宮島から五年……


今日6月20日は、我々二人の結婚記念日です。

広島の厳島神社で挙式をあげてから、早5年が経ったわけなのですが、5年といえば、人生50年といわれた昔であればその十分の一。何かと「一時代」として語られることの多いまとまった時の経過であるわけですが、不思議と今日はこれまでのことを思い、何か物思いにふけりたい、という気分でもありません。

はや倦怠期か!?と自分の感情の奥を探ってみるのですが、そういうのでもないらしく、今の生活が満ち足りていないとか、不満があるとかいうのでもなさそうです。

何やら出家した坊さんのような心境であり、過去5年間の記憶が妙に淡く薄いのは、それだけ波風が少ない期間だったのかな……と考えてみるのですが、結婚以降の度重なる引越しや家の売却にまつわる騒動を考えると、けっして平らな道だったわけでもありません。

おそらく、最近ようやく生活が落ち着いてきたので、ちょっと一休みしたいという気分なのだと思うのですが、そんな気持ちに沁み入るような今日のしとしと雨はちょうどよいかんじです。

そういえば5年前の今日の厳島も雨模様でした。せっかくの結婚式なのに雨なんて……とその日の朝には思ったものですが、水にゆかりのある神社での挙式に雨という環境は非常にしっとりとしたものでした。

あまりいいたとえが思い浮かばないのですが、何やら「羊水」に包まれていたというのでしょうか、今思い返してみても妙に心地のよい一日であったという記憶がいまも残っています。

今日の伊豆と同じくあまり気温が高くなかったことも関係しているかもしれません。これで暑くて蒸し暑い一日だったならば、着ていた衣装も分厚かったことからおそらくかなり苦痛な一日だったはず。

それがそうならずに、心地よいと思える記憶となって今も残っているのは、そうした気候のせいでもありますが、やはり我々の結婚式を祝福してくれた大勢の人達のおかげ、そしてあちらの世界で見守っていてくれる方々のおかげでもあったわけであり、改めて感謝の念が沸いてきます。

この先何年生きるか知りませんが、毎年この心地よさを思い出させてくれる「何か」には本当に感謝したいと思います。

さて、そんな結婚記念日に何を書こうかなとさきほどから考えながら言葉遊びを続けているのですが、やはり結婚式にちなんで、宮島こと、厳島について少し綴っておこうかなという気分になりました。

宮島といえば、現在では国内外から年間300万人を超える参拝客及び観光客が訪れているそうで、2011年には、世界最大の旅行クチコミサイト「Trip Advisor」が「外国人に人気の日本の観光スポット」トップ20のうちの第1位であると発表したといいます。

さきごろ登録が決まった富士山と同じく、1996年にユネスコの世界遺産に指定されている文化遺産でもあります。厳島神社の全域とその背後にそびえる弥山の原始林が1996年にユネスコの世界遺産として登録されました。

また、島の海岸の一部は昨年の7月に、ラムサール条約に登録されました。ラムサール条約は、湿地の保存に関する国際条約で、水鳥を食物連鎖の頂点とする湿地の生態系を守る目的で制定されたもの。水鳥の生息地として国際的に重要な湿地として指定されたわけであり、弥山の原始林とも併せて日本でも数少ない希少な自然環境といえます。

なぜこれほど良好な自然が残っているかといえば、その理由は島全体が「神域」として保護され、信仰上の理由から人間活動がほとんど行われてこなかったためです。

その創建は、推古天皇の時代にまでさかのぼり、593年(推古天皇元年)に、このころ厳島に住んでいた豪族の「佐伯鞍職(さえきのくらもと)」により厳島神社が創建されたと伝えられています。この佐伯氏はその後代々の厳島神社の神主家を世襲していくことになります。

島の西側の海岸では、奈良・平安時代の製塩土器が数多く採集されているそうで、この当時から盛んに塩作りが行われていました。青銅製の鏡も見つかっているとのことで、10世紀までにはすでに、祭祀の場になっていた可能性があるとのことです。

現在の威容が構築されたのは、平安時代末期です。1146年(久安2年)、安芸守に任ぜられた平清盛は、父・平忠盛の事業を受け継いで高野山大塔の再建をすすめていましたが、1156年(保元6年)の落慶法要に際し、高野山の高僧に「厳島神社を厚く信奉して社殿を整えれば、必ずや位階を極めるであろう」と進言を受けたといいます。

このころちょうど保元の乱・平治の乱が勃発し、世相は混迷していました。しかしこれらの乱を逆に利用して朝廷内の権力闘争を制した清盛は、正三位というそれまでの武士は手にしたこともなかったような高い官位を得たにもかかわらず、さらに高い官位を得ようと厳島神社の造営を開始しました。

「寝殿造」とよばれ、現在も継承されているこの海上に浮かぶ壮麗な建物は、1168年(仁安3年)に最初に造営されて以来大きく変わっていないといいます。清盛はここに畿内の河内・四天王寺から舞楽の様式を移し入れ、また多くの甲冑や刀剣などの美術工芸品を奉納しました。

これらの工芸品の中でも最も有名なのが、絢爛豪華な装飾を施した平家納経であり、こちらは国宝に指定されています。平家一門がその繁栄を願い、厳島神社に奉納した全30巻からなる経典類であり、当時の工芸を現代に伝える一級史料です。

経典を筆写したのは平家族の清盛・重盛・頼盛・教盛などであり、それぞれ一巻を分担する形で筆写したといい、完成までには3年もかかったといいます。

清盛と平氏一族がこのように厳島を重視した理由は、日宋貿易にあったようです。父の忠盛は舶来品を院に進呈して朝廷の信を得ていたことから、清盛もまた一層の貿易拡大を狙っており、日本最初の人口港である「博多湊(博多港)」や現神戸港の一部でもある大輪田泊を開いて、宋からここへ至る瀬戸内海航路を掌握しようとしました。

「厳島大明神」は宋からの貿易船が畿内へと向かう際、瀬戸内海沿いに沿って東進する際に最初にある海上神社であり、清盛は自らの財でここを整備し、日宋貿易航路の守護神と位置づけることによってその航路もまた自らのものであるとアピールしたかったようです。

こうした清盛の庇護によって厳島には京の雅な文化も導入されるようになり、京の文化人たちもさかんに島を訪れるようになります。

後白河上皇・高倉上皇・建春門院・建礼門院ら皇族や貴族が多く社参したことから、社殿の装飾も京以上にきらびやかなものが施されるようになり、また、宋との貿易に伴い中国人による厳島参詣までも行われるようになりました。

しかし、その後、平家が壇ノ浦の戦いを最後に滅亡すると、時代は源氏が統治を行う鎌倉の世に入っていきます。源氏は、最初のうちは厳島神社を崇敬していたようですが、北条氏の台頭により幕府が執権政治時代に突入すると、北条氏はあまりこれを顧みなかったことから、かつて誇ったその栄華も徐々に衰退していきます。

神主家を世襲していた佐伯氏は、1221年の承久の乱で後鳥羽上皇側についていたために乱後に神主家の座を奪われ、代わって鎌倉幕府の御家人の「藤原親実」が厳島神主家となりました。

承久の乱は、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して討幕の兵を挙げて敗れた兵乱です。武家政権である鎌倉幕府の成立後、京都の公家政権の権力は制限され、幕府が皇位継承などに影響力を持つようになっていましたが、後鳥羽上皇はこれを覆そうとして敗れたのです。

こうして藤原一族による統治となった厳島神社ですが、あまり管理状態はよくなかったようで、1207年(承元元年)と1223年(貞応2年)に火災に遭っています。このとき朝廷の寄進も受けて一応の再建はされたものの、その後も戦国時代にかけての時代は厳島神社の長い歴史において、最も荒廃した時期であったと伝えられています。

ただ、そんな中でも参詣する人は絶えず、秋の大法会などもきらびやかに開かれ続けていたといいます。

とくに安芸や周防の人々は相変わらずこの島を愛し続けており、厳島はこのように地元の信仰の篤い人々によって守られていたことから現在でもこれらの人々によって培われてきた独特の風習が残っています。藤原一族が神社を管理するようになる以前の佐伯氏の時代から伝えられてきたもののようです。

その風習のひとつとしては、「ケガレの忌避」があります。島全体が神域(御神体)とされたため、島民には血や死といった「ケガレ」は絶対回避しなければならない、という風習があり、例えば島に死人が出ると、わざわざ対岸の宮島口にまで渡して葬っていたといいます。

現在の厳島でも、島には一基の墓もなく、墓地もありません。こうした埋葬地は、島の対岸のJR宮島口駅のやや西にあり、ここはその昔「赤崎」と呼ばれていました。ついほんの昔までは死人が出ると、その遺族は喪が明けるまでこの赤崎の地にとどまり、島に戻ることができなかったそうです。

かつて島の人々は「~の向こう」という言い方を避けていたといいます。「向こう」とは、すなわち対岸の赤崎のことであり、このことばを口にすると人に「あの世」を連想させ、これがケガレにつながるというわけです。このため日常の会話でも、わざわざ「~の向こう」の代わりに、「~の前」と言い換えていたそうで、こうした風習は第二次世界大戦頃までも続いていたといいます。

また、島の人は極端に血を嫌います。昔は、女性がお産をするとき、出産が近づくと、対岸に渡って出産したうえ、100日を経てからでないと島に戻れないしきたりであったそうです。

お産には出血が伴います。「婦人、児を産まば、即時に、子母とも舟に乗せて、”地の方”に渡す。血忌、百日終わりて後、島に帰る。血の忌まれ甚だしき故なり」と昔の厳島神主家の宗主が書き記しており、この「地の方」とはすなわち対岸の赤崎のことです。

血を嫌う風習は徹底していて、このほかにも女性は、生理の時期ですら島の神に遠慮したいたようです。生理になった女性は町衆が設けた小屋に隔離されて過ごさせていたといい、こうした小屋は、町から離れた弥山の中腹に設けられ、ここは「あせ山」と呼ばれました。

「あせ山は血山なるべし。島内婦人月経の時、その間己が家を出て此処に避け居たりし」と記録に残っているそうです。

厳島にはこのように血や死人を嫌うという風習がありましたが、このほかにも耕作や機織りを禁止するという風習もありました。

鉄の農具を土に立てることを忌み、耕作は禁じられていましたが、これはおそらく神域である島の土地に鍬を入れることはすなわちそのご神体を傷づけるということにつながると考えられたためでしょう。

また島では、「女神の御神体内」であることを理由に、古来より機織りや布さらしをも禁忌とされていました。ここのところが私にはよく理解できないのですが、これらの仕事もまた神さまの「神職」であることからこれを横取りしてはならない、ということなのでしょうか。

厳島神社の祭神は、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、湍津姫命(たぎつひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)の三人の女神です。

伝承によれば、この三人は素戔男尊(すさのおのみこと)の娘とされており、2羽の神鴉(しんあ、神の遣いのカラス)に導かれて現在厳島神社のある場所に鎮座したといいます。このときから三人が島に「居つく」ようになったため、「神の斎(いつ)く島」の意もあって厳島と呼ぶようになったともいわれています。

このように、島全体が「神」であることから耕作も機織りも許されず、「絶えて五穀を作らず、布織り布さらす事を禁ず」が長い間守られてきましたが、とくに耕作は厳しく禁じられていたそうで、島に生活する人のために対岸から物資を携えた行商人が船を出す光景が第二次世界大戦後まで見られたといいます。

ちなみに厳島の対岸一帯は「廿日市(はつかいち)市」という町になっており、これは「二十日の市」にちなんだものです。鎌倉時代に厳島の人々のために立てられた市場から発展した町であり、その隣には五日市という地区もあります。

