admin のすべての投稿

冬の花火 ~旧大仁町(伊豆市)

昨夜は、いつもお世話になっている、同じ別荘地の大工さんのTさんとUさんのお招きで、大仁の狩野川河川敷で開催された花火大会に行ってきました。

大仁は、伊豆の中でも伊東や熱海と並ぶ大きな町とあって、結構な人出で、夕方7時半のスタート前には、いつもは閑散としている河川敷にびっしりの見物客が集まっていました。いつもは静かな伊豆に、こんなに人がいたのかと思うほどの盛況ぶりにはびっくり。空には満月もかかっており、川辺に吹く風も爽やかな夕暮れです。

始まった打ち上げは、あいだに3回ほどの休憩をはさみ、一時間ほどで終わりましたが、ご用意していただいた席が、左岸側の打ち上げ場所のすぐ目の前だったので、ほぼ「かぶりつき」状態で花火を鑑賞。風向きによっては、花火の燃えカスがパラパラ降ってくるほどで、臨場感抜群でした。

久々に花火らしい花火をみせていただき、二人とも大感激。来年もまた、こういう花火が見れるとすると、やっぱり、伊豆へ来れてよかったなーと思う次第。

ちなみに、静岡県内ではこのほか、伊東や、熱海、阿部川や浜名湖などでも花火大会があるそうですが、浜名湖の花火が一番ゴージャスなのだそうです。聞けば、有名地元企業が多いので、「協賛花火」の数も多いのだとか。とはいえ、不況の昨今、今年の花火はどうなのかしらん、と余計な心配などしてしまいました。

ボンファイア

ところで、今オリンピックが行われているイギリスでは、花火=fireworks とはいわず、ボンファイア(bonfire)というそうで、これは「大きなかがり火」を意味します。ようするに焚火のことで、たき火といえば冬の風物詩だよな~ と思っていたら、本当に花火があがるのは冬なのだとか。

しかも特定の日、11月5日に限ってイギリス国内のあちこちで花火大会があるようです。日本では11月というとまだまだ秋の序の口といったかんじですが、イギリスは緯度が高いので11月ともなると気温も10度以下が普通。従って、ここに上がる花火は、文字通り「冬の花火」になります。

で、なんで、11月5日なのかなーということですが、この日はイギリスはでは、ガイ・フォークス・デイ(Guy Fawkes Day)という記念日なのだそうで、なんでも、400年位前におきた、国王の暗殺未遂事件にちなんだ行事なのだとか。首謀者は事を実施する前につかまり、その仲間とともに後日処刑されましたが、イギリスでは、事件が未遂に終わり、国王が無事だったことを祝うという意味で制定された日です。

日本では、天皇陛下を暗殺しようとしたというような話は聞いたことがありませんが、総理大臣の暗殺は何度も起こっていますよね。いずれも時代の不平分子が起こした事件でしたが、このイギリスの暗殺事件の首謀者も同じような不平分子によるものだったそうです。

とはいえ、その動機はというと、宗教上の問題だったようで、えー日本じゃ考えられんよな~ と思ってみたものの、よく考えてみれば、日本でも400年ほど前に天草四朗の島原の乱がありましたっけ。中世のこの時代、日本でもヨーロッパでも宗教の問題と政治の問題は表裏一体だったようです。

ガイ・フォークス

さて、この国王暗殺未遂事件は1604年に起きました。島原の乱が起こった1637年よりも30年ほど前のことになります。首謀者は、グイド・フォークス(Guido Fawkes)、一般的には、ガイ・フォークス(Guy Fawkes)とよばれる人物で、欧米で、男性のことをよく、「ガイ」といいますが、その語源になったのがこのguyなのだとか。

また、「ガイ・フォークスの仮面」ってご存知ですか? 「情報の自由」を合言葉に、アメリカ国防省のコンピュータに不正アクセスし、情報を盗んだとして、起訴された「ウィキリークス」の創始者ジュリアン・アサンジの事件は記憶に新しいところ。こうした、いわゆる「アノニマス集団」のシンボルとして、使われることが多いお面ですが、もともとイギリスのガイ・フォークスデイで、人々がお祭り騒ぎをするときにかぶるお面なのだとか。

白い顔をして、あごひげをはやし、いかにもひと癖ありそーなこの顔。何かでご覧になったことを思い出された方も多いのではないでしょうか。

このガイ・フォークス、1570年イギリス北部のヨークで生まれます。両親ともプロテスタントだったそうで、二人は、ガイをヨークのフリー・スクールに入れました。フリースクールとは、イギリス特有の学校で、イギリスでは、親が子どもを学校へ行かせる義務はないことから生まれた学校です。

義務がない、といいますが、正確には、「義務教育の年齢に達している子どもを持つ親はその子どもにあったフルタイムの教育を(中略)学校へ定期的に行かせること、または“その他の方法で与える”義務がある」ということだそうです。要するに制度にしばられずに自由に教育を受けさせればいい、ということらしく、極論すれば親どうしが4~5人の子供を集めて小さな学校を作ってもいいわけです。

現代のイギリスでは、こうしたフリースクールの代表にサマーヒル・スクールというものがあり、多くは寄宿制で、時間や規則にしばられない、まさに自由な形での教育を施しています。こうした学校には不登校児ばかりが集まることから、賛否両論あるようですが、日本でも教育の荒廃が目立ってきていることから、見学に来る教育者も多いと聞きます。

ガイがどんな形のサマースクールに入ったのかまではわかりませんが、ここで彼は、のちの暗殺事件で共犯となる、ジョン・ライトやクリストファー・ライトなる人物と知り合ったといいます。おさななじみどうしですね。

英西戦争

その後、お父さんが亡くなると、お母さんは再婚。その再婚相手はプロテスタントだったようですが、カトリック信者に知り合いを多く持っており、その影響を受けてガイはカトリックのほうを信ずるようになります。1590年に結婚。息子と娘ふたりをもうけ、幸せな結婚生活をスタートさせましたが、その後なぜか、いとことともに妻子を残してイギリスを離れ、フランドル(オランダ南部、ベルギー西部、フランス北部にかけての地域)に行きます。そしてこの地で彼は、その頃勃発した英西戦争(1585~1604年)に加わります。

そのころ、イングランドはアイルランドやスペイン領ネーデルラントを手に入れようと画策しており、外洋上ではスペインの艦艇に海賊行為なども行っていました。そして、イギリスのネーデルランドへの軍事介入を皮切りに、ヨーロッパ北部を中心にスペインと戦闘状態に入っていました。

それにしてもイギリス人のガイがなぜ、スペインに味方しようとしたのでしょうか。

この頃イングランドでは、国王ジェームズ1世の国教会優遇政策により、カトリック教徒弾圧を受けていました。イギリスでカトリックを信奉するようになっていた彼は、多くのカトリック信徒を次々に粛清するイギリス政府に高い不信感を持っていたのはまちがいなく、妻子を捨ててまで海を渡ったのは、スペイン軍に入り、イギリスと戦う覚悟だったのだと思われます。

スペイン軍に加わった彼は、スペイン軍の友軍、オーストリアの大公アルベルト(後のネーデルラント長官)の指揮下に入り、勇猛で博学、かつ高潔という高い評価を得ます。そして、1596年には指揮官として、イギリス軍が占領していたフランスのカレー(Calais)攻略にも貢献したといいます。

