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龍神 雷神

2008年の今日、私たち二人は、宮島厳島神社で式を挙げ、晴れて夫婦になりました。晴れて・・・なのですが、あいにく当日は朝からの雨模様。宮島からホテルまでの帰りの船からは雨にけぶって淡い色彩の広島の町と海が見えていました。船の中は、式が無事に終わったことによる安堵感があふれていて、我々二人だけでなく、親戚や友人一同もリラックスムード。あちこちで記念写真の撮影大会が始まっていました。

やがて船は、広島プリンスホテル脇の桟橋に到着。船に乗っている間に、少し雨は小降りになってきましたが、あいかわらずの空模様。灰色の雨雲がつぎつぎと足早にホテルの上空を過ぎ去っていきます。やれやれ、せめて披露宴までにはあがらないかな・・・と思いながら、裾をからげてホテルのロビーに入ると、今日これから始まる披露宴への参加客もちらほらと到着されていました。いよいよ宴のスタートか、と新たに気が引き締まる思い。

その日に至るまでのおよそ一年半。あの正月の30年ぶりの同窓会で再会して以降、ふたりの交際は日に日に深まっていきました。再会の翌日には、なんと尾道までクルマで初デート。それまで二人の間にあった溝が一気に埋まった一日でもありました。尾道の海の見えるレストランで食事をし、日がな一日ふたりで話したことが思い出されます。行きも帰りもクルマの中でしゃべりっぱなし。こんなに話が尽きない相手だなんて意外・・・というのは私だけでなく、彼女も同じだったと思います。

そして正月が終わり、私は帰京。私も仕事を持っていましたが、彼女もまた広島のラジオ局の番組原稿を書く仕事をしており、いつまでも遊んでいるわけにはいきません。とはいえ、その初デート以降、仕事が終わった夜になると、ほとんど毎日のように電話をするようになります。たいがいは、夜の9時、10時から始まって、0時か1時には終わるのですが、長いときには明け方まで話していることもありました。最長で、7時間ぐらい話していたこともあったと思います。

一体何をそんなに話すことがあったのか、と今も思うのですがが、お互いの過去30年間にあったことだけでなく、今の仕事のこと、趣味のこと、家族のこと、お互いの過去の恋愛のこと、と話すことはいくらでもありました。そのころオンエアーされていた、オーラの泉をはじめとするスピリチュアル番組の話は二人とも興味深々でみており、こうした番組で紹介される不思議な話は二人が話し合う格好のテーマでもありました。

番組に登場したタレントさんの話に端を発し、自分たち自身のスピリチュアル体験や、自分以外の知り合いのエピソード、これまでに読んだ本のこと、などについても話して意見交換をする、ということを繰り返していましたが、そういう話をするときはまったくといっていいほど時間の流れを感じませんでした。

私の周囲にはそういうことを話せる友人はいませんでしたし、たとえいたとしても、タエさんのように一晩中そのことについて語り合うということはできなかったと思います。そしてそういう会話を通じてまた、数少ない理解者という思いが深くなっていったように思います。

そんなふうにお互いの内面を電話を通じてさらけ出し、お互いの理解を深めあっていった二人ですが、電話ばかりしていたわけではありません。父の四十九日があり、広島に再度帰ったときには、二度目のデートとして広島東部の町、呉へ行きました。かつての軍港である呉の背後には休山(やすみやま)という山があり、頂上までクルマで行くことができます。市内観光をしたあと、夕方近く、そこまで登り、そこからみた瀬戸内海の夕日は絶景で二人にとって忘れられないものになりました。

これを皮切りに、いろんなところへお泊りデートをするようになりましたが、行った先の例をあげると、北海道、岐阜、金沢、新潟、山形・・・・と数えきれないほど。

そして、旅行が終わり、広島と東京それぞれの家に帰るとまた、電話でのデートの繰り返し。そして、そんな電話でのいつもの会話の中、私は多少(かなりだったかな)アルコールが入っていたので、つい軽口のつもりで、「これから二人、どうなるんだろうねー」とつぶやいたのです。それに対して、彼女が間髪入れずに返した言葉は、「そりゃー、結婚しかないでしょ」というもの。「エーッ!? け、結婚~!?」とわたし。

私にすれば、先妻に先立たれたとはいうものの、子持ちでバツイチという感覚でいたので、この何気ない、タエさんのことばにはいっぺんに酔いがさめてしまいました。そして、結局はこの短い会話が、プロポーズなしの結婚へとつながっていくことになりました。

お互い、結婚という目標ができた以上、やることはやらねば、ということで、まずは母に話しました。母は、こころよく賛成してくれましたが、問題は、息子のほうです。どう切り出したもんかなーと思いつつ、ある日の夜、少し酒にも酔った勢いで、「実は、お父さん結婚しようと思うんだけど、どう思う」と思い切って聞いてみました。すると、息子は、たったひとこと、「いいんじゃない」とあっさりOK。えっ、ほんとにいいの?と重ねて聞いたところ、不服はないようです。それじゃー決まった、ということでそのあと、タエさんに報告の電話をしたことは言うまでもありません。

ポーカーフェイスで、承諾してくれた息子ですが、しかし、後日タエさんがその時のことを彼に問いただしたところ、本当はかなり動揺したと白状しました。かなりの衝撃だったらしいのですが、しかし、子供ながらにオヤジにいつまでも家事をやらせておくわけにはいかんなーと思ったとか。ませた小僧です。しかし、タエさんもよく言うのですが、わが子ながら、しっかりした子で、子供のころから自分でこうだ、と決めたことはけっして曲げない性格の子でしたから、いったん自分がOKと言った以上、前言を撤回するということはまずありません。とはいえしかし、彼にとっては義理とはいえ母になる人。ともかくまずは会わせてみて、様子をみる必要がある、と思いました。

そして、そのチャンスは意外に早く訪れます。夏休み中に山口に帰ることを恒例行事としている私は、その年も息子と二人、クルマで帰省しました。途中、広島にも寄って、タエさんに会わせることにしたのですが、これに息子も同意。そして、その日の夕刻、広島の彼女の家につき、玄関から出迎えてくれたタエさんに息子を紹介します。彼はさすがに落ち着かない様子であいさつをしていましたが、彼女に勧められて家の中へ。

その日はタエさんの家に一泊する予定だったので、彼女の手料理なども味わいながら、彼と彼女の様子をそれとなく見ていました。どうなのかな、と観察したところ、彼としてはまんざらでもなさそうなかんじ。タエさん自身はもともとひとあたりのいい人なので、そつなく彼と接していましたが、さすがにまだ母親というよりもどこかのおねえさんというかんじ。

その翌日は、三人でどこかへ出かけようということになりましたが、どこにしようかなーといろいろ候補地をあげていたところ、彼が宮島へは行ったことがないことが分かりました。それじゃあそこにしよう、ということで、朝からクルマで宮島へ行くことに。その日はかなり暑い真夏日の日で、宮島もかんかん照りの状態。

とりあえず厳島神社本殿で参拝し、そのあと別のところへ向かおうとしたのですが、私が道を間違えたことから、山の手の住宅密集地の中を右往左往することに。日頃、運動不足の息子とタエさんは、汗だらだらになりながら、私についてきましたが、ふたりして、私が道を間違えたからだ、と非難を始めました。私は笑いながら「わりーわりー」と言ってかわしましたが、二人はぷんぷん。そのあとも、二人顔を見合わせては、こんなに疲れたのはオヤジのせいだ、と言い続ける始末。

しかし、思えば、この出来事が二人の距離を一気に縮める良いきっかけになったように思います。私を悪者にしながら、あれこれと会話をしている二人は本当の親子のようにも見え、ほほえましく思ったのを覚えています。

そんなこともあり、息子との問題もクリアーできそうだということで、結婚の準備はその後着々と進みます。その当時我々が住んでいた家は、先妻と二人で建てた一軒家でしたが、私がそこへ一緒に住もう、と言ったのに対し、彼女は難色を示しました。それはそうです。亡くなった先妻の思い出が詰まった家に後妻として入るのはいやなもの。それを理解した私は、そこを出て、別途仮住まいをすることを決意。その新居を探し始めました。10月になってようやく、これぞ、というマンションを元住んでいたところからほど近くにみつけ、契約。少しずつ、新居へ荷物を運び始めます。

そして、もう一つの家。広島のタエさんの自宅です。ご両親が残したこの家、かなりの広さがあり、100坪の土地に50坪も広さがあるのです。かつて、ご両親だけでなく、彼女の祖母にあたる方も暮らしていたこともあり、家の中は彼らの遺品だらけ。まずはこれを片付け、必要なものだけにして身軽になる必要がありました。

東京の家と合わせ、広島の家と二軒分のゴミの処理をすることになった私。あー、結婚なんて決めるんじゃなかった~ とは思いませんでしたが、助っ人といえば非力な女性と中学生になったばかりの子供だけ。たいした期待はできません。

