admin のすべての投稿

オハイオ川を越えて

4a23724a

最近、ネットを中心として、古い写真を集めています。

その理由は、自分も写真をやっており、より美しい表現とは何かを探求していく上において参考にすべきものも多いためですが、もうひとつ、こうした古い過去の映像というものは、もう二度と見れないものであり、その昔の世界を垣間見ることによる、一種のタイムスリップ感覚を感じることができる、ということは大きいと思います。

現在にまで伝えられて残っているものも多く、それを見聞きすればそれで十分ではないかという向きもあるでしょう。

が、100年以上も前の一枚の写真に写っているものが、例えば建築物であればそれが建造された当時の初々しい様子を伝えてくれ、またそこに写りこんでいる人々はもうすでに亡くなっているわけで、二度と取戻しがきかないものばかりであり、現在もう見れなくなっているこれらを実際に目で見て確認できるというのは素晴らしいことです。

それを写した写真によってその当時の様子を推測できる、という歴史学的な価値もあるでしょうし、希少なこうした写真を単に見て感銘を受けるだけでなく、その写真そのものが失われてしまう前に保全することというのは、デジタル技術が発達してそれが容易になったこの時代においてはとくに重要なテーマではないでしょうか。

この写真というものは、19世紀のはじめに発明されて以降、一般大衆に広まるのは1884年に、ニューヨークのジョージ・イーストマンという人が、現在のフィルムの原型となる、紙に感光材料を塗布する方式を開発してからのことになります。

翌年の1885年に紙フィルムを製造し始め、3年後の1888年7月、イーストマンの設立したコダックカメラ、すなわち、「イーストマン・コダック」が、「あなたはボタンを押すだけ、後はコダックが全部やります」との触れ込みでセルロイドフィルムを導入した新式のカメラを発売しました。

この結果、その後は現像サービス企業なるものが登場し、誰でも写真撮影が可能な時代となり、複雑な画像処理の道具を自前で持つことが必要ではなくなりました。

さらに、1900年に、イーストマンはスナップショットの概念を提供した単純で非常に安価な箱型カメラ「ブローニー」を発売すると、これも大人気を博し、以後、同様なものが改良・開発され、アメリカにおいては写真といえば最も身近な娯楽となっていきました。

ただ、残念なことに、こうした初期のころの写真はすべてが白黒写真であり、カラー写真が普及するのは、1930年代に多層乳剤方式のカラーフィルムが同じコダック社で開発されて以降のことになります。

とまれ、このカメラによって、アメリカではさらに写真の大衆化が更に進むと同時に、様々なカメラが次々と発売にされるようになったため、アメリカでは1900年代に入ってから素人さんが残した写真はゴマンとあります。

対する日本においては、1894年(明治27年)、日清戦争において陸軍の従軍写真班のカメラマンが、従来の乾板に代わりフィルムを使用した撮影を行ったのがフィルム使用の最初ではないかといわれているようです。

しかし、アメリカにおいて写真は一般大衆化し、日常の生活の様子などを記録・撮影したスナップ写真などが普通の人に撮られたのに対し、日本では、いわゆる「芸術写真」としての普及のほうが進み、とくに1900年頃から1930年代にかけては、ごく一部の愛好家による絵画的な写真ばかりが撮られました。

この日本における芸術写真は、欧米のピクトリアリスムの大きな影響を受けつつも、日本画的要素を取り入れ、特に自然を撮影した風景写真に特化したモノが多く、また日本人らしく叙情性を重視するといった独自な特徴を持っています。

ただ、日本ではこの当時カメラそのものが大変高価なものであっために、お金持ちしか所有できず、普通の人が気軽に写真を撮る、ということはなかなかにできませんでした。

従って、公共的な建物や風景、軍艦や飛行機などの軍事的なものは記録写真として数多く残されているものの、この年代の一般大衆の様子を撮影したものは、日本においてはかなり少ないわけです。

これに対して、アメリカの1900年代の写真というのは、本当にありとあらゆる分野のものが残っており、これは安価なカメラを手にした庶民が残したものが多いということもありますが、一方では「写真家」なる人々も多数輩出され、また出版社などもこぞってこの時代のアメリカを撮影したものを雑誌など掲載したことも寄与しています。

例えば、冒頭の美しい写真は、アメリカの五大湖に隣接する町、デトロイトに本拠を置いた、デトロイト・パブリッシング・カンパニーという出版社が撮影したものであり、この会社では雑誌向けの写真を提供するために多数の有名写真家を抱え、主に米国北東部における25,000枚以上の風物の写真を残しています。

この写真はそのうちの一枚ですが、アメリカ東部・五大湖のうちのエリー湖の南側に位置する、オハイオ州の南西部にある街、シンシナティ市内を流れる、「オハイオ川」を航行する外輪船の写真です。

100年以上前の写真であるため、原本はカビだらけであり、あちこちに傷が入っていたものを、私のラボで最新のデジタルソフトを使って修復したものです。

はっきりとした撮影年はわからないようですが、1900年から1920年の間のいずれかの年に撮影されたということであり、右手奥に見えるのがシンシナティの町のようです。

オハイオ川に蒸気船が就航したのは、1811年のことだったそうで、さらに南北戦争が終結するのは1865年のことですから、この写真が撮影されたのはこの戦争による痛手もようやく癒え、シンシナティが工業都市として発展を続け始めたころの写真でしょう。

アメリカ合衆国拠点都市のひとつであり、総人口は32万弱の中堅都市です。日本人にはあまりなじみのない街かもしれませんが、プロクター・アンド・ギャンブル、すなわちP&Gの本社がある町であり、この会社の製品である、紙おむつのパンパース、化粧品のマックスファクターなどの名を聞くと、あぁあれか~という人も多いでしょう。

野球の大リーグのチーム、シンシナティ・レッズの本拠地でもあり、このチームにこれまでに日本人は所属したことはないようですが、最近は日米野球や米大リーグの試合などの模様がよく放送されるので、こうした機会にシンシナティの名を耳にする人も多いことでしょう。

このシンシナティの市域は、この当時の大統領ジョージ•ワシントンの指示により、その部下たちによって買収・開発され、創設は1788年です。市名は古代ローマの政治家で執政官と独裁官を務めたキンキナトゥス(Cincinnatus)という共和政ローマ前期に登場する伝説的人物にちなんでおり、この名の意味は、彼の特徴である「巻き毛」のことだそうです。

学と勇がある人だったようですが、普段は農業をやり、農民のような暮らしをしていたようで、当時ローマは対外的に周辺部族と緊張関係にありましたが、この外敵が攻めてくると、キンキナトゥスは元老院より独裁官に指名され、ローマ軍を率いてこの敵を打ち破りました。

しかし、敵を打ち破ると、独裁官の任期が半年もあるにもかかわらず、たった16日間でその地位を返上してまたもとの農民に戻ってしまったそうです。ところが、今度はローマにおいて平民階級による反乱がおこり、このときにもキンキナトゥスは独裁官に就任するよう要請されました。

そしてこのときも、反乱を抑えますが、この戦いが終わると再びその地位を返上して農作業を行う身に戻ったといい、こうした彼の謙虚な行動は広くローマ中に広まるとともに、その人徳はその後もローマ社会で長く語り継がれるようになっていきました。

あくまで伝説の域を出ない話のようなので、本当に実在した人物かどかも怪しいところではあるのですが、このローマの偉人の名を冠することになったシンシナティは、アメリカ北東部、五大湖のすぐ南東のオハイオ州にあります。

また、その東側のペンシルバニア州ピッツバーグに端を発し、ここからアメリカ中部に向かって南西部に向かって流れる「オハイオ川」の中流に位置します。

286px-Map_of_USA_OH

Hamilton_County_Ohio

Ohiorivermap

オハイオ川の流域面積は490,603平方キロもあり、これは日本国土の約1.3倍にあたります。その流域はアメリカ合衆国中東部の大部分を占め、南部諸州にもかかりますが、実はアメリカ中央部を南北に流れる「ミシシッピー川」の支流でもあります。

このミシシッピー川の流域面積は3,250,000平方キロとオハイオ川のおよそ7倍にもなり、全長は3779kmで、これはアメリカ合衆国内においては一番長い川です。

かつては世界最長の川と考えられていたそうですが、アメリカ大陸を南北に貫いているため、鉄道が敷かれるまでは、水運を担う重要な水路となっていた時期があり、冒頭の写真にもあるような蒸気船が航行する姿はアメリカ発展史における象徴的存在でした。

Mississippirivermapnew (1)

その支流である、オハイオ川もまた、アメリカ開拓時代には、重要な水路として機能し、その水量は、ミシシッピ川の全支流中最大の水量を有します。またその流路のほとんどは現在のペンシルベニア州、オハイオ州、ウェストバージニア州、ケンタッキー州、インディアナ州、イリノイ州などのアメリカ中東部の主要な州の州境を形成しています。

ヨーロッパ人が入植するはるか以前から、オハイオ川はネイティブ・アメリカンたちにとっての重要な水上交通路でしたが、ヨーロッパからの入植者たちにとっても西へと流れるこのオハイオ川は、アメリカ中西部開拓のために都合の良い川でした。

入植者たちはこの川を利用してペンシルベニア植民地西部から下流である南西部へと船を進め、ミシシッピ川との合流点に達すると、今度はここからミシシッピー川を北上して、ミズーリ川とミシシッピ川が合流するセントルイスを目指しました。

このあたりのことは、地図を見ながらでないとなかなかわかりにくいのですが、このミシシッピー川の支流であり、かつ数ある支流の中でも最大の流域面積を誇るこのミズーリ川は西側に位置するロッキー山脈が源流です。そしてこのロッキー山脈を越えればもうそこはアメリカ西部の州であるユタ州やネバダ州です。

その先には太平洋に面するカリフォルニア州がある、というわけで、つまりアメリカ東部からオハイオ州を下り、ミシシッピ川とミズーリ川を遡ることで、入植者たちははるばると西部へとその開拓の駒を進めることができたわけです。

Wpdms_nasa_topo_missouri_river

したがって、その旅の発端ともなるオハイオ川というのは非常に重要な川であり、アメリカの開拓が始まったすぐの18世紀末から19世紀にかけてはもうすでに、オハイオ川では通商目的の船が行き来していました。

ただ、この頃はまだ主に竜骨船が用いられており、19世紀初頭、河岸のイリノイ州ケイブ・イン・ロック(Cave-In-Rock)には、海賊の本拠が置かれ、海賊たちはこの竜骨船を操っては川を行き交う船を襲い、乗組員を殺して積荷を奪い、その船を川に沈めていたそうです。

オハイオ川を下りきった船は、ミシシッピ川の合流点からさらに南下して、アメリカ南部の海岸にまで達することもでき、その末端にあるニューオーリンズの港もまたその後、中南米との交易港として発展しました。

ニューオーリンズからさらにメキシコ湾を渡れば、南アメリカ大陸のほかの港へ達することもでき、ここからヨーロッパへと船を進めることも可能でした。このように、とくにアメリカ中央部におけるオハイオ川とミシシッピー川の役割は特に重要であり、この二つの川における水上交通の発達により、アメリカは発展したと言っても過言ではないでしょう。

入植した白人はその河岸にいくつもの河港をつくり、都市を建設して水上交通の拠点とし、流域の豊富な鉄鉱石や石炭を利用して産業を興しましたが、とくにオハイオ川の中流域にあるシンシナティ周辺では石炭がたくさん採れたことから、古くからその交易都市として栄えました。

畜産業における集散地でもあったため、「豚肉の町」とも呼ばれていた時代もあったようですが、その後石炭交易のほうが中心となり、今日でも工業都市として知られるほど各種の工業が興りました。P&G以外では、機械、鉄鋼、化学、食品工業の大手企業がここにひしめきあっており、更に近年ではIT産業や出版・印刷業も発達してきています。

外国籍企業の進出も多く、日系自動車企業の工場も比較的近距離の他州にあるため、多くの日系企業もシンシナティや周辺他地域に点在しています。こんなところに日本人がいるのかと思う人も多いでしょうが、日本人補習校が成り立っているくらい相当数の日本人が住んでいるということです。

このシンシナティはまた、南北戦争前は、南部から逃亡してオハイオ川を渡った黒人奴隷をさらに北へ逃がす組織が拠点を置く重要な町でもあり、南部の黒人奴隷にとってこの川を渡ることは「自由への道」を意味していました。

アメリカではこの黒人奴隷の扱いをめぐって、これに反対する北部の州と南部の州が争い、その後南北戦争という市民戦争が勃発したわけですが、オハイオ川から北のオハイオ、インディアナ、イリノイなどの北部各州は奴隷制度反対の州でした。

一方、ここから南の州は奴隷制度促進派であり、このため両者の境界線であるこの川は、そのまま北部の自由州と南部の奴隷州の境界線でした。

南部の黒人奴隷たちは自由を求めてこの川を船で渡りましたが、冬季にはこの川は凍るため、徒歩でまたは橇で渡ってこれら3州へ逃げ込みました。特にオハイオ州の河岸には、こうして川を渡ってきた奴隷たちをかくまう、「地下鉄道」と呼ばれる秘密組織の拠点となっていた町がいくつも存在していました。

これらの地下鉄道の運動家に助けられた彼等は、これらの諸州に居着くことも多かったようですが、白人の迫害を決して受けない自由な大地を求めてさらに北へ、時にはカナダへまで逃げ込むことも多かったようです。

この「地下鉄道」は英語では、Underground Railroadと表記されますが、鉄道に例えられてできた用語であり、この用語を使えば、一見普通の鉄道について会話しているように聞こえるため、秘密を守るために使われるようになったようです。

組織内には隠語があり、例えば車掌(conductors)は、奴隷たちを誘導した人々であり、駅、停車場(stations)といえば、奴隷の隠れ家、駅長(stationmasters)とは、自分の家に奴隷をかくまった人々であり、乗客(passengers)、貨物(cargo)とは、逃亡中の奴隷たちを指す言葉でした。

さらに奴隷たちは「切符」(ticket)を入手しなければならなかったといい、これはおそらく、匿う人が組織内での誰であるか、何をしている人であるか、といった内部事情の知識などのことだったかと思われ、友達のいる友達(a friend with friends)という秘密の合い言葉の「友達」とは黒人そのものであり、またその庇護者の白人でもあるわけです。

地下鉄道は主に、秘密の通過道、乗り物、待ち合わせ場所、隠れ家、そして奴隷制度廃止論者たちによる誘導や補助で構成されており、奴隷制度廃止論者たちは、地域ごとの小さな班に分けられ、自分たちの地域だけにおける地下鉄道の詳細な情報を知るという慣わしでした。

