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松陰の恋

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以前、6月に書いた「望東尼と雅子と文さんと」というブログで、来年から始まる大河ドラマ「花燃ゆ」のことを少し書きました。が、この時点では、主人公の吉田松陰の妹の「文」のキャストが井上真央さんであり、夫の楫取素彦役は大沢たかおさん、などの主だった面々以外のキャストは決まっていませんでした。

しかし、その後ほかのキャストも決まったようで、松陰役の伊勢谷友介さん、久坂玄瑞の東出昌大のほか、幼い松陰を鍛えた教師で叔父の玉木文之進を奥田瑛二が、毛利敬親を北大路欣也、その婦人を松坂恵子、井伊直弼を高橋英樹といった具合にベテラン俳優で脇固めをすることなどが公表されました。

また、これはちょっと笑ってしまったのですが、伊藤博文に劇団ひとりが、また松陰の友人の宮部鼎蔵(ていぞう)にビビる大木、松陰の兄の杉民治(梅太郎)を原田泰造が、といった具合に各所にお笑い系の芸人さんをちりばめており、これはこれでなかなか面白いかもしれません。もっとも原田泰造さんは最近は役者としてもなかなかのものですが。

この物語は、無論その主人公は松陰の妹の杉文なのですが、その前半の主役の一人は兄杉寅次郎こと松陰その人です。若くしてその才能を認められ、長崎や江戸に遊学した松陰ですが、後に、萩で開いた私塾から、維新で活躍する多くの弟子を輩出した事で幕末の英雄とされるようになります。

この萩において、彼は、その人生で二度、同じ野山獄に投獄されています。

一度目は、ぺリーが再び浦賀にやってきた嘉永七年(1854年)であり、この前年の最初の黒船来航の際に、黒船見物をした彼が、やはり、自分の目で外国を見てみたいという衝動にかられ、密航しようとして失敗した時です。

伊豆下田港においては、再航したペリー艦隊に弟子の金子重之輔と二人で赴き、密航をさせてくれと訴えますが拒否されてしまい、しかたなく、松蔭は幕府に自首しました。そして長州藩へ檻送され野山獄に幽囚されたのです。

しかし、翌年の安政2年(1855年)には獄を出され、生家で預かりの身となります。家族の薦めにより藩士向けに講義を行うことになり、叔父の玉木文之進が開いていた私塾を引き受けて主宰者となり、高杉晋作を始め、幕末維新の指導者となる人材を多く育てるようになりました。これが、かの有名な松下村塾になります。

二度目の入獄は、これから4年のちの安政5年(1858年)のことです。幕府が勅許なく日米修好通商条約を結ぶと松陰は激しくこれを非難、老中の間部詮勝の暗殺を企て、警戒した藩によって再び投獄されてしまいます。

そして安政6年(1859年)、幕命により江戸に送致されますが、潔く老中暗殺計画を自供した上に、幕府の役人に自らが信奉する尊王攘夷思想を語ったことから、江戸伝馬町の獄において斬首刑に処されました。享年30(満29歳没)。

この一度目の野山獄への投獄の際、そこには、すでに11人ほどの囚人がいましたが、松陰はその中で一番年下でした。最初は周囲から軽く見られていた彼でしたが、しだいに親しくなるにつれ、その関係は変わってきます。

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松陰は、獄中にいる囚人たちでも、その根底には、皆、それぞれに得意なものを持っていると考え、大工をしていた者は建築にくわしいため、これを彼に講義をさせ、板前をしていた者は料理にくわしかったので、料理について語らせます。

無論松陰自身も長崎で学んだ事や国学を講義しましたが、そうこうするうちに囚人同士でも教え合うようになり、書道が得意な者がお礼に俳句を教え、絵の上手な者と一緒に絵手紙を始める、といった具合にいつしかそれらは、種々の獄中サークル活動となっていきます。

しだいに、その輪はどんどん広がっていき、やがては看守までが、サークルへの入会を希望し、松陰の講義に耳を傾けるという人気ぶりでした。この時の教える面白さ、学ぶ楽しさが、後の松下村塾での講義に影響を与えた事は言うまでもありませんが、そんな囚人の中に、一人の女性がいました。

高須久子といい、もともとは萩城下は土原(ひじはら)という地名の場所に住んでおり、この場所は、萩市内を流れる松本川の東側、椿東にある松下村塾と松本川を隔てた対岸にあり、松陰門下で、明治維新後反乱を起こして処刑される前原一誠の居宅などもあった場所です。

久子はこの地に居を構える高洲家の娘であり、入り婿で入ったここの主が亡くなったあと未亡人でした。史料には「高洲久」と記録されているようですが、もっぱら「高須久子」として語られる女性であることから、ここでも高須久子としておきましょう。

長州藩には、毛利家一門を筆頭に、永代家老・寄組・大組・遠近附士・無給通組・徒士・足軽という順で身分制度が定着していました。毛利家一門が6家と永代家老家が2家があり、これら上級武士は藩内に独立した知行地を持ち、最高権力者の地位にありました。

高須家は上記身分では遠近附士にあたり、これは別名を馬廻通ともいい、録は300石ほどです。馬廻りは藩主の身辺警護役ですから騎馬が許されていましたが、格付けからすればどちらかといえば中の上程度のカテゴリで、関ヶ原以前に何か手柄を立てて一代限り騎馬を許されたといったものだったでしょう。

ちなみに、吉田松陰の吉田家の家格は無給通組で給地を支給されません。石高はわずか26石という極貧の武士であったため、農業もしながら生計を立てていました。また、高杉晋作の身分は大組でしたが、高須家よりも石高は低く200石であり、また防長一の美人と言われた妻のまさの実家の、山口町奉行井上平右衛門の家もまた大組で250石です。

いずれも上士とされる高級武士であり、高須家はこれより格下ということになりますが、石高だけ多かったのは、馬術や大筒を教える師範家でもあるため、それなりに物入りである、と藩が判断したためでしょう。

この高須久子は、夫が亡くしたあと、その寂しさを埋める趣味として三味線に打ちこむようになりました。が、趣味が高じて、しだいに京唄、ちょんがれ節などのはやり歌などに耽溺するようになっていきます。

そして地元の芸能人ともいえる三味線弾きの弥八と勇吉という男衆をひいきにするようになります。二人は叔父甥の間柄だったようですが、いずれも身分が低く、どうやら非人とか穢多と呼ばれる部類の人だったようです。

彼らを自宅に呼び寄せ、忍び弾きをさせ、ときには夕食を与え、寝酒もふるまって家に泊めることもあったようで、この時代、武士の未亡人が徹夜したとは言え男を家に泊めるというのは一種の不義密通にあたり、非常に外聞の悪いことでした。

困惑した親類一同はついに久子を提訴。こうして高須久子は野山獄の虜囚となりました。投獄の罪状は、穢多同様の三味線弾きを平人同様に扱ったというものでありましたが、この時代は身分制度には非常に厳しい時代であり、その程度のことでも罪に問われました。

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野山獄というのは、長州藩において、士分の者を収容する牢獄でした。もともとは、大組藩士禄高200石・岩倉孫兵衛という人物の屋敷でしたが、高須久子が投獄されるよりも200年ほど前の、正保2年(1645年)の夜、酒に酔った主の岩倉は、道ひとつ隔てた西隣りの同じく大組藩士禄高200石・野山六右衛門の屋敷に斬り込み、家族を殺傷しました。

何等かの怨恨のためと思われますが、このとき藩は野山宅に岩倉を幽閉し、後に斬首の刑に処しました。が、喧嘩両成敗ということで両家とも取り潰され、屋敷も没収されました。そしてこののち萩藩は両家跡を牢獄とし、切り込んだ岩倉に非があるので、士分の者を収容する上牢を野山獄、庶民を収容する下牢を岩倉獄としました。

この野山獄には、その後松陰や久子も投じられましたが、維新前夜の文久・元治年間(1861~64年)には、藩内の論争に際して高杉晋作をはじめ多くの志士もまた繋がれ、さらには、獄外の白洲で保守派の坪井九右衛門や椋梨藤太など多くの人が処刑されたところでもあり、維新当時の萩藩の波乱に富んだ状況の象徴ともいえます。

維新史を語るうえでも重要な遺跡ですが、残念ながら現在は当時の敷地の一部が残っているだけで建物はなく、記念碑が建てられているだけです。

久子もまた、夫が馬廻り組の武士でしたから、ここに押し込められました。このとき、彼女は37才。25才の松陰よりちょうど一回り年上でした。

萩でも比較的高禄の高須家のあととり娘であった久子は、身分卑しき者たちとの交際をとがめられ投獄されたわけですが、現在ならば獄につながれるほどの重い罪ではなく、このため彼女もまた、その取調べの際悪びれる事なく、普通の人と普通の付き合いをやって何が悪いのか、と主張して反感を買ったといいます。

この野山獄には、野山六右衛門の屋敷を改造した結果、小さな中庭をはさんで北側に6室、南側に6室の計12室の獄房が設けられていました。そこに、安政元年(1854年)10月幕府から自藩幽閉を命ぜられた吉田松陰が、江戸から送られてきます。

このとき野山獄にいた11人の囚人のち、高須久子は紅一点であり、松陰が入ってくる前の在獄歴は4年ほどだったようです。野山獄は差し入れ自由ですから親戚縁者が支援してくれる限りは飢えることもないし、元々武士用の牢獄ですからそれほど苛酷な環境でもなく、確定囚ばかりですから拷問も取り調べもありません。

問題なのは刑期であり、私的な押し込め(借牢)ですから久子には刑期というものがありません。松蔭の働きかけによって同時期にいた借牢の囚人たちは多くは釈放されましたが、久子は釈放を許されず明治になって野山獄が廃止になったのちに放免されました。

このため、松蔭の死後、文久4年(1864年)に野山獄に入った高杉晋作などとも声だけでも交流はあったものと思われます。

実は、彼女は、松陰の生涯において、たった一人の恋人ではなかったかという「噂」があります。

「花燃ゆ」では、この高須久子役は、井川遥さんが演じるそうで、相手役の松陰が伊勢谷友介さんですから、この美男美女の組み合わせは、この噂をベースに決められたたキャストでしょう。なかなか斬新な組み合わせではありますが。

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無論、二人の関係を証明するような直接的な記録は、何も残っていません。が、久子が歌い、これを松陰が書き残したこういう歌が残っています。

「清らかな夏木のかげにやすらへど 人ぞいふらん花に迷ふと」

松陰はこれをは「高須未亡人に数々のいさをしをものがたりし跡にて」と前書きして、この歌に対する自分の返歌とともに書き残していました。いさをしは、「いさし」で、「子細」の意味ですが、「武勇伝」とする人もいるようです。自分がしでかした罪に関する武勇伝を松陰に披露したあとに、久子がこれを歌ったという意味です。

最初の「清らかな 夏木のかげにやすらへど」は、「松陰様、あなた様は色んな冒険を潜り抜けてこられたけれども、女色にも溺れなかったんでしょうね」という意味です。

しかし下の句「人ぞいふらん 花に迷ふと」の意味は、「それにしても、そういう冒険の影には、ほんとうは女性の影があったのでは、と世の人は噂するでしょうねぇ」という意味になります。

つまりは、松陰の過去の色恋のことを探ろう、とした句であり、ここからは久子の松陰に対する興味=恋心が伺われる、という人もいます。

ところが、この歌を受けた松陰は、にべもなく次のように返しています。

「懸香のかをはらひたき我もかな とはれてはぢる軒の風蘭」

懸香とは、掛香とも書き、調合した香を絹の小袋に入れたもので、室内にかけたり、女性が懐中したり、ひもをつけて首にかけたりした「におい袋」のことです。従って、懸香=久子というふうにも受け取れます。

しかし、「はらひたき」ですから、これは、そういう香りのするような女性との恋愛を推測されるような疑惑のケムリは打ち払いたいものです、というほどの意味です。

これに次ぐ、「とはれて はぢる 軒の風蘭」の「風蘭」とは江戸時代から栽培されている古典植物の一つです。当時から珍種や変種を集めた鑑賞会などが開かれていたという記録があります。

もちろん松陰自身のことではありますが、「そういう疑惑をかけられてしまうことは恥ずかしい、もしくは、そういう疑惑を持たれること自体、自分の不徳だと思っている」という意味になります。

つまり、久子の下世話な詮索を軽くあしらったというかんじであり、このあたりの表現をみると、愛の相聞歌というかんじはしません。

しかも、前置きに松陰は「高須未亡人に」と書いています。松陰が残している歌にはほかにも「高洲氏から」という詞書きのついたものがありますし、浮気相手ならともかく、恋をしている女性にそういう呼び方をするものでしょうか。

これらのことから、この問答から二人の関係は恋愛関係だったと想像するのは少々無理があるという人もいます。が、松陰と久子が親しく語りあっているのを、同囚たちからなにかと噂されるのを恐れ、あえてそうした表現にした、とも思われ、獄中という非常に微妙な空気の現場事情をうかがわせます。

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このほかにも、「未亡人の贈られし発句の脇とて」と前書きされた松陰の和歌2首もあり、久子はしばしば、このような発句を松陰に送り、返答を求めていたと思われます。

こういうのもあります。

「鴨立つて あと寂しさの 夜明けかな」

これは、一年間の囚人生活を終えて、松陰が獄舎を出ていく時に、久子が詠んだ句だと言われています。鴫は松陰のあざな「子義」にかけたものであり、松陰が仮出獄するとき、囚人一同がひらいた送別句会における久子の句ですが、「寂しさの」のところに久子の感情が読み取れます。

その後松陰は、いったん釈放され、松下村塾で教鞭をとる事になるわけですが、開国か攘夷かで揺れる安政五年(1858年)、幕府が天皇の許しを得ず日米修好条約を締結した事で、反幕府の意志をあらわにします。そして老中・間部詮勝(あきかつ)の暗殺と、仲間の梅田雲浜(うんびん)の奪還を計画します。

しかし、その計画は実行される事はなく、しかも密告により藩にばれてしまいます。こうして松陰は安政五年(1858年)12月26日、老中・間部詮勝の暗殺計画と梅田雲浜の奪還計画を自白し、再び野山獄に投獄されました。おそらく、このとき久子は松陰の再来に心躍らせ、また最先端の話が聞けると喜んだことでしょう。

ところが、この時のことを松陰は「獄居と家居と大異なし」とだけ書き残しているだけで、他の囚人のことについては言及があるのに、久子のことには露ほどもふれていません。確かに以前の野山獄と今度の野山獄も大異なかった事でしょうが、無論そこには同じように久子もいました。何も書いていない、ということ自体が不自然なかんじがします。

このおよそ半年の後の安政6年(1859年)6月、松陰が安政の大獄の犠牲となって死出の旅のために江戸に向かう際に二人が詠った歌が残っています。

このとき、死出の旅にたつ松陰に、久子は餞別にと手布巾を贈っています。これに対して、「高須うしのせんべつとありて汗ふきを送られければ」と前書きした松陰の和歌が残っており、これは、次のようなものです。

「箱根山越すとき汗の出でやせん 君を思ひてふき清めてん」

「君を思ひて」というところに、久子への思いがあらわになった感情が読み取れます。さらに、久子がこれに答えて松陰に贈った絶唱ともいうべき別れの句は、

「手のとわぬ 雲に樗の 咲く日かな」

で、樗は「おうち」と読み、センダンの古名です。遠く離れて行く愛しい人を、手の届かぬほど成長するセンダンにたとえ、忘れたくないその姿に見立てて別れを惜しんでいる、と解釈できます。

これに対して松陰はさらに歌を残しており、これは「高須うしに申し上ぐるとて」と前置きした上で、

「一声をいかで忘れんほととぎす」

というものです。別れの際に振りしぼるようにしてなんとか吐いた一句のようにも思えます。忘れたくないその声をホホトギスに見立てて別れを惜んでいる、というわけで、こうした二人の最後のやり取りを見るとまさに恋人同士の相聞歌とも受け取れます。

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そして、それからおよそ半年後の安政六年(1859年)10月27日、江戸小塚原にて松陰は処刑されます。

この刑場は、現在の南千住駅のすぐ西側、常磐線と日比谷線の線路に挟まれる場所にある延命寺内に位置します。この当時、刑を受けた死体は丁寧に埋葬されず、申し訳程度に土を被せるのみで、夏になると周囲に臭気が充満し、野犬やイタチの類が食い散らかして地獄のような有様だったといいます。

しかし、松陰は、自分の首の埋葬や死後の処置などを、江戸に来ていた門下生の飯田正伯と尾寺新之丞にあらかじめ依頼していました。二人が形場にかけつけた時には既に松陰は処刑されており、牢役人に金を渡して遺骸を下げ渡してもらい、近くの回向院に運んでくれるよう依頼しました。

ここでは、桂小五郎と伊藤利輔(博文)が大甕を用意して待っており、ここに松陰の死体を入れた四斗樽を担いで牢役人が現れました。四人が蓋を開けて見ると、顔色はなお生きているときのようにほんのりと赤みをおびていましたが、髪は乱れて顔にかかり、血が流れ出してむごたらしいありさまであったといい、特にその身体は素裸のままでした。

飯田が髪を束ね、桂と尾寺が手酌で水をかけて血を洗い落とし、切られた首を胴につけようとしたとき、遺体を運んできた役人が、「重罪人の屍は他日検視があるかも知れぬので、首をついだことがわかると拙者等が罰を受けねばならない。そのままにして置いてもらいたい」とこれを止めました。

