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きたひろ

bagatel-6641台風一過。しかし、昨日はその余波のためか、一日中ぐずつい天気で、しかも全国的に急激に気温が下がったようです。

ここ伊豆も例外ではなく、押入れにしまいこんでいたコタツを取り出し、この秋初稼働させました。あわせて、テンちゃんのホットカーペットも出してやったところ、昨日の彼女はほぼ一日ここにいついていました。

そして今日の朝、北の方角を見やると…… 出ました! 富士山初冠雪です。しかもうっすらではなく、五合目付近まですっぽりと白化粧をしており、ほぼ半年ぶりのその姿に改めてほれぼれです。

これで役者も揃い、そろそろ秋本番、ということになるわけですが、先日、河津町にある、バガデル公園の写真コンテストで賞を頂いたので、今度は本格的に紅葉の写真にも取り組んでみようと思っている次第です。

が、何かと近辺が騒がしく、思うように時間が取れそうもありません。旅行にも行ってみたいと思うのですが、そういえばここしばらくあまり遠くへ行っていません。今年のはじめに、姪の結婚式があった際に広島へ行ったのが最長不倒でしょうか。

この広島の町の中心街には、「平和大通り」という大きな道路があります。市内を東西4kmに渡って横断する通りで、実際に幅員が両脇の緑地帯と側道、歩道を含めると100mあります。沿線の広島平和記念公園とともに市民の憩いの空間となっており、毎年5月の連休に催される「ひろしまフラワーフェスティバル」では、ここに大勢の人が詰めかけます。

この道路は、戦後区画整理されてできたものですが、実は戦争末期の1945年、軍都でもあった広島では、空襲による延焼を防ぐ目的の防火帯を作るべく、市街地を東西に横切るように幅100mの防火帯を作る計画が既に立てられていました。

市民や学生が木造家屋の町並みを撤去する建物疎開に動員され始めていまたしたが、その矢先の8月6日、動員された人々が働く頭上で原子爆弾リトルボーイが炸裂。爆心から近い作業地域では学生など作業者数万名が死亡しました。

戦後の1948年、被爆中心地である中島地区に併せ、この防火帯も平和大通りとして、両脇を緑地化した公園通りに生まれ変わる計画が動き始めますが、計画が発表された当時は、「百メートルも幅のある道をつくって、どうするつもりだろうか、もったいない」という批判も強かったといいます。

しかし、1955年に行われた広島市長選挙で当選した保守系の渡辺忠雄が、この道路計画を推し進めることを決定。道路の緑化運動を市民参加で行うこととし、その結果、1954年から1958年にかけて、周辺のがれきを片付けて用地が確保されました。

そして、ここに県内から12万本以上の木が寄付されたほか、日本・世界からも苗木が贈られて、緑化が進められた結果、1965年5月に当初の計画通り、南区の鶴見橋東詰から西区の観音・福島地区を通る己斐(西広島駅前)までの区間が全面開通しました。

しかし実は、渡辺市長は当初、「住宅敷地の不足を緩和するため、百メートル道路の幅員を50メートルまで縮小し、緑地帯の一部に鉄筋製の文化アパートを建設する」としていました。しかし、当時の広島市助役の説得によりアパートの建設等について翻意し、その結果100m道路を作ることが決まったのでした。

1975年には、プロ野球広島東洋カープが球団創立25年目にして、セ・リーグ初優勝を達成。平和大通りで優勝記念パレードを行い、沿道に40万人のファンが集まりました。これは、優勝パレードとしては、現在でも日本史上最大の動員数記録であり、後のフラワーフェスティバル開催の契機になったと言われます。

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近年には、この平和大通りの地下を通す計画が挙がっているほか、また、「平和大通りリニューアル事業」として緑地帯再整備や現橋の架替と歩道橋併設が検討されており、さらに現在平和大通りの北側を通っている、広島電鉄の路面電車を市内中心部の混雑解消のため、ここへ持ってくる、といったことも検討されているようです。

道路自体の延伸も検討したいところですが、平和大通りの西詰には太田川放水路があり、ここへの架橋には莫大な費用がかかりそうです。また、東詰には、京橋川を挟んで、「比治山」があり、ここから東へ延伸しようとするとこの山に巨大なトンネルを掘らなくてはなりません。このため100m幅の道路を延長する、というのは事実上不可能と思われます。

ただ、この比治山の直下には、1990年代に、通常の道路幅ではありますが、この山を貫通する「比治山トンネル」が整備され、広島市中心部とこの山の東側に広がる段原地区とのアクセスが改善されています。

それまでは、市の北東側へ行くためには、この山を大きく迂回して北方の広島駅前を通る必要がありましたが、これにより段原地区から市中心部へはとても行きやすくなりました。

ちなみに、この比治山という山は、標高70mほどしかなく、山というよりも小高い丘です。1980年(昭和55年)に広島市が政令指定都市になったことを記念して「芸術公園」として整備が決定し、公園内にモニュメントが置かれたほか、広島市現代美術館や広島市立まんが図書館が建設され、市民の憩いの場となっています。

このあたりは、縄文時代には海で、比治山自体は孤島でした。が、その後市内で一番大きな川である太田川が上流から運んだ土砂が堆積し周辺を埋め、干潟を形成しました。戦国時代、毛利元就がこの地を支配し、広島城が築城されて以降、比治山の北側には西国街道が通るようになり、ここは商業地として発達していきました。

明治時代には、旧日本陸軍が陸軍墓地として整備され、このため、市内有数の桜の名所となりました。戦中は船舶砲兵団司令部や電信第2連隊といった陸軍の舞台が駐屯する基地となりましたが、1945年(昭和20年)に原子爆弾投下により被爆。

ここは爆心地から約1.8キロメートル離れたところに位置しており、爆心地側である西側は壊滅したものの、東側は逆に比治山が爆風を遮ったことから影響が少なく火災も広がりませんでした。従って、比治山を挟んで東と西では、対照的な被災状況となり、西側の100m道路のある一帯は焼け野原になりましたが、東側の段原地区の町は焼け残りました。

この「段原」という地名は、は江戸時代にまで遡る古い地名であり、その由来はヨシの茂る「葭原」を「段原」と誤記したことによるのではないかとされているようです。江戸時代の広島は現在よりもデルタ洲の面積がはるかに狭く、海岸線が北に迫る地形であったため、「段原村」と呼ばれていたこの土地の南側にも遠浅の広島湾が広がっていました。

こののち藩政期を通じて沖合の干拓が進められ、段原村に隣接して比治村・山崎新開・亀島新開が開かれ、1882年(明治15年)、この近隣3村を合併し、よりエリアの広い段原村となりました。この当時の段原村は、現在の段原地区全域よりも大きく、現在の比治山町・松川町・金屋町・的場町・稲荷町・京橋町・比治山公園・比治山本町も含んでいました。

1894年(明治27年)の日清戦争開始により軍用鉄道として旧国鉄宇品線がこの地域を縦断して開通し、戦後には町内に煙草専売局など多くの工場が設立されるようになり、現在の段原小学校の前身の尋常小学校も設置されるなど発展したことから、1916年(大正5年)には「段原町」と改称されました。

その後も発展が続き、1926年(大正15年)には広島初の女子実業学校として広島女子商業学校(現広島女子商の前身)が町内に開校し、段原地区自体も段原大畑町・同東浦町・同中町・同新町・同末広町・同日ノ出町・同山崎町および南段原町に分割されました。

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原爆投下時、比治山の陰になった地域は家屋等の倒壊など大きな被害を免れましたが、しかし逆に焼け残ったことで区画整備が進まず、戦後も市の中心部を初めとする多くの場所が復興によって新しい町になっていく中、いつまでもすさんだ雰囲気のある町でした。

戦災を免れたことで逆に古い家屋や入り組んだ路地が久しく残されることとなったわけですが、一方では戦時中に開通した広島電鉄皆実線に近い大畑町(現在の段原1・2二丁目)などには骨董店などの商店街が形成されました。しかし、これも災いし、いかにも古臭い街並みという印象がいつまでもぬぐえませんでした。

ところが、1972年ごろから大規模な再開発が行われるようになり、1980年代以降は女子商が地区外に移転するなどしてさらに区画整理が進み、現在では昔の面影もないほど新しい町に生まれ変わりました。

今も広島県警察学校の移転や道路の新設など、再開発事業が進行していますが、1997年(平成9年)にはマイカル系の「広島サティ」という大規模なモールがオープンし、これは地上7階の店舗棟と地下1階で、ワーナー・マイカル・シネマズ運営の映画館もありました。

その後、マイカルが経営不振から会社更生法の対象となったことから、イオングループの傘下に入るようになり、このため広島サティもイオングループの店舗となりました。ただ、所有者が変わったことから、27年間続いた「サティ」ブランドは無くなり、現在は、「サブウェイ・広島段原ショッピングセンター」と呼ばれています。

現在は昔のようなデパートとしてではなく「スーパーマーケット」を核にしており、またそのすぐ隣に、高さ88m、地上19階・塔屋2階・地下1階の超高層建築物、「広島イースト」が完成し、これは地上7階地下1階の「商業棟」と、地上9階地下1階の「駐車場棟」で構成されるという大規模な複合商業施設となっています。

このように現在の段原地区は、商業地区として新しく生まれ変わり、戦後しばらく続いた汚い薄暗い街、といった雰囲気は全くなくなっています。が、そもそも戦前は市内でも有数な商業地区だったわけであり、言ってみればその昔に立ち返ったともいえます。

原爆投下による後遺症は、この街の再開発によってようやく払しょくされたといってもよく、現在の広島市内では、戦前のような古い町並みが残っているところはほとんどないといっていいでしょう。

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ところで、段原村と呼ばれていたその昔、この街に、「和田郁次郎」という実業家がいました。この人は、明治時代、この地から有志数人と北海道に渡り、札幌市南部に位置する野幌原野に入植し、ここを「広島開墾」と名付けて開拓したことで知られています。

この地は1894年(明治24年)に広島村として独立、1968年(昭和43年)の町制施行による広島町への名称変更を経て1996年(平成8年)の市制施行で「北広島市」と呼ばれるようになっています。

この和田郁次郎は、幼名を山田徳蔵といい、幕末の弘化4年(1847年)、安芸国安芸郡段原村、すなわち現在の段原に生まれました。慶應3年(1867年)、現在の広島市中区竹屋町に居を構えていた和田兵内の養子となり郁次郎と改名。家督を相続し家業に励んでいました。

ところが、あるときから北海道開拓の志を抱くようになります。そのきっかけは、北方開拓のために明治2年(1869年)に開いた官庁である北海道開拓使が、十年計画の満期が近くなった明治14年(1881年)に、事業を継承させるため官有の施設を安値で払い下げる、という噂を耳にしたためのようです。

このころ開拓使の長官を務めていたのは「黒田清隆」です。薩摩藩士として、幕末に薩長同盟のため奔走し、戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮をとりました。このことで北海道に縁ができ、戦後も北海道開拓で手腕を発揮し、新政府内でも重鎮と呼ばれるようになりました。

これより先の明治3年(1870年)当時、北海道北方の樺太にロシアが兵士と移民を送りこみ、実効支配しようとしていたことに危機感を抱いた政府は、ここに樺太開拓使を設置し、黒田清隆を開拓使次官にして樺太専務を命じました。

以後、黒田は、ロシアに対抗する国力を充実させるために北海道の開拓に力を入れ、政府は彼の建議に従い、明治4年(1871年)に10年間1000万円をもって総額とするという大規模な開拓使十年計画を決定しました。

3年後の明治7年(1874年)には黒田は長官となり、北海道に赴任せずに東京から指示を出す態勢をとりましたが、米国人ホーレス・ケプロンらの御雇外国人を招いて開拓政策の助言と技術の伝習を行わせました。

開拓使は潤沢な予算を用いて様々な開拓事業を推進しましたが、広い北海道の原野の開地を完遂するには1000万の予算をもってもなお不足であり、測量・道路などの基礎事業を早々に切り上げ、産業育成に重点をおくようになりました。

彼は、北海道の開拓に難渋する現状では自然条件がよりいっそう不利な樺太にまで金は回せないと考えたため、樺太の開拓にはあまり手を付けず、それ以上は進展しませんでした。結局、明治8年(1875年)5月に樺太・千島交換条約によって日本は樺太を手放しましたが、この交換の際、日本は樺太アイヌを多数北海道に移住させています。

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そして、十年計画の満期が近くなった明治14年(1881年)に、黒田は開拓使の事業を継承させるため、部下の官吏に官有の施設・設備を安値で払い下げることを決定。これを探知した新聞各社は、払い下げの主役を黒田と同じく薩摩出身の「五代友厚」だと考えて攻撃しはじめました。

五代友厚は、薩摩藩の高級武士の出で、藩命によって長崎海軍伝習所へ藩伝習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学んだ経歴がある人物です。慶応元年(1865年)には、これも藩命により寺島宗則・森有礼らとともに英国留学し、欧州各地を巡歴しており、この時の経験がのちに、経済人として手腕を発揮する礎となりました。

維新前夜の慶応2年(1866年)には、薩摩藩の商事を一気に握る会計係に就任し、長崎の武器商人グラバーと合弁でドックを開設するなど実業家の手腕を発揮し始め、戊辰戦争では西郷隆盛や大久保利通らとともに倒幕に活躍しました。

その結果、明治元年(1868年)には、明治新政府の参与職外国事務掛となり、新政府の外交の顔となるとともに、のちには大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致し、初代大阪税関長となり、大阪税関史の幕を開けました。その後も大阪経済界の重鎮となり、大阪経済を立て直すために、商工業の組織化、信用秩序の再構築を図りました。

しかし、金には汚かったようで、同郷の黒田清隆との間には常に黒い噂が絶えず、この払い下げ問題においても、新聞はその主役が政商五代友厚だと考えて攻撃したわけです。やがてこの「開拓使官有物払下げ事件」は、明治時代最大級の疑獄事件とまでいわれるまでに発展することになります。

ところが、黒田は強引に天皇の裁許を得て払下げを決定したため、批判の声は益々高まり、御用新聞の東京日日新聞までが政府批判を行ったほか、各地で弾劾の演説会が催される事態にまで発展。結局伊藤博文らが収拾策として払下げ中止の裁許を明治天皇に仰いだ結果、払下げは中止となり、同時に黒田も開拓長官を罷免され、内閣顧問の閑職に退きました。

この結果、開拓使は翌1882年(明治15年)に廃止され、北海道は函館県、札幌県、根室県に分けられましたが、これは再び黒田のような人物が現れ、利権がひとつに集中するのを防ぐ目的があったためと考えられます。

さて、こうした時期、和田郁次郎は、北海道では官の施設が民間に下されると聞き、この機に乗って、広大な大地を開拓すれば、やがて大きな商いができると考えたのでしょう。明治15年(1882年)、35歳だった彼は、有志数人を集めて北海道に渡り、資産を投じて一村を創設するための土地を求めて北海道内各地を探索し始めました。

しかし、この年は農業に適した土地が見つからず帰郷します。が、翌年単身で渡った第2回探索におおいて、この当時札幌郡の月寒(つきさっぷ)村と呼ばれていた、のちの豊平村、すなわち現在の札幌市豊平区の「野幌原野」が適地であると考え、ここへの入植を決意します。

ここは、輪厚川という川筋の寒冷かつ巨木が繁り熊しか住まない330haほどもある原野でした。これを貰い受けることを政府に請願して許可を受けると、ここを「広島開墾」と称しました。そして、1883年(明治16年)6月下旬、段原やその他の広島市街から率いてきた同志まず5名が到着し、6人で小屋を造るなど移住者の受け入れ準備をしました。

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しかし、この最初の年は未曾有の大凶作に遭い、また温暖な瀬戸内の気候に慣れた広島の人達にとって北海道の寒さは想像以上に厳しいものでした。郁次郎らとは別に、やはり広島から道東の根室へも移住した人々がいましたが、このとき彼等のうちの数十名が病死するという事件もあり、郁二郎たち野幌の移住者たちを震撼とさせました。

この根室への入植者が移住した土地は、根室県根室郡幌茂尻村といい、現在の根室市にあたります。移住開始は郁次郎らよりも2年早い1882年(明治15年)であり、ここに入植した80戸余りの広島からの移住民は、途中、船中でコレラが発生したため、冬に向かう10月になって、ようやく根室に到着しました。

このとき陸上でも多数の死者を出した理由もまたコレラだったと思われ、これではとても厳寒の冬を越せないと思った彼等は、その後嘆願書まで出しており、これを受けた根室県が彼らを道路の改修工事に雇ったり、また米や金を貸し与えるなどの救済策をとったことにより、かろうじて生き延びることができました。

が、その後必死の努力により、1884年(明治17年)ころからは漁業にも従事するようになりました。しかしその生活が安定するにはやはり時間がかかり、なんとかようやく食えるようになったのは、5年後の1888年(明治21年)頃になってからだったようです。

一方の郁次郎たちは、入植の翌年の1884年(明治17年)5月には、田畑や道路整備、用排水路建設などの開墾に着手しました。この年さらに追加で広島から移民が到着し、18戸が建設され、さらに9月には7戸が完成して、これで月寒には合計で25戸が入植しました。

しかし、この年の9月の大霜のため作物が実らず、郁次郎たちもこの苦しいときを賃仕事によって切り抜けました。しかし、鉄道もこの当時はまだなく、働き口のある札幌までの通勤や物資の輸送のため、遠路はるばる牛馬を引いての往復を余儀なくされました。

しかも、上述のような疑獄事件も発生した余韻から、政府による移住希望者の審査が厳しくなり、この後3年間は広島県からの移住はありませんでした。何よりも人出が足りないということは開拓においては致命的であり、このため郁二郎らは、やむなく東北・北陸出身者の移住を受け入れることを決めます。

翌1885年(明治18年)、雪解けとともに郁次郎たちは、ようやく田畑合計約31haを開墾しました。その年、郁次郎たちは米を収穫することができ、ようやくここで稲作における成功という大きな成果を得ました。そして、たゆまない努力を続けた結果、初入植から5年後の明治21年(1888年)ころには、さらに大きな収穫が得られるようになりました。

