金太郎 vs 酒呑童子 ~箱根町

昨日は、箱根山のことを書きました。その箱根山の火山群の最北端には、金時山という山があります。いわゆる「箱根外輪山」に属する山ではなく、富士山の宝永火山と同じく、古箱根火山の山腹から噴火した寄生火山であり、他の外輪山とは成因が異なります。

このため外輪山の他の山とは異なった特徴的な山容をしており、外輪山からイノシシの鼻が飛び出したように見えることから、その昔は「猪鼻嶽(いのはなだけ)」と呼ばれていました。しかし、江戸時代になって、「金太郎」がこの山で山姥に育てられたという伝説ができ、このころから金時山と呼ばれるようになりました。

足柄山という呼称もあるようですが、足柄山とは、本来、金時山から足柄峠に至るあたり一帯をさす名称です。が、地元では金時山を足柄山と呼ぶ人も多いそうです。

その山頂からは、天気が良ければ南方向に箱根の山々が見え、また、北方向には富士山や丹沢山地、遠くは南アルプスや八ヶ岳まで望むことができ、日本三百名山にも選定されています。その昔、若いころに私も登ったことがありますが、山頂付近のすすきの原をバックに見える富士山や箱根の山々は雄大で、こんなきれいなところがあるのか、と感動したのを覚えています。

金太郎?

さて、この金太郎ですが、その本名が坂田金時(さかたのきんとき)といわれるのですが、実はこの人物がほんとに実在したかというと、かなりそのへんが怪しいようです。そもそもは、金時山のふもとにある、静岡県駿東郡小山町の金時神社(坂田金時が祭られている神社)に記された記録から出ているお話のようですが、どうもこの記録は江戸時代にねつ造されたものではないか、というのがもっぱらの観測です。

そもそも「金太郎」なる名前からして怪しいといわれています。専門家さんによれば、江戸時代にあって、この金太郎というような名を幼名として使うということがまずあり得ないということで、むしろこういう名前は、この当時の人が成人したときに好んでつけた名前だといいます。

また、本当に有名な武将だったのならば、何かの戦争での武勲みたいなものが残っていてもよさそうなものですが、そういった具体的な史料は金時神社の記録以外にはまったく見つかっていません。

しかし、金太郎が長じたのちに仕えたという実在の人物、「源頼光」と同時代に生きた「藤原道長」の日記、「御堂関白記」などの史料には、「下毛野公時」という人物が登場しています。御堂関白記によれば、この「公時」は、近衛兵として道長に仕えており、かなり優秀な人物だったようで、この「公時」が「金時」に脚色されていったのではないか、といわれています。

道長の時代から100年ほどの12世紀ごろに成立したといわれる「今昔物語集」では、「公時」の名の郎党が、頼光の家来として登場しており、このとき既に、「公時」の主(あるじ)が道長から頼光にすり替わりっています。

足柄山で生まれ、山姥に育てられて大きくなり、熊にまたがって馬の稽古をしたという金太郎伝説が箱根を中心として地域で定着したのは、これからさらに500年も経ったあとの江戸期と考えられます。伝説というよりも、おとぎ話、あるいは民話のようなものだったでしょう。

そして、そのおとぎ話と今昔物語はまったく関係がありません。しかし、それまでに語り継がれてきた金太郎伝説が、源頼光の部下であったという坂田金時の幼少時代の姿と一致したとき、坂田金時=金太郎という方程式が成り立ったと考えられます。

それまでは単なるおとぎ話であったものが、坂田金時という実在の人物に形を変え、頼光を主とする怪力の武者として江戸の人々の間にそのイメージが定着していったようです。その後の酒呑童子の退治のお話を作り上げるにあたっても、幼少のころに怪力だったという金太郎のお話を持ち出すのは好都合のことだったでしょう。こうして坂田金時の人物像というものが完成するのです。

坂田金時

金太郎変じて、坂田金時の出世話は、ひとつではなく、いくつも存在します。元は同じ話が伝承されるうちに、形を変え、いろんなバージョンができあがったものと考えられています。

現在伝えられているもので、最もその原型に近いとされるものが、金時山のふもとの静岡県駿東郡小山町にある金時神社の古式縁起に記されたものですが、これすらももともとのオリジナルなのかどうかわかっていません。

しかし、坂田金時の話をするときには、やはりこれが一番オーソドックスなもの、ということのようなので、以下、これに基づいて、坂田金時を語っていきましょう。

その記録によると、坂田の金時は、965年(天暦10年)の5月に誕生したということになっています。金時は、そもそも武士ではなく、彫物師十兵衛の娘、八重桐(やえぎり)が京にのぼった時、宮中に仕えていた坂田蔵人(くらんど)と結ばれ懐妊した子供で、いわば私生児です。

つまり、隠し子であるわけですから、京都八重桐は故郷に帰り金太郎を産むことになります。しかしその後、坂田蔵人が亡くなってしまったため、八重桐は京へ帰ることをせず、その子を自分の故郷である金時山のふもとの地で育てることにしました。

ちなみに、母親が山姥で、雷神の子供を孕んで産まれてきたとするものや、金時山の頂上で、赤い龍が八重桐に授けた子というような民話のようなお話もあるようですが、これらは金時神社の縁起には記されていません。金時神社縁起は結構、まじめなお話としてまとめられています。

成長した金太郎は、足柄山の野山で大きく成長し、ときには熊と相撲をとれるくらいまで力持ちになりましたが、一方では母親に孝行する元気で優しい子供に育ちました。そして運命の天延4年3月21日(976年4月28日)、足柄峠にさしかかった源頼光と出会い、その力量を認められて家来となります。

そして、頼光から、坂田金時と名前を貰って改名し、京にのぼり、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光とともに、頼光の「四天王」の一人となるのです。

やがて、四天王の一人として数々の戦で手柄を立てた坂田金時は、永祚2年3月26日(990年4月28日)、丹波の国、大江山(現在京都府福知山市)というところに住む、「酒呑童子」を退治します。金時が立てたもっとも有名な手柄といわれます。

ちなみに、こうした年月日などの日付までが詳しく書いてあるのが金時神社の記録の特徴です。が、架空の生き物である鬼を退治した日付まで詳しく記録が残っていること自体が、ウソ臭く思えます。これがウソだとすると、ほかの記録もすべて信憑性を失います。

おそらく、鬼退治の部分さえなければ、多くの人は坂田金時は実在の人物と思ったに違いありません。それでもあえて鬼を登場させたのはやはり、これをもって「神社」という存在の神格性をアピールしたかったからでしょうか。坂田金時を神様として祀っている以上、鬼ぐらいは退治してもらわんと示しがつかん、と思ったのかもしれません。

さて、それはともかく、無事、その生涯最大のミッションを終えた坂田金時ですが、寛弘8年12月15日(1012年1月11日)、九州の賊を征伐するため築紫(つくし・現在北九州市)へ向かう途中、作州路美作(みまさか)勝田荘(現在の岡山県勝央町)にて重い熱病にかかり死去します。

享年55才。勝田の人々は金時を慕い、倶利加羅(くりがら、剛勇の意)神社を建てて葬りました。

この神社は現在、栗柄神社と称して、岡山県に実在します。勝田荘の人々が建てたという「金時塚」の上に金時を祀る社をかまえ、当初、倶利伽藍権現と称えていたようですが、明治元年、栗柄神社と改称し、明治16年に社殿を改築しています。

中後自動車道に「勝央」というSA(サービスエリア)がありますが、栗柄神社はこの勝央にあり、毎年8月、「勝央金時祭」というお祭りが行われています。江戸時代から続くお祭りということです。

スーパースター金太郎

さて、まるで実際にいたかと思わせるように神社まで作ってあるのですから、江戸時代の人々も、さすがにこれを信じたでしょう。スゴイぞ!墓(神社)まである!本当だったんだ!と驚いたに違いありません。しかし、この金時神社で祀られているのが本当に坂田金時なのかどうかは、誰にもわかりません。金時人気にあやかって、ある時からその地域の氏神様を金時にしてしまったのかもしれないからです。

しかし、こうして「実在の人物」になっていった坂田金時のお話は、江戸でも評判の物語となり、やがては浄瑠璃や歌舞伎にまで作られるようになります。歌舞伎の演目に登場する人物は、この当時としては、スーパースターであり、ほんとにいたのかな?と思う人がいたとしても、それをいまさら本当にいた人じゃないよ、などと言える雰囲気ではなかったと思われます。いや、実在の人物であろうがなかろうが、お話さえ面白ければよかったのでしょう。

