ハリスの下田 ~下田市


気象庁からの発表はないようですが、今年の梅雨は「空梅雨」なのではないでしょうか。

少なくとも伊豆ではこれまでのところ、あまりまとまった雨が降ったという記憶はなく、降ったとしてもざんざんぶりというほどでもなく、翌日には陽射しに恵まれることも多かったように思います。

かといって、全く降らないというわけでもなく、庭木に水をやらなくてもいつも適度に地面が湿っているのは、しとしと雨が時々降っている証拠です。

暑さもそれほどではなく、しのぎやすいといえばこれほど快適な梅雨はこれまでにもなかったかもしれません。が、伊豆に来て一年あまり、ここでの生活が落ち着いてきたということもあり、気分的にそう思えるだけなのかもしれません。

とはいえ、先日下田に行ったときは結構蒸し暑く、あじさいの綺麗な下田公園の散策は楽しかったものの結構汗をかき、修善寺とはずいぶん違うなという印象でした。

それもそのはず、気象データを調べてみると、下田の年平均気温は約17℃と温暖で、降水量も年間1900mm余りと静岡県内の他の場所と比べるとかなり豊富です。

気候帯としては、典型的な亜熱帯ですが、背後には天城峠につらなる急峻な地形が続くことから、山間部では亜寒帯となり、このため、下田市全体でみると亜熱帯から亜寒帯までの幅広い気候帯で生育するさまざまな植生がみられます。

このため、四季を通して様々な草花や果実が生育し、しかも市の南部にはフィリピン諸島から北上する黒潮が流れていることから、これが運ぶ豊富なプランクトンが多くの魚をも誘うため、下田の海はいつも海産物に恵まれています。

伊豆半島の最南端という僻地であるという地理的なハンディを除けば、パラダイスのような場所であり、かつて下田で初代のアメリカ総領事を務めた、タウンゼント・ハリスも、下田の町を評して「清潔で日当たりがよく、気持ちがいい」と評しています。

ハリスは、1856年(安政3年)の8月に下田の東側の柿崎という場所にある「玉泉寺」という場所に総領事館が設立されて以降、1859年(安政6年)の12月までの、およそ3年半をここ下田で過ごしています。

その略歴は前にも書いたことがありますが、1804年アメリカニューヨーク州の片田舎のサンディーヒルズという場所の生まれで、その後ニューヨーク市に出て陶器や絹を扱う中国貿易に従事し成功しました。

このころから日本に対して特別な興味を持つようになり、「黒船」を率いて開国を迫り、同じく下田にも入港したことのあるマシュー・ペリーが日本に旅立つ際、便乗の申し入れをしていますが、これに失敗。

しかし、ペリーが日本の開国に成功した以後も熱心に政府に働きかけ続けていたところ、ようやく認められ、晴れて総領事に任命され、かねてよりの念願だった日本行きを果たしたのでした。

ヨーロッパでオランダ語に通じたヘンリー・ヒュースケンを通訳兼書記官として雇うなどの準備を終えたあと出発。インド・バンコク・香港経由の長旅を終え、1856年8月に日本へ到着。初めて踏んだ日本の土地が下田でした。

下田では通訳の不備などから、対応にあたった下田奉行・井上清直に入港を拒否されるなどのトラブルもあったようですが、折衝の末に正式許可を受け、下田玉泉寺に領事館を構えることになります。

そして、この地で約3年間もの間、幕府と粘り強い交渉を行い、ようやく1858年6月19日に日米修好通商条約の調印に成功します。

下田を離れることになったのは、日米修好通商条約規定によって横浜・神戸・新潟・長崎・函館の5港が開港されることになったためであり、もはや下田に滞在する必要ながなくなったためです。このためハリスも江戸の善福寺に移ることになり玉泉寺の総領事館も閉鎖されたのでした。

こうして同年12月、日本の開国に大きな役割を果たした下田は閉港となり、ハリスも去って、元の静かな港町へと戻って行きました。

条約締結後、江戸に移ったハリスは公使に昇進、麻布善福寺を公使館とし、その後の日米外交に深く携わり、1862年(文久2年)に辞職帰国をした後、1878(明治11年)に病気で亡くなりました。

ニューヨーク市ブルックリンのグリーンウッドにある墓には、日本をこよなく愛した彼の栄誉が称えられ、日本の灯篭と桜が植えられているといいます。

アメリカに帰国したハリスは、その業績を表彰され、議会はハリスに対する生活補助金の支給を可決しており、このため生活には困らなかったようで、その後は公職には就かず、動物愛護団体の会員などをしていたようです。

74歳で死去するまで、生涯独身であり、童貞を貫いたということですが、これは彼が敬虔な聖公会信徒であったということも関係あるのかもしれません。

が、調べてみたのですが、聖公会とはもともとプロテスタントの多くの宗派を生み出す母体ともなった会派で、さまざまな考えの人々を許容・包含するわりとリベラルな教会であり、一部のカトリック教徒のような頑固な体質を持つ教派ではなさそうです。

なので、キリスト教の教義に敬虔だったというよりも、彼自身がその生涯を独身で過ごすことを信条とするようなわりと窮屈な人間だったのかもしれません。

ほんとうのところはハリスご本人に聞かないとわからないのですが、生涯女性と交渉を持たなかったというのは本当のようです。幕府からあてがわれた「お吉」という妾をあてがわれたときもこれを拒否しています。

この「お吉」というのは、いわゆる「唐人お吉」として、後年、悲劇のヒロインとして戯曲や小説で有名になった人ですが、本名を「斉藤きち」といい、実在の人物です。

生まれは愛知県の知多半島だそうで、父が船大工だったこともあり4歳の時に下田に移り住むようになり、7歳で置屋の養女となり遊芸を仕込まれながら幼少の頃を過ごしました。

14歳で芸妓になり、下田の花街で働いていましたが、17歳の時に幕府のたくらみによってハリスの妾の話が持ち上がり、当時支配組頭の地位にあった伊佐新次郎の再三の説得により、奉公に出されることになります。

堅物のハリスのことですから、妾なんてとんでもないということなのですが、幕府はそれとも知らず、日米修好通商条約の交渉を優位に進めるためには、女性をあてがってハリスを籠絡しようと考えたようです。

ちょうどこのころ、ハリスは胃潰瘍をかこっており、幕府との条約交渉の最中、多量の吐血をして倒れています。幕府としてはしめしめ、ちょうどいい口実ができたとばかりに、病床で動けなくなったハリスの身の回りの世話をしてくれる女性を、ということでお吉を送り込むことにしたのです。

お吉は、下田一との評判もある美人だったそうでで芸妓としてもかなりの人気があったようですが、この話が持ち上がった当時、鶴松という幼馴染の恋人がおり、このため奉公に出るということは、すなわち鶴松とは無理やり別れさせられることにほかなりませんでした。

このため、心ならずもお国のためにということで、領事館に上がることとなったのですが、ハリスにすればは単なる「介護人」というつもりでOKしたつもりだったものが、当のお吉がやってきてその様子をみるとすぐに騙されたと知り、これを大激怒。たった3日でお吉を解雇し、帰宅させています。

ところが、その後、お吉は再び二ヶ月もの間、玉泉寺の領事館へ奉公に上がっています。

これは、彼女の家族側から領事館へ改めての依頼があったためのようです。せっかく幕府の肝いりで妾に入らせたのに、そのお役目を十分に果たせないまま帰宅させた上、支度金もそのまま懐に入れた、ということで周囲からは白い眼で見られるようになり、このままお吉を帰らせては村八分にされかねない、ということだったようです。

こうして、再度領事館へ奉公に上がったお吉でしたが、結果的には二ヶ月間で再度暇を出されてしまいます。再度の解雇の理由はよくわかりませんが、潔癖症のハリスとしては、やはり身近に女性を置いておくというのが我慢ならなかったのかもしれません。

こうして実家に帰ったお吉ですが、当然村人に受け入れられてもらえるわけもなく、その後は下田を離れ、横浜で芸妓か何かをして暮らしていたようです。ところがその横浜で偶然に幼馴染の鶴松と再会。28歳になって初めて世帯を持っています。

2人はその後下田に戻り、鶴松は船大工に従事し、お吉は髪結業などで生活を営んでいました。しかしこのころから夫婦喧嘩が絶えなくなり、彼女の乱酒も原因となり、離婚。

鶴松はその直後に病死したといい、36歳になったお吉は三島に移り住み、この歳で芸妓業を再開しています。

やがて42歳になったころ、三島で稼いだ金で下田に戻りますが、昔のことを知る町の住人には冷たくあしらわれます。しかし、これを哀れんだある船主の後援を得て小料理屋「安直楼」を開業。

ちなみに、この安直楼は現在も下田の繁華街のど真ん中に残っており、県指定文化財に指定されています。お世辞にも立派な店とはいえない小さな建物であり、古くて風情はあるものの、その前を通った私もこれが指定文化財とは……と首をかしげるような代物でした。

しかし、この料理屋を開いてからも仕事には身が入らず、このための貧困から来る不摂生により既にアルコール依存症となっていたお吉は、年中酒の匂いを漂わせ、度々酔って暴れるなどしていたといいます。

このため安直楼も2年で廃業することになり、さらに体調を悪化させたお吉は、1891年(明治24年)の3月のある大雨の夜、市内を流れる稲生沢川(いのうざわがわ)に身を投じ、50歳の生涯に幕を閉じました。

その後、稲生沢川から引き上げられたお吉の遺体をも人々は「汚らわしい」とさげすんだといい、お吉の実家の斎藤家の菩提寺も埋葬を拒否したため、河川敷に3日も捨て置かれるなど下田の人間は死後もお吉に冷たかったそうです。

哀れに思った市内の宝福寺というお寺の住職が境内の一角に葬ったそうですが、後にこの住職もお吉を勝手に弔ったとして周囲から迫害を受け、下田を去る事になったといいます。

このお吉が身を投げた場所は、門栗の淵といい、現在ここに小さなお堂が建てられていて「お吉ヶ淵」と呼ばれ、観光名所になっています。河口からかなり離れた市内の北のほうにある寂しい場所です。

現在淵は残っていませんが、池のある小公園になっており、お吉の供養のための地蔵が建立されています。お吉が身を投じたという毎年3月27日には、「お吉まつり」という祭典があるそうで、下田市内の芸妓衆による供養が行われ、池に花をささげ、鯉がはなされるそうです。

このように、唐人お吉といえば、幕末に一輪の花と咲いた「薄命の佳人」というイメージがありますが、実際にはハリスに見放されてからは、かなり浮き沈みの激しい生涯を送っており、寂しい人生だったといえます。

一方のハリスはといえば、結婚もせず独身を貫いたとはいえ、その後の暮らしぶりをみても本人にとっては幸せな人生だったと思われ、お吉の一生とは対照的です。

お互いの若いころ、一瞬のすれ違いとはいえ出会ったこの二人のその後の人生が、これほどまでに違うのはいったいなんなのだろう、とついつい考えさせられてしまいます。

ハリスが日本にいたころはまだお吉も落ちぶれておらず、ハリスもまた総領事として日米修好通商条約締結の重任を負いながらも、温暖で風光明媚な下田の生活を満喫していたようです。

ハリスは、大の牛乳好きだったそうで、体調を崩した際、牛乳を欲しがったといいます。しかし、この時代ですから、そういうものはなかなか手に入らず、このとき雇っていたお吉が八方に手を尽くし、ようやく下田在の農家から手に入れ、竹筒に入れて運んで飲ませたという記録が残っています。

この記録によると、その価格は8合8分で1両3分88文と非常に高価で、当時の米俵3俵分に相当したといいます。牛乳を公式に売買して飲用した記録は、日本ではこれが初めてだそうで、これを記念して、柿崎の玉泉寺には「牛乳の碑」が建てられています。

ハリスは、日本人を評して「喜望峰以東の最も優れた民族」と好意的な記述を残しており、前述のとおり、下田の町を評して「家も清潔で日当たりがよいし、気持ちもよい。世界のいかなる土地においても、労働者の社会の中で下田におけるものよりもよい生活を送っているところはほかにあるまい」と日記でこれを称賛しています。

こうした日本人に対しての柔らかな視線は、その後下田を去って江戸市中に在住するようになった際、彼の通訳官であったヒュースケンが殺害されるという事件においてもゆるぎませんでした。

