盂蘭盆

お盆ですね。といいつつ、そもそもお盆ってなんだ? ずっと、気になっていました。そんなことも知らないのか、先祖を供養する日だ、といわれそうですが、じゃあ実際には、いつからいつまでをお盆って言うの? と聞かれて即答できる人は案外と少ないのでは。

一般的には、8月15日がその本チャンの日だと思っていましたが、聞くと、沖縄や奄美地方では、旧暦の7月15日(旧盆)だそうで、これは現在の8月の終わりころです。また、東京・横浜・静岡旧市街地、函館、金沢旧市街地などでは、新暦の7月15日、もしくは前後の土日がお盆で、ひとことにお盆といっても、全国的に統一されているわけではないみたいです。

そもそも、「盆」っていったい何なの? とさらに調べてみると、仏教用語でいうところの「盂蘭盆(うらぼん)」の省略形なのだとか。聞いたことはあったけど、うら盆がこういう字を書くとは知りませんでした。裏盆と思ってました。

で、盆とは本来は、文字どおりのお盆を意味したそうですが、ただし、ただのお盆ではなく、精霊に供物をささげるときの容器を意味したのだとか。それが長い間のうちに、供物を供えお供えする精霊そのものの呼称となり、仏教でいう盂蘭盆とごっちゃになり、「お盆」というようになったのではないか、といいます。

じゃあ、盂蘭盆ってのは何なの?ということですが、これは、その昔、個々に修業していたお坊さんたちが、ある時期から一定期間、一カ所に集まって集団で修行するようになったことに由来するのだとか。この修業期間を安居(あんご)といいますが、その最後の日が「盂蘭盆」になります。

そして、この盂蘭盆は旧暦の7月15日に行なわれるのが習わしで、この日、父母や祖霊を供養し、倒懸(とうけん)の苦を救うという行事です。

次々と難しい用語が出てきます。倒懸って何だ?ということですが、盂蘭盆は、サンスクリット語の「ウランバナ(ullambana)」の音を単純に漢字にしたものです。しかし、本当は「さかさまにかかる」という意味があるのだそうで、これは漢字では「倒懸」と書きます。

何がさかさまにかかるのかというと、その昔、インドでは、亡くなった魂は中空に逆さにつり下げられたような苦しい状況にあると考えられていたことから、亡くなったあとも成仏できずにさまよっているような霊がさかさまになっている状態を示します。そして、やがて「倒懸」という言葉そのものが魂を慰める、という意味そのものになっていったのだそうです。

古代のイランの言葉に、「霊魂」を意味する「ウルヴァン」(urvan)というのがあるそうで、この「ウルヴァン」がなまって「ウランバナ」になったという説もあります。つまり、お盆とは、古代のイランでいうところの「霊魂」をさすことばということになります。

少し本題からはずれますが、古代のイランでは、精霊や下級な神様のことをフラワシ(Fravaši)といい、フルワシは、この世の森羅万象に宿り、あらゆる自然現象を起こす霊的存在です。この「フラワシ」は人間にも宿っていて、人間に宿る魂のうち、最も神聖な部分が「フラワシ」なのだそうです。

以前、このブログでもご紹介した医師の木村忠孝さんは、どんな霊体にも、「霊体の中枢」ともいうべきものを持っていて、数千年前より宗教によりさまざまな呼び方をされてきた、と書かれています。たとえば、真我、真如、仏、仏性、神性、神性の泉、ご主人、主人公(禅宗)、アートマン(ウパニシャド哲学)、などなどであり、このフラワシも同じものを指しています。

古代イランでは、このフラワシ信仰が、祖霊信仰と結びつき、「祖霊」を迎え入れることがすなわちフラワシをも慰めることにつながるということで、祖霊を祀る宗教行事が行われるようになっていったそうで、これがインドに伝えられて盂蘭盆の起源になったと言われています。

そして、それが中国経由で日本にも伝来し、一般には「盂蘭盆会」と呼び、地方によっては、「盆会」「お盆」「精霊会」(しょうりょうえ)「魂祭」(たままつり)「歓喜会」などさまざまな呼び方をされて、現代に伝わってきたのだとか。ここでようやく古代のイランの風習と現代日本のお盆がつながりました。

ちなみに、この行事は本来インドでは行われておらず、仏教がインドから中国に伝わった際に付加された行事らしいです。本来、インドでは安居の終った日に人々が衆僧に飲食などのもてなしをするだけの行事だったのが、中国に伝わった段階で、祖先の霊を供養し、さらに餓鬼に施す行法(施餓鬼)になりました。

こうして中国から日本に入ってきた盂蘭盆会ですが、どのくらい昔からあるのかはよくわかっていないようです。もともとは、1年に2度、初春と初秋の満月の日に祖先の霊が子孫のもとを訪れて交流することをお祭りするような行事だったらしいですが、初春に行われていたものが、正月の祭になり、初秋のものが盂蘭盆になって、仏教の行事として定着したのではないかといわれています。

8世紀ごろにはすでに、夏に祖先供養を行うという風習が確立されていたようですが、地方や、仏教の宗派により行事の形態は異なります。冒頭で述べたように地方によってはお盆の時期が違うのはそのためです。

ところで、仏教ではお盆といえば、普通は1日から24日を指すのだそうです。これは、地獄の釜の蓋が開く日が1日であり、いわば、この日は、地獄の王の閻魔大王デーなのに対して、その閻魔様と対になるのが地蔵菩薩さまであり、この地蔵菩薩様の縁日、つまり地蔵菩薩デーが24日だからです。その行事とは順番に追っていくと、次のようになります。

釜蓋朔日(1日)
釜蓋朔日(かまぶたついたち)といい、地獄の釜の蓋が開く日です。この日を境に墓参などして、ご先祖様等をお迎えし始めます。地域によっては山や川より里へ通じる道の草刈りをしますが、これは故人がその彼岸から帰ってくるときに通りやすいように行います。なお、「地獄の釜の開く時期は、池や川などの水源にはむやみに近付いてはならない」という言い伝えがある地域もあるようです。

七夕(7日)
7日は、故人をお迎えするための精霊棚とその棚に安置する幡(ばん)をしつらえる日だそうです。精霊棚も幡もあまり聞きなれないことばですが、精霊棚は、台の上に真菰(まこも)のござを敷いたものの上に、仏壇から取り出した位牌や、香炉・燭台・花立の三具足を飾り、お供え物を置くための棚のことです。幡のほうは、布などを材料にしたのぼりのような装飾具で、商店街の七夕祭りでよく飾られているあれです。

「棚」と「幡」を据えるので、それがいつしか「七夕」になったのだそうです。この日は、7日の夕方から精霊棚や幡などのほかに笹の葉を安置します。

迎え火(13日)
13日の夕方に火を焚きます。いこれを迎え火(むかえび)といい、そのあと精霊棚の故人へ色々なお供え物をします。いろんなやり方があるようですが、盆提灯などはその最たるものです。このほか、ろうそくを焚くだけとか、いろいろあるでしょうが、秋田県の竿燈などは、迎え火の風習が大規模になったもののひとつです。

盂蘭盆(15日)
お盆当日です。この日だから、何か特別な行事をやらなければならない、というのはないみたいです。お盆の期間中には、故人の霊魂がこの世とあの世を行き来しているといわれますから、その霊をなぐさめ、お祭りし、ときにはお供えものなどをすればそれでよいわけです。15日の当日にお墓参りに行かれる人も多いでしょう。

地方によっては、いろんな風習があり、「精霊馬」(しょうりょううま)と呼ばれるきゅうりやナスで作る動物を用意したり、「施餓鬼(せがき)」といって、餓鬼道に陥った亡者を救っうために、餓鬼棚と呼ばれる棚を作ったりするところもあります。盆提灯や灯篭流しは、迎え火や送り火のときだけのものではなく、お盆の中日にともす地方も多いようです。

盛岡市では供物を乗せた数m程度の小舟に火をつけて流す「舟っこ流し」が行われるそうで、このほか変わったところでは、甲信越・東海地方では仏前に安倍川餅を供えるという習慣があります。

長崎市ではお盆のシーズンになると花火を焚く人が多いそうで、この季節は花火問屋などの花火を扱うお店では大忙しだそうです。

送り火(16日)
送り火は、京都の五山送り火が有名ですが、奈良高円山大文字のように、15日に送り火を行うところもあります。また、川へ送る風習もあって、こちらは「灯籠流し」としてあちこちで行われています。お盆期間中であればいつでもいいと思っている人もいるようですが、そもそもが故人をあちらの世界へ送り出すための風習なので、基本的には16日から24日までです。

盆踊り
15日の盆の翌日か、16日の晩に、寺社の境内にみんなで集まって踊るのを盆踊りです。そもそも、地獄での受苦を免れた亡者たちが、喜んで踊る状態を踊りにしたのだそうです。これはやらなくてはいけない風習というよりも、地域のコミュニティーの交流のために発展してきた儀式というかんじですね。最近では参加しない人も増えています。私も盆踊りなんて行ったのは小学生のころが最後です。

