私のハワイでの大学院生活は、アメリカ人3人との共同生活、という思いもかけない展開でスタートすることとなった。



下宿の問題は片付いたが、問題は学業のほうである。Ocean Engineeringのオフィスに、今後何をどうしたらいいか、とお伺いを立てたところ、当面はそれほど難しくない専門課程の授業を受けながら、ELIに通えという。しかも三か月間も。

今回の留学で用意していた金は2年間ほど分だったから、3ヵ月のロスは大きい。もっと短くならないか、と交渉したが、ダメなものはダメだという。

しかたなくELIと学科の授業を掛け持ちで学業がスタートしたが、学科の授業はなるほど難しいものではなく、当初はそれほどきついとは思わなかった。ELIの授業も特段難しいものではなく、むしろ受講したことでさらに英語力はアップした。ところが、ELIでの履修期間を終え、ほかの専門課程の授業を受けるようになると、その厳しさに頭を抱えた。

英語の能力そのものはほとんど関係ない。その中身は高度そのものであり、かつて焼津や浜松で学んだことが、まるで幼稚園か小学校レベルに思える。

毎回、次の講義までに答えを出しておくように、と宿題を必ず出す先生もあり、その回答を導き出すために、昼夜問わず勉強しなければならない。昼間の授業は平均的に3~4課程ほど、時間にすれば4時間ほどだったが、下宿に帰ってからの勉強時間はその倍以上で、食事と寝る時間以外はほとんどの時間をそれに充てざるを得なかった。

下宿で勉強してもよかったが、学内には大きな図書館が3つほどあり、自主学習室があったため、そこを主に利用した。ひとりで勉強するよりも、周囲の耳目があるほう学習が進む。片やひとりだとすぐに怠けてしまう。やれお茶を飲むのに一服、外の空気を吸うのに一休みといったことを理由に勉強をサボりがちになるものだ。

その点、集団の中に身を置けば、ほかのみんなも頑張っているのだから、という意識が働く。自分にハッパをかけやすいのだ。人がいると集中できなくなるという人もいるかもしれないが私の場合それは逆で、周りの人以上に自分はやっている、と自分に暗示をかけることができる。ひとりでいるよりも集中力が高まるのである。

図書館のそうした自習室は夜中の12時には閉まる。夕方食事を終え、6時過ぎごろからその時間まで熱心に勉強している連中は、だいたい同じメンツだ。同じ学科の人間はほとんどいない。一体何を勉強している人たちだろう、と時には思うが、自分の勉強に忙しく、他人の勉強の中身にまでかまっている暇はない。

図書館は週末にも空いていて、さすがに休む人も多くなるが、私は土曜・日曜にも図書館のムシだった。もっとも日曜日の午前中だけは、少しだけ自分へのご褒美ということで、図書館の中の本を自由に見て遊ぶ時間を与えた。

ハワイ大学は、アジアと欧米文化の交流拠点ということで、人文系で高いレベルの学際部門があることで有名だ。イーストウェストセンターという比較文化の専門研究機関があり、東西からその分野の研究者たちが集まる。

大学の図書館内にもそれが反映されていて、その蔵書には世界屈指のコレクションが多数含まれている。日本語の書籍・文書も多数保管されていて、書架の「日本文化」のコーナーには、およそ100年以上の前の古書なども無造作に並べてある。

それらの中には江戸時代に印刷されたものと思しき、糸綴りの文書や絵画などもあった。さすがに漢文は読めないので手にしてじっくり読むことはなかったが、見る人が見ればすごいものなのだろうな~と感心しきりだった。

明治時代に発刊された本なども多く、私が確認した中では、ラフカディオハーン(小泉八雲)のKwaidan(怪談)の初版本(1904年に出版)は確かにあった。そのほか、名前を聞けばああ、あれか、というような有名な書物が、誰でも閲覧できる状態で置いてあるのだ。

とはいえ、興味はあったものの、それをいちいち見ていたら時間はいくらあっても足らない。ということで、古書解読のにわか専門家になることはなかったが、戦前の雑誌なども置いてあって、ついつい読んでしまう。

とくに週刊朝日の戦前のコレクションがあり、これがなかなか面白い。書いてあることの中身は現在とたいして変わらないのだが、その時代の風俗や習慣を窺わせる記述があちこちにあり、タイムスリップしているような気分になる。また、時々明らかにその当時にしか書けないような記事にもぶつかった。

例えば科学記事。「半世紀後に実現している技術」というコラムをみつけたので読んでみると、そこには太平洋戦争が始まる前に予想した未来の世界が描かれていた。けっこう奇天烈なものも多いが、当たっているものもそれなりにある。

弾丸列車の実現はそれすなわち新幹線のことであり、超小型の無線電話は、現在の携帯電話だ。遠く離れた場所へ瞬時に物を運ぶ技術、といったものはさすがに現在でも実現していないが、インターネットを通じた通販のことを指しているのならばあながち当たっていなくもない。

このほか、遠い昔に亡くなっている有名人のその当時のゴシップ記事なども面白く、時間を忘れてそうした記事を読みふけった。しかし長い時間熱中していると、ハッと気が付き、いかんいかん、勉強しなければ、とまた自主学習室に戻るのであった。

日々の宿題の中では、まったく人のいないところで、集中的に考えなければならないような考案もあり、そういうときには、少し離れたところにある法学部の専門図書館に行った。一つ一つ壁を隔てたブースがあり、そこに入れば外部からは完全にシャットアウトされて、物事に集中できるようになっている。

土日にはそこへ行き、一週間の間にクリアにならなかった問題に集中して当たったが、こういうときに必ずといっていいほど一緒にそこへ行く友人がいた。樫村君という。もともとこの図書館のことも彼から聞いて知ったのだったが、linguistics に所属する大学院生で、外国人に日本語を教える教師になるための勉強をしていた。

勉強の合間合間に食事に行ったり、何かに気晴らしに出かける際、お互いをよく誘った。文科系だけに当然、英語のレベルは私に比べるとはるかに高く、複雑な内容を相手に伝える必要があるときは、よく彼の助けを借りた。

彼は山梨の出身だが、祖母がここホノルル在住の日本人だといい、聞くと広島で生まれた人だという。直接会ったことはなかったが、また聞きで私のことを聞き、同じ広島で育ったと知ると、その後、お菓子だの果物だのをよく差し入れとして彼に持たせてれるようになった。

そんなこともあり、ハワイ留学時代には右田さんと同じく最も仲良くしていた友人のひとりとなった。卒業後は音信不通になったが、風の便りでは、都内の短期大学で英語教師をしているという。その後どうしているだろう。




ハワイにおける1年あまり、学業また学業ということで、こうした勉強ばかりの日々は瞬く間に過ぎた。と同時に持ってきた学資もあっという間に減っていった。

これまで節約したこともあってまだ半年分ほどは残っていたが、そろそろ何か手を打たなければならない。

もともと持ってきた資金だけで卒業できるわけはなく、そのときは何等かのスカラーシップを獲得しようと考えており、このころがちょうどその潮時だと判断した。

秘書のナタリーに相談すると、いくつかのジョブを紹介してくれた。そのうち二つほどが興味のある、というか自分にできそうな仕事だった。ひとつは、数値解析の補助ということで、トルコ人の先生の仕事。もうひとつは海洋温度差発電に関する研究ということで、こちらのスポンサーはポーランド人の先生だった。

いずれも授業でお世話になっている先生であり、初対面ではない。どうしようかな、と右田さんに相談したところ、トルコ人のほうはやめておけ、という。理由はよくわからないが、この先生を毛嫌いしているらしく、どうも中近東の人間には偏見があるふうでもあった。

なので、いろいろお世話になっていることもあるし、ということでそちらはやめにし、海洋温度差発電のほうを選ぶことにした。

ポーランド人のほうは、Ulam(ウラム)先生といった。東欧には多い名前らしい。研究室はどこか、とナタリーに聞いたところ、校内にはなく、学校から少し離れたところに研究所があり、その中にあるようだ。

さっそくアポを取ってもらい、そこへ向かった。ワイキキから西へ2kmほど離れた倉庫群の中にあり、海に面している。その昔、津波の研究で業績があったLook博士という人の名前にちなんで造られた研究所だが、かなり古い。

おそらく40年以上は経っているだろうその建物は、外から見ると廃墟に見えなくもない。入り口にある、J.K.K.Look Laboratory の看板を見落とせば、誰もが倉庫と間違えただろう。

実際、造りは倉庫とほとんど変わりない。同じように内部が空洞になっており、ただ、そこには大きな実験水槽がしつらえてある。

そのそばに立っていた日系人の男性スタッフに、先生はどこかと尋ねると、今2階の研究室にいるという。階段を上がり、ドアをノックすると、授業で見慣れた顔が現れた。

しかし、直接会話をするのは初めてだった。ネイティブのスピーカーではない、とUlam先生はわざわざ最初に言い訳したが、確かにそれほど英語がうまいとは言えない。無論、私よりもはるかに達者なのだが、どことなく訛りがある。

このとき、My English is still improving(私の英語はいまだ進化中だ)と先生が言った言葉が頭に残り、その後自分でもよく使うフレーズとなった。

