三笠フォーエバー

昨夜は、疲れました…… 女子バレー、すごかったですね~。フルセットで追い込まれながらも、逃げ切ったニッポン。あっぱれ!をあげたいです。ここまできたら、ぜひメダルを取って帰ってきてほしいものです。

それにしても、そのあとの卓球女子と男子サッカーの連チャンの応援で、もう、ほととほと疲れました。卓球女子の結果は下馬評どおりといえばそのとおりなのですが、第一試合と第三試合でそれぞれ中国に一死報いることができたのは良かったと思います。次のオリンピックにつながる結果だったのではないでしょうか。

サッカー男子。これは惜しかった……とはいえないものの、よく頑張りました。オリンピック前にはあまり期待されていなかったみたいですが、それをバネにしてここまで頑張った彼らにエールを送りたいと思います。まだ、3位決定戦があるので、銅メダルの可能姓もあることですし。それにしても、3位決定戦は、宿敵、韓国との試合になるような気がします。もしそうだとしたら見ものです。う~また寝不足になりそう。

爆発

さて、昨日は、三笠が日本海海戦に勝利し、横浜で凱旋の観覧式に出席したまでのことを書きました。

昨日書いたように、日本海海戦が終わるのとほぼ同時に、イギリスの「ドレットノート」のような革新的な弩級戦艦が登場したことで、三笠はもはや最新鋭艦ではなくなりました。その後の任務をそつなくこなして、早晩引退するところですが、多額の費用をかけてイギリスから輸入した船をみすみす解体するのはもったいない、とでも思ったのでしょう。帝国海軍はその後も三笠を使い続けます。

しかし、その後の三笠の不運を予兆するような出来事が、日本海海戦が終わった直後に起こります。日露戦争終結を宣言するポーツマス条約が締結された明治38年(1905)の9月5日から、わずか6日後の11日正午過ぎのこと。突然、後部火薬庫に火災が発生し、三笠は大爆発を起こして、佐世保港内に沈没してしまうのです。

その原因は諸説あるようですが、そのひとつは、当時水兵間で流行っていた「信号用アルコール」を使った遊びによる引火というもの。その当時、水兵たちの間には、信号用アルコールに火をつけた後、吹き消して臭いを飛ばして飲む、という遊びが流行っていたそうです。そして、その遊びの最中に、誤って火のついた洗面器を引っくり返したものが、火薬庫に延焼したのが原因とする説です。

しかし、当の本人たちが死んでしまったため、それが本当の原因かどうかはわかっていません。ほかにも下瀬火薬の変質が原因という説もあるようですが、艦の損傷が激しく、本当の原因は結局わかりませんでした。事故当時、東郷司令長官は上陸していて無事でしたが、このときの事故での殉職者は339名にのぼりました。

この殉職者の中には、艦隊付属軍楽隊所属の「軍楽兵」が数多く含まれていたそうで、かの有名な軍艦行進曲(軍艦マーチ)を作曲した、「瀬戸口藤吉」も三笠に座乗していましたが、無事でした。

座礁

佐世保湾の底に沈み、半沈没状態になった三笠ですが、翌年の明治39年(1906)には、排水浮揚になんとか成功し、明治41年(1908年)には、第一艦隊の旗艦として復帰します。

そして、大正3年(1914)から、大正6(1917年)までは旧ロシアの沿岸警備につくなど、現役艦としての任務をその後も続けます。1918年(大正7年)から1921年(大正10年)の間には、日露戦争後、1917年のロシア革命後に誕生した社会主義国、「ソ連」を東から牽制する、いわゆる「シベリア出兵」の支援にも参加しました。

参加前には防寒工事も施され、飛行機の臨時搭載ができるようにするなど、艦の大幅な改良がおこなわれ、万全の準備が整っていましたが、今度は、大正10年(1921)9月16日にソ連沿岸を警備行動中に座礁事故を起こします。ウラジオストック港外のアスコルド海峡という場所で濃霧の中を航行中に浅瀬に乗り上げ、座礁したのです。

富士、春日などの救援を得て離礁することができ、ウラジオストックで応急処理をして、なんとか日本に帰ってくることができましたが、日露戦争以後二度目の着底になるだけに、乗船者は日本海海戦で海に沈んだロシア兵の呪いだと思ったかもしれません。

このシベリア出兵の際には、三笠が関係した、また別の悲劇が起こっています。1920年におこった「尼港事件」の際に、三笠は砕氷艦見島とともに、旧ロシア領の「ニコラエフスク」に向かいます。通称「尼港」に取り残された日本人の救出ルートを探るべく、ロシア沿岸にまで達したのですが、堅氷に阻まれ入港できず、結局任務を遂行できず、そのまま引き返してきています。

尼港事件

尼港事件(にこうじけん)というのは、ロシア革命後、レーニン率いるボリシェヴィキ政権が実権を握ったのち、ソビエト連邦共和国内部で起こった内乱です。

ロシア革命では、レーニンたちの革命は成功したものの、政権交代の際にはロシア内部でかなりの混乱が生じており、その混乱に乗じてロシア領土を略奪しようと進撃してきた国がありました。ドイツです。

レーニンたちの新政権は、かつての領土を守ろうと、ドイツと戦闘状態に入りますが、革命直後のことでもあり、思うように兵を動かせず、敵を撃退できません。

一刻も早く安定した基盤を打ち立てたいボリシェヴィキ政権としては、ドイツと長期に渡って争うことはできるだけ避けたく、ドイツとの争乱を回避し、講和に持ち込みたいと考えていました。そして、なんとか講和条約の締結にこぎつけたものの、その条件として、現在のバルト三国、ベラルーシ、ウクライナにあたる広大な地域をドイツに割譲することを余儀なくされます。

これに怒った国民の不平分子が、反ボリシェヴィキ運動をロシア国内のあちこちで起こしますが、そのうち、ロシア東部の極東で起こった内乱はその最大規模のものでした。長年ロシアや日本に蹂躙されてきた中国人や朝鮮人も数多く加わり、ロシア人のパルチザンと合流し、その人数が大きく膨れ上がったのです。これが、1920年(大正9年)の3月から5月にかけて、アムール川の河口にあるニコラエフスク(尼港)で発生した「尼港事件」です。

この内乱では、港が冬期に氷結して交通が遮断され孤立した状況のニコラエフスクを、4000人を超える赤軍パルチザン部隊が占領し、ニコラエフスク住民に対する略奪を行った末に老若男女の別なく数千人を虐殺しました。虐殺され人たちの中には、日本人居留民、日本領事一家、駐留日本軍守備隊も含まれており、日本人犠牲者の総数は判明しているだけで700名以上にのぼり、一般住民はほぼ皆殺し状態だったといいます。

ニコラエフスクは、黒龍江(アムール川)の河口部上流(河口から80km)に位置する町で
日露戦争後、日本の入植地のようになっていました。漁業を中心とした商社なども数多く設立され、ここに一般市民500人が居住しており、領事館も置かれていました。そして入植した日本人や領事館を守るべく、300人ほどの陸軍の守備隊も駐留していました。

守備隊は、けん制のためにパルチザンの一部を攻撃しましたが、ニコラエフスク市内を占領したパルチザンは数の上ではるかに守備隊を上回っていたため、町の郊外の高台に日本軍が築いていた要塞を奪取し、市内に砲撃を始めました。日本人居留地内に押し入ろうとするパルチザンと日本軍守備隊との間では、いったん話し合いも持たれましたが、やがて決裂。

そして、居留地になだれ込んだパルチザンと隊長の石川少佐率いる守備隊とは、激しい戦闘状態に入ります。しかし、多勢に無勢で守備隊長以下のほとんどが戦死。生き残った守備隊員80人ほどと一般市民合わせても100人あまりしか助からなかったといいます。

三笠と砕氷艦見島の任務は、この日本人を救出する方法を探るため、あるいは援軍を送るルートを探るために沿岸まで近づき、視察を行うことでしたが、厚い氷に阻まれてニコラエフスクまで辿りつくことすらできず、結局海からの支援は無理、と判断してそのまま引き返しています。

その後ニコラエフスクは、国内からも派遣された日本軍とボリシェヴィキ政権下のソ連軍の共同によって解放されます。このとき、小樽から派遣された日本軍が樺太のアレクサンドロフスクに上陸するときも三笠は出動しており、海防艦「三島」とともに上陸部隊を援護しています。

再びの沈没…… そして退役

このように、日本海海戦後もシベリア出兵や尼港事件など、ことあるごとに出動し、日本とロシア沿岸の海防艦として20年あまりの間、国防を担ってきた三笠ですが、ついに大正10年(1921)11月12日、ワシントン海軍軍縮会議において、廃棄艦リストに載ることになり、退役が決まります。

ワシントン海軍軍縮会議とは、第一次世界大戦の後も軍艦の建造競争がおこなわれつづけた結果、各国ともその維持費用が莫大なものになり、国家予算を圧迫するようになったため、アメリカ合衆国大統領のハーディングが各国によびかけて開催された国際会議です。日本を含む戦勝5ヶ国の首脳が集まり、軍艦などの削減量が話し合われました。

この会議の結果、建造中の艦船を全て廃艦とした上で、英、米、日、仏、伊の戦艦・航空母艦(空母)等の保有艦の総排水量比率をそれぞれ、5:5:3:1.75:1.75にすることが決まりました。これにより、多くの前弩級戦艦と弩級戦艦が武装解除されることになり、大部分はスクラップとして解体され、他は標的として破壊されるか、訓練あるいは支援艦の任務を与えられました。戦艦三笠も例外ではなく、このときの軍縮の対象となっています。

