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夢の途中 11 別離

1993年というこの年は、退職、再就職に加え、長男が生れるなどせわしない年だったが、さらに年末近くになって、技術士の二次試験の日時を知らせる通知が来た。

これすなわち、夏に行われた一次試験に合格したということにほかならない。国家試験の中でも最難関に類する試験に一発で受かったということで、心躍る気分だった。

年の初めには暗い気持ちで会社通いをしていたのが、そこを辞め、再就職した後半には尻上がりに運気があがり、長男の出産に続いて最後にもうひとつご褒美が出た、という印象だ。

しかし、面接によるこの二次試験にパスしなければ、技術士の資格は手に入れることはできない。二次試験の合格率は90%以上とも言われ、よほどのことがない限り落ちることはない、と言われていたが、最後まで油断はできない。

年が明けて、翌1994年の2月。代々木でその二次試験に臨んだ。元オリンピック村だった建物群の一部をスポーツ振興財団が買い取り、オフィスにしていたところが試験会場だ。かつて講堂だったらしい大きな部屋に入ると、面接官が二人いた。

うち一人はよく知らないひとだったが、もう一人は会ったことがあり、建設省の外郭団体の研究所の所長さんだ。質問は主にこの人が行った。早速、試験内容のうち、経験論文について最初の質問が飛んできた。ただ業務の内容とかではなく、経験論文に書いた業務はどこの事務所から発注されたものでしたか、というものだった。

論文の中身のことではなく、いきなりヘンなことを聞くな、と思ったが、淀みなく〇〇工事事務所です、と答えると、あー、あそこですか、というのんきな感じで答えが返ってきた。

やる気があるのかな、と一瞬思ったが、続いての質問は、私の経歴についてのことで、ハワイ大学出身というところに興味がいったらしい。ハワイにはなぜいったのですか、会社を辞めていったのですか、といったことを聞かれたが、ハイそうです。勉強をしたかったので行きました、と正直に答えた。

それが好印象だったのかそれ以上はとくに難しいことは聞かれなかった。所長が隣の人に他に何か質問がありますか、と聞いたが、とくにありません、とその人は答えた。

こうして、何か拍子抜けのようなかんじで二次試験は終わった。特段大きなミスはなかったと思ったが、それでも万一のことがないとはいえない。

しばらくの間悶々とした気持ちで過ごしたが、およそ一カ月後、技術士協会から手紙が届いた。おそるおそる封を切って中身を出し、広げるとそこには、技術士試験に合格したことを告げる文面があった。

過去に数多くの試験と称するものに対してきたが、その結果として得たなかで、これほどうれしかったものはない。早速同封されていた技術士登録の申請用紙に記入し、返信封筒で送り返すと、2週間ほどして、科学技術庁長官のサイン入りの技術士証が送られてきた。

このときの長官は江田五月氏だった。その後参院議員の議長も務めたこの大物議員のサイン入りの技術士証は、今も私の机の中に大事にしまってある。

技術士には受かったものの、このころ会社でやっていた仕事はさほど面白いものではなかった。都市計画の一環ということで、公園設計の仕事が多く、関東圏内のあちこちの公共事業で持ち上がっている大小の公園の設計、施工に携わった。

Civic Designという言葉が使われ始めている時代で、これまでのありきたりの公共事業で使われてきたような古いデザインから脱却し、欧米並みの優れたデザインを取り込もうという機運が高まっていた。

ただ、それを理解してくれる事業者がまだまだ少なく、昔ながらの古いデザインに固執するあまり、そうした新しいデザインを毛嫌いする向きも多い。優秀なデザイナーに頼み、優れたデザインを持って打合せに臨んでも、相手にそれを理解する能力がない限り話は進まない。

一度、茨木県東部の小さな町の公園計画に携わったことがあったが、ここはその公園計画に対して、町長派と反対派が分かれている町だった。そのデザインを巡ってもその両者が激しく対立し、いつまでたっても計画が進展しない。事前の調査さえ、先に進めることができず、両陣営の間に挟まれ、ほとほと参ってしまった。

またぞろこの会社に入ったのは間違いだったのかな、と思いはじめていたが、そんな中、年が暮れ、新しい年、1995年を迎えようとしていた。

長男は先月満一歳を迎え、そろそろ歩き始めていた。彼が生まれてすぐだったこの年の正月こそ見送ったものの、毎年、年末年始には山口の実家に帰ることにしていた私は、このとき初めて息子を連れて帰省した。

このときの両親の喜びようは半端ではなかった。朝から晩まで孫につきっきりで、こちらが面倒みる時間さえないほどだ。とくに父の喜びは大きかった。このころ息子はしゃべり始めており、葉っぱ、葉っぱということばを発し始めたのを聞いて、「ハッパ君」と勝手にあだ名をつけるほどのかわいがり様だ。

その後、亡くなるまで、いつもこの息子のことを気にかけているようなところがあり、私よりもむしろこの孫のほうがよりかわいいと思っているのではないかと嫉妬するほどだった。

この年、社会的にはいろいろな大事件があった。この正月の帰省から帰ってすぐには、阪神淡路大震災が起こり、2カ月後の3月には地下鉄サリン事件が続いて起こった。会社のすぐ近くにはサリンがばらまかれた小伝馬町駅がある。

朝からわんわんと救急車やパトカーが目の前の道路を通るのを見聞きして何事かと思っていたが、誰かがつけたテレビの報道でその内容を知った。幸い社員の中で事件に巻き込まれた人はいなかったが、その日は家人を心配する社員の家族から、電話がひっきりなしにかかって来ていた。

この年、私にまたも転機が訪れた。ある日倉田部長から電話がかかってきて、外の喫茶店で待っている、話があるからそこに来い、という。

話なら別に社内ですればよさそうなものを、わざわざ電話で外に呼び出してまでするというのはよほど大事な話なのだろう。なんだろう、と思いながらその喫茶店へ向かった。

出てきた珈琲をすすりながら、私の近況についていろいろ聞いていたが、そのうち、実は…と切り出したのが、出向の話だった。

もともとこの会社に入った当初、これまであちこちと点々としてきたことから、しばらくは同じ部署にいて、じっくりと同じ仕事をさせてほしい、という要望を会社に出していた。

これは本音で、前の会社では、遠く離れた支所に飛ばされたあげく、海外に出される可能性もあったことから、今回の会社では一カ所にとどまり、落ち着いて仕事をさせてほしいものだと思っていた。

その要望を部長も知っていて、社内でちょっと呼び出していきなり辞令を渡す、というやり方はまずい、本人を納得させられないと思ったのだろう。いわゆる根回しだ。

で、どこに出向するんですか、と聞いたところ、財団法人だという。河川局の外郭団体で、建設省や水資源開発公団が管理するダムや堰の周りの環境を整備する。幹部は建設省や公団の役人だが、実働部隊は一般企業からの出向者が担うことになっており、任期は一般に2年だという。

寝耳に水の話だったが、ちょうどそのころ、都市計画の仕事内容に不満を持っていた私は、正直なところ、ここぞとばかり喜んだ。が、そんなことを考えているとはおくびにも出さず、そうですね~家内とも相談しないと、と一旦話を引き取り、また後日お返事させてください、と答えた。

実際はもうその時点で行く気満々だったが、よく考えてみればどんなところなのかもよく知らずまた、2年間いわば役人になるわけである。はたしてそんな役割を私が担えるものなのかどうか、とだんだんと不安になってきた。

とはいえ、こういう話が直接本人に降りてくるときは、たいていその人事は固まっている。断り切れないなとわかっていたから、せめて何か保証をもらおうと思い、後日それを承諾する旨を報告に行ったときには、念を押した。「ちゃんと2年で返してくれるんでしょうね。」

結局その出向はその後、3年もの長い期間に及ぶことになるのだが、結論からいえば、公園の計画や設計ばかりをやって過ごしたであろう3年間よりもずっとエキサイティングでワクワクするものになった。

ここででもまた、人生においては、その人がその時本当に必要とするものが、あちらからやってくる、という理論が証明された。




こうして、水環境整備財団(WEM; Water Environment Maintenance Foundation)へ会社から派遣され、出所するようになったのはその年の6月からだった。

前任者がおり、5月いっぱいで帰ってくるその人と入れ替わりで私が出向する。その引継ぎで彼にどんなところかを聞いたところ、「ヘンなところだよ」と言われた。どこがヘンなのかもっと具体的に聞きたいところだったが、そこははぐらかされ、入ればわかるよ、と言われた。のちにその言葉の意味を理解したが、たしかにヘンな組織だった。

入所して配属されたのは、企画部というところだった。前園さんという人が部長で、この人も建設省OBだ。建設省中枢での補佐時代、カリスマ的と言われた人らしく、次々と新しい企画を打ち出しては新事業を実現させてきた実力者である。

長身だが頭が薄く、にやっと笑うと独特の愛嬌がある。それでいて風格というのか、どこか品がある。嘘か本当かわからないが、後で聞いた話では、前園家というのは皇族に連なる名家だそうだ。鹿児島出身ということだったから、旧薩摩藩になる。

薩摩といえば、徳川二代将軍・秀忠の正室となり、娘は天皇家に嫁ぎ、息子は第三代将軍となった、江姫(ごうひめ)の出身地だ。そこの名家というなら、皇族に縁があってもおかしくない。

入所してから挨拶に行くと、おぉ君か、待っていたよ、と気軽に声をかけられた。もっと怖い人だと思っていたから、案に反して好々爺としたそのかんじに親しみを覚えた。

企画部ということで、宣伝のためのパンフレットでも作る仕事を任されるのかと思いきや、全く違う仕事を言い渡された。魚道をやれ、という。川にダムや堰を作ると、それが邪魔になって魚が行き来できなくなる。それを通すための通り道を指すが、これまでそんなものを見たことも聞いたこともなかった。

すぐに席を与えられ、左側に座っていた男性を紹介された。その人物は自ら名乗り、青山です、といった。水資源開発公団から出向してきた人で、公団内ではエリートとされているキャリア組だ。入所してかなり後になってからそのことを知った。

これも後で知ったことであるが、WEMにある各部署のリーダー的な役職にはこうした、役所からの派遣者が就任し、その下に一般企業からの出向者が付く。私は技術士を持っているということで、企画部では、前園、青山に次ぐ、ナンバー3という位置づけらしく、首席研究員というおどろおどろしい肩書をいただいた。

この青山さんと私は年齢も近かったが、確か彼のほうが一つ二つ下だったと思う。「企画部次長」の肩書を持っており、ゆえに最初は上司と部下、という関係を意識していたが、そのうち親しくなるにつけ、友達関係のようになっていった。

とはいえ、所詮は役人であるから、やたらに仕切りたがるところがあり、表向きの上下関係にはうるさかった。職場にいる間は上司面をしていたが、とはいえ、二人で出張にいくときなどは、ため口で語り合ったものだ。

一番最初にこの人とやった仕事は、北海道で新たな委員会を立ち上げる、という仕事だった。彼はその事務局長、私はその補佐役、ということで業務がスタートした。

北海道のほぼ稚内の下にある、朱鞠内湖という湖でその第一回の会合が開かれた。私にとっては生まれて初めての委員会であり、極度に緊張した。ただ役割としては言われたとおりに議事次第を作り、それに沿って進められる委員会の討論内容の議事をとる、ということだけで、特段難しい仕事ではなかった。

とはいえ、そもそもなぜ北海道なのか、どうしてこんな僻地で委員会をやるのか、といった疑問が次々と頭に浮かんできた。しかし、このときはまるでその意味をわかっていなかった。

その後東京に帰り、委員会の議事を整理したり、前園部長や青山次長と打ち合わせていく中で、徐々にこの業務の意味がわかってきた。

まず、北海道である理由。それはここに豊富な水産資源があることである。北海道といえばまずサケを思い浮かべる人が多いと思うが、一口にサケといっても、シロザケもいればベニザケもいる。シロザケは正式にはチャムサーモン(白鮭)といい、ベニザケはレッドサーモン(紅鮭)だ。

このほか、ピンクサーモン(カラフトマス)、シルバーサーモン(銀鮭)、キングサーモンがおり、これらが太平洋にいる5大サケ類になる。またこれらを総称して、サケマス類という。

これらサケマス類は、川の上流で生まれてすぐにこれを下り、海へ出てそこにある豊富な栄養素を食して大きくなる。成魚になってからは再び川をさかのぼり、川の上流で産卵をして息絶え、その卵がまた翌年ふ化して川を下る、というルーチンを繰り返す。

川と海を行き来するため、「回遊魚」と呼ばれ、ほかにはシシャモやアユ、ウナギなども回遊魚とされる。

日本列島は急峻な山で形成されており、その間を下る川もまた流れが速く、また距離が短い。ここにダムや堰をつくると、こうした回遊魚は川を行き来できなくなり、やがては滅亡の道をたどることになる。これまではサケが上っていたのに、ダムや堰ができたことで最近は上らなくなった、ということが全国で繰り返されてきた。

一方、北海道は内地に比べれば川の流れが比較的ゆるい。つまり、サケマス類にとっては川を遡上しやすく、かつその距離も長い。従ってダムや堰を作っても場合によってはその下流で産卵することも可能であり、北海道以外の地に比べればまだ種の保存がききやすい。

また、まだ開発途上でダムや堰も数が少ない。このため内地に比べればサケマス類の資源が比較的豊富に残っている。こうしたことから、今後はこうした水産資源を絶やすことなく、しっかり保護していく、ということは大きな意義がある。枯渇しつつあるといわれる我が国の水産資源の保護の上では重要案件なのだ。

国としてもこれまではこうした自然を犠牲にして水資源開発をしてきたが、今後は姿勢を正し、環境保全にも考慮しようと力を入れようとしている、というわけだ。

WEMに入り、私が最初に手掛けることになったこの委員会は、北海道を所管とする建設省の出先機関が主催するものだった。その中で今後のダムや堰の開発にともなう、こうした水産資源の保護について、専門家を交えて話し合おう、という意図があった。

一方、この委員会ではさらに別の視点からの水産保護についても話し合われた。ダムや堰で「蓋」をされてしまった川では、その上流にできる湖から魚は下流に行けなくなる。これを「陸封」という。

ダムや堰の上流に閉じ込められてしまった魚のことをとくに「陸封魚」と呼び、これらは川や湖の中で独特の進化を遂げる。ワカサギがその代表例だ。

冬に凍った湖の中で、氷に穴をあけて釣るワカサギ釣りを思い浮かべ、ワカサギといえば湖にしかいない、と思っている人も多いだろう。しかし、ワカサギの中には海と川を往復して産卵を繰り返す種もいる。成長期に降海するタイプと、生涯を淡水で生活する河川残留型がおり、後者が一般にワカサギと呼ばれているものだ。

同様にアユも同じような二タイプがあり、湖の中で産卵・成長するものもおり、その代表的なものが琵琶湖の陸封アユである。また、ニジマスのように、もとは海と川の間を行き来していたものが、やがて川の中だけで上下するようになったものもおり、これらも陸封魚の一種である。

これら陸封魚は、それはそれで水産資源としての価値がある。内陸の地域では、食料調達のためにわざわざ海までいかなくてもこれを活用できる。こうした種の保存の在り方についても検討していこう、ということで、北海道内のこうした陸封魚を有する湖の実態調査の結果が報告される予定となっていた。

朱鞠内湖もそのひとつであり、ここにいる魚をいかに活用していくか、ということがこの最初の委員会の中でも話し合われた。ここではとくに、この湖に生息する「イトウ」というサケ科の魚が話題になった。

日本最大の淡水魚として知られており、体長は1mから大きいものでは1.5mに達する。1mほどまでに育つのに、10年程度もかかるという。サケ科の魚としては長命ではあるものの、近年数がかなり減っている。産卵を行う最上流域までの移動距離が長く、その間にダムなどの人工構造物が作られることにより産卵・生育形態が脅かされているという指摘がある。

この委員会でもそうしたことに対しての対策が話し合われたが、そのあとに開かれた懇親会では、なんと、この希少なイトウの刺身がふるまわれた。その白身は、さほどうまくももなかったが、幻ともいわれる魚を食する機会というのはそうそうめったにあるものではない。あとでもっと食べておけばよかった、と思ったものだ。

以後、こうした委員会が道内の他の湖や川のそばの会場で開かれることとなり、そのたびに私は出張を重ねた。このため頻繁に北海道を訪れるようになったが、それだけでなく、他の魚類調査のためにも足繁く通うようになる。多いときには週二回ほど、少なくともひと月に2回は渡道していた。

結果、WEMでの業務を終えたとき、その3年間で北海道を訪れた回数は数えきれないほどとなったが、訪れた場所もほぼ全道となり、行ったことがない地はダム湖がない稚内方面だけになった。

一番多く訪れたのは、道南にある二風谷ダムというところだ。2018年9月に発生した北海道胆振東部地震があった鵡川町に近い。ここを流れる鵡川のすぐ東隣を流れる沙流川に作られたダムで、このころ竣工したばかりだった。

最新式のダムということで、魚道はもちろん整備されていたが、はたして本当に効果があるのか?というところが疑問視されていた。そこで、その実態を調査するため、魚道に網をかけて魚を捕獲し、実際のどのくらいの魚が遡っているのかを確認するといったことをやった。

しかし、これとは別に、このダムではある特殊な実験をここでやることになっており、これを監督するのが私の役目だった。それは、ダム湖に下ってきたサケの稚魚を、魚道まで光で誘導するという、変わった実験だった。

サケは秋になって上流で産卵し、翌年の春に孵化して、川を下って海に向かう。しかしその途中に立ちはだかる大きな試練が「ダム湖」である。

早い流れに乗って上流から下ってきたサケの稚魚は、このダム湖に至ると、急に流れがなくなることから、その行く先を見失う。広いダム湖を彷徨ったあげく、ようやくダムまで到達したとしても、さらにそこを越えるのが難しい。下流に至るためには、ダムからの放水の中に飛び込むか、あるいは発電用の取水口に入るかのふたつしかない。

ところが、落差のあるダムでは、放水口から飛び出た稚魚はダム下の川にたたきつけられて大半が死んでしまう。また、発電用取水口から入った稚魚も、発電用タービンをくぐりぬける間にズタズタに切り刻まれてしまい、ほとんどが生き残らない。

無事に下流にたどり着くための唯一の道は魚道である。しかし、ダム湖は広く、その入り口の流れも微弱であるため、なかなか魚道にたどり着けない。一歩間違えば放流口か発電用取水口に迷い込んでしまうのだ。

そこで、ダム湖の上流から魚道まで、「光の道」を作ってやり、それに沿ってサケの稚魚が魚道までたどり着けるよう、誘導してやろう、というアイデアが生まれた。

多くの生物は光に対して敏感に反応する。サケの稚魚もまた、光に強く反応するということが水産試験場で確認されており、私は当初からそうした室内実験にも関わっていた。

WEMに入所した最初の年、まずそうした室内での実験から準備を始め、サケの稚魚が光に反応することを確認した。2年目からは、実際にダム湖上に防水加工したランプを敷き並べ、稚魚を誘導するという実験を行い始めた。その後も実験を重ね、やがて3年目に入ろうとするころには稚魚の多くを魚道に誘導できるようになった。

こうした一連の結果はのちには論文にもとりまとめ、科学雑誌にも発表され、反響を呼んだ。しかし残念ながら、実は、このようにサケが下る途中にダム湖が存在するという場所はそれほど多くはない。機材コストの関係もあり、こうしたことからこの装置はまだ全国的には広がっていないようだ。が、いずれはこうした成果が日の目を見る機会もあるだろう。

この実験のために、それこそ何十回も東京と北海道を往復することとなったが、このとき、ここで一緒に仕事をよくしたのが内水面開発公社という社団法人の人たちで、この光実験のほかにも道内の特殊な魚類調査を一手に引き受けていた。

道内各地の調査でよくご一緒したが、仕事が終わると、たいてい酒宴になった。委員会のメンバーとしても出席してもらっていたため、委員会の後の酒席でもまた飲んだ。それやこれやで長い付き合いとなり、30年近く経ち、北海道と疎遠になった現在でも年賀状のやり取りをしている面々がいる。

WEM在籍中はこの北海道だけでなく、岐阜の長良川水系や琵琶湖水系、奈良の吉野川水系、鹿児島の球磨川水系などでも仕事をした。必ずしも魚がらみとばかりは限らず、ダム湖に発生する淡水赤潮の原因を探る、といった仕事もした。

難しい仕事も多かったが、充実した3年間だった。自分の能力を最大限に発揮した時期ともいえ、それもやはり私の魂の成長のためには必要なことだったろう。

この3年の間の奉仕には、それなりのご褒美もついた。ここに勤める企業からの出向者は、二年目になるとどこか海外へ「視察旅行」に行かせてもらうことができた。各人が各年いろんなところへ派遣されていたが、私も二年目を迎えたときに好きなところへ行かせてやる、と言われた。

そこで、スペインに行きたい、と言ったら本当に実現した。もっともスペイン内のダム湖の環境整備に関する実情を調査してくる、という出張だったから、行先としては山奥が多かった。しかし、ある程度は自分たちが行きたい場所近くの水源地を選ぶことができる。

このため、このスペイン出張では、ダム現場の視察が終わるたびに、近くの観光地を訪れた。休みの日もあり、そうした日は一日観光ができたから自由旅行に近い感覚で彼の地を満喫した。

マドリード、グラナダ、マラガ、バルセロナ、といった主要都市を2週間ほどもかけて旅して回った。初めて行く国であり、行ったこともない町ばかりだったが、何故かどこを歩いても違和感がない。とくにバルセロナでは、あちこちで明らかな既視感があり、あぁここへ来たことがある、見たことがある、ということの繰り返しだったのには驚いた。

とくにバルセロナオリンピックのマラソン競技のゴールに近いところにあるモンジュイックの丘と呼ばれるあたりでとくに強い感じを覚え、さらにその坂の下では、そこから見える港の風景を見て、思わず立ち尽くした。おそらく前世での思い出の場所なのだろう。かつての人生で見たビジョンのひとつに違いなかった。

モンジュイックの丘以外でもそうした体験があり、グラナダを訪れた時にも何度かデジャブを見た。ここにあるアルハンブラ宮殿の造形は素晴らしく、いまもって夢に出てくるほどその光景に心打たれた。その見学のあと、城の外の町を歩いたのだが、その際も、あちこちで見たことのあるような光景に出くわした。

このように、このスペイン旅行は、思いもかけず自分の過去生を思い出させてくれる旅でもあったが、そのすべてが素晴らしく、かつて訪れたアメリカよりもはるかに強い印象を受けた。

ちなみに、WEM3年目にも視察旅行に行かせてもらったが、その行先はアメリカだった。かつて住んでいたフロリダをはじめ、東西海岸にあるダム湖の魚道施設を見学して回ったが、先のスペインの時ほど強い感覚は覚えなかった。アメリカでの前世はない、ということなのだろうか。

このWEMからの卒業にあたり、論文ならぬ本の執筆も任された。「最新水産土木設計」というそれまでの3年間に経験してきたことをそこに凝縮する内容だ。

もっとも、私一人の執筆ではなく、北海道でお世話になった先生方も含めての共同執筆作業だ。私はその編集者という立場であったが、自ら書いた部分も多く、出来上がった本には無論、執筆者として私の名前も記載された。

こうして、数々の記憶に残る仕事や、国内外のいろんなところへの旅を提供してくれたWEMの3年間は終わった。



ふたたび日本橋の本社に通勤するようになったが、このときの配属先は、以前の都市計画部門ではなく、「環境調査部」という部署だった。かつて環境計画部といわれて一つだった部署は、都市計画部と環境調査部の二つに分かれており、そのひとつに帰属することになった。

出向から帰ってきたとき、どちらを選択してもよかった。無論、以前の上司からは都市計画部に戻ってくるよう促されたが、平々凡々とした公園設計の仕事に戻るつもりはなかった。WEMでやってきたことを生かし、これからは環境部門で身を立てていこうと考えていたからだ。

こうして、出向から本社へ帰った私は環境調査部で仕事を始めた。ところが、実はそこからが大変だった。

この当時、「環境アセスメント」という事業が一般化されようとしていた。何か公共事業を行おうとするとき、例えばダムや道路を作ろうとすると、そこにある自然環境を痛め、破壊すらしてしまう可能性が生じる。

