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廃墟から愛をこめて

2014-1300まだ梅雨の走りだというのに、雨がどしゃどしゃ降っているところが多いようで、6月の降雨量は過去最大になるのではないか、と予想される地域が早くも出てきているようです。

ここ伊豆ではまだそれほどでもないのですが、去年大島に土砂災害をもたらした大雨のことを考えると、その可能性もないとは言い切れず、ちょっと警戒してしまいます。今年の1月には大雪で我が家も屋根の一部が破損したのですが、これに引き続いての被災とならないよう願いたいものです。

さて、過去にあった今日の出来事の一覧表をみていたら、1962年の今日、アメリカのアルカトラズ連邦刑務所から二人の囚人が、脱獄に成功した、とありました。

首謀者は、フランク・リー・モリスという男で、このほかにも仲間2人が脱獄。この脱獄劇は、後にクリント・イーストウッド主演の映画「アルカトラズからの脱出」に描かれました。

このアルカトラズというのは、カリフォルニア州のサンフランシスコ湾内にあり、市内から2.4kmのところに浮かぶ小島で、私も上陸こそ経験はありませんが、サンフランシスコに観光に行った際、遠目に視認したことがあります。

少々赤茶けた黄土色の建物が立ち並んでいて緑は多くなく、さながら洋上要塞のようでしたが、あぁこれがかの有名なアルカトラズかと、感心すると同時に、海が平穏ならば、泳いでいけそうな距離にあり、なぜ、脱出不能といわれたのだろう、と不思議に思ったものです。

これは、後で知ったことですが、この島のある周囲は、カリフォルニア海流と言う寒流が湾内に流れ込むため水温が極端に低く、また、サンフランシスコ湾の狭い湾口から大量の海水が出入りするため、海流がかなり早くなります。さらに、太平洋から大陸に当たった下層水が湧き上がる湧昇流が起こっており、表層ではかなり海流が乱されています。

栄養価の高い下層水が湧き上がるため、プランクトンが集まりやすく、このためこれを餌とする魚類も多く、その中には危険なサメも多く含まれていて、遊泳は危険です。

海流や深層水におる表層水の乱れは波浪にも影響を与え、一カ所に多方向からの波が集中することで波高が高くなる現象、俗にいう「三角波」も発生しやすく、このため航行船舶にとっても難所とされ、その昔は、アルカトラズにも灯台が建設されていました。

この灯台はその後拡張され、軍事要塞として活用されるようになりましたが、太平洋戦争後は軍事監獄となり、1963年まで連邦刑務所として使用されていました。このころから「ザ・ロック」の名で親しまれるようになり、これは、ショーン・コネリーとニコラス・ケイジが共演し、ここを舞台とした映画のタイトルにもなりました(1996年)。

監獄島とも呼ばれ、連邦刑務所時代には凶悪犯ばかりが収容されており、14回の脱獄事件が起きています。脱獄した受刑者数は36人にのぼりましたが、このうち23人は身柄を確保され、6人は射殺され、2人は溺死しました。5人は行方不明となりましたが、溺死したものと推測されています。

1946年3月に起きた脱獄事件は「アルカトラズの戦闘」として知られています。6人の受刑者が看守を襲って武器と監房の鍵を手に入れましたが、運動場への鍵を見付けることができず脱出に失敗し、当局との銃撃戦の末、2日後に制圧されました。6人のうち3人は死体で発見され、残り3人は裁判にかけられてうち2人はガス室に送られました。

フランク・リー・モリスたちが、この島から脱出しようとした1962年ころにも、まだ凶悪犯が多く、著名なギャング、アル・カポネや、ジョージ・“マシンガン”・ケリーなどもここに収容されていました。

このほか、他の刑務所で規則を遵守しない者、暴力的行為を行った者、脱走の危険があると考えられた者などがここに送られましたが、立地上、島内への水と食糧の供給にコストがかかったため、連邦刑務所としての運用が終了されることになりました。

モリスたちが脱獄するのはその閉鎖のほぼ1年ほど前のことでした。ワシントンD.C.で生まれたモリスは、幼い頃から里親に育てられましたが、13歳の頃に犯罪に手を染め、10代の後半に麻薬所持や強盗の罪などで逮捕されました。IQは133だったと言われ、その知能を生かした巧妙な手口の犯罪が多かったようです。

収容されたのは脱獄を実施に移す2年ほど前の1月のことですが、モリスはアルカトラズに着いてすぐにその盲点に気付き、脱獄を計画し始めたといいます。この計画には、アレン・ウェストと、ジョン&クラレンス・エングリンという兄弟が加わりましたが、ウェストだけは計画の立案には加担したものの、脱獄そのものには加わりませんでした。

脱出に先立ち、モリスとエングリン兄弟はほぼ2年をかけていかだと自分たちに似せた人形を作りました。このいかだは、長細い浮き袋を三角形に組み合わせ、並べてその上にシートを貼り付けたものでした。また、人形は、紙くずと、粘土や穴の削りくずを合わせて作ったもので、首から上の部分だけでしたが、遠目には本物と見えるほど巧妙なものでした。

三人はまた、仕事場から穴を掘る道具を盗み取り、交替で穴を掘りつづけ、そして、1962年3月になってようやく独房の裏手へと続く穴を掘ることに成功しました。

1962年6月11日の夜、計画は実行に移されました。3人はベッドに用意しておいた人形を配置し、掘った穴から煙突を登って屋根伝いに脱出し、かねてから用意しておいたいかだで闇の中へと消えていきました。

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看守たちがモリスらの脱獄に気づいたのは翌朝のことでした。直ちに連邦捜査局(FBI) は大勢の捜査員を動員して、捜査を開始しましたが、その結果、彼等が使ったと思われるいかだの一部やエングリン兄弟の物であった防水バッグなどが発見されました。

しかし、モリスらの遺体は見つからなかったため、FBIはモリスらがサンフランシスコ湾で溺死したと断定しました。彼らは強盗などの常習犯であったにもかかわらず、脱獄後もそうした犯罪で捕まったという報告はなされることはなく、サンフランシスコ湾の荒波を乗り切れなかったのではないか、という観測がなされたためでした。

しかし、筏まで周到に用意した脱出であったことや、主犯格のモリスは頭の良い男として知られており、はたして失敗するような未熟な計画を実施に移しただろうかといったことが取沙汰されました。

また、後年、アメリカのバラエティー番組でモリスらと同じ材料同じ道具で作ったイカダでサンフランシスコ湾を横断したところ、見事に渡れる事が証明されたといい、こうしたことから、彼等は脱獄に成功し、今もどこかで生きているのではないか、という伝説が生まれました。

この伝説から生まれたのがクリント・イーストウッドがモリスを演じた。映画「アルカトラズからの脱出」ですが、この映画もまた結局は彼等の生死は不明、という終わり方をしています。

現在、この島は、アメリカ合衆国国立公園局が運営するゴールデンゲート国立レクリエーション地域の歴史地区となっており、一般観光客に公開されています。観光客は、サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフ近くのピア33からフェリーで島に渡ることができます。

毎日午前9時から30分ごとに出発しているそうで、島そのものへの入場は無料です。島内では、オーディオガイドの案内に従って回ることもできるそうで、このオーディオガイドの使用料金はフェリー料金に含まれていてリーズナブルなうえに、臨場感ある説明もあいまって大変人気があるようです。

また、アルカトラズ島にはこうした歴史的建造物の見学だけなく、自然保護区となっているがゆえの豊富な野鳥を見ることができるという魅力があります。カモメや鵜、ウミバトのような海鳥や、ユキコサギ、ゴイサギのような水鳥がいるほか、島では花々を楽しむこともできるといいます。

人間が入るまでは、島には薄い土壌にまばらな草と灌木が生えているだけだったといいますが、軍事要塞ができると軍当局が島外から土壌を持ち込み、1865年には頂上の砦のそばにビクトリア様式の庭園ができました。1920年代、全島的な美化計画が行われ、受刑者らの手によって多くの木々、灌木、種子が植えられていきました。

しかし、1963年に連邦刑務所が閉鎖され、島が打ち捨てられていた約40年間、島の厳しい環境に耐えられずに枯れてしまった花もあったようです。しかし、そうした中でも咲き続けた花もあり、2003年からは非営利団体が、国立公園局と提携して、庭園の修復・保存に取り組むようになったといいます。

私がサンフランシスコを訪問したのは、20年ほど前ですから、この取組が始まる前です。このためかつて遠目には殺風景だったこの島も、今は緑に覆われているのかもしれませんが、再度アメリカへ行く機会があったら、ぜひ島にも渡り、どうなっているのかを確認してみたいところです。

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ところで、日本にもこのアルカトラズと似たような島があります。

長崎の天草灘に浮かぶ端島(はしま)という島で、この名よりも「軍艦島」という名称のほうがポピュラーでしょう。同じく天草灘にある「高島」という島と同じく、かつては海底炭鉱によって栄えました。

高島のほうは、石炭から石油へのエネルギー転換のあおりを受けて採掘が減少し、1985年の粉塵爆発事故という追い討ちもあり、1986年をもって閉山しました。が、端島のほうはこれよりもさらに早く、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974年(昭和49年)に閉山しています。

一時期は、東京以上の人口密度を有していましたが、閉山とともに島民が島を離れたため、現在は無人島となり、アルカトラズのように緑はほとんどないため、文字通り殺伐とした「廃墟」となっています。

長崎港からは、南西の海上約17.5キロメートルの位置にあるため、とても泳いで渡れる島ではありません。またサンフランシスコから最短で2キロしかないアルカトラズのように陸上から詳細に視認する、というのは天候にもよりますが、難しいようです。

この島と高島の間にはもうひとつ、「中ノ島」という小さな無人島があり、ここにも炭鉱が建設されていましたが、ここは開鉱後わずか数年で閉山となり、島は端島の住民が火葬場や墓地として使用していたそうです。

この端島ですが、元々は、南北約320メートル、東西約120メートルほどの小さな瀬だったそうです。ところがここの海底で炭鉱が発見されたことから、その周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から埋め立て始め、1931年(昭和6年)までにはその大きさは南北に約480メートル、東西に約160メートルまで拡張されました。

島の中央部には埋め立て前の岩山が南北に走っており、その西側と北側および山頂には住宅などの生活に関する施設が、東側と南側には炭鉱関連の施設があり、後年、かなり高層のアパートなども建てられるようになりました。このため、遠目にはこの建物群がまるで戦艦の艦橋のように見え、端島の名前よりも「軍艦島」で親しまれるようになりました。

戦時中の1945年(昭和20年)6月11日(奇しくも今日)には、アメリカの潜水艦「ティランテ」が、端島近くに停泊していた石炭運搬船「白寿丸」を魚雷で攻撃し撃沈させる、という事件がありましたが、この事件は「米軍が端島を本物の軍艦と勘違いして魚雷を撃ち込んだ」という噂話になり、広まりました。

この話は、かなりまことしやかに伝えられたため、未だ信じている人が多いようですが、しかしアメリカ軍もアホではなく、実際に軍艦と間違えて砲撃を加えられるようなことは一度もしていません。

「端島」と呼ばれるようになったのが、いつごろから用いられるようになったのか正確なところは不明です。が、江戸初期の元禄時代にはもう既にこう呼ばれていたようで、「元禄国絵図」という古地図には既に「端島」と記されています。

しかし、石炭の発見は江戸末期のことで、一般に1810年(文化7年)のこととされます。発見者は不明ですが、1760年(宝暦10年)の記録には、佐賀藩の蚊焼村(旧三和町・現長崎市)と幕府領の野母村・高浜村(旧野母崎町・現長崎市)がここの石炭の掘削権をめぐって争いになったという記述がみられるということです。

とはいえ、実際の採炭のほうはまだこのころには小規模なものであり、江戸時代の終わりまでは、漁民が漁業の傍らに「磯掘り」と称し、ごく小規模に露出炭を採炭する程度でした。

明治になって長崎の業者がやや本腰を入れて採炭に着手したものの、1年ほどで廃業し、それに続く会社が3社ほどもありましたが、いずれも大風による被害のために1年から3年ほどで、廃業に追い込まれています。

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さらに本格的な採炭が始まったのは、1886年(明治19年)のことで、1890年(明治23年)には36メートルもの大きな竪坑が完成し、本格的な採掘が始まりました。この事業を手掛けたのは三菱財閥で、端島炭鉱の所有者であった旧鍋島藩深堀領主の鍋島孫太郎から、島を10万円で譲り受けました。これは現在換算でおよそ40億円になります。

こうして、端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となり、譲渡後の出炭量は、すぐ隣の高島炭鉱を抜くまでに成長しました。三菱は、明治の中ごろまでには、社船「夕顔丸」を就航させ、蒸留水機設置にともなう飲料水の供給も開始(明治24年1891年)。

さらに、社立の尋常小学校の設立(明治26年、1893年)など基本的な居住環境を整備するとともに、島の周囲を段階的に埋め立て、居住面積を増やしていきました。

1916年(大正5年)には日本で最初の鉄筋コンクリート造の集合住宅「30号棟」が建設され、このとき大阪朝日新聞が端島の外観を「軍艦とみまがふさうである」と報道しており、5年後の1921年(大正10年)に長崎日日新聞も、当時三菱重工業長崎造船所で建造中だった日本海軍の戦艦「土佐」に似ているとして「軍艦島」と呼んでいます。

このころから、「軍艦島」の通称はさらに定着するようになったとみられますが、ただし、この頃はまだ軍艦は軍艦でも戦艦ほど重厚ではなく、鉄筋コンクリート造の高層アパートは少なく、30号棟以外は、木造の平屋か2階建ての日給社宅が大半であり、巡洋艦程度だったようです。

大正期に入ってからは、朝鮮人労働力を導入するようになり、第二次世界大戦中までには三菱が徴用した員数と、朝鮮人自身の経営する飯場を合わせて500~600人ほどの朝鮮人がいたといい、これと併せて自由渡航でやって来た所帯持ちの朝鮮人労働者80人ほどを合わせて700人ほどがこの狭い島にひしめいていました。が、それでもまだ序の口でした。

さらに、1944年(昭和19年)には200人ほどの中国人労働者が徴用されてきたため、島の人口は1000人に迫りました。しかし、これらの外国人労働者は、豊富な給料や食事や休日も与えられるなどの虚偽の好条件で騙されてやってきた者が多く、実際には満足な食事や休息も与えられず酷使されました。

過密な人口に加えてこういう劣悪な環境に耐えられず、島抜けする(泳いで島を脱出する)者も多く、自殺を図る者も多数出ました。労働者の大多数は朝鮮人や中国人でしたが、彼等の場合は島抜けを試みるものが多かったのに対し、自殺者には日本人が多かったといい、このあたりのことにも、文化の違いが見て取れます。

ただ、こうした労働者の「島抜け」が成功した例は少なく、大半は溺死するか、警察や監視する職員に捕まって連れ戻され、見せしめに拷問されました。対岸の野母半島(長崎半島)の住民たちは、端島や高島から労働者たちが命懸けで逃げ出してくるのを見て、この島のことを軍艦島ではなく、「監獄島」と呼んだといいます。

また、三菱側は朝鮮人と中国人が手を組んで日本人に抵抗しないよう、朝鮮人は端島の北端、中国人は端島の南端の寮にそれぞれ収容し、作業現場も交代時間も重ならないようにしたといい、作業員管理を徹底していました。

これほどこの島での採掘に力が注がれたのは、無論、太平洋戦争に突入していくにあたって豊富に必要となる船舶などの運用エネルギーをまかなうためでした。端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つでした。

石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭したといい、その後突入する太平洋戦争を支えたと言っても過言でないほどの存在感がありました。

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終戦後の復興期にもまだ良質な石炭は取れ続け、これに対応するため、いなくなってしまった中国人や朝鮮人に代わって日本人労働力が主力となりました。が、食えない時代とあってその労働力が衰えることはなく、終戦後15年を経た1960年(昭和35年)には島内人口は最盛期を迎え、5,267もの人がこの狭い島に居住するようになりました。

その人口密度はなんと83600人/km²となり、これは10m四方におよそ8人が居住していたことになります。これはこの当時世界一の人口密集度を誇り、東京の9倍以上の過密度でした。島内には、炭鉱施設とこれに付随する住宅のほか、小中学校・店舗が作られ、常設の店舗のほか、島外からの行商人も多く訪れていました。

病院も整備され、外科・内科といった基本医療施設以外に分娩設備もあったといい、さらには「泉福寺」という寺院まであり、禅寺だったそうですが、すべての宗派を扱っていました。また、映画館やパチンコ屋・雀荘、スナックなどの遊戯施設もあり、このほか理髪店・美容院まであり、島内においてほぼ完結した都市機能を有していました。

ただし火葬場と墓地、十分な広さと設備のある公園は島内になく、これは前述のとおり、端島と高島の間にある中ノ島に建設されました。

ところが、1960年以、高度成長時代にさしかかると、日本の経済において必要とされるエネルギーは、次第に石炭から石油へとシフトしていきました。これにより高島や端島における採炭は衰退し始めます。

高島における採炭事業はその後1986年まで続き、また端島のほうも1965年(昭和40年)に新坑が開発されて一時期は持ち直しましたが、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受け、1974年(昭和49年)1月、ついに閉山に追い込まれました。

このころまでには、島内住民も約2000人まで減っていましたが、閉山後は徐々に島を離れ、この年の4月20日までに全て島を離れ、端島は完全な無人島となりました。ただ、その後すぐに人がいなくなったわけではなく、高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設の解体作業は1974年の末まで続きました。

しかし、その後30年近い歳月を経る間、島の施設に手を入れる人はいなくなり、その多くは劣化し、廃墟となりました。島は三菱本社からその子会社の三菱マテリアルが管理するようになっていましたが、2001年(平成13年)、旧高島町に無償譲渡され、その後の平成の大合併により長崎市に継承されるようになりました。

