ヒーローたちの交錯

今日は昨日の曇り空から一転快晴で、てっぺんに白い帽子をかぶった富士山が良く見えます。それにしても先日は結構な雨が降ったのに、この程度しか白くならないのかな?とちょっと不思議だったので、ネットで山中湖畔からの今日の富士山中継映像をみてみました。

すると、富士山の東側にある山中湖からの富士山は左斜面の雪は少なく、北側の右斜面のほうが雪がたくさんあることが確認できました。先日の雨で富士山の山頂にもかなり雪が降ったものの、北側の斜面ではこれが溶けず、今私がみている南側斜面のほうは日当たりがいいので標高の低い部分から雪が溶けていった、ということのようです。

……と、いうことは、富士山の北側にある山梨県側から見る富士は、こちら側の倍以上の幅のある白い帽子をかぶっているのでしょう。何かうらやましいかんじです。

しかし、先日の23日はもう24節気では霜降、来たる11月7日はもう立冬です。南側から見えるこの富士山の頂が真っ白になるのもそう時間がかからないでしょう。

さて、今日の話題です。

今日は、榎本武揚が72年の生涯を閉じた日だそうです。1908年(明治41)の今日、江戸で亡くなりその後、駒込の吉祥寺というお寺に葬られたということです。吉祥寺というとJR中央線の駅が思い浮かびますが、これとは関係ありません。

この人物については、ご存知の方も多いと思いますが、改めて略歴を書きだしてみましょう。

榎本武揚は、1836年(天保7年)に江戸下谷御徒町(現東京都台東区御徒町)に生まれました。お父さんは箱田良助といいましたが、幕臣の榎本武兵衛武由という人の娘さんと結婚して婿養子となったため、その息子の武揚もその跡を継ぎ、武揚も幕府直参となりました。

幼少の頃から昌平坂学問所で儒学・漢学を学び、19歳で箱館奉行堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現北海道函館市)に赴き、樺太探検に参加しています。また、1856年(安政3年)には幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所し、国際情勢や蘭学と呼ばれた西洋の学問や航海術・舎密学(化学)などを学んでいます。

1862年(文久2年)にはオランダに留学。1868年(慶応4年=明治元年)には幕府の海軍副総裁となりますが、江戸城開城後、官軍による軍艦の接収を拒否し、幕府所属の軍艦をすべて引き連れて、北海道方面へ逃亡。箱館五稜郭にこもり、いわゆる「箱館戦争」で官軍に抵抗しますが、艦隊は全滅し、五稜郭などの陸戦でも敗戦。やがて軍としての機能を失い降伏。

「朝敵」として処刑されかけますが、新政府軍の将「黒田清隆」が武揚の能力を高く買い、清隆らの助命嘆願によって許されます。そののち新政府に招かれ、北海道開発に従事。1874年(明治7年)には、海軍中将にまで上り詰め、兼駐露公使にもなり、翌年樺太・千島交換条約の締結などで活躍。

その後も海軍卿、駐清公使を経て第1次伊藤博文内閣では逓信大臣に就任。さらに黒田内閣でも農商務相・文相、第1次山県内閣での文相、第1次松方内閣でも外相等を歴任。総理大臣にこそなりませんでしたが、旧幕臣としては薩長閥の多い明治新政府の中において破格の出生を遂げました。

この榎本武揚、実はその若き頃、あのジョン万次郎から英語を学んでいます。そしてその場所が、江川英龍こと江川太郎左衛門の江戸におけるお屋敷内に設けられた「江川塾」です。

この塾は、伊豆韮山代官所兼、江川家屋敷の一角に設けられ、ここで幕府直参のみならず各藩の多くの若者がジョン万次郎や江川英龍から教えを受けています。

場所は、都営地下鉄大江戸線、両国駅出口からほど近いところで、現在は「緑町公園」となっており、ここに「江川太郎左衛門英龍終焉之地」の標柱が建っているそうです。

榎本武揚がこの江戸の「江川塾」で学び始めたのは、1851年(嘉永4年)のころからだったようです。

英龍は、1842年(天保13年)、伊豆の自らの屋敷(現在の江川邸)に「家塾」をつくり、これを開放して、入門者たちに西洋砲術の技術を伝授しはじめていましたが、同じころから江戸でも、江戸在住の門弟に蘭学や砲術の教授を始めていました。

武揚は英龍も学んだ湯島の昌平坂学問所で12才の頃から儒学を学びはじめており、榎本家も江川家も同じ幕臣の家柄であったことから、おそらく両家の間には親身な関係があり、このことから武揚も江川邸に頻繁に出入りしていたのではないかと思われます。

このため、武揚が15才になったころからは英龍自身から直接蘭学を学ぶようになり、この師弟の関係はその後英龍が亡くなる1855年(安政元年)まで続きます。

この江川塾に通いつつも、武揚は1854年(安政元年)に、函館奉行の堀織部正の従者となって蝦夷地をまわっています。のちに箱館五稜郭を建設し、「蝦夷共和国」を樹立するための地図はこのころもうすでに武揚少年の頭の中に出来上がっていたかもしれません。

翌1855年に師であった英龍は亡くなってしまいますが、これと前後して武揚の人生に一瞬関わるようになるのがジョン万次郎です。

「ジョン万次郎」という呼称は、実は通称であり、昭和13年に直木賞を受賞した井伏鱒二の小説「ジョン萬次郎漂流記」で有名になったために広まったもので、正式な日本名は「中濱万次郎」です。が、アメリカ人にも「ジョンマン」と呼ばれて親しまれていたようですから、このブログでもそのままジョン万次郎で通したいと思います。

ジョン万次郎は、英龍が亡くなる3年前の1852年(嘉永5年(1852年)に日本へ帰り、故郷の土佐へ帰国を果たしています。帰郷後すぐに、土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命されますが、翌年(1853年、嘉永6年)のペリー来航の際に通訳としての任にあたるため、幕府から江戸へ召聘され、直参の旗本の身分を与えられました。

その際、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられるなど、幕閣からは優遇されました。しかし水戸藩主で大老の水戸斉昭からアメリカのスパイではないかという疑いをかけられたため、結局は正規の通訳にはなれず、このため、江川英龍の直属の部下として配属されるようになります。

アメリカで造船や航海技術を学んでいたジョン万次郎は、軍艦教授所教授に任命され、幕臣に対して造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、同時に、英龍のもとで英会話書の執筆や多くの英文の翻訳、講演、通訳などの活動を行うようになりました。

幕臣への英語の教授もそのひとつであり、英龍が自邸の一部を開放して開いていた「江川塾」でも英語を教えるようになりました。この頃、ジョン万次郎が英語を教えた人物の中には、大鳥圭介、箕作麟祥などがおり、榎本武揚もその一人となりました。武揚が19才のころのことです。

榎本武揚は英龍が亡くなった翌年の1856年(安政3年)に20才で幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所することになり、江戸を離れています。従って万次郎に英語を学んだのは一年かせいぜい一年半程度だと思われ、おそらくはその程度の履修期間では英語が堪能というところまではいかなかったでしょう。

長崎の海軍伝習所での授業も蘭語で行われており、オランダ語で国際情勢や航海術・舎密学(化学)などを学びました。

その後1862年(文久2年)に26才になったとき4年間のオランダ留学を果たしていますが、これは英語よりオランダ語が得意だったからというよりもその頃はまだ交易を通じて幕府とオランダは密接な関係が続いており、米英よりもオランダとのほうが人事交流もさかんだったためでしょう。

榎本武揚はその後、幕府がオランダに発注した軍艦「開陽」で帰国、軍艦頭並を経て大政奉還後の慶応4年(1868年)1月に徳川家家職の海軍副総裁に任ぜられ、実質的に幕府海軍のトップとなり、薩長をはじめとする新政府軍との戦いにおけるリーダーとして幕末の動乱の時代に突入していきます。

