源兵衛川 ~三島市

今年も、もうあと残り二か月になりました。去年のいまごろは何をしていたかな、とブログを読み返してみると、ちょうどこの家の購入の手続きなどが完了し、リフォームのための打ち合わせに伊豆へ来ていたころのようです。

あのころはまだ家の内外ともにボロボロで、とくに庭は草が生え放題、荒れ放題で、ホントに庭として使えるんかしらん、と危ぶんだものですが、人間やればできるもんですね~。自分で言うのもなんですが、それはもう立派な立派な庭になりました。

先日まではこの秋二回目のキンモクセイの花が咲き、芳香が庭だけでなく家中に行きわたっていましたが、その花も終わり、今はモミジの葉が赤くなるのを待つばかりといったところです。

その後リフォームも完了し、最近は伊豆のあちこちに出かける余裕まで出てきましたが、あれほど雑然としていた家の内外がここまできれいになるとは、昨年のいまごろは想像もできませんでした。

今はもうあと残り少ない今年の締めくくりとして、この家に移ってきてから初めての大掃除をし、庭のフェンスのペンキ塗りをすることくらいでしょうか。ともかく、ここ数年では一番落ち着いた年末が迎えられそうです。

ところで最近、「今日は何の日?」といったサイトをちら見したりして、今日のブログのテーマなどをさがすこともよくあります。今日も、11月1日は何の日かな?と思っていつも見るサイトを見てビックリ! す、すごい。○○記念日のオンパレードではないですか。ざっとあげると、以下のような記念日になっているようです。

計量記念日(改正計量法が施行記念)
万聖節(別名、総聖人の日。キリスト教で、諸聖人と殉教者を記念する日)
灯台記念日(日本初の洋式灯台、観音崎灯台の設置日)
自衛隊記念日(自衛隊法が施行されたことを記念して制定)
炉開き(冬になって炉や炬燵など暖房器具を使い始める日。「炬燵開き」とも言う)
犬の日(「ワン・ワン・ワン」の犬の鳴き声から)
川の恵みの日(三重県多気町の会社が制定。「111」が「川」の字に似ていることから)
点字記念日(明治23年に日本語用の点字が決められた日)
生命保険の日(生命保険協会が制定。「生命保険の月」の1日目の日。)
紅茶の日(大黒屋光太夫がロシアのエカテリーナ2世から紅茶を寄贈された日)
全国すしの日(全国すし商連が制定。新米が出回り、海山の幸がおいしくなる時期)
本格焼酎の日(作曲家の中山大三郎氏らが設立した世界本格焼酎連盟が制定)
泡盛の日(沖縄県酒造組合連合会が制定。11月は泡盛製造の最盛期のため)
玄米茶の日(全国穀類工業協同組合が制定)

なぜこんなに記念日が多いのか不明ですが、やはり夏が終わって涼しくなって人の動きも活発になり、年末までの時間も少なくなることから、できることは11月にやっておこう、でもどうせなら、その一番最初の日をスタートの日にしよう、ということなのでしょうか。

食べ物の記念日が多いのは食欲の秋ということなのかも。それにしても焼酎とか泡盛ってこの時期が一番おいしいんですね。すしもそうみたいです。炬燵に入り、熱い焼酎、または玄米茶を飲みながらおいしい寿司を食べ、そばにいる愛犬を愛でる。そういう日なのでしょう。

さて、昨日、三島の楽寿園のことを書きましたが、今日はその途中から少し話題にした「源兵衛川」について書いていきましょう。

この源兵衛川ですが、昨日も書いたとおり、楽寿園にある小浜池に湧き出る富士山の伏流水を水源とし、ここから1.5kmほど南にある、中郷温水池(なかごうおんすいち)という池まで流れる灌漑用水路です。

中郷温水池は、湧き水を稲作用水として利用するために水を温める人工池で、昭和28年に国、県の事業として建設されましたが、近年再整備され、周囲に植栽が施された気持ちの良い散策コースとなっています。南端は逆さ富士が美しく映る絶好の撮影ポイントとして知られており、私も今度その撮影にチャレンジしてみたいと思います。

この中郷温水池そのものは湧水池ではないようですが、三島界隈には、小浜池のような湧水池のほか、柿田川湧水群という有名な遊水池や丸池(清水町)などの湧水池がたくさんあり、これらの湧水を農業用水として使うため、縦横に灌漑用水路が造られてきました。

源兵衛川もそのひとつで、流路の一部が人工的に作られた川です。室町時代に久保町(現在の三島市中央町)に「寺尾源兵衛」という豪族がいて、このあたりの11カ村の耕地を灌漑するため、小浜池から湧き出る水を引き用水路を造りました。

この寺尾源兵衛さんを祖先とする方が今も三島市にすんでいらっしゃるそうで、その方は、三島大社と源兵衛川のちょうど間にある中央町というところでお菓子屋さんを営んでいらっしゃるということが、三島市のHPに書かれていました。

おそらくは三島広小路駅から三島大社までの商店街の一角にそのお店があるのだと思いますが、先日我々が訪れたときにはそれとは気が付きませんでした。

この三島広小路駅界隈は、こうした歴史のあるお店がたくさんあって、三島広小路から三島大社までの道はその昔「鎌倉古道」とも呼ばれた街道筋であり、現在この道はショッピング街路としてきれいに整備されており、お買い物がてらお散歩するのもとても楽しい場所です。三島大社や楽寿園に行く機会があれば、ぜひこの商店街も散策してみてください。

さて、水源を小浜池とする源兵衛川ですが、その下流の鎌倉街道と交わるあたりに広瀬橋という橋があり、このあたりまでを広瀬川と言う人もいるそうです。かつてこの川沿いに三島を代表する料亭があり、水が豊富なため、舟で料理を運んだという優雅な話も残っていて、その昔はかなりきれいな川だったようです。

ところが、小浜池から湧き出ていた豊富な水量が、昭和30年代中ごろから上流域での企業の水の汲み上げなどが原因として減少するようになり、これに合わせて三島周辺でも多くの工場などができたことから、これらの工場排水とゴミの投棄などにより、源兵衛川の汚染もひどくなりました。

こうした汚染は長い間放置され、源兵衛川はまるでドブ川さながらのようになっていましたが、1990年(平成2年)に、この川の流域が農林水産省の「農業水利施設高度利用事業」として開発されることが決定されたことから、源兵衛川にも「源兵衛川親水公園事業」としての手が加えられることになりました。

この事業の実施には、14億3千万円もの事業費が投入され、三島駅の北側(楽寿園の北側)にある「東レ株式会社」の三島工場もこの公園事業に協力することになり、小浜池からの湧水に加えて工場からの排水をきれいに浄化した水を流し、昔のような流量豊かで美しい水辺環境を取り戻すことに成功しました。

この源兵衛川の整備にあたっては、それに先立つこと7年ほど前の1983年、危機感を抱いた市民が「三島ゆうすい会」というサークルを発足させ、この活動が先述の農林水産省の「農業水利施設高度利用事業」へと結びつきました。

こうした町興しのために地域住民が立ち上がって行う環境整備のことを、「グランドワーク」と呼ぶことがあります。

もともとは、イギリスで1980年代からはじまった活動で、住民、企業、行政の三者が協力して、地域の環境を改善していこうというものです。行政と市民が協力し、これに企業が加わって地域社会を活性化することを目的としており、ただ単に環境を改善させるだけでなく、地域の経済的な面での隆盛もめざすことが多いのが特徴です。

日本ではこの源兵衛川のケースが初めてのグラウンドワークと言われています。1992年に「農業水利施設高度利用事業」の実施が着手されると同時に、もともとあった三島ゆうすい会を主軸に市内8つの市民団体が結束して「グランドワーク三島」を立ち上げました。

グランドワーク三島が手がけたプロジェクトは、源兵衛川の再生だけでなく、絶滅した水中花・三島梅花藻の復活、歴史的な井戸の復元、ホタルの里づくり、境川・清住緑地での原生林と湿地の復元、学校でのビオトープづくり、住民主導の公園などなどもあり、全部で30以上ものプロジェクトが企画されました。

そして、その具体的な実施のために1999年にはNPOまで創設し、このNPOは現在では20の市民団体が参加するネットワーク型組織に成長しています。

このNPOでは源兵衛川の再生にあたっては、1年半をかけてそのコンセプトを練り、50回以上も議論して水の都再生の行動計画を作ったといいます。また、グランドデザイン、建築、土木、造園などの専門家からなる設計者集団と、日本ビオトープ協会のメンバーや大学教授、トンボの研究家などの専門家からなる生態系アドバイザー集団のふたつの専門家集団を設立しました。

これらふたつの専門家集団をアドバイザー兼リーダー格とし、流域内の13町内会、2万人の住民が参加してこのプロジェクトに取り組むことになりました。

ところが、事前アンケートでは地域住民の98%が賛成だったのに、いざ事業が実施段階になると、例えば遊歩道が自宅前に通るとなるとプライバシーの侵害を危惧する住民などが現れ、遊歩道を右か左にするかで調整が難航するなどの問題が続出しました。

しかし、こうした問題をNPOと地域住民が話し合いながら、事業はひとつひとつ進展していきました。そして整備が進むにつれ、地域住民の意識も次第に変わっていきました。

遊歩道を嫌い、高い塀を設置することを主張していた住民などは、いざ遊歩道が完成するとその塀を取り去り、自宅前に草花を植えるようになりました。ひとつ環境が改善されたことで、さらにその環境を向上させようというふうに住民の姿勢が変わっていったのです。

