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しかたがない

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北海道の大雪山では、一昨日、初冠雪が観測されたそうで、今年ももうすぐ冬がやってきそうです。

が、目の前にある富士山は、真っ黒いままです。先日の低気圧の通過の際に、もしや……と思ったのですが、空振りでした。

富士の初冠雪は、平年では9月30日。そろそろ降ってもおかしくはないのですが、昨年は16日遅れの10月16日、一昨年は10月19日でした。今月も今日で終わりなので、どうやら今年も初冠雪は10月になりそうです。

その9月の終わりの時期になって、福山雅治さんが、女優の吹石一恵と入籍したとのビッグニュースが入ってきました。夜7時のNHKニュースでも報じられたほどで、その他民放や新聞・雑誌でも「福山ショック」として報じられました。

所属事務所であるアミューズの株価が翌29日に急落。アミューズは、テレビ番組/映画製作等へも多面展開している会社ですが、東証1部上場の大手芸能プロダクションであり、その株価は前日比500円(9.4%)安まで下落し、2013年8月以来の値下がり率を記録したといいます。

シンガーソングライターであり男優にして音楽プロデューサー、しかも最近は写真家としても活躍中というマルチな才能を発揮しておられますが、何よりもその甘いマスクのとりこになっている女性ファンは多いようで、彼女たちにとっては確かに大ショックだったでしょう。

男性からみても好感のもてるタイプであり、頼れる兄貴、というかんじがします。女好きであることを憚りもせずに公言する、といったところなどもおちゃめであり、およそ敵を作るようなタイプにはみえません。

たしか九州の人だったよな、と思って調べたら、長崎市のご出身のようです。地元の工業高校卒業後、5か月のサラリーマン生活を経て上京。アルバイト生活をしながら、アミューズのオーディションに合格し、その後19歳で、映画「ほんの5g」の俳優デビューを果たしました。

主演は福山さんではなく、富田靖子さんが主演でしたが、福山さんはその相手役として、準主役級の抜擢でした。タイトルの“5g”とは、パチンコ玉1個の重さのことです。主人公である女子短大生が、就職活動に明け暮れる忙しい日々を送る中、初めて訪れたパチンコでまさかの“777”の大フィーバーを起こし、人生が変わっていく、という話のようです。

その2年後には、シングル「追憶の雨の中」で歌手デビュー。さらに翌年には、ラジオDJとして、ラジオパーソナリティとしてもデビューし、同年秋からはTBS系ドラマ「あしたがあるから」でテレビドラマデビューも果たしました。

以後、絶大なる人気を誇る歌手、俳優ほかのマルチタレントして芸能界に君臨してきましたが、そんな彼ももう46歳。結婚するには少々遅いよな、と思いつつ、私が再婚したのはこれよりも遅いので人のことはいえません。

いずれは、福山2世の誕生も期待できるかもしれず、美男美女のカップルはこれからも何かと話題になりそうです。ちなみにお相手の吹石さんは大阪ご出身で、「吹石」という苗字は本名だそうで、お父さんは長年近鉄バッファローズで活躍した、吹石徳一さんです。芸能通の方には、そんなのとうに知っているよ~と言われそうですが……

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福山さんはデビュー前にアミューズのオーディションに応募した際、結果の連絡がなかったため、書類選考で落ちたのだと思ったそうです。実際には最終選考に残ったことを伝える郵便が手違いで届いていなかったためでしたが、落胆した彼はウサを晴らすため、当時9万5千円で買った中古車で奥多摩にドライブに出かけました。

しかし、ボロ車だったため、途中で車のマフラーが落ちてしまい、あわてて一度アパ―トに戻り、マフラーをつけ直していました。そこへ、オーディション参加を促す連絡が電報で届き、改めて審査に通っていたことを知り、慌ててオーディション会場に駆けつけました。ところが、今度はなんとそのオーディションには遅刻してしまいます。

このオーディションは、「アミューズ・10ムービーズオーディション」というもので、アミューズ創立10周年を記念して、10本の映画を撮るための俳優を募集するオーディションでした。このとき、アミューズ会長の大里洋吉氏は、「遅刻するような時間にルーズな奴は芸能界に向いてないからいらない」と会わずに帰ろうとしたといいます。

ところが、このとき、周囲の女性スタッフ達が「どうしても会って欲しい」と訴えたそうで、「女の子達がそこまで言うからには何か持っている奴なのかも知れない」と大里会長は考え、会うことにしたそうです。

マフラーの故障でオーディションを受けることができたのもラッキーでしたが、女性スタッフに気に入られたのもラッキーであり、ご本人はこの出来事を「運命だった」とのちに自身のラジオ番組で語っておられます。

これについては、運命だったのか、偶然だったのか、など色々な見方ができます。が、人生で起きることはすべて意味のある必然である、とするスピリチュアル的な観点からすれば、起こって当然の出来事だったのでしょう。

吹石さんとの結婚も、人の想いを越えた力によってあらかじめ決められており、「運命の赤い糸」で結ばれていた、といえるのかもしれません。

この運命の赤い糸、という人と人を結ぶ伝説は中国が発祥で、中国語ではこの糸のことを「紅線(ピンイン)」と呼ぶようです。

この赤い糸をつかさどるのは「月下老人(「月老(ユエラオ)」とも)」という老人で、結婚や縁結びなどの神だそうで、この故事にもとづき、中国では、仲人や結婚の仲立ちをする者を指す者を「月下老」というようになりました。

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北宋時代(960~ 1127年)に作られた「太平広記」という、前漢以来の奇談を集めた書物にも、「定婚店」というタイトルでこの赤い糸、ならぬ「赤い縄」が登場します。

これは、唐の時代の韋固(いこ)という人物が旅の途中、「宋城」という町の南の宿場町で不思議な老人と会うところから始まります。この老人は月光の下、寺の門の前で大きな袋を置いて冥界の書物、「鴛鴦譜(おしどりふ)」という本を読んでいました。

韋固が不思議に思って、なぜそんな大きな袋を持っているのか、と尋ねると、老人は、自分は現世の人々の婚姻を司っており、冥界で婚姻が決まると赤い縄の入った袋を持って現世に向かい、男女の足首に決して切れない縄を結んでいるのじゃ、と答えました。

どうやら、この縄が結ばれると、距離や境遇に関わらず必ず二人は結ばれる運命にあるようです。以前から縁談に失敗し続けている韋固は、ちょうど目下の縁談もどうなるか気を揉んでいたので、これぞ奇遇とばかりに、この縁談がうまくゆくかどうかを老人にたずねます。

ところが、老人はすでに韋固には別人と結ばれた赤い縄があるため破談すると断言しました。ではその赤い縄の先にいるのは誰かと聞いたところ、相手はこの宿場町で野菜を売る老婆が育てる3歳の醜い幼女じゃ、と答えました。こともあろうに相手が二回りも違う幼女であるとともに、醜いと聞かされて韋固は驚きます。

が、同時に、思うようにならない自分の人生に怒りも覚えた彼は、召使にその幼女を探し出して殺すように命令します。召使が老人の言う宿場町を探したところ、たしかに野菜を売り歩く老婆を見つけ、その女が幼い子供を伴っているのを発見しました。

召使は主人の命令通り、幼女を殺そうと、彼女の眉間に刀を一突き刺そうとしますが、老婆に邪魔をされて深いキズを負わすことができず、しかもとり逃がしてしまいました。

その後も韋固は、あいかわらず縁談がまとまらないままで、やがて14年が過ぎました。韋固はこのころ役人になっており、その職場の上司に、美しい娘がいるからと、紹介されついにその娘と結婚しました。

ところが、この17歳の娘の眉間には、めだたないほどの傷がありました。聞くと、幼い頃、野菜を売る乳母に市場で背負われていたとき、乱暴者に襲い掛かられて傷つけられたといいます。これを聞いた韋固の脳裏には、このとき俄かに14年前のことが蘇りました。

全て打ち明けて、そのときのことを新妻に話したところ、妻もこれを許したため、二人はその後固く結ばれ、「おしどり夫婦」とまで言われるようになりました。

二人が足首を赤い縄で結ばれていた、というこの話を伝え聞いた宋城の町の県令は、その後、この二人が結ばれたこの宿場町を「定婚店」と改名したといいます。絆が結び合われる町、というほどの意味でしょう。

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このほかにも中国では、こんな話があります。元振という美男で才能のある男がおり、これを宰相の張嘉貞が婿にとろうと思い、申し入れをしました。そうしたところ、元振は「あなたの家には五人の娘がいるそうですが、その美醜を知りません。あわてて間違いがあったらいけないので、実見を待って判断したく思います」と答えました。

宰相は、「あなたの風貌は並の方ではありませんが、私の娘もどれも容色に優れています。ただ、あなたにふさわしいのが誰か私にはわかりません。わたしは娘たちに糸を持って幕の前に座らせますから、あなたがどれかの糸を引いてください。その糸を持つ娘を差し上げます」と答えました。

元振は喜んでこれに従った結果、一本を引くと、それは赤い糸であり、これを持っていたのは三女でした。その三女は、5人の中でも最も美しい女性であるとともに、元振と結婚したのちは、夫の出世に伴い彼女も尊い地位を得るようになったといいます。

この二つの話のうち、最初のものはのちに日本にも伝わりましたが、もともと「足首の赤い縄」だったものが、やがて「手の小指の赤い糸」へと変わっていったとされます。あるいは二番目の話の主題は、赤い糸だったため、これも伝わって混同されたためかもしれません。その後は運命の赤い縄は赤い糸として語り継がれるようになります。

先の大戦まで日本でさかんに行われた、女性が一枚の布に糸を縫い付けて武運長久を祈る、千人針もこの赤い糸に由来のものとされます。1メートルほどの長さの白布に、赤い糸で千人の女性に一人一針ずつ縫って結び目をつくってもらう、というもので、特例として寅年生まれの女性は自分の年齢だけ結び目を作る事ができます。

これは虎が「千里を行き、千里を帰る」との言い伝えにあやかり、寅年生まれの人は他の人よりもより多くの兵士の生還を祈念することができる、とされたためです。できあがった千人針を、兵士は銃弾よけのお守りとして腹に巻いたり、帽子に縫いつけたりしましたが、こうした風習は、日露戦争の頃から、日本各地で行われていたようです。

こうした「赤い糸」に力があるという考えは、中国以外にも世界各地にあり、日本以外でも中国から上述の伝承が伝えられた仏教国の中では、右手首に赤い糸をお守りとして巻くところがあります。

また、アメリカでは、同様に赤い糸は幸運のお守りとして扱われますし、アメリカにも多数の移住者がいるユダヤ人の間では、邪視のもたらす災いから身を守る為に赤い毛糸を左手首に巻くという習慣があるそうです。邪視というのは、悪意を持って相手を睨みつけることにより、対象者に呪いを掛ける魔力のことです。

ちなみに、ユダヤ教徒社会では、「ハムサ」と呼ばれる、手のひらの真ん中に大きな目が描かれた護符を壁に掛けたりもします。ハムサはアラビア語で「5」を意味する数字で、五本指のことです。

また、中東ベツレヘム近郊のラケルでは、今も参拝者が手に巻いた赤い糸が多数見られます。ここには、旧約聖書の創世記に登場するヘブライ人の族長ヤコブの妻、ラケルの墓があります。イスラエルの民すなわちユダヤ人はみなこのヤコブの子孫を称しますが、赤い糸を巻くのはこの二人がやはり赤い糸で結ばれたと信じているからでしょう。

このほか、ヨーロッパでは、糸ではありませんが、「双子の炎(twin flame)」という考え方があり、これは、 運命で決められた二人には、それぞれの中で同じ紅い炎が燃えている、という伝説です。これはスピリチュアリズムにおける、いわゆるソウルメイト(魂の伴侶)という言葉の元にもなっているといわれます。

現在の日本でも、テレビドラマやアニメなど大衆文化の中にこの「赤い糸」はたびたび出てきますし、特に少女漫画などでは、定番のモチーフです。その昔、TBSが製作し、「赤い運命」など「赤いシリーズ」もこの運命の赤い糸が題材になっています。そのほとんどを山口百恵さんが主演して話題になりました。

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このように、人の一生は赤い糸などの運命によって定められているという考え方をよく「運命論」といいます。英語では、”fantalism”です。世の中の出来事はすべて、あらかじめそうなるように定められていて、人間の努力ではそれを変更できない、とする考え方で、人間の意思とは無関係に人生のものごとが決められてゆく、とされます。

「宿命論」ともいいますが、スピリチュアルカウンセラーの江原啓之さんは、「宿命は変えることはできないが、運命は本人次第で変えることが可能だ」といいます。この考え方に賛成の人も反対の人もいるでしょうが、その問題はさておきましょう。

宗教的な観点からみると、キリスト教やイスラム教では、厳密な意味での運命論というのはないようです。運命とは、神が天地創造をした時、既にそのようなシナリオが書かれていたという意味であり、つまり、全部最初っから決まっているとされるためです。が、これは私の解釈なので、間違っているかもしれません。

一方、アジアに広く普及する仏教には因果応報という考え方があり、これは運命論というか、宿命論ともいえます。が、すべての仏教の宗派でそう考えるわけではありません。宿命論はとらず、自分の想いによって世界は変わる、とする、上述の江原さんの考え方に近い考え方もする宗派もあるようです。

