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ローマのおはなし

2016-8941

2月になりました。

旧暦2月は如月(きさらぎ)であり、その語源は寒さのために、さらに衣を着ることから「着更着」「衣更着」から転じたという説があります。また「時気(寒気)更に来る」という言葉を略して「気更来」と言うようになったという説もあるようです。

一方、英語のFebruaryの語源は、古代ローマにおいて、毎年2月に執り行われていた慰霊祭の主神、フェブライウス(Februarius)に由来します。これが2月を意味するラテン語フェブルアーリア (Februalia)になりました。

この慰霊祭は、古代ローマの王ヌマ・ポンピリウスが、サビニ戦争の戦死者を慰霊し、戦争の罪を清める為に始めたものだといいます。

ポンピリウスは、王政ローマにおける第2代の王とされる人物です。戦争に次ぐ戦争でローマを拡大した初代王ロムルスとは異なり、43年におよぶ治世中に一度も戦争をせずに内政を充実させたとされています。しかし、紀元前700年ころを生きたとされる人であり、この時代のローマは史料に乏しく、一般的には伝説上の存在だと考えられているようです。

その先代の初代王ロムルスにまで遡った時代はさらに神話の世界の話になるようですが、一般に伝えられているローマ建国までの伝説は、次のようなものです。

現在のトルコ北西部、ダーダネルス海峡以南にはトロイアという国がありました。ここに住むトロイア人は、ギリシャのペロポネソス半島を拠点として勢力を伸ばしてきたアカイア人との戦いに敗れ、ギリシャの島々やカルタゴを転々とした後、イタリア半島のラティウムに上陸しました。

ラティウムはイタリア中央西部地方を指し、ここに町が建設されました。後年巨大な帝国の首都に発展していくことになる街です。また、トロイア人たちを迫害したこのアカイア人はいわゆる古代ギリシャを創ったとされるギリシャ人のルーツです。

敗走したトロイア人たちの長はアイネイアースといい、ギリシア神話およびローマ神話では半神の英雄として描かれる人物です。従ってこのあたりの話はもう夢の世界の話と思ったほうがいいかもしれません。

とまれ、アイネイアースは、逃亡先のラティウムの地で現地の王の娘を妻として与えられ、国を大きくします。彼の死後は息子のアスカニオスが王位を継ぎました。さらに時代が下り、あるときの王の息子をアムリウスといいました。アムリウスにはヌミトルという兄がいましたが、この兄から王位を奪うことを企みます。

こうして父王の死後、ヌミトルは本来継ぐはずであった王位を弟アムリウスに簒奪され、さらに子孫による王位の奪還を防ぐためアムリウスによって息子も殺害されました。また、もう一人の娘レア・シルウィアは火床をつかさどる女神ウェスタに仕える巫女となりました。

この巫女は、「ウェスタの巫女」と呼ばれ、処女であることが義務付けられていました。が、ある日シルウィアが眠ったすきに、ローマ神マールスが降りてきて彼女と交わりました。そしてシルウィアは双子を産み落とします。

これを知った叔父のアムリウスは怒り、この双子を川に流しました。その後双子は狼に助けられ、続いて羊飼いに育てられ、ロームルスとレムスと名づけられました。成長し出生の秘密を知った兄弟は協力して大叔父を討ち、追放されていた祖父ヌミトル王の復位に協力します。

兄弟は自らが育った丘に戻り、新たな都市を築こうとしますが、このときも兄弟の間でいさかいが起こり、レムスは殺されます。そしてこの最後まで生き残ったロームルスこそが、伝説上の王政ローマ建国の初代王ということになります。

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やがてロームルスはこの丘、パラティヌス築かれた町を大きくし、都市レベルに育てあげていきます。これがすなわちローマです。こののちローマは領域を拡大させ、七つの丘を都市領域とする巨大な国家へと成長していくことになります。

ローマ建国伝説によると、ロームルスの即位は紀元前753年4月21日のことであり、パラティヌスの丘はティベリス川(テヴェレ川)の畔にあったとされます。ティベリス川は、現在もイタリア中部を南北に流れ、地中海に注ぐ川です。

しかし、この出来立ての古代ローマの人口は数千人にすぎず、また当時のローマは丘2つを巡る防塞を設けただけの小村でした。建国当時はロームルスの手腕もあり、平和な国でした。しかし、やがて隣の部族と争いが起きます。あるとき、ローマ人たちは隣のサビニ人の丘の村娘たちを祭りに招待したとき、彼女たちを捕まえてそのまま帰しませんでした

実は、ローマがロームルスによって建国されたばかりのころ、最初の世代は女性が非常に限られていました。子孫を残し国を維持するためには多数の未婚女性が必要であり、このためローマ人はそれを近隣国に多く住み勇敢な部族であったサビニ人に求めました。しかし、交渉は不首尾に終わりました。

このサビニ人とは、ローマの北東にあるティベリス川一帯に住んでいた古代の部族です。城壁のない村々に住んでいて、敵からの侵略を受ければすぐに跳ね返すことを信条としていました。好戦的でプライドが高く、恐れることを知らない民族でした。

サビニ人は自らの起源を、古代ギリシア時代のペロポネソス半島南部にあった都市国家(ポリス)スパルティからの移民、スパルタであるとしていました。このスパルタは他のギリシャ諸都市とは異なる軍事制度を有しており、特に軍事的教育制度は「スパルタ教育」として知られています。サビニ人はその勇猛なスパルタの子孫とされるわけです。

こうした好戦的なサビニ人たちにローマ人たちはあるとき、楽しい祭りがあるから遊びに来いよ、と誘いをかけました。戦いに明け暮れる彼らは、これは良い息抜きになるぞと、この誘いに乗じ、大勢の若い未婚女性を伴ってティベリスにやってきました。そしてローマ人たちはサビニの男たちが油断している隙に女たちだけを監禁しました。

こうして不法にローマに拉致されたサビニ人女性たちはローマ人の妻になることを強要され、ローマ人の子を産むこととなりました。そして、ローマは自国を維持発展させるための次世代を得ることに成功しました。

ところが、大勢の若い女性を奪われたサビニ族も黙ってはいませんでした。好戦的で恐れを知らない彼らは、姦計にはめられたとわかると報復は当然だと考えました。

しかし、奪われた女性たちは事実上の人質として縛られているわけです。囚われの身となった女性たちの身の上を恐れたため、とりあえず鉾を治め、ローマに対して女性たちの身柄の解放と謝罪を求める使者を派遣することにします。しかし要求は拒否されただけでなく、やがて女性たちが貞操を奪われたという報が入ってきます。

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当然、戦となりました。娘をローマ人に誘拐婚させられ、家庭や生活を崩壊させられた親族たちは、ローマと刃を交え、4度もの激しい戦争が起こりました。しかし、最後の戦いでサビニ人たちは追い詰められ、絶対絶命の危機が訪れました。このとき、立ち上がったのが実は略奪された娘たちでした。

彼女らはこのころまでには、捕虜とはいえ既に敵の男たちの妻でした。子供が生まれた者もおり、妻として母としての扱いを受けるようになっており、決して虐げられていたというわけでもありませんでした。

このため、両者に対して争いをやめて欲しいと懇願するに至ります。このときのサビニ人の王はタティウスといいました。タティウスはこの女性たちよる和平の希望を承諾し、ローマ人たちと和睦をすることにします。これにロームルスも応え、彼のすすめによってサビニ人たちは部族をあげてローマに移住することになりました。

こうしてローマはサビニ人を併合するわけでもなく、平和裏に二つの国は一つになりました。サビニ人の自由民にはローマ人同様の市民権が与えられ、タティウス王はロームルスと共同して統治にあたるようになります。やがてローマはさらに周辺諸国に勢力を伸ばし、領土の拡張を続けるようになっていきます。

タティウス王はこののちすぐに別の民族との戦いで戦死し、その後のローマの指揮はロームルスがとるようになりました。しかし紀元前715年のある日、ロームルス王が閲兵中、突然、目の前も見えないほどの雷雨が襲ってきました。

雨と雷が去ったのち、兵たちが玉座を見ると、王の姿はどこにもありませんでした。八方探しても見つからず、このとき王は死んだとされます。しかし、実際には天に上り、神々の一人に加えられたといわれます。

こうして次の王が選ばれることになりましたが、地上界ではロームルスは事故死ではなく親族の誰かが暗殺したという噂が飛び交うようになりました。そして、誰が王に当選しても疑惑を生みそうな状況となりました。王には息子がいたにもかかわらず、ローマ市民は彼を王にしようとは言い出しませんでした。

このため、何の利害関係もない市外の人物から王を選ぶことになりました。そして市民が選んだのが賢者として知られるサビニ人のヌマ・ポンピリウスでした。ローマに住んでさえもいなかったヌマはこれを固辞しましたが、元老院の長老たちから何度も頼まれるとそれ以上は断れませんでした。

このヌマは温和な人格者だったとされます。このため、彼が統治した時代のローマには戦争は起こらなかったといわれています。また、上述のように先代のロームルスが起こした数々の戦争で亡くなった多くの人々の慰霊祭を開き、その霊を慰めました。

さらに国内の改革断行し、ローマ暦を改めたのもヌマです。農業を推奨し、その他、職業別の組合を作りました。また、宗教改革を行い、神官を決めましたが、これがのちの世に伝えられあるローマ神話の骨格となりました。

ローマ神話における主な神の名が決まったのはこのヌマの時代です。そしてそれらの神々の命名においては、ヌマの祖先サビニ人の信仰が参考にされたといわれています。

しかしやがてそのヌマも生涯を終えます。その死は、彼の治世と同じようにおだやかなものであったといわれます。その後もローマ帝国は繁栄を続け、歴代の王が変わるたびにその領土を増やしていきました。イタリア半島に誕生した小さな都市国家は、その後およそ250年の間に地中海全域に勢力を及ぼす一大領域国家へと発展していきました。

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ところが、その帝政ローマ帝国もいよいよ最後の時を迎えます。紀元前500年ごろ、第7代の、そして最後の王はタルクィニウス・スペルブスという人物でした。のちに「傲慢王(スペルブス)」と呼ばれるこの新王は前王の葬儀を禁じ、先王派の議員を全員殺しました。

即位にあたっては、市民集会の選出も、元老院の承認もなかったといい、その後の政治も元老院や市民集会にはかることなく自分で決めたため、当然、市民の評判はよくありませんでした。しかしこの王は策略と戦争は得意で、ローマはさらに領土を広げました。やがて王は、ローマよりずっと強大だったエトルリアとの同盟を結びます。

エトルリアは、紀元前8世紀から紀元前1世紀ごろにイタリア半島中部にあった都市国家群です。紀元前4世紀ごろからローマの勢力が強くなると、周縁の都市から順に少しずつローマに併合され、最終的には完全にローマに同化しました。

これでローマの近くには強国がなくなったわけですが、結果としてエトルリア人がローマ中を闊歩するようになり、ローマはエトルリアの属国に成り果てたと考える市民も多くなりました。それもそのはずで、第5代からすべての王がエトルリア出身だったのです。

やがて市民の怒りが爆発する日が来ます。あるとき、王の息子セクトゥスが、親類の妻ルクレーティアに横恋慕し、寝室に忍び込んで彼女をわがものにしました。ルクレーティアは親類・友人とともにかけつけた夫の前ですべてを告白し、男たちが復讐を誓うのを見届けると短剣で自らの命を絶ちました。

夫の友人でこの現場を目撃したルキウス・ユニウス・ブルトゥスは、王一族は追放すべきだと演説を行い、市民はそれに従いました。戦の途中だった王タルクィニウスは事態の急変を知り、急ぎローマに戻りますが、門はすべて閉じられた後でした。仕方なく王は従う兵だけを連れ、エトルリアに去っていっきました。

王の3人の息子のうち2人は王とともに去りましたが、事件の発端となったセクトゥスは別に逃げ、のちに違う事件がもとで殺害されました。しかし、王妃トゥーリアは別に逃げて無事でした。

こうしてタルクィニウスの追放によってついに王政ローマは終わりを告げました。紀元前509年のことです。王政への反省からこの年からは共和政がとられるようになり、2名の執政官が政治を司ることになります。共和政ローマの始まりです。最初の執政官には、演説を行ったブルトゥスと、自殺したルクレーティアの夫コラティヌスが選出されました。

コラティヌスらによって築かれた共和政ローマ帝国は、この紀元前509年の王政打倒から、その後紀元前27年に再び帝政が敷かれるようになるまで500年以上にわたって続くことになります。

以後、共和政ローマ帝国は、最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とするようになります。これらの地域はシルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦(だいしん)の名で登場します。

この共和政時代のローマにおいては、当時政治を独占していたパトリキ(貴族)に対して、自分たちの政治参加を要求するに至りました。いわゆる「身分闘争」の開始であり、貴族は徐々に平民に譲歩し、平民の権利が擁護されるようになりました。

王を追放して得られたこの自由により、ローマ人の間には「王を置かない国家ローマ」の心情が刷り込まれるようになり、他国の、特に東方の専制君主に対して強い拒絶反応を示すようになっていきました。

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一方このころ、イタリアの東方にあるギリシャではアテナイ、コリントス、テーバイなどの多数のポリス(都市国家)が並び立っていました。言語・文化・宗教などを通じた緩やかな集合体した。ところが、政治的に独立していた各ポリス間では戦争が絶え間なく繰り返されました。