ひとつの「停車駅」から次の「停車駅」へ、黒人たちは停止地点ごとに違う人々の補助を借りて目的地まで進みましたが、これによって、誰ひとりとして逃亡中の奴隷たちの目的地までの道のりの全容を知ることがなく、地下鉄道の秘密と奴隷たちの安全が確保されました。

秘密を守るため、隣り合った「停車駅」同士は、親戚の関係でつながっていたということも多かったといい、奴隷制度廃止論者である白人、生まれつき奴隷でない「自由黒人」、過去に奴隷だった黒人、そしてアメリカ先住民などの人種に属する人々が、この「線路」上で「車掌」として、逃亡中の黒人たちを手助け・誘導しました。

フレンド会、会衆派教会、メソジスト教会、バプテスト教会などの宗教的な機関も、この地下鉄道に大きく貢献したといい、また、奴隷制度廃止派の考えは書物、新聞などを通して出版され、合衆国中に広められていきました。

逃亡中、奴隷たちは通常、昼間は隠れ家にかくまってもらい、夜中に次の「停車駅」へと旅をしましたが、ただし、毎晩、泊まる所があったわけではなく、森や沼地に隠れなければならないこともありました。

本当の鉄道を利用して逃げようとした奴隷もまれにいたようですが、通常は歩いたり荷車で移動し、捕まえようとする追っ手を撒くために、うねりくねった経路をたどりました。逃亡者の大多数が、40歳以下の農民の男だったと言われていますが、これは逃亡の旅道は、女性や子供には険しく危険すぎたためです。

ただ、地下鉄道を通して逃亡し自由な生活を確立した奴隷たちは、その後自分たちの妻や子供を主人から買い取り、その後一緒に暮らせることもあったといい、奴隷制度も末期になるとかなりタガは緩んでいたようです。

ただ、そうした物分かりの良い主人ばかりではなく、逃亡したと知るとオハイオ川などの境界にまで何が何でも奴隷を取り戻そうと追ってくる白人も多かったようです。働き盛りの屈強な黒人は、元の主人たちにとって投資した動産であり労働力であり、いったん手に入れた奴隷の逃亡は家業の衰退を招きかねなかったためです。

南部の新聞には、逃亡奴隷についての情報が頻繁に掲載され、捕まえた者には主人から賞金が出されたといい、このような賞金稼ぎを職業とした奴隷捕獲人は、遠くはカナダまで奴隷を追い、捕まえようとしました。

このように逃亡する黒人たちも必死ならば、追う者も必死であり、このため逃げる側からすれば地下鉄道の詳細な情報はけっして公的には流出してはならないものでした。このため、道筋や隠れ家の場所などの情報は全て口頭で伝えられたといいます。

こうしてこの地下鉄道が最も頻繁に「使用されていた」、1810年から1850年の間にはおよそ3万人から10万人の人がオハイオ川を越えて奴隷状態から逃れたと推測されています。

その後、奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州のうち11州が合衆国を脱退、アメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまった北部23州との間で戦争となった南北戦争(Civil War)が起こったのが、1861年、そしてそれが終結したのが1865年です。

この戦争終結によって「奴隷解放宣言」が出され、南部の州で奴隷の扱いを受けていた黒人は解放されました。しかし、南部における黒人に対する差別や偏見はその後も潜在的に残り、KKKなどの過激的な黒人排除運動を生み出す土壌となりました。

南部では現在もなお、南北戦争は「北部による侵略戦争」であったと主張する白人もいるくらいで、この国における白人対黒人の構図は、まだまだ続いていきそうです。

昨今、白人警察によって黒人が虐待されたり、殺害されたりと言った事件を発端にアメリカ中が騒然となっていますが、こうして奴隷から解放されたかに見える黒人たちへの偏見は未だに続いており、このころから既に120年近くも経っているというのにその和解の道は見えていません。

現在のアメリカでもこの当時の「地下鉄道」という言葉は、黒人にとって「自由」を称揚する象徴的な表現であり、その白人至上主義反対運動においても、時として使われることがあるそうです。

ただその舞台となり、この当時奴隷解放のための象徴的存在だった~いわば東西ベルリンの壁のような~オハイオ川自体は、現在ではただ単に五大湖周辺の州と南部の州とを分ける境界線としてのみ認識されているようで、とくにここにモニュメントを作って、奴隷解放運動の拠点にしよう、というような動きはないようです。

シンシナティを初めとするアメリカ東部の町を、ビジネスだけでなく観光で訪れる日本人も増えており、オハイオ川を見る機会も増えているかと思いますが、過去に何もなかったかのように滔々と流れるこの川にもそうした歴史があったのだと認識しておくことが、この国に対して持つべき敬意のひとつかとも思います。

つくづく、一枚の写真から紐解ける歴史的事実は多いものだと実感する今日このごろです。

新党立ち上げ?

2014-1寒い夜が続くと、酒が恋しくなります。

飲みすぎは禁物なのですが、この時期になるとやはり忘年会だのクリスマスだのが続き、酒を飲む機会が増えてきます。

今のように誰でも自由に酒が買えて飲める、というのは私のような酒好きにとってはたまらなく良い時代なわけですが、その昔、アメリカにはなぜか、「禁酒法」なるものが施行されていた時代がありました。

この禁酒法が制定された背景には、19世紀末から20世紀前半にかけては欧米諸国で社会改善運動や道徳立て直し運動が起こると同時に「禁酒運動」も盛り上がりを見せたことが背景にあります。

禁酒運動の動機は運動により様々であり、政治的理由や宗教的理由などが考えられますが、政治的理由としてはアルコールによる健康への害を減らそうというものや、人心や家庭や社会の荒廃を防ごうとするもの、家庭や社会の無駄な出費を減らそうというものなどがあり、一方ではキリスト教やイスラム教など宗教上の信念に基づくものなどがあります。

ヨーロッパでは1829年にアイルランドで禁酒運動団体が発足し、1830年代にはスカンジナビア諸国、スコットランド、イングランドでも団体が発足しました。また、英国では1835年に「全国絶対禁酒教会」が発足、プロテスタント教会が集会を開き、アルコールの代替として紅茶が奨励され、紅茶が広まる、といったこともありました。

さらに19世紀後半には、スイスやドイツ、フランス、ロシアなどでもキリスト教の教職者らによる禁酒団体が成立するなど、禁酒運動はそれなりの広がりを見せましたが、アメリカのように「禁酒法」にまで踏み込んだ国はありませんでした。

しかし、なぜかアメリカでは、この禁酒運動が異様な高まりを見せ、これによる相当な圧力の下で、禁酒法が成立し、これが制定された1920年から1933年までの間は、消費のためのアルコールの製造、販売、輸送が全面的に禁止されました。

この期間は、法律制定から失効まで、正確には13年10ヶ月19日7時間32分30秒間にも及んだとされ、「高貴な実験(The Noble Experiment)」とも揶揄された悪法でした。

ただ、アメリカでこの法律が施行される前には、既にいくつかの州議会では州としての禁酒法を既に立法化していました。

このうち、1881年に州憲法でアルコール飲料を禁止した最初の州であるカンザス州では、激烈な禁酒主義活動家、キャリー・ネイションという人物がバーに乱入し、客を叱って、酒のボトルを手斧でたたき割るという事件も起き、このことはアメリカ全土にセンセーションを起こしました。

この事件以前、彼女はチャールズ・グロイド博士という人物と出会い、結婚していました。ところが、このグロイドは疑いようもなく重度のアルコール中毒者であったため、敬虔なクリスチャンであった彼女はこれを理由に離婚しました。グロイドはそれから一年も経たないうちに亡くなったといいます。

彼女は後年、自分が酒との戦いに情熱を傾けるようになったのは、この失敗に終わった第一の結婚を原因だとしており、その反動もあってか、その後は熱烈な禁酒活動家になっていきました。

彼女の禁酒主義活動のやり方は、初めは単なる抗議程度でしたが、だんだんとエスカレートしてゆき、街中の飲み屋見入っていき、そこのバーテンダーに「お早うさん、魂の壊し屋さん」といった、当てつけがましい嫌みを込めた挨拶をするようになりました。

次いで、酒場の常連客に向かって手回しオルガンで賛美歌を奏でるようになっていきましたが、さらには、「天啓に従って行う行為」と称して、石塊を集めてカイオワ郡のある酒場へ赴きました。彼女はこれを「粉砕用具」と呼び、「飲んだくれの末路から皆さんを救うために参りました」と宣言し、石塊を取り出すとこの酒場にあった酒瓶に投げつけました。

こうしてこの酒場の在庫のすべてを破壊しつくし、さらに同様の方法で、彼女の住まうカイオワ郡の酒場二つを完全破壊しました。当然、器物損壊罪に問われることであり、有罪行為であるため、そのたびにシェリフが呼ばれ、彼女は逮捕されました。

が、この過激なオバハン、キャリーはその後もカイオワ郡だけでなく、カンザス州中で破壊活動を続け、そのたびに逮捕され続けた結果、こうした蛮行が実は大好きなアメリカ人の間では評判となり、逮捕記録の伸びと共にその「名声」もうなぎ上りに高まっていきました。

彼女はこうした破壊行為を大っぴらに行うようになる少し前に、デイヴィッド・A・ネイション博士という、弁護士で牧師の男と再婚していました。

ある日、カイオワでのある酒場での襲撃の後この夫が、次回は最大限の損害を与えるためにまさかりを使ってみてはどうか、と冗談を言ったところ、キャリーは「結婚以来で一番まともな助言だわ」と真顔で応えました。

上述のように、バーに乱入し、酒のボトルを手斧でたたき割るという蛮行を実行し、新聞に取り上げられて全米で話題になったのはこれからすぐのことでした。

キャリー・ネイションは大柄な女性で、身長は6フィート(180cm)近く、体重は175ポンド(80kg)近くあったといい、彼女は自らを「キリストの足元を走り、彼が好まないものに対して吠え掛かるブルドッグ」だと述べ、バーの破壊による禁酒主義の推進を「神聖なる儀式」であるとまで主張していました。

さらにキャリーは婦人を集めて「キャリー・ネイション禁酒法グループ」を組織し、他の活動家もバーに入って、歌い、祈り、マスターにアルコールを販売することを停止するよう訴えました。こうして、彼女の「活躍」は徐々に効を奏し、アメリカでは南部の州を中心とした各州および個々の郡で禁酒法が制定されるようになっていきました。

2014-6

禁酒法に与するこうした勢力は、その後1840年代から1930年代への州における地方政治の重要な勢力となっていきました。彼等の活動は民俗宗教的な性格も持っており、こうしたローカルな主教を生活の一部のようにして暮らしていた民衆の多くがやがてこの活動に加わるようになっていきました。

とくに茶商や炭酸飲料メーカーといった、アルコールに敵対する製品を販売していた業者にとっては、禁酒運動は彼等自身の販売品の売上高を増加につなげてくれる活動であり、このため、積極的に禁酒法に賛同しました。

この当時、禁酒法は「ドライ(Dry)」と呼ばれる、敬虔なプロテスタントの宗派によって支持されており、これは、飲酒に対して「ドライ」(冷ややか)な態度を示す人々、という意味であり、一方、禁酒法に反対する一部のプロテスタント宗派の人々は「ウェット」と呼ばれました。

彼等の活動はやがて政治にも影響を及ぼすほどになり、アメリカ議会においても、民主党・共和党両党共に「ドライ」・「ウェット」両派閥ができるまでになりました。1917年に前年行われた大統領選挙後に召集された議会では、「ドライ」は民主党で140:64、共和党で138:62とそれぞれ「ウェット」より多かったといい、ドライ派はそこまで勢力を伸ばしました。

このころ、アメリカにおける大手ビール製造会社のほとんどがドイツ系(アンハイザー・ブッシュ、クアーズ、ミラー、それにシュリッツなど)だったせいもあり、こうした禁酒活動の活発化により、「ビール=ドイツ=悪」と言う単純かつ悪意の満ちたイメージがまかり通るようになっていました。

このため、その後第一次世界大戦が勃発し、アメリカが帝政ドイツに宣戦布告すると、反禁酒法の主要勢力であるドイツ系アメリカ人は多くの地域で発言力を失い、抗議活動も無視されました。

また、アルコール業界内でもビール業界がウィスキーを諸悪の根源だと決め付け規制から逃れようとするなど内部での足の引っ張り合いが横行しており、「アルコール業界」として統一した動きが取れなくなるなどの要素があり、これが禁酒派を大いに勢いづかせる原因ともなっていきました。

こうして、1917年2月に米国全土で禁酒法を達成するための憲法修正決議が議会に提出され両院を通過しました。2年後の1919年にこの修正決議は48の州の内36州で批准され、同年10月には「酔いをもたらす飲料」が定義され、0.5%以上アルコールを含有しているものが規制対象となりました。

そして、1920年1月16日に修正第18条が施行され、禁酒法時代が始まり、こうして映画、「アンタッチャブル」で有名な、エリオット・ネスら合計1,520名の連邦禁酒法捜査官が飲酒を取り締まる任務に就くようになりました。

2014-2

当時アルコールは治療目的のために医師によって広く処方されていて、禁酒法の問題は医療従事者の間で論争の一つとなったため、議会は1921年にビールの薬としての効能についての公聴会を開きました。米国中の医師が禁酒法撤廃を求めてロビー活動を行ったりもしましたが、禁酒法は撤廃されることもなく、逆に薬用酒にも適用されるまでになりました。

また、禁酒法が施行されたため、アルコールの製造、販売と輸送は基本的には違法となりました。ところが、ニューヨークを例に取っても1万5千にすぎなかった酒場が、禁酒法以降は多数のもぐり酒場を生む事になって3万2千にと倍増し、これらの酒場で飲まれた酒の量も禁酒法以前の10パーセントも増加しました。

また、飲酒運転の摘発数も増え、禁酒法施行後の1年間に較べ、1927年には467パーセントもの増加をみるなど、禁酒法の導入によっていわば、社会反動ともいえる「酒ブーム」が起こりました。

ただし、禁酒法では1年につき最高200ガロン(750リットル)の「酔わない程度の」ワインとリンゴ酒が国内の果物で作ることが許可され、自身の家庭で使用するブドウを栽培するブドウ園作りは許されていました。

また、禁酒法は実はアルコールの摂取そのものは禁止しておらず、アルコールの販売だけが違法となる法律だったため、家庭でこっそり酒を飲むのは違法ではありませんでした。

それにしても販売されていない酒をどうやって入手したかですが、これは法律が施行される少し前に、多くの人が今後の飲用のためにワインと酒を買い溜めしていたためであり、いわゆる闇の酒というのはアメリカ中どこにでも存在していました。

