冬の花火 ~旧大仁町(伊豆市)

昨夜は、いつもお世話になっている、同じ別荘地の大工さんのTさんとUさんのお招きで、大仁の狩野川河川敷で開催された花火大会に行ってきました。

大仁は、伊豆の中でも伊東や熱海と並ぶ大きな町とあって、結構な人出で、夕方7時半のスタート前には、いつもは閑散としている河川敷にびっしりの見物客が集まっていました。いつもは静かな伊豆に、こんなに人がいたのかと思うほどの盛況ぶりにはびっくり。空には満月もかかっており、川辺に吹く風も爽やかな夕暮れです。

始まった打ち上げは、あいだに3回ほどの休憩をはさみ、一時間ほどで終わりましたが、ご用意していただいた席が、左岸側の打ち上げ場所のすぐ目の前だったので、ほぼ「かぶりつき」状態で花火を鑑賞。風向きによっては、花火の燃えカスがパラパラ降ってくるほどで、臨場感抜群でした。

久々に花火らしい花火をみせていただき、二人とも大感激。来年もまた、こういう花火が見れるとすると、やっぱり、伊豆へ来れてよかったなーと思う次第。

ちなみに、静岡県内ではこのほか、伊東や、熱海、阿部川や浜名湖などでも花火大会があるそうですが、浜名湖の花火が一番ゴージャスなのだそうです。聞けば、有名地元企業が多いので、「協賛花火」の数も多いのだとか。とはいえ、不況の昨今、今年の花火はどうなのかしらん、と余計な心配などしてしまいました。

ボンファイア

ところで、今オリンピックが行われているイギリスでは、花火=fireworks とはいわず、ボンファイア(bonfire)というそうで、これは「大きなかがり火」を意味します。ようするに焚火のことで、たき火といえば冬の風物詩だよな~ と思っていたら、本当に花火があがるのは冬なのだとか。

しかも特定の日、11月5日に限ってイギリス国内のあちこちで花火大会があるようです。日本では11月というとまだまだ秋の序の口といったかんじですが、イギリスは緯度が高いので11月ともなると気温も10度以下が普通。従って、ここに上がる花火は、文字通り「冬の花火」になります。

で、なんで、11月5日なのかなーということですが、この日はイギリスはでは、ガイ・フォークス・デイ(Guy Fawkes Day)という記念日なのだそうで、なんでも、400年位前におきた、国王の暗殺未遂事件にちなんだ行事なのだとか。首謀者は事を実施する前につかまり、その仲間とともに後日処刑されましたが、イギリスでは、事件が未遂に終わり、国王が無事だったことを祝うという意味で制定された日です。

日本では、天皇陛下を暗殺しようとしたというような話は聞いたことがありませんが、総理大臣の暗殺は何度も起こっていますよね。いずれも時代の不平分子が起こした事件でしたが、このイギリスの暗殺事件の首謀者も同じような不平分子によるものだったそうです。

とはいえ、その動機はというと、宗教上の問題だったようで、えー日本じゃ考えられんよな~ と思ってみたものの、よく考えてみれば、日本でも400年ほど前に天草四朗の島原の乱がありましたっけ。中世のこの時代、日本でもヨーロッパでも宗教の問題と政治の問題は表裏一体だったようです。

ガイ・フォークス

さて、この国王暗殺未遂事件は1604年に起きました。島原の乱が起こった1637年よりも30年ほど前のことになります。首謀者は、グイド・フォークス(Guido Fawkes)、一般的には、ガイ・フォークス(Guy Fawkes)とよばれる人物で、欧米で、男性のことをよく、「ガイ」といいますが、その語源になったのがこのguyなのだとか。

また、「ガイ・フォークスの仮面」ってご存知ですか? 「情報の自由」を合言葉に、アメリカ国防省のコンピュータに不正アクセスし、情報を盗んだとして、起訴された「ウィキリークス」の創始者ジュリアン・アサンジの事件は記憶に新しいところ。こうした、いわゆる「アノニマス集団」のシンボルとして、使われることが多いお面ですが、もともとイギリスのガイ・フォークスデイで、人々がお祭り騒ぎをするときにかぶるお面なのだとか。

白い顔をして、あごひげをはやし、いかにもひと癖ありそーなこの顔。何かでご覧になったことを思い出された方も多いのではないでしょうか。

このガイ・フォークス、1570年イギリス北部のヨークで生まれます。両親ともプロテスタントだったそうで、二人は、ガイをヨークのフリー・スクールに入れました。フリースクールとは、イギリス特有の学校で、イギリスでは、親が子どもを学校へ行かせる義務はないことから生まれた学校です。