紀元前5世紀にペルシア帝国が地中海世界に進出してくると、各ポリスは同盟を結びました。そしてギリシャ人はアレクサンドロス3世(大王)の東方遠征に従軍して長年の宿敵ペルシア帝国を滅亡させるに至ります。

しかし、大王の死後、ギリシャ北部に勃興したマケドニアを支配したアンティゴノス朝が台頭。マケドニア王国ができ、はじめてギリシャは他国に征服されました。これに対して、ギリシャ人たちは共和政ローマと手を結びました。そして、マケドニアを滅ぼしますが、マケドニアの没落後は逆にローマと対決するようになります。

そして紀元前146年にローマ軍に大敗して、ギリシャはローマの属国になります。ローマから派遣された総督は著しい収奪を行ったため、地域の多くで数十年後には人口は十分の一に減少するような事態が起こりました。またギリシャの富の多くはローマへ流れました。

こうしてギリシャをベースに肥え太ったローマの少数の有力者のうち、とくに政治家の収入と財産が、国家財政に勝る重要性を持つようになります。そしてローマの公共事業は有力政治家の私費に依存することになりました。一方では彼らと癒着した軍部の中から軍閥が登場し、その中でも突出したのが、ポンペイウス、カエサル、クラッススの3人です。

やがて3人は「三頭政治」を結成し、ローマでは軍事政権が成立するようになります。しかし、クラッススの死後、残る2人の間で内戦が起き、最後にカエサルが生き残りました。こうしてカエサルは紀元前45年に終身独裁官となりましたが、王になる野心を疑われて、紀元前44年3月15日に共和主義者によって暗殺されました。

カエサルの死後は、共和政は急速に衰えを見せ、カエサルの遺言状で相続人に指名されたオクタウィアヌスの独裁制の様をみせるようになっていきます。オクタウィアヌスは度重なる内戦で政敵を破り、紀元前27年に「尊厳者(アウグストゥス)」、「第一の市民(プリンケプス)」の称号を得ました。いわゆる「皇帝」です。

こうしてアウグストゥスこと、オクタウィアヌスの皇帝就任によってローマでは事実上の帝政が再び始まりました。この王朝はユリウス・クラウディウス朝と呼ばれ、その帝政はその後ユリウス・クラウディウス家の世襲で続いていくことになります。

その後世襲の弊害により、カリグラやネロといった無軌道な皇帝が登場することもありましたが、その都度内乱が起こり、彼らは粛清されるという歴史が繰り返されていきます。

帝政末期のころまでには不自然な形での皇帝の交代が頻発するようになりますが、この時期にもローマは周辺勢力に比して格段に高い軍事力を保持し続けており、むしろ帝国の拡大はこの時期にも続いていきました。西暦43年にはこのときのクラウディウス帝によってグレートブリテン島(現イギリス本土)の南部が占領されているほどです。

とくに紀元1世紀の末から2世紀にかけて即位した5人の皇帝の時代にローマ帝国は最盛期を迎えました。この5人の皇帝を五賢帝といいます。

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アウグストゥスに始まるローマにおけるこの2度目の帝政の時代は長く、400年にわたって続きました。しかし、こうしたいわゆる「元首政」の欠点は、元首を選出するための明確な基準が存在しない事です。

そのため、地方の有力者の不服従が目立つようになり行政が弛緩し始めると相対的に軍隊が強権を持つようになります。このため反乱が増加し皇帝の進退をも左右するようになり、帝政最末期には約50年間に26人が皇帝位に就きました。

こうした混乱の中、395年、テオドシウス1世は死に際して帝国を東西に分け、長男アルカディウスに東を、次男ホノリウスに西を与えて分治させました。いわゆる西ローマ帝国と東ローマ帝国への分裂です。

何人もの皇帝がかつてそうしたのと同様に、当初はあくまでも1つの帝国を分割統治するつもりでしたが、これ以後帝国の東西領域は再統一されることはありませんでした。なお、こうして395年にローマ帝国が東西に分裂したのちは、ギリシャ地域は東ローマ帝国に属するようになりました。

「西ローマ帝国」においては、皇帝の所在地としての首都はローマからミラノ、後にラヴェンナに移っていきました。しかしその後、西ローマ帝国はゲルマン人の侵入に耐え切れず、イタリア半島の維持さえおぼつかなくなった末、西ローマ帝国皇帝は476年にゲルマン人によって皇位を追われ、滅亡しました。

ここに「神聖ローマ帝国」と呼ばれる新たな帝権が誕生し、1512年以降1806年まで継続しました。この国の正式名称は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」であり、範囲は今とかなり違いますが、これが事実上現在のドイツの大元の国家になります。

一方、東ローマ帝国は、395年以降、首都をコンスタンティノポリスとし、15世紀まで続きました。が、1453年4月、オスマン帝国の軍がコンスタンティノポリスを攻撃。2ヶ月にも及ぶ包囲戦の末、5月29日城壁が突破されコンスタンティノポリスは陥落しました。最後の皇帝コンスタンティノス11世は戦死し、ここに東ローマ帝国も滅亡しました。

15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都としました。オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになります。

17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及びますが、こちらが現在のトルコ共和国の前身、ということになります。こちらも現在のトルコとは比べものにならないほど広範囲ですが。

さて、以上、Februaryの語源をひも解いていたら、なんと、紀元前700年前から17世紀までの2300年にわたるローマの歴史を駆け足でのぞくことになってしまいました。が、無論、こんなブログ一本で片づけられるほど歴史とは単純なものではありません。

また、日本の歴史すら理解していないのに、他国の歴史など勝手にまとめていいのか、といわれてしまいそうですが、何かにつけ、おおまかに知識を持っているのは大事なことだと、開き直ろうかと思う次第。

今年もこんな感じでまたブログを書いていくことになるのかもしれませんが、そんなお話にいつも付き合っていただき、ありがとうございます。

さて、2月です。今年もあと11ヵ月を切りました。再び一年が風のように過ぎていきそうですが、そこはそれ。風を切って逆風の中に飛び出していくことにしましょう。

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ラスト・ペンギン

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今日は「タウン情報の日」だそうです。

1973年のこの日に日本初の地域情報誌「ながの情報」が発行されたことにちなみ、「タウン情報全国ネットワーク」という、全国の地方出版物への広告出稿を斡旋する事業を行っている会社が制定したようです。

この「ながの情報」は43年を経た今でも健在のようです。長野の観光、グルメ、スイーツ、イベント、映画、レジャーなどの最新情報やお得情報が入ったタウン情報誌を長野市内のブルーカード加盟店店頭や、広告協賛社、市内有名ホテルなどで無料配布しています。

「タウン情報誌」の定義ですが、これは、「都市、あるいは隣接する複数の都市からなる地域に重点を置いて、その地域に根ざした情報を扱う情報誌」ということになるようです。必ずしも無料とは限らず、有料のものも多いようで、がしかし、普通の旅行ガイドよりもかなり安いのが特徴です。

当然地方の中小出版社が発行することが多くなります。上の「タウン情報 全国ネットワーク(略称TJN)」に加盟しているところが多いようです。長らくその地域でタウン誌を発行してきたTJN加盟誌の場合、取材対象範囲は1つの都市から道府県全体、あるいは隣県にまで拡大し、「地域圏情報誌 」の形態となっている場合も多くなっています。

しかし、最近では、大手出版社が、東京・名古屋・大阪といった大都市圏全域、もしくは関東や近畿といった地方単位、あるいは横浜・神戸など、「大都市圏内の都市単位」などの広範囲のターゲット読者層に合わせてタウン情報誌界に参入してきています。

例えば、「タウンウォーカー」は角川書店が手掛けているシリーズです。首都圏と京阪神でタウン誌を発行するとともに、北海道地方・東海地方・九州地方などの地方単位でもタウンウォーカーを発行しています。

同じく業界大手のリクルートでは、旅の情報誌「じゃらん」シリーズを首都圏と関西、東海、中国・四国、九州、東北、北海道の7エリアで発行しており、高年齢層向けには「おとなのいい旅」シリーズを北海道、九州、東日本版の3版発行しています。

大手出版社のこのような動きに対し、地方の出版社では、年代別・ライフスタイル別のタウン誌を発行するようになりました。例えば、20~30代の子育て世代を対象とした「子育て関連タウン誌」、10~20代を対象としたインディーズ音楽・ストリートファッションなどを掲載する「地域限定ファッション誌」などがそれです。

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このほか、20代後半以降を主な読者層とし、より広い地域を対象地域として、小旅行やグルメなどのちょっとリッチな生活をするための「高級タウン誌」、50代以降の富裕層を読者層とし、海外も含めた更に広い地域でのライフスタイル提案をする「富裕層タウン誌」も発行されています。これらはいずれもかなりのお値段がするようです。

一方、ここ数年の間に、無料配布される「フリーペーパー型」のタウン情報誌の進出が目立つようになりました。チラシのようなものからタブロイド版、冊子型など様々なスタイルがあり、各戸に無料配布されるなど入手しやすいところから、新たなタウン情報ツールとして幅広い年代層に支持されてきています。

英語ではこうしたタウン情報誌は“Free newspaper”もしくは“Freesheet”といいます。新聞に準じた形態のものを指し、従来日本語では「無代紙」「無代広告紙」などと言われていたものです。

しかし、上の「ながの情報(無料)」を皮切りに、1980年代ころから徐々に雑誌に準じた冊子体のものなども含め、より広い意味で無料の印刷媒体が流行るようになりました。結果として、タウン情報誌というよりも、「フリーペーパー」と呼ぶことが多くなってきています。

広告ばかりを掲載した集合チラシとは一線を画し、地域情報や生活情報などの記事を掲載していることが特徴です。近年では特定企業の宣伝用印刷物のようなものや、非営利団体の広報資料のようなものでも、無料で配布される印刷媒体であれば「フリーペーパー」と称するようです。

私はホンダのクルマの愛用者ですが、かつて住んでいた多摩地域のホンダディーラーではは、「るるぶ」が協賛したこうした情報誌を無料配布しており、これは地図情報の扱いがコンパクトで簡潔であったため、結構重宝していました。

こうしたフリーペーパーは、全ての世帯に到達するわけではない新聞広告や新聞の折り込み、大規模な広告しか行えないテレビに比べ、柔軟に特定の範囲、商圏や購買層に対して全戸配布が可能であったり、逆に、特定の購買層が集まる場所に配布ポスト設置することが可能です。

これにより、対象を絞った広告が可能になり効率が良いこと、地域に密着した情報を提供し双方向性を保つことができることなどから、第5のマスメディアとして急成長しています。

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ただ、その中身を読むと、どことなくやはり「コマーシャル臭さ」を感じます。フリーペーパーにおいては記事と広告の区別が曖昧な「記事体広告」と呼ばれる企業メッセージを伝える記事になりがちのためです。新聞の広告記事などに比べれば少し野暮ったい気もしますが、それでも時にはかなり質が上等の記事に出くわしたりします。

従来のようにただ漫然と広告を集積したものではチラシとの区別がつかないために、フリーペーパーを作っている各社はそれなりに頑張っているためです。読者の興味がある内容にしようと躍起になっており、それぞれしっかりした広告掲載基準や記事編集の指針を掲げています。これにより、クライアント側と同様に読者からも支持を得ようとしています。

このフリーペーパーの歴史をひも解いて見ると、日本では、戦時中に新聞社が国策で統廃合された経緯から、戦後はその反動として地域情報を提供するメディアとして各地で地域紙が発達した、ということがあります。しかし、有料の地域紙は大都市部などでは成立が難しく、存在していても普及率が低く社会的な影響力は限られていました。

その結果、大都市部を中心に、地域の生活情報需要に応じるメディアとして、既存の新聞社が付加価値を高めるために無料の地域新聞や生活情報誌を顧客に配布したり、当初から無料で配布することを目的に制作される新聞が登場しました。これがすなわちフリーペーパーです。

フリーペーパーを発行する企業には、背後に新聞社等の有力メディアがいる例や、ノウハウを活かして複数の地域で複数のフリーペーパーを発行しているような例も多いようです。1971年から各地で発行されて来た「サンケイリビング新聞」は、その代表的な例です。

2006年4月に日本生活情報紙協会が発表したデータでは、日本全国のフリーペーパー・フリーマガジンの紙数は1000紙(2000版)以上、総発行部数は2億9000部を超えているとされているそうです。

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いまや、日本国外においても日本人向けに日本語で書かれたフリーペーパーが多数発行されており、世界の主要都市や日本人の多い地域には必ずと言っていいほど日本語のフリーペーパーがあります。私はハワイに住んでいましたが、アラモアナセンターをはじめ、多くの公共商業施設では日本語のフリーペーパーが置かれていました。

これらのフリーペーパーは現地で制作されているため、日本で手に入る旅行雑誌等に比べより現地に密着した情報が掲載されています。ハワイでも、現地人?である私すら知らないようなホノルルの情報が入っていたりして、結構重宝していたのを覚えています。

また、割引クーポン券が付属していることもよくあり、現地で生活する日本人にとって貴重な存在となっています。今もあるのかどうか知りませんが、ホノルルにはその昔、スーパーのダイエーがあり、ここでは時にクーポン対応の日本食を売っていました。