ただ、建物の老朽化、廃墟化のため危険な箇所も多く、市は島内への立ち入りを長らく禁止していました。ところが、近年になって近代化遺産としての評価が高まってきたのと同時に、大正から昭和に至る集合住宅の遺構としても注目されるようになり、廃墟ブームもあいまって、この端島もまた話題に上るようになってきました。

このため、2005年(平成17年)、長崎市は、報道関係者限定で特別に上陸を許可し、長らく放置され、荒廃が進んでいた島内各所の様子が各メディアで紹介されるようになりました。

こうして長らく無人だった島に徐々に人が入りこむようになったことから、市としても危険個所の補修などを行うようになり、島内の建築物はまだ整備されていない所が多いものの、ある程度は安全面での問題が解決されるようになりました。

その後、2008年に長崎市で「長崎市端島見学施設条例」と「端島への立ち入りの制限に関する条例」が成立したことから、島の南部に整備された見学通路に限り、2009年(平成21年)4月からは観光客が上陸・見学できるようになりました。

ただし、島内にはヘリの発着場などはなく、島への交通は昔ながらの船のみです。かつて三菱が保有していた社船「夕顔丸」は既に昭和37年に廃船になっており、「野母商船」が長崎港より運行していたフェリーも廃止されています。

このフェリーは1970年の時点では1日12往復しており、長崎までの所要時間は50分だったそうですが、以後こうした定期便は就航していません。ただ、廃墟や近代化遺産として端島が注目されるようになると、禁止されていたにもかかわらず、上陸を試みる無法者が出るようになり、海上白タクなどが利用されていました。

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一方では、合法的に島へ運行する船の就航を望む声が高くなり、これを受け、長崎市は地元の海運会社に島の周囲を巡る遊覧船の運用を許可しました。

現在、長崎港などから運航するようになったこれらの会社が運営する渡船では、種々の「端島上陸ツアー」を行っており、軍艦島コンシェルジュ、 やまさ海運や、高島海上交通の上陸ツアーの場合、長崎市に払う施設使用料込み(市への負担金は300円)で大人4000円何がしかの費用となっています。

ただし悪天候の場合は、桟橋が利用できないため上陸できません。やまさ海運の2009年度の統計によると、欠航便や上陸中止の割合は数割だということで、台風などで海の荒れやすい7月の「上陸率」はわずか34%にとどまるといいます。しかし、海が穏やかな季節は上陸が可能なことが多く、例えば2月と9月はほぼ9割方上陸が可能だそうです。

軍艦島上陸ツアーは、最近の廃墟ブームを受け、年間約6万人もの利用者があるといい、長崎市によれば、ツアー開始後の経済波及効果は65億円に上るといいます。

さらに、経済産業省が端島を含めた明治期の産業施設を世界遺産への登録することを決定したため、端島の人気は更に高まりそうです。2008年9月に「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、世界遺産暫定リストに追加記載されたもので、ユネスコによる2015年の審議の結果が待たれます。

ちなみに、端島に残る集合住宅の中には、保存運動で話題になった東京の同潤会アパートより古いものがいくつか含まれており、7階建の30号棟は1916年(大正5年)の建設で、日本初の鉄筋コンクリート造の高層アパートです。

30号棟を皮切りに、長屋を高層化したような、1918年(大正7年)に建設された日給社宅(16号棟から20号棟)などもあり、第二次世界大戦前の真っ最中で、鉄筋コンクリート造の建物は建設されなくなったころにも、この島では例外的に建設が続けられており、1945年竣工の65号棟は端島で最大の集合住宅です。

なお、端島で鉄筋コンクリート造の住宅が建設されたのは、狭い島内に多くの住人を住まわせるため建物を高層化する必要に迫られていたためです。つまり、コンクリート製の高層住宅には作業員が住み、鉱長や幹部職員などのための住家は木造の高級住宅でした。

高層アパートの中には売店や保育園、警察派出所、郵便局、パチンコ屋などが地下や屋上に設けられたものがいくつかあり、また、各棟をつなぐ複雑な廊下は通路としても使われ「雨でも傘を差さずに島内を歩ける」と言われました。

ただ、木造で内装作りが進められた建物も多く、これらはひどいときには、島全体を覆う波に飲み込まれて腐敗し、塩水の浸透から主構造の鉄筋コンクリートも急速に劣化しており、1号棟(端島神社)の拝殿をはじめ完全に崩壊したものも多数あります。

また、建設当初のものはその建築技術が未熟なものも多く、建材の入手難から海砂を混ぜていたこともあり、これはさらに劣化を促進しました。ただ、古い鉄筋コンクリート建造物が取り壊されること無く手付かずのまま放棄されているため、これは建築工学の観点からみると、経年劣化を研究する上でも貴重な資料であり、研究者からは注目されています。

近年、廃墟ブームはさらに広がりを見せ、この端島のような文化遺産的な性格も持つ廃墟は人気観光スポットとなり、観光ツアーが企画されて多くの人々が廃墟を訪れる現象が起きています。

この廃墟ブームのはしりと言われるのは、1988年(昭和63年)に写真家の、宮本隆司氏が廃墟や取り壊し中の建造物を撮影した「建築の黙示録」だと言われます。宮本氏はこのほかにも香港九龍の九龍城地区に造られた城塞と、その跡地に建てられていた巨大なスラム街を撮影した「九龍城砦」を発表し、廃墟写真ブームの火付け役となりました。

1989年にはまた、同じく写真家の滝本淳助と漫画家の久住昌之が、「東京トワイライトゾーン(タモリ倶楽部)」を発刊しており、その後も1993年に、写真家丸田祥三が「棄景 廃墟への旅」を出版して、これらはさらに廃墟ブームに火をつけました。

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ブームの始まりは、バブルの崩壊とも一致しており、バブル時期に何らかの計画が立ち上がったものの、経済の破たんとともに消滅したものなど、都市開発の計画が頓挫した場所などの建物などが廃墟状態になり、とくにこれらに人気が出るようになりました。

また、北海道など地価が安価で土地に余裕のある地域などでは、撤去費用がかさむのを回避し、古い建屋を撤去せず近くに新たに建てるなどすることが多く、これらの廃屋、廃墟も人気が高いようです。

さらに鉄道ファンの一部には、廃線跡をたどる廃線マニアと呼ばれる者がおり、廃線巡りを熱心に行うマニアは、昨今の鉄道ブームにより「廃鉄」とも呼ばれています。廃線後のみならず廃車体等にも目が向けられ、鉄道廃墟への関心が一気に高まっています。

1990年代以降、廃墟となった施設、学校、病院、鉱山などの跡を訪ねて回る廃墟めぐりツアーも増えてきており、廃墟マニア向けに「廃墟の歩き方」(2002年)といったマニュアル本が発行され、Webサイト、DVDなども、人気を得ています。

その興味の対象としては、廃墟化した建物が持つ特有の雰囲気でしょうが、廃墟となった施設が使われていた頃の様子を想像し、愛着を感じる者もおり、また廃墟の「探検」が楽しいという人もいるようです。

さらには、勝手に人の土地に入込み、旧式のドアの取っ手や、水道の蛇口、照明器具などを無断で持ち帰る人もいます。崩れかけたものを壊して回る輩もいて、このように廃墟には破壊や搾取の対象となり得るものが多く取り残されており、侵入・破壊のターゲットとなりやすい傾向があります。

こうした行為は現役の建造物に対するそれと比べて比較的低いリスクで行える破壊行為であることから、快楽的・愉快犯的な破壊行為ともいえます。いたずら目的ともいえ、こうした行為のことを「ヴァンダリズム」というそうです。

西ローマ帝国を侵略し、ローマ市を略奪したゲルマン系のヴァンダル族にちなんで名づけられたもので、芸術品・公共物・私有財産を含む、美しいものや尊ぶべきものを、破壊もしくは汚染する行為のことであり、平たく言えば「文化破壊運動」です。当然、器物損壊や迷惑行為として取り締まりの対象となります。

廃墟への侵入そのものも、建造物侵入罪による摘発の危険性が非常に高いものであり、写真を撮るだけなら大丈夫と思っている場合でも非難されることがあるため注意が必要です。

ところが、特に廃業したホテルやテーマパークは、廃墟か否かはひとめでわかりますし、入口や窓が壊れている(壊されている)ため侵入しやすくなります。また廃墟として目立ちやすい割には、中に入ってしまえば人の目が行き届かないため、興味も手伝ってこうしたところに抵抗なく立ち入る人が多いのも確かです。

このため、「廃墟愛好家」を自称して違法行為を行う人は後を絶たないようです。が、やはりその立ち入りには許可を得てから行うのが妥当であり、写真家と言われるような有名な人達は、たいていその撮影には許可を得ているようです。

我々も写真を撮っただけなら大丈夫などとタカをくくらず、お縄になる可能性も含めて馬鹿げたリスクは冒さないよう、最大限の注意をもって廃墟に立ち入るようにしたいものです。

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しかし、こうして放置されたままの廃墟の中には文化的な価値の高いものも多く、被写体としても魅力的なものがた多いのも確かです。

現在公に公開されていないこうした廃墟の中で有名なものの中には、犬島精錬所跡(岡山市東区)、松尾鉱山(岩手県八幡平市)、摩耶観光ホテル(神戸市灘区)、鳥島気象観測所跡地(東京都八丈支庁・鳥島)、平沼駅跡〈京浜急行電鉄〉(横浜市西区)といったものがあります。

一方では、こうした廃墟を観光や町おこしなどのために積極的に利用しようという動きもあります。原爆ドーム(広島県広島市)の整備は観光のためではなく、戦争の悲惨さを伝えるという目的のために行われたものですが、廃墟といえば廃墟であり、1996年に世界遺産に登録されました。

このほかにも、行川アイランド(千葉県勝浦市)、カッパピア(群馬県高崎市)、ムーラン乙女(現・御殿場美華ガーデン)、丸山変電所跡地(群馬県安中市)、ホテルエンパイア (神奈川県横浜市)などがあり、現在は廃墟であるもののいずれも何等かの利用が計画されています。

このうち、ホテルエンパイアは、横浜ドリームランド内にあったホテルが廃墟同然となっていたもので、最近大がかりな改装が施され、横浜薬科大学の図書館棟として活用されるようになりました。また、丸山変電所なども、重要文化財に指定され、補修工事が施工され建設当時の姿に復元されています。

このほか、岡山水道南東部にある犬島には、犬島精錬所跡があり、ここではベネッセコーポレーション(岡山市)の会長が美術館財団を設立し、精錬所付近を使った恒久的なアートワークの設置を展開しています。

10年前から「犬島アートプロジェクト」として計画され、2008年(平成20年)「犬島アートプロジェクト“精錬所”」としてオープンしたそうで、以前は予約者のみ見学可能だったものが、2010年度以降は事前予約が不要になり、自由鑑賞制を導入しています。

ここ伊豆もバブルの時代には多くの観光施設が建設されましたが、廃墟同然になったものも多く、実は私が住んでいる別荘地にも、かつて廃墟となったホテルがあったそうです。

「ホテル修善寺ニューッキャッスル」という名前のホテルで、その昔はある議員さんの御用達でずいぶん羽振りの良い時代もあったようですが、バブル後に閉鎖されてからは廃墟同然に荒れ果てていったということです。

あそこにだけは行ってはいけない、必ず憑いてくるから、と地元の人はささやかれる「心霊スポット」でもあり、外部からは怖いものみたさに入り込む人が多かったといいます。

今は解体されて、跡地には瀟洒なスペイン料理店が立っていますが、もしまだ残っていたらもしかして、私も行ってみたかもしれません。

無論、こうした放置施設への無断立ち入りはご法度ですが、ほかにもたくさんあるに違いない伊豆の廃墟を探しに行くというのも案外と楽しいかもしれません。とくに最近凋落の激しい熱海や下田などでは、探せばかなりの廃墟がありそうです。

古いモノ、妖しい雰囲気のある場所になにかと人は惹かれやすいもの。かくゆう私も同じであり、廃墟写真家にまでなるつもりはありませんが、それでもって新たな境地を切り開けるのなら、チャレンジしてみるのもまた楽しいかもしれません。

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ネロの亡霊

2014-0054梅雨に入ったとはいえ、陽射しがないわけではなく、昨日に引き続き今日も朝から陽光に恵まれ、これなら洗濯物も乾きそうです。が、湿気はそれなりにあります。

雨の季節だからと暗くなりがちなのですが、このあと真夏に入れば、我慢しがたい暑さに見舞われるわけで、それを考えると、この少し湿った空気の中で緑を楽しむ気分もまた貴重な時間のような気がしてきます。

いやだいやだと思っているものでも、見方を少し変えてみると、あぁこんなにいいものだったのかと目からウロコ的にその評価が変わるもので、例えばどちらかといえば毛嫌いしていた隣人と、ある時深い話をしたのがきっかけで、見方が180度変わる、と言ったことはよくあることです。

人や物事の評価をひとつの側面ばかりだけからしてはいけない、ということはよく言われることですが、何かと評判の悪い歴史上の人物も、よくよくその生涯を見直してみると、評価すべき点が多かったりします。

有名な生類憐れみの令をはじめとし、後世に「悪政」といわれる政治を次々と行ったとされる5代将軍徳川綱吉なども、諸藩の政治を監査するなどして積極的な政治に乗り出し、没落した将軍権威の向上に努めるとともに幕府の財政を建て直し、戦国の殺伐とした気風を排除して徳を重んずる文治政治を推進した名君という評価があります。

また、2000年ほど前のローマ皇帝としてかのヨーロッパの地に君臨したネロも、多くの近親者や側近を粛清した「暴君」として知られていますが、死後その墓にはローマ市民から花や供物が絶えなかったといい、災害時の被災者の救済や芸術活動の普及などその生前の功績を称えるものも少なくなかったそうです。

ところで、今日6月9日というのは、このネロにとっては、かなり因縁のある日のようで、最初の妻オクタウィアと結婚したのがこの日であるとともに、その9年後の同じ日にこの妻を殺し、さらに6年後、自らの命を絶ったのもこの日のようです。

意図としてそう仕向けたのか、と思えるほど、ドラマチックな筋書きですが、こうしたコインシデンスはままあることで、私の父は幼いころに母親を亡くしているのですが、父もまたその母親の命日に身罷っています。

そんなことってあるんだ、とその当時も驚いたものですが、長らくリハビリ病院で寝たきり生活だった父を祖母が憐れんで、呼んだのではないかと今も私は思っており、ネロの死もまた、殺害したこの最初の妻があの世から意図として仕組んだのではないかと、考えてしまいます。

このネロというのは、ローマ帝国の第5代皇帝で、本名は、ネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクスという長ったらしい名前です。その晩年、民衆の反感を買い、元老院が「国家の敵」と断罪したため、逃亡した先のローマ郊外で自らの喉を剣で貫き自殺しました。

しかし、自分では死にきれず最後は奴隷に切らせて果てたといい、わずか31歳という若さでした。

さらに死後もネロは元老院によってダムナティオ・メモリアエという刑を課されたといいます。これは、「記録抹殺刑」の意味であり、生前の功績をすべて抹殺するという、暴君とはいえ、行った数々の善政をも否定するものでした。

ところが、このネロを自死に至らしめた元老院に加担し、その後に第6代の皇帝になった
セルウィウス・スルピキウス・ガルバは、わずか1年の在位で、ルシタニア(イベリア半島西部)総督であったマルクス・サルウィウス・オトに暗殺されて死んでいます

ガルバが失脚した原因は、ネロの放蕩によって破綻していた帝国の財政の再建を図ったものの、潔癖すぎた人だったがために、軍部内での賄賂などを一切認めず、このため、軍隊の支持を得ることができなかったためです。

また、民衆の反乱をしばしば許すなどネロの死後もその治世を安定させることができず、オトに殺害されましたが、その後皇帝の座についたこのオトもまた、軍部の支持を得ることができず、わずか3ヶ月の在位で自殺しています。

古代ローマ帝国は、初代皇帝アウグストゥスに始まる5人の皇帝、すなわちアウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロの治世の代には安定した繁栄を築き、この時代は「ユリウス・クラウディウス朝」と呼ばれましたが、ネロの死によってこの王朝は5代94年の歴史にいったん幕を下ろし、断絶することになります。

以後、軍が武力を背景に皇帝を擁立するようになり、上述のようにガルバやオトといった短命の皇帝が相次ぐなど、ローマは内戦といもいえる状態に突入しました。

従って、ネロは暴君だとネガティブな面ばかりで批判されがちですが、ローマの安定を図るために周囲の粛清などによってタガが緩み始めた帝国を引き締めようとしたのではないかとみる向きもあるようです。

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ネロの生前の評価が高かった証拠に、死後にネロを神格化する向きもあったようで、ガルバから離反し皇帝になったオトはネロ派の復職を認め、ネロの銅像やドムス・アウレアの建設再開を許可し、ネロを裏切った護衛隊長ティゲリヌスを処刑し、民衆の人気を買いました。

また、オトの次の皇帝アウルス・ウィテッリウスはネロの立派な葬儀を行い、慰霊祭を催して民衆を喜ばせたといいます

さらに後年に11代皇帝となるティトゥス・フラウィウス・ドミティアヌスは、この人も暴虐な君主として恐れられた人ですが、その暴君ぶりはネロが乗り移ったためだという伝説や、このほかにもネロがよみがえったとする伝説は多々あります。ローマ周辺の属国などでも、ネロが蘇ったとする「偽ネロ」の出現が相次いだといいます。

ネロは、皇帝に即位したのち、その治世の初期には名君の誉れが高かったといいます。家庭教師でもあった哲学者ルキウス・アンナエウス・セネカや近衛長官であったセクストゥス・アフラニウス・ブッルスの補佐を受け、このころローマを襲った大火後にもネロが陣頭指揮した被災者の救済やそのための迅速な政策が実行されました。