そして、それから私の苦闘が始まりました。長い時間をかけ、二軒の家のゴミを捨て、必要なものを選別し、引越しのための荷物整理をするのに、数か月もが過ぎていくことになります。

2008年の1月のころだったでしょうか。ようやく荷物の処分に見切りをつけ、結婚式場をどこにするかを決めはじめた・・・というくだりは、以前のブログ「出航」に書いたとおりです。タエさんとの初デートから一年あまりが過ぎていました。広島の家は、中のものをすべて整理し、捨てられないものは山口の実家に預け、必要なものだけを東京の新居に送ることに。そして、タエさん、息子と一緒に新しいマンションで暮らし始めたのは2月に入ってからだったでしょうか。以後、およそ3年あまりを三人でこのマンションで過ごすことになります。今にして思えば、その生活も楽しいものでしたが。

息子とタエさんはその後、正式に養子縁組をし、法律的にも親子になりました。心配した親子仲ですが、わたしの心配はよそに、ふたりして想像以上に仲がよく、家に帰ってくると、学校のことや友達のことなどは、私よりもタエさんにまっさきに話すほど。タエさんが、母親になってよかったか、などと面と向かって聞いたことは一度もありませんが、その態度が彼の満足を物語っていました。

実の母親の死から5年ほどの歳月が経っていましたが、ようやく日のあたる生活に戻れたようで、私自身の気持ちも日に日に明るくなっていきました。

そして、迎えた6月20日ですが、この日、なんと息子は結婚式に参加できませんでした。実は厳島神社での予約を決めたとき、彼の中学校の修学旅行の日取りをはっきり確認していなかったのですが、その後改めて確認したところ、我々の結婚式と重なってしまっていたのです。

予約を変更しようかなーとか、修学旅行をやめさせようかなとも考えました。しかし、予定のびっしり詰まった宮島での結婚式を延期しようとすると次はいつになるかわかりません。彼にとっても修学旅行は一生に一度のことで、やめさせるのはかわいそうです。

結局息子には申し訳ないが、その日は別々の行動に、ということになったのですが、そのことを当人に話すとさばさばしたもの。むしろ、結婚式なんてめんどうくさいものには出たくなかったので大歓迎、といったご様子。これにはうれしいやらかなしいやらでしたが、まあともかく、両者ハッピーハッピーで事は決着。

・・・そして、結婚式当日のこと。厳島から船で戻り、夕方5時にスタートした披露宴。会場には、親戚や友人、職場の上司のほかに、あの高校時代のクラス担任であった恩師も招きました。その数40人はけっして多くもなく、少なくもなくといったところ。


披露宴の進行役は、タエさんの親友の一人でフリーのアナウンサーなどもしている女性でひろみさんという方。あちこちの結婚式の司会として引っ張り出されることも多いとのことで、軽快なしゃべり口で二人の結婚のお祝いを述べてくれ、華やかに二人の結婚披露パーティがスタートしました。

披露宴のプログラムについては、ホテルの担当の方との打ち合わせ時点から、他の結婚式と変わらないオーソドックスなものにしようと決めていました。が、こだわった点としては、40代後半の熟年夫婦の結婚式として恥じないよう、お呼びした人たちへの気配りが行き届くようにと考えました。

ひとつには、会場のあちこちに配した花などのディスプレイ。派手すぎないよう、シックなものを選ぶとともに、ライムの入ったガラスの花瓶などと組み合わせることで清潔感のあふれるものにしました。また、宴で流れるBGMも二人お気に入りのものを厳選しつつも、会場の雰囲気を壊さないものを選定。

さらに、明るいうちは、できるだけ窓の外の瀬戸内海の景色が楽しめるようカーテンを閉めない、とか、夜になって閉めるカーテンやテーブルクロスは雰囲気を壊さないよう、落ち着いた色を配色。テーブルの種類、配置・・・などなど20代の若いカップルでは決めきれないような細かい部分にも気を配ることができたのは、年の功というべきでしょう。ホテル側の対応もよく、花のアレンジや衣装合わせ、食事の手配、どれをとっても一流ホテルらしいセンスをみせてくれ、宴に色を添えてくれたことには本当に感謝しています。



その効もあってか、宴全体はシックで落ち着いたかんじで進行し、軽快なひろみさんの司会役も子気味よく、用意したプログラムも円滑に進みます。その日の料理をアレンジしてくれたコック長自らが、「鯛の塩釜焼」を解体するというパフォーマンスも見せてくれ、これには会場がおおいに盛り上がりました。


こうした式での定番といえば、宴半ばでのお色直し。それまで宮島から来ていたままの和服をウェディングドレスとモーニングに着替えます。着替えには30分ほどかかるので、この間の間を持たせるために、あらかじめ、私が作っておいたスライドショーを映してもらうことに。このスライドショー、「ムシャとタエコのものがたり」は、これまでこのブログで書いてきたことの集約版のようなもの。仕事のあいまにパワーポイントで作成したものです。あとで、宴に参加した友人に聞いたところでは、かなり評判がよかったらしく、会場の人たちも食い入るようにみていたとのこと。うれしい限りです。

ウェディングとモーニングに着替えたあとの再入場は二人にとって、忘れられないシーン。BGMに平原綾香さんの英語版「ジュピター」をかけるようお願いしてあったのですが、その前奏曲が流れる中、控えの廊下からしずしずと進み会場ゲートの前で立ち止まるふたり。前奏が終わり、曲が本番に入ったところで、一気に会場ゲートが開き、前へと前進。と同時にまばゆいばかりのスポットライトが二人に当たり、きらびやかなウェディングドレスが浮き上がる・・・ それをみた来客からは、一瞬のどよめきがあがり、続いて割れるような拍手が沸き起こりました。

実はこういう演出があることは、ホテル側からはぜんぜん知らされていませんでした。客室係の若い方々が事前に話あって決めてくださったらしく、直前になって事の次第を知らされたのですが、なかなか小粋な演出に二人とも大感動でした。今でも車で外出するときに、平原綾香さんのこの曲がかかると、二人して、あのときは良かったねーと言い合うほど。それほど、心が高鳴る良いシーンでした。

宴の後半は、キャンドルリレーに続いて、来賓によるスピーチ。高校時代の恩師をはじめ、新郎、新婦それぞれの親友や上司、お世話になった方などにお願いしましたが、どれも心のこもった温かいものでした。我々ぐらいの年齢になると、スピーチをお願いする方もそれなりの年齢になっているもの。なので、そのスピーチの内容にも深みがあり、聞いている我々も時に涙し、時に笑わせられで、熟年夫婦の結婚披露宴をさらに深みのあるものにしてくださいました。

スピーチの合間の、私の友人のIさんによるピアノ演奏も宴に色をそえました。外も暗くなり、締め切られたカーテンの内側で宴会場に鳴り響く彼のジャズピアノも心地よく、まさに「大人の宴」というかんじ。

このブログにも再三登場する霊能者のSさんへのインタビューもありました。私は別の人と話をしていたのか、その内容をよく覚えていないのですが、そのあとタエさんに聞いた話によると、その中で、Sさんが思いがけないことをおっしゃったそうです。その日は朝から雨だったわけですが、その理由として、今日は空の上に龍神様・雷神様がいらっしゃっていて、めぐみの雨でもって二人の結婚を祝福してくださったのだというのです。

Sさんには結婚前からいろんなリーディングをしてもらっている二人。その彼女が言ったことはこれまでことごとく、と言っていいほど当たってきています。それだけに、龍神・雷神まで祝福に来てくださったというこのお話もことさら真実味が感じられ、とたんにうれしくなってきました。

最後にタエさんが、読み上げた「新婦の手紙」は、亡くなったお母さんとお父さんへのレクイエムでした。コピーライターである、彼女自身が練り上げたその原稿は、両親への感謝のことばとともに私への切なる思いのメッセージでもありました。見ると、それを読み上げる中、タエさんの目からはツーと涙が・・・ きっと、亡くなったご両親もこれを見て涙されていたことでしょう。

これは霊能者Sさんを宴のあとにお見送りするとき、彼女から直接聞いた話なのですが、このとき、タエさんのご両親は我々二人の隣にいらっしゃっていたとのこと。同じく私の父らしい人も見えていて、お互い、我々二人の横の場所を、いや、そちらがどうぞどうぞ、と譲りあっている姿が見えたというのです。

我々の目にはもちろん、その姿は見えませんでしたが、挙式後に出来上がってきた写真の多くには、たくさんの玉響(たまゆら)が写っていました。無論、どのたまゆらがお母さんかお父さんかわかりませんでしたが、彼女の両親と私の父、それぞれがこの式を祝いにわざわざ来てくれていたのだ、と思うとうれし涙が出ます。

ちなみに玉響は、オーブともいいます。写真ではピンボケしたような白い玉として写ることが多く、その場にやってきた霊魂が写りこんだものと言われています。カメラのレンズについた水滴やゴミなどがピンボケして写りこんだものだ、と説明する人もいますが、長年写真をやってきている経験からみて、私はそれらは水滴やゴミではないと思いました。