暗殺計画

この頃イングランド国内でも、カトリック信者たちが反政府運動を始めており、その中心的な人物のひとり、ロバート・ケイツビーは、ジェームズ1世が上院の開院式に出席したところを爆殺する計画を目論み、協力者を探していました。

そして、この時、熱心なカトリック教徒であり、かつ従軍経験のあるガイ・フォークスが、彼の目に留まったというわけ。

帰国したガイは、1604年、ロンドンで宿で首謀者のロバート・ケイツビー、トマス・パーシーらに会い、そこでのちの共犯者トマス・ウィンターなどにも会っています。そして、その暗殺計画に加わる誓約に合意し、行動を開始したのです。

そして、ガイらは、パーシーが借りた家の床をあけ、ここからウェストミンスター宮殿内の議場地下に至るトンネルの掘削をはじめます。しかし、これが極度の重労働であることがわかり、やがて断念。

そして、暗殺未遂事件がおこった1605年の3月頃、議場場地下の石炭貯蔵室に爆弾をしかけることを思いつきます。そして貯蔵室を借りることに成功した彼らは、少しずつこの地下室を火薬の樽でうめていきます。

そのころガイは、聖クレメント教会の裏手に住む未亡人・ハーバート夫人の家に住んでいましたが、程なくして彼女が彼とカトリックとの関係を疑い始めたそうです。このころのイギリスでは、カトリック信者であるということを知られるということは、かなり危険な状態。そのことに気付き、ガイはこの家を出ることを余儀なくされましたが、もし密告されていたら早晩、逮捕され、死をも迎えていたかもしれません。しかし、難を逃れたガイは暗殺計画に向かってまっすぐ走りはじめます。

実行

ところが、10月26日、匿名の人物から、「議会の開院式への出席は危険である」と警告す書簡が、カトリック議員のウィリアム・パーカーなる人物のところに届けられます。

実は、ガイの仲間のひとりである、フランシス・トレシャムは、カトリックの国会議員たちを爆殺計画に巻き込むことに反対しており、彼の義兄であったウィリアム・パーカーに、国会に近づかないよう伝えたのです。

これを知ったガイたちは慄然としますが、どうやら書簡の記述が抽象的であったらしいことを知り、またその後も「手入れ」らしいものがなかったことから計画の続行を決意します。

そしてガイは、運命の11月5日、火薬の見張りと点火の任を帯びて、宮殿地下に籠ります。しかし、間一髪その日の未明、治安判事トマス・ナイヴェットらの捜索により、地下の「爆弾倉庫」にいるところを発見され、ガイは取り押さえられてしまうのです。

処刑

その後のガイらの運命は過酷なものでした。捕えられた11月5日の早朝、ガイは国王の寝室に連行され、尋問を受けます。彼は、「トマス・パーシーの使用人ジョンソン」と偽名を語り、いかなる情報の提供も拒否しましたが、その後、激しい拷問を受け、その結果、本名と、陰謀に関わった仲間の名前を自白してしまいます。

彼に対する裁判はウェストミンスター・ホールで行われましたが、裁判とはいっても名ばかりのものであり、仲間のトマス・ウィンター、アンブローズ・ルークウッド、及びロバート・キーズと共に死刑の判決を受けます。

そして、1606年1月31日、ウェストミンスターのオールド・パレス・ヤードという場所で、処刑されます。この処刑方法というのが、考えただけでもぞっとするおぞましいもので、「Hanged, drawn and quartered」というもの。日本語にすると、首吊り、内臓抉り、そして四つ裂きの刑、というわけで、この当時のイギリスでは、国王に対する大逆罪を犯した、貴族でない男性にのみ執行される極刑であったといいます。

しかし、ガイは、それまでに受けた苛烈を極める拷問と病で衰弱し、死刑執行人の手を借りねば絞首台にも登れない程だったらしく、首を吊られた時点で衰弱の為に絶命してしまったそうです。それにしても、ほかの二人はどうだったのでしょう。考えるだけでも恐ろしい最後です。

花火はやっぱり夏

さて、そんなわけで、イギリスでは、この火薬陰謀事件にちなみ、毎年11月5日を「ガイ・フォークス・ナイト」、「ガイ・フォークスの日」、「ボンファイアー・ナイト」、「プロット・ナイト(Plot Night)」などと呼んで、「お祭り」が開催されるそうです。ガイ・フォークスを表す人形を児童らが曳き回し、最後には篝火に投げ入れられて燃やされるそうで、そのクライマックスに花火があがるというわけ。

ところが、ガイは、ウェールズ方面では国王暗殺を試みた罪人として扱われていますが、スコットランド方面では自由を求めて戦ったとして英雄視されているのだそうです。ガイを主人公にしたコミックまで描かれているそうで、2006年に公開された映画作品「Vフォー・ヴェンデッタ」の主人公「V」は、冒頭で述べたガイ・フォークスの仮面を被っているのだとか。この映画では、独裁体制の破壊をもくろむアナーキストなのだそうで、この主人公をモチーフに、「アノニマス集団」のシンボルとしても使わるようになったのでしょう。

冬にうちあげるイギリスの花火は、ぶきみな仮面の人物の記念日だけというのは、日本人にとっては、ちょっと理解しがたいこと。そして、花火といえば、やはり夏の風物詩。うちわで風を送りながら、冷たいビールでも飲みながらながめる花火は最高です。そんなぜいたくをイギリス人にもちょっと味わってみてもらいたいところですが、どんなもんでしょうか。

あ、そうそう、ついに金メダイ、いや金メダルが二つになりましたね。これを弾みに、金メダルラッシュが続くことを期待したいもの。花火のない今夜はまた、テレビにくぎ付けになりそうです。

はし・橋 ~修善寺温泉(伊豆市)

8月になりました。オリンピックは序盤から中盤にさしかかろうというところ。銅メダルばかりで、金メダルはまだかーと思っていたら、柔道女子で元気な女性がとってくれました。こうなると次の金メダルが待ち遠しくなるもの。連日連夜、みなさん夜遅くまでテレビにくぎ付けになっていることでしょう。

松ヶ瀬の吊橋

さて、以前このブログで書いた、「軽野船」で取り上げた「軽野神社」のすぐ近くの狩野川には、木製の大きな吊り橋がかかっています。橋マニアの人のブログを拝見すると、「松ヶ瀬橋」と呼ばれているみたいですが、実際の橋には、どこにもネームプレートはなく、本当にそういう名前かどうかは不明です。おそらくは付近の住民の生活道として使われているのだと思いますが、のどかな田園風景の中に溶け込んでいて、すぐ下を流れる狩野川の流れも気持ちよく、とてもよい雰囲気の橋です。

どうして観光名所にとりあげられないのか不思議なほどのこの木製の吊り橋。かなり大きめの吊り橋ですが、「車両通行止」の看板があります。ところが、左岸の軽野神社から眺めていたら、なんと農作業用らしい軽自動車が、ゆるゆるとその上を渡っているではありませんか。どうやら、地元の人が使う、農耕作業車は通行できるようです。

実際に橋の上に立ってみましたが、さすがに吊り橋だけに、渡るとゆらゆらゆれます。高所恐怖症の私にとっては、とてもたまったものではなく、とうとう橋の中央までいけませんでした。が、軽自動車が通れるくらいですから、かなり頑丈な造りのようです。象が乗っても大丈夫そう。伊豆の観光名所として、もっと取り上げられてもよさそうなものですが、逆にこののどかな風景が観光客でごったがえすのも興がさめます。なので、みなさんどうか来ないでください。

