未来を予測する最良の方法は、それを発明することである

The best way to predict the future is to invent it.
(未来を予測する最良の方法は、それを発明することである)

これは、パーソナルコンピュータの父といわれ、教育者でもあるアラン・ケイ(Alan Key)氏のことばです。

アラン・ケイ(Alan Kay, 1940年生まれ)は、アメリカのコンピュータ科学者で、教育者でもありながらジャズ演奏家でもあるそうです。通称「パソコンの父」と言われ、まだ大型のコンピュータしか存在しなかった時代に、個人で使う「パーソナルコンピュータ」という概念を提唱しました。

1960年代当時、高価で大きく、複数人で「共有」するのが当たり前だったコンピュータを「個人向け」で使うという状況を想定し、それにふさわしいコンピュータ環境とはどういうものか、をはじめて考えた人だそうです。

「パソコンの父」ともいえる人ですが、教育者としてもすぐれた人で、数々の名言を残しており、そのひとつが、このことばです。

レーザープリンターや液晶ディスプレイ、光ディスクなどの開発で有名はカリフォルニア州のパロアルト研究所に属していたアラン・ケイに対して、1971年、親会社であるゼロックス本社がその研究内容の将来的な見通しについて再三見解を示すように求めました。これに対して、少々気分を害したらしいケイ氏がこのように答えたと言われています。

経営陣と開発陣の軋轢や見解の相違から出てきたことばでもありますが、これについて本人が別の機会に補足した言葉 もあります。それは、

「未来はただそこにあるのではない。未来は我々が決めるものであり、宇宙の既知の法則に違反しない範囲で望んだ方向に向かわせることができる」

科学技術が急速に進歩するこの世の中で、私たちの未来社会がどんなものであるかを予測することはなかなか難しいことですが、未来は自分達の努力によって望む方向に向かわせることができる、自分達が発明した世界こそが我々の未来になる、ということを言っているのだと思います。

自分達の将来は自分達が作らなければ誰も作ってくれない、という積極的な人生論であり、私も大好きなことばのひとつです。「宇宙の既知の法則」の意味するところが、スピリチュアル的な意味であるのかどうかはわかりませんが、科学は万能ではないんだ、人間の知能では割り切れない世界もあるんだ、ということを言っているようでもあり、意味深ですね。

市場参入は最後発ながら大手メーカーとの競争を勝ち抜き、プリント基板検査装置で世界シェア第2位となったベンチャー企業、サキコーポレーションの社長、秋山咲恵さんも好きなことばだそうで、アランケイのことばとともに、秋山さんのことも先日NHKの「プロフェッショナル」の中で紹介していました。

このことば、あなたの心にはどう響きましたか?

スピリチュアルとわたし

私が、スピリチュアルな世界に興味を持つようになったのは、7年前に家内を亡くしてからのことです。

20代の後半から30代にかけてアメリカに留学し、帰国して就職した先で知り合った前妻と結婚したのは1992年。もう19年前になります(早いな~)。結婚した年には、新たな就職先が決まり、家を買い、翌年には息子に恵まれ、それと同時に難関といわれた技術士試験に一発合格し、それからの人生は順風満帆・・・というところでした。そして十数年の間、何事もなく、子育てと会社への往復の日々が過ぎたころ・・・

その年は異様に台風の多い年でした。

恒例になっている山口の実家へのお盆帰省の準備をしていたころ、体調が不良だというので、その年に限って家内だけを残して帰省をしました。彼女のことが気にはなっていたものの、遊びたいさかりの息子は自然いっぱいの山口が大好きで、老いた父母にもその姿を見せたく、息子と二人きりの帰省を果たして帰って来たあとのこと・・・。

病院での診断の結果を聞かされ、彼女の体の異変の原因を知り、愕然としたのを今でも覚えています。

病名は子宮頸癌。診断では中程度の進行ということでしたが、子宮の全摘が必要との医師の助言に従って手術。その結果、なんと妻の病気は末期の状態であることがわかりました。冷たいリノリウムの廊下に家内のお母さんと二人で立って、執刀医からそれを聞かされた時、文字通り頭の中が真っ白になり、気を失いかけたのを覚えています・・・。