前述のように血や死を嫌う島であったにもかかわらず、厳島では一度だけ大規模な戦闘が行われ、多くの血が流され、多数の死人が出たことがあります。

この戦闘は、戦国時代に入り、安芸を本拠に勢力を伸ばしていた毛利氏と、衰退しつつあったものの周防・長門を領有していた大内氏の間で起こったものです。

厳島は清盛の時代から日宋貿易の経路の途中にある重要拠点であり、周防(現山口県)から安芸(現広島県)方面に向かうにあたっては水運の要衝とみなされていました。

周防ではこれより前、天文20年(1551年)に大寧寺の変という乱があり、このとき周防の主であった大内義隆を討って実権を握ったのは陶晴賢でした。

一方安芸の国で勢力を伸ばしていた毛利元就は、それまでは大内氏とどちらかと言えば仲良くやっていましたが、権力者が変わったことにより必然として陶氏と争うようになり、このため厳島の「宮尾」という場所に宮尾城を築きました。

この宮尾城の跡地は現在も残っていて、宮島側にフェリーが発着する桟橋のすぐ近くの高台にあります。行けばすぐわかるのですが、この場所に立つと、宮島海峡全体が見通すことができ、厳島が周防から安芸へ水運を利用する際には、とくにに重要な位置を占めていました。

ここに城を築くことで水運路を行き交いする船を監視することができたわけですが、毛利元就がここに城を築いたのには実はもうひとつ理由がありました。

それは、この島に兵を集めることによって晴賢の関心を引き、厳島に陶軍を誘引するという、いわば囮の役割を持たせることでした。

元就は「今厳島を攻められれば困ると元就が言った」といった類の嘘の情報を流させたりして、たくみに情報を操り、陶軍を厳島におびき寄せようとしましたが、これが効を奏し、まんまと晴賢を厳島に向けて出撃させることに成功します。

晴賢自身が軍を率いて厳島に上陸したのは1555年(天文24年)の10月のころのことであり、岩国付近を出発した時の船団の規模は500艘、兵の数は2万とも3万とも伝えられています。

陶軍は現在の厳島のあるすぐ近くの海岸に上陸し、神社近くの丘の上(塔の岡、現在の千畳敷(豊国神社)がある付近)に本陣を置き、宮尾城を包囲して攻撃を開始。この時、晴賢は城を包囲したもののすぐには攻撃せず数日間を置いていますが、これは易でいう悪日を避けたためといわれており、この攻撃の遅延が陶軍には致命傷になりました。

この毛利と陶の戦いにおいては、兵力の差に大きな隔たりがありました。毛利軍の主力は対岸に位置する草津城(現在の広島県広島市西区)に集結していましたが、兵数は4千から5千程度でした。

この兵力差を埋めるために元就は狭い厳島に陶軍を誘い込んだといわれており、これにより陶軍は大軍を狭い場所に押し込まれる結果となり、身動きの取りにくい状況に追い込まれてしまったのです。

元就は海上での戦いでより確実に勝利を収めるため、傘下の毛利水軍ばかりでなく伊予の村上武吉・村上通康らの伊予水軍にも援軍を求めていたといいますが、この水軍も約300艘を持つにすぎず、陶軍の500艘に比べて劣勢でした。

草津城から本州側の宮島口付近にまで前進してきた毛利軍は、荒天の中、二手に別れて密かに厳島へ向けて舟を漕ぎ出し、元就・隆元父子率いる主力部隊は、敵の陶軍が駐屯する塔の岡とは山をひとつ越えた島の南東側にある「包ヶ浦」に上陸。

この時、元就は上陸に使った舟を島に残さず全て対岸に戻させ、将兵に「後戻りは出来ない」という決死の覚悟をさせたと言われます。こうして島の裏側から陶軍に対して奇襲攻撃を仕掛けようとしたわけですが、問題は深い原始林が生い茂る山の中をどうやって陶軍が居座る場所まで辿りつくかでした。

案の定、元就・隆元父子は闇の中で道に迷ってしまいますが、このとき毛利軍の前に一匹の牡鹿が現れたといいます。この鹿の導きにより、無事に塔の岡へ導いた、と毛利家に伝わる軍記書の「陰徳太平記」には書いてあるそうですが、毛利家に伝わる文書ですから無論のこと、このあたりのことはかなり脚色されているでしょう。

ちょうどこのころ、毛利軍の別動隊である小早川隆景率いる軍隊が、現在の厳島神社への表参道商店街の海側にあたる、有之浦(ありのうら)付近に上陸。こちらは、なんと白昼堂々、宮尾城を包囲していた陶軍の部隊の前を通り、「わしらは援軍じゃけん」と偽って通過し、まんまと宮尾城に立て籠もる味方部隊との合流に成功しています。

この小早川隆景という人は、毛利元就の3男に当たり、毛利家とその一族である吉川家、小早川家の嫡流の1人として、毛利氏の発展に尽くした人です。毛利水軍の指揮官としてその名を馳せ、豊臣政権下では豊臣秀吉の信任を受け文禄年間には五大老の1人に任じられています。

「小早川隆景のある限り、毛利家の政道は乱れまい」とまで言われた実直な人だったといい、豊臣秀吉からは「日ノ本の国は西方は小早川隆景に東方は徳川家康に任せれば安泰」と評され、また「この世に政治ができるのは直江(兼続)と小早川隆景である」とまで言わしめたといいます

少年時代、兄の元春と4人ずつの家臣を従えて5:5の雪合戦をした時、一回目は猛烈に攻めてくる元春に敗れました。

ところが、二戦目は初めのころ3人だけで相手と戦い、不利を装って徐々に後退し、十分に敵を引きつけたところで体力を温存していた残りの2人に側面から攻撃させ勝利を得たという逸話が伝わっており、幼いころからなかなかの策士だったようです。

また、急いで手紙を送る必要があったとき、祐筆に「急用である。ゆっくり落ち着いて書け」と言ったそうで、こうしたユーモアのセンスもあったようです。敵前を悠々と通りすぎて城に入るという芸当をなしとげたのも、そうしたユーモアと機略、胆力がある人物であったからならではのことでしょう。

こうして、陶軍の背後(山側の紅葉谷側)に迫った毛利軍は、城内の小早川軍らと呼応し、未明に一斉に攻撃を仕掛けました。この前夜は暴風雨だったといい、そんなときに敵が仕掛けてくるわけはないいう油断が陶軍にはあったようです。

加えて狭い島内に大軍がひしめいており、とりわけその中心部隊は厳島神社の施設が集中する本殿周辺に集まっていたため思うように進退できず、混乱に陥って戦況の変化に対応できずにいるうちに総崩れとなりました。

陶軍は我先にと島からの脱出をしはじめ、舟を奪い合ったため、沈没したり溺死する者が続出したといいます。大将の晴賢も島外への脱出を図ろうとしますが、既に海上は伊予水軍に制圧されていており、脱出の為の舟も部下の将兵達によって使い切られて無くなっていたそうです。

脱出することもできずに浜沿いに沿って西南方向に逃げますが、厳島神社から5kmほど離れた大江浦まで来たところでとうとう諦め、部下の伊香賀隆正の介錯によって自刃して果てました。それまで付き添ってきた伊香賀ほかの武将たちも刺し違えて自刃。

晴賢に代わって本陣で戦った三浦房清という武将は、最期に30名余りとなるまで奮戦した末に討ち取られたといいます。このほか陶家重鎮だった弘中隆兼・隆助父子は厳島神社裏手の山奥にある大聖院を経て山側まで後退。

弥山沿いの谷を駆け登った後、隣の山の絵馬ヶ岳(現駒ケ林)へ逃げ登り、二日間ここで抗戦したもののやはり討ち死にし、こうして陶軍は全滅しました。

この戦いの4日後、毛利軍は厳島から引き上げて対岸の桜尾城(現在の広島県廿日市市)に凱旋、この時晴賢の首実検も行っています。この首実検の際に元就は、主君の大内氏を討った逆臣であるとして晴賢の首を鞭で3度叩いたといいます。

この戦いでの陶軍の死者は4,700人にのぼったともいわれる壮絶なもので、戦後元就は血で汚れた厳島神社の社殿を洗い流して清めさせ、島内の血が染み込んだ部分の土を削り取らせることまでしたといいます。

これはひとえに厳島全体が厳島神社の神域であったためであり、そこで血を流してしまったことによる神罰をおそれたためでしょう。

これ以後毛利氏は中国地方10か国に加え豊前・伊予をも領有する西国随一の大大名に成長していくことになりますが、もともと厳島神社を崇敬していた元就は神の島を戦場にしたことを恥じ、戦後はこの島の保護・復興につとめました。

現在も美しいままで残る厳島神社の基盤は、この後の元就の社殿大修理によるところも大きいといいます。

このあと、時代は安土桃山の世となり、厳島神社は豊臣秀吉によって管理されるようになります。1587年(天正15年)、すでに関白太政大臣となっていた豊臣秀吉は、多くの戦で亡くなった者の供養のため、厳島に大経堂を建立するよう政僧・安国寺恵瓊に命じており、こうして出来上がったのが、塔の岡に建てられた豊国神社こと、千畳敷です。

柱や梁には非常に太い木材を用い、屋根に金箔瓦をふくなど、秀吉好みの大規模・豪華絢爛な構造物が完成する予定でしたが、秀吉の死により工事が中断され、御神座の上以外は天井が張られることなく終わり、板壁もない未完成のままで今日に伝えられています。

本堂は非常に広く、畳が857畳敷けることから「千畳閣」と通称され、明治の廃仏毀釈のときに厳島神社末社豊国神社本殿となって現在に至っています。

以前のブログで、ここから眺める瀬戸内海の姿が好きだと書きましたが、私の子供のころには現在ほど樹木が茂っておらず、ここからの眺めは本当に素晴らしいものでした。現在は少々木々が景観を邪魔しており、これは早くに伐採してほしいものです。ただ、世界遺産に指定されたこともあり、こうした伐採もままならないのかもしれません。

1868年(明治元年)に神仏分離令が出されると、民衆を巻き込んだ廃仏毀釈運動が激化し、厳島の寺院は主要な7ヶ寺を除いてすべて廃寺となりました。厳島神社や千畳閣などに安置されていた仏像等も寺院へ移されたり、一部が失われたりするなどしています。

1876年(明治8年)、老朽化していた海上の大鳥居が建て替えられ、これが現在の朱の大鳥居になります。

1889年(明治22年)、町村制により厳島町が発足。区域は厳島全島。1923年(大正12年)、厳島は国の史蹟名勝に指定され、以後近代的な保護・整備体制が充実していくようになります。

第二次世界大戦中には、厳島の南沖合いの柱島沖が聯合艦隊の泊地となり、海軍工廠を持つ呉市や、第2総軍・陸軍第5師団司令部が置かれた重要拠点・広島市の防衛上、厳島の周辺海域は重要さを増しましたが、古来からの神域でもあることを理由に大規模な軍事施設が作られることはありませんでした。

ただ、明治年間に、広島湾の防衛の一翼を担うために、島の北東部の鷹ノ巣というところに砲台が作られました。しかし、その後使われることもなく、大正15年に廃止されており、現在その砲座の跡や観測所などの遺構群が残っているそうです。

1945年8月6日の広島市への原子爆弾投下では、爆風により島内の民家の窓ガラスが割れるなどの被害を受けたそうですが、社殿ほかは無事であり、その美しい姿を現在に伝えています。