と、いうことで、私自身、書いていてあまりよくわかっていなかったので、勉強になりました。ふーん、お盆って、1日からだったんだーと、初めて知った人も多いのではないでしょうか。

ちなみに、いわゆる「お盆休み」は、特定の日が決められているわけではなく、いわゆる「夏やすみ」の代わりとしてお盆の期間に関わらず、8月中にとる人も多くなってきました。とはいえ、ほかのみんなが休むなら自分も休みがとりやすい、ということで盆中日の8月15日を中心とする3 – 5日間をお休みとする人も多く、企業の中にはこの期間を定休日としているところも多いようですね。

私自身は、企業に勤めていたときは、できるだけ日にちをずらしてとるようにしていましたが、どうしてもお盆と重なる時期になることもあり、このときは移動しようと思っても渋滞に巻き込まれて往生することもままありました。

今年は、どこへも行かずに、ここ伊豆で過ごす予定し、静かに先祖と亡くなった父や先妻の霊を供養したいと思います。が、人の移動の激しいここ数日が終わったら、どこか眺めのいいところへも行ってみたいですね。どこがいいでしょうか。案外と近場に良いところがあるかもしれません。また、新しい「発見」をしたら、このブログでも紹介したいと思います。

アダムスとその時代 番外編

イギリスでのオリンピックが終わりましたね。何か急に火が消えたような寂しいかんじがするのは私だけでしょうか。閉会式で延々と続くイギリスのロッカーたちの歌声をうっとうしく思いつつ、これはこれで彼らの文化なのだから、と妙に寛容な気持ちになれるのは、やはり、ニッポンが過去最多のメダルを獲得したからでしょうか。

それにしても、怒涛の後半戦でした。ボクシングの金で最後かと思ったら、さらに最後の最後にレスリングで有終の美を飾ってくれました。マラソンは残念でしたが、マラソン王国ニッポンの復活を感じさせる若手の出現に、次回のリオ・オリンピックは大いに期待できそうな気がしてきました。

がしかし、メダルをとれた選手もとれなかった選手も大変お疲れ様でした。残るイギリスでの日々を楽しんだあと、日本へ帰ってきて、ゆっくり休んでもらいたいものです。

休み……で思い出しましたが、はっと気が付くと、今日からお盆三が日ではありませんか。ちまたでは、帰省ラッシュが始まっているはずですが、ここのところ、ニュースをみてもオリンピックの話題ばかりで、お盆休みのことは何も言っていないので気が付きませんでした。

おそらく多くの人が、オリンピックの最後のほうを見ずに、電車やクルマでの帰省の波に乗って、地方へ帰られていたことでしょう。私たち自身も、例年なら山口の実家へ帰っているところですが、伊豆へ引っ越してきてすぐのことでもあり、今年は帰省は見送ることにしました。

それに、夏を涼しくすごすのには、ここにいるのがよさそうです。実家の山口の夏ときたら、殺人的な暑さで、昼はもちろんのこと、夜もクーラーなくしては寝れません。ここ修善寺では、まだ一度もクーラーをつけたことはなく、夜はときには毛布が手放せないくらいです。こんなに快適な夏を過ごせるのははじめてのこと。来年からも真夏に帰省をするのはやめようかな、などと思っているくらいです。

ジョン・セーリス

さて、昨日まで書いてきた三浦按針こと、ウィリアム・アダムスのことですが、書き忘れたことがありましたので、番外編として追記しておこうと思います。

それは、平戸に開かれたはずの、イギリス商館がその後なぜ続かなかったのか、ということ。アダムスとファン・ローデンスタインの働きにより、イギリスとオランダを相手に交易を開始したはずの徳川幕府が、なぜその後、オランダだけを相手にするようになったのか、疑問に思われる方も多いのではないかと思います。

ことのいきさつは、アダムスが、徳川家康の信頼を受けて江戸幕府の外交顧問となったのち、アダムス自身がイギリスの知人にあてて送った書簡に始まります。

慶長16年(1611年)、アダムスが送ったこの手紙が、誰当てだったのか不明ですが、おそらくはかつて航海士を長らく勤めたロンドンのバーバリー商会の責任者か誰かだったのでしょう。

このアダムスの書簡には、彼自身が家康の外交顧問となったことや、その当時の日本の情勢のほか、諸外国との交易の状況などが細かく書き記してあったと思われます。そして、どこをどうまわってたどり着いたかわかりませんが、この手紙は、1602年に設立されたのち、そのころ香辛料貿易の世界を席巻しようという勢いであった、東インド会社の手に渡ります。

これを読んだ東インド会社の責任者は驚嘆。かつて、オランダから極東へ向かった5隻の船団のうち、ヘローフ号のみが帰還し、ほかの2隻はポルトガルやスペインに拿捕されたという情報は得ていたものの、リーフデ号とホープ号は行方不明のままになっていたためです。

驚いた東インド会社のその責任者は、さっそくその頃のイギリス国王、ジェームズ1世に書簡を送り、アダムスを仲介人として日本との通商関係を結びたい旨を要請し、この要請をジェームズ1世は了承。

そして、そのころイギリス海軍の艦隊司令官であった、ジョン・セーリスを日本へ派遣することにしたのです。この人物がどういう人物であったのかについては、英語版のウィキペディアをみても詳しいことは書いてありませんが、日本から帰国して30年後に1643年に63才で没しています。その経歴には何も華々しい記録がないところをみると、おそらくは日本とイギリスの初外交交渉以外にはその後も大きな功績もなかったのでしょう。

しかし、さらにおよそ200年後の幕末に、イギリス人通訳として活躍したアーネスト・サトウが、このセーリスの日本訪問記(タイトルは、The Voyage of Captain John Saris to Japan, 1613)を書いています。イギリスではたいした功績も認められなかった彼のことをサトウがわざわざ書いているところをみると、親日家だったサトウ自身はイギリスが日本との関係においてこれほど古くから付き合いがあったんだよ、というところをイギリス人に見せたかったのでしょう。

これにより、日本と友好な外交関係を持てたのは、自分の功績でもあるというところをアピールするとともに、日本との交易において他の列強よりもイギリスを優位な位置につけたかったのだと思われます。事実、イギリスはその後日本が開国して世界と付き合っていく上において、ライバルのアメリカやフランスを抜いて、もっとも親密なパートナーになっていきます。

さて、こうして、イギリスを発ち、1613年6月11日にイギリスからの正式の使者として初めて平戸に到着したセーリス一行は、その後無事にアダムスに面会します。1613年というと、仙台藩で建造されていたサン・ファン・バウティスタ号が完成した年であり、アダムス自身は、家康の技術顧問かつ外交顧問として最も油の乗り切ったころのことです。

おそらく平戸までセーリスをわざわざ迎えに出たと思われるアダムスは、セーリス一行のために、在留中国商人の李旦という人物から邸宅を借り上げています。そして、そこでセーリス達の長旅の疲れが癒えるのを待ったのち、彼らが乗ってきた船で平戸を出て、海路、駿府に向かいました。

このころ、家康は徳川秀忠に将軍職を譲り、大御所となって江戸から駿府に隠居していました。隠居するに先立ち、家康は駿府城を大修築しましたが、1607年(慶長12年)の完成直後に焼失。その後直ちに再建され、1610年(慶長15年)に再建されていますが、家康がセーリス達に謁見したのは、まだヒノキの臭いのぷんぷんするような、新しい城郭でのことだったに違いありません。

ちなみに、六年後の1616年(元和2年)に家康はこの駿府城で没しています。死因は、鯛の天ぷらによる食中毒説とも胃癌とも言われていますが、グルメオヤジだった彼らしい死に方です。遺言により、始めは駿府の南東の久能山(現久能お山東照宮)に葬られましたが、一周忌を経て江戸城の真北に在る日光の東照社に改葬されています。

駿府城において徳川家康に拝謁したセーリスは、国王ジェームス1世の国書を捧呈します。そして、駿府城を辞したあと、更に江戸城にて将軍徳川秀忠にも謁見しています。秀忠は将軍になっていたとはいえ、そのころはまだ家康が健在で、おそらくはイギリスとの交易についても家康が裁可を下したことでしょう。家康にもかわいがられていたアダムスを連れて行った工作が功を奏し、この年の10月には徳川幕府からイギリスとの通商許可が正式に出されました。

イギリス商館の誕生

徳川幕府からの許可を得たセーリスは、さっそく平戸に戻り、アダムスが借り上げてくれていた邸宅を、急きょ「イギリス商館」とし、一緒に来日していたリチャード・コックスという貿易商人を商館長に任じて6人の部下を付け、更にアダムスを商館員として採用して顧問としました。コックスが商館長時代だったころのことは、彼の日記、「イギリス商館長日記(1615-1622)」に詳しく書かれているそうで、ここにはこの当時のイギリスの東アジア貿易の実態や日本国内の史実が詳しく書かれ、史料としても一級品だとか。