ヒュースケンは、1861年1月14日(万延元年12月4日)にプロイセン王国使節宿舎であった芝赤羽接遇所(現港区三田)から自分の宿舎である善福寺への帰宅途中、芝薪河岸の中の橋付近で攘夷派の薩摩藩士二人にに襲われ、翌日亡くなりました(28歳没)。

こうした攘夷派による外国人襲撃行動はこのころ頻繁に起こっていましたが、この事件を機にイギリス、フランス、プロイセン、オランダの4か国代表は江戸幕府に対し共同して厳重な抗議行動をとりました。

ところが、ハリスはこれに反対し抗議行動には加わらなかったといい、これはこの抗議に参加することがアメリカの国益を損なうことになるという判断もあったでしょうが、この当時の日本の情勢をよく観察し、こうした攘夷運動の本質を理解していたためともいわれています。

ヒュースケンは乗馬好きで、よく江戸城の周りを乗馬している姿が見られていたそうで、これが攘夷派を刺激することになりかねないとして、ハリスもそのことを忠告していたようです。が、結局、開国反対派の浪士たちの怒りに触れ殺害されることになってしまいましたが、ハリスもこうした事態をある程度は予測していたに違いありません。

その後も幕府とは良好な関係を保ちつつ日本を離れており、その紳士的な態度は後年の日本人にも好意的に評価されています。

このように日本人に対してはかなり好意的な目を向けていたハリスですが、お吉の妾の一件からもその厳格な性格がわかるように、こと女性に関してはまるで少年のようなところがあったようです。

そうしたもう一つの逸話として、ハリスはこの当時の日本人としては普通の習慣であった「混浴」をいやがっていたそうです。

日本人にとってはあたりまえの習慣もハリスには耐えきれないものであったようで、「このような品の悪いことをするのか判断に苦しむ」と語っていたという記録が残っています。

ところが、通訳官であったヒュースケンは、この混浴の様子をたびたび見に行っていたそうで、このため、市中の人にかなり嫌われていたようです。

アメリカ側の記録によると、1857年1月には、こうしたことが原因で街中で刀を向けられて脅されており、このときヒュースケンを脅したのは下田の大場久八というやくざの子分で武闘派といわれた赤鬼金平という人物だったそうです。

この事件では、幕府はこれがもとで修好条約が破たんしては困ると考え、「金平は狂人でありますから」とハリスらに釈明したという記録も残っています。

こうした小事件もあり、健康面ではあまり恵まれず吐血などの体調不良に悩まされていましたが、そのほかの生活におけるハリスの下田での暮らしはおおむね穏やかだったようです。玉泉寺の領事館で3年近くを過ごす間、暇さえあれば周辺を散策していたといい、道端の草花を見ながら故郷に思いをはせることもしばしばあったようです。

しかし、長く続く鎖国のさなかのことであり、下田の人々もなかなかハリスと打ち解けあってふれあうということもなく、孤独な日々であったともいいます。

ある日のように散歩をしていとき、偶然通りがかった女の子がハリスを恐れもせずに近寄ってきたとき、ハリスはこの幼い女の子の頭をなでてやることができたそうです。

これを喜んだハリスは、その日の日記に「今日は祭日のようなうれしい日だった」と書き記しています。

ハリスがよく散歩した玉泉寺から約400m離れた海岸は、今では「ハリスの小径」として整備され残されています。その先端にはる福浦という小泊まりがあるため、福浦遊歩道とも呼ばれています。

道路とは離れているため静かで、下田港内に居並ぶ漁船やヨット群を見渡しながら眺める散歩は格別のようです。が、この場所は戦時中は軍用として整備されたことがあるそうで、現在もその当時の海軍の石炭積み下ろし桟橋跡が残っています。またその山側の洞には「震洋」とよばれる特攻水上艇が格納されていたということです。

この小路からは先日我々が行ったばかりの下田公園の小高い山も見えます。しかし、ハリスがこの下田に滞在していた当時にはまだ当然あじさいはなく、またここも荒れ果てたボサ山のままだったことでしょう。

おそらくは公園のすぐ真下まではよく歩いて行っていたでしょうが、彼がそのころここに立ち、どんな思いで海を眺めていたかに思いを馳せながら再びこの公園を散歩すると、また楽しいかもしれません。

ハリスが下田を訪れる2年前の1854年(嘉永7年)に、外国人として初めてここを訪れたペリーもまた、ここを歩いたことでしょう。

日米和親条約によって即時開港された下田湾にはこのとき7隻もの黒船が入ってきたといい、この当時の下田の人々の驚きはさぞかしのものだったことでしょう。

当時の人々にとっては、見たこともない船だったわけであり、しかもこれらは帆船ではなく、時代の最先端を走っていた蒸気船であり、その不気味な黒い色と3本マスト、そしてその大砲に加えて黒い煙を吐く煙突、左右両弦にある水車のような大きな外輪、そしてその大きさにはまたまた驚かされたに違いありません。

この下田に来たペリーのこともまたいずれ書いてみたいと思います。次にいつまた下田を訪れるかはわかりませんが、長くなった伊豆生活においてもこれまでも何度も訪れ、そのたびに新しい発見があります。

そろそろ梅雨も明け、夏が訪れれば伊豆半島はどこもかしこも観光客でいっぱいになります。おそらく下田も同じくでしょう。なので、次に行くのは秋口になるかもしれません。

秋には下田の近くの細野高原のススキがまたきれいになるでしょう。下田もまたそのころはそのころとて、別の面を見せてくれるに違いありません。今から楽しみです。

下田城にて ~下田市


先日のこと、下田のあじさい祭りに行ってきました。昨年に続いて二度目のことであり、かなり勝手もわかっていたので、市内に入ったらすぐに会場である下田公園下の臨時駐車場に車を入れました。ここから下田市街や主だった観光場所には10分ほどで歩いて行ける距離であり、この日も市街中心部で昼食をとりました。

お昼を食べる場所を探すのを兼ねて、しばし街中をウロウロしましたが、改めて市内をじっくり観察すると、あちこちに江戸時代からと伝えられるような古刹や名所があり、その説明看板がたくさん立っています。

江戸時代に貿易港として栄えた当時の建物や、幕末に開国した折の米国使節団や領事タウンゼント・ハリスゆかりの場所、そしてハリスの妾となった唐人ゆかりにまつわる名所などなど、歴史好きにはまさに見どころ満載といったところです。

下田は、江戸時代には、江戸・大坂間、あるいは東廻り航路の風待ち湊として栄え、「伊豆の下田に長居はおよし、縞の財布が空になる」と唄われたほどにぎやかな街だったようです。

東海道の三島宿から伊豆半島中央部を南北に縦断する下田街道の終点でもあり、市内には僧行基発見とされる蓮台寺温泉などの噴湯が各所にあり、総称して下田温泉ともいいます。

1854年(嘉永7年)、日米和親条約が締結されると、箱館とともに開港され、一躍国内においても重要な拠点港となりました。

その後明治・大正と大きく発展することはありませんでしたが、1928年(昭和3年)、十一谷義三郎作の「唐人お吉」や川端康成の「伊豆の踊子」などの小説発表などが火付け役となり、下田は観光の町として発展していくようになります。

1933年(昭和8年)には、東京湾汽船(現・東海汽船)が客船を就航させ、また伊豆循環道路東海岸線伊東~下田線が完成したことから、海陸路とも開かれ、多数の観光客が訪れるようになりました。

さらに、1961年(昭和36年)12月の伊豆急行線(伊東~下田間)開通により、観光客がさらに急増。観光業が産業の中心となり、1967年(昭和42年)には、観光客が500万人を超えたといいます。

その後も、地震や水害などの起きた時期を除いて、毎年、多くの観光客を迎え入れていましたが、バブル経済崩壊後は減少に転じ、平成16年度は、観光客が約332万人と低迷。

また、下田船渠(せんりょう)という下田で最大の船舶ドックを有する会社なども解散し、東京などの企業の営業所や寮の統廃合も進んだ上、流通業の変化による消費の分散傾向が、下田を初めとする賀茂郡の中心であった市内経済に打撃を与えるようになりました。

現在、下田は海水浴やイベント中心型観光都市からの脱皮を模索していますが、その市街は万一東南海地震などが発生した場合に生じる津波において、最も大きな被害を受けるだろうと専門家からみなされています。

過去にも何度か津波に見舞われており、このときは壊滅状態にまではなりませんでしたが、こうした災害に対しては脆弱な町であり、観光地として継続していく上ではその対策が大きなネックとなっています。

また、直接被害を被ったわけではありませんが、一昨年の東北の東日本大震災においては、計画停電、電車の運休、観光自粛ムードのあおりを受け、これにより、観光客が激減。ホテル、旅館、その他観光関連産業の事業所を中心として、従業員、パート・アルバイトの大量解雇が発生。観光産業に過度に偏った下田市の弱点があらためて露呈した格好です。

こうした中、海に恵まれた立地を活かし昭和9年以降続けられている「黒船際」やこの下田公園を中心とした「あじさい祭り」は市の観光収入に大きく寄与し続けています。

この下田公園のあじさいですが、昭和36年に、明治以降、下田町民が待ち望んでいたといわれる鉄道「伊豆急線」が東京の奥座敷と呼ばれていた熱海からここまで延伸されたころから整備され始めたようです。

下田まで電車が来たことにより南豆の観光は一気に躍進し、そんな中、市内に住む元東海汽船の職員だった人が退職後に「暇だから下田公園の草取りでもしよう」と周囲の人達と始めたのが発端だそうです。

ちょうどこのころ、市内にある黒船ホテルというホテルの先々代のオーナーは観光協会会長も兼ねており、日ごろから下田の自然を活かしお客さんを楽しませる方法を模索していたそうです。

そんな中、この元東海汽船職員たちの活動を知り、町議会議員などの賛同も得たことで彼らが中心となり、市民を巻き込んでスタートしたのが「下田公園植樹会」というサークルだったそうです。その後これは「下田花いっぱい運動」として町ぐるみの活動に発展していきます。

まずは、ボサ山にすぎなかったこの一帯を整備することから始め、中学生の卒業記念植樹をやったり、桜、梅などを植えたりしたそうですが、うまくいかず、発足して3年目になって、元からあった少しの紫陽花の群生に目をつけ、これを中心に整備をすることにしました。

会員たちが出資する限られた予算の中で紫陽花の苗を買い移植したわけですが、当時ガク紫陽花などの日本紫陽花の苗は高価だったそうで、このため多くは買えずにいたところ「西洋紫陽花なら出資する」と市内の旅館組合の申し出があり、その後は西洋紫陽花による植樹がが中心となっていきました。

その後この活動は「紫陽花公園構想」として計画化されるようになり、これには市も協賛してくれるようになります。

役所の職員も植樹を手伝うようになったことから、その整備に毎年市の予算もつくようになり、また静岡県の補助金も出るようになりました。次第にあじさいの株数も増え、現在に至っては県下でも有数な、いや全国的にもこれほどのものはない、といまでいわれる大規模な紫陽花公園が完成しました。

実際に行くとわかるのですが、看板の紫陽花の手入れは、無論非常によく行き届いており、それだけでなく、園内各所の平坦地の遊歩道はほとんどが石造りできれいに整備されていて、各所の展望台や休憩所も非常に気持ちの良いものです。

公園全体が小山になっていて場所によっては急傾斜のところもあるため、前述の植樹会の人たちが用意した「杖」が登山道の入口付近に置いてあり、年配の方々は多くがこれを利用していらっしゃいました。

我々が行った日は平日だったため、比較的観光客が少ないほうでしたが、それでも紫陽花がまとまっていてきれいな場所ではあじさいをバックに撮影にいそしむ人が集中していました。その観光客を避けて写真撮影するのは、平日でも少々やっかいなところです。

ところで、この下田公園は、もともとは、下田城というお城があった場所です。

小田原を本拠とする北条早雲を始祖とする後北条氏が、伊豆地方における支城として構築したもので、当城を小田原水軍の根拠地とし、当初は鎌倉にあった玉縄城という城を拠点とする後北条家の家臣団、「玉縄衆」の朝比奈孫太郎が城主として管理していました。

しかし、その後九州を平定した豊臣秀吉との関係が悪化したことから、1587年(天正15年)に改修が命じられ現在のような城郭の形容を表しました。

この当時の後北条家の当主は5代目の北条氏直であり、実際の築城にあったのはその家臣で伊豆奥郡代の「清水康英」です。清水康英は自身の傘下にあった伊豆衆などの協力をとりつけてこの建築にあたり、城の完成後そのまま城主に任じられています。