この成功を聞きつけて、広島県から移住を希望する者も出てくるようになったため、官に働きかけた結果、移住再開の許可をとりつけることに成功。以後、毎年数十名、数百名単位で広島から移住者を受け入れるようになり、開墾開始から9年後の明治26年(1893年)には、380戸・1200人もの人数を数えるまでになりました。

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この年「広島開墾」を札幌から視察に来た北海道長官は、この成功を見て内地からの集団移住の模範となると考えました。と同時に広島からの移住民だけではなく、他県からの住民も受け入れさせようと、開拓のリーダーであった和田の名前をあげ、「ここを和田村という名前に改名してはどうか」と提案しました。

しかし、郁次郎はこれをやんわりと断り、「広島からきた者たちを中心に開拓したので」と、「広島」の名を残して欲しいと逆に頼みこみました。こうして明治27年(1894年)、「広島開墾」は、それまでは便宜上所属していた豊平村から正式に独立し、「広島村」と呼ばれることが決まりました。

この成功以前、郁二郎らよりも先んじて月寒に入植した大阪出身の中山久蔵という人物がおり、この頃はまだ道内での収穫は極めて困難であるとされていた稲作をこの地で初めて成功させたのは彼であるといわれています。

しかし、郁二郎を中心に開拓された広島村における米の収穫は、この中山らの成果を大きく上回り、その後道内一となってさらに開拓を軌道に乗せました。この稲作の成功により、のちには郁次郎をリーダーとして学校や寺院、役場も建設されるようになり、郁二郎は当地の初代郵便局長や農会理事に就任しました。

大正13年(1924年)からは2年間村長も務め、その後は事業を材木業や鉄道にまで広げ、これらの会社の大株主になるなど実業家としても成功し、明治30年前後に刊行された「実業人傑伝」でも全国約400名の人物中にも掲載されるまでになりました。

北海道の人物としては、この当時、商業の中心だった函館でここに名前が掲載された実業家もいましたが、こうした農業による事業成功者の記載としては唯一の例でした。

当時の財界の巨頭・渋澤榮一から目を掛かられ、のちの日本の製鉄業界の重鎮といわれるようになる「永野重雄」はこの当時富士製鋼の支配人兼工場長でしたが、郁二郎と同じ広島出身であったこともあり、その後北海道に転勤になったときにはすぐに和田に挨拶に行ったともいわれています。

永野重雄は、松江市生まれですが、育ちは現広島市南区の出汐というところで、六高卒業後、東京帝大法学部政治学科に入学します。この帝大時代の親友が渋澤榮一の子息であったことをきっかけに渋澤と懇意になり、卒業後はこの渋澤の息子の兄の依頼を請け倒産会社であった富士製鋼の支配人を任され、この会社の再建を遂げました。

以後、これが機縁で以降の生涯を製鉄業に捧げることとなったわけですが、北海道に来たのは、富士製鋼が日本製鐵に統合されて日本製鐵富士製鋼所となったのちの1941年(昭和16年)、北海道支部長として出向してきたときのことだったようです

そのまま終戦を迎え、日本製鐵に常務取締役で復帰後は、この当時通産省にいた六高の先輩からの強い要請で当時の片山内閣の経済安定本部副長官(次官)となり、次官仲間の池田勇人(大蔵省)、佐藤栄作(運輸省)と親交を結び政界に強い財界人の素地を作りました。

しかしGHQの命令で天下り禁止法が作られることになり、1年半で官職を辞して製鉄業界に戻り、1950年(昭和25年)に発足した富士製鐵社長に就任してこれを大会社に育てあげ、1963年(昭和38年)には日本鉄鋼連盟会長に就任。

その政治力を駆使して大平正芳、佐藤栄作、三木武夫ら有力政治家を動かし、八幡製鐵と日本製鐵の「戦後最大級」とされた合併を実現させ新日本製鐵を設立、会長に就任しました。

戦後日本経済の牽引車的役割を果たした経済人の一人といえ、1981年(昭和56年)にはロナルド・レーガン大統領就任式に参列。経済界の日本代表として国内外で活躍しました。

長きに渡り財界に君臨したため「財界フェニックス」との異名をとりましたが、出身地である広島の発展にも尽力し、長年、在京広島県人会会長を務めています。また東洋工業(現マツダ)が経営危機に陥った際には最高顧問を引き受けたこともありました。

毎年、盆には家族を率いて墓参のために広島に帰っていたといい、生涯明治の気骨を貫き通し、柔道・囲碁など合わせて64段が自慢でしたが、昭和59年(1984年)死去。83歳没。この当時、重雄の死により政財界密着時代の幕が降ろされたともいわれました。

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永野は、その死後、正三位勲一等旭日桐花大綬章を受章しましたが、これは日本に於ける高位勲章の一つで、平成15年(2003年)の栄典制度改正まで旭日章の最上位勲章として運用されていたものです。

一方の郁次郎も北海道開拓の功績が讃えられ、1894年(明治27年)には藍綬褒章、大正3年(1914年)には正八位勲八等瑞宝章を授与されていますが、昭和3年(1928年)に81歳で没。その生涯のうち、46年もの長きを北海道開拓に捧げたあとの死でした。

その後、広島村は、町制施行による広島町への名称変更を経て、平成8年の市制施行で北広島市となりましたが、この名称は、市制施行に備えた町民アンケートで決められました。

広島の名に由来する名称を継承するか否かの是非が問われたものですが、結果としては70%を越える住民が広島の名の継続に賛成し、この結果を踏まえ、この後に開かれた町議会においては満場一致でこの決定が承認されたといいます。

なお、郁二郎は、広島村への移住者が増え過ぎたこともあり、その後は道内の他地域への開拓にも当たっており、その一つが現在の空知管内の奈井江町厳島です。この地名「厳島」は無論、安芸の宮島から取ったものでしょう。

このほかにも、郁二郎を頼って広島村に入った広島の人々が開墾した地域があり、これらは現在の札幌市西区西野や、同じ札幌市の手稲区星置、北見市留辺蘂町大和地区などです。

北広島市の現在の人口は60,000人を突破。観光の町とするほどの名所はとくになく、どちらかといえば札幌中心部で働く人々のベッドタウンという趣で、市街のほとんどの箇所で住宅街が広がっています。

ただ、史跡としては、1877年(明治10年)4月16日、札幌農学校(北海道大学の前身)の初代教頭ウイリアム・スミス・クラークが、見送りに来た学生や職員たちと別れた場所があり、この場所で彼は、「青年よ、大志を抱け(Boys, be ambitious.)」の言葉を残したと言われます。

このほか、北広島市中央3丁目にある、「第3大谷木材ビル」の中には、和田郁次郎記念館なるものがあるそうで、生活用品、備品、書画、資料、刊行物などがあり、郁二郎らが入植した往時が偲べそうです。

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さらに、移住した和田郁次郎が、開拓のために作った道路の跡が市内に一部現存しているといい、これからさほど遠くない場所には、1984年(昭和59年)に開基100年を記念して造園された「北広島市開拓記念公園」という公園があります。

明治17年、ここに最初の集落が形成され、郁次郎もここに居を構えたといい、この和田郁次郎邸というのは、明治の終わりごろまでは現存したようで、写真が残っており、これをみると藁ぶき屋根の質素な家だったようです。やがて移住者が増え、このまわりには住宅や商店が並ぶようになり、郵便局や学校もこの一帯に置かれて村の中心となった一角です。

後年、ここにあった和田邸跡を記念して作られた広島小公園に、昭和39年の開村80周年記念事業で「広島村この地に始まる」と記された碑が建ち、その後20年後にこれを拡張されてできたのが現在の北広島市開拓記念公園です。

私も行ったことがないので調べてみると、北広島市の歴史を記載した説明板がところどころに配置され、園内には芝生が広がり、開拓時代の水源地より湧き出す水辺も作られ明るく心地よい公園だそうです。また、園内にはさまざまな碑があり、広島市との交流の証のために被爆石で造られた「交流の翼」という碑がなどもあるようです。

このように現在も広島市とは交流があるようで、毎年、広島市で開催される原爆死没者慰霊式・平和祈念式(広島平和記念式典)には北広島市内の小中学生が招待されているそうです。また、今年8月に広島市で発生した土砂災害では義援金100万円を広島市に送ったといいます。

北広島市の地元での通称は「きたひろ」であり、市内の店舗などの名前にも多く使用されています。なお広島県の山県郡に、4町が合併して2005年(平成17年)に発足した北広島町という町があり、こちらでも通称として「きたひろ」が用いられています。

いつか、時間ができたら私もこちらの「きたひろ」に行き、郁二郎らが段原から入植したという土地柄を見てみたいものです。もしかしたらそこには、私の良く知る段原と共通したなにかがあるやもしれません。

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パラレルワールド

2014-5292デロリアン(De Lorean )というクルマをご存知でしょうか。そう、世界的にヒットした映画「バック・トゥ・ザ・フューチャーシリーズ」に登場した、あのタイムマシンのベースとなったクルマです。かつてアメリカ合衆国にかつて存在した自動車製造会社の名前でもあり、同社で唯一製造された自動車「DMC-12」こそが、このデロリアンです。

1975年、当時ゼネラルモーターズの副社長であった、ジョン・ザッカリー・デロリアンが、理想の車を作るためにGMを辞職し独立して自ら設立したのがデロリアン・モーター・カンパニー(Delorean Motor Company Ltd. DMC)です。

本社はミシガン州デトロイトに、製造工場はイギリス・北アイルランドのベルファスト郊外、アントリム州ダンマリー村にありました。長い開発期間を経て1981年に登場した「DMC-12」は、デザインをかの有名なジョルジェット・ジウジアーロがデザインし、メカニカル設計はロータス・カーズが請け負いました。

バックボーンフレーム上にFRPボディーを載せる構造はロータスが得意とした手法ですが、メンテナンスフリーをも狙って外部全体を無塗装ステンレスで覆いました。エンジンはプジョー・ルノー・ボルボの3社が乗用車用に共同開発したV型6気筒SOHC・2849ccエンジンで、フランスで製造され、これを後部に搭載するリアエンジンレイアウトでした。

エンジンは当初V型8気筒として設計されていましたが、1973年のオイルショックの影響で出力よりも経済性を重視せざるを得なくなり、2気筒を切り落とした実用型として開発され、前宣伝の効果も手伝って、多くのバックオーダーをかかえる中でのスタートとなり、初年度は約6,500台を販売するなど売り上げは好調でした。

しかし、発売価格が2万5,000ドルもし、これは現在の価値換算では6000万円相当であり、当時の為替レートで計算しても約1600万円と高額であったことが災いし、大量のキャンセルなどから、翌年以降はたちまち売り上げ不振に陥りました。

また北アイルランドへの工場誘致の条件として交付されていたイギリス政府からの補助金停止されたほか、会計監査役が社の資金を社長ジョン・デロリアンが私的に流用するなどしたことを黙認していたことがマスメディアの調査などで明らかになるなど、その会社運営の内情は無茶苦茶でした。

さらに1982年に、社長のジョン・デロリアンがコカイン所持容疑で逮捕されるスキャンダルが発生したことにより、たちまち会社は資金繰りが立ち行かなくなり、ついに倒産の憂き目を見ることになりました。

ジョン・デロリアンは、その後、麻薬売買に関わった容疑で逮捕されたものの、のちに裁判の末、無罪となりました。その後も、再び新たな高性能車を創造するプランを抱いていたそうですが、新モデルの開発、発売を果たすことなく、2005年3月19日に死去しました。

最終生産車が作られたのは工場閉鎖後のことで、工場に残っていたパーツ等で1982年12月24日に作られた4台が一般向け生産の最後となりました。最終的に8,583台が製造されたと見られていますが、500台が調整用として確保されたため実質8,083台と思われます。なお、日本にも何台か流通し、その一台は愛知県長久手のトヨタ博物館展示されています。

このように生産会社が消失したとはいえ人気の高かったデロリアン・DMC-12は、多くの逸話・スキャンダルを伴った希少性と、生産終了後に映画「バック・トゥ・ザ・フューチャーシリーズ」で採用されたことによって、1980年代を代表する著名なカルトカーとなり、現代でも多くの自動車マニアのコレクション対象となっています。

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ところが、このデロリアン・モーター・カンパニーの倒産後、そのイギリス工場で使われていた設備一式を買い求めた人物がおり、これはスティーブン・ワイン(Stephen Wynne
という人物で、現在、旧来のデロリアンの名前を継承し、そのままDeLorean Motor Co.として会社化し、その社長に就任しています。

現在もDMC-12のオーナーに修理用パーツを供給し続けており、1台丸ごと新車を組み立てることも可能です。また、ワイン氏は2007年8月、DMC-12を再生産することを明らかにしています。

ただ、近年の衝突安全基準や排出ガス規制等に合わせて設計を変更することは困難であり、再生産車では車検に適応し一般道を走らせることはほぼ不可能なため、展示用や富裕層のコレクターズアイテム的な目的で出荷されているそうです。

とはいえ、アメリカのテキサス州ヒューストン郊外に約3700m²の工場を建設し、そこで新DMC-12を再生産することが計画されているといい、オリジナルのDMC-12には電装系や配線などにトラブルがありましたが、ここで生産される新バージョンではそれらは改善される予定だといいます。

生産台数は月20台の予定だそうで、当初のデロリアン社時代と比べて減るものの、ファンからの期待は高いようです。また、現在、全ての補給部品と現行品による新車もこの会社に注文できるそうで、整備、中古車の売買の仲介等も行なっているということです。

皆さんも一台いかがでしょうか。数千万するようですが……

さらに、2011年、ワイン氏はベンチャーEVメーカー・Epic EVと協力し、DMC-12を2013年までにEV化して生産する計画を発表しています。このクルマは、交流240V電源による3.5時間充電で、約100マイルの市街地走行が可能とされ、バッテリーの予想寿命は7年もしくは10万マイルとされています。

最高速度201km/hと発表されており、既存のデロリアンをハンドメイドでEV化するものとは異なり、当初からEVとして設計製作して販売されるようです。

映画の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のほうも人気が高かったことから、続編が作られるという噂が何度が立っているようですが、もしこれが実現するようなら、その中に登場するタイムマシンは、この新生EVデロリアンになるのかもしれません。

大ヒットしたこの映画では、このタイムマシンを作ったのはエメット・ブラウン博士なる人物であり、演じたのは個性派俳優のクリストファー・ロイドでした。この劇中、博士は、なぜそのベースとなるクルマにDMC-12を使ったのかについて、「ステンレスボディーがタイムマシンにとって好都合」なことと「見た目のかっこ良さ」を理由をあげています。

また、デロリアンは、1985年10月26日に最初のタイムトラベルに成功したとされ、最後のタイムトラベルで1985年10月27日であり、最後は貨物列車と衝突し大破しました。従って、スタート時点の時間軸から見れば、完成から2日程しか存在しなかったことになります。

一方、デロリアンから見た時間軸では、長い間廃坑に隠されていたという設定になっており、この期間は1885年から1955年までということになり、70年以上ここに放置されていた、ということになります。

このデロリアンのタイムマシンとしての動作原理は不明です。が、「次元転移装置」なるものの働きによって時間を飛び越えるものとされており、ただ、タイムトラベルの際には時間的な移動しか出来ないようで、過去または未来の、空間的には常に出発点と同じ地点に移動せざるを得ません。

このため、過去には存在した、あるいは未来には存在する建造物や道路のある場所でタイムトラベルした場合、それらに衝突するなどのトラブルに見舞われることもあります。

タイムトラベルの際は88マイル毎時(約140km/h)まで加速する必要があるため、長めの直線道路が必要になります。しかし、第3作目では飛行機能を取り付けられたことでこの問題は解決しました。が、いずれの場合もタイムトラベルの瞬間、デロリアンは閃光を放ち、地上または空中に炎のタイヤ跡を残して未来または過去へ突入します。

目的地における目標時間への突入時には多少の衝撃を伴います。また、タイムトラベル先の時間に出現する際には、3度の閃光とソニックブーム音を伴います。当初のデロリアンは、タイムトラベル直後に素手で触れられないほどの超低温となりましたが、後に改良され、少々低温になる程度となりました……

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……とまあ、これが映画の中でのこのタイムマシンのあらましです。

この映画の制作当初、実は、タイムマシンはクルマではなく、冷蔵庫を改造したものになる予定だったそうです。が、映画を見た子供が真似をして冷蔵庫の中に閉じ込められてしまうことを懸念し、取り止められたそうで、その後、監督が DMC-12 のガルウイングドアを見て車型タイムマシンを思いついたといいます。

撮影用に用意された DMC-12 は3台、映画3部作を通して最終的には計7台が使用されました。それらは撮影目的ごとに外装または内装のみが使われ、カメラを入れる為に天井を切り取られる場合もありました。撮影終了後、1台はスティーヴン・スピルバーグが、別の1台はイギリスのバンド「バステッド」のメンバーが所有しているといいます。

デロリアンが列車と衝突してバラバラになるシーンは、衝突専用のDMC-12が用意され、分解しやすいように車体のボルトをすべて外したり内部に切れ込みを入れ、衝突時には車内から爆発させて撮影されました。その際、列車が脱線しないように内部のエンジン等の重機材は外されたそうです。

日本での人気も高く、アオシマからプラモデル、太陽工業のラジコンにも採用されました。ミニカーではバンダイが販売代理権を獲得していた頃にホットウィールの「キャラウィール」シリーズとして発売され、USJ特注モデルとしてトミカが発売したこともあります。

SFにおける乗り物としてのタイムマシンには、このように自動車タイプのものや、宇宙船タイプ、鉄道車両の者が多く、移動機能、飛行機能が備えられている場合が多いようです。
「仮面ライダー電王」には、デンライナーというタイムマシンが登場し、これは移動機能も有し、異次元空間を移動しタイムトラベルを行います。