そして、やがて坂田金時の幼少時の姿は、鉞(まさかり、大斧)担いで熊の背に乗り、菱形の腹掛けを着けた元気な少年像として、五月人形のモデルにもなり、この姿から、かつて日本各地で乳幼児に着用させた菱形の腹掛けもまた「金太郎」と呼ぶようになります。金太郎は、丈夫に育つ男の子のシンボルとして、日本中に浸透していったのです。

酒呑童子

……ということで、ウソで塗り固めた、とまで言うと原作者に対して失礼かもしれませんが、長い歴史の積み重ねにおいては、虚実もまた真実になっていくというのはよくあることです。ま、ウソといえども、一応よくできたストーリーでもあり、おとぎ話みたいなものと考えれば、腹も立ちません。

ところで、金時のことよりも、このおとぎ話の中で金時に退治されたという「酒呑童子」というのが、どんな妖怪だったのか、気になってきました。そこで、調べてみると、やはり坂田金時と同じく、いろんな描きかたをされているようです。

しかも、坂田金時以上に、そのお話が各地に広がっていて、その出生のお話からして、少なくとも五つ以上のバージョンがあります。これらをひとつひとつまとめるのはやっかいなので、そうした整理はまたの機会に譲るとして、最後にその酒呑童子がどうやって坂田金時にやっつけられたか、というくだりだけまとめましょう。

酒呑童子は、丹波国の大江山(現京都府丹後半島)、または京都と丹波国の国境の大枝というところに住んでいたとされる鬼の頭領です。酒顛童子、酒天童子、朱点童子とも書かれます。

お話としては、その本拠は大江山だったというものが多いようで、その大江山にある龍宮のような御殿に棲み、数多くの鬼達を部下にしていたといいます。

前述したように幼少期の伝説は掃いて捨てるほどあるので略しますが、その一つでは、酒呑童子は、八岐大蛇(やまたのおろち)の息子だそうで、伊吹山(滋賀県と岐阜県の県境にある山)の麓で、スサノオの尊と戦って敗れ、出雲国から近江へと逃げたとき、そこで富豪の娘との間に生まれた子だそうです。

やがて、大きくなって京都に上った酒呑童子は、茨木童子をはじめとする多くの鬼を従える親分鬼になり、大江山を拠点として、しばしば京都に出現し、若い貴族の姫君を誘拐して側に仕えさせたり、刀で切って生のまま喰ったりしたといいます。

あまりにも悪行を働くので、帝の命により摂津源氏の源頼光が呼び出され、頼光を筆頭として、渡辺綱、卜部季武、碓井貞光そして坂田金時の四天王により討伐隊が結成されます。

四天王は、大江山へ遠征し、そこで、一計を図って、その地にあったある高貴な姫君を差し出し、鬼たちにこの姫の血の酒や人肉を食べさせ、安心させます。そしてその夜、頼光が神様から兜とともにもらった「神便鬼毒酒」という酒を酒呑童子に飲ませます。

実はこの酒には飲むと体が麻痺する薬が入っていて、これを飲んだ酒呑童子ら鬼たちは眠ってしまいます。そして、そこを狙って一気に頼光と四天王が鬼たちを切り付けます。半分眠りこけていた酒呑童子ら鬼たちですが、はっと目がさめ、反撃しようとしますが、体が思うように動きません。

必死で頼光に噛みつこうとしますが、そこを四天王たちに次々と首を落とされ、とうとう成敗されてしまいます。しかし酒呑童子だけは、首を切られた後でも頼光の兜に噛み付いていたといわれています。

頼光たちは討ち取った酒呑童子の首を京へ持ち帰ろうとしましたが、京へ入る前の教老ノ坂という場所で、道端のお地蔵様から、「これこれ、そのような不浄なものを京に持ち込むでない」と叱られてしまいます。すると、不思議なことに、その声を聞いた酒呑童子の首は、持ち上げても引っ張っても、それきりその場から動かなくなってしまいました。

このため、一同は仕方なく、その地に首を埋葬することにし、自分たちだけで京都へ凱旋したといいます。

この酒呑童子の首を埋葬したと伝えられるのが、「首塚大明神」です。現在でも京都市内から山陰地方へ延びる国道9号線沿いの京都洛西と亀岡の境に残っていて、ここにお参りすると、首から上の病気に霊験があるとされています。また一説では童子は死に際に今までの罪を悔い、死後は首から上に病気を持つ人々を助けることを望んだため、大明神として祀られたともいわれています。

酒呑童子の首はまた、大江山の山中に埋めたとも伝えられ、これが大江山にある鬼岳稲荷山神社(京都府加佐郡大江町)の由来にもなっています。

以上が、坂田金時らが酒呑童子を成敗したときの顛末です。

酒呑童子は、白面金毛の九尾の狐と、恨みによって大天狗と化した崇徳天皇と並んで、「日本三大悪妖怪」とされ、しかも日本最強の鬼だそうです。しかし、何をもって最強というのかよくわかりません。現在ならば、きちんとルールを作って競わせて、一番を決めるのが普通です。

オリンピック競技のように、フェアなルールを作って、鬼同士を戦わせてチャンピオンをきちんと決めてから、一番だと言ってほしいものです。九尾の狐、大天狗との戦いもみてみたいものです。どなたかぜひ、彼らを戦わせる場を提供していただきたいものです。

そのときは、坂田金時ら四天王ともリターンマッチをしてもらい、本当に強いのはどっちか決めるというのはどうでしょう。きっと酒を盛られなかったら酒呑童子たちが圧勝するに違いありません。鬼が勝つとこの国はどうなるのでしょう…… あんまり考えたくないので今日はこれくらいにしておきます。

破局

高台にある我が家の北側には、富士山をはじめ、いろんな山が見えます。これまでも何度か話題にした葛城山が真正面に見え、そのやや左手には富士山と発端丈山があり、そこからさらに西側にははるか遠くに南アルプスが広がります。

……と、書けば絶景のようですが、別荘地内の木々が邪魔をして、全体像が見えない山もあります。その一つが、葛城山の東側の遠くのほうに見える山。

何だろうなーと前から気になっていたので、地図と見比べてみたところ、どうやらこれは、箱根の山々の中央付近にそびえる箱根駒ヶ岳、1356mであることがわかりました。ふーん、箱根なんだ~ とちょっと意外。

それもそのはず、ここから見える箱根駒ヶ岳は、お椀を伏せたような、さえないかんじの山で、しかも遠くにあるので、多少かすんでいて、これがあの天下の箱根山か~ というほどの威厳は感じられません。

ま、見えるだけまし、ということなのですが、これでもう少し、標高が高ければな~ と思うのです。が、これはこれ、想像力が鍛えられて良いではないか、とポジティブに考えることにしましょう。

古箱根火山

さて、この箱根山ですが、神奈川県と静岡県にまたがる、その昔は巨大な火山だったものの名残で、古い時代の火山活動でできた大きな外輪山の真ん中に新しくできた火山群がある」、「◎」の形をした山々です。中央の火山群とその周囲の外輪山の間の西側部分には、水がたまっていて、これが「芦ノ湖」になります。

わかりにくいかもしれないので、ウィキペディアに掲載されていた図を以下に引用させてもらいました。

中央火口丘付近にある大涌谷などでは、現在でも噴煙や硫黄などの火山活動が見られるほか、外輪山の東側の箱根温泉や湯河原温泉では、山腹や山麓の多くの場所で温泉が湧き出していて、古来より湯治場として観光開発され、人気を集めているのはご存知のところでしょう。

この外輪山は、もともと、「古箱根火山」と呼ばれる標高2700mもあった富士山型の成層火山の名残です。25万年前くらいから噴火を繰り返していましたが、約18万年前に大量のマグマが吹き出し、山体の地下に大きな空洞ができ、それが一気に陥没して大きなカルデラ(真ん中がどかんとへこんでいる火山。阿蘇山などもそれ)が誕生しました。

このとき陥没せずに、周りに取り残されるようにしてできたのが、塔ノ峰、明星ヶ岳、明神ヶ岳、丸岳、三国山、大観山、白銀山などの1000m前後の高さの山々で、これを「古期外輪山」といいます。

