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ハス蓮はす

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11月も下旬に近くなってきました。

この季節になると、スーパーでもよくレンコンが見られるようになってきます。

旬は10月から3月までで、「蓮根(はすね)掘る」は冬の季語でもあります。

天ぷらにするとおいしいし、煮物にしてもよし、すりおろして汁物に流し入れたものは寒い時に体を温めてくれます。ひき肉などの具を挟み、揚げたてでいただけるレンコンのはさみ揚げがあると、実にお酒も進みます。

内部に空洞があり、いくつかの節に分かれていますが、節の長さは品種によって異なります。輪切りにすると穴が多数空いていることから「先を見通す」ことに通じ縁起が良いとされ、正月のおせち料理にも用いられます。

主に沼沢地や「蓮田」と呼ばれる専用の湿地などで栽培されます。日本では、作付面積、出荷量ともに茨城県が全国トップで、特に土浦市、かすみがうら市(旧霞ヶ浦町)、小美玉市、稲敷市などで盛んです。

徳島県鳴門市が2位、愛知県愛西市が3位、山口県岩国市が4位と続きます。私は子どもの頃、夏休みになると育った広島から母方の実家のある山口に山陽本線に乗って帰省していましたが、岩国市内を通り過ぎるころに車窓から見える壮大な蓮田を見るのが楽しみでした。

「尾津の蓮畑」と呼ばれていて、岩国南部を流れる門前川という川の右岸に広がるこの蓮田は、車窓からは左右180度すべて、地平線のかなたまですべてハスまたはハス、というかんじでした。さらに花が咲くころに通ると、まるで極楽浄土に来ているかのようでした。

現在は周辺の宅地開発が進み、往年の壮観は見ることができませんが、いまだに数多くの蓮田が残っていて、見事な景色であることは変わりありません。通常のレンコンの穴の数は8つですが、この岩国で栽培されるレンコンは穴の数は9つであるといい、種類としてもめずらしいもののようです。

日本では奈良時代ころにレンコンの栽培が始まったとされます。しかし当時の在来種は収穫量が少なく、本格的に栽培されるようになったのは新たに中国種を導入した明治初期以降のことです。

栽培種としてのレンコンは、中国もしくはインドが原産とされ、インド(紀元前3,000年)では宗教的に意味のある蓮の花は観賞用として栽培されました。それが中国に伝わって食用化され、さらに奈良時代に日本へも伝わり全国に広まったようです。ただし、2,000年以上前の縄文時代には既に国産の原種もあったことがわかっています。

レンコンが記録に出てくる最初のものは、718年の「常陸風土記」だそうで、この風土記には、「神世に天より流れ来し水沼なり、生ふる所の蓮根、味いとことにして、甘美きこと、他所に絶れたり、病有る者、この蓮を食へば早く差えて験あり」とあるそうです。

我々が普段食するレンコンは、ハスの地下茎が肥大化したものであり、上の葉や花の部分は、はすね、蓮茎、藕などとも書きます。古名「はちす」は、花托(花の終わった後に残るめしべの部分)の形状を蜂の巣に見立てたともので、「はす」はこの「はちす」が訛ったものだといわれます。

その美しい花姿から、水芙蓉とも言われ、このほか、不語仙(ふごせん)、池見草、水の花などの異称があります。花期は7~8月で白またはピンク色の花を咲かせます。 早朝に咲き昼には閉じるのが特徴です。園芸品種も、小型のチャワンバス(茶碗で育てられるほど小型の意味)のほか、花色の異なるものなど多数あります。

漢字では「蓮」のほかに「荷」または「藕」の字をあてます。ハスの花と睡蓮(スイレン)をごったにして、「蓮華」(れんげ)ともいますが、これは仏教とともに伝来し古くから使われた名です。

この蓮華の語源にもあるように、よくスイレンと間違われます。その大きな違いは、ハスの葉は水面よりも高く出ますが、スイレンの葉は水面上に広がります。また、ハスは、ヤマモガシ目ハス科ですが、スイレンは、スイレン目スイレン科であり、植物学上も異種です。

ただ、似ているので昔の人もよく混同したようです。英名 lotus はギリシア語由来で、元はエジプトに自生するスイレンの一種「ヨザキスイレン」のことであり、英名は Nymphaea lotus です。

ハスは中国が原産だと上で述べましたが、エジプトが原産とする説もあり、古代エジプト人はレンコンを好み、茹でるか焼いて食べたといわれます。しかし、古代エジプトで栽培が盛んだったのは、スイレンのほうであり、スイレンの根は食用には適しません。

また、エジプトに蓮の花が持ちこまれたのは、末期王朝時代の紀元前700〜300年頃とされますが、スイレンは、これよりかなり古くから、ナイル川のほとりに多数生えてえていました。よってエジプト原産説やエジプト人のレンコン好物説はハスとスイレンを混同したことから来た間違いだと思われます。

ちなみに、スイレンは、古代エジプトで重んじられ、エジプト神話の中でも一本のヨザキスイレンから世界が生まれたと語られています。その後も「ナイルの花嫁」と讃えられ、現在もエジプトの国花とされています。

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ハスは、地中の地下茎から茎を伸ばし水面に葉を出します。草高は約1m、茎に通気のための穴が通っています。上述のとおり、地下茎はレンコン(蓮根)として食用になりますが、食するのは日本だけではありません。

原産地とされる中国では、すりつぶして取ったでん粉を葛と同様に、砂糖とともに熱湯で溶いて飲みものとする場合もあります。ベトナムでは茹でてサラダのような和え物にして食べます。

中国や台湾、香港やマカオでは、ハスの実を潰し、練って餡にして月餅、最中、蓮蓉包などの菓子に加工することも多いようです。餡にする場合、苦味のある芯の部分は取り除くことが多いようですが、取り除いた芯の部分を集め蓮芯茶として飲まれることもあります。また、蓮肉(れんにく)という生薬として使われ、これは鎮静、滋養強壮作用があります。

このようにはすの実はでん粉が豊富であり、日本以外の近隣諸国ではよく生食されます。はすの実を含む花托も生食でき、若い緑色の花托は堅牢そうな外見に反し、スポンジのようにビリビリと簡単に破れます。

柔らかな皮の中に白い蓮の実が入っています。私も食べたことはありませんが、この種は緑色のドングリに似た形状で甘味と苦みがあり、生のトウモロコシに似た食感を持つといいます。また甘納豆や汁粉などとしても食べられます。ベトナムでは砂糖漬けや「チェー」の具として使うそうで、これはベトナムの伝統的な甘味飲料で、プディングの一種です。

ハスを国花としているベトナムでは、雄しべで茶葉に香り付けしたものを花茶の一種であるハス茶として飲用しますが、甘い香りが楽しめるといいます。また中国でも、果実の若芽は、果実の中心部から取り出して、蓮芯茶(れんしんちゃ)として飲まれます。

なお、ハスの実の皮はとても厚く、土の中で発芽能力を長い間保持することができます。1951年(昭和26年)、千葉市にある東京大学検見川厚生農場の落合遺跡で発掘され、理学博士の大賀一郎が発芽させることに成功したハスの実は、放射性炭素年代測定により今から2000年前の弥生時代後期のものであると推定されました。いわゆる「大賀ハス」です。

戦時中に東京都は燃料不足を補うため、花見川下流の湿地帯に豊富な「草炭」が埋蔵されていることに着目し、東京大学検見川厚生農場の一部を借り受けこの草炭を採掘していました。

草炭は、泥炭ともいい、一見は湿地帯の表層の湿った泥にすぎませんが可燃性があり、採取して燃料として使われることがあります。ただ、含水量や不純物が多く、炭素の含有率が低くて質の悪い燃料であるため、日本では工業用燃料としての需要は多くありません。しかし、物資の少なくなっていた第二次世界大戦末期には貴重な燃料として使われました。

またスコットランドではスコッチ・ウイスキーの製造において麦芽の成長をとめるために乾燥させる際の燃料として香り付けを兼ねて使用され、この時つく香気を珍重します。「ピート(Peat)」といいます。少し前のNHKの朝ドラ、「マッサン」の中にも主人公がこの良質なピートが採れるということで北海道を選んだ、という話が出てきました。

採掘は戦後も継続して行われていましたが、1947年(昭和22年)7月に作業員が採掘現場でたまたま1隻の丸木舟と6本の櫂を掘り出しました。

このことから慶應義塾大学による調査が始められ、その後東洋大学と日本考古学研究所が加わり1949年(昭和24年)にかけて共同で発掘調査が行われました。その調査により、2隻の丸木舟とハスの果托などが発掘され、「縄文時代の船だまり」であったと推測され「落合遺跡」と呼ばれました。

そして、植物学者で当時・関東学院大学非常勤講師だった、ハスの権威者でもある大賀一郎が発掘品の中にハスの果托があることを知り、1951年(昭和26年)3月から地元の小・中学生や一般市民などのボランティアの協力を得てこの遺跡の発掘調査を行いました。

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大賀博士は、1883年(明治16年)岡山県賀陽郡庭瀬村(現・岡山市)に生まれました。第一高等学校卒業後は東京帝国大学理学部に入学。1909年(明治42年)に大学を卒業し大学院へ入学。大学院では植物細胞学を専攻し、そこでハスについての研究も始めました。学生時代に内村鑑三の影響により無教会主義のキリスト教に入信しています。

1910年(明治43年)第八高等学校の講師となり、翌年に同校の生物学教授となります。1917年(大正6年)に満州の大連へ赴き、南満州鉄道中央研究所(満鉄調査部)植物班主任として古ハスの実の研究に従事するようになりました。

1927年「南滿州普蘭店附近の泥炭地に埋没し今尚生存せる古蓮實に関する研究」で東大理学博士を取得。満州事変にいたる一連の軍部行動への抗議として退社し、事変の翌年に東京へ戻りましたが、東京女子大学、東京農林専門学校と転々し、遺跡の発掘に関わるようになったときには、関東学院大学で講義を行っていました。

当初、調査は困難をきわめめぼしい成果はなかなか挙げられませんでしたが、翌日で打ち切りの日の夕刻になって花園中学校の女子生徒により地下約6mの泥炭層からハスの実1粒が発掘され、予定を延長し翌月までに発掘を続けた結果、さらに2粒、計3粒のハスの実が発掘されました。

5月上旬からはさらに3粒のハスの実が発掘され、博士はこの3粒の発芽育成を、東京都府中市の自宅で試みます。結果、2粒は失敗に終わりましたが3月30日に出土した1粒は無事に育ち、翌年の1952年(昭和27年)7月18日にピンク色の大輪の花を咲かせました。

このニュースは国内外に報道され、米国ライフ週刊版1952年11月3日号 に「世界最古の花・生命の復活」として掲載され、このとき「大賀ハス」と命名されました。また大賀博士は、年代を明確にするため、ハスの実の上方層で発掘された丸木舟のカヤの木の破片をシカゴ大学原子核研究所へ送り年代測定を依頼しました。

シカゴ大学での放射性炭素年代測定の結果、このハスの実は今から2000年前の弥生時代以前のものであると推定されました。そしてこの古代ハスは、1954年(昭和29年)に「検見川の大賀蓮」として千葉県の天然記念物に指定されました。

その後、この蓮は全国で増殖されるようになります。大賀博士の自宅近くにある、府中市郷土の森公園修景池には、今でもこの二千年ハスが育てられており、鑑賞会などが催されています。また1993年(平成5年)4月29日には千葉市の花として制定され、現在千葉公園(中央区)ハス池で6月下旬から7月に開花が見られます。

日本各地は元より世界各国へ根分けされ、友好親善と平和のシンボルとしてその一端を担っています。

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大賀ハスが移植された施設は多数に及びますが、以下がその一覧です。

対泉院(青森県八戸市)
古河総合公園(茨城県古河市)
青蓮寺(三重県名張市)
本福寺水御堂(兵庫県)
平池公園(兵庫県)
荒神谷史跡公園(島根県出雲市)
定福寺(高知県大豊町)
熊本国府高等学校
吉野ヶ里歴史公園(佐賀県吉野ヶ里町)(神埼市)
北方文化博物館(新潟県新潟市)
成田国際空港(千葉県成田市) – 第1旅客ターミナルビル前「蓮の和風庭園」

なお、愛知県愛西市、滋賀県守山市、埼玉県行田市などの地方公共団体が「市の花」に採用しています。そして、古代ハスのタネが発見された千葉県千葉市 も、「大賀ハス」として 1993年に千葉市花に制定しています。

この大賀ハス以外にも、中尊寺の金色堂須弥壇から古代のハスのタネが発見され、こちらも800年ぶりに発芽に成功して「中尊寺ハス」と呼ばれています。また、埼玉県行田市のゴミ焼却場建設予定地からも、およそ1400年から3000年前のものが発見されて発芽し、こちらは「行田蓮」と呼ばれています。

なお、和歌山県新宮市木ノ川360番地の「白龍山寶珠寺」(ほうしゅじ)の蓮池には、毎年7月から8月末までの間に、白蓮が開花すします。寺の過去帳によれば、約300年前より蓮池が存在し、蓮もそれに由来するといいます。蓮の葉が80cm以上で大きく、花も開花すると30cmと大きいのが特徴です。

このハスの花、仏教用語でいうところの「蓮華」は、よく清らかさや聖性の象徴として称えられます。「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という日本人にも馴染みの深い中国の成句が、その理由を端的に表しています。

古代インドでは、ヒンドゥー教の神話やヴェーダやプラーナ聖典などにおいて、特徴的なシンボルとして繰り返し登場しており、これらにおいては後の仏教における「ハス」の象徴的用法と近い表現がなされています。

泥から生え気高く咲く花、まっすぐに大きく広がり水を弾く凛とした葉の姿が、俗世の欲にまみれず清らかに生きることの象徴のようにとらえられ、このイメージは仏教にも継承されてきました。

仏教では泥水の中から生じ清浄な美しい花を咲かせる姿が仏の智慧や慈悲の象徴とされ、様々に意匠されています。如来像の台座は蓮華をかたどった蓮華座であり、また厨子の扉の内側に蓮華の彫刻を施したりしています。主に寺院では仏前に「常花」(じょうか)と呼ばれる金色の木製の蓮華が置かれています。

一方で、仏教国チベットは標高が高く、蓮はほとんど育ちません。このため、チベット仏教寺院などで想像で描かれたハスは、日本のものに比べてかなり変形しているほか、そほんのり赤みがかった白い花として表現されることが多いようです。

なお、仏教ではさらに、死後に極楽浄土に往生し、同じ蓮花の上に生まれ変わって「身を託す」という思想があります。我々がときに使う「一蓮托生」という言葉はこれが語源です。

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また、密教においては釈迦のみならず、ラクシュミーと呼ばれる天女を本尊として信仰する修法があります。これは「蓮女」と訳され、日本では「吉祥天女法」と呼ばれるようになっています。ヒンドゥー教ではヴィシュヌ神の妃とされ、また愛神カーマの母とされていたものが、ラクシュミーとして取り入れられたものです。

密教を含む仏教一般では毘沙門天の妃また妹ともされ、善膩師童子を子として持ちます。鬼子母神を母とし、徳叉迦龍王を父とするとも言われ、また妹に黒闇天がいます。 毘沙門天の脇待として善膩師童子と共に祀られる事もあります。

日本では「吉祥天」の呼び方のほうが一般的です。吉祥は繁栄・幸運を意味し幸福・美・富を顕す神とされ、また、美女の代名詞として尊敬を集め、金光明経から前科に対する謝罪の念を受け止めてくれる女神であり、また五穀豊穣をかなえてくれる神様としても崇拝されています。

一方、この蓮の花を支える「茎」は、その表皮を細かく裂いて作ることで糸にすることができ、この糸を「茄絲(かし)」といいます。また、茎の内部から引き出した繊維で作る糸を「藕絲(ぐうし)」と呼び、どちらも布に織り上げるなど、利用されます。

