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あぁ連休

2014-1060963今年のゴールデンウィークは、前半の休日が割と飛び飛びで、連休を取りにくいパターンで、後半の5月に入ってからの3~7日の4連休のほうをメインに遊びにでかけよう、と考えている人も多いのではないでしょうか。

以前はもっと休日が飛び飛びになることも多かったものですが、1985年(昭和60年)の「祝日法」の改正によって5月4日が「みどりの日」となり、土曜日や平日であってもその次の月曜日が振替休日となりました。

さらに2005年に行われた祝日法の改正では、5月3日の「憲法記念日」や4日の「みどりの日が日曜日と重なった場合、5日の「こどもの日」の翌日には必ず振替休日を設けるように改められました。

2005年度のこの制度改正は、5月4日が日曜日となる2008年に最初に適用され、この年は5日が月曜日だったため、振替休日が初めて月曜日以外の火曜日となりました。

以後、少々カレンダーが悪く3連休にとどまった2011年を除けば、ほぼ毎年のようにこの時期は4連休や5連休が楽しめるようになったわけですが、このためか、以前は「飛び石連休」という言葉がよく使われていましたが、最近はあまり使われなくなったほどです。

この「ゴールデンウィーク」をいつからこう呼ぶようになったかですが、これは意外に古く、1950年代から既に飛び石連休とともに、この呼び名はあったようです。

映画会社の大映と松竹が競作した獅子文六原作の「自由学校」という映画があり、これは1951年(昭和26年)に封切られ、お正月以上に大ヒットした映画でしたが、映画界としては、このヒットによりこうした映画を、正月や盆以外の時期にも流行らせたいと考え、宣伝用としてひねり出したのが「ゴールデンウィーク」でした。

当時の大映常務取締役であった松山英夫という人が考案したそうで、自由学校がヒットした翌年の1952年(昭和27年)ころから「ゴールデンウィークには●●を見に行こう」といった具合に宣伝によく使われるようになった結果、5月の連休中の観客動員数はある程度増え、やがて映画界だけでなく他の業界でも使われるようになっていきました。

大映はこれに気を良くして、秋の文化の日を中心とした飛び石連休期間も、「シルバーウィーク」と名付けたそうですが、こちらは「シルバー」と聞いて年配の人をイメージする人が多かったためか、あまり定着しませんでした。

しかし、平成13年から導入された、「ハッピーマンデー制度」により、国民の祝日の一部を、従来の日付から特定の月曜日に移動させるようになったため、これに伴いそれまで9月15日だった敬老の日が、9月第3月曜日となるなど、秋にも3連休以上の大型連休ができるようになりました。

このため、それまであまり使われなかったシルバーウィークという言葉が使われるようになり、ゴールデンウィークと合わせ、春と秋の二度の大型の連休として国民に親しまれるようになっています。

ところが、某国営放送局や、一部の民放、新聞などは、この「ゴールデンウィーク」「シルバーウィーク」という言葉の発祥が映画業界だったことから、ライバルの映画業界の宣伝になるような言葉はなるべく使わないようにしているようです。

また、年配者に分かりづらい、ということもあってこれを使わず、「春の大型連休」のように、「大型連休」という言葉を使うことにしているといいます。

なので、テレビのニュースなどを見ると、今でも「ゴールデンウィーク」という言葉はあまり使われておらず、例外はありますが、たいていは「大型連休」という言葉を使っていようです。

ちなみに某NHKでは「ゴールデンウイーク」を用いない理由を一応釈明しており、それは、この時期に連休にもかかわらず休めない人から「何がゴールデンだ」という抗議が来るといったことや、国営放送でもあることから、外来語・片仮名語を極力避けたい、ということであったようです。

また、ゴールデン「ウィーク」といいながら、1週間よりも長くなることも多いため、「ウィーク」はおかしい、などと屁理屈を唱えるひともNHKの中にはいたようです。

しかし、“NHK”というのはそもそも、「日本放送協会(Nihon/Housou/Kyouki)の略語であり、日本語のローマ字読みの頭文字をそのまま使ったもので、そんなに外来語がお嫌いならアルファベットなども使わなければいいのに、と突っ込みたくなるのは私だけでしょうか。

ただ、このゴールデンウィークという言葉自体は、2004年に損害保険ジャパンが商標登録してしまっており、NHKとしても、それならなおさら放送中では使えない、ということもあるみたいです。

しかし、確かに土日祝日などが書き入れどきで休めない人にとっては、何がゴールデンウィークだという人も多いでしょう。「休日ばかりでちっとも休めやしない」、という妙な声が聞こえてきそうですが、こうした人達は、連休前や連休が終わってから休みをとったり、別の時期にまとめて休みを貰ったりしているのだと思います。

ただ、昨今の不況下では、製造部門を持つ企業などにおいては、この期間を生産調整・在庫調整にあて、通常の休日にさらに数日上乗せして従業員をさらに長期に休ませようとするところもあり、こうした企業に勤める人達は働いて収入を得たくても強制的に休まされるわけで、逆の意味の不満があるようです。

この点、出版業界では、印刷業界では従業員にカレンダー通りの連休をとらせることも多いことから、連休中は出版がしづらく、このためとくに週刊誌などでは、苦肉の策として連休前に「合併号」の発行を行うこなどが一般的に行われています。

本当は出版業界としては、連休時にたくさん本を売りたいところなのでしょうが、自分たちの都合よりも、支えてくれている印刷所の連休に合わせているというのが実情であり、この辺は、いかにも日本的というかんじがします。

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このように、飲食業界や運輸業界、一部製造業界などを除けば、日本全国はおおむねこの時期はお休みモードであり、とくに新緑にも恵まれる良い時期でもあることから、この時期を旅行シーズンと考え、あちこちに旅に出る人も多いようです。

ゴールデンウィークとの名称が用いられ始めた時代は、せいぜい映画鑑賞や近場の百貨店での買い物、近郊の遊園地への行楽、周辺の行楽地へのハイキングといった日帰り旅行などがこの時期の一般的な過ごし方でしたが、最近はこの時期よりも更に長期の休みが取れることから、国内のみならず海外へ行く人も増えています。

このため、毎年ゴールデンウィークの序盤と終盤において、主要ターミナル駅・空港などでは多くの乗客であふれ、またテレビ・新聞などのマスコミもこれらの様子をよく報道するので、「ゴールデンウィークは家族連れの旅行が多い」というイメージが定着しています。

ところが、親子連れでの海外旅行は、2004年以降極端に減少しているそうで、これは不況の影響とは無関係ではないでしょう。この時期を余暇として活用する場合、できるだけ外出を避け、もっぱら静養・テレビ視聴・読書などで自宅内で過ごす人も増えているといい、私のように人ごみの中を旅行なんてとんでもない、という人も多いと思います。

しかし減ったとはいえ、移動距離や日常生活圏から離れる時期の長短に差はあるものの、この時期の余暇は野外活動や旅行として活用する人が依然多いのは確かで、ハワイなど海外の観光地では、観光業に従事するあちらの旅行関係者や現地人の間で和製英語である “Golden Week”がそのまま通じるほどだといいます。

国内においても、コンサートや何等かのイベントが行われることが多く、博多どんたくやひろしまフラワーフェスティバルのようにすごい人出となるイベントもあり、ここ静岡でも「浜松まつり」などに毎年多くの人が集まります。

これらのイベント目的の移動だけでなく、この時期に故郷へ帰省する人も多いため、主要な高速道路の一部区間に渋滞が発生し、10~100km以上にも及ぶ場合もあり、全席指定車の列車以外の新幹線や主要な特急列車・高速バなどものきなみ混雑し、切符を入手するのさえ困難ということになります。

しかも、飛行機や列車の運賃には「繁忙期」が適用されて高くなり、またJRなどでは、平日では割安な新幹線・特急列車などの特別企画乗車券に利用制限がかかって使えなくなってしまいます。

その他、各地の観光地・繁華街はどこも混雑し、関東にも名古屋圏にも近いここ伊豆などでは、どこへ行っても他県ナンバーばかりとなり、ちょっとスーパーマーケットに買い物に行くのですら、渋滞に巻き込まれるといった有様です。

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我が家では、おととしにここへ引っ越してきてこれを知ったため、昨年の連休時にはなるべく鳴りをひそめ、あまり遠出をしないように心掛けましたが、今年もまたその時期がきたかと、戦々恐々です。

ほぼ自営業の私としては、このように「ゴールデンウィーク」はあまりありがたくないものなのですが、一般的にもこのような長期連休は望ましくないと考える人も多いようです。

その理由のひとつには、そもそもの休日の意味がわからなくなるということです。みどりの日や昭和の日はもともとは天皇誕生日だったものですが、その意味合いはとっくに失われてしまっています。

また、憲法記念日なども、長い休みの中に埋もれてしまっていて、この日に改めて憲法について考えてみよう、という人などいないのではないでしょうか。

1947年5月3日に日本国憲法が法律的に成立した(施行された)のを記念して1948年から祝日になったものですが、一般国民に知らしめる、いわゆる公布は11月3日であり、この日もまた文化の日として休日となっていることから、この日に統一してしまってはどうか、とする意見もあるようです。

しかし、5月3日を休日とすることを返上してしまえ、というのは今のように国をあげて休日増やそうとしているトレンドに逆行してしまいます。なので、天皇の逝去によって天皇誕生日がみどりの日に移行したように、この憲法記念日も文化の日に統合し、5月3日は別の「○○の日」にすればいい、という意見もあるわけです。

また、休日をもっと増やしたいという向きでは、現在は休日となっていない5月1日のメーデーも祝日にしたらいい、という意見もあります。

しかし、メーデーは「労働者の日」の意味があり、労働記念日としては、日本にはこのほかにも「勤労感謝の日」というのがあって、それぞれの共存が難しくなります。

またメーデー自体は、欧米から輸入された制度であり、その歴史的経緯から社会主義的であるとみなされることも多いようです。一方の勤労感謝の日というのは、昔からある日本独特の労働者の日であって、こうした欧米の労働者の日といっしょくたにすべきでない、というわけです。

農業国家である日本は、古くから神々に五穀の収穫を祝う風習があり、その年の収穫物は国家としてもそれからの一年を養う大切な蓄えとなることから、収穫物に感謝する大事な行事として飛鳥時代の皇極天皇の時代に始まったのが、「新嘗祭」です。勤労感謝の日というのはすなわちこの昔の新嘗祭を近代風に改めたことばになります。

従って5月1日を祝日にして、大型連休をさらに大型にしようという目論見は当面実現しそうにありません。

また、ただでさえこの時期には交通が混雑するのにこれ以上、人やモノがこの時期一定の場所に集中するのは避けたい、という向きも多く、むしろ大型連休を解体して、別のところへ持って行くべきだとする声も高いようです。

こうしたことを受け、国土交通省は、春の大型連休と秋の連休を地域別に分散して設定することなどを検討していて、これをもとに祝日法の改正案を計画しているようです。

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具体的には、これからもさらに祝日を増やし続けていけば、祝日の意味もありがたみもなくなる可能性があることから、まずは「休日となる国民の祝日」の日数はこれ以上増やさないことを前提とします。

そのうえで、日付そのものに意味がある従来の国民の祝日は「記念日」とし、振替休日や、「みどりの日」や「海の日」などのように、その言葉の意味からも必ずしも特定の日付に依存しない祝日は、ただの「休日」として、それぞれの意味を明確に分けます。

こうした上で、「記念日」としての「国民の祝日」はそのまま残しながら、後発組の「休日」は、5月の大型連休の時期と10月の大型連休の二時期にまとめて移します。

そして、春の大型連休時には、基本的に憲法記念日、みどりの日、子供の日の3連休に2の休日や土日を加えて操作し、かならず5連休になるようにします。また、秋の大型連休時にも敬老の日、体育の日を従来どおり記念日と位置づけ、その他の時期から移してきた休日や土日と合わせ、ここでも5連休を形成します。

そのうえで、日本全国を5ブロックぐらいにわけ、それぞれのブロックで、この5連休をずらして適用します。

例えば、4月の終わりごろから、九州沖縄・中国四国地方や北海道の5連休が、始まったら、その週の半ばからは、今度は近畿地方やここから少し離れた関東地方の5連休がずれて始まるようにし、漸次そのほかのブロック地方でもずらして連休をとらせます。

こうすれば、毎年必ず春夏二回5連休を味わうことができ、しかも地方地方で連休になる時期が異なるので、どこかのブロックに連休であるがゆえに交通が一局集中する、といった問題が解消されます。

この案は、なかなか合理的じゃないか、ということで、真剣に検討されているようです。しかし、東京では5連休なので、これを利用して地方に帰郷したら、帰郷先の両親一家は連休ではなく、勤務だったために皆で楽しめない、というパターンがあります。

これに加えて休日には休めない職種の人との兼ね合いもあり、全国展開をしている会社などでは、社員が一律に同じときに休めない、といった問題も出てきたりして、なかなかそうはうまくいかないのでは、という気がします。

また、戦後、慣行として大型連休、ゴールデンウィークとして国民に親しまれているこのお休み期間をなくしてしまうことには、相当反発がありそうで、そうややすと消滅させることはできないのではないかと思われます。

ただ、一定時期に長~い休みが続くというのは、教育や勤労の効率を考えるとあまり喜ばしいことではありません。よく言われる「五月病」などは、長い連休の明けによく起こる社会的現象です。

春に生活環境が大きく変化した中で、新しい生活や環境に適応できなかった学生や社会人となったばかりの若者は、ゴールデンウィーク中に疲れが一気に噴き出し、長い休みのあとの復帰後に理由不明確な体や心の不調に陥ります。