ただ、老朽化も進んでいたことから1952年(昭和27年)には「昭和の大修理」が行われ、同年竣工。ところが、1991年(平成3年)には、台風19号により厳島神社の左楽房(国宝)や能舞台(国宝)などが倒壊し、甚大な被害が出ました。

この修復には数年かかったようですが、どうにか元通りになり、その甲斐もあってか1996年(平成8年)には世界文化遺産に登録。この年同時に広島市内の原爆ドームも世界遺産に登録されています。

しかし、2004年(平成16年)、ふたたび台風18号により厳島神社左楽房・能舞台・平舞台・高舞台・祓殿・長橋・廻廊などが倒壊・浸水するなどの大規模なダメージを受けます。

我々が結婚式をした2008年には、既に完全に修復は終わっていましたが、近年は回廊などへの浸水がこれまでよりも多くなったといわれ、ややまとまった雨量程度でも浸水の被害が出ており、地球温暖化との関連が指摘されています。

我々の思い出の場所が台風で全壊、なんてことはないと思いたいところですが、形あるものはいつかは滅びるもの。いつかはそういう日もくるかもしれません。が、我々が生きている間にはせめて今のままの美しい姿をとどめて欲しいものです。

富士山は、今後入山料を課すことが決定されたようですが、厳島神社でもお詣りするのに入場料が課されています。それほど高くなかったと思いますが、こうした入場料の積み立て金が万一の際の補修費に使われているのだとすれば、徴収されてもあまり惜しいという気にはなりません。

ただ、過去から頻繁にここを訪れている私などのために、年間パスポートならぬ、生涯パスポートなどでも発行してもらえればありがたい。ましてやここで結婚式を挙げているのですから、一生タダにしてくれる、という制度があってもいいのでは。割引でもいいですが……

……なんてことを書いていると宮島の神様のお怒りを受けるかもしれないので、このくらいでやめておきましょう。

さて、今日から結婚6周年目に突入です。これからさらにあいもかわらぬ一年が過ぎていくのかもしれませんが、できればこのブログもこのまま続けていたいところ。来年の今日のブログは何をネタにしているでしょう。今から考えておくことにしましょう。

雨のちカエル ときどき魚


その昔、最初の結婚をして7~8年目くらいのことだったと思います。会社の仕事が早めに終わったのか、客先の都合で仕事がキャンセルされたためだったのか、理由はよく覚えていないのですが、ともかく都内において半日以上ぽっかりと空白の時間ができました。

会社に帰って仕事をするという気分でもなく、午後は休みという届け出をすれば認めてもらえるような会社でもあり、仕事もそれほど忙しくなかったので、さあこの時間を使って、何をしようかということになったのです。

が、ギャンブルなどは全くしない私はパチンコなども興味がなく、またこのときは博物館や美術館めぐりをする、というほどの元気もなかったので、結局じゃぁ映画でも見るか、ということになりました。

たぶん、新宿だったと思います。早速界隈の映画館に掲げられている表示を見て回ったのですが、何軒か回ったところ、どうもあまり見たい映画があまりありません。またその開始時間も私の都合にぴったりとくるものがなく、いくつかの映画館の前を行ったり来たりしていましたが、なかなか決まりません。

結局、悩んだ末に最終的に選んだのが、「マグノリア」という映画でした。前宣伝でその内容を知っているわけでもなく、どんな映画なのかも知らなかったのに見る気になったのは、ひとえに他に選択肢がなかったというだけのことであり、とくに見たいと思ったわけでもなく、単に暇つぶしのつもりでした。

上映時間が3時間あまりにもなる、というのも暇つぶしにはちょうどいい、と思ったのかもしれません。

ところが、いざ館内に入ってその映画を見始めるや否や、意外にもこれが面白く、その中身にぐいぐいと引き込まれていったのには正直驚きました。

その内容はといえば、死期を迎えた大物プロデューサー、彼と確執のある息子、プロデューサーの妻とその看護人、ガンを宣告されたTV人気司会者、彼に恨みを持つ娘、娘に恋する警官、過去の栄光にすがる元天才少年などなど、ロサンゼルスに住むさまざまな人間たちの24時間を描いたものです。

群像劇のスタイルをとりながら、これらの登場人物が不可思議な糸でつながってゆくというストーリーで、出演者の中には、たしかトム・クルーズもいたと思います。

最初は何を描いているのかさっぱりわかりませんでしたが、最後にタネが明かされ、すべての人がつながる、という最近は良くあるパターンの映画ですが、この当時はこうしたストーリーはなかなか斬新なものがありました。

あまり期待せずに見た映画だけに、終わったあとには、これはもうけものだった、という感覚が残り、またあとあと色々考えさせられる映画でした。

この映画、内容が地味なだけに興行的には伸び悩んだようですが、映画ファンの間ではかなり評価が高いものだったらしく、今でも多くのファンがいるといいます。

見終わったあとに何が残るか、といえば何も教訓めいたものを語らない映画なのですが、なぜか人生とはいったい何ぞや、を考えさせてくれる内容であり、私的にもこれまで色んな映画を見てきた中でかなり印象が大きい映画のひとつです。

私と同じようにご覧になった方もいるかと思いますが、秀逸で面白い、というわけでもなく、ただともかく、不思議な映画……というのは多くのが持つ印象ではないかと思いますし、私もまたしかりです。どこがいいのかといわれれば説明に困るので、これは一度見て頂くしかないでしょう。

ところで、この映画がなぜそれほど印象深いかといえば、その最後の部分では、なんと、カエルが空から降ってくるというシーンがあるためでもあります。

ざんざんぶりの雨の中、カエルが一匹、空中浮遊して降ってきて車のボンネットに当たる、そして次には店の軒先のオーニングの上に、やがて路面に次々と叩きつけられ、町中がカエルであふれかえっていく……という描き方だったと思いますが、このシーンだけは今でも脳裏に焼き付いています。

本当にそんなことがあるのか、と誰しもが疑いの目を向けるでしょうが、実は、このように空から雨ではない物体が降ってくるというのは、世界中で観測されている現象です。

「ファフロツキーズ(Fafrotskies)」と呼ばれていて、FAlls FROm The SKIES」の略です。日本語では「怪雨(かいう)」と訳されていますが、直訳すれば「空からの落下物」という意味になります。

その定義としては、一定範囲に多数の物体が落下する現象のうち、雨・雪・黄砂・隕石のようなよく知られた原因によるものを除く「その場にあるはずのないものが降ってくる」現象を指すのだそうで、命名者は以前このブログでも取り上げた「オーパーツ(OOPARTS)」という言葉の命名でも知られる超常現象研究家さんのようです。

その場にあるはずのないものが無数に降り注ぐ現象を指す現象であり、飛行機からの散布や竜巻による飛来など原因が判明しているものを除き、「何故降ってきたのか解らない」ものが多いようです。

落下物に明確な共通性はなく、様々な事例が記録されているようですが、どうしたわけかカエルや魚といった水棲生物の落下事例が目立ち、また混在ではなく単一種のみであることが多いのが特徴です。

古来から世界各地で確認されていますが、実は、この怪雨は、日本においても古くから知られた現象であり、江戸時代の百科事典、「漢三才図会」にも「怪雨(あやしのあめ)」という記述が出てくるそうです。

出羽国(現・山形県と秋田県)の歴史書「三代実録」における』の記録としても、884年(元慶8年)、秋田城に雷雨があり、このとき、石鏃(せきぞく、矢じりのこと)23枚が降ってきたとの記述があります。

古い時代の人達は、このように空から降ってきたモノが人の手によって作られたというふうには考えず、天空の神々が使用した「天工物」が、雷雨の時に落ちてきたと考えたようです。

が、江戸時代になり、新井白石(江戸時代中期の学者)がこれを初めて人工物であると確認し、その後、木内石亭という同時代の薬学者がこのように人工物が空から降ってくる現象を「怪し雨」と呼び、定説化させたようです。

日本ではこれ以外にも空から色々なものが降ってきたという記録があるみたいですが、記憶に新しいところでは、2009年6月、石川県七尾市などで多数のオタマジャクシが降ったという事件がありました。

当時、周辺地域の大気は安定していて竜巻などによる気象擾乱によるものとは考えにくく、不可解な現象であったことから全国的なニュースとなりましたが、結局原因の特定には至りませんでした。ただ、このときは鳥が吐き出してしまったものが散乱したのではないか、という見解が生物学者から出されたため、その説を多くの人が信じたようです。

前述のアメリカ映画、マグノリアでの「降蛙」のシーンは、1873年、米ミズーリ州カンザスシティで嵐が発生し、この時降ったカエルによって埋め尽くされたという史実などに基づくようです。

アメリカではまた、1901年にも「降蛙」現象があり、この年の7月、今度はミネソタ州ミネアポリスにおいて、カエルとヒキガエルが降り、町の一角がカエルだらけになったといいます。

この時の新聞には次のように記述されていたといいます。

「嵐が最高潮に達したとき、その一角は空から落ちてきたと思しき膨大な緑色の生き物によって埋めつくされ、続いて普通の雨ともヒョウとも違う、パタパタという音が鳴り響いた。

やがて嵐が勢いを弱めるなり、外に出た人々が見たのは、4ブロック以上のエリア一帯が、様々な種類のカエル達によって埋め尽くされるというものだった。カエル達は重なり合い、その深さは厚さ8cmにも及ぶほどで、そのエリアを歩く事はもはや不可能であった。」

このほかの事例としては、以下のようなものがあります。

1841年、米テネシー州レバノンのタバコ農園で血、そして筋肉と脂肪が空から降った。

1861年 シンガポール市内各地で降った魚の雨。

1869年、米カリフォルニア州の農場で3分間に渡って猛烈な血と肉、髪の毛の雨が降った。数エーカーに渡って土地を覆い尽くしたが、髪の毛の一部は6cmもの長さがあった。

1881年、イングランドのウスターにおいて、重さ何トン分にも及ぶヤドカリとタマキビ貝が空から落下した。

1890年、イタリア カラブリア州 メシナディで、引き裂かれた鳥のものと見られる、真っ赤な血の雨が降った。ただし、裏づけとなる鳥の死骸は発見されなかった。

1956年、アメリカ アラバマ州 チラチーで、ナマズ、バス、ブリームといった魚が降った。

1966年、オーストラリアのシドニー北部において巨大な魚が空から飛来し、ある神父の肩にあたった。魚は激しく暴れて地面に落下し、そのまま浸水の激しい道路を泳いで消えた。

1968年8月27日、ブラジルのカカパヴァとサンホゼカンポスにまたがる1kmのエリアにて、およそ5分間に渡って、空から血と生肉が降り注いだ。

1973年、南アフリカで、3つの巨大な石が漁師たちの目の前で湖に落下したほか、小石の雨が降り始めた。石は屋根を突き破って家の中にさえ入った。

1981年5月、ギリシャ ペロポネソス半島 ナフリオンで 60~80gのカエルが町に降ったが、これは北アフリカに生息する種であることが確認された。

1982年~1986年、アメリカ コロラド州 エヴァンスでトウモロコシの粒が数回にわたって降った。

1989年、オーストラリア イプスウィッチで、小雨の中、サーディン約800匹が降り、民家の芝生が覆われた。

2001年7月、インド ケララ州 – 赤みがかかった雨が降った(これは、「ケーララの赤い雨」として有名)。詳しい調査によれば雨には菌類の胞子が含まれていたが、出所は不明だった。

このほかにも事例はあるのですが、キリがないのでこのあたりでやめにします。ともかく、アメリカだけでなく、世界中で起こっている現象ということだけは間違いないようです。