さらに、この茎の内部はストロー状になっており、撥水性の葉と合わせ、葉に酒を注いで茎から飲む象鼻杯(ぞうびはい)として使うという習慣が日本にはあります。

この蓮の葉もまた食べ物として使われます。蓮葉飯(はすはめし)または、蓮飯といい、蓮の葉を蒸しあげ塩を加え柔らかくして細かく刻んで炊き立てのご飯と混ぜたものもあります。

いわゆるちまきのことで、粳米(うるちまい)や餅米(もちごめ)などをさまざまな食材と一緒に蓮の葉包みの蒸したもののことです。こちらは盂蘭盆や一部の仏教宗派の祭礼の供物や名物として、現在でもその門前町の商店やお寺で今も提供している地域があります。

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蓮の葉はさらに漢方薬の荷葉(かよう)としても使われてきました。我が国ではこのように用途の広い蓮を扱う商売人が古くからおり、各地の朝市や縁日で屋台を出していました。

こうした店ではほかに、銀杏、アケビ、椎(しい)などの木の実も扱っており、五節句、二十四節気の年中行事には欠かせない風物詩でした。盂蘭盆に使う蓮の実や蓮の葉は、特に珍重され、彼等は商品の多くを蓮の葉や蕗(ふき)の葉の皿の上に置いて売っていました。

このことから、こうした季節物を扱う商人を「蓮の葉商い」と呼ぶようになりました。彼等の中には屋台だけでなく、八百屋や花屋になるモノも多く、ごく最近までこうした街商でも季節物としてのハスの葉を売っていました。

しかしこうした蓮の葉に代表されるような商品は、季節物という短期使用のいわゆる、「消え物」であることから多少品質が悪くとも問題にならない、しない物を扱う商売人という捉えかたがされるようになりました。そして、そのうちに「きわもの(際物)」売りやまがい物を売る者とみなされるようになりました。

やがては蓮の葉商人の語源でもある蓮の葉そのもの味が、きわものやまがい物を指すようになりました。その結果、「蓮の葉女」といえば、いかがわしい女、という意味になっていきます。

古くは蓮葉女(はすはめ)、蓮葉(はすば、はすわ)といい、現在ではあまり使われなくなっていますが、ときに蓮っ葉女(はすっぱおんな)、蓮っ葉(はすっぱ)と表現されます。意味としてはお転婆、生意気、媚を売る、馴れ馴れしいなど軽はずみな言動をする女性や浮気性や根無し草のように住処を転々とする女性をさします。

もっとも、その語源は蓮の葉商人からきているとする説以外にもさまざまで、蓮の葉が風や水面(みなも)の波によりゆらゆらする様や、蓮の葉の朝露がころころと転がる様という形態を模してという説もあるようです。

ただ、蓮の葉に例えられある女性がいかがわしいものとされる一方で、蓮の花は貴いものの例えてとして現在もよく使われます。上述のとおり、古代インドのヒンドゥー教から生まれた女神信仰の影響で、最高に素晴らしい女性のことを「蓮女」と呼び、こうした女性は日本では「吉祥天」のようだ、といわれます。

同じ植物でありながら、葉っぱと花でこれほど差が出るものも少ないのではないでしょうか。

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ところで、この蓮の葉は円形で葉と茎の接続部分が中央にあり、ここに雨露などが溜まると撥水性があるために、水玉ができます。

ハスの葉はその微細構造と表面の化学的特性により、決して濡れることがありません。葉の表面についた水は表面張力によって水銀のように丸まって水滴となり、泥や、小さい昆虫や、その他の異物を絡め取りながら転がり落ちます。そして、この現象は「ロータス効果」として知られています。

同じくサトイモ(里芋)の葉などでも微細構造と表面の化学的特性から同様の効果が見られます。近年のナノテクノロジーの分野では、こうした植物のロータス効果を応用して、塗料、屋根材、布などの表面でその効果を再現することに成功しており、それらを乾燥したきれいな状態に保つ方法の開発が行われています。

これらの技術で我々が普段よく目にするのが、フライパンなどに使われているフッ素加工、などの撥水加工技術が生まれた技術です。最近ではシリコンで表面を処理することなども行われており、より撥水効果の出る様々な化学物質が使われるようになっています。

ロータス効果による超撥水性加工を施した素材の表面を電子顕微鏡で見ると、その表面にハスの葉の表面に似た多孔性の微細構造が観察できるといい、今ではこの方法により自己洗浄を行う塗料や、温室の屋根に使うようなガラス板にロータス効果を持たせたもの、あるいは車のポリマー加工などにも応用されています。

こうした、科学的方法や自然界にあるシステムを応用して工学システムや最新テクノロジーの設計や研究を行う学問領域のことを生体工学(bionics)といいます。人間以外の動物や植物にはその進化において環境に適合するために高度な最適化が行われてきており、より効率的にその環境で過ごすことができます。

であるため、これを人工物の構築に応用することが考えられたものであり、ロータス効果のように動植物の表面や皮膚を模したものはほかに、イルカの肌を模倣した船殻、ヤモリの指の微細構造を真似た粘着剤のない粘着テープ、蛾の目の構造を模した無反射フィルム、カタツムリの殻の構造から手掛かりを得た防汚製品などなど枚挙のいとまがありません。

それにしても蓮というものは、こうした葉っぱだけでなく、根や茎、花や実に至るまで、ありとあらゆるものに使われており、まさに仏様の御慈悲により人類にもたらされたものといえるかもしれません。

仏教では、仏を表す象徴物の事を三昧耶形(さんまやぎょう)といいます。三昧耶はサンスクリットで「約束」、「契約」などを意味するサマヤ(samaya)から転じた言葉で、どの仏をどの象徴物で表すかが経典によって予め「取り決められている」事に由来します。

多くの場合、各仏の持物がそのままその仏を象徴する三昧耶形となり、たとえば不動明王なら「利剣(倶利伽羅剣)」、虚空蔵菩薩なら「如意宝珠」ですが、阿弥陀如来の三昧耶形は、「蓮」です。

阿弥陀如来は、無明の現世をあまねく照らす光の仏であり、浄土への往生の手立てを見出してくれる仏様ですが、この世においては衆生救済のための仏様です。人々の生活のために何にでも使える蓮を与えたくれた阿弥陀如来の象徴としてはぴったりといえます。

日本以外でも仏教が盛んな東南アジア諸国でも同様に宗教的意味合いから珍重されており、とくにハスの花は、インド、スリランカ、ベトナムの国花に制定されており、また中華人民共和国マカオの区旗にもデザインされています。

ベトナムなどでは、とくにこの蓮にこだわりがあるようで、蓮池に小舟で漕ぎ出でて、蓮の葉の朝露を集めて売る、といった商売さえ成り立っているそうです。また蓮の葉の朝露と同じように手間をかけて作られる「蓮の花茶」というお茶があります。

これは、蓮の花の蕾の中に高級茶葉を入れて蓮の花の香り付けして放置したあと、また一ずつその蕾を摘んで茶葉を小舟で回収するのだそうで、これほど手間隙がかかるために最高級のお茶とみなされているそうです。

さすがに日本が同じ製法でお茶を作ったら大変な金額になってしまいそうですが、単に朝露を集めるだけならできそうです。あなたのお宅の周辺でもし蓮の花をみつけたら、同様の方法で集めた水で蓮の葉茶を試してみてはいかがでしょうか。きっと極楽浄土へ行った気分になるに違いありません。

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聖夜の百鬼夜行

2015-7197年末が近づくにつれ、日が短くなってきました。

冬至のころが昼が最も短く夜が最も長くなる、とされているわけですが、天文年表などを見ると今年はだいたい12月22日のころのようです。

が、これは東京を基準とした尺度なので、緯度が異なると当然一番太陽が出ている時間が短くなる日にちは異なります。

緯度が低くなればなるほどやや前倒しになるようで、調べてみると東京より緯度が約0.7度低いここ伊豆ではだいたい12月14日ころになるようです。

伊豆でのこの日の日の出は6時43分、入りは16時33分であり、お日様が出ている時間はわずか9時間と50分です。朝、日が昇るのが遅いのはまだ容認できるとしても、夕方4時半には陽が落ちるというのは、あまりにも日が短すぎて惜しい感じさえします。

明るいうちに物事を済ませてしまいたいという人にとっては、その活動時間が著しく制限されるような気にもなってきます。が、よくよく考えてみれば日没後に何もできなくなるわけでもなく、夜は夜でこの季節にはいろいろな楽しみがあります。

囲炉裏を囲んで美味しいものを食べてもよし、外へ出て町のイルミネーションを楽しむでもよし、毛布にくるまって暖まりながら長い夜に長い夢をみるのもまたよしとしましょう。冬のほうが夏よりもよく寝れる、という人は圧倒的に多いはずであり、これは扇風機や冷房などの手を借りずに自律的に休息がとれるためにほかなりません。

ヒトと異なり、生物の中には、冬のあいだ中、眠って過ごす輩もいます。いわゆる冬眠であり、これは体温を低下させて活動量を減らすことで、食料の少ない厳しい冬をやりすごすわけです。

もともと人間も、こうした他の生物のように自然の摂理に合わせて寝起きしていたはずです。大昔の人は日の出とともに起き、日没とともに寝ていました。ただ、月が出ている夜は月明りのもと活動することもできましたし、火を使うようになってからは、月が出ていない夜でも活動するようになっていきました。

灯火が発達するにつれ、夜間に明かりをつけた下で活動が行われるようになり、西欧では「歴史は夜作られる」といった言葉も生まれました。

これには色々な意味が含まれているようで、歴史を作るのは結局人間であり、その人間は皆、男女の夜の生活によって産まれる、というふうに下ネタ好きな人は取るかもしれません。が、一般的には歴史に重大な影響を与えるような相談は、夜半に人知れず行われている、という意味とされます。

夜=「見えない部分」という暗喩でもあり、真に重要な歴史の真実とは、目に見えるところで記録されるのではなく、記録されないところで形成されるということでもあります。

日本においても料亭政治というのがあり、重要なことは国会や党大会で話し合われるのではなく、実は数人の大物が料亭で決めてしまい、決して表には出ないということがよくいわれます。

このほか、芸術作品でも夜をテーマにしたものが多く、ゴッホの「星月夜」はその中でも最も有名なものです。映画でも限られたセットを有効に活用するために夜の闇を効果的に使っている作品が多いようです。夜をテーマとした作品は個々の楽曲は枚挙に暇がなく、ノクターンといえば「夜想曲」のことであり、また、セレナーデは「小夜曲」です。

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近・現代、しかも特に大都市などでは、夜に活発に活動する人が増え、仕事や学校を終えた後に、遊ぶ時間に使っている人も多くなっています。

日本などではコンビニエンスストアなど24時間営業する店舗の数が急増しており、「夜間族」にとってはありがたい極みでしょう。ただ、夜間にこうした施設で照度の高い照明に身体がさらされることが体内時計を狂わせ、健康を害し精神的にも不安定にさせている、といったことは医学者たちからしばしば指摘されていることです。

何億年という生命の歴史によってもたらされた人の体内時計は、夜は暗く昼は明るいという自然な状態にあって正常に機能するはずであり、夜通し起きていて、日中は寝ているという生活が体の調子を狂わせるのはあたりまえです。

ただ、動物の中には、夜に主に活動するものと、昼に主に活動するものがおり、これをそれぞれ、夜行性、昼行性といいます。ヒトは元々昼行性動物ですが、現在のように電灯のおかげで昼夜を問わず活発に活動できるようなご時世には、夜中心に日々を送る夜型人間はゴマンといます。

実は我が妻、タエさんもそのひとりです。元コピーライターであったころからの習慣で夜に物書きをし、翌日は昼まで寝ているという癖が現在まで続いています。

人より光合成できる時間が短い分、さぞかしパワー不足だろうと思われがちですが、どうしてどうしてLED照明のごとく省エネに造られているようで、僅かな燐光のような光でも蓄電ができるタイプのようで、毎日元気なことこの上ありません。

朝早くから夕方遅くまで燦燦とした太陽光を浴びていないと干からびてしまい、夜になると酒というガソリンを喰らわないとエネルギー補給ができない私とは真反対です。

植物もまた、こうした太陽光をもとに光合成で生きているわけであり、基本的には昼間に活動するだけで、夜間は葉を閉じて眠るものが多いようです。ネムノキなどが有名で、こうした植物の葉の動きは、「就眠運動」としてよく知られています。

花にも夜間は閉じるものが多く、これは、花が光によって外側に向って開く「傾光性」という性質の逆作用です。しかし、中には夜間に花を開くものがあり、これらの植物は、夜行性の動物を花粉媒介に利用にしています。例えば夜咲きのサボテンでとして知られる、「月下美人」などがそれです。

ちなみに、オジギソウやモウセンゴケのように、触れると葉を閉じる性質のことを「傾触性」といいます。オジギソウは別途、花を持ちますが、こうした能力を持っているのは、イモムシなどの捕食者からの防御として葉っぱを小さくするためと考えられているようです。

ただ、こうした植物は特殊なものであり、一般の植物は、昼は光合成と呼吸をし、夜になると動物と同じように呼吸のみをするようになります。このため夜になると、昼に比べて大気中の酸素濃度はわずかに減少し、二酸化炭素濃度は増加する、ということは学校の理科の時間に習ったかと思います。

ところが、暖地の砂漠では、夜行性の動物が圧倒的に多いといいます。昼間は活動するには過酷だからです。植物においても、光合成を昼間に行えば気孔を開けることで水分が放出されてしまうため、こうした砂漠に育つ植物では夜間に二酸化炭素を取り込むことが知られています。

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このほか、こうした生物や植物以外にも夜になると活発になるモノがいます。……妖怪や幽霊の類です。

日本では昼と夜の境である「たそがれ時」は神隠しなどの不思議な出来事のよく起きる時刻とされました。「たそがれ」とは、「誰(た)そ彼」の意味で、また、「彼は誰」とは「かわたれ」という読みがあてられます。夕方うす暗くて人の見分けのつかない時分に、彼は誰、誰ぞ彼、といっていたのが、「たそがれ」という言葉の語源といわれています。

このように人や物事の見分けがつかないような時間は、いわばこの世と異界がまじわる時でもあり、このため、その昔の人はこの時間ごろから異界から神や魔物や妖怪が多く出現すると考えるようになりました。

たそがれのことを、「逢魔時(おうまがとき)」という場合すらあり、電灯など無い時代、夜はまさに闇の世界であり、人々の家のすぐそばまで異界の境から「魔」が忍び寄るとされていました。

「百鬼夜行」という言葉もあり、夜はさまざまな魔物や妖怪が出没する時間帯でした。「日本書紀」には、夜は神がつくり昼は人が造った、とまで書いてあるそうで、夜は神の世界でした。このため、思い起こしてみれば、日本では祭りや神事は、日没からの夕方以降に行われるものが多いことにお気づきでしょう。

一方では、こうした神様には、一般には眷属(けんぞく)と呼ばれる手下がいます。多くは動物の姿を持つ、または、動物にみえるものであり、狛犬やお狐様はその代表例です。が、その他超自然的な存在を意味することもあります。

その中には、鬼や妖怪に近い姿をしているものもあり、これらが神様の御到来に先駆けて露払いをするのが、「百鬼夜行」だとする説などもあるようです。平安時代から室町時代にかけての説話では、多くの人数が音をたてながら火をともしてやってくる、さまざまな姿かたちの鬼で練り歩く、といった百鬼夜行の様子などが描写されました。

一般には「百鬼夜行に遭った」という言い方をします。これに出遭うと死んでしまうともいわれていたため、これらの日に貴族などは夜の外出を控えたといわれています。このため、経文を唱えることにより難を逃れた話や、読経しているうちに朝日が昇ったところで鬼たちが逃げたり、いなくなったりする、といった話も残っています。