お互いの簡単な自己紹介のあと、具体的な仕事の中身の話に入った。最近新しい計測機器を仕入れたが、処理するプログラムが古いコンピュータの仕様のままなので、新しいマシンに合わせてプログラムを組み替えてほしい、ということだった。

ハワイへくる以前、自前でパソコンを買うほどのオタクだった私にはうってつけの仕事で、無論、二つ返事でこの仕事を受けることにした。

その後、この仕事が終わったあとも、いろいろな仕事をやらせてもらい、結局ハワイ大学の後半の学資は、すべてこのUlam先生の研究費用から出してもらったことになる。

最初に任された仕事が終わったあとも、いろいろな仕事をやらせてもらった。海洋温度差発電を実現するための実験装置の整備や、ホノルル湾の海水汚濁の状態を把握するための採水調査、といった仕事などがそれだが、後者は結局私の卒論のテーマとなった。

学会があるからといって、ハワイ島へ連れて行ってもらったこともあり、何かにつけ面倒をみていただいた。恩人と言ってもいい先生だが、卒論のときにちょっとしたトラブルがあった。私が書いた論文の中身が気に入らないので書き直せという。

私としては完璧なものに仕上げたつもりだったが、先生によれば構成とか文章とかがなっていない、ということらしく、私が手を入れてやるからともかく修正しろという。

仕方なく仰せにしたがったが、その校正というのがいつまでたっても上がってこない。そうこうしているうちに、一ヵ月が過ぎ、二カ月が過ぎで、とうとうハワイ在住が三年半にも及ぶころ、さすがにしびれを切らした私は、いったん日本に帰りたい、と頼みこんだ。

そのころの私はアメリカに残るよりも日本に帰って再就職をしようと考えており、いつまでも大学に縛り付けられるのはこりごりだと思い始めていた。卒業に必要な単位はすべて取っており、あとはその論文だけだ。

それなら日本に帰ってこい、その間論文の校正をしておいてやる、と言われて帰国したが、結局その後、その論文は自分で最終校正もすることもなく、学校に提出された。

結果オーライで何も問題なく、その後私は無事ハワイ大学を卒業したが、その知らせが届くころには日本におり、結局卒業式に出ることもできなかった。ハワイに4年近くいて唯一悔いが残ることではあったが、アメリカの大学院を無事に卒業できたということは、大きな自信となるとともに、その後の人生における勲章となった。



閑話休題。

いきなりハワイ時代の最後の方に飛んでしまったが、ここでの生活についてもう少し書いておこうと思う。

これまで書いてきたことの多くは学業のことだが、それ以外のことだ。ハワイでの生活の90パーセントだったと思えるほどに勉強は忙しく、おそらく人生の中でもこのときほど勉強した時期はなかっただろう。一生分の勉強をこの時期にしたようにさえ思える。

しかし残る10パーセントは楽しかったこと、よかったことばかりである。そのひとつは気候だ。ハワイの空気は一年中爽やかで、ほとんど湿気がない。年から年中季節風にさらされているためであるが、その風が山間部に当たって上昇気流を作り、時折雨を降らせる。

ふもとは晴れているのに山のほうは晴れている、というお天気雨の状況がたびたび現れ、これが美しい虹をもたらす。レインボー・アイランドの別称があるほど虹が頻繁に出ることで知られ、それにあやかってハワイ大学のフットボールチームの愛称は、レインボーズだ。

もともとは海底火山だったものが海底から隆起してハワイ諸島を形成しており、このためオアフ島も、島全体が火山岩でできている。多孔質の岩であるため、雨が降っても中に水を溜めず、それがそのまま海岸線まで流れ落ちる。

その水が柔らかい火山岩の大地を穿ち、この世のものとは思えないほどの奇形を作るともに、その合間に植物が根を生やし、大きく育って実に美しい景観を形成した。

その景観は海岸ごとに異なる。南にあるパールハーバーでは比較的単調で穏やかな地形を示すが、東へ向けては徐々に荒々しい海岸線に変わっていき、北部ではほとんど断崖絶壁の様相を示す。

その合間あいまに白い砂浜があり、渓谷があり、場所によっては美しい川が流れていて、季節や時間変化によってまさに変幻自在の風景を醸し出す。

そうした風景の数々を学業の合間に見て回る機会が何度もあり、その都度感嘆したものだ。
とくに学校にも近いパンチボールや、ダイヤモンドヘッドにはよく登り、そこから見える絶景を日が暮れるまで飽きもせずによく眺めていた。

日本から持ってきた自転車はそんなときにお供をしてくれる最高の道具だった。10キロほどの軽量サイクルで、これに乗ってそれこそホノルル中を巡った。

2年生の後半になってからは50ccのバイクを手に入れ、これによってさらに行動範囲も広がった。住んでいたところから、かなり離れた場所に日系人の経営する床屋があることを知り、数か月に一度はそのバイクで通った。日本語のできる年配の美容師さんがいて、ハワイに来てからの彼女の苦労話をここでよく聞かされた。

その彼女の旦那さんは日本語がしゃべれなかったが、私が行くと、いつも英語で、「シェイブアイス食べるか」、と聞く。かき氷のことであるが、床屋の隣でやっている乾物屋の商品のひとつでもあるそれを食べるのが、この床屋へ行くもう一つの楽しみでもあった。

レインボーアイスと称し、虹色のシロップがかかったシェイブアイスの味は忘れることができない。髪を切り、シャンプーをしてもらい、まだ乾ききらない頭に風を受けながらバイクを飛ばして走る夕暮れのホノルルの町は、バラ色に見えた。

このころ、ハワイでの学業以外の活動として私は、ジョギングを日課にしていた。留学する前、かなりハードに体を鍛えていた私は、ここでもその手を緩めなかった。

住んでいたアパートを走り出て、毎日ダイヤモンドヘッド近くの動物園の脇を通り、ワイキキの浜沿いに走って大学方面に帰る、というコースをお決まりにしていて、毎日だいたい6~7kmほどは走った。

卒業間際になるとさらに距離が延び、日によっては10kmほども走ることがあった。ホノルルには毎年12月になるとホノルルマラソンという大イベントがある。日本航空が主催するもので、1990年のこの年の暮れの大会に、私も参加した。

集合は朝の5時。スタート地点は、ホノルル東部にあるカピオラニ公園という場所だ。与えられたゼッケンをつけて、号砲とともに走り出したのは6時。早暁のホノルルの街中を走り抜けてゆく。

ゴールであるアラ・モアナ公園に着いたのは昼過ぎ。目標5時間というところを4時間半で走り切り、初めてのマラソンとしては上々の成績を得た。もっともいきなり出場したのではなく、数か月前からこの大会を意識し、毎日かなりのトレーニングを積んでいた。

それでも走り終えたあとはへとへとで、翌日は筋肉痛で歩けず、その後1週間ほどはびっこを引いて歩いていた。あとで聞いた話だが、ホノルルマラソンの翌日はいつも、ホノルルの街中を同様にびっこをひいた日本人観光客が多数歩いているそうだ。

その数週間後、体に異変を感じた。ある朝トイレに行って小用を足すと、深紅の小便が出た。これが自分の体の中から出たものか、というほど大量であり、どう考えてもこれはただ事ではない。

すぐに大学構内にあるクリニックに行き、精密検査をしてもらった。血液検査やらCTスキャンやらいろいろ検査を受けたあと、最後に韓国人の先生の問診を受け、そのあと後ろ向け、いまから俺がやることを勘違いするな、といわれた。何のことかよくわからずにおとなしく背を向けたところ、ズボンを脱ぎ、前にある机に手をついて前かがみになれという。

大腸からの出血があるかどうかを確認するための肛門検査であったが、「勘違いするな」の意味は、いわゆる男男関係にある人たち間で行われることと間違えるな、ということか、とあとでわかった。この国の裏事情を垣間見た気がしたが、それを勘違いする奴もいるとすれば素直には笑えない。

検査結果が出るまでは気が気ではなかった。ハワイまでやってきて苦学した結果がこれかよ、とワイキキの浜で海をみながらたそがれたが、幸いなことに、一週間後にもたらされた結果は異状なしだった。

のちに帰国して再度精密検査を受けたところ、尿道結石だと言われた。体質的に石ができやすいともいわれ、薬を飲んでいれば直る、ともいわたが、その後痛み止めを飲み続けているだけでなんとか完治した。

想像するにもともと尿道に石が詰まっていたところを、マラソンなどの激しい運動によってそれが動き、周囲の細胞を傷つけたからではないかと思う。正しい見立てかどうかはいまだわからないが、おそらくそんなところだったろう。

帰国を前にしたとんだハプニングだったが、これ以後、ジョギングはそこそこにし、来たる卒業に備えて勉学に集中することにした。

これ以外にもハワイでの思い出は多々あるが、それらも加えたここでの生活は中身が濃く、ぎっしりと詰まったもの、という印象がある。おそらく今後もこれと同じような日々はこないだろう。地道な努力を重ねる厳しい日々ではあったが、人生最良の一時期として、生まれ変わってもまたその記憶は持ち継がれていくに違いない。

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本稿の内容はすべて事実に基づいたノン・フィクションです。ただし、登場する人物名は仮名とさせていただいています。また地名や組織名についても、一部は実在しない名称、または実在する別称に改変してあります。個々のプライバシーへの配慮からであり、また個人情報の保護のためでもあります。ご了承ください。