このローマ市の再建は非常に市民に受けがよかったといい、ネロに批判的だった勢力も、「人間の知恵の限りをつくした有効な施策であった」と評価しています。

また、ネロは建築技術の革新にも大きな足跡を残しました。当時のローマ市内は木造建築がメインでしたが、大火以降にネロが建築したドムス・アウレア(黄金宮殿)は、現在でもその高い耐久性が評価されているローマン・コンクリートを生み出しました。

さらに、ネロがローマの大火以降行った貨幣改鋳は、その後150年間も受け継がれており、たびたび起こった住民間での争いなどにも公平な対処をしたといわれます。南イタリアのポンペイの円形闘技場起こった住民間の争いでは、ネロはこの後10年間、闘技会の開催を禁止しており、これは、市民の秩序と安全のためだったといわれています。

このほか、この当時「パルティア」と呼ばれ、現在のアルメニアやイラク、グルジア、トルコ東部、シリア東部、トルクメニスタン、アフガニスタン、タジキスタン、パキスタン、クウェート、サウジアラビアなどにまたがる帝国との外交政策も成功させ、その後こうしたオリエント諸国とは50年以上平和を保つことができました。

ネロの死後、パルティア国王は元老院に対して、「ネロは東方諸国にとって大恩ある人であり、今後も彼への感謝祭を続けることを認められたい」申し出て受理されています。

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これほど善政を敷いてローマ市民からの受けもよかったネロが、何故暴君と呼ばれるようになったかですが、これは、ネロが皇帝になるために第4代ローマ皇帝であった伯父のクラウディウスの後継者と目されていた、息子のブリタンニクスを毒殺したのに引き続き、数多くの近親や側近を殺しているためです。

その4年後には実母のアグリッピナを殺し、3年後には妻オクタウィアを自死に追い込み、さらに3年後には家庭教師のセネカを殺害しており、加えて64年に発生したローマ大火の犯人として多数のキリスト教徒を迫害したことから、後世からは暴君として知られるようになったものです。

ただ、ネロの後半生の悪行は、ネロの二番目の妻、ポッパエア・サビナによるものとする説も多く、ネロを牛耳り政治に介入しようとした母親のアグリッピナの暗殺を画策し、ネロの最初の妻のオクタウィアが不倫をしているとネロに告げ口したのもこのポッパエアだといわれています。

母親のアグリッピナや、妻のオクタウィアが本当にそういう悪いことをしていたのかどうかについては諸説あるようですが、いかんせん、こうした近親者を死に至らしめるという行為は、国家元首の振る舞いとしては明らかに問題でした。

ネロの幼少期の家庭教師だった、セネカは、ネロが皇帝になったその初期にはブレーンとして彼を支え、哲学者としても著名で、多くの悲劇・著作を記し、この時代の代表的な文学者としても有名な人でした。

ところが、その晩年には横領の罪を着せられ、セネカはこれを機に、ローマ帝国から得た財産の全てをネロへ返還し、今後は研究のために生涯を捧げたい旨をネロに伝えたといいます。が、64年のローマ大火に際しては今度は放火犯の一味として告発されます。

放火犯として処断されたキリスト教指導者と手紙をやり取りしていたと断罪されましたが、後世、この書簡自体が全くのでっちあげだったことがわかっており、この告発からセネカは、ネロに「ローマから離れて地方で暮らしたい」と要望しました。しかし叶えられず、以後は病気と称して部屋から出ることを避けるようになりました。

その後、ネロを退位させて新たな皇帝を擁立しようとする陰謀計画が露見した際、その共犯者とされる人物がセネカこの陰謀に関与していると名指ししため、ネロはセネカを尋問するべく役人を送りました。

しかし、セネカは曖昧な対応に終始したため、ついにネロはセネカに自殺を命じました。このときネロはまた、セネカの甥で詩人のマルクス・アンナエウス・ルカヌスがこの陰謀に関与したとして、同じく自害を命じています。

セネカは始めにドクニンジンを飲みましたが、死に切れなかったため、風呂場で静脈を切って死に至ったとされています。このとき、セネカは最期に以下のように語ったそうです。

「ネロの残忍な性格であれば、弟を殺し、母を殺し、妻を自殺に追い込めば、あとは師を殺害する以外に何も残っていない」

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こうしてセネカもまた自死とはいえ、ネロに殺害されましたが、このときセネカの妻パウリナも夫と共に自殺を図りました。しかし、これ以上の評判下落を恐れたネロによって阻止されたといいます。

こうした周囲の人間の粛清のほかにも、ネロは暴君といわれるようになる数々のエピソードを残しています。

例えばネロは自分のことを「芸術家」と思い込んでいたようで、歌が好きだっために、数千人に及ぶ観衆を集めコンサートと称してワンマンショーを開くのが趣味だったといい、さらに「青年祭」という私的祭典まで興し、ここで自ら竪琴を演奏したといいます。

4年に1度開かれるオリンピア祭(現オリンピック競技)に対抗し、5年に1度開かれる「ネロ祭」なるものも創設したといい、これは音楽、体育、戦車の三部門からなる大会で、この内、ネロは竪琴、詩、弁論の3種目に出場したそうです。

元老院は皇帝がまるで庶民のような行動をするのを阻止しようと、出場の有無を問わず優勝の栄誉を授けようとしたといいますが、ネロは「おーきなお世話だ、ワシは堂々と出場して勝利する」とこれを拒否したそうです。

さらにはオリンピア競技にも出場し、優勝によって獲得した栄冠は1800にも及んだといいます。もっともこれは主催者側が画策した大胆な出来レースであり、その多くの勝利は明らかに不正であり、戦車競技などでは戦車から落下して競争から脱落しながらも優勝扱いになったこともあったといいます。

また、ネロは「詩人」としても舞台に立ちたがったといいます。住民を集めて独唱会も開いてたといいますが、そのあまりのへたくそ加減に退屈して逃げる者が続出。しかしネロはこれを見越して出入り口が使えないようにしていたといい、このため、塀をよじ登って脱出する住民が続出し、死んだ振りをして棺桶で外に運び出された者まで出たといいます。

更にはネロの独唱中に外に出ることを禁じられていたがため、産気づき出産した女性も数人いたと伝えられており、ネロの親友の一人はネロの演奏中に退屈のあまり眠ってしまい、これが原因でその後ネロから絶交を申し伝えられたそうです。

こうした歌手の真似事のほかにも、部下や親族の中に美人を見つけると皇帝の権限で搾取をしたそうで、この当時は男色も普通だったため、見目麗しい男性をみつけるとつまみ食いをしていたそうです。また、あるときには、スポルスという美少年を去勢させ妻に迎えて歴代の皇后の装身具で着飾らせたともいいます。

皇帝暗殺の陰謀に関連して、有能な将軍を確たる証拠もなく謀殺したこともあり、やがてこうした振る舞いは、皇帝としてふさわしくないと側近や元老院だけでなく多くの市民にも見放されるようになり、最後には軍からも反感を買うようになっていきます。

こうした憤懣が高まり、68年3月には、ローマの属州で、現在のフランス東部にあったガリア・ルグドゥネンシスというところで、反乱が勃発。ここの総督で、こののちネロに続いて皇帝になるガルバや親友だったオトまでもがこれに同調しました。

この反乱はいったん鎮圧され、ガルバは元老院から「国家の敵」決議を受け逃亡しますが、その後、穀物の価格が高騰しているローマで、エジプトからの穀物輸送船が食料ではなく宮廷格闘士用の闘技場の砂を運搬してきたという事件が報じられ、ネロはさらに市民の反感を買うようになります。

こうして元首の支持率低下を機にネロと対立していた元老院は、ネロを逆に「国家の敵」と断じ、前年に国家の敵としていたガルバを皇帝に擁立します。これによって、ネロは国外逃亡を図り、ローマ郊外で妾の解放奴隷の別荘に隠れましたが、騎馬兵が近づく音が聞こえるに及び、自らの喉を剣で貫き自殺しました。

その死ぬ直前にネロは、「何と惜しい芸術家が、私の死によって失われることか」という有名な言葉は吐いたというのですが、これが本当かどうかの真偽は定かではないようです。

また、ネロが自刃した直後に現れた追っ手の百人隊長が、すでに息絶えていたネロに危害を加えるのはさすがに人の道に反すると考え、遺体を丁重に扱うためにマントを掛けようとしとき、突如ネロが目を見開き「遅かったな。しかし、大儀である」と言い残し、目を見開いたまま絶命した、という話も残っています。

百人隊長はこれを見て仰天し、恐怖したといいます。が、これはあまりにも出来すぎた話なので、これも後年の創作であるという説が強いようです。

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このように、この皇帝ネロの短い生涯には光と陰がありますが、14年という比較的短い在位中に造られた数々の「ローマ建築」は、現在にも受け継がれ、高い評価を得ています。

ドムス・アウレア(黄金宮殿)は、その代表的なものであり、ローマ市街を焦土と化した64年の大火災の後に建設されました。

ネロはローマ芸術の保護者を自認しており、当時ローマ市は非常に密集した状態であったにもかかわらず、エスクイリヌスの丘(現エスクィリーノの丘)の斜面にテラスを造り、人工池とこの宮殿を建設しました。

その後この宮殿はほとんど壊され、その代りに現在まで残るコロッセオが建設されましたが、今も残るこの当時の浴場の地下には、その宮殿の一部が残っています。内部は大理石やモザイクを使った贅沢なもので、これはローマン・コンクリートによって構築されたドームでできた八角型の部屋です。

ドーム頂部からだけでなく、これに付随する部屋への採光を確保できるような造形は、この時代から使われるようになったローマン・コンクリートがあってはじめて成り立つもので、皇帝自らの邸宅にこうした革新的な造形が採用されたことは、他の建築に新しい技術や意匠をもたらす契機となりました。

ネロの死後、104年に宮殿は火災に遭い、その敷地は次々と公共建築用地に転用され、宮殿の庭園にあった人工池の跡地にはコロッセウムが建設されました。

このコロッセウムは、当初の正式名称は「フラウィウス闘技場」だったそうですが、建設開始当時にはまだネロの巨大な像、「コロッスス」が傍らに立っていたため、コロッセウムと呼ばれるようになったといわれています。

このほか、ネロが手がけた建築事業のうち、その最大規模のものが「コリントス運河」だといわれています。アテネの約100キロ西にあるこの運河の開削をネロは67年に開始。

ギリシャの本土とペロポネソス半島とをつなぐ幅約6kmのコリントス地峡は、イオニア海につながるコリンティアコス湾とエーゲ海のサロニコス湾を隔てており、船による両海の航行を妨げていましたが、この運河の開削によって、エーゲ海からイタリア側への航路はかなり短縮される予定でした。

この運河を掘る構想は古代ギリシアの時代からあり、古代ローマ時代にもカエサルやカリグラも関心をもっていましたが、ネロの時代についにこれに着手。6000人の奴隷を動員して3.3kmあまりを掘りましたが、その途中にローマでガルバらの反乱が起こりネロは自殺してしまいました。

死後、帝位についたガルバによって工事は中断され、その後長きにわたって放置されていましたが、その後1815年ぶりの1882年に工事が再開されました。

途中、出資元のフランスの企業が倒産する災難などもありましたが、ギリシアの会社に引き継がれて工事は継続され、1893年に完成にこぎつけました。現在もネロが計画した運河は、この完成した現在のコリントス運河の一部となっており、ネロの時代の土木建設技術の高さがうかがわれます。

このように、暴君といわれつつも数多くの偉業をなしとげたネロですが、その評判がかんばしくないのは、やはり多数のキリスト教徒を迫害したことによるものが大きいようです。

人類史上初めてのキリスト教徒迫害を実施したといわれており、当時のローマ帝国内では、ローマ伝統の多神教を否定するキリスト教を嫌悪している者が圧倒的に多数派であったといい、ネロもその一人でした。このため、ネロはローマ大火にかこつけて、多数のキリスト教徒を殺害しました。

挙句のはて、この迫害は「人類(ローマ国民)全体に対する罪」によるものだとキリスト教徒を一方的に断罪しており、このためもあって、現在でもキリスト教文化圏を中心にネロに対する評価はことさら低いようです。

また、初代のローマ教皇・ペテロはネロの迫害下で逆さ十字架にかけられ殉教したともいわれており、このため、キリスト教信者の間では、ネロは悪魔や堕落した女性(大淫婦)で暗喩される人物となっています。

男性なのに、なぜ大淫婦とされるかについては、上述のとおり、ネロには男色の趣味もあり、花嫁衣裳を着て解放奴隷との結婚式をあげたという話が残っているほか、宝石趣味があったとされ、おびただしい宝石で身の回りを飾り立てる嗜好があったためのようです。

宝石の中でもとくに蛍石が大好きだったといい、気に入った蛍石はどんな手段を使っても手に入れていたそうで、このためある執政官は、ネロに取られたくないばかりに蛍石製の柄杓を死の直前に叩き壊してしまったと伝えられています。

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また、キリスト教では、「666」を「獣の数字」つまり、悪魔の数字として忌み嫌いますが、「皇帝ネロ(Nero Caesar)」をギリシア語で表記し、その頭文字を「数秘術」で読み解くと、それぞれ50,200,6,50,100,60,200になるそうで、その和が666になるということです。

もっともこれはネロの死後のこじつけだと思われ、キリスト教徒を迫害したネロのことを、暴君転じて、悪魔としてみなし、その象徴としてこの数字の持つ意味を悪魔主義的なものとしてみなすようになったものです。

映画「オーメン」で有名になりましたが、欧米では「666恐怖症」と呼ばれるほど忌み嫌われており、有名な話としては、ナンシー・レーガンとロナルド・レーガン夫妻が1979年にロサンゼルスに転居した際、666 St. Cloud Roadという住所を668 St. Cloud Roadに変えさせたという事例があるそうです。

また、2003年には米ケンタッキー州にある神学校の電話の局番号が666であったため変更したという例や、2006年6月6日に子供が生まれることを懸念する女性が多数いたといい、2007年にも、オランダのあるキリスト教系財団が発行していた歌集が666号に達した時、彼らはその番号を飛ばしてこれを発刊しました。

日本でも、干支の丙午(ひのえうま)年の生まれの女性は気性が激しく夫の命を縮めるという迷信がありますが、これは、江戸本郷の八百屋の娘で、恋人に会いたい一心で放火事件を起こし火刑に処された八百屋お七が丙午生まれだとされたことに由来します。

以後、丙午の年には火災が多いといわれるようになり、丙午の年にはお産をためらう人が増えました。ちなみに偶然ですが、このお七が生まれたとされたという丙午の年は、西暦に直すと1666年になります。まさかキリスト教の666とは関係ないでしょうが、案外と数字の持つ意味というのは霊的なものを含んでいるのかもしれません。

さて、今日は暴君といわれたネロについて長々と書いてきましたが、このネロによって一時代が形成されたローマ帝国はその後400年もの間続き、その後東ローマ帝国、西ローマ帝国に分裂しました。その後476年に西ローマ帝国は滅亡し、東ローマ帝国を継承したといわれるオスマン帝国もまた、1461年までには滅亡しました。

もっとも、オスマン帝国を東ローマ帝国の継承者とみなすことには反対意見も多く、その滅亡をもって「ローマ帝国の滅亡」と認識されることはむしろ少なく、ローマ帝国全史を取り上げたい場合を除いては「西ローマ帝国」の滅亡をもってローマ帝国の滅亡とすることが一般的のようです。

その継承国家としての資格は、西ローマ帝国滅亡後にとくに勃興したゲルマン系諸王国にあるといわれますが、現在、ローマ総大司教管轄下のキリスト教会と関係の深いヨーロッパの国々はそのほとんどが継承者といっても間違いなく、またオスマン帝国滅亡後に興ったトルコやかつてのロシア帝国もその後継者を称していました。

現在では公式にローマ帝国の継承国家であることを主張する国家は存在しませんが、ルーマニアの国名は「ローマ人の国」という意味であり、またイタリア国歌「マメーリの賛歌」の歌詞には、自国民とローマ帝国との連続性を主張する部分があるそうです。

そんな、ヨーロッパ各国の強豪が名前を連ねるサッカーワールドカップがもうすぐはじまります。

日本はローマ帝国とは縁もゆかりもなく、逆にこれらの皇帝ネロの亡霊が守る国々と対決していくことになりますが、ネロの亡霊に負けることなく、頑張って欲しいと願う次第です。

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史上最大の作戦

2014-1030818先日、中四国・近畿地方にひきつづき、東海地方も梅雨入りしたとの気象庁発表がありました。

えっ!?もう?という向きもあるでしょうが、例年だと8日ぐらいが梅雨入りになるようですから、それより数日早い程度で、想定内といえば想定内です。

この「想定内」というのは、2005年の流行語大賞にもなりました。この年の2月、ホリエモンこと、堀江貴文氏が社長を務めるライブドアが、ニッポン放送の株を大量に取得して同社最大株主となり、すわ乗っ取りかと騒がれました。

このため、堀江氏は株取得が報道された直後から当時ニッポン放送の子会社だったフジテレビジョンを出入り禁止になり、出演していた同局の人気番組「平成教育委員会」などからも降板させられましたが、直後の記者会見でこのとき彼が放った言葉が「想定の範囲内」であり、その後、これを略した「想定内」が大流行するようになりました。

この想定内とは、わざわざ説明するまでもありませんが、物事が、事前に予想した範囲の内に収まっていることを指します。無論、反対用語は「想定外」です。

何をもって想定内とするかは、それを予想する時間スパンの要素に加え、その時の状況やその状況に至った経緯、そして想定であるか想定外であるかを判断するための知識量に大きく左右されるわけですが、なんでもかんでも想定内、というような超人はいないはずで、たいていの予想ははずれるものです。