魔を退けるため、仏の功徳を説くような説話の形式をとることも少なくなく、室町時代に書かれた百科事典「拾芥抄(しゅうがいしょう)」には、「カタシハヤ、エカセニクリニ、タメルサケ、テエヒ、アシエヒ、ワレシコニケリ」という呪文を唱えると、百鬼夜行の害を避けられると書かれてあります。

さっぱり意味がわかりませんが、元々呪文などというものには意味はなく、世界中で使われている「アブラカダブラ」や、日本の「ちちんぷいぷい」「オン・キリキリ・~(密教)」、「くわばら、くわばら(雷)」なども、それぞれみんな意味などありはしません。

ちなみに陰陽道、密教や修験道では、「九字」というのがあり、9つの漢字の読みを唱えながら、手で印を結ぶか指を剣になぞらえて空中に線を描くことで、災いから身を守ると信じられてきました。一番有名なのは、真言宗に伝わる「臨兵闘者 皆陣列在前」というものです。

これは、「りん・ぴょう(びょう)・とう・しゃ(じゃ)・かい・じん・れつ・ざい・ぜん」と読み、その意味は「臨む兵、闘う者、皆 陣列べて前に在り」だといいますから、この呪文を唱えることで、自分を魔物から守ってくれる神将が眼前に現れてくれるということなのでしょう。

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この百鬼夜行には、時代ごとに色々なバージョンがあります。例えば平安時代末期に作られた物語集、今昔物語では、大納言で左大将の藤原常行という武人が、愛人のもとへ行く途中、大内裏の南面にあった美福門周辺で歩いてくる100人ほどの鬼の集団に遭遇しました。

しかしこのとき常行は、乳母が阿闍梨(修業を積んだ高僧)に書いてもらった「尊勝仏頂陀羅尼」という仏典を縫いこんであった服を着ていたので、これに気がついた鬼たちは逃げていったといいます。

また、平安時代後期にかかれた「大鏡」には、「藤原師輔」が遭遇した百鬼夜行のはなしが書かれています。平安時代中期の公卿で、学問に優れた人物として知られ、村上天皇の時代に右大臣として朝政を支えたことで知られる人物です。

この鬼たちの筆頭は、大化の改新の前夜に討たれた「蘇我入鹿」だったそうで、これを先頭に、蘇我馬子、蘇我倉山田石川麻呂、山背大兄王、大津皇子、山辺皇女など藤原氏を恨んで死んだ者たちの行列が続きました。しかし、このときも師輔は、「尊勝仏頂陀羅尼」を読んで難を逃れたとされます。

こうした話は、江戸時代になって編纂された「諸国百物語(延宝5年(1677年)刊行)」という怪談集にもまとめて掲載されています。これは江戸時代に流行した百物語怪談本の先駆けといえる書物であり、その後に刊行された多くの同系統の怪談本にも大きな影響を与えたといわれています。

絵巻物としても多数残されており、京都大徳寺山内の真珠庵に所蔵されている「百鬼夜行絵巻(平安末期作と推定)」は、重要文化財であり、百鬼夜行を描いた代表的な作品とされています。槌や傘といった器物の妖怪たちが中心となっている点に大きな特徴があり、「鳥獣人物戯画」などとの関係もあるのではないかとも考えられているようです。

このほか、阿波国(現・徳島県)に伝わる「夜行さん(やぎょうさん)」という妖怪も、百鬼夜行のひとつだといわれています。

これは、首のない馬の妖怪、「首切れ馬」に乗って徘徊する鬼だとされ、遭遇してしまった人は投げ飛ばされたり、馬の足で蹴り飛ばされたりしてしまうといいます。徳島では元来、大晦日、節分の夜、庚申の夜、夜行日などは魑魅魍魎(ちみもうりょう)が活動する日とされ、夜歩きを戒める日とされてきました。

「庚申の夜」、というのは、禁忌(きんき)行事を行う日のことで、庚申の夜には謹慎して眠らずに過ごし、神なり仏なりを供養することで禍から逃れ、現世利益を得ようとするものです。また、「夜行日」というのは、祭礼の際に御神体をよそへ移すことをいい、神事に関わらない人は家にこもり物忌みをしました。

夜行日においては、その戒めを破り神事を汚したものへの祟りを妖怪、あるいは「夜行(やぎょう)」と呼ぶようになりましたが、これが徳島の夜行さんのルーツでしょう。

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徳島ではかつてそうした夜行の出現日の夜の外出を控えるよう戒められていましたが、運悪く遭遇してしまった場合は、草履を頭に載せて地面に伏せていると、夜行さんは通り過ぎるため、難から逃れることができるといいます。

同じ徳島の奥地、三好郡山城谷村政友(現・三好市)では、この夜行さんは、髭の生えた片目の鬼であり、家の中でその日の食事のおかずのことを話したりしていると、夜行さんが毛の生えた手を差し出すといいます。

また、同じ四国の、高知県高岡郡越知町野老山(ところやま)付近では夜行さんを「ヤギョー」と呼びます。このヤギョーさんを避けるために、その昔、ここの村人は錫杖を鳴らしながら夜の山道を通ったといいます。

この高知の例では、ヤギョーさんの姿形は伝えられていません。が、元々、夜行さんは首切れ馬に乗っていた鬼とされます。ただし、夜行さんと首切れ馬は必ずしも対になっているわけではなく、むしろ首切れ馬単独での伝承のほうが多いといい、徳島県内を流れる吉野川下流から香川県東部の地域においては、首切れ馬だけが節分の夜に現れます。

かつて私が住んでい東京の多摩にも似たような話があり、これは八王子市の夜行さんの伝説です。八王子駅から北へ5~6キロほど離れたところに、滝山城址公園がというのがありますが、その一角にかつて高月城(たかつきと読む)という後北条氏の居城がありました。

ここを一時期守っていたのは北条氏照という、北条早雲からは数えて4代目の一族の一人です。豊臣秀吉の小田原征伐の際には徹底抗戦を主張し、居城である高月城や滝山城には重臣を置いて守らせ、自身は小田原城に籠もりました。が、小田原合戦では破れ、城を明け渡したあと氏照は兄・氏政と共に切腹を命じられて51歳で果てました。

このとき、八王子などにいた後北条の一派もまた秀吉軍によってことごとく掃討されましたが、滝山城や高月城、そのほか八王子城なども、上杉景勝、前田利家などに攻略されて落城しました。高月城を守っていた重臣の名前などはわかっていませんが、娘がおり、この娘もまた落城とともに命を落としたとされます。

以後、この滝山周辺では、夜な夜な首なし馬に姫君が乗る「夜行さん」が見られるといい、伝承によれば、高月城が敵軍の襲撃を受けた折り、この城の姫が馬に乗って逃亡しようとしたところ、馬は敵兵に発見されて首をはねられたといいます。

首のないままで疾走したあと、丘陵端の断崖から多摩川へとまっさかさまに落ちて、そのまま天へと昇ったとか、いろいろな言い伝えがあるようです。それ以来、姫と首なし馬は満月の夜に八王子を徘徊し、その姿を見たものは必ず不幸になるのだといい、近年でも八王子で目撃されたことがあるといいます。

深夜に人気のない通りを後ろから「カポカポ」と蹄がアスファルトを叩く音が背後でするものの、振り返るが姿は何も見えないといいます。また四つ角で、上半身が女、下半身が馬のケンタウロスのような怪物が、右から左へ猛スピードで走り横切るのを見た、といったまことしやかな目撃談が伝えられているそうです。

この高月城は、その南側約1.5kmほどのところにある滝川城よりも小ぶりな城であり、現在その城跡は残るものの、きちんとした整備はされていないようです。一方、滝山城のほうは、遺構として本丸・中の丸・千畳敷跡空堀などのかなりしっかりとしたものが残っており、国の史跡に指定されています。

大部分が東京都立公園「滝山自然公園」となっており、桜の名所であるため、この近くに住んでいた私も何度か訪れたことがあります。夜行さんという話はその当時聞いたことがありませんでしたが、八王子の中でもとくに古代の面影を残している一帯であり、なるほどそこに妖怪が出るか……といわれればなるほど納得できるような雰囲気はあります。

ご興味のある方は、一度訪れてみてください。場所はこちらです。

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ところで、この日本の夜行さんによく似た魔物で、「ワイルドハント」と呼ばれるものがヨーロッパの大部分の地域に古くから伝わっています。

イギリス、ドイツ、フランス、スウェーデン、ノルウェーなどなど多岐にわたり、いずれの地域においても、伝説上の猟師の一団が、狩猟道具を携え、馬や猟犬と共に、空や大地を大挙して移動していくものであるといわれています。

日本のように馬の首がない、というわけではありませんが、猟師たちは死者あるいは妖精(死と関連する妖精)であり、猟師の頭領は亡霊、多神教の神、あるいは精霊です。多くの精霊や妖怪、悪事を働いた者や非業の死を遂げた者をも引き連れた軍団であり、ときにそのリーダーは、歴史上や伝説上の人物である場合もあります。

例を挙げれば、東ゴート王のテオドリック、デンマーク王のヴァルデマー4世、または北欧神話の神オーディン、ウェールズで霊魂を冥界に導くとされるグウィン・アプ・ニーズ、あるいはアーサー王のこともあります。

テオドリックは5世紀ごろにイタリアから東欧にかけての地域に君臨した実在の王で、多くの家臣を敵との戦いで死なせながらも、勝利を勝ち取ったとされる伝説的な英雄です。また、ヴァルデマー4世は巧みな外交戦略なども通じて国力を回復させ、アッテルダーク(再興王)と称されました。

オーディーンは北欧神話の主神にして戦争と死の神です。また、グウィン・アプ・ニーズは、イギリスのウェールズ地方の神話に登場する王であり、アーサー王もブリトン人、つまりグレートブリテン島に住まうイギリス人の間に伝承される、伝説的な君主です。

いずれもその死後、神と崇め奉られるようになり、ワイルドハントのような狩猟団を率いるようになったとされます。日本とよく似ているのは、この狩猟団を目にすると、戦争や疫病といった、大きな災いを呼び込むことであり、目撃した者は、死を免れません。

ほかにも狩猟団を妨害したり、追いかけたりした者は、彼らにさらわれて冥土へ連れていかれたといわれています。また、彼らの仲間に加わる夢を見ると、魂が肉体から引き離されるとも信じられてきました。

このほか、ドイツのワイルドハントは、ドラゴンや悪魔を引き連れており、彼等は馬、または馬車に乗っている場合が多く、何頭かの犬を引き連れています。特に若い女性は、罪があろうとなかろうと、彼らの獲物となるそうです。

もし彼らの道を塞ぐようなことをすれば罰せられますが、一方では彼らの手助けをすれば、金や黄金、あるいは呪われて逃れられなかった死者や死んだ動物の脚が与えられます。

ワイルドハントから逃げおおせるには、聖職者や魔術師に頼んでワイルドハントを撃退してもらう必要があります。また、ドイツを含む中央ヨーロッパでは、ワイルドハントをよけるため、肉を沢山いれた木の容器を、家の正面の木の上に置くそうです。

上述のとおり、北欧神話では、このワイルドハントの首領は、「オーディン」とも呼ばれ、彼等の狩りは「オーディンの渡り」とも呼ばれます。狩りが始まるのは10月31日で、翌年4月30日までは終わらないといわれますが、これは彼等にとっては、日が沈まない白夜の反対の「極夜」の時期です。一日中太陽が昇らない、あるいは極端に日が短くなります。

10月31日は、太陽は九つの世界へいき、精霊や妖怪がこの世を放浪するようになり、これは、この日はサムハインと呼ばれ、後の世に言うところの「ハロウィーン」にあたります。魔女の新年でもあり、北欧ではハロウィーンと共に、冬の季節が始まります。かつて多くのヨーロッパの人々は、影が長くなって火をともすこの時期には家にこもっていました。

オーディーンによるワイルドハントは、このハロウィーンから12月終わりの冬至のあいだに集中するといい、スレイプニルと呼ばれる8本脚の軍馬にまたがったオーディンが、魔物や精霊たちや遠吠えする犬を従えて、やってきます。

オーディンが、スレイプニルにまたがって天に駆け出すと、雷のような音が轟き、風が吹きはじめ、やがて耳をつんざくような音へと変わります。他の悪魔や精霊の馬の蹄の音も、この音に加わり、犬たちも同様に、やはり耳をつんざくような吠え声を上げます。

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この騒動はユールまで続きます。ユールとは、古代ヨーロッパのゲルマン民族、ヴァイキングの間で、冬至の頃に行われた祭りのことです。そしてこの行事はキリスト教との混交が行われたのち、現在では「クリスマス」と呼ばれるようになりました。

北欧諸国では現在でもクリスマスのことをユールと呼びます。かつてのゲルマン世界ではクリスマス前後に、「燻し十二夜」と呼ぶお祭りをしており、これが後の世のユールです。この祭りが開かれる頃は雪嵐が多く、その嵐にオーディンの到来を人々は重ね合わせたと考えられます。

また、この頃祖先の霊が帰ってくるという言い伝えがあり、今も、特に北欧ではこの習慣が守られていて、故人の好んだ料理を作って並べ、馬の手綱を解いて、故人の霊が乗れるようにしておくのだといいます。

このユールこと、クリスマスの時期には、ワイルドハントの動きも最高潮に達し、死者がワイルドハントの一員となって現世をうろつきます。リーダーであるオーディン、その後に、黒くて吠え続ける犬を連れて、狩りの角笛を吹きならす死んだ英雄たちが続きます。

古代のゲルマンやノルマンの子供たちは、このユールの前の夜にブーツを暖炉のそばに置き、オーディンの8本足の馬、スレイプニルのために干し草と砂糖を入れたといいます。また、オーディンはその見返りとして、子供たちに贈り物を置いていったともいいます。

現代では、スレイプニルは8頭のトナカイとなり、灰色の髭のオーディンはサンタクロースと呼ばれています。子供たちが干し草や砂糖を入れていたブーツは、その後靴下に変化し、逆にサンタクロースがその中にプレゼントを入れてくれるようになりました。

キリスト教化により、魔物であったオーディーンは、聖ニコラウス、そして親切な赤い服をまとったおなじみのおじさんに変わったというわけです。ただ、現在でも靴下やブーツを置き、昔と同じようにその中にスレイプニルのための食物や干し草を入れておく地方もあり、そこではやはり、オーディンが子供たちへキャンディを入れてくれるそうです。

この話には続きがあります。

もし、このユールの夜に戸外でワイルドハントに出逢った人は、彼等に試されるといいます。ワイルドハントがいかに恐ろしい魔物であっても敬意を払えるかどうかが試されるといい、一種の度胸試しです。

このとき純粋な心を持ち、ワイルドハントに恐れることなくユーモアで持って受け答えができれば合格とされ、その人は靴を黄金で一杯にするか、食べ物と飲み物をもらって帰ることができます。

しかし不運なことに合格しなかった場合、その人は、恐怖に満ちた夜の旅へ、生涯連れまわされることになります。ワイルドハントに命を奪われ、魂が、その後何年もこの軍団と共に空を駆け巡ったあげく、地上に帰っても邪悪な者や嘘つきといわれます。

そうした不合格者は、ユールの時期に、祖霊へのご馳走を怠ったからそうなるのだ、とも伝えられています。

日本にも、やがて冬至が訪れ、そのあとユールの季節がやってきます。ただし、日本のことですから、ワイルドハントは来ず、おそらくは百鬼夜行に遭遇するのでしょう。

そして、ユーモアのセンスのない人、ご先祖様を大事にしていない人は、おそらくその百鬼夜行の試験にも不合格となるでしょう。しかし純粋な心を持ち、いつも人を笑わせることが大好きな人はきっと合格し、鬼たちが玉手箱をくれるに違いありません。

