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クリスマスは苦しみます?

2014-8312既に、お気づきの方もあるかと思いますが、最近、写真ショップ、サイクロス・デポを再開しており、またその関連で、「サイクロス・ブログ」なる新しいブログサイトを立ち上げました。

主として、100年以上も前から戦前に至るまでの古写真を紹介し、これにまつわるエピソードなどを紹介するブログ、と一応銘打っていますが、気まぐれなので、また内容が変わるかもしれません。

それにしても、このムシャ&タエも、発足からそろそろ4年が経ちます。訪問者様はあいかわらず増え続けていて、1400人近い平均訪問者数を数える月もあるので、けっしてみなさんを飽きさせてはいないのではないか、とは思います。

ただ、訪問してくださる方が多いのは良いのですが、先だっては何を書いたブログのあとだったか忘れましたが、アクセス数が異常に多くなりすぎ、サーバに負荷がかかるためか、借りているサーバの運営会社が、アクセスを制限措置を取る、といった騒ぎもありました。

現在は正常に戻っていますが、興味をそそるような話ばかり書いていてはいかんな、と反省しきりです。

とはいえ、自分的には多少内容がマンネリ化しているように思っており、このあたりで自虐的にカンフル剤を打ってうってみようと思ったのが、新しいブログサイトを立ち上げた理由です。

新しいブログを書き始めてみて意外に思ったのは、「写真」というテーマに限ってみるとまた新しい視点で歴史を見つめることができる点です。思いついたことばかりを書いているこのムシャ&タエとはまた違って、ある程度話題を絞りこんだ中で書いていると、なんというか、緊張感のようなものがあります。

これまで日の目を見てこなかった古い写真を世に出す、という使命感が生まれるためなのかよくわかりませんが、いずれにせよ、何か違う世界に踏み込んだようでもあり、なかなかこれはこれで楽しいかんじがします。

なので、ずっと向こうに行って熱中しているかもしれませんので、ムシャ&タエのほうの投稿が滞っているときには、あちらものぞいてみてやってください。

さて、クリスマスです。イエス・キリストの誕生を祝う祭ということで、12月25日がその当日です。

実は5歳年上の広島に住む実姉はこの日が誕生日です。世界に福音をもたらした聖人が降誕したこの日に、多くの隣人に災いをもたらすこの人物が生まれた、というのは、はなはだ不可解であり、納得できないのですが、ともかく、この日はおめでたい日ということで、世界的にお祭りムードとなります。

25日が本番であるはずですが、24日は「イヴ」とされ、前日からお祝いが始まります。これは、キリスト教に先立つユダヤ教時代やローマ帝国では、日付が変わるのは「日没」としていたため、12月24日夕刻がクリスマス突入する時間であるためです。「イヴ(eve)」は「evening(夜、晩)」を省略したものであり、つまりは、クリスマスの前夜のことです。

しかし、イエスキリストが、12月24日の夜から25日にかけて生まれた、というのは後世に作られた俗説であり、そもそも旧約聖書にも新約聖書にも、イエスの誕生日に関する記述はありません。

例えば3世紀の初め頃には、5月20日と推測されていたようで、また1930年代には、イギリスの天文学者が古い天文現象の記述から類推して、9月15日と発表した例もあるようです。

さらに聖書にはイエスの誕生日には羊飼いが誕生を祝ったあと夜中の見張りに戻った、という記述があり、このことからイエスの生誕も春から夏にかけてではないかとする説もあるようです。羊は冬の寒い時期には小屋に入れて外に出さず、4月から9月の間に放牧するためです。

このように、イエス・キリストが実際に降誕した日がいつにあたるのかについては、古代からキリスト教内でも様々な説があり、このためもあって、キリスト教においてもクリスマスは「降誕を記念する祭日」と位置づけられているだけで、「イエス・キリストの誕生日」と考えられているわけではありません。

では、いつから12月25日が生誕祭と定められたかですが、西暦345年ころには遅くとも西方教会で始まっていたとされ、ミトラ教の冬至の祭を転用したものではないかと言われています。ミトラ教というのは、古代ローマで隆盛した、太陽神ミトラスを主神とする古代宗教です。

ちなみに、西方教会というのは、西ヨーロッパに広がり成長したローマ・カトリック教会、や聖公会、プロテスタント、など我々が一般にキリスト教として認識しているキリスト教諸教派の総称です。これに対して、中東やギリシャ、アナトリア・ロシアなどの東ヨーロッパに広がり成長したキリスト教諸教派は、東方教会といいます。

こうしたキリスト教圏におけるクリスマスは、それが始まった当初から既に、常緑樹の下などにプレゼントを置く習慣があり、これをもって家族などに「愛」をプレゼントを贈る日とされていました。

ただ、現在のように必ずしもモミの木ではなかったようです。中世にドイツでアダムとイヴの物語を演じる神秘劇が流行るようになり、この中で使用された樹木がモミの木だったために、クリスマスといえばモミの木ということになったようです。神秘劇というのは、イエス・キリストの生誕・受難・復活の物語を主題とした劇のことです。

また、クリスマスツリーに飾りつけやイルミネーションを施す風習は、その後19世紀ごろこうしたモミの木を飾るというヨーロッパの風習がアメリカ合衆国にも伝わり、何事も新しモノが好きなこの国民の間で広まっていったというのがはじまりのようです。

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じゃあ、サンタクロースはなぜクリスマスにやってくるか。これは、キリスト教の聖人である聖ニコライ(ニコラウス)の伝説を起源としています。実在の人物で、正確にはニコラオスといい、西暦270年頃に生まれ、345年ころ、75歳くらいで亡くなったと伝えられています。

ローマ帝国の属州のパタラ(現在のトルコの地方都市)に生まれ、キリスト教の司教、神学者となった人物ですが、生前から冤罪の人々を救うなどの善行によって人々に慕われました。

死後もその生涯が早くから伝説化され、当初は西方教会よりも東方教会や南イタリアなどで聖人視されるようになりましたが、のちには西方教会全域にもその崇敬が広まりました。

亡きがらは保存され、1087年にイタリアのバリに移されて現在もここにあり、多くのキリスト教関連の全ての教派で聖人として崇敬されている人物です。

この人を聖人視する過程で数々の伝説が生まれ、弱い者を助けた話や、信仰の弱い者を教えて真理を守らせた話が数多く残っています。そうした話の中では、弱者を助ける際には、他人に知られないように行う事が常であり、例えば、ニコライが司祭であった時には、貧しい家の娘を秘密裡に助けたことが伝えられています。

かつて豪商だったにも関わらず、商売に失敗して財産を失い貧しくなった商人がいました。没落したために娘を売春させなければならないほど困窮していましたが、ある夜のこと、この商人の家に多額の金がもたらされました。

ニコラウスは真夜中にその家を訪れ、窓から金貨を投げ入れたとされますが、このとき暖炉には靴下が下げられていたため、彼は家の中に入り、金貨をこの靴下の中に入れたという説があります。

不法侵入ではありますが、お金を置いていったということで、泥棒扱いされるいわれはありません。

この放火ならぬ放金は、二度に渡り、これによって商人は救われ、投げ込まれたお金を持参金として、立派な結婚式も行なうことができました。父親は大変喜びましたが、いったい誰が金を投げ入れてくれたのだろうかと、この放金魔をみつけようと窓の下で見張っていました。

すると3度目に金を投げ入れているニコラオスを見つけたので、父親は足下にひれ伏して涙を流して感謝したとされています。この放金行為が、年末に行われたかどうかはわかりませんが、この話から、のちにサンタクロースの伝承が生まれ、年の暮れ近くになると靴下にプレゼントがいつのまにか入っている、という話に変わっていきました。

また、ニコライがイエスキリストの墳墓に巡礼する為に海路エルサレムに向った際には、暴風を鎮め、船から落ちて死んだ水夫を甦らせたという伝説もあり、このため海運国オランダなどで彼は海運の守護聖人とされます。

なお、サンタが煙突から入ってプレゼントを届けるという言い伝えは、1822年にアメリカの学者でクレモント・ムーアといいう人が、フィンランドの言い伝えを伝承した「聖ニクラウスのおとない(訪い)」という詩を作ったのが元だとされています。

この詩の中には、「キラキラ星が輝く夜中、ニコラウス煙突からどすん」といった記述があるそうですが、この詩はのちに絵本になるなど人気を博したことから、その中でサンタが煙突から入ってプレゼントを置いていく、という挿絵などが書かれ、これが広まっていったのでしょう。

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以後、クリスマスを祝う習慣は世界的に広まっていきましたが、国別にみるとその祝い方はかなり異なり、また12月25日が必ずしもクリスマスとはなっていない国も多いようです。

カトリックの影響の強いイタリア、ポーランド、フランス、スペインなどでは、クリスマスはたしかに、12月25日に始まりますが、そのお祝いは年明けても続き1月6日の公現祭(エピファニア)に終わり、飾り付けなどの取り払いはこの日を過ぎてからです。

そして子供達がプレゼントをもらうのはこの1月6日だそうです。また、イタリアのほとんどの地域ではこのプレゼントを持って来るのはサンタではなく、ベファーナという魔女だそうです。

新約聖書には、東方の三博士、という賢者が登場しますが、この博士たちは神の子イエス・キリストの生誕が近くあることを星の知らせで知ります。そして、キリストの生まれるベツレヘムへ向かう途中、立ち寄った村で老婆に一夜の宿を求めましたが、彼女は多忙を理由に断りました。

彼女は三博士が旅立った後に後悔し、彼等の後を追いましたが、とうとう追いつくことができず、それ以来、彼女は神の子である彼等を探して彷徨っている、というのがベファーナのいわれです。

伝承によってはイエスのための焼き菓子をバッグに詰め込み、イエスの母へ贈る箒を持って旅に出るも、イエスの元にたどり着けず、未だに贈り物を持ったままという話もあります。このため、イタリアでは、醜悪な婆さんの顔のお面をつけ、ほうきを持ったベファーナが町を練り歩く、というお祭りをやるところもあるようです

一方、オランダやドイツの一部地域などでは12月6日がクリスマスです。ドイツでプレゼントを持ってくるサンタクロースは、ドイツ北部ではヴァイナハツマンといい、これは「降誕祭の男」の意味です。またドイツ南部ではクリスト・キント(キリストの子)と呼ばれます。

ドイツでは、プレゼントをもらえるのはそれまでの1年間に良い子だった子どもだけだそうで、悪い子は石炭を与えられたり木の枝で打たれることになっている地域もあるそうです。

このほか、北欧のクリスマスは12月13日の聖ルチア祭の日です。古代ゲルマンの冬至祭の影響を色濃く残しており、ワラで作ったヤギを飾ること、妖精がプレゼントを持って来てくれることなど、独自の習慣が見られます。また、クリスマスの時期は真冬であるため、小鳥たちがついばめるように、ユールネックという麦の穂束を立てる習慣もあるそうです。

このほか、イギリスやアメリカでは日本と同じように、サンタは12月25日にプレゼントを持って来ます。日本が英米と同じなのは、この風習をこの2国から受け継いだためです。が、これらの国でクリスマスの挨拶に送られるグリーティングカードの習慣は日本には定着しませんでした。

これは、日本ではクリスマスのすぐあとに正月があり、年賀状などによって新年のあいさつをする習慣が先に根付いていたためです。また、アメリカでは、クリスマスプレゼントを家族全員で交換し合う習慣がありますが、最近日本でもこれをやる家庭も増えてはいるものの、まだまだ一般的ではありません。

なお、欧米諸国だけでなく、韓国や香港、マカオなどではクリスマスは法定祝日ですが、日本では祝日ではありません。ヨーロッパでは12月24日のイヴから1月1日の元旦までがクリスマス休暇ですが、日本では年末から年始にかけてがお休みになります。

ちなみに、オーストラリアなど南半球の国々では、クリスマスは真夏となるため、クリスマスパーティーは屋外やプールなどで開催されることも多いそうです。

日本で初めて、日本人自らがクリスマスを祝ったとされるのはわりと古く、江戸時代の初期のころです。1552年(天文21年)に周防国山口(現在の山口県山口市)のザビエル教会堂において、イエズス会の宣教師であるコスメ・デ・トーレスらが、日本人信徒を招いて降誕祭のミサを行ったのがその嚆矢といわれます。

しかし、その後江戸幕府の禁教令によってキリスト教は禁止されたことで、明治の初めまでの200年以上の間、公式にキリスト教生誕を祝ったという記録はありません。が、おそらくは隠れキリシタンの間では習慣化していたでしょう。

クリスマスが公式な行事として受け入れられたのは明治以後のことになります。明治初期から中期にかけては、国をあげて欧化政策が進められたため、西欧人の精神の中枢ともいえるキリスト教に関心を持つ者が増え、西洋にはクリスマスという習慣があるんだということを人々が広く知るようになりました。

また、1900年(明治33年)には、横浜で「明治屋」が開業しました。この明治屋は当初、軍艦などの船舶の輸入代理店をしていましたが、その後は食料品の卸売・小売、酒や煙草の輸入業務も行うようになりました。当時は食料品販売は「賎業」と評されていましたが、輸入品の珍しさも手伝って着実に業績を伸ばした結果、銀座に進出するまでになりました。