さて、こうして最後のプログラムも終わり、最後に私がスピーチをする段になりました。何をしゃべろうかと式の前に考えていましたが、特段変わったことをしゃべる必要もないと考え、素直にそのとき思ったことだけを口にしました。それは、タエさんのご両親に対する感謝であり、亡くなった父への感謝でもあり、会場へ来てくださった方々への感謝のことばです。そして、忘れてはならないのが亡くなった先妻、生代さんへの感謝。それらを口ごもることなくとうとうと述べることができ、会場からは温かい拍手をいただきました。

こうして、我々の結婚披露宴はひとまず終わりましたが、このあとさらに、別室では披露宴に参加できなかった高校時代の同級生たちが集まってくれており、二次会としてのお披露目が始まりました。当初、この会は派手なイベントもなく落ち着いたものにする予定でしたが、同級生の一人が、近くの神社の知り合いの神主さんに交渉して、普段はお正月にしかやらない、獅子舞を披露してくれることになっていました。

二次会が始まって間もなく会場には獅子二頭が乱入。にぎやかな舞いを披露し、みなを楽しませてくれたのです。舞いが終わり、獅子のお面をとって中から出てきたのは、なんとその同級生。ちょっとしたサプライズです。なんでもこうした形でしばしば神社の行事に参加しているとのこと。聞くところによると、その神社の祭神は厳島神社の神様の姉妹だそうです。その朝出向いた厳島神社の姉妹社の奉納舞いで、その日の宴を締めくくることができたのも、厳島神社の神様の粋なはからいだったのかもしれません。

二次会での奉納舞いの後は、同級生同士、昔話にも花をさかせつつ、皆で写真を撮りあい、お互い、またいつの日か会おうね、と約束を交わしつつ別れを告げ、ようやく長かったその日一日の行事すべてが終わりました。

終わったとたん、さすがにどっと疲れ、ホテルが用意してくれた最上階のスイートルームへ帰ったときは、服を脱ぎ捨てるなり、どっとソファーに倒れこみました。二人とも結婚したんだーという感慨のようなものはなく、むしろ一大イベントを無事終了した安堵感のほうが大きかったように思います。

スイートルームを開けると、雨にけぶる広島の町灯りが見えます。かつて私が15年暮らした町、彼女にとっては40年以上を過ごした町です。そのうちの、わずか2年ほどを共に過ごしただけのご縁なのに、今こうして二人が夫婦になったことを思うと、人の運命の不思議さを思わざるをえません。このあと、何歳まで二人でいられるかはわかりませんが、これからもそうした運命ドラマは続いていくのでしょう。終わったのではなく、スタートなんだ。しかも一人でなく二人にとっての・・・とその時しみじみ思ったものです。

・・・我々の結婚ストーリーは、これで終わりです。いかがだったでしょうか。ずいぶんと長い回想文になってしまいましたが、それは、人さまに読んでいただく、というよりはむしろ自分たちの記録のためでもありました。結婚後4年を経た今、結婚に至るまでの経緯を振り返り、ああ、そういえばあんなこともあった、そんなこともあったな、と思い出すにつけ、忘れかけていた出来事がこんなにも多かったかと改めて考えさせられます。

時間が経つにつれ、記憶というものはあいまいになっていくもの。自己満足だと言われればそれまでですが、そうした記憶が風化していく前の、あの頃の気持ちを少しでも取り戻し、文章にしておくことができたことは、結婚記念日の今日にふさわしい作業だったと思います。自画自賛。

明日からはまた通常のブログに戻ります。しかし、ときおりまた、あの時代に舞い戻って、その回想をするかもしれません。が、それはお許しください。それほど二人にとっては素敵な結婚式でしたから・・・

みっつめの奇蹟

私が先妻を亡くして1年半、タエさんもご両親を亡くして1年ほど経った夏のことです。夏・・・といっても、もう9月に入っていたかと思いますが、カナカナゼミが良く鳴いていたのを覚えています。

その頃私は、2年ほど前から始めていた建築関係の仕事に見切りをつけ、東京都内にあるNPO法人の仕事を手伝い始めていました。建築の仕事は面白かったのですが、思うようには収益があがらず、また家内を亡くしてから一人で仕事を続けていくことが苦痛になってきていました。NPO法人の代表者は、前にいた会社を私とほぼ同時に辞めた方で、防災関係の公共事業へのコンサルタント業務を収益源としていろいろな社会活動を始めようとしていました。

防災は仕事として手掛けたことはありませんでしたが、もともとの専門が海洋だったため、津波や高潮といった海事には詳しく、自分の能力を発揮できるかもしれない、という期待もありました。

しかし、その頃まだ息子は母親を亡くしたばかりでしたし、一人残して毎日都内に通うというのは正直抵抗がありました。ですから、基本的には自宅で仕事をし、必要なときには都内へ出る、ということでOKか、と聞いたところ、代表はこころよく承諾してくださいました。

その日は、午前中だけそのNPOへ出所し、午後は自宅で仕事をしていました。仕事が一段落したので、トイレ休憩に立ったときのことです。玄関横のポストをみると、一通のはがきが入っているのに気が付きました。どうせ何かのダイレクトメールか何かだろう、と思いながら裏面を見て、あっ、と驚きました。

そこには、30年前に卒業した高校時代の同級生の名前とともに、30年ぶりの同窓会の案内が書かれていたのです。発起人は男女4人でしたが、そのうち二人は女性。苗字にカッコ書きで旧姓が書かれているところをみると、結婚なさったようです。そりゃあそうだよなー、あれから30年。みんな結婚しているはずだよなー、と自分が結婚したことも忘れ、ハガキの詳しい内容を読み始めました。

それによると、来年の正月、かつて卒業した母校に、卒業する前のクラス担任だった先生も招いて「ホームルーム」をやるというのです。いまどき「ホームルーム」なんて言葉を使うのかどうか知りませんが、まあ言ってみればクラス会議のようなもの。クラスの問題点をみんなで話し合って解決する場であるとともに、クラス全員の親交を深めるための場でもありました。懐かしい~

以前のブログでも書いたように、わがクラスはその当時から結束が強く、何かとみんなで行動したがる連中。卒業して一年後に野外キャンプを兼ねたクラス会を催したこともその表れです。私は参加しませんでしたが、その後も何度かクラス会をしたようです。しかし、いつも全員が集まるということもなく、東京や大阪への就職、転勤や結婚で広島を離れる人も増え、やがて30年の月日が過ぎる間、みんなちりじりばらばらになってしまっていました。

私の最近の東京の住所は高校時代の誰にも教えたことがないはずなのに、なぜわかったのだろう、と不思議でしたが、よくよく考えてみると、数年前に広島在住の一人の同級生から電話をもらったことを思い出しました。高校時代、とりわけ仲のよかった友人の一人で、その電話をもらって話をしたとき、おそらく新住所を伝えてあったのでしょう。

その頃の私は、家内を亡くしたばかりで、新しい仕事にもさほど集中できず、もんもんとした時を過ごしていました。ふたりだけの男所帯は気楽といえば気楽でしたが、掃除洗濯、弁当づくりは当然やらねばならず、仕事を持っている上での家事はわずらわしいかぎり。いっそのこと、東京を引き払って、山口の実家へでも帰ろうか、と考え始めていたちょうどそのころのことです。

そのハガキには、行方しれずになっている同窓生がいると書いてありました。早速、発起人の一人のN君に電話をかけて確認したところ、ハガキに書いてある人たちだけでなく、私以外の東京に出た面々はほとんど連絡がつかない状態だとのこと。そういえば、留学前には、東京に就職した面々とよく遊びに行っていたものですが、帰国し、結婚してから彼らとは連絡はほとんどとったことがありません。

その頃、私はNPO法人の仕事をしているとはいえ、自宅勤務だったため、自由に使える時間はかなりありました。なので、N君に電話したときも、それなら、俺が東京にいる面々の連絡先を調べてとりまとめ、君に送るよ、と言いました。N君は今、広島の地方郵便局の局長をやっているとのことで、かなりお忙しいご様子。私の言葉に対して礼を言ってくれ、その電話を切りました。

・・・そして、それからは怒涛のような行方不明者の捜索が始まります。まず手始めに東京に在住の面々の行先さがしから始めました。これは、比較的簡単でした。なぜなら、みんなそれぞれの就職先を知っていましたから、職場に電話をして事情を話すことで、連絡先を教えてもらえるケースが多かったためです。就職先が変わって行方が分からなくなっている面々も、既に連絡がついた友人が行き先を知っている場合もあり、ほぼ1週間で全員の行先がわかりました。東京在住の私としては、N君との約束を果たしたわけで満足でした。しかし、N君に、ほかにまだどのくらい行方不明者いるのかを聞いたところ、かなりの人数にのぼることがわかりました。