ただし、この外輪山の一番北側にある金時山だけは、この外輪山の一部ではなく、古箱根火山の山腹から噴火した寄生火山だそうで、他とは成因が違う独立した火山ということになります。

破局噴火

古箱根火山が陥没してできたカルデラの真ん中の部分では、その後、約13万年前から再び火山活動が活発になり、やがて、小型の楯状火山ができました。楯状火山というのは、粘性が低く流れやすい溶岩が流れだし、堆積してできたもので、その世界最大のものがハワイ島のマウナ・ロア火山です。ちなみに、日本のすばる望遠鏡ほかの各国天体観測所が設置されているのは、この火山の北側にあるマウナ・ケア山のほうです。

マウナ・ロア火山からどろどろした真っ赤な溶岩が流れ出し、海に落ち込んで大きな水蒸気をあげている映像をテレビなどで見たことがありませんか? 盾状火山は、このようにどろどろとした溶岩が少しずつ流れだし、緩やかに傾斜する斜面を形成する底面積の広い火山です。

盾のように広がることからこの名がつけられましたが、広大な面積を持つ火山であるため、いったんこれが大爆発を起こすと、とんでもないことになります。約5万2000年前、この箱根でもこの楯状火山が徐々に形成され、そして、「破局噴火」と呼ばれるスーパー爆発を起こしました。

破局噴火とは、地下のマグマが一気に地上に噴出する「壊滅的な」火山爆発で、地球の長い歴史において、これまでも何度もおき、そのたびに地球規模の環境変化や種の大量絶滅の原因となってきました。英語では、このような噴火をする超巨大火山を「スーパーボルケーノ」と呼ぶそうで、これを題材にしたパニックSF映画が何本も作られています。

この「破局噴火」という日本語は、「石黒耀」さんという作家さんが2002年に発表したSF小説「死都日本」で初めて使われたそうで、この小説では、「近代国家が破滅する規模の爆発的巨大噴火」として、扱われました。

この「死都日本」は、現実世界の火山学者さんからも、超巨大噴火をリアリティーを持って描いた作品として評価され、その後、日本でも過去に実際に起き、将来的にも起きる可能性のある噴火を定義する言葉として、火山学者やマスコミ報道関係者のあいだで、定着しています。

この破局噴火のメカニズムですが、地上にできた「盾」が、地下数kmにあるマグマ溜まりを強力な地圧で押さえつける役割をするため、長い間にはこれによって、いろいろなガスがマグマの中に高圧で封じ込めている状態となります。その盾によって押さえつけられ、マグマにかかっている地圧が、ある時、大きな地震などが引き金になって急激に取り除かれ、このとき、このマグマは「発泡」しはじめ、この発砲に伴い、大量のガスが噴出しはじめます。

そして、このマグマ溜まりにそのガスが徐々に充満していき、やがてそれが極限状態になったとき、これを押さえつけている盾を吹き飛ばすほどの大爆発を起こし、「破局噴火」となるのです。

この破局噴火の破壊力は、通常の噴火と比べても桁違いに大きなもので、その噴火によって半径数十kmの範囲で動植物が「消滅」するばかりでなく、その大量の噴出物は周囲を破壊する壊滅的な威力となります。火砕流などになって放射状360度の方向に噴出し、広大な面積の地上を焼き払い、埋め尽くすのです。

それだけでなく、火山の上空に吹き上げられた噴出物は、成層圏付近にまで舞い上がり、風に乗って地球を周回。これによって地球全体が灰に覆われることで太陽光を遮り、これが原因で地球全体の気温が極端に下がり、植物が育たなくなることから、食物連鎖が崩れ、世界的な規模で種の絶滅が始まります。

この破局噴火による噴出物の量が、通常の噴火とどれくらい違うかというと、例えば1990年から1995年にかけて噴火した雲仙普賢岳の5年余りの活動期間中の噴出物の総量が、0.2km3程度であったのに対し、破局噴火では1000km3の規模になります。その噴出する溶岩の量は、これまで人類が経験してきたものをはるかに超える途方もないものなのです。

また、一回に起こる火砕流の規模だけでも雲仙普賢岳の1000万倍程度もあるといわれ、周辺に住む生物は、ものすごい速度で山から流れ落ちる火砕流から逃れるすべもなく、一瞬にして飲み込まれてしまいます。

5万2000年前に箱根山での破局噴火では、西は富士川から東は現在の横浜市郊外にまで火砕流で覆われたそうで、火砕流が通ったあとの動植物はすべて死滅し、まさに死の世界といえるような状態だったでしょう。

最後の破局噴火

日本では、過去に7000年~1万年に1回程度の頻度で、破局噴火が起きており、7300年前に鹿児島県南方沖の海底火山、「鬼界カルデラ」で起きた噴火が、日本でおこった最後の破局噴火です。この噴火が、当時の南九州で栄えていた縄文文化を壊滅させたことは、考古学上もよく知られており、日本で人間が経験した証拠が残っている数少ない破局噴火のひとつです。

このときの噴火で噴出した「アカホヤ」と呼ばれる赤橙色を帯びた火山砕屑物は、東北地方や朝鮮半島でも見つかっており、大分県でも50cmもの厚みのある火山灰層が観察されています。火砕流は半径100kmの範囲に広がったということがわかっており、破局破壊の中でもかなり大きなものであったことは間違いありません。

4万年以上昔に発生したという、箱根の破局噴火も、鬼界カルデラに匹敵するくらい巨大な噴火だったと思われます。ただ、鬼界カルデラの噴火の名残は、海底に没しており、それによる地形変化を我々は直接見ることはできません。しかし、箱根山の破局噴火は、その名残をしっかり地上に刻んでくれたため、我々はそれをいつでも目にすることができます。

今後発生する可能性

鬼界カルデラが生まれた噴火を最後に、ここ7300年日本では破局噴火は起きていません。日本だけでなく、世界的にも今後、破局噴火が起こる可能性のあるところはもうほとんどなく、ただ一カ所、アメリカのイエローストーン国立公園でその可能性があるそうです。

アメリカ合衆国のイエローストーン国立公園は、風化によってできた、ただの切りたった赤茶けた断崖だと思っている人も多いと思いますが、れっきとした火山地帯で、しかも超巨大火山の名残です。破局噴火の常連さんでもあり、過去に、約220万年前、約130万年前、約64万年前の計3回も破局噴火を起こしています。そして、現在も公園全体の面積に匹敵する範囲に9,000km3もの超巨大なマグマ溜まりが存在していることが、確認されています。

約64万年前の噴火は、比較的小さな噴火だったようですが、それでも、1980年にワシントン州セント・ヘレンズ山でおきた噴火の1000倍の規模です。その前の130万年前の噴火から66万年が経過しての噴火であり、このことから、だいたい65万年周期で噴火が繰り返されると考えると、そろそろ次の噴火もあってもおかしくない時期といえます。

近年、イエローストーン公園では地震が活発化しているらしく、21世紀初頭の10年間で公園全体が10cm以上隆起し、池が干上がったり、噴気が活発化するなど危険な兆候が観察されています。アメリカ政府は、新たに立ち入り禁止区域を設置したり、観測機器を増設したりしており、米国地質監査局の地質科学者が、イエローストーン公園内の湖の底で高さ30m以上、直径600m以上の巨大な隆起を発見したとも伝えられています。

このイエローストーンで現在貯留しているマグマ溜まりがもし噴出した場合には、人類の存亡の危機となることが予想されています。

イギリスの科学者によるシミュレーションによれば、もしイエローストーン国立公園の破局噴火が起きた場合、3~4日内に大量の火山灰がヨーロッパ大陸に達し、米国の75%の土地の環境が変わります。火山から半径1000km以内に住む90%の人が火山灰で窒息死し、地球の年平均気温は10度下がり、その寒冷気候は6年から10年間続くと推定されています。

もし、この噴火がおこれば、今の地球温暖化の問題は一気に解決される!と喜んでいてはいけません。火山灰が日照を遮ることによる急速な気温の低下が、動植物の成長に大打撃を与え、我々の食べるものが無くなってしまうかもしれないのです。

破局噴火以後の箱根山

さて、破局噴火というスーパー爆発を起こした箱根山ですが、その後、爆発を起こした中央部分は再び陥没し、東部から南部にかけて、半月形に取り残されたのが浅間山、鷹巣山、屏風山などの「新期外輪山」です。