ロンドンブリッジ

ところで、イギリスの橋といえば、ロンドン橋(London Bridge)です。テムズ川にかかる橋で、その下流にあるタワーブリッジと同じく、観光名所として著名です。

この橋、古くから、何度も橋が架けられては倒壊しており、その回数の多さから「ロンドン橋落ちた~♪」という童謡でおなじみだと思います。1750年にウェストミンスター・ブリッジが架けられるまでは、ロンドン市内でテムズ川に架かる橋としては唯一のものであったそうです。今のロンドン橋と同じ位置にかけられていたかどうかはわかりませんが、テムズ川に架かった最古の橋はローマ人によるもので、西暦46年に架けられた木製のものだったそうです。

そして、最初の崩落。1013年、デンマーク国王だった、スヴェン1世率いるデーン人たちが侵略してきたとき、ときのイングランド国王エゼルレッド2世が、敵を分断するためにこの橋を焼き落とさします。その後、架け直された橋も1091年に嵐で破壊され、崩落はまぬがれたものの、1136年には火災に遭って二度目の崩落。

この倒壊のあと、それまで木製だった橋を石造の永久橋にしようという提案がなされヘンリー2世の統治時代の1176年に工事が始まります。ところが、石造りという大がかりなものだったため、完成までには33年もかかり、1209年、ジョン王の統治時代になって、ようやく完成することができました。その間、川の横断はどうしていたんかしらん。不便だったでしょうね~。

このジョン王、なぜか、橋の上に住宅を建てたいと言いだし、橋の上には完成後まもなく住宅や、商店、さらには礼拝堂まで建てられるようになります。日本では考えられない感覚ですよね。なんで橋の上に家?と思ってしまいます。それほど住宅事情が悪かったということなのでしょうか。それとも、王様の趣味で眺めの良い橋の上を独占したかったのかもしれません。

この中世の橋は19の小さなアーチと南端に守衛所のある跳ね橋が備えつけてあったそうです。石造りであり、さらに橋の両端には水車までつけられていたことから、テムズ川の流がかなり阻害されたようです。このため、水の流れを逃がし、同時に船を通過させる橋脚間の「穴」の周囲では、場所によっては2mもの水位差が生じ、すさまじい急流ができました。

小舟を漕いで橋脚の間を通り抜けようとしておぼれた人が数えきれないほどいたそうで、イギリスでは「賢いものは橋上を渡り、愚か者はその下を通る(for wise men to pass over, and for fools to pass under)という諺があるそうですが、その語源になったのはこのロンドンブリッジだとか。

さらし首

その後、昨日も紹介した、1381年のワット・タイラーの乱や、1450年のジャック・ケイドの反乱の際には、橋での攻防戦によって、石造りのアーチのいくつが崩れ、橋上の住宅も焼き払われました。

このように、ロンドン橋は、過去に多くの戦乱に巻き込まれており、橋の右岸側(南側)にあった水門、ストーン・ゲートウェイの上にあった管理小屋では、タール漬けになった謀反人の生首を矛にさしてさらされていたそうです。その当時、ロンドンでも最も悪名高い場所のひとつだったみたい。

このロンドンブリッジでの「さらし首」は、このころもう、ロンドンの「名物」だったようで、スコットランドの軍人指導者、騎士のウィリアム・ウォリスは、イングランド王エドワード1世によるスコットランド支配に抵抗したため、イングランド軍によってとらえられます。1305年に処刑されますが、その首が門に架けられたのが初めてのさらし首だったとか。

他にも首がさらされた有名な人物としては、前述したジャック・ケイド(1450年)や、カトリック教会の聖人、法律家で思想家のトマス・モア(1535年)、同じくカトリック教会の聖人、ジョン・フィッシャー(1535年)、貴族で政治家、「宗教改革」などを主導したトマス・クロムウェル(1540年)などがいます。

処刑された理由はさまざまですが、いずれもその頃のイングランド王が考えていた政治や経済、宗教に反論した人物たちで、いつの世もどこの国でも権力を握った独裁者は敵対する者たちを粛清してきました。この当時、イギリスを旅行していたあるドイツ人は、1598年に30以上もの首が橋にさらされたことを記録しているそうです。

日本でも、源平の時代から、いや、それよりももっと古くから、勝者が敗者の首をはねてきたという歴史を思い起こされます。それにしてもなんで、首なんでしょうかね。人々にこいつは悪いヤツなんだ!と強烈にアピールできるからなんでしょうか。

ちなみに、この習慣は1660年、チャールズ2世によって、王政復古の際に廃止されたそうです。王政復古とは、君主によって統治された国家において、クーデターや内戦などによって一度は弱まったり、廃止されるなどした君主制が復活することで、日本でも明治維新によって幕府が崩壊し、天皇制が敷かれたとき、「王政復古の大号令」が出ましたよね。

1660年といえば、日本ではまだ江戸前期。江戸全期を通じてさらし首はあちこちで実施されていましたから、それに比べれば、イギリス偉い!です。

架け替え

ところで、ロンドンブリッジの橋の上に建てられた建物は、常に火災の恐怖にさらされていたようです。1212年の火災は、ロンドンブリッジの両端から同時に発生し、橋の上に住んでいた人、およそ三千人が焼死したそうです。

ロンドン大火の3年前の1633年にも別の大火が起こり、橋の北側にあった住居のおよそ3割が焼き尽くされたそうですが、なんと、このおかげでロンドンブリッジはその後のロンドン大火による消失を免れます。1666年のロンドン大火の際、北側市街から広まった火災が橋に燃え移ろうとしたところ、橋の上の建物の一部がすでに燃え尽きていたので、それ以上の延焼をまぬがれ、橋が消失することを防ぐことができたとか。火事が火事を防ぐ役割をしたというのですから、皮肉な結果です。

その後、ロンドンブリッジは、産業革命のためにその頃から急増しはじめていた町の交通の利便を図る上では、だんだんとロンドンの「お荷物」になっていきます。その形態が半住居であったため、大量の馬車や人の通行させるための広い道路スペースが十分にとれなかったためです。

市内の交通混雑は徐々に激しくなり、1722年にその当時の市長が「町へ入る馬車類は橋の西側を通行、町から出て行く交通は東側を通行」というふうに交通整理の布告を出すほど。1758年から1762年にかけては、水上交通改善のため中心の2つのアーチがより広い梁間のものに交換されました。

それと同時に、交通の妨げになっていた橋の上の住居も撤去されるようになりますが、18世紀の終わりには交通量の増加に対処できなくなり、とうとう、新しい橋を架けかえよう、ということになりました。

この当時、ロンドンブリッジは、すでに600年以上も使用されていたそうで、ボロボロに老朽化していました。1799年に新しい橋の設計コンペが開催され、180mの長さの単式鋼鉄アーチを持つ橋がいったん採用されましたが、その当時の技術では実現が不確実視され、また建設に要する土地の膨大だったため、結局新橋は5連の石造アーチによるものになりました。

