山口市 瑠璃光寺境内にて
木々の緑が新緑からやや深い緑色にかわってきました。天気予報によれば、関東以西の地方では28度ほどにもなる日も増えてきているようですが、ふもとの修善寺では、最高でも25度くらいでしょうか。山の上にある我が家では、だいたいこれより2~3度低く、朝晩は結構涼しいというか、寒いくらいです。
最近、この別荘地から山麓の修禅寺や大仁(おおひと)に下る間道を何本もみつけ、散歩がてら麓まで下っては、また上って帰ってくるということを繰り返しています。その間道のうちのひとつは、すぐ近くの修善寺梅林という結構大きな公園を抜け、修善寺温泉街まで一直線に下ることのできる道です。
間道といっても、伊豆の観光協会? の方々がきれいに整備されていて、静かな杉木立に囲まれ、ときおり山間から流れ出る小川を横断して麓にいたる、とても気持ちのいい遊歩道。この散策道をほぼ直下の町までおりて、目前に修善寺温泉街がみえようかというところに、ひとつのお墓があります。
お墓の主は、安達盛長というひとで、源頼朝が蛭が小島というところに配流(はいる)されていたときからの家臣だそうです。気になったので、少しネットで調べてみると、このひとは、頼朝が鎌倉で挙兵する以前からの頼朝の重臣で、頼朝ののちの奥さんになる北条政子との恋愛の仲立ちをしたのも彼ということです。頼朝と政子は、相思相愛の仲になり、ある日、お父さんの北条時政の反対を押して頼朝の許に駆け落ちしていますが、もしかしたら、この駆け落ちのお膳立てなども盛長さんがしたのではないでしょうか。この話は面白そうなので、後日またいろいろ調べてブログにアップしてみましょう。
さて、こういうことがあったためか、頼朝からは厚い信頼を得ていただけでなく、盛長ご本人も頼朝さん大好き人間だったようです。頼朝が亡くなるまで仕え、頼朝の死後には出家までしています。政子もこの人に目をかけていたらしく、頼朝の死後、二代将軍の頼家に謀反の疑いをかけられたときには、これを北条政子が助けたのだとか。66歳で亡くなるまで、生涯官職に付く事がなかった、という記事もあり、篤実な性格だったのでしょう。
そういう人のお墓がなんでこんなところにあるんかなー、と少々不思議なのですが、謙虚な性格の人だっただけに、大道に面したところに墓を設けるでもなく、こうしたあまり人目につかないところにひっそりと埋葬されることを望んでいたのかもしれません・・・
たまたま出会ったお墓ですが、それをきっかけに伊豆の歴史を紐解くなかなか面白い事実などもわかり、ますます修善寺に住んでいるのが楽しくなってきました。鎌倉時代ごろの修禅寺がどんなところだったのか、想像してみるのもこれまた趣向があってよきもの。想像力をかきたてられます。
ところで、墓といえば、わが家のご先祖の菩提寺は金沢にあります。そのむかし越中富山から引っ越してきたらしく、屋号を越中屋といいます。呉服屋を営んでいましたが、明治の末期に没落して店をたたんでしまいました。しかし、店がなくなる前には結構繁盛していたようで、その頃の記録によると、金沢市への納税額はトップクラスだったようです。曾祖父は市会議員まで勤め、お店も繁盛してかなりの裕福だったようですが、その後なぜか家は傾いていき、やがては破産し、奥さんとも離婚し、その直後に若くして亡くなっています。そのあたりのストーリーは、このブログの親ページ、サイクロスのトップページにまとめてありますから、ご興味のある方はご覧になってみてください。
http://www.psycross.com/index.html#CHAPTER01
さて、この越中屋のお墓は、今も金沢市内にあります。金沢駅の西、駅からもさほど遠くない場所に知覚寺という浄土真宗のお寺がありますが、その境内の一角にひっそりと建っています。江戸時代に先祖が建てたものですが、実は、私がこのお墓に初めてお参りしたのは、ほんの7年ほど前のことです。このお墓を初めて訪れたとき、ちょっとした不思議なことがありましたので、そのことを書いてみたいと思います。