清水氏は、もともと伊豆の有力豪族だったようですが、北条早雲の伊豆平定によってこれに従うようになった後北条家の重臣です。

のちには三島神社奉行にも任ぜられ、後北条家の評定衆なども努め、現在の沼津や函南町にあたる北部伊豆の郡代、笠原氏とともに伊豆奥(南部)郡代として活躍しましたが実力は笠原氏以上であり、事実上伊豆の実効支配者でした。

下田のすぐ西側には南伊豆町ありますが、清水氏はここにある下賀茂温泉すぐ側の山の上にある加納矢崎(かのうやざき)城を本拠とするとともに、伊豆の中央部の韮山を拠点とする「伊豆衆」をも率いる後北条家臣団第一の大身であり、伊豆在地の小領主らをも寄子同心に組み入れ、伊豆全体の武士のリーダー的存在でもありました。

康英は清水氏二代綱吉の子であり、家督を継いでいましたから、後北条氏の傘下に入った以上、当然その家臣として伊豆外の敵から下田城を守備する立場になりました。

下田城は、下田湾に突き出た円形状の鵜島(うじま)と呼ばれる半島上に位置しており、このため別名「鵜島城」とも呼ばれていたようです。実は清水家は、後北条氏屈指の水軍を有する家でもあり、海路の要地である下田にこの水軍基地を整備し、これを守るのがそもそもの下田城の目的でした。

城は鵜島の北東部にあり、水軍基地の船着場は、船底に付着する動植物を繁殖させないためには淡水である必要があり、このため、現在の下田市の中心部を流れる稲生沢川(いのうざわがわ)の河口付近に設けられました。

おそらくこの船着場は、現在の伊豆急下田駅の東側の河岸あたりから、ペリーが上陸したとされるペリーポイントの付近一帯にあったのではないかと思われます。

この稲生沢川河口の水軍基地を抱きかかえるように、その南部にある鵜島の最高標地点68.7mに通称天守台と呼ばれるに城の主郭が構えられ、ここは現在、城跡公園として整備されています。

この高台を中心に曲輪(くるわ)や空堀、櫓台が湊を防御するように配されているのが特徴で、海路より襲来する 敵水軍を強く意識した縄張となっています。三方に延びた稜線を防衛線として縄張されており、その昔はここから四方八方の海が見えていたはずですが、現在はうっそうと樹木が茂っていて視界はありません。

が、少し離れた各所には海を見通せる展望台が整備してあり、ここからの海の眺めもまた、この下田公園の魅力の一つです。

下田城の完成後、清水上野介康英は、この城を中心として南伊豆防衛のための陣構を整えていきました。もちろん敵の秀吉軍の主力も水軍が予想されたため、下田において想定される攻防戦も水上戦が主体となると考えられ、このため城の北側にあった水軍基地を抱くように、防御ラインが設定されました。

下田城の守備には城将の清水康英とその弟淡路守英吉をはじめとする康英の一族と譜代の家来である伊豆衆が主力としてあたりました。また、小田原からの援軍としても江戸摂津守朝忠とその一党らが合流しましたが、これらを合わせても全精力は600余騎にすぎませんでした。

1590年(天正18年)2月、関東に進出するに先立ち、伊豆を攻略しようとした秀吉は、駿河清水港に水軍を集結させます。これらの水軍は、長宗我部元親、九鬼嘉隆、加藤嘉明、脇坂安治といった、秀吉軍の中でも屈指の武将が率いていました。

これに毛利の水軍など合わせてその総勢は14000騎あまりだったといいますが、この毛利の水軍は、この当時としては最新鋭の大型軍艦、大安宅(おおあたけ)船や関船・小早・荷船などで編成された大船団によって構成された軍隊でした。

秀吉軍の先鋒隊は、この年の3月初旬(現4月ごろ)から伊豆近海に出没しはじめ、3月末、南伊豆の岩殿(現南伊豆町)で初めて両軍は衝突します。

やがて豊臣水軍の一翼を担っていた徳川水軍の将、本多重次や向井正綱らが、後北条側の安良里城(現西伊豆町)や田子砦(同西伊豆町)を攻略したため、伊豆西海岸の北条勢は一掃されてしまいます。

一方、豊臣水軍の主力である長宗我部・九鬼・加藤・脇坂らも、4月に入ってから海路石廊崎沖を旋回し、下田沖に到着しました。しかし、下田城は三方が海に面した要塞で、見るからに軍船がつけ入る隙はありません。

下田城の周囲は断崖絶壁であり、しかもその背後の北側には下田水軍の拠点があるため、たとえ大軍の一部にせよ、下田城を海上より攻撃して上陸することは不可能でした。

しかし、下田の東側にある須崎半島のあたりは後北条側の手勢も手薄であり、このため豊臣水軍はここを迂回して、その北側あたりの海岸に上陸します。

そしてその一軍は下田の東の柿崎に侵攻し、下田城東側にある城の正面攻撃をうかがいはじめます。また、市内にある下田富士の麓からも 侵攻して、城下に火を放ち、敵は次第に下田城の直下の郭にまで迫ってきました。

こうした敵の侵攻により、伊豆衆の武将のひとり、江戸朝忠が討死するなど堅守を誇った後北条側にも次第にダメージが大きくなっていきました。しかし、戦いが長引くにつれ、市内での戦闘は次第に膠着していき、このため豊臣水軍は海上封鎖を行い、下田籠城軍の自由を奪う作戦に転じました。

しかし、両者が対峙する時間が長引くにつれ、先に苛立ちを抑えられなかったのは豊臣方でした。長期間にわたる包囲網戦は、大軍であればあるほど兵糧などの物資不足に陥りがちであり、この戦においても豊臣方の食糧が底をつきはじめたのです。

末端の部隊からは次第に食糧不足による悲鳴に近い声があがってきたことから、ついに秀吉は長宗我部隊などを残し、主力は小田原に召喚することを命じました。

その後も残された長宗我部隊と清水康英側との対峙が続きましたが、結局この籠城戦には決着はつかず、50日にも及ぶにらみ合いの末、4月末には清水ら率いる下田水軍と豊臣方の部将である脇坂安治・ 安国寺恵瓊らの間で和解が成立。三か条の起請文を交わし、ついに下田城は開城することとなりました。

和解とはいえ、どちらが勝ったかといえば、城を50日も持ちこたえ上、無血開城を勝ち取った清水康英ら下田水軍の勝利といえることは自明です。14000の敵兵に対し、わずか600の寡兵で臨んだ戦はこうして両軍による大きな激突もなく終わりました。

その後、後北条氏は滅亡し、徳川幕府の時代入ると、家康の家臣・戸田忠次が下田5000石を治め、下田城の城主となりました。しかし、忠次の子・尊次は1601年(慶長6年)に三河国の田原城へ転封となり、以後、下田は江戸幕府の直轄領として下田町奉行が支配することとなり、廃城となりました。

その後、幕末までの江戸時代全般のあいだ、下田は長い眠りについたような町となりましたが、やがてはペリーらの来航により、再び揺り起こされることになったのでした。

ちなみに、城を豊臣方に明け渡した康英一党はその後、河津郷の沢田という場所にある林際寺に退去しています。ここで康英は、戦を共にした家臣らに下田籠城の苦労を謝した上で後日の褒賞を約束し、このたびはいったん散軍して離別するものの、再び会いまみえることを誓いあったといいます。

その後、自らは菩提寺である三養院(現・静岡県賀茂郡河津町川津筏場)へ入って隠栖。天正19年(1591年)に没しました。享年59歳。

康英がその後、家臣たちに何等かの褒賞を本当に与えたかどうかは史料として残っていないようです。ただ、清水家の末裔の一派がその後1593年(文禄2年)に沼津に移り住んだという記録があります。

彼らは駿河国駿東郡沼津宿の沼津本陣を構築し、幕末に至るまで名主や年寄などを務めたそうで、明治に入ってからはその一族が沼津郵便電信局を営んでいたそうです。

清水康英は、後北条氏家からも篤く信頼されていた武将だったようで、後北条家から出た古文書の中には、「康英は戦上手であるから一切任すのである。他人の差し出口は不要である」といった内容の文書が残っているといい、後北条家の家臣としてはかなり名声の高かった武将であると考えられます。

武人としての技能も優れていたようで、「関八州古戦録」には、黒糸縅の鎧を着、1丈4尺の大旗を背に指し、盤手鴾毛という奥州南部産の駿馬にまたがり、8尺もある樫の棒を振り回して、長柄のほこ先をそろえた敵陣へ割り込み、雑兵らをなぎ倒した、と記述されているそうです。

そんな清水康英ら中世の武将が活躍した下田城公園の展望台に立ち、下田港を眺めていると、そこからは海に浮かんだたくさんの大安宅船や関船が見えてくるような気がします。その間を足早に小早・荷船なども行き交い、気のせいかところどころで狼煙もあがっているような気にもなってきます。けだるい昼下がりの港の光景……

本当にそんな夢のような昔日の光景が見えるとどんなにか楽しいかと思うのですが、眼下には静かな青い海を行き交う近代的な漁船ばかり。が、これはこれでひなびた美しい、昔ながらの日本の港というかんじで、なかなか風情があるものです。

今年はもう終わってしまいましたが、この下田で毎年5月の下旬に行われる黒船祭りでは、アメリカ海軍や海上自衛隊も参加したイベントが開かれ、町内や海辺の会場は活気にあふれるそうです。来年はこの頃を見計らってぜひまた来てみたいと思います。

7月には花火大会も開かれるそうです。今年は7月13日の土曜日が予定されているといい、予定打ち上げ数は1500発と小ぶりですが、昨年はこの花火目当てに15000人も集まったとのこと。

7月13日といえばもうすぐです。できれば行ってみたいものですが、そのためには泊りがけが必要かも。要検討です。

さて、そんな下田のあじさい祭りも来月はじめで終わりのようです。そのあともまだまだ楽しめそうですが、まだ行っていない方はお早目にどうぞ。

園内を巡る遊歩道に延々と続く15万株・300万輪の青や赤の大輪の花は、きっとあなたを圧倒すると思います。

むかつく力学


今日は、雨の特異日だそうです。

以前にも雨だったか晴れだったか忘れましたが、特異日だというので詳しく調べてみたところ、実際にはぜんぜん特異日でもなんでもない、ということがあったので、今回もほんとかな、と思って再度調べてみたところ、確かに統計的にも全国的で雨の降りやすい日のようで、とくに東京では過去に50%以上の確率で雨が降っているようです。

で、伊豆はどうなのよ、ということなのですが、こちらは今日は雨にはならないようです。ただ、お天気にも恵まれなさそうで、終日曇りということです。昨日までの天気予報では今日は多少なりとも日が射すというものだったので期待していたのですが、がっかりです。

この特異日というのは、説明するまでもありませんが、平日と比べて偶然とは思われないほどの高い確率で、天気、気温、日照時間などに特定の気象状態が現れる日のことです。外国でも認められており、英語では“singularity”といいます。

特異日がなぜ起こるかについてははっきりしていません。が、幾つか仮説は立てられていて、その一つには彗星説があります。

彗星の通過した後には細かな宇宙塵の帯が残りますが、地球は毎年ほぼ同じ時期にいくつかの彗星の残した塵の帯の中を通ることになるため、この塵が定期的に地球の天気現象にも影響し、それが特異日の原因となっているという説です。もっともらしくあるのですが、無論科学的に証明されているわけではありません。

このほか、季節変化により、大気の大きな流れがある特別の日に急に天候が変わることによって特異日が生ずる、という人もいるようです。これももっともらしいのですが、実証されているわけではなく、これも仮説の域を出ません。

結局のところ、特異日には直接的な原因は存在せず、単なる偶然ではないか、とも言われています。

サイコロの目が出る確率が6分の1であるのはよく知られており、これは科学的にも間違いないことです。ただし、これは多くの試行を行った場合のことであり、少数回では特定の目が続けて出たり、集中したりすることがあります。

これよりももっと複雑な乱数表で数字を決める場合にも特定の数が集中することがあり、また円周率の並びの中にも、所々に特定の数が連続することが見られるといい、こういう現象を「群発生」と言うそうです。