そして、クリスマスになるとこの銀座店で打った「クリスマス・バーゲンセール」が当たり、これが現在のクリスマス商戦の走りであるとともに、クリスマスの名が人々に親しまれる要因になりました。以後、他の店も年末になるとクリスマス・セールを行うようになっていったわけです。

そして大正時代までには、児童向け雑誌や少女雑誌の十二月号には、表紙をはじめとしてクリスマスにまつわる話や挿絵がたくさん導入されるようになり、1925年(大正14年)には日本で初めて結核撲滅のための寄付切手「クリスマスシール」が発行されました。

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しかし、クリスマスはこのころはまだ毛唐の一習慣にすぎない、という感覚でした。この日を通してお祝いをする、というムードはありませんでしたが、これを変えたのが、1926年(大正15年)12月25日の大正天皇の崩御でした。

この日を境に昭和時代が幕を開けたわけですが、1927年(昭和2年)3月4日に当時の休日法「休日ニ関スル件」が改正され、先帝である大正天皇の遺徳を祀る、「大正天皇祭」が12月25日と定められました。

それまでは平日に過ぎなかったこの日が休日になったことで、それ以後、クリスマスといえば休日、というイメージが定着し、お祝いムードが高まっていきました。

のちに法律が改正され、この日は休日ではなくなりましたが、現在もこの日がクリスマスホリデーという感覚は戦前に生まれた人を中心に残っていて、国民全体としてクリスマスというとお祝いムードがあるのはこのためでしょう。

1928年(昭和3年)には、朝日新聞で「クリスマスは今や日本の年中行事となり、サンタクロースは立派に日本の子供のものに」と書かれるまでに普及しました。昭和初期の頃、銀座、渋谷道玄坂から浅草にいたるまでの多くのカフェや喫茶店においてはクリスマス料理の献立を用意し、その店員はクリスマスの仮装をして客を迎えていたそうです。

戦後の1948年(昭和23年)に「国民の祝日に関する法律」が施行されて、大正天皇祭は休日から外されてしまいましたが、以降もクリスマスは年中行事として定着し、休日でもないのに各種の行事が盛大に行われるようになりました。

以来、毎年のように11月上旬からクリスマスツリーが飾られるようになり、商店などではこのときが掻きいれ時とばかりにバーゲン・セールを開きます。店内にはクリスマスソングが流れ、洋菓子店ではクリスマスケーキが販売され、街中にイルミネーションがあふれます。

そんなさなか、先の衆議院選挙を受けた特別国会がきょう召集され、安倍総理が第97代の総理に指名され、今夜、第3次安倍内閣が発足するようです。

まさか、このクリスマスのタイミングを狙って解散総選挙を行ったわけではないでしょうが、解散のタイミングといい、内閣発足のタイミングといい、まぁなんとも手回しが良いというのか、計算高いと言っては失礼かもしれませんがまるで予定していたかのようです。

まさか、クリスマス・イヴだからといってサンタの格好をして組閣というのはないと思いますが、果たして国民にプレゼントをもたらしてくれる聖人になれるのかどうか、今後の政策をじっくり見ていきたいものです。

ちなみに、ドイツの古い伝承では、サンタは双子だそうです。一人は紅白の衣装を着て良い子にプレゼントを配り、もう一人は黒と茶色の衣装を着て悪い子にお仕置きをするそうです。容姿・役割共に日本の「なまはげ」に似ており、民俗学的にも年の瀬に来訪する「年神」としての役割の類似が指摘されるといいます。

現在、ドイツにおけるサンタクロースはこの故事にちなみ、「シャープ」と「クランプス」と呼ばれる二人の怪人を連れて街を練り歩くという行事を行う習慣があるといい、良い子にはシャープがプレゼントをくれますが、悪い子にはサンタがクランプスに命じてお仕置きをさせるといいます。

安倍総理も見ようによっては、なまはげに似ていなくもありません。良い国民にはプレゼントをくれるのでしょうが、「悪い国民」にはどんなお仕置きをするのか、今後ともお手並み拝見です。

それにしても、クリスマスが過ぎ、26日ともなると、日本ではどこへ行っても一斉にクリスマスの飾りは一斉に消えます。

一転して門松などの正月飾りに付け替えられたり、小売店などでも正月準備用品や大掃除用商品の陳列・販売が中心となるなど、年末だというのに、BGMに「お正月」を流す商店などもあるくらいで、日本人というのはなんとまぁ、変わり身の早いことでしょうか。

この狂騒はさらに年末へ正月へと続いていくわけですが、その前の一年でたった2日間しかない、今日と明日というこの西洋的な休日をいかに過ごしましょう。

さて、みなさんの今年のクリスマスはどんなクリスマスでしょうか。

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2014-8197最近、バターの流通が少なくなっているようです。

どういう理由なのかな、と気になったので調べてみたところ、これは2006年ごろから牛乳余剰を原因とする生産調整で乳牛が削減されていたのに加え、国内では昨年来の猛暑、輸入元のオーストラリアやヨーロッパでは旱魃により牛乳の生産が減少したためだそうです。

各メーカーでは出荷数量の制限や価格の改定を実施しているそうですが、小売店においても特売などの取りやめ、一人当たりの購入数量の制限、在庫切れによる販売中止などが相次いでいるようです。またバターを使用したケーキ類の値上げなどの影響も出ているようですが、もうすぐクリスマスだというのに大丈夫なのでしょうか……

牛や山羊などを飼育し、このバターのような乳製品を生産する畜産は「酪農」といわれます。この「酪」の意味は何かな、と思ったら、古代メソポタミア語で濁り酒の意だそうです。こうした古い時代から行われている生産活動であり、人類が狩猟生活から農耕生活に入ったと同時期に、こうした酪農、畜産も始まったといわれています。

その後、移動しながらの遊牧も行われるようになりましたが、一般的には冷涼な高地が乳牛飼育に向いた土地です。このため、現在では特定の範囲に柵を設けた牧場をつくり、一軒につき数頭から数百頭の乳牛をこの範囲の中だけで放牧したり畜舎に入れて飼育します。

ただ、日本では放牧主体の酪農はほとんど行われておらず、約74%が牛をチェーンなどで繋ぐ、繋ぎ飼いであり、約25%は牛舎内での放し飼いです。自然放牧による酪農は2%にも満たないといいます。

日本で酪農が開始されたのは、千葉県の房総半島の先端付近(千葉県鴨川市・南房総市の一部)に設置されていた「嶺岡牧」だそうです。

江戸時代より以前に、安房国守であった「里見氏」が開いた牧場で、のちに徳川幕府の直轄となり、徳川幕府八代将軍徳川吉宗の時には、インド産の白牛を放牧・繁殖し、この当時「白牛酪」と呼ばれたバターを生産しました。

ここで生産された乳製品は強壮剤や解熱用の薬などの材料となり、武士階級でも高い位の人達に販売されていたといいますが、庶民の手に渡ることはなかったようです。その後、明治維新後の嶺岡牧は、新政府の「嶺岡牧場」として引き継がれることになりました。

この嶺岡山地では古くから牛以外にも馬の放牧が行われており、この地で軍事用の馬の繁殖を手掛けたのも里見氏といわれています。

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この里見氏というのは、戦国時代に房総地方を領する一族で、その中からはのちに安房里見氏が出ました。安房里見氏は戦国大名として成長して房総に割拠し、江戸時代初頭には安房一国を治める館山藩主となりました。が、1614年に、第9代藩主の里見忠義(ただよし)の代で改易の憂き目を見ています。

忠義は、慶長8年(1603年)、父・義康の死により家督を相続し、慶長11年(1606年)には将軍秀忠の面前で元服し、従四位下・侍従・安房守に叙任され国持大名の列に加えられました。そして、慶長16年(1611年)、江戸幕府老中の大久保忠隣(ただちか)の孫娘を室として迎えるなど、それまでの人生は順風満帆でした。

この大久保忠隣という人は、江戸幕府の開闢以前から家康に従っていた忠臣であり、関ヶ原などでのそれまでの功もあって、慶長15年(1610年)には老中に就任し、第2代将軍・秀忠の時代には政権有力者となりました。

ところがその後、隠居して御所となった家康が駿府で影響力を行使する二元政治の世となり、この中で、家康の重臣であり、やはり幕府開闢以前からの重臣である本多正信・正純父子と対立するようになります。

両者の対立は次第に顕在化の様相を呈しましたが、そんな中、慶長18年(1613年)に大久保派の急先鋒、大久保長安が中風のために死去しました。長安は元・武田信玄のお抱えの猿楽師でしたが、その能力を見出されて家臣として取り立てられ、その後、土屋の姓を貰い、土屋長安と名乗っていました。

信玄亡きあとは、その経済官僚としての才能を認められて家康に取り立てられ、大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受けることとなりました。この際に家康から大久保の名字を賜り、姓を改め、より一層忠隣の庇護を受けるようになった人物です。

長安は家康の期待に応えて、関東の奉行の重任を全うしたほか、幕府直轄の金山・銀山における奉行等を歴任して、江戸幕府の初期財政を大きく支えました。また、イスパニアのアマルガム法という新たな鉱山開発方法を導入して、できるだけ経費がかからないように工夫して鉱山開発を行いました。

ところが、鉱山開発における諸経費や人夫の給料などは全て長安持ちとされていたため、長安はこうした新技術の導入によって節減できた経費の一部を、当然自分の努力の結果だと考え、そのまま自分の懐に入れていました。

けっして悪行ではありませんが、本多親子はその事実を掴み、長安が密かに金銀の取り分を誤魔化していたという虚偽の報告を家康に行いました。また、長安自身も派手好きな人物であり、自身の死去にあたって、金の棺に自分の遺体を入れるようにという遺言を残していました。

本多親子の虚偽の報告に加えて、金の棺の存在を知った家康は激怒し、長安の死後、彼が生前に収賄を犯していたという罪で、長安の腹心らはほとんどが逮捕されました。

このとき、これに便乗する形でかつての大久保忠隣の政敵が暗躍しました。この男は大坂夏冬の陣の際、忠隣はかつて豊臣秀頼に内通していたと誣告し、これによって家康の怒りは頂点に達しました。

このころ、忠隣はキリシタン鎮圧の命を帯びて大坂へ赴いていましたが、家康から突如改易を申し渡され、近江国に配流されてしまいました。そしてこの時、大久保忠隣の孫娘を嫁に迎えていた里見忠義もまた、この失脚事件に連座させられ、安房一国、9万石分が減封され、持ち分は、常陸鹿島領3万石のみとなりました。

さらに日を置かず、馴染みの無い伯耆倉吉藩に流され、しかも4,000石に減封されました。減封に次ぐ減封、そして左遷ですが、実質の流罪とみていいでしょう。

困窮した里見忠義は、地元の寺院にそのわずかに残った領地を寄進するなどして、身分を保っていましたが、最終的には、因幡鳥取藩主・池田光政によりさらになけなしの4,000石もとりあげられ、百人扶持の身分にまで落とされました。

そして、元和8年(1622年)、失意の中、わずか28歳で病死し、倉吉の川原で火葬されました。嗣子はなく、こうして大名家としての里見氏は滅亡しましたが、唯一の救いは側室との間に3人の男子を儲けていたことで、その子孫は他家に仕え、そのまま明治維新を迎えたということです。

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この里見忠義の死にあたっては、このとき殉死した8人の家臣がありました。忠義の亡骸は、現鳥取県倉吉市に残る「大岳院」というお寺に葬られましたが、里見忠義とこの8人の家臣の墓は今もここにあります。

戒名に共通して「賢」の字が入ることから八賢士と称されますが、実は、この「八賢士」こそが、「南総里見八犬伝」の「八犬士」のモデルだといわれています。

”通称”、「滝沢馬琴」と呼ばれるこの作家が書いたこの八犬伝もまた、この八犬士の出自が安房里見氏であるという設定になっており、それゆえに里見八犬伝の頭に「南総」、つまり「南房総」の文字が冠してあるわけです。

ただし時代は、不慮の死を遂げた9代藩主里見忠義の時代ではなく、これより150年以上前の初代藩主、里見義実と2代、里見成義のころとしており、作中で登場するお殿様は、成義ではなく、「義成」に改変されています。

また、「八犬士」は馬琴のオリジナルではなく、もともと1717年(享保2年)に刊行された「合類大節用集」という書物の中に、犬山道節・犬塚信濃・犬田豊後・犬坂上野・犬飼源八・犬川荘助・犬江新兵衛・犬村大学の名があったそうです。

こうした人物が実在したかどうかも明らかではないようですが、明らかに創作臭い名前ではあります。しかし、馬琴は、実在したかもしれないこの8人の武士のエピソードを綴った物語ではなく、彼らの名を借りて全く別の新たな伝奇小説を作り上げました。

文化11年(1814年)に刊行が開始され、28年をかけて天保13年(1842年)に完結した全98巻、106冊の大作であり、上田秋成の「雨月物語」などと並んで江戸時代の戯作文芸の代表作といわれる長編大作です。