義務がない、といいますが、正確には、「義務教育の年齢に達している子どもを持つ親はその子どもにあったフルタイムの教育を(中略)学校へ定期的に行かせること、または“その他の方法で与える”義務がある」ということだそうです。要するに制度にしばられずに自由に教育を受けさせればいい、ということらしく、極論すれば親どうしが4~5人の子供を集めて小さな学校を作ってもいいわけです。

現代のイギリスでは、こうしたフリースクールの代表にサマーヒル・スクールというものがあり、多くは寄宿制で、時間や規則にしばられない、まさに自由な形での教育を施しています。こうした学校には不登校児ばかりが集まることから、賛否両論あるようですが、日本でも教育の荒廃が目立ってきていることから、見学に来る教育者も多いと聞きます。

ガイがどんな形のサマースクールに入ったのかまではわかりませんが、ここで彼は、のちの暗殺事件で共犯となる、ジョン・ライトやクリストファー・ライトなる人物と知り合ったといいます。おさななじみどうしですね。

英西戦争

その後、お父さんが亡くなると、お母さんは再婚。その再婚相手はプロテスタントだったようですが、カトリック信者に知り合いを多く持っており、その影響を受けてガイはカトリックのほうを信ずるようになります。1590年に結婚。息子と娘ふたりをもうけ、幸せな結婚生活をスタートさせましたが、その後なぜか、いとことともに妻子を残してイギリスを離れ、フランドル(オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域)に行きます。そしてこの地で彼は、その頃勃発した英西戦争(1585~1604年)に加わります。

そのころ、イングランドはアイルランドやスペイン領ネーデルラントを手に入れようと画策しており、外洋上ではスペインの艦艇に海賊行為なども行っていました。そして、イギリスのネーデルランドへの軍事介入を皮切りに、ヨーロッパ北部を中心にスペインと戦闘状態に入っていました。

それにしてもイギリス人のガイがなぜ、スペインに味方しようとしたのでしょうか。

この頃イングランドでは、国王ジェームズ1世の国教会優遇政策により、カトリック教徒弾圧を受けていました。イギリスでカトリックを信奉するようになっていた彼は、多くのカトリック信徒を次々に粛清するイギリス政府に高い不信感を持っていたのはまちがいなく、妻子を捨ててまで海を渡ったのは、スペイン軍に入り、イギリスと戦う覚悟だったのだと思われます。

スペイン軍に加わった彼は、スペイン軍の友軍、オーストリアの大公アルベルト(後のネーデルラント長官)の指揮下に入り、勇猛で博学、かつ高潔という高い評価を得ます。そして、1596年には指揮官として、イギリス軍が占領していたフランスのカレー(Calais)攻略にも貢献したといいます。

暗殺計画

この頃イングランド国内でも、カトリック信者たちが反政府運動を始めており、その中心的な人物のひとり、ロバート・ケイツビーは、ジェームズ1世が上院の開院式に出席したところを爆殺する計画を目論み、協力者を探していました。

そして、この時、熱心なカトリック教徒であり、かつ従軍経験のあるガイ・フォークスが、彼の目に留まったというわけ。

帰国したガイは、1604年、ロンドンで宿で首謀者のロバート・ケイツビー、トマス・パーシーらに会い、そこでのちの共犯者トマス・ウィンターなどにも会っています。そして、その暗殺計画に加わる誓約に合意し、行動を開始したのです。

そして、ガイらは、パーシーが借りた家の床をあけ、ここからウェストミンスター宮殿内の議場地下に至るトンネルの掘削をはじめます。しかし、これが極度の重労働であることがわかり、やがて断念。

そして、暗殺未遂事件がおこった1605年の3月頃、議場場地下の石炭貯蔵室に爆弾をしかけることを思いつきます。そして貯蔵室を借りることに成功した彼らは、少しずつこの地下室を火薬の樽でうめていきます。

そのころガイは、聖クレメント教会の裏手に住む未亡人・ハーバート夫人の家に住んでいましたが、程なくして彼女が彼とカトリックとの関係を疑い始めたそうです。このころのイギリスでは、カトリック信者であるということを知られるということは、かなり危険な状態。そのことに気付き、ガイはこの家を出ることを余儀なくされましたが、もし密告されていたら早晩、逮捕され、死をも迎えていたかもしれません。しかし、難を逃れたガイは暗殺計画に向かってまっすぐ走りはじめます。