帝国海軍からの正式な除籍が行われたのは、これよりさらに二年後のことですが、その除籍の直前になって、さらに三笠をアクシデントが見舞います。

1923年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災は、10万人以上の死者・行方不明者を出した未曾有の大災害でした。あまりよく知られていないのですが、このとき、東京沿岸を中心とした各県では、大きな津波が発生しています。静岡県熱海市で6m、千葉県相浜 9.3m、洲崎8mの津波が発生していて、神奈川県の三浦半島にある横須賀でも6mの津波が襲ったと思われます。ちなみに、鎌倉市由比ケ浜で300人余が行方不明になったそうです。

このとき、横須賀で係留中だった三笠はこの津波によって岸壁に衝突して擱座しています。先のウラジオストク沖で座礁して破損した部位から大浸水を起こし、そのまま着底してしまったのです。これでもう三度目の着底になりますから、さすがに海軍省もあいそがつきたのでしょう。浸水からわずか19日後の9月20日に正式に退役を決定。三笠はついに帝国海軍から除籍され、引退することが決まりました。

記念艦三笠

ワシントン海軍軍縮条約では、廃艦された船は解体されるとりきめになっていました。このため、三笠も海底に尻餅をついたまま、解体され、廃棄処分にされる予定でした。

ところが、日露戦争の立役者であり、国民から熱狂的に愛されていた三笠を解体処理することに国民は納得しませんでした。新聞各社も社説にその保存を訴えたことなどから、全国的な保存運動がおき、ようやく政府もその声に耳を傾けるようになります。

そして、ワシントン海軍軍縮条約の参加国に打診し、ワシントン条約の特別な例外として三笠の保存を認めてもらいます。ただし、条約に基づき現役に復帰できない状態にすることが条件で、三笠は博物館船として残すことになりました。

1925年(大正14年)1月に「記念艦」として横須賀に保存することを正式に閣議決定。同年6月18日に保存のための工事が開始され、11月10日に工事は完了しました。この工事の間、8月29日には、財団法人「三笠保存会」が設立されています。そして、舳先を皇居に向けたのちに船体の外周部に大量の砂が投入されるとともに、下甲板にコンクリートが注入された、現在の姿の三笠が誕生するのです。

この日以降、三笠は海に浮かんでいる船ではなく、海底に固定された建造物となり、潮の満ち引きによっても甲板の高さは変わらない状態となりました。11月12日には保存のための「三笠保存記念式」が行われ、この日から「記念艦三笠」と呼ばれるようになります。呼称摂政宮殿下もご臨席になり、その新たな門出が盛大に祝われたといいます。

その後、第二次世界大戦が勃発しますが、「記念艦三笠」は取り壊されて「金属供出」されるようなこともなく、そのまま終戦を迎えます。横須賀では大規模な空襲もありましたが、米軍もさすがに固定してある旧式の軍艦を爆撃するようなバカではなかったようです。

しかし、第二次世界大戦の敗戦後、三笠を新たな不運が襲います。1948年に行われた「極東委員会」でソ連のテレビヤンコ中将が日本海海戦の意趣返しとして戦艦「三笠」の解体・廃棄を主張したのです。こういう事実を知ると、アメリカとの戦争末期になってから突然参戦し、多くの日本人をシベリアに抑留しただけでなく、樺太や北方領土まで横取りしたロシア人の底意地の悪さのようなものを感じます。

もっとも、ロシア側からみれば、日露戦争で負けた悔しさから出た行為なのでしょうが、この辺が同じ先進諸国といっても、ヨーロッパの他の諸国とは少し程度の低い野蛮人という印象をどうしても持ってしまうのです。

ニミッツ提督

しかし、このソ連からの横槍は、極東委員会に出席していたアメリカ陸軍のチャールズ・ウィロビー少将が、「日本の記念物を破壊して日本人の反感を買うのは避けるべきだ」と反論してくれたため阻止することができました。

しかし、そのころの三笠の保存状態というのは最悪でした。戦後の物資不足より、主砲を含む兵装や上部構造物はおろか、取り外せそうな金属類は機関部に至るまで、ガス切断されて全て盗まれ、チーク材の甲板までも薪や建材にするために剥がされているという荒廃ぶりだったといいます。

これを見かね、三笠の保存のために立ち上がってくれたもう一人のアメリカ人がいました。ウィロビー少将と同じくアメリカ軍人で、海軍提督だった、チェスター・ニミッツです。

ニミッツ提督は、東郷平八郎がまだ生きているころに会ったことがあるといいます。かつて、日本が日本海海戦で大勝利を飾り、1905年(明治38年)5月に戦勝祝賀会を東京で行ったとき、横須賀に停泊していた「オハイオ」にも招待状が届けられ、ニミッツは他の候補生5名とともにこの祝賀会に参加したというのです。

その席でニミッツは、東郷平八郎大将を自分達のテーブルに招いて会話したそうで、気さくで流暢に英国英語を喋る東郷に感銘を受けた、とのちに自伝で記しているそうです。

そのニミッツが、第二次世界大戦後に日本に赴任してきたとき、「三笠」が荒れ果ててダンスホールに使われているという噂を耳にします。そして早速部下を派遣し、調査させるとこれが事実であることを知って激怒。海兵隊を歩哨に立たせて荒廃が進む事を阻止したといいます。

そして、さらに後年、1958年(昭和33年)の「文藝春秋」の昭和33年2月号において「三笠と私」という題の一文を寄せ、「この一文が原稿料に価するならば、その全額を東郷元帥記念保存基金に私の名で寄付させてほしい」と訴えたといいます。

この一文は荒廃していた「三笠」を日本人の手で保存しようという機運上昇のきっかけになりました。ニミッツは、保存費用として個人的に当時の金額で二万円を寄付したそうで、このほかにもアメリカ海軍を動かして、揚陸艦の廃艦一隻を日本に寄付させ、そのスクラップの廃材代約三千万円を三笠の保存事業にあてさせます。「三笠」の復興工事費は約一億八千万円もかかったそうですから、この費用はその保存のための大きな助けとなりました。

復活

こうしたニミッツ提督の尽力もあって、復元のための費用を集めることができ、三笠は元の姿に戻すべく、復元工事が始められました。復元にあたり、アメリカ軍が撤去した記録が残っているものは、ほぼすべてが完全な形で返還されたそうです。

一般人に持ち出されて行方が不明になったものも多数ありましたが、1958年(昭和33年)にチリ海軍の戦艦「アルミランテ・ラトーレ」が除籍され、翌年日本において解体されたとき、これが同じイギリスで建造された艦であったため、チリ政府より部品の寄贈を受けるという幸運もあったそうです。

1961年(昭和36年)に三笠の復元が完了し、完成記念式典が開かれたとき、ニミッツはまだ存命でしたが、76才と高齢だったために来日は見送られました。5月27日に無事、完成開艦式が行われ、その際にはアメリカ海軍の代表として、トーリー少将が出席しました。そして、「東郷元帥の大いなる崇敬者にして、弟子であるニミッツ」と書かれたニミッツの肖像写真を持参。三笠公園の一角に月桂樹をニミッツの名前で植樹したそうです。

先日三笠を訪れたとき、私はまだこの事実を知りませんでしたが、こういう恩人がいたのを知っていたなら、その月桂樹に手を合わせていたことでしょう。今度行ったらぜひそうしたいと思います。

現在の三笠の砲塔、煙突、マストなどは、この復元工事の際に作成されたレプリカだそうです。下甲板以下は、ワシントン軍縮条約に基づきコンクリートや土砂で埋められているため、艦内で見学できるのは上甲板と中甲板だけです。

しかし、甲板の一部に現役軍艦当時のままのチーク材も残っていて、東郷平八郎司令長官以下、秋山真之参謀などが日本海海戦当時に立っていた艦橋に立つと、そこから見える三笠前部の主砲塔は確かに皇居の方向に向かっており、そこから、今にも砲弾が飛び出していきそうな感覚にさえとらわれます。

この記念艦の管理は三笠保存会に委託されていますが、三笠は現在も防衛省所管の国有財産なのだそうです。艦内には、日本海海戦関連の展示のほか、その当時の海軍の制服、装備なども展示されていて、「軍事オタク」にはたまらない博物館となっています。しかし、軍事オタクでなくても、日本がロシアと戦った「重み」知ることのできる貴重な史料がたくさんあり、見る人を惹きつけます。休日には多くの人々でにぎわう「三笠」ですが、平日にも地元の人々が絶えることなく訪れているといいます

エピローグ

ところで、日本海海戦で三笠に乗り組んでいた兵員のうち、最後のひとりは、京都の人で、1982年(昭和57年)に98歳で他界されたそうです。日本海海戦の従軍者で最後の生き残りとされた人は装甲巡洋艦、「浅間」の乗組員だったそうですが、この方も同じ年に亡くなっているとのこと。

チェスター・ニミッツ元帥は、1965年に脳梗塞をおこし、翌1966年2月20日に肺炎を併発して死去。三笠の復元記念式典が行われた5年後のことでした。遺言で「人生で成し遂げた業績として、元帥の五つ星だけを入れる」と言ったそうで、この五つ星の勲章以外には墓には何も入れられず、他の埋葬者と同一の規格の墓石の下に埋葬されたそうです。

また、東郷平八郎元帥は、昭和9年(1934年)5月30日)に膀胱がんで死去。6月5日に国葬が執り行われました。国葬の際には参列のために各国海軍の儀礼艦が訪日し、イギリス海軍は重巡洋艦「サフォーク」を参列させ、日本艦隊と共に横浜港で半旗を掲げ、弔砲を発射したといいます。