さらに、当然この法律はアメリカ国外では何の影響も持たず、多くのアメリカ人がアルコール飲料を飲むために国境を越えるようになったため、カナダ、メキシコ、それにカリブ海などの近隣諸国の蒸留所と醸造所は大いに栄えたといいます。

そして、後年、「狂騒の20年代」として知られるようになる1920年代に入ると、酒はこれらの国から米国にますます不法に輸入されるようになり、特にシカゴのように、禁酒法をごまかす者のための避難所として有名になった地域もありました。

このシカゴにおいては、1920年までのマフィアの主な活動はギャンブルと窃盗に限られていましたが、禁酒法時代に入ってからは無許可で酒を製造販売することが大きな収入源となり、彼等を大いに繁栄させました。

アルコールのブラック・マーケットはマフィアの重要な資金源となり、彼等のギャンブルの実施などの活動資金ともなりましたが、もともとはヤクザ者であるだけにそのエネルギーを金儲けだけに使うだけでなく、他の組織との抗争にも使うようになり、このため暴力沙汰も頻繁に起こるようになっていきました。

強大なギャングは法執行機関にも取り入って彼等に賄賂を手渡して腐敗させ、最終的には恐喝するまでして、自分たちの商売を邪魔させないようにしました。

2014-4

こうしてギャングたちは酒の密輸でますます利益を上げ、と同時に、禁酒法により酒に飢えた人々の需要に答えるべく、さらに強い酒を密輸したため、とくにウィスキーなどの高濃度の酒の人気は高く、その価格は急騰しました。

アル・カポネとその敵対者バグズ・モランなどのシカゴにおいても、最も悪名高いギャングの多くは、こうした違法なアルコールの売り上げを通して何百万ドルもの大金を稼いだといわれており、その過程で他の組織を潰す必要から殺人を含む犯罪の多くが行われ、シカゴの町は荒廃していきました。

このギャング間の抗争はかなり激しいものであり、一説によるとギャングの平均寿命が禁酒法施行前は55歳だったものが、施行後には38歳にまで下がったといいます。またFBIの禁酒局捜査官もギャングとの銃撃戦で500名もの殉職者を生んでおり、この当時ギャングだけでなく市民も含めておよそ二千人以上もの人が死亡したと言われています。

しかし、市民の犠牲者が増えるようになると、さすがにこうしたマフィアをのさばらす原因にもなっている禁酒法に対する反感が広まるようになり、シカゴだけでなくその他の大都市でも次第に禁酒法の撤廃を望む意見が出るようになっていきました。

そして、1932年の大統領選挙では禁酒法が中心的争点となり、失業対策と農家救済が叫ばれる中、フランクリン・ルーズベルトがこれに加えて禁酒法の改正を訴えて勝利しました。

大統領となったルーズベルトは1933年に禁酒法の修正案に署名し、これによって重量にして3.2%、容積にして4%のアルコールを含むビールと軽いワインの製造・販売が許可されるようになりました。修正案に署名をしたルーズベルトは「これで私もビールを飲むという楽しい時間を持つことができるようになった」とひそかに語ったといいます。

さらに、禁酒法に関連していた憲法の条項自体も、世論の高まりにより1933年12月に廃止されることになり、これにより多くの州がこの憲法修正の批准に応じたため、この憲法改正に賛同した州では、禁酒法も違憲状態となってその役目を終えることになりました。

しかし、モルモン教徒の多いユタ州などでは、熱烈な禁酒主義者が多く、この処置への反発も高いままでした。しかし、そのユタ州議会がこの憲法修正に批准し、ユタ州が改憲を成立させた36番目の州になると、その他の禁酒に強硬な州でもこれに順応するようになりました。

ユタ州と同様に禁酒主義活動家の多かったペンシルベニア州やオハイオ州でも憲法修正案が批准され、ほとんどの州で禁酒法が撤廃されていきましたが、しかし、この憲法修正条項では、州にアルコールの輸送を制限するか、「禁止する権利を委ねる」と明記されただけであったため、憲法改定に賛同した後も禁酒法を実施し続ける州もありました。

2014-3

とくに1907年に禁酒法を作ったミシシッピ州は、その後も1966年まで禁酒法を廃止せず、最後まで禁酒法が残る州となり、さらにカンザス州では1987年まで、バーの様な屋内の中で酒類を提供することを許可せず、今日でも酒の販売を制限したり禁止する「ドライ」な郡や町が多数残っているといいます。

禁酒法が導入される前には、アルコールの税金で毎年5億ドルの税収があったといい、禁酒法は政府財源に悪影響を及ぼしました。しかし、これが廃止されたことで、再び政府は大きな財源を得ることができるようになり、しかも、マフィアの撲滅に向けての動きが加速されるかのように見えました。

実際、安価なアルコールとの販売競争に敗れ、多くの州で闇市場でのアルコールの売り上げを失った結果、一時はマフィアも鳴りをひそめ、街中での抗争も減った時期もあったようです。

しかし、禁酒法時代に大きな財力を蓄えたマフィアたちはその後も暗躍を続け、アルコール販売に代わって、賭博業、売春業、麻薬取引、などで大きな収入を得るようになり、その後1930年代には労働組合などを食い物にしてさらなる繁栄を続けていきました。

これら、マフィアの歴史については、先月掲載したブログ、「イタリア発アメリカ」に詳しいので、こちらものぞいてみてください。

このように禁酒法の存在はマフィアという勢力を大きく育てましたが、その撤廃によっても彼等の消滅は実現しませんでした。また、禁酒法は、その施行により民間の企業に大きな影響を与えましたが、とくに大きな影響を受けたのは、誰あろう、アルコール醸造業界でした。

長期にわたって、アルコールの販売が禁止された結果、廃業に追い込まれた業者も少なくありませんでしたが、なによりも長期にわたって蔵元が閉鎖されたため、禁酒法の撤廃後もウィスキー造りなどでは酒造りに必要なピートの調達が間に合わず、ブレンド用の酒が不足するなどの影響が出ました。

しかし、禁酒法が廃止された後、かつて存在していた醸造所の半分だけは営業を再開することができ、以後は現在でも米国で主流となっている新たなブランドのビールなども作られるようになりました。

バドワイザーやクアーズなどに見られるようなアメリカンラガースタイルのビールがそれであり、ほかにもバーボンやウィスキーなどの新ブランドが次々と新しく生産されるようになっていきました。

しかし、ビールやウィスキーはともかく、禁酒法以前に未熟ながらも育ちつつあったワイン産業はほとんど壊滅状態になっていました。禁酒法の導入により生産性の高いワイン品質のブドウの木は、家庭醸造用販売のための輸送に適した実の皮の厚い低級品質の品種と取り替えられたためであり、大事な種木の多くが失われる結果になっていたのです。

また、禁酒法時代の間に醸造者は他国に移住したり廃業してしまったため、業界の知識の多くも失われました。いわゆる「ロストテクノロジー」というヤツで、日本でも仏教の影響により、平安時代以前にはあった乳飲料を飲用する習慣がなくなり、このためバターやチーズといったものの製法が絶えるということがあったのと同じです。

2014-7

ただ、上述のとおり、禁酒法時代においても、「酔わない程度の」ワインの製造が許可されていたため、とくにカリフォルニアでは、ワインの醸造を細々と続けた結果、その伝統が残った醸造元がありました。

とくにカリフォルニア州の北部は、現在でも極上ワインの生産地として知られる地域ですが、この当時から「ワインカントリー」して知られ、品質の良いぶどう栽培を生み出す農場とワイン醸造所が多数あります。

ワイン用ぶどうは、こうした標高の高いで栽培されるのが常ですが、この地域の生態系や地質はとくにワイン造りには向いているといわれ、その環境がこの高品質を作っているゆえんです。

メキシコの植民地となった19世紀半ば以降、ヨーロッパ人開拓者がこのワインカントリーの地に積極的な形で農業を持ち込み、その中にあったのが、ここでのぶどうの栽培とワイン作りでした。

禁酒法時代にはその醸造元の数は著しく落ち込みましたが、この間にも細々と醸造を続けていた人々の努力により解禁後は復活しました。

現在、サンフランシスコより北のこのワインカントリーには現在400以上のワイン醸造所があり、その大半はナパ郡のナパ・バレーやソノマ郡のソノマ・バレー、アレクサンダー・バレー、ドライクリーク・バレーおよびルシアンリバー・バレーなどバレーと呼ばれる地域に位置しています。

観光客が大勢集まる観光地であり、これらの醸造所ではワインの試飲だけでなく、ハイキング、自転車乗り、熱気球および歴史史跡探求のためにこの地域を訪れる人も多く、また良いワイン造りができることから、アメリカ中から料理人が集まるところとなり、このため様々な料理も楽しめるといいます。

多くの著名なシェフがここでレストラン経営しており、こうした魅力の他にも温泉浴、化石化した樹木といった、この地ならではの自然の資源も豊富にあり、大変美しいところだということです。私もサンフランシスコには行ったことがあるのですが、この地まで足を延ばすことはなかったので、いつかは行ってみたいものです。

さて、選挙も近づいています。

この禁酒法が施行される以前の1869年、アメリカでは政党として禁酒党(Prohibition Party)なるものが結成され、大統領選挙では当選の見込みがないにもかかわらず度々20万票台を集めたといいます。

今度の選挙では野党はからっきし元気がなく、自民党有利というのがもっぱらの下馬評のようです。ならば、年末でもあることから、酒を飲む機会も多いことでもあり、「飲酒促進党」というのを創って立候補者をたくさん出すというのはどうでしょう。

民主党に対抗して、「認酒党」というのもいいかもしれません。

そして、今年忘年会に参加する人は必ずこの党に投票する、というきまりを作って、みんなでここからの立候補者に投票すれば、もしかしたら、一党独裁政治を打破できるかもしれません。

私が立候補したいところですが、今のところ忙しくてそれどころではありません。どなたか、いまからでもいいから創ってくれませんでしょうか。

今晩何の酒を飲もうかと考えているあなた、いかがでしょうか。

2014-5

ナルトのバルト

2014
気がつくと11月も終わりです。

明日から12月になるわけですが、日本では、年末になると各地で第九のコンサートが開かれます。最近では、単に演奏を聴くだけではなく、演奏に参加する愛好家も増えつつあるということなのですが、一体いつのころからこういうことになったのかな、と気になったので調べてみました。

すると、日本で第九が初めて年末に演奏されたのは、昭和15年(1940年)の大晦日、12月31日午後10時30分のことだそうです。

先日のブログ、「手をあげろ!」でも取り上げた、紀元二千六百年記念行事の一環として行われたのだそうで、このときは、ヨーゼフ・ローゼンシュトックという人が「新交響楽団」、すなわち現在のNHK交響楽団の前身の楽団を指揮し、この模様はラジオ生放送でも流されました。

ローゼンシュトックは、ユダヤ系のポーランド人で、ドイツやアメリカで活動していましたが、昭和11年(1936年)に来日してからは日本での音楽の普及活動にも尽力し、NHK交響楽団の基礎を創り上げた指揮者です。楽員からは「ローゼン」「ロー爺」「ローやん」と呼ばれ親しまれていたようです。

この演奏を企画したのは当時、日本放送協会(NHK)の洋楽課員だった三宅善三という人だったそうですが、彼は「ドイツでは習慣として大晦日に第九を演奏し、演奏終了と共に新年を迎える」とウンチクを語っていたそうです。

実際にドイツでも年末に「第九」を演奏することが今でも多いそうです。が、日本のように大晦日に、しかもこんな深夜遅くから演奏するような慣習はないといい、従って、この三宅氏が何らかの勘違いをしていたのではないか、ということが言われているようです。

このN響ですが、戦前はまだ日本人でもクラッシックを聞く人は少なく、戦後になってもまだそれほど人気があがらなかったため、オーケストラ収入が少ない貧乏楽団でした。

このため、楽団員が年末年始の生活に困ると言ったことも多く、こうした状況を改善するため、合唱団の中からも掛け持ちで演奏に参加する人もいたそうですが、そうした中でも数あるクラシックの演奏の中で、「第九」は「必ず客が入る曲目」であったといいます。

年末に「第九」が演奏されるようになった背景としては、このころ既に大晦日にN響の年末の定期演奏会が行われており、その演奏がラジオの生放送で流されるという慣習が定着していたということがあります。しかしその中でも第九は人気曲であり、その後は年末と言えば、「第九」ということになっていったようです。

さらにこれが定着するようになったきっかけは、1955年(昭和30年には、「群馬交響楽団」をモデルに制作された映画「ここに泉あり」(主演、小林桂樹、ほかに岸惠子などが共演)が公開されたことです。この映画はヒットし、翌年には文部省により群馬県が全国初の「音楽モデル県」に指定されました。

これを受けて、昭和31年(1956年)に群馬交響楽団が高崎で行った第九演奏会は大人気を博し、この成功によって全国でも頻繁に大晦日の演奏会が開かれるようになり、現在に至っています。

群馬県ではさら昭和36年(1961年)に、高崎市民の全面的な支援を受けて同市に群馬音楽センターが建設され、これを拠点としてさらに幅広い活動が展開されています。その後「移動音楽教室」なるものも設立され、多くの児童生徒がこれを鑑賞しているのをはじめ、県内各地で演奏活動が展開されていて、音楽は群馬県文化の象徴になっているそうです。

2014-8121

この「第九」の作曲者である、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンを知らない人はいないでしょう。日本では江戸時代に生まれ、幕末近くの1827年に亡くなっているドイツの作曲家ですが、バッハ等と並んで音楽史上極めて重要な作曲家であり、「楽聖」とも呼ばれるほどの人です。

1770年、現ドイツ領で、当時は神聖ローマ帝国の領土であったケルン大司教領のボンで、生まれました。ベートーヴェン一家は、代々宮廷歌手で、お父さんもまた選定歌手でしたが、類の酒好きであったため収入は途絶えがちでした。このため、元歌手でもあった祖父の支援により一家は生計を立てていました

お父さんが酒癖が悪く収入が少なかったため、ベートーヴェンはこの父からその才能を当てにされていたといい、幼少のころから、虐待とも言えるほどの苛烈を極める音楽のスパルタ教育を受けたと伝わっています。

しかしその成果は表れ、めきめきと才能を開花させたベートーヴェンは、22歳のとき、演奏先のロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンにその才能を認められました。弟子入りを許可されてすぐにウィーンに移住しその手ほどきを受けるようになりますが、やがてここでもピアノの即興演奏の名手として名声を博すようになりました。