源兵衛川の整備事業においては、景観を優先するために、住民宅や遊歩道と川の間に堤防や背の高い柵などは設けてありません。住民自らが「自分たちの手で整備した環境」という自覚があるので、万一の溢水などの事故の場合でも自己責任の範囲であるから我慢できるという考えが浸透しているのです。

こうした住民にアドバイスを行った設計家集団の一人の方は、「倒れて水を飲み、少々の怪我をするのが自然」と住民に語ったそうで、こうしたアドバイスを受け住民たちは少々の危険は意に介さなくなったといいます。

こうして、街中にありながら限りなく自然に近いような環境が整備され、水辺がきれいになった結果、源兵衛川では、蛍やカワセミが生息するようになりました。我々二人がちょうどこの川の遊歩道を歩いているときも、一羽のカワセミが下流から上流まで飛び去っていきました。こんな街中でカワセミを見るというのは初めての体験です。

この自然豊かな河川整備にあたっては、自然保護のために人を入れないようにすべきである、と知事に直訴する大学教授がいたそうです。しかし、グランドワーク三島の面々は、単なるビオトープではなく、人々が集う「ビオガーデン」をめざすべきだと考え、こうした意見を退けました。

「自然の生命力は強い。たとえ子どもたちが沢蟹を取ってしまってもすぐに戻ってくる。」と考えたそうで、生態系アドバイザー集団の方々がわざわざ調査を行い、人が入ることで自然が損なわれないことを確認し、その上で遊歩道を拡張していったといいます。

しかし、豊かな環境は取り戻せても、地域社会をとりまく行政や企業なども取り込まなければ、グラウンドワークの目標である、「地域活性化」と「経済的な成長」の両立はありえません。

このため、グランドワーク三島では、右手にスコップ、左手に缶ビール」というキャッチフレーズを合言葉に、まず自分たちで川に入ってゴミをすくい、どのような川にしたいか議論したそうです。

企業や行政に対して発言するためには、自己責任を取りながらまず考えるのが前提である、と考えたためです。そして、源兵衛川の汚染は、地域住民のみならず企業にも社会的責任(CSR、corporate social responsibility)があることを訴え続けた結果、これら周辺の企業の中から「東レ」のように、住民が川を清掃することを条件に工場の冷却水を供給することに同意するような企業が現れてきたのです。

一方、主たる「行政」である三島市は当初、環境改善には意欲的ではなかったそうです。そこで、グラウンドワーク三島では、行政の資金を当てにしないことにし、例えば水のみ場の設置では、そのモデルを自らの設計家集団がデザインしました。

そしてその水場の設置費用80万円のうち、30万をグランドワーク三島が出し、30万を他団体、20万を企業から調達し、管理は自らで行うことにしました。

こうした活動をみた三島市では、ようやくグランドワークの活動を認めてくれるようになり、その後の水飲み場の設置などについては、市が負担することになったといいます。

グランドワーク三島の活動には、静岡県のお役人も関与しているそうです。県の「NPO推進室長」が参加しており、こうした協力により行政情報はもちろんのこと、議会や市長の情報も入ってきたといい、グラウンドワークを推進する住民らにとって、これほど頼もしい存在はありません。

NPO法人としてのグラウンドワーク三島の会長さんは、三島駅前に9ヘクタールもの土地を所有する資産家だそうで、他にも地元の名士や顔役約70名が名を連ねているそうです。

よくありがちな住民だけで形成された社会団体ではなく、そこには行政や地元の有力者も参加しており、これに設計者集団や生態系アドバイザー集団といった専門家が加わり、民力・行政力・財力・知力のよっつの力が結集した結果、駅前を流れるドブ川をホタルやカワセミが飛び交う自然の川に変えるというマジックが実現したわけです。

この四つの中でも、川に最も身近な存在が沿川の地域住民です。プロジェクトの進行にあたっての集会などで、これらの住民たちはまず、「自分たちの役割は何か」徹底的に議論したそうです。

例えばゴミ捨て場になった空き地を「鎧坂ミニ公園」に整備した例では、まず誰がどのような目的で使うのかを議論し、アンケートを数十回も実施し、見学会やワークショップも重ねた上で専門家に絵も描いてもらったといいます。

その結果、デザインと管理の仕組みが住民の役割だという理解が浸透し、これもよくありがちな、できあがった施設の管理は「放りっぱなし」ということもなく、完成後も住民の管理によりその美しさが保たれ続けているといいます。

住民を巻き込むために、「ワンデイチャレンジ」や「ワンナイトチャレンジ」といったしくみも活用されたそうです。

例えばひとつの公園を造るという、「ワンデイチャレンジ」では、半日を使ってみんなで集中して作業をし、その作業が終わったあと、みんなで酒を飲むのです。皆で取り組む意義を、身をもって知ってもらい、かつそれが出来上がった喜びを皆で分かち合うためです。

昼間忙しい人のためには、「ワンナイトチャレンジ」を行い、夜9時頃から夜中まで集中してみんなで工事を行い、そのあとまたみんなでお酒を飲んだといいます。

住民の中には文句を言うだけの人もいたそうですが、その人たちをいかに引っ張り出すかをみなが算段すること自体がまた、ひとつの「川」を中心としたコミュニティの活性化にもつながっていくわけです。

グランドワーク三島は現在、「バイオトイレ」などの環境コミュニティビジネスにも参入しているそうです。

タンクに杉チップが入っており、これがし尿を水と二酸化炭素に分解、この水を洗浄水に再利用します。なかなか利用が進まない杉山の間伐材を有効利用し、これを切り出して乾燥させ、チップ状にして利用します。トイレ一つで150本の杉が必要になるということで、現在、2ヘクタールもの杉山を借りる計画でいるとか。

しかもその杉の木のチップ化の作業は障害者のある人たちに手伝ってもらう予定だそうで、いずれカンボジアのアンコールワットへの輸出することも計画中といいます。

ここまでくると、もう単なる河川環境整備ではなく、ひとつの「一大事業」であり、その事業に官財民と有識者すべてが関わっているという点が素晴らしいと思います。

今、国会では与野党が自分たちの利益のみを追い求めているかのような乱戦が繰り広げられていますが、いろんな異なる分野の人間がそれぞれの持ち味を生かし、それを持ち寄ってひとつの事業を成功したこの源兵衛川の実例を参考にすれば、彼らもまた一大連携を図る道筋がみえてくるのではないでしょうか。

長年公共事業に関わってきた私ですが、久々に良い事例を見たと感心しています。

実際、源兵衛川は、かつての失われた川を市民参加型のまちづくりで取り戻した優良事例として高い評価を受けています。

2004年の「土木学会デザイン賞」では最優秀賞を、2005年には「手づくりふるさと郷土賞」(地域整備部門)や都市景観大賞の「美しいまちなみ大賞」を受賞。

さらに2006年にも「優秀観光地づくり賞」で金賞に選ばれているほか、平成の名水百選、水と緑の文化を育む水の郷百選、疎水百選などに選ばれており、数ある賞や選抜の栄誉を総なめといったかんじです。

「桃李言わざれども下自ずから蹊を成す(とうりいわざれども、したおのずからけいをなす)」ということわざがあります。

桃やすももは何も言わないけれども、花の美しさに惹かれて多くの人が集まってくるから、こうした木の下には自然と道ができるという意味です。

源兵衛川にも美しい富士山からの湧水が流れており、この水の美しさにひかれて多くの人が集まり、美しい自然豊かな川と道ができました。

あなたの住む町にも汚れた自然があったら、もう一度見直してみてください。きっと再生できそうなもとのままに近い部分が残っているのではないでしょうか。そしてそこに集まってくる人を少しずつ増やしていけば、そこからその自然を再生する筋道も見えてくるかもしれません。

楽寿園 ~三島市


きのう、三島にちょっとした用事があったため、そのついでにと、タエさんと二人で三島駅のすぐ南側にある、「楽寿園」にはじめて行ってきました。

この楽寿園、すぐ近くには三島大社もあり、江戸時代までは、愛染院といわれたお寺や(現在は廃寺)、浅間神社、広瀬神社、といった古い神社のある社寺域だったそうですが、1890年(明治23年)に皇族の「小松宮家」の「彰仁親王」の住居が造営され、その庭とともに広大な邸宅となりました。

彰仁親王ってどのくらいエライひとだったのかな?と調べてみたところ、「伏見宮」の「邦家親王」という皇族の第八子だそうで、この邦家親王のさらにお父さんの「貞敬親王」という人が、江戸時代に皇位継承候補として名が挙がったことがあるそうです。

なので、「伏見宮家」とは、その中からは天皇が出てもおかしくないお家柄で、この「彰仁親王」も幕末の1858年(安政5年)に、仁孝天皇の猶子(後見人的な養子)となり、京都の「仁和寺」の門跡にも就任したことから、1867年(慶応3年)から、「仁和寺宮」「嘉彰(よしあきら)親王」と名乗るようになりました。

明治維新後は、軍事総裁などに任じられ、戊辰戦争では、奥羽征討総督として官軍の指揮を執ったほか、明治7年に勃発した佐賀の乱においては征討総督として、また、同10年の西南戦争にも旅団長として出征し乱の鎮定に当たるなど、皇族ながらも軍人としての前半生を送っています。

1881年(明治14年)には、こうした軍人としての功労が顕彰され、家格を「世襲親王家」に改められ、その翌年の明治15年に、宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで「小松宮」その名も「彰仁」に改称しました。