その頃、N君は、自前でクラスの卒業生専用のホームページを開設しており、ここに行方不明者の消息情報などを自由に書き込める掲示板も掲載されていました。30年ぶりの同窓会が開催されることが、かつてのクラスメートに伝わる中、このホームページへの書き込みは異常な盛り上がりを見せ始めていました。はじめは、私を含めて数人の書き込みしかなかったものが、一か月もたつころから、クラスの半数近くが書き込みを行うようになります。

それまでのお互いの暮らしぶりや近況を伝えあい、懐かしさも手伝って書き込みは日に日に増え、書き込み熱はさらにエスカレートしていきます。30年のブランクがあるにもかかわらず、クラス一丸だったかつての結束力がよみがえってきたのです。そして誰が言い出したのかよくわかりませんが、誰ともなく、今度の同窓会は必ず成功させよう!そうだ!全員を必ず集めよう!ということになっていったのです。

やがては、書き込みを行っている人同士が連絡をとりあい、行方不明者の捜索に乗り出すことまで始めました。かつての同級生が住んでいた家にまで行って、その近所の人に引越し先を聞く、ということまでやったようです。行方不明者の中のひとりに現在岡山在住の女性がいますが、この人に至っては、インターネットで似たような苗字の人を探し当て、直接電話をして確認する、という探偵まがいのことまでやりました。電話の結果、なんとその当人に間違いないことがわかったとき、掲示板には全員から絶大なる賛辞が送られました。

このほかにも海外勤務でドイツ在住の男性、愛媛県で医者をやっている男性など次々と行方不明者が見つかっていきます。みんな広島や東京以外の町に住み、連絡が取れなくなっていた人たちばかりでしたが、結婚して苗字が変わっていたので発見できなかったという女性も多かったようです。

そして、タエさんは、というとそれを見つけたのはほかならぬ私でした。私が現在は茨城県に住む男性を探し当てたときのことです。その彼は今、つくば市で、料理店を営んでいますが、数年前に行われた「鯉城(りじょう)同窓会」で購入した同窓会名簿を持っていると私に教えてくれました。鯉城とは、広島城のことで、その昔、鯉の産地であった広島にちなんでつけられた名前で、わが母校もその名前を同窓会名に冠しています。ちなみに広島カープのカープも鯉のこと。ご存知の方も多いでしょうが。

その鯉城同窓会は、卒業生全体の総合同窓会なのですが、毎年幹事を決め、総会が広島で行われています。その総会の数年前の幹事をタエさんがやったことがあるらしく、同窓会名簿に最近の住所が書いてあるらしいというのです。

早速、そのつくばの友達からファックスで名簿を入手した私。見ると、そこには確かに広島五日市区の住所と電話番号が・・・ そして早速電話をしてみることにしたのです。

正直言って、その昔、タエさんに振られたことが頭をよぎりました。しかし、30年も前のこと。彼女もほとんど覚えていないだろうし、私自身、若いころにやった失敗のひとつ、と考えることができるほど「大人」になったつもりでいました。実は名簿には、タエさんだけでなく、ほかにも行方不明になっている人の名前と住所が何件かありました。このため、このとき電話をしたのはタエさんのところだけではありませんでした。しかも、タエさんは不在で留守番電話に切り替わったため、メッセージだけを残してその日の連絡を終えました。

翌日の朝のことです。東京のNPO法人にまた出所する用事ができ、事務所のある四谷のビルの前の坂に差しかかった時のこと。突然携帯電話が鳴りました。かけて来た相手の番号は見知らぬもの。誰だろうな、と不信に思って出たその相手こそ、誰あろうタエさんでした。昨日彼女に電話をしたときは、タエさんだけでなく、あちこちに電話をしていたので、留守番メッセージに自分の携帯電話の番号を伝えていたことをすっかり忘れていたのです。何でこの電話番号知っているの?と聞く私に、笑いながら、だって昨日、メッセージに電話番号残してたでしょう?

「・・・」。こうして、彼女との30年ぶりの「ニアミス」がふたたび始まったのでした。

それにしても・・・まさか、30年ぶりにいきなり電話で話せるとは思っていなかったので、ちょっと動揺したのを覚えています。しかし気を取り直して、同窓会のことを伝え、そしてお互いの近況について、それから数分だけ話をしました。そして彼女から、最近両親を亡くし、ひとりで住んでいる、と聞かされたとき、思わず実は僕も・・・と家内を亡くしたことを話したのです。

もっと話をしたかったのですが、出所前の路上の電話でもあり、長話をするのもなんだし、今日、夕方自宅へ帰ったらまた改めて電話するよ、ということになり、その電話は切りました。

・・・それから自宅へ帰り、タエさんとその後の30年について長い電話をしました。おそらく2時間近く話をしたのではないでしょうか。その時の心境を彼女に聞いたことはありませんが、お互い、近親者を亡くしたばかりの心の穴を埋めたいという気持ちがあったのではないかと思います。今もそうですが、身近な人の死を乗り越えようとしている人の心情はよくわかるもの。お互い、そうだとは口に出して確認などはしませんでしたが、そのことでなにか、ある種の親近感を感じていたのは確かです。

加えて、いろいろ話をしていくうちに、彼女もスピリチュアル的なことには興味を持っていることもわかりました。そのころは、あまりまだそういうことについて深く意見を交わしたりすることはありませんでしたが、その後、彼女との交際が深まる中、スピリチュアルに対する理解は二人の関係をさらに深めていく大きな要素になっていきました。

とはいえ、その後も1度か2度彼女とは電話で話をしたと思いますが、そのころはまだそれほど親しい間柄、という関係でもなく、まして30年もの間、お互いの顔を見ているわけではありません。電話で話すよりもメールで連絡を取り合うほうが、より気楽、というところもあり、もっぱら彼女とはメールでやりとりをするようになります。

しかも、当初の彼女は、恋愛感情というよりも、お互いが近親者を亡くしたことに対しての憐憫の情がそうさせるのだ、と思っていたようなふしがあります。一方の私は、30年前のリベンジ、というつもりはなかったのですが、どこかにあのころの淡い慕情のような感情が残っていて、かつての失敗を取り戻したい、あのころを取り戻したいという気持ちがだんだんと強くなっていったように思います。

気が付いてみると30年前と同じように、私からの彼女への一方的なメールが届くようになっていきます。彼女にすれば、昔そういうことがあったにせよ、今は何の関係もないただの同級生。少々しつこいメールにそろそろうんざりしはじめたのでしょう。突然、私とのメールのやりとりに「待った」をかけてきました。

文面をよく覚えていないのですが、彼女から来たメールには、お互いが近親者を亡くしたことは事実だが、そのこととあなたとのお付き合いは別。近親者を亡くして悲しいという共通の感情を恋愛感情にすり替えていくというような過ちはしたくない、といった内容だったと思います。

そのメールが来る少し前、私は九州方面に仕事で行く予定を立てていましたが、そのついでに、広島に立ち寄り、来年の正月に先駆けて、タエさんとも会おうかと考えていました。タエさんにもそのことを伝えていたのですが、そのメールには、それについては棚上げ。そして、来年の正月に再会するまで、メールのやりとりもしばらくやめましょう・・・とまで書いてありました。そしてその頃を境にタエさんは、それまでは頻繁にしていたN君のHPへの書き込みも全くやらなくなってしまいます。

彼女からのそのメールは強烈でした。かなり落ち込みもしました。ところが、そこへ思わぬ救世主が現れます。同じクラスメートの女性、Sさんです。Sさんは現在東京でデザイナーをやっていて、旦那さんはノンフィクションなどを書いている作家さん。20代のころ、ほかのクラスメートと一二度飲みに行ったことがある程度でしたが、それほど親しい、という間がらでもありませんでした。

が、私が東京在住のクラスメート全員を探し当て、その後、30年ぶりのプチ同窓会をやったころから、親しくメールのやりとりをするようになり、タエさんとのことなども相談するようになっていきました。

ちなみに、そのプチ同窓会とは、正月に予定されていた本番の同窓会に先立ち、関東地方に在住のクラスメートだけで、30年ぶりにやろうということになったもの。丸の内で行われたその会には10人ほどが集まったのですが、なにせ30年ぶりのこと、懐かしいやらお互いの変わりようを揶揄するやら、昔の子供のころに帰って大騒ぎ。会が終わるころには男性陣はほとんど泥酔状態に近く、私もどうやってウチへ帰ったのか覚えていないほどでした。この関東組プチ同窓会は、その後毎年の恒例行事になり、同窓会以外にもときどきみんなで会って、さらに親交を深めています。

その会で久々に出会ったSさんにどうタエさんのことを話したかよく覚えていません。しかし、彼女のほうから、タエさんのことについて相談に乗ってあげられるかもしれない、と伝えてきてくれたのにはわけがありました。というのも、今回の30年ぶりの同窓会の開催にあたり、開催場所や日時、趣旨が書いてある「招待状」を作ろう、という話になり、その装丁デザインを本職のデザイナーである彼女ともうひとりの同級生が、招待状の文面はコピーライターのタエさんが引き受けることになったためです。かつてのクラスメート三人組が、その制作ための相談を電話やメールでやるようになっており、その中でお互いのプライベートのことなども話すようになっていたらしいのです。