また「ドラえもん」に登場するタイムマシンも空を飛ぶことができ、「スタートレックIV」の宇宙戦艦バウンティ号も時空を超えます。ただ、H・G・ウェルズの「タイム・マシン」は、動力車タイプではありませんでした。

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このタイムマシンは、架空のもの、として扱われているわけであり、無論、実現したとされる人物はいません。ところが、2000年11月2日、米国の大手ネット掲示板に、2036年からこのタイムマシンに乗ってやってきたと自称する男性が書き込みを行いはじめました。

男性はジョン・タイター(John Titor)と名乗り、複数の掲示板やチャットでのやりとりを通じて、タイムトラベルの理論や自身のいた未来に関する状況、未来人である証拠などを提示していきました。その過程でアップロードされた資料は、現在も閲覧可能のようです。が、無論英語です。http://www.johntitor.com/

タイターは、最初の書き込みから約4か月後の2001年3月に「予定の任務を完了した」との言葉を残し書き込みをやめ、現在は消息を絶っています。が、2003年にアメリカで発行された、タイターの発言ログをまとめた書籍「Jhon Titor a Time Traveler’s Tale(時間旅行者ジョン・タイターの物語)」が発刊されています。

この本には、タイターの母親を名乗る人物から寄せられた手紙や、彼女からタイターに関する全資料を受け取った弁護士の話などが掲載されているそうで、母親を名乗るこの人物は、ジョン・タイターが自分の息子であることは否定していないものの、平穏な生活を送りたいとの理由から彼との関係の一切を断ちたいと語っているといいます。

ジョン・タイターは、2036年からやってきたとされていますが、生まれたのは1998年だと主張していました。タイターの説明によれば、彼の使用したタイムマシンは、上述のようないわゆる乗り物ではなく、一種の「重力制御装置」だということです。

このタイムマシンは2034年に欧州原子核研究機構 (CERN) により試作1号機が実用化されたといい、タイターが使用したものは正式名称「C204型重力歪曲時間転移装置」だそうで、開発はゼネラル・エレクトリック社が行ったといいます。

そのタイムトラベルの方法とは、まずタイムマシンに目的の年月日時刻の座標を入力し、始動させます。すると重力場が形成され、搭乗者の身体を包み、搭乗者にはエレベーターの上昇中のような感覚が生じます。装置が加速するにつれて周囲の光が屈曲し、一定まで達すると紫外線が爆発的に放射されます。

このため時間旅行のためにはサングラスが必須になるそうで、その後、周囲が次第に暗くなっていき、完全に真っ暗になり、やがて景色が元に戻り、タイムトラベルが完了する、といいます。

フルパワー駆動で約10年間飛ぶのに、およそ1時間程かかるとされ、タイムトラベルが可能な範囲は、タイターの使用したタイムマシンでは約60年であり、それ以上の過去や未来に行こうとすると、「世界線」のズレが大きすぎて全く異なる世界にたどり着いてしまうといいます。

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ちなみに、この「世界線(World line)」とは実際にある用語です。一般相対性理論や特殊相対性理論でよく使われる言葉で、四次元空間の中で粒子が動く経路のことであり、提唱者はアインシュタインです。一次元、二次元の物体が動いた経路は世界面 (world sheet)、世界体積 (world volume) と呼ばれ、ようするに我々が住むこの世界のことです。

この「世界線」のズレが大きくて異なる世界にたどり着くということはつまり、我々が知る歴史とはかけ離れた歴史を持った世界へ到着してしまうということになります。また、60年以内の移動であっても誤差といえる程度の世界線のずれが生じるためタイムトラベルのたびに「限りなく似通ったパラレルワールド」に移動している、ということになります。

さらには、銀河系も太陽系もかなりの速度で宇宙空間を移動しているため、たとえ30年前の過去へタイムトラベルが成功したとしても、そこには地球はなく、宇宙空間に投げ出されてしまうということにもなります。

この疑問について、タイターは技術的に最も困難な部分であると語っていたといい、この問題については、現在地における重力の正確な測定を行うことによって、地球上での空間座標を特定していると説明しました。

その空間座標はタイムトラベル中、「VGL(可変重力ロック)」という装置によって一定に保たれており、セシウム時計4個の発信周波数を基に、Bordaと呼ばれるエラー修正プロトコルを用いて制御されていると述べています。

しかし、前述のように、60年間のタイムトラベルが限界で、それ以上はVGLを使用しても異なる空間座標に到着する可能性が高くなります

また、これによるタイムトラベルでは、それを客観的に観測している人間にとっては、一瞬のうちに終わっているように見えます。つまり、タイムトラベラーがタイムマシンを作動させた瞬間にもとの世界に戻ってきているように見えます。これは、たとえタイターがこの世界線において2年もの月日を過ごしていたとしても変わりません。

しかしこれは、あくまでこのタイムトラベルにおいて、マシンを積んだ乗り物を移動させず、同じ空間座標で行った場合です。タイムトラベル後、元の世界線へと戻るときにマシンを作動させた空間座標が最初の座標と違う場合、観測者には、その場にあったタイムマシンが一瞬にして消え、別の場所に一瞬にして現れるという風に見えるといいます。

タイターはまた、パラレルワールドを否定していません。彼によるこの多世界の解釈では、多世界とは、それぞれ時間系列の異なる別々の「世界線」であり、「恐らく無限に存在する」ということです。これにより、タイムトラベルの結果生じる矛盾、いわゆるタイムパラドックスの問題が解決されるとしています。

タイムパラドックスというのは、タイムトラベルにおいていわゆる「親殺し」をした場合などに、自分が消えてしまうのか、といった矛盾です。

彼の説明によればこの「世界線」というのは、いわゆるパラレルワールドと同義だそうで、タイターはこの説明を行うとき、「時間線」と合わせて三種類の用語を使用したといいます。そしてタイターは、それらの異なる世界線を移動することにより、タイムトラベルは行われると説明しています。

従って、例えば、過去にやってきたタイムトラベラーが自分の親を殺しても、自分がいた世界とは別の世界の自分の親を殺したことになるので、そのタイムトラベラーが消滅することはないといいます。同じように、違う世界線の自分自身を殺してしまっても、世界線が分岐するだけなので何ら問題は起きないとも語っています。

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タイター自身のタイムトラベルでは、まず2036年から1975年にタイムトラベルし、そこから自分が生まれた1998年に飛び、ここで我々と出会って2000年まで滞在したといいます。そしてこの場合の1975年の世界線は、2036年の世界線と約2%ズレていたといいます。

従ってズレていなければ、我々とタイターは遭遇しなかったことになります。そして、1975年から未来の1998年へ遡行した際、そこにもズレが生じていたとすれば、タイターが訪れた1975年から飛んだ先の1998年は、元々の1975年の延長上にある未来ではなく、別の世界線上の未来ということになります。

また、そうであるとすると、我々が現在住んでいる世界線の過去の1975年には、そこに訪れていたというタイターはいなかったことになります。

つまり、2036年をAとすれば、1975年の世界線はBであり、さらに、タイムトラベルしたタイターがいるために世界は分岐してCの1975年になります。そこからさらに、1998年へ飛んだのでこの世界線はDということになり、タイムトラベルするたびにズレが生じ、そのたびに違う世界線上に降り立つ、ということになります。

さらにいえば、AからBへのトラベルの際のズレが2%であり、さらにCおよびDを経る際にもズレが生じたとすれば、Aから起算すれば、そのズレはさらに大きくなっているはずです。

これらの問題についてタイターは、タイムトラベルを行うことに起因して世界線が分岐するのか、あるいはタイムトラベルをする以前からそうしたパラレルワールドが存在していたのか、という問題がタイターのいた世界でも議論になっている、と説明したそうです。

タイターが「我々の世界」に初めてやってきたのは1998年ですが、その時タイターは、この世界における自分の親たちの一家を訪問し、「2000年問題によって引き起こされる災害や混乱から逃れるため」引っ越しを促したといい、実際に一家は引越しをしたといいます。

しかし、タイターの予想に反して我々の世界においては、実際には2000年問題は大きな騒ぎとはなりませんでした。

この原因として、タイターは、自分が任務のために最初に赴いた1975年の行動が影響している可能性がある、と話していました。さらに、タイターの説明では、2000年問題の混乱が、後の核戦争に繋がっているということで、タイターのいた世界線と我々の世界線では、まったく違う未来を持っている、ということが考えられます。

さらにタイターは、未来に返る方法についても言及していました。タイターが元いた世界線に帰還するためには、タイムマシンが往路にて収集した重力の測定データをさかのぼって帰還するとしており、また、自分がもといた未来の世界線へ少ない誤差で帰還するためには、一度自分がやってきた時間・場所に戻る必要がある、と語ったといいます。

何故いったん元来た道を辿らなければならないのか、ここのところが私にもよくわからないのですが、タイターは、これに関連して、潮汐力が地球の重力に影響を与えている都合上、帰還するタイミングは一年に2回ほどしかない旨の説明をしていました。

おそらくは、そうしたタイミングにおいてだけ、過去に辿ってきた正確なルート計算ができるということなのかもしれません。

そのため、タイターが自分のいた未来へ帰るには、そのタイミングにおいてまず1998年に戻り、そこからさらに1975年に戻ってから、やってきた世界線に沿って時空をさかのぼる必要があるということになります。

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しかし、どんなに正確な計算をしても全く同一の世界へ帰還できるわけではありません。誤差は非常に小さいものの、そこは「良く似た別の世界」であることに変わりはないといいます。

世界線は無限に存在し、そのどれかにピンポイントで移動する方法が現在のところ見つかっていないといい、これを実現するためには光速を超えたトラベルを行うことしかなく、それは不可能であるともタイターは語っています。

もっとも、確率的にはありえないほど低いものの、自分の望む世界にたどり着く余地はあり、タイターの世界では、ズレのない世界、つまり自分の世界と全く同一の時間軸上にある世界にたどり着いたタイムトラベラーも存在している、といいます。

彼がタイムマシンで1975年に向かったとき、まず最初に、自分の父方の祖父と会ったそうです。その後1998年に飛び自分の両親と生後2ヶ月の自分自身に会い、それから2年ほど4人で奇妙な同居生活をしたと語っています。

タイターが去って2年が経過したとされる、2003年1月には、タイターの両親を名乗る夫婦が5歳の幼児を連れてフロリダの弁護士事務所に訪れたことが確認されているといいます。夫婦は匿名を条件にタイターの存在を証言し、二人が連れていた5歳の幼児がジョン・タイターである、と語りました。

夫婦はインターネットで交わされたタイターと質問者たちとの質疑応答の全記録、タイターの話を裏付ける証拠物件を弁護士に預託したと言いますが、その中には、タイターの語った彼の住む未来世界、および彼が生きてきた世界で起きたことも含まれていました。

実際に彼が自分の目で見てきた、我々とは違うパラレルワールドのことが書かれている、ということになります。ただ彼は自分が未来に関する出来事を書き込んだ時点でそこから未来が変わってしまうために、自身が見てきたものとさらにこれは変わってくる可能性がある、と前置きした上でこれを語っています。

タイターが住んでいた2036年の世界線と、我々のいる2000年当時の世界線ではおよそ2%のズレがあるわけですが、さらにこの世界でタイターは掲示板に自分が未来人である旨ほほか色々の書き込みをしたため、そのズレはさらに広がっている可能性があるというわけです。

つまり、タイターは、自分のいた未来において起きた出来事を語っただけで、パラレルワールドがもし存在するならば、それは必ずしも我々の世界でこれから起こることの予言というわけではなく、実際に起きることもあれば、起きない場合もあるということになります。

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さて、気になるそのタイターの世界で起こった出来事ですが、この話はアメリカでは人気があるようで、実際に彼が語ったとされる記述に、のちに別人が手を加えたと思わるものも多数あるといわれています。なので、そうした部分は削除して、純粋に彼が語ったとされるものだけ、以下にこれを掲載します。

・2000年問題によって起きた災害や混乱が、後の内戦の火種となる。例えば、アメリカ国内では狂牛病が発生する。のちに、欧州原子核研究機構 (CERN)が2001年近辺にタイムトラベルの基礎理論を発見し、研究を開始する。

・2001年以降に中国が宇宙に進出する。これ以降に新しいローマ教皇が誕生し、ペルーで地震が発生(実際、書き込みから4ヶ月後にペルー地震発生)。世界オリンピックは2004年度の大会が最後となり、2040年度にようやく復活する。

・2005年にアメリカが内戦状態になり、内部抗争が発生し、2011年、内戦が原因でアメリカ合衆国が解体されるが、翌年にはアメリカ連邦帝国が建国される。2015年、ロシア連邦が反乱部隊の援助という名目でこのアメリカに核爆弾を投下。核戦争となり、第三次世界大戦へと発展する。

・その後、アメリカの外交権麻痺に乗じて、中華人民共和国が覇権主義を強化。台湾、日本、韓国を強引に併合する。後にオーストラリアが中国を撃退するが、ロシアの攻撃により半壊滅状態になる。ヨーロッパ諸国もロシアによりほぼ壊滅するもアメリカが撃退し、ロシア連邦が崩壊する。

・2017年、30億人の死者を出した末、世界大戦はロシアの勝利に終わる。2020年、アメリカにおいても、都市部の勝利により内戦が終わる。そしてロシアの援助によって、新たな連邦政府が成立する。このときアメリカの地方区分は、現在の州ではなくなり、分裂したときの5勢力で構成され、社会主義国家に近くなる。

・内戦後の生存者は図書館や大学の周りに集結してコミュニティを形成している。新たな連邦政府は首都を現在のネブラスカ州・オマハに置いている。アメリカ以外のほとんどの国も社会主義国家のような体制になっていく。

・タイターのいた2036年から4年後の2040年頃、オリンピックが復活する予定であり、彼の個人的な予想では2045年頃、タイムマシンが一般利用できるようになるであろうと思われる。

また、タイターがもともと住んでいた2036年は、以下のような状況だったといいます。

・テレビと電話はインターネットにより提供されている。タイムマシンが実用化されて既に2年が経過しているものの、その存在を信じていない人々も大勢いる。タイムマシンは世界の幾つかの国が複数台所有しているが、一般市民が使用できるわけではない。

・無線のインターネット接続がどこででも可能になっている。核戦争後の荒廃で物理的アクセスに制約があるため、コミュニケーションツールとして重宝されている。一般的にデジタルカメラが主流で、フィルムカメラは主に専門家などが使用している。

・宇宙人は見つかっていない(現在UFOとされているものはタイターの時代よりもっと未来からのトラベラーなのでは、とタイターは語っている)。飲料水や淡水の確保が大きな問題となっているが、地球温暖化は、さほど問題になっていない。また、出生率は低く、エイズと癌の治療薬は発見されていない。

・核戦争による汚染がひどい。核戦争の後、人類は戦争に疲れ果て、それぞれの国が孤立化した状態になっている。現在のような活発な外交関係は無くなる。他国への航空便などは存在するが、本数は今よりも格段に少なくなる。しかし、核兵器や大量破壊兵器が完全に消滅したわけではなく、世界中にはまだ多数の兵器が存在している。

・人間の平均寿命が60歳に満たなくなっている。また、警察国家を信奉する勢力を壊滅させたとはいえ、完全に消滅したわけではない。そうした勢力が、タイターらの住むコミュニティの外に密かに存在している。そうした集団との戦争は続いている。

・信仰は2036年の人々の生活の中でも大きな存在であり、タイター自身もキリスト教徒であるが、宗教自体が現在のような一様な価値観からもっと個人的なものに移り変わっている。また、お祈りの日も日曜日ではなく土曜日になっている。

・善悪についての考え方が大きく変わった。これは一人の人間がとるあらゆる行動は、どこかの世界線につながっている、という世界観が広まったためである。

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ジョン・タイターはまた、IBM 5100の入手が、過去へ来た目的であると語っています。タイターがこの任務を任された理由については、「祖父がIBM 5100の開発に携わっていたため」と書きこんでいます。

IBM 5100には、マニュアルにはないコンピュータ言語の翻訳機能があることが2036年にわかったといい、彼の使命は、2年後に迫っている「2038年問題」に対応するためのものであり、過去から受け継いだコンピュータプログラムをデバッグするためにIBM5100が必要なのだとも語りました。

この「2038年問題」というのは、実際にそうした問題が発生する可能性があるといわれており、正確な日時は、2038年1月19日3時14分7秒であり、これを過ぎると、コンピュータが誤動作する可能性があるとされています。

細かい説明は避けますが、コンピュータ上の時刻の表現として「UNIX時間」というのがあり、これは「1970年1月1日0時0分0秒」からの経過秒数として計算され、これを実際に使用している多数のコンピュータ等のシステムがあります。

この起点の時刻は、最初にUNIXにそのような機能が実装された時にキリがよかった過去の時刻であり、たまたまそう決めたというだけのものに過ぎませんが、問題はこれを前提として作成されたプログラムの「終了時間」が、1970年1月1日0時0分0秒から2,147,483,647秒を経過した、2038年1月19日3時14分7秒とされたことです。

これを過ぎると、この値がオーバーフローし負と扱われるため、時刻を正しく扱えていることを前提としたコードを使っているコンピュータならば、誤作動する可能性があるということです。

また、彼が探しに来たというIBM 5100には、実際にこうしたプログラム上のエラーをデバッグできる機能があるそうで、このことは、コンピュータ工学者でアメリカで多数の賞を受賞し、実存するA. D. Falkoffという人もまたその自著でそのことをを語っているといいます。

しかし、我々の世界線においては、2000年問題への対策を通じて2038年問題を解決する方法も既に明らかになっており、システムメンテナンスによって大きな問題は起こらないと考えられています。

ただ、タイターの世界ではこのIBM 5100を持ちかえることで何等かの重要な問題が解決されるようであり、タイターはまた、彼が訪れた1975年の世界である人物に会い、このことについて語り合うことも目的の一つであった旨を語ったといいます。

未来からタイムマシンに乗ってやってきた、というのは荒唐無稽な話のようにも思えますが、このようにみてくると、彼が語った話というのは、「もしかしてだけど~♪」とも思えてきてしまいます。