あのころは学生だったのでかなりつましい生活をしていましたが、まずいアメリカ産の冷凍食品に飽きると、ときにやや高めの価格設定であるこのダイエーで買い物をすることもあり、このとき、こうしたクーポンがずいぶん役にたったことをよく覚えています。

ところで、この「無料」とはそもそもいったい何者なのでしょうか。

その定義は、財やサービスの提供について、受益者に代価を求めないということになるでしょう。無償ともいいますが、只(ただ)ともいいます。無料を意味する「ロハ」という俗語は、この漢字を分解することからできた俗語です。

完全に無料のものというのはなかなか存在しないものですが、上のフリーぺーパーのように、輸送業の発達や第三次産業の高度化に伴って、無料で提供されるサービスは近年増加しています。インターネット上の日本語検索エンジンでも、最も多く入力されるキーワードの一つが「無料」だそうです。

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今日無料で提供されるサービスの多くは、慈善活動・ボランティアとして提供されている物、広告収入によって費用が賄われているもの、顧客獲得の手段として企業の宣伝活動の一環で提供されるもの、政府や自治体、公共団体による費用負担で費用が賄われているものなどに大別できそうです。

社会貢献として提供されるものの中には、フリーソフトのようなものもあります。作者の意志により無料で提供されているものであり、多種多様なものがあります。フリーウェアともいいます。日本のものは高性能なものが多く、その代表例がアーカイバのLHAや、CADソフトのJw_cadです。

フリーウェアは「無料で使用できる」ことに重点を置いた呼称であり、それ以外のライセンス条件、とくに変更・再配布などの条件はまちまちです。ただし無料ではあるものの、ソースコードが付属しないために変更ができなかったり、有償配布や営利利用の禁止など一定の制限が課せられているものも多いようです。

ソフトウェアの配布者が、利用者の持つ権利を制限的にすることを「プロプライエタリ」といいますが、こうしたフリーウェアは、プロプライエタリ・ソフトウェアといいます。開発力のあるユーザーにソースコードのダウンロードや所持、貢献などを許可しながらも、開発の方向性とビジネスの可能性を残すことができます。

つまり、無料配布することによって不特定多数の人に使ってもらい、人気が出れば、それをきっかけに新たなビジネスチャンスが舞い込むかもしれない、と考えているわけです。このため、個人が開発しているフリーウェアの中には時間がたつと有料化されシェアウェアとなったり、さらに定額の商品に昇格したりするものがあります。

なお、フリーウェアの中には悪意を持って配布されるものもあるので注意が必要です。窓の杜やVectorのようなフリーウェア配布サイトでは脆弱性の検査までは行っていませんが、ウィルス検査は公開前と感染の疑いがある場合のみに行われているそうなので、必ずしもそこにあるものが安全とは限らないそうです。十分に気を付けましょう。

2006年にはVectorにおいて新型ウィルスによって大規模なサイト内ウィルス感染が起きています。また、ウィルス感染したソフトウェアを使うことで開発環境に感染し、その開発環境で開発したソフトウェアにまで感染することもあるといいます。

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このほか、社会貢献型で無料のものには、今このブログを書くのにも利用しているオンライン百科事典、ウィキペディアなどがあります。しかし、完璧なる無償行為、というわけではありません。無料ではあるもののその維持費用は、寄付によって賄われています。また、そこに書かれていることを有料で提供することは妨げていないようです。

このほか、この世に存在するもので「無料」といわれているものに何があるかといえば、その最たるものは広告収入によって賄われているものです。町で配られているポケットティッシュはその代表格であり、テレビ、ラジオも一見無料のようですが、間に入るコマーシャル料で運営されています。

インターネットのコンテンツの多くも、広告収入を元に提供されている場合が多く、サービスプロバイダ画面の一部に広告を表示させたりしており、これにより「無料」が装われています。またメールマガジンは企業運営、個人運営を問わずフリーで提供されることが多く、広告収入を主な収入源としているものも多いようです。

顧客に付随商品を購入させる目的のための「無料」もあります。いわゆる「おまけ」がそれであり商品購入時に顧客に与えることで、心理的に購買意欲を高める意図があります。「試供品」や「体験版」「サービス品」などもその一種でしょう。

NTTが発行する電話帳も無料ですが、これも元は加入者を増やしたいがためでした。が、最近は広告料に頼っているようです。このほか、招待券映画、コンサート等各種イベントチケットもそうです。商品購入の対価として顧客に配るものが多く、その店舗やサービスを今後とも利用してもらうため、顧客を放さないためという意味合いが強いものです。

インターネットに関係するコンテンツやソフトウェアの中には、市場開拓の手段として無料で提供し、将来的に付加サービスなどを有料化するものがあります。現在マイクロソフトが無償提供しているwindows10は、現在は無料であっても近い将来には有料になるようです。無償でダウンロードした人にも何等かの形で課金されることになると聞いています。

将来にわたってタダだからアップグレードしたのに~という悲鳴が今から聞こえてくるような気がします。この手法については寡占状態を利用した市場独占であるとして、企業対企業、あるいは企業対国家の訴訟が起こっているようです。

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このほか、公共性の強いものも無料が多いのが特徴です。とくに身体障害者、知的障害者、戦傷病者、原爆被爆者、高齢者などには自治体から与えられることが多く、鉄道、バス等の交通機関料金が無料です。もしくは、無料チケットが配られ、ほかに公営バスの高齢者無料制度や無料スクールバスがあります。ゴミ処分もいまだ無料のところが多くあります。

公衆トイレもタダですし、小学生以下の医療費や高齢者の医療費は一部自治体において無料です。このほか公共性ということを言えば義務教育は日本では中学校までタダです。保育園児又は幼稚園児の保育園費、幼稚園費もタダです。

このほか、地方によっては高速道路に指定されていながら無料の箇所がありますし、一般道の通行は無料です。しかし、よくよく考えてみれば、これらの無料はガソリン税による道路特定財源制度に賄われており、また、多くの有料道路からの収入が充てられています。

公園の飲用水はタダですが、こちらも実質、地方公共団体や利用者の水道料金で賄われています。自宅で使用する水も水道料金を払っているわけでタダではありません。レストランの「お冷」も一見、無料で提供されていると思われていますが、出される料理の料金の中にその水道料金が上乗せされているわけです。

上の義務教育や高齢者や障碍者に対するサービスにしても、もともとは我々が払っている税金から賄われているわけであり、社会制度のしくみ上、弱者からは金をとらない、としているだけで、その分は他の「強者」から徴収しているわけです。

こうして考えてくると、実際に、一切対価を求めない「パーフェクトに無償」という無料は非常に少ないようです。俗に「ただより高いものはない」といいますが、別の側面で金銭での対価を求めるものがほとんどです。

そこへきて、最近は無料を餌にした詐欺や悪質な訪問販売による被害も多く発生しており、インターネットでの出会い系サイトやアダルトコンテンツは、「完全無料」などと表記しておきながら実は深い落とし穴が用意されていたりします。

アクセス自体は無料ですが、パケット通信料・電子メール文の閲覧・送信、アダルト画像を閲覧するのに、別途の法外な料金を課されるなど、その多くは詐欺的なものです。

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このように、フリーペーパーといわれるものもとどのつまりは商業的対価を目的としたものであり、フリーソフトのような社会貢献を目的として提供されるものもまたしかりです。公共のものも税金で賄われているものがほとんどであり、結局のところ、完全になにも前提のない「無料」というものはこの世に存在しないのでは、と思われるほどです。

ドイツの絵葉書には、切手を貼る場所に「frei machen」という言葉が印刷してあるそうで、これは、「自由にしてください」の意味です。だからといって「無料」で出せるかというとそうではなく、これは、「一定の料金を払う義務を果たしてね」という意味です。つまり、切手を貼って出せ、というのを婉曲的に表現しているだけです。

この例は、ヨーロッパ人が「自由」は対価によって得られると考えている、という良い例ですが、無料も本来は、それ相応の対価があるべきものなのかもしれません。

ただし、その「対価」がいつの場合にも金銭とは限りません。金以外の代償を求める無料もあることはあります。「対価」を「代償」に言い換えれば、多くはありませんが、いくつかの無料があります。

環境面に配慮する、というのもその代償のひとつです。飲食店における割り箸の提供は、日本や中国では原則無料です。が、これも飲食代に上乗せされている、と考えればタダではありません。しかし、最近は、洗って繰り返し使っているプラスチック箸を用意してあり、無料で使えます。これは環境面に配慮した無料のひとつといえます。

ただ、細かいことを言えば、箸を洗うためにはそのための洗剤の費用がかかりますが……

なお、スーパーマーケットやコンビニエンスストアが用意するプラスチック製の袋は、無料で提供する店が多かったものですが、最近は環境への配慮やコスト削減の目的で、有料としている店が増えました。無料からの後退ではありますが、その分環境には優しくなっているわけです。

また、無料の代償として「安らぎ」が得られるというものもあります。最近、日本各地の入浴施設や温泉地では、地元住民専用の無料入浴施設を設置している例が少なくありません。

近年では観光客も対象にした誰でも無料で利用できる足湯を設置するところも増えています。町おこしの一環ともとれ、広義には商業目的ともいえなくはありませんが、せちがないこの時代において、限りなく「無償の無料」に近いのではないでしょうか(このブログも同様であり、かなり稀有な奉仕的無料コンテンツといえるのでは)。

防災におけるボランティア活動もまた、こうしたもののひとつです。「安らぎ」というのは少し違うような気がするので、あえて言えば「安心」でしょうか。「無料の活動である。ボランティアの対義語は「義務」や「徴用」ですが、これに対してこうしたボランティア活動は「何も求めない」行動であり、それにより人々に安心を与えます。

1995年の阪神・淡路大震災では全国から大勢のボランティアが被災地に駆けつけましたが、日本においてはこのころからボランティア活動が急激に増えました。このことから、「ボランティア元年」とも呼ばれます。1月17日の震災の日は「防災とボランティアの日」ともされています。

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ボランティア活動の原則として挙げられる要素は、こうした「無償性」のほかに、一般的に、「自発性」「先駆性」があります。そしてもうひとつは「利他性」です。自己の損失を顧みずに他者の利益を図るような行動です。

群れをつくって暮らす動物の場合、その個体にとっては利益になりそうにない行動が観察される場合もあります。例えばサルやシカの群れでは、見張り役がある程度決まっていて、敵が近づいたのに気づくと、自らが警戒音を発します。目立つ行動をとる事で群れの他個体にこれを知らせるわけですが、当然自分が襲われるリスクは増えます

NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」はかなり視聴率が高いようですが、この中に登場した「ファースト・ペンギン」という言葉が、今話題になっているようです。

劇中、主人公の盟友の五代友厚が、こうのたまわります。

「ペンギンは、鳥やけども、空は飛べない。しかし、大きな海を、素早く泳ぐことができる。そやけど、海の中は、危険がいっぱいや。どんな敵や、困難が待ち受けてるかも分からへん。そんな時に、海に、群れの中から一番先に飛び込む、勇気あるペンギンのことを「ファースト・ペンギン」というんです。」

五代役をやったディーン・フジオカさんは、その甘いマスクゆえに、最近はバラエティやドラマなどでも引っ張りだこのようですが、その人のセリフ、ということもあり、この「フォーストペンギン」という言葉もかなり脚光を浴びているようです。

最近では、群れの中から始めに飛び出すこの1匹の勇敢なペンギンを「企業家」に見立ててビジネス用語としても広く使われるようになっているといいます。ハイリスク・ハイリターンの関係は人間の世界にも言えることですが、今まで誰も足を踏み入れなかった世界にリスクを恐れず飛び込んでいく開拓者、というわけです。

ベンチャー企業やスタートアップ企業の起業者のことをフランス語で「アントレプレナー」といいます。日本でも一時期物知りの間でもてはやされるようになっていましたが、今後はこの「ファースト・ペンギン」のほうが流行っていくのかもしれません。

かくある私もファースト・ペンギンを目指したいものですが、はたして今年はどんな年になっていくのやら。

その最初の月もそろそろ終わりそうです。何もしないまままた月日が矢のように過ぎていきますが、その中で何もできないで取り残される、「ラスト・ペンギン」にならないよう、頑張りたいと思います。

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エックス

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最近、水金地火木土天海以外の「第9惑星」が発見されたかもしれない、とメディアで報道され、話題になっています。

ご存知のとおり、従来この太陽系第9惑星の座は冥王星占めていましたが、2006年からは準惑星に降格になっており、その主が不在になっていました。

この「プラネット・ナイン」は、太陽系外縁にあるとされる仮説上の巨大惑星の仮の名称です。つい先日の1月20日、カリフォルニア工科大学のコンスタンティン・バティギンとマイケル・E・ブラウンという天文学者が、いくつかの太陽系外縁天体の軌道に関する研究結果から、プラネット・ナインが存在する間接的な証拠を得た、と発表しました。

この惑星が存在すると仮定すると、エッジワース・カイパーベルトの外側に安定した軌道を持つ6個の太陽系外縁天体の軌道が奇妙に似通っていることを説明できるといいます。

エッジワース・カイパーベルトベルトというのは、カイパーとエッジワースという二人の天文学者が発見したことから命名されたもので、冥王星や海王星よりもさらに外側にあるドーナッツ状の天体密集空間です。