その原因としては、誰をもが竜巻などの気象擾乱によって、海や川、湖の生物が空高く巻き上げられ、遠くに運ばれたのではないかと考えるようです。

実際、竜巻は強い力で周辺の物体を持ち上げ、巻き上げられた物体は時に雲の中の上昇気流に乗り、かなり遠くまで運ばれることがあるようです。海上で発生した竜巻により魚が海水と共に巻き上げられて遠く離れた内陸部へ落下したことが確認された事例もあるということで、最も有力な説のうちの一つです。

しかし竜巻は重量の軽いものを中心に無差別に巻き込む現象なので、巻き上げたものを降らせる時も様々なものを混在させるはずと考えられます。重量や形態によって気流で運ばれている間に「分類」されたのではないか、とする向きもあるようですが、そんなに都合よく仕分けできるわけはありません。

ただ、魚の群れなど同じ種類の物体だけが狭い範囲に多く集まるなどしたとき、その「群れ」の上に発生した竜巻によって魚だけが巻き上げられたとすれば、なんとか説明がつくため、この説を支持する人は多いようです。

このほかの説としては、鳥原因説があります。水棲生物の落下例が多いことから、鳥が捕獲したエサを上空から取りこぼしたのではないかという説です。前述の石川県の例も、結論としては鳥が咥えてきたものではなかったか、というところにとりあえず落ち着きました。

とはいえ、他国の例のように、狭い地点に多数落下するためには、かなり大規模な鳥の群れが一斉に摂餌しなければなりません。また、こうした事例が目撃された場合に、上空に鳥が飛んでいたという目撃情報もないことから、鳥が原因である可能性は高くないと考える人が多いようです。

また空飛ぶものと言えば、飛行機が考えられます。飛行機はしばしば飛行中にその機体に水蒸気の凝固による氷ができることがあるため、これらが塊に成長し剥がれて落下してくるという事例は確認されています。しかし、これと魚やカエルなどの生物を結びつけることはナンセンスです。

空輸中に貨物室が開くなどして積荷を撒いてしまったのではないか、という人もいるようですが、それなら魚などではこれを釣ったり捕獲したときの傷などがみつかりそうなものですが、そうした外傷はみつかっていないようです。

そのほかの説としては、いたずらや錯覚といった、人間がらみのものがあります。

何者かが人為的に落下物を散布したか、錯覚ではないかというわけですが、いくらいたずらといっても、人が大量の魚やカエル、はたまた血や肉をばらまくというのも考えにくいことです。もしそれをやるとしても、わざわざ飛行機やヘリコプターをチャーターしなければならず、お金をかけてまでしてそんな悪ふざけをやる人はいないでしょう。

錯覚説というのは、例えば大量の蛙が集団で発生し、その群が町を横断したとき、これが「突如として現れた」と考え、その原因としては空から降って湧くということしか思いつかず、そのように信じ込んだのではないか、というものです。

これは、実際、蛙が多数落下してきた瞬間をはっきり目撃した証言が少ないことによるようで、上空から降ったなら必ずカエルは潰れているはずですが、そうした潰死体もあまり記録されていないのではないか、と主張する人々がいるからです。

しかし、潰死体が発見されていない、というのはすべての事例に当てはまるわけではないようで、中には潰れてしまった大量のカエルが発見されたという例もあるようです。従って、中には錯覚によるものもあるかもしれませんが、事例の大半はけっして錯覚によるものではないと考えられます。

ほかにもいろんな説があるようですが、こうした説を総合すると、やはり竜巻などによる気象現象に基づくものではないか、というふうに私自身は思います。ただ、インターネットでは過去に起こった実際の現象の科学的なデータを示したものなどを見つけることができなかった点は気になります。

しかし、ある地域で例えば雷雨のような強い風が発生し、小さな旋風や小さな竜巻が発生し、こうした旋風が水上を移動した場合、その通り道にいた魚やカエルを上空に巻き上げたまま風に乗って移動した、というのはいかにも起こりそうな事象であり、実際にはそれに近い現象が起きていると考えるのがごくまっとうな推理でしょう。

血や肉が降った例というのも、かわいそうですが鳥やその他の何等かの獣が竜巻によってズタズタにされたため、と考えれば納得はできそうです。

ただ、前述したように、特定の生物だけをうまく選別して運んでくれるものなのかどうか、というところは疑問点として残ります。カエルや魚と一緒に昆虫やネズミといった他の小さな生物が混入していれば、すんなりと納得できるのでしょうが……

ま、この世には不思議なことはいっぱいあるもの。すべてを科学的に説明しようとしても無理、ということはこのブログでも再三書いてきたことでもあります。

すべてのことには意味がある、とすれば、カエルや魚が空から降ってきたことにはどんな意味があるのだろう、というふうな面から考えてみるのも良いのかも。

もしかしたら、それが降ってきた地域では、生き物を大事にしていない風習があり、それを戒める必要があったから、というふうにも考えることができます。あるいは空からそんなものが降ってくるはずがない、と考える人間のあさはかさを笑うために、神が仕掛けた技というふうに考えるのもまたしかりです。

なんでもかんでも、科学的な説明ができないからといって否定せず、科学や文明の視点からはずれたところで物事を考えてみるというのは、今の時代の人間に最も欠けている部分のように思います。ただ、だからといって、へんな宗教や超常現象オタクや、カルトの世界に入り込んでおかしくなってしまうというのも考えものですが……

さて、今日は梅雨の間とはいいながら、少し天気がよくなりそうなので、これから下田公園で満開といわれているアジサイの撮影に出かけてこようかと思っています。下田方面へは先般のバガテル公園以来になります。

前回は結構いい写真が撮れたので今回も期待したいところ。沼津の御用邸や修禅寺虹の郷のように、すぐ近場でアジサイを見れるところもあるのですが、やはりこの下田の紫陽花は一年に一回は見ておきたい、と思わせるものがあります。

行ってみてかなり見ごろであれば、またみなさんにもお知らせしたいと思います。梅雨空はまだまだ続きそうです。雨の中でも良いという方は今週末にでも出かけてみてください。

ただ、その時、カエルや魚がみなさんの頭の上に降ってこなければいいのですが……

雨の日には……


週中くらいから、ようやく梅雨らしくなってきました。と当時に、気温もぐんぐんと上がり、日中は少し汗ばむほどになってきています。が、ここ伊豆地方ではそれでも、近畿以西のように連日30度を超えるというほどの暑さでもありません。

また、伊豆の中でもここはとくに山の上ということもあり、昨日の日中最高気温は26°と我慢できないほどの暑さではなく、この点、夏が苦手な我々夫婦にとっては本当にありがたいことです。

とはいえ、年中毛皮を着ているネコにとっては多少の気温の上昇もあまり歓迎できるものではないらしく、ウチのテンちゃんも、動きが活発ではありません。

雨のせいもあるのでしょうが、一日ほとんど寝ていることも多く、とくに日中は、フローリングの上にべったりとお腹をくっつけ、まるで敷物のようになって平たくなっています。床板の冷たい感触が気持ちいいのでしょう。

このテンチャンの行動が物語るように、昨日はまったく雨も降らず気温は上がる一方だけだったのですが、今日は朝から結構ざんざんと降っていて、気温もあまり上がらないようで、今日は日がなそんな雨模様の一日になりそうです。

こんななか、雨音を聞きながらうたたねをするのは気持ちのいいもの。今日は日曜日ということもあり、朝早くから起きたものの、この雨音が子守唄になったのか、食事後いつのまにか絨毯の上に突っ伏して朝寝をしてしまいました。

さて、このそぼ降る雨ですが、雨滴(うてき)とも書き、こう書くとなるほど音を立てて降るさまが目に浮かびます。雨水が軒などから落ちる様子も「雨垂れ」といいますが、雨だれが落ちて打ち当るところは、雨垂落(あまだれおち)ともいい、雨ひとつとってもいろいろな表現があるものです。

こうした文学的な表現以外にも、日本語では雨の強さや降り方によっていろんな呼び方があります。

霧雨はご存知のように細かい雨であり、気象学的には雨粒の大きさが0.5mm未満の雨だそうです。小糠雨(こぬかあめ、糠雨)は、さらに細かく、まるで糠のように非常に細かい雨粒が、音を立てずに静かに降るさまをいいます。

弱い雨ではこのほかにもあまり使いませんが、「細雨(さいう)」とうのがあり、これはあまり強くない雨がしとしとと降り続くことをいいます。

ご存知、小雨(こさめ)は、弱い雨です。あまり粒の大きくない雨が、それほど長くない時間降って止む雨ですが、微雨というのもあります。「びう」と読み日常用語としてはあまり使われませんが、これは急に降り出すものの、あまり強くなくすぐに止み、濡れてもすぐ乾く程度の雨のことです。

このほか、必ずしも雨によるものではありませんが、濃霧の時、森林の中で霧の微小な水滴が枝葉につき、大粒の水滴となって雨のように降り落ちる現象が見られ、これは樹雨(きさめ、きあめ)というそうです。冬に雪が樹木にまとわりついてできる「樹氷」と似た現象といえるでしょう。

これらの弱い雨より少し雨脚が強くなったものの中には、例えば時雨(しぐれ)があります。あまり強くないけれども、降ったり止んだりする雨のことであり、これは夏の間に降る俄雨(にわかあめ)とは異なり、晩秋から初冬にかけてよく降る雨のことをさすようです。

秋晴れの日などに、晴れていたかと思うとサアーッと降り、傘をさす間もなく青空が戻ってくるような通り雨がしぐれです。

一方、俄雨というのは、その名のとおり降りだしてすぐに止む雨のことで、降ったり止んだり、強さの変化が激しい雨のことです。こちらは夏の雨であり、夕方になって入道雲が発達したときなどにワーッと降ります。夏の日の夕方、晴れているのに降ることも多いため、狐の嫁入り、天照雨などと呼ばれることも多い雨です。

俄雨は、地方によっては「肘かさ雨(ひじかさあめ)」というところもあり、また気象学などの専門用語では「驟雨(しゅうう)」と呼ばれることもあります。

このほか、俄雨に似ていますが、「地雨」というのもあります。これはあまり強くない雨が広範囲に一様に降る状態をいいます。俄雨に対して、もっとしとしと降り続くといった感じの雨で、俄雨のように、降る勢いが急激に変化するようなことはありません。

さらに同じ俄雨でも、降りだしてすぐに止んでしまうような、気まぐれな雨のことを「村雨」といいます。群雨、業雨などとも書き、読んで字のごとし「群」や「業」は気まぐれを指す漢字です。

村時雨(むらしぐれ)という村雨もあって、これはひとしきり強く降っては通り過ぎて行く雨です。降り方によってさらに細かい分類ができ、片時雨、横時雨などともいい、片時雨とはひとところに降る村時雨であり、横時雨というのは、横殴りに降る村時雨のことです。

また、村雨は降る時間帯によって朝時雨、夕時雨、小夜時雨といった分け方もします。この村雨については、最近ではほとんど聞くことがなくなりました。ましてや片時雨とか、小夜時雨などのさらに細かい分類表現は全くといっていいほど使いません。

それだけ、日本人の風情がなくなってしまったのかなという気がします。我々が子供のころにはまだまだ農村風景が至るところに広がっており、こうした微妙なお天気表現も通用しうる環境が残っていました。しかし、今はどこもかしこもコンクリートやアスファルトばかりの都会になってしまって、「村雨」などと言う表現もどうもしっくりときません。

とはいいながら、「涙雨」といった感情表現的な雨の呼称は残っていて、これは本来は涙のようにほんの少しだけ降る雨のことです。悲しいときや嬉しいときなど、感情の変化を表現する場合にも用いることも多く、これは日本各地が都会化しようがどうしようが関係ないことから生き残った雨用語といえるでしょう。