夢の途中 10  八王子

1991年5月、私は日本に帰ってきた。

前年の1月には天皇が崩御され、年号は昭和から平成になっていた。

物事の始まりはいつもドラマチックなのだが、終わりはあっという間に幕が引かれる。ハワイで過ごした2年と10カ月の最後もやはりそうだった。一気に潮が引いてすべてが終わり、気がつくとまた荒野にいた。

卒業を前にして、このままアメリカに残ろうか、と考えないわけではなかった。なんらかのつてを探り、海の向こうで職をみつけてさらに次のステップを踏む、というのは不可能ではなかっただろう。

しかし、英語はかなり堪能になってはいたものの、異言語を使いながら、海外での生活に馴染んでいくにはまだまだ時間がかかりそうだ。大学院生として学んでいた間習得した英語は技術英語であり、実生活の中で使う英語としては不十分である。新たな職をみつけるにはそれなりの語学力が必要と思えた。

もっとも、学ぶより慣れろのことばがある通り、英語社会に身を置いていれば、いずれはネイティブと同じとはいえないまでも、かなり英語が上達することはわかっていた。英語力が不十分だというのは言い訳にすぎず、正直にいえば、新しい環境に身を置くのがこわかったのだろう。

一方では、博士課程に進む、という道もあった。しかし自分の能力を考えたとき、もうかなり限界を超えていると感じていた。修士を修了できたということだけでも驚きであり、耐えてここまでこれたことは奇跡のようにさえ思える。

このころの私は既に疲れていたということもある。フロリダ時代も加えて4年近くにもなる海外生活は、当初想像していた以上に厳しいものだった。そうした苦難の時を経てようやく卒業という切符を手に入れたあと、もう少し楽な道を選びたい、と考えたとしても誰に批判される筋合いはない。

いずれにしても、すでにスタミナを使い果たした感があり、さらに次の奇跡を起こすためにはまるでエネルギーが足りない。さすがに少し休みたかった。

思えば、私の人生はこうしたことの繰り返しだ。かつて中学校で勉学に燃え、望み通りの学校へ進学したが、その反動で高校ではつまづいた。少し休んでまた大学で燃え、就職してからはまた疲れてしまい… と、同じことを繰り返すとすれば、ここでまた休んだとしたら次は何がくるのだろう。

ともかく、徹底的に休もう、と思ったものの、留学で学資を使い果たしたあげくに残っている資金はわずかにすぎない。

かくして、今回に限っては休む間もなく次のステップを踏まざるを得なかった。日本に帰り、生活していくためには再就職するしかない。その就職先をいろいろ考えたが、かつて勤めていたWVCに戻るのも芸がない。もっと別の世界もあるのではないかといろいろ悩んだ末、せっかくなので別の会社を当ってみようか、という気になった。

そこで、少し軌道修正して大手のゼネコンなどに打診をしてみたものの、思うような返事がもらえない。考えてみればすでに30を過ぎており、フレッシュな人材が欲しいだろう活気のある会社にはなかなか就職は難しそうだ。さらに、このころはちょうどバブルが崩壊し始めたころであり、新たな仕事を見つける身には極めて厳しい時期でもあった。

それなら、ということでやはり古巣に戻ることに決めたのが7月。ハワイから帰国してわずか2カ月後のことだった。それほど早く再就職を決めたのはやはり先立つものがなかったからに他ならない。

親に生活資金の無心をし、もう少し時間をかけて落ち着く先を見つけるという手もあったかもしれない。しかし、この年齢になり、さすがにいまさら郷里に帰ってまで迷惑をかけようとは思わなかった。

このときもう少し思案をし、我慢を重ねればまた違う人生があったのかもしれない。しかし新生活のための資金は乏しく、また心が疲れていた私に余裕はなく、つい安易な方向を選んだ。

ところが、ここで下した決断がこのあと、思いもよらぬ展開をもたらすことになるのだから人生とは不思議なものである。

このころ、かつて勤めた会社は、多摩川の西岸、京王線の聖蹟桜ヶ丘の駅近くに移転していた。大学を卒業後、多感なころを過ごした神宮前の三角ビルは取り壊され、今はフィットネスクラブになっているという。たった5年ほどの間の空白なのに、それほどの変化があったか、と何やら浦島太郎になったような気分になった。

ビルの移転に伴い、会社組織にもかなりの変動があったようだ。国内部門の人々の大半は新宿の別ビルに移り、主として国際部門がこの聖蹟桜ヶ丘に建てた新社屋に移ってきていた。

実は私が渡航している間、この会社では不動産がらみで大きな損失を出しており、その関係者だった人たちの多くが会社を辞めていた。幹部の大半も入れ替わって違うメンバーが会社を切り盛りするようになっており、そうした上層部に近い部署の職員であったかつての思い人もとうに退職していた。

一方、自分が勤務していた港湾部はほぼそのまま残っていた。海外部門だけでなく国内部門とともに聖跡に移って来ており、昔懐かしいメンバーの多くもそのまま勤務している。しかし、お世話なった先輩諸氏の中には、大阪や福岡などの支社に転勤になった人もおり、最もお世話になった山崎さんもまた大阪へ移動していた。

また海外へ出張中の人も多く、知己はかつてのメンバーの3分の2ほどまでに減っている。残る3分の1は中途入社や嘱託社員として入ってきた人たち、あるいは新入社員である。

また、その昔はトレーサーやオペレーター、パート、アルバイトといった社員ではない女性スタッフが10数人ほどもいたが、彼・彼女たちも大半が入れ替わり、知っている人はわずかしかいない。

このように同じ会社に再就職したといっても、多くの人やものが入れ替わり、あるいは新しくなっていて、なにやら新しい会社に入ったような気分になった。かつては都心に住み、渋谷に通う毎日だったが、これからは郊外にある会社に通うことにもなる。

それにしても、どこに住もうかと考えたとき、さすがにもう都内には住む気にはなれなかった。逆に西のほうなら、緑も豊かだし、家賃も安いに違いない。そこで、会社のある聖蹟桜ヶ丘からほど近い、同じ京王線の八王子を中心に住み家を探し始めた。八王子駅や高尾駅が始発であり、そこから乗ればたった30分、しかも座って通勤ができる。

八王子の歴史は古い。伊豆や小田原を拠点として関東一円を納めた後北条氏の第3代目当主、北条氏康の時代に大きく発展したとされる。その氏康の四男、北条氏照が、牛頭天王の8人の王子神である「八王子権現」を祀り、ここに八王子城を築いたのがその名の起源だ。

やや時代が下がり、この城が豊臣秀吉の小田原征伐によって落城すると、この地方には徳川家康が転封された。やがて関ケ原で勝って江戸に拠点を移したが、このとき、八王子が交通の要衝であるとともに、江戸を甲州口から守るための軍事拠点とし重要だと気がついた。こうして町の整備に注力するようになっていった。

江戸時代初めごろには宿場町としての様相見せ始め、いわゆる甲州街道が整備されてからは急速に発展する。幕末の開国後、明治維新期以降は織物産業が繁栄し、江戸時代からの宿場町を中心に街はさらに発展した。

特に生糸・絹織物については市内で産するだけでなく、遠くは群馬や秩父、山梨、長野からも品を集めた。そして、国外へ輸出するため、拠点港がある横浜に運んだ。このため、その中継地としても賑わい、絹都と呼ばれるようになった。八王子から横浜へ絹を運ぶために整備した道は、現在も「絹の道」としてその一部が残っている。

その賑わいのまま、明治、大正、昭和と栄えた。しかし、太平洋戦争では八王子も空襲を受け、焼け野原になる。多くの被害を受けたが戦後の復旧は他の都市より比較的早かった。東京の復興のために、各地から物資を集める拠点として注目されたためである。

ただそれが災いして急ごしらえの都市計画のまま町がどんどんと発展した。現在でもどこへ行っても道が狭く迷路のようで、町全体が農工商ごちゃまぜで雑然とした印象がある。

とはいえ、始発電車が出る八王子駅があり、都心に勤めるサラリーマンには人気がある。このため、私も当初は八王子駅周辺に住むことを考えた。しかし、古い町並みはお世辞にもおしゃれとはいえないし、野暮ったい感じはあまり好きになれなかった。緑が少ないのも気になるところだ。

京王線は途中駅の北野から二股に分かれており、片方がこの八王子駅行の路線で、もう片方の終点が高尾山口駅である。

高尾山といえば、いまやミシュランガイドにも名を連ねる一大観光地であり、多くの外国人も訪れる人気スポットとなっている。しかしこの当時はまだ知名度はそれほどではなく、地元の子供たちが遠足に行く山と認識されている程度だった。

ちなみに、高尾山に登るには、京王線なら終点の高尾山口駅で下車する。JR中央線利用なら、中央線の高尾駅で京王線に乗り換え、一つ先の高尾山口駅で下車する。この駅から登山道を使い、1時間ほどで頂上まで行けるが、ケーブルカーとリフトが並行して用意されており、これを使えばその半分ほどの時間で頂上まで到着できる。