このためその公共事業によって引き起こされる影響がどの程度のものであるかを調査することが法律で求められるようになってきており、その調査のことをアセスメントという。

しかし新しい概念であることから、一体どういった調査をやるのか、という疑念が当然生じる。欧米では既にこうした調査を当たり前にやる風習が定着しているが、日本ではこれまでそういうことをやってこなかった。このため、仕事を発注する役所側もさることながら、受ける側の民間も参考にする基準がほとんどない。

また、公共事業といってもいろいろある。ダムや道路だけでなく、海岸堤防の建設もあれば、新たに橋をかけるといった事業もあり、それぞれの事業毎に行う環境調査の種類や内容も千差満別である。そこで、それぞれの事業毎の環境調査についての標準化手法を作ろうという話になり、それを一手に引き受けたのが古巣のWEMであった。

わが社環境調査部はそのWEMのお手伝いをする、ということで業務を受けるところとなり、かつてそこの職員であった私にその窓口をやれ、という社命が下った。

ところが単に窓口のつもりが、この「お手伝い」に関してもお前が手を動かしてやれ、と来た。その内容も、単に資料整理をするわけではなく、様々な過去の事例を調べて、その結果を取りまとめる必要がある。

それを参考にしながらアセスメントを実施するための調査方法を確立するという手順となるが、誰もそんなことをやったことがないだけに、かなり難しい内容になることは容易に想像できた。

高度な専門技術に係る内容だけに、我々の判断だけではできない。ある種の国の基準を作るわけであるから、名のある先生方を集い、委員会形式でマニュアルを作る必要があり、そうした委員会を運営するの事務局的な仕事もやらなければならなかった。

しかも委員会はひとつだけでなく、各種の事業毎に立ち上げなくてはならない。ダム事業、河川事業、道路事業といった具合に小分けされたマニュアルを完成させなくてはならず、その数だけ委員会を立ち上げる必要がある。

もっともWEMは河川局の外郭団体だったから、河川に関する事業だけのマニュアルを作ればよかった。それでもダム、堰、堤防などの複数のものを作る必要がある。また、アセスメント調査する内容も動物、植物、生態系、水質、景観といったふうに分化されており、それぞれの専門家の意見を聞きながら作業を進めていかなくてはならない。

かくして、膨大な量の資料を集め、それを整理したうえで委員会にかける資料の原案を作り、専門家の意見を聞きながら修正していくという気の遠くなるような作業が始まった。毎晩遅くまで資料を作り、翌日は委員会を起こしては審議を行い、また修正して諮るということが何度も繰り返された。

寝る時間はなんとか確保するよう努めたが、通勤時間の長い私にとっては苦行そのものであり、ほとほと疲れはてた。まるでエンドレスかと思われるほどこの仕事が続いたが、WEMから本社に戻って2年目が終わろうとするころ、ようやくその収束をみた。

今振り返るに、この一時期は、苦しい時間の連続ではあったが、それなりに得るものは多かった。異国の地であるハワイで経験したことほどではなかったにせよ、それまで経験したこともなかったような仕事をやり、その進め方についても多くを学んだ。

また、環境アセスメントに関する指針という、先駆性のあるものを仕上げることができた。そのための一助を自分がなした、という満足感がある。辛く厳しい時間を過ごしたが、その分、社会人としても大きく成長し、「一皮むけた」気がした。

それにしても、私はこの時すでに40になっており、20代、30代のようにバリバリと仕事し、何夜でも徹夜ができる、というほどの体力はなくなってきていた。

そのためか、このアセスメントの指針作成を通じての疲れはひどく、そのことを同僚も知っていたし、会社もそのあたりの事情はわかっていたのだろう。この仕事が終わってからは、通常の調査業務の監督管理者などを務めるよう、命じてきた。調査業務というのは、主には動植物・生態系の現地調査だ。

実際の現場業務にはときたま顔を出し、調査結果をまとめた中間報告や最終報告の際には、担当職員である若手に同行して打合せに出る、といったルーチンワークになる。年度末には管理技術者として検査に立ち会う、といった内容であり、アセスメントをやっていたころに比べれば委員会も少なく、うんと楽な仕事だった。

このころ、所属していた環境調査部が、さいたま新都心に移転する、という話が持ち上がった。建設省の関東地方建設局や水資源公団などがここへ移転することを決定しており、わが社としてもここへ拠点を移すことで彼らとのコンタクトが密接になる。これにより一層の受注増を目指したい、という思惑があった。

さいたまへの通勤時間は、それまでの日本橋と同じくやはり2時間程度であり、また行き帰りの電車もほぼ座って通勤できたから、辞令が下りたときも、会社に文句は言わなかった。さいたまのオフィスはできたばかりで、新しい環境の中で仕事ができるというのも、好印象だった。

アセスメント業務をこなしたということで、ある程度の評価も得たのか、このころ私は課長に昇格した。部下7~8人ほどをあてがわれ、いっぱしの「島」を築いた。ただそれだけでは飽き足らず、新たなメンバーを他社から引き抜いてきては自分の部下に加える、といった荒っぽいこともやった。

このため、内外からはやり手の課長という目でみられていたかもしれない。さいたま新都心の移転に際しても、引越し担当として抜擢され、準備からすべてを取り仕切った。机のレイアウトや備品の購入といったことまで関わり、自分の好みに近い環境をつくりあげた。

このころ、同じ部内で上にいた直属の上司は、部長と次長だけであり、私の立場はそれに次ぐナンバー3だった。いずれは次長、部長にと会社も考えていただろう。

しかし、もともと人の上に立つような器ではない、とかねがね思っていた。高校・大学を通して責任ある立場に据えられそうになるたびに逃げていたことは前にも書いた。そもそも人に何かを命じるくらいなら、自分で手を動かしていたほうがいい、というタイプだ。だから本当は自分自身にしかできない仕事の世界を追求したかった。

しかも、毎日繰り返される動植物調査はもとより自分の専門のものではない。部下が成果をあげてくれば褒めてはやるものの、専門でないだけにどこか上っ面の評価にならざるを得ない。やがて、このままでいいのか、という疑念が生じるようになった。

かつてWEMで担っていたような企画的な仕事をもっとしたかったが、このころのこの会社にそうしたポジションはない。いや、あったのかもしれないが、会社が既定していた路線は、私をいずれは今いる部門の責任者にということであり、自由な道を選ぶ余地はなかった。

つまりこの会社にいる限りは、自分で自分の場所をみつけられない、ということか、とついに悟った。そう考えると、いてもたってもいられなくなった。今何かを新しくはじめなければ一生後悔する、という気持ちが、やがて少しずつ確信に変わっていった。

このころ、今の仕事とは別に興味を持ってみていることがひとつあった。それは建築の世界だった。土木と双璧をなすこのカテゴリーは、ともに建設ということばでひとくくりにできるが、その内容は全く異なっている。

なかでも「セルフビルド」という分野があることを知った。自分で材料を探してきて、自らの手で家を建てる、という方式で、個人による原材料の入手が比較的簡単な欧米では広く行われている。

しかし、日本においてはいわゆるメーカーハウスが主流であり、これに加えて中小の工務店や建築事務所があって、彼らがほぼ100%に近いシェアで住宅を建設していた。

このため建築資材の自由化が行われず、個人がこれを入手することが困難な時代が長く続いてきた。ところが、近年になって大手のホームセンターがこうした資材を扱うようになった。こうした店では、基礎から屋根に至るまで、すべて自分で建築するための資材の入手が可能だ。

書店などでもそうした類のハウトゥーものをよく見かけるようになってきており、日本においてもセルフビルド普及の機運が高まって来ている、と考えた。実際にそうしたトレンドができつつあった。

おそらく数年後には、自分で自分の家を建てるという人がさらに増え、そうしたことが流行するに違いない、と考えた私は、残る一生をこれに賭けてみようと思った。

今思えば無謀だったかもしれないが、このときは十分に勝算がある、と考えていた。結論から言えば、のちにこの事業は失敗し、大きな痛手を負って手を引くことになるのだが、コンセプトそのものは優れていた、と今でも思っている。




2002年6月、私は長年お世話になった会社を退職し、独立した。

無論、事前に家内に話したうえでの独立だったが、私が言い始めたら聞かないことを知っていた彼女はほとんど反論しなかった。ただ本当にそんなことで食べていけるのかどうか、疑念に思っていたに違いない。のちに彼女が日記替わりにつけていた手帳を見返したところ、そこには肯定的なことは何ひとつ書かれていなかった。

退職してまず最初にやろうと思ったことは、本を書くことだった。セルフビルドに関してそれまでに集めた書籍や資料は相当な数に上っており、それをネタにHow toものを書こうと考えた。売れれば印税は入ってくるし、宣伝にもなる。

一軒の家を素人がすべて一人で建てるとしてどれぐらい時間がかかるか、どの程度費用がかかるか、どんな材料や道具が必要か、といったことを具体的に書き出す。またただ単にそうした情報を提供するだけでなく、具体的なモデルハウスを取り上げ、その作り方を紹介する、という内容にしようと考えた。

本が売れればモデルハウスが売れる。売れればまた本も売れるだろう、ということで相乗効果を狙ったわけだ。このコンセプトを受け入れてくれる出版社を探したところ、かねてWEMに出入りしていた大手の出版社が手をあげてくれた。

土木に関する出版物で有名な会社でかなり名の通った老舗だ。ここなら大丈夫ということで、契約を結び、3000部ほどの売り上げを会社が保証する形で前金が出た。

執筆料をその前金としてもらい、その部数以上売れればさらに印税が入ってくるという仕組みで悪い契約ではない。前金は大した額ではなかったが、いいものを書いて売れればさらに儲かるわけで俄然意欲がわいた。

ここまでの考え方は間違っていなかったと思う。しかしその先がいけなかった。まず、執筆に時間がかかりすぎた。集めた資料は必要十分だったが、逆に多すぎて整理するのに時間がかかった。また、文章に添える挿絵をこの会社が用意してくれると思いきや、全部自分で用意してくれという。

確かに契約書には挿絵まで会社が準備するとは書いていない。しかたがないので、そのころ少し習い始めていたCADを本格的に使えるよう自習し、そのためにさらに時間がかかった。結局半年程度で仕上げるはずだった執筆活動は、予定を超えて半分も終わらず、新しい年を迎えてもまだ残り3分の1が書ききれていない状態だった。

もともとやり始めたら凝るタイプなので、とことん中身を追求する。さらに時間をかけているうちに、用意していた自己資金が次々と生活費に消えて行った。

さらに著書の中に盛り込むモデルハウスのデザインに恵まれなかった。その設計は、知り合いの一級建築士さんに頼んだのだが、出来上がってきたデザインはどうみても平々凡々としている。これを建ててみたい、というような意匠を求めていたのだが、そこは完全に空振りに終わった。

のちにこうしたデザインは自分でも手掛けるようになるのだが、このころは執筆作業とCADの習得に時間を奪われ、そこまでの余裕がなかった。すべてをひとりでやる、ということのマイナス面がここで顕著に表れてきた。

もっとも、執筆業だけで食べていくつもりはなかった。前年の暮れまでに一応会社化し、建築業を営む企業としてスタートしていた。セルフビルドのための資材を提供する会社ということで、手間暇かけてホームページも作り、会員を集めた。

会員になってくれれば、セルフビルドのアイデアはタダで提供する。実際に作業にかかるときには資材を格安で提供する、というコンセプトだった。このサービスは評判となり、一時期には500人以上の会員を得た。

実際の現場にお呼びがかかるなどの案件も数件あり、何世帯かに資材が売れはじめた。しかし、家一軒をまかなうなどの大きな契約はなく、事業が順調に推移するためにはまだまだ時間がかかりそうだった。

この年の暮れ、いつものように家族3人で山口に帰省した。が、今年は途中、どこかで連泊していこうか、という私の提案で、行ったことのない知多半島に一泊することにした。その翌日、岐阜の養老別天地というテーマパーク寄った。あいにく雨の日で、外で遊ぶには適さなかったが、せっかく連れてきたのだから、と息子を連れ出した。

ところが、どこが具合が悪いのか、片方の足を引きずって歩いている。足をひねったか何かなのだろうか、よくわからなかったが、たいしたことはないと思い、さらに連れ歩いていたところ、これを見ていた家内が、なぜか急に怒り出した。

めったに怒ったことのない彼女が、「足が痛いっていってるでしょう!」と声を荒げて私を責めるのだ。いったい何が起こったのだろう、と一瞬戸惑ったが、売り言葉に買い言葉で私も反論した。ただ単に遊ばせてやろうと思っただけだ!といったことを声を荒げて言ったと思うが、後にも先にもこれほど大ゲンカをしたことがないほどの口論になった。

その日は夜までお互いに口を利かないほど冷たい空気が流れた。しかし、翌日は彼女も機嫌を取り戻し、次の目的地である倉敷のチボリ公園、牛窓などの観光地を経ていつものように山口入りをした。しかし、年末年始となぜか彼女が落ち込んでいるように見えるのが気になった。あとになって思えばもうこのころから何かの異変があったのかもしれない。

新しい年が明けた。

その後、私の著書の執筆はかなり進み、春を待たずに出版はできそうになった。

ただ、住宅事業のほうは相変わらず低調で、なかなか資材は売れない。実際に自分で家を建てるという段階まで進んだ顧客はわずかだった。一軒分の資材が売れれば実入りは大きいのだが、そうした大型物件に漕ぎつけることがなかなかできなかった。

なぜだったかな、と今もう一度考えてみるが、セルフビルドをやる人達というのはもともとお金のないひとたちだ。企業と契約すればその手数料を取られる、という心配は当然するはずで、実際、契約後には10~20%程度の手数料をもらうことになっていた。

手数料を下げればもっと顧客は増えるかもしれないと思い、実際試しに下げてはみたものの、やはり結果は同じだった。つまりは金だけではない、何かがある。おそらくは動機づけだろうが、それが何であるかが、ついにはわからなかった。

本は完成しない、契約もなかなか成立しないまま、会社設立から半年以上が過ぎ、季節はもう夏になろうとしていた。結局起業後に契約をできた大型物件は、わずか1件にすぎず、これではとてもやっていけない。それでもホームページの会員は増える一方だったし、そのころ著書はようやく出版にこぎつけていた。

本が売れれば印税も入ってくることだし、宣伝にもなる。もう少し頑張ればなんとかなるかもしれない、と思った。しかし、新たな手は打たなかった。というか、打てなかった。



この年は妙に雨の多い年だった。夏になるころから連日雨が降り、湿気の嫌いな私はかつて暮らしたフロリダのことを思い出して嫌な気分になった。

夏休みになったので、いつものように家族で山口に帰ろうと、今年はいつにしようか、と家内に話しかけたところ、今年は私は行かない、という。えっ、どうしてなの、楽しみにしていたのに、と重ねて問いかけると、うつむきながら、ちょっと調子が悪いので、病院に行ってきたいという返事が返ってきた。

どこが悪いのかと聞くと、はっきりとした症状は言わない。おなかを押さえてさする仕草をするから、どうも腹部に異常があるらしい。あっ、そういうことか、女性特有のあの症状ね、と私がそう受け取ったのも無理はない。

以前より、彼女は生理になるとおなかが痛い、といって数日伏せってしまう、ということがよくあり、今回もそうなのだと思った。ただ、いつもより少し症状が重いのかな、とも思い、それほど心配しなかった。

なので、時間が経てば直るよ、今年も行こうよ、とその後も同行を促したが、やはり今回はやめておく、という。無理強いはよくないし、もしかしたら昨年末の旅行のことが尾を引いているのかもしれない、とも思い、さらにはたまには一人でいたいのかもしれない、と考えた。

私自身、一人でいることを好むタイプだったから、それなら、ということでそれ以上誘うことはしなかった。

7月下旬、初めて息子とふたりだけで帰省したが、彼女がいない夏休みはなんとなく物足りなかった。仕事もうまくいっていなかったし、いつもなら身近に楽しめる山口の海と山がなにやら遠いものに思えた。

10日ほどの滞在を終えたが、その間、電話して彼女から聞いたその内容が気になった。病院で精密検査を受けたら何やら異変がみつかったという。検査結果が出ないのではっきりしたことはまだわからないが、私が帰るころまでには出るとのことだった。

一方では、いつ見ても健康そうな彼女が重病にかかるはずはない。まだ30代の彼女がかかる病気なんて知れている、きっと軽いものに違いない、といった根拠のない想像ばかりをしていた。

今思うとこのときの自分のバカさ加減に本当にあきれてしまう。

きっと大丈夫さ、と思いつつもその一方で東京へ帰る気持ちは焦っていた。途中の中央高速では、知らず知らずスピードも出ていたのだろう。

5~6台が走行車線をだらだらと走っているのを、邪魔だなーと思いながら一気に抜かしたところ、しばらくたったあと、後方からサイレンが聞こえた。ハッと気が付いてバックミラー越しに見たら、白いセダンが追いついてきていた。

あっ、やっちゃったかな、と思ったがもうすでに時遅しだ。その覆面パトカーに次のサービスエリアまで誘導され、20kmのオーバーで切符を切られた。スピード違反といえばかれこれもう10年近くも経験していなかっただけに、ショックだった。

すぐ後ろのシートに座ってゲームをやっている息子には笑顔を向け、たまにはこういうこともあるさ、と強がりを言った。このころ小学校4年になっていた彼は苦笑いでそれに答えたが、はたしてこの状況をどこまで理解していただろうか。

このころちょうど夏の甲子園大会が開催されていた。運転中聞いていたそのラジオ放送でアナウンサーは、今大会屈指の投手のことばかりを話していた。相手チームのバッターに対して剛速球を投げ、次々と三振の山を築いているその選手の名前は変わっていた。ダルビッシュ。後年、大リーグに行くこの大物の名を聞いたのはその時が初めてだった。

いつもは15~6時間もかけて帰るところを、このときは12時間あまりで八王子に着いた。着くと同時に慌てて荷物を下ろし、玄関から入るとすぐそこに彼女が立って待っていた。いつもと変わらない様子で、ほっとしたが、車の荷物をすべておろして、ようやく落ちつくと、山口でできごとなどをかいつまんで話した。

だけど、と続けて帰りのスピード違反のことなども彼女に話すと、そう、大変だったのねーと言いながら、今度は自分からぽつぽつと病院での結果のことを話し出した。

実は…という。「おなかの中にわりィやつがいるらしくってねー」続いて彼女の口から出てきた言葉を聞いた瞬間、凍り付いた。まさか。

さらに彼女に問い質した。すると、まだそうとは決まったわけではなく、再度検査をしてみて、そのうえでさらに詳しいことをご相談しましょうと言われた、という答えが返ってきた。

「ご相談しましょう」というところが問題であることは明らかだった。何をどうご相談するのか、このさきどうなるのか、といったところを教えてほしかったが、彼女もまたそれに対するはっきりした答えを持っているわけがない。

できるだけ冷静を装いながら、そうか、そんな大変なことだったのか、一人にしてスマン、と素直に詫びた。彼女はそれに対して笑いながら、いいのよ、あなたたちがいない間、ひさびさにひとりでのんびりできたんだから、と本気とも嘘とも思えるようなことを言う。

嘘にきまっている。夜な夜な不安だったに違いない。一人どんなに寂しかっただろう、せつなかっただろう。そんなことも思いやってやることもできず、自分たちだけで旅行に出かけたことが情けなく、どうしようもなくふがいない自分を責めた。

その日は長い運転で疲れたこともあり、早めに休んだ。が、アルコールなしでは眠ることはできなかった。半分眠りかけながら、すぐ横に寝ている彼女を気にかけつつまた目が覚める。これから先どうなるのだろう、と思いつつも、いつのまにか睡魔に負けていた。

翌朝、少し頭も体もすっきりしたあと、彼女からこれまでのもう少し詳しい経緯を聞いた。それによれば、すでにわれわれが山口に立つ前から異常を感じていたらしい。いつになく咳が出るので、風邪にしては変だな、といつもは息子を連れて行く、かかりつけの内科へ自らの診察のために出かけた。

検査結果が出た。異常を感じたその医師はその場で、ここではこれ以上の詳しい事はわからないから、すぐに医療センターへ行きなさい、連絡しておくから、と彼女に告げた。

医療センターというのは、我々が居を構えているところから比較的近いところにある。南に向かって坂を上っていった先にある病院で、首都医療大学の附属病院だった。八王子の中では最も規模が大きく、我が家からは歩いていっても30分ほどで着く。

行きつけの病院から紹介状をもらって行った先は、産婦人科だった。そこでより詳しい病理検査を受けることになった。最初の検査結果から、それは陽性であることがわかり、それすなわちおそれていたものであること意味した。癌である。

彼女が「わりィやつ」と表現したものの正体がそれであった。次に彼女が受けてください、と言われた検査はそれがどの程度進行しているのか、今後どういった治療をすべきなのかの判断材料を得るためのものと推察された。

数日後、予定した時間に彼女は検査を受け、後日その結果をお知らせしますから、またいらしてください、と言われた、というところまでがここまで彼女が話してくれた経過だった。

首都医療大学付属病院・片倉医療センターというのがこの病院の正式な名前だ。八王子には都内に本部を持つ有名私立大学も多く、おそらくこの別院も、渋谷にあるその本校から研修医を派遣する教育機関的な意味合いもあって建設されたものだろう。

とはいえ、八王子では最高レベルの医療が受けられる病院として知られており、医療設備としても高度なものが揃っている。町のかかりつけ医ではできない検査や治療を受けるために連日多くの患者が押し寄せていた。地域医療の切り札的な存在だ。

二人でこの医療センターを訪れる日が来た。この日も平日であったにもかかわらず、多くの患者で溢れており、我々が待つ産婦人科の待合室もほぼ満席だった。9月も中ごろのことで、残暑が続く時期だがその日はかなり涼しかった。朝だったせいもあり、窓から入る日差しがむしろ心地よいくらいだ。

二人横に並んで座り、まるで若かったころのようにぴったりとくっついて座った。そしてお互いの体温を肌で感じながら長い時間を待った。去年の暮れ、大ゲンカしたことが嘘のようだった。強いきずなによって結ばれていることを改めて感じた。

しかしふと思った。病魔という、普段ならけっしてそばにいてほしくないものがその間を取り持っているのではないか。艱難辛苦は、時として人と人を結びつける。その関係をより一層堅固なものにする接着剤として作用するものなのかもしれない。

担当医に呼ばれ、診察室に入ると、検査結果について説明された。子宮頸がんという診断だった。子宮奥、産道に入る手前のくびれた部分に発する癌で、子宮がんに分類されるが、日本人女性が発する癌の中では最も発症率が高い。

後年、そのためのワクチンが開発されて、広く使用が勧められたが、副作用があることが報告され、現在ではその積極的な使用が控えられている。無論このころには望もうにもそんなワクチンはない。また、もしあったとしても間に合わなかっただろう。

続けてその医師が言うには、ステージ2か3の段階であり、摘出施術をすれば生存率は高いという。

初めて「生存率」という言葉を聞き、あらためて重篤な病気なのだという事実に愕然とした。彼女のほうをちらりと見たが、私と違って特段動揺しているふうもなく、ふだんと同じ冷静そのものの横顔がそこにあった。

結論としては、できるだけ早く手術をしましょう、ということになったが、その話に至るまでも彼女の反応はいたって普通で、本当はものすごいショックを受けているのではないかと逆に不安になった。

しかしそのあと家に帰ったあとも、「大丈夫、私元気になるから」という。その気丈な言葉を聞いて、落ち込みそうになっていた私のほうが逆に元気づけられた。あらためてわが妻ながらたいしたものだと見直した。




医療センターでは、手術による患部の摘出が最善の方法だと告げられた。しかし、私としてはほかに手段はないのか、と必死になって色々調べた。このころ、我が家でも小さいパソコンを購入しており、ネットでいろいろ検索できるシステムを手にしていた。

すると、温熱療法という新しい治療法があることがわかった。そして後日、関東地方で唯一その治療設備を持っているという多摩市にある病院を彼女を連れて訪れた。しかし、運悪く機械が故障しているといわれ、その治療方法はあきらめた。