実行

ところが、10月26日、匿名の人物から、「議会の開院式への出席は危険である」と警告す書簡が、カトリック議員のウィリアム・パーカーなる人物のところに届けられます。

実は、ガイの仲間のひとりである、フランシス・トレシャムは、カトリックの国会議員たちを爆殺計画に巻き込むことに反対しており、彼の義兄であったウィリアム・パーカーに、国会に近づかないよう伝えたのです。

これを知ったガイたちは慄然としますが、どうやら書簡の記述が抽象的であったらしいことを知り、またその後も「手入れ」らしいものがなかったことから計画の続行を決意します。

そしてガイは、運命の11月5日、火薬の見張りと点火の任を帯びて、宮殿地下に籠ります。しかし、間一髪その日の未明、治安判事トマス・ナイヴェットらの捜索により、地下の「爆弾倉庫」にいるところを発見され、ガイは取り押さえられてしまうのです。

処刑

その後のガイらの運命は過酷なものでした。捕えられた11月5日の早朝、ガイは国王の寝室に連行され、尋問を受けます。彼は、「トマス・パーシーの使用人ジョンソン」と偽名を語り、いかなる情報の提供も拒否しましたが、その後、激しい拷問を受け、その結果、本名と、陰謀に関わった仲間の名前を自白してしまいます。

彼に対する裁判はウェストミンスター・ホールで行われましたが、裁判とはいっても名ばかりのものであり、仲間のトマス・ウィンター、アンブローズ・ルークウッド、及びロバート・キーズと共に死刑の判決を受けます。

そして、1606年1月31日、ウェストミンスターのオールド・パレス・ヤードという場所で、処刑されます。この処刑方法というのが、考えただけでもぞっとするおぞましいもので、「Hanged, drawn and quartered」というもの。日本語にすると、首吊り、内臓抉り、そして四つ裂きの刑、というわけで、この当時のイギリスでは、国王に対する大逆罪を犯した、貴族でない男性にのみ執行される極刑であったといいます。

しかし、ガイは、それまでに受けた苛烈を極める拷問と病で衰弱し、死刑執行人の手を借りねば絞首台にも登れない程だったらしく、首を吊られた時点で衰弱の為に絶命してしまったそうです。それにしても、ほかの二人はどうだったのでしょう。考えるだけでも恐ろしい最後です。

花火はやっぱり夏

さて、そんなわけで、イギリスでは、この火薬陰謀事件にちなみ、毎年11月5日を「ガイ・フォークス・ナイト」、「ガイ・フォークスの日」、「ボンファイアー・ナイト」、「プロット・ナイト(Plot Night)」などと呼んで、「お祭り」が開催されるそうです。ガイ・フォークスを表す人形を児童らが曳き回し、最後には篝火に投げ入れられて燃やされるそうで、そのクライマックスに花火があがるというわけ。

ところが、ガイは、ウェールズ方面では国王暗殺を試みた罪人として扱われていますが、スコットランド方面では自由を求めて戦ったとして英雄視されているのだそうです。ガイを主人公にしたコミックまで描かれているそうで、2006年に公開された映画作品「Vフォー・ヴェンデッタ」の主人公「V」は、冒頭で述べたガイ・フォークスの仮面を被っているのだとか。この映画では、独裁体制の破壊をもくろむアナーキストなのだそうで、この主人公をモチーフに、「アノニマス集団」のシンボルとしても使わるようになったのでしょう。

冬にうちあげるイギリスの花火は、ぶきみな仮面の人物の記念日だけというのは、日本人にとっては、ちょっと理解しがたいこと。そして、花火といえば、やはり夏の風物詩。うちわで風を送りながら、冷たいビールでも飲みながらながめる花火は最高です。そんなぜいたくをイギリス人にもちょっと味わってみてもらいたいところですが、どんなもんでしょうか。

あ、そうそう、ついに金メダイ、いや金メダルが二つになりましたね。これを弾みに、金メダルラッシュが続くことを期待したいもの。花火のない今夜はまた、テレビにくぎ付けになりそうです。

はし・橋 ~修善寺温泉(伊豆市)