なので、過ぎたるは及ばざるがごとし、のことわざにもあるように、休みは適度の長さのものを頻繁にとるのがいい、と言う人が多いのもまた確かです。

日本以外の諸外国では、クリスマスや正月など以外でまとまった休日を定めて連休とする国は少ないようで、5月1日のメーデーも祝日としていない国も結構あります。

OECD加盟国では、日本のほか、米国、イギリス、オランダ、スイス、デンマーク、トルコ、韓国などはメーデーは祝日ではありません。

もっともギリシャなどヨーロッパのいくつかの国では、5月1日は祝日となっていますが、これはメーデーのためではなく、春の訪れを祝う伝統的な祭日、すなわち「五月祭」としての意味合いのほうが強いようです。

かつて、ヨーロッパ各地では、精霊によって農作物が育つと考えられており、その精霊は、女王や乙女のかたちで表現されていました。古代ローマではすでに、豊穣の女神マイアを祭って供物が捧げられ、夏の豊穣を予祝する日として5月1日を祝っていました。

これが現在では、ヨーロッパ各地に広まり、春の訪れを祝う日、植物の生育・動物の繁殖の季節を迎える喜びを祝う日として定着し、この時期の結婚は象徴的なものとされるようになり、「五月女王(メイクィーン)」と呼ばれる風習が生まれました。

例えば、ドイツ南西部の、バーデン=ヴュルテンベルク州ツンツィンゲンでは、12歳くらいの少女が、「天の花嫁」に扮して、案内役の女の子2人と、7、8人の少女をしたがえているという「結婚式ごっご」を行うそうです。

お伴の最後尾の少女はかごを下げ、天の花嫁の訪れを村の家々に告げ、かごに乳製品や、卵、果物などを受け取り、天の花嫁は、感謝を表すと同時に、その家を祝福します。

一方で「冬」を表す少年たちが、黒い服を着て、体中に縄を巻き、別の地区を歩いて、少女たちと同様に口上を述べて贈り物を受け取るそうで、しかるのちに、示し合わせておいた場所で、天の花嫁と少年の決着が始まります。

この天の花嫁は「夏」の象徴であり、少年は「冬」の象徴です。「冬」の持つブナの木の枝を、「夏」が3本折り取ると、「夏」の勝ちとなるといい、この結婚式ごっこをもって、この地方の人達は夏の到来を祝うのだといいます。

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また、ドイツの別の地方では、少女がドレスを着て花束を持ち、少年は山高帽にモーニングという結婚式の服装で、お伴と一緒に家々を回り、夏の訪れを告げます。この少年少女の姿はドイツ人の先祖であるゲルマン民族の神話に出てくる神様の地上への訪問を意味しています。

ゲルマン神話では、天の女神をフレイア、天空の神をオーディンといい、この二人の神様の結婚式はが5月に行われたため、この時期がこの世界の繁殖をつかさどると信じられているそうです。

こうした一連の春の儀式が、ヨーロッパでは「五月女王」と呼ばれ、この日には未婚の女性を主役においた儀式が行われることも多く、フランスのアルザス地方では「五月のバラ(マイレースレ)」と呼ばれる女性が中心となって、同じような行事が行われるそうです。

このほか、ドイツでは、メイポール(五月の柱)を森から切り出して飾り、病気や悪霊を逃れるために、その下を人々が踊りまわる、といったことも行われるところもあるようですが、これは生命と春の象徴である樹木を立てたのがそもそもの起こりで、使われる柱は主にはモミや白樺だそうです。

イギリスにも少し形式は違いますが、夏の到来を祝うために5月1日に野山で摘んできたサンザシを飾る風習があります。元々は中国原産で、熟すると赤くなる果実は生薬、果実酒、ドライフルーツなどの用途があり、日本にも古くに持ち込まれ盆栽の素材としても好まれています。

古代からこの日は祭日であり、朝露で顔を洗うと美しくなるともいわれ、夜明け前に花摘みに出かけ、朝露を浴びる五月の最初の日のことをMAYDAYと呼ぶようになったのが、「メーデー」の語源だそうです。

労働者の日としてのメーデーは、1886年5月1日に、合衆国カナダ職能労働組合連盟(後のアメリカ労働総同盟、AFL)が、シカゴを中心に8時間労働制要求の統一ストライキを行ったのが起源で、これがたまたまMAYDAYと重なったことからこう呼ばれるようになったものです。

イギリスでは、このほか5月1日には「モリス・ダンス」と呼ばれるダンスが踊られるそうで、これは男性のみ6~8人のグループが、黒のシルクハットに造花、白シャツと白ズボンを身につけ、緑のベルトを胸と背に交差させて踊るというものです。

さらに脚にはたくさんの鈴がついたベルトをつけ、白いハンカチ大の布を持って踊ったりもしますが、このダンスはかつては、復活祭や聖霊降臨日にも行われていたそうで、ダンスを踊るグループが、家々の門口でこれを踊って金品をもらい、その祝儀を教会の基金に加えたりもしたといいます。

振り返って日本はというと、春を祝う儀式やお祭りはたくさんありますが、こうした夏の到来を祝うような風習はとくにないようで、桜の散ったあとに突然やってくる新緑の季節に合わせるかのようにやってくるゴールデンウィークには、花見に疲れてぐったりで、どこへも行かない、遊ばない、という人も多いかと思います。

我が家では今年はどうしようかな、と考え中ですが、やはり観光地の伊豆のことでもあり、昨年と同様にどこにも行かず見送りかな、といったかんじです。

が、連休が明けたらまた活発に出回りたいと思います。新緑のころの天城山はきれいだそうで、万三郎岳、万次郎岳や八丁池をめぐるハイキングコースには、野生のシャクナゲなども咲いているといい、美しいブナ林などもあって、すがすがしいウォーキングができそうです。

ゴールデンウィークが近づいている今日この頃、みなさんはどんなご予定を立てていらっしゃるでしょうか。伊豆に来る予定の方も多いと思いますが、こちら方面に来ないで、とはいいませんが、出来るだけ主要道は避け、間道を通っていただけると、こちらもそちらも助かると思います。

ただ、伊豆の山道にはクルマ二台がすれ違うのもやっとという道も多いのでくれぐれもご用心を。そしてマナーを守り、ゴミはなるべく持ち帰ってくださいね。

連休あとの伊豆が、いつものように美しいままでいることを祈るヒゲオヤジからのお願いでした。

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渡ってみたい三途川?

2014-1080592昨日の日経新聞の朝刊に、「観光列車」についての特集が組んであり、最近日本各地の鉄道で、次々と豪華な観光列車が導入されていることなどについて、現地取材に基づくレポートがなされていました。

昨年秋に登場した、JR九州の「ななつ星in九州」は、博多から3泊4日で九州を1周し、景勝地では時速30キロほどでゆっくり走るというもので、列車内の装備の豪華さもさることながら、その値段も超豪華で、3泊4日で38~95万円(車中2泊・旅館1泊)もするそうです。

1泊2日のコースもあって、こちらは15~ 40万円(車中泊)と比較的リーズナブルですが、誰がこんな高い列車に乗るのかと思いきや、昨年10月に運行を開始して以降、ひっきりなしに予約が相次いだため、その後は切符の入手は抽選となり、この列車に乗れる倍率はいまや10倍とも20倍ともいわれているようです。

不況下での運行開始でもあり、当初は中国などのアジアの富裕層の利用が多いのではと予想されたようですが、なんのなんの国内需要のほうがすごく、関東・関西の都市圏を中心として多くの日本人が利用しているということです。

ななつ星の「ななつ」の意味は、九州の7つの県(福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県・大分県・宮崎県・鹿児島県)と、九州の主な7つの観光素材、自然・食・温泉・歴史文化・パワースポット・人情・列車、そして7両編成の客車を表現したということで、これだけ盛りだくさんの素材を満喫するには、やはり最低でも4日は必要ということのようです。

このため、列車もチョー低速で走るみたいで、一応「特急列車」ということなのですが、時速は50kmまでしか出さないそうです。JR九州の担当者は、最近の旅行は「自分だけの物語づくり」と考えているそうで、何か体験したり地元の人とふれあったりする時間を楽しむ旅行が人気で、これは消費全般にも通じる傾向だと分析しているようです。

このななつ星の盛況を受け、柳の下のどじょうを探せ、ということで、他の鉄道でも観光列車の導入が進んでおり、熊本・鹿児島間を結ぶ、肥薩おれんじ鉄道の「おれんじ食堂」や、近鉄の「しまかぜ」、JR東日本の、「東北エモーション」「SL銀河」「越乃シュクラ」といった列車が次々導入されています。

このほか、長野県の「しなの鉄道」も、「ろくもん(ROKUMON)」という観光列車の導入を予定しており、新たな旅客需要の創造や沿線地域の活性化などを目的に、7月から軽井沢~長野間で運行するようです。

ただ、通年運航ではなく、土休日や夏休み・冬休み・春休み期間などを中心に年間180日程度だけ稼働する予定だといいます。観光列車に使用される車両は、同社の現有車両を改造した3両編成で、車内の床やイス、テーブルなどに長野県産材を使用し、子供の遊び場を設置し、ファミリーやグループ向けに仕立てるとか。

沿線地域の景観を楽しみながら食事できるカウンター席やソファ席を配置し、車両のひとつには2人組の客が食事を楽しむことができるよう、個室的な空間も設けられるそうです。

長野県はここ静岡にも近く、我々も興味深々なのですが、いくらするのかな、と調べてみたところ、食事付プランで12,800円だそうで、結構リーズナブルです。軽井沢発と長野発の両方あって、それぞれ2時間半程度の運行のようです。

すでに4月から予約受付が始まっているようなので、ご興味のある方は「しなの鉄道」のホムペに行ってみてください。

ところで、この列車の名称「ろくもん」は、沿線地域を代表する戦国武将・真田氏の家紋・旗印である「六文銭」が由来だそうで、このため、この列車の外観も真田幸村の武具の「赤備え」をイメージした濃い赤色が基本色で、これは「ろくもん赤」という正式名称があるのだとか。

真田家では、幸村の先祖にあたる真田幸隆という人が中興の祖とされており、この戦国時代の武将は、信濃の在地領主から甲斐国の戦国大名である武田氏の家臣となり、息子三人と共に、武田二十四将にも数えられるほどになりました。

幸隆の智略と功績は武田信玄にも高く評価され、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えることを許され、武田家中でも一目置かれていました。

六文銭の紋章は、この幸隆の代に定められたようで、「六文銭」といえば、三途の川を渡るための船賃という不吉な意味を持ちます。

なぜそんな不吉なものを紋章としたかといえば、幸隆はかつて仕えていた山内上杉家を見限って武田家へ移ってきたといういきさつがあり、身命を賭して武田家に仕えて家名を残す、という強い覚悟主君に示すために、この旗印を用いることにしたそうです。

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それにしても、三途の川を渡るための賃料がなぜ「六文」なのか、ですが、そもそもこの三途の川の「三途」というのは、「三種類の渡河方法」を指すことばだったそうです。

その三つとは、善人は金銀七宝で作られた橋を渡り、軽い罪人は山水瀬と呼ばれる浅瀬を渡り、重い罪人は強深瀬あるいは江深淵と呼ばれる難所を渡る、というものでした。

しかしながら、平安時代の末期に、まず「橋を渡る」という考え方が消え、その後は全員が渡舟によって渡河するという考え方に変形し、このときに渡船料金が六文と定められたそうで、以後、仏教様式の葬儀の際には六文銭を持たせるという習俗が続くようになりました。

なぜ六文か、の答えにはなっていませんが、これは私の推測ですが、この当時の物価価値として、渡船料金は六文程度だったのでしょう。

この三途川という概念は、中国からもたらされた仏教からきており、もともとは、地獄・餓鬼・畜生の3つを「三悪道」と称し、この三悪道の「道」が「川」に変化して三途川と称するように変わっていったといわれています。

中国で成立した「十王経」という経典にこれらのことが書かれているといい、この経典の日本への渡来は飛鳥時代と思われ、さらに三途の川信仰として広まったのが平安時代末期とされています。

正式には「葬頭河」というそうで、また三途の川以外にも「三途河」という当て字もあり、これは「しょうずか(正塚)」と発音するようです。ほかに地方によっては「三瀬川」、「渡り川」などとも呼ばれる場合もあるということです。

仏教でいう地獄には、複数の王様がいて、これはいわゆる裁判官的な尊格ですが、10人いたため「十王」と呼び、これは現在においてもよく知られる、不動明王、釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、弥勒菩薩、薬師如来、観音菩薩、勢至菩薩、阿弥陀如来など、我々にもなじみの深い仏様です。

それにしても地獄なのに仏様?と思うかもしれませんが、「地獄に仏」とよく言うように、もともと仏教ではこれらの仏様、というよりも仏教でいうところの「王」が地獄で亡者の裁判をするという思想がありました。

ちなみに、閻魔大王に相当するは、このうちの地蔵菩薩であるといわれています。

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また、三途川にはこの十王の配下として位置づけられる、懸衣翁(けんえおう)、奪衣婆(だつえば)という老夫婦の係員がおり、六文銭を持たない死者が来た場合には、渡し賃のかわりに衣類がこの二人によって剥ぎ取られるということになっていました。

奪衣婆が服を剥ぎ取る役、懸衣翁はこれを「衣領樹」という木の枝に掛けるという役割分担で、衣領樹に掛けた亡者の衣の重さにはその者の生前の業が現れ、その重さによって死後の処遇を決めるとされました。

罪の重い亡者は三途の川を渡る際、川の流れが速くて波が高く、深瀬になった場所を渡るよう定められているため、必ず衣はずぶ濡れになって重くなり、衣をかけた枝が大きく垂れることで罪の深さが示されます。