ほかに、アガリクスやプロポリスといった天然自然食品を用いた免疫療法などのことも知り、そうした薬品も求めて彼女に与えてみた。しかしこうした薬品は高価だ。大量に購入して与えることができず、そのためもあってか、やはり急激な効果は認められなかった。

このほかにも四方八方ありとあらゆる可能性を探ったが、何も見つからず、最後にはやはり手術しかないのか、とあきらめざるを得なかった。

10月に入った。秋は深まりつつある。家のすぐ前の小道にある、例の自慢の八重桜を横目で見ながら病院に行く。その桜の葉っぱも、ついこのあいだまで青々としていたのに、既に枯れ始めていた。

実はこれより1年ほど前、そのうちの一本が突然何の前触れもなく倒れた。台風が来ていたわけでもなく、おそらく根腐れでもしたのだろうが、これにより我が家自慢の桜並木が歯抜けの状態になった。何か悪いことでも起きなければいいな、と思っていた矢先のことだったから、思わず彼女との関連を疑ってしまった。

前日の検査入院のあと、手術が行われた。午後からのオペだったが、当初は1時間か、1時間半くらいで終わるだろう、と聞かされていた。ところが、2時間経っても、それから30分経っても、一向に手術室の扉は開かない。

ようやく3時間近くも経ったころになって、看護婦が出てきた。今手術が終わりました、もうすぐ先生からの説明がありますから、ここでお待ちください、と言う。

このとき一緒にいてくれたのは、元看護婦だった義母であり、ふたり顔を見合わせて、言われたままそこに立って待った。しばらくして手術着のままの執刀医がやってきて、大変お待たせしましたと挨拶をしてくれた。

お世話になっております、とこちらが返すと、早速ですが、と手術の結果について話し出した。それによると、思ったより癌細胞と正常な臓器との癒着がひどかったらしい。それをはがすために相当時間がかかったとのことで、そして当初ステージ2という診断だったが、開腹して状況を見た結果、自分の判断としてはステージ4と考えている、という。

さらに、手元から金属の器を取り出し、摘出したばかり彼女の体の一部を見せてくれたが、血だらけのそれを見た瞬間、いきなりふっと気を失い、足元から崩れ落ちそうになった。

バランスを失いながらも意識はあり、なんとか持ち直したが、顔面は蒼白で、額に汗が噴き出てきた。倒れそうになっている私の横で、義母が医師に向かって何かを言っているようだがほとんど何も聞きとれない。

しばらくしてようやく気を取り戻し、二人が何を話しているかが少し耳に入ってきた。気を失いそうになっていたことは気取られないようにして、その会話に加わった。

しかし、頭の中は真っ白で、半分も理解していなかった。どうやらこのあとの治療法について話をしているようだったが頭に入ってこない。あとで義母に確認したところでは、経過をみて状態がよいようならば放射線治療に入りましょう、でもそれまでには傷が治る必要があり、時間がかかります、といったことらしかった。

ちなみに義母は私が失神しそうになったことがわかっていたらしく、よく持ちこたえてくれましたね、と後で正直に言ってくれた。数多くの修羅場をかいくぐってきた看護婦ならではであり、今後のことも考えると心強く感じた。

手術した彼女が退院して我が家に帰宅したのは、それから3週間ほども経ってからのことだ。11月に入り、季節はもう冬に入りかけていた。

このころから、治療の次の段階として放射線療法に入ることになった。しかし、医療センターは、これほど大きな規模を持つ病院なのにその治療室がないのだという。しかたなく、渋谷にある医療大学本校の治療ラボに通うことになった。

片道、車で2時間以上かかる行程は、手術してすぐの彼女にとって負担に違いなかったが、進みゆく病魔の進行を止めるにはそんなことは言っていられない。1週間に1度ほどのペースで、4回ほど出かけて行った。最後の回が終わると、それ以上は患者の負担になるため、やめておいたほうがいい、と主治医から言われた。

放射線治療の効果があったのか、その年の暮れまでの間、彼女の容態は安定していた。年末になり、久々に実家でゆっくりしたい、と彼女が言うので、それなら、と彼女の両親に任せることにし、こんな時に、と思いながらも息子と私は夏に引き続いて山口に帰省することにした。

気晴らしの意味もあったが、このころ私は一人で家事をやるのも面倒なほど精神的に疲弊していた。帰省すれば、息子の面倒は自分の両親がやってくれる。山口のひなびた風情が気持ちを和らげてくれることも期待した。

しかし、東京の家内のことを考えるとどうしても気持ちが落ち込んだ。以前、彼女をひとりにして、帰省したことなども思い出される。あのときはその後の帰郷で、悪い報告を受けた。

今回も同じように何か悪いことが起きなければいいが、などと考えながらの山口行が楽しかろうはずはない。心晴れぬまま彼女のいない年末年始を終え、ふたたび八王子の我が家に帰った。

しかし幸いなことに、今回は事態に大きな変化はなかった。帰京後、彼女のほうは、正月にひさびさに両親と三人で過ごし、楽しかった、と言った。確かに11年あまりの結婚生活の間、彼女が両親と水入らずで過ごした時間というのはほとんどなかったかもしれない。

良い時を過ごしたな、と思ったが、「最後の時間」という言葉が頭に浮かびかけてきて、思わず首を振った。こうして我が家に帰ってきた彼女と私、そして息子と過ごす時間もまた残り少ないのかもしれない、と思うと泣けてきた。



その後およそ3カ月間彼女は自宅で過ごした。入退院を繰り返していた昨年後半にくらべれば落ち着いた日々だったが、病魔は確実に彼女の体を蝕んでいた。

ただ、彼女は気丈だった。「私元気になるんだから」と前と同じことばを時々口にした。リハビリ、と称して、よく散歩にも連れて行った。長距離は歩けないので、車に乗せて実家の近くの浅川まで行き、その川沿いを、ふたりでゆっくり歩いた。東京の冬の日差しは暖かい。天気の良い日も多く、この二人きりの散歩は私自身も気晴らしになった。

しかし、最初は500mほども歩けていたのが、次第に歩けなくなった。100mほど歩いて休み、また50mほど歩いて休む、というふうにだんだんと距離が短くなる。最後のほうは連れ出しても、もうほとんど歩けないほどになった。

歩けなくなったのには理由があった。手術したすぐあとの診察から、このあとだんだんと足にむくみが出てくるだろう、と言われていた。

摘出した患部を中心に水が出て、下肢にそれが溜まりやすくなるらしい。詳しいメカニズムはよくわからなかったが、だんだんとむくんでくるその足を毎朝毎晩さすってやるのが私の日課になった。

最初は一人で立ってトイレにも行けていたが、2ヵ月も経つと、歩行が困難になってきた。風呂に入るのにも母親の介助が必要となり、補助のために手すりや専用のいすなども買い付けてきて据えた。

術後に、執刀医からすべての腫瘍を取り切れなかったので、もしかしたら転移があるかもしれない、といわれたが、この段階ではそうした兆候は見られなかった。しかし、むくみはさらにひどくなる一方で、3月なかばになってから、担当医から、そろそろ再入院を考えましょうか、と言われた。

春まだ浅いころの朝、彼女は住み慣れた我が家を後にして、再び入院した。家を離れることに彼女自身とくに感慨はなさそうにみえたが、平静を装っていたかもしれない。むしろ私のほうがセンチになっていた。おそらくここへはもう帰ってこれないだろう…

4月。病院に行く途中の沿道には桜が咲いているはずだったが、この年はそれを見た記憶がない。

ある晩、急に彼女が倒れたという連絡があった。慌てて病院にかけつけると、彼女自身はそのことを覚えていないらしく、ベッドに寝たままぼんやり天井を見ていた。その目のまわりには、転んだときに作ったらしい、黒いあざがあった。翌日、CTスキャンの結果から、ついに恐れていたことが起こったことがわかった。癌はついに脳に転移していた。

転倒したのは、おそらく脳へ腫瘍が転移したことによる何等かの機能障害だろう、と主治医が教えてくれた。

それは、残された時間がいよいよ少なくなったことを意味していた。はたしてそれを息子に伝えるべきかどうか迷った。

このころ、病院のカウンセラーの女性が私に話しかけてきた。こういうときにいろいろご相談に預かるものです、という。話の内容は、残る時間が少ない時こそ、息子さんに事実を話し、お母さんとの間に記憶に残るものを作ってあげる方が良いのではないか、という提案だった。

それは考えないではなかった。しかし、息子はまだ小学5年生だ。それを伝えることによる衝撃の方を心配した。情緒不安になり、何らかの障害が生じないか。元看護婦の義母にも相談したが、やはり私と同じ意見だった。最後まで黙っているしかない。

辛い日々が続いた。午前中仕事をし、午後から見舞いに行く。朝は義母が彼女をみていてくれている。昼からは私。交代交代の看病だった。午後の私の番では、2時ぐらいから2時間ほどいるのが普通だったが、息子が義母宅へ行っていることもあり、そういうときは夕方遅くまで病室にいた。

その息子の学校のことや、最近の話題、テレビ番組のことなどをひとしきり話すと後は何もしゃべることもなくなる。ただ黙って彼女のむくんだ足をさすってやる。それだけで時間が過ぎていった。

あるとき、昔撮った写真アルバムを持って行ったことがある。写真が趣味の私は、10年来、家族の写真を撮ってきた。それを貯めこんだものが、十何冊もあり、それを持っていって、日がな二人で眺める、ということがその後しばらく続いた。

あるとき、彼女がぽつりといった。「やーねー。しみじみしちゃって。」

いろんな意味が含まれていると思った。しみじみと昔を思い出したりして、二人とも年とったわねー、の意味もあるだろう。しかし、もうすぐお別れね、という意味にとれなくもない。どうしようもなく悲しかった。

最後の日が近づこうとしていたある日、息子を伴って見舞いにいった。この時もうすでに彼女はかなりやせ細っていて、手首の肉もほとんどないほどになっていた。それを見た息子が、突然、「骨じゃん」と口にした。

とたんに彼女はシーツで顔を覆い、嗚咽しはじめた。それを見た息子はバツが悪そうな顔をしていたが、悪気があって言ったわけではなかっただろう。怒る気にもならず、そっと病室から連れ出して、「かわいそうだよ」とだけ言った。

うつむいていたが、それを聞いてコクンとうなずいたようにも見えた。もとより背のあまり高くない彼だったが、いつもよりもずっと小さく見えた。自分を責めているのは痛いいほどわかった。

彼が母親を愛していたことは疑いもない。久々に顔を出して何か勇気づける言葉をかけようとし、冗談のつもりが、思わず口をついて出たのがあれだったのだろう。かわいそうだよ、ということばで軽く諫めたつもりだったが、彼こそが、かわいそうでしかたがなかった。

それから10日もたたないうちに彼女はもうしゃべれなくなっていた。見舞いに行ってとれるコミュニケーションはすでに、アイコンタクトと手ぶりだけになっていた。私が来ると、目を合わせ、少し微笑んで指先で足元を指さす。足をさすってね、の意味だ。

うなずき、以前会話ができたときと同じように、彼女をみて微笑みながら、無言で彼女の足をさする。そうした日が数日続いた。

その日、いつものように朝仕事をし、昼食を食べたあと、リビングで昼寝をしかけていた。そのとき突然電話が鳴った。あわてて飛び起きて出ると、相手は義母だった。様子がおかしいので急いできて、と言われた。

すぐに、玄関を飛び出て、階段を駆け上がり、車に飛び乗った。ところが、そんなときに限って、なぜかその先に車が止まっている。どうやら隣の家に何かの荷物を届けに来た業者のものらしかった。まわりのことなど構っていられるときではない。大音量でクラクションを数回ならすと、隣の家から持ち主らしい女性があわてて飛び出てきた。

私を見て眉をひそめたが、ただならぬ様子をみて何かを悟ったのか、あわてて車に乗りこむ。それが発進して前が空くのを待つのももどかしく、猛ダッシュで自分の車を出し、病院に向かった。

家から病院までは車なら10分程度の距離だ。しかしそれがまるで何時間にも感じられる。病院の駐車場に着いたが、そこにはゲートがあり、コインをいれなくてはならない。いらいらしながらそれをやり、病院入口に一番近いところで乗り捨てるように止めると、再び猛ダッシュで彼女の病室のある階へと駆け上った。

ナースステーションの前まできたとき、私を待っていたらしい看護婦に出会った。急いで!と言われるのかと思いきや、意外にも冷静にうなずき、病室のほうを指さす。意味かわからなかったが、ともかく扉をあけて中に入ると、そこにはもうすでに意識もなく横たわっている彼女がいた。

茫然と立ち尽くしていると、すぐにひとりの医師が看護婦を伴い病室に入ってきた。そしてまるで何かの儀式のように彼女の脈をとり、やがて私に向かっておごそかに告げた。「ご臨終です。」

おそらく、その少し前からもう既に彼女の脈はなかったのだろう。ただ、私が来るのを待ち、その時をもって彼女の死を確認したことにしてあげたい、という病院側のはからいだったに違いない。

やがて医師と看護婦は出ていき、入り口のドアが静かに閉まった。誰もいなくなった病室。そこには私と亡骸となったばかりの妻の二人しかいなかった。おずおずと彼女に近づき、顔を彼女の胸に押しつけ、泣いた。そして何度も何度も彼女の名前を呼んだ。

何度呼んでも返事がないのはわかっていた。そのとき突然こう思った。「これもまた儀式だ。いつまで泣いていてもしょうがない。」

ついで静かにたちあがり、ドアを開けて外に出た。今、やらなければならないことがある。

それは息子を迎えにいくことだった。せめて彼女の臨終にできるだけ近いところで、彼をひき合わせなければならない、なぜかそれが親としての務めだと思えた。

その時部屋の外にいた義母にどう声をかけて出て行ったのかもよく覚えていない。看護婦には息子を迎えに行ってきます、と伝えたと思う。ふらふらと出ていき、息子の学校の駐車場に車を止めたときにはもう普段の自分に戻っていた。

職員室で来訪の目的を告げ、彼の教室がどこかを教えてもらった。授業中だったらしく、中で教えていた先生に促されて外に出てきた彼。その先生は彼に何かを告げ、次いで私の顔をみて、うなづくとまた教室の中に戻っていった。

廊下に二人だけ残され後、彼に言った。「お母さん、先に逝っちゃった。」

それを聞いたととたん、彼は廊下に泣き崩れ、片手でフロアをたたき始めた。声を上げるでもなく、ただ単に叩き続ける。しばらく自由にさせたあと、立ち上がった彼の肩をそっと抱いて廊下を引き返し、校舎を出た。

病院に着き、ついさきほどまでいた病室の前まで彼を伴い歩いて行った。しかしそのとき、病院側では彼女に死化粧をしていた。手に包帯を巻き白い布で顔を覆うそれをやっている間、部屋の外で待たされ、息子はいらいらしながら廊下にある長椅子に座っていた。

そんな必要もない準備をもどかしく思っていたのだろう。終わったと聞くや否や、「ええいっ」と声を荒げ、病室に飛び込み、母親に取り付いた。そして初めて大声で泣き始めた。

「おかあさん、おかあさん、おかあさん」

何度も何度も呼び続けるその声が永遠に私の頭の中に残った。

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本稿の内容はすべて事実に基づいたノン・フィクションです。ただし、登場する人物名は仮名とさせていただいています。また地名や組織名についても、一部は実在しない名称、または実在する別称に改変してあります。個々のプライバシーへの配慮からであり、また個人情報の保護のためでもあります。ご了承ください。

夢の途中 12 再会

それから15年あまりが経った。

年号は平成から令和に変わり、いま私はこうしてこれを出張先の中国で書いている。

日本から回り込んできた台風が残したものは、大雨だった。目の前の松花江は連日増水し続け、先日ピークを迎えたが、今もまだ水位は下がる様子はない。ここ二週間はずっと待機しつづけで現場はほぼ封鎖状態だ。

もっとも事務が主作業の私にはあまり関係なく、むしろありがたいくらいだ。仕事を早めに終え、空いた時間があれば、せっせとこの自伝を書いている。まるでそれを書け、というかのようなこの天啓は、そういう流れなのだろう。

流れがあるときはその流れに乗る、というのがごく自然な生き方だと思う。いま自分の過去のことを書いていて、何度もそういう流れがあったことを思い出している。

ただ、昔はそういうことはまるで知らなくて、単に偶然だとばかり思っていた。

これまでの人生の中でも最もセンセーショナルな出来事のひとつ─ 先妻との出会いもそうだ。同じ時期、同じ職場で出会い、しかも同じ町に住んでいた、というのはどう考えても偶然ではない。結婚適齢期の男女ということで、年齢差もまるでおあつらえむきだった。

二人だけのことではなく、それに巻き込まれたそれぞれの両親もまた、我々二人が結びつくことで多くを学んだに違いない。すべてはそのために起こった、と考えるのが自然の流れだ。子供ひとりと夫を残し、自分だけが去る、というのも、生まれる前から決めていたことだったのだろう。

自分だけで決めたのか、いや、二人で決めたのかもしれない。もしかしたら、その相談に今の妻も入っていたかもしれない。

何のためだったかのひとつは明らかだ。

私の魂の成長を促すためだったろう。

ただ、ほかに必要だったことはなかったか、見逃していることがないか。考え始めている。

すべては必然。

だとすれば、今目の前で溢れかえっている水の流れもまた意味があることなのだろう。

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亡き妻の告別式には、およそ100人もの人が集まった。ちっぽけな会社の社長の妻の葬儀にしては多いほうだろう。

もっとも、集まった人の誰もが私を社長とは思っていない。会社関係者は皆無だ。その多くは息子の幼稚園時代から小学校時代までの彼女の交友を通じて集まった学校関係の人たちである。そのほか高校時代までの友人、地域の自治活動を通じて知り合ったひとたちも参列してくれていた。

さらに夫婦それぞれの親戚もいる。それらを含めてこの数になったわけだが、それにしてもこれだけの人が集まったということは、故人にそれなりの徳があったということだ。誰もそれを否定しまい。

暦は5月に入っていた。告別式を催した寺には、自宅前と同じ八重桜が数本あり、そのピンク色の花で境内は彩られていた。

霊柩車に棺が運び込まれ、いざ出棺というとき、参列者に対して挨拶をするよう、父から促された。喪服を着た多くの人の視線が私に集まった。来客を端から端まで見渡し、やがて私は静かに口を開いた。

「ご多忙の中、亡き妻の葬儀にお集まりいただき、ありがとうございました。幸いにも今日はこんなにも良い天気に恵まれ、その中をこれほどまでに多くの方に参列していただいたことを故人も喜んでいると思います。」

そして、満開に咲いている桜のほうを見ながら、こう付け加えた。

「今日はこんなにもきれいに八重桜が咲いています。まるで亡き妻を見ているような気がしてなりません。みなさん、この季節になってまたこの花が咲くのを見たら、こんなにもいい子がいた、ということをどうか思い出してやってください。」

語り終わると妻が納められている棺を載せたワゴンに乗り込んだ。火葬場へ向かう車列が出発した。運転手がクラクションを長押しし、プワーっという長い音が境内に鳴り響いた。その悲しげな音は、あとあとまで耳に残った。

以後、私は、八重桜の咲くこの時期に亡くなった彼女を思い、彼女が亡くなった4月28日をひそかに「八重桜忌」と呼ぶようになった。

葬儀のあと、しばし茫然とした思いで日々を過ごした。幸いにも仕事を持たない両親がその後1ヵ月にわたって滞在してくれて助かった。

息子は、葬儀のあと数日ほどほとんどしゃべらなかった。見た目は元気そうだったが、一人で部屋にこもれば、きっと泣いているに違いない。かくいう私も、父母や息子から離れ、ひとりになると涙が出て仕方がなかった。

一ヵ月ほどが過ぎ、父母は山口に帰っていった。また親子ふたりだけの生活が始まった。彼女が入院していた時と同じ状況だったが、あのころと違い、待っていても帰って来る人はいないのだ、という現実を改めて思い知らされた。

仕事のほうはあいかわらずかんばしくなかった。いろいろ手を変え品を変えて、違う角度からアプローチを続けてみたが、好転はなさそうだ。ただ、仕事以前の問題として、いかんせん、何をやるにも気力が湧いてこない。

夏になるころまでには、ほとんど続けていく意思を失った。開店休業状態でもあったので、HP上の店は閉め、関係者とも連絡を取って事実上閉店した。

季節は夏に入っていた。このため、息子の夏休みに合わせ山口に帰省して、その夏はほとんどをそこで過ごした。この年はオリンピックイヤーで、テレビでは連日日本人選手の活躍を流していた。しかし、ぼんやり見ていた中で、誰がどの競技でどんな色のメダルをもらったのか、ほとんど覚えていない。

ある天気の良い日、かつて三人で行った場所をふたたび訪れた。県北の豊北にある角島というところで、近年、青い海と白浜で有名になり多くの観光客が訪れる人気スポットになっている。そこに両親と息子を伴って海水浴に出かけた。

といっても、このとき父はもう80近くで、母も70を過ぎていたから海には入らない。波にもまれている息子と私を、ふたりで浜に座って見ているだけだった。

台風余波のやや時化気味の海に二人浮いているだけだったが、時折、大きなうねりによってそれこそ数メートルも持ち上げられたり、下ったりで、息子は大喜びだった。

彼が波に流されないよう、しっかりと彼が身に着けた浮き輪の紐を持っているのが私の役目だったが、波にもてあそばれながら、浜の方を見ると、白いタオルでほおっかむりをして並んで座り、二人を見守ってくれている両親の姿が見えた。

父はこの場所が好きで、家内がまだ元気だったころの我々の海水浴にもよくついてきた。一人でエメラルド色のこの海に入っては、日がな一日、そこで気持ちよさそにぷかぷか浮かんでいた。ふだんみたこともないそんなうれしそうな父の姿が、今も思い出される。

母と二人で仲良く並んでいる元気な父の姿をみたのは、結局それが最後になった。

そのあとの秋も深まるころ、夜中に突然、母から電話がかかってきた。何事かと思って電話に出ると、父が倒れたという。多少混乱しているようだったので、落ち着かせてから話を聞くと、風呂の脱衣所で突然倒れたらしい。

あわててすぐ隣の夫婦に助けを求めに走り、彼らが呼んだ救急車で運ばれたようで、どうやら電話はその先の病院かららしい。すぐに私からも広島の姉に連絡をとり、山口に向かうよう頼んだが、こちらは移動しようにも夜半を過ぎており、身動きがとれない。

あとで、駆けつけた姉からもらった連絡によれば、幸いにも、すぐに命に係わる事態ではなさそうだったので、翌日一番の電車で山口に向かった。

実家から歩いて10分もかからないところにある救急病院に駆けつけると、既に姉のほか姪がやってきていた。このころこの姪っ子は離婚し、一人息子を広島で育てながら働いていたが、ちょうどこの日は休みか何かだったようだ。

すぐに階上の病室に上がり、そこにいた母に父の容態を訪ねると、今のところ落ち着いているという。しかし、昏睡状態であり、意識が戻るには3~4日はかかると医者から言われた。倒れた原因は脳梗塞ということだ。

風呂に入る前に裸で体重計に乗ろうとした。しかし、暖かい部屋から冷たい脱衣場で服を脱いでそれをやったのがいけなかったらしい。脳の血管は急速に委縮し、それが血流を止めた。意識を失ってどすんと背中から倒れたが、その大きな音を聞きつけた母がかけつけたときにはもう口から泡を吹いていた。

とりあえず意識が回復するまではやることもない。数日実家に泊まったが東京に息子を残していることもあり、出直ししてくることにした。もっとも家内が亡くなったあとは、こうしたことがあるたびに義母がうちに来てくれるようになっていたので、彼女になついている彼をひとりにしてきても大丈夫だった。

一週間後に父は意識を取り戻し、片言ながらしゃべれるようになるまで回復した。しかし左半身を中心にかなりひどい麻痺があり、医者によればもう自宅に帰るのはかなり難しいのではないか、という。