このほか、日本の風土の変化に関係なく生き残っている雨表現としては、「通り雨」があり、これは雨雲がすぐ通り過ぎてしまい、降りだしてすぐに止む雨のことです。「スコール」という場合もあり、こちらはどちらかといえば通り雨よりも激しいイメージ。

短時間に猛烈な雨が降る様子であり、近年では「ゲリラ豪雨」なんてのもスコールの一種として普通に使われるようになりましたが、スコールというのは本来は、東南アジアなどの熱帯地方で雨を伴ってやってくる突然の強風に由来する雨のことをさします。

このほかにも天気予報用語としては、大雨、豪雨、雷雨、風雨、長雨などなどがあり、こうしてみると、日本には本当にいろんな雨の表現があるなぁと感心してしまいます。

四季の移ろいがはっきりしていて、それぞれの季節での季節感を表すもののひとつが雨であり、ほかにも風や雲や緑にも多彩な表現ができ、こうした環境に育まれてきたからこそ、日本人独特の細やかな感情表現が培われてきたのだといえます。

ところで、雨粒というのは、3mm以上のものはないのだそうです。日本を含む温帯地方の雨の水滴の大きさは、通常0.1~3mm程度だそうで、日本の上空の気象条件下では3mm程度以上の大きさの雨粒は途中で分解してしまうことが多いためです。

また、0.1mm以下の雨粒は雲の中の上昇気流によって落ちなかったり、落下中に蒸発してしまい、消えてしまうことが多く、このため、日本の大地に降る雨は、0.1~3mm程度に規定されるのだとか。

これに対して、熱帯地方の雨の水滴の大きさは、小さい雨が少なく温帯よりも大きいといいます。が、それでも3mmを大きく超えるような雨は降らないといい、これは雨粒の形状などの物理的な要因が原因です。

普段我々が目にする雨粒は、空調メーカーのダイキンのマスコットの「ぴちょん君」のような涙滴形だと思っている人が多いようですが、これは間違いです。空気中を落下するときの実際の形は、雨粒が小さい場合は球の形をしているものの、雨粒が大きくなると、落下するときに空気に触れる下の面がやや平らになり、下が平らになった球の形になります。

平らなまんじゅうの形ともいえ、雨の形といえば涙滴と勘違いしている人が多いのは、木の葉の先などから露が落ちるときや、窓ガラスを伝う水滴が涙形をしているためでしょう。

この雨の形が「まんじゅう形」であるのを世界で初めて発見したのは日本人だそうで、1951年に北海道大学の孫野長治という博士が空中を落下する雨粒の写真撮影に世界で初めて成功しました。

実際の写真などをみると、まんじゅう形とはいうのですが、もう少しふっくらしていて、ちょうどお正月に供える平べったい鏡餅の形状と、これを網であぶって膨らませたときに風船のような形の中間ぐらいの形をしています。

大きなものは、風呂敷の四隅を縛って下でくくったような形になり、この場合は落下の際の空気抵抗のため、雨粒はお椀を伏せたようになり、中身はほとんど空洞のような状態で落下していきます。

雨粒の落下速度も雨粒の大きさによって変わり、小さい粒は空気抵抗によって遅くなりますが、大きな粒でもおおよそ毎秒9m程度にすぎないため、この程度ならば当然怪我をすることなどありえません。

が、一方では雨水は大部分が水とはいうものの、微量の有機物、無機物、特に重金属類を含んでおり、ときにこの化学成分が悪さをします。

これらの不純物は雲が発生する際、あるいは雨となって地上に落ちてくる際に、周囲の空気や地上の土壌から舞い上がった粒子を集めてくるために雨に含まれることになります。

通常でも雨水は大気中の二酸化炭素を吸収しているため、pH(水素イオン指数)は5.6とやや酸性を示しますが、亜硫酸ガスなどを大気中から取り込み、強い酸性を示すものもあり、日本では目安として、 pHが5.6以下の強酸性のものを「酸性雨」と呼んでいます。

近年、世界的な大気の汚染により、酸性雨による影響が懸念されていますが、その問題の大きなものとしては、湖沼を酸性化し、魚類の生育を脅かしたり、土壌を酸性化させて、植物の生存を脅かしたりするといったことがあげられます。

溶け出した金属イオン(特にアルミニウムイオン)が河川に流入することで、水系の動物に被害を与えることも増えています。

酸性雨による植物の枯死、樹木の立ち枯れはとくにヨーロッパ・北米を中心に深刻であり、とくにドイツのシュヴァルツヴァルトなどが、酸性雨被害を受けた森として有名です。

一説によると、西ドイツの森林の半分以上が酸性雨による被害を受けているといわれており、その被害のさまからヨーロッパでは酸性雨のことを「緑のペスト」とまで呼んでいるそうです。

また、近年酸性雨による被害が著しいと報告されている中国でも酸性雨のことを「空中鬼」と呼んでいるそうで、中国国務院の全国一斉酸雨による土壌影響調査では、ph5.6以下の省、直轄市、自治区は20に上り、また、2400余の観測地点のうち1,000カ所以上から酸性雨が記録されたといいます。

日本でも、群馬県赤城山、神奈川県丹沢山地などでの森林の立ち枯れが進んでいるのが確認されており、屋外にある銅像や歴史的建造物を溶かすなど、文化財にも被害が出始めているということです。

酸性雨は、鉄筋コンクリート構造の建物、橋梁などに用いられる鉄筋の腐食をも進行させるため、戦後の高成長期から50年以上も経た老朽インフラが多い我が国では今後ともこの酸性雨対策が深刻となっていきそうです。

しかし、酸性傾向が強かろうが弱かろうが、一般的には雨自体に臭いはありません。ただ、長い間雨が降らなかったときなどに、地面に降った雨によって独特な臭いが出ることがあります。

おそらく誰しもが経験したことがあると思うのですが、長い間雨が降らずに乾燥した地面に突然雨が降ってきたときに、生臭~いというか、草の匂いでもない、なんともいえない臭いを嗅いだことはないでしょうか。

あぁこれがいわゆる土の臭いか、と納得したりするのですが、これは、地表の特定の植物から生じた油が、地面が乾燥している時に粘土質の土壌や岩石の表面に吸着し、雨が降ったときに、これが土壌や岩石から放出されることによる独特の匂いであって、「ペトリコール」と呼ばれています。

このほか、雷によって発生するオゾンや土壌中の細菌が出すゲオスミンもこうした臭いの原因だといわれており、これとペトリコールが合わさって、雨が降るときに独特の臭いが発生するのです。ペトリコールということば自体は、発見者のオーストラリア人の鉱物学者による造語だということです。

別の科学者は、このペトリコール油が植物の種子の発芽と初期の生育を遅らせる性質があることを発見しており、現在ではこれは植物が成長するのに厳しい環境において種子の発芽を防ぐために発散させると考えられているそうです。

そういう臭いがするような場所はあまりいい環境じゃぁないから、芽を出さない方がいいよ、という植物からのメッセージということになるのではないかと思われます。

ゲオスミンのほうも、地下水が少なく、水の供給を表流水に頼っている地域ではこの物質がその水源に放出されると、急にその水がまずくなるそうです。またコイやナマズなど水底に住む淡水魚が持つ泥臭いにおいのもととなるのもこのゲオスミンだそうです。

従って、雨が降ったときに、地面からこうした泥臭いようなヘンな臭いがする場所というのはそもそもあまりきれいな場所ではない、ということになるようです。

酸性化にせよ、ペトリコールやゲオスミンにせよ、植物や生物の生息・生育にとって悪しき環境が増えていることをこのような形で「雨」が教えてくれている、あるいは警告してくれているのだと考えると、自然の摂理というのはなるほど生き物に優しくできているのだな、と改めて感心してしまいます。

とりわけ日本人にとって雨とは、その生活においてなくてはならないものです。日本は温暖湿潤気候に属し国土における山地の割合が多いため雨が多く、また生業においても歴史的に水田稲作や林業をはじめとする山の生業に広く依存しています。

他方、大雨は河川を増水させ洪水被害を及ぼすなど厄災を及ぼすことも多く、治山・治水を強いられてきたともいえますが、それゆえにその方面の土木技術は欧米と比べても格段に発達しており、これらの技術をODA(海外開発援助)などで諸外国に提供しているだけでなく、産業として海外へ輸出しているほどです。

渇水の多い地域では雨乞い習俗が発生し、これは山の神と関係した民俗として発展しました。季節を感じさせるものとして四季それぞれの雨に対する感性が育まれるようになり、古来より雨は多くの文学や芸術のモチーフとして叙情的に描かれてきました。

江戸時代の浮世絵版画においては歌川広重が交差する線の表現など多様な雨の表現を開拓しており、日本の文化の原点であると評価する人もいます。

ただ、雨の概念や雨に対する考え方は、どちらかといえば暗いイメージがあり、これはやはり雨による災害によって多くの被害を受けてきた歴史があるからでしょう。

雨が少ないアフリカや中東、中央アジアの乾燥地帯などでは、雨が楽しいイメージ、喜ばしいものとして捉えられることが多く、雨が歓迎される日本のような地域とはまた違った文化を持っているといえます。

四季の移ろいがなければ、またその四季折々に降る雨がなければ、今のような日本文化は育っていなかったに違いありません。

そう考えると、うっとうしいはずのこの雨の季節もまたよしとしよう、という気になってくるから不思議です。雨の降る日にはまた雨の日に似合った行動をすればいい……ということで、今日はこれから何をして過ごそうかなと考え始めています。

雨の日には野外活動はあまりする気にはなりません。で、あるならばやはり映画鑑賞、読書といったところでしょうか。伊豆にはあちこちに博物館やら記念館、民間の室内娯楽施設があるので、そうしたところをはしごするのもまた楽しいかもしれません。

皆さんの週末はいかがでしょう。雨の中のお散歩ですか……それもまた良いかもしれません。雨に濡れたアジサイも風情があるものです。

そういえば下田のアジサイも気になり始めています。来週にでもまた出かけてみましょう。沼津御用邸のアジサイも気になります。そういえば虹の郷のアジサイも……

ということで、来週はアジサイ三昧の一週間になるかも。なので、今日のような雨の日はそれに備え、一日寝て過ごすというのもまた良いかもしれません……

目にホタル……


カツオがおいしい季節になりました。

スーパーに行くと、脂の乗ったカツオがかなりリーズナブルな値段で売りに出されていて、思わず涎が出てしまいます。が、実はタエさんがこのカツオがダメで生臭く感じるらしく、ニンニクスライスなどと一緒にならばなんとかいけるという程度です。

なので、半身であっても一人で食べるのには少々大きすぎることもあり、なかなか我が家の食卓に上がる機会がありません。かつ節は食べれるのに、なぜカツオがダメなのかよくわかりませんが、人にはそれぞれ苦手なものがあるもの。

かくいう私もあまり生のトマトは好きではないのですが、トマト味のパスタとかトマトスープは美味しくいただけます。タエさんは生のトマト大好き人間なので、今度一度、生トマトと生カツオを合わせたマリネなど作ってみようかと思いますがどんなもんでしょう。

ところで、カツオといえば、”目には青葉 山ほととぎす 初鰹” という句が有名です。江戸初期の俳人、山口素堂が詠んだ歌です。

山口素堂は江戸初期の人で、甲斐国巨摩郡(現北杜市の白州町)で家業を酒造業とする家庭に生まれています。20歳頃に家業を弟に譲り江戸に出て漢学を学んだといいますから、家業から仕送りがあり、お金には困らなかったのでしょう。その後、俳諧をたしなむようになり、30歳を過ぎたころには京都で和歌や茶道、書道なども修めています。