たとえば日蓮は「一念三千」と説き、自分の念ひとつを変えることによって、三千世界(百界×十如是×三世間=三千)の生命が呼応し、未来が変わる、といった主旨のことを説きました。

このように、ひとことで運命論、宿命論といっても宗派により、また国によっても様々な考え方があるわけですが、日本人がよく口にする「仕方がない」という諦念のようなことばは、日本独特のものである、とよくいわれるようです。

理不尽な困難や悲劇に見舞われたり、避けられない事態に直面したりしたさいに、粛々とその状況を受け入れながら発する慣用句で、我々はごくごく普通に使っていますが、外国人にはなかなか理解しにくいことばのようです。

同じような表現として、仕様がない(しようがない)、止むを得ない(やむをえない)というのもありますが、古くは「是非も無し」「是非も及ばず」といっていました。

天正10年(1582年)、に織田信長が明智光秀が主導する反乱軍によって、京都四条の本能寺で取り囲まれたとき、これを率いるのが家臣の中でも最も優秀であると信長が認めていた光秀だと知った信長は、「是非に及ばず」と側近に漏らしたといいます。

仕方がない、は英語に訳すと、”There is no help for it” といった表現になりますが、これを逆に邦訳すると、「もう打つ手がありません」あるいは「救済策がありません」ということになります。しかし、これはどうも我々が普段使っている、仕方がない、とはニュアンスが少し違う感じがします。

もう打つ手がない、助けも来ない、と、その時点で何もかもあきらめてしまっていて、いかにも「ジ・エンド」という感じがしますが、「仕方がない」という言い方には、苦しい状況の中でも、挫けることなくなんらかの希望を見出そうというニュアンスが含まれているように思われます。

太平洋戦争時のアメリカやカナダで行われた日系人の強制収容においては、収容所での絶望感と虚無感を克服するべく、「Shikata ga nai」というフレーズが頻繁に用いられたそうです。カリフォルニア州のサンノゼの日本人街には、このときのことを記憶すべく石碑がわざわざ立てられ、そこには「SHIKATA GA NAI」と彫られています。

そこには、”It cannot be helped” と英語翻訳の添え書きもありますが、これでは「仕方がない」の本来の意味が損なわれているような気がしてなりません。

このことばを合言葉に、逆境にもめげずに、頑張っていこうとする、そうした精神性は現在でもアメリカの日系人社会において根強く残っているといい、無論これは彼らが日本人の血を引いているからにほかなりません。

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このほか、昭和天皇は、1975年(昭和50年)10月31日に訪米から帰国した際に行われた記者会見において、広島市への原子爆弾投下について質問されると、「遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております」と答えています。

この昭和天皇が使われた「やむを得ない」は、とくに意識されていたわけではないでしょうが、その意味は、これでもう終わりで打つ手がない、ではなく、終わってしまったことは忘れ、これからを頑張っていかなくてはならない、の意が含まれているように思われます。

ところが、欧米人にとっては、この仕方がない、という言葉は、どうしても日本人の自己犠牲的な悲観性を表す表現のようにみえてしまうようで、そのことは多くの外国の著述家によって指摘されています。

例えば、ピューリッツァー賞作家のジョン・ハーシーは1946年のルポルタージュ「ヒロシマ」で、広島住民にインタビューしたときのことを書いています。

このとき、ハーシーの質問に答えた多くの広島市民は、おおむねアメリカによる核爆弾使用の道義的責任に対して無頓着であったといい、これを彼は日本人は諦念、あきらめでもってこれを受け止めている、と受け止め、そうした趣旨のことを書きました。

なお、このときもある被爆者が、「戦争だったのだから仕方がない」と答えており、彼はその言葉をそのまま“Shikata ga nai”として著書の中で紹介しています。が。彼がこのことばを、上述の日系人が使っていたのと同じ意味である、と理解していたかといえば、必ずしもそうとは思えません。

また、この「仕方がない」は、最近の欧米のビジネスマンからも、日本人の「強引さの無さ」や「押しの弱さ」「諦めが早過ぎる」といったネガティブな一面を表す概念として否定的に取られることが多いようです。「ビジネスウィーク」などの記事においても日本経済低迷の一因として書かれているようです。

しかし、日本の景気が悪くなっている現状においても、先の東北の大震災においても、日本人が思っている「仕方がない」は違うように思います。

仕方がない、の少し違った表現に、「しょうがないなぁ」というのがありますが、これは「だらしねぇなぁ、もっと頑張れ!」であり、あきらめずにもっと未来を向いて奮起していこう、という鼓舞の意味も含まれています。

不況や震災の影響を鵜k手長い間低迷が続く日本ですが、欧米や中国から輸入した運命論ではなく、日本人が昔から持っている独特の運命論をこれからの時代、展開していくべきなのかもしれません。

「仕方がないなぁ」を連発しつつも、英気を養っていく。「がんばろうニッポン!」は、あるいは、「しかたがないニッポン!」にするといいかもしれません。

が、日本文化に理解がない欧米人に、日本人はついにあきらめたか、と誤解されては困るで、いまのままでいいのかも。下手な説明などせず、少なくとも「しかたがない」の精神だけは保ちつつ、前向きに今後の国づくりをがんばっていきたいものです。

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月夜の晩に

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伊豆はここしばらく天候不順でしたが、今朝になってようやく晴れてきました。

今日は、「スーパームーン」だそうで、月がいつもより地球に近づくため、より大きく見えるようです。今年もっとも小さく見えた満月は、3月6日のものだったそうですが、これに比べて直径は1.14倍になり、明るさも3割ほど増すといいます。

こうした差がなぜ起こるかについては、月は地球の周りを楕円状の軌道で回っている、ということを知れば理解できます。

満月とは地球を挟んで月と太陽がちょうど真反対になったときに見える月の姿であり、楕円軌道の一番遠いときの満月は小さく、最も近い場合の満月は大きくなるわけです。

より正確にいえば、今年は28日午前10時46分に月が最も近くなり、同11時51分に満月となるようです。が、日中はお月さんは見えませんから、月が地平線の上に出る夕方以降に明るい満月が上ることになります。

が、「満月」とされるのは、月齢が13.8~15.8のときで、平均では14.8です。月齢とは月の「満ち欠け」のことで、月齢0(ゼロ)が新月で、これがやがて三日月になり、半月になっていって、満月になったあと、ここからは逆に欠けていき、ほとんど見えなくなるときが月齢29です。そしてその翌日からは再びゼロからスタートし、満ちはじめます。

暦によれば昨夜27日の月齢は14.2、今日28日の月齢は15.2で、ともにこの満月とされる月齢の範疇に入っています。

だいたい毎月2日ほどは、こうした満月になるようで、どちらを正式に満月と呼ぶかについては、議論があるようです。が、科学的には平均値の14.8に最も近い夜のほうが満月です。しかし、昨日はお盆の中日である旧暦の8月15日なので、「中秋の名月」として尊び、慣例上昨日のほうを正式の満月としているわけです。

が、観賞する分にはどちらでもいいわけであり、お天気が続いて2日続けて美しい満月が見れる、というのは幸せなことです。伊豆のように、残念ながら昨日の満月を見ることができないところは多かったわけですから……

ところで、満月というと、「狼男」を連想する人も多いでしょう。「獣人」とされる人物が、満月の夜になると、月や丸いものを見ると変身するという伝承です。人が動物の姿に変わったり、超自然的に他の動物の特徴を所有するようになることを「獣化」といい、古くから「人狼症」なる精神病がある、と信じる人々も多かったようです。

が、実際にはそんな病気があろうはずもなく、人類が動物と人間の混ざったイメージを、アニミズムの延長などで持つようになったことの名残と思われます。アニミズムとは、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方であり、これらがギリシャ神話やローマ神話、あるいは日本神話の元になりました。

神託を告げる際に一時的に人格が変わったように見えるシャーマンもその一種とみなされることもあり、畏れられもしましたが神聖視されることもあり、原始社会においては重要な役割を果たしていることも少なくありませんでした。

また、先史時代の遺跡などの壁画には獣の特徴を持った人間が描かれることがあり、自然の力を借りようとした何らかの儀式に基づいて、こうした獣化した人間を描くにようになったと推測されています。

ヨーロッパを中心とするキリスト教圏でも、初期には土俗信仰とキリスト教が共存してその様な偶像が崇拝されていた地域がありましたが、中世以降魔女狩りと同様に、こうした獣人は反キリスト・悪魔のとる姿と位置づけられるようになりました。

その中から、「人狼」というものが現れ、これを悪魔と考えて狩ろうとする「人狼狩り」は悪魔狩りとともに盛んに行われるようになりました。ただ、人狼であるとされた人々は、実際には麦角菌に感染していたことなどが指摘されています。

麦角菌とは、麦の中に含まれる麦角アルカロイドと総称される物質によってできる菌で、様々な毒性を持ちます。食用や飼料用としてヨーロッパや北アメリカを中心に広く栽培されていた「ライ麦」にはこの菌がつくことがあり、これを食べて幻覚や精神錯乱を起こしたものであると考えられています。

また、キリスト教圏以外の地域でも動物などの精霊が憑依して獣化する獣憑き(けものつき)の伝承が世界各地に存在しており、インドや中国では虎憑き、中南米ではジャガー人間、また、日本における狐憑きなどそのバリエーションは世界中に分布します。

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ヨーロッパでは、中世になると、キリスト教信者が絶対的な権力を持つようになり、その権威に逆らった者は、「狼人間」のレッテルを貼られ、迫害される立場に追い込まれていきました。とくにその傾向は魔女審判が盛んになった14世紀から17世紀にかけて拍車がかかり、墓荒らしや大逆罪・魔術使用をした人は「狼」とされ、重罪を受けました。

有罪とされた者は、社会及び共同体から排除され、追放刑を受けましたが、この際、当時のカトリック教会は、3回目の勧告に従わない者には罰をあたえました。これは、7年から9年間、月明かりの夜に、狼のような耳をつけて毛皮をまとい、狼のように叫びつつ野原でさまよわなければならない、という掟でした。

人間社会から森の中に追いやられた彼らは、要は世捨て人のようになっていきました。当然自律生活は送ることができなくなり、このため、たびたび人里に現れ略奪などを働くようになりました。時代が下るとこれが風習化し、夜になると狼の毛皮をまとい、家々を訪れては小銭をせびって回るような輩も現われはじめました。

1520年代から1630年代にかけてフランスだけで3万件の狼男関係とされた事件が報告され、ドイツやイギリスでも同様の事件の発生が記録されています。その後、より合理的な解釈を求めて、こうした狼人間の生理現象や精神的な問題が語られるようになりました。

つまり、彼等はいつどんなときに狼に「変身」するか、という課題です。17世紀末にジャン・ド・ニノー(Jean de Nynauld)という人物が、狼への変身を「狼狂(folie louvière)」と呼称し、一種の精神錯乱状態である、と唱えました。フランス人で、医学博士を自称していたようですが、不詳です。しかし、医学に通じてはいたようです。

知能障害や頭脳損傷などに由来する精神的な理由で月に向かって絶叫したり、4つ足で歩くなどの精神錯乱を起こすようになった、と彼はその著書の中で唱えました。そして、これが、その後映画などで知られる、狼と人間の中間的な形態をもつ人型の狼男につながっていった、とされています。

やがては、月を見て錯乱状態になる、という事実?だけが独り歩きするようになり、月だけでなく丸いものを見ても変身するという伝承も現れ、その部分だけが特に強調された映画や小説が創作されるようになりました。

一方では、民間伝承でも月を見ると狼に変身するという話が流布されるようになりましたが、これらの伝承では、必ずしも満月の時とは限らず、新月とかクリスマスから蝋燭の祝日にかけての期間とか満月以外の日に変身するとされるものもあったようです。

1935年に、世界初の狼男を主題とした本格的な映画 Werewolf of London (ロンドンの人狼)が公開されて特殊メイクによる半人半狼の狼男が登場し、はじめて「狼男に噛まれた者は狼男になる」などの設定が与えられました。

また、続いて1941年に公開されたThe Wolf Man (狼男)は更に精巧な特殊メイクによる狼男の登場に加えて、「ロンドンの人狼」を上回る出来あがりとなり、大評判を呼びました。また、「ロンドンの人狼」にも満月の夜に変身するという話がありましたが、この映画では加えて「銀で出来たもので殺せる」いう脚色が付け足されました。

この作品により、現代における「狼男」伝説の基本要素は完成され、「狼男映画の決定版」とまで評価されました。以後、両作品の設定が狼男の一般的な特徴であるという認識のもとで、多くの類似作品が創作されることになっていきます。

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日本でもこれらの映画はヒットしましたが、戦後、手塚治虫の描いた漫画、「バンパイヤ(習慣少年サンデー、1966~67年)」が人気を集め、テレビでも、1968~69年にフジテレビ系で実写とアニメの合成のモノクロ作品が放送されて話題になりました。ちなみに、このときの主人公役をやったのは、若き日の水谷豊さん(当時16~17歳)でした。

ちなみに、手塚さんは、このほかにも、「きりひと讃歌(1970~71年)」という、医学界における権力闘争を描いた社会派的色合いの強い作品を描いています。これは、主人公が、四国の山あいにある村で「モンモウ病」という奇病に罹り、獣に変身する、という話です。

