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HIROSHIMA

かねがね疑問だと思っていたのですが、出身地の定義ってなんなのでしょうか。子供のころ、親の都合などで住処があちこち変わった人たちって、出身地をどこだと思われているのでしょうか。

ネットで調べてみると同じような疑問を持っている人は多いらしく、その問いに対する模範解答の多くは、「義務教育期間+高校など成長過程を過ごした場所」としているようです。けれど、法律的なしばりがあるわけでもないようなので、出身地はと聞かれたら、単純に生まれた場所でも本籍地でもとくに問題はないようです。

私は、といえば、生まれたのは愛媛県の大洲市というところですが、父の仕事の関係で、3歳のときに広島市に移り住みました。広島に住んでいたのは、18歳で高校を卒業するまでなので、上記の模範解答通りだとすると、出身地は広島ということになります。広島に住んだ通算年数は15年。幼少期から多感な少年期を過ごしたわけであり、その風土の臭いのようなものを身にまとうには十分な時間です。

しかし、だからといって広島出身・・・というのもちょっと違うなーという感じるのは、その風土に対する親近感でしょうか。子供のころから、どちらかというと母方の郷里である山口のほうが好きで、夏休みや冬休みの大部分は母の実家である山口市内の家で過ごしたものです。母も実家にいるほうが食費もかからないし・・・ということで、父を広島に置いて山口に来ることが多かったらしい。

過ごした時間のトータルで言えば広島のほうが当然長いのですが、過ごした時間の密度の濃さという点では山口に軍配が上がると思う。田舎で何もないといえば何もないところなのですが、小京都といわれるぐらい景色や歴史的には見るべきものが多く、子供ながらにその風情を楽しんでいたようです。自然が多く、その自然の中のいたるところに歴史が埋もれているかんじの山口が大好きで、ひとりでもバスや電車に乗り、よくそうした史跡を見に行ったものです。大学卒業後、両親が広島から山口に移住したこともあり、その後も盆正月に限らず何かにつけ山口に帰ることが多く、おそらく山口で行ったことがない場所はないのではないでしょうか。

なので、「出身地」は、と聞かれたときには、広島、といってみたり、山口と言ってみたりで脈略がないのです。しかし、最近では、ようするに両方のハイブリッドだな、と思うようにしています。

とはいえ、子供のころの生活基盤があったのは紛れもなく広島。学校で習う社会科の授業には広島で落とされた原爆の話題が出てきましたし、原爆で町が消滅に近い打撃を被ったにも関わらず、奇跡的な復興をとげ、マツダに代表される工業の町、中四国地方の商業の中心地として高度成長期には著しい変化を遂げた町でもあります。

そんな町、広島で我々夫婦、ムシャ&タエが出会ったのは、高校二年のとき。厳密には高校入学と同時に出会っているはずなのですが、クラスが違っていたので、お互いを認識したのは同じクラスになった二年生というわけです。その学校、広島国泰寺高校は、その昔広島一中と呼ばれていた100年以上の歴史を誇る伝統校。それだけに人気は高く、競争倍率はその当時割と高かったのですが、二人とも中学時代の成績はよく、無事入試をパス。晴れて伝統校の一員になったのです。

私が、愛媛県大洲市生まれであるのに対し、タエさんのほうは、島根の松江の生まれ。お互いの両親が公務員だったというのは偶然でしょうが、転勤の多い公務員のこと。その転勤先が同じ広島だったことが、二人がめぐりあうための下地になったわけです。今思えば、そういう両親を選んで生まれてくることが、二人して広島で出会うために必要な必然だったのでしょう。

国泰寺高校はいわゆる進学校で、卒業生のほとんどは大学へ進学。そのせいもあって、受験に専念させるためか、高校三年のクラス替えはなし。従って、二年から三年の二年間、をタエさんと同じクラスで過ごすことになりました。三年になると大学受験のための課外授業などもあり、正規の授業と課外授業、そして来るべき受験に備えての受験勉強でかなり忙しく、今振り返ってみても楽しかった、といえるような時代ではありませんでした。

そんな中にあっては、恋愛なんてやっている暇なんかねーよ、というわけで私も好きな女の子の一人や二人はいましたが、恋愛関係に発展する間もなく受験体制に突入し、あれよあれよと高校三年間が終了。県外の大学を受験したクラスメートも多く、高校卒業とともに、クラスの面々の半分は広島に居残ったものの、残るは全国にバラバラに散っていきました。

その当時私は写真部に所属しており、いつもカメラを持ち歩いていて、そうした校内の催しやクラス内での様子などを毎日のように写真に撮って記録していました。今もその当時のネガが大量に残っているのですが、その一枚一枚をみると、その当時のクラスメートどうしの親密さがうかがわれます。

我々のクラスはわりと結束力が強く、校内のバレーボール大会でもスクラムを組んで優勝。合唱祭でも賞をもらうなど、なんというか、クラス全員でいつも何かやっているというような一体感がありました。そして、その一体感から生まれたこのクラスの結束こそが、その30年後の我々の結婚につながっていくのです。そのことは、またこのあと書いていきます。

高校時代のわたしとタエさんの接触はどうだったのでしょうか。正直なところあまり覚えていないのですが、クラスには「班」というものがあり、それぞれの班単位で掃除やらクラスの行事などを担当するしくみになっており、同じ班に所属したことが一度あったかと思います。

それが縁で親しく話をする機会もあり、どんな会話だったのか全く覚えていませんが、修学旅行のとき、飴をくれるといったのにくれなかった、と私が愚痴を言ったとか言わなかったとかいう出来事があったようです。そのお詫びを兼ねて、彼女が私に書いて寄こした年賀状が手元に残っています。お詫びといいながら、かなりちゃかした表現で、飴玉の絵が添えてあり、そのとき、なかなか面白いヤツ、と思ったことは覚えています。

しかし、それがその後、恋愛感情に発展するとはそのときまったく思っていませんでした。彼女のほうも、とくに私にそんな感情を抱いているそぶりもなく、それもそのはず、その当時の私といえば、結構小太りで赤ら顔の写真好きオタク少年といったかんじ。おそらくは眼中にはないわよ、といったところだったでしょうが、とはいえ、そんな年賀状が残っているくらいですから、同級生同士としては話は合うほうだったのでしょう。