ちなみに、この東郷平八郎元帥の曾孫さんが、私の住むこの別荘地にお住まいだそうです。まだお目にかかったことはありませんが、もしお目にかかることができたら、おじい様がこの国の繁栄のためにご尽力くださったお礼を、みなさんを代表して申し上げたいと思います。

三笠と伊豆。妙なところでつながっていました。

三笠と日本海海戦

昨日も夜遅くまで女子サッカーをみていて、寝不足です。それにしても連日連夜、銀メダルと銅メダルラッシュが続きます。ここまで銀と銅が増えるのなら、いっそのこともう金メダルはあきらめて、銀と銅の数だけで世界一になる、というのもいいかも。しかし、残りの競技で金メダルをめざして一生懸命頑張っている選手にそんなことは言えませんね。引き続き、こちらも頑張って応援しましょう。

ドレッドノート

さて、昨日の続きです。

イギリスに発注して作られた戦艦三笠ですが、日本はこの戦艦の造船方法をイギリスに人を派遣してまで徹底的に研究したとみえ、日露戦争が終結した1905年(明治38年)から、初めて自国で戦艦を作り始めています。戦後の1910年(明治42年)に完成した、「薩摩(さつま)」という戦艦です。

薩摩は常備排水量19,372トンもあり、建造当時は世界最大の排水量を誇ったといいます。明治維新後、わずか40年でそういった戦艦まで作れるようになった日本人というのは、世界からみてもすごい!と映ったでしょうし、私自身、日本人であることを誇りに思います。

事実、それまでまったく歴史に登場してこなかった東洋の有色人種が戦艦を建造できたこと自体が、西欧諸国にとっては驚異的であったようで、薩摩が無事進水できるかどうかで、当時の日本在住の外国人の間で賭けが行われていたという逸話が残っているぐらいです。

しかし、この国産艦、薩摩は、イギリス製の戦艦に比べるとその能力はかなり劣っていたようです。主砲からの弾丸の発射速度が低いという問題があり、三笠をはじめとする敷島型戦艦と比べると、やはり見劣りがするものでした。

しかも、1906年(明治39年)イギリスで「ドレッドノート」という最新鋭艦が竣工したため、薩摩は、進水する前に旧式艦となってしまいました。薩摩だけでなく、同じ年に就役させた巡洋戦艦「筑波」や翌年(明治40年)就役の巡洋戦艦「鞍馬」も旧式装甲巡洋艦の烙印を押され、日本海軍は大ショックを受けます。

このころ、イギリスでは、日露戦争での黄海海戦や日本海海戦の結果を分析し、戦艦の主砲による遠距離の砲撃力が海戦の雌雄を決する重要な要素であると考えるようになっていました。このため、主砲の力を大幅に強化し、かつ「全主砲の砲撃力を平準化する」ことが、これからの戦艦のあり方である、と考えるようになり、この思想に基づいた画期的な建艦計画を建てはじめます。

そして、この思想に基づいて設計された戦艦が「ドレッドノート」です。この船は、それまで、ちまちまと搭載されていた中間砲や副砲を撤廃し、単一口径にもかかわらず高速で連続して砲弾を発射できる主砲を5基も搭載することによって、当時の戦艦の概念を一変させた革新的な艦でした。

余分な大砲を整理し、これによって空いたスペースにさらに主砲にも勝るとも劣らない火力のある大砲を搭載し、これにより舷側でも、最大4基8門の高性能の大砲が使用可能となりました。このため、一見1隻にみえるようで、「従来艦2隻分」以上の戦闘能力を持つようになったといわれています。

しかも、従来の戦艦の速力がレシプロ機関で18ノット程度であったのに対し、蒸気タービン機関の採用により一躍21ノットの高速で走ることができ、旧式の機関で動いていた前時代の戦艦に比べ、より高い機動力を得ることに成功しました。

ドレッドノートの出現により、それ以前に建造された戦艦だけでなくイギリスを含めた建造中の戦艦までもが一挙に時代遅れとなり、これ以後各国で建造される戦艦はドレッドノートに準じた「弩級戦艦」を目指すようになり、列強各国は前弩級戦艦から新時代の戦艦づくりへの転換を迫られる事になりました。

金剛と比叡

薩摩などを自前の設計で建造していた日本も、あわててその大砲の改良を図ったりしていますが、なかなかイギリスのような優れた大砲や動力機関の開発が進みません。結局、その頃の海軍大臣、斎藤実は英国の技術導入もかねることにし、ヴィッカース社に、装甲巡洋艦を発注し、その技術を「盗む」ことにします。この技術の盗用は成功し、その後日本は独自の造船技術の確立に成功します。

こうしてイギリスの技術をわが物にした日本はその後、イギリスには造船を依頼しておらず、これがイギリスに発注して建造させた最後の艦艇となります。

その装甲巡洋艦、「金剛」と「比叡」の二隻はイギリスの弩級戦艦「エリン」を基礎に巡洋戦艦として設計されたもので、金剛のほうが先に建造に着手されました。1912年(大正元年)11日21日に進水し、大正天皇臨席のもと「卯号巡洋戦艦」としてお披露目されます。

金剛は、その後、第二次世界大戦までの間に何度も改装され、巡洋艦から戦艦相当にクラスがひきあげられます。改装後は、日本戦艦では唯一30ノットを超える高速性能を持ったといいます。空母機動部隊の随伴艦として最適であったため、同型艦である比叡、榛名、霧島よりも古い船であったにもかかわらず、最も活躍しました。

しかし、1944年の11月12日、米海軍潜水艦「シーライオン」の魚雷攻撃を受け、2本の魚雷が命中。被雷してから沈没まで2時間があったにもかかわらず、損害の軽視、総員退艦の判断の遅れなどにより、艦長以下1300名と共に海に沈むことになりました。ちなみに、「金剛」は、唯一潜水艦の雷撃により撃沈された日本戦艦だそうです。

また、比叡のほうも、1936年に大改装され、戦艦として太平洋戦争に投入されますが、第三次ソロモン海戦で艦艇と航空機の両方から激しい攻撃を受け、火だるまになります。そしてついに走行不能になったため、総員退去命令が発令され、キングストン弁(船底に設けられた取水用の弁)を開いて自沈。戦闘で亡くなっていた戦闘員の遺体180名あまりとともに海に消えました。

ちなみに、金剛と比叡の同型艦の「榛名」と「霧島」は、榛名が、神戸川崎造船所(のちの川崎重工業)で、霧島が、三菱合資会社三菱造船所(現・三菱重工長崎造船所)にその製造が発注されました。

それまで海外発注か海軍工廠でしか建造されることのなかった、いわゆる主力艦として初めて民間造船所に建造が発注されたわけで、工程の進捗状況がほぼ同時であったことから、両社は激しい競争意識をもって建造に当たったといいます。その建造過程で学んだイギリスの造船技術は日本流にアレンジされ、その後建造される大和や武蔵といった国産の巨大戦艦を作る基礎となり、戦後も受け継がれ、その後の造船大国日本を作る礎になりました。

こうして国産初の弩級戦艦として建造された榛名は、終戦間際まで生き延び、呉の海軍工廠で修理を行っていましたが、本州まで空爆にやってきていた米軍機による攻撃を受け、着底。その後、戦列に加わることもなく終戦を迎え、終戦後、1946年に解体されています。一方の霧島は、先の比叡と同じく第三次ソロモン海戦で戦闘不能の状態になり、自沈しています。

開戦前夜

こうして、イギリスで建造され、あるいは、イギリスから導入された技術で作られた輸入戦艦およびイギリスの建造技術が色濃く残る日英ハーフの戦艦群は、第二次世界大戦で沈没するか、戦後の武装解除で解体され、すべて失われたかに思われました。

しかし、戦後、現代に至るまで、唯一生き残ったイギリス製戦艦がありました。それが三笠です。

三笠がその建造をイギリスに頼んだのは、その当時まだ発展途上だった日本の造船技術をイギリスをお手本にすることで向上させることが目的でもありました。発注を受けたヴィッカース社としても、新たに開発した技術を海外からの受注艦に実装して試すことができるというメリットがあったといいます。その技術は、その後の弩級戦艦に比べればまだまだ幼稚なものでしたが、この当時としては最新鋭のものでした。

「三笠」は122メートルの船体の前後に旋回式の連装砲塔を各1基備え、舷側にずらりと副砲を並べています。このスタイルは、当時の軍艦としてはスタンダードなものですが、艦橋や居住部、火砲の配置に無理がなく、古いフランス式建造技術を導入したロシア戦艦と比較して先進的でした。均整が取れたその容姿はイギリス国民からも絶賛され、いまもなお横須賀でみることができるその雄姿を実際に目にしたとき、私もきれいな船だな、と感心したのを覚えています。

艤装を終えた後、三笠は1902年3月1日にサウサンプトンでイギリスから日本海軍に引き渡され、翌2日、イギリスの新造戦艦「クイーン(Qeen)」の進水式に参列するため、イギリス海軍の軍港であるプリマスに向かいます。このときの初代艦長、早崎源吾は、海軍大臣、山本権兵衛に対して参列式の模様を報告しており、この中でイギリス側から非常なる歓待を受けたと記しており、これはその直前に締結された日英同盟のおかげである、と書いています。この当時の日英の蜜月ぶりを思わせるエピソードです。

黄海海戦

こうして日本海軍の船として初めての任務を終えた三笠は、数日後にプリマスを発ち、約2ヶ月後に横須賀に到着。そこで、さまざまな整備を施されたあと、所属港である舞鶴に廻航され、他の軍艦とともに、来る日露開戦に備えて猛烈な訓練をはじめます。そして1903年には連合艦隊の旗艦となることが決定。連合艦隊司令長官として東郷平八郎が座乗する船になります。東郷が就任したのは、日露開戦が間近となった1903年12月のこと。