突然恐ろしい頭痛に襲われ、獣のように生肉を食べたくなり、やがて体中が麻痺して骨の形が変わり、犬のような風貌になります。そして1ヶ月以内に呼吸麻痺で死に至る……という難病を扱った作品です。手塚さんはその後1989年に60歳で亡くなるまでの晩年、こうした社会的なテーマを扱った作品をたくさん書くようになりました。

このように、狼男といえば、現在では知らない人はいないほど有名な話になりましたが、そもそもなぜ「狼」だったのか、といえば、これは、中世のキリスト教の神学者たちが、獣人化現象は悪魔がオオカミの醜い容姿で現れたものと設定したためです。

人々に悪魔の仕業であると信じさせるためには、身近な存在のオオカミの化身としたほうが分かりやすかったのでしょう。オオカミは肉食で、シカ・イノシシ・野生のヤギなどの有蹄類、齧歯類などの小動物を狩ります。餌が少ないと人間の生活圏で家畜や残飯を食べたりするため、ヨーロッパを中心に忌み嫌われていました。

13世紀のフランスにて動物誌の著作を書いたピエール・ド・ボーヴェル(Pierre de Beauvais)という人は、「オオカミの前半身ががっしりとしているのに後半身がひ弱そうなのは、天国で天使であった悪魔が追放されて悪しき存在となった象徴」である、と書きました。

さらに「オオカミは頸を曲げることが出来ないために全身を回さないと後ろを見ることが出来ないが、これは悪魔がいかなる善行に対しても振り返ることが出来ないことを意味している」とも解説しています。

しかし、上述したように、そもそも獣人化現象は、神が人の体に宿ったことを示すものでした。獣人になる、なれるということは、神聖な血筋である、とみなされることも多く、ヨーロッパ以外の東アジアや南北アメリカにおいてはオオカミは、恐怖や禁忌の対象ではありませんでした。

モンゴル人の狼祖伝説、トルコ人の狼祖伝説(アセナ)のほか、タイ、ミャンマー、ラオス、ベトナムなどの山岳地帯に住むミャオ族(苗人)などに伝わる伝説では、いずれも「狼の血筋」を持つ人々は気高い人々とされ、彼らの民族的な誇りの源となっています。

アラスカからカナダ、合衆国にかけて多数が住んでいたインディアン民族もまた、オオカミの信奉者でした。「狼の氏族(クラン)」を称する部族が多く、トンカワ族を始め、部族名そのものが「狼」を意味するものが多数あります。

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日本においては、狼祖伝説そのものはあまりありませんが、そもそも「オオカミ」という日本語自体が、「大神」を意味している、というのはよく言われることです。モンゴルにおけるそれと同様に神性と知性の象徴として畏敬され、埼玉県秩父市三峰にある「三峯神社」や奥多摩の「武蔵御嶽神社」でなどでは、祭神とされています。

また、アイヌではオオカミ(エゾオオカミ)を「大きな口の神(ホロケウカムイ)」「狩りをする神(オンルプシカムイ)」「ウォーと吠える神(ウォーセカムイ)」などと呼んでいました。

このように、日本では、オオカミは眷属(けんぞく)、すなわち神の使者、として敬われることも多く、オオカミのご利益としては山間部においては五穀豊穣や獣害避けであり、都市部においては火難・盗賊避けなどでした。19世紀以降には憑き物落としの霊験もある、といわれるようになりました。

こうした眷属信仰は江戸時代中期に成立したものですが、幕末には1858年(安政5年)にコレラが大流行し、コレラは外国人により持ち込まれた悪病であると考えられ、憑き物落としの霊験を求め、こうしたオオカミのような眷属信仰はさらに興隆しました。

しかし、そのため憑き物落としの呪具として狼の遺骸が用いられるようになると、猟師の中には、人目を憚りながら、狼を狩る者も出てきました。

また同時期に流行した狂犬病やジステンパーの拡大によって狼自体が危険なものとみなされるようになりました。こうした疫病の蔓延によりオオカミの捕殺・駆除が進んだ結果、日本における狼の固有種、ニホンオオカミはついに絶滅に至りました。

ニホンオオカミは1905年に奈良県東吉野村鷲家口(わしかぐち)にて捕獲された若いオスの個体を最後に目撃例がなく、絶滅したと考えられています。また北海道および樺太・千島に生息していたニホンオオカミの大型の亜種、エゾオオカミも1900年ごろまでに絶滅したと見られています。

このエゾオオカミは、大きさはシェパードほどで、褐色の毛色だったとされています。アイヌの人々とは共存していましたが、明治以降、入植者により毛皮や肉目的で獲物のエゾシカが取りつくされ、入植者のつれてきた牛馬などの家畜を襲ったために害獣とされました。

このため、懸賞金まで懸けられ、徹底的な駆除により数が激減した上、ニホンオオカミと同じく、ジステンパーなどの飼い犬から移された病気の影響で絶滅に至ったとされます。

こうして、日本ではオオカミはいなくなりましたが、現在のアニメや漫画、絵本では、オオカミはしばしば登場し、時には人気者です。我々の世代には懐かしい、アニメ「狼少年ケン」は、オオカミに育てられた少年が主人公ですし、最近では、「もののけ姫」に登場する山犬の神様は、オオカミ一族の出だとされます。

また、同じくアニメ映画としては、「おおかみこどもの雨と雪」「あらしのよるに」がヒットしたことなども記憶に新しいところであり、オオカミが登場する童話としても、「三匹の子豚」、グリム童話の「狼と七匹の子山羊」、「赤ずきん」は著名作品です。

さらには、日本だけでなく、世界中で愛されているペット、「イヌ」の祖先はオオカミとする説が一般的です。長い人間の歴史の中で、オオカミを家畜化(=馴化)し、人間の好む性質を持つ個体を人為的選択することで、イヌという動物が成立したと考えられています。

その昔は、遺伝子工学などの研究はあまり進んでおらず、かつてはイヌは、オオカミと、ディンゴやジャッカル、コヨーテなどの交雑種であるとする説もあり、またイヌの祖先として、すでに絶滅したパリア犬や、オーストラリアに現生するディンゴのような「野生犬」の存在を仮定する説などがありました。

しかし、2000年代までの分子系統学・動物行動学など生物学緒分野の発展は、オオカミ以外のイヌ属動物の遺伝子の関与は小さく、イヌの祖先はオオカミであるという説はほぼ定説になっているようです。

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ところで、イヌとよく対比される、ネコは、生物学的な大分類においては、イヌと同じ「食肉目」に分類されており、この食肉目は、俗称「ネコ目」と呼ばれています。

エッ?イヌとネコは同じ仲間!?ということなのですが、「ネコ目」というのは、一般名称であって、「真獣類のうちで、肉を裂くためのハサミ状の頬歯である裂肉歯(れつにくし)を1対もつもの(およびその子孫)」のグループと定義されています。

真獣類とは、ヒトを含む哺乳類全般の生物のことです。また裂肉歯は、多くの肉食哺乳類において見られる肉や骨をはさみのように剪断する歯のことです。

哺乳類ということは、海の生物も含まれます。このネコ目には、海生のグループもあって、これはいわゆる鰭脚類(ききゃくるい)と呼ばれるものであり、アザラシやラッコ、アシカやオットセイといった類です。ただ、今日ではその食性もあって彼等の裂肉歯は失われています。

いずれにせよ、ネコ目に属するほとんどすべての動物が肉食であり、イヌとネコが同じ種類というのは本当です。ただし、哺乳類とか魚類とかいったかなり上位の大々分類において同じ、といっているだけであり、ご存知のとおり、ネコとイヌは全く性質の違うものです。

生物学的にみれば、ネコ目の下には、ネコ亜目、イヌ亜目がそれぞれあって、ネコ目の二代双璧をなしています。これに海生生物のグループの鰭脚類が加わりますが、海のものなので、より違って見えます。

しかしこれら三者の先祖は同じです。鰭脚類には足がないように見えますが、四肢が鰭(ひれ)状に変化しているだけです。従って彼等も海で生活する前は、イヌやネコのような四足がありました。

これら四足のネコ目の祖先は、ミアキスと呼ばれる種類の哺乳動物です。約6,500万前~4,800万年前に生息した小型捕食者で、ここから、イヌやネコの陸生のグループおよび、アシカなどの海生のグループが分化しました。

陸生のグループが、イヌとネコに別れたのは、だいたい4000年前位のようで、イヌの場合、3800万年前のヘスペロキオンを経て、約1500万年前には北米にトマークスが出現し、これが、10属35種あるイヌ科の直接の祖先であると考えられています。

この10属の中にオオカミなどの他のイヌ科動物が含まれており、これらとイヌ属、すなわち現在我々がペットとして飼っているイヌの先祖の分岐が始まったのは、だいたい700万年前であると見積もられているようです。

が、分岐した、といってもある日突然イヌとオオカミに別れた、というわけではなく、お互いその類似性を保ちながら、一方は野生に生きる生物として、またもう片方は人間に寄りそう動物として徐々に進化・変形し、現在に至った、ということです。なので、700万年という数字はあくまで生物学上の分類の目安にすぎません。

おそらくは獰猛なオオカミが人間の食べ物を狙って次第にその近くに生息域を移すようになっていったのち、人間のほうがこれを手なづけ、性格のやさしいものを選んで交配させる、といったことを繰り返し、長い間に現在のイヌようなパートナーとして相応しい種にしていったのでしょう。

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イヌは最も古くに家畜化された動物ともいわれています。1万2千年ほど前の狩猟採集民の遺体が、イヌとともにイスラエルで発見されています。20世紀末ごろから急速に発達した、近年の分子系統学的研究では1万5000年ほど前にオオカミから完全分離したと推定されています。

この人間と暮らし始めた最も古い動物であるイヌは、その後ヒトの民族文化や表現の中に登場することが多くなっていきました。古代メソポタミアや古代ギリシアでは彫刻や壷に飼いイヌが描かれており、古代エジプトでは犬は死を司る存在とされ(アヌビス神)、飼い犬が死ぬと埋葬されていました。

メソポタミア文明は紀元3500年以上前の文明、古代エジプト文明も紀元3000年以上前の文明ですから、イヌがパートナーとして人間と苦楽をともにしてきた歴史は、5000~5600年、あるいはそれ以上ということになります。

一方のネコのほうも、ネコ目の陸生グループから4000万年前位に分化し、18属37種ができました。が、こちらはさら大型ネコと小型ネコに分かれ、大型ネコにはよく知られる猛獣のライオン、トラ、ヒョウ、ジャガー、チーターなどが含まれます。小型ネコにはオオヤマネコ、ピューマ、ボブキャットなどがいます。

生物の形から、その先祖を分析する「形態学的分析」を主とする伝統的な生物学的知見では、昔からその先祖は「リビアヤマネコ」ではないか、とされてきました。

この説に対しては色々な反論があったようですが、イヌの先祖がオオカミであることが確認されたのと同様、20世紀後半から急速に発展した分子系統学によって、現在ではネコもその先祖がこのリビアヤマネコである、とする従来説が正しいとされるようになりました。

人間にとってもっとも身近な種であるイエネコが人間に飼われ始めたのは、イヌよりもさらに古く、約10000年前からとされています。初めて人に飼われたネコから現在のイエネコに直接血統が連続しているかは不明確ですが、最古の飼育例は、キプロス島の約9,500年前の遺跡から見出されるそうです。

人との付き合いはイヌ以上に長いことになりますが、ただ、愛玩用家畜として扱われるようになった時期は、イヌよりも遅いようです。これは家畜化の経緯の相違によります。

イヌは狩猟採集民に猟犬や番犬として必要とされ、早くから人の社会に組み込まれましたが、ネコは、農耕の開始に伴い鼠害(ネズミの害)が深刻にならない限り有用性がありませんでした。

むしろ狩猟者としては競合相手ですらありました。その競合的捕食動物が人のパートナーとなり得たのは、穀物という「一定期間の保管を要する財産」を人類が保有するようになり、この食害を受けやすい財産の番人としてのネコの役割が登場したことによります。

また、伝染病を媒介する鼠を駆除することは、結果的に疫病の予防にもなりました。さらに、記録媒体として紙など食害されやすい材料が現れると、これを守ることも期待されました。

農耕が開始され集落が出現した時期の中東周辺で、山野でネズミやノウサギを追っていたネコがネズミが数多く集まる穀物の貯蔵場所に現れ、これを便利だからと、人が棲みつくのを許容したのが始まりと考えられています。

この最初に現れたネコこそが、リビアヤマネコです。その生息地とヒトの農耕文化圏が重なった地域で、こうしたことが頻繁に起こるようになり、リビアヤマネコをご先祖さまとするイエネコは増えていきました。

ネコにすれば住処と食べ物が両方手に入ったわけです。一方、人間にとっては、穀物には手を出さず、それを食害する害獣、害虫のみを捕食することから、双方の利益が一致。穀物を守るネコは益獣として大切にされるようになり、やがて家畜化に繋がっていきました。

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これに対してイヌはネコのように生活の上でのパートナーとして出発したのではなく、紀元前当初は神様として、神聖なものとされていました。が、時代が下がると、ユダヤ教では犬の地位が下り、ブタとともに不浄の動物とされることもありました。