どうせなら、うんと田舎のほうがいい、と当初はこの高尾山口駅の周辺で下宿を探した。しかし見つからず、その一つ手前の高尾駅で再度探し始めたところ、駅から西へ歩いて10分ほどのところに手ごろなアパートをみつけた。

2階の角部屋ですぐ目の前には川が流れており、アパートの脇を中央線がガタゴトと通る。古いアパートだがトイレは付いていた。ただ風呂は一階の外にあり、入るためには部屋を一旦出なければならない。そこが少々難点だった。

しかし、何よりも安いことが魅力的だった。ハワイから帰国してきたばかりで懐は寂しく、少々不便ではあるが、目の前の川や列車の見える風情が気に入り、ここに住むことに決めた。




こうして高尾を拠点とし、聖蹟桜ヶ丘までを毎日往復するという、新しい生活が始まった。

再び社会人として仕事を始めたが、その内容は昔と変わり映えせず、たいして楽しいとも思わなかった。なんのために留学までしたのだろう、と時に考えることもあったが、ハワイで学んだことを生かす機会がそのうち来るだろう、と新たな環境になじもうとした。

1991年のこのころ、仕事においてコンピュータは不可欠な時代になりつつあった。職場でも小型コンピュータを何台か置いて、設計や積算に活用しはじめていた。しかし、個人でコンピュータを持つ人はまだ少なく、パーソナルコンピューターの本格的普及は、数年後に発売されたwindows95まで待たなければならない。

だが、それに先立ち、どこの会社も文書管理の効率化を求め、ワードプロセッサーを導入していた。手書きで書いた文章を、それ専用の機械で電子入力するこの機械は、この当時まだ誰でも使える、といったものではない。その操作方法を専門的に習ったオペレーターを雇い、文書処理をやってもらう、というのが一般的だった。

正規雇用をすると人件費が嵩むということで、人材派遣会社から派遣してもらったオペレーターにそれをやってもらう、というパターンも多い。私が配属された港湾部でも常時1~2人を頼んで来てもらっていた。

日本に帰ってきてからの仕事は、設計よりも調査が主体で、結果を報告書としてとりまとめていく作業が必要となる。文章化してワープロ処理が必要なものも多く、毎日のようにそのオペレーターさんに文書作成を頼んだ。

そのうちの一人に初めて文書作成を依頼するため、ワープロ室に入ったときのことが強い印象として残っている。

機械に背を向けて何か文章を打っていたが、ピシッと背筋を伸ばして前を向き、凛としたかんじで手を動かしていた。いわゆるおかっぱだが、髪は肩ほどまで伸びている。その色は染めているのか茶色っぽく見えた。

近寄りがたい感じがあったので、横に立っておそるおそる声をかけたところ、手を止めてこちらを向き、あっこれも打つんですね、と言った。ポーカーフェイスのまま、事務的に返ってきたその問いに対し、丁重に、お忙しいところすいません、とだけ返した。それ以上の会話はなく、そそくさと原稿を渡し、すぐにその場を立ち去った。

これが彼女との最初の出会いだった。とくに、ときめきのようなものはなかったが、瞬間、何かふんわりとした空気が流れたような気がした。ゆるやかに吹く風の中で木の葉と木の葉がごく自然に触れ合ったような、そんな印象だった。

それ以後、毎日の原稿を手渡し、出来上がったものをもらい受ける、という繰り返しの中で、徐々に彼女との会話は増えていった。

あとでわかったことだが、彼女もまた人材派遣会社から派遣されてきたオペレーターのひとりで、ここへやってきてからまだ半年も経っていないらしい。ワープロを教える学校を卒業し、のちには人に教える資格も取得したプロだった。八王子の街中にあるワープロ学校で講師もしていたことがあるという。

部内にはこのほか二人のトレーサーがいた。まだCADなど普及していない時代で、こちらは鉛筆と定規、消しゴムで設計図を仕上げていくアナログな職業だ。一人は年配で50代、もう一人は40前後のそれぞれ女性だった。この二人と、オペレーター二人の4人が仲が良く、昼食時にはたいていテーブルをはさんでおしゃべりをしながらランチを取っていた。

食事後、その会話の輪に他の社員が加わることもあった。時に私も加わったりして取り留めない会話をすることもあり、それを通じてそれぞれの関係がより緊密になっていった。

くだんのオペレーターの彼女とも普通に会話をするようになり、時にはお互いジョークを交わして笑いあうほど仲がよくなった。ただまだ親しいというほどではなく、なんとなくお互いを観察しているようなところがあり、ぎこちなさは続いていた。

ところがある時、その距離を急激に縮める出来事があった。

その日の午後、いつものように原稿をもってワープロ室に入っていくと、ちょうど暇だったのかオペレーター二人が楽しそうに話をしていた。何の話をしているの?と聞くと、例の彼女が、近々フロリダのディズニーランドに遊びに行くという。

えっフロリダ?そこなら僕は住んでいたことがあるよ、と言ったところ、それに食いつき、どんなところなのかと彼女がいろいろ聞いてきた。仕事中だったのでその会話はすぐに終わったが、翌日になってまたお昼にその話を二人でしているところを通りがかり、足を止めて会話に加わった。

今度は時間の制限はなく、自分が住んでいたときのことを色々話したが、そのとき彼女は目を輝かせて私の話を聞いていた。特段、大した話をしたわけではなかったが、ディズニーランド以外にもいろいろいいところがある、あそこへいくといい、ここがきれいだ、いった話は普通の人は知らないことばかりであり、彼女にとっては新鮮だったようだ。

その後、彼女は長い休みをとった。8月だったので、夏休みも兼ねていたのだろう。二週間ほど姿をみせず、その間、彼の地に行ったようだった。

帰って来てからすぐに出社したその日、私の机にやってきて、お土産を買ってきたからあげる、という。いろいろアドバイスをくれたからそのお礼よ、ということだったが、ははーん、それを口実に好意を見せてくれているんだな、ということはすぐに分かった。

そのお土産はケープ・カナベラルで手に入れたそうで、アポロ計画で有名なケネディ宇宙センターで売っていた宇宙食ということだった。ウケを狙ったな、と茶化したのに対し、「ばれたかしら」と軽妙な答えが返ってきて二人で声を上げて笑った。

お互い、意識し始めたのはそのころからだ。しかし考えてみれば私はまだ彼女の名前すら詳しく知らなかった。「アサイ」という名前だとは知っていたが、浅井だと思っていたし、下の名前も聞いていない。無論、どこから通勤しているのかすらも知らない。

聞き出そうとすればそれもできたかもしれないが、このころの私はまだ、フロリダ時代かにらの慣習である「女人禁制」をなんとなく意識していた。そんな習慣はもう捨ててもいいはずなのに、その気分から抜けきれないでいた。

ある日のこと、仕事を終え、いつものように京王線に乗り、高尾駅に降り立った。住んでいるアパートは駅の北口にあるため、通常ならJR側の改札口を通って自宅に帰るのだが、この日は南側にある京王ストアで買い物があり、こちら側の改札を出た。

すると私の横を通って、出口の階段下に向かおうとする女性がおり、よく見るとあのアサイさんだとわかった。追いついて顔をみせたが、彼女ほうは驚くでもなく、普通に笑顔を返してきたから、あるいは車中にいたときから私の存在に気が付いていたのかもしれない。

その日は忙しくなかったので早めの帰宅だった。偶然だね、と声をかけ、ごく自然にお茶に誘った。断られるかと思いきや、こくんとうなづいた彼女と、そのすぐそばにあった喫茶店に入った。しかし後々考えるとよくもまあ、そうして偶然に会ったところにおあつらえ向けに喫茶店があったものだな、と驚いたりもした。

そのとき、30分ほども話をしただろうか。あまり長い時間拘束すると嫌われるかも、と妙に気をまわし、早めにそこを出た。しかしその短い時間の間にいろいろと彼女について知った。アサイは浅井ではなく朝井だということ、齢は私よりも5つ下だということなどである。

驚いたのは彼女の住まいがすぐ近くだったことだ。高尾駅から東へ1キロほど離れたところに、御陵公園と呼ばれる公園がある。隣接して歴代の天皇ほかが祀られている広大な陵墓があり、その入り口付近に整備されたものだ。今は廃駅になっているが、その昔はこの公園から歩いてすぐのところに皇室の専用列車が停車する「浅川駅」という駅舎があった。

彼女の家はそのすぐそばで、位置的には高尾駅を挟んで私の下宿とちょうど反対側にある。駅から西と東に分かれて同じぐらいの距離のところにそれぞれの住処がある、ということがわかり、驚いた。

このときは、そんなあれこれの巡り合わせをまるで意識はしなかった。しかし、今思えば、これもまた生まれる前から計画されていたことだったのだろう。運命の人との出会いは、そんなかたちで、まるで偶然であるかのように演出され、現実のものとなった。

その後も、そんな奇遇を装ったランデブーは続いた。お互い意識してかせずしてか、仕事帰りに駅前で鉢合わせすることもしばしばとなった。最初はお茶だけだったものが、食事の場にかわり、やがては本格的なデートへと発展していった。運命は間違いなく二人を結びつけようとしていた。

1991年の秋、私は再び引越をした。それまで住んでいたアパートは環境は悪くはなかったが、外にある風呂場はあまりきれいとはいえず、入るのもおっくうになっていた。近所に銭湯があったため、そこへ通うことのほうが多くなっていたが、残業して遅く帰って来てからはそれも面倒になった。