翌延宝3年(1675年)ころには上野不忍池や葛飾に住むようになり、このころ松尾芭蕉とも知り合っています。芭蕉より2歳ほど年上でしたが、門弟関係ではなく相互に信頼しあって兄弟のような交わりをしていたようです。

漢詩文の素養が深く中国の隠者文芸の影響を受けていたといい、仲の良かった松尾芭蕉の「蕉風俳諧」の確立にも大きく寄与したといわれています。

江戸に最初に出たころには仕官したこともあったといい、役人としての気質にも恵まれていたのでしょう。その後、元禄8年(1695年)には甲斐を旅したおりには、甲府の代官から「濁川」の開削について依頼され、山口堤と呼ばれる堤防を築いたという伝承があるようです。

芭蕉ほど有名でもなく、あまり逸話も残っていませんが、多才な趣味を持つ教養人だったということで、蓮を好んだことから晩年は「蓮池翁」などと呼ばれていました。 延宝4年(1676年)には「江戸両吟集」を、延宝6年(1678年)には「江戸三吟」を芭蕉との合作で発表。

“目には青葉山ほととぎす 初鰹” の句は、延宝6年(1678年)の「江戸新道(えどしんみち)」という江戸でも人気だった句集に収録され、広く知られるようになりました。享保元年8月15日(1716年)、75歳で死去。

この句の「目には青葉」は6文字で、なぜか「は」が入っています。「は」を入れて字余りにしない方が区切りよく、テンポよく詠みやすいと思うのですが、なぜここだけ「は」を入れたのかは俳句に詳しくない私にはよくわかりません。

まあ、ほかの俳人、とくに種田山頭火の句などをみても、字余りどころから五七五の基本構成すら完全に無視しているものも多く、あまり気にせずその場の風情を詠めれば素直に良い句になるといいますから、これはこれで良いのでしょう。

それよりも、最初が青葉で、二番目がホトトギス、三番目がカツオというこの順番のほうが意味があるのかな、と思ったりしてこちらのほうが気になります。

青葉はどこにでもあるものですから、すぐに目にすることができます。一方、「山ほととぎす」は、この「山」を入れているということは、山奥でホーホケキョーと鳴いているのをふと耳にした風情を表しているのだと思います(ホトトギスの鳴き声って、ホーホケキョじゃないですよね。なんでしたっけ)。

つまり声は聞こえるけれども、なかなか目にすることはできない、青葉に比べると、どちらかといえば「手に入りにくい」風情です。

そして、「初鰹」。これはおそらくこの当時最も手に入りにくいものであり、これを山口素堂は一番強調したくて順番の一番最後に持ってきたのではないかと思うのですがどうでしょう。

調べてみると、確かに、初鰹は、この当時の庶民の手には入りにくいものだったようです。とくに江戸においてはその人気のために常に品不足だったらしく、このため初鰹志向が過熱し、「女房子供を質に出してでも食え」と言われたぐらいです。

このように初鰹が珍重されるようになった理由としては、江戸よりもさらに前の室町時代末期のある夏に小田原でおきた出来事が原因といわれます。

このころ、伊豆国・相模国を平定した北条早雲の後を継いで、小田原などの地を領していた早雲の嫡男、北条氏綱はさらに領土を拡大させるべく房総進出を狙っていました。

この野望は京都の室町幕府と対立する古河公方の利害と一致するものであり、同じく関東一円をわが物にしたいこの当時古河公方、足利晴氏は氏綱に対し、関東地方で勢力を持っていた安房の里見義堯らの追討を命じました。

そんな不穏な空気の中のこと、北条氏綱がある日小田原沖でカツオ釣りを見物していたところ、 一尾のカツオが跳ねて船の中に飛び込んできました。

これをみた氏綱は、「戦に勝つ魚(かつうお)が舞い込んだ」とその吉兆を喜びましたが、その後天文7年(1538年)、見事、武州や安房の兵と戦って大勝利をあげ、武蔵南部から下総にかけて勢力を拡大することに成功したのです。

この時から、鰹は縁起の良い魚とされるようになりました。その後の江戸っ子が縁起物として初鰹を珍重するようになったのは、こうした逸話が素因になっているようです。

カツオは、夏に黒潮と親潮とがぶつかる三陸海岸沖辺りまで北上し、この際に日本の沿岸で漁獲されるものですが、年によっては黒潮が大きく太平洋側に蛇行し、カツオ漁が不漁になってしまう年もあります。

こうした年が続いたときにはとくにカツオの値段は高値となった時期がありました。江戸中期にもそういう年が何年かあり、ある年には魚河岸に入った初鰹は17本しかなかったそうです。

この鰹のうち、6本は将軍家へ献上され、残りを高級料理屋の八百膳と魚屋が引き取り、そのうち一本を歌舞伎役者・中村歌右衛門が一本三両で購入したという記録が残っています。

一両は現在の3~50万円ぐらいだと考えられますから、現代でも給料一カ月分くらいの値段であり、この当時ではさらに最下級の武士の一年分ほどの給料に相当するとも言われる額です。

こうした不漁の年は無論のことですが、通常でも初鰹は人気があり、庶民の手には入りにくい高嶺の花だったわけです。このため、素堂の「目には青葉…」がひとしきり流行ったあと、初鰹を題材とした川柳が数多く作られており、例えば「目と耳はタダだが口は銭がいり」というのもそのひとつです。

山口素堂は、俳人としてはそこそこ有名でしたが、特に資産家でもなかったようですので、初鰹はやはり高嶺の花であったはずです。そう考えると、この句も青葉を眺めつつホトトギスの声を耳にしながら、「はっ、初鰹が食いたぁ~い」という切望を込めて詠まれたものではなかったかとも思えるのです。みなさんの解釈はいかがでしょうか……

さて、そんなカツオですが、マグロと混同している人も実は多いのではないでしょうか。確かに似てはいるのですが、見た目や味はかなり異なり、どちらかといえばカツオのほうが生臭いと感じる人が多いようであり、我が愛妻もどうやらその一人のようです。

生物学的にみると、このカツオとマグロは、同じ「ツナ」に属する魚のようです。ツナとえば、「ツナ缶」に代表されるように、マグロの英語表記と思っている人が多いようですが、これは間違いです。

ツナ(英語: tuna)は、学術的にはマグロやカツオ等を含む広い範囲の魚を指す用語です。マグロ属とカツオ属を含み、ズキ目サバ科に属する魚全部を「Thunnini」と呼び、これを日本語では「ツナ」と称するようになったものです。ツナには、カツオやマグロを含む5属があり、全部で14 ~15種類の魚がいます。

マグロとカツオの関係を分かりやすく例えるならば、共通の先祖を持っているが身体的特徴が大きく異なる「犬」と「猫」の関係に似ているといえます。学術的に同一視される場合があるものの、ツナとカツオは全く異なる生物といってよいようです。

また、カツオは、マグロと同じくスズキ目・サバ科に属し、「カツオ属」に分類されますが、1種のみしかいません。これに対して、マグロもスズキ目・サバ科ですが、「マグロ属」に分類され、クロマグロ、タイセイヨウクロマグロ、ミナミマグロ、ビンナガ、キハダ、コシナガ、タイセイヨウマグロ、など8種類もいます。

カツオにはbonito(ボニート)という正式な英語訳があり、名詞的意味でもマグロとは異なるもの、ということになります。

大型のものは全長1 mもあり、体重18 kgほどになるものもいるといいます。が、普通我々が食することが多いのは全長50 cm程度以下のものです。食性は肉食性で、魚、甲殻類、頭足類など小動物を幅広く捕食するそうです。

日本では太平洋側に多く、日本海側で釣れることはめったにありません。摂氏19~23度程度の暖かい海を好み、南洋では一年中見られるそうですが、日本近海では黒潮に沿って春に北上し、逆に秋になると南下するという季節的な回遊を行うことで知られています。

夏に黒潮と親潮とがぶつかる三陸海岸沖辺りまで北上するカツオは、日本人にとっては夏の到来を告げる風物詩であり、その年初めてのカツオの水揚げを「初鰹」と呼んで珍重されるのは、江戸時代からの名残です。

この時期の鰹は脂が乗っていないためさっぱりとしており、この味を好む人も多いようです。これより早い3月初旬の頃に上ってくるものもいるようですが、型が揃わず淡泊なので比較的安価に手に入ります。しかし、夏が近づくにつれて釣れるものは脂が乗りだし、だんだんと高値になっていきます。

「初鰹」をいつにするかについては、地方の港によって異なるようです。が、食品業界の一般常識としては、最も漁獲高の大きい高知県の初鰹の時期をもって毎年の「初鰹」とするそうであり、多くの消費者もそう考えているようです。

これに対し、秋に親潮の勢力が強くなると南下する、カツオは「戻り鰹」と呼ばれます。低い海水温の影響で脂が乗っており、北上時とはまた異なる食味となります。戻り鰹の時期もまた港によってずれがあり、北の地方では夏の終わりごろには既に戻り鰹が収穫され、逆に南の地方ではかなり晩秋に近いころになって出回ります。

が、一般的には戻り鰹といえば、サンマと同じく秋の味として受け入れられているようです。

船団の母港がある静岡県および鹿児島県が漁獲高の大半を占めますが、南洋での遠洋漁業では1年を通して漁が行われ、この多くは巻き網と呼ばれる漁法で漁獲されます。漁獲後、冷凍されて日本まで運ばれて水揚げされ、鰹節や生利節の原料になりますが、この鰹節の産地としては高知県やここ静岡県が有名です。

この「鰹節」の歴史は結構古く、紀元400年代頃の古墳文化時代には、既に「堅魚(干しカツオ)」が造られ、堅魚を煮だした「煎汁(いろり)」などが料理として出されていたといいます。

701年に大宝律令、賦役令により「堅魚」、「煮堅魚」、「堅魚煎汁」、が重要貢納品と指定されており、このころ伊豆、志摩、駿河、紀伊、土佐などでカツオが盛んに漁獲されていたという記録が残っています。

「堅魚」とはカツオを干し固めた物ですが、「煮堅魚」とは、カツオを一度煮てから干し堅めた物、また「堅魚煎汁」とは、煮汁をさらに煮詰めて調味料とした物です。現在味噌汁などに使う顆粒状の「かつおだし」の原点のようなものでしょうか。

平安時代や鎌倉時代には、堅魚煮汁がもっとも重要視されたといい、この頃から既に料理に使う調味料としてなくてはならない物になっていたようです。

現在のような鰹節が造られるようになるのは、室町時代に入ってからになります。1489年(延徳元年)の「四条流包丁書」という書物の中にすでに「花鰹」の文字があるそうです。これは、鰹節を削った物だと思われます。

しかし今みたいにカビのついた鰹節ではなく堅めのなまり節みたいな物だったようで、堅魚をワラなどで燻(いぶ)してからワラや麻など吊るし乾かした物だそうです。このころから単に鰹を干し固めるだけでなく、燻乾する技法が定着していくようになります。

しかし、カツオを燻し固めたものが、さらに現在の「荒節」といわれるようなより痛みにくい形になるのは、江戸時代に入ってからになります。

それまで造られていた鰹節は干して燻してあったとはいえ、まだまだ柔らかく半生であったため、長く日持せず遠くまで運ぶのに適していませんでした。江戸時代に入ると、この鰹節の改良が進んで行きます。