今日このブログを読んで、少しでもクスッと笑う人がいたとしたら。そう、私にもきっと何等かのご褒美があるのではないでしょうか。

……少々期待している次第です。

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鏡の中へ

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今日は11月11日です。

算用数字で表すと1111となり、漢数字で表すと十一十一となることなどから、いろいろなものに見立てることができ、このために実に多くの団体や企業がこの日を記念日にしており、日本記念日協会による認定の記念日が一年で最も多い日になっています。

記念日協会?そんなもんがあるんかい、ということなのですが、1991年(平成3年)に設立された比較的新しい団体です。「社団法人」ということで、企業などが設けた記念日の認定・登録を行っており、各種の業界を盛り立てるために組織された一種の商工団体のようなものです。

登録された内容をホームページで紹介するなど、さまざまなPRを行っており、企業だけでなく、その他の団体や、自治体、個人などが設けた記念日にも対応しているとのことで、とこれまでに登録された数は400件以上にのぼるといい、今も増え続けているといいます。

年末が近づき、そろそろ来年のカレンダーが欲しい、というご用向きも多いでしょう。記念日のカレンダー、記念日の事典、といった変わったものも刊行しているそうなので、ご興味のある方は、同協会のHPを覗いてみてはいかがでしょうか。

ただ、今日11月11日に定められている記念日がすべてこの協会が定めた、というわけでもないようで、その他の記念日もありますが、それらを加えると更に数が増えます。

やはり多いのは、食品関係のものであり、これらのほとんどは、1111がそのものに見えるという理由から来ています。

例えば、豚まんの日(11が豚の鼻に見える)、いただきますの日(箸に見える)、麺の日(麺の細長イメージ)、もやしの日(もやしを4本並べたように見える)、ピーナッツの日(1つの殻に2粒の豆が双子のように同居している)、きりたんぽの日(囲炉裏で焼いているきりたんぽをイメージ)、たくあんの日(大根を並べて干してある様子)といった具合です。

たくあんは、「たくさんの」「1=わん」があることから、「たくわん=たくあん」とする、というダジャレの意味もあってのことだそうで、このほか、「鮭の日」は、「鮭」という漢字が魚偏に「十一十一」と書くことに由来しているそうです。

食品以外の日用品類もまた、1111の数字をものになぞらえたものが多いようです。

たとえば、美しいまつ毛の日(まつ毛になぞらえ)、配線器具の日(コンセントの差込口の形状)、靴下の日(靴下を2足並べた時の形が11 11に見える。恋人同士で靴下を贈り合う)、下駄の日(下駄の足跡)、ライターの日(細長いライターを並べるとそう見える?)、電池の日(十一十一がプラス・マイナス・プラス・マイナスに見える)などがあります。

「磁気の日」というのがあり、こちらも磁石のN極 (+) とS極 (-) を「十一」に見立てたことに由来しており、電池の日とほぼ同じ理由での登録です。

このほか、日用品ではありませんが、我々の身の回りにあるものにちなんだ記念日もあり、たとえば、「煙突の日」は、煙突が4本立っているように見えることに由来、「コピーライターの日」は、ライターが使う鉛筆が並んだように見えることに由来しています。また、「麻雀の日」は、4本の点棒が並んだように見えるためだそうです。

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ほかにも色々ありますが、残りはヘンな理由に基づくものが多いようです。たとえば「チンアナゴの日」というのがありますが、これは「すみだ水族館」が2013年に制定したものです。チンアナゴを映像で見たことがある人も多いと思いますが、海底の砂地から顔を突きだした様子がカワイイ、と一時期評判になりました。

顔つきが日本犬の狆(チン)に似ていることからこの名がついたものですが、このチンアナゴが砂の中から体を出している姿が数字の「1」に似ており、群れで暮らす習性があることから、一年間に最も「1」が集まる日付を選んだということです。

このほか、1918年に、ドイツとアメリカが停戦協定に調印し、第一次世界大戦が集結したのが11月11日であることから、この日は「世界平和記念日」になっており、これにちなんで、この日は「折り紙の日」になっています。

日本折紙協会が制定したもので、世界平和を象徴する「千羽鶴」をイメージしたといいます。また、1を4つ組み合わせると折紙の形である正方形になる、という意味も込められているそうです。

その他変わったものでは、バイナリデイというのもあり、バイナリとは二進法のことです。1111は二進数に置き換えられるから、という理由のようで、1月1日や10月10日でもよかったのでしょうが、なぜかこの日が選ばれています。ちなみに、二進数での1111は、十進数の15に相当します。

このほか、あーなるほど、とうなずけるのは、サッカーの日です。サッカーが11人対11人で行うスポーツであることに由来しています。スポーツ用具メーカーのミズノの関連会社が定めた日のようです。もっとも、だからといってこの日に何か大きなサッカーイベントがあるかといえば、そういうこともないようですが。

このほか、11月11日を「鏡の日」としている団体もあり、これは全日本鏡連合会という業界団体です。2006年に制定。「1111」や縦書きにした「十一 十一」が左右対称であることから来ているといいます。

1月1日も左右対称になりますが、さすがに元旦が記念日ではまずいと思ったのでしょう。月日を二けたと限定するならば、左右対称になるのは一年のうちでは確かにこの日しかありません。

ところで、この「鏡」というヤツですが、言わずと知れたところ、これは可視光線を反射する物体の総称です。

鏡に映る像は鏡像といい、鏡は左右が逆転しているように見える、と思いがちですが、よく考えてみてみると、これは鏡の面を境にした逆転現象です。我々が住まう実像の世界からみた幾何学的な意味からすれば、逆転しているのは左右ではなく前後、すなわち奥行きが逆になっているということになります。

一般的な鏡は平面の形をしており、これを平面鏡といいます。が、鏡は平面のものばかりではなく、表面がくぼんでいる凹面鏡や、逆に突出した凸面鏡もあり、こちらも鏡であることには違いありません。

これらの機能は平面鏡のように左右や奥行が逆という概念をある意味超えています。単に逆転現象を起こすだけでなく、凹面鏡や凸面鏡は光を曲げることが出来るので、レンズの代用とすることが出来ます。反射望遠鏡は凹面鏡を利用していることをご存知の方も多いでしょう。

一方、平面鏡は1方向からの像のみを写すので、立体の正面は見えても側面は写せません。しかし、複数の鏡を組み合わせることでその応用範囲が広がります。いわゆる鏡台は一般的には三面鏡になっており、このほか万華鏡も複数の鏡を利用した玩具です。また、一眼レフカメラの光学系にも複数の鏡が利用されています。

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このように現代の我々の生活においては必要不可欠のものとなっている鏡ですが、無論、太古には作る技術が存在せず、その昔は水溜りの水面に自らの姿形などを映す「水鏡」だけが鏡でした。

その後、進化した人類は石や金属を磨いて鏡として使用するようになりましたが、遺跡発掘などから鏡だとわかった最古のものは、トルコにあるチャタル・ヒュユク遺跡から出土した黒曜石を磨いた石板だそうです。

この遺跡は、その規模や複雑な構造から世界最古の都市遺跡と称されており、遺跡の最下層は、紀元前7500年にさかのぼると考えられています。従って少なくともこの時代には既に人類は鏡を使って、自分を映し出していたことがわかります。

その後石版は金属板に代わり、これを磨いた金属鏡が作られるようになりましたが、その初期にはこうした金属鏡の多くは青銅などを用いた銅鏡でした。現存する最古の金属鏡は、エジプトの第6王朝(紀元前2800年)のものだそうで、これも銅鏡のようです。

以来、銅に代えて錫およびそれらの合金を磨いたものなども用いられるようになりましたが、さらに時代が進むと水銀なども鏡として用いられるようになりました。

東アジアでは、中国の金属鏡が最も古く、既に約4千年前の新石器時代から銅鏡があったようです。紀元前770~221の春秋戦国時代になると華南地方を中心に大量に生産・流通することとなりますが、その後この中国鏡は、日本へも渡来しました。

紀元前3世紀中頃以降とされているようですが、確固たる年代はわかりません。ただ、弥生時代中期のころであろうといわれています。一方、こうした輸入モノではなく、国産の金属鏡が作られ始めたのは紀元前2世紀前後であり、この紀元前2世紀から後16世紀(桃山期)までの約1800年間を 日本史では、「古鏡の時代」と分類しています。

その後さらに時代が下り、こうした金属鏡には溶融しやすい錫(スズ)めっきなどが施されるようになります。

これは、1317年にヴェネツィアのガラス工が、錫アマルガムをガラスの裏面に付着させて鏡を作る方法を発明したものに起源を発します。ガラスの上にしわのない錫箔を置き、その上より水銀を注ぎ、放置して徐々にアマルガムとして密着させ、約1ヶ月後に余分の水銀を流し落とすというもので、鏡として仕上げるためには実に手間のかかるものでした。

その後、1835年にドイツのフォン・リービッヒが現在の製鏡技術のもととなる、硝酸銀溶液を用いてガラス面に銀を沈着させる方法を開発しました。以来、製鏡技術は品質、生産方法共に改良され続けてきました。

現代の一般的な鏡はガラスの片面にアルミニウムや銀などの金属のめっきを施し、さらに酸化防止のため銅めっきや有機塗料などを重ねたものです。が、ガラスの裏面を銀めっきした鏡である点は19世紀以来変わっていません。

これは、銀という金属が可視光線の反射率(電気伝導率および熱伝導率に由来する)が金属中で最大のためであり、最も鏡に適した塗布剤であるからにほかなりません。

今日では、鏡は高度に機械化された方法で大量生産され、光沢面保護のための金属めっきや塗料の工夫により飛躍的に耐久性が向上しています。ガラスを使う鏡の他に、ポリエステルなどのフィルムの表面に金属を蒸着し、可搬性や安全性を高めたものもあります。

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上述のとおり、遺跡発掘で出てきた鏡の最古のものは紀元前7500年ころとされます。が、最古のそれが水面に映った「水鏡」だとすれば、鏡の起源そのものは人類の歴史よりも古いことになります。

ホモ・サピエンスは20万年前から10万年前にかけてもっぱらアフリカで現生人類に進化した後、6万年前にアフリカを離れて長い年月をかけて世界各地に広がったとされます。我々のご先祖様である類人猿たちもまた、水に自分の姿を映し、それが自分であることを認識できていたに違いありません。

ヒトは、鏡によって、初めて自分自身を客観的に見る手段を得たと考えらえます。また、鏡に映る姿が自己であることを知るのは、自己認識の第一歩であるとされます。鏡に映った自分を自分と認識できる能力を「自己鏡映像認知能力」と呼び、自己鏡映像認知能力の有無は動物の知能を測るための目安ともなります。

では、人間以外のどんな動物が、鏡を見て自分を認識できるのでしょうか。ヒトに一番近いとされる猿、そのうちでも知能の高いとされるチンパンジーなどは、鏡に映る姿を自分自身として認識できるといい、例えば毛繕いのときに役立てることができるそうです。

自己鏡映像認知能力があることが確認されている動物としてはこのほか、イルカ、ゾウ、カササギ(北米などに生息するカラス科の中型の鳥)、ヨウム(大型のオウム)、ブタ等が挙げられます。

このほか、パンダも、多くの個体が鏡に向かって積極的に反応するといい、いくつかのアリは、鏡の前でセルフクリーニングの動作をするそうで、鏡で自分自身を認識することができるのではないかといわれているようです。

ホモ・サピエンス、つまりヒトである我々は、だいたい15〜18ヶ月のとき鏡によって自己認識を示し始めるそうで、これを「ミラーステージ」といいます。

このミラーステージに入った赤ちゃんが鏡をみるとき、最初は何かの断片的なものの集まりのように感じているだけです。しかし、慣れてくると次第に自分の姿を全体として捉えるようになり、自分であると認識するようになるということです。

とはいえ、類人猿に近い太古のヒトが、水鏡をみて自分であると判断するだけの能力があり、はたしてほんとうに身づくろいなどの道具に使っていたかについては、確認するすべはありません。

ただ、さらに時代が進んで、「文明」というものが出来上がってくるころには化粧道具として用いるようになっていたことがわかっており、一方では、ヒトは鏡に映像が「映る」という現象を極めて神秘的なものとして捉えるようになりました。

鏡は、現在我々が認識しているように光線を反射する平面ではなく、世界の「こちら側」と「あちら側」を分けものと捉えられ、鏡の向こうにもう一つの世界がある、と昔の人は思ったようです。ただ、水鏡や黒曜石などの石板鏡、研磨度の低い金属鏡しかなかった時代においては、鏡像は「おぼろげなイメージ」に過ぎませんでした。

鏡が祭祀道具ではなく、化粧用具としての性格を帯びるようになったのは、鏡の表面がより滑らかになり、自分の映像をより鮮明に見ることができるようになってからのことです。

西洋ではその後、鏡に「不思議」を感じるのをほとんどやめてしまい、このため鏡は祭祀用具としては発達せず、そのまま実用品になりました。近代になり、ガラス鏡の分解能が増すと、この世を全くそのままに映す装置として捉えるようになっていきますが、さらにそれを映像として残すために発明されたのが、写真です。

このあたりがゲルマン民族の合理性といえるでしょうか。ドイツ語のシュピーゲルや、英語のミラーは、「鏡のようにはっきりとこの世を映し出す」という意味です。ドイツやイギリスには同じ名前を冠する新聞がありますが、鏡とは文字通り「世相を映す道具」でした。

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一方、中国や日本でも当初祭祀道具として鏡が使われるようになりましたが、それが身だしなみを整えるための実用品として使われるようになったのは、かなり後世になってからのことです。このあたりがヨーロッパ人とは違うところであり、漢民族や和人は鏡の「不思議」を神と結びつけて考えることがとかく好きです。

中国で戦国時代から唐時代に製作されるようになった銅鏡は、神獣鏡と呼ばれ、神仙界、すなわち仙人の住む理想郷を図文化した鏡であり、宗教儀式に使われました。また、中国から伝えられて日本語になった「鏡」という文字の読みはカゲミ(影見)、あるいはカカメであり、カカとは蛇の古語です。

つまり「蛇の目」のことであり、このことからも日本でも鏡は呪術性のあるものであったことがうかがわれます。また、日本語で鏡は「鑑」とも書き、人間としての模範・規範を意味します。

手本とじっくり照らし合わせることを鑑みる(かんがみる)というのも、ここから来ており、太古における宗教で培われた規則からきた用語であることをうかがわせます。

天孫降臨(神様が地上に下ること)で天照大神(アマテラスオオミカミ)は「此の宝鏡を視まさむこと、当に吾を視るがごとくすべし。与に床を同くし殿を共にして、斎鏡をすべし」と語ったとされますが、これは「この鏡を私だと思って大切にしなさい」という神勅です。このように古代から日本人は鏡を神聖なものと扱ってきました。

古墳時代、邪馬台国の女王卑弥呼は、魏の王より銅鏡を贈られたとされます。この鏡は、上述の中国から伝わった神獣鏡です。大和を中心として全国各地の前方後円墳から出土する「三角縁神獣鏡」はこれが改良したものと考えられており、これらは卑弥呼がシャーマン的な支配者であったことと結びつけて考えることができる、とする研究者も多いようです。

さらに鏡は神道や皇室では、三種の神器のひとつが八咫鏡(やたのかがみ)であり、神社では神体として鏡を奉っているものが多数存在します。八咫鏡は門外不出であって一般公開されていない(天皇ご自身も実見を許されていない)ため、神獣鏡と似ているのかどうかはわかりません。が、同一のルーツを持つものである可能性はあります。

また、キリスト教を禁止した江戸時代に、隠れ切支丹鏡という魔鏡が作られました。これは、隠れキリシタンが弾圧を避けてキリスト像を信仰するために、これを隠し持ったもので、光を反射させることによって、内部に隠されたキリスト像をスクリーンに投影することができます。