その初戦は、翌年の1904年の日露開戦後の8月、ロシアの旅順艦隊と対決した黄海海戦でした。ここで、他の新鋭艦とともに初めて本格的な戦闘に参加しますが、この海戦では思うような戦果があげられず、ロシアの旅順艦隊の多くを港の奥深くに逃げ込ませてしまうという失態を演じてしまいます。

しかも、三笠はロシア側からの砲撃の洗礼を受け、被弾は二十余カ所に達しました。この結果、後部砲塔が破壊され、メインマストも倒れそうになるほどの損傷を受け、戦死33名、負傷92名の被害を蒙るなど、散々なありさまでした。呉におけるその修理にはおよそ二か月も要し、再び戦列に加わったのはその年の暮れ12月のこと。

しかし、黄海海戦における教訓をもとに、再び日本海で他艦とともに激しい訓練を積み重ねた結果、1905年5月27日、ヨーロッパからはるばる日本海までやってきた、ロシア帝国海軍のバルチック艦隊(バルト海艦隊)との海戦において、ロシア艦隊を撃破。三笠は世界海戦史に残る大勝利の主役となります。

遭遇

この日本海海戦については、長くなりそうなので、そこそこにしておきますが、日本海軍は戦艦4隻、装甲巡洋艦8隻を主力とする艦隊を率い、ロシアのバルチック艦隊の、戦艦8隻、海防戦艦3隻、装甲巡洋艦3隻を主力とする艦隊を迎え撃ちました。

日本海の対馬沖で、両者が遭遇したとき、ロシア艦隊が反航戦(お互いが反対方向に行き違いながら砲弾を打ち合う)を望んでいたのに対し、日本艦隊は同航戦を望んでいました。ロシア艦隊が戦闘後、旅順港に逃げ込む前に、たとえ共倒れになったとしても相手を殲滅してしまいたかったためです。

このため、日本側はロシア艦隊と遭遇後、敵の面前で180度の逐次回頭を行います。縦列で航行していた日本の各戦艦が海上のある一点で、方向を変え、ロシアが進むのと同じ向きに方向転換したのです。

これにより、縦列状態の一番頭に位置していた旗艦三笠が方向転換するときには、ロシア側からの砲弾が集中し、かなりの被害が出ました。日本海海戦全行程で三笠が受けた被弾数三十余個はほとんどがこの時に受けたものです。ほかに、戦死者8名、負傷105名という人員的被害も受けました。

日本側が回頭して同航戦に持ち込んだため、両者の戦列は、「イ」の字に近い形となりました。のちの世に、この回頭は「T字戦法」とよく言われますが、実際の形はいびつなTの字でした。

いずれにせよ、日本側が、ロシア艦隊の頭を抑える形になり、ロシア側には大きな艦隊の乱れが生じました。縦列の頭を押さえられたまま、同航戦に持ち込まれたロシア艦隊は、練度の高い日本兵が発射する砲弾の雨に襲われ、徐々にその能力を奪われていきます。

反撃するロシアの艦艇に対し、日本艦艇からはそれを上回る命中精度の集中砲火が浴びせかけられ、次々と相手をボコボコにしていきます。戦前の予想に反して、30分程度で主力艦同士の砲戦は決着がついたといい、その結果としてのロシア側の被害は甚大なるものでした。

下瀬火薬

このあたりのお話は、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」に詳しく描写されています。司馬さんによれば、日本軍が勝利したのは、このとき日本軍がとった「敵前回頭」という離れ業や兵員の質の高さもさることながら、この当時日本が開発した砲弾に使う火薬、「下瀬火薬」の威力によるところも大きかったといいます。

余談ですが、この下瀬火薬を発明した「下瀬雅允(しもせまさちか)」という人は、私の高校の先輩にあたります。1859年(安政6年)に広島藩士の鉄砲役の長男として生まれ、1884年(明治17年)に私の母校の前身である、広島英語学校(のちの広島一中、現・広島県立広島国泰寺高等学校)を経て、工科大学応用化学科(東大工学部の前身)を卒業。

内閣印刷局に勤め、10代で印刷に関する数々の発明をするなどの天才ぶりを発揮しますが、18歳で海軍に転向。海軍では、イギリス北部のニューカッスル・アポン・タインという町にある、軍事企業、アームストロング・ホイットワース社に留学を命ぜられ、そこで兵器造成技術を学んだといいます。帰国後は、海軍技手となり赤羽火薬製造所で火薬研究に専念。

28才のとき、爆発事故で左手を火傷し、手指屈伸の自由を失うという大けがをしますが、屈せず、1893年(明治26年)、34才のときについに下瀬火薬を完成。その功もあって、その年に技師に昇格。さらに、1899年 (明治32年)には、工学博士の学位を受け、若干40歳で帝国学士院賞を授与されました。

ちなみに、このアームストロング・ホイットワース社は、三笠を製造したヴィッカース社と並んで、高い造船技術を持っており、日本海軍も、筑紫、浪速、高千穂、吉野、高砂、浅間、常磐、出雲、磐手などの巡洋艦8隻と、八島、初瀬、鹿島の3隻の戦艦の製造をこの会社に依頼しています。

日本海海戦で活躍した日本艦艇の9割近くがこうしたイギリスの会社で製造されたことを思うと、この海戦の勝利はイギリス技術によって支えられていたといっても過言ではありません。

しかし、下瀬雅允が発明した下瀬火薬は、純国産技術といってもよいもので、その破壊力は世界を驚かせたといいます。ピクリン酸という薬品を主原料としており、この薬品は金属に触れると激しく反応して大量の熱を発します。

これを用いた砲弾の威力はすさまじく、ひとたび艦艇に命中すれば爆風と熱によって、艦上の構造物を破壊しつくしたといいます。日本海海戦に先立つ黄海海戦でその威力を目の当たりにした、ロシア水兵は口々に「日本の砲弾はすごい」といい、「あれは砲弾ではない。空飛ぶ魚雷だ」と言ったそうです。

ロシア水兵の間では、「旅行鞄」というあだ名がつけられていたそうで、文字通り、カバンのような形(にみえたらしい)でばたばたと回りながら飛んできたそうです。

それが、ロシア艦隊の艦艇を飛び越えて海中に落ちたとき、通常の砲弾なら大きな水煙をあげるだけですが、日本の砲弾は海面にたたきつけられると同時に海面で大爆発し、このため船には命中しなくても弾体が無数の破片になって艦上を襲ったといいます。そして、その熱風は、艦上物の火災をも誘発し、多くの船が大火炎に包まれたそうです。

凱旋

この日本製の新型砲弾と高い命中率によって、ロシア艦艇は、そのほとんどが艦上を著しく破壊されます。そして、司令長官のロジェスト・ヴェンスキー中将が自らも負傷したことなどもあり、やがて統制を失い、舵をやられる船も続出したことから、戦列はまったく乱されてしまい、各艦が単独で航行するようになります。

しかも、その多くは日本海軍の砲撃に遭って水面から上の構造体が、それがかつては戦闘艦だったとは思えないほどぐちゃぐちゃになり、火災をおこし、あるものは積載していた爆弾の誘爆を引き起こして大爆発を起こし、次々と沈没していきました。

日本艦隊は主力艦の喪失ゼロだったのに対して、ロシア艦隊は最終的に沈没21隻、拿捕6隻、中立国抑留6隻と壊滅的な打撃を受け、ウラジオストク軍港にたどり着いた軍艦はわずか巡洋艦1隻、駆逐艦2隻に過ぎなかったといいます。ほぼ完勝だったといえるでしょう。

こうして、日本に凱旋した三笠が、横須賀で修復を終え、横浜沖の東京湾凱旋観艦式(日露戦争凱旋観艦式)に望んだのは、1905年(明治38年)10月23日のこと。このとき参加した軍艦は38隻にのぼり、ほかに仮装巡洋艦12隻、駆逐艦28隻、水雷艇77隻、潜水艇5隻、計165隻(32万4,159トン)という大規模なものでした。各艦とも軍艦旗で彩られ、さぞかし壮観なながめだったことでしょう。

今日はその後の三笠の運命について書くつもりでしたが、途中かなり寄り道をしてしまったので、ここでやめようと思います。続きはまた明日、ということでご了承ください。

三笠とイギリス

昨日のフェンシングは、すごかったですねー。思わず興奮してしまいました。今オリンピックで一番エキサイトしたかも。ただ、残念ながら、またしても金メダルを逸してしまいましたね。金メダルを取ることがすべてではない、とはいうのですが、今大会、あとひとつが出ない、というのは何かあるのでしょうか。ま、後半での金メダル奪取の予兆というふうに考え、今日も応援しようと思います。

ところで、なんとなくフェンシングの試合をみていましたが、ルールが良くわかっていないまま見ていたので、なんか不消化の部分が残りました。とくに、「攻撃権」って何だ?と基本的なこともわからず、見ていたのは恥ずかしい限り。

で、ご存知のない方も多いかもしれないので、一応調べてみました。すると、「攻撃権」というのは、フェンシングにおいては、原則的には、「先に攻撃をしかけたほうが、試合運びをする上での優先権がある」という原則があるとのこと。

???どういうこと? とさらに知らべたところ、単純にいうと、もし攻撃された場合には、反撃はしてはいけない、ということみたい。自分自身が突かれる可能性がある場合には相手を攻撃せずに、まず自分を守ることを優先しなければならない、というのがフェンシングの基本なのだそうです。

たとえば、一方の選手が攻撃を行い、もう一方の選手がすぐに反撃して、相撃ちのように見えたとしても、最初に攻撃をしかけたほうの選手の攻撃のほうが有効になり、反撃した選手は間違いを犯したと判定されるんだそうです。反撃した選手のほうは、防御に徹しなければならないのに、それをしなかったから負け、というわけ。