狭義では48 ~50 AU(AUは地球と太陽との平均距離)の範囲に広がるもの、広義では数百 AUまでと定義され、ここに大小さまざまな小惑星があるとされています。この、エッジワース・カイパーベルトの外側には、さらに安定した軌道を持つ6個の太陽系外縁天体があるといい、その軌道はほぼ同じ平面上にあるといいます。

バティギン博士とブラウン博士は、この第9の惑星がなかったと仮定してシミュレーション計算したところ、このように6個もの天体が同じ平面上にある確率はわずか0.007%であるとわかったといいます。

つまり、第9惑星が存在しなければこれらの天体は地球外のどこかへ飛んで行ってしまう可能性があり、それが証明できた、ということのようです。さらに計算を進めると、プラネット・ナインは大きな楕円軌道を1万年から2万年の周期で公転していると考えられるそうですが、その軌道の半径は約700 auと海王星の約20倍ほどもあるといいます。

また、軌道傾斜角は30°±20°傾いていて、他の惑星のようにお行儀よく太陽の周りをまわっているというわけではなさそうです。ただし、楕円状軌道なので、近日点(太陽に最も近づく)では海王星の約7倍の約200 auまで近づくこともある、と想定されるといいます。

地球の5~10倍の質量を持ち、直径は2~4倍ほどと見積られているそうで、ブラウン博士らは、この惑星が天王星や海王星のような、岩と氷の混合物で構成されている薄いガスで包まれた巨大な氷の惑星であることがほぼ確実だと推測しています。

現時点においてはこの惑星はまだ直接観測されていませんが、地上からの望遠鏡によるこの天体の探索はすでに開始されています。しかし、この天体は太陽から極めて遠い距離にあるため、太陽光をほとんど反射しないと考えられています。また、もし見えたとしても星の明るさの等級は22等級よりも暗いと予測されています。

日本の科学者もすでにハワイにある「すばる望遠鏡」を使って観測を始めているといいますが、その発見には5年以上かかるのではないか、といわれているようです。

ま、発見されたからといって我々の生活がすぐに変わる、とかいう問題ではありません。しかし、もしこれが発見されたとすると、現在世界中で愛されている西洋占星術はどうなるのかな~と占い好きの私などは思ってしまいます。

というのも、西洋占星術では太陽や月を中心とし、その他の惑星の運行との兼ね合いによって運命を占いますが、こんな大きな惑星があるとすれば、いままでの「理論」は崩れてしまうからです。

まあもっとも、占星術一般がそうであるように、西洋占星術は近代的な科学の発展に伴ってかつてのような「科学」としての地位からは既に転落しています。科学史などでは疑似科学に分類されており、理論などと呼ぶのは笑止千万です。

とはいえ、いや占星学は星々の力学的な運行に基づいているものであり、科学的な根拠がある、として頑張っている占星術家さんもいます。なので、もしこの第9惑星が発見されたあかつきには、そうした面々の中でもとくに数学に秀でた人によって新しい占星術が生み出されていくのかもしれません。

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それはともかく、こうしたが学問上の仮説として存在が提唱され、後に存在が確認された天体というのはそれほど多くありません。

その最たるものは、冥王星です。1905年パーシヴァル・ローウェルはそうした学説を唱え、自ら設立したアリゾナ州のローウェル天文台で、存在するかもしれない第9惑星を捜索する一大プロジェクトを開始しました。このプロジェクトはローウェルが1916年に死去するまで続けられましたが、結局彼が生きている間には発見には至りませんでした。

冥王星が発見されたのは彼の死から14年後の1930年であり、発見したのはアメリカの天文学者クライド・トンボーです。彼もまたはローウェル天文台で第9惑星を探すプロジェクトに取り組んでいました。

当時最新の技術であった天体写真を用い、空の同じ区域の写真を数週間の間隔を空けて2枚撮影し、その画像の間で動いている天体を探すという方法で捜索を行いました。その結果、異なる時期で撮影された2枚の間で動いている天体、冥王星を見つけました。ただし、その冥王星は思ったより小さく、現在では惑星とはみなされていません。

このように存在が予測されながら、いまだに存在が確認されていない、あるいは既に存在が否定された天体というのは、惑星ばかりではなく、その惑星の周りを回る「衛星」などにもあります。

パリ理工科大学の天文学講師ユルバン・ルヴェリエは、1859年に水星の衛星、バルカンの存在を提唱し。これを「バルカン仮説」と名付けました。

ルヴェリエは、計算における水星の軌道には時折ずれが生じることを発見し、このことから、水星より内側にも惑星が存在するのではないかという仮説をたてました。

もしこれが存在すれば、水星よりも更に太陽に近い軌道を取ることになります。当然その表面は非常な高温であると考えられたことから、ギリシア神話では鍛冶の神を示す「バルカン」の名をこの衛星に与えました。

もともとこの仮説は、天王星の外側に惑星がないと天王星の軌道のずれが説明できないため、存在の仮説が立てられて海王星が発見されるに至ったことに由来します。

同じように水星にも軌道のずれがあったため、水星の内側にも惑星が存在するのではないかという仮説が立てられたわけですが、結局後に存在しないことがわかり、水星の軌道のずれもその後アインシュタインの相対性理論によって説明付けられました。

近代においても、1974年、マリナー10号が水星フライバイ中に極端な紫外線の放射を観測したため、これは未知の衛星によるものではないかと考えられました。しかし、すぐにこの紫外線は水星の背後にあった恒星のコップ座31番星に由来することが判明しました。

現在衛星はない、とされている金星においても、かつてはもしかした衛星があるのではないかといわれました。17世紀から19世紀にかけて金星の衛星が度々観測されたとされ、そのひとつは、ネイト(Neith) と名づけられました。こちらはエジプト神話の初期の女神の名です。その存在について長年議論が続いていましたが、最終的には否定されました。

このほかにも火星、木星、土星などでも現在確認されている衛星以外のものが発見されたと何度も誤認され、その数は相当数あります。しかし、そのほとんどは否定されてきています。ただ、予測後確認されたものの中には、一度は「発見」されたものの、その後再確認されなかったために「ガセ」として闇に葬られそうになったものもあります。

1975年に、アメリカのチャールズ・トーマス・コワルに発見された木星の衛星、テミストなどがその例です。この衛星の名はギリシャ神話のゼウスの愛人の名をとったものです。一度発見され、すわ大発見とされましたが、軌道を確定するだけの十分な観測が無く、すぐに見失われてしまいました。

結局、このテミストは、2000年にハワイ大学の大学院生スコット・S・シェパードシェパードら再発見しましたが、それまでは長きにわたって未確認の第14番衛星とされていました。

地球にも月以外の衛星がある、とされて大騒ぎになったこともあります。さすがに最近の話ではなく、170年以上も前の1846年のことです。フランストゥールーズ天文台のプチ (Frédéric Petit)という天文学者は、複数の流星の軌道を研究した結果、地球の衛星軌道に乗っている流星を発見した、と発表しました。

しかし、軌道決定の不確実さなどから疑問視され、のちに否定されました。また、1898年、ドイツ・ハンブルクのゲオルク・ヴァルテマットは、月の軌道の揺らぎから、地球からの距離103万kmに、直径700km、公転周期119日の第2の衛星があるとの仮定を発表し、その衛星の太陽面通過を予言しました。

そして、予言どおり太陽面通過を観測したと主張し、さらにその年のうちに、第3の衛星を予言しましたが、太陽面通過だとされた現象は実際には黒点でした。また700kmもの大きさがあるなら簡単に観測できるはずですが、直接観測がまったくなされないことからも、以後科学的には、この衛星の存在は完全否定されました。

ただし1918年、占星学者のウォルター・ゴーンオール(占い師としての名はセファリアル) は、この衛星は実在するが真っ黒だから観測できないのだとして、リリス (Lilith))と名づけました。またダークムーン((dark moon) と称し、一部の占星学者(学者と呼ぶべきかどうかは疑問ですが)はいまだにこれを信じているようです。

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このほか、今回みつかった(?)とされるプラネット・ナイン以外にも「惑星X仮説」というのがあります。これは、海王星や冥王星の外側にもさらに惑星が存在するという説です。こちらも「超海王星」であるとされ、第9番惑星と位置づけられるもので、冥王星の惑星除外までは第10番惑星(超冥王星)として探索が行われてきました。

この海王星もまた、もともとは天王星の外側に惑星がないと天王星の軌道のずれが説明できないため、存在の仮説が立てられて発見に至ったもの、と上でも書きました。

が、天王星と海王星にもさらにその存在だけでは説明できない軌道のずれがあったため、パーシヴァル・ローウェルらによってさらに外側に大型の惑星が存在するのではという仮説が立てられました。

これが惑星Xです。しかし、1930年に冥王星が発見されたため、この惑星Xの探索は決着がついたと思われました。ところが、その後の観測が進むにつれ、発見された冥王星の質量は海王星と天王星の軌道に影響を及ぼすにはまったく足りないことが明らかになり、探索は振り出しに戻りました。

その後現在に至るまで惑星Xは発見されていませんでした。しかし相次ぐ探査機の投入によって、海王星や天王星の軌道などが正確にわかるようになりました。またこの仮説の前提であった天王星や海王星の質量が推定よりかなり小さかった事などもわかり、新たな計算結果などから惑星Xといわれるような惑星の存在は否定されるようになりました。

そこへきて、今回のプラネット・ナイン発見の発表がありました。もしその存在が本当に確認されるとしたら、これまでの惑星Xの議論が再燃することになります。

また、もしプラネット・ナインが存在するならば、これまでの太陽系内の各惑星あるいはその衛星などの運行状況にも当然影響があるはです。これまでの天文学で「常識」とされていたものへの少なくない影響が予想されます。

さらに、プラネット・ナインに似たようなさらに別の天体もあるのかもしれず、昨年冥王星に到達して次々と新しいデータを送ってきている、探査衛星ニュー・ホライズンズの成果も踏まえて、今後は新たな「X探し」が始まる時代に突入していくのかもしれません。

我々はまさに新しい宇宙理論が確立されようとしている時代に生きているのかもしれません。

ところで、この「X」です。アルファベットの最後から3番目、24番目の文字です。現在のアルファベットはラテン語から派生した文字であり、ラテン語では23しか文字がありませんでしたがこれにJ、U、W を加えた 26 字を現在では基本と見なしています。

ラテン語のさらに前身はギリシア文字であり、このXはギリシア文字のΧ(キー/ヒ/カイ)に由来します。英語ではエクスと発音し、フランス語などではイクスです。通する「クス」はラテン文字としての発音、ksからきています。

一方現在の標準ギリシャ語のΧの発音にはchやkhが用いられるようです。日本語では「エックス」と発音します。微妙な差ではありますが、同じ語源にありながら文化や国によって音が違ってくるというのは改めて不思議な感じがします。ま、似たような話は日本語の方言にもあるわけですが……

しかし、英語などでもそうですが、だいたいどの言語もXで始まる単語は最も少なく、むしろ記号などでつかわれることが多いようです。ローマ数字では、10を意味しますが、これは古代ローマ人は元々農耕民族だったことに由来します。

古代ローマ人は、羊の数を数えるのに木の棒に刻み目を入れて数える習慣があり、柵から1匹ずつヤギが出て行くたびに刻み目を1つずつ増やしていきました。3匹目のヤギが出て行くと「III」と表し、4匹目のヤギが出て行くと3本の刻み目の横にもう1本刻み目を増やして「IIII」としました。

ところが、延々とこれを続けていくと「IIIIIIII……」となってしまうので、5匹目のヤギが出て行くと、4本目の刻み目の右にこのときだけ「V」と刻み、これと同様に9匹目の次のヤギが出て行くと「IIIIVIIII」の右に「X」という印を刻むようになった、というわけです。

これからすると、31匹のヤギは「IIIIVIIIIXIIIIVIIIIXIIIIVIIIIXI」となります。このように長々と刻んだのは、夕方にヤギが1匹ずつ戻ってきたときに記号の1つ1つがヤギ1匹ずつに対応していたほうが便利だったためです。このためその昔はヤギが戻ると、ご丁寧に記号を指で端から1個1個たどっていったそうです。

最後のヤギが戻るときに指先が最後の記号にふれていれば、ヤギは全部無事に戻ったことになります。無論、ヤギは30を超えて50以上になることもあり、それでは棒が足りなくなります。このため、50匹目のヤギはN、+または⊥で表しました。また100匹目は*で表しました。さらに1000は石で作った○の中に棒で作った十を入れた記号で表しました。

これらの記号が、その後ヨーロッパ諸国に伝わり、別の意味に使われるようになったのではないか、ということもいわれているようです。

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このローマ数字としてのXという文字は現在でもよく使われます。Mac OS Xは バージョン10の意味であり、トヨタ・マークXは、 前身のトヨタ・マークIIからの歴代通算で10代目に当たるためにこのロゴが使われるようになったそうです。

野球で、一部または全部が省略されたイニングをXと表記します。9回裏が「X」と表記されている場合、9回表終了時点で後攻がリードしているため9回裏の攻撃が省略されたことを表します。これもおそらくは9の次が10であることから来ているのでしょう。