この人物は、ヨーロッパの君主国の例にならって、皇族が率先して軍務につくことを奨励し、自らも率先垂範したそうで、1890年(明治23年)には、自ら陸軍大将に昇進し、近衛師団長、参謀総長を歴任、日清戦争では征清大総督に任じられ旅順にまで出征。そして、1898年(明治31年)に元帥府に列せられ「元帥」の称号を賜っています。

「皇室外交家」として国際親善にも力を入れていたようで、明治19年にはイギリス、フランス、ドイツ、ロシア等ヨーロッパ各国を歴訪。また、1902年(明治35年)には、イギリス国王エドワード7世の戴冠式に明治天皇の名代として臨席しています。

このほか、社会事業では、日本赤十字社、大日本水産会、大日本山林会、大日本武徳会、高野山興隆会などの各種団体の総裁を務めたそうで、現在の皇族の方々が行っているような「公務」のことごとくを任じ、このため「公務の原型を作った人」として歴史に名を刻まれるようになりました。

しかし、この小松宮彰仁親王も1911年(明治44年)に没(享年57才)。このため親王の別邸として整備されたこの邸宅は、1910年(明治43年)に行われた日韓併合から、王公族として日本の皇族に準じる待遇を受けるようになった、韓国の王世子(皇位継承第一順位の皇太子)である「李垠(りぎん)」という人のものとなりました。

李垠は、李氏朝鮮(朝鮮国)が大韓帝国と改称した年に生まれ、大韓帝国第二代皇帝の「純宗」が即位のときに大韓帝国皇太子となりました。

幼少期に当時日韓併合による韓国および朝鮮半島一帯の統治を検討していた日本政府の招きで訪日し、学習院、陸軍中央幼年学校で学び、その後も陸軍士官学校で教育を受けており、こうした経歴は清朝におけるラストエンペラーこと、愛新覚羅溥儀とどこか似ています。

持ち主がこの李垠に変わったことで、この別邸も「昌徳宮」と呼ばれるようになりましたが、1927年(昭和2年)に、伊豆出身の資産家の緒明圭造(おあけけいぞう)という人へ売却。

この緒明圭造という人物がどういう人物だったのかよくわかりませんが、伊豆の戸田に同じ緒明性で「緒明菊三郎」という人がおり、おそらくはその人の子孫だと思われます。

この緒明菊三郎という人は、このブログでもたびたび取り上げてきた「ヘダ号」の造船に関わった父の嘉吉について洋式造船の技術を学び、その後各江戸に出て隅田川で一銭蒸気船を始めて財を成し、東京の第4台場で「緒明造船所」を造り、日清戦争、日露戦争の頃には日本の造船王、海運王にまで成った人です。

李垠による昌徳宮の売却の理由はよくわかりませんが、李家はこの広大な敷地と別邸を維持していくだけの十分な資金援助を日本政府から得ていなかったのではないかと思われるフシがあります。

このため生活費に窮し、昌徳宮まで売ろうと思いましたがなかなか売れないので、とうとう切り売りしようとしたところ、緒明圭造がこの話を聞き、東海の名園が無くなるのは勿体無いということで、昭和2年当時、三島町の年間予算が30万円の時代に当時の金額、百万円を出し、これを買い入れたということです。

この李垠という人は、これに先立つ1920年(大正9年)に、日本の皇族の梨本宮家の第一女子、方子(まさこ)という人と結婚しています。その婚礼の直前に婚儀の際に朝鮮の独立運動家によって暗殺されそうになっており(李王世子暗殺未遂事件)、こうしたきな臭いご時世において、昌徳宮のようなオープンな場所は適当ではないと判断したのが別の理由だったかもしれません。

ちなみに、この夫婦には結婚の翌年に「晋」という名前の男子が誕生しており、1922年(大正11年)、夫妻は、この子を連れて朝鮮を訪問。李王朝の儀式等に臨みましたが、帰国直前にこの晋は急逝しています。

晋の死は急性消化不良と診断されていますがその一方で、日本軍部による毒殺説が流布されています。日本人の血が流れる子が李王朝側で利用されるのを恐れたとか、いろいろ説はあるようですが、詳細は歴史の謎の奥のままです。

方子妃はその後も、自分に課せられた日本と朝鮮の架け橋としての責務を強く自覚し、祖国を離れて日本で暮らす夫の李垠を支えましたが、そのまま第二次世界大戦に突入。やがて日本の敗戦による朝鮮領有権喪失と日本国憲法施行に伴い、李垠・方子夫妻は王公族の身分と日本国籍を喪失して一在日韓国人となりました。

その後、邸宅・資産などを売却しながら、細々と生活を送っていましたが、戦後の大韓民国の初代大統領「李承晩」は、二人が戦時中から日本軍属の肩入れをしてきたことをとりあげて韓国への帰国を拒否。このため祖国に帰ることもままならず、そんな中、李垠は1960年(昭和35年)に脳梗塞で倒れます。

李承晩退陣後の1963年(昭和38年)、朴正煕大統領の計らいで夫妻はようやく帰国を果たすことができ、二人の生活費は韓国政府から支出されるようになり、ようやく夫婦に安堵の生活がもたらされるようになりました。しかし、その生活も長く続かず、李垠は1970年(昭和45年)に死去(享年73)。

その後、韓国に帰化した方子夫人は李垠の遺志を引き継ぎ、当時の韓国ではまだ進んでいなかった障害児教育(主に知的障害児・肢体不自由児)に取り組むようになりました。

趣味でもあった七宝焼の特技を生かし「ソウル七宝研究所」を設立して、自作の七宝焼の他にも書や絵画を販売したり、李氏朝鮮の宮中衣装を持って世界中を飛び回り王朝衣装ショーを開催する等して資金を集め、知的障害児施設や知的障害養護学校を設立。

戦後は元日本人皇族である方子夫人に対して、韓国の人々からは厳しい目が注がれていたようですが、やがて、こうした方子夫人の貢献が韓国国内でも好意的に受け止められるようになり、1981年(昭和56年)には韓国政府が「牡丹勲章」を授与。韓国人「李方子」としてようやくそしてその功績が認められました。

その後方子夫人は、終戦後の混乱期に韓国に残留したり、終戦の混乱の中にあってさまざまの事情を抱えた日本人妻たちの集まりとして、「在韓日本人婦人会」を設立し、これを「芙蓉会」と命名してその初代名誉会長を勤めました

また、韓国の知的障害を持つ子供のための福祉活動や病気治療のために度々来日し、その際、昭和天皇や香淳皇后を始めとする皇族にも面談して日韓両国の友好を訴えたりしていますが、その際、かつての皇室内の親族とも会う機会を持ったといいます。

1989年(平成元年)4月30日逝去、享年87。葬儀は旧令に従い、韓国皇太子妃の準国葬として執り行われ、日本からは三笠宮崇仁親王夫妻が参列し、後に韓国国民勲章槿賞(勲一等)を追贈されたそうです。

このような激動の時代を生きた「韓国人夫妻」のもと住居であった昌徳宮は、1952年(昭和27年)に三島市によって購入され、同年7月から「楽寿園」に名前を変え、市立公園として一般公開されるようになります。

1954年(昭和29年)には小浜池(こはまがいけ)と周囲の自然林・植生を含む庭園が国の天然記念物および名勝に指定され、さらに内部の整備が進められ、現代に至るまで三島市民の憩いの場であるとともに、観光名所としても名をあげ、市外からも多くの人が訪れるようになりました。

楽寿園は、そもそも富士山が約1万4000年前に噴火した際に流出した三島溶岩の上に造られ、もとから富士山の雪解け水が豊富な場所に造られました。この三島溶岩流の跡は園内各地に露頭していて、あちこちに「縄状溶岩の跡」とかいろんな溶岩の地質学的な名称やその説明看板が出ています。

小浜池は、敷地内の一番南側にあり、ここからは富士山からの湧水がこんこんと湧き出ています。この池を起点として、蓮沼川と源兵衛川という川がその南側に広がる三島市街域を流下っていますが、池の水位は季節によって変化し、降水量の多い夏期に増加、冬季に減少します。

この小浜池は、かつては三島湧水群を代表する水量を誇ったといいますが、昭和37年頃から湧水の枯渇が続いており、私たちが行ったときにも、池の一番中央部分にはほとんど水が貯まっていませんでした。工業用水の汲み揚げとの関係が指摘されています。しかし、雨量の多いときなどには結構貯まることもあるそうで、今年も9月頃にはかなり上のほうまで水位が上がったということです。

小浜池そのものはあらかた干上がってしまっていますが、一定量の湧水はまだまだ湧きだし続けていて、園内にはあちこちに浅い沼ができあがっていて、その周囲には緑陰ができ、水鳥や昆虫たちが集まるオアシスになっています。沼からあふれた水は南側へ溢れ出し、これが源兵衛川や蓮沼川といった市内を流れる清流の源泉となっています。

小浜池には、これを借景にして、旧昌徳宮だったころの京都風の高床式数寄屋造りの建物がしつらえられていますが、我々は時間の関係もあって、内部には立ち入りませんでした。かつてはそこから満々と水をたたえた小浜池が見えたでしょうが、今は溶岩流の名残の岩ばかりの池底になっていたためでもあります。