四人は仕方なくその言葉に従い、せめてもと、飯田が黒羽二重の下着を、桂が襦袢を脱いで松陰の体に着せ、伊藤が自分の帯をといて結び、遺体の上に首を重ねて持参の甕に納め、回向院墓地の一画にあった、松陰よりも半年前に処刑されて葬られていた橋本左内の墓の左隣に埋葬し、その上に求めて来ていた大石を据えて仮の墓標としました。

その後、同じく松陰の門下生であった久坂玄瑞が朝廷に働きかけた結果、3年後の1862年(文久2年)、朝廷から将軍家茂に勅論が授けられ、これをもとに幕府は安政以来の国事犯刑死者の罪名を許す大勅令を布告しました。これを受けて翌1863年江戸にいた高杉晋作ら松下村塾の門下生が世田谷にある現在の松陰神社の敷地内に松蔭の改葬を果たしました。

ちなみに回向院墓所内にある立派な墓は、1942年に新たに作られた記念墓だそうです。また、萩市椿東の松下村塾近くにある松蔭の墓は、処刑直後の1860年(万延元年)に杉家や門下生達が松陰の遺髪を埋葬したものです。

松陰亡き後、久子は明治元年(1868年)に新政府のもと罪を許され、出獄しました。が、父親との関係が修復される事はなく、高須家には戻らなかったと言います。

けっこう長生きしたらしいという噂はあるものの、彼女がその後どのように生きたのかについては、はっきりした記録も証拠となる品も残ってはいませんでした。

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ところが、平成15年(2003年)、長崎造船所の初代所長を務めた元長州藩士で渡邊蒿蔵(わたなべこうぞう)という人物の遺品から、一首の歌が書かれたお茶碗が発見されました。渡邊は松下村塾における松陰の門下生であり、久子との間に交流があったとみられます。

口径12・5センチ、高さ4・7センチ。ろくろは使わず、手びねりで作られたらしいこの茶碗の裏面には次の歌が、釘のようなもので彫られていました。

「木のめつむそてニおちくる一聲ニ よをうち山の本とゝき須かも」

「本とゝき須」は「ホトトギス」と読みます。「木の芽を摘んでいると、樹上からホトトギスの一声が聞こえてきた。その声をきくと、松陰先生のことが思い出される」というふうに解釈できます。

また、「一聲」とは、松陰が安政の大獄の影響を受けて江戸送りになる最後の別れの時に、久子へ贈った発句「一声をいかで忘れんほとゝきす」の「一声」を指していると考えられます。前述のとおり、二人はこの歌の前に一対の発句と返句を完成させていますが、この歌に対しては久子からの返しはありません。

おそらくは、もう時間だぞと役人が追い立てるように松陰を牢から出したためと思われ、松陰の発句に久子は答える時間がなかったのでしょう。このことから、この句は、二人が引き裂かれるようにして別れた日、死出に向かう松陰が久子へ渡した句への返句と考えることができます。

さらに、「よをうち」には「世を撃ち」の意味が込められていると考えられ、「そのホトトギスの声は、維新を成した(世を討った)松陰の声なのかも」の意味も込められています。

末尾に「久子 六十九才」とあることから、松陰が死を迎えたとき、久子は42歳になっていたはずですから、これから27年後に作られたものでしょう。

69歳になっても、なお松陰の生き方に尊敬の念を抱き、燃え尽きぬ想いをこの茶わんに託したと思われ、松陰の死後27年経ち、自らの死期も近いと気づいたとき、松陰への思いを何かに残しておきたかったのではないでしょうか。

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4年前の2010年、下関市の映画製作会社「グローカルピクチャーズ」は、「長州ファイブ」(2006年)に続く第2弾の映画として、「獄(ひとや)に咲く花」を製作しました。青年・吉田松陰の瑞々しい恋のエピソードを描いたこの映画の原作は、直木賞作家である古川薫氏の「野山獄相聞抄」です。

この映画が作られた2010年はちょうど吉田松陰生誕180年。上映を前にして、映画の原作者である古川薫氏は、この作品についての思いを、ある雑誌に寄稿しています。

それによれば、「松陰は久子の境遇に同情し、自信をもって生きよとはげましたのではないか」、と古川氏は言います。人間平等の思想に徹する松陰は、久子だけでなく、主宰する松下村塾でも、身分の別を問わず向学心にもえる若者たちを受け入れました。

高須久子もまた獄中で松陰に学ぶ機会を得たひとりの女性です。そして「彼女の松陰にたいする尊敬と感謝の念は、自由を奪われた獄囚の身にもだえ苦しむ憂国の青年への母性本能をふくむ恋愛感情に昇華していったのではないか」、とも古川氏は書いています。

一方の松陰もまた久子の一途な恋慕に戸惑いつつもこれに応え、しかし死という魔の手がせまり極限状況に近づいていくなか、その心がよりプラトニックな恋心に近いものになっていったと考えてもおかしくはありません。

このことを裏付ける上述のような相聞の歌句が存在することは、早くから研究者のあいだでささやかれていたそうです。が、「講談者流の憶測にすぎない」と否定され、とくに戦前においては神格化された松陰の逸事として話題にすることも避けられていたようです。

松陰は、そのころまだ蝦夷といわれていた北海道だけでなく、その北にある満州や、南は琉球や台湾、呂宋(ルソン)諸島を収め、「進取の勢を漸示すべし」として、これらの日本領化を強く主張していました。この考え方はその後の日本の軍国主義化を助け、日本のアジア進出などの対外政策に大きな影響を与えることとなりました。

松陰の死後、伊藤博文らによって造営された世田谷若林の松陰神社もまたその軍国化に少なからず寄与しました。

この神社は幕末時代、徳川勢により一度破壊され、明治元年に木戸孝允がこれを修復整備しました。また昭和2~3年にかけては少し離れたところに現在のような立派なものが造営されましたが、戦前ここに参拝する軍人はひきもきらなかったそうです。

ちなみに、この神社一帯は江戸時代から長州毛利藩の藩主毛利大膳大夫の別邸のあったところで、松陰らが眠る墓域には現在も、木戸が寄進した当時の鳥居が残っています。また、桂自身の遺言により、敷地に隣接する形で彼の墓もここに改葬されています。

戦後にはさすがに軍人の参拝は減り、現在は学問の神様として崇敬を集めています。しかし、戦後新しく語られるようになった松陰伝の中でも、久子とのことは語られることはありませんでした。「軍神」として崇めたてられることはなくなったとはいえ、戦前からの名残で松陰の神聖を冒すものという空気が巷にあったからでしょう。

ところが、古川氏はこの松陰と久子のことを小説化し、「野山獄相聞抄」の題で、昭和53年(1978)夏、「別冊文藝春秋」に発表しました。しかし、これに対しては、その当時でさえ、読者からの抗議の手紙が数多く送られてきたようです。

2年後、同書が文庫となったとき、古川氏の読者としてはめずらしく23歳の女性から感想文が送られてきたそうです。そしてそこには、「感動した」と書かれており、吉田寅次郎という青年が青春を犠牲にして幕末動乱を生きたことを見事に描き切ったことを賞賛する言葉が書かれていたそうです。

この讃辞に対して古川氏は、松陰の一生をまるで「淡彩画」のようだったと前置きした上で、この女性の手紙について、「維新革命の途次、非業の死をとげた孤高の志士の短い人生の終末に、純粋なおんなの愛を捧げた高須久子という美しく教養ある女囚への深い共感であったろう」と書いています。

松陰の久子への思いが単なる共感であったか、本物の恋であったかについては、あなたの判断にお任せしましょう。

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御嶽

2014-1090878広島における土砂災害に続き、今度は大きな火山災害が発生し、どうやら今年は天災の当たり年、ということになりそうです。

茨城県南部では、ここのところ小さな地震が続いており、この後大きな地震でも来なければいいのですが……

今回噴火した御嶽山は、長野県側の木曽町・王滝村と岐阜県下呂市・高山市にまたがる標高3,067 mの複合成層火山です。山梨と静岡にまたがっている富士山とは、高さといい火山であることといい、何か似たような感じもしますが、この御嶽山の噴火に連動して、引き続いて富士山まで噴火する、というのは考えすぎでしょうか。

が、今回の御嶽山の噴火は水蒸気爆発だったようです。これに対して、江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起きた富士山の宝永山大噴火は、マグマ噴火でした。地下20km付近のマグマが滞留することなく上昇したため、脱水及び発泡と脱ガスが殆ど行われず、爆発的な噴火となりました。ただし、この時の噴火では溶岩の流下は見られていません。

今回の御嶽山の噴火では、マグマは上昇することはなく、山塊の途中で止まり、その上に溜まっていた大量の地下水が熱せられて水蒸気となり、行場を失って、爆発に及んだと考えられています。

従って前回1979年の噴火のときがそうだったように、水蒸気が抜ければ、次第に噴火は収まっていく、と考える向きも多いようです。ただ、御嶽山は、約5200年前の火砕流を伴う噴火を含め、2万年間に4回、すなわち約1万年前以降、約1万年前、約9000年前、約5200年前、約5000年前にそれぞれマグマ噴火を起こしています。

岐阜県の調査では、剣が峰北西6キロの下呂市小坂町内において、約5200 – 6000年前の火砕流が堆積してできた地層が発見されており、五ノ池火口からの噴出物と考えられる火砕流の痕跡が確認されていますから、今後は途中で止まっているマグマが上昇し、マグマ噴火に変わる可能性もないとはいえません。

今回の噴火の前にはそれといって顕著な予兆はなかったといいますが、先日のテレビニュースでは地元のアマチュアカメラマンさんが、最近硫黄の臭いがひどくなっていたと証言しており、また通常は山の中腹以上にたくさんいるクマが見られなくなっていた、と語っていました。

1979年の噴火の際にも、6ヶ月ほど前に、三ノ池が白濁し池の中から泡が噴き出す音が発生した現象が起こっており、また6時間前の火口直下で生じた地震も、その前兆現象であったとみられています。

また、王滝頂上直下西面(八丁ダルミ付近)と地獄谷の噴気孔から硫化水素などの火山ガスを噴出し続けていて、噴気孔から発生する火山ガスの轟音が聴こえることがあったそうなので、これらを注視していたら何等かの予兆が得られていたかも知れません。

1979年の噴火以降も1991年、2007年と、小規模な噴気活動が続いており、このため気象庁は御嶽山の噴火予知は可能と考え、周辺七市及び山頂周辺には火山活動の観測のための地震計、空振計、傾斜計、火山ガス検知器、GPS観測装置、監視カメラなどの観測機器が設置していました。

また、名古屋大学大学院環境学研究科も、噴火の前兆現象を観測するために地震計による御岳火山災害観測を行っていました。しかし、残念ながら今回の噴火にあたっては、両者ともはっきりとした予兆らしいものを捉えることができませんでした。

理由はやはり、設置機器の数が足りなかったのでしょう。傾斜計などは、一カ所しか設置されていなかったといい、その設置位置が適当でなかったならば予兆は記録できません。

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そもそも御嶽山は、1979年の噴火の前には、死火山だと思われていました。ところが、1968年(昭和43年)から活発な噴気活動を始めたため、気象庁は1975年(昭和50年)ころ、当時の活火山定義である、「噴火の記録のある火山及び現在活発な噴気活動のある火山」に御嶽山を指定しました。

しかし、定常的な観測体制の整備は行われず、明確な前兆現象が観測されないまま、1979年(昭和54年)10月28日に水蒸気爆発を起こしました。このときは上空約1,000 mの高さまで噴煙が噴出しましたが、噴火が起こったのが登山シーズン終了後の晩秋であり、また噴火発生が朝の5時頃であったため、大きな人的被害は出ませんでした。

このときの噴火は、当日14時に最大となりましたが、その後衰退しました。噴出物の総量は約20数万トンと推定され、北東方向に噴煙が流れ軽井沢や前橋市まで降灰しました。しかし、今回の噴火では、噴出物の総量は既に100万トンを超えているという推定が出されており、このときの噴火をはるかに上回る降灰が周辺地域で起こっています。

ところで、現在は、死火山、休火山といった言葉は使われていません。以前は、活動している火山を活火山、活動を休んでいる火山を休火山、活動を止めてしまった火山を死火山と呼んでいた時代がありましたが、現在では活火山という言葉のみが使われています。

このことは案外と知られておらず、今でも休火山・死火山の分類があると思っている人も多いでしょう。これはその昔、常に噴気があって頻繁に噴火する火山、例えば桜島や浅間山等は活火山、噴火記録はあるが現在は活動していない富士山などを休火山、有史以降の噴火記録のない火山を死火山と学校で習ったことを記憶している人が多いためでしょう。

1968年(昭和43年)に発行された気象庁職員のための火山観測マニュアル、「火山観測指針」にも、噴火記録のある富士山も活火山リストに掲載されており、この当時は休火山と定義されていました。

ところが、それまで死火山と考えられていた北海道の雌阿寒岳が1955年に噴火、これに続いて今回噴火のあった御嶽山もまた、1968年(昭和43年)から活発な噴気活動をはじめたことから、気象庁はびっくり仰天。以後、この二つの火山は活火山に変更されました。

また、噴火や噴気活動の間隔は火山によってまちまちであることなどから、その後活火山と休火山を分けることは難しいといわれるようになり、気象庁はこれ以降、噴火記録のある火山や活発な噴気活動がある火山はすべて活火山とするようになりました。

その後1970年にはそれまで休火山と考えられていた秋田駒ヶ岳がこれもまた噴火し、そして1979年(昭和54年)、今回噴火を起こした御嶽山もおよそ5000年ぶりと考えられる水蒸気爆発を起こしたのです。これにより、改めて休火山や死火山の分類区分が無意味であることが一般的にも認知されるようになりました。

さらには、しばらく大規模な噴火のなかった島原岳もまた、1990年に噴火しました。江戸時代の1792年(寛政4年)に噴火して以来といわれています。ところが、実はこの前後にも噴火があったようで、しかし、どうやら噴火したらしい、ということぐらいしか記録がありませんでした。

例えば1798年(寛政10年)の秋に噴煙が生じたと伝えられていますが、はっきりとせず、これが本当に噴火だったのかどうかも詳しくわかっておらず、このように江戸期以前の噴火記録というものは、かなりあいまいなものが多いようです。

火山の噴火の歴史は、歴史時代に人が目撃してはっきりした記録が存在するかどうかによって改めて認知されるわけですが、そうしたはっきりとした目撃談や調査記録がなければ本当に噴火だったのかどうかさえもわからないわけです。

ところが、それまでは、何等かの「噴火記録のある火山」はすべて活火山とされており、いつ噴火したのかもわからないようなものも活火山としていました。このため、1991年(平成3年)に気象庁は「活火山の定義」を見直し、この「噴火記録のある」を、はっきりと年代を区切り、「過去およそ2000年以内に噴火した」と改めました。

これにより活火山の定義は、「過去およそ2000年以内に噴火した火山及び現在活発な噴気活動のある火山」とされ、またそれまでのように曖昧な噴火記録の有無に頼るだけではなく、地質学的な証拠に基づいてはっきりと噴火したものに限る、と初めて明確化しました。

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ところが、さらに研究が進むにつれて、日本以外では、2000年以上の休止期間をおいて噴火する火山もあることが明らかとなりました。海外では1万年以内に噴火した火山を活火山とするのが主流であり、このことから、2003年(平成15年)火山噴火予知連絡会は、「過去およそ2000年以内」を「概ね過去1万年以内」と再定義しなおしました。

火山噴火予知連絡会というのは、最近ニュースでも良くとりあげられるのでご存知の方も多いと思いますが、山噴火予知計画に基づいて火山噴火の予知のための研究を行っている機関です。

大学などの研究者や関係機関の専門家で構成されていて、「観測データや情報の交換を行い、火山活動についての総合的判断を行う」ことを目的として設置されている機関で、気象庁が事務局を担当しており、内閣府や国土交通省河川局などの防災機関も参加しています。

よく似た経緯で設置されている地震予知連絡会の兄弟機関とも言われますが、ただ地震予知連絡会は、事務局が国土地理院であり、委員が学識経験者のほかに気象庁の職員などで構成されているなど、火山噴火予知連絡会とは性格がやや異なります。

これは、地震予知がまだ研究段階であるのに対し、火山噴火予知は現在の観測体制でもある程度の余地が可能であるため、情報発信能力のある気象庁が事務局を務めることによって、より防災に役立てることが期待されるためです。気象庁長官の私的諮問機関としての役割も持たされており、このため連絡会の診断結果は気象庁から発表されます。

この火山噴火予知連絡会によって、それまで日本国内の活火山は108であったものが見直され、計110火山となりました。この見直しで増加したのは3火山でしたが、活火山ではないとされて一つ減ったため、合計では二つ増えただけとなりました。

ところが、新しい活火山の定義を1万年以内に噴火したもの、と定義すると、近年になってから頻繁に噴火する火山だけでなく、数千年もの長きにわたって噴火していない火山まで含まれることになり、その幅が大きくなってしまいます。

このため、火山噴火予知連絡会は同時に、こうした年代による評価だけでなく、「社会的影響度を評価することなく」火山学的にだけ評価された火山活動度により、ランクA・ランクB・ランクCといった、3区分で活火山をランク付けすることにしました。