なので、特異日も、実は単なるこうした群発生に過ぎないのではないかというわけです。

が、いずれの説ももっともらしくはありますが、なんとなくすっきりしません。所詮は仮説にすぎず、いろいろある特異日をすべてをこのどれかにあてはめて説明できるわけでもなく、結局のところ特異日発生の原因についてはまったく不明、というのが実情のようです。

しかし、明らかに特異日ではないとされるものはあります。

例えば10月10日は東京の晴れの特異日であり、このために1964年の東京オリンピックの開会式の日はこの日に設定された、という俗説があります。しかし、10月10日は統計的にみても別に晴れが多い日とは言いがたいそうです。

これはむしろ、この日が東京オリンピックの開会式に選ばれたところたまたま晴れ、これ以降、この日が晴れの特異日であると思いこまれるようになったためだと思われます。

似たような思い込みの中には、七夕もあります。これは7月7日は毎年のように七夕にもかかわらず晴れる確率が低いので、実は逆に雨や曇りの特異日ではないか、とういうものです。

しかし、実際に7月7日が雨や曇りになりやすいかというと、特段そういうこともなく、これは単にこの日が梅雨時の間であるためであることが多く、この日を含むこの期間が全体が雨や曇りが多いからにすぎません。

そのほかにもよく特異日といわれるのが、「センター試験の行われる日」です。この日は大雪の特異日」といわれているようですが、実際は過去にセンター試験の日に大雪になったことがあり、ニュースとして大々的に放送されたために、これが人々の記憶によく残っているだけにすぎません。

しかも、センター試験の行われる日は毎年異なりますから、そもそもがセンター試験の日は大雪の特異日というというのは、むしろ「ジンクス」に近いものがあります。

このジンクスもまた、われわれの日常でよく取沙汰されるものです。英語では ” Jinx ” と書きます。語源ははっきりしていないそうですが、ギリシア語のjynxが語源ではないかといわれています。これはキツツキの一種だそうです。

日本語では蟻吸(アリスイ)と書き、その名前の通り、地表や朽木に穴を開け、舌を伸ばして蟻を食べるそうです。背中にヘビに似た模様があり、自らの首を180度回転させ真後ろを向けることができることで知られており、これは摂餌の際に周囲を警戒してのためのようですが、その様子が不気味であることから、昔から不吉な鳥とされてきました。

このことから、jynxという用語がしばしば魔法や占いにも使われるようになり、やがては「縁起の悪い言い伝え」に変化していったようです。

従ってもともとはあまりいい意味のものではなく、ジンクスの本来の語義は「縁起が悪い」、「運が悪い」など悪いといったものですが、日本においては良い縁起という意味でも使われることが多いようです。

生活に密着した教訓・習慣・法則といった類のものですが、だからといってすべてが科学的根拠があるわけでもなく、昔からの経験に基づき唱えられている伝説にすぎないものも少なくありません。また、縁起担ぎに関するものでは、呪術的な発想に基づくものも多いようです。

どんなものがあるかといえば、例えば日本では、「三代目が家を潰す」というのがよく言われることです。

「売家と唐様で書く三代目」という川柳が江戸時代からありますが、これは、初代が苦心して財産を残しても、3代目にもなると没落してついに家を売りに出すようになるが、その売り家札の筆跡は唐様でしゃれているという意味で、つまり、遊芸にふけって商いの道をないがしろにし、没落した商人を皮肉ったものです。

このほかにも「忌み数」というのが代表的なものであり、4は「死」、9は「苦」に通じることから、縁起が悪いということでホテルや病院の部屋番号や階層、鉄道車両の番号等で使用を避けることがあります。

自動車のナンバープレートでは、末尾「42」と「49」を飛ばして付番されており、車種を示す平仮名も「し」は「死」を連想させるので使われていません。ちなみに、「へ」もまた「屁」を連想させるため使われていませんが、これは本当の話です。

ただ、葬儀業者の電話番号は「1142(いい死に)」「4142(良い死に)」「4242(死に死に)」にしているところもあるということですが、これはちょっといただけません。

政治経済でいくと、知事経験者は他の都道府県の知事選に出馬しても勝てないというのがあります。これは、1947年に知事が公選制となり普通選挙で選出されるようになって以降、複数の都道府県で知事を歴任した人物はいないためです。

政変が起こると東京では雪が降るというのがありますが、これは2.26事件の日に雪が降ったり、赤穂浪士の討ち入りの夜が雪であったことなどに由来し、このほかにも選挙の月には宿泊施設の客が減る、というのはホテル・旅館業界で信じられているジンクスです。

スポーツの世界は、最もジンクスの多いジャンルでしょう。代表的なものに、「2年目のジンクス」というのがありますが、これは1年目に活躍した選手は2年目に活躍できないというものです。

このほか、オリンピック日本選手団主将は好成績を残せない、というのもあります。柔道の石井慧選手は、ロンドンオリンピックのとき、このジンクスを信じていたため主将に指名されることを拒否したそうで、この時は結局、やり投げの村上幸史選手が主将になりました。

大相撲は日本の伝統芸でもあり、ジンクスのオンパレードです。例をあげるとキリがありませんが、よく言われるのは「弓取式」を務める力士は出世しないというもの。これは弓取式を任される力士には、大銀杏を例外的に許されるためだといわれています。

大銀杏は関取の特権であり、弓取力士はまだ出世もしていないのにこれを許されて大勢の人達の前で土俵をつとめることができるわけです。このため、その後どうしても関取になってやろうとする強い意識が薄れてしまうことが原因でその後伸び悩むのだと取沙汰されています。

実際、弓取り力士の最高記録は、小結まで上がった巴富士という関取だけだそうで、大相撲ではこのほかにも「平幕優勝に大関なし」というのもあります。

野球もジンクスが多い競技です。「ラッキーセブン」とは、7回の攻撃で得点が入りやすいことであり、これは試合の終盤に入り先発投手の疲れが見え始めるころであるためといわれていますが、はっきりした根拠ではありません。

このほか、「代わった所に打球が飛ぶ」「野球は9回二死から」なんてのもよくありますが、意外に知られていないのが、「中日ドラゴンズが優勝すると政変が起きる」というもの。

中日ドラゴンズが優勝し、日本一になった1954年には、造船疑獄によって吉田内閣が退陣しており、このほか1974年優勝時の金脈問題による田中内閣退陣、1982年優勝時の鈴木内閣退陣、1988年優勝時のリクルート事件などなど枚挙のいとまがありません。

このほか、政変ではありませんが、1999年にも、中日が優勝を決めた日に茨城県の東海村でJCO臨界事故が起きており、2004年には新潟県中越地震が発生しています。そういえばおととし2011年にも中日が優勝しており、この年には東日本大震災が発生しています。

今年は、今のところ中日はあまり調子がよくなさそうなので、政変や災害は起こらないかもしれませんが、万一優勝してしまうと今度は富士山が噴火してしまうかもしれないので、私としては優勝して欲しくありません。

似たようなジンクスは読売ジャイアンツにもあり、巨人が優勝した年、またはその翌年は景気が悪くなる、というのがあります。

昭和50年代以降においては、巨人が優勝した年またはその翌年において、日経平均株価が大きく下落する年が重なっており、そういえば昨年巨人が優勝しており、衆議院選挙での民主党の大敗の影響もあり、景気は低迷しました。

逆に阪神タイガースが優勝した年、またはその翌年は景気が良くなるそうです。 阪神が優勝した年において、日経平均株価が大きく上昇する年が重なっているというものですが、果たして今年はどうでしょうか。今のところ阪神は好調のようです。

芸能界にも無論ジンクスはあります。AKB48には「彩」の呪いというのがあるそうです。

AKB48及び系列各グループで、名前に彩の字があるメンバーはトラブルに見舞われたり、大成出来ずにグループを去るというもので、まず上村彩子が初代チームK発足から2ヶ月後の2006年6月で突然脱退し、高田彩奈も2007年6月に卒業しています。

さらに梅田彩佳は足の疲労骨折で1年余りの休養を余儀なくされ、菊地彩香は恋人を作っていた事が発覚したことにより解雇。研究生の林彩乃・石井彩夏・伊藤彩夏も正規メンバーになれぬまま卒業。

「総選挙26位の呪い」というのもあり、これは選抜総選挙で26位になったメンバーは、その後トラブルに見舞われるなどしてグループを去るというもの。

第1回から第3回まで3回連続で26位となった平嶋夏海が男性との私的写真流出を理由にAKB48を脱退したことからこの呪いが生まれ、第4回でも26位に選ばれた増田有華がDA PUMPのISSAの自宅に宿泊したことがもとでAKB48及びDiVAから脱退しています。

先ごろ行われた、今年の「栄えある26位」は、昨年47位だった宮脇咲良ということですが、果たしてどうなることでしょう。

日本以外の諸外国にも当然ジンクスはあります。代表的なものでは、欧米人は13を嫌います。イエス・キリストの最後の晩餐に出席した人数が13人であり、彼を裏切ったのが13番目の弟子だったことに由来しています。このほかにも「666」は悪魔の番号であるとして使用を控えることが多いのは良く知られていることです。

黒猫が前を横切ると災厄に見舞われるというのも有名ですが、イギリスでは逆に黒猫は幸運の象徴とされています。

この黒猫による災難の例としては、メジャーリーグのシカゴ・カブスが最大8ゲーム差をひっくり返されリーグ優勝を逃したという史実が有名で、この事件は ” The Black Cat ”としてアメリカではよく知られています。

1969年9月9日のニューヨーク・メッツ戦でネクストバッターサークルにいた主将のロン・サントの後ろを、突然どこからやって来たのかひょこひょこと黒猫が横切り、そのためかどうかその試合を落としたのをきっかけとして、その後のペナントレースで大失速したというものでした。

同じアメリカでは、大統領選挙の年のワールドシリーズで、アメリカンリーグ所属チームが勝てば共和党が、ナショナルリーグ所属チームが勝てば民主党が勝利する確率が高いというジンクスもあります。

同じアメリカの政治がらみでは、“末尾0(ゼロ)年”の選挙で選出されたアメリカ合衆国の大統領は、暗殺や病死などで任期を全う出来ないといわれており、これは「テクムセの呪い(Tecumseh’s curse)」といわれています・

これは、第9代アメリカ合衆国大統領ウィリアム・H・ハリソンの肺炎による死去から始まるアメリカ合衆国大統領の一連の死に関する呪いです。

この呪いは、部族の領土を白人に奪われ、1811年にウィリアム・ハリソンらによって殺されたインディアン部族、ショーニー族の酋長テクムセによるといわれており、その後1840年から1960年までの間に20で割り切れる年に選出された大統領はみんな在職中に死去しています。列記すると以下の通りになります。

1800年 トーマス・ジェファーソン、任期満了、退任17年後の1826年死去。
1820年 ジェームズ・モンロー、任期満了、退任6年後の1831年死去。
1840年 ウィリアム・H・ハリソン、1841年4月4日に肺炎で死去。
1860年 エイブラハム・リンカーン、1865年4月14日に暗殺された。
1880年 ジェームズ・ガーフィールド、1881年7月2日に暗殺された。
1900年 ウィリアム・マッキンリー、1901年9月14日に暗殺された。
1920年 ウオレン・G・ハーディング、1923年8月2日に心臓発作で死去。
1940年 フランクリン・ルーズベルト、1945年4月12日に脳溢血で死去。
1960年 ジョン・F・ケネディ 、1963年11月22日に暗殺された。

ただ、これ以降、ロナルド・レーガンが1980年に選出されていますが、直後の1981年3月30日に暗殺未遂に遭いながらも2期8年の任期を全うし、退任15年後の2004年に死去しています。また、2000年に大統領に就任したジョージ・W・ブッシュもいくつかの事故には遭っていますが、任期満了し、存命中です。

このため、現在では「テクムセの呪い」による過去の大統領の不慮の死は、単なる偶然といわれるようになりました。が、未だに「テクムセの呪い」を信じる人は多く、こうした人達はロナルド・レーガンについても亡くなりはしなかったものの、暗殺未遂事件があったことを例にあげて反論しています。

ただ、彼が在職中に死ななかったことにより、「テクムセの呪い」が解けたという人もおり、レーガン大統領が銃弾を受けながらもわずか1インチの差で生き残ったことで、それが破られたと考える人たちもいるようです。

いくつかのキリスト教団体は「呪い」を真剣に考え、2000年選出のブッシュ大統領も災厄から守られるように祈願していたといい、この祈願は1920年以来ずっと続けられているそうです。