さらにこの後、約4万年前になるとカルデラ内で再び火山活動が始まり、台ヶ岳、上二子山、下二子山などの溶岩ドームができ、我が家からみえる箱根駒ヶ岳もこの時にできた溶岩ドームになります。

この4万年まえの噴火では、発生した火砕流で川がせき止められ、現在の仙石原一帯に仙石原湖と呼ばれるカルデラ湖が誕生しました。

さらに時代が下って、約3000年前には、神山北西斜面で山体の多くを崩壊させる大きな水蒸気爆発が発生。これにより大涌谷が生まれ、水蒸気爆発によって引き起こされた土石流により仙石原湖の半分以上が埋没して仙石原となり、また現在、芦ノ湖を水源として小田原まで流れている、早川の上流部がせき止められて芦ノ湖が誕生しました。

太古から繰り返されてきた噴火はやがて落着き、こうして今の大観光地、箱根山を形成しました。その名残は、今や富士箱根観光の目玉であり、それを通して我々は過去における箱根山の噴火の歴史とそれによる地球のダイナミックさを身近に知ることができます。

ただ、箱根山は、気象庁も現在たくさんの観測装置を備え付けて観測を続けている、生きている火山、「活火山」です。近年の噴火記録はありませんが、神山や駒ケ岳の山腹数ケ所に硫気地帯があり、時にはそれが活発化したり、崩壊・土石流を起こしたりすることがあるということで、気象庁も注意を促しています。

雄大な自然を楽しみつつも、やはりそれが生きている火山であることを認識しつつ、いざというときのことも時には考えてみましょう。が、それを言えば富士山も同じ活火山です。噴火を心配していたら、観光はできませんが……

キッチョイテ

残暑が続いています。35度以上の猛暑日になる町も続出しているようで、昨日、沼津の町へ出かける機会があったので、クルマの車外温度計を確認したら、やはり35度ありました。しかし、沼津を出て、大仁まで帰ってきたら32度まで下がったところをみると、同じ伊豆半島でも、南へ下るほど涼しいようです。

毎朝見る天気予報でも、伊豆最南端の石廊崎の気温は、静岡県下でも一番温度が低いようです。普通は南へ行くほど暑い、と思いがちですが、ここ伊豆では逆みたい。おそらくは海に囲まれているのと関係があるのでしょう。

ヒグラシ

そんな暑い日が続く中、しかしながら、朝夕はかなり涼しくなり、「カナカナカナ……」というヒグラシの声が響き渡ると、より涼しくなったような気がします。

このヒグラシですが、日本だけでなく、中国大陸にも分布しているそうですが、なぜか、朝鮮半島には分布しないのだそうです。日本と中国にしか生息していないということなら、日中友好のシンボルにでもなりそうなものですが、昨今の尖閣諸島問題などをみていると、未来永劫その可能性はなさそうですね。

日本では北海道南部から奄美大島までの広範囲に生息するのだそうで、北海道から九州北部では平地から山地まで見られ、九州南部以南ではやや標高の高い山地にいるのだとか。だからといって、特に違いはないようで、鳴き声も同じみたいです。

ただ、奄美大島の石垣島と西表島にいるヒグラシは、「イシガキヒグラシ」という名前で、本土のヒグラシの亜種になるのだとか。環境省や沖縄県のレッドリストで絶滅のおそえのある種に指定されているそうです。

この奄美のヒグラシの鳴き声は「キーンキンキンキンキキキキキ…」と聞こえるそうで、本土のヒグラシよりもより高い金属音に近いような声で鳴くそうで、しり上がりにテンポが速くなるのだとか。だとすると、暑さを和らげてくれるどころか、余計に暑さを助長するような声なのかも。やはり、ヒグラシは、本土産に限ります(奄美の方、ゴメンナサイ)。

このヒグラシですが、その鳴き声から「カナカナ」とか、「カナカナゼミ」とも呼ばれていますね。漢字表記は虫が周ると書いて「蜩」。ほかに、茅蜩、秋蜩、日暮とも書くそうで、俳句の秋の季語にもなっており、晩夏に鳴くセミのイメージがあります。

しかし、実際には、成虫は梅雨の最中の6月下旬頃から羽化するそうで、ニイニイゼミと同じくらいか、他のセミより早く鳴き始めるのだそうです。以後は9月中旬頃までほぼ連日鳴き声を聞くことができるので、まさに、夏の風物詩そのものといっても良いでしょう。

実際、朝夕に響く声は涼しげで、かつ物悲しい感じもするので、昔からきれいな声で鳴くセミとして、文学などにもよく登場しています。

若い人の間では、一昔前に「ひぐらしの鳴くころに」という連作ミステリーが流行り、ゲームやコミックのほか、映画化までされて大人気のようですね。この原作は、岐阜県の白川郷をイメージして作られたそうで、たしかに白川郷ならヒグラシがたくさん鳴いていそうです。

だからといって、このお話、ヒグラシが登場するわけでもなく、架空の村落を舞台にして起こる連続怪死・失踪事件を扱ったものです。ヒグラシといえば、哀感を感じさせることばであることから、読者にその舞台のイメージを喚起させやすかったのでしょう。読者もこのタイトルを読んで、その内容が少し暗めのストーリー展開であることがすぐにわかります。なかなかうまいネーミングでしたよね。

ところで、ヒグラシもほかの多くのセミと同じく、鳴くのはオスだけです。ご存知でしたか? メスは、「ジジ……」とも鳴かないみたいですよ。オスの鳴き声は、このおとなしいメスを呼ぶためだといわれていますが、ほかにも、「キキキキキ…」とか、「ケケケケケ…」とかに聞こえることもあります。しかし、標準的な「聞きなし」としては、やはり「カナカナ」ですよね。

聞きなし

「聞きなし」って何だ?と思われる人も多いでしょう。私もついこの間まで、知りませんでした。漢字をあてると、「聞き做し」なのだそうで、これは、動物の鳴き声、とくに鳥のさえずりを人間の言葉に置き換えて、憶えやすくしたものをさすのだそうです。

たとえば、ウグイスは、「ホケキョ」鳴きます。これだけでも「聞きなし」ですが、さらにこれを、漢字に置き換えて「法華経」とすれば、覚えやすいですよね。同様に、ホトトギスは、「トッキョキョカキョク」と鳴いているように聞こえますが、これも漢字を与えて、「特許許可局」と書くわけです。

このように、聞きなしは、基本的には、動物の鳴き声を人間の言葉の発音に置き換えたものですが、ときには、わざと意味のある言語の言葉やフレーズに当てはめて憶えやすくしたものです。

良く似たものに、擬音語とか、擬態語などがありますが、擬音語は「物」が発する音を字句で模倣したもので、ドキドキ(心臓の鼓動)とか、ガチャン(ガラスの割れる音)、ドカン(爆発音、衝撃音)などがそれです。

メーメー(羊)とか、ブーブー(豚)も擬音語です。一種の「聞きなし」でもありますが、幼児ことばでは「メーメー」という言葉自体は、鳴き声というよりも羊そのものを指していますよね。ほかにも「ワンワン」があります。これも鳴き声でもありますが、子供は犬のことをワンワンといいますよね。

「タイタイ(魚)」は違います。魚は、「タイタイ」とは鳴きません。世界は広いので一尾ぐらいはいるかもしれませんが。

一方、擬態語のほうは、状態や感情などの音を発しないものを字句で表現したものです。「しいん」とか、「ばらばら」「めろめろ」などがそれですが、「たっぷり」「ちょうど」のように擬態語と一般語彙の中間的なものもあるようです。

日本語には、擬態語がすごく多いのだそうで、それは日本が豊かな自然環境を持っていることと、方言によって他国の人のことばがわかりにくいので、擬態語で表現したほうがコミュニケーションをとりやすいためのようです。

このような擬音語と擬態語を合わせて、「擬声語」といいます。もともと古代ギリシアからある、オノマトピア(onomatopoiía)ということばを無理やり解釈して日本語に置き換えたもので、日本語の概念としてはまだ統一されていないのだそうです。なので、「擬声語」という用語すら正式のものではないらしく、「物声模倣」とか、「声喩」などともいわれます。