8月になりました。オリンピックは序盤から中盤にさしかかろうというところ。銅メダルばかりで、金メダルはまだかーと思っていたら、柔道女子で元気な女性がとってくれました。こうなると次の金メダルが待ち遠しくなるもの。連日連夜、みなさん夜遅くまでテレビにくぎ付けになっていることでしょう。

松ヶ瀬の吊橋

さて、以前このブログで書いた、「軽野船」で取り上げた「軽野神社」のすぐ近くの狩野川には、木製の大きな吊り橋がかかっています。橋マニアの人のブログを拝見すると、「松ヶ瀬橋」と呼ばれているみたいですが、実際の橋には、どこにもネームプレートはなく、本当にそういう名前かどうかは不明です。おそらくは付近の住民の生活道として使われているのだと思いますが、のどかな田園風景の中に溶け込んでいて、すぐ下を流れる狩野川の流れも気持ちよく、とてもよい雰囲気の橋です。

どうして観光名所にとりあげられないのか不思議なほどのこの木製の吊り橋。かなり大きめの吊り橋ですが、「車両通行止」の看板があります。ところが、左岸の軽野神社から眺めていたら、なんと農作業用らしい軽自動車が、ゆるゆるとその上を渡っているではありませんか。どうやら、地元の人が使う、農耕作業車は通行できるようです。

実際に橋の上に立ってみましたが、さすがに吊り橋だけに、渡るとゆらゆらゆれます。高所恐怖症の私にとっては、とてもたまったものではなく、とうとう橋の中央までいけませんでした。が、軽自動車が通れるくらいですから、かなり頑丈な造りのようです。象が乗っても大丈夫そう。伊豆の観光名所として、もっと取り上げられてもよさそうなものですが、逆にこののどかな風景が観光客でごったがえすのも興がさめます。なので、みなさんどうか来ないでください。

ロンドンブリッジ

ところで、イギリスの橋といえば、ロンドン橋(London Bridge)です。テムズ川にかかる橋で、その下流にあるタワーブリッジと同じく、観光名所として著名です。

この橋、古くから、何度も橋が架けられては倒壊しており、その回数の多さから「ロンドン橋落ちた~♪」という童謡でおなじみだと思います。1750年にウェストミンスター・ブリッジが架けられるまでは、ロンドン市内でテムズ川に架かる橋としては唯一のものであったそうです。今のロンドン橋と同じ位置にかけられていたかどうかはわかりませんが、テムズ川に架かった最古の橋はローマ人によるもので、西暦46年に架けられた木製のものだったそうです。

そして、最初の崩落。1013年、デンマーク国王だった、スヴェン1世率いるデーン人たちが侵略してきたとき、ときのイングランド国王エゼルレッド2世が、敵を分断するためにこの橋を焼き落とさします。その後、架け直された橋も1091年に嵐で破壊され、崩落はまぬがれたものの、1136年には火災に遭って二度目の崩落。

この倒壊のあと、それまで木製だった橋を石造の永久橋にしようという提案がなされヘンリー2世の統治時代の1176年に工事が始まります。ところが、石造りという大がかりなものだったため、完成までには33年もかかり、1209年、ジョン王の統治時代になって、ようやく完成することができました。その間、川の横断はどうしていたんかしらん。不便だったでしょうね~。

このジョン王、なぜか、橋の上に住宅を建てたいと言いだし、橋の上には完成後まもなく住宅や、商店、さらには礼拝堂まで建てられるようになります。日本では考えられない感覚ですよね。なんで橋の上に家?と思ってしまいます。それほど住宅事情が悪かったということなのでしょうか。それとも、王様の趣味で眺めの良い橋の上を独占したかったのかもしれません。

この中世の橋は19の小さなアーチと南端に守衛所のある跳ね橋が備えつけてあったそうです。石造りであり、さらに橋の両端には水車までつけられていたことから、テムズ川の流がかなり阻害されたようです。このため、水の流れを逃がし、同時に船を通過させる橋脚間の「穴」の周囲では、場所によっては2mもの水位差が生じ、すさまじい急流ができました。

小舟を漕いで橋脚の間を通り抜けようとしておぼれた人が数えきれないほどいたそうで、イギリスでは「賢いものは橋上を渡り、愚か者はその下を通る(for wise men to pass over, and for fools to pass under)という諺があるそうですが、その語源になったのはこのロンドンブリッジだとか。