かなり長い話なのですが、簡約されたものがドラマや人形劇で放映され、有名な話なので、その内容について改めて説明する必要もないでしょう。

安房国里見家の姫・伏姫と神犬八房の因縁によって結ばれた八人の若者(八犬士)の物語であり、彼等は、共通して「犬」の字を含む名字を持ち、またそれぞれに仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の文字のある数珠の玉(仁義八行の玉)を持っており、さらに牡丹の形の痣を身体のどこかに持っています。

関八州の各地で生まれた彼らは、それぞれに辛酸を嘗めながら、因縁に導かれて互いを知り、里見家の下に結集し、姫を救い出す、というストーリーですが、忠臣・孝子・貞婦の行いは報いられ、佞臣・姦夫・毒婦の輩は罰せられる、という典型的な勧善懲悪の物語となっています。

馬琴はこの物語の完成に、48歳から75歳に至るまでの後半生を費やしましたが、その途中失明していた、という事実は意外に知られていません。こうした困難に遭遇しながらも、息子宗伯の妻であるお路の口述筆記により最終話まで完成させることができました。

滝沢という名前で通っていますが、実はこれは明治以降に流布した表記であって、現在確認されている限りでも、本人は滝沢(瀧澤)という筆名を用いて八犬伝を書いたという記録はありません。

「曲亭馬琴(きょくていばきん)」というのが正式なペンネームであり、本人はこれについて、中国の古典から取ったと説明しています。「曲亭馬琴」は「くるわでまこと」と読むことができ、これは「廓で誠」という当て字とすることもでき、つまりは遊廓でまじめに遊女に尽くしてしまう野暮な男という洒落でもあります。

武家出身でありながら商人となった異才な劇作家でもありました。明和4年(1767年)、江戸深川(現・江東区平野一丁目)の旗本・松平信成の屋敷において、同家用人・滝沢運兵衛興義、門夫妻の五男として生まれました。

後世、滝沢馬琴と呼ばれるようになったのは、この生家がこの苗字だったからにほかなりません。が、馬琴はあくまで筆名にすぎず、その意味からも本名である滝沢の苗字を使って、滝沢馬琴と呼称するのは正しくありません。「曲亭馬琴」が作家名としても正式なものです。

幼いときから絵草紙などの文芸に親しみ、7歳で発句を詠んだといいます。9歳の時に父が亡くなり、馬琴はこのため父の仕事を継ぐところとなり、主君の松平信成の孫にあたる人物小姓として仕えました。が、この孫は癇症だったといわれており、馬琴はこの主人との生活に耐えかね、14歳の時に松平家を出て母や長兄と同居するようになります。

その後、叔父のもとで元服して左七郎興邦と名乗りました。俳諧に親しんでいた長兄に誘われて越谷吾山という俳人に師事して俳諧を深めましたが、また、医師の山本宗洪、山本宗英親子からは医術を、儒者・黒沢右仲、亀田鵬斎に儒書を学びました。しかし、馬琴は医術よりも儒学を好んだそうです。

馬琴はその後、長兄が仕えていた、戸田家という武家の徒士になりましたが、自らも尊大な性格だったためにここの勤めも長続きせず、その後も武家の渡り奉公を転々としました。この時期の馬琴は放蕩無頼の放浪生活を送ったといい、あちこちの土地を旅して回ったとされています。そして、この中にはここ伊豆も含まれていたようです。

天城峠を越えて、下田まで行ったという記録が何かに記載されているようなのですが、ネットで調べてみても何も出てこず、どこへ何をしに行ったのかもわかりません。ただ、「天城を越えた人々」というくくりの中では、必ず彼の名前が出てきます。

色々調べてみて、ひとつわかったのは、かつての主君の松平家は代々守護職として「伊豆の守」を拝領していたということです。このためかつての主家の家来が任地に行くのにあたって、馬琴もまたこれに同行させてもらい、その際、物見遊山に下田あたりまで行ったのかもしれません。

しかし、馬琴はその後、24歳の時、この放浪生活にピリオドを打ちます。この当時、山東京伝という、浮世絵師で戯作者がいましたが、彼が描いた錦絵は江戸中で引っ張りだこでした。

また、この時代には、左右1ページずつ木版摺りして2つに折りにし、10ページほどをまとめたものに表紙・裏表紙を付けて、数冊で1編の絵物語とする、合巻(ごうかん)という娯楽本がありました。京伝はこの合巻モノを作るのが得意で、特に挿絵の面白さが魅力だったらしく、江戸中で大変な人気を誇っていました。

馬琴は、この人気作家の山東京伝を訪れ、弟子入りを請いました。このとき京伝は弟子とすることは断りましたが、親しく出入りすることをゆるしました。

こうして京伝の指導を得るようになった馬琴はすぐに戯作者としての腕をあげ、折から江戸で流行していた壬生狂言を題材に「尽用而二分狂言」という合巻を刊行、戯作者として新たな人生を踏み出しました。

翌年25歳のときには、版元・蔦屋重三郎に見込まれ、手代として雇われることになりましたが、武士でありながら商人に仕えることを恥じた馬琴は、通称を瑣吉(さきち)に、諱を解(さとる)という商人風の名に改め、武士として素性を伏せるようになりました。

寛政5年(1793年)、27歳になった馬琴は、蔦屋や京伝にも勧められて、元飯田町中坂(現・千代田区九段北一丁目で履物商「伊勢屋」を営む未亡人・百(30歳)と結婚し、この家、会田家の婿となりました。が、会田氏を名のらず、滝沢清右衛門を名のるようになりました。商人に身をやつしたものの、武士性である、滝沢の名を残したかったのでしょう。

結婚は生活の安定のためでしたが、馬琴は履物商売に興味を示さず、手習いを教えたり、豪商が所有する長屋の大家をしながら生計を立てていました。翌年、会田家の大御所であった義母が没すると、馬琴は名実ともに会田家の当主となったため、以後、後顧の憂いなく文筆業に打ち込むようになり、履物商はやめてしまいました。

そして30歳の頃より馬琴の本格的な創作活動がはじめ、より通俗的で発行部数の多い合巻を書き始め、その後も草双紙を多数書きながら、実力を蓄えていきました。そして、7年が経ち、37歳になったときに刊行した読本(よみほん)「月氷奇縁」が名声を博し、この種の娯楽本としては空前の大ヒットをとばしました。

どんな内容の話なのかまでは私も把握していないのですが、この読本というのは、史実に取材することがあっても基本的にフィクションであり、勧善懲悪や因果応報を売りにした読み物です。

娯楽性も強いが漢語が散りばめられ、会話文主体で平易な滑稽本や草双紙などと比べ文学性の高いものであり、高価本でした。しかし、印刷技術や稿料制度など出板の体制が整っていたこともあってこの時代としてはかなり増刷され、さらに貸本屋を通じて流通したため多くの読者を獲得しました。

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その後、40~41歳に次々と刊行した「椿説弓張月」や「三七全伝南柯夢」によって馬琴はさらに名声を築きましたが、このころから師匠の京伝は読本から手を引くようになったため、読本は馬琴の独擅場となっていきました。

なぜ、京伝が読本から手を引いたのかはよくわかりませんが、これより少し前に京伝は寛政の改革における出版統制により手鎖の処罰を受けており、これに加えて年齢は既に50歳近く、人の一生が50年と言われていた時代にあっては最晩年であり、筆勢に衰えを感じていたのでしょう。

一方の馬琴もこのころ、40代に入っていましたが、その旺盛な創作意欲は衰えず、そんな中文化11年(1814年)、馬琴47歳のときに「南総里見八犬伝」の初刊である「肇輯(じょうしゅう)」が刊行されました。

ちなみに、京伝はこれから2年後の、文化13年(1816年)に55歳で亡くなっています。その活躍のバトンを馬琴に手渡した格好ですが、京伝自身も生前に残した戯作の数は膨大な量であり、日本を代表する歴史的な戯作家の一人といえます。馬琴の師匠でもあり、良きライバルだったともいえるでしょう。

以後、馬琴の「南総里見八犬伝」は、天保13年(1842年)に完稿が出るまで、28年を費やし、馬琴のライフワークとなりました。

馬琴には、興継という一人息子がいましたが、馬琴は彼に医術を修めさせ、その甲斐あって、馬琴が肇輯を刊行した年に、「宗伯」と名乗ることを幕府から許されました。そして翌文政元年(1818年)、馬琴は神田明神下(現秋葉原の芳林公園付近)に家を買い、ここにはじめて「滝沢家」を設け、この家の当主として宗伯を移らせました。

その後、息子の宗伯は、陸奥国梁川藩主・松前章広出入りの医者となりましたが、これは馬琴の愛読者であった老公・松前道広の好意でした。宗伯が俸禄を得たことで、武家としての滝沢家の再興を悲願とする馬琴の思いの半ば達せられましたが、しかし宗伯は多病で虚弱だったようです。

文政7年(1824年)、58歳になった馬琴は、神田明神下の宗伯宅を増築して移り住み、宗伯と同居するようになります。ここで馬琴は隠居となり、剃髪してこのころから「蓑笠漁隠」と称するようになりました。

その後、「近世説美少年録」などを執筆し、これは1830年(文政13年)に刊行されましたが、このころにはもうかなり、馬琴の執筆意欲は失せており、八犬伝以外のものはほとんど書かなくなっていました。

天保4年(1833年)、67歳の馬琴は右眼に異常を覚え、まもなく左眼もかすむようになります。その2年後には、病弱だった宗伯が死去するなど、家庭的な不幸も相次ぎました。幸い、宋伯には太郎という息子がおり、馬琴はこの孫に滝沢家再興の希望を託し、四谷鉄砲組の御家人株を買いました。

江戸時代後期になると、富裕な町人や農民が困窮した御家人の名目上の養子の身分を金銭で買い取って、御家人身分を獲得することが広く行われるようになっていました。売買される御家人身分は御家人株と呼ばれ、家格によって相場が決められていました。

どの程度の家格の家を買ったのかわかりませんが、結構頑張ったようで、この御家人株購入のため馬琴は蔵書を売り、気の進まない書画会も開いたといい、神田明神下の家も売却して四谷信濃仲殿町(現・新宿区霞岳町)に質素な家を買って、ここに移住しました。

天保10年(1839年)、73歳の馬琴はついに失明し、執筆が不可能となります。このため、宗伯の妻・お路が口述筆記をすることとなりました。馬琴の作家生活に欠かせない存在になるお路でしたが、彼女に対して妻のお百が嫉妬し、家庭内の波風は絶えなかったといいます。しかし、そのお百も、天保12年(1841年)に没しました。

天保12年8月、馬琴、75歳のとき、ついに、「八犬伝」の執筆が完結し、天保13年(1842年)正月に刊行されました。八犬伝には、「あとがき」に相当する「回外剰筆」という部分があり、この中で馬琴は、読者に自らの失明を明かすとともに、お路との口述筆記による長く辛い日々について書き記しています。

馬琴は、その後も、お路を筆記者として、絶筆となる「傾城水滸伝」などの執筆を続けましたが、その完結を見ないまま、嘉永元年(1848年)82歳で死去しました。命日の11月6日は「馬琴忌」とも呼ばれます。墓所は東京都文京区の深光寺にあります。

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馬琴は、非常に几帳面な人だったそうで、毎日のスケジュールはほぼ同じだったといい、毎朝6~ 8時の間には、起きて洗面を済まし、仏壇に手を合わせたあと、縁側で徳川斉昭考案の体操を一通りしていたそうです。

徳川斉昭といえば、常陸水戸藩の第9代藩主で、最後の将軍として知られる徳川慶喜の実父です。将軍継嗣争いで井伊直弼との政争に敗れて永蟄居となり、そのまま死去するなどその生涯は不遇でしたが、幕末期の藩政改革にも成功したため、名君とも言われた人です。

どんな体操だったのかよくわかりませんが、斉昭は武術にも堪能で、自ら神発流砲術、常山流薙刀術を創始し、弘道館で指導していたといいますから、柔道に通じるようなものだったでしょう

その体操を済ませたあと、馬琴はいつものように朝食を摂り、客間で茶を飲んだあと、書斎に移り、前日の日記を記したのち、ようやく執筆作業に入りました。

そして、他の筆耕者(作家、著述家)から依頼されることの多かった原稿をチェック。一字でも気になるものがあると字引を引いて確認。そのほかにも自著に関して出版社からの校正が最低でも三校、四校とあり、執筆よりも校正に苦しめられた日々だったといいます。

何やらこのブログを書いている自分と重ね合わせてしまいますが、馬琴ほどではないにせよ、私もまた書こうとするものにはいい加減なことは許せないタイプで、結構念入りな下調べをすることも多いほうです(誤字脱字、祖語も多いですが……)。

また、馬琴同様、かなり規則正しい生活をしているつもりで、毎朝、遅くとも5時台には起床し、7時台にはデスクにつく、という毎日です。

何をブログに書くかについての構想もさることながら、下書きから仕上げまでの時間はそれなりに要し、馬琴のような大作家には遠く及びませんが、その苦しさは分かるような気がします。