イスラム教でも邪悪な生き物とされるようになったため、現在においてもイスラム圏では牧羊犬以外にイヌが飼われることは少ないようです。

しかし、欧米諸国では人間にとってなくてはならない労働力であり、狩猟、番犬、犬ぞり、等として様々に利用されました。また、現在では一部の国(中国を含む)以外ではあり得ませんが、食糧が豊富でなかった時代には、祭りでの生贄やご馳走としても使われました。

欧米諸国では、古代から狩猟の盛んな文化圏のため、猟犬としての犬との共存に長い歴史があります。今日では特に英国と米国、ドイツなどに愛犬家が多いようです。現在でも世界中で多くの犬が家族同然に人々に飼われているのは、こうした欧米の強国の文化を引き継いだ国のほうが多いためです。

中世ヨーロッパの時代より、宗教的迷信により、魔女の手先(使い魔)として忌み嫌われ虐待・虐殺されたネコに対し、犬は邪悪なものから人々を守るとされ、総じて待遇は良かった、という歴史を持ちます。

また、ヨーロッパ人に「発見」される前のアメリカ大陸でも、犬は唯一とも言える家畜であり、非常に重要な存在でした。白人によって弾圧されたインディアン諸部族の中で、シャイアン族の徹底抗戦を選んだ者たちは、ドッグ・ソルジャー(犬の戦士団)という組織を作り、白人たちと戦いました。

さらに、アジアにおいても、古代中国などでは境界を守るための生贄など、呪術や儀式にも利用されていました。中央アジアの遊牧民の間では、家畜の見張りや誘導を行うのに欠かせない犬は、大切にされました。

日本でも古くから軍用犬として使われてきた歴史があります。江戸時代に将軍綱吉が出した、生類憐みの令以降は、とくに保護される傾向が強くなり、明治に入ってからは西洋の文物ももたらされ洋犬を飼う習慣が流行したために、柴犬などの和犬に加えて爆発的に種類が増えました。現在においては、5世帯に1世帯がイヌを飼っているといわれています。

ただ、イヌは愛玩動物として飼育されている数が多い分、近年では人間による虐待、虐殺により、命を落とすものや、捨て犬として不法に遺棄されるもの、あるいは飼い主やその家族の身勝手無責任な理由によって保健所に送られるものも少なくありません。

日本では、例年、実に数多くのイヌや、イヌだけでなく多数のネコたちもが、全国の保健所施設で殺処分されています。その数は、イヌだけで毎年9万頭近くにのぼるといい、子供のころには可愛かったのに、大人になるとうるさく鳴くから、といった理由で邪魔にする、というケースなどが後を絶ちません。

飼い主に最後まで責任を持って飼育させる、という教育や、動物愛護に関する啓蒙活動が足りないのではないか、と欧米からは指摘されているようです。

イギリスでは、「子供が生まれたら犬を飼いなさい。子供が赤ん坊の時、子供の良き守り手となるでしょう。子供が幼年期の時、子供の良き遊び相手となるでしょう。子供が少年期の時、子供の良き理解者となるでしょう。そして子供が青年になった時、自らの死をもって子供に命の尊さを教えるでしょう。」という諺があるそうです。

イヌを飼っているご家庭では、今宵の満月みながら、そのイヌの先祖である、オオカミに思いをはせるとともに、多くの愛情を与えてくれている、そのワンちゃんに感謝してみてはいかがでしょうか。

ただし、かわいいからといって、けっして月に向かって遠吠えをさせないように。ご近所迷惑ですから……

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「かつらぎ」の来る日

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台風の余波なのか、すっきりとしない天気が続きます。

が、週末でもあり、秋色が濃くなってきた伊豆へは今日も多くの人々が訪れていることでしょう。

窓の外に目をやると、大通りに連なった桜並木の葉もかなり色づいてきました。この地よりも更に高所にある天城山などではもっと紅葉が進んでいるに違いありません。

天城山ではないのですが、一昨日ひさびさに葛城山へ登ってきました。伊豆の国市にある、標高452mの山です。およそ1千万〜200万年前の海底火山の噴出物と、そこから削られた土砂が近くの浅い海底にたまってできた地層がフィリピン海プレートと本州側のプレートの衝突によって隆起してできました。

この山にはその北側の山麓に、ミカン園があるのですが、ここの駐車場から始まるハイキングコースの終点付近、八合目あたりに、ヒガンバナの群落がある、との情報をタエさんが聞きこんできたのが、行こうと思ったきっかけです。

地元の小坂地区の有志たちが、8年ほど前から植え続けて数を増やしてきたといいます。ミカン園から、せっせせっせと高度を稼ぐことだいたい50分ほど。なるほど八合目あたりからの斜面には、これでもか、とのヒガンバナ畑?が広がり、なかなか良い目の保養になりました。

地元の伊豆日々新聞には、「10万株」と書いてありました。が、これは少々誇張がすぎるのでは? どうなのでしょう。ただ、我々が見ていない場所にも植えられているのかも。いずれにせよ、かなりの量であり、一見には値すると思います。もしこれから伊豆へ来られる予定がある方は、視野に入れてみてはいかがでしょう。

小坂みかん共同農園」がハイキングコースの起点となっており、比較的広い駐車場もあります。ただ、我々が行ったときは、駐車場は無料でしたが、10月からはミカン狩りが始まるようなので、何等かの規制があるかもしれません。もっとも、10月になってしまってからはヒガンバナも終わってしまっているでしょうが。

この葛城山には、山頂までロープウェイも通っています。この小坂地区から少し西へ離れた、伊豆の国市役所近くにその起点があり、「伊豆の国パノラマパーク」の名称で親しまれています。なので、お年寄りや体が不自由な方、また登山が苦手、という人はこれを利用すれば、楽々山頂まで行くことができます。

山頂の展望所からは富士山や伊豆・箱根の山々をはじめとした360度の展望が広がっており、素晴らしい、のひとことにつきます。ツツジの名所としても知られ、山頂付近には約35,000本のつつじが植栽されています。野鳥の宝庫でもあり、動植物の観察ができるように自然観察路も整備されています。

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ところで、葛城山といえば、その昔は葛城嶺とも呼ばれた名峰、奈良の葛城山が有名ですが、なぜ伊豆に葛城山があるのでしょうか。その由来を調べたところ、この葛城山山頂付近には、古くから葛城神社、という社が祀られており、この神社の名を取ったようです。

この葛城神社の本社は、大和国(現奈良県)の葛城下郡にあった、「倭文座天羽雷命神社」と古文書にあるそうで、要は大和から分社してできた神社のようです。いつぐらいからある神社なのかはよくわかりませんが、同神社近くに鎮座している百体地蔵が鎌倉時代の作とされていることから、すくなくともこれ以前の遷宮だと思われます。

遷座された雷命神社がなぜ葛城神社と呼ばれるようになったかですが、これは同じ大和の国にある「金剛山」から来ているのだと思われます。奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境目にあり、修験道の開祖役小角(えんのおず、役行者(えんのぎょうじゃ)とも)が修行した山として知られている著名な山です。

その北側には、やはり「大和葛城山」と呼ばれる山があり、歴史的には、現在金剛山と呼ばれている山も含めてこれら一連の山塊を「金剛山」と呼んでいました。その第一峰は高天山と称する標高1,125mの嶺で、御所市にある「葛木神社」の本殿の裏にあたります。

そして、おそらくはこの葛木神社の名称とこの大和葛城嶺の名をもらい、伊豆に分社した神社も同名にし、かつ山名も大和のものと同じ葛城と称するようになったのでしょう。

一方で、伊豆の葛城山は、地元では古来、寝釈迦山とも呼ばれていたようで、これは横臥した涅槃仏に似ていることから ついた名前のようです。なるほど今これを書いている真正面にある葛城山は少々横長で仏様のように見えなくもありません。

この葛城山のある、伊豆の国市の伊豆長岡町は、源頼朝が伊豆に配流された時のゆかりの地でもあります。このため、 源氏再興に係わる史跡や伝説も沢山残っています。 この葛城山にも頼朝が鷹狩りをしたといういい伝えがあり、 山頂には若き日の源頼朝が鷹狩をしたときとされる像があります。

また、鎌倉よりのちの戦国時代の葛城山付近は、しばしば戦場になったようです。伊豆国、駿河国の国境線にあたるため、山麓では北条氏(北条早雲を始祖とする後北条氏)と武田氏が幾たびか戦いました。北条氏は小田原にあった本拠の小田原本城を守るため、ここ葛城山に狼煙台を設け、武田勢の進撃をいち早く発見するのに役立てたと伝えられます。

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この葛城山、という山は、上述の大和葛城山(奈良と大阪の境に位置する)のほかにも、和泉葛城山(大阪と和歌山の境)などがあり、それ以外にも各地に同じ呼称の山、あるいは葛城の地名を冠した場所があるようです。

おそらくはそのほとんどが、役小角の弟子たちが、修験道を広めるために各地を回ったときにつけて回った名前でしょう。役小角は、とくに畿内を中心として昔から絶大な人気があり、その彼が修験道を極めたという葛城の地名も、霊験あらかたな名前として珍重されてきたに違いありません。

また、「葛城」という名は、古墳時代からの豪族の名前でもあり、この一族は金剛山の北方に位置する「大和葛城地方(現在の奈良県葛城市付近)」に本拠を置いていました。古代より有力な豪族であり、その支配地域を「高天原(たかあまはら)」であるとする説は有名です。すなわち日本を作ったとされる、天津神が住んでいた場所が、ここです。

天皇家との婚姻も多い事からその説を有力とする学者は多いようです。また天皇家ゆかりの名前であることから、明治時代になってからは、いくつかの軍艦の名としても採用されました。1885年(明治18年)に進水した、その名も「葛城」と呼ばれる帆船がその初代であり、主に測量艦として活躍しました。

同型艦が2隻作られ、その大和、武蔵の2艦も測量艦として、日本沿岸の水路測量に長年貢献しました。

この初代の「葛城」は、日露戦争においても使用され、おもに長崎港の警備に従事しました。艦歴は長く、25年に渡り海軍で使用されましたが、1913年(大正元年)に除籍され、同年中に売却されたとされます。売却後の運命はよくわかりませんが、その後民間の貨物運輸などに使われ、その一生を全うしたのではないかと推測されます。

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その後、この「葛城」の名を継承したのは、太平洋戦争末期に就航した、空母の「葛城」です。第二次世界大戦末期に量産された「雲龍型」航空母艦の3番艦で、帝国海軍が建造した航空母艦の中では最後に完成した中型空母です。が、太平洋戦争では出撃の機会は最後までなく、戦争終結後の復員輸送で活躍しました。

同型艦は、ほかに2隻作られ、そのうち「雲竜型」のネームシップ、「雲龍」は駆逐艦3隻に護衛されて有人ロケット特攻兵器「桜花」および空挺部隊をフィリピンへ輸送中、1944年12月19日に米潜水艦の雷撃により撃沈されました。また、同型艦「天城」も1945年7月28日に空襲を受け、呉港外で大破横転し、運用ができなくなり、廃船となりました。

「葛城」は竣工と共に雲龍、天城と同じ、第一航空戦隊に編入されていましたが、このころには日本の戦闘機製造能力は極端に低下しており、搭載航空隊のないまま、特殊警備艦として使用され、出撃の機会を得ないで終戦を迎えたのでした。姉妹艦が不幸な運命を辿ったのに比べれば、幸運な艦であった、という見方もできます。

ただ、葛城も全くの無傷だったわけではなく、1945年3月19日の呉軍港空襲において、空母「バンカー・ヒル」攻撃隊10機の反跳爆撃を受け爆弾1発が右舷艦首へ命中、破片で戦死1名・負傷者3名を出すなどの被害を受けました。

また、7月24日の空襲では「葛城」左舷前部に爆弾1発が命中、高角砲員を中心に戦死13名・負傷5名を出し、7月28日の空襲でも飛行甲板前部エレベーター後方に爆弾2発が命中、1発が至近弾となり、戦死13、負傷12名を出しました。

しかし、被弾したものの致命傷にならず、機関部などの船体下部や艦橋などには大きな損傷はなく、航行可能な状態で8月15日の終戦を迎えました。葛城が空襲を受けた呉沖の三ツ子島の周囲では同型艦「天城」以外にも航空戦艦「伊勢」、重巡洋艦「青葉」が沈没し、対岸の能美島に係留されていた空母「龍鳳」なども大破しました。

これらの艦に比べれば葛城はほとんど無傷のままで終戦を迎えることができ、このほか同じく損傷の少なかった、空母「鳳翔」とともに復員船として用いられることとなります。

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終戦後の10月20日に除籍され、連合国軍による武装解除の後、「特別輸送艦」の呼称が与えられました。復員兵士を乗せるために、格納庫への仕切りなどの設置による居住区への改装、それにともなう飛行甲板への通風孔の設置(格納庫には窓がないため)等の改装が行われ、塗装も変更されて、側面に日の丸と「KATSURAGI」の文字が入れられました。