このお墓のことを知ったのは、まだ私が子供のころのことです。父からそういう古いお墓がある、ということを何度か聞かされていたものの、小さな子供がそんなものに興味を持つわけもなく、お墓参りといえば、どちらかといえば山口の母方のお墓がもっぱらでした。それも、親に促されていやいや行っていたようなところがありましたので、ましてわざわざ金沢まで行こうとは、かなり長じてまで思うことはありませんでした。
父でさえ、そのお墓に行ったのは、たぶん一回限りだと思います。それは、その昔、知覚寺のあった、金沢駅周辺の再開発のため、お寺とその墓所すべてが別の場所に移転したときだったようです。一応長男である父は、祖父に促されてその移転完了の落成式に参加したのです。その式には、檀家の多くが招待され、関西に住んでいる叔父や叔母などの主だった一族も父と一緒に式に参加しました。無論、私はまだ子供だったので連れて行ってもらっていません。知覚寺はその昔、もっと金沢駅すぐ近くの一等地にあり、江戸時代以降400年以上かの地で先祖の墓を守ってきましたが、市の方針による駅前再開発のため、移転を余儀なくされたようです。
その時の移転前と移転したあとのお墓の写真や、一族が一同に会した写真などを、父は生前どこかにしまいこんでいたようですが、母が父の死後それをみつけ、山口の実家に帰ったとき、こういうものを引き継ぐのはお前だから、と私に渡してくれました。しか、渡された私はその中身も詳しく吟味することもせず、しかも帰京する際、その資料を持ち帰るのを忘れ、それは長いこと山口におきっぱなしになっていました。その後も何度か山口の実家へ戻る機会もあり、ときにはそれを思い出すこともありましたが、そのころはまだ、子育てやら仕事のことなどやらでいろいろ多忙な時期でしたので、資料を整理するのももう少し落ち着いてからでいいや、と思い、ずーっとそのままになっていたのです。
8年ほど前のことです。先妻が子宮頸がんで逝ってしまったあと、こんどは父が脳こうそくで倒れ、さらに私も新しく始めた事業がうまくいかないなど、およそ明るい材料のできごとがなく、家の中もなにやら空気がよどんでいるかのような時期でした。
何か打開の糸口はないかなーと思っていましたら、その頃から、ちょうど江原啓之さんや細木数子さんの番組などが放送されるようになり、私のように人生がうまくいかない人をスピリチュアル的な観点から分析されていましたので、わたしも興味半分ながらこうした番組をよく見るようになりました。さらに、番組内では、お二人とも再三にわたってご先祖供養の大事さを説かれており、放送をみるにつけ、私もご先祖供養をしていないから、あまりいいことがないのかなーと思い始めました。
父が脳こうそくで倒れてから二年目の冬だったと思います。年末に息子と山口へ帰郷する際、東京から北陸を回って、クルマで金沢経由で山口まで帰ることを思い立ちました。これまで行ったこともない、先祖のお墓参りをしようと思ったのです。山口までは1000km近くあり、全部高速を使い、ノンストップでも13時間以上かかります。しかし、金沢あたりで一泊すれば、疲れはそれほどでもないだろうし、息子と二人で久々の気晴らしの旅行にもなるし、と思ったのです。
その日は、よく晴れた日でした。前日東京を出て、金沢効外の宿で一泊し、山口へ向かうその前に先祖のお墓へ向かうことにしました。その当時、もうカーナビゲーションが普及していて、私の車にも搭載されていました。しかし、お墓にまつわる資料はすべて、山口におきっぱなしになっていたので、お墓のある場所については、あいまいな町名しかわかりません。カーナビに頼ることもできず、あてずっぽうで寺を探しはじめましたが、わかるのは知覚寺という名前とだいたいの場所のみ。