その程度のご縁しかなく、どちらかというとすれ違い、といってもいい二人でしたが、高校を卒業し、私は静岡の私立大学へ、彼女は広島の公立の女子大学の大学生になり、ますますその距離は遠ざかります。

その二人が再び出会うことになったのは、高校卒業後の最初の夏だったと思います。誰が言い出したかわかりませんが、結束力の高かったクラスでもあり、同窓会をやろうという声があがったのです。しかもただの同窓会では面白くないので、キャンプをしようという話になり、卒業後はじめての野外同窓会が実現します。

同窓会が行われたのは、広島県北にある「県民の森」というところ。野外で炊飯できる施設があり、コテージのほか、テントの貸し出しもあったかと思います。ここで一泊二日のキャンプ同窓会を開くことになったのは遅い夏だったと記憶しています。集まった総勢は、全部で十数人だったでしょうか。男子女子ほぼ半々の割合で久々に集まった面々。男性陣の仲にはすでに麻雀を覚えたりタバコを覚えたヤツもいたかと思う。学生服に変わり、私服で過ごすようになった女性陣はといえば、さすがにまだお化粧している子はいなかったと思いますが、高校時代にくらべてずいぶん変わったなーと思ったのを覚えています。

このキャンプ。息苦しい受験戦争を終え、大学へ入学して自由になった面々のこと、かなり大騒ぎをしたのを覚えています。みんなはしゃいでいましたが、そのときタエさんは少し疲れたようなかんじでした。どうしても出なければいけない同窓会というわけではなく、ちょうどスケジュールが空いていたので来たというところだったでしょうか。妙に物静かで口数が少なかったように思う。

大学入学後、女学生らしく少し髪の毛を伸ばして帽子をかぶり、黒いパンツにベージュのトレーナーといったシンプルな服装のタエさん。ほかの子同様、けっしておしゃれには見えませんでしたが、高校時代に見た学生服のタエさんと違ってずいぶん大人びてみえました。

今にして思えば、その再会が運命のときだったわけです。少しものうげで大人びたそぶりの彼女にビビッと来たのが運のツキ。気恥しいのであまり書きたくはありませんが、いわゆるひとつの恋心なるものを覚えたわけです。その後静岡へ帰り、彼女のことを思い返すにつけ、どうしても我慢ができなくなりました。

私は、恋愛に関してはかなり奥手のほうでしたが、思いつめると自分でもあれっと思うような行動に走ることがあります。その夏のことだったか、その次の冬休みのことだったかもう忘れてしまいましたが、どうしてもタエさんにまた会いたくなり、とうとう彼女がアルバイトをしていた市内の本屋さんに彼女に会いに行くという大胆な行動に出るのです。

ちょうど彼女はレジで会計をしていましたが、私を見ると驚いた様子でした。が、顔をあげ笑顔であいさつをしてくれました。これに対して軽く会釈で応じ、本を見るふりをして書店の中をぐるぐる回ります。そして、さあて、どうしたものか、と考えました。まさか、レジの前で告白するわけにもいかんしなー、誘うにしてもきっかけが思い浮かばんし・・・

といろいろ思案していましたが、ふと一計を思いつきました。そして、大学で必要な本なんだから、と自分で自分を言い聞かし、海洋学関係の本を一冊手にとってレジへ。その本、とくに必要な本でもなかったのですが、タエさんと話をするためのダシに使おうと思ったわけです。結構高価な本だったと思うのですが、そんな難しい本を買いに来たんだ~とタエさんが思うかもしれない、という下心も。そしてレジにいたタエさんに手渡すと、彼女は「まぁ、こんな高い本を」とか言ったかと思います。

それがきっかけで少し会話ができ、その会話の終わりに、今日はちょうどクルマで来ているんだけど、もしバイトが終わるのがもうすぐならば、ウチまで送って行ってあげるよ、と私としてはさらに大胆な発言をしたのです。

断られるかな、と思いきやOKの返事をもらった時には、天にも昇るような気持ちだったのを覚えています。そして、口実とはいいながら、彼女の自宅までの車での初デートが実現。無論、彼女はデートとは思っていなかったでしょうが。クルマの中での会話の内容はよく覚えていませんが、お互いの大学生活のことだったでしょうか。お互い多少意識しつつも会話のキャッチボールは途切れなかったように思う。私としては、しめた!と思ったもんです。

そうしたこともあって、静岡へ帰ったあと、広島にいる彼女との手紙のやりとりが始まりました。実際には「やりとり」というほどではなく、どちらかといえば私からの手紙の数のほうが多い、一方的な文通。彼女から私のほうへ来た手紙は2~3通ほどだったかと思います。私はせっかちな性格なので、彼女の手紙が来ないうちに次を出してしまうのですが、奥手の性格なのでかんじんなことが書けず、くだらないことばかりを書いたような気がします。とはいえ、私なりに趣向を凝らして彼女を楽しませるような内容を書いたと思うのですが、それに対しての彼女の返事は待てども待てどもなかなか来ません。

そして、最後に意を決し、とうとう告白めいたことを書いて送った手紙に対し、彼女から帰ってきた手紙は・・・ やっと返事をもらえたと思ったその内容は・・・ご期待どおり、NOでした。

その当時、お互い19歳。お互い、大人の恋愛をするには少々早すぎました。私自身はかなり奥手のほうなのですが、彼女もかなり奥手のほう。あとで聞いた話ですが、彼女もその後大学を卒業するまで、彼氏はできず、私も同様。今思えば似たものどうし、だったわけですが、私自身まだ精神的に幼すぎたし、タエさんもそれを補えるほどの母性はまだ持ち合わせていなかったのでしょう。お互いその時期ではなかった。今思えばそのとおりなのです。

そして、そのまま大学を卒業・・・彼女は広島にいたまま職業としてコピーライターを選び、私は東京へ出て建設コンサルタント会社に就職。技師のたまごとしての人生をスタートします。お互い全く違った場所で全く違う社会を経験していくことに。お互い、その後の人生は時に過酷なものでもありましたが、しかし、お互いその後の別々の人生の積み重ねがなければ今の二人はなかったのです。