一方のジョン万次郎はその後、1866年(慶応2年)に、土佐藩の開成館設立にあたって教授になることを要請され、このため土佐に戻って土佐藩士を相手に英語、航海術、測量術などを教えるようになっていました。

その後、1867年(慶応3年)には、今度は薩摩藩の招きを受け鹿児島に赴き、航海術や英語を教授していますが、武力倒幕の機運が高まる中、江戸へ戻るように要請されます。

しかし、その後もこの二人の運命が大きく錯綜することはありませんでした。

榎本武揚は箱館戦争に敗れたあとは、明治政府によって収監されていましたが、1872年(明治5年)に特赦出獄。その才能を買われて新政府に登用され、黒田清隆が次官を務める開拓使に四等出仕として仕官したあとは、上述のように出征街道をまい進しました。

1890年(明治23年)には子爵となり、大日本帝国憲法発布式では儀典掛長を務めるなど、明治政府の重鎮となるとともに、明治天皇に愛されたことから皇室にも重用されました。

その一方で、旧幕臣子弟への英才教育を目的に、様々な援助活動を展開し、北海道開拓に関与した経験から、農業の重要性を痛感。1891年(明治24年)に徳川育英会「育英黌農業科」を創設し、自らが学長となりましたが、この学校が、現在の「東京農業大学」です。

明治41年(1908年)に死去、享年73。

一方のジョン万次郎のほうも晩年は教育活動にその情熱を注いでいます。明治維新後の1869年(明治2年)、明治政府により開成学校(現・東京大学)の英語教授に任命され、その翌年の1870年(明治3年)には大山巌らとともに、普仏戦争視察団の一員として欧州へ赴任。

帰国後に軽い脳溢血を起こしますが、数ヵ月後には、日常生活に不自由しないほどに回復し、時の政治家たちとも親交を深め、政治家になるようにも誘われますが、開成学校で英語を教える教育者としての静かな余生を選びました。

この「時の政治家」の中におそらく榎本武揚もいたと思われますが、調べてみたものの詳しいことはわかりません。

万次郎は、明治31年(1898年)、72歳で死去。榎本武揚が育英黌農業科を創設した7年後のことになります。

おそらくは、同じ教育者でもあり、若きころには師弟関係にあったことでもあったため、何等かの交流はあったのではないでしょうか。同じ東京にある学校で勤務していたわけですから、英語に堪能なジョン万次郎が育英黌農業科のほうへ出向いていって講義をした、などという史実があるかもしれません。

また、そうした事実が分かったらアップしてみたいと思います。

今日は、榎本武揚、ジョン万次郎、江川英龍と、幕末に活躍した三人の人生をみてきましたが、こうして一見別々の人生を送ったかに見える人物が、時代のある一点において交錯するというのは面白いものです。

この三人が交錯するのは、1854~1855年(安政元年~2年)のころ。榎本武揚が、19才、ジョン万次郎が28才、江川英龍が54才のころのことであり、その場所は江戸本所の江川邸でのことでした。三人のヒーローが一時期に同じ場所に会してそれぞれ師弟関係を築き、そしてまた三人ともがその晩年に教育に携わったという点も面白いなと思います。

最後に面白いそうな話をもうひとつ。ジョン万次郎は、日本に帰国して英龍の手付(秘書を兼ねた部下)となったころから、江戸の江川家の屋敷内にある長屋に住んでいたようですが、万次郎が27才になったとき、この江川邸で幕府剣道指南・団野源之進の娘で「鉄」という名の女性と祝言をあげています。

この鉄という女性とどういう経緯で結婚することになったのかよくわかりませんが、江川邸の一角に住まわせてもらっていたほどですから、おそらくは英龍が紹介し、自らが仲人などもやったのではないでしょうか。

ちょうど同じころ、榎本武揚もジョン万次郎から英語を習い始めていますから、ジョン万次郎の祝言の席に武揚も招かれ、三人が顔を合わせていたことも想像できます。

芸達者な英龍のことですから、二人のお祝いにと「謡い」のひとつも歌ったのではないかと思います。そしてそれを若き榎本武揚と万次郎が酒を酌み交わしながら楽しそうに聞いている様子を想像すると、なんだかこちらも楽しくなってきます。

今はあの世に行ってしまった三人ですが、もしかしたらその生まれ変わりは今の世にいて、また昔と同じように師弟関係を続けているのかもしれません。

英語やオランダ語などの外国語に親しみ、それぞれ晩年は教育活動に熱心であったという共通点がありますから、もしかしたらその生まれ変わりは大学の先生かもしれません。そんな素敵な先生方に教えてもらえるなら、学校へ行くのも楽しいことでしょう。

まだまだこれから先の長い人生です。三人の生まれ変わりに出会えることを祈りましょう。

YS-11


今日は、「民間航空記念日」だそうです。1951年(昭和26年)の今日、戦後最初の民間航空として誕生した日本航空の「もくせい号」が東京~福岡間に就航しました。

「民間航空」とはいえ、日本航空は、その発足当時、会長には外務大臣や経済企画庁長官を務めた藤山愛一郎氏が就任。社長も元日本銀行副総裁の柳田誠二郎、専務取締役には航空庁長官だった松尾静磨が就任するなど、官主導の色合いの強い会社として発足しました。

官主導だったため、本社も銀座に置かれ、税制なども優遇されてずいぶん恵まれたスタートを切ったようですが、発足当時の従業員数は役員を除けばわずか39人だったそうです。

また、民間航空会社としての営業免許は取得したものの、飛行機の運航は外国の航空会社に委託することが政府の条件だったため、実際に飛行機を飛ばしていたのは日本人ではなく、アメリカのノースウエスト航空のパイロットでした。

使用した航空機も外国製で、しかも自社機ではなく、ノースウエストからチャーターされた「マーチン202型」という機体でした。とはいえ、一応日本初の民間航空機ということで、「もく星」号という日本名を付けられ、1951年の今日、10月25日の午前7時43分、その第一番機が大阪へ向けて羽田飛行場を飛び立ちました。

乗客は36名。パーサー1人とスチュワーデス2人を除けば乗務員も外国人でしたが、翼には日の丸、胴体には日本航空の文字がプリントされ、「戦後日本人の手によって飛び立った最初の飛行機」であることを内外にアピールしました。

ところが、戦後初の民間航空機として華々しいデビューを果たしたこのもく星号は、なんとその翌年に墜落事故を起こしています。

1952年4月9日午前7時42分に名古屋発、伊丹経由福岡行の便として羽田空港を飛び立ったもく星号は、その直後に消息を絶ち、翌日の朝に捜索活動を行っていた同僚機の「てんおう星号」(ダグラスDC-4)によって、伊豆大島の三原山山腹に墜落しているのが確認されました。

この当時まだ航空運賃は他の公共交通に比べてかなり高く、かなり裕福な人でないと購入できないほどの値段であっっため、もく星号にも社会的な地位が高い人間ばかりが搭乗していました。

八幡製鐵社長の三鬼隆氏をはじめとし、日立製作所の取締役、石川島重工の役員、ハワイのホテル支配人、炭鉱主、などが搭乗しており、人気活弁士で漫談家の大辻司郎氏も乗っていました。

これら乗員全員と乗務員37名全員が死亡し、世界的にみてもこの当時かなり大きな航空事故だったため、航空局も全力をあげてその墜落原因を究明しようと躍起になりました。しかし、当時はまだフライトレコーダーやボイスレコーダーが装備されていなかった上、当時の航空管制や事故捜査は在日アメリカ軍の統制下にあったため、墜落事件の調査は難航します。