庭園と共に小さな遊園地と動物園が併設されていて、小さな子供さんをつれたご家族が大勢ではありませんでしたが、ちらほらといらっしゃっていました。

かつてはゾウやキリンなどの大型動物も飼育されていたこともあったそうですが、今はこうした大きなものはおらず、一番大きなもので、アルパカやラマ、ロバぐらいでしょうか。ほかに猿やミーアキャットといった小動物もたくさん飼育されています。

しかし一番の人気者は、レッサーパンダでしょう。一匹だけのようですが、愛くるしい顔で愛想を振りまき、こそこそと足早に歩き回る姿は、まさに歩くぬいぐるみです。このほかにもウサギやハムスターなどの小動物とのふれあいコーナーなどもあり、小さな子供さん連れで訪れ、ひととの憩いを得るにはなかなか良い場所だと思います。

我々はこのあと、この小浜池から流れ出す源兵衛川沿いの散策や、古くから三島を代表する商店街であった三島広小路などを散策しましたが、今日はもう紙面の関係からこれくらいにして、その詳細はまた別の機会に記したいと思います。

源兵衛川はかつてはドブ川とまで言われた川だったそうですが、町ぐるみの再生によって清流を取り戻し、いまや柿田川湧水群とともに三島市の「顔」とまで言われるようになった名勝地です。きれいな写真も撮れましたのでまたアップしましょう。

そうそう、そういえば楽寿園や源兵衛川では、カワセミも見かけました。しっかりとその姿を見せてはくれませんでしたが、青く光り輝く羽根をはばたかせながら、水辺を飛んで緑の藪の中に消えていった様子はやはり森の妖精といった風情でした。

青い鳥をみたら幸せになるといいます。そんな昨日の今日ですから、きっといいことがあるに違いありません。今日これから起こるラッキーを期待しつつ、今日の項はこれくらいにしたいと思います。

ふたつの月

今日は満月だそうです。全国的にお天気はまずまずのようで、あちこちで中秋の名月が楽しめそうです。

月の明るさは満月でマイナス12.7等、半月でもマイナス10等前後もあるそうで、ほかの明るい星と比較してみると、一番明るい金星でもその最大はマイナス4.7等星だそうで、その差は歴然です。

しかし、さすがに太陽にはかなわず、その等級はマイナス26.7星と月の倍以上の明るさ。それはそうですよね。月の明るさは太陽の光が反射したものなのですから。

この月をながめていると、地平線にある月と天上にある月ではその大きさが変わっているように見えることにお気づきだと思います。空高くに登っている場合と地平線近くにある場合には、明らかに大きさが違っていて、前者の場合は小さく見え、後者の場合は大きく見えます。

実はこれは人間の目の錯覚によるもので、実際の月の大きさは、腕を伸ばして持つ五円玉の穴の大きさとほぼ同じで、天上にある場合も地平線にある場合も同じ大きさです。空高くにある月は、五円玉の穴よりも小さくみえそうですが、実際には地平線近くにある場合と同様、五円玉の穴と同じ大きさに見えるはずで、実際に五円玉で確かめてみるとこれが事実だとわかります。

これは、人間の目が視界に入るすべての物体を鮮明に見るために常に焦点位置を調節し、脳で画像を合成しているためで、地平線のかなたに月が見える場合、カメラのズームレンズを動かしながら見るように、その手前の景色と対比して月をみようとするために感覚的に月が巨大化するのです。

逆に空高くにある場合には、比較対象物がないため、実質的な目視上のサイズとして見えているだけです。

ただし、月の公転軌道は楕円形なので、見かけの大きさは月の軌道上の位置により実際には微妙に変わります。また、赤道上の地上から見ると一日のうちでも厳密には距離が変化するので、月を天頂付近に見る時が一日のうちで最も月に近く、月を地平線付近に見るときは、それよりもおよそ地球の半径ほどの約6,000km離れ、それだけ僅かに小さく見えるはずです。

もっともこんな微妙な差に目視で気づく人はいないでしょうが。

なお、月の出・月の入りの頃などに赤っぽい月をみたことがある人も多いと思いますが、これは、朝焼けや夕焼けと同様の原理で、月が地平近くにあることから天上にあるよりもその距離が遠く、このため月からの光が大気の中を長く通り、青色などの赤以外の光が散乱してしまうためです。

ところで、月はその誕生時のころには、二つ存在していた可能性があるという説が最近となえられているそうです。

アメリカの科学雑誌、ナショナルジオグラフィックが報じたもので、かつて地球には月が2つ存在したものの、一方は他方にゆっくりと衝突して消滅し、その結果、現在の月には起伏の激しい側と平坦な側が生まれたのではないかという説です。

月には、常に地球のほうを向いている「表側」と、地球からは見えない「裏側」がありますが、この表裏の違いについては、長らく天文学者の間で謎となってきました。表側の地形は比較的高度が低くて、いわゆる「海」と呼ばれる部分が大半で平坦なのに対し、裏側は高くて山が多くてでこぼこしていて、ほとんど「海」は存在しません。

この「海」は月表面全体の35パーセントを占めています。その成因については、月の内部がまだ熱く溶け、地表の下に溶岩があった時代に、数々の隕石が月に衝突し、これによって生じたクレーターの底から玄武岩質の溶岩がにじみ出てクレーターが埋められたものではないか、というのが有力な説です。

この「海」の厚さはだいたい20kmほどもあるそうで、その表面の多くは冷えて固まった黒っぽい玄武岩の層で覆われているため光をあまり反射せず、他と比べて暗くて黒く見えます。

表側にのみにこうした海が存在するのは、そちら側に集中して熱を生み出す放射性物質が存在したためであるとか、また、地球からの重力の影響により、より強い重力の働く地球側でのみ溶岩が噴出したためとする説などが存在しましたが、これまでのところ定説といわれるようなものはありませんでした。

ところが近年、スーパーコンピュータなどの普及により、月の成因についても新たなコンピューターモデルが作り出されるようになり、それらの結果から、月の表裏のこの違いは、現在の月ができる前に、もっと小さな「月」が存在し、これが今の月の裏側に衝突したと考えることで説明がつくようになったというのです。

計算によると、小さいほうの月は、大きいほうの月に時速約7100キロでぶつかったそうで、太古に起こったこの衝突により、非常に硬い岩石物質が月の裏側に飛び散る結果となり、それが現在、月の裏側のでこぼこした地形を形成しているのではないかと考えられるといいます。

この研究結果を発表したのは、カリフォルニア大学のサンタクルーズ校(UCSC)の教授で惑星科学が専門のエリック・アスフォーグ(Erik Asphaug)博士です。

アスフォーグ博士によれば、「質量の大きい2つの物体が互いの重力に引かれてぶつかったとすると、これは考えられる限り最も速度の遅い衝突である」と考えられるということです。

そして、このような比較的遅いスピードで月の裏側にもうひとつの月が衝突した場合、岩石が溶けたり、クレーターができたりするほどのエネルギーは生じなかったはずだといい、その代わりに、小さいほうの月の物質が、大きいほうの月の表面にまき散らされたと考えるほうが自然だ、といいます。

こうした現象は、例えていえば、「自動車の衝突と同じ」といいます。大小の車が正面衝突した場合、バンパーはつぶれても互いの車体が溶けたりはしません。フロントの部分がぐしゃりと潰れるだけで、二つの車はまるで一台になったようにくっついてしまう、それと同じ現象がこの月と月の衝突で起こったのではないかとアスフォーグ博士は主張しています。

余談になりますが、私はこのサンタクルーズ校を訪問したことがあります。もう20年以上前の話になりますが、アメリカの大学への留学を希望していたおり、各地の大学を実際に見比べてみようと思い、旅行をかねて訪問しました。

サンタクルーズの町はサンフランシスコの南150kmほどのところになり、サンフランシスコと同様に海辺の町ですが、カリフォルニア大サンタクルーズ校はその郊外の山の手にあります。

まるで「森の中」に造られたような大学で、うっそうと茂ったカリフォルニアパインの木々の合間合間に研究棟が点在するというラブリーなキャンパスでした。

ああ、こんなところで勉強できたらいいだろうなあ、とつくづく思ったものですが、残念ながら夏休み中であり、担当者から詳しいお話を聞くことができず、そのときはそのまま帰国しました。

ところが後日、日本に帰国後に、その担当者と思われる教授から直々のお手紙をいただき、その内容は、残念ながら君の希望するようなカリキュラムは当校にはない。が、そのかわりにこれこれの大学があるから、そちらに照会してみなさい、というていねいなものでした。

海のものとも山のものともわからない日本人にこうした丁寧なお手紙をいただいたことにものすごく感動し、よしやっぱりアメリカの大学という選択は間違いない、とそのとき改めて思ったことを今でも覚えています。たしかそのお手紙もまだとってあるのではないでしょうか。

このサンタクルーズ校、研究分野では医学、天文学、物理学等において連邦政府出資による研究が盛んに行なわれているそうで、NASAのエイムズ研究センターと共同研究しており、天文学は全米でも常に上位にランクされているようです。シリコンバレーに隣接している土地柄から、コンピューターサイエンスのカリキュラムにも力を入れているとか。

私が目指していたのはこの学校では研究者の少ない海洋工学の一部門だったため、入学はかないませんでしたが、もしもう少し若かったら別の分野でもいいからこの学校で学びたい、と思わせるほど素敵な大学でした。

さて、余談がすぎましたが、このアスフォーグ博士と、UCSCの博士研究員マーティン・ジャッツィ(Martin Jutzi)氏が提唱した今回の説によれば、2つの月は8000万年ほどの間は何事もなく共存し、それぞれの安定した軌道上にあったそうです。