さて、「聞きなし」の話に戻りましょう。聞きなしは、基本的には、動物の鳴き声を人間の言葉の発音に置き換えたものを指しますので、聞いただけでは、何の意味をなさないものもあります。しかし、何か意味のある言葉やフレーズに当てはめることができる場合も多いので、昔から、おとぎ話や民話の中でいろんな聞きなしが「発明」されてきました。

「聞きなし」という用語を初めて用いたのは、鳥類研究家の川口孫治郎という人が書いた「飛騨の鳥」(1921年)と「続 飛騨の鳥」(1922年)が初めてです。この本では、昔話や民間に伝わるたくさんの聞きなしが、文献として記録されており、同じ動物でも地域によって異なる聞きなしが伝承されていることなども書かれているそうです。

鳥の聞きなし

それでは、鳥の鳴き声の代表的な聞きなし、しかも意味のあるものを列記してみましょう。

イカル……「オキク・ニジューウシ」→「お菊二十四」、または、「ツキ・ヒ・ホシー」→「月・日・星」
ウグイス……「ホケキョ」→「法華経」
ホオジロ……「いっぴつけいじょうつかまつりそうろう」→「一筆啓上仕り候」、「げんぺいつつじしろつつじ」→「源平ツツジ白ツツジ」

ホトトギス……「トッキョ・キョカキョク」→「特許許可局」、「テッペンカケタカ(テッペンンハゲタカ)」→てっぺん欠けたか(てっぺん禿げたか)」

コノハズク……「ブッポウソウ」→「仏法僧」
サンコウチョウ……「ツキヒーホシ・ホイホイホイ」→「月日星ホイホイホイ」
コジュケイ – 「ちょっと来い、ちょっと来い」、英語では「People pray,People pray」

上記のうち、サンコウチョウなどは、その声が「月日星、ほいほいほい」と聞こえることに由来し、「3つの光の鳥」ということで、「三光鳥」と呼ばれるようになったといいます。

また、ブッポウソウは、実は「ブッポウソウ」とは鳴きません。「ブッポウソウ(仏法僧)」と鳴くのはコノハズクなのですが、このコノハズクのことを、ブッポウソウだと勘違いした人たちがいて、そのままコノハズクのことをブッポウソウと呼ぶようになってしまいました。実際のブッポウソウは、「ゲッ・ゲッ・ゲツ」または、「ゲーッ・ゲゲゲ」と鳴きます。

このほか、ヒバリは、「リートル・リートル・ヒーチブ・ヒーチブ」と鳴きますが、これは「利取る・利取る・日一分」と書きます。なので、ヒバリはこう鳴いて、太陽から借金を取り立てようとしているのだ、と言われています。空に上がるときは、お天道様に金貸した、「日一分、日一分、日一分」、と鳴き、空から下りるときには、「月二朱、月二朱、月二朱、利取る、利取る、利取る」と鳴くのです。

ツバメも「ツチクッテムシクッテシブーイ」「ハーシーブイシーブイ」と鳴きますが、これは「土食って虫食って渋ーい」「歯渋い・歯渋い」で、巣作りのために藁や泥をくわえるときに、それが渋い味がするので、そう鳴いているんだそうです。

まあ、鳥の声がどう聞こえるかは、その人それぞれで違うので、いろいろなものが出てくるのは当然といえば当然です。ルリビタキなどにいたっては、「ボクはルリビタキだよ」という聞きなしもあるらしく、笑っちゃいます。

このほか面白いところでは、

メボソムシクイ(目細虫喰)の、「銭取リ・銭取リ・銭取リ」
マヒワ(真鶸)の、「ジュウエーン(10円)、ジュウエーン」
アオジ(青鵐)、「消費税一円・ツリ・ツリ・ツリ」
シジュウカラ(四十雀)、土地、金、欲しいよ (とち・かね・ほしいよ)」
コジュケイ(小綬鶏)、「ナンカ呉レッ、ナンカ呉レッ」

などの、金欠病派があり、また、

フクロウ(梟)の「糊(のり)つけ干(ほ)せ」
ヒバリ(雲雀)の「水ハホントニクレタンネ」
センダイムシクイ(仙台虫喰)、「焼酎1杯ぐいー」
イカル(斑鳩)、「これ食べてもいい?」

などの生活密着型などがあります。

イカルの声は、また、「いいこと聞いたア」とも聞こえるそうで、コジュケイ(小綬鶏)のように「母ちゃんかわいい、母ちゃんかわいい」などの熱愛派もあります。もっとも、コジュケイの鳴き声は、「母ちゃん怖い、母ちゃん怖い」とも聞こえるらしいですが。

さらには、後ろ向き派。

ウズラ(鶉の、「アジャパー」「あじゃっぱあー」
センダイムシクイ(仙台虫喰)の「チカレタビー」「疲れたベー(ツカレタベー)」
トラツグミ(虎鶫)の「ヒーヒー」(悲しげな声で鳴く)「寂シイ・寂シイ」

キビタキ(黄鶲)の「ツクツクホーシ・ツクツクホーシ」のようにセミの声に聞こえるというのもあります。このほかにも、ウミネコ(海猫)の「ミャオミャオ」のようにそのまんまのもあり、コマドリ(駒鳥)の「ひーひよろ ひよろ」のように他の鳥のマネに聞こえるものなども。

外国語派もいます。

サシバ(差羽)、「キッス、ミー」
シジュウカラ(四十雀)「ピースピースピース」
アカハラ(赤腹「カモン、カモン、チュー」

などです。そして、長いのは、キセキレイ(黄鶺鴒)。

「鍋も茶碗も破れてしまえ、親死ね子死ね鍋釜こわれ、家のぐるり海になれ」と鳴くということですが、ほんとうかしら。ここまで来ると、かわいい鳥の声も悪意のある声にしか思えなくなりますよね。

みなさんはどんな聞きなしをご存知ですか? 実際、鳥の鳴き声を聞いて、自分なりの聞きなしを作るというのも楽しいかと思います。

私的には、よくウグイスが、「キッチョイテ、キッチョイテ、キ、キ、キ、キッチョイテ」と鳴くのが、どうも山口弁の「きっちょいて= 切っておいて」に聞こえてしょうがないのですが。聞き違いでしょうか……

ツバメが低く飛ぶと……

我が家の北側にある電線には、ほぼ毎日、ツバメが止まっています。

大きさは、だいたい17~8cmくらい。背中は光沢のある藍黒色で、腹は白。喉と額が赤く、胸に黒い横帯があって、なかなかおしゃれ。尾は長く切れ込みがある二股になっていて、礼装の「燕尾服」は、このツバメのしっぽにちなんで名づけられました。

繁殖期になるとオスは「チュビチュビチュビチュルルルル」と大きなさえずり声で鳴きますが、この声が「土食うて虫食うて口渋い」と聞こえるのだとか。繁殖期はとうに過ぎてしまっているので、最近はあまり鳴いているのを聞いたことがありませんが、来年になったらほんとにそう聞こえるかどうか気をつけてみましょう。

日本では沖縄県以外ではほぼ全国で繁殖しているそうで、冬になると、越冬のため、台湾やフィリピン、インドネシアのほうへ旅だっていきますが、今はまだ夏まっさかりのため、昆虫などを食べながら、のんびり暮らしるようです。

中には日本で越冬するツバメもいるそうで、「越冬ツバメ」と呼ばれるとか。これから寒くなっていく中、いつごろまでツバメが観察できるか、チェックしておこうと思っています。

減り続けるツバメ

このツバメですが、以前テレビのニュースでも報道していましたが、年々数が減ってきているのだとか。大阪の吹田市内の調査結果によると、1998年と2010年の調査結果を比較すると、その数はなんと3分の1に減っているということです。また、石川県で行われた調査でも、70年代に比べると現在では半分以下に減少しています。ほかの県でも同様の傾向のようです。

ツバメが減少している原因としては、まず、里山の自然や農耕地の減少があげられます。ツバメの生息する里山の自然が宅地化などで減り、農業をやる人が減って水田や耕作地が減少したため、ツバメのエサとなる虫が少なくなっているのです。エサの減少は、子育ての成功率にも影響します。

また、ツバメは民家の軒先などに巣を作りますが、最近の西洋風家屋では軒のないものや、壁面が加工されて巣が作りにくいものが多くなっています。このため、ツバメが巣を作る環境が減ってしまい、繁殖が困難になっているというのです。