それでわかったのですが、昨日の試合でも、審判がビデオをみて判定を再度判断する、という場面が何度もありましたが、動きの速いフェンシングの場合、早すぎてどっちの切っ先が先に出たかなどが、目で見ただけでは判断できない場合があるからなんですね。

ただ、どんなにビデオをみたところで、どうみても、同時に突きが決まったように見える場合もあり、こうした場合でも、主審はどちらの側に攻撃権があってどちらの得点になるのかを決定しなければならないんだそうです。もしそれができない場合は両者の突きは無効と宣言され、試合が再開されるのだそうで、そういえば、無効、と判断されたケースが何回もありましたね。

これで、疑問が解けてすっきり。今日の話題には入っていけます。

先週から、オリンピック特集ということで、このブログの話題もイギリスに関連したことを書いてきました。今週もそれでいこうと思います。

日英同盟

さて、横須賀にある、「三笠記念館」というのをご存知でしょうか。正確には、記念艦「三笠」というのだそうで、文字通り、そのむかし、日露戦争の時代に活躍した戦艦「三笠」の内外を改装し、博物館として整備したものです。

なんで突然、三笠なの?ということですが、実はこの三笠、明治の日本海軍が、宿敵、ロシア帝国のバルチック艦隊に対抗するため、イギリスに発注して作られた戦艦なのです。おそらく、昨年NHKで放送された、「坂の上の雲」をご覧になった方はご存知だと思いますが、ご覧にならなかった方もいると思いますので、一応、時代の背景から解説をしておきましょう。

明治の半ば以降、日本にとって、隣国であるロシア帝国は、自国の存続を脅かす最大の脅威でした。日清戦争に勝利し、中国大陸へ進出していくことで、国力を維持していこうとしていた日本に対し、ロシア帝国側はこれを阻止し、中国における影響力を維持するため、あらゆる外交政策を打ってきました。

万一戦争になった場合にとくに軍事的に重要なる旅順や、大連の租借権を中国からもらい、また、満州鉄道の利権も手にするなど、次から次へと日本を出しぬき、日本を焦らせます。
日本も手をこまねいてこれを見ていたわけではなく、ヨーロッパの世論などを味方につけようと、日本なりの外交政策を続けていましたが、それには限界があり、徐々にロシアとの開戦の機運が高まっていきます。

当時のロシア帝国は対ドイツ政策としてフランス共和国と露仏同盟を結んでいましたが、もし、日露開戦となると、日本はロシアだけでなく、フランスも敵として戦わなければなりません。このためには、フランスをけん制する上で、日本もヨーロッパのどこかの国と同盟を結んだほうがよい、ということになり、その候補としてあげられたのがイギリスでした。

フランスとも、もしロシアと戦争になった場合には手をださないように、みたいなお願い外交もやったようですが、結局無為に終わり、他にもアメリカとかいろんな候補があった中でも、フランスと仲の悪い、イギリスを日本は選びます。

こうして結ばれた日英同盟は、もし日本がどこかの国と戦争する場合、1対1の戦争の場合は中立を、1対複数の場合には参戦を義務づけるというもので、もし、ロシアとフランスがタッグを組む場合は、イギリスさん、お願いね、という形のもの。これにより、フランスは対日戦に踏み込むことができなくなったばかりか、イギリスと本気で戦争するのはいやなので、あからさまにロシアへの協力することもできなくなりました

こうして、もし戦争になるならば、日本とロシアの一騎打ち、というお膳立てができたわけです。日本にとって日英同盟は、フランス参戦の回避のための盾だっただけでなく、資金調達の上でも大きなメリットがありました。戦争をするためのお金をイギリスが用立ててくれただけでなく、他のヨーロッパ諸国から借りる際の保証人にもなってくれたからです。

また、当時、世界の重要な主要港はイギリスの植民地になっており、もし、ロシア帝国の持つ世界最大の艦隊、バルチック艦隊が黒海から極東へ回航する際には、こうした港に入ることを拒否してもらうことができました。

さらに、スエズ運河の所有権はイギリスにあり、バルチック艦隊は、アフリカの南端の希望岬を通って遠回りで極東へ向かわなければなりません。実際、日本海海戦の際、アフリカ南端を回って日本に来るハメになったバルチック艦隊は、長旅のため、船底に大量の牡蠣殻がつき、日本に達したときには、全艦艇が思うようにスピードが出せない状態にありました。

また、途中途中の寄港地では、イギリスから停泊を拒否され、船の動力に使う石炭もなかなか入手できず、粗悪な石炭を積んで日本海海戦に望んだといいます。

前弩級戦艦

さて、イギリスの日本援助はこうした資金援助や、ロシアへの嫌がらせだけではありませんでした。ロシアと戦争する上で、日本がイギリスから得ることができた恩恵の最大のもの、それは武器でした。その当時、イギリスの軍隊の装備は、ライバル国フランスをしのいでおり、とくに、伝統の海軍を持つイギリスが作った艦船は世界一の機能を持っていると言われていました。

そして、日本は、対ロシア戦に備え、イギリスからお金を借りながら、次々と最新鋭艦をイギリスに発注するようになります。そして、その最大のお買いものが、「敷島型」と呼ばれる戦艦群でした。「前弩級(ぜんどきゅう)戦艦」とよばれ、「ロイヤル・サブリン級戦艦」の次にイギリスが開発していたその当時の最新鋭艦でした。

ロイヤル・サブリン級戦艦は、近代戦艦の始祖と呼ばれ、この開発により、次世代の前弩級戦艦の基本設計が確立されるとともに、その後、明治、大正、昭和に至るまでに作られたあらゆる戦艦の基本形ともいわれるくらいの、「元祖戦艦」です。

三笠よりも前に、イギリスに発注され、すでに日本に引き渡されていた、ロイヤル・サブリン級戦艦は、日本では「富士型戦艦」と呼ばれ、「八島」と「富士」の二隻がありました。八島のほうは、日本海海戦の前に、機雷に触れて沈没してしまいましたが、「富士」のほうは太平洋戦争終結まで海軍に在籍していた長生き艦でもありました。じょうぶな戦艦だったんですね。残念ながら、太平洋戦争終結とともに、解体処分になってしまいましたが。

さて、前弩級戦艦は、イギリスに4隻発注され、「敷島」、「朝日」、「初瀬」、「三笠」と名付けられ、日本では「敷島型」と呼ばれるようになりました。

このうち、三笠が一番最後に建造され、日露戦争に間に合った4隻の中では最新鋭ということで、これが連合艦隊の「旗艦」となります。ちなみに、時の海軍大臣、山本権兵衛(ごんのひょうえ、ごんべいとも)が主導したのが、「六・六艦隊計画」というもの、これは、戦艦6隻+装甲巡洋艦6隻により連合艦隊の主力を形成するというもの、上記の富士型と敷島型の6隻の戦艦が、この六・六艦隊計画によって建造されたわけです。

ちなみに、これだけの大艦隊を作るだけの十分なお金は、この当時に日本政府にはなく、日清戦争以前から続けていた海軍のリストラ、必死のやりくりにも関わらず海軍予算は尽きようとしていました。

そこで、山本権兵衛が、同じ薩摩出身の海軍軍人で盟友である西郷従道(この当時政府元老、枢密顧問、西郷隆盛の弟)に相談すると、西郷は、完成させるには予算を不法流用して、カネを作るしかない。無論、違憲になるが、議会で追及されたら二重橋で腹を切りましょう、といったそうです。

のちの連合艦隊司令長官の東郷平八郎も薩摩出身で、日本海海戦は、薩摩出身の海軍軍人で勝った、とまでいわれるほどです。薩摩では、古くから海洋貿易がさかんで、江戸時代には幕府の目を盗み、琉球だけでなく中国や世界を相手に密貿易をやっていました。

薩摩人のこうした豪快な性格が、日露戦争の立役者となった多くの薩摩人にも備わっており、その「太っ腹」が日本を救ったというわけです。その後の日本海軍、現在の海上自衛隊の伝統の中にも、薩摩流の習慣が多く残っているそうで、日本の海軍は薩摩が作ったといわれるゆえんです。

バロー・イン・ファーネス

さて、イギリスに建造が発注された4隻の戦艦ですが、いずれも、イギリスのヴィッカース社という造船会社に発注されました。このうち、三笠は、1899年(明治32年)「バロー・イン・ファーネス造船所」で起工され、およそ二年弱で完成。

「バロー・イン・ファーネス」というのは地名で、グレートブリテン島のちょうど真ん中ぐらいの西側に位置する港町。産業革命で鉄道が敷かれ、製鉄が行われるようになってから、造船もさかんになり、ヴィッカース社の前身である「バロー・シップビルディング」が1871年に設立され、その後イギリス海軍の艦艇を建造する中心的な港町になっていきます。

ちなみに、このヴィッカース社は、第二次世界大戦後、現在に至るまでもその継承会社が営々と戦争兵器を作り続けており、船だけでなく、機関銃や大砲、戦車や飛行機、潜水艦まで作っているイギリスでも最も古い武器製造会社です。1960年にその大部分が国営化されましたが、造船事業は、1968年に「ヴィッカース・シップビルダーズ・グループ」という名前に改称され、さらに、ゼネラル・エレクトリック・カンパニー傘下の「BAE」に買収され、現在、バロー・イン・ファーネスの造船所も、BAE傘下の企業として存続しているそうです。