2つの月は色も組成も同じでしたが、一方が他方より3倍ほど大きかったそうで、計算の結果から類推すると、「現在残っているほうの月はディナープレート(夕食に使うお皿)ほどの大きさにみえたはずであり、これが沈んでいくと、もうひとつの月が約60度ほど遅れてその後を追っていたはず」とアスフォーグ博士は語っています。

博士らのモデルのよれば、2つの月が共存した期間は短く、地球との自然な重力の相互作用により、2つの月はが地球から遠ざかりつつあったといいます。やがてこれに太陽の重力が加わることで、小さい月の軌道のほうが次第に不安定になり、だんだんと大きい月に引き寄せられ、そして二つが衝突するという終焉を迎えます。

この衝突はさほど激しいぶつかりあいでなかったとはいえ、その衝撃は何兆トンもの破片を宇宙空間に放出したといい、数日間は2つの月がはっきり見えなくなったほどではなかったかと考えられるそうです。そして、この塵が晴れたとき、月はひとつになり、現在見える月と同様の姿になりました。

その後、この衝突から最大100万年もの間、この衝突から生じたさまざまな大きさの月のかけらが地球に降り注いだと考えられるということです。

その大きいものは直径100キロにも及んだ可能性があるそうで、「長期間、空一面に流星が降り注いだことだろう」とアスフォーグ博士は言っています。

ただし、このころの地球上には、この見事な天体ショーを目撃する生物はまだ存在しなかったはずだ、ということです。人類の誕生は、もしかしたらこの月から降り注いだ流星に含まれていた有機物等を起源としておこったのかもしれません。

このアスフォーグ博士らの研究は、同じアメリカの他の天文学者なども高く評価しているということです、

ハワイ大学の天文学教授のジェフリー・テイラー博士という人は、アスフォーグ博士らの説は、月の表裏の非対称性を説明するだけでなく、月とともに形成されたと考えられている、他のもっと小さな月たちがその後どうなったのかも、これで説明がつくといっているそうです。

テイラー博士は、そもそも月は、45億年前の太陽系の誕生の直後、火星サイズの惑星が地球に衝突したときに生まれたというのを、ひとつの有力な説だと考えているそうです。

そして、この火星との初期の衝突によって、溶岩の破片が地球を環状に取り巻き、それがやがて集合して現在の月を含むいくつかの小さな月ができたと考えており、もしそうだったとしたら、他の月たちはどうなったのか? が疑問だったようです。

そしてその答えが、このテイラー博士らの研究結果にあるのかもしれないと考えているそうで、こうした研究者たちの意見が早晩合致すれば、いずれ、「実は月は二つ以上あった」というセンセーショナルな発表がなされる日も来るかもしれません。

空にあがる、まんまるの二つの月。それが実際にそうだったらどんなふうだろう、と想像するだけで楽しくなります。

かぐや姫そのほかの伝説も大きく変わっていたかもしれません。ふたつの月それぞれに別々のかぐや姫がいて、その二人が地球上のひとりの男性に恋をして、ジェラシーを飛ばしあい、最後には宇宙戦争に突入…… 妄想は膨らみます。

ま、ないものねだりはやめにして、今晩もたったひとつの美しい月を眺めながらお酒でも飲みましょう。グラスに月を映せばそれで月はふたつ。それを飲み干せばまた別の月を飲み干して……満月は人の心を乱すといいます。みなさんも月くれぐれも飲みすぎには注意しましょう。

清盛と時政 ~旧長岡町(伊豆の国市)


昨日の低気圧の通過に伴って雨が降り、明けた今日は晴天です。窓から見える富士山は、5合目から上が真っ白にお化粧され、本格的に「冬の富士」になってきました。

昨夜NHKの大河ドラマ、「平清盛」を貯め撮りしていた先週のものも合わせて二回分をみましたが、この物語もそろそろクライマックスに近づいてきました。

しかし、いまひとつ盛り上がらないな~と思い、視聴率が気になったので調べてみると、案の定、どのリサーチ結果も10%を大きく割り込み、平均7~8%くらいということ。歴代の大河ドラマの中でも一番低いくらいのようです。

確かに、保元・治の乱のあとは、「宮中ドラマ」仕立てになっていて、毎回、平家と宮廷の権力争いに終始しているその内容は親しみにくく、また登場人物の名前を覚えるだけでもたいへんといった人も多いのではないでしょうか。

私自身が一番気になっているのは、キャストがあまりにもイメージと違う点。主演に松山ケンイチさんを採用した理由は、やはり最近の人気にあやかってのことでしょう。なんとか番組を成功させたいというスタッフの気持ちもわからないではありません。

が、私自身は、清盛といえばやはりしたたかな政治家といった印象が強く、一番イメージに近いのは、やはり京都六波羅蜜寺の「清盛坐像」でしょうか。学校の美術や歴史の教科書にも出てくるのでみたことがある方も多いかと思いますが、巻物を手にしながら、鋭く一点を見つめるその表情は怜悧そのもので、緻密な計算ができる策謀家といったかんじ。

こういう人が上司にいたら、部下はギロッとにらまれるだけですくみ上るだろうなというような、なんというか凄みがあります。

若干脱線させていただくと、六波羅蜜寺といえば、あの空也上人が口から仏像を掃きだす立像があるお寺でも知られ、このお寺の創設もこの空也上人によるものです。

その開創は951年(天暦5年)といわれますが、当初は西光寺と呼ばれていました。空也の死後、977年に比叡山の僧・中信が中興して天台別院とし、六波羅蜜寺と改称するようになります。

平安時代の末期には末に、平清盛のお父さんの忠盛がこの寺に軍勢を止めて休めたのを機縁に、清盛の代になってからは広大な境域内には権勢を誇る平家一門の邸館が建てられるようになり、一時はその数5200余りに及んだといいます。

NHKの大河ドラマにおいても、この平家一族の人物像が描かれているのですがが、清盛の印象があまりに強くて、どの人物もぼやけてみえます。歴史的にみてもあまり大きな業績を残した人物がいないのでしかたがないといえばしかたがないのですが、こうしたこともこのドラマが親しみにくいと言われる原因なのでしょう。

また、数多い清盛の息子たちや親戚の名前にはみんな「盛」がついていて、どういう親戚関係なのかわかりにくく、また多くの源氏と平氏の人物が入り交り、これに加えて登場する宮中の人物もあまりにも数が多すぎて、しっかりとストーリーを追っていないと誰が誰やらさっぱりわからなくなってきます。

こうした中、平家一族で清盛以外で唯一目立っているのが、清盛の奥さんで、深田恭子さんが演じている時子さん。

女性であるために目立ちやすいというのもありますが、清盛の出家と同時に二位尼と名前を変え、後年、平家滅亡の折には、安徳天皇を抱いて、壇ノ浦で入水する人物だけに、ああ、この人が後年そうなるか、という目で追っているためか、印象的に映ります。

しかし、この人も、史実やまたドラマ中でもとくに大きな主張がある人物ではないので、清盛と後白河法皇との争いを中心に進んでいくストーリーの中では埋没してしまっていて、いまひとつ存在感がありません。

むしろ、平家の滅亡と並行して描かれる源氏の人物たちのほうが生き生きと描かれていて、宮中のごたごたしたいさかいのお話よりも、頼朝の伊豆での生活とこれを取り巻く政子をはじめとする人物のやりとりのほうが面白かったりします。どうせなら、こちらをメインにすればよかったのに……というのは言い過ぎでしょうか。

とはいえ、源氏側の人たちのキャスティングも私的には今一つぴんと来なくて、一番違和感があるのが、北条時政を演じる、遠藤憲一さんです。遠藤さんは大変好きな俳優さんのひとりなのですが、はたして北条時政がこういった人情深い好々爺だっただろうか、と考えると、どうもイメージが違うのです。

いろいろな歴史書では、時政という人物は豪放磊落な人物だったと書かれているものも多く、鎌倉時代の歴史書で源氏の盛衰について詳しい「吾妻鏡」でも時政のことを「豪傑」と記しています。

史実において、その豪傑ぶりは、頼朝が挙兵し、鎌倉幕府を樹立するまではいかんなく発揮されることになります。そして頼朝と政子を助け、北条家を鎌倉幕府の中央に据えるまでの活躍ぶりはその当時にあっても、現在に至るまでも高く評価されています。

しかし、後年頼朝が亡くなると、頼朝の息子で二代目将軍の頼家を殺害し、さらに三代将軍の実朝も殺害しています。北条家をその執権の地位に据えるためのふるまいはこのころから傍若なものとなり、その後晩年に至るまでありとあらゆる権謀術数を尽くす、えげつない人物に変わっていきます。

豪快で権力への執着力が強いという点では清盛と同じで、清盛と時政はどちらかというと似たような臭いがする人物、というのが私の持つイメージです。

松山ケンイチさんや、遠藤憲一さんはどちらかというと、そういうタイプでなく、やさしそうな笑顔が似合う好人物。しかし、実際の清盛は、六波羅蜜寺に残されている坐像に残されているお顔のとおり、かなり冷徹な権力者というかんじがします。

時政のほうも、伊豆韮山の願成就院に漆喰製の坐像が残されていますが、これを見る限りでは、がんこそうでいかにも権力好きな田舎オヤジというかんじです。

しかし、この二人、似たようなタイプとはいえ、どことなく違っており、それは何かなと考えてみました。

すると、二人ともそうした権力に執着を見せる独裁的な性質を持った人物であるものの、どうやらその立ち振る舞いや人との接し方というか、人の率い方に何か違いがあったように感じられます。