第二次世界大戦中の1944年6月6日に、連合軍によって行われたナチス・ドイツ占領下の北西ヨーロッパへの侵攻作戦である、ノルマンディー上陸作戦においても、侵攻される側のドイツ軍は、連合軍がどこに上陸するかについての予想を極めることができずに緒戦で敗れ、その後の継戦能力を大きく削がれる事となってしまいました。

この「史上最大の作戦」が決行される前、ドイツは北欧からスペインに至るほとんどの国を占領し、その次の矛先をソ連に向け、ヨーロッパ東部にその主力を置いていました。ところが、このヨーロッパ占領前には、イギリスにも進行しようとした矢先にこれに失敗しており、このためイギリスだけはドイツの魔の手から逃れる形になっていました。

東欧に侵攻しようとするドイツにとっては、イギリスはその背後を脅かす脅威となったわけであり、万一大西洋側からイギリスとアメリカが共同で攻めてくるようなことになると、東部におけるソ連との戦線とともに、二面戦争となり、せっかく手にいれたヨーロッパを失いかねません。

そこで、ドイツはノルウェーから、フランスを通って、スペインに至る長大な海岸線沿いをすべて要塞化しようとし、「大西洋の壁(Atlantic Wall)」と呼ばれる厳重なる防衛体制を構築しようとしました。

「大西洋の壁」は連合軍の攻撃をはじき返すための強力な防御施設の連続で、「ドイツの背後を突こうとする連合軍を、大西洋に叩き返す」と、ヒトラーは内外にプロパガンダを発していました

これを現実のものにするため、ドイツが注いだ力は凄まじいもので、膨大な量のコンクリート、セメントが集められ、徴用された何万人もの労働者たちが、狂人のヒトラー自身すら「狂信的」と表現するほどの突貫工事を進めました。

しかし、あまりにも膨大な建設資材の必要性に対して、特に鉄鋼材は少量しか入手できなかったため、大規模な大砲陣地などの強力な施設の数は少数にならざるを得ず、フランス軍が独仏国境に構築した要塞などから、設備を取り外して建設を進めることなどを余儀なくされました。

そもそもノルウェー沿岸からスペインにまで達する、5000キロ近い大西洋沿岸すべてを要塞化することが不可能なのは明白だった上に、東部戦線でのソ連軍はなかなか手ごわく、この時期のドイツは明らかに、西部戦線よりも東部戦線の方に力を注がなければならない状況でした。

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にもかかわらず、二面戦争に突入せざるを得ない状況を作ったのは、緒戦でイギリス手痛い敗北を喫したということもありますが、明らかにヒトラーの驕りであるとともに戦略ミスであり、この点、中国大陸以外にも、太平洋南部にまで部隊を次々に展開して兵站を伸ばしすぎ、自滅していった日本とよく似ています。

ドイツ側は、連合国の進行に対して、智将・名将として名高いロンメル将軍をこの西部戦線に投入しましたが、ロンメルは北アフリカで米英と闘った経験から、連合軍の侵攻を防ぐ方法はただ一つ「敵がまだ海の中にいて、泥の中でもがきながら、陸に達しようとしているとき」であり、水際で徹底的に殲滅することしかない、と確信していました。

このため、ロンメルは機甲部隊の海岸近辺への配置を望んでいましたが、ドイツの西部方面軍総司令官ルントシュテットは、内陸部に連合軍をあえて引き込み、連合軍の橋頭堡がまだ固まりきらないうちを狙って撃滅する作戦を支持し、どちらが正しい作戦かを巡って二人は対立しました。

この両者の論争を解決するために、ヒトラーはフランス北部で運用可能な機甲師団6個のうち、3個をロンメルに与え、残りの3個は海岸から離れた位置に温存配備し、ヒトラー直接の承認無しでは運用出来なようにする事で、この作戦の方向性を折衷案のような形をもって決着させました。

この判断は後になって問題になりました。上陸が行われた後、ヒトラーが残りの3個師団の運用許可を出すのに時間がかかり、このため残りの3個師団を有効に活用できなくなったためです。

また、後方に温存されていたため沿岸部に向かって移動する最中に連合軍の戦闘爆撃機などに襲われ移動速度は低下し、移動中に多くの戦車を喪失する結果となりました。

さらに、ドイツ側は、連合国側の陽動作戦に惑わされてしまいました。この上陸作戦にあたっては、イギリス本土基地からフランス側へ飛ばす連合軍戦闘機の航続距離には限りがあり、地理学的にみてもその上陸地点にはあまり選択肢がありませんでした。

このため、上陸地点はギリス本土から距離的に最短であるドーバー海峡の向こうにある、パ・ド・カレー(カレー港)か、これより西方のノルマンディーの2地点に絞り込まれていきました。連合国側としては、ドーバー海峡を挟んで最も短距離のパ・ド・カレーが最適と考えていましたが、当然の事ながらドイツ側もここへの上陸を警戒していました。

このため、色々な議論が戦わされましたが、結局、連合国側は上陸地点としてノルマンディーを選択しました。

ノルマンディーはドイツ軍の布陣が薄かったこともありましたが、ここはフランス国内各地やドイツ本国方面で繰り広げられていた戦闘地からやや離れており、戦略的にはドイツの防御を混乱させ分散させる可能性を持つ攻撃地点であるからでした。

しかし、ノルマンディーが最終的に選択されたことをドイツ側に悟られることを恐れた連合軍は、侵攻作戦の目標がパ・ド・カレーであり、また隙あらばドイツ占領下のノルウェーに侵攻する準備が整っているとドイツ軍に思い込ませることにしました。

このため、連合軍は「ボディガード作戦」という大規模な欺瞞作戦を展開しており、この中で、架空のアメリカ軍師団を偽の建物と装備と共に作り、いかにもこの軍隊が、カレーやノルウェー方面に展開し始めているかのような、偽のラジオメッセージをイギリス各地に流し始めました。

更にこの作戦により現実味を持たせるため、その架空軍団の指揮官には当時謹慎中だったパットン将軍が指名されました。

パットン将軍といえば、映画「パットン大戦車軍団」で有名なアメリカの猛将ですが、この当時イタリアのシチリア島での作戦の最中、野戦病院を見舞った際に、まったく外傷のない兵士を見つけ、臆病であるとしてその兵を殴打するという事件を起こしていました。

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実は、この兵士は砲弾神経症(シェル・ショックという)によって精神状態が不安定になっていたために入院していたのですが、一見健康そうな者が重傷者達と一緒に病院のベッドに寝ていることがパットンには我慢がならなかったのです。

運の悪いことに、このとき現場の医師がこの件をアイゼンハワーに報告したため、かねてより癇の強いパットンを疎んじていた司令部は、この事件を報道に流してしまい、「兵士殴打事件」として世に広く知られるようになってしまいました。

この報道ではまた、砲弾神経症がどのようなものについての説明はなされておらず、このためパットンは何もしていない兵士を殴ったという認識が世間では持たれました。

アイゼンハワーはこれを機会にパットンを本国に送還するつもりでしたが、結果的には思いとどまり、前線指揮官の地位を剥奪するにとどめました。パットンはその後自主的に被害にあった兵と現場にいた兵士達に謝罪しましたが、第7軍の指揮を外され、その後カイロで10ヶ月近く待機することとなっていたのです。

しかし、ドイツは側としてはそんな事情はつゆしらず、この架空の部隊の存在にかき回されるようになりました。ドイツはこの当時、イギリス南部の広範囲にスパイ網を持っていたため、実際の上陸地点を知るため盛んに諜報活動を行っており、さかんにこうした情報が本当に正しいかどうかを探ろうとしました。

ところが、不運なことに連合国側に寝返った諜報員が多く、ほとんどの情報は上陸地点がパ・ド・カレーであることを確認するものでした。さらに連合国側はカレーやノルウェーへの侵攻をドイツ側に信じさせるため、これらの地域のドイツ軍のレーダー施設や軍事施設への攻撃をとくに集中させるようにしました。

ノルマンディーに1トンの爆弾を落とした場合はパ・ド・カレーに2トンの爆弾を落とすと言う具合で、あくまでノルマンディー方面はフェイントであり、パ・ド・カレーが連合軍の主目標であることを印象付けるようにしました。

さらには、北欧により近い、イギリス北部のスコットランドから無線交信を流し、この交信の中で、侵攻作戦がノルウェーあるいはデンマークを目標としているといった偽の情報を流し、これをドイツのアナリストに認識させるようしむける、と言ったことも行われました。

この作戦は功を奏し、ドイツ軍はこの架空の脅威のため、この地域の部隊をフランスに移動させることができませんでした。

ところが、智将として知られるロンメルはやはりバカではありませんでした。彼は連合軍が上陸するのはノルマンディーに間違いないと考え、着任の後、全力でノルマンディー沿岸の防御施設の構築を推し進めました。

手に入る限りの資材・人員・武器・兵器を全て投入し、その中でも地雷は最も多く投入され、ノルマンディー沿岸の全体に埋められたその数は約600万個以上であったといい、その他にも波打ち際の海中に立てられた杭には機雷をくくりつけ、砂浜に障害物を置き、空挺部隊が降下しそうな地域を増水させ罠を設置するなど出来る限りの備えを施しました。

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このロンメルが施した防衛設備は、のちに実施に移された上陸作戦において連合国側に大きな被害を与えました。とくにもっとも激戦地といわれたオマハ・ビーチでは、2500名とも、4000名とも言われる、多数の死傷者が出ました。

死傷率が一番高かったので「ブラッディ(血まみれの)・オマハ」と呼ばれましたが、その他の上陸地点もこれほどの被害は出なかったとはいえ、大きな人的損傷を受けました。

カナダ軍が上陸した、ジュノー・ビーチではドイツ軍が据えていた20基もの重砲台に直面し、機関銃の巣とトーチカや他のコンクリート堡塁、そしてオマハ・ビーチの二倍の高さの護岸堤に阻まれて、その第一波は、オマハ以外の5つの上陸拠点のうちで最高の50パーセントの死傷者を出しました。

この上陸作戦の決行の日にちを、連合国側は、Dデイ(D-Day)と呼んでいました。このDの由来については諸説ありますが、欧米ではこの当時から漠然とした日付をDayの頭文字をとって“D”とする習慣があったようです。

上陸作戦のDデイは当初1944年6月5日に設定されていましたが、悪天候により延期され、6月6日になりました。のちにノルマンディー上陸作成の実施によって「Dデイ」が一般に広く知れ渡ったため、その後は、各国の軍事作戦立案担当者は作戦開始の日付として「Dデイ」と呼称するのを避けるようになりました。

例えば、ダグラス・マッカーサー元帥指揮によるレイテ島への侵攻作戦は「Aデイ」と呼称され、沖縄侵攻作戦は「Lデイ」と呼ばれました。マッカーサーは九州における日本本土侵攻作戦の開始日を「Xデイ」としていたそうで、そのあと実施する予定であった関東への上陸は「Yデイ」と提案していたそうです。

上述のとおり、当初このDデイは6月5日になる予定でした。ところが、この日ドーバー海峡付近は激しい暴風雨に見舞われていたためアイゼンハワーは作戦期日の1日延期を決定し、Dデイは6日になりました。

このため、6月5日のノルマンディー沖での集結のため4日からすでに出航していた輸送船団は中止の命令を受けて引き返すなどの混乱がありましたが、ドイツ側でもこの悪天候によって判断を狂わされる結果が生み出されました。

ドイツ側は、この天候は9日ころまで回復しないであろうと予想していましたが、これはこのころ既にドイツ軍は大西洋方面の気象観測基地を多く失っていたためだといわれています。

このため、ドイツ軍上層部は、当分連合軍の上陸はないと判定したため幹部の休暇要請の許可まで出しており、ロンメル将軍のほか、海軍総司令官カール・デーニッツをはじめ、西方軍集団情報主任参謀マイヤデトリング大佐、諜報を担当する国家保安本部軍事部長ハンセン大佐も休暇をとっていました。

このように、予報にかけては連合軍が有利であり、6日に既に天候が回復すると観測し、開戦前日の6月5日、ドイツ時間午後9時15分、「秋の歌」第一節の後半「身にしみて ひたぶるに うら悲し」という暗号放送を流しました。

これは「放送された日の夜半から48時間以内に上陸は開始される」との暗号でしたが、ヴィルヘルム・カナリス海軍大将が指揮するドイツの諜報機関、国防軍情報部、通称、アプヴェールはこれを傍受し、直ちに関係する各部隊へ警報を発しました。

実は、連合軍は徹底的に上陸作戦についての情報を秘匿していたにもかかわらず、アプヴェールは、作戦が開始される前兆として、BBC放送がヴェルレーヌの「秋の歌」第一節の前半分が暗号として放送されるという情報をつかんでいました。

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ところが、のちに製作された映画「史上最大の作戦」の原作者であるコーネリアス・ライアンも「謎」と評しているように、不思議なことにドイツの各部隊はこの情報を得ても何も表立った対応をとりませんでした。

西方軍集団司令部参謀長ブルーメントリットなどは「商業ラジオで作戦を予告する軍司令部など、この世にあるはずがない」と、この情報を無視し、他の幹部たちもこの情報を重視しませんでした。ドイツ軍が最も侵攻を恐れていたカレー方面に展開した部隊のみは、すわ侵攻かと備えましたが、ここからも上級司令部に通報は行われませんでした。

かくして「史上最大の作戦」が開始されました。実際には、ノルマンディーへの上陸に先立ち、その前日の6月5日の夜から上陸位置の側面を制圧し、ドイツ軍の反攻を阻止する目的で、ノルマンディー東部においてイギリス・カナダ陸軍空挺部隊の強行着陸・空挺降下による制圧・占領・破壊作戦が実施され、これはトンガ作戦と呼ばれました。

実際に海岸から上陸が開始されたのは、6月6日の午前0時を回ってからで、イギリス第6空挺師団、アメリカ第82、第101空挺師団がノルマンディー一帯に降下作戦を開始しました。

その規模はまさに、「史上最大」であり、海空からを合わせて47個師団が投入され、その内訳はイギリス軍、カナダ軍、自由ヨーロッパ軍26個師団にアメリカ軍21個師団でした。

この「師団」というものの編制については、国や時期、兵科によってかなり異なりますが、21世紀初頭現代の各国陸軍の師団は、2~4個連隊または旅団を基幹として、歩兵、砲兵、工兵等の戦闘兵科及び輜重兵等の後方支援部隊などの諸兵科を連合した6千人から2万人程度の兵員規模になります。

従って、平均して1万3千人が一師団だとすると、全体では60万人規模の作戦であったことになります。また、用意された上陸用舟艇4,000隻といわれ、艦砲射撃を行う軍艦130隻を含む6,000を超える艦艇が投入されました。

さらに1,000機の空挺部隊を運ぶ輸送機を含む12,000機の航空機が上陸を支援し、ドイツ軍に対して投下するために合計5,000トンの爆弾が準備されました。

これに対し、Dデイ当時のフランスには約200個大隊ものドイツ軍兵士が駐留していたといわれており、1大隊の編制は平均的には5~600人ぐらいですから、全体では10万人規模の兵士がいたことになります。

ただ、こうしたドイツ国防軍所属の正規兵以外にも、武装親衛隊が編成した志願兵である「義勇兵」などもおり、その正確な数字はわかりませんが、これを合わせると15万人とも20万人ともいわれるドイツ兵がいたことになります。

もっとも、こうした義勇兵はドイツ語も喋る事が出来ず、訓練の水準も低く武器も古いものしか支給されなかったようで、一部の部隊を除いて士気は総じて低く、連合軍の部隊が近付いただけですぐに降伏してしまう者が多かったといいます。

また、ドイツ軍は、カレー方面への侵攻を連合国側に信じ込ませられていたため、この方面には、4万近くの空軍や海軍兵が駐屯していたものの、残る兵士たちは、長々と続く「大西洋の壁」に分散させられ、拠点毎にはかなり手薄の場所もありました。

しかし、ドイツ人というのは、要塞を作るのが得意な人種で、上述のとおり、ロンメルが連合軍の攻撃をはじき返すために建設した強力な防御施設は実に頑強なものでした。その多くは地下式でコンクリートと鉄骨鉄筋を用いた砲爆撃に耐えられるものであり、襲来してきた敵に対して有利に防衛戦を展開するため、徹底的な設備の隠蔽が行われました。

カムフラージュは厳重を極め、砲台・観測所等は植物・網・擬装民家などで隠蔽され、上陸してきた連合国側は、当初どこから弾が飛んでくるかを判断できず、初戦において大きな被害を出しました。

しかし、この地域のドイツの空軍力は貧弱でした。この時フランス北部沿岸全体に183機しか戦闘機を保有しておらず、しかもそのうち使用可能機はたった160機でした。

これはドイツ本土への空爆に対応させるためと、残り少ない戦闘機を、とりわけ爆撃の激しいフランス北部沿岸で損耗させることを避けるための措置でしたが、ドイツの国防軍最高司令部が海の荒れる6月には連合軍は上陸しないと見ていたのも大きな要因でした。

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このため、6月6日の当初の上陸作戦に対しては、カレーにほど近いリールという場所にあった飛行場から、2機の戦闘機が出撃し、上陸中の連合軍に一回の機銃掃射を加えたのが、ドイツ空軍戦闘機が唯一行った上陸作戦に対する攻撃でした。

それでも、Dデイの翌日には15個以上の飛行隊が可及的速やかに異動され、その結果約300機ほどの戦闘機が西部戦線に配備されました。しかし、それにしても連合軍空軍に比べると明らかに劣勢でした。

その後、戦線が膠着するにつれ、ドイツ空軍は壊滅的状態に陥り、7月に入る頃には170機ほど失い、このため、制空権はドイツ空軍の手に入ることはほとんどありませんでした。この結果、ノルマンディーで散々連合軍の戦闘爆撃機に悩まされる事となったドイツ兵達は「我々の空軍は何処だ?」と嘆く事となりました。

