想像以上の大室山 ~伊東市


最近の朝のジョギングで、別荘地に隣接している「修善寺自然公園」内まで行くこともあります。大正13年に旧修善寺町の町制が施行された記念として整備された公園で、約1ヘクタールに1000本くらいのモミジが植えられています。例年だと11月中旬から12月上旬が見ごろだということですが、今年は暑かったせいか、少し遅れているようです。

しかし、既にもう何本かのモミジは真っ赤になっていて、ジョギング中の目を楽しませてくれます。公園内の一番高いところには展望台があって、ここからの富士山もなかなかきれいです。

この修善寺自然公園のすぐ隣には「修善寺虹の郷」があります。これまでも何度か訪問し、このブログでもレポートしてきました。その修善寺虹の郷でもそろそろ紅葉が見ごろになりはじめていて、11月22日から12月2日までは、紅葉の夜間ライトアップも行われるそうです。

この期間中の入場料は夜間割引になって600円で入れるようです(通常は1000円)。また、駐車場もタダになるようです(通常昼間は300円)。なので、伊豆へ来られる方はぜひ訪れて見てください。とはいえ、我々もまだこの夜間ライトアップは見たことがありません。ぜひ期間中に訪れて、その結果をまたレポートしたいと思います。

さて、昨日は、先々週行った城山から葛城山のトレッキングを話題にしましたが、先週は、伊東にある「大室山」にタエさんと登ってきました。

大室山(おおむろやま)は、伊東市の南8~9kmくらいの場所にある標高580mの山です。伊豆東部火山群国に属するれっきとした「火山」だそうですが、今は冷え切っていて当面火山の噴火のおそれはないということです。

約4000年くらい前に噴火してできた単成火山で、マグマが噴き上がってできた多孔質の岩石が積み重なってできた山で、こういうでき方をした火山を「スコリア丘」というのだとか。

「スコリア」というのは地質用語です。日本語では「岩滓」と書くそうで、マグマが地上に吹き上げられて飛散冷却してできる岩塊のことで、穴がいっぱいあいていて黒っぽい色をしています。火口の周りに降り積もり、小高い山を形成するので「噴石丘」とも呼ばれていて、日本ではめずらしいみたいです。

積み上がった噴石の山の中央にはマグマが溜まります。このマグマの密度は回りの噴石よりも大きいので、マグマは噴石とその下の基盤の間から徐々に染み出して抜けてしまいます。こうして丘の真ん中にぽっかり穴の開いた「スコリア丘」という独特の火山ができました。

これと同じようなものをどっかで見たな~と思ったら、阿蘇の草千里の下にある「米塚」も同じ成因できたようです。ご存知でしょうか。

米塚には伝説があり、健磐龍命という神様が収穫した米を積み上げて作ったとされ、貧しい人達に米を分け与えたために、頂上にくぼみができ、それで米塚と呼ばれるようになりました。後述しますが、大室山にもこうした日本神話にまつわる伝説があります。

この大室山ですが、こうした珍しい成因のため、2010年(平成22年)8月5日には、国の天然記念物に指定されたそうです。2010年といえばついこの間です。おそらくは伊豆が世界登録を目指している「ジオパーク構想」の一環として地元自治体が国に働きかけて決定されたのでしょう。

このあたりでは一番高い山であり、毎年、山焼きが行われ、一年生植物で覆われるために遠方からでも非常によく目立ちます。天然記念物というだけでなく、山体は「富士箱根伊豆国立公園」にも指定されているそうです。

さて、先週この大室山に我々も登ってきたのですが、正直言って期待以上でした。その昔、「オペル」というドイツの自動車会社が日本のヤナセの販売網下に入ったとき、その知名度を上げるために、テレビで、「想像以上のオペルです」というキャッチフレーズが使われて流行りましたが、この大室山も「想像以上の大室山」でした。

大室山は、中央に直径およそ300m、周囲約1kmの火口があり、その深さは山頂からの標高差でおよそ70mあります。南側の山腹には直径およそ100m、深さ10mほどの側火口がみられるそうですが、山の頂上からはこれはよく見えません。

その北側のふもとに、大きな駐車場があり(無料)、ここで車を降りて、そこから頂上までは有料リフトで登ります。ひとり往復500円ですから、まあリーズナブルなほうでしょうか。もっと高い入場料を取るところもあるので、良心的だと思います。

ただ、歩いて登れるのかと思ったら、そういう登山道はわざと整備されていないみたいです。頂上に登る人全員をこのリフトで登らせて観光収入を得ようという魂胆なのかと思ったのですが、実は昔は徒歩でも登れたのだそうです。

登山道により山腹が荒れるために、禁止にしたのだそうで、環境に配慮してのことのようです。大きな産業のない伊東市にとっては大事な収入源にもなっているのでしょうし、二人で1000円の料金は「環境整備費」として寄付したのだと思えばあまり腹もたちません。

山腹のほとんどは低い笹原とススキなどで覆われていますが、毎年2月の第2日曜日には山焼きが行われるそうで、このときには多くの観光客で賑わいます。有料ながら先着順で観光客が山焼きの着火に参加することもできるそうです。

また、お正月にはここから初日の出を見る観光客のために早朝からリフトが営業されているとか。ちょっと変わった初日の出を見たい方は出かけてみてはいかがでしょうか。

頂上まではおよそ5分ほどの空中遊泳です。リフト乗り場のすぐ隣には、「伊豆シャボテン公園」が隣接していて、高度を上げるにつれ、この敷地がどんどん小さくなっていきます。

東側の青い相模湾がだんだんと広がりをもっていき、北西にみえる伊東市街が遠くに立体的に見えてきます。そしてさらに高度を上げると伊豆大島らしい島も見えてきます。これだけでも既に絶景です。

山体の最高点は火口の南側にあります。リフト降り場はほぼこの真反対側の北側にあって、ここからぐるりと一周できる遊歩道が整備されており「お鉢周り」ができます。

左右どちら回り歩こうが自由です。火口の底は観光アーチェリー場として利用されています。何でアーチェリー?と思ってしまうのは私だけでしょうか。子供向けにアスレチックでも作ればいいのに。

山頂からの眺めですが、これはもう、素晴らしいの一言に尽きます。東側には眼下に城ヶ崎海岸とその手前の伊豆高原が広がり、これを中心として伊豆半島東岸の180度の大パノラマが広がります。その先の水平線のほうに目を転じれば、すぐ間近には伊豆大島がみえ、さらにその向こうには利島、新島などの伊豆七島も見通せます。

この日は上天気だったのですが、遠くのほうはややかすんでいました。もっと気象条件が良ければ、北には南アルプスまで見えるということでしたが、これは確認できず、富士山も少し雲がかかっていて麓の方しか見えませんでした。しかし、箱根の山々ははっきりみえ、遠くには三浦半島から房総半島に至る陸地まで望むことができました。

東京スカイツリーも見えるということで、双眼鏡で何度も確認したのですが、残念ながらこちらは見えませんでした。ただ、横浜ランドマークタワーを見ることができました。

頂上には二カ所ほど、お地蔵さんが置かれており、このうち東側に置かれている「八ヶ岳地蔵尊」は、近隣沿岸の漁師さんたちの海上安全、海難防止祈願のために設置されたそうです。

このお地蔵さんは比較的新しいもののようでしたが、頂上の西側に安置されている五体の「北五智如来地蔵尊」は、およそ300年も昔に据えられたものだそうです。

その昔、相州岩村(現神奈川県足柄下郡)の地頭の「朝倉清兵衛」という人の娘さんが9歳で身ごもり、その安産を大室山浅間神社に祈願したところ無事安産したのでお礼に安置したということでした。古いものだけに大室山の歴史を感じさせる風情がありました。

頂上には小一時間ほどもいました。あまりにも景色が雄大なので、あちこち写真をとったりしながらゆっくりと歩いて「お鉢回り」をしたためです。これでもう少し空気がすっきりしていたら富士山も含めてもっと良い眺めだったのでしょうが、またもう少し空気がきれいになる冬に来てみても良いと思いました。

この大室山の火口北側の中腹には「浅間神社」があります。今回我々は時間がなかったのでお詣りしませんでしたが、その祭神は磐長姫(いわながひめ)だそうです。

以前、8月の終わりころにこのブログで「花と岩」というタイトルでこの神様のことを書きました。「花」とは富士山の神様で、木花開耶姫(このはなさくやひめ)のことで、「岩」とはそのお姉さんの磐長姫命のことです。

この姉妹のお父さんは、オオヤマツミ(大山津見神)という国津神(地上の神様)で、山と海の両方を司る神様でした。あるとき、高天原(天上)からやってきた天津神(天上の神様)であるニニギノミコトという神様にこのコノハナサクヤヒメが一目ぼれし、求婚します。

お父さんのオオヤマツミはこれをたいそう喜んだのですが、この際売れ残っていたイワナガヒメも一緒に嫁に出してしまえ、と思ったのか、ニニギノミコトに二人とも嫁にもらってくれと頼みます。

ところが、ニニギノミコトは美人の妹コノハナサクヤヒメからの求婚はまんざらでもなかったものの、「おまけ」のイワナガヒメがブスだったことから、「エーッ!?、聞いてないよ~」ということで、イワナガヒメとの結婚は拒み、コノハナノサクヤヒメとだけ結婚してしまいます。

これを聞いたオオヤマツミは怒りまくり、「二人を一緒にもらってくれと言ったのは、イワナガヒメを妻にすればミコトの命は「岩」のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤヒメを妻にすれば「花」が咲くように繁栄するだろうと思ったからじゃ。コノハナノサクヤヒメだけと結婚するんなら、お前は早死にしてしまうぞ!」とニニギノミコトに告げたといいます。

実は、このニニギノミコトは歴代の天皇の祖先でした。そしてイワナガヒメを拒否したことで、その後、ニニギノミコトとコノハナサクヤヒメの子孫である歴代の天皇の寿命は、神々ほど長くなくなってしまった、というのが「花と岩」のストーリーでした。