体操こそはしませんが、少し前までは毎朝ジョギングをしていました。ただ、この年齢になると、この寒い時期に早朝に激しい運動をするのは良くないと思い、今はやめています。が、昼間の暖かいときには走りに出ることもあります。

そしてそうして積み重ねた日々が過ぎていき、気が付いてみると、こうして今年苦労して書いたブログの数もかなりのものになっているようです。手前味噌にはなりますが、規則正しい生活の中で苦労して生み出したものは結果を産みます。

毎日、夜更かしをして、朝が遅い、ウチの嫁。そしてそこのあなた。私とは言いませんが、馬琴を見習ってぜひ来年は規則正しい生活を試みてください。

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天城山あれこれ ~旧修善寺町(伊豆市)

2014-7894寒い日が続きます。

それでも伊豆は太平洋側に位置するため、日本海側のような降雪に見舞われることもなく、この時期は好天が続くことが多いのが特徴です。

しかし、伊豆半島全体をみると、各地域で微妙に気候が異なり、内陸部と沿岸地方では気象の特性が異なっています。東西の沿岸地方では、海水の影響を受けるため、一日中暖かいようですが、ここ伊豆市などの内陸では日中と夜の気温差が大きく、とくに冬期には夜間の冷え込みが一段と強くなります。

ここからもそう遠くない天城山付近では冬になると降雪も珍しくなく、我が家周辺では、今年の1月にここは本当に伊豆か、と思えるほどの豪雪となりました。

この天城山を、単体の山だと思っている人も多いと思いますが、実際には最高峰の万三郎岳(1,406m)、万二郎岳(1,299m)、遠笠山(1,197m)等の山々から構成される連山の総称です。従って、「天城連山」が地理学的には正しい呼称です。

80万〜20万年前の噴火で形成され、火山活動を終え浸食が進み現在の形になったもので、火山学上では「伊豆東部火山群」に属します。伊豆半島の東部の伊東市の沖にある海底火山にも連なる火山群であり、伊豆半島有数の観光地である伊豆高原一帯や、大室山、火口湖の一碧湖、名勝浄蓮の滝や河津七滝も本火山群の影響によって生み出されたものです。

この伊豆東部火山群の活動によって、伊豆半島に多くの地形が生まれたわけですが、この火山群における火山活動は伊東市東部とその沖合いでの活動を除けばほぼ沈静化しており、先日の御嶽山のように今後大噴火を起こす、という可能性は低いようです。

ただ、伊東市などの地下では、フィリピン海プレートに載った地殻と本州側プレートとの衝突により現在でも大きな圧縮が生じている場所であり、こういう場所ではマグマの岩脈貫入が起きやすく、これが原因とされる群発地震がしばしば発生します。

2006年(平成18年)4月21日には、伊東市富戸沖を震源として発生したマグニチュード5.8 の地震が起こっており、震源に近い富戸では、水道管が数カ所破裂したほか、ブロック塀の崩落や、がけ崩れなども起こりました。

このときは、ここ伊豆市でも震度4を記録し、スーパーなどで商品落下被害があったそうで、このほかにも市内各地で建物や道路のひび割れ・陥没が数ヵ所発見されました。

陸上ではありませんが、海底で実際に火山噴火も起きています。1989年には、同じ伊豆半島東方沖で群発地震が発生しており、このときは伊東市の東方沖わずか3kmの海底で噴火がありました。その後この噴火地点には小高い海底火山があることが確認され、これは「手石海丘」と命名されました。

「伊豆東部火山群」では、有史以来、約2700年の間、火山活動がなかったことがわかっており、長い眠りから覚めた噴火だったわけですが、今後これと同様の噴火や地震の発生も全く考えられなくはないわけです。専門家は否定的ですが、天城連山の一部が噴火する、ということも可能性として少しは考えておいたほうが良いのかもしれません。

この「天城」という名の由来ですが、天城山は冬以外の夏季にも雨が多い多雨地帯であり、「雨木」という語が由来であるとする説があるようです。また、この地域にはアマギアマチャ(天城甘茶)という、ヤマアジサイに近い種類の植物が群生しています。

葉に多くの糖分が含まれているため、伊豆以外の各地でもこの葉を乾燥して「甘茶」をつくり薬用や仏事に用いる風習が残っているところがあります。私も飲んだことはないのですが、黄褐色で甘みがあり、長野県佐久地方ではこの甘茶を天神祭や道祖神祭等で神酒の代用として使う風習があるそうです。

そもそもは、お釈迦様が生まれたとき、これを祝って産湯に「甘露」を注いだという故事によるものだそうで、現在ではいわゆる花祭り(灌仏会)のときに、仏像にお供えしたり、直接かけたりするそうです。

潅仏会の甘茶には虫除けの効能もあるとされ、甘茶を墨に混ぜてすり、四角の白紙に「千早振る卯月八日は吉日よ 神下げ虫を成敗ぞする」と書いて室内の柱にさかさまに貼って虫除けとする、いう風習がかつては全国的にあったそうです。

そのアマギアマチャが伊豆の山地に多く自生していることから、かつて天城山周辺の住民にも同様の風習があり、これがそのまま天城山の名になったのではないかというのが、天城のネーミングの由来のもう一つの説です。

この天城山はまた、非常にたくさんの種類の落葉樹の森から形成される緑豊かな山域であり、これらの木の中には、建築材料に適したものも数多くあります。近世には徳川幕府の天領として指定され、山中のヒノキ・スギ・アカマツ・サワラ・クス・ケヤキ・カシ・モミ・ツガの9種は制木とされ、「天城の九制木」と呼ばれていました。

公用以外は伐採が禁じられていたといい、伐採されたのちに建築材として加工されたものは、幕府が建設する神社仏閣や城郭施設などにも使われたようです。

天城山は、代々「韮山代官」と呼ばれる幕臣が管理してきましたが、当主は代々「江川太郎左衛門」を名乗のりました。このうち幕末に活躍した第36代目の江川太郎左衛門こと、「江川英龍」が最も著名であり、一般には江川太郎左衛門といえば彼を指すことが多いようです。

洋学の導入に貢献し、民政・海防の整備に実績を挙げ、日本で初めてパンを焼いた人物としても知られる人ですが、以前、この人物に関するかなり長いブログを書いたのを読んでいただいた方もいるでしょう。(「韮山代官」ほか、連載参照。)

この韮山代官が代々管理してきたこの地では、江戸中期ころから、ワサビ栽培もおこなわれるようになり、茶、シイタケと並ぶ豆駿遠三国の主要な特産物として、江戸に出荷されて流通するようになりました。

年貢としても納入されていたそうで、明治期には畳石栽培によってより産量が増え、現在では一大産地となり天城のワサビは全国的にみても最高級ブランドとなっています。

ただ、シイタケの栽培のほうは、江戸時代には伊豆ではあまり栽培されておらず、主として駿河(現静岡市)や遠州浜松方面で作られていたようです。が、明治期に天城湯ヶ島地区で栽培されるようになってからは、伊豆一帯にも広がり、これも現在は伊豆の一大ブランド品です。

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このように天城山は、地域を潤す自然の産物の宝庫であったわけですが、一方で伊豆を南北に分断しており、北伊豆から天然の良港のある下田などの南伊豆地方への陸路でのアクセスを妨げていました。このため南伊豆では物資の輸送は海運に依存するところとなり、陸上路である三島~下田間の、いわゆる「下田街道」の整備・発達はかなり遅れました。

人馬の継立場(茶屋の一種で、馬や駕籠の交代を行なう)が設置されたのは江戸中期の1742年(寛保2年)のことであり、しかしこれが設置されたことで、江戸中期頃から通行が増加しました。

ただ、これより以前にも天城山を越えて南伊豆へ行く道がなかったわけではなく、最古の天城越えの記録は平安時代に遡るそうです。ただ、現在の天城峠から1.2kmほど西にこの古峠があったそうで、また峠道というよりも獣道に近いものだったようです。

天城山の北側の湯ヶ島に継場ができて以降、いつからか人々は現在の下田街道のルートを利用するようになり、この古峠は廃道となりました。旧天城トンネルが位置するあたりは、古くは「二本杉峠」と呼ばれていましたが、ここに1904年(明治37年)に天城トンネルが開通したことで、その通行はがぜん楽になりました。

それ以前は、岩場と岩場の間を縫うような山道であり、女子供はとても通行できるような道ではなかったようです。それでも長い間多くの人々が利用しましたが、それらの中には著名人も多く、老中だった松平定信や、画家の谷文晁、作家の滝沢馬琴、思想家の吉田松陰、そしてタウンゼント・ハリスなどもこの峠を越えています。

この天城峠は、後に川端康成がここを舞台に小説を書いたために有名になり、松本清張の小説「天城越え」などでも人々の記憶に残るようになり、これらの小説にも登場するトンネルは、伊豆観光における人気スポットのひとつとなっています。

正式名称を天城山隧道といい、全長445.5メートルもあります。アーチや側面などすべて切り石で建造され、石造道路トンネルとしては、日本に現存する最長のものです。1916年(大正5年)には、ここを通るバス運行も開始され、下田との人・物の流入出がさらに加速しました。

天城トンネルは1998年には登録有形文化財に指定されましたが、さらに2001年には、道路トンネルとしては初めて国の重要文化財に指定されています。この時期に観光スポットとしての整備も進み、「日本の道100選」にも選ばれています。

これに先立つ1970年(昭和45年)には、並走して全長約800mの「新天城トンネル」も完成したため、現在ではここを通る車も少なく、静かなたたずまいを見せています。

ただ、現在でも車での通行は許可されており、ときには心無い観光客がここを通るようです。ところが、幅員は3.50メートルと非常に狭く、一般車両のすれ違いはまず不可能ですから、できるだけクルマで通るのはやめて、歩きましょう。

修禅寺側の天城山の麓から出ている旧トンネルまでの道は本当に雰囲気の良い綺麗な大自然の道なので、ハイキングにはもってこいですし、よく整備されています。またトンネル入り口付近には駐車場やトイレが設備されており、トンネル内の照明は通常のパネル型ではなくガス灯を模したデザインにしてあるなど、なかなか良い雰囲気です。

実は、人にあまり教えたくないのですが、この旧天城トンネルに至る手前2kmほどのところに、滑沢渓谷という美しい渓谷があります。

いつ行ってもほとんど観光客はおらず、地元の人しか知らないようですが、大小の滝つぼがあって、清流が流れ、あちこちにモミジもあって、紅葉の季節にはなかなかのものです。私の秘密の撮影スポットなのですが、夏行っても秋行っても見どころは尽きず、おすすめです。一度騙されたと思って行ってみてください。

ちなみに、新天城トンネルのほうは、1970年に竣工当時は有料道路でしたが、2000年より無料開放されています。なので、これを通ってその先の河津七滝(ななだる)の駐車場に車を止め、ここから逆にいくつもの滝を鑑賞しつつ、北に向かって天城トンネルを目指すハイキングもなかなかおつなものです。

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このように、天城山は観光地としても見どころ満載なのですが、1957年(昭和32年)には、当時のマスコミ等でも大きく報道された「天城山心中事件」という事件もありました。

当時、学習院大学の男子学生である大久保武道と、同級生女子の愛新覚羅慧生の2名が、大久保の所持していたピストルで頭部を撃ち抜いた状態の死体で発見されたというもので、この愛新覚羅慧生(あいしんかくらえいせい)とは、満州国皇帝だった、愛新覚羅溥儀(ふぎ)の実弟、愛新覚羅溥傑(ふけつ)の長女になります。

溥儀は、叔父さんということになり、満州国皇帝の親族であることから、当時のマスコミがかなり囃し立て、「天国に結ぶ恋」として報道された事件です。

この慧生という女性は、戦前の1938年(昭和13年)、満州国の首都新京(現:長春市)において、溥儀の弟の溥傑と日本の侯爵家出身の女性との間に生まれた人で、新京で育ったころは、皇帝である伯父の溥儀に大変可愛がられたといいます。

1943年(昭和18年)、学習院幼稚園に通うために来日し、日吉(神奈川県横浜市港北区)にある母の実家のこの侯爵家、「嵯峨家」に預けられました。これ以後19歳で死ぬまで、日本で過ごすことになります。

1945年(昭和20年)に日本の降伏により、満州国は解体。父の溥傑は赤軍に捕らえられ、以後慧生の死後に釈放されるまでソビエト連邦と中華人民共和国で獄中生活を送ることになりました。一方、母と妹は中国大陸を流転した末に1947年(昭和22年)帰国し、慧生のいる日吉の嵯峨家で一緒に生活するようになりました。

戦争に負けたとはいえ、皇族はやはり皇族あり、このため、慧生は戦後、学習院初等科・学習院女子中等科・学習院女子高等科と進みました。高等科の3年の時に東京大学の中国哲学科への進学を希望しましたが、親類の反対に遭い、1956年(昭和31年)学習院大学文学部国文科に入学。

このとき、同じ学科の男子学生・大久保武道と出会い、交際が始まりますが、相手が一般人であるため、母を始めとする家族には彼との交際を打ち明けることができませんでした。