Sさんは、そうしたやりとりの中で、タエさんから私のことも聞いたらしく、なんとか二人を結び付けたいと考えたようです。いわば、二人を結びつけるキューピット役を買って出たわけ。今考えると、彼女がいなければ二人は結婚していなかったかもしれません。これも後日談ですが、結婚後は、二人とも彼女のことを生涯の恩人と考えるようになり、今もメールや電話でのやりとりのほか、時には会食もして親しくお付き合いをさせていただいています。

ところで、タエさんとSさんたちが作った招待状ですが、キャッチフレーズは「ふたつめの奇蹟を起こそう!」というものでした。タエさんが考えたコピーです。30年前に初めて母校の教室でみんなが出会ったことが最初の奇蹟。そして、来年行われる同窓会で全員がふたたび同じ教室で再会することを、「ふたつめの奇蹟」とした、なかなかの力作でした。

キャッチフレーズの書いてある面の裏面には、全員参加を呼びかける短文がつづってあり、現職のコピーライターが書いたその文章は、クラス仲間全員の賞賛を浴びました。「ちっぽけなプライドが邪魔をして、肝心なひとことが言えなかった時も・・・わけもわからない感情に流されて、暴走してしまった時も・・・」と昔、我々が若かったころの心情をうまく表現し、昔できなかったこと、言えなかったことを今度の同窓会でぜひ実現しよう、という呼びかけに共鳴した人も多かったようです。もっとも、私自身は何やら私のことを言っているような気もして、ドキッとしたものです。しかし、おそらくそこまでは彼女も考えてはいなかったことでしょう。

Sさんが仲介に入ってくれたとはいえ、それはもう11月の下旬のこと。広島での同窓会までもうあまり時間もありませんでした。しかし、Sさんは私に対してタエさんへの接し方をアドバイスする一方で、タエさんのほうにも熱心に働きかけ、音信不通になっていた私と彼女を結びつけるよう二人の親身になって働いてくれました。

そして・・・お互いの腹の中を探り合うようにして時間だけが過ぎていくようにみえた12月はじめごろのこと。少しタエさんの心境に変化があったように思われました。それまで中断していたN君のホムペへの書き込みを再開したのです。私との直接的なメールのやりとりこそは回復していませんでしたが、私が掲示板に書いた文章に対して、間接的ながらコメントを書いてくるようにまでなっていました。私もようやく彼女との接点が出てきたことを素直に喜びました。が、その直後、とんでもない事件が起こります。

12月の10日のお昼頃のことだったと思います。母からの電話で、突然父が亡くなったとの連絡が入りました。その年の夏には父が入っている病院に母と一緒に見舞い、元気そうな様子を確認していたので、まさか、と耳を疑いましたが、電話で聞こえる母の声は間違いなく父の死を告げています。

その時は、ちょうど連日の出張を終え、前日に重要な委員会が終わったばかりで、仕事は一段落していました。その日もそれほど忙しくなかったため、その晩、息子とふたり、夜通しクルマを飛ばして山口まで帰りました。あまりにも急な父の死でしたが、母の友人の方々が手分けしてお手伝いをしてくださったことから、翌日にはもう葬儀の準備を整えることができ、二日後には無事、葬式を出すことができました。

その葬儀の朝のこと、あのSさんから携帯に電話が入りました。電話の内容は、父の死に対するお悔やみが主でしたが、それに加え、タエさんが掲示板で私に対してメッセージを書いている、と教えてくれたのです。

そのときはネットが使える環境にはなかったので、後日そのメッセージを読んだとき、正直うれしく思いました。あとでSさんに聞いた話では、タエさんはこのころにはもうかなり私に対して変なわだかまりのような感情は捨てていたようです。くれたメッセージにもそうした彼女の心境の変化も見て取れました。

以前のブログにも書きましたが、父の死をきっかけにタエさんとの仲が急速に接近したことについては、Sさんの存在が大きかったことは確かなのですが、それとは別に、もしかしたら父の仕業だったかもしれない・・・そう思えてならないのです。ちょうど仕事の一区切りがついたと思ったとたんに逝った父。案外とそのタイミングを計って昇天し、そのついでにタエさんにメールをするようにささやいて行ったのかも、とさえ思ってしまいます。

しかし、そのときはもう12月も半ば。1月3日に行われるという同窓会まではもうほとんど日にちがありません。あいかわらず掲示板での間接的なコメントのやりとりだけで、日々が過ぎていき、そして年明けを迎えることになります。

そして、迎えた1月3日。午後3時から行われた恩師の特別授業を皮切りに、30年ぶりの同窓会が開催されました。懐かしい面々同士、長い間封印されていた身の上話を披露しあい、にぎやかな宴会が夜遅くまで繰り広げられていきます。集まった総数39名。欠席者はわずか7名でした。すばらしい出席率です。全員参加という目標は達成こそできませんでしたが、「ふたつめの奇蹟」は見事達成されました。

その39名の中に私とタエさんがいたのは言うまでもありません。そして、その後の二人の結婚は、「みっつめの奇蹟」としてクラスメートの記憶にも長く残るものになっていくことになります。

その日、30年ぶりの長い同窓会が歓喜の声とともに終わりを告げようとしていたときのことです。私のところへ、あのSさんがそっと私に近寄ってきて言いました。「タエさん、明日は何も予定ないみたいよ。声をかけてみたら」

これに対して私は即答せず、うーむとうなっただけ。しかし、宴会会場をあとにみんながそれぞれの帰りのタクシーを探し始めたころ、勇気をふりしぼって彼女に声をかけました。
明日のご予定は?もしよかったら・・・と。

・・・そして、その後のことはご存知のとおりです。書くだけヤボという気がしますが、ここで終わるのも中途半端なかんじです。実は、それから結婚まではさらに、一年半という時間が過ぎるのですが、それについてはまた、いずれお話することにしましょう。

明日はいよいよ結婚記念日。4年前のその日も雨でしたが、奇しくも今年も雨。しかも台風の中の記念日になりそうです。4年前のあの日、宮島で結婚式を挙げた二人。降りしきる雨の中、披露宴会場であるホテルへと向かう船の上から見えた広島の町の灯りが思い出されます・・・(続く)

嵐が過ぎて

台風が近づいているようですね。伊豆へ移住してきてから初めてのことになります。去年の秋に来た台風では、購入前の我が家では屋根のテレビアンテナが吹き飛ばされました。この別荘地は、東西南北からの風の通り道になっているようで、ここを最初に訪れたときから風の強いところだなーという印象でした。前回の台風時にはまだ住んでいなかったのでそのすごさは体感できませんでしたが、今度の台風ではそれを初体験することになります。楽しみ・・・というのも変ですが、ここに住むことの良し悪しを知ることは、けっして無駄ではないように思います。嵐の過ぎたあとには、良いこともある。人生の嵐も同じかも・・・

今月は4周年目の結婚記念日を迎えるブライダル月間ということで、時に、ムシャ&タエのなれそめなどを回想しています。はっと気がつけばその記念日も3日後に迫ってきたので、続きを書いていきたいと思います。そんなの関係ないよ~つまらんお話はやめてもっと面白いことを書け~ とお叱りを受けるかもしれませんが、今少し我慢しておつきあいください。

さて、大学時代にタエさんに果敢なアプローチをして、見事撃沈された私・・・ その後東京に出て就職をし、新たな人生をスタートさせました。タエさんも同じく広島で就職。私は理科系、彼女は文科系とそれぞれ全く別の分野で自分を磨き始めます。今振り返っても20代というのは、実によく働いたなーと思う時代です。

朝も早くから夜遅くまで残業も厭わず働き、時には土日出勤、徹夜が続くこともありました。これはタエさんも同じだったようで、お互い、その仕事柄、締切というものがある職種を選んだという点ではふたりとも同じ。もし、そのころ締切などというものがない自由業に就いていたら二人の人生はまた変わったものになっていたかもしれません。

しかし、そうはならず、お互い会社という組織の歯車として馬車馬のように働いた20代前半・・・そして、その仕事ぶりがある程度認められ、自分自身もそれが面白いと感じるようになってきた20代後半のこと。二人に大きな転機が訪れます。大学を出てすぐに就職した人たちの多くは、就職後3年、5年を節目として、大きな転機に出くわすといいます。そういう人ばかりではないのかもしれませんが、我々二人については、セオリー通り?だったのかも。自分が就いている仕事について、ある疑問が沸いてきたのです。

それは・・・このままでいいのか?という素朴な疑問。私の場合、いつも自分のやった仕事に満足できず、もう少し深い知識が欲しい、とか、もっと別のアプローチをしてみたいとか感じていましたし、彼女は彼女でクライアントの求めに応じるまま、締切に追われながら広告コピーを作り続ける中、自分らしさがアピールできない、という悩みを抱えていたようです。そして・・・時をほぼ同じくして二人ともそれまで働いていた職場を離れる決意をするのです。