ニニギノミコトと結婚したコノハナノサクヤヒメは、その後三人の子を無事出産し、この三人兄弟の一人、「ホオリ」の孫が、のちの世の神武天皇になります。

そして、その子を産んだコノハナサクヤヒメは、「無事に天津神の子を産んであっぱれであった」とオオヤマツミから称賛を受け、「火の神」を名乗るように許され、同時に褒美として、火山である日本一の秀峰「富士山」を譲り受けたというわけです。

ところが、ニニギノミコトに嫁ぐことができなかった、イワナガヒメのその後については、これにまつわるお話は日本書紀や古事記などにはまったく記されていません。

ところが、この大室山にある浅間神社の社伝では「磐長姫命が、父の計らいで妹と共に天孫である瓊々杵命(ににぎのみこと)に嫁いだが、彼女が瓊々杵命(ニニギノミコト)の子を身籠ったものの大山祇神(オオヤマツミ)の許へ返されてしまったため、当所に産殿を設けて無事に出産した」という伝承が残されているそうです。

日本書紀や古事記などでは、彼女が身籠ったことや産殿の場所については言及がないことから、地元で創作された神話ということなのでしょう。伊東からは大室山も富士山も良く見え、二つの山はそれぞれ姉妹のように見えることから、こうした伝承が生まれてきたのでしょう。

磐長姫命は「岩」のように永遠の命を司る神であることから、これを祭神とする浅間神社は、不老長寿や安産、さらには海上安全や家内安全、学問や縁結びの神として奉られるようになっているといいます。

しかし、地元伊東では、イワナガヒメの化身である大室山に登ってコノハナサクヤヒメの化身である富士山を褒めたたえると、怪我をするとか不漁になるなどの俗信があるそうです。醜いためにニニギノミコトに遠ざけられたイワナガヒメは、美しいコンハナサクヤエを嫉妬しているはずだからというわけです。

なので、もし大室山に登って、きれいな富士山が見えたとしても、「わあ、きれい!」というのはやめたほうがよいかもしれません。帰りのリフトから落っこちたり、自動車事故に遭うかもしれません。

大室山に登ったら、「わあ、大室山ってきれい!」と叫びましょう。きっとこれに気を良くしたイワナガヒメが素敵な恋人を見つけてくれるに違いありません。さらに結婚したらきっと安産で丈夫な子供が生まれて来るでしょう。そのときはもう一度大室山に来て、お礼を言いましょう。今度はきっと長生きを授けてくれるに違いありません……

城山へ登ってきました ~旧大仁町(伊豆の国市)

別荘地から城山をのぞむ

最近、ほぼ一年ぶりにジョギングを再開しました。昨年の今頃は引越し前の大騒ぎで、ジョギングどころではなく、毎日引っ越し荷物の整理と廃棄物の処理をしていたような気がします。

一年ぶりということで、体がなまっていないかなと思いましたが、最初の一二日ほどはやや筋肉痛が残ったものの、その後は順調でほぼ前と同じ程度の調子で走れるようになりました。

早朝五時半!くらいには起き出し、だいたい30分ほどをかけて、別荘地内を走るのですが、高台にあるだけに、随所で富士山や天城山、田方平野の絶景が見える場所があり、こういう風景に出会ったときは最高の気分です。

こんな早い時間帯にもかかわらず、健康のためか散歩をされている方や犬に散歩をさせている方も多く、それぞれみなさん「おはようございます」と声をかけてくださるのは気持ちのよいもの。

ただ、この別荘地にはご高齢の方も多く、私以外にジョギングをされている方はほとんどいないのがちょっと寂しい感じもします。自分でさえ既に50才を超えているのに、別荘地内では最年少のような錯覚を覚えるのは気のせいでしょうか。

11月に入って上天気の日も多く、最近はこうしたジョギングだけでなく、暑い夏の間は控えていた外出をすることも多くなってきました。先々週には念願だった「城山(じょうやま)」(342m)に登山し、ここからさらに尾根づたいに葛城山(452m)の山頂までトレッキングしてきました。

城山は、その昔の火山の名残で、地下にあったマグマが地上に出て冷え固まり、浸食によって地表に現れることでできた「岩頸(がんけい)」と呼ばれる地形で、別名「溶岩ドーム」ともいいます。すぐ麓には狩野川が流れ、垂直に立ちあがった岩肌はかなり周囲の景観から際立っていて、その特徴的な姿から、この辺のシンボル的存在となっています。

駿豆線の大仁駅から歩いて、そうですね、20分ほどぐらいでしょうか、狩野川大橋を渡ってすぐのところにその登山口があります。

その切りたった岸壁がロッククライミングのスポットになっているほか、狩野川の脇から山頂まで登山道が整備されていることから、これにチャレンジするロッククライマーや一般登山客が多く、このため、登山道の入口付近には乗用車20台ほどを止められる駐車場もあります(無料)。

私もここにクルマを止め、城山山頂をめざしましたが、土曜日の早朝(朝8時ごろ)ということもあり、一般の登山客は一人もいませんでした。ただ、ロッククライミングを楽しむ方々が早くもクルマで乗り付けていて、ナンバーをみると品川や横浜と都内や神奈川から来られる方が多いようでした。

登山道は一本道ですが、途中から頂上へ上る道と、ロッククライミングのための取り付けポイントへ向かう道のふたつに分かれます。私が行ったときには、3人一組の男性グループがちょうどこのポイントに向かっているのを目にしました。

頂上へは健脚の人でなくても、だいたい30~40分くらいで登れるでしょう。辿り着いた城山山頂には畳三畳分ほどの展望台が設けられています。といってもベンチやパーゴラがあるわけではなく、大きな石の間を整地してコンクリートで平らにしてあるだけです。

ここからの展望は東から南にかけての眺めがよく、眼下に狩野川から南の天城山のほうまでの東方約180度を望むことができます。その北側には富士山を望むことができることはできますが、やや樹木が密度濃く茂っていて、その姿が少し見えにくいのが難点です。

城山山頂から大仁方面をのぞむ

この城山には、南北朝時代(1336~1392)に畠山国清という武将によって造られた「金山城」というお城があったそうです。畠山国清は、足利尊氏に従って鎌倉幕府討幕に加わったあと、畿内の和泉、と紀伊の守護になった人ですが、足利政権の執事(管領)と仲違いして中央を追われ、伊豆へ逃げこみました。

そしてこの地で一旗揚げて中央と対抗しようとしますが、地元伊豆の武士たちからも嫌われ、総スカンを食らい、逆に攻め滅ぼされてしまった、という、あわれといえばあわれな武将です。

私がみたところ、その金山城の跡らしいものは頂上付近には見受けられませんでしたが、他の山中には堀切や土塁の跡が残っているそうです。頂上付近はこの当時見張台として使用されていたそうで、その後戦国時代にも北条早雲の後北条氏がここを城として使用したということです。

城山山頂から天城山方面をのぞむ

私もそうですが、ハイカーの中にはここからさらに西北側にそびえる葛城山を目指し、さらにその西側の発端丈山(ほったんじょうやま)(410m)に登り、その直下の駿河湾に抜ける長距離ルートを歩く人も多いようです。

登山道はよく整備されていて、城山~葛城山~発端丈山間は、それほどヘビーな登山靴を履いていなくても大丈夫です。軽登山靴で十分でしょう。私はこの当日かなり軽装で、履いていた靴はジョギングシューズでしたが、靴表が柔らかいので後半は足先が痛くなりました。登山道が良いとはいえ、私のマネはしないほうがいいと思います。

道案内の看板も主要分岐点などには立てられています。が、案内の表示がわかりにくい箇所が何ヶ所かあったと思うので、現地で出くわした分岐では地図としっかりとにらめっこして先へ進むことをお勧めします。

城山から葛城山までは快適な尾根道が続きます。途中、富士山がよくみえる絶景ポイントが何ヶ所かあります。ずっと登りではなく、いったん下り、一度ふもとから来る林道沿いに進む区間がありますが、この区間からの富士山はなかなかの眺めです。

この林道の途中からさらに葛城山山頂を目指しますが、これは結構急坂で、頂上へ着くころにはたいがいの人が大汗をかくことでしょう。

城山から葛城山山頂までの行程ですが、だいたい一時間半くらいと考えればいいと思います。健脚の人なら一時間で行けるかも。私は写真を撮りとり行きましたので、二時間弱かかりました。

葛城山には、ちょうど去年の今頃に登ったことがあり、このときにもブログで紹介したような記憶があります。山頂部一帯が、「伊豆の国パノラマパーク」という公園になっていて、山の北側の麓から山頂まではロープウェイが運行されています。

山頂からの富士山や天城山の眺めは絶景です。ふもとから見てもわかるとおり、周囲にはその視界を妨げるような高い山は全くみあたらず、非常によく目立つ山塊です。頂上付近には茶屋やお土産物屋さん、簡単なアスレチックなども置かれており、伊豆長岡テレビ中継局も設置されていて、このための大きなアンテナが立っています。

パラグライダーのためのテイクオフポイントも設けられているそうで、これがどこにあるのか確認しませんでしたが、そういえば少し前、葛城山の北側で気持ちよさそうに泳いでいるパラグライダーを確認しました。

この葛城山も昔は火山でした。といっても、城山のような陸上の火山ではなく、海底火山だったようで、およそ1千万〜200万年前に、噴火した海底火山がその噴出物とともに隆起してできた山だそうで、伊豆半島でも3番目に古い地質なのだそうです。

その昔、フィリピン海プレートに乗っかっていた伊豆半島が、本州側のプレートの衝突したときにぶつかって隆起したのが葛城山で、その後浸食が進んで、葛城山やその西北に連なる発端丈山などをはじめとする静浦山地ができました。

山頂にある「パノラマパーク」内には平安時代よりその名が確認されている葛城神社や、鎌倉時代より置かれていたと言われる地蔵尊などがあり、葛城山は古くから人々に信仰されていた山のようです。

今年の7月ころに書いた「伊豆の王国」という記事の中で、その昔この伊豆半島の中央部には「葛城氏」とう豪族の長を王にいただく、「伊都の国」という王国があったらしいということを書きました。

その都は葛城山の東側にある、田京(伊豆の国市大仁田京)という場所にあったのではないかといわれており、この一帯は、古くから伊豆における政治・文化の重要な場所であったのではないかという説があるのです。

古事記には、「御眞津日子詞惠志泥(みまつひこかえしね)の命(みこと)、葛城の掖上(わきがみ)宮に坐(ま)しまして、天の下治(し)らしましき。」という記述があるそうで、これに出てくる「葛城」とは「葛城山」のことではないかという人もいます。

「掖上宮」というのは宮城のことだそうで、この説をもとにすると「御眞津日子詞惠志泥命」という「伊豆の王」がかつて葛城という場所に住んでおり、この「葛城」こそが葛城山だとすると、古くは葛城山の山頂にその「伊豆の王」の何等かの拠点があり、その宮城は田京にあったのではないか、と解釈できるというのです。

その「拠点」とは何だったのだかはわかりませんが、もしかしたらピラミッドや大きな古墳のようなものだったのかもしれません。だとすると葛城山はその昔の大きな古墳跡なのでしょうか???