ところが、20歳代後半ごろより持病の難聴が徐々に悪化。この当時は水道管に鉛が使われていて、鉛イオンが溶け出した水道水を長期間飲んだことによる鉛中毒説が有力視されているようですが、ベートーヴェンは28歳の頃には最高度難聴者となってしまいます。

聴覚を失うという音楽家としては死にも等しい絶望感から、32歳の時、遺書まで書いて自殺も考えたといいます。が、強靭な精神力をもってこの苦悩を乗り越え、再び生きる意思を得て2年後の1804年に交響曲第3番を発表しました。これを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれました。

が、その後、40歳頃には全聾となり、以後、晩年の約15年間は、ピアニスト兼作曲家から、完全に作曲専業へ移るようになりました。今年の2月、同じく全聾を装っていた佐村河内氏のウソがばれましたが、耳が聞こえないのに作曲ができるというのは、一般人にとってはまことに不思議なことです。

が、それができたというところが、やはり天才ということなのでしょう。しかもベートーヴェンはさらに、40を過ぎてからは神経性とされる持病の腹痛や下痢にも苦しめられるようになったといい、そうした環境の中で傑作を生み出していったというのは、本当にすごい精神力といえます。

加えて、彼が後見人をしていた甥が、非行に走ったり自殺未遂を起こすなどの問題を起こすようになり、こうした苦悩がつのって一時作曲が停滞した時期もありましたが、そうした中で生まれたのが、世に名高い交響曲第9番でした。

ベートーヴェンが実際に交響曲第9番の作曲が始めたのは、47歳のころだといわれていますが、部分的にはさらに以前までさかのぼることができるといい、現在のような旋律が作られたのは、最晩年であった52歳、1822年頃のことといわれています。

しかし、その後に肺炎を患ったことに加え、黄疸も発症するなど病状が急激に悪化、病床に臥すようになると、10番目の交響曲に着手するも未完成のまま翌年の1827年に肝硬変によりその56年の生涯を終えました。その葬儀には2万人もの人々が駆けつけるという異例のものとなり、この葬儀には、翌年亡くなるシューベルトも参列したそうです。

第10番は断片的なスケッチが残されたのみで完成されなかったことから、この第九は彼の最後の交響曲です。副題として「合唱付き」が付されることも多く、その第4楽章は独唱および合唱を伴って演奏され、歌詞にはシラーの詩「歓喜に寄す」が用いられます。そして第4楽章の主題はかの有名な「歓喜の歌」として最も親しまれている部分です。

私はクラシック音楽が苦手なのでよくわかりませんが、「古典派の以前のあらゆる音楽の集大成ともいえるような総合性を備えると同時に、来るべきロマン派音楽の時代の道しるべとなった記念碑的な大作」なのだそうで、第4楽章の「歓喜」の主題は欧州評議会において「欧州の歌」としてヨーロッパ全体を称える歌として採択されています。

また、欧州連合においても連合における統一性を象徴するものとして採択されているほか、ベルリン国立図書館所蔵のベートーヴェンの自筆譜は、2001年にユネスコの「世界記録遺産」リストに登録されたそうです。

このように、まぎれもなくベートーヴェンの最高傑作の一つであるわけですが、そのゆえんは、大規模な編成や1時間を超える長大な演奏時間のほか、それまでの交響曲でほとんど使用されなかった、シンバルやトライアングルなどのティンパニ以外の打楽器を使用した独創性にあるといいます。

また、第3楽章は、「ドイツ・ロマン派の萌芽を思わせる瞑想的で長大な緩徐楽章」だそうで、このほか、従来の交響曲での常識を打ち破るかのような、独唱や混声合唱の導入などの大胆な要素を多く持ち、シューベルトやブラームス、ブルックナー、マーラー、ショスタコーヴィチなど、後の交響曲作曲家たちに多大な影響を与えました。

が、日本での圧倒的な人気の一方で、ヨーロッパにおいては、オーケストラに加え独唱者と合唱団を必要とするこの曲の演奏回数は必ずしも多くないそうです。

2014-8124

日本においても最初に全曲演奏がなされたのは明治を通り越して大正なってからで、大正7年(1918年)の6月1日に、徳島県板東町(現・鳴門市)にあった板東俘虜収容所でドイツ兵捕虜による演奏が行われたのが最初だといいます。

この事実はこの初演の2ヶ月後に板東収容所でこの「第九」を聴いた徳川頼貞が、戦前の昭和16年(1941年)に書いた「薈庭楽話」という随筆に書かれていたためわかったそうで、それによれば、このとき頼貞が聞いたのは第1楽章のみだったといいます。

徳川頼貞という人は、その名前からもわかるように、徳川御三家の子孫であり、紀州徳川家の第16代当主にあたります。母方の祖父徳川茂承が紀州藩主であり、楽譜や音楽文献、古楽器類の収集家として知られ、生きている間には「音楽の殿様」と称されました。

日本楽壇の進歩発展に尽力するなど、戦前における西洋音楽のパトロンとして果たした役割は大きいとされ、戦前は貴族院議員として、戦後は参議院議員として憲政にも携わり、これによって築いた人脈を駆使して音楽を普及させ、これを外交においても利用しました。

「薈庭楽話」は、そうした自分の歴史を綴った回想録のようですが、その中で明らかにされた板東収容所での演奏の件は、その後戦争に突入してしまったため、その事実は長い間忘れ去られるところとなり、1990年代になってようやく脚光を浴びるようになりました。

この板東俘虜収容所において第九が最初に演奏されたのは1918年ですが、収容所という環境から、これを聞いたの軍関係者だけです。それをこの初演の2か月後に徳川頼貞氏が聞いたということから、同じメンバーより頻繁に演奏されていことがうかがわれ、この時の演奏は徳川頼貞が慰問か何かに訪れていたためのときのものかと思われます。

また、この翌年の1919年12月3日には、福岡県の久留米高等女学校(現・福岡県立明善高等学校)で演奏会が開かれたという記録が残っています。ただ、坂東収容所のメンバーではなく、別の久留米俘虜収容所のドイツ人オーケストラのメンバーによる出張演奏だったということであり、様々な曲に交じって「第九」が演奏されました。

ただ、第2・第3楽章だけだったといい、聞いたのも女学生達だけでしたが、収容所のスタッフ以外の一般の日本人が「第九」に触れたのはこれが最初だと言われています。さらにその2日後の12月5日には、久留米収容所内で合唱も加えられた演奏が行われており、このときには楽器編成もほぼ原曲どおりで全曲演奏がなされたといいます。

この板東俘虜収容所に代表される捕虜収容所ですが、これらが設置されることになった発端は、第一次世界大戦です。その一局面で日独戦争が勃発し、戦争終結後当時大阪市にありドイツ人捕虜を収容していた「大阪俘虜収容所」が手狭となったことからこれが閉鎖され、捕虜たちは他の場所に移転することになりました。

この「日独戦争」の経緯ですが、そもそもは、日露戦争に先立つ日清戦争で日本が勝利したのち、日本が遼東半島の所有を要求したことに始まります。ところが、同じく中国進出をたくらんでいたフランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国は、日本のこの主張に対して猛烈なる異議を唱えました。

これがいわゆる「三国干渉」といわれた事件であり、これにより日本はやむなくこれらの国の勧告を受諾し、遼東半島を放棄する代償に3000万両(4500万円)を獲得しただけで我慢しました。

ところが、この三国干渉で中国に恩を売った形になったドイツは、他のフランスやロシアを差し置いて自分だけは大洋艦隊の寄港地となる軍港を中国沿岸に確保しようと企て、そこで渤海湾の湾口にあたる膠州湾一帯に目をつけました。

そして、1897年に自国の宣教師が山東で殺された事件を口実にここに上陸し、翌1898年(明治31年)には山東半島の南側、黄海に面した膠州湾を99年間の租借地としました。そしてその後この膠澳湾全体をドイツ東洋艦隊の母港とすべく軍港として整備し始めました。

ドイツはこの地を極東における本拠地とし、膠州湾租借地の行政中心地として、湾入り口東側の半島に「青島」を建設し、ここに要塞を建設しました。そして湾内には艦隊を配備し、さらには鉄道敷設権と鉱山採掘権なども確保してその背後の山東半島一帯を勢力下に置くようになりました。

この結果、その中心地となる青島にはドイツのモデル植民地として街並みや街路樹、上下水道が整えられるまでになりましたが、今なお残る西洋風の町並みはこのときに形成されたものです。ドイツ軍撤退後の今も、現地で製造されている「青島ビール」は、このとき彼らがもたらした技術に基づくもので、ドイツがこの町に与えた影響は大きいものでした。

2014-8127

しかし、遼東半島の領有を反故にされた日本にとっては、そこからそう遠くもないこの地を盗られたというのはトンビにあぶらげ同然の行為です。到底許しがたいものであり、1914年(大正3年)に第一次世界大戦が勃発すると、当然のごとく日本はドイツに宣戦布告し、青島の攻略に乗り出しました。

一方、このように日本海を隔ててすぐに大戦力を派遣できる日本に対して、極東の僻地にまで軍隊を派遣するのはドイツにとっては至難のわざです。青島はこのころかなり頑丈な要塞化がなされていましたが、それでも日本軍の猛攻撃をかわす手立てはないと目されたことから、ドイツ東洋艦隊は港内封鎖を恐れて膠澳湾を脱出することになりました。

このとき、マクシミリアン・フォン・シュペー中将指揮するドイツ東洋艦隊の大部分は脱出しましたが、青島には駆逐艦「太沽(タークー)」、水雷艇「S90」、砲艦「イルティス」、「ヤグアール」、「ティーガー」・「ルクス」が残り、膠州湾の湾口はこれを日本海軍の艦船が封鎖しました。

このとき、港内に残されたS90 は、夜間雷撃により果敢に出撃し、日本海軍の防護巡洋艦「高千穂」を撃沈しています。しかし、本国へ向かったドイツ東洋艦隊は、大西洋を越えて帰港を目指す中、1914年12月8日に起こったフォークランド沖海戦において、日本と同盟関係にあったイギリス海軍によって撃破され、多くの艦が海の底に消えました。

一方、この戦争では日本軍としては初めてのこととなる飛行機による空中戦が行われました。第一次世界大戦に参戦した各国軍隊もそうでしたが、日本軍も初めて飛行機を戦闘に投入したわけであり、ただこの当時の日本空軍の規模は極めて小さく、「モ式二型」と呼ばれる複葉機を4機、「ニューポールNG二型単葉1機」に加え、気球1という寂しさでした。

しかし、人員だけは348名も集められて臨時航空隊を編成し、さらには、日本海軍で初めてとなる、「水上機母艦」まで導入しました。「若宮」という船であり、元英貨物船でしたが、日露戦争時にはロシアがバルチック艦隊の輸送船として保有しており、これを日本軍が対馬海峡で拿捕して接収したものです。

のちに、沖ノ島丸と命名されましたが、さらに若宮丸と正式命名され、日本海軍の輸送船として活動していましたが、1913年(大正2年)に臨時に水偵機3機を搭載して演習に参加、翌年水上機母艦への改装工事を受けました。改装ではありますが、一応、日本初の航空母艦ということになり、主として上述の「モ式」を運用しました。

若宮搭載のモ式には、大型1機と小型1機があり、残りの小型2機は分解格納されていました。山崎太郎中佐を指揮官とする海軍航空隊は1914年(大正3年)9月5日に初出撃を行っており、これが日本空軍の史上初の航空隊の出動ということになります。が、この初出撃では大きな成果はあげられなかったようです。

2014-8129

一方のドイツ軍は「ルンプラー・タウベ」という鳥の形をしたような不思議な飛行機を保有していました。タウベは鳩のことで、その名は、主翼と尾翼の形態が鳩の羽根のような形に由来しています。極めて安定性の高い飛行機で、運動性能は悪かったものの、単葉機だったため、日本軍の複葉機よりは性能は格段に優れていました。

しかし、青島のドイツ軍のタウベはわずか1機のみであったため、偵察任務に投入され、上空から日本軍陣地観察し、これによってもたらされたスケッチによって、ドイツ軍からは30㎝要塞砲によって正確に日本陣地に砲弾が撃ち込まれ、日本軍を悩ませました。

このため、日本軍はタウベが飛来するたびにその陣容を知られないよう、大砲などの兵器を隠すだけでなく人員をも隠れることを余儀なくされました。このため、日本空軍としては何としてもこのタウベを排除したく、「若宮」を出動させましたが、出航してすぐに触雷してしまい、日本への帰投を余儀なくされました。

このため、「モ式」は陸に降ろされ、砂浜からの出撃するハメになるなど大きく機動力を欠くところとなりましたが、1914年(大正3年)10月13日タウベを発見し、ニューポールNGとモ式3機の合計4機が発進し、空中戦を挑みました。

この「日本軍初の空中戦」となる空戦においては、タウベの機動性は日本軍のモ式を圧倒的に上回っていましたが、包囲されかけたため、二時間の空中戦の末に撤退しました。

9日後の10月22日にもニューポールNGとモ式がタウベを追跡しましたが、翻弄されただけで終わっており、その後ゼロ戦を初めとして名機を多数生み出すことになる日本空軍の初期のころの空戦とは、こんなほのぼのとしたものに過ぎませんでした。

その後日本軍は急遽、民間からニューポール機とルンプラー・タウベを1機ずつ徴用して青島に送りましたが、その運用が始まる前に停戦を迎えたため、これらの飛行機が戦果を挙げることはついにありませんでした。

本邦初といわれる空戦はこんな形で終わり、空の上での日独の戦いは、こうしたのんびりとしたものでした。がしかし一方陸地では「神尾の慎重作戦」と揶揄される程に周到な準備の上での作戦が日本軍により実施され、その結果華々しい成果があげられました。

神尾とは、約29,000名にのぼる兵員を有する第18師団と第二艦隊を率いる、「神尾光臣中将(後に大将)」のことで、これに対するドイツ軍兵力は約4,300名でした。

日本陸軍はドイツの青島要塞攻略にあたり、白兵戦で多数の死者を出すという大出血を強いられた日露戦争の旅順攻囲戦を教訓にして、砲撃戦による敵の圧倒を作戦の要としました。このため、最新鋭の攻城砲四五式二十四糎榴弾砲をはじめ、三八式十五糎榴弾砲、三八式十糎加農砲など、多数の重火器を導入して、ドイツ軍要塞を砲撃しました。

この結果、青島要塞は無力化され、その砲台は日本陸軍の砲撃により、ほとんど破壊され尽くされました。11月6日、青島要塞総督ワルデック少将は、タウベに秘密文書の輸送を託し、タウベと2人の飛行士を出発させ、タウベは脱出に成功しました。そして、その翌日7日、ドイツ軍は白旗を掲げ、ドイツ側軍使による降伏状が日本側に手渡されました。