新しい橋は旧橋より30m西(上流)に建設されたそうです。7年の歳月を経て1831年に完工。旧橋は新橋開通まで使用され、その後廃棄されました。新橋は大理石で造られ、長さは283m、幅は15 mあったそうです。その式典がウィリアム4世とアデレード王妃出席のもと、橋のたもとの会場で行われました。イギリス海軍の最新式帆船で、その後「種の起源」で有名なダーウィンが乗船することになる、「ビーグル号」が、このとき、この橋の下を最初に通ったといいます。

しかし、橋はできたものの、慢性的な渋滞はあまり緩和されなかったため、これに対処するため1902年から4年かけ、橋の幅が16mから20mに拡幅されます。しかし、この拡幅工事が橋の基礎に過大な負荷を与えることとなり、工事後に橋が8年に1インチの割合で沈みこむようになり、1924年には橋の東側が西側よりも3~4cmも低下したそうです。

売却

あまりにも補修費がかさむようになった結果、1968年にこの橋はアメリカの企業家に売却されることにになります。橋なんて買ってどうするんだろうな、と思いました。が、この企業家、ロバート・P・マカロックという人は、なんと、アリゾナ州にある「レイクハバスシティ」という町をつくっちゃった人なんだそうで、ロンドンブリッジはその象徴のために欲しかったみたい。。

マカロックは、アリゾナ州にある「ハバス湖」という湖の東側に3500エーカー(14 km²)の土地を購入し、街づくりを開始し、レイクハバスシティは1978年に市制が執行されています。

問題のロンドンブリッジは、ハバス湖からトンプソンベイに至る人造運河に架け替えられました。ロンドン市から250万ドルで購入されたといいますから、今の時価では5億円、といったところでしょうか。1968年に架け替えられる前に、ロンドンブリッジはいったん解体され、再度組み合わせやすいように印を付けて分解された石材が大西洋を渡り、レイクハバスシティまで船で運ばれ、さらに700万ドルを掛けて組み直されたそうです

橋は1971年に開通し、今ではアリゾナ州ではグランド・キャニオン国立公園に次いで2番目に客の多い観光地になっているとか。それにしても、アメリカ人というのはスケールの大きいことをやるな~と改めて感心至極。

現在

さて、アメリカにその心の橋?を売っちゃったイギリスですが、その後、現在のロンドンブリッジを1967年から建設をはじめ、1972年に完成させています。開通は1973年3月17日。現在のロンドンブリッジは、プレストレスコンクリートの梁でできた頑丈なもので、全長283mの大建築。400万ポンドの費用の一部に、アメリカに売り払った古い橋の売却収入があてられたそうです。

その橋の下を先日、オリンピックでは、ベッカムが乗ったスピードボートがくぐり抜けましたね。いまや、その下流にあるタワーブリッジとともに、ロンドン観光にはかかせない存在……と書きたいところですが、実際の人気はタワーブリッジのほうが断トツのようですね。ロンドンブリッジというと、このタワーブリッジのことだと勘違いしている人も多いと思います。私もそうでしたが……

タワー・ブリッジのほうは、1894年にできた、跳開橋で、いわゆる跳ね橋の一種です。中央の橋脚部分が可動になっていて、船が通るときに、上へもちあがります。可動部分は初期の頃水力を利用して開閉していたようですが、現在は電力を利用しているそうです。

観光の目玉になるぐらいですから、ロンドンの中でも結構目立つ存在。このため、第二次世界大戦中はドイツ空軍の爆撃目標になり、1944年にV-1ロケットの1発が車道部分に命中して被害を受けたそうです。

タワーの高さは40mもあるそうで、左右にあるゴシック様式のタワー内部は展望通路になっていて、歴史博物館もあるとか。「タワーブリッジ」の名称は、すぐ近くにあるロンドン塔の景観と調和するようにということでつけられ、そのようにデザインされたそうです。

実際、ロンドンブリッジよりは瀟洒なかんじで、よりイギリスらしい雰囲気。こちらのほうに興味がそそられますね。ロンドン観光定番スポットとなっているのもわかる気がします。が、ロンドンへ行く機会があれば、ロンドンブリッジのほうも行ってみたいものです。

さて、長くなりましたので、今日のところはこれまでにて。今晩は、狩野川の大仁河川敷で花火大会があるそうなので、行ってみたいと思います。オリンピック開催時にテムズ川で上がった花火のようにきれいなものが見れると良いのですが。

カンタベリー物語 ~旧修善寺町(伊豆市)

ロムニー鉄道

今週は、オリンピック特集ということで、意図としてイギリスにちなんだお話を中心に書いています。

と、いうことで、伊豆とイギリス…… なんか関係があるかな~と考えていたら、これまで何度か訪れている、「修善寺虹の郷」には、「イギリス村」というのがあったのを思い出しました。

イギリスの田園風景を模したゾーンということで、中世のイギリスを意識した建物や公園があり、虹の郷の入口すぐのところにある、いわばこの施設の顔です。

このゾーンから、お隣の「カナダ村」までには、「ロムニー鉄道」という本物の鉄道が敷かれています。日本のSLよりも少し小さめの15インチ鉄道といわれるものですが、イギリスの、ロムニー・ハイス&ディムチャーチ鉄道(Romney Hythe and Dymchurch Railway)が現在も実際に使用しているものを輸入して、使っているそうです。

「本格的な公共輸送を行う、正式営業の実用鉄道」としては、事実上世界で最も狭い軌間を使用するものだそうで、イギリスでは、1927年に開業後、現在でも元気に動いています。全部で10台の機関車が運行されており、15インチ鉄道の中では英国において最長の路線(23km)なのだとか。主には観光用に使われていますが、観光客だけではなく、子供達の通学にも利用されているそうです。

ケント

このロムニー・ハイス&ディムチャーチ鉄道があるのは、ロンドンの南東にある、「ケント州」。イングランド最東端の州であり、北はテムズ川と北海で、南はドーヴァー海峡(カレー海峡)とイギリス海峡(ラマンシュ海峡)で隔てられています。

ドーヴァー海峡にある「ドーヴァーの白い崖」はイギリスの中でも最も象徴的な地形のひとつで、写真でみたことのある方も多いのではないでしょうか。この白い壁があるドーバー郡のすぐ南側に、シェップウェイ郡があり、そこにフォークストン(Folkestone)という町がありますが、ここは英仏海峡トンネル、通称ユーロトンネルがフランス側に向かって伸びる町であり、およそ38km先のカレー(Calais)とつながっています。

私自身、イギリスには行ったことがありませんが、このドーバー海峡のイギリス側の海岸線風景は、「絵に描いたよう」に美しいところと聞いています。いつかは行ってみたいものです。

海岸線だけでなく、ケント州は、別名「イングランドの庭園」とまで言われているそうで、こちらも「絵にかいたような」美しい田園風景で有名といいます(ほかにうまい表現ないんかいな)。当然のことながら、農業がさかんな地域ですが、羊毛製の生地製造、製鉄、製紙、セメント、工学、などの工業もさかんで、このほかにも漁業と海岸のリゾート地での観光業に多くの人が従事しているそうです。ケントは「ケント紙」の発祥の地なのだそうで、またタバコのケントも同地に由来があるとか。

さきほどの英仏海峡トンネルとともに、ヨーロッパ大陸への航路を開く国際フェリー港があり、交通の要所でもあります。17世紀ころには、オランダやフランスといった大陸列強との間に緊張がおき、1667年にオランダ海軍がメドウェイの造船所を奇襲してからは、大陸に近いケント州を中心にイギリスの海岸沿いのあらゆる場所に砦が築かれました。第二次世界大戦ではケントに空軍基地が建設され、民間施設が度々爆撃された英独航空戦で極めて重要な役割を担ったといいます。