伊豆半島の中央部には桂川、狩野(賀茂)川、田京、御門、葛城山、長岡、賀茂郡など、京都や奈良にあるのと同じ地名がたくさんあります。この地名もこのころ、畿内からやってきた京都や奈良のお公家さんが伊豆王国を建設したときの名残と考えると、なかなか楽しくなります。

しかも、この伊豆王国は、かつての邪馬台国に匹敵するような王国ではなかったかという説もあり、そういうふうに考えるとますますワクワクしてきます。

葛城山山頂から沼津方面をのぞむ

さて、この日の葛城山の山頂は、そんなことは全く知らない観光客さんばかりであふれておりました。こちらは汗をかきかき、どろどろで登ってきたのですが、頂上にはハイヒールを履いて愛犬連れで登ってこられるような人も大勢いて、自分とのギャップを感じてしまいました。閑静な山道からいきなり大勢の人で賑わう山頂に出たせいもあります。

この日頂上からの富士山の眺めは絶好でした。みなさんも機会あれば行ってみてください。これからの季節はおすすめです。

帰路は、頂上から一気に下るだけなので楽でした。が、途中の分岐で案内表示を勘違いしてしまい、一本道を間違えてしまいました。誤って駿河湾側に降りる発端丈山のルートに入ってしまったのですが、途中で気づいて引き返すことができました。

城山まで降りてきたとき、その岸壁に張り付いている若者二人を目撃しました。おそろしい眺めです。人間技ではありません。どうしてあんなところをしかもあんな細いロープを頼りに登れるのでしょうか……

今回の登山では発端丈山へは登りませんでしたが、次回、今度はこちらにもアプローチし、「沼津アルプス」と呼ばれている登山ルートにもチャレンジしてみたいと思います。機会あらばまたそのレポートなども掲載しましょう。

スポーツの秋です。みなさんもこぞって山登りにチャレンジしてみてください。

流離の果て

先日より、かつての名女優、岡田嘉子さんのことを書いていたら、奇しくも昨夜、森光子さんの訃報が入ってきました。岡田さんともども昭和を代表する名女優であり、哀悼の意を表したいと思います。

逮捕

1938年(昭和13年)1月3日、樺太から国境を越え、ソビエトに不法入国した嘉子と杉本の二人でしたが、歓待されると思いきや、予想外にソ連側の対応は厳しいものでした。

入国後わずか3日目で嘉子は杉本と離されGPU(ゲーペーウー:内務人民委員部附属国家政治局、ソ連の秘密警察で、のちのKGB)から厳しい取り調べを受けたあと、別々の独房に入れられました。二人はこののち、二度と会うことはありませんでした。

ソ連に亡命するにあたり、実は杉本にはある目算がありました。その当時ソ連在住だった同じ演劇仲間の「佐野碩(さのせき)」や「土方与志(ひじかたよし)」を頼るつもりだったのです。

佐野は第二次日本共産党の指導者になった佐野学の甥で、母方の祖父は後藤新平。1929年(昭和4年)に結成された日本プロレタリア劇場同盟の中心的存在であり、筋金入りの共産党員でした。

演出家の土方与志夫妻ともに1933年(昭和8年)に入国し、ソ連では世界的演出家のメイエルホリドが主催する国立劇場の演出研究員となり、メイエルホリドの指導を受けました。

土方の祖父は土佐藩出身で、維新後は宮内大臣などを務めて伯爵を授けられたため、祖父没後に襲爵。新築地劇団を結成し、「プロレタリア・リアリズム」に基づく演劇を志向し、プロレタリア文学の代表作である小林多喜二の「蟹工船」を「北緯五十度以北」という題ではじめて帝国劇場で上演したことで知られています。

彼もまた筋金入りの共産党員であったため、官憲の弾圧を受け、1932年に土方は検挙を受けています。その翌年の1933年(昭和8年)に、小林多喜二は治安維持法違反容疑で逮捕、特別高等警察による拷問で死亡。

その数か月後に吉井は、佐野碩や妻の梅子とともにソ連を訪問。日本プロレタリア演劇同盟の代表として、「ソヴィエト作家同盟」で日本代表として小林多喜二虐殺や日本の革命運動について報告を行っています。この内容はまもなく日本に伝わったため、1934年に爵位を剥奪されたため、土方は帰国せず、そのままソ連に亡命。

嘉子と杉本がソ連に亡命したとき、この佐野と土方がソ連入りした時から5年が経っていましたが、日本国内で二人はソ連にそのまま居残り、亡命していたと考えられていました。

しかし、実際には、佐野と土方の二人はその前年の1937年の8月に大粛清に巻き込まれて国外追放処分になっていおり、嘉子と杉本はそれを知りませんでした。

この点について、土方与志らとともに新築地劇場の創立に参加し、小林多喜二とも親交の深かった、演出家の千田是也は「自分たちの新築地劇団のグループは前年9月にその事実を知っていたが、当時新築地劇団と演劇理論などで対立していた新協劇団の杉本はこの事実を知らなかった」と後に述懐しています。

嘉子と杉本はそうした事実を知らず、佐野と土方を頼ってソ連に亡命したわけですが、このときソ連国内はまさに大粛清の只中であり、杉本と嘉子もスパイ容疑をかけられて逮捕されてしまいます。

大粛清

大粛清とは、ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンが1930年代に国内でおこなった大規模な政治弾圧のことで、この弾圧では、党指導者を目指してスターリンに対抗していた者の多くが見せしめ裁判(モスクワ裁判)にかけられ、死刑の宣告を下されました。

死刑宣告を受けたのは、5人の元帥の内の3人、国防担当の人民委員代理11人全員、最高軍事会議のメンバー80人の内75人、軍管区司令官全員、陸軍司令官15人の内13人、軍団司令官85人の内57人、師団司令官195人の内110人でした。

准将クラスの将校の半数、全将校の四分の一ないし二分の一が「粛清」され、大佐クラス以上の将校に対する「粛清」は十中八、九が銃殺というすさまじいものでした。

ソビエト国内にいた外国人の共産党員も被害者となり、600人のドイツ共産党員がゲシュタポに引き渡されたほか、ハンガリー革命主導者達12人も捕され処刑。このほか、イタリア人共産党員200人、ユーゴスラヴィア人100人あまり、ポーランド共産党の指導者全員、そしてソビエトに逃亡していた5万人ほどのポーランド人の内わずかな例外を除く全員が銃殺されました。

このほかにもイギリス、フランス、アメリカからの共産党員が殺害され、日本人もスパイもしくは反政府主義者、あるいは破壊活動家という理由で、さらし者にされた上で多数が殺害されました。

この当時にソ連に渡っていた日本人がどの程度いたのかについては正確な数字はわかっていないようですが、一説によると80人を超える日本人がおり、このほとんどが粛清の対象になったのではないかともいわれています。

処刑そして幽閉

1月3日にソ連入国後、杉本と引き離された嘉子は、その後厳しい取り調べの中拷問と脅迫を受けその一週間後の10日には、スパイ目的で越境したと自白してしまいました。このため、杉本への尋問も拷問を伴った過酷な取り調べとなり、杉本自身や佐野碩、土方与志、メイエルホリドをスパイであると認めるように強要されます。

そしてついにそれに抗しきれず「自分はメイエルホリドに会いに来たスパイで、メイエルホリドの助手の佐野もスパイであった」という虚偽の供述をしてしまいます。

その後開かれたソ連軍事法廷で杉本は、この供述は虚偽であると証言を翻し「そのような嘘をついたことを恥ずかしく思う」と述べたといいますが、時は既に遅すぎました。

1939年(昭和14年)9月27日、嘉子と杉本の二人に対する裁判がモスクワで行われ、嘉子は起訴事実を全面的に認め、自由剥奪10年の刑が言い渡されました。杉本は容疑を全面的に否認、無罪を主張しましたが、銃殺刑の判決が下され、10月20日、杉本は処刑されました。

杉本がスパイである自分の仲間だったと虚偽の証言をしたメイエルホリドも、この年の第一回全ソ演出家会議で、ソ連当局の圧力によって自己批判を余儀なくされたうえに投獄されました。

その後いったん釈放されますが、その後再度逮捕・投獄され、残忍な拷問を受けた末にフランス、日本とイギリスの諜報部に協力したと無理やり供述させられました。そして、1940年2月に死刑判決を受け、翌日に銃殺刑に処せられています。