セーリスらが一時しのぎで「商館」とした邸宅は、その後イギリス国によって正式に買い上げられ、イギリス人商館員や日本人使用人も増員されました。商館員や使用人は平戸や江戸・京都・大坂・長崎などのあちこちに広く派遣されて貿易の仲介を行うとともに、平戸から船を出し、東南アジア各地に派遣して貿易をやってかなりボロ儲けしたようです。

しかし、その後、1612年(慶長17年)には、禁教令が出され、日本国内のキリスト教徒は大弾圧を受けるようになります。次いで、1616年(元和2年)には、明朝以外の船の入港を長崎・平戸に限定するなど、徐々にその後の鎖国体制が確立していきます。キリスト教の弾圧と貿易港の制限により、新教国とはいえキリスト教徒であるイギリスの旗色は徐々に悪くなる一方であり、さらに本国におけるイギリスとオランダの対立が表面化してきました。

そのころの日本は、イギリスやオランダから生糸や絹織物、羅紗、ビロード、胡椒、砂糖、ガラス製品、書籍などを輸入し、逆に銀(主に石見銀山で産出)や銅、樟脳、陶磁器、漆工芸品などを輸出しており、両者の商人とも「どえりゃー」いい商売をしていました。

特に、肥前国有田(佐賀県有田町)で焼かれた伊万里焼は珍重され、その取引を巡っては先行するオランダのほうがイギリスより有利でした。ところが、その取引を独占しようと、欲張ったオランダは、次第にイギリス商船の航海を妨害するなどの行為を行うようになり、初代商館長コックス自身が、江戸幕府に直接オランダの非法を訴えるまでになっていました。

オランダの東インド会社、vs イギリスの平戸商館(イギリス東インド会社)同士の対立は、徐々に発展していき、イギリス船が平戸に入港できない、などという事態にまで発展。ついには、地元の平戸藩や在留中国人、日本人商人とイギリス商人との取引において、売掛金の焦げ付きまで発生するようになります。

日に日に貿易高が減っていくことに焦ったコックスは、挽回を狙って明国との交易を始めようとしますが、鎖国体制に入りつつある幕府にばれて失敗。同じ平戸で商売していた、東インド会社内部からは、あいつは抜け駆けで悪いことしてる~ と幕府に告げ口が行ったことから、コックスの責任を問う声が上がり、イギリスはさらに立場を悪くしていきます。

更に日本との仲介役であったアダムスが、1620年(元和6年)に亡くなると、日本におけるイギリスの擁護者はほとんどいなくなってしまうのです。

そのような状況下の元和9年(1623年)に発生したアンボン事件(notあんぽん)は、オランダ東インド会社による東アジア貿易支配をより強め、イギリスの影響力を弱体化させるきっかけになりました。

オランダとの対立

アンボン事件というのは、インドネシアのアンボン島(アンボイナ島)というところで、オランダ人がイギリス商館を襲い、商館員を全員虐殺した事件です。この頃、東南アジアには日本人が多く進出し、アユタヤやプノンペンには日本人町が形成されるほどで、アンボン島にも日本人ともにオランダ人やイギリス人がたくさん一緒に住んでいました。

そんなおり、オランダ側が作った砦をイギリスが占領しようとしてする計画があるらしいことが発覚。すぐにオランダ人たちは、イギリス商館に攻め入り、商館長以下、30余名を捕らえた彼らは、イギリス人を火責め、水責め、四肢の切断などの凄惨な拷問を加えます。

そして、これを認めさせたオランダ側は、イギリス人10名、のほか、オランダに組していたとして、ポルトガル人1名と日本人9名を斬首して、アンボン島におけるイギリス勢力を排除したのです。

この事件は程なくイギリス本国に伝わり、英蘭両国の間で進行していたそれぞれの東インド会社の合併交渉は決裂。ついには外交問題にまで発展します。事件発生から31年後の1654年になって、オランダ政府が8万5000ポンドの賠償金を支出することで決着したといいいますが、事件が起こったと同時に、もうイギリスとオランダが一緒に仲良く貿易をするという雰囲気はまったく消散。

イギリスは、オランダ何者ぞ!と反抗攻勢にでるのかと思いきや、元気なく、とくにアンボン島のような香辛料貿易の中心地を失ったため、この事件をきっかけに、東南アジアにおける香辛料貿易におけるイギリスの影響力は縮小していきます。

しかし、かつて同量の金と交換されたこともあったほどの高級品だった香料も栽培方法が確立されていくにつれて、その価格は次第に下落。それに伴い、オランダの世界的地位も下がり始めましたが、一方の「被害国」イギリスは、日本や香辛料貿易をあきらめ、新たな海外拠点をインドに求めます。そして、そこで良質な綿製品の大量生産によって国力を増加させ、やがてはオランダを凌駕するようになっていった、というのは皮肉なものです。

アンボン事件により、イギリスはオランダの砦を襲おうとした「悪者」であると一方的にオランダから非難されるようになり、片やイギリスは自国民を虐待したとしてオランダを非難。ことはなかなか収まりそうにないことをみてとったイギリス東インド会社は、とりあえずこの事件は、平戸の商館長であるコックスの責任である、ということにしようということで、コックスを罷免することに決めます。

そして、コックスはインドネシアのバタビア(現ジャカルタ)の支社に左遷し、これを機会に平戸の商館も閉鎖することを決定。1623年(元和9年)12月のことでした。

再チャレンジ

翌年の1月には、イギリス商館は完全に閉鎖され、コックスらイギリス人商館員全員が日本を去り、イギリス人が去ったイギリス商館はその後平戸藩とオランダ商館が共同管理することになりました。

この平戸商館は、その後幕府によって平戸での貿易が禁じられ、オランダ商館が長崎に移転したこともあって、急速に荒廃していったそうです。

しかし、イギリスは、これで日本との交易を完全にあきらめたわけではなく、1671年(寛文11年)、チャールズ2世が国王のとき、日本との通商再開を目指して、「リターン号」という船以下3隻の船を本国から出航させて、長崎に入港させています。

長崎で長崎奉行と対面した使者は、徳川家康の時代に出された来航朱印状は依然有効であり、通商を再開してほしい、と願い出ます。しかし、オランダからの情報で、チャールズ2世とポルトガルの王女が婚姻関係にあることを知っており、1639年(寛永16年)以降、ポルトガル船の入港を拒否していた日本は、これに難色を示します。そして、さらにイギリスが、かつて一方的に商館を閉鎖した、と非難して結果的には、貿易再開要求を拒否。

リターン号がまだ日本にいる間に、改めてイングランド船の来航を禁じる命令を出したため、これを受けてリターン号は日本を離れることになりました。そして以後、幕末に至るまで、2度とイギリス商館が復活することはありませんでした。

また少々長くなってしまいましたが、これが江戸時代にイギリスとの貿易がなくなってしまった理由です。

イギリス商館が平戸のどこに設置されたのかについては、今もなぞなのだそうです。しかしいろいろな記録の痕跡から、平戸にある鏡川という下流にあったオランダ商館の近くだろうと推定されています。平戸市の岩の上町の幸橋のたもとには、商館跡の碑が建てられているそうですが、それだけでは、かつてアダムスらイギリス人が生き生きと働いていたであろう商館を想像することはできません。

かつて江戸初期の初めの日本を闊歩したイギリス人の姿を思い出させてくれるような史料が今後発見されるのを祈りたいものです。

遥かなるイギリス

昨日の男子サッカーはまことに無念でした。しかし、女子で銀、男子で4位という成績を残した選手たちは、これからの日本のサッカー界の礎となっていく人材となることでしょう。4年後を期待したいと思います。

それにしても、男子ボクシング、まさか優勝決定戦にまで勝ち残るとは思いませんでした。男子レスリングにしてもしかり。先日、新進気鋭の新人さんというのがあまりいない、なんて書きましたが撤回です。今回の日本人選手団はほんとうに層の厚さを感じさせます。

オリンピックもあと少しになってきましたが、さらなる応援を続けたいと思います。

外交顧問

さて、昨日の続きです。今日は何がなんでも終わらせたいと思います。なので、少し長くなるかもしれませんが、お付き合いください。

アダムス達を死刑にしろ、と主張したイエズス会の宣教師たちの要求を退け、アダムスとヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトの3人を大坂に護送させた家康は、1600年(慶長5年)3月30日、彼らを大阪西の丸で謁見します。

そして、かれらからポルトガル・スペインら旧教国との紛争の状況など、最新のヨーロッパ事情について詳しく聞きだし、豊かな知識と広い見識を持つ、アダムスとファン・ローデンスタインを高く評価するようになります。

家康との謁見後、アダムス達は帰国を願い出ましたが、家康はこれを却下しています。国内事情がまだ混とんとしている中、イエズス会の宣教師をはじめとする外国人たちの今後の処分をまだ決めかねており、この問題に決着をつけていくうえにおいては、いずれアダムス達の知識が必要になる、と考えたためでしょう。