それはつまり何等かのリハビリ施設に入ることを意味していた。両親は、ふたりともかなり長い間勤め人をしていた。そのおかげで、年金は比較的多い。それほど高額な医療施設でなければ入所は可能だった。しかし、問題は空いている施設が少ない事であり、高齢者の多い山口市内ではそれを見つけるのはなかなかに難しかった。

幸いなことに、母と一緒に編み物教室に通っている女性の夫が元県庁に勤めていたこともあって顔が広く、そのつてを頼った結果、郊外に入院先をみつけることができた。市の南部、小鯖にある施設で、日当たりもよく施設も充実していた。ここなら安心して父を預けることができると、安どした。

父はそれからほぼ2年間そこにいた。なんとかバス通いできる場所にあったので、運転免許をもたない母は、その後週一のペースで、そこに通った。

息子を連れて何度か私もそこを訪れ、父に面会した。回復が進むにつれ、聞き取りにくいながらもかろうじて会話ができるようになっていた。ただ、脳機能に障害が残り、普通の会話はできにくい。しかし、私が息子を連れてきているのを見ると、ひどく喜んだ。父は昔からこの孫が大好きだ。

父がここに入所したのは2006年の2月だったはずだ。そのすぐあと、今度は、東京の義父が入院した。

家内が亡くなったあと、彼の落ち込みようはそれはひどかったらしい。毎晩夜遅くまで酒を飲み、彼女の写真を目の前に置いて泣きながら酔いつぶれて眠ってしまう。そんな生活を毎日のように続けていた、とのちに義母から聞いた。

酒に酔った勢いにまかせて、私と結婚させたことが間違いだった、と言ったこともあったらしい。目に入れてもいたくないほど彼女を溺愛しいたから無理はない、と思った。

もし私がいなければ、ああした婦人科系の病気にはならなかっただろう、と私も少なからず自分を責めた。どうにもならないことだったが、結果に対する原因があるとすれば、我が身がその大元であるに違いない。義父が荒れた理由はそこだったろう。ただ、その荒れようは激しく、そうした気の病がいつのまにか体を蝕んでいったに違いない。

もとよりヘビースモーカーだった。このころはかなり控えめにしていたようだが、ひどく咳をするようになったため、病院へ行って精密検査をしたところ、肺癌だと診断された。

すぐに市内の病院に入院したが、その少し前、一度息子を連れて自宅に見舞いに行った。意外に元気そうだったが、医者に言われて好きな酒を控えていると聞き、かわいそうに思った。ほんの少しだけ、という約束でビールを酌み交わしたが、そのときぽつりと、「覚悟はしている」と言ったのが印象的だった。

この年の夏、義父は日の出町にある、末期の患者ばかりが入る病院に転院したが、やがて、秋になってから亡くなった。彼女の死からわずか2年も経たないころのことだった。いけないとは知りつつ、もしかしたら彼女が呼んだのかな、という思いが頭をよぎった。




この義父同様、私自身も泣き妻の死に長い間苦しんだ。しかし、一周忌を迎えるころから徐々に立ち直り始めた。とくにきっかけがあったわけではないが、自分はまだ50歳にもなっていない。まだまだこれからやれることはある、いや、やらなければならないことが待っているかもしれない、そう思うと少し元気が出てきた。

気持ちを切り替え、自堕落になっていた自分をもう一度鍛えなおそうと思った。彼女を看護する中、ストレスのためか、急激に増えた体重を10キロほども落とし、再びジョギングを始めるようにもなっていた。

仕事面では、かつて勤めていた会社の同僚に誘われて、防災関係のNPO法人に入ることにした。半蔵門に事務所開きしたその組織に通い始めたのは、義父が亡くなるちょうど一年ほど前の年の秋のことだ。

自分で経営していた会社は、名前を変えてそのNPO法人の関連会社とすることにした。このため、形式的ではあるが、そこの社長も続けることになった。一方で、NPOのほうでは研究員の名目で職員となり、主にここから給与をもらうようになった。

その組織を立ち上げたのは、前の会社で情報部門の次長をしていた人物だった。かつて出向していたWEMで同じ時期に職員だったことがあり、それが縁で今回のようなことになった。もとからやり手で、東大などの防災関係の有識者のコネをうまく使っては、大きな仕事を取って来ていた。

やがてそうした有識者たちと意気投合し、独立しようということになり、このNPOを立ち上げた。しかしメインとなるスタッフが足らず、そこへおあつらえむけに私が現れた、というわけだ。

ふたたび宮仕えすることに抵抗はあったが、このころの私は、ひとりだけで仕事を続けていることに萎えていた。久々に連絡を取ってみたところ、一緒にやろうと言われ、その要請を受けたかたちだ。これまでやったことのない防災という新しい仕事に多少の興味もあった。

しかし所詮は官公庁の仕事だ。津波対策など多少自分の専門に近い仕事もあったが、どれもお役人の自己満足で作ったような業務にしか見えなく、面白いと思ったことは一度もなかった。それでもそこそこの給料をもらえるから、そのころ急激に目減りしつつあった我が家の金蔵も多少はうるおうようになった。

義父の亡くなる少し前のまだ暑い9月のころ、その日は自宅で、会社が今のような形態になる前の残務整理などをしていた。NPOにはほぼ毎日出所していたものの、関連会社の社長であるからある程度の時間の融通は効く。夕方までに仕事を終え、息子が返ってくる前にくつろいでいたとき、ふと今日はポストをまだチェックしていないことに気づいた。

玄関を開けて、門柱横のポストを探ると、一通の封書がある。ダイレクトメールのような類ではなく、直筆で宛名が書いてある封書だから、私の住所を知っている誰か旧知からの手紙に違いない。

取り出して裏の差出人をみると、そこに書いてある名前はなんとなく憶えがある。しかし、誰だっただろう?と思い出せない。家の中に持ち帰って封を切り、入っていた手紙を開くと、そこには思いがけないことが書いてあった。

来年の正月に、30年ぶりの高校同窓会をやる、ついては出欠の連絡を返すとともに、音信不通になっている同窓生への連絡を乞う、という内容だった。

手紙をくれたのはかつての同級生のひとりであり、それを読んで急に顔を思い出した。しかしそれにしても、高校時代にはそれほど親しかったというほどでもない。なぜここの住所がわかったのだろう、といぶかしんだ。

かつて大学時代に恋した彼女が私の現在の住所を知っているはずはなく、どこからここを知ったのかまるで見当はつかなかった。しかし、そのときふと、数年前に親しかったクラスメートから夜半突然に電話がかかってきたことを思い出した。

電話の趣旨はどうしている、元気か?ということだったが、それに加えて、今、広島では有志が集まって、ひさびさの同窓会を検討している、という内容だった。たしか、日程が決まったら知らせるから、おまえもそれに合わせて帰ってこい、と言った。

その電話をくれた彼は広島在住だったが、このほか東京に出てきて就職した同級生が何人かおり、渋谷に勤めていたころは、何回か一緒に飲みにいったこともある。とくに仲の良かったヤツもいて、下宿が近かったこともあり、その彼とは休日によく遊びにも行ったりしていた。

おそらくはその彼あたりから、かつての会社の名前を聞いたのだろう。移転先の聖跡の職場に連絡すれば、自宅の電話番号がわかる。八王子に住み着いて以来、電話番号は変えていなかったから、それをたどれば、結婚後の住所もわかるはずだ。それにしてもそこまでして自分を探し当ててくれたことがありがたかった。

妻を亡くしたあと、親しくつきあっている友人もほとんどいなかったから、このイベントのことを聞いたときには正直うれしかった。懐かしい面々にひさびさに会える、しかも30年ぶりに、ということで、がぜんテンションがあがった。

さっそく、その手紙の持ち主に連絡をとると、まずは、東京で知っている同窓生へ連絡してくれ、という。かつて親交があった面々の連絡先はまだ捨てずに持っていた。なので、数日後には、関東のあちこちにちらばっていたそれら十数名の同窓生のほとんどと連絡がとれ、正月同窓会があることを伝えることができた。

その中のひとりに、つくば市で居酒屋をやっている同窓生がいた。もと野球部のキャプテンで、当時からなかなかのリードオフマンだ。電話をしたときは、夜11時を過ぎていたが、ちょうど店じまいをする時間だったらしく、他の旧友たちの近況の話に少しく花が咲いた。

このころ私は気象庁の仕事で頻繁につくばに行っていた。それを聞いた彼は、今度出張につくばに来たときうちに来い、ご馳走してやるから、という。社交条令ではなく、ぜひぜひということだったので、その後2週間ほど経った後に本当に出かけていった。つくば駅から車で15分ほどの郊外にある店で、「鳳凰クラブ」という店だ。

およそ30年ぶりになるその彼は昔とほとんど変わっていなかった。野球部のキャプテンだった当時と同じく丸坊主で、ただその頭には白いものが多く混じり、年月の隔たりを感じた。

入口に「一見さんお断り」の張り紙がしてある。中に入って本当か?と聞くと、笑顔でそのとおりだという。近くの研究所や大学関係者、病院関係者がよく来る店だということで、比較的高収入の人たちを常連客として取り込み、商売が成り立っているらしい。

しゃれた円形のカウンターが中央にあり、そこに細身の彼が立つと、シックな雰囲気の内装と妙にマッチしていた。高校時代、グラウンドでボールを追う彼の姿が脳裏に浮かび、そういえばあのころからこういうユニフォームが似合うやつだったな、と思い出した。

ちょうど昼時だったので、ランチをごちそうになることにして、その間ふたたび昔話やら同窓生の近況やらで話が盛り上がった。その日は仕事も兼ねての出張だったが、打合せは午前中に終わっていたので、2時間近くもそこにいたと思う。帰りがけに、何かを手渡された。手土産だというから、何かと思って中をみたら何かのリストだった。

なんでも、数年前に、広島で山水会の大会があたっときに手に入れたものだという。山水会とは、同窓生同士が助け合い苦労を分かち合おうという趣旨で設立されもので、この会で作成したリストには、ある時期以後に母校から卒業した人すべての住所や電話番号が掲載されている。無論、プライバシーの侵害になるため、一般には公開されていないものだ。

持ち帰り、中をみると、かつての初恋の相手の連絡先もそこにあった。懐かしく思い、会ってみたい気もしたが、今はそんな場合ではない。

今回の同窓会の対象となるわがクラスの面々のページを開くと、なるほどかつてのクラスメートの最近の住所や電話番号が書いてある。さっそく電話をかけ始めた。多くはそのまま連絡がつき、その連絡がついた相手からさらに不通だった同級生へも連絡をしてもらう、という芋づる方式で次第に輪が広がっていった。

と同時に、先に同窓会の案内をくれた彼が、ウェブ上にわがクラス専門のHPを立ち上げてくれた。誰でも書き込みができる形式で、時系列的にその内容を閲覧できる。かつての恩師のあだ名は「センコー」だったので、誰からともなく、これを「センコーズHP」と呼ぶようになり、目指す正月の集まりは「センコーズ同窓会」になっていった。

このHPで同窓会熱はまた一気に高まり、毎晩のように誰かが何かを書き込むようになった。近況をはじめ、まだ見つかっていない誰かがどこかに住んでいるらしい、といった情報が寄せられるようになり、これによってまだ行先がわかっていなかった同窓生のほとんどの連絡先が明らかになった。

中には途中で転校し、現在は他県に住んでいる女性をネット検索でみつける、という珍しい例もあった。結婚して姓が変わっているはずだが、試しに結婚前の名前で検索したらヒットし、そこにあった電話におそるおそる電話をしたら、当人だったという。

つくばのリードオフマンとはその後も連絡を取り合っていたが、その後、その他の東京在住の面々とも頻繁に電話で話をするようになった。この東京にいる面々だけで、30年ぶりの同窓会をやったのは、それからすぐのことだ。

11月になっていたと思う。東京は丸の内で開いたその会合には、10人近くが集まった。ほほとんど変わっていない連中がいる一方で、まったく変わってしまったやつもいて、30年という月日の流れを感じてしまった。かくいう私は最も変わったと言われた。

しかし、しばらく飲み交わしているうちに、すっかり昔に戻った。一次会だけでなく、二次会になだれ込むころには、もうすっかり打ち解け、昔と同じように俺お前になり、丸の内のビル街の中を、高校時代と同じように、みんなでふざけあいながら帰った。広島弁まるだしで。

楽しかった。たったこれだけの人数で盛り上がるのだから、次の正月の同窓会はどういったことになるのだろう、とさらに期待は高まった。

ちなみに、その後もこの東京在住の面々とは毎年のように同窓会をやるようになった。鳳凰クラブでの貸し切り同窓会も何度かやった。そしてこの会を私は「関東組センコーズ」と呼ぶようになり、その面々は今でも最も大切な古い友人たちになっている。



一方、大学時代の例の失恋相手への連絡においては、当初ちょっとした波乱があった。

こちらからの最初の電話は、鳳凰クラブの主から名簿をもらった時にすぐにした。大学当時のことがあるので当然戸惑いはあったが、思い切ってかけたところ、留守電に切り替わった。このため、自分の電話番号を伝え、電話を乞うとだけ告げて切った。

ところが、このメッセージを残していたことを私はすっかり忘れていた。その他の同窓生への連絡もしている中で話し込んでしまい、この夜多少アルコールが入っていたこともあって、最初に彼女に電話したことはすっかり忘れ去っていたのだ。

翌朝、半蔵門の事務所に通勤する途中、携帯電話に突然電話がかかってきた。こんな時間に誰だろう、と思って出ると、それは聞きなれない女性の声だった。「どなたですか?」と聞くと「中山です」という。はて、どこの中山さんだったろうか、と思いあぐねていると、中山タエ子です、という。

そこではじめてあの彼女だとわかったが、昨夜彼女に電話したことをすっかり忘れていて、思わず「なんでこの電話番号を知っているの?」と切り返した。これに対して「あなたが電話してっていったんじゃない」と言われてしまった。

これがおよそ30年ぶりに彼女と再び交わした会話である。よく聞きなおすと、電話の持ち主の声はたしかに昔と変わらず、その向こうにある姿もまた大学生当時のままの彼女だった。

今仕事に行く途中だからまた電話をするよ、といって切り、その夜ふたたび電話をし、近況を教えあった。聞くと彼女はまだ結婚しておらず、独り者だという。今の自分が一人であるということもあり、それに懐かしさも手伝って、以後何度か電話やメールでやりとりをするようになった。

そうしたなか、若いころ彼女にうつつを抜かしていたころの恋心が急激に蘇ってきた。あげくのはてに大胆な提案をするに至る。それは、近々山口に帰る用があるから、同窓会前に久々に二人だけで会わないか、というものだった。

これに対して彼女は急にガードを上げた。無理もない。30年という月日がどれほど相手を得体のしれないものに変えているかもわからない。まして、一度結婚をし、子供までいる相手だ。急激に距離を縮めるのは危険だと判断したのだろう。それ以後、シカとされぷっつりと連絡がとれなくなってしまった。

途方にくれたが、ここに救世主が現れた。先の東京同窓会で一緒だった女性だ。高校時代の最後のころ、卒業アルバムの編集委員を一緒にやったことがある。卒業後、同じく東京に出てきて就職し、渋谷時代にはほかの仲間ともときどき遊びに行っていた。

クラスの女性陣の中では一番話しやすい相手の一人でもあった。先の東京同窓会で教えてもらったメルアドで連絡をとってやりとりするうち、お互いの近況を知らせあうようになっていたから、ある日彼女とのことについても触れた。次いで、現在の窮状を訴えたところ、おもいがけず、「助けてあげる」という。

先妻と以外、ほとんど恋愛経験のない私は、女性への接し方が相変わらず下手くそで、メールひとつにしても、とんでもないことを書いていたりしたらしい。

以後、そうしたことにもアドアイスをくれるようになり、いきなり電話をしてはダメとか、メールにあまり過激なことは書かないようにとか、具体的なてほどきをしてくれるようになった。まさに恋のキューピッドだ。

そのせいもあり、ぷっつりと途絶えていた彼女との連絡もどうやらとれるようになり、同じく途絶えていたHP上への彼女の書き込みも久々に見られるようになっていった。

12月になり、正月3日の同窓会の日が次第に近づいてきていた。会場は広島一番の繁華街、八丁堀にあるグランドイーストホテルで、これは広島でも一流と言われている。いいところで行われるのだからと、せいいっぱいのおめかしをしようと考え、このころから背広やコートなどを買いそろえるなどの準備をいそいそと始めた。

年の瀬の迫った12月10日のこと。自宅で仕事をしていたところ、突然携帯電話が鳴った。誰からだろうと表示をみると、母だった。既に年明けに同窓会があることを伝えてあり、年末には息子を連れて帰るよ、といってあったから、そのことだと思った。

庭に出て通話ボタンを押して話始めたところ、いつもと様子が違う。やがて彼女の重い口から聞かされたのは、父が亡くなった、という事実だった。

母によれば既に葬儀の日程などはあらあら決めてあり、2日後だという。急いで帰ってこい、と言われるかと思いきや、意外にもこちらで準備するからゆっくり帰ってくればいいよ、と言う。

しかし、父の葬儀ということになると喪主はおそらく長男の私である。いろいろな手続きもあるし、父を亡くしたばかりで母もさみしかろうと思い、急遽その日の夕方から夜通し車で山口に帰ることに決めた。祖父の葬式であるから、直系の息子も当然連れていくべきであり学校は当然休ませるしかない。

急いで学校の関係者や近くに住む義母にも連絡をとって留守を頼み、八王子を出たのは、その夜の7時すぎだった。中央高速、名神、中国道と愛車を走らせながら、後ろを振り返ると、さっきまでゲームに夢中だった息子は、疲れたのかシートに崩折れて静かに眠っている。

前を向き直し、ハンドルを握りながら、ここ数年の間に自分の身の回りに起こったことを思い浮かべた。高速道のそのまわりでは、暗い中よく見えない景色が飛び去って行く。

これと同じだな、とふと思った。ひとつひとつ起こる出来事を十分に咀嚼する間もなく次々と新しいことが起こっては消えていく。

妻の死にはじまり、義父、そして実の父親の死と、続けて身近なひとたちが次々とこの世を去っていった。それがいったいどういう意味を持つのかを誰か教えてほしかった。

しばらくするとまた別の思いに切り替わった。始まりがあるから、終わりがあるのではないだろうか。死ばかりではない。新しい仕事、同窓生との再会は、新たなステージの始まりだ。今始まったそうした出来事の先に、何か新しい展開がみえてくるのかもしれない。

今はただそれを信じ、現実を受け止めて走り続けるだけだ。どんな形の未来が待っているのかはわからない。ただ、それをありのままに受け止めよう。ただ、いつかはそれもまた終わるに違いないが…。

やがて高速道のはるかその先の山の頂きから朝日が差し込んできた。窓を少し開けると年末の刺すような冷気が社内に飛び込んでくる。その冷たさで頬がこわばり、ハッと我に返った。





12月11日の早暁、私はふたたび山口に帰ってきた。

翌日には葬儀、そのあとの告別式と、父を送る儀式はあっけなく、早々に終わった。不思議なことにそれほど悲しくはなかった。非人情だといわれそうだが、少なくとも家内が亡くなったときのような嗚咽の涙は出てこなかった。

亡くなった81歳という年齢は、十分に長く生きた結果であり、その最後も静かだったと聞いた。その日の朝、看護婦さんが見回りにきたときには既に息がなかったそうだ。

最晩年には心臓の手術をしたり、高齢者医療施設でその最後迎えるなど、病院から離れなられない生活が続いた。しかし、シベリアから帰ってきて結婚し、我々二人の姉弟を設け、母とともに過ごした日々は平凡ながら充実していたのではないか。そしてリタイア後の生活はおおむね穏やかだったのではなかろうか。

大望を抱かず、コツコツと自分の人生を歩む、という生き方が自分に一番合っていると思っていただろう。その通りの一生となり、満足だったに違いない。

この父の死に関して、ひとつ不思議なことがあった。それは、幼いころに死別した彼の母の命日が、本人が亡くなった日と全く同じ12月10日だったということだ。

父の死後、書斎の遺品を整理していて気がついた。父は生前、金沢の先祖のことをいろいろ調べており、その中でこの自分の母の戸籍謄本なども入手していた。そこには生年月日もさることながら、没したときの年月日の記載もある。

見て気付いたとき、あっ、と思った。単なる偶然といえば偶然だが、母子二人の亡くなった日がまったく同じである、ということはそうそうめったにあることではないだろう。

実は、父の生前、この実の母が亡くなったときにも不思議なことがあった、と話してくれたことがある。その日は冬晴れの天気の良い日だったそうだが、ふと窓の外をみやると雨が降っている。何かの見間違いだろうと、手で両目をぬぐって拭いてみたが、やはり、雨が降っているようにしかみえない。

それを何度も繰り返しているうちに、やがて雨は見えなくなったというが、不思議に思った父は、そのことを周囲にも話してみた。しかし、誰も信じてくれない。やがて自分でも錯覚だったのかと思いはじめたが、そのあと何度もそのことを思い返すたび、やはりあのときは確かに雨が降っていた、という結論に達したという。

父はこの話を生前、何度か私に繰り返した。それを聞くたび、へえ~そんなこともあるのかな~くらいにしか思わなかったが、父が亡くなり、その命日が祖母のものと同じだと知ったとき、あの雨の話はやはり本当だったのかもしれない、と改めて思うようになった。

なぜ、雨が降ったように見えたのかはわからない。しかし、それは母親からの何かのメッセージだったのかもしれない。私を忘れないようにね、ということだったのか、あるいは、泣かないでね、という意味だったのかもしれないが、いずれにせよ、そうしたビジョンを見せられたのは、この二人の絆がよほど強かったからだろう。

命日が同じだったのも、二人で話し合って決めていたことに違いない。それを同じ日にすることに、どれだけの意味があったかもわからないが、一つの記念日のようなものにしたい、と二つ魂が考えていたのかもしれない。予定どおり、その記念日に召された父は満足し、今はきっと実の母とあちらの世界で幸せに暮らしているだろう。

実は、この父の死は、くだんの彼女と私の関係にも大きな意味をもたらした。

東京を離れる直前、私はセンコーズ同窓会のHPに、父の葬儀のためにこれから急遽、車で実家まで取って返す、と書き込んでいた。これを見た彼女が、それに対して長いメッセージを書き込んでいたのだ。

気をつけて無事に帰ってきてほしい、と書かれたその文面には、これまでの彼女の態度とは違った多くのニュアンスが含まれていた。新たな展開を思わせる内容であり、それを読んだ私は、はじめて固まっていた氷が解け始めたような気持ちになった。

その後彼女との距離は急速に縮まっていくことになるのだが、ふと、思ったのは、これもまた父が仕組んだことではなかったろうか、ということだ。

彼が亡くなったあの日、この日を境に自分の人生を終わりにしよう、と考えたと同時に、自分の死をもって二人を結びつけるきっかけにしてやろう、としたのかもしれない。そう考えるのはあまりにも出来すぎだろうか。

死を前にしたこの頃の父は、ほとんど会話もできず、眠っていることも多かったようだ。人とのコミュニケーションはそろそろ終わりだ、と言わんばかりの状態で、そんなことを考えただろうか。ましてや、私と彼女の関係を父が知る由もない。

もし知っていたとしたら、意識の外の世界でのことだっただろう。魂レベルでそれを知り、二人のためにと、あるいは最後のプレゼントをくれた、と考えることもできる。

人は眠っている間、肉体を離脱してあの世に帰り、そこでいろいろな準備をしてまたこの世に戻ってくるという。同様に昏睡状態の人は、たとえ意識はないようにみえても、魂だけはあちらの世界にあって活発に動き、思考さえもしている。そう書かれた本を読んだことがある。

父もそうだったとしたら、あちらにいる祖母とそんな相談をし、そうだね~、彼女と彼を結びつけるにはなかなかいい方法かもしれないわねー、そんな話をしていたのかもしれない。

父の死に接しては、そんなふうに深く考えさせられることが多かった。非日常的な出来事だけに少し神経が繊細になりすぎていたのかもしれないが、むしろ、父や祖母を含め、あちらにいる方々からの重要なメッセージだったと受け取るべきなのだろう。