2014-8131

こうして、両軍は青島開城規約書に調印し、青島要塞は陥落しました。その結果、ドイツ軍兵士約4700人が日本側の捕虜となりました。これに先立つ1904~1905年(明治37~38年)の日露戦争の際、日本は大量に生じたロシア人捕虜に関する規定を定めていました。

日露戦争当時のロシア人捕虜の扱いは極めて人道的なものであったといわれており、これは1899年のハーグ陸戦条約の捕虜規定が適用された最初の例であり、このときの捕虜及び傷者の扱いは、赤十字国際委員会も認める、優良なものでした。

ただ、日露戦争では大量の捕虜が出たため、日本は当初その扱いでかなり手間取りました。この経験により、青島の件ではドイツ側降伏後すぐに東京で政府により対策委員会が設置され、当時の陸軍省内部に、保護供与国と赤十字との関係交渉を担当する“俘虜情報局”が開設されました。

保護供与国とはドイツと国交のある国がドイツ兵士が捕虜になった場合にその援助をするという協定で、この当時はアメリカがそれでした。

ただ、今回の青島では、ドイツ側の降伏は予想以上に早いものであり、このため想定以上の人数を収容する必要が生じ、当初は捕虜受け入れの態勢が不十分で、捕虜たちは仮設収容所に収められることになりました。

捕虜たちは貨物船で同年の11月中に日本に輸送され、北海道を除く全国各地の都市に点在する収容所に振り分けられました。が、劣悪な環境が多く、食料供給も乏しく略奪や逃亡者も発生。将校クラスの者たちも特別待遇を受けることはありませんでした。しかし、新しい俘虜収容所の準備が整い次第、彼らは段階的に仮設収容所から輸送されていきました。

多くのドイツ軍捕虜は日本各地に設けられた14箇所の捕虜収容所に収容されました。俘虜収容所は全国各地につくられましたが、それらは最終的に6つに統合され、これは、似島俘虜収容所(広島)・久留米俘虜収容所(福岡)・板東俘虜収容所(徳島)・青野原俘虜収容所(兵庫)・名古屋俘虜収容所(愛知)・習志野俘虜収容所(千葉)でした。

中でも板東は似島はとともに最終的に整備された俘虜収容所であるため比較的整備が行き届き、1919年(大正8年)のヴェルサイユ条約締結まで長期にわたって運用されました。

ただ、この日独戦争終結後の1915年以降は、捕虜の脱走未遂発生のため戦争俘虜に関する規定が厳格化されており、現行の戦時国際法に反し、日本は脱走者に規則上のみならず刑法上でも処罰を課す方針をとりました。

このため、再捕捉された捕虜が有罪判決を受けることもあり、脱走計画の黙認、幇助も処罰の対象だったため、戦争捕虜を収容所する収容所の職員たちもまた日露戦争のときよりも管理体制を厳しくするようになっていました。

とはいえ、多くの虜収容所は捕虜に対する公正で人道的かつ寛大で友好的な処置を行ったとされており、とくに1917年に建設されたこの板東俘虜収容所の生み出した“神話”は、その後20年余りの日独関係の友好化に寄与しました。

板東俘虜収容所を通じてなされたドイツ人捕虜と日本人との交流は、文化的、学問的、さらには食文化に至るまであらゆる分野にわたっており、その後の両国の友好関係の発展を促したとも評価されています。

2014-8133

青島で日本軍の捕虜となったドイツ兵4715名のうち、約1000名がこの坂東に送られ、1917年から1920年まで、約2年10か月間ここで過ごしました。最初の年の1917年には丸亀、松山、徳島の俘虜収容所から900人あまりが送られ、続いて1918年には久留米俘虜収容所から90名が加わり、最終的に約1000名の捕虜が収容されました。

捕虜の収容に先立つ、1916年3月には保護供与国であるアメリカの駐日大使は同国の外交官サムナー・ウェルズを派遣し、捕虜らの処遇の調査目的で日本各地の収容所の視察を実施させました。

その争点は主に給食、医療処置であり、ほかに散歩の不足などにも及びましたが、状況は収容所によって様々でした。彼は詳細な報告書を作成し、それを元にアメリカ大使が東京であらゆる問題点に関して検討を重ね、日本側の代表に改善点を通達しました。

これにより、同年12月に行った二度目の収容所視察ツアーで、ほぼ全ての収容所に関して環境が改善したことを確認され、捕虜たちから未だ不満の声はあるものの、日本側も環境改善に尽力したという結論が出されました。

上述のとおり、陸軍省は、ハーグ陸戦条約の捕虜規定にもとづく捕虜に対する人道的な扱いを定めていましたが、一方では地域の駐屯軍の下にいる収容所の指揮官にその処遇の最終的なあり方をゆだねていました。このため、収容する側の日本人の印象とドイツ人捕虜内の待遇の感じ方は場所によって様々に異なっていたようです。

ただ、一次大戦当時の日本以外の他国の捕虜の扱いと比較しても、日本は収容総数がそれ程多くなかったこともあり、総じて日本側の待遇は十分耐えうるものであったとされていたようで、後述するように、その後保護供与国である他国の関係機関の指導などによりさらに環境の改善もなされていきました。

板東俘虜収容所の収容所長は「松江豊寿」陸軍中佐という人で、1917年以後は大佐に昇格しました。現在の会津若松市出身で、元会津藩士だった警察官の父のもとに生まれ、16歳の時に仙台陸軍地方幼年学校入学後は、陸軍一筋に働き、日清・日露戦争にも従軍したのち、1914年(大正3年)に陸軍歩兵中佐となりました。

板東俘虜収容所において、松江はドイツ人の俘虜達に人道に基づいた待遇で彼らに接し、可能な限り自由な様々な活動を許しましたが、その背景には彼が会津出身であり、かつて幕末には賊軍としての悲哀を味わった会津藩士の子弟として生まれたという体験が、こうした良心的な対応に影響したといわれています。

ただ、板東俘虜収容所の宿舎は必ずしも新築ばかりではなく、もともとあった学校や寺院、労働者寮、災害用の質素な住居、元兵舎などで構成されていました。このため、トイレの不足や害虫・ネズミの発生、日本人向け住居ゆえの窮屈さ、寒さなどが問題点として報告されました。が、将校は単独で別個の家に収容され、一般兵より好待遇を受けていました。

また、この紛争当時、民間人として日本に滞在するドイツ人が少なからずおり、彼等は敵国人であるため経済活動は禁じられていたものの、生活の自由は保障されていました。このため、彼らは捕虜となったここのドイツ人兵士らのために援助委員会を組織し、これを介しての物品、金銭援助を行い、本や楽器のための寄付活動も組織しました。

2014-8134

さらに、捕虜たちに階級差はあるものの、日本兵と同様に給料を受領しており、収容所周辺地での労働による収入もありました。1917年までドイツ政府は将校に月給とクリスマスボーナスも支給しており、これらの金はドイツにいる親類、以前の勤務先などからの振込みなどによって日本に届けられたため、金の調達には不自由しませんでした。

収容所内には日本人が経営する売店まで現れ、彼らは自由に買い物ができました。また収容所を出入りする商人からも同様に買い物ができ、アルコール類も生活必需品と同様に入手可能であり、レストランも完備されていました。捕虜の中には建築の知識を生かして小さな橋を作るものもおり、この「ドイツ橋」は、今でも現地に保存されています。

ただ、手紙や小包は没収、破棄されることもありました。郵便物の発着送は検閲官の管理下にあり、手続きは大変煩雑であったこともあり、発送を許可されたものはわずかで、規則を順守する形で送られるか、もしくは郵送手段が全て禁止されていました。また、使用言語が日本語・ドイツ語以外のもの(ハンガリー語など)は郵送は認められませんでした。

さらには、医学的処置は不十分だったようです。病気や怪我などの身体的苦痛と並んで、多くの入院患者は無為な日々と、閉所恐怖症によって引き起こされた精神障害に悩まされたといい、これは俗にいう“有刺鉄線病”であったといわれています。また、1918年の秋には世界中でスペイン風邪が猛威をふるい、収容所内でも多くの感染者が出ました。

しかし、松江はそんな閉塞空間に暮らす捕虜らを勇気づけるために、自主活動を奨励しました。

このため、板東俘虜収容所内には、多数の運動施設、酪農場を含む農園が造られ、農園では野菜が栽培され、ウイスキー蒸留生成工場までも造られました。また捕虜の多くが志願兵となった元民間人であったため、彼らの中には家具職人や時計職人、楽器職人、写真家、印刷工、製本工、鍛冶屋、床屋、靴職人、仕立屋、肉屋、パン屋などがいました。

彼らは自らの技術を生かし製作した“作品”を近隣住民に販売するなど経済活動も行い、文化活動も盛んでヨーロッパの優れた手工業や芸術活動を披露しました。中でも同収容所内のオーケストラは高い評価を受け、この中でこれまで述べてきた、ベートーヴェンの交響曲第9番も演奏されたわけです。

音楽に通じた捕虜の何人かは、収容所内外で地元民へ西洋楽器のレッスンを行いましたが、収容所外では徳島市の立木写真館(写真家立木義浩の実家で、NHK朝の連続テレビ小説「なっちゃんの写真館」のモデル)で開催されました。

さらには、演劇団、人形劇団、オーケストラ、スポーツチームなども結成され、その技術を生かして様々な自治活動を行いました。菜園管理だけでなく、動物の飼育までも行われ、厨房(酒保)やベーカリーを経営する者もあらわれました。

また、捕虜らに向けた授業や講演会が多数行われ、東アジア文化コースと題して日本語や中国語の授業も行われ、収容所内に設けられた印刷所では、“Die Baracke”(ディ・バラッケ、「兵営」や「兵舎」の意味)と呼ばれる新聞が印刷されて刊行され、語学教科書やガイドブック、実用書なども発行されました。

2014-8161

こうした活動は、板東俘虜収容所だけでなく、全国各地の他の収容所内や外部施設でも同様であり、収容所の外で、俘虜作品展覧会も頻繁に行われました。一部の収容所では、捕虜の持つ技能を日本に移植することを目的に、捕虜を日本人の経営する事業所に派遣して指導をおこなわせるところまでありました。

とくに、名古屋俘虜収容所の捕虜の指導で製パン技術を学んだ半田の敷島製粉所は、これをもとに敷島製パンへと発展することとなりました。1920年に敷島製粉所から敷島製パンが発足する際、元捕虜のハインリヒ・フロインドリーブを技師長として招聘しており、また、現在も鳴門市内にパン店「ドイツ軒」が営業しています。

こうして、あしかけ3年にも及ぶドイツ兵の収容所生活は大きな問題もなく続いていきましたが、1919年6月28日にフランスのヴェルサイユで、第一次世界大戦における連合国とドイツの間で講和条約締結されました。

この条約の締結により長きに渡って収容されていたドイツ兵たちは解放されるところとなり、1919年12月末より翌20年1月末にかけて、捕虜の本国送還が行われました。

しかし、この解放後も、全国で約170人が日本に残りました。彼等は収容所で培った技術で生計をたて、肉屋、酪農、パン屋、レストランなどを営むようになり、これらの中には上述の敷島パンの例のほか、現在もよく知られている、神戸市の製菓会社、ユーハイムがあります。

これを設立したカール・ヨーゼフ・ヴィルヘルム・ユーハイムは、広島の似島俘虜収容所のほうに収容されていましたが、その話は、今年3月に掲載した「原爆ドーム」に詳しいので、こちらも参照してみてください。

このほか、栃木県那須塩原市に本社を置く「ローマイヤ」は、元捕虜のアウグスト・ローマイヤーがハムやソーセージなどの製造・販売を中心とする食品会社として設立したもので、また、上述の通り、「フロインドリーブ」はハインリヒ・フロインドリーブが敷島製パン初代技師長を経て神戸市に設立したパン屋です。

敷島製パン初代技師長に就任したのち日本人と結婚し、同社を退職後、大阪のなだ万での勤務を経て、神戸でパン屋を開店して事業を拡大させました。1940年頃には神戸市内にパン屋、洋菓子店、レストランなどおよそ10の店舗を展開させるに至りましたが、第二次世界大戦期の神戸大空襲により店舗を失いました。

1977年(昭和52年)から1978年にかけて放送されたNHK朝の連続テレビ小説「風見鶏」のモデルとして知られ、フロインドリーブ役を蟇目良(ひきめりょう)さんが、妻役を新井春美さんがやったのを覚えている人も多いでしょう。

このように1919年に解放された後も日本に留まった元ドイツ人捕虜は多数にのぼりますが、このほか約150人は青島や他の中国の都市に、そして約230人はインドネシア(オランダ領東インド)に移住しました。一方本国ドイツに帰国した者たちは、荒廃し貧困にあえぐ戦後の状況の中、“青島から帰還した英雄”と歓迎されました。

収容所の中で“極東文化”に興味を持った者が後にドイツで日本学者、中国学者となる事例もあり、日本語や中国語の教科書が出版されドイツで普及するなど、収容所の影響は学問分野にもみられます。

しかし、一方の日本では、ある意味優れた技能職人であると当時に友人でもあった彼等を失うことになりました。ヴェルサイユ条約批准日であった、1920年1月10日には、彼らが住んでいた収容所を失った板東町内がまるで葬式のような雰囲気になったといいます。

2014-8184

それほどまでにこの街の人々に愛された板東俘虜収容所であっただけに、その後も施設は大切に扱われ、現在もその跡地のうち、東側の約1/3は現在「ドイツ村公園」となっており、当時の収容所の基礎(煉瓦製)や給水塔跡、敷地内にあった二つの池や所内で死去した俘虜の慰霊碑が残されているそうです。

また、近傍には元俘虜たちから寄贈された資料を中心に展示した「鳴門市ドイツ館」があり、当時の板東俘虜収容所での捕虜の生活や地元の人々との交流の様子を知ることができるといいます。

8棟あった兵舎(バラッケ)の建物のうち大半は解体され、民間に払い下げられ、倉庫や牛舎として再利用されていましたが、その後発見され、現在までに同様に再利用された建物は8カ所にのぼることが確認されています。また最初に再発見された2つのバラッケ(安藝家バラッケ・柿本家バラッケ)は2004年に国の登録有形文化財に登録されています。