そして、そんな二人が再会するまでに30年の月日が流れていきました。その再会を果たした場所もやはり広島。ふたりにとって実に縁の深い土地です・・・

今月は結婚記念日を間近に控えているので、「ブライダル月間」ということで、二人のなれそめの話を書いていきたい、というのは先日も公表したとおりです。とはいえ、結構、この手のことを書くには、「リキ」がいるので、この続きは、明日以降、気が向いたら、ということにさせてもらえればと思います。

結婚している人も、もうすぐ結婚する方もそれぞれの特別のストーリーがあると思います。わたしたち二人の場合、結婚に至るまでの二人の人生が一度は交わりながらも、それていき、そしてふたたび交じり合って結ばれたという、ありそうでわりとないストーリーです。

そんなお話にご興味があればまた当ページへお越しください。

富士山は親戚? ~富士山

昨日は一日中雨が降り続きました。梅雨らしいといえば梅雨らしいのですが、妙に気温が低く、最高でも21度どまり。典型的な梅雨寒です。わたしはといえば、思わずしまいこんでいた、愛用のどてらを引っ張り出して着るほど。夕べなどは、もう6月だというのに、鍋料理などしてしまいました。

雨は夜半にあがり、そして今朝は快晴、とまではいきませんが、朝から少し日が差す天気。外をながめると、ここのところ厚い雲に覆われてばかりいた富士山が久々にその雄姿を現しました。しかし、それにしても、雪が減ったな~ こんなに少なくなってたんだーとちょっとびっくり。

そこで、先月の5月に撮影した富士山の写真と比べてみると、その違いは一目瞭然。右下の宝永山の噴火口(宝永火口)の雪はすっかり溶けているのがわかります。それもそのはず、来月7月の1日からはもう、富士山の山開きです。今年も大勢のハイカーが富士山のサミットを目指すのでしょう。


 5月16日の富士山 宝永火口にはまだ雪が・・・

かくいう私は、一度も富士山の頂上まで登ったことはありません。学生の頃に、五合目まではクルマで行ったことがあるだけ。しかも、曇天の日だったので下界も全く見えず、ただ登っただけになってしまいましたが。

それだけに一度は登ってみたい山ではあるのですが、テレビなどで紹介されている登山の様子を見ると、登山客だらけでイモ洗いのご様子。ただでさえ人ごみが嫌いな私にはとても向かない環境です。多くの人は七、八合目あたりで一泊してから頂上を目指すようですが、宿泊する山小屋の混雑ぶりが目に浮かぶようで、どうにも気が進みません。

早朝か夜間から登山を始めて日帰りで帰ってくる、ということもできるみたいなので、天候をみはからってそのうちチャレンジしてみようかな、と思ったりもします。が、運動不足のタエさんがついてこれるかどうか。彼女ときたら、ちょっとした神社の階段でも息を切らしながら、私にしがみついてくる始末。いっそのこと、背負子(しょいこ)でも買ってかついで行くか~ とも思ったりするが、ぎっくり腰になったらいかんのでやめときましょう。

その昔、富士山の山頂に気象庁の測候所があったころには、頂上まで観測資材などを引き上げるのに「強力(ごうりき)」と呼ばれる人々がかり出されたようです。一人で50~60kgの荷物を運ぶことができたそうで、中には重さ100kg以上の荷物を運ぶ猛者もいたとか。直木賞作家、新田次郎さんの小説「強力伝」に出てくる強力さんは、白馬岳山頂に50貫目(187.5kg)の方位盤を運んだそうです。富士山でも、山頂に立つ鳥居を担ぎ上げた強力さんがいて、この人は、重さ40貫~50貫(150kg~187.5kg)の鳥居を上げたとか。

こういう強力さんはその昔、富士吉田市や御殿場市にたくさんいたようで、通常は山小屋などに食糧や日用品を運ぶ仕事をしていたようです。今もいらっしゃるのかな、と思って少し調べてみたら、今は山小屋への荷物などは小型のブルドーザーで運べるそうなので、おそらくはもう廃業でしょう。

ところで、富士山といえば現役バリバリの活火山。いつ噴火してもおかしくない、「生きている」火山です。先日NHKの特集番組を見ていたら、この富士山、最近どうもきな臭いらしい。昨年の大震災によって、関東以北の火山の地下にあるマグマにかかっていた周りの岩盤からの力が解き放され、マグマが上昇しやすい状態が続いているとか。ここ数年のうちに噴火するのでは、という見方をしている学者さんもいるようです。

もっとも考えられる噴火シナリオのその1は、南側の宝永火山からの溶岩流の流出だそうで、この場合、麓の富士市や裾野市あたりに流れ出すだけでなく、駿河湾にまで達し、東名高速や新幹線、東海道線などの東西を結ぶ大動脈を分断。東京とそれ以西の物流が止まることによる大きな経済的ダメージが生じる可能性があるとのことでした。

可能性の高い噴火シナリオのその2は、同じく宝永火山付近から噴出した噴煙が、上空数キロメートルの高さにまで噴き上げるパターン。この場合、富士山のすぐ麓への影響というよりも、むしろ大きな被害を受けるのは東京や神奈川、埼玉といった関東地方。偏西風によって東に流された噴煙が関東地方の広範囲に灰や火山岩を降らします。

火山灰は銅や鉄と同じく通電性があるそうで、これが電線に積もるとショートして電気が止まり、首都圏が大停電になる可能性も。降った灰のうち、細かなものはあらゆる電子機器に入りこんで悪影響を及ぼすほか、積もった灰は電車や自動車の通行をも妨げ、人々の移動は困難に。関東地方はその他の地方とは切り離され孤立。そのため食糧事情が悪化し・・・・・

と、何やら空恐ろしくなってきますが、本当に噴火したらそりゃーそういうこともあるだろうな~。去年テレビでみていた大津波の映像はまるで夢でも見ているようでしたが、富士山の噴火も実際におこったらまた夢のように見えるのでしょうか。ふつう、夢はかなってほしいものですが、こればかりは実現しないことを祈るばかりです・・・