このほかの諸外国でのジンクスで有名なのは、スポーツの世界で、世界選手権自転車競技大会で優勝しマイヨ・アルカンシエルを獲得した者は、翌年成績がガタ落ちしたり不幸に見舞われるというのがあります。

マイヨ・アルカンシエルといのは、は世界選手権自転車競技大会の優勝者に与えられるジャージのことです。五つの大陸を表す緑、黄、黒、赤、青のストライプが襟と袖、胴回りにあしらわれています。

このジンクスは「アルカンシエルの呪い」と呼ばれていて、実際このジャージを手にした選手が翌年には大きく成績を落としたり、またなぜかレース中の落車事故やメカトラブルが頻発したり、レース外でも家庭不和や事故、病気に罹患するなどのトラブルが起きることが多く、呪いは本物だとまことしやかに噂されたりしています。

ただ、これはこの優勝者はその後1年間、アルカンシエルを着用して全てのレースに出場することが許されるなど優遇され、最も目立つ存在となるため、他チームからは実力者とみなされて厳しいマークに遭いやすくなるうえ、マスコミからの格好の標的とされるために重圧に耐え切れなくなって調子を落とす場合が多いためともいわれています。

このほかヨーロッパで古くから信じられているものに、第九の呪いというのがあります。これはクラシック音楽の作曲家が「交響曲第9番を作曲すると死ぬ」というジンクスであり、ベートーヴェンが交響曲第9番を完成させた後、交響曲第10番を完成することなく死亡したことに由来しています。

実際、「交響曲」を作曲するのには長い時間と体力・精神力を要し、さらに作曲家が実際に創作を行える時間を考慮すると、9曲程度が限界であるという説もあります。

グスタフ・マーラーは、この「第九の呪い」を恐れて、交響曲第8番の完成後次に取り掛かった交響曲を交響曲として認めず「大地の歌」と名づけたそうです。それでも死ななかったため、なーんだ大丈夫じゃないか、と安心して「交響曲第9番」を作曲した後で死んでしまったという逸話があります。

このほか「交響曲第9番」作曲と前後して死去した主要な作曲家として、シューベルト、ブルックナー、ドヴォルザーク、ヴォーン・ウィリアムズ、シュニトケ、ヴェレスなどがいます。

私は、最近何かと話題になっている盲目の日本人作曲家、佐村河内守(さむらごうちまもる)さんは大丈夫だろうかと心配してしまいます。

耳が聞こえなかったといわれるベートーヴェンの再来とも言われる天才作曲家で、数千枚も出れば大ヒットだといわれているクラシック音楽の世界で、彼が創った交響曲第1番のCD売上はオリコン週間総合チャートで2位を獲得し、その後も売上を伸ばし続け、2013年5月現在10万枚を記録するヒット作となっています。

今後いくつ交響曲を作曲されるかわかりませんが、何ごともなく活躍されるよう願いたいところです。

ところで、こうした特異日やジンクスといった人々の思い込み?偶然?はすべて「マーフィーの法則(Murphy’s law)」で説明がつく、ともいわれます。

マーフィーの法則とは、先達の経験から生じた数々の経験則をユーモラスにとりまとめたものであり、アメリカで発祥し、日本でも1980年頃から計算機科学者を中心に知られるようになり、1990年代前半に広く流行しました。「都市伝説」の類ともいえますが、中には重要な教訓を含んでいるものもあります。

その起源となったのは、“Everything that can possibly go wrong will go wrong. “というあるアメリカ人が語った言葉であり、これを邦訳すると「不都合を生じる可能性があるものは、いずれ必ず不都合を生じる」という意味になります。

「マーフィーの法則」という名は、オハイオ州デイトンのライトフィールド基地にある空軍研究所に勤務していたエンジニアのエドワード・アロイシャス・マーフィー Jr.(Edward Aloysius Murphy Jr.)大尉の名前を採ったものです。

この言葉は、マーフィー大尉が「「線形減速に対する人間の耐性」という軍の実験を行っていたときに発せられました。簡単に言うと、後ろ向きに座ったまま航空機を飛ばしたときにその姿勢で人間にどんな負荷がかかるか、とう実験だったようです。

1949年5月、カリフォルニア州のミューロック空軍基地に来ていたマーフィーは、この実験の最中にあるトラブルに遭遇します。そして誤作動を起こした装置を調べているうちに、それが誰かがこの実験装置に間違ったセッティングをしていたためであることを発見します。

ここで彼の言ったセリフが先の“Everything that can possibly go wrong will go wrong. “であり、また “If there is any way to do it wrong, he will.” 「もし失敗する方法があるとすれば、かならず誰かがその方法で失敗する」と語ったとも言われており、これらの言葉がその後マーフィーの法則の土台となっていきました。

その後、ノースロップという航空機の開発者でありNASAの前身のジェット推進研究所にも勤めたジョージ・E・ニコルズがこれを「マーフィーの法則」と命名し、軍向けのある論文の中で公表しました。

その結果、この「法則」は軍部内に広まるようになり、やがて軍内にとどまらず、広く全米の各種技術雑誌から一般雑誌・新聞の話題へと広がって行っていくようになります。

そして1977年には、アーサー・ブロック(Arthur Bloch)という人が、「Murphy’s Law and Other Reasons Why Things Go Wrong (マーフィーの法則と誤った方法で行なわれる他の理由)」という題名で本を出版し、これは全米のベストセラーにまでなりました。

この本には、マーフィー大尉が最初に発したことばだけでなく、他の様々な表現も合わせて掲載されており、それらはマーフィー大尉が語った最初のことばを要約した“ If it can happen, it will happen.(起こる可能性のあることは、いつか実際に起こる)” が基本になっています。

この本の中には例えば、次のような表現があります。

“Anything that can go wrong will go wrong.””Everything that can possibly go wrong will go wrong.”

「うまく行かなくなり得るものは何でも、うまく行かなくなる」「何事であれ失敗する可能性のあるものは、いずれ失敗する」という意味であり、なかなか含蓄があります。

このほかにも、”If that guy has any way of making a mistake, he will.”というのがあります。

「何か失敗に至る方法があるとすれば、人は結局はそれをやってしまうことになるだろう」という意味ですが、このほかにも、

「もし一つ以上の作業手順があるとして、その中にひとつでも結果をだいなしにするものが含まれているとするならば、結局は誰かがそれを実行することになるだろう ”If there’s more than one way to do a job, and one of those ways will result in disaster, then somebody will do it that way.”」、といったものや、

「私が洗車しはじめるといつも雨が降りはじめるけれども、実は私は雨が降って欲しくて洗車をしているんだ」”It will start raining as soon as I start washing my car, except when I wash the car for the purpose of causing rain.”」というのもあります。

このマーフィーの法則はその後世界的にも大反響を起こすようになり、とくに科学の世界でももてはやされるようになります。

同じアメリカの科学雑誌“Astounding Science Fiction Magazine”主に数学や情報科学等の広義の自然科学全般にあてはまる「マーフィーの法則」を1957年に募集したところ、その後2年以上もの間、投稿が殺到したといいい、同誌はこれらをまとめて、「フィナグルの法則(Finagl)」というタイトルで出版しました。

その中には、

「うまく行かなくなりうるものは何でも、うまく行かなくなる-しかも最悪のタイミングで “If an experiment works, something has gone wrong”」とか、

「もし実験自体が成功したのであれば、それはその実験過程で何らかの失敗をしたからだ “No matter what result is anticipated, there will always be someone eager to misinterpret it.”」

といったウィットに富んだものも多く、このほかにも「どういう結果が予想されても、誰かが必ず結果を曲解しようとする」等々、何かとストレスの溜まりやすい科学者なら、日頃のうっぷんを一気に晴らしくれそうな、あるいは自分の失敗を笑い飛ばしてくれそうな名言が数多く並んでいます。

こうした名言を眺めていると、我々が偶然に起こったと考えているものも実はそれなりの原因があって起こっていることだ、と考えられるようになってくるから不思議です。

やれ特異日だジンクスだと言われてきたものも、実は確かに何か要因があってのことだと考えれば、たとえその原因がわからなくても「必然」のような気がします。

だとすれば、今日という日が雨の特異日というのも何か必ず要因があるに違いありません。
何であるかは説明できませんし、わかりませんが、ともかく何か理由があってのこと……
そう考えるだけでいいのではないでしょうか。

さて、今日は何やら謎めいた話になってしまいましたが、最後にもうひとつだけ、「マーフィーの法則」の物理学版として「開発」されたことばを紹介しておきましょう。

「物の振る舞い」についてとりまとめた“Gerrold’s Laws of Infernal Dynamics”という本に掲載されているもので、これは「むかつく力学」というタイトルに邦訳されています。

それによると、

1.運動している物体は、誤った方向に動いている。
2.静止している物体は、誤った位置にある。
3.ある物体を正しい方向に動かす時に、またはある物体を正しい位置におく時に要求されるエネルギーは、貴方が期待するより多く、しかし遂行をさまたげる程ではない。

だそうです。なるほど……ここでじっとしているのも動きだすのも、なんとなく間違っているような気がしてきました。妙にむかつきます……

雷のはなし


先日の富士山の世界遺産登録の日は朝からスカッ晴れであり、その後も日中は陽射しに恵まれる日が続いていましたが、今日は一転、朝から雨模様でこの天気は終日続くようです。

一日雨というのは久々であり、梅雨らしいといえば梅雨らしい静かな一日になりそうな気配なのですが、しかしこんな日なのに、なぜか今日は「雷記念日」なのだそうです。

そのいわれは、930年(延長8年)に平安京の清涼殿に落雷があり、たくさんのお公家さんが亡くなったことに由来するようです。旧暦の6月26日ですから、現在ではほぼひと月遅れの7月の終わりごろのころのことだったようです。

この時落雷の直撃を受けて亡くなった一人に、大納言の藤原清貴がいます。このころ右大臣にまで上り詰めていた菅原道真の太宰府への左遷に関わった一人とされており、このため、この落雷は道真のたたりであると信じられるようになりました。

この道真失脚の政変は、昌泰4年(901年)に起こったことから「昌泰の変」といわれています。

醍醐天皇の治世下で昇進を続た道真の主張する中央集権的な財政に対して、朝廷への権力の集中を嫌う藤原氏などの有力貴族が反撥したために起こったものでした。

道真の進める政治改革には、現在の家格に応じたそれなりの生活の維持を望む中下級貴族の多くが不安を感じていたといい、このため道真の排除の動きに同調するものも多く、醍醐天皇も道真によって朝廷が牛耳られていることを快く思っていなかったようです。

こうして、道真は簒奪(本来君主の地位の継承資格が無い者が、君主の地位を奪取すること)を謀ったと虚偽の告訴をされ、罪を得て大宰権帥に左遷されることになりますが、左遷先の大宰府で、失意のなかわずか二年後に亡くなっています。

道真が京の都を去る時に詠んだ「東風(こち)吹かば 匂ひをこせよ梅の花 主なしとて春な忘れそ」はあまりにも有名です。その梅が、京の都から一晩にして道真の住む屋敷の庭へ飛んできたという「飛梅伝説」もまた有名なお話であり、前にこのブログでも取り上げました。

ところが、その道真の死後、京には相次いで異変が起こるようになります。

まず道真の政敵であり、その左遷の首謀者であった藤原時平が延喜9年(909年)に39歳の若さで病死します。さらにこれから14年後、同じく左遷に賛成した醍醐天皇の皇子で時平の甥にあたる東宮の保明親王が延喜23年(923年)に薨去(こうきょ・皇族以上の崩御のこと)。

次いでその息子で皇太孫となった慶頼王もまた延長3年(925年)に亡くなります。慶頼王もまた時平の外孫に当たる人であり、これで時平を含めて醍醐天皇ゆかりの人物三人が次々と亡くなったことになります。

京の巷では、これだけでも道真の祟りではないかと噂がたちはじめていたといいますが、そんな中、930年(延長8年)の6月26日に、醍醐天皇がいる清涼殿である朝議が行われることになりました。この朝議での主な議題は、この年に生じていた平安京周辺の干害に対して、雨乞いの実施をやるかどうか、その是非について議論することだったそうです。

ところが、会議が始まってまもなくの午後1時頃より愛宕山上空から黒雲が垂れ込めて平安京を覆いつくして雷雨が降り注ぎはじめ、さらにはそれからおおよそ1時間半後に遠くから雷鳴が轟き始めました。雷鳴は徐々に清涼殿のほうに近づいてきて、近くで稲光が見えたと思った瞬間、突如、清涼殿の南西の第一柱に落雷が直撃。