バロー・イン・ファーネスに今も続くこの造船所、BAEシステムズ・サブマリンという名前だそうで、1960年代から原子力潜水艦の建造を専門的に扱うようになり、イギリス海軍のヴァンガード級原子力潜水艦の全ては、この地域で建造されたそうです。冷戦の終結で軍事費が減り、たくさんの従業員が失職しましが、今でも潜水艦の生産設備はイギリス随一を誇る規模だとか。

戦艦三笠を作った技術は、今や潜水艦づくりに受け継がれているんですね。

回航

さて、その三笠は、1900年(明治33年)11月に進水。1902年(明治35年)1月に5日ほどかけて試運転が行われ、3月にサウサンプトンで日本海軍への引渡し式が行われました。

サウサンプトンは、イギリス本土のほぼ真南のど真ん中にある港町で、ローマ人が最初に港町として移住してきた後、今に至るまで貿易港として栄え、かの有名なタイタニック号が出港した港としても知られています。

イギリス有数のコンテナターミナルが所在するほか、いくつかのクルーズ客船の母港ともなっており、民間向けの港としては、イギリスを代表するものです。ここで日本軍に手渡された三笠は、軍港プリマスまで回港され、ここでイギリス海軍への表敬訪問を行うなどの初仕事を終え、3月初めに出航。スエズ運河経由で日本に向かい、2ヶ月ほどかけ、5月の初旬に母港となる、横須賀に到着しました。

そして、横須賀で整備後、7月、連合艦隊の本拠地である舞鶴に回航。来るべき日本海海戦に備え、兵員の猛烈なる訓練の場となり、かつ戦備も整えられていきます。そして、進水から6年後の1905年、運命の日本海海戦では旗艦となり、連合艦隊を主導。その勝利によって、連合艦隊司令長官、東郷平八郎の名とともに、世界に知られるようになるのです。

しかし、その後の「三笠」は、不運続きでした。その運命は、二転、三転しますが、現在当時のままの形で残っていること自体が奇蹟のようです。

その後の三笠については、長くなりそうなので、明日に続けたいと思います。

スパイは小説より奇なり

オリンピックも中盤にさしかかってきましたね。なかなか、金メダルがとれない日本ですが、銀メダルと銅メダルの獲得数はすごくて、調べてみると、すでに北京オリンピックの結果を超過しています。

アテネ 金16 銀9 銅12 合計37
北京 金9 銀6 銅10 合計25
ロンドン 金2 銀8 銅11 合計21(4日現在)

これからまだメダルが期待される競技も多いので、ぜひその数を増やしてほしいもの。でも、総メダル獲得数では軽く北京は超えるのではないでしょうか。あとは、金です。金がほしい。あと、カネもそんなにたくさんでなくていいから、ほしいかな。

007

ところで、「金」で思い出しましたが、イギリスのスパイ映画、「007」の中に、「ゴールデンアイ」ってのがありましたね。1995年公開で、主演はピアーズ・ブロスナン。ジェームズ・ボンド役としては初の作品だったそうです。007シリーズの第17作目で、すでにかなりマンネリ化していた感のあるシリーズを、冷戦後のスパイ戦争仕立てにして、その人気を復活させ、高い評価を得ました。

ピアーズ・ブロスナンも好きなのですが、個人的には、ショーン・コネリーのジェームズ・ボンドが一番好きかな。ピアーズ・ブロスナンの後釜のダニエル・クレイグもなかなかクールでカッコいいと思います。聞くところによると、原作者のイアン・フレミングが生前思っていたイメージに一番近いのがこのダニエル・クレイグなのだとか。

実際のスパイって、きっと映画のように「ちゃらちゃら」していないですよね。ショーン・コネリーとか、ピアーズ・ブロスナンの007って、なんだか女遊びが主で、スパイは「ついで」の仕事みたい。そこがまた魅力的ではあるのだけれども、やっぱ、本物のスパイらしいかんじがするのは、ダニエル・クレイグの007。これほどイケメンのスパイは実際にはいないでしょうが、いい仕事しそうな感じがします。

イアン・フレミング

さて、007シリーズの原作者、イアン・フレミングは、本当にスパイだったというのは、有名な話で、ご存知の方も多いと思いのではないでしょうか。政治家の息子として生まれ、イギリスの陸軍士官学校を卒業後、銀行や問屋での勤務を経て、大手通信社のロイター通信の支局長としてモスクワに赴任中、スパイ活動に従事していたといいます。

所属していたのが、かの有名な、MI6。イギリスも参戦した第二次世界大戦中でMI6のスパイとして活動しましたが、実際にはデスクワークが主体であり、任務を帯びて敵地に潜入するようなことはなかったそうです。第二次世界大戦の終結後にスパイ活動から引退し、作家に転向。

その後、ジャマイカに移住して作家活動を本格化させます。フレミングが住んでいた別荘は、「ゴールデンアイ」というのだそうですが、フレミング自身は、ゴールデンアイという作品を執筆していませんから、ピアーズ・ブロスナンが演じた同名の映画は、おそらく、この事実を知った後年の脚本家が、別荘のことを聞いて話を膨らませたのでしょう。

1953年に、それまでのスパイだった経験をもとに「ジェームズ・ボンド」シリーズ第1作となる長編「カジノ・ロワイヤル」を発表。その後、11作、全部で12作の007シリーズを書き上げ、1964年に遺作となった「黄金の銃をもつ男」を校正中に心臓麻痺で亡くなっています。56歳。若いですねー。

彼が書いた007シリーズの中には、頻繁に食事シーンが出てきますが、フレミング本人も「超美食家」だったと伝えられています。そのためか、早い段階から心臓血管の疾患をかかえていたそうで、早逝したのはそのためだと思われます。

意外だったのは、「チキ・チキ・バン・バン」を書いたのもフレミングなのだそうで(1964年の作品)、今の若い方はご存知ないかと思いますが、「空飛ぶ自動車」を題材にしたこのファンタジーはミュージカル仕立で1968年に映画化されて大ヒット。私も子供のころに見たような記憶があります。フレミングが書いた唯一の童話なのだそうですが、なんで、こういうのを書く気になったのでしょう。スパイ小説ばかり書いていて、飽きたのかも。

MI6

このMI6ですが、なんで「6」なのかな?と思ったら、もともと、軍情報部第6課というイギリス軍部の中の一セクションにすぎなかったからだそうです。最初は、各省庁がバラバラに敵の情報を集めていたのですが、SIS(イギリス情報局秘密情報部)が各省庁の情報面での調整役となり、各省庁から要求された情報を整理し、相手の役に立つように加工して渡すようになったのだとか。

そして、SISの中で各省庁との窓口となる課が第6課だったため、その母体のSISを「MI6」と呼ぶようになり、その後もマスコミやジャーナリストがこの呼び名を使い続けたため、MI6という呼び名が定着したようです。

本来は不適切な呼び方ですが、その後多くのスパイ小説家がSISのことをMI6と書くようになります。私もスパイ小説が好きで、昔からたくさんの作家の作品を読んでいますが、たいがいは、SISとは呼ばず、MI6になっていますね。

ところで、イギリス政府はその昔、MI6の存在そのものを否定していたそうです。日本でも第二次大戦前の昭和13年に、陸軍中野学校の前身の「防諜研究所」なるものを作っており、それがその後の諜報部員育成所の中野学校になっていきますが、その活動内容は外部に漏れないような仕組みになっていました。日本ではこの学校の卒業生が諜報機関を作り、対米戦に備えたといいますが、その存在は外部には一切知られていなかったといいます。

MI6も同じで、その存在そのものを知られること自体が、諜報活動に支障が出ると考えたのでしょう。イアン・フレミングは自身は、その後、元MI6の諜報員であることを公表したようですが、イギリス政府は、20年ほど前まで、その存在を公式に認めていませんでした。現在では、議会からの突き上げや、当局の監視に対する一般市民の不安などに対応して、その存在を明らかにしており、自らのホームページまで公開しているようです。

また、2009年、ジョン・サワーズ長官が就任すると、それまでのまったくメディアに露出しないという方針を変更して、メディアの前でスピーチを行なうといったこともしているそうです。

このように、自らの存在をアピールするようになった背景には、MI6の構成員である、スパイそのものの人材不足があるからだそうです。

スパイというのは、もともと危険な任務が多く、万一摘発されたら刑務所暮らしを余儀なくされ、スパイ活動先の国事情によっては死刑になる可能性もあります。それなのに、基本的には公務員であるため給料も安く、昨今の世界的な不況で、内通者に払う報酬も少なくなり、なかなか良い情報も集められません。このため、イギリス国内でも人気のない職業なのだそうで、これに危機感を持ったのか、最近MI6も新聞広告や失業者向けの求人誌を使って、大っぴらに募集をかけているほどなのだとか。

応募資格は、父母どちらかが英国人であること、21歳以上で過去10年間に5年以上イギリスに住んでいた英国民である事が最低条件なのだそうです。イギリス生まれの日本人とのハーフのあなた。応募してみませんか?