家康は彼らの拘束をとき、逆に米や俸給を与えて慰留し、江戸にしばらく滞在し、しばらくの間協力してくれれば、いずれはオランダに返してやる、とでも言ったのでしょう。

アダムス達にすれば、帰国したくてもリーフデ号は彼らの手中にあり、危害を加えないから手助けしろといわれれば、家康の命に従うほかありません。豊後に漂着したときに怪我をしていた仲間を手厚い看護で救ってくれたこともあり、仕方なくというよりも、多少の恩返しは、という気にもなっていたことでしょう。

こうして、家康に協力することを決めた彼らは、少しずつ日本語も習いはじめ、やがて時折日本を訪れる外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任されるようにまでなります。日本に来るまでは、二人とも世界をまたにかけて貿易船に乗っていたため、おそらくポルトガル語も話せたと思います。国内にいるイエズス会の宣教師たちとも敵同士ながら、交流をもったでしょうし、ポルトガル語を中間言語として、スペイン語圏の外国人との通訳も行ったのではないでしょうか。

また、アダムス自身の母国語である英語を日本人に教えたのは、彼が初めてだといいます。このほかにも、造船術や航海術に長けていましたから、その基礎となる幾何学や数学、天文学などの知識を家康以下の幕閣に授けました。

しかし、これほど多才な人物を受け入れていたというのに、その後の日本は鎖国に入ってしまい、彼らが伝えた技術はその後長い間、封印されてしまいました。

彼らを受け入れた家康がその後なぜ鎖国体制に入ってしまったのかについては、諸説あるようですが、ひとつには、島原の乱をきっかけとして、キリスト教の蔓延を防ぐためであり、また諸藩が勝手に貿易をすることで、幕府の貿易管理統制がとれなくなることを恐れたためという説などがあります。

このため、幕府はその後キリスト教を禁止し、貿易相手もオランダなどに限定し、交易地も長崎の出島に限るなど、極端なひきこもり体制を築いたのはみなさんもよくご存知のところでしょう。

結婚

さて、日本という国がいずれはそういう閉鎖的な国になっていくことも知らず、アダムスが家康に協力するようになってから、瞬く間に二年が過ぎました。そのころはもう、すっかり日本に馴染み、もう母国へ帰らなくなくてもいいかな、などと思い始めていたことでしょう。ちょうどそのころ、アダムスは、日本橋大伝馬町の名主で、家康の御用商人でもあった馬込平左衛門(馬込勘解由(まごめかげゆ))という人物と懇意になります。

馬込平左衛門は、遠江国敷知郡馬込村(現:静岡県浜松市中区馬込町)の武士の家に生まれ、幼ないころから領主徳川家康に仕え、兵站を担っていました。このころはまだ、馬込姓も、勘解由とも名乗っておらず、ただ単に平左衛門と呼ばれていました。

その後、1590年(天正18年)に家康が、秀吉からの命令で、それまで住んでいた駿府から、江戸へ知行地替えを命じられたのに伴い、家康と連れ立って江戸に赴き、大伝馬町(現在の中央区小伝馬町付近)に定住して、伝馬役・名主役を務めるようになりました。

後年、1615年(元和元年)に、家康が大阪の陣を終え、江戸へ戻る途中、平左衛門は浜松宿馬込橋で人足500人と共に迎えに上がった所、家康が大いに喜び、正式に馬込の苗字を与えるとともに、勘解由を名乗るようになったといいます。

馬込平左衛門は、アダムスと頻繁に接するようになるうちに、彼の人柄にひかれ、また家康の厚い信頼を得ていることを知るようになり、やがて、娘のお雪との結婚を申し出ます。このころの平左衛門はまだ一介の商人にすぎませんでしたが、アダムスと結婚させることで、いずれは武士にお取立てしてもらえる可能性を考えていたのかもしれません。

そのころもう、オランダへの帰国をあきらめかけていたアダムスは、平左衛門の申し出を受け入れ、1602年(慶長7年)お雪と結婚しました。アダムス46才のときのことです。アダムスの故郷のイギリスは、カトリック教国であるスペインと敵対しており、おそらくアダムスもプロテスタントだったと考えられます。彼は、彼女にも洗礼を受けさせ、洗礼名をマリアとします。やがて、アダムスと彼女との間には、息子のジョゼフと娘のスザンナが生まれました。

伊東へ

臼杵湾で座礁して動かせなくなっていたリーフデ号は、応急処置後に大阪まで廻航され、その後、さらに補修が施されて、江戸湾まで運航されました。ところが、そのリーフデ号が、台風による高波で江戸湾内で沈没してしまいます。一説によると、大阪から江戸湾まで廻航してくる途中、浦賀沖で沈没したという説もあります。

この船を使って家臣たちに西洋の航海術を学ばせようと考えていた家康は落胆しますが、すぐに考え直し、アダムスが船大工としての知識を持っていることを思い出します。そして、彼に新たに西洋帆船を作らせることを思いつきます。

家康からその要請を受けたアダムスですが、かつて、ジリンガムで、船大工の師匠、ニコラス・ディギンズから手ほどきを受けてから、20年以上の年月が経っており、この間、船大工の仕事はまったく行っていません。このため、家康からのこの申し出を一度は断ります。

しかし、日本に来てからの家康の恩義に報いるためには、やはりこれを受けざるを得ないと考え直し、やがてその要請を受けることにします。しかし、問題はそれをどこで、誰が作るかでした。

その頃の江戸はまだ、現在のような大都市ではなく、海の近くは芦原が遠くまで広がるような湿地帯であって、船をつくるには不向きな環境でした。また、造船をするために適切な木材の入手も困難で、江戸川を遡り、利根川を通じて日光付近から材木を筏で流してくることは不可能ではなかったと思われますが、造船に適した材が入手できるかどうかということになると、話はまた別でした。

加えて実際の造船作業を行うには、熟練した船大工が必要であり、そうした人材はこのころの江戸にはほとんどいませんでした。

そこでアダムスらが目につけたのが伊豆の船大工でした。このブログの「軽野船」でも紹介したとおり、伊豆は古くから造船がさかんな土地柄であり、狩野川上流には一大造船所があったという説もあり、頑丈な船を作る優秀な船大工も多数存在していました。加えて造船に適した楠木などの丈夫で腐りにくい材も入手しやすく、アダムスがこの地を選んだのは妥当な選択だったといえるでしょう。

後年、1854年(嘉永6年)にロシア軍艦ディアナ号が下田沖で津波により大破沈没したときも、同乗していた技師、アレクサンドル・モジャイスキーらの指導により、乗員の帰国のために、日本人の手で帆船「ヘダ号」が建造されました。このときかり出されたのが、戸田の船大工たちであり、おそらくアダムス達が造船技術を指導した伊東の船大工の流れを汲む者たちだったに違いありません。

家康は、この日本初の西洋帆船を自力でつくるという一大事業を実施するにあたり、その最高責任者として、向井忠勝(むかいただかつ・別名向井将監)を総帥に任命しています。徳川水軍の将で御船手奉行であり、アダムスらとともに西洋帆船を作った知識をもとに、徳川家光の命により、幕府の史上最大の安宅船である御座船の製造を指揮するなど、後年は造船の名手といわれました。

忠勝は、家康方の水軍の総大将として活躍した人物でもあり、大阪湾で行われた豊臣方との海戦でも自らの水軍を率いてこれに勝利するなど、海と船に関しては専門家を自負しており、この船造りの責任者に選ばれたときもそれを栄誉と思ったことでしょう。このため、やる気満々だったようで、総帥に選ばれたあとも、江戸でも腕が良いといわれる船大工を集めてプロジェクトチームをつくり、その最高責任者にアダムスを据えています。

伊東にやってきた向井忠勝と江戸の船大工一行とアダムスは、伊東の村内に腰を落ち着け、造船をする適所を探し始めます。やがて、現在の伊東港の西側を流れる、松川という河口に目をつけ、ここに日本初の造船ドックを建設することを思いつきます。

アダムスたちが造船ドックを作ったと考えられる松川河口のあたりは、現在、左岸側が公園整備され、右岸側には導流堤が整備されていますが、その当時は、澪筋の深い自然の流れだったと考えられます。この右岸に玖須美という地名の場所がありますが、ここに唐人川という小さな川があり、この川と松川が合流していた場所が、そのドックがあった場所であると伝えられています。

この合流付近を深く掘り下げ、そこを板塀で囲って湿式のドックを作り、その中で組み立てた船を、進水時には川の中に導き、澪筋を伝って船を海まで運ぶのです。

こうして、アダムス達の日本初の様式帆船の建造が開始されました。アダムス自身も久々の船造りであり、しかも船を作る道具は自分が使っていたものとまったく違う、見慣れない和風のものであり、しかもそれを使って作業する大工との言葉の壁もあって、船造りは難航したに違いありません。

しかし、その苦労も実って、1604年(慶長9年)にようやく船が完成します。この日本初の様式帆船は、まだ規模が小さく80トンくらいだったといわれています。しかし、小さいながらも機能はしっかりしており、進水後にアダムスの指導により松川の周辺の海で沿岸測量の研修が行われたといいます。