ところで、火山ついでなのですが、おととい行った下田のペリーポイントで「火山の根」についての説明書きがありました。なんでも下田にある三角形のおにぎりのような山、「下田富士」というのだそうですが、この下田富士や同じ市内にあって頂上までロープウェイが通っている観光スポット、「寝姿山(ねすがたやま)」は、その昔、やはり火山だったそうです。

ペリーポイントにある「黒船」のいかり

火山の根とは、ようするにマグマそのものなんだそうで、そのまわりの岩や砂が侵食されてマグマ本体が露出したもの。硬い一枚岩になることもあるらしい。そういえば、ウチの近くにある城山(じょうやま)や葛城山もその昔は火山だったらしく、城山などは見るからに、岩一枚でできてまーす、としっかり火山の根っこを主張してます。前にもこのブログで書きましたが、ロッククライミングをする人のメッカだそうで、近くに出かけることがあるときに見上げると、岩肌に張り付いているクライマーを見かけることがあります。

左から富士山、葛城山、城山

ちなみに、下田の下田富士は、伊豆諸島の最高峰で八丈島にある八丈富士、富士山(駿河富士)と合わせて三姉妹であったという民話が残されているそうです。そうすると、城山や葛城山はその親戚かい・・・と突っ込んでもあんまりおもしろくないか。でもまあ、同じ伊豆半島の中でできた火山同士であることには違いなく、お父さんやお母さんではないにせよ、親戚といっても過言ではないわな。

また、その昔、伊豆半島にあちこちにあった火山から噴出し、海底にたまった火山灰や軽石が固まって隆起したものを切り出したものを、「伊豆石」というそうですが、下田の町には伊豆石で作った建物がたくさんあるとのこと。そういえば我が家のお風呂にも伊豆石が使ってあります。ということはウチの風呂も富士山の親戚か。と、わけのわからんことを書いているとお叱りを受けそうなので、今日の火山論議はこれくらいにしましょう。

気がつけば6月ももう中旬。あと半月で今年の前半戦も終了です。今年前半の奮闘は後半戦にどう影響を及ぼしていくのか。本格的な夏が来て暑くなる前の梅雨のあいまにでも、過去に起こった出来事を整理し、今後の展開を見据えることにしましょう。みなさんにとっては、どんな半年でしたか?

ペリーポイントにて

下田発 あじさい三昧 ~下田市

今日の修善寺は朝から雨模様です。気温も低く、肌寒い・・・梅雨寒です。梅雨に入ったばかりだというのに・・・

昨日アナウンスしたとおり、下田のあじさい祭りに行ってきました。下田の町中の南西端にある「下田公園」という場所です。ここへは伊豆へ引っ越す前、タエさんと一緒に行ったことがあります。冬だったのでもちろんあじさいは咲いていませんでしたが、ざっとみたところ、その数ははんぱない数だったので、きっと見ごろの季節に来たらすごいことになっているだろう、ぜひその頃もう一度来よう!と言いあっていたのです。

ガイドブック等で調べると、その数は、15万株300万輪とか。と、言われてもピンとこないので、日本各地のあじさいの名所で、下田公園以外で一番「株」の数が多いところをピックアップしてみました。すると・・・

北海道 立象山公園 久遠群せたな町 3万株
東北 東山公園あじさいの杜 山形県新庄市4万5千株
関東 花野辺の里 千葉県勝浦市 5万株 麻綿原高原 千葉県大多喜町 5万株
中部・東海 板取あじさい村 岐阜県関市 10万株
近畿 神戸市立森林公園 兵庫県 神戸市 5万株
北陸 太閤山ランド 富山県小杉町 2万株
中国 美咲花山公園 岡山県美咲市 2万株
四国 ホテル奥道後 愛媛県松山市 8万株
九州 高塔山公園 福岡県北九州市 4万2千株
沖縄 よなへあじさい公園 沖縄県本部町4万株

な、なんと下田公園が全国の中でも断トツ一位ではありませんか!2番目も、岐阜県のあじさい村だし、中部・東海の人ってあじさいが好きなんでしょうか。それにしても、日本全国、北から南までずいぶんあちこちに、大きなあじさい園があることにちょっとびっくり。でも意外と地元の人も知らない公園も多いんではないでしょうか。東京に長く住んでいましたが、千葉のほうに5万株もあるあじさいがある公園があるなんて全然知りませんでした。私の場合、関東であじさい、といえばまっさきに思い出すのは、鎌倉。でも、あじさい寺として有名な鎌倉の明月院ですら、2500株しかあじさいはないそうです。

で、やっぱりあじさいを見るためのシチュエーションというか、雰囲気とかが大事なんであって、数が多ければいいってもんではないんだろうなーと思う次第。鎌倉で見るあじさいは、あの古びた街並みで見るからこそ美しいのであって、大都会の真ん中にあじさいの群落だけがどーんとあっても、だれも感心しないと思う。

それに、そんな大きな公園に行かなくったって、あじさいというものは、そこここの小さな公園にたくさん植えてあります。どこの家でもたいていは1株や2株はあるでしょう。つまり、あじさいは、桜と同様、「国民の花」。どこでも見られるあじさいをわざわざ遠出してみる必要はない、と誰しもが思っているのでは。どうせ見に行くなら、あじさいだけでなく、あじさいを囲む緑とか空気とか、その場の「雰囲気」というものを味わいたいもの。それに桜と違って晴れた日に見に行くというイメージのものでもないし、かといって雨の日にわざわざ行くのはな~ やっぱ曇りの日かしらん・・・

・・・と、あーたらこーたら前置きばかり長いのは、少々昨日の疲れが残っているからかも(汗・・・)。とはいえ、昨日の下田公園を思い出しつつ、本当に「大きいことはいいことだ」なのか、考えてみました。そしたら、うーん、そんなに悪くないんじゃないかなーというのが結論。正直あまり期待はしていなかったのですが、15万株という数のあじさいは、さすがに圧倒的でした。