詳細な調査の結果、推測される主な墜落原因としては、アメリカ人パイロットによる操縦ミス説や、当時同区域の管制を行なっていたアメリカ軍の管制ミス説などが浮上しました。このほかにも機長(当時36歳)を空港まで送ったタクシー運転手による証言から機長飲酒説も挙げられました。

しかし、どの説も決定的な証拠を集めることができず、最終的に墜落原因は特定されないまま捜査は終了しました。

後年、推理作家の松本清張さんが、この事件を題材にした著書を発表し、話題を集めました。松本さんがもく星号の墜落原因であると主張したのは、なんと「アメリカ軍機による撃墜」であり、「1952年日航機撃墜事件」や「風の息」として刊行され、ベストセラーにもなりました。

松本さんが主張するその根拠としては、アメリカ軍が発表した墜落場所(静岡県浜名湖西南16キロの海上)と実際の墜落場所(伊豆大島三原山山腹の御神火茶屋付近)が著しく離れていたこと、もく星号の近辺をアメリカ軍機10機が飛行していたこと、墜落したもく星号の一部の部品をアメリカ軍が持ち去っていたことなどでした。

また、パイロットの声が録音されていたもく星号の通信記録を、埼玉県の入間にあったアメリカ軍の管制基地、ジョンソン基地(現入間基地)が隠し続けていたことなども松本さんが暴露したことなどから、この「撃墜説」は、マスコミから大きな反響を呼び、テレビ朝日などはドラマ化までされました。

松本さんはこのほかにも、ジョンソン基地の管制システムといわれた「東京モニター」がもく星号の飛行を記録したことになっているが、実際には「東京モニター」なるものは存在しなかったと主張し、これらの数々の傍証により「もく星号がアメリカ軍機に撃墜された」と結論づけたのです。

気になるその撃墜の理由として、松本さんは米軍が旧日本軍のダイヤモンドの横流しを行っていたのではないかとし、その証拠隠滅をはかるために関係者が搭乗していた「もく星号」を撃墜したとの説を展開しました。

しかし、松本さんによる公表後も再調査が行われるようなことはなく、結局はこれが真実であるかどうかの証明は現在に至ってもなされていません。

このもく星号事件が引き金となり、日本航空は、1952年10月にノースウエスト航空との運航委託契約が切れると、その継続を拒否。そして新たに購入したダグラスDC-4B型機「高千穂号」によって自主運航を開始しました。

しかしその後も国内のメーカーはどこも国産の飛行機は開発できなかったため、日本航空もアメリカ製の機材を使い続け、日本人が自ら製造した航空機で、民間航空の運航を始めるのは、その13年後の、1965年(昭和40年)に戦後初の国産機として製造された「YS-11」が登場するようになってからでした。

この名機の誉れ高い「YS-11(ワイエスいちいち)」ですが、日本航空機製造が製造した双発ターボプロップエンジン方式の旅客機であり、正式な読み方は「ワイエスいちいち」ですが、その後一般には「ワイエスじゅういち」、または「ワイエスイレブン」と呼ばれて親しまれるようになります。

1965年(昭和40年)の3月に量産1号機を運輸省航空局に納入、9月にはFAAの型式証明も取得し、国内向けでなく輸出するための体制が整いました。

YS-11が民間会社に最初に納入されたのは1965年(昭和40年)4月のことであり、運輸省航空局に納入さらた1号機に続いて、量産型2号機が「東亜航空(のちの東亜国内航空(JAS))に引き渡されました。

しかし、納入された国内の航空会社で最初に定期路線で就航させたのは日本国内航空でした。運輸省に量産1号機が納入された3月30日の、翌々日の4月1日がその記念すベき運用開始日で、この便は羽田発、徳島経由高知行きの路線だったそうです。

実はこの2号機はその年の前年(1964年)の東京オリンピックの際に、全日空が聖火の輸送で使用したものを日本航空が譲り受けたもので、日本航空ではこれを自社塗装に塗り直し、「聖火号」と命名して就航させました。

従って民間の定期路線でYS-11を就航させたのは日本航空が初ですが、民間の航空会社で一番はじめにYS-11を飛ばしたのは全日空ということになります。

この機体を使って東京オリンピックの聖火を日本全国へ空輸し、日本国民に航空復活をアピールした全日空は、この聖火輸送にちなんでその後、全日空が導入したYS-11すべての機首に「オリンピア」の愛称をマーキングするようになりました。

しかし、全日空では、機体や自社便の時刻表には国産機であることを証明する「YS-11」の型式名や機種名は記さなかったそうです。YS-11を開発した「日本航空機製造」はこの当時、経営資金の枯渇から経営不安説が流れており、これが万一倒産した場合、倒産した会社の飛行機の名称をそのまま使う羽目になることを全日空がおそれたからといわれています。

また、その後輸出も数多くなされるようになるYS-11ですが、この当時の諸外国では日本製品の信頼性を疑問視する声も高かったといいます。

その後米国での最大の顧客となったピードモント航空などでも、乗客のイメージを配慮して、広告宣伝や時刻表での機種名を「ロールスロイス・プロップジェット」と表記し、日本製航空機であることや、YS-11の機種名の表示は行われなかったそうです。

しかし国際的にも知名度が高いピードモント航空は、YS-11の性能を高く評価したようで、オプションを含めて20機もの発注を出し、これによりその後もアメリカやブラジルを中心として他の航空会社も次々とYS-11の製造を注文するようになりました。

生産数は徐々に伸び、1968年(昭和43年)末には確定受注が100機を超え、この年だけで50機以上を新たに受注しています。国内向けにも好調で、1969年(昭和44年)に全日空から量産100号機を納入し、輸出は7カ国15社に達しました。

当初の量産計画は150機だったそうですが、1969年までにはこれを上回る180機の量産計画が運輸省から認可され、生産の主力工場であった小牧工場などでは、順番待ちで発注から納入まで1年以上かかることもあったそうです。

私が生まれて初めて乗った飛行機もYS-11で、このときの航空会社も全日空でした。父の友人のひとりが東京在住で全日空の株主であったことから、「株主優待券」を父にくれ、それで東京まで遊びに来いと促したため、父も喜んで同意。優待券は二枚あったため、私も父の上京に伴って飛行機に乗せてくれることになったのです。

確か小学校の5年生くらいのころだったと思いますが、広島空港から飛び立ったそのフライトのことは今でもよく覚えています。飛行機の窓の外から見える真っ白い雲の下に見える地上や海を飽きもせず、ずーっと見ていたものです。途中、スチュワーデスさんから飲み物とお菓子のサービスがあり、これと同時に子供向けのおもちゃも貰って大感激。

何を貰ったのかよく覚えていませんが、プラスチック製の飛行機の模型だったような気がします。この模型と共に全日空の全国路線が記してあるパンフレットももらい、その後広島へ帰ってからもこのパンフレットを繰り返し繰り返し見ていたことも覚えています。

その後も長期にわたって運用されたYS-11ですが、2012年現在、日本において旅客機用途で運航されているものはなく、また海上保安庁で使われていた機体も退役してしまいました。唯一自衛隊機として運用されているものが7機ほどあるようですが、早晩これらの生き残りも姿を消していくことでしょう。

諸外国へ輸出されたYSもその多くが運航終了となっているようで、機体はストアされて解体こそ免れているものの、現役として使われているものは少ないようです。どの程度が残っているのかわかりませんが、もし使用されているのが「発見」されたらそれこそ絶滅危惧種の再来として注目を浴びるに違いありません。

私が最後にYS-11に乗ったのは、10年ほど前の北海道でした。出張で行った道東の中標津から札幌丘珠空港までだったと思います。その後、YS-11などとは比べものにならないほど大型でジェットエンジン搭載の新型機に数多く搭乗してきた私が乗ったそのYS-11の内部は、その昔みた記憶からはあまりにもかけ離れていました。