清盛のほうは、平家という武家の存在を主張していくため、宮廷において次々と権力闘争を繰り返す出世欲のかたまりという人物だったようですが、他方、六波羅密寺や厳島神社のような美しい構造物を世に残すなど、芸術的なセンスもあったようです。

人物的には激しい性格でありながら、美的なセンスでその内面をおし包み、人に接するときも荒々しい言葉はできるだけ避け、紳士的な振る舞いができる冷静な人物であったのではないかと思うのです。

若いころから宮中で育ち、複雑な人間関係の中で生きていくためには、人と人との気持ちのすれ違いをうまく解消できるような能力を持ち合わせていることが必要であり、そうした能力があったからこそ、荒々しい武家の一族をとりまとめることもでき、宮廷外交における成功も勝ちえたのではないかと推察されます。

一方、時政も、地方の一豪族ではあったものの、「伊豆守」を朝廷から任ぜられ、宮中へもしょっちゅう出入りしていて、宮廷の役人の扱いには手馴れていたようです。

平氏の滅亡と源義経が失脚後、時政は頼朝の命を受け、一千騎を率いて上洛し、守護と地頭の設置を認めさせるべく、朝廷との交渉に当たりました(文治の勅許)。

このとき時政は、朝廷の人事にも干渉し、頼朝に反抗的な公卿は中枢から遠ざけ、頼朝に理解を示す公卿を中枢に取り立てるよう差配するなどの工作をしたといい、田舎豪族にしては宮廷の公家たちのあしらいにおいてなかなかの手腕を発揮しています。

しかも、ここまでの干渉をしたにもかかわらず、宮中での時政に対する怨嗟の声はさほど上がらなかったといいますから、頼朝が挙兵する以前から宮廷に取り入り、それとなく「伊豆の守」の地位を確立し、公卿たちに自分の存在をアピールすることに成功していたものと思われます。後世に伝えられる荒々しい印象とは少々違う繊細さです。

しかし、下賤な人物だなと思わせるのは、いったん、「源氏」という出世の道具をみつけるやいなや、これを使って巧みに自己実現を図ろうとしていった点です。

鎌倉幕府が成立後、やがて頼朝が亡くなるとその実子や弟を殺して鎌倉幕府を乗っ取っただけでなく、執権としての北条家の地位が確立したあと、今度は自分が新政府の中心に座ろうとし、政子やその子供たちを排除しようとして一族全員から猛反発を浴びている事実などに、そうした粗野な気質がみてとれます。

もちろん、清盛もその権力を維持するためにいろんなあくどいことをやっており、それが高じて宮廷内の反発を招き、源氏に攻め滅ぼされたわけですから、同じ穴のムジナではないかといえばそのとおりです。

しかし、権力への執着という点において似たような人間臭さは感じさせるものの、その「臭さ」の度合いにおいては、やはり清盛のほうが時政よりもより数段繊細でスマートという感じがし、このあたりが歴史上の人物としてのスケールの違いとしても出てくるのではないかと思うのです。

無論、これは私が持っているイメージなので、みなさんが同じかどうかはわかりませんが、もしこうしたイメージ通りの人物で番組を構成しようと思うならば、今回の「平清盛」のキャスティングはもっと違うものになっていたのではないかと思います。

もっとも、そうしたキャスティングのミスマッチ?が現在のような低視聴率の原因とばかりはいえず、脚本とか演出の問題もあるのかもしれません。素人がこんなことを言うのは大変失礼なことですし、あまりこういうことばかり書くと、また視聴率が下がっては困るのでこれ以上はやめておきます。

が、来年の大河ドラマではそうした人物像の史実もきちんと検証して、実在の人物のイメージがストレートにつたわってくるようなキャスティングをぜひお願いしたいものです。

その来年度の大河ドラマですが、先日のブログでも少し書いた「新島襄」の奥様の「新島八重」が主人公だそうです。TBSドラマの「仁」で好演した「綾瀬はるか」さんが主演だそうで、松山ケンイチさん同様、大変人気の高い俳優さんです。

久々の幕末モノということで、平清盛が活躍した平安時代に比べればかなり豊富な史料が残っており、そういう意味では実在の人物と大きくかけ離れたキャスティングや演出は許されません。

新島八重という人物がどんな人だったのかまだ調べていないのでよくわかりませんが、「幕末のジャンヌダルク」といわれるほど激しい性格の人物だったようで、そうだとすると、かなり芯の強い性格のようにお見受けする綾瀬はるかさんは適任かもしれません。

気になる新島襄のキャスティングですが、どうやら「オダギリ・ジョー」さんが演じられることが決まったようです。幕末に密航を企て、アメリカへ渡り、キリスト教学を学んで同志社大学を設立するという破天荒な人生を送ったこの人物が、オダギリ・ジョーさんを通じてどういうふうに描かれるのか楽しみです。

奇しくも新島襄の「襄」とオダギリ・ジョーの「ジョー」は同じです。まさか、同じ名前の俳優さんの中から選んだわけではないでしょうが、「名は体を表す」といいますから、もしかしたら実在の新島襄をみごとに演じきってくれるかもしれません。来年が楽しみです。

それにしてもあと二か月。今年の大河ドラマの放送もあとわずかになりました。残る二か月は源平合戦に向かってまっしぐらのストーリーのようですが、その盛り上がりの中において、「松山清盛」の視聴率がもっと上がるのを祈ることにしましょう。

アユのお話 ~伊豆市(狩野川)

最近、ふもとを流れる狩野川のそばを通ると、川の中に長い釣竿を支える釣り人達をたくさんみかけます。晩秋に向かうこの時期、腹にたくさんの卵を抱えたアユ、「落ちアユ」を釣っているのです。

アユと言えば、旬の夏にこそ味わう魚、というイメージが強いと思いますが、秋も終わりになるこの時期は、初夏の時期に河口から上流へ上ったアユが、今度は産卵のために河口へ下る時期で、川へ下る、つまり落ちていくので「落ちアユ」と言われるようになりました。

その生態

アユは、ふつうは「鮎」と書きますが、「香魚」、「年魚」とも書きます。香魚のほうは、食材としてのその香りが素晴らしいことから来ており、年魚のほうは、川と海を往復しながらほぼその一年で一生を終えるためにつけられた名前です。

アユのように川と海の間を往復しながらその一生を終える魚のことを「回遊魚」といいます。

回遊とは、海や川に生息する動物が、成長段階や環境の変化に応じて生息場所を移動する行動のことで、広義には沿岸の浅場と深場を往復するスズキやヒラメも回遊魚ですが、アユやウナギ、サケなどのように川と海を往復する魚のことを、とくに「通し回遊魚(川と海をめぐる回遊魚)」と言って区別します。

とはいえ、川の魚でありながら、実は一生のほとんどを海で暮らしている魚や、普段は川で生活していても海に降りて産卵し、海で誕生したこどもが川をさかのぼってくるものなどさまざまな通し回遊魚がいます。

サケや、カワヤツメ、ウグイの一部の種類などは川で産卵して生まれますが、生活の大部分を海に降って過ごし、産卵の時に再び川に戻ってくるため、これを遡河(そか)回遊魚といいます。

また、普段は川で生活していても、海に降って産卵し、誕生したこどもが川をさかのぼるものの代表例がウナギですが、こうした魚は降河(こうか)回遊魚といいます。モクズガニは魚ではありませんが、ウナギと同じく降河回遊型の生物です。

で、アユはというと、普段から川で生活していて、産卵も生まれも川なのですがが、その一生のうち、一時期だけ海に降って、再び川をさかのぼるタイプで、これを両側(りょうそく)回遊魚といいます。

なぜ、海に入る必要があるかというと、海は川よりもプランクトンなどの栄養類が豊富なためです。川の中にもある程度の微生物はいますが、河水の中に含まれている量は海に比べるとかなり少なく、アユの「仔魚」が成長するには不向きです。

このため、河口付近で卵から生まれたアユの仔魚は、そのあとすぐに海にいったん降り、そこにある豊富なプランクトンなどを食べ、そしてある程度成長して川を遡れるほど体力をつけた「稚魚」になってからまた上流に戻っていくのです。

アユのほかにも。カジカ、ヨシノボリ類、ウキゴリ、チチブなど、一般には淡水魚と思われている魚の多くも両側回遊魚です。魚以外にもヤマトヌマエビ、テナガエビ類、イシマキガイなどの甲殻類や貝類の仲間の中にも両側性の生物がいます。

ちなみに、かつては通し回遊を行っていたものが、回遊を行わなくなったり、海の代わりに湖などで回遊するようになった陸封(りくふう)魚といいます。ヒメマスや琵琶湖に生息するアユもそうですし、最近、さかなくん」が発見して話題になった絶滅危惧種の「クニマス」なども陸封魚になります。

春先の川の水温が15℃から20℃で2週間ほどするころ、河口付近で孵化した仔アユは海水の塩分濃度の低い河口からすぐに海へ下り、河口から4km程度を越えない範囲を回遊しはじめます。そしてプランクトンなどを捕食して成長し、だいたい全長が10 mm程度になったころから、川に入りはじめます。