社会的影響度を考慮しない、ということは、火山学的には活動が活発であっても、例えばものすごく山奥にあって誰も登らないような火山は社会的影響度が低い、ということになります。このため、このランク付けは、必ずしも火山活動の活発さによる危険性とは直接は結び付きません。あくまで学術的な火山学上の分類にすぎないわけです。

しかし、これでは一般の人には果たしてその火山が安全なのか危険なのかはわかりません。そこで、これではいかん、と考えた気象庁は、2007年12月から、火山活動による災害の危険性に応じ、国内すべての活火山について「噴火警報・噴火予報」を発表するようになりました。

同時に活動度の高い火山には5段階の噴火警戒レベルを導入し、噴火警報・予報で発表することにしましたが、この噴火警戒レベルと、上記のランク分けはまったく関係ありません。例えば、2011年1月に活発な噴火活動を始め、現在も時折噴煙を上げている新燃岳を含む霧島山の活火山としてのランクはBであり、まったく活動のない富士山と同じです。

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これに対して、火山噴火予知連絡会もまた、ただ単にランク付けだけで自己満足していてはいかん、と考えたのか、2009年(平成21年)には、火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山として、47の火山を選定しています。

これは、今後100年程度の中長期的な噴火の可能性及び、社会的影響を踏まえて選定されたもので、選定理由は、以下のようなものです。

1. 近年、噴火活動を繰り返している火山
2. 過去100年程度以内に火山活動の高まりが認められている火山
3. 現在異常はみられないが過去の噴火履歴等からみて噴火の可能性が考えられる
4. 予測困難な突発的な小噴火の発生時に火口付近で被害が生じる可能性が考えられる

御嶽山は、このうちの1.に含まれており、このほかには、十勝岳、有珠山、北海道駒ヶ岳、那須岳、草津白根山、浅間山、伊豆大島、三宅島、阿蘇山、霧島山、桜島など全部で23の火山が指定されており、2.にも18の火山が指定されています。なお、3.は、岩木山、鳥海山、富士山、雲仙岳の4つだけで、4.も倶多楽湖、青ヶ島の二つだけです。

ちなみに倶多楽湖(くったらこ)というのは誰も知らないと思いますが、北海道南西部、白老郡白老町にあるカルデラ湖で、4万5千年以上前に火砕流を伴う大規模な噴火を繰り返し、倶多楽湖を形成したものです。近年では約200年前に活動をしていたと考えられており、現在、湖の西側にある日和山は噴気活動を続けています。

また、青ヶ島は東京都に属する伊豆諸島の有人島としては最も南に位置する島で、天明3年1785年に発生した火山活動では全家屋63戸が焼失しており、島民327人のうち130~140人が死亡したといわれています。

こうした火山には、気象庁や防災科学技術研究所の火山基盤観測網が敷かれ、大学などの機関が上述の御嶽山で使われているのと同じような地震計や傾斜計のほかの種々の観測施設を整備しています。が、いかんせん予算不足のため、充実した観測体制が敷かれているかと問われれば、答えはノーと言わざるを得ないのが現状です。

それではこの御嶽山という山はいったいどのように形成された火山なのでしょうか。これは、約40~80万年前に噴出した溶岩と火山砕屑物から形成されたとされており、現在とほぼ同じ位置の火口からの比較的静穏な噴火により形成された成層火山で、当初は標高3,200~3,400 mと、富士山並の高さがあったようです。

その後約10万年前まで火山活動の休止期間が続き、この間、山体は浸食を受けて深い谷が形成されるとともに、山の高さも少しずつ低くなりました。この休止区間後は、噴火を繰り返し、最近1万年間では、4回のマグマ噴火と12回の水蒸気爆発が起きたことは上述のとおりです。

また、1979年の水蒸気爆発では、地獄谷上部の標高2,700 m付近を西端とし東南東に並ぶ10個の火口群が形成されました。しかし、比較的小規模な噴出があっただけで、その後の火山活動もごく小規模で、以後は1991と2007年にごく少量の火山灰を噴出しただけです。

こうして現在の御嶽山が形成されたわけですが、ところが、1984年(昭和59年)9月14日には、火山活動による山容変化ではなく、大規模な「山体崩壊」によってその山の形が大きく変わりました。

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山体崩壊とは、火山などに代表される脆弱な地質条件の山体の一部が地震動や噴火、深層風化などが引き金となって大規模な崩壊を起こす現象です。

御嶽山では南斜面で起こり、原因はこの日の、8時48分49秒に南山麓で発生した地震であり、これは、のちに「長野県西部地震」と呼ばれるようになります。この地震によって崩壊した大量の土砂は木曽川水系の濁川上流部の支流伝上川をかけ下り8分間で王滝川にまで達し、この土石流はその後「御岳崩れ」と呼ばれるようになりました。

地震が起こったのは、御嶽山山麓の長野県木曽郡王滝村直下、深さ約2kmという浅い場所であり、地震規模はM 6.8ですから、それほど巨大な地震というわけでもなく、中地震と大地震のちょうど中間ぐらいの規模です。

ところが、王滝村では推定震度6の「烈震」を記録しました。しかもこの震度はあくまで「推定」であり、これはこの当時、当地に地震計が置かれていなかったためです。震央、すなわち震源の真上では震度7の「激震」だったのでは、とする見方もあり、震源の深さがわずか2km と極めて浅い地震であったことが災いしました。

震源域の真上では、一部の範囲で重力加速度を越えた5Hz~10Hzの震動により、石や木片が飛んだという報告もあり、震央から4km離れた場所にある、水資源開発公団の牧尾ダムに設置されていた地震計も300ガルを上限とする設定でしたが、これを振り切り、地震記録が取れていませんでした。

しかし、この地震による家屋倒壊といった直接的被害は少なかったようで、そのほかにも道路や橋梁への大きな被害は見られませんでした。ところが、この日の前日までの連続雨量は150mmを超えており、この地域一帯は非常に土砂崩落が起こりやすい状況でした。

ここへ起きた地震により、御嶽山南側で大規模な山体崩壊が発生し、体積およそ3450万立方メートルという大量の土砂が伝上川の両岸を削りつつ、濁川温泉旅館を飲み込みながら、標高差約1900~2500m、距離約10kmを平均時速80km~100kmという猛スピードで流下し、延長約3kmにわたって最大50mの厚さで堆積しました。

この地域の岩盤は粘板岩が主体でしたが、その上に1979年の噴火やそれ以前の噴火の際に御岳山から吐き出された火山噴出物が堆積しており、基盤である粘板岩とその上に溜まった軽石層が滑り面となり、その上の大量の火山灰が流れ落ちたものと考えられています。

この結果、氷ヶ瀬の渓谷では厚さ30メートル以上の土砂が堆積して谷が埋まり、この当時、伝上川周辺に名古屋市からきのこ採りなどに来ていた5名と濁川温泉旅館の経営者家族4名の計9名の全員が土石流に巻き込まれました。

また、王滝村松越地区では、土砂崩れにより、森林組合の作業木工所と村道の一部が崩落、旅館の半分を削り取りながら川下にあった生コン工場を直撃、対岸の段丘上にまで押し上げました。この土砂崩壊で、作業木工所の森林組合員と生コン工場の従業員、合わせて13名が犠牲となるととともに、下流の御岳湖(牧尾ダム)に大量の土砂が流入しました。

この地区にあったある旅館では、建物の半分が崩壊しましたが、地震発生時は宿泊客がおらず、経営者の妻である女将が崩落に巻き込まれました。が、幸い、身体が畳の上に載ったまま流され、土砂に飲み込まれることはありませんでした。

その後、この女将は、負傷していたにも関わらず、崩落でできた崖を自力でよじ登り、奇跡の生還を果たしています。が、この傷はその後2週間の入院を要するほどの重傷であったといいます。

このほか、王滝村滝越地区でも、土砂崩れによる家屋倒壊で1名が死亡し、県道を車で走行中の林業関係者5名が土石流に巻き込まれ行方不明となりました。また、柳ヶ瀬地区では、自宅から出た1名が行方不明となったほか、トラックが土砂崩れに巻き込まれ、ドライバーは車外へ放出され、後日遺体で発見されました。

この当時、大量の土砂が堆積して谷が埋まった氷ヶ瀬地区では営林署の建物が土石流による泥流に飲み込まれてゆく様子がテレビで報じられており、王滝川では、堆積した土砂によって天然の堰止め湖ができた様子なども報道されました。

この大災害のおける死者は松越地区での13名、滝越地区での1名、行方不明者は「御嶽崩れ」による15名であり、合わせて29名となりました。また、負傷者は10名、家屋被害は、全壊14棟、半壊73棟、一部損壊517棟に及び、全壊した家屋はすべて土砂崩壊による倒壊、流出でした。

この地震による土石流災害は、1979年の噴火のあと5年後に起こっており、この間、この時の噴火によって出た火山性噴出物を含め、それ以前からどれほどの堆積があったかについては、十分に調査を行える時間がありました。

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にもかかわらず詳しい調査は実施されてなかったのは、この噴火における噴出量が比較的少なかったためと思われ、もし測量を行っていたら山体崩壊の可能性がわかっていたかもしれません。これが被害を拡大したともいえ、ある意味では人災という見方もできます。

また、この地震についても、断層などによる地震ではなく、火山性のものではなかったか、という指摘もあるようです。名古屋大学がのちに行った調査では、50km離れた「白狐」、95kmの「湯谷」、71kmの それぞれの観測点の温泉中に含まれるガス中のCH4 / Ar(メタン-アルゴン比)及び H2(水素)が有意な変動をしたという結果が得られています。

1979年の噴火の前年には、震央から9km離れた箇所にある、御嶽山の噴火活動で形成された噴気孔から噴出していた火山性ガス中の CO2及び温度には変化がありませんでした。

ところが、メタン-アルゴン比ほかの火山性ガスの比率は、噴火後の1980年以降増加を続け、地震があった直前の1週間には1981年の100倍を観測していたことが分かっています。さらには、これらの比率は、地震後に減少していることもわかっており、こうしたことが、この地震が火山性であることが疑われる理由です。

このほかにも、震源から25km離れた阿寺断層(岐阜県福岡町宮脇)や、100km離れた松代断層(長野県長野市松代)、同じく100kmの中央構造線(愛知県新城市有海)などの各地質調査所の計141箇所の観測孔で、地震前後のRn(ラドン)濃度の変動が周年変化を外れ上昇していたことも分かっています。

しかし、地震学者の多くは、この地震を1948年の福井地震(M7.1)、1961年の北美濃地震(M7.0)、1969年の岐阜県中部地震(M6.6)と続いた一連の地震と関連づけて考えているようであり、火山学者の見解とは違うようです。

従って、この山体崩壊の原因となった地震が、御嶽山の火山活動の一環として生じたものと考えるのは判断が分かれるところです。もし火山性のものなら、今後もまたそうした地震が起き、山体崩壊が起こる可能性がなきにしもあらずですが、一度崩壊を起こしているので、同じ規模の土砂災害が起こるとは考えにくいかもしれません。

ただ、今回の噴火による噴出量は前回よりもかなり多く、噴火が収まった以降、必ずしも火山性ではなくとも大きな地震が起こる可能性もあるわけであり、引き続いての土砂災害には十分に注意するにこしたことはないでしょう。

現在なお噴火を続けていて、山頂に取り残されている方の救出もままならない状況のようですが、日本の東方沖からは台風が接近しており、今後の気象条件によっては雨が降り出す可能性もあります。先々月には広島で土砂災害が起こっているだけに、噴火だけでなく、その可能性も視野に入れて救出活動を行うべきでしょう。

ところで、この御嶽山は、古くから「王御嶽」(おんみたけ)と呼ばれ、ここに坐す神を「王嶽蔵王権現」として、修験者たちの厚い信仰の対象となってきました。甲斐の御嶽、武蔵の御嶽などがただ単に「みたけ」と称される山と異なり「おんたけ」と称される山はこれだけであり、「山は富士、嶽は御嶽」とも呼ばれる名山です。

日本では富士山に次いで2番目に標高が高い火山であり、剣ヶ峰を主峰とし、摩北側山麓から見ると、他の峰が隠れて見えないためきれいな円錐形をしており、「日和田富士」とも呼ばれます。しかし大噴火によって剣ヶ峰、摩利支天山、継母岳の峰々が形成された複成火山であり、その山容はアフリカのキリマンジャロ山に似ているという声もあるようです。

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古くは、信仰の対象として少数の修験者によって登られるだけでしたが、江戸時代に覚明行者が黒沢口を開き、普寛行者が王滝口を開き全国各地に御嶽講が広まり信者による集団登拝が盛んに行われ、現在も白装束の登拝者が見られます。

しかし、江戸時代にも御嶽登山者の病気や凍死による多数の死亡者の記録があるほど登山が困難な山であり、1847年(弘化4年)には山頂の強い風雨で7人中5人が凍死する山岳遭難が起きています。もともとは、女人禁制でしたが、1872年(明治5年)に女人禁制が解かれ、明治初期に外国人の登頂により近代登山が始まりました。

1894年にウォルター・ウェストンも登頂しており、以降一般の登山者にも登られるようなり、木曽側から3つ(王滝口、黒沢口、開田口)、飛騨側から1つ(小坂口)の登山道が開かれ、その後日和田口が比較的新しく開かれました。1979年の噴火後は入山規制されましたが、1981年に山頂部の火口付近を除き入山規制が解除されました。

3000mを越える高峰ですが、御嶽ロープウェイがあるためこれで標高2000mほどまで高度を稼げるため、日帰りで登山されることもあり、麓の小中学校で学校登山が行われています。また、御嶽講の修験道者たちの登山も活発で、毎年8月8日に山頂直下(剣ヶ峰と王滝頂上の間)の八丁ダルミで、御嶽教の御嶽山大神火祭も行われています。

また、富士山とは異なり、現在の進んだ装備によってすれば積雪期の登山においても大きな難所はないため人気があります。が、独立峰のため山頂付近が強風でアイスバーンとなるため滑落に注意を要し、視界が悪い時にはルート判断が難しくなる山です。また、これまでも気象庁発表の噴火警戒レベルにより入山が規制される場合もしばしばありました。

しかし、百名山ブームもあって、旅行会社による登山ツアーが多数行われており、今回の犠牲者の中にもそうしたツアーでの参加者も多いのではないでしょうか。明治の半ばには8000人程度だった登山者は、現在3万人にも膨れ上がっています。

戦前には年間5~6万人ほどにも膨れ上がった時期もあったようですが、現在はややこれより落ち着いた、といったところでしょう。ただ、年間3万人は30万人の富士山ほどではないにせよやはり多く、このためこれを受け入れるための山小屋も数多くあります。

宗教登山が盛んな山であるため、宗教施設としての側面がある山小屋も多く、これらの山小屋は大広間や客室内に御嶽神社の掛け軸などが祀られているといいます。各登拝道や山頂などに多数の山小屋と避難小屋がありますが、営業終了は山小屋によって差があるものの、8月末から9月末までの間が多いようです。

今回の噴火は、まさにその仕舞支度をはじめようかとする時期に起こったものであり、終了間際の駆け込みということで、予約を入れていた登山客も多かったのではないでしょうか。しかも土曜日のお昼時という、最悪のタイミングで起こったこの大災害には、いったいどういう意味があるというのでしょうか。

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話しは少し変わりますが、その昔、後藤新平という政治家がいました。台湾総督府民政長官や満鉄初代総裁を歴任し、この当時、最悪の環境といわれた台北や、大連、上海といった都市の再開発を行い、近代的な都市として生まれ変わらせるという都市計画家としての側面も持っていました。

その手腕を買われて東京市の第7代市長にも選ばれ、この当時まだ江戸時代のままの劣悪な環境の江戸の町改革にも乗り出しましたが、彼が希望する開発予算に議会が反対したため、計画はとん挫。

ところが、東京市長の職を辞した大正12年(1923年)4月からわずか5か月後の9月1日に発生した関東大震災において、東京は壊滅します。死者・行方不明10万5千余とされるこの地震では、市中のインフラの多くが焼失しました。

しかし、これは同時に東京を蘇らせるチャンスとなり、この震災の直後に組閣された第2次山本内閣で後藤新平は内務大臣として入閣し、帝都復興院総裁を兼務して震災復興計画を立案しました。まるで、東京を蘇らせるための手形が神様から後藤新平に与えられたかのようです。

この計画は大規模な区画整理と公園・幹線道路の整備を伴うもので、13億円という当時としては国家予算の約1年分に相当する金額に対して、結局議会が承認した予算は5億7500万円に過ぎず、当初計画を縮小せざるを得なくなりました。

それでも、現在の東京の都市骨格、公園や公共施設の整備の骨格は、今なおこの復興計画に負うところが大きく、後藤が提案した東京から放射状に伸びる道路と環状道路は実現しませんでしたが、とくに南北軸としての昭和通りは、建設当初は大阪の御堂筋に匹敵するような、街路樹や緑地帯を備えた東京の顔にふさわしい道路でした。

また、東西軸としての靖国通り(当初の名称は「大正通り」)や環状線の基本となる明治通りなどもこの時作られたものです。現在の東京の幹線道路網の大きな部分は後藤に負っていると言ってよく、特に下町地区では帝都復興事業以降に新たに街路の新設が行われておらず、この当時の復興遺産が現在インフラとしてそのまま利用されています。

もう私が言いたいことはお分かりでしょう。

先々月起きた広島の土砂災害といい、今回の噴火といい、今年は災害の多かった年として多くの人に記憶されるようになるに違いありません。が、こられの災いもまた、関東大震災の後の復興と同じく、何かを生まれ変わらせるための必然だとも考えられ、やがてその意味がわかる時が来るのでないでしょうか。