その後放射線と薬物治療を続け、一時的に自宅へ帰ることも許されましたが、年を明けてから病状はさらに悪化。介護のかいなく、その年の4月の末に家内は、39歳の若さであの世に旅立ちました。それは、連休前でちょうど家の前の八重桜が満開のころ。雲ひとつない青空のもと、新緑の緑の中、八重桜の花がそろそろと散り始めるころ起こったこの出来事は現実とは思えないようなもので、私の心に深い傷を刻みました。

それから、半年ほどが過ぎ、まだ心の中の整理ができていないころでしたが、心の隙間を埋めるべく仕事も再会したころ、実家の山口の、とある建設コンサルとさんとご一緒に仕事をすることが決まりました。その分野では地元でも一二を争う大手の会社で、その社長さんとの面談のため、本社を訪れた私は社長室に招かれました。

社長さんは私よりも3つほど年上だったと思いますが、先代が大きくした会社を継いだあとうまく切り盛りし、今の会社規模にまで高めた実力者。人格的にも素晴らしい人でしたが、何よりも感心したのは社長室にある書棚。仕事関係の本が多いのですが、歴史や文化に関するものもたくさんあり、ひじょうに読書家であることがわかりました。

読書がこの人格を形成したのだなと感心しつつ、話も合って会話もはずんだのですが、やがて話しのネタもつきかけたころ、その社長さんが本棚から一冊の本を取りだし、私に読むように勧めてくれました。私が家内を亡くしたことを社長に話したためでしたが、その時「この本、ちょっと不思議な本なんですけれども、読んでみられるときっとお役に立つと思いますよ」という意味のことをおっしゃいました。

その本の題名は、「生きがいの創造」。著者は福島大学の教授の飯田史彦氏。現在は大学を退官され、スピリチュアルな精神世界について、数々の公演活動や著作によってスピリチュアルの世界を人々に知らしめるべく、活発な活動をしていらっしゃいます。 

さて、本を勧められた私ですが、正直その時は、技術者部隊の統領である会社社長が勧める本にしては、妙に俗っぽいなという印象でした。しかし、家内を亡くしたばかりで心の中で何かすがるものが欲しいと感じていたのでしょう。早速家に帰って書店で同じものを入手し、それから、数日かけてその本を読みました。

すると、そこに書いてある内容は本当に驚くべきものでした。記述のひとつひとつが本当に私の心の中にスーッと入っくるものであり、心の中で欠けたり傷がついている部分にうまく浸みとおり、癒してくれる感じがしました。しかし、何よりも驚いたのは、読み終わったあと、死後の世界などというものはそれまで全く信じていなかった私が、それを信じて見ようか、という気になっていたことです。

その頃はまだ前妻を思い出してよく涙をこぼしていたものですが、その本を読んで流す涙はその涙とは何か違うな、と感じていたことを今でも覚えています。 

その後、飯田さんのホームページがあることも知り、その他の著作も手当たり次第に読むようになり、それから徐々にスピリチュアルの世界を理解するようになっていきました。飯田先生以外にもたくさんの人がスピリチュアルについて語ったり書いたりしていることもわかり、そうしたものを折につけ読むようになったのはその頃からです。

それらのスピリチュアルワールドのことについては、またこのブログの中で書いていきたいと思います。「生きがいの創造」の内容や飯田さんのその他の著書の内容についても折に触れ、このブログで引用したりさせていただこうかな、などと考えています。

なかでも、技術に関し、合理性を求める仕事に就いている私が、その内容にどうしてそうしたものに共感することができたか、などについては自分なりにもっと整理して語っていきたいと思います。

 飯田史彦さんのホームページは以下のアドレスです。けっして強要は致しません。ご興味あるかた、ぜひ訪れてみてください。(む)

飯田史彦研究室HP  http://homepage2.nifty.com/fumi-rin/
飯田史彦 スピリチュアル研究所「光の学校」 http://iidakenkyusho.jp/