また亡者の中には生前さらに深い罪を犯しているため、服を着ていない場合があり、この亡者は代わりに奪衣婆によって生皮を剥ぎ取られてしまいます。

この二人の係員のうち奪衣婆は、俗説ではありますが閻魔大王の妻であるともいわれており、江戸時代末期には、民衆信仰の対象となり、盛んに信仰されました。

奪衣婆を祭ったお堂などが建立され、ここにお参りすると疫病除けや咳、特に子供の咳止めに効くといわれました。東京の世田谷区の宗円寺や、新宿区の正受院が奪衣婆を祀る寺として知られ、正受院の奪衣婆尊は、咳が治ると綿が奉納され、像に綿がかぶせられたことから「綿のおばあさん」「綿のおばば」などとも呼ばれています。

この「今生」と「あの世」を分ける川があるという考えは、仏教概念として三途川思想が渡来する以前より日本にあったらしく、古墳時代すでに「境界としての川」のイメージがあったという説もあります。なので、もしかしたら三途の川の概念は、飛鳥時代よりはるか前からシルクロードを通って既に日本に導入されていたかもしれません。

これを裏付けるように、三途の川と同じような川は、ギリシア神話にも登場します。「ステュクス・アケロン」という川が想定されており、そこにはカローンという渡し守がいます。

このカローンは、ボロボロの服を着て櫂を持ち、ギラギラした光る眼と長い髭を持つ無愛想な老人で、死者の霊を獣皮を縫い合わせた小舟で彼岸へと運びました。このアケロン川の渡し賃は1オボロスとされていたそうです。

オボロスと六文が、同じ程度の価値があるのかどうかはわかりませんが、江戸時代の一文はだいたい10円ぐらいではないかといわれていますから、文を基準にするなら、大昔の渡船料金はだいたい5~60円ほどということになります。安いですよね。

古代ギリシアでは死者の口の中に1オボロス銅貨を含ませて弔う習慣があったそうで、1オボロスを持っていない死者は後回しにされ、200年の間その周りをさまよってからようやく渡ることができたといいます。つまり、たった50円ほどの金も持てずにあの世に行くというのは、よほど生前悪いことをした人、ということになります。

日本における三途の川ですが、これは実際の川にもそう名付けられものがいくつかあります。

群馬県を流れる利根川水系の白倉川支流には、その名も三途川というのがあるそうです。この川に架かる国道254号の橋はその名も「三途橋」だそうで、この三途橋のたもとには、奪衣婆を祭った姥子堂もあるといいますから、奪衣婆に自分の罪を占ってもらいたかったら、この場所へ行ってみるといいかもしれません。

このほか、千葉県の長生郡長南町を流れる川も三途川であり、宮城県刈田郡蔵王町を流れる川も三途川と呼ばれていて、このほかの各地にも三途の川は存在するようです。

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イタコで有名な青森県むつ市の恐山にも三途川があり、これはむつ市を流れる正津川の上流部の別名です。ここに霊場恐山があるため、こう呼ばれているようですが、もともとの河川名の「正津川」も、仏教概念における三途川の別名だそうです。恐山の麓にある宇曽利山湖の周辺には、この三途の川の河原であるとされる「賽の河原」もあります。

賽の河原は、親に先立って亡くなった子供がその親不孝の報いで苦を受ける場とされており、そのような子供たちが賽の河原で積み石(ケアン)をすると罪が許されるといいます。が、この積み石はいつも完成する前に鬼が来て壊してしまい、再度、再々度築いてもその繰り返しになってしまいます。

このことから、「賽の河原」という言葉は、かつては「報われない努力」「徒労」の意で使用されることもあったそうです。

とはいえ、こうした水子達は、最終的には地蔵菩薩によって救済されるとされており、上に書いたとおり、この地蔵菩薩こそ、閻魔大王です。ただ、こうした賽の河原に関する話は、いずれにもが民間信仰による俗信であり、本来の仏教とは全く関係ないそうです。

賽の河原は、京都の鴨川と桂川の合流する地点に「佐比の河原」というのがあり、これに由来したネーミングだという説があり、ここで京都の市民が、地蔵の小仏や小石塔を立てて亡くなった人の葬送を行ったといわれています。

その後の時代ではこうした仏教の地蔵信仰と民俗的な道祖神が集合してごっちゃになり、道祖神のことを「賽(さえ)」ともいうことから、こうした葬儀を行う河原の中の土地を賽の河原と呼ぶようになっていったようです。

この三途の川や賽の河原ですが、いわゆる「臨死体験」をしたことがある人が、実際にここを渡ったと証言する例が、日本でも数多く報告されています。

ノンフィクション作家の立花隆さんが、その実例を調べたところ、国内だけで243件もの臨死体験例が収集できたそうで、これを分析した結果、これらの臨死体験には、体外離脱やトンネル体験(あの世に行くときにトンネルのようなところを通る)、光体験といった欧米の人達がよく経験するものも多かったそうです。

ところが、日本人の場合は、これ以外にも三途の川やお花畑に出会ったという人が多く、その体験数の比率は欧米よりも高く、逆に光体験に出会う確率は低いという調査結果になったといいます。

また日本人の臨死体験者でも光体験は多く報告されていますが、それはあくまで自然的な光であり、欧米の臨死体験者と比べて「愛」や「神」としてそれを認識する者は少数であるというデータもあるそうです。

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このように、日本と欧米などのように文化が異なると臨死体験が異なるのはなぜかということについては長いこと心霊研究家たちの議論の焦点となっているそうで、地域により臨死体験の内容に違いが見られる事から、その地方地域において信じられている宗教による脳内イメージによるものとする解釈もあるようです。

しかし、キリスト教文化圏での臨死体験の中に、神の審判、地獄といったイメージがほとんど現れておらず、日本においても、臨死体験として、仏様に出会ったという事例や仏教絵画などにもよく登場する「閻魔大王」などのイメージは出てきません。

なのに、なぜ「三途の川」やお花畑なのか、欧米では光体験なのかについては、疑問が残ります。

私的解釈では、これはその臨死体験をした人たちが帰依する「霊団」の性格によるものなのかもしれないと考えています。

スピリチュアル的なことを信じていない人には、俄かに信じがたいことかもしれませんが、霊界では魂の偉大さ、霊性の高さ、つまり奉仕的精神、人や動物への愛の強さが重んじられ、その地位は地上時代に培った霊性の成長度によって決まります。

霊界には、地上人類に真理をもたらすために組織された一団があり、これは地上へ行っては学んで帰ってくる霊たちを指揮する高級な霊の集団であり、これを霊団といいます、霊団たちの下にはもっと低いレベルの霊たちがいて霊団の人達の指導を受けていますが、これらの低いレベルの霊が我々のように地上で色々苦しいことを経験している霊たちです。

なので、この高級霊たちが司るあちらの世界が、主に光で形成されているときには、臨死体験として光を感じ、また緑や水の豊かな世界ならば、その故郷へ一時帰国したときには、三途の川やお花畑を見るのではないか、と考えることができます。

つまり、日本には日本独特の霊団があり、日本人の多くはこの霊団に属しているため、臨死体験をした多くの人が三途の川やお花畑を見るというわけです。

臨死体験したときに、どんな世界を見るかについては、このように日本と欧米に違いがあり、さらには他のアジア諸国やアフリカなどでも違うようですが、それはともかく、何故臨死体験をするのか、についても諸説があり、これについては医学や科学の面から、合理的に説明しようとする人達も多いようです。

が、科学者たちの多くはこの現象を、必ずしもうまく説明できていません。一方では、臨死体験者たちの多くは、自らの体験を「肉体から魂が離れ死後の世界を垣間見た」ものであったと考え、スピリチュアル的な観点からこれを説明されて納得する人も多いようです。

医学や科学の世界でも第一人者といわれるような研究者の一部も、その主張をそのまま受け入れており、それらを体験知として認めていくトランスパーソナル心理学といった学問体系も確立されつつあるといいます。

このトランスパーソナル心理学というのは、1960年代に展開されはじめた心理学の新しい潮流で、基本的にはスピリチュアル的な事象を認めた上で、人間心理を研究しようというもので、行動主義心理学、精神分析、人間性心理学に続く第四の心理学ともいわれています。

このように、あの世は存在する、というのは科学者の間でも広く認知されるようになってきており、アメリカでは1975年ごろに、アメリカ人医師のエリザベス・キューブラー=ロスと、同じく医師で心理学者のレイモンド・ムーディが相次いで臨死体験に関する著書を出版したことで一躍注目されるようになりました。

そのひとつのキューブラー=ロスの「死ぬ瞬間」という本は、約200人の臨死患者の経験を聞き取りして取りまとめられたもので、これ以後、アメリカでは臨死事例に関する統計や科学的アプローチがさかんに行われるようになりました、

1982年には、やはり医学博士のマイクル・セイボムも調査結果を出版し、これらの一連の動きを受け、1977年には「臨死現象研究会」なるものが発足し、これは後に国際臨死体験研究会(IANDS)に発展し、国際会議が開かれるほどになりました。

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アメリカには、ギャラップ調査と呼ばれる有名な世論調査がありますが、これは社会調査を行うギャラップ社というコンサルティング会社が、ワシントンD.C.本社を置き、世界の30近くの国に拠点を設けて手掛けているものです。

日本にも1995年に日本オフィスが開設されていますが、この調査は世論調査と呼ばれるものの先駆け的存在であり“Gallup Poll”と呼ばれて、世界的にも高い信頼を得ています。

そのギャラップ調査による臨死体験の調査が、IANDSの依頼によって1982年に行われ、このときに調査されたアメリカの臨死体験者の総数は数百万人に及んだといわれています。

こうした調査によれば、通常の臨死体験者の23%が人生回顧の場面を体験しているといいます。英語では「ライフレビュー」といい、この体験は、かつての自分の人生の全ての瞬間が強い感情を伴って再体験されるものです。

同じ臨死体験でも、病気による臨死体験のときよりも、事故による臨死体験の時のほうが人生回顧現象が起こることが非常に多いそうです。

人生回顧では、日常では忘れていた過去の全体験がパノラマとなり、ホログラフィックな立体映像となって瞬時に目の前に再現されるといいますが、その際には体験者である自分の視点だけではなく、かつての自分が影響を与えた他の人のたちの視点からも出来事を再体験することができるそうです。

過去に自分が他人を傷つければ、傷つけられた他者の視点からその体験を味わうことになります。しかし逆に喜びを与えればそれも再体験されるといい、こうした体験により、蘇生後は他者への思いやりや自己への責任感が飛躍的に強まるともいいます。

また、かつての他人が当時どういう心境でいたかも全て解るため、たとえ他人に酷い仕打ちを受けた過去であっても、それを許す気持ちが積極的に芽生えるといいます。

この回顧体験には「光の存在」が現れることがあるといい、これが現れる場合と現われない場合では、現れる場合のほうがよりその体験が強烈になることも報告されているそうです。

この光の存在は、一切批判も称賛もせずに回顧体験を見守り続け、臨死体験者が生前の自分の行動の是非を光の存在に尋ねると「あなたのその行動の動機は愛情だったのですか」などと逆に質問するそうです。

つまりは、この光の存在というのは、上で紹介したように、自分が所属する霊団のリーダーということなのでしょう。なぜそのリーダーのところへ呼ばれることになったのかはよくわかりませんが、その人の人生のある時期において、そうした臨死体験がどうしても必要だとこのリーダーは考えたのでしょう。

臨死体験者をした人にその後、多くの「良い変化」があることも報告されており、例えば、
何気ない会話、行動、自然など、日々の生活にある「当たり前のもの」を評価するようになる、他者からの評価を気にせずに、ありのままの自分を認められるようになる、他者への思いやりが増大するといったことがあるようです。

また、生命への尊敬の念が高まったり、社会的な成功のための競争への関心が弱まる、物質的な報酬への興味が薄れる、精神的な知識への強烈な渇きを覚えるようになる、といった変化も現れることも多く、臨死体験経験後には死への恐怖すらも克服されることが多いといいます。

何よりも臨死体験によって、死後の世界があることを確信し、生まれ変わりの存在についての肯定できるようになることは、「光への信頼」にもつながり、その助けを得て小さな自己という殻を破り、宇宙全体へと開かれていく、といった大きな心の成長が望めるようになるのだと、といいます。

アメリカに住むある臨死体験者は、自らの変容について、「臨死体験が起きる前、私の優先事項は滅茶苦茶だった。その順位が完全にひっくりかえった。一番上だったものが一番下になった。人生を一日一日大切に生きるということがわかった」と語っているそうです。

なので、三途の川を渡る夢やお花畑にいる夢を見た人は、たとえ夢であったとしても、もしかしたらプチ臨死体験をしているのかもしれません。

朝目覚めてみて、その日一日が「良い変化」に満ち満ちていたら、きっと光の存在から何かを伝授されたに違いありません。

臨死体験をしたことのない皆さんも今夜はぜひ、そんな良い夢をみてください。

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未婚・晩婚・貧困……

2014-1060238お天気の悪い日が続きますが、そんな中でも日に日に目に見えて新緑が増えていくようで、目を楽しませてくれています。

1月に姪の結婚式のために広島へ行って以来、旅行らしい旅行もしていないので、新しい緑を狩りにプチ旅行でもしたいところですが、気がつくと連休に差しかかろうとしており、人ごみの中をでかけるのも嫌だな、と思ったりもしています。

結婚した岡山在住の姪は、いわゆる「できちゃった婚」で、今月半ばが出産予定日だったのですが、長丁場になっているらしく、こちらもどうやら勝負は連休明けになるようです。