さらし首

その後、昨日も紹介した、1381年のワット・タイラーの乱や、1450年のジャック・ケイドの反乱の際には、橋での攻防戦によって、石造りのアーチのいくつが崩れ、橋上の住宅も焼き払われました。

このように、ロンドン橋は、過去に多くの戦乱に巻き込まれており、橋の右岸側(南側)にあった水門、ストーン・ゲートウェイの上にあった管理小屋では、タール漬けになった謀反人の生首を矛にさしてさらされていたそうです。その当時、ロンドンでも最も悪名高い場所のひとつだったみたい。

このロンドンブリッジでの「さらし首」は、このころもう、ロンドンの「名物」だったようで、スコットランドの軍人指導者、騎士のウィリアム・ウォリスは、イングランド王エドワード1世によるスコットランド支配に抵抗したため、イングランド軍によってとらえられます。1305年に処刑されますが、その首が門に架けられたのが初めてのさらし首だったとか。

他にも首がさらされた有名な人物としては、前述したジャック・ケイド(1450年)や、カトリック教会の聖人、法律家で思想家のトマス・モア(1535年)、同じくカトリック教会の聖人、ジョン・フィッシャー(1535年)、貴族で政治家、「宗教改革」などを主導したトマス・クロムウェル(1540年)などがいます。

処刑された理由はさまざまですが、いずれもその頃のイングランド王が考えていた政治や経済、宗教に反論した人物たちで、いつの世もどこの国でも権力を握った独裁者は敵対する者たちを粛清してきました。この当時、イギリスを旅行していたあるドイツ人は、1598年に30以上もの首が橋にさらされたことを記録しているそうです。

日本でも、源平の時代から、いや、それよりももっと古くから、勝者が敗者の首をはねてきたという歴史を思い起こされます。それにしてもなんで、首なんでしょうかね。人々にこいつは悪いヤツなんだ!と強烈にアピールできるからなんでしょうか。

ちなみに、この習慣は1660年、チャールズ2世によって、王政復古の際に廃止されたそうです。王政復古とは、君主によって統治された国家において、クーデターや内戦などによって一度は弱まったり、廃止されるなどした君主制が復活することで、日本でも明治維新によって幕府が崩壊し、天皇制が敷かれたとき、「王政復古の大号令」が出ましたよね。

1660年といえば、日本ではまだ江戸前期。江戸全期を通じてさらし首はあちこちで実施されていましたから、それに比べれば、イギリス偉い!です。

架け替え

ところで、ロンドンブリッジの橋の上に建てられた建物は、常に火災の恐怖にさらされていたようです。1212年の火災は、ロンドンブリッジの両端から同時に発生し、橋の上に住んでいた人、およそ三千人が焼死したそうです。

ロンドン大火の3年前の1633年にも別の大火が起こり、橋の北側にあった住居のおよそ3割が焼き尽くされたそうですが、なんと、このおかげでロンドンブリッジはその後のロンドン大火による消失を免れます。1666年のロンドン大火の際、北側市街から広まった火災が橋に燃え移ろうとしたところ、橋の上の建物の一部がすでに燃え尽きていたので、それ以上の延焼をまぬがれ、橋が消失することを防ぐことができたとか。火事が火事を防ぐ役割をしたというのですから、皮肉な結果です。

その後、ロンドンブリッジは、産業革命のためにその頃から急増しはじめていた町の交通の利便を図る上では、だんだんとロンドンの「お荷物」になっていきます。その形態が半住居であったため、大量の馬車や人の通行させるための広い道路スペースが十分にとれなかったためです。

市内の交通混雑は徐々に激しくなり、1722年にその当時の市長が「町へ入る馬車類は橋の西側を通行、町から出て行く交通は東側を通行」というふうに交通整理の布告を出すほど。1758年から1762年にかけては、水上交通改善のため中心の2つのアーチがより広い梁間のものに交換されました。

それと同時に、交通の妨げになっていた橋の上の住居も撤去されるようになりますが、18世紀の終わりには交通量の増加に対処できなくなり、とうとう、新しい橋を架けかえよう、ということになりました。

この当時、ロンドンブリッジは、すでに600年以上も使用されていたそうで、ボロボロに老朽化していました。1799年に新しい橋の設計コンペが開催され、180mの長さの単式鋼鉄アーチを持つ橋がいったん採用されましたが、その当時の技術では実現が不確実視され、また建設に要する土地の膨大だったため、結局新橋は5連の石造アーチによるものになりました。