その後、ソ連は崩壊してロシア連邦になりますが、ソ連崩壊後に明らかにされたこの当時のメイエルホリドの供述調書の中には、佐野の名前は頻繁に出てきますが、杉本(本名である吉田)の名前はほとんど出てこないといい、起訴状でもスパイ容疑を裏付ける「供述者4人の1人」になっていただけだそうです。

日本のメイエルホリド研究者のひとりは、「杉本の強制自白がメイエルホリド粛清の口実になった」のではなく、メイエルホリドが粛清の対象であることは何年も前からスターリンの方針であり、たまたま日ソ関係が最悪の時期に密入国してきた杉本がメイエルホリドや佐野の名前を口にしたため、その「最後の仕上げ」に利用されたのであろうと語っています。

スターリンの没後、こうした事実が明らかになってきたことから、杉本は冤罪であったことが確認され、1959年になってソ連内でその名誉は回復されます。しかしこうした名誉回復の事実や銃殺されて死亡していたことなどは、その後も長い間日本には伝えられず、病死したとされてきました。

しかし、1980年代になり、ゴルバチョフが登場すると彼のグラスノスチ政策の進行の結果、彼の冤罪死の事実などがようやく日本にも知られるようになりました。

モスクワで行われた裁判で起訴事実を全面的に認め、自由剥奪10年の刑が言い渡された嘉子でしたが、1939年(昭和14年)の12月、モスクワ北東800キロのキーロフ州カイスク地区にある秘密警察NKVD(エヌカーヴェーデー、GPUの改組組織)のビャトカ第一収容所に送られます。

嘉子はこの収容所でようやく自己を取り戻し、虚偽の証言をして自分や杉本を窮地に陥れたことを後悔したようですが、時既におそしでした。ソ連当局に再審を要求する嘆願書を何度も書き続けたといいますが、ソ連当局からはことごとく無視されたといいます。

このビャトカ第一収容所に約3年間収容された後、1943年(昭和17年)1月からは、モスクワにあるNKVDの内務監獄に収容され、約5年後の1947(昭和年12月になり、嘉子はようやく釈放されます。嘉子42才。杉本とソ連に亡命してから5年の年月が経っていました。

ソ連当局は釈放前にこの5年間の嘉子の幽閉の間の虚構の経歴を作り上げ、外でこれまでの経歴を聞かれたときにこれが事実である話すように嘉子に強要し、これを釈放の条件としたといいます。

ビャトカとモスクワにおけるNKVD監獄での彼女の実際の活動や任務は、その後本人も明らかにしていませんが、何等かの極秘の任務に属したとみられています。

嘉子は後年の自伝や帰国後のテレビ番組で、「釈放は1940年(昭和15年)であり、労役三年後にモスクワに近いチカロフの町に送られて最低限の生活を保証され、第二次世界大戦中、1941年(昭和16年)の独ソ開戦後は看護婦をしていた」と語っていますが、実際は1947年に釈放されるまで劣悪な環境の刑務所に幽閉されていたようです。

「労役三年」や「看護婦をしていた」というのは、釈放の時に幽閉されていた事実を隠蔽するよう指示されたための作り話だったことが、嘉子の死後のNHKによる現地取材の結果から明らかになっています。

結婚そして帰国

ロシア政府から釈放され自由な身になった嘉子ですが、釈放後すぐには日本へもあえて帰国をしませんでした。そして第二次世界大戦終了後、モスクワ放送局に入局し、後の「ロシアの声」といわれる日本語放送のアナウンサーを務めるようになります。

そして、日本人の同僚で、このころハヴァロフスク放送局の日本語アナウンサーをしていた、元日活の人気俳優、「滝口新太郎」と結婚し、穏やかに暮らしはじめます。

滝口新太郎は、1913年(大正2年)生まれで嘉子よりも11才年下でした。子役として舞台で活躍した後、松竹蒲田に入社。20才のころに「忠臣蔵」で嘉子と共演したことがありました。その後日活に入社し、二枚目スターとして活躍するようになり、1936年(昭和11年)にも舞台で嘉子の子供役として出演し、共演を務めています。

その後東宝、大映などにも出演する人気俳優でしたが、1943年(昭和18年)、徴兵され満州に駐留。1945年(昭和20年)、敗戦により軍の上層部や財界人や官僚が日本にいち早く逃げ帰る中、置き去りにされた滝口ら多くの日本人は、ソ連の捕虜となり、シベリアに抑留されました。この点、私の父と同じです。

抑留が終了し、収容所から釈放後は日本に帰ることもできましたが、社会主義の理念に共感したためソ連に残り、ハヴァロフスク放送局の日本語アナウンサーとなります。その後、嘉子がモスクワ放送の日本語課に勤務していることを知り、手紙を送るようになり、1950年(昭和25年)、上司の計らいでモスクワへ転勤させてもらい、岡田と結婚することになりました。

嘉子はこの滝口と結婚前から、再び演劇の道に戻ることを決意し、現地のロシア人演劇学校に通った結果、演劇者としてロシアの舞台にも立つようになっていました。

嘉子と岡田が結婚して、ようやく穏やかな日々を迎えたころの1952年(昭和27年)、この年、ソ連を訪問した参議院議員の「高良とみ」が嘉子の存在を知り、現地でその生存を確認後、日本でこれをアナウンスしたため、日本中が驚きに包まれました。嘉子は同じくソビエトへ渡った杉本とともに、大粛清や大戦の戦乱の中でとうに死んでいたと皆が思っていたからです。

そしてさらに10以上の年月を経たあとの1968年(昭和43年)、日本のあるテレビ番組の中でモスクワの赤の広場からのカラー中継があり、そこに往年のスターであったときと変わらない若々しい口調で話しかける嘉子の姿にまたしても日本中が驚きました。

この中継が話題を呼び、このころの東京都知事であった美濃部亮吉のほか、かつての演劇仲間らが嘉子を帰国させようという運動を盛り上げたため、嘉子もこれに応じ、1972年(昭和47年)、ついに嘉子の帰国が実現することになりました。嘉子はもう70才になっていました。

そして、11月13日、羽田空港に34年ぶりに降り立った嘉子は、かつての大勢のファンや劇団関係者に取り囲まれ、この中にはかつての親しい劇団仲間だった宇野重吉さんも含まれていたということです。

しかし、そこには愛する夫の滝口の姿はありませんでした。この帰国の前年、肝硬変でこの世を去っていたためです。嘉子は、亡くなった夫・滝口の遺骨を胸に抱きながらタラップを降り、激動の人生を歩んできた気丈な彼女もさすがに涙々にあけくれた帰国となりました。

晩年

嘉子は、その後14年間もの間日本で暮らしました。この間、日本の芸能界にも復帰し、「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」などのほかの3本の映画に出演したほか、舞台演出にも関わり、数本のテレビドラマのほか、「クイズ面白ゼミナール」「徹子の部屋」などのトーク・バラエティ番組にも出演しました。

しかし、嘉子が80才を超えるころから、ソ連では国内改革が始まり、1985年(昭和60年)からはゴルバチョフ主導でペレストロイカがはじまると、嘉子は「やはり今では自分はソ連人だから、落ち着いて向こうで暮らしたい」と考えるようになります。

翌年の1986年(昭和61年)、正式にソ連国籍を取得した嘉子は、この年再びソ連へ戻ります。以後、亡くなるまで日本へは2度と帰国しませんでした。しかし、この間何度か日本のテレビ番組の取材には応じており、モスクワのアパートの自宅内も公開していたといいます。日本からの取材クルーが来るととても喜んでいたという逸話も残っています。

晩年は軽度の認知症など老衰症状が出ていたことで、モスクワの日本人会の人々がヘルパーとして常時入れ替わり立ち替わりで彼女の面倒をみていたそうですが、1992年、モスクワの病院で死去。90年の波乱に満ちた生涯に幕を閉じました。

嘉子が日本に帰国していた間、服部義治との間に設けた一児、といってもこのころには、もう50才を超えていたと思いますが、この方と嘉子はとうとう再会することはなかったようです。

岡田嘉子の息子さんということで、芸能界にも関わったこともあったようですが、その娘さん(嘉子のお孫さん)のブログによれば、彼女が22才のとき、放浪の旅に出たあと、2005年に亡くなったそうです。

岡田嘉子はこの一児のことを死ぬ間際に思い出したでしょうか。なぜ日本に帰国したときに探し出して会おうとしなかったのかは、ご本人に聞くしかありません。しかし、再会することにはいたたまれない思いがあったでしょう。

しかし、そんな二人もこの世の人ではなくなりました。きっとあの世再開し、生きていたころのことは邂逅されていることでしょう。そう願いつつ、この項を終わりにしたいと思います。

極寒の逃避行

スキャンダル女優

1925年(大正14年)、嘉子は村田実が監督としてメガホンをとる「街の手品師」で主演を務めました。この映画は、「大正14年度朝日新聞最優秀映画」を日本映画で初めて受賞し、新劇出身だった嘉子が一躍映画界におけるスター女優となった記念すべき映画でした。

更にその二年後の1927年(昭和2年)、嘉子は、今度は映画「椿姫」のヒロインに抜擢されます。この映画は大作だっただけに、嘉子もこれまでにない並々ならぬ意欲を持って撮影に挑みましたが、エキストラの群集が群がるロケ現場で、思いがけなく監督の村田実に罵倒に近い叱声を浴びてしまいます。

村田はカットごとに演出を細分化する、いわゆる映画的技法を最初に確立した監督の一人と言われており、この技法は嘉子だけでなく、この当時の他の大女優をいらだたせ、村田監督とは何かとトラブルが多かったといいます。嘉子も自らの演技を活かせない監督の村田実にいらだち、監督の細かいカット割りに強く抗議したという逸話が残っています。

新作の撮影においても、容赦なく自分の型に嘉子をはめ込もうとして演技指導は苛烈を極め、二人の対立の中撮影は進んでいきます。このころ山田隆弥との生活にも行き詰っていた嘉子は、そうした公私の悩みを、「椿姫」での相手役で、美男俳優とうたわれた、「竹内良一」に相談しはじめます。