この岡山はそうでもないようですが、最近では日本各地とも地方から大都市への人の流出が多くなっており、このため、各自治体とも人口の減少を食い止めようと、あの手この手で若者を繋ぎ止めよといろいろな策を繰り出して、やっきになっているようです。

東京や大阪の周辺地域では、若者が地元で結婚せず、都会へ出ていってしまうことが問題視されており、例えば奈良県などでは、県内で結婚式を挙げて婚姻届を出した夫婦の「地元婚率」を調べたところ3割にすぎず、京都府の9割、大阪府の6割に比べ極端に低かったといいます。

この背景には、奈良県の県外就業率が約30%と全国一高く、結婚式においても、会社の関係者らが出席しやすい大阪や京都などの県外で挙式し、そのまま県外へ流出する傾向があるためとみられています。

このため、奈良では県が中心になって「地元婚」なるものに取り組んでいるそうで、県庁所在地である奈良市などでも、若者が流出していることに危機感を抱き、ブライダル8業者が「奈良ウエディングの会」を結成。景勝地・若草山での結婚式サービスを始めるなど、国内有数の観光資源を生かして魅力アップを図ろうと、懸命になっているといいます。

この「若草山ウエディング」においては奈良市街地を見下ろす若草山での人前結婚式を行うとともに、頂上に続く登山道の入り口周辺を会場にし、奈良のシンボル・鹿との記念写真も撮れるなどの工夫凝らしているといいます。

奈良ウエディングの会ではこのほかにも、新郎新婦が出席者に配るギフト用として、地元特産の「大和茶」のパック「あい茶」を開発しており、「観光振興にもつながる」と期待する奈良県もこれに協力しているとか。

結婚情報誌「ゼクシィ」は、最近のトレンドとしては、慣れ親しんだ環境において「2人らしくもてなしたい」「親族や友人に感謝を伝えたい」という新郎新婦が多いと分析しており、こうした地元で挙式する魅力を高めようという取り組みは、その流れに合っているのでは、と注目しているそうです。

このように、日本の場合、自治体自身が音頭を取って男女の出会いの場を設けるといったことがさかんに行われるようにはなってきているようですが、あいかわらず未婚率は年々上昇しており、30代前半で未婚の男性の割合は1960年の9.9%から2005年には47.1%まで上昇しています。

また生涯未婚率も上昇しており、2010年時点で男性19.4%、女性9.8%となりました。若者が結婚しない理由としては、一般的には女性の高学歴化や社会進出が原因といわれており、女性が自身で相当程度の収入を得られる社会になったことで、「結婚しないと生きていけない」というような状況ではなくなったという背景があります。

また、不況などの経済事由に伴い、結婚して子供ができたら育児が大変そう、といったことや「大人だから結婚しなくてはいけない」という社会通念の希薄化などもあげられており、結婚・出産といった一時的なリタイヤへの不安、女性の社会的身分が男性と肩を並べるようになったことなどもその理由として考えられます。

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ただ、日本人全体としての正式婚の数は、1978年以降、平成16年に至るまで年間70万件台を維持しており、既婚率は5.5%と世界主要国中34位と比較的高いほうです。

お隣の中国の6.8%や韓国の6.2%、アメリカの6.8%に比べれば低いものの、主要な先進国の中では高い方で、他は例えばドイツは4.7%、フランス3.9%、イタリア3.6%などであり、イギリスに至ってはわずか2.2%にすぎません。

これらの国は、社会保障が日本よりしっかりしていて、結婚しなくても子供が育てられる環境が整っていることがその理由のようです。しかしイギリスの既婚率がとくに低いのは、これに加えて離婚のための手続きが簡便だからということがいわれていて、このため離婚率も高く、既婚率が少ないのはそのためのようです。

とはいえ、日本もまたこれら先進国の御仲間入りをしており、社会保障制度などの面においてもこれらの国を見習おうとしている以上、既婚率はだんだんとこれらの国に近づいていくのかもしれません。

一方、日本ではまた晩婚化も進んでいるといわれています。

その原因のひとつもまた、高学歴化にあるといわています。日本では現在、民法上、結婚できる年齢は、男子18歳・女子16歳と定められていますが、日本国内では高校へ進学する人の割合が1学年あたり90%台に達してから既に長く、結婚して所帯を作ろうと考える年齢は、男女ともに18歳を下回ることはほとんどありません。

また、高学歴化に伴う就労年齢の高年齢化・職場での競争の激化が、晩婚化の傾向に拍車をかけているともいわれ、昨今では、男女とも30代になっても独身を続けようと考えることに対する抵抗感は希薄になっているようです。とくにその傾向は若い人の多い大都市圏において強いようです。

最近の若者は、個人主義の観点からも独身でいつづけることに対する社会的な抵抗がなく、俗にいう「世間体」ということも最近は周囲から言われなくなり、このため、以前は長く独身時代に留まろうとする者を「独身貴族」と揶揄されることもありましたが、これもあまり言われなくなりました。

就労して獲得した時間的・金銭的な余裕をもって、これを自分個人のために投資し充足感を得ることが重要視される傾向も強く、このため、自分の金は自分だけで使える独身時代にできるだけ長く留まろうとする若者が増えてきた、ということもあるようです。

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さらに、男女とも、お互いを結婚相手としてみなせない、という意識的な変化もあるようです。現在の日本では女性が経済力を付ける一方、国からの子育てのサポートが十分ではないために、女性の多くには子どもを産むと仕事を辞めざるを得ず、男性の収入を当てにする強い上方婚志向があります。

上方とは、つまり収入・年齢・階層の高が高い男性を指し、すなわちこの不況下では子育てのためには、裕福な人との結婚を希望するほうが有利、と誰しもが考えがち、ということです。

実際に、男性の所得が高くなるほど結婚した男性の割合が高くなり、20、30代の正規雇用で働く男性が結婚した割合は非正規社員の男性の約2倍だったとの調査結果もあるようです。

特に30歳代は男性の正規就業者の未婚割合が30.7%であるのに対して、非正規就業者は75.6%となっているなど、正規に就職していない男性の結婚への道はより険しいモノになっています。

一方、同様の調査をしたところ、女性の場合には、男性ほど正規と非正規で未婚割合について顕著な差は認められなかったそうで、このことからも女性は男性に経済的に依存する傾向が強いことがうかがえます。

さらに、男性からすれば「給料は頭打ちなのに、女性は金がかかる。子ができればなおさら」という意識が強く、長引く不況による経済的な理由が結婚に踏み込む意欲をそいでいるようです。

女性にしてみれば、「今の日本の社会で女性が自立して生きるのは不安。子どもを産むためにも早く結婚したいが、経済的に依存できるいい男性がいない」というわけで、こうした、男女の意識のミスマッチも、未婚率が高い原因であると考えられています。

ただ、就職や収入面においては、男女間の格差は是正されつつあるにもかかわらず、未だに女性は結婚後の生活を男性に頼ろうとしている、という女性に対する厳しい指摘もあります。

女性が男性に収入などにかなりの高条件を求め高望みをし、自分が高望みをしていることには気がつかずに「条件を満たす良い男性がいない」などと言って結婚できない状況を男性のせいにするのはお門違いだ、というわけです。

が、それをいえば、男性のほうもたとえ収入が低くても、妻とするその女性と将来できるかもしれない子供を守っていこうという、日本男児としての男らしさや気迫に欠けている、と批判されてもいいわけであり、どっちもどっちという気もします。

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また、男性は自身の年齢に比して、女性に若さを求める傾向が強く、最近の若い世代では、男性の人口の方が多く、若い女性の人口自体が減っているにもかかわらず結婚相手に「若さ」を求め続けていけば、結婚相手が少なくなるのは当たり前です。

将来子供を作りたいと考えるため、結婚相手も若いほうがいい、と考えるのは普通かもしれませんが、最近は高齢化出産も当たり前になっている時代であり、そろそろお相手は若いほうがいい、という古い考えは捨てて、年齢など気にせず相手の中身で選ぶ、というふうに考え方を是正していかなくてはなりません。

社会人となった男女が、現在のような厳しい経済環境の中で不安定な身分や収入にあえいでいるなかでは、前にも増して相手に「男らしさ」や「女らしさ」を求めているのはわかりますが、今の時代では、それらは「安心」「安定」という言葉にすり替わっている感があります。

経済力よりも、包容力やさしさ、癒しが、結婚相手を選ぶ際のキーワードになっていけば、未婚や晩婚も下火になっていくような気がします。

それにしてもこの晩婚化ですが、これは日本だけでなく、ほかの先進国や途上国でも増えてきているそうで、世界的な現象となっているようです。

国連が世界192カ国を対象に、1970年代と1990年代で結婚等がどのように変化したかを調査した結果によれば、70年代と90年代を比べると、世界の平均初婚年齢は2年近く遅くなっているといいます。

晩婚化は7割以上の国でみられ、平均初婚年齢は男性が25.4歳から27.2歳に、女性は21.5歳から23.2歳に上昇したといい、この上昇幅はとくに先進国の方が大きいようですが、途上国の中でも特にアルジェリア、スーダン、マレーシアのように3歳以上上昇した国があったそうです。

この要因としては、ここでも高学歴化が関係しているようです。

第二次世界大戦以前の社会においては、10代で結婚して所帯を形成することはごく自然な行為であり、全体にも平均初婚年齢は20歳前後に留まる時代が長く続きました。

これは世界的に進学率が低かったこと、及び低年齢から社会に出て手に職を付けることが当たり前でありかつ効率的であったことが理由の一つとして挙げられ、特に女子はその昔は進学せずに家事に就くことが当然と見なされる風潮がありました。

このため、進学や就職をせず親の縁談で伴侶を見つけて嫁ぐことも多く、女性の平均初婚年齢は10代後半というのが世界的なトレンドでした。

ところが、第二次世界大戦後、特に先進国においては義務教育以上の就学課程が義務付けられ、大学などへの進学率が高くなりました。この結果、平均初婚年齢は次第に20代へとシフトし始め、この傾向は高学歴を必要とする専門知識が求められる職種が増加することにつながり、学歴重視の雇用者意識が生まれました。

また、女性の社会参加、看護・福祉のような女性が中心的な労働力を占める職種も増え、女性の社会的地位の向上、女性の経済的な自立と就業意欲の高まりなどを背景として、年々結婚年齢の高齢化は加速しました。

上述のとおり、この傾向は日本においても同じですが、戦後は特に他国に比べて高度成長が著しい時代があり、これで一気に結婚年齢が高まり、さらには最近の不況によって、主として経済的理由から晩婚化が進みました。

かくして、結婚しなくても別にいいじゃないか、焦らなくてもいい、という風潮が蔓延するようになったわけですが、確かに私の周辺をみても、結婚にどうしてもこだわっている、といった人が少なくなったように思います。

もっとも、ウチの嫁のタエさんは、結婚願望が強かったようで、聞くところによると数十回のお見合いをしたそうです。が、結局彼女曰く、「フィーリングが合う」人がおらず、婚期を逃がしてきたということで、そのあげくにこのムサイ髭を生やした貧乏人と結婚したというのは、いったいどういう因果なのだろう、と哀れに思ってしまいます。

別に結婚しなくても二人だけでいることは可能だったろうとも思うのですが、そこで婚姻関係を結んだというのは、お互いその絆をより強めたいと考えたからでしょう。

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しかし、よくよく考えてみれば、絆を強めるためだけに、結婚をする必要はなく、一般論でいえば、今の日本のように豊かな国においては、男女の共同生活は婚姻制度を利用せずとも可能です。

法の保護に寄らない自由結合関係は、独立自由な個人の結合としては、婚姻よりも望ましく、より人間的だ、という考え方もあるようです。が、このような相互の自由意志を前提として結ばれた関係においては、その関係を維持するためには、お互いに不断の努力がし続けることが必須です。

つまり、共同生活を行う双方の意思の合致が常に必要となり、それぞれ自由意志を尊重するためのたゆまぬ努力が必要になるわけで、お互いの人間性を高めることにもつながり、そのほうが積極的に生きていることになる、とする考え方です。

結婚という法による拘束力に頼った結合関係よりも、もともとは個である人間としては、基本的には自由であるほうがより高尚じゃないか、というわけです。

こうした考え方には、確かに賛同できる部分もあるのですが、しかしやはり人間というのは弱いものです。若いうちにはこうした考えで婚姻関係を結ばなかったものの、やっぱり一人は淋しい、お互いを分かち合うためには必要ということで、晩年になって結婚する熟年婚もまた最近増えていて、これも晩婚化が増えているという要因のひとつです。

それにしても、そもそも、晩婚化が問題とされるのは、少子化問題があるからです。少子化になると何が問題かというと、まず生産年齢人口(15〜64歳)に対して、65歳以上の老齢人口の比率があがるため、年金などの社会保障体制の維持を困難にします。

また短期的には子供が大幅に減ることにより、ゲーム、漫画、音楽CDなど若者向けの商品、サービスが売れなくなります。さらに中長期的には人口減少により国内市場が縮小し、産業全般、特に内需依存の産業に悪影響を及ぼします。

このため、日本では少子化対策の大臣まで用意して国を挙げて少子化対策にあたっています。その対策としても、まずは子供を増やすためには、まず結婚率を上げることが前提だということで、たとえ晩婚でもいいから結婚させようと、共働き夫婦支援だの、選択的夫婦別姓制度導入など、あの手この手で結婚促進対策を打とうとしています。

しかし、晩婚では結婚してからも伴侶との共同生活を重視して子供を作らない夫婦も多く、こうした夫婦は、1980年代頃から社会的な潮流として注目を集め、DINKS (Double Income No Kids) と呼ばれていました。

こうした晩婚の夫婦が子供を作りたがらないその理由としては、とくに女性については、三十代中盤以降の出産にあたって、一般的に母体および子の双方に顕著なリスクが生じるといわれているためです。