川の中に入った稚魚はすぐには川をのぼらず、河口付近でプランクトンや小型水生昆虫、落下昆虫を捕食しながら成長します。やがて体長が6cm前後になるとウロコが全身にできるようになり、4~5月頃には大きいものでは10cm程度にまで成長し、川を遡上しはじめます。

この頃から体に色がつき、さらに歯の形が岩の上のケイソウ類を食べるのに適した櫛(くし)のような形に変化します。そして川の上流から中流域にまでどんどんと上っていき、たどり着いた先で水生昆虫や石に付着するケイソウ類を食べ始めます。

アユがその鋭い櫛のような歯で岩石表面の藻類をこそげ取ると、岩の上にギザギザの独特の食べ痕が残ります。これを「アユのはみあと(食み跡)」といいますが、実際にみたことがある人も多いでしょう。

こうして大きくなったアユの若魚は体の色も灰緑色になり群れをつくって泳ぎはじめます。特に体が大きくなった何割かは、えさの藻類が多い場所を独占して縄張りを張るようになります。この縄張りは1尾のアユにつき約1m四方ほどであり、この縄張り内に入った他の個体には体当たりなどの激しい攻撃を加えるようになります。

この性質を利用してアユを掛けるのが「友釣り」で、これはおとりの生きたままのアユをあらかじめ糸の先につけておき、このおとりアユの鼻やしっぽにとりつけた針に、体当たりしてきた野生のアユがひっかかるというものです。

夏になると、あちこちの川の近くで、「おとりあゆあります」の看板が出ているのをご覧になった方も多いと思います。釣り人たちが10m近い釣竿を静かに構えてアユを釣る姿やこうした看板をみると、ああ、夏になったな、といつも思います。

夏もまっさかりのころには灰緑色だったアユの体色も、秋に性成熟すると「さびあゆ」と呼ばれる橙色に黒が混じった独特の婚姻色へ変化します。アユが「成魚」になったあかしであり、この成魚は産卵のため下流域へ降河をはじめます。

これが冒頭でも述べた「落ちあゆ」です。落ちアユがみられるようになる時期は地方によっても違いますが、だいたい9月中旬から10月の後半までで、11月には殆ど産卵を終えます。

アユが産卵するのは河口付近の川底で、河床に小さな砂利質が敷き詰められていて泥の堆積のない水通しの良いところを選びます。産卵様式は、一対一ではなく必ず2個体以上のオスとの産卵放精が行われます。産卵を終えたオスもメスもやがて冬になって水が冷たくなるころには死んでしまいます。

死んだアユは川を下ってまた海に戻り、ほかの魚に食べられたり、分解されてプランクトンのえさになったり、さらにそのプランクトンを稚鮎が食べたりで、自然のサイクルの一員としてまた再生されていきます。

産卵を終えたアユは1年間の短い一生を終えますが、三島市の柿田川などのように一年中水温が一定しているような特殊な環境の河川やダムの上流部などでは生き延びて越冬する個体もいるようです。

アユを食べる

このアユですが、ご存知のとおり、高級食材として知られています。夏を代表する清涼感をもたらす食材であり、特に初夏の若アユが美味とされます。若アユの塩焼きや天ぷらは私も食べたことがありますが、なんというか、香味があって、やはり他の川魚とは一味違う、というかんじです。

同じ河川のアユでも水が綺麗で上質の付着藻類が育つ上流域のものほど味が良いとされるそうで、一般的に水質が良い河川のアユはスイカの香りで、やや水質が落ちてくるとキュウリの香りとなってくるそうです。

新鮮なものは刺身にもできるそうで、一般的なそぎ造りにされるほか、そのまま輪切りにした「背越し」という状態でも食べるとか。私は食したことがありませんが、背越しでは、歯ざわりと爽やかな香りが楽しめるとのこと。ただし、骨が小さくやわらかい若鮎に限るそうです。

酢や塩に浸けて、酢飯と合わせた「鮎寿司」、「鮎の姿寿司」はJR京都駅の名物駅弁ともなっており、このほか琵琶湖周辺などでは稚魚の氷魚の佃煮や、成魚の飴煮も名物として製造販売されています。

湖産養殖アユの放流

このように食材としても大人気な魚のため、釣りの愛好家にとっては昔からアユ釣りはたまらないターゲットのようです。

このため乱獲が進み、昭和に入ってからは川で見られるアユが激減してきたことから、人工養殖をしたアユを放流する試みが、昭和30~40年代からさかんに行われるようになってきました。

その養殖アユの先駆けとなったのが、東京帝国大学農学部水産学科の初代教授、石川千代松博士が提唱した、「琵琶湖産の鮎」の利用に関する研究でした。

琵琶湖産アユとは、琵琶湖で生まれ、琵琶湖で一生を終える陸封型のアユ(コアユ)のことで、体長6~10cmと小さく、海から川を遡上する鮎とは別種といわれており、また琵琶湖へ流入する河川で育つもっと大きなアユとも別のものと考えられていました。

ところが、1910年(明治43年)、石川博士は琵琶湖のコアユと琵琶湖へ流入する河川の大アユは同じアユであると発表します。

この研究発表を他の研究者や漁業者は信じませんでしたが、石川博士は、コアユが小さいのは食料不足が原因だから適当な環境の川へ移せば大きくなる、と主張しました。そしてこれを実証するために石川博士はその後、いろいろな角度から研究を行い、コアユが河川のアユと同じであることを証明しようとします。

1913年(大正2年)には、ドイツから新式の活魚輸送機を輸入し、およそ300匹のコアユを26時間もかけて岐阜県の米原から東京の青梅まで運び、堰ができてアユがのぼらなくなった多摩川の大柳河原に放流します。

そしてその年、約30cmを超す尺アユを釣ったという証人が現れますが、これもたまたまではないかと信用されませんでした。その後10年間も同じ研究を続けた石川博士ですが、放流したアユと川で釣れた自然アユが同じものであるという証拠をどうしても得ることができません。

ところが、1923年(大正12年)になり、滋賀県の水産試験場が石川博士のすすめにより、琵琶湖に注ぐ天野川(あまのがわ)の上流の滝の上にコアユを放流したところ、秋になってこの滝上の川で大型のアユがたくさんとれました。

これが決定的証拠となり、この事実が新聞各紙に報道されると、一躍琵琶湖のコアユは注目を集めるようになり、翌年には琵琶湖産コアユが北は岩手県から、南は熊本県までトラックや汽車で運ばれて放流されるようになりました。

そして昭和に入るころには、琵琶湖産のコアユは貧しい山村の農民の生活を助けるための一助としても使われるようになり、山間の川へ琵琶湖の稚アユが多数放流されるまでになりました。

しかし、昭和20年~30年代までは、稚アユの放流は、もっぱら漁業者のために行われていました。ところが、昭和30年代後半になると、釣り客の間では安価なグラスファイバー製の友釣り用の竿(友竿)が売り出されるようになります。この結果、一般人で友釣を始める人が急速に増え始めました。

昭和40年代これまでには友釣り愛好家はさらに増え、その遊漁料が漁協収入の大きな部分になってきたため、稚アユの放流は漁業者のためではなく、むしろ遊漁者を呼ぶために行われるようになっていきました。

水温が低くても成長が良く、なわばりの性質が強く、しかも長年にわたる放流実績のある湖産の稚アユは全国の河川でもてはやされ、特にダムや堰で天然遡上が無くなった川では湖産の稚アユは無くてはならないものとなっていきました。

天然遡上の海アユは7月頃にならなければ友釣で釣れるほどには育たなかったのに対し、放流された湖産アユは6月上旬の解禁日から友釣で釣れるほどに成長しましたし、食いつき(追い)が良いことから初心者にも容易に友釣でアユを釣ることが出来たのです。

天然遡上の豊富な川でさえも、釣り愛好家からの遊漁料収入が主たる収入となってきた漁協は、湖産アユをこぞって放流し、この放流は友釣人口を増やし、友釣はアユ釣りの代名詞とまでいわれるようになります。そして、昭和50年代までは、アユの放流といえば琵琶湖産の稚アユの放流を意味しました。

海産、河川産アユの放流

ところが、昭和50年代に入ると、コアユなどの放流であれほど豊富だったアユが激減する河川が各地に出てきました。その原因は、長年にわたる河川での砂利採取や、防災・治水・発電の名の下に建設されたダムや堰の建設、そして砂防のためとして渓流を中心に建設された砂防ダムでした。

洪水の際に安全に水を流下させるとして河川改修も頻繁に行われるようになり、コンクリートで固められた河道からは、淵や瀬、せせらぎが失われていきました。水源地帯や上流部での林道建設の際に出る土砂の沢や川への投棄も河川の荒廃に大きく影響しました。

さらに高度成長時代に伴い、家庭からの大量の排水に合成洗剤が混じるようになり、これが河川に流入した水域では、臭いに敏感なアユが忌避行動をとり、近づかなくなるようになります。

こうして天然遡上の激減により、それまで放流など必要のなかった中・下流部でも稚アユを放流しなければならない河川が増えるようになりました。湖産アユの生産も追いつかないほどになっていったことから、放流アユの価格は急上昇し、コアユだけでは遊漁客の需要をまかないきれないような事態に発展していきました。

そこで、考え出されたのが海産、河川産アユの放流です。海で採捕したものを海産アユ、海から川へ遡上してきたものを採捕したものを河川産アユといいます。

友釣愛好家の増加にともない、遊漁者の多い河川では放流できる琵琶湖産稚アユは枯渇していきました。その年の放流ができた川でも、琵琶湖産アユ特有の食いつきの良さが逆に災いし、シーズンが解禁されて1ヶ月もすると、ほとんどのアユが釣り尽くされ、8月になるころにはアユはいなくなってしまうというのが常態化していました。