かつてケントに住んでいた有名人としては、チャールズ・ディケンズやとチャールズ・ダーウィがいます。このほか、ウィンストン・チャーチルの家だったチャートウェルもケントにあるそうで、こうした有名人の足跡を探る観光ツアーなどもあるようです。面白そうですね。

アウグスティヌス

ケントは、近代以前の中世にも、いろんなことがあった場所です。州北東部にあるカンタベリー市は、英国国教会の中心地で、アウグスティヌスの大司教館がある町です。アウグスティヌスというと、神学者、哲学者であり、古代ローマで大きな影響力をもった理論家を思い出しますが、こちらのアウグスティヌスはこれよりも170年ほどあとの人物。キリスト教のローマ教皇から、イングランドに布教に行くように命じられてカンタベリーに来た別人です。

ややこしいので、こちらをカンタベリーのアウグスティヌスと呼ぶのに対して、古い時代のアウグスティヌスはこれと区別して「ヒッポのアウグスティヌス」と呼ぶのだとか。

カンタベリーのアウグスティヌスはもともと、ローマの聖アンドレアス修道院の院長でしたが、ローマ教皇グレゴリウス1世の命により、約40人の修道士とともに596年にイギリスへ布教のために派遣されます。597年、ケント王国の王エゼルベルトに布教の許可を求め、カンタベリーに居住することと説教の自由を認められ、その年に初代カンタベリー司教に任ぜられると、クリスマスまでに約1万人のイングランド人に洗礼を施したといいます。かなりやり手の宣教師だったのでしょう。

カンタベリーのアウグスティヌスは、ローマ式典礼を導入するとともに、イングランドの国情・習慣を尊重し、性急に改革を導入しないというカトリック的折衷主義を採用したそうです。すでにイングランドにある程度浸透していたケルト教会への影響まで考慮したためであり、多くの信者を勝ち取ったのはそのたくみな戦術のおかげです。その後、アウグスティヌスは、カンタベリーの土地に教会を建て、初代の「カンタベリー大司教」となります。

その後、この教会は、カンタベリー大聖堂といわれるまでに拡張され、国王、ヘンリー8世が統治していた1532年に、ここを中心として、イギリス独自の英国国教会(イングランド国教会)が設立されます。ローマと決別して、イギリス独自のキリスト教世界を持つようになったわけで、カンタベリーはイギリス国教の総本山になったわけです。以後、カンタベリーは、現代に至るまで、イギリス王室と英国国教会の関係を象徴する重要な場所となっていきます。そして、このカトリック教会の総本元であるローマ教会との離別が、その後のイギリスにおける激しいプロテスタント運動につながっていくのです。

反乱

ケントは、ロンドンに近いことから、こうした宗教的なお話以外にもいろんな歴史的逸話があります。たとえば、中世にはワット・タイラーの乱(1381年)とジャック・ケードの乱(1450年)という、日本でいう農民一揆のような乱がおき、農民などの不平分子がケントからロンドンに攻め入っていまはんらnす。

反乱の背景としては、1338年に始まった百年戦争などが、長期化したことで、イギリスの国家財政は大幅に悪化。これに対処するため、農民に対し人頭税などの課税強化を行ったことなどが遠因といわれます。また、当時黒死病と呼ばれたペストが大流行したため、労働力不足に悩んだ領主が農民の移動の自由を奪い農奴制を強化していったことも原因だったようです。

この双方の乱では、ケント州を中心に5000人とも1万人ともいわれる農民が集結し、ロンドンで狼煙をあげますが、王国軍によって鎮圧されてしまいます。1450年のワット・タイラーの乱は、イギリスでは最大規模の反乱だったそうですが、その首謀者は、全員絞首刑。ジャック・ケイドの乱でも、その首謀者ジャック・ケイドの生首は槍にさされた状態でロンドンブリッジにさらされたそうです。

日本でも大塩平八郎の乱(1837年)や島原の乱(1637年)などの大きな乱が過去におこり、首謀者が殺されていますが、反乱が起こっても、その後たいして悪政は改められることは少なかったようです。イギリスでも同じで、犠牲者の魂だけが歴史に刻まれることになったわけで、むなしいかぎりです。

カンタベリー物語

さて、カンタベリーのお話に戻ります。英国国教会は、1162年にトマス・ベケットという人を大司教に任じ、イングランド王ヘンリー2世の大法官としての役目を与えました。しかし、その後教会の自由をめぐってヘンリー2世と対立するようになり、1170年にヘンリー2世の部下の手で暗殺されてしまいます。英国国教会は、その死を悼み、2年ほど経ってから、トマス・ベケットを殉教者としてカトリック教会より列聖させました。そして、その後、トマス・ベケットの殉教後はカンタベリーはイギリス国教の大巡礼地として、内外に認められるようになっていきます。

そして、このカンタベリーで生まれた童話集が、「カンタベリー物語」です。その名を一度は聞かれたことがあるのでなないでしょうか。1387~1400年ころに、イングランドの詩人ジェフリー・チョーサーという人が書いた物語集で、これが発表されて以降、イングランドの作家たちはフランス語やラテン語より自国語である英語を使うようになり、英文学に大きな貢献をしたのだそうです。

その内容ですが、さきほど書いた、聖トマス・ベケットのお墓があるカンタベリー大聖堂への巡礼の途中、たまたま宿で同宿した様々の身分・職業の人間が、旅の退屈しのぎに自分の知っている物語を順に語っていく「枠物語」の形式を取っているのが特徴。

登場人物としては、騎士、粉屋、バースの女房、親分、料理人、法律家、托鉢僧、刑事、学僧、貿易商人、騎士の従者、医者、修道院僧、牧師、宿屋の主人、などなどと登場人物はバラエティに富んでおり、様々なジャンルにわたり、語り手の階級を代え、各話のスタイルにも多様化がはかられていて、とても600年も前に書かれたものとは思えないような「大人の童話」に仕上がっています。

一例として、「バースの女房の話」をとりあげると(以下、ウィキペディアより引用)、

「アーサー王は、死刑の決まった家来の若い騎士に対して、命を助ける条件として「女は何が一番好きか」の答えの探索を命じ、1年と1日の猶予を与える。騎士は旅の途中に出会った醜い老婆からその答えを教えてもらい、王宮でそれを言うと、女性全員の同意を得られ、無事死刑を免れた。しかし、老婆はその御礼に騎士に「結婚」を求め、無理矢理結婚させられる。そして、新婚の床に入ることになったが——」

「托鉢僧の話」では、

「無実の人を偽りの罪で教会裁判所(Ecclesiastical court)に召喚すると脅して、金をまきあげる悪徳刑事は、偶然出会った郷士と兄弟の契約を交わすが、実は郷士は悪魔だった。刑事は、相手が悪魔と知りながら、さらなる悪事を働こうとするが——。」

などなどです。そのお話の面白さから、その後世界中でカンタベリー物語を題材にした小説や、映画、演劇や音楽が作られ、日本でもたくさんの書店が翻訳本を出していて、今も売れ続けています。

カンタベリー物語が書かれた1387~1400年ころという時期は、前述のワット・タイラーの乱があるなど、イングランド史の中でも騒然とした時代だそうです。農民による一揆のほかにも、カトリック教会が教会大分裂の真っ只中にあった時期で、著者のチョーサーの親友の多くがワット・タイラーの乱に連鎖して処刑され、チョーサー自身もロンドンからケントに疎開することを余儀なくされたのだとか。

そこで歴史に残る大文学が書かれ、イギリス人がよく使う書き言葉に大きな影響を及ぼしたということは、ケントは、イギリス文学のふるさとといっても良いくらいでしょう。そして多くの史跡が残り、風光明媚な観光地とし多くの観光客でいつも賑わっているそうで、イギリス人にとっては日本人にとっての京都のようなものなのかもしれませんね。いつか訪れてみたいものです。

さて、今日は、空が真っ青に晴れ、久々に富士山がくっきり見える上天気です。カンタベリーのある国、イギリスでは今日もアスリートたちの熱い戦いが続いています。がんばれ!フジヤマ日本!