数が多いのもさることながら、起伏のある公園全体に植えられた「あじさいの丘」は風情がありました。ただ単に迫力がある、というだけではなく、海に近いというシチュエーションを生かした公園づくりは、なかなか工夫されていて、下田の人たちの町おこしに対する意欲のようなものが感じられます。

そのひとつは、案外と見過ごしがちなのですが、園内の散策路に敷き詰められている石。土や砂だけの園路は雨の日などには足をとられがちですが、ここの散策路はほとんどが石畳か、さもなくば細かくくだいた石がびっしり埋めてあります。ただ並べただけでは凸凹になるので、表面が平らになるように工夫してあり、車いすはさすがに無理としても、お年寄りでもつまづくことなく歩けます。総延長がどのくらいになるかわかりませんが、この石づくりの園路の長さは相当な距離になるでしょう。莫大な費用と手間がかかっているように思います。

また、「あじさい祭り」の会場入り口では、お手製の竹の杖が無料で貸し出されていて、アップダウンの激しいこの公園では重宝します。下田の人の「思いやり」がそこにも感じられるのです。園路のあちこちから下田の町や海が見えるのですが、特設で海が見える展望台もつくってあります。あじさいに飽きたら、そのたびに遠くへ目を向けると優しい色の海が見える・・・林間ごしに見える下田の町や、港、そしてときおり行きかう船もまた一興あり。海は、どちらかと言えば地味なあじさいの花を引き立てているという側面もあるようです。

訪れた観光客は、平日の月曜日ということもあって、それほど多くもなく、適度な人口密度の中、じっくりあじさいの淡い香りを嗅ぎながら散策できるのもよいかんじ。気温は20度ちょっとと、暑くも寒くもなく、ほのかな潮のかおりがそよ風とともに下の海から上がってきて、ベンチなどに座ればすぐにうつらうつらできそうです。その傍らに咲く、大輪のあじさい・・・私はといえば、気が付くと写真を数百枚も撮っていました。あーあ。後片付けが大変だよなー。

実際、ほかの観光客の方々も手持ちのカメラでバシャバシャと写真を撮っておられましたが、普段カメラなど持たない人でも、俄かカメラマンになりたくなる気持ちは、よーくわかる。それだけ絵になりそうなシーンが多いのです。

とはいえ、撮りはじめると、花の色が寒色系のあじさいの写真って、実は撮るのが非常に難しいということがわかります。周囲の緑色に溶け込んでしまうので、どうしても平板になりがちだし、光量やピントの加減も難しい。みなさんも、きれいに撮れたと思っても、ウチに帰ってみてみてガッカリ・・・という経験はありませんか?

かくいう私も四苦八苦しましたが、そのうちのいくつかをアップしてみました。先日のバガデル公園のバラの華やかさとは違って、渋い落ち着いた雰囲気はやっぱ日本人好みだよなー。地味ながらも繊細。繊細かつ大胆。



さて、下田公園のあじさい園の真下には、その昔、黒船でペリーが上陸した「ペリーポイント」なるものがあります。現在は海に面した小さな公園になっていて、そこにアメリカ海軍から寄贈されたその当時の軍艦の碇などが置かれています。このペリーポイントから北へ平滑(ひらなめ)川という川が流れていて、その上流にある了仙寺というところまでの両岸は遊歩道として整備されています。

このお寺はその昔、アメリカの使節団と日本政府が交渉事を行った場所とか。この了仙寺からペリーポイントまでをペリーロードといいます。地元の商店街と下田市がタイアップしてできた「作品」ですが、遊歩道の両脇には柳の木とところどころにあじさいが植えられ、その後ろには大小のこじゃれたショップが立ち並んでいて、なかなかレトロで落ち着いた情緒をかもしだしています。

公園に到着したのはちょうどお昼前だったので、そのペリーロードの中のどこかの店で食事をしてから公園に行くことにしました。どこかいいところがあるかどうか探しておいてね、とタエさんに事前に調べておいてもらったので、そのお目当てのお店、「ページワン」に入ることにしました。こちらのお店、パスタ中心の食事メニューなのですが、その中でも、「渡り蟹のトマトクリームソースパスタ」の前評判が高かったので、二人してそれを注文。

待つこと、十数分。やってきました~ オレンジ色に光り輝くパスタが。結構多めのパスタに殻つきのワタリガニがたっぷり入っています。一緒に出されたトレイの中をみると、通常のフォークとスプーン以外に、カニを食べるときによく使う、カニスプーンが入っています。片側がスプーンで、もう一方がカギ状になっている、アレです。と、いうことは、カニを自分でほじくりかえしながら食べろということか・・・

ともあれ、お味は、ということで、たっぷりのソースにパスタを絡めてひとくち。うっ、ウマイ! と同時に、アッ、あッツイ! 舌をやけどしそうになりました。出されたパスタはかなりのあつあつ。しょうがないので、まずはカニの殻を割って、中の身を取り出してから食べることに。殻はあらかじめ割りやすいようにクラックを入れてくれているのですが、中にはなかなか割れないものも。そして、格闘すること10分ほど。ようやく身を全部出して、パスタにありつけました・・・

・・・結論として、味は満点。手間は減点。非常においしかったのですが、殻をむくのにやはり時間がかかりすぎ、その間にパスタが少し柔らかくなりすぎたのが残念でした。でも一皿1600円もするこのパスタ。量も味もばっちりで、本当に満足しました。久々においしいパスタを食べたというかんじ。

お店の雰囲気もよく、窓からは、ペリーロード沿いに植えられたあじさいも見えておしゃれです。お店の方の応対もよく、笑顔の店員さんと帰り際に「ありがとうございました」と言ってくださったオーナーシェフらしい年配の方もなかなか、おしゃれなオヤジでした。

その後、下田公園のあじさい祭りに行ったのは前述のとおり。散策路からは海が見える、と書きましたが、この公園は半島状になっていて、その先端(最南部)には、「下田水族館」という水族館が隣接しています(有料)。あじさい見物の散策路は、その水族館の真上まで通じていて、そこにある展望台の高さは海上から50mほどはあるでしょうか。そしてこの展望台からは水族館全体を見渡すことができます。