さらに、昨年の原発事故による放射性物質の拡散がツバメにも影響を与えているのではないかといわれています。チェルノブイリ原発事故では、ツバメに部分的な白化や尾羽の突然変異が生じ、汚染地域では雛の数が少なくなったことが報告されているそうです。日本での調査結果はまだ出ていないようですが、大きな影響が出ないことを祈りたいものです。

益鳥

このツバメ、日本では昔から人間と仲のいい鳥として親しまれてきました。稲作において稲穂を食べずに害虫だけ食べてくれる益鳥ということで大切にされ、農村部ではツバメを殺したり巣や雛に悪戯をする事が慣習的に禁じられることが多く、都市部でも同じように扱われてきました。

江戸時代には「人が住む環境に営巣する」という習性から、人の出入りの多い家や商家のシンボルのような扱いをされるようになり、商売繁盛の印とする地方もあったようです。また、ツバメの巣のある家は安全であるという言い伝えもあり、巣立っていった後の巣を大切に残しておく家も多いようです。

このツバメの巣ですが、民家の軒先など、人が住む環境に泥と枯草を唾液で固めて巣を造っているのをよくみかけますが、天敵であるカラスなどが近寄りにくいからだと考えられています。

私は、多くのツバメが古い巣を修復して使うものだとばかり思っていましたが、通常は毎年新しいものをつくるのだそうです。産卵期は4~7月ごろなので、3月も下旬ころにもなると、南から帰ってきたツバメがあちこちを飛び回って藁を咥えているのが目に入るようになるはずです。

今年は引越しのばたばたであまり気にかけていませんでしたが、来年からは気をつけて観察してみようと思います。もしかしたら、我が家にも巣を作ってくれるかも。

1回目の繁殖の巣立ち率は概ね50%程度なんだそうです。結構高い確率なんですね。しかも、1回目の繁殖に成功したつがいの相当数がその後2回目のやり直し繁殖をするそうです。

しかし、雛(ヒナ)を育てている間に親鳥のうちどちらか一方が何らかの理由で欠けると、つがい外のツバメがやってきて育てているヒナを巣から落して殺してしまうこともあるのだとか。一方では、つがいの内のどちらかが欠けると、どこからともなく複数の他のツバメが集まり、その中から選ばれたように一羽ツバメが新たなつがい相手となって、子育てを継続するのも観察されるそうで、なんだか人間の世界と同じようなかんじもしますね。

ツバメに関することわざ

ツバメは、スズメと並んで日本の鳥の代表選手のようなものなので、昔からツバメにまつわる文化的な呼称がたくさんあります。

佐々木小次郎の必殺剣法「燕返し」もツバメがヒントになっていますし、国鉄の特急列車の「ツバメ号」やその国鉄が作った野球チーム、スワローズもそうです。太平洋戦争中は、ゼロ戦に次ぐ戦闘機として開発された「飛燕」という飛行機もありました。

「燕」とか、「若い燕」というと、年上の女性に養われている、若い男のことを意味します。ちなみに、ツバメと「ひも」はどこが違うのかと調べてみたら、「ひも」は、お金さえくれれば1人の女に頼りっきりになる男で、年齢はいくつでも良いのだとか。「つばめ」のほうも、女性にかわいがられ、お金をもらう男なのですが、若い男の子にかぎるんだそうです。

と、いうことは私はもう、つばめにはなれんのか…… ひもですな。ヒモ。

観天望気

「ツバメが低く飛ぶと雨が降る」というのもありますね。

こういう天気にまつわることわざのことを、「観天望気(かんてんぼうき)」というのだそうです。この場合、なんでツバメが低く飛ぶのかというと、湿度が高くなるとツバメの餌である昆虫の羽根が重くなって高く飛べなくなり、それを餌とするツバメも低空を飛ぶことになるから、なんだそうです。うーむ。なかなか科学的です。

観天望気は、昔から、主に海で働く人、すまり漁師や船員などが経験的に体得してきた天気予報です。天気占いとも呼ばれます。無論、正確な予報ができるわけではありませんが、科学的にその正当性が証明できるものも多いようで、とくに海や山での天候の急激な変化や、局地的な気象現象を知る上では、結構使えるものも多いといいます。

みなさんもご存知のものも多いと思いますが、どんなものがあるかというと、たとえば以下のようなものがあります。

「夕焼けの次の日は晴れ」……これは、よく言われますね。天気は西から東へ移動しますから、夕刻に西側が晴れていたら次の日も晴れというわけです。

「太陽や月に輪がかかると雨か曇り」……雨を降らせるもとになる温暖前線が近づくと巻層雲が上空にかかるため、だそうです。

「ハチが低く飛ぶと雷雨」……これは、ツバメと同じです。湿度が高いと、昆虫が低く飛ぶとされています。

「ネコが顔を洗うと雨」……湿度が高くなると、ネコの顔や髭に水滴がつきやすくなります。それを猫がぬぐうためなのだそうですが、いつも晴れた日でも顔を洗っている、ウチのテンちゃんは役にたちません。

ほかにも、雨が降る予兆としては、「カエルが鳴くと雨」、「ミミズが地上に這い出したら大雨」、「ヤマバトが鳴くと雨」などがあります。逆に、「クモが糸を張ると明日は天気が良い」のだそうです。

雲を使った観天望気

「雲」を使ったお天気占いは、気象学的にみても、結構信憑性が高いのだとか。たとえば、

「うろこ雲(巻積雲)は天気変化の兆候」
「おぼろ雲(高層雲)は雨の前ぶれ」
「夏の朝曇りは晴れ」

などなどです。

我が家からも、富士山に笠雲がかかっているのをときどきみかけますが、「山に笠雲がかかると雨や風」になるのだそうで、これは、低気圧や前線に伴って強い風が吹くようになり、この風が山のふもとの湿度の高い空気を、山の斜面に沿って上へ押し上げるため、山の上では水蒸気が凝縮して雲ができるためだそうです。

そういえば、先日富士山に夕方、笠雲がかかっていましたが、翌日は確かに天気があまりよくありませんでした。

また、上空に飛行機雲をよく見かけますが、飛行機雲を使った天気占いとしては、「飛行機雲がすぐに消えると晴れ」というのがあり、これは上空の湿度が低いためだそうです。逆に、「飛行機雲が広がると悪天の前兆」というのは、湿度が高く、湿った空気が入ってきている証拠というわけです。

このほか、虹に関するものとして、「朝虹は雨、夕虹は晴れ」というのがあります。虹というのは、湿度が高いときにみえる現象なので、朝に虹が見えるということは、西にある湿った空気が、東から登った太陽によって照らされて、虹ができているということ。天気は西から東に移動しますから、西側の湿った空気はやがて東へやってくるというわけです。わかりますか?

そして、おそらく、私たちが一番よく知っているのが、「夕焼けは晴れ」「朝焼けは雨」というヤツです。

空が赤く染まるためには、太陽光が空気層を通過する距離が長いことが必要です。空気層が青色系の色(光の波長)を吸収するので、赤、橙系の色がよく見えるようになるのです。
夕方や朝は、太陽の光が水平に近い角度で入ってくるので、この光が空気層を通過する距離が昼間に比べて長くなります。

この結果、夕焼けが起こる、ということは、太陽光が空気層を長く通過している、つまり、西側に光を遮る雲はなく晴れているということで、翌日は晴れやすい、とうことになるのです。

逆に、朝焼けが起こる、ということは、東側には雲がなくて晴れている。しかし、天気は良いのと悪いのを繰り返すのが常ですから、そろそろ西側にはから雲がやってきそう、ということのようです。この理屈はちと、わかりにくいですね。

「煙が立つか東にたなびけば晴れ、西にたなびくと雨」というのもあります。低気圧などが近づくと、東寄りの風が多くなるためです。台風を思い出してください。左回りですよね。ということは台風が接近してくる東側では、風が南や東から吹き込みやすくなるのです。

その他のお天気占い

天体観測をしている人は「シンチレーション(scintillation)」ということばを知っていると思います。星の揺らぎのことを指しますが、この揺らぎの程度のことを「シーイング(スィーイング・seeing)といいます。

「星が瞬くと風強し」といいますが、このシンチレーションが激しいときというのは、上空で強い風が吹いている状態です。風によって大気のゆらぎが強くなるため、星が瞬くように見えるのです。

