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キャロル

2014-7-1839今日7月4日は、アメリカの独立記念日です。が、と同時に1865年に「不思議の国のアリス」が刊行された日でもあることから、今日はこの作者である、ルイス・キャロルについて少し書いてみたいと思います。

おいたち

本名はチャールズ・ラトウィッジ・ドジソン (Charles Lutwidge Dodgson)といい、ルイス・キャロルはペンネームです。

「不思議の国のアリス」の出版で一世を風靡し、作家・詩人としての印象が強い人ですが、実は、数学者、論理学者、写真家としても知られています。

1832年1月27日、ルイスは、教区牧師の長男としてイギリス本土、中西部に位置する、チェシャー州ウォーリントン、ダーズベリの小さな牧師館で生まれました。父親の名も、チャールズ・ドジソンであり、同名ですが、ややこしいので以下は、作家名の「キャロル」で統一しながら、記述していきます。

キャロルには、2人の姉がおり、また下には8人の弟妹がいるなど、ドジソン家は非常に賑やかな家庭でした。

父のチャールズは、もともとは、オックスフォード大学で数学を教えている先生でしたが、結婚したため、教職を離れました。このころのイギリスの大学はキリスト教の色合い強いところが多く、オックスフォードも教会付属学校のような場所であり、このため教師を続けるためには独身が条件だったためです。

敬虔なクリスチャンでもあり、このため大学を離れたあとも多くの説教集の出版や、その他の聖書関連本の翻訳を行うなどの仕事を手掛けました。教会内での地位も高く、リッポン大聖堂の大執事に就き、英国国教会を二分した激しい宗教論争に関わるなど、聖職者としても活躍した人でした。

こうした父に、幼年期のチャールズは、兄弟姉妹とともに家庭内で厳しく教育されましたが、キャロルが11歳の時に、この父がイギリス北部にあるヨークシャー州クロフトに転任することになりました。

このため、キャロルもまた父母や弟妹とともにヨークシャー州に移り住むことになりました。このヨークシャー州というのはイギリスでも最大の州であり、このため教会員も多く、一家が引っ越したのも広々とした教区館でした。以後25年間にわたり一家はこの教区館で生活するようになります。

12歳の時に、キャロルはリッチモンドの小さな私立学校に入学した後、1845年にイングランドで最も古いパブリックスクールの1つである、ラグビー校に転校しました。11歳から18歳までの男女共学の全寮制の寄宿学校であり、スポーツの「ラグビー」が生んだ学校としても有名です。

キャロルは1850年の終りにこの伝統ある学校を卒業し、翌年の1月に父の母校でもあるオックスフォード大学のクライスト・チャーチ・カレッジに入校しました。この学校も伝統あるカレッジとして知られ、全部で13人のイギリス首相を輩出しています。

ハリー・ポッターシリーズの舞台としても知られており、そのイ重厚な建物様式はアイルランド国立大学、シカゴ大学を含む他国の多くの大学に模されています。ニュージーランドの南島にあるクライスト・チャーチも、このカレッジに因んで名づけられたものです。

ラクビー校といい、クライスト・チャージ・カレッジといい、こうしたイギリスでも最も格式の高い学校に入れたというのは、ドジソン家もまた格式の高い家柄であり、キャロルは長男でもあったことから、この家を継ぐべき御曹司という立場でした。

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カレッジ在学中、ルイスは1年目にして文学士号試験に合格しており、このためスチューデントシップ、つまり特別奨学生となり、クライスト・チャーチにおける特別研究員にも指名されました。

しかし、この年、47歳だった母フランシスが脳炎で死去。その悲しみにもめげずキャロルは勉学に励み、4年後の1854年、クライスト・チャーチ・カレッジを最優秀の成績で卒業しました。以後、同校の数学講師となり、26年間にわたりこの職を続けました。

ルイスは、数学の教師を勤める傍ら、詩や物語を執筆して多数の雑誌に寄稿するようになり、それなりの成功を収めるようになっていきました。1854年から1856年の間に、「The Comic Times」や「The Train」のような国民的雑誌や、「Whitby Gazette」「Oxford Critic」といった、小規模な雑誌にも彼の作品が掲載されました。

この頃から既にキャロルの作品はユーモラスなものでしたが、一方では度がすぎ、しばしば風刺的なものになる風潮がありました。しかし、そうした作品にも満足できず、キャロルの目標と志はさらに高いところにありました。

1855年7月に知人に宛てた手紙には、「私はまだ本当に出版に値するものを書いたとは思っていない。いつの日か出版に値するものを書くことを諦めてはいない」と書き記されています。

その夢は数年後に実現に至りますが、既にこの頃からキャロルは子供向けの本を出してヒットさせたいという考えを持ち始めていたようで、月日を重ねるにつけ、このプランはさらに洗練されていきました。が、創作意欲を掻きたてられる題材というよりは、高い金銭的収入を得るための手段として児童書を捉えていたようです。

アリスとの出会い

1856年、キャロルは初めて「ルイス・キャロル」のペンネームを使って作品を発表しました。「The Train」誌に発表された Solitude(孤独)と題された短い詩がそれで、「Lewis Carroll」の筆名は彼の本名「Charles Lutwidge」のラテン語名の「Carolus Ludovicus」を英語化し、前後逆転させたものです。

この年、彼が勤めるクライスト・チャーチ・カレッジに、新しい学寮長として、ヘンリー・リデルという人物が、妻子を伴って転任してきました。この家族との新しい出会いは、その後のキャロルの作家人生に重要な影響を及ぼすことになります。

キャロルはこのヘンリー夫妻もさることながら、その娘たちである、リデル家の三姉妹、ロリーナ(13歳)、アリス(10歳)、イーディス(8歳)ととくに親しく交際しました。そして、この真ん中の子の、アリスこそが、のちの「不思議の国のアリス」のモデルです。

ルイスがこの物語を書こうと思った出来事は、「不思議の国のアリス」が初刊行されるちょうど3年前の1862年7月4日に起こりました。

ルイスは、このリデル三姉妹を連れ、よくボート遊びに出かけており、彼の日常においては一種の習慣のようになっていたようです。この日もキャロルは、三姉妹と、カレッジの同僚ロビンスン・ダックワースとともに、オックスフォード脇を流れるテムズ川をボートで遡るピクニックに出かけていました。

この行程はオックスフォード近郊のフォーリー橋から始まり、5マイル(約8km)離れたゴッドストウ村で終わるというもので、その間キャロルは船上で、「アリス」という名の少女の冒険物語を少女たちに即興で語って聞かせました。

主人公の名前をアリスにしたのは、この姉妹の中でも特に同名のこの娘がお気に入りであったためでもありました。それまでにも彼女たちのために即興で話をつくって聞かせたことが何度かありましたが、この日の話をアリス本人もいたく気に入り、自分のためにこの物語を何かに書き留めておいてくれるようキャロルにせがみました。

キャロルはこれを聞き入れ、ピクニックの翌日からその仕事に取り掛かりましたが、その翌月の8月に再度姉妹たちとピクニックに出かけた際には、さらにこの物語の続きを語って聞かせました。

この続きもまたキャロルによって後日書き留められ、こうして、手書きによる作品「地下の国のアリス」が完成したのは1863年2月10日のことでした。キャロルはさらに自分の手で挿絵や装丁までこれに加え、完成度を高めた上で、翌1864年11月26日にアリスにこの本をプレゼントしました。

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アリスは飛び上がるようにしてこれを喜んだのは言うまでもありませんが、この反応を受け、さらにキャロルは知己であり幻想文学・児童文学の人気作家であったジョージ・マクドナルドの一家にこの原稿を見せました。そうしたところ、後日マクドナルド夫妻から手紙が届き、そこにはこの作品を正式に出版することを勧める一文がありました。

こうしてキャロルは出版を決意します。しかし、「地下の国のアリス」には当事者にしかわからないようなジョークもあっため、これを取り除き、「チェシャ猫」や「狂ったお茶会」などの新たな挿話を書き足して、もとの作品の2倍近いボリュームの作品に仕上げ、タイトルも「不思議の国のアリス」に改めました。

出版そして成功

この本の出版社はロンドンのマクミラン社と決まりました。挿絵は1841年の創刊以降、2005年までも続いたイギリスの伝統ある風刺漫画雑誌「パンチ」の編集者トム・テイラーの紹介によって、同誌の看板画家ジョン・テニエルに依頼されました。

ジョン・テニエルは、イギリス貴族院の面々にも支持者の多かった風刺画家で、その作品の芸術性やユーモアのある観察眼、動物の生態への豊富な知識などが高く評価されていましたが、20歳のとき、フェンシングの教官だった父と試合をしていて右目を失明しており、隻眼の画家でした。

いわゆる「イラストレーター」の走りであり、キャロル「不思議の国のアリス」や「鏡の国のアリス」の挿絵で有名になり、19世紀半ばから約50年間にわたり、前述の「パンチ」で数多くの風刺漫画を手がけ、歴史に名を残しました。

挿絵にこだわりを持っていたキャロルは、このテニエルの採用を喜びましたが、何かと細かい注文をつけてテニエルを閉口させました。しかし、その成果もあり、1864年から1865年にかけて、次々と後に有名になるイラストの数々が製作されました。

こうして、「不思議の国のアリス」は、2000部が刷られ、1865年7月4日に刊行されました。今日からちょうど149年前のことになります。キャロルがこの日を出版日に選んだのは、ちょうど遡ること3年前のこの日が、初めてリデル3姉妹にこの物語の語り聞かせを行った記念すべき日だったためと思われます。

この初版本の「不思議の国のアリス」は、18センチ×13センチの判形に、赤い布地に金箔を押した装丁で、印刷費は無論マクミラン社が出しましたが、挿絵代も含め出版費用はすべてキャロル自身が受け持ちました。

この当時こうしたかたちの出版契約はめずらしくなかったようですが、逆にこのためキャロルは自分が好むままの、こだわりの本作りをすることができました。ところが、挿絵を担当したテニエルは、この初版本の印刷に満足せず、気に入らないとただちに手紙で知らせてきました。

インクの盛り過ぎで字が裏面に透け、挿絵部分に重なっていたためで、このため、キャロルはマクミラン社と相談のうえでいったん、出版の中止を取り決め、初版本をすべて回収し文字組みからやり直しました。

印刷のやり直しは費用を負担しているキャロルにとって痛手でしたが、こうして1865年11月に「初版第二刷」として刊行された「不思議の国のアリス」は着実に売れていき、同年三刷まで刷り上げ、早翌年には第二版が出され、これは1867年までに1万部売れました。その後もさらに版を重ね、1872年には3万5000部、1886年には7万8000部に達しました。

ルイス・キャロルの名は、この初出版からわずか1、2年の間にイギリス中で広く知られるようになりました。気をよくしたキャロルは続編を企画しはじめ、1866年頃より 「鏡の国のアリス」の執筆をはじめました。この続編は1871年のクリスマスに初版が刊行され、こちらも翌年までの間に1万5000部を売り上げるというヒットを飛ばしました。

キャロルにまつわる「神話」

以後、二つの「アリス」の物語は以後途切れることなく版を重ね続け、マクミラン社はキャロルが死去した1898年までに、「不思議の国のアリス」だけでも15万部以上、続編「鏡の国のアリス」も10万部以上を出版しています。

著作権が切れた以降は、世界中で翻訳・刊行され、現在でもその細かい内容は知らないまでも、「不思議の国のアリス」の名を知らない人はいないと思われるほどの人気ぶりです。

そのストーリーは、改めて紹介するまでもありませんが、幼い少女アリスが白ウサギを追いかけて不思議の国に迷い込み、しゃべる動物や動くトランプなどさまざまなキャラクターたちと出会いながらその世界を冒険するさまが描かれています。

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ところが、このルイス・キャロルという人の素顔については、案外と日本では知られていないようです。熱狂的なアリスファンや文学少年・少女といわれる方々を除けば別ですが、キャロルが数学者で、写真家だったといったことを知っている人はおそらくあまりいないと思われます。また、彼の生涯にはいろんな「神話」がつきまといます。

「不思議の国のアリス」の驚異的な成功により、キャロルは金銭的に成功し、作家として有名になりましたが、一方では、こうした奇妙奇天烈な物語を書いた人物としてある種色眼鏡で見られる部分もあり、それがもう一人の別の人格を生み出しました。

キャロルは実は、ロリコンだった、というのがそれであり、さらにはもしかしたら、小児性愛者ではなかったかといった噂もあり、さらには、キャロルは、「不思議の国のアリス」のモデルとなった、リデル・アリスに求婚したという「求婚伝説」があります。

日本では「不思議の国のアリス」は、角川文庫でも出版されましたが、この巻末の解説で、この求婚伝説が紹介されたため、多くの人がこれを事実として信じたようです。

この解説には、「キャロルが30歳の年に13歳のアリスに求婚したが、この求婚はアリスの両親によって拒否されたばかりか、彼らは、アリスに宛てたキャロルのおびただしかったであろう一切の手紙類をすべて焼却した」と書いてあったそうです。

これを読んだ読者の多くが、やっぱりそうだったか、と思ったようですが、確かに「不思議の国のアリス」は、大の大人の男性が書いた物語にしては少々ロリっぽく見え、いかがわしい表現こそは出てきませんが、一般の児童書とはちょっと違う、風変りな本、とうイメージがあります。

この噂の出所は、無論イギリス本土ですが、日本でも古い文献をあさり、そうしたことをわざわざ調べ、キャロルが本当にロリコンだったのかどうかを確認しにかかった人もいるようです。

私もそれらのことを書いたサイトをいろいろ見ましたが、結論としては、キャロルがロリコンだったというのは、やはりありえない虚実のように思えてなりません。そもそもこの角川文庫に記載してある年齢も間違っているようで、キャロルが生まれたのが1832年、アリスが生まれたのが1852年であるため、二人の年齢差はちょうど20歳になります。

従って、上述のように、もしアリスが13歳ならば、キャロルは30歳ではなく33歳であるはずであり、この解説者がきちんとそうした事実関係を掴んでこれを書いたのかどうか、というそもそもの信憑性が疑われます。

また、キャロルが33歳の1865年という年は、ちょうどキャロルが「不思議の国のアリス」の初版本を出した年であり、この時期はまだ売れっ子作家としてのルイス・キャロルは誕生しておらず、キャロルにとって生活のための収入源は大学からの給与だけです。

この項の初めのあたりでも述べたとおり、彼の父のリチャードは、オクスフォード大で教鞭を取っていましたが、その地位は「独身であること」が義務づけられていたため、結婚を機に大学を辞職しています。

キャロルもまた、同じ条件で大学に勤めており、この時期に結婚するということは、大学での職を捨てるということになります。自費出版で本を出さねばならないといような大事な時期に、確実に職を失うことになる結婚を、キャロルが考えるはずはありません。

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さらに色々調べてみると、そもそもこの求婚伝説のもとになったのは、キャロルの死後、1945年に出された彼の伝記がもとになっているようであり、この伝記の執筆者はフロレンス・ベッカー・レノンという雑誌社記者だったようです。

彼女はこの伝記を書くため、キャロルの死後もまだ生存していたリデル・アリス本人に取材を申し込みましたが、これを断られ、アリスの姉ロリーナにインタビューしています。

このロリーナは、レノンに対し、キャロルがアリスに求婚したという事実はないと否定したようですが、伝記では、「キャロルが愛した理想的な少女はアリス」であった、という書き方をしてしまったようです。しかも、アリスに求婚したと受け止められるような表現をも加えたとのことです。

小児性愛者?