植物は語る

ここ二日ほどは、オリンピックの結果をみようと、深夜遅くまで起きていました。おとといの、サッカーの女子、スウェーデン戦は惜しかったですね。点が入らない試合というのは、なかなか緊迫感があっていいのですが、応援している力の抜きどころがなくって、疲れてしまいます。一点でいいから、スカーッと点を入れてほしいものです。

ところで、今回のオリンピック競技は、無論、ロンドンを中心とした地区で行われるようですが、先日行われたサッカー男子の予選においては、日本×スペイン戦がスコットランドで行われたようですね。この試合、優勝候補のスペインに勝利したことは記憶に新しいところ。今後とも男女ともに勝ち進んで、久々にサッカーでのメダルを見たいものです。

スコットランド

スコットランドといえば、古くから妖精や魔女の伝説や幽霊の話などが伝えられ、スピリチュアルな話題にはことかかない、「スピリチュアルワールド」としても有名です。

例の「ハリー・ポッター」の作者J.K.ローリングさんが、その第1作目「ハリー・ポッターと賢者の石」を書き上げたのもスコットランドの首都、エジンバラだそうで、ハリーポッターといえば、魔法を操る少年少女のお話ですよね。

シェイクスピアのマクベスも舞台はスコットランドなのだそうで、実際にスコットランド王家に実在した人々がモデルとなっており、この中でも魔女達の乱舞のシーンなどが出てきます。なんでも一説には、初演時に魔女たちに本当の黒魔術を唱えさせていたというお話も残っているとか。

さらに、王家といえば、エジンバラ城をはじめとして、王族の幽霊が出るという場所がスコットランドのあちこちにあるようです。エジンバラ市内でも、ペスト流行時に人々が埋葬された墓地でよく幽霊が出るそうで、そういう場所をまわる、ナイトツアーまであるそうです。

昨日少し話題にした、コナンドイルもスコットランド出身です。彼はイングランドのコティングリーで「妖精をみた、写真に撮った」とアナウンスして、世間を驚かせたそうですが、残念ながら、写真は本物ではなかったらしい。ですが、妖精の研究に没頭したことは、彼が育った土地柄と無縁だとは思えません。彼には霊感があったようですから、きっと幽霊や妖精などの世界というものを、幼いころから身近に感じていたのかも。

フィンドホーン

以上あげただけでも、スコットランドという土地がいかに不思議な伝承や事象が存在するスピリチュアルワールドかということがわかりますが、もうひとつ、有名な場所として、「フィンドホーン」という場所があります。

スコットランドのインバネスという町の北東にあり、北海に向けて開けるマレー湾の南側に位置する人口約900人の小さな村、フィンドホーン。イギリスの中でも、北極にも手が届きそうなほど北限の場所に位置するこの閑静な村には、イギリス国内でも最大級といわれるスピリチュアル・コミュニティーがあります。

スピリチュアル共同体、教育機関、エコ活動組織など、さまざまな機能を併せ持つこのコミュニティーには、現在、世界中から訪れる400人以上の人々が暮らし、自然との共存やスピリチュアリティといったテーマに基づく独自の生き方を研究しつつ、それを実践しているといいます。また、非営利の慈善財団として各国から毎年1万4000人もの人々を迎え入れ、各種アクティビティーを通してこの村におけるスピリチュアル・ライフのあり方を「伝道」しています。

ことの起こりは1957年。創始者であるアイリーン&ピーター・キャディ夫妻が、その子供たち3人と、友人である、ドロシー・マクリーンとともに、この地にやってきます。もともと3人とも、各自しっかりしたスピリチュアルなトレーニングの基盤があったそうで、「神」の声に従うことを大切にしていたのだとか。

彼らは、フィンドホーンから約10キロ離れた村、フォレスという場所にある1軒のホテルの経営者に認められ、そのホテルの運営を任されるようになります。そして、アイリーンが日頃から授かっていた「内なる声」に耳を傾けながら、その導きどおり実践していき、その結果、破綻寸前だった宿を4ツ星ホテルに昇格させるまでに成功させたのだそうです。

ところが、経営者から数年後には移動を命じられ、そしてその移動先の勤めていたホテルをクビになってしまいます。そして、住む場所を失った彼らは1962年、フィンドホーン湾に面した荒地でトレーラーハウスに住みながら、所持金も少なかったため、自給自足を試みようと野菜づくりに取りかかります。

三人は、乾いた砂地での入植という悪条件の下、再び「内なる声」に従い、あきらめずに地道に荒地の開墾を続けていきます。そうして、来る日も来る日も荒地との戦いを続けていたある日のこと、突然、ドロシーが、二人に、植物のディーバ(精霊)と交信できるようになった、と告げます。三人は、ドロシーが植物と交信して得られたメッセージを聞きながら、忠実にそれに従って農作業を続けていきます。その結果、それまでは、砂地の土壌では生育しづらいと考えられていた植物や野菜が育ち始めるのです。

通常、このような寒冷な場所では、温帯で生育するような果樹やハーブは生育しませんが、それが育つようになっただけでなく、花々などのほか、重量が18キロもあるような巨大なキャベツまでがなるようになり、本人たちだけでなく、村の人々を驚かせたといいます。

こうした菜園での「奇蹟」の噂は、徐々に村の外にまで広まっていき、それとともに「同志」も集まり始めます。そして、ここに自然と共存する世界で初めての、「スピリチュアル・コミュニティー」が誕生したのです。1970年には、米国人スピリチュアリストたちの助力を得ながら、自分たちがやってきたことを教えるための、「教育課程」を確立し、コミュニティーは教育機関としてもみなされるようになります。

メンバーも飛躍的に増加していき、そして1972年には、「フィンドホーン財団」となり、正式にスコットランドの慈善教育財団として認可されるまでになります。その後も、90年代には、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)と共同イベントを行うなど、世界規模での活動を展開して国連からも高く評価されるようになり、いまやイギリスのみならず世界的にも認められたスピリチュアル・コミュニティーになりました。

このあたりのお話は、アイリーン・キャディさんご自身の自伝、「フィンドホーンの花(日本教文社刊)」に書かれているので、お読みになってはいかがでしょうか。我が家の「なっちゃん文庫」にも一冊おいてあります。

植物との交信

このドロシーさんが、植物のディーバ(精霊)と交信できたというのは、どういう能力なのでしょうか。もとより、植物には口や耳、脳も神経もありませんから、人間と交信できるような「意識」はないと考えるのが普通です。