そしてあろうことか、この竹内と衝動的に駆け落ちし、失踪してしまいます。新聞は「情死をなす恐れあり」などと書きたて、スキャンダルとして大きな騒ぎになりました。

竹内良一は、嘉子よりもひとつ年下の1903年(明治36年)の東京生まれ。陸軍大尉男爵・外松亀太郎(とまつかめたろう)の長男として生まれ、学習院初等科、中等科、高等科と学習院一筋で育ったおぼっちゃまでした。学習院卒業後、築地小劇場の演技研究生となって、演劇を学び、その後村田実の渡欧に同行し、ベルリンで演劇を学びました。

帰国後、村田たちの世話で「日活大将軍撮影所」に入社し、芸名を竹内良一と改めて村田作品に出演していましたが、いわば村田子飼いの秘蔵っ子男優でした。

二人は、この年(昭和2年)の4月、福岡県飯塚市で「発見」され、二人の仲を反対する周囲の手で引き離されますが、良一のほうは嘉子との結婚に強い意志示したため、男爵家から廃嫡され、同年5月には華族の礼遇を停止されました。

その引換として、二人はこの年結婚を許されますが、嘉子は竹内とともに日活を解雇され、事実上映画界から閉め出されます。新聞各紙は、「恋の逃避行」として彼ら二人を大衆のアイドルとして祭り上げましたが、反面、その奔放さに対する反感も強く、映画を干されたあとの活動の中心であった舞台では、立ち往生させられるほどのひどい野次に見舞われたといいます。

そんな中、悪いことはさらに重なります。最愛の母八重が46歳で病死したのです。嘉子が25才のときでした。物心ついたころから女優の道を歩みはじめたため、嘉子と一緒に暮らした時間が少なかった分、娘を深く愛していたようで、嘉子が服部義治との間に設けた一児の養育にあたっても嘉子の代わりとして愛情深く接していたようです。

スキャンダル女優の汚名をかぶり本業の女優業を続けることは苦難の道でしたが、竹内良一とようやく始めた「新婚生活」の中にあっての不幸だけに、残された父武雄と息子の行く末なども思い、スキャンダル女優と名指しで批判されるこの時期は、嘉子にとってかなりつらい一時期だったと思われます。

しかし、嘉子は立ち止まっていませんでした。1928年(昭和3年)、大衆作家、直木三十五の肝いりで「岡田嘉子一座」を旗揚げ。この年から1930年(昭和5年)4月に解散するまでほぼ2年間地方巡業。信州、北陸、東北、関西、東海、四国、中国、九州、更に朝鮮、中国、台湾も一周と、興行の引き受け手があるところが尽きるまで各地を回りました。

ちなみに、直木三十五は、脚本家であり映画監督などもこなしましたが、エンターテイメント系の小説を書く第一人者であり、没年の翌年からスタートした「直木賞」は彼にちなんで設けられた賞です。

代表作は、薩摩藩のお家騒動である「お由羅騒動」を描いた「南国太平記」であり、後年、海音寺潮五郎、司馬遼太郎、永井路子など(いずれも直木賞受賞)の名だたる作家が、この直木の著作を手本にしながら本格的歴史作家として育っていったといわれています。

1931年(昭和6年)、夫の竹内は、日活のライバル松竹に入社し、これがきっかけとなり嘉子も同社の映画女優を務めるようになります。しかし、新しい職場においても嘉子が看板女優として高い評価を得たのに対し、竹内が出演した映画にはなかなか人気が集まりませんでした。

このことが夫婦の間に溝をつくるきっかけとなり、やがて夫婦関係が悪化して竹内は酒に溺れるようになります。そして、ついに5年後の1936年(昭和11年)に二人は別居生活に入ります。

その二年後の1938年(昭和13年)の1月に嘉子がソ連へ亡命したのちの10月、竹内は女優の佐久間妙子と結婚。戦時中は本名(外松良一)で国策映画「秘話ノルマントン号事件 仮面の舞踏」(1943年)に出演し、外人「チャーレス・クーパー」の役などをこなしていますが、その後は目立った作品には出演していません。

戦後、東京都調布市に日本映画俳優学校を設立して教頭に就任。晩年は宗教に心の拠り所を求めていたといい、1959年(昭和34年)に調布市上石原にあった生家の道場において、信者仲間に看取られつつ死去。脳溢血だったそうです。享年55才。

トーキー映画時代

「岡田嘉子一座」の旗揚げ後、二年間の地方巡業についた嘉子でしたが、日本中を巡業した結果、一定の評価を得たため帰京。ちょうどどのころ、日本ではまだ糸口が着いたばかりのトーキー(有声映画)に着目します。

そしてこれに参画すべく、自らのプロダクションを設立し、嘉子が主演、竹内を監督して、舞踏や流行小唄を題材とした映画を製作しはじめ、十数本の映画を完成し、売り込みを図りはじめました。

舞踏を題材にした映画に出演するようになった関係から、このころから嘉子は日本舞踊に本格的に取り組むようになり、日本舞踊家で藤蔭流(とういんりゅう)を創始し、新舞踊を開拓した藤間静枝(ふじませいし、別名、藤蔭静枝(ふじかげ せいし))の元にも通い始めました。

藤間静枝はこのころ50才を超えていました。30才のころ、この当時慶應義塾大学文学部の教授であった永井荷風と結婚しましたが、荷風の浮気に怒って一年足らずで飛び出し、日本舞踊に専念するようになります。

後年、80才で紫綬褒章を授かるなど、日本舞踏家の第一人者でしたが、嘉子はその藤間から名取を許され、日本舞踏家としては「藤蔭嘉子」名乗るほどの腕前になりました。

1932年(昭和7年)、嘉子は30才になりました。この年、日活時代の借金を肩代わりするとの条件で松竹蒲田撮影所と契約。しかし栗島すみ子、田中絹代、川崎弘子といったこの当時の名だたる人気スターのあいだにおいて、嘉子はさすがに若さの盛りを過ぎており、華やかさで彼女らには及ばず、なかなか良い役にも恵まれませんでした。

しかし、高名な小津安二郎監督作品にも出演しており、「また逢う日まで」「東京の女」では主演を務めています。

ただ、こうした作品以外の出演依頼には意欲の湧かないものばかりであり、舞台出身の強みを生かしたいということから、こうしたトーキー映画ばかりを選んで出演をしてみたものの脇役が多くまた、自分とは合わない役柄が続きます。

そんな中1934年(昭和7年)父が病死。服部義治との間に設けた愛児は嘉子の代わりに両親が育ててくれていましたが、母に次いで父も亡くなったことから、おそらくは医家であった九州の父の実家の一族に預けられたものと思われます。

母の死の時もそうでしたが、近親が亡くなるときはいつも嘉子が女優としてその成長に伸び悩んでいるときでした。

父が亡くなったこのときも、衣笠貞之助の股旅物の傑作「一本刀土俵入り」や小津のネオリアリズムの傑作「東京の宿」に出演していますが、「使いにくい女優」と監督から敬遠されていたようで、なかなかその役にのめり込むことができずにいた時期でした。

そして、そんな境遇の自分を打ち払うように、自分が真底打ち込める作品を求め、嘉子は再び舞台の世界へ戻ることを決意します。とはいえ、映画は重要な収入源であったため、全くの出演をやめることもできず、数本の映画出演のかたわら、松竹傘下の新派演劇であった井上正夫一座に参加するようになります。

こうして映画の出演を控え、舞台出演が増えたためもあり、このころから映画人であった夫の竹内との間は次第に冷え切ったものになり、ほとんど別居状態になっていました。

1936年(昭和11年)、34才になった嘉子は、そのころ嘉子の舞台を演出してくれていた、ロシア式演技法の指導者で、演出家の「杉本良吉」と激しい恋におちました。

ところが、この杉本良吉は、1926年に結成された第二次日本共産党のメンバーで、党導部の密命を受け、ソビエト領内のコミンテルンとの連絡のためソ連潜入を試みた経験をもつ、いわゆる共産主義者でした。

コミンテルン

「コミンテルン」の原語はロシア語で「カミンテールン」と発音するようですが、日本語で呼びやすいようにこう呼ばれるようになったものと思われます。英語では、“Communist International”と書きますから、共産主義者の国際組織という意味になります。

コミンテルンは、ロシア帝国が崩壊した、いわゆるロシア革命の2年後の1919年、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)の呼びかけに応じてモスクワにあった19の共産主義組織またはグループの代表が集まり、創立されたものです。

当初は「世界革命」の実現を目指す組織とされ、新政権であるソ連政府は、資本主義諸国の政府と外交関係を結ぶ、いわば表向きの「顔」であるのに対し、コミンテルンは世界各国の共産主義による革命運動を支援するための組織であり、いわば共産主義を世界に広げるための「草の根運動」を支援するための国際組織でした。

1919年の第1回大会から1935年の第7回大会まで、ソビエト共産党の指導の下に世界各国から共産主義者を集めた、「コミンテルン世界大会」が開かれ、反ファシズムなどを優先課題として共産主義に賛同する多様な勢力と協調するための会議が開かれました。

しかしレーニンの死後、スターリンが実権を握ると、ソ連邦による「一国社会主義論」、すなわち自分たちの社会主義だけが唯一正しい共産主義であるという主張をはじめたため、コミンテルンは次第にその立場を失っていき、各国の共産主義者も次第に強大な力を持つソ連邦の外交政策を擁護するようになっていきました。

このため、コミンテルンによって結成された中国共産党も、当初はソビエト連邦へ留学して党を結成した勢力が中心でしたが、次第にその勢力を失っていきました。

圧倒的に農民人口が多い中国では、それまでのマルクス主義やレーニン主義のように労働者階級を中心とする社会主義よりも、農民を対象とした社会主義化の動きのほうが強く、このため農村に拠点を置いて活動していた毛沢東が次第に勢力を拡大していきました。