そのために悩んだ末だったのか、1957年(昭和32年)に伊豆にやってきた二人は、12月4日の夜に天城山中に入り、大久保の所持していたピストルで心中死したと推察されています。2人の遺体は12月10日に発見されました。

ただ、二人とも死んでしまったために、本当に心中だったのかどうかを巡って、事件の真相については諸説が飛び交いました。二人の死の概要や動機には判然としないまま、ただ単に当事者が有名人だからという理由で、かなり脚色されて伝わった「事実」も多かったようです。

その後警察は、慧生の遺書に「彼は自身のことで大変悩んでおり、自分は最初それは間違っていると言ったが、最終的に彼の考えに同調した」とあったと公表し、このことを理由として両者の同意による心中(情死)と断定しました。

このため、皇族と一般人の許されない恋愛の末の心中事件ということで、この事件は多くの人の同情をさそい、身分の違いを超えた悲恋としてマスコミにも取り上げられました。また、大久保と慧生の同級生らによって作られた「われ御身を愛す」という小説は、その発表とともにこの当時のベストセラーにもなりました。

この本では、2人の死は同意の上での情死(心中)であったと主張し、文中で掲載された書簡の中では、慧生は大久保のことを「大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな大好きな武道様」と書かれていました。

ところが、慧生の母である、「嵯峨浩(ひろ)」をはじめとする嵯峨家関係者は、この事件は大久保の一方的な感情と付きまとい、すなわち現在的に言えば、「ストーカー行為」によってに慧生が辟易していたことに起因するとして、この事件は大久保による一方的な無理心中事件であると主張しました。

その根拠としては、伊豆へ到着した慧生と大久保を天城まで乗せたタクシー運転手の証言から、慧生はしきりにこの運転手に帰りのバスの時間を訊いていた、ということなどを母親は挙げました。

そして、「ここまで来れば気がすんだでしょう。遅くならないうちに帰りましょう」と、何度も連れの男性に繰り返していたという証言もこの運転手から得たと主張しました。

このほか、母親からみても、慧生が姿を消す以前、死期を予期している様子は微塵も見られなかったこと、相手の大久保は非常に独占欲の激しい性格だったと考えていた、といったことも証言しました。

大久保は、慧生がほかの男子学生と口をきくだけでも、「おまえはあの男となぜ親しくするんだ! そんな気ならおまえもあいつも殺してしまうぞ」と、責め立てたこともあったとしており、娘は何度も大久保に交際したくないと申し入れていた、とも語りました。

さらには、事件当時、捜索を手伝い、実際に遺体を見たという古老が、「ふたりの遺体は離れていて、心中のようには思えなかった」と語ったと主張しました。こうした数々の傍証をあげ、嵯峨家の関係者の多くはこの事件は大久保による無理心中であると主張しました。

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ところが、慧生は4日の午前中に最後の手紙を書いて投函しており、これが上述のように警察が二人の死を心中であるとした根拠となった「遺書」とされるものです。その手紙は翌日、彼女が住んでいた女子寮に届いおり、その原文は以下のとおりです。

「なにも残さないつもりでしたが、先生(寮の寮長)には気がすまないので筆をとりました。大久保さんからいろいろ彼自身の悩みと生きている価値がないということをたびたび聞き、私はそれを思い止まるよう何回も話しました。

二日の日も長い間大久保さんの話を聞いて私が今まで考えていたことが不純で大久保さんの考えの方が正しいという結論に達しました。

それでも私は何とかして大久保さんの気持を変えようと思い先生にお電話しましたが、おカゼで寝ていらっしゃるとのことでお話できませんでした。私が大久保さんと一緒に行動をとるのは彼に強要されたからではありません。

また私と大久保さんのお付き合いの破綻やイザコザでこうなったのではありませんが、一般の人にはおそらく理解していただけないと思います。両親、諸先生、お友達の方々を思うと何とも耐えられない気持です。」

と、これだけであり、遺書という風にも受け取れますが、自分たちの出奔によって関係者に迷惑をかけたための、単なるお詫び、というふうにも受け取れます。

ところが、この書簡を読んだ、慧生の実父、溥傑は、母親とは異なり、慧生の死は交際を反対されたための情死(心中)と考えました。当時中国の撫順戦犯管理所に収容されていた溥傑は、この当時慧生からの手紙で好きな人がいることを明かされ、大久保との交際の同意を求められた、という事実をその後公表しています。

しかし、溥傑は長い間娘と一緒に暮らしておらず、父親として答える資格がないと思い、慧生に母の意見を聞くようにと返事をしたそうです。が、後に慧生の死を知り、あの時自分が交際に同意していれば慧生は死ぬことはなかったと深く後悔したといいます。

溥傑によると、母親の浩は慧生を中国人、それも満州人と結婚させようと考え、慧生と大久保の交際に反対していたといい、交際を反対された慧生は溥傑の同意を得ようと手紙を送ったようです。しかし、その当時そこまで思い至らなかった溥傑は、母の意見に従うように慧生に返事を出したわけであり、このことは慧生をひどく失望させたようです。

また、叔父である満州国元皇帝の溥儀の自伝、「わが半生」も慧生の死に言及しており、そこにも恋愛問題のために恋人と一緒に自殺したとあり、大久保による一方的な無理心中とする嵯峨家に対し、父方の愛新覚羅家では2人の同意の上での情死と認識していたことがわかります。

このように、娘の死の原因については、夫婦それぞれ異なる見解を持っていた溥傑と浩でしたが、1960年(昭和35年)に溥傑が釈放されたため、翌年、浩は中国に帰国して溥傑と15年ぶりに再会しました。この後、浩は中国に帰り、溥傑とともに北京に居住しました。が、その後1984年(昭和59年)までの計5回、日本に里帰りしています。

しかし1987年(昭和62年)、北京で死去。中国国籍だったとはいえ、生粋の日本人だった浩の遺骨の半分は、山口県下関市の中山神社(祭神は浩の曾祖父中山忠光)の境内に建立された「摂社愛新覚羅社」に納骨されましたが、残りの半分は中国側で納骨されました。

一方の慧生の遺骨は、これより前、浩が中国に帰国した際に北京に運ばれていましたが、その後中国では文化大革命という嵐が起こり、このとき溥傑・浩夫婦もかつて日本に加担した異端者として迫害されました。この動乱を経験した二人はこのため、彼女の遺骨の一部を平和な日本で納骨することを望みました。

こうして、1978年(昭和53年)、この年に訪中した浩の妹らが帰国する際、その半分の遺骨が日本に運ばれ、嵯峨家の菩提寺である京都の二尊院に納骨されました。そしてその後浩も亡くなったため、この母の半分の遺骨とともに愛新覚羅社に移されて納められたわけです。

その後、溥傑もまた、1994年(平成6年)に北京で死去。溥傑の遺骨の半分も日本に持ち帰られ、これもまた愛新覚羅社に納骨されました。

つまり、日本の愛新覚羅社には慧生とその両親それぞれの半分の遺骨が納められているわけですが、中国に残った彼等3人の残りの遺骨はその後、中国妙峰山という場所の上空より散骨されたといいます。

墓に納められたのではなく、散骨になった理由はよくわかりませんが、やはりかつて中国を侵略していたとみなされている日本人に加担した一族ということで、正式な埋葬については、中国共産党あたりから横槍が入ったのではないでしょうか。推察にすぎませんが。

ちなみに、この妙峰山というのは、北京でもとくに文化的な雰囲気が漂う名所のひとつだといい、山の地形をうまく利用して建てられた3つほどの廟や14軒ほどの殿堂があり、それぞれ仏教、道教、儒教などの神々が祀られており、明清時代には、北方に住む民衆の信仰の中心地だった場所です。

溥儀の英語教師を勤めた人物の別荘などもここにあるといい、愛新覚羅家とは縁のある土地柄のようです。

この事件は、慧生が日中それぞれの貴族と呼ばれるような両親の元に生まれなければ、単なる悲恋の末の心中事件で終わったであろうし、19歳と20歳という、まだまだ多感で不安定な男女が陥ったラビリンスにすぎないものだったはずです。

ところが、日本の敗戦に伴う日中の分断による被害者という見方もでき、上流社会におけるスキャンダルという趣もあって、マスコミにによりこの事件はより一段とセンセーショナルのものに仕立てあげられました。

しかし、死んだ二人にとっては、「身分を越えた恋」ということよりも、あるいは、それぞれが持っていた、「潜在的な死への願望」がたまたまこのとき合致した結果だったと考えることができるかもしれません。

それこそが、「心中」といわれるものなのかもしれませんが、改めて調べてみると、この心中という男女の永久相愛の意味での自殺は、元来日本の「来世思想」に基づくものともいわれ、江戸時代以降の近世で急増したようです。

やがて自らの命をも捧げる事が義理立ての最高の証と考えられるようになり、情死を賛美する風潮も現れ、遊廓で遊女と心中する等の心中事件が増加して社会問題へと発展した結果、幕府は厳しい取締りが行うようになりました。

江戸幕府は、心中の「中」という字は「忠」に通じる」とし、武家社会にも影響が大きいとしてこの言葉の使用を禁止し、「相対死」(あいたいじに)と呼ぶようにお触れを出していたほどです。

また、心中した者を不義密通の罪人扱いとし、死んだ場合は「遺骸取捨」として葬儀、埋葬を禁止し、一方が死に、一方が死ななかった場合は生き残ったほうを死罪とし、また両者とも死ねなかった場合は非人身分に落としたといいます。

無論、現在はこれほど厳しく心中を罰した法律はありませんが、江戸時代はそれほど自殺や心中といったことがタブー視されていたわけです。現在ではそうした罰則がないことを良いことに無理心中や一家心中は後をたたず、さらに最近は「ネット心中」なるものまで出てきました。

インターネットの自殺系サイト等で知り合った見ず知らずの複数の他人が、一緒に自殺することで、お互いに全く繋がりがないという点が、従来の心中とは異なっており、新たな社会問題として取り上げられています。

スピリチュアル的にみると、自殺というものはその先のあの世でさらに過酷な状況を作り出すことが多いといい、死んでから気づき自らの過ちを認め、あの世にて反省の期間を求める人はまだ救われますが、あの世へ移行せずにこの世で浮遊霊や不成仏霊として地縛する人も多いといいます。

亡くなった二人の魂もまた今もまだ天城山中を彷徨っているやもしれず、そう考えるとちょっと怖くなってしまいますが、我々もまたそうした世界に陥らないよう、苦しくても何が何でも与えられたこの生を全うしなくてはなりません。

自殺する人は、死んでこの世から消えることがその苦しみから逃れられる一番楽な方法だと考えるわけですが、物質の世界から霊の世界へ移ったからといってそれだけで魂に課せられた責任から逃れられるものではありません。

今年もまた残り少なくなりましたが、与えられた時間を無駄にせず、魂が喜ぶようなことをいっぱいやって、今年という一年を終えましょう。

2014-7899

年賀状は永遠に?

_DSC7975あわただしく、年末の総選挙が終わりました。

結果は……というと、だいたい予想通りのところであり、この結果を受けた株価もあまり変動しなかったようですが、選挙前には「結果は折りこみ済みだから」というコメントをする経済アナリストが多かったそうです。

投票率が低いであろうことも予想通りでしたが、それにしてもこれほど低いとは予想しませんでした。その理由はといえば、おそらく誰もが、「だいたい予想がつくような結果になるような選挙に行ってもな~」という気分になったからでしょう。

選挙権があることは大事であり、国政に参加するということは義務だ、棄権するなどもってのほかだ、と有識者たちは声を揃えて言います。が、独走を続ける自民党を止めることのできるような元気な野党もなく、興味がわかないものはわかないのであって、選挙が始まる前から興ざめしている人も多かったのではないでしょうか。

私もそうした気持ちがないわけではなかったのですが、やはり義務は義務ということできちんと役割を果たそうと思い、行きました。投票に。が、できれば、さぼりたいという気持ちに弾みをつけるために、散歩に行く「ついで」、という理由で自分を納得させ、行ってきました。渋り渋り。しかも夕方近くになってから……。

で、どこに票を入れたかですが、これについてはお察しいただければと思います。が、こんな時期に自己防衛の目的のためだけに、国民の迷惑を省みずに選挙に打って出た自民党でないことだけは確かです。

とはいえ、これでようやく、落ち着いて年末年始の支度に入れる、という方も多いかと思います。私も同じで、選挙があるというので何かとそわそわしていた気分が落ち着き、滞っている諸事をこれから動かそうかな、という気になっています。

その最たるものは、やはり年賀状であったりするわけですが、いったいいつから年賀状を書いているかな~と記憶を辿ってみると、小学校の低学年のころからもうクラスメートと年賀状のやり取りをしていたような気がします。

学校の「図画」の時間に彫刻刀の使い方を教える、という名目で手彫りの年賀状を作ったのが最初のことだろうと推察できますが、何を彫ったか、どんな出来だったのかはもうほとんど記憶にありません。