あるいは後藤新平のような救世主が、現在のように元気のない日本に現れるのかもしれません。

歴史は繰り返します。が、今年はもうさすがに大きな災害がないことを祈りたいものです。

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エレベータのはなし

2014-10700931979年9月29日午後8時、日本の宇宙船 JX-1が、富士山麓から打ち上げられました。乗員は39名で、建造には当時の価格で11兆6000億円がつぎ込まれました。単段式のロケットであり、内部に1人乗りの観測用小型ロケットを格納し、胴体側面から射出することができ、これにより土星を観測するのが目的でした………

といってもこれは映画の話であり、架空の物語です。1962年3月21日に公開された「妖星ゴラス」という東宝の特撮カラー映画で、謎の燃える怪星ゴラスと地球との衝突を回避するため、地球の公転軌道を変えようと奮闘する人々を描いたものです。

撮影監督はかの有名な円谷英二。東宝特撮映画50本目の集大成を目指して、構想3年、製作費3億8千万円、製作延日数300日をかけた超大作として製作されたものです。

おおまかなあらすじとしては、パロマー天文台が質量が地球の6,000倍あるという黒色矮星「ゴラス」を発見したと発表。これを受け、もともとは土星探査の任務を負った日本の宇宙船 JX-1 隼号が、急遽ゴラス探査に向かいます。しかし、質量が膨大なゴラスの引力圏内に捉えられ、遭難してしまいます。

そして隼号が遭難直前に送ったデータから研究者たちが導き出された結論は「ゴラスが今の進路を保つと地球に衝突する」という恐るべきものでした。この事態を危惧する学者たちは、南極に建設した巨大ロケット推進装置によって、100日間で地球を40万キロ移動させ、その軌道を変える」という「地球移動計画」を提案。

アメリカやソ連も加わって計画は一気に進み、かくして世界中の技術が南極に結集し、巨大ロケット基地が建造されていきます。こうして南極で完成したロケット基地のジェット噴射は、地球を計算通りの速度で動かし始め、世界は歓喜します。がしかし、その後も観測により、ゴラスの質量はさらに地球の6200倍へと増加。

そして1982年2月、ついにゴラスと地球が最接近する日を迎えました。地球上ではゴラスの引力により、各地で天変地異が発生し、富士山麓の宇宙港の宇宙船も次々と地中に飲み込まれていきます。ロケット基地も水没する中、運命の時が刻々と迫ってきました。果たして地球は行きのびることができるのでしょうか。嗚呼…

と、荒唐無稽な話のようですが、この映画の撮影にあたって総監督の本多猪四郎は東京大学理学部天文学科へ通い、「地球移動」という荒唐無稽な設定が本当に可能かどうかという科学的考証を依頼しています。そして研究者が、必要な力・運動量・エネルギーを算出した結果、必要に見合った十分な力があれば、軌道は変わるという結論を得たといいます。

ただ、エンターテインメントとは言いつつも、科学考証が前面に出すぎたストーリーが災いしてか、当時の興行成績はあまり芳しくなかった様です。結局A級スケールのSFシリーズはこの作品が最後となり、東宝特撮はこの後、怪獣対決に作品の主体をシフトせざるを得なくなって行きました。

この映画では、登場したJX-1 隼号・JX-2 鳳号という宇宙船においても、科学考証が行なわれ、11兆6000億円という建造費や、単段式のロケットである、といった点にもかなりのリアリティが持たされました。

この単段式ロケットというのは、実際にも研究されています。正式には単段式宇宙輸送機といい、燃料や推進剤のみを消費し、エンジンや燃料タンクなどの機材を切り離さずに衛星軌道に到達できる宇宙機のことです。英語では“single-stage-to-orbit”であり、SSTOと略し、地球と宇宙を往復して帰ってくることから「単段式宇宙往還機」とも呼ばれます。

これまで研究されてきたものは、必ずしも再使用できるものばかりとは限りませんが、再利用しないで捨ててしまうのは、そもそもの目的にそぐわずメリットは薄いわけで、なので、通常は「再使用型宇宙往還機」として開発が進められます。

出発から目的地到着、出発地への帰還まで主要部品を切り離さず、点検整備と推進剤充填だけで再度飛行できる機体であれば、宇宙探査においても航空機のように簡便で経済的な輸送手段になるとの考えがから生まれたのがこのSSTOであるというわけです。

これに対し、これまで打ちあげられてきた地球上から地球周回軌道へ向かうロケットのすべては多段式であり、軌道へ到達するのは機体の一部だけです。最終的に出発地へ戻るのは有人部分だけであり、燃料を搭載した部分の機体の多くは使い捨てであるため、その飛行を複雑で高価なものとしています。

従来の宇宙ロケットが多段式であるのは、ロケットの父とも呼ばれ、宇宙ロケットの原理を考案したツィオルコフスキーという学者が導き出した公式から導き出された結論によります。この結論というのは、単段で宇宙に到達するためには、どうしても従来より軽い機体と、従来より高性能なエンジンの組み合わせが必要となる、というものでした。

この当時、こうしたことを実現できる技術はなく、このため、多段式ロケットは機体を使い捨てにすることで構造を簡素化することによってのみ、このツィオルコフスキー理論を実践することができたわけです。

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ただ、最近は技術開発が進み、新素材の開発や現状を上回る性能のエンジンの開発などが行われた結果、SSTOを飛ばすことは可能だといわれています。しかし、SSTOの製造費用は同等の能力を持つ使い捨てロケットよりはるかに高額になることは容易に想像できます。

とはいえ、SSTOは初期投資は大きいものの、繰り返しの飛行により減価償却することによって運行費用は安くすることが目的の宇宙船です。飛行中の故障があっても、安全に帰還できることを前提にしており、その開発に伴う初期投資は多くなったとしても、機体を喪失するような重大事故を起こす可能性は低い、というふうに考えることもできます。

加えて簡便で経済的な整備により短期間で次の飛行が可能であること、主要部分の寿命が充分に長く償却までの飛行回数を確保できることなどもメリットです。なによりも多段式ロケットのような切り離し機構などが不要となり構造を簡素化でき、また1段目の再使用のみを考慮すればよいわけです。

これらのことから、再使用型宇宙往還機は理想の宇宙船と言われています。しかし、機体の大幅な軽量化が必要であること、さらにその飛行を可能とするジェットエンジン等の開発が難航していることなどから、実験機は開発されているもののいずれも宇宙空間の軌道には到達しておらず、地球上から発進するSSTOは現状では実現していません。

ただ、月面上においてだけはSSTOは成功しています。アポロ計画のアポロ月着陸船の上昇がそれで、月のように低重力の天体ならば、SSTOは難しいことではありません。ただしアポロ月着陸船の場合は、着陸する際に使用した下降段(総重量の6割)は切り離して月面に捨ててきており、この軽量化によって離陸に成功したものです。

今後SSTOの実現させるためには、とくに高性能なエンジンと充分に軽量な機体が必要です。さらには、大気圏再突入能力、着陸能力を兼ねそろえ、簡便で経済的な整備により、繰り返し飛行可能であることも求められ、故障を早期に検知し、拡大を防止して正常な機能で飛行を継続できることも求められます。

主要部分の寿命が充分に長く、減価償却により建造費用を回収できることも必要ですが、繰り返し利用を目的として運用されてきたスペースシャトルは結局、ロケットよりも高価なことがわかったように、本格的なSSTOの開発の前途もあまり明るくありません。

一方では、まっさらな頭で考えれば、宇宙にモノを飛ばすより、高い塔を建設するとか、空に梯子をかけるといった発想の方が自然でしょう。以前のブログで「宇宙エレベータのお話」というのを書きましたが、実はこの宇宙エレベーターが最近にわかに着目されつつあるといいます。

実は前述のツィオルコフスキーはロケットよりも前に宇宙エレベーターのアイデアを考えていたといいます。宇宙空間への進出手段として構想していましたが、この当時はそれを実現する技術のかけらもなくまったくの夢物語と考えていたようです。

しかしカーボンナノチューブの発明後、現状の技術レベルでも手の届きそうな範囲にあるということが最近とくにいわれるようになり、実現に向けた研究プロジェクトが日本やアメリカで始まっており、最近さらに研究が加速しているといいます。

日本のゼネコン、大林組は、大真面目に2050年までにこれを実現するとしてその開発に取り組んでおり、一昨年にその構想を発表しました。それによれば、宇宙エレベーターの建設計画のポイントは3つあります。

ひとつは、やはりケーブルです。同社の研究によれば、ケーブルの長さは9万6,000kmにもなり、風などの影響で地球側の末端は10km単位で揺れ動きます。しかも、絶妙なバランスで宇宙空間に「立って」いるケーブルのバランスが崩れると、地球側に落下もしくは宇宙の果てまで飛び去ってしまいます。

また、ふたつめのポイントは、ベース基地となる「アース・ポート」です。これは宇宙との間を往復するための発着場です。主要部は海上に浮かべることなどが想定されており、宇宙まで届くケーブルを地上に固定し、エレベーターを安全に制御するためにケーブルの張力を調整する役割などを担います。

3つ目は、「静止軌道ステーション」です。これは、宇宙空間において、最初にエレベーターを建設する起点になるとともに、宇宙におけるエレベーターの基地になります。現在のところ、複数のユニットを打ち上げて組み合わせて作ることが検討されていますが、宇宙に運べるユニットの大きさの限界、宇宙での人間の作業限界など、問題点が山積みです。

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しかし、大林組はこれらの問題点をひとつひとつクリアーして宇宙エレベーターを実現しようとしています。では、その構想について、より具体的にみていきましょう。

言うまでもないことですが、宇宙エレベーターというのはロケットのように無軌道を昇っていく飛行体ではなく、むしろ上下移動する鉄道のようなものです。上昇するにつれてクライマーは次第に地球の重力圏から離れていくわけですが、大林組の構想では、ちょうど火星の重力に等しくなる高度3900キロのところにまず、中継基地を設けます。

ここは、ほぼ火星における重力と同じなので、同社ではこれを「火星重力センター」と呼んでいます。さらに登ると月の重力に等しくなる高度8900キロに達し、ここに建設する中継基地は「月重力センター」になります。

さらに高度2万3750キロメートルのポイントには、低軌道衛星投入ゲートを設置します。「ゲート」の意味は、ここから下の軌道に人工衛星を「落とす」感覚で投入できるようにするためです。低軌道とは、地球を周回する人工衛星の軌道の中でも高度が低いもので、だいたい300キロメートルから千数百キロメートルくらいの高さのものを指します。

さらに高度3万6000キロメートルまで上がったところに、「静止軌道ステーション」をつくります。この高度では、地球の自転の角速度と、人工衛星の角速度がちょうど同じになるため、地上から見ると1点に留まっているように見えます。これが「静止軌道」といわれるゆえんです。従来からも天気予報などに活用される静止衛星がここに置かれています。

さらに昇って、高度5万7000キロメートルには「火星連絡ゲート」という火星などの惑星探査のための前線基地を作ります。そして高度9万6000キロメートルが終端点であり、ここに火星や木星などのその他の惑星、小惑星への出発基地が置かれます。

この出発基地では地球からの高度を十分稼いだ分、地球の自転による遠心力が増し、より遠くへ探査機を飛ばすことができるようになります。少ない推力で宇宙船を飛ばすことができるわけで、エレベーターにより大量の機材を持ちあげて宇宙船を飛ばせば、数年以上の長期に及ぶ火星や木星への飛行のためには有利になります。

また、経済的でもあります。地球からロケットを飛ばす場合、例えば1キログラムの物を運ぶのに100万円ほどかかり、これは1トンで10億円です。宇宙エレベーターを使えば、これが100分の1ぐらいになり、1トンで1000万円ぐらいで済みます。また、ロケットよりも大きなものを宇宙に持っていくことができ、何10トンのものも持ち上げられます。

無論、惑星探査といった科学目的だけでなく、観光で宇宙に行きたい人も地上3万6000キロメートルの静止軌道までならば気軽に行けるようになると想定されており、その費用も数百万円程度と試算され、これは豪華客船で世界1周するくらいの感覚です。

今の時点でも、上述のSSTOに近い飛行物体を使って「宇宙飛行」のサービスを提供しようとしている民間企業が複数あることはご存知かと思います。が、これは100キロくらいの高さまで飛ぶサブオービタル飛行(地球を周回しないで降りてくる)であり、せいぜい数分間しか楽しめません。

宇宙エレベーターであれば、その気になれば、何時間でも、場合によっては宿泊も可能になります。なかなか夢のある話ではないでしょうか。

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それにしてもなぜ、大林組のような建設会社が宇宙エレベーターを開発しようとしているのでしょうか。

実は、これは大林組が、地上高さ634mという世界一の電波塔である東京スカイツリーの施工実績を持っているからです。大林組としては、この施工により自信をつけ、宇宙エレベーターにおける現実的な設計や施工の仕方についても、ある程度の見込みがついた、と考えているようです。

まるで夢物語ではなく、実現可能なものとしてとらえており、ことの発端は、東京スカイツリーが完成して、世界一高い自立電波塔ができたなら、それを超えるタワーを建設会社なりに考えてみようというのがきっかけだったようです。それなら、いっそ宇宙エレベーターはどうか、塔の延長と考えるなら実現の可能性もあるであろうとも考えました。

ただ、宇宙エレベーターは、今すぐできるというわけではありません。現在のスピードで技術開発が進めばその延長線上で可能だろうとしているわけで、既存の知識や材料、技術の発展系をシミュレーションした結果、2050年ころなら実現できそうだと考えました。

このための「プロジェクトチーム」も作り、色々な分野の研究者を集めています。ここには同社が得意とする建築・土木におけるエキスパートはもとより、宇宙工学で学位を取り、NASAのエイムズ研究センターに所属していたこともある博士や気象学者などもおり、こうした人達が開発計画の中心になっているようです、

東京スカイツリーにおいても、地上から600メートルの高さというのは地表とは気象が違って、これまで経験したことがなかったものでしたが、そこでの対応を考えた専門家は同社内の気象学者であっといいます。シミュレーションが得意であり、その技術は、地表と宇宙を結ぶケーブルの挙動の計算にも応用できます。

宇宙エレベーターは、エレベーターとはいうものの、バベルの塔のような巨大建築物ではなく、長さ10万キロメートル近い1本の細く薄く軽いケーブルが本体です。このケーブルの挙動を検討し、充分に建設可能と分からなければ、GOサインは出すことができません。計算上大丈夫、となった時点ではじめて具体的な資産や建設方法が考えだされるわけです。

つまり、計算上で可能とされれば、あとは施工技術の工夫によってなんとか実現ができるだろうというわけであり、そこまでいけばあとは同社の最も得意とする部分であり、海のもの山のものなんでも建設する建設会社にとってはお手のものといえます。

さらにはシミュレーションにおいても施工の専門家もプロジェクトに入れ、一番問題となるケーブルの施工過程をも加味して検討を加えており、風などによってケーブルにかかる張力なども施工の工程状況を考えて計算され、より現実的なものになっています。

プロジェクトチームは、は宇宙エレベーターのケーブルを地球上に固定するアース・ポートの研究も実践的に開始しています。これもまさに建設会社の領分であり、海洋土木の専門家が集められ、これまでの海洋油田の掘削リグなどの浮体構造物をつくる技術を応用したアース・ポートの設計が行われています。

ただ、静止軌道ステーションについては、建設会社である大林組には無論未知の領域です。これに関しては、社内から設計と意匠の専門家が集められるとともに、石川島播磨重工など実際にロケットを飛ばしているメーカーの技術者も呼び、さらには気象・土木・意匠・設計・施工、といった専門家が集まり、プロジェクトが煮詰められているといいます。

技術者たちがそれぞれ所属部署での「本業」を生かして協議したそのプロセスは、実に自由度のあるものだったそうで、ある意味「部活動」のような仕事で楽しかった、とその技術者のひとりが述懐しています。

しかしだからといって現時点で宇宙エレベーター構想のすべてが実現可能とされているわけではなく、現時点で可能とされているものはその一部にすぎません。

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基本的にほぼ確定している部分だけを説明すると、まずは、エレベーターの本体となるケーブルは、カーボンナノチューブを使うことがほぼ確定しています。炭素の結晶が管の形につながったもので、一番強い鋼鉄の100倍ぐらいの強度が期待でき、これなら理論上は、数万キロの長さのケーブルが自重で切れてしまわずにすむといいます。

通常の建築物では重みに押し潰される力に耐える必要がありますが、宇宙エレベーターの場合は逆で、遠心力による「引っ張り」に耐えなければなりません。最終的な目標としては、ペイロード(荷物)70トンを積んだ総重量100トンのクライマーが必要だといい、つまり100トンの乗り物が昇っていけるケーブルをつくる必要があります。

これを計算すると、長さが10万キロで、重さが7000トンのカーボンナノチューブのケーブルとなるそうで、途方もない重さのように思えますが、長さ10万キロともなると、その厚さはわずか1.38ミリメートル、幅も最大の部分で4.8センチメートルしかありません。つまり、非常に薄いリボンのようなものになります。