えー、こんなに小さかったっけ~ と思ったものの、意外と古さを感じさせず、内装はかなりきれいだったと記憶しています。しかし、座席は窮屈で、天井も手を伸ばせばすぐに手が届くほど低く、座乗感覚はお世辞にも良いとはいえません。

なによりも閉口したのは、飛び立ったあとの騒音です。現在の静かなジェットエンジン機に比べると、これはもう笑ってしまうほどで、例えて言うならばエンジンむき出しで農地を耕すトラクターに乗っているようなかんじ。中標津から30分ほどのフライトだったと思いますが、その音の中で寝る、なんてことはまるで不可能、というかんじでした。

そのフライトを終えて、空港のロビーから改めてみたYS-11のまた小さかったこと。しかし、当たり前ですが、昔見たのと同じ形のYSは妙にたくましく見え、まだまだ現役で飛べそうなかんじがしました。

これが私がYS-11を見て、乗った最後になりましたが、今後もう搭乗する機会もないのかと思うと、少々さみしい気もします。しかし、展示機としては、成田空港に隣接の航空宇宙科学博物館をはじめとして、全国9カ所ほで保存されており、その気になればまた会いに行けそうです。しかしあの轟くようなエンジン音はもう聞くことはできません。

民間の定期路線として最後の便として就航したYS-11は、日本エアコミューターの2006年(平成18年)9月30日、15:55の沖永良部空港発、鹿児島空港行の便でした。

この路線は、同社が最初にYS-11を飛ばしたのと同じだったそうで、就航以来無事故での運航完了となりました。この9月30日の直前までYS-11が運航されていたのは、同じく日本エアコミューターの福岡~松山、高知、徳島、鹿児島の4路線だけだったそうで、これらも前日あるいは30日当日にすべて運行を終了しました。

ちなみに、この永良部空港発、鹿児島空港行のチケットは、2006年(平成18年)7月30日から発売されたそうですが、発売開始からわずか3分で完売したそうです。

その最後の運行が終わったあと、インターネットオークションに「2006年(平成18年)9月30日・日本エアコミューター・沖永良部発鹿児島行YS-11最終便搭乗券」1枚が出品されるという出来事があったそうですが、この搭乗券はインターネットオークション運営会社と航空会社側が協力してインターネットオークションから「強制削除」されたそうです。

なぜ削除されたのかはよくわかりません。運行が終了した機材での未搭乗の搭乗券の存在は日本エアコミューターさんにとっては、「ありえない」ということだったのでしょうか。

ともかく、出品された搭乗券は「無効扱い」とされたということで、売りに出した人にとっては踏んだり蹴ったりだったでしょう。なお出品時の価格は「10万円」だったそうですが、今もその人が持っていたらもっと価値が出ているかもしれません。

こうして、この世からはその当時の搭乗チケットすら消えていき、機体そのものも全く見られなくなってしまったYS-11ですが、2007年(平成19年)8月には新幹線0系電車などと共に「機械遺産(13番)」に認定されました。

文字通り国民的な「遺産」になり、お星さまになってしまったような寂しさがありますが、
しかし現在、YS-11以来40年ぶりに日本独自の旅客機の開発が進んでいます。

MRJ、と呼ばれているのがそれで、新聞やテレビで大きくとりあげられているのでご存知の方も多いことでしょう。MRJは、Mitsubishi Regional Jet(三菱リージョナルジェット)の略で、その名のとおり三菱航空機を筆頭に開発・製造が進められている小型旅客機です。

2007年2月以前の構想・計画段階では、「MJ (Mitsubishi Jet)」、「Next Generation RJ」、「環境適応型高性能小型航空機」などの名称で呼ばれていたそうですが、三菱が開発製造の主導権を握るようになり、このように名称が改められました。

YS-11と同様の「国策機」であり、現在三菱が主導しているとはいえ、もともとは経済産業省の推進する事業の一つとして始められ、新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)が提案した環境適応型高性能小型航空機計画をベースとしています。

すでに開発はほとんど終わっており、2008年には早々と全日空からの受注を受け、「三菱航空機」として事業の会社化も終え、現在試験飛行機の開発・製造が行われています。

待ちどおしい初飛行ですが、2012年4月に発表された三菱航空機のリリースによれば、試験機初飛行は2013年度第3四半期だそうで、来年の後半にはその雄姿が見れそうです。

量産第一号機の納入も2015年度半ば~後半に予定しているそうで、あと3年すればYS-11以降、40年ぶりの国産旅客機が空を飛ぶことになります。

アメリカのトランス・ステイツ航空へも50機の納入が予定されているそうで、最近では、
今年の7月11日、同じくアメリカのスカイウェストから100機を受注することで基本合意に達したといいう発表があったばかりです。

40年の時を超え、日本国内だけでなく全世界を国産航空機が飛ぶようになるのもあと少しです。そのころまでには、景気も回復し、東日本大震災や福島原発のダメージを払拭していられるような強い日本になっていること祈りたいものです。

新しい時代がすぐそこまで来ている感じがします。今年はアセンションの年だそうですから、来年以降MRJが空を飛ぶようになるのも、時代の変革の一環かもしれません。時代の流れに乗り遅れないようにするためにも、MRJにみんなで乗りましょう。

(注:アセンションとは、上昇、即位、昇天を意味する英語です。今年以降、産業革命以来の大きな変化が起こるといわれています。詳しくは、5/16版の当ブログ「今年はアセンションの年だそうです」をごらんください。)

登山ブーム考 ~御殿場

細野高原より天城山塊を望む

昨日の雨はかなり激しく降りました。雷を伴う突風の吹いたところもあったようで、ところによっては小規模な竜巻も起こったようです。

しかし、この雨で富士山の頂上はまた一段と白くなりました。日の光をあびてまぶしいくらいです。頂上にどれほどの積雪があるのかできるものなら直接行って見てみたいところですが、残念ながらこの時期の登山は一般向けには許可されていません。

足に自信がある人はふもとの警察署などに登山計画書を提出すれば、入山が許可されるようです。しかし、冬の富士山はベテランでも恐ろしい、という話をその昔、新田次郎さんの小説か随筆かで読んだことがあります。

三年ほどまえ、元F1レーサーの片山右京さんが同じ事務所のスタッフ二人と共に冬季の富士山に登りましたが、このときも急な天候のせいもあり、同僚二人が遭難して亡くなっています。

片山さんが保護された御殿場署の調べに対し「寒波が来るのを知らずに登った」と話していることから、富士山くらい軽いと油断したのではないか、装備や風対策も十分に出来ていなかったのではないか、という批判が集まりましたが、そうした事実があったのかどうかは別として、私は起こるべくしておこった事故だというふうに思いました。

冬季の高い山というのは、それでなくても危険な場所ですが、富士山のような険しい山ではさらに危険が増します。高所であるために気温が極端に低いうえ、空気が薄いために通常の行動がとりにくく、かつ天候の変化が激しいからです。

しかし、南アルプスや北アルプスなどのいわば、「普通の山」であるならば、かなり高い山であってもいざ天候が急変した場合には、岩陰などの避難場所をみつければ急場をしのげますし、積雪量が多ければ雪洞を掘ってその中で天候の回復を待つことができます。

ところが、富士山はこうした意味ではかなり特殊な山です。ふもとから見てもわかるとおり、なだらかな斜面が続いているだけの凹凸の少ない山であり、風が強いときでも隠れるような場所がありません。

また、表面が風の吹きさらしになることから、雪が降っても深く降り積もるような場所がなく、またすぐに固く凍ってしまうことから、雪洞が掘れるような環境は少ないといいます。