最近では、リウマチや関節痛予報をやってくれる気象予報会社が増えているそうですね。一般に、低温、低気圧、高湿は悪化方向に働き、逆に高温、高気圧、低湿は痛みを軽減させるといわれています。それを知ったからといって、なんか予防ができるんかい、と突っ込みたくなりますが、持病を持った人にとっては、それが来ることがわかるだけでも心の準備になるのでしょう。

このほかにも、「カマキリの巣が高いところに作られると雪が多い」、「ハチの巣が低いところに作られると台風が多い」とか、根拠のはっきりしないものも多いようですが、こうしたお天気占いの数が多いのは、日本の四季の変化がはっきりしていて、その変化に日本人の生活が影響を受けやすいからなのでしょう。

今日は、ツバメの話題に端を発し、お天気占いの話になってしまいました。さきほどまで電線にたくさん止まっていたツバメたちは、今みんないなくなってしまいました。おそらく近所の田んぼにでもエサをとりに行っているんでしょう。いまのところ、低空飛行をしているツバメはいないようなので、ここしばらくは良いお天気なのかも。

しかし、お天気は良いけれども暑くならないよう願いたいもの。その日が暑くなるかどうかを占う方法はないのでしょうか。ネコが腹這いで寝ていると暑くなるとか……

伊豆の七不思議

今日も良い天気です。日中は30度をまだ超えていますが、日没後は急激に温度が下がり、昨夜は夜の9時ごろには23度まで下がっていました。山の上はもう秋というかんじです。そういえば、最近、夏の終わりに鳴きはじめるというツクツクボウシが良く鳴くようになりました。夏の峠はもう越したということなのでしょう。

さて、今日は、昨日ちょっと触れた「伊豆の七不思議」について、書いておこうと思います。よくほかのブログでも取り上げられているので、ちょっと陳腐かな、とも思ったのですが、やっぱ興味はありますよね。

で、いったい誰が考えたのか?という観点からこの伊豆の七不思議を調べてみたのですが、どうもよくわかりません。おそらくは県かどこかの市町村の観光課あたりが考えたのではないかとも思ったのですが、その内容をみると、かなり古式ゆかしいもので、この中のいくつかは江戸時代からの伝承ということです。

なので、初めから七つあったかどうかは別として、それぞれのお話は、かなり昔から伝えられてきたベースがあり、それを誰かがアレンジして、伊豆の不思議物語としてとりまとめたのではないでしょうか。そしてそれを、どこかの観光協会が、ちゃっかりと伊豆の宣伝のために広めたのかもしれません。

その七つの不思議とは、以下のとおりです。

大瀬明神の神池(沼津市)
堂ヶ島のゆるぎ橋(賀茂郡西伊豆町)
石廊崎権現の帆柱(賀茂郡南伊豆町)
手石の阿弥陀三尊(賀茂郡南伊豆町)
河津の酒精進鳥精進(賀茂郡河津町)
独鈷の湯(伊豆市修善寺)
函南のこだま石(田方郡函南町)

その所在をみると、東西南北にちりばめられていて、なかなかバランスが良いです。もし、これを全部行くとすると、ほぼ伊豆を一周できますので、やはりどこかの観光協会の陰謀かも。この中に独鈷の湯が入っているのがくさいですね。案外と修善寺の観光協会さんあたりが、まず独鈷の湯を最初の不思議に決めて、あとは面白そうなのを加えて無理やり名七つにしたのかもしれません。

ま、営業妨害?になるかもしれないので、邪推はこれくらいにして、それぞれの不思議について、書いていきましょう。

大瀬明神の神池(沼津市)

これは、昨日触れたばかりです。が、おさらいをしておくと、沼津市内から直線距離でおよそ15kmほど南西にある大瀬崎には、引手力命神社と呼ばれる神社があり、この神社を含む半島の先端部分は神社の境内地とされていて、ここにはビャクシンの樹林(天然記念物)と、これに囲まれた「神池」と呼ばれる、直径が100メートルほどの淡水池があります。この神池が、半島または岬の先端にもかかわらず淡水池であることから、伊豆七不思議の一つとされているのです。

このビャクシンの樹林は、海から最も近いところでは距離が20メートルほど、標高も1メートルほどしかないので、海が荒れた日にはこれを飛び越して海水が吹き込みます。にもかかわらず淡水池であり、コイやフナ、ナマズなどの淡水魚が多数生息しているところが、不思議とされているゆえんです。

駿河湾を挟んで北方およそ50キロメートルの富士山から伏流水が湧き出ている、などとする説もある一方、海水面の上下に従って水面の高さが変わるとも言われていて、何故淡水池であるかは明らかにされていないそうです。

古くから池を調べたり魚や動植物を獲ったりする者には祟り(たたり)があるとされ、また、池の中がもしかなり珍しい環境である場合には、下手に調査をするととり返しのつかない環境破壊を招いてしまう可能性があることから、これまでも詳しい調査はされていないんだそうです。

人の手が入っていない、となると確かに神秘的な湖です。七不思議に入っているのもうなずけます。

堂ヶ島のゆるぎ橋(賀茂郡西伊豆町)

堂ヶ島のゆるぎ橋(どうがしまのゆるぎばし)は、静岡県賀茂郡西伊豆町の堂ヶ島に伝わる、民話的伝承です。これについては由来を書いた石碑だけがその場所に残っているだけです。

天平年間、の堂ヶ島に紀伊国熊野から来たという海賊の一団がいました。海賊の頭目の名は「墨丸」といい、たくさんの手下を従え、沖を行く船を襲い、村々の略奪をするという悪いヤツでした。

このころ、伊豆の海沿いの村々では都へのみつぎものとして、特産の鰹節や砂金を収めていました。ある年、ある村で、その貢物の荷支度も終え、祝いの宴も終わってほとんどの村の人々が家路につくころ、墨丸が率いる海賊たちが砂金目当てに押し入って来ました。

村人たちは必死に応戦したものの、最後には砂金を奪い取られてしまいます。砂金を手にして意気揚々とアジトへ帰ろうとする海賊たちが、その村の薬師堂の前の橋に差し掛かったときのことです。橋がまるで地震のように大揺れにゆれ、海賊たちは一向に反対岸に渡ることができなくなりました。

そして海賊たちは、しまいには橋の下の流れに、次から次へともんどり打って落ちていきました。大将の墨丸も最後までが大事そうに砂金の袋を抱えていましたが、この墨丸の前だけには、なんと、仁王さまが現れ、墨丸をつまみあげると、そのままお堂の薬師如来さまのところまで連れて行き、その前に差し出したのです。

薬師如来さまは墨丸に罰を与えると思いきや、とつとつと人の道を説かれはじめました。それによって心を打たれた墨丸は、それまでの悪行を悔い、以後この薬師堂の守護に尽くすようになります。そして、このあと、この薬師堂の前の橋は、心の汚れた者が渡るとゆれる「ゆるぎ橋」と呼ばれるようになったといいます。

このゆるぎ橋ですが、月経になった女性が渡るとゆれるともいい、また、橋から削った木片を焚きその火を見せると夜尿が治るとも伝えられているそうです。

この橋や薬師堂が本当にあったのかどうかはわかりません。言い伝えによると、その後風雨に曝された末、橋も薬師堂もなくなってしまい、現在では、由来を書いた石碑だけがその場所に残っているということです。

石廊崎権現の帆柱(賀茂郡南伊豆町)

石廊崎権現の帆柱とは、伊豆半島の最南端の石廊崎灯台の先にある、石室神社に江戸時代から伝わる伝説です。この神社、海面から30メートル以上の断崖絶壁の上に社殿が建てられていて、その基礎には、千石船の帆柱が使われているということです。

その昔、播州(現兵庫県)の濱田港から塩を運んでいた千石船が、ある日石廊崎の沖で嵐に遭います。船の船頭は、もし無事に帰れたら、その船の帆柱を石廊崎の権現様(石廊権現)に奉納するから、と誓って祈ったところ、なんとか嵐を切り抜け、無事に江戸に到着することができました。

そして江戸を発ち播州へ帰るその途中のこと。帆柱奉納のことをすっかり忘れていた船頭を乗せた船は、なぜか石廊崎の沖で船が進まなくなってしまいます。しかも天候が急変して暴風雨になり、船が沈みそうになってしまいました。