しかし、それにしてもいったいどうやってそんなものを地球から立ち上げるかですが、これはやはり、地球からスルスルと伸ばすのは無理で、静止軌道から降ろしてくるのが一番有利とされているようです。基本的には高度3万6000キロメートルの静止軌道までロケットでドラムを運び、これを紐解いてケーブルを降ろしてくる方法が考えられています。

一方では、ケーブルを降ろしながら静止軌道のその反対側の宇宙の方向にもケーブルを伸ばしていきます。つまり、静止軌道にある基地を重心にしてバランスをとりながら、宇宙側と地球側の両方にケーブルを伸ばし続けるということになります。宇宙側に伸ばしたものには火星ゲートなどの中継基地や終点基地などを建設します。

一方、地球側に降りてきたものは、その端をキャッチし、それを海の上のアースポートに固定します。これで基本形が完成します。そんなにうまくいくものかと誰しもが思うでしょうが、しかし実はこれは夢物語ではなく、宇宙エレベーターの第一人者に数値的な裏付けを依頼し、詳細に検討した結果、実現可能であることが実証されたといいます。

ただし、計算上は可能であっても、静止軌道は、ご存じの通り、地球上からみて、人工衛星などが静止して見える軌道です。つまり、地球の自転の角速度と静止軌道上にある物体は角速度が同じになるので、高さ3万6000キロメートルともなると、ものすごいスピードとなり、これは時速約11000kmにもなります。

つまり、静止軌道といいながら、まったく静止していないどころか猛烈なスピードで動いているわけであり、重いケーブルを降ろすのもかなり大変ということになります。しかもそこに7000トンものケーブルを打ち上げるのは簡単ではなく、400キロの低軌道で何10回もスペースシャトルを往復させて作った国際宇宙ステーションですら390トン程度です。

このため、まず最初に今のロケットで打ち上げられるのは、最大の重さ大体20トンくらいの細いケーブルとし、これを建設用の宇宙船とともに静止軌道に運ぶことが考えられています。20トンで10万キロメートルもあるケーブルであり、非常に薄く軽く済みます。つまり、まずはこれをガイドロープとして使おうとうわけです。

このケーブルは、幅は最大部で4.8センチあるものの、なんと4ミクロンという驚異の薄さであり、これをガイドケールブル的に地球に下ろします。地上から見れば、垂れてくるのはまさに「蜘蛛の糸」です。これをキャッチするというのは、想像だに難しそうです。地上に降りてくる際には大気圏の風で「暴れる」ことが考えられます。

このため、先端には「姿勢制御装置」のようなものを取り付けます。これには小さなジェットエンジンが取り付けられていて、またここからはビーコンを発することもできるようにしておきます。そして今の想定ではこの先端の「自律飛行」によってこれを海上のアース・ポートにまで、徐々に近づけていく、ということが考えられているそうです。

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そして、20トンのケーブルが固定できたら、そこから上がっていける軽いクライマーを次々に地上から出発させて、もとのケーブルを補強して太くしていくというのが第2段階になります。当然、補強が進むにつれてクライマーもだんだん大きくできます。計算によれば、だいたい500回ほど繰り返してなんとか7000トンにすることができるといいます。

クライマーが薄いケーブルを昇りながら、最初は4ミクロンしかなかったケーブルをどんどん厚くしていくわけですが、このためには接着剤は不要で、ケーブル同士を分子間力でくっつかせることが考えられているようです。

なお、静止軌道上への飛行物体の投入は赤道直下が一番有利といわれています。これはロケットを打ち上げてこの軌道に物体を乗せるためには赤道上からのほうが最も投入までの経路のロスが少なくすむためです。しかし最近の研究では、必ずしも赤道直下にこだわる必要はないそうで、緯度で言うと、南北35度くらいまでは問題ないそうです。

大阪がちょうど北緯35度くらいですから、大阪はぎりぎりOKで、東京はちょっと北すぎるくらいです。もっとも、ケーブルの固定や制御のしやすさから、アースポートは海上が有利とされており、紀伊半島、四国、九州、沖縄近辺の海は建設地の候補になりえます。現在既にロケットの宇宙センターがある種子島というのもありうるかもしれません。

このアース・ポートは直訳すれば、「地球港」といえるでしょうか。大林組の想定では、陸地から10キロほど離れた海上に設置される予定であり、本土との間は、海中トンネルで結ばれます。陸側には宇宙旅行に行く前に滞在するホテルやリゾートの類が当然のように建設されるであろうし、宇宙へ行かない通常の飛行機用の空港も併設されるはずです。

しかし前述のとおり、アース・ポート自体は、そんなに大きなチャレンジではありません。今すでにある巨大な浮体構造物、メガフロートの技術を利用してつくればよいわけです。とはいえ排水トンでいうと約400万トンくらいにもなり、これは最大のタンカーが50~60万トンぐらいですから、その10倍くらいにもなる代物です。

ただ、石油採掘リグなどでその技術は実証されており、それを大型化するだけですむようで、アース・ポートの実際の構想上の断面図も出来上がっています。これによれば地球港全体は係留アンカーで海底に固定されており、宇宙エレベーターの「本体」であるケーブルは、円筒形の構造物で守られて、海面下まで導かれ、固定されています。

その円筒形の構造物に、宇宙への列車であるクライマーが取り付けられ、クライマーの収納庫もあります。さらにその周囲には、整備場があったり、出発ロビーがあったり、検疫エリアがあったりと、このあたりのことは通常の空港と変わることはありません。

ただ、最近は不埒なテロリストも多くなっており、テロ対策はより厳重に行う必要があります。カーボンナノチューブのケーブルは、引っ張り力には強いものの、ハサミひとつで切れてしまいます。完成した時でも厚さ1ミリちょっと、地球上での幅は1.8センチメートルにすぎず、ビデオテープと大して変わらないといい、ひじょうに繊細なものです。

ガイドケーブルはさらにわずか厚さ4ミクロンにすぎず、これへのテロ対策も必要です。とまれ、このガイドテーブルの敷設が終われば、そルの一端をアースポートに固定し、徐々にケーブルを太くしていき、その要所要所にセンターやゲートといった中継基地をつくっていけばよいわけです。

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それらのケーブルの途中にある諸施設の中で最大かつ最重要なのは、やはり静止軌道ステーションです。ケーブル敷設の起点であると同時に、宇宙側へ伸ばすケーブルのための前線基地にもなりうるものです。

中継基地には、バランスが崩れるためあまり大きな施設は作らないといいます。しかしこの静止軌道上は、重力も遠心力と地球の引力がつりあってゼロとなります。ちょうど無重力状態になるため、宇宙エレベーターでは唯一大きな施設を作ることができ、ここから、上に行ったり下に行ったりする中心基地にすることができます。

無重力であるがゆえに建設上の制約が少なく済み、このため様々なパターンを考えられ、クライマーで運ぶもののバリエーションもかなり多岐にわたって考えることができます。

現在考えられているのは、輸送時には三角柱の形に小さくまとめられ、軌道上では余圧することで六角柱になるユニットを66個組み合わせてできるものだそうで、この中に居住区や実験のための区画をつくり、全体としてみると3重螺旋という不思議な構造になる予定だといいます。

ただ、この静止軌道ステーションに関してだけを考えると、多額の金を投じてそれを作るよりも、今のロケットを改良して使い続けた方がよいのではないか、という考え方もあるのは確かです。宇宙エレベーターができれば便利なのは分かっていますが、数々の技術的困難を乗り越え、多額の投資をしてまで作るべきなのかという疑問は当然出てきます。

これについては、宇宙エレベーター関係者はだいたい共通した見解を持っているそうです。まず、建設費については、大ざっぱな試算で10兆円ほどであり、巨額には違いありませんが、アポロ計画にかかった費用は、現在の通貨価値になおすとそれくらいになるといいます。同じ金額で大量の物資や人を運べるなら、宇宙エレベーターのほうが安上がりです、

また、宇宙エレベーターを作るモチベーションのひとつとして、エネルギー対策になるということがあります。エレベーターで大量のソーラーパネルを宇宙に上げ、ここで展開して地球に送電すれば、大規模な宇宙太陽光発電システムが完成します。将来枯渇するかもしれない天然資源に代わって宇宙からエネルギーを得ることは大きな意義となるはずです。

ただ、エレベーターはカーボンでできていて、電気は通電できません。しかも仮に何等かの方法で通電が可能となったとしてもクライマーがしょっちゅう行き交いしているとすれば、怖くてその運行もできなくなります。これについては、静止軌道上に太陽光発電パネルを展開して、そこでできた電力をマイクロ波などで地上に送る構想があります。

これなら宇宙から昼夜も天気も関係なく24時間発電できます。姿勢制御などのためにメンテナンスが必要ですが、宇宙エレベーターで頻繁に技術者がその発信装置まで行くことができます。大林組としては、送電ロスなどをさっぴいて、だいたい5ギガワットの宇宙太陽光発電を想定しているそうで、これは原子力発電所数個分に相当します。

無論、そのためには、5万トンくらいの太陽光発電資材を静止軌道に上げなければなりませんが、これを数基宇宙エレベーターで運んで作ったとして、30年運用すればペイできるという試算だといいます。

こうした大林組のプロジェクトチームが発表した宇宙エレベーターの構想は、非常によく考えられており、内外の研究者の間でもなかなかの評判だといいます。とくに日本の研究者の中には、これまでの宇宙開発構想の中でも、一番リアリティがあるという評価をしてくれる人もいるとか。

国際的にみても、この話題はセンセーショナルに広がっていて、世界的な第一人者からも、「協力する」とのメールが来ているそうです。昨年9月に北京で行われた国際宇宙会議では、17頁ほどの英文論文として発表された結果、評価は上々だったようであり、同社としては、今後も海外の学会などに出ていく計画があるといいます。

今後は国内外問わず産官学の体制作り、研究資金の探索、スピンオフ(民生転用)を含めたビジネスチャンスの模索が必要になってくると思われますが、最近では、日本航空宇宙学会が、軌道エレベーター検討委員会を作って活動を開始するなど、さらなる盛り上がりを見せ始めています。

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ただ、総体的にみると、宇宙エレベーターを実現させるのに100の技術力が必要だとしたら、まだ1にも技術力がいってないというのが現状だといい、現在は事業化をする前の本格的な研究を始めるかどうかを決断する段階だといいます。つまり、ようやく現実的な検討を始めたばかりといった状況、というのが本当のところのようです。

最大の難関はやはりカーボンナノチューブです。理論的には充分に宇宙エレベーターの素材とすることは可能ですが、まだ10万キロメートルにわたって1本のケーブルを作る技術はありません。それどころか、必要な強度を持ったものも出来ておらず、そもそも現時点で作ることが出来るものの強度は、せいぜい数ギガパスカルです。

パスカルは単位面積あたりにかかる力の単位です。宇宙エレベーターに最低必要と考える150ギガパスカルには遠く及ばず、ましてや安全性を考えるともっと強度が必要になるといいます。が、現時点ではそうした特殊なものを作ろうという機運がまずありません。

エボラ出血熱は、欧米人などで患者が出るようになって初めて製薬会社がそのワクチン開発に乗り出したといいますが、カーボンナノチューブの場合もまた、現時点ではまだそういうニーズがないため、メーカー側でも研究が進まないのです。

カーボンナノチューブ自体は非常にその応用範囲が広く、構造材料として以外にも、半導体としての活用や、燃料電池、光学機器への応用も考えられています。しかし、宇宙エレベーター用の「長く強く」というのは、原理的には「余裕で可能」であるとはいいながら、実際に建設が決まっているわけでもなく、そうした注文には応えられずにいるのです。

どこかのメーカーが本気で取り組めば実現するのかもしれないといいますが、モチベーションの部分でのブレイクスルーにおいて「糸口」が見えていないのが現状のようです。

ただ、そうしたジレンマを尻目に、ケーブルを昇る「クライマー」についてだけは、民間の間でその開発に熱が入りはじめています。2008年には「一般社団法人宇宙エレベーター協会」というものができ、ここでクライマーの競技会を毎年やるようになりました。

これは気球から垂らしたケーブル──無論、カーボンナノチューブではない──を1000メートルほど昇って降りてくる、というものです。学生団体などが手弁当で17チームほど集まってやっているようで、毎年熱い熱戦が行われています。

こうした大会で出てきた技術が将来のクライマーに活かされる可能性はあるわけであり、おもちゃのようなクライマーが気球とつながったケーブルに沿って昇ったり降りたりというだけでなにか感動があります。しかし、風によってたなびくケーブルを自力で上り下りするクライマーを作ることだけでも簡単なことではないと容易に想像できます。

ましてやこれが、将来的には厚さが1ミリそこそこしかないカーボンナノチューブのケーブルを昇降するとなると、クライマー作りにも今とは全く違う発想が必要とされてくるでしょう。

また、こうした盛んに行われるようになってきた競技会は、技術的な開発の場だけにということだけにとどまらず、宇宙エレベーター実現へ向けての社会的なプレゼンテーションの場にもなっているわけであり、その気運を盛り上げていくためにも必要なものです。

日本では宇宙エレベーターが、ほかの国よりも、認知されているといいます。宇宙エレベーターに関係する国際会議でも日本の研究者が熱心に出ている割合が多いといい、これは、日本はアニメ大国であり、SFなどでも繰り返し宇宙エレベーターのような未来的な乗り物が取り上げられてきたことと関係があるかもしれません。

いずれはこうした「オタク」の中からも「一生を宇宙エレベーターに捧げる」といった人も出てくるかもしれませんが、ぜひそうした人達によって日本でいち早くこの技術の
成熟度をあげ、実現への一歩を踏み出してほしいし、そういう日がやってくると信じたいと思います。

それにしても、2050年、私は果たして生きているでしょうか。

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ミフネ

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台風一過、今日は良いお天気になりそうです。

しかし、この9月26日という日は、台風襲来の特異日と言われており、とくに1950年代に3つもの大きな台風がやってきて大きな被害を出しました。

最初のものは、1954年の洞爺丸台風(台風15号)であり、これは北海道に来襲し、この台風によって青函連絡船「洞爺丸」が転覆して死者行方不明1,155人を出すという大惨劇がおきました。また、この台風による強風は北海道岩内町で大火を引き起こし、この火事では死者が33名も出ています。

次いで起こったのが、1958年の狩野川台風(台風22号)でした。静岡県伊豆半島に最接近し、狩野川が氾濫したことにより、死者・行方不明1,269名、住家の全・半壊・流出16,743戸、床上・床下浸水521,715戸という大きな被害を出しました。

またこの翌年の1959年9月26日には引き続き伊勢湾台風(台風15号)が潮岬に上陸し、東海地方などを襲い、死者・行方不明者5,000人以上という史上最大の被害を及ぼした台風として長く記憶されることとなりました。

このうちの狩野川台風の被害については、私が現在住んでいる町で起こった災害であり、まるで他人事とは思えません。この台風は、東京湾のすぐ西側を通っており、このため風については、比較的軽微でしたが、日本付近の上空に寒気が張り出していたため典型的な雨台風となって伊豆半島と関東地方南部に大規模な水害を引き起こしました。

伊豆半島での雨は25日から既に降り始めていましたが、26日には豪雨となり、台風の中心が伊豆半島に最も接近した26日20時から23時頃が最も激しく、湯ヶ島では21時からの1時間雨量が120ミリメートルにも達し、総雨量は753ミリメートルに及びました。

この大雨のために、半島の中央部を流れる狩野川では上流部の山地一帯で鉄砲水や土石流が集中的に発生し、天城山系一帯では約1,200箇所の山腹、渓岸崩壊が発生。旧中伊豆町の筏場地区においては激しい水流によって山が2つに割れたほどでした。同時に、所によっては深さ12メートルにもなる洪水が起こり、これが狩野川を流れ下りました。

この猛烈な洪水により、川の屈曲部の堤防は破壊されて広範囲の浸水が生じ、またところどころに架けられていた橋梁には大量の流木が堆積し、巨大な湖を作った後に「ダム崩壊現象」を起こしてさらに大規模な洪水流となって下流を襲いました。

旧修善寺町では町の中央にある修善寺橋が同様の状態になり、22時頃に崩壊し鉄砲水となって多くの避難者が収容されていた修善寺中学校が避難者もろとも流失し、とくに大きな被害を出しました。さらに下流の大仁橋の護岸を削り、同町熊坂地区を濁流に飲み込みさらに多数の死者を出しました。

旧修善寺町の死者行方不明は460人以上。その他、旧大仁町・旧中伊豆町など狩野川流域で多くの犠牲者が出ましたが、狩野川流域全体では、破堤15箇所、欠壊7箇所、氾濫面積3,000ha、死者・行方不明者853名に達し、静岡県全体の死者行方不明者は1046人のうちのそのほとんどが伊豆半島の水害によるものでした。

一方、この狩野川台風の水害は、東京都を中心とする関東地方南部でも大きく、東京では死者行方不明は46人にとどまったものの、浸水家屋は33万戸近くで、静岡県全体の20倍にも達しました。これも記録的な豪雨が原因で、東京の26日の日雨量は392.5ミリメートルと言う、気象庁開設以来の値でした。

浸水被害はゼロメートル地帯の広がる江東区・墨田区・葛飾区などのいわゆる「下町」だけでなく、台地上にあって水害は起こりにくいと思われた世田谷区・杉並区・中野区などの山の手でも大きく、このためこれは「山の手水害」と呼ばれました。

中小河川や水田など、以前は降雨の排水口や湛水池の役割を果たしていた土地が埋められて住宅地に変わり、行き場のなくなった雨水があふれたためで、この「山の手水害」はその後1960年代になっても東京の深刻な問題として続きました。