かくしてこれが原因となり、キャロルがアリスを溺愛し求婚までした、という求婚伝説が生まれることになるわけですが、ただ、この当時のイギリスでは、結婚の同意年齢として13歳というのは法律的にも認められており、日本においても、13~15歳いで女性が輿入れするのは普通でした。

従って、キャロルが13歳の女性に対して、結婚を申し込んだとしても非常識でもスキャンダラスでもありません。

ところが、このほかにも、ルイス・キャロルはロリコンだったという説を後押しする話があります。

キャロルはオックスフォードで数学の教師を勤めながら、多数の数学論文や著書を発表する数学者でした。不思議の国のアリスが好評を博したのち、ヴィクトリア女王が他の著作も読みたいとキャロルに依頼したところ、「行列式初歩」という数学書が送られてきて面食らったという逸話が残っており、生真面目なキャロルの素顔がこの話から見えてきます。

ところが、キャロルは作家以外にも写真家としても有名な人で、文芸と技芸の才能を併せ持った芸術家でもありました。若いころには、画家として立身したいと考えていたようですが、クライスト・チャーチを卒業して同校の数学教師となりたてのころの24歳のとき、はじめてカメラを購入し、以後写真撮影を趣味とするようになりました。

50歳になる直前になぜか唐突に写真術をやめてしまいましたが、この20年余りのあいだに、キャロルは写真表現の手法を完全に習得し、自宅の中庭には彼自身の写真館を持っていたそうで、この間、約3000枚の写真を撮影していたとされます。

これらの写真の内、およそ1000枚足らずが破損を免れて現存しているそうですが、その半分が少女を撮影したものだそうです。ただしこれらの現存する写真は彼の全作品の三分の一に満たないそうで、従って少女の写真ばかり撮っていたというわけではありません。

これらの写真は、この当時ヨーロッパやその周辺の諸地域で起こったロマン主義の影響を強く受けたもので、ロマン主義の作品としては、例えばスペインの画家、ゴヤが描いた「裸のマハ」に代表されるようなそれです。

彼の死後、モダニズムの時代が到来し、こうした古典的、絵画的な手法によって撮影されていたキャロルの写真は、忘れ去られていました。が、近年その再評価が進んだ結果、現在では近代的な芸術写真に大きな影響を及ぼし人物とみなされるようになり、彼の生きたヴィクトリア期においては、最も優れた写真家の一人と見なされています。

ところが、この彼が残した写真の中には、数々の少女のヌード写真が含まれており、これもまた彼をしてロリコンであったとする噂を後押ししました。

現存するルイスの作品の半分以上は少女を撮影したもので、しかしだからといって、これすべてがヌードというわけではありません。また、カメラを入手した1856年のうちにチャールズは、一連のアリス・シリーズのモデルであるアリス・リデルの撮影を行っていますが、当時4歳だった彼女のヌードは含まれていません。

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チャールズのお気に入りの被写体は、クライスト・チャーチの同僚であり、後にダラム大学の総長を務めたジョージ・ウィリアム・キッチンの娘であった、「クシー(Xie)」という少女で、本名はアレクサンドラ・キッチンといいました。

ルイスは口癖のように、「いい写真を撮りたければ、クシーをカメラの前に置きさえすればいい」と言っていたほど彼女を気に入っていたそうで、クシーが4歳から16歳までの期間にわたり、約50回の撮影を行っています。

ところが、1880年にキャロルは、16歳になったクシーの水着写真を撮影したいと考え、キッチン夫妻にこれを申し込みますが、二人はこれを拒否しました。このとき、ルイスは既にほかの少女たちのヌード写真も多数撮影していたといい、これが夫妻の知るところとなったためと考えられます。

このとき撮影されたヌード写真の大半は、キャロルが生きている間に破棄されたか、モデルに手渡されたのちに散逸したと推測されていますが、その後6枚が発見され、内の4枚が公開されているそうです。

キャロルが少女ヌードを撮影していた理由としては、彼もまたロマン主義の影響を強く受けており、神に最も近い純粋無垢な存在として裸の少女たちを見ていたのではないかとの指摘があります。しかし、現在ではこうした少女ヌードを撮れば、小児性愛者であるとレッテルを張られるのがオチであり、なかなかそう簡単には撮影は許されません。

案の定、1999年になって、イギリスのジャーナリスが自作の中で、キャロルが少女愛者であるという「通説」を披露し、さらには、最終的な結論としてキャロルがアリスの母である、リデル夫人と、一種の愛人関係にあったのではないかとまで推理した文章を掲載しました。

ところが、大人の恋をするような男ではないと「リデル夫人愛人説」については反対意見も多く、このため、もうひとつの主張であるキャロルが少女愛者であったとする説明は十分に説得力もあったことから、その後キャロルの「ロリコン伝説」だけが一人歩きするようになりました。

しかし、キャロル少女のヌード写真を撮っていたことについては、上述のとおり、当時のイギリスではロマン主義が浸透していたことによります。少女のヌードは「純粋さ」の象徴として多くの写真家が好んで題材にしており、同時代の有名写真家ジュリア・マーガレット・カメロンにも少女や少年のヌード写真を数多く残しています。

キャロルの写真もまた「ヌード」と呼ぶにはあまりにも純粋無垢な写真ばかりであり、カメロンのものと比べると少々エロチックなかんじがないではありませんが、十分に芸術といえる範疇のものだと私は思います。

また、キャロルは日記を残しており、その分析によれば、彼は子供よりもむしろ、大人の女性に興味を示すことも多かったようです。一説にはキャロルは、エレン・テリーという女性に恋をしていたという説もあります。

さらに、もうひとつキャロルが女性に関してはノーマルな人物だったことを思わせる逸話があります。キャロルには、ウィルフレッドという弟がおり、この弟はキャロル自身も写真のモデルに使ったことのある少女と恋に陥り、結婚しようとした時、この少女は15歳、ウィルフレッドは28歳で、まだ独立できていませんでした。

このとき、キャロルはこの結婚を反対しておりこれを許し、歓迎したのはアリスが20歳、ウィルフレッドが33歳になって定職を得てからでした。この当時の結婚の同意年齢は13歳であり、15歳というのは法的にも問題はありませんが、少女が大人になり、弟が定職を得るまで結婚に反対していたという事実は、常識的な大人のそれです。

さらに、彼は聖職者ではありませんでしたが、宗教色の強いクライスト・チャーチという大学からは独身であることを条件に職を得ており、聖職者に近い立場にありました。このため、こうした職につく者が、少女や女性と付き合いがある、という噂が広まるのを恐れ、彼女たちは単なる友達にすぎない、というそぶりを取ることも多かったといいます。

だからといって、ロリコンではなかったという証明にはなりませんが、後に「ルイス・キャロルの想い出」という本を書いたキャロルの「子供友達」の少女のひとりは、スキャンダルになるのを畏れ、20歳近くまで彼と交際のあったことを隠していた事実を披露し、「真面目な大学教授」というイメージでキャロルのことを綴っています。

キャロルが少女愛者であったといいう噂が定着したのはまた、彼の死後、甥のスチュワート・コリンウッドが書いた伝記の中で書いた、「少女を愛する、変わり者の聖職者」という表現にも原因があったようです。

その後こうした故人の親族や、旧友・知人が、彼に関する思い出や伝記を色々書くようになるにつれ、そこに出てくる表現をフロイト流の心理学的解釈から勝手に独り歩きし、キャロルのロリコン説が生まれた、というのがほんとうのところのようです。

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方向転換そして死

ところで、写真家としてのキャロルですが、彼が写真を志したのは、そもそもまだ無名の作家だったころ、この写真術が上流の社交サークルへのデビューに役立つと考えたからのようです。

自分自身の写真館を所有していたというのも上で書きましたが、ここに、ミレーのような大画家や、有名女優、写真家、詩人などの数々の有名人を招いて彼等の肖像写真を撮影しており、また多くの風景写真や解剖写真も残しています。

キャロルは非常な野心家であったようで、作家か世間に才能を示すことを切望していたほか、絵画などでも認められたいと考えていたようですが、最終的に写真術に転向したのは、画家としての才能が不十分だと自覚したためと考えられます。

ところが、キャロルは1880年48歳のときに、唐突にこの写真術をやめてしまっています。上述のとおり、この年にキャロルは少女の水着写真を撮影したいと考え、友人夫妻にこれを申し込んで断られていますが、これが写真を止めるきっかけになったとも考えられます。

しかし、このころにキャロルは既に「不思議の国のアリス」やその続編によって有名作家の仲間入りをしており、また、数学者として数々の業績を打ち立てていました。これらの成功は、彼が芸術の分野で達成することを望んでいた成功を十分に埋め合わせるだけのことはあり、写真をやめたのは、そのためだったのかもしれません。

この翌年の1881年には、いったん数学の講師を辞任しており、写真活動を停止したこのころというのは、キャロルにとっても人生の節目だったようです。ただ、大学を退職したわけではなく、クライスト・チャーチ付の「チューター(Tutor)」として勤務は続けました。

チューターというのは、個人教師、家庭教師のことで、クライスト・チャーチなどのイギリスの大学では留学生に対してひとりの職員が指導教官として付くチューター制が定着しており、慣れない生活について個人的な悩みなど、自分ひとりで解決できない問題を相談する役割を果たします。

キャロルはこののちも、こうしたチューターを兼任しつつクライスト・チャーチの「社交室主任」に選ばれるなど、生涯教師としての職を続けました。

51歳のとき(1883年)、なぜかキャロルは「心霊研究協会(心霊現象研究協会)という組織に入会しています。これは、この前年の1882年にケンブリッジ大学トリニティ・カレッジの心霊主義に関心のあった3人の学寮長によって設立された非営利団体で、初代会長は哲学者・倫理学者でもあったヘンリー・シジウィック教授です。

一般に、この組織の成立をもって「超心理学元年」と目されており、この協会の目的は、心霊現象や超常現象の真相を究明するための科学的研究を促進することでした。当初、研究は6つの領野に向けられており、これはすなわち、テレパシー、催眠術とそれに類似の現象、霊媒、幽霊、降霊術に関係した心霊現象などです。

キャロルが入会して2年後の1885年にはアメリカ「米国心霊現象研究協会 」が設立されており、1890年にこれは正式に英国心霊研究協会の支部になりました。

支持者には、アルフレッド・テニスン(詩人)、マーク・トウェイン(作家)、カール・ユング(心理学者)、アーサー・コナン・ドイル(作家)、アルフレッド・ラッセル・ウォレス(生物学者)などのそうそうたる面々がおり、この当時の多くの知識人がこの心霊研究に傾倒していたことがわかります。

数学者でもあったキャロルもまた、心霊という現象を科学的に突き詰めたいと考えたと思われ、また写真を辞めたのも、もしかしたら、彼にとっては新境地となるこの分野に没頭するためだったかもしれません。

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以後、押しも押されもせぬ名声と富を築き上げる中で、キャロルはクライスト・チャーチの教職を続け、死ぬまでそこの住居に留まりました。しかし、作家としてのキャロルの作品は必ずしも多くなく、「アリスシリーズ」以外には、1876年の「スナーク狩り」と最後の作品である1889年「シルヴィーとブルーノ」の各巻だけです。

また、キャロルは自分が書いた手紙について記録を残しているため、膨大な量の手紙を書いた事が知られているほか、数学関係の本を多数書いており、とくに「論理学」に関する本も多く著わしています。「ルイス・キャロルのパラドックス」というのがあり、これは、
「亀がアキレスに言ったこと」として日本でも知られています。

1895年にルイス・キャロルが哲学雑誌「Mind」に書いた短い対話編の中で出てくるパラドックスで、これは、この作品中で「アキレスと亀の対話」という形で描かれています。この対話において、亀はアキレスに対し「論理の力を使って自分を納得させてみろ」と吹っ掛けます。

しかし結局アキレスはそれができません。なぜなら、カメが、アキレスが繰り広げる論理学的な推論規則に対して「なぜそうなのか?」という問いを発し続け、アキレスを無限に追いやってしまうためです。……と口で言えば簡単なのですが、私もこの論理を文章で読んでみたのですが、さっぱりわかりません。

こうした「無益な論理」のやりとりは、「アリス」にも頻繁に出てきますが、こうした事実を知ると、キャロルが作家である以上に、実は数学者・論理学者であったことなどに思い至ると思います。

しかし、66歳の誕生日を間近に控えた1898年1月14日、キャロルはイギリス南部、サリー州・ギルフォードにあった姉妹の家に滞在中に、インフルエンザから併発した肺炎で亡くなりました。死後、同街の「マウント」という場所にある墓所に埋葬されました。

墓碑銘には、作家名のルイス・キャロルと共に、「チャールズ・L・ドジソン牧師(Rev.)」とあるそうです。

生前の性癖

キャロルの死因は肺炎だったようですが、彼は17歳の終りの頃に重い百日咳を患い、右耳の聴力に障害を負っており、この百日咳は、彼の後の人生において慢性的な肺の弱さの原因となりました。

また、キャロルは、いわゆる「どもり」、つまり吃音症でした。彼自身は、この性癖を「ためらい(hesitation)」と名付けていようですが、本人にとっては生涯にわたり悩みの種だったようです。

が、彼と面識のあった多くの大人が彼の吃音に気付かなかったといいます。にもかかわらず彼自身は、自分の吃音を深く気にしており、「アリス」に出てくる「ドードー」は、発音しにくい彼のラスト・ネーム”Dodgson”をもじったもので、自分自身を戯画化したものだといわれています。

もっとも、この吃音癖は、社交生活における彼の他の長所を打ち消すほどひどい物ではなく、また彼の生まれつきの社交性と強い自己顕示欲はこれを打ち消すほどのものでした。

周囲の注目を引きつけ称賛されることに常に喜びを覚えていたといい、娯楽のための詩の朗誦が求められれば喜々としてこれを披露し、物真似やジェスチャーも得意だったそうで、これらを駆使して魅惑的な芸人として振る舞い、聴衆の前で歌うことも恐れず、それなりの歌唱力を持っていたそうです。

キャロルは、さらに最晩年の63歳のときに、「地獄についての宗教的疑義」を表明したEternal Punishmentという論理文を発表しています。

この作品では、彼は論理学者としての本領を発揮し、この「地獄」という宗教的世界の意味を彼独自のロジックを使って説明し、これをもとに逆説的に神の性質と目的について述べました。

1895年、亡くなる3年前のことであり、この時すでに、その死を予感し、死後も永遠に続く輪廻のなかでの、次の作品の構想を練っていたに違いありません。

さて、今日も今日とて長くなりました。アー疲れた。

2014-7-2012

彗星のはなし

2014-7-3801
さて、7月になりました。

今日、7月2日は、1900年に ドイツのフリードリッヒシャフェンで飛行船ツェッペリン号が初飛行した日であり、また1937年に世界一周飛行中の女性飛行士アメリア・イアハートが南太平洋で消息を絶った日でもあり、さらに2002年 にスティーヴ・フォセットが世界初の気球による単独世界一周飛行を達成した日でもあります。

何かと航空機に関わる出来事や事件が発生した日なわけですが、もしかしたら、何等かの関係があるのかも、とか思ってしまいます。が、無論、この3つのできごとには何の相関関係はありません。

しかし、先週末に書いたブログでも、こちらの世とあちらの世は繋がり、重なっていると書いたばかりであり、案外と飛行機を飛ばすということを司る何かの波動がつながって、これらの出来事が起こったのかもしれません。

さらに調べてみると、実は1985年の同じ日、こちらは航空機ではありませんが、 欧州宇宙機関 (ESA) がハレー彗星探査機ジオットを打ち上げており、これは、過去において最もハレー彗星に最接近したといわれている探査機です。

ジオット(giotto) またはジョットという名前は、1301年に出現したハレー彗星をパドヴァのスクロヴェンニ礼拝堂の壁画のモチーフに描いたイタリアの画家ジョット・ディ・ボンドーネにちなんでいます。

このハレー彗星は古代からこのように何度も人類に目撃されてきており、明確な記録として残っている最古のものは、紀元前240年5月25日の中国の「史記」の記述であり、そこには「彗星先ず東方に出で、北方に見ゆ。五月西方に見ゆ」との記載があります。

近年では、1986年にハレー彗星は地球にかなり近づいており、これに伴い、アメリカ、日本、ソ連、ESAの各国・機関は、共同で衛星によるハレー彗星の観測を行いました。そのなかで、ESAはハレー彗星のコマの内部まで突入し、近距離より彗星核の撮影を試みるという最も冒険的な計画を立てました。これがジオットです。

彗星が太陽に近づいていくと、太陽から放射される熱によってその表面が蒸発し始めますが、それに伴って発生したガスや塵は、非常に大きく、極めて希薄な大気となって核の周りを球状に覆います。これがコマです。

ジオットはこのコマに近づいて観測を行いましたが、この際に核から噴出した多数の塵が衝突することが予想されたため、その製作にあたっては衛星の進行方向に装甲板が取り付けられました。また映像は、衛星本体の脇に、装甲板の外側に取り付けられている鏡を経由し、本体内のカメラで撮影する、という特殊な方法がとられました。

こうしてジオットは、1985年7月2日、 フランス領ギアナのギアナ宇宙センターからアリアン1ロケットにより打ち上げられ、翌年の3月14日、ハレー彗星の核から600 kmまで接近しました。そして塵の衝突により最接近直後にカメラが故障し映像の送信が中断するといったトラブルもありましたが、最接近して無事にハレー彗星の撮影に成功しました。

こののちもジオットはさらに、スイングバイで別の彗星の観測にあたることになり、1992年7月10日には、グリッグ・シェレルップ彗星という彗星にも約200 kmまで接近し、データを観測するなどの成果をあげました。しかし、1999年、地上からの呼びかけに反応しなくなり、通信は途絶えました。

このESAが送ったジオットを含め、日本、ソ連やアメリカといった他の国・機関が送った衛星群は、ハレー艦隊(Halley Armada)とも呼ばれました。複数の探査機が、順を追ってハレー彗星に近接観測するさまを艦隊になぞらえたことによります。

多国の複数の宇宙探査機で同一天体を観測するものとしてはそれまでに類を見ない国際協力プロジェクトであり、各宇宙機関・探査機は観測分野を調整し、彗星観測にあたりました。ジオットは、これらの探査機の中では最も彗星核に接近しましたが、各国の衛星はこのジオットの軌道修正に必要なデータを提供するための観測も担いました。