この落雷に周辺にいた公卿・官人らが巻き込まれます。公卿では大納言民部卿の藤原清貫が衣服に引火した上に胸を焼かれて即死。右中弁内蔵頭の平希世も顔を焼かれて瀕死状態となりました。清貫は陽明門から、希世は修明門から車で秘かに外に運び出されましたが、希世も程なく死亡しました。

落雷は清涼殿だけでは終わらず、引き続いて隣の紫宸殿(ししんでん)にも走り、右兵衛佐美努忠包が髪を、同じく紀蔭連が腹を、安曇宗仁が膝を焼かれて死亡、更に警備の近衛も2名死亡。この一連の落雷によって全部で7人も死亡するという大惨事になりました。

このとき清涼殿にいたものの、危うく難を逃れた他の公卿たちも大混乱に陥り、この場に居合わせた醍醐天皇もまた、急遽清涼殿から常寧殿(じょうねいでん)という別の棟に避難しました。しかし、目の前で起こった惨状は彼にとってかなりのショックだったようで、この事件を境に体調を崩し、それから3ヶ月後に崩御してしまいます。

天皇の居所に落雷したということも衝撃的でしたが、死亡した藤原清貫は、かつての昌泰の変の際、菅原道真の動向監視を藤原時平に命じられていたこともあり、清貫は道真の怨霊に殺されたという噂が瞬く間に京中に広まりました。

こうして、この清涼殿落雷の事件以降、菅原道真の怨霊は雷神と結びつけられるようになります。道真の怨霊が雷を操ったのだということとなり、道真が雷神になったという伝説が全国的に流布するようになっていったのです。

このため、朝廷は京都の北野には北野天満宮を建立し、ここに火雷天神を祭って道真の祟りを鎮めようとしました。そして、以降百年ほどの間、大災害が起きるたびに道真の祟りとして恐れ、北野天満宮にはその度ごとに祈りが捧げられるようになりました。

やがては北野天満宮の末社が全国に作られるようになり、こうして「天神様」として信仰する天神信仰が全国に広まることになっていきます。各地に祀られた祟り封じの「天神様」は、そもそもは災害を封じるための神様だったものが、やがて災害の記憶が風化するに従い、道真自身をも祀る神社になっていったものが多いようです。

道真は生前優れた学者・詩人であったことから、後に天神は学問の神として信仰されるようになり、その多くが現在のように受験生にとって無くてはならないものになっていったわけです。

ちなみに、清涼殿の大参事を道真の祟りだと恐れた朝廷は、これ以降、道真に贈位を行い、また同じく流罪にされていた道真の子供たちの罪を解いて京に呼び返しています。

ところが、落雷のあった930年よりも7年前の923年(延喜23年)には既に朝廷は道真の罪を赦しています。この年までに藤原時平や保明親王が相次いで亡くなったことから、このとき既に彼らの死は道真の祟りだと考え初めていたのでしょう。既に道真は亡くなっていましたが、朝廷は生前の官位であった右大臣に復し、正二位を贈っています。

清涼殿の落雷以降に道真が復権したというふうに考えている人が多いと思いますが、実際にはこの事件よりも前から道真は赦されていたのです。

しかし、この落雷事件により改めてこれは重大事件だと朝廷も認識したのでしょう。改めて道真の霊を鎮めるための対策を本格的にやらなければならない、と考えたでしょうが、と同時に、どうせならこの事件をうまく利用しようと考えたのかもしれません。

おそらくは、この落雷事件を契機として北野八幡宮などの建立を行い、これを「災害対策」として知らしめることで人心を集めたかったのではないかと思います。この事件を契機として、こうした大災害はすべて道真の怨霊のせいにし、これを鎮めるための末社を全国に建立していくことで各地に朝廷の権威を流布したかったものと思われます。

各地での神社の建設は公共事業による景気対策の面もあり、かつこの当時はこうした神社にお参りして、荒ぶる神様の霊を鎮めることこそが「災害対策」であったわけです。

こうして道真の死はうまく利用され、怨霊として人々に恐れられるようになりましたが、一方で荒神様として崇めたてられるようにもなります。その後の災害対策にも大いに貢献したということで、朝廷は清涼殿の災害から63年後の正暦4年(993年)にさらに道真に正一位左大臣の位を贈り、また同年太政大臣の位まで贈っています。

こうした名誉回復の背景には、「災害対策の功労者」として道真を認めたということもあるでしょうが、道真を讒言した時平が早逝した上にその子孫が振るわず、道真にも好意的だった時平の弟・忠平の子孫が藤原氏の嫡流となったことも関係していたといわれています。

さて、日本ではこのように雷といえば神様であり、その神様が変じて菅原道真もまた雷神の象徴ということになってきたという経緯がありますが、諸外国でも古来より、雷は神と結びつけて考えられることが多かったようです。

ギリシャ神話ではゼウスがやはり雷神様であり、ローマ神話でもユピテルこと、「ジュピター」こそが雷神です。インドでもバラモン教のインドラは天空の雷神であり最高神です。

欧米ではカシが特に落雷を受けやすい樹木とされたのでゼウス、ユピテル、北欧神話のトールの宿る木として崇拝されたそうで、欧州の農民は住居の近くにカシを植えて避雷針がわりとしたとか。また、犬、馬、はさみ、鏡なども雷を呼びやすいと信じていたので雷雨が近づくとこれらを隠す風習があったといいます。

雷雨の際に動物が往々紛れ出ることから雷鳥や雷獣の観念が生まれ、アメリカ・インディアンの間では、その羽ばたきで雷鳴や稲妻を起こす巨大な鳥が存在すると考えられましたが、この鳥こそがあの「サンダー・バード」です。

アメリカインディアンの造るトーテムポールの先端にこのサンダー・バードの彫刻がされているのを見たことのある人もいるでしょう。姿は大きな鷲で、羽の色は雷のようであり、雷の精霊で自由自在に雷を落とすことができ、獲物も雷で仕留めるといわれていますが、アメリカでは、これを実際に「目撃した」とされる人が過去に何人もいます。

日本でいうところの「ツチノコ」あるいは河童のような存在というわけですが、この話は長くなりそうなので、また次の機会にしましょう。

話はまた日本に戻りますが、日本神話において雷は「最高神」という扱いは受けてはいませんが、雷鳴を「神鳴り」とも書くことからわかるように、道真の一件よりももっと古くから信仰されてきていました。

日本書記などではすでに葦原中国(日本)を平定した神さまとして、タケミカヅチ(建雷命、建御雷、武甕槌)が登場しており、これは雷神の代表という扱いでした。

平安以降、各地にある天満宮こそが雷神様の祭りどころという認識が定着していきましたが、これよりも前から日本各地に「雷電神社」と呼ばれるものがあり、このほかにも「高いかづち神社」などがありました。

これらの神社では、火雷大神(ほのいかづちのおおかみ)・大雷大神(おおいかづちのおおかみ)・別雷大神(わけいかづちのおおかみ)などを祭神としていましたが、平安時代以降は人々に禍をもたらす神と考えられるようになり、天神の眷属(けんぞく)神として低い地位を占めるようになっていきます。

雷が起きると、落雷よけに「くわばら、くわばら」と呪文を唱える風習が今も残っていますが、これは、菅原道真の土地の地名であった「桑原」にだけ雷(かみなり)が落ちなかったという話に由来します。

平安時代に藤原一族によって流刑された道真が恨みをはらすため雷神となり宮中に何度も雷を落とし、これによって藤原一族は大打撃を受けることになったわけですが、このとき唯一、桑原だけが落雷がなかったので後に人々は雷よけに「桑原、桑原」ととなえるようになったといわれています。

「神鳴り(かみなり)」は言うまでもなく、その昔雷は神が鳴らすものと信じられていたためこう呼ばれるようになったわけですが、さらに古語や方言などでは、いかづち、ごろつき、かんなり、らいさまなどの呼び名もあるようです。

一方、雷は、「いなずま(いなづま)」とも言われます。その語源は稲が開花し結実する旧暦(太陰暦)の夏から秋のはじめにかけて雨に伴い雷がよく発生し、その落雷によって大気中の窒素が田畑に固着されるため、稲が良く育つようになります。これは本当の話のようです。

しかし、昔の人は、落雷した稲穂は雷に感光することで実るというふうに誤解していたため、雷を稲と関連付けて稲の「つま(=配偶者)」として、「稲妻」と呼ぶようになり、ときには言い方を変えて「稲光」(いなびかり)などと呼ぶようになったといわれています。

雷は田に水を与えて天に帰る神であったため、今でも農村では雷が落ちると青竹を立て注連縄(しめなわ)を張って祭る地方があるそうです。

また、どこの方言だか知りませんが、雷のことを「かんだち」と呼ぶところもあるようで、これは「神立ち」すなわち神様が現れるという意味で使われたのでしょう。

……とここまで書いてきたのですが、この後に続く「雷の歴史」なんてものがあるわけでもなく、これ以上話の広がりはなさそうなので、ここからは、雷とは、そもそもどういう現象なのかということについても説明していこうと思います。

語源や由来だけ書いて、その原理を知らせないというのはこのブログではあってはならない……なんて妙な義務感をもっているわけではありません。ただ単に自分の理解としても整理しておきたかっただけです。

ただ、これを説明しようと思って調べたのですが、この雷という物理現象をわかりやすく説明するのはなかなか骨が折れそうです。

が、あえて難しいことろは省いて、できるだけ簡単に説明してみましょう。

まず、雷の定義ですが、雷というのは、一口で言うと、「電位差が発生した雲または大地などの間に発生する光と音を伴う大規模な放電現象」ということになります。

雷を発生させる雲を雷雲と呼び、その時に雲は「帯電状態」つまり電気を帯びた状態となっています。なぜ雲の中で電気が生じるかは後で説明するとして、こうして雲の中で生じた電気が放電現象を起こしたものが「雷」です。

雲の中だけで起こる放電現象の種類にはいろいろありますが、これらはまとめて「雲放電」と呼ばれ、雲と地面との間の放電を「対地放電」つまり、これが「落雷」ということになります。

一方、気象用語としては雷のことは総じて「雷電」といいます。「雷」とだけ単独に言わないのには理由があります。

雷には光がつきもので、雷の発生に伴う光は俗に「稲妻」と呼ばれますが、これが、「雷電」のうちの「電」にあたるものです。一方、雷に際しては大きな音響がおこります。これも俗には「雷鳴」といわれますが、これは「雷電」という用語の「雷(らい)」にあたるものです。

従って、「雷電」とは、光と音を伴う放電現象のことであり、このふたつを合わせた用語ということになります。通常我々は雷(かみなり)と単に言うことが多いのですが、雷を物理的に表現するには「雷電」のほうが正しいのです。

ただ、現実的には遠方で発生した雷は光は見えるものの、風向きの影響などで音が聞こえない事もあります。雷電のうち、雷がないので、ただの「電」じゃないかということになってしまいますが、これはその通りです。音がないので、気象状況としては「雷電」は発生していない状態ということになります。

このため気象庁などでは雷と認められるものを「雷とは雷電(雷鳴および電光)がある状態。電光のみは含まない」とわざわざ定義しているくらいです。

さて、ではどうやって雲の中で電気が発生するのでしょうか。

とくに夏などで、日照により地表が著しく温められ、これに伴い大気も暖められることなどにより上昇気流が発生します。高い湿度を含んだ上昇気流は、低い位置から高い位置へ運ばれる際に次第にその湿度が飽和状態に近づき、一定の水蒸気量を超えると水滴になります。

この時点はまだ雨とならず、「雲粒」という状態であり、これが集まって雲となり、気流の規模が大きいほど高空にかけて発達しますが、これが我々が夏空でよく目にする積乱雲、つまり入道雲です。

この水滴はさらに高空にいくほど低温になるため、氷の粒子である氷晶になります。この氷晶はさらに成長してやがて霰(あられ)にまでなり、さらに上昇気流にあおられながら互いに激しくぶつかり合って摩擦されたり砕けたりします。

このとき、霰とあられが擦れあうことで静電気が発生し、霰にはこの静電気が蓄積されます。しかし、こうして高所でできた霰は氷晶よりも重たいため、次第に入道雲の下のほうに溜るようになります。一方、軽い氷晶は霰よりも上空に残されたり、逆に持ち上げられたりしますが、このとき、霰にはマイナスの電気、氷晶にはプラスの電気が蓄えられます。