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この狩野川台風による大雨被害の大きかった世田谷区内では、入間川の洪水で逃げ遅れた住民18人が、なぜか「モーターボート」で救出されるという珍事がありました。

救出したのは誰あろう、この当時38歳と油の乗った人気俳優、「三船敏郎」でした。この洪水ではまた、三船の自宅のあった成城近隣も仙川の氾濫によって水没していましたが、三船はちょうど自宅に所持していたモーターボートを出し、これで成城警察署の署員と共に住民たちを救出したのでした。

後日、消防庁が感謝状の授与式を大々的に行おうとしましたが、三船は謙虚にこれを断りマスコミへの公表も差し止めたといい、このことはいまも美談として語り継がれています。

三船は、車を趣味としており、1952年型MG-TDを45年間愛用していました。その他、米映画出演の際買い求めた1962年型ロールスロイス・シルバークラウドなど多数のクラシックカーなどを所有していましたが、また、船好きでもあり、複数のモーターボートを所有していました。ジャパン・モーターボートクラブの会長に就任していたこともあります。

海外旅行へ行った場合などでもボート遊びが好きで、あるときフランスでボートを操船していたときに近くを客船が通り、ボートに乗っているのが三船だと分かると、客船の乗客が全員デッキに集まって来て「ミフネ!ミフネ!」のシュプレヒコールが起き、乗客が手を振るのに対し、三船も手を力いっぱい振って答えたというエピソードが残っています。

また、アメリカでも三船がボートで海に出ていたところ隣に豪華客船が通り、そしてこの客船の乗客の1人が三船敏郎を見つけ、船中大騒ぎで 「ミフネー! ミフネー!」と乗客たちが手を振ってきたといいます。

このように世界的にも有名な大俳優であり、国内でも右に出る者のないほどの大役者でしたが、私生活は至極質素だったといい、自社の事務所の掃除も自ら進んですることも多く、訪問者が三船本人と気付かなかったという話も残っているほどです。

ある時、ロケ隊において皆に混じって荷物の整理を手伝う三船に、淀川長治が「あんたはそういう事しちゃ駄目よ、スターなんだから」と言われると、三船は「だって俺、手空いてるもん」と言っただけで、せっせと作業を続けたというエピソードも残っています。

また、料理が好きで、一ヶ月にも及ぶ宿泊がざらだった御殿場でのロケでは、三船が肉や野菜を買ってきて自ら包丁を振るい、大鍋で豚汁を作ってロケ仲間に振舞うのが恒例で、弁当は握り飯しか出なかったこの当時の現場では大好評だったそうです。

この三船の料理好きは、軍隊で炊事をやっていたことに由来しており、このほかこれも軍隊で身に着けた技なのか、毛布からズボンを作るなど繕い物が上手かったといい、さらには字を書いても実に達筆であるなど非常に器用な人だったようです。

三船敏郎といえば、「七人の侍」や「用心棒」といったサムライ映画が真っ先に思い浮かびますが、役者になる前は「軍人」であったことは広く知られており、内外の多くの戦争映画にも出演し、とくに「山本五十六」を数多く演じたことでも知られています。

邦画・ハリウッド映画を含め、山本五十六を演じた回数では現在でも三船がトップだといい、これはその面構えがいかにも「日本武士」であることにほかならず、その「顔」が形成されるにあたっては、役者になる前の軍隊生活が大きな影響を与えたことは想像に難くありません。

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その三船敏郎は、1920年(大正9年)、三船徳造と三船センの長男として、当時日本の占領下にあった中華民国・青島市に生まれました。

父・徳造は、秋田県鳥海町の16代続く名家・三船家の次男であり、貿易商であり、写真業も営んでいました。徳造は、元は日本で医者を目指していたようですが、写真に夢中になり、あちらこちら旅行し、最後に中国にたどりついて、そこでカメラ店を開いたといいます。このため、幼い三船にも子供のころからその写真術の手ほどきを受けていたようです。

1925年(大正14年)、一家は大連に移り住み、父・徳造は「スター写真館」を開業。1934年(昭和9年)、大連中学校に入学。三船は若い頃からワルだったと言いますが、1938年(昭和13年)、大連中学を卒業。1940年(昭和15年)、徴兵・甲種合格で兵役に就きましたが、これが父母との永遠の別れになりました。

徴兵に際し死を覚悟したといいます。が、写真の経験・知識があるということから満洲国・公主嶺の陸軍第七航空隊に配属され、そこで写真業の手伝いをしていた腕を見込まれて、航空写真を扱う司令部偵察機の偵察員となりました。この偵察部隊では常にカメラを手放さなかったこともあり、その後後年まで、カメラに対するこだわりが深かったといいます。

ところが、入隊当初のしごきは凄まじく、一発二発のビンタでは倒れないのでよけいに殴られ、声が大きいだけでも殴られ、顔が変形するほどだったと、三船はのちにテレビのインタビューで語っています。

しかし篤実な性格だったため、その後は重用されるようになり、あるとき一人の上官から家族の写真を撮ってほしいと呼びだされ、その出来が良かったので教育隊に残るように言われます。同じ時期に入隊した仲間はみな南方の戦地に赴いた一方、この後方部隊にいたことが幸いし、三船は中国戦線を生き延びました。

その後、1941年(昭和16年)内地に移動となり、滋賀県八日市の八日市飛行場「中部九八部隊・第八航空教育隊」に写真工手として配属され、後には第七中隊の特別業務上等兵として炊事の責任者をするようになりました。このころ同じ部隊に部下としており、のちに映画プロデューサーとなる鷺巣富雄とは、その後生涯にわたる交友関係を結びました。

鷺巣は、このとき三船から写真技術の指導を受けていますが、戦後も三船の写真技術を高く評価しており、円谷英二、大石郁雄と並んでの映画界の師と仰いでいたといい、三船の映像に関しての技術はかなりのものであったことが伺われます。

内務班で古参上等兵だった三船は兵隊仲間の面倒見がよく、鷺巣ら初年兵をよくかばってくれたといい、こわもての多い炊事班にも顔が利き、ビールや缶詰をよく調達してきてくれたそうで、酔うと必ずバートン・クレーンの「酒が飲みたい」を唄うのが通例で、初年兵全員にこれを合唱させていたそうです。

また、シュークリームを作ったこともあったといい、この当時9コースの中国料理を身につけたとも言われており、後年、三船はその見事な腕前を身近な人々に披露しています。

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ちなみに、バートン・クレーンというのは、昭和初期に活躍したアメリカ出身の歌手で、プリンストン大学を卒業後、経済関係のジャーナリストを志して新聞界に入り、1925年(大正15年)秋、ジャパン・アドバタイザー紙の記者兼ニューヨーク・タイムズ、ウォールストリート・ジャーナルの東京特派員として来日していた人物です。

このとき、宴席の余興で故国の歌をカタコトの日本語で唄っていたことをコロムビアレコードのL・A・ホワイト社長が知りました。コロムビア社は、1927年(昭和2年)、蓄音器輸入販売会社の日本蓄音器商会を買収したアメリカの外資系会社で、ライバルのビクターともども、国産レコードの販売を進めていました。

レコードを売るため、アメリカのジャズ音楽を日本に普及させるなどの販売促進活動を行っていましたが、そんな状況の中、販売体制の強化を目指して来日していたホワイト社長の目にクレーンがとまり、歌手としての才能を見出しスカウトしたのでした。

こうして1931年(昭和6年)に発売されたのが「酒が飲みたい」で、この曲は大ヒットし、詩人のサトウ・ハチローが「この歌は歌そのものが泥酔している」「俺もこんな酔払った歌がつくりたい」と激賞するほどでした。

一躍人気歌手となったクレーンは、その後も「家にかえりたい」「おいおいのぶ子さん」「雪ちゃんは魔物だ」「ニッポン娘さん」などの30曲近くのコミックソングを中心とするレコードを出し人気を博しましたが、そのほとんどがアメリカの俗謡に訳詞を付けたものでした。

その後東京特派員としての任期を終えたクレーンは、帰国してニューヨーク・タイムズ紙記者として招かれ経済欄を担当、その記事は全米でもトップクラスの評価を得ていました。その一方で、1937年(昭和12年)ベニー・グッドマン楽団のコンサートの日本向けの国際放送において解説をするなど、日本とのつながりも続けていました。

日米開戦後は日本通ということで重用され、1945年(昭和20年)戦略局極東班に所属し、中国の昆明に渡り諜報関係の任務についています。終戦後は特派員として再来日。日本の友人たちと旧交を温める一方では「コレスポンデンツ・クラブ」(現日本外国特派員協会)を立ち上げ初代会長に就任、在日の海外特派員のまとめ役にもなりました。

1951年(昭和26年)に朝鮮戦争が勃発すると、取材のため独断で数名の仲間と陥落寸前のソウルに行くが戦闘に巻き込まれ頭を負傷しますが、この独行がもとで支局長と衝突し、台湾に転勤、直後帰国。その後はコラムニストとして大学の教壇に立ったり著述活動に専念したりしていましたが、晩年は病魔に倒れ1963年に62歳で亡くなりました。

2006年秋、レコードコレクターの尽力でCD「バートン・クレーン作品集」が出版されたこともあり、近年再評価の動きが出ているようです。

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さて、三船敏郎のことです。第七中隊に入った三船ですが、この前年の1940年(昭和15年)のあるとき、先輩兵である大山年治から、「俺はこの3月に満期除隊となるが、来年はお前の番だ、満期になったら砧の撮影所へ来い。撮影助手に使ってやる」と誘われました。

実は、この大山年治は東宝撮影所撮影部所属のカメラマンであり、三船の写真技術の高さを見込んで、彼に目を付けたのでした。しかし、戦況が逼迫し、満期除隊は無くなってしまったため、結局、以後敗戦まで彼は6年間もの間兵役に就くことになりました。

このころにはかなりの古参兵になっていたようですが、少年期からの「ワル」の癖は抜けきらず、このため上官に対して反抗的な態度を取っていたので、「古参上等兵」のままこの6年間を過ごしました。

しかし、単なるワルではなく、「心意気のある」ワルだったようで、他の兵隊がいじめられているのを見た三船は、階級章を外して、「同じ日本人なのに何でいじめるんだ。俺は俺の階級を忘れる。お前もお前の階級を忘れて俺と勝負しろ。人間対人間で行こう!」と言ってタンカを切り、そうすると、たいてい相手は意気消沈してしまったといいます。

その後、1945年(昭和20年)の戦争末期には熊本の隈之庄の特攻隊基地に配属され、出撃前の隊員の遺影を撮る仕事に従事しました。

この写真班では、航空写真をもとに要地の地図をつくるとともに、少年兵の教育係も任され、自分が育てた後輩たちが、次々と南の海で死んでいくのを見送ることとなりました。敗戦後にこの戦争体験を「悪夢のような6年間」と述懐しており、明日出陣する少年兵にスキヤキを作って食べさせるたびに涙を流していたといいます。

また少年兵に向かって、最後のときは恥ずかしくないから「お母ちゃん」と叫べと言っていたといい、「あの戦争は無益な殺戮だった」と、後に海外のマスコミの取材に対して語っています。

1945年(昭和20年)、特攻隊基地で終戦を迎えた三船は、父の生家である秋田県由利郡鳥海町小川の三船家に世話になりますが、すぐに毛布1枚と米をもらって上京しました。この東京で三船は約束を頼りに復員服のまま大山年治を訪ね、撮影助手採用を願い出ました。

ところが、何かの手違いで三船の志願書が俳優志願の申込書の中に混じり、三船はその面接を受ける羽目になります。このころ東宝では本土復員に伴って復帰社員が増加したことから縁故採用が難しくなっていましたが、大山は三船に「とりあえず受けてみろ、貴様の面なら合格するはずだ、入ってしまいさえすれば撮影助手に呼べるからな」と助言します。

こうして、不本意ながら俳優志望として面接を受けることになった三船ですが、いざ面接が始まり、審査員に「笑ってみてください」と言われた際にも生真面目な彼はその意味がわからず、困っている自分をからかって馬鹿にしているのだと思ったといいます。

三船はこの指示に対して、人を食ったような態度で「面白くもないのに笑えません」と答えたといい、その場にいた1人の映画監督が逆にこれを喜び、「こんなに率直に感情を表す人間ならば、映画の役も一生懸命演ずるだろう」と言いました。

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しかし、他の委員の多くは「野蛮な奴だ」と一蹴したといい、結局、性格に穏便さを欠くという理由により多数決で不合格、という結論が出ました。ところが、この会場には女優の高峰秀子がたまたま居合わせていました。

このとき彼女は三船のその存在感のある様子に胸騒ぎを感じたといい、彼女はちょうど撮影中で審査に参加できなかった黒澤明に、彼のことを知らせました。高峰の呼びかけで駆けつけた黒澤もまた三船を見て、ただならぬ気配を感じたといい、このとき審査委員長だった山本嘉次郎監督も同じだったといいます。

この当時の審査委員会は監督など映画製作の専門家と労働組合代表の半数ずつで構成されていましたが、黒澤は「俳優の素質を見極めるのに専門家と門外漢が同じ一票ではおかしい」と抗議。結局山本が「彼を採用して駄目だったら俺が責任をとる」と発言し、なんとか及第となりました。

粗野に見える中の大器の可能性を買われ、補欠ではありましたが、こうして1947年(昭和22年)、正式に三船は東宝社員として採用となりました。

ところが、東宝に入った三船は、さらさら役者になどなるつもりはありませんでした。しかし、「撮影部の空きを待っている」と渋る三船を映画監督の谷口千吉が口説き落とし、結局、映画「銀嶺の果て」というアクション映画で役者としてデビューすることになりました。ちなみに、この映画での監督は谷口でしたが、脚本編集は黒澤明でした。

この映画は、軍隊帰りの三船を含む3人が銀行強盗を働いて北アルプスに逃げ込み、これを捜索隊が追いかける中、一行は雪山で遭難してしまい、運良く助かった三船ともう一人が逃亡活劇を続ける、というストーリーです。この生き残ったもう一人は志村喬であり、一方の三船は、飛行服を着て登場し、その荒々しい所作がたちまち話題となりました。

この映画の制作にあたって監督の谷口は野生的な男を探していたそうですが、たまたま同じ電車の乗り合わせた三船をみて、これだ!とひらめいたそうで、早速誘うことを決めたところ、あとで東宝の社員だったことを知り、驚いたといいます。

しかし、三船は、この申し出に対し、あくまで「俳優にはならない、男のくせに面で飯を食うのは好きではない」と断ってしまいます。この後に及んでもあくまで撮影部を希望していたわけですが、渋る三船に対し、谷口は、このころ三船がまだ戦時中の航空隊の制服を着ていることに気付きます。

既にボロボロになっており、これに目を付けた谷口は、出演の交換条件に背広を作ってプレゼントすることなど提示したといいます。こうして映画デビューを果たすことになった三船ですが、この映画において脚本を担当していた黒澤は、かつての審査会で自分が感じていた彼のたぐいまれな才能を確信します。

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こうして彼のデビュー3作目となる、1948年(昭和23年)の「醉いどれ天使」において黒澤映画としては初出演することになりました。この映画で三船は主役の一人として破滅的な生き方をするヤクザを演じ、この作品は大好評を得て一躍スターとなります。

この映画で三船を初めて起用した黒澤明はのちに、「彼は表現がスピーディなんですよ。一を言うと十わかる。珍しいほど監督の意図に反応する。日本の俳優はおおむねスローだね。こいつを生かしていこうと思ったね、あの時は」と当時を振り返り語っています。

こうして三船は、黒澤明とともに、敗戦で打ちひしがれていた日本人に勇気を与える映画の数々に登場していきました。いずれもがヒットし、国際的にもヴェネツィア国際映画祭 男優賞を2度受賞し、やがては「世界のミフネ」と呼ばれるようになっていきます。

海外映画としては、メキシコ映画「価値ある男」、米映画「グラン・プリ」、「太平洋の地獄」、米ドラマ「将軍 SHOGUN」、フランス映画「レッド・サン」などが有名であり、これらの映画を通じ日本が誇る国際スターのみならず、「国際的映画人」として世界中の映画関係者に影響を与え、尊敬されるようになっていきました。

英語圏では、TheWolfやTheShogunなどと呼ばれ、国内における出演料収入も歴代の日本のスターの中で別格であり、2000年に発表された「キネマ旬報」の「20世紀の映画スター・日本編」で男優部門の1位に選ばれたこともあります。

数々の栄典及び称号を受けており、それらは、芸術選奨・勲三等瑞宝章・紫綬褒章・川喜多賞・芸術文化勲章などであり、海外においてもロサンゼルス市名誉市民・カリフォルニア大学ロサンゼルス校名誉学位を受けているほか、ブルーリボン賞に至っては歴代最多となる6度の入賞を果たしています。

1986年(昭和61年)には紫綬褒章、1993年(平成5年)には勲三等瑞宝章も受章。晩年は山田洋次監督「男はつらいよ 知床慕情」(1987年)の頑固者の老獣医師や、市川崑監督の「竹取物語」(1987年)の竹の造翁、熊井啓監督の「千利休 本覺坊遺文」(1989年)の千利休、「深い河」(1995年)の塚田など、渋い演技を見せました。