遊漁料が収入の大きな部分となっていた漁協は、その対策として盛夏になってから追いが良くなる海産、河川産の稚アユを放流すれば釣期が長くなり、8月以降も釣り人に来てもらえると考えました。

そして、琵琶湖産アユに代わり、海産、河川産を補助的に放流する河川が増えていくようになります。しかし、あいかわらず需要は供給量を越え、その後平成に入ってからも放流すべきアユの量は思うようには増えません。一方では、「冷水病」といわれる病気がアユに蔓延し、大量のアユが死滅するという、これまでにはなかった新しい危機が生まれました。

冷水病とは、アユやサケなどの回遊魚の近縁種に発生する病気で、病原体によって発生することがわかっていますが、対処方法などは確率されていません。とくに稚アユでは、輸送2~3日後に急激に大量死するということで恐れられており、養殖場で冷水病が発生すると、その排水が流れ込んだ川でも発生し、大量のアユが死滅します。

その原因はまだよくわかっていません。保菌アユを掬ったタモ網や、長靴なども感染源のひとつではないかと言われていますが、これらの普及に歯止めがかからない現在、防止する手立てもみつかっていません。

人工産アユの放流

そこで、琵琶湖産アユ、海産、河川産アユに代わって登場してきたのが、人工産アユです。

ダムや堰の建設や、河川改修、砂防ダムの建設などによる河川環境の悪化は、これらのダム建設を推進していた建設省(国道交通省)も認識するようになっていましたが、建設省側の論理は、国民の安全を確保するためにはこれらの建設を中断するわけにはいかない、というものでした。

しかし、アユの生息数が激減しているのは河川行政を優先する建設省のせいであると糾弾する声は次第に漁業者の中で高くなり、このため、建設省では、「補償放流」のための資金を各地の漁協に提供するなどして、この声を静めようとしました。

ところが、それでも種苗(稚アユ)の数は増えるわけではなく、漁業者からの突き上げは日に日に増していったことから、ついに建設省は、自らアユの人工種苗を大量に生産することを考えはじめます。

人工産アユとは、卵から孵化、稚魚の飼育、親魚の飼育までアユの一生を人が育てたものです。卵から孵ったシラスアユのエサとして、ツボワムシというウナギの養殖池に大量発生するプランクトンを使い、ツボワムシの培養池とアユ仔魚の飼育池を別々にする「異槽式飼育方式」がその最初の成功例です。

その後海アユは本来海に住むものだというわけで、海水に棲むシオミズツボワムシ、ブラインシュリンプなどを餌にして、海水で養殖することなども始められ、これ以降、孵化した仔魚は濃度の低い海水でも飼育されるようになりました。

こうした技術は今でこそ完成されていますが、当初こうした研究を始めたばかりの水産庁管轄の水産試験場や種苗センターなどといった施設では常にその研究のための予算不足に悩んでいました。

一方、自ら人工アユを生産することも考えた建設省ですがが、そうした制度や十分な設備もあるわけではなく、こうした技術はあっても、どだい自分で稚鮎を生産するというお話には無理がありました。

そこで建設省は、ダム建設や河川整備等の予算の一部を削り、その予算をこうした水産研究機関に回し、これらの機関におけるアユ人工種苗の研究費や設備費の負担を減らすように方向転換していきました。

そして、研究の成果は徐々に出始め、確立された生産技術は、やがて県などの地方自治体に移管されていきました。やがて、各県の水産試験場や種苗センターで、種苗(稚アユ)の大量生産が行われるようになり、これが琵琶湖産アユや海産、河川産アユにとって代わるようになっていきました。

仔稚アユから成魚への大量養殖の基礎技術が完成したのは昭和40年代半ばのことであったといいますが、当初は、背骨の異常、顔や口唇の不整合などの奇形が高率に発生していました。

その後、飼料や養育方の改善等によりこれらの問題は次第に解決されるようになりましたが、そもそもが「大量生産すること」が目的であり、孵化から稚アユまで育てる歩留まりを上げ、奇形を減らすことに注力されたため、アユ本来が持つ放流後の遡河性とか、なわばり性質の強さの向上などは二の次でした。

このため、大量生産の初期に放流された人工産のアユは、オトリを追わないで群れてばかりいる、すぐ下ってしまう等、釣り人にも漁協にも評判が良くありませんでした。

しかし、その後の改良によって、最近の人工放流稚魚では、走流性、遡河性、なわばり性質についてもかなり改善、改良が図られるようになってきました。ただ、それでも琵琶湖産のアユのような優良性質には程遠く、いまだに釣り客の評判はあまりかんばしくないといいます。

この中にあって、群馬県水産試験場産の人工産アユでは、かつての琵琶湖産のアユのようになわばり意識が強く、どこの河川でも「追いが良い=食いつきが良い」という評判だそうで、最近では群馬県以外でも多くの河川で放流され、良い評判を得ているといいます。

アユ激減の意味

こうして、人工産の稚アユの放流割合は次第に増えていき、平成9年には、湖産、海産、人工産の放流割合がそれぞれ、58%、32%、32%であったものが、平成20年度には、24%、11%、66%となっています。

琵琶湖産はかっては全国放流量の7割以上を占めていたといいますが、それが現在では全体の四分の一にまで激減し、それに代わって人工産の放流が急増し全放流量の半分以上を占めるまでになり、まさに人工放流によってアユ漁が成り立っているといっても良い時代になりました。

ところが、人工放流によって稚鮎の放流量を増やしても、全体の漁獲量は増えるどころか、急激に減少し続け、平成14年ころからはまさに「激減」というほど減ってきています。

アユの漁獲量は、琵琶湖産稚鮎の放流が本格化してきたころから右上がりに増え始め、昭和31年にころには5300トン程度だったものが、平成13年までには1万8000トンにまで増えました。ところが、この年をピークに急激に生産量が減りはじめ、平成18年にはなんと、昭和31年を下回る3000トンにまで落ち込んでいます。

かつてアユの漁獲量が多かった頃は、岐阜県の長良川などだけで1年に3000数百トンの漁獲量があったといいますから、この減りようは異常です。人工産稚アユの放流割合が増えたH10~H14年頃に一時的に漁獲量の減少に歯止めがかかったようでしたが、H15年から再び激減し、ここ数年の減少は目を覆うばかりの惨状です。

その激減の原因として考えられるのは、やはり環境の変化。河川改修等による河川環境の変化に加え、これに伴う食物連鎖の崩壊によるアユのエサの藻の減少や、川鵜などの外敵の増加が考えられます。

また、ブラックバスなどの外来魚による食害も増えてきており、アユ以外の魚種の増加によるアユ本来の縄張りの減少などもその原因として考えられます。

ダムや堰などの河川構造物の建設により稚魚が遡上できない、孵化した仔魚が海へ流下できないという状況もその原因ではないかと疑われています。

しかし、これらの河川構造物の設置は昭和年代から始まってかなりの年月が経っていて、アユの遡上や降下への影響も恒常化しており、平成14年ころから急にアユの生産量が減少をしてきたこととの因果関係は考えにくいところです。

ただ、これらの構造物が長きにわたって存在することにより、岩・石・砂礫などの堆積がピークに達し、もはやほとんどが下流に供給されることがなくなり、一気にアユの激減につながったということは考えられるかもしれません。

また、地球温暖化の影響により、秋・冬の沿岸海水温が高くなり、春先に生まれたアユの稚魚が高い気温に適合できず、海で死んでしまうことなども考えられます。

しかし、地球温暖化による生物への影響の研究はまだ始まったばかりであり、アユだけでなくほかの生物にとってもどれだけの影響があるのかについてはまだよくわかっていません。

現在のところ、やはりもっとも疑われてしかるべきは冷水病の影響でしょう。冷水病の蔓延の原因はまだ究明されていませんが、その病原体が何であるかはわかっています。問題は、なぜその病原体が急に増え始めたか、です。

現在多くの水産研究者たちがこの問題に取り組み始めていますが、それらの研究の中には、近年、多くの釣り人がタイツやタビ、網、舟、囮缶などの釣り道具に新しい素材を使用しており、これらの多くは中国などの外国製であることが関係あるのではないかという指摘もあります。

中国などの外国から持ち込まれている「であろう」有毒物質と冷水病との因果関係が立証されているわけではありませんが、鳥インフルエンザなどと同様、原因不明の病原体は外国から持ち込まれて蔓延するケースは多いようです。

冷水病の蔓延もそれら有毒物質の広がりがトリガーになったことも十分考えられます。平成13~14年ころといえば中国製品が大量に出回りはじめたころであり、時期的にも一致します。

今後は、これらの用具の使用を禁止したり、消毒をして冷水病を広げないように気を付けたりすることが必要になってくるかもしれません。また有毒物質が多量に含まれる合成洗剤などの家庭からの排出の抑止もこれからますます必要になってくるでしょう。

さて、今日も長くなってしまいました。そろそろ終わりにすることにしましょう。

今年も大量の釣り人達が狩野川で釣りをする風景を見ることができました。が、これが未来永劫みることができなくならないとも限りません。

美しい河川で落ちアユを釣る釣り人は絵になります。この風物詩がなくならないよう、環境破壊の抑止をみんなで心がけていきたいものです。