まったく別々の場所でまったく異なった仕事を選んで人生を歩んでいた二人が、ほぼ同時期に会社を辞めた・・・というのは偶然の一致なのか、それともやはり似たものどうしだったからなのか、についてはよくわかりません。しかし、自分の現状に常に満足せず、殻を打ち破ろうともがいたところをみると、同じような資質を持っていたのかも。そうしたお互いに似たところをその後の再会で気付き、それが結婚をするためのひとつの条件になっていったのではないか、そんな気がします。

・・・そして私は、留学を決意。彼女はフリーのライターとしてそれぞれ会社を辞め、それぞれの新しい道を歩きだします。そのとき二人は27歳。まだまだ若い・・・でもそれなりの分別もつくようになった年齢です。

ところが、それから二人の人生もまったく同じように過ぎていき・・・というふうにはなりませんでした。私はハワイから帰国後、もといた職場に再就職し結婚。一児を設け、家庭と仕事というふたつの環境を行き来する生活を続けることに。

方や彼女のほうは、結婚せず、フリーのライターとしての自分を見つめ続けることになります。彼女の場合、結婚をしなかった、のではなく、バリバリの結婚したい願望派だったようで、相手を求め数多くの恋愛を経験したようです。詳しくは知りませんが、若いころにもお見合いをしたのではないかな?けれど、結局思うような相手にめぐりあうことなく、その後も独身生活を送っていました。

そして・・・長い月日が過ぎていきます。二人とも落ち着いた・・・と書くべきかどうかはわかりませんが、おしなべていえば割と淡々とした毎日だったといえるのかも。私は会社組織の中において主任から係長、課長へと昇進しつつ仕事もかなりハードになり、子育てにも忙しく、別のことにかまっているような時間はありませんでした。

一方の彼女は、何社もの大手のメーカーの広告のコピーを手掛けるようになり、ラジオの放送原稿も書くようになるなど、フリーのライターとして一定の評価を受けるようになっていました。その実力はなかなかのものだったようです。しかし、あいかわらず恋愛遍歴を繰り返し・・・などと書くと怒られそうなので訂正します。・・・えー、好きな人が何度もできて特攻するものの実らず・・・ということが何度があったようです。

20代の彼女は、大学を卒業したてのころまでのおとなしいお嬢さんというイメージを払拭し、自分らしく生きる!を強烈に意識し、自分を変えていったようです。髪をそれまでのおとなしいロングヘアーからソバージュにし、メガネもその当時流行っていた黒縁で大き目のサングラス風のものに変え、週末にはミニスカートにハイヒールでディスコ、時には友達とスキーへ、気が向けば海外旅行を、と青春を謳歌していたようです。自分でも一番はじけていた、と彼女は述懐しています。しかし、そうした毎日を送りながら20代、30代は無常に?またたくまに?過ぎ、やがて40代に突入します。

私の40代ですが、より責任の重い仕事を任せられるようになり、日々忙しく、その頃やっていた環境調査の仕事で、日本全国を飛び回っていました。週末にはなるべく自宅にいるようにし、息子や家内とのふれあいを大切にしていましたが、その息子も小学校に入り、低学年から高学年になるにつれて、手もあまりかからなくなっていました。

ハワイから帰ってきて十数年。生活は安定していましたが、仕事に対してはある不満がありました。私の仕事は、国土交通省や地方自治体などから発注される公共事業。公費を使って行う環境調査が主でした。もともとは海が好きで海洋工学を学んで、海の仕事をしたいがために海を渡った若きころ。しかし現実には、公共事業として海にまつわる仕事というものは全体としては少なく、会社組織としては受注額も大きい河川や道路、環境といったカテゴリーの仕事に会社の精鋭を重点的に振り分ける方針でした。

自分が精鋭、と思っていたわけではありませんでしたが、会社に利益を出させるためには、時にやりたくない仕事にも手を染めなくてはなりません。環境という不慣れな仕事をやるようになったのは、そうした会社の方針でもあったためですが、これからは海洋では食っていけないだろう、という自分なりの読みもあり自ら志願して就いた仕事でもありました。

しかし、「環境」を仕事にしている、といえば聞こえはいいのですが、この仕事ほど役人のエゴが目に余る、目につく仕事はないと思います。現在、原発の存続が大きな問題として取り上げられていますが、ダムや道路、河川といった公共事業の中には、本当にそれが必要なの?と疑問符がつくものがゴマンとあります。

仕事柄、そのあまりにも「無駄」と思える公共事業に数多くかかわってきましたが、人々の生活を守るためのインフラとは建前だけの、役人の自己満足のためにだけ作られたような公共事業がいかに多いことか。そして、環境調査というものは、多くの場合それを肯定するための材料として使われる・・・という実態をどれだけの人が知っているでしょうか。

この件については、さらに熱くなりそうなので、ここいらでやめますが、ともかくそういう長年自分が携わってきた仕事に対する疑問は次第に大きくなっていきます。

そして、44歳になったときのことです。その頃興味のあった建築関係の仕事をするため、会社を辞め、自宅に仕事場を作り、独立して仕事を始めるようになります。自前の会社を作り、建築材料を仕入れて、その頃はやり始めていた「セルフビルド」をやりたい人向けに材料を売る、という商売を始めたのです。

一方、その頃のタエさんといえば、彼女も40代に突入し、このころからはさすがに、ディスコやスキーはやらなくなったようです。しかし、その分男性との出会いも少なくなった?のか相手にされなくなったせい?もあるのか(タエさんゴメン)、同じく独身の女友達どうしとのお付き合いも増えていったようです。しかし、フリーのライターとしてひとり身の気楽さを味わいながらの日々はいやではなかったのかも。

そんなふうにいつまでたっても嫁に行かない一人娘をみていたご両親も、心配はなさっていたようです。ときにはお母さんが薦めた人とお見合いをしたこともあったのかな? 結婚相手の紹介サークルにも入会し、ともかくかなりの人数とお見合いをしたようです。

しかし、これぞ!と思うような人にはなかなかめぐりあえなかった、とのこと。逆に先方からは、ぜひ、ということもあったそうですが、どうしても踏み込めなかったらしい。今思えば、ここで彼女がお気に入りの相手を見つけていれば、私とのことはなかったはず。彼女によれば、その踏み込めなかった理由は相手それぞれにあったそうですが、案外と彼女の後ろについている守護霊さんが否定されていたのかもしれません。

自宅にこもって新商売を始めようとした私。自前のホームページを作り、そのアクセス数も徐々に増えてきたころの夏の日のことです。例年だと、会社から休みをとり、親子三人で実家のある山口に帰り、あちらの海や山、食べ物を満喫するということを繰り返していました。その年もそうしようと思い、山口へ帰るスケジュールをほぼ決めかけていたところ、先妻、「生代」さんといいますが、彼女の顔色がさえません。

聞くと、先日調子が悪いので行きつけの内科医に診てもらい、レントゲンをとってもらったら何やら異常がみつかったとのこと。精密検査をするために近くの大学病院に行くように勧められたというのです。

その時はたいした病気ではないだろう、と思ったのですが、ともかく大学病院での検査結果をみようということになり、予約をとることに。ところが、とれた予約日は、ちょうど山口へ帰ろうと思っていた日と重なっていることが判明。とにもかくにも彼女の体が心配なので、今回はやめよう、と私は言いましたが、彼女は、息子が楽しみにしている帰省だから、あなたと二人だけで帰って、と言います。いやーそれはちょっと、と少し言い争いにまでなりましたが、結局彼女に押し切られ、我々二人だけが山口に帰ることになりました。

後で彼女から聞いた話ですが、我々が山口へ言っている間、彼女はひとりで歩いて大学病院へ行ったようです。おなかに大きな病気を抱えて。のちにその病名を知ったときに、私の心は大きく痛みました。どうして、彼女をひとりにしてしまったのだろう。最後の夏になるなら、一緒に過ごせばよかった・・・と。

・・・そして帰京後、彼女の病気が最悪のものであることを知ることになります。亡くなるまでのその間、必死の看病もむなしく、彼女は、その後1年を待たずして逝ってしまいました。彼女は自分の病気が何であるかを知っていましたし、彼女の闘病生活は気丈なものでした。しかし、最後の時が近づいたことを医師から告げられたとき、そのことは本人と息子には話しませんでした。

本人はおそらく、自分の死期が近いことを知っていたと思います。しかし、彼女は最後まで、「私、元気になるんだから」、と周囲に漏らし、あいかわらずの気丈ぶりでした。しかし、今思えば、最後の時間が短いことを本人と息子に教えていれば、母と息子の二人だけの最後の時間をもっと別の形で持たせてやれたのではないか、と後悔しています。一人で夏を過ごさせたことと、そのことは、今も思い出しても悔やまれることです。