そのメッセージを紐解き、無事に受け取ったことを報告し、改めてお礼を言いたい。




年が明け、2007年になった。

正月3日の同窓会は、まず母校の教室から始まった。

何かの間違いでは、と思うかもしれないが嘘ではない。普通、教育の現場を卒業生とはいえ、一般の人に使わせるということを学校はやらない。しかし、鯉城同窓会には、母校の事務や教育委員会に勤めている人間もいる。その彼らの計らいで、30年ぶりの授業を学校でやることが認められたのだ。

このときセンコー先生はまだご健在だった。80歳を超える高齢だったが、活舌ぶりはあいかわらずで、お得意の漢字に関する授業を、かつての教え子たちを前に延々と1時間も繰り広げてくれた。

この日集まったのは40数名で、欠席したのはわずか5~6名だった。30年ぶりの同窓会としては驚異的な出席率であったが、それは昨年暮れまでのHPへの書き込みによるフィーバーぶりを反映した結果といえた。

授業が終わると、ひとりひとりこの30年間のことを話す機会が設けられた。私もこのとき先に教壇に立って自分の半生を語った。ひげを生やし、少し痩せた風貌はかなり変わっていたらしく、あとあと誰だか、さっぱり分らなかった、と口々に言われた。

彼女もまた自、分の境遇について話したが、その落ち着いた話ぶりに、学校の先生みたい、という合いの手が入った。例の鳳凰クラブのリードオフマンだ。それ以後も他のクラスメートの話は続いたが、時間が押していたので、半分ほどを終え、残りはホテルで、ということになった。

教室を出た後、校門の前で、センコー先生を中心にみんなで記念撮影をした。カメラマンはもちろん、30年前と同じ私である。ハイハイ、真ん中によってー、間から顔を出してねーというテキパキとした私の指示を聞きながら、あちこちから「昔を思い出すのー」の声が上がった。

グランドイーストでの宴会は盛況だった。40人程度だったので、適度な人数で話しやすいということもあったが、誰もが30年ぶりというその年月の穴を埋めようとしていた。相手の話の多くは自分にとっては「失われた過去」だ。みなそれぞれのドラマがあり、興味は尽きなかった。

あっという間に予定していた時間が過ぎた。二次会は別のクラスの同級生が経営しているホテルで、と決まっていたらしく、そこへ移動した。誰もが一次会の熱が冷めやらず、帰ったのは遠方から来ていた数人だけだった。

実はこの一次会でも二次会でも彼女とはほとんど話さなかった。お互い意識していたのは確かだが、あえて会話しなかったのは、二人だけの時間が持ちたい、とともに考えていたからにほかならない。このため、最後の最後に皆がそれぞれ手を振り始めたとき、私から彼女を呼び止め、また連絡するから、とだけ告げた。彼女もうなずき、そして別れた。

その3日後、私が運転する車の横に彼女は座っていた。ついこの間開かれた30年ぶりの同窓会が夢のようだった。懐かしい面々に出会い、それぞれと時間の許す限り数多くの話をした。時間はいくらあっても足りなかったが、無常にもその時は過ぎた。

その同窓会で彼女とはほとんど、というかほぼ何も話をしなかったが、こうして車を走らせる中では、いくらでも話ができた。その日二人が目指していたのはどこでもなく、ただ単に東へ東へと向かっていた。

同窓会の翌日、すぐに彼女に電話をして、すぐにこの日のデートの約束をもらった。この日訪れた広島西方、五日市の高台にある彼女の家には、かつて彼女の両親と祖母が暮らしていた。しかし、三人とも亡くなり、今は彼女ひとりがその大きな家に住んでいた。

手ぶらで行こうかと思ったが、ちょっと考えて近くのコンビニで、一束の花を買ってから彼女の家に向かい、呼び鈴を押した。にこやかに出てきた彼女は、私から差し出された花を見て、まあうれしい、と言ってくれた。家の中を見てみたかったが、それは後日にすることとし、すぐに車に乗り込んで発ったのが9時過ぎのこと。

どこへ行こうか、と聞いたが妙案はなさそうだったので、それなら「しまなみ海道」でも見に行こうか、ということになった。尾道市と今治市の間の島々とそれらを繋ぐ橋が織り成すこの海の道からは瀬戸内海に浮かぶ島々の風景を存分に楽しむことができるはずだった。

ということで車は東へと向かっているわけだったが、その道中、二人は話に夢中だった。これほど長い時間話しても話のネタが尽きない相手はいない、そう私は思ったが、彼女もまたそうだったろう。

話の中身は、その昔彼女に振られたときのことから始まり、その後それぞれの社会人生活のこと、お互いの恋愛経験のことなど多岐にわたった。が、共通点として、ここ数年の間にそれぞれ身近な人を相次いで亡くした、ということがあった。

私は妻や父を、彼女は父母を最近失くしていて、独り身だった。かつて勤めていた広告会社を辞めてフリーとなり、いまはラジオの原稿を書いたりしている、といったこともこの時知った。ほかにもいろいろ聞きたいことはあったが、たった一日ですべての穴を埋めることはできない。

しまなみ街道を通り抜けて四国まで行くこともできた。しかし、さすがに日帰りはきついと思い途中で引き返し、また広島に向けて戻ったが、その帰りもまた話詰めだった。結局この日のデートは、ほとんどが車の中で過ごしたと思う。どこかでランチを食べ、コーヒーでも飲んだはずだが、そうしたことはほぼき記憶にない。

やがて正月休みが終わり、息子とふたたび東京へ帰る日が来た。ひとりになった母を置いていくのは忍びなかったが、またすぐに帰ってくるよ、と笑顔を残して別れを告げた。それは嘘ではなく、実際、彼女とのランデブーのため、その後頻繁に広島山口に帰ってくることになる。

この正月のデート以後、二人の間の距離は加速度的に縮まった。表向きは、母が心配だからという理由だったが、それにかこつけて頻繁に山口に帰ってくるようになり、その都度彼女とデートを重ねていった。このころから二人で県外へもショートトリップに出ることも多くなった。

いろんなところへ行った。二人にとって会いやすいのは、東京と広島の中間点ということで、奈良京都が多かったが、蛍を見に行くだけの目的で岐阜へ行ったこともある。奈良東大寺二月堂のお水取りへ二人で出かけたときにはその荘厳さに心を打たれた。

このとき、ちょっとまた不思議なことがあった。

その夜泊まった宿でのこと。朝方に起きようか起きまいかとうつらうつらしていたら、夢枕に年配の女性が出てきた。「タエ子をよろしくねー」という声だけを残してフェイドアウトしてすぐにいってしまい、姿形はよく見えない。しかし、その言動から、あとで彼女の母親らしい、と気づいた。

大学時代に彼女にぞっこんだったころ、家に電話をしたことがあった。ちょうど彼女が不在でこのお母さんが出たが、冷静を装ってそれではまた電話差し上げますとかなんとか取り繕って電話を切ろうとした。

そのとき、「また電話してやってねー」という意外に軽いノリの答えが返ってきたのを覚えている。奈良で夜明けに聞いた声はその時の声に確かに似ていた。

その後、彼女に会うことはなく、亡くなってしまったのだが、後にも先にもこのお母さんの生きているときの声を聴いたのはこのときだけだった。しかしそれから何十年も経ったころ、夢の中でまたその声を聞くとは思いもしなかった。

実は、このお母さん、生前は精神世界的なことに相当傾倒したひとで、五日市の彼女の自宅にはそうした本がゴマンとあった。私と彼女の話が合った理由のひとつもそれだ。

私がそうしたことに興味を持つようになったのは、亡き妻の死後のことである。彼女が亡くなった年の秋から、とある山口の建設コンサルタントの顧問をすることになった。会社経営をやめてすぐのころのことで、顧問料をもらう代わりとして役所を回り、営業活動をする、ということをやっていた。

その会社の社長と一番最初に会った時のことだ。立派な応接室に通され、これまでの経験などについて話していた。ひとしきり話が終わった後、プライベートな話になり、その気はなかったのだが話の流れで、つい家内が最近亡くなったことを話した。

すると、やにわに社長が立ち上がり、私の後ろにあった書棚のところまで行って、一冊の本を取り出してきた。

手渡され、表紙をみると「生きがいの創造」というタイトルで、著者は飯田史彦とあった。社長は「ちょっと不思議な本なんですけどね」といい、少しためらいがちに、読んでみたらどうか、と勧めてくれた。

ただその本にはあちこちに社長の書き込みがあったので、お借りするのはやめにして、タイトルと名前だけ控えて、社長室を後にした。

その日のうちに山口市内の本屋でその本を探した。人文科学か何かのコーナーに置いてあったと思う。買い求めてさっそく読み始めると、すぐにその内容に引き込まれていった。と同時に涙が止まらなくなった。そこには私と同じく身近にいた大切な人を失くしたひとたちの数々の「不思議な体験」が織りなされていた。

「死後の生命」や「生まれ変わり」といったこの本のテーマは、まさに私が知りたいと思っていたことばかりであり、目を開かされる思いがした。

後年、ことあるごとに他の人にも読むように勧めるようになったが、私のその後の人生を変えた本、といってもいいだろう。

ちょうどこのころ、テレビでも「オーラの泉」といった番組が放映されており、ちょっとしたスピリチュアルブームが起こっていた。そのブームに乗ったつもりはなかったが、江原啓之さんが多くの芸能人たちが持つ悩みや支障の背後にあるものをズバズバと見当てていくのを見て、これは本物だ、と思った。

以後、飯田さんや江原さんの著作は無論のこと、そうした類のものを読み漁るようになり、さらにその世界に深く入っていった。

彼女自身もそうしたスピリチュアル的なことに興味は深く、また私以上に知識があった。もっとも、彼女も最初はお母さんから受けたのだろうが。

そんなわけで、久々に出会っての旅行のときはもちろん、お互いの家に帰ってからも夜な夜な電話をしては、そうした話を一晩中するようになった。週末になると、夜も11時ぐらいから電話をはじめ、朝になって外がしらけてくるまで一晩中電話をしている、ということも日常茶飯事となった。

こうして二人は急速に愛を深めていった。その夏に山口に帰省したおりには、息子にも引き合わせた。このとき、息子を広島にも連れて置いき、そこで彼女に引き合わせるために選んだのは、広島市内に最近できた大型のモールだ。そこで三人一緒に食事をしたが、どんな反応を示すかな、という私の心配をよそに、ふたりは映画の話で盛り上がっていた。

後年、結婚後から現在に至るまで、この三人の共通の話題の中心にあるのはいつも映画だ。レンタルビデを借りて家で見ることも多かったが、休みになるとよく揃って映画館へ足を向けた。流行りの映画にはむしろあまり興味はなく、あまり人がみないような映画で秀逸なもの、というところでも三人の意見が一致していた。

まだ知り合って間もないのに、息子と彼女の間に共通の価値観のようなものが見いだせた、というのはありがたいことだと思った。もっとも考えてみれば私と彼女もまた知り合って間もない間柄であり、一年も経っていないのであったが。

こうして心配していた息子とのこともどうやらクリアーできそうに見えてきた。そうなるとごく自然にクローズアップされてくるのが結婚の二文字である。

ある晩、いつものように彼女と電話で長話をしていたところ、多少アルコールも入っていた私が、「このあと僕ら二人はどうなるんだろうねー」と軽いノリで振ってみた。これに対して彼女はなんと、「そりゃー結婚しかないでしょう」と頬をさわるような軽さでそれを言ってのけた。

「ええーっ」とのけぞる私。そのあと、その会話は忘れたように別の話題に移っていったが、のちに考えると、これが事実上のプロポーズだった。しかも私からではなく彼女からの。本来なら男らしく、私から正式な求めをすべきところだったろうが、それもうやむやなまま、我々の結婚狂騒曲は本番へと突入していった。





二人の結婚を前にして大きな問題がふたつあった。というか、大きな家がひとつと小さな家がひとつあった。大きな方は彼女の広島の家であり、小さな方は私の八王子の家だ。

彼女の家のほうは本当に大きく、もともと二世帯住宅として建てたものだったから、家の中には二世代分の家財道具がびっしりと詰まっている。私の家のほうも、小さいながらも過去10年以上にわたって住み続けてきたものであり、息子のものやら亡き妻のものやらがかなりの密度で仕舞い込んである。

この二つを整理し、一つにするか、あるいは二つとも処分をするか、といったことが当面の大きな課題だった。不動産処理をするにしても、中身はきれいに空けてしまわなければならない。

ここから私の苦闘が始まった。結婚を前に家2軒分の家財を処分する。しかも仕事をもやりながら。

通常のサラリーマンなら、難しいところだが、幸いと勤めていたNPOでの立場は管理職に近く、時間的な縛りは比較的緩い。とはいえ、手に職を持っているわけだから、平日に家財整理ができるわけではなく、週末や有休をうまく利用しながらの作業になる。

まずは広島のほうから、ということで、週末を中心に休みをまとめ、帰広しては集中して家財整理にあたることになった。

が、いざ整理を始めるとこれがなかなか進まない。まず多くの家具があることに加え、膨大な量の衣類の壁に阻まれて、十分な足場すら確保することができない。それに加えて大量の本。彼女もその母親もまた本の虫であり、家じゅうが本だらけだった。

大学進学以降、10回以上も引越をしている私ですら、この惨状にはほとほと参った。しかし、やらないことには終わらない。東京広島を何回も往復して、その都度コツコツと荷物を片付けていったが、大まかなものの処分を終わらせるだけで数カ月もかかった。出たゴミを捨てるために、処分場にはおそらく両手両足の指の数ほども通っただろう。

おかげでこの広島西方、五日市や廿日市といった地域の地理にずいぶんと詳しくなった。私は東部広島で育ったが、そことはまた違う土地柄だ。宮島などの歴史的な観光地もあるが、そもそもは埋め立てでできた町々なので、全体的に新しい。平地が多く、メリハリがないものの、海をすぐ近くに感じられる。

一方、埋め立てて作られたこの平地の北側には急に山が立ち上がっており、その山間部を切り開いて造られた住宅地も多い。広島は「家が山に登る」とよく言われるが、彼女の家を含むそこは典型的な山登り住宅だった。

結局彼女の家の片づけは年内には終わらず、年が明けて2008年になってからようやく下火になった。かなり空き家に近い状態になったが、最終的な処分方法としては、売るか、貸すか、というところに行きつく。彼女は後者を選んだ。当面貸家として収入を得ながら、折を見て売りに出そうという算段だ。

バブル崩壊後かなり時間が経っているが、このころもまだ不動産売買の条件はそれほどいいとは言えない。妥当な選択だと私も思った。市内の不動産会社をいくつか当たっていく中で、この家を建てた大手メーカー系の会社がやはり販路をたくさん持っているという理由で、代理店としてそこを選んだ。

借り手が決まるまではまだ彼女の家だから、寝起きはできる。しかし東京で使うために取り置いていた主だった家具などは、山口の実家に移動してしまっていて、今はがらんとした部屋だけが目立つようになっている。振り返って彼女をみると、同じように何もない部屋をぼんやりと見つめている。長年住んできた家だけに名残惜しいに違いなかった。

広島の彼女の家は片付いたものの、今度は八王子の家の片付けが待っていた。この家に三人で住む、というプランもないではなかったが、亡き妻の思いがこもった家でもあり、そこに彼女を住まわすのはかわいそうだ。

彼女自身もあまり乗り気でなかったのか、別途マンションでも借りましょう、という。そのころ中学3年だった彼の学校近くを中心に、手ごろな物件を探して回ることになった。

当初なかなかいい物件にぶつからなかったが、みなみ野というやや高台にある場所に、その昔建てられたマンション群があり、その中の1軒が貸し出されていることを、新聞広告で知った。

問い合わせてみると不動産屋が広告していたのではなく、そのマンションのオーナー自らが貸主だった。なんでもここが手狭になり、別のところに家を買ってそちらに移住したので、そのローンの返済のためにここを貸し出しているという。

前の家に比べて少し手狭ではあったが、スキップフロアという、ちょっと変わった家の作りに彼女が興味を示した。事実上2階建てなのだが、1階と2階の間にもう一間があって、あたかも3階建てのような造りになっている。キッチンとトイレが狭いのが難点だったが、リビングはそこそこ広く、息子の部屋と夫婦の部屋もそれぞれ確保できそうだ。

彼の中学校も至近距離にあり、通学にも便利だ、ということでここに入居することに決めた。前の家の家財の処分は、ここに住み始めてから徐々に始めればよい。距離的には車で5分ほどで行き来できる。

引越は息子が春休みの間に、ということで、この間、コツコツとふたつの家を往復して荷物を運んだ。広島から山口に移していた荷物も、引越し業者に依頼し、近日中に届いた。こうして、みなみ野での新しい生活の準備は整った。

これに先立ち、二人は広島の五日市市役所に婚姻届けを出し、公式に夫婦となった。2月14日のバレンタインデーがその日だ。たまたまだったわけではなく、わざわざその日を狙って届けを出した。記憶に残りやすいから、という彼女の発案だ。

その夜、近くのレストランで祝杯をあげたが、親戚を呼んでとかの祝い事は特段しなかった。というのも、このあと披露宴を伴った結婚式を宮島であげよう、と決めていたからだ。

広島から彼女が上京し、引っ越したばかりのマンションで3人の新生活が始まったのは、息子が中学校3年生に上がる直前の3月のことだった。

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本稿の内容はすべて事実に基づいたノン・フィクションです。ただし、登場する人物名は仮名とさせていただいています。また地名や組織名についても、一部は実在しない名称、または実在する別称に改変してあります。個々のプライバシーへの配慮からであり、また個人情報の保護のためでもあります。ご了承ください。

夢の途中 13 未来へ

今や世界遺産となった宮島は、広島市西部、廿日市市の沖合にある。

国土地理院は「厳島」を正式名称としているが、神様がいらっしゃる島という意味の「宮島」という名称も広く使われており、こう呼ばれるようになったのは江戸時代からだ。ただ、他にも宮島と呼ばれる島が複数あることから、「安芸の宮島」と呼ばれることもある。

厳島の「厳」は、「イツク」と読むが、これは「斎く」という言葉から来ていると言われる。心身のけがれを除き、身を清めて神に仕える、という意味である。

その名の通り、島全体が穢れのない聖域とされ、神が宿っているとされている。その祭神の筆頭は、イチキシマヒメ(市杵島姫)であり、その名もこの「斎く」から来ているようだ。ただし、語源は同根という説もあり、イチキシマヒメの命名の方が先で、ここからイツクという言い回しができたのかもしれない。

厳島神社縁起の伝えるところでは、スサノオ(素戔男)の娘とされる宗像三女神、すなわち筆頭女神のイチキシマヒメ(市杵島姫)と、タゴリヒメ(田心姫)、タギツヒメ(湍津姫)の3柱が、2羽の鴉(カラス)に導かれ、現在厳島神社のある場所に鎮座されたという。以後島全体が神域となった。

私が育った東広島とは正反対の場所にあるが、子供のころからここをよく訪れた。たぶん小学校、いや幼稚園の遠足か何かで行ったのが最初だと思う。私だけでなく、おおかたの広島育ちは同じく遠足や日帰り観光でここを訪れた経験があるだろう。

県外から来る人はおそらく知らないだろうが、海水浴場もある。そこも含めて、島の北側はほとんどが、観光地化されている。しかし、島の中南部はほとんど手付かずの聖域で、アクセス道路すらない。島全体が神域とされているこの島では、そうしたところには自由に立ち入ることができないのだ。

島の中央部には弥山と呼ばれる岩山があり、その山頂には巨石群があり、これは古代に作られたとされる墳墓ではないかという人もいる。UFOと結びつける人もいて、ただでさえミステリアスなこの島をより神秘的なものに魅せている。

弥山中腹からは古墳時代末に創られたと目される祭祀遺跡も発見されており、宮島全体を聖域とする山岳信仰はこの頃始まったものと考えられている。伝承では推古天皇元年(593年)、地元の豪族、佐伯鞍職(さえきのくらもと)がイチキシマヒメの神託によって、厳島神社を創建したと伝えられる。

ただし、この当時の社殿は残っていない。厳島神社を現在のような雅な神社に変容させたのは、平清盛と言われている。

平安時代末期の久安2年(1146年)、安芸守に任ぜられた平清盛は、父・平忠盛の事業を受け継いで高野山の大塔の再建を進めていた。その落慶法要に際し、ここの高僧に「厳島神社を厚く信奉して社殿を整えれば、必ずや位階を極めるであろう」と進言を受けた。

平治の乱で源氏に勝利し、朝廷から仇敵を一掃して政権を掌握すると、さっそく清盛は寝殿造の神社の造営を開始した。海上に浮かぶ現在に至るまで継承されているその壮麗な様式は、仁治2年(1241年)に完成したとされる。

清盛がこの神社を創建した狙いは日宋貿易にあったと言われている。父・忠盛は舶来品を朝廷に進呈して信を得ており、清盛は厳島神社を拠点として一層の貿易拡大を図ろうとした。さらに、博多の湊や大輪田泊(現・神戸港の一部)を開いて自ら瀬戸内海航路を掌握するとともに、祭神「厳島大明神」には畿内へと通じるこの航路の守護神という重要性を持たせた。

厳島を拠点として日宋貿易で財政基盤を堅固なものにすることに成功した清盛は、宋銭を日本国内で流通させ通貨経済の基礎を築き、日本初の武家政権を打ち立てた。しかし、やがて平氏の権勢に反発した後白河法皇と対立するともに、平氏の独裁は公家・寺社・武士などから大きな反発を受けるようになる。源氏による平氏打倒の兵が挙がる中、清盛は熱病で没した。

清盛の死後、平氏政権に対する反乱は加速し、各地で内乱が勃発。一ノ谷の戦い、三日平氏の乱、屋島の戦いと主要な合戦にすべて敗れた平氏は、瀬戸内海の制海権を失い、長門へ撤退する。元暦2年(1185年)3月24日、関門海峡の壇ノ浦で最後の戦いが行われ、これにも敗れた平氏はついに滅亡した。

平氏政権の崩壊により、源頼朝を中心とした主に坂東平氏から構成される関東政権が樹立された。鎌倉幕府である。平氏滅亡のあと、厳島神社はこの源氏の崇敬を受け、擁護されるようになる。しかし鎌倉幕府もまたのちに幕政が腐敗して政情が不安定になり、その中で恩恵を受けていた厳島神社の勢力も徐々に衰退した。

承元元年(1207年)と貞応2年(1223年)には火災の被害も受けた。朝廷の寄進も受けて一応の再建はされたものの、室町時代から戦国にかけてまでは社殿もかなり荒廃していたと伝えられている。

戦国時代に入ると、安芸を本拠に勢力を伸ばしていた毛利氏と、周防・長門を領有していた大内氏が対立し、安芸・周防国境付近はその最前線となる。厳島は周防から安芸への水運の要衝であるため、毛利を警戒する大内はここに実力者の陶晴賢(すえはるかた)を配して防衛に努めた。

弘治元年(1555年)、ついに厳島を戦場として両者が激突する。この戦いで毛利元就は陶晴賢を討ち、その勢いのまま周防・長門を併合して大内氏を滅亡に追い込だ。

これ以後、毛利氏は中国地方10か国に加え豊前・伊予をも領有する西国随一の大大名に成長していく。しかし、もともと厳島神社を崇敬していた元就は神の島を戦場にしたことを恥じ、戦後はこの島の保護・復興につとめた。現在の本社社殿は、元亀2年(1571年)にこうして毛利元就によって再建されたものである。

その後、戦乱の世は豊臣秀吉が収束させるところとなる。天正15年(1587年)、すでに関白太政大臣となっていた豊臣秀吉は、多くの戦で亡くなった者の供養のため、厳島神社のすぐ裏手に大経堂を建立するよう政僧・安国寺恵瓊に命じた。

その建築に際して、柱や梁には非常に太い木材を用い、屋根に金箔瓦を葺くなど、秀吉好みの大規模・豪華絢爛な構造物が計画されていた。しかし、秀吉の死により工事は中断され、寺の名前もつけられないまま放置された。

現在に至るまでも御神座の上以外は天井が張られておらず、板壁もない未完成のままである。本堂は巨大なもので、畳が857畳敷けることから一般からは「千畳閣」と呼ばれるようになった。明治初期の神仏分離令のとき、寺ではなく厳島神社の末社とされ、この時初めて正式名称として「豊国神社本殿」の名が与えられた。