なお、「1X」と表記されている場合は9回裏に後攻が1点を取ってリードし、同時に試合終了してサヨナラゲームとなったことを表します。

一方、服のサイズなどで使われる”X” はローマ数字ではなくラテン語のほうです。”Ex”で始まる単語の略語として使われます。EXtra(特別)の意味であり、XLは、エクストララージで、特別大きいサイズを示します。また、Xは「実験」の意味で使われることもあり、兵器等、実験用の機器の型番に付けられる X-1、F-Xは、“Experiment”からきています。

そのほかXが使われる場合というのは、未知である場合にとりあえずつけられる名前であることも多く、上述の惑星Xもそれです。「Xデー」は、未知の(未来の)重要な日付であり、昭和天皇が逝去される前にはメディアに頻出しました。

各国の通貨の名前を3文字のコードで記述できるようにする通貨コードISO4217では、XXX は「通貨なし」を意味します。

さらに、ミスターX(Mr. X)は、正体が明らかでない人物に対して用いられるあだ名としても使われます。テレビや演劇、映画などでもXは頻発し、「仮面ライダーX」や「ウルトラマンX」「謎の物体X」といった具合です。

私の世代では、「ミスターX」といえばテレビアニメ、「タイガーマスク」に登場する悪役です。「虎の穴」の極東地区を統括するマネージャーで、外見は紳士ですが、性格は恐ろしく冷酷かつ残忍という設定です。掟である上納金の支払いを拒絶したタイガーマスクを裏切り者と認定し、処刑のために殺し屋や死神レスラーたちを次々と日本に送り込みました。

プロレスでのXは、出場選手が未定または未発表の場合に使われますが、実在の覆面レスラーにもミスターXを名乗った人物が多数存在します。獣医師の免許を有していたことから「ドクター」の異名を持ち、第5代AWA世界ヘビー級王者だったビル・ミラーは、覆面レスラーのドクターXとして活躍した時期がありました。

ミラー以降もカナダ出身のプロレスラーガイ・ミッチェルなどがミスターXとして活動しました。1975年、新日本プロレスに覆面空手家ミスターXとして来日。アントニオ猪木ともシングルマッチで2度対戦しました。別人のミスターXが覆面空手家として登場したこともあり、こちらは「猪木の格闘技戦史上最低の相手」とされました。

このほかテレビドラマでは「Xファイル」が有名です。こちらはおなじみの人が多いでしょうが、アメリカ発のSFテレビドラマであり、超常現象をテーマにしたストーリー展開や映画並みのロケが話題となり世界中でヒットしました。

ストーリーは、UFO、UMA、オカルトなど科学では説明の付かない超常現象のまつわる事件に、2人のアメリカ連邦捜査局(FBI)捜査官が取り組むというものでした。

一方、上述の天文学で使われた惑星Xという用語以外にも、科学の世界ではよくXは使われます。X線はその最たるものであり、これは発見時には性質などが不明でこう呼ばれていたものがそのまま残ったためです。

また、ランゲルハンス細胞組織球症という難病がありますが、こちらはかつては組織球症Xと呼ばれていました。おもに子供に生じる病気で、10歳以下に多いようで、原因不明の腫瘍があちこちにできる病気です。命が危ない病気ではないといわれますが、腫瘍が全身のどこでもできる病気であり、頭蓋骨と脳にも生じます。

脳に病気が生じると、てんかん発作や認知症などいろいろな神経症状とかの後遺症を残すことがあります。原因の特定と治療法がまだ確立していないころにXと呼ばれていたようですが、最近ではランゲルハンス細胞組織球症 (LCH)と呼ぶようです。

このほか、化学では、ハロゲンの元素記号として使われ、フッ素・塩素・臭素・ヨウ素など我々の身近にあるものは、化学式中ではしばしば X と表記されますが、その命名は機械的なもののようです。また我々の体を形作る組織内の染色体のひとつは「X染色体」です。こちらはその形に由来するものであり、こちらも未知のもの、といった意味はありません。

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ところで、このラテン文字の「x」や「X」は×に見立てられることもあり、こちらは日本語では、「かける」「ばつ」「ぺけ」「ばってん」「ちょめ」「クロス」「バイ」などと読みます。何か二つのものを対比する場合に用いることが多く、例えば、寸法表記の「100cm x 100cm」などがそれです。

縦×横、幅×高さ、幅×高さ×奥行き、縦×横×高さなどで、一般的にも寸法を表し、「かける」と読むことが多いようですが、数学などで複数の乗算を区別する必要があるときは「クロス」と読むこともあります。

また「拡大」を意味する場合にも使います。よく間違うのは、×30 は30倍の拡大図を意味しますが、30×となると、こちら は30倍の倍率を持つレンズを表しています。

この×という記号はラテン語のXとは異なり、その起源は聖アンデレの斜め十字架であるとされ、これはキリスト教で用いられる十字架を模したシンボルのひとつです。アンデレとは、キリストの十二使徒のひとりでX字型の十字架で処刑されたとされる聖人で、その後キリスト教では「聖アンデレ」として敬われてきた人物です。

当初は国旗や紋章、勲章などに用いられましたが、乗法の記号としてこの記号が使われだしたのは17世紀に入ってからであり、最初に使ったのはウィリアム・オートレッドというイギリスの数学者です。

オートレッドは乗法と除法を直接計算できる計算尺を1622年に発明したことで知られ、”×” のほか、三角関数を “sin” や “cos” と表記する方法も彼の考案です。

以来、「カップリング」の記号としても頻繁に使われるようになり、生物学的にもたとえば「雄×雌」「男性×女性」といったふうに使われるようになりました。現在では結婚、交配の意味でもあります。

ところが、日本では否定的な意味を表す時にも使います。この場合は「バツ」「ペケ」と読みます。この「ペケ」とは何ぞや、ですが、これは横浜の外国人居留地の俗語で、マレー語から来ているそうです。マレー語で、あっちへ行け、の意味なのだそうで、横浜に外国人が入居していたころ、彼らはまだ異人として嫌われていたからなのでしょう。

また「べからず」が訛り、「ペケ」になったという説もあるようですが、いずれにせよ否定的な意味のようです。日本では文字の出現以前からあり、古墳時代の土器や埴輪にも×の印は見られ、「〆」と同様に封印の意味があったと考えられています。

平安時代以後、×は「阿也都古(アヤツコ)」と呼ばれるようになりました。アヤツコには異界とこの世の行き来を禁止する意味があり、古くは初めて外出する乳幼児の額に書くという習慣がありました。

このころは新生児の死亡率が高く、外出するときには魔物にとりつかれないように、というお守りの意味でしょう。また、生まれてまもなくは不安定なのですぐにあちらの世界へ行ってはいけないよ、という意味もあったでしょう。さらに、葬儀の際にも死者の胸に書くなど魔除けの記号、呪符として用いられました。

現在、我々が使う文字、たとえば「凶」「胸」「兇」などはこのアヤツコの系列の文字だといわれます。確認していませんが、おそらく「区」や「九」もその類でしょう。

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このように日本では否定的な意味で使うことが多いこの×ですが、欧米でも不正解、不可、否定、無いの意味で「✗」を使います。が、ややこしいのは、日本語ではペケの反対は○(マル)であるのに対し、彼らの場合は肯定的な意味で使うときには「レ点」すなわち、「✓」を使うことです。

ちなみに、地図記号の警察署は、○に×ですが、これはかつての警官の所持品の六尺棒、現在の警棒を○で囲んで図式化したものです。また、交番は警棒だけの×になります。

このほか日本語で×を否定的に使う場合、よく「バツイチ」といいます。男性・女性の区別無く1度は結婚したものの離婚して現在独身である状態のことであり、一度離婚した経験を持つ人のことを指す俗称です。

こちらは、1992年に明石家さんまが大竹しのぶとの離婚会見の際、額に「×」を記して記者会見に応じたことから急速に浸透しました。今では「現代用語の基礎知識」にもふつうに掲載されています。

そもそもさんまさんが、結婚に失敗した自分に対して暗いイメージを持たれないようにと、面白い表現で表現しようとしたことに起因するわけですが、その後トレンディドラマでも台詞として頻繁に使用されたことから、次第に定着していきました。

なお、離婚の際、籍が抜かれるために戸籍が変わりますが、この際に戸籍原本に大きなバツ(×)印がなされる、と信じている人が多いようです。嫌だな~と思っている人が多いようですがこれはウソです。確かに昔は離婚すると戸籍に×が付されましたが、現在では単に「除籍」と記されるだけです。

この×は積極的で明るいイメージの「ピカイチ」に呼び替える運動が展開されたこともあったそうです。が、一過性で定着しませんでした。また「女性のバツイチは勲章」との言葉が女性向けの週刊誌やファッション誌などで取り上げられることがあり、バツイチが肯定的にとられた時代もありました。。

現在でも2回以上の離婚経験者を指して「バツ2(バツニ)」「バツ3(バツサン)」などと称することもあるほどで、それほど、この「バツ」は定着しています。最近は婚姻関係にあった男女関係だけでなく、同性の二人組お笑い芸人さんがコンビを解消したときも「バツイチ」と呼ぶこともあるようです。

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それにしても本人同士は離婚したくて離婚したわけではないでしょう。従来は勲章としてもてはやされてきたこの離婚ですが、最近は結果的にバツイチになってしまったことについて自戒の念に駆られる人多いようです。

内閣府の「男女共同参画社会に関する世論調査」によると、「相手に満足できないときは離婚すればよいか」との質問に対して、賛成派(「賛成」と「どちらかと言えば賛成」の合計)が46.5%にとどまったのに対して、反対派(「反対」「どちらかといえば反対」の合計)が47.5%となり、23年ぶりに反対派が賛成派を上回るという結果が出たそうです。

賛成派は1997年の54.2%をピークに毎回減り続けており、一昔前に比べると、離婚に対して寛容ではなくなってきていることが窺えます。その理由にはいろいろあるでしょうが、ひとつには、夫婦の間に子供があった場合の悪影響です。

かつては離婚は子供に何の影響も与えないと考えられていたものが、最近は子供への悪影響が強くなってきた、という指摘が多くなった、ということがあるようです。

離婚が子供の成育にマイナスの影響を及ぼす要因としては、(1)非同居親と子供との親子関係が薄れること、(2)子供の経済状況が悪化すること、(3)母親の労働時間が増えること、(4)両親の間で争いが続くこと、(5)単独の養育にストレスがかかることなどがあげられるようです。

また、子供の健全な発育には、父親の果たす役割も大きいといい、こうした事実を踏まえて、欧米各国では、1980年代から1990年代にかけて家族法の改正が行われ、子供の利益が守られるようになっています。

ただし、子どもの権利は、日本では裁判規範とはされず、裁判所によって無視されており、国際機関から再三勧告を受けているのが現状です。が、いずれはこれも改められるでしょう。今後は子供の人権を守る上でも、離婚をできるだけ少なくしようというトレンドが主流になると思います。

「結婚は勢いでできるが、離婚には体力が必要」という言葉もあるようです。結婚は相互信頼を前提とするものですが、離婚は相互不信を前提とするため、ともいわれます。

離婚を意味する「×」がそうした不信感から来ているとすれば、それをなんとかハートマークに変えるためには、その不信感がどこから来ているのかを特定することが必要です。

そもそも不信感を持つに至る原因が何であったのか、についてはバツイチに至った方々それぞれに理由があるでしょうが、♂×♀の間にあるこの「×」という記号の持つ意味について、今少し時間をとってじっくり考えてみてはどうでしょう。

よくある結婚式のスピーチで、もし喧嘩をするほど仲が悪くなったら、その二人の間にある「”中”が悪い」と考えるようにしなさい、というのがあります。

離婚寸前の夫婦の間にもきっと悪い×があるに違いなく、それを消すことができたら、離婚届を出す「Xデー」も少しは先延ばしできるかもしれません。

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こだまでせうか

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先日テレビを見ていたら、カニの季節、ということで越前ガニの高級ブランド化の話題がNHKで放映されていました。

福井県では昨年暮れ、11月6日に漁解禁となった「越前がに」を販売するための観光営業戦略のため、今シーズンから重さ、大きさに基準を設け、それを上回ったズワイガニを最上級の新ブランド「極(きわみ)」として売り出していくといいます。

既に最高級ブランドとして知られるこの蟹の地位を確固たるものとし、県全体で水揚げされる越前がにの評価、価格のさらなる向上につなげていきたい、といった意向のようです。

「極」の基準は重さ1.3キロ以上、甲羅の幅14.5以上、爪の幅3センチ以上。この基準に達するズワイガニが揚がるのは、1シーズンに500杯前後で全体の0・5%以下といいます。重さ1キロ以上の越前がには通常、競り値で2~3万円、小売価格は、その2~3倍になるといわれますから、我々にとってはとても手の届かないような高級食材です。

こうした高級化の背景には、北陸から山陰までの日本海側では、カニを石川県は「加能(かのう)がに」、京都以西では「松葉がに」の名前で市場に出していることがあるようです。産地間の競争が激しくなる一方の中、最も単価が高い「越前がに」の地位を、さらに新ブランドで極めていきたいのだといいますが、何やら遠い世界の話のようです。

ところで、この越前がにのテレビ映像を見ていて気になったのですが、それほどの高級品なのに、このカニの甲羅には黒いブツブツとした粒状の物体がいっぱいついていました。見ればみるほどちょっと不気味というか、むしろ気持ち悪いのですが、いったいあれはいったいなんなのでしょうか。