ただ、アメリカ航空宇宙局はスペースシャトルより大気圏外観測を行う予定でしたが、1986年1月のチャレンジャー号爆発事故の影響によりシャトルの運航が中止され、観測は取りやめとなりました。

また、元々ハレー彗星の国際共同探査を提案したのはNASAでしたが、ハレー彗星の探査に十分な予算が付かず、当初予定されていたハレー彗星探査機HIMの開発は財政難のため頓挫。結果的に他国と比べ一歩距離を置いて参加する形となりました。

このため、新たにハレー彗星へ向かう探査機を打ち上げず、代わりに欧州と共同で運用していた探査機ISEE-3をICE(アイス)に改名してハレー彗星探査に転用し、月スイングバイを利用した複雑な軌道変更を経てハレー彗星に向かわせました。

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また、1965~1967年に打ち上げられ、4機体制で太陽周回軌道を網羅して惑星間環境の観測を行っていたパイオニア6~9号のうち、6号、7号、8号が機能を維持しており、これらを有効利用することとしました。

一方のアイスは、1986年3月28日に、ハレー彗星に約2800万kmまで接近しました。カメラは搭載していないため画像撮影はできませんでしたが、周辺環境や粒子を19個の観測装置で観測しました。

また、パイオニア7号は、ICEより近く、1230万キロまでハレー彗星に接近し、太陽風により形成されたプラズマがハレー彗星から放出されるガスにより中和されるという現象を発見しました。

一方、ソ連は、ベガ1号、ベガ2号の2機の探査機を送りました。ベガの名はロシア語で金星を表すベネラと、ハレーを表すガレーから取られたものです。

当時は冷戦の最中であり、ソ連の宇宙開発も秘密主義の下に置かれていましたが、ハレー彗星の探査に関しては例外的に開放的な協力姿勢を見せ、この2機の大型探査機には欧米の観測機器・技術が採用されました。

両機は金星探査機も搭載しており、ハレー彗星に接近する前に金星に接近し、それぞれが金星大気にバルーンを投下しました。このうちのベガ1号は、彗星の核から8,889kmまで最接近し、コマのガス雲を通過中には、様々なフィルターで500枚以上の画像を撮影しました。

このとき多くの塵がベガ1号に衝突しましたが、使用不能になった機器はありませんでした。この結果得られたベガの画像からは、核の長さは約14kmで、約53時間の周期で自転していることが示されました。また質量分析器により、塵の組成は「炭素質コンドライト」に似ており、クラスレートと呼ばれる特殊な氷の粒も検出されました。

炭素質コンドライトというのは、化合物や有機物の形で石質隕石に含まれる炭素原子で、これまで地球上で発見された隕石ではほとんどみられておらず、数十例しかないという希少なものです。また、ベガ2号は、3月9日に彗星の核から8,030kmまで最接近し、コマのガス雲を通過中には、ベガ1号よりも良い解像度で700枚の画像を撮影しました。

一方、日本の宇宙科学研究所は自主技術にこだわり、比較的独自路線でこのハレー艦隊に参加していました。

この当時まだNASDA(宇宙開発事業団)とよばれていた後年のJAXA(宇宙航空研究開発機構)は、日本初の惑星間探査機打ち上げロケットM-3SIIを新たに開発し、当時不可能と言われていた全段固体燃料ロケットによる地球重力圏脱出を成功させました。

探査機としては、「さきがけ」と「すいせい」の2機が製作され、先行するさきがけを試験機とし、その運用結果や取得したノウハウをすいせいの運用にフィードバックすることとし、それぞれ異なる観測機器が搭載されました。この2機は、太陽風とハレー彗星の大気との相互作用を観測したり、紫外線で彗星のコマを撮像することを目的としていました。

さきがけは、1986年3月11日にハレー彗星に699万kmまで接近し、彗星付近の太陽風磁場やプラズマを観測し、数々の観測ノウハウをすいせいのために蓄積しました。

これに続いて打ちあげられたすいせいは、1985年11月14日に「真空紫外撮像装置」という特殊装置を用いてハレー彗星を撮影し、この結果からコマの明るさが規則的に変光していることが明らかとなり、変光周期から核の自転周期が2.2±0.1日と推定するなどの成果をあげました。

さらに年3月8日にハレー彗星に145,000 kmの距離まで最接近し、彗星付近の太陽風の観測を行い、水放出率の変化の測定、ハレー彗星起源のイオンが太陽風に捉えられた様子などを観測するなどの多くの成果をあげました。

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このように、ハレー艦隊としての観測は、各国が太陽系探査を協力して実施する先駆けのケースとなり、これを機に日欧が太陽系探査に進出するようになるとともに、予算の制限などによる宇宙探査計画の推進に苦しむ各国が相互に協力して探査を行うという機運を生み出しました。

その後も2003年12月から翌年1月にかけて日欧米3か国の探査機群が相次いで火星を訪れた、いわゆるマーズラッシュの際には互いのデータを利用してより高精度の探査を行うことが提案されるなど、太陽系探査は協力体制が基本になっていきました。

そして2007年以降は中国やインドも月・惑星の探査に進出しはじめ、その後の太陽系探査はこれらの国も含めた国際協力体制で臨む方向で話が進められています。

ところで、このハレー彗星ですが、これは約76年周期で地球に接近する短周期彗星です。公転周期は75.3年で、ほぼ人の一生分です。多くの周期彗星の中で最初に知られた彗星であり、冒頭でも述べたとおり古来より多くの文献に記録されています。前回は1986年に回帰し、次回は2061年夏に出現すると考えられています。

ハレー艦隊による各国の観測から、ハレー彗星の核は約8×8×16kmの大きさでジャガイモのような不定形をしていることがわかり、また核の密度は1立方センチあたり、 0.1~0.25gと結構スカスカであることがわかりました。さらに核の表面は予想されていたよりも非常に暗いことなども判明しました。

このほか、探査機ジオットによる調査では、彗星核表面には炭素が多く存在することが明らかになり、核から放出された物質の組成は氷が80%、一酸化炭素が10%、メタンとアンモニアの混合物が2.5%などとなっており、他に炭化水素や鉄、ナトリウムなどが微量に含まれ、このほか人を死に追いやるシアンガス(青酸)などもわずかに含まれていました。

さらに、ハレー彗星から放出された物質は、5月のみずがめ座η流星群および10月のオリオン座流星群の流星物質となっていることなどもわかりました。

このハレー彗星のような彗星には長周期のものと短周期のものがあります。ハレー彗星は短周期のものであり、短周期のものではハレーのように大きなものは非常に稀といわれています。

小惑星は比較的円に近い楕円軌道を描いているものが多いのに対して、彗星は非常に細長い楕円や放物線、双曲線の軌道をとるものが多くなっています。彗星がなぜこうした極端な楕円軌道になるような摂動を受けるのかを説明するために、様々な説が提唱されてきました。

このうちの有名な説のひとつに、銀河系の中の恒星が太陽の近くを通過したことにより、オールトの雲などに含まれる彗星のような太陽系外縁天体の軌道が掻き乱され、その一部が太陽へと落下してくるとする説があります。

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このオールトの雲というのは、1950年に天文学者のヤン・オールトによって提唱されたものです。オールトは、長周期彗星の軌道計算を行い、その遠日点が太陽から1万~10万天文単位(約0.1~1光年)の距離のものが多いことを発見しました(地球と太陽との平均距離は、1億5千万キロほどでこれを1天文単位(1AU)といいます)。

ちなみに遠日点というのは、楕円の軌道を持つ天体が、太陽から最も遠ざかる位置のことで、逆に最も近づく位置は近日点といいます。

そこでオールトは、小天体が多く集まる「オールトの雲」と呼ばれる領域が太陽系の最外縁部に存在するという仮説を提唱しました。太陽系の最外縁部といっても、かなり太陽系よりも離れており、海王星や冥王星のある太陽系外縁よりもさらに遠く離れたところにこのオールトの雲はあると考えられています。

オールトは、これらが「雲」の名にあるようにもやもやと広がっていると考え、これが長周期彗星の元になっていると考えましたが、この仮説は広く受け入れられ、それ以後多くの学者が長周期彗星はオールトの雲に起源を持つと考えられるようになりました。

オールトは、この雲の中に存在する天体は、時々お互いに重力的相互作用(摂動)を起こし、一部が太陽の引力に捉えられて極端な楕円軌道を描くようになり、これが彗星として太陽に非常に接近するようになると考えました。

一方、このオールトの雲の内側にはこれとは別に、エッジワース・カイパーベルトというものがあります。これは、太陽系の海王星軌道よりやや外側にあり、天体が密集した円盤状の領域であり、イメージとしてわかりやすくいえば土星の輪のようなかんじで、水金地火木土天海冥などの太陽系惑星の周りを取り巻いています。

短周期彗星はこのエッジワース・カイパーベルトを起源に持つと考えられ、ハレー彗星もそのひとつです。オールトの雲とエッジワース・カイパーベルトはいずれも、太陽系の形成と進化の過程において形成された微惑星、または微惑星が集まった原始惑星が残っていると考えられている領域です。

従って、彗星を探査すれば、太陽系の起源がわかる可能性があり、これが各国がこぞって彗星探索機を飛ばす理由です。太陽系では、3天文単位(AU)以遠では比較的凝固点の高い物質がすべて凍り、岩石質の物質の総量を上回り、微惑星の主成分は氷になります。

火星の太陽からの距離が1.5AU、木星が5.2AUですから、火星と木星の中間あたりぐらいから外側はもうすべてが氷の世界であり、ここにあった氷の粒が冥王星の外に押しやられ、これがエッジワース・カイパーベルトを形成しています。

一方のオールトの雲は、主として太陽系の形成と進化の過程で、現在の木星軌道付近から海王星軌道付近までの太陽系内に存在していた氷状の小天体が、形成後に巨大惑星となった木星や土星の重力によって弾き飛ばされたものと考えられていて、前述のとおり、太陽系を球殻状に雲のように取り巻いています。

ここには1×1012(1兆個)単位の数の天体が含まれると推測されており、これらの小天体は、木星や土星のような巨大惑星の重力や相互衝突により軌道要素が変わり、冥王星や海王星のように太陽系外縁に至るような惑星の軌道半径よりもさらに大きな長楕円軌道に次第に移っていったとする説が有力です。

つまり、オールトの雲というのは太陽系内にあった小天体の軌道が大きな惑星に吹き飛ばされてだんだんと太陽系外に移っていった結果形成もので、これに対し、エッジワース・カイパーベルトは地球ほか太陽系内の惑星が形成される過程で、次第に海王星軌道の外側に押し出されていったものであり、オールトの雲とは起源が異なります。

さらに言いかえると、オールトの雲は、太陽系の中の木星や土星付近にあって惑星になりかけたものの残骸で、エッジワース・カイパーベルトは惑星にもなれず、太陽系の外に押し出されたものです。太陽系外縁部の氷小天体が惑星にまで成長できずに残ったものですから、黄道面を取り巻くようにして太陽系の回りに環状に広がっているわけです。

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したがって、もともと太陽系内にあったオールト雲起源の彗星の方がエッジワース・カイパーベルト起源のものより形成温度が高いと考えられており、その成り立ちも異なりますが、それぞれのエリアを起源とする彗星などの天体の性質もある程度異なるものと考えられています。

また、ハレー彗星のようにエッジワース・カイパーベルト起源の彗星は短周期のものが多いのは、その周期が水金地火木土天海冥と同様に、昔から固定されていて変わっていないためです。

オールトの雲起源の彗星は、弾き飛ばされた惑星物質から形成されたものであり、だんだんとその楕円軌道が広がっており、さらに長周期になりつつあるものさえあると考えられています。

かくして、オールトの雲起源の彗星はかつ太陽系にある惑星の名残によって形成されたものなので大彗星になるものが多いといわれ、この反対にエッジワース・カイパーベルト起源の彗星には大きいものがないといわれるのは、塵にすぎないものが集まってできたものが多いからです。

こうした彗星は、2009年11月の時点までで、3648個もの彗星が確認されています。そのうち、約400個がカイパーベルト由来の短周期彗星であり、約1,500個がクロイツ群の彗星、残りがオールト由来の長周期彗星です。

クロイツ群というのがまた新しく出てきた用語なので、混乱しそうですが、このクロイツ群に属する彗星は、近日点が太陽に極めて近い類似の軌道を持っています。つまり、オールトの雲由来やカイパーベルト由来の彗星よりもはるかに太陽に近い軌道を持っており、このためサンクレーザー(太陽に非常に接近する彗星)とも呼ばれています。

クロイツ群は、数百年前に分裂した一つの非常に巨大な彗星の破片だと考えられており、これらの彗星の間に関係があることを最初にはっきりと示した天文学者のハインリヒ・クロイツにちなんで命名されました。

クロイツ群に属する彗星のうちいくつかは大彗星となっており、太陽に接近した時には昼間でも見えるものもあります。軌道が太陽の極めて近くを通ることが最初に分かったのは1680年に見えた大彗星であり、この彗星は、太陽の表面からわずか20万 km(0.0013 AU)のところを通過しましたが、これは地球から月までの距離のおよそ半分と同じです。

このような彗星の中で直近に現れたのは1965年の池谷・関彗星であり、これはおそらく前回のミレニアムで最も明るくなった彗星です。このようなクロイツ群由来の彗星は、数百年前に分裂した一つの非常に巨大な彗星の破片だと考えられていますが、1995年に打ち上げられた太陽探査機SOHOは、クロイツ群に属する数百の小さな彗星を発見しました。

こうした小さい彗星は太陽の側を通過できずにその多くが消滅してしまいますが、これまでの観測結果からは中には差し渡し数mしかないものもあることがわかっており、アマチュア天文家たちは、インターネット経由でリアルタイムで公表されるデータからクロイツ群の彗星を数多く発見しています。

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かくして、こうして確認された彗星の数は増え続けているわけですが、オールト由来にせよ、カイパーベルト由来にせよ、クロイツ群に属するにせよ、我々が認識した彗星は、太陽系内外に存在するはずの彗星のごくこぐ一部です。

太陽系外部に存在する彗星の元になる天体はおよそ1兆個存在するかもしれないといわれており、地上から肉眼で見えるようになる彗星の数はおおまかには1年に1個程度ですが、その大部分は暗く目立ちません。これに対して、歴史上、非常に明るく肉眼でもはっきり見え、多くの人に目撃されたような彗星は「大彗星」と呼ばれます。

こうした大彗星を中心に、その成分を明らかしようと色々な探査が行われているわけですが、前述のジオットが核を撮影したところ、蒸発する物質の流れが観測され、ハレー彗星は氷と塵の集まりであることが確かめられました。

また、1998年に打ち上げられた NASA のディープ・スペース1号は、2001年にボレリー彗星の核に接近して詳細な写真を撮影し、ハレー彗星の特徴は他の彗星にも同様に当てはまることを立証しました。

その後の宇宙飛行ミッションも、彗星を構成している物質についての詳細を明らかにすることを目標に進められ、1999年に打ち上げられた探査機スターダストは、2004年にヴィルト第2彗星に接近して核を撮影するとともにコマの粒子を採取し、2006年に標本を入れたカプセルを地球に投下しました。

これは、2010年に小惑星イトカワからサンプルを持ち帰った日本のはやぶさよりも前のことであり、彗星からのサンプルリターンは無論世界初です。この標本の分析により、彗星を構成する主要元素は太陽や惑星などの原材料物質と同じであることがわかり、また試料の中には、高温下で形成されるカンラン石やなどが発見されています。

高温下で形成される物質はエッジワース・カイパーベルトのような冷たい領域で彗星が生まれたとされる領域で形成されたとは考えにくく、太陽に近い場所で形成された物質が彗星が形成された太陽系外縁部まで運ばれてきた可能性を示しており、これはオールトの雲の存在を裏付けるものです。

さらに2005年に打ち上げられた探査機ディープ・インパクトは、同年7月4日に、核内部の構造の研究のためにテンペル第1彗星にインパクターを衝突させることに成功し、この結果、短周期彗星であるテンペル第1彗星の成分はオールトの雲由来の長周期彗星のものとほぼ同じであることが判明しました。

この衝突で飛び散った物質の観測では、塵の量が氷よりも多いこともわかり、彗星の核は「汚れた雪玉」というよりも「凍った泥団子」であることもわかりました。またこのときテンペル第1彗星に付着した物質を遠隔操作で確認したところ、ここからも、かつて高温下の条件を経験したと考えられる物質が検出されました。

このように、「凍った泥団子」にすぎない彗星はもろく、その軌道回帰の過程で、ばらばらになってしまうこともあります。過去には多くの彗星の核が分裂する様子が観測されてきており、シュワスマン・ワハマン第3彗星という彗星は1995年の回帰時に4個に分裂し、その後さらに分裂して2006年には30以上の破片になっていました。

この他にもウェスト彗星、池谷・関彗星、ブルックス第2彗星等、彗星核の分裂が観測された彗星は数多く、崩壊・消滅した彗星も多数あります。1994年7月に木星に衝突して消滅したシューメーカー・レヴィ第9彗星もそのひとつです。