子供を作ると金がかかるから、という人もいるでしょうが、高い年齢の夫婦は、逆に金銭的に余裕がある場合が多く、子を産み育てるための結婚という見地からは晩婚はメリットがあります。

しかし、やはり高齢になってからは不妊・あるいは各種の病気リスクがあり、設けた子供にもリスクが生じます。

その典型的な例としてはダウン症があります。発症率は、20歳で1667分の1、30歳で952分の1、35歳で378分の1、40歳で106分の1、45歳で30分の1であり、母体の加齢による発症率上昇が顕著です。

また、自閉症の発症確率についても高くなり、40歳以上の女性が自閉症の子どもを出産する確率は、30歳未満の女性の約2倍とするアメリカの研究結果もあり、これらリスクの主要原因は卵子の老化、減少だそうです。

思春期以降新規に生産され続ける精子と異なり、卵子は生まれた時から体内にあり、新たにつくられることはないため、母体の加齢とともに卵子も年をとり、数も減少します。現に、不妊原因の9割は卵子の老化が原因とされています。また、最近は男性側の加齢についても、女性の不妊のリスクに影響を与えているのではないか、といわれています。

このため、最近は高齢出産のために体外受精が行われるようになりましたが、その成功率は概ね35歳以上で16%程度にすぎず、また上であげたような加齢によるリスクを十分に軽減するものではありません。

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従って、やはり晩婚では子供は無理、ということで諦めている人が多いのも確かなのですが、子供がどうしても欲しいならば、他人の子供を貰って養子にして育てるという手もないわけではありません。

この養子制度の促進についても、法があえて結婚を促進させる制度をつくり保護を与えようとしている趣旨に適うのか、制度の存在意義そのものが問われていますが、養子であれ実子であれ、これを目的として晩婚ででも結婚する人が増え、子供を増やそうとする傾向が強くなることは、少子化対策に間違いなくつながっていく、という見方もあります。

ただ、自分の子か養子であるかは別として、育児に関して子どもの年齢に比べて親である夫婦の年齢が高く、早期に退職年齢に近づいてしまう、というのは社会構造上においてもデメリットとなる部分ではあります。

自分たちがかなり歳をとったとき、まだ息子や娘は成人にも満たない、というのは年を取ってからの結婚する人達にとって、大きな不安材料であり、また、子供にとっても自分が満足に成長していないのに、老齢な両親を養わなければならないというのは大きな負担です。

そうしたリスクをしょってまで出産や養子制度によって子供を手に入れたいか、といわれると躊躇してしまい、どうせ子孫を残せないなら齢を重ねてからわざわざ結婚するのはやめておこうという人も多いでしょう。

晩婚における問題としては、さらにもうひとつ、もし熟年離婚したらどうしよう、というのがあります。年を取ってからの離婚には、未成熟の子供の成長が心配というのもありますが、齢をとってからでは自分たち自身が受けるダメージも大きいものです。

熟年離婚は、最近とくに数多くメディアで取り上げられるようになったように感じられる現象ですが、実は1969年(昭和44年)ころにはもう既に話題になっていました。

夫の退職を機に、それまで経済的な理由で離婚を控えていた妻が「いただくものはいただいてさっぱりし、老後を一人で送る」形で高年齢層の離婚が「じりじりと増えつつある」と、この当時の新聞記事などで報じられており、この時代から既にもう中高年夫婦の離婚増加が問題になっていたことがわかります。

ただ、最近ではこの頃よりもさらに熟年離婚は増えてきているそうで、その理由のひとつは、2007年(平成19年)4月の年金制度の変更で、夫の厚生年金を離婚時に分割できるようになったことです。これにより、妻はそれまでは離婚したららえなかったお金がもらえるようになったことから、最近とくに熟年離婚の相談件数は急増しているといいます。

こうした熟年離婚の可能性もあることを理由に、結婚をためらう人も増えているといい、これもまた、日本の未婚率を高めている要因だといわれており、熟年離婚は、子供の権利を保護するという観点からもその対策が望まれています。

このため、そうした対策として、結婚前にあらかじめ夫婦間で財産の帰属等を確認し、契約を交わして登記しておく「夫婦財産契約」という制度を利用してはどうか、と勧める弁護士さんもいるそうです。

永年連れ添ったカップルの熟年離婚の原因としては、離婚に伴う夫婦間の財産分与トラブルや、互いに連れ子がある再婚夫婦の遺産分配の仕方などを巡ってのことが多く、こうしたトラブルになりそうなことについて、あらかじめ結婚前に決めておき、いざという時に備えようというわけです。

トラブルにつながりそうな事項については、早めに芽をつんでおけば、離婚しようとしても、その縛りがあるため離婚しようという気になりにくい、あるいは離婚問題が浮上してきたときも歯止めになるのではないか、というわけで、「夫婦財産契約」は合法的にも認められているそうです。

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この制度はあまり知られていないようですが、実は明治時代からある制度だそうで、確かにうまく使えば夫婦が互いを尊重しあい、幸せに生活する助けになるかもしれません。

もっとも、離婚前提にこうした契約をした上で結婚するというのもなんだかな~というかんじがしないでもありません。また、離婚する頃には結婚前にそうした契約をしたことさえ忘れて、それがまたもとになって喧嘩になったりするケースもあるかもしれません。

実際にも、夫婦財産契約を結んでいる人はほとんどいないといい、その理由としてはこの契約が結婚前にしか締結できないことや、結婚後は原則的に内容を変更できないこと、また締結するためには登記が必要など、めんどくさい手続きが多いことなどがあげられます。

ま、結婚前に契約するなんて制度が増えるのは、金目当てに結婚をする人が多いという最近の金満中国などと同じ傾向化を辿るものであり、どちらにせよ、日本にはそぐわない制度でしょう。

中国では、1990年代後半からの経済成長とそれに伴う経済格差の拡大により、結婚に際し愛情よりも経済力を優先する風潮が強まり、若い女性が生活向上のための手段として玉の輿を狙う姿がみられるようになったそうです。

こうした世論を反映するように、成金が若い女性を狙ってモーションをかけることが多くなっているそうで、2006年ころから女子大に花嫁募集をかける求婚活動が一般化しているといいます。

私も金さえあれば、若い娘をそれで釣って、ハーレム状態で過ごしたいな、などとチラと思ったりもしないでもありませんが、残念ながら今はそんな経済力はなく、将来的にもおそらく、たぶん、いや未来永劫に無理でしょう。

もっとも、私以外ではお金持ちも多く、そうした男性を探して金のために結婚したいという女性もけっしていないわけではないでしょうが、そういう不埒な女性を増やさないためにも、あまり日本男性は金持ちになりすぎないのがいいのかもしれません。

古くからの伝統である、質素で勤勉が日本人の取り柄、美徳であり、結婚においてもまた地道な夫婦の努力が幸せをもたらすと考えたいところです。

さて、みなさんのところはどうでしょう。結婚、してますか?

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方言、それとも言語?

2014-1090906昨今のニュースネタでのトップは、やはりSTAP細胞なるものの真偽を巡っての一若手研究者と理化学研究所との攻防劇でしょう。

イギリスの科学雑誌、ネイチャーに投稿されたこの研究者の論文には、たくさんの共同研究者の名前が掲載されていたようですが、その中にはこの女性研究者の恩師の名前もあり、理化学研究所のナンバー2でもあるこの人の記者会見も数日前にあったばかりです。

私もかつて、アメリカの学会などに恩師とともに論文を提出したりしていたことがあるのでなんとなくわかるのですが、こういう論文を出すときにはこうした先輩研究者は、弟子である主執筆者が書いたその論文の中身について、それほど細かい部分まではチェックしません。

その理由は、そうした先輩研究者が後輩に名前を貸す、といったら過言かもしれませんが、自分が育てた研究者に敬意を払ってのことでもあり、自分がその論文に名を連ねるというのは、ある程度はその研究者を認めた、ということを表明する意味もあるためでしょう。

手塩をかけて育てた弟子が、世に出ていくときに、その手助けをしてやろう、という親心のようなもので、そういう面もあってやはりチェックは甘くなりがちです。

だからといって弟子のほうにも甘えがあってもいいということにはならず、認めてもらった以上は、御師の業績を汚さないように一生懸命良いものを出すべきなのでしょうが、この女性研究者にはそうした配慮がどこか足りなかったのではないか、と思えます。

こうした師弟関係において共同研究をする場合には、阿吽とまではいかずとも、それなりに「空気を読む」ということが大事なわけですが、しかしその空気についても明文化されるはずもなく、お互いが「なんとなく」察している、といった雰囲気の中で分かり合っているものであることが多いように思います。

なので、いってみれば不文律のローカルルールのようなものが、くだんの研究所内の研究者たちの間にもあって、そうしたあいまいさが今回の事件の根幹にあり、それが問題を難しくしているような気がしてなりません。

こうしたローカルルールというのは、一般家庭の中にもあって、例えば家族間の会話ひとつにしても、他の家庭では決して使われないような言葉を知らず知らずのうちに使っていたりします。

例えば、ウチの嫁のタエさんがよく「パイする」と口にするのですが、これはどうやら、「捨ててしまう」という意味のようで、彼女が育った家庭では、彼女のお母さんが普通にこれを使っていたとのことで、私と結婚して一緒に暮らすようになっても、彼女にとっては自然に口から出るようです。

無論、広島弁にはないことばで、他県にもない非常に限定的な言葉なのですが、長い間使っているうちには、自分でも標準語だと思い込むようになっていくものなのでしょう。

このほか、私が育った家では、「じらを言う」というのがあり、これは駄々をこねる、というほどの意味なのですが、同じ広島育ちのタエさんにこれを言ったところ、さっぱり通じず、何それ?と言われてしまいました。

エッ!?これって広島弁じゃないの? とそこで初めて気がついたわけですが、私は彼女と結婚するまで50年以上もの間、これを多くの広島の人がごく普通に使う言葉だと思っていました。

ところが、これは山口にしかない言葉のようで、山口で生まれ育った母親がやはり自分の家庭で普通に使っていたものを私が聞き覚えたもののようです。考えてみれば、こうした言葉は学校で友達同士使うことはほとんどなく、家に帰ったあと、何等かのわがままを言ったりやったりしたときぐらいしか、母親が口にしなかったことなどを思い出しました。

ローカルな家庭でしか使われない言語が、そこに暮らす住人にとっては標準語になっていく、という典型であり、こうした例はタエさんや私の家庭ばかりではなく、ほかの家でもよくあることではないか、と思います。

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すなわちこれは、いわゆる「方言」というヤツであり、ある一定の地域でのみ通用する口頭言語のことです。

文字言語がほぼ共通している地域内で、文法は同じであっても単語や発音・アクセント・イントネーションが異なる地方の言語をさし、地域人口の集中程度により同一方言が形成されます。

しかし、この地域に隣接地域から人の出入りが多く、異なる地域の言語が交錯し始めると、次第にその他地域も含んで、その方言全体が変容していくとともに、その方言を話す地域も拡大していきます。

ただし、その地域間が山や川といった自然条件、あるいはある規律によって定められた境界などによって分断されると、それぞれ離れた地域間ではほとんど会話が通じないことになってしまいます。

それにしても、そもそもいつから「方言」と言うようになったか、について調べてみたところ、日本においては、820年頃成立の「東大寺諷誦文稿」に既にこの方言という言葉が出てくるようです。

「此当国方言、毛人方言、飛騨方言、東国方言」といった記述があるそうで、これが国内文献で初めて用いられた「方言」だということです。そんなに古い時代から、既に方言という概念が存在していたことになり、古代日本においても地方毎に違う言葉が話されていたことが想像されます。

しかし、言語は変化しやすいものなので、地域ごと、話者の集団ごとに必然的に多様化していく傾向があり、日本においても発音や語彙、文法に至るまで微妙な相違が生じるようになりました。とはいえ、その違いが全く別の言語と認められるほどには異ならず、同じ言語の変種と認められる程度のものが方言と呼ばれます。

ただし、同一国家内にあっても、社会階層や民族の違いなどによって、同じ言語といえどもでもまったく異なる話し言葉になり、ひいてはそれぞれの言語がひとつの国を形成することもあるようです。

例えば、旧ユーゴスラビアのセルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ地方などでは、セルビア語、クロアチア語、ボスニア語といった言語が話されてきましたが、これらの言語は、異なる民族が使ってきた言語です。

それぞれ、表記体系・文法・規範的な語彙に違いがあってもお互いに非常に近く、第二次対戦後の旧ユーゴスラビアにおいては「セルボクロアチア語」という1つの言語だとされていました。

しかしユーゴスラビア紛争を経て国家が分裂した現在、それぞれの国家・民族でセルボクロアチア語はセルビア語・クロアチア語・ボスニア語という相異なった3つの言語であると再び主張されるようになっています。こうなると、もう「方言」というよりもむしろ、違う「言語」、というべきなのでしょう。

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しかしそれでは、方言と言語は、何が違うのでしょうか。何を基準にして方言といい、どこからが言語になるのかについては非常にあいまいな気がします。

一般には、方言同士が時を経てそれぞれ異なる方向に変化していくと、やがては意思の疎通ができなくなるほど別モノになっていき、そうした過程のある段階で各々の方言は別言語だとみなされるようになっていくようです。

理論上は、同じ「語族」に属する言語でも、その方言がさらに変化して別言語に枝分かれたものはもう全く別の言語のようになってしまうことも多く、一般的な感覚ではしばしば「お互いに意思の疎通が可能」であることが方言か別言語かの基準とされるようです。