調べてみると、この黒い粒の正体は「カニビル」の卵だそうです。川や沼などにいるあのヒルです。ヒルといえば、昔子供のころに川で遊んでいるといつのまにやら足に取りついていて、そこから血を吸われているのをみて卒倒しそうになるという、苦い経験をしたことが何度かあります。

陸上だけかと思ったら海中にもいるようで、世界中に生息する生命力の強い動物です。ただし、卵から孵った成虫は蟹には寄生せず、魚の体液などを吸って栄養をとっているといいます。あくまで卵だけを蟹の甲羅に産み付けているだけで、見た目は悪いですが蟹にとって特に害はないということです。

まれに成虫が蟹の甲羅に付いた状態で水揚げされる場合もあるようですが、寄生したり甲羅を破って体液を吸うような事はありません。

なぜ蟹の甲羅に卵を産み付けるかというと、これはカニビルの生息する海域は海底が泥に覆われ柔らかく産卵に適さないためであるためです。このためヒルのエサになる魚が多い海底に生息する蟹と共に移動すれば卵も産みやすくなり、かつ餌をも取りやすいというわけです。

カニビルの卵産み付けの対象になってしまっている蟹は、この越前ガニに代表されるような「ズワイガニ」をメインに「タラバガニ」にも小さいものが見られます。が、さすがに毛ガニには産み付けないようです。

このツブツブがたくさん付いているとおいしいという話もあるようですが、これは、脱皮から経過した時間が長い、硬い甲羅の蟹にしか卵を産みつけられないからです。ヒルの卵がつくというのはそれなりに脱皮から時間が経ったカニということになります。

蟹は脱皮の際に栄養を使うため、その直後は中身がつまっておらず、スカスカな状態になるそうです。しかし脱皮後からかなりの時間を経て殻も固くなるころまでには十分な栄養を取って肥え太っており、その場合はヒルの卵も多く付いていることが多いというわけです。

ただし、脱皮から間もない蟹にも産みつける事があるため、脱皮から時間が経っているからといって絶対に身がつまっているとはいえず、あくまで目安の1つだといいます。

なお、カニビルが付いていればズワイがの産地がわかるといいます。最近ではズワイガニにも輸入ものが数多く流通しています。

このため「日本海産」「日本産の蟹」といったふうに国産であることを強調したり、越前がにや松葉ガニのように「ブランド蟹」として売り出します。この場合、このカニビルのことを引き合いに出し、「日本海側にしか生息しない」とアピールする、という話もあるようです。

とはいえ、カニビルはロシア産の蟹に付着していることも多く、日本海側だけでなく北海道や東北の太平洋側でとれた蟹でも見られるようで、日本産である絶対的な証拠にはなりません。とはいえ日本海産の蟹に多い傾向はあるようです。

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ちなみにこのカニビルは食べられません。また、付いていて何も害はないわけですが、見た目にはやはり少々グロテスクです。このため、昨今は綺麗な個体が好まれる傾向が強く、カニビルがびっしり付着した個体は敬遠されるようです。

料亭やかに料理店などでは取り除いてから出される事が以前より増えているようですし、通販サイトなどのサンプル写真を見てみても、取り除いて撮影しているショップが多いようです。

ところで、カニといえば「猿蟹合戦」を思い出します。何度聞いても面白い話であり、子供のころには私もその絵本を持っていて、大事な宝物のひとつでした。

誰でもが知っている話ではありますが、改めてアップすると、そのあらすじはこうです。

蟹がおにぎりを持って歩いていると、ずる賢い猿がそこらで拾った柿の種と交換しようと寄ってきました。蟹は最初は嫌がります。しかし、種を植えれば成長して柿がたくさんなってずっと得するよ、と猿が言ったので、食いしん坊の彼女はその甘言に負けてついにおにぎりとその柿の種を交換してしまいます。

こうして柿の種を手に入れた蟹はさっそく家に帰って「早く芽をだせ柿の種、出さなきゃ鋏でちょん切るぞ」と歌いながらその種を植えました。そうしたところ効果があったのか、柿の木は急速に成長していき、たくさんの柿の実をつけるようになりました。

ところが、蟹は横歩きはできますが、柿の木に登って実をとるといった芸当はできません。困っていると、そこへやって来た猿がこれを見て、代わりに自分が取ってあげようと押し売りをします。スルスルと木に登ってさっそくたわわになった実をひとつガブリ。また一つ一つと平らげますが、ずる賢い猿は自分が食べるだけで蟹には全然やろうとしません。

蟹が早くくれと言うと猿は、それならこれをやるよ、と青くて硬い柿の実を蟹に投げつけました。その固い実は蟹の甲羅を直撃し、大けがをしてしまいます。実はカニはこのとき妊娠しており、多くの子供をその甲羅の中で温めていましたが、この怪我と猿に裏切られたショックで子供を産むとすぐに死んでしまいました。

こうして母亡き子となった子供の蟹達ですが、周囲の助けを得てすくすくと成長します。そして母親と同じほどにも大きくなったころ、かつての親の敵、猿を討とうとついに立ち上がります。そしてかねてより子育てに参加してくれていた、「栗」と「臼」、「蜂」と「牛糞」を家に呼び、猿への敵討ちの算段をします。

その相談の結果、御馳走をふるまうとだましてサルを家に呼び、やっつけようという合議がまとまりました。こうして、何も知らないサルはごちそうと聞くと喜び勇んで蟹の家にやってきました。このとき、栗は囲炉裏の中に隠れ、蜂は水桶の中に隠れ、牛糞は土間に隠れ、臼は屋根に隠れました。

こうして猿が蟹の家にやってきます。その日は寒い日でした。おーい蟹ど~んと呼ぶも誰も答えないので、猿はともあれとそこにあった囲炉裏で身体を暖めようとします。そうしたところ、突然栗が火中からどび出して猿に体当たりをしたため、猿は大やけどを負ってしまいました。

急いでやけどをしたところを水で冷やそうと水桶に近づきふたを開けると、今度は中から蜂が飛び出してきました。蜂に刺され、驚嘆して家から逃げようとしますが、そのとき入り口に寝そべっていた牛糞に滑り前のめりに転倒。

そこへさらに屋根で待ち構え縦から臼が落ちてきて、猿の背中に飛び乗ったものですからあえなく猿は潰れて死んでしまいました。こうして無事、子供の蟹達は親の敵を討つことができ、その後は助けてくれた仲間たちと一緒に末永く幸せに暮らしました、とさ……。

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この話には別バージョンのものもたくさんあり、たとえば、猿が蟹の代わりに木に登って柿を独り占めすると、蟹が一計を案じて「柿の籠は枝に掛けると良いんだが」とつぶやく、というのがあります。猿はなるほどと枝に籠を掛けると、柿の枝は折れやすいので籠は落ちてしまいます。

蟹は素早くこれを抱えて穴に潜り込み、猿が、「柿をくれ」というと、「入っておいで」と取り合わないので、猿は怒り、「では、穴に糞をひり込んでやる」と穴に尻を近づけました。このとき、蟹はあわてて爪で猿の尻を挟んだので、それ以来、サルの尻から毛がなくなり、蟹の爪には毛が生えるようになったという、話です。

また、1886年(明治19年)の小学校令で設けられた尋常小学校の教科書に掲載された「さるかに合戦」にはクリではなく卵が登場しており、爆発することでサルを攻撃しています。この教科書では牛糞がに昆布に代わっており、そのぬめりで猿を滑って転ばせる役割を果たしています。

おそらくは、富国強兵策で教科書にも軍事色を出したかったこと、その一方で明治政府が進めていた各種の民度向上策の中において、牛糞といった非衛生なものは好ましくないと考えたのでしょう。

ほかにも猿蟹合戦のあらすじは地方などにより様々です。地域によってタイトルや登場キャラクター、細部の内容などは違った部分は持ちつつも似たような話が各地に伝わっており、たとえば関西地域では油などが登場するバージョンの昔話も存在します。

昭和末期以降は蟹や猿は怪我をする程度で、猿は反省して平和にくらすと改作されたものが多く出回るようになっていますが、これは「敵討ちは残酷で子供の教育上問題がある」という意見のためのようです。また明治の教科書同様、オリジナルにある牛糞が登場しない場合も多いようです。汚い表現は慎むようにという、文科省のお達しでしょう。

この猿蟹合戦のように、ずる賢い輩が身内を騙して殺害し、殺されたその人物の子供達に仕返しされるというかたき討ち話は古来より掃いて捨てるほどあります。「因果応報」が主題であり、かくして日本人はこうした復讐話が大好きです。

しかし芥川龍之介などは、逆にこの猿蟹合戦の結末はおかしい、と満足せず、むしろ猿を殺してしまった蟹達のほうが悪い、と、親の敵の猿を討った後逮捕されて死刑に処せられるという短編小説を書いています。

このように、攻撃行動は通常は「悪い」行動として道徳背反行為とされます。が、実際には必ずしも「悪い」と判断されません。

被害の回避を目的とした正当防衛などの攻撃行動や、加害者への報復行為・報復的攻撃については必ずしも悪いとは判断されないことから、他の文学作品などでは文脈を考慮して判断され、攻撃行動がむしろ許容されることも多いくらいです。

戦争などで攻撃を受けた側が報復する場合などは肯定的に評価されることすらあります。報復・復讐攻撃は被害者側の相対的剥奪感を解消し、公平感をもたらすこともあり、近年、米国の刑法学においても「報復的公正」が研究されているといいます。

親が子供にいじめられてもやりかえしちゃだめよ、と教えていても、子供社会においてはこうした復讐劇は普通に存在するようです。それほど人間の「本能」に近いところに根付くものなのでしょう。

幼稚園児童の研究によれば、他の児童からものをとりあげるなどの挑発的攻撃、奪われたものを取り返す報復的攻撃、さらに別の児童が取り返してあげるなどの制裁的攻撃の3つの概念があるそうです。

また幼児らは、挑発的攻撃は悪いと判断する一方で、報復的攻撃・制裁的攻撃は許容することが観察されており、幼児においても「報復的公正」への理解があるとされます。報復には、その目的を自己か他者、動機を回避、報復としたうえで次の4つの攻撃があるとされるようです。

防衛 (自己目的、回避)
報復 (他者目的、報復)
擁護 (他者目的、回避)
制裁 (他者目的、報復)

報復、制裁という言葉は他者を懲らしめるという意味合いが強いものですが、防衛、擁護のため、といわれればなぜか納得してしまう、といったことはよくあります。自衛隊は他国を攻めるための部隊ではなく、防衛のための組織だとするのと同じ論理です。

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原始社会においては、報復は権益を侵害する者に対して、一般的に行われていました。また、報復された側が報復をやり返し、結果止めどなく報復の連鎖を招くことは普通にありました。日本でも敵討(仇討ち)、お礼参りなどは近代以前には認められており、上の猿蟹合戦もその流れから出てきた童話でしょう。

ただ、「目には目を、歯には歯を」で有名な、古代メソポタミアの、「ハンムラビ法典」はそもそも報復を奨励したものではなかったそうです。

もともとは、「命には命を、目には目を、鼻には鼻を、耳には耳を、歯には歯を、全ての傷害に同じ報復を」という文々ですが、このあとに「しかし報復せず許すならば、それは自分の罪の償いとなる」という但し書きが添えられていました。

無制限報復が一般的だった原始社会では、逆に行き過ぎた報復行為を制限する目的があったためのようです。

しかし、その他の地域ではやはり報復は社会的に認められることも多く、また、ロシア連邦のチェチェン共和国では、自分の肉親を殺されると7代にわたって復讐の義務が発生するそうです。また同じ東欧のアルバニアには、「ジャクマリャ」という古くからある血の復讐のおきてがあります。

イタリアのシチリアではこれは「オメルタ」といいます。 また同じイタリアのコルシカ島でも「ヴェンデッタ-コルシカ」というる血の復讐のおきてがおり、これらの「血のおきて」は映画「ゴットファーザー」でも紹介され、有名になりました。

そのイタリアで編纂されたローマ神話はギリシア神話と深いかかわりがあり、共通点が多いことでよく知られています。そのギリシア神話には、「ネメシス」という、復讐の女神が登場します。夜の女神である「ニュクス」の娘とされますが、このニュクスとは、ほぼ死を意味する同義語とも考えられており、この「死」にまつわる多くの子を産んだとされます。

復讐神ネメシスのほかにも、忌まわしいモロス(死の定業)、死の運命であるケール、またタナトス(死)を生み、次いでヒュプノス(眠り)とオネイロス(夢)の一族を生み出しました。更に、モーモス(非難)とオイジュス(苦悩)を生んだとされます。

ネメシスは、「義における憤り」に基づいて生まれたといい、別名は「義による復讐」です。つまり、元来は「義憤」の意です。人間が神に働く無礼に対する、神の憤りと罰の擬人化です。従って、「復讐」とはいいますが、現在我々が認識している「復讐」とは少しニュアンスが違っているようです。訳しにくい語であるためのようです。

このネメシスは美貌の持ち主だったため、全能の神、ゼウスは彼女と交わろうとします。しかし、ネメシスはいろいろに姿を変えて逃げ、ネメシスがガチョウに変じたところゼウスは白鳥となって交わりました。結果としてこの女神はひとつの卵を生みました。