また、ドイツ海軍もこの事態に対処するために動きましたが、圧倒的な連合国の海軍力によって制海権をほとんど得ることができませんでした。この海域にはおよそ50隻のUボートが敵上陸に備え配備されていましたが、いたずらな損耗を避けるため、実戦には投入されませんでした。

しかしもともとドイツ海軍には開戦以前から大型艦は乏しく、しかも1942年にフランスにおいて激しい英軍の空襲からの損耗を避けるため北海へと移動していたため、この侵攻作戦時には、フランスには小艦艇のみが残存するだけでした。

上陸作戦開始当初、ルントシュテットとロンメル両司令官やその他の主要幹部、そして最高司令官のヒトラーは就寝中でした。このとき、不覚にもロンメルは妻の誕生日を祝うためにベルリンで休暇を取っており、このため直属の装甲師団を指揮することが出来ず、全体としても軍団の昼間行動は大きく制約され、有効な反撃が出来ませんでした。

ヒトラーのいる総統大本営にもノルマンディに連合軍の上陸行動ありと連絡されましたが、これはカレーへの本格上陸のための陽動であると判定され、このため寝起きが強烈に不機嫌なヒトラーは起こされませんでした。

連合軍の作戦範囲があまりに広かったこともあり、どこが実際の上陸地点かを把握するにも手間取り、これを本格上陸と断定できたのは日の出の後であり、ロンメルが連合軍上陸開始の連絡を受けたのはイギリスやアメリカの空挺師団が降下作戦を開始し始めてから、10時間以上も経った、午前10時15分に至ってのことでした。

さらにヒトラーが起床し、作戦会議が開始されたのは正午になってからであり、しかもヒトラーはなおも上陸作戦を主作戦ではないと見ており、第二の上陸作戦を警戒していました。

もしノルマンディーへの上陸が陽動だったとしても今のうちに叩いておかなければ主攻撃が来た時に十分に対応できない、とロンメルやルントシュテットが説明してもヒトラーは耳を貸さず、このため、ドイツ側はノルマンディーへの対処に全力を注ぐことはできませんでした。

上陸後は、連合国も大きな被害を出しましたが、一旦上陸拠点が確保されると、大量の物資や弾丸が毎日陸揚げされ、日に日に連合国側有利の情勢に変わっていきました。その反対に海岸に配置されたドイツ軍防衛部隊は、訓練不足および補給の不足、一週間にわたる爆撃によりその抵抗は次第に弱体化していきました。

ところが、連合国のうち、米軍空挺部隊は最初から分散して降下するはずではなかったものの、予想を上回る対空砲火のせいで輸送機が分散してしまい、その結果広範囲にわたって降下する羽目になってしまいました。しかし、そのせいでドイツ軍は降下してきた米軍空挺部隊の実数が掴めず対応に苦慮することになってしまいました。

また、上陸が始まった後も連合軍の仕掛けた欺瞞作戦は機能し続け、ドイツ軍上層部はかなり長い間、ノルマンディーへの上陸はカレー上陸を容易にするための陽動作戦ではないかと疑い、カレー方面の兵力を動かすタイミングを逃してしまいました。

ノルマンディーへの上陸作戦を主攻撃だと断定してカレー方面の部隊に移動命令が下った頃にはすでに状況は手遅れでした。ドイツは、6月7日、8日にカナダ軍を攻撃し大損害を与えましたが、この間に各管区の海岸は全て制圧されていきました。

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連合軍はドイツ軍より急速に前線を強化しつつ内陸部に侵攻し、制空権を握るとともにドイツが利用していたフランスの鉄道網の破壊作戦を展開し、ドイツ軍の移送を停滞させました。

また、ノルマンディーのすぐ西側にはシェルブールという重要軍港がありましたが、ヒトラーはここを連合軍に奪われないよう、死守するよう命じました。しかし、ここの指揮官は6月26日には早々と降伏してしまい、シェルブール港は連合国側の手に落ちました。

これにヒトラーは激怒し、この方面の作戦を指揮していた第7軍司令官フリードリヒ・ドルマン上級大将を叱責。軍法会議を恐れた彼は、心労から心臓発作を起こして死亡しました。が、実際には服毒自殺ではなかったかといわれています。

その後も、ノルマンディーより内陸では激戦が続きましたが、連合軍はさらに内陸へと進撃し、上陸から80日後の、8月25日、ついにパリの解放に成功しました。

全体的に見た場合、この作戦は大成功といえました。連合軍はフランス上陸に成功し、第二戦線を構築した結果ドイツ軍は二正面作戦を展開することを余儀なくされ、東部戦線でもソ連に満足に対応することができなくなりました。

この東部戦線では、ドイツ中央軍集団は壊滅的な打撃を受け占領していた地域のかなりの部分を失い、ドイツは継戦能力を大きく削がれる事となり、ノルマンディー上陸作戦はその後のドイツ敗戦への序章となりました。

ただ、連合国側は、作戦でもかなり重要なポイントとされていた大規模な港湾の確保に手間取ってしまい、作戦の初期段階で奪取するはずだったシェルブール港の侵攻にも時間がかかり、占領時点でも主要な港湾施設はドイツ軍守備隊により完全に破壊されていた結果、この港は8月末まで機能しませんでした。

同じく作戦の初期段階で奪取するはずだったノルマンディー内陸の拠点、カーンも占領に手間取り、連合軍が同市及びその周辺地区を完全占領下に置いたのは7月27日になってからでした。

ドイツ軍の守備の妙もあり連合軍はどの方面でも予定通りに進撃することができず、ノルマンディー以外のフランス解放はかなり遅れ、フランス全土の解放は、1945年1月、イタリア戦線で連合軍がドイツを撃破し、イタリア北部からフランスへの進撃が始まるのを待つこととなりました。

ドイツ側ではこの間、対米英和平に傾いたルントシュテットが7月2日に更迭され、西部方面軍司令官にはギュンター・フォン・クルーゲが就任しました。このクルーゲとロンメルは元々不仲であり、西部方面軍の結束はさらに乱れました。

また、反ヒトラーグループに参加していたシュパイデル参謀長もロンメルに対して対米英和平とヒトラー排除を進言するようになり、ロンメルも対米英和平を唱えるようになっていきましたが、これは後にロンメルが粛清される原因ともなりました。

ロンメルはヒトラーの大のお気に入りでした。ノルマンディー上陸作戦の行われる2年前、ヒトラーは彼のそれまでの戦いを賞賛して元帥に昇進させており、ロンメルは史上最年少のドイツ陸軍元帥となりました。戦争が始まる前は少将に過ぎなかったロンメルでしたが、戦争が始まって3年足らずで4階級も昇進するという前例のない出世をしていました。

ノルマンディー上陸作戦が敢行されたのち、フランス国内では連合国側とドイツは激しい攻防戦を繰り広げていましたが、そんな最中の7月17日、ノルマンディーの前線近くを走行中のロンメルの乗用車がイギリス空軍のスピットファイアによって機銃掃射され、ロンメルは頭部に重傷を負って入院しました。

そのわずか3日後の7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件が発生。暗殺は偶然が重なって失敗に終わったものの、首謀者の一人が、自決を図って失敗した際にうわ言のようにロンメルの名を口にしたため、ロンメルのこの計画への関与が疑われました。

そのおよそ3ヶ月後の10月14日、ヒトラーの使者として療養先の自宅を訪れたヴィルヘルム・ブルクドルフ中将とエルンスト・マイゼル少将は、ロンメルに「反逆罪で裁判を受けるか名誉を守って自殺するか」の選択を迫りました。

裁判を受けても死刑は免れず粛清によって家族の身も危うくなることを恐れたロンメルはこのとき、「私は軍人であり、最高司令官の命令に従う」とだけ言い、家族の安全を保証させた上で1人自宅の森の中へ入り、2人から与えられた毒をあおり自ら命を絶ちました。

圧倒的な戦功で知られたロンメルの死は「戦傷によるもの」として発表され、祖国の英雄として盛大な国葬が営まれました。しかし、ヒトラーはこの葬儀には参列せず、このときロンメル夫人はこの葬儀でヒットラーの後継ともいわれたゲーリングの敬礼を無視し、「夫を殺した」マイゼル将軍の握手を拒んだといいます。

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生前のロンメルはヒトラー暗殺計画について一切明言しなかったため、関与の有無は不明ですが、戦後、夫人は「エルヴィン(ロンメルのファーストネーム)はヒトラー暗殺計画に反対していた」と主張しました。

実は、ロンメルはその晩年には、反ナチ的な言動を繰り返しており、こうした態度を特に隠そうともせず、この戦争を引き起こしたナチの台頭を苦々しく思っていた節があり、ヒトラーの暗殺計画が失敗したあとに、取り乱したヒトラーの言動や行動を見て「どうやら本当に気が狂ったようだ」と漏らしたりしています。

あるナチス高官は、ロンメルが常々ナチスの犯罪や無能さを批判していたとゲシュタポに証言しており、暗殺には反対していたもののヒトラーを逮捕する事には賛成だったとする説もあるようです。

ロンメルは、連合軍のフランス侵攻に備えるために編成されたドイツ西方総軍を率いるルントシュテット元帥の指揮下に入ったとき、着任早々難攻不落だと大々的に宣伝されていた「大西洋の壁」を視察しています。

しかし、現物を見て、この宣伝が本当に宣伝だけであった現実を見て愕然としたといい、連合軍の上陸が予想されていたカレー方面ですら工事の進捗具合は80%、自分の部隊が展開していたノルマンディー地方では20%と言う悲惨な状況を見て、とても難攻不落とは言いがたいことを知ります。

その日よりロンメルは精力的に活動し、未完成の「大西洋の壁」を少しでも完成に近づけるために全力を傾注しましたが、ロンメルは北アフリカでの経験から連合軍が圧倒的な航空優勢のもとで攻撃を仕掛けてくるという事を理解しており、その圧倒的航空優勢下では反撃のために大規模な部隊展開を行う事が事実上不可能であることを知っていました。

このためロンメルはもし連合軍が攻撃を仕掛けてきた場合は上陸時に水際で徹底的に迎撃する事を主張したのですが、ルントシュテットとの対立により、彼の主張に基づく防衛体制は結局とられませんでした。

ロンメルは、もし上陸がおこなわれたら、その第一日目はドイツ防衛軍にとって「最も長い一日(Der längste Tag)になる」と訴えたそうですが、その一日はドイツにとって果たして長い長いものになりました。

ロンメルは、騎士道溢れる軍人だったそうで、火力で敵を押し込むハード・キルより相手を撹乱する事で降伏に追い込むソフト・キルを好み、捕虜には国際法を遵守して非常に丁重に扱ったといいます。

ロンメル暗殺を企図してイギリスのコマンド部隊がドイツ軍施設を奇襲攻撃するという事件がありましたが、この時にも、イギリス側で出た死者を丁重に扱っており、このコマンド部隊員を捕虜にせず殺害せよと命じたヒトラーの命令を無視したそうです。

また、ある戦いでユダヤ人部隊を捕虜にした際、ベルリンの司令部からは全員を虐殺せよとの命令が下りましたが、ロンメルはその命令書を焼き捨てたといいます。

彼は最後までナチス党に入党する事はなく、あくまで1人の軍人として戦い続けた数少ないドイツ軍人であり、また大隊長であった第一次世界大戦の頃から自ら進んで前線に出て兵士に語りかけ、兵士の心情を理解する事に努めた人でもありました。

本来、高級将校は前線に出ず後方で全般的な指揮を行うものですが、ロンメルはとくに瞬時に変遷する電撃戦などでは「前線で何が起きているか、兵士にさえわからない」と陣頭指揮を旨としました。規律に厳しく兵員を直接に叱責することもありましたが、兵士からは「Unser Vater(我らが親父)」と慕われていたそうです。

ユダヤ人の虐殺などの戦中の残虐な行為や、また敗戦国である事からナチス指導者やほかの多くのドイツ軍人が非難される中、ロンメルだけはドイツのみならず敵国だったイギリスやフランスでも智将として、あるいは人格者として肯定的に評価される事が多かったようです。

北アフリカ戦線でロンメルに苦しめられたイギリスのチャーチルでさえ「ロンメルは神に愛されている」と皮肉にも似た賞賛を残しています。

こうした立派な人物がドイツの指揮を執っていたら、第二次世界大戦は起きなかったかもしれませんが、いつの世にも言われるとおり、歴史には「たられば」はありません。かくしてナチスドイツは、歴史の中に消えていきましたが、ロンメルに代表されるようなドイツ人の良心は、その後のドイツの復興の中で大いに生かされました。

そんなドイツやノルマンディーのあるフランスにも私は行ったことがありません。いつの日かお金を貯めて、ぜひとも彼の地に行ってみたいと思っていますが、いつのことになるでしょうか……

お金持ちのあなたも、ヨーロッパへ旅行する機会があれば、ぜひかつてのこの激戦地へも行ってみてください。

さて、今日も長くなりました。終りにしましょう。

夕暮れの湘南海岸

6月はウマの季節

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今年は午年ですが、先日のこと、新聞で6月に行われる公的行事の一覧表をぼんやり見ていたら、スポーツの欄ではやけに競馬の大会が多いのが目につきました。代表的なものは国内では東京駿馬、安田記念のほか宝塚記念などがあり、イギリスでも、かの有名な「ダービー」(正式名はダービーステークス)」が開催されます。

実は、日本はアメリカ合衆国、オーストラリア、アルゼンチン、アイルランドに次ぐ世界第5位のサラブレッド競走馬生産国であり、世界的にみても競馬がさかんな国のひとつです。この競馬競技を支えるために、北海道の日高地方、青森県、岩手県などで競走馬を生産する牧場がたくさんあり、ばんえい競走の重種馬も北海道の各地で生産されています。

この競走馬ですが、オスの競走馬のことを、「牡馬」と書き、おうま、おすうま、ぼば、おま、などと呼びます。また、メスの馬は、「牝馬」と書き、こちらは、めうま、めすうま、ひんば、めま、と呼びます。種オス馬と繁殖メス馬を交配させ、繁殖メス馬を妊娠させて繁殖させますが、この交尾は一般に、毎年春に起こるメス馬の発情にあわせて行われます。

生まれてある程度成長したら、競走馬として扱われることにウマを慣れさせますが、これを「馴致」を行うといいます。もっとも初歩的な馴致は人間の存在に慣れさせることであり、1歳になると馬具の装着に慣れさせ、最終的には人間が騎乗することにも慣れさせます。

その後競走馬は「厩舎」に入ることになりますが、その前に仔馬に対し、競走馬としての基礎的なトレーニングを積ませます。これを「育成」といい、1歳後半から2歳の前半にかけて育成牧場で行われる騎乗馴致、騎乗訓練、調教などがあります。

競走馬用のウマは当初は生産者が所有しますが、やがて馬主によって購入されます。一般的な時期は生まれた直後から2歳にかけてです。購入方法はセリ市(セール)による場合と、生産者と馬主の直接取引(庭先取引という)による場合とがあります。

競走馬として登録され、デビューに備えて管理にあたる調教師の厩舎(トレーニングセンター)に預けられます。入厩の時期は一般に2歳の春から夏にかけてであり、競走に出走するまでに競走馬名が決定すします。日本においては2歳の春、すなわち4~7月頃以降に競走に出走することとなります。

3歳馬になるのもこの季節です。このため、3歳馬レースの代表的存在であるダービーステークスなどのレースが行われるのもこの季節が多くなり、これが6月に競馬がたくさん開催される理由です。

ダービーステークス(Derby Stakes)の略称である、「ダービー」とはこれを創設した人の名前です。一方、ステークスとは、近代競馬の成立以後、イギリスで賞金を懸けての競走が盛んに行われるようになった際、その賞金を拠出するため、レースに所有馬を出走させる馬主が賭け金、すなわち“stake”を出し合ったのに由来します。

この賭け金のこと、もしくはこれを集めたものは“stakes”と呼ばれ、やがては勝者あるいは事前に定められた番手の入着馬までに分配するという方法そのものをステークス方式と呼ぶようになりました。

ダービーはロンドンから南に約30キロ離れた、エプソム競馬場で行われる競技です。競争距離は約2400メートルほどで、他国のダービーと区別するために、特に欧米ではエプソムダービー(Epsom Derby)という表記も多く見られ。日本のメディア、特にテレビなどではイギリスダービーと呼ぶこともあります

1776年にセントレジャーステークスの盛大さを見たダービー伯爵(エドワード・スミス=スタンリー)とイギリスジョッキークラブ会長のチャールズ・バンベリー準男爵、そしてスタンリーの義叔父であるジョン・バーゴイン将軍の3人によって、1779年に創設されました。

セントレジャーステークスとは世界最古のクラシック競走であり、競走名は18世紀のスポーツ愛好家であったアンソニー・セントレジャー陸軍中将に由来します。出走条件は3歳限定で繁殖能力の選定のために行われるため、去勢を行ったオス馬、これを騸(せん)馬といいますが、当初はこの出走はできませんでした(現在は可)。

また、クラシック競走(Classic Races)とは、古くから施行されていた伝統的な競馬の競走を指す言葉です。

サラブレッド競馬である、2000ギニー(1809年創設。3歳オス馬メス馬限定)、1000ギニー(1814年創設。3歳メス馬限定)、オークス(1779年創設。3歳メス馬限定)、ダービーステークス(1780年創設。3歳オス馬メス馬限定)、セントレジャーステークス(1776年創設。3歳オスメス馬限定)の5競走を“British Classics”(英国クラシック競走)と呼びます。

これに習い、日本でもこの5競走に相当する3歳馬のための皐月賞、桜花賞、優駿メス馬(日本版オークス)、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞を「クラシック競走」と称するようになりました。