被害を大きくした隠れた原因

まず、今回の東日本大震災で亡くなられた方、怪我をされた方、最愛の人を亡くされた方、住む所や仕事を亡くされ避難生活を余儀なくされている方々に心よりのお悔やみを申し上げたいと思います。

私は、大学を卒業後に、建設コンサルタントの世界に入り、土木や建築の仕事を長年やってきました(あしかけ30年!)。ここ8年ほどの間、東京にある災害対策を主な業務とするNPO法人のお仕事も手伝わせていただいており、その関係から、ここ数年は津波に関する仕事を主にやってきました。そうした経験から、このブログにおいても、今回の津波災害のような災害について、少しずつ私見を述べて行こうと思っています。

さて、今回の津波災害ですが、その被害が甚大であった理由は無論、千年に一度とも言われる巨大津波が押し寄せたことが原因です。

17~18mという高さは四階建のビルに相当し、おそらくは現場に居合わせた多くの人が、脱出するためのほんのわずかなチャンスすら得ることが出来ず、押し寄せる波に飲まれていったと思われます。

今、手元にある資料をみると、2004年の12月26日にインドネシアのスマトラ島沖で起こった地震では、震源に近いインドネシアでの津波最大高さが49mであり、これはおそらく記録された津波では最大のものだと思われます。

このほかの国ではスリランカでの最大津波が約15m、タイで約20mとなっており、このほか、インド、マレーシア、ミャンマーでそれぞれ約6mの津波が押し寄せています。この津波によって、インドネシアでは死者行方不明者が約16万3000人、スリランカでは4万4000人、タイでは約8000人となっており、インドでも1万6000人の死者行方不明者を出しています。

死者の数を比べる・・・というのは少々不謹慎かもしれませんが、東北関東大震災での死者行方不明者数は3万人に迫る勢い。押し寄せた津波の高さに比べれば、スマトラ島沖地震津波時より比較的人的被害は少ないように思えます。東北各県では、日頃から津波防災に関する防災教育やセミナーの開催に熱心であり、町中をあげて津波対策に取り組んだところも少なくありません。今回の有事においても、地震が起きた直後から、津波に対する警戒を発し、早期に避難できた人も多数にのぼったと思われ、それが全体での被害者がこれ以上大きくならなかった要因かと思います。

しかし、とはいえ、各地でひとつの街が丸ごと消失するなどの甚大な被害を受け、亡くなられたり行方不明になった方の数は、阪神淡路大震災をはるかに超えたという事実は、まるで悪夢をみているかのようです。

「これほど大きな津波が来るとは予想していなかった」と、被災した方々が口ぐちにおっしゃるのをテレビで何度も見ましたが、いくら日頃から津波の恐ろしさを教えられていても、1000年に一回あるかないかの津波が、まさか自分たちが生きている間に襲ってくるなんて、誰が考えたでしょうか。

このように今回の津波でここまで大きな人的被害が出た原因は、誰もが予想できなかったような巨大な津波が押し寄せてきたためであることには疑いをはさむ余地はありません。しかし、今の段階では、マスコミも有識者の方々も言及していませんが、被害が大きくなったのには隠れた別の原因があるのではないかと私は思っています。

それは、昨年の2月に起こったチリ地震津波の影響です。

昨年(2010年)の2月27日に地球の反対側のチリで起こった地震は、一昼夜を経て日本に到来。死者こそは出ませんでしたが、養殖海苔やカキ筏などの水産資源に被害を及ぼしました。

このとき、津波の第一波はお昼すぎに北海道から東北各県に到来し、最大波は夕方から8時くらいまでの時間に押し寄せました。津波の高さは各地で1~2m程度であり、多くの人が日中の仕事に携わっている時間であることから、気象庁からの津波警報などをテレビなどで見知っていました。にもかかわらず、報じられた津波の規模が小さかったことから、東北地方の多くの人が避難行動に入らず、そうした有事の避難体制や避難誘導の在り方が役人達の間だけでなくメディアでも大きく取り沙汰されました。