その後、年賀状を出す相手が増えるにつけ、版画年賀状はかなり面倒だということに気付き、それからは市販のスタンプなどを使った年賀状になりました。さらにのちには、「プリントゴッコ」なるものも出て、こちらのほうがよりオリジナリティーが高いものができる、ということで、しばらく長い間はこれを使って年賀状を作っていました。

ご存知の方も多いと思いますが、これは、熱を与えると孔が空く特殊な用紙に、カーボンを含む特殊インクで描きたい図柄を書き、これにフラッシュランプをあてて加熱し、図柄の部分だけを溶かして印刷原稿を造るというものです。

これに白い年賀状を重ね、「ガリ版」の要領で印刷するわけですが、違う色柄の原稿を何枚も造れば、カラフルなデザインもできます。1970年代後半に発売された当初は、少ない枚数でも安価に自由なデザインのものができるというので、年賀状だけでなく、暑中見舞い、その他慶弔のハガキの作成などにも使われ、急激に普及していきました。

このプリントゴッコは1987年(昭和62年)に年間最多の72万台もの売上げを記録し、累計売上台数は日本を含めた全世界で1050万台にものぼったそうで、まさに世界的な「ごっこ」となりました。

しかし、その後一般家庭でもパソコンの普及が進み、と同時にインクジェットプリンターの高画質化、低価格化が進んだため、これに伴いパソコン上で動作する年賀状作成ソフトが普及していき、これに伴いプリントゴッコを使う人は減っていきました。

プリントごっこは、印刷所に頼むよりもずっと安価でデザイン性の高いものができるということで、人気を博したわけですが、しかしパソコンで作った年賀状のようにフルカラーでしかも画数の多い漢字を小さくきれいに印刷することはできず、またプリンターで印刷した紙のように速く乾かすことができません。

このため、プリントゴッコで印刷が終わった大量の年賀状を乾かす場所が必要であり、日本のように狭小住宅が多い国では、どこの家庭でもこれを乾かす場所を確保するのが大変であり、私もここへ引っ越してくる前は手狭なマンションであったため、そのスペースを空けるのが一苦労でした。

こうしたこともあり、その後さらにパソコンとインクジェットプリンターが急速に普及するとともに売り上げが減少し、販売元の理想科学工業は2008年(平成20年)6月末ついにプリントゴッコの本体の販売を終了しました。

その後も消耗品の販売は続けていたようですが、2年前の2012年(平成24年)12月でプリントゴッコの関連商品の全ての販売を終了し、これで完全にこの世の中から消えました。

しかし、40年以上にもわたる長い期間に国民の多くが使ってきたこのシステムには私も大変お世話になりました。将来文化遺産にしてもいいのでは、思うほどであり、それが無理ならば、せめて機械遺産にでもしてよ、と文科省にお願いしたいところです。

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とはいえ、かく言う私も、十年ほど前から、年賀状はこのパソコンとインクジェットプリンターの組み合わせで作ることが多くなっています。最近はこれをデザインするソフトの性能もアップしており、かなりオリジナリティの高いものができるため、重宝しています。

しかし、かなり便利になったとはいえ、毎年夫婦合わせて200枚もの年賀状を刷るのは結構大変であり、またインク代もバカになりません。年賀状自体の購入価格も10000円を超えるわけであり、また今年からは消費税が上がっていて、これに400円を加えなくてはいけません。

400円くらい……とは思うのですが、400円あればかけそばの一杯も食えるわけですし、120円のマックバーガーなら3個も食べることができ、しかもおつりが来ます(腐った肉が入っているかもしれない商品にはあまり食指が動きませんが……)。

とはいえ、なかなかやめられないのがこの年賀状というものであり、なぜやめられないかといえば、それは年賀状をくれる相手というのは、長年のお付き合いのある人ばかりだからです。

長い間、しかも遠方にいて普段会うこともできないので、せめて年賀状の上だけでも、御挨拶したい、という日本人らしい細やかな気配りの気持ちから出ていることが多いでしょう。

この年賀状をやりとりするという風習が始まった時期ははっきりとはしないようですが、奈良時代ごろには既に、新年の年始回りという年始のあいさつをする行事がありました。

その後平安時代になると、貴族や公家にもその風習が広まりましたが、あいさつが行えないような遠方などの人への年始回りに代わるものとして文書による年始あいさつが行われるようになっていき、これが年賀状の起源のようです。が、無論この時代には、「ハガキ」などはなく、「書状」であり、年賀の本文は立派な包装紙に包まれていました。

さらにその後の武家社会においても文書による年始あいさつが一般化するようになり、江戸時代に入ってからは、非武家社会においても口頭の代用として簡易書簡を用いることが一般的になりました。そして、公的郵便手段である飛脚や使用人を使った私的手段により年始あいさつの文書が運ばれるようになっていきました。

が、江戸時代の年賀状も簡易的になったとはいえ、まだ「書状」であり、本文を和紙でくるんだものが一般的でした。明治維新後の1871年(明治4年)、郵便制度が確立したのちも、しばらくは、年賀状は書状で送ることがほとんどで、しかもその数は決して多くはなかったといいます。

しかし、1873年(明治6年)にできたばかりの逓信省が郵便はがきを発行するようになると、これによって年始のあいさつを簡潔に、しかも安価で書き送れるということで葉書で年賀状を送る習慣が急速に広まっていきました。そして、1887年(明治9年)頃には、国民の間で年賀状を出すことが年末年始の行事の1つとして定着しました。

かくして年賀状の枚数は毎年増え続けましたが、その後当分の間、これらの年賀はがきは「私製はがき」に普通の切手を貼ったものでした。その後もこうした私製ハガキの取扱量も増えていきましたが、現在の官製の年賀はがきの走りとなったのは、1935年(昭和10年)に私製ハガキの貼付用として発売された「年賀切手」でした。

この年賀切手はその後の時勢の悪化により1938年にいったん発行が中止されましたが、終戦後の1948年に復活し、この年から年賀切手の図柄が干支にちなんだ郷土玩具のものになりました。

そして、1949年(昭和24年)「、お年玉付郵便はがき」が官製の年賀はがきとして初めて発行され、大きな話題を呼び大ヒットしました。これを機に年賀状の取扱量は急激に伸びていき、こうして年賀はがきを年末に出すという「仕事」は毎年の国民の行事になっていきました。

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しかし、それにしても、毎年のように苦労して大枚の数を書いて出すこの年賀状の相手の中には、もう何十年もお会いしておらず、実質、社会的なお付き合いは消散しているような方もいます。

が、それでもやめられないのは、そうしたかつてお世話になった人達の最近の動向や暮らしぶりを、年賀状を通じて知ることができるというメリットがあるからでしょう。

また、お付き合いはないけれども、完全に縁を切ってしまうのは忍び難い、というのは誰でも思う気持ちです。さらに、元気ならばいいのですが、病気になったりした人の様子などは年賀状でそれとなく知れたりもします。また年賀状の前に来る、喪中欠礼のハガキによって、その人のご家族の状況がわかり、相手の様子を推し計ることもできます。

時にはご本人が亡くなることもあり、私の家にも先日、高校時代の同級生の裳を告げるものもあり、大変驚きました。まだ若いのに……と夫婦でその早すぎる死を悼んだものですが、年賀状のやりとりを続けているということはこうした生死の情報をももたらしてくれるわけです。

しかし、昨今は、インターネットの普及によって、年賀状を出さない人が増えているそうで、デジタルネイティブ世代も次々と成人化していくこともあり、それにつれて年賀ハガキの需要は今後も減少し、発行枚数も減っていくと見積もられているようです。

日本の郵便行政における年賀ハガキの発行は戦後すぐの1949年からだそうで、その当時の発行枚数は1億8000万枚。以後枚数を漸増させながら、1964年には10億枚、1973年には20億枚に届きました。発行枚数のピークは2003年の44億5936万枚もありましたが、それ以降は多少の起伏を見せながらも枚数は少しずつ減少。

今年を含めた直近5年間は連続で前年比マイナス10%超を記録していて、現在発売中のハガキも前年比のマイナス10%を超えそうな勢いだということです。

その年に郵政省で扱った年賀状の総数を総人口で割った、「一人当たりが出す年賀状の数」も、ピーク時の2003年の平均枚数は約35枚だったものが、昨年の2013年では約25枚。10年で約10枚分減ったことになります。

無論この「総人口」には乳幼児や年賀状を出さない人も含まれているわけであり、年賀状を出す人の一人あたりの実態平均購入枚数は、もう少し上乗せされるはずです。が、それにしても、年賀状離れは加速していることは否めない事実のようです。

この傾向は年賀状を出す風習のない日本以外の海外諸国でも同じだそうです。海外では、年末年始に、「クリスマスカード」や、「グリーティングカード」と呼ばれるカードをクリスマスや新年などの年中行事に合わせて、友人や恋人など親しい人との間で交わします。意匠を凝らしたカラフルなカードで、通常、2つ折にして封筒に入れて郵送されます。

これが、近年はインターネットの発達によりやはり減ってきているということで、電子メールを利用したグリーティングカードに取って代わられる傾向が世界中で広まっているそうで、日本の年賀状もまたしかりです。年賀状をやめて、年末年始にグリーティングカードと称してメールを送る人は若い人を中心に急激に増えているようです。

デジタル媒体により作成され、電子メールにより取り交わされるため、紙を使用しないので、地球環境に優しいのが最大の特徴です。また、イラストや写真、アニメーションの追加や、一度にたくさんの人に送ることができるなど、年賀状にはない機能を備えており、その利用は広がっているといわれます。

スマホなどの携帯電話向けサービスも拡充されてきており、また、近年の電子グリーティングカードでは、ギフト券を兼ねているものもあり、挨拶状だけではなく、贈答品としての側面も見られるようになっているとのことです。

年賀状がこうした電子媒体に取って代わられる時代は早晩来るように思いますが、現在の「お年玉付き年賀はがき」もまた、「お年玉付き電子年賀はがき」のようなものになっていくのかもしれません。

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しかし、「手書き」にこだわる人や、毛筆で年賀状を書く人、また自作・市販のゴム判だけでなく版画やイモ判の味は捨てられない、という人も多く、手作りの年賀状の味も捨てがたいものがあります。

こうした人に対して、今年からもう紙の年賀状はやめて電子メールにしますから、と宣言するのも忍び難く、まただいいち、こうした人に限ってパソコンやスマホが使えなかったりします。

かくして今年もまた、紙を使った年賀状を出すことになるわけでしょうが、その一苦労の時間を作りだすのがこの年末という時期には難しいもの。いっそのこと、年が明けてからにしようか、などと思っているところです。

年賀状を年末に出さなければならない、というのは、正月の三が日くらいまでにはそれを相手に届けたい、というところから来ているのでしょうが、その昔は年賀状といえば、年が改まってから書いていたようです。

ところが、明治時代以降、年賀状を出すことが国民の間に年末年始の行事の1つとして定着すると、その結果、年末年始にかけて郵便局には多くの人々が出した年賀状が集中し、郵便取扱量が何十倍にもなってしまいました。

この当時、郵便事業に携わる人の数は限られていたため、膨大な年賀状のために郵便物全体の処理が遅れ、それが年賀状以外の郵便物にも影響し通常より到着が遅れることがしばしば発生していました。しかも年末は商売上の締めの時期にも当たり、郵便の遅延が経済的障害ともなりかねない状況となっていきました。

その対策として1890年(明治23年)に年始の集配数を減らす対策が講じられましたが、それでも、さらに増え続ける年賀状にその対応だけではとても追いついていけませんでした。

また当時、郵便物は受付局と配達局で2つの消印が押されていました。このため年賀状を出す側の心理としては、受付局か配達局のどちらかで「1月1日」の消印を押してもらおうとする気持ちが強くなります。

片方だけならまだいいのですが、間違ってもその両方が、「12月31日」になるのは避けたいものであり、これだと「年賀」の意味が失われてしまうからです。

このため、多くの人が1月1日のスタンプが押されるタイミングを図って年賀状を出すようになり、この当時の配達日数は、3~5日であったことから、12月26から28日あたりと1月1日当日に年賀状を出す人が集中するようになりました。

そこで1899年(明治32年)、その対策として指定された郵便局での年賀郵便の特別取扱が始まりました。年末の一定時期、具体的には12月20から30日の間に指定された郵便局に持ち込めば、「1月1日」の消印で元日以降に配達するという仕組みであり、翌1900年には、このシステムは全国の主要都市の郵便局に拡大されました。

さらに1905年(明治38年)には、全国どこの郵便局でもこの年末の特別扱いが実施されるようになり、以後、年賀状といえば年末に投函するもの、ということがこの社会のルールになりました。

「年賀」とは本来、正月に口上するものであり、このため年賀状も元日に書いて投函するものだったはずですが、この特別取扱をきっかけに年末に投函し元日に配達するようになったわけであり、いわば1月1日に年賀状をどうしても届けたいと考える国民の大多数の意見に郵政省(当時の逓信省)の役人が答えたシステムというわけです。

しかし、考えてみれば、今の時代、別に1月1日に年賀状が届かなければならない、と考える理由はなく、上述のように、長年会っていない人の動向を知るためだけのものになっているのであれば、別に1月7日に届こうが、15日に届こうがいいわけです。

正月三が日に年賀状が届かない、といって文句を言ってくるひとはまず皆無のはずであり、むしろ、遅れて届いた年賀状のほうが着目され、あれっ?何かあったのかな、と文面を読んでくれる確率が高いように思います。

極論すれば、1月中に届けばいいのではないか、と私などは思うわけで、なので、今年からは昔ながらのように、年賀状は正月に書くようにする、というのもよいかもしれません。年が明ければ明けたで、いろいろ忙しいのでしょうが……

さて、かくして2014年の12月は一日、一日と減っていきます。みなさんはもう年賀状はお書きになったでしょうか?