そこで、そろそろ別のアパートを探そうと再び不動産屋巡りをしたところ、駅の南口に手ごろのアパートがみつかり、さっそくそこへ引っ越した。6畳一間に小さなキッチンがついている小さなアパートだ。居住環境はかなり縮小されたが、清潔な風呂が付いていたのがありがたかった。駅からも至近で5分とかからない。

そのころは寂しかった懐もかなり潤うようになっており、夏に出たばかりのボーナスをはたいて買ったレガシーを置く駐車場もすぐ裏手にみつかり、生活はさらに便利になった。

彼女との交際はさらに発展し、その車に乗ってはあちこちにお泊り旅行にまで出かけるようになっていた。箱根や伊豆などの比較的近くの観光地が多かったが、一度は北海道へ二人で行った。その間、二人のことが会社にばれないように、うまく取り繕って休みを取ったが、誰にも気づかれなかった。

会社内では二人の交際はいっさい表ざたにせず、秘密だった。帰りの電車もわざわざ一駅先で待ち合わせをし、そこから一緒に帰るという念の入れようだ。幸い職場には、高尾方面から通勤してくる人は誰もおらず、目撃されたこともなかった。

そんなわけで、ふたりだけで構築した「秘密の花園」は誰にも知られることなく続いていった。週末には高尾山や相模湖といった眺めの良いところに日がな出かけ、そこから八王子の町に帰ってきて、駅前の居酒屋で一緒に食事をする、というパターンがお決まりになった。

ともかく楽しかった。ここまでの30年あまり、特定の恋人というものを持たず、禁欲的な生活をしてきた私にとっては、すべてがバラ色だった。

彼女の茶目っ気があるところが好きだった。自分のことを「おちゃらけている」と言っていたが、それはふざけているとか、ひょうきんとかいうことではなく、相手を楽しませようというサービス精神からきていることはわかっていた。

自然に内側から染み出してくるような明るさがあった。それがじんわりと私を包み込んでくれる。そばにいてくれるだけで、ホッとできる存在だった。もともと一人でいることが好きな私がそばに誰かを寄せつけている、ということ自体、不思議に思えた。

かつて恋人が欲しい、と思う時期があったが、それを手にしたらしたで、戸惑うだろうな、と思っていたことが現実となった。その戸惑いが驚きに変わり、やがて愛情に変わるころにはなくてはならない存在となっていた。

頭のいい子でもあった。付き合い始めたころ、すぐに分かった。人の言うことをすぐに理解し、反応が早い。市内の普通高校を出ていたが、のちに成績表を見せてもらったところ、数学はオールAだった。もっとも、物理とか化学は苦手だったようだ。3歳年上で、のちに大学で薬学を専攻していたお兄さんにいつも助けを求めていたという。

後年、私が技術士の試験を受けたあと、そこで書いた答案について、なぜかいろいろ聞くのでそれに答えて長々と解説をしたことがあった。それに対して、そのときもすぐに理解したようだったが、そのあとさらに、「こうやって素人に説明することで自分でも理解が深まるでしょ」とのたまわった。

それを聞いてなるほど、と思った。専門家として自分で理解しているつもりでも、一般人に説明するためにはさらにかみ砕いた説明ができなければならない。それができてこそ、初めて自分で分かった、ということになるのだ、と教えられた気がした。逆に頭が下がった。

そうしたことも含めてお互い足りないものを補うことができるカップルだった。私は細かいことがきらいで、すぐにああ面倒くさい、ということになってしまうが、彼女はコツコツとそれをやり、気が付いたら私が知らないうちにそれを仕上げている、ということがよくあった。

一方、彼女は逆に計画立てて何かをやるのが苦手なタイプで、旅行のプランを立てたり、週末にどこかへ出かけたりするときのタイムスケジュールを管理するのはすべて私だった。

もっとも男と女はそもそもそういうものだろう。内にこもることの多い女性は細かいことが得意で、外に出ることの多い男性はおおまかではあるが計画性がある、というのはよく言われることだ。

いずれにせよ、それぞれの役割をきちんと担えるかどうか、お互いの穴を埋められるか、というところにその関係が長続きするかしないか、というコツがあるような気がする。その点、我々ふたりは、そうした役割分担がよくできていたように思う。



1992年11月3日。二人は結婚した。

子供のころから私は一人でいるのが好きだった。その自分のためだけに作り上げた世界に彼女が迷いこんできた。その家族もまたそれに巻き込まれて入って来てしまったのではなかったか、最近、そんなふうに思う。

彼女だけでなく、彼女の父─ 私にとっての義父は、もしかしたら、その私の世界にもっとも翻弄された一人だったかもしれない。

彼女の両親は二人とも東京都内で生まれだ。それも東のほうで、葛飾だか柴又だかそのあたりだったと記憶している。お義父さんが立川にある病院で調理の仕事をしていて、そこの看護婦だったお義母さんと知り合い、結婚。彼女と彼女の兄の二人を設けた。

当初、一家は東村山に住んでいたが、高尾に小さな建売りを見つけてそこに移り住み、彼女もそこで育った。

初めてその両親に会ったときはひやひやものだった。というのも我々の交際は会社内ではもちろんのこと、彼女の家族にも内緒だったからである。どうも娘に虫がついているらしい、とお義父さんが知ったとき、どんな奴だか俺が探してしばいてきてやる、と息巻いていたという。その話を後で聞いて首筋が寒くなった。

若いころにはかなり血の気が多い人だったらしい。同僚と喧嘩するなどは日常茶飯事で、自宅でも何回もちゃぶ台をひっくり返したという。また、遊びに行こうと家族を連れてクルマで出かけても、途中で引き返してきてしまう、ということもた度々あったという。単に渋滞していたから、というのがその理由だ。

そんな気短で気分屋なところがある一方で、一度心を許した相手にはとことん尽くす、といったところがあった。

江戸っ子気質とでもいうのだろうか、気にいりゃあ家族同然よ、というわけで、同僚でもセールスマンでも気にいったとなると、すぐに家に連れてきて酒をふるまう。

子供二人もそうした度量の大きさには一目置いていたようだ。彼女はこの父のことを「かっこいい」とよく言っていたし、彼女の兄もまた陰口はたたきながらも、しょっちゅう子供連れで遊びにきていた。この人の頑固さに呆れ、よく喧嘩をしていたようではあるが。

私も初対面で気に入られてからは、それはもう実の息子のようにかわいがってもらったものであり、その後この家によく遊びに行くようになった。

そのたびに二人で深酒になり、いろんな話をしたが、その中で時折、私に初めて会ったときのことを話題にした。

この当時、高尾山口駅から甲州街道を上っていく途中に「ごん助」という山賊焼きの店があった。両親に会わせるため、自宅では気詰まりだろうと、彼女が用意したのがこの店で、地元では知る人ぞ知る店だ。屋外で焼鳥などを野趣あるふうに調理して食べさせるということで有名だったが、のちに後火事で焼失してしまったのが残念だ。

店の入り口で初めて、この義父に挨拶をしたとき、満面の笑みで迎えてくれたことを思い出す。その後何度も酒の席で繰り返すようになった言葉が、「一目見て気に入った」だった。額面通りに受け止めていいかどうかは別として、確かにその日はご機嫌だった。どうやら、この初回の面会で及第点をもらったらしい。

その後頻繁に自宅にも呼ばれるようになってからは、夜遅くまで飲ませてもらって、泊めてもらうことが多くなった。結婚前、私はまだ高尾駅前のアパートに住んでいて、そこは歩いても行けたことから、呼ばれてはすぐに出かける、といったことを繰り返すようにもなった。

それを心配していたのが、ほかでもなく未来の奥様だ。夜遅くまで頻繁に義父につき合わせられる私を見て前々から苦々しく思っていたらしい。どこか遠くへ二人で引っ越したほうがいいのでは?という提案があった。

今の6畳一間の小さなアパートに二人で住むわけにはいかないから、別の場所にもっと大きなアパートかマンションかを借りようか、と私も考えていたところだ。ふたりでいろいろ話し合ったが、その結論として二人が選択したのは、小さくてもいいから我が家を持とう、ということだった。

この当時、彼女が高校を卒業してからコツコツと貯めた貯金があり、これには及ばないにせよ私の貯金も合わせればそれなりの額になる。それぞれの両親から借金をしてそれに加えれば、なんとか家を購入するほどの前金が用意できそうだ。

お互い、親のすねをかじるのは気が引けたが、無理を承知で頼んでみることにした。その結果、朝井家からはすんなりとOKが出たが、案の定、しぶちんの私の父はなかなか了承せず、母の助けを得てようやく了解をもらった。

父がいい顔をしなかったのには訳がある。ちょうどこのころ、両親はそれまで住んでいた広島の建売りを売り払い、山口にある母の実家に移り住んでいた。かつて祖父が建てた古宿だが、そこに一人で住む祖母の面倒を見たい、というのが表向きの理由だ。

これより数年前、父は第二の就職先を退職してリタイアしていた。勤めていたころに比べ、格段に家にいる時間が増えることになったが、小さなその広島の家をなにかと窮屈に思っていたらしい。そこで、家を売り、できた資金でより広い義母の家を改装し、そこに移り住もうと画策した。