つまり、入道雲の上層にはプラスの電荷が蓄積され、下層にはマイナスの電荷が蓄積されるという状態になります。

霰はマイナス、氷晶はプラスに帯電する原因は、長らく研究者の間で議論されてきた経緯があり、これを簡単に説明するのは冗長になるのでやめておきます。諸説があり、これらを全体的観点からまとめたものは、「着氷電荷分離理論」という難しそうな題名が付いています。

が、結論だけ言うと、霰や氷晶がプラスになるかマイナスになるかについては、雲の中の「雲水量」つまり「湿度」が関係しており、湿度が「低い」状態で氷晶と霰が衝突すると、霰より低温の氷晶がプラスに、高温の霰のほうマイナスに帯電するのだそうです。

さて、上層に溜まった氷晶と下層の霰がそれぞれプラスとマイナスになり、この間の電位差がかなり大きくなると、霰や氷晶の間にある「空気」はもはや絶縁の状態を越え、ある一定の限界値を超えると霰や氷晶の中の電子が空気中に放出されるようになります。

この限界値は約300万ボルトというすさまじく高い値です。放出された電子はさらに空気中にある気体原子と衝突してこれを電離させます。

電離というのは、物理学の分野では「荷電」ともいい、空気の成分である酸素や水素の分子や原子が、この霰や氷晶から放出されたエネルギーを受けて、自らも電子を放出するようになる状態です。「イオン化」ともいい、インテリアオブジェの「プラズマボール」で見ることのできるプラズマもこの電離(イオン化)現象のひとつです。

要は空気などの気体を構成する分子が部分的あるいは完全に電離し、陽イオンと電子に別れて自由に運動している状態であり、ともかくエネルギー量がむちゃんこ大きい状態といえます。

さて、電離によって雲のなかには大量の陽イオンと電子が次々と作られていきます。生じた陽イオンは電子とも衝突して新たな電子を叩き出し、こうしてできた2次電子が重なりあっていくうちには団子状態となり、ついには、「雪崩(なだれ)」のような状態にまでなり、連続した放電現象が生じます。

このときこの「電子雪崩」は、雲の上層ではなく、雲の下層へ向って飛び交います。これがいわゆる「稲妻」です。ただ、この段階では電子雪崩は雲の中だけで起こっている状態です。飛行機に乗っているととき、ときどき雷雲を見る機会がありますが、このとき雲の中だけでピカッと光っているような稲光はこの状態の雷です。

一方、積乱雲の下層に溜まった霰によってマイナス電荷が蓄積されると、ここから遠く離れた地表では、今度はプラスの電荷が誘起されます。これを「静電誘導」といいます。この両者の間でも、電位差がある一定を超えると放電が起きますが、これがいわゆる「落雷」です。

落雷は大気中を走る強い光の束として観測されます。1回の放電量は数万~数十万アンペアもあり、電圧は1~10億ボルト、地上の電力に換算すると平均で約900GW(=100W電球90億個分相当)に及ぶというすさまじいものです。

エネルギーに換算するとおよそ900MJであり、もし、無駄なくこの電力量をすべてためる事ができるなら、家庭用省電力エアコン(消費電力1kW)を24時間連続で使い続けた場合、10日強使用できるといいます。

ただ、この落雷が発生する瞬間は、時間にすると1/1000秒程度でしかありません。この間に、発生する音が「雷鳴」です。雷鳴は、雷が地面に落下したときの衝撃音だと思っている人が多いと思いますが、これは間違っています。

放電の際にはすさまじい「熱」も発生するため、この熱量によって雷周辺の空気が「ぐわっ」と急速に膨張し、音速を超えることによって「衝撃波」が生じることによって音が発生します。よくジェット戦闘機が空を飛ぶときにものすごい音がしますが、この飛行機が音速を出す性能があったとしたら、その音はかなり雷鳴に近いでしょう。

ちなみに、この衝撃波が発生する際に、雷が周囲の与える熱量もものごいもので、1マイクロ秒という瞬間に周囲の大気の温度は局所的に2~3万℃に上昇するといいます。

ただ、この衝撃波、つまり雷鳴は音速で伝わるため、音が伝わってくる時間の分だけ、稲妻より遅れて到達します。雷の発生した場所が遠いほど、稲妻から雷鳴までの時間が長くなりますが、この時間を計れば雷が発生したところまでのおおよその距離もわかります。

これまでに経験的にかなりのデータが蓄積されてきたことから、この距離は割と簡単な計算式で求めることができます。

発現地点までの距離(自分を中心とした半径)をP 、稲妻が光ってから雷鳴が聞こえる瞬間までの秒数を Sとすると、その計算式は次のように表されます。

P=0.34×S(単位キロメートル)

従って、ピカッと光って雷鳴が聞こえるまで10秒だったとすると、雷はあなたを中心とする周囲3.4kmのかなたで生じたことになります。

雷鳴が聞こえるほどの雷までの距離は遠くてもせいぜい10~15kmくらいだそうですが、雷雲外へも放電があるような大きな雷の場合などでは、雷雲から30km以上離れていても雷鳴が聞こえることがあるといいます。

雷は、栃木県や群馬県、埼玉県、茨城県といった北関東で多く、これらの地方は「雷の銀座通り」等と呼ばれるほどです。ただこれらの地方の雷は夏に多く発生します。これに対して、北陸地方や新潟県、山形県庄内地方、秋田県などの日本海沿岸では、冬季に目立って多く発生します。

こうした「冬季雷」は、これらの地方では「雪起こし」、「ブリ起こし」、「雪雷」などと愛称で呼ばれることも多いそうで、「雪起こし」が観測されたときが冬の始まりであると言い習わされています。

夏期の雷が積乱雲から地面に向かって放電するのに対し、この冬季雷は、地面から積乱雲に向かって、上向きに放電されます。北関東地方の夏季の雷よりも少ないとはいえ、数百倍のエネルギーを持つものが確認されているほか、一日中発雷することも多く、雪やあられを伴うこともあり、危険なものです。

また、はっきりとした落雷が無くても瞬間的な停電などの被害が出ることもあるそうです。ただし、海岸線から35km以上の内陸部では少ないようです。

幸い、ここ伊豆を含めた太平洋岸ではあまり雷は多くないようです。我が家でも昨年来から一年過ごした中でも雷を見たり聞いたりしたのは数回ぐらいだったと思います。

が、いざ一度落雷が起こると先の清涼殿での出来事のように大参事になりかねません。この落雷のメカニズムや予測についてもこのあと引き続き書こうかと思いましたが、今日はもうすでにかなりの分量を書いてきたので、もうやめにしたいと思います。

ちなみに俳句においては「春雷」は春の季語、「雷」「遠雷」「軽雷」は夏の季語、だそうです。「稲妻」は秋の季語なのだそうで、これは、秋に稲を刈る関係からでしょうか。冬の季語は「寒雷」ということです。

今日の雨はこれから遠雷や軽雷をもたらすほどひどいものにはならないようです。が、九州や近畿地方ではかなりの降雨になるようで、雨だけでなく雷の発生も考えられます。十分に注意してほしいものです。

みなさんの地方でも雷が発生しないとも限りません。もし発生したら、前述の計算式で距離を計算して対策をとってみてください。たとえ落ちなくても、より雷を身近なものとして感じることができるでしょうから。

三保半島のこと ~静岡市清水区


一昨日の夕方から昨日にかけては、富士山の世界遺産登録の話題でどこのテレビ番組ももちきりでした。

懸念された三保の松原まで登録が認められ、文字通りの「満額回答」で関係者は大喜びでしょう。

先日のブログで私は三保の松原の登録に関しては悲観的な見解を書きましたが、あっさりと登録が認められたことには、少々の驚きもありましたが素直に喜んでいます。

しかし、三保の松原が認められたなら他にももっと綺麗に富士山が見えるところもあっただろうに、ほかの地域も一緒に申請すればよかったのに……という気もしないではありません。

そういえば今回の登録地は富士山の南東部を除く地域ばかりであり、沼津や三島などにおける富士山の観望地は含まれていません。無論、三保の松原のような歴史的な継承物がないためでもありますが、この地域では富士山の真ん前に愛鷹山がどんと立ちはだかり、富士の山容の大部分がスポイルされているためでしょう。

ならば伊豆半島や、箱根山はどうなの?箱根には関所という歴史的な場所もあるし、伊豆だって韮山や長岡といった北条・後北条氏にまつわる古刹も多く、これらの場所からの富士山の眺めは秀逸で、けっして三保の松原には負けない……と思うわけです。

なので、どうせ登録が認められるのだったならもう少し欲張っておけばよかったのではないか、と思うのは私だけでしょうか。

とはいえ、先日までは三保の松原は認められないのではないかという意見の方が多く、登録は「富士山およびそれと一体化した範囲」の構成資産と富士五湖だけにとどまるのではないかというのが大方の見方だったわけで、いざ認められたとなるとついつい欲張り根性を出してしまうのも考えものです。

登録されたといはいえ、今後はその維持が大変です。先日も書いたように三保の松原には松くい虫の問題や海岸浸食の問題が残されており、今後はこれを解消して、今後その登録が抹消されないよう努力し、登録の維持に尽力していってほしいものです。

ところで、この三保半島には、意外と知られていないいろんな施設があるのをご存知でしょうか。

例えば、三保の松原や羽衣の松といった富士山の景勝地といわれる場所以外にも、関連施設としては御穂神社という古いお社があります。

中世以降、この地域一帯の武士の崇敬を広く集め、とくに徳川幕府は慶長年間に壮大な社殿群を造営寄進したそうですが、寛文8年(1668年)、落雷のため焼失したため、今の社殿はその後仮宮として建てられたものがそのまま伝承してされているものです。

仮宮なので、正直言ってそれほど荘厳な、という印象のある神社ではなく、わりとこじんまりとしています。ただ、本殿は清水市指定有形文化財に指定されているそうで、三保半島一帯の地域の氏神様、そして清水・庵原といった近隣地区の総氏神として親しまれています。

社前には、樹齢200~300年の松の並木が500mほど続く「神の道」と呼ばれる参道があり、これを歩いて行った先が、天女が羽衣をかけたとされる樹齢650年の老松、羽衣の松です。

「羽衣の松」のお話というのは、こうです。

この地に降り立った天女が、羽衣をこの松に掛けて水浴びをしていたところ、この地で漁を営む漁師、白龍がこれを偶然発見(覗き見していたのかも……)。

そして天女が目を離したすきにこともあろうに、羽衣を奪いかくしてしまいます。返して欲しいと懇願する天女に対して白龍は、羽衣を返すかわりに天人の舞を見せて欲しいとずうずうしく頼みこみます。

天女は羽衣をまとい踊り始めますが、舞を舞いながら空中高く舞い上がると、唖然とする白龍を残し、そのまま空へと戻っていったのでした……

ところが、この天女が置いていったとされる、羽衣の切れ端が御穂神社内に安置されているそうです。天女が着て空へ帰っていったはずのこの羽衣が残っているわけがない、何故残されているんじゃぁ~ということになるわけですが、その理由については、みなさんのご想像にお任せします……

ちなみに、フランスの舞踊家で、エレーヌ・ジュグラリスという人は、大の日本好きであり、1940年代に独学で日本の「能」を研究していたそうです。そんな中でこの「羽衣伝説」を知り、これを題材にした作品「羽衣」を製作して発表、好評を得て、フランス各地で公演されました。

そして、来日してこの伝説の舞台となった三保の松原を訪れることを希望していたそうですが、白血病により1951年に35歳の若さで亡くなってしまいました。臨終の際には夫に「せめて髪と衣装だけは三保の松原に」と遺言を残したそうで、このため旦那さんは彼女の衣装と遺髪を持って来日したといいます。

この秘話に共感した地域住民により、1952年にエレーヌの功績を称え「エレーヌの碑(羽衣の碑)」が羽衣の松のすぐ近くに完成。この碑のたもとには彼女の遺髪が納められているそうです。

実は、御穂神社にも奉納の「舞い」が伝承されていて、これはその名も「羽衣の舞」といい雅楽の「東遊び駿河舞」がその原形だそうです。地元の保存会がその形式を伝えていて、毎年その再現の舞いが行われます。確か秋祭りあたりのことであり、この舞いが社殿前で披露されたのを私も学生のときに見に行ったような記憶があります。