ただ、こうした彼の未来予測に関するこれらの記述には、明らかに矛盾点があるといいます。例えば、彼が住んでいたという未来世界においては、世界情勢や混乱しているアメリカ以外の情勢への言及が少なく、あったとしても説明不足な点が多いという指摘があります。

また、中国が覇権主義を進めるきっかけとなった出来事や、ロシアが中国やヨーロッパ諸国を攻撃した理由がまったく語られていない点も疑問視されています。さらにタイターは未来でもドル紙幣が使われていると語っていますが、アメリカは内戦で既存政府が崩壊したという話と整合性が取れていません。

さらには、アメリカは第三次世界大戦に参加したといいますが、もし国内が内戦状態になっているならば、敵国と戦う余裕があるのか疑問です。

未来でもクレジットカードを使う人がいると語っていますが、中央集権的な銀行は全て崩壊したという話と整合性が取れていないといったこともあります。ただ、タイターは「コンピューター管理の全国規模の銀行は無いが、地域ベースの小規模銀行があり、貨幣やクレジットカードが使われている」とも述べています。

つまりこれは、現在の我々の世界に存在する地方信金のようなものであり、全国ベースのVisa・Master・Amexなどと違って、地元銀行カードのようなシステムが使われているというふうに考えることもできます。

しかし、一番問題なのは、このタイターが語ったとされる「事実」が、アメリカ国内でのアメリカ人同士のチャット内容という形でだけでしか残されていないということです。ジョーク好きのアメリカ人が飛ばした、究極のジョークとも受け取れることもでき、人を信じ込ませるために捏造された物語、と考えられなくもありません。

が、詐欺を行ったというわけでもなく、この話によって誰かが傷ついたり、名誉を失ったり、はたまた多額の金が動いたといったこともないようであり、かなり高尚なジョークと捉え、これによって多くの人を楽しませたのであれば、それはそれで許されるような気もします。

上述したように、タイターは、2001年3月に「予定の任務を完了した」との言葉を残し書き込みをやめ、現在は消息を絶っているといいます。

タイターが去った数年後に第三者がJohn Titor Foundationという団体を作り2003年10月27日に彼の残した記述内容を著作権登録しているといい、この話を真実だと信じている人は少なくないようです。

このタイターなる人物が実存するかどうかを信じるかどうかはあなた次第です。荒唐無稽な話しと思うかもしれませんが、案外とパラレルワールドなるものがあり、その世界における私、いや私とほんの少し違った人間が、狂った世界によって独裁者になっているかもしれません。

あるいは金融王になっているやもしれず、はたまた冒険家となって宇宙旅行をしているかもしれず、そういう想像をするのも案外と楽しいものです。秋の夜長にあなたもまた別の次元の自分探しをしてみる、というのはいかがでしょうか。

2014-1150027

LEDってなぁに?

2014-1170121先日の邦人3人がノーベル物理学賞受賞のニュースはまたたくまに日本中を席巻し、テレビをつけるとどこもかしこもこの話題でもちきりです。

青色発光ダイオード、LEDに関する発明による受賞、ということなのですが、この「ダイオード」とは、そもそもなんなのでしょうか。

調べてみると、一般的な定義としては、「順方向に電圧を加えた際に発光する半導体素子」ということのようです。それにしても、海洋工学が専門の私には電気・電子工学は畑違いでもあり、半導体とは何ぞや、何につかえるんじゃ、というところもはっきりと理解していないことが判明したので、今日はそのあたりのところを勉強していきたいと思います。

まず、「半導体」の意味ですが、これは、英語 “semiconductor” の “semi-” =「半分」と “conductor” =「導体」にもとづいており、「導体」とは電気をよく通す物質のことで、逆に電気を通さないものは「絶縁体」といいます。

半導体はこの二つに比してその中間的な性質を示すもので、材料としては、ケイ素、ゲルマニウム、カドミウム、といったいろいろなものがあります。この半導体の最大の特徴は、熱や光、磁場、電圧、電流などといった、物理的な外力によって、元々持っているその性質が顕著に変わることです。

例えば、電気を通した場合、その流れの方向を整えたり、電流が流れる途中で熱を発したり、さらには光を発したりします。こうした性質を使って電子機械に使われることが多く、いまや家電製品全般に使われているICにはこの半導体が多用されています。

ちなみに、ICとは、集積回路(integrated circuit)の略で、特定の複雑な機能を果たすために、多数の素子を一つにまとめた電子部品のことであり、またまとめることで装置の大きさを小さくできます。

さて、この半導体でできたダイオード(diode)は、その定義にもあるように整流作用、すなわち、電流を一定方向にしか流さない作用を持ちます。その昔はこの整流作用を真空管で行っていましたが、これは、真空にしたガラス管の中に電気抵抗の比較的大きい電線であるフィラメントと、これに向き合う板状の電極、プレートを封入したものです。

この真空中でフィラメント電極に電流を流すと加熱され、熱電子が放出されます。このとき、フィラメントから放出されたプラスの熱電子はマイナス側のプレートに向かって飛び、その逆にマイナスの電子を飛ばして、プラスのプレートにも飛ばすことができるわけですが、こうした仕組みによって自由気ままに飛び回る電子を制御するわけです。

その昔はこういうまわりくどいことをしないと整流効果が得られなかったわけですが、ところが、こうした作用を小さな素材にすぎないダイオードでは簡単にできるようになり、これにより、大きな真空管は不必要になりました。こうして電子回路は画期的に小さくなり、ひいては電子製品、電気家電の大きさを飛躍的に小さくすることに成功したわけです。

この「ダイオード」という言葉は、1919年、イギリスの物理学者、ウィリアム・ヘンリー・エックルがギリシア語の di = ‘2’と 英語の electrode = ‘電極’ の語尾を合わせて造語したものです。2つとしたのは、基本的にはこの半導体は二つの材料を組み合わせて作られるからです。

それでは、これに「発光」を加えた「発光ダイオード」とは何なのでしょうか。

発光ダイオードは、英語ではlight emitting diode、LEDといい、1962年、アメリカのニック・ホロニアックという技術者によって発明されました。

ホロニアックはもともと鉄道会社に勤める労働者で、苦学してイリノイ大学で博士号をとりました。そしてゼネラル・エレクトリックの研究所に入り、ここでこの発光ダイオードを発明し、これ以外にも41もの特許を取得している発明家でもあります。

アメリカの歴代大統領や、昭和天皇、ロシアのプーチン大統領からも賞を授与されたことがある実力者であり、アメリカでもIEEE(電気工学技術学会)のエジソンメダルを授与され、ノーベル賞の受賞候補とされたことも何度があります。が、これまでも何度も候補にあがったものの、そのたびに受賞を逸しています。

これについてホロニアックは、「自分がやってきたことが何かに値すると思うなんて、馬鹿げている。その番が回ってきたとき、生きていたら幸運ということだ」と語っており、いかにも謙虚な人です。が、ノーベル賞こそ受けてはいないものの、2008年には、アメリカの発明家の殿堂入りを果たしています。

このホロニアックが1962年に発明した発光ダイオードですが、発明当時は赤色のみでした。その後、黄色のものが、10年後の1972年に同じアメリカ人のジョージ・クラフォードによって発明されました。

これらアメリカ人によって発明された発光ダイオードの発光原理は「エレクトロルミネセンス効果」を利用しています。ルミネセンス(luminescence)とは、「物質が電磁波の照射や電場の印加、電子の衝突などによってエネルギーを受け取って励起され、自然放出による発光現象をおこすもの」です。

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???でしょうから説明します。「印加」とは、電気回路に電源などから電圧や信号を与える事を意味します。また、励起とは、光、熱、電場、磁場などに物質がさらされた場合に何等かのリアクションがおきることです。

たとえば励起により、落ち着いた状態であった物質が、活動を伴って活発になったり、高いエネルギーを持ったりし、ようするに「躁状態」になります。

つまり、何らかの力や熱などの「印加」を加えられることによって、「励起」行動を起こした状態がルミネサンスであり、この場合、その起こる現象は、「発光現象」です。そして、半導体中において、「電気」を与える加えることによって得られるルミネセンスは、エレクトロルミネセンス(Electroluminescence:EL)です。

また、ルミネセンスによる発光現象は、「蛍光」といいます。ちなみに、励起源からのエネルギーの供給を絶つと発光が止まるルミネセンスを「蛍光ルミネセンス」、残光を持つ物を「燐光ルミネセンス」と呼びますが、両者の区別はあまりはっきりしていないようで、両者をまとめて蛍光と呼ぶこともあるようです。

ルミネサンスには、こうした電気の作用によるエレクトロルミネセンス以外にも、光や熱などの他の作用によって蛍光現象を起こすものがあり、だいたい以下のようなルミネセンスがあります。

光によって励起するフォトルミネセンス(PL)
電子線によるカソードルミネセンス(CL)
熱による熱ルミネセンス
音響波によるソノルミネセンス
物理的な力によるトリボルミネセンス
化学反応によるケミルミネセンス

では、これらに比べて現在なぜ、エレクトロルミネセンス(EL)だけがもてはやされるのかですが、この答は簡単です。電気は自然界にたくさんあるエネルギーの中でもとくに人間が自由に扱え、蓄積が可能なエネルギーだからです。

光も比較的扱いやすいものですが、よく考えてみれば光は蓄積できにくいし、多少のコントロールはできるものの、まだまだ人間が自在に操れる段階のものとはいいにくいものです。また、音や熱も蓄積できますが、音はパワー不足ですし、熱は身近なところで使うためには危険すぎます。

電気だけが、一番人間が使いやすく制御しやすいうえに、大きなパワーを取り出すこともでき、かつ電線で遠くに簡単に運ぶこともできて、日常で側においておいてもほとんど危険ないほどまでに制御技術が進んでいます。

発光ダイオードは、人間が自由自在に使えるこの電気を作用させることで、光という励起状態を簡単に起こさせるようにしたものですが、さらに単に光るだけでなく、さまざまな分野に応用が利きます。これらは、例えばLEDディスプレイや大型テレビ、その他の大型映像装置、電光掲示板や看板といったものです。

このほか、パソコンやスマホのディスプレイのバックライト、各種照明用、信号機としての利用も進んでいるほか、光ファイバー通信の光源にも使われており、最近は、乗用車やバイクのランプ用のものも性能が向上してきました。

レーザープリンター内部の感光用光源としても使われますが、LED自体が小さいのでプリンターも小さくできる。最近飛躍的にレーザープリンターが安くなってきたのもこのためです。

その原理も簡単です。といっても、電気を通せば光る、というこの一見単純そうに見える現象を理解するためには、ちょっとした説明がいります。家の人や友達にも自慢できるように、ここでわかりやすく順番に説明しますので、一緒に勉強してみましょう。

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まず、ダイオードはその語源に2という数字が入っていますが、発光ダイオードに使う半導体も二つの種類のものをくっつけたものです。この接合のことを「pn接合」といい、半導体の中にあってそれぞれ接している種類の違うp型とn型の半導体が結合したものです。

電線に電圧を加えるとその中で電気は、「電荷」として移動します。電荷とは、すなわち「電気の量」であり、素粒子が持つ性質の一つです。また、プラスとマイナスの二つの種類がある、ということはご存知でしょう。

物体や空気中には、この電荷を持った粒子がたくさんありますが、正電荷と負電荷が等量だけ存在するときは正味の電荷量はゼロであり、正味の電荷量がゼロでないとき、つまり正電荷か負電荷のどちらかの方が多いとき、その物体や空間は「帯電」しているといいます。

しかし、帯電しているだけでは、電気は流れません。何等かの方法で、極端に電荷が不均衡に存在している状態を生み出してやることが必要であり、例えば水が高い点から低い点に流れるという性質を利用して、これによりタービンを回して取り出したエネルギーが電気です。また、化学反応によってこの状態を作るものが「電池」です。

さて、こうして生み出された大量の電荷は、通常は、「伝導体」として電気を通しやすい銅線などを使って流します。ところが、不純物をたくさん含んだ「半導体」の中でこの電荷を通そうとすると、簡単には流れてくれません。このため、この電荷の移動の担い手として、何等かの仲介物が必要になってきます。

この運び屋のことを、「伝導電子」と「正孔」といい、これらは合わせてキャリア(carrier、担体)と呼ばれます。二つあるのは、この2種のキャリアをうまく使い、電圧を加えることでそれぞれ電荷を互いに反対方向に移動させることができるようにするためであり、継続的に流すようにできれば、半導体の中に正反の電流が流せる、という筋書きになります。

この正孔(せいこう)は、ホール(hole)ともいい、半導体において、本来は電子で満たされているべき状態(これを「価電子」といいますが)が不足した状態にあるおとなしいキャリアです。逆に伝導電子は、「伝道」できるほど電子が豊富にあって元気で活発なキャリアといえます。

p型とn型の半導体がある、と上で述べましたが、このいずれの半導体も必ず伝導電子と正孔を持っています。しかし、その数が多いか少ないかでpであるか、nであるかが決まります。つまり、多数派のキャリアが伝道電子か正孔のどちらであるかによって、p型とn型に区別されるというわけです。

n型の半導体は「伝導電子」を多く持ち、p型の方は「正孔」が多いということであり、多少語弊があるかもしれませんが、これは分かりやすく言えば凸と凹の関係と言ってもよいかもしれません。

このn型とp型の別は、半導体として製造するときに、「ドーパント」と呼ばれる微量の添加物を混ぜて不純物半導体とする際のその割合によって決まり、これを加えることを「ドープ」するといいます。

このドープを厳密に調整して行なうことで電子や正孔であるキャリアの密度を上げ、nとpそれぞれの半導体が、電子部品用半導体としての特性を持つように製造されます。そして、このp型とn型の半導体を接合した発光ダイオードに電圧をかけると、その接合部付近では伝導電子と正孔が互いに結びつき、このとき強いエネルギーが放たれます。

凸と凹が合体して電子のエネルギーが放たれるためであり、このエネルギーは直接光エネルギーに変換され、すなわち「光」を放ちます。そして、これが「発光ダイオード」といわれるゆえんです。

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基本的には、この光を放つために熱や運動の介在を必要としません。電気さえあればいいわけです。また、電気を通すのをやめれば、光を放たなくなり、再び通電すればまた光るといったふうに繰り返し使えます。

放出される光の色は、ダイオードに使われる材料の種類によって決まり、これにより赤外線領域から可視光線領域、紫外線領域まで様々な発光を得られます。しかし、基本的には単一色しか作れず、その意味では自由度は低い素材です。

ただ、光の三原色、つまり青色、赤色、緑の発光ダイオードを用いることであらゆる色が作れ、フルカラーでの表現が可能です。また、青色または紫外線を発する発光ダイオードの表面に蛍光塗料を塗布することで、白色や電球色などといった様々な中間色を醸し出すこともできます。

ダイオードの発光時の消費電流は表示灯用途では数mAから50mA程度ですが、照明用途のものでは消費電力が数10Wに及ぶ大電力の発光ダイオードも市販されており、最大駆動電流が10Aに迫る製品も存在します。それでも、60Wや100Wが主流である白熱電球に比べれば消費電力は極めて小さいわけで、白熱電球では、200Wにも及ぶものさえあります。

このように数々の優れた特徴を持つ発光ダイオードですが、これが現在のように普及されるまでにはさまざまな困難がありました。その最大の問題はこれを作る材料です。

発光ダイオードから放出される色は、pn接合を形成する素材の持つ波長の特性に左右されます。このため、色々な色を出すためには、近赤外線や可視光、紫外線に至るまでさまざまな波長に対応した半導体材料が必要になります。

しかし、p型半導体とn型半導体をそのものだけではいろんな色を出させることはできません。このため、pnを合体させるために不純物をドープする際、これに加えてさらに光を発しやすくする材料をも加えることで、発光がしやすくなります。

そして、これまでは、アルミニウムガリウムヒ素や、ガリウムヒ素リン、インジウム窒化ガリウムといった様々な不純物を加えて橙・黄・緑・青・紫・紫外線といったいろんな発光ダイオードが作られてきました。

ところが、この中でも青だけは、発色はできるものの、なかなか強い発光をするものが見つかりませんでした。また、青くて強い光を出す結晶が発見されても、すぐに劣化してしまって使えなかったり、構造や製造過程が複雑すぎて簡単に製造できず、発光ダイオードの特性である小さいがゆえに「安価」という最大のメリットを生かせませんでした。

そこで、青い色を放ちやすくなる半導体材料であり、なおかつ強い光を放つものはないかと、多くの研究者が鵜の目鷹の目でさまざまなものを探すようになりました。なぜなら、それまでに開発されていた赤や緑色に加えて青色の強い光を発するダイオードができれば色の三原色が揃い、上でも述べたとおりほぼすべての色の再現が可能になるからです。

1980年代前半、この青色発光ダイオード探しは研究者の中で加熱しましたが、その結果、ほとんどの研究者は「セレン化亜鉛」と呼ばれる物質が用いて青緑色発光ダイオード作製を目指すようになります。ところが、このセレン化亜鉛ではn型半導体は作りやすいものの、p型を作るのは至難ということがわかりました。

しかも、なんとか精製できても寿命が短く、このため製品化には至らず、多くの研究者がセレン化亜鉛をあきらめ、別の道を探りましたが果たせません。やがてはほとんどの人が青色ダイオードの開発をあきらめ、21世紀中の開発は不可能とまで言われるようになりました。

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ところが、今回ノーベル賞を受賞したうちの、赤崎勇教授は、窒化ガリウムという物質に当初から目をつけていました。赤崎教授は京都大学理学部化学科を卒業し、神戸工業(現富士通テン)に入社後、名古屋大学で助教授をやっていましたが、1964年松下電器産業東京研究所(現パナソニック)の基礎研究室長に就任していました。

なぜ窒化ガリウムだったのか、ですが、これは赤崎教授がそれまで多くの人が研究していたセレン化亜鉛よりも窒化ガリウムのほうが放出エネルギーが高く、何よりも結晶が安定していて固くて丈夫といった、将来製品化する上においての諸条件を備えていると考えたためでした。