我々がそこを通ったとき、ちょうど、水族館の屋外プールで、「イルカショー」が始まりました。ラッキー! ということで、その高台からイルカショーを見学することに。ことばどおり、「高見の見物」です。近くで見るためには、もちろんお金を払わなければなりませんが、遠くからこうして見る分にはタダ。タダ、下のほうでは、インストラクターが、イルカに声をかけたりお客さんに説明したりする声が聞こえてきますが、何を言っているのかはわかりません。

でもインストラクターが、手をあげたり、魚をあげたりするたびに、イルカたちが水中から飛び上がってジャンプする様子が手に取るように見えます。幸い、望遠レンズを持ってきていたので、私はこれをぱしゃりぱしゃりと撮影。あとでみると、なかなか良くとれているじゃああーりませんか。

あじさいを見に来て、イルカショーまで見れるとは・・・超ラッキーじゃん。とご機嫌のタエさん。無論、もちろん、私も同じ穴のたぬきです。

・・・そんなわけで、あじさいも、海もイルカも満喫して帰路についたふたり。ほぼ半日を歩きづめでしたが、思ったほど疲れもなく、むしろ興奮気味で帰宅したのでした。

と、いうわけで、バラも見たし、あじさいも見たし、さあ次は何を見に行こうかな・・・と考える今日このごろ。でも遊んでばかりではなく、少し仕事もしなければ。庭造りも途中で放り出したまんまです。

そういえば、かなりの時間と手間をかけた庭造りが佳境に入っています。全長13mの塀はすでに完成。庭に生い茂っていた草や木はほぼすべて撤去し、新たに植樹ができる状態にまでなっています。今週の残りはその作業に少し注力しようかな。

でも、近場の名所など、まだまだ行きたいところもたくさんあります。庭造りの途中、また息抜きにそんな場所へも出かけ、また結果をアップしたいと思います。

もうすぐ結婚記念日。結婚に至るまでの二人のなれそめなども、またおいおい書いていきましょう。それでは今日のところはこれまでにて。

 あじさい園を行く、その美女は・・・

港にて ~沼津市

伊豆へ引っ越してきてから、今日でちょうど3ヶ月になりました。速かったような、長かったような。でも密度は高かったような。これからも記憶に残る3ヶ月になるでしょう。

さて、先日、同じ別荘地内に住んでいらっしゃる大工のTさんが突然来られました。何事かと思ったらおおぶりのサザエの入った袋を差し出されました。えっ頂けるんですか?というと破顔で、「今朝、三津の朝市に行ってきたんで、ついでに買ってきました」とおっしゃいます。タダでいただけるようです。最近、ちょっとお出かけになると、よくこうしたお土産を持ってきてくださるTさんですが、先日も別の朝市で買ったワサビをいただいたばかり。我が家のリフォームをお願いして以降、すっかり親しくなったとはいえ、たびたびの頂き物で恐縮至極です。

早速その夜にいただいてみましたが、さすがに新鮮な近海ものだけにぷりぷりで、しかも砂利などは一切噛んでいない上物のサザエ。それだけに、その味は極上。お酒がずいぶん進んだことは言うまでもありません。

三津(みと)とは、伊豆西海岸にある漁村の地名で、ここ修善寺からクルマで12~13分で行けてしまいます。Tさんに詳しく聞くと、この三津で日曜日の早朝から朝市をやっており、そこで買ったとのこと。駐車場もあって、市のある日は大勢の人でにぎわうそうです。

そりゃー行ってみんといかん。ということで、昨日の朝、早くから起きて、その朝市に行ってみることにしました。

三津には、三津シーパラダイスというイルカショーや水族館を売りにしたテーマパークがあります。現地に着いてみると、そのシーパラダイスのすぐそばにある内浦漁港という漁港内の駐車場が朝市の会場になっていました。早速クルマを止めて、朝市を見学しようと思ったら、もう既定の駐車場は満杯で止めるところがないほど混雑しています。なんとか桟橋横にスペースを見つけて、会場に向かったら、まあいるわいるわ、たくさんの人が。

市場の規模はそれほど大きくなく、テントが10ほどもある程度。それぞれのテントで野菜や魚、お惣菜や果物、干物、といったいろいろなものを売っています。これらは野外にある露店なのですが、これとは別に魚を水揚げする屋根付きのヤードがあり、こちらでは魚介類のみを売っていました。

内浦の漁師さんが採ったとれたての魚を売っているようですが、はっきり言って安いものばかりではありません。先日Tさんが届けてくださったサザエは、4個ほどを1500円で売っていました。東京のスーパーでは、これ一個が1000円くらいすると思うので、安いといえば安い。が、たびたび買って食べるにはちょっと高級品です。このほか、アワビが一個1200円、三個で3000円など、値段は少々高め。

でもおさかなのほうは、割とリーズナブルで、立派なサバが一尾800円。ムツ2尾が400円、カマス4尾が600円といったところ。お店の人にお刺身にするにはどれが良いかと聞いたら、スルメイカがいいだろうというので、値段を聞くと、7杯が500円とのこと。や、安い・・・ということで思わず買っちゃいました。先日河津から帰る途中、天城の道の駅で生ワサビを買ったのですが、これでそのワサビの使い道が決まりました。生のワサビに生の新鮮なイカ、もーう、たまりません。

市場を出て、漁港のほうに回ってみると、ここはどうやら釣り人のメッカにもなっているようで、防波堤の端から端まで人がぎっしり。日曜日の早朝だというのに親子連れで来られている人も大勢いて、ちょっとびっくりしました。ほとんどが地元の人だと思いますが、さきほどの駐車場には、横浜や品川ナンバーの車もあったので、もしかしたら週末を利用して東京方面から来た釣り客もいるのかも。

みなさんどんなものを釣っているのかなと、気になりましたが、確認できませんでした。それにしても、みんなのんびりと海に向かって糸を垂れていらっしゃいますが、よく飽きないこと。短気な私ならおそらく、30分はもたないでしょう。