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さらにこのほか、大彗星から分裂したクロイツ群の彗星が太陽面に接近し、蒸発、雲散霧消する姿は数多く観測されており、前述の太陽探査機SOHOは、毎年数十個の彗星が太陽に突入するのを観測しています。

昨年観測された、クロイツ群に属するラヴジョイ彗星の太陽の表面への最接近距離は13万2000kmと、地球と月の軌道の1/3に相当する非常に近い距離でした。

これほど太陽に接近する彗星は、普通は100万℃以上ある太陽のコロナに焼かれ蒸発するか、さもなくば太陽に衝突するか、潮汐力によって粉々に砕かれる運命を辿るといわれていました。が、中には十分に大きな彗星は生き延びるという予測をした研究者もおり、ラヴジョイ彗星はその初事例となりました。

このラヴジョイ彗星のように明るい彗星は、いつの時代にも話題になります。がしかし過去にはしばしば一般市民にパニックやヒステリーを引き起こし、何か悪いことの前兆と考えられることも多いようです。

比較的最近でも1910年のハレー彗星の回帰の際に、彗星が地球と太陽の間を通ることから「彗星の尾によって人類は滅亡する」というような風説が広まりました。

この当時既にスペクトル分析によって、彗星の尾には猛毒の青酸(シアン)が含まれているものもあることが知られるようになっており、天文学者でSF作家でもあったカミーユ・フラマリオンは、ハレー彗星の接近に伴い、その尾に含まれる水素が地球の大気中の酸素と結合して地上の人々が窒息死する可能性があると発表してしまいました。

これらが世界各国の新聞で報道され、さらに尾鰭がついて一般人がパニックに陥りました。日本でも、空気が無くなっても大丈夫なようにと、自転車のタイヤのチューブが高値でも飛ぶように売れ、貧しくて買えないものは水に頭を突っ込んで息を止める練習をするなどの騒動が起きました。

その後も、1990年にはオウム真理教の麻原彰晃がオースチン彗星の地球接近によって天変地異が起ると予言して勢力拡大を図り、1997年のヘール・ボップ彗星の出現時にはカルト団体ヘヴンズ・ゲートが集団自殺事件を起こしています。

ただ、様々な要素により、彗星の明るさは予言から大きく外れるため、彗星が大彗星になるか否かを予言するのは実は大変難しいことです。

彗星がまだ地球からかなり遠くにある場合の観察において、もし彗星の核が大きく活発で明るい場合、太陽の側を通ってもその明るさが不鮮明になっていなければ、大彗星になる可能性が高いといわれます。が、1973年のコホーテク彗星は、こうした条件を満たしており、壮大な彗星になると期待されたにも関わらず、実際はあまり明るくなりませんでした。

一方では、その3年後に現れたウェスト彗星は、ほとんど期待されていませんでしたが、実際は非常に印象的な大彗星となりました。

また、20世紀後半には大彗星が出現しない長い空白期間がありましたが、20世紀も終わりに近づいた頃、2つの彗星が相次いで大彗星となりました。1996年に発見され明るくなった百武彗星と1995年に発見され、1997年に最大光度となったヘール・ボップ彗星がそれです。

さらに21世紀初頭には大彗星が、それも2個も同時に見ることができるというニュースが入り、これは2001年に発見されたNEAT彗星と2002年に発見されたLINEAR彗星でした。しかしどちらも最大光度は3等に留まり、大彗星とはなりませんでした。

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ごく最近では、2006年に発見され、2007年1月に近日点を通過したマックノート彗星は予想を上回る増光を起こし、昼間でも見えるほどの大彗星となり、大いに天文ファンを沸かせました。南半球でのみ観測されたものですが、尾が大きく広がった印象的な姿を見せ、新聞報道などで写真を見た方も多いでしょう。

記憶に新しいところではやはり、2011年のラヴジョイ彗星があり、天文ファンのみならず、世界中の人が堪能しましましたが、昨年の11月、「世紀の彗星」になると注目を集めたアイソン彗星には多くの人が失望させられました。

このアイソン彗星は、29日未明、太陽に最接近する際に太陽の熱によってバラバラに崩壊し蒸発してしまいましたが、これは太陽の直径より短い約110万キロまで太陽の表面に近づき、強い重力や熱にさらされたためとみられ、多くの科学機関がその前後を観測する計画でしたが、その目論見は潰えました。

さて、今年はどうかというと、1月上旬には、明け方の東の空では、ラブジョイ彗星が双眼鏡を使うと良く見えたといいます。それでは今年はあとの後半どうかということになると、残念ながら今のところ、大彗星の出現予想はないようです。が、突然ヘール・ボップ彗星のような大彗星があらわれないとも限りません。

また、彗星はなくても流星があります。流星とは、宇宙空間にある直径1ミリメートルから数センチメートル程度のチリの粒が地球の大気に飛び込んできて、大気と激しく摩擦を起こし、高温になると同時に光って見える現象です。

彗星はこのようなチリの粒を軌道上に放出していて、チリの粒の集団は、それを放出した彗星の軌道上に密集しています。彗星の軌道と地球の軌道が交差している場合、地球がその位置にさしかかると、チリの粒がまとめて地球の大気に飛び込んできます。

地球が彗星の軌道を横切る日時は毎年ほぼ決まっていますので、毎年特定の時期に特定の流星群が出現するわけです。それぞれのチリの粒はほぼ平行に地球の大気に飛び込んできますが、それを地上から見ると、その流星群に属している流星は、星空のある一点から放射状に飛び出すように見えます。

流星が飛び出す中心となる点を「放射点」と呼び、一般には、放射点のある星座方向からやってくる流星をその星座の名前をとって「○○座流星群」と呼びます。毎年ほぼ安定して多くの流星が出現する3つの流星群としては、「しぶんぎ座流星群」「ペルセウス座流星群」「ふたご座流星群」などがあり、これは、「三大流星群」と呼ばれています。

その発生時期は、しぶんぎ座流星群が、1月上旬ごろ、ペルセウス座流星群が7月中旬から8月下旬にかけて、ふたご座流星群 12月上旬から下旬にかけてであり、それぞれ1時間あたりに見える個数の目安は、40、50、80程度です。このほか、オリオン座流星群も、10月にほぼ1ヶ月間みることができ、その数は1時間に40ほどだそうです。

このペルセウス座流星群は、時間個数は平凡ですが、その総数では年間でも常に1・2を争う流星数を誇ります。条件がよい時に熟練の観測者が見ると、1時間あたり60個以上の流星が観測されるそうで、極大の時期がお盆の直前なので、夏休みなどの時期と重なり多くの人が注目しやすい流星群です。

一般的な出現時期は7月17日から8月24日、極大は8月13日頃です。流星数が増えるのは8月の中旬になってからです。

放射点は、夕方には地平線の上にありますが、実際に流星を目にし始めるのは、もう少し放射点が高くなる午後9時から午後10時頃となります。明け方まで放射点は高くなり続けるので、真夜中頃から空が白み始めるまで観察しやすい時間帯が続きます。特に午前3時頃が最良の観測ポイントです。

観測の方角は、だいたい北東の空ですが、全天にくまなく飛ぶので、できるだけ空の開けた場所で広範囲に観測してみましょう。ペルセウス流星群は、比較的明るく、流れる量も多く、初心者でも簡単に見られる流星群です。

しかも今年は最高のコンディションとのこと。そろそろこれがやってっ来る季節になりましたが、夏休みの思い出に家族で観測してみてはいかがでしょう!

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バタフライ

2014-3750今日で6月も終わりです。

今年前半に何を成し遂げられたかなぁ~と考えてみると、何もできていなかったような気がして唖然としてしまうのですが、この調子だと、今年の大みそかにも同じことを言っているに違いないと、戦々恐々とした気分になってきます。

年末になって、結局今年もいい年じゃなかった、などと後悔をする前に、今から体制を立て直したいと思う次第ですが、そのためにはやはり今年前半のことを色々反省してみるのが一番です。それにしても、今年に入ってから世間で何があったのかも記憶が曖昧なため、あらためて調べてみることにしました。

すると、まず1月にはタイで反政府デモが相次ぎ、首都バンコクとその近郊に非常事態宣言が発令され、以後この騒乱はタイ国内のあちこちに蔓延していきましたが、この騒動は、一応先月7日の軍のクーデターの形で終止符が打たれ、インラック首相が失職しています。

2月にはソチオリンピックがあり、日本は7つの種目で、金1、銀4(うち、スノボで男女アベック受賞)、銅3つを得て、まずまずの結果でした。続く、3月のパラリンピックでも、金3、銀1、銅2の6つのメダルを手にしましたが、以前にも書いたように、このパラリンピックでは近年、日本勢の凋落ぶりが目立ちます。

このパラリンピックが開催されている最中の、3月8日、マレーシア航空の旅客機370便(乗客乗員239人)がタイ湾のトーチュー島付近で消息を絶ちました。マレーシアだけでなく各国も手伝って大規模な捜索が行われましたが、370便はいまだみつかっておらず、これは航空機史上最大のミステリーとして歴史に残りそうな事件です。

3月にはまた、ロシアのプーチン大統領がクリミア自治共和国の編入を表明して国際的な問題に発展しました。日本では月末に、1966年に発生した袴田事件において進展があり、静岡地裁が再審開始と、死刑及び拘置の執行停止を決定しました。袴田さんは同日午後に東京拘置所から釈放され1966年8月18日の逮捕以来の自由の身となりました。

4月、1日にチリ沖を震源とする、マグニチュード8.2の地震が発生し、すわ、日本にも津波が押し寄せるか、と思われましたが、結局大きな被害は出ませんでした。

4月にはまた、Windows XPのサポート期間終了が終了し、古いパソコンを使っている企業や個人に少なからぬ影響が出ました。また、16日には、韓国の全羅南道珍島沖で、仁川港から済州島へ向け航行していたクルーズ旅客船「セウォル号」が沈没、多数の死傷者を出す海難事故が発生しました。

この船を運航していた船会社とこの会社を保有するグループ企業のオーナーが責任を問われ、逮捕状が出ましたが、このオーナーはまだ捕まっていいません。

4月23日、バラク・オバマアメリカ合衆国大統領が来日。銀座で阿部首相と寿司を食うという場面などが放映され、話題になりましたが、この寿司屋は、「すきやばし次郎」という高級店で、おまかせコースは3万円からだそうです。

5月、前述のとおり、7日にタイのインラック首相が失職したのに引き続き、22日にはタイ軍がクーデターを宣言し、憲法を停止。現在もまだ新しい首相は選出されていません。また、13日、トルコの炭鉱で爆発事故が起き、301人が死亡するとい大参事がありました。

この月には、南沙諸島付近の海域を自国の海だと称して勝手に石油採掘を始めた中国とベトナムの喧嘩が始まり、ベトナムの船が沈没したりしたため、ベトナムでは反中国を掲げる人達のデモが発生し、死者も出るなど血なまぐさいことになっています。

このように5月は、何かとアジアから中近東にかけて何やら騒々しい出来事が多く、6月に入ってもこの傾向は続き、アジアでは8日にパキスタン・カラチのジンナー国際空港をターリバーンが襲撃して、戦闘員10人を含む29人が死亡したほか、21日には、朝鮮の南北軍事境界線近で争乱があり、兵士5人が死亡、7人が負傷するという事件が起こっています。

一方中東では、イラク北部においてスンニ派の武装勢力が台頭して国境地帯を不安定化させ、地域戦争の危険性を高めています。

シーア派のマリキ首相は宿敵のイランの手助けまで得てこれを掃討しようとしており、これに加えて近隣諸国のサウジアラビヤやイスラエルなどの思惑もこの紛争に絡まってきており、中東地域は非常にきなくさい状態になってきています。

そして、6月12日に始まったサッカーワールドカップにおいて、日本は、コートジボアールに敗戦し、ギリシャとは引き分けたものの、コロンビアに惨敗して、一次予選敗退。先日には監督のザッケローニ氏が敗戦の引責を取って、辞任を表明したばかりです。

その日本は、安定した安倍政権の下、どうやら集団的自衛権とやらの行使に向けて歩みだそうとしており、これは大きな時代変化につながっていきそうな雰囲気です。特定秘密保護法案が通ってしまったことなども含め、この国の先行きが不安になってきます。

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さて、このように移り変わる国内外の世情と自分の境遇は、一見何のかかわりもなく、私が歴史に何等かの影響を及ぼしているといった大それたことは何もないわけです。

ところが、「バタフライ効果」ということがあり、案外と私がさきほどした、くしゃみによっても、世界が変わるかもしれない、ということも考えられなくはありません。

このバタフライ効果(バタフライ・エフェクト)とは、初期のわずかな変化が思いがけない方向へ発展してゆくことです。

一般に、自然において発生した複数の現象は、同じ時間だけ経過すると、似たような過程を経て似たような結果に落ち着くだろうと考えがちです。例えばある地域では小雨、隣の地域は雨か曇りであっても、やがて高気圧がやってくると、全体的には晴れになることが多いものです。

同じく、自然科学者も、実験などを行う時、普通は「微少な誤差は無視できる」「誤差は小さければ小さいほど影響はより小さい」と考えます。また自然科学者は、微分方程式や差分方程式で記述可能なような、ランダムではない事象は、初期値がほんのちょっと違っていても、一定時間経過後の計算結果は同じであると、しばしば考えがちです。

私はかつて海の波や砂の動きをコンピュータでシミュレーションして予測する、ということをやっていましたが、このシミュレーションモデルで使う数式は、簡単なものではプログラムで書き出せば数行で終わってしまうようなものもあり、多少違った初期値を与えても、結果は同じになるはず、といつも思っていました。

ところが、最近はこうした結果が明らかに見え、有限と思われるような系の中にも、初期値の小さな差が大きな差へと拡大するような系が存在することがわかっています。このような系は、「カオス系」と呼ばれるようになり、このカオス系に関する研究成果は「カオス理論」としてまとめられ、現在では物理学や数学の一分野にまで発展しています。

カオス系においては、誤差が時間と共に有意な差へと拡大することが知られており、長時間経過した後ではこの誤差は無視することができなくなるほど大きくなる場合があります。一般の数値解析では誤差を避けることができず、またこの誤差がどのくらい大きくなるのか小さいままなのかも計算では結果が得られないため、長期の予測は事実上不可能です。

つまり、バタフライ効果とは、「カオスな系」においては、初期条件のわずかな差が、結果に大きな違いをもたらすということであり、その結果は実際上「予測不可能」ということになります。

このバタフライ効果というのは、1961年にはマサチューセッツ工科大学の気象学者であった、エドワード・ローレンツという人が、発見しました。彼は計算機上で数値計算によって天気予測を行うプログラムを実行していた時、最初ある入力値を「0.506127」とした上で天気予測プログラムを実行し予想される天気を得ました。

ところが、もう一度同じ計算結果を得ようとし、小さな差異は無視できる、と信じて「0.506」と入力し、同じプログラムを実行したところ、この2度目の実行結果は、彼が想定していたのとは異なるものとなり、予測される天気の展開は、一回目の計算とまったく異なったものになってしまいました。

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こうして、エドワード・ローレンツは、この結果をもとにまとめた論文において、はじめて「butterfly effect」という表現を使いました。そしてこれを1972年にアメリカ科学振興協会でおこなった講演でも使ったところ、その後世界的な反響を呼ぶようになりました。

この講演のタイトルは、「予測可能性~ブラジルでの蝶の羽ばたきはテキサスでトルネードを引き起こすか」だったそうで、以後、「北京で蝶が羽ばたくと、ニューヨークで嵐が起こる」や、「アマゾンを舞う1匹の蝶の羽ばたきが、遠く離れたシカゴに大雨を降らせる」といった表現が、他の研究者たちの間でも使われるようになりました。

ブラジルでの蝶の羽ばたきというごく小さい要素であっても、テキサスでトルネードが起きるという気候変動に大きく影響を与える可能性があるというわけですが、ただ、こうしたカオス系での予測は不可能ということですから、ブラジルの蝶の羽ばたきを観測すれば、テキサスの天気が必ず予報可能になるというわけにはいきません。

とはいえ、この理論によれば、もしこの世全体がカオス系であるとしたら、自然界にあるどんな小さな要素の変化でも、それは未来に大きな影響を与えるということになり、その未来予測は実際上不可能ではありますが、すべてはつながっている、ということになります。

以後、バタフライ効果が現れる具体的な例として、気温・風・波などの状態・変化や道路における自動車の自然渋滞、株価の値動きなどが確認されるようになり、たとえ小さな変化においても、未来は変わりうる、ということを科学者の多くが信じるようになりました。

この「バタフライ・エフェクト」は、その名前のまま、2004年に映画化され、日本では2005年5月に公開されました。斬新で衝撃的なアイディア、練り込まれた脚本が受け、本国アメリカで初登場1位を記録したほか、2006年には続編「バタフライ・エフェクト2」が2009年には「バタフライ・エフェクト3」が公開されました。