三浦按針

船が完成したと聞き、江戸からはるばるやってきた家康は、万帆に風を受けて相模灘を走るその姿を見て、大いに喜びます。

そして、アダムス達に、より大型の帆船を建造するように指示し、アダムス達は、それからまた3年後の1607年には120tの帆船を完成させることに成功するのです。

後日、「按針丸」と命名されたこの船は、後年の1610年になって、房総の御宿海岸で遭難し、地元民に救助されたメキシコ人で、前フィリピン総督ロドリゴ・デ・ビベロに家康から貸し出され、サン・ブエナ・ベントゥーラ号と名付けられました。そして、ビベロらはこの船を使って、1610年(慶長15年)に日本を出発し、無事にメキシコ、アカプルコに帰還しています。

ちなみに、現在、この按針丸こと、サン・ブエナ・ベントゥーラ号の1/10スケールの模型が、伊東市役所のロビーに飾られているそうで、これは伊東市の市制50周年を記念するとともに三浦按針の偉業をたたえるために製作されたものだそうです。

更に余談になりますが、このロドリゴ・デ・ビベロが、フィリピン臨時総督在任中の1608年、マニラで起こった日本人暴動に際し、暴徒を日本に送還し貿易量の制限と暴徒の処罰を要求するという事件がありましたが、このとき、徳川家康の外交顧問だったウィリアム・アダムスがこの地を訪れ彼と会見し、問題を難なく処理しています。

ロドリゴ・デ・ビベロはこのことがきっかけで家康に友好的な書簡を送るようになり、その当時ヌエバ・エスパーニャと呼ばれていたメキシコと日本は、鎖国の前まで交流を続けていたといいます。

このように、アダムスは、造船だけでなく、家康の外交顧問として重要な役割を果たすようになっており、家康としても譜代の大名以上にかわいがっていたようです。そして、造船のみならず、外交、教育その他の分野で優れた能力を示した彼を、250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず、「三浦按針」の名前を与え、さらには相模国(現神奈川県)の逸見(へみ・現・横須賀市内)に領地まで与えています。

この、「按針」という名は、彼の専門である航海術にちなんだものであり、そのころの日本水軍が「水先案内人」を指すことばとして使っていたものです。また、「三浦」は与えられた逸見のある三浦半島にちなんだということです。

この、アダムスが家康から賜った領地は、その後息子のジョゼフが相続し、名乗りもジョゼフが継承し、「二代目」三浦按針として、その後も徳川家に仕えたそうです。

斜陽

アダムスこと、三浦按針自身は、江戸の日本橋に屋敷を構え、その後も家康に仕え続けました。同僚のヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタインも、江戸城の内堀内に邸を貰い、日本人と結婚し、アダムスと同じく江戸幕府の外交顧問として活躍しました。

彼の屋敷のあった場所は現在の八重洲のあたりだそうですが、彼はその後、「ヤン・ヨーステン」がなまって「耶楊子」(やようす)と呼ばれるようになり、これがのちに「八代洲」(やよす)となり、現在の「八重洲」(やえす)になったということです。

リーフデ号によって、日本にやってきたこのイギリス人とオランダ人コンビの活躍は、その後の日本の海外政策に大きな影響を与えました。

1604年(慶長9年)、江戸幕府は、特定の国の貿易船だけに「朱印状」を与えて貿易を許可する朱印船貿易を始め、同時に生糸の輸入も特定の国にしか認めない「糸割符制度」も始めました。それまでイエズス会による布教の自由を認めていたキリスト教を禁止し、特に布教に力を入れていたスペインなどの旧教国を冷遇し、貿易に力を入れるオランダやイギリスなどの新教国を厚遇するようになりました。

1609年(慶長14年)にはオランダ、1613年(慶長18年)にはイギリスが、肥前国平戸(長崎県平戸市)に商館を置いて平戸貿易が始まりましたが、これはアダムスとファン・ローデンスタインの功績といっても過言ではありません。その後、スペイン人・ポルトガル人を南蛮人というのに対して、オランダ人は紅毛人と呼ばれ、前者が野蛮人のひびきを持つのに対し、後者は奇異ではあるものの、なんとなく親しみが感じられるのは、気のせいではありません。

さて、このお話も長くなってきたので、そろそろ終わらせなくてはなりません。

家康に信頼された「按針」や「耶楊子」ですが、1616年(元和2年)4月に家康が亡くなったあとも、後を継いだ徳川秀忠をはじめ幕臣たちに仕え、厚く遇されました。しかし、鎖国体制の実施により、貿易が平戸のみに限定されるなど、外国人との折衝も次第に減り、外交顧問としての按針らが起用される機会もほとんどなくなっていきました。

晩年の按針の役割は、幕府の天体観測所の所長、天文官のみだったといいます。神田佐久間町には、司天台という天文台があり、ここでは、改暦、観測、地誌編纂、天文関連書籍の翻訳などを行っており、おそらくは按針も日々ここに詰めていたと思われます。

ときには、国家機密である地図の作成などにあたったようですが、既に幕府の高官であった按針自身が自ら測量を行うことはなく、また直接地図を制作する技量もなかったでしょう。また、鎖国によって外国の書物の輸入が禁止され、翻訳の仕事もどんどん減っていったと思われます。

少しでもイギリスやヨーロッパの情報を得たいと思ったのでしょう。最晩年の彼は、商館のある平戸に移り住んでいたようです。しかし、ときおり入港する外国船の船員との接触も厳しく制限された彼は、幕府からもその存在を警戒され、鬱状態になっていたといいます。そして、イギリスに帰る夢もかなわぬまま、1620年(元和6年)5月26日に平戸で、その波乱万丈の一生を終えています。57歳でした。

その墓は、現在も平戸市崎方公園に残っており、「三浦按針之墓」と書かれているそうです。毎年5月下旬には墓前で「按針忌」が催されるとともに、彼とゆかりのあった、伊東や石巻でも彼にちなんだ催しが持たれ続けているそうです。

エピローグ

三浦按針は、伊東において、幕府の要請により、二隻の西洋帆船を建造しましたが、その後、もう一隻の帆船を仙台藩の求めに応じて建造しています。

1614年(慶長19年)、伊達政宗は、徳川家康の裁可を得て、仙台藩士の支倉常長を外交使節に任命し、スペインとの貿易交渉のため太平洋を横断させています。その際に乗船した巨大帆船、サン・ファン・バウティスタ号も三浦按針が関わって建造された船です(1613年完成)。

三浦按針が主導し、そのころ仙台領内に滞在していたスペイン人提督セバスティアン・ビスカイノに協力させて建造した、日本で初めて作られた西洋型の軍船でもあります。造船工800人、鍛冶700人、大工3000人が参加して作られたそうで、排水量はその当時の日本で最大の500t。全長55m。建造日数は、わずか45日だということですが、おそらくは組み上げるだけの日数で、実際には前準備の工作を相当やっていたのだと思います。

そして、支倉常長は、フランシスコ会の宣教師ルイス・ソテロとともにこの船に乗って海をわたり、スペインの首都、マドリードの王宮でフェリペ3世と謁見することに成功します。その後の交渉により、日本との貿易が実現するかに見えましたが、そこに思わぬ横やりが入ります。この時期、日本国内では既に徳川家康がキリスト教徒の弾圧を始めており、この情報が故支倉常長と交渉中だったスペイン側に伝わったのです。

そして、結果的にこの外交交渉はみごとに失敗に終わりました。

支倉常長らは、このあと、途中までサン・ファン・バウティスタ号に乗って帰国しますが、途中、メキシコで下船して、その後は別の船で帰国しています。サン・ファン・バウティスタ号はその後、スペインに売却され、戦艦としてミンダナオ島方面へ向かったあと消息が不明となりました。

近年、日本では、バブル景気のころにこの船を復元しようという声が高まりましたが、なかなか実現できず、1992年になって、ようやくこの話が実現し、復元プロジェクトがスタート。当時の正確な設計図は残っていませんでしたが、寸法図が残っていたことから、これをもとに設計をしなおし、スペインへの出帆から380周年にあたる1993年(平成5年)5月22日に、ついに復元に成功。宮城県石巻市で進水式が行われました。

石巻新漁港に仮係留され一般公開された後、現在は石巻市渡波にある渡波漁港に開館したテーマパーク「宮城県慶長使節船ミュージアム」に係留・展示されています。昨年の震災の際には、10mを超える津波に襲われたそうですが、幸い被害は軽微ですんだそうです。

かつて、オランダを出発し、はるか遠い極東をめざす中、按針たちが常におびえていたのがポルトガルやスペインなどの旧教国の船に拿捕されることでした。そのスペインとの交易に使うための船の建造に携わることになったとき、按針は複雑な思いを抱いていたに違いありません。

しかし、自分の力により、その当時日本最大の西洋式軍艦を作り上げたときの喜びはそれ以上に大きかったと思います。いつかその船に乗り、故郷をめざすことができたら、どんなにうれしいことだろうと、思ったに違いありません。按針、このときちょうど50才。この船の完成後、わずか7年で亡くなっています。

按針が亡くなったその年、支倉常長も果たせなかった任務に失意の念を抱きながら帰国しています。片やイギリスに思いをはせながらも亡くなり、もう一方はイギリスの宿敵スペインに裏切られての帰国。そして、支倉常長も二年後に病死しています。

二人の人生が交わるということは生涯ありませんでしたが、サン・ファン・バウティスタ号という同じ船にかかわりながら、イギリスとスペインというそれぞれの国の夢を見ていた二人。まさに「同床異夢」の言葉どおりであり、歴史の面白さをそこに感じます。

このお話は今日で終わりです。ご清読ありがとうございました。按針の生涯にはまだまだたくさんの面白いエピソードがありそうなので、また機会あらば書いてみたいと思います。

さて、二週間にわたって書いてきた「イギリス特集」も、もうすぐ終わるオリンピックとともに終了したいと思います。残る試合での日本人の活躍を期待したいところ。メダルの獲得数がアテネを上回るのも、あとすこし。頑張って応援しましょう!