彼女が亡くなる前、三人で夏になると必ず訪れていた場所があります。山口県の北部にある、豊北町というところです。沖に「角島(つのしま)」という島がありますが、そこに渡るために10数年前に橋が作られました。島の先端には明治時代に作られたというレンガ造りの灯台があり、これを中心に公園整備や海水浴場の整備が行われ、遠くは九州や広島方面からも観光客が来て賑わっています。

この角島に渡る橋、角島大橋の本土側の東側には、小さな海水浴場があるのですが、青い海と白い砂のコントラストが見事で、水質もよく、水の中を泳いでいる魚が遠目にも見えるほど。まるで沖縄の海のような風情のこのビーチが三人のお気に入りでした。冒頭の写真は、このビーチで一日中遊んで帰る間際に私が撮ったもの。思い出に残る一枚です。

ここに写っている彼女がもういない、というのが今も不思議なかんじがします。しかし、まごうことなく彼女は逝き、残された私と息子は、その後長い間二人だけのさみしい生活を続けることになります。

実に複雑な心境としか言いようのないのですが、彼女の死がタエさんとの結婚につながったというのは、間違いないところです。その死は悲しみに満ちたものでしたが、同時にそのあとの静寂をもたらすものでもあった・・・ということになります。冒頭でも書いた通り、人生の嵐・・・です。過ぎたあとには静かで穏やかな日々も来る・・・

生代さんの戒名は、「釈尼蓮生」 ハスの花由来です・・・

ところが、その嵐の後の静けさをもたらしてくれるはずのタエさんの周辺にも、その頃、異変が起こります。一人っ子の彼女は、文字通りご両親の目に入れても痛くない存在だったかと思います。こちらも三人とも仲がよく、彼女が独身であるがゆえ、独立先からご両親の家に何日か戻り、一緒に楽しい時間を過ごす機会も多かったと聞いています。

そんなご両親が、あいついで亡くなるのです。お父さんは喉頭がん、お母さんは肝臓がんでのことでした。兄弟姉妹はなく、一人っ子だった彼女がご両親を亡くし、その二人が残しただだっ広い一軒家に一人で生活するようになったのは、46歳のとき。私も妻を亡くし、失意の中を息子と二人で暮らし始めたころのことでした。

運命とは不思議なものです。若きころ、ニアミスのように出会い、別れて別々の人生を送っていた二人が、ふたたび時を同じくして出会おうとしていました。しかも、それぞれが別の形ながら、同じように肉親の死に直面しながら、というのは何か仕組まれたような気さえします。

そして、運命の2006年、平成18年の夏がやってきました(続く・・・)。

虹の郷アゲイン ~旧修善寺町(伊豆市)

今日は、昨日の上天気からうってかわって、朝からしとしと雨の梅雨空に逆戻り。ここしばらくは、こういう天気が続くようです。しかし、気温の低い今日は快適ですが、明日からは気温が高くなるみたい。「しとしと」だけならいいのですが、それに「ムシムシ」が加わるのでしょうか。「しとしと」が「ジメジメ」に変わらないことを祈りたいものです。

昨日、天気のよいうちに修禅寺虹の郷へ行って来よう、と出かけてきたのは正解だったかも。虹の郷では、ちょうどいま、花菖蒲とバラが満開だというのをタエさんがネットで調べてくれ、じゃあ行ってみようか、ということになったのです。

ランチを食べたあと現地へ。前回はウチから歩いていきましたが、今日はお昼を過ぎているので、時間節約ということもあり、クルマで行くことに。駐車料金の300円がかかりましたが、入園料は例によって、伊豆市民の特権ということでタダ。ありがたいことです。

場内は梅雨のさなかの平日とあって、人出は少なめでしたが、ほどほどにお客さんはいます。この公園は「花」が売り物で、いろいろな花が季節毎に咲くことが売り。さすがに冬場は花がないだろう、と思ったら、紅葉が12月初旬まで楽しめるらしく、1月にはスイセンやロウバイが咲きはじめ、2月からは梅が咲き・・・と年間を通していろいろの花木が楽しめるとのこと。この四季折々の花が目当てのリピーターも多いと聞きます

ただ、我々の別荘地と同様、標高200m超の山の上にあるためか、ふもとの花よりも少し開花が遅れるようです。そういえばここへ3月に越してきたときには、ふもとでは梅がもう終わっているところも多いのに、まだまだこれからが本番、といったかんじでした。無論、今年が例年より寒いからということもあったようですが。

その今年の寒さは、あじさいの開花にも影響しているらしく、先日行った下田公園ではほぼ5分咲きでしたが、虹の郷ではまだ2~3分咲きといったところ。あじさいの群落は、さすがに下田公園の15万株には遠く及ばない3500株とか。それでもこれだけのあじさいを管理しているところは、近くにはそう多くはありません。満開になったらまた見にこようと思います。

あじさいの群落も、今回のお目当ての花しょうぶも、園内の「日本庭園」のゾーン内にあります。虹の郷の園内は、もともとあった山の起伏をじょうずに利用してゾーンづくりがしてあって、日本庭園のほかにもイギリス村、カナダ村、フェアリーガーデンといったゾーン設定がしてあります。もうひとつのお目当てのバラは、フェアリーガーデンにあって、ここではバラ園(ローズガーデン)に加えて西洋風の四季の花々が楽しめるようになっています。


前回来たときはこのローズガーデンのバラは2分咲きほどで、がっかりしたものですが、今回はほぼ満開の状態で、なかなかの見応えがありました。こちらも下田のバガテル公園ほどではありませんが、山の起伏をうまく利用して植栽された100種2300株のバラはなかなかのもの。バラの間に作られた石造りの庭園に配されたメルヘンチックな彫像もバラを引き立てていてなかなかイイかんじです。バガテル公園が大人向けだとすれば、こちらは大人にも子供にも楽しめるバラ園といったところでしょうか。

バラ園の横にある喫茶点で「バラのソフトクリーム」を食べましたが、淡いピンク色のこのソフトクリーム、甘すぎもせず、ほのかなバラの香りがして、なかなかおいしかったです。ほかにもバラのエキスを利用したいろいろなお土産物を売っていましたが、本日のお目当てである花しょうぶが気になっていたので、バラ園はそこそこにして、菖蒲園へ向かいます。

この花しょうぶ園、300種7000株ということで、私がこれまで見た中では一番大きいものでした。日本庭園の北側と南側それぞれに細長く配置された湿地帯に植えられていて、どちらも見応えがあるものですが、とくに北側の菖蒲園は圧巻でした。夕方の閉園間近ということもあって、お客さんも、ぱらぱらというほどしかおらず、二人のための貸切状態といってもいいほど。


菖蒲園の一部はあじさい園にも接していて、あじさいの青と菖蒲の紫が両方楽しめるヶ所もあって、なかなかの絵になります。しかし、あじさいと同様に寒色系の花がほとんどの菖蒲も写真に撮るのはなかなか難しいもの。いい絵を撮ろうとあくせくしているうちに、瞬く間に数百枚を撮影していました。


昔のフィルムカメラと違って、最近のデジタルカメラはメモリーカードの容量が大きければ、ほぼ無尽蔵といっていいほどの写真のストレージができるのが最大の利点。その昔、子供のころに写真を始めたころは、高いフィルム代を気にしながら写真を撮っていましたが、今はそんな心配もする必要はありません。今、新しく写真を始める人は恵まれているなーと思います。

閉園ぎりぎりまで粘り、ゲートを出たのは5時を少々回った刻限。駐車場に止まっているクルマはまばらです。駐車場の脇に、伊豆全体の観光マップがあったので、ちょっと覗いてみました。これまでもいろいろ、あちこち行ってきましたが、まだ行っていないところもたくさんあります。とくに伊豆南西部の堂ヶ島にはまだ一度も行っていない。伊豆最古の小学校やなまこ壁の家といった歴史的な建造物などいろいろ見どころのある場所だそうです。

これまでは花の名所ばかり行ってきましたが、こういう歴史的なものがある場所にもこれからは出かけていきたいと思います。

もっとも伊豆だけでなく、静岡県内にはほかにもたくさんの見どころがあります。久能山東照宮や日本平、浜名湖に大井川鉄道・・・ 伊豆を飛び出し、これらを訪れる日が楽しみです。

考別荘地


梅雨とは思えないような良い天気が二日ほど続いています。窓から富士山も見え、その上に広がる青空はとても雨季のものとは思えないほど。

午前中、リビングにふりそそぐ陽射しの中、テンちゃんが絨毯の上を転げまわって遊んでいます。新聞を広げて読んでいるその横で、しばらく体中をなめまわしていたと思ったら、いつの間にか眠っていました。例によっておなかを上に向けてきもちよさそうです。ネコでなくてもこんな陽気の日には眠くなってしまいます。