しかし、言語学的にみると、「同語族の共通言語」と、この同語族内で話される「共通言語の中の方言」を区別する明確な基準はないそうで、こうした学問の世界でも言語と方言の違いは曖昧で、ジャッジがしづらいもののようです。

中には、同じ語族とされている中においても、隣接する地域同士ではそれぞれ意思疎通ができるのに、数地域隔たると全く意思疎通ができなくなる、といった特殊ケースもあるそうです。

また、国境の有無や、友好国同士か敵対国同士かというような政治的・歴史的な条件や、そもそもそうした言葉を表記する文法や文字のようなものがあるのかないのか、文法や文字がないようなものを果たして言語と呼べるのかどうか、といった議論もあり、こと「言語」といった場合の例外はいくらでもありそうです。

このため、「世界にいくつの言語が存在するか」という質問に対しては、明確な答を出せる研究者はいないといわれています。

ただ、「言語」と「方言」に境界線を引くための指標としてしばしば引用されるのは、「言語とは、陸軍と海軍を持つ方言のことである」ということです。これは、自分たちが話す言葉がはたして「方言」であるか、それとも独立した「言語」であるかについては、その言葉を使う共同体が独立国家として軍隊を持つか否かで決まるという意味です。

独立国家であるならば、当然のことながら他国との争いがあった場合に、自国を守る軍隊を持っている必要があり、そうした政治的・軍事的な要因に支配されている国家が使っている言葉が言語である、というわけです。

しかし、上の旧ユーゴラビアの例のように、実際にはひとつの独立国家であっても、多民族で構成されている国では異なる言語が存在するのは当たり前であり、こうした、軍事的なものが言語を規定するのだ、という主張は必ずしも正当性を持つものではありません。

また軍隊を持っているある一つの国の言語が、ほかには存在しないか、といえばそんなことはなく、英語やスペイン語は、それぞれ独立した多数の別々の国々で話されています。

英語はイギリスで用いられるものとアメリカ合衆国のものとで細部が異なり、前者はBritish English、後者はAmerican Englishと呼ばれるほか、インド英語は、Inglish、シンガポール英語はSinglishといわれます。

しかし、英語は万国共通の公用語だとよく言われますが、同じ英語を話す別国人同士が会話するときに、まったくといっていいほど通じないことも多いようです。

例えばイギリス北部訛を持つイギリス人とアメリカ南部訛を持つアメリカ人の会話は成り立たず、ほとんど異星人と話しているような状態になってしまいます。が、それでも英語を共通語として意思疎通を図る国々は多いものです。

このほか、インドネシアを例にあげると、この国の言語はインドネシア語が標準語とされています。ところが、インドネシア語というのは、マレーシアの公用語であるマレー語の方言を基盤に整備されたものです。

このためインドネシア語、マレー語というと別の言葉のように思われているかもしれませんが、この両者の共通性は元々非常に高く、正書法(言語を文字で正しく記述する際のルールの)もほぼ同一で、この二国語での会話もある程度可能だといいます。しかし、一般的には両言語は別言語として扱われています。

また、インドの公用語であるヒンディー語とパキスタンの公用語であるウルドゥー語は、両国が同一のムガル帝国のころは同じ言語(ヒンドゥースターニー語)でしたが、インドとパキスタンの分裂により別の言語とされました。

その後はイスラム教徒の多いパキスタンがこれにペルシア語やアラビア語の単語や文字を取り入れるとともに、仏教徒の多いインドでは逆にヒンディー語からイスラムの影響を排し、サンスクリット語を代わりに取り入れ、インド化をおこなうなどしました。

こうして、インドとパキスタンそれぞれで話される言語は現在は全く違う言語になってしまいましたが、それでも現在でも、それぞれの言語を使いながらも両者の意思疎通はある程度可能だといいます。

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国が違っていても、言葉が通じる例は、ドイツとオランダの間にもあります。ドイツ語は北部方言と、標準語とされる南部方言があり、これはお互いに通じないほど違うそうですが、どちらもドイツ語を構成する方言とされています。

他方、このドイツ語北部方言はオランダ語ときわめて近い関係にあります。しかし、オランダ側では、このドイツ北部方言をとくにオランダ語の方言とみなしていません。にもかかわらず、このドイツ語北部方言を話すドイツ人と、オランダ語の標準語を話すオランダ人との会話は普通に成立するそうです。

それぞれ別言語とされ、別国人なのに会話ができ、その一方でドイツ国内ではドイツ語北部方言を話す人とドイツ語南部方言を話す人とは会話が困難である、という我々からみるとさっぱり理解できない、奇妙なことになっています。

とはいえ、似たようなことは、中国と日本の間においても言え、日本人が使う漢字はもともと中国から入ってきたということは誰でも知っています。が、二国人間でそれぞれの母国語を使った会話はまったく通じません。

しかし、漢字を使った筆談ならばある程度の意思疎通はでき、漢詩の作り方などを学校でも教えていた明治時代には、日本人も文字を使えば、普通に中国人と会話ができたそうです。

一方、現在の中国国内の言語系体は、とくに発音においてヨーロッパ各国間の公用語ほどの違いがあるそうで、さらに表意文字である漢字にもかなりのバリエーションが存在するため、意思疎通が困難な場合も多いといいます。

ただ、同系の標準語が定められていて、これを共通語・補助語的に使うことで、意思疎通を図ることが可能です。

さて、我が日本国内を見てみると、やはり地方訛は存在します。とくに沖縄県や鹿児島県奄美群島の言語は、地理的、歴史的要因から本土の日本語とは差異が著しく、日本語というよりも「琉球語」として、日本語とは別言語とされることも多いようです。

しかし、口頭では互いに全く通じ合わないほどの違いがあるものの、独立言語として見た場合、日本語と系統が同じ唯一の言語と見なされるため、琉球語を話す人達は、日本と琉球を合わせて「日琉語族」と呼ばれています。

また、琉球語を日本語の一方言とする立場からは、これは「琉球方言」または「南島方言」と呼ばれていますが、逆に沖縄の人の中には、日本語は琉球方言と本土方言の2つに大きく分類できる、と言っている人もいるようです。

しかし、沖縄の人は普段使いではこの琉球語をしゃべる一方で、本土の人が来たときには、標準語(に近いことば)でしゃべってくれるため、中国のように意志疎通ができない、といったことはありません。

これは、一個の政府のもとに統一された日本では明治時代以降、中央集権国家を目指したため、沖縄においても学校教育や軍の中で標準語化が押し進められたためです。

1888年に設立された国語伝習所の趣旨には「国語は、国体を鞏固にするものなり、何となれば、国語は、邦語と共に存亡し、邦語と共に盛蓑するものなればなり」とまで書かれ、また富国強兵を進めようとした明治政府は、全国で軍部での標準語化の推進を強く推し進めました。

軍隊では、異なる地方の者同士が集まる場であり、戦場においてはこの方言の差異のために命令が取り違えられた場合には、死活問題にも発展する恐れがあったためで、このことから、方言を話すことを禁じる政策がとられました。

国会答弁などで、政治家がよく、国会答弁などで、「●●であります」と言ったりしますが、これはこの当時の軍隊の標準語化のなごりで、山口弁の丁寧表現の「~であります」からきています。

日本陸軍の創設者ともいわれる長州人の山縣有朋が導入したとものともいわれ、明治初期に軍隊用語の丁寧表現に導入された結果、やがては共通語としても使われるようになっていきました。

現在普通に使われる、~であります、は、どちらかといえば平坦なトーンですが、山口弁のありますは、ありますの「あ」の部分を強く発音されることもあり、このあたりが標準語とちょっと違います。

現在でも山口県のほぼ県全域で盛んに使われますが、県北部や西部の豊関方言、南部の宇部の方面ではあまり使われず、もっぱら山口市などの中央部のことばです。

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明治期、山縣有朋に代表されるような長州閥の多くは陸軍や警察の創設に深く関わったため、軍や警察などでこうした格式ばった表現が取りいれられたようになった結果ですが、このほかの国家統制組織においても、方言は徹底的に弾圧されました。

このため、方言を話す者が劣等感を持たされたり、または差別されるようになり、それまで当たり前であった方言の使用がはばかられる事になっていきました。ただし、だからといって明治時代に、方言追放を徹底できたとは言い難く、軍・政府の重鎮であった、米内光政などは、終生南部訛りが抜けなかったそうです。

がこれは、米内は長州閥の多かった陸軍の所属ではなく、薩摩や旧幕府方の藩出身者の多い海軍の人であり、彼自身も幕末に新政府と敵対した盛岡藩の出身であり、陸軍のみならず海軍までこうした長州言葉が蔓延することをあまり良く思っていなかったためでしょう。

とまれ、こうした軍部での方言の矯正を主として言葉の統一が求められるようになると、東京方言を基に標準語を確立し普及させようとする動きが起りました。

同時に、方言を排除しようとする動きが強まり、標準語こそが正しい日本語であり、方言は矯正されなければならない「悪い言葉」「恥ずかしい言葉」とみなされるようになっていきました。

昭和40年代頃まで、方言撲滅を目的の一つとする標準語教育が各地の学校で行われ、なかには地域・家庭ぐるみで自発的に方言追放活動を推進するところもありました。

都会出身者の方言蔑視と地方出身者の方言コンプレックスが強固に形成され、方言にまつわるトラブルが殺人・傷害・自殺事件に発展することもあり、とりわけ集団就職などで国民の国内移動が活発化した高度経済成長期にはそういうことが多かったようです。

その後はさらに、テレビ・ラジオなどの普及もあって、こうしてほぼ全国的に標準語が浸透しました。

ただ、方言が全く無くなってしまったわけではなく、地方へ行けばやはりその地方の言葉が話され続けており、公的な場ではこれを標準語に戻す、といった形で標準語との共存が図られています。

現代の方言分布は、江戸時代の藩の領域に沿っているところが多く、特に津軽藩や仙台藩、薩摩藩など東北や九州は、東京や京都などの中央部から遠かったために、お国訛りがぬけきらず、この地方の人々の標準語はどうしても聞き取りづらいものになっているようです。

江戸時代の藩制では、藩の間の移動は制限され、藩が小さな国家のように機能していたため、どうしてもその国特有の訛が発生しました。江戸時代には方言を集めた書物も存在していたそうで、「物類称呼」(1775)という本などにも、東西方言の違いが記載されているそうです。

江戸時代の前半までは、江戸はまだ発展途上にあり、このため京阪神のほうがまだまだ賑やかで、京都方言が中央語の地位を占めていました。しかし、その後江戸の発展とともに江戸言葉の地位が次第に高まっていき、また江戸時代には上方の言葉が江戸に流入したため、江戸・東京方言は周辺の関東方言に比べてやや西日本的な方言になったといいます。

例えば、それまで江戸弁では「行くべ」と言っていたものが、「行こう」となったのもこのころで、やがて上方方言に対して江戸方言のほうがより優位な状態が固まっていき、明治時代になってからは、さらに東京方言を基に標準語を確立することになり、以後も標準語教育の過程で東京弁が標準語として定着していきました。

さらにテレビや映画などのマスメディアによる共通語の浸透、交通網の発達による都市圏の拡大、高等教育の一般化、全国的な核家族化や地域コミュニティの衰退による方言伝承の機会の減少などから、伝統的な方言は急速に失われるところとなり、各地の方言は衰退や変容を余儀なくされるようになりました。

各地のアクセントは多くの地域で保持されてはいるものの、特徴ある語彙などが世代を下るたびに失われていっており、このため、積極的に方言を守るための動きなどもあり、各地に方言の保存会が作られているほか、各種テレビ番組などでも地方の方言を持ち上げる演出が多くなってきているようです。

自分達の方言を見直そうという機運が各地で高まっており、例えば、その昔「おいでませ山口へ」というフレーズが全国的にも有名になったことがありました。

これ以降、方言を観光面で積極的な活用しようとする動きや、そもそも地元住民向けだったかなりローカルな商品やネーミングなどを、全国区に登場させるような風潮が生まれ、方言を用いた弁論大会、方言自体の商業利用の機会が増えました。

もとは地元ラジオ番組の一コーナーだった「今すぐ使える新潟弁」などは、CDとして全国発売されてヒットしたようで、このほか、東京出身のEAST END×YURIが出して1994年にヒットした「DA.YO.NE」に対して、大阪弁や北海道弁のほか、広島、博多、名古屋などの各方言バージョンが作られてヒットする、といったこともありました。

このほか、「大きな古時計」の秋田弁盤などもカバーされて発売されるなどのブームが続き、2000年代前半に入ってからは、とくに首都圏の若者の間で方言がブームとなり、方言を取り上げるバラエティー番組や仲間内で隠語的に使えるように方言を紹介する本が話題を集めています。

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また近年、日常の口語に近い文面を多用する電子メールやチャットなどの出現によって、これまで書き言葉とされることの少なかった方言が、パソコンや携帯電話で頻繁に入力されるようになり、これに対応して、ワープロソフトの一太郎などで有名なジャストシステムは、各地方方言の日本語入力システムを発売しています。

このように、伝統的な方言の衰退は進んではいるものの、一概に標準語の中に埋没しているわけではなく、語彙については共通語化が著しいものの、文法やアクセントの特徴は若年層を中心に保たれているといった現状があります。

とくに、沖縄では、1980年代後半以降、標準語に対する独自性が、沖縄県のサブカルチャー愛好家の若者たちの間で見直され、戦後の沖縄県独自の習慣や風物ともども再発見されるようになった結果、「ウチナーヤマトグチ」と呼ばれる、新しい日本語の方言がよく使われるようになっています。

沖縄県民が「方言」として認識する土着の琉球語とは異なり、語彙・文法は、標準語とほとんど変わらず、このため、本土の人間がウチナーヤマトグチを聞いても理解は可能です。琉球語とは異なり、県外の人も俗に「沖縄弁」と呼ぶときは、この言葉を指すようです。