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ダービーステークスは、メス馬専用競争であるオークスステータスのオス馬版として創設されました。オークスステークス(The Oaks Stakes)というのは、ダービーと同じくエプソム競馬場で例年6月に行われる競馬のクラシック競走で、3歳のメス馬限定戦です。距離はダービーと同じです。

オークスのほうは、エドワード・スミス=スタンリ伯爵が自身と友人の所有するメス馬同士のレースを行ったのがレースの始まりで、オークスはこの伯爵の領地名です。ダービーと同様、他国においてもこれにならった競走を「オークス」と称する事例が多数見られ、日本では優駿牝馬(ゆうしゅんひんば)がメス馬ばかりのオークスになります。

一方のオス馬レース、ダービーの名称は、1780年に創始者のダービー伯爵とバンベリー準男爵の間でいずれの名を冠するかをコイントスによって決定したことに由来します。

ダービー伯爵はバンベリー準男爵を尊重して、これをバンベリーとしたかったようですが、当の準男爵は片田舎のレースに自分の名を冠されることをよしとせず、結局くじで決めることになったというわけです。

出走条件は当初、3歳オス馬とされましたが、その後は条件が緩和され、メス馬も走っています。ただし、優勝馬の数はオス馬が圧倒的に多くなっています。

ただ、オス馬は、競走時に興奮しやすい難点を抱えています。これが競走能力を妨げていると判断された場合、気性を穏やかにし、能力を発揮しやすくするために去勢がなされることがあります。この去勢されたオス馬は、上でも述べたようにせん馬(騸馬)として区別されます。

また、特に障害競走においては、オス馬は去勢しないと危険であり、事故の危険が高まるといわれています。このため、イギリス・フランスやオーストラリア・ニュージーランドなど障害競走を有する多くの国では、障害馬はほとんどがせん馬ですが、日本においては障害馬でも去勢されないことが多いようです。

去勢によって能力が開花する馬も多く見られますが、去勢によって繁殖能力を喪失するため、そもそも優秀な繁殖馬の選定を目的としたクラシックなどの重要な競走では、出走権が無くなるというのがその理由です。

ダービーもまた、繁殖馬の選定のために行われるレースなので騸馬の出走はできません。かつては出走できた時期もありましたが、騸馬が優勝したことはありません。

ウィンストン・チャーチルはかつて、「ダービー馬のオーナーになることは一国の宰相になることより難しい」と述べたといわれていますが、実はこれは後世の創作であることが確認されており、それが巷間信じられているほど、ダービーに勝つことの難しさとその名誉を物語っています。

現在、世界各国で本競走を模範としてダービーの名を冠した競走が開催されています。本場イギリス以外ではアメリカ合衆国のケンタッキーダービーが有名であり、日本の東京優駿なども国内最大級の競走で知られています。

この東京優駿(とうきょうゆうしゅん)とは日本中央競馬会(JRA)が東京競馬場の芝2400mで施行する競馬競走です。一般的には副称である「日本ダービー」が広く知られており、現在の日本の競馬においては代名詞とも言える競走です。正賞は内閣総理大臣賞をはじめ日本馬主協会連合会会長賞・東京馬主協会賞、朝日新聞社賞などです。

1932年(昭和7年)にダービーステークスを範として創設されたもので、後に創設された皐月賞・菊花賞とともに「牡(オス)馬三冠競走」を構成するようになり、第3回より施行場を現・東京競馬場(府中)に変更して以降は、開催地・距離ともに変更されていません。

日本の競馬に関わる全ての者が目標とする競走で、とくに騎手は本競走を優勝すると「ダービージョッキー」と呼ばれます。1973年までは日本国内の最高賞金競走でしたが、その後、国内最高賞金レースはジャパンカップや有馬記念になりました。しかし2013年から1着賞金が2億円に引き上げられ、有馬記念と並んで2番目の高額賞金競走となりました。

また、皐月賞は「最も速い馬が勝つ」、菊花賞は「最も強い馬が勝つ」といわれるのに対し、本競走は「最も幸運に恵まれた馬が勝つ」といわれます。日本の競馬における東京優駿の位置づけは特別で、創設期には国内に比肩のない大競走でした。

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そもそもこうしたレースが作られたのは、日露戦争の勃発に由来します。この戦争で内外の軍馬の性能差を痛感した政府は、国内産馬の育成を奨励するようになりましたが、1908年(明治41年)にギャンブル性が高いとして馬券の発売が禁止されると馬産地は空前の大不況に見舞われました。

その後、大正中期になって、元陸軍騎兵大尉で、その後貴族院議員にまで上り詰め、東京競馬倶楽部会長に就任した安田伊左衛門に対し、産馬業者から、「イギリスのダービーステークスのような高額賞金の大競走を設けて馬産の奨励をしてほしい」という要請がありました。

この提案を自身の構想と合致すると考えた安田は、日本国内の馬産の衰退を食い止める手段としてダービーステークスを興すこととし、4歳(現3歳)オス馬・メス馬の最高の能力試験として、「東京優駿大競走」を創設しました。

施行時期は原則的に春季とし、1930年(昭和5年)にはオス92頭・メス76頭の計168頭が登録。第1回競争は1932年(昭和7年)4月24日に目黒競馬場(旧・東京競馬場)の芝2400mで施行されました。この競走の模様は各馬の発走前の様子から本馬場入場、表彰式に至るまで全国へラジオ中継されたといいます。

優勝馬の賞金は1万円、副賞として1500円相当の金杯のほか付加賞13530円が与えられ合計で2万5000円ほどとなりました。これは、今日の価値では6~7千万円ほどになります。現在の日本ダービーの賞金と比べると少々少なめですが、それでも従来の国内最高の賞金が6000円でしたから、賞金の額も飛び抜けて破格でした。

この東京優駿からは出走馬の登録年齢は2歳(現1歳)とされました。それまで日本国内では出走馬の登録年齢などは不確定でしたが、これにより国内における競走馬の生産、育成、競走と種馬(オスメスとも)選抜のサイクルに初めて明確な指針が与えられました。

国際的な格付も1984年(昭和59年)からは最高の「GI」にあげられました。しかし、日本の競馬は近年、東京優駿を頂点とする従来の国内の競走体系から、距離やその他のカテゴリーごとにチャンピオンを決めるという体系に遷移しており、本競争が必ずしも全ての競走馬の頂点というにはあたりません。

ただ、1年間の競馬を象徴するときにもしばしば本競走の優勝馬が挙げられており、日本競馬界の象徴であり最大級の目標であるという点については創設以来の価値を保っているといえます。このため、多くの馬や騎手が今もこのレースに出ることをめざして、日々の訓練に明け暮れています。

この「騎手」ですが、言うまでもなく、馬を操縦する人のことです。競馬制度は国家・地域によって異なり、それぞれに独自の競馬文化と歴史を有し、開催運営や人材育成のシステムが築かれていますが、日本における「騎手」は、競馬の競走への参加に必要な公的なライセンスとしての資格称号となっています。

英語では騎手のことをジョッキー(jockey)といいますが、もともとこれは、イギリス人に多い、ジャックやジョンという名の蔑称であるジョックに由来します。これがジョッキーと訛るようになり、単に競馬好きや馬好きを表すようになりましたが、日本でも太郎はポピュラーな名前であり、特定商品名やキャラクターをさして何々太郎と呼ぶのと同じです。

現在のような意味になったのは、騎手や調教師、馬主が分業されるようになった19世紀以降のことで、日本では俗称として「乗り役」とも言い、英語表記を略して「JK」と呼ぶこともあります。

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騎手の仕事とは、無論、競走馬を正しく操縦し、決勝線に到達するまで可能な限り全能力を発揮させることです。このため、騎手が落馬した場合は落馬した地点に戻って再騎乗しなければならず、元の場所に戻らないで決勝線に到達しても正規の到達とはみなされないという厳しい規則があります。

落馬した地点に馬を戻すというのは現実的には不可能に近く、このため再騎乗をあきらめて競走中止となる場合も多いようです。

日本では、「競馬法」という専用の法律まであり、農林水産大臣の認可を受けた日本中央競馬会(JRA)と地方競馬全国協会(NAR)がそれぞれ試験を実施し、騎手の免許を交付しています。JRAの競馬学校、またはNARの地方競馬教養センターの騎手課程を経て、受験資格を得るのが一般的であり、この資格は国家資格でもあります。

中央競馬では平地競走と障害競走で、地方競馬では平地競走とばんえい競走でそれぞれ免許を交付しています。普段我々がよく目にすることが多いのはテレビなどで放映されることの多い平地競争のほうでしょう。

現在、中央競馬及び地方競馬とも、騎手免許と調教師免許を同時に持つことはできません。つまり、調教師が自分の管理する競走馬に乗ってレースに出走することは現行の規定では不可能です。

これは現在では当然ですが、1930年代以前は「調教師兼騎手」は珍しい存在ではありませんでした。調教師と騎手の業務が分離されるようになったのは、1937年に日本競馬会競馬施行規定が規定されてからです。戦後も一時期兼務が可能でしたが、1948年より調騎分離が厳格に適用されることになり、現在に至っています。

平地競走の騎手は着衣や馬具を含めて50数キロでの騎乗が求められることから、特に体重に関しては並の職業の比ではない厳しい自己管理が必要となり、なおかつ馬に乗り操縦し競走を行うための専門的な騎乗技術が必要です。また、競馬関連法規や騎手としての競走の公正確保のために必要な知識や情報を学習することも必要とされます。

このため、一般の素人がある日いきなり騎手になるということは極めて困難であり、よって極めて専門性の高い教育が必要なスポーツです。このため多くの国では騎手業のライセンス制度が整備されており、日本でも騎手養成のための教育機関や養成所が設置されています。

日本の場合、中央競馬では1982年、騎手養成機関として千葉県に競馬学校が設立され、騎手課程が設けられました。養成期間は3年。この競馬学校の受験資格は、年齢は義務教育卒業から20歳までであり、このため現役の大学生や短大卒・大卒は受験が困難か不可能です。さらに体重は育ち盛りの年頃でありながら、入所時に44キロ以下が求められます。

地方競馬では栃木県に地方競馬教養センターがあり、ここの騎手養成は2年間であり、入所条件はほぼ同じです。どちらの機関でも、卒業前に騎手免許試験を受験して合格し、騎手免許を取得した上で、晴れて騎手となることができます。

試験である以上、不合格となり騎手免許が取得できないこともあり、この場合は次の機会を待ち再度受験する必要があります。中央競馬では年一回のチャンスしかありませんが、地方競馬は年に複数回の騎手免許試験が実施され、年度途中の騎手デビューも珍しくありません。

海外の場合、オーストラリアのように、騎手養成所のカリキュラムを修了し、騎乗技術と公正確保に支障のない人物なら、騎手ライセンスを比較的容易に取得できるという国もありますが、日本は少数精鋭主義を取り、最初の養成機関の入学試験から卒業までの時点でふるいを掛け続けて、徹底的に絞り込む「狭き門」です。

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ただし、騎手免許試験については上記の養成機関への在籍経験を持たない人物でも、必要条件を満たせば受験自体は可能です。このため、上記の養成機関に入ることができなくとも、あるいは中退を余儀なくされても、騎手として必要な乗馬技術を持っていれば、俗に「一発試験」などと呼ばれる形で騎手免許試験を受験することができます。

ただ、これについては建前論的であり、特に実地科目では一般的な乗馬技術だけでの合格点到達は現実的に見て不可能で、一般的な乗馬や馬術の経験者が受験したところで合格の可能性は限りなくゼロに等しいといわれます。このため、競馬学校を経ない場合は、見習騎手等の形で騎乗経験を積むなどの手順を踏む必要があります。

こうした経緯を経て「一発試験」を突破し騎手免許を取得した者もいるにはいて、中央競馬では横山賀一、地方競馬では厩舎に入り調教厩務員を経験していた、村尚平・笹田知宏などの例があります。

ところが、競馬学校とは違い、騎手免許試験の受験資格には年齢制限が設けられていません。このため、かつて存在した短期の騎手養成課程を経て騎手となった人物の中には、大学卒業後に縁あって厩舎に入り下積みを経て騎手になるという経歴を辿った、俗に「学士騎手」などと呼ばれる人物がごく少人数ですが存在します。

こうして、騎手免許試験に合格した騎手は競馬を統括する機関より騎手免許やライセンスの交付を受け、その統括機関に騎手として登録されることで初めて競走への参加などの活動が可能になります。いずれの国においても、競馬を開催している国では競馬に関する諸規則や法律が設けられており、特定機関でライセンスが交付され、騎手登録を行います。

日本の場合はJRA・NARのいずれかの組織から免許を受け、中央競馬の場合は美浦トレーニングセンター・栗東トレーニングセンターのいずれか、地方競馬の場合には各競馬場に所属します。また、調教師を頂点とする厩舎制度においては、騎手は厩舎への所属という形で雇用され、調教師から様々な指導を受けます。

ところが中央競馬では、特定の厩舎に所属しない、フリーランスの騎手が多数存在し、このような騎手をフリー騎手と呼びます。ただし厩舎に所属していなくても美浦か栗東、いずれかのトレーニングセンターに所属している上、さらにいえば日本中央競馬会に所属していることになります。

以前は実績のある騎手が所属厩舎と疎遠になったり、所属厩舎が解散したことを契機としてフリー騎手になるケースが多数ありましたが、最近では一定期間を経過した若手騎手が実績に関係なくフリー騎手になるケースも多いそうで、逆にフリーでやってきた騎手が厩舎とのつながりが生まれて厩舎に所属することもあるといいます。

しかし、こうして騎手になっても、競走に参加できなければ収入は得られません。レースをあきらめ、厩舎の裏役に専念して収入を得る道を選ぶ騎手もいますが、騎手として生きていくならばその収入源は賞金からの進上金になります。

騎手として馬に乗るためには、馬主からの依頼を受けなければならず、この馬主からの依頼が得られるかどうかは、所属厩舎を通じた馬主との関係、師匠である調教師と馬主の関係などから決まってきます。

ある厩舎に所属している騎手は当然として、同じ厩舎で働いたという関係で兄弟子、弟弟子などのつながりができ、かつて活躍した兄弟子が依頼を受けた馬主から依頼を受けることが多いといいます。

しかし、馬主から名指しで指定してくる場合もあり、その条件としては、負担重量(斤量)が軽い騎手、成績上位の騎手などであり、時には当日適当な騎手がおらず、空いている騎手だったからというケースもあります。

この様に人間関係が複雑に絡みあって競走への騎乗が決まるわけですが、中でも馬主が同じ騎手に何度か続けて騎乗してもらう場合、これを「主戦騎手」と呼びます。中央競馬においてはエージェントを介在した騎乗依頼も行われており、騎手・エージェント・馬主の三者間の関係も重要です。

他方、いくら騎手が小柄な人物の専売特許の様な商売とはいえ、その体重管理は過酷であり、極限の減量をしているにも関わらず、騎乗不可能という事態も多分に発生します。この場合、軽量の騎手にそれまで全く縁のない厩舎から突然に騎乗依頼が来ることもあるといいます。

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こうしてようやくレースに出られるようになっても、日本の競馬には厳しい罰則があり、その地位は常に安泰とは限りません。レース前あるいはレース中の騎乗に際し、騎乗した馬を制御できなかった場合や、他の競走馬の進路を妨害した場合、あるいはレース前後の検量で斤量が大きく異なっていた場合には、競馬法の規定で制裁を受けることもあります。

レースだけでなく、無断欠勤、競馬施設内外での暴力行為などスポーツマンシップに欠ける騎乗や言動があった場合にも制裁を受けることもあり、制裁内容毎に異なった罰金が科されます。とくに、審議により降着以上になるような悪質な場合には一定期間の騎乗停止になったり、悪質な場合それ以上の期間に延長される場合もあります。

またこの騎手が騎乗していた競走馬に対しても再調教をして調教検査に合格するまで出走停止の措置が執られる場合まであり、これらの制裁はポイントにも置き換えられ、30点をオーバーすると競馬学校やトレーニングセンターで騎乗技術などの再教育を受けることまで義務付けられています。

さらに、騎乗停止の制裁は、中央競馬・地方競馬相互間および日本国外との競馬相互間でも適用されるという厳しいものです。しかも騎手の仕事は肉体労働であり、加齢によって筋力や反応速度などが低下し、また基礎代謝の低下により体重・体力を維持し続けることが困難になることも多く、高齢になってまで現役でいることのできる選手は限られます。

また優勝劣敗の厳しい世界であり、成績と収入の両面で伸び悩んだ騎手はもとより、リーディング(勝星)上位の常連として一時代を築いた騎手であっても全盛期を過ぎ騎乗数・勝利数・入着率、そして獲得総賞金額が減ってくれば収入は下がって行きます。

騎手の収入は主に二つに分けられ、それは競走に騎乗することで得られる収入と所属厩舎での業務をすることによって得られる収入です。競走に騎乗し賞金を得た場合には、その賞金の数%(日本の平地では5%、障害は7%)が得られ、騎乗手当もつきます。従って、高賞金の競走に勝利するほど収入は多くなりますが、その逆は当然薄給となります。

従って、一生にわたってこの騎手の仕事を続けることは難しく、本人が限界を感じたときなどに騎手としての免許・ライセンスを返上して引退し、何らかの形で第二の人生を歩むことになります。自分が所属していた厩舎の調教師が数年後に定年を迎えるなどの事情がある場合、その厩舎を引き継ぐ目的で調教師免許試験を受験する者もいます。

また、上位の騎手であっても、支えてくれていた調教師や有力馬主の死去・撤退など、後ろ盾となる人間関係がなくなり成績・獲得賞金額が低下したことをきっかけに、騎手からの引退を検討する者も少なくありません。

他方、騎手デビュー以降に予定外に身体の成長が続き、その結果として身長・体重が増加し若くして体重管理に苦しみ、負担重量などの問題から減量が自己管理の限界を超えて引退を余儀なくされる騎手も少なからず見られます。その中には、20代前半の若さであっても体重の問題で騎手業の継続が事実上不可能となり引退する者も多数います。