もし、このときの津波がもう少し規模の大きなものであったら、人々の記憶にそのことがもう少し鮮明に刻まれてたかもしれません。津波の高さも比較的小さく、被害も少なかっただけに、津波なんてたいしたことはない、来たとしても海岸から少し離れていたら助かるさ、という思い込みが多くの人に刷りこまれてはいなかったか・・それが今回の津波で避難した(しようとした)人達の避難心理に微妙に影響したのではないか・・・と私は考えています。

そんな分析をしてみたたところで、今回の津波災害で亡くなられた方々は帰ってきませんが、今後のことを考えた時、こうした災害に対する大衆意識というか集団意識の持つ危うさをどう扱うか、どうコントロールすればもっと危機感を持ってもらうことができるか、あるいは誰がコントロールするのか、ということについての検討が今後は必要だな、と痛感した次第です。(む)

ダーの帰還

ダーです。

宮崎に10日間ほど行っていました。仕事の内容は、新燃岳周辺住民の避難に関すること。徹夜を何日もこなし、ヘヘロヘロになりました。東京に帰還してからおよそ三週間。この間、徹夜疲れのリハビリと、このブログのデザインの準備、メインのホムペの手入れなどで時間が流れて行きましたが、ようやく、このブログの中身も書くための時間的余裕が出てきました。

ダーとか、ムシャ君とか、いろんな名前をつけられて迷惑しています。アラフィフ(50)というか、アフターファイブというか、この歳になって旦那をあだ名で呼ぶヨメってそんなにいないんでないでしょうか。

まあ、その是非はさておき、そういう風に呼ばれるのも何やら若返ったような気がして悪い気もしません。ちなみに私は彼女のことをタエさんと呼んでいますが、「さん」付けで呼ぶのも最近はめっきり少なくなったような・・・ 「おタエ」とか、タエとか、呼ぶ機会のほうが今後は増えるのかと・・・

そんな二人ですが、プロフィール(Profile)にも書いたように、二人の出会いは、今から遡ること、なんと35年前。高校二年生になり、同じクラスになってからのことになりますねー。

その頃の私は、写真部に所属する、写真大好きのオタク少年。彼女は文芸部に入っていて、文学の大好きな作家を夢見る少女?高校時代の二人の時間はとくに絡み合うようなこともなく、お互いとくに意識もせずにいたかなー。

高校卒業後、彼女は地元広島の女子大へ、私は静岡の大学へそれぞれ進学し、卒業後、私が就いたのが建設コンサルタント会社での設計の仕事。片や彼女は、広島の大手の広告代理店で、「コピーライター」なるかっこええ仕事に就き、その派手さと地味な自分の仕事の対比を考えれば、その二人がくっついたというのはちょっと不思議かも。

その後、大学時代に二人は再会しますが、その時のお話は多分、タエのほうがいずれこのブログに書くと思うんで、すっ飛ばします。そして月日が流れ、約30年経ったいま、こうして二人夫婦になって東京に住んでいるのは・・・何やらとても不思議な感じがします。

とはいえ、今起こっていることのすべては「必然」。そう思えるようになったのは、7年前に前の妻を亡くしてから。その前までは、人は死んだらどうなるか・・・というテーマについて、あまり真剣に考えたこともありませんでしたが、妻の死をきっかけに、そうしたことにむしろのめりこむようになりました。

正直言って「スピリチュアル」という言葉は何やらいかがわしい宗教のような感じがしてあまり好きではありませんでした。

が、江原啓之さんと三輪明宏さんの「オーラの泉」が放映され、高い視聴率を得るようになってから、一般にも浸透し、やがてテレビや本で目にする機会も増え、自分でも口にするのがあまり抵抗もなくなりました。人はことばの響きだけで、その意味を勝手に解釈するとことがありますが、スピリチュアルについては、その軽い感じの響きとはうらはらに、実は深い意味を持った世界なのだということを、その当時から少しづつ理解してきました。

このカテゴリーは、「結婚について」なので、スピリチュアルについては、また別のカテゴリーで書いていこうかな、と思っていますが、結婚も実は大いにスピリチュアルな意味を持っているので、そうしたことも折に触れて書いていこうと思います。

さて、今晩の晩御飯は何かな?(む)