まあなんとかなるさ、とタカをくくり、寺があるとおぼしきあたりをクルマでグルグル回ってみます。ところが探せど探せど目標のお寺はみつかりません。カーナビの地図にも、知覚寺という名前の該当はなく、同じところを何度も何度も回ってばかりいました。しばらく粘ってみましたが、やはりみあたらないので、とりあえず、お供えの花とお菓子を買おうと思い、今度はスーパーマーケットを探し始めました。ところが、今度はそのスーパーマーケットがみつからないのです。
30分ほど探し回ってようやくひとつの店をみつけましたが、その時はもうどこにいるのやらさっぱりわからなくなっており、ふたたびナビで、さっきまでいた町をナビで探す始末に。そうしていたところ、お花を買ったスーパーのすぐ近くに「卍」のお寺のマークがあるのに気がつきました。まさかなー、とは思ったものの、まあダメもとで行ってみるかぁ、と思い直し、スーパーから車を出しました。
目的地に近づくにつれ、田んぼの向こうのほうに何やら門のようなものが見えます。そして、近づいてみると、なんと、知覚寺!と書いてあるではありませんか。なんという偶然・・・しかし、スーパーで先にお供えを買おうと思わなければお寺は見つからなかったわけで、これはきっとご先祖様のお導きにちがいない、と喜んだものです。
これがこのときおこった最初の奇蹟です。偶然というべきかもしれませんが、このあとおこったことを思うと、私には奇蹟のように思えるので、あえて、奇蹟と呼ばせてもらいます。ところが、奇蹟はそれだけではありませんでした。
境内の中へ入り、お寺に隣接するご住職のお住まいの前に立ち、ごめんください、と声をかけたもののお返事はまったくありません。しばらく待っていましたが、だれも出てくる気配もなく、どうやらご不在のようです。困ったなーと思いましたが、それなら、勝手ながら先にお墓にお参りさせてもらおう、と思い墓地を探すことにしました。幸い墓地はお寺のすぐ裏手にみつかりましたが、今度は別の問題が発覚しました。ようやくたどり着いた墓地には、大小数百のお墓があるのですが、その中のどこにお墓があるのかわからないのです。かなり古いものも多く、文字が読み取れないほど風化したものもあり、もしそうしたものが我が家のものであるとすると見落としてしまう可能性があります。
実はそのころ私はご先祖の越中屋の屋号を、間違って記憶しており、それは「越喜屋」というものでした。亡くなった父が生前、口にしていた屋号で、なんでも彼によると、コシが喜ぶと書いて越喜屋というんだ。喜右衛門という人が建てたお墓らしいと言うのです。喜右衛門の「喜」の文字をとって、越喜屋かぁ。ともっともらしい名前ではあるので、その後もずーっとそれが本当の屋号だとおもっていました。父の記憶違いだったわけなのですが、この父の間違いにより、私の記憶に残ったいたのも、お墓のあるだいたいの場所と、あいまいなご先祖の名前だけとなりました。しかし、それでも墓所に着いたら、お寺の人にそのお墓がどこにあるのか聞けばいいし、なんとかなると思っていたのです。
しかし、実際に来てみると、お寺の方は不在のようですし、手がかりといえば、越喜屋喜右衛門という名前だけ。それでも名前がわかっているのだから・・・と探し始めたのですが、探しても探しても「越喜屋」と刻まれたお墓はありません。喜右衛門という名前は、この当時あまり珍しい名前でもなかったらしく、同じ名が刻まれたお墓はかなりたくさんありました。しかし、どれも屋号が全く違っており、もしかしたら父の記憶違いだったか、と思ったものの、もうあとの祭りです。その後も墓地の中を息子と二人で右往左往してお墓をさがしましたが、やはりみつかりません。ところが、「喜右衛門」の名前があるお墓の中に、ひとつだけ「越中屋喜右衛門建立」と書かれたものがありました。
最初みたときから、なんというか、妙に気になるお墓だったのですが、他のお墓と同様、屋号が違うので、これではないんだろうな、と思っていました。そしてあちらのお墓をさがし、また別の場所のお墓を探し、を繰り返していましたが、いつも最後にはそのお墓の前に帰ってきてしまうのです。