それまでのワラなどを使った燻乾法から木(クヌギ、樫)を使った燻乾法が考え出されます。初めて考え造り上げたのは、紀州印南(和歌山県熊野印南浦)の「甚太郎」という漁師だったといわれています。

これが現在のような「荒節」の元祖であり、現在の固乾法の製造の基本となっていきました。甚太郎により考えだされたマキを使った燻乾製法は、秘伝とされていましたが、2代目甚太郎により土佐清水浦に伝えられて行きます。しかし、この燻乾法はこの浦の掟として長年紀州と土佐以外の他国には、教えられませんでした。

土佐では、この燻乾法で固めた鰹節がさらに改良されて行きます。鰹節の腐敗防止と中に閉じ込められている水分を吸い出し日持ちさせるため、あらかじめカビを付ける方法が考えだされます。

初めてカビ付けをした鰹節を造り上げたのは土佐清水浦の佐之助という人物であり、ここにカビを付けて仕上げた「仕上げ節」が誕生することになります。この後、このカビ付けをした改良節は高い評価を受け、江戸時代後期から明治時代になると土佐、薩摩、伊豆節が3代名産品として全国に広まって行くようになりました。

このうちの伊豆節は、土佐節をさらに改良し燻乾に時間をかけ、カビ付けも4回以上行い造り上げていったものであり、これは「本枯節」と呼ばれ、明治時代の末までには鰹節製法は、この本枯節が主流となっていきました。

この「伊豆節」の発祥の地は、西伊豆の堂ヶ島のやや北にある「田子地区」といわれている場所です。田子漁港といわれる小さな漁港がありますが、ここは、かつて伊豆水軍が根拠地としていた場所のひとつといわれています。

江戸時代末期にこの地の職人たちは、伊豆節は、紀州、土佐、薩摩節などの他のライバルに追いつけ追い越せの独自の改良を続けていたようです。が、1801年(寛政13年)、ここに土佐節の製造法を伝えた人物がいました。「土佐の与市」という人だったそうで、もともと紀州印南浦の漁師で伊豆に来る前は安房の千倉で土佐節を教えていたようです。

田子に来た与一は隣村の安良里で3年間鰹節製造法を指導し、この時、従来の伊豆節の燻乾法がかなり改良されたそうです。与一が教えたのは、オリジナルの土佐節の製造方法を改良したものだったそうですが、田子地区の人たちはこれをさらに改良し、かび付けを何度も繰り返して鰹節を乾かす方法を考案します。

こうして鰹節の改良が進んで行きます。この結果、従来品よりもさらに長期にわたり保存がきくようになり、こうして編み出された「手火山式燻乾法」では、カツオの本来の味を鰹節の中に閉じ込め、味を凝縮させることができるようになりました。

この「手火山式燻乾法」を使った改良節は、伊豆全体に広まって行き、その後土佐、薩摩節と並び江戸時代には3代名産品と呼ばれるまでになっていったのです。

その後この田子伊豆節の製法は土佐の与市がかつて指導を行った安房の職人にも伝えられ、これ以外の国々にも伝えられるようになっていきました。

伊豆節の発祥の地である田子地区でも、明治から昭和にかけて漁業を中心とした鰹節加工業が栄え、昭和初期には、40艘もの鰹漁船と40軒もの鰹節製造店があったといいます。伊豆節の中でも特に高い評価を受けていた伊豆田子節は、主にご贈答用として、お祝いの席に多く使われていたそうです。

ところが、昭和時代のオイルショックや200海里問題などが、この地の鰹漁業の衰退を引き起こすきっかっけとなります。さらに漁船の老朽化、漁法の変化、船の大型化などに伴い、田子地区から鰹漁船は徐々に姿を消して行き、と同時に鰹節製造者も同様に少なくなってしまいました。

平成の現在、田子地区の鰹節製造店は、わずか4軒となっています。しかし、土佐の与市から教えられた製法と、伝統製法の「手火山式燻乾法」を今も、守り続けて現在にいたっているそうです。

この田子地区では、現在、「潮鰹(しおかつお)」という鰹を独自の保存法で保存したものをもとに新たな地域活性化を図ろうとしています。

もともとこの地で航海の安全と豊漁豊作を祈願し、神棚などにカツオの塩漬けを干して、ワラでお飾りを付けていたもので、伊豆独特の季節風を利用し11月から1月の上旬までの限定期間に製造していたようです。

地元ではお正月の期間に限っての旬の食べ物として味わわれていたようですが、これを冷蔵保存するなどして、販売を始めたところなかなかの好調のようです。

昨年10月に北九州で行われたB級グルメの祭典、「B-1グランプリ」には「西伊豆しおかつおうどん」として出典されており、なかなか好評だったようで、田子地区にはその評判を聞きつけてか、テレビの取材なども何度か来ているようです。

「西伊豆しおかつお研究会」なるものも立ちあげられ、田子地区や堂ヶ島、松崎や土肥といった西伊豆地区を中心とした町の食事どころで、いろんな他の潮かつおレシピも考案されメニューとして出されています。

私はまだ一度も食べたことがないのですが、写真をみるかぎり、「西伊豆しおかつおうどん」はさっぱりとしておいしそうです。これから夏に向けて、観光客の間でも流行るのではないでしょうか。

みなさんも西伊豆へ行くことがあったらぜひ、試してみてください。無論、私もぜひ一度食してみたいと思います。

さて、季節が進み、梅雨も本番になってきました。ホタルがそろそろ盛りになりつつあるようだということで、タエさんがしきりに蛍狩りに行こう、と言っているので、今晩あたり修禅寺温泉街を流れる桂川沿いにでも出かけてみようかと思っています。

みなさんはいかがでしょう。もうホタルをご覧になったでしょうか。カツオを肴に一杯も良いでしょうが、この季節にしか見れない風物詩、ぜひとも見に行ってください。

目にホタル 旬のトマトに 初鰹。

御用邸 ~沼津市


6月に入ってすぐのこと、いつも沼津市内に出かける際に側を通るたびに気になっていた沼津御用邸(沼津御用邸記念公園)に行ってきました。

昭和44年12月に廃止になるまで皇室の方々の保養施設として使われていたものであり、昭和20年には、沼津大空襲によりその本邸が消失したため、戦後は消失を免れた西附属邸が本邸の役目を果たすようになりました。

現在この西付属邸内は「皇室博物館」のような形で一般公開されており、同じく消失を免れた東付属邸とともに内覧が可能になっています。

もっとも、観光の中心は西付属邸のほうであり、東付属邸のほうにはあまり展示物はないようです。もともと来客用の離れとして造られたようであり、現在も一般向けに「貸しホール」として共用されているとうことで、我々が行ったときも何等かのイベントで貸し出されており、中身を見ることができませんでした。

とはいえ、西付属邸だけでもかなり見応えがあり、明治から大正、昭和にかけ、ここで皇室の一族がどのように過ごされたかがよくわかります。館内をガイドしてくださる女性も数人いて、邸内各所のみどころを観光客に懇切に説明されておりました。

沼津御用邸は、1893年(明治26年)、大正天皇(当時は皇太子)の静養のため、当時は駿東郡静浦村の「島郷」と呼ばれていた字に造営されました。もともと「御料林」があったところで、それ以前から皇室のための保養地として確保されていたもののようです。

敷地面積は約15万平方mもあります。南北およそ1kmにも及ぶ長大な敷地は、すぐそばが駿河湾に面しており、広大な松林の中の砂浜の中にあります。

大正天皇が亡くなられたあとも他の皇族全般の保養のために用いられてきており、いわば皇室御用達のリゾート施設です。当時、このあたり一帯は小さな漁村でしたが、気候が温暖なうえ、前面には駿河湾、背後には富士山という風光明美な地であることから別荘地として注目されはじめていました。

加えて明治22年(1889)年には東海道線が開通して、東京からの交通の便がよくなったこともこの地が別荘地として利用されるようになった理由の一つにあげられます。

造営が始まったころ、すでに大山巌(陸軍大臣)、川村純義(海軍大臣)、大木喬任(文部大臣)、西郷従道(陸、海軍大臣)、などの別荘が建てられており、公園入口にあった看板には、この地にはこれ以外にもたくさんの保養所が建てられていたことが示されていました。

それによると、このほかにも西園寺公望の別荘があり、さらに他の男爵、侯爵、伯爵などなどの明治政府の高官の保養所も多数存在しました。

さらには若山牧水邸や、オッペケペー節で有名な川上音二郎の縁者などの文化人の保養所、東京府立の三つの中学の保養所ほか、東京在住の経済人が避暑として使った大きな旅館などがひしめいており、その数およそ30ほどもあったようです。

これらの別荘保有者の一人、「川村純義」は、薩摩出身の海軍軍人で、妻が西郷隆盛の従妹にあたります。安政2年(1855年)に江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所へ、薩摩藩より選抜されて入所しており、慶応4年(1868年)1月にはじまった戊辰戦争では薩摩藩4番隊長として各地、特に会津戦争において奮戦しています。

明治維新後は、明治政府の海軍整備に尽力、明治7年(1874年)には海軍ナンバー2である海軍大輔、海軍中将に任ぜられました。

西南戦争の際には政府要人として暴発する薩摩隼人を抑える側にも回ったようですが、不首尾に終わり、開戦すると山縣有朋とともに参軍(総司令官)として海軍を率いて参戦。海上からの軍員及び物資輸送、海上からの砲撃等により戦争の鎮定にあたったといいます。

戦後も太政官制のもとでは枢要な地位を占めたようですが、新しい内閣制度が発足すると古い時代の人間は不要だということでその座を追われたことから、その後の日露戦争などでは活躍していません。

政府を追われた理由のもうひとつとしては、物事をはっきりと言いすぎる性格が災いしたとも言われます。が、維新以降の貢献が認められてその後枢密顧問官となっています。

明治天皇からの信任が篤く、その孫にあたる後の昭和天皇の養育を明治34年に任じられ、死後海軍大将に昇進しており、日本海軍で戦死でなく死後大将に昇進したのは、川村純義が唯一の例だそうです。

その後伯爵となり、明治34年には昭和天皇、36年にはその弟君の秩父宮雍仁(やすひと)親王の養育係にも任命されています。明治37年に68歳で没していますが、その最晩年にこの二人の皇子の養育係となったことはかなりの重圧だったようで、そのことが命を縮めたのではないかと言われています。

現在残っている西邸は、この川村が自分用の別荘として建てたものを増築して現在の形になったものです。この建物はもともと本邸の西隣にあり、明治38年に宮内省が買い上げ、昭和天皇のための御用邸としました。

川村の別荘地の敷地だけで約10,000平方メートル(3,030坪)もあったといい、ここに木造平屋建て880平方メートル(約266坪)の建物が建てられていました。

もともと明治23年頃に建築されたものでしたが、宮内省が購入したのちには、翌39年に皇居内の附属建物424平方メートル(約128坪)が移築して継ぎ足され、さらに明治41年にも車寄、浴室などが増築、大正11年にも増築があって、最終的には全体面積1,270平方メートル(約384坪)の「附属邸」とはいえ、広大な別荘練が完成しました。

昭和天皇は天皇になられてからも日常のおくつろぎやお休みになられる時はここをよく利用され、人とお会いになるなどの公務の場合には本邸のほうを使われていました。そして昭和20年の空襲で本邸が焼失した後は西附属邸が本邸の役目を果たすようになり、昭和44年に廃止になるまで、昭和天皇以外の皇室の方々にも利用されてきました。

昭和天皇はご誕生の翌年からすでに川村邸で夏冬の多くを過ごされていましたが、その後、皇太子時代も長期滞在が多く、歴代天皇の中ではもっともご利用日数が多くなっています。