慶応4年から明治元年にかけて実施されたこの神仏分離令では、民衆を巻き込んだ廃仏毀釈運動が激化し、厳島の寺院も主要な7ヶ寺を除いてすべて廃寺となった。厳島神社や千畳閣などに安置されていた仏像等も寺院へ移されたり、一部が失われるなどしている。

1876年(明治8年)には、老朽化していた海上の厳島神社の大鳥居が建て替えられた。現存しているのはこの時の大鳥居で、創建当時から数えて8代目とされる。棟の高さ16.6メートル、柱間10.9メートルのこの大鳥居の基礎は、松材の丸太の杭を密に立てて打ち込んだもので、現在はその上をコンクリートと花崗岩で固めてある。

鳥居はこの土台の上に自重で立っており、最上部の島木と笠木からなる「横梁」の部分は箱状の構造である。この中に拳大の石が多数詰め込まれており、その重みによって大鳥居は自立し、風や波に耐えるようになっている。

この鳥居を「入口」とする厳島神社本殿があるのは、厳島の北部、大野瀬戸に面した有浦(ありのうら)と呼ばれる湾の奥である。最も奥まったところに宗像三女神を祀る本社が北を正面として建ち、その周囲には大小の副殿や回廊がある。本殿も含めたこれら拝殿・回廊など6棟が国宝であり、14棟が重要文化財に指定されている。

その美しいたたずまいは世界的にも評価が高く、平成8(1996)年12月にユネスコの世界文化遺産として登録された。2011年には、トリップアドバイザーが「外国人に人気の日本の観光スポット」トップ20のうちの第1位と発表した。

2019年にも3位に入っており、毎年のように上位に入っている。ちなみに同年の2位は、広島平和記念公園で、1位は京都の伏見稲荷大社だった。

私もこの厳島神社が大好きで、物心ついたころにはここはもう、特別な場所だった。行けば必ず何かインスピレーションのようなものを授かってくるような気がしたし、何かすがすがしい気持ちにでその後の日々を過ごせた。




そんな場所で我々は結婚式を挙げることになった。

しかし、まがりなりにも世界遺産だ。最初はさすがにそれは無理だろう、と思った。ところが電話で問い合わせをしたところ、意外にも、そうですね、5月までは無理ですが、6月ならば空きがあります、という答えが返ってきた。

電話をしたのは、籍を入れた2月ころのことで、4カ月も先ではあったが、それでもここで結婚式を挙げることが可能だ、ということ自体が信じられなかった。

こどものころから大好きだった場所で、生涯一度あるかないかの式を挙げることができる。本当か、と正直驚いた。少々先でもそれが実現するならば、素晴らしいことだ。

で、6月ならいつが空いているんでしょうか、と重ねて尋ねた。電話の先は宮島の社務所で、事務員と思われるその男性はちょっとお待ちください、と受話器を置いた。しばらく経ち改めて電話に出てきていくつかの候補日を教えてくれたが、それをすぐそばにいた彼女に手振りで伝える。OKだと指で丸を作って示す彼女。

このとき、世界遺産、厳島神社での結婚式が現実のものとなった。

その日は6月20日。ヨーロッパではこの月に結婚すると幸せになれる、とされる。ジューン・ブライドだ。

欧州のこのころというのは、天候が穏やかで花が咲き誇る時期だ。色とりどりの花々を結婚式のために用意できる。このため6月に結婚する人が増え、この月に結婚すれば幸せになれる、というおとぎ話があとから付け加わった。

一方、6月といえば日本ではそろそろ梅雨入りの時期である。紫陽花を思い浮かべる人も多いだろう。花の季節というよりもむしろ雨の季節だから、ヨーロッパの風習を日本にあてはめること自体にそもそも無理がある。

ところが、日本のブライダル業界はしたたかだ。一年で一番結婚式場の契約率が低いこの月の売り上げを何とか高くしたい。そこで思いついたのが「ジューン・ブライド」というキャッチフレーズだ。

大々的に宣伝し、この月に結婚すれば幸せになれる、と拡散した。その言葉につられ、その後はこのうっとうしい季節をわざわざ選んで結婚する、という風流人が増えた。

我々は、そうしたミーハーな理由で日取りを決めたわけではなかった。しかし、結果的にジューン・ブライドとなったことについては、悪い気はしなかった。何にせよ、幸せになれると言われているなら文句を言う筋合いはない。

とはいえ、梅雨に入っている可能性は高い。だが、雨が降るこの時期も捨てたものでもない。濡れた宮島もまた風情がある。子供のころからそんな雨模様の宮島も何度も経験してきたから、そこはあまり気にならなかった。

こうして結婚式の日取りを決めたら、あとは披露宴をやるかやらないかである。もともと私はこうした類の儀式が大きらいだ。最初の結婚のときもそれをパスして、ただの宴会にすり替えたことは前にも述べた。

今度の結婚でも、あまり気乗りではなかった。しかし、新しいお妃さまはそれをお望みになった。しもべの私は必至に抵抗したが、結局おおせのまま、披露宴を執り行うことになった。しかも一流ホテルで…。

広島南部に宇品というところがある。ここに広島港と呼ばれる港があって、これは広島における海上運輸や物流・貿易の拠点である。四国や瀬戸内海の島々に向けてのフェリーの大半もここから出ていて、かつて生まれたばかりの私が、母に抱かれて四国から上陸したのもここだった。

その昔は宇品港と呼ばれていた。軍事拠点として重要視された場所で、1894年(明治27年)に日清戦争が始まると、当時の山陽鉄道(現在の山陽本線)・広島駅からここまで軍用鉄道が敷設された。宇品線と名付けられ、多くの兵士を宇品港まで運んだが、その後の日露戦争の際にも兵員輸送に使われた。

1897年(明治30年)からは山陽鉄道が陸軍省から借入れて一般旅客も運ぶようになり、これにより、宇品地区は軍事拠点としてだけでなく、市街地としても発展していく。

文教地区としての様相も示し始め、1921年(大正10年)には、夏の全国高校野球大会の常連校、広陵高校の前身である旧制広陵中学校が設立されたほか、1935年(昭和10年)には、広島女子専門学校が設立された。ちなみにこの学校は、未来の奥様が卒業した県立広島女子大学の前身であり、現在は県立広島大学となっている。

1933年(昭和8年)には大和紡績(現ダイワホールディングス)の紡績工場なども進出し、工業地区の性格も持ち始める。市の中心部から南へわずか5kmほど、人や物資の集まる場でもあることから商業活動も活発で、大正時代ころまでには既に海岸通り一帯に商店がずらりと並ぶようになっていた。

1945年8月6日の原爆被災においては宇品地区も被災した。しかし、爆心地からそれなりに離れており、被害は比較的軽微だった。このため、宇品に駐屯していた「陸軍船舶司令部」は被爆直後から市街地における救援活動の中心的役割を果たした。

陸軍船舶司令部とは、戦時における国内の軍隊・物資の船舶輸送を統括し、その指揮を統率していた組織で、通称「暁部隊」と呼ばれていたものである。

原爆が投下された際、広島城周辺に駐屯する、中国軍管区司令部を初めとする陸軍部隊は直撃を受けて壊滅。また地方官庁である中国地方総監府や広島県庁、市役所も大きな被害を受け、行政機能はほとんど停止した。

ただ、こうした有事が生じた場合の最高指導者たるべき高野源進知事は、このとき市外への出張で難を免れていた。6日の夕方になって市内に戻ってくると、知事のもとで臨時の「県防空本部」が設置された。場所は、比治山の影になって爆風の被害を受けなかった山麓の多聞院である。

生き残った知事以下の幹部らが協議を重ねた結果、被害が少なかった宇品の船舶司令部、暁部隊を中心として「広島警備本部」を設立し、体制を立て直して市内の救援活動や警備活動にあたることになった。

こうして、暁部隊を骨格とし、県防空本部などのかつての県中枢部も傘下に入れた警備本部は翌7日から活発な活動を始め、被災した市民の命を救い始めた。また、復旧のためにはまずは交通をということで被害を受けた広島電鉄の復旧に努めた。部隊が所有していたマスト300本がそのための電柱として利用された、という話が残っている。

こうした努力もあり、被爆からわずか3日後の8月9日には、2kmに満たない距離ながら、電車を走らせることができた。このときこの電車を運転したのは、広島電鉄・家政女学校生徒の生存者たちだった。

この学校は、深刻化していた運転士、車掌らの人手不足を補うため、国民学校高等科を卒業した女子を対象に広島電鉄が急遽創設した学校である。その寄宿舎も原爆の被害を受けて多くの女学生が亡くなっていたが、その生き残りが、この復旧車両の運転手にと、名乗り出たのだという。

暁部隊は、こうした市内の交通の復旧にも努めたが、これ以外にも市内各所での市民の救のために総動員された。しかし、その結果、活動に従事した部隊員の中から多くの二次被爆者を出すことになった。

この暁部隊には、後年、落語家として有名になる江戸家猫八や、戦後民主主義のオピニオンリーダーと目されるようになる思想史家の丸山眞男らも所属していた。

猫八(本名・岡田六郎)はこのとき24歳。召集により入隊して以来、3年ほど南方戦線を転々する際、生死の間を彷徨ったこともあったが、その後帰国し、兵長として暁部隊に配属されていた。原爆投下の当日朝は、休みをもらい、広島に滞在していた女優・園井恵子と会う予定だった。

入隊前、岡田は、古川ロッパ(エノケン・ロッパと並び称されて人気を競ったコメディアン)が結成した劇団に所属しており、同じ劇団員であった花形女優、園井と仲がよかった。園井は宝塚歌劇団出身で、高い演技力をもつ名バイプレーヤーとして知られており、出演した映画「無法松の一生」が代表作といわれる。

戦時下にあっては仲間とともに各地の部隊を慰問する移動劇団である「桜隊」を結成し、その一員として広島に来ており、病院で傷病兵の慰問などを行っていた。

猫八は、この園井が市内に来ていると聞き、久々に会えると楽しみにしていたが、前日の連隊記念祭で得意の声帯模写を披露、獲得した優勝賞品の酒を少々飲み過ぎていた。二日酔いで寝坊してしまい、朝の点呼にも出ることもできず、部下の初年兵に起こされた直後に原爆に遭遇した。

幸い大きなけがはなく、比治山町に臨時に設立された警備本部との連絡係を命じられ、その後も部隊の一員として市民の救援・医療活動に動員された。だがこの間、市内に高濃度に残留していた放射線に被曝。その後生涯にわたって被爆が原因と思われる体調不良と戦い続けることとなった。

この救援・医療活動動員としての体験は、生涯トラウマとなるほど忌まわしいものであったようで、長い間この体験は語らなかったが、晩年出版した「兵隊ぐらしとピカドン」「キノコ雲から這い出した猫」の中で自らの被爆体験を語っている。1988年、紫綬褒章を受章、1994年には勲四等旭日小綬章を受章したが、2001年、80歳のとき心不全で亡くなった。

ちなみに、このとき会う予定だった園井は、爆心地に近い宿舎で被爆し、拠点としていた神戸に戻ったあと、2週間後に亡くなった。原爆症(放射線障害)のためで、満32歳だった。1952(昭和27年)年には所属していた桜隊の原爆殉難碑が東京目黒に建立され、1959年(昭和34年)には広島市の平和大通りにも同様のものが建立されている。

実は、この原爆による被害の直後、広島は大規模な自然災害にも見舞われている。9月17日に襲来した枕崎台風がそれで、隣の呉市内では、住宅地背部の多数の急傾斜地が崩壊し、土石流が発生して、市内だけで1,156人が死亡した。

宮島のある佐伯郡大野町(現・廿日市市)では、陸軍病院が土石流の直撃を受けて複数の病棟が全壊。医療従事者や治療中だった被爆者、京都帝国大学から来ていた調査関係者など合わせて100名以上が犠牲になった。

その一方で、原爆によってもたらされた放射性物質がこの台風の風雨によって洗い流され、市内一帯が居住可能になったと考える識者もいる。ただ、たった一ヵ月ほどの間に、火と水の両方によって痛みつけられた広島の荒廃は激しく、その復旧には長い年月を要した。

しかし、そうした中でも相対的に被害の少なかった宇品の復興は比較的早かった。宇品線の利用も再開され、すぐに沿線の学校、大学病院、県庁仮庁舎、工場などへの通勤・通学および貨物輸送を行うようになり、住宅の再建が進んだ。

商工業地の復興も進んだが、著しい被害を受けた市中心部の商工業者をさらに受け入れるためには土地が足りない。このため、ここにあった広大な軍用地・施設が民間企業・官庁などに払い下げられて民需に転換されることとなった。

こうして多くの企業や商店がここに誘致されるようになるとともに、1966(昭和41年)年には、先の大和紡績の工場跡地にマツダが進出し、宇品における最大の企業となった。以後、宇品東部を中心に埋立地が進み、マツダ傘下の企業やその他の企業の工場なども次々と建設された。

近年はさらに埋め立てが進んで再開発され、多くの商業施設が建設・出店するようになっている。2012年には、広島港宇品旅客ターミナルを代表施設とする「みなとオアシス広島」が造成され、市民の交流拠点となった。さらに、地区の南端を通過する広島湾岸道路の造成にともない、宇品地区は今後も大きく街並みが変わろうとしている。



さて、前置きが長くなった。この宇品地区の中に、海に突き出るように飛び出ている半島がある。島だった昔、その形状が牛が伏せたようになっていたことから「牛ノ島」と呼ばれていた。時代が下がるとこれが「牛奈(うしな)島」と呼ばれるようになり、やがて「宇品島」となった。「宇品」という変わった地名はここから生まれた。

現在は元宇品公園として整備されて地域住民に親しまれている。その先端には、かつて旧陸軍が建設した信号所があり、戦後、これを海上保安庁が灯台に改造。その後、老朽化したため、昭和46年に現在の灯台が新設された。

その灯台のすぐ北側にあるエルロワイヤルホテルが、我々の披露宴の会場となったところだ。ここを選んだのは、この界隈では評判のホテルだったからでもあるが、海に面しており、いかにも魅力的な場所に見えたからでもある。広島駅など町の中心部からアクセスしやすく、招待客を招くにあたっても都合がいい、ということもあった。

式場である宮島へも、ここから船をチャーターし、神社まで送り迎えてくれるという。隣接してホテル専用の船着き場があり、船好き、海好きの私としては文句のないシチュエーションだ。

二人で下見に行って、すぐに気に入った。式が行われる最上階はガラス張りで、瀬戸内海が一望できる。食事も実際にその日に出される、というものを二人で食べてみた。魚介と肉類が選べるフレンチで、味も内容も申し分ない。その他、花などのテーブルアイテムも自分たちの好みに自由にアレンジしてくれる。

すぐさま申し込みをし、日にちはまだ先なので細かい話はまた折々にしましょう、ということでホテルを後にした。式場も決まり、披露宴会場も決まったということで、さあ他の準備だ、といった段階でふと気になったのが、息子のスケジュールだ。まさか大丈夫だよな、と思って予定表をみたところ、なんとこの日は彼の修学旅行と重なっていた。

ふたりとも一瞬凍り付いたが、思い直して直接本人に確認してみようということになった。電話でおそるおそる息子と話をした結果、自分は修学旅行のほうに行きたいという。そりゃそうだろうな~、結婚式もさることながら、修学旅行も一生に一度のことだし、じゃあ別の日に…と言いかけたところ、別にいいよ、僕がいなくってもいいじゃん、とあっさりという。

本当にいいのか、と重ねて聞いたが、そもそもあまり知らないひとばかりのところに出るのは気兼ねだし、だいいち、余計におかねがかかるでしょ、という。

別に金の心配までしてもらう必要はなかったが、そこまで言ってくれるなら、と彼の申し出をありがたく受けることとし、結婚式の日程の件はそれで無事落着となった。

後々考えたら、ほとんど知り合いのいない結婚式に出るのは、彼にとってはたしかに気兼ねだったろう。我々二人も変に彼に気を使わない分、ほかの人への接待に集中できる。すべては必然。これもそういう流れなのだろうと納得した。

このころ、既に我々は八王子の新居で新しい生活を始めていた。毎朝彼女が息子の弁当を作る。私の分も作ってくれるので、毎日半蔵門のオフィスでそれを食べた。我々が仕事に行っている間、彼女は洗濯をし、掃除をし、ともう既に息子を加えた新婚生活はスタートしていた。

当初、一緒に住んだこともない、彼と彼女の間を心配したが、いざ暮らし始めてみるとこのふたり、意外に気が合うようだった。上の階で雑用を済ませて下のキッチンに降りていくと、何やら二人で楽しそうに話しをしている。そういう光景を何度も目にするようになった。

どんなことを話しているのかと聞き耳を立ててみると、学校の友達のことや映画やゲームのことのようだ。直接二人の会話には加わらなかったが、どうやら異性のことまで話をしているらしい。

中学三年生といえば、お義父さん大っ嫌い、という家庭が多いようだ。そうした中で私は比較的受け入れられている方だと思ったが、それ以上に彼女と打ち解けているようで、ありがたいことだと思った。と同時に、改めて彼女の人間性をすばらしいと思った。

思えば母親を亡くして4年近くが経っている。彼女に母性を感じ、母親と同じというわけにはいかないまでも、それに近い存在として受け止めてくれているとするならば、こんなにありがたいことはない。

接する彼女のほうも聞き上手で、何かと自分の話を優先したがる息子のせっかちをうまく受け止めてくれているようだ。とはいえ聞きっぱなしではなく、話の途中途中のここぞというところで、自分の意見をさしはさむ。相手が興味を持ったらそこを突破口に自分の意見を話し出す、というやり方はなかなか扱い上手だ。感心した。

後年、ある霊感のある有名な方に我々三人を見てもらったことがあるが、その人もまた、私よりも彼女のほうが話しやすいはずだ、とおっしゃっていた。私の場合、オレがオレがになりがちであり、そこが彼の自我とバッティングしてどうも喧嘩になってしまうことが多い。

彼女はそこをうまくコントロールし、わが子でもない息子をうまく手懐けている。まるで友達のようにだ。

そんなわけで、新しく三人で始めた生活は思った以上に順調で、かつ楽しかった。映画好きの家族だからよくレンタルビデオを借りてリビングで見ることも多かったし、ときおり話題の映画を見にも出かけた。

食事中、彼が好きなテレビ番組、学校での出来事などの話題で盛り上がることも多く、夕食後に三人でゲームをしたりすることもあり、こうした時間はは毎日の中でも楽しいひとときとなっていった。亡き妻の死以来、久々に家族の団欒を取り戻した、という気がした。

結婚式の日取りを決めたとき、彼の修学旅行と重なってしまったときの彼の反応も、そうしたコミュニケーションが取れていたからこそのことだ。その一事だけで家族仲が悪くなってしまうということはなかった。

穏やかな日々が続いていた。春が来て、大型連休が来る前、亡き妻の命日が訪れた。あれからもうそんなに時間が経ったか、というほどあっという間の4年間だった。彼女の墓は作っておらず、それは我々二人がもう家族の墓を作るのはやめよう、と決めているからだ。

魂は生き続けて永遠に残るが、人は死んだらただの骨になる。それを納める器を作ったところで何の意味もない。それが二人の共通認識だ。このため彼女の両親の遺骨、そして亡き妻の遺骨もこの八王子に持ってきたままにしてある。いずれは自然葬などで散骨しようと考えている。

この日の命日もどこかへ墓参りに出かけることはなかった。三人それぞれ仏壇の前で香を焚き、静かにそれぞれの思いを故人に伝えるだけにとどめた。

この連休中、立川の昭和記念公園に三人で出かけた。このとき、はじめて亡き妻の母、義母に新しい妻を引き合わせた。会ったときからすぐ二人は打ち解けたようで、安心した。広い公園内を散歩している間、二人は立ち止まり、いろいろ話し込んでいるようだった。

あとで聞いた話では、私の姿がみえないところで、かなり込み入った話もしていたらしい。そのひとつとして、2年前に逝った義父が、亡くなる前に話していたことを語ってくれたという。私の再婚のことをほのめかし、まだ若いのだから早く新しい人をみつけて結婚したほうがいい、と語っていたそうだ。

酒に酔っていたとはいえ、彼女の死を私のせいにして荒れていた彼が、生前、そんなことを言っていたか、とその話を聞いて、改めて故人の徳というか、私に対する愛情を感じた。ありがたかった。

義母はその後、八王子にあった思い出の自宅を売却し、あきる野にある公営住宅に居を移した。一人暮らしのそのアパートにその後三人で何度か遊びに行ったが、元看護婦で80近くになっても元気いっぱいのこのご婦人は、いまだにそこで息災に暮らしている。



2008年6月20日。その日は朝から雨だった。

前日広島入りした二人は、披露宴を行う予定のエルロワイヤルに宿泊し、この朝を迎えた。前の夜には、彼女の知り合いのかなりの人数に紹介され、親しい親戚と共に夕食をした。フロアーにいる何人かはそれらのひとたちだ。夕べのこともあるため、笑顔で会釈をするだけで心地よいこの朝の気分を伝えあうことができる。

雨にもかかわらず、そこには和やかな空気が流れていた。薄い靄に覆われ、小雨にけぶる静かな瀬戸内海がガラス越しに見える。朝食はバイキング形式で、客たちがそれぞれ好きな席に陣取り、その眺めを楽しみながら食事をしていた。我々二人も、それにまじり、軽くこの日の予定などを確認しあいながら、なごやかに朝食を採った。

結婚式の当日であり、本来ならもっと緊張していてもよさそうなものだが、なぜかこの日私は朝からリラックスしていた。二度目の結婚であり、慣れていたということもあるかもしれない。しかし、海が見えるこの環境が自分を自分らしくしているのだろうと思った。やはり私は海の申し子だ。

食事後、ひとやすみしたあとに、彼女は化粧や着付けのために別の階に移動した。彼女の昔からの親友である韓国系の人がスタイリストとしてその役割を申し出てくれていた。彼女の着付けが終わると私の番になったが、男である私にはたいして手間はかからない。彼女の支度が1時間余りもかかったのに対し、たった15分ほどで終わった。

このあと、ホテルの一室でお互いの親族が顔を突き合わせて、お互いの紹介をした。それぞれが広島出であるため近場から来る親族が多いが、彼女の側では東京・横浜在住の親戚がやや多い。総人数はどちらが多いともいえなかったが、父母の姉弟の多かった彼女の家のほうが数では少し上回っていたか。

なごやかに挨拶をしあい、お互いの家族のことなど話しながらしばし談笑が続いた。彼女のほうの両親は当然不在だったが、叔父叔母たちが来てくれており、私の側も母以外に叔母が出席してくれていた。同年齢の彼らの間ではとりわけ話が盛り上がっていたようだ。

午前9時。ホテル前の桟橋に宮島に渡るチャーター船が横付けしたとの知らせがあり、結婚式の参列者一同はロビーに集まった。

このときにわかに雨が強くなった。着物を着た彼女は、裾をからげ、スタイリストとホテルスタッフの助けを得ながら、衣装を濡らさないようなんとか船に乗り込んだ。私も裾をあげてそのあとに続き、さらに親戚たちも駆け足でその連絡船に乗り込む。

この日、我々の結婚式に来てくれていた招待客の中に、旧知の霊感のある女性もいた。その彼女かのちに聞いた話では、このときちょうど天空に竜神様が訪れていたという。我々の結婚式のお祝いにと、この雨を降らせたのだそうだ。

半信半疑だったが、そう言われて悪い気はしない。のちのちまで、この日起こったことのすべてが夢の中のことだったように思えたものだが、この竜神様のこともまた夢の中のことと思えばいい。それもとびっきりの吉夢として。

宮島での結婚式に立ち会うのは、彼女の叔父叔母や、私の母や叔母、姉といった、近しい親戚ばかりで総勢、20人ほど。無論、誰もが宮島での結婚式に参列するのは初めてだ。

私自身も経験のないことだったが、ふだんは連絡船でしか渡ったことのない宮島へ、自分のためだけに用意された船で行ける、ということに興奮し、テンションはあがりっぱなしだった。結局この日の結婚式は最初から最後までこのテンションのまま終えることになる。