このうち柿本家バラッケは2006年にドイツ館南側の「道の駅第九の里」に解体・移築され、店舗施設「物産館」として利用されているそうです。

この板東俘虜収容所エピソードは「バルトの楽園」として、松平健さんを主演に2006年映画化されました。「バルト」とはドイツ語で「ひげ」の意味で、板東収容所の所長だった松江豊寿やドイツ人捕虜の生やしていたひげをイメージしているようです。

そのロケセットはドイツ村公園とは別の、鳴門市大麻町桧に建設された「阿波大正浪漫 バルトの庭」に移され、同園は2010年4月25日にオープンしており、この敷地内にも現存する実際のバラッケ1棟が移築・公開されています。

鳴門といえば、鳴門海峡の渦潮が有名ですが、大鳴門橋を跨ぎ、淡路島を通ると神戸・大阪はすぐそこであり、逆に京阪神からは四国の玄関口となっています。「阿波大正浪漫 バルトの庭」のある大麻地区には四国八十八箇所霊場の1番札所である霊山寺もあり、季節を問わず、白衣を着た遍路の姿が絶えないそうで、このように鳴門は四国周遊の入口としても有名です。

が、私としては、そんな大旅行をしなくても、鳴門のうず巻きが語源となった、「ナルト」の乗ったおいしいラーメンが食べれれば今は満足です。今年の大みそかは、第九を聞きながら、年越しそばの代わりにラーメンを食し、新しい年を迎える、というのも良いかもしれません。

今年もあとひと月。さて、どんな師走になるでしょうか。

2014-8225

鬼がいぬ間に……

2014-7591数日間、雨模様の日が続きましたが、今日は一転、青空快晴です。

伊豆の各地は紅葉の見ごろとなり、近隣の山々もすっかり色付きました。すぐちかくの修禅寺虹の郷では紅葉の夜間ライトアップをやっているようで、今月末までということなので、終わってしまう前に一度出かけねば、と思っています。

そのほか、麓の修禅寺温泉や、この別荘地の隣の修禅寺自然公園の紅葉などなど、訪れたいところはゴマンとあるのですが、いかんせん、忙しくてなかなか十分な時間がとれません。

高校時代の同窓会を兼ねた忘年会も企画しなくてはなりません。広島の高校時代の卒業生のうち、東京で就職している連中を中心に毎年のように行っているものですが、なぜか私が万年幹事ということになっており、今年もその案内を出すシーズンがやってきました。

しかし、今から募っていては年末はすぐやってきそうで、どうやら新年会にまでずれ込みそうなかんじです。

どうして毎年年末なるとこう忙しいのか、といつも思うのですが、いっそのこと、年賀状もやめ、大掃除もやらない、ということにすれば気も楽になるのでしょう。

が、やめられないんだな、これが。

かくして、いつもいつも12月の別名が師走であることを思い知らされるわけですが、この「師走」の由来は、年末は皆忙しく、普段は走らない師匠さえも走ること、というのはよく言われることです。

その昔は、年末になるとお坊さんが各家で経を読むという習慣もあったそうで、このため師(坊さん)が、馳せ走るため「師馳月(しはせつき)」というようになり、「はせ」がなまって「はす」になり、「しわすつき」になった、という説もあるようです。

ところが、さらに調べてみると、この走り回ることは、「趨走(すうそう)」という難しい言葉を使うようで、「師」が趨走することから、「師趨(しすう)」と呼ぶようになり、これが略式化されて「師走(しはす)」になったとされる説もあるそうです。

さらには、「年果つる月」の意味である、「為果つ月(しはつつき)」という言葉があるそうで、これつづまって「しはす」となり、「師走」はこの宛字だとする説もあるといいます。

このように、単に師走というのはエライ人が走り回るということからだけきているのかと思ったら、いろんな説があることは知りませんでした。

また、英語でのこの12月の呼び方、Decemberは、ラテン語で「第10の」という意味の「decem」の語に由来しており、「10番目の月」の意味だそうです。1月から起算すると10月になってしまいますが、紀元前46年まで使われていたローマ暦では3月が起算だったそうで、3月から数えて10番目の12月が「decem」になります。ご存知でしたか?

その昔はまた、このクソ忙しい12月に、「正月事始め」という行事があったそうです。これは、正月を迎える準備を始めることです。旧暦の12月13日だそうで、その後の改暦されて新暦になっても、この正月事始めは12月13日のまま行う、ということになっているようです。

昔はこの日に門松やお雑煮を炊くための薪など、お正月に必要な木を山へ取りに行く習慣があったそうで、なぜこの日になったかといえば、江戸時代中期まで使われていた「宣明暦(せんみょうれき)」という暦では、12月13日が「鬼」に相当するからだそうです。

宣明暦とは中国暦の一つで、正式には長慶宣明暦(ちょうけいせんみょうれき)と言うそうですが、日本に輸入されて以降、中世を通じて823年間も継続して使用され、史上最も長く採用された暦だそうです。

この暦では、ひと月を「二十七宿」に分割し、それぞれに意味を持たせましたが(ほかにも、危、心、角、女、昴など色々ある)、このうちの12月の13日に当たる日が「鬼」になります。この「鬼の日」は婚礼以外は全てのことに吉とされているそうで、このため、正月の年神様を迎えるのに良いとして、この日が選ばれたようです。

今年の12月13日は土曜日であり、週末なので、この日に結婚式を行うカップルもいるかもしれませんが、「婚礼以外」は吉ということのようなので、もう予定を入れているとしたら、今からキャンセルしたほうがよいかもです。

2014-7595

鬼といえば、来年のことを言うと、鬼が笑う、とよく言いますが、これもなんでこういうのかなと調べてみました。そうしたところ、ある用語解説サイトでは、「明日何が起こるかわからないのに、来年のことなどわかるはずはない。将来のことは予測しがたいから、あれこれ言ってもはじまらないということ」と書いてありました。

それなら別に来年のことではなく、来月のことでも、「いいじゃないの~」とツッコミたくなるのですが、年をまたぐ、というのは色々な意味で、大きな境界を越えるという意味を持つわけです。

その昔は、栄養状況もよくなく、医療も整っていなかったため、人の寿命も短かく、ひと昔前には人生50年と言われた時代もあったわけですが、そうした時代では一年一年を無事に過ごすのもやっとでした。

そうした時代において、「鬼」は正に対し邪を意味するものであり、また生に対しての死を象徴するものでした。このため死者の所在のことをさし、鬼籍に入ったと言いますが、来年迎えられるかどうかもわからない、もしかしたらそれまでに死んでいるかもしれない、という思いを込め、この死の象徴である鬼に来年のことを言うと笑われる、というようになったわけです。

年内一杯は来年のことを考えず、一生懸命生き抜かなくては、ダメよダメダメ~というわけです。

また、この鬼は「閻魔大王」の手下だという説もあります。閻魔様は死者を裁く裁判官であり、年内の訪問予定者、つまり死亡者が書き込まれている閻魔帳を持っています。そして、ここに自分の名前があるとも知らずに来年の予定を夢や希望をもって語っていると、その手下の鬼に失笑されてしまう、という話もあるようです。

元々は死霊を意味する中国の鬼(キ)が6世紀後半に日本に入り、日本固有のオニと重なり鬼になったのだという説もあるようですが、「おに」の語は「隠」が転じたものという説があり、これは「おぬ」と読みます。元来は姿の見えないもの、この世ならざるものであることを意味したようで、そうした意味では、死者の霊ということになります。

しかし、古代の人はそこに人知を超えたものを感じるようになり、やがて「隠」は人の力を超えたものの意となりました。目に見えないもの、というものは恐ろしいものであり、これはさらに後に、人に災いをもたらす存在となり、やがてはこれを具象画化する者が現れ、そのひとつとして頭に角の生えたあの強面のオッサンのイメージが定着しました。

さらには、平安時代以降に流行し陰陽思想や浄土思想と習合し、ここで説かれていた地獄における閻魔大王配下の獄卒が、この鬼であるとされるようになったものといわれています。

2014-7604

この鬼は、「おぬ」「おに」と呼ばれる時代以前には、「もの」と読んでいたそうです。奈良時代の記録書の「仏足石歌」では、「四つの蛇(へみ)、五つのモノ、~」という記述があるそうで、また「源氏物語」にも「モノにおそはるる心地して~」という記述があり、これらの「モノ」は怨恨を持った怨霊であり、邪悪な意味で用いられていました。

単なる死霊ではなく、「祟る霊」であり、非常にタチの悪い輩です。この時代には「目1つ」の姿で現されていたということで、「片目」という神印を帯びた神の眷属とみる見方や「一つ目」を山神の姿とする説もあるようです。

いずれにせよ一つ目の鬼は単なる死霊と言うより民族的な「恐ろし神」の姿が想起されます。日本書紀などでは、この「邪しき神」を得体の知れぬ「カミ」や「モノ」として取り扱っていましたが、その後伝来した仏教にに含まれていた獄鬼、怪獣、妖怪などの類の概念が日本人の想像力で変形し、人を食う凶暴な鬼のイメージが成立していきました。

普段は見えない、ということはつまり「闇」の世界の住人であり、平安の都人がいかにこの闇に恐怖を感じていたかが想像されます。鬼とは安定したこちらの世界を侵犯するそうした闇の世界、異界の存在であり、また社会やその時代の法を犯す反逆者はこの闇の世界にいつも逃げ込んで姿をくらましていました。

この異界の住人は、やがて姿を変え、人の怨霊、地獄の羅刹、夜叉、山の妖怪などなどに変わっていき、人々の想像を膨らませて際限なくそのイメージは広がっていきました。

が、考えてみれば、テレビやインターネットがないこの時代においては、その想像そのものが娯楽、といった一面もあったでしょう。現在でもホラー映画を好きな人がいますが、それと同じ感覚かもしれません。

平安から中世になると、この時代の説話に登場する多くの鬼は怨霊の化身、人を食べる恐ろしい鬼となりました。有名な話としては、大江山の酒呑童子の話があります。酒呑童子は「童子」といいながら鬼の姿をしており、都から姫たちをさらって食べていました。

大江山は異界に接する山として著名ですが、これは京都の北の果てにあります。大江山の位置するこの丹後地方は古くから大陸との交流が深く、帰化人は高度な金属精錬技術により、ここで金工に従事、多くの富を蓄積していたことに由来するといわれます。

これに目を付けた都の勢力は兵を派遣、富を収奪し、彼等を支配下に置きましたが、外国からやってきた彼等は彼等なりに自分たちは優れた技術者だという自負があり、自分達を正当化、美化しようとしました。

そうした思いから、自分たちは鬼退治をやって都の人を守っているんだという酒呑童子の話が出てきたようですが、この地方には似たような話しとしてこのほかにも、「土蜘蛛退治」といった話が残っているようです。

ただ、帰化人が山賊化し非道な行いをしたので鬼と呼ばれたという説もあり、こうした山に接する地域には日本人には受け入れられなかった外国人が住まうことが多く、やがては山賊化して巣くうことも多くなったためか、京都周辺の山間地を中心に鬼伝承は多いようです。

2014-7607

また、京都の町にも鬼の話は数多く残っています。ここを舞台にした貴族の物語である「伊勢物語」には、夜にある男が女をつれて逃げる途中、鬼に見つかって女を一口で食べられる話があり、ここからこの時代には危難にあうことを「鬼一口」と呼んでいた一時期があったということです。

ただ、無論のこと、実際に鬼がいたわけではありません。ある学者さんによれば、これはこの当時京都などの機内を中心に多数発生した戦乱や災害、飢饉などの社会不安の中で頻出する人の死や行方不明を、異界がこの世に現出する現象として解釈したものだといいます。

人の体が消えていくというリアルな体験を、この世に現れた鬼が演じたものとしたわけであり、鬼は異界の来訪者であり、人を向こう側の世界に拉致する悪魔であったわけです。

一方では、福を残して去る神にする例もあり、昔話の一寸法師に出てくる鬼や、瘤取り爺さんの鬼がそれです。一寸法師は、鬼が落としていった打出の小槌を振って自分の体を大きくし、身長は六尺(182cm)になり、娘と結婚し、さらには金銀財宝も打ち出して、末代まで栄えたといいます。

瘤取り爺さんのほうの話のほうも説明はいらないでしょうが、子供のころに聞いた話を思い出してみてください。

これは頬に大きな瘤のある正直者の爺さんがある日、鬼に遭遇した、という話で、請われるまま踊りを披露すると鬼は感心して酒とご馳走をすすめ、翌晩も来て踊るように命じ、そのとき返してやると翁の大きな瘤を「すぽん」と傷も残さず取ってしまいました。

これを知った隣の業突く張り爺さんも自分の瘤も取ってもらおうと夜更けにその場所に出かけ踊りを踊ります。

が、出鱈目で下手な踊りを披露したので鬼は怒ってしまい、「瘤は返す。もう来るな」と言って昨日の翁から取り上げた瘤を意地悪な翁のあいた頬にくっつけたため、意地悪ジジイはそれから瘤が二つになり、一生難儀するハメになった、という話です。

2014-7610

このほか、鬼の形態の歴史を辿れば、その昔の初期のころの鬼というのはみんな、女性の形をしており、鬼の実体は女であるとする向きも多いようです。

「源氏物語」に登場する鬼も女性の形で出てきます。この中に鬼が渡辺綱という武将に切られた自分の息子の腕を取り返すために女に化け、綱のところへ来て「むすこの片腕があるだろう」と言い、それを見せてくれと言うなり奪い取るくだりがあります。

いわゆる「般若」の面も鬼女を表したものといわれ、一説には、「般若坊」という僧侶が作ったところから名がついたといわれています。が、上の「源氏物語」には、光源氏の最初の正妻の葵の上が、夫の不倫相手の六条御息所の嫉妬心に悩まされ、その生怨霊にとりつかれた、という話が書かれており、こちらが元祖という説もあります。

このとき、葵の上は、般若経を読んで御修法(みずほう)を行いこの怨霊を退治したと源氏物語には書かれており、この故事をもとに、この女の嫉妬の醜い形相を形に表したものが般若面の姿になったともいわれているようです。

以来、「嫉妬や恨みの篭る女の顔」として能などの演芸でよく使われるようになりましたが、このように女性が宿業や怨念によって化したものこそが鬼とされ、中でも若い女性を「鬼女」といい、老婆姿のものを「鬼婆」といいます。

鬼婆の話のひとつとしては、福島県二本松市にある「黒塚」という墓は鬼婆の墓といわれています。これはこの地にある安達ヶ原に棲み、人を喰らっていたという「安達ヶ原の鬼婆」の墓として伝わっているものです。

この話はその後、土佐に伝わったとのことで、高知県には「土佐お化け草紙」という妖怪譚が伝えられており、この話にも「鬼女」が登場し、これは身長7尺5寸(約230cm)、髪の長さ4尺8寸(約150cm)の鬼女が妊婦の胎児を喰らったというお話です。