まだ?それならば、来年に回しましょう。

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ジョージと安二郎

LS--16今日、12月12日は、1と2ばかりで構成される日にちで、1と2を足せば、私の誕生日である3月3日ともつながるため、なんとなく親近感を覚えてしまいます。

ちなみに、嫁のタエさんは、12月21日生まれであり、今千葉の大学に通っている一人息子君は11月22日生まれと、まぁなんとも1と2ばかりの家族だろうかと、これも何かの因縁なんだろうなと、ついつい思ってしまいます。

ちなみに、今日生まれた人にどんな人がいるだろうか、と調べてみたところ、写真家の木村伊兵衛さんや歌手の舟木一夫さんの名前と並んで、映画監督の小津安二郎さんの名前もありました。

ところが、この小津安二郎の命日を見ると、なんと生まれた日と同じ、12月21日没(1963年(昭和38年))でした。

生まれた日に死ぬというのは、何か偶然を通り越した意味があるのではないか、とついついその理由を考えてしまいましたが、ひとつには、きっかりと12×5回のサイクルで計画立てた一生を過ごそうと、生まれる前にそう決めて、この世に出てきたのだろう、ということが考えられるかもしれません。

物事を理路整然と考え、何事も計画通りに済まそうとする人というのは、人生の設計においても、時間的なスパンがきっちりとしていないと、気が済まない、ということなのかもしれません。

12月12日という日が彼にとって何の意味があったのかわかりませんが、いずれにせよ、我々と同じく1と2という数字に深い関わりがある人だとわかり、がぜんその生涯に興味が沸いてきました。

この小津安二郎という人は、没後かなり時間が経っているために知らない、という人も多いと思いますが、「小津調」と称される独特の映像世界で優れた作品を次々に生み出た知る人ぞ知る大監督・脚本家です。が、世界的にも高い評価を得ている人でもあります。

また、「小津組」と呼ばれる固定されたスタッフやキャストで映画を作り続けましたが、その代表作にあげられる「東京物語」をはじめ、とくに原節子や笠智衆といった名優と組んだ作品群が特に高く評価されています。

1903年(明治36年)、東京市深川区万年町(現在の東京都江東区深川)で五人兄弟の次男として生まれました。父寅之助は、伊勢商人「小津三家」の一つ小津与右衛門の肥料問屋「湯浅屋」の分家の六代目で、本家から日本橋の海産物問屋「湯浅屋」と深川の海産物肥料問屋「小津商店」の両方を番頭として任されていました。

従って比較的裕福な家庭に育ったようで、子供のころには、この当時まだ高価だったカメラを与えられており、幼いころからこうした最新の映像機器に慣れ親しんでいいたことが、その後の映画人としての人生を歩む上での下地となったのでしょう。

1913年(大正2年)、小津一家は父の郷里である松阪に移ったため、安二郎はここの三重県立第四中学校(現在の三重県立宇治山田高等学校)へ進学し、寄宿舎に入りますが、このころ初めて映画と出会っています。その中でも特に小津の心を動かした作品は、大正6年(1917年)に公開されたアメリカ映画「シヴィリゼーション」であったといいます。

監督は、トーマス・H・インスという人で、日本ではあまり知名度は高くありませんが、海外ではモンタージュやクローズアップなどの様々な映画技術を確立し、映画を芸術的な域へと高めたことで映画の父とも言われる、D・W・グリフィスと並び称されるほどの人だそうです。

「二挺拳銃」、「呪の焔」、「ツェッペリン最後の侵入」といった映画を残しているようですが、「シヴィリゼーション」は彼の代表作といわれます。この映画は、架空の国「ヌルマ」で勃発する戦争により運命に翻弄される人々が描いたパワーあふれる作品で、戦場のスペクタクルシーンは、初期の映画とは思えぬくらい圧倒的なリアリズムで表現されました。

1999年には「文化的、歴史的に重要な1本」として、アメリカ・ナショナルフイルムライブラリーに登録されており、この映画は当時学生だった小津安二郎に映画監督になる決意をかためさせたといわれていますが、このとき、何やらの啓示があったのかもしれません。

おそらくは、このとき安二郎少年は、ちょうど12歳のころと思われ、計画されたその人生である、12×5=60年のちょうど1スパン目が終了したときのことです。

人の一生を左右するような事件には、往々にしてあちらの世界の方々からのお導きがあることが多いといいますが、安二郎少年にもちょうどこのときあちらの世界からの何かの啓示があったのでしょう。

その後、商業の道に進んでほしいという両親の期待にこたえるべく、神戸高等商業学校(現在の神戸大学)を受験しましたが落第。神戸の「神戸キネマ倶楽部」や地元三重の「神楽座」、その他名古屋の映画館などに入り浸って、多くの映画を観たのもこの時期です。

翌年の1922年(大正11年)に今度は三重師範学校(現在の三重大学教育学部)を受験しましが、この受験も失敗に終わります。両親は「二浪するよりはまっとうな仕事についてほしい」と考えたため、小津は三重県飯南郡(現在の松阪市飯高町)にある宮前尋常高等小学校(現存せず)に代用教員として赴任することにしました。

しかし、映画への愛着を捨てられず、この教員生活はわずか1年で終わります。教員をやめ、このころ東京に戻っていた家族の元へ帰りました。父親は初め、どうしても映画の仕事をしたいという小津の希望を聞かなかったそうですが、その熱意に負け、最終的にこれを認めました。

こうして小津は叔父が地所を貸していて縁のあった松竹蒲田撮影所に入社することになりましたが、この松竹蒲田はその後、現代劇の製作スタジオとして次々と優れた作品を生み出していく名撮影所となります。

俳優研究所も併設しており、ここからその後たびたび小津作品にも登場することになる、笠智衆ら新時代の映画俳優たちが生み出されていきました。撮影助手時代の小津はまず碧川道夫や酒井健三といったカメラマンの下につき、監督としては島津保次郎や牛原虚彦について映画製作を学んでいきました。

21歳のとき、当時の徴兵制度に従って一年志願兵として入隊しましたが、すぐ一年後の1925年(大正14年)に除隊しました。職場に復帰した小津は助監督として大久保忠素監督のもとにつき、現場で映画製作のノウハウを体得しながら、監督としての要件を学んでいきましたが、とくに監督として必須の作業とされたシナリオ執筆に励みました。

そのうちの一本「瓦版カチカチ山」が撮影所幹部の目にとまり、1927年8月、「監督ヲ命ズ、但シ時代劇部」という辞令によって、ようやく小津は子供のころからの念願の監督昇進を果たします。

特筆すべきは、この年、小津安二郎24歳であり、12×5=60年のその生涯において、ツースパン目が終わる時にその計画された一生の目的の一つが果たされたことでした。

こうして小津は初監督作「懺悔の刃」をクランクインしましたが、この映画は小津の長い監督歴の中で唯一の時代劇作品でした。

小津は撮影スケジュールの調整から初めて、セットづくり、俳優への演技指導と映画のすべての部分に気を配らないと気が済まないタイプの映画監督でしたが、念願の監督になったわけであり、20代前半とまだまだ若かったこの頃の彼は充実した毎日を過ごしたようです。

1927年には、松竹の時代劇部が京都に移転したため、蒲田撮影所は現代劇に特化することになりました。小津もこの方針に沿って次々に作品をつくりあげていきますが、このころには年間5本もの早いペースで撮影をこなしており、「一年一作」となった戦後の小津からは考えられないハイペースな製作でした。

1930年(昭和5年)には、これが1年間製作の最高本数になる7本の映画を作り上げていますが、翌年になると世界恐慌の影響もあって製作本数が減少、同年は3本、さらに20代最後の年の1932年(昭和7年)には4本の製作にとどまりました。

この時代から小津は「小市民映画」と呼ばれるジャンルにおける第一人者とみなされるようになっており、批評家からも高い評価を得るようになっていました。

1937年(昭和12年)、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発。このころから日本はその後の暗い時代に突入していきます。34歳になっていた小津は、京都から東京に移って東宝で監督業をしていた親友の山中貞雄にも召集がかかったことで、身近にも迫る戦争の暗い影を感じ取るようになります。

この年の9月、小津にも召集がかかりましたが、迷うことなくも応召し、大阪から出航して中国戦線に向かいました。かつて志願兵として入隊した経験があったことから、小津は第二中隊に属する第三小隊で班長を務め、このとき伍長に昇進しました。

小津の部隊は南京総攻撃には間に合わず、陥落後の南京を越えて奥地へと進軍しました。6月には伍長から軍曹に昇進して漢口作戦に従事、以後も各地を転戦しました。1939年(昭和14年)6月、九江で帰還命令を受けて7月13日に神戸へ上陸、原隊に復帰して除隊しました。1年10ヶ月におよぶ戦場暮らしでした。

日本に帰った小津は、その翌年、36歳。これで人生の3スパン目が終了したわけで、このときは、長い戦場生活から解放されての休息のときであり、彼の人生にとってはまたしても節目の年だったことになります。

復帰第1作として1941年(昭和16年)に「戸田家の兄妹」をつくりました。この映画は小津作品として初めての大ヒットとなりました。

それ以前では1932年から1934年まで作品が3年連続キネマ旬報ベストテン第1位となるなど批評家からの評価は高かったものの、興行的な成功にはなかなか恵まれていなかったこともあり、小津にとっては大きな自信となりました。

しかし、次に取り組んだ作品「父ありき」(1942年4月公開)製作中に日米が開戦。1943年6月、小津は今度は軍報道部映画班に徴集されて福岡の雁の巣飛行場から軍用機でシンガポールへ向かいます。

シンガポールでは「オン・トゥー・デリー」という仮題のつけられたチャンドラ・ボースの活躍を映画化したものの製作に取り掛かりましたが、完成しませんでした。そしてこのシンガポールで終戦を迎えることになりましたが、同地では「映写機の検査」の名目で大量のアメリカ映画を見ることができたといいます。

その中には「嵐が丘」、「北西への道」、「レベッカ」、「わが谷は緑なりき」、「ファンタジア」、「風と共に去りぬ」、「市民ケーン」などが含まれていました。

やがて帰国。戦後すぐには脱力感に襲われ、なかなかメガホンを取る気にならない小津でしたが、度重なる催促に重い腰を上げて1947年(昭和22年)になってようやく戦後第1作「長屋紳士録」をつくりあげました。さらに2年後の1949年(昭和24年)、原節子を初めて迎えた作品「晩春」を発表。

この作品は、独自の撮影スタイルの徹底、伝統的な日本の美への追求、野田高梧との共同執筆、原節子と笠智衆の起用でいわゆる「小津調」の完成形を示し、戦後の小津作品のマイルストーンとなりました。さらに1951年(昭和26年)の「麦秋」が芸術祭文部大臣賞を受賞、これによって名監督としての評価を決定的なものとしました。

このとき小津48歳。ちょうど人生の4スパン目が終了したときでした。

その翌年、戦前に検閲ではねられた「お茶漬の味」を改稿し、このとき完成しなかったシナリオをもう一度練り直して作られたのが、名作中の名作といわれる「東京物語」(1953年(昭和28年))です。原節子と笠智衆をメインに据え、家族のあり方を問うたこの作品は小津の映画人生の集大成であり、誰に聞いても彼の代表作と言われるものです。

1958年(昭和33年)、10月にはこの「東京物語」が英国サザーランド賞を受賞。「彼岸花」で3度目の芸術祭文部大臣賞、さらにこれらの功績により紫綬褒章を受章しました。1959年(昭和34年)3月、映画人として初めて日本芸術院賞を受賞。小津56歳。

1960年(昭和35年)には芸術選奨文部大臣賞を受賞し、1962年(昭和37年)には、芸術院会員に映画監督としてただ一人選出されます。

1963年(昭和38年)を迎えた小津は、初めてテレビ用に書き下ろしたNHKのドラマシナリオ「青春放課後」を書きます。しかし、その直後に体調に異変を感じ、同年4月にがんセンターで手術を受けました。

その後、いったん退院しましたが、10月に東京医科歯科大学医学部附属病院に再入院、12月12日自身の還暦の日、午後12時40分に逝去しました。60歳没。予定通り、その12×5年の人生をきっちりと終えました。生涯独身だったそうです。

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小津作品というと一般的に伝統的な日本文化の世界と捉えられがちですが、初期の小津はハリウッド映画、影響を強く受けた作品を撮っており、たとえば「非常線の女」(1933年)には、英語のポスターや磨き上げられた高級車、洋館ばかりの風景など当時のハリウッドのギャング映画さながらの世界が再現されています。