ご幼少の頃から沼津の海や自然に親しまれる機会が多く、また周辺の同年輩の子供達と相撲をしたり、散歩の途中で地元の小学生に気軽に話しかけられるなど、地域住民との交流を楽しまれたそうです。

沼津の大空襲で消失してしまいましたが、明治26年に完成したという沼津御用邸の「本邸」には、大正天皇もよく訪れていたそうです。完成直後にもおよそ一か月滞在されたそうですが、その後もご利用の機会が多く、延べ日数にすると1,000日以上を沼津で過ごされており、この地で狩猟などを楽しまれることもあったそうです。

ここでの大正天皇一家の暮らしぶりは、明治政府の要請によって来日した、いわゆるお雇い外国人の一人「エルヴィン・ベルツ」の「ベルツの日記」にも詳しく書かれているといいます。明治9年に来日し、日本の近代医学の基礎作りに貢献したドイツ人医師です。

明治35年には皇室侍医となり、沼津御用邸にもしばしば訪れていました。日記には昭和天皇(このころは皇太子)が庭園や海浜で自由に遊ぶ様子や父親としての大正天皇の満悦ぶりが記されているといいます。

当時の皇室では親子別々に暮らすのがあたりまえでしたので、このように一家が親子一緒の生活を過ごされているのを見て「西洋の意味でいう本当の幸福な家庭生活」が実現したと自分のことのように喜んだといいます。

来日後27年にわたって医学を教え、医学界の発展に尽くし、その通算滞日年数は29年にも及びました。我が国に保養地(リゾート)の考え方を導入した人としても知られ、温泉療法や海水浴の有効性を主張していました。

草津温泉を発見し、世界に紹介したことでも知られています。1878年(明治11年)頃より草津温泉を頻繁に訪れるようになり、「草津には無比の温泉以外に、日本で最上の山の空気と、全く理想的な飲料水がある。もしこんな土地がヨーロッパにあったとしたら、カルロヴィ・ヴァリ(チェコにある温泉)よりも賑わうことだろう」と評価しています。

このほかに箱根でも温泉開発の提案をしており、沼津や葉山などの御用邸の地の選定にも関わりを持ったようです。

同じくドイツ出身でオーストリアの外交官であり、明治2年には日本にも来たことのあるシーボルト(ハインリッヒ・フォン・シーボルト)とはかねてよりの親友だったそうで、祖国ではシーボルトの主治医も務めていたほど親しかったようです。

ハインリッヒ・シーボルトのお父さんは、あのフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトであり、江戸時代末期に来日し、蘭学を通じて日本に西洋文明を伝えた先人として有名です。

ハインリッヒの異母姉には、日本人女性として初の産婦人科医となる楠本イネがいます(日本人女性と結婚した父フィリップの娘)。ハインリッヒもその父も元々はドイツ出身ですが、ハインリッヒは後に外交官としての功績が認められ、オーストリア=ハンガリー帝国の国籍を得ています。

父のフィリップ・シーボルトは、1828年(文政11年)に帰国の際、日本の地図を持ち帰ろうとしたとしたことが発覚して国外追放処分を受けていました。が、その後日本は開国し、1858年(安政4年)には日蘭通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除されたため、1859年(安政5年)、オランダ貿易会社顧問として再来日しています。

1861年(万延元年)には対外交渉のための幕府顧問となり、1862年(文久元年)に官職を辞して帰国していますから、その生涯では二度来日し、二度幕府に重用されていることになります。

その後、3度目の日本への渡航を計画していたといいますが、1866年にミュンヘンで70歳で死去。このとき、息子のハインリッヒは、再度の来日を準備する父の研究資料整理を手伝っていたといい、このことによって日本に強い興味と憧れを覚えたようです。

この父の二度目の来日のとき、ハインリッヒのお兄さん(アレクサンダー・フォン・シーボルト)がやはり外交官として父に同行して来日しており、父が帰国した後、この兄は徳川昭武使節団に同行して帰国。

そして、そのお兄さんが1869年(明治2年)に再び来日したとき、共に同行して初来日を果たしています。日本では兄と共に諸外国と日本政府との条約締結などの職務に着手、その合間に父の手伝いする中で学んだことを活かし様々な研究活動を始めています。

その中で町田久成(後の東京国立博物館の初代館長)、蜷川式胤(にながわのりたね、明治初期の官僚、古美術研究家で日本の陶器を海外に紹介した)らと親しくなり、その後も親交を続けたことで、日本文化への造詣を深めていきました。

ちなみに、ハインリッヒは、この来日後日本人と結婚しており、これは日本橋の商家の娘「岩本はな」という女性であり、芸事の達人としても知られ、長唄、琴、三味線、踊りも免許皆伝の腕前であったそうです。

後に福沢諭吉の娘の踊りの師匠も務めたといい、ハインリッヒとの間には2男1女を授かりましたが、その娘も長唄と琴で免許皆伝を受けています。

しかし、長男はハインリッヒがウィーン万国博覧会へ出かけている間に夭折。その後、産まれた男子は岡倉天心の開いた上野の芸術学校に入学して日本画家を目指しましたが、創作活動の中、体調を崩し、こちらも25歳の若さで没しています。

ハインリッヒ自身も晩年になり重病を患い、公使館の職を辞して帰国。このとき夫人のはなを日本に残しています。詳しいことはよくわかりませんが、どうやら母国にももともとの妻がいたらしく、日本での結婚は重婚であったようです。

帰国したハインリッヒは、その後イタリア南チロルの古城にて静養生活をおくるようになりました。このとき、親友で主治医でもあるベルツ博士も既に帰国しており、彼に懸命の治療を施しましたが、その甲斐なく58歳で死去。1908年(明治41年)のことでした。

このように、ハインリッヒ・シーボルトは重婚疑惑はありながらも、公私ともに日本文化へとどっぷりと浸かった人であり、日本がその後急速に西洋文明に感化されていくにあたっては、古来から育まれた日本文化の衰退を危惧し続け、この当時の廃仏毀釈の嵐吹き荒れる中での美術品の散逸に対してはかなりの危機感を持っていたそうです。

シーボルトの親友であったベルツも彼の感化を受けまた同様の考えを持つようになり、彼が在日中に多くの美術品・工芸品を購入し、保存に努めようとしていたのと同じように、多くの美術品の蒐集活動に取り組みました。

来日して、翌年の1876年(明治9年)、お雇い外国人として東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師に招かれたあと、1881年(明治14年)には、東海道の御油宿(愛知県豊川市御油町)戸田屋のハナコ(花)と結婚。

この花夫人(シーボルト夫人の名も同じハナ)の協力を得ながら、江戸時代中後期から明治時代前半にかけての日本美術・工芸品約6000点を収集しました。

こうして集めたベルツ・コレクションは現在、シュトゥットガルトのLinden-Museum(リンデン民族学博物館)に収蔵されており、2008~2009年(平成20~21年)には「江戸と明治の華-皇室侍医ベルツ博士の眼」展として日本各地で公開されました。

シーボルトからは晩年そのコレクションの管理を託されるほどの信頼関係があったといいますが、シーボルトは死に際にはほとんど人事不省だったためかベルツへの移譲手続きはおこなわれないまま、こちらのシーボルト・コレクションのほうは現在までに散逸してしまっているそうです。

ベルツの来日中、こうした美術資料の収集のかたわら、シーボルトの誘いで歌舞伎の鑑賞などにもよく出掛けており、またフェンシングの達人でも合った同氏と共に当時随一の剣豪であった直心影流剣術の榊原鍵吉に弟子入りまでしています。

東京医学校で教鞭を取りながら様々な医学研究も行っており、この中で特に有名なのが、「蒙古斑」の発見です。江戸時代までの日本人は、赤ちゃんのお尻にある青い痣を妊娠中の性交で出血した跡と考えていましたが、ベルツはこれをモンゴロイドの特徴ととらえ、1885年(明治18年)に”Mongolian Spot”として学位論文を発表しています。

ちなみに、子供や若者に対して未熟であることを揶揄して言う、「ケツが青い」という表現はこの蒙古斑にちなんでいます。

このほか、ベルツの功績として名高いものに、「ベルツ水」があります。1883年(明治16年)、箱根富士屋ホテルに滞在中、女中の手が荒れているのを見たのをきっかけに、この「ベルツ水」を処方しました。現在でも「グリセリンカリ液」として日本薬局方・薬価基準に収載されている薬品だそうです。

ひびやあかぎれのケアに有効で保湿効果があり、水仕事の後によく手を拭いて、これを付け、さらに潤いが逃げないようにハンドクリームか白色ワセリンを塗るとさらに効果があるそうです。

単純にハンドクリームを使うよりもよりしっとりとなって、割れてひびが入ってカサカサしている所も引っかからなくなるといいます。

このように、長年にわたり、日本の文化や医学に貢献したベルツ博士ですが、来日後27年経った1902年(明治35年)には、東京大学を退官。このとき、53歳でしたが、まだまだ現役ということで、このあと宮内省侍医を勤めることになります。

沼津御用邸、西邸の建設、そして大正天皇一家の保養に関わったのは、このときのことと思われます。こうした日本での数々の功績が称えられ、1905年(明治38年)、旭日大綬章を受賞。

そして、この年に夫人とともにドイツへ帰国。このあたり、日本人妻を見捨てて単身帰国した親友のシーボルトよりも人間性が上だったということでしょうか!? 母国ではその後、熱帯医学会会長、人類学会東洋部長などを務めたあと、1913年(大正2年)、ドイツ帝国のシュトゥットガルトにて死去。享年64歳でした。

沼津御用邸は、明治、大正、昭和の三代、七十七年間にわたって皇族に愛され続け、特に、歴代の天皇皇后両陛下、皇太后陛下のご利用日数は、のべ五千日以上にも及び、同時期の他の御用邸にくらべても最も利用の頻度が高かったといいます。

今上天皇もまた、疎開生活や戦後の復興期のご利用が多く、狩野川での煙火大会も何度かご覧になるなど、市内各地へのお出掛けや、隣地の学習院游泳場へのご滞在の機会も多かったそうです。

それだけこの沼津の気候や風土、景観が愛されたということなのでしょうが、現代の沼津は戦後の焼け野原からの復興後の際の区画整理がまだ終了していない、といったかんじでどちらかといえば雑然とした印象のある街です。

とはいえ、現在、沼津御用邸記念公園となっているこの一角は、北側すぐのところに狩野川の河口を控え、遠く富士山と愛鷹山を望み、更に箱根の連山を望み、西は日本平から、晴れた日には遠くアルプスの峰々を見ることができ、なかなか風光明媚なところではあります。

南には波静かな内浦湾から伊豆の山々へと連なる眺めもみることができ、無論、伊豆の各地の温泉にはほど近く、また東には柿田川の清流や三島の街並みが続いており、海岸線沿いにはきれいな遊歩道兼防波堤も整備されていて、市民などの憩いの場になっています。

海岸沿いを走る国道414号から近く交通の便も良く、市民らからは公園地域共々「御用邸」と呼ばれて親しまれており、我々も普段はそう呼んでいます。

ガクアジサイ・ヤマアジサイ・西洋アジサイ等の約2,300株ものアジサイが咲く名所としても知られており、これからがいまその盛りです。みなさんも一度行ってみてはいかがでしょう。

園内散策だけなら入園料100円、西邸を見学したい場合でも400円は格安です。伊豆観光の中ではどちらかといえば地味な存在ですが、ぜひ一度訪れてみてください。きっと良い経験になると思います。