このため、同研究所で1973年ごろから、この開発に着手しはじめました。その元となる「ガリウム」は原子番号31の元素で、青みがかった金属光沢がある金属結晶ですが、これを窒素と化合させたものが窒化ガリウムになります。

しかし、文字では簡単に化合させる、と書けますが、実際にはこの化合が一筋縄ではいきません。赤崎教授は、それまでの10種類以上の半導体を結晶化させてきた実績を生かし、高品質の窒化ガリウム結晶を得るためにさまざまな方法を試しました。

が、なかなか安定した結晶ができず、このため、この研究のためだけに10年もの月日が流れていきました。ところが、1970年代の後半ごろから、MOCVDという技術が開発されるようになってきました。

これは、Metal Organic Chemical Vapor Depositionの略ですが、人工結晶物などで作った基板の上に、原料を吹きつけ、そこに目的とする結晶を成長させるという技術です。

結晶成長のために吹き付けるガスの製造においては、個体を熱して「蒸化(Vapor)」させるという物理的なプロセスが重要視されることから、MOVPE (Metal-Organic Vapor Phase Epitaxy)とも呼ばれ、日本語では「有機金属気相成長法」と呼ばれています。

原料として有機金属やガスを用いた結晶精製方法であり、有機金属とは金属と炭素との化学結合を含む化合物のことです。これを高温でガス化し、基板表面での化学反応により「膜を」堆積させる方法であり、こうした方法を「化学蒸着(CVD: chemical vapor deposition)」といいます。

分かりやすい例では、切削工具の表面に錆がこないように黒い膜が吹きつけた処理をしてあるのを見たことがあると思いますが、あれの応用版がMOCVDということになります。

原料ガスの混合により色々なものが含まれた材料を形成する事が容易であり、混合された原料ガスが加熱された基板に達すると分解・化学反応をおこし、結晶を継続して堆積させることができます。また、原料ガスの流量比・温度・圧力などを変えることによって様々な組成・物性・構造を持つ半導体を作ることもできるという優れものです。

このころ、赤崎教授は、松下電器を辞め、1981年名古屋大学教授に戻り、教授に就任していましたが、早速このMOVPEを導入することを決め、研究室にいた学生たちとともにその開発に乗り出しました。

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赤崎教授は、化合物半導体の国際会議が1981年に日本ではじめて開催されたとき、この学生たちを引き連れてこの会議に出席し、このころ開発を始めたばかりの窒化ガリウム製造技術を発表したといいます。

当然、窒化ガリウムの優れた構造は、相当関心を呼ぶだろうと思ったのですが、まるで何の反応もなかったといい、また、このとき、窒化ガリウムに関する発表をしたのは彼等だけだったといいます。そして、このとき赤崎教授とともにこの発表に参加していたのが、誰あろう、今回赤崎さんとともにノーベル賞を受賞した天野浩さんでした。

ちなみに、この天野さんは、静岡県の浜松市出身で、この2年後の1983年、名古屋大学工学部電子工学科を卒業したあと、1989年に名古屋大学から工学博士の学位を取得。名城大学理工学部の講師・助教授・教授を経て、2010年から名古屋大学教授を務めています。

さらにちなみに、ですが、この天野氏というのは、現在我々が住んでいる修善寺からもほど近い伊豆国田方郡天野郷(現・伊豆の国市天野)が発祥とされる一族です。居住した地名を取って天野と称したようです。

その遠祖は、天野遠景といい、伊東祐親の下で幽閉生活を送っていた源頼朝と狩や相撲を通じて交流を持ち、親交を深めました。そのため頼朝の挙兵当初から付き従うこととなり、鎌倉幕府の隆盛のためにも尽力しました。天野氏はその後、遠江天野氏、三河天野氏という二つの系統に別れましたが、この天野浩さんもそのどちらかが先祖でしょう。

天野さんは、名古屋大学を卒業後も大学に残り、赤崎教授の右腕として、引き続きMOVPE法を用いた窒化ガリウム精製との戦いを続けました。

このMOVPEは、円盤状の薄い基板の上にガスを吹き付けて目標とする結晶物を積層させるという技術なわけですが、この窒化ガリウムの精製には窒素やガリウムなどの混合ガスが使われました。また、この基板としては当初からサファイアが用いられていました。

基板の材料としてサファイアがよく使われるのは、機械的、熱的特性、科学的安定性、光透過性に優れているためです。ところが、これに窒素とガリウムの混合ガスを何度吹き付けても目標とするような純度の高い窒化ガリウムができません。

結晶をさせようとすると、基板のサファイアとここ作られる予定の窒化ガリウムとの間に、隙間ができてしまい、うまく結晶化しないのです。その原因としては、サファイアと窒化ガリウムとの間に、結晶軸の長さや角度の相違、熱膨張係数の違いがあり、このため二つの物質が接する面に、「界面エネルギー」が発生するためと考えられました。

これは、液体が気体と接しているときには表面積を最小にしようとする「表面張力」と同じようなものと考えていいでしょう。

これが大きな障壁となり、なかなか、ダイオードに使えるような高品質のものができませんでしたが、試行錯誤のあげく、ようやくその閉塞状況を打破したのが「低温堆積AlNバッファ層技術」でした。

天野さんが卒業してから、既に5年を経た1986年のことであり、この技術の導入により、界面エネルギーを緩和し、ようやく窒化ガリウム単結晶を成長させることができるようになりました。

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具体的には、サファイアと窒化ガリウムの結晶の間に、単結晶ではない薄層を緩衝層(バッファ層)として、サファイア基板(サファイア)の上に低い温度で薄く積んでおく、というもので、このバッファ層は、かなり「低温」で積むことで、「非晶質」を保った薄層になります。

非晶質と言われる物質には、天然に産出する鉱物では、例えばオパールなどがありますが、赤崎教授たちが使ったのは、AINといい、これは「窒化アルミニウム」というものです。

無色透明のセラミックスで、セラミックの中では熱伝導率が高く電気絶縁性が高いため、発熱する機械・電気部品に取り付けて、熱の放散によって温度を下げることを目的にした「ヒートシンク」の部材としてもよく使われます。

こうして、これを緩衝剤として使うことで、ようやくクラックやくぼみの全くない無色透明の窒化ガリウム単結晶を作れるようになりました。そして出来上がったこの結晶は結晶学的にも優れたものでしたが、光学的、電気的特性など全ての重要な特性を兼ねそろえたもので、従来の実験によって造られたものよりも格段に質が向上していました。

実際にLED素材として使うためには、円形のサファイア基板上にできたこの窒化ガリウムの薄い板をモザイク状に切ってチップとして使いますが、表面の凸凹が少ないため、チップの上に素子などの部品を乗せやすく、実装時に欠陥がおきにくいのも特徴です。

このブレークスルーにより、以後、低温バッファ層技術は世界のスタンダードになりました。この技術によって、望み通りのpnそれぞれの半導体が製造できるようになり、そのpn接合による青色発光ダイオードが実現されただけでなく、それまで困難とされていた種類の発光ダイオードのほとんど全てが実現されるようにもなりました。

また、この技術を元に、この当時日亜化学に所属していた中村修二さんが、さらに効率よく結晶を作り出すツーフローMOCVDという装置を完成させました。

このツーフローMOCVDというのは、装置に備え付けた基板の上に、縦方向からと横方向からという2つの流れによって成長基板に原料をあてるというもので、中村さんが日亜化学時代に発明し、より純度の高い窒化ガリウムの成長を成功させたものです。

従来のMOVPE装置では、水平に置かれた基板に上方から材料ガスを供給していたために、1,000度程度の高温に熱せられた基板表面からの熱対流により材料ガスが舞い上がり、基板まで届きにくく、うまく成長を行うことができない、という欠点がありました。

そこで、中村さんが横方向から吹きつける窒素ガスの原料ともなるNH3(アンモニア)を流してみたところ、よりうまく基板に窒化ガリウムが付着させることができるようになり、さらに良質な窒化ガリウム結晶の成長を得ることができるようになりました。

と、これも簡単にさらっと書きましたが、この方法を思いつくまでには相当な試行錯誤があったはずであり、中村さんが開発を思いついた1988年ごろから、日亜化学工業が、高輝度の青色発光LEDを1993年に製品化するまでには5年もの月日が流れています。

こうして世界で初めて窒化物半導体を用いた高輝度青色発光ダイオードの製品化は、彼にもノーベル物理学賞をもたらしました。

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実は、この中村さんという人は、私と同じく愛媛県生まれです。しかも、愛媛県西宇和郡瀬戸町(現在の伊方町)生まれであり、小学校時代に隣町の大洲市に転居しているため、大洲市生まれの私とは同郷ということになります。

だからなんだ、お前もエライのかといわれてしまいそうですが、ちなみに隣町である喜多郡内子町(旧大瀬村)からは、1994年にノーベル文学賞を受賞した大江健三郎が出ています。天才が出やすい地域なのでしょうか(-_-;)。

フロリダ大学に1年間留学していた、という点も私と共通しています。大学院終了後、日亜化学工業に就職し、開発課に配属されますが、現場の職人からガラスの曲げ方などを習い、自らの手で実験装置などの改造を行っており、これらの経験が、MOCVD装置の改良に生かされ、後の発明につながったと述懐されています。

フロリダに留学した経緯は、青色発光ダイオードの開発をこの当時の日亜化学工業社長の小川信雄に直訴し、その結果、アメリカでその基礎研究をすることを許されたためであり、留学費用とその後の開発費用のために、この当時、中小企業としては破格の約3億円ものお金が渡されたといいます。

この日亜化学工業への入社は、当初彼の予定にはなかったようで、徳島大学の大学院修了を控えて某大手企業に面接に行ったところ、「理論家は要らない」と言われ、このため、京セラを受験したそうです。この時の面接官は創業者の稲盛和夫だったそうで、この受験に中村さんは合格しました。

しかし、大学院1年生の時に学生結婚し、修了時には子供もいたため、子供の養育の関係から、地元就職を希望。大学の指導教授の斡旋により日亜化学工業を受けました。採用時期を過ぎていて断られかけたものの、英語の成績が良かったことが幸いして採用されたといいます。

徳島県阿南市に本社を置くこの日亜化学で、中村さんはその後半導体ウェハーなどを開発しました。が、ブランド力や知名度が低く売れなかったそうで、そこで、まだ実用化できていないものに取り組もうということで始めたのが、青色発光ダイオードへの挑戦でした。

フロリダからの留学後、日亜化学工業に戻り、2億円ほどするMOCVD装置の改造に取り掛かりますが、会社命令を無視、会議にも出席しない、電話に出ない、と、通常のサラリーマンとしては失格と言われても仕方のない勤務態度だったそうです。が、度量の広いこの創業者社長のおかけで破格の研究費の元で実験を続けることができました。

先日、中村修二へのノーベル物理賞授与が発表されたときも、中村修二はインタビューに応えて「日亜化学の先代社長の小川信雄氏には感謝している。彼の研究支援がなかったらこのノーベル賞はなかった」と述べています。

その後、青色発光素子である窒化ガリウムの結晶を作製するツーフローMOCVDを発明し、窒化ガリウムによる高輝度青色発光ダイオードを開発に成功するわけですが、しかしこの当時の日亜化学工業での待遇の悪さから、アメリカの研究者仲間からは「スレイヴ(奴隷)中村」とあだ名されたといいます。

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この中村さんが発明した、ツーフローMOCVDという技術のために出された特許は、通称404特許と呼ばれ、日亜化学工業と特許権譲渡および特許の対価の増額を争った、という話はテレビのニュースでも何度も流れ、みなさんもご存知でしょう。

この高裁控訴審においては、結局高裁から示された和解勧告に中村さんは応じ、東京地裁での判決では日亜化学工業に対し、中村さんに200億円を支払うよう命じたのに対し、この裁判では関連特許などの対価などとして、日亜化学工業側が約8億4000万円を中村に支払うだけで和解が成立しています。

これに対し、中村さんは弁護士とは異なる記者会見を設け「日本の司法は腐っている」と述べたそうです。しかし、日亜化学工業はこの訴訟中にツーフローMOCVDは無価値だと述べ、訴訟終了後にも特許権を中村さんに譲渡することなく放棄しています。

その後中村さんは渡米して研究をカリフォルニア州のカリフォルニア大学サンタバーバラ校・材料物性工学部教授に就任されており、最近の研究は窒化物半導体を用いた光触媒デバイスに関するものだそうです。

これは、窒化ガリウムの結晶と導線で結んだ白金を電解質水溶液に浸し、窒化ガリウムに光をあてることで電流を発生させ、水を電気分解することによって水素と酸素に分離するというものです。

この成功により、水素自動車などの開発に拍車がかかることが期待されるとともに、光を使って水から水素を容易に取り出せることから、新たなエネルギー変換技術として期待されているようです。

なお、中村さんは、アメリカで研究を続ける都合により、米市民権を取得し米国籍となっていますが、このため先日のノーベル賞受賞者発表時にもあちらのプレスが、「American Citizn」と発表して議論を巻き起こしました。

ただ、ご本人は日本国籍を捨てた訳ではないと答えているそうです。が、日本の国籍法上では、自ら他国の国籍を保持した際の二重国籍は認めていないため、本人の意思とは関係なく、米国籍の取得により日本国籍を失っている、ということになるようです。

こういう反骨精神に優れた人は早く帰ってきて日本の科学技術の発展につくしてほしいものですが、のびのびとした研究を続けるためには今のままが良いのかもしれません。

が、最近は日本人によるノーベル賞の授賞者がどんどん増えてきているようでもあり、日本の科学技術の土壌もどんどん良くなってきているに違いありません。今日のこのブログを読んでいる方の中にもまだ若い方も多いと思われますが、そうした人達の中から次のノーベル賞受賞者が出ることを願ってやみません。

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タマムシは噴火を予知できるか

2014-4228台風一過のあとの伊豆はスカッ晴れかと思いきや、昨日は曇りがちで、しかもやたらに寒く、思わず冬用のトレーナーを取り出して着る始末でした。

が、今日からはお天気が回復するようで、今朝は富士さんもよく見えていました。それにしても、そろそろ初雪がありそうなものですが、まだその頂きは真っ黒なままです。早く白化粧をしてまた青空に輝く富士が見たいものです。

ところで、同じ真っ白でも火山灰で真っ白になっていた御嶽山も、この台風に伴う雨で、元の灰色状態に戻っているようです。噴火からまたたくまに2週間近くが過ぎ去ろうとしていますが、まだ行方不明者が多くいてその捜索もこの灰泥によって難航しているようです。

今後こうした火山災害を防ぐためには、その予知のための機器の開発と現地への設置が望まれています。しかし、こうした機器の開発は遅々として進まず、何よりも高額なために、日本全国に100以上もある活火山すべてにこれらの装置を投入することができません。

そこで、ふと思い出したのですが、先日の、といっても7月1日ですが、この日のNHK・TV番組「クローズアップ現代」は「生物模倣技術」に関する最新情報を伝えていました。「生物に学ぶイノベーション ~生物模倣技術の挑戦~」というタイトルでしたが、ご覧になった方もいるのではないでしょうか。

この番組によれば、世界で最も強じんな繊維と言われるクモの糸が、日本最新のバイオテクノロジーで人工合成への道が開かれ、これに世界が注目している、といったことや、また壁や天井を自由自在に歩けるヤモリの足の裏の構造を参考に、驚異の粘着性能を持ちつつも簡単にはがせるヤモリテープが商品化される、といったことが話されていました。

私が思い出したこの番組の内容とは、この中で、ある種の玉虫は、赤外線を感知する器官が発達しており、これによって数10km離れた火山活動を感知することができるため、これをもとにした新しい火山活動検知器が研究され始めている、ということでした。

こうしたタマムシのひとつに、「ナガヒラタタマムシ」というのがいます。日本には生息していないようで、おそらくは山火事の多い北米大陸原産のタマムシだと思いますが、このタマちゃんは、山火事が起きると、ほとんどの動物が逃げてしまうのに対し、喜んでやって来るそうです。

なぜなら、火事で燃え残った木は、卵を産みつけるのに格好の場所だからであり、しかも、火事で焼けた現場は、捕食動物が追い払われているため安心して食べ、交尾し、産卵できるためです。

このナガヒラタタマムシの中脚の横には、「孔器」と呼ばれるセンサーが付いており、山火事によって放出される赤外線を検知できます。孔器は、赤外線の入射による温度の上昇を検知し、炎の発生している場所へこのタマムシを向かわせるのです。

また、お気に入りの木が燃えると,大気中に放出される微量の化学物質を「触角」によって検知することもできます。ある研究者によれば、この“煙探知器”とも言える触角によって、約800㍍先でくすぶる1本の木にさえ気づくことが分かったということです。

このタマムシの触覚は、アカマツを燃やして発生させた揮発性物質に高い感受性を示すことも実験によりわかっています。立木などの生木が不完全燃焼のまま熱せられた場合、その組成の20~30%を占めるリグニンという物質が放出されますが、この物質に敏感で、数ppb(10億分の1)という濃度単位で探知できることが確認されています。

さらに、別の調査結果では、直径30cmの松の木の高さ2mから下が焼けた場合、1時間に7gのこの揮発性物質が放出され、この場合、弱風下でもおよそ1km以上離れた場所でタマムシはこの火事を感知できたそうです。

従来の感度の高い赤外線式の熱感知器は冷却する必要があり、このため高額になりがちでしたが、研究者たちはこうしたタマムシの孔器と触角の双方を調べることによって、より効率的に赤外線や火災を検知する装置の改良法を探っています。

その結果、もっと高感度の火災警報器が開発するヒントが得られるかもしれず、さらには、山火事や火山噴火で発生する物質と他の化学物質との違いを識別できる、もっと感度の高い検知システムが開発される可能性もあるわけです。

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このように人類は、これまでも生き物の持つ能力に一歩でも近づこうとしてきましたが、生物の構造や運動を力学的に探求したり、その結果を応用することを目的としたこうした学問をバイオメカニクス(英語:biomechanics)といいます。