この御穂神社の境内には山桜、かすみ桜など22種220本の桜も植えてあって、春になりこれらが満開になるとなかなかきれいです。ただし、うっそうとした松林の中に咲く桜なので、青空に映える開放感のあるサクラを期待している人のご期待には沿えないかもしれません。

御穂神社は駿河国三宮(三番目に格が高い)です。元慶3年(879年)に正五位下の神階を授けられたという記録も残っているそうで、由緒正しく格も高い神社といるでしょう。祭神は、大国主命(おおなむちのみこと)と三保津姫命(みほつひめのかみ)。

大国主之命は須佐之男之命(すさのおのみこと)の子供で「大黒様」の名で知られており、豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)、つまり日本を造った神様です。

この建国のとき、天照大神(あまてらすおおみかみ)はこれを大変喜ばれ、高皇産霊尊(たかむすびのみこと・天地開闢の神々のお一人)の御子の中でも一番みめ美しい三穂津姫命を大国主之命の后(きさき)にとお定めになったそうです。

そこで大国主命はと三穂津姫命は二人そろって羽車に乗り新婚旅行として景勝の地、三保の浦に降臨されて、我が国土の隆盛と繁栄を守るため三保半島のこの地に鎮座されたとか。

以後、御穂神社は後世まで継承され、一般民衆より「三保大明神」として親しまれるようになりました。大国主命彦神はいわば国土開発の神様ですから仕事関係にもご利益があるようですがまた、二神とも災いを払い、福をお授けになる神様として知られています。

が、一般的には夫婦和合・縁結び、安産子育て、福徳医薬の神、また航海安全、漁業、農業、文学、歌舞、音曲の神として仰がれているようです。

さて、三保半島にはこのほか、かつて「三保文化ランド」というレジャーパークがありました。

この三保半島内にある「東海大学海洋学部」の保有者である、東海大学が経営していたレジャー施設であり、その当時には世界各国の景勝地を模した野外模型や東海道五十三次などをテーマにしたミニチュアランドがあり、このほかにも人体科学博物館、なんてのもありました。確か、野外プールもあったと思います。

私の息子がまだかなり小さいころにも連れていったことがあり、かなり老朽化していたにも関わらず結構楽しめた記憶がありますが、残念ながら閉園してしまいました。

東海大学のHPによれば緑地公園としてリニューアルさせる予定だということで、三保の松原が世界遺産に登録された今、観光客を集めるために大幅な改築を予定しているに違いありません。いずれオープンすると思われるので、これから三保半島へ行ってみようと思われる方は要注目です。

この三保文化ランドは休園中ということなのですが、同じ敷地内には同じ東海大学が「海洋科学博物館・自然史博物館」というのを持っていて、こちらはいまだ健在です。

同大学の海洋学部に所属する「社会教育施設」という位置づけであり、その1階部分は水族館になっています。

エントランスには深さ6m、1辺10mの比較的大きなアクリル水槽があり、400種・2万尾以上の魚類が飼育されています。なかでも、マグロ・カツオなどの大型回遊魚が目玉で、これらの魚がハイスピードで泳いでいる様子が上下左右どこからでも見られるそうです。

このほか、体長18.5mのピグミーシロナガスクジラの完全骨格標本がある「マリンサイエンスホール」、ロボット魚が泳ぐ「機械水族館」や海洋開発資料など、海洋に関した展示物がたくさん備えられていて、小中学校の遠足や修学旅行などでここを訪れる学校も多いようです。我が息子も確か中学時代にわざわざ東京から遠足でここまで来ています。

巨大マンタが頭上に大接近の3Dハイビジョンシアター、世界のクマノミを集めたクマノミ水族館、クラゲギャラリーといった近代的な施設もあります。自然史博物館のほうは恐竜が主役で、全長26mのディプロドクスやトリケラトプスなどの巨大恐竜、マンモスの全身骨格標本15体ほどが揃えられています。

水族館が主宰の「夜間見学会」なんてのもあって、これは普段みることのできない「夜の魚の生態」を見せてくれるというもの。他の水族館では見られない試みであり、なかなか人気があるみたいです。

このほか、三保半島には、その先端に「清水灯台」と呼ばれる灯台があります。三保半島の東端に立つ白亜の小型灯台で、水平断面が八角形をしており、1912年(明治45年)3月1日に設置、初点灯されました。

1994年(平成6年)4月から無人化されまたが、それまでは海上保安庁の職員が常駐していたようです。というのも清水港は、国際拠点港湾に指定され、中核国際港湾にも指定されているほか、法令上は「特定港」にも指定される重要港湾だからです。

特定港というのは、吃水の深い船舶が出入できる港又は外国船舶が常時出入する港であり、かなり大きな客船や石油の満タン時にはかなりの吃水深になる大型タンカーまで入港できます。従って、この灯台にも港内におけるこうした大型船舶交通の安全及び港内の整とんを図ることを目的として職員が置かれていたようです。

日本で最初の鉄筋コンクリート造の灯台ということで、歴史的文化財的価値が高いので、海上保安庁としてもAランクの保存灯台に指定しています。一般には三保灯台と呼ばれることが多いのですが、海上保安庁による正式名称は「清水灯台」です。

ちなみに、ここからの富士山の眺めはなかなかのものです。すぐ目の前を清水港を出入りする大小の船が行き交い、その向こうには消波ブロックで少々眺めがスポイルされてはいるものの、どっしりとした富士山が悠然と構え見応えがあります。

その向こうに遥かに連なる海岸線と富士の組み合わせは、なかなか普段見れない光景であり、「世界遺産」といえるほどのものかどうかは個人的な好みにもよるでしょうが、なかなかのもの、とだけ言っておきましょう。

この灯台から数百メートル離れた場所には、三保飛行場というのがあります。これは日本飛行連盟が管理運営する赤十字飛行隊の飛行場です。従って、現在はこの赤十字飛行隊に所属している飛行機のみしか、飛行場の利用はできません。

一応、静岡「県」も利用できるということですが、実際にはほとんどが赤十字飛行隊に所属する飛行機の練習に使われているだけとなっているようです。

赤十字飛行隊とは日本飛行連盟に所属する飛行機の中で、日本赤十字社が行う災害救護や献血輸送に無償で飛行機を提供する組織団体です。確か私も学生のころ、何回か赤十字マークをつけた飛行機の発着をみたことがありますが、たしかセスナ機程度のかなり小型の飛行機だったような記憶があります。

ちなみに、この飛行場は、第二次大戦中は、海軍の「甲飛予科練」として使われていました。予科練とは海軍飛行予科練習生を育てる訓練施設のことです。予科練には甲乙丙種があり、甲種飛行予科練習生のことを甲飛予科練といいました。

甲乙丙種の違いは主には学歴の違いです。甲種は旧制中学4年1学期修了以上、乙種は高等小学校卒業以上で、それぞれが満20才を越えない者、志願者の中から選抜で選ばれました。

丙種はさらに乙種の中から選抜された者で、従って甲種の飛行予科練といえば、この時代のエースパイロットを育てるための学校といえます。甲種の訓練期間は1年2ヶ月ほどだったということですが、太平洋戦争終盤期には、訓練期間は大幅に短縮され、6ヶ月になっていたそうです。

予科練は昭和4年、横須賀の海軍追浜飛行場に始まり、この飛行場はその後茨城の土浦へと移転しますが、戦前戦中を通じてこのほか全国に19ヶ所に設けられました。その一つが清水甲種予科練です。

清水甲種予科練の飛行場としての三保飛行場は、太平洋戦争も終盤の昭和19年9月1日に開港し、第14、15、16期の甲種練習生の飛行訓練が行われましたが、訓練途中からは戦況が悪化したことから水上、水中特攻訓練も行われたといいます。

しかし、結局この予科練からは特攻隊に配属された練習生は出ないまま昭和20年6月1日に清水甲種予科練は廃隊となりました。その理由はおそらく戦争末期になって練習生に飛ばさせる飛行機の余裕すらもなかったためでしょう。

この廃隊に伴い、練習生も即戦地へ投入ということになったらしく、突撃隊へと再編成されたそうですが、幸いなことにその訓練の最中に終戦を迎えました。

現在、三保飛行場の駐車場には、「甲飛予科練の像」が置かれており、ここがかつて軍事施設であった唯一の名残となっています。

軍事施設といえば、三保半島が天然の防波堤となっているその内側にある清水港そのものも第2次大戦のころまでは軍事色の強い港でした。昭和の初めには既に「軍事港」として指定され、1939年(昭和14年)ころから港周辺には日本軽金属、東亜燃料、日立製作所、日本鋼管といった軍の関連装備を造る工場が設立されました。

これらの出来上がった軍製品や清水港に陸揚げされた原料などを東海道線まで運搬するため、港から東海道線の清水駅(当時は江尻駅と呼ばれた)に輸送するために「臨港線」と呼ばれる鉄道が敷かれました。その後、清水港に「日の出埠頭」が建設されるとより大型船が入港できるようになり、これらの工場から出入りする物資もさらに増えました。

三保半島付近にも日本軽金属をはじめ、大小の工場が林立するようになったため、臨港線も三保まで延伸され、これは全長8.3kmの「清水港線」と呼ばれるようになりました。

各工場までも専用線が敷設され、清水港をぐるっと回る各所に設置された各駅から多くの引込み線が延びる形になりました。

現在も清水の街中に巴川という川が流れていますが、この巴川河口付近の「巴川口駅」には全国唯一の鉄道岸壁がありました。各工場で生産された海軍、陸軍の物資がここへ貨車で輸送され船積みされて各地へ運ばれると同時に、原料がここで船から荷揚げされ各工場へ運びこまれました。

清水港線となってからは旅客列車も運転されましたが、圧倒的に貨物列車の本数が多く独立した鉄道とはいえ、やはり貨物線という色が濃い鉄道でした。貨物輸送がメインだったため、トラック輸送への切り替えにより運行本数の減少、輸送量の低下によって赤字になり廃止となりました。

廃止されたのは、1984年(昭和59年)4月だったそうですが、私が学生だったころにはまだ運営されており、私も清水の街中へ出かけるときには時々使っていました。車窓からの眺めはそれほど風光明媚というほどではありませんでしたが、折り重なるように林立する工場の合間あいまからは入出港する大小の船が見え、独特の雰囲気がありました。

現在も三保半島の西側の清水港内側はこうした工場が林立しており、一般人は立ち入りできません。三保半島の中央部を走る国道からもこれらの工場が立ちはだかっていて、港内をみることができません。が、その反対側(清水市街側)の日の出埠頭側まで行くと、あぁ三保は本当に工場が多いな、と遠目にもわかります。

興味のある方は、近年、清水マリンパークや、清水マリンターミナル、エスパルスドリームプラザといった観光整備が行われている清水港中心部付近へ行ってみてください。ここから港越しに三保半島の「裏側」を見ることができるはずです。

が、三保半島を訪れる際には、かつてここもかつてはそうした軍事的要素の強い土地柄だったということも覚えておかれると良いでしょう。

さて、三保半島の話題だけで、結構な分量を書いてきてしまいました。

が、お分かりになったと思いますが、三保半島は富士山の眺めだけでなく、なかなか見どころも多い場所です。海岸線に出ると、ここからは青い駿河湾が一望でき、たとえ富士山が見えないまでも晴れ晴れとした気分になることができると思います。

なので、いまや世界遺産にも登録された、三保半島をぜひ一度訪れてみてください。ここに住んでいた私としては、えぇ~っ、あの場所が世界遺産!?……というのが本音なのですが、私のような変人の言うことにはあまり参考にしないほうがいいでしょう。

百聞は一見にしかず……です。ただし海越しの美しい富士山を見ようとおもったら時期はやはり秋から冬がいいでしょう。夏の間は富士山までの距離も遠いこともあって、なかなかくっきりした姿を見ることはできないと思います。

考えて見れば、かくいう私も若いころにここからの富士を見て以来、ここへ行っていないはずです。なので再び訪れればまた違った印象の富士山がみれるのかも。

そうそう、そういえば、現在、土肥~清水間の駿河湾フェリーは割引料金で利用ができるとか。天気の良い日を見計らい、駿河湾越しの富士山というのも見てみたいもの。ぜひとも実現させたいところです。

さて皆さんは三保半島に海から行きますか?それとも陸からでしょうか。