そしてソ連が一国社会主義論を提唱しはじめたため、中国共産党はこれとは一線を画し、ソ連邦とはまた違った形の農民主体の共産主義が発展していきました。

その後、第二次世界大戦の勃発に伴い、ソ連邦がイギリスやフランスとともに連合国を形成したため、コミンテルンは名実ともに存在意義を失い、1943年5月に解散しましたが、それまでは、中国だけでなく、世界中の国の共産主義者たちが心の拠り所として仰ぎみた組織でした。

日本共産党

日本における共産党も、コミンテルン主導で結成されたもので、1922年に堺利彦、山川均、荒畑寒村らを中心に第一次日本共産党が結成されました。

しかし、日本共産党は「君主制の廃止」や「土地の農民への引きわたし」などを国に要求したため、創設当初から治安警察法などの治安立法に反する団体とみなされ、その活動は「非合法」という形を取らざるをえませんでした。

共産党は繰り返し弾圧され、運動が困難となったため、その結果1924年(大正13年)にはいったん解散。しかし二年後の1926年(昭和元年)、かつて解党に反対していたメンバーによって共産党は再結党され、これは第二次日本共産党といわれました。

この第二次共産党の方針も第一次共産党の方針をほぼ継承しており、その活動内容の多くは1925(大正14年)に成立した治安維持法に抵触するものであったため、新生共産党の活動もやはり「非合法」のものがほとんどでした。

しかし、一方では労農党などの合法政党を設立し、これを背景として労働団体など諸団体に入って「合法的」な活動を行っており、これと並行して非合法の地下活動を展開していました。

労働組合などの合法活動に党本部の活動家が顔を出しつつ、裏では違法とされたソ連邦の共産活動家らとの接触を図りながら軍国主義と敵対し、共産主義を流布していくという危なっかしい運営を行っていたのです。

このように表向きでは「合法」の組織とみせかけながら秘密裡に非合法活動を行っていた日本共産党ですが、その後やはりこの裏の活動が暴露され、1928年(昭和3年)の三・一五事件では、治安維持法により1600人にのぼる党員と支持者が一斉検挙されました。

翌年の1929年(昭和4年)でも、四・一六事件と呼ばれる弾圧が起き、この事件でもおよそ1000人が検挙され、共産党は多数の活動家を失います。

相次ぐ弾圧で幹部を失いながらも、指導部は「革命近し」と判断して、1929年半ばから1930年にかけて川崎武装メーデー事件、東京市電争議における労組幹部宅襲撃や車庫の放火未遂などなどの過激な暴発事件を次々と引きこしていきました。

戦争反対の活動にも力をいれ、1931年8月1日の反戦デーにおいては、非合法集会・デモ行進を組織し、同年9月に発生した満州事変に際しては、占領地からの軍隊の即時撤退や帝国主義日本の軍事行動に反対する声明を出すなど、その行動はさらにエスカレートしていきます。

杉本との出会い

杉本良吉が党本部の指導者からソ連邦に侵入し、領内のコミンテルと連絡をとるように言われたのはちょうどこのころのことです。

コミンテルンは1928年に開催された第6回世界コミンテルン大会において、「帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦に転換させること」「民主的な方法による正義の平和は到底不可能であり、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること」といった、過激な政治綱領を発表しています。

帝国主義が蔓延する日本などの軍事国家を内戦により崩壊させることを目標に掲げたのです。この結果を受け、コミンテルンではさらに1931年4月、「31年政治テーゼ草案」なるものを出していますが、この草案の中では日本における「社会主義革命」を最優先課題としていました。

杉本は、指導部の密命を受け、ソビエト連邦成立後のソビエト領内のコミンテルンとの連絡をとるために、ソ連潜入を試みたといい、上述のテーゼ草案などを国内に持ち帰り、党本部にコミンテルンの結果などを復命したようです。

この杉本良吉の経歴ですが、1907年(明治40年)東京に生まれ、東京府立第一中学校卒業後、北海道帝国大学農学部予科に入学するも中退。さらに早稲田大学文学部露文科に入学するもこれも中退して、20才のころから前衛座などのプロレタリア演劇の演出をやっていたようです。

前衛座は、日本プロレタリア文芸連盟が主宰する移動劇団で、「プロレタリア」の名のとおり、個人主義的な文学を否定し、社会主義思想や共産主義思想と結びついた「プロレタリア文学」を奉ずる集団です。

日本プロレタリア文芸連盟には中野重治、亀井勝一郎、鹿地亘といったマルクス主義芸術研究会に属する有名人が多数加入しており、いわば共産主義の巣窟のような場所でした。杉本もここに出入りすることによって共産主義に感化されていったものと考えられます。

杉本は嘉子と出会う直前の1935年に、新協劇団という前衛集団に入団し、プロレタリア演劇運動を行っていましたが、この新協劇団も反政府運動を行っているとして5年後の1940年に解散させられています。

杉本もこのころにはプロレタリア演劇運動という表向きの運動よりも、政府打倒を掲げる共産主義運動にどっぷりつかり、劇団そのものも日本共産党分子の隠れ家的存在になっていたものと考えられます。

杉本は、1902年生まれの嘉子よりも5才年下でした。嘉子と知り合ったころには、ロシアから帰国したばかりであり、嘉子から請われて嘉子の舞台の演出家を務め、ロシアで覚えた演出法を試していました。

このころ嘉子が夫の竹内と不仲になっていた一方で、杉本も病身の妻をかかえており、お互い何かと家庭内の問題を打ち明けあううちに、それがやがて激しい恋情へと変わっていったものと考えられます。

嘉子にとってはこの恋もまた不倫でしたが、映画人としての将来を見失い、冷え切った夫との関係が続く生活の中に現れたこの若くて新しい恋人の存在は、彼女にとってなくてはならないオアシスだったのでしょう。

逃避行

1937年(昭和12年)日中戦争開戦に伴う軍国主義の影響で、嘉子の出演する映画や舞台にも表現活動の統制が行われるようになってきました。プロレタリア運動に関わっていた杉本は、過去に軍部からにらまれて逮捕された経歴があり、嘉子と出会ったころは執行猶予中でした。

戦争は激しくなり、健常な男性の多くが中国戦線に投入されるようになっており、杉本にも召集令状が来るのは時間の問題でした。しかし、召集令状を受ければ、戦地へ赴く前の審査で共産主義者であることが暴露される可能性があり、そうなれば刑務所に送られる可能性があると考えた杉本は、ついにソ連への亡命を決意します。

そしてその亡命にあたっては、このころはもう別れることのできない間柄にあった嘉子を連れて行こうと考え、嘉子に打ち明けたところ、嘉子もこれに同意します。

1937年(昭和12年)暮れの12月25日朝、杉本がまず東京を出発しました。追って26日夜、嘉子が東京を出で、2人は宇都宮駅で落ち合い、青森へ行きます。そこから青函連絡船で函館へ行き、湯の川温泉で一泊しました。

その後小樽へ行き、そこから船で稚内、そして樺太へと渡りました。このころ、樺太は日露戦争の戦勝により南半分が日本の領土として割譲されており、二人はこの北半分のソビエト領との間の国境の町、「敷香(しすか)」町にたどりつきます。

ここで彼らは国境警備隊を慰問したいと申し入れます。警備隊は大喜びで二人を迎えました。嘉子と杉本は土産の肉や酒を用意していたといい、これを警備隊に振舞い、ねぎらったと伝えられています。

そして、彼らと親しくなったころを見計らい、杉本が警備隊の隊長に、是非国境を見せて欲しいと願い出ました。土産の食事で気をよくしていた隊長ら警備隊員は、嘉子と杉本を馬橇に乗せ、雪原の国境まで連れて行きます。

途中でスキーに履き替えて国境に立ったときは、夕暮れが迫っていました。国境付近を何気なく散歩していたように見えた二人に、警備隊員が遅くなる前に帰りましょうと、声をかけたとき、振り返った杉本の手には拳銃がありました。

二人は警備隊に馬橇を渡すよう要求し、二人はこれに乗ってソビエト領内に走り出しました。

警備隊員は空に向かって威嚇射撃を行ったといいますが、二人は振り返ることもなく、ソビエト領に向かって逃げていきました。

こうして、1938年(昭和13年)1月3日、二人は樺太国境を超えてソ連に越境入国しました。二人の失踪はほどなくして世間に知られるようになり、有名女優の駆落ち事件として連日新聞に報じられ日本中を驚かせることになりました。

そしてその後日本は太平洋戦争に突入していき、戦中・戦後の混乱の中で二人の存在は忘れ去られていき、いつしか死んだに違いないと噂されるだけになりました。

その通り杉本はその後ソビエト領内で非業の死を遂げることになりましたが、嘉子はその後も生きながらえ、気の遠くなる年月ののちに再び日本に戻ってくることになります。

しかし、このときの嘉子はそんな日がくることを想像だにしなかったに違いありません。暗いソビエトの灰色の空の下、まだまだ苦痛に満ちた日々が続いていくことになるのです(続く)。

髑髏の舞

岡田嘉子(おかだよしこ)さんという女優さんをご存知でしょうか。ご存知だとしたら、失礼ながらかなりご年配の方か、あるいはその晩年、「男はつらいよ」などの映画や舞台演出のほか、数本のテレビドラマやバラエティ番組に出演したのを覚えている方などではないかと思います。

私自身は直接テレビや映画で現役のころのお姿を拝見した記憶はないのですが、たしか、ソビエトに亡命した有名な女優さんだったな、という程度の認識は持っていました。

この岡田嘉子さんは、大正から昭和初期にかけて流行ったサイレント映画時代のトップ映画女優であり、奔放な恋愛遍歴を持ち、ソビエト連邦へ亡命するなど波乱の生涯を送った人ですが、1972年の今日、11月13日に35年分ぶりに故郷の日本へ帰ってきました。