一番最初の作のあらすじとしては、時折、記憶を喪失するある少年が、成長してからはその症状も次第になくなっていきますが、ある日、その幼いころの治療の過程で書いていた日記を読みかえしたところ、その「読み返す」という行為によって、過去に戻れる能力がある事を知ります。

彼には幼馴染の女性がおり、彼の幼いころの行動でこの幼馴染の人生を狂わせてしまったという負い目を持っており、彼はこの能力を使って過去に戻り、彼女の運命を変える事を決意します。

しかし、実際に過去に戻り、選択肢を変えることによって新たに始まった人生では、この幼馴染も含めて彼の愛する誰もが幸せではありませんでした。失望した彼は、再び現在に戻り、過去へと戻れる日記などを燃やすことにし、また、二度とこの幼馴染にも会わないと決めます。

8年後、彼は医師となって街中を歩いており、そこにかの幼馴染の姿を見かけますが、彼は既に彼女のことをはっきりと覚えておらず、不思議そうに見覚えのあるその女性をしばらく見ていますが、やがて彼女に背を向けて、再び歩き始めていく……というストーリーです。

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ネタバレになるので細かい部分は省略していますが、結構面白い話なので、見たことがない方はレンタルビデオで借りて見られると良いでしょう。

以後、こうしたバタフライ効果をテーマにした映画や小説がたくさん作られるようになり、日本においても、漫画家の「かわぐちかいじ」さんの描いた、「ジパング」が、講談社の漫画雑誌「モーニング」に連載され、好評を博しました。

こちらのストーリーとしては、西暦200X年の6月のある日、海上自衛隊の自衛艦隊のイージス艦がミッドウェー沖合で突如嵐に巻き込まれ落雷を受け、タイムスリップしてしまいます。

そしてタイムスリップした先は、ミッドウェー海戦直前の1942年6月4日の太平洋上であり、そこには戦艦大和以下大日本帝国海軍連合艦隊がいました。突然の出来事に戸惑う艦長以下の隊員たちは、こうした戦争には関わるまいと戦線を離脱しようと決意しますが、そんな彼等の前に、撃墜され水没しつつある零式水上観測機が現れます。

その沈みゆくゼロ戦の後席には、高級士官らしい人物が気を失って坐乗しており、クルーの多くは彼を救出すれば時代の変化に関わることになるため無視しようとします。

ところが、この船の副艦長で、気骨のある人物としてクルーの多くにも慕われている主人公が、単身船から飛び込み、零戦から彼を救出してしまいます。このことから結局、好むと好まざるにかかわらず、彼等はこの戦争に関わってしまったことになり、やがて日米双方の争いに巻き込まれていく……といった話です。

この話の中では、タイムスリップしてしまった彼等がこの戦争に関わってしまうことで、時代が変わってしまうと自覚し、何とか関わらないようにする、というところがミソであり、バタフライ効果に関する言及も何ヶ所かで出てきます。が、最新鋭の自衛艦が二次大戦の真っただ中に突然現れるというのは、もはやバタフライ効果どころではありません。

こんな荒唐無稽は話は無論現実にあるわけはありませんが、ただ、その影響を与えるものが大きいか小さいかは関係なく、ともかくもどんな些細なことでも、世の中を変えてしまう可能性がある、と考えさせられるのがバタフライ効果であり、これを気にし出すと、おいそれとゴミも捨てられなくなってしまいそうです。

もう二年ほども前になりますが、このブログで、「魂の真実」という本の内容について触れたことがありました。著者は、「木村忠孝」さんという現役のお医者さんで、アメリカでの臨床経験を経て日本で開業され、その後転職をされていなければ現在も、北九州市の春日病院という病院の院長さんをおやりになっているはずです。

「魂の真実」における木村先生の主張のひとつは、我々の肉体などのように目に見える物資は、粗い振動数の低い波動帯でできている世界にあり、一方では素粒子のように目に見えないものは、よりきめの細かい振動数を持ちより高い波動帯の世界にあるということです。

粗い波動帯に住む我々には、振動数の高い波動帯の世界は目に見えませんから、素粒子もみることができないわけですが、こうした振動数の高い波動帯でできている物質で満ち満ちている世界の中には、霊の世界もある、といいます。無論、波動帯はひとつではなく、波動の違う波動帯がたくさんあり、このため霊界も一つ一つ細分化されています。

たとえば、あるひとつの高い振動数を持つ波動帯でできた霊界があるとします。現世にいる我々の目からは当然のことながら、その世界を見ることはできませんが、その世界に住み、同じ振動数でできた体を持った霊たちにとっては、我々の世界で我々の世界の物質をみるのと同じように、その世界の物質を普通にみることができ、触ることもできます。

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この世界の霊たちは、振動数を自由に変更することができ、そのことによりその世界からより高い波動帯の霊界へ行くことも低い世界へ行くこともでき、このことによって、もし我々の世界に現れたなら、その姿は突然消えたり、現れたりしてみえます。つまり、我々がいうところの「幽霊」とは、それができる世界の「人」が、我々の住む世界に波動を変えて現れた姿ということになります。

こうしたあちらの世界の住人の振動数の変化は、時空の変化ともつながっています。つまり、私たちが現れたり、触れたりできるこの世界以外に、数多くの霊界があり、この霊界と我々の住む世界は時に重なりあい、また隣り合わせしており、単に空間的に重なっているだけではく、それぞれの住人の波動が影響しあって時間とともに変化します。

ただ、我々より振動数の高い霊界においては、精神活動を作動させる波動帯と、周囲の環境を形作る波動帯がより近似しているので、意識や思考するだけで、それによって発生するエネルギーによって、周囲の環境や世界を作ることが可能ですが、波動の低い世界に住む我々にはそれはできず、思考だけで世界は変えられません。

より波動の高い霊界、しかもその霊界にも波動帯の違う霊界が数多くあり、それらの世界が重なりあうとともに、我々の世界とももつながっているということは、つまり我々がちょとした行動を起こすことでそこから発せられた波動の変化は、我々の世界のみならず、そうしたより次元の高い世界の波動へも影響を与える、ということになります。

こう考えてくると、バタフライ効果というのは、この世のものだけでなく、あの世にまで影響しうる現象だということになります。現世に住まう我々は、ちょっと考えたり意識したりするだけでモノの形を変えたりすることはできませんが、その思考が良いものであるか悪いものであるかは別として、それはあちらの人達に何等かの影響を与えます。

つまり、悪しき考えはあちら側にも悪影響を与え、逆に良い考え方はあちらの世界をも明るくします。いわんや、口から突いて出る言葉などのように「音」として表現されたものも当然あちらにも伝わります。「言霊(ことだま)」という言葉がありますが、これは口から出た言葉はすべて魂に響き合うもの、といった意味です。

従って、人をののしったり、悪口を言ったりしたことはそのまま、言霊としてあちらの世にも伝わり悪影響を及ぼしますが、良い言葉や美しい音楽はあの世を癒し明るくします。言霊によるバタフライ効果は、あの世にも及ぶわけです。

また言葉だけではありません。ヒトが取る行動もまた、我々の住む世界だけでなく、あの世にも影響を与えます。戦争や殺人といった悪しき行為や、詐欺、窃盗に至るまで、この世に蔓延する悪行はあの世にも波動として伝わり、影響を与えます。

こうして考えてくると、我々の日常における一挙手一投足のひとつひとつは、すべての世界に関わってくるということになり、いかに日頃の行いが大事か、ということが思い知らされます。

いつもいつもいいことばかりをやっている、というのはヒトとして疲れてしまうかもしれませんが、善行はやはりこの世とあの世をよくするための一番の薬です。しかし、たとえ善行ばかりできなくても、普通に生き、悪いことだけはやらないよう戒めて生きていく、というのは平常な世界を保つということでもあり、それだけでも十分意味があります。

ところで、木村先生によると、この世界に住まう私たちの体にある細胞はそれぞれ一定の周波数を持っており、その周波数はある一定の範囲であるからこそ集合体としてまとまることができ、このため肉体というものが存在するのだそうです。

肉体だけでなく、この世にあって、我々が見ることができる物質は、すべて波動がいろいろな形に姿を変えたものにすぎず、ある波動とある波動が干渉、交叉し、いろいろな形ができますが、こうした交わりはまた色の変化としても現れます。

この色というものは、波動の内容や働きを知らせるひとつの表現方法なのだそうで、色の種類や統合、区分、変化の仕方によって、一見してその働き、機能を知ることができるといいます。

一方、この肉体を形成している細胞の持つエネルギーは光となって体外に放射されています。これをバイオフォトン、バイオプラズマと呼び、一般的には、「オーラ」として知られています。

この我々が放射しているオーラは、考えや気分、感情によってその振動数波長が変わるため、当然色も変わります。つまり、オーラの色をみることによって、その人の今の状態がわかるわけです。

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俗に言う霊能者と呼ばれる人達は、このオーラを見ることのできる第三の目の機能がすごく発達していて、相手に触るだけでその相手が思っていることが瞬時にわかったり、目隠ししていても相手の持っている物質が放つ振動数波長でそれが何であるか当てたりすることができ、無論、オーラの色や形も目視することもできます。

それだけ高い波動を見たり感じたりできる人達ということで、より次元の高い霊の世界の住人たちに近いひとたちと考えることができるでしょう。そういう人達が、幽霊ではなくこの世に存在するというのは、やはり霊界と我々の世界の橋渡しの役割を担っているためと考えることができます。

このオーラの色は、現世において肉体を持っている我々の代名詞のようなものです。悪行ばかりをやっている人のオーラはきっとドス黒いに違いなく、他人を愛し、善行を及ぼす人達のオーラは慈愛にあふれた緑色をしているに違いありません。

が、普通の我々にはなかなか見ることができないもので、何とかならんかいな、といつも思います。

しかし、今年初めにお会いした、広島在住の霊能者Sさんによれば、オーラはある程度訓練をするとみることができるようになるそうで、その訓練のひとつとして、24色の色鉛筆のセットを使うといいそうです。

このエンピツを、それを見ずに目をつむって指先で触り、この色は何か、を当てる訓練を繰り返しているうちに、オーラを見る能力が備わってくるといいます。そして折を見て、鏡を見て自分の周辺にもやっとした色が見えてくるようなら、訓練の成果が出てきている証拠だそうです。

自分でもオーラを見ることができるようになり、自分で自分の状態を確認できるようになるということは素晴らしいことです。つまり、オーラの色を見ながら自分の健康状態や心理状態をコントロールできるわけであり、より高い次元に上ったことになります。

オーラが見えるということは、自分の波動がより高まっているということでもあると思われ、そうしたら、もしかしたらあちらの世界の人も見えるようになってくるのかもしれず、今年後半は、こうした自分の霊能力をアップする、ということに取り組んでみるのもいいかもしれません。

さて、みなさんの今年前半はいかがだったでしょうか。もしかしたら、あまりかんばしくないこともいろいろあったかもしれませんが、すべてが世界全体につながっていると考えれば、逆にあちらの世界からは良い波動を受けており、そのために健康でいられるのかもしれず、すべてはけっして無駄ではありません。

すべてのことはつながっている、すべてのことには意味がある、と考えて今年の後半戦も頑張りましょう!

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ストレスとスピリチュアル

2014-3344サッカーワールドカップで、日本代表チームの一次予選敗退が決まりました。

過去最強のチームとも言われ、日本中が熱狂して応援旗を掲げた大会でしたが、終わってみると一勝もできず、試合をしていた選手達もそうでしょうが、応援していた国民の多くも、何やら夢でも見ていたような気が抜けたような、そんな気分の中にいるようです。

思えば、ほんの半年前には、オリンピックで同じような熱狂があったわけですが、ここでは勝利が相次ぎ皆が満足したものの、今回の大会では不完全燃焼の感は否めず、やり場のない気持ちの持っていきようのないこの状態は、大きなフラストレーションを生みそうです。

このフラストレーション (frustration) とは、欲求が何らかの障害によって阻止され、満足されない状態にあることです。

人は、欲求を満たすための行動を起こします。しかし、なんらかの原因によってその欲求を満たすことができないと、不愉快な気分になったり不安や緊張を感じます。この状態をフラストレーションの状態と言い、そして、その状態を解消しようと、暴飲暴食に走ったり、思い切り暴れ回ったりと、さまざまな行動を示します。

これはつまりストレスの発散であり、このストレスの原因はストレッサーと呼ばれ、これはストレスを生物に与える何らかの刺激のことを言います。その範囲は広く、暑さ寒さや痛みといった物質的な刺激の場合もありますが、怒り、苦しみ、など心理手的なものもストレッサーになります。

今、われわれ日本人が感じているストレスは、ワールドカップにおける日本チームの敗戦が引き金となり、日本人としての誇りが傷つけられたことへの憤りがストレッサーになっているのでしょう。

しかし、それを頑張った選手達のせいにすることもできず、かといって自分でどうこうできる問題でもなく、どこへも気持ちの持って行きようのないところがストレスとなり、フラストレーションが溜まるわけです。

そこで、ヤケ酒を煽ったり、くっそぉ~~とやみくもに走り回ったりしてしまう人もいるでしょうが、日本を破ったコロンビアやコートジボアール産のコーヒーなんか一生買わないぞ~、とばかりに自宅にあったそれを焼き捨てたりする人もいるかもしれません。

こうしたストレスによって引き起こされる行動は、ストレス反応といいます。このストレス反応は、医学的に説明すると、「ホメオスタシス(恒常性)によって一定に保たれている生体の諸バランスが崩れた状態(ストレス状態)から回復する際に生じる反応」、だそうです。

だんだんと難しくなってきますが、このホメオスタシス、つまり「恒常性」は生物のもつ重要な性質のひとつで、もう少しやさしく言うと、生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず生体の状態が一定に保たれるという性質です。

ちっともやさしくないじゃないか、とまたストレスを溜めてしまいそうですが、つまり、生物が生物である要件のひとつであり、人間の健康を定義する重要な要素でもあります。

恒常性の保たれている、というのは、その生体の体温や血圧、体液の浸透圧やpHなどがバランスよく保たれている状態であり、また病原微生物やウイルスといった異物の排除、創傷の修復などがウマくいっている状態であり、つまりは普通に生活している状態です。

ストレスは、この恒常性を崩しますが、この崩れた状態には、必要性があって崩れる場合とそれ以上に過剰に崩れる場合のふたつがあります。

前者は生体的に有益であるため、「快ストレス」といい、後者は不利益であるため「不快ストレス」といいます。快ストレスの場合は、適度な量のストレスであり、これがないと、恒常性が失われてしまうために感じるべくして感じるストレスです。

あまりいい例が思い浮かびませんが、例えば、ぬるい風呂よりもやや熱めの風呂のほうが体は心地よく感じます。やや熱いというのは適度な量のストレスであり、このほうが体は快く感じますが、逆に水風呂では冷たすぎて、体がびっくりしてしまいます。

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行き過ぎた過剰なストレスを感じると、恒常性が崩され、不快になります。これがフラストレーションです。こうしたフラストレーションなどのストレスが貯まりすぎ、ある一定の限界を超えてしまうと、そのせいで身体や心に摩耗が生じます。この摩耗の事を医学的には、「アロスタティック負荷」と呼びます。

アロスタティックというのは、「アロスタシス」という言葉から来ています。これは「体が変化しつつ、ストレスに立ち向かう仕組み」であり、ヒトはストレスのなすがままにしていたのでは体がもたないため、体のほうでもストレスに合わせて変化して、それに対抗する必要があり、その仕組みがアロスタシスです。

通常は、ストレスに対応して体がこれに慣れようとしますが、アロスタティック負荷が大きくなって限界を超え、心や体がぼろぼろになるような状態になると、過剰にこのストレスに反応しようとし、これがひどい場合には「ストレス障害」などの病的な症状をおこします。

急性のストレス障害ともなると、急激に高血圧になったり、消化器系に炎症を起こしたりしますが、通常のストレス障害の場合、そのストレスの原因となったトラウマの体験後4週間以内に、そのストレスのフラッシュバックや感情鈍磨などが現れます。

例えば、今回の日本の敗戦の結果、コロンビアの選手が日本側のゴールにボールを入れたシーンがやたらに鮮やかに脳裏に蘇ってくるとか、長友選手が試合後に涙をためて言葉を詰まらせた、といったことが、1ヶ月ほどのあいだ何度もフラッシュバックされたり、といったことです。

もし、こうしたフラッシュバックなどが頻繁におき、仕事も勉強も手に付かずぼーっとしているあなたがいたとしたら、それがつまり感情鈍磨であり、ストレス障害を疑った方がよいかもしれません。

一方では、こうしたショックよりもさらにひどいショック、例えば地震や火事のような災害、または事故、いじめや虐待、強姦、体罰などの大きな事件に遭遇すると、PTSDになる、とよく言わます。このPTSDとは、「外的外傷後ストレス障害」のことであり、これもストレス障害の一種です。