しかし植物が人間の気持ちを理解しているのではないか、ということを裏付けようと実験をした科学者も大勢います。一番有名なのは、アメリカの「クリーブ・バクスター」という人が1966年に行った実験です。彼はアメリカ、FBIの検査官で、「うそ発見器」の専門家でした。

バクスターは、最初、研究室にあった「ドラセナ」という木(幸福の木の一種)に、うそ発見器をつけたらどんな変化が出るだろうと、まじめに考えました。そして実際に、ドラセナの葉っぱにうそ発見器の電極をつけ、たとえば、水をやれば植物が水を吸って電気は流れやすくなり、電気抵抗値は小さくなるはず、などの仮説を立て、いろんな実験を開始します。

それらの実験結果には思ったような変化は出ませんでしたが、ある日、ライターで葉っぱに火をつけたらどうなるだろうかと、考えました。そして、よし、実際にやってみよう、と思った瞬間、ドラセナにつけた電極につながったうそ発見器が反応したのです。しかも、グラフに描きだされたその変化は、感情的に興奮している「人間の反応」によく似ていることに気がつきます。

そして、いろいろな条件で実験を行い、ほかの植物でも実験を行った結果、「植物は人間の心を感じ取って」反応しているという結論を得たのです。バクスターは、人間が持っている「五感」と同じような感覚を、植物だけでなく動物なども含めたすべての生命体が共通して持っているのではないかと考え、それを「原初的知覚」(Primary Perception)と呼んでいるそうです。そして、その感覚によって人とのコミュニケーションをとることができる、と考えたそうです。

植物は語る

このような実験結果を見ると、ドロシーが木や花とコミュニケーションを交わしたり、メッセージを受け取ったことも、不思議ではないような気がします。木も花も、人の思いを敏感に感じ取っているのかも。人が花に優しい声をかけたりすると、きれいに花を咲かせてくれるとか、音楽を聞かせると良いとかいう話を聞きますが、そういう人間の優しい気持ちを木や花も理解しているのかもしれませんね。

さらに、先日ブログでご紹介した木村忠孝さんが、その著書「魂の真実」の中で、「しゃべる植物といわれるサボテンや、数種の高等植物、動物」には霊体がある旨のことを書いていらっしゃいます。もしそれが本当だとすると、高等な植物の中には、魂の次元で人間とコミュニケーションをとることができるものもあることになります。

物理的な世に住む我々にとっては、霊能者を通じてしか亡くなった人の魂と交信することができませんが、もしかしたら、植物ぐらいとはコミュニケーションをとることが簡単にできるのかも。さっそく、我が家の庭木にも声をかけてみたいと思います。

そういえば、先日植えたバラの2本がなかなか新芽を出しません。優しくいたわり、早く元気になるよう、声をかけてみましょう。そして、オリンピックが終わるころには、青々とした新芽が何本も出ていることを祈りましょう。さて、今日のオリンピック、日本は果たして金メダルをとれるでしょうか。

イギリスとスピリチュアリズム

ロンドンオリンピックが始まりましたね。我が家でも、朝早くから二人起きて、華やかな開会式をみました。前回の北京オリンピックのようなド派手なパフォーマンスはありませんでしたが、成熟した文明を持つ、大人のオリンピックという感じがして、好感が持てました。それにしても、あの聖火、よく考えましたね~。さすが産業革命の国、イギリスってかんじ。今度もし、東京オリンピックが開催されるとしたら、日本もイギリスに負けないくらいの産業国家だということで、聖火には知恵を絞って欲しいものです。

霊能大国イギリス

ところで、イギリスが、「スピリチュアル」「スピリチュアリズム」に関しては、もっとも先進的な取り組みをしている、ということをご存知でしょうか。昔から、「魔女」の国として知られ、たくさんの「不思議」がある国として世界中に知られていますが、「霊能大国」として有名で、多くの霊能者が存在しているそうです。

イギリスには、世界的に有名な心霊研究のソサエティ、英国スピリチュアル協会(大英心霊協会;SAGB)があり、SF作家のコナン・ドイルや物理学者のオリバー・ロッジなど多数の名士によって支えられてきました。ロンドンでも一等地と呼ばれる場所にあり、1872年に創設されたといいますから、もう140年の歴史があります。

コナン・ドイルは、1859年イギリス、エディンバラに生まれの元お医者さんでもあります。エディンバラ大学医学部卒業、医学博士号を取得、1882年に、ポーツマスで開業しました。しかし、あまりにも患者さんが来ないので暇をもてあまし書きはじめたとされるのが、あの有名な「シャーロック・ホームズ」なんだそうです。

コナン・ドイルは、1900年のボーア戦争に軍医として参戦しましたが、この経験で精神的にかなり病んだといいます。その後も第一次世界大戦では長男を失い、「生と死」に関して深く悩むようになります。そして、こうした経験がきっかけになり、心霊学を研究するようになり、その成果としての心霊学を世界に広め活動をしていったといいます。1930年に71才で亡くなりましたが、生前に死後の世界を伝えに来ると予告し、その通りミネスタという女性を霊媒として7ヶ月間もの間、死後の世界を我々に伝えてきたといいます。

イギリスには、もうひとつ、英国スピリチュアリスト同盟(SNU)という組織があって、英国スピリチュアル協会とともに、英国最大のスピリチュアリストの組織として英国スピリチュアリズムの中心的存在となっているそうです。SNUのほうは、1890年創立といいますから、英国スピリチュアル協会よりもやや新しく、また海外での知名度も英国スピリチュアル協会のほうが高いようです。

英国スピリチュアリスト協会は、6千人以上の会員がいるのだそうで、世界的にもスピリチュアリズムのメッカのような存在になっているのだとか。

気になるその活動内容ですが、まじめな心霊研究もさることながら、一般の心霊ファンのために、講演や霊能力開発セミナー、心霊治療、リーディングなども企画しているそうです。オーラの泉で有名になった、スピリチュアル・カウンセラーの江原啓之さんも、若いころにこの英国スピリチュアリスト協会に勉強に行ったのだとか。いまや協会というよりも一種の「学校」として、世界中の人に認知されている組織のようです。

スピリチュアル・ケア

イギリスはまた、「スピリチュアルケア」を公的に医療の世界で実施することを認めていることでも知られています。イギリスの厚生省(NHS)は1996年にスピリチュアルケアについての19頁のハンドブックを発行し、医療界におけるスピリチュアル・ケアの必要性および品質を向上すべきことを広報しており、臨床パストラル・ケア(米英におけるスピリチュアルケアの別名)を受けられることは患者の権利であると公言しています。

スピリチュアルケア(spiritual care)とは、ウィキペディアによれば、「生きがいを持ちやすい人生観」への転換を推奨し、人生のあらゆる事象に価値を見出すよう導くことにより、人間のスピリチュアルな要素(心あるいは魂)の健全性を守ること」、とか。

わかりにくいので、このブログでもたびたび登場していただいている、元福島大学教授で、スピリチュアルカウンセラーの飯田史彦先生のご説明によれば、スピリチュアル・ケアとは、「人生のあらゆる事象に意味や価値を見出すことができるような、適切な思考法や有益な情報を効果的に伝えることによって、対象者が自分自身で、「心の免疫力」や「心の自己治癒力」を高めていくよう導くこと」だそうです。