その後もどうしても越喜屋喜右衛門と書かれたお墓はみつからないので、最後には、もういいか、と思うようになりました。同じ喜右衛門さんだし、おやじが屋号を間違えていた可能性もある。万一間違えていたとしても、同じ金沢、同じお寺で同じ名前の喜右衛門さんが建てたお墓なんだから、何等かのご縁があってのこと。このお墓にお参りして帰っても罰はあたらんだろう。また、今度来たときに本当のお墓を探せばいいや、と、そのお墓にお供えをして帰ることにしたのです。
実は、それこそがわがご先祖様が建てたお墓だったのですが、これがこのお墓探しで起こった二番目の奇蹟です。何百とあるものの中から、それとは知らず、たまたま選んだものが、実は目的のものだったなどということは、そうそうないのではないでしょうか。
しかし、さらに奇蹟は続きます。
その日はピーカンの良いお天気でしたが、風が強く、知覚寺の隣には大きな商業ビルが建っていて、そのビル風の影響もあって、お墓の中にも風が吹き荒れています。違うかもしれないご先祖のお墓でも、ともかくお供えしてお線香をあげようと決めたので、手を合わせる前に線香に火をつけようとしたのですが、強い風にあおられてなかなか火がつきません。
あいにくローソクを持ってきておらず、手元には10本ほどしか中身がないマッチ箱だけ。破った新聞紙を焚き付けにしようとマッチをするのですが、その都度、突風が吹き、マッチを次々と吹き消してしまいます。一本、二本とマッチを擦るたびに風が炎を吹き消していき、ついには、最後の一本になってしまいました。周囲のお墓を見渡しましたが、芯が残っているようなローソクなどなく、あー、これに失敗したら、またさっきのスーパーに戻らんといかんなーとおもいました。
と、そのとき、それまでビュービューと電線を震わせるほどに吹いていた風が、急にピタッと止まったではありませんか。これがチャンス!と思い、擦ったマッチで燃え上がった火を新聞紙に移らせたところ、今度はうまくいき、大きな炎が広がります。うまいことに、それを束ねた線香にさらに燃え移らせるまで、風は止んでいてくれ、線香から白い煙が出るようになったとたん、また元の強い風が吹き始めました。
ふーん、不思議なこともあるもんだなーと、その時は思いました。しかし、後日、その墓がご先祖様のお墓であったことを知ったとき、よくよく考えてみれば、きっとあのとき、ご先祖様が子孫をあわれに思い、一時だけ、風を止めてくれたに違いない、と確信するようになりました・・・
これが、三つめの奇蹟です。
お供えのお菓子とお花を添え、お線香のにおいが漂う中、息子と二人でお墓の前で手を合わせ、ご先祖様への供養の念と今後の一族の繁栄を祈る中、今日このお墓に至るまでの出来事を反芻し、心の中ではもしかしたら、このお墓は本当にご先祖様のものかもしれない・・・と思ったものです。
その後、山口に帰り、しまいこんでいた父が残してくれた資料を開いたときは、さすがにあっ!と声を出してしまいました。そこには、まぎれもなく、あの時手を合わせてお祈りしたお墓の写真があったのです。そして親戚一同お墓の前に並び、記念写真を撮る父の姿も・・・
少し長くなりましたが、これが私のご先祖様のお墓へ初めてお参りに行ったときの出来事です。このお参り以降、機会があるたびに、金沢へ行き、お参りをするようになったのはいうまでもありません。その甲斐あってか、その後、タエさんとめぐりあって結婚し、息子も順調に高校、大学へと進み、さらに、ここ伊豆への移住に至るまでに恵まれた数々のラッキー・・・ そのすべてがご先祖様のおかげ・・・とまではいいません。しかし、先祖を敬う心を持ち、供養の念を保ち続けていれば、ご先祖様は必ずそれに答えてくれる、と、最近この出来事を思い出しては、そう思います。
そういえば、最近、お墓参りに行ってないなー。伊豆への移住騒動もあり、なかなか金沢へ行く機会もなく、ここ数年はお墓参りしていないのです。でもきっとご先祖様はおこってなんかいないと思います。その時がくれば、必ず金沢への道を開いてくれると思うのです。
皆さんはいかがですか? 最近、ご先祖供養をされていますか?