ただ、PTSDの場合、恐怖や無力感を感じ、感情が萎縮して、希望や関心がなくなったり、悪夢を見たりと、より症状がひどく、フラッシュバックは無論のこと、外傷体験以前になかった睡眠障害、怒りの爆発や混乱といったパニック症状が現れ、これらの症状が1か月以上経ってもなお持続することもあります。

症状が3か月未満で収まることもあれば、それ以上続いて慢性になることもあり、通常は重大なショックを受けてから6か月以内に発症するものですが、6か月以上遅れて発症する「遅延型」もあります。

が、一般のストレス障害はこれほどひどい症状は出ません。ましてや、好きなサッカーチームが試合で負けたぐらいでは、普通の人はストレス障害なんかにはなりません。

しかし、中にはサッカーこそが生きがいである人もいると考えられ、これはむしろ選手のほうに多いと思われ、こういう人達は長期的にはうつ病になったり、円形脱毛症になったりと、社会生活を送る上でも支障の出るような重大な病気になっていく可能性があります。

応援する側では、うつ病にまでなる人はそうそう多くはないとは思いますが、熱烈なサッカーファンもいることでもあり、この大会に賭けていた、という人もいるでしょうし、文字通り「賭け」をしてお金を失ったヒトもいたりして、そうした人達がストレス障害にかからないとは言い切れません。

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普通の人はスポーツで負けたぐらいでは落ち込みませんが、とくにネガっち思考の人には可能性がないわけでもないわけで、こうした人たちには適切なストレス対処が必要です。

その対処方としては、まずはストレッサーの解決を目指し、ストレスを溜める要因となった事柄に関して冷静になって改めて情報収集を行い、それをもとに自分がとった行動を再検証し、そこから解決策をみつけたりします。

また、「忘却とは忘れさることなり」、というわけで、起因となったストレッサーや問題を頭の中から追いだす、といったことも有効で、こうした基本対策を含め、ストレス対策をとることを総称して「ストレスコーピング」といいます。

または、「ストレス・マネジメント」ともいい、さらに具体的な方法としてどんなものがあるかといえば、その基本としてはまず、「3R」があります。Rest(休憩)、Relaxation(リラクゼーション)、Recreation(レクリエーション)であり、ようはストレスの対象から外れて、自分を解放して楽しませる、といったことが重要です。

趣味に没頭したり、運動をやったり、温泉に入る、あるいは瞑想する、といったことも効果があり、それでもストレスが解消しない場合は、自律訓練法、心理療法などが適用され、このほかにも認知療法といった医学的なアプローチがあります。

認知療法というのは、あまり聞き慣れない治療法ですが、ヒトは世界のありのままを観ているのではなく、その一部を抽出し、解釈し、自己に帰属させるなどのプロセスを経て「認知」しているのであって、その認知には必ず個人差があり、客観的な世界そのものとは異なっています。

それゆえ、誤解や思い込み、拡大解釈などが含まれた自らに「不都合な認知」をしてしまい、結果として怒り、悲しみ、混乱といった、嫌な気分が生じてきます。

このため、認知療法では不快な気分や不適切な行動の背景として「考え方」つまり「認知」の仕方に着目し、この中で不都合な認知が何であるかをみつけ、これに対して気分がどう変わっていったのかといった、「気分の流れ」などを紙に書いて把握します。

また、それをみながら、別の気分の流れはなかったか、別の流れであれば不快にならなかったのではないか、などの観点を見つけるべく、紙に書いたものに繰り返し修正を試みたりもします。

つまり認知療法とは、「認知の歪み」を治すことであり、このため間違った解釈に対する反証を見つけてあげたり、多面的に解釈ができるように手助けをしてあげることです。

このように自らの認知を修正することによって、身体反応が軽減したり、苦しみの少ない方向に情動が変化したり、より建設的な方向に行動出来るようになったりできるようになります。

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さらに、ストレスの症状や苦痛の程度についてスケール(尺度)で表現したり、イメージの置き換え、自己教示、間違った考えの中断(思考中断)、直接的な議論、などなどの方法により色々な「認知修正」が試されますが、案外とそのプロセスの中に単なる「気晴らし」を加えるのも有効なようです。

うつ病や不安障害に科学的に証明された確実な効果が認められているといい、他の治療法より短い時間で効果が大きいことが証明されており、アメリカの保険会社やイギリス政府は治療効果を承認しているそうで、日本でもこれからより普及していくかもしれません。

治療は一般的に医師や心理カウンセラーのもとで行われますが、最近では、認知療法を対話形式で行うことができる書籍も出版されています。が、日本では書籍やメディアでもてはやされるほどには、治療者がいないのが現状です。

ところで、こうした医学的にも認められているストレス治療法以外に、「前世療法」というものがあります。

催眠療法の一種ともいわれますが、いわゆる「退行催眠」により患者の記憶を本人の出産以前まで誘導し、ストレスなどの心的外傷等を取り除くとされており、アメリカの精神科医であるブライアン・L・ワイス博士によって提唱されたものです。

このブログでも以前何度かご紹介したものですが、催眠療法中に「前世の記憶」が発見され、これを自覚することによってその障害が取り除かれるとされるもので、ワイス博士1986年に記した著著、”Life Between Life” という本で世に知られるようになりました。

退行催眠療法により出産以前に遡った記憶(前世記憶)を思い出すことにより現在抱えている病気が治ったり、治療に役立つともされ、その後、多くのケースで施行され、その効果が認められてきました。

以後、ワイス博士に賛同する人も増えて博士と同様に前世療法を実践する人も多くなり、例えばカナダ・トロント大学医学部のジョエル・ホイットン博士は、約30人の被験者を集め、退行催眠を用い彼らの記憶を探りました。

その結果、全員に複数の前世と思しき記憶が見られ、原始時代まで遡る事が出来たといい、被験者の全員が「魂には男女の性別がない」と語り、多くの被験者が現在とは違う性に生まれた経験がありました。そして全員が「人生の目的は進化し学んでいくことであり、何度も生まれ変わりを繰り返すことによってその機会が与えられている」と語りました。

この前世の記憶の再生がなぜ「療法」なのかといえば、例えばホイットン博士の実験では、被験者が前世記憶を辿ったところ、心理的・肉体的に深く癒される、という結果が得られたためです。

また、同じアメリカのテネシー州にあるカンバーランド病院内に女性精神科病棟を創設したことで知られるドリーン・バーチュー博士は、セラピストとして患者に接した実例から、過去の事故や戦争により受けた傷が、生まれつき現在の体に備わっていることがあることを示し、前世の記憶をよみがえらせることでこれが治療できる可能性を示しました。

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このほか、同じくアメリカの心理カウンセラー、キャロル・ボーマンは精神的な心的外傷などを治療する事を目的として、子供を対象に多くの前世療法を施しています。ボーマン氏は「子どもたちの前世」という新しい研究分野の第一人者として、広く認知されている人です

このキャロル・ボーマンが示した症例の中には、精神的障害を持つ5歳の白人の子供がかつて黒人の兵士であったという「前世記憶」を持っていたケースがあり、この例の場合、子供が語る戦争についての記憶はかなり詳しく、当時の大砲、武器の特徴まで詳細に描写したといいます。

こうした前世で戦争経験を持ったことのある例では、その前世の体験が現在の肉体に身体的特徴として現れる場合も多いといい、例えば前世の戦争で亡くした片足に現世では大きな腫瘍ができていたり、また大砲のような大きな音を聞くと、恐怖で凍り付いてしまう、といった具合です。

戦争体験のようなPTSDにもかかりそうな精神的にも深刻的なダメージを受けたあとに転生した場合、こうした前世での経験が現世でのストレスの原因にもなりうるといったことなども次第にわかってきており、こうした前世の記憶を精神医学的な治療に役立てる具体的な方法については、多くの科学者たちが研究をはじめています。

例えば、上述のジョエル・ホイットンの実験では、退行催眠により現れた記憶を「前世」のものと仮定することで、子供が生まれながらに持つ言語的なまりや恐怖症、癖や異様な性癖などの特徴が発生した原因を矛盾なく説明できたといいます。

日本においては、こうした研究はまだまだの感があるようですが、元福島大学の教授、飯田史彦さんが「前世の記憶」を語った子供たちの事例を集め、その真偽を詳しく調査した結果、証言内容の人物が実在し、証言通りの死に方をしていることなどを示しています。

また被験者の発言内容の多く歴史的事象と一致していたことなども証明し、前世での死に方や病気が現生に影響している可能性を示しました。こうした話は、飯田さんの著著にたくさん出ていますので、本屋に行って「飯田史彦」さんの名前で探してみてください。

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こうした、前世回帰は、一般に幼児期に見られることが多く、子供によっては鮮明に前世のことを覚えていて、覚醒状態でそれを話すことができる子もいるようです。しかし、大人になってからは、前世の記憶があいまいになるケースが多く、これを引きだすために必要なのが催眠療法のような措置です。

アメリカ合衆国のヴァージニア大学精神科の主任教授イアン・スティーヴンソン博士は、人間の発達は、遺伝要因と環境要因に加えて,「生まれ変わり」という第3の要因の影響を受けるのではないか、と推測し、彼が率いる研究グループは、東南アジアを中心に、前世の記憶を持つとされる子どもたちの事例を2300例ほど集めました。

スティーヴンソン博士は、主として2歳から5歳までの間に「前世の記憶をよみがえらせた」子供とその関係者を研究対象として選びました。その調査方法は主に面接調査であり、これにより子供がもつ記憶の歪み、証言者たちの相互の証言の食い違いがないかを調査し、「前世の家族」を明らかにしました。

この結果、「乳幼児期の恐怖症」「幼児期に見られる変わった興味と遊び」「(酒類やタバコなど)大人の嗜好品への愛好」「早熟な性的行動」「性同一性障害」「一卵性双生児に見られる相違点」「子供が持つ理不尽な攻撃性」「左利き」「母斑」「先天的欠損」などの広範な現象は、生まれ変わり説を採用することで容易に説明できるということがわかりました。

こうしたことから、ストレスについても前世から引き継いだ何らかのカルマであることも考えられ、例えば何につけてもストレスを溜めやすい、といった性癖がある人は、前世においてセクハラやパワハラ、幼児虐待を受けるなど、そうした抑圧された生活が原因で前世では鬱屈した一生を送った、といったことも考えられるわけです。

このケースでは、今生ではそのストレスを発散し、前世で抑圧された魂が解放されることが、現世に転生してきた理由、といいうことになるでしょうか。

しかし、こうした前世があるかないかという議論については、いつの時代にもついていけないという人がいます。

例えば上述のように幼い子供が被験者であることを元にした仮説に対しては、試験した子供が実は嘘をついていたのではないか、といったふうに考える人が必ずおり、また「前世があった」と語る子供は、そのことを自分自身に強く言い聞かせることで、自分自身をだましているのではないか、つまり自己欺瞞に陥っているのではないか、という人もいます。

また、すべてを単なる偶然の一致と片付ける偶然説をとる人、前世の人物に関する情報をテレビや新聞などのマスコミなどから見聞きしたことが表面化したのだという潜在意識説や、記憶錯誤説などを唱える人も少なくありません。

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とくにもっともらしい反論としては、「遺伝記憶説」というものもあります。

これは「前世の人物」が親戚や家族だとされるケースなどでは、その子供が遺伝の影響により故人から何らかの記憶を受け継いだのではないか、という解釈です。しかし、上述の科学者達がこれまでに調べたケースでは、子供が持つ「前世」の記憶は極めて詳細にわたるのに対し、遺伝に基づくと証明される記憶は過小で、この説には説得力がありません。

このほか、通常では知るすべのない出来事を子供が知っているのは「超能力」によるものであり、そうした能力によって得られた情報を「前世の情報」としてまとめあげたのではないか、とする「超能力説」もあります。が、調査された子どもたちのなかで、超能力をもっていたと証明されたような例はこれまでありません。

さらには、憑依説というものもあります。この説では,「肉体を持たない人格」という実体、つまり霊の存在を認めた上で、それが肉体にとり付いて子供たちを支配していると考えます。しかし,もし本当に子供たちに霊が憑依したのならば,その支配に成功した人格が,子供たちが4~8歳になった以降に、急に憑依をやめてしまうのは疑問が残ります。

また、憑依した霊の人格と取りつかれた人格とが闘う、といった人格分裂の傾向はこうした子供たちには見られていません。成長著しい子供たちは、その過程でも特に人格の変化を見せることはなくそうした記憶を話すことから、人格変化や意識変化を伴うことの多い憑依と前世回帰とは違う現象です。

スティーヴンソン博士はこのように前世を否定する「仮説」に対してひとつひとつ反論のための傍証を重ね、いずれもが妥当ではないことを確認し、間違いなく生まれ変わりはありうる、と断言した上で、こうした前世を子供たちに思い出させることは、その子供たちが成長後に患る病気の治療にも役立つことをも示しました。

さらに、子供たちの中には、自殺で生涯を終えた前世を語る者もいます。こうした事例は「自殺しても苦しみは終わらない」ことを自殺願望者に気付かせるきっかけとなるのではないか、と博士は期待しているそうです。

ただ、こうした前世療法で使われる退行催眠において、催眠状態がもたらす「記憶の歪み」はしばしば批判の対象となってきました。つまり、退行催眠によって思い出されたことの史実上での裏付けを取ると、微妙に事実と異なることがあり、これが「歪み」だとされます。この現象について前述のブライアン・ワイス博士は以下の見解を示しています。

「ゆがみについては、例えば、ある人を子供時代まで退行させて、幼稚園のことを思い出すよう指示すれば、当時の先生の名前や自分の服装や壁に貼ってあった地図、友達のこと、教室のみどり色の壁紙などを思い出すかもしれない。」

「そして、そのあとでいろいろ調べてみると、幼稚園の壁紙は本当は黄色だったこと、緑色の壁紙は、実は幼稚園ではなく小学校一年生の時のことだとわかったとしよう。しかし、だからといって、その記憶は間違ったソースから来ている記憶とは言えない。」

ワイス博士はまた、過去世の記憶は一種の歴史小説のような性格をもっており、思い出した過去生はファンタジーや創作的な要素が強いものもあり、ゆがみ等も当然あるかもしれない、しかし、その核心にはしっかりした正確な記憶があり、「それらの記憶はすべて現世で役に立つものである」、と語っています。

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こうした、前世療法などを駆使して病気を治す手法は、スピリチュアルケア(spiritual care)として近年着目を浴びています。「生きがいを持ちやすい人生観」への転換を推奨し、人生のあらゆる事象に価値を見出すよう導くことにより、人間のスピリチュアルな要素(心あるいは魂)の健全性を守る術のことです。

「なぜ生きているのか」「何のために生きているのか」「毎日繰り返される体験の意味は何か」「自分はなぜ病気なのか」「自分はなぜ死ななければならないのか」「死んだあとはどうなるのか」「人間に生まれ、人間として生きているということはどういうことなのか」などの問いは、人間誰しもが抱えています。

スピリチュアルケアというのは、こういった問いに真正面から対面し、探究し、健全な解決へと向けて、絶え間なく働きかけることです。

人は誰でも、たとえ元気なときでも、どこか潜在意識的にスピリチュアルケアを必要としているといい、ましてや、病気になったとき、どうにもならない困難と対峙したとき、あるいは死に直面しているときなどは、なおさら、霊的な助けが欲しいと感じるようになるといいます。

ところが、現代西洋医学というのは、機械医療、つまりハイテクノロジー重視の医療へと変化してしまっており、こうした霊的な観点からの治療を非科学的だとみなし、むしろ廃除しようとする傾向があります。

西洋にその起源を発する、古い伝統的医学はスピリチュアリズムに寛容でしたが、各文化圏の伝統医療は、長い時代の変遷とともに、そうした部分をかなぐり捨て、機械医療に特化してしまいました。このため、現代西洋医学の従事者の多くは、病んでいる人のスピリチュアル・ニーズや、その切実な叫びに耳を貸さなくなってしまっています。

また、現代社会においては、若さ・バイタリティー・美などが高く評価されますが、一方で、苦しむことや病気の状態を生きること、あるいは死ぬことといった、後ろ向きなイメージのあることがらについてはむしろタブー視する傾向があり、これらについて深い考察を行ったり、言及することを避ける人も多いように思われます。

ところが、病いや死は突然やってきます。その段になって初めて、人はスピリチュアルな痛みを感じつつ、「自分は何のために生きているのか」「死んだあとはどうなるのか」といったスピリチュアル的な問いを自分に対して行いますが、それまでの怠慢がたたって、そうした段階ではなかなか素直にその世界へは入っていけません。

スピリチュアル・ケアというのは、こうした人達に死後の世界はどういうものかを教える、真剣に病気や死と向き合い、それがどういう意味を持つかを考えさせる、といった教育的なことも含んでおり、身体的ケア・精神的ケア・心理的ケアに次いで、人間にとっての究極的なケアとまで評価する人もいます。

前述の飯田史彦さんは、スピリチュアル・ケアとメンタル・ケアとの違いは、メンタル・ケアが「とにかく大丈夫ですよ」などと答えをあいまいにしたままであるのに対して、スピリチュアル・ケアにおいては「人生についての根本的疑問」に理路整然と回答し、納得を得る必要があることだとしています。