船が宮島に着くと、車が用意してあり、桟橋から神社まではこれによって移動した。おかげで雨には濡れなくてすんだ。車を降り、いつもは参拝料を払って進む入口は、受付の人に会釈するだけで通してくれた。

ここからは長い回廊を通って本殿に向かうことになるが、多くの観光客が行きかう中、長身の彼女はとくに目を引いた。外国人観光客が和服姿の彼女の写真を撮りまくっていた。こちら、ひげオヤジは所詮、添え物にすぎず、目もくれない。

本殿に着くと、その横にある待合室に案内された。そもそもいつもお参りする本殿横にそんな部屋があることを知らなかったので、ちょっと驚いた。出席者全員が入ったが、それでもスペースが余るほどの広さがある。

進行担当の社務所職員が近づいてきて、この日の儀式についてのシナリオを全員に手渡し、一通りの説明をしてくれた。新郎新婦が神奥に向かって座り、その両隣に親戚一同が向かい合って座る。雅楽の演奏があって、三々九度の盃の所作はこれこれ、指輪の交換をしたら親族それぞれで拍手してお祝いをすること、といったこまごまなことだ。

しばらくして式が始まる時間となり、一同は正殿に入るよう促された。一番奥にご神体とされる鏡が置かれており、それより20mほども離れた手前にお賽銭箱が置いてある。そこに柵があって、一般の参拝者の立ち入りはその手前までだ。我々の結婚式はその柵の内側で行われる。

つまり、我々の結婚式は、親戚だけでなく背後に参拝者である観光客の目があるなかで行われた。神前式であることは間違いないのだが、人前式のような趣さえある。

式が始まった。神主の長い祝詞のあと、三々九度の盃を二人でかわし、さらに親族たちも盃の酒に口につける。雅楽がおごそかに演奏される中、静かな時間が過ぎていく。不思議なことには背後の観光客の声は聞こえず、我々と親族だけがそこにいるような錯覚にとらわれた。

最後に指輪の交換をし、我々の結婚式は終わった。本来ならこのあと正殿を出たところにある小舞台で雅楽に合わせた舞を見ることができる。しかしこの日は雨であり、残念ながらその喜びの舞は見ることができなかった。

無事に式が終わり、一同はまた来た回廊を逆戻りして、桟橋に向かった。雨は既に上がっていたが、遠くの山はけぶっている。その手前の海をみやると、みなれた赤い鳥居がはっきりと見える。あぁ宮島で結婚式を挙げたんだな、という実感がその時初めてわいてきた。

朱に塗られた回廊とその先の海に浮かぶ赤い鳥居、そして正装の新郎新婦の取り合わせは、いかにも絵になる。しばらくのあいだ、親戚たちは私たちと一緒に記念撮影にいそしんだ。黒をベースにしたシックだが華やかな花嫁衣裳を着た彼女と羽織袴に紋付き姿の私のツーショット写真は、その後親族に贈った写真帳のなかにも納められた。

ふたたび連絡船に乗り、ホテルに戻る。船の中から振り返ると、赤い鳥居を前に、雨にけぶり薄墨で描いたように見える厳島がだんだんと遠くなっていく。いつも見慣れた晴れた日の厳島もいいが、こうした影絵のような幻想的な光景もいいな、と思った。雨の日の結婚式、しかも世界遺産での、というのはそうそう味わえるものではない。

瞬間、1400年の歴史をそこに垣間見たような気がした。清盛も、元就も、秀吉も見たであろうこの景色を、自分もまた見ている。そうした偉人たちの足元にも及ばないが、自もまた歴史の中の一人であるという事実に変わりはない。もしかしたら、彼らと同じように過去から現在までくり返し、くり返しこの景色をみてきたのかもしれない。そして来世もまた…。

ホテルに帰るともう11時を回っていた。披露宴会場は最上階にあり、三方がガラス張りで、瀬戸内海を一望できる。子供のころに過ごした堀越や青崎がその先にある。その横には小学生のころそれを描いて褒められた黄金山も見えた。

彼女が簡単なお色直しを終え、二人が席に着くころには親族以外の招待客もおおかた到着し、それぞれの席についていた。

この日の親戚以外の招待客としては、二人の恩師であるセンコー先生をはじめ、クラスを代表して幼馴染でもある藤井君、二人のキューピット役を務めてくれた小菅さん、そして高校からの私の親友である高橋君と彼女の親友、金指さんなどだ。

ほかに、新夫側としては、私が勤めているNPO法人の代表のほか、このころ一緒に仕事をするようになっていたWVC時代の同僚夫婦なども招いていた。

一方、彼女のほうはかつての仕事仲間が多く、広島時代によく一緒に遊びに行ったという独身シスターズの面々と、先にヘアメイクをしてくれた韓国系の友人、そして、彼女の亡き母とも知り合いだった、例の霊感のある女性も来てくれていた。相対的に新婦側の招待客の方が多く、それは彼女の広島在住歴が長かったためでもある。

これに双方の親戚を入れて総勢40人ほどで披露宴が始まった。司会をしてくれたのは、シスターズのひとり。テレビのナレーションの仕事などもしている人で、彼女はさとみちゃんと呼んでいる。我々より一つ年下で、国泰寺高校卒業の後輩にあたる。

しゃべることが本職だけにこうした結婚式にもしばしば呼ばれるらしく、場慣れしている。軽やかな口調でオープニングを告げると、会場からは盛大な拍手が巻き起こった。

私も仕事柄数多くの委員会を経験しており、こうした大勢の人が集まる場でしゃべることは比較的慣れている。冒頭、彼女のマイクを借りて、一言挨拶をした。

今日は堅苦しい披露宴ではないので、リラックスしてほしい。何か話したいことがある人は遠慮なく演壇にあがってください、といったことをアナウンスした。少しでしゃばりすぎたかな、とも思ったが、朝からのハイテンションはここでも続いていた。どうにも今日はしゃべりたい気分だ。

そのついでに、ここにいる司会の彼女もまだ独身ですが、素晴らしい女性です。誰かいい人を見つけてあげてください、と付け加えると会場から軽い笑いが起こった。

彼女もそれを受け、そういう奇特な方がいればよろしくお願いします、というとさらに会場が湧く。その後も、彼女のかろやかな司会のなか、式次第がひとつひとつ終わっていった。

親戚や友人それぞれのお祝いの言葉が続く。それぞれの心のこもったメッセージは会場を和ませたが、近頃はやりの音楽やビデオといった催しはない。そうした演出も悪くはないが、50近い夫婦の結婚式にはそぐわない、普通のシックな結婚式にしよう、と二人で決めていたためだ。

親戚や友人たちが次々と演壇に上がる中、彼女が姉のように慕っているシスターズ最年長の女性がそこに上がった。そのスピーチは感動的で、年下の後輩への愛情が痛いほどわかるような内容だった。まるで実の妹に対するようだ。目頭をハンカチで押さえながらしゃべり、聞いている彼女も涙していたが、私自身も目頭が熱くなった。

その後、この日の料理を用意したシェフ自らが、塩釜焼きの鯛を大きな包丁でさばいて開ける、といったパフォーマンスがあり、また私のWVC時代の同僚がピアノ演奏をしてくれて会場を和ませた。

宴なかばでお色直しがあり、我々二人は一旦中座した。それまでは宮島での結婚式に出たときのままの着物姿だったが、ここからは洋装に着替えることになっている。楽屋に戻り、急ぎ着替えをする二人。目を合わせて、盛大な結婚式になってよかったね、というと彼女もうれしそうにうなずいた。

このお色直しの間、会場では二人が用意したスライドが上映されていた。高校時代に巡り合ったことから始まり、大学時代のニアミス、お互いの就職、といった紹介が順に進み、やがて私が最愛の妻を亡くしたことなどにも触れていた。そして、「3度目の奇蹟」、というところで、会場が再び湧いた、という。あとでこれを見ていた友人からそれを聞いた。

昨年の正月、30年ぶりの高校同窓会を開く前、幹事からの招待状が届いていた。その中には、高校時代の音楽祭で全員が歌った「空飛ぶクジラ」にちなんだイラストが描かれ、メッセージとして「2度目の奇蹟を起こそう」と書かれていた。

最初の奇蹟とは、我々クラス全員が、あの学校のあの場所で初めて出会ったこと。2度目とは、30年ぶりの同窓会での再会のことだ。それをぜひとも成功させようという意図から出たコピーであり、考えたのは誰あろう、彼女だった。

我々の結婚が決まったことは、既にセンコーズHPの中で既に報告していた。多くのクラスメートからお祝いの言葉をもらい、掲示板はしばらくのあいだその話題で盛り上がった。そのなかで、「3番目の奇蹟」という言葉が書き込まれるようになっていた。

このスライドの文句はその書き込みのいわばパクリだったが、めぐり逢い別れ、再会してまた別れ、3度目にして再び出会ったが、それまでと違って今度は結ばれたというのは確かに奇蹟に近いかもしれない。後日、この日披露宴に参加していた別の出席者に聞いたところ、このスライドによる演出が一番良かった、と言ってくれた。

お色直しが終わり、案内係に促されて会場に向かって二人手を組んで歩いて行った。このとき、ホテルスタッフにあらかじめ流すよう頼んでいた、平原綾香の”Jupiter”がかかり始めるのが聞こえた。扉をあけるとそこは真っ暗闇だったが、その先にアーチ状の白いゲートが用意してあるのがぼんやり見える。

打合せにはなかったことでちょっと戸惑った。おそらくホテルの計らいで二人には内緒で準備されたものだろう。心憎いことに、ちょうどそこを通りがかるころに、曲が盛り上がるように計算されていた。

我々が歩いて行く中、前奏がおわり、次のフレーズに向かって曲のテンションが上がっていく。そしてゲートに差し掛かった瞬間、突然、ふたりにスポットライトが当たった。真っ白いウェディングドレスをまとった彼女とタキシード姿の私がその中に浮かび上がると、会場からワーッという歓声とともに拍手が巻き起こった。

後年、この結婚式当日のことを思い出すとき、真っ先にこのシーンが脳裏によみがえってくる。印象深かった厳島神社での式もさることながら、このときだけは特別だった。

Jupiterの流れるようなメロディーが平山綾香のハスキーな声で盛り上がるなか、スポットライトを浴びた二人が次のステップを踏み出すという場景は、演出されていたものとはいえ、これ以上のものは望めないものだった。

のちに、改めてこの曲の詩を読み返してみたが、まるで我々のことを言っているような気がしてならない。

「愛をまなぶために孤独があるなら、意味のないことなど起こりはしない」

お互い、つらい孤独の時間を費やしてきたが、それは愛というものを学ぶためだったのかもしれない。結果、この日という意味のある日を迎えることができたのだろう。これからもその歌詞のままの人生を歩いて行くに違いない。

こうして二人の結婚披露宴は終わった。

が、宴はこれで終わりではなかった。実はこの後、さらにセンコーズの面々との二次会が待っていたのだ。同じホテルの別室で行われたこの会には20人近くが集まってくれていたが、その席には獅子舞までもが飛び出した。

地元の神主に知り合いのいる同級生がわわざわざ神社に頼み込んで演出してくれたものだ。賑やかな舞のあとは、4年前の同窓会以来の再会を喜ぶ旧友たちの笑い声が、夜遅くまでその部屋に響いた。

地上階に下り、市内に帰る旧友たちをホテルの前で見送り、すべてが終わったときには夜の12時近くになっていた。

宴の衣装を脱ぎ、普段着に着替えて部屋に戻ったころにはさすがに二人ともへとへとに疲れていた。その部屋は最上階にあり、ホテル最高のスウィートルームということだった。しかしその豪華さよりも、窓の外にまだ雨でけぶっている広島の町灯りのほうが私にはゴージャスに見えた。

窓際のソファにぐったりと座り、ぼんやりとその光景をみているうちに、すぐに眠気が襲ってきた。2008年、6月20日。記念すべきこの日の結婚式はこうして静かに幕を下ろした。




それから10年の月日が流れた。

中学生だった息子は、高校、大学と進み、今は就職して、かつて私が住んでいた阿佐ヶ谷の隣町、荻窪に住んでいる。親子ともに、若きころをこの界隈で過ごすことになった、というこの偶然をどう考えるべきだろう。

しかしそれにしても、彼は私とは全く異なった人生を歩んでいる。いったい誰に似たのだろう、とまた考えてしまう。私でないことは確かであり、かといって亡き妻かといえばそうでもなさそうだ。

おそらくはそれまでの過去生とは異なる、全く違う人生を求めて生まれてきたのだろう。そしてその人生の最初の時期、私と亡き妻、そして血のつながっていない彼女と暮らすことを選んだ。その理由は何か、と考えるとき、はてな、と再び考えてしまう。

答えは出そうもない。しかしヒントはありそうだ。

かつて、先妻と結婚したことで、それぞれの両親の人生が少なからず影響を受けた。それと同じように、この息子も、我々とともに人生を歩むことで何らかのメッセージを送ろうとしているに違ない。

そのメッセージが何かはまだよくわからない。しかし、きっと単純なものではないのだろう。白黒はっきりしたものではなく、もっと複雑な色合いのものかもしれない。だとしたら、玉虫色のようなものであってほしいが、あるいは刺すような重さを持った群青かもしれない。

しかし同じ青なら、できればかつて過ごしたハワイの空のような透明なブルーであってほしい。

子を持つ親はそのメッセージに対する答えを出すことを通じて、生まれてきたことの意味を知るに違いない。その答えを持ってふたたびあの世に旅立ち、自分を送り出してくれた人たちに報告して、はじめてその人生を終えるのだろう。

その日がくるまで、あとどれほどの時間が流れていくことだろう。

二人が同時にその時を迎えることはできない。しかし、願うことなら、同じ時をもって旅立ちたいものだ。かつて、父と祖母はそれを願って叶えた。我々ふたりもそう望めば、きっとそうなるに違いない。

その後我々は、東京を離れて伊豆に移住した。ここに至るまでにはまたもう一つ別のストーリーがあるのだが、それはまたいつか機会を変えて書いてみたい。

本稿で書きたかったこと。

繰り返しになるが、そのひとつは、人生においては、その人が本当に必要とすることがその必要性に応じて起きる、ということだ。

住み慣れた地を離れ、ふたりは今、富士が望めるこの地で暮らしている。そうしたことも、この人生で起きた必然のひとつである。

いまそこから2000キロ離れた中国で、この稿を書き終えようとしている。黒竜江省の朝日がいま昇ったばかりだ。3日後には帰国し、またふたたびその伊豆の青い空の元での生活が始まる。

その先にどんなことが待ち受けているのか。今は知る由もないが、起きるべくして起こることへの恐れはない。これまでの人生において、起こった困難のすべては、自分を成長させるものだったから。

運命は乗り越えることができない試練を与えたりはしない。また、たとえ試練だと思ってもそれは実は大きなチャンスであったりする。

すべては必然である。ふたたび訪れるかもしれないそうした困難や試練は、再び私の魂を成長させてくれるに違いない。

残る人生では、それがやってくるのをむしろ楽しみに待ってみようか。いま、少しそんな気になっている。

(稿了)

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本稿の内容はすべて事実に基づいたノン・フィクションです。ただし、登場する人物名は仮名とさせていただいています。また地名や組織名についても、一部は実在しない名称、または実在する別称に改変してあります。個々のプライバシーへの配慮からであり、また個人情報の保護のためでもあります。ご了承ください。



”半分青い” と少女漫画

この4月から始まった「半分、青い。」を毎朝よく見ています。

NHK「連続テレビ小説」第98作目の作品で、来年にはもう100作目にもなるのか、と改めてその歴史の長さを思ったりもしています。

ただ、今回の「半分、青い。」はそうした歴史の重さを感じさせるような重厚な内容ではく、人気脚本家の北川悦吏子さんの書き下ろしによるオリジナルストーリーは、軽妙なタッチで描かれています。毎朝見たその余韻で一日を楽しく過ごすことができ、さながら朝一番に飲む清涼剤といった感じです。

ヒロイン永野芽郁さんは、朝ドラオーディション参加者2,366人から、初めてオーディションに参加して選ばれたそうで、1999年生まれの18歳。女優ですが、ファッションモデルでもあるようです。

集英社の雑誌、セブンティーンの専属モデルのほか、小学生向けのファッション誌「ニコ☆プチ」の専属モデルを務め、少女マンガ雑誌「りぼん」のモデルも兼ねているといいます。

番組では、楡野鈴愛(にれのすずめ)という役で登場します。ふとしたきっかけから、「秋風羽織」という漫画家と出会い、その勧めで上京して漫画家を目指す、という設定で、これを豊川悦司さんが演じていますが、この二人や周囲の取り巻きとのやりとりがなかなかコミカルで笑えます。




“くらもちふさこ”とは

この“漫画家トヨエツ”が描く作品として、劇中にも実在の漫画家の作品が使われています。「いつもポケットにショパン」「東京のカサノバ」などで知られる「くらもちふさこ」の作品です。

くらもちさんは、主に80年代後半のバブル期に多くのヒット作を飛ばしましたが、その前の70年代からも既に活躍しており、我々の世代もよく知る漫画家です。

ふつうの女の子の身近な叙情感をテーマに展開する作品が多いようです。それぞれの絵を枠線によって区切り、場面の転換や時間の流れを読者に想起させる「コマ割り」による表現が絶妙で、またその細やかな描線による内面描写が特徴的な作家です。

実はお父さんは、倉持長次(1924~2005年)という実業家で、元日本製紙会長です。日本製紙は、現在日本第2位(世界8位)の製紙業会社であり、日本を代表する企業のひとつともいえ、つまりお嬢様といえます。本名は「倉持 房子」と書きます。妹の倉持知子(ともこ)も漫画家であり、姉妹揃っての漫画家というのはめずらしいといえます。

高校時代(豊島岡女子学園高校)在学時に描いた作品「春のおとずれ」で第49回別マまんがスクール佳作を受賞。その後武蔵野美術大学造形学部に入学後、本画を専攻しつつも漫画研究会に所属。1979年にはプロの漫画家としてデビューし、1996年 「天然コケッコー」で第20回講談社漫画賞を受賞したことで漫画家としての地位を確立しました。

2017年は 「花に染む」で第21回手塚治虫文化賞マンガ大賞も受賞しており、この賞はいわば日本の漫画界におけるノーベル賞のようなものです。

私も大学時代になぜか少女マンガで好きな友達がいて、借りたモノの中にくらもちさんの作品があったように記憶しています。この当時から“乙女チック”と言われるような少女漫画が多い中、ドラマチックな心理描写でストーリー展開するくらもち作品に、なんとなく「深み」のようなものを感じたのを覚えています。

その後デビューした漫画家たちに大きな影響を与えたとも言われており、1990年代に入ってからは、より挑戦的な作品を発表するようになり、そんな中で生まれたのが代表作「天然コケッコー」です。2007年には山下敦弘監督によって同名で実写映画化されたため、こちらでこの作品を知っている人も多いでしょう。

小さな村に住む主人公の高校生の日々を、東京からの転校してきた男子高生との恋愛を軸に描いた連作短編です。ネットで調べて改めてこのころの作風を確認しましたが、さすがにベテラン作家の作品といえるタッチであり、若い頃に書かれた作品とはかなり異なった進化を遂げているように思えました。



少女漫画、その黎明期

このくらもちさんだけでなく、現在の少女漫画のほとんどは女性が描いていますが、いわゆる少女漫画といわれるものが世に出始めたころ、実はそのほとんどを男性が描いていました。

その「はしり」といわれるものは、1935年に「少女倶楽部」に連載された倉金章介の「どりちゃん バンザイ」だといわれています。また1938年から「少女の友」に連載された松本かつぢの「くるくるクルミちゃん」など、日中戦争前の少女雑誌で連載された作品が少女漫画の先駆けであるといわれているようです。

この当時は、少女漫画を描くのはほとんどが男性であり、手塚治虫もその名声を広めたのは1953年(昭和28年)に描いた少女向け漫画、「リボンの騎士」でした。少女漫画にストーリー性を導入したのは手塚治虫だといわれており、この頃から少女雑誌においては、従来絵物語にすぎなかったものを押しのける形で少女漫画の比重が高まっていきました。

いわゆる少女漫画とは、絵柄としては可愛らしい・綺麗・清潔といった印象を与えるものが多く、情趣を大切にした上で毒々しいものをリアルに描き込むことは避ける、といったことが基本となります。

また、モノローグ、すなわち登場人物が相手なしに一人で独立した台詞を言う、といったシーンが多用され、心象を具象化した乙女チックな背景も特徴です。前述のとおり、場面転換や時の流れを意識したコマ割り、感情の流れを重視した画面技法にも特徴があるほか、少年漫画と異なるのは、必要最小限の描写に留められているものが多い、という点です。

立体感、動きを表現したり視点を頻繁に変更したりする絵は比較的少なく、また少年漫画と比較すると、「現実問題」を扱うことも多いようです。女性にとっての現実問題の最たるものはやはり「恋愛」や「家庭」であり、どちらかといえばパワーゲームが好まれ、冒険やアクションといったものに重きが置かれがちな少年漫画とはそこが最も違うところです。

また、少女漫画の少女漫画たるゆえんは「共感」である、という人もいて、これは言うまでもなく、他者と喜怒哀楽の感情を共有することを指します。

例えば友人がつらい表情をしている時、相手が「つらい思いをしているのだ」ということが分かるだけでなく、自分もつらい感情を持つのが共感であり、自分以外の他からの「独立」がテーマになりがちな少年誌とはここが違うといえます。

ただ、そうした現代的な少女漫画はまだこの当時には登場しておらず、ただ単に「女子向け」といった程度のものでした。そうした漫画もまた当初は男性が描いていたわけですが、それでも女性向けである以上は「共感」や「愛」といったものは重要であり、そこはやはり男性にとっては描きにくいものした。

その一方で、1950年代後半から1960年代前半にかけては、いわゆる「宝塚ブーム」が起きるようになり、これが少女漫画に大きな影響を与えるようになります。このころの少女の多くが宝塚歌劇団の影響を受けるようになり、「高橋真琴」のように、それを意識した作風で一世を風靡するような作家が出てきました。

「真琴」というと女性のようですが男性作家であり、いわゆる貸本漫画家としてデビューした作家たちの一人です。主に童話のヒロイン、雑誌のカラーページなど、少女を題材とした作品を手がけ、緻密な装飾的描写と、華やかで繊細な彩色に定評があります。

いわゆる少女漫画特有の装飾的な表現の基礎を創った人ともいえ、人物の背景に花を描き込む、キャッチライトが多数入った睫毛の長い目なども彼以降の少女漫画の定番となりました。

またこのころから「少女小説」も流行るようになり、宝塚の影響もあって美形の男性・男装の麗人などが登場し、華麗なストーリーが繰り広げられる作品が増えていきました。しかし、やはり男性による女性目線での作風づくりには無理があり、この当時の少女漫画を見ると、どうしてもそこに男性ならではの視線を感じてしまいます。

戦後すぐの時代から1950年代にかけてはまだまだ女性の社会進出は認められておらず、漫画家といえども男性が主体とならざるを得ない時代背景がありました。このため1950年代から1960年代前半においてもまだ、少女漫画は男性作家によって描かれることが多く、高橋真琴の他では、少年漫画でも活躍していたちばてつやや松本零士などがいました。

古典的な少女漫画の様式や技法は、こうした著名な男性作家や男性編集者によって築かれたと言っても過言ではありませんが、それはやはり少年漫画において定着していた技法の流用にすぎませんでした。



女性漫画家の登場

ところが1960年代も後半に入ってくると、このころから“少女クラブ(後年の少女フレンド)”や、“ひとみ”、といった少女漫画雑誌が流行るようになり、各誌で女性漫画家を育てよう、という機運が高まるようになります。そうした中から、女性ストーリー作家第1号とされる「水野英子」が現れ、彼女が少女漫画の表現の幅を広げていきました。

この水野英子は、日本の女性少女漫画家の草分け的存在ともいわれます。後の少女漫画家達に与えた影響の大きさやスケールの大きい作風から、女手塚(女性版手塚治虫)と呼ばれることもある作家で、1960年代のカウンターカルチャーを真正面から扱ったロック漫画「ファイヤー!」は少女漫画の枠を超えて広い注目を集めました。