また、これを工業化技術に応用したものを「生物模倣技術」と呼び、これはバイオニクス (bionics)もしくは、バイオミメティクス(biomimetics)といいます。

近年、この生物模倣技術の開発が、新たなイノベーションを引き起こそうとしています。新たな成長分野として熱い期待を集めており、日本は、この分野で、世界のトップランナーになれる可能性を秘めています。

すでに絶滅した種も含め、生物はすべて、何百万年もの自然淘汰を経て、最適化されてきたデザインの成功例といえますが、南北に長いこの国土には、9万種もの多様な生物が生息しており、そのすべてがばく大な資源となりうるからです。

例えば、北海道大学の博物館には、100年以上にわたって収集されてきた生物の標本、およそ300万点が保管されています。これらの標本は、羽や体の表面の構造、そして、手足や関節の仕組みなど、生物が進化させてきた機能を知る貴重な手がかりであり、生物学にとっても宝の山です。

この博物館では今、標本を電子顕微鏡で撮影し、分類することで、生物資源のデータベース化を進めています。また今後、全国の博物館からのデータを集め、オンラインで技術者に提供することを検討しているということで、これが公開されれば、工業製品などへの応用も一気に加速しそうです。

北大ではさらに生物学、材料工学情報科学などの専門家たちが月2回集まり、こうした生物の画像を共に分析することで、製品化の可能性を探る検討会なども始まっています。

この研究者たちのネットワークが今、とくに注目している生き物がいます。モンシロチョウです。検討会で見たチョウの画像から、新たな素材のヒントが得られたといい、これはチョウの細長い口の断面であり、注目したのは、内側の表面にある微細な構造です。

チョウは、ストローのように細長い口で、粘り気のある花の蜜を吸っています。しかし、蜜を吸い込むために必要な大きな筋肉はなく、そのメカニズムは謎でした。ところがその微細構造を細かく調べたところ、口の内側の構造によって表面張力が強まり、吸い上げなくても、蜜が自然に上がってくるらしい、ということがわかってきました。

つまり、このチョウの口の構造を応用すれば、ポンプなどを使わない液体の輸送技術などが開発できるかもしれない、というわけです。

一般に、工学に関わっている人たちの中には生物は苦手という人も多いでしょう。が、生物の専門家と一緒に、その垣根を少しずつ減らしていくことで、新しいアイデアが生まれる可能性もあり、こうした複合領域における技術開発が進むことは、技術立国を目ざす日本では非常に有用なことです。

事実、最近、こうした工学者と生物学者のコラボによる生物模倣技術の画期的な研究成果が相次いでおり、昨日、ノーベル物理学賞を邦人3人が受賞して日本国中が沸きましたが、平成20年にノーベル化学賞を受賞した、下村脩さんの受賞要因となった、「緑色蛍光タンパク質」は、「オワンクラゲ」というクラゲが持つ蛍光タンパク質の抽出が鍵になりました。

近年急速に発達した遺伝子組換え技術においては、作成された遺伝子が、生体の中のとこでいつどのくらいできているのかを確認することが重要になりますが、これを簡単に確認できるようにするための遺伝子を「レポーター遺伝子」といい、この蛍光タンパク質(GFP)はこれに応用されています。

蛍光タンパク質が光るために確認できやすくなるためであり、現在までに蛍光強度や波長特性、適応温度、発色速度などが様々に異なる改変型GFPが作られるようになり、細胞生物学・発生生物学・神経細胞生物学の分野で広く使われています。

工学ではなく、医学と生物学とのコラボの産物ではありますが、昨今はなにかとこうした異分野の交流だけでなく、産官、あるいは産学、もしくは産官学による技術開発も目立ちます。

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冒頭で少し述べた人工のクモの糸も、産学のコラボでできたもののひとつです。開発したのは、山形県鶴岡市のベンチャー企業で、これは慶應大学へのベンチャーキャピタルによる成果のようです。ベンチャー企業などが大学の研究室などに投資し、その開発成果を得て商品などの開発を進め、利益を得る、という仕組みです。

これによって生み出されたのが、クモの糸の構造をまねて人工的に作ったクモの糸であり、青い色をした糸だそうです。実験では、ナイロンより高い伸縮性を実現し、今後さらに改良を進めれば、さらに強度は、鋼鉄製の糸の2倍にも達することが分かりました。

この糸をシート状に編んで、自動車のボディーなどに使えば、従来より軽くて丈夫な車を造ることも可能といいます。

クモの糸は、以前から優れた性質を持つ夢の繊維として、注目されてきました。クモが出すさまざまな糸の中でも、ぶら下がるときに使う糸は、特に強さと伸縮性を兼ね備えています。その秘密は、分子レベルの構造にあることが分かっており、主な成分は、「フィブロイン」と呼ばれるたんぱく質で、硬い部分と軟らかい部分が並んだ構造をしています。

これが集まって糸になるとき、硬い部分はくっつき合って頑丈に、軟らかい部分は絡まり合って、伸縮性を発揮します。この独特の分子構造が、丈夫さとしなやかさを両立させ、クモの糸の驚異的な強じんさを生み出していたのです。

しかし、クモは縄張り意識が強く、すぐに共食いしてしまうため、絹糸を作るカイコのように、大量に飼うことができません。従ってこれまではそうしたものを人工的に作ることは不可能といわれてきました。

これを可能にしたのが、最新のバイオテクノロジーであり、その生成にはバクテリアを使います。まずある種のバクテリアにクモの糸を作り出す遺伝子を入れます。すると、バクテリアはクモ遺伝子の命令に従って、フィブロインを作り出します。そして温度や栄養などを調整すると、バクテリアはフィブロインを大量に産出するようになります。

こうしてクモの糸の原料となるフィブロインを大量に含んだ液体が培養されますが、これだけではまだ糸にすることはできません。このためこの培養液を精製して純度を高めます。すると、フィブロインだけが回収できますが、これをさらに特殊な溶液に溶かします。

すると、ゴム状に固まり、これを細く圧縮して押し出すことで糸状にします。単体でも使えますが、束ねて使えばさらに強度は増すことになり、上述のとおり布のように織って使うこともできます。

自動車だけでなく、飛行機やロケットといった乗り物にも応用できるだけでなく、もしかしたら先日このブログでも紹介した「宇宙エレベーター」などにも応用できるかもしれません。現在、量産に向けた計画も動き出しており、年内には試験プラントが稼働する予定だそうです。

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こうした小さな生物の機能を応用したものは他にもあり、ハチドリをモデルにした、重さ僅か数グラムの、超小型の飛行ロボットの開発も進んでいます。ハチドリの複雑な羽の動きをハイスピードカメラで撮影し、スーパーコンピューターで解析することによって、ロボットに応用しようとするものです。

アメリカの無人機・電気自動車メーカー、AeroVironment社が、軍事目的の偵察機として研究を進めているものなどがあり、同社は開発に5年、400万ドルの費用をかけて既に試作機を完成させています。最初は屋内で数十秒だった飛行時間が、最近では風のある屋外でも8分間に伸び、カメラから映像を送ってくるまでになっているといいます。

さらに、壁や天井を自由に歩き回る、ヤモリの足の接着方法をまねた接着テープの開発も進んでいます。それを後押ししているのが、ナノテクノロジーの進展であり、従来より小型化され、高性能になった電子顕微鏡が普及したことで、100万分の1ミリ単位での観察が容易となっており、これがこの技術の開発を可能にしました。

開発しているのは、電子部品などを作っている日本の日東電工という会社で、同社の研究スタッフは、この電子顕微鏡を使った観察により、ヤモリの足の裏には、吸盤や粘着物質はなく、数億本に枝分かれした微細な毛が生えていて、物質と引き合う特殊な力が働いていることを発見しました。これをまねて、実用化されたのが、ヤモリテープです。

強く接着するのに、簡単に剥がすことができ、繰り返し何度も使えますが、その素材としては、宇宙エレベーターへの採用も決まっている、カーボンナノチューブであり、これを微細加工することによってヤモリの足の裏の構造を再現しているようです。

このほかにも砂漠で砂の上をすいすい移動するトカゲの仲間に注目している日本の研究者もいます。このトカゲは、何等かの方法によってざらざらとした砂の上を滑らかに歩いていると考えられており、その理由がわかれば、回転摺動を高める、いわゆるベアリングの技術などに応用することができます。

このように、生物の数だけ、人工物が学ぶべきヒントはあると言ってもよく、日本が目指す生物模倣技術というのはいくらでもありそうです。しかし、上に紹介したものは主に模倣技術ですが、こうした機能の再現だけではなく、その生物が自らの体を作っているその製造方法にも学ぶところが多々あります。

例えば、新素材の研究を行っている、東京大学の垣澤英樹准教授の研究室では、「アワビ」を研究対象にしています。アワビの貝殻は炭酸カルシウムを主体とした物質でできていますが、これは一種のセラミックスといえます。

しかし、単なるセラミックスとは違って、非常に割れにくい性質を持っており、その割れにくさの秘密を調べれば頑丈な構造物ができるようになるかもしれません。アワビの貝殻を電子顕微鏡で観察すると、その貝殻は厚さ1ミリにつき、薄い板が1000枚以上も積み重なり、板の間にも軟らかい接着層が挟まる複雑な構造をしているそうです。

これがこの貝殻が強靭な理由ですが、さらにこの貝殻に力が加えると、その一番外側にある薄い板が1枚ずつつ壊れます。が、さらにその内側は破壊されることなく、破壊の進行を食い止めます。また、板の間の接着層もクッションとなって、衝撃を吸収するため、簡単には割れません。

アワビは、ほとんどエネルギーや資源を使わず、海水中の炭酸カルシウムを取り込んで、この貝殻を成長させます。人間のように、高温で焼き固めたり、高い圧力をかけることなく、ありふれた物質だけを使って、強じんな貝殻を作れるように進化してきたのです。

このアワビのようにその生体の製造方法をまねすることができれば、エネルギー消費が極めて少なく、しかも環境に優しい強靭な構造体の製造技術が確立できる、というわけであり、このように何億年という歴史の中で淘汰されてきた結果生物がたどり着いた生体の生成方法を研究すれば、いろんな技術に応用できそうです。

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こうしたバイオミメティクスの技術は、無論、日本だけでなく、海外でも研究はさかんで行われており、ここのところ毎年のように東京都内で生物模倣技術の研究者が一堂に会した会合を行っているということです。

大学や企業などの研究者、およそ100人ほどが毎年世界各国の最新技術を報告しあっているそうで、この会議には日本人だけでなく、海外の研究者も参加しています。昨年発表されたものの中で、いちばん注目を浴びていたのが、ドイツのトンボの飛行をまねたロボットで、これは、バイオニックコプターと呼ばれていました。

上述のハチドリの模倣技術もさることながら、昆虫や鳥の飛行方法の研究はいろいろあるバイオミメティクスの中でも人気のあるもののようです。

このほか、生物の生体製造技術の模倣としては、熱帯の鳥や甲虫がもつ金属的な光沢や鮮やかな色彩もよく研究対象になっています。

こうした生物の鮮やかな色は、色素によるものだけではなく、微細な構造が生みだしており、それは、特定の波長の光だけを反射するよう、実に巧みに配置された構造でだといい、このような構造が生む色彩は、色褪せることがなく、色素による色よりも鮮やかです。

このため、塗料や化粧品、クレジットカードの偽造対策のホログラムなどに利用できるといい、アメリカの企業が大きな関心を寄せているそうです。

また、南米に生息する、「オオハシ」という鳥のくちばしは、木の実を割れるほど頑丈なうえに、飛行の妨げにならないほど軽く、丈夫で軽量な構造として注目されており、ハリネズミとヤマアラシの針毛は、無駄のない構造でみごとな弾力性があります。

ツチボタルはほとんどエネルギーを使わず、熱を放出することなく、かすかな光を放ちますが、これに比べ、白熱電球は消費電力の98%を熱として失う非効率的な発光装置です。また、いわゆるヘッピリムシは、尾部に効率のよい化学反応室を備え、高温ガスを敵めがけ噴射します。

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乾燥したオーストラリア大陸はそのほとんどが砂漠地帯であり、最も乾いた地域であるだけに水の確保が生死を左右する場所であり、こうした死の土地に巣くう生物の観察によっても重要な発見がなされそうです。

この地において、この水不足の問題をみごと解決している生物がおり、これは「モロクトカゲ」といいます。この生物をシャーレに入った水の上に置いた実験では、ものの30秒ほどで、シャーレの水がトカゲの後ろ足を伝って背中へと吸い上げられ、とげにおおわれた背中全体の皮が濡れてくるそうです。

さらに数秒後、水は口に達し、トカゲは舌なめずりするようにあごを閉じたり開いたりします。つまり、モロクトカゲはいわば足から水を飲んでいるのです。もっと時間をかければ、わずかに湿った砂からでも、同じ方法で水を集められるそうで、この特技は、砂漠で生き延びるために決定的な強みとなります。

モロクトカゲのこの技をヒントに、わずかの水を効率的に集める装置を開発できれば、砂漠で人間が利用できるようにできるかもしれません。さらに、モロクトカゲの皮は、見た目よりもはるかによく水をはじき、これも何かに使えそうです。

この皮には、水を口まで吸い上げる、肉眼では見えない微細な管が通っている可能性もあります。さらにその生息環境である砂のきめ細かさや光の加減、日陰がどの程度あるかといったことを調べれば、このトカゲの特技の本質が見きわめられる可能性があります。

電子顕微鏡がとらえた世界では、モロクトカゲの皮膚の表面に並ぶとげは巨大な山のように見えます。その山の中腹あたりに、小さなこぶが並び、山を下るにしたがって、そのこぶがより大きな構造をなす、といった形になっており、おそらくはこれが水を集める装置と考えられます。

山のふもと、つまりとげの根元を観察すると、ハチの巣状になった刻み目が見え、それぞれの刻み目の幅は25ミクロンほどです。この構造によって表面が超撥水性になり、ウロコの間を水が伝っていくと考えられています。

さらにマイクロCTスキャナーで皮を調べると、この推理を裏づけるように、ウロコの間に水を吸い上げる役目をしていると思われる微細な毛細管が見つかっています。こうした観察により、今ではもうかなりモロクトカゲの皮膚の構造はかなりわかってきており、今はもう試作品を作る段階にきているといいます。

さて、これまで見てきたように、今、こうした生物模倣技術が脚光を浴びている背景には何があるのでしょうか。

ひとつには、原発問題や、あるいは石油、天然ガスの枯渇による高騰化の問題があるでしょう。これによりエネルギーを多用する地下資源依存型のものづくりそのものに陰りが見えてきており、逆に生物の世界に、イノベーションとか、ブレークスルーのアイデアを探るべきではないかという機運が生まれてきたものと考えられます。

観察・分析の技術の進化がこれを後押ししている、という側面もあります。例えば、精度の高い電子顕微鏡の登場によって生物の微細な構造を容易に観察することができるようになったことは大きく、また、複雑で動きの早い生物の挙動を、スーパーコンピューターを使って、物理的に精緻に解析することができるようになったことも生物模倣技術の進展に貢献しています。

そして、ヤモリテープに使われるカーボンナノチューブの細工のように、「ナノテクノロジー」と呼ばれる超細密工作技術の発達もまた、生物模倣技術の進展に貢献しており、生物の微細構造の発見だけでなく、実際にこれを使って、そういう微細な構造そのものを再現することもできるようになったことも重要です。

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こうしたことを背景にして、近年急速に製造方法を生き物から学ぼうという思想が普及してきたと考えられます。また、生物は、炭素とか酸素、水素・窒素といった、いわゆる軽元素と呼ばれる、ありふれた材料でものづくりやっています。

しかも、それを常温、常圧で形にしているわけであり、人間のように、高い温度をかけたり、高圧にしたり、真空下に置いたりして、ものを作ってきているわけではありません。石化燃料が枯渇しようとしている現在においては、こうした手間暇とエネルギーをかけた製造技術に頼っていてはもはやモノづくりはできなくなってしまう可能性もあります。

文字通り「自然体」でその体を形作っている生物に学んでこそ、人類が生き残る道もあろうかというものであり、結果として、そういう合理的な生産方法の開発というものは、やはりコスト性をよくしていくことにも効いてきます。億年を生き抜いてきた生物を真似ることで、省エネ・省資源化のノウハウが学べる可能性があるわけです。

生物の産業への応用は、ロボットやセンサー、そして新素材の開発などにおいて、とくに欧米で急速な進展がみられます。多くの先進国が、かなりの分野で製品化するところまでこぎつけている中、国際的な競争が激化しており、日本でも研究開発の体制作りが急務となっています。

ただ、日本では今、ようやく産と学が危機感を感じて、何かやろうかなと活動を開始したばかり、という感じであり、国もようやく動き始め、生物模倣技術による新材料などの研究に対し、およそ10億円の予算が投入されることが決まりました。

しかし、日本以外の各国ではどこも生物模倣技術で世界的な技術標準を取ろうと必死です。例えばドイツでは、ドイツ銀行と政府が組んで、この分野のネットワーク作りに、日本とは桁が2桁違う、3000億円もの大金を既に投下しており、中国もまた、こうしたドイツの動きに参画しようと動き始めています。

ただし、ドイツの場合は、かの国のお家芸である、メカトロニクスとかロボットとか、バイオニクスなど、機械工学の分野に限定されているきらいがあります。これに対して、日本では極めて学際的なネットワークを作ろうとしており、これがうまくいけば、いろんな分野で、リーダーシップを取れる可能性があります。

ただ、日本の産業界は役人の世界と同じで、研究者ごとに縦割りの構造が浸透しており、例えば経済産業省と文部科学省傘下の科学技術庁がとりつけた予算による研究費は、それぞれの省庁の息のかかった企業や大学にしか行きわたりません。