ちなみに、背の高い人の多いバレーボール選手でも、女子の平均的な身長は、180~190cmくらいのようで、2mを越える選手はほとんどいないことから、この230cm鬼婆というのはやはりドデカく、本当にいたら大迫力でしょう。

一方の若い女性の鬼、鬼女の話は、源氏物語のような古典以外にも、昔話、伝説、芸能などに頻出し、有名なものとしては、信州戸隠(現・長野市鬼無里)の紅葉伝説、鈴鹿山の鈴鹿御前などがあります。

この紅葉伝説というのは、子供に恵まれなかった夫婦が、魔王に祈った結果、呉葉(くれは)という鬼の女児を得る、というところから始まります。呉葉は、長じて紅葉と名を改め、源経基という貴族に見初められて妾となり、経基の子供を妊娠します。

ところが、あるときのこと、経基の御台所が病懸かり、この病の原因が紅葉の呪いであると比叡山の高僧に看破され、信州戸隠鬼無里の地に追放されてしまいました。

この地で経基の子、」経若丸を生んだ紅葉でしたが、京の文物に通じ、しかも美人である紅葉は村人達に尊ばれはしたものの、都の暮らしを恋しく思うようになります。このため次第に紅葉の心は荒み、京に上るため一党を率いて戸隠山に籠り、夜な夜な他の村を荒しに出るようになります。

この噂は戸隠の鬼女として京にまで伝わり、このため平維茂という武将が鬼女討伐を任ぜられ出撃しますが、紅葉の妖術に阻まれさんざんな目にあいます。

しかし、維茂の夢枕に現れた白髪の老僧から降魔の剣を授かり、これでの神剣を振るったところ、さすがの紅葉もこれにかなわず、その一撃に首を跳ねられるところとなりました。呉葉、若干33歳の晩秋のことでした……。

2014-7620

一方の鈴鹿御前の方の話というのは、もう少し複雑です。話が長くなるので端折りますが、この話では鈴鹿御前は鬼神に憑りつかれ、都への年貢・御物を奪い取っていた盗賊として登場し、これを憂えた帝から、武将の俊宗という人物にその討伐の命が下ります。ところが、遠征先で2人は夫婦仲になってしまい、娘までもうけます。

その後紆余曲折を経ますが、俊宗の武勇と鈴鹿御前の神通力によって彼女に憑りついていた鬼神は退治されます。が、その反動で、元鬼だった鈴鹿は25歳で死んでしまいます。しかし、その後俊宗が冥土へ乗り込んで彼女を奪い返すことになっており、俊宗はこの元鬼嫁と2人でその後も幸せに暮らす、というのが大筋です。

この紅葉伝説、鈴鹿御前などの例のように、鬼が女性に化けて、人を襲うという話が伝わる一方で、人の心に巣くう憎しみや嫉妬の念が満ちて人が鬼に変化したとする話も多く、鬼女の話をすればキリがないほどです。有名な能の「鉄輪」や「紅葉狩」といった演目も、こうした嫉妬心から鬼と化した女性の話です。

ただ、一方では、母親が持っている自分の子供を守りたいとする母性が、これを奪い去ろうとする戦や災害に対する憎悪のようなものが鬼の姿に変化したものだとも受け取れ、子孫を残すためには何でもやる、といういわば本能の変化したものとする見方もできるでしょう。

とはいえ、古今東西、鬼のように心の酷い女性は幾多も現れ、彼女たちもまた鬼女ともよく呼称されます。先日来毎日のように報道されている、京都の女性もまた鬼なのかもしれません。夫も含めた複数の男性殺害の疑いが持たれているようですが、事実だとすると、現代における鬼女です。

さて、世の恐妻家たちは、「ウチの鬼嫁が」などとよく言います。そして女の本質が鬼であるとするならば、我が家にもひとり鬼がいることになります。

その嫁は今週末から一人で広島に数日間帰省だそうで、この「鬼のいぬ間」に何をして暮らそうか、というのが目下の私の課題です。

女性といえば、もうひとり我が家にはメス猫のテンちゃんがいます。このテンちゃんと一緒に鬼ごっこをする、というのも一つの手かもしれません。

が、忘れてはなりません。師走です。こんなブログを書いている暇があったら、仕事をしましょう。

2014-7625

手をあげろ!

2014-1020792年末だというのに、解散総選挙だそうで、いったい何を考えているんだ、と巷では非難轟轟です。

なのに、安倍総理は涼しい顔でアベノミクス解散だと、うそぶいています。いっそのこと自民党は大敗して、何年か前のようにまた地獄を見ればいいのに、と私なども思うのですが、選挙に負けるもなにも、これを負かせるほど強い相手もなく、低い投票率のまま選挙は終わり、現状のまま来年になだれ込んでいくのが目に見えるようです。

先日の国会では、間違ったタイミングでの万歳があったそうですが、国民の合意も得ないままの集団的自衛権の閣議決定など国政もフライングばかりだし、解散もまたフライングかいというわけで、不意打ち解散とか色々言われているようですが、「不正スタート解散」とかなんとかのほうが似つかわしいと思うのですが、どんなもんでしょう。

ところで、この万歳とはそもそも何ぞや、ということで、コピッと調べてみたのですが、一般的には「喜びや祝いを表す動作」を指していう言葉ということのようです。「万歳」の語を発しつつ、両腕を上方に向けて伸ばすし、ときには喜びを強調して、これを繰り返します。

万歳三唱ということで、三回繰り返すのが定番のようですが、普通の人が万歳三唱をする機会というのは、一生涯でもそうたびたびはないでしょう。私もほとんど記憶がないのですが、忘年会などの会社の行事か何かで、半分お遊びで万歳三唱をしたことがあるくらいでしょうか。

書き言葉では、「万歳」だけでは喜びが表現しきれないためか、「万々歳(ばんばんざい)」という表現がなされることもしばしばですが、こちらはどちらかといえばあまり良い意味ではなく、なんとかうまくおさまりがついた、という安堵の気持ちを表す時によく使います。

この「万歳」というのは、元々は中国において使われていた言葉のようで、「千秋万歳」から来ているようです。

秋や歳はともに年のことで、千や万は歳月の非常に長いことを表し、ようは千年、万年の非常に長い年月の間、元気でいることを祝う意味です。用例としては、「千秋万歳、君が代の唱歌にもさざれ石の巌となりて苔こけのむすまで、と申してございます」といったふうに使うようです。また「万歳」は「ばんぜい」「まんざい」と読むこともあります。

なお、中国において万歳とは「一万年」の寿命を示す言葉であり、皇帝にしか使わなかったそうで、皇帝より身分の低い臣下が長寿を願うときは「千歳(せんざい)」を使っていたそうです。

このため、明の時代に権勢を誇った宦官(かんがん)の魏忠賢(ぎちゅうけん)という男は、「万歳」は皇帝にしか使えないため自分の長寿を配下の者たちに祝わせるときには「九千歳!」と唱和させていたといいます。また、各地に自らの像を収めた祠を作らせるほどの権勢を誇りました。

が、あまりにも傍若無人の振る舞いが過ぎたために、のちに部下らから弾劾され、24もの罪状で糾弾されると、首を吊って自殺しました。が、それだけでは民衆の怒りは治まらず、その遺体は磔にされ、首は晒し者にされ、彼の一族も皆殺しにされたといいます。

万歳は朝鮮語では「萬歲」と書き、韓国・北朝鮮では「マンセー、マンセ」と叫び、また中国語では「ワンスイ、ワンソェー(wànsùi)」と叫ぶそうです。

従って、もし小笠原沖で珊瑚を密漁している中国船が嵐で沈没しかけているのを見かけたら、ぜひこの言葉を三唱してお見送りしましょう。

さて、上述のとおり、万歳とは、元々は長寿を祝う言葉だったようですが、日本に入ってきてからは、いわゆる「雅楽」の題材ともなり、「「千秋楽」と共に「万歳楽」という曲が作られました。いずれも君主の長久を祝うめでたい曲として作曲されたもので、のちにはこれが民衆へも伝播し、伝統芸能の「萬歳」に発展しました。

めでたい正月のお祝いに芸人さんを呼んで、チャンチキ・どんどんのお囃子とともにお祝いに発する「話芸」として発展したもので、やがては全国で興るようになり、さらに「万才」と略字で示されるようになり、やがてこれがのちの「漫才」につながっていきました。

平安時代頃すでに芸能として成立していましたが、萬歳は日本各地でそれぞれの風土を背景に独自に発展し、これらには、秋田萬歳、会津萬歳、加賀萬歳、越前萬歳、三河萬歳、尾張萬歳、伊勢萬歳、大和萬歳、伊予萬歳などがあって現在まで伝えられています。また、このうち、越前、三河、尾張の各萬歳は、重要無形民俗文化財に指定されています。

2014-1020798

とはいえ、テレビで見る漫才はともかく、こうした文化財にもなるような萬歳を現在の我々が目にすることはめったにありません。いったいどういったものだろう、ということなのですが、この萬歳というものは、基本的には太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)の2人が1組となるものが基本となるそうです。

現在の漫才もノリとツッコミをそれぞれが担当するコンビで行われますが、これもこの古き時代の萬歳の名残です。しかし、現在でも3人以上の大勢で取り組む漫才師さんもいるように、この当時にも3人以上から、多いもので十数人の組で行うものもあったようです。

基本的には正月に行うおめでたい行事なのですが、家の中にまで呼び込むとなると演じる側も接待する側も大変なので、「門付け(かどづけ)」といって門前で済ますことも多かったのに対し、3人以上でやるものは、それなりに大がかりになるので座敷などに上げてもらって披露されていたようです。

その演技の多くでは、「中啓」という扇が使われ、これは能楽などで使う扇の一種で、閉じた状態を横から見た時に先がややラッパ状に広がっているものです。また楽器については、基本は才蔵が持つ小鼓だけですが、演目によってはさらに三味線と胡弓を加えたり、太鼓・三味線・拍子木を使用するものもあるようです。

各地の萬歳によって、その演技の内容はかなり異なるようですが、例えば越前萬歳と加賀萬歳は小太鼓を細い竹の撥で擦るように鳴らす「すり太鼓」というものが用いられ、また、尾張萬歳には、「御殿万歳」というのがあり、これは太夫1人に才蔵が4人から6人が付く万歳です。

これは、正月だけでなく例えば新築のときに行われるもので、才蔵らが、鶴と亀を演じるとともに、家の柱一本ごとに各地の神々を呼び込んで回ります。さらには七福神が現れて新しい家の建築を祝うといったもので、厳粛な中にもめでたさと面白さを盛り込んだ内容となっています。

新築であるがゆえに、「御殿が建つ」という意味から「御殿万歳」と呼ぶようになったようで、舞台芸としての華やかさと笑いを強調した祝福芸として、尾張や三河に広まっていきました。尾張は現在の愛知県西部で、三河は愛知県中・東部になりますが、これらの地域の万歳に取り入れられ演じられていき、やがては全国にも広がりました。

さらに、尾張萬歳には、三曲万歳とういのもあり、これは、鼓・三味線・胡弓の三楽器を用いることから三曲万歳と呼ばれるものです。いわゆる歌舞伎などからの演目をも取り入れて芝居を演じる者もおり、この演じ手と楽器の弾き手がそれぞれ舞台上で立ち回るために芝居万歳とも呼ばれました。

また、なぞかけ問答やお笑いで進める「音曲万歳」というものもできるようになり、さらには3人がそれぞれ鼓・三味線・胡弓を持ちながら謡うという形のものも現れましたが、これらは、現在にも伝わる漫才コンビや漫才トリオの元祖であり、また萬歳とは別に発展した「落語」の寄席の席などでも度々演じられるようになりました。

この萬歳の日本におけるはっきりとした起源や発生時期は定かではないようです。が、上述のようにお祝い言葉として我が国に入って来たのち、奈良時代には「踏歌(とうか)」という行事に変化しました。

これは宮中などにおいて春を寿ぐ雅楽の行事で、男女の踏歌の舞人が足を踏み鳴らして舞うという原始的な舞楽であり、男子の踊り手の場合は「万春楽(ばんすらく)」、女性の場合には千春楽(せんずらく)と称しました。

のちにこれらはさらに君主の長久を祝うめでたい音楽として発展し、萬歳楽(まんざいらく)という謡となり、これとは別に千秋楽という謡も作られ、両方を合わせて千秋萬歳(せんずまんざい)となりました。そして、これをのちに略して呼称するようになったのが、「萬歳」だといわれます。

が、このほかにも、新年になると万歳師が庶民の家々を訪れて寿福を授けるという民間信仰より来たものがその由来だとする説もあるようです。これらの萬歳師は、自らを「歳神」として称して自らを「神の依代(よりしろ)」だと唱えて巷の人に祝福を与え歩いていました。

依代とは、「憑代」とも書き、要は神が憑依することによってその言葉を人々に伝える祈祷師の類です。最初は庶民のためだけのものでした。が、やがては宮中にも招き入れられるようになり、高貴な人のために、豊年の秋を千回万回と迎えられるようになると、「千秋萬歳」と長寿を祝う言葉を唱えるようになりました。

天皇や貴族などの身分の高い人のお祝い事があったときにこれらの万歳師が宮中に繰り出してこのお祝いを述べるわけですが、やがてはこれに演奏が入って雅楽の様相を呈するようになり、これらは11世紀には職業として成り立つようになりました。

当時の芸能や世相の一端を書き記した「新猿楽記」には既に、この萬歳師に関する記述があり、平安時代頃すでに芸能として成立していったことがうかがわれます。

ただ、この当時はまだ雅楽の域を出ず、舞楽の装束をした太夫がは鳥兜(とりかぶと)をかぶって演舞を行うだけでした。鳥兜とは、鳳凰の頭部を形どったものとされ、ヘルメットのような形をしています。が、縦に長く、後の首周りには「しころ」と呼ぶ首の後ろを守るパーツが付いていました。

消防士さんがかぶるヘルメットとその首の後ろに垂れている布垂れを想像して貰えばだいたいわかると思いますが、広島の宮島での奉納舞ではいまだにこの古式ゆかしい鳥兜をかぶって舞が行われます。

やがて室町時代になるとこれに代わって侍烏帽子(さむらいえぼし)をかぶるようになり、才蔵役の舞手は、この当時の標準服である直垂(ひたたれ)に平袴姿に、大黒頭巾風のものをかぶり、大袋を背負う、という格好が普通でした。竹取物語のおじいさんが、大黒様の恰好をしたようなものを想像するといいでしょう。