この卵をある羊飼いが見つけ、現在のギリシャのペロポネソス半島南部にあった強国、スパルタの王妃レーダーに届けます。そしてこの卵からトロイア戦争の原因ともなった地上で最も美しい絶世の美女、ヘレネーと双子の兄弟、ディオスクーロイが生まれました。「ディオスクーロイ」は「ゼウスの息子」の意味であり、「不死の神」とされます。

古代ギリシアで、アテナイ(アテネ)では、ディオニュシア祭という重要なお祭りがあり、ここでは「悲劇」が演じられました。これを「ギリシア悲劇」といい、この劇中でもネメシスは「神罰の執行者」としてしばしば登場します。

また、アテーナイではネメシスの祭、ネメセイア(Nemeseia)が行われていたといい、これは十分な祭祀を受けなかった死者の恨み(nemesis)が、生者に対して向かわぬよう、執り成しを乞うことを主な目的としました。こうした祭りの流行によって、ネメシスは民衆に「復讐を司る女神」とみなされるようになっていったわけです。

そして、ニュンペーのエコーの愛を拒んだナルキッソス(ナルシス)に罰を与えたのもこのネメシスであるとされます。ニュンペーは、ギリシア神話などに登場する下級女神(精霊)で、山や川、森や谷に宿り、これらを守る「森の妖精」で、エコーはその一人です。

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一方、ナルキッソスは、若さと美しさを兼ね備えていた美少年でした。盲目の予言者テイレシアースによって、「己を知らないままでいれば、長生きできるであろう」と謎の予言されていました。

あるとき、美の女神、アプロディーテーは、彼にある贈り物をします。

「美しさと人を愛する喜び」がそれでしたが、自分の美だけを誇るナルキッソスは、この贈り物をバカにします。アプロディーテーは怒り、ナルキッソスを愛し、手にいれようとする相手を彼がことごとく拒むようにしてしまいます。

彼は女性からだけでなく男性からも愛されていましたが、このため彼に恋していた狩り仲間の一人であるアメイニアスという若者も邪見にするようになります。やがてアメイニアスは彼を手に入れられないことに絶望し、自殺してしまいます。

一方、エーコーは歌や踊りが上手なニュンペーでしたが、彼女もまた彼に恋をしました。ところが、エーコーは女好きのゼウスが妻のヘーラーの監視から逃れるのを歌とおしゃべり(別説ではおせじと噂)で助けたためにヘーラーの怒りをかいます。このため、ゼウスによって自分では口がきけなくされ、また他人の言葉を繰り返すだけになってしまいます。

ナルキッソスに恋してしまったエーコーでしたが、このため彼に話しかけることができず相手にもしてもらえません。彼と会話をしようにも、ナルキッソスの言った言葉を繰り返すだけであり、何もできなかったので、ナルキッソスは「退屈だ」としてエーコーを見捨てしまいます。

エーコーは悲しみのあまり自分を見失います。そして屈辱と恋の悲しみから次第に痩せ衰え、肉体をなくして声だけの存在になり、ついには木霊になりました。

これを見たネメシスは、自分を愛する者を拒み、誰をも愛せないようになっていたナルキッソスに対し「復讐」をもたらします。それは「自分だけしか愛せなくする」という罰でした。

こうして純粋なエーコーをも拒んだ無情なナルキッソスは、文芸を司る女神ミューズたちが棲むパルナッソス山にネメシスによっておびき寄せられます。かつてナルキッソスは、予言者テイレシアースによって、「己を知らないままでいれば、長生きできるであろう」予言されていました。

しかし、そんな予言のことなどすっかり忘れていた彼は、パルナッソス山の麓にあった泉の水を飲もうと、その水面に近づきました。すると、そこにはこれまで見たこともないような美しい少年がいました。もちろんそれはナルキッソス本人だったわけですが、ナルキッソスはひと目でその自分に恋しました。

そしてそのまま水の中の美少年から離れることができなくなりますが、水面の中の像は、いつまでたってもナルキッソスの想いに決して応えることはありませんでした。彼はやがて憔悴し、やせ細り、ついには力尽きて死にました。

そして、ナルキッソスが死んだあとそこにはいつしか水仙の花が咲くようになりました。それはある寒い冬のころのことでした。それゆえスイセンは今のこの季節、水辺であたかも自分の姿を覗き込むかのように下を向いて咲きます。

この伝承から、スイセンのことを欧米ではナルシス(Narcissus)と呼びますが、また、ナルシスト(ナルシシズム)という言葉の語源ともなりました。「自己愛」のことであり、自己を愛し、自己を性的な対象とみなす状態です。転じて「自己陶酔」「うぬぼれ」といった意味で使われることもあります。

こうして復讐の女神ネメシスによって、ナルキッソスは終には命を落とすわけですが、ナルキッソスが死ぬ前の嘆きの声は、そのままエーコーの嘆きとなりました。エーコーの嘆く声は、このようないきさつで木霊となって今でも野山において聞こえるのだといいます。

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日本では、この木霊は、木魂とも書き、樹木に宿る精霊です。また、それが宿った樹木を木霊と呼びます。山や谷で音が反射して遅れて聞こえる現象である山彦(やまびこ)は、この精霊のしわざであるともされています。

「源氏物語」には、「鬼か神か狐か木魂(こだま)か」「木魂の鬼や」などの記述があることから、当時すでに木霊を妖怪に近いものと見なす考えがあったと見られています。怪火、獣、人の姿になるともいい、古い絵図には犬のような妖怪として描かれることが多いようです。

人間に恋をした木霊が、人の姿をとるようになり、ついには人里に下りて恋した相手に会いに行ったという話もあり、これは物悲しいギリシア神話にもどことなく似ています。

「こだま」という言葉の響きも何かしら物悲しい感じがするものですが、西條八十から「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛された「金子みすゞ」も同じような悲哀を感じ取ったのでしょう。有名の作品として、以下の「こだまでしょうか」を残しています。

■こだまでしょうか

「遊ぼう」っていうと
「遊ぼう」っていう。

「ばか」っていうと
「ばか」っていう。

「もう遊ばない」っていうと
「遊ばない」っていう。

そうして、あとで
さみしくなって、

「ごめんね」っていうと
「ごめんね」っていう。

こだまでしょうか、
いいえ、だれでも。

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東日本大震災のあと、民間CMが自粛されていた折、公共広告機構(ACジャパン)が代わりのCMを流しました。このとき、この「こだまでしょうか」がそのひとつに取り上げられ、歌手・UAの朗読でこの詩が繰り返し放送されました。

その結果、それまであまり知られていなかった金子みすゞという詩人が大いにブレークするところとなりました。覚えている方も多いでしょう。

この直後から「金子みすゞ全集」の売り上げが伸びました。しかし、地震の影響で重版が困難なことから、急遽電子書籍化された「金子みすゞ童謡集・こだまでしょうか」が出版されたりもしました。また、「こだまでしょうか」独特の語調をパロディにした作品がインターネット上で広まるなどの話題を呼びました。

そうした影響もあって、震災のあった年には、金子みすゞ記念館の入場者数が急増。5月には100万人を突破したといいます。その後も金子みすゞブームは衰えず、あいも変わらず同館を訪れる人は多いようです。

そのみすゞが生まれ育った山口には今日明日、この冬一番の寒波が訪れるといいます。大雪になる可能性もあるのだとか。

その山口県は、昨年暮れに発表された全国都道府県魅力度ランキングでは41位だったといいます。農業就業者数が全国的にも高く、またその平均年齢は全国トップの70.3歳という「老齢農業県」でもあります。

かつて長州と同盟を組んだ同じ農業県の鹿児島では、春になると木霊こと、山の神が、山から降りてきて田の神となり、秋には再び山に戻るという信仰があるといいます。他の県にも同じような山の神伝説があるところは多いようです。無論山口もです。

その山の神が下りてくる春もだんだんと近づいてきました。もうすぐ節分です……

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二十日正月

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今日は大寒です。

「寒さが最も厳しくなるころ」とされますが、その文字通り昨日から列島は寒波に見舞われ、あちこちで雪だらけです。

ここ修善寺ではさすがに雪は降りませんでしたが、昨日、ジョギング中に天城山を遠望しところ、山頂部分が真っ白になっていました。目の前にある富士山も今年初めには黒い地肌が目立っていたのに、今はまっ白いアイスクリームのようになっています。

実際、気象統計でもこのころから、2月4日あたりまでが最も寒いそうで、一年で最も寒い時期です。大寒の朝の水は1年間腐らないとされており、容器などにいれ納戸に保管する家庭もあります。

大寒の日を「二十日正月」といい、この日を正月の終りとなる節目とする地域も多いようです。松の内は15日までですが、この日はいわゆる「鏡開き」と称して、正月に年神や仏に供えた鏡餅を下げて食べます。

かつては正月の祝い納めとして仕事を休む、「物忌みの日」でした。京阪神地方では、正月に用いた鰤の骨や頭を酒粕・野菜・大豆などと一緒に煮て食べることから骨正月・頭正月ともいうようです。

他の地方でも、乞食正月(石川県)、棚探し(群馬県)、フセ正月(岐阜県)などと言って、正月の御馳走や餅などを食べ尽くす風習があるといいます。

一般には、神仏に感謝し、正月に供えられたものを頂いて無病息災などを祈って、汁粉・雑煮などで食します。我が家でも正月に食したものがかなり冷蔵庫に残っており、今晩は餅とともに鍋にでもぶち込んで食そうかと考えているところです。

鏡餅は、平安時代には既に存在し、当時に書かれた源氏物語には「歯固めの祝ひして、餅鏡をさへ取り寄せて」と書かれているそうです。 現在のような形で供えられるようになったのは、家に床の間が作られるようになった室町時代以降です。

武家では、床の間に具足(甲冑)を飾り、その前に鏡餅を供えました。このころから鏡餅には、譲葉・熨斗鮑・海老・昆布・橙などを載せるのが通例となり、これは具足餅(武家餅)と呼ばれました。

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江戸時代になって、この日に商家では蔵開きの行事をしましたが、武家ではこの具足に供えた具足餅を下げて雑煮などにして食し、これを「刃柄(はつか)」を祝うといいました。また、女性が鏡台に供えた鏡餅を開く事を「初顔」を祝うといいました。無論、「二十日正月」にちなんでのことでしょう。

江戸城では、重箱に詰めた鏡餅と餡が大奥にも贈られ、汁粉などにして食べられたといいます。こうした武家の具足式を受け継ぎ、柔道場・剣道場などでは現在も鏡開き式を新年に行なうところもあります。

なお、武士の場合、刃物で餅を切るのは切腹を連想させるので手や木鎚で割り、「切る」「割る」という言葉を避けて「開く」という言葉を使用しました。「鏡切り」ではなく、「鏡開き」であるのはそのためです。

また、鏡餅を食すことを「歯固め」ともいいます。これは、硬いものを食べ、歯を丈夫にして、年神様に長寿を祈るためといいます。この固い鏡餅を割ると、ひび割れを境にバラバラになります。この鏡餅の割れ方で占いをする地域もあり、とくに農家では「鏡餅の割れが多ければ豊作」と言われていたようです。

現在では、一般的に大小2つの平たい球状の餅と橙(ダイダイ)が使用されます。が、地方によっては餅が三段のもの、二段の片方を紅く着色して縁起が良いとされる紅白としたものがあり、金沢などの鏡餅がそれです。

形式的には、三方に半紙を敷き、その上に裏白(羊歯の一種)を載せ、大小2つの餅を重ね、その上に串柿・干しするめ・橙・昆布などを飾るのが通例です。が、飾り方は地域によって様々であり、串柿が無い地域や、餅と餅の間に譲葉を挟む地域、昆布とスルメを細かく切ったものを米に混ぜて半紙でくるんだ物を乗せる地域などもあります。

このほか、餅そのものを使わない地域もあります。替わりに砂糖で形作ったもの、細長く伸ばしたものを渦巻状に丸めてとぐろを巻いた白蛇に見立てたものなど様々です。なお、ダイダイは現代ではポン酢を作るのに使われるぐらいでほとんど食用にはなっていません。このため入手が難しくなっており、ミカンで代用するケースがほとんどです。

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一方、一般家庭ではこうした昔ながらの方法で鏡餅を飾る家は少ないでしょう。家庭内に飾ることの利便性と、後で食べる際の衛生面を考え、近年では、鏡餅が重なった姿を型取ったプラスチック容器に充填した餅などが発売されています。これでお正月気分を楽しめば十分、といった家が多いようです。

この鏡餅が丸いのは、これがその名の通り、鏡を表しているからです。鏡は円満を、開くは末広がりを意味します。昔の鏡は青銅製の丸形で、神事などに用いられるものでした。三種の神器の一つ、八咫鏡(やたのかがみ)を形取ったものとも言われます。

また、三種の神器の他の二つのひとつは、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)であり、これに見立てた物がダイダイ、もうひとつは天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)であり、これに見立てた物が串柿です。それぞれが鏡餅の添え物の代表です。

日本神話によれば、八咫鏡は、天照大神の岩戸隠れの際に石凝姥命(イシコリドメ)という鏡を鋳造することに精通した女神様が作ったとされます。天照大神が岩戸を細めに開けた時、このイシコリドメが作った鏡で天照大神自身を映して興味を持たせ、外に引き出しとされます。