一緒にやればいいのに、同じ研究を別々にやっているのが現状であり、今後は、こうした研究を横断的に結んでいくことが必要があります。

博物館を中心に研究者がネットワークを作ることも非常に重要です。生物学者、工学者だけではなくて、医学者、あるいは情報科学の研究者、場合によっては、歴史学者とか博物学者の参画が必要な場合もあると思われ、メーカーのエンジニアも参画して、よりベンチャーキャピタルがさかんになる方向に持って行く必要があります。

もうすでに大手の家電メーカーが、空気を上手に捕捉するチョウに学んだ扇風機や、あるいは鳥の羽に学んだ空調機などを大学の援助で開発し、実用化をして発売するような成果も上がっているといい、これからはこうしたイノベーションが毎日のように新聞紙面をにぎわすような世の中になっていくことが望まれます。

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それにしても、この分野の進化の先に、どんな社会の変化が生じるのでしょうか。

これについては、上でも述べたとおり、そもそも生物は自然、地球と共生をしながら、共進化をしてきたわけであり、この生物を真似ることによって、省資源な材料の使い方とか、省エネルギーな構造といったものを、自然から学び、自然と共生できるデザインをもっと学び、石化天然資源の浪費を抑え込んでいく、といった方向性がひとつです。

また、日本に限っていえば、バイオテクノロジーとのコラボにより、これからは生物自体がいろんな材料を生物自身が生み出していく、という形も考えられます。動植物の遺伝子情報の研究治験、知的財産は、日本が世界でいちばん蓄積されているといわれており、例えば、昆虫や藻類に関する日本の知財蓄積量は世界一といわれます。

これは、日本画周囲を海に囲まれているからであり、藻類や昆虫などの生育・生息数が多いのは、四季がはっきりしていて、北から南まで多様な昆虫が生息しやすくなっているためです。インドネシアのような熱帯地域には亜寒帯の動植物は生息しえませんが、日本には熱帯や亜熱帯、亜寒帯までの多様な環境に生物が生息できる土壌があるのです。

このような多様な環境を持っている国というのは、先進国では日本以外にはあまりありません。こうした優位な自然資源を背景に、いろんな生物模倣技術を展開していけるというのはそれだけでも有利であり、工業製品だけではく、例えば医薬品の製造の分野などでも生物に学び、あるいは作らせたりするような技術が数多く創造される可能性があります。

とくに、この分野で日本が突出するためには、生物学が重要といわれます。従来は産業界からは程遠い世界だと思われていましたが、この分野の研究者たちを積極的に企業自身が支援をしていくような、そういうコラボレーションスタイルの研究開発が国策として必要になると思われます。

このように、バイオミメティクスは大きな可能性を秘めているし、現状の日本では優秀な人材も集まっているため、この分野で世界の最先端に立つということは夢ではありません。

ただ、多額の資金を調達したバイオベンチャーが経営破綻に追い込まれる、といったこともないわけではなく、これは、バイオミメティクス研究には時間がかかるのに、利潤を追求する企業はすぐに成果が出て、利益につながることを期待するため、と考えられます。

自然の構造を解明し、模倣するには、いろいろな分野の研究と技術力が必要になりますが、上述のように日本の産業界は縦割り傾向が強く、そうした共同作業の調整が難しいという事情もあります。

ただ、バイオミメティクス研究が成熟しない最大の理由は、自然の構造そのものにあり、自然の設計は、技術者の目で見れば、「なぜこんな回りくどいことをするのか」と言いたくなるほど複雑に入り組んでいます。が、技術者たちは容易にこれを見抜けません。

なぜならハエの羽やヤモリの足は、自在に飛びたいとか壁を歩きたいといった特定の目的に向かって「設計」されたものではないからです。ただ偶然に生まれたデザインでもなく、ある世代でうまくいったものが生き延びて子孫にそれを残し、何千世代にもわたって、数えきれないほどこうした試行錯誤を積み重ねてできた、寄せ集め機能です。

上述のアワビも、その頑丈な貝殻を作るためには、15種類のタンパク質が複雑に協調して働いているといい、いくつかの研究チームがその解明に取り組んでいますが、いまだに謎は解けていません。また、クモの糸の強さの秘密は、それを構成するフィブロインなどの数種のタンパク質の性質にあるだけではありません。

クモの体には糸を紡ぎだす出糸突起という器官があり、そこには600個の出糸管があって、7種類の糸をより合わせて、とても強靭な糸を作っていますが、これほど複雑なものを模倣できるだけの技術はまだありません。

このように自然の設計の多くは重層的な性質をもち、その一つひとつの層を明らかにして、本質を突き止めるのは非常に難しいのが現状であり、現在の技術では、こうしたナノレベルの複雑な構造を人工的に再現することは不可能といわれます。

自然はDNAに刻まれた複雑な指令に従って、分子1個1個を積み重ね、難なくその構造を作りあげ、わずかのコストで複雑な微細構造を作ることができますが、仮にこれと同じことを人間がやろうとすると、とてつもなく大きなコストと時間がかかってしまうためです。

それでも、少しずつ自然との差は縮まりつつあるといえ、研究者は最先端技術を使った顕微鏡をさらに改良して性能をアップし、自然が生みだすミクロやナノの秘密に迫ろうとしています。商業ベースにのるレベルには達していなくとも、バイオミメティクスの成果は確実に出ており、さらに自然との差を埋める道具として力を発揮していでしょう。

いつか人間も、大した道具も使わず、昆虫や鳥のように自由自在に空を飛び回れる、そんな時代が来るかもしれません。その技術を開発するのが日本人であることを願ってやみません。

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御嶽信仰のこと

2014-1120671先日、「御嶽」の項を書くための資料をネットで漁っていたとき、明治時代にこの山を登った欧米人の中に、「パーシヴァル・ローエル」というアメリカ人がいたという記述に目がとまりました。

アメリカの天文学者としても知られるこの人物は、明治期に5回にわたり来日し、日本に関する3冊の著書を残しています。うち2冊は、「極東の魂」と「NOTO(能登)」というもので、あとの一冊は、「オカルト・ジャパン」といい、英題は、“Occult Japan or the Way of The Gods”です。

1895年(明治28年)に書かれたもので、副題には、“An Esoteric Study of Japanese Personajity and Possession”とあり、これらの訳は、「神秘的な日本、あるいは神々の道 -外国人の見た明治の御嶽行者と憑霊文化-」とされています。

この本を訳したのは、足利工業大学や駒澤大学の先生を務め、日本山岳修験学会理事でもあった、宗教人類学者の菅原壽清という人です。特に民俗宗教と仏教との「宗教複合」などにお詳しいようで、「木曽御嶽信仰」の宗教人類学的研究が主な業績です。御嶽研究の第一人者でもあり、平成14年には、日本山岳修験学会賞なる賞も受けておられます。

ローエルは、4度目の来日の際に木曽御嶽山に登り、3人の行者による憑霊(これを「御座(ござ)」といいます。後述)を見てたいへん驚き、東京に戻って神道の教派のひとつである、「神習教」の初代管長・芳村正秉に教えを乞うて神道の研究をし、東洋の神秘を解き明かそうとしました。

そして、その研究に基づき、このオカルト・ジャパンをはじめとする本を記したわけですが、菅原壽清氏が訳したこの本の第1章から7章までは、彼が実際に観察・体験したことが報告されているようです。

とくにその第8章では、この「憑霊」というものの背後にどのような本質が隠されているかを彼なりに分析しており、「神懸り」とも言いかえることのできるこの現象について詳しい見解を示しています。

この章にある細項目には、憑霊、日本人の性格、夢、催眠トランス、憑霊トランス、神道の神々、といったものがあってかなりマニアックです。が、元々は天文学者でもあり、そうした科学者の視点から、御嶽信仰に係る日本の憑霊文化を解き明かそうとしたようです。

このパーシヴァル・ローウェル(Percival Lowell)という人は、1855年、アメリカ合衆国ボストン生まれです。ボストンの大富豪の息子として生まれ、ハーバード大学で物理や数学を学び、その後実業家となりました。しかし、数学の才能があったことから、火星に興味を持って天文学者に転じました。

ちょうどこのころから屈折望遠鏡の技術が発達しはじめており、その上に火星の二つの衛星が発見されるなど火星観測熱が欧米で高まっていたこともその動機となったようです。お金持ちであったことから、私財を投じてローウェル天文台を建設、火星の研究に打ち込みました。

この天文台は、アリゾナ州フラッグスタッフにあり、1894年(明治27年)に設立されました。2つの施設に9台の望遠鏡が設置されていますが、そのうちの61cm屈折望遠鏡は歴史的記念物に指定されていて、一般公開されています。天文台自体は現在も機能しており、ボストン大学と共同運用されています。

ここでローウェルは火星観測に打ち込み、その観測結果から、300近い「図形」と「運河」らしいものを識別しました。彼はこの運河の一部は二重線(平行線)からなっている、とこの当時主張しましたが、その後の火星探査機の観測によりこれらは図形でも運河でもなんでもないことが実証されています。

しかし、小惑星「アリゾナ」を発見するなどの実績も残しており、最大の業績は、最晩年の1916年に「惑星X」の存在を計算により予想したことです。1930年には、その予想に従って観測を続けていたクライド・トンボーという天文学者が冥王星を発見しています。冥王星の名 “Pluto” には、ローウェルのイニシャルP.Lの意味もこめられています。

また、彼の建てたローウェル天文台はその後、惑星研究の中心地となりました。フラッグスタッフという土地は、天体観測に最適な場所だといわれており、ここを見出した彼の着眼点の良さも評価されているようです。

しかし、火星に刻まれた模様を幾何学的な図形や運河であると主張したように、「火星人」の存在を唱えるなど思い込みも激しく、1895年にはこうしたことを書いた「Mars」という火星に関する著書を出版しています。この本には、黒い小さな円同士を接続する幾何学的な運河を描いた観測結果が掲載されています。が、無論彼の妄想の産物です。

彼の天文学に関する業績については、現在に至っても悪口を言う人も多く、著名な天文学者、カール・セーガンは「最悪の図面屋」と酷評し、またSF作家のアーサー・C・クラークも「いったいどうしたらあんなものが見えたのだろう」と自著の中で書いています。また、ある眼科医は彼は実は飛蚊症だったのではないかという仮説を述べています。

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上述したように、日本研究家という側面も持ち、明治16年(1889年)から明治26年(1893年)にかけて日本を5回も訪れており、通算約3年間滞在しました。

来日を決意させたのは大森貝塚を発見したエドワード・モースの日本についての講演だったといい、モースもまた、神道の研究など、日本に関する著述が多いことで知られています。ローウェルは来日後、小泉八雲、アーネスト・フェノロサ、ウィリアム・ビゲロー、バシル・ホール・チェンバレンといった日本通とも交流を持っています。

能登半島の研究にもいそしみ、「NOTO」を書くための旅の途中で訪れた能登半島中央にある穴水町では町民に親しまれたようです。このためこの街には現在もローエル顕彰碑が置かれており、彼がここを最初に訪れた5月9日には「ローウェル祭」なる祭典も開かれ、彼にちなんで天文観測会や講演会が行われているということです。

このローエルも登ったという、御嶽山は山岳信仰の山です。通常は富士山、白山、立山が日本三霊山と言われていますが、このうちの白山または立山を御嶽山と入れ替えて三霊山とすることもあるようです。日本の山岳信仰史において、富士山の「富士講」と並び講社として庶民の信仰を集めた霊山であり、教派神道の一つ「御嶽教」の信仰対象です。

鎌倉時代、この御嶽山一帯は修験者の行場でした。山頂の御嶽神社奥社登拝に当たっては、麓で75日または100日精進潔斎の厳しい修行が必要とされたといい、この厳しい修行を行ったものだけに年1回の登拝が許されていました。

それほど激しい修行が必要だったこともあり、この道を究める人たちは、「道者」と呼ばれ、当初そのほとんどは木曽谷に住まう人達だけでした。しかし、のちには他の地域からの人々による登拝も盛んとなっていきます。

遠方から御嶽の登拝にやってきて最初に御嶽山を望むことができる場所は仏教の教えに基づいて「御嶽の四門」と呼ばれていて、それぞれに鳥居などが設置され、御嶽山を遠方に望む遥拝所がありました。

この四か所の詳細な位置関係は地図で調べて頂きたいと思いますが、現在は木曽福島町になっている旧岩郷村神戸には「発心門」と呼ばれる遥拝所があり、岐阜県高山市と長野との県境にある長峰峠には、「菩薩門」、王滝村の三浦山中には「修行門」、諏訪湖に近い塩尻にある鳥居峠には「涅槃門」がそれぞれありました。

また、御嶽頂上にある「御嶽神社奥社」には修験道の本尊である「蔵王権現」も祀られていて、この四門にも同様の権現様が祀られていました。例えば涅槃門とされる塩尻の鳥居峠の遥拝所では、権現様の石碑や祠が設置されていたようです。

これらが置かれた理由は、御嶽山に登ることのできない女性や老人でも修験道ができるようにとの配慮からであり、これは、その昔御嶽山は女人禁制の山だったためです。

この四門から長い道のりを歩き、登頂して行きついた先にある最高点の剣ヶ峰に「御嶽神社奥社」は置かれています。ここは「御嶽大神」と呼ばれる国常立尊、大己貴命、少彦名命などそれぞれを祭神とする神社です。

さらに、御嶽山東側の御嶽ロープウェーの起点のある飯森のすぐ近くにある黒沢口には、「里宮」「若宮」と呼ばれるお宮があります。これもまた、奥社にまで登ることのできない女性などの参拝の便宜のために設けられたものです。

また、御嶽南東部にある王滝口にも里宮と若宮があり、この王滝口からの参道を登った先の王滝頂上にも、木曽御嶽神社王滝口の奥社があります。

このほかにも、王滝口と黒沢口の参道には多数の霊場と修行場跡が残っており、これは御嶽信仰では自然石に霊神(れいじん)の名称を刻印した「霊神碑」を建てる風習があるためです。黒沢口の参道には登拝者を祀った約5,000基の霊神碑があり、王滝口の参道にも多数の霊神碑が並んでいます。

このように、御嶽山頂上およびその登山道、登山口には数多くの霊場が残っており、これほどこの御嶽山というのは周辺地域の人々、とくに木曽谷のひとたち崇拝されてきたことがわかります。

御嶽信仰は、鎌倉以後も戦国時代、江戸期、明治大正を経て現在にも受け継がれていますが、1944年(昭和22年)には「御嶽教」などの教団と御嶽神社が「木曽御嶽山奉賛会」を設立し、その後「御嶽山奉賛会」と改称し神社の運営を行っており、御嶽神社黒沢口ではこの団体によって毎年太々神楽が奉納されています。

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もともと女人禁制の山であったことは上述のとおりです。が、1868年(明治元年)に黒沢口の8合目には「女人堂」が御嶽山で最初に山小屋としての営業が開始され、ここまでは女性も登れるようになりました。

その後しばらくの間は、これより上部への女性の立ち入りが禁止されていましたが、明治5年(1872年)の太政官通達により女人禁制が解かれました。これは、他の国内の山と比較してもかなり早い時期の解禁でした。

その後、御嶽南部、南西部に林道黒石線や白崩林道といった有料道路ができ(現在は県道として解放)、また東部からは御岳ロープウェイによるアクセスもできるようになり、これらのルートを通ってきた、ひのき笠と金剛杖の白装束の信者によって、御嶽の参道は埋め尽くされるようになりました。

1985年(昭和60年)以降には山腹に4つのスキー場も建設され、さらに修験道信者に混じって一般の登山者も多くこの山を訪れるようになりました。年間およそ30000人が訪れると言い、今年もまた紅葉の時期を狙って多くの登山客でにぎわっていたようです。

そして今回の噴火です。が、この話題は脇に置いておいておくとして、もう少し御嶽の歴史について記述しましょう。

江戸時代前期には、仏教彫刻で有名な僧円空も御嶽山に登拝しており、周辺の寺院で多くの木彫の仏像を残しています。また江戸時代後期には、かの有名な絵師、谷文晁が「日本名山図会」にこの山を描いて、名山として紹介するなど、江戸時代には既にその名は全国に知れ渡るようになっていました。

この江戸時代が始まる前の40年ほど前の、1560年(永禄3年)には、木曾谷の領主、「木曾義昌」もまた御嶽に登っています。おそらくはこの当時最もアクセスのしやすかった黒沢口からかと思われますが、ここの里宮で100日の精進潔斎を終えあと、従者と共に武運を祈願するために登拝したという記録があるようです。

この現在も「木曽御嶽山」に名を残す、「木曾家」のことについて少し書いておくことにしましょう。

木曽は、古くは「木曾」と書きました。木曾氏は、南北朝時代から室町時代後期にかけて代々信濃国南部の木曾谷を領した国人領主だった家系です。治承・寿永の乱で木曾谷から発して上洛を果たした「木曾義仲」が、その隆興の租とされ、以後の戦国時代の木曾氏の多くはこの義仲の子孫を自称するようになりました。

実は、この木曾義仲は、源頼朝・義経兄弟の従兄弟にあたり、源氏の系統です。「平家物語」においては朝日将軍とも、旭将軍ともと称された人物で、以仁王の令旨によって挙兵し、倶利伽羅峠の戦いで平氏の大軍を破って上洛を果たしました。

その後、後白河法皇と後鳥羽天皇を幽閉して征東大将軍となりましたが、源頼朝が送った源範頼・義経の軍勢により、粟津の戦いで討たれてその生涯を終えました。寿永3年(1184年)没。享年31の若さだったといいます。

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御嶽神社に参拝した記録の残る木曾義昌は、この木曽義仲が生きていた時代よりもさらに400年ほど時代が下ったあとの人物です。時代としては、戦国時代から安土桃山時代にかけて、江戸時代の少し前であり、この人もまたこの木曾義仲の子孫と称していました。

今も「木曽」の名を地名に残す、信濃国木曾谷の領主であり、ここに代々君臨した木曾氏の第19代目の当主で、その正室は武田信玄の娘、真理姫(眞龍院)でした。

当初は近隣の武将である、小笠原氏や村上氏らと共に甲斐の武田信玄の信濃侵攻に対抗していた木曾氏ですが、度重なる信玄の侵攻を受け、ついに武田家に屈服しました。これにより木曽は、武田家の美濃や飛騨への侵攻における最前線基地化され、以後、信玄はここを通って京への上洛を夢見るようになります。