このほか、霊力を特別に持った鏡は、事物の真の姿を映し出すともされ、地獄の支配者閻魔大王の隣には浄玻璃鏡(じょうはりきょう)という鏡があり、エンマ様の前に引き出された人間の罪業を暴き出すといわれました。

現在の日本では鏡は無論、実用品として扱われます。が、日本人にとっての鏡は呪術的な意味合いを持つ場合も多く、鏡が割れると不吉としたり、鏡台にカバーをかける、といった習慣は、鏡の霊力に対する観念が古くから広く生活習慣の中に根を下ろしてきたことを示すものです。

近代化の中で、そういった観念も次第に薄らぎつつあるとはいえますが、現在も神社などに御神体として奉られている鏡は多く、ここに奉納する餅や酒などの供物にも鏡の持つ神秘性が込められています。例えば「鏡餅」や「鏡開き」などがそれであり、神である鏡に敬意を払ってのことと考えることができます。

一方、科学が発達した現在においては、欧米だけでなく、日本でもこの鏡の世界を物理的に研究しようとする動きが出てきました。そうした研究の中で、鏡の向こうには、「パラレルワールド」がある、という人もいます。

パラレルワールドとは、ある世界から分岐し、それに並行して存在する別の世界のことで、並行世界、並行宇宙ともいいます。我々の住む世界およびあちらの世界それぞれ彼我の世界のことを「時空」とも呼び、タイムトラベルと関連づけて語られることもあります。

「異世界(異界)」、「魔界」、「四次元世界」といったオカルト的なものとは違い、パラレルワールドは我々の宇宙と同一の次元を持つ、あるいはまったく違った次元にあるとされ、れっきとした科学的な研究対象でもあります。

ただ、「この現実とは別に、もう1つの現実が存在する」という考え方は、「もしもこうだったらどうなっていたのか」という考察を作品の形にする上で都合がよく、SFにおけるポピュラーなアイディアにもなってきました。

架空戦記、歴史改変SF作品に見られるような、「もう1つの歴史」を扱う作品と、現実とは異なる次元を扱うパラレルワールドモノは、SFにおいては人気があり、2つのジャンルはいずれも「あり得るかもしれない世界」を描くことを目指しており、それがSFファンには受けるようです。

タイムトラベルを扱ったフィクションにおいて、タイムパラドックスの解決法としてパラレルワールドが用いられる場合もあります。すなわち、タイムトラベルで行き着いた先は実際は現実に酷似したパラレルワールドであり、どの時間軸で歴史を変えようとしても自分がいた元の世界には影響しません。

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ところが、物理学者たちは、こうしたことが本当にあるかもしれないと真面目に考えています。イギリス、オックスフォード大学の教授で、量子計算理論のパイオニアであるデイヴィッド・ドイッチュ博士は、多世界が実在すると考えており、パラドックスを解決するモデルを提唱しているそうです。

パラレルワールドはSFでよく知られるようになった概念ではありますが、実際に物理学の世界でも理論的な可能性が語られるようになってきているわけです。

より具体的には、量子力学の世界では、「多世界解釈」というのがあります。あまり難しい議論は私自身も理解していない部分があるので避けますが、量子力学の世界では、われわれの住む宇宙以外にも複数の異なる量子状態を持つ宇宙があるはずである、とする学者もいます。

量子とは、粒子と波の性質をあわせ持った、とても小さな物質やエネルギーの単位のことです。 物質を形作っている原子そのものや、原子を形作っているさらに小さな電子・中性子・陽子といったものが代表選手であり、要は我々の体や我々の住む世界を形成している物質です。

つまり、我々と同じか、あるいは類似した物質で作られた並行した宇宙世界があるのでは、と考えられていて、これが多世界解釈であり、パラレルワールドが存在する、とする考え方です。

ただし、あくまで理論であって、他の世界であるパラレルワールドを我々が観測することは不可能です。その存在を否定することも肯定することも出来ないため、懐疑的な意見も多数存在します。

とはいえ、その理論的根拠を「超弦理論」に求めようという動きもあります。これは、宇宙の姿やそ誕生のメカニズムを解き明かし、同時に原子、素粒子、クォークといった微小な物のさらにその先の世界を説明する理論の候補として、世界の物理学で活発に研究されている最先端理論です。

が、これも難しい理論なのでここでは開陳しませんし、そもそもこの紙面の分量ではできません。ただ、この理論は現在、理論的な矛盾を除去することには成功しているようだ、とだけ書いておきましょう。

が、なお不完全な点を指摘する専門家もおり、また実験により検証することが困難であるとみなされているため、物理学の定説となるまでには至っていません。

とはいえ、そうした考え方の中から発した研究の中から事実であると確認されたものもあります。たとえば、現在の宇宙は主に正物質、陽子や電子などで構成されていますが、反陽子や陽電子などの「反物質」といわれる物質の存在が微量ですが既に確認されています。

最近では、我々の住まう宇宙はビックバンによってできた、とされる説が定説です。このビッグバンによって、宇宙には正物質と反物質がほぼ同数出現しましたが、その後両者の間で不均衡が起こり、相互に反応してほとんどの物質は消滅しました。

しかし、正物質と反物質との間に微妙な量のゆらぎがあり、正物質の方がわずかに多くの残りました。その残りがこの宇宙を構成する物質となり、そのため現在我々が知る宇宙はほぼ全ての天体が正物質で構成されているのだと説明されています。そして、その正物質こそが上述の量子力学でいうところの量子を形成している、というわけです。

ところが、ビッグバンの過程においては、こうした僅かな正物質が残った我々が住まう宇宙以外にも、別の進化の過程をとった別の宇宙が無数に泡のごとく生じたのではないか、とされおり、その中には、我々の宇宙のように正物質でできている世界ではなく、生き残った反物質のみでできている世界もあるのではないか、といわれています。

その「平行宇宙」では、反物質のみから構成されているため、すべては我々の世界とは「逆」です。どういった形で逆なのかは、理論上の話なので説明しろ、といわれてもできませんが、おそらくは見た目には全く我々の世界と同じです。しかし、どこかが違う。そう、それはまるで鏡の世界のごとき世界である、というわけです。

今、あなたの目の前にあるのとまったく同じ世界でありながら、全く何もかもが逆のあなたが存在している、と考えると、不思議な気分になってきますが、いまあなたが見ている鏡の向こうのあなたこそが、実は本物のあなたなのかもしれません……

これまでの説明、おわかりいただけたでしょうか。

最近研究されている科学理論では、そうした正物質、反物質でできた宇宙が我々の宇宙以外にも無数に存在しているとされますが、ビックバン以降、それが無限に広がっていくのか、いつかは収縮してビックバン以前のような小さな姿に戻るのか、については学者間でも喧々諤々の議論となっているようです。

遠い遠い将来、そうした議論に幕引きをもたらすような理論が完成したあかつきには、今目の前にある鏡を通して、そうした別次元の世界へ旅することができるようになるのかもしれません。

それにしても、そのときが来るまで我々はあと何回、輪廻転生しなければならないでしょうか。

さて、お天気が回復してきました。今日11月11日は「介護の日」でもあります。厚生労働省が2008に発表・制定したもので、そのこころは、「いい(11)日、いい(11)日、毎日あったか介護ありがとう」だそうです。

みなさんにとって、今日という一日がいい日でありますように。

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今日は、11月9日ということで、「119番の日」だそうです。

消防庁が1987年に制定。この日から11月15日までの1週間は秋の全国火災予防運動が行われます。

119番のお世話になった、という人は少なからずいるでしょう。消防機関への緊急通報用電話番号であり、火災の場合は無論のこと、病気や怪我で救急医療が必要な場合に電話すると、消防本部の通信指令室の受付台に接続されます。

消防本部というのは、市町村や区などにおける消防事務を行なうために設置する常備消防機関です。一部の地域では、複数の工場や市町村を含めた「広域連合」に設置され、これらは「消防組合」と呼ばれる場合もあります。

また、東京では「東京消防庁」が設置されており、これは東京23区を所轄する大きな消防本部であり、東京都が管理しています。23区以外の市町村でも、消防業務を東京都に委託している地域は、東京消防庁が管轄します。例えば東京の多摩地区では消防業務を都に委託しており、多摩消防署は東京消防庁の管轄下にあります。

東京都区内もしくはこうした東京消防庁の管轄下にある地域で119番に電話すると、大手町の災害救急情報センターもしくは立川の多摩災害救急情報センターに接続されることになっています。

一方、東京消防庁の管轄以外の地区での通報は、従来はその市町村毎の消防本部に接続されていましたが、2010年代からは、こうした「集中受付制」を始めた地域もあります。

これは、東京消防庁や警察の110番を真似た情報伝達体制であり、複数の市町村が共同で、119番電話を受けるセンターを設ける、というものです。例えば、千葉には「ちば消防共同指令センター」があり、これは千葉県北東部・南部の20の消防本部の119番通報の受信や、消防車や救急車の無線管制等の通信指令業務の運用を共同で行っています。

共同運用を行うことで、業務の効率化が図られるとともに、各消防本部の連携及び情報の共有化が可能となり、隣接地域や大規模な災害時の相互応援体制が充実強化される、というメリットがあります。このように地元消防本部ではなく「消防共同指令センター」が通報を受け付け出動指令を発する地域もだんだんと増えてきています。

この電話により火災を知らせるというしくみですが、導入されたのは大正時代になってからです。火災報知が制度化されたのは、1917年(大正6年)4月1日からで、この日から電話で消防を呼ぶことができるようになりました。

ただ、この当時はまだ電話は交換手に通話先を伝えてつなぐ方式であり、番号はありません。交換手に「火事」と言えば、そのまま交換手が近くの消防組織につないでくれたからです。

その後、1926年(大正15年)に電話に初めて「自働交換機」が導入されたことで、交換手が不要になり、ダイヤル方式の「自働電話」が初めて登場しました。一方、従来どおり交換手を使って電話をかける形式も残され、こちらは「手働電話」と呼ばれていました。

自働電話を掛ける、受ける人には電話番号が必要でしたが、手働で掛ける人には不要であり、そうした電話利用者が混在していた時代です。

この自働局電話の加入者のための火事の通報用に定められた番号はまだ119番ではなく、112番でした。ダイヤル式の電話のことを覚えていらっしゃる方も多いと思いますが、この電話では1から順に左回りで番号が並んでおり、2・3……と続いて9、0が最後です。

一番早くダイヤルできるのが「1」であり、その次が「2」「3」」となり、一番時間がかかるのが「0」です。つまり、112という番号を回すには比較的時間が少なく済み、緊急用に適していたためです。111にしてもよかったはずですが、それにしなかった理由はよくわかりません。が、おそらく何か別な特別な用途のために残しておきたかったのでしょう。

大正時代以降に112番がスタートした当時はしかし、電話が普及して間もない頃で掛け間違いが多発していました。このため、翌年1927年(昭和2年)に、当時地域番号としては使用されていなかった「9」を使用し、間違い電話を減らす目的で119番に改められました。

警察通報用の110番も同様の理由で同じ時期に決められた番号であり、同じように11に続いて間違い防止のため0を加えて導入された番号のようです。

早くダイヤルするために「1」を二回続けたあと、緊急時にも心を落ち着かせ、最後の1つを回せるように時間のかかる番号「9」や「0」が割り当てられるようになったという俗説がありますが、これは間違いで、都市伝説のたぐいの話のようです。

110番となった理由としては、このほか国民に覚えやすい番号とすること、誤報が少ないように番号を3桁にすること、ストッパーまでの距離が短い「1」を多くすることであり、このあたりの事情は消防用の119も同じです。

なお、110番は導入された当初は消防と違って全国統一はされておらず、各地区によっては、110だけでなく、大阪・京都・神戸は1110番、名古屋の「118」、「1110」など様々でした。

手働交換が主流の地方では、自働電話を入手したわずかな人種が110番という番号を個人で所有している場合すらあったようです。もっとも手働電話の場合は、火事のときと同じく交換手に「泥棒だ」と言えば警察につないでもらえるため特に不便でもなく、消防ほどはこの110番は重要視されていなかったようです。

戦後すぐの1948年にGHQからの申し入れにより、全国的に110番に統一してはどうかと提案がありましたが、とりあえずは東京だけが110番となりました。全国的に統一されたのは、1954年(昭和29年)7月1日に新警察法が施行されてからです。

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日本ではあたりまえになっている、この119番や110番などの緊急通報用電話番号ですが、世界共通ではありません。たとえば、アメリカでは「911番」であり、警察と消防は共通です。指令センターで緊急通報を受け、受信係は通報者からその通報の内容を聴いて警察に伝えるか消防に伝えるかを判断する形式です。

イギリスやEU加盟国も同様であり、イギリスは「999番」であり、EU加盟国の多くでは「112番」です。日本と同様に110番が警察、119番が救急・消防という国には台湾などがあります。警察、救急、消防という3分野に緊急通報番号が割り当てられている国もあり、それぞれです。

日本では消防と救急をひとくくりにして119番、警察を110番にしていますが、このほかの緊急通報番号として、118番というものがあります。

意外と知らない人が多く、これは、日本における海上で発生した事件・事故の緊急通報用電話番号です。船舶電話からは海上保安庁の運用司令センター、船舶電話以外の一般電話(公衆電話、携帯含む)からは全国11ヵ所の各管区海上保安本部に接続されます。

118番以外にも、「局番+4999(至急救急)」というのがあり、これは同じく海上保安庁本庁や各海上保安部署に繋がります。どちらにかけても通報できる点がが、119番や110番と違います。

これはおそらく、海上では必ずしも電話ができるという状況にない場合も多く、選択肢を多くしたかった、ということなのでしょう。2007年(平成19年)4月1日からは、GPS機能付き携帯電話からの通報で通報者の位置情報が緊急通報位置通知として、自動送付されるようになったことで、海での場所もさらに特定しやすくなりました。

また、使用目的も海難事故のみならず、海上における不発弾(機雷等)の発見、密航・密輸、不審船情報や海上環境事犯の通報先ともなっています。

一般人からの認知度が低い理由は、導入されたのが2000年(平成12年)からと最近であるためです。しかし、2010年度末までには、52000件を超える通報があり、これによってこれまでに2万人近い人々と6000隻近い船舶の救助が行われたそうです。

密漁や密航・密輸などの事犯についても、目撃者からの通報により解決されるケースが増えてきているそうです。最近日本近海では領海に不法侵入して密漁をする船が増えているようですから、赤地に黄色い五つ星の旗を掲げた不審船舶などを発見したら、即118番をしましょう。

海上保安庁は、この電話番号の一層の周知を図るため、11月9日の「119番の日」、1月10日の「110番の日」にならって、2011年より1月18日を「118番の日」に制定しているそうです。またキャッチコピーとして「海のもしもは118番」を掲げてアピールしているようです。

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この海上保安庁は、1948年(昭和23年)、連合国軍占領下の日本において洋上警備・救難および交通の維持を担当する文民組織として、当時の運輸省(現在の国土交通省)外局として海上保安庁が設立されることとなったものです。

一方、消防のほうの歴史はかなり古く、江戸時代初期の1629年、幕府から大名へ江戸の町の火消役を命ずる奉書が出されたのが起源とされ、これを「奉書火消」といいます。消防というものが初めて組織化されたわけであり、我が国の消防史上、画期的なことと言えます。

それまでは長らく日本には消防の組織が置かれず、火災に対してほとんど為す術がなく、このため、失火した場合は打ち首、放火した場合は火あぶりと、非常に厳しい刑罰が科されていました。

が、奉書火消が導入された当初は、出火の報を受けても奉書をいちいち書いて出動を命じる、というのんびりしたものであり、実際的な消防活動とはいえませんでした。このためさらに1643年には、武士によって組織された「武家火消」と、町人によって組織された「町火消」も制度化されました。