こうしたアメリカの影響を受けることになったのは、やはり上述のようにアメリカ映画「シヴィリゼーション」を幼いころにみたことが大きかっでしょう。このころまだ少年だった小津は絵が上手で、このころ既に、ベス単やブローニーといった当時の最新カメラを操る芸術家肌の少年だったといいます。

このブローニー(Brownie)というのは、フィルムのことだと思っている人も多いと思いますが、元はコダックが製造販売した写真機のシリーズ名です。ロールフィルムを用いた最初の「ブローニー写真機」は、1900年(明治33年)に発売されました。

これは「ザ・ブローニー(ブローニーNo.1)」と呼ばれ、画面サイズ「6×9cm判」の「117フィルム」を使用したものでした。その後日本にも導入されましたが、その最初のブローニーカメラが120フィルムを使用するものだったためか、日本では「ブローニー」ということばがこれに使われる120フィルムの名称や220フィルムを指すようになりました。

この120や220フィルムなどは、いまだに中判カメラ用のフィルムとして世界的にも流通していますが、日本人がブローニーと呼ぶのは和製英語であり、世界的には通用しません。

この「ザ・ブローニー」を開発したコダックは、世界で初めてロールフィルムおよびカラーフィルムを発売したメーカーとして知られています。また、世界で初めてデジタルカメラを開発したメーカーでもあり、本社はニューヨーク州ロチェスターにあります。

写真関連製品の分野で高いシェアを占めることで知られるほか、映画用フィルム、デジタル画像機器などの事業も行っています。が、自らが開発したデジタルカメラによってフィルムなどが売れなくなり、またその後自社でのデジタルカメラの開発はうまくいかず、このため日本のカメラメーカーに市場を席巻されて業績不振に陥りました。

2012年(平成24年)には、日本の会社更生法にあたる、アメリカ連邦倒産法第11章の適用をニューヨークの裁判所に申請。このとき、アカデミー賞授賞式会場でもある、コダック・シアターからコダックの名を削除するという憂き目にもあいました。

日本では医薬品や写真材料等の卸売事業を中心として社業を展開していた「長瀬産業」と提携して、1981年(昭和56年)に日本法人を設立後、1986年(昭和61年)に長瀬と統合してコダック・ナガセ株式会社を設立しました。が、1989年(平成元年)に提携関係を解消。

「日本コダック」になった1993年(平成5年)には、横浜マリノス(現横浜F・マリノス)のユニフォームスポンサーを1998年まで務め、また、Jリーグオールスターサッカーのスポンサーを1998年まで努めるなど、一時期は羽振りがよかったようです。しかし、アメリカ本社が斜陽になると、やがてその影響を受けるようになりました。

アメリカ本社が連邦倒産法第11章の申請を受理されて会社存続が決まった2013年(平成25年)には2009年(平成21年)にコダック株式会社へ商号変更していたものを再度変え、「コダック合同会社(Kodak Japan, Ltd.)となり、アメリカのイーストマン・コダックの日本法人、同社の完全子会社となりました。

最近、コダックのカメラやフィルムが市場から見えなくなっていたな、と思う人が多いと思いますが、以上のように、この会社のここ10数年ほどの間には、こうした紆余曲折があったわけです。

そのイーストマンコダック社は、もともとジョージ・イーストマンによって1880年(明治13年)に創業された写真乾板製造会社でした。彼は、1854年、ニューヨーク州ウォータービルで、両親がここに購入した10エーカーの農場の末っ子として生まれました。

貧しかったため、ほとんど独学で学びましたが、8歳になるとロチェスターの私立学校に通い始めました。13歳のとき、父が脳障害で死去。ジョージはこの頃通っていた高校をやめ、働き始めます。20歳のころ写真に興味を持ちましたが、この当時の写真はまだガラス板に感光乳剤を塗って、乾く前に撮影する方法でした。

その後写真の研究に没頭するようになり、25歳のころ、苦労の末についに乾式の写真板(乾板)を開発し、イギリスとアメリカでの特許を取得。1880年に写真の事業を始めました。さらに1884年には、写真の基材をガラスから乳剤を塗ったロール紙に換える特許を取得しました。

34歳になった1888年にロールフィルム・カメラの特許を取得。「あなたはシャッターを押しさえすれば、後は我々がやります(”You press the button, we do the rest”)」の宣伝文句は一大センセーションを起こしました。

無論、宣伝文句も人々の心をつかむものでしたが、商品にも独特の工夫があり、これは顧客はカメラを送り返して10ドルを払えば、フィルムを現像し100枚の写真と新しいフィルムを装填してくれる、という斬新なもので、この新システムで彼はアメリカの写真市場を席巻するようになっていきました。

1888年9月4日、イーストマンはコダックの商標を取得し、世界最初のロールフィルムカメラ「No.1コダック」を発売。翌年の1889年にはセルロースを使った透明な写真フィルムを発明。1896年までにこれを搭載した100台のコダックのカメラが売れたといいます。

しかし、商業的にはまだ成功したとはいえなかったため、イーストマンは更に知恵をめぐらせ、1900年にはブローニーシリーズを1ドルで発売する、という大ばくちを打ちます。そしてこれは大ヒットを飛ばし、以後、アメリカの隅々にまで写真とカメラが行きわたるようになり、写真という新しい文化を一気に開花させることとなりました。

その後、コダック社はイーストマンの指導のもと、1921年には「シネコダック」と称して、同社初の小型映画の規格「16mmフィルム」を発表。これは、その後世界的にも普及することになる「8ミリ」の原型ともなり、小型カメラにおける嚆矢となりました。

1925年、71歳になったイーストマンはさすがによる年波には勝てず、引退。しかし、経営には死去まで関与し続け、特に研究開発部門の社員には影響を与え続けました。ブローニーシリーズが大ヒットして会社が大きくなった1911年には、Eastman Trust and Savings Bankという銀行を創設して金融業にも乗り出しましたが、これに対して社員は組合を作って反発しました。

イーストマン自身はこれを快く思っておらず組合活動を抑制しようとしたようですが、しかし、従業員の福利厚生の充実を図るなど、会社の発展には努力を惜しみませんでした。

抜け目のない実業家でもあり、カメラ業界の競争が激しくなってきたとき、フィルム製造に重心を移したことは、その後のコダック社の発展に大きく寄与しました。

高品質のフィルムを大量生産することで他のカメラ製造業者を事実上のビジネスパートナーに転換することができたわけであり、このシステムを真似たのが、日本の富士フィルムだといわれています。

引退後の、1932年(昭和7年)、イーストマンが78歳の年、コダックは、「シネコダック8」として、のちに「ダブル8」と呼ばれる小型映画の規格を発表。これはのちの8ミリの原型となります。このころから脊椎管狭窄症と見られる症状に苦しむようになり、立つことも難しく、すり足でゆっくりとしか歩けなくなりました。

イーストマンはこれに先立つ53歳のとき、母がを亡くしていますが、彼女の存在は彼の人生の大きな部分を占めており、その死はジョージに大きな衝撃を与えました。この母は晩年に子宮がんの手術を受けていますが、手術は成功したものの最晩年の2年間は車椅子を使用しており、この母親も同じ脊椎管狭窄症だったかもしれないと言われています。

イーストマンはこの母が晩年に苦しむ様子を目にしており、自らも彼女と同じような症状を発したことから、次第に強まる痛みに不安を覚え、身体の衰えからますます憂鬱になっていったようです。

そして、ついにその苦しみに耐えられなくなったのか、1932年3月14日に自邸でピストル自殺。その77年の生涯を終えました。遺書には、To my Friends, My work is done. Why wait? (私の仕事は終わった。友よ、なぜ待つのか?)と書かれていました。

小津安二郎の生涯が計画通りのものだったとすれば、イーストマンの一生は、ハプニングだらけのものだったようにも思え、ことさら対比して考えてしまいます。

次々と特許を取得して発明家としての一面をも持っていた彼は、日常の中の思いがけない出来事に発想を得るようなタイプの人物ではなかったかと推察されますが、その死もまた突拍子もないものでした。。

イーストマンは、早くから慈善家として知られており、早くからフィランソロピー活動を始めています。日本では聞き慣れないことばですが、このフィランソロピー(Philanthropy)活動とは、基本的な意味では、人類への愛にもとづいて、人々の「well being」、つまり、幸福、健康等を改善することを目的とした、利他的活動や奉仕的活動、等々を指します。

あるいは慈善的な目的を援助するために、時間、労力、金銭、物品などをささげる行為のことであり、日本語では「慈善活動」「博愛」「人類愛」などとも呼ばれ、日本的には「チャリティー」に近いでしょうか。

philanthropyというのは、ギリシャ語のphilosフィロス(=愛、愛すること)と、ánthrōposアントロポス(=人類)という言葉から成っている表現であり、基本的に「人類を愛すること」という意味があり、フィランソロピーを実践している人はフィランソロピストと呼ばれます。日本語で「篤志家」という呼び方もするようです。

そのフィランソロピストであったコダックは、莫大な事業の収益の一部を教育機関や医療機関の創設にあてており、例えば、1901年にはロチェスター工科大学の前身である力学研究所に62万5千ドルを寄付しているほか、1900年代初めには他にマサチューセッツ工科大学に寄付し、同大学のキャンパス建設なども支援しています。

さらには、生まれ育ったロチェスターやマサチューセッツ州ケンブリッジ、南部の黒人を受け入れている2つの大学、ヨーロッパ各地の都市などの様々なプロジェクトに1億ドル以上を寄付しているほか、無料で歯科診療を行うイーストマン歯科診療所創設の資金を提供やロチェスター大学のイーストマン音楽学校の創設資金を寄付しています。

また、ロチェスター大学の医歯学部の創設資金を寄付したほか、1915年にはロチェスターにてCenter for Governmental Researchという地方自治の研究施設を創設しており、特に医療機関創設に尽力した彼が施した慈善活動の数は枚挙のいとまがありません。

1925年に引退宣言をしてからはとくにこの慈善活動に注力するようになり、アンドリュー・カーネギーやジョン・ロックフェラーに次ぐ篤志家として知られるようになりましたが、けっしてそれを宣伝に利用しようとはしませんでした。さらに晩年の1926年から亡くなるまでには、アメリカ優生学協会に毎年22,050ドルを寄付しています。

その生前の総寄付額は、1億ドルともいわれており、その大部分はロチェスター大学とマサチューセッツ工科大学に対して贈られたものであるため、ロチェスター工科大学にはイーストマンの寄付と支援を記念して彼の名を冠した建物があります。

また、MITでは、記念銘板が設置されており、浮き彫りになった肖像の鼻を触ると幸運が訪れるという言い伝えがあるそうです。

死後、その遺産もまたロチェスター大学に全額遺贈されました。同大学にはイーストマンの名を冠した中庭もあります。ロチェスターにあるイーストマンの住んでいた家は1949年、ジョージ・イーストマン・ハウス国際写真映画博物館として開館され、アメリカ合衆国国定歴史建造物にも指定されています。

小津安二郎の人生が、12×5年、60年きっちりと生きることが目的だったとすれば、イーストマンの一生は、自分で稼いだ金でもって、人に奉仕する、ということろが目的だったような気がします。

彼の死後、彼が創業したコダック社は1965年(昭和40年)新しい小型映画の規格「スーパー8」を発表。1932年(昭和7年)に発表されたダブル8の改良版として発売されました。

ダブル8との相違点はパーフォレーションを小さくし、その分、画像面積を約1.5倍に拡大、また16コマ/毎秒が標準であったフィルム走行速度を18コマ/毎秒と早めたこと、さらに高級機種においては24コマ/毎秒という商業映画と同じ滑らかな動きの撮影・映写を可能としたことなどでした。

一般ユーザー向けの製品であり、この2年前の1963年(昭和38年)に亡くなっていた小津は無論使っていませんが、これ以前にコダック社が開発した数々の映画製作用カメラは当然、小津も使っていたはずです。

1921年(大正10年)にシネコダックとして、小型映画の規格として制定された「16mmフィルム」や、1932年(昭和7年)のシネコダック8として、のちに「ダブル8」といった小型映画の規格は、小津も携わった映画製作にも少なからず影響を与えたでしょう。

今日は、映画監督と実業家という、まったく別の人生を歩んだ二人の生涯についてみてきたわけですが、縁もゆかりもなさそうに見えるこの二人の間にも、「カメラ」という共通点があったことになります。

まさか、小津の命日である12月12日が、ジョージ・イーストマンの命日と同じ、などということはないよな、と調べてみたところ、イーストマンの命日は1932年3月14日でした。

が、ここであっ、と思ったのはその生まれは、1854年7月12日であり、月こそ違え、誕生日は小津安二郎と一緒です。

もしかしたら、前世からの因縁のある二人だったかもしれず、それならば今ごろあの世で一緒の二人はきっと、また映画や写真などの映像技術の開発に関わっているかも、などと想像してしまいます。

さて、今年も嫁の誕生日が近づいてきました。今年は何をねだられることでしょう。