ジパング

昨夜は、結局3時間ほど寝ただけでした。それにしても、バレーボールとサッカーを同じ時間にやるなんて、酷ですよね~。しかたないので、テレビを2台つけて、交互に結果を見比べる始末……。それで勝てればよかったのですが、残念ながらサッカーは銀、バレーボールは敗者復活戦でした。トホホ……ですが、二組の乙女たちもよく頑張りました。

考えてみれば、女子サッカーがメダルを取るということ自体が快挙です。昨年のワールドカップの優勝で感覚がマヒしてしまっていますが、過去に例がないことなのだと考えれば、それがすごいことなのだと改めてわかります。女子バレーはまだメダルが確定しているわけではありませんが、それでも最低限4位が保障されているわけで、これだって十分にすごいことです。

合わせてレスリングの吉田選手の、これまでの日本人選手では考えられないような三連覇も、驚異そのものです。日本人のスポーツ能力が昔と比べ、はるかにスポーツ先進諸国のそれに近付いている証拠です。まだ、これで終わりではありませんが、次のリオデジャネイロは更なる進化をとげるのではないでしょうか。期待しましょう。

マゼラン海峡

……と、多少負け惜しみのようなコメントをしてみましたが、でも本音です。まだまだできるぞニッポン!

さて、昨日の続きです。

1598年6月24日、極東を目指すアダムスら一行を乗せた5隻の船団は、ロッテルダム港を発ちました。その構成をおさらいしておきますと、以下のとおりです。

ホープ号(旗艦)
リーフデ号(アダムスらを乗せて日本に漂着)
ヘローフ号(ロッテルダムに唯一帰還)
トラウ号
フライデ・ボートスハップ号

船団は、ロッテルダムを出航後、ドーバー海峡を抜けたあと西に向かい、いったん大西洋に出たあと、そこから南下したと考えられます。イベリア半島西端には、宿敵ポルトガル王国があり、その近海ではポルトガル海軍の船に拿捕される可能性があるからです。

一度、大西洋に出てから、アフリカ大陸を左岸に遠く望みながら航行し、そこから南西方向に一気に大西洋を横断したアダムス一行。そこからは、はるか遠くにかすむ南アメリカ大陸東端のブランコ岬が見えてきたはずです。

そのブランコ岬を回り、南アメリカ大陸を右岸に沿って徐々に南下すれば、その最南端のマゼラン海峡に到達できます。おそらくは、ここに至るまでの寄港地には、ポルトガル船が待ち受けていたと思われ、それを避けるためにアダムス達は、名もない入り江を探して停泊しながら、航海を続けたはずです。夜間、そこにこっそり停泊し、上陸して食糧や水を探しては積み込んで再度出発する、ということを繰り返したことでしょう。

しかし、食糧補給のために寄港した南米の各地では赤痢や壊血病が蔓延しており、船員の多くが罹病して、次々に死んでいきます。また、たびたびインディオの襲撃に晒され、これを撃退しようとした戦った船員も命を落としていきます。このとき、トラウ号に乗っていたウィリアムの弟のトマスも、インディオとの激戦の中で、殺害されてしまいます。

それでも、なんとか、マゼラン海峡に達した彼らですが、そこには、新たな脅威が待っていました。

マゼラン海峡は、南アメリカ大陸南端の先端の地域を指す総称ですが、「海峡」とは名ばかりで、大小の島々が群がり、その間を縫うようにしながら、太平洋へ抜けなければなりません。島と島の間の狭い海峡に、速い潮流と幾多の暗礁が広がるとともに、年間を通じて極寒のエリアであり、流氷の衝突もあります。これまでも、ここを通過する多くの船が座礁や沈没を繰り返し、数多くの命を奪ってきました。

最初にここを通ったのは、マゼランですが、そのマゼランの船団がわずか7日で通過できたのは当時としては神業に近いといわれます。ここを通過するルートが、太平洋の西回り航路として確立されるようになるまでには、これからさらに長い時間がかかりました。測量を繰り返し、浅瀬や流氷をさけ、安全に航行できるルートを見つける必要があったからです。

航行機器の発達した現在でも、マゼラン海峡は熟練した経験者でも苦労するといわれる難所ですが、アダムス達は、この難所もなんとかクリアーし、ようやく太平洋に出ることに成功します。

しかし、ここまでで、5隻あった船団のうちの一隻のヘローフ号が脱落しています。マゼラン海峡を通過するときなのか、それ以前に南アメリカ大陸沿岸を航行していたときなのかは不明ですが、おそらくは、マゼラン海峡まで来るまでに船内で疫病などが流行ったか、さもなくばマゼラン海峡を通過中に、その後の航行に支障が出るような大きな故障があったのでしょう。

いずれにせよ、そのあと太平洋を横断することを断念し、ヘローフ号はただ一隻、その後の航海の続行を断念してロッテルダムに引き返します。このため、この船団で唯一生き残った船となりました。

太平洋横断

ところで、マゼラン海峡に来るまでには、ウィリアム・アダムスはホープ号から、リーフデ号に配置替えになっていました。その理由はわかりませんが、航海技術に長けていたアダムスを各艦の航海士として派遣し、難所として知られるマゼラン海峡とその後に待っている太平洋横断に備え、船員の技量を引き上げておきたかったためかもしれません。

しかし、広い太平洋を4隻の船団でまとまって通過するのは、マゼラン海峡の通過以上に困難でした。無線などあるわけのないこの時代にあって、いったん嵐に巻き込まれれば、お互いの連絡のとりようなどあるわけがありません。

しかも、記録によればアダムス達が乗船していたリーフデ号は、わずか300トンの排水量しかありません。300トンといえば、現在の船でも長さ50m程度の中型船にすぎず、しかもこの時代は、波に逆らって走る動力などありません。アダムス達が乗船していた、ガレオン船は、速度も出て積載量も多かったため、西欧各国でこぞって建造されましたが、吃水が浅いため、速度が出る反面、転覆もしやすい構造でした。

ガレオン船がどんな形の船かは、映画のパイレーツ・オブ・カリビアンをご覧になったことがある方はすぐにお分かりでしょう。このころの商船も海軍の船も、海賊の船ですら、このガレオン船であり、大航海時代における船舶のスタンダードともいえる船型です。

さて、マゼラン海峡を抜け、満を持して太平洋横断を始めた4隻ですが、案の定、悪天候により、お互いを見失い、ちりぢりバラバラになります。しかし、運よくリーフデ号とホープ号だけはお互いを発見することができ、その後の航行を共にします。そして、2隻で太平洋を横断し始めましたが、再度の大しけに遭遇し、ホープ号はついに沈没。司令官のヤックス・マフとともに、海の藻屑と消えました。

漂着

旗艦であり、僚船を失ったリーフデ号ですが、それでもなんとか、太平洋の荒波を乗り切り、ついに極東にまでたどり着きます。太平洋で離れ離れになった、トラウ号と、フライデ・ボートスハップ号もそれぞれ、東インド諸島(インドネシア付近)付近にたどり着きますが、そこでトラウ号はポルトガルに、フライデ・ボートスハップ号はスペインに拿捕されてしまします。

こうして、極東に到達するという目的を果たしたのは、結局のところアダムスが乗船したリーフデ号ただ1隻となってしまいました。しかも、出航時に110人だった乗組員は、そのころには24人に減っていました。

太平洋を乗り切り、陸地を求め、ひたすら西へ西へと航海を続けていたリーフデ号は、ある日、ついに島を発見します。しかし、島だと思ったそれが実は陸であると気付いたころには、船は暴風雨に巻き込まれてしまい、陸地に上陸するチャンスを見つけるうちに、舵を壊され、大破して浸水した船は、大波に揺られ、漂い始めます。

おそらくは暴風雨に巻き込まれたのは、宮崎県北部の豊後水道沖あたりだったと考えられます。ここで破船し、コントロールを失った船は、南からの強風にあおられて北上。やがて現在の臼杵市の東側まで流されたあと、臼杵湾付近のどこかの浜に打ち上げられます。その場所がどこなのかについては、正確な史料が残っていません。臼杵湾内の島ではなかったかという説もあります。