正直いってそれほど興味のある人物ではなかったのですが、たまたま「今日は何の日?」で亡命先のソビエトから日本に帰ってきたのが今日であると知り、ちょっとだけその略歴でも見てみようかと調べてみて仰天ビックリ。

こんな波乱万丈の人生を送った人がいたのかと驚き、また私が育った広島で生まれたことも知り、このブログでも取り上げてみようと思いました。

この岡田嘉子(以下、敬称略)は、1902年(明治35年)4月21日に、広島県広島市細工町(現在の広島市中区大手町)で生まれました。

細工町の名は、細工職人が多く居住していたことに由来するそうで、江戸の藩政時代の街道筋にあたり、多くの商人が店を構えていました。今の広島の中心部である、デパートそごう前の交差点から南西部あたり一帯の町で、原爆投下の直下にあったとして有名な世界遺産、原爆ドーム、その昔は「島病院」と呼ばれた場所で病院があったあたりになります。

この原爆ドーム前には「元安川」という川があって、原爆ドームの対岸の広大な敷地が「平和記念公園」となっており、原爆資料館や原爆死没者慰霊碑をはじめとする数多くの慰霊碑が設置されています。

資料館や慰霊碑、また資料館を中心とするこの公園の計画は、当時の若手建築家・丹下健三の設計によるもので、また、公園南側の平和大橋・西平和大橋はアメリカ人彫刻家・イサム・ノグチの設計によります。

我々夫婦にとっては懐かしい場所で、二人の母校の高校がすぐ近くにあったことから、「奉仕清掃」などでも出かけましたが、クラスの課外活動などでもよく利用する場所で、私自身は子供のころからよく慣れ親しんだ場所です。……と、これ以上書くと、また大きく逸脱しそうなのでこの辺でやめておきましょう。広島のお話はまたいずれ機会を改めて書くことにします。

岡田家の祖先は、その昔、九州の細川藩の医家だったそうです。嘉子のお父さんの岡田武雄もおそらくは九州の出だったのではないかと思われますが、新聞記者をやっていました。どこの新聞社に勤めていたのかは何を調べても出てきませんが、小さな地方新聞社だったようで、このほかにもいくつかの新聞社とも掛け持ちで仕事をしていたようです。

嘉子の母の八重は福岡の出身で、父の武雄が広島で新聞記者をしていたときに知り合って結婚したのですが、そのお婆さん(嘉子の曾祖母)がポルトガル人だったそうです。

このため、母の八重も洋風の美人で、娘の嘉子もそのエキゾチックな美貌を受け継ぎ、嘉子自身、「母は自分よりずっと美人だった」とその自伝で書いているそうです。

父が物書きだったせいもあり、両親は教育には熱心だったといいます。しかし、この父親の武雄は放浪の癖があり、和歌山から広島、朝鮮の釜山、横須賀と転々としており、その「途中」の広島で結婚して嘉子が生まれることになります。しかし、武雄はここにも落ち着かず、このため一家こぞって上京。東京では湯島に移り住みます。

父はこうした放浪歴があるだけでなく、娘の通う学校で宮城遙拝(皇居の方向に向かって敬礼する行為。天皇への忠誠を誓わせる運動の一つ)の行事があることなどを知ると、これを娘に強要させることを嫌い、学校を休ませてしまうというリベラリストの側面を持っていたようです。

リベラリズムとは、人間は従来の権威から自由であり自己決定権持つという立場であり、自由権や個人主義、国民主権などを主張し、現代資本主義思想の基礎ともなった思想です。

権威主義や全体主義、社会主義の計画経済などに敵対する考え方であり、リベラリストたちの中には、この当時の天皇制を独裁的な権威主義であると決めつけている人たちもいました。

こうした父の放浪癖やリベラリズムを奉ずる考え方は、後年、嘉子の型にはまる事を嫌う奔放な生き方に大きな影響を与えたと考えられます。

東京へ移住した岡田一家ですが、東京でもあちらこちらと転居していたらしく、銀座の泰明小学校という小学校をはじめ、4つの小学校を転々としました。最後に比較的長くいたのが日本女子大付属の豊明小学校で、それも5年生の1学期から6年の2学期までのごく僅かな時間であったといいます。

1915年(大正4年)、東京・女子美術学校西洋画科(現東京女子美術大学)へ入学。わずか13才だったといいますから、父や母から英才教育を受けていたとはいえ、その才能の早熟ぶりが想像されます。

さらには、1917年(大正6年)、父が北海道小樽の「北門日報」の主筆に招かれると、嘉子も女子美術学校を卒業後、翌1918年(大正7年)に小樽に移り、若干15才で父と同じ新聞社の婦人記者として入社しています。

父が会社の中心人物であり、その庇護の元での就職だったと考えられますが、それにしてもわずか15才で新聞記者というのは現在では考えられないことです。これが事実だとすると、さぞや大人びた娘であったことでしょう。

若くして亡くなった「万代恒志」という岡山県の美作市出身の画家がいますが、岡田一家が東京へ移り住んだころ、万代恒志は通っていた教会で嘉子の母の八重をみそめ、是非、挿絵のモデルになって欲しいと頼み込んだそうです。

八重は唐突な申し出ながらも恒志の真面目そうなところに好感をもち、子供の嘉子といっしょならと、しぶしぶモデルになることを同意しました。

この万代恒志が描いた八重と嘉子の母娘の挿絵はいくつかの雑誌に掲載され、評判になったそうで、このあとも万代は嘉子をしばしばモデルとして自宅に招き、嘉子のデッサンを残しています。母の八重だけでなく嘉子もこのころから周囲の耳目を集める美人だったことがわかります。

小樽に移って父の会社に入社した同じ年、社外の慈善演芸会の催しがあり、この中の寸劇に出演してくれないかと嘉子は頼まれ、これにヒロインとして出演。すると、その際立った美貌がたちまち評判となります。

父の武雄は、東京に在住時代、芸術座の「島村抱月」や劇作家の「中村吉蔵」と知り合っています。おそらくは芸能関係の取材によって知己となったと考えられますが、この二人の薦めもあり、嘉子は翌1919年(大正8年)、父に連れられて上京し、中村吉蔵の内弟子となります。

島村抱月は、1871年(明治4年)島根県小国村(現浜田市)に生まれ、東京専門学校(早稲田大学)卒業後に記者となり、読売新聞社会部主任就任後、母校文学部講師となり母校の海外留学生として英独に留学。帰国後、早稲田大学文学部教授となり、このころから「早稲田文学」を主宰して自然主義運動のため活躍していました。

1906年(明治39年)に坪内逍遥とともにその後の「新劇運動」の母体となる「文芸協会」を設立しますが、1913年(大正2年)にこれを共に立ち上げた女優の「松井須磨子」との恋愛がその組織内で問題視され、文芸協会を脱退。同年、松井とともに新たに「芸術座」を結成しました。

この芸術座では、トルストイの小説を基に抱月が脚色した「復活」(1914年(大正3年))の舞台が大評判になり、各地で興行を行いましたが、松井須磨子が歌う劇中歌「カチューシャの唄」は大ヒット曲になり、歌詞の「カチューシャかわいや わかれのつらさ」は爆発的な流行語となりました。この歌や歌詞を聞いたことがある方も多いと思います。

このカチューシャの唄のヒットは、新劇の大衆化に大いに貢献しましたが、その4年後の1918年(大正7年)、抱月はスペイン風邪にかかり急逝。その2ヶ月後の1919年(大正8年)の1月、松井須磨子は芸術座の道具部屋において首つり自殺をしています。

実は、松井須磨子は文芸協会立ち上げのころから島村と不倫関係にあり、島村の死の9年前に離婚、島村とは同棲関係にありました。

須磨子は自分の全存在は抱月あってのものだと信じ込んでいたそうで、抱月の死の二月後の命日、抱月と自分の写真を並べ、花と線香をたむけた前で首を吊ったといいます。涙を誘うエピソードです。

須磨子は島村の墓に一緒に埋葬されることを望んでいたそうですが、それは叶わず、彼女の墓は郷里の長野市松代市の生家の裏山に埋葬されました。新宿区弁天町の多聞院には分骨墓があるそうです。

嘉子が父に連れられ、東京に出てきたのは、この島村抱月と松井須磨子が亡くなった直後のことであり、このため、嘉子の身柄はとりあえず、抱月の朋友である中村吉蔵に預けられました。

中村は、1877年(明治10年)生まれで島村より6才年下。同じ島根県出身で、大学もその頃早稲田大学と改名していた旧東京専門学校であったことから、島村とは旧知の中でした。

大学卒業後、欧米に留学してノルウェーの劇作家のイプセンなどの影響を受け帰国。春雨と号して新社会劇団を主宰していましたが、島村が芸術座を立ち上げたことから、これに招かれ、一座のための戯曲を書いていました。

新劇女優

芸術座は、島村と松井須磨子の死によって解散となりましたが、中村はこのころはまだ映画を手掛けておらず、文楽や歌劇、演芸などを営んでいた松竹と提携して、「新芸術座」を旗揚げします。

嘉子は、中村から新劇の手ほどきを受けるようになってすぐの1919年(大正8年)の3月、有楽座で「カルメン」という歌劇の端役で初舞台を踏むことになります。

しかし、新芸術座は興業が不調だったせいかやがて解散。中村との縁はここで切れます。そしてこのころ、その昔島村抱月らが立ち上げた「文芸協会」は主宰者が変わって「新文芸協会」という名の一座になっており、嘉子もこれに加わることにします。

そして、その東北地方巡業中、座員で早稲田大学予科の学生で、服部義治という男性と関係を持ち妊娠してしまいます。嘉子19才のとき(大正10年)のことで、この男性が彼女の「初体験」の相手だったといわれています。が、無論、本当のことは本人同士にしかわかりません。

この服部義治という人物がどういう人物だったかもよくわかりませんが、大学予科ということは、現在の大学の教養学部に相当しますから、相手の年齢も19~20才くらいの同年齢だったでしょう。