武家火消はさらに幕府直轄で旗本が担当した「定火消」と、大名に課役として命じられた「大名火消」に分けて制度化されたため、合わせて3系統の消防組織が存在するようになりました。

このように官民で消防組織が編成されるようになりましたが、ポンプもない時代では技術的にも限界があり、消防活動の中心は、火災周辺の住宅を破壊して延焼を防ぐ「破壊消火」であり、消防技術としては龍吐水や水鉄砲など小規模の火を水で消すため道具が作られた程度でした。

大政奉還に伴い、従来の大名や旗本による常設消防機関であった大名火消や定火消は姿を消し、江戸以来の町火消だけが残りました。これは明治時代になって「消防組」と呼ばれるようになります。内務省はこの消防組を警察機関の一部として吸収しましたが、これによっていわゆる「警察消防時代」が幕を開けました。

消防技術の面では、腕用ポンプや蒸気ポンプが輸入・国産化され、近代的な消防戦術が導入されました。消防は高度化・専門化を促され、「鳶職」から消防へと専門化を遂げ、その過程でかつての消防組は、現在の「消防署」にもつながるものへと変革されていきました。

大正期には、電話も普及し自動車ポンプが輸入され、都市を中心に消防が充実していき、地方都市でも消防組内に常備部を置くようになりました。自動車用のエンジンを使った手引きガソリンポンプや三輪消防ポンプが昭和に入って普及し始めます。

第二次世界大戦後は、GHQの指導により警察から独立し、1948年にいわゆる自治体消防制度が発足しました。大戦中に「警防団(後述)」として組織された消防組も、警察部門から切り離されて消防団に取り込まれて再出発します。

その後、消防は着実に進展を遂げ、20世紀末までに消防常備化がほとんど完了し、日本の消防は世界的にも非常に優れた組織・技術を持つに至りました。

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一方の警察は、第二次世界大戦後はGHQにより、それまでの中央集権的な警察組織が廃止され、1948年に旧警察法が定められました。この旧法では、地方分権色の強い国家地方警察と自治体警察の二本立ての運営で行われていましたが、1954年には現警察法に改正され、国家行政組織の警察庁と地方組織の警視庁・道府県警察に統一されて今日に至っています。

こうした歴史を持つ警察と消防がまだ一体化していた明治時代に、近代的な警察消防時代の基礎を築いたのが、「川路利良(としよし)」だといわれます。

東京都千代田区の北の丸公園に「弥生慰霊堂(弥生廟)」というのがあります。これは警察・消防殉職者のための慰霊施設ですが、川路利良はその功績を称えられ、ここにたった二人しかいない特別功労者のひとりとして祀られています。

もうひとりはガンベッタ・グロース(Gmbetta gulose?)といい、これは警察消防が創成期のころに、顧問だったフランス人のようです。

調べてみましたが、詳しい人物像には行きあたることができませんでした。が、川路利良は新時代にふさわしい警察制度研究のため渡欧し、フランスの警察に倣った制度改革を建議しており、このとき同国から招いたお雇い外国人の一人と考えられます。川路とともに創成期の警察消防の建設に功績があったとみなされ、合祀されたのでしょう。

この弥生慰霊堂のことを少し書いておくと、これかつては弥生神社と呼ばれていたようです。廟の形態をとりながらも社殿は神社建築に近いもので、本殿正面の脇には燈籠があるなど、全体的に神社だった頃の面影を漂わせています。

1877年(明治10年)に起きた西南戦争に出征して戦死した警察官(警視隊員)は名誉の戦死として東京招魂社(現靖国神社)に祀られましたが、凶悪犯逮捕や災害警備で殉職した警察官に対しては追悼すらありませんでした。このため、1881年(明治14年)ごろから警察・消防殉職者のための警視庁招魂社創建の議が唱えられるようになりました。

こうして1885年(明治18年)に本郷に創建されたのが「弥生神社」です。最初に祀られたのは1871年(明治4年)以降の殉職者94柱でしたが、現在の合祀者は2500柱超にまでなっています。その内訳は、警防団員が約5割、警視庁職員が約3割、東京消防庁職員が訳2割、その他皇宮警察本部、関東管区警察局、東京都警察通信部などとなっています。

ちなみに多数を占める警防団員というのは、上でも述べましたが、二次大戦勃発直前の1939年(昭和14年)に主に「空襲或いは災害から市民を守るため」に作られた団体職員です。

警察および消防の補助組織としての任務が課されていましたが、日本の敗戦に伴って存在意義が薄くなったため1947年(昭和22年)に廃止され、消防団に改組移行されているため、現在はありません。弥生神社に祀られている柱の多くは戦時中にその任務を遂行中に亡くなった方のものでしょう。

本郷弥生町に建てられたため、弥生神社と呼ばれていましたが、その後、芝公園に遷座され、さらに警視庁鍛冶橋庁舎構内、青山墓地内、1931年(昭和6年)には麹町区(現千代田区)隼町へと転々としました。

戦前は警視庁の管理下にありましたが、戦後の「神道指令」により、警視庁が神社を管理できなくなったため、1946年(昭和21年)に元警視総監をはじめとする有志が奉賛会が結成され、1947年(昭和22年)に現在の北の丸公園内に遷座されました。

と同時に名称を「弥生廟」と改めたのは、靖国神社のように祀られた人が神格化されるのを警察や消防関係者が嫌ったからでしょうか。その後、1983年(昭和58年)9月に名称を「弥生慰霊堂」に改称し、「弥生廟奉賛会」の名も「弥生奉賛会」に改めると同時に、従来の神式の慰霊祭からいわゆる“無宗教”形式の慰霊祭に変更し、現在に至っています。

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この廟に特別功労者として祀られている、川路利良(としよし)は、薩摩出身の武士です。
天保5年(1834年)薩摩藩与力(準士分)・川路利愛の長男として薩摩国比志島村(現在の鹿児島市皆与志町比志島地区)に生まれました。

薩摩藩の家臣は上士、郷士などに分かれ、川路家は身分の低い準士分でしたが、のちに帝国大学文科大学(東京帝国大学文学部)の教授になる、漢学者の重野安繹(やすつぐ)に漢学を、坂口源七兵衛に直真影流剣術を学びました。坂口源七兵衛とは、江戸後期にこの流派の名人といわれた坂口兼儔(かねとも・作市とも)の子孫かと思われます。

直真影流は江戸時代にいち早く竹刀と防具を使用した打ち込み稽古を導入したことで知られ、江戸時代後期には全国に最も広まりました。一般に薩摩といえば「示現流」といわれますが、直心影流は藩校の造士館も含め藩内で大いに稽古されていました。

元治元年(1864年)、30歳のとき、禁門の変で長州藩遊撃隊総督の来島又兵衛を狙撃して倒すという戦功を挙げ、西郷隆盛や大久保利通から高く評価されるようになりました。慶応3年(1867年)には、藩の歩兵隊の小隊長に任命されたことで、西洋兵学を学ぶ機会を得ます。

慶応4年(1868年)、戊辰戦争における鳥羽・伏見の戦いでは、薩摩藩官軍の大隊長として出征し、上野戦争では彰義隊潰走の糸口をつくるなどの功績をあげました。その後東北に転戦し、福島の磐城(いわき)浅川の戦いで敵弾により負傷しましたが、傷が癒えるとすぐに会津戦争に参加するなど血気さかんでした。

磐城浅川での旧幕府軍との戦いでは、敵の銃弾が股間に当たり負傷しました。このとき、一発の銃弾が川路の「金玉袋」を貫きましたが、金玉の「本体」は無事でした。

このことから、川路は戦場にあっても金玉袋が縮まず垂れ下がっていた、つまり怖がっていなかったから、といわれるようになり、彼の豪胆さを示す逸話となりました。その後も薩摩藩兵は事あるごとに「川路のキンタマ」とこのときの川路を讃えたといいます。

こうした戦功により、明治2年(1869年)、藩の兵器奉行に昇進。維新後の明治4年(1871年)には、西郷の招きで東京府大属となり、同年に権典事、典事に累進。典事というのは明治以降の太政官制度では中程度の役人で、給料はそれほど高くなく70円程度で、現在価値では30~40万円ほどになります。

しかし、翌年にはいきなり、邏卒(らそつ)総長に抜擢されており、これは現在の巡査部長ほどの役職になります。その直後に、司法省の西欧視察団(8人)の一員にも命じられて欧州各国の警察を視察しており、こうした抜擢は将来を嘱望されてのものだったでしょう。

この明治5年(1872年)の初めての渡欧の際、川路はマルセイユからパリへ向かう列車内で便意を催したもののトイレに窮しました。やむを得ず座席で日本から持参していた新聞紙の上に排便をし、その大便を新聞紙に包んで走行中の列車の窓から投げ捨てたところ、運悪くそれが保線夫に当たってしまいました。

その保線夫が新聞に包まれた大便を地元警察に持ち込んだことから、「日本人が大便を投げ捨てた」と地元紙に報じられてしまいます。この逸話はその後日本でも“大便放擲(ほうてき)事件”として知られるようになり、かの司馬遼太郎さんも小説「翔ぶが如く」の冒頭部分でこの話を面白おかしく書いています。

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帰国後、警察制度の改革を建議し、ジョゼフ・フーシェに範をとったフランスの警察制度を参考に日本の警察制度を確立しました。ジョゼフ・フーシェというのは、ナポレオンの下で警察大臣を務め、近代警察の原型となった警察機構をフランスに組織した人物です。

特に秘密警察を駆使して政権中枢を渡り歩いた謀略家として有名で、権力者に取り入りながら常に一定の距離を保って激動の時代を生き抜いた人物であったとされ、「カメレオン(冷血動物)」とあだ名されました。後世においては「過去において最も罪深く、将来においても最も危険な人物」評されました。

おそらく川路にこのフーシェの産み出したのと同様の組織を日本にも導入するように勧め、かつ導入にあたっての用具や装備などをフランスからあれこれ取り寄せる、あるいは日本で作らせるための指導などをしたのが、上述のガンベッタ・グロースなのでしょう。

明治7年(1874年)、警視庁が創設。これに伴い、川路も満40歳で初代大警視(後の警視総監)に就任 。これは現在でも史上最年少とされます。警察創成期のことであり、この時代の川路の業務は多忙を極めました。執務終了後ほぼ毎日、自ら東京中の警察署、派出所を巡視して回ったといい、一日の睡眠はわずか4時間に満たなかったといいます。

その後、征韓論に端を発し、当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した、いわゆる「明治六年政変」が勃発します。征韓論の主導者と目されていた西郷隆盛が下野すると、薩摩出身者の多くが従いました。

このとき川路は「私情においてはまことに忍びないが、国家行政の活動は一日として休むことは許されない。大義の前には私情を捨ててあくまで警察に献身する」と表明しました。

この国家存亡の危機にあり、当時の政府トップ、内務卿となっていた大久保利通からはこうした川路の言動はいかにも心強いものでした。彼の信任を受けた川路は、密偵を各地に放って、不平士族の動向を探ろうとしました。

高知県士族たちが起こした喰違の変(右大臣岩倉具視に対する暗殺未遂事件)や佐賀の乱などを起こした旧武士たちの動向を探るために、これらの地方にも密偵を放ちましたが、川路はとりわけ西郷を擁する薩摩の動向を探ることに注力しました。

このとき、川路と同じく薩摩出身の腹心の部下で、中原尚雄ら24名の警察官を「帰郷」の名目で鹿児島県に送り込みますが、中原らは西郷の私学校生徒に捕らえられてしまいます。

川路にすれば、薩摩藩内でも評価の高い腹心の中原なら不平士族の離間工作が図れると考えたのですが、意に反してかえって中原は捕えられ、苛烈な拷問が加えられました。結果として、川路が西郷を暗殺するよう指示したという「自白書」が彼からとられたため、以後、川路は不平士族の間では大久保と共に憎悪の対象とされるようになってしまいます。

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そうこうしているうちに、西郷以下の薩摩藩士たちが決起。1877年(明治10年)2月にはついに西南戦争が勃発しますが、このとき川路は陸軍少将に兼任され、その鎮圧を命じられます。

警視隊で組織された別働第三旅団の長として九州を転戦しますが、激戦となった3月の田原坂の戦いでは、警視隊から選抜された抜刀隊が活躍して西郷軍を退けることに成功します。5月には市内北部の大口攻略戦に参加、6月には逆に南部の宮之城に転戦してここでも激戦の末、西郷軍を退けて進軍を果たしました。

しかし、その後旅団長の座を大山巌(後の第2代大警視)に譲り、警察官による本戦は大山のもとで行われることとなり、川路は東京へ戻りました。3万人といわれた西郷軍は激しい戦いを繰り広げましたが、その2倍の6万人の政府軍に打ち破られ、9月の城山籠城戦にも破れて西南戦争は終結しました。

東京で元の大警視の仕事に戻った川路でしたが、終戦後の明治11年(1878年)、突然スキャンダルにみまわれます。

この年の3月、内閣総理大臣や元老、枢密院議長などの政府重職を歴任した黒田清隆の妻が急死した際、かねてより酒乱で知られていた黒田が酒に酔って妻を斬り殺したとの噂が流れた際、川路も薩摩出身であることから黒田をかばってこの噂をもみ消した、と新聞で叩かれたのです。

黒田は、開拓長官時代にも商船に乗船した際、酒に酔って船に設置されていた大砲(当時は海賊避けのため商船も武装していた)で面白半分に岩礁を射撃しようとして誤射し、住民を殺害したことがあり、これは示談金を払って解決していました。

こうしたこともあって黒い噂が出たようですが、このために、黒田は辞表を提出しました。が、大久保利通の説得でこれを撤回。伊藤博文と大隈重信が法に則った処罰を主張したのに対して、大久保は黒田はそのようなことをする人間でないと保証すると述べ、自身の腹心である大警視の川路利良に調査を命じました。

川路は、黒田の妻の墓を開け、病死であることを確認したと発表しましたが、噂はなかなか消えず、川路だけでなく、政府内の薩摩出身者に批判が集まるようになります。

その2か月後の5月には、川路の庇護者であったこの大久保利通は暗殺(紀尾井坂の変)されています。暗殺実行者の不平士族6名(のち処刑)が残した斬奸状には、大久保自身が、国を思う志士を排斥して内乱を引き起こした、と記されていました。

大久保が暗殺されると、黒田は薩摩藩閥の最有力者とみられるようになりますが、明治14年(1881年)にいわゆる、開拓使官有物払下げ事件で失脚。これは開拓使の廃止に伴い、官営事業の設備を民間に払い下げる際、北海道開拓使長官だった黒田が、事業が赤字であったことを理由に、諸施設を非常な安値で売り飛ばそうとした事件です。

黒田の払い下げ計画が新聞報道されると、在野はその売却先が同じく薩摩出身の政商・五代友厚だとして激しく非難したため、払い下げは中止になり、黒田は開拓長官を辞めて内閣顧問の閑職に退きました。その後伊藤博文の後をうけて第2代の総理大臣にまで上り詰めましたが、その醜聞と疑獄事件は後々まで世人に記憶され、黒田の名声を傷つけました。

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しかし、薩摩閥はその後も長州閥とともに政府内で君臨し続けます。そんな中にあっても篤実な川路の評価はますます高く、明治12年(1879年)には、再び欧州の警察を視察。ところが船中で病を得、パリに到着当日はパレ・ロワイヤル(ルイ14世の王宮)を随員と共に遊歩しましたが、宿舎に戻ったあとは病床に臥してしまいます。

咳や痰、時に吐血の症状も見られ、鮫島尚信駐仏公使の斡旋で現地の医師の治療を受け、転地療養も行ったが病状は良くならなりませんでした。同年8月日、郵船「ヤンセー号」に搭乗し、10月に帰国。しかし東京に帰着すると病状は悪化、10月13日に死去しました。享年わずか46歳。墓所は青山霊園にあります。