これに対し、友達も多く、長年住んだ広島を離れることに母は難色を示した。賑やかな広島に比べてひなびた山口戻ること自体も気に入らなかったらしい。ただ、借金まみれで疲弊した実母がひとり老いていくのは見るに忍び難かったようで、その面倒をみる、という父の口上には同意せざるを得なかった。

早速業者を手配して家の修繕に入り、私がハワイから帰って来てしばらくたってからすぐに山口に移住した。リフォームの費用は、建設省を退職したときのなけなしの貯金を使いこんだ。住んでいた広島の家の買い手さえみつかれば、使ってしまった金はすぐに回収できるだろうと考えたようだ。

しかし、その資金の回収にはまだまだ時間がかかる。というわけで、そのころの両親にはそれほど潤沢な資金があったわけではなく、そこへ来て息子から金を貸せ、と言われて渋った、というわけだ。

もっとも、我々二人もタダで貸してもらおうとは思わず、それなりの金利を積んでその金を借りた。その後10年も経たずして、全額両方の親に返済することができたのは、この間、私が安定した職に就いていたからに他ならない。広島の両親が住んでいた家もその後無事に売れ、しかもそこそこの値段だったようで、一安心だった。

資金のめどが立った我々二人は、その後あちこちの不動産をめぐっては、めぼしい住宅を探した。基本的にはふたりとも高尾が好きで、ここからあまり遠くへは行きたくなかった。しかし、駅周辺を中心に探し回ったものの、なかなか思うような物件がなく、行き暮れてしまった。

そんなとき、八王子市街にも近い不動産屋で、気になる物件を見つけた。4区画ほどあるうちの一つで、建築条件が付いていて、これは土地の購入から一定期間のうちに、持ち主である業者によって住宅を建てなければならない、というものだ。

50坪ほどもあり、広さの割には安い。なぜかと思って調べると、土地の3分の1ほどが市街化調整区域になっており、これは住宅が建てられない土地だとわかった。残りの3分の2を対象として建蔽率や容積率が決まってくるから、土地の広さほどには大きな家は建てられない。

とはいえ、かなり割安な設定なので、早速二人で見に行くことにした。最寄り駅は、京王線の片倉という駅で、そこから歩いて15分のところにある。駅から南へ歩いて行くと、急な下り坂になり、そこを降りると川がある。

湯殿川という川だと後から知ったが、この小さな川が古い時代から氾濫するたびにあたりを侵食し、土地を掘り下げてこの一帯に谷筋を作ったようだ。その周辺の多くはその昔、足場の悪い河川敷や沼だったところと思われたが、近年になって大半が埋め立てられ、畑や住宅になった。

くだんの売地もそうした荒地の一角にあり、周囲は畑ばかりでほかの住宅はほとんど建っていない。南側は市街化調整区域であるため、当面ここに家が建つ予定はない。このため、かなたまで広々とした空間が広がり、さらにその先には小さな公園があった。

右手の東側には背の高い屋敷林があり、のちに調べたところでは、鎌倉時代、ここには小さな砦があったらしい。今は寺になっており、屋敷林はそこの垣根の役割をしていた。

さらに西側にも広場があり、南側のかなたにある公園と合わせると、周囲に二つも公園があることになる。特に気に入ったのは、家の目の前を通って奥の公園へ行く小道の脇に、八重桜の並木があったことだ。春先にはさぞかしきれいだろう、と思ったが、実際、そのあとここに住むようになってからは、毎年そのピンクの花園を存分に楽しむことができた。

将来的に子供ができたときには絶好の環境といえ、同じ価値観を持つ二人は、一目でこの場所を気に入った。ちなみにここを初めてみた義父は、なんてひどい場所だろう、と思ったという。

このころちょうどバブルは崩壊したころであったが、まだまだ不動産の値段は高かった。現在の5割増し、といったところだったろう。若い二人にとってはかなり負担となったが、長期のローンを組めばなんとかなると考え、思い切って購入を決めた。




3カ月後の10月下旬。我々の新居となるその家は完成した。

生まれて初めて建てる家だったので、不動産の購入やら住宅の設計やらでいろいろ面倒なことは多かったが、なんとかこなして竣工にこぎつけた。

建坪20ほどの本当に小さな家だった。しかし、生まれて初めて借り屋ではなく自分の家を持ったということに大きな満足を覚えた。

完成間際のある天気の良い秋の日、二階西側の和室の出窓のかまちに一人で座って感慨にふけっていると彼女が入って来た。そして、静かに私の左側に座り、ぽつりと言った。「ほんとにできちゃったわね。」

そのとき、窓から入ってくる心地よい風に吹かれた彼女の横顔がのちのちまで強く印象に残った。

その彼女の言葉には、こんな立派な家に本当に住んでいいんだろうか、という戸惑いのような気持ちと、これから起こることに対する恐れのようなものが入り混じっていたのだろう。私も同じ思いだった。

しかし、このとき、私がどういう答えを返したのか、どうしても思い出せない。

さあこれからだ、と言ったか、もう安心だ、と言ったのか、それともこれから一緒にがんばろう、とでも言っただろうか。何にせよ、そのときの言葉を思い出せる者は誰もいない。

入居の直前、ほんのささやかな結婚式を私たちは挙げた。ささやかといっても、二人だけというわけではなく、双方の主だった親戚もであり、彼ら十数人を集めて、一泊二日の旅行を企画した。

もとより派手な披露宴や結婚式はしたくなかった。ごくごく身内だけで質素な結婚式をやればそれでいい、という考えだった。家を買ったばかりでもあり、贅沢はできない、ということもあったが、これに双方の両親も納得した。その会場は伊勢の賢島にあるホテルで、賢島といえば2016年にG7伊勢志摩サミットが行われたことで有名になった場所でもある

無論、サミット会場にもなった豪華ホテルではない。ただ、まがりなりにも披露宴の代わりであるから、そこそこいいホテルを選んだ。

それにしてもなぜ三重県だったのか。大きな意味はなく、単に私が行ったことがない場所だったからだ。仕事柄全国の海岸を飛び回り、ほとんどの都道府県に足を向けていたが、これまで三重県と和歌山県だけはその対象になっていなかった。

前日、伊勢神宮にも近い、猿田彦神社で簡単な式をあげた。夫婦ふたりと、それぞれの両親を合わせた6人だけの結婚式で、花嫁衣裳、羽織紋付きなどは着ず、二人ともスーツ姿で臨んだ。式といっても簡素なもので、神主さんに祝詞をあげてもらい、指輪を交換するだけで終わった。

披露宴を模した翌日の親族へのお披露目も質素なものだった。通常の宴会場に十数人が集まった。大阪に近かったので、西宮近辺に住んでいる父方の叔父叔母も来てくれていた。猿田彦神社での結婚報告とそれぞれの家族紹介をし、なごやかに談笑したその宴は2時間ほどで終わった。

翌日からは一週間ほどかけて熊野めぐりに二人で出かけた。新婚旅行である。

いわゆる熊野街道と言われる、三重和歌山の海岸線を西へとレンタカーで辿る旅行だ。熊野那智大社や那智の滝はもちろん、伊勢神宮や熊野大社、アドベンチャーパーク、といった主だった観光地はほとんど回った。

一番印象に残っているのは熊野市にある「鬼が城」と呼ばれる海岸地帯だ。侵食により奇岩が連続する間を細いトレールが通っている。落ちれば断崖絶壁の下、という場所もあり、ふたりとも笑いながらそこを通り抜けた。スリル満点のショートハイクだった。

帰りは大阪に出て、そこから新幹線で東京に帰った。目指すは無論、できたばかりの新居である。東京駅から中央線で高尾に向かい、ここから京王線に乗り換えて片倉駅に降り立った。そこから歩いて二人で新居に向かい、真新しい玄関の前に立ち、鍵を開けて中に入ると、新鮮な畳の匂いがした。まだ家具などはほとんど何もなく、置いてあるのは寝具だけだ。

がらんとしたリビングに二人立ち、顔を見合わせ、次いで庭のほうを見やった。そこもまだ何もないただの荒地があるだけである。さあこれからここをどうやって住処にしていこうか、二人が考えていたことは同じだった。しかし、我が家といえるほどにその環境が整うまでには、それから半年ほどもかかった。

休み明けに職場に出て、上司に報告した。旅行に出る前あらかじめ二人の結婚は伝えてあり、そのために長期休暇を取得することは伝えてあったから、特段なにも問題はなかった。その上司は笑って、おめでとう、と言ってくれたのでホッとした。

我々の結婚のことはこの上司以外には誰も伝えていなかったので、その日のうちにフロア中がその話題でもちきりになったようだった。会社のだれにも伝えず、結婚式を挙げたことについての批判的な声は上がらなかった。もとより変わり者で通っていたようなところがあり、しかたがないな、という雰囲気だっただろう。

彼女のほうは、派遣打ち切りということで、これよりかなり前から出社はしていなかった。代わりのオペレーターが同じ派遣会社から既にやってきていた。



年が明けて1993年になった。このころバブルは既にはじけ、長い不況が始まっていた。勤めていた会社は、公共事業が主な収入であったから業績が大きく傾くことはなかったが、ボーナスなどは大幅にカットされるようになった。