改装により、輸送可能人員は約3,000名から5,000名余となりました。が、被弾のために、膨れ上がった飛行甲板はそのままの状態でした。しかし、特別輸送艦として最大の大きさを持っており、復員輸送は旧海軍省が担当し、1945年(昭和20年)12月から開始されました。

中型の空母ではありましたが、復員船としてはかなりの大型といえ、かつ高速の艦であったために、遠方の南方方面を担当し、南大東島やラバウル、オーストラリア、仏印などを航海しました。約1年の間に8航海、計49,390名の復員者を輸送し、その中には歌手の藤山一郎もいました。

戦争中はほとんど外洋へ出ることもなく瀬戸内海で待機する、という戦艦としては憂き目をみました。が、それが幸いし、戦争終了後に復員輸送艦として大活躍するという、皮肉な艦歴を持つこととなったわけですが、復員任務が終了されるとその短い生涯を終えました。

1946年(昭和21年)11月20日、「葛城」は特別輸送艦の指定を解かれ、12月22日から日立造船桜島工場で解体開始、翌年11月30日にまでには完全に解体されました。

戦前、葛城が建造された以降も、同型艦として、「笠置」、「阿蘇」、「生駒」などの航空母艦が建造されていました。が、いずれも戦況が悪化するなか建造が中止され、戦後すぐに解体されています。中には「阿蘇」のように完成度60%で1944年11月に建造中止され、弾頭の性能実験のために標的として使用された艦もありました。

そういう意味では、初代の帆船であった葛城とともに、非常に運の強い船であった、といえます。また、古来、縁起の良い呼称であるとされる「葛城」の名を冠しただけのことはあった、ともいえるのではないでしょうか。

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ちなみに、「葛城」が解体されたこの桜島工場というのは、鹿児島の桜島ではなく、大阪市の此花区(このはなく)にあった工場で、1997年(平成9年)に閉鎖された後、現在はユニバーサル・スタジオ・ジャパンの敷地として使用されています。

日立造船は、1881年(明治14年)に、イギリス人実業家・E.H.ハンターにより、「大阪鐵工所」として創業した会社で、のちの1900年(明治33年)4月にこの桜島工場を拠点として本格操業を開始しました。

1908年(明治41年)には、スタンダード石油向けの 日本初のタンカー「虎丸」を建造するなど、過去においては数々の名船を産み出し、1930年(昭和5年)には、日本郵船向けに氷川丸型貨客船「平安丸」も建造しています。1965年(昭和40年)に竣工した青函連絡船 「羊蹄丸」が建造されたのもこの工場です。

この日立造船で解体された「葛城」と同名の艦は、日本海軍が海上自衛隊となった現在に至るまでありません。また、「葛城」以降、現在に至るまで、日本が建造し、就役させた航空母艦もありません。

ただ、「航空機を運用することを目的とした護衛艦」としては、「ヘリコプター搭載護衛艦」が建造されています。戦後、はじめてヘリコプターを搭載した護衛艦は、1973年就航の「はるな」です。2年後には、同型艦の「ひゅうが」も就役しました。

ヘリコプターという航空機を搭載してはいるものの、敵に攻撃を加える航空母艦ではないため、「護衛艦」と称しているわけですが、航空機の搭載によって、その行動範囲と用途が飛躍的に広がる、という点では、航空母艦と同程度の能力を持っているといえます。

が、このころのヘリコプター搭載艦のヘリコプター搭載数は、わずか3機にすぎず、また、艦形も従来型の護衛艦のように中央部に高楼構造物を持っていました。昔ながらの戦艦のような形状をしており、ヘリコプターは後部甲板から離発着する形式でした。

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その後、「ひゅうが型」は退役しましたが、後継艦として昭和50年、51年建造された、しらね型(「しらね」と「くらま」)も搭載数3機であり、同じような形をしています。が、2009年(平成21年)、2011年(平成23年)に就航した、「ひゅうが型」の「ひゅうが」と「いせ」からは、海上自衛隊初の「全通甲板型護衛艦」となりました。

甲板のほぼ8割以上が飛行甲板であり、「しらね型」までは、ヘリコプターはまるで付け足しのような感じでしたが、ようやく本格的な航空母艦の様相を呈してきました。艦載機も最大11機と大幅に増え、場合によっては、ハリアーのようなSTOVL型戦闘機(垂直離発着機)が着艦することも可能であることから、「軽空母」ではないかと言われました。

が、防衛省は「ひゅうが型」における固定翼機運用については公式に発表しておらず、また、攻撃力を有する空母を事実上有しているではないか、とする内外からの指摘に対しては、空母とはまったく本質を異にする艦であるとして、お茶を濁しました。

しかし、その排水量は歴代自衛艦としては、建造当時、最大の13,950トンもあり、イタリアやスペイン、あるいはタイ王国海軍の保有する軽空母と同等か上回っており、誰が見ても空母といえるものでした。

さらに、今年3月に就航したばかりの、「いずも型」の「いずも」に至っては、最大搭載機数14機にまで拡大されました。基準排水量も19,500トンと、前型の「ひゅうが型」を大きく上回っており、旧日本海軍が運用していた「葛城」ほかの正規空母、「飛龍型」の基準排水量、17,300トン、を上回りました。

全長も、飛龍型が227mだったのに対して、248mと上回り、大戦初中期のアメリカ海軍主力空母であった、ヨークタウン級航空母艦(基準排水量:19,800トン、全長:247m)とほぼ匹敵することになります。

現在、同規模の艦にはイタリア海軍の軽空母「カヴール」、スペイン海軍の強襲揚陸艦兼軽空母「フアン・カルロス1世」があり、ジェーン海軍年鑑など日本国外のメディアにおいては事実上、ヘリ空母(helicopter carrier)と呼称されています。

さらに2年後の2017年(平成29年)3月には、同じ「いずも型」の「かが」の就航が予定されています。「いずも」の名は、令制国の出雲国に由来し、旧海軍の出雲型装甲巡洋艦「出雲」に続き日本の艦艇としては2代目であり、また、「かが」は、旧海軍の航空母艦「加賀」に続く2代目です。

これで日本において現役で就航中のヘリコプター搭載艦は、「いずも」に加え、「しらね(白峰三山(白根山)にちなむ)」、「くらま(旧海軍の巡洋戦艦「鞍馬」、雲龍型航空母艦「鞍馬」に続き3代目)」、「ひゅうが(伊勢型戦艦に続いて2代目)」、「いせ(航空戦艦伊勢に次いで2代目)」の5隻にもなりました。

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しかも、「しらね」以外は、すべて旧帝国海軍の戦闘艦名を復活させたものであり、戦前の海軍の復活を目論んでいるのではないか、といわれても防衛省は開き直ることはできないのではないでしょうか。

ちなみに、「しらね」だけがなぜ旧帝国海軍の艦船名にならなかったか、については、当時の防衛庁長官だった金丸信氏が自分の選挙区にあった白根山からつけさせたというのは有名な話です。当初予定では旧金剛型戦艦の名前を貰い、「こんごう」になる予定だったといわれています。

なので、そう遠くない未来に、旧帝国海軍最後の航空母艦、「葛城」の名をとった、「かつらぎ」が登場するのではないか、と私は信じています。

気になるこの最新型の「いずも」の戦闘能力ですが、前型である「ひゅうが型」は単艦でもかなり高い戦闘能力を持っていましたが、「いずも型」では艦そのものの戦闘能力は低く抑えられており、ヘリコプターの運用に重点を置いた艦だそうです。

多機能レーダーやソナーは簡略化されており、武装も最低限の自衛火器を除いては搭載せず、対潜用の魚雷すらないといいます。これは前型の「ひゅうが型」の時点ですでに艦本体が洋上を機動して対潜その他戦闘に従事するには限界の大きさを超えたいたため、といわれています。

ひゅうが型ですら、排水量などでは既に第二次世界大戦期の重巡洋艦クラスに相当しており、これ以上の大きさとなる「いずも型」ではもう機動性は無視し、むしろ、艦隊中核のプラットフォーム、つまり、海上航空隊の司令塔としての機能に徹する運用が想定されているそうです。

すなわち単艦では運用せず、護衛艦(例えばイージス艦)を伴った艦隊として運用することを前提としており、つまりは護衛艦としての機能を捨て、昔の航空母艦と同じように、航空機の離発着に特化した役割のみを持たせることに立ち返った、ということがいえます。

戦後70年目にして、日本はついに戦前と同様に航空母艦を持った、といわれてもこれはもう仕方のないことでしょう。

先だっての安保法案の通過にともない、今後は、専守防衛の名のもとに、実際に固定翼機の離発着が可能な航空母艦の建造が始まるのかもしれず、もしかしたら、既に就航している最新型の「いずも」には、ヘリコプター以外の固定翼機が格納できる装置が秘密裡に搭載されているかもしれません。

また、いずれ「いずも型」の後継艦として建造されるであろう、その1番艦には再び、太平洋戦争時の最後の航空母艦、「かつらぎ」の名が与えられるのかもしれません。

役行者は今から約1,300年前、16歳の時から、葛城山のある金剛山で修行し、全国各地の霊山へ駆け巡ったと伝えられます。これから生まれるであろう、この「かつらぎ」もまた、多くの自衛艦がこれに乗船し、世界各国を回って修行をする場になっていくに違いありません。

が、くれぐれも戦争に巻き込まれないよう、願いたいところです。

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西南戦争のこと

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昨日の彼岸の中日を境に、秋が深まっていく感じがします。

暑さ寒さも彼岸までといいますが、一夜明けた今朝のこの山の上はかなり気温が下がり、20度を切りました。

彼岸明けは、26日なので、お墓参りにまだこれから行くという人も多いでしょう。我が家では先祖代々の墓は金沢にあるので、さすがにお参りには行けません。こちらで手を合わせただけで、済まさせていただきます。

かの西南戦争では、このお彼岸の時期に終結しました。現在に至るまで、「最後の内戦」とされるこの戦争では、官軍の死者は6,403人、西郷軍の死者は6,765人にも及んでおり、その英霊たちの供養もまた、このお彼岸の時期に各地でなされていることでしょう。

明治初期に起こった一連の士族反乱の中でも最大規模のもので、西南の役とも呼ばれるこの戦争について語ると長くなります。なので、ここでその詳細を書くつもりはありません。

が、その始まりと終わりの部分についてだけ、ざっと整理してみましょう。

この戦争は一言で言えば、西郷隆盛を盟主にして起こった士族による武力反乱です。1877年(明治10年)の下旬に熊本城で始まった戦いは、熊本県内だけに収まらず、その後、宮崎県・大分県へとその激戦地を移しながら、鹿児島県で終わりを告げました。

事の発端は、明治政6年の政変で下野した西郷が、1874年(明治7年)に、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設したことです。その目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率することと、県内の若者を教育することでしたが、同時に外征を行うための強固な軍隊を創造することを目指していました。

このため、この学校では外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊学させるなど、積極的に西欧文化を取り入れていました。が、やがてこの私学校はその与党も含め、鹿児島県令大山綱良の協力のもとで県政の大部分を握る大勢力へと成長していきました。

一方、近代化を進める中央政府は1876年(明治9年)3月に廃刀令、同年8月にも「金禄公債証書発行条例」を発布しました。これは、秩禄処分(ちつろくしょぶん)ともいわれるもので、旧来の「禄」つまり、江戸幕府の賃金体制を全廃する、というものでした。

この2つは帯刀・俸禄の支給という旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを負わせました。これが契機となり、同年10月に熊本県での「神風連の乱」や福岡県の「秋月の乱」、さらに山口県では「萩の乱」が起こりました。

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下野後、現在も指宿市にある鰻池湖畔の鰻温泉にいた西郷はこれらの乱の報告を聞き、心を揺り動かされます。西郷の真意は明治政府に自分の主義主張を認めさせるために何が何でも武力で押し通す、といった好戦的なものではなかったと言われています。

しかし、自分が育て上げた私学校の卒業生や維新に至るまでに西郷を慕い、側近となっていた面々に担ぎ上げられた、とするのが定説です。

一方では、この決起は、この当時日本へ触手を伸ばそうとしてきていた、ロシアのための防御・外征を意味していたという説があり、自らが育てた軍でもって中央政府にも対ロシア戦への奮起を促したかったのだ、ともいわれているようです。

また、西郷は、1871年(明治4年)に中央政府に復帰して下野するまでの2年間、板垣退助・江藤新平・後藤象二郎・副島種臣らによって提唱された、武力をもって朝鮮を開国しようとするいわゆる「征韓論」にも熱心でした。

しかし、西郷ら不平不満士族を中心とするこうした「強兵」重視路線は、四民平等・廃藩置県を全面に押し出した木戸孝允・大隈重信らの「富国」重視路線によって斥けられた格好となり、それに対する不満や反発が彼等の中に生まれました。西郷自信の心中にも同様の不満が全く無かったとはいえないでしょう。

とはいえ、「人間がその知恵を働かせるということは、国家や社会のためである」といったことを信条にするほど、国家の安泰ということを望んでいた人です。どうしてこうした暴挙に出たかについては、その真意はいまもって謎とされ、多くの学者や研究者の間で議論があるようです。

とまれ、そうした西郷が本当に築きたかった国家がどういうものであるかを理解することなく、鹿児島においては、私学校党による県政の掌握が進み、私学校を政府への反乱を企てる志士を養成する機関だとする雰囲気も蔓延していきました。