この内浦漁港、こじんまりとした漁港で、停泊している船をざっとみると30~40艘といったところ。日曜日なので漁は休みのようでしたが、普段どんなものが揚がっているのか気になったので、うちに帰ってから、「浦漁業協同組合」のホームページをみてみました。すると、ここで揚がってい魚は、タチウオ、マアジ、マダイ、カンパチ、カマスなどが多いようです。

季節による違いもあるのでしょうが、今の時期はカマスとかがおいしいのかな? 塩焼きにすると絶品ですよね。このほか、イセエビやマダコも揚がるみたいです。季節ごとに来てみると揚がっている魚の種類も変わってくるかもしれないので、これからちょくちょく来てみたいと思います。

ちなみに、船の数え方って知っていますか? これは、大学のときに習ったのですが、比較的大きな船、タンカーや艦船などは「隻」で数え、比較的小さな船は「艘」で数える、というのが正解。また、ボートやヨットは、一艘二艘ではなく、「艇」です。

それから、船には左右の船首付近に舷灯というランプが付いています。夜間に海の上での船同士の衝突を避けるための装置なのですが、その左側の舷灯は赤色、右側は緑色です。

「いいか。赤玉がポート・サイドだ。赤玉ポートワインと覚えるんだぞ」と、大学の航海実習の際に、教官が言った言葉を今思い出しました。船は、進行方向に向かって左側をポートサイドといいます。バイキングの時代の船では右舷側に操舵装置が装備されており、舵が右側に出ていたため右舷での着岸ができませんでした。このため港(ポート:Port)に着岸するのはいつも、左舷側だったので、ポート・サイドという名が付いたそうです。

反対に、右舷側はスターボードといいます。バイキングの時代の右舷側に操舵装置は、スティア(Steer)といいます。今の乗用車のハンドルのことを英語でステアリング・ホイールといいますね。これも船用語から来ています。なので、船の右舷側は、正式にはスティア・ボード・サイド(Steer Board Side)といいますが、明治時代に、和製英語にしたときに、横着して略し、「スターボード」と呼ぶようになったんでしょう。

どうです。勉強になったでしょう。勉強ついでにもひとつ。なぜ、左右の舷灯の色が違うのか。それは、海の上は原則、「右側通行」、という国際法で決められたとりきめがあるからです。夜、船がどっちの方向に向かっているかを認識する為に「舷灯」が非常に重要になります。

「左が赤」とわかっていれば、船が進んでいる右前方に「赤灯」が見えてきたら、その赤灯の相手は進行方向の左側から接近してきているわけです。夜間に真っ暗な海の上を航海する際、国籍もわからない船同士がすれ違うとき、おたがいの安全を守るためにはこうした万国共通の取り決めが必要になるのです。さらに、こういう場合、正面衝突をさけるために、船は常にスターボード(右舷)に舵を切らなければなりません。これも法律で決められています。

以前あった、漁船と自衛隊の潜水艦の衝突事故は、これをどちらかの船が無視したために起こった事故です。どっちが、無視したのか実際のところはわかりませんが・・・・

・・・と昔習ったウンチクを思わず披露してしまいましたが、これから港へ行って船を見る機会があったら、確認してみてください。どんな船にも赤と緑の舷灯が付いているはずです。

・・・ということで、今日は海のお話になってしまいました。今日はこれから、下田へアジサイを見に行こうと思うのでこれまでにします。先日行った修善寺虹の郷にもアジサイ園があるのでそちらにも行ってみたいと思っています。先日はまだ満開でなかったバラがどうなったのかも気になります。そういえば今年はまだホタルも見ていないし・・・

あれこれと忙しい修善寺の毎日です。

梅雨と霊感 

東海地方が昨日、梅雨に入りました。東京に住んでいたころは、東海地方が梅雨に入ったと聞くと、東京も梅雨入りするのは時間の問題だな、とは思うものの、まだそれまでにはもう少し時間があるだろう、と心の余裕のようなものがありました。しかし、ここに移り住んでみて梅雨に入ったと聞くと、いきなりやってきたな、という唐突感がある。

実際、九州地方が梅雨入りした、と3日ほど前のブログで書いたばかりなのに、もう梅雨入りとは、ちょっと早すぎるんじゃない!と、だれに文句を言っても仕方なし。来るものは来るのです。これも必然・・・

じめじめべとべとの雨の季節は誰しもが嫌うものですが、でも考えてみると、子供のころには別にそんなに嫌ではなかったような気がします。子供のころ、雨の日は雨の日なりに、家の中で本を読んだり工作をしたりして過ごすのはあたりまえと思っていたし、むしろ普段外でばかり遊んでいたので、そういう時間を貴重な時間のように思っていました。

また家の中から庭先の草花が雨に打たれているのを長時間ぼんやり眺めながらいろんな想像をしたりするのも案外と楽しく、子供ながらも雨に抒情を感じていたのを覚えています。雨音は昼寝をするのに絶好の子守唄だったし、ときおり夕方に聞く雷やどしゃぶりは自然へのおそれを感じるというよりも、何かめったに見ることのできないイベントでに出くわしたようで、逆にわくわくしながら、なりゆきをみていました。

少しの晴れ間に外に出て、びしょびしょになりながら、泥んこ遊びや水たまりと戯れるのも楽しかったし、庭先にいたカタツムリを捕まえて遊んだりもしました。ときには、傘をさして、雨の中を近所の森に行ってはそこにいる昆虫を観察したり、工作に使えそうな木や草を採取し、家に持ち帰ってはそれを子供なりの工夫をして遊ぶ・・・そういう時間はけっしていやな時間ではなく、むしろ無限に続く楽しい時間だったように思います。

いまにして思えば、梅雨といえども、そういう豊かな時間の過ごし方をしていたな、と思うのですが、では、いったいいつごろから、そんな季節が嫌いになったのかな~と考えてみる。