つまり、現生を生きている意味をしっかりと自分で考えるとともに、前世と照らし合わせた上で、自分がなぜ今生に生まれてきたのか、これまでの人生で何が得られてきたのか、今この世を去るとして、来世に残すべき課題は何なのか、といったことを整理し、納得することこそが、スピリチュアル・ケアにつながります。

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ところで、前世を思い出すには、専門家による催眠療法がないとできない、と思っている人も多いかもしれませんが、前世の記憶は、専門家の助けを得なくても自分だけで取り戻すことができます。

ワイス博士の著書は日本でも翻訳されて発売されており、これらについているCDなどで、自己催眠をかけるのはそのひとつの方法です。が、こうしたツールがなくても、部屋を落ち着けてリラックスできる環境にし、ベッドに寝て深くゆっくり呼吸しながら自分で催眠状態を作り出すこともでき、こうした自律訓練的な方法を試してみるのもひとつの手です。

私も自分でときどきこうした自己催眠を行い、色々な前世の出来事を思い出していますが、こうした中で過去生における亡き先妻とおぼしき人物に出会ったり、悪行の限りをつくした自分の過去を思いだしたりもしています。

が、こうした自己催眠効果は個人差もかなりあるようで、私は色々なものを見るのですが、嫁のタエさんはあまり見れないとよくぼやいています。

しかし、ここではこれ以上詳しくは説明しませんが、うまく過去生を思い出すようにできるための方法が多くの出版物に掲載されており、またWeb上でもその方法を教えてくれるサイトはたくさんありますので、みなさんも色々探してみてください。

ただ、実際にやってみるとわかりますが、これは夢なのだろうか、あるいは幻影にすぎないのではないかという不安に駆られることもあります

が、大事なのは、ワイス博士も言っているように、記憶にはゆがみがあるかもしれませんが、その根本にはしっかりした正確な記憶があるはずであり、ゆがんでいたとしても、それらは「すべて役に立つもの」であるということです。

そうしたものもまた過去生の記憶の断片と考え、場合によってはそれらを繋ぎ合わせてみて、そこから何が見えてくるかをじっくり考えることが大切です。その核心には現世で役に立つ何かが必ずあるはずであり、それを見つけることことが癒しにつながり、それこそが前世療法を行うことの意味です。

さて、今回のサッカー世界大会における日本チームの敗戦は、今生に住まう我々日本人の記憶に残る苦いものとなりましたが、この記憶もけっして悪いものというわけではありません。

この記憶をもとに、なぜ負けたのか、というその根本的問題を明らかにすることができ、これに素直に向き合ってそこから何らかの回答を得ることが重要であり、何よりもこの敗戦にも意味があったということを知り、その結果に納得することが大事だと思います。

それできたら、今後はそれを更なる発展のために役立てればいいわけであり、その際にはこの敗戦での悔しい思いをバネにすることができ、これによって次の成長を目指して今後ともがんばることができるはずです。無論、頑張るのは選手達だけでなく、応援していた我々もです。

次のワールドカップまでには、たとえ負けたとしても、これに動じず、ストレスを溜めこまないような、ケセラセラと笑い飛ばせる、そんな自分を作りましょう。そう考えると、4年後が楽しみではありませんか。

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阿蘭陀

2014-2460若いころ、仕事の関係で日本国中のあちこちの海岸を飛び回っていました。

高度成長時代、日本では建設工事が急増し、このために骨材として川砂利を大量に採取した結果、川から海岸に供給されていた砂が急減し、あちこちの海岸で侵食を起こすようになっており、私の仕事はその防護と修復が主なものでした。

隣り合う海岸はそれぞれ独立しているわけではなく、互いに砂の供給を補い合うという互助関係にあり、このためひとつの海岸だけの侵食を防げばいいということではなく、周辺の海岸の太り具合や痩せ具合も勘案しながら、対策を進める必要があります。

このため、仕事の対象となる海岸だけでなく、関連する海岸もできるだけたくさん見る必要があり、ある日気がついてみると、日本国中の侵食が著しい海岸はほとんど見てしまい、北海道から沖縄まで行ったことのない都道府県はない、といったことになりました。

しまいにはプライベートでも見たことのない海岸に行くのが趣味のようになり、このため旅に出るとその地域の海を必ず見にいくようになりましたが、複雑な海岸線を持つ場所ではとうていそのすべてを見ることはできず、県によっては何ヶ所しか見る機会がなかったところもあります。

長崎県もそのひとつで、海岸線の長さは4,137kmであり、北方領土を除いた場合には、北海道を抜いて断トツ一位です。面積が北海道の約20分の1である長崎県の海岸線がこれほど長大であるのは、島嶼が非常に多いことに加え、リアス式海岸で海岸線が複雑に入り組んでいるためです。

この地形的特徴により、長崎県には重要港湾と地方港湾を合わせ全部で200以上もの港湾が点在しており、その数は国内の7.4%にも及び、無論これも断トツ一位です。また、長崎県内には海岸線からの距離が15km以上の地点はなく、県のほとんどの地域が海岸沿いといっても過言ではありません。

従って私が訪れたのもこのうちの数カ所だけであり、とくに長崎県北部の北松浦半島の北西端の地域は、最果ての地というかんじで、仕事でもプライベートでも行ったことがありません。

北松浦半島一帯の地域は、島しょ部も多く、北浦半島と平戸瀬戸を挟んで西向かいにある平戸島、そして平戸島の北西にある生月島(いきつきしま)、平戸島の真北にある度島(たくしま)、度島のさらに真北にある的山大島(あづちおおしま)などが、合わせて「平戸市」という行政区域になっています。

旧平戸市は、平戸島と度島などの離島を行政区域としていましたが、2005年10月1日に周辺の北松浦郡田平町・生月町・大島村と合併して新たに平戸市となり、これにより本土にも市域が拡大しました。

旧平戸藩松浦氏の城下町で、鎖国前は中国やポルトガル、オランダなどとの国際貿易港でした。徳川幕府が開かれる以前の1550年(天文19年)、この地を治めていた松浦隆信が南蛮貿易に進出、平戸港を開いて、ここにポルトガルの貿易船が初めて入港しました。

1600年(慶長5年)、松浦鎮信が徳川家康より6万3千石の領地を安堵され、平戸藩が確立。松浦鎮信は1609年(慶長14年)「オランダが商館」を設置することを許されましたが、その後タイオワン事件の勃発によって、閉鎖に追い込まれました。

タイオワン事件というのは、この当時の長崎代官の末次平蔵とオランダ領台湾行政長官ピーテル・ノイツに代表されるオランダとの間で起きた紛争です。

日本は、鎖国前にはまだ平戸から船を出して台湾や中国とさかんに貿易を行っていましたが、この当時極東には、ポルトガル王国(ポルトガル)、ネーデルラント連邦共和国(オランダ)、イギリス第一帝国(イギリス)の商人が入り込んでおり、日本においても貿易の主導権争いが過熱している時代でもありました。

こうしたことから、元和8年(1622年)には明(中国)のマカオにあるポルトガル王国居留地をオランダが攻撃。しかし敗退したネーデルラント(オランダ)は対策として台湾の澎湖諸島を占領し要塞を築いてポルトガルに備えました。

さらに2年後の寛永元年(1624年)には、オランダは台湾島を占領、城を築いて台南の「安平」をタイオワンと呼び始めます。オランダはタイオワンに寄港する外国船に10%の関税をかけることとし、中国商人はこれを受け入れました。が、末次平蔵の配下の浜田弥兵衛ら日本の商人達はこれを拒否。

これに対し、オランダはピーテル・ノイツを台湾行政長官に任命し、将軍徳川家光との拝謁・幕府との交渉を求め江戸に向かわせました。このノイツの動きを知った末次平蔵も台湾島から日本に向けて16人の台湾先住民を連れて帰国し、彼らは台湾全土を代表する「使節団」だと言って、将軍徳川家光に拝謁する許可を求めました。

が、使節団の人員の多くが疱瘡を患い、このため幕府側が接見を拒否したため、平蔵らの目論見は失敗に終わります。しかし家光はノイツらの謁見も拒否しており、彼等もまた何の成果もなく台湾に戻りました。

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以後、ノイツは平蔵の動きに危機感を強め、平蔵が江戸に連れて行った先住民達が帰国すると、全員捕らえて監禁、台湾に渡っていた浜田弥兵衛の船も拘束して武器を取り上げるとともに、以後の渡航禁止を通達しました。

この措置に弥兵衛は激しく抗議し、渡航禁止措置の解除を求めましたが、これを拒否し続けるノイツに対し弥兵衛は、ノイツらの隙をついてこれを組み伏せ、人質にとる実力行使に出ます。

驚いたオランダ東インド会社は弥兵衛らを包囲しましたが、人質がいるため手が出せず、しばらく弥兵衛たちとオランダ東インド会社の睨み合いが続きました。

しかしその後の交渉で互いに5人ずつ人質を出しあい互いの船に乗せて長崎に行き、長崎の港に着いたら互いの人質を交換することで同意、一路長崎に向けて船を出しました。無事に長崎に着くとオランダ側は日本の人質を解放、オランダ側も人質の返還を求めました。

ところが、長崎で迎えた代官末次平蔵らはそのままオランダ人達を拘束、大牢に監禁して平戸オランダ商館を閉鎖してしまいます。これに対し、この当時のオランダ領東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンは、これ以上日本側との紛争が続き、貿易の利が損なわれることを懸念しました。

このため、「この事件は経験の浅いノイツの対応が原因であるため」とし、ノイツを解雇し彼も日本に人質として差し出しました。日本側は、オランダ側から何らかの要求があることを危惧していましたが、この意外な対応に安堵します。しかし、これが後には鎖国体制を築いた時にオランダにのみ貿易を許す一因ともなりました。

これによって、ノイツは1632年から1636年までの4年間もの間日本に抑留されましたが、その後解放され、オランダに帰りました。ところがノイツと争った、末次平蔵自身はその後捕えられ、獄中で謎の死を遂げています。

その理由はよくわかっていませんが、長崎通詞貞方利右衛門がオランダ側に「平蔵は近いうちに死ぬだろう」と漏らしたという記録が残っており、おそらく幕府は、その後に長く続くことになる日蘭貿易を見越し、オランダと仲の悪い平蔵を邪魔な人物と考え、処分しようとしたのでしょう。

こうして寛永9年(1632年)閉鎖されていた平戸オランダ商館は再開されましたが、その後の鎖国政策の実施に先駆け、寛永11年(1634年)には日本人が平戸などから台湾に渡ることは正式に禁止されました。ちなみに台湾は、その後は1662年(寛文元年)に鄭氏政権が誕生するまでオランダによって統治されました。

1639年、幕府はキリスト教の布教と植民地化を避けるためにポルトガル人を国外追放とし、事実上の鎖国政策が始まりました。

1640年、建物の破風に西暦年号が記されていたという事実を口実に江戸幕府は平戸のオランダ商館の取り壊しを命じ、当時の商館長フランソワ・カロンがこれを了承。商館は1641年に長崎の出島へ移転しました。ここに至り、以後、幕末に至るまでオランダ船の発着、商館員の居留地はこの出島のみに限定されることとなりました。

実は出島は、これに先駆け、1634年から2年の歳月をかけて、ポルトガル人を管理する目的で造成されていました。幕府が長崎の有力者に命じて作らせたもので、建造費は約4,000両で、これを現在のお金に換算すると約4~5億円となります。

江戸中期の長崎貿易に関する調査記録では、面積3924坪船着き場45坪と記載されていますから、合わせると、400m四方の大きさということになります。

築造費用は、門・橋・塀などの建造費は幕府からの出資でしたが、それ以外は地元長崎の25人の有力商人が出資しました。一方、幕府はポルトガル人に土地使用料を毎年80貫支払うことを当初要求しましたが、初代のオランダ出島商館長となったマクシミリアン・ル・メールが交渉し、借地料は55貫、現在の日本円でおよそ1億円ほどに引き下げられました。

1639年、前述のとおり、幕府は鎖国政策を始め、ポルトガル人を国外追放としたため、出島は無人状態となりました。これに対して出島築造の際に出資した商人たちが抗議を起こしたこともあり、新たな火種を作ることを恐れた幕府は、オランダ人にだけ貿易を許すことを認め、平戸にあったオランダ商館を平戸から出島に移すという措置をとりました。

しかし、キリスト教などの異宗教は国禁としたため、オランダ人は、武装と宗教活動は一切を規制されたまま、以後約200年間、監視され続けることになりました。

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とはいえ、この間、ポルトガルやイギリスを抑えて独占で日本との貿易を継続できることとなり、オランダには大きな国益がもたらされました。

幕府がオランダだけに貿易を認めたのは、プロテスタント国家のオランダが「キリスト教布教を伴わない貿易も可能」と主張していたためで、幕府は主としてポルトガル人によって国内布教が進んだカトリックだけがキリスト教だと考えていました。

実際には、オランダは日本の外で中国やイギリス、ポルトガルと貿易をしていましたから、幕府としてはオランダを窓口とすることで、諸外国の品を輸入することができ、かつ国内に異教徒が増えることを阻止できます。

国内のキリスト教徒の増加と団結は徳川将軍家にとっても脅威であり、国際貿易が維持できるのであれば、積極的に宣教師やキリスト教を保護する理由はありません。このため、逆にこれを弾圧するようになり、1612年の岡本大八事件をきっかけに、諸大名と幕臣へのキリスト教の禁止を通達しました。

岡本大八事件というのは、家康の側近・本多正純の与力で、キリシタンだった岡本大八が、詐欺まがいの事件を犯したもので、これを機に家康のキリスト教徒に対する印象が極めて悪くなったといわれています。

1613年には、キリスト教信仰の禁止が正式に明文化され、鎖国は本格化されていきました。長崎港内に築かれた出島は、その後4区画に分けられ、それぞれにオランダ人、日本の諸役人、通詞の家などが住まうようになり、最終的には倉庫など65棟が建てられました。

出島に滞在するオランダ人は商館長は、「カピタン」と呼ばれるようになり、次席には「ヘトル」がおり、これ以外にも、荷倉役、筆者、外科医、台所役、大工、鍛冶など9人がおり、私ももっとたくさん住まわっていたのかと思いましたが、総勢はおよそ12~13人だったようです。

しかし、商館とは名ばかりで、その生活は「国立の牢獄」と呼ばれるほど不自由でした。商館長は年に1回(のち5年に1回)江戸に参府し、将軍に謁見することを義務付けられました。またオランダ商館は長崎奉行の管轄下に置かれ、長崎町年寄の下の「乙名」がオランダ人と直接交渉しました。

出島乙名は島内に居住し、オランダ人の監視、輸出品の荷揚げ、積出し、代金決済、出島の出入り、オランダ人の日用品購買の監督を行い、この乙名の下には組頭、筆者(書記)、小使などの役人がいました。

通詞は140人以上もいたといい、大通詞、小通詞、稽古通詞などの階級に別れていましたが、それ全員が出島にいたわけではなく、必要に応じてその分野に詳しい通詞が出島に入りました。また、通詞筆頭の大通詞は大体4名で交代で年番通詞を勤め、オランダ人の江戸参府に同行したり、風説書や積み荷の送り書きの翻訳をしました。

これらのオランダ人と接触を持てる人員以外の一般人の出島商館への出入りは禁止されていましたが、長崎奉行所役人や長崎町年寄などの役人や組頭、宿老、出島専用の町人だけは、公用の場合に限り出入りを許されました。

この出島専用の町人としては、火用心番、探番(門番)、買物使、料理人、給仕、船番、番人、庭番などがおり、乙名以下の役人も含めておよそ100人以上の日本人が働いていたといわれます。

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出島表門には、制札場があって「定」と「禁制」の2つの高札がたてられていました。「定」というのは、日本人、オランダ人で悪事を企む者がいた場合、例えば抜荷(ぬけに)・密貿易等があったら、すぐ告訴せよ、告訴すれば賞金を与えるという趣旨の高札です。

「禁制」には、次のようなことが書かれていました。

一、傾城之外女入事
一、高野ひじり之外出家山伏入事
一、諸勧進之者並に乞食入事
一、出島廻り傍示木杭之内船乗り廻る事 附橋之下船乗通事
一、断なくして阿蘭陀人出島より外江出る事
右の条々堅可相守もの也

つまり、ここには、遊女以外の女や、高野聖のほかの山伏や僧侶、勧進や乞食の出入りは一切許されない、といったことや、出島の外周に打ってある棒杭の中、橋の下への船の乗り入れは禁止、またオランダ人はもちろん許可なく出島からの外出は禁じる、といったことが書かれていました。

先述のとおり、オランダ商館長は、歴代、通商免許に対する礼として江戸に上り、将軍に謁見して貿易の御礼を言上して贈り物を献上していますが、これを「カピタンの江戸参府」といい、毎年、定例として行うようになったのは1633年(寛永10年)からであり、商館が平戸から長崎に移されて以後も継続されました。