このころ、新たに港湾部長に昇格した人は、かつて神宮前にいたころからの先輩社員で、この不況にあって新たな市場の開拓などを会社から要請されていた。その一環として東京は亀戸に新たなオフィスを設け、そこで東京東部での新たな事業展開を目指していた。

その業務の一端を担え、ということでそこへの出向が私に命じられたのが前の年の12月。東京の西の端から東の端までの通勤には2時間半以上かかる。結婚したてだというのに、なんという仕打ちだと嘆いたが、会社命令である以上逆らうことは許されない。

毎日往復5時間をかけてそこへ出勤したが、仕事の内容も申請書類の作成ばかりで面白みがなく、毎日うんざりしていた。部長の話では、1年我慢すれば戻してやる、ということだったが、それまで持つだろうか、と日々の通勤の中で考えるようになった。

また戻してやる、といっても今度は海外へ派遣されるに違いなかった。英語ができる私を再雇用したのもそのためであろう。

しかし海外といってもどこへ行かされるかわからない。この会社の海外出張先としては東南アジアと南米が最も多く、そのどちらかであることは明らかだった。私もある程度覚悟はしていたものの、結婚してすぐのことでもあり、妻と別れて単身そんな僻地に行かされるのは正直勘弁してほしいと思っていた。

もとより積極的に求めて得た職ではない。ハワイから帰ってきたばかりで疲れており、先立つものがない中、仕方なくこの職場を選んだ、というのが本音だ。

それなら、と一大決心をしたのが、4月。2カ月後には退職し、フリーとなった。

後年、このときの決断が正しかったかどうかと、何度も考えたが、結論はいつも同じだ。正解だったに違いない。見よう聞きようによっては古巣に後ろ足で砂をかけるように出てきてしまったことになるが、生活を守るためにはまったく正当な離別であり、誰にも非難される筋はない。

何の未練もなかったが、強いていえば2年の間にできた新しい仲間や、かつての渋谷時代からの仲間とのきずなが絶たれることは悲しかった。ただ、それは社内でなくても保つことができる。実際、その後も親しい人たちとは長い付き合いが続いた。

最後に送別会を開いてもらったが、その席でちょっとしたトラブルがあった。亀戸へ行けと命令を下したくだんの部長が、私への送辞を述べる際、暴言を吐いたのだ。こんな形で会社を辞めてもロクなことはない、世の中はそんなにあまいもんじゃないぞ、といったことばの数々は聞くに堪えないものだった。

一瞬、ひんやりとした空気がその場を包んだが、私のすぐ上の別の上司が、まあまあと部長をなだめ、最後は穏やかな形で会を終えた。のちに同じ部の同僚で、同期入社の一人が言った。

「あのときの発言で、部長は大きく株を下げた、おまえは、ただ一身上の都合で、とだけ言い、言い訳めいたことは一言も言わずに会社を去った、偉かった。」

素直にうれしかった。しかし一方では、一つ年下の親しかった後輩のひとりが、あれはボタンの掛け違いではなかったか、もっと話し合えばよかったのでは、とのちに私に意見した。確かにそういう面はあったかもしれない。しかし、なるべくしてなった必然だと今でも思っている。

ちなみに、このとき爆弾発言をした部長は、それから10年も経たたないうちに早世した。また私のことをほめてくれた同期生も、その少し前に他界した。ボタンの掛け違いだと言った後輩は、彼もまた会社と折り合いが悪くなってその後退職し、今は同業他社に勤めている。

人それぞれとはいえ、人生とはかくも浮き沈みの激しいいものか、と今改めて思う。しかし私自身、さらに大きな変転をその後経験することになる。このとき、そんなことが起ころうとは露ほどにも思っていなかったが。

こうして私はまた荒野に投げ出された。しかし前と違って今は伴侶がおり、一人ではなかった。投げ出されたのではなく、荒野に飛び出たのだ。

ただ時はバブル崩壊後の大不況の中。はたして再就職は可能なのだろうか。そうした不安がなかったわけではない。しかし、私には妙な自信があった。新妻にも不安か、と聞いてみたが彼女もケロッとしている。むしろ、全然不安じゃないよ、あなたなら大丈夫、とこの転職にはむしろ賛成してくれていた。

のちに就職が決まった時、「運がいい人はいつも運がいいのよ」と彼女が言い、その後口癖のようにこの言葉を何度も口にするようになった。意味深といえば意味深な発言であり、このことばの持つ本当の意味が何だったのか、と今もときどき考えてしまう。私は本当に運がよかったのだろうか…。

これも運がいいといえるのかどうか、実はこのころ、妻のおなかの中には新しい命が宿っていた。

ある日、月のものが不調なので病院に行く、と言って帰ってきた家内の口からそれを聞いて知った。職もなく、今後の収入のめども立たない中、なんということだろう、と思ったが、彼女は平然としていた。精神的に不安定になってもおかしくない状況といえたが、改めて見直す思いだった。

すぐに、定期的に診断に出かけるようになったが、その病院というのは、同じ京王線の北野という駅近くにあった。

彼女がそこを選んだのは、院長が女医さんだったからで、医者とはいえ他の男性に体を触られたくなかったというのがその理由のようだった。こういう潔癖症ともいうべきところが、彼女にはあり、年に一度の健康診断などもいろいろと理由をつけて行きたがらなかった。

それがのちに大きな問題を生むことになるのだが、ともあれ、我々の初めての子供はやがてこの病院で生まれることになる。

一方の私は新しい仕事をみつけようと躍起になっていた。ただ、新たな就業にあたっては、どうせならこれまでとは違う道を選ぼうと思った。一度新宿にある都市計画系の建設コンサルタントをあたったが、今は募集がないと断られた。それなら、と同じ業界でもかつての職場の最大のライバルと目されている会社に当たってみよう、という気になった。

ちょうど就職情報雑誌で広告を出しており、それを口実に担当者とコンタクトを取ろうと思った時、ふと頭をよぎることがあった。

かつてハワイ大学でお世話になった右田さんが、確かその会社の関連会社に就職した、と連絡をくれていたのを思い出したのだ。土木現場で採取される水や土の化学分析をする会社で、柏にあった。早速コンタクトを取り、会いに行くと、おぉ久しぶり、と相変わらずの笑顔で迎えてくれた。

早速事情を話すと、それなら俺よりもっといい人がいる、という。いぶかしんでいると続けて、我々の先輩だ、自分より先に博士号を取って卒業した、と右田さんは言われて、ようやく思い出した。かつて、そういう人がOcean Engineeringを卒業したことは聞いていた。

その人も卒業後帰国し、なんと私が当たろうとしていた会社の部長をしているという。右田さんが今の職場にいるのもその関係らしい。すぐに連絡をとるから、そのうち会って一杯やろうと言われ、その日は別れた。

後日、その人と右田さんの三人で酒を酌み交わした。木下さんというその人は私よりも10歳ほど年上で、その後も何かとよくお世話になった。ハワイ大学では秀才でならしたひとで、教授陣の評価も高かったようだ。人づてに聞いた話から伝説の人のように思っていたが、想像していたよりも若々しく、気さくな人だった。

ハワイ大学の卒業生ばかりということで彼の地の話で盛り上がり続いて今の職場の話にもなったが、その中で私の就職についても、上部に声をかけておく、と約束をしてくれた。

重ねて同じことを書くようだが、人生においては起こるべくして起こることが何度もある。このときはまだ必然の意味をわかっていなかったが、ここでもそうした運命を感じざるを得ず、その出会いに驚いたものだ。だがしかし、まだその会社に入れると決まったわけではない。

その後、その会社の就職担当者とも正式にコンタクトを取り、入社試験を受けた。面接では社長自らに会い、いろいろ聞かれたがすべてよどみなく受け答えができた。ところが筆記試験があり、実はこれが曲者で、全然できた気がしなかった。ちんぷんかんぷんの問題ばかりで、書き終わって提出したあと、あーこりゃやってしまったな、と思った。

のちに聞いた話では、こうした会社での入社試験ではよくあるパターンのようで、時間内に解けないような難問を出し、それに対してどうアプローチするか、を見る試験だということだった。

試験後にかなり落ち込んでいた私だったが、後日、のちに入社後にお世話になることになった配属先の部長さんから、合格間違いなし、の連絡をもらった時は耳を疑った。しかしそれは嘘ではなく、後日本当に採用通知が来た。家内ともども喜んだことは言うまでもない。

喜びもつかの間、とはいえ、先のことを想うと少々憂鬱な気分になった。というのも、その会社は日本橋にあり、八王子から通勤しようとすると2時間近くかかる。かつての亀戸よりはましだとしても、はたして勤めあげられるだろうか、と不安になった。

しかし、たとえどんなに通勤や仕事が大変だろうがやりとげよう、とこのとき自分に言い聞かせた。家内のおなかもかなり大きくなっている。生まれてくる子供のためにも彼女のためにも、やればできる、なんとかなる、と自分を鼓舞して不安を払拭しようとした。