少なくとも、中学校ぐらいまでは大丈夫でした。高校時代や大学時代のことは逆にあまり覚えていませんが、高校のときは受験勉強などで忙しく、梅雨なんて関係ないって感じだったと思う。大学は沼津の片田舎で2年、街中の清水で2年過ごしました。誰しもそうだと思いますが、日本の大学生というのはありあまるほど使える時間もあり、大学に行って勉強する時間以外はすきなときに好きなことをやって過ごすことができます。わたしが大学時代を過ごしたこのふたつの町は、地方都市だったので東京のようにありあまるほどの遊び場こそありませんでしたが、程よい人とモノの密度は生活しやすく、また近くには豊かな自然もありました。自由に使える時間を使ってアルバイトもしたし、友人たちといろんなところへ行ったりで、自由きままに過ごせました。ですから、この時代も梅雨の時期をうっとうしく思うというのはとくになかったように思う。

そうすると、梅雨を息苦しく思うようになったのは、就職してからか・・・と、思いを馳せると、なるほど、と思いあたることがあります。

大学を卒業後は、東京の渋谷にある会社に勤め始めたのですが、会社の寮は神奈川県の相模原市にあり、ここから小田急線と銀座線を使って1時間ちょっとの通勤をしていました。このころの小田急線の混雑度は都内の路線屈指のもので、夏の間は、人と人の間に挟まれて身動きがとれないほどの状態で新宿駅に着くころには汗でびっしょりになることもしばしば。梅雨の時期や雨の日などは、傘を持たなければならないため、そのためにより混雑が増すようなかんじもあり、窓も開けられないので冷房が入っていても湿度が高く、じっとりした空気の中過ごす1時間は苦痛そのものでした。

その後、寮を出て、中央線の阿佐ヶ谷や田園都市線の鷺沼などいろんなところに引っ越してみましたが、東京にいる限りはこの通勤ラッシュからは逃れるすべはなく、とりわけ梅雨の時期の通勤は苦痛でした。同じ通勤でも夏の日差しのカッと差す暑い日には湿度もそれほどではなく、また冬場には着ぶくれした人のために車内の圧力が増すという難点はありますが、逆に人のぬくもりのせいで温かく、苦痛ではありませんでした。それが、梅雨の時期になると車内の環境は一変。暑いだけでなく高い湿度、それに加えて人いきれ。薄いシャツにくっつく他人の衣類。汗の匂いと身動きのとれない車中に押し込まれての通勤は大嫌いでした・・・

首都圏などのように、通勤時間帯にラッシュがある場所では、人々にとって季節変化というものは重大な関心事です。ですから、朝夕のニュースでもその日の通勤の時間帯にいかなる気象変化があるか、ということをどこのテレビ局でも繰り返し繰り返し流しますし、通勤をしている人はそれを必ず確認してから外出するのはあたりまえ。天気予報というものは通勤客にとっては、なくてはならない情報であり、日々、予報の内容に一気一憂しながらドアを開けて勤め先に出かけるのです。ですから、いやな季節の天気予報にはとりわけ敏感になっているように思う。梅雨の時期の天気を気にする人は多いのではないでしょうか。

かくゆう私も毎日天気予報を気にしながら通勤を繰り返していましたが、とりわけ梅雨どきの雨の情報に敏感になっていったのはこのころからだと思います。このためか、いつのころからか、梅雨入りはいつかなー、早く梅雨が明けないかなーというのを気にしはじめ、毎年の恒例行事のように、気象庁の気象情報をチェックするようになっていました。

その後、海外へいた数年を除けば東京でもう20年ほども過ごしてきました。しかし、この間も大学を就職してすぐに身についてた梅雨への苦手意識は消えず、例年のように、早く梅雨が明けないかなーを繰り返してきたわけです。

しかし、よくよく考えると、本当は梅雨そのものがきらいだったというよりも、通勤そのものが嫌いだったのではないかという気もしてきます。別に梅雨という季節がきらいなのではなく、梅雨の間のジメジメべとべとの環境での辛い通勤の経験がトラウマとなり、その連鎖で梅雨=嫌いな季節となっていったのではないかとも思うのです。

その証拠に子供時代には、梅雨の季節がけっして嫌いだったわけではないし、考えてみれば、今だって雨の日に室内にいてまどろんだり、音楽を聴いたりするのはけっしていやではない。雨音は子守唄のように今も聞こえるし、雨に打たれた新緑をみるのは心が和みます。とくにここ修善寺にはなにやら雨にぴったりの抒情を感じるし、それを今年は心から楽しめる・・・そんな気がします。

それで、ここまで書いてきてふと思い出したのは、このブログでも再三登場する霊能者のSさんに最初にお会いしたときに言われたこと。Sさんがおっしゃるには、私もかなり霊感が強いほうだというのです。そのことについてさらに詳しくいろいろ聞いてみると、霊感の強い人は、他人の気をどうしても感じやすいので、人ごみが苦手の人が多いのだそうです。Sさんご自身も、バスや電車に乗るのがきらいで、それはやはり、他人の気を感じてしまいやすいから。Sさんはバスや電車ではなるべく人と目を合わせないようにしている、とおっしゃっていましたが、それを聞いて私もはっとしました。・・・同じだからです。

そういわれてみて、初めてわかったのですが、私は子供のころから、人ごみが苦手で、高校時代4km離れた高校に通うためにバスに乗るのがいやで、たいていは徒歩か自転車で通っていたほどです。

もしかしたら、通勤が嫌いだったのもそのせいか・・・必ずしも梅雨などの天気のせいばかりではなく、人の多い電車に乗るという行為そのものが嫌いだったのか・・・と気がついたのです。

自分が嫌いなものとか嫌なものを思い浮かべたとき、本当にそれが自分の本質に合わないので嫌いになっているのかどうか、についてはよくよく考えてみたほうが良いと思います。実際には嫌いではないのに、嫌いと思いこむ過程において、肉体的や精神的な何等かの別の要素の刷り込みが起こる。それが長年の風習になってしまっているというのはよくあることです。

私自身は、梅雨がきらい、と思い込んでいたけれども、本当はそれは人ゴミがきらいで、それと重なった梅雨の季節のイメージを嫌っていたのかもしれない。

皆さんにもそういうことってありませんか。梅雨はお嫌いですか?でも本当は私と同じように霊感が強く、雨の日の人ごみが、ことさらきらいだからなのではないでしょうか。