新田次郎さんの小説に「孤高の人」というのがありますが、この小説の主人公の加藤文太郎という人は実在した登山家です。

不世出の登山家とまで呼ばれた天才クライマーでしたが、この人が富士山に登ったときのことがこの小説に描かれており、ふきっさらしの風を避けるような場所もなく、登山道は凍ってツルツルで、この天才といわれたクライマーですら、冬の富士山は怖いと思い知った、というような描かれ方をしていました。

また、同じ新田次郎さんの小説に「富士山頂」というのがありますが、この小説では重い荷物を富士山などの高い山に荷物を運び上げるベテランの「強力(ごうりき)」たちのことにふれていますが、こうした強力でさえ、冬の富士山を恐れている、ということが書かれていました。

片山さんらがもし、これら小説を読み、冬季の富士山の環境がどれほど過酷であるかを知っていたならば、不意の天候の変化にも対応できる準備ができたのではないかと思います。

どんなふうな登山をされていたのかよくわかりませんが、おそらく富士山特有の環境を念頭に置かれた装備(アイゼンやピッケル、ザイルなど)を持っていなかったか、あるいは持っていたとしても、そういう急な気候変化があったときにどう行動するかを念頭に置いた「心構え登山」ができていなかったのではないかと推察します。

また、親しいとはいえ、体力の異なる人たちとパーティを組んで山を登るというのは、時として非常な危険を伴います。「足手まとい」というのはあまり良い言葉ではありませんが、非常に状況が切迫したときの同僚の不調や技量不足は、即自分の命取りに直結します。

片山さんたちも、仲の良い同僚たちイコール何かあったときには頼りになる奴らの「はず」、というどこかあいまいな安心感のみでパーティを組み、富士山に臨んだのではないでしょうか。

実は私も冬山の経験が何度かあります。あるとき、友人二人で東京都の最西端にある最高峰、雲取山という山に登ったのですが、秋もようやく深まったばかりのことであり、雪の心配などせず、比較的軽装備で山に入りました。

ところが、山頂付近で急な天候の変化があり、季節外れの雪に見舞われました。しかもそのとき友人が足を痛めるというアクシデントが重なり、先へもあとへも行けないという状態に陥りました。

幸いそれほど遠くない場所に無人の山小屋があり、そこで急場をしのぎ、朝までには友人の足もある程度回復したため事なきをえましたが、もし小屋もなく、友人の足がさらに悪化したときのことを考えると今でもぞっとします。

「孤高の人」の主人公、加藤文太郎は常に一人だけで山に登っていたため、「単独行の文太郎」と呼ばれていたそうですが、私もそのことがあって以降、文太郎を見習って危険なほど高い山へ登るときには一人だけで登るようになりました。

無論、複数で登山することの意味は、お互いの不調や力不足を補いあうという考え方もありますが、極限状態ではその「お互い」が命取りになることもあるのです。

「孤高の人」の文太郎も、物語の最後で一回だけ、自分を慕う若い登山家と一緒にパーティを組み、北鎌尾根に登ります。そして、その同僚の力不足が原因で自分も命を落としてしまいます。

自分の体力や生命にかかわることは他人に引きずられずに自分で決めなくてはならない、単なるお付き合いで山には行ってはいけない、というのがこの小説の教訓だったと思います。

山という場所は常に危険と隣り合わせの場所という認識をもち、いざというときにどういう行動をとるか、とれるか、またその行動をとるのは一人なのかそれとも二人以上かということは、そうした危険な場所に立ち入る人たちは常に考えておくべきかと思うのです。

そういう意味では、昨今の中高年の登山ブームは、危険な要素を多く含んでいるなと思います。

自分の体力は自分の体だからわかります。しかし他人の体力は見た目ではわかりません。この人はベテランだから大丈夫、という安易な発想でパーティを組むのはやめましょう。その人はベテランで、あなた自身もベテランと思っているかもしれません。しかし、同じベテランでも体力や技術にはたいていの場合ある程度の差異があります。

遭難に至るような危険な状況に直面したとき、そのほんの少しの技量の差によってあなた自身がその同僚の足を引っ張ることになるかもしれないのです。

複数で山に入るとき、その同僚は同じ程度のスキルを持っているか、いざというときに別々に単独行動をとっても大丈夫な人であるかどうか、あるいは、そうなったときどうするか、ということをお互いに話し合った上でパーティを組む、というのがパルを選ぶときの最低限の条件だと思うのです。

実は昨夜、先週放送された、「トランス・ジャパン・アルプス・レース」の様子を特集した「NHKスペシャル」の録画をみました。

「トランス・ジャパン・アルプス・レース」というのは、日本海の富山湾をスタートし、北アルプス・中央アルプス・南アルプスの3000m級の山々を次々と縦断しながら、太平洋の駿河湾までを制限時間たった8日以内で駆けぬける「超人レース」です。

二年に一回開かれており、今年も8月に開催されました。走破する距離はおよそ420km、登りの累積高さはなんと、27000mに及ぶこの過酷な「超人レース」に挑んだのは、女性一人を含む28人。

ちなみに、このレースには、賞金や賞品が一切ありません。日本を誇る山岳地帯を駆け抜け、完走するという結果だけを勲章と考える人たちだけが参加するレースです。

過酷なレースになるだけに、当然事前審査があり、その条件とは、以下のようなものです。

・標高2000m以上の場所において、2回以上のビバーク体験があること(ビバーク体験は、ツエルト+レスキューシート(もしくはシュラフカバー)のみで、ひと晩を過ごす事)。

・1日に、コースタイム20時間以上の山岳トレイルコースをコースタイムの55%以下のタイムで走りきれる体力と全身持久力を有すること(例として、日本山岳耐久レース(71.5km)レベルの大会において、11時間10分以内で完走できること)。

・フルマラソンを3時間20分以内あるいは100kmマラソンを10時間30分以内に完走できる体力を有すること。

私は、フルマラソンを4時間台前半で走ったことがありますが、3時間20分以内というのは、かなり走り込んだ人でない達成できる記録ではありません。また、二日連続のビバーク体験というのは、登山マニアと言われる人でもなかなかやらない経験でしょう。

このため、選抜に残った人たちも消防士さんだったり、山岳レスキュー部隊の隊員だったりといった、いわば「特殊な人」がほとんどでしたが、なかには趣味でこういった超人レースにチャレンジした「普通人」もいました。

このレースの参加資格としては、上述のような実績以外にも、次のような自己管理能力が求められます。

・①事前にリスクを回避する(危険回避能力)、②アクシデント発生時に対応できる(事故対応能力)を身につけていること。→リスクマネジメントができること

・自己責任の法則・・・「すべての責任は、自らに帰する」ことを自覚して行動できること。→ 自己責任の認識があること

この番組をご覧になった人はわかると思うのですが、夏山とはいえ標高3000m級の日本アルプスを縦走するにしては、参加者の装備はあまりにも軽装でした。

「1~2泊程度のビバークに耐えうる装備・食料等」ということで、持てるのは、ヘッドランプや携帯電話、GPSトラッキング端末、地図、コンパス、筆記具以外には、簡単なツエルトや、防寒具、カッパ、手袋、帽子だけです。

水や食料は全行程のものをあらかじめ持参することは不可能なので、途中で補給が可能ですが、こんな軽装備だけで420kmを駆け抜ける、しかも3000m級の山々に登りながら、というのはなかなか常人ではできることではありません。

まさに、危険回避能力や事故対応能力を身につけている人、そして「すべての責任は、自らに帰する」ことを自覚して行動できる人以外はチャレンジできないレースといえます。

しかし、よくよく考えてみれば、「危険回避能力」や「自己対応能力」などのリスクマネジメント能力や自己責任の認識力は、こうした鉄人だけに求められるのではなく、通常の登山をする人たちにだって同じように求められていることのように思います。