しかし道半ばで果たせず、信玄の死後、木曾氏は、織田信長と盟約を結んで逆に信玄の子、勝頼に対し反旗を翻すようになります。ところが、その信長も本能寺の変で死にます。すると今度は家康に通じて盟約を結ぶようになり、これによって木曽谷安堵の約定を得ます。

ところが、天正12年(1584年)、家康と羽柴秀吉との対立をうけて木曾義昌は盟約を反故にし、次子・義春を人質として秀吉に恭順するに至ります。

こうしたいつの時代にものらりくらりと「寝返り上手」を繰り返す木曾氏を当然のことながら家康は快く思っていませんでした。このため秀吉に讒言したと思われ、天正18年(1590年)、家康の関東移封に伴い、木曾義昌は秀吉から徳川附属を命ぜられ、下総阿知戸(現在の千葉県旭市網戸)に1万石ほどが与えられただけで木曽谷を退くことになりました。

秀吉が課したこの移封の名目には諸説あり、秀吉の小田原征伐の際に自身は病気と称して行かず、嫡男・義利を代理として参加させたため忠誠心を疑われたせいだとも、交通の要衝にあり優れた木材を産出する木曽谷を取り上げると同時に、家康を懐柔するために体よく使われたともいわれているようです。

この移封によって精神的にも経済的にも逼迫した義昌は、文禄4年(1595年)失意のままに同地で死去し、家督は子の義利が継承しました。しかし、義昌の死後、義利は叔父・上松義豊を殺害するなどの乱暴な振る舞いにより、慶長5年(1600年)に改易に処されました。この改易にも、「下総国に流罪」とする説と単に「追放」とする説があります。

これによって、木曾氏の直系が消え、木曾氏は消滅したことになりますが、義昌には他に二男義成と三男義一(義通)がいました。が、義成は大坂の陣における豊臣秀頼の浪人募集に応じ大坂城に入って戦死。また義一は母の真竜院と共に木曽谷で隠遁して生き延びたとも言われていますが、その後や子孫に関する記録は伝わっていません。

木曾家の名跡と総禄高1万6千2百石にのぼる領地は、家臣であり、親族でもあった千村氏・山村氏や久々利九人衆といった面々が継承し、江戸期に至っていますが、いずれにせよ、こうして大名家としての「木曾家」の名は完全に消滅し、残ったのは木曽の地名だけ、ということになりました。

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以上が、「木曽」の地名に名を残す木曾家のだいたいの系譜になります。そして、御嶽山はこの消滅した木曾家が本拠地としたこの木曾の地における最高峰であり、この義昌をはじめとする代々の木曾一族が鎌倉期以降、最も尊んできた山ということになります。

が、上述のように木曾家が没落すると、ここの修験道者たちは独自の宗教色を強め、戦国武将とは一線を画すようになり、そのまま江戸時代に至ります。

1785年(天明5年)には、尾張春日井郡出身の「覚明行者」が、旧教団の迫害を退けて地元信者を借りて黒沢口の登拝道を築き、軽い精進登山を普及させることに成功し、厳しい修行をしなくても水行だけで登拝できるようになりました。

この普寛行者は黒沢口以外にも、王滝口と小坂口を開き、これら3つの参道の開通により、尾張や関東など全国で講中(普寛講他)が結成され御嶽教が広まり、信仰の山として大衆化されていきました。そして、江戸時代末期から明治初期にかけては、毎年何十万人の御岳講で登拝されるようになっていきます。

覚明行者は、1718年(享保3年)3月3日に尾張国春日井郡牛山村という場所の農夫、丹羽清兵衛(左衛門)と千代の子として生まれました。幼名は源助で後に仁右五衛門に改名、幼少期は新川村土器野新田の農家で養われていました。

出身地の旧牛山村にある、愛知県春日井市立牛山小学校の校歌では、現在でも「北に御岳見はるかす 覚明行者の産湯の街に」と歌い込まれています。

1818年(文政元年)に記された「連城亭随筆」には、「医師の箱持ちをした後お梅と結婚し餅屋を開き商いをしていた」と記録されていますが、ある時、盗みを働いた、といわれています。しかし、冤罪だったらしく、これをきっかけとして、世に無常を感じ、各地で巡礼修行を行う行者となりました。

あちこちを流浪したあげくにたどり着いたのが木曽谷であり、ここの村々で布教活動を行い信者を増やしました。そして、その布教において御嶽山を自宗のシンボルにしようと考えます。

1782年(天明2年)には、この当時御嶽山を管轄していた神職の武居家と、この地の代官であった山村代官に登山許可の請願を行いますが、数百年に渡る従来の登拝型式である「精進潔斎」を破ることになる、と言われて却下されます。

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精進潔斎とは、五辛(にんにく・らっきょう・ねぎ・ひる・にら)や魚鳥の食用を断ち、行いを慎んで身を清めることですが、これを断られたというのは、もともと農民であった普寛行者がその日常で肉を喰らい、五辛を肴に飯を食うといった習慣を持っていたためでしょう。

この頃の御嶽での登拝は、上述のように、五辛や魚鳥の食用を断つなどの厳しい精進を求められ、これを「重潔斎」と言っていたのに対し、多少の精進軽減は大目にみる、ということで、例えば五辛だけを絶てば良いといったことを、「軽精進潔斎」といい、この軽めの精進で登山することを「軽精進登拝」といいました。

普寛行者は登山許可がないまま、この軽精進登拝を強行しようとし、1785年(天明5年)、地元住民8名と尾張の信者38名、合計約80名を引き連れて強引に登拝を行いました。しかし、下山後にこの暴挙に対する罪を受け、全員が21日間の拘束を受けたとされています。

しかし、普寛行者はさらにその翌年の1786年(天明6年)にも多数の同志を引き連れて軽精進登拝を強行し黒沢の登山道の改修を行おうとしました。しかし、その途中の6月20日に頂上付近のニノ池湖畔で病に倒れ、その68年の生涯を終えました。

普寛行者の遺骸は、その直下にある黒沢口九合目の覚明堂の宿舎上の岩場に埋葬されました。現在も山小屋「覚明堂」の横に覚明行者の霊場があるといいます。

その後、普寛行者の死後60年余りたった1850年(嘉永3年)には、江戸時代の宮門跡、つまり皇族・貴族が住職を務める特定の寺院の一つ、上野東叡山寛永寺の日光御門主から「菩薩号」が授与されています。神仏習合の時代の習わしであり、仏門に入った者がその死後、「神」として与えられる称号です。

この覚明行者は、生前、御嶽山の麓の村人に「アカマツの苗が育てば必ず稲ができる」と教えました。村人がこの教えを受け、苗を植えたところ、実際に赤松が育ったあとに豊作となったことから、この地は田を新しく開く、という意味で「開田」と呼ばれるようになりました。その由来は1806年(文化3年)に設置されたこの地の碑に刻まれています。

このように、覚明行者は地元の人々からも崇拝された人物であり、また御嶽山を中興開山させた先駆者であるわけですが、彼が布教した信仰はその後もこの地の人々に受け継がれるとともに、その後王滝口三合目の清滝には清滝不動明王が祀られ、ここを登拝者が水行を行う新たな行場とするなど、御嶽山はさらに修験道の地としてにぎわっていきます。

その後覚明行者の志を受け継いだ信者により、彼が道半ばで倒れた黒沢口の登山道の改修も完結され、さらに御嶽信仰はエスカレートしていきます。覚明行者が強行登拝したことによって事実上の「軽精進による登拝解禁」となり、信者であれば誰にでも認められるようになったためでもあり、それほど御嶽信仰の隆盛に寄与した彼の功績は大きいわけです。

このころまでには信者はますます増え続けましたが、これによって、御嶽山の麓である王滝や黒沢と言った地元にも経済効果が生まれるようになりました。

こうしたこともあり、1791年(寛政3年)には麓の庄屋が連名で、一般庶民の「軽精進登拝」の請願を提出した結果、1792年(寛政4年)にはこれが許可が下され、以後、入山料200文を払えば、軽精進による登拝を認めるという規定が作られるようになります。

金を治めれば誰でも信者になることができ、登山ができることができるようになったわけであり、これによって益々御嶽登山者は増えました。

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覚明行者亡きあと、この地をさらに発展させたのは、「普寛行者」といわれています。普寛行者は、1731年(享保16年)に武蔵国秩父郡大滝村落合で生まれ、青年期江戸に出て剣術を学び酒井雅楽頭家に仕えたと伝えられています。

1764年(明和元年)、現在の埼玉県秩父市三峰にある三峯神社に入門し、ここの修験者となりました。1792年(寛政4年)5月に江戸などの信者を引き連れて開山のために旅立ち、6月から各地の山に入り「御座(おざ、またはござ)」を行い、そしてついに御嶽山に登拝しましたが、このときはじめて御嶽南麓の王滝口が開かれました。

この御座こそが、冒頭で説明したように、ローエルが解き明かそうとした「憑霊」であり、「御座」とは普寛行者が普及させた「巫術」による神降ろしの儀礼と祈祷のことです。

巫(ふ)は、「かんなぎ」とも読み、これは「神和(かんな)ぎ」の意でもあります。巫覡(ふげき)とも言い、神を祀り神に仕え、神意を世俗の人々に伝えることを役割とする人々を指します。

日本においては古来より巫の多くは女性であり、「巫」もしくは巫女(みこ、ふじょ)という呼称で呼ばれ、この巫女(みこ)の呼称は現在でも使われています。ただ、現代において巫女という場合、単に神道における神職を補佐する女性の職の人々を指す言葉として使われることが多ようです。

一方、古代初期の日本においては巫女と同一の役目を担う「巫覡、男巫、巫子」も少なからず存在しており、男性の場合は「覡」、「祝」といいました。現在、神職の一般呼称である「神主(かんぬし)」とは、本来、文字通り神掛かる役目を持つ「覡」、「祝」職のことであり、これも元々は、巫(ふ)もしくは「かんなぎ」から来ていると考えられています。

なお、「かんなぎ」の語源については、神意を招請する意の「神招ぎ(かみまねぎ)」という語からであるとか、「神和(かむなぎ)」という語からであるなどといわれていますが、どちらもはっきりとした裏づけはとれていないようです。

このように古来からいろんな呼称のある、「巫」ですが、いずれにせよ自らの身に「神おろし」をして神の言葉(神託)を伝える役目の人物のことで、邪馬台国の時代に遡る古代の神官は、ほぼ巫と同じ存在であり、彼らが告げる神託は、国の意思を左右する権威を持ちました。

この神おろし、はすなわち「憑依」のことであるわけですが、実際にそうした現象が存在するかどうかについては、解釈が分かれるところでしょう。が、現在でも、青森県などのように「イタコ」・「イチコ」などの名称でこの職が伝わっているケースもあります。

また、日本本土と異なる歴史背景を持つ沖縄県周辺では、ユタ・ノロ(祝女)といい、これは古代日本の巫と同じ能力・権能で定義される神職です。琉球王国時代以前から現代まで存続しています。

これらのことから、古代日本の信仰形態は、神職という形で残っている以外にも、その古い形態のまま、各地に残されており、だがしかし呪術性が高いだけに、表だってはあまり公表されていないものも少なからずある、と考える民俗学者も多いようです。

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さて、この「御座」を通じて「巫術」を普及させた普寛行者は、その後江戸方面でもこの御嶽講を組織し御嶽信仰を日本全国に浸透させました。1794年(寛政6年)には現群馬県の上州の武尊山を、また1795年(寛政7年)には、新潟県南魚沼市にある八海山の開山を行い、ほかにも各地の開山を続けるなど活発な活動を行っています。

しかし、その後、1801年(享和元年)、巡錫(錫杖を持って巡行する)をしている最中に、武州本庄駅、これは、現在の埼玉県本庄市にあたりますが、ここで倒れ、70歳の生涯を終えました。

以下のような辞世の句が残っています。

なきがらは いつくの里に埋むとも 心御嶽に 有明の月

王滝口3合目の清滝上には、現在も普寛行者の墓塔があります。1850年(嘉永3年)には、覚明行者と同様に普寛行者にも上野東叡山日光御門主から菩薩号が授与されました。また、1890年(明治23年)王滝村で普寛行者百年祭が開催され記念碑が建立されています。

普寛行者の直弟子としては、その後広山行者、泰賢行者、順明行者などが現れ、さらにその後も次々に有力な行者が登場し、現在もなおさかんな「御嶽講」を日本全国に広めました。

この御嶽講についても少し書いておきましょう。御嶽山の登拝は、行者と信者が一緒にその聖地を巡礼する旅をする形式で、これを通称「御嶽参り」といいます。このグループを「講」または「講社」といい、先達(せんだつ)に導かれて集団で登拝が行われます。

信仰により病苦が救われるとされ、その最初のころには、主として江戸などの関東地方に普寛行者系の御嶽講社が開かれました。

その後普寛行者の弟子である儀覚行者(きかくぎょうじゃ、1769-1841年)が東海地方に宮丸講を初めて開き、覚明行者系の講社が愛知県を中心に西日本へと広まりました。とりわけ濃尾平野の農民は木曽川の水源となる御嶽山を水分神の山として尊崇していましたが、木曽谷の地域でも普寛行者系の講社が次々と結成されました。

これら各地方の講社の先達の魂は、その死後「霊神」とされ、その碑が御嶽山の登拝道に鎮められており、この「死後我が御霊はお山にかえる」という信仰に基づく「霊神碑」が設置されることこそが御嶽山信仰の最大の特徴のひとつです。自然石に霊神の名称を刻印したものである、とは上でも書きました。

江戸時代には関東や尾張から中山道を通っての参拝が行われていましたが、1919年(大正8年)に中央本線が全線開通すると登山者は木曽福島駅で降りて、ここから直接御嶽山へ歩き始めるようになります。

さらに、1923年(大正12年)には木曽森林鉄道が敷設され、これは御嶽の南麓から東南麓にかけて敷設されていたようで、これにより登山の利便が増し、さらには木曽福島駅から黒沢と王滝まで「おんたけ交通」の乗合バスが利用されるようになりました。

昭和に入り、1966年(昭和41年)に有料道路林道黒石線が全線開通すると貸切バスで直接王滝口の田の原へ入ることができるようになり、1971年(昭和46年)有料道路白崩林道が全線開通すると貸切バスで直接黒沢口の中の湯まで入ることができるようになりました。

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近年では、天気が安定している7月下旬から8月中旬頃に1泊2日または2泊3日で登拝が行われるようになり、黒沢口から8合目の女人堂を経て山頂を往復するか、黒沢口から山頂を経て王滝口へ下る、あるいは王滝口から山頂を往復する、王滝口から山頂を経て8合目の女人堂から黒沢口へ下るルートなどで登拝が行われるようになっています。

こうして多くの修験道者の登山の便が整備されるにつけ、彼等に混じって、一般の登山客も数多く上るようになっていきました。御嶽山の登山口は木曽谷側からは王滝口、黒沢口、開田口の3つありますが、飛騨側からは小坂口ひとつでした。しかしその後、真北を通る日和田口が新しく開かれました。

木の丸太などで整備された階段状の登山道は「木曽御嶽奉仕会」などによる地元の有志や御岳信仰の関係者によって修復整備がなされており、大多数の信仰登山者が利用する黒沢口と王滝口の登拝道は、一般登山道としても利用されています。黒沢口などでは、今でも御嶽講の先達を背負ったり、信者の荷物や、山小屋の物資を運ぶ強力を担う人がいます。

御嶽山は宗教登山が盛んであるため、各登拝道や山頂などに多数の山小屋と避難小屋があります。山頂地域に多くの有人山小屋がありますが、王滝口の終点の王滝頂上には、「王滝頂上山荘」、剣ヶ峰山頂には、「御嶽剣ケ峰山荘」、「御嶽頂上山荘」があるほか、黒沢口9合目には、「石室山荘」、9合目半には「覚明堂休泊所」があります。

このほか、二ノ池周辺に「二ノ池本館」、飛騨側に「二ノ池新館(本館とは別経営)」があり、以上でざっと7つの山小屋が山頂付近に集中していますが、このほか、御嶽山の北西側の小坂口道を上り詰めた9合目には、「五の池小屋」という大きな山小屋があります。

今回噴火があった場所よりかなり北側になり、小屋周辺は森林限界のハイマツ帯で、高山植物のお花畑となっています。

その前身は明治時代に御嶽信仰の人々によって建てられ、以後多くの登山者に利用されてきました。1997年(平成9年)に管理者が高齢で病弱になったことから、旧小坂町へ寄付され、以後合併して現下呂市になった同市が運営しています。2010年(平成22年)東隣に2階建て30m²の新館が増築されました。

これにより、収容人数が従来の2倍の100人となり、2012年(平成24年)にはカフェ「ぱんだ屋」もオープン。市の経営であるため、宿泊料金も9000円(1泊2食付)、6000円(素泊)とリーズナブルであり、いつも多くの登山客でにぎわっていたようです。

噴火口から少し離れているので、先月27日の噴火の際にも緊急の避難小屋として機能し、付近の子供も含む登山客を屋内避難させ、翌28日には管理人も含む26人が全員無事に下山しました。

しかし、仔細はまだわかりませんが、テレビのニュースなどで見る限りは、この小屋もかなり被害が出ているようです。また、これより南側に位置し、噴火口により近いその他の山小屋周辺では多数の人が亡くなっているといい、痛ましい限りです。

早く噴火が鎮まり、行方不明者も発見されてほしいものですが、それが実現するためには、それこそ御嶽の神に祈るべきなのでしょう。

これらの山小屋の再開も望まれます。が、そのための道のりはかなり遠いでしょう。どのくらいかかるかはわかりませんが、私も死ぬ前には一度登り、ぜひ亡くなった方々を弔いたいものです。

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