新しい橋は旧橋より30m西(上流)に建設されたそうです。7年の歳月を経て1831年に完工。旧橋は新橋開通まで使用され、その後廃棄されました。新橋は大理石で造られ、長さは283m、幅は15 mあったそうです。その式典がウィリアム4世とアデレード王妃出席のもと、橋のたもとの会場で行われました。イギリス海軍の最新式帆船で、その後「種の起源」で有名なダーウィンが乗船することになる、「ビーグル号」が、このとき、この橋の下を最初に通ったといいます。

しかし、橋はできたものの、慢性的な渋滞はあまり緩和されなかったため、これに対処するため1902年から4年かけ、橋の幅が16mから20mに拡幅されます。しかし、この拡幅工事が橋の基礎に過大な負荷を与えることとなり、工事後に橋が8年に1インチの割合で沈みこむようになり、1924年には橋の東側が西側よりも3~4cmも低下したそうです。

売却

あまりにも補修費がかさむようになった結果、1968年にこの橋はアメリカの企業家に売却されることにになります。橋なんて買ってどうするんだろうな、と思いました。が、この企業家、ロバート・P・マカロックという人は、なんと、アリゾナ州にある「レイクハバスシティ」という町をつくっちゃった人なんだそうで、ロンドンブリッジはその象徴のために欲しかったみたい。。

マカロックは、アリゾナ州にある「ハバス湖」という湖の東側に3500エーカー(14 km²)の土地を購入し、街づくりを開始し、レイクハバスシティは1978年に市制が執行されています。

問題のロンドンブリッジは、ハバス湖からトンプソンベイに至る人造運河に架け替えられました。ロンドン市から250万ドルで購入されたといいますから、今の時価では5億円、といったところでしょうか。1968年に架け替えられる前に、ロンドンブリッジはいったん解体され、再度組み合わせやすいように印を付けて分解された石材が大西洋を渡り、レイクハバスシティまで船で運ばれ、さらに700万ドルを掛けて組み直されたそうです

橋は1971年に開通し、今ではアリゾナ州ではグランド・キャニオン国立公園に次いで2番目に客の多い観光地になっているとか。それにしても、アメリカ人というのはスケールの大きいことをやるな~と改めて感心至極。

現在

さて、アメリカにその心の橋?を売っちゃったイギリスですが、その後、現在のロンドンブリッジを1967年から建設をはじめ、1972年に完成させています。開通は1973年3月17日。現在のロンドンブリッジは、プレストレスコンクリートの梁でできた頑丈なもので、全長283mの大建築。400万ポンドの費用の一部に、アメリカに売り払った古い橋の売却収入があてられたそうです。

その橋の下を先日、オリンピックでは、ベッカムが乗ったスピードボートがくぐり抜けましたね。いまや、その下流にあるタワーブリッジとともに、ロンドン観光にはかかせない存在……と書きたいところですが、実際の人気はタワーブリッジのほうが断トツのようですね。ロンドンブリッジというと、このタワーブリッジのことだと勘違いしている人も多いと思います。私もそうでしたが……

タワー・ブリッジのほうは、1894年にできた、跳開橋で、いわゆる跳ね橋の一種です。中央の橋脚部分が可動になっていて、船が通るときに、上へもちあがります。可動部分は初期の頃水力を利用して開閉していたようですが、現在は電力を利用しているそうです。

観光の目玉になるぐらいですから、ロンドンの中でも結構目立つ存在。このため、第二次世界大戦中はドイツ空軍の爆撃目標になり、1944年にV-1ロケットの1発が車道部分に命中して被害を受けたそうです。

タワーの高さは40mもあるそうで、左右にあるゴシック様式のタワー内部は展望通路になっていて、歴史博物館もあるとか。「タワーブリッジ」の名称は、すぐ近くにあるロンドン塔の景観と調和するようにということでつけられ、そのようにデザインされたそうです。

実際、ロンドンブリッジよりは瀟洒なかんじで、よりイギリスらしい雰囲気。こちらのほうに興味がそそられますね。ロンドン観光定番スポットとなっているのもわかる気がします。が、ロンドンへ行く機会があれば、ロンドンブリッジのほうも行ってみたいものです。

さて、長くなりましたので、今日のところはこれまでにて。今晩は、狩野川の大仁河川敷で花火大会があるそうなので、行ってみたいと思います。オリンピック開催時にテムズ川で上がった花火のようにきれいなものが見れると良いのですが。