山で何かがあったときには、自分自身でそれを回避できるか、自分だけで対応できるか、そして万一何かトラブルに陥った時には、その責任はすべて自分にある、という自覚を持っているか、というのは、今登山ブームに乗っかって安易に山へ入っている人たちすべてに問うてみたいところです。

この「日本一」過酷な超人レースの結果ですが、選抜された28人は、着替えやテントを背負い、山小屋などで食料や水を確保しながら、自らの脚だけでゴールを目指しますが、案の定、数々のトラブルに見舞われます。

荒れ狂う暴風雨、不眠不休の走行に悲鳴を上げる身体、ライバルとの争いで失われていく平常心……選手は一人、また一人と完走を断念していきました。

十分なリスクマネジメント能力がある、と考えていた人たちですら全員の完走はならず、最終的に制限時間内にゴールしたのは18人でした。リタイアした人たちの多くは、天候の悪化などで体力を奪われ、これより先に進めば、自分だけが傷つくのではなく、多くの人に迷惑がかかる、と考えたようです。

危険であると感じたときには、進まず止まる、やめる。まさに自己責任能力がなければできることではありません。

ちなみにこのレースの完走者はほかにも二名いましたが、ひとりは決められている時間外に小屋を利用したということで失格。もう一人は、予定制限時間を23時間あまりオーバーしましたが、無事駿河湾まで辿り着けました。

失格された方もタイムオーバーの方も無念だったでしょうが、自己を厳しく律した上で勝ち取った見事な完走には多くの人たちが拍手を送り、見ていた私たちにも大きな感動を与えてくれました。

この放送ではまた、最後にゴールした方が、「完走することで、自分の何かが変わるような気がする」という意味のことをおっしゃっていたのが印象的でした。過酷な自然に挑む人というのは、何かそういうことを求めている人たちなのでしょう。

すべての登山者に自己責任や自己管理を求めるつもりはありません。軽い散策のつもりで登るピクニック登山にまで大きな責任や自律を求めるのは酷というものです。

しかし、簡単なピクニックであっても、ゴミを捨てない、環境を破壊しないといった最低限の自己責任は求められるべきです。また、たとえ簡単な山であっても体調が万全でないならば、思わぬ事故に合わないとも限りません。

なので、せめて、山に登る上での自己管理と自己責任とはどういうことかを一度は考えてみましょう。その上で、「その環境が自分の何を変えてくれるか」を考えながら登り、そして「何かが変わった」と思えるならば、もっと山に登るということの意味がわかってくるのではないでしょうか。

幕末の密航者 ~旧戸田村(沼津市)


先日、戸田の「戸田造船郷土資料館」を訪問したとき、資料の中に、「橘耕斎(たちばなこうさい)」という人物の名前がありました。

あまり知られていない人物ですが、出身は掛川藩士、つまり静岡県人です。若いころに脱藩し、一時博徒の頭目になったり、出家して仏門に入ったりと、波乱万丈の前半生を終えたあと、今度は伊豆沖で難破したディアナ号の船員がロシアに帰る際、その便船でロシアへ密航。サンクトペテルブルグでロシア語を学んだあとに、後年ロシアの外交官として活躍した人物です。

「ウラジミール・ヨシフォヴィチ・ヤマトフ」というロシア名まで持っており、1870年にはペテルブルク大学初の日本語の講師にまでなっています。1873年、岩倉使節団としてロシアを訪れた岩倉具視に説得され、日本に帰国。しかしその後高輪の源昌寺に籠り世に出る事なく1885年(明治18年)生涯を閉じました。

この人物については、いずれまた詳しく書くとして、幕末にはいったい、どれくらいの密航者がいたのかが気になったので調べてみました。すると、いるわいるわ、結構な人数がこの時期に外国に密航しています。改めて幕末の人たちがいかに新しい時代のための新知識に飢えていたかを再認識させられます。

まずは、薩摩藩。薩摩藩は、横浜で薩摩藩士がイギリス人を殺傷した生麦事件に端を発し、その後イギリスとの戦争、「薩英戦争」を引き起こしました。この戦争は薩摩の一方的な敗北に終わり、薩摩は攘夷論が空論であることを理解するようになります。そして、逆にイギリスをはじめとする欧米諸国から最新技術を導入しようと考えるようになり、やがて極秘裏にイギリスと「薩英同盟」を締結します。

そして、この同盟を機に、その頃の幕府の定めでご法度であった、「密航」を藩ぐるみ画策。藩内の厳しい選抜で14名もの俊英を選び、これに藩の監督官や通訳など5人を加えて、合計19名がイギリスに密航しました。

時は、1865年(元治2年)、全員が変名を使い、表向き藩主の御用で奄美大島方面へ出張と偽り、長崎のイギリス武器商人グラバー所有の蒸気船で鹿児島港を出港。香港で便船を乗り継ぎ、ジブラルタルを経て、2か月後の5月に英国サザンプトン港へ到着しました。

密航者の中には、のちに関西経済界の重鎮となる五代友厚(ごだいともあつ)などもおり、年齢も14~34才と幅広く、イギリスでは、軍事のほか、海軍測量、機械、文学、医学、化学、造船など多岐の学問を習得し、彼らが得た新知識は明治以降の文明開化に大いに貢献しました。

一方、薩摩藩のライバル、長州藩も1861~1864年の文久年間に5人の藩士をイギリスに秘密留学させています。これが有名な「長州ファイブ(5)」と呼ばれる面々で、その5人こそが、井上聞多、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔、野村弥吉です。

井上聞多は、のちの井上馨(外務卿、内務大臣等を経て侯爵)、伊藤俊介は、のちの総理大臣、伊藤博文です。野村弥吉も後年名前が変わって、井上勝と称するようになりますが、この人は鉄道発展に寄与し、日本の鉄道の父と呼ばれました。

遠藤謹助、山尾庸三の二人は他の三人ほど有名ではありませんが、遠藤謹助は明治政府で長く造幣局に勤め、明治14年には造幣局長となり、大阪造幣局の「桜の通り抜け」を造った人として知られています。

山尾庸三は、長州ファイブの中でも一番最後までイギリスに残っていた人で、1868年(明治元年)に帰国。帰国後に工部権大丞・工部少輔、大輔、工部卿など工学関連の重職を歴任し、のちの東京大学工学部の前身となる工学寮を創立。晩年は聾(ろう)を患う身体障害者の人材教育に熱心に取り組み、1880年(明治13年)に楽善会訓盲院を設立しました。

この長州ファイブは、五十嵐匠監督によって2006年に映画化され、第40回ヒューストン国際映画祭ではグランプリを受賞しており、山尾庸三役を松田優作の長男の松田龍平さんが演じて話題になりました。

この5人の秘密留学に際して、長州藩は費用として約5000両を用意したといいますが、これは現在の価値に換算すると5億円以上になります。いかに長州藩がこの5人に期待していたかわかりますが、その期待に応え、五人ともその後の新しい時代において大いに活躍しました。

薩摩や長州以外の藩から密航して、留学した有名人のひとりには「新島譲」もいます。のちにキリスト教の布教家となり、現在の同志社大学を興し、福澤諭吉らとならび、明治六大教育家の1人に数えられています。この六代教育家は以下のとおりです。

大木喬任:文部卿として近代的な学制を制定
森有礼: 明六社の発起代表人、文部大臣として学制改革を実施
近藤真琴:攻玉塾を創立、主に数学・工学・航海術の分野で活躍
中村正直: 同人社を創立、西国立志編など多くの翻訳書を発刊
新島襄: 同志社を創立、英語・キリスト教の分野で多くの逸材を教育
福澤諭吉: 慶應義塾を創立、法学・経済学を中心に幅広い思想家として著名