先日、といってももう10日ほど前のことになりますが、この別荘地の温泉管理組合の総会があるというので、タエさんと二人して行ってきました。総会に出席することで、この別荘地のなりたちや、問題点などいろいろなことがわかってきたので、この場で書いておこうと思います。

さて、管理組合には、当別荘地に土地を持ち、給湯権を持つ人のみが入ることができます。新規に権利を持つには400~500万円くらいいるらしいですが、現在は別荘地の入居者も減ってきており、組合の収入も落ち込んできていることから、昨年から350万円に値下げをしたそうです。それでもこれまでのところ、新規の入会はゼロとのこと。長引く不況の中、それだけの投資して新規会員権を手に入れようという人は少ないということでしょう。

ちなみに、我々はすでに会員権に入っている方からこの家を譲り受けたため、その譲渡費として50万円のみを組合に納めるだけで済みました。それでも高いと思われる方もいるかもしれませんが、今後半永久的に温泉が使えることを考えれば安いと私は思います。

もっとも温泉にかかる費用はこれだけでなく、二か月で19000円を組合に払っています。ひと月に8500円というお金がかかるわけですが、供給されるお湯は全別荘地で45度以上が保障されていますから、お風呂に入るための水道代と燃料代を温泉に使っている、と考えればある程度元はとれることになります。それでも普通のお風呂を沸かすよりは高め、とお考えでしょうが、温泉の効用ということを合わせて考えると、十分に安い、と重ねて思うのです。

その温泉の効用なのですが、ウチの風呂場の脱衣場の上にかけてある効能書きをみると、
「神経痛、筋肉痛、関節炎、五十肩、運動麻痺、関節のこわばり、うちみ、くじき、慢性消化器病、痔疾、冷え症、病後の回復期、疲労回復、健康増進」に対しての適応があるということです。分析は、衛生環境センターという静岡県の機関がやったようなので、間違いなさそうです。

で、実際のところどうなのよ、ということなのですが、これが本当にいいんです。ここ数か月は、引越しの際の重い荷物の上げ下ろしや、家の中の整理、そして庭木の抜根、伐採と重労働が続いてきたわけですが、日によっては腕がいたくて、肩もあがらないようなときもありました。ところが、毎日温泉に入っているせいか、まるでといっていいほど、その痛みは長続きせず、重労働をやめて2日ほどもゆっくり温泉につかるを繰り返しているうちに、痛みはウソのように消えていきます。

東京に住んでいたころは、荷物の上げ下ろしで手を痛めたり、ジョギングのやりすぎで足を痛めたりするたびに、行きつけの鍼灸院に行っては針とマッサージの治療を受けていましたが、最近はもうまったくそれが必要なくなりました。

また、今年は年明けから寒く、4月5月になっても、まだまだ寒い日が続いていましたが、夜、温泉に入ったあとは、まったくといっていいほど湯冷めをすることがなく、体がほこほこのまま、布団に入ることができるのです。東京にいたころ、冷え症のタエさんは、冬場、毎日のように足が冷たくて寝れない、とこぼしていましたが、ここへ来て以来、そういうこともなくなったようです。

別荘地に家を買う場合、温泉がついているかどうかというのはひとつの大きな選択肢になると思います。私の場合、温泉はついていてもいなくてもどうでもいいや、と最初は思っていましたが、今は違います。絶対温泉があったほうがお得だと思います。

ところで、こうした温泉を持つ家、すなわちこの別荘地で給湯権を持っている世帯はおよそ600とのことです。伊東市や函南町にはこれよりもっと大きい別荘地がたくさんありますので、別荘地の規模としては中規模といったところでしょうか。

こうした伊豆の別荘地の多くは、バブル期に開発されたものも多く、バブル崩壊後、管理会社が倒産したところがかなりあります。当別荘地も、もともとは、ある民間の株式会社が経営していましたが、管理運営が立ち行かなり経営から撤退。このため、住民どうしが話し合って温泉管理組合を結成。そしてその運営を行うために、組合員を社員とする株式会社を立ち上げたそうです。

この別荘地の良いところはその管理運営がある程度うまくいっているところ。組合による株式会社が成立した時点で、別荘地内の道路と上水道についてはすべて市に移管することに成功し、道路と上水道の維持管理の経費を軽減。現在下水道については、株式会社が組合員から費用を直接徴収していますが、来年にはこれも市へ移管する予定になっています。つまり、自前の土地内の設備以外のインフラ整備はすべて市がやってくれることになるため、組合株式会社としてはその分を別の環境整備に充てることができるというわけ。

当別荘地では、このように自治体との連携がうまくとれているため、安心して住んでいられます。しかし、伊東市や函南町の別荘地の中には、これがうまくいかず、バブル期に購入した高価な別荘が破格の安値でダンピングされているところがあるようです。どういうことかというと、こうした別荘地が位置する市町村も財政難のため、別荘地内の道路や上下水道の管理を引き受けることを嫌がっているためです。

バブル崩壊後に管理会社が撤退したこれらの別荘地では、住民側がやむなくそのあとを引き継いで管理組合を作ったりしましたが、道路や上下水道の維持管理には多額のお金がかかるもの。バブル期からもう20年以上経過した道路や上下水道はボロボロになっているものもあり、それを補修したり、交換するためには思った以上のお金がかかります。このため、これら別荘地では水道料金が普通の民家より高かったり、組合に納める月謝が異様に高かったりするようです。こうして別荘地としての評判をどんどん落としていき、しまいにはダンピング価格で放出する人が続出・・・ということになるのです。

とはいえ、わが別荘地もよいことばかりではありません。この別荘地には合わせて5つの源泉があり、何百メートルもの地下から温泉をくみ上げ、これをボイラーで加熱して適温にしたあと別荘地内の各戸に供給しているそうです。ところが、この温泉をくみ上げるポンプや各戸に温泉を送るパイプが経年劣化によってかなり傷んでいて、修理したり取り替えたりするための費用が年々嵩んできているというのです。

実際に供給できる温泉の量は、くみ上げた量の数十パーセントだそうで、つまり、源泉からボイラー室へくみ上げた温泉を送る場合にどこかに大きな穴があり、大量の温泉が漏れているらしいのです。そんなに効率が悪くて大丈夫なんかい、と思うのですが、源泉の量はほぼ無尽蔵にあるので、ボイラーであたためて各戸に配るあたたかい温泉そのものが漏れていなければ大丈夫、ということのようです。

とはいえ、大量の源泉をくみ上げるためにポンプを無駄に使っているわけで、いずれはその穴をみつけてふさぐ必要があります。今年になってその調査費用をようやく計上した、というのですが、ずいぶん、のんびりしているなーとは思います。が、そういう現実があるということがわかっているだけでもよしとせねば。そんなことも把握していないような組合に運営は任せられません。

実はこの組合、昨年までの執行部が全員辞職して、新しい選出された幹部で今年度からスタートしたもの。昨年までの幹部の運営にはそういうことすら把握できないような問題点があったようで、よくはわかりませんが、それを住民側から指摘され、売り言葉に買い言葉で執行部が反論。もめにもめた上、えーいそんならやめてやる~ということで、全員が辞職したという経緯があるようです。

先日我々が参加したその管理組合総会。1年に一回、この時期に行われるようで、会場には40人ほどの方が見えていました。しかしそのほとんどが、60台以上の方のようにお見受け。50台の人は我々だけではなかったかと思います。それほど、この別荘地内の住人の高齢化も進んでいるということ。これはまたこれで別の問題点です。

高齢者が多ければ多いほど、住民による環境の維持活動は難しくなってくるわけですから。たとえば側溝の掃除とか公園などの共有スペースの掃除とかは現在、組合員が自前でやっているようですが、高齢化が進む中、組合の管理運営のための財政も悪化しているならば、こうしたことを外部委託したくてもできなくなってくるおそれがあるからです。

別荘地を選ぶ際、高齢化していないところを探す、というのは日本全体が高齢化している現在、不可能に近いと思います。だとすれば将来にわたって、別荘地としてではなく永住する予定があるのならば、その活力が未来に至っても維持されるかどうかという見極めはしておいたほうがよさそうです。自前で維持できるならばそれでもいいですが、できないならば、国や自治体に頼るしかありません。その別荘地の管理会社、もしくは管理組合は将来にわたっても大丈夫か、ということはよく調べてみる必要があります。

さて、今日は昨日までの回想録やら見聞録と違って、少し固い話になってしまいました。が、これから我々のように伊豆へ移住しようと考えている方にとっては少しは参考になるお話だったのではないでしょうか。

現在移住を考えていない方でも、温泉に入れる別荘地が欲しいと考えている方、別荘地にもいろいろあって大きな問題を抱えている場合もあることをよーく調べた上で決断をされることをお勧めします。くれぐれも建物の外観や土地の広さだけにだまされないように。別荘地の管理運営そのものに問題がある場合、将来的にわたってその価値が下がっていくのは当然のこと。それだけでなく、将来住めなくなる可能性だって否定できないのですから。


河津バガテル公園にて