とはいえ、あんまり、実入りが少ないようだと、触手も動きませんね。でも、そのスパイ、第二次世界大戦以前は、結構儲かる商売だったようです。各国ともスパイ網を組織化・巨大化させ、諜報活動を繰り広げたため、膨大な予算がついていたためとか。ひとくちにスパイといっても、その守備範囲は広く、軍事機密だけでなく、政治や経済、科学技術などのあらゆる情報を入手する必要があり、そのためには多額の費用が必要になります。

また、実際に活動するスパイ自身も頭がよく、目端がきく人物でなくては務まりません。当然、高学歴のエリートが選ばれることになりますが、上述のイアン・フレミングもかなり頭のいい人だったようです。通信社の記者をしていて世情には詳しく、また、後年、有名な作家になるくらいですから、かなりの博識だったに違いありません。

サマセット・モーム

この点、同じくイギリスのスパイで、後年小説家になる、サマセット・モームとも似ています。本名、ウィリアム・サマセット・モームは、1874年に生まれ、1965年に91才で亡くなるまで、数多くの作品を残した、小説家、劇作家です。

その代表作「月と六ペンス(1919年)」は、画家のポール・ゴーギャンをモデルにした小説で、絵を描くために安定した生活を捨て、死後に名声を得たゴーギャンの生涯を自伝小説のように描いたもの。世界中から賞賛を浴び、映画や舞台、テレビ化などもされているので、ご存知の方も多いかと思います。

もともとは、医者だったそうでが、医者になる前から文学青年で、医療の傍ら小説を書いていましたが、いまひとつぱっとしなかったようです。しかし、医者になる前のインターン時代に貧民街で病院勤務したことや、様々な医療活動を通じて赤裸々な人間の本質をよく知るようになったことが、後年の才能開花につながったと言われています。

1914年、第一次世界大戦が起き、志願してベルギー戦線の赤十字野戦病院に軍医として勤務します。が、やがて諜報機関に転属になり、そこでスパイになることを打診されたようです。そしてこれを承諾したモームは、スイスのジュネーヴで諜報活動を行うようになります。

表向きは「劇作家」を名乗っており、実際に「人間の絆」などの作品を出版していたそうですから、スパイであることを見破られる心配もありません。ぞんぶんに活動してイギリス軍部からはかなり重宝されたようです。

このスイス滞在時に結婚し、一人娘が誕生しますが、同時に健康を損ない、1916年に諜報活動を一旦休止。この間、タヒチ島などの南太平洋の島々を訪れていますが、このタヒチでの経験が、ここに住んでいたゴーギャンをモデルにした作品、「月と6ペンス」につながったようです。

翌17年には、スパイに復帰。アメリカから日本、シベリアを経由し、ペトログラートへと向かい、ロシア革命の渦中のペトログラートでイギリスの諜報部員として活躍します。

その頃、ドイツとロシアは講和をしようとしていましたが、彼の役割は、この講和を阻止すること。このころ、ロシアはロシア革命がおこる直前で内部崩壊寸前。その混乱に乗じてドイツが黒海北部の旧帝国ロシア領土に進行して占領。このためこの地域では、ロシア帝国とドイツ間で激しい戦闘状態にありました。イギリスとしては、ドイツと大国ロシアの双方が戦争を続けてくれれば、両国とも疲弊してくれるわけで、うまくいけばトンビに油げ、ということで混乱している地域をイギリスのものにできるかもしれません。

そのためには、ドイツとロシアが講和するのを阻止したかったわけです。しかし、単独講和を唱えるレーニン率いるボリシェビキ党が、戦争継続派のケレンスキー臨時政府を倒したため、講和が成立。モームはそのスパイとしての存在意義を失います。

このスパイ活動で、肺を悪化させて帰国したモームは、スコットランドのサナトリウムで療養。そして、この時期に「月と六ペンス」の構想を練り著述を始めたといいます。1919年に出版されると、アメリカでベストセラーとなり、かつての作品「人間の絆」も再評価され、英語圏作家として世界的名声を得ていきます。「

モームは「月と6ペンス」を書くにあたり、ゴーギャンが過ごしたタヒチへ再度行き、ゴーギャンの絵が描かれたガラスパネルを手に入れたそうです。そこまでゴーギャンに思い入れたということは、自らのそれまでの波乱の人生と何か重なるものがあったのかもしれません。

モームは旅行が好きだったらしく、その後は、世界各国に船旅を続けたそうで、1920年代にはアメリカ各地や南太平洋、中国大陸、マレー半島、インドシナ半島などを訪れています。そして、1926年に、南フランス地中海地域のリヴィエラ(コート・ダジュール)に本拠となる大邸宅を購入。1927年に夫人シリーと離婚しますが、その後も、キプロス、スペイン、イタリア、北アフリカ、西インド諸島などなどをを旅行し、数多くの旅行記も書いています。

しかし、あいかわらずスパイとしての活動はやめておらず、第2次世界大戦勃発前後は、イギリス当局からの依頼でフランスでの情報宣伝活動を行っています。しかし、1940年6月のドイツ軍によるパリ陥落により、邸宅を撤収しロンドンへ亡命。

しかし、あいかわらずの旅行癖はやまず、ニューヨークへ向かい終戦までアメリカ各地に滞在。この時に描いた、「かみそりの刃」というのは爆発的にヒットしたそうで、数年で映画化されました。

その後、1946年に、大戦中に枢軸軍・連合軍双方の軍に占拠され激しく痛んだリヴィエラの邸宅を改修し、そこで晩年を過ごすようになります。1948年の「カタリーナ」を最後に筆を絶ちますが、評論やエッセイを発表しながら、更に世界中を旅し続けます。

1950年にはモロッコを、さらに、ギリシア、トルコ、エジプトと次々に訪れ、1954年にはイギリスに立ち寄り、即位まもないエリザベス2世に謁見して、名誉勲位をもらっています。1959年には、アジア各地を旅行訪問し、約1か月間日本にも滞在。日本人の翻訳者や英文学者たちと交流したといいます。

最晩年は高齢による認知症により、ニースにある病院に入院。1965年12月暮れに自らの希望でリヴィエラの邸宅へ戻り、まもなく没しました。享年91歳。イアン・フレミングが亡くなった1964年から1年あまりあとのことでした。

夢と現実

今日は、元スパイだった、二人のイギリス人作家に焦点をあててみましたが、その生涯を垣間見て思うのは、なんて二人とも多才なんだろう、ということ。スパイを務め上げるには広い見識と洞察力が必要に違いなく、そして行動力も必要不可欠な能力に違いありません。

とくに、サマセットモームは、死ぬ直前まで世界中を旅しており、すごい行動力だと思います。しかし、若いころから世界中を旅するのが夢だったに違いなく、作家としての名声を得ることで、それが夢ではなくなり、現実のものとなったとき、その喜びは最高潮に達したことでしょう。

彼の代表作、「月と6ペンス」の「月」は夢を、「六ペンス」は現実を意味するのだとか。若いころに書いたその小説が、よもや自分の人生そのものだったことを、本人はわかっていたでしょうか。

おそらくは今ごろ、あちらの世界で、同じくスパイで同国人のイアン・フレミングとともに自分たちをモデルにした次のスパイ小説を書く相談をしているに違いありません。案外と、今も続く、007シリーズの作者の耳にささやいて、アイデアを授けているのかも。

そのスパイ小説のアイデア、私にもらえないでしょうか。きっといいものが書けると思うのです。私自身、前世がスパイだったものですから……

カレー

ここ数日、夏場にしてはめずらしく、富士山が良く見えています。昼間見える富士は、雪はもうほとんどなくなってしまい、つんつるてんの青い山に見えます。しかし、富士とそれをとりまく雲との組み合わせは刻々と変化し、ときに入道雲に囲まれ、ときに笠雲がかかり、夕暮れにはあざやかに染まった絹雲をバックに黒々と浮き上がる様子などをみていると、飽きません。ああ、伊豆へ来てよかった、と思える瞬間です。

ところで、伊豆へ来てから変わった食習慣って何かな~とぼんやり考えていました。一番最初に思い浮かぶのは、なんといっても伊豆特産のワサビでしょうか。東京でいつも使っていた練りワサビは、最近は調味料として使うことはあっても、刺身などの新鮮な食材を食べるときには使わなくなってしまいました。

刺身などの魚だけでなく、ローストビーフのような生に近いお肉を食べるときには、冷蔵庫に「常備」してある生ワサビを擦りおろし、しょうゆやウスターソースにちょっと加えたものをつけて食べます。これがもう絶品で、けっして新しいお魚や良いお肉でなくても、まるで高級食材を食べているような感覚にしてくれるのです。

みなさんも、伊豆に来られたときはぜひ、ワサビを買って帰ってください。ちなみに修善寺から下田へと向かう国道141号線(通称下田海道)沿いにある道の駅、「天城越え」では、茎つきのワサビがかなりお手軽価格で手に入ります。先日私が行ったときには、4~5本入りで、500円しなかったと思います。近くに大きなワサビ田があるためだと思います。伊豆へ来られたときは、ぜひ、立ち寄ってみてください。

伊豆へ来てほかに変わった食生活といえば、二人でよくカレーを食べるようになりました。もともと二人とも好きな食べ物だったのですが、東京に住んでいるころには、ひとり息子君が辛いものが苦手だったので、もしカレーにするとしても、甘口に近いもので、しかも、二か月に一回食べればよいほうでした。

しかし、ここ伊豆に来てからは、月に2~3回は食べるようになったかな。一度作ると食べきれないので、冷凍や冷蔵保存しておき、それを出して食べるため、ひと月にカレーを食べる回数はそれ以上かもしれません。ときに、香辛料を調合するところから始める場合もありますが、たいていはスーパーで売っている普通のカレールーを買ってきて調理します。

ただ、おいしくするポイントとしては、同じ銘柄単体でカレーを煮込むのではなく、必ず二種類のメーカーのものを半分づつ入れます。こうすることで、味に深みが出る、と昔テレビの料理番組で紹介されていました。実際やってみると、その通り。一種類しか使わないカレーと全然違います。みなさんもやってみてはどうでしょうか。

あと、いろいろ試してみたのですが、入れるお肉としては、「スペアリブ」が最高だと思います。あばらの部位を切り売りしたもので、豚肉がほとんどですが牛のスペアリブでもいいと思います。これを使うと、骨と肉の間からうまみが出るせいか、カレーの味が一ランク上になること請け合いです。圧力なべでコトコトと一時間ほど煮込み、煮汁の一部を別途煮込んでおいた野菜入りカレーに加え、さらに煮込むのです。絶品になりますよ! ぜひ試してみてください。