往路で誓いを立てたことを思い出した船頭は、あわてて千石船の帆柱を斧で切り倒したところ、不思議なことにその帆柱は、ひとりでに波に乗り、石廊権現の社殿の真下の断崖絶壁をこえ、社殿にまるで供えたかのように打ち上げられたそうです。

そして、これと同時に暴風雨も鎮まり、船は無事に播州へ戻ることができたといいます。

その帆柱?は、社殿の基礎として今も実際に残っているそうです。材質は檜で長さは約12メートルもあり、現在では社殿の床の一部がガラス張りにされ、直接覗くことができようになっているとか。

この話は、ちょっとうさんくさいですね。30mもの断崖を帆柱が登ったというのはちょっと信じがたいですし。石廊崎を回って江戸へ行き来していた船主たちがその航海の安全を祈願して、神社に帆柱を奉納した、というのが本当のところで、伝説のほうはそのあと面白おかしく地元の人が語り伝えたのではないでしょうか。

手石の阿弥陀三尊(賀茂郡南伊豆町)

手石の阿弥陀三尊(ていしのあみださんぞん)は、下田から石廊崎へ向かう途中の手石港の近くにある洞窟にまつわる、江戸時代から伝わるという伝説です。この洞窟、弥陀窟(あみだくつ)とも、弥陀岩屋、弥陀ノ岩屋とも呼ばれており、1934年(昭和9年)に「手石の弥陀ノ岩屋」の名称で国の天然記念物に指定されています。

その昔、手石の近くに七兵衛という漁師がいました。妻を亡くし、3人の子供を抱えて貧しい暮らしを送っていましたが、あるとき、末の子の三平が重い病気にかかります。近くの寺に願を掛け朝夕お祈りをしていると、ある日七兵衛の夢枕に観音様が現れ、「洞窟の海底にある鮑を取って食べさせよ」と告げました。

七兵衛が小船で洞窟に漕ぎ入ると、奥から金色の光と共に三体の仏様が現れました。目も眩んだ七兵衛が思わず船底にひれ伏し、おそるおそる目を上げると、船の中にはたくさんの鮑(あわび)が投げ込まれていたといいます。これを持ち帰り、三平に食べさせたところ、病気はやがて回復したといいます。そして、この洞窟での霊験が人々の口から口へと伝わり、やがては広く日本全国に知られるところとなったといいます。

この伝説は洞窟の中で起きるある自然現象が伝説化したのではないか、という説があります。それは、大潮で波の静かな晴天の日の正午頃、この洞窟の奥のほうに小舟で入りこむと、その天井に鳩穴という小さな縦穴が空いていて、ここから洞内に差し込む日光が、洞内の暗部を照らすのだそうです。

この日光があたかも暗闇の中に光る金色の阿弥陀像のように見えたのではないか、とする説で、もっともらしい話ではあります。それにしても、実際にどんなふうに見えるのか見てみたいものですね。

河津の酒精進鳥精進(賀茂郡河津町)

伊豆の七不思議の五つ目は、河津の鳥精進酒精進(とりしゅじんさけしょうじん)です。東伊豆の河津町、田中というところにある杉桙別命神社(すぎほこわけのみことじんじゃ、またの名を河津来宮神社)の氏子に伝えられてきた「風習」だそうです。

昔、河津の郷に杉桙別命(すぎほこわけのみこと)という武勇に優れた男の神様がいました。ある日のこと、命が酒に酔い野原の石にもたれ眠っていると、そこに野火が起こりあっという間に周りを囲まれてしまいました。

と、そこにたくさんの小鳥が飛んできて河津川から水を運び火を消しはじめ、このおかげで、杉桙別命は難を逃れることができました。このことがあってから、杉桙別命は、酒を慎むようになり、村人にも一層、」慕われるようになったということです。

この伝説から、河津では命が災難にあったという12月18日から12月24日の間、

鳥を食べない
卵も食べない
お酒を飲まない

という「鳥精進酒精進(とりしょうじんさけしょうじん)」が守られているそうで、この禁を破ると火の災いに遭うと信じられているということです。

これは、まあ伝説ですね。が、その伝説に由来する禁則が今も守られているというのは驚きです。鳥と卵ということは、親子丼は絶対ダメですね。個人的には、一週間もサケを飲めないというのはつらい。この神社の氏子には、絶対なりたくありません。

独鈷の湯(伊豆市修善寺)

出ました! 修善寺です。独鈷の湯は、前にこのブログでも取り上げました。修善寺温泉内を流れる桂川の中にある温泉で、伊豆最古の温泉ともいわれるものです。

川の中に、土台として大きな石を積み上げ、そこに浴槽を設けて湯を楽しめるようにしたもので、かつては入浴することができたましたが、現在は河川法に抵触するということで、入浴は禁止されています。

この温泉には、弘法大師が807年(大同2年)に修善寺を訪れたときの伝説が残っています。桂川で病んだ父親の体を洗う少年を見つけ、その孝行に感心した大師は、「川の水では冷たかろう」と、手に持った独鈷杵で川中の岩を打ち砕き、霊泉を噴出させた、というのです。

大師は、温泉がわき出ると、これが病気に効くことを父子に説き、これによってその父は長年患っていた病気を完治させることができた、と伝わっていて、この話が広がったために修善寺温泉の湯治療養が有名になり、現在の修善寺温泉郷ができたとされています。

この独鈷の湯ですが、もともとはもっと上流にあったそうで、大雨のときに川の流れを堰止めないようにということで、現在の川幅の広い場所に移されたとか。

前にも書きましたが、温泉ひとつで川の水が堰き止められるわけもなく、アホな役人の考えそうなことです。たぶん、ここで認めればほかでも認めなければいけなくなるから、とかいうのが役人の言い分でしょう。さすがに大雨で増水しているときの入浴は、あぶないのでやめたほうが良いとしても、常時は入れるようにすれば観光客も増えて良いと思うのですが、どんなもんでしょう。

函南のこだま石(田方郡函南町)

最後になりました。函南のこだま石は、伊豆北部、函南町の平井という山の中にある大きな岩にまつわる伝説です。どこにあるんだろうな、といろいろ調べてみたところ、どうやら新幹線の新丹那トンネルのすぐ南側あたりにあるようです。新丹那トンネルのそばに「酪農王国オラッチェ」という農場がありますが、その南西約2kmの山の中らしい。

昔、平井の村に、「おらく」という母親が息子の「与一」と二人で暮らしていました。夫は戦に駆り出されて行方知れずになっており、大変貧しい暮らしをしていましたが、あるとき村のお寺の和尚の勧めで、ふたりして峠を越えた熱海の湯治場へ商いに出かけるようになったといいます。

この熱海へ行く途中の峠には、大きな岩があり、商いに出かけるたびにこの岩のそばで休みながら語らうのが二人の習慣でした。商いのほうはなんとか軌道に乗り、母子の暮らしがようやく楽になりかけた頃のこと、おらくは病を得て帰らぬ人となってしまいました。

与一は悲しみのあまり、母と共に語らった大岩に向かい、声をかぎりに母を呼び続けたところ、岩の底から「与一よー、与一よー」と懐かしい母の声がこだましてきたといいます。そして、来る日も来る日も懐かしい母の声を聞きに行く与一に村人は心を打たれ、この岩を「こだま石」と呼ぶようになったそうです。

これは、悲しいお話ですね~。ちょっとほろりとさせられます。伝説には違いないのですが、ほんとうにあってもよさげな話ではあります。二人の魂は救われたでしょうか。

さて、以上で、伊豆の七不思議のお話は終わりです。いかがだったでしょうか。私はなかなか面白いと思いましたが、実際に観光に寄与しそうなのは、大瀬明神の神池と、石廊崎権現の帆柱、手石の阿弥陀三尊、そして独鈷の湯くらいでしょうか。

残る三つがいまひとつインパクトに欠けるのが難点なので、観光地としてもう少し話を盛り上げるためには、いまひとつ工夫が必要でしょう。

ゆるぎ橋では、実際に女性が渡ると揺れる橋をつくるとか、河津では、鳥と卵と酒を使ったB級グルメを作って町おこしにしてはどうでしょう。こだま石については、石の中にセンサーでも組み込んで、心無い人が呼びかけると、「アホー」「アホー」と答えるようにするとかはどうでしょう。

夏は続きます。頭を冷やして良いアイデアを考えましょう。