こうした動きを見ていた、中央政府の面々のうち、内閣顧問木戸孝允を中心とする長州派はとくにこの鹿児島の動きに敏感でした。そして木戸は「鹿児島県政改革案」を提案するに至り、1876年(明治9年)に、薩摩藩出身の内務卿、大久保利通に対して、これを受諾させました。

こうして、大久保は外に私学校、内に長州派という非常に苦しい立場に立たされることになりましたが、この改革案は、この時の鹿児島権令(県令)、大山綱良の猛反発を受けました。この当時、明治新政府では廃藩置県後に旧藩と新府県の関係を絶つために、新しい府県の幹部には他府県の出身者をもって充てるということとしていました。

ところが、大山は薩摩出身であり、同国人が鹿児島県令になるのは、この廃藩置県の原則に反する特例措置でした。大山は、西郷らが新政府を辞職して鹿児島へ帰郷すると、私学校設立などを援助し西郷を助けるようになりました。

県令を拝したあとは、鹿児島県は新政府に租税を納めようとしなくなり、私学校党を県官吏に取り立てるなどしたため、鹿児島はあたかも独立国家の様相を呈するようになりました。この大山の暴発に加え、上述の萩の乱ほかの地方の乱の発生により、結局、木戸が提案した「鹿児島県政改革案」はその大部分が実行不可能となりました。

ちなみに、大山はその後鹿児島で西郷らが挙兵した西南戦争では官金を西郷軍に提供するなど官軍に敵対する動きを見せましたが、西郷軍の敗北後は、その罪を問われて逮捕され東京へ送還、のち長崎で斬首されています。享年53。

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しかし、実際に実行された対鹿児島策もありました。その1つが1877年(明治10年)1月、私学校の内部偵察と離間工作のために警視庁大警視である川路利良が「中原尚雄」以下24名の警察官を、「帰郷」の名目で鹿児島へと派遣したことです。これに対し、私学校徒達は中原などの大量帰郷を不審に思い、その目的を聞き出すべく警戒していました。

また、新政府は、このころ、赤龍丸を持つ三菱会社に命じて、薩摩藩が一朝に緩急ある時のために藩士からの醵出金を集めて備蓄していた兵器・弾薬を大阪に運び出そうとしました。鹿児島県にある陸軍省砲兵属廠にあった武器弾薬がそれで、この中には当時の陸軍が主力装備としていた最新鋭のスナイドル銃などが含まれていました。

やがて彼等は警視庁帰藩組の内偵を行った結果、彼等の帰郷が西郷暗殺を目的としている、という事実を掴みます。私学校幹部らは善後策を話し合いますが、当の本人の西郷は、このときはまだ戦をするつもりなどは全くなく、大隅半島の南部の根占(ねじめ)で猟をしていました。

しかし、この暗殺計画の事実とともに、政府による弾薬掠奪事件の顛末を、私学校幹部が派遣した使者から聞いた西郷は、「ちょしもたー(しまった)」との言葉を発し、暗殺計画の噂で沸騰する私学校徒に対処するため鹿児島へ帰りました。

帰る途中、西郷を守るために各地から私学校徒が馳せ参じ、鹿児島へ着いたときには相当の人数にのぼっていました。血気に逸る私学校党は、ついに中原ら60余名を一斉に捕縛し、苛烈な拷問がおこなわれた結果、川路大警視が西郷隆盛を暗殺するよう中原尚雄らに指示したという「自白書」がとられました。

この話を聞いた多くの私学校徒は激昂して暴発状態となりました。根占から帰った西郷は幹部たちを従え、私学校本校に入り、ここに私学校幹部及び分校長ら200余名が集合して大評議がおこなわれ、今後の方針が話し合われました。

この会議においては、武装蜂起と政府との対話の両論が出ましたが、このほかにも諸策百出して紛糾しました。が、座長格の私学校幹部、篠原国幹が「議を言うな」と一同を黙らせ、また長年西郷につき従ってきた側近中の側近、桐野利秋が「断の一字あるのみ、…旗鼓堂々総出兵の外に採るべき途なし」と断案し、全軍出兵論が多数の賛成を得ました。

また、どのルートで東征に向かうかについては、数案が出されましたが、結局「熊本城に一部の抑えをおき、主力は陸路で東上」する策が採用されました。

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こうして、一番~五番大隊からなるおよそ14000名の部隊が編成され、2月14日、私学校本校横の練兵場で、騎乗した西郷による閲兵式が行われました。翌15日、60年ぶりといわれる大雪の中、薩軍の一番大隊が鹿児島から熊本方面へ先発しましたが、これがその後、8ヵ月に及ぶ西南の役の始まりでした。

これに対して政府側は、西郷軍が熊本城下に着かないうちにすでに天皇から征討の詔を得ており、西郷軍の邀撃(ようげき)に動き出していました。西郷軍が鹿児島を発したのが2月15日で、熊本城を包囲したのが2月21日。対して政府が征討の勅を得たのが2月19日でした。

西郷軍が動き出してわずか4日目のことであり、彼らが熊本城を包囲する2日前でした。このことから明治政府の対応の速さの背景には電信などの近代的な通信網がすでに張り巡らされていたことがわかります。熊本城は熊本鎮台司令長官で、元土佐藩士、谷干城(たてき)の指揮の下、4000人の籠城で西郷軍の攻撃に耐え、ついに撃退に成功しました。

なお、この戦いでは武者返しが大いに役立ち、熊本城を甘く見ていた西郷軍は、誰一人として城内に侵入することができなかったといいます。しかし、熊本城はこのとき、原因不明の出火で大小天守などの建物を焼失しました。が、現在国宝になっている天守などの多くが焼け残りました。

薩軍はその後、九州各地で政府軍と戦いましたが、上述のように最新式の銃はなく、装備の劣った小銃と少ない大砲で堅城に立て籠もる政府軍と戦うという、無謀この上もない作戦を採用せざるを得なくなりました。これに対して、優勢な大砲・小銃と豊富な弾薬を有する政府鎮台側は圧倒的に有利でした。

また剽悍な士の多くが、熊本城ほかのこうした攻城戦で消耗していきました。しかし、全般的に戦いはこう着状況が続き、4月になり春となっても終結せず、さらに7月、8月と夏になっても各地で激戦が続きました。ただ、兵力と武器の双方の不足に悩む西郷軍は次第に本拠である鹿児島に追い詰められていきました。

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9月1日、西郷らは鹿児島入りすると、私学校を守っていた200名の官軍を排除して私学校を占領し、突囲軍の主力は、錦江湾西部(桜島の対岸)にある城山を中心に布陣しました。このとき、鹿児島の情勢は大きく西郷軍に傾いており、住民も協力していたことから、西郷軍は鹿児島市街をほぼ制圧し、官軍は米倉の本営を守るだけとなりました。

この城山というのは、鹿児島城下の高台にあり、現在公園になっており、私も行ったことがあります。その展望台からは、桜島をはじめ錦江湾と鹿児島市街地を一望できます。その北端に洞窟があり、ここに西郷らは立て籠もりました。

しかし、3日には官軍が形勢を逆転して城山周辺の薩軍前方部隊を駆逐し、6日までには城山包囲態勢を完成させました。その後、両軍の間には目立った交戦はなくにらみ合う形で20日ほどが過ぎました。

が、23日になって、海軍の総司令官の中将、川村純義からの降伏を勧める書状が届けられました。しかし、西郷はこれを無視し、また、陸軍総司令官の山縣有朋からの自決を勧める書状にも西郷は返事をしませんでした。

こうして、9月24日午前4時、官軍砲台からの3発の砲声を合図に官軍の総攻撃が始まりました。このとき西郷とその側近の将士40余名は籠もっていた洞窟の前に整列し、ここから岩崎谷と呼ばれる谷を下って、500mほど東へ離れた地に進撃しました。

この進撃に際しては、側近たちの多くが弾丸に倒れ、傷ついた者は自刃しました。最後に西郷らがいたのは、島津家の家臣と思われる、「島津応吉久能」という人物の邸宅だったようです。調べてみましたが、どんな人物かどんな邸宅だったかはよくわかりません。が、敵の弾を避けるだけの構えのある、豪壮な邸宅だったと推察されます。

この島津邸の門前で西郷も股と腹に被弾しました。西郷は、負傷して駕籠に乗っていた側近の別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここでよかろう」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し、遙かに東方を拝礼しました。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷を介錯しました。

その後別府晋介もその場で切腹しました。西郷の切腹を見守っていた桐野利秋ほかの側近たちも敵陣に突撃し、敵弾に斃れ、自刃し、或いは私学校近くの一塁に籠もって戦死しました。そして、午前9時頃、すべての銃声は止みました。

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この西南戦争は、士族の特権確保という初期の目的を達成出来なかったばかりか、政府の財政危機を惹起させてインフレそしてデフレをもたらし、当時の国民の多くを占める農民をも没落させ、無産階級(プロレタリアート)を増加させました。

しかし、その一方で、一部の大地主や財閥が資本を蓄積し、その中から初期資本家が現れる契機となりました。結果、資本集中により民間の大規模投資が可能になって日本の近代化を進めることになりましたが、貧富の格差は拡大しました。

また、官僚制が確立し、内務省主導の政治体制が始まりました。士族(武士)という軍事専門職の存在を消滅させるとともに、士族を中心にした西郷軍に、徴兵を主体とした政府軍が勝利したことで、士族出身の兵士も農民出身の兵士も戦闘力に違いはないことが実証され、徴兵制による国民皆兵体制が定着しました。

西南戦争の教訓から、徴兵兵士に対する精神教育を重視する傾向が強まり、西郷軍の士気が高かったのは西郷隆盛が総大将であったからだと考えた明治政府は、天皇を大日本帝国陸軍・海軍の大元帥に就かせて軍の士気高揚を図るようになりました。結果、太平洋戦争による敗戦まで続く軍国主義へと日本は邁進していくことになります。

ところで、冒頭で述べたとおり、この戦争では、両軍合わせて13,000人以上の死者が出るとともに、それ以上の多数の負傷者が出ましたが、これを救護するためには、この当時発足したばかりの日本赤十字社の前身である「博愛社」が活躍しました。

西南戦争で政府軍と薩軍が激戦を交わす最中の5月に創立されたばかりであり、この当時の標章は日の丸の下に赤線一本でした。現在のようにレッドクロスになるのは、ジュネーブ条約に加入した明治20年からになります。このときはまだ、未加入であったため、赤い十字と類似の記号を用いることを避けて暫定的標章を使うことにしたようです。

標章案としては、赤ではなく別の色のクロスにする、という案もあったようですが、その検討の過程で、キリスト教を嫌っていた三条実美太政大臣の「耶蘇のしるしじゃ」の一言で一本線になったと伝承されています。

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また、この博愛社の活動とは別に、熊本の医師・「鳩野宗巴(はとのそうは)が敵味方なく治療を行いました。この鳩野宗巴というのは、初代から10代まで、世襲によって代々同じ名を受け継いで活動していた医師の家系で、この西南戦争で活躍したのは第8代の鳩野宗巴です。

初代の宗巴は、寛永18年(1641年)、肥後長崎に生まれました。先祖は姓を中島といい、長州毛利家に仕えた武士でしたが、家督相続の処理に不平を抱き長州を離れ、浪人として肥前長崎で生活するようになり、そのなかで初代の宗巴が生まれました。

この初代宗巴は、幼いころから出島のオランダ館に出入りしていたといい、ここで海外の事情、特に西洋の医学が大いに進んでいることを知りました。「解体新書」よりも約100年早い、まだ鎖国中の万治年間(1658~1660年)に、密かにオランダ船に紛れ込んでオランダに渡り、5年間医学などを学んで帰国しました。

このとき、密航の犯跡をくらますために出島にとどまり、オランダ人の医師、カスパル、アルマンスの二人のもとでさらに研鑽を重ねました。この間、肥後細川藩主の飼い鳩を治療したことから、「鳩の医者」の称号がつき、君命によって姓を「鳩野」に改めたと伝えられています。その後、大阪に移り開業し名をなし、細川侯から厚遇を受けました。

第二代宗巴のとき、肥後に移り、以来代々「宗巴」を襲名し、中でも7代宗巴は豊後竹田にて華岡門下の十哲といわれた植村文建の門に入り、華岡流外科を学びました。

熊本では広大な医院(活人堂)や病室(養生軒)、医師養成の家塾(亦楽舎・えきらくしゃ)を建てて、診療を行いました。また多くの弟子を持ち、彼等の医師として育てるための教育にも力を尽くしました。

西南戦争に関わった8代宗巴は1844年(天保15年)、熊本城下で生まれ、19歳でこの世襲制の鳩野家の家督を継ぎました。25歳のとき、藩命で上野戦争に参加し、熊本一番隊医長として、横浜の軍事病院で薩長土3藩の負傷兵300人の治療を担当しました。このときの功績により宗巴は熊本藩より白銀3枚賞与を受けています。