イギリスとカレー

さて、このカレーですが、インドが発祥とされますが、それを世界に広めたのはイギリスでだということをご存知だったでしょうか。世界に広まったカレーは、インドのものをもとに、イギリス風にアレンジされたものなのだとか。

その起源を調べてみました。もともとイギリスは海洋大国で、自国で作った船で世界中をかけまわり、あちこちに植民地を作っていたというのは誰もが知っているところ。イギリスから船出して、海を渡るとき、イギリス人の船乗りたちは、航海中にシチューを食べたがったそうですが、この当時、シチューに欠かせないのが牛乳でした。しかし、長い航海では牛乳は腐ってしまい、長持ちしないので、牛乳のかわりに日持ちする食材でシチューを作れないか、と考えたイギリス人がいました。

そして、その人が思いついたのが、カレーの香辛料を使うこと。これを使うことで、シチューと同様、あるいはシチューよりさらに一ランク上のシチューを作ることに成功し、しかも日持ちもいい、と一挙両得であることが判明。そして、カレーはイギリス人にとっての定番料理になっていくのです。

このカレーシチューを思いついたイギリス人は、18世紀にイギリスに植民地であったインドの「カレー」をみてこれをヒントにしたようです。しかし、もともとは、実は不器用なイギリス人のこと。インド人のように、多種多様な香辛料を使いこなすことは至難の業でした。そこで登場するのが、かの有名なC&B社。

私もよく知りませんでしたが、もともとは、スープなどの仕出しをしていたんだそうで、正式名称は、「クロス・アンド・ブラックウェル(Crosse & Blackwell)社」だそうです。1706年にイギリスで生まれ、当初は缶詰・瓶詰・乾燥食品などの保存食品を作っていましたが、やがて調味料、香辛料などの販売も手がけるようになります。1950年にスイスのネスレ社に買収されましたが、現在ではアメリカ合衆国のJ.M.スマッカー社の傘下に入っているそうです。

そのC&B社がスープ用の香辛料として開発したものが、いわゆる、「カレー粉」です。そのヒントは、インドの香辛料の「マサラ」。数多くの香辛料を粉にひいたものを、複雑に混ぜ合わせたものの総称でマサーラともいい、まさにインド料理の神髄ともいうべきものです。これをあらかじめ調合しておけば、調合が苦手なイギリス人でも簡単に使えると考えたのでしょう。早速、いろんな香辛料を組み合わせ、イギリス人の好みに合いそうなマサラを作り出し、そしてできあがったのが「カレー粉」というわけ。

当初は、「C&Bカレーパウダー」という名称で売り出したそうですが、これによりカレーは船乗りの間のみならず、英国の家庭料理として普及していきます。

もともと、イギリスの中流以上の家庭では、日曜日に大きなローストビーフを焼く習慣(サンデーロースト)があり、その残り肉を一週間かけて食べていました。しかし、冷蔵庫などない当時は、食べきれないほど残った肉は捨てざるを得ません。しかし、残り肉にカレー粉を入れて煮込めば、長期間腐らずにすむし、ふつうのシチューとはまた違った美味しい料理がお手軽にできます。これが評判になり、イギリス国内でのカレー粉の需要は急増します。

チキンティカマサラ

これに気が付いたのがもともとのカレーの発祥地、インドです。イギリスでは牛肉を食べることが多いのですが、インドでは、牛は聖なるものとされているのでこれを食べません。そして、イギリスで生まれたこの「お手軽カレー」をヒントに、鶏肉を使ってインド風に再アレンジし作られたのが、「チキンティカマサラ」です。

もともと、インド料理には「チキンティッカ」という料理がありました。その料理法は、ヨーグルトと香辛料に漬け込んだ鶏肉を串に刺し、タンドールと呼ばれる窯で焼いたもの。そして、イギリスの「簡易カレー」にヒントを得、チキンティッカにトマトとクリーム、そしてマサラを加えたカレーソースで煮込んだのが、「チキンティカマサラ」です。

これが再びイギリスに「逆輸入」されるやいなや大人気。いまではイギリスの国民食と言われているほどになりました。せっかく自国で「発明」したはずのカレーですが、それをさらに発展させたのは当の本人たちでなく、インド人であったというのは皮肉な結果です。

イギリス人は料理が苦手?

聞けば、イギリスでは、インド料理だけでなく、中華料理やフランス料理、イタリア料理をはじめとする地中海料理など、いずれも外国の料理の影響を受けた料理レシピが多いのだとか。いや、影響を受けたというよりも、イギリス独自に発展した料理というものはほとんどなく、諸外国の料理がそのまま改良されず伝統的に伝わっているだけ、だそうです。イギリス人って、改良とか改善が不得意なの?

これを書いていて思い出したのが、やはり、われわれ日本人のこと。イギリスやアメリカで発明されたものを輸入し、自分たちなりの工夫を加えて改良。より優れたものにして逆輸出することで大成功しました。イギリスの場合、産業革命をはじめとする工業製品の工夫は抜群なのに、こと食べ物に関してはそれができなかったというところが不思議。

それにしても、イギリスやアメリカなどの欧米の先進工業国では、発明するのは得意だけれども、それを改良したり発展させるのは不得意だというのはよく言われるところ。アメリカ人ももともとはイギリスからの移民が作った国ですから、イギリス人もアメリカ人もその本質は同じといってもよいでしょう。

そのせいかどうか知りませんが、先日もテレビのバラエティ番組をみていたら、世界で一番食事がまずい国は、という統計データを紹介していて、その一番がイギリス、次いでアメリカが二番でした。本当にそんなにまずいの?ということで、その番組では、イギリスに実際に出向き、いろんなお店の料理を試食したり、一般家庭の主婦が作る料理を食べさせてもらったりしていましたが、結果としては、本当にまずい!でした。

実際、番組をみていると、イギリスのレストランの多くにおいては、高級店であっても、塩や酢などの調味料がテーブルに並び、出てきた料理にお客さんが「自分の好みで味付けして」という状態のようです。信じらんなーい。普通の家庭でもほとんど料理らしい料理はしないようで、さらに、日本では考えられないような過剰な加熱が行われるようです。

野菜は本来の食感がわからなくなるほど茹でる、油で食材が黒くなるまで揚げる、焼き物にしたって、ほとんど黒焦げ状態のものを平気で食べているみたい。しかも食べる人の好みに応じて塩や酢などで味付けされることを前提としているそうで、イギリスを訪れる多くの観光客がそのまずさにうんざりするようです。

野菜に至っては、イギリスの家庭で食されているのは冷凍食品がほとんどなのだそうで、そもそもが新鮮な野菜が手に入らないのだとか。これは四季を通じて天候が悪く、雨が多いという気候のせいでもあるのですが、それなら輸入すればいいじゃん、と思いませんか?、そうしないのは、イギリス人というのは、やはり料理に関してはオンチなのだとしか思えません。

一説によると、こうなった一因は産業革命以降の労働者の居住環境にあるといいます。当時、イギリスの都市居住の労働者階級の家庭では、野菜も肉も新鮮な食材を入手することが困難だったといいます。このため、食べ物は必ず加熱殺菌して食べることが奨励され、「衛生学」の発展もあって啓蒙運動が進み、必要以上に食材を加熱する調理法が伝統化したというのです。

上述したように、もともとイギリスでは日曜日に、ローストビーフやステーキを食べるという習慣があり、食べきれない肉は、平日の食事では日曜日に残った肉をそのまま、あるいは再び調理しなおして食べる事が多かったといいます。残り物の肉を再調理する場合でも、食べる人が好みで味付けする場合が多く、ようするに「調理する」ということをひとつの「技術」と考える発想にもともと乏しかったらしい。

結果として日曜日に食べるローストビーフ以外は、冷たい肉か、あるいは火を通しすぎた肉を食べ、また個人が好みで味付けするのが当然という食習慣が成立してしまったというのです。

ちなみに、このような日曜日に大食をするという習慣は、フランスやイタリアなどでも見られたそうです。これらの国では残ったものを「調理」する技術が発達し、やがて美食が贅沢という方向に移っていったのに対し、イギリスでは美食が贅沢というふうになっていかなかったのは、産業革命のために工業製品を作るのに忙しく、料理などしている時間がなかったため、という説もあります。

でも、ちゃんと飯をくわんと、良い製品もできんと思うのですが、このあたり、食文化も手先の器用さも兼ねそろえた我々日本人には理解できないところです。

それにしても、イギリスの料理がまずい!というのは世界的に定着してしまったイメージのようで、当のイギリス人たちでさえ、自分たちの食事の不味さをジョークとして自虐的に口にするほどなのだとか。

とはいえ、他国の料理をけなすのは、その国の文化を差別するということでもあり、あまり良いことではありませんね。そもそも、食べ物をおいしく食べるという文化がイギリスにはないのだと考えれば、納得もできるでしょう。イギリス人は、料理なんてものに大切な時間や神経を浪費するなんてばかばかしい、と考えているのかもしれず、それはそれでそういう考え方も尊重してあげなければいけないのかも。イギリス人って、「シンプルで基本的な料理」が好きなんだーと思えばよいのでしょう。

近年では伝統的なイギリス料理を改革した「モダン・ブリティッシュ・キュイジーヌ」と呼ばれる新しいイギリス料理の潮流も生まれつつあるそうです。今度もしイギリスに行くことがあれば、こうした先進的な料理を食べることにしましょう。あるいは、日本から食材を持っていき、自分で調理したほうが良いのかも。その際、やっぱり必需品は、日本のレトルトカレーかな。