しかし、このころより体調がすぐれないことが多くなり、晩年は軽度の認知症を発症していたといわれ、週刊誌やワイドショー等の話題となっていました。1997年(平成9年)、12月24日に全機能不全のため77歳にて死去。遺作は「深い河」でした。

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三船の死の当時、黒澤は足腰を痛めており、本来なら葬儀委員長を引き受けるべきところをこれを固辞しており、弔電だけを贈っています。しかし、マスコミからのインタビューに答え「こんなつらい思いをしたことはない」と述べ、過去の自分の作品は「どれも彼がいなかったらできなかった」とも述べています。

またこの弔電には、「本当に素晴らしい役者だった、本当に君以上の俳優はいないと言いたかった。」と書かれており、「色々な思い出がいっぱいで気持ちがまだまとまらない。三船君、ありがとう、お疲れ様という気持ちです。」とも書かれていました。

埋葬は、神奈川県川崎市の春秋苑にある先祖代々の墓に行われ、三船は今もここに眠っています。

ちなみに、黒澤明は、その後「雨あがる」の脚本執筆中に、京都の旅館で転倒骨折。療養生活に入りましたが、三船が亡くなった翌年の、1998年(平成10年)9月6日、脳卒中により死去。88歳でした。

この黒澤もまた世界的に有名であり、その死も世界の映画ファンを悲しませましたが、三船が逝去した際の国内外の反響もかなり大きいものでした。とくに海外においては、フランス共和国とイタリア共和国の国営放送のテレビニュース番組が「トシロー・ミフネの死去」をトップニュースで報じました。

外国報道機関がトップニュースで日本の俳優の死去を報じたのは過去に例がない出来事であり、また、アメリカのタイム誌でも三船の死は大きくとりあげられました。

三船は、これもまた昭和の名優と称される、「志村喬」と数多くの映画やドラマで共演しています(51本の映画と2本のドラマ)。三船は戦争の際に徴兵されてそのまま両親と生き別れになったことから、志村夫妻を実の両親のように慕っていたといい、「七人の侍」の頃から志村は三船の親代わりだったといいます。

この親子のような関係は、黒澤が「醉いどれ天使」の頃になんとなく、志村に三船の親代わりを頼んだことに起因しているといいます。が、志村喬と三船は15歳しか違わず、親子というよりは兄弟のような関係だったのかもしれません。

三船が世帯を持ってからも、志村家とは家族ぐるみの親交は続いていましたが、三船が最期の1週間ほどの間目も口も閉ざし、反応はほぼなくなっていた中で、志村喬夫人の政子が三船を見舞った際、「三船ちゃん、しっかりしなさいよ!」と耳元で励まし頬を叩くと、三船の目から一筋の涙が流れたといいます。

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ちなみに、志村喬は、三船の死から遅れて5年後の1982年(昭和57年)、慢性肺気腫による肺性心で死去しており、享年76歳でした。

こんな話もあります。三船が息を引き取った頃、ちょうどこのとき俳優仲間で仲の良かった宝田明も11時間に及ぶ心臓のバイパス手術を受けていました。ところが、麻酔から醒めた宝田の第一声は「三船敏郎が亡くなった。東宝のみんなに連絡しろ」であったといい、このことは、その後役者仲間で語り草になったといいます。

臨死体験のパターンには個人差がいろいろあるようですが、物理的肉体を離れる、体外離脱をする、といったもののほかに、死んだ親族やその他の人物に出会う、ということがあり、宝田もまた死した三船と霊界の入口で出会ったに違いありません。

三船敏郎は、元来は俳優業を「男は顔で売るべきではない」と嫌っていたそうです。が、後には「俳優は人間の屑ではない。人間の宝石が俳優になるのだ。なぜなら神なくして人間を創造するには、人間の屑では出来ないはずだ」と俳優業を誇るようになったといいます。

撮影現場に遅刻したことが一度もなく、撮影に入る前に台詞・演技を全て体に覚えさせ、撮影に台本を持参しないことも多い、という高いプロ意識を持っていたことでも知られており、三船のノートにはいつも細かく丁寧な字で演技プランがびっしり書き込まれていたそうで、このことからも仕事への真摯な態度が伺えます。

「用心棒」の三船は本当に人を斬る気迫で殺陣をしており、殺陣の最中、三船は呼吸を止めていたといいます。何度も映画で共演したことのある司葉子はその当時を振り返り、撮影中にカットの声がかかるたびに三船が肩で息をするのをみて、三船は命がけで演技をしているんだなとわかったと語っています。

黒澤映画の撮影では、長時間たくさんのライトにさらされることがあり、ライトの熱で着物が焦げ、煙が出ることもありましたが、三船はそれでも微動だにせず待機していたといい、どの現場でも待つことを嫌がらず、苦情もまったく言わなかったそうです。

スタッフにもプレッシャーがかからないようにしていたといい、常に周囲への心遣いを忘れない繊細さも多分に持ち合わせており、“世界のミフネ”となり世界中を行き来するようになっても、特別扱いを嫌って、付き人もつけずに飛行機に乗っていたそうです。

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また、三船は時代劇に出演するにあたって三船家の家紋の入った着物を着用するなど、両親と先祖に対する思い入れは相当なものだったといい、三船プロダクションのロゴマークも三船家の家紋です。

さらには、日本人であることに強い誇りを抱いており、「私は日本と日本人のためにこれからも正しい日本人が描かれるよう断固戦っていく」と語っています。「残酷な軍人やエコノミックアニマル。日本人は、そんなやつらだけじゃあないと、世界中に知らしめたいんだ」と海外作品のロケ中に、親しい人に吐露したこともあったといいます。

こんなエピソードもあります。三船がアメリカに行った際に、空港で空港税関係員に“Do you have any spirits ? ” と質問されました。実は、spiritsというのは、「蒸留酒」の意味だったのですが、これに対して三船は堂々と、”Yes! I have Yamato-Damashii ! ”と答えました。つまり、「その通り、俺は大和魂を持っている」というわけです。

単純に意味を聞き間違えただけのような気もしますが、もしかしたら英語にも堪能だった彼流のウィットを利かせた返答だったかもしれません。単に優越民族であると誇示するだけでは反感を買うことはわかっているため、これにユーモアを含ませることによってより日本人という存在を理解させようとしたのかも、とか思ったりもします。

三船の死からは、既に17年が経っていますが、成城の自宅にある彼の部屋は、現在でも生前のままの状態だといい、ここには戦争時の飛行機用のゴーグル、毛布から自分の手で縫った兵隊用のコートなどのほか、古いいろんな物が残っているそうです。

また、東京港区の六本木には「三船敏郎」の世界観を表現し、三船プロダクションが監修した「料理屋 三船」という居酒屋があるそうで、この店内は三船の写真、三船家の家紋、三船の直筆の書を複製した額縁などが飾られており、メニューには「男は黙ってサッポロビール」など三船にまつわる名が付けられています。

台風一過の今夜。私もこの昭和の大俳優にあやかり、私も寡黙に「キリンビール」を飲み干したいと思うのですが、果たして山の神は許してくださるでしょうか。

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それぞれのエピローグ

2014-2-6478台風が近づきつつあり、今日明日はお日様は望めそうもありません。しかも、仮に晴れていたとしても、今日は新月なので、夜空も真っ暗です。

これで生活にも張りがなければ、四方八方塞がりといった感じで、暗くなってしまいそうなのですが、私的にはここのところの生活はそれほど悪くはありません。毎日それほどストレスを感じることもなく元気で過ごせているというのは、ありがたい極みです。

それにしても、東京を離れてどのくらい経ったか、などと最近ではあまり気にもならなくなってさえきましたが、改めて数えてみると、2年と6ヶ月ちょっとです。2年半といえば、10年のちょうど4分の1、パーセンテージにすると25%。伊豆での生活がこれからも長く続いていくとすれば、まだそのほんの序章にすぎません。

この「序章」とは、物語の前置きのことで、文学作品などではよく「プロローグ」という言葉が使われます。物語の冒頭で、本文の内容の概略や背景について述べ、読者が内容になじみやすくするために書かれた部分のことです。

音楽においては、一つの曲の前奏部にあたります。プレリュードともいいますが、一般的な書き物では、「導入部」「序文」「序説」ともいいます。

逆に、全体をしめくくる言葉や終わりの部分や「終章」として付け加えられるのは、「エピローグ」です。本編後の後日談的なものを書く部分であり、本編では書けなかった、書かなかった部分を補足したりするのに使います。あぁそんな見方もあったのか、そういうことだったのか、といった物語のオチに使われる場合も多いようです。

エピローグには他に似たような用語はありません。強いていえば「エンディング」でしょうか。が、プロローグにはほかに、アバンタイトルというのがあり、これは、映画やドラマ、アニメや特撮などでオープニングに入る前に流れるプロローグシーンのことで、プレタイトルとも呼ばれ、一般的にこのような映像手法をコールドオープンといいます。

一方、文学や演劇で使われる序章の部分には、プロローグをもっと簡単にしたものもあり、これを「エピグラフ」といいます。

……エビグラタンではありません。エビピラフも違います。エピローグとも混同しそうですが、これは、文書の巻頭に置かれるよりより短い文章で、詩である場合や他の本からの引用した短い慣用句などである場合もあります。

その本の内容を端的に表すことが多いようですが、一方ではより広く知られている別の文学作品と関連づけたり、比較をもたらしたりするためにも使われます。必ずしも、その本の冒頭だけでなく、各セクションの初めにエピグラフを配する場合もあります。

たとえばスタンダールの「赤と黒」には1章ごとに凝ったエピグラフが付されていて、これは、「小説、それは街路にそうて持ちあるく一つの鏡である」、といった具合です。日本ではあまり見かけませんが、翻訳モノを読んだことがある人は、こうしたエピグラフに遭遇したことがあるでしょう。

日本の小説では、たとえば堀辰雄の「風立ちぬ」の冒頭にある、「風立ちぬ、いざ生きめやも」が有名です。また、太宰治は「二十世紀旗手」で「――(生れて、すみません。)」という名エピグラフを残しました(ちなみにこれは、原文のママ)。

ところが、この「生まれてすいません」は実は盗作だった、ということが言われているようです。

最初にこの文章を書いたのは、寺内寿太郎という、は昭和初期の無名の詩人だといわれています。生没年も不詳の人物ですが、川柳の才能があったといわれ、当時流行の探偵小説にも凝ったことがあるようですが、太宰治ほど有名ではなく、小説化の端くれ、といったところだったでしょう。

昭和初期に評論家として活躍した「山岸外史」という人のいとこです。この山岸という人は、若いころに、太宰治や檀一雄たちと共に同人誌を創ったこともある人物で、太宰治の親友の一人でした。

現在、「リーガル」のブランド名で有名な「リーガルコーポレーション」、かつては「日本製靴」といったこの会社の社長などを歴任した山岸覺太郎の息子でもあります。

1934年(昭和9年)に太宰と知り合い、「青い花」という同人誌などの仲間として交友を深めました。クリスチャンだったようで、その著作により太宰に影響を与えましたが、戦後絶交状を送るなどして次第に疎遠となりました。

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しかし太宰入水に際して遺体捜索には加わり、美知子夫人から「ヤマギシさんが東京にいたら、太宰は死ななかったものを」と泣かれたことなど、その複雑な交友の実態を自らの回想録「人間太宰治」、「太宰治おぼえがき」などのなかで明らかにしています。

文学者でもあり、1939年(昭和14年)、「人間キリスト記 或いは神に欺かれた男」で第3回の北村透谷文学賞を受賞しており、この本はとくに太宰に大きな影響を与えたといわれています。ちなみに、北村透谷は文学者でもありましたが、評論家としても有名な人であり、この文学賞の受賞者には評論家としても評価の高い人が多いようです。

この山岸外史という人は、戦前の1944年(昭和19年)、左翼色の強い「ロダン論」を刊行直後に軍部からの言論弾圧を受けています。またこのころから空襲も激しくなってきたことからこれを避けて山形県米沢市に疎開し、ここで1950年(昭和25年)まで山形で農民生活を経験し、「労働者」として目覚めます。

もとより、共産思想にシンパシーを感じていたこともあり、山形での経験もきっかけとなって、戦後の1948年には日本共産党に入党。また、その傍ら、「新日本文学会」という旧プロレタリア文学運動の流れを汲む組織の事務局長を務めました。

このころ、軍の弾圧によって休刊になっていた、同人誌「青い花」を太宰治、や檀一雄らと復刊しますが、このころから文学編集者としての道を歩むことを決め、1962年(昭和37年)、日本共産党から離脱。しかし、その後も日本民主主義文学同盟に所属するなど、政治色の強い活動を続けました。

日本民主主義文学同盟というのは、戦争の激化と弾圧によって壊滅させられたプロレタリア文学に代わって、左翼文学の中心とすべく、彼らみずからがその新潮流を「民主主義文学」と名づけたのに由来する組織であり、現在も存続して活動を続けています。

透谷文学賞も受けた著書「人間キリスト記」は太宰に多大な影響を与えましたが、山岸はこのほかにも「人間芭蕉記」「夏目漱石」「芥川龍之介」「眠られぬ夜の詩論」「煉獄の表情」などがあり、こうした評論によってこの時代の作家を広くこの世に広めたという功績があります。しかし、1977年(昭和52年)、73歳で亡くなりました。

さて、その山岸の従弟とされる、寺内寿太郎という男のことです。この人は、幼時に父を日露戦争で亡くし、親戚の間を転々として育っていますが、伯父の世話で慶應義塾大学の経済学部を卒業して会社勤めをしていたそうです。

が、この会社では不遇だったようで、私生活もうまくいかずに家出すること数回。伊豆の天城山の奥深く分け入り、自殺を企てたこともありますが、10日間消息を絶った後、親戚に発見されて連れ戻される、といったこともありました。

その後も、たびたび職業を変え、都落ちをしてからは岩手県宮古で4年間、町会や漁業組合で書記として生計を立てる傍ら、作家活動も行いました。極端な寡作家ながら、この宮古時代に「遺書(かきおき)」と題する7〜8作の詩稿を完成して帰京。

くだんの「生れてすみません」は、この詩集の中に一行詩として書かれていました。その「遺書」の詩稿を公表したところ、この無名の作家の作が太宰治の目にとまり、1936年(昭和11年)の短篇「二十世紀旗手」の冒頭において、エピグラフ「生れて、すみません」として剽窃されるに至った、というわけです。

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ちなみに、「剽窃(ひょうせつ)は「盗作」とは違います。「剽窃」は書かれたものの一部の文章をさし、「盗作」は一般に作品全体に対象が及ぶことしばしばです。つまり「盗作」の方が、対象範囲が広いということになります。

剽窃ではない、とする場合には、通常、その本人の作であることを付記する必要があり、これがない場合は、現在では著作権侵害として訴えられてもおかしくはありません。が、盗作は、たとえ原作者の名前が書かれていても、泥棒のそしりを受けることは免れません。

この寺内は早い時期から太宰作品の愛読者だったようです。しかし、その敬愛する作家がまさか自分の作品を剽窃するとは思いもしなかったでしょう。太宰の「二十世紀旗手」が発表された翌年、これを読んでその事実を知った寺内は、すぐに山岸のもとに駆けつけて、この事実を彼に訴えたといいます。

このとき、寺内は顔面蒼白だったといい、「生命を盗られたようなものなんだ」「駄目にされた。駄目にされた。」と叫びながら山岸に訴えたと伝えられています。

太宰とはかねてより懇意にしていた山岸は、すぐさまこのことを太宰に伝えたようですが、これを聞いた太宰は狼狽し、この一文を山岸の作であると錯覚した、とい言い訳をしたそうです。が、他方では「わるいことをしたな」と言ったといいます。実は確信犯だったでしょう。

このことがきっかけになったのかどうかはわかりませんが、その後、寺内は文学に挫折し、憂鬱症に陥り、家出を繰り返し、やがて失踪してしまったといいます。敗戦後まもなく、品川駅で目撃されたのが最後の姿だったといいます。

まさしく、「生れてすみません」を地道に歩んだ人だったようですが、その原因を作ったのがかの有名な大作家である太宰治であったとすると、罪なことをしたものです。

この寺内の作品を剽窃した太宰もまた、「生まれてスイマセン派」でした。自殺マニアであり、「人間失格」「桜桃」などを書きあげたのち、1948年(昭和23年)6月13日に玉川上水で、愛人山崎富栄と入水自殺しました。享年38。

2人の遺体は6日後の6月19日、奇しくも太宰の誕生日に発見され、この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、太宰と同郷で生前交流のあった今官一により桜桃忌と名付けられました。

1998年(平成10年)に、遺族らが公開した太宰の9枚からなる遺書では、妻の美知子宛に「誰よりも愛してゐました」とし、続けて「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」と自殺の動機を説明しています。この遺書はワラ半紙に毛筆で清書され、署名もあり、これまでの遺書は下書き原稿であったことが判明しました。

「人間失格」の連載最終回の掲載直前の6月13日深夜に太宰が自殺したことから、本作は「遺書」のような小説と考えられています。この作品の後にも「グッド・バイ」という遺作がありますが、これは未完のままであり、完結作としては「人間失格」が最後です。

この作品は、体裁上は私小説形式のフィクションでありつつも、主人公の語る過去には太宰自身の人生を色濃く反映したと思われる部分があり、自伝的な小説と考えられています。しかし、太宰が自らその生を絶ってしまったため、ほんとうに彼の生涯がそうしたものであったのかどうかは不明です。