34歳のとき、西南戦争に巻き込まれました。熊本城での戦闘が勃発した際、熊本士族の薩軍幹部より、病院を設けて治療に従事しろ、との強要を受けたのがことの発端です。

このとき宗巴は「あなた方の負傷者は実にお気の毒だが、官軍の負傷者にも手が届かずいる者が多いので、あなた方だけの治療をするわけにはいかない。また、軍人だけでなく、戦争の余波で負傷した普通人も少なくない。医は仁術であるので、官薩民隔たりなく負傷者の治療をしろ、というのなら応じましょう」と答え、薩軍側もこれを承服したといいます。

宗巴はさっそく同僚の藩医とともに、仮病院を開いて治療にあたりましたが、傷者はたちまち200人に及んだため、急きょ近隣の学校、寺院や民家41戸を借り上げて病室としました。

この医療活動は皆自費で行われといい、近隣の婦人達が競って看護に協力し、初めての戦陣での組織的な女性の看護活動も行われました。こうした活動は、5月27日に熊本で設立された博愛社よりも、94日早い2月23日だったため、日本の組織的赤十字活動は宗巴によって始められたともいわれています。

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戦後もその慈善活動は継続され、明治25年には、熊本貧児寮(現・社会福祉法人大江学園の前身)が設立されると、宗巴は進んで施設医(内科外科)となり、その後20年に渡って報酬を受けずに働き続けました。また、先祖から受け継いでいた鳩野の家塾、亦楽舎も、明治14年の医療制度改革によって私塾廃止のやむなきに至るまで継続しました。

後輩の医師の養成にも力を尽くし、亦楽舎では天保10年に創立されてから明治14年に廃止されるまでの43年の間に、総数156名の医生が学びました。明治に流行した数え歌のなかで、「医者の名所は鳩野」と唄われるほどであり、九州日日新聞でも慈善家としての鳩野宗巴の記事が掲載されるなど、慈善事業家としての宗巴の名声は高いものでした。

この8代宗巴は、医業のほかにも、質屋を営業し、貧民のために無利息受出しをしていたそうで、公益のために義援金を投じることも少なくなかったといいます。往診で出されたお菓子を包んで帰り道で貧しい家庭の子供に与える、といったことも日常的にしていたようです。

また、日清戦争の後に行われた招魂祭では、軍人と共に戦死した馬も、等しく君国のために倒れたのだからと、独力で近隣の寺の境内に馬の碑を建立したそうです。

しかし、60歳ごろから中風症を煩い、1917年(大正6年)3月に74歳で没しました。墓は熊本市横手町の妙永寺にあります。

8代宗巴を継いだ、9代の宗巴も父の業を継いで活躍しましたが、昭和20年に67歳で没しました。墓は熊本市高麗門妙永寺にあります。

また、8代宗巴の二男、長世は大正12年に分家して、熊本市内の辛島町に鳩野医院を開業しましたが、昭和44年に没しました。本家9代宗巴の後は、その長世の子、長光が昭和21年の10代宗巴を継いで医業に励みましたが、こちらは昭和40年に没しました。

鳩野家はこの10代宗巴を最後に医系としては絶えることになります。

歴代の宗巴のうち、西南戦争を機に最も活躍したとされる8代宗巴は、1977年、熊本県近代文化功労者として表彰されています。

遺訓は、次のとおりです。

「世は名利に馳せ、医も亦これを学ぶ傾向あるは、はなはだ患うべし」
「医は素より仁恤をもって天職とする。故にかりそめにも其の天職を忘却するが如きはもっての外の癖事なり。」

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8まん

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先々週の大雨といい、先週末の戦後最悪の法律の可決といい、どうもこの9月はかなり記憶に残りそうな月になりそうです。

さまざまな凄惨な事件も勃発しており、テレビをみるたびに、あ~またか、と少々暗い気持ちになってきます。

しかし、明るい出来事もあり、先日は、ラクビーで日本代表が優勝候補の南アフリカを破るという快挙もありました。この連休中は、全国的にお天気にも恵まれたようで、一歩外へ出てみれば、開かる日陽射しの中咲き乱れるヒガンバナと、どこからともなく匂うキンモクセイの香りに包まれて、うっとりとしてきそうです。

そんななか……明日はもうお彼岸、ということで、お墓詣りに行かれる方も多いことでしょう。が、連休中ということで、遠方に墓所がある人たちは、さぞかしその移動に苦労をされていることかと拝察いたします。

ここ伊豆も、天気がまずまずということもあり、あちこちで渋滞が起こっています。いつものことではあるのですが、ほかに観光地も多いのだから、もう少し分散してくれんかな、と思ったりもします。

しかし、風光明媚な海に山、数々のレジャースポットがあり、しかも東京、名古屋からもさほど遠くないこの地に観光客が集まるのはあたりまえで、そうしたところを住処に選んでしまった以上は仕方ないかな、とも思います。

その伊豆のジオパークへの登録も昨今話題になっています。残念ながら、今回鳥取市で開かれた国際会議では、議論を重ねたものの、結論が出ず、保留となりました。しかし、世界ジオパークネットワーク(GGN、本部パリ)は、「後日指示を送るので、早急に詳細な資料の追加を」と11月までの書類提出を日本お推進協議会協側に求めたそうです。

つまり、今回の決定は認可の却下ではなく、継続審議ということのようです。送った書類が彼等の期待するような内容ならば、早ければ11月中に認定の可否が再度決定される可能性があるといいます。

世界ジオパークの不認定には、保留のほか、再び現地審査が必要な場合と、地質自体が評価できず認定を却下される場合があるようです。が、今回は追加資料の提出のみが求められており、最も認定に近い評価だったといいます。早期の認定に期待したいと思います。

今回伊豆はジオパークに認定なりませんでしたが、同時に審査を受けたアポイ岳(北海道様似(さまに)町)は認定を受けました。これは、北海道南部、襟裳岬の少し西にある山です。日高山脈の西南端に位置し、一等三角点を持ち、標高は810.5mあります。

ウチのすぐ近くにある、金冠山という山が標高816mですからほぼ同じです。こちらは、昔の達磨山火山が浸食されてできた一峰ですが、アポイ岳も、地名の由来はアイヌ語の「アペ・オ・イ」(火のあるところ)だそうなので、昔は火山だったのかもしれません。

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が、調べてみると違いました。そもそもアポイ岳を含む日高山脈は、約1300万年前に、北海道東側に広がる北米プレートが、その西側のユーラシアプレートに乗り上げてできました。その際、プレートとプレートの激しい衝突は、北米プレートの端っこをめくれ上がらせ、結果としてプレート端部を地表に表出させました。

文字に例えると、三→川、といった感じです。つまり、プレートの端っこが90度近くねじ曲がり、完全に上向きになってその断面が表出しました。これが隆起したまま残り、日高山脈になりました。そしてその一部が、アポイ岳になったというわけです。

アポイ岳を含む日高山脈には、このときのめくれ上がりによって、地質の異なる岩石が東西に順序良く横倒しで並んでいます。このような場所は世界的に見てもほとんどなく、地球内部の様子を知るうえでの貴重な学術標本といえます。しかも、このうちのアポイ岳の部分は、「かんらん岩」という特殊な地層でした。

「幌満橄欖岩(ほろまんかんらんがん)」と呼ばれているかんらん岩でできており、特殊なものです。そもそも、かんらん岩はマントル上部を構成する岩石の一つであり、そのほとんどが地下深くに存在するため、普段あまり我々が目にすることはありません。

地表で見られるものには、マグマ等が急激に上昇する際に引きずり込まれて「捕獲岩」として運ばれてきたものがあります。が、アポイ岳の場合は、プレートとプレートとのぶつかり合いによって地殻がまくれあがってマントル物質が地表に現れたものであり、非常に珍しいものです。

ちなみに、かんらん岩はより高圧な力がかかると、いわゆる「柘榴石」という宝石を含むかんらん岩となります。柘榴石は、いわゆる、「ガーネット」という宝石で、世界的にみても、西アルプス、ボヘミア、ノルウェーなど10ヵ所くらいで見つかっているにすぎません。

残念ながら、アポイ岳の、幌満かんらん岩には、ザクロ石そのものは入っていないようです。が、ザクロ石が周りの条件の変化に合わせて輝石やスピネルといった鉱物に分解してしまったあとが観察されているそうです。また、日高山脈の他の箇所では、実際にザクロ石が見つかっているそうです。

このアポイ岳は、こうした地質的な特徴以外にも、様々な豊かな自然を包括しており、1952年には、その高山植物帯が「アポイ岳高山植物群落」として国の特別天然記念物に指定されています。また、1981年には日高山脈襟裳国定公園の特別保護区となっています。「アポイ岳と高山植物群落」として日本の地質百選にも認定されているそうです。

標高が低いわりに、特殊な岩体のため森林が発達せず、「蛇紋岩植物」が生育する高山植物の宝庫としても有名であり、花の百名山となっているといいます。今回世界ジオパークにも登録されたことで、ハイカーなどの人気が出てきそうです。が、今後は、くれぐれもその豊かな自然が壊されないことを祈りたいところです。

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ところで、このアポイ岳がある、様似町には、私も行ったことがあります。町内を流れる様似川の上流に、様似ダムというダムがあり、ここに魚道が設置されている、というので、このころ魚道の調査設計に関わる技師だった私も見学に行きました。

北海道にありがちなだだっ広いながらも簡素な町で、住んでいる方々には大変失礼かもしれませんが、少々寂しいかんじがします(何もないとは言いませんが)。人口は、5000人を切っており、現在4700人ほどです。

町名のサマニは、アイヌ語起源の地名です。語源については「サマムニ」または「サムンニ」(倒れ木)、エサマンペッ(カワウソの川)など諸説あり、はっきりしたことは分からないようです。

江戸時代(1600年ごろ)に砂金採取のために和人が多数移り住むようになり、その後、1906年(明治39年) 様似郡様似村を含む周辺村落が成立しました。1952年(昭和27年)、これらの周辺の村々を吸収して、町制が施行され、現在に至っています。

寂しい町と書きましたが、基幹産業は漁業で、昆布などが獲れるほか豊かな海の幸に恵まれた町です。また、稲作、酪農がさかんなほか、馬産などもおこなわれています。

その関係から、元JRA騎手で、JRA賞最優秀新人賞、NHK杯、G1タイトルなどを獲得した岡潤一郎(若くしてレースで事故死)、厳しい調教で数多くの名馬を生み出したJRA調教師の松田国英などを輩出しています。

このほか、函館大経(だいけい、またはひろつね)という明治の陸軍軍人を出しており、この人はのちに、北海道開拓使職員、北海道庁職員として馬の生産、馬術の普及に関わるようになりました。私的にも、北海道における馬術・競馬・馬の生産の発展に大きく貢献し、現代では「伝説の馬術師」ともして言い伝えられるほどの人です。

1847年生まれといいますから、第14代将軍の徳川家茂が生まれた年であり、これより7年ほどのちのペリー来航前の「夜明け前」の時代の人です。武士の子だったようですが、貧しかったからか海産商・小野市右衛門の養子となり上京。昌平坂学問所において漢学を学びました。

明治政府誕生後は陸軍)に属し、1868年よりフランスの軍騎兵士官、ペルセルという人の下で馬術を習得。陸軍省兵学寮に所属していた1870年、東京招魂社例大祭において行われた天覧競馬において優れた乗馬技術を見せ、横浜レース・クラブ所属の外国人騎手とのマッチレースを制しました。

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この活躍が明治天皇の目にとまったことがきっかけで、のちに開拓使、次いで北海道庁に採用され、馬の生産技術の向上に努めるとともに、持ち前の馬術の技を後人に伝えるようになりました。また、この出来事を境に名を「函館大経」と改めました。

「函館」という変わった姓は、明治天皇からの下賜品を辞退した際、代わりに函館姓を与えられた、という説や北海道を視察中の明治天皇の目にとまり、函館姓を与えられたという説など色々な説があるようです。出生時の氏名は斎藤義三郎ですが、このとき名前のほうも大経と改めました。改名後も数回、明治天皇の前で馬術を披露しています。

34歳のとき、函館支庁長だった時任為基(のちの元老院議官、貴族院議員)の提案により現在の函館市海岸町で行われた競馬に協力したのをきっかけに定期的な競馬開催を目指すようになり、2年後に「北海共同競馬会社」を設立。同社は、海岸町に函館海岸町競馬場を開設し、競馬を開催し始めました。

のちに同社は「函館共同競馬会」と名を変え、1896年(明治29年)に現在の「函館競馬場」を建設しました。その後も同競馬会でも役員を務めるなど長年にわたり函館競馬の役員を務めました。

北海道庁を退官後は獣医、蹄鉄業を営み、のちに「湯の川競馬会社」に勤務し、人々に乗馬技術を伝授しました。その卓抜した騎乗技術は現在にも様々な逸話として言い伝えられており、中には「糸乗り伝説」といい、絹糸1本で馬を御したという話もあります。

晩年、馬に蹴られた右足が思うように動かなくなりましたが、その後も技術は健在で、難なく馬を乗りこなしたといいます。1907年に死去。享年61。墓所は函館市内にあります。

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このように、北海道における馬術・競馬・馬の生産の発展に大きく貢献したわけですが、こういう、競馬にかかわるすべての事に関わる人のことを、「ホースマン」というそうです。
生産者・調教師・騎手・厩務員・馬主・調教助手・獣医師・装蹄師・騎乗依頼仲介者などさまざまなことに関わるため、いわば競馬界における、キーマン、ドンです。