1790年(寛政2年)以降は4年に1度と改められましたが、特派使節の東上は1850年(嘉永3年)まで166回を数えました。この江戸参府の際には、江戸では「長崎屋」、途中の京では「海老屋」が「阿蘭陀宿」として使節の宿泊にあてられました。

以後、1859年に至るまで、およそ210年余りの年月の間、出島だけで対オランダ貿易が行われるようになり、ここは日本における唯一の外国であり続けました。が、実はこのうちの、1793年から1815年の間の22年間だけは、世界においてオランダという国は存在していませんでした。

1793年にオランダ(ネーデルラント連邦共和国)がフランス革命軍に占領されて滅亡したためであり、フランス革命軍はネーデルラント一帯を占領し、フランスへ亡命していた革命派やその同調者にバタヴィア共和国を樹立させました。

やがてナポレオンが皇帝に即位すると、1806年に弟ルイ・ボナパルトを国王とするホラント王国に移行しましたが、ナポレオンは1810年に王国を廃止してフランス帝国の直轄領とし、1815年になってようやくネーデルラント王国が建国されるに至りました。

この間の貿易をどうしていたかというと、オランダはフランスに自国を占領されてからも細々と船を日本へ送っていましたが、やがて自前では用意できなくなくなったため、オランダ東インド会社は1797年にアメリカの船と傭船契約を結び、この船が出島に入港していました。

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1799年には、さらにオランダ東インド会社が解散したため、アメリカの船は1809年(文化6年)までおおっぴらに出島に入港して貿易を行っていたといい、アメリカ船の出島への来航は、1809年までに13回も記録されています。この間、アメリカはこの来航を通じて、貿易を行うだけでなく、ひそかに日本の情報を収集していました。

一般には幕末の嘉永6年(1853年)に、マシュー・ペリー代将が率いるアメリカ合衆国海軍の蒸気船2隻を含む艦船4隻が日本に来航した事が、江戸時代を通じて最初のアメリカ船の来航といわれていますが、実はこのペリー来航に至るまでも、オランダを装いながら色々な日本国内の情報を集めており、これがペリーの来航時にも役だったというわけです。

このアメリカ船の来航はしかし、1810年、オランダが皇帝ナポレオンの率いるフランスによって完全に併合されてしまったため、アメリカとの契約が成り立たなくなり、取りやめになりました。

フランスがオランダを占領し、その後継として建国したバタヴィア共和国からも、オランダの名で船を日本へ出そうとしましたが、この国もまた翌11年には今度はイギリスの占領下に置かれたため、1810年からはついに、3年間もの間、出島には1隻のオランダ船も入港しませんでした。

この間、食料品などの必需品は、幕府が無償で提供し、長崎奉行は毎週2、3回、人を遣わして不足品があるかないかを問い合わせていました。その他の支払いについては、長崎会所の立て替えを受けてしのいでいましたが、文化9年(1812年)には、その総額が8万200両を超えたといい、これは現在の価値に換算すると10億円ほどにもなります。

この間、オランダ商館は商館長ドゥーフは、自分が所蔵していた書籍を売るなどして財政難をしのいでいましたが、その後、ようやく1815年になってネーデルランド王国が成立し、出島にもオランダ船が再入港するようになりました。

フランスがオランダに樹立したバタヴィア共和国は、国旗として旧ネーデルラント連邦共和国のものを使っていましたが、1810年にフランスが完全にこの国を併合してからは、この国旗は使われませんでした。

従って、ネーデルランド王国が再興する1815年までのこの5年間、世界中でオランダ国旗がひるがえっていたのはここ出島だけだったということになります。

しかし、この短い期間を除けば、以後もオランダと日本の交易は淡々と進められました。

通常、オランダ船は、毎年2隻編成が組まれ、季節風の関係から7~8月ごろに来航していましたが、その航路はこの当時オランダが東アジアの植民地拠点として整備していたジャワ島西北部のバタヴィア(現在のジャカルタ、上述のバタヴィア共和国とは別)に発し、ミンドロ海峡、台湾海峡などを経て、日本に至るというものでした。

台湾からはさらに五島列島に南西の男女群島付近を通り、さらに長崎県最南部の野母崎をめざし、最終的に出島に入港しましたが、その年の11~12月には同じルートを通ってバタヴィアへ帰っていきました。従って、出島での滞在は毎年およそ4ヶ月ほどでした。

出島へのオランダ人の立ち入りは当初厳しく監視されており、とくに女性の立ち入りは禁止されていましたが、幕末に近づくにつれ、次第にそのタガが緩み始め、1817年7月には、5代目の商館長、ブロンホフが妻ティティアと子ジョンや乳母・召使いを同伴して出島に着任しました。

このとき、幕府はこれらの女性たちを出島に入れる事を拒みましたが押し切られ、長崎の町の絵師達はここぞとばかりに出島の入口まで押しかけて、彼女たちを写生し、これを題材に絵を描き、または人形などを制作したものが巷では大売れしました。

ブロンホフの家族は16週間の出島滞在の後、同年12月ドゥーフと共にオランダに帰国しましたが、日本での滞在期間中、絵師たちがさかんにモチーフにしたのが、ブロンホフ夫人であるティティアであり、彼女は日本へ旅した最初の西洋人女性とされ、この当時も「西洋婦人」として日本国中にその姿見の写しが行きわたりました。

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出島における出入りの禁制のゆるみはその後も続き、文政11年(1828年)9月には、オランダ商館付の医師であるシーボルトが帰国する直前、所持品の中に国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図などが見つかるという事件がおこりました。

この事件では、これを贈った幕府天文方・書物奉行の高橋景保ほか十数名が処分され、その後景保は獄死し、シーボルト自身は文政12年(1829年)に国外追放の上、再渡航禁止の処分を受けました。世に言うシーボルト事件です。

出島における最後のカピタンとなったのは、ヤン・ヘンドリック・ドンケル・クルティウスです。

オランダ領バタヴィアにおいて、高等法院の評定官、高等軍事法院議官などを歴任後、1852年7月に来日し、同年11月、出島のオランダ商館長に就任しました。就任後は幕府にこの当時の世界事情を伝えるなどの外交活動も積極的に行い、このころの米国が砲艦外交で日本に開国を迫ろうとしている意図があることを伝えたのもこの人です。

幕府に求められ、海外事情に関する情報書類である「オランダ風説書」を提出する、といったこともやっており、そのひとつである「別段風説書」には、中国(清)におけるアヘン戦争の状況やアメリカの国内事情などの情報が記載されており、幕府はこれによって1853年のペリー来航を事前に知っていました。

クルティウスはまた幕府に対し、来たるべき米国との交渉の前にオランダとの間に通商条約を締結して開国すべきと進言しましたが、この交渉は不調に終わりました。

しかしその後、2度に渡るペリー艦隊来航の後、1855年(安政2年)に日米和親条約が締結されると、開国政策に転じた幕府の要求に応じ、スンビン号(のち観光丸)を幕府に寄贈するための手配を行いました。

さらには、ヤパン号(のち咸臨丸)とエド号(のち朝陽丸)の軍艦2隻の発注を幕府から受け、長崎海軍伝習所の設立やファビウス、カッテンディーケといった、のちの日本海軍の礎となる技術を伝えることになるオランダ海軍士官の招聘などにも関与。

これらの活躍を通じて日本側の信頼を得ることができ、この結果、安政2年12月23日(1856年1月30日)には、ついに日蘭和親条約が締結されました。さらに、安政4年8月29日(1857年10月16日)、日蘭追加条約を締結。これは自由貿易関係への移行を前提とした貿易規制の緩和を含む、日本が外国と結んだ最初の通商条約でした。

安政5年7月10日(1858年8月17日)には、日米修好通商条約から19日遅れでほぼ同等の内容の日蘭修好通商条約を締結。これにより、オランダとの間の貿易は、ほぼ自由貿易となりました。

クルティウスはまた、長崎奉行と交渉し、踏み絵の廃止を実現するなど、開国後のオランダ最初の駐日外交官として日蘭間の交渉役を続け、この交渉の過程で日本人へオランダ語を教授するかたわら、自ら日本語の研究も進め、1857年には日本語の文法書「日本文法稿本」まで作成しました。

さらに日本初の有線式実用長距離電信実験に成功し、電信技術を日本にもたらしたのもこの人です。1860年に離日し、帰国しましたが、日本滞在中に蒐集したさまざまな書籍はライデン大学に寄贈され、以後オランダの日本研究の基礎文献とされました。明治12年(1879年)11月27日、故郷のオランダ、アーネムで死去。享年66。

上述の1855年の日蘭和親条約締結においては、オランダ人の長崎市街への出入りが許可されるようになり、翌年の1856年には「出島開放令」が出され、出島における日本人の役人の各種役職も廃止され、3年後の1859年には、オランダ商館も閉鎖されました。

事実上の大使館、また貿易施設としての「出島」としての存在意義は失われるところとなり、明治以降、出島は、1883年(明治16年)から8年間にわたって行われた中島川河口の工事によって北側部分が削られるようになりました。

さらに、1897年(明治30年)から7年にわたって行われた港湾改良工事においては、その周辺を埋め立てられ、ついには「島」でさえなくなりました。その後出島周辺にはビルが建ち並び、どこが島だったのすらわからなくなりましたが、商館があった場所には石碑が立ち、ここは「出島和蘭商館跡」として国の史跡に指定されました。

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1984年(昭和59年)には、2年にわたって、かつての出島の範囲を確認する調査が行われ、その結果、出島の東側・南側の石垣が発見され、このときに当時の出島との境界がわかるようにと、道路上に鋲が打たれました。

また、1996年(平成8年)度から長崎市が約170億円かけ、出島の復元事業を進め始め、2000年(平成12年)度までの第1期工事では、商館長次席が住んだ「ヘトル部屋」、商館員の食事を作った「料理部屋」、オランダ船の船長が使用した「一番船船頭部屋」、輸入品の砂糖や蘇木を収納した「一番蔵」・「二番蔵」の計5棟が完成しました。

その後、第2期復元工事も行荒れ、復元作業は2006年(平成18年)4月1日に完成し、一般公開されています。オランダ船から人や物が搬出入された水門や、商館長宅「カピタン部屋」、日本側の貿易事務・管理の拠点だった「乙名部屋」(おとなべや)、輸入した砂糖や酒を納めた三番蔵、拝礼筆者蘭人部屋(蘭学館)など5棟を復元されているそうです。

長崎市のホームページによれば、今後とも復元作業が続けられ、中央、東部分にあったこのほかの計15棟を復元したのち、周囲に堀を巡らし、扇形の輪郭を復元する予定ということで、現在、筆者部屋他6棟の復元のため、発掘調査中ということです。

長崎市の「出島史跡整備審議会」は2050年を目標に、かつて水に囲まれた扇形の島を完全復元するよう長崎市長に提言しているといいますが、埋め立て後の開発がかなり進んでしまっていることから、はたしてそこまで復元できるかどうかは微妙なところでしょう。

出島は、鎖国によって閉ざされた江戸時代の日本にとって、唯一欧米に開かれた窓であり、細々ながら続けられた諸外国との貿易によってもたらされた物品の数々は、日本の文化や技術が戦国の時代のレベルにとどまってしまう、ということを防ぎました。

8代将軍徳川吉宗によって享保の改革(1717~1741)が行なわれた際には、実学が奨励され、このためキリスト教に関する以外のものであれば、洋書の輸入が解禁されたことから、出島には、医学、天文暦学などの世界最先端の技術書がもたらされ、これによって「蘭学」が発生しました。

この蘭学の普及は、鎖国という政策によって滞ってしまいがちな日本人の思考に合理性と柔軟性を与え、またそこに含まれていた自由・平等の思想はその後幕末の攘夷思想ともつながり、これはその後の明治維新における起爆剤ともなりました。

また、出島を通じて科学技術に長けた才能ある外国人が直接来日しており、これらの中には初期のころにオランダ商館に医師として赴任したケンペル(1690–1692年滞日)、やツンベルク(1775–1776年滞日)、および幕末のシーボルト(1823–1828年および1859–1862年滞日)らが含まれます。

ちなみにシーボルトはドイツ人ですが、オランダ人と偽って日本に入国しました。

彼等は、西洋諸科学を日本に紹介し、時には通詞を通じて直接日本人に指導を与え、その一方では、帰国後にそれぞれが日本の文化や動植物を研究してヨーロッパに紹介し、これにより日本という国が欧米から忘れさられてしまうことが抑止されました。とくにこの3人の活動を褒めたたえ、「出島の三学者」と言われることもあるようです。

このように日本とオランダは出島を通じて、昔から深い関係にあり、現在も国交を結んで、さかんに貿易を行っています。が、その貿易額は、日本からオランダが1兆5000億円あまり、オランダから日本が2500億円ほどと、明らかに日本からの輸出の方が過剰です。

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日本からオランダへの直接投資も多く、EU加盟国中第1位となっているなど、日蘭の経済関係はさらに重要さを増していますが、実は現在における日本とオランダとの交友関係はそれほど良好というほどでもありません。

というのも、第二次世界大戦中、オランダは日本に対してのみ宣戦布告しており、これは、オランダ領東インド政庁が独断で宣戦布告し、当時ロンドンに亡命していた本国政府がこれを追認したためです。

この宣戦布告によって、両国は戦争状態に入り、戦時中は、日本軍は石油資源の獲得を主な目的として蘭印作戦と呼ばれるオランダ領東インド(現在のインドネシア)進攻作戦を決行し、ここを制しています。

日本軍は、ジャワ島内で蘭印軍66000名あまりを含む連合軍82000名を捕虜とし、オランダ民間人を含む欧米の民間人9万人余も収容しました。

このときオランダ人の多くが、自分達が東インド住民を懲罰するために設けた監獄に自ら入れられるという屈辱を味わったほか、オランダ人兵士の一部は長崎の捕虜収容所にも送られ、ここで原爆に遭って被爆しています。

また、日本軍がオランダ人女性を強制連行し慰安婦にした「白馬事件」という事件も起こしています。「白馬」の由来は、白人を白いウマになぞらえていたことからで、1944年2月、南方軍管轄の第16軍幹部候補生隊が、オランダ人女性35人を民間人抑留所から慰安所に強制連行し強制売春させ強姦したといわれています。

終戦後、オランダは、こうした捕虜虐待などの容疑で、多くの日本軍人をBC級戦犯として処罰しており、連合国中で最も多い226人の日本人を処刑しました。

このため、戦後も長らく反日感情は残り、1971年(昭和46年)に昭和天皇がオランダ訪問した際には街中に「裕仁は犯罪者」という落書きが見られ、卵や魔法瓶が投げつけられ手植え苗を引き抜かれるという嫌がらせがありました。

これらのことからか、1989年(平成元年)の大喪の礼の際も、多くの君主国が王族を派遣したものの、オランダからは王族が葬儀に参列することはありませんでした。

その後1991年(平成3年)にオランダ女王が来日した際には、1951年のサンフランシスコ講和条約と1956年の日蘭議定書では賠償問題が法的には国家間において解決されているにもかかわらず、宮中晩餐会においてこの女王から賠償を要求する発言が飛び出し、これに対して日本政府は総額2億5500万円の医療福祉支援をオランダに対して実施しました。

同年海部俊樹首相がオランダ訪問の際にオランダ人の戦没者慰霊碑に献花した際にオランダ人が花輪を池に投げ捨てるという事態も起きており、いかに反日感情が根強いのかが窺えます。

しかし2000年に今上天皇が訪問した際にはオランダのテレビ番組で献花の様子が公開され、昭和天皇と正反対に熱烈な歓迎を受け、以後オランダ国民の日本皇室に対する感情を大きく変えました。

ただ、慰安婦問題はまだ両国間で解決しておらず、2007年(平成19年)にはオランダ議会下院で、日本政府に対し「慰安婦」問題で元慰安婦への謝罪と補償などを求める慰安婦問題謝罪要求決議がなされています。この問題は国際法的には解決済みですが、オランダとしてはいまだ被害者感情は強く、60年以上たった今も戦争の傷は生々しいかんじです。

従って、オランダ旅行へ行き、あちらの人がフレンドリーだからといっても、日本がオランダに負った戦争責任のことは頭の隅に置いておく必要があり、また国交があるからといっても、貿易において日本の輸出額のほうが過剰になりすぎている、といったことも覚えておく必要があります。

ただ、ほんの(?)150年ほど前は出島という小さな島においてお互いの友好関係を育んでいたという事実は彼等も覚えているはずであり、この話をきっかけに、オランダ人とももっと仲良くなれるに違いありません。

かつてハワイ大学時代の私の恩師の一人もオランダ人でしたが、20年以上を経た今は音信不通になっており、まだご健在かどうかもわかりません。が、もし時間と金銭的な余裕ができたら、ぜひオランダ本国にも行き、再会を果たしたいものです。

それが無理なら、せめてハウステンボスにでも、今年はぜひ行ってみたいものですが、果たして実現するでしょうか……

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