遠路はるばる、地球の裏側まで旅してきた彼らが辿り着いた場所、そこは戦国の世もまだ明けきらない日本の西端の地でした。ロッテルダム出航後、1年と8ヶ月あまりが経った、1600年(慶長5年)3月16日のことでした。

拘束

嵐のあと、浜に出てみると、見たこともない形の外国船が、半分海に浸かった状態で浮かんでいるのを発見したとき、臼杵の村人の驚きは、いかほどだったことでしょう。すぐに番屋からお城に知らせが行き、お城からはあわてて役人が駆け付けたことかと思います。

この当時、その地域一体を司っていたのは、臼杵城主、太田一吉という人物でした。現在のJR臼杵駅のすぐ北側に、臼杵公園というのがありますが、ここが、この太田氏が居城にしていた臼杵城の城跡になります。

戦国時代の永禄5年(1562年)、府内の大友館より拠点を移した大友宗麟によって築かれた城で、現在では住宅地に囲まれていますが、その当時は、臼杵湾に浮かぶ島に築かれた海城でした。

大友氏が改易になった後、豊臣家の家臣だった太田氏が居城としていましたが、この「事件」の直後に徳川の世となったことから、太田氏は国替えとなり、代わりに岐阜の郡上八幡にあった稲葉貞通が5万石で入封しています。そして臼杵城は以後、明治維新に至るまで、稲葉氏15代の居城となりました。

さて、番屋からの注進により、外国船が漂着したとの知らせを受けた太田一吉は、漂着した外国人一行をとりあえず、拘束しようとしたと思われます。

航海中に本船を大破し、渡船も失っていたアダムス一行は、自力では上陸できなかったため、太田一吉の出した小舟に乗り、ようやく日本の土を踏みます。しかし、丁重な扱いを受けると思っていたところが、ほとんど罪人扱いであることに驚きます。

とはいえ、生存者の中には重傷者が多く、けがをした乗組員には手厚い看護が施されました。しかし、手あてもむなしく、翌日に3人が亡くなっています。漂着したときの生存者は24名でしたが、結局生き残ったのは21名になりました。

生き残りの中には、のちにアダムスと同じく、江戸幕府の外交顧問になったヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタインや船長の船長のヤコブ・クワッケルナックも含まれていました。

クワッケルナックは、後年、家康からオランダ総督に宛てた親書を携え、リーフデ号の他の乗員と共にオランダ東インド会社の交易拠点であるパタニ(マレー半島)へと航海することになる人物です。船が難破したときに大けがをし、上陸したときには、かなりの重体だったと伝えられています。

アダムス達が日本に漂着したこの1600年という年には、その7ヶ月後に関ヶ原の戦いが起こっています。豊臣政権はほぼ死に体の状態でしたが、それでも、地方の武将は中央の指令に忠実に従っており、秀吉が発した、「バテレン追放令」もまだ有効でした。

このため、漂着した外国人を打ち払う、というような行為こそありませんでしたが、太田一吉はとりあえず彼らを「罪人並」として扱い、その後の処分をどうするかについて、長崎奉行の寺沢広高に問い合わせています。

知らせを受け、やがて現地に到着した寺沢は、船内に積まれていた大砲や火縄銃、弾薬といった武器を没収し、さらなる指示を大坂城の豊臣秀頼に仰ぎます。

ところが、その指示を待っている間、イエズス会の宣教師達が訪れ、オランダ人やイギリス人を即刻処刑するようにと寺沢らの長崎奉行に要求してきました。

バテレン追放令下の豊臣政権下にあって、なぜイエズス会の宣教師がのさばっていたのか?

実は秀吉は、バテレン追放令を出してはいましたが、既に国内で広く普及していたキリスト教に対しては寛容でした。強制的にキリスト教への改宗をさせる事は禁止していましたが、建前としては信仰の自由を保障しており、個人が自分の意思でキリスト教を信仰する事は規制していなかったのです。一定の領地を持つ大名がキリスト教信者になるのも秀吉の許可があえばOKだったそうで、そのため、それまでに日本に入りこんで布教をしていたイエズス会の活動も大目にみていました。

排他的だったのはむしろイエズス会の面々で、自分たちだけがキリスト教を正しく布教できると信じ、ポルトガルやスペイン人以外の外国人を極端に排除しようとしました。

この点、自分たちだけの貿易ルートを確保しようと、他国の貿易船の航海に規制を加えていたポルトガルの王様と視点は全く同じです。アダムス達一行にとって最悪だったのは、せっかく彼らの目をかいくぐってようやく日本にたどり着いたのに、そこを牛耳っていたのは同じポルトガル人に肩入れする宣教師たちだったということ。

彼らが、アダムス達たちオランダ人やイギリス人を死刑にせよと言ったのはそういう理由からでした。

しかし、結局、イエズス会の宣教師たちの要求は通らず、そのころ、豊臣政権下の五大老の首座であった、徳川家康が指示し、重体で身動きの取れない船長ヤコブ・クワッケルナックに代わり、アダムスとヤン・ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを大坂に護送させます(ヤン・ヨーステンは「名」でファン・ローデンスタインは「姓」。メルキオールも同)。

座礁して動かせなくなっていたリーフデ号は、応急処置をし、なんとか浮かぶ状態にしたあとで、和船に曳かせ大阪まで回航させることになりました。

謁見

そして、5月12日(慶長5年3月30日)、家康は初めて彼らを謁見します。その場所はおそらく大阪城西の丸だったと思われます。家康は秀吉の遺命により、伏見城に居住するよういわれていましたが、五大老のひとりを首謀者とする家康暗殺計画があったとして伏見城を出て、大阪城に入っていたためです。

そして、西の丸を本拠としながら、五大老制を骨抜きにし、ここから多数派工作のために、矢継ぎ早に大名への加増や転封を実施しています。来るべき関ヶ原とその後に備えるためです。ウィリアム・アダムス一行が家康に出会ったのは、ちょうどそういう時期でした。

アダムス一行との謁見を済ます前、家康のもとには、イエズス会士から、彼らは海賊であるから早く処刑してほしいという注進が入っていました。しかし、幾度かにわたって引見を繰り返しながら、にこれまでの路程や航海の目的、オランダやイギリスなど新教国とポルトガル・スペインら旧教国との紛争などについて詳しく聞き、ヨーロッパの現状を知るようになります。そして、そうした説明を臆せずするアダムスとファン・ローデンスタインを高く評価するようになっていったといいます。

その間も、宣教師たちは、家康に対して執拗に処刑を要求していましたが、やがて彼らのほうがウソをついていると見抜いた家康は、これを無視。それまで罪人同様に座敷牢に入れられていた彼らを釈放し、自らの本拠地である江戸に招くことになるのです。

続く……

波濤をこえて 

昨夜は(も)オリンピック観戦中に、すっかり寝込んでしまって、女子レスリングの途中経過を見損ねましたが、さあ決勝戦!というところでタエさんに起こしてもらい、なんとか金メダルをとった二人の乙女の雄姿をみることができました。

決勝戦だというのに、意外と落ち着いて見ていることができたのは、二人ともベテランだからでしょうか。ハラハラする場面もないではありませんでしたが、やはりその道で経験を積んでいる人というものは、周囲に安心感を与えるもの。それにしても、今回の日本人選手団というのは、こうしたベテランもあり、若手の伸び盛りもありで、その層の厚さを感じさせます。

強いていえば、彗星のごとく現れたといえるような、新進気鋭の新人さんというのがあまりいないかな。前回の北京のほうがそういう人がむしろ多かったような気がします。今回のオリンピックは、その新芽が育って、ようやく収穫できるようになった大会といえるのかもしれません。

これで、金メダルも4つになって、ぐっと形になってきました。あとは、女子サッカーとバレーボール、そしてレスリングでビシッと決めてもらいたいもの。その試合はいつ……? 今夜と明日の朝方ですか。また寝れんわい……

さて、オリンピックが終わるまでは、このブログもイギリス特集ということで頑張りたいと思います。

今日の話題は何にしようかな~と考えていましたが、やはりイギリスといえば、前から取り上げようと思っていた、伊豆とも縁の深い、三浦按針のことでしょうか。

ジリンガム

三浦按針こと、ウィリアム・アダムスは、江戸時代の初期に日本にやってきて、徳川家康の外交顧問にまでなった、元イギリス人の航海士です。歴史の教科書にはたいてい出てくるので、その名前を聞いたことのある人も多いと思います。しかし、扱いが小さいので、実際にはどんな人だったのか知らないということも多いことでしょう。

その日本での活躍と、伊豆との縁については、おいおい書いていこうと思いますが、まずはその生い立ちと日本へ来るまでの背景について語っていきましょう。

ウィリアム・アダムスは、イングランド南東部のケント州のジリンガム(Gillingham:現メドウェイ(Medway)市)というところで、1556年に生まれました。グレートブリテン島の東南、テムズ川の河口付近にある港町で、ロンドン市街からもほど近い(東南東に60kmほど)ところにあります。