さらには、過酷な減量を余儀なくされ、その連続の末に心身に変調を来たす騎手や、脳梗塞など重篤な疾病を発症して倒れ引退を余儀なくされるケース、腎臓結石などの減量を著しく困難にする疾病を発症して長期的な健康面の観点から引退するケースも見られます。

騎手免許を返上した人物の第二の人生としては調教師や調教助手・厩務員などまず厩舎関係が第一に挙げられます。その他では後進の騎手の育成に携わる者、牧場での競走馬の生産・育成や競馬解説者・競馬予想家・馬運車・競走馬用飼料販売などの競馬周辺の産業に携わる者、さらにはまったく異なる職業に転身する者などさまざまです。

ただ、競馬は、他のスポーツの選手に比べれば純粋に身体的な能力を要求される要素は低く、勝ち星と収入を安定して確保し続けられる騎手は年齢を問わず第一線に留まることができます。日本の場合、騎手には定年制度がないため、歴代のリーディング上位騎手の中にも50代まで騎手業を続けた者は少なからず見られます。

そよぐ

とはいえ、競馬における競走馬のスピードは時速約60km以上にも達し、それだけのスピードを出した競走馬から落馬したり、走行中の馬に接触すれば重傷・死亡に至る危険な競技です。場合によっては即死する危険があり、事実、競走中に発生した事故によって即死した松若勲選手のような例があります。

この松若選手の事故は1977年11月5日に京都競馬場でおきました。第9競走、1400メートルは18頭立ての多頭数レースで、前日までの雨の影響で「重馬場」でのレースとなりました。馬場の状態は、「良」を基本状態として含水率の上昇に伴い「稍重」「重」「不良」と変化していきますが、この日のコンディションは、最悪の不良の次の「重(おも)」でした。

多数の馬のなかで先行争いが激化して先団がごちゃつくなか、第3~4コーナーの中間点で、一人の騎手が先行馬に触れて落馬しました。後方にいた各馬は、重馬場のせいもあって跳ね上がる泥や水蒸気で視界が利かず、またダートコースの幅員が狭いコーナー地点での事故で避ける間もなく、6頭の馬が先に転倒した馬に触れて次々に落馬していきました。

これに巻き込まれた松若選手は、落馬の際、頭蓋底骨折の怪我を負い、救護室に搬送されたものの、その場で死亡が確認されました。即死状態だったそうで、その原因は着用していたヘルメットが落馬の衝撃で外れたためと言われています。

また、福永洋一や坂本敏美の例のように重篤な後遺症が残り再起できなかった騎手もおり、大型動物のサラブレッドを扱う職業であるだけに、レース中以外でも調教中の落馬の他、馬に蹴られる・踏まれるなどの事故も少なからずつきまといます。

この福永洋一という騎手をご記憶の方も多いでしょう。かつて日本中央競馬会 (JRA) に所属した騎手で、1968年に中央競馬で騎手デビュー。3年目の1970年に初の全国リーディングジョッキー(年間最多勝利騎手)獲得以来、9年連続でその地位を保ち、従来の常識からは大きくかけ離れた数々の騎乗もあり、「天才」と称されました。

しかし1979年3月4日、毎日杯の騎乗中に落馬。このときに重度の脳挫傷を負い、騎手生命を絶たれました。1981年にライセンス更新切れの形で騎手を引退。以後はリハビリ生活を送り、まれにその様子がマスメディアで報じられましたが、2004年、騎手時代の功績を認められ、騎手顕彰者に選出、中央競馬の殿堂入りを果たしました。

1971年のクラシック最終戦・菊花賞では、長い距離が苦手で追い込み馬と見られていた乗馬を、残り1500メートルも残して先頭に立たせるという奇策を打って勝利を収め、八大競走(クラシックの5競走プラス天皇賞(春・秋)・有馬記念)初制覇を果たしました。

これは福永選手の騎手生活における代表的な騎乗のひとつとなり、本競走をきっかけとして彼は「天才騎手」と呼ばれるようになりました。

翌年秋の天皇賞でもヤマニンウエーブに騎乗し、パッシングゴールの40馬身の逃げをゴール直前でアタマ差で捉えて優勝。その後しばし八大競走制覇からは遠ざかりましたが、1976年、福永が騎手生活中の最強馬と評したエリモジョージで天皇賞(春)を制しました。

1977年には桜花賞、皐月賞を制覇。この皐月賞では、最後の直線で柵とコースの間のわずかな隙間に馬を突入させ、2着の伊藤正徳、3着の柴田政人が、それぞれ「柵の上を走ってきたのかと思った」、「神業に見えた」と語るほどの走りを見せました。

この年にはエリザベス女王杯にも優勝。さらに、野平祐二が保持した年間最多勝記録を19年ぶりに塗り替える126勝を記録し、翌年にも桜花賞を連覇し、年間最多勝記録も131勝に更新しています。

翌1979年も順調に勝利を重ね、3月までに24勝を挙げ、リーディングのトップを独走しており、この年の3月4日、阪神競馬場で983勝目を挙げた後、この日のメインレースの毎日杯で福永はマリージョーイという馬に騎乗しました。

この競走の勝負は最後にまでもつれ込み、ラストの直線において、斎藤博美が騎乗していたハクヨーカツヒデが前の馬に乗り掛かる形となり、まず斎藤が落馬。さらに後方から走ってきたマリージョーイの脚が斎藤に接触しました。

福永選手は大きく前方にのめったマリージョーイの背から落ちて馬場に叩き付けられ、頭を強打するとともに舌の3分の2以上を噛み切る重傷を負い、その場で意識不明となりました。直ちに馬場に待機していた救急車に乗せられて競馬場内の救護所に搬送され、救命措置が行われます。

しかし舌からの出血が気管に流れ込み、呼吸障害による窒息死の危機が差し迫っていました。ところがこの前日、まったくの偶然に納入されていた新たな医療機器のひとつである「気道チューブ」を気管に挿入して気道の確保を行うことができ、なんとか危機を回避できました。

とはいえ、瞳孔は散大し、血圧は低下、自発呼吸も極めて薄弱であったことから、救護所での応急的な処置を終えると、直ちに関西労災病院に搬送されました。この時点で周囲は怪我がそれほど重篤なものとは考えていませんでしたが、その後息子の博、妻の裕美子が病院に赴くと、そこで初めて洋一が危篤である旨が伝えられました。

病院への到着後、福永はただちに集中治療室に入りました、落馬時の頭部へのダメージが大きいためにすぐには手術ができず、容態が落ち着いた2日後に脳内の血塊を取り除く手術が行われ、成功しました。やがて人工呼吸器の補助も不要となり、事故から13日後には、危篤状態からは脱したとの主治医の判断により、集中治療室から一般病棟に移動。

しかし意識は回復せず、やがて医師や妻の呼びかけに少しずつ反応するようにはなったものの、意識が完全に戻るまでには至りません。しかし徐々に容態は安定し、相変わらず意識は明瞭ではなかったものの、院内でのリハビリの効果により、少しずつ回復の兆しを見せるようになりました。

その翌年の、1981年になってようやく意識が明瞭となったころ、妻の裕美子が「ドーマン法」という脳障害に対するリハビリテーション法を知り、夫とともに1週間アメリカへ渡りました。リハビリプログラムを教授され、これを機に退院。自宅近くの騎手宿舎の集会所を借り、自宅とともにリハビリ機器を搬入して、厳しいリハビリを開始しました。

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こうして約1年間のリハビリにより、同年9月、数歩ではありますが事故以来初めての自力歩行をすると、「おはよう」という挨拶に対し、「おはよう」と、たどたどしいながら応えるまでに回復しました。その後も徐々に回復を続け、事故か5年経った1984年10月には栗東トレーニングセンター内の角馬場において、約5年半ぶりに馬に跨りました。

このとき馬上で、かつて好んで歌っていた故郷の高知を舞台にした歌謡曲、「南国土佐を後にして」を口ずさんだといい、このころ行われたインタビューでも、「騎手に復帰して勝ちたい」と語りましたが、騎手免許は、既に1981年に更新切れとなっていました。

騎手時代に福永のライバルと目されていた武邦彦は、福永を評して「乗り役として必要な要素を何もかも備えていた」と言い、なかでも優れていた点として「瞬間的な判断力」を挙げています。同期生の別の選手も優勝した皐月賞を例に出し、この優勝は彼の百分の数秒の判断によるものが大きかったと語っています。

また、常に前方を遮られることなくレースを運ぶことができた秘訣について、「前が開いたから行くんじゃない。福永の場合は(開くところを予期して)行ったところ、行ったところが開いていくんだ」と述べています。

福永と同じく「天才」と呼ばれる武豊ともよく比較され、武は「ミスのない選択ができ」、福永は「彼にしか考え出せないような選択肢をいつも見つけ出す」と評する同僚もいて、ともに直感的に正しい選択ができる騎手だといわれます。

もっとも、福永は他のスポーツは苦手としていたそうで、養成所時代も「運動神経まるでなし」と同期生に笑われていました。が、人が十回やってようやく身に付けられるようなことを一回やって習得できたといい、身体的にはとくに背筋力が強かったことが知られています。

「背骨に鋼が埋め込まれているのでは」というほどの強靱な背筋力であったといい、軸がしっかりしているため、少々のことでは体勢を崩すことがなく、強い背筋力が必要といわれるゴルフでは、小柄ながらボールを遠くまで飛ばす「飛ばし屋」だったそうです。

さらに、騎乗というほとんど無酸素運動の中で、フォームも乱さず、馬の能力を100%引き出すためには、筋肉のパワー、腱の柔軟性といった身体的な能力が絶対に欠かせず、福永はそうした身体能力、スタミナが人一倍優れていたと評する人もいます。

また、福永には騎手時代、「天才」のほかに「歩く競馬四季報」という異名も付されていました。「競馬四季報」や競馬新聞などの資料に囲まれて生活していたといい、寸暇を見てはこれらに目を通し、「栗東所属馬の全脚質を頭に叩き込む」と放言していました。

こうした「勉強に裏打ちされた記憶力」プラス、コンピューターのように瞬時に判断が可能な頭脳がその並外れた騎乗能力の秘訣の一端であると考えられます。馬に関する情報収集を常に欠かさなかったため、癖などが分からず敬遠されがちな初騎乗馬も嫌うことはなく、素早くその馬の癖を掴み、最適なペースを見出してレースを運べたともいいます。

この福永選手の長男もまた、騎手となりました。彼がリハビリを続ける中、この長男・祐一は1992年に競馬学校を受験し、2世騎手への道を進み、1996年3月2日に騎手としてデビューし、初騎乗初勝利を挙げました。

彼は父が築き上げた人脈の恩恵も受け、この最初の年、新人としては異例の50以上の厩舎から騎乗を依頼され、新人騎手として当時史上3位の記録となる53勝を挙げ、JRA賞最多勝利新人騎手を受賞しました。

この翌年に行われたインタビューの中で、祐一は「福永洋一の息子」と喧伝されることに対して「僕は全然嫌じゃないです。だって実際に僕は福永洋一の息子なわけですから。父がいなければ僕もいないんだし、父のことは尊敬していますしね。このまま最後まで”洋一の息子”でもいいと思ってます」と語りました。

以後、祐一は毎年ランキングの上位を占める騎手として定着し、2008年9月には984勝を達成して父の記録を更新。同年11月には父が直前まで迫りながら達成できなかった通算1000勝を記録しました。

この時彼は、「福永洋一の息子として競馬の世界に入り、父に縁のある方々に支えられ、ここまでやってこられました。先日、父の勝利数を超えたことで自分の中でもおもりが取れ、福永祐一個人として歩み出せたような気がします」と語りました。

昨年10月の菊花賞ではオス馬クラシック初制覇し、父・福永洋一との親子制覇を達成。さらには、天皇賞(秋)を制覇し、2週連続で八大競走を親子制覇を達成しました。菊花賞と天皇賞の連覇は1965年以来であり、この年には最終的にはリーディングジョッキー(年間最多勝利騎手)を達成し、これも日本初の父子受賞となりました。

この祐一が2009年に高知競馬場で行われたトークショーに出席した際、「生まれ育った高知は父親にとって特別な場所。おやじの名前がタイトルについたレースができたら」と発言し、この意向を汲む形で高知競馬が2010年より「福永洋一記念」を新設しました。

同年5月に行われた第1回競走当日は、親子でこの競馬場を訪れ、プレゼンターとして表彰式に出席したそうで、途中感極まって本人が涙をこぼす場面があったといいます。福永洋一が公の場に姿を見せたのは事故以来31年ぶり、祐一との同席は初めてのことだったそうです。

現在、父洋一は66歳、不自由ながらも日本競馬界の重鎮として活躍し続けており、息子さんの祐一は38歳となりましたが、まだまだ現役選手として数多くの輝かしい成績を残していくでしょう。今度、福永選手が出る競馬中継があったら、今日のこのブログを思い出し、ぜひ応援してあげてください。

今日は、チョー長くなりました。終りにしましょう。

2014-1100822

結婚は蜜の味?

2014-21886月になりました。

旧暦では、水無月(みなづき)と呼びますが、これは新暦では6月下旬から8月上旬ごろに相当し、このころには、文字通り梅雨が明けて水が涸れてなくなるのでこう呼ばれたのだと思われます。

しかし、この呼称を現代でも使うにあたり、これから雨のシーズンになるのに水無月というのも変だというので、「梅雨で天の水がなくなる月」というふうに考えよう、という人もいるようです。少々無理なこじつけのような気もしますが、ま、それはそれでポジティブでいいかもしれません。

祝日のない月であり、一部に時の記念日(6月10日)や夏至(6月21日頃)の休日化を目指す動きもあるようです。が、なかなか実現せず、そうこうしているうちに、もうひとつ祝日のなかった8月に、再来年から「山の日」という休日ができる、という報道が先日なされました。

これで6月はとうとう、祝日のない唯一の月になるわけですが、このころというのは新年度が始まって2ヶ月が経ち、何かと仕事も軌道にのりはじめて何かと忙しく、梅雨に入って体調を崩すことも多いことから、休みが欲しいな~と思っている人は結構多いのではないでしょうか。

そんな仕事が忙しい中、この月に結婚する人も多いようです。6月に結婚式を挙げる花嫁を「ジューン・ブライド」と呼び、この月に結婚をすると幸せになれるといわれます。

これは、Juneがローマ神話の天空神、ジュピターの妻ジュノーからつけられた呼称で、ジュノーが結婚生活の守護神であることからきています。ジュピターは、ギリシア神話ではゼウスのことであり、神さまの中でも一番エラい神様であり、その妻のジュノーも最高位の女神です。

実はそのジュノーに見守られつつ、我々もこの月に結婚しました。今年からはなんと7年目に突入します。6年目の結婚記念日は、「鉄婚式」だそうで、これまでは木綿だの紙だのペラペラしたものが多かったのですが、ようやく金属になる、ということは、それだけ夫婦の絆が固まる、ということを意味しているのでしょう。

自分で言うのもなんですが、夫婦仲はよく、「鉄の誓い」とまではいかないにせよ、このまま銀婚式や金婚式まで一緒にいることも宣誓できそうなくらいです。

ただ、金婚式となると50年目ですから、あと40年以上も先であり、その齢まで生きていられるかどうかははなはだ疑問です。が、高齢化社会の中、我々も長寿を全うする可能性もないわけではなく、案外とサイボーグにでもなって生き残っているかもしれません。

2014-1839

この結婚というヤツですが、もともとは宗教と密接に関わってできた行事のようです。

東欧に多い、キリスト教の正教会では、結婚のことを「婚配機密」といい、この機密とは、軍事や国家などに関する極めて大切な秘密のことではなく、宗教用語で婚姻および子を生み養育する事を成聖する恩寵が与えられるように祈願するための儀式のことをさします。

具体的な儀礼としては、聘定式(へいていしき)と呼ばれる結婚指輪の交換を中心とするお祈りの儀式と、新郎新婦が戴冠を行う戴冠礼儀と呼ばれる儀式が行われます。

この結婚は、信徒同士でしかできません。信じる人々に神聖神(聖霊)が与られて神様と一つの神秘体になるためには、特別な恩寵を授けた正教徒のみが結婚できるとされているためで、結婚を機会にわざわざ洗礼を受けて正教徒になる人もいます。

しかし、結婚はしたいが、正教徒にはなりたくない、という人もいるわけで、逆に結婚のために正教徒であることをやめる人も中にはいるようで、宗教の縛りというのは、なかなか面倒くさいものではあります。

めんどうくさいといえば、ユダヤ教では結婚は神聖な行為と考えられ、未婚の男性は一人前とみなされません。結婚は神が人間を誕生させて最初に行った行為であるため、必ず結婚すべきであるとされているそうで、今でも伝統を守る地域では男子は18歳になると必ず結婚するそうです。

結婚したくもないのに一人前になるために結婚するわけで、宗教による強制のない我々日本人には馴染みにくい習慣です。それじゃあ恋愛もできないじゃない、ということになりそうですが、ユダヤ教では恋愛はあくまで一時的なもので、結婚とは結び付かないものだと教えられているそうです。

結婚が宗教によって規定されているという点では、イスラム教国はこれまた特異です。ご存知のとおり、イスラム法における結婚では一夫多妻制が認められています。サウジアラビアの初代国王であるアブドゥルアズィーズ・イブン・サウードは国を平定するために100以上ある国内の主要部族の全てから妻をもらっていたそうです。

このため、百数十人の妻がいたといわれており、このため初代国王の王妃が何人いたのか国王本人もよく知らなかったそうです。その後もサウード王家は一夫多妻結婚を繰り返し、初代国王の子孫は鼠算式に増えて5世代で2万人以上にまで増えたといいます。