2014-1020802

平安時代の末期には、この千秋萬歳は貴族の間での毎年正月慣習行事となりましたが、鎌倉時代以降貴族の衰退と入れ替わるように武家が権力を持つようになると、萬歳師は寺社や武家など権門勢家を訪れるようになりました。そして、室町時代になると、一般民家にも門付けしてまわるようになりました。

この頃の千秋萬歳の主流はやはり中央政権のある大和(奈良県)でしたが、のちに京の都でも行われるようになり、やがては尾張、三河へと伝わり、さらに全国各地に広まっていきました。が、越前萬歳(野大坪万歳とも呼ぶ)については、約1500年前の皇家に伝わる行事が伝わったとする説もあるようです。

江戸時代に入ると、とくに三河万歳は、同じ三河出身の徳川家によって優遇され、このため萬歳師には武士のように帯刀、大紋の直垂の着用が許されたそうです。また各地に広まった萬歳は、能や歌舞伎などの要素を取り入れてさらに多様化し、とくに衣装については非常にバラエティに富むようになりました。

そして、上述のように全国各地でその地名を冠した万歳が興るようになり、また衣装や歌舞のみでなく、言葉の掛け合いや、小噺、謎かけ問答を芸に加えて滑稽味を出す萬歳師も増えていきました。

この中でもとくに尾張萬歳は娯楽性が高いものとして発展し、中には通年で興行として成立するものも現れました。やがて明治時代になると、大阪では、寄席演芸で行われるこれら尾張萬歳が、「万才」と呼ばれるようになりましたが、これは尾張萬歳の中でも三曲萬歳をベースにしたものでした。

三曲萬歳は胡弓・鼓・三味線による賑やかな萬歳で、初期の万才もこれに倣って楽器伴奏を伴っていました。やがてこれら明治初期の万才の芸人の中からは、喋りだけで場を持たすパイオニア的な万才師も出てくるようになり、今も歴史に名を残す、玉子屋円辰・市川順若や、砂川捨丸・中村春代の万才コンビなどがそれです。

ボケとツッコミというのは、このうちの玉子屋円辰が「曽我物語」を演じた際に、順若の代役の太鼓敲きとアドリブで行ったやり取りが起源といわれているそうで、これが今日の近代漫才の嚆矢のようです。

ただ、これより少し前の江戸時代の寄席演芸は落語が中心であり、まだまだ万才は添え物的な立場でしかありませんでした。その後、万才の演目の中には、「俄(にわか)」というものが増えてきました。宴席や路上などで行われた即興の芝居ことで、またの名を茶番(ちゃばん)といいます。

現在もよく使う「茶番劇」という言葉の原語となったもので、俄とは「俄狂言」の略です。俄とは、つまり「素人」のことであり、一説によればこうした素人が路上で突然、狂言を初めて衆目を集めたために、その素人を指す言葉としてこう呼ばれるようになりました。

やがては、俄かは「にわかに始まる」という意味そのままとなり、こうした突然劇を「俄」とも呼ぶようになっていきましたが、その内容は歌舞伎の演目の内容を再現したものや、滑稽な話を演じるものなど色々でした

江戸時代には遊廓などで、多くは職業的芸人でない素人によって演じられたものですが、明治時代になってからは、さらに「一人俄」から転じて2人で落語を演じる形式の軽口噺に発展し、さらには浪曲の要素が混ざり合うようになりました。

2014-1020821

そして、1912年(明治45年)には、かの有名な「吉本興業」が創立されました。その始まりは吉本吉兵衛という男とその妻、「せい」の夫婦であり、二人が大阪市北区天神橋にあった「第二文芸館」を買収し、寄席経営を始めたのがその始まりでした。

1915年(大正4年)に二人は無名落語家や一門に属さない落語家、色物などの諸派からなる劇団を結成し、「花と咲くか、月と陰るか、全てを賭けて」との思いから、自らのグループを「花月派」と称しました。

1921年(大正10年)ころまでには、主流、非主流の浪花落語寄席のほとんどを買収して上方演芸界全体を掌握し、その後大阪だけでも20あまりの寄席を経営しました。また、京都、神戸、名古屋、横浜、東京等にも展開していきましたが、そんな中、大正末期に横山エンタツ・花菱アチャコのコンビが入社します。

この二人が、万才を会話だけの話芸「しゃべくり漫才」として成立させたといわれており、当時人気のあった東京六大学野球をネタにした「早慶戦」などの「しゃべくり漫才」で人気を博しました。

これは、早稲田側応援席から投げ込まれたリンゴを慶應三塁手・水原茂が投げ返した事に端を発した乱闘事件、「水原茂リンゴ事件」をネタにしたもので、この事件では試合終了と同時に早大応援団は慶大ベンチ・応援席になだれ込んでの大乱闘となり、警官隊が出動する騒ぎとなりましたが、そのプロセスを面白おかしく語ったものでした。

その後二人は「アチャコ劇団」を旗揚げし、全国を巡業するようになり、この当時、絶大な人気を博しましたが、これを契機に万才はさらに全国的なブームとなっていきました。

しかし、昭和初期までは、基本的に「万才」は、「萬才」あるいは「萬歳」の略字という認識が一般的でした。が、このように人気が出てきたことから、新しい時代にふさわしい名前にしようとこの当時の吉本興業の宣伝部門を統括していた橋本鐵彦(のちに社長)が一般公募で呼び方を募集しました。

その結果、「滑稽コント」「ユーモア万歳」「モダン万歳」「ニコニコ問答」などの公募がありましたが、橋本を納得させるものがなく、結局は自らが考案して「漫才」と漢字表記だけを変えました。

そして、1933年(昭和8年)に吉本興業内に宣伝部が創設され、この宣伝部が発行した「吉本演藝通信」の中で、はじめて「漫才」と表記を改称することが公表されました。

エンタツ・アチャコ以降、この漫才は急速に普及して他のスター漫才師を生みだし、秋田實など、漫才のネタを専門に作る作家も活躍するようなりました。東京ではエンタツ・アチャコと懇意にしていた柳家金語楼が触発されて、自らの寄席で門下の「梧楼」と「緑朗」という弟子に高座で掛け合いを演じさせました。

この二人は、のちに「リーガル千太・万吉」と名を改めて東京で漫才を演じるようになり、これが今日の東京漫才の祖とされています。しかしその一方で、東京ではお囃子を取り入れた古典的なスタイルを崩さなかった漫才師もまだこの時代にはたくさんいました。

このため、漫才はやはり西高東低のまま大阪中心に発展していきましたが、その後太平洋戦争が勃発したため、これらの漫才師たちもまた出征を余儀なくされました。戦後は、相方の戦死・病死・消息不明などに見舞われたコンビも多く、このため大打撃を受けた吉本興業は映画会社へ転身を図り、ほとんどの専属芸人を解雇しました。

その後、多くの芸人は千土地興行や新生プロダクション、上方芸能といった新しく結成された興行主の元へ身を寄せましたが、これらは後に合併して「松竹芸能」となり、その後演芸興行を再開した吉本興業と並んで、上方演芸界の二大プロダクションといわれるようになりました。

このころもまだ漫才は寄席で行われる演芸でしたが、落語とは一線を画した演芸として発展していきました。マスメディアとの親和性にも優れており、ラジオ番組やテレビ番組でも多く披露されていき、現在までには、テレビをつけると、どこの番組でも元は漫才芸人さんばかりという時代になりました。

2014-1020800

さて、その一方では、元々年賀のお祝い言葉とされた、「万歳」のほうは、いつからか、公的な場所ではあまり使われることはなくなっていきました。

おそらくは、江戸時代までにも口に出して万歳三唱をする、といったことはなかったと思われます。しかし、明治に入ってからこれは復活しました。記録に残っている限りでは、バンザイと公的な場で発せられたのは、1889年(明治22年)2月11日の日本帝国憲法発布の日、青山練兵場でのことだったようです。

この日、臨時観兵式に向かう明治天皇の馬車に向かって万歳三唱したのが歴史残る「バンザイ」の最初だといいますが、実はこの最初の万歳三唱は完結しませんでした。

というのも、当初の予定では、「万歳、万歳、万々歳」と唱和するはずであったものが、人々の最初の「万歳」の掛け声で天皇が乗った馬車の馬が驚いて立ち止まってしまったのでした。このため二声目の「万歳」は小声となりましたが、三声目の「万々歳」はついに言えずじまいに終わってしまったそうです。

当初は、こうした式典を仕切るのは文部省であり、この当時の文部大臣であった森有礼が、発する語としては「奉賀」を提案していたそうです。が、連呼すると、ホウガ、ホウガ、ホウガとなり、これが聞きようによっては「ア・ホウガ」と聞こえ、これはつまり「阿呆が」につながるという理由から却下されました。

また、奉祝の言葉としての「万歳」は、「バンセイ」あるいは「バンゼー」という発音であり、このため「マンザイ」と読ませる案もあったようです。が、「マ」では「腹に力が入らない」との指摘があったため、バンザイとしてはどうかという意見が出ました。

この意見を述べた人は、謡曲・高砂の「千秋楽」には、「千秋楽は民を撫で、萬歳楽(バンザイラク)には命を延ぶ」というフレーズがあることを引き合いに出してこの案を進めようとしました。が、このバンザイという発音は、漢音と呉音の混用になるとの反対意見もあったようです。

また、「マンザイ」では演芸の萬歳とも混同しやすく、また、バンザイのほうが力強く発せるため、結局は「万歳(バンザイ)」が慣例となりました。以後、「天皇陛下万歳」というように、天皇の永遠の健康、長寿を臣下が祈る言葉として使われるようになり、近年でも即位の礼や在位記念式典において公式に使われます。

2014-1020806

皇居における一般参賀などの場面において、万歳三唱する市民も多いようですが、冒頭で述べたとおり、政治の世界でも国事行為として衆議院を解散する権限を持つ天皇に対しての敬意を表し、議会の解散などでこれを斉唱します。

慣例として、衆議院解散時に議長より詔書が読み上げられ、解散が宣言されたとき、その瞬間失職した衆議院議員たちが「万歳!」と三唱するわけですが、国会においてこれがいつのころから発せられるようになったのかは、はっきりわかっていないようです。

いつのまにか、議院議員たちが選挙戦に「突撃」してゆく気概を表しているのだと言われるようになり、また、万歳三唱をすると次の選挙で落ちないというジンクスもできてきました。ただ「失職するのに何が万歳なんだ」といって万歳三唱をしない議員もいるようで、今回の解散でも小泉新次郎議員や何人かの自民党議員はバンザイしませんでした。

太平洋戦争中の日本軍は、玉砕を覚悟して「バンザイ突撃」を繰り返しましたが、この日本軍兵士の「バンザイ突撃」は「バンザイ・アタック」として、連合国軍将兵に少なからぬ恐怖を与えました。その記憶はまだ欧米人には残っているようで、先日の日銀から金融緩和策が発表された際、欧米人記者の中から、こんな質問が出ました。

それは、「英米の市場関係者の間では、追加緩和による事実上の国債全額買い取りという明確なマネタイゼーションと、増税延期という組合せをバンザイノミクスという国債暴落政策として懸念する見方も出ているが……」というものでした。

この「バンザイノミクス」は、第2次安倍内閣による経済政策の通称である「アベノミクス」に、バンザイ突撃の無謀さを掛けた造語とみられています。

いまの時代にまだ、昔の名残の万歳三唱を国会の場でやる必要があるのかどうかという議論も数々あるようであり、今回この時期の解散もさることながら、二度もやり直してまで万歳三唱をやるなんて無意味だと私自身も思います。

そもそも、万歳三唱をやらなければならないという法律があるわけでもなく、これはあくまで慣習にすぎません。ところが、1990年代には「万歳三唱令」と題した偽書が官庁を中心に広まり、平成22年には、これを信じ込んだ自民党の木村太郎衆議院議員が、この当時の鳩山首相に正式の万歳の作法が違っている、と難クセをつけるという事件がありました。

内閣に対する質問書において、天皇陛下御在位二十年記念式典で行われた鳩山由紀夫内閣総理大臣の所作が「手のひらを天皇陛下側に向け、両腕も真っ直ぐに伸ばしておらず、いわゆる降参を意味するようなジェスチャーのように見られ、正式な万歳の作法とは違うように見受けられた」と難じたものです。

また、木村議員は、「日本国の総理大臣として、万歳の仕方をしっかりと身につけておくべきと考えるが、その作法をご存知なかったのか、伺いたい」と問いましたが、これに対して後日内閣は、「万歳三唱の所作については、公式に定められたものがあるとは承知していない」と答弁しています。

それにしても、この偽の「万歳三唱令」というのはよく出来ていて、これは明治時代に施行された太政官布告の体裁を取っており、「万歳三唱の細部実施要領」なる詳細な作法まで記述された文書でした。が、無論、そのような内容の太政官布告その他の法令が公布・施行された事実はなく、類似の法令や公式文書等もありません。

世間に出回った「万歳三唱令」の文言は以下のような内容になっています。

萬歳三唱ノ細部實施要領

一 萬歳三唱ノ基本姿勢ハ之直立不動ナリ
而シテ兩手指ヲ真直下方ニ伸ハシ身体兩側面ニ完全ニ附著セシメルモノトス
二 萬歳ノ發聲ト共ニ右足ヲ半歩踏出シ同時ニ兩腕ヲ垂直ニ高々ト擧クルヘシ
此際兩手指カ真直ニ伸ヒ且兩掌過チ無ク内側ニ向ク事肝要ナリ
三 萬歳ノ發聲終了ト同時ニ素早ク直立不動ノ姿勢ニ戻ルヘシ
四 以上ノ動作ヲ兩三度繰返シテ行フヘシ
何レノ動作ヲ爲スニモ節度持テ氣迫ヲ込メテ行フ事肝要ナリ

誰が作ったのか知りませんがよくできてます。それにしても、そもそも万歳の仕儀などというモノがあること自体が不可思議で、過去に衆議院などの公式行事で議員さんが行った万歳三唱を行った写真記録などをみても、掌の向きは前であったり内側であったり、はたまた握られていたりとまちまちだそうです。

正式な万歳の所作というようなものは、歴史的にも慣例上も定まっているものは一切なく、バンザイといえば、「おおむね、威勢よく両手を上げる動作」のが所作と解されているだけです。

そんなものにこだわっている人達が国政を操っていることを考えると、ますます今度の選挙には行きたくなくなってきているのですが、さて、みなさんはどうお考えでしょうか。

選挙に行くか、大掃除をするか、それともすべてお手上でおバンザイするか、です。

答えは簡単に出るような気もしますが……

2014-1020810