川路の死に際しては、先の黒田事件の余波もあり、関西の政商である藤田組が贋札事件の捜査を恐れ毒殺したという噂なども立ちました。藤田組は、長州人の藤田伝三郎によって創設された組織で、現在その中核はDOWAホールディングス株式会社となっており、ゼネコンの大成建設もそのルーツはこの藤田組につながります。

明治になって長州藩が大砲・小銃・砲弾・銃弾などを払い下げたとき、藤田はこれらを一手に引き受け、大阪に搬送して巨利を得たほか、西南戦争が勃発すると征討軍の軍需物資を用立てて巨額の富を得ました。

この事件は、藤田組がドイツ滞在中の井上馨と組んで現地で贋札を製造して秘かに持ち込んで会社の資金にしようと企てた、というもので、会社に家宅捜索が入り、藤田は関係者とされる7名と共に拘引逮捕されました。しかし、何ら証拠がなく無罪放免となり、3年後に別の容疑者が逮捕されて冤罪が晴れました。

藤田が濡れ衣を着せられた理由としては、長州人脈を頼りに、若くして大金持ちになったことを妬まれたことがあったとされ、また背後に薩摩と長州の勢力争いがあったことが取沙汰されています。

このころ薩摩側は西郷隆盛の戦死や大久保利通の暗殺と次々に有力者を失い、長州に押されており、そこで薩摩閥が支配していた川路の内務省警視局を動かして、長州系の大物の不正を暴こうという動きがありました。

これより前に、長州閥の山縣有朋が政商・山城屋和助の汚職事件に連座したとして、危うく政治生命を失いかけたこともあり、そこに藤田のニセ札事件が起こりました。その密告情報を得ていたのは薩摩出身の川路が仕切る警視局であり、そんな中での大警視の川路の死は、実は長州閥による暗殺ではなかったか、と噂されたというわけです。

しかし、川路は鹿児島県では「西郷隆盛を暗殺しようとした男」「郷土に刃を向けた男」として長らく裏切り者の印象を持たれて評価が低めであり、そうした評価もあってか、自らも薩摩閥とみられることを嫌っていたようです。

警察内にも派閥を作らせず、藩閥に関係なく純粋に警察という組織の育成に尽力しました。その結果、警視庁に在職した期間は決して長いものではなかったものの、警察制度創始者としては現在も高い評価がされています。警察の在り方を示した川路の語録は「警察手眼(しゅげん)」として編纂され、警察官のバイブルとして現在も広く読み継がれています。

明治18年(1885年)、上述の弥生神社(現 弥生慰霊堂)に特別功労者として祀られました。また現在、警視庁警察学校には彫塑家・北村西望の作となる立像が、警視庁下谷警察署敷地内には川路邸宅跡の石碑が建っています。警察博物館には川路大警視コーナーが設けられ、川路の着用した制服、サーベルが展示されています。

かつて人々に嫌われた鹿児島でも、生誕地である皆与志町の生家近くのバス停は川路にちなみ「大警視」と名付けられており、生誕の地には記念碑が、川路が率いた別働第三旅団の激戦地である霧島市(旧横川町)内にも銅像が建っています。

平成11年(1999年)に当時の鹿児島県警察本部長・小野次郎らの提唱で鹿児島県警察本部前に銅像が設置されるなど、現在の地元でも人気があまりないながらも、ようやくその功績や人物像が再評価の段階に入りつつあるといいます。

蒲鉾が大好物であったそうで、あまりによく買うので料理屋だと思われていたといいます。
その川路大警視にあやかって今晩はおでんにでもしようかと思っている次第です。

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冒険に出よう!

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ちょっと前の夏のこと、アメリカ政府がアラスカ州にある北米大陸の最高峰「マッキンリー」を、先住民の呼称である「デナリ」に変更すると発表した、というニュースが流れました。

1897年、この山は、当時のアメリカ合衆国大統領ウィリアム・マッキンリーにちなみマッキンリー山と命名されました。1867年に、アラスカをロシアから購入してからちょうど30年を経たときのことです。

この翌年にはハワイ王国が併合され、スペインとの米西戦争に勝利するなど、このころのアメリカは絶頂期に達しつつありました。

このアメリカを率いていたのが、第25代目のアメリカ合衆国大統領、ウィリアム・マッキンリーです。最後の南北戦争従軍経験者の大統領であり、19世紀最後かつ20世紀最初の大統領でもあります。

1893年の恐慌後、回復に向けて国の経済を立て直すべく、金本位制を導入したことで、アメリカは立ち直りはじめました。ちょうどこのころ、まだ世界の超大国であったスペインはアメリカ喉元のキューバに進出しようとしていたため、アメリカ合衆国の世論はスペインに対する憤慨で沸き立っていました。

マッキンリーは、その蛮行を止めるように強硬に要求しましたが、スペインが聞きいれなかったため、1898年、ついに米西戦争が勃発しました。

アメリカ軍はスペイン艦隊を壊滅させ、90日間でキューバとフィリピンを占領し、戦争はアメリカの勝利で終わりました。1898年のパリ協定の結果、スペインの植民地であったプエルトリコ、グアム、フィリピンはアメリカ合衆国に併合され、キューバはアメリカの占領下に置かれました。

翌年にはハワイ共和国を併合、同国の全ての居住者がアメリカ国民となりました。1900年の大統領選では、最初の大統領就任の際にも戦った民主党のウィリアム・ジェニングス・ブライアンと再び争いました。

ブライアンは外交政策と繁栄の復帰に焦点を合わせた激しい選挙戦を展開しましたが、経済の復興を成し遂げ、米西戦争の勝利などによっても国民から絶大なる信頼を受けたマッキンリーは再選を成し遂げました。

しかし、1901年、無政府主義者のレオン・チョルゴッシュによって暗殺されました。チョルゴッシュは大統領に向かって二発の銃弾を撃ち込んだあと再び発砲しようとしましたが、大統領の護衛によって殴られ、続いて激怒した群衆によって制圧されました。

腹を立てた群衆が激しくチョルゴッシュを打ちつけ、その場で殺してしまいそうな雰囲気を見たマッキンリーは、負傷していたにもかかわらず、「誰も彼に危害を加えるな!」と叫んだといいます。

撃たれた大統領の体の中の銃弾は、一発は摘出されましたが、医師は二発目の弾丸を発見することができませんでした。この当時はすでにX線検査機が実用化されていましたが、医師はそれを使用することでどのような副作用が生じるかを不安に思いました。このため体内の弾丸を捜索するためにこの最新鋭機器を使用しませんでした。

結局この残された弾丸が致命傷となり、一週間後に大統領は亡くなりました。彼の後任は副大統領のセオドア・ルーズベルトが引き継ぎましたが、このルーズベルトもまた、アメリカを第一次世界大戦の勝利へと導き、アメリカは二代続いたこの共和党の大統領によってより強固な国へと導かれました。

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この名大統領といわれたマッキンリーの名を冠した山をなぜいまさら、デナリ(Denali)に変更したかですが、サリー・ジュエル内務長官は「この地に対する敬意を表し、アラスカ先住民の伝統と、アラスカ州の人々の強い支持を認め、公式にデナリと改称する」と、声明を出しており、地元からの強い要望があったことをうかがわせます。

また、1980年には、アラスカ州法に基づき、山を含む周囲にデナリ国立公園が設置され、同時に、アラスカ地名局は山の呼称も既にデナリと改称していました。ただし連邦地名局は、引き続きマッキンリー山という呼称を使っており、その後、2つの呼称が混在していました。

しかし、アラスカ人は「デナリ」の名を好む傾向があり、また連邦政府での呼称もデナリに変更しようとする運動もありました。その一方で、観光客などは山はマッキンリー、国立公園はデナリと呼び分けることもあったようです。

それをなぜあえて今改めて改名の表明をしたかですが、これは最近、世界的にもヨーロッパ人がつけた土地の名前を元のものに戻す例が増えていることと無関係ではないようです。

数年前にも、ニュージーランドにあるクック山が、元からあったマオリ語の呼称「アオラキ」に変更され、クック山はカッコ内に併記されることになったという例がありました。また、ネパールにあるチョモランマも、その昔はインド測量局で長官を務めていたジョージ・エベレストにちなんでエベレストと呼ばれていました。

マッキンリーの改称名のデナリは、地元の先住民族コユコン・アサバスカンの言葉で、「偉大なもの」を意味し、神の山として崇められています。このため、アラスカ州では名称の変更を歓迎していますが、オハイオ州選出の議員は面白くなさそうです。

マッキンリー山の名の由来となった第25代米国大統領マッキンリーは、オハイオ出身であるためです。ただ、長年親しまれてきた名前だけに、残したいとする向きも多いようで、ナショナル ジオグラフィック誌では、「デナリ(マッキンリー山)」のようにマッキンリーの方をカッコ内に入れることにする、と表明しています。

私的にも、デナリという馴染のない言葉よりも、マッキンリーのほうが親しみやすいので、以下でも従来どおりのマッキンリーで通して話を進めたいと思います。

このデナリことマッキンリーですが、北アメリカ最高峰の山であり、その標高は6,190mです。エベレストよりも大きな山体と比高を持ちます。比高というのは、任意の2地点をとった場合、両地点の標高の差のことで、ようはその山の麓からの高さのことです。

エベレストの標高はマッキンリーより2700mも高くなっていますが、元々この山があるチベット高原が高いところにあるため、その比高は3700m程度に過ぎません。一方、マッキンリーはふもとの平地の標高は600m程度であり、そこからの比高は5500mにも達します。

これがこの山の登頂を難しくしている理由です。2015年までに冬季登頂を果たしたのは10隊17人にすぎず、冬のマッキンリーでは6人が死亡しています。

一方のエベレストはというと、1953年のエドモンド・ヒラリー初登頂以来、シェルパ・ガイドなどを除いても1万4千人以上が登頂を果たしており、今では登るために入山料を払わなければならなくなっており、観光地化されているといっていいほどです。

ちなみにエベレストでの死亡者数は、これまでで231人もいます。このため、山頂付近にはこの山で死んで、回収不可能となった人の死体がゴロゴロとあちこちに転がっているといい、そこは世界の最高峰、やはり一般の観光地とは違います。

これと比べればマッキンリーの登山者数がいかに少ないかがわかります。その登山を難しくしているのは、やはり高緯度にあることであり、極寒の地であることです。夏でも山頂の平均気温はマイナス20℃程度であり、冬には5700m地点に据えられた温度計の最低気温が日常的に氷点下40°Cを下回り、1995年には-59.4°Cを記録しました。

1969年以前には、中腹の約4600m地点で最低気温−73.3°Cを記録したこともあります。また、マッキンリーはこのように気温が低いことの影響でヒマラヤやアンデスの同一標高よりも気圧が低いのが特徴で、そのため登山者にとっては高山病の危険性などが高くなり、一層その登山の危険度を増します。

マッキンリー山頂と同じ程度に低い気圧になるヒマラヤの場所は、登山シーズンで比較するとマッキンリー山頂よりも約300〜450m程高いところにあるといいます。この気圧は夏よりも冬のほうがさらに一段と低くなるため、冬季の登山はさらに過酷です。冬のマッキンリー山頂の気圧は夏のヒマラヤの7000m超に相当するといいます。

しかも、山頂は常に風が吹き荒れています。冬にはジェット気流の影響からしばしば時速160km(秒速44m)の風が吹き下ろし、さらにその登山路の途中にある風が集まるような場所では、風速が倍増します。

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このマッキンリーに最初に登ったのは誰かについては、諸論があります。1903年にアメリカの探検家、フレデリック・アルバート・クックにより初登頂されたと報じられたことがありましたが、この登頂は、1909年にクックに同行したエド・バレルという人物によって否定されました。

なぜ否定したかについてですが、実は彼はこのクックのライバルの登山家、ロバート・エドウィン・ピアリーという男に大金で買収され、偽証したのではないか、ということが言われています。

このクックとピアリーは犬猿の仲でした。その理由ですが、そもそもこの二人は同僚でした。1891年、クックは、ピアリーのグリーンランド初探検に医師として参加し、以後1897年までに4度にわたるグリーンランド探検を共に行っています。

クックは有能な片腕として活躍していました。ところがその後、ピアリーとの探検を出版することに際しての著作権の問題で揉めた末袂を分かち、別行動をとるようにりました。と同時に、何かあるたびにお互いの誹謗中傷を始めました。

その後ピアリーの興味はグリーンランドから北極点へと移り、1909年には彼を含めて6名が北極点に到達しました。ところが、この探検から帰還後、元の仲間であるクック が、「自分は、1908年4月21日に既に北極点に到達していた」と主張。相次ぐ極点征服のニュースは世界を驚愕させ大論争になりました。

調査委員会が設けられましたが、結局クックの訴えは退けられ、しかも詐欺罪で収監となり、ピアリーが最初の北極点到達者と認定されました。ところが、このときもピアリーが証人を買収していたことがのちに判明しました。

実際、クックは北極点の数百キロ手前までしか到達していなかったことがその後の調査でわかったようですが、ピアリーもまた北極点に達していませんでした。さらに後の別の詳しい測量では、ピアリーらが北極点だとしていた点は正確には北極点から約6kmの地点であったことが分かっています。

また、ナビゲーションの技術を持つものがいなかったにも関わらず旅程が不自然に順調であることなどから、二人の到達そのものを疑問視する説もいまもって根強いようです。

結局、人類で初めて北極点に到達したとされるのが確認されたのはかなり測量の技術が発達した1926年のことであり、アメリカのリチャード・バードが、ノルウェー・スピッツベルゲン島から北極点まで飛行機による往復飛行に成功したときのことです。これは同時に航空機のよる世界初の北極点到達の記録となっています。

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一方、「徒歩」での到達は1937年のこととされ、これはソ連の科学者イワン・ドミトリーヴィッチ・パパーニンによるものでした。ただし、彼も北極点までは飛行機で行っており、流氷上に着水後、そのまま氷上で史上初の漂流越冬観測を行いました。

マッキンリーの登頂に際しても、ピアリーはクックと行動を共にしたエド・バレルを買収して偽証させたとされ、当時の金で5,000ドルもの大金を払ったといわれています。これは現在の日本円で1,000万円にも相当しますが、それほどの対価を払っても相手をおとしめたい、というのはかなりのえげつない男です。

虚栄心の強いいやなヤツ、というイメージを持ってしまいがちですが、冒険に対する情熱は相当のもので、1898年に初めて北極点到達に挑戦して失敗したときには、凍傷で足指8本を失っています。またグリーンランド探検を行った際には、現地のイヌイット女性との間に二児をもうけており、単なるお高い金持ちでもなかったようです。

このほかにも、鉄の精錬技術を持たないグリーンランドのイヌイット族が鉄を利用している謎がピアリーの調査で判明するなどの功績をあげています。イヌイット族は1万年前に落下したと推測される56トンもの巨大な隕鉄を利用していたことを発見したのは彼です。

しかし、ピアリーはこの一部をアメリカへ持ち帰り博物館に4万ドル (5万ドルとも) で売却しており、金の亡者といわれてもしかたのないような一面はあったようです。

結局、このピアリーの横槍によって、クックのマッキンリー初登頂が事実だったかどうかはうやむやになりました。その後、1913年に宣教師のハドソン・スタック以下の4名が初登頂に成功したとされ、1947年には、バーバラ・ウォシュバーンが女性として初めて頂上に到達しました。

マッキンリーに登頂した初の日本人は、冒険家として高名な植村直己です。1970年8月26日のマッキンリー単独初登頂に続き、1984年2月12日にも冬期単独初登頂を達成しており、彼の冒険は常に「世界初」にこだわったものでした。