これは第二次世界大戦後、標準語(ヤマトグチ)を使ったメディアの普及や、学校における標準語普及運動により、旧来の話者は次第に高齢者に限られ、土地の方言が分からない、もしくは聞けても話せない若者が増えたためであり、普及した新方言は元の方言の影響を強く受けつつも、伝統的な方言と標準語のどちらでもない新しい方言に化していきました。

1990年代には、ウチナーヤマトグチを使った劇団、お笑い、音楽などが沖縄県で流行し、2000年代には、沖縄県の食文化、ライフスタイルなどへの興味を中心とした新しい「沖縄ブーム」や、NHK連続テレビ小説「ちゅらさん」のヒットなどもあって、この言葉のスローで優しい印象が全国で認識されるようになっています。

このように、沖縄で伝統的な方言でも共通語でもない言葉が流行するのと同調するかのように、「なまら」のように特定地域だけに広まる若者言葉も生まれており、これらは「新方言」と呼ばれています。これは、北海道の若い人の言葉で、たいそう、非常にという意味で、道内だけで使われている方言です。

このほかにも方言だと気付かれずに公的な場でも使われるようになっているものが増えており、これらの中から地方にとどまらず全国区として取り上げられ標準語になったものもあり、若い人を中心にこうした言葉を使う人が増えています。

例えば、「ごみステーション」というのはもともと、北海道や富山県東部において「ゴミ捨て場」の意味で呼ばれていたものです。これが、他地域ではカラスや猫などからの被害を防ぐために金網などで囲われたボックスケージをごみステーションというようになり、現在では全国的な用語になりました。

また、マクドナルドを指す、「マクド」は関西地方での略語として使われていたのが全国区になったもので、このほか、「モータープール」も主として大阪で駐車場を意味していた言葉が、全国でも使われるようになったものです。

ただ、全国区になりきらずに地方だけの新方言にとどまっているものも多く、「しれ/せれ」「食べれ」「やめれ」「掃除せれ」などは東北・越後・関東北部および九州北部にとどまっている例です。

地方によってはその新方言を、その地方の標準方言と信じ切っているケースも多いようで、熊本の若者が標準の熊本弁だと思っている「死にかぶる」というのは、難儀な目に遭うという意味の新方言です。

このほか、中国地方のテンパール(住宅用ブレーカ)、千葉県のパンザマスト(防災行政無線で児童の帰宅を促す放送)はそれぞれ商品名などから来ており、北海道のサビオ、富山県でのキズバン、熊本県および周辺地域でのリバテープ、佐賀県・長崎県などでのカットバンはいずれも「絆創膏」を表す新方言として使用されています。

笑ってしまうものも多く、福井県で、テレビ放送終了後のいわゆる「砂嵐」画面を表現する言葉は「じゃみじゃみ」というそうで、仙台弁でジャスといえばジャージーの意味で、これは甲州弁になるとジャッシーというそうです。

一方では、こうした新方言を使う側もこれを共通語ではないことを意識して使っている場合もあり、若年層では方言コンプレックスも薄れつつあってこうした新方言を頻繁に使うようになり、これらが逆に東京の言葉に影響を与え、いわゆる「若者言葉」にもなったものも多数あるようです。

改まった場面では使われることはなく、くだけた場面でしか使われませんが、こうした新方言の登場により、方言自体は失われるというよりもむしろ安定期に入った、と見る向きもあるようで、これからの日本語はこうした新方言や若者言葉によって席巻されていくのかもしれません。

ウチのタエさんがよく口にする「パイする」もやがては、この伊豆地方で流行り、全国区に登場するやもしれませんが、そのためにはこのブログを読む人が更に増えなくてはなりません。

今日このブログを読んだあなたも今日からゴミにすることを、パイする、と呼んでみていただく、というのはいかがなものでしょうか。
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2014-1090697昨日の日経新聞夕刊のコラムで、桜が終わると、とたんに初夏の気分になる、とある大学の先生が書いておられましたが、そのとおりで、まだまだ八重桜はこれからではあるものの、花が散り去ったソメイヨシノや河津桜の枝々はみな、黄緑に変わりつつあります。

が、おそらくここ伊豆より北の河口湖や山中湖周辺では、まだまだソメイヨシノが咲き始めているか満開のはずなので、今週末から来週にかけてでも、ちょっと遠出をしようかと考えはじめているところです。

ただ、今年はもう既にこれでもかというほどサクラを見る機会が多かったので、今週は少し中休みしたい気分で、昨日も夜遅くまでだらだらとBS放送の映画を見たりしていました。

見ていた映画は、「駅~STATION」という高倉健さん主演の映画で、1981年11月公開の作品です。

健さん演じる、北海道警察の刑事は、オリンピック出場経験のある射撃選手でしたが、刑事としては拳銃操法を見込まれて危険な現場に投入されることが多く、その数々の現場でいろいろな人間ドラマに巻き込まれます。この映画ではとくに女性との関係が印象的に描かれ、これらをオムニバス形式にしたのがこの映画の特徴です。

哀愁のある北海道の冬景色をバックに撮影されたこの映画をみつつ、ついつい昔を思い出してしまいましたが、というのも、この映画の舞台となった北海道の増毛町というのは、その昔仕事で何度か行ったことのある場所だからです。東京からはるばる一人、この寂しい土地に調査に行くたびに妙に哀切な気持ちになったことなどを思い出します。

増毛町は北海道北部、留萌のやや南西の日本海側に面した町で、ここにある「雄冬海岸」というのは本当に美しい海であり、その背後にある暑寒別岳とあいまって、もうそれだけでも哀愁を感じさせます。が、町自体の歴史も古く、町内にはたレトロな建物が立ち並び、その多くはこの町の主産業である漁業の関係者の家々です。

私が仕事で行っていたころは、まだ北海道遺産などの制度はありませんでしたが、今はこれらの古い建築物がそれに選定され、そのひとつである明治時代からある國稀酒造(元:丸一本間合名会社)などは、日本最北にある造り酒屋として有名です。

アマエビやたこなどの水揚がとくに多く、ボタンエビの漁獲高は日本一です。秋にはサケマスなどが近隣の川へ遡上する土地柄で、私がここへ行った理由も、サクラマスの稚魚に関するある実験調査が目的でした。

サケやサクラマスなどのサケマス類の仔魚は、光に感応して光源を追随するのではないか、ということは昔から言われており、その習性を利用して、ダム湖などに溜まって海へ流下できないサクラマスを安全な流下口へ誘導できないか調査する、というのがその仕事の内容でした。

ご存知のとおり、サケマス類は豊富な栄養分を持つ海で大きく育って川へ戻り、川の上流まで遡ってここで産卵をします。産卵して生まれたサケの仔魚は、翌年の春になると川を下り、夏になる前に海に達します。

が、ここで問題なのは、その途中にダムや堰などの人工構造物があることで、その構造物の背後にある湖に達した仔魚は、そこを海と勘違いして、そこから下流へ行かなくなってしまいます。

海へ行かないということは、豊富な餌のある環境で育たないということであり、湖を棲みかとして育ったサケマス類は、一定の大きさ以上になることができません。これを「陸封」といい、最近、山梨県の富士五湖・西湖で絶滅していたと思われていたクニマスがさかなクンによって発見されましたが、これも陸封魚の一種です。

本来、湖などで養殖目的で人工的に放流されますが、天然モノのサケマス類も、こうしたダム湖や堰湖で陸封化されてしまい、海に下って大きくなることができないため、これを捕獲して生活している水産業者にすれば全体的に水揚げの減少につながる、ということで、昔から大きな問題になっています。

ダムや堰を防災や利水目的で造っている国土交通省や電力会社は、こうした面で非難されることが多く、ダム建設反対派をなだめるべく、なんとかサケマス類の海への流下を促進させたいという意向があり、そのための調査が私のいた組織に、こうした調査が発注された、というわけです。

この調査の結果、サケマス類のうち、とくにサクラマスに関しては光への追随性は確認されたのですが、では実際に広いダム湖において、放流口や発電タービンへの取水口といった危険な場所ではなく、安全な魚道などの入口にどうやってサクラマスを誘導するか、という点が問題になりました。

強い高原の光を一定間隔で、湖上に並べてそれに沿ってサクラマスの稚魚を誘導してはどうか、ということで、実際に多額のお金をかけてそうした実験も行いましたが、結局はその有効性について決定的な結論を出すことができず、この調査はその後打ち切りになりました。

が、私的には、こうした一連の調査のおかげで、頻繁に自然豊かな北海道へ出かけることができ、それこそ年に十数回も行っていたでしょうか、くだんの増毛町もその目的地のひとつであった、というわけで、今もこの当時のことを思い出すと、足しげく通った水産試験所や、その近くのひなびた海岸の風景が脳裏に浮かんできます。

この増毛町を舞台にして撮影された「駅」が公開された1981年という年もまた、私にとっては思い出深い年です。

この年の3月に大学をちょうど卒業して、ここ静岡を離れて東京へ引っ越したのもこの年であり、慣れない東京生活と、新人社員として越えなければならない数々のハードルに直面することになった年でもありました。

それまでの大学生活と違い、社会人として直面する新しい日々は緊張と反省の連続でしたが、この最初の年に学んだことは現在の私の資質を形成する糧にもなっており、非常に大きかったと今も思うのです。

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が、そうした私生活とは別に、社会的にはどんなことがあったかな、と改めて思い返してみると仕事が忙しかっただけに、あまりよく覚えていません。そこで、ちょっとこのころのことを調べてみようと思い、ウィキペディアなどを検索したところ、なんとこの年は後世にも語り継がれるような実にいろいろことがあった年でもあったようです。

例えば、この年の1月には、前年12月より続く大雪が継続しておこり、これは後に「五六豪雪」といわれる記録的な大雪となり、この降雪は3月まで続き、北や畿内北部で大きな被害が出ています。

また、海外では中華人民共和国元最高指導者毛沢東の妻江青に対して死刑判決が下りていたり、レーガン米大統領がアメリカの経済再建計画を発表し、これは後にレーガノミックスとして世界中で知られるようになりました。

そのレーガン大統領がワシントンD.C.の路上で銃で胸を撃たれ重傷となったのは、この発表からわず一か月後の3月のことであり、全く関係ありませんが、その3月の末日の31日には、ピンク・レディーが後楽園球場で最後のコンサートを開き、解散していたりします。

このほか、5月には、中国陝西省で日本国外では既に絶滅したと思われていた野生のトキ7羽が発見されたり、アメリカ疾病予防管理センターが、ロサンゼルス在住の同性愛者5人が、免疫システムが低下した場合のみに発生するカリニ肺炎を発症したことを発表。

これがその後世界中に蔓延する最初のAIDS患者の発見例でした。こうした医学、化学の世界ではほかに、科学雑誌「ネイチャー」でイギリスのケンブリッジ大学が世界で初めて「ES細胞」の作成に成功したことが報じられています。

作成したのはマウスのものでしたが、このES細胞の開発はその後の再生医療への道を開き、のちに日本の山中教授が開発したIPS細胞にもつながるものでした。

イギリスでは7月にイギリス王子であるチャールズ・ウィンザーが、のちに悲劇の王妃となるダイアナ妃と結婚しており、IBMがマイクロソフトのDOS(ディスク・オペレーティング・システム)搭載の「IBM PC」を初めて発表したのもこの年です。

8月には、台湾で遠東航空機墜落事故発生し、このとき作家の向田邦子さんがこの事故に巻き込まれて死亡。9月、それまでジョナスといっていた小売店がファミリーマートに改称して、コンビニエンス事業を開始。またこの翌月には東京12チャンネルがテレビ東京と社名変更しています。

同月にはまた、フランス・パリ〜リヨン間で、高速鉄道TGV運行開始し、10月にはエジプトのサダト大統領が暗殺されて世界中に衝撃を与え、その後継大統領には、一昨年に失脚したムバラク副大統領が指名されました。

また、スポーツの世界の出来事としては、この年には、第24回夏季五輪(1988年)の開催地がソウルに決定し、日本が招致を提案していた名古屋市は落選。

また、日本ハムがプレーオフでロッテを下し、前身の東映時代以来19年ぶりにパ・リーグ優勝決めたのに続き、セリーグの覇者である巨人と日本一を争いましたが、4勝2敗で負け、このときの巨人の優勝はV9最終年以来となる日本シリーズ制覇でした。

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大きな事故としては、10月に北海道の北炭夕張新鉱でガス突出・坑内火災事故がおきており、近年におけるこの手の災害としては最大級の93名もの犠牲者を出しましたが、これは坑道の火災をしずめるため、不明者を確認しないまま、坑道を水没させたのが原因でした。

海外では、ジョン・フォードの西部劇「捜索者」やミュージカル映画「ウエスト・サイド物語」、「草原の輝き」などに出演して大女優の道を歩んでいたナタリー・ウッドが映画「ブレインストーム」の撮影中のボートの転覆事故により、43歳で水死したことなどが話題になりました。

この彼女の死は、事故死とされた一方、殺されたという意見もあり、ロサンゼルス郡警察が再捜査を開始し、遺体には複数の打撲や傷跡の痕跡があったことを認定し、死因を「事故死」から「水死および不確定要因によるもの」と変更しました。が、最終的には殺人事件として扱うには証拠不十分であると結論づけられ、真相は闇の中に葬られました。

事故といえば、この年の4月には、その後2度の爆発事故を起こすことになる、スペースシャトルの打ち上げが行われました。打ち上げられたのは、コロンビア号で、これはスペースシャトルによる世界で初めての宇宙空間へのミッションでした。