もっとも、イスラム教国では庶民もまた多くの妻を持っているかというと、そうでもないようで、経済的な事情もあり実際に複数の妻を持っている人は少ないそうです。確かに美人で気が利いてよく働く奥さんなら、何人いてもいいでしょうが、グータラで、毎日喰っちゃ寝している嫁が何人もいたら、破たんしてしまいます。

しかし、イスラム教では離婚を制限していないため、こういうグータラ奥さんとは離婚も自由にできるようです。ただし、非婚での性行為が戒律上、認められていないため、不倫をしようと思ったら、結婚しなければできない、という妙なことになっています。

さらに初婚の際には、男性は童貞、女性は処女であることを求められそうで、このため、初婚の際に女性が処女でなかった場合、そもそも契約条件を満たしておらず「結婚は無効」ということになるようです。

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正教会やユダヤ教の縛りも理解しがたい面がありますが、このイスラム教の結婚観もなかなか我々日本人にはわかりにく世界です。イスラム教徒による爆弾テロなどが世界のあちこちで起こっていますが、死こそ名誉という世界観とも併せ、どうもこの人たちは日本人の理解を超えた民族というかんじがします。

一方、日本人にも多い、キリスト教徒はどうかというと、プロテスタントの中でもバプテスト教会や会衆派では、教会員や信者の同意があれば、神の導きと見なされるため、簡単に結婚が成立します。

しかし、カトリック教会では正教会と同様に結婚は「秘蹟」とされ、信徒同士で行われることが原則です。が、教会によっては非信徒と信徒、または非信徒同士の結婚式を執り行う場合があり、正教会ほど縛りはきつくないようです

秘蹟もしくは、「秘跡」による結婚とは、カトリックでは「目にみえる儀式に目に見えない恵みを伴うもの」と考えられ、扱われます。目に見える儀式とは、聖職者(司教・司祭)によって聖別された水、油、ぶどう酒などが与えられることで、この儀式を行うことによって、神からの見えない恵みが人間に与えられる、ということのようです。

この秘蹟は、西欧では「サクラメント」と呼ばれ、これはラテン語のサクラメントゥム(Sacramentum)に由来しています。その意味は「聖別されたもの、行い」あるいは「聖なるもの」「聖別する」といったことです。非常にわかりにくい概念ですが、結婚という秘蹟によって、神様から聖なるものを分け与えられる、ということのようです。

カトリック教会においては、サクラメントは結婚だけでなく、このほか洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階などがあります。そのひとつひとつの意味は非常に宗教的なので説明が難しいのですが、一番わかりやすいのが洗礼であり、これはいわば、キリスト教に入信したことを神に報告し、それに対する恵みを受けるというものです。

このほかの堅信、聖体、ゆるし、といった秘蹟は、入信後に与えられるもので、いずれもそれに対する儀式を行い、これによって神様からそのサクラメント毎の恵みを授かる、というわけです。

少しだけ補足すると、「ゆるし」というのは懺悔のことで、犯した罪を神に報告して得られる恵み、すなわち救いです。また、病者の塗油というのは、臨終のときに与えられる恵みであり、この場合の恵みとは死そのものです。また叙階とは、カトリック教会において聖職者を任命することで、聖職者として神に仕える喜びが与えられます。

このような七つの秘蹟は、カトリック教会が伝統的に認めてきたものですが、カトリック以外のキリスト教では、教派によってこの秘蹟の数や意味についての理解・解釈は異なっています。

従って、結婚によって神様から得られる恵みの形も微妙に違うわけです。最近は海外の教会で西洋式の結婚式を挙げましたという話もよく聞きますが、その教会が所属する流派もよく知らずに、ちょっと洒落ているからという理由だけで、キリスト教式の結婚する人も多いようです。

しかし、本来はよくよく調べて、その結婚がその宗派ではどういう意味を持つのか、といったことも勉強してから、その教会での式をお願いするべきなのではないでしょうか。教会へわざわざ出向かず、牧師さんだけを呼ぶ場合もあるのでしょうが、この場合でもその牧師さんの流派もよくお聞きしてから、というのは言うまでもなくのことです。

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さて、このようにもともと西欧では結婚には男女が教会においてサクラメントを受けることを要するとする「宗教婚主義」が支配的でした。

ところが、その後の宗教改革によって、婚姻は宗教によって規制されるものではなく、法律で認めたものを婚姻となすとする、「法律婚主義」が登場するようになると、結婚を「契約」とみなし、秘蹟とは分離する民事婚思想が広まるようになりました。

日本の民法でも、その739条で婚姻の成立には、法律上の手続を要求する法律婚主義を採用しており、婚姻が成立する理由としては、「当事者の婚姻意思の合致」と「婚姻障害事由の不存在」の二つが必須とされています。従って、宗教など信じている教義の宗派の別は問われません。

また、婚姻が成立するためには、形式的要件として届け出を出すことが、「戸籍法」によって義務付けられており、これがいわゆる「婚姻届」になります。一般にはこの婚姻届を出すことで、二人に婚姻意思があること、また婚姻には障害がないことを宣誓する、ということになります。

ところが、民法には、詐欺または強迫による婚姻は法定の手続に従って取り消しうる、ということになっていて、騙された場合には結婚破棄ができる、ということになっています(747条)。

すなわち、いわゆる「結婚詐欺」のことであり、代表的な詐欺のひとつであり、「アカサギ」ともいいます。これは、警察関係の隠語であり、赤詐欺以外にも、青、黒、白の詐欺があります。

「青詐欺」は、会社関係、書類関係、不動産関係の詐欺で、融資詐欺や保険金詐欺がこれにあたります。また、「白詐欺」は、素人同士の詐欺で、オークション詐欺・募金詐欺・寸借詐欺・チケット詐欺がこれになります。また、「黒詐欺」はプロ同士の騙し合いで、闇金を巡ってのプロ同士の騙し合いや、横取りといったものがあるようです。

赤詐欺は、結婚する意思がないにもかかわらず、結婚を餌にして異性に近づき、相手を騙して金品を巻き上げたり、返済の意志もないのに金品を借りたりし、異性の心身を弄ぶ行為です。

代表的な手口としては、「結婚前に清算しなければならない借金がある」、「結婚を機に独立するつもりなので開業資金が必要だ」、「株や先物取引で失敗して金が必要」などと偽り、多くの場合、結婚前に多額の金品を騙し取ります。

甘いことばに騙されたあげくに、クレジットカードやサラ金カードを相手に渡してしまい、多額の借金を背負ってしまうケースや、金を渡した相手と連絡が取れなくなり、後で被害を受けたと発覚するケースが多いようです。

男女ともに赤詐欺をする輩は多いようですが、どちらかといえば男性よりも女性が被害者になることが多く、最近は国際的な赤詐欺も多いようで、日本や韓国の男性がアジア諸国の女性に国際結婚を持ちかけ、ビザ支給費用などの名目で金銭を騙し取る事件が発生しています。

こうした、国際結婚詐欺を仲介するブローカーも存在しているといい、最近金満傾向の中国でも被害が多いそうです。

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ところが、刑法並びに民法上には「結婚詐欺」としての明確な規定は無いそうで、本当に騙されていたかどうかは、本人の申告によって提起され、その上でこれが本当に詐欺に該当するか否かが認定された場合のみです。

それというのも、例えば、当初は結婚の約束をしていたれども、結局は結婚しなかったというケースが多く、結果として結婚はしなかったものの、当初は結婚する意図があったとみなされた場合には、詐欺にはならないからです。

たとえ、最初から結婚する気はなかったとしても、いや、最初から結婚を前提と考えていた、と言い張れば詐欺には該当せず、例えば卑近な例では、デートの際におごった金を返さないのは、詐欺だ、というケースです。

しかし、これは一方が他方におごるという行為によって、デートという楽しみを双方で分かち合ったものと解釈されるので、このときに使った金をだまし取られた、というのにはあたりません。

ただ、だまし取られるのもお金ばかりとは限らず、高額なプレゼントもありうるわけです。この場合も、私があげたあのクルマ返してよ、ということになりがちなのですが、こうした物品の場合にも、一般にはなかなか詐欺とは言えません。

相手にすれば、クルマを搾取したつもりはなく、思いがこもったプレゼントだと思ったから受け取ったといえばそれで済むことです。ただ、高額なプレゼントを執拗に要求し続けるなど、明らかに搾取目的である場合には、その頻度や金額などによって総合的に詐欺と判断されます。

しかし、男女間の金銭や物品のやりとりが詐欺にあたるかどうかは、非常に難しい問題であり、結婚詐欺として摘発される事件は、ほんの氷山の一角のようです。

最近は、インターネットの流行により、ロマンス詐欺というのもあるようです。ネット上の交流サイトなどで知り合った海外の相手を言葉巧みに騙して、恋人や結婚相手になったかのように振る舞い、金銭を送金させる振り込め詐欺の一種で、最近は国際化も進み、国際ロマンス詐欺、国際恋愛詐欺、ナイジェリア詐欺などとも呼ばれるものもあります。

ナイジェリア詐欺というのは、アフリカ地域の中でもとくにナイジェリアを舞台に多発している国際的詐欺の一種であり、先進国など豊かな国に住む人から、手紙やファクシミリ、電子メールを利用して金を騙し取ろうとする詐欺です。

「大量の資金を持つ人が、その金を安全に持ち出す方法で困っている。あなたの口座を貸してもらえないだろうか?」と丁重に呼びかけるメールが届き、この差出人は、非常に貧しく腐敗した国に住んでおり、自分の国の窮状を訴えかけます。

こうして、差出人に同情した人は、「アフリカならそんなこともあるだろう」と考え、この汚い金の運搬に少し手を貸せば大きな利益が出るからという言葉に騙されます。

そして、自分の口座を教え、さらに指定された口座に手数料を振り込みますが、予定の期日になっても自分の口座にその見返りの大金は振り込まれず、それどころか口座が不正アクセスされて一銭残らず引き出され、初めて騙されたと気づきます。

被害者は、マネーロンダリングに飛びついたという後ろめたさから、被害届を出すことが少ないそうで、こうした国際的な詐欺師は、単独犯とは限らず、詐欺団を結成している場合も多いそうです。

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男女の間の関係に目を付けたロマンス詐欺のほうも、同様に詐欺団によるものが多いそうで、事例によると、男性なら英国人や米国人など、女性ならロシア人などになりすますことが多く、この場合は、FacebookのようなSNSが舞台になります。

こうしたサイトでプロフィールとして使われる写真は、無名でルックスのいいモデルや、人柄の良さそうな一般人まで、インターネット上からランダムに採取し、盗用されます。

相手を警戒させないために、子供の写真を合成して子持ちの独身者を装ったり、被害者しか頼れないという状況を作ったり、家族を亡くして孤独であるなどの悲話を作ったりもし、信用させるため、他人のウェブサイトや偽造したビジネスサイトを見せたりもします。

SNSなどで知り合ったあと、メールやスカイプ、電話などを用いてこうした偽装をしつつ交流を深め、ロマンティックな甘い言葉を連発して、あたかも恋愛しているかのような気分にさせていきますが、場合によっては結婚をちらつかせたり、結婚の約束まですることもあるようです。

この偽装は、数日から数か月後の場合が多いようですが、なかには一年以上のものもあり、そのうち、大きな仕事が入った、病気になったなど、身辺状況が変わる何かが発生したことを切り出します。

そしてさまざまな理由をつけて、金銭を一時的に立て替えてほしいという状況を作り、これを信用させるために、偽造の契約書やパスポートなどを見せることなどを行います。近々日本に会いに行くことを匂わせ、会ったときに返金すると約束しますが、たいていは当日に事故や事件が起こったりして、来日しません。

そのまま連絡がなくなる場合もあれば、仲間の詐欺師が友人や弁護士を装って登場し、恋人を救うためと騙し、さらに金銭を送金させることもあるそうで、ガーナでは、現地に被害者を呼び出して身代金を請求した事例もあるといいます。

また、マレーシアではフィリピン女性に招き寄せられた日本人男性がナイジェリア人の詐欺団に監禁された事件も起こったそうで、このほか、結婚資金として小包で送った現金や親族への高価な贈り物が、積み替え港のマレーシア税関で差し押さえられ、その関税や解除金として送金してほしいというケースもあります。

さらに、新ビジネスのための機械を海外で購入したが、持ってきたカードが使用できないため、代金を一時立て替えてほしい、自分の家族が難病なので、治療費として送金してほしい、被害者の婚約者が空港で警察に拘束され、弁護を頼まれたので、弁護費用を用立ててほしいなどなど、ちょっと考えればウソとわかりそうなものが多いのが特徴です。

なぜそんなものにひっかかってしまうのだろう、と思うのですが、相手は日本とは違う文化を持った国の人間であり、その違いに思いを馳せる想像力が日本人にはない、国際的な感覚が乏しい、といったことがいえそうです。

しかし、人種のるつぼといわれるアメリカでは日本以上にもロマンス詐欺が社会問題化し、テレビなどを通じて注意が喚起されているそうです。

2012年の統計によると、全オンライン詐欺の約1割がロマンス詐欺によるものであり、被害者の3割近くが50歳以上の女性だったといいます。2012年の被害総額は、報告されているものだけでナント5600万ドルにのぼるそうです。

この赤詐欺ですが、日本では、美人局(つつもたせ)と呼ばれる伝統的?な詐欺でもあります。妻が「かも」になる男性を誘って姦通し、行為の最中または終わった瞬間に夫が現れて、妻を犯したことに因縁をつけ、法外な金銭を脅し取ります。

妻でなく、他の女で同等の行為に及ぶ場合もあり、出会い系サイトやツーショットダイヤルなどで知り合った女に部屋に誘われ衣服を脱ぎ、いざ性行為などを行おうとしたときに女の仲間の男が登場して「おれの女に何をする」というのが典型的なパターンです。

屈強な男に囲まれ金品を巻き上げられるというケースが多いようですが、呼び出されてラブホテルに入っていく所を写真に撮られ、後日家族や会社に曝露すると脅迫してくるケースもあります。

ただ、加害者の女が未成年者であることも多く、この場合は、被害者の男性も児童買春の罪に問われる危険があるので警察に被害届や告訴状が出せず、泣き寝入りになりケースも多いようです。無論、加害者側もそれを見越してそのような女を用意する傾向も見られるようです。

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「つつもたせ」とは、もともとはいかさまバクチのことで、胴元の都合のいい目が出るような仕掛けがしてある、いかさまさいころ賭博を指しますが、ここから二束三文の安物を高く売りつける行為をさすようになり、やがては法外な料金で売春させることもそう呼ぶようになりました。

「美人局」というのは、中国の元の時代の犯罪名で、公娼を妾と偽って人にあてがい、金をむしり取ることを言いましたが、同じ売春婦を使った犯罪であるため、「美人局」に対して和語の「つつもたせ」を使い、当て字として使うようになったものです。

一説によれば、「つつ」とは暴力団の使う女性器の隠語を指している、ともいわれます。
これを持った女性を「もたせる」ことで、良い思いをさせ、恐喝に及ぶためです。

現在においても美人局は詐欺罪として罰則規定が適用されますが、江戸時代の処罰はもっと厳しかったそうで、男女とも所領を半分没収されるか、所領がなければ遠島の上、男性ならば公務罷免とされ、武家ならばお取り潰しは免れませんでした。なお、この時代には不倫もまた重罪であり、美人局と同様の罪が課されたといいます。

さて、結婚詐欺の話をちょっとだけするつもりでしたが、少々深入りしすぎました。が、もう少し続けましょう。

結婚詐欺が発覚しにくいのは、男女の仲のことでもあり、愛情をカモフラージュに使った巧妙な犯罪であるからです。また、最初は犯罪のつもりはなかったものが、男女関係のもつれから、あとになって形態を変えていく場合もあります。

当初はそのつもりはなかったものが、次第に気持ちが薄れるにつけ、やがては悪心が芽生え、見せつけのために騙してやろうとうふうに変わっていくこともあるでしょう。

最初はお互い相手を思いやる気持ちで一杯だったものが、やがては憎しみや蔑みに変わり、こうなると社会常識から見てももう十分に詐欺罪として成立しそうなものを、いやまだヒモやツバメの段階だと思っている場合もあるでしょうし、そこのところは非常に微妙です。

結婚とは、ハニートラップのようなものだと称する人もいて、これはもともとは、女性スパイが対象男性を誘惑し、性的関係を利用して懐柔するか、これを相手の弱みとして脅迫し機密情報を要求する諜報活動のことです。

しかし、甘い結婚生活は、まさに Honey Trapであり、その生活に溺れていく中で、自らを見失い、自堕落な生活を送るようになる男性もいるわけで、女性においてもその逆パターンはありえます。

同じような意味合いで使用されるセクシャル・エントラップメント(Sexual Entrapment)は「性的な囮(おとり)」という意味ですが、最近覚せい剤保持で逮捕された、某有名歌手さんもまた、この囮に捕えられたのではないかのではないか、と取沙汰されているようです。

そこまでいかなくても、優しい奥様や旦那様に甘え、放蕩のあげく身上を潰す、といった例は古今東西ごまんとあります。もうじき結婚6年目に入る私もまた、優しい奥様に甘えたままでいてはいけないなと、改めて身を引き締めていかなければなりません。

さらにその生活をより充実し、高めていくためにも、お互いの甘えを消し去り、厳しい目で見直していく必要があるでしょう。自分を進化させつつ、相手にはそれを望まず、とはいえ、進歩した自分を見て相手もまた自然に進歩したいと考えてもらえるようになる、そんな夫婦が理想でしょう。

少々カッコつけすぎかもしれませんが、そう思います。

我々と同じく6月に結婚された方々も、きっと幸せな生活を送っておられると思いますが、ここはひとつ、その生活がハニートラップではないかどうか見極めてみてはいかがでしょうか。

2014-2023河津町 バガデル公園にて