また、かの有名な「ベルサイユのばら」を描いた「池田理代子」の登場も少女漫画界にとっては大きく、さらにこのころからは「24年組」といわれる個々の作家性の強い作家が存在を見せ始めました。

24年組とは、昭和24年(1949年)頃の生まれで、1970年代に少女漫画の革新を担った日本の女性漫画家の一群を指し、「花の24年組」とも呼ばれます。

青池保子(昭和23年生)、萩尾望都(昭和24年生)、竹宮惠子(昭和25年生)、大島弓子(昭和22年生)、木原敏江(昭和23年生)、山岸凉子(昭和22年生)、樹村みのり(昭和24年生)、ささやななえこ(昭和25年生)、山田ミネコ(昭和24年生)などが24年組であり、彼女たちによって少女漫画は飛躍的に進化していきました。

かつては単に少女趣味的なものであった作風が独自の変化を遂げ、作品の文芸性と独自性はより高く、より広くもなって、その後の1970年代から1980年代に至るまでの少女漫画の世界は大きく変わりました。この時期、男性少女漫画家はほぼ消滅し、例外だけが残るようになりました。

このころの少女漫画は、その演出技法だけでなく物語ジャンルへも広がり、それまでにないSF、ファンタジー、ナンセンスギャグ、少年同性愛を描く少女漫画家が出て、書くものに制限がないというほど少女漫画の世界が一気に広がりました。

さらに24年組の後輩に当たる「ポスト24年組」と呼ばれる女性漫画家たちが出るようになり、これは、水樹和佳(昭和28年生)、たらさわみち、伊東愛子、坂田靖子(昭和28年生)、佐藤史生(昭和27年生)、花郁悠紀子(昭和29年生)などです。

上述のくらもちふさこが若い頃に師事した「美内すずえ」も1951年、昭和26年生まれであり、ポスト24年組の一人といえるでしょう。代表作「ガラスの仮面」は、1976年(昭和51年)に「花とゆめ」にて連載開始されてから現在まで長期連載が続いており、累計発行部数が5,000万部を突破した大ベストセラーでもあります。

この24年組やポスト24年組など、1970年代初頭に登場し、新しい感覚で女性漫画界を切り開いていった女性作家たちは、SFやファンタジー、同性愛といった新しい概念を導入するだけでなく、画面構成の複雑化を図るなどの技法を用いるなど、次々と当時の少女漫画界の常識を覆していきました。

24年組の漫画家はまた、主人公が少年である作品も手がけるようになりました。ただ、当初は読者が少女なのに少年が主人公などとはあり得ないという編集部からの反発もあったといいます。ところが実際には少女読者たちからはこれが絶大なる人気を博すところとなり、ますます少女漫画の隆盛に寄与するところとなっていきます。




少女漫画から女性漫画へ

さらに1980年代に入ると、従来の少女漫画と一線を画す画風の少女漫画家が人気を博すようになります。従来の少女漫画は過剰ともいえる背景装飾がなされることが多かったものですが、これらの装飾的表現はこの時代徹底的に簡略化されていきした。

また等身大の女性を丁寧に描く作家が増え、シンプルな背景にキャッチライトが入らない目の人物像を描く漫画家が多くなり、「性」や「職業」といったいわばそれまではタブー視されていたようなテーマを取り上げた作品も増え、これによって少女漫画読者層が広がりました。

こうして、大人の女性向けの漫画、「女性漫画」といわれるものが成長していき、その中からレディースコミック、ヤング・レディースという名称の下に新たなジャンルが確立されていきました。

ところが、1990年代以降はバブル崩壊の影響で、世相が不安定になります。学校では授業崩壊などをきっかけに青少年問題の質の変化が現れ、少女漫画の中でもこれらが語られるようになり、心の問題を描く傾向が顕著になっていきました。

こうした中、これまではあまり見られなかった、「自ら行動を起こす」主人公像も求められるようになり、青年漫画が大きく成長したこともあって、元々こうした自立的なテーマの多かった青年漫画と同じテーマで少女漫画が描かれるようになりました。青年漫画と女性漫画の両者を手がける作家が男女を問わず増えるようになったのもこの時代です。

さらに1990年代後半以降は、若年層の人口減少と読者の嗜好の多様化に伴い、必ずしも「少女向け」とはいえない、従来の枠ではもはや捉えにくい、といった雑誌も増えました。そんな中、少女漫画や女性漫画の専門誌の発行部数は減少の一途をたどっていきました。

ただ、少女漫画的なテーマや表現手法は日本の漫画で広く定着したといえ、ある意味熟成の時代に入ったといえます。従来に比べて男性を含めた幅広い年齢層に女性向けの漫画が受け入れられるようになったことがそれを物語っています。

2000年代以降の現在、21世紀のインターネット普及時代に入って、漫画を掲載する雑誌やその他の媒体は、さらなる多様化の一途を辿っています。ネットの影響による時代の思考の変化などもあり、かつての少女漫画とは別の普及媒体と手法を持つものも確立されつつあるようで、それは例えばゲームやVR(バーチャルリアリティー)の世界です。

かつて女性向けの作品群を指していた少女漫画はさらに別の世界を目指して変化しつつある時代のようであり、その行き着く先を想像するのさえ難しい時代に入っているといえます。



24年組

しかしそれにしても現在に至るまでの少女漫画の系譜の底辺ともいえるものを形作ったのはやはり前述の「24年組」といっても過言ではないでしょう。

この中でも中心的な存在であったのは、竹宮惠子と萩尾望都といわれていますが、彼女たちを最初に見出し、世に送り出したのが雑誌編集者の「山本順也」といわれています。

若い頃から編集者として活躍し、数々の女性漫画家を育ててきました。日大藝術学部映画学科を卒業したあと小学館に入り、少女漫画誌「少女コミック」の創刊メンバーとなったのがその道の始まりで、のちの1970年に「別冊少女コミック」の創刊号で副編集長として加わり、その発展に寄与しました。

このとき、当時まだ無名に近かった萩尾望都、大島弓子、竹宮惠子らを登用し、その後も倉多江美、樹村みのり、伊東愛子といったのちの人気作家を次々と起用し、やがては彼女たちとともに少女漫画界に新しい波を起こすようになりました。

大人向けの女性漫画の第一人者として知られる里中満智子もまた「山本氏がいなければ日本の少女漫画の発展は10年は遅れたと思う」と語っています。里中は昭和23年生まれであり、画風などから24年組とは目されていませんが、彼女のような有名作家にも山本は大きな影響を与えたようです。

晩年の2000年には、京都精華大学芸術学部に日本で始めて新設されたマンガ学科の教員に就任するなど、その生涯を漫画に捧げましたが、残念ながら2015年に77歳で亡くなっています。

その山本が竹宮惠子と萩尾望都を見出したきっかけというのはこうです。1962年の「少女サンデー」休刊以来、小学館は講談社の「なかよし」や集英社の「りぼん」・「マーガレット」などに大きく遅れを取っていました。

そこで新雑誌創刊の任を負った山本は1968年、「小学一年生」などの学年誌に掲載されていた少女向けの漫画を集めて、月刊誌「少女コミック」を創刊します。

同誌は1970年に週刊化されましたが、当時は多くの漫画家が他の出版社と専属契約をしており、山本は作家の確保に苦労していました。そのころ竹宮を紹介したのが手塚治虫であり、彼女は手塚が経営する虫プロ商事が手掛ける雑誌「COM」に時折作品を投稿していました。

当時の竹宮は親の希望により郷里の徳島県の大学に通い、学生運動に参加し、本格的な漫画誌への漫画掲載を断っていましたが、そんな竹宮を山本は徳島まで赴き、「新しい事を始めたいので協力してくれ」と説得しました。

そして、その説得に応じて上京してきた竹宮は、共通の知人である手塚を通じて萩尾と知り合います。意気投合した二人は共同生活を始めましたが、その場所は練馬区大泉にあり、ここを紹介したのが竹宮の友人の増山法恵(竹宮のプロデューサー・原作者をへて、のちに作家)でした。




大泉サロンから

増山は、この若手の女性作家二人をみて「女性版トキワ荘」のような場所と作りたいと考えるようになったといい、増山の家の真向かいにあった長屋がその候補でした。のちに「大泉サロン」と呼ばれるこの長屋は、後年ポスト24年組の一人に数えられる坂田靖子が命名したとされますが当時はまだその名はなく、住み始めたのも竹宮と萩尾の二人だけでした。

2軒長屋の1戸建てアパートで、その片方一軒を竹宮と萩尾が借り、1階にある台所と6畳間がリビング、2階の二間を寝室兼仕事部屋として使っていました。周囲はキャベツ畑が広がる畑作地で、時に腐ったキャベツの匂いが漂うような場所だったといいます。

東京に生まれ育ち、プロのピアニストを目指していた増山は、幼いころからクラシック音楽、文学、映画、そして漫画にも親しんでおり、少女漫画・少女漫画家が低く扱われることを不満に思っていました。そこで増山は芸術として高いレベルの少女漫画を目指し、竹宮、萩尾にヘルマン・ヘッセの小説や映画、音楽など様々なものを紹介しました。

のちに二人の作品のテーマになる「少年愛」も、もともとは増山の趣味で、こういった作品を描いてほしくて二人に教えたといい、竹宮も増山からいろいろ聞いているうちに少年同士の世界「耽美」を認識するようになったと述べています。

そこに次第に同じ女性漫画家が集まるようになります。

山岸凉子(昭和22年生)、山田ミネコ(昭和24年生)、ささやななえこ(昭和25年生)、伊東愛子(昭和27年生)、佐藤史生(昭和27年生)、奈知未佐子(昭和26年生)、坂田靖子(昭和28年生)、花郁悠紀子(昭和29年生)、波津彬子(昭和34年生)などがそれで、昭和24年前後に生まれた若き女性漫画家達がこの大泉サロンに集まりはじめました。

漫画を描いたり、アシスタントをしたり、語りあったりしては帰宅する生活を送るようになった彼女らはその後の少女漫画界を担う人材として成長していきました。

この「サロン」は、1970年から1973年頃までのわずか3年ほどしか続いていません。しかしその活動期間に、肉筆回覧誌「魔法使い」の作成や、互いの作品制作への協力、少女漫画の今後のあり方に関する議論などの交流が日夜なされ、それらがやがて貴重な資産となり、今日の少女漫画の基礎へとつながっていきました。

仲間でつるんで旅行に行くこともあったといい、それらがまた作品の肥やしにもなりました。特に大規模なのは、竹宮、増山、萩尾、山岸の4名での45日間のヨーロッパ旅行に出たときもので、ハバロスク、モスクワといった東欧まで含めたこの大規模な旅行は彼らのその後の作風にも大きな影響を与えました。

竹宮はじめ24年組の多くがヨーロッパを舞台にした漫画を描くようになったのはこのころからであり、そこで形作られた作品が日本人だけでなく外国人を魅了するのはこのときの経験から得られた作風のためと考えられます。そうして作られた作品群は、やがては世界に通用する「少女漫画」という新たなジャンルの確立へとつながっていきました。

現・新潟大学准教授で専門は映像文化論が専門の石田美紀は、「映画学者」として知られますが、彼女は、この旅は単なる観光旅行ではなく、表現を深めるためのもので、戦後の女性史においても画期的なものだったと述べています。

大泉サロン解散後も、ここに参画した漫画家たちはそれぞれに親密な関係を持ち続けました。彼らの多くは、その後数々の賞を受賞するなど、少女漫画界だけでなく日本の漫画界全体の重鎮として現在も活動を続けています。とくに萩尾や山岸の活動はいまだ活発で、2000年代に入ってからもいろいろな漫画賞を受賞しています。

「大泉サロン」があった場所は、東京23区内にしては当時からかなり田舎っぽいところであり、現在も農地に囲まれています。サロンがあったアパートは既に解体されてなくなっていますが、萩尾望都「キャベツ畑の遺産相続人」などに名を残すキャベツ畑は今も健在です。

わいせつとは何か

人気グループTOKIOのメンバー、山口達也さんが強制わいせつ容疑で書類送検された、というニュースが日本中をざわめかせました。

報道されているいろいろなニュースを見ると、家庭的な事情もあったようですが、お酒の問題も深刻だったようです。ただ、だからといってああそうですか、と許される問題でもありません。

テレビをはじめ多くのメディアに顔を出し、世間に大きな影響力のある人気者としてはやはり超えてはならない一線を越えた、と言わざるを得ません。ご本人はもう既に十分に反省しておられるでしょうが、事の反響は大きく、まだまだこのあと尾をひきそうです。

ところで、この「猥褻」という言葉の意味を改めて調べてみました。

すると、わいせつの「猥」は、もともと「乱れる」「崩す」という意味があり、そこから転じて男女のみだらな関係を意味するようになったようです。また褻は、本来「肌着」を意味する語ですが、それを長いあいだ着続けることの不潔さから、「よごれる」「」けがれる」という意味もあらわすようになっていったようです。

合わせて「乱れ穢れた行為」という意味になるわけですが、日本の刑法において、従来は「猥褻」と難しい漢字で表記されていました。しかし1995年(平成7年)の刑法の口語化改正により表記が改められ、今は「わいせつ」と簡単にあらわされるようになっています。

このわいせつ罪ですが、刑法上はふたつあり、ひとつは、刑法174条に基づく「公然わいせつ罪」でもうひとつは、刑法176条に基づく強制わいせつ罪です。前者が「性的感情に対する罪(社会的法益に対する罪)」であるのに対して、後者は「性的自由に対する罪(個人的法益に対する罪)」であって、法的性格が異なります。

わかりにくいのですが、ようするに公然わいせつ罪のほうは、公衆の面前で行う行為で、不特定多数の人の公益に反するとみなされる行為をすることであり、強制わいせつ罪のほうは、個人的な身勝手で行う行為であって被害者は特定の人に限定されます。

これを簡単に説明するのによく使われる例があり、それは強制的にキスをする行為は「わいせつな行為」として「強制わいせつ罪」になりますが、夫婦が公衆の面前でキスをする行為は「わいせつな行為」ではなく、「公然わいせつ罪」にはあたらない、というものです。

ところが、このキスという行為は戦前は無論のこと、戦後まもなくのころまでもかなりいかがわしい行為とみなされており、公然わいせつ罪とみなされてもおかしくないものでした。公序良俗に反する行為とされ、面前で行うのは無論のこと、映画などで放映されるキスシーンも戦前はご法度でした。

そもそも、わいせつという概念は、法的に定義された概念であるものの、時代と場所を超越した固定的な概念ではありません。何がわいせつであるか否かは、その時代、社会、文化に対応して変化する「性」に対する規範意識に左右され、社会通念によって判断されるものです。

したがって、現在における「猥褻」の判断は戦前のそれにおいて適用されるものではなくようするに「普遍的」なものではない、ということです。憲法第21条で保障される「表現の自由」においてわいせつ的表現が該当するかどうかについては、学説上も争いがあり、未だに定説がないといいます。




そうした議論の中において、性的な表現の一部が、現在ならば当たり前のものであって自由にしていいというものが認められず、違法かどうかをめぐって激しく争われた事例もありました。

実はわいせつかどうかを問われる罪にはもうひとつ刑法175条というのがあり、これは「わいせつ物頒布等の罪」ともいい、「わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者」は罪に問われます。

これが憲法21条に違反するかどうかいうことで争われ、一審二審とも有罪判決を受けたあと、最高裁でも有罪とされたの「チャタレイ夫人事件裁判」です。判決が出たのは1957年(昭和32年)のことであり、わいせつと表現の自由の関係が問われたものの中でも最も有名な事例です。

「チャタレイ夫人の恋人」は、イギリスの作家D・H・ローレンスの作品であり、これを日本語に訳した作家の伊藤整(せい)と、版元の小山書店社長小山久二郎が被告となりました。そもそも日本政府と連合国軍最高司令官総司令部による検閲が行われていた占領下の1951年に始まったものであり、1957年に結審するまで6年もかかりました。

ところがこのチャタレイ夫人…はその後、1981年にシルビア・クリステル主演で映画化もされており、原作よりもより過激な内容になっているにもかかわらず、まったく罪に問われるようなことはありませんでした。40年も経てば性的描写についての社会的批評にこれほどの差異が出てくるのか、と考えさせられます。

簡単にあらすじを書いておくと次のような内容です。

炭坑の村に領地に持つ貴族の妻、コンスタンス・チャタレイ(コニー)は夫と蜜月の日々を送っていた。しかし、夫のクリフォード・チャタレイ准男爵は陸軍将校として第一次世界大戦に出征、クリフォードは戦傷により下半身不随となる。復員後は2人の間に性の関係が望めなくなるが、夫はその後作家としてある程度の名声を得るようになる。

しかし、コニーは一日中家にいる夫との二人きりの日々の生活に閉塞感を強めていくとともに、性生活ができないことを悩みに思うようになっていく。一方の夫のクリフォードのほうは、じぶんたちに「跡継ぎ」がいないことを深刻な問題として考えるようになる。

悩んだ末にクリフォードは、あろうことかコニーに自分以外の男性と関係を持つよう勧める。ただ、その相手の条件とは、同じ社会階級であることであり、また子供ができたらすぐに身を引くことができる人物であること、であった。

コニーは、自分はチャタレイ家を存続させるためだけの物でしかないと嘆くが、そんななか、チャタレイ家の領地で森番をしている男、オリバー・メラーズと会話を交わすようになる。オリバーはかつて陸軍中尉にまで上り詰めたほどの軍人だったが、上流中流階級社会になじめず退役し、チャタレイ家で雇われるようになったのだった。

妻に裏切られて人生の味気無さを悟り、一人暮しをするオリバーだったが、コニーはこの変わった男の威厳と自信に満ちあふれているようにみえるその姿に次第に惹かれるようになっていく。やがてふたりは恋に落ち男女の仲になる。秘密の逢瀬を重ね、性による人間性の開放に触れたコニーは、やがてクリフォードとの離婚を望むようになる。

しかしなかなか夫に言い出せず、閉塞感漂う思いの中、気晴らしのために姉と共にヴェニスに旅行に出かける。しかしその旅行先でコニーはオリバーの子供を妊娠していることに気がつく。ちょうどそのころ、オリバーのかつての妻がクリフォード領地に戻ってくる。彼女はかつての夫とコニーが通じていることに感づき、世間に吹聴して回るようになる。

その噂はすぐに夫のクリフォードの耳に入るところとなり、オリバーは森番を解雇され、別の農場で働くようになる。旅先から帰ってきたコニーは、オリバーを追い出したクリフォードを詰問し、ついには離婚を申し出る。しかし夫はこれを承知せず、コニーは改めてこの夫に失望する。

やがて名誉も身分も、真実の幸福には関係ないことを悟ったコニーは、オリバーの許へ走り、そこで新しい人生の門出をするのだった。

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ストーリーだけを追っていると、なんだ別に過激でもなんでもないじゃないか、と思うわけですが、原文にはやはりそれなりの露骨な性的描写があったわけです。小山書店の社長も、その当時は度を越えていることを理解しながらも出版したようで、無修正版が発行されて2ヶ月後にはもう警視庁に摘発されて発禁処分になりました。

裁判そのものは1957年(昭和32年)3月に結審して終わり、被告人小山久二郎を罰金25万円に、同伊藤整を罰金10万円に処する有罪判決として確定しました。

しかし1964年(昭和39年)には、新潮社から、伊藤整訳で性描写部分を削除した版が発行されました。さらにその後、時代の変化や英米での無罪判決も受け、1973年(昭和48年)に、講談社から羽矢謙一訳で無修正版が初めて発刊。1996年(平成8年)には新潮社から伊藤整訳・伊藤礼補訳で、削除部分を補った「完訳」版が発行されるに至ります。

ここに至るまでには、チャタレイ夫人裁判以降さらに、「悪徳の栄え事件・裁判(1969年(昭和44年))」、「四畳半襖の下張事件裁判(1980年(昭和55年))」という、やはりわいせつ表現が憲法違反になるかどうかが争われた大きな事件があり、そのいずれも最高裁まで行ったものの、結論としては違法という判断になりました。

しかし、四畳半襖の下張事件での判決では、「その時代の」社会通念に照らして判断すること、という但し書きがついており、以後、わいせつ表現に関する風向きが変わっていきました。1996年に、以前は発禁であったチャタレイ夫人の「完訳」版が発行され、特段罰則を受けなかったのもそうした流れによるものでしょう。

ただ、2007年(平成19年)にはさらに、松文館から発行された成人向け漫画の猥褻性をめぐる「松文館事件裁判」という同様の裁判が行われ、最高裁では二審判決の漫画もわいせつ物に当たるという判断を支持し、二審判決が確定。わいせつか表現の自由かという議論については、現在に至るまで肯定論者と否定論者の攻防が続いています。



こうしたわいせつか否か、という議論をするときに良く持ち出される用語に「エロティカ」と「ポルノグラフィ」というのがあります。「エロティカ」は、性的興奮を起こす素材を扱う作品のうち、芸術的・科学的な価値を意図したり残したりしているものを指し、「ポルノグラフィ」は、性を好色に描写し芸術的価値が少ないか全くないものを指します。

このふたつの違いを区別することは、なかなか難しく、エロティック・アートというものの存在を支持する立場からは、エロティカは性的な面白さより芸術的な面白さを追求するものであり、それゆえポルノとは違うとされます。しかし、エロティカも実際は性的興奮を起こすことを目的としているとして、このような主張を退ける意見もあります。

裸体芸術や性科学などの名目で公開されてきた「性科学映画」は社会的に認められています。また、性を商業化するものとして糾弾されることのあるピンク映画やポルノ映画であっても「芸術作品」として評価されるものもあるわけであり、どこでポルノとエロティカの線引きをするかはなかなに難しいものです。

ただ、ポルノのほうは女性差別の問題と関連付けて論じられることがあり、例えば電車などの公共空間におかれた週刊誌の広告のグラビアなども女性身体を一方的に性的な客体として描く女性差別的な表現とみなされることもあります。

一方では女性向けのポルノと言われているものもあり、レディースコミック・ティーンズラブ・ボーイズラブといったジャンルがそれです。

ボーイズラブは男性同士の同性愛を、レディースコミックやティーンズラブでは男女間の異性愛がメインとして描かれているわけですが、いずれにせよここに描かれているものは男性向けではなく女性向きなポルノグラフィなわけです。

男女それぞれに向けたポルノが存在するわけであり、このことからもポルノは女性蔑視を主旨とした男性だけのものかといえばそうではないことがわかります。

男性だけでなく女性も含めて、人類全体にわいせつかどうかという議論は存在するわけであり、かくして官能表現をめぐるラビリンスは深まるばかりです。過去から未来へ向けて「性」の内容は変化しつつあるようですが、その行き着くところはどこなのでしょう。

何がエロティックなのかという理解は時代や地域によって変わるため、エロティシズムを一律に定義することは難しいようです。ルーベンスが描いた官能的な裸体は、17世紀にそれが庇護者に献呈されるため製作されたときにはエロティックでありポルノグラフィックでもあると考えられました。

「チャタレイ夫人の恋人」もまた性を露骨に扱ったために猥褻とされ、1928年の完成から30年間にわたって多くの国で出版や流通に適さないとされてきましたが、今日では学校の標準的な文学と見なしている地域さえあります。

日本の各地に男女器を形どった「神」が祀られていますが、こうした彫刻は伝統的に病魔や死を退散させる象徴とみなされてきたのであって、エロティックと呼ぶべきものではありません。

そう考えてくると、未成年者に強制的にキスをするという行為も時代を超えた遠い未来の世界では合法行為として受け取られるようになるのかも。

いや、そんな遠い時代にはきっと、キスという行為の意味も変わっていて、もしかしたらおしりとおしりをくっつけあう行為がそれと呼ばれるようになっているのかもしれません。

そんな時代にはもう電車なんかには乗れなくなっているかも。いや電車というものすらない時代とすれば、その行為はどこでやるのでしょう。

もしかしたら未来の地球人はそうした愛を宇宙で交わしているのかもしれませんが… 妄想は膨らむ一方です…