1980年代までは造船業の都市だったということで、おそらくは、ウィリアム少年が幼かったころにも造船業や漁業がさかんな町だったと思われます。1984年にここにあった英国の海軍基地が撤退したことから、市の経済が一時衰退したため、現在は企業立地を図り、活性化を図っている最中だとか。その昔は軍港だったのですね。

余談ですが、ウィリアム・アダムスと縁の強かった横須賀市とメドウェイ市は姉妹都市を提携しており、伊東市もメドウェイ市を友好都市にしています。議員同士の交流や留学生交換などを行っているとのことで、伊東市では、日本初の洋式帆船が建造されてから400周年になることを記念して、平成16年にメドウェイ市長たちを招待し、記念式典(モニュメントの除幕など)を開催したそうです。

さて、1556年というと上杉謙信と武田信玄が川中島で戦った年で、このころはまだ戦国時代。やがて、アダムスが日本に来るころまでには徳川家康が日本を平定していますが、このころはまだ、血なまぐさい戦乱が続く世でした。

一方のイギリスはというと、アダムスが生まれた二年後の1558年には、エリザベス一世が即位しており、その統治により比較的安定した国情でした。しかし、やがてネーデルランド(オランダ)の所有や制海権をめぐって、スペインと争う情勢が生まれつつあり、それはやがて1588年からおこる英西戦争の前触れでもありました。

つい最近まで海軍の基地があったというギリンガムでも、このころはおそらくは、スペインと戦うための軍艦がつぎつぎと出航していったと思われますが、そんな港町で育ったウィリアム少年の父親も船員だったといいます。

しかし、その父を幼いころになくしたため、ウィリアムは、わずか12歳でロンドンのテムズ川北岸にあるライムハウスに移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入りすることになります。ディケンズは船大工としては腕がよく、高名だったそうですが、ウィリアム少年はこの工房で12年間大工仕事を学ぶ間、造船術のイロハを徹底的に彼から教わります。のちに日本に来たときも、一から西洋帆船を作り上げていることから、かなり高度で熟練された技術を習得していたのでしょう。

アルマダの海戦

しかし、造船術よりも航海術のほうにより興味を持っていたといい、1588年、奉公の年限を終えて24才になったときに、イギリス海軍に志願して入隊しています。入隊してすぐに、イギリス海軍公認のかの有名な海賊、フランシス・ドレークの指揮下にあった貨物補給船リチャード・ダフィールド号の船長としてアルマダの海戦に参加します。入隊してすぐに船長ですから、ディギンズの工房にいたときから既に高い航海術の知識や操船能力を身に着けていたと思われます。

アルマダの海戦とは、その当時世界最強といわれたスペインの「無敵艦隊」とイングランドの艦隊が、1588年、両国の制海権をめぐって英仏海峡で戦った海戦です。一発勝負の海戦ではなく、大小3~4回の海戦が行われましたが、出撃したスペイン艦隊の総数約130隻を、毎回の海戦でイギリス艦隊は撃破し、スペイン艦隊のうち本国に帰れたのは、そのおよそ半数にすぎず、惨敗に終わりました。この敗退を機に、スペインの国力は急激に衰えていったといいます。

イギリスもスペインも、艦船の数はほぼ互角でしたが、いずれも戦艦と呼ばれるものは30隻程度で、残りはすべて武装商船でした。武装商船は、備え付けの大砲を持っていないものも多く、地上で使う大砲を艦上で固定して、敵と戦いました。

ウィリアム・アダムスが乗った貨物補給船は、おそらくそれ以下の最低限の兵器しか積んでおらず、戦隊の後部にいて、食糧などを届けるために本土と艦隊を往復するような役割だったのでしょう。アルマダの海戦では、とくに大きな功績をあげたというような記録はないようです。

東洋へ

やがて海戦が終わり、無事に任務を終えたアダムスですが、翌1589年に帰国すると、メアリー・ハインという女性と結婚。娘と息子のふたりをもうけます。

しかし、その後、軍隊の任務が性に合わなかったのか、軍を離れ、今度はバーバリー商会という商社のロンドン支店付き航海士、兼船長として貿易業に携わるようになります。このため、せっかく持った所帯ですが、ほとんど家に居つかなかったそうで、もっぱら、北方航路やアフリカへの航海へ出かけ、一年中を海の上で過ごすという日々が続いていました。

子供のころから大好きだった海の上で毎日をすごし、ときには北欧やアフリカの各地に上陸して珍しい風物を見聞きする生活は、アダムスにとってはこの上もないものでしたが、同じような船旅を何年も続けているうちに、だんだんともっと別の国へも行ってみたいという欲求がでてきます。

そんな中、航海で共に仕事をし、交流を深めるようになっていたオランダ人船員から、オランダの船会社が、ロッテルダムから極東を目指す航海のためにベテランの航海士を探しているという噂を聞きつけます。

早速、弟のトマスや友人のティモシー・ショッテンらとともに、ロッテルダムにあるその船会社を訪れ、共にその航海に参加したいと申し出ます。航海は5隻からなる船団で行われることになっており、この申し出に喜んだ司令官のヤックス・マフはアダムスを、このうちの「ホープ号」という船の航海士として採用します。

こうして、船団はロッテルダム港を出航します。船団は以下の5隻で構成されていました。

ホープ号(旗艦)
リーフデ号(アダムスらを乗せて日本に漂着)
ヘローフ号(ロッテルダムに唯一帰還)
トラウ号
フライデ・ボートスハップ号

香辛料貿易

アダムス達のその後の航海について触れるまえに、そもそもこの航海が何を目的としていたのかについて書いておこうと思います。

ヤックス・マフが所属していた船会社がどういう性格の企業であったかについては、詳しい史料がありませんが、この時代はすでに大航海時代といわれる時代になっており、ヨーロッパの各国は、積極的に母国を出て、ヨーロッパ以西、あるいは以東へと遠洋航海に挑む時代になっていました。やがてその航海は、インド・アジア大陸・アメリカ大陸へと広がっていくことになります。

これにより、それまでは海域ごとに孤立していた地球上のすべての海洋がひとつに結び付くようになったことから、この時代を「大」航海時代と称するようになります。後年の列強によるインドやアジア・アメリカ諸国での植民地主義的な海外進出につながっていく嵐の前の時代です。

1498年にヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰経由によるヨーロッパ-インド洋航路を発見し、新しい通商航路を開拓すると、ヨーロッパ人が直接インド洋をはじめ、東洋に乗り込んでいきました。特にポルトガルは、いわゆるポルトガル海上帝国を築き、当時の交易体制を主導します。

この大航海時代の貿易は、とくに東洋におけるヨーロッパ優位の時代を作り、各国とも貿易の支配を目指し、とくに「香辛料」を得るために、その交易路を巡って激しく戦うようになります。

いわゆる、「香辛料貿易」で取り扱われた商品は、香辛料、香、ハーブ、薬物及びアヘンなどでしたが、古くはギリシャやローマも、ローマ・インドルートや「香の道」という陸路の交易ルートを持ち、アジア諸国と香辛料貿易の取引をしていました。防腐作用や臭み消しのほか、衣料品としての需要があり、銀よりも高価といわれるほどであった香辛料は、ヨーロッパでは大変貴重なものでした。特にコショウは、大航海時代を通してヨーロッパの貿易商たちのもっとも重要な商品であり、主要な貿易品でもありました。

しかし、古くから香辛料貿易をおこなっていたポルトガルは、自国の影響下にあった古代のルートや港湾、支配の難しい国を通る交易路を他国の船が通る際、その通行に制限をかけ、自国の利益のみを守ろうとしていました。

これに対抗して、オランダは、ポルトガルの支配する海域を避け、新たな遠洋航路を開拓して、独自にアジア諸国と貿易し、利益を得ようと画策します。

後年、オランダは、インドネシアのスンダ海峡と喜望峰を直接結ぶ東回りのルートを開拓し、これによってオランダは、世界初の株式会社といわれる「東インド会社」を設立します(1602年)。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられ、アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いたのです。

しかし、アダムス達が出航した1598年当時は、まだこのルートは開拓されていませんでした。アメリカ大陸を南下して、マゼラン海峡を越え、太平洋を渡る「西回りルート」では、ポルトガルによる妨害があることは必至でしたが、それでもあえて航海を敢行したのは、アジアや東洋諸国にたどり着けば、その帰路、高価な香辛料を持ち帰り、高い利益を得ることができるためにほかなりません。

今考えれば無謀な航海といえますが、それでもそれにチャレンジしたのは、出航した5隻のうちの一隻でも帰ってくれば、それなりの利益があがる、と踏んだに違いありません。長旅に備え、大量の水と食料を満載した5隻は、1598年6月24日、ロッテルダム港を発ち、大西洋を南下していきました。

しかし、その航海は惨憺たるものでした。結果としては、アダムス一行の何人かが日本にたどり着きますが、日本に来れたこと自体が奇蹟のような船旅でした。

今日は(も)、長くなってしまいましたので、その続きはまた明日綴りたいとおもいます。

今夜は、女子バレーと女子サッカーの両方を応援しなくてはなりません。アップが遅くなったら、そのせいだと思ってください。あしからず。