大経の門下生からは、日本の近代競馬を支えたホースマンが数多く育ちました。現在もその流れを汲むホースマンは中央競馬、地方競馬、生産者などに数多く存在しており、日本国内でも最古かつ最大級のホースマンの系譜のひとつだそうです。

たとえば、現代競馬で最も著名な騎手の一人、武豊は大経の直弟子の「武彦七」の子孫です。この武彦七の兄の園田実徳は、日本の近代競馬黎明期の有力者でもあり、大経が発足させた、上述の「北海道共同競馬会社」の発起人の一人に名を連ねていました。

また、現在の競馬界の調教師の大御所といわれ、元騎手でもあった、大久保正陽とその子の大久保龍志(同じく元騎手で現調教師)はやはり、大経の直弟子の大久保福松の子孫です。また、戦後の地方競馬にも大経由来の系譜は存在し、その多くを辿れば、やがて大経に行き着くといいます。

なお、現在の競馬界においては、社台グループという、競走馬生産牧場集団があり、これは今日世界最大規模の競走馬生産育成グループです。中国系かな?と思ったらそうではなく、こちらは、吉田 善哉(ぜんや)という、札幌市出身の元酪農家が創始者です。

父の吉田善助は、戦前、日本に初めてホルスタイン種の乳牛を導入した人物でもあり、その後息子の善哉が農場を引き継いで、現在の社台グループを築き上げました。函館大経とは無縁の人のようですが、この人も競馬界では立志伝中の人のようです。

わずか8頭の繁殖牝馬をもって元々勤めていた牧場から独立後、アメリカに渡り、現地の先進的な生産・育成方法を学んで、現在の王国を築き上げました。が、この話は長くなりそうなので、また別の機会に改めましょう。

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様似町は、このように函館大経を初めとして、現在の日本競馬界にとってかけがえのない人達を輩出してきましたが、このほか、出身者ではありませんが、幼少のころ、ここで育った人物として、桑田二郎という漫画家さんがいらっしゃいます。

今では知らない人も多いと思いますが、その代表作である、「まぼろし探偵」、「月光仮面」、「8マン」と聞けば、あ~あのひとか、と誰でもが知っているでしょう。

13歳の中学生だった1948年に「奇怪星團」でデビュー。その後月光仮面ほか、数々の名作を手がけ、少年漫画誌の歴史にその名を残しました。「残しました」と過去形で書きましたが、今もってご健在です。80歳の現在では、少年漫画の世界を脱し、独特な精神世界の漫画化に取り組んでおられます。

若いころから、その描線の美しさは特筆もので、手塚治虫と双璧と言われていました。実際、病床の手塚治虫に代わって「鉄腕アトム」の代筆を務めたこともあるといい、私も子供のころに桑田さんの描いた漫画を少年漫画誌で読むのを楽しみにしていました。

様似にいたのは、小学校までだったようです。生まれたのは大阪府吹田市でしたが、お父さんの仕事の関係でしょうか、北海道でその幼少期を過ごしました。が、その後、家族とともに大阪に戻っています。

大阪では、両親と兄のつましい4人暮らしの新生活が始まりました。が、詳しいことはよくわかりませんが、このころどうやらお父さんが何等かの病気に罹ったようで、これが桑田さんにとっての転機になったようです。

中学に上がった13歳のころであり、元々漫画好きであった彼は、自分の作品を地元の出版社を回り自作を売り込んだところ、ある会社に認められました。そして1948年に単行本化されたのが、デビュー作のSF、「奇怪星團(怪奇星団とも)」です。

以後、継続して作品を発表するようになり、その原稿料は微々たるものではありましたが、これで病気で職を失った父の代わりに家計を支えていくことができるようになりました。
しかし、苦しい生活状況の中、望んでいた高校進学も叶わず、本格的に漫画の仕事で身を立てようと中学3年で単身横浜に越し、雑誌の漫画を手がけるようになりました。

そんな桑田さんが注目されるようになったのが、22歳の時に描いた「まぼろし探偵」でした。そして1年後の58年、大ヒット作「月光仮面」の仕事が舞い込みます。連載したのは少年マガジンの前身である「少年クラブ」。

当時、この月光仮面の連載だけで発行部数が3倍に伸びたといわれ、桑田さんの睡眠時間はナポレオンをしのぐ1日3時間だったといいます。ファンレターだけでなく、毎年正月の年賀状はミカン箱いっぱい届くようになりました。その人気が買われ、5年後、月光仮面に続くヒーローとして描いたのが「8マン」でした。

この作品は、当時の「週刊少年マガジン」の看板作品で、その後テレビアニメ化もされました。ちなみに、私はこのころまだ小学生の低学年でしたが、毎週親にせがんではこのマガジンを手に入れ、8マンを読むのが楽しみでした。

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この8マンという名前のいわれですが、実は「8人目の刑事で8マン」ということだったようです。当時TBSで放送されて人気だった刑事ドラマ「七人の刑事」を踏まえたもので、8マンも元は東八郎という刑事でした。

ちなみにこの名前は同性同盟の有名コメディアン、東八郎(故人)とは全く関係ありません。コメディアンのほうの東八郎の芸名は、この当時所属していた浅草フランス座を経営する“東”洋興業創業者の松倉宇“七”にちなんだものだそうです。

刑事だった東八郎は、あるとき凶悪犯の「デンデン虫」の奸計に嵌って射殺されてしまいます(アニメ版では車で轢き殺される)。ところが、この刑事・東の死を、ちょうどスーパーロボットの開発をしていた、科学者・谷方位(ほうい)博士がたまたま知ります。

そしてこの谷博士によって、東刑事の人格と記憶はこの開発中のスーパーロボットの電子頭脳に移植され、警視庁捜査一課にある7つの捜査班のいずれにも属しない八番目の男「8マン」として甦りました。

平時は粋なダブルの背広姿の私立探偵・東八郎ですが、ひとたび事件が起き、上司の田中課長から要請を受けると8マンに変身し、数々の難事件・怪事件に立ち向かいます。8マンのボディは、谷博士が国外から持ち込んだ戦闘用ロボット「08号」でした。

ハイマンガンスチール製の身体(???)、超音波も聞き取れる耳、通常の壁なら透視できる「透視装置」の付いた眼、最高3000km/hで走れる能力(加速装置)を持ち、原子力(ウラニウム)をエネルギー源とした活動します。なお、漫画版では眼から紫外線を放つこともできました(……)。

電子頭脳のオーバーヒートを抑えるため、ベルトのバックルに収めてある「タバコ型冷却剤(強化剤)」を定期的に服用しなければならず、時には服用できずに危機に陥ることがありました。

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……とまあ現在みれば結構荒唐無稽な話しではあるのですが、死んだ刑事をロボットとして蘇らせる、という話はなるほど読むものを惹きつけます。そういえばどこかで似たような話があったな、と思ったら、アメリカ映画の「ロボコップ」もまた死んだ刑事をロボットとして復活させる話でした。

もしかして、ロボコップの原題は、8マン?と思って調べてみたのですが、どうやら偶然のようです。ただ、ロボコップの映画製作の際、監督のポール・バーホーベンは、このヒーローの外観モデルを日本の特撮ヒーローに求めたといいます。「宇宙刑事ギャバン」がそれで、これをデザインしたのは、元バンダイ専務で、デザイナーの村上克司という人でした。

バーホーベンから、村上に対してデザイン引用の許諾を求める手紙が送られたそうで、村上はこれを快諾したといいます。

宇宙刑事ギャバンは、かつて宇宙刑事として地球に赴任していた宇宙人と、日本人女性の間にできた子供、という設定のため、8マンやロボコップとは少々ストーリーが異なります。が、バーホーベン監督が、こうした日本の特撮モノなどを含め、日本の映画やアニメを研究していた、ということはあるかもしれません。

アメリカでは、アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニーの関連会社ABCフィルムズが8マンの放映権を取得し、1964年から「The Eighth Man」の題名で、ネットワークに乗らない番組販売の形で放送されていました。なので、バーホーベン監督もこれを見ていた可能性があります。

ちなみに、8マンの原作者は、「幻魔大戦」などで有名なSF作家、平井和正さんです(故人)。桑田さんは平井さんの原作をもとに8マンの作画を担当しましたが、この二人はその後も数多くの作品を共同で仕上げています。その二人が、ある雑誌で対談したとき、やはりこのロボコップと「設定が酷似しているよね」という話をしていたそうです。

漫画版の8マンは、少年マガジンに連載されて好評でしたが、と同時に1963年11月からは、テレビアニメ化されて、こちらも人気を博しました。主人公の躍動感あふれる構図に加え、タバコ型の強化剤を吸うシーンは当時の子供達に影響を与え、放送時にはタイアップで発売されたシガレット型の固形ココアが人気を得ました。

スポンサーは丸美屋食品工業で、この「ココア型シガレット」を愛用していたオヤジ少年は多いでしょう。私もそのひとりです。また、8マンは、同社のふりかけのキャラクターにもなりました。

アニメ化したのはTBSで、同社にとっては初の自社制作によるアニメ参入作品でした。最高視聴率は1964年9月17日放送の25.3%。漫画版の表記は数字の「8マン」でしたが、テレビアニメ版の表記はカタカナの「エイトマン」に変更されました。これは放送されたTBSが6チャンネルであり、8チャンネルはフジテレビだったからだそうです。

また、漫画版では、8マンのボディを開発したのはアメリカのNASAでしたが、アニメ版では、アマルコ共和国という架空の国家で製作された、というふうに変更されていました。

番組は1964年12月31日まで、およそ1年続きましたが、話その物は前週の同年12月24日で終了しており、この最後の放送は次番組「スーパージェッター」の宣伝を兼ねた最終回特番「さよならエイトマン」でした。

実は私はこのエイトマンを毎週楽しみに見ており、なぜか急にこの番組が打ち切りになったのを不思議でしょうがありませんでした。しかし、次回作のスーパージェッターは、8マンを凌ぐ面白さであり、その後このことを長らく忘れていました。

ところが、この項を書いていてわかったのですが、実は、漫画のほうの8マンの連載中、桑田さんが拳銃不法所持による銃刀法違反で逮捕される、という事件があったのだそうです。このため、連載は急遽打ち切りとなりましたが、おそらくテレビのほうもこれにのっとって、強制的に終了させる、という裁断がなされたのでしょう。

いかにも残念な話しではあるのですが、その後、エイトマンは不朽の名作として語り継がれていくことになります。1975年に広島カープをリーグ優勝に導いた山本浩二選手の背番号は8番であり、ミスター赤ヘルの称号とともに、「エイトマン」と呼ばれて人々に親しまれました(そういえば、今年のカープはもうだめでしょうか……)。

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桑田さんはその後、ウルトラセブン(朝日ソノラマ、1978)、怪奇大作戦(朝日ソノラマ、1978)ゴッド・アーム(原作:梶原一騎、双葉社、1979)などの名作を残しましたが、「42歳の厄年」を境に少年漫画界から身を引きました。

その後は、精神世界の漫画化を始め、「マンガで読む般若心経」「マンガ チベット死者の書」「マンガエッセイでつづる魂の目」といった著作(漫画だけでなく文筆も)が多数あります。

若いころ、売れる一方で2度の結婚離婚を経験したそうです。こうした出来事は、デビュー当初から胸に巣食っていた「生きることのむなしさ」を、やがて「死」を現実に近づけたといいます。そして、漫画を描いても一生懸命になれない自分を見つめ直すために、42歳で少年漫画界から身を引いたのだといいます。

収入は無くなり、蓄えも底をつく苦しい暮らしの中で、精神的な放浪を繰り返し、やがてたどり着いたのが瞑想だったといいます。それを機に仏教教典や聖書、論語、古事記などあらゆる教えを読みふけるようになり、その内容を咀嚼することで自分の役目も見えてきました。

やがて「難解な内容も漫画であれば表現できるかも」とも思いはじめ、50歳のころ「般若心経」の漫画を描き始めると、タイミングよく出版社から出版依頼がきました。シリーズ全3巻のこの「マンガで読む般若心経」は大ヒットを飛ばし、再版を重ねました。

テレビや各マスコミでも取り上げられ、続編の「マンガで読む論語」「宮本武蔵―五輪の書」などを次々に発刊できるようになり、経済的な危機を脱しました。

その後、縁あって茨城県の鉾田市に東京から移り住んだのは1986年ころだといいます。鹿島灘に面する、農業が基幹産業ののんびりとした町です。一帯は別荘地として開発されたこともありましたが、バブルがはじけてからは、元の閑散とした寒村に戻りました。

鉾田市へ合併する前、大洋村、といわれていた当時の村の村長の勧めで仕事場兼住居の家を建てることになり、以来、1人で暮らしておられるようです。後半人生で新たな花を咲かせる「花咲か爺さん」と呼ばれているそうです。

「私のヒーロー漫画で育った人も今は実年世代。いろいろあるでしょうけど夢を忘れず明るく生きてほしいですね」とは、ウェブ記事でみつけた、近年の桑田さんの言葉です。私自身、励みにしたいと思います 。

最近では、ニンテンドーDSゲーム用の「It’s tehodoki! 般若心経入門」といった作品もあるそうです。秋の夜長にふけってみてはいかがでしょうか。

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