43歳の誕生日にこの世界初のマッキンリー冬期単独登頂を果たしたとされますが、翌2月13日に行われた交信以降は連絡が取れなくなり、消息不明となりました。その後出身校の明治大学山岳部によって2度の捜索が行なわれましたが発見されることはありませんでした。

ただ、植村が登頂の証拠として山頂付近に立てた日の丸の旗竿と、雪洞に残された植村の装備が遺品として発見されており、冬季初登頂は間違いないとされます。しかしその後の捜索によっても発見されず、やがて生存の確率は0%とされ、捜索は打ち切られました。

現在に至るまで遺体は未発見であり、最後の交信で消息が確認された1984年2月13日をが、現在では彼の命日とされています。

ちなみに、同じ登山家の栗秋正寿が、これから4年後の1998年3月8日に日本人としては初のマッキンリーの冬季単独登頂および帰還に成功しており、この冬季単独登頂は史上最年少での快挙であり、世界で4人目でした。

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その後マッキンリーに登頂した日本人としては、「珍獣ハンター」として有名なタレントのイモトアヤコが知られています。もっとも、単独ではなく、日本テレビ撮影隊の一員として登頂に成功しました。

登ったのも冬季ではなく、2015年6月21日 であり、登山開始から16日目のことでした。ただ、頂上付近では急激な天候の変化があり、見る間に山頂付近が雲に覆われ、視界はあっという間に奪われる、という状況でした。しかし、同日13時35分、イモトは見事マッキンリーの頂上、6,190メートルの頂に到達することとなりました。

私もこの時の状況録画をテレビ見ていたのですが、一歩間違えば死と隣り合わせといわれるような危険な現場だっただけに、お笑いタレントといわれるいつものひょうきんな彼女ではなく、真剣そのもののその行動には、正直感動を覚えました。

これまでも、2009年5月のキリマンジャロ登頂成功を皮切りに、モンブラン、アコンカグア、マッターホルン、マナスル、キナバルなどなどの名峰に登っており、その「根性」には感服です。

もうすでに冒険家といっても良いほどのレベルにあると思いますが、この「日テレ登山部」としての活動はどこまで続くのでしょうか。

それにしても、そもそも冒険家という職業はあるのでしょうか。

この冒険家というものの定義ですが、これは、ウィキペディアによれば、それが名誉、利益のために、あるいはなんらそれがもたらすものがなくても冒険それ自体のために危険な企て、冒険、試みに敢えて挑戦を試みる人たちのこととされます。

一方、探検家というのもありますが、こちらは探索すべき余地が残されている未知の領域に直接に赴くことにより調査する人々を指し、ときにその調査は無謀のものであることも多く、冒険家もこの範疇に含まれるようです。

広義の意味においては、探検家には宇宙飛行士を含むこともあり、その目的は、軍事・商業・学術・旅行・宗教、およびそれらのルートの開拓などであり、無論、冒険そのものによってスリルを楽しむ?ことが目的の場合もあります。

探検や冒険をするひとたちに、なぜ冒険などするのか、と聞かれて明確に答えられる場合は少ないようで、それはあえていえば登山家のジョージ・マロニーが言ったように、そこに山があるから、そこに冒険があるから、ということになるでしょうか。

古代から中世にかけての探検家、冒険家はどちらかというと孤立した存在で、組織的で計画的な探検家への援助はほとんど行われてきませんでした。古代の探検家達の名前はほとんど伝わっていませんが、古代エジプトのネコ2世の命令を受けたフェニキア人によりアフリカ周航が行われたといいます。

また紀元前5世紀にはカルタゴ(現在のチュニジア・アフリカ北部)のハンノという航海者が象牙海岸(現コートジボアール・アフリカ西部)付近まで航海したという記録が残っています。

東洋人としても7世紀には、西遊記で有名な玄奘(げんじょう)による中国・インド往復が行われました。また、ま0世紀になると、ヴァイキングのレイフ・エリクソンが北米大陸に到達しており、このころからヨーロッパ人の探検家が続出するようになりました。

13世紀には、ヴェネツィアの商人、マルコ・ポーロによってイタリア・中国往復が達成されており、このころからアジアとヨーロッパがつながり始めました。

彼らの探検の動機は主に商業や宗教であり、交通の未発達な時代の国家戦略的でない探検という点で共通しています。15世紀中ばに入り、ヨーロッパで大探検時代、いわゆる大航海時代がはじまると、ヨーロッパの各国や有力なパトロンが国家的または商業上の戦略としてさまざまな探検をサポートしました。

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この時代に探検が盛んになった背景には船や航海術の発達、そして西洋諸国が商業主義・資本主義の道を歩み始めていたことが挙げられます。 とりわけ、アラビア商人が一手に握っていたインドとの交易が最大の目的であり、コロンブスのアメリカ到達も結局はインドを目指したものでし。

よく知られた話ですが、コロンブス自身は自分がインドに到達したと思い込んでおり、結局のところインドとの交易は喜望峰周りで航海したヴァスコ・ダ・ガマにより達成されました。この時代の探検家では1492年にアメリカ大陸に到達したコロンブスがもっとも知られています。

コロンブスの他にも、アフリカの南端を回りインドのカリカットに到達したヴァスコ・ダ・ガマや世界一周航海をなしとげたマゼランは有名です。ただ、マゼラン自身は航海の途上フィリピンのマクタン島で現地の人間に殺されています。マゼランの航海は265人で出発しましたが、無事にスペインに帰還したのはわずか18人でした。

大探検時代を経て世界の姿が明らかになりつつあった近代には、未だ知られていなかった各地に探検家達は赴くようになりました。 アメリカ内部の探検や、アフリカ内部の探検が行われ、また、南方大陸として存在が予言されていた大陸を目指して太平洋・オーストラリアの探検も行われました。

さらに時代が下ると探検家達は、上述のように北極点・南極点を目指すとともに、高い山を目指すようになりました。 この時代の探検の特色は名誉や学問のために探検が行われたことにあり、進化論で有名なチャールズ・ダーウィンはこの時代にビーグル号に乗って航海をしています。

18世紀に入ると日本人でも探検家といわれる人々が多く出るようになります。蝦夷地・樺太探検を行った間宮林蔵(1775~1844年)、千島列島・南西諸島を探検した笹森儀助 (1845~1915年)、チベットへ潜入した河口慧海 (1866~1945年)、南極探検をした白瀬矗(1861~1946年)、千島列島探検をした郡司成忠(1860~1924年)などがそれです。

これらの中でも、河口慧海は異色です。 他の探検家と呼ばれる人たちはすべて、この当時国家的な事業であった測量に携わっていたのに対し、チベットへ向かったのは、この地にあった「仏典」を単独入手するためです。

幕末の1866年(慶応元年)に泉州は堺(現・大阪府堺市)に生まれました。1890年(明治23年)、24歳のとき出家し、当時は東京本所にあった百羅漢寺で修業しました。2年後には大阪妙徳寺に移り、ここで禅を学び、その後、五百羅漢寺に帰って住職を勉めるまでになります。

しかし、その地位を打ち捨て、梵語・チベット語の仏典を求め、この当時その昔の日本と同じように鎖国状態にあり、秘境といわれたチベットを目指しました。数々の苦難の末、2度のチベット入りを果たしましたが、最初の侵入は1897年(明治30年)のことです。6月に神戸港から旅立ち、当初シンガポール経由で英領インドカルカッタへ向かいました。

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ここでチベット語学者でありチベット潜入経験のあるインド人の、サラット・チャンドラ・ダースの知遇を得、彼の紹介を得ることでおよそ1年ほど現地の学校で正式のチベット語を習うことができました。またその間に、当時厳重な鎖国状態にあったチベット入国にあたって、どのルートから行くかを研究しました。

その結果、ネパールからのルートを選択。日本人と分かってはチベット入りに支障をきたす恐れが強いため、中国人と称して行動することにします。1899年(明治32年)1月、33歳の彼は、仏陀が成道したとされる、インド北東部、ブッダガヤに詣でました。

その際、地元の仏教会の有力者から、ブッダ(お釈迦さま)の舎利(遺骨)をおさめた銀製の塔とその進呈書、そしてヤシの葉に書かれた経文一巻をチベットに辿り着いた際に法王ダライ・ラマに献上して欲しいと託されます。

同年2月、ネパールの首府カトマンズに到着。当地でチベット仏教の巨大仏塔(ストゥーパ)の住職の世話になるかたわら、密かにチベットへの間道を調査します。同年3月、カトマンズを後にし、険しい山道を経て徐々に北西に進んで行きますが、途中、警備のため間道も抜けられぬ状態が判明し、国境近くでそれ以上進めなくなりました。

ここで知り合ったモンゴル人の博士セーラブ・ギャルツァンが住むロー州ツァーラン村に滞在することになり、1899年(明治32年)5月より翌年3月頃までをネパールのこの村でチベット仏教や修辞学の学習をしたり登山の稽古をしたりして過ごしながら新たな間道を模索しました。

新たな間道を目指して途中の村に滞在し、そこにあった仏堂に納めてあった経を読むことで日々を過ごしながら、間道が通れる季節になるまでこの地にて待機しました。そして1900年(明治33年)6月、この村での3ヶ月の滞在を終え、いよいよチベットを目指して出発。

同年7月4日、ネパール領とチベット領との境にあるクン・ラ峠を密かに越え、ついにチベット西北原への入境に成功しました。入国後は、同国の尊者との面会や、聖地カなどの巡礼の後、1901年(明治34年)にチベットの首府ラサに到達。

そしてチベットで二番目の規模(定員5500名)を誇るセラ寺の大学にチベット人僧として入学を許されます。慧海はそれまで中国人と偽って行動しましたが、この時にチベット人であるとウソをついたのは、中国人として入学してしまうと他の中国人と同じ僧舎に入れられ、自分が中国人でないことが発覚する恐れがあったためでした。

一方、チベットに入国後に世話になった人々には中国人であると言ってしまっていたため、そうした一部の人に対しては、依然として中国人であると偽り続ける必要がありました。このため、ラサ滞在中は二重に秘密を保つこととなりました。

慧海は元々禅道で修業していたことから整骨の心得などがあり、このため身近な者の脱臼を治してやったことがきっかけとなり、その後様々な患者を診るようになりました。このため次第にラサにおいて医者としての名声が高まるようになり、チベット語でセライ・アムチー(セラの医者)という呼び名で民衆から大変な人気を博すようになります。

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本名としてはセーラブ・ギャムツォ(チベット語で「慧海」)と名乗っていましたが、結局ラサ滞在以降、チベット民衆の間ではもっぱらセライ・アムチーという名で知られることになりました。その名声はついには法王ダライ・ラマ13世にまでおよび、慧海はついに法王にまで召喚されます。

その際侍従医長から侍従医にも推薦されていますが、仏道修行することが自分の本分であると言ってこれは断っています。また、前大蔵大臣の妻を治療した縁で夫の前大臣とも懇意になり、以後はこの大臣邸に住み込むことになりました。

この前大臣の兄はチベット三大寺の1つ、ガンデン寺の坐主であり、前大臣の厚意によってこの高僧を師として学ぶこともできるようになりました。

こうしてまたたくまに2年がすぎましたが、この間、どこからか彼は生粋のチベット人ではないのではないか、という噂が立つようになります。

その噂をもとに素性を調べた人物がいたのかどうかわかりませんが、その後はさらに彼が日本人だという噂まで出てきたため、さすがにこれはヤバイと感じた彼はラサ脱出を計画。

1902年(明治35年)の5月、このころまでには慧海上旬、親しくしていた薬屋の中国人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典などを馬で送る手配を済ませた後、5月29日に英領インドに向けてラサを脱出しました。

このときは、通常旅慣れた商人でも許可を貰うのに一週間はかかるという五重の関所をわずか3日間で抜け、無事インドのダージリンまでたどり着くことができました。しかし、その後、国境を行き来する行商人から、ラサ滞在時に交際していた人々が自分の件で次々に投獄されて責苦に遭っているという話を慧海は聞き込みます。

その後かつて教えを受けたインド人の恩師などの反対を押し切り、その救出を模索するため、チベットの隣国、ネパールに赴きました。そして交渉の結果、慧海自身がチベット法王ダライ・ラマ宛てに書き認めた上書をネパール国王(総理大臣)であったチャンドラ・サムシャールを通じて法王に送って貰うことに成功。

これを読んで感動したダライ・ダマの命によって多くの知人が解放されたとされます。また慧海はこのとき国王より多くの梵語仏典を賜りました。1903年(明治36年)、37歳になった慧海は、同年4月に英領インドをボンベイ丸に乗船して離れ、5月には旅立った時と同じ神戸港に帰着。日本を離れてから、およそ6年ぶりの帰国でした。

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無論、それまで謎の国とされていたチベット行きは、記録に残る中で日本人として史上初のことであり、その後も長くこの冒険は語り継がれるところとなりました。

その後、チベットはイギリスや中国に干渉される形となったため、鎖国状態からは解放されました。河口慧海は解放されはじめていたチベットに、大正時代(大正2年~4年ころ)になってから2回目の入境を果たしています。

ネパールでは梵語仏典や仏像を蒐集し、チベットからは大部のチベット語仏典を蒐集することに成功し、また同時に、民俗関係の資料や植物標本なども収集しました。

持ち帰った大量の民俗資料や植物標本の多くは現在も専門家の間では、チベット研究の重要資料と目されています。1903年(明治36年)に帰国した慧海は、その後、チベットでの体験を新聞に発表、さらにその内容をまとめて1904年(明治37年)に「西蔵旅行記」を刊行しますが、これはベストセラーになりました。

英訳では1909年に“Three Years in Tibet”の題でロンドンの出版社から刊行されており、その体験談は世界的にも一大センセーションを巻き起こしましたが、その一方で、彼のチベット入境は俄かには人々には信じられず、当初はその真偽を疑われてしまいました。

しかしその後はチベット人の証言者なども現れ、それが事実であるとわかると、彼はヒーロー視にされるようになりました。「西蔵旅行記」は仮名遣いに改訂されて「チベット旅行記」として出版され、これらも好評を博しました。

晩年は、経典の翻訳や研究、仏教やチベットに関する著作を続け、のちに僧籍を返上して、ウパーサカ(在家)仏教を提唱しまし。また、大正大学教授に就任し、チベット語の研究に対しても貢献しました。

最晩年は蔵和辞典(チべット語和訳辞典)の編集に没頭。太平洋戦争終結の半年前、防空壕の入り口で転び転落したことで脳溢血を起こし、これが元で終戦の年、1945年の春先に東京世田谷の自宅で死去。享年78。 慧海の遺骨は谷中の天王寺に埋葬されましたが、現在は青山霊園に改葬されています。

現在、日本政府は台湾やチベットをさておき、中国優先政策を対中外交の基本姿勢としているため、チベット亡命政府を認知していません。

しかし、中国政府もチベット自治区も外国人の入国を拒否していないため、首都ラサなどへは、空路、列車、車をチャーターして陸路で入ることができます。

列車と航空機を利用するのが一般的なようで、日本のツーリストも普通にツアー旅行を組んでいます。が、慧海が入国した当時のこの地はまったくの秘境の地であり、そこを訪れるだけが冒険でした。

現代では、こうした冒険の地は、探検しつくされつつあります。しかし探検家は深海の探検や、海中や水中を含む洞窟の探検、ギアナのテーブルマウンテン、密林の奥地など未だ人間を拒み続けているわずかな場所を目指して今も冒険を続けています。

ただ、そうした場所は枯渇しつつあり、大勢は地球外の探検に傾いています。現在のところ地球外の探検が国家による巨大なプロジェクトとして行われようとされているのは周知のとおりです。

そのうち河口慧海のように、秘境といわれるような宇宙人の巣窟に冒険家が行くような時代が来るのかもしれません。そのころまでには私もこれを読んでいる方々も生きてはいないでしょうが。

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