この中の新島譲は、上州(現群馬県)安中藩の人で、江戸生まれ。元服した際に友人からアメリカの地図書を見せられたことがきっかけで、アメリカの制度を知るようになり、アメリカに憧れを持つようになります。

その後、幕府の軍艦操練所などで洋学を学んでいましたが、ある日、アメリカ人宣教師が訳した漢訳聖書に出くわし「福音が自由に教えられている国に行くこと」を決意。

そしてアメリカ合衆国への渡航を画策し、備中松山藩の洋式船「快風丸」に乗って開港地の箱館へと向かい、箱館に潜伏。その折、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと出会い、カサートキンによってより聖書に興味を持つようになります。

これに対して、カサートキンは自分の弟子になるよう勧めましたが新島はこれを拒否。アメリカ行きの強い意思は変わらなかったため、逆にカサートキンがその密航に力を貸すことになり、坂本龍馬の従兄弟である沢辺琢磨や福士卯之吉と共に密出国の計画を練るようになります。

1864年(元治元年)の6月、新島ら3人は、函館港から秘密裡に米船ベルリン号で出国します。上海でワイルド・ローヴァー号という別の船に乗り換え、船中で船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから、以後アメリカではその名を使い始め、後年の帰国後も「譲」「襄」と名乗るようになります。

ちなみに新島の本名は、七五三太(しめた)といい、この名前は、新島の祖父が女子が4人続いた後に、初めて生まれたのが男子であったため、「しめた」と言ったためにそれがそのまま名前になったそうです。ずいぶんと安直なネーミングです。

翌年の1865年(慶応元年)7月にボストン着。ワイルド・ローヴァー号の船主、A.ハーディー夫妻の援助をうけ、フィリップス・アカデミーに入学。その後10年近くをアメリカで暮らすことになります。

1874年(明治7年)、アンドーヴァー神学校を卒業。同年10月、アメリカン・ボード海外伝道部の年次大会で日本でキリスト教主義大学の設立を訴え、5000ドルの寄付の約束を獲得。その後、ニューヨークに出て、当時開通していた大陸横断鉄道でサンフランシスコまで移動。ここから船で帰国の途につき、同年11月末に横浜に帰着。

この年は佐賀の乱で江藤新平が新政府に敗れて斬首された直後であり、その3年後には西郷隆盛らによる西南戦争も勃発するなど、明治になってから新政府の存続が危ぶまれる危機的事件が立て続けにおこる波乱の時期でした。

そんな中でも、旧主家の安中藩板倉氏の先祖である板倉勝重が京都所司代を務めたこともある関係で、新島家は公家華族とも広く親交があり、旧親幕藩が虐げられていた新政府の中においても、新島家は優遇されていました。

そして、新島が帰国後、公家華族の一人であった高松保実子爵の申し出によりそのお屋敷(高松家別邸)の約半部を借り受けることができることになり、京都府知事の槇村正直らの賛同も得て「官許学校」として、同志社英学校が発足。

後年、同志社大学となるこの学校の初代校長に就任しますが、開校時の教員は襄とJ.D.デイヴィスの2人、生徒は元良勇次郎、中島力造、上野栄三郎ら8人しかいなかったといいます。

このように、幕末の諸藩が自藩の藩士を密留学させたり、新島のように単独での密航者がいた中、幕府もまた幕府直参を留学させています。自らが海外への渡航を厳しく禁じていたにも関わらず、オランダやロシアなどへ官費留学生を送っており、とくに駐日イギリス公使パークスの勧誘に応じ、1866年(慶応2年)には、14名もの幕臣がイギリスへわたっています。

この渡航にあっては、選抜試験が行われたといいますが、幕臣の子弟の中にはコネを使って合格しようとした者もいたそうです。志願者は80名ほどもいたといいますが、その後幕府が瓦解し、薩摩や長州からの留学生が活躍する中、この留学から帰国した幕府留学生はあまり登用されていません。

薩長の力が強かったというよりも、腐りきった幕末の幕政の中で選ばれたボンクラ留学生ばかりで、新しい時代を担っていけるだけの人材がいなかったのではないかと思われます。

この幕府からの留学生は、その後幕府が新政府軍との戦闘に陥り、その後の海外生活が危ぶまれましたが、イギリスへ渡航した面々は、フランス・オランダへの留学生と共に戊辰戦争最中の慶応4年に無事帰国しています。

前述の新島譲が日本に帰国した明治7年、奇しくもこの同じ年にロシアから戻ってきたのが、「橘耕斉」です。

この橘耕斉の話は、長くなりそうなので、またいつか別の日にしたいとおもいます。あまり知られていない人物なのですが、ノーベル賞作家の川端康成も、昭和4年ころにこの人物について短い文章ではありますが、書き残しているということです。

そこには、明治政府が岩倉使節団を諸外国に派遣した結果、米では新島襄が、ロシアで橘耕斎が掘り出されたというようなことが書かれていたようです。

少し前に橘耕斎を主人公にした小説も出版されたそうで、山上藤吾著の「白雲の彼方へ:異聞・橘耕斎(光文社刊)」という本のようです。ネットで調べてみたところ、絶版になっているらしく入手できるかどうかはわかりませんが、もし入手可能ならばぜひ読んでみたいと思います。

今日のところはこれくらいにしたいと思います。外は雨。一日続くようです。おそらく富士の高嶺にも雪が降り積もっていることでしょう。白く降り積もって雪で化粧をした富士山が見れるであろう明日が楽しみです。

戸田にて ~旧戸田村(沼津市)

昨日は朝から気持ちの良いお天気で、一日中富士山もよく見えていました。午後からもこの上天気は続きそうだったので、久々にきれいな夕日でもみようと、西伊豆の戸田港まで足を延ばしてみることにしました。

修善寺から戸田へ行くには県道18号をひたすらに西に向かいますが、この途中には、「達磨山」という高い山があり、山頂一帯は部分的に高原地帯になっていて、ここからは360度の大パノラマが広がる……ということなのですが、残念ながらクルマでは行くことはできません。ハイキングコースが整備されており、頂上までは徒歩で行くことになります。

が、その頂上近くの県道18号沿いには「達磨山高原レストハウス」という展望所兼の休憩施設があって、クルマが30~40台ほども泊まれる駐車場やトイレ、レストランが整備されています。360度というわけにはいきませんが、ここからは富士山をはじめ、沼津や御殿場、箱根方面まで見渡せるため、いつも多くの人で賑わっています。

この日は上天気だったので、真正面にはどんと富士山も見え、駿河湾を行きかう船も手に取るようにみえます。この日も多くの観光客で賑わっていて、みなさんこの富士をバックに記念撮影をさかんにされていましたが、私もその中に入ってバシャバシャと写真を撮っておりました。

レストランでしばしコーヒーを飲んで休憩したあと、いざ戸田港へ。ここ達磨山高原は18号の最高地点でもあるため、ここからは九十九折の下り坂を下っていくことになります。下ることおよそ20分、周囲を自然の砂州で囲われた遠洋漁業の町、戸田港へ到着しました。

この戸田港ですが、以前このブログでも書いた「ヘダ号」が建造された場所でもあります。

ロシアのプチャーチン提督が乗船した船が下田沖で津波に遭遇し、破損したため、これを修理すべく戸田港へ廻航中に今度はシケに逢って沈没。その代替船の建造を要請したところ、幕府もこれに応じ、韮山代官の江川英龍を総監督として建造が行われた、というお話でした。

そのヘダ号に関する資料を集めた、「戸田造船郷土資料博物館」という施設が、戸田港の入口にある「御浜岬」という砂州の先端にありますが、今回戸田へ向かったのはここへも立ち寄りたかったためでもあります。