飯田先生によると、スピリチュアルケアは、更に、宗教的スピリチュアルケア と、科学的スピリチュアルケアに分類できるそうで、宗教的スピリチュアル・ケアとは、各宗教団体やその信者が、独自の宗教的な思想、教義を伝えることにより、対象者を救おうとする方法。科学的スピリチュアルケアのほうは、宗教とは無関係の組織や個人が、科学的な思考や情報を伝えることにより対象者を救おうとする方法だそうです。

また、両者を組み合わせた、「複合的スピリチュアル・ケア」もありうるとのことで、これは、特定の宗教団体・宗派とスピリチュアル・ケアの専門家が協力しながら、その宗教・宗派の教義と、それに則した科学的情報とを組み合わせて伝えることにより、対象者を救おうとする方法である、と飯田先生は述べられています。

いずれの方法でケアをするにせよ、社会的な認知がなければ、なかなか臨床の世界でこういう考え方を導入するのは難しいもの。日本ではまだまだ抵抗が大きいでしょう。しかし、欧米の医療界においては、医療界を構成する大切な要素として、「スピリチュアル・ケア」という考え方が浸透してきているそうで、たとえば、医療施設には、「臨床パストラル部(Dept.of Pasutoral Care)というものが設置されているそうです。

イギリスだけでなく、アメリカ合衆国、ドイツなどでも設置されているそうで、ドイツの場合は、Seelsorge(魂の配慮部)という言い方までするのだとか。

具体的なスピリチュアルケアのための施設としては、例えば、礼拝堂(チャペル)がその代表的なもの。施設だけではなく、病院内に病院所属のスピリチュアルケアの専門職がいて、ハードとソフトの両面でスピリチュアルケアをしているのが欧米の特徴。この専門職は、チャプレン(chaplain)などとも呼ばれ、外部の特定の協会や寺院に属さず、その病院施設内で働く聖職者なのだそうで、一般的には牧師、神父、司祭、僧侶などと呼ばれている人たちです。

そしてこういう人たちのための宿泊所までしっかりと用意されているところなどが、日本と違うところ。欧米社会においてスピリチュアルなケアが制度としてしっかり根付いていることを示している例です。

日本の医療界でも、国公立病院やキリスト教系の病院ではスピリチュアルケアの専門職を基本的には受け入れてはいるそうです。しかし、それ以外の私立病院の多くはスピリチュアルケアに対する認識がまだまだ薄く、スピリチュアルケアの専門職員がいないばかりか、スピリチュアルケアの専門家がケアを行うことを拒むような病院すらあるそうです。

日本の医療界全体としてみれば、スピリチュアルケアが必要だとの認識が未だ十分に育っておらず、イギリスをはじめとする欧米のように、長い歴史の上に基づいて導入された制度はなく、その法律的な位置づけも不十分です。

また、具体的にスピリチュアルケアを行うとしても、スピリチュアルケアの教育や訓練を十分に受けた人はまだまだ少なく、医療の専門知識を持っているといってもそういう人たちが片手間でできるようなものでもありません。そういう人たちを専門に育てる教育機関を作っていくことが、いま日本でも求められています。

ホスピス

しかしながら、日本でも最近では「ホスピス」と呼ばれるケアをする病院が増えてきています。

ホスピスとは、元々は中世ヨーロッパで、旅の巡礼者を宿泊させた小さな教会のことを指したそうで、そこに宿泊した旅人が、病や健康上の不調で旅立つことが出来なければ、そのままそこに置いて、ケアや看病をしたのだそうで、こうした看護収容施設全般をホスピスと呼ぶようになりました。

つまり、ホスピタル=病院の語源ですが、ヨーロッパでは、その後、20世紀に入り、治療の当てがなく、余命いくばくもない患者の最後の安息に満ちた時間をケア(ターミナルケア)する施設を「ホスピス」と呼ぶようになり、一般の病院と区別。そうした施設の設置がさかんに行われたのが、イギリスやアイルランドなのだそうです。歴史的には、ホスピタルもホスピス同じものですが、現代では、病院における終末医療施設をさします。ただ、孤児院、老人ホーム、行き倒れの収容施設なども含めて、こうしたもの全般を「ホスピス」と呼ぶ場合もあるようです。

ちなみに、欧米などのキリスト教文化では、ホスピスと呼ばれ、発展してきたしくみですが、インドなどの仏教文化では、「ビハーラ(vihāra)」と呼ばれ、これは、サンスクリット語で僧院、寺院あるいは安住・休養の場所を意味します。ホスピスと同様、現代では末期患者に対する仏教的なホスピスがインドなどの仏教国では増えてきているそうで、病気に苦しむ人たちの苦痛緩和と癒しの支援活動を行っているそうです。

日本の医療機関でも、こうした死期が近い患者さんをケアする施設が、大阪のキリスト教系の病院に設けられるようになり、1980年代ころからは、独立した病棟を設けてホスピスケアをやるようにまでなります。一般には、1981年に浜松の聖隷三方原病院の末期がん患者などのためのホスピス(緩和ケア病棟)開設が日本で最初のものといわれています。

従来、ホスピスの開設は主にこうしたキリスト教系などの民間病院で行われてきましたが、1987年には千葉県の国立療養所松戸病院(現在の国立がん研究センター東病院の前身)に開設され、その後、全国各地の国公立病院にホスピス開設の動きが広がっています。

しかし、このように、日本でも施設としてのホスピスは次第に増えてきているものの、そこにおいてもスピリチュアルケアの状態は不十分だといわれます。世界保健機関(WHO)では、末期患者の心理的なケアの柱となるものは、身体的ケア、心理・精神的ケア、社会的ケア、スピリチュアルケア4つであると言っており、心理・精神的ケアとはっきり区別しています。終末医療においては、本来はスピリチュアルケアはなくてはならないものなのです。

1997年に発行された「日本全国ホスピス施設ガイド」で紹介された29のホスピス施設のうち、スタッフにチャプレンや何等かの宗教家、伝道部職員などがいる施設は、わずか9施設だったそうです。また、ホスピスを目的とする、チャペルや仏堂、礼拝堂、祈りのための部屋などの施設を備えているのは7施設にとどまるなど、スピリチュアルケアは十分に実施されていません。

この状態は、2000年代に入ってからも大きくは変わっていないようですが、2004年にはスピリチュアルケア研究会が愛知で立ち上れられ、また2007年には日本スピリチュアルケア学会が設立されたそうです。理事長は、あのおじいさん先生で有名な日野原重明さん。この方を中心に、京都大学や東京大学をはじめ、聖トマス大学、高野山大学、龍谷大学などの宗教系の大学の研修者が参加して、学術大会が開かれるようになってきているそうで、スピリチュアルケアに関する書籍がいくつも出版されるなど、スピリチュアルケアの浸透には少しずつ進展が見られるようになっているようです。

現役の医師の中には、疾患を取り除くこと、肉体の健康を取り戻すことだけが、医療の目的であり勝利であると考え、そのためにはある程度患者が弱ってもかまわないとか、患者がどのように感じるかについては感知しない、という人も多いと思います。が、そういう先生方に限って、スピリチュアル的なことに対しては理解を示さず、ホスピスのような活動を、敗北主義と考える人も多いに違いありません。

そういう医師が減り、少しでもスピリチュアルケアが浸透し、スピリチュアルケアの先進国、イギリスのように日本もなっていってほしいものです。