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太宰は、上述の同人誌、「青い花」の創刊を通じて、詩人の中原中也とも親交がありました。中原もこの雑誌に投稿していたようです。

この中原中也という人は、残っている写真などをみると、長州人にありがちな、色白できゃしゃな感じでなかなかな優男です。が、実は性格はかなり荒い人だったようで、ふだんからの言動もきつく、酒席などでも、同席者に凄絶な搦みをかませることも多かったそうです。

一方の太宰治は、これもその当時の写真からもうかがわれるようにかなりナイーブなタイプだったようで、あるとき、中原とある酒宴で同席したとき、中原から例によってドスを利かせた声で、「お前はいったい何の花が好きなんだい」と訊ねられました。

これに対し、気弱な太宰は、泣き出しそうな声で「モ、モモノハナです」と答えるのがやっとだったといい、中原は「チエッ、だからおめえはダメなんだ!」とこき下ろしたといいます。

このほかにも中原は酒癖の悪さで知られており、大岡昇平を殴ったこともあるほか、文芸評論家の中村光夫をビール瓶で殴った上に「お前を殺すぞ」と暴言を吐いたと言われています。

写真などから太宰は骨太な人物で、逆に中原はやさおとこで気が弱そうに思っていた人も多いと思いますが、逆だったようです。太宰の側ではそうした粗野な中原の人間性を嫌っており、親友山岸外史に対しても「ナメクジみたいにてらてらした奴で、とてもつきあえた代物じゃない」と、いつも中原の悪口を言っていたといいます。

しかし、一方では太宰は中原の才能を高く評価していたようで、後に中原没後、檀一雄に対して「死んで見ると、やっぱり中原だ、ねえ。段違いだ。立原は死んで天才ということになっているが、君どう思う?皆目つまらねえ」と言ったといいます。

立原というのは、24歳で急逝した詩人の立原道造のことで、その彼の死の二年前に亡くなった中原中也を記念した中原中也賞を受賞しています。その中原の才能を買っていた太宰にこき下ろされていたことを立原が知っていたらどう思ったでしょう。

かくして自身もその没後に天才と言われた太宰治もこの世からいなくなりました。文学作品で、登場人物が相手なしに一人で独立した台詞を吐くことを、「モノローグ」といいますが、これはつまりは一人芝居のことです。

その生涯においてこのモノローグを演じ続けた太宰が最後に選んだエピローグは自らの命を絶つという筋書きでしたが、果たして自分で仕上げたこの芝居の出来具合をあの世でどう思っていることでしょう。

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さて、「いざ生きめやも」のエピグラフで有名になった堀辰夫のほうはどうでしょう。彼は、自殺ではありませんでしたが、これもまた、早くして亡くなりました。

40歳過ぎの戦争末期ころからは結核の症状も重くなり、戦後はほとんど作品の発表もできず、軽井沢町の追分で闘病生活を送り、1953年(昭和28年)5月28日)48歳の若さで死去しています。

それまで私小説的となっていた日本の小説の流れの中に、意識的にフィクションによる「作りもの」としての「ロマン小説」という文学形式を確立しようとした作家と評されます。
フランス文学の心理主義を積極的に取り入れ、これを日本の古典や王朝女流文学と融合させることによって独自の文学世界を創造しました。

肺結核を病み、軽井沢などに療養することも度々ありましたが、その悲哀をネタにした作品を多く残したところにも特徴があり、ご存知軽井沢と言えば、今上天皇と美智子妃が恋を育んだ地であり、誰もが憧れるロマンの香りあふれる地でもあります。

その主な活動は、戦前の1933年(昭和8年)、季刊雑誌「四季」を創刊したことに始まります。この雑誌は結局、二冊で終刊の憂き目に遭いましたが、このころに傾倒していた恋人、片山総子との別れや心身疲労を癒すため、6月初めから滞在するようになった「つるや旅館」が、そもそもの軽井沢との出会いのきっかけです。

ここには9月まで滞在し、作品執筆を行いましたが、その村で7月に、同じく肺病を患って療養に来ていた、東京は世田谷・成城在住の一人の油絵を描く少女と出会います。

この少女こそが、「矢野綾子」であり、やがてこの若干19歳の少女と恋仲になった堀辰夫は、彼女を題材として、この時期の軽井沢での体験を書いた中編小説「美しい村」の執筆に入りました。

この「美しい村」の「夏」の章では、矢野綾子との出会いが描かれており、ここではそれまでの様々な人との別れの悲劇を乗り切ってきた彼の人生そのものが描かれ、この作品はそれ以前の自伝的作品、「聖家族」以後の堀彼の人生の要約として読むことができるといいます。

掘はその後も彼女と交際を続け、6年後の1934年(昭和9年)、24歳になった矢野綾子と婚約にこぎつけます。一方の堀は、6つ年上の30歳でした。

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このころの堀は、フランスのカトリック作家フランソワ・モーリアックの作品に触れて、強い影響を受けています。

モーリアックは、古い伝統や因習の殻に閉じこめられた地方的な家庭生活を舞台とし、そこでの個人と家庭、信仰と肉の葛藤、エゴイズムと宗教意識の戦い、といったかなり重い題材を好みました。

また、病的なほどに我執や肉欲にとらわれる人間の内面を執拗に分析しました。敬虔なクリスチャンであり、神なき人間の悲惨を描くことが彼の生涯のテーマでした。

その表現方法は、独自の「内的独白」という手法であり、文体は古典的で端正、精緻で、構成もきわめて巧妙でした。地元フランスでは、深刻な道徳問題を取り扱う「心理小説家」として名を馳せましたが、こうした繊細で重厚な作風は、堀辰夫以外にも遠藤周作や三島由紀夫の作風に大きな影響を与えたといいます。

さて、矢野綾子と1934年(昭和9年)婚約した堀は、この年の10月に、長野県北佐久郡西長倉村大字追分(現:北佐久郡軽井沢町大字追分)に移り住み、ここの「油屋旅館」に滞在するようになりました。堀は終生この地を「信濃追分」と呼んでおり、ここで「物語の女」という短編を書き上げますが、ここで結核が悪化し、スランプに入ってしまいます。

ちょうどこのころ相方の矢野綾子も肺を病むようになったため、翌年1935年(昭和10年)7月に八ヶ岳山麓の富士見高原療養所に二人で入院します。しかし、綾子はこの年12月6日に死去。享年25でした。結婚というゴールに至ることなく、死によってその仲が引き裂かれるというのは、まるで悲恋ドラマの世界そのものです。

堀自身も悲嘆の極みだったでしょうが、もともと力量のある作家であった彼はその悲しみを文章へと転じ、これはのちに彼の代表作として知られる「風立ちぬ」として知られるようになりました。1936年(昭和11年)から執筆を始め、終章「死のかげの谷」を書き終えたのは1937年(昭和12年)のことでした。

実は、この「風立ちぬ」の有名なエピグラフ、「いざ生きめやも」もまた、堀辰夫のオリジナルではありません。ただし、原文は日本語ではなく、フランス語であり、書いた人はフランス人作家のポール・ヴァレリーといいます。

アンブロワズ=ポール=トゥサン=ジュール・ヴァレリーは、フランスの作家ですが、詩人としても有名な人です。その前半生は不遇でしたが、ノーベル文学賞受賞者であり、「狭き門」などで有名なアンドレ・ジッドなどの勧めにより創作していた「若きパルク」という作品で一躍名声を得ました。

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ちなみにこの「狭き門」は、新約聖書の「狭き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし。」というイエス・キリストの言葉に由来し、これはすなわち困難であっても多数派に迎合せず、救いに至る生き方の喩えです。

この作品では、主人公のジェロームが2歳年上の従姉であるアリサに恋心を抱き、彼女もまた彼を愛します。周囲の人々も両者が結ばれることに好意的でしたが、にもかかわらず、彼女は彼との結婚をためらいます。神の国に憧れを持つ彼女は、最終的に地上での幸福を放棄し、ジェロームとの結婚をあきらめ、ついには命を落とす、というストーリーです。

戦後翻訳されたこの物語は日本ではかなり反響を呼び、話題作となりました。しかし、「若きパルク」などに代表されるヴァレリーの作品はあまり読まれていません。が、フランス国内では、アナトール・フランスの後任としてアカデミー・フランセーズ会員に選出され、数多くの執筆依頼や講演をこなし、フランスの代表的知性と謳われたほどの人です。

1945年に73歳で亡くなったときも、ドゴールの命により戦後フランス第一号の国葬をもって遇せられています。しかし、生前何度もノーベル文学賞候補としてノミネートされましたが、結局受賞は実現していません。

日本では、作家としてよりも詩人として知られているようですが、その詩の内容というよりも、アルベルト・アインシュタインの相対性理論をいちはやく理解した詩人として知られるようになったようです。

堀辰夫は、東京帝国大学文学部国文科卒の英才で、フランス語にも堪能だったようですから、こうしたものもスラスラ読めたでしょう。当時のヨーロッパの先端的な文学に多数触れたことが、堀の作品を深めていくのに役立ちましたが、当然このヴァレリーの詩も読んでいました。

そして、その中に、「海辺の墓地」という作品があり、「いざ生きめやも」は、ここから持ってきたようです。フランス語の本文からの翻訳であるため「引用」です。従って太宰と違って、剽窃というのは言い過ぎでしょう。

原文は、“Le vent se lève, il faut tenter de vivre”」で、これは直訳では(風が起きた、生きてみなければならない)になるようです。これを「風立ちぬ いざ生きめやも」と格調高く訳した堀辰夫の才能はさすがと言わざるを得ません。

が、大作家とされる堀もまた、自分だけで名作と言われるこのエピグラフを生み出すことはできなかったというのは事実ではあるわけです。

しかし、彼が書いた「風立ちぬ」は、不朽の名作とも呼ばれ、けっしてその名を損なうようなものではありません。「序曲」「春」「風立ちぬ」「冬」「死のかげの谷」の5章から成る小説で、美しい自然に囲まれた高原の風景の中で、重い病に冒されている婚約者に付き添う「私」が、やがて訪れる愛する者の死を覚悟し見つめながら共に生きる物語です。

2人の限られた「生」が強く意識されており、一方では「死者の目」を通じて、より一層美しく映える景色が描かれています。死という誰しもが迎える終末に向かいつつ、時間を超越した二人の幸福感が確立してゆく過程を描いた作品で、精緻に男女の内面分析を行うその作風に、傾倒していたモーリアックその人の影響がみられる、という人もいるようです。

この作品が書かれた1936年(昭和11年)のころの堀辰夫は、富士見高原療養所から戻り、東京、本所区向島の小梅町(現:墨田区向島一丁目)の自宅に帰っていたようで、この家は1923年(大正13年)の関東大震災で焼失した自宅跡に新築したものです。

八ヶ岳での療養の結果、このころの堀の体調は、比較的良好だったようで、次から次へと作品を発表しており、これらは雑誌「改造」に掲載された「風立ちぬ」のほか、「文藝春秋」の「冬」、雑誌「新女苑」の「婚約」(のち「春」)などです。

しかし、その翌年の1937年(昭和12年)の春、それまでの「張りつめていた気持ち」が緩み、また、「何かいひしれぬ空虚」に襲われた堀は、突如訪れたこのスランプから脱するために、古典に目を向けるようになります。

そして、少年時代に愛読していた「更級日記」や「伊勢物語」を取り出し、欧米文学でもリルケらが取り組んでいた「王朝文学」へ傾倒していきます。そしてこの年の6月、これらの古典文学の背景にある京都へ初めて旅行。11月には、王朝文学に題材を得た「かげろふの日記」を追分の油屋旅館で書き上げました。

ところが、彼が愛し、長年逗留を続けていたこの油屋旅館は火事で焼けてしまい、このためこの年の年末に堀は、軽井沢にあった川端康成の別荘を借りてここで執筆を続けました。「風立ちぬ」の終章「死のかげの谷」もここで書き上げています。

翌1938年(昭和13年)、雑誌「新潮」にこの終章「死のかげの谷」が掲載されたのち、それまでの各章をまとめた単行本「風立ちぬ」が初めて野田書房より刊行されました。現在でも、新潮、岩波文庫などから重版され続けており、翻訳版もアメリカ(英題:The Wind Has Risen)、フランス(仏題:Le vent se lève)、中国(華題:風吹了)などで出版されています。

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掘が愛した、信濃追分というところは、しなの鉄道の軽井沢駅よりも、ひとつ長野寄りにあります。旧中山道の宿場町だった往時の趣を色濃く残すエリアであり、江戸時代の高札場などが復元されており、周辺には「旧本陣跡」「脇本陣油屋旅館」「枡形の茶屋」といった見どころが点在するところです。

油屋が焼け落ちる前、堀はここで運命的な出会いをしています。巡り合ったのはのちに夫人となる加藤多恵であり、これは油屋が焼け落ちる前の1937年(昭和12年)の初夏、6月のころのことだったようです。

この加藤多恵という人は、静岡県出身です。父は日本郵船の駐在員で、その関係から育ったのは香港、広東でした。日本女子大学校を卒業後、弟の俊彦とともに静養のため軽井沢に来ていたようですが、ここでかねてから父と親交のあった山下汽船の創業者、山下亀三郎の弟から、堀辰雄を紹介されました。

矢野綾子が亡くなってから2年。堀もまだその傷が癒えないころだったでしょうが、すぐに二人は恋に落ちたようです。ところが、時悪く、追分の油屋旅館が焼け落ちたため、堀は東京向島の自宅へ帰ることになり、さらに悪いことにこのころから体調を崩し、翌年の1938年(昭和13年)2月にはこの向島の自宅で喀血しています。

すぐさま鎌倉にある額田病院という病院に入院しましたが、ここでの療養は功を奏し、体調も少し持ち直しました。そして、前年追分で知り合った加藤多恵と、室生犀星夫妻の媒酌により4月にゴールにこぎつけました。

彼女と堀との結婚を勧めたのは、矢野綾子の妹の良子とその父だったといいます。最後まで家族を愛してくれた情の深い辰雄の行く先をこの二人は案じていたのでしょう。辰雄は1904年生まれですから34歳。対する多恵は、11歳も離れており23歳ですから、少し年齢差があります。

しかし、もともと文学的な才能があった多恵は掘の良き理解者であり、その差を埋めるには十分でした。掘は静養も兼ねて軽井沢に別荘を借り、ここを新居として新生活をスタートさせました。が、引越し好きな彼は、軽井沢だけにとどまらず、その後も逗子や鎌倉などを転々としています。

その後、しばらくは幸せな生活は続き、この間、体調もよかったようで、1944年(昭和19年)には「樹下」を発表しています。しかし、戦時下であり、激化する空襲などを避けるため、この年の下旬に追分に疎開先の家を探しに行きました。ところが帰京後に再度喀血し、絶対安静の状態が続きました。

ようやく状態が安定した9月になって、追分に借りた家へ移り、終戦の年の1945年(昭和20年)にはここで療養に専念しつつ、新たな小説の創作意欲を持てるまでに回復しました。そして翌1946年(昭和21年)3月に「雪の上の足跡」を発表。

しかし、それ以降は、病臥生活に入り、1947年(昭和22年)2月に一時重篤状態となります。その後一進一退を繰り返す状態が続きましたが、そんな中、1950年(昭和25年)、自選の「堀辰雄作品集」が第4回毎日出版文化賞を受賞。その生涯に最後の花を添えました。

1951年(昭和26年)には追分に建設していた新居が完成し、7月、再び追分に戻り、ここで療養に入ります。しかし、その二年後の1953年(昭和28年)5月には再び病状が悪化、かねてより建築を命じていた書庫の完成を見ないまま、28日に死去しました。48歳没。多恵夫人と歩んだ闘病生活は14年にも及びました。

葬儀は、港区芝の増上寺で執り行われ、葬儀委員長は川端康成でした。翌々年の1955年(昭和30年)に小金井の多磨霊園に墓が建てられ、現在も堀辰夫はここに眠っています。

その後、多恵夫人は60年近くを生き、2010年(平成22年)日に96歳で没しました。夫のちょうど倍の人生を生きたことになります。この間、「堀多恵子」の名前で、堀辰雄に関する随筆を数多く書いています。

堀辰夫のその生涯はけっして長いものではありませんでした。が、その生涯は今回対比して描いてきた太宰のような「一人芝居」ではなく、病気にも苦しみ、次々と身近な人を亡くしたにもかかわらず慈愛に満ちたものであり、多恵夫人に看取られながらのその最後もまた、幸福なかんじがします。

多恵夫人のその後の一生をみると、その夫の倍以上も生きた時間の中を彼への思い出だけで生きてきたようなところがあり、一人身ではあったものの、彼の幻影との生活は幸せに満ちたものだったのでしょう。

その著書名をみると、「葉鶏頭 辰雄のいる随筆、1970」「片蔭の道、1976」「返事の来ない手紙、1979」「来し方の記・辰雄の思い出、1985」「山麓の四季、1986」「堀辰雄の周辺、1996」「野ばらの匂う散歩みち、2003」「雑木林のなかで 随筆集、2010」といった具合です。

夫への愛情がうかがわれるようなタイトルばかりであり、堀辰夫は没しましたが、その分身であった多恵夫人の残したこれら一連の作品こそが、堀作品のエピローグと考えることもできます。

さて、我が家のタエ夫人はどうでしょう。私が死してのち、私のエピローグを書いてくれるでしょうか。それは、この山の神に対する日々の感謝の念次第、ということになるかもしれません。

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