この入社問題でばたばたしているこのころ、これもまた私を試すかのように、もう一つの試練が訪れていた。

それは技術士試験の受験だった。実は亀戸時代より少し前から、この資格をとろうと考えていて、ちょうど一年前のこのころから通信教育を受けていた。技術士の経験の長い人や建設省OBなどが厳しい採点をする本格的なもので、毎月送られてくる試験問題に対して複数の回答を出さねばならない。仕事の合間を縫ってのこの論文の作成はかなり大変だった。

しかし、ハワイ大学で学んでいたことに比べればこんなことは屁でもなかった。いつのまにか試筆した論文は山のようになっていたが、その年の試験が近づいていたこのころには既に目標とするところのレベルには近づいている、という自覚があった。

技術士は、弁護士に次いで取得するのが難しいといわれる国家資格であり、何等かの科学技術に携わっている人にとっては最高峰の資格といえる。受験資格として5年以上の就業経験があることが求められるが、かつての会社には7年以上勤めあげていたから受験資格は問題ない。

これを受けようと思った理由は単純だ。資格をとれば会社から資格手当はつくし、またその資格が技術士ということになれば社会的信用も高まる。この先どこへ就職するにしても、そこでの出世レースにおいて当然有利になるはずだった。

というわけで、このころは再就職とこの試験の二方面での対策で大わらわの日々だった。しかし幸い、5月に前の会社を辞めていたから時間は十分にあった。このため、自宅で徹底的にこの試験について研究することができた。さらに朝から晩まで毎日のように論文を書き続け、来たるべき試験に備えた。

このころ、時間に余裕があることもあって、座禅に凝るようになった。朝夕の涼しい時間を選んで、長々と瞑想にふけり、ときには宇宙のかなたまで意識は飛んで行く。座禅をやったあとには気持ち、心にゆとりができるような気がした。無心になる、ということは何か人間性を高めるような効果があるらしい。

この座禅の有効性は、その後の就職試験や技術士試験の双方で証明された。集中力を途切らせることなく、心を安定させてそれに臨むことができたのは、そのおかげといっていい。

やがて技術士試験の日がやってきた。会場は高田馬場の早稲田大学の一室だ。この当時、この試験会場を含めて多くの技術士試験会場にはエアコンなどはなく、受験者はみな半パンにTシャツといういでたちで臨む。水筒とタオルは必需品だった。

タオルは本来額の汗を拭くためのものだが、答案を書く際に手からも噴き出る汗をぬぐいとるためのものでもある。脱水症予防の水筒と同じく、技術士試験にはどうしても必要なアイテムのひとつだった。

朝の9時ぐらいから論文を書き始め、夕方4時ぐらいまでに3つの論文をひたすら書き続けなければならない。建設一般と専門科目、そして経験論文だ。経験論文のウェイトが一番高く、これは事前に用意したものを記憶して書けばよい。ただし、中身については高度であることはもちろんのこと、独創性や文章力が求められるため一筋縄ではいかない。

建設一般は、毎年出題内容が変わる。たとえば漠然と、今の公共事業についての問題点を書け、とか、未来にわたって必要な建設事業は何か、言った出題内容だ。どんなテーマに沿った問題が出るかはわからないため、幅広く勉強しておく必要がある。

ただ、過去に出された出題傾向を探ると基本的には5つか6つほどのテーマに分類される。それぞれのテーマにおける想定問題を予習すれば対応できなくはない。ただ5テーマとはいえ必ずしもそこからの出題があるとは限らないから、それ以上の幅を持たせた広い視野からの勉強が必要になる。

実はもっともやっかいなのは専門科目である。受験する科目に関して、最近起こった事象についての出題が多いといわれる。例えば私の専門は河川・海岸であるから、それに関しての最新技術であるとか、最近起こった災害についての問題が出たりする。

しかし、必ずしもそうとは限らない。フェイントでかなり基礎的な法則問題が出題されたりもする。受験者の専門とする科目なのだから、何を問われても書けなければ技術士とは認められないよ、というわけで、何が出題されるか蓋をあけてみなければわからないのだ。

自分の専門とはいえ、建設一般以上に幅広い勉強をしておく必要があり、しかも深くなければならない。このため事前にそうした類の専門書を山のように読まなければならなかった。

私にとってラッキーだったのは、このときの専門科目の問題は、この年7月に起こったばかりの奥尻島での津波に関するものだったことだ。津波に関する対応策を知っている限り記述せよ、というような内容だった。ほかに二問ほどの出題があり、三問のなかから選択するかたちだったが、ハワイ大学で波を勉強していた私は、迷うことなくこの問題を選んだ。

試験後の自己採点では、経験論文は90点、だが建設一般とこの専門科目の出来がまあまあだったので、及第点ぎりぎりかな、といったところだった。しかしまがりなりにも国家試験の最高峰である。それを初めて受験して、合格するのは極めてめずらしいと言われている。

落ちて当たり前、と思っていたから、結果はあとからついて来るさ、とさほど気にはしなかった。




再就職が決まった会社、新未来環境研究所へ入社したのは、それから約半月ほど経った9月になってからだった。ほかに十名ほどの採用があり、同期ということで、その後、何人かと仲良くなった。

その中には、元自衛隊の戦闘機のパイロットもいた。かつての私のように結石の持病があるため退職したとのことで、異色中の異色といえる。その他の採用者もそれほどでもなかったが、再雇用ということもあって、様々なキャリアを持っていた。ただ、残念なことにのちにこの会社を辞めたことで縁切れとなった人も多い。

こうして新しい会社で新しい仕事が始まった。通勤は2時間かかったが、高尾駅か八王子駅まで戻って始発の電車に乗れば、その間眠っていられる。帰りも同じで、会社の最寄り駅は神田だったが、一駅戻って東京から乗れば、座って帰れることが多い。苦にならなかった、といえば嘘になるが、我慢のしどころの許容範囲ではあった。

入社当時、配属されたのは環境計画部というところで、これは、動植物調査が中心の環境部門と、都市計画を扱う都市部が合体してできた新しい部署だった。先に内定の連絡をくれた、倉田部長という人がこの部門の責任者だ。

結局、この会社にはその後10年にも及ぶ長きにわたってお世話になることになる。この間、公私につけ、いろいろなドラマがあったが、私事のなかで最大のイベントのひとつといえるのが、入社したこの年に長男が生まれたことだ。

11月22日のこの日の前日、私は泊りがけで宇都宮に出張に行かなければならなくなった。出産間際でもあり家にいてやりたかったが、彼女の母親で元看護婦の義母がそばについているから大丈夫と思いなおし、予定どおり家を空けた。

その夜、宿泊先に連絡があり、私が出かけた日の夕方から陣痛がきたため、急遽、入院したという。いつも通っていた北野の病院だ。それまでの経過は順調だったので、大して心配はしていなかったが、それでも不安な夜を過ごした。

翌日、相手先との打ち合わせを終え、市役所を出ようとしたとき、義母から無事、男児を出産したとの連絡が携帯にあった。このとき、一緒にいた上司に、感想はどうだ、と聞かれたものの、正直なところピンとこず、どう答えていいかわからなかった。

もとより子供が欲しいとは思っていなかった。子供が子供を持つようなものだ、といつも思っていたし、もし子供ができたらどんなふうな父親になるのだろう、と想像してもまるでイメージがわかない。

その日はもう帰っていいよといわれ、急ぎ八王子に取って返したが、病院に着いたときはもう夕方近かった。受付で案内を乞うと、母子とも二階にいるという。

スーツ姿のまま急ぎ、階段を駆け上がると、ちょうど彼女は病室から出て新生児室の窓越しに中を覗き込んでいるところだった。天気の良い日で、彼女が立っている廊下には、秋の日の柔らかな日差しが降り注いでいた。

その日差しを浴びながら中をのぞいていた彼女は、私をみつけると、すぐに駆け寄ってきて抱きついた。そして顔を胸にうずめ、しばらくの間、泣いた。やがて面をあげ、目線で私を促すと、その先には小さなしわくちゃなわが子がいた。白いシーツの上にのせられ、ローブをかけてもらってすやすやと眠っている。

聞くと、お産はスムースで、ほとんど苦しむことなかったといい、やれやれと安どした。ただ、出産時の体重は2500グラムにも足りない。未熟児というほどはなかったが、念のために母親とは離し、新生児室で経過をみている、ということだった。

彼女自身が休んでいる個室に招き入れられ、昨日からのことを次から次へと聞かされたが、なにやら遠い世界のことを聞いているようで頭に入ってこない。あとで再度確認したところでは、なんでも夕食後に急に産気づき、すぐに母親とタクシーに乗って、入院したらしい。

このときハッと思い返し、カバンの中から一枚の紙を取り出した。そして折りたたんであったその紙を広げ、横になっている彼女のそばに置いた。

そこには我々二人の間にできたこの子供の名前の候補が書いてあった。3つほど用意していたが、実は自分的にはそのうちのひとつが本命だった。

ちょっと変わった名前だったので彼女がどう思うかな、と気になっていたのでいくつかほかにも候補を用意していた。どれがいいと思う?と私に聞かれた彼女は、置かれた紙を手に取り、しばらくそれを眺めていた。やがて彼女が指さしたのは、私が良いと考えていたそれだった。

「一生」と書いて「かずき」と読む。

その我が子を抱いて、家族三人で我が家に帰ったのは、それからおよそ一週間後のことだった。

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