スペースシャトルは、全部で6機製造されましたが、初号機エンタープライズは宇宙に行けるようには作られてはおらず、もっぱら滑空試験のためのみに使用されました。

実用化されたのは、コロンビア、チャレンジャー、ディスカバリー、アトランティス、エンデバーの5機であり、このコロンビアは宇宙へ行った初めてのスペースシャトルということになります。

当初はエンタープライズも進入着陸試験が終了した後に実用機として改造される予定でしたが、構造試験のために製造されたSTA-099という機体をその後チャレンジャーとなる機体に改造したほうが安上がりだと判断されたため、この改造計画は取りやめになりました。

ところが、ご存知のとおり、チャレンジャーは1986年、発射から73秒後に爆発事故を起こして失われ、宇宙ミッション初号機のコロンビアもまた、2003年に空中分解事故を起こして消滅しています。ちなみに、爆発したチャレンジャーの機体構造の予備品として残っていたものを集めて新たに製作されたのがエンデバーになります。

このように、この1981年という年には、後の歴史にも大きな影響を与えるような実に象徴的なことが色々起こったわけですが、私としては社会人1年生ということもあって心の余裕もなく、改めてこうしたことを調べて、あぁそうだったのか、あれもこれもこの年に起こったことだったか、と意外に思ったりしているところです。

ほかにも、大相撲で千代の富士と北の湖がそれぞれの場所で死闘を繰り広げただとか、黒柳徹子の「窓ぎわのトットちゃん」や田中康夫の「なんとなく、クリスタル」がベストセラーになっただとか、寺尾聰の「ルビーの指環」が日本レコード大賞を受賞しただとか、色々あるのですが、やはり鮮烈な印象があるのは、上述のスペースシャトルでしょうか。

それまでは、ロケットで打ち上げられた宇宙船では、還ってくるのは先端に取り付けられた小さな円錐形の部分だけでした。これに対し、このシャトルは飛行機の形のまま打ち上げられ、また帰ってくるときにもその形のまま悠々と空を滑空して帰ってくるというわけで、こうした飛行機が大好きな私としてはワクワクものでした。

調べてみるとこのときのコロンビア号のミッションはわずか3日間だけで、1981年4月12日、コロンビアがアメリカのフロリダ州ケネディ宇宙センターから打ち上げられ、同年4月14日にカリフォルニア州エドワーズ空軍基地に帰還しています。

人類初のこの宇宙へのスペースシャトルの打ち上げミッションには、ジョン・ヤング機長とロバート・クリッペン操縦士の2人だけで行われ、その主要任務は、スペースシャトルのシステム全体を点検すること、軌道上を安全に周回すること、そして地上へ無事に帰還すること、の3つだけでした。

二人を乗せたコロンビアは高度307キロメートルの軌道上を36回にわたって周回し、そしてこれらの任務はすべて達成され、宇宙船としてのスペースシャトルの能力が初めて確認されました。

しかし、帰還後のコロンビア号からは16枚の耐熱タイルが剥がれ落ち、148枚の耐熱タイルが損傷しているのが発見され、その後の再飛行が心配されました。

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シャトル開発でひとつの大きな壁になったのが、大気圏に再突入時の熱からシャトル本体(オービタ)を守り、繰り返し使用可能な熱シールドの開発でした。オービタは機体を軽量にするために、基本的に航空機と同様のアルミニウムで出来ていますが、アルミニウムはわずか200度程度の温度で柔らかくなってしまいます。

大気圏再突入時に発生する際には1600度以上の熱が発生するため、このままではこの熱に耐える事は出来ません。そこで、断熱材として素材にシリカガラス繊維を用いた耐熱タイルが開発されました。シリカは熱を伝える速度が非常に遅いので、それを用いた耐熱タイルを用いれば機体のアルミを護ることができるのです。

しかし、機体のアルミは熱で膨張するのに対し、耐熱タイルのほうはほとんど膨張しないため、そのまま接着しては温度上昇とともに耐熱タイルは剥がれて脱落してしまいます。このため、機体と耐熱タイルの間に「フェルト」をはさむ事で機体とタイルの膨張率の違いを受け止める方法が考案されました。

実はこのフェルトは特殊なフェルトでもなんでもなかったそうで、カウボーイハットなどに用いられるようなヒツジやラクダなどの動物の毛を、薄く板状に圧縮して作るシート状にするごく普通のフェルトでした。

また、機体とフェルトと耐熱タイルの接着についても、アメリカの家庭にありふれた浴槽の防水コーキング用のゴムが接着剤として用いられたそうです。

スペースシャトル一機に対して、この耐熱タイルは2万5千枚貼り付けられますが、オービタの曲面を覆うため、部分ごとに形状の異なるものがジグソーパズルのように機体に貼り付けるという手法がとられました。

こうして大気圏再突入時に発生する熱対策問題は一応解決しましたが、こんな幼稚園児でも思いつきそうな、耐熱タイルを貼りつけるだけ、という対策はその後やはりスペースシャトルの弱点のひとつとなり、繰り返される飛行において何度も脱落を起こしました。

安全確保のため、帰還後の点検で毎回毎回ひとつひとつの状況や履歴を記録しつつ手作業で検査・修復しなければならない耐熱タイルは、その後も長い間、シャトルの不安要因のひとつ、大きな重荷のひとつとしてつきまとうことになりました。

そうした不安は的中し、この最初のミッションから22年を経た2003年2月1日、28回目のミッションからの帰還の際、コロンビアは大気圏再突入中にテキサス州上空で空中分解を起こし、この事故では乗員7名全員が死亡しました。

その後の事故原因の究明調査の結果、この事故は打ち上げ時に外部燃料タンクから剥がれ落ちた断熱材の破片が高速で左翼前縁に衝突し、耐熱パネルに穴があいたことと判明しました。

スペースシャトルによって行われた数々のミッションのうち、この事故より17年前の1986年1月28日には、二号機として開発されたチャレンジャー号もまた打ち上げから73秒後に分解し、7名の乗組員が犠牲になっています。

この事故の原因は、機体の右側の固体燃料補助ロケットの密閉用Oリングが発進時に破損したことから始まったとされました。

Oリングの破損によってそれが密閉していた固形ロケットから燃料の漏洩が生じ、高温・高圧の燃焼ガスが噴き出して燃料タンクの構造破壊が生じたことが原因であり、空気力学的な負荷によりこの瀟洒な軌道船は一瞬の内に破壊されました。

乗員区画やその他多数の機体の破片は、長期にわたる捜索・回収作業によって海底から回収されましたが、乗員が正確にいつ死亡したのかまでは究明されていません。が、その何人かは最初の機体分解直後にも生存していたことだけはわかっているそうです。

しかし、スペースシャトルには脱出装置はなく、乗員区画が海面に激突した際の衝撃から生き延びた飛行士は一人もいませんでした。

この事故によりシャトル計画は32か月間に渡って中断し、また事故の原因究明のため、レーガン大統領によって特別委員会も組織されて原因究明調査が行われました。しかし、この調査後のスペースシャトルの改良ついては、固定燃料ロケットの機構改善にばかり目が向けられ、耐熱タイルに対しては抜本的な改良は加えられませんでした。

こうしてその後、コロンビア号においてもまた悲劇が繰り返されました。このコロンビア号の事故の直接的な原因は、発射の際に外部燃料タンクの発泡断熱材が空力によって剥落し、手提げ鞄ほどの大きさの破片が左主翼前縁を直撃し、大気圏再突入の際に生じる高温から機体を守る耐熱システムを損傷させたことでした。

コロンビアが地球の軌道を周回している間、技術者の中には機体が損傷しているのではないかと疑う者もいたそうですが、NASAの幹部は仮に問題が発見されても出来ることはほとんどないとする立場から、コロンビアが宇宙空間を周回中の細かい調査を行わなかったといいます。

NASAによるシャトルの元々の設計要件定義では、外部燃料タンクから断熱材などの破片が剥落してはならない、と厳しく規定とされていたそうです。しかし、度重なる打ち上げと帰還が無事に遂行されてきたころから、技術者たちは破片が剥落し機体に当たるのは不可避かつ解決不能と考えるようになっていたようです。

何ごとにも慣れというのはこわいもので、こうして彼等は破片の問題は安全面で支障を及ぼさないかもしくは許容範囲内のリスクであると考えるようになり、こうして小さなタイルの接着がうまくいっていなくても発射はしばしば許可されるようになっていきました。

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しかし、度重なる打ち上げにおいて剥落した断熱材の衝突による耐熱タイルの損傷はしばしば記録されていたといい、コロンビアが事故を起こす2つ前の打ち上げでも、断熱材の塊が外部燃料タンクのから剥落し、左側の補助固体燃料ロケッの後尾を直撃して、幅4インチ深さ3インチの凹みを発生させていたといいます。

このミッション後にNASAはこの破片問題について「外部燃料タンクは安全に飛行可能であり、新たな問題(やリスクの増大)はない」としてこれを容認する判断を示しました。

こうした判断がこの後コロンビア号が爆発して空中分解することになったミッションにも影響を与え、ミッション管理の責任者はこの後の打ち上げに際しても、「当時も(かつての剥離事故を起こしたときも)今も危険性の根拠は乏しい」としてこれを無視してしまいました。

こうしてコロンビアは、大気圏に再突入した際、損傷箇所から高温の空気が侵入して翼の内部構造体が破壊され、急速に機体が分解しました。事故後に行われた大規模な捜査が行われた結果、テキサス州、ルイジアナ州、アーカンソー州などの広範囲で搭乗員の遺体の一部や機体の残骸が多数回収されました。

その後、コロンビア号事故調査委員会(Columbia Accident Investigation Board, CAIB)が組織され、CAIBはNASAに対し、技術および組織的運営の両面における改善を勧告しました。

シャトルの飛行計画はこの事故の影響で、チャレンジャー号爆発事故の時と同様に2年間の停滞を余儀なくされ、国際宇宙ステーション(International Space Station, ISS)の建設作業も一時停止されました。

スペースシャトルを使った飛行が再開されるまで物資の搬送は29ヶ月間、飛行士のシャトルによる送り迎えもまた41ヶ月間停止し、この間の運搬は完全にロシア連邦宇宙局に頼ることになりました。

その後、2005年7月に、ディスカバリーが コロンビア号事故後の初の再開飛行を果たしたあと、スペースシャトルのミッションは、2010年に2回(エンデバーとアトランティス)、2011年に3回(ディスカバリー、エンデバー、アトランティス)実施されましたが、結局、2011年7月8日に実施されたアトランティスのミッションがスペースシャトル計画最後のものとなりました。

2014年現在、アメリカは現役で打ち上げ可能な有人宇宙船を保有しておらず、アメリカだけでなく他国も国際宇宙ステーション(ISS)への人と物資の運搬はロシアのソユーズロケットに頼っています。

NASAはシャトル退役による宇宙開発計画の間隙を埋めるべく、飛行士や搭載物をISSに運ぶだけでなく、地球を離れて月や火星まで到達できるような宇宙船を現在開発中といいます。が、2010年にオバマ政権はこれらの計画の予算打ち切りを宣言しており、今後は低軌道への衛星発射の事業は民間企業に委託することを提案しています。

ところで、退役したスペースシャトルはどうなったかというと、ディスカバリーはワシントンD.C.にあるスミソニアン博物館の別館に、アトランティスはケネディ宇宙センターの見学者用施設に、エンデバーはロサンゼルスのカリフォルニア科学センターにそれぞれ展示されているようです。

またスミソニアンに展示されていたエンタープライズは、同館にディスカバリーが展示されることになったことから、ニューヨークのイントレピッド海上航空宇宙博物館に移されたようです。

スペースシャトル計画は、そもそもロケットに比べて安価な、「一回の飛行あたり1200万ドルほどのコストで飛ばすことができる」として始められたものでしたが、スペースシャトルの最終飛行も終了し総決算の計算をすると、135回の打ち上げで2090億ドルもの費用がかかってしまいました。

これは一回の飛行当たりに換算すると、15億ドルに相当し、通常の使い捨て型ロケットを打ち上げるのに比べて10倍以上高くついたことになります。

それでも、全スペースシャトル計画で使われた2090億ドルというのは、日本の防衛予算の4年分程度であり、アメリカの年間国防予算の半分以下です。宇宙開発に比べて各国ともいかに軍事費に莫大なカネを使っているかがこのことからもわかります。

地球温暖化や環境汚染などによって地球が滅亡してしまう前に、地球から脱出して別世界を探すための費用と考えれば、この程度の開発費は安いものだと思うのですが、みなさんはどうお考えでしょうか。

今、アメリカではオバマ政権が新しい宇宙船の開発に対して消極的であるため、民間の宇宙開発業者のほうが積極的に開発を進める、といった風潮が強いようです。既に2008年、NASAは国際宇宙ステーションへの商業軌道輸送サービスに関する契約を、民間の会社と取り交わしています。

そのひとつスペースX社による2段式の商業用打ち上げロケットは、2010年6月4日に初打ち上げが行われて成功。

また、オービタル・サイエンシズ社 (OSC) の開発した国際宇宙ステーションへの物資補給を目的とした無人宇宙補給機も、2013年4月にアンタレスロケットが初打ち上げに成功しており、次いで同年9月にシグナス1号機の打ち上げが行われ、ISSへの初結合に成功しました。

日本の場合は既に三菱重工業などがJAXAと提携しており、民間会社として世界でも最大クラスの打ち上げ能力を持つ、H-IIA、H-IIBなどの開発・打ち上げに成功しており、宇宙開発における民間の参入は本格化しています。

1981年から33年を経た今年2014年は、そうした宇宙開発において民間活力が大きく脚光を浴びる一年になるのかもしれません。

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