この博物館「造船郷土資料館」ということで、戸田の漁業に関するいろいろな郷土資料や「深海生物資料館」なる施設も付属していて、同じ入館料でこちらも閲覧できます。が、やはりなんといってもメインは、プチャーチンが乗ってきたディアナ号に関する資料や、日本で初めて建造された西洋帆船となったヘダ号に関する資料です。

2階建ての建物のうち、2階部分がこのディアナ号とヘダ号に関する展覧物の資料館になっていて、中へ入るとど真ん中にヘダ号の大きな模型が展示してあります。

このヘダ号を中心として、そのまわりにはディアナ号の遭難のいきさつに関する展示や、ヘダ号の設計から建造までの経過やこれに関するさまざまな資料、プチャーチンやヘダ号建造に関わったさまざまな人物の紹介などが展示されていて、歴史が好きな人にとってはなかなか興味深い資料館に仕上がっています。

ここに入って初めて知ったのですが、戸田にはプチャーチンの死後、その姪御さんなども訪れていて、ヘダ号の件でお世話になったことなどから多額の寄付をその当時の戸田村にしたそうです。

また、後年この博物館が造られたときも、ロシア政府からその建設費用の一部が寄付されたそうで、その後も何かとこの地を関係者が訪問しており、ディアナ号の遭難を救ってくれた日本人への感謝をロシア人は今も忘れていないようです。

このほかにも、「ヘダ号」の設計者である「モジャイスキー」にまつわる逸話や、ロシアに密航して、彼の地でロシア政府に重用された「橘耕斎」などに関する資料などもあって、今日はこれを紹介しようかなとも思ったのですが、結構紙面が要りそうなので、また今度にしたいと思います。

博物館には1時間ほどもいたでしょうか。ここを出たころには4時をかなり回っていて、太陽はもうすぐ西の海へ沈みそうです。夕日が沈む前に、御浜岬の先端部分を少し散策することにしました。

博物館のすぐ裏手(南側)には、諸口神社(もろくちじんじゃ)という神社が建っていて、こちらは航海および漁業者の守護神として地元戸田の人たちに敬われている神社です。港に面した砂浜に赤い鳥居が建てられていて、戸田港から港外へ出ていく船からは、鳥居を通してその奥にある神社がみえるはずです。

陸地にいた我々は、赤い鳥居を通して神社をみることはできませんでしたが、船からこういう神社がみえるしくみというのは、広島の厳島神社もそうですが、なかなかの風情があります。確か河口湖にも湖畔に赤い鳥居があったと思います。多くは水の神様を祀ったもので、厳島神社の祭神の市寸島比売命(イチキシマヒメ)も水の神様です。

ちょうどその鳥居のすぐ真下まで出たところ、港からはちょうど一隻の大型船が出航しようとしているところでした。噂には聞いていたのですが、これがサンセットクルーズを提供している「ホワイトマリン号」のようです。

下甲板と上甲板の二層構造になっていて、それぞれに観光客さんが十数人づつほども乗っており、これを取り囲むようにしてカモメが乱舞しています。おそらく船内からカモメへ投げるエサが用意してあるのでしょう。結構な数です。

この外港へ出ていこうとするホワイトマリンと並走するような恰好で、我々も御浜岬をぐるりと回り、北側の湾外のほうへ歩いていくと、西のほうにはもうすぐ沈みそうな太陽が、そして北東にはほんのり赤く染まった富士山も見えてきます。絶景です。

夕方から漁に出る船も何隻かいて、ホワイトマリンのあとを追うようにして港内から出てきましたが、これらの船が西へ西へと出ていくと、沈む夕日の中でシルエットになって黒々と浮かび上がり、これがまたきれいです。

岬を完全に回り、博物館のすぐ北側まで回ってきたのですが、ここから見える夕日は少し陸にかかってしまいそうだったので、よりよく夕日が見える場所に移動することに。クルマで300~400mほど離れたところにある、「戸田灯台」の駐車場まで移動し、ここで車を降りました。

戸田灯台は、昭和27年に完成した、高さ17.43mの白いコンクリート製の灯台で、ここからの光は11.5海里、およそ約21km先まで到達するとのことです。ついこの間行った伊豆東海岸の城ヶ崎の灯台などよりもずっと小ぶりですが、富士山をバックに夕日にほんのり赤く染まったこの灯台はなかなか絵になります。

ところで、この「灯台」ですが、「燈台」とも書かれるようで、どっちが正しいのかな、と気になって調べてみました。そうしたところ、「燈台」のほうは、構造物としての正式名称を示すときに使う用語だそうで、戸田灯台の場合も、構造物としての正式名称は「戸田燈台」なのだそうです。

「灯台」という用語は、「常用漢字」が制定されたあとに使われるようになった用語で、常用漢字が制定される前には、すべて「燈台」と呼ばれていたそうです。なので、ごく近年建てられた一部の灯台を除き、常用漢字が制定される前に建設されたほとんどの灯台の正式名称は、地点を表す固有名詞の後に「燈台」を付けたものということです。

なので、城ヶ崎海岸の灯台も正式には「城ヶ崎燈台」と呼ぶのが正しいのです。しかし、常用漢字が制定されたあとは、「灯台」のほうを学校の教科書などでも使うようになり、地図などでも「地点」を示す用語として広く使われるようになったため、「燈台」という用語はあまり使われなくなってしましました。

反対に常用漢字が制定された後、近年になって造られた灯台の構造物としての正式名称は「○○灯台」となるそうです。ただし、こちらの数は非常に少ないみたいです。なぜなら常用漢字の制定は1981年ですから、現存する灯台のほとんどはこれより前に造られたものだからです。

ちなみに、一般に岬に建つ灯台には岬の名前として「埼」を使用するのだそうです。「崎」は使いません。これは、崎は地形を表す用語で、埼は地点を表す用語だからです。

なので、海図などでは、灯台は「地点」を船舶などに周知するための存在であるので、「埼」を使用します。「城ヶ崎」は地形を意味する用語なので「崎」を使っていますが、「犬吠埼灯台」というときには「埼」を使います。犬吠埼という「地点」に灯台があるからです。

この辺、ややこしくて頭がこんがらがってきそうなので、この話題、これくらいにします。

さて、この「戸田燈台」から見た夕日は、文句なくきれいでした。太陽がはるかかなたの御前崎方面に沈み始めたのが5時ちょっと過ぎからでしたが、この間わずか5分ほど。本当に短い自然ショーなのですが、このほんの短い間にも海の色と空の色は刻一刻と変わっていきます。

沖をみると、さきほど戸田港を出ていったホワイトマリン号も観光客のために船足を止めて仮伯しています。船上のみなさんも沈む夕日をさぞかし堪能したことでしょう。かくいう我々も久々に見た沈みゆく夕日に感動したことは言うまでもありません。

こらから秋が深まるにつれ、こうした美しい夕日が沈む光景はまた何度か見れるでしょうが、その時間にいつも海岸にいるとは限りません。そういう意味では「一期一会」です。

「あなたとこうして出会っているこの時間は、二度と巡っては来ないたった一度きりのもの。だから、この一瞬を大切に思い、今出来る最高のおもてなしをしましょう」

かつて千利休が示した茶道の心得です。その最高のおもてなしを伊豆の海から頂いた我々が大満足して家路についたことは言うまでもありません。

今回のようなきれいな夕日がまたいつ見れるかわかりませんが、できれば今度は場所を変え、これと同じ、あるいはこれ以上にきれいな夕日が見れるようであれば、またレポートをしてみたいと思います。

紅葉も見にいかなくてはいけません。秋が深まる中、行きたいところばかりどんどん増えていく今日この頃です。