早稲田大学ということですが、師匠の中村吉蔵やその朋友の島村抱月も早稲田大学出身であり、その関係からか嘉子の周りには早稲田出身の若手俳優も多く、そうした後輩を先輩の中村吉蔵などが演技指導をするなどして面倒を見ていたのではないでしょうか。

東北で身籠った嘉子ですが、その後ひとり東京に戻り男児を出産。嘉子の「弟」として岡田家の籍に入れることにします。この決断を嘉子自身がしたかどうかはわかりませんが、籍を入れるということは本家の同意がなければできないことであり、19才という年齢を考えると、両親の勧めに従ったのではないかと考えられます。

このとき、相手の服部は結婚を迫ったといいますが、嘉子はこれを拒否したと言われています。が、本人はその気だったかもしれず、家族の反対にあったのかもしれません。

この嘉子が生んだ子供は男性だったようです。嘉子のことをネットで調べていたとき、偶然この男性の娘さんらしい方のブログを発見しました。かつては嘉子同様、女優を目指した方のようで、東宝へ入社後、二本の映画に出られたあと、女優業はおやめになったようです。

このブログの中でも嘉子のことに触れておられ、そこにもお父さんは、戸籍上「岡田嘉子の弟」として育てられたことを書いていらっしゃいます。

蝶ネクタイの小学生時代のお父さんと嘉子の写真が残っているそうで、祖母の嘉子さんの表情は優しい母の顔だったといいます。

嘉子の両親の武雄と八重の二人は、後年嘉子がソビエトへ行く前に亡くなっています。このお子さんを育てたのは親戚筋の誰かだったと思われますが、いろいろ調べてみましたが詳しいことはわかりませんでした。が、誰であるかにせよ、嘉子が母であることは報せなかったようです。

ところが、中学生だったときに父の武雄が亡くなり、そのお葬式のときに、どういうきっかけからか自分が嘉子の子供であることを知ってしまったようです。

この方のお父さん~嘉子の一人息子は、この嘉子のお孫さんによれば、かなり頭の良い人だったそうで、医師のライセンスから料理、映写技師、設計図面、電気技師の資格まで持つなど多彩な才能を持った方だったようです。九州の医家が先祖の家に生まれ、自らも聡明な性格だった嘉子の息子さんもまた優秀な人物になったのでしょう。

両親の助けを得ながら子供を育てる傍ら、多くの劇団の客演をこなしていた嘉子ですが、1921年(大正10年)「舞台協会」主宰の帝劇公演での「出家とその弟子」(倉田百三作)のラブシーンなどが評判となり、一躍新劇のスター女優となりました。

そして、新劇のスターとして各地を巡業するようになりますが、この地方巡業中、嘉子は今度は共演した山田隆弥(やまだたかや)という人物と愛人関係になります。

山田隆弥は1890年(明治23年)埼玉県生まれで、嘉子よりも12才も年上。文芸協会の坪内逍遥に師事し、坪内が自宅に設立した演劇研究所の第1期生であり、松井須磨子の同期に当たります。嘉子らと「舞台協会」を立ち上げ、上述の「出家とその弟子」で嘉子と共演し、その演技が高く評価され、名声を得ていました。

どういう人物であったのか調べてみましたが、あまり詳しい記録がありません。その後日活向島撮影所の映画に5本ほど出演したあと、西宮の東亜キネマ甲陽撮影所製作の映画などにも出演しています。

しかし、40歳代後半以降は全く映画や舞台には登場していません。昭和53年に87才で没していますから、何等かの理由で若かりしころに俳優としての自分に見切りをつけ、その後別の人生を歩んだのでしょう。

映画女優として

1922年(大正11年)「日活向島撮影所」の衣笠貞之助などの女形を中心とする大物俳優らが、女優を優先して採用するという会社の方針に反発し、「国活(国際活映株式会社)」に移籍してしまいます。

このころ、日活向島撮影所は日活の2大撮影所の一つとして、現代劇を製作しており、ここで製作された映画作品の配給を日活本社が行っていました。

新派劇を得意とし「日活新派」と呼ばれており、これに対して国活は、日活で元営業部に所属し、日活と袂を切って独立した小林喜三郎氏が率いる新進の映画会社で、日活をライバル視していました。

日活向島はこの引き抜きの穴を埋めるため、このころ「舞台協会」に所属し、そのころめざましい活躍をしていた嘉子やこのころ新進気鋭の女優で14才だった夏川静江などと契約します。

ちなみに夏川静江はその後清純派女優として成功し、戦後は新東宝映画などの各社の映画にも出演しましたが、その後は主に母親役で、1980年代にいたるまで映画やテレビに活躍した人です。1999年に亡くなっていますが、顔写真を見ると、ああこの人か、と思い出す人も多いと思います。

そして、日活における嘉子の第一回作品が、戯曲「出家とその弟子(倉田百三作)」をベースにした1923年(大正12年)の映画、「髑髏の舞」でした。この当時まだ日本映画はサイレント(無声映画)の時代でしたが、愛欲心理描写を売りにしたこの大作で嘉子は町娘を演じ、映画は大ヒット。映画でも一躍スターとなりました。

嘉子は、この後も舞台協会の主宰する舞台への出演の傍ら、日活向島などの映画会社の映画に出演を続けていましたが、この年(大正12年)の9月1日に関東大震災が勃発。これにより、日活向島が閉鎖してしまい、頼みの綱の舞台でも不入りが続いたため、多額の借金を抱えるようになりました。

このころもまだ嘉子は愛人の山田隆弥と関係を続けており、このころ山田は嘉子に結婚を申し込みましたが、その山田に30歳も上のパトロンの妻がいる事が発覚。この妻と分かれてほしいと嘉子は懇願しますが、山田の煮え切らない態度に悩むようになります。

このころ、山田や嘉子が所属する舞台協会は、日活向島と提携して映画を製作していましたが、嘉子は、この山田とそのパトロン妻へのあてつけのつもりで、日活向島からの次回作における出演を拒否し、日活京都撮影所と契約。

さらに、舞台協会の借金を返済するため、日活京都からその出演料を前借りし借金を返済したため、一座を救うため身を売った「大正お軽」と新聞各紙が騒ぎたてました。

「お軽」とは、江戸時代の浄瑠璃の「仮名手本忠臣蔵」中に出てくるある判官に仕える腰元の名前で、そのストーリーとしては夫のピンチのために祇園の遊女となるというもの。

このお軽という女性は実在の人物だったらしく、夫の窮地を救ったということで江戸庶民の賞賛を得たということですから、嘉子が新聞に騒がれたのも、夫ならぬ愛人の山田のピンチを身を捨てて救ったと解釈されたためであり、必ずしも悪い評価ではなかったものと思われます。

1925年(大正14年)、嘉子は映画「街の手品師」に主演。この映画では、もともと舞台出身だった嘉子が、自らの演技を活かせない監督の村田実にいらだち、監督の細かいカット割りに強く抗議したという逸話が残っています。しかし、出来上がった作品における嘉子の演技は「完璧に達せる」という高い評価を得ます。

この頃、父の武雄は樺太の「樺太民友新聞」に勤めており、樺太庁大泊町で母の八重、そして嘉子の息子と一緒に住んでいたと思われます。しかし、生活は苦しかったらしく、映画で成功したと聞いた父が嘉子を訪ねて京都までやってきました。

映画「街の手品師」で高い評価を得た嘉子でしたが、一本の映画だけでは十分な収入は得られず、そんな折の両親からの無心に対し、「給料の大半は借金返済に回され、身売りした女郎に変わりが無い」と深刻に悩みつつも、これを用立ててやっています。

続く出演映画、「大地は微笑む」は、溝口健二他の監督によるオムニバス形式で、日活、松竹、東亜キネマの三社競作となったメロドラマでした。この当時は大作といわれましたが、嘉子が出演した日活版の評価が最も高い評価を得ました。

このころ、山田隆弥は日活向島と手を切り、東亜キネマの専属になっていました。そしてこの山田の内縁の妻であるというスキャンダルが世間に知られるようになっていたにもかかわらず、「大地は微笑む」での嘉子の演技の評価は高く、この年(大正14年)の映画女優人気投票でトップの座を獲得しました。

この年は結局、計9本の映画に出演することになり、嘉子は文字通り映画界におけるトップ女優としての地位を獲得したのでした。

しかし、そんな中、かつての恋人であり、二人の間に一児を設けた服部義治が突然自らの命を絶つという事件が起こります。山田隆弥と嘉子が愛人関係となったことが公になったことを知ったためといわれ、二人の中を妬んだための自殺といわれています。鉄道自殺でした。

二人の間にできた子供は自分の弟として両親の加護の元にすくすくと成長しており、服部とは完全に縁が切れていると割り切っていたはずの嘉子ですが、その死にはさぞかし心が痛んだことでしょう。

そうした中においても、翌年の1926年(昭和元年)に嘉子は、キネマ旬報ベストテン2位となった「日輪」(村田実監督)他7本の映画に主演。

そして、この年の講演会で「私たち女優をもっと真面目に扱って欲しい」と発言するなど、スターとしての「人権宣言」をした初の女優としてさらに注目を浴びるようになります。

更に翌年の1927年(昭和2年)の映画「彼をめぐる五人の女」でも主演をこなし、この映画もベストテン2位となります。

それまでの奥ゆかしいイメージの日本の女優と異なり、モダンで新しい時代を予感させる奔放なヒロイン像は、その頃から相次ぐ戦争に突入していく暗い世相の日本の中にあって、新鮮な驚きをもって人々の賞賛を得ていくことになります。

しかし、そんなトップ女優としての絶頂期にありながら、生来の自由奔放な性格はまた新たなスキャンダルを引き起こし、それはまた、やがて来るべきトーキー時代の苦闘と極寒ソビエトへの逃避行へとつながっていくのです(続く)。