これによって、天照大神がお隠れになっていたために真っ暗になっていた、高天原(天国)と葦原中国(地上の日本国)は明るくなった、といいます。そしてこののち天孫降臨(天の神様たちが地上に下る)の際、葦原中国を統治する代表として瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)に鏡は授けられました。

このとき、この鏡を天照大神自身だと思って地上でも祀るようにとの神勅が下されたといい、これを「宝鏡奉斎の神勅」といいます。以来、天皇家ではこれを最も大事な「神宝」として大事にしてきました。

この八咫鏡ですが、そのままでは呼びにくいので、単に神鏡または宝鏡とよばれることもあります。「八咫」の咫(あた)とは円周の単位であり、約0.8尺であることが、「八咫」といわれるゆえんです。その昔は、径1尺の円の円周を4咫としていたため、したがって「八咫鏡」は、直径2尺(46cm 前後)の円鏡を意味します。

福岡県糸島市に弥生時代後期のものと考えられる平原遺跡というのがありますが、ここからは、銅製の5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、其の昔の王家の墓所と目されています。その大部分は「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年、国宝に指定されています。

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ここから出土した「大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)」という鏡は、直径46.5cm、円周は46.5×3.14 = 146.01cmであり、弥生時代後期から晩期にこのサイズの鏡が存在したことは確かとなりました。その文様と大きさから、伊勢神宮にある八咫鏡と同型の鏡ではないか、という説を唱える学者もいます。

副葬品の多くが勾玉や管玉、耳璫(じとう:耳飾り)などの装身具であり、武器類が少ないことから、この墓に埋葬された人物は女性であると考えられています。

このため、墓の主は天照大神とされる人物ではないかという説、または玉依姫(タマヨリビメ)ではないか、という説もあります。タマヨリビメの末子は、カンヤマトイワレビコノミコであり、すなわち後の神武天皇です。

伊勢神宮では、天照大神の「御神体」として、これと同型の八咫鏡が内宮に奉安されているとされます。明治初年に明治天皇が天覧した後、あらためて内宮の奥深くに奉納安置されたことになっています。

同社に残る「御鎮座伝記」を解読すると、約三回ほど内宮の火災があり、このいずれかの際に焼失してしまっており、現存するものはその時に新たに作り直されたのではないかといわれています。

一方、皇居にも八咫鏡があり、こちらはかつて京都御所の「賢所(かしこどころ)」に奉置されていました。八咫鏡を天照大御神の神魂として祀っている場所であり、威所・尊所・恐所・畏所などとも呼ばれていました。現在は都内の皇居内、吹上御苑の東南にある「宮中三殿」の中央がこの賢所とされています。

この八咫鏡がかつて奉安されていた京都御所内の賢所は、天徳4年(960年)、天元3年(980年)、寛弘2年(1005年)に起こった内裏の火災により焼損しています。このとき、この神鏡も半ばが焼失し、形をとどめないものとなったといいます。とくに寛弘の際には、ほとんど灰になってしまい、やむなく灰の状態のまま保管したそうです。

このため直後から鏡を改鋳する議論が持ち上がり、翌寛弘3年7月には一条天皇御前で公卿会議が行われ、左大臣藤原道長が改鋳を支持したものの、公卿の大半が反対したため改鋳は行われませんでした。その後、平家の都落ちとともに西遷し安徳天皇とともに壇ノ浦に沈み、それを源義経が八尺瓊勾玉とともに回収したものが現存するものだとされます。

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しかし、実際には、宮中に現存するとされるこの八咫鏡は「形代(かたしろ)」だといいます。形代というのは、いわゆるレプリカとされるものです。「コピー」ということになりますが、そこは万一に備えての予備品であり、「神器に準ずるもの」とされます。

実物については祭主たる天皇も実見を許されないため、その現存は確認できません。ただ、三種の神器の本物もしくは、この形代を所持することが皇室の正統たる帝の証しであるとして、皇位継承と同時に継承されてきています。

現在では草薙剣の「本物」は熱田神宮に、八咫鏡の本物は伊勢の神宮の皇大神宮に、そして、八尺瓊勾玉の本物は東京の皇居内にあるもの、とされているようです。

しかして皇居内の賢所にある八咫鏡は「形代」です。また八尺瓊勾玉(本物)は草薙剣の形代とともに皇居の吹上御所の「剣璽の間」に安置されているといいます。がしかし同皇居内に皇族らが住みながらその実見は未だになされていないといいます。

なんだそれは、とだれもが思うでしょう。しかし、今年は、神武天皇即位紀元から2676年に当たりますが、これほどまで長い間、同じものが保存されてきた、ということはありえません。

伊勢神宮のお宮と同じようにコピーが何度もなされてきたはずであり、それがコピーであることを誰でもが実見できる、その結果伊勢神宮にあるとされる八咫鏡などと比較される、というのは皇室にとってもあまり好ましからざることであるわけです。

ただ、コピーである形代を含むとはいえ、長い歴史の上で皇室の三種の神器には変わりはありません。歴代の天皇はこの八咫鏡の形代を含む三種の神器の前で即位の儀式を行います。時代が江戸から明治に移った際、明治天皇が即位するときには、まだこの三種の神器は京都御所にありましたから、践祚の儀式はその賢所で執り行われました。

その後、ご存知のとおり、皇居は東京に移ることになりました。このため、明治天皇が崩御されたあと、大正天皇の即位の際にはその践祚の儀式は東京で行われることになりました、ところが、当時の皇室典範には「即位ノ礼及大嘗祭ハ京都ニ於テ之ヲ行フ」と規定されていました。

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つまり、即位のために三種の神器のある京都に逆に天皇が出向く必要がありました。京都の賢所において数回の儀式を執り行う必要があったわけですが、しかし、この間に東京は天皇不在になります。また、政府の要人などもすべて東京在住におり、即位を円滑に進めるためには儀式は東京で行われる必要がありました。

このため、賢所の神鏡のほうを東京から京都へ移送するほうが望ましいと考えられました。ただ、まがりなりにも「神」とされるものですから、京都から東京へと安易に運んでいいのか、という議論がおこりました。

一方では、神鏡といえども「物」であり、即位式に臨む天皇と同じ御料車内に積載しての輸送でも構わないのではないかという意見も出ました。これに対して、賢所の神鏡は「皇室といえども極めて畏れ多きもの」であり、天皇であっても同じ室内はもちろん、同じ車両内に長時間あることすらはばかられるもの、という反対意見が出されました。

また天皇が崇拝する神器を、天皇が乗られる御料車より格下の供奉車(ぐぶしゃ)に積載することもできません。供奉車とは、お召列車が運転される際、随伴員(宮内庁関係者や警備関係者、鉄道職員などが乗車する車両のことで、皇室用客車の一種です。

この議論は白熱したようですが、結局のところ、この御料車とは別に神鏡のみを積載し輸送するための専用車両として、「賢所乗御車(かしこどころじょうぎょしゃ)」を製造しようと、ということになりました。「神」を輸送の対象とする鉄道車両は世界的にも類例がないと思われ、その意味でも極めて珍しい車両です。

製作にあたったのは、日本国有鉄道の前身である鉄道院です。完成した車両は、他の鉄道車両と異なり、記号や番号、形式は一切付与されておらず、「賢所乗御車」もしくは「賢所奉安車」)が、この車両を特定する名称となりました。

ところが、本車の製作にあたり、鉄道院の設計担当者を最も悩ませたのが、輸送対象である神鏡の寸法と重量でした。神鏡は皇室が最も崇敬する神器で、その御座所内では皇太子ですら立位での歩行を許されず膝行するほどのものであり、一般人は手を触れることはおろか、目にすることすら難しいものです。

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こうした宮中の古い慣習に縛られ、空前絶後の神鏡の寸法計測にこぎ着けるまでには紆余曲折がありました。宮内省との幾度にもわたる粘り強い折衝が行なわれましたが、結果としてなんとか寸法測定が許可されました。

しかし重量までは量ることができず、明治の初めの東京奠都(とうきょうてんと)に際して賢所の神鏡が京都から東京に輸送されたときの記録を参考にすることになりました。

このときの「16人の若者が賢所の神鏡の乗御する御羽車を担いで東海道を上ったが、いずれも重さに汗をかいた」という記録を元に重量を(十分な余裕をもって)推定し、奉安室内部と輸送装置の設計が行なわれました。

ちなみに、「遷都」ではなく、「奠都」と呼ばれるのは、京都は依然帝都で、政治上の必要から江戸にも帝都を定めたのだから遷都と言うことは妥当ではないとする声が上がったことに由来します。「遷都」は都を移す事をいいますが、東京も京都も帝都であるとするため、「奠都」という言葉をわざわざ作り、世の混乱を避けようとしたわけです。

こうしてできあがった車両の側面片側には、幅2,438mmの戸口があって観音開きの開き戸が設けられており、神鏡の乗降は、この扉を開けて行われます。扉を閉じ、施錠した後は、皇室の紋章である「菊花紋章」を外から合わせ目に取付けるようになっています。

車内は、車体中央部に「賢所奉安室」その前後に各3室の「掌典室」があり、賢所奉安室の奥には壁を隔てて幅385mmの側廊下があり、その側には戸口がないため、車両側面は左右でまったく異なっています。

賢所奉安室の内装は、天井は格天井で室内は総ヒノキの白木神殿造りとなっており、金具にはすべて金メッキが施されています。奉安所となる場所は床面は30cmほど高くなっており、移御台を定位置に固定できるようになっています。

掌典室の内装は、化粧板にナラやクヌギ、天井板にはカエデ、窓框にはチーク材を使用しており、各室とも長椅子をレールと並行に配置してあります。奉安室の両隣の掌典室では長椅子に折り畳み式の肘掛を装備しており、調度品も奉安室と調和するように配慮されています。

また、別の1室には便所と手水所(洗面台)を設けており、手水容器・便器とともに黒漆塗りで、手水容器の内側は朱漆で仕上げ、白木の柄杓を備えています。

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こうして、1915年(大正4年)の大正天皇の即位式のために製造されたこの車両はこのときの往復で2度使われました。その後、1928年(昭和3年)の昭和天皇の即位式に際しても内装などを更新のうえ使用されており、従って、本車が実際に神鏡を乗せて走ったのは両天皇の即位式の際の往復、合計わずか4回だけです。

その後、皇室典範に定められていた即位は京都で行わなければならない、という規定は太平洋戦争後に廃止されました。このため、今上天皇の即位式は東京で行われ、神鏡の輸送は不要となりました。

それにしても、現在皇居内にある三種の神器がいつ、どうやって京都から運びこまれたのか、については調べてみましたがよくわかりません。戦時中に消失を恐れてどこかに保管されていたのでしょうが、それが現皇居内なのかどうかもはっきりとしません。

このように戦中から戦後に至る時期の皇室の話には不明なことが多く、終戦のときの玉音放送のレコードもかつてはその行方がわからなくなっていた時期がありました。が、最近になってNHKで保管されていることが先日明らかになったばかりです。このため、こうした事実もまた今後明らかになるのかもしれません。

戦後、この賢所乗御車は廃車になりました。1959年(昭和34年)10月のことであり、廃車後は「浅川分車庫」に保管されたといいます。この浅川というのは、おそらく現八王子市の東にあった、「東浅川駅」にあった車庫ではないかと思われます。

大正天皇の御崩御に伴い、その墓所である多摩御陵がこの近くに造営されましたが、大葬列車終着駅のための仮設駅とし て、高尾駅(当時は浅川駅)の東に作られたのが東浅川駅です。

仮設駅だった東浅川駅はその後に本格建築され、多摩御陵への皇族専用アクセス駅「東浅川宮廷駅」となりましたが、その後皇族の参拝にも車を使用することが多くなり、1960年(昭和35年 )に廃止されました。

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駅舎はその後に八王子市に払い下げられ「市立陵南会館」という公民館になりました。ところが1990年(平成2年)、過激派の放火により全焼してしまい、現在は「陵南会館」と刻まれた門と大きな立ち木を残すだけの単なる駐車場になって います。

実は、この綾南会館のすぐそばに亡き先妻の実家がありました。同じくその後亡くなった義父に呼ばれてここへ何度も酒を飲みに行ったものですが、その際、ここへよくクルマを止めていたのを覚えています。無論、飲酒後の運転はタブーなので、たいていはこの義父との大酒宴となり、朝帰りになりましたが……

この駅舎の廃止の際、浅川分車庫も廃止となり、賢所乗御車の処遇も検討されました。しかし幸いにも、1963年(昭和38年)に品川区にある大井工場(現・JR東日本東京総合車両センター)内の御料車庫に移動することになりました。

その後、JR東日本が運営する、大宮の鉄道博物館の企画展などで公開されたことなどもあったようですが、どうやら現在はお蔵入りのようです。が、鉄道博物館にはその他各種の御料車の現物展示があるようなので、ご興味のある方は一度訪れてみてはいかがでしょうか。

私も一度行ってみたいのですが、場所が場所だけになかなかその機会に恵まれそうもありません。

さて、寒い日が続きますが、立春はもうすぐです。立春といえば節分、豆まきであり、今年も、もうそんな時期かぁ~と溜息がついつい出てしまいます。

できるだけ長い一年であることを祈りつつ、今日の筆は折ることにしましょう。

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